Contents


世界史の「輪切り」


はじめに

 本書は,世界史を「とことん極める」ことを目的に,700万年前から現代にいたる世界史を26段階に「輪切り」すると同時に,地域ごとに分解して再構成した講義形式のテキストです。

 同じ地域を時代別に読み飛ばすもよし,同じ時代のさまざまな地域を比較するもよし。縦横無尽に活用ができるよう工夫しました。

 大学入試での活用にも対応し,大学入試センター試験に出題されたことのある箇所を本文中に示しています。頻繁に問われてきた語句は何なのか,どのようなひっかけ問題がつくられるのか確認することもできます。

 また,文化史も本文中に入れ込み,各時代の出来事や時代と関連付けて説明してありますので,別々に学習しがちな文化史も,世界史の流れの中での理解を目指します。

 さらに,アマゾン川流域やアフリカ各地,シベリア,北アメリカ,オセアニアの人々など,世界史学習ではスポットの当たりにくい地域も取り扱っています。





内容
●世界史のまとめ方 5
〈1〉時間の区切り方 5
〈2〉環境のとらえ方 8
〈3〉地域の区切り方 15
地域区分の一覧 19
●約700万年前~前12000年の世界 人類の出現 33
●約700万年前~前12000年のアメリカ 38
●約700万年前~前12000年のオセアニア 38
●約700万年前~前12000年のアジア 38
●約700万年前~前12000年のアフリカ 39
●約700万年前~前12000年のヨーロッパ 39
〇コラム ホモ=サピエンスは,どんな動物か 39
●前12000年~前3500年の世界 人類の生態の多様化① 43
●前12000年~前3500年のアメリカ 45
●前12000年~前3500年のオセアニア 49
●前12000年~前3500年の中央ユーラシア 50
●前12000年~前3500年のアジア 51
●前12000年~前3500年のアフリカ 55
●前12000年~前3500年のヨーロッパ 55
●前3500年~前2000年の世界 人類の生態の多様化② 56
●前3500年~前2000年のアメリカ 57
●前3500年~前2000年のオセアニア 59
●前3500年~前2000年の中央ユーラシア 59
●前3500年~前2000年のアジア 61
●前3500年~前2000年のアフリカ 67
●前3500年~前2000年のヨーロッパ 72
●前2000年~前1200年の世界 生態系をこえる交流① 73
●前2000年~前1200年のアメリカ 74
●前2000年~前1200年のオセアニア 76
●前2000年~前1200年の中央ユーラシア 77
●前2000年~前1200年のアジア 78
●前2000年~前1200年のアフリカ 87
●前2000年~前1200年のヨーロッパ 90
●前1200年~前800年の世界 生態系をこえる交流② 93
●前1200年~前800年のアメリカ 94
●前1200年~前800年のオセアニア 97
●前1200年~前800年の中央ユーラシア 98
●前1200年~前800年のアジア 99
●前1200年~前800年のアフリカ 104
●前1200年~前800年のヨーロッパ 105
●前800年~前600年の世界 生態系をこえる交流③ 108
●前800年~前600年のアメリカ 109
●前800年~前600年のオセアニア 110
●前800年~前600年の中央ユーラシア 110
●前800年~前600年のアジア 111
●前800年~前600年のアフリカ 117
●前800年~前600年のヨーロッパ 118
●前600年~前400年の世界 生態系をこえる交流④ 125
●前600年~前400年のアメリカ 126
●前600年~前400年のオセアニア 128
●前600年~前400年の中央ユーラシア 128
●前600年~前400年のアジア 129
●前600年~前400年のアフリカ 135
●前600年~前400年のヨーロッパ 136
●前400年~前200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化①
南北アメリカ:都市文明の発達 143
●前400年~前200年のアメリカ 144
●前400年~前200年のオセアニア 146
●前400年~前200年の中央ユーラシア 147
●前400年~前200年のアジア 148
●前400年~前200年のアフリカ 157
●前400年~前200年のヨーロッパ 158
●前200年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化②
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-① 166
●前200年~紀元前後のアメリカ 167
●前200年~紀元前後のオセアニア 169
●前200年~紀元前後の中央ユーラシア 170
●前200年~紀元前後のアジア 172
●前200年~紀元前後のアフリカ 181
●前200年~紀元前後のヨーロッパ 183
●紀元前後~200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化③
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-② 185
●紀元前後~200年のアメリカ 186
●紀元前後~200年のオセアニア 189
●紀元前後~200年の中央ユーラシア 189
●紀元前後~200年のアジア 190
●紀元前後~200年のアフリカ 201
●紀元前後~200年のヨーロッパ 202
●200年~400年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化④
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-③ 209
●200年~400年のアメリカ 211
●200年~400年のオセアニア 214
●200年~400年の中央ユーラシア 214
●200年~400年のアジア 216
●200年~400年のアフリカ 226
●200年~400年のヨーロッパ 226
●400年~600年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流②
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流① 233
●400年~600年のアメリカ 235
●400年~600年のオセアニア 238
●400年~600年の中央ユーラシア 239
●400年~600年のアジア 240
●400年~600年のアフリカ 250
●400年~600年のヨーロッパ 252
●600年~800年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流③
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流② 259
●600年~800年のアメリカ 261
●600年~800年のオセアニア 263
●600年~800年の中央ユーラシア 264
●600年~800年のアジア 267
●600年~800年のアフリカ 299
●600年~800年のヨーロッパ 301
●800年~1200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流④
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流③ 310
●800年~1200年のアメリカ 314
●800年~1200年のオセアニア 318
●800年~1200年の中央ユーラシア 319
●800年~1200年のアジア 321
●800年~1200年のアフリカ 347
●800年~1200年のヨーロッパ 351
●1200年~1500年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑤
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流④ 378
●1200年~1500年のアメリカ 384
●1200年~1500年のオセアニア 391
●1200年~1500年の中央ユーラシア 392
●1200年~1500年のアジア 403
●1200年~1500年のアフリカ 425
●1200年~1500年のヨーロッパ 429
●1500年~1650年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑥(沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化① 466
●1500年~1650年のアメリカ 470
●1500年~1650年のオセアニア 482
●1500年~1650年の中央ユーラシア 485
●1500年~1650年のアジア 487
●1500年~1650年のアフリカ 517
●1500年~1650年のヨーロッパ 524
●1650年~1760年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展① (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化② 562
●1650年~1760年のアメリカ 563
●1650年~1760年のオセアニア 571
●1650年~1760年の中央ユーラシア 573
●1650年~1760年のアジア 576
●1650年~1760年のアフリカ 592
●1650年~1760年のヨーロッパ 601
●1760年~1815年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展② (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化③ 623
●1760年~1815年のアメリカ 625
●1760年~1815年のオセアニア 634
●1760年~1815年の中央ユーラシア 639
●1760年~1815年のアジア 639
●1760年~1815年のアフリカ 650
●1760年~1815年のヨーロッパ 659
●1815年~1848年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展③ (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:独立① 685
●1815年~1848年のアメリカ 686
●1815年~1848年のオセアニア 694
●1815年~1848年の中央ユーラシア 697
●1815年~1848年のアジア 698
●1815年~1848年のアフリカ 708
●1815年~1848年のヨーロッパ 717
●1848年~1870年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展④ (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:独立② 735
●1848年~1870年のアメリカ 737
●1848年~1870年のオセアニア 751
●1848年~1870年の中央ユーラシア 754
●1848年~1870年のアジア 755
●1848年~1870年のアフリカ 769
●1848年~1870年のヨーロッパ 776
●1870年~1920年の世界 世界の一体化①:帝国の拡大Ⅰ 791
●1870年~1920年のアメリカ 801
●1870年~1920年のオセアニア 814
●1870年~1920年の中央ユーラシア 819
●1870年~1920年のアジア 823
●1870年~1920年のアフリカ 857
●1870年~1920年のヨーロッパ 866
●1870年~1920年の南極 890
●1920年~1929年の世界 世界の一体化②:帝国の拡大Ⅱ 891
●1920年~1929年のアメリカ 894
●1920年~1929年のオセアニア 899
●1920年~1929年の中央ユーラシア 900
●1920年~1929年のアジア 901
●1920年~1929年のアフリカ 912
●1920年~1929年のヨーロッパ 917
●1920年~1929年の南極 928
●1929年~1945年の世界 世界の一体化③:帝国の動揺Ⅰ 929
●1929年~1945年のアメリカ 934
●1929年~1945年のオセアニア 944
●1929年~1945年の中央ユーラシア 946
●1929年~1945年のアジア 948
●1929年~1945年のアフリカ 957
●1929年~1945年のヨーロッパ 963
●1929年~1945年のヨーロッパ 963
●1929年~1945年の南極 975
●1945年~1953年の世界 世界の一体化④:帝国の動揺Ⅱ 976
●1945年~1953年のアメリカ 982
●1945年~1953年のオセアニア 986
●1945年~1953年の中央ユーラシア 987
●1945年~1953年のアジア 989
●1945年~1953年のアフリカ 1001
●1945年~1953年のヨーロッパ 1006
●1945年~1953年の南極大陸 1010
●1953年~1979年の世界 世界の一体化⑤:帝国の再編Ⅰ 1011
●1953年~1979年のアメリカ 1013
●1953年~1979年のオセアニア 1025
●1953年~1979年の中央ユーラシア 1027
●1953年~1979年のアジア 1028
●1953年~1979年のアフリカ 1049
●1953年~1979年のヨーロッパ 1058
●1953年~1979年の南極 1067
●1979年~現在の世界 世界の一体化⑥:帝国の再編Ⅱ 1069
●1979年~現在のアメリカ 1074
●1979年~現在のオセアニア 1085
●1979年~現在の中央ユーラシア 1089
●1979年~現在のアジア 1091
●1979年~現在のアフリカ 1119
●1979年~現在のヨーロッパ 1135
●1979年~現在の南極 1152
●参考文献 1153


表記について

1.読み方
 なるべく現地語主義をとっていますが,万全を期すものではありません。慣例の表記がないと理解しにくいものについては〔  〕や(  )で囲み併記しました。外国語の転写の方法は,『角川世界史事典』等を参照しました。
 (例)コロン〔コロンブス〕

2.人名
 人名は,地名など他の語句と混同しないように〈  〉で囲みました。

3.生没年・在位年・在任年
(1) 人名の後の(  )には,よみがなや生没・在位・在任年などを付しました。
(2) 宰相・首相・大統領・閣僚などは在「任」としました。
(3) 国王・皇帝などは在「位」としました。
(4) 何も書いていない場合は,生没年を表します。異説がある場合は併記しました。
  まったく不詳の場合には「生没年不詳」と表記しました。

4.その他の語句
(1) 読みにくい言葉の後には,(  )を付け,よみがなを付けました。
(2) 異称がある場合は,「;」を用いて併記しました。

5.年代
(1) 「紀元前」は「前」と表記,「紀元後」の年号はおおむね省略していますが,紀元をまたぐ場合には表記しました。
(2) 「年」を省略して「1453」のように表記してあることもあります。
(3) 明らかではない年代には数字の後に「?」を付け,異説がある場合は併記しました。
6.参考資料・史料
(1) 書籍名には『』を,その他の作品名には「」を用いました。
(2) 史料・資料に基づいた引用には「」とともに出典を(注)に示しました。
(3) セリフ調の説明,例えた言葉やくだけた表現,通称には“ ”や「 」を用いています。
7.地域
(1)大地域 各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
(2)中地域 各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
(3)小地域 現在の国家所在地を基本単位とし,各小地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。

●世界史のまとめ方


 「世界史のまとめ」というと、高校生のときに世界史を勉強した人であれば、「テスト前のノートまとめ」「受験勉強の暗記用ノート整理」のような作業を思い出すことと思います。

 しかし、ここで取り組みたいのは、試験に出る知識のまとめではなく、世界史そのもののまとめです。

 果たしてそんなことは可能なのなのでしょうか。
 「時間」,「環境」,「地域」の3つの観点から考えていきましょう。
お急ぎの方は,読み飛ばしていただいても構いません。
〈1〉時間の区切り方

◆世界史はいつからはじまるのか
 インド古来の伝説によると,神様がミルクの海をぐるぐるとかき混ぜ,そこから太陽や月,牛や人間など,あらゆるものが生まれたのだといいます。この「乳海攪拌」の光景は,世界遺産アンコール・ワットの第一回廊のレリーフの劇的に再現されています。

 一方,現代の科学者たちは,この宇宙の世界の始まりには「乳海攪拌」ではなく,「ビッグバン」が起こったのだと考えています。それは現在から約137億年前のことであるとされ,宇宙開闢(かいびゃく)に起点を置いて,壮大な記録を紡ぐ試みも近年では試みられています(注1)。

 しかし,ひとまずわれわれは,「世界史」を人類の誕生からまとめていこうと思います。それは,今から約700万年前にさかのぼります。

 文字に残された記録が現れるのは,だいたい今から約5000年前のこと。過去にあったことを文字情報をもとに復元できるのは,それ以降のことになりますし,常に文字の資料が十分にのこされているとは限りませんので,関連する遺骨・遺物や地層の状態などの“状況証拠”をもとに,過去を復元することも必要となります。


◆どこで時代を区切るべきか
 とはいえ,それでも「約700万年」というのは長大です。いっぺんに取り掛かるのは無論,無謀です(注)。
 じゃあ,どこかで区切ればいいじゃないか,ということになる。
 でも,今度はどこで区切るべきかが問題です。

 どのような観点や指標に基づくかによって,区切り方はただ一つに定まるわけではありません。
 例えば,子供の成長を区切る方法を考えてみましょう。
 ①誕生~,②こども園児時代,③小学生時代,④中学校時代…のように時期区分することができるかもしれません。
 でも,②こども園から,③小学校に上がると,何から何まで全部が劇的に変わってしまうのかというと,そういうわけではありませんね。
 通う場所や目的,交友関係や活動範囲は変わるかもしれませんが,子どもの中身が「別人」のようになってしまうわけではありません。それは,③から④にかけての変化でも同じことです。

 そうなると,交友関係の広がりに応じて,時期を区切ることも可能かもしれません。発達心理学の考え方を用いて,認知的な発達の度合いに応じて時期を区切ることも可能でしょう。

 このように「時代区分」というのは,ある一定の基準や指標に基づいて区切られるものであるがゆえに,すべてをカバーする区切り方というのは困難です。でも,区切ったほうが,区切らないよりも,その時期の特徴を取り出して議論することができるようになります。
 そういう意味で,時期区分というのはあくまで便宜的なものに過ぎないということです。
 先の例でいえば,われわれは②こども園児時代から③小学生に豹変するのではなく,②の自分を抱えながら③の時代に入り込んでいくのです。
 それが,世界史の「時代区分」となると,さまざまな地域のさまざまな人間が関わってくるわけですから,全員が「せーの!」で一斉に「中世!」とか「いまから近代!」のようになるわけはありません。すべての地域が一律の“お手本”に従い,段階的に“進化”していくように見えることもあるかもしれませんが,現在ではそのような一般法則(発展段階説)は認められていないのです(注)。

 とはいえ,世界史を眺めてみると,要所要所に,多くの地域を巻き込むようなインパクトを持つ共時的な変化に出くわすことがあります。
 そのような変化を駆動する節目(ふしめ)節目に,思い切って包丁(ほうちょう)を入れることで,約700万年の世界史を26パーツに切り分けて整理してみようというのが,「世界史のまとめ」の試みです。
 もちろん,全世界的(グローバル)に,ほぼ同時にわれわれの社会が変化するということは,たとえ,21世紀の現在であっても,そんなに簡単なことではありません。学びやすさも考慮し,あくまで便宜的に切り分けたものだと考えてください。
(注)例えば、ドイツの歴史化〈ケラリウス〉(1638~1707)は、17世紀のスタンダードの教科書とみなされていた世界史三部作『古代史』(1685)、『中世史』(1688)、『近代史』(1696)において、中世を世界史の中で中心となる完全な時代、ヨーロッパの発展に不可欠の時代として扱った(高山博『『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ 』、山川出版社、2002年、p.82)。



◆26のパーツには,大きな3つの節目がある
 ここでさらに本書では26個のパーツのうち、3つの重要な節目に注目したいと思います。

 第一の節目は,今から約1万年前。
 人間が動物を飼いならし,植物の生育をコントロールするようになっていく時期です。
 第二の節目は,西暦800年頃。
 気候が比較的温暖になり,人間の活動範囲が拡大していく時期にあたります。
 第三の節目は,西暦1760年頃。
 蒸気機関が発明され,人間が莫大な力を持つパワーを手にしてからの時代。
 
 この時代区分はもちろん便宜的なものですが,「世界史」に取り組む上での一つの道標(みちしるべ)となるはずです。

(注1)デヴィッド・クリスチャン他『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016。
(注2)そもそも,「世界史がわかる」とか「●時間でわかる世界史」などという触れ込みが,到底不可能な代物であるということは,自明です。「わかる」のではなく,「わかった気になる」といったほうが正確です。学校教育には様々な科目が用意されていますが,「世界史」ほど得体の知れない科目はありません。ともすれば,“苦役の道”をたどり,重箱の隅をつつくように用語をたくさん詰め込めば「わかった」ことにされがちな落とし穴を抱えています(小川幸司「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」『歴史学研究』 (859),青木書店,2009年10月号,p.191-200。

〈2〉環境のとらえ方

◆世界の舞台はどこにあるのか
 世界史の舞台は,もっとも大きなスケールで考えると,われわれの地球を擁(よう)する宇宙にあります。
 われわれの地球は,われわれの銀河系の中の,われわれが「太陽」と呼ぶ恒星を周回する惑星です。
 地球という惑星は水と大気が豊富で,自らの情報を複製・継承することのできる生命(細菌,古細菌,真核生物(動物・菌類・植物))で満ちあふれ,複雑に絡み合った生態系(エコシステム)を形成しています。
 太陽のもたらす莫大なエネルギーは,生命の活動の源であり,水や大気の循環にも影響し,地球内部のエネルギーとともに,気候や地形に変化を与え続けています。


◆人類の生態にはどのようなパターンがあるのか
 われわれ人類も,そんな舞台で活動する動物の一種(ホモ=サピエンス)であり,生態系の一員。
 その発達した知能と情報共有能力を駆使し,各地の気候や地形に合わせ,他の生物と共生・競合しながら,みずからを環境に適応させていった点が,人類という動物の持つ大きな特徴です。


◆「定住」(動かない暮らし)と,「遊動」(動く暮らし)
 多くの動物同様,初期の人類は動物や植物を獲得することで食料を得ていました。狩猟・採集生活です。魚介類をつかまえることは漁労〔漁撈(ぎょろう)〕といいます。必ずしも移動生活(「遊動」)を送っていたわけではなく,豊かな猟場・森林・漁場のあるところでは「定住」も可能でした。

 一方,今から約1万年前を過ぎたころ,地球の気候が各地で変動する中で,人類は動物や植物を管理し繁殖・収穫させる技術を獲得していきます。農耕・牧畜の開始です。
 牧畜をするにはある程度の広い土地が必要ですし,狩猟・採集と組み合わせるケースもありましたから,農耕・牧畜イコール「定住」というわけではありません。熱帯地域では焼畑(やきはた)農業といって移動を必要とする農法も導入されていました。

 このように「移動」の観点から人類の生態をみると,「定住」と「遊動」の2つのパターンの組合せが選択肢として考えられます。「動かない」と「動く」の違いというよりはむしろ,「あまり動けない」と「動かざるをえない」といったほうがいいかもしれませんね。種を一度植えてしまったらみんなで面倒をみなければいけませんし,雨が降らず家畜に与える餌がなくなれば移動せざるをえないですから。


◆「遊牧」という選択肢
 人類は各地の気候に合わせ,それぞれの生態系の一員として,狩猟・採集・漁撈や,農耕・牧畜を組み合わせた生態を営んでいきます。
 しかし,今から約3000年ほど前になると,新しいタイプの生活スタイルをとる人類が現れます。
 「遊牧」です。
 これも,生活スタイルを「とる」というよりは,「とらざるを得なかった」といったほうがよいでしょう。
 世界各地に分布する沙漠の一歩手前の気候であるステップ気候。降水量が少ないために,まばらな草原が広がるばかりで,水場でなければ定住・農耕は難しい地帯です。
 その地で家畜の群れをコントロールしながら,季節ごとに草原地帯を廻りながら生活する形態が「遊牧」です(遊んでいるわけではありません)。


◆異なる生態を営む人類どうしの「共生」と「競合」
 「遊牧」を営まざるをえない地域は,乾燥している地域のうち,あとちょっとで沙漠になりかねない草原(ステップ)地帯です。
 世界地図をみてみると,アフリカの北部や,ユーラシア大陸の沙漠の周辺部に分布していることがわかります。
 遊牧民にとって家畜(livestock)は生きている資産(stock)です。家畜が死なないように,草原と水場を求めて遊動します。
 季節によって農耕を営むケースもありますが,基本的に彼らは家畜からつくられたモノ(肉,皮,毛,乳製品など)を,別の生態を営む定住農牧エリアの人々の生み出したモノ(農産物や手工業製品など)と交換することで生活を成り立たせています。

 遊牧民は家畜にまたがって戦うことを得意とし,軍事力の面でも定住農牧民に優っていました。
 一方,経済力の面では,収穫物を蓄えることのできる定住農牧民のほうに軍配が上がります。
 両者は,互いに足りないものを補い合う「共生」関係をとることもあれば,相争う「競合」関係に入ることもあります。

 同様に,海を活動範囲とする人々(海民)の間にも,海獣の狩猟や漁撈,海産物の採集などを営んだり,沿岸や島で農耕を行ったりする者がいて,互いに足りないモノを補い合ったり,陸を活動範囲とする人々と関係を結ぶケースもみられます。
 また,森を活動範囲とする人々も,狩猟・採集で得たモノを,異なる生態を営む人々との間と交換していました。

 このように,人類はそれぞれの環境に適応し異なる生態を営むことができたからこそ,様々な「交流」が生まれ,しだいに情報や技術が地域をまたいで拡大し,各地に特色ある広域エリアが生まれていくことになるのです。

 さらに,人類の群れが,親族グループのような顔見知りの集団を超え,ある一定規模にまで達するようになると,これまた地域ごとに特色ある政治機構(国家)と,それを支える組織化された思想(宗教組織)が発達していくことになります。


◆環境は有限である
 人類は誕生以来,平均気温のアップダウンや気圧配置の変化といった気候変動や,地球内部の活動にともなう地震や噴火も,人類に計り知れない影響を与えてきました。
 また,過剰な開発により環境に対して負荷をかけすぎたために,持続することができなくなった人類集団の事例は,世界史の中に数多く見られます。
 特に1760年以降,人類は自らの活動範囲を生物圏(動植物の世界に)に対して飛躍的に拡大し,大気や海洋,土壌(石炭などの鉱産資源)といった生態系そのものに,取り返しの付かないような影響力を発揮していくようになりました。
  人類の個体数(人口)は,理論的には倍に倍に増えていく傾向がありますが,ふつう食料の確保はそれに追いつくことができません。無理やり確保しようとすれば,乱開発を生み持続可能性を失います(これを「マルサスの罠」とよびます)。

 テクノロジーの進歩により,われわれ人類は「マルサスの罠」を抜け出したように見えますが,21世紀に入った現在,棚上げにされてきた様々な問題が,じわじわと目を覚まそうとしているように思われます。

 人の名前や国の名前をいたずらに覚えるのが世界史ではありません。
 人類の歩んだ道のりを,生態系の一員としてとらえ,多種多様な人類の営みの相互関係に注目をすることが,世界史理解のカギを握っているのです。


【補足】 環境(Environment)のとらえ方
◆人類を生活様式によって分ける方法もある
移動か定住か,獲得か生産か
 また,人類を生活様式によって分けることもあります。
 まず,狩猟・採集・漁労など,自然にあるものを獲得して生活するタイプ。この場合,よほど豊富に獲得できる所出ない限り,移動生活が基本となります。
 一方,狩猟・採集・漁労できるほどに環境が豊かでない場所では,工夫しなければ食べ物は手に入りません。こういったところでは,食べられる植物を他の動物に食べられたり枯れないように一定の場所で管理したり,おとなしい動物を一定の場所で管理する行為がみられるようになります。
 初期のホモ=サピエンスは今までのホモ属と同じように旧石器をつくり,狩猟採集生活をおこなっていました。この時期の社会は血縁によるつながりでまとまっていて,非常に小規模なものです。血縁社会は仲間意識が強いことが特徴です。
 完新世の初期のヨーロッパで1人が狩猟採集生活をおくるには,1人あたり10平方キロメートルの土地が必要だったと考えられています。人口が増えすぎると生活ができなくなってしまうので,選択的な子殺し(注)や高齢者を死なせる風習が必要とされました。
(注)障碍を持つ子ども,双子,女児などが対象でした。クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.44。現在も世界各地で狩猟採集生活を送る人々はいますが,彼らの生活は長い歴史の間に外部との接触がゼロではない場合も多く,先史時代の狩猟採集生活のあり方をそのまま保存しているとは限りませんが,示唆を与える点は少なくありません。
 オーストラリア北部のギジンガリ=アボリジニは季節ごとに規則的な移動をともない,雨季には沼沢地が満水となるためスイレンの一種を食用とし,乾季にはヤムイモの採れる地域に移動し,次には湿地で渡り鳥を狩猟し女性はカヤツリグサの塊茎を採集。乾季の最終局面になるとソテツの実を採集し,主食用としたり,儀式や宗教,社会的行事のために集まる大勢に供給されます。また,カナダのハドソン湾北部・西部のナチリク=イヌイットも,季節に応じて集団の人数を変えて移動しながらトナカイ〔カリブー〕やアザラシ猟に従事します。
 参照 上掲,pp.42-43。

◆農耕は栽培植物との共生,牧畜は家畜との共生
各地の気候に合わせ,人類は生態系の一部となる
 すべての植物が管理しやすいわけではないですし,おいしく食べられるわけではありませんが,管理しやすく,食べやすく,貯蔵しやすい特性をもつ植物も中にはあります。これを選び抜いて,さらに利用しやすく品種改良していったものを「栽培植物」といい,その多くが炭水化物・タンパク質・脂質を摂るために栽培される穀類・豆類・根菜類です。

 また,管理しやすく,おとなしく,荷物を運ばせたり毛皮をとったり,また乳や肉の利用ができる動物を選び抜き,利用しやすく血統を管理していった動物を「家畜」といいます。

 農耕も牧畜も,スタートするのは氷期が終了してからのこと。いずれも自然に働きかけ,人為的にその資源を利用する営みです。
 ただ,牧畜といっても季節的に家畜のエサ場を移動する「遊牧」という生活様式もありますし,焼き畑農耕のように移動しながら行う農耕もあります。
 同じ民族集団でも,環境や季節に応じて生活様式を変えたり,複数の生活様式を採用したりしていることもあります。
 ですから,農牧民の〇〇人,牧畜民●●人,狩猟民◎◎人のように特定の民族を分類する方法は,生活様式を固定的にとらえることになり,その集団の実態を正確にとらえているとは限らないのです。
 なお,海域に暮らす人々は,漁労だけでなく,沿岸の海棲生物(アザラシやコンブ)を狩猟・採集する生活を送っている場合もあります。

◆異なる生態を送るグループが,互いに棲み分けと役割分担をしている
定住民と遊動民は,持ちつ持たれつの関係を結ぶ
 人類の特徴は,異なる気候に合わせて生活技術を工夫し,それぞれに適応した生活様式を採用して住み分ける点にあります。
 遊動民と定住民は,それぞれが適応する環境において“棲(す)み分け”をしているとみることもできるでしょう(注)。
 また,それぞれの活動範囲の中でも,遊動民と定住民が持ちつ持たれつの“役割分担”をしているケースもみられます。8世紀の中央ユーラシア東部でウイグルという遊牧民の国家が発達するのですが,757年~758年頃に草原地帯に建設された都市バイ=バリクには,多くの定住民も生活をしていました。住民は「略取・投降・勧誘」など様々な理由によって遊牧国家にやって来たのだと考えられますが,史料によると「ソグド人と中国人の(絹(けん)馬(ば)貿易の)ために」建設されたのだといいます(注)。遊動民にとっての目玉商品は馬。これを,草原地帯では生産できない定住民地帯の絹(シルク)と交換するために,売り場や輸送ルートの安全を確保することで,定住民地帯からやって来る商人を取り込もうとしたわけです。
(注)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.308。

 ある意味人類は,地球上の多様な自然環境に適応して,他の動植物・細菌の生物圏,大気・土壌・海洋などとともに生態系(エコシステム)の一部を構成しているといえます。
 しかし,次第に人類の総数が増加し,環境負荷を超えるほどに自然環境を改変する技術を発展させていったときに,生物圏に対するきわめて大きな影響を与えることとなります(18世紀後半以降を「人生代」(アントロポシーン;Anthropocene)という地質学的な時期区分も使用されはじめています)。

◆人種と民族のほかに,言語によって集団を分ける方法もある
人種・民族・語族は絶対的な区分ではない
 生態が異なれば,日々の暮らしぶりや自然との関わりも違うわけですから,振る舞いや考え方にも違いが生まれていきます。
 人類は,群れをつくって生活をする動物です。
 群れを成り立たせるためには,自分たちの結束を高めることで,外部の他の群れや自然との関係を築いていく必要がありました。

 人間は言葉を用いて,さまざまな形で「群れ意識」を表現するようになっていきます。
 例えば,体に入れ墨をほどこしたり,歯を削ったりする人々もいます。また,現在でも,同じ集団であることを示すために羊の毛の刈り方に独特な意味を持たせる風習のある遊牧民もいます。

 おなじ種であるにもかかわらず,人類は「群れ意識」(民族意識)を共有していったことで,その互いの対抗関係や共生関係を通して,目には見えない考え方を複雑に発達させ,みずからの群れや自然環境そのものを,自分たちの考え方に沿(そ)うように変化させていく技術を身につけていくことになるのです。
 こんなことをする動物は,われわれをおいて,ほかにいません。

 世界史には,さまざまな民族意識を持つ集団(=民族)が登場します。生活の結びつき(注)を通して,共通の仲間意識を持った人々のことを「民族」といいます。民族は普通「○○人」の形で呼びます。ただ,同じ「民族」が,必ずしも同じ属性をもつ人々によって構成されているわけではありません。

 外見(生物学)的特徴によるホモ=サピエンスの分類を人種といい,見た目による主従関係や偏見・差別・迫害などは,世界史の中におびただしい事例が残されています。ただ,見た目が同じも支配する/される関係が生まれる例も多くありますし,逆に見た目が違っても同じ仲間として理念を共有するケースもままあります。
 歴史上の人種・民族の区分は絶対的な区分ではなく,複数の民族意識を持つ者や,複数の言語を使い分けることのできる者もいました。また,自分と「同じ」人種なのか「違う」人種なのかも,考え方や基準によって揺れ動く概念であり,ハッキリと白黒がつけられるものではないのです。
 なお,近年ではミトコンドリアDNAの解析によりハプログループに区分し,特定の地域の集団がどのようなルーツをもつのか推定することができるようになっています。

 なお,民族の名前には自称と他称があります。例えば,日本は自称,ジャパンは英語による他称です。さまざまな言語がある以上,民族にはさまざまな呼び名があるのは普通です。しかし最近では,「なるべくその民族が,そう呼んでほしい呼び名で呼んだほうがいい」「差別的な意味合いがある呼び方は,その民族の意見も聞いた上で,避けたほうがよい」と考える人が増えています。
 また,「民族」意識は固定的なものとは限らず,自分が所属していると考える集団は状況によって変化し,複数の所属意識を持つことは珍しいことではありません。


 また,人種・民族の他に,言語の種類によって人々の集団を語族に分ける方法があります。語族とはずばり「言葉の親戚関係」を表したもので,英語とドイツ語とインドのヒンディー語は,インド=ヨーロッパ語族という“言語ファミリー”の中にあることがわかっています。
 語族は,古代の歴史や,手がかりが少ない地域の歴史を説明するときによく使用されますが。史料が少なかったり,移動生活を送っていたりするために,“つかみどころのない”民族を研究する際にも,史料に現れる「言語」を頼りにすれば,どの集団とどの集団が同じグループに属していたかを推定し,歴史を復元することができると考えられるからです。
 例えば,A地点で使われていた言語から枝分かれしてできたとされる言語が,遠く離れたB地点(A地点の遺跡よりも数百年後の地層)でも発見された場合,A地点の人々が数百年後にB地点に移動したと推測できる可能性があるわけです。「言語」が似ているということは,その「文化」にも共通点が多い可能性があります。ちなみに語族よりも小さなくくりに語派があります。○○語族と言わずに,○○系という場合もあります。ただ,語族によって民族を分類する方法には不備も多く,あくまで分類法の一つと考えておいたほうがよいでしょう。




〈3〉地域の区切り方

 さて,人類の活動場所は具体的には陸と海にあります。
 これらを地域ごとに切り分ける方法(地域区分)も時期区分と同じく様々ですが,漏れなくダブりなく全世界を区分するためには,21世紀現在の各国家の国境線にのっとっるのが簡便です。
 現在の国家の国境線を下地(したじ)にし,その上で世界史の展開を動かしていくことで,逆に現在の世界がどのように形作られてきたのかが明るみになるでしょう。また、世界史において様々な民族集団がどのような生態(注)を営み,どのようなスケールで活動していたのかも逆に明らかになるはずです。
 特に,海を舞台にして,無意識のうちにわれわれが当たり前だと思いこんでいる「国境」を縦横無尽に越え出る動きが存在することにも,気付かされることでしょう。


 どこからどこまでがひとまとまりの「地域」なのかということは、実際に人間が移動可能かどうかという地理的・技術的な点と、人間の頭の中のイメージの両者によって左右されます。また権力者によって、地域の境界線が恣意的に設定されることもままあります。つまり、「地域」の定義は時代によって揺れ動くものなのだということも知っておきましょう(注2)。

(注1)  生態への注目については,梅棹忠夫『文明の生態史観』中央公論社,1967,高谷好一『多文明世界の構図』1997,中公新書,川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社,1997,松田壽男『アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像』岩波書店,2006,岡本隆司『歴史序説』中央公論新社,2018などを参照。




◆陸
 陸は,大陸と島に分かれます。
 大陸には南北アメリカ大陸,オーストラリア大陸,ユーラシア大陸,アフリカ大陸,南極大陸があります。

 陸地には,大きく分けると乾燥気候エリア(雨が降らない(少ない))と湿潤気候エリア(雨が降る(多い))があります(注)。乾燥エリアでは草原地帯で家畜を連れた遊動生活(遊牧や狩猟・採集)を営んだり,灌漑やオアシスを利用して定住生活を行う集団もあります。

 高緯度地域には寒冷エリア(寒い)が分布し,赤道周辺には熱帯エリア(暑い)が分布します。
 寒冷エリアは,氷雪地帯・ツンドラ地帯・森林地帯に分かれ,それぞれにおいて狩猟・採集・漁撈(暖かい地域・時期には農耕・牧畜も)などによる定住または遊動生活が主流です。
 ユーラシア大陸東南部一帯は熱帯エリアとも重なり,季節風(モンスーン)の影響を受け,多くの降雨がもたらされるエリアです。雨季・乾季のあるサバナ地帯や森林地帯で,気候に合わせた農耕・牧畜・狩猟・採集が営まれています。

 また,動物や植物,細菌の分布も,地域により異なります。
 例えば,ユーラシア大陸やアフリカ大陸では家畜の候補となる大型動物が豊富に分布していましたが,南北アメリカ大陸には分布していませんでした(氷期に馬が分布していたが狩猟により絶滅していました)。また,栽培が可能な植物は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸に麦類,南北アメリカ大陸にトウモロコシやジャガイモが分布していましたが,オーストラリアは候補がわずかでした。

 このように人類は,各地の地形や周辺環境に応じて異なる生態を送り,互いに足りないものを交易により補って相互に関係し合うことになります。
(注)〈高谷好一〉(1934~2016)は,陸地を「野」(草原),「沙漠」,「森」に分け,世界史における諸生態の俯瞰を試みました(高谷好一『世界単位論』京都大学学術出版会,2010)。

◆海
 人類は早くから船を発明し,多くの陸上動物の成しえなかった海上移動を可能にしました。
 海は,海流や陸地や島々の分布によって,いくつかの海域に分けることができます。
 人類の移動がもっとも活発となるのはユーラシア南岸の諸海域で,インド洋から太平洋にかけていくつもの海域が“数珠つなぎ”になっています。
 漁撈・採集によって海で生活をするのに長けた海民も,世界各地に分布しています。農耕・牧畜を合わせておこなったり,沿岸の農耕・牧畜民と物やサービスの交換(交易)を通じて関係を結ぶこともしばしば見られます。


◆陸と海
 異なる生態の人間集団どうしが活発化すると,両者の間にはしばしば「競合」関係や「共生」関係が生まれます。

 例えば,下の5つのエリアの相互関係について,考えてみましょう。
 【★寒冷エリア(寒帯または冷帯)】
 【△乾燥草原エリア(乾燥帯)】
 【∴乾燥沙漠エリア(乾燥帯)】
 【●湿潤エリア(熱帯,温帯または冷帯)】
 【§海洋エリア】

 例えば,【★寒冷エリア】の狩猟採集民は,毛皮や海産物を内陸の【△乾燥草原エリア】の遊牧民の畜産物と交換します。
 【△乾燥草原エリア】の遊牧民は畜産物を,【∴乾燥沙漠エリア】に住む定住民との間に交換します。定住民は家畜の管理を遊牧民に委託(いたく)したり,農産物の輸出のために遊牧民の軍事力を利用したりすることもあります。
 
 一方,【△∴乾燥エリア】の中でも大河などの水場を擁するエリアでは,大規模な都市が発達。この都市も,内陸の【∴乾燥沙漠エリア】のオアシス集落に市場を求めてしばしば進出し,【△乾燥草原エリア】の遊牧民との間に利害関係をめぐっての対立が起きます。
 【∴乾燥沙漠エリア】に隣接する【●湿潤エリア】は,生産性が高く経済力に優れ,沿岸の港市では,【§海洋エリア】の海民との間で交易活動も行われます。


◆異なる「高度」間の交易
 最後に,高山エリアにおける特色あるやり取りについても触れておきます。
 南アメリカのアンデス山脈の太平洋岸は,平地が少なく,後背には高山がそびえ立っている地域です。
 ここでは,低地の海岸と,より高度の高い山岳地帯との間で交易が行われ,谷あいの集落が発達していきます。高度によって生産する家畜・植物にバリエーションがあり,いわば異なる高度間の交易がおこなわれていたのです。


◆地域区分の一覧
 ここでは最後に,これから取り組んでいく世界の地域区分について具体的にお示ししておきます。
 地域は前述の通り現在の国家を基本単位(小地域)とし,その上位に中地域,5つの大地域を設定しました。
 中央ユーラシアの動向は世界史理解において肝要であるため,アジアの大地域に併記する取扱いとしています(注)。
(注)中央ユーラシアの地域概念は研究者によっても一致していませんが,V.リーバーマンの区分「黒海の北方・東方,ヒマラヤ山脈や朝鮮の北,現代イランの大部分,中国本土(チャイナ=プロパー)の北方・西方,ツンドラ地帯やシベリアの森林帯の南方」をおおむね採用しています(Victor Liberman, “Strange Parallels: Volume 2, Mainland Mirrors: Europe, Japan, China, South Asia, and the Islands: Southeast Asia in Global Context, c.800–1830”, Cambridge University Press, 2009,p.97)。中央ユーラシアの地域概念をめぐる問題については,秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房,2016も参照。

(1)大地域 
 各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
 アメリカからヨーロッパに至るまで,「W」の字を描くように,想像上の飛行機で世界を一周するイメージを持ってください。
 (例)
 ●200年~400年のアメリカ

(2)中地域 
 各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
 東からぐるっと時計回りに一周をするイメージです。
 (例)
 ○200年~400年のアメリカ  北アメリカ

(3)小地域
 現在の国家所在地を基本単位とし,各中地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。こちらも時計回りに一周するイメージを持ってください。
 (例)
 ・200年~400年のアメリカ  北アメリカ  現①アメリカ合衆国 
地域区分の一覧

●アメリカ
○北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
○中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
○カリブ海(諸国・地域)…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

●オセアニア
○ポリネシア…現在の①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
○オーストラリア…現在のオーストラリア
○メラネシア…現在の①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○ミクロネシア…現在の①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

●アジア
○東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
○東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
 ①・⑦の一部(マレー半島側)・⑧・⑨・⑩・⑪を「大陸部」,それ以外(⑦の一部(ボルネオ島側)を含む)を「島しょ部〔島嶼部〕」に分類することもあります。
○南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
○中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 「中央アジア」は,ソ連によって国境が確定される20世紀までは,「中央ユーラシア」の項に分類しています。これらの諸国が截然(せつぜん)と区分されたのは,世界史上ではきわめて最近の話なのです。
○西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 (注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

●アフリカ
○東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
○西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
○中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
○西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

●ヨーロッパ
○東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパの諸国は別の項目を立てています。

○中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
 どこがヨーロッパの「中央」なのかをめぐっては,歴史的に様々な見方が存在しました。
○バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
○イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
○西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
○北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

●南極


●約700万年前~約12000年の世界
人類の誕生

ホモ=サピエンスが氷期を生き抜き,南北アメリカ大陸を除く世界各地に広がる。

◆最古の人類の化石はアフリカ大陸西部で発見されている
サルと人類との境界線は曖昧だ

 現在,地球上を覆っている現生人類(ホモ=サピエンス)は,哺乳類のうち霊長目(れいちょうもく;サル目)の中のヒト属(ホモ属)の一つに分類される動物です。
 それをもっと細かく分類していくと,「ヒト上科」(テナガザル科,ヒト科を含む) →「ヒト科」(オランウータン亜科,ヒト亜科) →「ヒト亜科」(ゴリラ族,ヒト族) →「ヒト族」(チンパンジー亜族,ヒト亜族)の中のヒト亜族(サヘラントロプス属,アウストラロピテクス属,ヒト属(ホモ属))という具合になります。

 かつては,われわれ現生人類とチンパンジーは遺伝的に遠い関係にあると考えられていましたが,DNAの解析を進めていくと,どうやらわれわれ人類とチンパンジーは遺伝情報的には1%しか違いがなく,同じ「ヒト族」に属するということがわかってきました。
 ようするに,われわれにいたる進化の過程をたどっていくと,どこかの時点でチンパンジーとの“共通の祖先”にさかのぼることができ,さらにさかのぼるとゴリラとの“共通祖先”にたどりつく可能性があるということです。
 チンパンジーからいきなりわれわれ現生人類が枝分かれしたわけではなく,チンパンジーと現生人類をつなぐ,すでに絶滅してしまった我々とは異なる種に属する人類(化石人類)が存在していたのだと考えられています。

 しかし,19世紀以前には,われわれ人類が出現する以前の地球に関する情報は,ほとんど知られていませんでした。例えば,17世紀の英国国教会アイルランド大主教〈アッシャー〉らの『聖書』をもとにした推定により,天地創造は紀元前4004年との知識が“常識”となっていました。つまり地球ができてから現代のわれわれまで,約6000年しか経っていないということになります。1878年にイグアノドンの化石がイギリスで発見されて研究が進展するまでは,大型爬虫類(恐竜)が,約2億3000万年前から約6500万年前の間に地球に存在していたことも知られていませんでした(今聞いたとしてもピンと来ない気の遠くなる話ですが)。
 地球外からの隕石の衝突と地球寒冷化を原因とする恐竜の絶滅後,代わって新生代には哺乳類が地球各地に拡散し繁栄しました。やがて霊長類が出現し,この中に属するヒト上科とオナガザル上科がおそらく2500万年前後に分岐し,それが「ヒト族」(チンパンジー亜族,ヒト亜族)につながるのです。
 では,われわれの属するヒト亜族と,チンパンジー亜族は,いつ,どのように分岐したのでしょうか。両者をつなぐ“ミッシング=リンク”(失われた鎖の環。欠けた部分に想定される化石生物のこと)は,かつてイギリスの生物学者〈ダーウィン〉(1809~1882) 【本試験H12カントとのひっかけ】【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦)】によって「アフリカから見つかるはずだ」と予測されていました。
 そんな中,20世紀後半から世界各地で化石人類の化石が見つかるようになり,20世紀前半には〈ダーウィン〉の予言どおりアフリカ南部から東部で,のちのホモ属につながる「最も古い人類」が発見されていきました。

 ホモ属につながると考えられるアウストラロピテクス属に属するという人類種(しゅ)は,1924年に南アフリカで初発見され(アウストラロピテクス=アフリカヌス,300万~250万年前),1959年にタンザニアのオルドヴァイにおけるジンジャントロプス(270万~120万年前)の発見で一躍世界中に注目されます(注)。
(注)ジンジャントロプスは,アウストラロピテクス属ではなくパラントロプス属の種とする研究者もいます)なお,1974年には発掘作業中のビートルズの楽曲にちなみ”ルーシー”として知られるアウストラロピテクス=アファレンシス(380万~300万年前)の保存状態の良い化石がエチオピアで見つかっています(現在のエチオピア南西部のオモ川下流域は,さまざまな時代の人類化石の出土する重要地域となっています(◆世界文化遺産「オモ川下流域」,1980))。

 アウストラロピテクス属は約400万~約200万年前の南・東アフリカの森林に生息し,伝統的には「猿人」【本試験H4ホモ=サピエンスではない】に分類されます。彼らは木から降り直立二足歩行をしており,自由になった両手を使って石器を製作・使用していました。南アフリカではじめに発見され,東アフリカ一帯の広い範囲で化石が発見されてきたため,“人類のゆりかご”は東アフリカだったと考えられてきました。

 しかし,20世紀終わりから新発見が相次ぎ,従来の定説は塗り替えられつつあります。

 まず,人類種の出現年代がどんどんさかのぼっていきました。1994年には日本の〈諏訪元〉(すわげん,1954~) が1994年にエチオピアで440万年前の化石とされるラミダス猿人(アルディピテクス=ラミダス)を発見しました。しかも,生息していたのは想定されていたような草原地帯ではなく森林地帯であった可能性があり,定説を覆しました。また,2001年にはエチオピアでアルディピクス=ガダバ(580万~520万年前),ケニアでオロリン=ツゲネンシス(600万~580万年前)の化石が報告されています。
 そしてさらに2002年には,西アフリカのチャドで,約700万年前のサヘラントロプス属という種がフランスの研究チームにより報告され,トゥーマイ猿人と名付けられました。サヘラントロプス属は,チンパンジーからヒト科に分かれた直後の種,つまり最古のヒト科ではないかとされるようになりました。彼らは直立二足歩行をしていたと考えられるものの,半分は地上,半分は木の上で生活(半樹上生活)していたとみられます。
 チンパンジーからの分岐に迫る化石が発見されるにつれ,「縮小した犬歯」の特徴は確認されるものの,”直立”二足歩行をしていたとは言い切れないような例も見つかるようになっています。また,どのように分類するべきかを巡っては決着がついていないものも少なくありません。どこからが人類でどこまでが人類でないかという判定は,研究者によっても様々です。



◆猿人は絶滅,原人もユーラシア大陸に進出したが絶滅した
猿人と原人は,繰り返される氷期の中で絶滅した
 現在わかっている中でもっとも古いホモ属(ヒト属)は,ホモ=ハビリス(約240万年前~ 140万年前)で,東アフリカのタンザニアで見つかりました。伝統的に,彼らは「猿人」と「原人」の中間に分類されています。この頃から約1万年前までの間を「旧石器時代」【追H27】と区分します【立教文H28この時期にはヤギ・ヒツジの飼育は始まっていない】。旧石器というのは文字通り「古い石器」ということで,主に打製石器【追H27磨製石器ではない】が道具として作られ,使われた時期にあたります。石器時代を,「旧→中→新」の3つに区分するのは,18世紀前半に提案された伝統的区分です。

 アウストラロピテクス属や,そこから分岐したホモ属は,石を加工して石器という道具を製作していました(最古の石器の時期には定説はありません)。打ち割って作られた石器のことを打製石器といい,打製石器が主に見られる時代を旧石器時代といいます。はじめは石の一部を打ち欠いてつくった単純な礫石器(れきせっき) 【本試験H4「石を内欠いただけでの簡単な打製石器」を猿人が使用していたと推定されるか問う】が主流でしたが,のちに“切る”“削る”“掘る”作業のために,石を打ち欠いて形を整えた石斧(ハンド=アックス)が製作されるようになりました。
 旧石器時代は,厳しい気候変動を経験した時期でもあります。地質学者の研究により,地球上には今まで何度も氷期という寒冷期があったことを突き止めています。旧石器時代には氷期は2度ありました。

 170万年~7万年前には,北京原人【本試験H4狩猟・採集生活を送っていたか問う】【追H21火を使用していたとされるか問う】やジャワ原人【本試験H11:土器を使用していたか問う】の名で有名な,ホモ=エレクトゥスが登場しました。彼らは昔は「ピテカントロプス=エレクトス」として,ホモ属とは別種の「原人」【本試験H4時期(約50万年前)。アジア・アフリカ・ヨーロッパにわたる広い地域で生活していたか問う】と分類されてきましたが,現在ではホモ属の一種であるとされています
 ジャワ原人の化石は,オランダの植民地時代の19世紀末に,オランダ人の軍医〈デュボワ〉(1858~1940)が発見したものです(◆世界文化遺産「人類化石出土のサンギラン遺跡」,1986。ジャワ島の中部にあります)。
 北京原人の化石は,日中戦争の混乱の中で行方不明となっており,現在ではレプリカのみが残されています。

 彼らは猿人よりも身体や脳容積がひと回り大きく,ホモ属として初めてアフリカの外に移動を開始し(原人の“出エジプト”),ユーラシア大陸の広範囲に移動・居住しました。
 人類最初の“エネルギー革命”ともいえる,火の使用【本試験H4北京原人が知っていたか問う】【追H21 北京原人かどうか問う】【立教文H28旧石器時代かどうか問う】が確認されているのは,彼らの段階からです。人類は火を手にしたことにより,消化しやすいように食べ物を調理することができるようになり(料理の誕生),暖をとったり動物を追い払ったりすることもできるようになりました。
 彼らの喉や口の構造から,言語【立教文H28旧石器時代のことか問う】によるコミュニケーションも可能だったのではないかと考えられています。


◆アフリカからユーラシア大陸にわたった原人は,のちにネアンデルタール人に進化した
ネアンデルタール人は,我々と同時期に存在した
 ホモ=エレクトゥスの一部はアフリカに残留し,さらなる進化を遂げます。
 60万年前にホモ=ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)。彼らはヨーロッパのドイツで発見されているように,一部はアフリカを出て,ヨーロッパに到達しました。
 
 20万年前に一旦温暖な気候に向かった地球は,一転して19万5000年前~12万3000年前頃まで氷期を迎えます。寒さのゆるむ間氷期(かんぴょうき)をはさんで,約7万年前に最期の氷期,すなわち最終氷期がホモ属を襲いました。
 この時期には,北アメリカでは北緯40度近くまで,ヨーロッパでは北緯50度近くまでが氷床(ひょうしょう)に覆われていたことがわかっています。また,森林があった地域は荒れ地か草地になり,沙漠が拡大しました。
 この寒冷化の原因として,約7万年前に大噴火したインドネシアのスマトラ島にあるトバ火山の噴煙を挙げる学説もあります。この説によると,地球の平均気温が5度近く下がってホモ=エレクトゥスは完全に滅び,ネアンデルタール人とホモ=サピエンスが生き残ったのだとされます。

 そんな気候の大激変期をユーラシア大陸で生き抜いたが,ネアンデルタール人【本試験H17ラスコーとのひっかけ,本試験H19約9000年前ではない】【本試験H4時期(旧石器時代後期)】です。ヨーロッパに到達したホモ=ハイデルベルゲンシスが,ヨーロッパで進化しネアンデルタール人につながったのではないかと考えられています。
 彼らは伝統的に「旧人」【本試験H4磨製石器を使用して狩猟していない】と呼ばれるヒト属の一種で,約40万年前に出現しましたが,後からユーラシア大陸に進出したホモ=サピエンス(約20万年前に出現)に圧倒されて,約4万年前に絶滅しました。死者の埋葬【立教文H28記】の風習があったことが確認されています。

 ネアンデルタール人は,DNA鑑定の結果,現在のわれわれ「ホモ=サピエンス(ヒト)」とは別の種(ホモ=ネアンデルターレンシス)なのですが,共通点もあります【本試験H4現在の人類とほぼ同じ形質の新人であったか問う】。
 アフリカに残ったホモ=ハイデルベルゲンシスから進化したと考えられています。最近では,ホモ=サピエンスの中に彼らのDNAが混ざっていることも明らかになっており,両者の間で交流があったのではないかともいわれています。

◆人類(新人,ホモ=サピエンス)は20万年前にアフリカで生まれ,世界中に広がった
ホモ=サピエンスは,アフリカで生まれた
 アフリカに残留したホモ=ハイデルベルゲンシスから,ホモ=サピエンス【本試験H4「猿人」ではない】が進化しました。ホモ=サピエンスとは,つまり私たちの種に当たります。
 つまり,一昔前に考えられていたように「旧人から新人に進化した」わけではありません。むしろ,旧人のネアンデルタールと,新人のホモ=サピエンスが同時に存在していた時期があったことになります。ネアンデルタール人がなぜ滅んだのか詳しいことはわかっていませんが,ホモ=サピエンスのほうが集団での狩猟技術に長けていただけではなく,ホモ=サピエンスとネアンデルタール人との抗争があったのはないかという研究者もいます。
  「ホモ=サピエンス」とは「知恵ある人」という意味で,18世紀に「学名」を提案したスウェーデン人の博物学者〈リンネ〉【東京H9[3]】【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない、H25コントではない】が名付けました。
 我々の細胞内にあるミトコンドリアDNAの解析を調べた結果,ホモ=サピエンスは,数回にわたってアフリカを出て,全世界に広がっていったことがわかっています。現在,各地域に分かれている民族のDNAを解析すると,どの時期にアフリカを出た集団なのかがある程度つかめるようになっています。Y染色体ハプログループという部分に注目すると,アフリカを出たホモ=サピエンスは,イランのあたりで南ルート,北ルート,西ルートに分かれ,それぞれオーストラロイド,モンゴロイド,コーカソイドの特徴を持つようになり,アフリカを出なかった者はネグロイドの特徴を持つようになったのではないかと考えられています。つまり,現在のわれわれの全員の祖先は,アフリカにいたということです(単一起源説,アウト=オブ=アフリカ説)。われわれのDNAに共通に受け継がれているミトコンドリアDNAを分析すると,われわれの母方をたどっていくと,約20~12万年前にアフリカにいた共通の女性(“ミトコンドリア=イブ”)にたどり着くのではないかという説も出されています。



◆ホモ=サピエンスは南北アメリカを除く四大陸に拡散する
アフリカ→ユーラシア→オセアニアに移動する

◆北ルート
ホモ=サピエンスは高緯度地域にも適応していく
 ホモ=サピエンスは約10万年前に初めてアフリカ大陸を出たと考えられています。
 約10万年~9万年前にアフリカを出た人類は,地中海や西アジアに広がりました。北ルートをとったホモ=サピエンスのうち,フランスで発見されたクロマニョン人【本試験H4旧人ではない】が知られています(注)。

 その後,6万年前までに北ルートをとったホモ=サピエンスは,中央ユーラシア,東アジア,東南アジアに進出します。中国の北京で発見された周口店上洞人,沖縄県で発見された港川人の化石がその例です。

 先述の通り,ホモ=サピエンスがユーラシア大陸に到達したころ,そこにはすでにネアンデルタール人【本試験H4時期(旧石器時代後期)】の姿がありました。しかし彼らは“食料確保”の面でホモ=サピエンスに劣っていたため,生存競争に負け,前4万年頃までには絶滅してしまうのです。

 ホモ=サピエンスはすでにこのころ,動物の毛皮を衣服として用いていました。普通に巻いているだけではずり落ちてしまいますから,動物の骨から縫い針を発明して,繊維を使って縫ったのです。この“衣服革命”により,素っ裸のネアンデルタール人は圧倒されていきます。

 なお,もともと高緯度地域というのは日射量が少なく,太陽光線を受けて体内で生成されるビタミンD(骨の生成に必要)が足りなくなり,病気になってしまうおそれがありました。たまたま肌の色が薄く(つまりメラニン色素が少なく)生まれた人のほうが,効率よくビタミンDをつくることができ,骨の病気にかからずに済んだのでしょう。こうして北ルートをとった人々の肌は,アフリカに残った人々よりも薄い色が主流なっていきました。環境に適応して,外見的特徴が変わっていったのです。

 ホモ=サピエンスはまた石のかけらで矢じりや槍の穂先をつくって投げ槍を発明し,マンモスのような大型動物を大量に狩猟することに成功。さらにイヌの家畜化により,獣を追い込む方式の狩りが可能になりました。また,仲間でコミュニケーションをとり,協力をする能力にも優れていました。一方,待ち伏せや,手に持った斧による攻撃で獲物を仕留めていたネアンデルタール人は劣勢になっていきます。ホモ=サピエンスはさらにその骨で住居を作るなどし,寒さをしのぎました。
(注)クロマニョン人は1868年に南西フランスレ=ジーの岩陰で化石骨が発見され、岩陰の遺跡の名前からクロマニョン人と名付けられました(福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.22)。




◆南ルート
ホモ=サピエンスは陸続きのオーストラリアに達する
 南ルートをとったホモ=サピエンスがオセアニアに到達した約6万年前~約5万年前の期間は,地球上の気温が一時的に上昇した時期にあたります。
 オセアニアとは,ポリネシアとメラネシア,それにミクロネシアという3つの地域から構成されます。
 ニュージーランドとハワイ諸島・イースター島を三角形で結んだ範囲のポリネシア。ニューギニアからニュージーランド北部までの赤道以南の地域であるメラネシア。フィリピンの東にあるグアムやサイパンなど,だいたい赤道以北の島々が分布するミクロネシア。

 南ルートで移動してオーストラロイドという人種に分類される人々は,当時陸続きだったニューギニア島からオーストラリア大陸,タスマニア島にかけて移住したとみられます。今よりも海面は80メートルも低かった時期ですが,ジャワ島の東側からニューギニア島までは,丸木船で島を点々とホップして海を渡る必要がありました。丸木船は,はじめはアウトリガーカヌーという船体の片方の横に浮きをつけて安定させたものが,遠洋航海には船体を横に2つ連結させた双胴船(ダブルカヌー)いう大きな船が用いられました。アフリカから拡散した人類は,ここで初めて海を渡る大規模な移動をおこなったのです。オーストラリア西南部の内陸にある遺跡からは,エミューの卵とともに貝殻が発掘されています。

 かつて,ニューギニア島とオーストラリアは一体化して,「サフル大陸」という大陸を形成していました。 ボルネオ島やジャワ島などは,ユーラシア大陸と合体していました(スンダ陸棚)。ニューギニア島とオーストラリアもくっついています(サフル大陸)。スンダ陸棚とサフル大陸の間には100キロメートルの海域があったため,現在でもサルはスンダ側にはいますがサフル側にはいませんし,カンガルーなどの有袋類はサフル側にはいますがスンダ側にはいません。
 しかし人類は,約3万5000年前頃までには,この海域を船で移住することに成功したのです。
 その後の海面上昇によって前8000年~前6000年頃にニューギニアと切り離されると,オーストラリア大陸にいた人類は外界から取り残され,その後長期にわたって狩猟採集文化を維持しました。
 一方,ニューギニア島では前7000年~前5000年頃にタロイモやサトウキビの農耕をおこなっていた形跡も残されています。

 しかし,人類の移動はソロモン諸島(ニューギニア島のさらに東に位置する島々)で一旦ストップします。これより東にいくと島がまばらになり,航海が困難になったためです。ここまでを「ニアーオセアニア」,ソロモン諸島よりも東を「リモートオセアニア」と呼ぶことがあります。


◆東ルートをとった人類は,寒冷地域にも進出する
ホモ=サピエンスは寒冷地域にも適応していく
 そのうち,東ルートをとったモンゴロイド人種は,ユーラシア大陸東部に広がっていきました。
 日本の沖縄県では前16,000年前の新人である港川人が発見されています。日本列島では縄文人が縄文文化を発達させていました。港川人と縄文人との関係はわかっていませんが,南方の東南アジアとの関係性も指摘されています。

 この地域の人々が次に向かったのは,寒冷な地域です。3万5000年前までにはロシア,2万年前までにはシベリアに到達しています。

 ところで,3万年前頃に地球は,再び寒冷で乾燥した気候に逆戻りしています。
 このとき,沙漠が拡大し,森林が減少しました。2万1000年前から1万7000年前の間がピークだったとみられ,人類は一番寒い時期に寒さに立ち向かっていたのです。

(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14






●約700万年前~前12000年のアメリカ
◆北アメリカ大陸とユーラシア大陸は,ベーリング地峡によってつながっている
南北アメリカ大陸に人類は,まだいない
北アメリカ大陸の大部分は,太平洋岸のコルディエラ氷床,北東部のローレンタイド氷床という厚い氷のカタマリに覆われていました。
 現在はベーリング海峡で分かれていたユーラシア大陸と北アメリカ大陸の間も,当時はベーリング地峡によってつながっていました。
 北アメリカには馬が生息していたほか,マンモスとマストドンのような大型哺乳類も分布していました(注)。

 南アメリカ大陸は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
 寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています。
(注)巨大なナマケモノ…その名もオオナマケモノや,巨大なビーバーのカストロイデスなども生息していました。






●約700万年前~前12000年のオセアニア
 アメリカ大陸からオセアニアに目を移しましょう。
 南半球にはオーストラリア大陸があります。ここに人類がわたったのは約6万年前のことです。

 最終氷期には東南アジア方面から陸橋(りくきょう)がつながっていましたが,完全に陸続きではなかったため移動には船も用いられたとみられます。

 南部のウィランドラ湖地域(約20000年前に干上がった湖の跡地)からは,新人の遺跡やアボリジナル(アボリジニー)の祖先の岩絵が見つかっています(◆世界複合遺産「ウィランドラ湖地域」,1981)。
 オーストラリア北部は,熱帯からサバナまで多様な自然環境がみられる地域。ここでは,まるでレントゲンで透視したかのように骨格や内臓を浮き出したに動物・人間の岩絵(X線画法と呼ばれます)が見つかっています(◆世界複合遺産「カカドゥ国立公園」,1981(1987,1992範囲拡大,2011範囲変更))。

 この時期に人類は,ニューギニア島からソロモン諸島にまで移動しています。
 ニュージーランドや,南太平洋・東太平洋にあたるポリネシアの大部分には,まだ人類は到達していません。





●約700万年前~前12000年のアジア

 東アジアには,現在の北京郊外の周口店に新人段階の周口店上洞人(しゅうこうてんじょうどうじん)の化石が発見されています。ここからさらに北に進んでベーリング今日を越えていく集団もいました。また,朝鮮半島を経由して前4万年前には現在の日本列島にも移住する集団が現れます。
 南アジアには前6万年頃に最初の移住があったとみられます。
 これらの地域では海産物が重視され,海岸付近や河口付近に住む場合が多く見られました。

 西アジアには10万年前に最古の埋葬跡がみられます(イスラエルのカフゼー洞窟)。また,イスラエルのナトフ谷では自生する穀物の集中管理・貯蔵が行われていました。まだ農業とはいえませんが,やがてこの地で史上初の農業がはじまりを告げます。前12000年(注)には石臼(いしうす)の使用が西アジアで始まっています。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.15






●約700万年前~前12000年のアフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 アフリカ人は現生人類の揺籃(ようらん)の地です。
 アフリカ南部に移動した集団は,12万年前頃から集落を残し,前42000年にはライオン洞窟で体に塗りつける赤い顔料(赭土)が出土,アポロⅡ遺跡にはアフリカ最古の岩絵(26000年前(注))を残しています。
 なお,この頃のサハラ地方は比較的雨の多い気候であり,チャド湖も現在の数十倍の面積でした(大チャド湖)。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14。





●約700万年前~前12000年のヨーロッパ

 人類は前35000年ころまでにヨーロッパに移動していますが,このころはまだ氷床が大部分を覆っている状態。もともとネアンデルタール人が居住していましたが,現生人類に圧倒され,イベリア半島で前27000年に最後のネアンデルタール人が絶滅しました(注)。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14


○特集 ホモ=サピエンスは,どんな動物か

 このように,ネアンデルタール人を駆逐して,全世界の環境に広がったホモ=サピエンスは,発達した大脳新皮質をコンピューターのように駆使し,感覚・運動・知覚・感情・記憶・思考などのさまざまな情報を処理する能力に長けていました。もちろん,ネアンデルタール人にも言語はありましたが,複数の情報をもとにアタマの中で考えたことを,仲間で共有する能力は,ホモ=サピエンスに軍配が上がります。この飛躍的な情報処理能力の発達を“認知革命”ともいい,今後ホモ=サピエンスがさまざまな分野で活躍していく前提条件ともいえます。

 動物であれば,情報が世代を超えて受け継がれることはありません。
 しかし,人類は情報を言葉で伝えたり共有したりすることで,次の世代に伝えることができます。
 どうすれば寒さがしのげるか。服を縫うには何が必要か。家を立てるには,狩りをするにはどうすればよいか。これらはみな,当時の人類が積み重ねていった情報の結晶といえます。

 さらに人類は,目には見えない抽象的なイメージを,歌や言葉でストーリー(物語)に発展させたり,踊り,絵画や彫刻などの形に残し,他の人と共有したりすることができるようになっていました。

 狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられるアボリジナル(アボリジニ)【本試験H27】の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランスのショーヴェ洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランスのラスコー洞穴壁画【本試験H5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】【本試験H17】や,1万8000年前頃から描かれたスペイン【本試験H31】のアルタミラ(アルタミーラ) 【本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H17ラスコーとのひっかけ,H31ラスコーではない】【追H20】【立命館H30記】洞穴壁画では,人類と動物【追H20「動物の絵が見られる」か問う】との間の生き生きとした交流が描かれています。ショーヴェ洞窟にはふさふさの毛をもつサイの仲間であるケサイ,ラスコー壁画には牛の祖先の野生種オーロックスの姿が描かれています。南ヨーロッパが現在よりも寒冷であったことが推測できます(◆世界文化遺産「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」,1979(注))。
(注)ラスコーは現在は立入禁止となっていますが,精巧に復元された近くのラスコーⅡが一般公開されています。

 手を壁に当て,絵の具を口からブッと吹きつけて残した手形(ロックアート)も,世界各地でみられます(◆世界文化遺産「ピントゥラス川のクエバ=デ=ラス=マノス」,1999。現在のアルゼンチン南部のパタゴニア地方に残る800以上の手形)。

 2万5000年前頃からユーラシア大陸では,現在のオーストリアのヴィレンドルフ【立教文H28アルタミラ,グリマルディ,ネアンデルタールではない】などで「ヴィーナス」と呼ばれる女性の裸像が多く見つかっており,こちらは土地の神(地母神)への信仰と関係があるのではないかという見方もあります。「死」という限界が今よりも格段にリアルだった当時の人類にとって,豊かな恵みと厳しい脅威を与える「自然」に対する信仰は,自然に生まれていったのでしょう。また,「人はなぜ生まれたのか?死んだらどうなるのか?」という問いも,世界各地の人類によって,だんだんと独自に説明されるようになっていきました。

 このように人類は,目には見えない“不思議な力”やこの世界の成り立ちを仲間で共有し,共通の活動や儀式をおこなうことで,自分たちが生まれてきた意味や死んでいく意味を納得しようとしたわけです。こうした人類特有の世界観やそれに基づく行為を「宗教」といいます(注)。
 当時のホモ=サピエンスは,現代のわれわれよりも「自分が自然の中の一員なのだ」という思いを切実に感じていたはずです。例えば,ある動物を一族の守護神として大切にするトーテミズム。「自分たちの仲間の祖先はライオンで,ライオンをまつることで自分たちにもパワーが宿る」と考えるわけです。また,聖霊(アニマ)が自然界の動植物や無生物に宿っていると考えるアニミズム。これらは想像上の世界であるわけなのですが,“目には見えない”世界について語り,共有することによって,互いに仲間意識を強めていくことができたのです。
(注)「世界には日常の体験によっては証明不可能な秩序が存在し,人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し,その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的,永続的に説明できるという信念の体系」(『日本大百科事典』「宗教の項」)。
 また,「…宗教の世界の概念は,生活がなされ,演技がなされ,何かが体現される世界である。それは,いつも神に祈る,肉体から遊離した精神だけの世界ではない。……より全体的な見通しに立てば,宗教的な人々は,膨大な行動様式の多様性の中に聖なるものを表現する演技者である。宗教の世界は,教義の歴史や宗教哲学の中にだけ体現されているのではなく,祭りや記念祭,通過儀礼,暦,修行の諸形態,家内の聖なるもの,塑像や絵画,特別の衣服や象徴的な事物,病気治療と祈禱の技術,聖歌と宗教音楽,そして無数の各地の家族や国民の習慣など,あらゆる行動や状況の中に体現されている。」 (阿部美哉『比較宗教学』(大法輪閣,2014年),pp.49-50)
 かつて人間は,食料の源を強く意識せねばならない環境下にありました。そこでは,人間と自然はいわば渾然一体に近い関係にありました。熊が山から贈られてくるという考えから,熊の神に祈念する狩猟民もいます。その過程で,人類は自然の背後にあって,様々な恵みと災いを贈与する存在に対して,さまざまな考えと行動を生み出してきました。
 自然は,恵みを与えてくれるだけでなく,同時に畏怖(いふ)を抱く対象でもありました。人間はある時期から,あらゆる自然現象の背後に,なんらかの行為主体を認識するようになったと考えられます。「自然界の激変は目にみえる世界の向こう側に何か得体のしれない力のあることを感じさせる。さらにまた,生命ある人間の死,とりわけ慣れ親しんだ身近な霊魂は目に見える世界の向こう側に今もいきつづけるという思いがしてならないのだ》(本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書,2005年,p.25)。自然に対する崇拝や,供犠(きょうぎ)のような儀式も,行き過ぎた自然破壊に一定の歯止めをかける行為であったことを評価する説もあります(中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌 (叢書・文化学の越境)』森話社,2007年,p.179)。そして,こうした宗教的な営みの中で,しばしば王権は,人間の世界(ミクロコスモス)と自然の世界(マクロコスモス)を媒介する存在として,歴史を通じて様々な形の神聖性を帯びることも少なくありませんでした。
 宗教的な実践神聖な対象に対する「行為が定式化されて,非日常的な神聖な行為として宗教儀礼,祭礼」の形がとられることがあります(『日本大百科事典』)。儀礼(反復される形式的行動)は,国家をはじめとする権力とも結びついてきました。ビザンツ帝国の皇帝が,コンスタンティノープル総主教によって戴冠される際に人民からあがる叫びや歓呼も様式化されたものであったことが分かっています(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005年,pp.11-12)。
 「形式的行動は視覚化されるために,儀礼は,抽象的な権力を目に見えるかたちに換え,知識の共有(という観念)を人々に可能にする(「人々がその事を知っている」ということを皆が知っているということを可能にする。これは人々の対立を緩和させる)。》(p.206)…(中略)…「国家は儀礼と通して表現される。それ以外に国家を全的に表現する手段はない」(青木保『儀礼の象徴性』東京・岩波書店,1984年),「儀礼の執行を通して国家が作り出される」(山下晋司『儀礼の政治学―インドネシア・トラジャの動態的民族誌』東京・弘文堂,1997年)という考えがある。人々は,儀礼行為を通じて,支配されているという感覚をもつことなく,権力の生成に自ら参加する。あるいは,人が主体的に動いているようにみえて,実は権力の枠組によって動かされる状況を,儀礼行為は比較的容易につくることができる。…(中略)…儀礼は,伝統的・恒常的である,という観念を創り上げることで,実際におきている変化を正統化/正当化する文化装置ともいえる。」(妹尾達彦「前近代中国王都論」中央大学人文科学研究所研究叢書『アジア史における社会と国家』中央大学出版部,2005年,pp.206-207)
 われわれが歴史上の宗教について理解するには,歴史上の人びとが,何に対して権威を感じていたのかということを推し量りつつ,彼らがいかなる儀礼的な行為を社会の中で共有し,現実的に利益を感じていたのかということに注目することが必要です。

 そのような“理想”や“願い”を実現するため,自然に手を加えたり形を変えたりする方法を技術といいます。人間は,知能を働かせて,自然に対して積極的にイメージ通りに手を加え,特定の技術に関する情報を,世代を越えて受け継ぐことができる存在となったのです。そうすれば,石器を作るにも,いちいちゼロから考えずに済みますし,情報が人伝いに拡大するに従い,世代を経るに従って技術がだんだん進歩していくというわけです。

 しかし,一方で人間はライオンに比べ圧倒的にか弱い存在です。時間は有限であること,自分自身に限界があることを理解したホモ=サピエンスは,ときにそれに逆らいながらも,どうしたら豊かな人生を送ることができるのか“理想”を描き,それを仲間と共有する中で地域ごとに特色のある文化が生み出されていきました。
 文化は,その土地土地の自然や気候と密接な関わりがあるといわれています。一年中常夏の地域と,四季の移ろいのある地域とでは,人々の共有する感性に違いが出てくるわけです。「自分がどういう人間なのか」「どんなふうに生活するべきなのか」を気づかせ,影響を与えるような自然環境のことを,哲学者〈和辻哲郎〉(1889~1960)は「風土」と呼びました。
 ホモ=サピエンスは初め,多くの動物と同じように狩猟・採集を中心とする生活を送っていました。自然にあるものを獲り交換・分配・消費する仕組みを獲得経済と呼びます。
 しかし,地球が温暖化に向かうと,やがて世界の多くの地域で植物の栽培,さらに家畜の飼育が始まりました。自然に積極的に働きかけ,自然を作り変えることで価値ある物を生み出す営みを生産経済といいます。
 ただし獲得経済にせよ生産経済にせよ,資源には必ず限りがあります。これらをどのように分配していくかということが問題となります。
 限りあるもの(目に見える物や,目に見えない労働力も含む)を人々の間で交換したり,取り合ったりすることを交易といいます。交易がうまくいかないと,飢えや戦争(略奪)に発展することもあります(注)。

(注)「交易」という言葉を広い意味でとらえると,次のように考えることもできます。「人間は自然と関係するとき,肉体を動かすだけではなく,呪術・宗教・「理論的」表象のなかで観念的に交流し交通しながら,その観念的表象に合わせて自然から材料を切り取り(「略奪」「搾取」とも言えるが),切り取られた材料を,一つの空間から他方の空間に移動させるし,特定の時間から他の時間へと移動させながら,一方では材料を観念のなかで加工し,他方では物質的・身体的な行動のなかで変形する。人間が生産し労働することも,十全なる権利をもって,交易とみなすことができる。」今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)――贈与と交換の人間学』講談社選書メチエ,2000年,p.54

 人間はライオンのような鋭いきばや爪もない弱い存在ですが,道具を用いれば他人の命も奪うことも可能です。たしかに,暴力を使えば短期的には相手集団もいうことを聞くかもしれません。しかし戦いは“敵”と“味方”を生み出し,次の世代にも爪あとを残すかもしれません。長い目でみると,お互いが納得のいく仕組みをつくったほうが,お互いにとっても合理的な場合は少なくありません。ホモ=サピエンスは長い歴史の中で,より多くの人々が納得できるような様々な“しくみ”(制度)を考え出していきます。世界史は,ホモ=サピエンスによるその試行錯誤の歴史でもあります。「もうこれ以上はよくならない」「今のままで問題ない」と立ち止まるのではなく,われわれの先祖の“しくじり”に接することで,未来を考える。それが,世界史を学ぶ意義の一つです(注)。
(注)世界史を学習すると,人間は競争がすべてで弱肉強食から生き残った者が勝つのだという“社会闘争”的な印象を抱きがちです。たしかに,そのような局面もあったかもしれませんが,人間は平和によりよく生きていくために,よりよい社会制度を産み出そうとしてきたのです。さもなくば,戦いに明け暮れる戦争だらけの歴史観に陥り,「昔の人は好戦的で愚かだったのだ」「民衆はいつでも支配者と闘争し“普遍的価値”を勝ち取ってきたのだ」という白か黒かの評価を与えかねません(小川幸司『世界史との対話――70時間の歴史批評(中)』地歴社,2012年,p.4)。事態はもっと動態的で,多層的なのです。

●前12000年~前3500年の世界
人類の生態の多様化①
温暖化にともない狩猟・採集とともに農耕・牧畜が始まるが,再寒冷化にともない前3千年紀の中央ユーラシアで民族大移動がおきる。

(注)「最寒冷化」はヤンガードリアス期と呼ばれます。

この時代のポイント
(1) 地球が温暖化し気候区分・植生が変化する
この時期に,大型哺乳類の多くが絶滅する
 紀元前12000年頃から地球は温暖化に向かい,地質学的に後氷期(完新世)と呼ばれる時期が始まります【本試験H19時期を問う】。北アメリカやヨーロッパの大部分を覆っていた氷河が減少し,森林地帯や草原地帯が広がっていきます。

 それとともに,ユーラシア大陸のマンモス,ヘラジカやオーストラリアの有袋類,北アメリカ大陸のマストドン,オオナマケモノ,オオアルマジロ(グリプトドン),ウマ(エウクス)などの大型哺乳類・鳥類・爬虫類が次々に絶滅していきます(注)。

 代わってウサギ,イノシシやシカといった小型の哺乳類が分布するようになりました。すばしっこくピョンピョン跳ねる小型動物を仕留めるため,弓矢の先端に取り付けたり,皮を剥ぎ肉を切ったりするための細石器(さいせっき)が発明されました。
 また,根菜や種を付ける植物(種子植物)も食用とされるようになっていきます。

 
 ウマは原住地である北アメリカ大陸から姿を消し,のちにユーラシア大陸での生き残りが家畜化されることになります。もしアメリカ大陸にウマが生き残っていたら,当然その後の歴史はまったく違ったものになっていたはずです(アメリカ大陸におけるウマの絶滅)。
(注)これらの絶滅は気候変動だけでは説明がつかず,人類による狩猟の影響があったと考える研究者もいます。


(2) 各地の気候に合わせ,狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
 紀元前【本試験H6 B.C.とは「Before Centuryの略」ではない】12500年には,ホモ=サピエンス(人類)は南アメリカに到達し,前9000年にはその南端に到達していました。
こうして南極大陸以外のすべての大陸に広がった人類は完新世に入り地球が温暖化すると,地域によっては細石器を製作する中石器時代を経て,新石器時代に磨製石器【追H27旧石器時代ではない】という新たな道具を製作する技術を生み出す集団も現れます。

 温暖化にともない陸地を覆っていた氷河が縮小し,大型哺乳類も減少すると,各地の人々はその営みを環境の変化に適応させていきます。
 各地で家畜や栽培植物の集中管理(農耕・牧畜【本試験H4時期が新石器時代か問う】)(注1)も始まり,人類は狩猟・採集による獲得経済だけではなく生産経済へと生存の基盤を変化させます。
 人類は積極的に生態系を作りかえ,食料や道具の材料となる動植物をコントロール下に置くことを可能にしていったわけです(注2)。

 人類はもともと遊動生活(一定の場所に長期間とどまらない生活)を送っていましたが,この時期以降,各地に定住集落も出現します。
 しかし,定住集落が必ずしも農耕・牧畜に基づいていたわけではなく,狩猟・採集・漁撈に基づく定住集落もありますし,いくつかの生業を組み合わせたり,共同体の内外での物資の交換もおこなわれていました。

 共同体の中にいるメンバー間の格差はまだそれほど大きくありませんが,共同体の置かれた環境によっては経済格差が広がり,経済資源・軍事・思想をコントロールする勢力が現れるようになっていきます。
 自然との密接なつながりを持っていた当時の人類は,自然との関係の中で,みずからの生命の限界や人生の意味,死後の世界と新たな生命の誕生について,さまざまな思想を膨らませていきました。
 世界の始まりと生命の起源,人間の理想と自然の意志,祭りの祝詞や生活の知恵,人生の喜びと死の悲しみ,目にはみえない幻想的なイメージや恐怖を鎮める呪術(じゅじゅつ),集団の系譜や出来事などが,歌・舞踊・楽器の演奏や,身体の装飾,薬物や生贄(いけにえ)などを用いた儀式を通じて人々の間に共有され,受け継がれていきます。

 かつてはユーラシア大陸とつながっていた南北アメリカ大陸でも,この時期には中央アメリカや南アメリカのアンデス地方で農耕・牧畜が導入されていきます。ベーリング海峡によって隔てられたため,アメリカ大陸はユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独自の歩みをたどることになります(注3)。

 オセアニアでは,すでにニューギニアの高地で,前8000年前にまでさかのぼるバナナやヤムイモの初期農耕の遺跡が発見されています(注4)。

(注1) 牧畜についての補足。「天水のみでは栽培食物が育たないという地域で,人間が消化できない雑草(セルロースが主成分)を飼い慣らした草食動物に食べさせて,乳や肉を利用することで,不安定な狩猟にかわって資本として動物をストックする術を得ました。人類は家畜(生きる資本=livestock)群を連れ,可耕地の外の原野に出て行くことができるようになったのです。これが牧畜の成立です(もっとも松井健は,放牧地のなかの可耕地が農業に特化した人たちの定住地になった可能性も否定していません。
 したがって,「農耕・牧畜の開始によって,人類は定住生活を開始した」という説明は,少々粗っぽいということになります。逆に「定住の開始にともなって,農耕・牧畜を開始した」という説明も,牧畜民が可耕地から出て行った可能性を排除してしまいます(注2も参照)。松井健『遊牧という文化――移動の生活戦略』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館,2001年,p.9

(注2) これを「新石器革命」とか「農業革命」とも呼びます。この時期の革命を第一次農業革命,第一次産業革命(工業化)の前提になったとされる17~19世紀のイギリスにおける革新を第二次農業革命【東京H19[1]指定語句】,1930~60年代の品種改良などの革新を第三次農業革命と呼ぶことがあります。
 ただ考古学者〈G.チャイルド〉(1892~1957)により唱えられた「新石器革命」(食料生産が可能になったことで定住生活が始まったとする説)が,世界のどの地域においてもみられる普遍的なパターンであったという考え方は,現在では問い直されています。
 豊かな漁場や猟場,植物採集が可能な地域では,農耕・牧畜に基づかなくても定住が可能だったからです(遊動生活を基本としていた人類が,農耕・牧畜を中心とする生活へと移行したのに,定住の開始が大きな影響を与えている点については,西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫,2007年も参照)。「農耕・牧畜→定住」という図式は,全ての集団に当てはまるわけではないのです。なお,狩猟・採集民も,畑地をつくり火を入れ,野生植物を移植して種をまき,草を取り小規模の灌漑をほどこすなど,ある種の栽培は行っていました(参考 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.67)。
(注3)増田義郎はラテンアメリカのことを「世界史の孤児」と表しましたが,あくまでユーラシア大陸・アフリカ大陸との接触が疎遠だったという点に注目しての表現です。ユーラシア大陸・アフリカ大陸における人類史の道のりが「正統」で,ラテンアメリカの文明が「異端」とか「特殊」であったという見方は一面的です。「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.8。
(注4) ニューギニア島の南部山岳州(◆世界遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。



●前12000年~前3500年のアメリカ

◆後(こう)氷期(ひょうき)にアメリカ大陸でトウガラシ,アボカド,ヒョウタン,カボチャなどの栽培が始まる
南北アメリカには、ユーラシア大陸から人類が移住

 陸続きであった時期には、長い時間をかけていくつもの集団がユーラシア大陸から【追H24】アメリカ大陸に移住しました。

 しかし、前12000年頃から始まる温暖化によりベーリング地峡がベーリング海峡になります。これによりユーラシア大陸との交流は断たれた南北アメリカ大陸は,基本的に1500年前後まではユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独立した歩みをたどっていくこととなるのです(注:11世紀初めに北ヨーロッパのヴァイキングが北アメリカ北西岸に到達。また,オセアニア東部のポリネシア人も,南アメリカ大陸に到達していた可能性があります)。前11500年頃,北アメリカの人々は鋭(するど)い尖頭器(せんとうき)が特徴的なクローヴィス文化(クロヴィス文化)を生み出しています。

 南北アメリカ大陸で早くに農耕がおこった地域は,中央アメリカ(メソアメリカ)と南アメリカのアンデス地方です。両者をあわせて「核アメリカ」と呼ぶことがあります。
 中央アメリカのメキシコやグアテマラでは,テオシントというイネ科の野生植物が,次第に現在のトウモロコシに改良されていきました(注1)。現在のトウモロコシとは似ても似つかないような小さなサイズをしています。
 南アメリカのアンデス地方の高地では,数千メートルの高度差・季節ごとの気候差を利用した狩猟・採集のほか,前8000年頃にはインゲンマメ,リマビーンズ,トウモガラシなどの作物栽培も導入されていくようになります(注2)。
 どちらの地域でも,人々は農耕のみを生活の基盤としていたわけではなく,狩猟・採集や漁撈を組み合わせる生業が営まれていました。
 特にアンデス地方中央部では,海岸近くには沙漠があって沖合には豊富な漁場が分布しています。そこに流れ込む川をさかのぼると,一気にアンデス山脈の高地にたどり着きます。海岸から山地まで多彩な気候のバリエーションに富むアンデス地方では,河川の流域や高度別の谷などを基本単位にし,さまざまな人々が気候に適応した生活を送っていたのです。


 南北アメリカ大陸には,アフリカやユーラシアのように,牛,豚,鶏,羊,山羊,馬といった家畜になりうる中型の哺乳類は分布していません。ですから,動物に犂(すき)を引かせて耕したり,物を運ばせたり車輪を引かせて戦車にしたりといった発想は実現化されていません。
 家畜化された動物は少なく,中央アメリカ・カリブ海地域の家畜はシチメンチョウ(七面鳥),イヌくらいで,南アメリカではラクダ科のラマやアルパカの原種とみられる動物,小型のテンジクネズミ(モルモット)がいるくらいです。
 もともと北アメリカ大陸にも馬【本試験H7馬はアメリカ大陸の「固有種」ではない。アメリカ大陸に分布していた種は絶滅した。ただ,「固有種」という用語を広義にとると,この問題は解答不能となる】などの大型哺乳類は分布していたのですが,乱獲あるいは気候変動で絶滅したとみられます。そのことが,アメリカ大陸の文化の特徴をつくっていくわけです。
 馬は,肩当て付きの荷車があれば1トンの荷物を運ぶことができましたが,ラマの場合は30キロほどしか運ぶことができません。これでは高山地帯の人類が運ぶことのできる20キロほどと,あまり変わりません。マヤ文明でジャガー付きの玩具が見つかっていることから,車輪の発想がなかったわけではありません。しかし,家畜の力と組み合わせて運搬用に応用されることはありませんでした。
 すでに前6000年頃には狩猟の対象が鹿から,野生のラクダ科動物へ変化していました。山へぴょんぴょん逃げていってしまう鹿の狩猟よりも,群れで生活し移動性の低いラクダ科の動物のほうが狩猟の対象に適していたのです。おとなしい個体が選別され,やがて前2500年頃には,リャマやアルパカといった飼育種が登場します(注3)。

(注1)山本紀夫「植物の栽培化と農耕の誕生」『アメリカ大陸の自然誌3:新大陸文明の盛衰』岩波書店,1993。
(注2)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注3)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。




○前12000年~前3500年のアメリカ  北アメリカ
◆氷床(ひょうしょう)の合間を縫うように,モンゴロイド人種が北アメリカ大陸に到達する
人類は大型哺乳類を追って北米に入る
 地球の温暖化にともない,北極圏の氷床が融けていくのに従い,人類は当時はまだ陸地であったベーリング陸峡(ベーリンジア)をわたってユーラシア大陸【追H24】から現在の北アメリカに到達。この一団をパレオ=インディアン(古インディアン)と呼びます。
 彼らはマンモスやマストドンなどの大型哺乳類を追い,氷床(ひょうしょう)が融けている部分(注1)を通って南へ南へ移動していくことになります。
 
 北アメリカに石器を尖らせてクローヴィス尖頭器(せんとうき)と呼ばれる槍を製作したクローヴィス人が現れるのは,前10000年以降とみられています(注2)。彼らの盛んな狩猟活動が,北米の大型哺乳類の多くを絶滅に至らしめたという説もあります(注3)。 
 もともと北アメリカには馬が分布していましたが,前9000年までには絶滅。気候変動によるものという説もありますが,大型哺乳類の狩猟生活を基盤としていたクローヴィス人は衰退していきます。

 クローヴィス人に代わって,長い角を持つ大型の野生牛を狩るフォルサム人が台頭し,前7000年までには南米のフエゴ岬に到達していたとみられます(注2)。
 フォルサム人はクローヴィス人の文化を継承しつつ,前7500年~前4500年まで中小型動物を狩猟を営みます。

 一方,前9000年には別のモンゴロイド人種のグループが,ベーリング地峡を越えて現在の北アメリカ大陸にわたっています(注3)。

・アラスカからユーラシア大陸に向かって突き出るアリューシャン諸島にわたったグループは,現在のアリュート人の祖。
・極北に分布したグループは,現在のイヌイト(イヌイット;エスキモー)の祖です。

 このように,人類は3~4度に分けて大規模に北アメリカ大陸に進出したことがわかっています。
 初めに進出したクローヴィス人やフォルサム人などのグループの歯の裏側は“シャベル”のような凹型になっているのが特徴で,これは現在のアメリカのインディアンにも連なる特徴ということです。
(注1)ローレンタイド氷床と太平洋岸のコルディエラ氷床の間にできた狭い“通路”があったという説(フィオレンツォ・ファッキーニ,片山 一道訳『人類の起源』同朋社,1993)。この通路(マッケンジー回廊といいます)は存在しなかったという異説もあります。
(注2)クローヴィスというのは,アメリカ合衆国の南部ニューメキシコ州の地名で,ここを拠点とした尖頭器を用いる文化をクローヴィス文化といいます。彼らの活動年代については多説ありますが,前10000年というのが有力です(綾部恒雄・富田虎男(『講座世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 北米』明石書店,2005,p.17)。なお,フォルサムはニューメキシコ州の地名です。なお,ジェレミー・ブラック(同,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14)は,やや早い年代(前11000年)を採用しています。
(注3)こちらも多説あり。


○前12000年~前3500年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカで農耕・牧畜が導入される
 中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。
 太平洋岸に比べて豊かな自然環境を持つユカタン半島のマヤ地域南部の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。

 前8000年にはヒョウタンがすでに栽培されていた痕跡があります(注)。ほかに中央アメリカ原産の栽培植物は,トウガラシ,アボガド,カカオ。南アメリカでも栽培されていたものにカボチャ,インゲンマメがあります。
 「栽培」といっても,まだこの時期には「採集」(自然)と「農耕」(人間の管理)のあいだのようなもの(初期農耕)。
 「トルティーヤ」の生地など,いまや中央アメリカに欠かせないトウモロコシの栽培化も始まりますが,前5000年の時点で実の部分はわずか2.5cmにすぎなかったといわれています。

 中央アメリカ原産の家畜は七面鳥のみ。南アメリカ原産のリャマ,アルパカの原種とみられるラクダ科の動物(ビクーニャやグアナコ)も中央アメリカに進出します。イヌも分布されていて,中央アメリカの犬種はチワワやメキシカン・ヘアレス・ドッグが有名です。

(注)ここで注目すべきは,ヒョウタンはアフリカ原産であるとされるのに,なぜこんなに古い時代の北アメリカで栽培されていたのか?という問いです(しかもアフリカでの栽培化よりも早い!)。
 アフリカからの漂着説もありますが,ヒョウタンのDNA分析によるとアジアの品種に近いとのこと。人類によってベーリング地峡を陸路で移動したのではないかともいわれています。考古学的な証拠の年代を考慮し,船で北アメリカを南下した人類がいたのではと考える研究者さえいます(湯浅浩史「ヒョウタンと古代の海洋移住」,笹川平和財団,https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2013/306_3.html)。


○前12000年~前3500年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカで農耕・牧畜が導入される
 南アメリカ大陸は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
 寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています(注1)。
 中央アメリカ原産の家畜は七面鳥のみ。南アメリカ原産のリャマ,アルパカの原種とみられるラクダ科の動物(ビクーニャやグアナコ)も分布しています(家畜化は前2500年以降(注2))。

(注1) 実松克義『衝撃の古代アマゾン文明』講談社,2004。Jonathan Adamsの研究による。
(注2)増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000。



○前12000年~前3500年の中央アメリカ
 中央アメリカではカリブ海にせり出す格好(かっこう)のユカタン半島(現在のグアテマラ,ベリーズの周辺)やメキシコ高原中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれました。
 この地方の住民はウサギやシカなどの小型の動物を狩猟し,木の実・豆,野生のイネ科種子,トウモロコシ,カボチャ類を採集しつつ,移動生活を送っていました。
 前8000年前後から,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類などの栽培が始まりました(注)。

 トウモロコシ(前5000年に頃にはすでに栽培されていましたが,主食としての収量があがるのは前2000年頃からです),豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。

 家畜はシチメンチョウやイヌくらいで,アンデス地方のようなリャマやアルパカなどのラクダ科の動物はいませんでした。

(注)増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.37。トウモロコシはイネ科の野生植物「テオシンテ」から栽培されたとされています。最古のものは穂軸が1.9ないし2.5センチほどしかなく,実も36ないし72粒ほどしかなかったそうです。ポンティングは,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類のうち早いものは前7000年頃に栽培されていたとし,トウモロコシは前5000年頃にはすでに栽培されていたとします(クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.88。トウガラシも前7000年ころには利用されていました(山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.5)。


○前12000年~前3500年の南アメリカ

アンデス地方
 アンデス地方中央部でも農業が発達していきます。アメリカ大陸における最初の植物栽培に関する考古学的な証拠はペルーの中部山岳地帯の前8000~前7500年頃とされています。トウガラシその頃には利用されています(注)。(注)山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.8。

 ジャガイモも栽培化(正確な年代は不明)され,高山でも育つ作物として重要でした。一般に根菜作物は保存が難しいので蓄積することができず,強大な王権が発展しにくいといわれますが,アンデス山脈から太平洋沿岸にかけたダイナミックな標高差を活かし,各高度の気候・地形に合わせた様々な交易ネットワーク(高い所と低い所の間の交易)を束ねる権力が生まれていったのだと論じる研究者もいます(一方,南北アメリカ大陸では南北間の交易は,ユーラシア大陸に比べると大規模に発展することはありませんでした)(注1)。

 しかし,栽培可能な植物や飼育可能な大型動物の少なさもあって,アメリカで大陸で農耕文明が発達するスピードは,アフリカ大陸やユーラシア大陸に比べるとゆっくりとしたものになっていきました。

アマゾン流域
 南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)では,前5000年にはすでにキャッサバ(マニオク),サツマイモ,カボチャ(注2),クズウコンとおそらくナンキン豆(注3)が栽培されていた可能性があります。
(注1)山本紀夫『国立民族学博物館調査報告 No.117 中央アンデス農耕文化論――とくに高地部を中心として』国立民族学博物館,2014年
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.90


狩猟・漁労・採集が主流の地域も多い
 北極圏周辺ではアザラシなどの狩猟採集生活,太平洋岸では漁労を中心とした生活,南西部の乾燥地帯では遊牧生活,さらにロッキー山脈(北アメリカの太平洋岸近くを南北に走る険しい山脈)の東側に広がるグレートプレーンズという乾燥草原(短い草原が広がる)地帯では,バイソンの狩猟や採集を基盤とした生活が主流でした。
 一方,アルゼンチンの大平原やアマゾン川上流域では狩猟採集民が生活していました。





●前12000年~前3500年のオセアニア

○前12000年~前3500年のオセアニア  オーストラリア

 この時期に人類は,ニューギニア島からソロモン諸島にまで移動していきます。

 ニュージーランドや,南太平洋・東太平洋にあたるポリネシアの大部分には,まだ人類は足を踏み入れていません。

 またこの期間には,ニューギニア島の高地でタロイモやバナナの栽培があったことが確認されています(◆世界文化遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。



○前12000年~前3500年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種のアボリジナルが,引き続き狩猟採集文化を送っています。
 タスマニア島はもともとオーストラリア大陸本土とつながっていましたが,気候の温暖化の影響で前6000年頃に分離。オーストラロイド人種のタスマニア人はオーストラリア本土のアボリジナルとの交流を,まったく失うことになります。




●前12000年~前3500年の中央ユーラシア
◆中央ユーラシアでは牧畜を主体とする文化が営まれるようになる
ウクライナで馬が家畜化される
 前4000年頃には黒海北岸のウクライナの草原地帯の人々が,馬の家畜化に成功したとみられます。ウクライナのドニエプル川下流のデレイフカ遺跡の集落跡で見つかった雄馬の臼歯(きゅうし)の化石が斜めにすり減っていることから,はみ(馬銜)という馬具を噛ませていたと推測されていいます(注1)。
 馬にまたがって載ることも試みられてはいましたが,当時はまだ一般的ではありません(注2)。

 こうして牛・馬・豚・山羊・羊・ラクダなど,ユーラシア大陸の主要な中型の家畜が出揃いました(注3)。

◆前3500年~前200年の寒冷・乾燥期に,中央ユーラシアの住民が南方に民族移動する
 農耕よりも牧畜を主体とした生活が適する地域は,アフリカ東部のサバンナ地帯,西アジアの沙漠地帯,ユーラシア大陸の草原(ステップ)地帯などがありますが,とくにユーラシア大陸に東西8000kmにわたり広がる草原地帯は,前3500年頃から前200年にかけて地球の気候が乾燥・寒冷化。ユーラシア大陸中央部~北部の人々の暮らしに,壊滅的な打撃を与えます。中央ユーラシアの人々は危機的な状況の中で,従来のように狩猟・採集をおこなうのではなく,計画的に家畜を飼育・管理する技法を洗練させていったのです。
 彼らは前3000年紀(前3000~前2001年)にユーラシア大陸各地を南下。これが中央ユーラシアからの民族移動の第一波です。

 一方,ユーラシア大陸北部の針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ(夏の間だけ短期間コケの生える地帯)では,古シベリア諸語を話す人々などが寒冷な気候に適応し,アザラシなどの海獣の狩猟や採集による生活を送っていました。


(注1)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.46。
(注2)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.27。
(注3)家畜の多くは野生種のころと比べ骨格が変化することが多いのですが,馬はあまり変化していないことから「家畜化」の証拠をつかむのは容易ではありません。




●前12000年~前3500年のアジア
○前12000年~前3500年の東北アジア
 新石器時代のユーラシア大陸北部の森林地帯には,南ロシアからモンゴル高原,朝鮮半島までの広い範囲に櫛目文(くしめもん)土器が分布しています。ユーラシア大陸を東西に結ぶ交流があったことを物語ります。



○前12000年~前3500年の東アジア  日本

 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を行っていました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 約前5300年頃に九州南方の鬼界(きかい)カルデラが爆発的な噴火(大量のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火(注))が起こったとされ,この影響で縄文時代の文化は一旦途絶したともされています。
 縄文土器には,ユーラシア大陸で出土する土器とも関連があるのではないかともいわれています(新石器時代のユーラシア大陸各地では,櫛目文(くしめもん)土器という様式の土器がフィンランドから朝鮮半島までの広範囲で出土しています)。
 また,日本列島各地の特徴を持つ土器が縄文時代前期の末期から八丈島(はちじょうじま)からも見つかるようになっています。神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始めていたと考えられています。

 なお,青森県の三内丸山遺跡からはクリの栽培種も見つかっていますが,縄文時代に農耕が行われていたかどうかについては議論が続いています。
 縄文時代早期と前期の境目の時期には,九州南方の鬼界カルデラが大噴火を起こし,日本列島全域に火山灰が降り積もるなどの被害がもたらされました。


 沖縄諸島では,前4600年頃に九州方面から移住した縄文人によって,貝塚文化が栄えました。貝塚文化の栄えた時代を貝塚時代,または縄文時代と呼びます。
(注)「巨大溶岩ドーム 鹿児島沖で確認 世界最大級直径10キロ」,毎日新聞,2018.2.9(https://mainichi.jp/articles/20180210/k00/00m/040/110000c)。橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.55。鬼界カルデラの噴火によって南九州周辺は特に壊滅的被害を受けました。


○前12000年~前3500年のアジア・ヨーロッパ 東アジア

◆中国の黄河流域ではキビ,長江流域では水稲(初めは陸稲)の灌漑農耕が始まる
黄河・長江のみならず複数地域に文明が生まれた

 黄河【本試験H29地図が問われる】流域の人々は前6000年頃にはキビ(黍)などの雑穀の栽培に成功します。
 中国の大地は広く黄土で覆われています。「黄土は肥沃だ」とよく言われますが、黄土自体は別段肥沃というわけではなく、肥料を施すなどの入念な管理が必要です(注)。
 炭水化物源の穀物のほかに,タンパク源の大豆(だいず)の栽培も始まっていました。西アジアとは異なり小麦(導入は前1300年頃),大麦(小麦よりやや後に導入)の野生(やせい)種(しゅ)は自生していませんでした(注1)。
 アワ(粟)などの雑穀(ざっこく)が栽培していました。
 なお中国の神話では,神農(しんのう)という神様が五穀(米・小麦・大麦・粟・豆)の作り方を黄河一帯の人間(漢民族,漢人)に教えたのだとされています。ちなみに茶を発見したのも神農と伝えられます。
(注)歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.8。


 前5000年紀には黄河(こうが,ホアンハー)中流域で彩文土器(さいもんどき,彩陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】【追H19】)を特徴とする仰韶(ヤンシャオ)(ぎょうしょう)文化が発展し,集落も形成されていきました。家畜として犬,鶏,豚【本試験H7ブタが新石器時代に飼われていたか問う】が飼われ,粟【セA H30稲作ではない】などの雑穀(ざっこく)【追H19】が栽培されています。
 黄河の下流域では,前4100年頃~前2600年頃に山東半島を中心に大汶口(だいぶんこう)文化が栄え,これがのちの竜山(ロンシャン)文化(りゅうざんぶんか)につながるとも考えられています。

 黄河流域と同時期の長江(ちょうこう,チャン=チアン)の中・下流域では,稲作【追H27新石器時代か問う】を中心とした集落が出現します。稲の原種はインドのヒマラヤ地方からタイ北部,中国南部にかけての地方に複数のルーツを持つと考えられています。

 現在の長江下流【追H27新石器時代に稲作が行われていたことを問う】,黄シナ海をのぞむ寧波(ニンポー)の近くの河姆(かぼ)渡(と)遺跡(かぼといせき,1973・78年発掘)が発掘されています。
 また、長江上流の四川盆地の三星堆遺跡(さんせいたいいせき、1986年発掘)では,明らかに黄河流域とは違う特徴をもつ青銅器【本試験H19約9000年前にはまだ青銅器時代ははじまっていない】の工芸品が大量に見つかっています。三星堆の縦目仮面には、殷の青銅器との共通性があることも指摘されています(注2)。

 また,朝鮮半島に近い遼河でも,前4500年~前3000年に紅山文化が発展しています。

 このように中国の文化イコール「黄河文明と長江文明」というわけではなく、いくつもの地域の文明が同時並行的に存在し発展していったのです(注3)。

(注1) クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.83
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、pp.89-91。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、p.91。



○前12000年~前3500年の東南アジア
 東南アジアの人々は,大陸部(ユーラシア大陸側の東南アジア)では,狩猟採集生活を送っていました。島しょ部ではオーストロネシア語族の人々が狩猟採集生活や漁労を行っています。
 東南アジアの大陸部には内陸からいくつかの河川が流れています。
 現在のミャンマー(ビルマ)には,イラワジ(エーヤワディー)川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のミャンマーとタイの国境を流れるサルウィン川(怒江)
 現在のタイにはチャオプラヤー川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のラオスからカンボジアを通り,ヴェトナム南部に注ぐメコン川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のヴェトナム北部のハノイに注ぐホン川(紅河)です【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
○前12000年~前3500年の南アジア
 南アジアの新石器文化は,イラン高原からインダス川流域にかけて前7000~前6000年頃に始まりました。人々は日干しレンガで住戸をつくり,大麦,小麦,ナツメ,ナツメヤシを栽培していました。その他の地域の人々は,狩猟採集生活を送っていました。

 前6000年頃にはサトウキビ【本試験H11南北アメリカ原産か問う(原産地はニューギニア島周辺)】が伝わっています。


○前12000年~前3500年の西アジア
 かつては人類初の農耕・牧畜がはじまった場所は,大河流域であったと考えられていました。

 ですから,大河で灌漑農耕をやっていた文明を4つ集めて「四大文明」などと呼んでいたわけです。
 でも実はこの言葉には「日本三景」とか「世界七不思議」のように,べつだん大きな意味があるわけではありません。意味がないどころか,インダス文明のように,そもそも大河の灌漑農耕により強大な指導者が生まれてなどいなかったり,メソアメリカ文明,アンデス文明のようにそもそも大河の灌漑農耕がなくとも文明が生まれていたことがわかってきています。


 しかしながら,そのようなことも念頭に置きながら西アジアの文明をみてみると,それでもやはり歴史は古い。
 前7300年頃には,すでに農耕・牧畜をやっていて,都市を形成したチャタル=ヒュユクというところもあります(注)。
(注)現在のトルコ共和国中南部には,前7300年頃に定住が始まった世界最古級の都市チャタル=ヒュユクが代表的で,密集した都市や女性をかたどった神像など現在でも日本を含む調査団による発掘が進められています(◆世界文化遺産「チャタルヒュユクの新石器時代の遺跡」2012)。

 ではこのチャタル=ヒュユクは大河流域にあるかというと,現在のトルコ共和国の中南部の内陸部の山麓地帯なのです。
 たまたま羊や山羊の野生種にあたる動物が分布していたことや,小麦のご先祖にあたる植物が分布し,適当な降雨もあったことが幸いしました。



前8000年頃に山羊,羊,豚,前6000年頃に牛が家畜化される
人類による動物の飼育と利用が始まった
 前8000年頃にはトルコ東南部に接するシリア北部で山羊(ヤギ),羊,豚が家畜化されました。
 西アジア・南アジアでは前6000年頃には牛が家畜化されました(ヨーロッパが原産で西南アジアに逆輸入されたともいう説もあります(注1))。

 初めのうちは,家畜が大きくなったらすぐに殺して食べていたと考えられますが,途中から肉や皮だけでなく,毛からは繊維をとり糸を紡いで編めば衣服に,糞は畑にまけば肥料に,それに人や荷物も運べますし,犂(すき)をひかせて畑を耕せば強力な動力になることに気づきました。
 なお,乳(ちち)をしぼる技術をはじまったのはヤギからで,ミルク(乳)からはヨーグルトやチーズがつくられました(乳は人類の体質に合わなかったため,利用は少し遅れます)。

 各地域で徐々に農業生産性を上げていった人類は,前1万年頃に1000万人だったのが,前4000年頃には人口が5000万人に増加していたと考えられています。多くの場合狩猟・採集も合わせておこなわれていましたが,多くの人口を養うためには農耕・牧畜が欠かせなくなりました。
 前7000~前6000年の西南アジアの農業人口は主に高地に分布していましたが,その後の人口増加に対応することができなくなり,天水農耕では対応できなくなっていったのです。

 前5500年には現イラン南西部のフーゼスターンで灌漑(かんがい)が始まります(注2)。水路をもうけて,畑に水を注ぐためのシステムです。前5000年から前3000年にかけて導入される地域が増加。
 灌漑の導入直後は多くの収穫が見込めますが,長期に渡り水路を利用するには維持・管理が必要です。集団をまとめあげる組織や管理の必要性から,社会が次第に階層化に向かう一因となります。


前5500年~前4000年 ウバイド文化
 西アジアのティグリス川・ユーフラテス川の下流域では,前5500~前3500年に灌漑農耕を基盤とするウバイド文化が栄え,高い生産性により集落の人口密度が上昇していきました。神殿を中心に宗教(しゅうきょう)組織(そしき)の権威によって余剰生産物が集められ,住民に食料が再分(さいぶん)配(ぱい)される仕組みも整えられていきます。幾何学的な模様を持つ彩文土器が製作されました。

 しかし,前4000年から前3000年にかけ,ユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけてさらに乾燥化が進むと,従来は自然の降水(天水(てんすい))に頼っていた地域でも農耕・牧畜が成立しなくなっていきました。人々は水場を求めて高原地帯から低地に移動し,ますます大規模な河川から取水・貯水する灌漑(かんがい)が必須となっていきます。余剰生産物が増えれば増えるほど,人口密度が飛躍的に高まり,生産物の管理をめぐって社会の階層化が進んでいきます。



前4000年~前3100年 ウルク文化
 ウバイド文化は前4000年頃に崩壊し,担い手がウルク文化に交代します。
 この時期,メソポタミア南部に都市ウルクが建設されました。

 ついに,西アジアに都市文明が生まれたのです。

 都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化する祭祀センター(神殿)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります(注3)。
 豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつくる手工業者が,物質文化を支えました。
 交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設(壁(かべ))や軍隊もつくられていきます。
 農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます。銅,金,銀製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています(注4)。

 このように,都市の経済力や物質文化(=文明)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団が交易を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は,都市=文明の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕が都市=文明の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。





●前12000年~前3500年のアフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


◆アフリカ大陸のサハラ沙漠は現在よりもはるかに湿潤で,草原や森林も分布していた
この時期は「緑のサハラ」で農耕・牧畜も営まれる
 西アフリカでは,サハラ砂漠(現在のアルジェリア)にこの時期の岩絵群が残されています。
 狩猟や牧畜の様子が描かれており,当時のサハラ砂漠一帯が緑に覆われていたことがうかがえます(◆世界複合遺産「タッシリ=ナジェール」,1982。前6000年頃から湿潤化したサハラ砂漠のことを、「緑のサハラ」ともいいます(注1))。

 北アフリカのナイル川流域には,灌漑農耕を営む集落が出現し,前5000年~前4000年の先王朝時代,前4000年~前3500年のナカダ文化Ⅰ期には政治的な統合もすすんでいきます(注2)。

 ヌビア(ナイル川の上流、現スーダン)には前4000年紀に、「Aグループ」と呼ばれる陶器・銅製品をともなう墓が見つかり、エジプトが統一される前4000年紀終わり頃に、その政治権力がピークを迎えます(注3)。

 なお、角(つの)の長い牛は前4000年紀までにニジェールのアイール山地(現ニジェール北西部の山地)まで到達していました(注4)。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.144。
(注2) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注3) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.174。
(注4) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.71, 205。





●前12000年~前3500年のヨーロッパ

◆ヨーロッパでも農耕・牧畜が始まり、狩猟・採集・漁労から少しずつ移行する
農耕・牧畜が伝わり、新石器時代に入る

○前12000年~前3500年のヨーロッパ  地中海沿岸
 農耕・牧畜は,西アジアから地中海東岸(西南アジアと気候があまり変わらないのでスムーズに受け入れられました)・黒海(こっかい)北岸や小アジア(しょうあじあ。アナトリア半島。現在のトルコ共和国のある地域です)からバルカン半島を経由して東ヨーロッパ・南ヨーロッパにも伝わって,前5000年~前4000年には黒海の北岸からウラル山脈に広がります。
 前6000年期には、打製石器に代わって磨製石器が登場し、新石器時代に突入。鎌、石臼などの農具や土器もつくられるようになります。
 前6000年紀(前6000~前5001年)には、地中海沿岸地域で羊の家畜化が始まり、野生の牛・鹿・ウサギの狩猟とともに食料確保の方法として用いられるようになります(注1)。
 前5000年紀(前5000~前4001年)には、牛も飼育されるようになり、飼育地は内陸部から大西洋沿岸部にまで拡大します(注2)。

 地中海沿岸ではオリーヴ,ブドウ,イチジクの栽培も始まります。
 新石器時代のマルタ島とゴゾ島には,巨石神殿の遺跡が残されています(ゴゾ島のジュガンティーヤと,マルタ島の5つの神殿)(世界文化遺産「マルタの巨石神像群」,1980,1992範囲拡大,2005範囲変更)。



○前12000年~前3500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ
 気候が冷涼(れいりょう)で西南アジアと異なり鬱蒼(うっそう)と茂った原生林のある中央ヨーロッパにも農耕が伝わります。
 帯状文様土器を特徴とするにドナウ文化は、焼畑・輪作による定住農耕が特徴で、牛の飼育に優れていました。



○前12000年~前3500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ、西ヨーロッパ
 新石器文化の時期にあたるこの頃の西ヨーロッパでは、巨大な石の構造物を建設する巨石文化が出現します。
 石を建てたものをメンヒル(立石)といいますが、フランスのブルターニュ地方のカルナックには、メンヒル3000本が11列に4kmにわたって連なる大規模な構造物があります。一部の人のお墓に豪華なものがそなえられていることから、富や身分の差があったとみられます。
 これだけのものをつくるには、組織された複雑な農耕社会があったはずです(注3)。

 前4200年~前2000年には、櫛目(くしめ)の模様をほどこした櫛目陶器文化が栄えます(注4)。

 北極圏の周辺では,中石器時代が続き,狩猟採集生活を送る人々が生活しています。
 農業が伝わるのはもっと後のことで、前3000~前2000年に北西ヨーロッパ,さらに1000年遅れることデンマーク,スウェーデン南部に伝わります。作物としてはオート麦やライ麦が栽培されました。
(注1) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注2) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注3) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
(注4) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.9。




●前3500年~前2000年の世界
人類の生態の多様化②
 ユーラシア大陸・アフリカ大陸では,乾燥地帯で灌漑農業が始まり,定住集落が大規模化する(古代文明の成立)。乾燥草原地帯では,牧畜遊動民のエリアが拡大する。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカや南アメリカのアンデスで狩猟採集のほかに農耕・牧畜の導入も始まる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,農耕・牧畜が広い範囲に広まり,経済的な基盤となる。
 経済的資源をコントロールしようとした指導者が,軍事組織と信仰組織とも関係することで,地方では集落が都市に発展して政治的な統一がすすむ。

 内陸部の乾燥草原地帯では,馬を利用した牧畜文化が拡大する。中央ユーラシア西部にはヤムナヤ文化に次いでカタコンブナヤ文化,中部~東部にはアファナシェヴォ文化に次いでアンドロノヴォ文化が栄える。この時期の終わりまでに青銅器を受け入れ,車輪も使用していた。
 

 一方,大河の流域では都市国家群が栄える。
 例えば,前3150年?~前2584年?の間にエジプトでは初期王朝時代を迎え,古王国(前2584?~前2117?)の時代には大規模な記念建造物(ピラミッド)が建設される。
 東アジアでは,黄河流域で竜山文化(前3000年紀)という農耕を基盤とする文化が栄える。モンスーンの影響を受ける湿潤な長江流域にも農耕文化が栄える。
 南アジアでは,インド亜大陸の北西部のインダス川流域にインダス文明(前2500年~前1700年)が栄える。交易ネットワークの中心として栄えた都市国家群であったとみられる。
 西アジアのメソポタミアでは,ウルク期からアッカド帝国の時期にあたり,農耕を基盤とする都市国家群が栄える。

(2) 南北アメリカ
 南北アメリカ大陸では狩猟・採集・漁撈に加えて,中央アメリカや南アジアのアンデス地方で農耕・牧畜も導入される。
 


●前3500年~前2000年のアメリカ

○前3500年~前2000年の北アメリカ
 北アメリカの北極圏周辺には,カリブー(トナカイ)を狩猟する人々が生活しています。


 北極圏よりも南の北アメリカ一帯には,インディアンの諸民族が,各地の気候に合わせて生活をしていました。
 北アメリカ東部には狩猟・採集民,太平洋岸には狩猟・漁労・採集民,南西部の乾燥地帯には狩猟採集民が生活しています。
 前3000年には,北アメリカの中部の大平原地帯の人々は,バイソン(バッファロー)の狩猟文化を生み出しています。バッファローの皮を使ったティーピーという円錐形のテント,同じく皮で作ったモカシン靴という履物,盾や日用品などが,バッファローの骨から作られていました。アルゴンキン人,アサパスカン人,スー人の3つの語族が分布しています。




○前3500年~前2000年の中央アメリカ,カリブ海
◆中央アメリカやカリブ海では狩猟・採集・漁撈による生活が営まれ,農耕・牧畜も導入される
中米では狩猟・採集・漁撈に加え農耕・牧畜も

 前3400年頃には栽培種のトウモロコシが,ようやく5~7cmにまで大きくなっています。でも30cm前後になる現在のトウモロコシに比べると,まだまだです。

 中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。太平洋岸に比べて,豊かな自然環境を持つマヤ地域の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。




○前3500年~前2000年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方に神殿が建設されはじめる
 南アメリカ大陸の太平洋側には,南北にアンデス山脈が走ります(最高峰はアコンカグア山の6961メートル)。
 海岸からほど近いところに大山脈があるために平地が少なく,熱帯雨林気候,乾季のある熱帯気候,乾燥気候など,さまざまな気候がおおむね高度別に分布しているのも特徴です。

 アンデス地方中央部沿岸はすぐれた漁場を有し,海岸付近の人々はカタクチイワシ(アンチョビー)などの漁労にも従事していました。ウミドリの糞であるグアノも,古くから人々に利用されていた痕跡もみつかっています(⇒1870~1920年の南アメリカ 19世紀後半にはペルーを中心に輸出向けの開発が進展することになります)。漁獲量は沿岸の海水温に左右されます。海水温が暖かくなるエル=ニーニョや冷たくなるラ=ニーニャ現象と呼ばれ,この付近にとどまらぬ地球規模の海流や気圧の変動メカニズムによるものとされています。

 沿岸部を流れる海流は南極方面から北上する寒流であるため,沿岸部には乾燥した偏西風が吹きつける影響で,沙漠気候となります。
 沿岸部の気候と高山部の気候にはズレがありますから,高山部で降った雨が川となって沙漠に恵みをもたらします。また,沿岸部や山の斜面に発生する霧(ロマスと呼ばれます)も,野生の動植物の繁殖を助けます。
 海産物は基本的に季節に左右されませんから,人々はまず沿岸に定住して,カニとか貝などの海産物を漁撈・採集しました。
 やがて,山地で開発されていた農耕技術を,平地の河川地域に適応しようとする人々がやってきて,生態をこえた密接なつながりが形成されていくことになります(注1)。

ペルー沿岸
 こんなプロセスをたどって,前2500年頃以降,アンデス中央部の山地~沿岸部に公共建造物が出現します。
 公共建造物は,なんらかの「正義」を表現することで,人々を巻き込んで動かそうとした勢力によって建てられるものです。ですから,公共建造物が出現したということは,ある程度,食べ物が安定して獲得・生産されるようになって,その備蓄・分配・生産をコントロールしようとする人々が出現していたことの現れともいえます。
 現在のペルーの太平洋岸近くのカラル=スペ(◆世界文化遺産「聖都カラル=スーペ」,2009)からは,前3000~前1800年頃までの都市遺跡が残されています。広場とともに基壇(ピラミッド)状の構造物があって,農産物だけではなく海産物も発見されています。すでに情報伝達手段である組紐(くみひも)のキープがみつかっています。
 現在のペルーの北部山地のコトシュでは「コトシュ宗教伝統」と呼ばれる神殿遺跡がみつかっています。ここでは神殿が建てられては壊され,また建てられては壊されるという「神殿更新」の形跡がみとめられています。同様の習慣は日本の伊勢神宮(三重県)で20年毎に営まれる「式年遷宮」(しきねんせんぐう)にもみられますね。立て直しのたびに労力や物資が必要になりますから,次第に神殿が大規模になるに従い,その刺激を受けて生産規模・集落規模も拡大していったとみられています。


アマゾン川流域
 南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)の熱帯雨林地帯には,狩猟・採集民が分布しています。前2000年にはすでに小規模な農村がつくられていました(注2)。主食はマニオク(キャッサバ)の根っこです。
 乾季をもつ熱帯(サバナ気候)や,現在のアルゼンチンに広がる乾燥地帯の草原でも,狩猟民が生活をしていました。
(注1)関雄二「アンデス文明概説」, 増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。





●前3500年~前2000年のオセアニア

○前3500年~前2000年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
◆オーストロネシア語族が台湾から東南アジアに向けて移動を開始し,ラピタ文化を生み出す
オーストロネシア語族が台湾からオセアニアに南下へ

 前4000年頃に台湾から南に移動を開始したオーストロネシア語族の人々(人種的にはモンゴロイド人種)は,東南アジア方面に向けて前1500年頃までに島伝いに移動をしていきました。

 前3000年頃にフィリピンからインドネシア方面に東西二手に分かれて南下し,前2000年頃にさらに東西に分かれ,東に向かった集団はニューギニア島北岸からビスマルク諸島に進んでいきました。

 彼らは船の航行にすぐれ,犬・豚・鶏を家畜とし,漁労を営み黒曜石(こくようせき)を扱い,ラピタ土器(幾何学的模様をもつ丸みを帯びた土器)を製作しました。これをラピタ文化といいます。



○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前3500年~前2000年の中央ユーラシア
◆牧畜の文化は,ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)の方面に広がる
ユーラシアが牧畜エリアと農耕エリアに分かれる

 前4000年頃には,人類ではじめてウクライナの乾燥草原(ステップ)地帯で馬が家畜化されていました。定住生活を営む集団が主で,農業と牧畜を組み合わせた生活もしていたようです。

 この生活様式は前3000年紀末に気候が寒冷化・乾燥化するに従い(注),ユーラシア,ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)を通って東方に広がっていきました。
(注)植生については時代による変化もあることに注意が必要です。例えば黒海に注ぐドン川流域では7000年紀~3000年紀まで森林が広がっていましたが,前2200年~前2000年にかけて森林が交替し,乾燥草原となります(甲元眞之「気候変動と考古学」『文学部論叢』97,2008年,p.1~p.52(http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf))。




西のヤムナ文化,東のアファナシェヴォ文化
 まず,ウクライナからドン川とヴォルガ川流域に広がる中央ユーラシア西部をみてみましょう。
 前3600年頃~前2200年頃に,竪穴墓(ヤームナヤ;ヤムナ)文化が,黒海北岸からカスピ海北岸にかけて栄えます。
 銅製品を製作する銅器時代(金石併用時代)にあたります。
 すでに車輪が製作されていて,牛車が使用されていました。文化的には


 一方,中央ユーラシア中部~東部のカザフ=ステップ方面の文化をアファナシェヴォ文化といいます。前3500年頃から前2500年頃に栄えました。
 牧畜のほかに狩猟もおこなわれていて,銅器時代から青銅器時代にかけての文化にあたります。

 これらの文化は,先行する同地域の文化も含めてクルガン(高い塚(墳丘)という意味)文化とも呼ばれ,ユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいますが,論争に決着はついていません。

 クルガン文化の担い手の一部は,前3000年紀にはバルカン半島に広がっていたとみられます。


◆気候の寒冷化・乾燥化にともない,青銅器を受け入れた遊牧文化が変化する
西のカタコンブナヤ文化,東のアンドロノヴォ文化
 前2600年頃から前2000年頃まで,黒海北岸では地下式墳穴(カタコンブナヤ)文化が発達し,前2000年頃には南シベリアから中央アジアのカザフ草原にかけ,青銅器文化であるアンドロノヴォ文化が発展します。
 この東西2つの文化圏では,馬の引くことのできるスポークを付けた車輪や,馬具が発見されています。アンドロノヴォ文化の担い手は,のちにユーラシア大陸西部~中部に拡散していったインド=ヨーロッパ語族のうちインドやイラン系の人々につながるのではないかという説もありますが,詳細は不明です。

 前2000年頃になると,アンドロノヴォ文化の特徴と似ている青銅器が,東アジアの草原地帯(モンゴル)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられています。

 アム川やシル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕を行う,定住集落が見られました。しかし前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する民族(インド=ヨーロッパ語族)が南下を初め,衰退することになります。





●前3500年~前2000年のアジア

○前3500年~前2000年のアジア  東アジア
・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が八丈島(はちじょうじま)からも見つかり,神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大していたと考えられています(注)。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。


・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現③中国

 前3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】)を特徴とする竜山文化(りゅうざん,ロンシャン) 【追H25ドンソン文化とのひっかけ】が栄えました。竜山というのは,1930年にはじめて遺跡の見つかった竜山鎮にちなみます。
 前5000年紀の仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化に比べると,集落の内部の階層化が進む例が多く見られるようになります(注)。日用品としては灰陶が用いられましたが、初期的な青銅器も見つかっています。都市が出現するのもこの頃で,山東省の城子崖遺跡(じょうしがい)のように城壁で囲まれた集落が見つかっています。
 この頃になると土器づくりには,ロクロが使われるようになります。土をのせた台座をくるくる回しながら,指の微妙な加減によって形をつくっていくこの作業には,熟練のわざが必要です。山東省の丁公遺跡の陶器のかけらに,11個の符号が書かれているものが発見されていて,文字ではないかという説もあります。
 人々は麻から繊維をとって服にしていましたが,前2700年頃からカイコガの幼虫(蚕(かいこ))のサナギの繭を煮詰めて生糸にし,よりあわせて太くした絹糸から絹布(シルク)を製作するようになっていたようです。

 前2500年~前2000年の気候変動を受け,社会の構造がだんだんと複雑化。この時期の遺跡から武器や傷跡のある人骨,城壁や巨大な墓が見つかっており,政治権力が強大化していったとみられます。黄河の中・下流域の竜山文化は,やがて二里頭文化(にりとうぶんか)に発展していったのではないかという説もあります。

 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられます。
(注) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.74。



○前3500年~前2000年のアジア 東南アジア
 前3000年頃から,大陸からモンゴロイド人種が台湾からフィリピン経由で東南アジアの島しょ部に移動したと考えられています。
 彼らによって東南アジアは土器と磨製石器を持つ,新石器文化に移行しました。彼らの語族(人類を言語により分類した集団のこと)は,オーストロネシア語族(マレー=ポリネシア語族ともいいます)です。彼らはおそらくイモやバナナを食料としており,前2000年頃から,稲作水耕が始まります。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。



◯前3500年~前2000年のアジア  南アジア
◆インダス文明は大河と権力が結びついた文明ではなく,交易ネットワークにより発展した都市群
インダス川流域に交易ネットワークが発達する
 前2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では,インダス文明【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】【本試験H17ヴァルナ制は発展していない】が発展します。

 インダス川流域は,沙漠や乾燥草原が分布する乾燥地帯。代表的な遺跡モエンジョ=ダーロの年降水量はなんと100mm程度です(注1)。
 彼らは西方の西アジアの文明の影響を受けて青銅器を製作しています。
 完全に残っている遺跡が少ないことと,文字が未解読であることから,詳細はわかっていませんが,現在南インドに分布するタミル語【本試験H23ウルドゥー語ではない,本試験H24ヒンディー語,アッカド語ではない】などのドラヴィダ系の言語を話す人々(ドラヴィダ人) 【追H9アーリヤ人ではない】が担い手であったとみられます。

 従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア,黄河の文明と同一視し「四大文明」の一つに数えることが普通でした。
 しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない(注2)ことや,遺跡の地域差 (インダス川流域の上流部にある都市遺跡ハラッパー【本試験H2,本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H30地図】と下流域のモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ) 【追H26インダス川流域か問う】【本試験H17,本試験H20ガンジス流域ではない】(注3)(世界文化遺産,1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。

 未解読【本試験H15,本試験H24解読されていない】のインダス文字【追H28】【本試験H15,本試験H21図版】は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろうコブ牛の像などとともに,四角形の印章(いんしょう)【追H28】に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。
 インダス文字の印章は,数は少ないもののメソポタミアでも見つかっており,代わりにインドでもメソポタミアの印章や,丸型のペルシアの印象(注4)も見つかっていることから,域外の世界との間に相互に活発な交易があったことが認められます。
 当時は,季節風(モンスーン)【本試験H30】を用いた貿易はまだ発達しておらず,沿岸を伝ってペルシア湾沿岸部の港町まで船で行き来していたとみられます。インダス文明の遺跡は,当時の海岸線(現在よりも2メートル海水面が高かった)に沿って分布しており,香辛料,綿織物,象牙,宝石が輸出され,かわりに鉱物や穀物が輸入されていたと推定されます(注5)。
 輸出品や生活物資は船や牛車によりインド各地から遊牧民によって輸送されました(注6)。インダス文字は域内の異なる文化圏の人々のコミュニケーションとしても役立ったと考えられます。冬小麦が中心のインダス川周辺の人々は,モンスーンの降雨に恵まれ小麦の夏作が中心のガンジス川周辺の人々と,異なる生態を超えた交流を持っていたのです。
南アジアは現在でも多様性がきわめて高い地域ですが,そのような共存の発祥が,インダスの交易ネットワークのあり方から浮かび上がります(注7)。

 インダス文明は前2000年から衰退を始めます。
 古くに唱えられていた「アーリヤ人進出説」は,インダス文明を単一の王権と考えたことによる誤りです。
・インダス川のほかに存在したもう一つの大河であるサラスヴァティー川が消滅した
・気候が変動した
・界面が変動しメソポタミアとの貿易が停止した
 このような自然の変化にインダス川周辺の大都市群が衰退した原因を求める説もありますが,「1つだけでは無理がある」(注8)と考えられています。有力なシナリオは,衰退にあたる時期にモンスーンの活動が強化され,インダス川周辺で洪水が多発。これに悩まされていた人々が,東部のガンジス川流域に移動したというものです(注9)。

 なお,インド南部からスリランカにかけて,皮膚の色の濃いオーストラロイド人種に属するとみられるヴェッドイドと呼ばれる人種も分布しています。彼らはユーラシア大陸から南ルートをとったホモ=サピエンスの子孫とみられ,オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ) 【本試験H27】と同型とみられます。
(注1)降水量,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.421。
(注2)記念建築物なし。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.412。
(注3) モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市【追H9】で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場【本試験H17】もあります。土器をつくるのにロクロが作られ,木綿の布を織って衣服にしていました。
 ここに「穀物倉」が存在したという〈ウィーラー〉の説(M.ウィーラー『インダス文明の流れ』創元社,1971)は,現在では否定されています。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.405。
(注4)丸型,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注5)2m,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注6)長田俊樹『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』京都大学学術出版会,2003,p.274。
(注7)悪弊として指摘されるカースト制度にも,元来は,異なる生態を送る人々が「お互いを支えながら共存するための社会システム」という側面がありました。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.418,p.420。
(注8)長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.410,p.421。
(注9)サラスヴァティー川は,インダス文明の時代には大河ではなかったとする説もあります。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.129,p.422。乾燥地帯で洪水が起こるのかと思われるかもしれませんが,2010年7~8月に現在のパキスタンを史上最悪のモンスーンに起因する洪水が襲い,1984年に死者を出しています(防災研究フォーラム「2010年7月末からのパキスタン洪水災害」,2011,http://whrm-kamoto.com/assets/files/Indus%20Flood%20in%20Pakistan%202010%20in%20Japanese.pdf)。


○前3500年~前2000年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

灌漑農耕が余剰生産物を生み、都市が出現する
 西アジアのメソポタミア地方(ペルシア湾に注ぐティグリス川とユーフラテス川に囲まれた低地)の下流域には,前5500年~前3500年の間に灌漑農耕を特色とする集落が出現しました。
 狩猟・採集から本格的に農耕・牧畜を中心とする生活様式に転換していくと,余剰生産物(食べずにとっておくことのできる収穫物)が残せる余裕も出ていきます。

 以前から場所によっては狩猟・採集や初期的な農耕に頼りながら定住生活を営むことも可能だったわけですが,この時期のメソポタミア地方には,内部に農耕に従事しない階層を含む大規模化な定住集落(=都市)も現れるようになっていきます(注1)。
 こうしていくつもの都市が出現し,支配層の組織が複雑化して国家が成立していったのです。王号を表す粘土板に書かれた文字がみられることから,王権の存在が確認できます。このような国家は,広大な領域を支配する現代の国家とは異なり都市国家といいます。


ヒトコブラクダの家畜化により、遊牧民が出現する
 なお、野生のヒトコブラクダが家畜化されたのは、前3000年紀のアラビア半島においてだったと考えられています。当初は乳や肉の食用目的で、運搬・移動目的ではありませんでしたが、ラクダ遊牧の成立により、羊・山羊では踏み込めない砂漠地帯での生活が可能となりました。
(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.4。
(注2) 灌漑農耕の普及にともなう大規模な定住集落(=都市)の誕生に注目し,この現象を「都市革命」という研究者もいます。しかし,「定住農耕」→「都市=文明の誕生」という図式が,他地域にも当てはまるパターンというわけではありません。


 メソポタミア地方を中心とする考古学的な区分に従って、西アジアの様子を確認していきましょう。

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前4000年~前3100年 ウルク文化
 メソポタミアでは,ユーフラテス川【京都H22[2]】下流域(注1)の都市ウルクに代表されるウルク文化が,都市文明を生み出していました。担い手は民族系統不明のシュメール人【追H28ウルを建てたのはアッカド人ではない】【本試験H2ウルを建てたか問う・ゼロの観念や10進法を発達させたか問う,本試験H6】です(注2)。
(注1) 通説では当時の海岸線は現在よりも内陸の方にありました。この地域の河川は長い時間をかけて上流から土砂を運び,しだいに下流に土砂が積もっていくことで,海岸線が海の方に移動していったわけです。ただし、メソポタミア史の前川和也は海岸線が現在とあまり変わらない位置にあったという説も紹介しています(前川和也「古代メソポタミアとシリア・パレスティナ」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年)。たとえ海岸線が現在よりもペルシア湾側にあったとしても、下流付近には沼沢地がひろがっていたので海上交易は可能であったと考えられます。
(注2) 「スメル」のほうが言語に近い(小林登志子『シュメル―人類最古の文明』中公新書、2005年)。



 都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化する祭祀センター(神殿)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります(注3)。
 豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつくる手工業者が,物質文化を支えました。
 交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設(壁(かべ))や軍隊もつくられていきます。
 農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます。銅,金,銀製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています(注4)。

 このように,都市の経済力や物質文化(=文明)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団が交易を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。

(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は,都市=文明の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕が都市=文明の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。



 都市ウルクは現在のバグダードの南240kmに位置し,王が都市の神をまつり政治と軍事の実権をにぎって人々を支配するしくみを編み出しましていました。
 「シュメールの都市支配者や王に課せられた義務は,外からの攻撃に対する防衛と,支配領域内の豊穣と平安を確たるものにすること」であり,王の正統性の源は,都市や神殿にかかわる人々の生命・財産の安全保障にありました(注1)。前3500年の人口は約1万人,前2000年の人口は8万人とも推定される当時世界最大の都市です。

 ジッグラト(聖塔) 【追H25王墓ではない・古代メソポタミアか問う(「聖塔ジッグラト」の表記),H30メンフィスに建てられていない】と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れるバベルの塔のモデルではないかともいわれています。
 神殿には都市の守り神(守護神)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易(注2)が行われたと考えられています【本試験H12「シュメール人の都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】。古代メソポタミアでは各人に個人の守護神があると信じられていて,王にもその守護神がありました(注3)。
 ほかに,キシュやウル【追H28アッカド人の都市ではない】【本試験H2シュメール人の都市か問う】【本試験H16シュメール人が建設したか問う】という都市国家も,シュメール人によって建設されました。


(注1) 前田徹『メソポタミアの王・神・世界観――シュメールの王権観』山川出版社,2003年,p90
(注2) 例えば,古代メソポタミアでは租税・貢納品・戦利品を集中させた王およびそれと結んだ集団に権力が集中し,遠隔地交易の発注者となっていきました。例えばアッカドのナラームスィーン[ナラムシン]〔B.C.2155?~B.C.2119?,アッカド王国の王〕は諸国の富を潤沢に集めたといいます。しかしその後のメソポタミアの歴史をみると,遠隔地交易を管理しようとする宮廷により委託受けた商人だけでなく,利益動機にもとづき私経済を回そうとする商人たちも登場するようになります。商人の中には収益を事実上の租税として神殿に納める者もいたようです(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,pp.38-39,pp.64-68)。「広汎な商業に資金を提供し,倉庫に大量の品物を貯え,宮廷付属の工場で輸入原料を加工させたり,あるいは輸出用の品物を作らせたりする――これに必要な資力と能力は,実に宮廷こそが手にしていた。こうして王室経済は次第に交換目当てに行なわれるようになった生産の中心であり,商品経済,貨幣経済はその市場圏内で強力に飛躍した。私的商人たちにとってもこの発展は有利であった。とくに宮廷と結んで,少なくとも取引の一部分を宮廷から委託されたときには,かれらも利益を得ることができた。…」。このような商人を王が管理下に置き,法典により社会秩序を築こうとしたのは,彼らが貸付業・高利貸し業に進出し,労働者と兵士としての価値がある小生産者たちを没落させてしまうことを恐れたからであった。(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,p.238,pp110-111)。
(注3) 歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.9。




◆前3000年前後に、シュメール人は「文字」を発明した
会計記録を表現するための表記が文字に発展した
 シュメール人【共通一次 平1】【追H30】は,粘土板(ねんどばん)(クレイ=タブレット) 【追H28】【本試験H15】【本試験H8】に楔形(くさびがた)文字(もじ)【東京H23[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満洲文字,西夏文字との写真判別,平1:創始がシュメール人か問う】【本試験H15】【本試験H8】【追H28、H30】を記録しました。大きな川が上流から運んだ土砂が,粘土板の材料です。

 初めは絵文字(象形文字)でしたが,のちに表音文字(音をあらわす)としても使われるようになりました。粘土板は乾燥するとカチンコチンになるおかげで,われわれは彼らの記録を読むことができるのです。彼らの信仰したさまざまな神の存在も,それら文字史料からわかりますが,記録のほとんどは神殿に蓄えられた収穫物や家畜の数などを表した会計簿です。

 記録は,専門家(書記(しょき))が行いました。完全な文字体系がシュメール全土に普及するのは前2500年頃のことです。(注1)。
 楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた】(注2)。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.5。
(注2) 古拙文字は,それに先行するブッラとトークンから発達します。以下にその詳細を説明します。
 古拙文字のうち最古のものは前3000年~前2900年頃にウルクでドイツの調査隊により1928~1931年に発見された約800枚のウルク古拙(っこせつ)文書。その後の発見により,断片も含めると3000枚。古拙文字(絵文字)の数は1000,うち200の表語文字が楔形文字の原形となります。ほとんどが会計簿で,シュメール語かどうかは意見がわかれます。
 その後1970年代以降にアメリカ人考古学者が,古拙文字に先行する段階の「表現方法」を発見しました。物資や家畜を管理するためのブッラやトークンと呼ばれるものです。ブッラとは内部が空洞の土でできた球体のことで,中にトークンという穀物や家畜の種類を示す物体を入れ,外側にスタンプ(印章)を渡すことで,物資・家畜の取引・契約の証拠としました。のちに,穀物や家畜の種類を示す印はブッラの外側に押され,またとがった筆で刻むようになると,それがやがてウルク古拙文字(楔形文字)に発達していったのではないかと考えられています(歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,pp.4-5)。
 このように、計算を記述するために文字が発生(前3100年のウルク4a層の会計担当者が最初の文字を発明)し、そこから絵文字や表音文字に前3100年~前3000前の間に発展していったという説は、デニス シュマント・ベッセラ『文字はこうして生まれた』岩波新書、2008年、p.115,123を参照してください。




 また,六十進法【本試験H2 10進法ではない】で数値を記録し,1週間を7日とするなど,現代にも影響をのこしています。六十という数字が選ばれたのは,それが11個もの約数を持っているため,分割に便利だからでしょう。また,農耕に使用するために,また,19年に7回閏月(うるうづき)をおく太陰太陽暦 (月の満ち欠けによる1年354日の暦を,1年365日となるように修正したもの)が用いられていました。暦の作成のために天体の動きが研究されて,バビロン第一王朝の頃から始まる占星術(せんせいじゅつ。人間界の出来事を天体の運行により説明・予言する技術)へと発展しました【本試験H2また,シュメール人はゼロの観念を発見していない】。


 文字が使われるようになったことで,人類はその短い一生を越えて,その知恵や知識を口伝えよりも確かな形で後世にのこすことができるようになりました。また,先人の成功に学び,他人の失敗を教訓とすることができるようになり,何から何までゼロから考える必要がなくなりました。
 取引する品物が未開封であることを証明するために,円筒印章なるものが発明されました。開封部分に粘土を貼り付けて,そこに楔形文字や図の彫られた筒型のハンコをゴロゴロと転がします。乾燥気候のメソポタミアでは,すぐに乾いてカチコチになる。その商品を受取るべき人以外が開けると,バレてしまうというわけです。

 また,ウルクでは『ギルガメシュ叙事詩』【本試験H30】という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。なお,叙事詩の中には現在のバーレーンが産地であった真珠(アコヤガイ)採りを思わせる部分が含まれています(注1)。当時から真珠はシュメール人らの交易品の一つでした。
 ウルクのシュメール人の都市文明は「メソポタミア南部」という地域を越え,交易ネットワークを確立していたという説があります。
 ・イランのペルシア湾岸のエラムに植民
 ・ティグリス,ユーフラテス川の上流を開発
 ・シリアやアナトリア半島(現在のトルコ共和国)に植民
 ・北メソポタミアや南西イランを拠点に,各地の物産の輸送ルートを確保
 このような順序でネットワークを形成していったのだというものです(注2)。
(注1) 『旧約聖書』によるとこのとき〈ノア〉は「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつを載せました(「創世記」7:3)。
(注2) 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.48。
(注3) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32~p.33。




前3100~前2800年 ジェムデト=ナスル期
 しかしウルクの交易ネットワークは前3100年に崩壊。
 前3100年からは別のシュメール人の担い手による装飾的な土器を特徴とするジェムデト=ナスル期となります。
 これと連動して,ウルクの交易ネットワークに組み込まれていたイラン高原の人々が,自分たち主導の物流を確保しようとしていきました。これを原エラム文明といいます(注1)。
 彼らはアフガニスタンでとれる宝石ラピスラズリを,イラン高原の沙漠や乾燥草原の都市を結んでメソポタミア東方のスーサ〔スサ〕にまで輸送し,ここで食糧や工芸品と交換しました。
 この物流の流れを,後藤健は次のように表現しています。

 「イラン高原の交易ネットワークを経てスーサに集められた物資を,適正価格で買い取ることは初期のメソポタミア文明にとってどうしても必要な活動だった。また,その対価であるメソポタミアの農産物を得ることは,世界有数の乾燥地が中心に位置するイラン高原にとっては,どうしても必要な活動だった。
 二つの隣接地は,自然環境の違いから,都合よく相互補完の関係にあり,資源の交換は両者にとって宿命であった。」(注2)

 後藤が「宿命」と表現したこの関係を打破しようと,原エラム文明はインダス文明に接近。さらにペルシア湾岸のオマーンに移住して,銅鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは,ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。

(注1) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注2) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.67。





前2800~前2350年 初期王朝時代(注1)
 さらに担い手が代わって,彩文装飾土器が増えるシュメル初期王朝時代に入ります。
 この時代のことがどうしてわかるかというと,各都市の伝承をもとにした王の名前の記録(「シュメール王名表」)が残されているからです。
(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』によれば,前2900年~前2335年。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.7。「洪水」をはさんで2つのパートに分かれており,後半部にウルク第一王朝,ウル第一王朝が現れる。「王朝」といっても,一時期に1つの王朝がバビロニアを支配していたわけではなく,複数の王が併存していたと考えられます。


 前24世紀頃にはウルクの〈エンシャクシュアンナ〉王(紀元前24世紀頃)が都市国家キシュを滅ぼし,都市国家の枠を越えた称号である「国土の王」を名乗りました。
 ラガシュでは前24世紀前半に最後の王〈ウルカギナ〉が即位一年後に,王位を奪った〈ルガルアンダ〉時代の悪行を糾弾し,減税や奪われた土地を弱者に返すなどの改革をしたことが史料から明らかになっています(注1)。この時代にはすでにそのような社会改革がおこなわれていたことがわかるわけです。
 また,初め都市国家ウンマを拠点としていた〈ルガルザゲシ〉王(位前2375頃~2350頃(注2))は,隣接都市のウルクに拠点を移してシュメール人の諸都市国家を統一しました。



アッカド人の帝国
 しかしそんな中,乾燥化の影響からメソポタミアにはアラビア半島からアフロ=アジア語族セム語派の人々が移動してくるようになります。
 ウルクを含むシュメール人の都市国家は,前24世紀後半に〈サルゴン〉(位前2334~前2279) 【立教文H28記】を王とするアフロ=アジア語族セム語派【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】【本試験H29インド=ヨーロッパ語系ではない】のアッカド人【京都H22[2]】によって滅ぼされます。
 「滅ぼす」というのは,史料の中では「町を征服し,城壁を破壊した」というように表現されます。支配というのはこの時代にはすなわち「都市の支配」であったのです。

 その支配領域はメソポタミアからシリアに及びましたが,首都アッカドの位置はわかっていません。広範囲を支配した〈サルゴン〉は「全土の王」を名乗りました。

 その後の第4代〈ナラム=シン〉は現代のオマーンにまで遠征し,地中海(「上の海」)からペルシア湾(「下の海」(注3))に至るまでの最大領域を実現。「四方世界の王」を称して,最高神エンリルの権威を利用し自らを「アッカドの神」(注4)と称して王の神格化を図りました。

 アッカド人が支配権を持ち,都市国家マリとエラムも屈服。一方,ウルクに滅ぼされていたキシュ市を復興させ,かつての住民を保護しました(注5)。交易も盛んで,南アジアのインダス文明(⇒前3500~前2000の南アジア)の産品(インダス文字の刻まれた印章)も発見されています。

 アッカド人の王朝は前23年紀後半に滅亡しました。〈ナラム=シン〉の後継の王も,自身を神格化するようなことはありませんでした(注6)。
 その原因は,23世紀中頃の大干ばつや塩害(注7)であるという説もあります。都市に定住するようになったヒトにとっての最大のネックは,不作による飢えです。同じところに長く住み続けるわけですから,食料が安定的に得られるうちは人口も増えますし,環境破壊も進行します。灌漑農業にもリスクはあって,土地に水を注ぎすぎると,地下水位が上昇してしまい,水が地下にしみこむ前に蒸発し,地中に塩分が残されてしまいます。これにより農業に影響が出る塩害がおきることもしばしばでした。前20世紀頃にかけ,シュメールの土地はますます農業に不適となり,衰退の一途を辿っていきます。

 アッカド人の王朝には,西方のシリア方面からセム語派のアムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱しますが,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000) 【立教文H28記】を始めました。これはシュメール人最後の王朝で,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行いました。

 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方のエラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.12。〈ウルギカナ〉の改革碑文はフランスのルーブル美術館にある。
(注2) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典。
(注3) 「上の海」と「下の海」というのはあくまで慣用句であり,実際の支配領域と一致するとは限りません。歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注4) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.15。
(注5) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注6) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.16。
(注7) 塩害とは、灌漑農耕をしているときに排水不足で起きる現象。高温のため水分が蒸発し、土壌中の炭酸カルシウムと水が反応し水酸化カルシウムという塩が土壌を覆ってしまうものです。
 なおメソポタミア史の前川和也によると、ヘロドトスが『歴史』で収穫量は平均して播種量の200倍、最大で300倍と述べたのは誇張で、ラガシュの初期王朝末期(前24世紀中頃)で76.1倍、ウル第3王朝(前22~前21)で30倍というように収穫量は逓減していったと試算されます(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.5)。逆に、毎年定期的に氾濫が起きていたナイル川では、地力維持と塩害防止が可能となりました(鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.35)。





●前3500年~前2000年のアフリカ


○前1200年~前800年のアフリカ  東アフリカ・南アフリカ・中央アフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 現在のナイジェリア東部からカメルーンにかけての地域に,現在ではサハラ沙漠以南のアフリカに広範囲に分布するバントゥー語の起源となる言語を話す人々が分布していたとみられます。



○前3500年~前2000年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 前4000年頃から前3000年頃のアフリカ大陸からユーラシア大陸の気候は,乾燥化が進みました。
 現在のサハラ砂漠の湿潤状態(緑のサハラ)は、前3000年には乾燥化により終りを迎えます。
 それとともに、砂漠の一部住民がオアシスなどを求め南下した形跡が残されています。人々は草原地帯からナイル川沿岸やチャド湖などに移住。
 西アフリカで時や挽臼が見つかっていますが、野生穀物の最終とも考えられるため、農耕の始まりであるかはわかりません(注1)。
 

 この気候変動によって,家畜や人類が感染すると「眠り病」という死に至る病原体を媒介するツェツェバエという蝿の生息範囲が変わったことも,サハラの人々の南下に関わっているとみられます。
 前4000年紀までにはニジェールのアイール山地まで到達していた牛も、乾燥化のために南下していきました(注2)。
 なお,地中海沿岸からサハラ沙漠を超えるルートは,紀元前後まではほとんど拓(ひら)かれていません。この期間には,水を採取するための地下水路フォガラがサハラ沙漠に現れます。

 サハラ沙漠を流れるニジェール川下流の熱帯雨林地帯では,前3000~前2000年にかけてヤムイモ,アブラヤシ,コーヒー(【本試験H11】原産地はアメリカ大陸ではない),ヒョウタンなどの植物が栽培されるようになりました。サハラ沙漠の先住民はベルベル人で,現在は地中海沿岸のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア(いわゆるマグリブ諸国(注3))に多く分布しています。
 山岳地帯にはベルベル系のトゥアレグ人が分布しています。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145。
(注2) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145。
(注3) この地方が「マグリブ」と呼ばれるようになるのは,アラブ人の大征服によってイスラーム教が広められて以降のことです。





○前3500年~前2000年のアフリカ  北アフリカ

ナイル川上流のヌビア
 ナイル川をさかのぼっていくと,6か所の急流があり,そこを船で乗り越えて航行することができません。ナイル川の第2急流よりも上流地域をヌビアといいます。ヌブ(金)が取れる地ということで,のちにローマ人がそう呼んだのです。

 下流にエジプトに第1王朝(前3100年?~前2890年?)が成立していたころ,ネグロイド(黒色)人種のヌビア人により第3急流のすぐ南のケリーマを都に王国が現れました(ケリーマ王国)。
 
 その後、ナイル川下流のエジプトが中王国時代(前2040年?~前18世紀)に南下を始めるとエジプトの勢力は第二瀑布にまでやって来て、金採掘をめぐる争いも起き,ヌビアの勢力はいったん衰えました(注1)。
(注1) 中王国の時代に、ヌビアに関する記録が初めてエジプトの文献に言及されます。宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.174。



ナイル川下流のエジプト

 ナイル川の第1急流(アスワン)よりも下流の地域のことをエジプトといいます。住民はアフロ=アジア語族の古代エジプト語を話していました(アフロ=アジア語族は,セム語派を含む語族です。古くは古代エジプトの言語は“ハム語派”に分類されていましたが,キリスト教の価値観の影響を受けた分類法で実態を反映したものと言えず,現在では用いられていません)。

 「エジプトはナイルのたまもの」【追H26】【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】という言葉があります(ギリシア人の歴史家〈ヘロドトス〉(前485?~前420?)によるもの) 【追H17、H26】【東京H22[3]】【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】【本試験H31】【慶文H30】【同志社H30記】(注1)。

 「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物(たまもの)ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。……エジプトという国の地勢を一言でいえばこうである―先ず海路エジプトに近づき、陸地からなお1日の航程の距離をおいて測鉛をおろしてみると、泥土が上ってきて、水深は11オルギュイアであることが判る。これによって沖積土が実にこのあたりまで及んでいることが知られるのである」(ヘロドトス『歴史』より)(注2)

 定期的な氾濫が,上流から栄養分をたっぷり含む土(ナイル=シルト)を運んだことを表したものです。土は流域の窪地(くぼち,ベイスン)に溜まり,定期的に増減水してくれるため塩害も起きにくく,その窪地が耕作地に利用されました(ベイスン灌漑)(注2)。

 メソポタミアは塩害により衰えましたが,エジプトは1年に一度塩分をドバっと流してくれるので,その心配もありません。同時にナイル川を下っていけば,交易の盛んな地中海に出れますし,年中南向きの風が吹いているので,上流へとさかのぼるのも簡単です。ただし6箇所の急流ポイントでは,一度船を降りなければなりませんでした。


 さて、すでにエジプトのナイル川沿岸では、下流(下エジプト)にメリムダ文化(前5500年頃~)、上流(上エジプト)にパダリ文化(前5000年~)がありました。両者は別系統の起源と考えられています(注3)。

 このうち上エジプトのパダリ文化から、前4000年頃になるとナカダ文化が発展します(注4)。
 前3500年~前3150年はナカダ文化Ⅱ期に区分されます。
 前3150年~前3000年はナカダ文化Ⅲ期となり、内容的には大きな変化はありませんが、上エジプト北部に大型墓地が出現したことから、北への人口移動、浸透がみられるようになったと考えられています(注5)。

(注1) じつは〈ヘロドトス〉の先輩である〈ヘカタイオス〉(前550~前476)がすでにそのエジプト史に使用したフレーズだといいます。また、ここでいう「エジプト」とは、ナイル川河口の「デルタ(三角州)」地域のことを指します。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2) それだけ多くの土が、上流から氾濫によってもたらされ続けているのだという〈ヘロドトス〉の観測である。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.147。
(注3)「農地を畦で囲み,犁でその地表面を撹拌しておく。洪水季になると,堤の一部を開き,ナイル川のシルト(泥土)を含んだ氾濫水を耕地に引き,湛水させた。…その後,畦を開き,隣の耕地に排水した。」 古代オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年,p.429「灌漑」,pp.423-429。
(注4)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.7。
(注5)上掲書、p.7。
(注6)上掲書、p.7。屋形禎亮「古代エジプト」『岩波講座世界史』2、1998年を引いて。屋形氏は、上エジプトに「原王国」群があって、そのうちティニスの首長が「上エジプト王国」を統合し、そして有力な「原王国」群のなかった下エジプトを各個撃破し征服したとしています(大貫良夫他編『人類の起源と古代オリエント』(『世界の歴史』1)中央公論社、1998年)。




前3150年?~前2584年? 初期王朝時代(注)
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。

 沿岸にいくつもの都市国家がうまれますが,前3500年以降,ナイル川上流の雨量が減少して乾燥化が進むと,限られた資源をめぐる争いが激化しました。

 一方,エジプトでは前3100年~前3000年頃に,下エジプト(下流の三角州(デルタ)の地帯)と上エジプト(デルタから第一急流まで)にあった小規模な都市国家群(注1)を,上エジプトの王〈メネス〉(ナルメル?,前3125?~前3062?) (注2)が統一しました。

 上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川の下流のメンフィス【追H30ジッグラトは築かれていない】を都に定めたとされています。
 なお,彼の時代には象形文字【共通一次 平1】であるヒエログリフ(神聖文字) 【東京H10[3],H23[3]】【共通一次 平1】が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石【共通一次 平1】に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布するパピルス草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
(注1)この小規模な都市国家のことを,ギリシア人の歴史家は「ノモス」と呼びならわしました。
(注2)前3世紀のプトレマイオス朝エジプトの神官〈マネトー〉の『エジプト史』では〈メネス〉が初代の王という記述があり,現在ではこの〈メネス〉が〈ナルメル〉と同一人物ではないかと考える説が有力です。




 エジプト【本試験H16ヒッタイトではない】では王はファラオとよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。
 洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのように納得をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。

 なお、ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために,測地術(測量) 【本試験H2フェニキア人の考案ではない】が発達します(注1)。のちのピタゴラスの定理の元となる面積の公式も,すでに使われていました。
 また暦として正確な太陽暦【本試験H2ユリウス暦のもとになったか問う】が用いられていました。


 エジプトでは,長期間に渡っていくつもの王朝が成立と断絶を繰り返していきます。
 王の系譜の断片的な情報をもとに系図を推測し,比較的連続性のある王朝をいくつかセットにした区分が用いられています(注2)。

 古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
  …ピラミッドが建設された時期はここ。

 第一中間期(?~2066?):第7王朝~第11王朝前期

 中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
  …南部の勢力による政治的統合です。

 第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
  …ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

 新王国(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。

 第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
  …各地の君侯が自立する時期。

 サイス朝(前664~前525):第26王朝
  …下流のサイスを治めていた君侯が,進出してきたアッシリア側について政権を掌握。

 末期王朝(前525~前332):第27王朝~第31王朝
  …第27,31王朝はペルシア人の王朝。最後はアケメネス朝の〈ダレイオス3世〉の支配です。

 ヘレニズム時代(前332~前30):マケドニア王朝(〈アレクサンドロス〉)~プトレマイオス王朝(〈クレオパトラ7世〉まで)
(注1) 幾何学の発展が、ナイル河の氾濫後の整地という必要から生まれたと〈ヘロドトス〉が述べています(ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.226)。
(注2) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。




◆古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
古王国は巨大なピラミッドが建てられた時代
 古王国【本試験H2都はテーベではない】は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流のメンフィス【本試験H2テーベではない】を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓であったかどうかは不明)が建設された時期にあたります。

 第3王朝の初代ファラオ〈ジョセル〉(ネチェルイリケト;ネチェリケト)は,サッカーラに最古のピラミッド(階段ピラミッド)を建設させました。すでに王を神聖視する思想があったようです。テーベ北部のナイル川東岸にはカルナック神殿は第12王朝時代に創建されました。西岸にはネクロポリス(死者の都)と呼ばれる墓地遺跡群が残されています(◆世界文化遺産「古代都市テーベと墓地遺跡」1979)。

 その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊のギザにある三大ピラミッド(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド) 【本試験H20セレウコス朝の遺跡ではない,H31時期(新王国時代ではない)】が生まれました。
 ・〈クフ〉王…第一ピラミッド 現在146.5m
 ・〈カフラー王〉…第二ピラミッド 現在144m
 ・〈メンカウラー王〉…第三ピラミッド 現在66.5m

 ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,かつては「王の墓」である(注1)といわれてきましたが,王(ファラオ)の権力を象徴【本試験H31「ファラオの権力を象徴」】させるとともに,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。
 いずれにせよ,最大の〈クフ〉王(前2589~前2566) 【追H27クノッソス宮殿を建てていない】のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80日×20年間働かせるだけの権力が必要です。
 ピラミッドの建設は,ファラオの支配下にあった人々を,農作業の忙しくない時期(農閑期)に働かせる公共事業だったのではないかという説もあります。
 スフィンクス像も,前2500年頃〈カフラー〉王によって建造が命じられたと伝えられます。

 〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国では太陽神ラー【追H27】【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H21時代を問う,H31古代インドではない】への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿には列柱が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺のエーゲ文明やギリシア文明に取り入れられました。

 古王国は前2120年に滅びました。
 すると,従来の太陽神をまつる信仰にも変化が起こります。
 あの世(幽界)の王であるオシリス神をまつり,「人は死んだら“あの世”で復活できる」と考える新しい信仰の成立です。
 オシリス神はもともと農耕神で,ヌトという神とゲブという神の間に生まれたとされます。しかし,オシリス神は弟であるセト神に殺害されましたが,妹でありながら妻となったイシスがシリアに流れ着いた遺体を発見し,エジプトに持ち帰ったところ,セト神はイシスからその遺体をまた奪い,バラバラにした挙げ句エジプト中にばらまきます。これをイシスが拾い集めて布でぐるぐると巻いたところ(ミイラの由来(注2)),オシリスは“あの世で”復活。それ以来,オシリス神は幽界(あの世)の王となったといいます。なお,オシリス神の子であるホルス神は,父のかたきを討ってセトを破ったそうです。

 この思想は,古王国の崩壊後,下エジプトと上エジプトの抗争により起こった社会の混乱を背景としているとみられます。結果的に上エジプトのテーベ(ナイル中流域) 【本試験H2古王国の首都ではない】【本試験H30ニネヴェとのひっかけ】の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)までを中王国の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。
(注1) 〈ヘロドトス〉はケオプス、ケプレン、ミュケリノスの墓であり、中に遺体が眠っている(p.243)と報告する。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、pp.240-243。
(注2) 製法が説明されている。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.212。




◆中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
 中王国とはマネトの王命表によると第11王朝、第12王朝、それに異論もありますが第13王朝のことを指します(注1)。
 第11王朝の第4代〈メンチュヘテプ2世〉が前2040年頃に国土を再統一したのが中王国の始まりとされます。性急な中央集権化に反発した地方豪族の支持により、宰相〈アメンエムハト〉がクーデタをおこし、第12王朝を建てました。〈アメンエムハト3世〉の死後第12王朝は衰え、短命な王が交替する第13王朝となりました(注2)。

 中王国は,パレスチナやヌビア(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海のクレタ文明〔ミノア文明〕とも交易をしています。
 中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。

 この時期には,北シリアからエジプト【追H30】に,騎馬に優れた遊牧民(ヒクソス【追H30】【中央文H27記】と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。
 ヒクソスは馬、戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓、小札鎧(こざねよろい)などの新兵器をエジプトにもたらし次第に政治にも干渉し,第13(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱します(注3)。
 第14王朝はナイル川のデルタにおこり、第13王朝と並立していました(注4)。
 第15(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至ります。

 上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。

(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.9。
(注2) 上掲書、p.9。
(注3) なお古代エジプト史研究の屋形禎亮氏は、この頃にデルタ東部国境が空白地帯となったことが、パレスチナのバアル神を信仰する人々の移住を可能にし、彼らこそが「ヒクソス」と考えられるとしています。上掲書、p.10。
(注4) 上掲書、p.10。
(注) この項目全般について、古代エジプト史の年代については,諸説あり。







●前3500年~前2000年のヨーロッパ

○前3500年~前2000年のヨーロッパ  バルカン半島
東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ

 バルカン半島と小アジア(アナトリア半島)の間に位置するエーゲ海周辺では,オリエントの文明の影響を受けて青銅器文明が栄えました。これをエーゲ文明と総称します。

 バルカン半島には,黒海北岸から沿岸部を通って中央ユーラシアの遊牧民(⇒クルガン文化:前3500~前2000の中央ユーラシア)が進出しやすく,また西方のアルプス山脈以北の地域や東方の西アジアの小アジア(アナトリア半島)との交流も盛んでした。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ

 前3000年紀(前3000~前2001年)の半ば頃には、現在のフランスで金属(銅)の製造が始まっています(注1)。
 西ヨーロッパで青銅がつくられるようになるのは前2000年前後のことです。青銅をつくるにはスズ(錫)が必要ですので、広範囲の資源の交易ネットワークも構築されていきます(注2)。


 またこの時期、西ヨーロッパを中心とする地域では、巨石建造物が建造されています(注:巨石文化)。
 数個の巨石の上に巨石を載せたドルメン(支石墓(しせきぼ)),巨石を直立させたメンヒル(モノリス),列状に巨石を並べたアリニュマン,輪の形に並べたストーン=サークル(ウェールズ語ではクロムレック)と呼ばれます。
 ストーン=サークルとして有名なのは,ロンドンの西200kmに残されたストーン=ヘンジです。前2500年~前2000年頃に建てられたと考えられています。夏至になると,中心の石と立石(メンヒル)を結んだ直線上に太陽が昇る構造になっています。夏至や冬至がわかることから,農業の広まりと関係しているとみられます(◆世界文化遺産「ストーンヘンジ,エイヴベリーの巨石遺跡と関連遺産群」1986,2008範囲変更)。
(注1)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
(注2)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.26。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
 ユーラシア大陸西端で,北アフリカに突き出ているイベリア半島には,前3000年紀には民族系統不明のイベリア〔イベル〕人が生活していました。彼らの文化には,エジプト文明やクレタ文明〔ミノア文明〕の影響がみられます。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 前3300年頃には,ユーラシア大陸北西部のフィンランドで,櫛目文(くしめもん)土器をもちいる人々が現れます。櫛目文土器は,新石器時代のユーラシア大陸の広い範囲に分布する土器です。フィンランド南部にはウラル語族の言語を話すフィン人,北部にトナカイの遊牧生活を行う同じくウラル語族のサーミ人の祖先が分布していました。



●前2000年~前1200年の世界
生態系をこえる交流①
 ユーラシア大陸では,前17世紀頃から中央ユーラシアの遊牧民の民族大移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が影響を受ける。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに定住農耕民エリアが広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 中央ユーラシアには遊牧を基本とする文化が拡大している。青銅器の普及によって騎馬遊牧民となり,軍事的なリーダーも現れる。定住農耕民エリアと相互に関係を結んでいる。

 東アジアから東南アジア,南アジアにかけての地域は,季節風(モンスーン)の影響を強く受けるため降雨に恵まれ,イネなどの穀物や焼畑農耕が営まれている。
 西アジアや北アフリカのエジプトなどの乾燥地帯の大河の流域では,灌漑農業によって生産性が向上し,経済的な資源をコントロールしようとする勢力が,軍事組織・宗教組織を政治的にまとめ上げようとしている(古代文明)。
 ヨーロッパには西アジアから青銅器や農耕・牧畜が伝わる。

(2) アフリカ
 アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方には,農耕を導入した定住集落が出現し,神殿の建設も始まる。

(4) オセアニア
 オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れる。熱帯の島々に適応した農耕・牧畜・漁撈を基本とするラピタ文化が,船によってメラネシア方面に拡大していく。




●前2000年~前1200年のアメリカ
○前2000年~前1200年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカ東部のミシシッピ川下流域には,この地に住む狩猟採集民により同心円状の巨大なに土塁(マウンド)が残されていますが,詳細はわかっていません。最大規模のものには,外径が1kmにおよぶポヴァティ=ポイントが知られています(◆世界文化遺産「ポヴァティ=ポイントの記念碑的土塁群」,2014)。




○前2000年~前1200年のアメリカ  中央アメリカ,カリブ海
 中央アメリカではカリブ海にせり出すユカタン半島(現在のグアテマラ,ベリーズの周辺)マヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】やメキシコ高原中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれます。
 トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。



◆メキシコ湾岸地方にオルメカ文化がおこる
オルメカ文化がおこる
 前1600年頃から,メキシコ盆地(標高2000mの台地にある)で,火山灰の土を利用した農耕が行われ,やがて文明に発展していきます。

 前1400年頃にメキシコ南部のメキシコ湾岸地帯の人々は,オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。
 ネコ科の猛獣ジャガーを信仰するオルメカ文化の影響は中央アメリカ全域に及び,同時期に南アメリカのアンデス地方中央部のチャビン=デ=ワンタルにもジャガーのモチーフが確認されることから,交易などによる関連性も指摘されています。

 オルメカ文化の諸都市には多くの階段型ピラミッドをはじめとする公共建造物〔記念建造物〕が建てられ,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像(巨石人頭像。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。

 都市ラ=ベンタには玉座や,豪華な副葬品をともなう墓が発見されています。これだけの物がつくられたということは強力な権力を持つ者がいたと思われますが,その社会統合がどれくらいのレベルであったのか詳しいことはまだわかっていません。正確な暦が制作され,絵文字や数字も使用されましたが,前300年には衰退します。


◆ユカタン半島の高地マヤ地域に文明がおこる
ユカタン半島にマヤ文明が形成される
 ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】【追H25中央アンデスではない】の高地(マヤ高地)では,前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場が出現していました。
 マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。

 マヤ地域にはユーラシア大陸のような大河はありませんが,特に高地マヤ(現在のグアテマラのキチェー地方からメキシコのチアパス地方にかけて)の自然環境は沿岸よりもずっと豊かで,農耕により人口を増やした都市が交易ルートを掌握し,文明を発展していったとみられます。
 
 マヤ文明の担い手は,マヤ語族の言語を話す人々(現在はキチェーやツォツィルなど約30の集団に分かれています)です。
 後代に記録されたものとはいえ,マヤ文明における思想をよく表しているとみられる神話に『ポポル=ヴフ』があります(11世紀以降のキチェー人の王国で記録されたものです(注))。
 これによるとマヤの信仰は多神教で,水の中の支配者であるグクマッツ(ケツァルコアトルに通じる)やテペウが,天の心(フラカン。ハリケーンの語源といわれます)と話し合って,大地・動物を創造。しかし,泥で人間を作ったところ失敗。木で作り直したがこれも失敗し,洪水を起こしてリセット。洪水後も生き残ったのがサルになりました。さらに神々はトウモロコシで4人の人間をつくったところ,神と同等の能力を備えた完璧人間ができてしまったことから,目を曇らせて近くのもののみ見えるようにしました。これがキチェー人になったということです。トウモロコシでつくったというところが,なんとも中央アメリカらしいですね。

 なお,この時期のマヤ文明は古期に区分されます(前8000年~前2000年)。マヤ文明にオルメカ文明の影響が及ぶようになるのは,少なくとも前1400年以降のことです(注2)。
(注1)キリスト教の聖書の影響も指摘されています。 篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社,2005,p.8。芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010も参照。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.235~p.238。




○前2000年~前1200年のアメリカ  南アメリカ

アンデス地方
 沿岸部には,農耕・海産物の採集・漁撈を中心とした定住集落があって,神殿が建設されていました。
 しかし前1800年頃から,内陸の河川地域の神殿が放棄され,内陸の河川流域に集落が移動してきます。神殿のデザインには,ジャガー,ヘビ,猛禽類など,新たなシンボルが登場。異なる思想によって人々をまとめようとしたリーダー層の存在が考えられます。

 山地では,コトシュ宗教伝統が衰退し,別の大きな神殿が建てられ始めます(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。


アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)には,カボチャ,サツマイモ,マニオックを移動しながら焼畑農耕する人々がいました。
 当時のアマゾン川流域は、前4000年頃から始まる低温下・乾燥化にともない、森林の点在する草原地帯で、森はわずかとなっていました(注1)。
 前2000年頃には,小さな農村がつくられるようになラマゾン川の流れに沿って,地域間の交易が盛んになっていきました(注2)。交易された産物は,淡水魚やマニオックの根(キャッサバ)です。



ラプラタ川流域
 前2000年頃、現在のパラグアイの地には、のちにグアラニー人と呼ばれることになる民族はいませんでした。
 アマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、この後1500年のスパンにわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注3)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注4)。

(注1) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.31。
(注2) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注4) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。



●前2000年~前1200年のオセアニア

 オセアニアでは,オーストラリアやニューギニア島などで,人種的にはオーストラロイド系の人々による旧石器文化が栄えていました。オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられましたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れます。

○前2000年~前1200年のオセアニア  ポリネシア
 しかし,前1500年頃から東南アジアから新石器文化に属し,人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々が,オセアニア南西部に南下をはじめます。彼らはラピタ土器という幾何学的な模様のある丸みを帯びた薄手の土器をつくったため,彼らはラピタ人,彼らの文化をラピタ文化と呼びます。ラピタというのは,この土器の発掘されたニューカレドニア島の地名です。
 彼らはアウトリガーカヌー(船を安定させるための舷外浮材付きのカヌー)を製作し,天文学の知識を基に高い航海能力を生かし,人類として初めて船に乗って南太平洋への移動を開始しました。
 島から島へ数千キロも離れた距離を移動し,東南アジアを起源とするタロイモ(日本のサトイモのような芋),ヤムイモ(日本のヤムイモのような芋)の農耕や,ココヤシ,パンノキ,バナナなどの果樹の栽培,イヌ,ニワトリ,ブタの牧畜を行っていました。ヤシの樹皮を敷物や帆に使う布として加工したり,入れ墨をほどこしたりする文化も特徴的です。ディズニー映画の「モアナと伝説の海」に登場するキャラクターにも,ニワトリやブタがいますね。一見“楽園”のように見える“南の島”の生活は,実は過酷です。

 特にサンゴ礁によってできた島では土がやせていて農業が難しく,水の確保も大変です。一方,火山でできた島では,集約的な灌漑農業によって人口が増加し社会が階層化し,のちにトンガやハワイのように首長国や王国の成立する地域もありました。しかし島の面積には限りがありますから,ユーラシア大陸の農牧民を支配した国家のような強大な王権が生まれることはありませんでした。



○前2000年~前1200年のオセアニア  メラネシア
 メラネシアでは,オーストロネシア語族から分かれた人々が,島々で旧石器文化(ラピタ文化)を持つオーストラロイドと混血して,ポリネシアとは違った文化が形成されました。資源の豊富な島と資源があまりない島との間では,「クラの交換」という儀式の形をとった交易を行っていた人々もいました(注)。
(注)クラとは,トロブリアンド諸島における儀礼的な交換行為であり,マリノフスキ(1884~1942,ポーランド出身の文化人類学者)の研究が代表的です。クラとは,この島々をカヌーによって環状に結んで行われるメラネシア人の交易であり,時計の反対周りに白い貝の腕輪(ムワリ),時計回りに赤色の貝の首飾り(ソウラヴァ)儀礼的に贈答されます。これに合わせて必需品の交易も行われますが,義務や名誉の呪術的・伝統的な観念と複雑に結びついており,単純に経済的な交易・交換とみなすことはできません(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010年)。




○前2000年~前1200年のオセアニア  ミクロネシア
 ミクロネシアには前1500年前後に,フィリピン周辺からマリアナ諸島に,インドネシア系の言語を話す集団が移動します。土器や,貝でできたアクセサリーが特徴です。根菜の農業と,ニワトリの飼育を行っていたとみられますが,詳しいことはまだわかっていません。ラッテという巨石建造物も見つかっています。
○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前2000年~前1200年の中央ユーラシア
◆前2000年紀(前2000~前1001)末にかけて,遊動する牧畜(遊牧)の文化は,黒海北岸の現・ウクライナから現・カザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)をつらぬいて,東方に広がっていく
遊牧文化の東方拡大
 前3000年紀から,アム川やシル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕・牧畜を行う定住集落が見られました。
 しかし,前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する遊牧民(インド=ヨーロッパ語族)が新たに進出して来たため,衰退していきます。

 馬が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には,クルガン(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られます(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳),カタコムブナヤ(地下式墳穴),スルブナヤ(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化,アンドロノヴォ文化,カラスク文化など)。
 この地域をユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいます。

 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられます。
 ユーラシア大陸の草原地帯は,幅8000kmにわたる壮大なスケールをもっていますが,馬に乗る技術の発展により,東西を結びつける“道”の役割を果たすようになります。中央ユーラシアとれる翡翠(ヒスイ)という緑色の宝石は,中国では「玉(ぎょく)」と呼ばれて支配階級に珍重されるようになります。



○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  西部
 中央ユーラシアの遊牧民の一部はメソポタミア北部,シリア北部に南下し,前2000年紀前半にはミタンニ王国(前16~前14世紀)を建国し最盛期にはアッシリア王国を支配下に置いています。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  中央部
インドへ
 また,別の一派は前3000年紀末までにイラン東部のマルギアナや,アム川上流のバクトリアに南下して,インダス川上流部の北インドに進入しました(インド=アーリア人,またはアーリア人)。

イランへ
そのまた別の一派は,イラン高原方面に南下しました(イラン=アーリア人,イラン語群の人々)。西アジアから,カスピ海,アム川・シル川流域にかけて,イラン語群の言語が広がることになります。
 こうしてみると,インド人とイラン人は,ざっくり言えば共通の祖先を持っているということになるわけです。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  東部
 前13~前12世紀頃からは,南シベリアやモンゴル高原で,新たな集団がカラスク文化という青銅器文化を生み出しました。彼らは山羊や馬,鹿を青銅器にデザインしています。中国の殷の終わりから西周の文化とも関係しているようです。





●前2000年~前1200年のアジア

○前2000年~前1200年のアジア 東アジア
・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が八丈島(はちじょうじま)からも見つかり,神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大し,晩期の中頃には完成していたと考えられています(注)。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。




・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現③中国
青銅器時代の中国には複数の王権があった
中国で夏(?)・殷・周の3勢力が発展する
 前2500年~前2000年の中国は気候が大きく変動し,温暖な気候から冷涼・乾燥な気候帯が拡大していました。そこで,前3000年~前2000年にかけて人々は水を求めて大河の流域へ移動を開始します。前2000年頃には,メソポタミア方面から小麦や大麦が伝わって栽培されるようになりますが、本格的な導入は後代のこととなります。

 黄河は上流地帯の黄土といわれる土を大量に運んで来るため,下流の川底はすぐに浅くなります。 だから黄河は頻繁に氾濫を起こすのです。
 漫画「ドラゴンボール」に登場するような龍は,中国では聖なる生き物とされていますが,龍は氾濫する暴れ川を表しているんです。龍のいうことを聞かせ,洪水を抑えることができた指導者こそ,その資格があるというわけです。

 この時期の初め頃には、従来の社会構造が崩れ,各地で政治権力が特定の上層階級に集まっていく動きが見られました。
 前2000年頃に黄河中流域(河南省偃師(えんし)市)で成立した二里頭文化(にりとうぶんか)は,竜山文化を受け継ぐものとされています。二里頭遺跡は洛陽(らくよう)の東方にあり,1957年に青銅でできた最古の爵(しゃく。三足になっている酒器)が発見されたことで注目されました

 中国の国家的歴史プロジェクトである「夏商周年表プロジェクト」によれば、夏(か,シア)【H27京都[2]】のという王朝があった年代は前2070年~前1600年とされています(注2)。
  たしかに,特徴的な土器が中国のほぼ全土から出土していることからも,夏という王朝は広い範囲に影響を及ぼしていたとは見られますが,日本の歴史学界ではその存在自体が否定されています。
 日中の見解の違いは,一つには歴史学のアプローチの違いによるものです。中国では,発掘された遺跡とともに『詩経』などの記述を合わせて判断し(二重証拠法といいます),前1500年頃におきた商王朝(殷王朝)は,この夏を滅ぼして発展した王朝だったのではないかと考えられています。

 中国古代の伝説上の王に,堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)がいますが,最後の禹は,黄河の水をおさめた人物であると言われ,彼が王位を譲ったことで,伝説上の王朝「夏(か)」が建国されたとされているのです。

 どの都市が夏の都であったのか?
 どの都市が、夏を滅ぼしたとされる殷の都であったのか?
 滅ぼされた夏の人々は、どの都市に移されて支配されたのか?
 これらの疑問を解く鍵は、まだ完全に明らかとなってはいませんが、夏、殷、周というのは直線的に発展した王朝というわけではなく、それぞれ別個の勢力であったと考えたほうが良さそうです。
 
(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.72。




◆商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
長江上流域にも「巴蜀」文明があった

 なぜ中国が国家プロジェクト(1996~2000、夏商周断代工程)を立ち上げてまで「夏」にこだわるかというと,その後の中国の支配者が「自分の支配のルーツの古さ」を誇るときに,文献の上で「有った」と記されている「夏」との繋がりを強調しようとしたからです。

じゃあ,当時の中国には,黄河流域の「夏」にしか強大な王権がなかったかというと,そんなわけはありません。

長江上流域の四川(しせん)という盆地に,三星堆(さんせいたい)遺跡という大規模な遺跡が見つかっているのです。ここで出土した青銅器は,ぜひ一度見てみてください。黄河で見つかった青銅器とは似ても似つかぬ異様な容貌の謎の生物をかたどった仮面に驚くはずです。

見た目は変わっていますが,青銅器の製法は北方のそれと変わらぬもので,原材料のとれる鉱山も同じところであったことがわかっています(注)。
(注)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017,P.61。



◆商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
黄河流域では殷が青銅器文明を発展させる

おなじ頃黄河流域では,前1600年頃(注1)に登場した商王朝(殷(いん)王朝) 【本試験H3】【追H19】が栄えていました。

商王朝は何度も遷都をおこなっていますが,殷は王〈盤庚〉(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽【東京H8[3]】の郊外にある小屯(しょうとん)でみつかった殷墟(いんきょ) 【追H18】 【東京H10[3]】といいます。
 先行するスウェーデンの〈ヘディン〉(1865~1952)、イギリスの〈スタイン〉(1862~1943、ハンガリーからイギリスに帰化)、日本の〈濱田耕作〉(1881~1938)・〈鳥居龍蔵〉(1870~1953)の調査に対抗する形で、1928年に国立アカデミーによって〈李済〉(りさい、1896~1979)を中心に1937年まで15次にわたって発掘が行われました(注2)。殷墟からは甲骨文字や王族の墓が見つかっています(◆世界文化遺産「殷墟」2006)。

 王【本試験H6皇帝ではない】は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族から青銅器【追H27鉄製農具の使用は始まっていない】【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】を獲得したとみられ,戦車や武器に用いられました。
 城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。

 商(殷) 【セA H30】では,甲骨文字【東京H10[3]】【名古屋H31】【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,西夏文字との判別】【本試験H11インカ帝国のものではない】【本試験H21図版】【追H19】【セA H30】という文字が使用されていました。
 占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)の邑(ゆう,都市国家) 【本試験H2】をまとめて支配していたと考えられます【本試験H21郷挙里選は行っていない】。
 甲骨文字は,亀の腹甲(ふっこう。背中の甲羅ではありません)や動物の肩甲骨などに穴を開け,質問をしてから火であぶって現れた割れ目(卜占(ぼくせん))を見て,王が吉凶を判断しミゾ(卜辞(ぼくじ))を彫ってその結果を表したのです【名古屋H31用途を問う】。
 表記の形式は、日付、貞人(前辞)、内容(命辞と占辞)のパートに分かれます。
 やがて甲骨文字は、形によって事物を表現する象形(しょうけい)文字へと発達していきました。なお占いという意味の「卜」(ぼく)という言葉の当時の読み方「プク」は,あぶられた骨が割れる音を表しているといいます。日本の歴史学会はこれを文字とする意見に当初は懐疑的でしたが、1943年に〈小川茂樹〉(貝塚茂樹、1904~1987)が文字と認める講演をおこなったのが転機となりました。

 甲骨文字発見のエピソードとして「清朝末期に〈王懿栄〉(おういえい)がマラリアの持病を治すために北京の達人堂(たつじんどう)という薬局から「龍骨」と呼ばれる漢方薬を購入すると、そこに文字らしいものが書かれており、食客の学者〈劉鶚〉(りゅうがく)とともに研究に励むようになった」というものがあります。しかし、これはいささか正確ではなく、〈王懿栄〉は骨董として買い求めたらしく、甲骨文字自体も古くから「文字」と認識されていたようです(注2)。
  
(注1) 「夏殷周年代プロジェクト」による。
(注2)佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.40。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年pp.3-5。



 殷には奴隷がいたことは間違いありませんが、奴隷が主要な生産者であった(「奴隷制社会」であった)証拠はありません(注1)。

 宗教面では、祖先の崇拝がおこなわれていました【本試験H23仏教は殷代にはない】。人の魂は死んでしまうと“あの世”に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。

 すでに青銅器【追H27鉄器ではない】が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界から戦車が伝わったことが,戦争を激化させることになりました。

 商には東シナ海・南シナ海・インド洋から,貨幣としてもちいられた子安貝(タカラガイ)の貝殻などを運び込まれていました。タカラガイを求めて南西諸島の宮古島にも殷人がやってきて,そこから稲が“海上の道”北上して九州に伝わったのだと,民俗学者の〈柳田國男〉(やなぎたくにお,1875~1962)は考えましたが,柳田説は現在では否定されています(注2)。

 中央ユーラシアとも盛んに交易をし,中国では特に価値の高いものとされたヒスイをはじめとする産物を手に入れていました(台湾の故宮博物院にあるヒスイでできた白菜(翠玉白菜(すいぎょくはくさい))が有名です)。

殷の勢力は前1600年ころから前1000年ころまで続き,黄河中流域の農業に適した中原(ちゅうげん)を支配して栄えます。

しかし,青銅器の増産は資源の枯渇を招き、これが殷の衰退の背景となったようです。より豊かな銅の鉱山を獲得した西方の周(しゅう)の勢力が,殷に代わって黄河流域の支配権を獲得することとなるのです(注3)。

(注1) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.57。文献の中にあらわれる「衆」が奴隷を指すのではないかと〈郭沫若〉(かくまつじゃく、1892~1978)は指摘しています。また日本の〈白川静〉(1910~2006)は、「邑」という漢字に見える「ひざまづく人々」は諸族から王のもとに召集され保護された集団であり、奴隷とされていたのは羌(きょう)という民族や南人であるとしました(外間守善『沖縄の歴史と文化』中公新書、1986年、p.10)。
(注2)華南から琉球へ渡る際、長期滞在に備えて稲をいっしょに持っていったとの説に対しては、沖縄学の父〈伊波普猷〉(いはふゆう)は九州から南に伝わった説を主張しました()「。
(注3)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017年,p.62。




・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 朝鮮半島
 朝鮮半島には新石器文化の担い手が居住し,櫛目(くしめ)文(もん)土器が製作されています。




○前2000年~前1200年のアジア  東南アジア
 前2000年紀に,中国から稲作が伝わると,大陸部の山地に農牧民が生まれました。前1000年紀には,諸島部でも稲作が始まりました。熱帯雨林では焼畑による稲作が,ジャワ島の中・東部では火山の裾野に水を引き水稲栽培が行われました。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。のちのドンソン文化(前4世紀以降)の源流です。




○前2000年~前1200年のアジア  南アジア
 インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
 その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。
さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
 中央ユーラシアの草原で遊牧をしていたインド=ヨーロッパ語族のアーリア人は,インダス川上流のパンジャーブ地方【追H30】に前1500年に進入しました(インド=アーリア人【追H30「アーリヤ人」】)。彼らは先住のドラヴィダ人を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在のヒンディー語【本試験H24タミル語,アッカド語ではない】などにつながります。

 前1500年~前1000年を前期ヴェーダ時代といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級) 【東京H6[3]】の聖典『リグ=ヴェーダ』【追H28神々への讃歌の集成か問う】【本試験H7「インド神話の古い形」が現れるか問う】が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
 神々への賛歌(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン【本試験H9ウラマーとのひっかけ】と呼ばれる聖職者階級。この信仰を「バラモン教」と呼んでいます【追H9】。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。
 なお,前1000年頃に中央ユーラシアから西アジアに南下したアーリヤ人を「イラン人」と呼びます。



○前2000年~前1200年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


◆メソポタミアのシュメール人の都市国家群を,セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
 一方,メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

 この法典は1902年にスサでフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリのルーブル美術館(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。

 メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。




◆バビロン第一王朝の滅亡後,海の国,カッシート,ミタンニ,アッシリア,ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し,「国際化」の時代に
 しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
 前1700年頃からメソポタミア南部では,バビロン第一王朝から自立した海国第一王朝といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
  それと並行してペルシア湾のエラム人主導による,その植民先であるオマーン(マガン国)や,バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。

 しかし,メソポタミア南部には民族系統不明(注1)のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島のヒッタイト王国の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
 その後混乱の中でカッシートは(カッシート)朝(前15世紀頃~前1155年;バビロン第三王朝)(注2)を建国し,前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。

 この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル(アッシリア)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。

 このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します(注3)。
(注1)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。
(注2)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注3) 「国際関係の時代」ともいいます。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。



◆ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
 古気候の研究によると,前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。

 寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯(中央ユーラシア)から,遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
 彼らのルーツの元をたどると,ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が,この言語Xをルーツにもつ“言葉の家族”の一員であることが立証されているからです。この“言葉の家族”(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます(注)。

(注)18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに“先祖”となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,“インド=ヨーロッパ祖語”と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。


 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 古来、ヒッタイトの製鉄技術は「世界最古」とされてきましたが、近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説が有力。研究の進歩の成果です。

 前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


◆北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
アマルナ文書に当時の国際関係が記される
 この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられるミタンニ人の王国(住民の大部分はフルリ人?(注1)),アナトリア半島を拠点としたヒッタイト人の王国,エジプトには新王国が強大化し,国際関係が複雑化していきます。

 前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
 前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。

 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)(注2)。アッシリアは、中継貿易の拠点でもある都市アッシュルの神アッシュルに対する強い信仰のもとで統合されていました(注3)。
 前13世紀になると,ヒッタイトと新王国はカデシュの戦い(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。

(注1) ミタンニを「インド=ヨーロッパ系」に分類していた時代もありましたが、その背景には「ヨーロッパ人のご先祖」である「インド=ヨーロッパ系」の「遊牧民」はすごかったんだぞ! と言いわんとするがための意図もありました。断片的な史料のみでミタンニの人々を「インド=ヨーロッパ系」と断定するのは無理がありますが、支配階級はインド=ヨーロッパ系の民族、住民の大部分は民族系統不明のフルリ人であったという見解に落ち着いています。『最新世界史図説タペストリー 十七訂版』(帝国書院、2019年)では、ミタンニ王国は民族系統不明と表示されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。
(注2) アッシリアに「残虐」「野蛮」なイメージがつきものなのは、時代による使用言語のばらつき、文書の出土状況の不均衡などが背景にあります。たとえば、前3千年紀末には古アッカド語、前2千年紀前半に古アッシリア語、前2千年紀後半に中期アッシリア語、前1千年紀前半に新アッシリア語のように移り変わっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.11。月本昭男「前二千年紀西アジアの局外者たち」『岩波講座世界歴史』2(岩波書店、1998年)を挙げて。
(注3) アッシリア商人は、古アッシリア時代から東方のスズ(錫)と、南のバビロニアからの織物などの羊毛製品を小アジアに運び、アナトリアで銀・金を得ました。取引の文書は古アッシリア語で書かれています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。



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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン、④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦

◆ペルシア湾岸を舞台にしたイラン高原のエラム人の活動がさかん
原エラム文明がラピスラズリの道をおさえ栄える
 メソポタミアで,前24世紀半ばに建国されたアッカド人の王朝が滅ぶと,西方のシリア方面からセム語派のアムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱し,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000)を始めました。
 これはシュメール人最後の王朝であり,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行っています。
 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方のイラン高原のエラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。

 なお,エラム人によるイラン高原の原エラム文明は,メソポタミアの都市文明との対抗のため,インダス文明に接近していました。アフガニスタンのラピスラズリの輸送ルート支配するため,メソポタミアではなくインダス川周辺の都市国家群と提携していたのです。
 エラム人はすでに前2500年よりペルシア湾岸のオマーンに移住して,銅鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは,ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。前2000年にはバーレーンやクウェートにも拠点をもうけるにいたりました。

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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現③イラク

◆メソポタミアのシュメール人の都市国家群を,セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
 一方,メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

 この法典は1902年にスサでフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリのルーブル美術館(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。

 メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。



◆バビロン第一王朝の滅亡後,海の国,カッシート,ミタンニ,アッシリア,ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し,「国際化」の時代に
 しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
 前1700年頃からメソポタミア南部では,バビロン第一王朝から自立した海国第一王朝といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
  それと並行してペルシア湾のエラム人主導による,その植民先であるオマーン(マガン国)や,バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。

 しかし,メソポタミア南部には民族系統不明のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島のヒッタイト王国の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
 その後混乱の中でカッシートは(カッシート)朝(前15世紀頃~前1155年;バビロン第三王朝)(注)を建国し,前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。

 この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル(アッシリア)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。

 このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します。
(注1)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。



◆ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
 古気候の研究によると,前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。

 寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯(中央ユーラシア)から,遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
 彼らのルーツの元をたどると,ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が,この言語Xをルーツにもつ“言葉の家族”の一員であることが立証されているからです。この“言葉の家族”(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます(注)。

(注)18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに“先祖”となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,“インド=ヨーロッパ祖語”と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。

 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 製鉄技術は,近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説も出ています。前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


◆北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
アマルナ文書に当時の国際関係が記される
 この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられるミタンニ人の王国(住民の大部分はフルリ人?),アナトリア半島を拠点としたヒッタイト人の王国,エジプトには新王国が強大化し,国際関係が複雑化していきます。

 前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
 前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。
 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)(注2)。

 前13世紀になると,ヒッタイトと新王国はカデシュの戦い(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。
(注1)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。
(注2)アッシリア商人は、古アッシリア時代から東方のスズ(錫)と、南のバビロニアからの織物などの羊毛製品を小アジアに運び、アナトリアで銀・金を得ました。取引の文書は古アッシリア語で書かれています。しかし中期アッシリア時代になると、ミタンニ王国の攻撃に苦しめられるようになりました。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
ラクダはまだ騎乗・運搬用としては未発達
 なお、アラビア半島で家畜化されていたヒトコブラクダは、前12世紀頃になるまでは荷駄を負わせることのできる鞍は発明されておらず、主に食用が中心でした。
(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.7。

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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,
セム語派のヘブライ人のルーツが現れる
 ヘブライ人【本試験H2ティルスは彼らの都市ではない】は『旧約聖書』に登場する〈アブラハム〉を“ご先祖”と考えていた人々で,紆余曲折を経て現代でもユダヤ人として文化を残す歴史ある民族です。ヘブライ人は他称で,自分たちのことはイスラエル人と呼んでいました。初め多神教でしたが,唯一神ヤハウェ【本試験H3ユダヤ教は多神教ではない】【本試験H30アフラ=マズダとのひっかけ】【追H19太陽神ではない】 (注)と契約を結び,現在のパレスチナにあたる“約束の地”カナンが与えられ前1500年頃に移住したとされます。カナンは彼らの民族叙事詩・神の律法である『創世記』(『旧約聖書』の一部)に,「乳と蜜の流れる場所」と表現されています。沿岸部では前1500年頃からカナン人が活動していました。

 彼らの一部はエジプトに移住しましたが,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫である〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】【追H21キュロス2世,ソロモン王ではない。ヘブライ人の国王かを問う】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。
 なお〈アブラハム〉の子孫には〈モーセ〉以外にもキリスト教で神の子とされる預言者〈イエス〉や,イスラーム教をはじめた預言者〈ムハンマド〉も含まれます。ユダヤ教,キリスト教,イスラーム教を信仰する人々の中には,今でもイェルサレム郊外のヘブロンのアブラハムの墓にお参りする人もいて,この3宗教を合わせて“アブラハムの宗教”とも呼びます。
(注) YHWH(神聖四文字)のように表記されます。「ヤハウェ」と読むことになっていますが,定説はありません。そもそも神の名を妄りに読んだり書いたりしてはいけないのです(十戒のうちの一つ, (2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと)。ユダヤ教徒はYHWHを発音せず、「我が主」(アドナイ)と言い換えていました。それがエホバと誤記されていきました(塚和夫編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.1006)。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑭レバノン,⑮シリア
◆シリアにはセム語派のアラム人,フェニキア人が現れる
小アジアとエジプトを結ぶシリアは交易の要衝に

 小アジアとエジプトを結ぶルートは,低地が少なく,地中海に面する地帯にあります。北をシリア,南をパレスチナといいます(両者をあわせて「歴史的シリア」と呼ぶこともあります)。

 パレスチナには,前1500年頃以降,カナン人が進出していました。しかし,前12世紀初めには「海の民」(注)が小アジアのヒッタイトを滅ぼし,エジプトの新王国を衰えさせたことで,間のシリアとパレスチナは,権力の“空白地帯”となりました。
 シリアの内陸部では,アラム人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない,H6】【東京H6[3]】がダマスクス【東京H6[3]】【追H28フェニキア人の拠点ではない】【本試験H6】を中心にして陸上【本試験H27海上ではない】の中継貿易で活躍しました。アラム語【本試験H15エジプトの死者の書には記されていない】【追H19】は西アジアの国際通商語となりました。
(注)「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。



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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑯キプロス,⑰トルコ

 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 製鉄技術は,近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説も出ています。前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆ティグリス川・ユーフラテス川の源流地帯には古代アルメニア人の国家ができていた
アルメニアにも国家が建設される
 ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯には,アルメニア高地と呼ばれる周囲を高い山脈に囲まれた高原があります。
 黒海の南部のポントス山脈,小アジアとの間のアンチタウロス山脈,小アジアに抜けるタウロス山脈,黒海とカスピ海の間を横切るコーカサス山脈と小コーカサス山脈に囲まれたアルメニア高地には『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)の流れ着いた場所といわれるアララト山(5165メートル)や,ヴァン湖という大きな湖があります。
 アルメニア高地の西部にはハヤサという小王国の連合体が成立し,前14世紀初めのヒッタイト王国の国王が攻撃し,服属させようとしていた記録があります。これがのちにアルメニアと呼ばれることになる人々とみられます(注1)。
 また,前1300年頃にはアルメニア高地の東部(ヴァン湖の周辺)にウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)などの小王国がありました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.25-27。
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.30。




●前2000年~前1200年のアフリカ

◯前2000年~前1200年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 アフリカ大陸の東部に出っ張っている“アフリカの角”には,標高4000m級のエチオピア高原があります。ナイル川は,上流部で二つの川が合流して北に注ぐのですが,エチオピア高原から雨をあつめて流れるのが青ナイルです。一方,南方の赤道近くのウガンダ方面から流れ込むのは「白ナイル」といいます。
 伝説では,前1000年頃にアラビア半島の〈シバの女王〉が,パレスチナの〈ソロモン〉王を訪問したということですが,その息子〈メネリク1世〉(生没年不詳)がエチオピア高原にひらいたのが,エチオピアの王朝の始まりなのだという建国伝説が残されています。
 エチオピア高原は北側の紅海の交易ルートをおさえ,アラビア半島との交易に従事していたとみられます。そのため,ユダヤ教の文化がこの地に伝播していたのです




◯前2000年~前1200年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン


 アフリカ大陸の南部では,コイサン人が狩猟・採集生活を送っています。



◯前2000年~前1200年のアフリカ  中央アフリカ・西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

雑穀栽培で集落形成、牛連れ湿潤地域に移動も

ニジェール河沿岸
 ニジェール川はサハラ沙漠の乾燥地帯を貫く外来河川(雨の降る地方から,雨の降らない地方に流れて来る川のこと)です。

 中流域の乾燥地帯のオアシスでは集落の遺跡が発見されており,前2000年~1500年頃に雑穀が栽培されていた証拠が発見されています(注1)。
 雑穀は,アフリカの乾燥地帯で典型的に栽培されていたもので,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアで盛ん。モロコシ、トウジンビエ、フォニオのほかイネも栽培されていました。

 前2500年頃に始まるサハラ沙漠の乾燥化にともない,もともとサバナ気候だったところが沙漠や乾燥草原(ステップ)に変貌していく地域も出てくると,南縁のサヘルと呼ばれる地域に,人々が水場(オアシスや河川)を求めて南下していったとみられます。
 ともなって牛も南下。フータ=ジャロンあたりで、ツェツェバエに対する強い抵抗をもつンダマという短い角を持つ牛の種が選ばれ、湿潤地域での飼育も容易となっていきます。



ギニア湾沿岸
 アフリカ大陸は「┓」のような形をしていますが,左下(南西)部分の海域のことをギニア湾といいます。
 ギニア湾沿岸には,熱帯雨林とよばれる熱帯の森林が生い茂るエリアや,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアが広がり,ヤムイモを栽培する農牧民が分布しています。

(注1)マリ東部、ニジェール川の大湾曲部近くのカルカリチンカート遺跡からは、前2000年~前1500年の雑穀が出土されていますが、定住の証拠とは断言できず、家畜の飼養・漁労も兼ねていたと考えられています(宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145)。




○前2000年~前1200年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


◆第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
 ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

ヒクソスの政権(第二中間期)に、ヌビアは勢力拡大

 エジプトでは,中王国時代に傭兵として導入されていた北シリアから騎馬に優れた遊牧民(ヒクソスと呼ばれました)が次第に政治にも干渉し,第13王朝(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱し,第15王朝(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至っていました。

 上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します(注1)。



 一方、上流のヌビア(現在のスーダン)のクシュでは、第3瀑布のすぐ南のケリーマを首都に考古学的にはCグループと呼ばれる人々が前2500年頃には住みつき、ナイル上流との交易ルートかつ農耕エリアとして栄ます。
 エジプトが第2中間期に入ると、ケリーマの勢力はアスワンにまで拡大。
 エジプトと同盟関係を結び、文化を吸収します。


 
◆新王国(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。
テーベ中心に「新王国」が栄え、上流まで支配する

 エジプトを支配していたヒクソスの王朝は,〈イアフメス1世〉(位前1550~前1525)により追放されました。
 彼を始祖とする第18王朝から第20王朝までを新王国と区分します。王朝の拠点はメンフィスとテーベの2箇所です。メンフィスはユーラシア大陸への進出基地として重要視されました。テーベはヌビアへの進出基地であるとともに,王家の出身地であり太陽神ラー【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H31古代インドではない】と同一視されて信仰されたアメン神(テーベの都市神)の中心としてテーベも重視されました。テーベには多数の巨大記念建築物が建造され,王の権威を高め人々を動員させる役割を果たしました。


 〈トトメス1世〉のときに「王家の谷」に初の王墓が築かれ,シリアにも遠征しています。
 彼はヌビアのケリーマを滅ぼし、第5瀑布にまで支配エリアを拡大。こうして前述のヌビアのCグループは、エジプトの小作人や農奴に転落していきました(注)。

 その娘〈ハトシェプスト〉(前1479?~前1458?)は,次王となる〈トトメス3世〉が幼少であったため,ファラオと称して実権を握りました。

 〈トトメス3世〉(前1479?~前1425?)のときには,スーダン南部のヌビアや紅海沿岸に進出したほか,シリアへの17回の遠征をおこなった記録もあり,最大領域を実現しています。
 そこでヌビア人は,紀元前900年頃,今までの都であるケルマよりも南 (上(かみ)ヌビアといい,現在のスーダン北部に位置します)に移動し,ナパタ(第4急流のやや下流側)でクシュ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を建てました。クシュ王国は,エジプトのヒクソスの王朝と友好関係を結び,テーベのエジプト人による第17王朝を“挟み撃ち”にして対立します。

 しかし,次第にテーベのアメン=ラーをまつる神官団が政治への介入を始めると,これを嫌った〈アメンホテプ4世〉(位前1349~前1333)(注) 【追H26クレオパトラではない】【本試験H12】【本試験H27クレオパトラではない】【立教文H28記】は彼らの力を排除し,王自らを神格化させるために拠点をテーベとメンフィスのほぼ真ん中に位置するアケト=アテン(遺跡の名称はテル=エル=アマルナ) 【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H27】にうつし,唯一の太陽神アトン【中央文H27記】のみを信仰させる宗教改革を断行しました。アメン=ラーをはじめとする従来の多神教を廃止し,唯一の太陽神アテン〔アトン〕信の仰を強制。みずからをアクエンアテン(イクナートン(アクエンアテン),アトン神に有益な者)と称しましす(都のアケトアテンは,アテンの地平線という意味)。
 彼の時代には,従来の宗教的な縛りがなくなったため,写実的なアマルナ様式の美術(アマルナ美術【京都H22[2]】【本試験H29クフ王の時ではない】【中央文H27記】)も栄えます。

 しかし,改革はたったの1代で失敗【本試験H12アトン信仰は〈イクナートン〉の死後も長く信じられていない】。彼の子〈トゥトアンクアテン〉は〈トゥトアンクアメン〉(位前1333~前1324)(注)と改名し,都もメンフィスにうつされました。1922年イギリスの〈カーナヴォン卿〉に支援された考古学者〈ハワード=カーター〉が黄金のマスクを発見し,いわゆる“ツタンカーメン”として知られています。“発掘関係者が早死にした”とか“ツタンカーメン暗殺説”など,古代のミステリーとしてしばしば取り上げられるファラオでもあります。彼の死後,王朝は混乱に向かいました。

 なお,「〈アメンホテプ4世〉が人類初の一神教の創設者で,これがのちにユダヤ教に伝わっていった」というストーリーは,精神分析学者の〈フロイト〉(1856~1939)のものなどが有名ですが,確証はありません。


 第19王朝【追H26古王国時代ではない】の〈ラムセス2世〉(位前1279~前1212)(注) 【中央文H27記】はシリアのカデシュでヒッタイト王国【追H26】と戦いましたが,勝敗のつかぬまま条約が結ばれました。このときヒッタイト王〈ハットゥシリス3世〉(前1275~前1250)は,エジプトのファラオと,シリアの領有権について取り決め,「相互不可侵」を約束しています。さらに,ヒッタイト王は2人の娘を〈ラムセス2世〉に嫁がせることで,平和を確保しました。〈ラムセス2世〉はエジプト最南端のアスワンに4体の巨大な石像で有名なアブシンベル神殿の建設や,テーベ(テーバイ)北部のカルナック神殿のオベリスクなどを建立しています。アブシンベル神殿は,アスワンハイダムによる水没を防ぐために,1960年代に国連教育科学文化機関(ユネスコ,UNESCO) 【本試験H10 1944年のブレトン=ウッズ会議で設立が決められたわけではない】が移築させています。

 第20王朝の〈ラムセス3世〉(位前1186~前1154)のとき,地中海方面からヒッタイトも滅ぼしたとみられる「海の民」(シー=ピープルズ)の進出を受けました。彼はこれを撃退しますが,王朝はその後分裂して衰えていきます。「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。

(注1) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注2) (注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。


 古代エジプトの文字はパピルス(水辺に生えるカミガヤツリという植物の一種) 【本試験H15】に書かれました。パピルスに適した書体として,前2800~前2600年頃,ヒエログリフ(神聖文字) 【東京H11[3]】【共通一次 平1】が考案されました。これを崩したのがヒエラティック(神官文字) 【東京H11[3]】,さらに崩したものがデモティック(民衆文字)です。ヒエログリフが解読されるのは,この文字が刻まれた碑文を,1824年に〈ナポレオン〉(1769~1821)の遠征隊が発見したときのことです。冥界の王オシリスの裁判【本試験H21・H24】に備え,死者を埋葬するときに棺に一緒に入れられた『死者の書』【本試験H9[18]図版ファラオの遠征,太陽暦,新王国時代の王の婚礼を描いたものではない】【本試験H15】の多くは,ヒエログリフ【本試験H15アラム語ではない】でパピルス【追H28竹簡ではない】【本試験H15】に書かれています。
 文字の誕生によって,ヒトは「目にはみえない考え」を文字にすることができるようになり,文字を生み出している“自分”という存在に目を向け,さらに生み出された文字によって逆に“自分”自身の考えをも豊かにしていくようになっていきます。例えば,名言などの言葉によって励まされたり,自分の考えを整理したりということもできるようになっていきます。また,“考え方”を他のヒトと共有することで,結束を深めたり,先祖代々の知識を仲間とともに積み上げていったりといったこともできるようになっていくのです。ただし圧倒的多くの人々には文字を読む力(識字能力)はなく,専門の教育機関で書字・読字を学んだ書記に限られていました。
 また,エジプトでは太陽暦【セA H30】が用いられています。





●前2000年~前1200年のヨーロッパ

◆ヨーロッパが鉄器時代に突入する
ヨーロッパにインド=ヨーロッパ語系の人々が到来
○前2000年~前1200年の東・中央・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


 前2600年~前1900年にかけ,ヨーロッパに初の青銅器文化(ビーカー文化)が生まれました。
 紀元前2000年頃には,インド=ヨーロッパ語族のバルト=スラヴ語派に属する,バルト語派の言語を話すバルト人が,バルト海東岸部に定住しています。現在のラトビア語,リトアニア語がバルト語派にあたり,インド=ヨーロッパ語族の古い時代の特徴を残している言語で,スラヴ語派とも近い関係にあります。
 地理的に「辺境」(へんきょう)にあたる北ヨーロッパに青銅器文化がみられるようになるのは前1800年頃のことです。


○前2000年~前1200年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆地中海北岸には交易で栄える小規模な都市国家が成立していく
 古代には,地中海を中心に一つの文化圏が生まれました。沿岸部を中心に都市が生まれましたが,大きな川がないので平野にめぐまれず,気候も乾燥しておりブドウやオリーブなどの果樹栽培や山羊などの牧畜が主流です。ブドウからは早くからワインが作られ,オリーブからはオリーブ油が製造されていました(ワインは水で割って飲んでいたようです)。したがってオリエントのように治水に必要となる強力な権力は生まれませんでした。農耕・牧畜を営むためには降水量も少なく土地も狭いため,地中海に繰り出して沿岸のオリエントの穀倉地帯から必要な物資を得るのは生きるために必要なことでした。



◆青銅器段階のクレタ文明が栄えたが,火山の噴火や資源の枯渇により滅ぶ
クレタ島が東部地中海交易の中心地として栄える
 前3000年紀からエーゲ海周辺には青銅器文明(エーゲ文明)が栄えていましたが,前2000年頃からバルカン半島と小アジアの中間地点に位置するクレタ島【本試験H16地図】で,おそらくインド=ヨーロッパ語系ではない人々(民族系統不明)が,クレタ文明〔ミノア文明;ミノス文明〕を生み出しました【本試験H16ミケーネ文明を滅ぼして成立したわけではない】(クレタ文明を「エーゲ文明」の中に含めることもあります)。
 彼らは伝説的な王〈ミノア〉王にちなんでミノア人と呼ばれ,オリエントやバルカン半島南部(ギリシア)を結ぶ中継交易の利をもとに各地の港を王が支配し,巨大で複雑な宮殿が各地に建設されました。
 このうちクノッソスにある宮殿【追H27クフ王が建てたのではない】【本試験H20ヒッタイトの遺跡ではない】は王の住居で,広場にある貯蔵庫には各地から生産物が貢納されており,集められた生産物は再度各地に再分配されていました。線文字A(ミノア文字)などの絵文字【本試験H16文字がなかったわけではない】が使われていたということは,これらの出し入れが記録されていたのではないかと考えられます(ただし未解読です)。青銅器文明であり,鉄器はまだ使用されていません【本試験H16鉄器は未使用】。

 遺跡がありますが城壁がない【本試験H5堅固な城塞はない】ことから,王は宗教的な権威によって支配していたとみられ,のちのミケーネ文明に比べると平和な文明であったと考えられます。
 クノッソス宮殿の王宮の壁画【本試験H5】(フレスコ画)や陶器の絵【本試験H5】には,明るいタッチでイルカ【本試験H5海の生物】の絵が描かれています。発掘したのはイギリスの〈エヴァンズ〉(1851~1941) 【本試験H5シュリーマンではない】【本試験H16クレタ文明を発掘した人物】で,後述の実業家〈シュリーマン〉【本試験H5エヴァンズとのひっかけ】の発見に刺激されて1900年に王宮を発見しています。



◆アカイア人により,ギリシャに青銅器段階のミケーネ文明が形成された
城壁をともなうミケーネ文明が栄えた
 バルカン半島南部のギリシアも,中央ユーラシアからのインド=ヨーロッパ語族の民族移動の影響を受けます。
 前2000年頃に北方から移住してきたインド=ヨーロッパ語族の古代ギリシア人(アカイア人【セ試行ドーリア人ではない】)によって,前1600年以降にギリシア本土(注1)にミケーネ(ミュケナイ),ティリンス,ピュロスなどの都市国家が建設されました。これをミケーネ〔ミュケナイ〕文明【セ試行,本試験H8文字はある】といいます。
 開放的なクレタ文明とは対照的に堅牢な城壁付きの王宮もみられ,地中海をまたいだ西アジアや北アフリカのオリエントの専制国家の影響を受けているとみられます(⇒新王国(前1567~1085?)/前2000~前1200北アフリカ)。
 発掘したのは19世紀ドイツの実業家〈シュリーマン〉(1822~90)です。前15世紀にクレタ島に進入して,これをを支配し,さらに小アジアのトロイア(トロヤ)にも勢力圏を広げました。クレタ文明の線文字Aをもとにして作られた,線文字B【本試験H8文字がなかったわけではない】(イギリスの建築家〈ヴェントリス〉(1922~56)が,第二次世界大戦時の暗号解読技術を駆使して解読しました)を用いていました。

 前1530年頃には,クレタ島の北にあるテラ〔サントリーニ〕島で火山が大爆発しました。
 この火山噴火がによりクレタ文明は甚大な被害を受け,衰退に向かいました(注2)。のちに古代文明が海底に沈んだとされる「アトランティス伝説」のモチーフになったともいわれます(のちに〈プラトン〉の著作がモチーフにしていますが,内容は史実に基づくものではありません)。



◆アカイア人の一派はイオニア人と呼ばれてアテネを建設することになる
エーゲ海沿岸でトロイア戦争が起きたと伝えられる
 なお,アカイア人の一部はイオニア人と呼ばれるようになり,のちにアテネ(アテーナイ(注3))という都市国家を形成していきます。
 また,アイオリス人【セ試行 スパルタを建設していない】もバルカン半島北部から南下し,紀元前2000年頃にはギリシア中部からエーゲ海のレスボス島,さらに小アジア(アナトリア半島)西部に植民していきました。のちにテーベ(テーバイ)という都市国家を形成していきます。
 のちに吟遊詩人〈ホメロス〉(前8世紀末?) 【共通一次 平1:〈アリストファネス〉ではない】【追H21『神統記』の著者ではない】が叙事詩『イーリアス〔イリアス〕』【共通一次 平1】,『オデュッセイア』で伝えるトロイア戦争は,ミケーネが小アジアのトロイア(英語でトロイ)に対して起こした戦争がモチーフになっているといわれますが確かな証拠は今のところありません。一説には前1250年頃の戦争がモデルではないかともいわれています。物語に登場する「トロイアの木馬」は現在トロイア遺跡に復元されていて中にも入れます。

 前2000年紀には,バルカン半島からトラキア人,フリュギア人が小アジア(アナトリア半島)に移動します。
 トラキア人はアナトリア半島のトロイア文化の担い手の一部ではないかともいわれています[芝1998:35]。
(注1)ギリシア本土とは,エーゲ海の島々や小アジア(アナトリア半島)を除いた,バルカン半島南部のギリシア人の世界を指します。
(注2) クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.20。ミケーネ文明滅亡の原因として、森林の消滅による環境破壊や耕地面積の消滅といった説もあります。以前言われていたような「ドーリア人」のや「海の民」の侵入による滅亡という説は否定されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.26。
(注3)古代ギリシア語では都市を複数形で呼ぶので,複数形の“アテーナイ”となります。現在の英語でもアテネはAthens(アス(θ)ィンズ)となり複数形です。




●前1200年~前800年の世界
生態系をこえる交流②
 ユーラシア大陸では,前2000年紀末から中央ユーラシア遊牧民の大規模な民族移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が再編される。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に定住農耕民エリアが広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸では,農耕・牧畜をおこなう人々のエリアが拡大し,定住または遊動しながら多様な生活が営まれている。

 北部の寒冷地域には,狩猟・採集を基本とする遊動民。
 乾燥草原地帯には,牧畜を基本とする騎馬遊牧民。
 内陸の乾燥地帯には,オアシスで定住農耕・牧畜を営む人々。
 大河流域には,気候に合わせた農耕・牧畜を営む人々。
 沿岸や海域の島々には農耕・牧畜・漁撈を組み合わせる人々。
 
 このような“棲み分け”が発達していき,相互に必要な物を交換するネットワークも形成されていく。

 軍事的には内陸の遊牧民のほうが優位であり,しばしば定住民エリアに進出し,経済的な資源をコントロール下に置こうとします。
 とくに「インド=ヨーロッパ語族」とされる遊牧民は波状的にユーラシア大陸沿岸方面に移動していく。南アジアに進出したインド=アーリヤ人,西アジアのイラン系の諸民族,ヒッタイトなどが代表例だ。
 東アジアでは黄河流域の殷(前17世紀~前11世紀頃)が,西方の勢力に滅ぼされる。当時の中国北方には,すでに中央ユーラシアの遊牧民の文化の影響が認められる。

(2) アフリカ 
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
  アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方には,農耕を導入した定住集落が出現し,チャビン=デ=ワンタルなどで神殿の建設も始まる。

(4) オセアニア
 オーストロネシア語族のラピタ人は,前1200年頃にはソロモン諸島の東部,前1100年頃(前1000年頃)にはニューカレドニア島,前1000年頃(前1100年頃)にはバヌアツ,前900年頃にはフィジー,前850年頃(前900年頃)にはトンガ,前750年頃(前800年頃)にはサモアにまで広がる。



 

●前1200年~前800年のアメリカ

 中央アメリカや南アメリカでは,農耕の導入された地域を中心に神殿などの公共建造物がつくられており,各地で経済をコントロールしようとしていた勢力の存在がうかがえます。神殿建設が農耕の開始よりも前に遡るという調査結果も出ており,何度も建てては壊しを繰り替えす「神殿更新」の習慣が,次第に生産力を刺激し,各地の社会的な統合を強めていったとみられます(注)。
(注)大貫良夫『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版,2010。

○前1200年~前800年のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
 北アメリカのパレオ=インディアン(現在のインディアンの祖)やパレオ=エスキモー(極北の狩猟採集民)は,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を送っています。




○前1200年~前800年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆メキシコ湾岸地域にオルメカ文化がおこる
メキシコ湾岸にオルメカ文化の都市群が栄える
 メキシコ湾岸地帯は年間を通して気温が高く降雨も多い熱帯気候。
 そんな地域に住む人々は前1400年頃,オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。発掘の先駆者はアメリカ合衆国の〈スターリング〉(1896~1975)です。
 多くの階段型ピラミッドをはじめとする記念建造物を建て,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像(巨石人頭像。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。ヘルメットをかぶったアメフト選手のような見た目です(その風貌からアフリカ系の人々と関係があるのではという説も,ないこともありません)。

 東部の都市ラ=ベンタ(前900頃~前400頃)は,湿地に浮かぶ小島につくられたオルメカ文化最大の計画都市。高さ34mのピラミッドはメソアメリカ最古です。玉座(ぎょくざ)や,ヒスイなど豪華な副葬品をともなう玄武岩の柱で覆われた墓が発見されています。
 ラ=ベンタの西のサン=ロレンソ(前1200頃~前900頃),西部のトレス=サポテスも大都市です。
 オルメカ文化では,正確な暦も制作されていました(注)。
 ジャガーを信仰するオルメカ文化の影響は,中央アメリカにまで及んでいます。
(注)青山によると,オルメカ文明の都市サン=ロレンソ近くで中央アメリカ〔メソアメリカ〕最古の文字が発見されています(青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007)。ほか,芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010参照。オルメカとは「ゴムの国の人々」という意味で,アステカ王国の人々の16世紀頃の呼称がもとになっています(同,p.24)。


◆ユカタン半島にマヤ文明がおこった
マヤ文明で定住農耕文明が栄える
 ユカタン半島の高地マヤ地域【追H26マヤ文明の位置を問う】【本試験H11地図上の位置を問う】では,すでに前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場がありました。
 マヤ文明が“ジャングルの奥地の文明”という神秘的なイメージは,250年~900年の古典期のもの。当時の気候ではマヤ地域は今よりも乾燥していて草原が広がり,集約的な農業が大規模に行われていたことが明らかになっています。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。

・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。



◆メキシコ南部のオアハカ盆地に定住農耕文明が栄える
オアハカ盆地に文明がおこる
 前1150年以降,オアハカ盆地のサン=ホセ=モゴデに文明がおこっています。担い手は現在のサポテカ人に通じる人々です(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.42。



◆メキシコ中央高原には定住農耕集落が栄える
 この時代のメキシコ中央高原には,狩猟・採集に加え,トウモロコシ農耕を基盤とするに定住農耕集落が栄えています。




○前1200年~前800年のアメリカ  カリブ海
 1492年にスペインに派遣された探検家・事業家〈コロン〉(コロンブス)が,バハマ諸島で出会ったアラワク語族のタイノ人は,まだカリブ海はいません。
 彼らの祖先にあたる人々(アラワク語族のアラワク人)は南アメリカ北部のベネズエラ,オリノコ川下流に分布していました(注)。
(注)アーヴィング=ラウス,杉野目康子訳『タイノ人―コロンブスが出会ったカリブの民』法政大学出版局,2004,p.63。



○前1200年~前800年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方では,地域ごとに農耕を導入した都市が栄える
チャビン=デ=ワンタルの神々への信仰広まる
 アンデス地方中央部の山地では,前1000年頃に標高3000メートル級のチャビン=デ=ワンタル(3150m)に都市が生まれました。
 内部に水路のある基壇状の構造物や石彫が特徴で,発掘したのは〈フーリオ=C=テーヨ〉です。柱の上にジャガーの頭をかたどった像(半分人間で半分ジャガーの“ジャガー人間”)が付けられたものや蛇の像が見られ,農業に必要な水の神への信仰だとも考えられます。
 この都市の文化と同じような様式の土器が各地でも発見されたため,「チャビン文化の担い手が,前1000年頃に南アメリカ一帯を統合した」とされたこともあります。
 しかし調査の進展により,チャビン=デ=ワンタルには,この時期以前に建設された神殿の遺構もあることや,「チャビン文化」とされてきたアンデス地方各地の文化にも多様性があることがわかってきました。

 例えば,この時期のアンデス地方中央部の北部沿岸の文化は,チャビン文化と考えられていましたが,それとは別のクピスニケ文化であることがわかっています。
 


 一般にイモは保存に向かないので,食料の蓄積が進まず,国家のような大きな組織はなかなか生まれにくいとされます。しかし,高地で栽培されたジャガイモは,寒さを利用して「チューニョ」と呼ばれるフリーズドライの状態にすると半永久的に保存することができます。また,トウモロコシは段々畑に灌漑水路を整備すれば高地でも十分栽培可能です。またアンデスの高地と沿岸の低地との間に魚介類と各地の農産物を交換する交易ネットワークも生まれています(南北アメリカ大陸では,ユーラシア大陸の東西ネットワークように南北間の交易ネットワークは大規模化しませんでしたが,高い所と低い所の間の交易は発達していったのです)。


(注)大河は都市国家の文明が成立する必要条件ではありますが,十分条件ではありません。パミラ・カイル・クロスリー(1955~,近代中国史家)が述べるように,《東アフリカや,南米のアンデス山脈のように,大河川が前提となっていないものもいる》(パミラ・カイル・クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』岩波書店,2012年,p.79)。



◆アマゾン川流域にも定住集落ができるようになった
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落ができるようになりました。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。

(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。





●前1200年~前800年のオセアニア

○前1200年~前800年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々は,前1300年~前1200年頃にビスマルク諸島から,島伝いに東へ移動していきました。
 彼らのことをラピタ人と呼びます。

 彼らは過酷な島の環境を知っています。気まぐれな移動ではなく,ブタやタロイモを船に乗せた計画的な植民でした。

 前1200年頃にはソロモン諸島の東部,前1100年頃(前1000年頃)にはニューカレドニア島,前1000年頃(前1100年頃)にはバヌアツ,前900年頃にはフィジー,前850年頃(前900年頃)にはトンガ,前750年頃(前800年頃)にはサモアにまで広がります(注)。約4000キロの距離をこれだけの短期間で移動したのは驚くべきことです。
(注)( )内の年代は,1960年代頃の移動仮説を再検討した結果を踏まえた,印東道子『島に住む島に住む人類―オセアニアの楽園創世記』臨川書店,2017,p.21~p.23による。

 彼らは島の気候に適応し,次第にポリネシア人としての文化を形成するようになります。
 20世紀に観光が資本主義と結びつき,「南の島」には“楽園”のイメージが結び付けられていきました。しかし,まわりが海で囲まれていて,作物の育つ土もわずかなさんご礁の島は,実は“沙漠”のような環境なのです。
 南太平洋の主食はイモです。湿潤な環境を好むタロイモと,乾燥を好むヤムイモ。それに,豚・犬・ニワトリの家畜の飼育が盛んです。ヤムが実ると収穫祭が行われ,ヤムが無いときにはパンノキやバナナを食べます。パンノキは果樹なのですが,ふかしてココナッツミルクで煮ると,お芋のような食感です。調理には土器を使わず,石で蒸し焼きするのが普通です。半分に切った竹で,葉にくるんだ食物の上に焼けた石を載せて熱します。しかし,サンゴ礁でできた島には十分に土がないので,ココヤシとかパンノキを栽培することが多いです。パンノキは発酵させて,食物不足に備えます。
 南太平洋の気候で新たな文化を生み出したポリネシア人の拡散は,サモアで一旦ストップします。
 この時点では,ニュージーランド,ハワイ,イースター島には,まだ到達していません。





○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前1200年~前800年の中央ユーラシア
◆中央ユーラシアは前1000年紀初頭から初期鉄器時代に入る
初期鉄器時代に入り,騎馬遊牧文化が花開く
 この時期にまでには中央ユーラシアの広い範囲の遊牧民たちは,似通った特徴を持つ文化を共有するようになっています。

 前9世紀~前8世紀にかけて,黒海北岸からカフカス山脈(黒海とカスピ海の間を横切るけわしい山脈)の北部にいた人々が,武装して馬にまたがる騎馬遊牧民文化を生み出します。

 痩せた土地,極寒の冬。
 草原や水場だけが頼りの環境で,彼らは考えます。

 「農業できないなら,馬飼えばいいじゃん」

 馬からは肉や乳は食用に,さらに骨と毛皮(毛皮からはフェルトが作られました)は移動に適した組立て式住居や衣服として有効活用されました。組立て式の家屋はいっけん粗末のようですが,保温に優れ,室内は過ごしやすいのです。

 もっとも古い時代の騎馬遊牧民は,前8世紀頃に南ロシア【追H25】で国家を築いたスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H7騎馬技術を発展させた初期の遊牧民か問う,本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【本試験H19時期】【追H25,H30中国東北部ではない】です。


○前1200年~前800年の中央ユーラシア  中央部・東部
 スキタイ人と同じような機能・デザインの馬具・武器を持ち,鹿石(しかいし)という石のモニュメント立てる儀式を持った文化が中央ユーラシア全域に見られるようになります。

 中国北方では1000年紀初めに本格的な遊牧がはじまっており,黄河が湾曲している地域のオルドスや夏家店上層文化に,初期遊牧民文化の痕跡がのこされています。例えば,西周の頃の中国北部の青銅器には,カフカス山脈北部でも発見されている青銅器の釜(ふく(金へんに复)という容器)と同じ特徴があります。


○前1200年~前800年の中央ユーラシア  北部
 なお,主に狩猟民として生活する道を選んだ人々も,中央ユーラシア北方の森林地帯には多くいました。狩猟と農耕・牧畜を組み合わせるスタイルもみられます。





●前1200年~前800年のアジア

○前1200年~前800年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,約1万年にわたって狩猟採集生活や漁労を中心とした縄文文化を営んでいました。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)
 この時期はこのうちの晩期にあたり,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがその中頃には完成していたと考えられています(注)。前8世紀以降の九州~本州西部への稲作の普及も,縄文時代の交易ネットワークのおかげともいえましょう。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。

・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現在の③中国
黄河流域に西周が栄える
 黄河の支流の渭水(いすい) 【本試験H6】に建国された周(前11世紀頃~前256,首都の移動とともに西周と東周に分かれる) は,だいたい前1050年頃,服属していた殷を滅ぼして【共通一次 平1】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】,鎬京(こうけい) 【共通一次 平1】【本試験H6】【本試験H28光武帝による遷都ではない】【追H25唐の都ではない】【セA H30華北かどうか問う】を都として黄河流域【共通一次 平1:華北か問う】を支配しました。殷の最後の〈紂王〉(ちゅうおう)は「酒池肉林」を地で行く暴君とされ,周の〈武王〉【追H9「文公」ではない】に攻撃されて,自殺しました。

 周の一族は姫(き)姓を称し,始祖(祖先神)は農耕(キビ=稷)の神〈后稷〉(こうしょく)です。「天」を崇拝し,王は「天子と呼ばれ,人々の意向を反映した「天」が,王に命を与えるのだと考えられました。「革命」という言葉は,もともとは「天」による「命」をあらため(革め)て,「王」の血筋が交替することを表したものです。すると王の姓が変わる(易わる)ので,「易姓革命」(えきせいかくめい) 【中央文H27記】といいます。
 殷代や周代の歴史は,後の漢人の王朝が「周」を理想の王朝とみなしたため,殷をおとしめ周を美化する内容であることが多く,新史料にもとづく実態の再検討がすすんでいます(そもそも,当時の人々は漢字という記号に魔力のようなものが備わっていると感じていたとみられ(注),漢字を使いこなして宗教儀礼や文書行政をおこなう漢人の文化は,黄河流域だけでなく次第に南方の長江流域でも “憧れ”と“畏怖(いふ)”の存在となっていくのです)。
(注)この傾向は,漢字に限ったものではありません。


 〈武王〉は即位すると数年でなくなったので,次に第2代の〈成王〉(前1021?~前1002?)が即位しましたが年少だったので,〈周公旦〉(しゅうこうたん,前1043?~前1037?)が補佐しました。周の制度を,殷の制度をもとにして整備したのは,彼の業績です。周の天子は血縁関係のある一族や,功臣(手柄のあった部下)に領地を与え,諸侯(しょこう)とし,忠誠を誓わせました。領地を「封土(ほうど)」といい,官職とともに采邑 (さいゆう,土地と人民)が与えられました。諸侯は国君(こっくん)として都市とその周辺を支配し,臣下を卿(けい) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】,さらに彼らが領地を分け与えた士【追H28元代ではない】【共通一次 平1】のように階層的に組織しました。卿と大夫は有力貴族階級で,世族(せいぞく)とも呼ばれます。このような土地による結びつきをもうけることを「封建」(ほうけん)といい,与えられた土地は代々受け継がれました(注1)。

 周は自国の直轄地を「夏」とか「中土」と呼んでいます。これはのちに「夏」→「華」→「中華」(5世紀前半の『後漢書』で初めて使われる表現です),「中土」→「中国」と変化していきます。それとともに,自分たち周人の文化を受け入れた地域を指すようになって,拡大していきました。

 氏族のまとまりを維持するために,宗法【東京H29[1]指定語句】【共通一次 平1】【本試験H15,本試験H17六諭ではない】という決まりが守られ,宗族(そうぞく)【本試験H15三長制とは無関係,本試験H26豪族ではない】と呼ばれる一族(氏族共同体) 【共通一次 平1「地縁的秩序を守ろうとするもの」ではない】の長老が祖先の霊をまつるための儀式をとりおこないました。中国人の祖先崇拝は,ここに起源をもちます。諸侯は,土地を与えてくださった王を,天の神の命令を受けた「天子」として尊重し,国家の祭祀や軍事行動に参加することで支えました。
 しかし,時間がたつにつれ,せっかく天子に与えられた“ありがたい”封土は,いつしか“あたりまえ”のものになってしまうのが世の常です。
 第4代〈昭王〉の南征の失敗が西周の衰退へのターニングポイントでした(注2)。
 第5代の〈穆王〉(ぼくおう,前985?~前940)のころに領土拡大が終わると,卿や大夫といった貴族階層どうしの封土の取り合いや支配権をめぐる争いも起きるようになります。

 これをやめさせようとした前842年には〈厲王〉(れいおう)が追放されてしまうと,前841~前828年(注3)に王のいない時期になりました。『史記』ではこの頃から年代が記載されているので,中国はここから「歴史時代」に入ったといえます。
 『史記』によるとこの時期に〈周公〉と〈召公〉が「共に和して」政治を行ったということです。王のいない政治を「共和政」というのは,このことが語源です。

 しかし,〈宣王〉(前827~前782)の代から王は復活しましたが,その後王位をめぐる内紛が起きます。この内紛が長引き,同時に西方の遊牧民である西戎との抗争もあって,前8世紀には周は拠点を鎬京から東に移動させることになります。

(注1) この「封建」が、のちに中世ヨーロッパの「フューダリズム」(feudalism)の訳語として使われるようになりましたが、もともとの「封建」の意味とは異なり、土地所有のあり方に関する使われ方をされることが多い言葉です。
 もともと、周王朝は殷王朝を滅ぼした後、各地に諸侯の国を建てました。これを「諸侯を封建した」と表現します。ただし、その範囲は当初は中原(ちゅうげん)という狭い範囲に限られていました。漢代になると、漢字圏である天下の中すべてが皇帝の統治し王道を敷くものととされるようになり、天下の9つの州を天子と8人の方伯で治めた大国どうしの関係が「封建」とと再規定されることとなりました(歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.12-13)。
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。卿というのは、大夫の中でも執政を担当する者を指します(同、p.126)。その運用のされ方については、後に周代の政治が「中国の理想」とされるようになったことから内容が盛られているところもあり、議論があります(同、pp.126-127)。五等爵(公侯伯子男)についても同様です(同、p.128)。儒家が後代に理念化したことが影響していて、『周礼』は特に扱いに注意が必要です(同、p.134)。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。




・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現在の⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮半島では櫛目文土器に代わり,前1000年頃から無文土器が製作されるようになり,青銅器の使用も始まります。



○前1200年~前800年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

 ヴェトナム北部では,前1000年紀の前半から青銅器の使用が増えていきました。金属は武具として用いられ,稲作農耕の道具としては石や木が用いられました。ニワトリや牛といった家畜を飼って,狩猟・漁労・採集もしていたようです。この文化は,やがて前4世紀頃から中国や東北タイの影響を受けてドンソン文化に発展していきます。




○前1200年~前800年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
アーリヤ人が南下し,ドラヴィダ人を支配する
 パンジャーブ地方に半定住生活を営んでいたアーリヤ人は,前1000年頃から,もっと豊かなガンジス川への移動を開始し【本試験H21】,農耕を営むようになります。この頃,前1000年~前600年を後期ヴェーダ時代といいます。

 彼らはヤムナー川とガンジス川上流域に定着しつつ,ヒマラヤ山脈方面の森林を伐採しながら東に進んでいきました。
 乾燥地帯であるインダス川流域よりも,モンスーン(季節風)の影響を受け降雨にめぐまれたガンジス川流域のほうが魅力的だからです。
 この過程で,アーリヤ人は乾燥草原での牧畜民時代の信仰を残しつつ,先住のインド人の信仰にも影響を受け,自分たちの思想に取り込んでいくようになります。

 前1000年頃には鉄器があらわれ,前800年頃から普及します。先住民から稲作を学び,牛に犂(すき)を引かせて農業生産性を高めました。
 農業生産性が高まると,人口密度も高まり,余剰生産が生まれると,支配階級が形成されていきました。この時期には,各部族の社会が複雑化して国家を形成するようになり,ラージャン(王)が出現しました。人々を納得させるため,バラモン(司祭階級)による儀式が利用されました。軍事的・政治的に王を支えることで,支配階級になろうとした者たちはクシャトリヤ(クシャトラ(権力)をもつ者) 【本試験H26ヴァイシャではない】【追H24非自由民の呼称ではない】と呼ばれるようになります。しかし,この段階ではまだ都市も貨幣もみられません。

 やがて,前9~8世紀に,ガンジス上流のクル族内の王位をめぐる内紛が,叙事詩『マハーバーラタ』【追H26イランの自然神の讃歌集ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】の伝える戦争に発展しました。
 この時期に『サーマ=ヴェーダ』(賛歌の歌や旋律をまとめたもの),『ヤジュル=ヴェーダ』(祭りの詞をまとめたもの),『アタルヴァ=ヴェーダ』(呪詞をまとめたもの)がつくられました。他にも,儀式の規定についてのブラーフマナ(祭儀書),哲学的な解説のウパニシャッド(奥義書)も成立しました。



◆インド=ヨーロッパ語族が生んだ,インドのバラモン教とイランのゾロアスター教
インドのアスラ(阿修羅)とイランのアフラは”双子”
 アーリヤ人のこうした祭儀をバラモン教【追H9インダス文明の信仰ではない】といいますが,火を通じた神への祈祷の方式や神々のルーツをみてみると,ペルシア人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】の信仰したゾロアスター教【本試験H4仏教はゾロアスター教の成立に影響を与えていない】【追H9伝播経路を問う(アラビア半島からインド洋を横断してインドに伝わったわけではない),追H29中国から伝わったのではない】【中央文H27記】との共通点が認められます。

 しかし,時を経るうちにもともとは善神(良い神様)として信仰されていたアスラは,インドでは悪神(悪い神様)とみなされるようになったのに対し,イランではアスラが「アフラ=マズダ」(善神)としてまつられるようになります。
 共通のルーツを持ち“双子”の関係にあるインドとイランでは,神に関する知識の“読み替え”が生じていき,それが民族性の違いとなっていくのです。




○前1200年~前800年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


◆「海の民」の大移動と,セム系民族による交易の発達で,オリエントでは大国の時代が終わる
前12世紀の東地中海全域が大混乱におちいる

 前1200頃~前1150頃にかけ,地中海周辺では“青銅器時代”が幕を閉じ,“鉄器時代”に移行します。この変動期に関する史料は少なく,非常に混乱した時代だったと考えられています(“青銅器時代の崩壊”)。
 エーゲ海から海の民(海の諸族;Sea Peoples)と総称される諸民族が地中海東部に進出し,ヒッタイトやシリア,パレスチナ,エジプト新王国を攻撃したと考えられています。
 「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています(注)。

 小アジアでは,前1200年頃にヒッタイト王国が滅びました。
 従来はこれによりヒッタイト王国の独占していた製鉄技術が周辺諸国に拡散したという説がありましたが,現在ではヒッタイト王国滅亡以前から西アジア一帯に製鉄技術が広まっていたことが明らかになっています。
 ヒッタイト王国では,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車ではなく,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました。この二輪戦車には6本のスポークが付けられていました。
 バルカン半島からわたったインド=ヨーロッパ語族のフリュギア人(⇒前1200~前800のヨーロッパ>バルカン半島)がアナトリア半島中央部に東西交易ルートをおさえて勢力を伸ばし,西部にリュディア人がサルディスを都に発展しました。
(注) ミケーネ文明が滅亡後、ギリシアから流出した集団とみる説もあります(エジプトを襲った「海の民」は、パレスチナに定住してペリシテ人となり、彼らがミケーネ様式の土器を継承していることから)。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年。古山正人・本村凌二「地中海世界と古代文明」『岩波講座世界歴史』4、岩波書店、1998年を引いて。



 メソポタミア北部では,ヒッタイトの攻撃によりミタンニ王国が衰えると,支配下に置かれていたアッシリア人が自立し,アッシリア王国が再建されました。前1115年に即位した〈ティグラトピレセル1世〉(前1115~前1077)は都をニネヴェ【東京H18[3]名称と地図上の位置】にうつし,領域を拡大。征服民の強制移住政策を行ったのはこの時代です。アラム人の活動が活発化する中、アッシリアの公式記録はアッカド語(粘土板に楔形文字)とアラム語(羊皮紙にインクで)の2言語で記されるようになりました(注)【H30共通テスト試行「戦車と鉄製の武器を用いて、オリエントを統一した」とあるのはおそらくアッシリアのことであり、アテネのことではない】。

 しかし,さらに北部のティグリス川とユーフラテス川の源流にあたるアルメニア高原では,前1000年頃にウラルトゥ王が小王国を統一しビアイナ王国を建国しました。このウラルトゥの王国が強大化し,アッシリアの地中海に向けた通商路をふさいだために,アッシリア王国は以後200年間は衰退期に入るのです。

 メソポタミア南部のバビロニアでは,バビロンを巡ってカッシート(カッシト)人の王朝が前1155年にイラン高原南部のペルシア湾岸を中心とするエラム人により滅ぼされると,イシン第二王朝(前1158~前1026)が覇権を握りました。この王朝はエラム人の首都スーサを攻撃し,彼らが持ち去ったバビロンの主神マルドゥク像を奪い返しています。
 しかし,のちにシリア方面からアラム人が進出して混乱。アラム人はオリエント全域に陸上交易の拠点を持ち,各地にネットワークをつくって交易ルートを支配しました。彼らは統一国家をつくることはありませんでしたが,その商業的影響力によりアラム語【東京H10[3]】はこの時代の西アジアにおける国際共通語(リンガ=フランカ)になっていきました。

(注) こういったところにアッシリア王国の「厳しい側面」だけでなく、広大な領域の統治のため、「現地語主義や異文化理解をはかりながら巧妙に統治するアッシリアの姿」がうかがわれます。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年を引いて。



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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン、イラン
◆イランではペルシア湾岸のエラム人が強大化する
イランで〈ゾロアスター〉が宗教改革をおこす
 イラン方面では,ペルシア湾岸のエラム人が前13世紀半ば強大化し,前12世紀頃にメソポタミアへの進出を繰り返していました。
 メソポタミア南部のバビロニアでは,バビロンを巡ってカッシート(カッシト)人の王朝が前1155年にイラン高原南部のペルシア湾岸を中心とするエラム人により滅ぼされると,イシン第二王朝(前1158~前1026)が覇権を握りました。この王朝はエラム人の首都スーサを攻撃し,彼らが持ち去ったバビロンの主神マルドゥク像を奪い返しています。
 しかし,のちにシリア方面からアラム人が進出して混乱。アラム人はオリエント全域に陸上交易の拠点を持ち,各地にネットワークをつくって交易ルートを支配しました。彼らは統一国家をつくることはありませんでしたが,その商業的影響力によりアラム語【東京H10[3]】はこの時代の西アジアにおける国際共通語(リンガ=フランカ)になっていきました。



 イラン高原には,インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ系の諸民族(「アーリヤ人」)が分布しています。前1000年頃には,イラン高原の東北部(カザフスタン説もあります)出身の〈ゾロアスター〉(生没年不詳,前12世紀頃?(注)),が,アーリヤ人の多神教を改革し,ゾロアスター教を開いたとされます。

 〈ゾロアスター〉の思想は,こうです。この世界は最高神〈〉
(注)青木健『古代オリエントの宗教』講談社,2012。

 ゾロアスター教は,西方のキリスト教に対抗する意味合いから,紀元後にはハッキリと二元論的な色彩を強めていきます。

 最高神であったアフラ=マズダは善神に変化し,この世は善神アフラ=マズダ【本試験H30ヤハウェとのひっかけ】と暗黒神アーリマンが限りなく戦う場であるとみなされます。
 最後の審判【本試験H24キリスト教に影響を与えたことを問う】の際に,楽園に入れるのだという善悪二元論【H29共通テスト試行 ユダヤ教の特徴ではない】【H29共通テスト試行 神によって選ばれた民が救済されるわけではない】です。
 この「最後の審判」の考え方は,ユダヤ教やキリスト教にも影響を与えたとされています【H29共通テスト試行 輪廻転生の考え方にはたたない】。
 聖典は『アヴェスター』【追H28パルティアの時代に編纂されたか問う】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない,H29共通テスト試行 『旧約聖書』『新約聖書』は聖典ではない】といいます。

 儀式の際に司祭が火【H29共通テスト試行 火を尊ぶのはユダヤ教の特徴とはいえない】をけがさないようにマスクを着用する光景は,火そのものを拝んでいるように映ったため,のちに中国で「拝火教」と呼ばれることになります。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン
◆アラビア半島でラクダが家畜化され、対象交易が始まる
アラビア半島の南北がラクダキャラバンで結ばれる
 アラビア半島では12世紀頃に荷駄を負わせることができる鞍(くら)が考案されました。
 その結果、文明の先進地帯であったアラビア半島北部と、南部が結ばれるようになりました。

 隊商交易ルート(「香料の道」)沿いのオアシスには都市も生まれ、小国家を形成するものも現れます。隊商にラクダを提供して護衛・ラクダ引きにあたった遊牧民と、オアシスに定住する隊商の人々をまとめる存在が必要となったのです(注)。

(注)「香料の道」というのは、南アラビアの特産品が乳香(にゅうこう)であったためで、地中海東岸~南アラビアのルートと、ペルシア湾岸~南アラビアの2ルートが重要です。この時期のラクダ交易の隆盛と、この時期初めに地中海東岸を襲った破局的な出来事(「海の民」の襲来)との因果関係はわかっていませんが、蔀勇造は「新勢力の台頭が経済を活性化させ、アラビア半島も含めた諸地域間の交易活動に与えたインパクトが、新しいラクダ鞍の開発の遠因となったということも十分考えられる」と述べています。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、pp.7-8。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア
◆シリア,パレスチナを拠点にセム系の民族が栄える
陸上交易はアラム,海上交易はフェニキア
 シリア,パレスチナをめぐっては長い間,小アジアのヒッタイト,メソポタミアのバビロニア,エジプトの新王国による争奪戦が繰り広げられていました。しかし,「海の民」によりいずれの国家も衰えると“権力の空白地帯”となったこの地域で,交易に従事したり独自の文化を発展させたりする民族が出現しました。
 内陸部のダマスクス【京都H22[2]地図上の位置】を中心にアフロ=アジア語族セム語派のアラム人【京都H22[2]】【本試験H16フェニキア人ではない】が内陸交易で王国(アラム王国)を築きました。沿岸部では,ミケーネ文明に代わって発達したフェニキア人【セ試行】【本試験H2ヘブライ人の都市ではない,本試験H6】【追H28ダマスクスが拠点ではない、H29地図(勢力範囲を選ぶ。ギリシア人の勢力範囲とのひっかけ)】がシドン【セ試行 フェニキア人】【本試験H6】やティルス【セ試行 フェニキア人】【本試験H2,本試験H6】【追H28ダマスクスではない】【本試験H16ダマスクスではない】といった東地中海沿岸の植民市を拠点に地中海交易で栄えます。地中海沿岸で栽培されるオリーブオイルは,灯りの燃料,化粧品(スキンローション),調理用のオイルとして重要な交易品でした。

 パレスチナでは,アフロ=アジア語族セム語派のイスラエル(ヘブライ)人が強大化します。彼らは前1500年頃に移住したとされ,一部はエジプトに移住しました。しかし,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫とされる〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。〈モーセ〉は途中シナイ半島のシナイ山で,神との契約を交わしたとされます(注)。
(注)このときの契約はのちに成文化され,『旧約聖書』を構成する「出エジプト記」にあります。日本語では「十戒」(じっかい)と呼ばれ,その内容は次の通り。(1) ヤハウェのほかなにものをも神としないこと,(2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと,(3) 安息日を記憶してこれを聖とすること,また他人に対する愛について,(4) 父母を敬うこと,(5) 殺さないこと,(6) 姦淫しないこと,(7) 盗まないこと,(8) 偽証しないこと,(9) 他人の妻を恋慕しないこと,(10) 他人の所有物を貪らないこと。

 『旧約聖書』の記述に従えば,イスラエル人は「士師」(しし,裁く人(Judge)という意味)という指導者を中心に,海岸付近のペリシテ人【東京H18[3]】(「海の民」?)やカナーン人を撃退した後,〈サウル〉(前10世紀?)が王政を開始しました。これをイスラエル王国(ヘブライ王国) 【中央文H27記】といいます。
 前1000年頃,ヘブライ人は,ペリシテ人を打ち払ったとされる〈ダヴィデ〉(位前1000年?~前960) 【東京H18[3]】と〈ソロモン〉(在位前960?~前922?) 【追H19モーセではない、H21モーセやキュロス2世ではない。パレスチナのヘブライ人の国王かを問う】のときに最盛期を迎えますが,〈ソロモン〉がなくなると南部がユダ王国【中央文H27記】として分離しました。このあたりの記述については史料が乏しいこともあり,『旧約聖書』や伝承に依拠せざるをえない状況です。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑯キプロス

 シリア沖に浮かぶキプロス島は,銅の産地として知られ,混乱が収まると交易活動が盛んになっていきました。


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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 メソポタミア北部では,ヒッタイトの攻撃によりミタンニ王国が衰えると,支配下に置かれていたアッシリア人が自立し,アッシリア王国が再建されました。前1115年に即位した〈ティグラトピレセル1世〉(前1115~前1077)は都をニネヴェ【東京H18[3]名称と地図上の位置】にうつし,領域を拡大。

 しかし,さらに北部のティグリス川とユーフラテス川の源流にあたるアルメニア高原では,前1000年頃にウラルトゥ王が小王国を統一しビアイナ王国を建国しました。このウラルトゥの王国が強大化し,アッシリアの地中海に向けた通商路をふさいだために,アッシリア王国は以後200年間は衰退期に入るのです。





●前1200年~前800年のアフリカ

○前1200年~前800年のアフリカ  西アフリカ・東アフリカ・南アフリカ・中央アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 前1000年頃から後12世紀頃までにかけ,バントゥー語系の住民が西アフリカから,東アフリカや南アフリカにかけて大移動を開始します。現住地は現在のカメルーンとナイジェリア国境地帯とされ,サハラ沙漠の乾燥化や,中央アフリカ熱帯雨林のサバンナ化の影響によるものと考えられていますが,原因は明らかではありません。
 バントゥー語系の人々は,東西の二手に分かれて鉄器とともに南下しました。家畜化した牛を引き連れ,ヤムイモ,モロコシ(ソルガムともいいます)とアワの栽培を広めながら,サバンナを南へ南へと移動していきました。



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○前1200年~前800年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
  …各地の君侯が自立する時期。

エジプトは海の民の襲撃後に衰退する
 エジプトに移動した「海の民」(Sea Peoples)は,新王国時代の〈ラムセス3世〉により前1175年頃に撃退されます。
 しかしその後,王(ファラオ)権の衰退が始まります。
 この「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。

 新王国では次第にアメンをまつる神官団の力が強まり,ファラオの権力が衰退。第20王朝(前1185?~紀元前1070?)の滅亡とともに,新王国時代のエジプトの統一は終わりました。

 ここからを第三中間期といいます。
 第21王朝は下エジプト(ナイル川下流)のタニスを中心に樹立されました。
 一方、テーベにはアモン神官団が第21王朝の支配から独立する勢力を築いていました。

 続く第22王朝は(前945~前715)は、第21王朝(前1069~前945年)に仕えていたリビア人の傭兵の末裔による王朝で、〈ショシェンク1世〉によってエジプトが再統一された格好です。
 この王(ファラオ)はパレスチナにも遠征しています。



エジプトが衰退するとヌビアの勢力が拡大する
 エジプトが衰退に向かうその時,ナイル川中流のナパタ(第4急流から,やや下流にある都市)を中心としてヌビア人の勢力が拡大します。
 ナパタではもともと新王国時代にエジプトの文化的な影響を受け、アモン信仰が広まり、王もファラオを称していました。







●前1200年~前800年のヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

○前1200年~前800年のヨーロッパ  東・中央・西・北ヨーロッパとイベリア半島
 青銅器時代に入っていたこの地域の人々は「ケルト人」【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】と総称され,前1200年頃から現在のフランスから東ヨーロッパのチェコ,スロバキア,ハンガリーにかけて共通の文化を生み出していました。これをハルシュタット文化といい(前1200年頃~前500年頃),のち前800年以降に鉄器文化に移行することになります。
 「ケルト人」は前1000年を過ぎたころにはピレネー山脈を越え,イベリア半島にも移動しています。イベリア半島には先住のイベリア(イベル)人が分布していました。

(注)以下,地中海に面する南ヨーロッパはイタリア半島周辺とバルカン半島周辺に分けて整理します(イベリア半島は前出の「西・北・東ヨーロッパ」に含めます)

 イタリア半島にはすでにエトルリア人【追H21】が分布していましたが,前1000年頃,インド=ヨーロッパ語族の古代イタリア(イタリック)人が,イタリア半島に南下しました。イタリア人の中には,のちにローマを建国するラテン人【セ試行】も含まれています。


○前1200年~前800年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

ギリシア本土
◆ギリシャに鉄器が伝わり,混乱期を経て都市国家(ポリス)が形成される
大河なき山岳地帯に都市国家(ポリス)が生まれる
 前1200年頃,ミケーネ(ミュケナイ)文明を構成していたミケーネ(ミュケナイ),ティリンス,ピュロスなどの諸王国は次々に崩壊してしまいます。前1200年頃はヒッタイト王国が崩壊しエジプトを「海の民」(Sea People)が襲撃した時期にあたりますので,海の民による襲撃が滅亡原因ではないかという説もあります。
 ミケーネ(ミュケナイ)人に代わり,東地中海で商業活動を活発化させていったのはシリアの地中海沿岸に,テュロスやシドンなどの都市国家を建設したアフロ=アジア語族セム語派のフェニキア人です。
 シドンからの植民者は,伝承では前814年に現在のチュニジア【セ試行シチリアではない】にカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴが接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】という都市国家を建設しました。地中海を東西に射程範囲におさめることのできる,戦略上きわめて都合の良い港を獲得した形です(◆世界文化遺産「カルタゴの考古遺跡」,1979)。
 フェニキア人は地中海に反時計回りの海流があることを見抜き,各地に植民市を建設し【セ試行アフリカ北岸からイベリア半島東岸にかけての地域か問う】,ブリテン島(現在のロンドンがあるイギリスの島)のスズ(青銅器の製造に用いる)や,イベリア半島でとれる銀を地中海東部へと輸出して巨利をあげていました。

 ミケーネ(ミュケナイ)文明の崩壊した頃,西北方言群であるドーリア方言を話すドーリア人が南下しました。彼らは,ミタンニ王国やヒッタイト王国から伝わった鉄器をギリシア本土に持ち込み,前13世紀末~前12世紀初めにかけてギリシアは鉄器文化に突入することになります。この頃のギリシアでは混乱により文字の記録がわずかとなったため,“暗黒時代”(初期鉄器時代)と呼ばれます。
 前2000年以降ギリシア本土に南下していた先住のギリシア人である,アカイア人の一派イオニア人や,別系統のアイオリス人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】は,バルカン半島から小アジアやエーゲ海に浮かぶ島々に移動していきました。

 戦乱の中,各地では有力者が武装して集団で定住(集住;シュノイキスモス)し,農耕地帯を含めた都市国家(ポリスといいます)【セ試行】を各地で形成し,地中海の交易活動にも従事して,前800年頃には新たな特色を持つギリシア文明の担い手となっていきます。
 ポリスというのは華々しいイメージがあるかもしれませんが、貧しさゆえに集住したのです(注1)。

 ただ、ギリシアのすべての地域がポリスを形成したわけではなく、「エトノス」といわれる諸集落がゆるやかな枠組みの国家を形成した地域もありました(注2)。

(注1) ヘロドトスは『歴史』において、「ギリシアにとってつねに貧困はともに育った兄弟のようなものである」という、スパルタ王の言葉を引いています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.27。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.27。

●前800年~前600年の世界
生態系をこえる交流③
 ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展する。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 中央ユーラシアの騎馬遊牧民勢力が台頭し,黒海北岸のスキタイ(前8~前3世紀)遊牧国家のように,経済的資源をコントロール下に置き,軍事組織・宗教組織を含めて政治的に統一する勢力も出現する。

 東アジアでは,黄河流域に周(西周(前1046?~前771))が都市国家群を軍事的・宗教的に従えて,政治的な統合を進める。周辺の遊牧民とは,協力・競合関係にあった。
 南アジアでは,インド=アーリヤ人がガンジス川流域に政治的統合をすすめ,バラモン教を支配原理としていた。
 西アジアでは,メソポタミア北部のアッシリアが軍事的に強大化し,一時的に西アジアからエジプトにかけての広域を統一する。
 ヨーロッパでは地中海周辺に,局地的に政治的な統合が進んでいる。

(2) アフリカ 
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
  アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
 バンツー系の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方(チャビン=デ=ワンタルなど)には,農耕を導入した定住都市が栄える。

(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まる。





●前800年~前600年のアメリカ
○前800年~前600年のアメリカ  北アメリカ

○前800年~前600年のアメリカ  中央アメリカ
◆メキシコ湾岸にオルメカ文化が栄える
オルメカ文化の影響は中央アメリカ各地に広がる
 メキシコ湾岸地帯のオルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)では,ラ=ベンタ(前900頃~前400頃)などに大都市が栄えています。

◆ユカタン半島にマヤ文明【H18アステカ帝国ではない】が発達する
 この時期,ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11】【追H30ロゼッタ=ストーンとは無関係】の文明は先古典期の中期にあたります(注)。
 神殿ピラミッドは,前700年~前400年頃から建造され始めています。
(注)
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)
 (実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23)

◆メキシコ南部のオアハカ盆地にサポテカ人の文明が栄える
 オアハカ盆地には,サポテカ人の文明が栄えています。

◆メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄える
 メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄えています。


○前800年~前600年のアメリカ  南アメリカ
◆アンデス地方では各地に神殿をともなう文化が栄える
農耕を基盤に,神殿をともなう都市が栄える
 南アメリカ大陸では,アンデス中央部の高地で都市チャビン=デ=ワンタルが栄えています。経済の基盤はトウモロコシやジャガイモの農耕です。
 アンデスの北部沿岸ではクピスニケ文化が栄えています。経済の基盤は沿岸部での海産物の採集・漁撈から,河川流域での灌漑農耕に比重をうつしています


◆アマゾン川流域でも定住が営まれている
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落が営まれています。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。


(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。







●前800年~前600年のオセアニア

○前800年~前600年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。ラピタ文化を共有していた地域は,ニューギニア島北東のビスマルク諸島から,西へソロモン諸島~バヌアツとニューカレドニア~フィジー~トンガとサモアまでです。彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。
 ラピタ人の拡大は,サモア付近で一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族につながる文化を生み出していくようになります。




○前800年~前600年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前800年~前600年の中央ユーラシア

○前800年~前600年の中央ユーラシア  西部
 前9~前8世紀にかけて,中央ユーラシアの遊牧民は,青銅器製の馬具や武器を用いた文化を発展させていました。
 前7世紀にはいよいよ,黒海北岸(南ロシア)【追H25,H30中国東北部ではない】でスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【追H25】が騎馬遊牧文化を発展させました。言語的にはイラン系です。

 騎馬遊牧民は機動性が高く,戦闘が不利になった場合には騎乗をしない農牧民と違ってすぐさま退却することが可能でした。また,圧倒的な軍事力を背景に各地で商工業・農耕を営む人々をしばしば傘下(さんか)に入れ,お互いが利益となるような提携関係を結んだり,提携が破綻すれば激しく攻撃したりしました。それゆえ騎馬遊牧民の支配領域では,服属下に置いた他の騎馬遊牧民集団や,さまざまなバックグラウンドを持つ民族をも含み持つ混成的な社会が生まれました。

 スキタイ人の動きは〈ヘロドトス〉【東京H22[3]】【本試験H31】【追H21】の『歴史』【追H17ペルシア戦争の歴史を叙述したか問う、H21神統記ではない】や,当時のアッシリア王国の粘土板文書によって明らかになっています。彼にとっては,農業をせずに家を運びながら生活するスキタイ人の生活は目からうろこでした。
 『歴史』によれば,マッサゲタイ人に攻撃されたため,ヴォルガ川を渡り黒海北岸に移動し,先住のキンメリア人を打倒しました。キンメリア人の残存勢力がカフカス山脈からイランに南下すると,スキタイ人もそれを追ってイランに進入しました。

 当時,西アジアを統一していた農牧民の建てたアッシリア帝国は,北方のウラルトゥ王国やキンメリア人の勢力を恐れ,スキタイと同盟を組みました。アッシリア王の〈エサルハッドン〉(位前680~前669)は,スキタイの娘と結婚しています。アッシリアに限らず,西アジアの農牧民による諸国家は,遊牧民の戦闘能力を買って,さかんに傭兵として招き入れていました。
 スキタイ人はいくつかのグループに分かれていたとされ,一部はやがて東ヨーロッパやバルカン半島にも移動することになるスラヴ人の祖先ではないかとも考えられています。

 スキタイ人は動物文様が有名で,馬具や武器に見られます。これらは,スキタイ人が中央ユーラシアの東部から受け入れたのではないかともされています。動物文様を持つ金製の装飾品も有名です。

○前800年~前600年の中央ユーラシア  中央部・東部
 スキタイ人と同じような,草原を舞台にする騎馬遊牧民文化は,中央ユーラシア全域に広まっていました【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】。現在のカザフスタンあたりまではイラン系が広がっており,それよりも東のモンゴル高原・中国の北部にはテュルク系・モンゴル系の民族が分布していました。





●前800年~前600年のアジア

○前800年~前600年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前800年~前600年のアジア  東アジア 中国

◆西方の牧畜民との抗争を避けた周の王室は,拠点を東に移した
周は東に都をうつした

 周では王位をめぐる内紛が起きていましたが,〈幽王〉(前781~前771)が西方の山岳地帯に住んでいた犬戎(けんじゅう) 【本試験H6五胡ではない】に攻撃を受けて亡くなり,西周は滅びました。ここまでの周を「西周」【本試験H6前17~16世紀頃に成立した王朝ではない】といいます。
 〈幽王〉の后(きさき)である〈褒姒〉(ほうじ)は絶世の美女であったと伝えられ、「その美貌は西周の衰退の原因になった」(傾国の美女)というストーリーが、のちに『史記』周本紀に取り上げられました。
 ことのあらましは以下の通りです。
 〈褒姒〉はこれまで一度も笑ったことがなく、〈幽王〉はどうにかして笑わせようと四苦八苦。
 そんな中、〈幽王〉は実際には何も起こっていないのに「緊急事態」を知らせるのろしを上げ、困っている将軍たちの姿を〈褒姒〉に見せました。すると〈褒姒〉は初めて笑みをこぼします。
 これに味を占めた〈幽王〉はなんどものろしを上げるようになり、将軍からの信頼は失墜。
 政治からも遠ざかるようになった上、〈褒姒〉を贔屓して太后としました。
 太后を降ろされた一族の〈申侯〉は西の犬戎(けんじゅう)と組み、〈幽王〉を攻めますが、このとき王がいくらのろしを上げても、将軍は誰も信用してくれず、結局〈幽王〉は殺され、〈褒姒〉は捕まえられました。
 
 …とまあ、こんな形で西周は滅びましたよというのが、言い伝えです。
 この頃周の〈幽王〉の太子(廃太子され、別の場所に逃れていました)で、東方の洛邑(らくゆう) 【本試験H6】に遷都し,周を復興したのはこの〈平王〉(へいおう、前771~前720)によるもの。
 しかし、実際には周の王位をめぐる内紛が完全に収まったのは前740年頃のこと。西周の滅亡後、ただちに東に遷都したわけではないのです(注1)。中国史の約束事としてこれ以降の周を東周(とうしゅう)と区別することになっています。

 中原(ちゅうげん)を中心に,周から封建された諸侯による国家が多く並び立っていましたが,表立って周王の権威を傷つけようとする諸侯はまだ現れていません。諸侯国の領域は西周時代には「邦」と呼ばれ,都城のある「国」(或)と,周辺の「邑(ゆう)【東京H29[1]指定語句】」によって成り立っていました。都城には人々が徴発され集住されていき,西周後期には「邦国」,春秋時代には「国」と呼ばれるようになります。
 「春秋の五霸」(注2)と総称される有力な諸侯(国君)【本試験H30】は周辺の遊牧民らと戦い,たがいに宗教的な儀式に基づく「盟」(めい)を結びつつ(注3),競って周王の保護を受けようとしました。周王を大切にし,異民族を追い払う“尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)” 【東京H18[3]記述(意味)】が理想とされました。
 国君は軍事的な指導者(王)として卿(けい) 【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【共通一次 平1】といった支配階層を従えさせるとともに,国君の祖先神をまつる儀式をおこなう神官として,「天」や「上帝」といった神に対して働きかけることで権威をアピールしました。

 前722年からは歴史書『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』(左伝)の記録が始まりました。『春秋』は前481年までの記録ですが、「左氏伝」には前479年の記録までが記されています(注4)。
 前679年には斉の〈桓公〉(かんこう,前685~前643) 【京都H21[2]】が,中原の諸侯と同盟に加えて霸者(はしゃ) 【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】となりました。中原の諸侯にとっても最も手強いライバルは,長江流域の楚(そ)です。
〈桓公〉の死後は,宋(周の東方)の〈襄公〉じょうこう,(位前650~前637)が覇権を握ろうとしましたが,前638年に楚に敗れ,翌年亡くなりましたに。楚軍が川を渡っている途中にやっつけることもできたのでしょうが,敵に情けをかけたがために,結局自分が死んでしまった。“無用の情け”という意味の「宋襄の仁」という故事成語が生まれました。

 楚の勢力は増す一方で,中原諸国への進出が進むと,晋【追H9周ではない】の〈文公〉(位前636~前628)が宋を助けて,周から「霸者」と認定されました。前632年~前506年にわたり,晋は周王の下で霸者であり続け,周王をお守りする晋を中心とした国家間の外交のなかで,礼が重んじられました。それとともに,まだ国家ができていないため「礼」に従うことができない漢人以外の周辺民族は低く扱われ,次の戦国時代になると,東夷・南蛮・西戎・北狄という野蛮な民族として呼ばれるようになり,中原の「中華(中国)」を中心とする「華夏族」(中国ではこの名称が用いられます)としての自覚が高まっていきました(注5)。
 すなわち,中華の王はその徳(人間性)が高ければ高いほど,周辺の「野蛮」な民族を,華夏族のように「文明」的な暮らしに変えていくことができると考えられたのです。

 前618に鄭が楚に降伏すると,晋と楚の間で対立が起きました。楚の〈荘王〉(そうおう,前613~前591)は前606年に洛陽に迫って周の王に「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)」を問いました。鼎というのは,夏→殷→周と伝わっている王位の象徴であり,楚は鼎を狙っていたのです。王の側近は,「鼎の重さは,持つ人の徳によって決まるのだ。周の王は,まだ天子としてふさわしい徳をもっている。そんなことを聞くのは無礼だ」と〈荘王〉をいさめたという故事成語です。
 このような話が残されるくらい,周の王室が揺らぎ,晋・斉・楚などの有力諸侯の間での抗争も激しくなっていたわけです。

(注1) 前8世紀中盤。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。
(注2) ちなみに「五」というのは,後世(戦国時代後期)になって五行説という占いの影響からキリのいい数字として選ばれただけで,5つの諸侯が順に霸者になっていったというわけではありません。
 ラインナップに書物ごとに異説がありますが、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔閭(こうりょ)、そして越の勾践をセレクトしたのは、『荀子』(王覇)でした。『荀子』の歴史観では、周王朝のある中原の地イコール「中国」で、それが五覇によって危うくなったという考え方をとります。しかし、実際に周王朝が、周代に青銅器文化が栄えた範囲を超えた広い範囲を「天下」としておさめていたわけではなく、夏・殷・周が栄えた範囲の外部にも「別の青銅器文化」があったことがわかっています。ですから、「春秋の五覇」によって周王朝がないがしろにされたのだというのは、「史料的根拠に欠け」る話です(歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.16-17)。
 なお、「覇者」という言葉自体は春秋時代のみに設定されるものではなく、たとえば『春秋左氏伝』では夏・殷・周の時代の覇者が論じられています(同、p.17)。
(注3) 盟誓の儀式では牛の耳をすする儀式がおこなわれました(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.98)。牛の耳を切り落とし順番にその血をすするのです。血をすする順番は地位の高い人から。「牛耳を執る」(→牛耳る)という故事成語はそこからとられています。
(注4) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.142。
(注5) なお、「中国」という言葉が初めて現れるのは、西周第2代の王のとき(同、p.98)。のちの漢人(漢族,漢民族)の民族意識の基となる民族です。固定的な概念ではなく,たとえ「野蛮」な周辺民族とされた人々でも,華夏族の風習や文化を取り入れ華夏族となることもありえました。



・前800年~前600年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 前7世紀から前6世紀にかけて朝鮮半島で水田耕作が始まり,集落間で貧富の差が生まれると各地に首長が出現するようになりました。巨大な土台の岩の上に覆うように岩を置いた支石墓(しせきぼ)も築かれます。
 日本列島の九州や本州西部にも水田耕作が伝わり,弥生(やよい)文化の成立に影響を与えたと考えられます。

 僧の〈一然〉(1206~1289)による『三国(さんごく)遺事(いじ)』(1280年代)などに残された伝説の上では,前2333年に平壌(へいじょう;ピョンヤン)を都に檀君(だんくん)朝鮮が建国されたことになっています。中国の天帝の子である〈桓雄〉(かんゆう;ファヌン)が地上に降り立ち,人間の女性の間に生まれたのが〈檀君(だんくん)〉であったということです。



○前800年~前600年の東南アジア
ドンソン文化の銅鼓が,北ヴェトナムの発展を示す
 東南アジアでは,モンスーン(季節風)のもたらす豊かな降水に恵まれ,稲作農耕が発達していました。
 大陸部(ユーラシア大陸側)には,西からビルマ人(チベット=ビルマ語派),タイ人(シナ=チベット語族やオーストロアジア語族に近い),モン人(オーストロアジア語族),クメール人(オーストロアジア語族),チャム人(オーストロネシア〔南島〕語族)が分布しています。
 島しょ部(島々がある側)には,マレー人(オーストロネシア語族)やパプア諸語(オーストロネシア語族でもオーストラリア諸語でもない)が分布します。
 この時期には,現在のヴェトナム北部に,ドンソン文化【追H25竜山とのひっかけ】が栄えます。担い手はオーストロアジア語族系。当時は光り輝いていた青銅器製の銅(どう)鼓(こ)【追H25灰陶ではない】が,その独特な形をしているのが特徴で,当時の支配層がみずからの権威を誇るためにつくらせ,各地の支配層に贈ることで威圧したり友好関係を結んだりしたとみられます。この銅鼓は大陸部だけでなく,島しょ部でも広範囲で発見されています。




○前800年~前600年の南アジア

◆前800年頃から南アジアで鉄器の使用が始まり,ヴァルナ制の確立とともにバラモン教への批判も生まれる
南アジアではヴァルナ制という身分制がはじまった
 この時期のインド北西部は,前1000年~前600年の後期ヴェーダ時代の後半です。クシャトリヤ(戦士)の代表である王は,バラモン(司祭) 【東京H6[3]】に権威を認めてもらう代わりに,これを保護しました。
 バラモンは,口伝えによって儀式の秘密を独占し,別の階級との結婚を規制して秘密を守りました。アーリヤ人秘伝の正しい方法で儀式を執り行わなければ,神は起こって災いをもたらすというのが彼らの主張です。これをバラモン教【セA H30インドで成立したか問う】といいます。
 ヴァイシャは農業と牧畜を行う階級で,シュードラ【追H26インドの隷属民か問う】【東京H6[3]】は隷属民です。征服された先住民だけでなく,アーリヤ人の中にもシュードラに転落する者もいました。農業にも牧畜にも従事せず,狩猟採集生活を行っていた部族は,もっとも身分の低い賤民(せんみん)として扱われ,シュードラ以下とする不可触賤民(ふかしょくせんみん)とされた集団もいました。触ることもできないような身分の低い人々という意味です(注)。

 このような身分・階級制度のことをヴァルナ制度【追H9インダス文明の制度ではない、H28ササン朝ペルシアの制度ではない】【本試験H17インダス文明の制度ではない,本試験H26ジャーティとは違う】と呼びます。ヴァルナとは色のことで,初期のアーリヤ人が先住民の肌の色が自分たちよりも暗かったことから,色を意識した呼び名になったのです。
 ヤムナー川とガンジス川の2つの川の流れる地域のクル国,パンチャーラ国,ガンジス川の中流にあるコーサラ国などが,有力な国家となりました。コーサラ国は叙事詩『ラーマーヤナ』【本試験H26・H30】の主人公であるラーマの王国です。ラーマは妻のシーターを悪魔から取り戻すために,スリランカに行って帰ってくるという内容です。

 後期ヴェーダ時代には,バラモンによる儀式の独占に対する批判も起こるようになります。バラモンは形式的に儀式をとりおこないますが,それによって人々の抱えるさまざまな悩みが癒えるわけではありません。この時期には,生前の業(ごう。行いのこと)によって,来世にどんな生き物に生まれ変わるかが決まるという,輪廻(りんね)の思想【本試験H24イスラームとは関係ない】が確立されました。現在よりも死亡率の高い時代です。人間に生まれたとしても,高い階級に生まれるかどうかはわかりません。どうしたら,この永遠の輪廻から抜け出すことができるのか。その答えが,この時代の新しい思想家(ウパニシャッド哲学者) 【本試験H26時期】の説をまとめたウパニシャッド(奥義書(おうぎしょ))に残されています。
 つらい出来事があっても,それ必ず理由がある。この世の全ての現象には,絶対に逆らうことのできない宇宙の法則(=ブラフマン(梵))がある。目に見える世界の物事には,それを成り立たせている目に見えないパワーがある。自分の魂(アートマン(我))を,その宇宙の根本原理に合わせることができれば,心に落ち着きがもたらされ,精神的に解放されるという,梵我一如の考え方です。心の中で精神を集中させて考えることを重んじたことから,のちのジャイナ教や仏教の成立に影響を与えました。

 前600年頃になると,北インドの人類社会の中心はガンジス中・下流域に移っていき,複数の国家がいくつも現れて覇を競う時代となっていきます。

(注) 前7世紀ころになると、シュードラの下にチャンダーラと呼ばれる不可触賤民階級が形成され、「第五のヴァルナ」と呼ばれるようになりました(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.23)。




○前800年~前600年の西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


・前800年~前600年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑯キプロス,⑰トルコ

◆アッシリアは,各地の都市国家を支配下に入れ強大化した
アッシリア帝国は,苛政への抵抗により短期で滅ぶ
 小アジアでは,フリュギア王国が,メソポタミア北部から進出したアッシリアの〈サルゴン2世〉(位前722~前705)に敗北し,遊牧民キンメリア人による前7世紀前半の攻撃で滅ぶと,代わってリュディア王国が勢力を伸ばしました。

アッシリアが強大化する
 アッシリア王国は,ティグリス川上流部の都市アッシュル(◆世界文化遺産「アッシュル(現・イラクのカラット=シェルカット)」,2003)を中心に,イラン高原の錫(スズ)を小アジアに中継する貿易で栄え,この時期に強大化していきました【東京H18[3]公文書に記述された文字を2つ問う(アラム文字,楔形文字)】。
 アッシュルにはジッグラトや宮殿もみられ,楔形文字を記した粘土板も出土していますが,2003年のイラク戦争により危機遺産に登録されています(⇒1979~現在の西アジア イラク)。

 前8世紀半ばの〈ティグラトピレセル3世〉(位 前744~前727)はバビロンを支配下に置き,軍隊や地方支配の改革をおこない,征服した都市国家の住民の反乱をおさえるために強制移住政策を実行します。

 前727年には〈サルゴン2世〉がイスラエル王国を滅ぼし,アナトリア半島のウラルトゥ王国(前9~前7世紀)も破っています。歴代の王は圧倒的な兵力により都市国家を支配下に入れていき,〈エサルハドン〉(前681~前669)のときにはエジプトにも進出し,メンフィスを占領。〈アッシュールバニパル〉王(位前668~前627)のときにはエジプトのテーベを占領し,イランのエラム人も征服。「宇宙の王」を名乗り最盛期を迎え,首都ニネヴェ【本試験H30】からは大量の粘土板を保管する図書館が見つかっています。これはアッシュルバニパル文庫といわれ,バビロニアの宗教・叙事詩・天文学・辞書に関わる著作が集められました。オリエントにおいてバビロンは,長きにわたって学術の中心地として重要視されていたのです。
 のちに天動説【本試験H12地動説ではない】【追H17】を唱えた〈プトレマイオス〉【追H17ジョルダーノ=ブルーノではない】【東京H27[3]】が前8世紀以降の暦を完成させたのも,バビロニア天文学(いわゆる「バビロニア占星術」)の成果にのっとったものです。
 しかし,強制移住政策や貢納など厳しい支配への反発が起こり,彼の死後にカルデア人(メソポタミアに移住したアラム人の一派)の〈ナボポラッサル〉がバビロンで挙兵し,前625年に新バビロニア王国を建国(前625~前539)しました。前612年にメソポタミアの新バビロニア王国と,イランのメディア王国〈キュアクサレス1世〉とされる初代の王が連合して反乱を起こし,アッシリアは前612年にニネヴェとアッシュルを失いました。逃れたアッシリアの支配層も前609年に攻撃され,完全に滅びました。



◆アッシリアが滅ぶと,小アジア,エジプト,メソポタミア,シリア四王国が分立する時代となった
アッシリア滅亡後のオリエントに四王国が分立する

 このようにアッシリアの支配が幕を閉じると,メソポタミアには新バビロニア王国,エジプトにはエジプト王国の第26王朝(リビア系の支配者とされています),小アジアには最古の鋳造貨幣【本試験H6アテネ,スパルタ,ペルシアではない】【追H30】(金属を溶かして一定の形に固めて作った貨幣)を使用したリディア王国【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアではない】【追H30バクトリアとのひっかけ】,イランにはメディア王国が並び立つ,四王国分立の時代となりました。

・小アジア…リディア王国(注1)
・メソポタミア…新バビロニア
・エジプト…エジプト第26王朝
・イラン高原…メディア王国


 イラン高原のメディア王国は,前8世紀後半にイラン系により建国され,前6世紀後半にアケメネス朝〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21ヘブライ人の指導者ではない】に倒されるまで続きます。
 メソポタミアの新バビロニア王国は,〈ネブカドネザル2世〉のときにエジプト=サイス王朝の〈ネコ2世〉(ネカウ2世)に勝利し,エジプトはシリアを失いました。また彼は,パレスチナ南部のユダ王国を滅ぼし,住民をバビロンに移住させました。これを「バビロン捕囚」(ほしゅう) 【追H19】といいます。この頃のバビロンには,都市神マルドゥクの神殿や大城壁が建設され,神殿は『旧約聖書』の“バベルの塔”のモデルではないかという説もあります。彼の死後は内紛が相次ぎます。
 なお,北アフリカのことになりますが,エジプトはリビア系の第26王朝(サイス朝)により支配されています。ファラオの権力には,もはやかつてのような栄光はありませんが,定期的な氾濫(はんらん)のおかげで塩害(えんがい)(注2)にも無縁なナイル川流域は依然として生産力が高く,地中海沿岸における経済的な重要性は健在です。

(注1) リディアだけはアッシリアの領域外であった点に注意(アッシリアから4王国が自立したのではありません!)。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.16。
(注2) 水路による灌漑に頼ったメソポタミアでは,深刻な塩害の被害に悩まされ,次第に生産量は低下していきました。環境破壊が文明を崩壊させた一例といえます。



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・前800年~前600年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア

◆強大化したアッシリア帝国がヘブライ人を連行したことが,ユダヤ教の成立につながる
ヘブライ人のアイデンティティが,書物に刻まれた
 この時期には,アッシリアの勢力が強大化します。かつてはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)で強盛をほこったウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)の王国は,アッシリアの〈サルゴン2世〉(位前721~705)により衰えます。

 パレスチナ地方北部のイスラエル王国(北イスラエル王国)は,前722年にアッシリア王国に滅ぼされました。
 また,イスラエル王国から分離していた南のユダ王国は前586年に新バビロニア【本試験H2アッシリアによるものではない】【本試験H26】【追H29】のネブカドネザル2世(前605~前562)に滅ぼされました。新バビロニアは首都のバビロンにヘブライ人【本試験H26】を強制的に連れ去り【追H29「強制移住」】,そこにとどめおきました(前586~前538【東京H6[3]時期「前6世紀」】,バビロン捕囚【本試験H2アッシリアによるものではない】【東京H6[3]】【追H29新バビロニアによるものか問う】)。この王はバビロンに「空中庭園」を建設させたことでも有名(空中にあるわけではなく,5段のテラスに土を持って植物を栽培させたもの。世界七不思議の一つ)。
 連行されたヘブライ人たちの中には,異国の地で教会(シナゴーグ)をつくって団結を続けた者もいました。「いまは辛い目にあっているが,きっと救世主(メシア、ヘブライ語で「油をつけられた者」(注)という意味) 【本試験H3】が現れて,ヘブライ人だけを救ってくれるはずだ」という選民思想【本試験H3「選ばれた民族」】【H29共通テスト試行 ゾロアスター教の特徴ではない】を抱き,彼らは唯一神ヤハウェへの信仰を保とうとします。
 新バビロニアの滅亡後,彼らはイェルサレムに帰還しますが,一神教の信仰を維持することは容易ではありませんでした。その後,一神教を信仰する集団によって,前515年にヤハウェのための神殿が再建され,ヘブライ人の思想や習慣は『旧約聖書』【追H19マヌ法典ではない】にまとめました。
 “旧約”(神との古い契約)という呼び名は,のちのキリスト教徒がイエスの言葉(福音)を“新約”(神との新しい契約)と考えることによります。つまり,キリスト教徒側の呼び方です。

 『旧約聖書』のうち,ユダヤ教で重視されるのは『モーセ五書(トーラー)』で,『創世記』・『出エジプト記』・『レビ記』・『民数記』・『申命記』までが含まれ,神のことば(律法)が文章に表されたものです。天地創造から前331年までのヘブライ人(人類)の歴史を,前1000年頃~前100年代にかけて著され,ヘブライ語(部分的にアラム語)で記されました。『トーラー』に記された神の言葉は難解です。「安息日(サバト)にやっていいことと悪いことは何か」「食べてもいいものと悪いものは何か」「結婚式はどのように執り行うべきか」などなどが,長い年月をかけて現実の生活に合わせた解釈がなされてきました。この解釈の集大成を『タルムード』といい,『口伝律法(くでんりっぽう,ミシュナ)』やその解釈などから構成され,ユダヤ教徒の生活規範となっています[関[2003]]。
 さて,ヘブライ人はイェルサレムへの帰還以降,ヘブライ人ではなく「ユダヤ人」と呼ばれることが多くなります。ユダヤというのは主要部族である「ユダ部族の土地」という意味です。
(注)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Messiahより(http://www.newadvent.org/cathen/10212c.htm)。



◆フェニキア人は地中海に外から物を送り届け,表音文字を生み出した
フェニキア人,アルファベットを発明する
 フェニキア人は,シリアの沿岸部,現在のレバノンという国の南部を拠点として,レバノン山脈のレバノン杉の海上交易で栄えました。シドンやティルス【本試験H18地図】といった海港都市から,地中海はおろか,イギリスのブリテン島(青銅器の材料になるスズが産出されます)や,北欧のバルト海(木材や琥珀(こはく)がとれます),またはアフリカ方面まで航海し,各地の貴重な物産を持ち帰り取引したといわれています。地中海沿岸には植民市が建設され,ティルスを母市とするカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴが接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】が,地中海のど真ん中,現在のチュニジアにあって栄えました。レバノン杉は,エジプトでミイラをおさめる棺の木材となり,船の建造にも用いられましたが,森林伐採が進み,現在ではほとんど残っていません。
 イタリア半島は長靴の形をしていて,その長靴で3個の“ボール”が蹴られていると考えてみてください。一番南にシチリア島【本試験H16地図】,さらにその北にサルデーニャ島【本試験H16地図,19世紀似にイタリア統一した国王の統一前に支配していた島を問う】,その北がコルシカ島【本試験H16地図・ナポレオン1世の出身地かを問う】【追H24地図】です。
 シチリア島とアフリカ大陸は目と鼻の先の位置にあり,フェニキア人がアフリカ大陸側に建設した都市カルタゴは,戦略的にもとても重要な港となっていきました。文字は最初は象形文字(しょうけいもじ,物をかたどって作られた記号)から始まりますが,フェニキア語は表音文字【セ試行】【本試験H8表意文字ではない】(一つ一つが別の音をあらわし,その組み合わせで一定の発音を表す記号)のフェニキア文字【セ試行】【本試験H8】として表記され(原カナン文字【本試験H8楔形文字ではない】から改良された22文字のアルファベット),8世紀にはキプロス島を伝わり,のちにギリシア文字【セ試行】【本試験H8】のアルファベットの元になっていきます。
 ちなみにアルファベットは,ヘブライ文字の22文字の最初の2文字「アレフ」と「ベイト」を合わせた「アレフベート」が語源です。ユダヤ人はヘブライ文字自体を「アレフベート」と呼びます。

 こうして,アルファベットの発明により,原理的にはすべての言語の表記が可能となったわけです。フェニキア人の拠点は,前9世紀末にティルスからの植民によって築かれた,地中海中央部の北アフリカにあるカルタゴ(現・チュニジア,前814~前146)へとシフトしていきます。
 地中海東部を中心に拡大したギリシア人は,交易上のライバルでした。東方からアケメネス朝〔ハカーマニシュ〕がギリシア諸ポリスを攻撃したペルシア戦争(前499~前449)では,アケメネス朝に水軍を提供して支援しています。




・800年~前600年のアジア  西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
◆アラブの遊牧民・オアシスをまとめる小国家が南アラビアに現れる
遊牧民・農耕民・隊商を統合する小国家が出現
 前9世紀になると「アラブ」という語が史料に登場するようになります。遊牧民の部族集団が定住社会の脅威となったからと考えられます(注2)。
 南北の人の往来が盛んになるにつれ、地中海東岸から伝わったアルファベットがアラビア半島に伝わり、古代南アラビア文字が生まれています。こうしてアラビア半島も徐々に歴史時代に突入するのです。

 アラビア半島南部の史料に初めて登場する国家はサバァ王国です。
 この地域の諸王国は、共通の神への崇拝と祭儀によって結ばれた諸部族の連合体でした。夏のモンスーンが山脈にぶつかると農耕が可能で、山裾のオアシスで灌漑農業が営まれ、雨季に流れる涸れ川〔ワーディー;ワジ〕の水を堰き止めたダム湖が、砂漠と山裾の接線上に連なっています。初期の隊商路はこのオアシスのラインにあって、そこに都市が数多く成立したのです。

発掘された王の碑文によれば、周辺の勢力(南のカタバーン、さらに南のアウサーン、その東のハドラマウト、北方のジャウフなど)を服属させながら、少なくとも8世紀のうちには成立していたはずで、前700年前後には支配が確立していたと考えられています。

 前8世紀末~前7世紀初めにかけ、サバァの2人の首長がアッシリア王にラクダ・香料を献上したとするものです(注3)。メソポタミアにとってアラビア半島のラクダや商品は、ヨダレが出るほどほしいものだったのです。サバァの小王国は、現在のアラビア半島の南西部(ヒジャーズ地方)にある都市の小王国との結びつきが強かったと考えられています。
 アッシリア王〈サルゴン2世〉の年代記においても、前716/5年におこなわれた遠征で、サバァの〈イタァアマル〉(生没年不詳)から貢物を受け取ったという記事があります。アッシリア王〈センネアケリブ〉のときには、前685年にサバァ王〈カリビル〉が宝飾品・香料を献上したとあります(注4)。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、pp.4-5。
(注2) やはり地中海東岸で生まれたフェニキア文字の属する「北西セム系アルファベット」とは別系統の「南セム系アルファベット」に属します。7世紀に『コーラン』を記すのに使われたのは「北西セム系」のアラビア文字ですが、それ以前の古いアラビア文字はエチオピアで現在でも用いられています(アラビア半島やエチオピアなど「南西セム語派」で用いられたので「南セム系」と呼びます)。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、pp.9-10。
(注3) サバァは、『旧約聖書』の「シェバの女王」(日本では英語のSheba(シーバ)をシバと読んだものがひろまっています)と関係があるのではないかと昔から考えられていますが、研究者は懐疑的です。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.13。
(注4) 蔀勇造はこの「サバァ」を南アラビアの小王国ではないとする説を批判し、サバァ王国の古都シルワーフの神殿跡でこの2人の首長によって建てられた石碑をもとに、アッシリアと南アラビアとの関係があったことを裏付けています。こうしてアラビア半島南半の大きな砂漠(ルブゥ=アルハーリー砂漠)の南西に突き出たラムラト=アッサブアタイン砂漠の辺縁に、サバァを中心とするカタバーン、アウサーン、ハドラマウト、ジャウフなどの王国が成立しました。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.15。


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・800年~前600年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 この時期には,アッシリアの勢力が強大化します。かつてはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)で強盛をほこったウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)の王国は,アッシリアの〈サルゴン2世〉(位前721~705)により衰えます。





●前800年~前600年のアフリカ

○前800年~前600年のアフリカ  東・南・中央・西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆バントゥー系の民族が,中央・東・南アフリカに農耕・牧畜を伝えながら移動する
バントゥー系の大移動が始まる
 サハラ以南のアフリカでは,密林地帯をはじめとして環境が過酷で,マラリアやツェツェバエなどの感染症も深刻です。海に出ようとしても海風が激しく,川をくだろうとしても階段状の地形が多いことから急流に阻まれます。
 そんな中,西アフリカのカメルーンを現住地とするバントゥー系の人々は,牛を連れてヤムイモやアブラヤシの農耕をしながら,中央・東・南アフリカに移動をはじめていました。




○前800年~前600年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
エジプトは「第三中間期」にあって分裂状態
 エジプトは,各地の君侯が自立して栄えます。
 第21王朝(前1073?~前948?)
  …下エジプトの王と,上エジプトのテーベの大祭司が対立して分裂。
 第22王朝(前948?~前715?)
  …ショシェンク王家。テーベの大祭祀の政権を併合。リビア人の国家。
 第23王朝(前867?~前724?)
  …テーベが独立。
 第24王朝(前735?~前721?)
  …西の侯国(デルタ地域のサイス)
 第25王朝(前752?~前656)
  …ヌビアのクシュ人。


◆ヌビアのクシュ王国が一時エジプトを占領,のちメロエに退いて製鉄技術を発展させた
ナイル上流のヌビア人が,下流のエジプトに拡大

 エジプト文化を吸収していたヌビアのナパタを中心とするクシュ王国は、分裂していたエジプトに勢力を拡大。

 〈ピアンキ〉王はエジプトの第 24王朝を倒し,第 25王朝 (前 730頃~656) を発展させ (したがって,この王朝をクシュ王国,ナパタ王国と呼ぶ【本試験H9[24]地図上の位置を問う】) ,エジプトの中心となりました。

 第4代の王〈タハルカ〉は第25王朝を樹立するほどに勢力を拡大します。
 しかし、前671年には急拡大したアッシリア王国の〈エサルハドン〉〈アッシュルバニパル〉によって征服され,前670年にはさらに上流(南方)のメロエ(第5急流と第六急流の間)に遷都しました(注1)。
 アッシリアは〈ネコ1世〉(ネカウ1世,位 前672~前664)を支持してファラオに即位させましたが,クシュ王国によって殺害されました。その後,〈ネコ1世〉の子がアッシリアから自立し,第26王朝を建てました。第26王朝はサイスを拠点としたことからサイス王朝とも呼ばれ,ギリシア人との交易で栄えます。ナイル川の河口にはギリシア人の植民市ナウクラテスが建設されていました。
 メロエ王国【本試験H29】時代のヌビア人は,鉄鉱石を採掘しアッシリアから伝わった製鉄技術を積極的に導入します。前5世紀頃の鉄器製造の証拠が見つかっていて,メロエは「アフリカのバーミンガム(18世紀後半以降のイギリス産業革命(工業化)時代の鉄鋼都市)」とも呼ばれます(注2)。
 メロエ人はメロエ語を話し,始めはヒエログリフで表記していましたが,のちにメロエ文字をつくりましたが未解読です。また,メロエにはエジプトのものよりも傾斜の大きい四角錐のピラミッドが建設されました(ヌビアのピラミッド)。

 クシュはその後再興をはかりますが,第 26王朝によりナパタは制圧され (前 590) ,クシュの首都はメロエに移り,宗教的中心として命脈を保ちます。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.176。
(注2) メロエ王国から西アフリカに製鉄技術が伝わったという説は否定されています(宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.146)。



●前800年~前600年のヨーロッパ

○前800年~前600年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 青銅器時代に入っていたこの地域の人々(のちに「ケルト人」と総称されます)は,前1200年頃から現在のフランスから東ヨーロッパのチェコ,スロバキア,ハンガリーにかけてハルシュタット文化を生み出していました。前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わると,ハルシュタット文化は鉄器文化に移行し前500年頃まで続きました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも交易を行い,鉄製武器を備えた支配階級の戦士がイベリア半島から黒海北岸にかけて進出していきました。

 イベリア半島のケルト人は先住のイベリア(イベル)人(民族系統不明)との混血がすすみ,ケルト=イベリア(ケルティベリア)人の文化を生み出していきました。前7世紀になるとバルカン半島南部のギリシア人が,イベリア半島南部への植民を始めます。

 また,のちに東ヨーロッパのポーランド人や,南ヨーロッパのセルビア人に分かれていくスラヴ人の祖先は,現在のウクライナの西からベラルーシの南にかけて分布していたとみられています。

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・前800年~前600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
イタリア半島ではエトルリア人の勢力が支配的に
しだいにラテン人の都市国家ローマが台頭へ
 ラテン人の都市国家ローマはイタリア半島中部の都市国家に過ぎず,はじめは先住民のエトルリア人の王の支配下【本試験H6ケルト,カッシート,アイオリスではない】【本試験H14時期(前4世紀にはエトルリア人の王の支配下にはない),本試験H29】【追H21】にありました。彼らの根拠地では鉄やスズがとれるため,南部のギリシア人と早くから接触があり,高い文明を手に入れました。そのため,エトルリア人はアーチ建築をはじめとする土木技術に優れ,剣闘士の競技や凱旋式,服装などとともに,のちのローマに影響を与えました。しかし,ギリシア文字からつくられたエトルリア文字は未解読で,多くはわかっていません。

 伝説によると前8世紀に,ローマを流れるティベル川【セ試行】に,捨てられた双子の兄弟が流れ着いたところから始まります。
 この〈ロムルス〉と〈レムス〉の血筋は,ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(前70?~前19)【追H24ポリビオスとのひっかけ,H30】の『アエネイス』【追H21ポリビオスが著者ではない,H30著者を問う】【中央文H27記】によるとトロイアの貴族にまでさかのぼるとされています。2人は野生のオオカミに育てられ,あらたに見つけた都市の支配権をめぐって兄弟喧嘩がおこり,兄の〈ロムルス〉が〈レムス〉に勝利したため,「ローマ」と命名されたといいます。
 ローマはラテン語【追H19】を話すラテン人【セ試行】により建設されましたが,エトルリア人【セ試行】の王による支配を受けた期間がありました。しかし,前509年【追H26時期(前6世紀)】に彼らを追放すると,王政【追H26共和政ではない】から共和政【追H26王政ではない】になります【本試験H14時期(前4世紀にはすでにエトルリア人の王の支配下にはない)】。
 彼らはエトルリア人を経由して,ギリシア文化の影響を受けていました。政治的には,共和政,つまり,君主はおかず,所定の手続きにもとづく話し合いによって問題を解決する政治形態をとっていました。しかし,民主共和政(市民の多くが政治に参加することができる共和政)ではなく,貴族共和政(少数の貴族のみが参加する共和政)でした。
 彼らの都市は,広場(フォルム【本試験H18アゴラとのひっかけ】),神殿,城壁によって構成されていました。貴族共和政は,実権を握る構成メンバーが少ないため,貴族「寡頭」政(かとうせい)とも呼ばれます(寡頭とは,リーダー(頭)が寡(すくな)いという意味)。

 貴族は,元老院(セナートゥス)という長老会議のメンバーで,元老院は王政のときには王の諮問機関(助言をするための機関)でしたが,王の追放後にはローマの政治を牛耳るようになります。貴族はラテン語でパトリキ【本試験H9】。父(パテルpater)が語源です。彼らは自らの血筋を誇り,大土地・奴隷・クリエンテス(奴隷ではないが,貴族の保護下に置かれた下層の平民。「私的な庇護民」)を所有して,平民との違いを強調しました。彼らは国家(レースプーブリカ。英語republic(共和制)の語源です)の官職に就任するための選挙で,賄賂(わいろ)や買収などあの手この手が用いられました。特に,小麦を無料で配給されていた下層民(プローレーターリウス。ドイツ語ではプロレタリアート)は,票集めのための格好の対象でした。
 平民はプレブス【本試験H29】と呼ばれる農民で,要職につくことはできず【本試験H29要職を独占していたわけではない】,貴族と平民の間の結婚も禁止されていました。

 ちなみに,執政官(コンスル) 【本試験H9】【立教文H28記】は任期1年の最高官職で,貴族から2名が選ばれました。コンスルとは,元老院と「相談」する人という意味なので,英語の「コンサルタント」などの語源となっています。
 また,国の一大事など緊急事態にあっては,2名がいると舵取りが難しいことから,任期半年で,すべての権利を握ることができる独裁官(ディクタートル)という官職が認められていたことも特色です。ディクタトルは英語の独裁者(ディクテイター)の語源です。
 一方,ローマではフォロ=ロマーノと呼ばれる広場フォルム(英語ではフォーラム。後ろにローマが付くと格変化して“フォロ”になる)が,前624年頃から前579年頃にかけて整備されていきました。



○前800年~前600年のヨーロッパ  バルカン半島

バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆ギリシアでは都市国家が建設されたが,同時期のオリエント的な強大な権力は現れなかった
オリエントの辺境にギリシア人の集落ができる
 前8世紀になると,ギリシア人各地にポリス【本試験H18アゴラとのひっかけ】が建設されるようになります。
 ポリスは,有力な貴族の指導のもと,集住(シノイキスモス;シュノイキスモス)によって成立した都市国家のことです。ポリスにはアクロポリス(城山) 【本試験H18アゴラとのひっかけ】という城砦があって,敵の進入を確認するとともに,ポリスの神々をまつる神殿が置かれ,祭祀(さいし)がおこなわれたり,公金を管理したりする場所でもありました。アテネ(アテーナイ)の場合,麓(ふもと)に向けてパンアテナイア通りがのびて,近くのアゴラ(広場) 【本試験H18アクロポリス・フォルム・ポリスではない】【慶文H29】は政治や市場の中心でもあり,民衆裁判所や評議会議場が隣接していました。

 スパルタは,テーベ(テーバイ)というボリスを支配下におさめた後,バルカン半島南西部のペロポネソス半島の先住民を,第一次メッセニア戦争(前743~前724)で撃退し,ポリスを形成しました。獲得した土地は,貴族と平民からなる市民(スパルティアタイ)に平等に分配されました。
 前685年には,先住のメッセニアが反乱を起こしましたが,第二次メッセニア戦争(前685~前668)で鎮圧されました。

 戦後のスパルタは,貴族と平民は皆平等に兵士(平等者(ホモイオイ)と呼ばれました)となり,征服地の住民(戦争奴隷)【本試験H25】からなる奴隷(ヘイロータイ(英語はヘロット)) 【追H24非自由民の呼称か問う、H28交易に従事していない】 【本試験H2アテネではない,本試験H10】【立教文H28記】の反乱をおさえるために,軍国主義的な支配体制をつくっていきました。彼らは幼い頃から男女別に共同生活・共同食事をともなう訓練が行われ(“スパルタ教育”の語源です),市民の団結のために格差が生まれないように貴金属貨幣を禁止し,鎖国政策が取られます。スパルタ【本試験H2アテネではない】の国内には,商工業に従事する周辺民(ペリオイコイ【追H26奴隷身分ではない】【本試験H2アテネにおける呼称ではない】【東京H26[3]】)が居住していました。 スパルタのあるラコニア地方では穀物の自給が可能であるため,鎖国することも可能だったのです。政治は,軍事指揮権のみをもつ2人の名目な王と,選挙で選ばれた5人の監督官(エフォロイ)と長老会が王を監視する体制がとられ,実質的には貴族政でした。



 一方,バルカン半島東南部のアテネ(アテーナイ)はイオニア系のギリシア人のポリスで,アッティカ半島を拠点とします。人口の3分の1が奴隷【本試験H13奴隷制は廃止されていない】で,家内奴隷・農業奴隷や鉱山での採掘労働に使われました。奴隷ではない自由民は,貴族と平民に分かれていて,平民は参政権を持たず,財産にも格差がありました。
 アテネ(アテーナイ)の家族は,子供数名と夫婦からなる核家族が普通だったようです。男の結婚年齢は30歳くらい(女は15歳前後)と高く,一夫一婦制が基本で家族の人数は少なかったようです。

◆ギリシア人による地中海・黒海の植民市建設がさかんになった
貧しいギリシアは交易に活路を見出す
 しかし,社会が安定するとしだいに人口が増えて土地不足が問題となり,前750年頃から約2世紀にわたりギリシア人は植民活動を活発化させました。ギリシア人は武装して船舶に乗り込み,地中海からボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を通って北上し,黒海沿岸に至るまで植民市を建設していきます(ギリシア人【東京H18[3]】の植民活動)。植民市は,栽培した穀物【本試験H6】を輸出し,各地からオリーブ油【本試験H6】やブドウ酒【本試験H6】を輸入して栄えます。

 ドーリア人のポリスであるメガラの植民者は,ビュザンティオン(ビザンティオン) 【東京H14[3]位置を問う,H18[3]】を建設しました。のちにビザンティウム→コンスタンティノープル【追H30 6世紀ではない】→イスタンブルと支配者や名称が変わっていきながらも,2500年以上の長きにわたり東西交流の中心として繁栄していくことになる歴史ある都市です。
 同じくドーリア人によりバルカン半島南西部のペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ交通の要衝(ようしょう。重要な地点のこと)に,商業都市コリント(コリントス)が建設されました。

 イオニア人は小アジア(アナトリア半島)沿岸のミレトス【本試験H6アリストテレスの活動地ではない】や,黒海沿岸を中心に植民しました。
 植民に当たってはデルフォイの神託に従い植民者の指導者や地域が決められました。母市(メトロポリス)のポリスの団結意識を表す「共通のかまど」から聖火を分け,植民市(アポイキア;娘市)のかまどに移す儀式が行われましたが,母市・娘市は政治的には独立していました。植民市の中には,早かれ遅かれ母市からの独立意識を強める所も現れます。
 ほかには,地中海と黒海の間に位置するビザンティオン【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】,シチリア島のシラクサ【東京H14[3]】,イタリア半島の南部(タレントゥムなどを拠点とするマグナ=グレキア),フランス南部のマッサリア(現・マルセイユ) 【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】などが建設されていきました。

 彼らは,当時盛んに地中海交易をおこなっていたフェニキア人の文字に刺激され,ギリシア語のアルファベット(表音文字)がつくられ,商業活動で使われました(ギリシア文字)。また,前8世紀に,盲目の詩人〈ホメロス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1】が『イリアス(イーリアス)』【共通一次 平1:『神統記』ではない】【本試験H30】や『オデュッセイア』などのギリシア語の詩を残し,ギリシア人独自の文化も深まっていきました(ホメロスの実在を疑う説もあります)。
 前700年頃には,〈ヘシオドス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1:ホメロスではない】【本試験H7】【本試験H17ローマのウェルギリウスではない,本試験H31政治を風刺する喜劇作家ではない】【追H21ヘロドトスとのひっかけ、H29ペルシア戦争について叙述していない(それはヘロドトス)】が神々の系譜を『神統記』【本試験H7神々の系譜が書かれているか問う】【追H21、H24ホメロスの作品ではない,H25】に,植民市での農作業の様子などを『仕事〔労働〕と日々』【共通一次 平1】【本試験H15ラテン語ではない,本試験H17】に著しています。
 ほか,前612年生まれの女性詩人〈サッフォー〉(生没年不詳)は乙女への愛ををうたった抒情詩を多く歌っています。少女に対する愛情をうたったことから,彼女の活動したレスボス島(ミティリニ島)が,近代になるとに女性同性愛者(レズビアン)を意味するようになっていきました。

 交易が盛んになり鋳造貨幣も流通し【本試験H10時期を問う(図「4ドラクマ銀貨」をみて答える)】,平民の中には農産物を自分で売り,富裕な平民となる者があらわれ,自分で武器を買って戦争に参加する者も現れました。当時,兵士としてポリスを守ることができるものには,政治に参加する権利が与えられましたが,兵士になるための武具は自分で調達する必要があったのです。交易がさかんになると,商工業の発展にともない武具の価格が下がったことも,平民に幸いしました。平民は鎧(よろい)を着て,馬に乗ることができなくても,青銅器でできた兜(かぶと),胸当て,よろい,すね当て,それに盾と,鉄器の槍を持って密集隊形(ファランクス)を組めば,馬を凌駕(りょうが)するほどの立派な戦力となります。
 このような部隊を重装歩兵【本試験H2】部隊(ホプリタイ)といい,商工業に従事し国防を担(にな)う富裕な平民が貴族と対立し【本試験H10】富裕な平民が参政権を主張するきっかけとなっていきます【本試験H2貴族の権力が強化されていったわけではない】。



◆ギリシア人による自然哲学が盛んになった
万物の根源を問う論証が積み上げられた
 さて,前7世紀頃の社会の変動期に現れた,新しい考え方が「イオニア自然哲学」【追H25スコラ学ではない】です。イオニア地方【本試験H10〈タレース〉はシチリアのシラクサ出身ではない】というのは,現在のトルコがあるアナトリア半島(小アジアとも呼ばれる地方)の,エーゲ海に面している地方のことで,このころ盛んに各地で交易をしていたギリシア人の拠点であり,合理的に物事を考える習慣がついていたのでしょう。また,ギリシアはオリエントの文明と違い,強大な権力を持つ宗教指導者や王がいません。ですから,自由に物事を考える気風や,説得力ある弁舌や論理的な説明が重んじられる傾向がありました。例えば,〈タレス〉(タレース,前624?~前546?) 【追H9ソクラテスではない、H17万物の根源はアトムとしたのではない、H20、H25】【セ試行 イオニアの自然哲学者か問う】【本試験H10】【本試験H13】は,万物の根源(アルケー) 【追H9ソクラテスと無関係、H25】【本試験H17ストア派ではない】を水【本試験H29】【追H17原子(アトム)ではない、H25】と考え,この世界の成り立ちを合理的にとらえようとした自然哲学者【本試験H13】の一人で,“哲学の父”と呼ばれます。西洋哲学の流れの中では「ソクラテス以前の思想家」として分類されることが多いです。哲学とは,答えのない(カンタンには出ない)問いを,自分の頭をつかって徹底的に考えることです。のちに成立するヨーロッパ世界や,のちにイスラーム教が広まる世界(イスラーム世界)では,彼以降現れたギリシアの思想家の影響を強く受けることになります。



◆アテネでは都市国家の政治参加者数が拡大され,法・政治制度が確立されていった
交易の発展を背景に,部族制が崩れる
 交易が発展して財力を得る平民も現れると,自ら武器を装備し,ポリスのために重装歩兵として戦うことで貢献するようになった平民の中から,政治に参加する権利を要求する声もあがります【本試験H6交易の発展の結果,もっぱら貴族の手中に富が集まり,諸ポリスに貴族制が確立したわけではない】。

 前7世紀に〈ドラコン〉【本試験H25スパルタではない】が,貴族の独占していた慣習法を成文化し,平民にもルールがハッキリと示されるようになりました。内容は主に刑法で,刑罰にはかなり残酷で厳しいものもありました。
 前6世紀初めには〈ソロン〉(前640頃~前560) 【本試験H18時期】【早・政経H31アテネ最古の成文法を制定していない】が,参政権をめぐる争いを財産によって参政権を定める,いわゆる財産政治(ティモクラティア) 【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期において禁止されたか問う】によって解決しようとしました。こうして富裕な平民には参政権が与えられました。役人は上位3ランクからのみ選ばれるという内容です。
 また,アテネ(アテーナイ)の発展とともに問題となっていたのは,債務奴隷【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期(民主制の完成期と類推する)において禁止されたか問う】です。このころの農民は,生産物の1/6を富裕な者におさめなければならず,支払えなければ“カタ”として債務奴隷(ヘクテモロイ)にされてしまうことが問題になっていました。〈ソロン〉はこれを禁止し,貧しい平民が増えて社会の秩序が乱れることを防ぎます。ちなみに〈ソロン〉は,〈ドラコン〉の法のうち,殺人に関するもの以外を廃止しています。

 しかし,こうした貧しい平民の支持を集め,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)によって政権を奪う政治家が現れます。その背景には民衆を巻き込んだ貴族間の激しい抗争がありました(注)。
 混乱をおさめるため、僭主(せんしゅ) 【本試験H18】【H30共通テスト試行 ポリュビオスがローマの国制のうち「元老院」について、「僭主」的であるとは表現していない(「貴族的」が正しい)】による一人支配が求められたのです。
 前6世紀中頃に〈ペイシストラトス〉(?~前527) 【本試験H18】が,隣国のメガラとの戦争で活躍し,中小農民の支持を受け,前561年以降断続的に独裁をおこなったのが有名です。独裁とはいえ,〈ペイシストラトス〉のように,人々の意見をちゃんと反映していたとプラスの評価がされる者もおり,僭主が一概に「暴君(タイラント。僭主を意味するギリシア語「テュランノス」が語源です)」というわけではありませんでした。
 神殿建築を造営したり,お祭り(パンアテナイア祭やディオニュシア祭【本試験H31リード文(アテネ南麓の劇場は酒神ディオニュソスを祀る国家的祝祭の舞台だった)】など)を積極的に運営したりして,アテネ(アテーナイ)市民の団結感を高めました。なお,この時期(前8世紀~前6世紀)につくられた像は,目は笑ってないのに口だけ微笑んでいる「アルカイック=スマイルという特徴を持り,アルカイック期と呼ばれます。
 また,彼は中小農民を保護して自作農を育成したため,彼らがのちの民主政の支持基盤となっていくことになりました。

 前508年には,〈クレイステネス〉(生没年不詳) 【東京H28[3]】【本試験H15】【追H21】は僭主が現れないようにするため,陶片追放(オストラキスモス) 【東京H8[3]】【本試験H9[17]】【本試験H15】【追H21, H30スパルタではない】の制度をつくります。当時はまだ紙がありませんでしたから(紙が実用化されるのは後漢時代の中国),記録するのに陶器のかけら(陶片(オストラコン)【追H28】【本試験H15】)【本試験H21図版。甲骨文字,インダス文字ではない】を削ったわけです。人気が加熱しすぎた政治家を,「僭主になるおそれがある者」【追H28】としてアテネ(アテーナイ)から追放できるようにしたものです【本試験H9[17]評議員・執政官や将軍を選出したわけではない】。「僭主になる恐れのある人物【本試験H9[17]党派ではない】」が投票され,6000票以上の得票者のうちの最多得票者が追放されたものとみられます。

 彼はまた,従来の伝統的な4部族制(血縁に基づく)が社会の実態に合っていないと考え,血縁を考慮しない地理的な区割り(デーモス【立教文H28記】)を考え,それを組み合わせて人工的に10部族をつくりました。こうすることで,人々が自分の部族のことばかりを考えるのではなく,ポリス全体のことを考えることをねらったのです。ちなみにこのデーモスは,デモクラシー(democracy,民主政)という英語の語源となりました。デーモスからは,人口比例で選ばれる五百人評議会を作りました。

(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。


●前600年~前400年の世界
生態系をこえる交流④
 ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展。乾燥草原の遊牧民も,乾燥地帯の大河流域の定住民も,国家の支配地域を拡大させる。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 騎馬遊牧民の活動が,ユーラシア大陸各地の定住民エリアに影響を与える。

 東アジアでは,周王朝に服属する呉(ご)の〈夫差(ふさ)〉(位495~前475)らの諸侯が各地で経済開発を進める。
 南アジアではガンジス川流域に,〈アジャータシャトル〉(位494~462?)のマガダ国などの諸国が経済開発を進める。
 西アジアではペルシア人のアケメネス朝〔ハカーマニシュ朝〕が,広域を統一する。最盛期の〈ダレイオス1世〉(位前522~前486)は,北方の遊牧民スキタイに敗北している。
 ヨーロッパでは,地中海沿岸にカルタゴ(前9世紀後半~前146)やギリシア人の諸都市が交易活動で栄える。

 社会の変動に合わせ,東アジアに諸子百家,南アジアに〈マハーヴィーラ〉(前6世紀頃~前5世紀後半)や〈ガウタマ=シッダールタ〉(前6世紀頃?),西アジアに〈ゾロアスター〉(前10世紀説もある),ギリシアに〈ピュタゴラス〉(前582~前496)など,様々な新思想が生まれます。


(2) アフリカ
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
 アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
 バンツー系の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。


(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのオルメカ文化の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部のサポテカ文化が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部では高地のチャビン文化のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。



●前600年~前400年のアメリカ

○前600年~前400年のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
 北アメリカの北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○前600年~前400年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆メキシコ湾岸のオルメカ文化は衰退に向かう
オルメカ文化が衰え,都市が放棄される
 オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)は衰退に向かいます。
 大都市ラ=ベンタ は前400年には放棄されました。

◆マヤ地域では小規模な祭祀センターや都市次第に成長する
 この時期のマヤ文明は先古典期(前1000年~前250年)に区分されます(注)。

(注)この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。


◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,神殿が建設され始める
オアハカ盆地に神殿が建設され,軍事的に拡大へ
 一方,トウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,前500年~前300年頃にメキシコ南部のオアハカ盆地で大規模な神殿が作られるようになりました。
 オアハカ盆地の中央にある標高400mの山頂にはおそらく砦が建設され,征服活動を表したレリーフがあり,ティオティワカンとも外交していたとみられます。また,中央アメリカ〔メソアメリカ〕最古とみられる,260日暦と365日暦のシステムを整えた暦法を残しています(注)。
 担い手はサポテカ人で,中心都市はモンテ=アルバンです。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.42。


◆メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えている
 メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えています。

○前600年~前400年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 

○前600年~前400年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方には各地に農耕を基盤とする文明が栄え,神殿が築かれる
山地にチャビン文化,南海岸にパラカス文化
 南アメリカのアンデス地方中央部の山地にあるチャビン=デ=ワンタルでは,前1000年頃からチャビン文化が栄え,前300年頃に衰えるまで続きました。
 アンデス地方の南海岸にはパラカス文化(前4~前2世紀)が栄えます。以前は独立した文化と考えられていましたが,土器のスタイルの違いのみで,担い手はのちのナスカ文化と同じ集団です(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.10。




◆アマゾン川流域でも定住が営まれている
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落が営まれています。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。


(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。








●前600年~前400年のオセアニア

 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
 彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。




●前600年~前400年の中央ユーラシア

○前600年~前400年の中央ユーラシア 西部
 中央ユーラシアには,草原を舞台にした騎馬遊牧民による同じような特徴をもつ文化が広範囲にわたり広がっていました。その証拠に,前5~前4世紀には,中央ユーラシア東部のアルタイ地方で,ギリシア美術のデザインや,中国の絹織物や青銅器の鏡も出土しています。

 なんといっても最大の勢力を誇っていたのは黒海北岸のスキタイ人です。アケメネス朝〔ハカーマニシュ朝〕の遠征軍を破り,その軍事力を轟(とどろ)かせました。

 サウロマタイ人(前7~前4世紀)は,西部カザフ,ウラル南部,ヴォルガ下流,北カフカス,ドン川下流地方で活動した,スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く,ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。

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○前600年~前400年の中央ユーラシア 中央部
 中央ユーラシアのど真ん中に位置するタリム盆地は,雨がほとんど降らない乾燥地域ですが,北を東西に走る天山山脈や,西部のパミール高原からの雪解け水に恵まれて,地下水や湧き水を利用した都市が,古くから生まれていました。このような定住地のことをオアシス,都市に発展したものをオアシス都市といいます。しかし,せっかく山ろくの地表に水が湧き出ても,ほっとくと高温と乾燥ですぐに蒸発してしまいます。そこで,山ろくから地下水路をオアシスに向けて伸ばして,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ(カレーズ)) 【本試験H5中央アジアのオアシス都市では「小規模な灌漑農業が行われていた」か問う】が作られるようになっていきました。上空から見ると,穴がいくつもぼこぼこ開いているように見えるのが特徴です。





●前600年~前400年のアジア

○前600年~前400年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国


・前600年~前400年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国

 前632~前506年にわたって,周王の権威の下で,晋が「覇者」として君臨していました。前589年に晋は斉を破り,前575年に楚を破りました。晋は,長江下流域の呉に前584年に楚と戦わせるなどして勢力削減を図り,前562年には楚から鄭を奪い返し,中原への進出を断念しました。
 呉からの攻撃が相次いだため,楚は前546年に晋と和平を結んでいます。晋を霸者とすることで,中原諸国は楚を仮想敵国として同盟(会盟)を組んだり争ったりということを繰り返しました。
 しかし,晋が楚との関係を改善させたことに対し,中原諸国の中には晋の言うことを聞かなくなる国も現れはじめます。前506年には晋が中原の蔡に救援を頼まれたときに,蔡を見捨てて楚を攻撃しなかったことがきっかけになって「覇者」としての君臨は終わり,中原諸国は次々と晋の言うことを聞かなくなっていきました。

 前496年には,呉が越と戦い,呉王〈闔閭〉(こうりょ)は戦死しました。〈闔閭〉の遺言は「必ずカタキをとれ」。息子の呉王〈夫差〉(ふさ,在位前495~前473)は,「三年以内に」と答え,“薪の上で寝る(臥す)”ことで,父を失った屈辱を忘れまいとしました。そして迎えた前494年,越王〈句践〉(こうせん,前496~前465)を破り,“親父のカタキ”をとったのです。しかし,今度は〈句践〉が“胆(きも)を嘗(な)める”ことで屈辱を忘れずに国力増強に挑み,その結果,越は前473に呉を滅ぼしました。これらを合わせて「臥薪嘗胆」という故事成語ができました。リベンジのために何が何でも耐えるぞ!という意味です。前479年には『春秋左氏伝』(左伝)の記述が終わっています(注1)。

そんな中,この時期の中原諸国では,身分に応じた家臣とは別に,能力に応じた人材をとりたてる動きが加速しました。特に有名なのは〈孔子〉(前552?551?~前479)ですね【本試験H13ソクラテス,釈迦,孔子ではない】。

 晋では趙【本試験H15山東半島が拠点ではない】・魏・韓の三晋が,周から事実上独立を図るようになります(注2)。

 前447年,楚の〈恵王〉(前488~前429?)が,蔡(さい)を滅ぼして領土に加えたのち,宋の進出も狙いました。これに対して兼(けん)愛(あい)(家族を超えた博愛主義)【本試験H15】・非攻【本試験H17法に基づく統治ではない】を唱えた〈墨子〉【追H9孟子とのひっかけ】【本試験H17法家ではない】(前480?~前390?)の武装集団(墨家(ぼっか)【本試験H15,本試験H31法家とのひっかけ】【慶文H30記】)が阻止しています。

 前404年に趙・魏・韓の三晋が,周王〈威烈王〉(前425~前402)の命で斉を破り,前403年に諸侯と任命されました。
 この時点で,東周の前半部の春秋時代が終わり,ここから戦国時代【本試験H19五代十国時代とのひっかけ】とすることが一般的です(宋の時代の『資治通鑑』(1084年完成)など)。なお,「戦国」は,漢の〈劉向〉(りゅうきょう,前77~前6)の『戦国策』が語源です。

(注1) 『春秋左氏伝』の記述の終わる479年から戦国時代の始まりとする説に対し、前漢の時代の歴史書である『史記』は六国年表の立つ475年を始期とする説もあります(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.196)。
(注2) 晋が3つに分割された前453年を、戦国時代の始期とする説もあります(同、p.196)。




・前600年~前400年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島

 殷が周に滅ぼされると,殷の最後の王〈紂王〉(ちゅうおう)の親戚であったとされる〈箕子〉(きし)が,周に従うことを拒否し朝鮮半島に移住して「箕子朝鮮」を建国したと,中国の歴史書(『史記』や『漢書』)が伝えていますが,実在は定かではありません。




○前600年~前400年の東南アジア
 北ヴェトナムには,前1000年紀の中頃に,紅河(ホン川)流域に文郎国(ヴァンラン)という伝説上の国があったといいますが,定かではありません。ただ,この地域では水稲農耕が発展し,金属器も生産され,人口密度が高くなり,社会が複雑化していきました。インドや中国からの文化の流入も始まっていました。



○前600年~前400年の南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


・前600~前400年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 スリランカ中央部には,インド=ヨーロッパ語族系統のシンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。初代国王は〈ウィジャヤ〉(位 前543~前505)とされ,インド北部から移住した勢力とみられます。

(注)シンハラ人の来住は「およそ前5世紀ころのことと考えられる」。辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.168。


・前600年~前400年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン

 前600年に後期ヴェーダ時代が終わり,この頃からアーリヤ人の中心地はガンジス川中・下流域に移りました。
 西のほうからやって来たアーリヤ系の民族によるという説もありますが、むしろ、「アーリヤ文化に接し、それを受け入れて自らクシャトリヤ(武人階級)と称した先住の農耕部族の側」が担い手であった可能性も強いです。そうなると、従来のバラモンたちの権威が失墜し、新たな社会階層である地主・手工業者・商人組合の長らの自由な発想が貨幣経済の発展とともに台頭し、バラモンに批判的な「六師外道」(ろくしげどう、代表的な6人の思想家)、「六十二見」(多くの自由思想家)が活躍する時代がやってきます(注1)。

 こうした北インドのガンダーラから,デカン高原北部のアシュマカまで,16の国家に分裂して覇を競う時代が到来。これらを十六大国と呼びます。
 ガンジス川流域にあったコーサラ国とマガダ国には,強力な王が官僚と軍隊に支えられる王国が形成されていました。コーサラ国はマガダ国に滅ぼされます。

 マガダ国の都はラージャグリハで,王は部族にとらわれず実力本位で人材を登用し,官僚・軍隊を強化しました。〈ブッダ〉を保護した〈ビンビサーラ〉王(前550~前491)が有名です。

 バラモン教に対する批判【追H30擁護していない】として生まれた新たな思想の一つが,ジャイナ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まった宗教ではない】【追H30バラモンとヴェーダの権威を擁護していない】です。
開いたのは〈ヴァルダマーナ〉(前549~前477?)という男です。彼はマガダ国で生まれた王子で,若いうちに結婚して子どもをもうけましたが,30歳で親と生き別れました。
 彼は両親の死も含め,人間にとって逃れられない苦しみをどう乗り越えていけばよいか考えるようになります。自分の財産をすべて捨て13ヶ月間瞑想した結果,苦しみの根源が「所有」にあると悟りました。バラモンのようにきれいな衣服をまとい裕福で物にあふれていても,そこからまた新たな苦しみが生まれる。彼は,都市国家間の戦争も激しさを増し,多くの人が命を落としていく時代を生き,新しい時代をよりよく生きる生き方を人々に説いたのです。
 ジャイナ教が批判した考え方に「輪廻転生」(りんねてんしょう)があります。バラモン教は「輪廻転生」の考え方を持っています。簡単に言えば「生まれ変わり」です。せっかくいい人生を送ることができたと思っても,その生き方次第で,来世ではミミズになったりネズミ,あるいは奴隷になったりしてしまうかもしれないという世界観です。
 ただ,この考え方に縛られると,現在の自分は,まるで永遠に続く来世のために頑張っているということになりますから,これはかなり辛い。永遠のグルグルから抜け出すことを解脱(げだつ)というのですが,このためにはバラモンに莫大なお布施(ふせ)を支払ったりする必要があるとされました。
 「そんなことする必要はないじゃないか」と考えたのが,〈ヴァルダマーナ〉という人物です。マハーヴィーラ(偉大な英雄)と呼ばれる彼は,12年間修行をした末にジナ(=勝利者)になったと讃えられています。彼は徹底した不殺生(ふせっせい,アヒンサー,生き物を殺さないこと)を首長し菜食も奨励しました。現在の信徒数は約3,000万人です。




◆貨幣経済の成立に対応し、人生は「苦」という認識から出発した〈ブッダ〉が教えを説いた
階級社会の個人の心を救済する新思想が成立

 〈ヴァルダマーナ〉と同じ頃,バラモン教という当時の“常識”から目覚めた人物がいます。目覚めた人という意味の〈ブッダ〉です。目覚めることを,“悟りを開く”といいます。悟りを開く前は〈ガウタマ=シッダールタ〉(前566~前486頃または前464~前384頃) 【本試験H12仏教の「開祖」ではない】【本試験H13ソクラテス・釈迦・カントではない,本試験H15仏教の開祖かを問う,本試験H19時期】という名のクシャトリヤ階級でした。人間は永遠に輪廻転生するということが当たり前だったインドで,「輪廻転生の苦しみから逃れる方法」について悟った人物です。

 彼は〈ヴァルダマーナ〉と同様,王子としてシャールキヤ族に生まれました。シャールキヤを漢訳すると釈迦(しゃか)になります。「ムニ」という偉い人を敬う呼び方をつけて,「釈迦牟尼」とも言います。
 シャールキヤ族は,マガダ国のライバルであるコーサラ国の部族の一つでした。十六大国時代ですから,まさに戦国時代。故郷のカピラヴァストゥという町(インド側は「インドにあった」と主張し,ネパール側は「ネパールだ」と主張しています)で,母〈マーヤー〉(摩耶)と王から生まれた〈ガウタマ〉ですが,出生7日後に母は死んでしまいました。結局〈マーヤー〉の妹によって育てられ,宮殿で可愛がられて育ち,やがて16歳で結婚し,子どもをもうけます。

 しかし,バラモン教の考え方に疑問を持っていた彼は,夜中に王宮を抜け出し,修行の旅に出ます。29歳のことでした。彼はいくつかの師匠につきましたが,「これじゃない」と思い,結局森に入って35歳までの6年間,体を痛めつける苦しい修行に励みます。しかし,「こんな厳しい修行をしても,意味はない」とようやく気づく。 
 断食をやめて川にたどりつくと,村の娘の〈スジャータ〉からお米を牛乳で似たおかゆをもらう。これで元気が出た〈ガウタマ〉は,近くの木の下で瞑想をはじめたのです。

 途中で悪魔が邪魔をしようとしたのですが,これを退散することに成功し,その後座って瞑想しつづけた〈ガウタマ〉は,「なぜ人間は苦しむのか」「苦しみから逃れる道はなにか」という問いに対する答えを見つけます。つまり,ブッダ(目覚めた人)になったのです。

 「でもこの教えをみんなに教える必要はないだろう」と思っていたブッダに対して,「教えたほうがいいよ」とアドバイスしたのは,ヒンドゥー教のブラフマー(梵天)なんですね。そこで,現在はヒンドゥー教の聖地としてのほうが有名なヴァラナシの近くのサールナートで,〈ブッダ〉は初めて自分の考えをお披露目しました。その相手は,かつて森の中で苦行に励んだ5人の仲間だったのです。たちまち信者は1000人を越え,その名声をきいたマガダ国の〈ビンビサーラ王〉(位前546~前494?)も弟子となり,土地や建物を寄進(きしん)(注2)したといわれています。


(注1) 「六師外道」には、「①道徳否定論を説いた〈プーラナ=カッサパ〉(前6~前5世紀),②7種の要素をもって人間の個体の成立を説いた〈パクダ=カッチャーヤナ〉(前6~前5世紀),③輪廻の生存は無因無縁であるとし決定論を説いた〈マッカリ=ゴーサーラ〉(前6~前5世紀),④唯物論を主張した〈アジタ=ケーサカンバラ〉(前6~前5世紀),⑤不可知論を唱えた〈サンジャヤ=ベーラッティプッタ〉(前6~前5世紀、〈シャカ〉の二大弟子である〈サーリプッタ〉 (舎利弗) と〈モッガラーナ〉 (木犍連)はもともとサンジャヤの弟子である),⑥ジャイナ教の祖師である〈ニガンタ=ナータプッタ〉(マハービーラ) がいます(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。
(注2) 宗教的な権威が,資源や土地に関する権限の調整や再分配を行う例は,歴史上に多くみられます。「自力救済」が支配的な前近代社会にあって,民間の経済活動や財産は,権力者によって侵害されることはよくありました。そこで,寺院や境界に財産を寄託したり,権力者の腐敗を防ぐために市場の管理を寺院が担ったりこともふつうに見られました。それら財産や経済活動の管理の主体として,寺院の果たした役割は大きかったのです。医療活動や福祉活動を通して住民の人心をとらえることもありました。
 十六国時代にはすでに,王がバラモンに村や土地を施与(せよ)する慣行が始まっていました(「村の施与とはその村から徴収される諸税の享受権を与えることであり,土地の施与とは開拓可能な未耕地などを免税の特権とともに与えることを意味する」 辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,pp.54-55)。仏教教団にとっても寄進は重要でした。「ブッダに帰依する者はバラモンから不可触民にいたるあらゆる階層からでたが,教団を物質的に支えたのは,主として都市の住民,とりわけ王侯と商人であった。マガダ国の都ラージャグリハにあった竹林精舎も,コーサラ国の都シュラーヴァスティーにあった祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)も,彼らの寄進したものである。」(辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,p.62)。


 順調のように見えた〈ブッダ〉を襲ったのは,故郷シャールキヤの滅亡でした。ブッダのことを慕っていたコーサラ国王〈プラセーナジット〉が,留守中にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)にあってしまい,新たに王位についた〈ヴィルーダカ〉がカピラヴァストゥを攻め滅ぼしてしまったのです。結局〈ヴィルーダカ〉も,勝利に酔いしれている最中に雷が落ちて死んでしまうのですが。
 故郷を失った〈ブッダ〉は,それでも布教をつづけましたが,とある村で出されたキノコが原因で,亡くなってしまいます。〈ブッダ〉も「人」であることには変わりはなかったのですが,亡くなるといっても〈ブッダ〉は悟っているわけですから,輪廻転生の心配のない安らかな眠りです。


 〈ブッダ〉の死後,弟子たちは,2つのものを分け合いました。

 まずは〈ブッダ〉の遺骨。仏舎利ともいうこの遺骨を,ストゥーパという塔に納めてまつりました。実は,仏像がつくられるようになるのは,〈アレクサンドロス大王〉(前356~前323)が東方遠征でインダス川流域【追H29】にまで到達したのがきっかけです。
 〈アレクサンドロス大王〉が連れてきたギリシア人が,彫刻の制作技術を伝えたのです。それが現在ののアフガニスタンにあるガンダーラ地方です。アフガニスタンは,カイバル峠でインダス川上流部とつながっている地域です。アフガニスタンには,ギリシア人の国バクトリア王国(前255~前145頃) 【本試験H8ソグド人ではない】が前255年にたてられていて,ギリシア人が植民してます。ギリシア系住民が,ガンダーラ様式の仏像【本試験H4図版(純インド的な様式ではない)】をつくる以前は,人々は,〈ブッダ〉の遺骨を崇拝していたのです。〈ブッダ〉は正しい「考え方」を追究することで,生きる苦しみから逃れる道を探したわけですが,やっぱり「物」をありがたがるほうが,わかりやすいですからね。この時期の,アフガン方面から北インドにかけての美術をガンダーラ美術【本試験H8】【セA H30ビザンツ文化の影響ではない】ともいいます。

 そして,二つ目は〈ブッダ〉の残した教えと法と決まりです。
 〈ブッダ〉の語った言葉は,のちにいろいろ解釈されていき,数百年たつと,どれが本当に〈ブッダ〉の語ったことなのかわからなくなってしまった。そこで,何度かその教えをまとめる作業がおこなわれました。これを結集(ブッダ)といいます。

 仏教のお経を聞いていると「にょーぜーがーもん」というフレーズがよく出てきます。これは,「如是我聞」,かくのごとく我聞けり。「わたしはこう聞いた」という意味です。お経というのは弟子たちが,「俺はこう聞いた」「いや,私はこう聞いた」という聞伝えなんですね。お経といいましたが,もう一つ重要なのは律(教団の規則)です。
 〈ブッダ〉の死から100年経った頃の仏教を部派仏教(アビダルマ仏教)といいます。
 第二回仏典結集が開かれたときに部派仏教の教団は,「もうすこし規則(律)をゆるくしよう」というグループと「規則は絶対だ」というグループに分かれていました(根本分裂)。前者を大衆部,後者を上座部といいます。この
 人間が集まってつくられた組織というのは,時が経てば何かしらを争点として,「変えよう」というグループと「このままでいよう」というグループに分かれるものです。前者を革新派,後者を保守派といいます。ブッダの死後300年たつと,グループはさらに20部派にまで分かれていたといいます。
 このうち有力だったのは,インド北西部の上座部に分類される説一切有部(せついっさいうぶ)で,この世界を成り立たせているダルマ(法=ブッダの教え)は諸行無常(すべてのものは移り変わっていく法則)に反し,過去・現在・未来に渡って“存在”すると主張しました。
 しかし,説一切有部が仏教の理論研究を重視している姿は,南インドの大衆部(だいしゅぶ)には“修行している本人のみが救われる” 狭い営みに映りました。大衆部は説一切有部のことを「小乗仏教」と批判しています(大衆部(だいしゅぶ)にはその後の大乗仏教につながったという説と,つながりを否定する説があります)。
 個人の修行を重視するスリランカ(セイロン島)の上座部は,のちに東南アジアに伝わりました。中国・朝鮮・日本に伝わった北伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】と違い,南から伝わったので南伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】といい,上座仏教(テーラワーダ)【本試験H6「上座部仏教」,菩薩信仰が中心思想ではない】と呼ばれます。上座仏教は,部派仏教時代の上座部とは厳密にはイコールではないので,以前呼ばれていたように“上座部仏教”(じょうざぶぶっきょう)とは呼ばれなくなってきています。

 〈ヴァルダマーナ〉や〈ガウタマ=シッダールタ〉の活動した前6世紀頃には,中国でも新しい思想家たち(諸子百家)が現れます。ギリシアで〈ピュタゴラス〉(前570?~前495?) が現れるのも前6世紀のこと。イランで〈ゾロアスター〉(生没年不詳)がゾロアスター教を開くのも一説にはこの頃といわれます(前1000年頃という説もある)。同時多発的に,世界各地で新たな考え方が開花したことに注目し,19~20世紀のドイツの実存主義の哲学者〈ヤスパース〉(1883~1969)は前6世紀を「枢軸の時代」と名付けました。


 なお、この頃の文字史料は、ヤシ科の葉を用いた貝葉(ばいよう)や、樺の樹皮を用いた樺皮(かばひ)などに記されました。脆弱な素材と過酷な気候のために痛みやすく、古い写本の多くは残っていません。永久に残すべき記録は石や金属に銘文として刻まれましたが、その多くは寺院などへの寄進文書でした。その中では寄進の内容だけでなく、銘文を残した王とその祖先の事績を称える長文の詩が残されることがしばしばでした【追H28リード文(第4問)】。




○前600年~前400年のアジア  西アジア

西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

・前600年~前400年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆アケメネス朝がエジプトからインダス川流域に至る広大な領域を支配する
分立時代を終結させたペルシア人の帝国が拡大
 アッシリア帝国が滅んだ後,オリエントは四国分立時代になります。

 その後,オリエントを再統一することになるのは,イラン高原南西部のパールス(現在のペルシア語ではファールスと発音します)地方の人々でした。パールスというのは「馬に乗る者」という意味があるように,名馬の産地として知られていました。
 現在のイラン中央部に位置するイラン高原は年降水量が200mm程度の乾燥帯に分類され,夏場は高温になるために,農業のために灌漑施設が必須です。地表に水が湧き出ても蒸発してしまうため,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ)の整備をめぐって,人々をまとめる権力者が登場します。また,南部には険しいザグロス山脈という山脈が,メソポタミア方面からペルシア湾と並行に,イランの南の縁を横切るようにのびています。
 それに比べ,イラン高原の北部のほうにある,世界最大のカスピ海の南岸地方は,エルブールズ山脈によって,イラン高原と区切られています。カスピ海から吹く風が山脈にぶつかって雨が降るため,農業もさかんです。
 パールス地方においてすぐれた騎馬戦法を発展させたアケメネス家〔ハカーマニシュ〕が強大化し,アケメネス朝【京都H22[2]】【本試験H17ハンムラビ王は無関係】〔ハカーマニシュ朝〕を建国しました(注)。
 建国者は〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21出エジプトの指導者ではない】で,メディア王国とリディア王国を征服し,さらに前539年にはバビロンに入城。さらに前538年には“バビロン捕囚”をうけていたユダヤ人を解放しました。〈キュロス2世〉は,北方のスキタイ人(ペルシア語の史料では「サカ人」)も討伐しています。
 王位を継承したのは長男〈カンビュセス2世〉(?~前522)で,前525年にエジプトを征服し,第26王朝を滅ぼして,なんと自身がファラオに即位しています。しかし,彼はペルシアに帰る途中,病死あるいは暗殺されました。
 これをチャンスとみた,アケメネス家の〈ダレイオス〉は,ペルシアの有力貴族に支持されて,王の弟を暗殺し,キュロスの家系から王位を奪います。

 こうして王位についた第3代〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世(注2),位522~前486) 【本試験H6】【本試験H27アルシャク(アルサケス)朝パルティアの王ではない】【追H30】は,黒海沿岸から北インド(インダス川上流部)にかけて遠征し,エーゲ海の東部やエジプトを含む広大な領土を支配することに成功します。
 アム川上流部のバクトリアや,その西のマルギアナも支配下に置いています。
 彼により建設されたザグロス山脈(イラン高原南部をペルシア湾と並行に走る山脈)の中央の新都ペルセポリス【本試験H17ギリシアではない,本試験H27コロッセウムはない】にあるレリーフ(浮き彫り)には,インド人が牛を連れている姿や,バクトリア人がフタコブラクダを連れている様子も刻まれています。楔形文字を使用した碑文も各地に残っています。スーサ王宮建設碑文(ペルシア語・エラム語・アッカド語)や,即位宣言が,ゾロアスター教の善神アフラ=マズダから王位を与えられるレリーフとともに刻まれているビーストゥーン(ベヒストゥーン)碑文が知られています【本試験H15楔形文字は碑文にも刻まれた例があるかを問う】。

 広大な領土から,効率よく情報や税金を集めるために,公用語としてアラム語・アラム文字が使用されました。また,アラム語の影響を受けてソグド文字が,イラン系のソグド語の表記に用いられるようにもなりました【本試験H6ダレイオス1世は,シルク=ロードを通して東西交易に力を注ぎ,中国へ使節を送ったわけではない】。

 広大な領土を支配するために,帝国を行政区に分割して,土地の広さや実態に応じて,金または銀を納めさせました。従来は,各地の民族が王に対して献上品(贈り物)を不定期に貢納するのが普通でしたが,これを定期的な物の徴収に改め,しかも各地区ごとに額を設定したことは革新的でした。広大な領域を州に区画し,納税額を設定して徴税する方法は,今後周辺の世界にも受け継がれていきました。

 ペルシア人の王族・貴族はサトラップ(サトラプ,太守) 【追H24非自由民の呼称ではない、H30】に選ばれ,各行政区を軍事的に間接支配させました。行政区は21の行政区(サトラピー)に分割されていました(注3)。
 サトラップは徴税の責任者であり、銀あるいは金で定められた超税額を国庫に納入させました。
 ただ不正をはたらく心配もあるため,「王の目」「王の耳」という監察官が不正防止のために派遣されます。こうした統治方法は,のちのローマ帝国にも受け継がれていきました。
 よくよく考えると、これって畜産管理の方式を人間に転用したともいえるでしょう。多数の人を効率よく管理するにはどうすればいいか、過去の方式を継承しつつさらにパワーアップさせていったわけです(注4)。

 さて〈ダレイオス1世〉は,税をおさめ,兵を出すなどの言うことを聞いている限り,基本的には征服地にペルシア語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】・ゾロアスター教やペルシア人の法を押し付けることはありませんでしたし,征服地の支配者も,サトラップの言うことを聞いている限りは,その身分は保障されました。“アケメネス朝は支配地域に対して寛容だった”と,よく説明されますが,ようするにそのほうが,支配にかかるコストがかからないわけです。
 ただ,これだけ広い地域を支配するには,「情報」や「物資」の伝達が不可欠です。例えば,地方で反乱が起きたときには,その情報をいちはやくつかみ,兵や食糧を迅速に輸送する必要があります。
 そこで,首都スーサ【東京H20[3]】から小アジアのサルディスまで「王の道」【本試験H4地図(王の道のルートと,道を整備した国の名称(アケメネス朝ペルシア)を答える),本試験H6シルク=ロードではない】が整備されました。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) は,全行程約2400kmで,所要日数は90日だったと伝えていますが,通常は3ヶ月かかったと考えられています。馬や使者が各地に用意され、リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できたようです【本試験H4『歴史』の史料が転用される。「「王の道」と呼ばれるその街道には,王の宿駅や立派な旅宿が随所にある。リディアとフリギアの区間は94パラサンゲス半(注*約520km)の距離だが,宿駅は20にのぼる。その先ハリス川の地点には関所と,それを守る衛所とがある。宿駅の総数は111。サルデスから都スサまでの間にこれだけの数の宿泊所があったことになる。」】(注5)。
 
 アケメネス朝では,前1000年頃に創始されたゾロアスター教が信仰されていました。〈ダレイオス1世〉は,ペルセポリスという都を建設しましたが,新年祭の儀式をとり行う場であったと考えられています。〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)に破壊され,現在は廃墟となっています。

(注1) ハカーマニシュはペルシア語、アカイメネスはギリシア語。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。
(注2) 上掲書、p.17。ダレイオスはギリシア語、ダーラヤワウはペルシア語。
(注3) ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉によればアカイメネス家発祥のペルシスには免税特権地区でありましたが、必ずしもペルシスが課税対象外であったわけでないから、21行政区と考えるのが妥当です。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注4) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注5)川瀬豊子によれば、全長2400kmで、20~30km間隔に111の宿泊施設が設けられていたとのこと。エラム語粘土板文書群(城砦文書)によると各駅では1日分の食糧が支給されたことから、111日かかったとみるのが妥当で、スサ~ペルセポリス間だけでなく、ペルセポリス~メディア、またはアレイア・バクトリア・インド方面にまでも同じような宿駅があり、一部の路面は切石・砂利・砕石により敷き詰められていたことが示唆されるとしています。「リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できた」というのも川瀬による推定。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。

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・前600年~前400年のアジア 西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
 アラビア半島南部には、オアシス地帯や交易路を支配するサバァ、カタバーン、ハドラマウト、アウサーン、ジャウフなどの小王国が並び立っていました。

 乳香(樹脂性の薫香料)・没薬(樹脂性香料・薬種)の産出は、インドやアフリカからの海上交易商人を引きつけ、ペルシア湾・地中海との陸上交易も栄えます。
 サバァからは、前1000年紀の前半に、紅海の対岸(現在のエリトリアからエチオピア北部)にかけて移民がおこなわれたらしいこともわかっています(注1)。

 なかでもサバァ王国は前700年頃に南アラビアの諸王国を服属させ強盛を誇りますが、前6世紀頃を境に国力を低下させます。
 「ムカッリブ」というサバァ王が称していた称号は前6世紀以降、ハドラマウト王国の王も名乗るようになりました(注2)。
 前に7世紀末ころには、ジャウフの新興勢力であるマイーン王国が成長。サバァと交易をめぐって厳しく対立していましたが、王は「ムカッリブ」と名乗ってはいません。ハドラマウトと香料の生産・集荷・輸送で提携し、エジプト、シリア、メソポタミアや地中海の島々にまで交易活動を広げていたと考えられます(注3)。
 さらに、紀元前500年以降になると、カタバーン王国が旧アウサーン王国領を獲得し、強大化していったようです(注4)。


(注1)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.25。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.27。
(注3)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,pp.30-32。
(注4)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.29。

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・前600年~前400年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 アッシリア帝国が滅んだ後,オリエントは四国分立時代になります。
 イラン高原ではメディア王国が拡大し,前590年にはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)でかつて強盛をほこったウラルトゥの王国を併合しています(注)。
 その後,アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)は,アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれています。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.32。





●前600年~前400年のアフリカ

○前600年~前400年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 東アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。



○前600年~前400年のアフリカ  南アフリカ

南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


 南アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。





○前600年~前400年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 中央アフリカの熱帯雨林地帯では,ピグミー系の人々が狩猟採集生活を送っています。




○前600年~前400年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

◆西アフリカで鉄器の製造が始まる
ナイジェリア北部で製鉄がはじまる
 この時代にも,現在のカメルーン周辺を現住地とするバントゥー系の住民の中央アフリカ方面への大移動が続いています。

 ニジェール川下流域の現在のナイジェリア北部では,農業生産が発展。
 前500年頃~前200年頃に鉄器が製作された後が残されています。
 発見されたのは現在のナイジェリア北部のジョス高原で、最初に発見されたノク村から、ノク文化と呼ばれています。
 出土品は、のちのこの地域に栄えるヨルバ人の彫刻にフォルムが似ています(注)。
 前500年以前にも鉄器利用の証拠があり,同じく鉄器文化の栄えたナイル川上流部のメロエ王国の遺跡よりも年代が古いほか製法も異なるため,西アフリカで鉄器文化が独自に発展したのではないかという説も提唱されています。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、pp.146-147。




○前600年~前400年の北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆サイス朝(前664~前525)…第26王朝
 エジプトでは,ナイル川河口のサイスを拠点に第26王朝(前664~前525)が,ギリシアとの交易で栄えていました。

◆末期王朝(前525~前332)…第27王朝~第31王朝
 しかし,前525年にイラン高原でおこったアケメネス朝の〈カンビュセス2世〉(位前530~前522)がエジプトに進出し,支配下に置かれました。エジプトには総督であるサトラップが派遣され,アケメネス朝の属州(サトラペイア)となりました。このペルシア支配下の王朝を第27王朝(前525~前404)といいます。
 これ以降,第31王朝まで短命な政権が続き,最終的に〈アレクサンドロス大王〉による征服で滅びるまでの期間を「末期王朝時代」といいます。





●前600年~前400年のヨーロッパ

○前600年~前400年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパとイベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

◆ケルト人の鉄器文化が発達した
ヨーロッパではケルト人が鉄器文化を営む
 しかし,前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わっておりケルト人による文化は前450年頃から従来のハルシュタット文化からラ=テーヌ文化へと移行していきました。彼らは,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えた支配階級の戦士が各地に遠征しました。

 北ヨーロッパにも鉄器が伝わるのはやや遅く,前500年頃のことです。

 イベリア半島には,ケルト人が先住のイベリア人と混血したケルティベリア人が分布していましたが,前7世紀にはバルカン半島南部のギリシア人が移住するようになり,前6世紀にはイベリア半島東北部に植民市エンポリオンが建設され,イベリア半島内陸部との交易も行っていました。

 一方,アッシリア帝国の崩壊後に勢力を伸ばしたフェニキア人の植民市カルタゴ(現在のチュニジアにあります)も地中海沿岸各地に植民市を建設。前540年にはイベリア半島とアフリカ大陸を分かつジブラルタル海峡を占領し,エンポリオンを除くギリシア人をイベリア半島から駆逐しました。イベリア半島の住民はカルタゴにより傭兵として採用され,鉱山の開発も進められました。


・前600~前400年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア半島
◆イタリア半島ではギリシア人やフェニキア人が海上交易で栄える
ローマでは平民が貴族に対し政治的権利を求めた
 イタリア半島北部にはエトルリア人が,南部ではギリシア人の植民地(マグナ=グラエキア(大ギリシア))が分布していました。シチリア島にも,シラクサ(シュラクサイ)というギリシア人の植民市があり,アテネ(アテーナイ)の進出に対しペロポネソス戦争(前431~前404)ではスパルタ側について戦っています。シラクサでは前405年に僭主〈ディオニュシオス1世〉(前405~前367)が即位し,僭主政治を行い交易で栄え,カルタゴと対立しました。〈ディオニュシオス1世〉は〈太宰治〉『走れメロス』に登場する暴君のモデルとなった人物です。
 イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,初めエトルリア人の王に支配されていましたが,前509年に追放し共和政が始まりました。当初は政治は貴族(ノビレス)が独占していましたが,平民(プレブス)が重装歩兵部隊【早・政経H31「三段櫂船の漕ぎ手」とのひっかけ】の主力として活躍するようになると,護民官(トリブーヌス=プレービス)と平民会の設置を要求しました。前494年と前449年の聖山事件(せいざんじけん)という平民の反乱により護民官・平民会ともに設置されました。護民官は神聖な役職とされ,「ウェトー(Vetō,私は拒否する)」と言うことで,人々のために元老院がくだした決定をくつがえすことができました。ただし独裁官(ディクタートル)の決定は例外です。さらに,前450年頃には,十二表法【本試験H17時期(前5世紀かを問う)】【本試験H8慣習法を成文化したローマ最古の法か問う】【早・法H31】が公開されて,貴族が口伝えで受け継いできた法の独占が破られていきました。




○前600年~前400年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆バルカン半島の諸民族は、西方からのケルト人や黒海北岸からスキタイ人などの遊牧民と対抗した
バルカン半島東部のトラキア人
バルカン半島の東部では,前6世紀初め頃から,トラキア人が国家を形成します。代表的なのはオドリュサイ王国で,前5世紀諸島に国家の基礎を確立し専制君主制をとって黒海北岸のスキタイ人とも外交関係を結んでいました。

バルカン半島西部のイリュリア人
 バルカン半島西部のイリュリア人は,進出したケルト人に服属しました。ケルト人はバルカン半島を横断して黒海北岸まで到達しています。

バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人
 バルカン半島北部にも黒海北岸のスキタイ人の圧力が強まり,ドナウ川中流域の左岸(北部)にはダキア人やゲタイ人が対抗しました。活動範囲は,現在のブルガリア北部とルーマニアにかけての地域にあたり,ギリシアの〈ヘロドトス〉や〈ストラボン〉によれば,バルカン半島東部のトラキア人のうちの北方のグループが東西に分かれて生まれたとされます。ギリシアの〈トゥキディデス〉(前460?~前395?) の歴史書によると,ゲタイ人はスキタイ人と同じく騎馬射手の軍隊を持っていました[芝1998:36]。アケメネス朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉(⇒前600~前400の西アジア)は,前573年にスキタイ遠征を実施した際にゲタイを攻撃しました。その後〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けました。




◆アケメネス朝は,保護下にあったフェニキア人とともにギリシア人の植民市を奪おうとし失敗した
アケメネス朝の小アジア・ギリシアに拡大は失敗
〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世,前522~前486)率いるペルシア人のアケメネス朝(古代ペルシア語ではハカーマニシュ,当時のギリシア語ではアカイメネス)は,保護下に置いていたフェニキア人の商業圏を広げるため,エーゲ海への進出をめざして小アジアを東に進出してきました。アケメネス朝はフェニキア人の海軍力を利用し,地中海交易を支配下に入れようとしたのです。
 ミレトス【追H28アケメネス朝の都ではない】【東京H14[3]】を中心とするイオニア植民市はペルシア人の進出に対して反乱を起こし,それを救援するためにアテネ(アテーナイ)とエレトリアが立ち上がり,(ギリシア=)ペルシア戦争(前500~前449) 【大阪H31】が勃発しました。

 この戦争の詳細については,〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) 【追H29ヘシオドスではない】が『歴史(ヒストリアイ)』に記録していることからわかっています。『歴史』には同時代のギリシア以外の広い地域の様子についても記されていて,東は遊牧騎馬民族のスキタイ人についてまで説明されています。

 前492年の〈ダレイオス1世〉による第一回ギリシア遠征は失敗。同じく〈ダレイオス1世〉による第二回遠征は前490年のマラトンの戦い【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ】でアテネ(アテーナイ)【本試験H29スパルタではない】の重装歩兵軍が,スパルタ軍の到着する前にペルシアを破りました。
 勝利に酔っていたアテネ(アテーナイ)市民をよそに,「やがてペルシアはもう一度やってくる。今度は海戦になるはずだ」と予測した〈テミストクレス〉(前528?前527?~前462?前460?) 【本試験H31】が,海軍の増強を主張。その財源はラウレイオン銀山で採掘された銀を使うと,堂々たる演説を行うと,前483年の民会で決議され,200隻の軍艦建造が決まりました。
 〈テミストクレス〉の予言通り,ペルシア軍はまた襲来。

 北方ではスパルタが陸路で攻めてきた〈クセルクセス1世〉(位前485~前465)率いるペルシア軍に,テルモピュライ(テルモピレー)で敗北。この戦闘に加わっていたのは,約1000人のギリシア軍(うち300人が〈レオニダス〉将軍率いるスパルタ軍)でした(映画「300(スリーハンドレッド)」(2006) 山と海に挟まれた狭い街道に誘い込む作戦が失敗した様子が描かれていますが,ペルシア人側が野蛮な姿に描かれていることに,イラン政府は抗議しています。ペルシア戦争は近世以降のヨーロッパにおいて,“文明的なヨーロッパ側のギリシアの民主政が,野蛮なアジアのペルシア皇帝に勝ったのだ”というストーリーとして理解されてきた経緯があります【大阪H31オリエントを蔑視するは発想のきっかけとなった戦争の名称を答えさせた(答えは「ペルシア戦争」)】」)。

 この第三回遠征では,前480年のサラミスの海戦【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,H31アクティウムの海戦ではない】【追H30ギリシア軍は敗北していない】でペルシア軍を破りました。ちなみに,第二回までは〈ダレイオス1世〉が指導していましたが,第三回は〈クセルクセス1世〉によるものです。

 当時のギリシア人には,デルフォイにあるアポロン【本試験H7主神ではない】の神殿で神託をうかがい,重要事項を決めるしきたりがありました。
 〈テミストクレス〉がデルフォイで占った結果,神が出したお告げは「木の柵を頼れ」でした。彼はこれを,建造した艦隊のことだと判断し,巧みな戦略で2倍の艦隊数を誇るペルシア海軍をサラミス海峡に誘い込み,壊滅的打撃を与えることに成功したのです。

 ギリシア人はポリスの違いに関係なく,オリンポス12神【本試験H25】【追H20一神教ではない】への信仰が盛んでした。主神ゼウス【本試験H7アポロンではない】をはじめ,オリエントの神々とは違い,人間の姿をしていて【本試験H25】人間臭いところがあるのが特徴です。いくつかのポリスが隣保同盟を組んで,神々を一緒にまつることもありましたが,デルフォイ【H29共通テスト試行】とオリンピアだけは,すべてのギリシア人にとっての聖地でした【H29共通テスト試行 アメン=ラー神信仰ではない,バラモンは無関係】。オリンピア【本試験H27アテネ(アテーナイ)ではない】では定期的にポリス対抗の競技大会が開かれ(古代オリンピック) 【本試験H27,H29共通テスト試行 コロッセウムでは開催されていない】,〈ピンダロス〉(前518~前438)が祝勝歌をつくっています。別々のポリスであっても同じギリシア人(ヘレネス)意識を持っていた彼らは,ギリシア語を話さない異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す者) 【本試験H10「手工業に従事する人々」ではない】と呼び,自分たちよりも遅れた存在と見なしていました。



◆エーゲ海沿岸では,「この世界」や「物体」「自分自身」が “ある” ということは一体どういうことか,考える人々が現れた
エーゲ海沿岸に「哲学」の文献が多数残される
 なお,小アジア西岸のイオニア地方では自然哲学者の研究がさかんとなり,万物の根源(アルケー)を追究する人々が現れました。万物の根源は「水」とした〈タレス〉の弟子で万物の根源を「無限なもの」とした〈アナクシマンドロス〉(前610?~前546?),その弟子で「空気」とした〈アナクシメネス〉(前585?~前528?)がいます。また,〈アナクサゴラス〉(前500?~前428?)は太陽を「燃える石」と説いて不敬罪で告訴されました。
 万物が,たったひとつの要素から構成されているのか(一元論),それとも複数の要素から構成されているのかということは(多元論),長い間議論の的でした。〈ピュタゴラス〉(ピタゴラス,前570?~前495?) 【本試験H10】【法政法H28記】はエーゲ海のサモス島【本試験H10シチリア島のシラクサ出身ではない】出身でしたが,南イタリアに逃れて万物の根源とされた「数」を崇める教団(ピュタゴラス学派(教団))を形成しました。ピタゴラス音階(ドレミ…の音階)を理論的に生み出したのも、彼らの功績です。

 また,万物が永遠不変の変わらないものがあるとする説と,そうではなくあらゆるものは移り変わっていくとみる説も対立していました。後者は,〈ヘラクレイトス〉(生没年不詳) 【追H26】が有名です。彼は,万物の根源は「火」【追H26原子ではない】で「世界は常に移り変わりながらも調和を維持している」と説明しました。
 一方,〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)は万物は「火・空気・水・土」の4元素から成り立ち,それがくっついたり離れたりすることで,さまざまな物質が生まれるのだと考えました。それに対して,〈デモクリトス〉(前460?~前370?) 【本試験H2天文学者プトレマイオスではない,本試験H10シチリア島(シラクサ)出身の自然科学者ではない】は,4元素説を否定し,万物の根源は「原子」(アトム) 【追H26これを説いたのはヘラクレイトスではない】によって成り立っていると考えました。




◆ペルシア戦争(前499~前449)後も,ペルシアはスパルタと結んでアテネ(アテーナイ)と対立した
諸ポリスへのアテネの支配が強まる(アテネ帝国)

 ペルシア戦争後も,ペルシアはポリス間の政治に介入して,軍資金を提供することでコントロール下に置こうとしました。
 そこでアテネ(アテーナイ) 【本試験H31スパルタではない】は自らを中心にして周りのポリスを従え,交易ネットワークも支配下に置いて(注),ペルシアに対する共同防衛のためデロス同盟【本試験H31】を結成しました。
 同盟国から集められた資金をしまう金庫はエーゲ海の入り口にあたるデロス島に置かれましたが,のちにアテネ(アテーナイ)はこの資金を流用していきます。例えば,前447年から「黄金比」の比率で有名な,ドーリア式(装飾のない列柱を持つ様式) 【東京H24[3]】のパルテノン神殿【セA H30アテネで作られたか問う】【名古屋H31論述(世界遺産の登録基準をどのような意味で満たしているか)】が建設され,建築監督を務めた彫刻家〈フェイディアス〉(前465?~前425?)は,象牙と黄金で作られたアテナ女神像を,かつてはパルテノン神殿の横にあるイオニア式(柱の上部に水の渦巻きを著した列柱を持つ様式)のエレクテイオン神殿に安置しました。

 また,ペルシアとの海戦で,武具の買えない貧しい平民(無産市民)らは,三段櫂船(さんだんかいせん。3段に座席のある漕ぎ手がオールを動かし,最大時速20kmで敵船に突っ込み,沈没させることができました【本試験H6図版(ジャンク船,カラベル船,蒸気船と見分ける)】【本試験H22ジャンク船・ダウ船・亀甲船ではない,本試験H29】【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期のアテネで、「下層市民」が漕ぎ手として活躍したか問う】【早・政経H31重装歩兵部隊ではない】)の漕ぎ手として活躍しました。このことから,戦後には彼らも含めたすべての成年男性市民が民会に参加することができ【本試験H29】,多数決で直接ポリスの政治に参加することが認められました(直接民主政)。役人はくじ引きで決められ,裁判はくじ引きで選ばれた陪審員(手当が支給されました)が民衆裁判所で判決をくだしました。
 ただし,女性や奴隷,アテネ(アテーナイ)国内の外国人には参政権はありませんでした。また,将軍〈ペリクレス〉【追H21】と協力してクーデタをおこし,貴族から政権を奪った民主派の政治家〈エフィアルテス〉(?~前461)により,前462年には貴族の合議機関として残されていたアレオパゴス会議から政治の実権のほとんどを奪っています。実質上の最高職となった将軍職(ストラテゴス)は,くじ引きではなく民会における選挙で選出されました。
 任期1年,10人が選出され,再任は可能です【本試験H12「ペリクレス時代のアテネでは神官団の政治的権限が民会以上に強かった」わけではない】。こうしてアテネの成年男子による民主政は「完成」しました(つまり、女性や奴隷に参政権はありませんでした)【追H21】【大阪H31 論述(参政権の範囲の変遷について西欧近現代と比較する)】。

(注)「交易ネットワークを支配下に置く」とは,どういうことか,下記の史料(抜粋)を参照。
「取るに足らないことから言うとすれば,まず第一にアテナイ人は海上支配のおかげで様々な人々と交わり,各種の贅沢を見出した。……かりにあるポリスに船舶用木材が豊富にあるとしても,海の支配者の同意なしにそれをどこへ持ち込むことができるであろうか。またもしあるポリスが,鉄や銅や亜麻を豊富に産するとしても,海の支配者の同意なくしては一体どこへ売り込むことができようか。しかし,これらの品々はまさしく船には必須の品々である。あるところからは亜麻を,そしてまたあるところからは蜜蝋を,という風に集めねばならない。そのうえ,敵国への輸出は禁じてある。これを破れば海を利用させない。…[Pseudo Xenophon, Athenaion Politeia 2, 7~12]」。この中の「海の支配者」とはアテネ(アテナイ)のことです。
古山正人ほか編訳『西洋古代史料集』東京大学出版会,1987年,pp.61-62



◆スパルタは軍国主義的な政策をとり、経済的に「鎖国」した

 バルカン半島南西部のペロポネソス半島(ラコニア地方)のスパルタ【本試験H27アテネではない】には王がいましたが,民会で話し合う前に元老院(ゲロンテス)長老と一緒に起案された事項を先に協議する必要がありました。元老院は28人の長老と2人の王で構成され、おもに司法を担当します。一方、監督官(エポロイ)という役職が王を処罰、拘禁することもできました。
 王は軍隊の指揮をとる将軍ではあるものの、その権限を行使するには実質的に長老や貴族の了解が必要であったということなのです(注1)。

 このような制度をつくったのは伝説上の王〈リュクルゴス〉(前390?~前324) 【本試験H27】【中央文H27記】と伝えられ,前6世紀中頃までに成立したとみられます(注2)。


 こうしてスパルタは,圧倒的多数を占める奴隷の反乱をおさえつつ,ギリシア最強の陸軍国となったわけです。しかしペルシア戦争では戦闘に破れ,戦後アテネ(アテーナイ)がデロス同盟【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】で勢力を伸ばしたのに対抗して,スパルタを盟主とするペロポネソス同盟【本試験H19デロス同盟,コリントス同盟,四国同盟ではない】を結成しました。

 ペルシア戦争当時,そもそもギリシアの全ポリスが団結してペルシアに立ち向かったわけではありません。“自由”なギリシアの正義が,“専制”のペルシアに勝ったのだ!というふうにアテネ(アテーナイ)の〈ペリクレス〉将軍(前495?~前429)は演説しましたが,それはあくまでアテネ(アテーナイ)側の視点にすぎません。そもそも〈ペリクレス〉は前451年に法により,アテネ(アテーナイ)の市民権が与えられる条件を,「両親ともに市民である18歳以上の男性」に限定していました。彼はパルテノン神殿の造営を企画し,アテナ女神像やパルテノン神殿のフリーズ(欄間(らんま))の彫刻で知られる彫刻家〈フェイディアス〉(前5世紀)が監督しました。アテナ女神像には象牙や黄金が用いられています。これらにはデロス同盟でおさめられた同盟国からの資金が流用されました。

(注1) 集合名詞としては「ゲルシア」。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2) スパルタの諸制度が〈リュクルゴス〉により定められたのかは、古来意見が分かれます。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。



◆アケメネス朝はスパルタを支援しアテネ(アテーナイ)側に勝利,戦後のアテネは衰退する
ポリス間の戦争が泥沼化し周辺諸国の干渉を生む
 前431年にアテネ(アテーナイ)を盟主とするデロス同盟vsスパルタ盟主のペロポネソス同盟の間で,ペロポネソス戦争が勃発(前431~前404) 【本試験H31】【立教文H28記】。アテネ側をバルカン半島のトラキア人が支援。
 対するスパルタ側【本試験H31】を,アケメネス朝ペルシア【本試験H31「スパルタがペルシアの支援を受けた」ことを問う】やシラクサ(アテネ(アテーナイ)と交易で対立していたシチリア島の植民地)が支援しました。

 アテネ(アテーナイ)は,市内に立てこもる作戦をとりましたが,疫病で〈ペリクレス〉将軍を亡くし,スパルタに破れます。
 このペロポネソス戦争【共通一次 平1:ペルシア戦争ではない】【追H29トゥキディデスが叙述したか問う(正しい)】については,ペルシア戦争の叙述(『歴史』【追H20『ゲルマニア』ではない】【本試験H31ササン朝との戦争を扱っていない】)で知られる〈ヘロドトス〉と並ぶ歴史家〈トゥキディデス〉(前455以前~前400?) 【東京H22[3]】【共通一次 平1】【本試験H26リウィウスではない】【追H20、H29】【同志社H30記】による客観的な記録(『歴史』)が知られています。
 ペロポネソス戦争の前後,アテネ(アテーナイ)では【本試験H10この時期のポリスについて(「①ポリス市民間の貧富の差が拡大した,②土地を失うポリス市民が現れた,③ポリスの間に傭兵の使用が広まった,④ポリス市民としての意識や結束が強まった」か問う。④が誤り)】,〈クレオン〉(?~前422)のように,人々をいたずらに煽(あお)り立てる煽動政治家(デマゴーグ)が現れるようになります。
(注)このことを,かつては「衆愚政」と呼び,民主政の失敗パターンとして理解されていました。しかし,とりたてて「衆愚政」という理解をすることは,現在では少なくなっています(橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社,2016)。アテネの民主政を「衆愚政」と呼ぶとき、それに対する批判的な価値判断がはたらいています。たとえば師匠である〈ソクラテス〉を裁判によりなくした〈プラトン〉は、アテネ民主政を憎悪し「理想国家」を追求していきます。その文脈においてアテネ民主政は否定的にとらえられています。彼のテキストを参照した後代の史料は、それにひきずられるようにアテネ民主政に欠陥があったものという立場に立ちがちです。しかし、アテネの民主政は、従来考えられていたよりもはるかに整ったシステムを備えていたものとみられています(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.31も参照)。


 
 戦争が激しくなると,ギリシア文化は古典期(前5~前4世紀)と呼ばれる時期に入ります。ペロポネソス戦争という戦時下にありながらも,悲劇や喜劇【本試験H31リード文(指導者らに痛烈な批判を浴びせる批判的な性格をもっていた)】はさかんに上映されました。

 かつてペルシア戦争期に,戦闘に参加してアテネ(アテーナイ)の華々しい活躍を目撃した〈アイスキュロス〉(前525~前456) 【追H24】は,『アガメムノン』を含むオレステイア3部作など雄大な悲劇を多数残しました。しかし,アテネ(アテーナイ)の没落期を生きた〈ソフォクレス〉(前496?~前406) 【追H24】は,『オイディプス』王など,運命に縛られた人間の絶望を描き,多くの人が戦場に散っていく世相にマッチして人気を得ました。また,〈エウリピデス〉(前485?~前406) 【追H24】は,『メデイア』など,悲劇を日常的で身近な人間ドラマに仕立て上げる新たな手法を導入し,人気を博しました。喜劇作家としては『雲』『女の平和』【立教文H28記】で知られる〈アリストファネス〉【共通一次 平1】【本試験H31直接明示されてはいないが,「政治を風刺する喜劇」をつくった人はアリストファネスであり,ヘシオドスではない】【追H24三大悲劇詩人ではない】がいます【共通一次 平1:主著は『イリアス』ではない】。

 口先だけの弁論術が重視され,「人間は万物の尺度である」【追H9ソクラテスの主張ではない】と主張した〈プロタゴラス〉(前480頃~前410頃) 【セ試行イオニアの自然科学者ではない】 【追H9ソクラテスではない,本試験H17ソクラテスとのひっかけ】のようなソフィスト(話し方の家庭教師) 【本試験H13,本試験H17問題文の下線部】という職業が人気を得ました。立場によって簡単に意見を変える【本試験H13ソフィストたちは「絶対的な真理の存在」は主張していない】ソフィストの相対主義的な考え方(絶対的な答えなんてないという考え方)を批判した哲学者が〈ソクラテス〉(前469~前399) 【追H9「徳は知である」と主張したか問う】【本試験H17ストア派ではない】です。彼は,「ソフィストの連中は,自分が“何も知らない”ということを“知らない”(無知の知)【本試験H17人間は万物の尺度である,ではない】」「この世の中には絶対的な正義というものがあるはずだ。それにしたがって生きるべきだ(知徳合一)【本試験H13孔子・釈迦・カントではない】」と主張しました。自分の活動を「知恵を愛すること(フィロソフィア)」と説明したことが,フィロソフィー(英語の「哲学」)の語源となっています。〈ソクラテス〉は市民をまどわせた罪で,ポリスの法に従って毒をあおって亡くなりまってしまいました。〈ソクラテス〉の言行は,弟子の〈プラトン〉(前429?~前347)が著作に残しています。また,『ギリシア史』を書いた〈クセノフォン〉(前430?~前354?)は,ソクラテスが生きていた頃について『ソクラテスの思い出』に記しています。

 前415年にアテネ(アテーナイ)は〈アルキビアデス〉(前450?~前404)の発案のシチリア遠征に失敗。スパルタは東方のアケメネス朝ペルシアと結んで,アテネ(アテーナイ)を挟み撃ちにしようとしました。アテネ(アテーナイ)は前404年に降伏。貴族により民主政は崩壊しましたが新政権は民衆の支持を得られず,前403年には民主政が復活しました。
 なお,ギリシア人の海外植民市のうち,黒海北岸のクリミア半島周辺には,前438年にボスポロス王国が建てられました(前438~後376)。騎馬遊牧民のスキタイ人と交易をし,バルト海の産物も届けられていました。


●前400年~前200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化①,南北アメリカ:都市文明の発達
 ユーラシア大陸・アフリカ大陸北部では,定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域の間を中心に広域国家(古代帝国)がつくられていく。
 サハラ以南のアフリカ大陸では,農耕・牧畜民の拡大が続く。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手による都市文明が成長する。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 定住民と遊動民の交流を背景に,より広域な国家(古代帝国)が形成されていく。

 中央ユーラシアでは西からスキタイ人,サルマタイ人,サカ人,月氏が,遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。

 中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が,東アジアの黄河・長江流域の諸侯と,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結んでいる。
 モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一した匈奴(きょうど)は,前209年に〈冒頓単于〉の下で最盛期を迎える。東アジアの黄河・長江流域の定住民による秦(前221~前206)や前漢(前202~後8)と対立し,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結ぶ。

 ヨーロッパでは〈アレクサンドロス〉大王(位前336~前323)が,西アジアのアケメネス朝(前550~前330)を領土に加える帝国を建設し,アケメネス朝の後継者を自任(注)。東西交易が活性化。大王の滅亡後は,西アジアから中央ユーラシア中央部にかけてギリシア文化が拡大する。

 南アジアでは,〈アレクサンドロス〉大王の遠征の刺激を受け,マウリヤ朝(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一。 

 〈アレクサンドロス〉の後継国家として,エジプトのプトレマイオス朝(前305~前30)と,セレウコス朝シリア(前312~前63),遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス朝パルティア(前247?~後224)が有力となる。
 ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中,イタリア半島の都市国家ローマが成長し,交易をめぐりカルタゴと抗争する。
(注)森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。




(2) アフリカ
 アフリカ北部では西からベルベル人やリブ人が遊牧生活を送り,通商国家カルタゴが,ナイル川流域の政権(メロエやエジプトを支配したアケメネス朝やアレクサンドロスの大帝国)と共存・競合関係にある。
 アラビア半島では,南西部において農牧業・商業で栄えたシバ王国が,アラビア半島の遊牧民と共存・競合関係にある。


(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのオルメカ文化の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部のサポテカ文化や,マヤ文明が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部では高地のチャビン文化のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。





●前400年~前200年のアメリカ

○前400年~前200年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカの各地では,パレオ=インディアン(古インディアン)が,狩猟・漁労のほかに農耕を営んでいました。
 北東部の森林地帯では,アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○前400年~前200年のアメリカ  中央アメリカ
◆メキシコ湾岸のオルメカ文明の諸都市は放棄される
 メキシコ湾岸のオルメカ文化の都市ラ=ベンタは前400年に放棄されています。ただ「放棄」が何を意味するのかをめぐっては,支配者の交替も含め多説あります。
 西部のトレス=サポテスの繁栄は続き,後期オルメカ文化ともいわれます(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.38。

◆マヤ地域では都市文明が発達している
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では,都市文明が発達しています。
 紀元後250年までのマヤ文明は先古典期(注1)に分類されます。
 神殿ピラミッドが建設され,石の土台の上にA形に石を積み上げてアーチのような構造をほどこす疑似アーチという技法が用いられました (注2)。

 マヤ中部のエル=ミラドール(前400~後150)はこのころ大都市となり,“ジャングルの中の巨大なピラミッド”というマヤ文明のイメージは,このあたりから来ています。
(注1)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.75。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク

◆メキシコ南部のオアハカ盆地では都市文明が発達する
 メキシコ中央高原とマヤ地域の間に位置するオアハカ盆地で,前500年~前300年頃に大規模な神殿が作られるようになっています。
 担い手はサポテカ人で中心都市はモンテ=アルバン,テオティワカン文化やマヤ文明の影響がみられます。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。

◆メキシコ高原中央部では農耕集落のほか都市が発達する
アメリカ大陸原産【本試験H11】のトウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,ティオティワカンに農耕集落ができます。
 その50km南のクィクィルコには都市が繁栄します(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。


○前600年~前400年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

○前400年~前200年のアメリカ  南アメリカ
チャビン文化が衰え,パラカス文化が栄える

 南アメリカのアンデス地方の中央部の山地に,都市チャビン=デ=ワンタルが前1000年頃から栄えていましたが,前300年頃に衰えます。

 アンデス地方の南海岸に,パラカス文化(前400~前200)が栄えます。この担い手はナスカ文化と同じです。

アマゾン川流域には定住農耕地域も
 アマゾン川流域(アマゾニア)では前350年頃に,熱帯のやせた赤土(ラトソル)を木炭や有機物を混ぜることで改善し,黒い土(テラブレタ)を開発していたことがわかっています(注)。
(注)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。





●前400年~前200年のオセアニア

○前400年~前200年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 ラピタ人(注)の拡大は,引き続きサモアで一旦止まっています。
(注)ラピタ人とは,ラピタ土器(Lapita ware)を特徴とする文化で,メラネシアの東部を中心に分布します。ラピタはニューカレドニア島西岸の地名からとられ,幾何学的な文様が特徴で,土には砂や貝が混ぜられました。



○前400年~前200年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●前400年~前200年の中央ユーラシア

○前400年~前200年の中央ユーラシア 西部
スキタイは黒海を通じて地中海と交易する
 前4世紀後半~前3世紀初めの後期スキタイ時代のスキタイ人は,黒海沿岸のギリシア植民市オルビアやパンティカパイオンを通じて,ギリシアの物産(陶器,貴金属,オリーブ,ワイン)を受け取り,畜産物等と交換していました。ギリシア文化の影響も受けるようになり,金製品の装飾には人物表現もみられるようになります(注)。
(注)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.222,224。

 また,前4世紀頃に遊牧民サルマタイ人の活動が活発化します。
 彼らは中央・北カザフまたはアラル海沿岸から南ウラル地方にかけて移動し,そこで先行するサウロマタイ文化(前7世紀~前4世紀)と融合。言語的にはスキタイ人と同じイラン系で,のちのアラン人に近いです(注)。彼らの祖先は,伝説の女戦士集団である「アマゾン」とスキタイの青年との間から生まれたとされています。
 槍を持った重装騎兵は,同時期のアルシャク(アルサケス)朝パルティアからの影響を受けていると考えられます。
 前2世紀には,彼らはドニエプル川【慶文H30】流域からスキタイ人を追い出しています。

(注)サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス,アランに分かれます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。
 なお,サウロマタイは,西部カザフ,ウラル南部,ヴォルガ下流,北カフカス,ドン川下流地方で活動した,スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く,ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。


 アケメネス朝が前330年に〈アレクサンドロス大王〉により滅ぼされると,〈アレクサンドロス〉はアケメネス朝の後継者を自任(注)し「アジアの君主」と称して,北インドにわたる広大な領土を支配しました。彼はアム川をわたりソグディアナを支配しましたが,シル川の北の遊牧民勢力(サカ人)を前にして,これ以上の遠征を断念し,バビロンに引き返し,〈大王〉は前323にあっけなく病死しました。

 〈大王〉の死後,武将〈セレウコス〉が後を継ぎましたが,北インドはガンジス川の勢力マウリヤ朝に奪われ,アム川上流では前255年頃にバクトリア王国(前255頃~前145頃) 【本試験H18マウリヤ朝に滅ぼされていない】が自立しました。バクトリア地方は農耕がさかんで,〈アレクサンドロス〉の建設したギリシア人の植民都市の交易活動も盛んでした。

 また,前3世紀半ばには,カスピ海の東南部で遊牧を営んでいたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの〈アルサケス〉兄弟が,セレウコス朝から自立。中国の文献で「安息」【本試験H27】と出てくるのは,このことです。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。
(注)森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。



○前400年~前200年の中央ユーラシア 中央部
 アム川よりも東のバルハシ湖周辺には,イラン系のサカ人(サカイ)が活動しています。〈ヘロドトス〉はスキタイ人のことだとし,後漢の〈班固〉は『漢書』で「塞」と記しましたが,詳しい実態はわかっていません。

○前400年~前200年の中央ユーラシア 東部
 モンゴル高原の方面では,イラン系とみられる月氏【本試験H19時期】の勢力が強力でした。

○400年~前200年の中央ユーラシア 北部
 なお,ユーラシア大陸北西部の北極圏ではフィン=ウゴル語派系の民族が,北東部では,古シベリア諸語系の民族が,寒冷な気候に適応した狩猟採集生活を送っていました。





●前400年~前200年のアジア

○前400年~前200年のアジア  東北アジア・東アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。

 中国の東北部には前3世紀頃から扶余(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。彼らは朝鮮半島東部の濊(わい)人であるという説もありますが,定かではありません。

(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

○前400年~前200年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前400年~前200年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
◆宗族(そうぞく)を中心とした社会や周の王権が崩れ,戦国時代が始まる
鉄製農具・牛耕の普及で生産力がアップ
 春秋時代の終わり頃【追H27殷代ではない】から鉄製農具【東京H9[3]】【本試験H6】が普及しました。
 これにより耕地が増えて区画整理が進んだので、牛が前に進む力を農業に利用することができるようになります。犂(すき)という道具を使って耕させたのです。木製や石製ではなく、先端に鉄製の器具を取り付けることで、初めて実際の耕作に使えるレベルとなりました。これが牛耕【東京H9[3]】です。
 牛耕が普及したために、さらに農業の生産高がアップします【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題)】(注1)。

 生産効率が上がったことにより、宗族(そうぞく)ごとにまとまる氏族共同体によって経営されていた農地も,小家族により経営されるようになりました。
 その結果小規模な農民が増え、余剰生産物が増えるとともに,商工業もさかんになり出します。
犂(すき)の形をした布貨(ふか) 【本試験H10図版の判別「五銖銭」とのひっかけ。黄河中流域の諸国で使用されたか問う(正しい)】【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H22交鈔ではない,本試験H25】,刀貨(とうか) 【追H27「刀の形をした貨幣」が戦国時代に流通したか問う】【本試験H10図版の判別。戦国時代に入ると使用されなくなったわけではない】,円銭・タカラガイの形をした蟻鼻銭(ぎびせん) 【本試験H10図版の判別。戦国時代の楚で使用されたか問う(正しい)】,円銭(えんせん)といったさまざまな形の青銅貨幣【本試験H2時期(春秋・戦国時代か)】も用いられました。


 宗族を中心とする氏族共同体が崩れると,実力本位の価値観が高まり,従来のように身分を大切にする考え方が薄れ,ときに下剋上(げこくじょう)を唱える者も現れます(注2)。
 かつてはもっとも忠実な周の諸侯であった晋(しん,?~前369)が,前453年に家臣の韓(かん)氏【京都H21[2]秦の東方の国を答える】,魏(ぎ)氏【京都H21[2]趙の南方の国を答える】,趙(ちょう)氏にのっとられて3つに分裂し,戦国時代と呼ばれる時代が始まりました。周王の権威などどうでもよいと考える諸侯が現れるようになり,「戦国の七雄(せんごくのしちゆう)」【東京H18[3] 燕・斉・楚・秦・韓・魏・趙から3つ選ぶ】【本試験H17藩鎮ではない】と一くくりにされる有力国家が,たがいに富国強兵を推進して相争う時代がやってくるのです。山東半島【本試験H15】を拠点とした斉【本試験H15山東半島を拠点としたのは趙ではない】の臨淄(りんし),現在の北京周辺の燕(えん)は遼東半島方面に郡を置き,防備を固めています。西方の辺境の秦(しん)はのちに中国を統一する勢力に発展します。南方の辺境には楚(そ)が強大化しています。諸国は長城という防壁を築いて,騎馬遊牧民の進入に備えました。

(注1) 牛耕が普及したのには鉄製農具の普及が関係しています。
 鉄製農具の普及によって耕作地が激増して区画整理が進むことで、はじめて牛の前に進む力が利用できるようになったからです。
 ただし、牛耕の起源については不明な点が多く、犂(すき)が中国由来なのか外来の農具なのかも未解決です(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.21-22)。
 また、製鉄の起源については、潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』(吉川弘文館、1982年)参照されたい。
(注2) 周の王は「鼎」(かなえ)を諸侯のランクに応じて授けていました(用鼎制度)。『春秋左氏伝』には、「礼に、祭るに、天子は9鼎、諸侯は7、卿大夫士は5、元士は3なり」とあります(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.126)。しかしこの時代には鼎を自分でこしらえるようになる諸侯も現れます。この「礼楽崩壊」現象に対し、前の時期に〈孔子〉は「周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」(子曰く、周は二代於に監(かんがみ)て、郁郁(いくいく)乎(こ)として文(あや)なす哉(かな)。吾(われ)は周に從(したが)ふと)と延べ、周を理想化しています。



◆「下剋上」の気風の中、さまざまな思想家が現れた
「諸子百家」の活動がさかんとなる
 各国は積極的に有能な人材を集めようとしたため,さまざまな思想家(いわゆる諸子百家、しょしやっか)が登場します。
 『漢書』によると,以下の「家」を「十家者流」といいます(注1)。

① 儒家
② 道家
③ 陰陽家
④ 法家
⑤ 名家
⑥ 墨家
⑦ 縦横家
⑧ 雑家
⑨ 農家
⑩ 小説家

 この①~⑩大分類が「十家」(十家者流)であり、小分類が「三百九十二家」といいます。「諸子百家」というのは、後者の「三百九十二家」をおおざっぱに表わした表現です(注2)。



儒家
 このうち中国の歴史において後々に大きな影響を残すこととなるのが、〈孔子〉(前552?前551?~前479) 【名古屋H31】のはじめた儒家(礼(れい)や仁(じん)を重んじれば国はおさまるという思想を唱えた派) 【名古屋H31】でした。
 氏族共同体の崩壊にともない,新たに「孝」(こう,親によく従うこと)や,「悌」(てい)(兄や年長者によく従うこと)といった家族道徳【本試験H15】をしっかりし,礼楽(儀式と音楽)をしっかり行うことで,個人→家族→国がしっかりおさまるのだ(「修身斉家治国平天下」(しゅうしんせいかちこくへいてんか,『礼記』の言葉))と説きました。儒家は,死後の魂や鬼(鬼神)を信じず,神秘的な考えを疑う“ドライ”な面も持ち合わせています。

 儒家の「礼」は目上の人(親や兄など)を敬う心ですが,それは人為的な考え方にすぎず,ありのままに自然の道理(法則)に従ったほうがよい(無為自然(むいしぜん)【本試験H16孟子ではない】)と考えたのが,〈老子〉(実在は不明)・〈莊子〉(生没年不詳,戦国時代中期)の道家です。
 一方,まごころを家族だけに注ぐのは,心が狭い。誰に対しても愛を注ぐべきだと主張した〈墨子〉(生没年不詳)による墨家(ぼっか) 【本試験H31法家とのひっかけ】 【追H9孟子とのひっかけ】でした

 また,儒家の説は直接の弟子の次の世代になると,さらに新たな要素も加わって発展していきました。例えば,〈孟子〉(もうし,前372?~前289) 【追H9兼愛・非攻を説いていない・「法による統治,信賞必罰,君主権の強化」を唱えていない】【本試験H16】は,人には生まれながらにして仁(じん)や礼が備わっていると考える性善説【追H9「本性は悪」という説ではない】【本試験H16】をとりました。



〈荀子〉と法家
 それに対して,〈孔子〉の有力な弟子(孔門十哲)の一人である〈子(し)夏(か)〉(前507?~前420?)の門弟である〈李悝(りかい)〉(生没年不詳)は,成文法をまとめた『法経』六篇をあらわし,刑法を制定することによる社会改革をめざします(注3)。

 彼の影響を受けて〈荀子〉(じゅんし,生没年不詳。前4世紀末?生まれ) 【追H9孟子とのひっかけ】は性悪説(人間は外部からの強制力がなければ悪いほうに流れてしまうという考え)【追H9性善説ではない】をとり,礼を国家の統治原理としつつ,法による支配の重要性を説きました。
 〈李悝(りかい)〉の法は,秦で〈商鞅〉(しょうおう,?~前338) 【本試験H12始皇帝の政策顧問ではない】【本試験H14時期(秦代),本試験H16内容,本試験H17時期】によって九篇の律(りつ)として実践され,秦は強国にのし上がります。この改革を変法(へんぽう)【本試験H17時期】といい,法の専門家グループは法家(ほうか)【東京H16[3]】【本試験H17墨家とのひっかけ】と呼ばれるようになります。〈商鞅〉の律は,のちに漢の律,唐の律に受け継がれるので重要です(注)。
 法家の思想はのち〈韓非〉(かんぴ,?~前234),〈李斯〉(りし,?~前210) 【本試験H12始皇帝の政策顧問。商鞅とのひっかけ】【本試験H25荀子ではない】に受け継がれていきます。「法の規制によって国を強くしよう」という考え方です。法家の思想は,氏族共同体が崩れ小家族を単位とする小農民が増加する中で,君主が一方的に強い権力を発動して官僚や軍を用いて領域内の人々を支配するためには都合のよいものでした。



その他
 ほかにも以下のような人たちがいます。
・「孫氏の兵法」で知られる兵家の〈孫武〉(そんぶ,春秋時代)。
・戦国時代の斉で活動し,陰陽五行説【本試験H16】により天体の運行と人間生活が関係していると説いた〈鄒淵〉(すうえん) 【本試験H16孟子ではない】ら陰陽家(いんようか)。
・農業を国家の基本とする農家。
・〈蘇秦〉・〈張儀〉らの縦横家(じゅうおうか)。合従策(六国が組んで秦に対抗!)by〈蘇秦〉と連衡策(秦と各国に個別に和平を結ばせよう)by〈張儀〉。(#覚え方 “がっそう・れんちょう”)
・「白馬は馬にあらず」で有名な,論理学の名家。
・さまざまな説をに合わせた雑家(秦の〈呂不韋(りょふい)〉(?~前235)や前漢の〈劉安〉(『淮南子』(えなんじ))が代表)


 なお,〈屈(くつ)原(げん)〉(前340~前278頃) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】によって『楚辞』【本試験H14『詩経』とのひっかけ】【追H19】という情感豊かな詩歌集がつくられたのは,戦国時代の楚(そ)においてです。
 王族であった彼は縦横家の〈張儀〉(?~前309)の連衡策を怪しんで,「それは間違いだ。秦に対抗すべきだ」と〈懐王〉(かいおう,在位前329~前299)に進言しました。
 しかし受け入れられず,国を憂えて汨羅川(べきらがわ)に入って自死。
 結果的に〈懐王〉は秦の〈張儀〉の作戦にまんまとはまり,秦で幽閉されて死去しました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.30。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.30。
(注3) 貝塚茂樹『中国の歴史 上』岩波書店,1964,p.116。



◆騎馬遊牧民の戦法を導入した秦は,法家を導入して中国(黄河・長江流域)を初統一する
秦王が初めて「皇帝」を称し、中国を統一する
 戦国の七雄の一つで諸国のうちもっとも西方に位置していた秦は,縦横家をブレーンに採用し,外交戦略と軍備増強によって,燕・斉・楚・魏・趙・韓をつぎつぎに倒していきます。
 前4世紀中頃には,従来の戦車にかわって,数万人規模の歩兵が戦場に用いられるようになっていました。前5世紀~前4世紀頃から,騎馬文化の影響を受けた【本試験H12黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けたか問う】匈奴(注) 【本試験H3遊牧民であるか問う】や東胡につながる遊牧民が,モンゴル高原から南下するようになり,遊牧民の騎馬技術を習得するようになります。例えば,趙は〈武霊王〉(位前325~前298)のときに,騎馬遊牧民匈奴に学び「胡服騎射」を取り入れています。
 一方,北方の各国は騎馬遊牧民【追H30ウズベク人ではない】の進入に備え,長城【追H30】と呼ばれる防壁を建設しました。

 また,前4世紀前半には〈孝公〉に仕えた宰相〈商鞅〉(しょうおう,前390?~前338)が,法家の思想を実践して厳しい刑罰をともなう「変法」(へんぽう)を行いました。「信賞必罰」を基本とする法家の思想は,君主が一方的に強い権力を発動して官僚や軍を用いて領域内の人々を支配するためには都合のよいものでした。
(注) 彼らの主たる舞台であるモンゴル高原は,内陸アジアの北部を東西にのびるステップの東半分を占めます。モンゴル高原の南北の境界付近には,やや湿潤な森林ステップ(山の北斜面に発達する森林と,日当たりの良い南斜面や平坦地に発達する草原が,混在する植生)が分布し,その内部には純ステップ,その内部には沙漠性ステップが分布します。
 森林ステップは水資源と草木が豊かなため家畜を飼育でき,森林の野獣も利用できるほか防衛もしやすく,しばしば強大な遊牧国家の根拠地となったのは,この地域です(匈奴,鮮卑拓跋部,突厥,ウイグル,契丹,モンゴルなど)。 吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『歴史における自然』(シリーズ世界史への問い1)岩波書店,1989年,pp.176-178。
 寒さで積雪が多かったり,夏に暑く悪虫が発生したりする場所もみられます。〈ルブルック〉のフランス王〈ルイ9世〉への報告には,「〔夏に〕水のない牧地は,冬に雪があるとき牧地として使う。雪が水として彼らの役に立つからである」という記述がみられます(吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い1 歴史における自然』(岩波書店,1989年),p.179)。
 同じ場所にとどまると,家畜の糞尿による駐営地の汚染や伝染病の流行などにより,生活環境が悪化する場合もあります。遊牧民は季節的な移動の他に,適宜よりよい牧地・駐営地を求め,非季節移動を数回繰り返すのです(吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い1 歴史における自然』(岩波書店,1989年),p.182)。
 遊牧の単位は,一つの家族または複数の家族からなる拡大家族であることが多く,生活空間は自然環境に規定された伝統的な季節的牧地とそれを結ぶ移動経路から成っており,この空間(縄張り)への他の集団の移動は,容認できぬ侵害となりました。
 のちに登場するモンゴル族の場合,馬以外の家畜も合わせて飼育されました。駄獣交通となる馬や,肉(乳)と毛(フェルト)を得ることのできる羊以外にも,森林ステップでは牛が,沙漠性ステップや沙漠ではラクダ・山羊が,山岳地帯では粗食に耐える山羊が合わせて飼育されました。森林ステップの遊牧単位は,協同で畜群の管理を任せ合い,羊・山羊の群れ,馬の群れ,牛の群れの三つを個別に放牧管理をしてきましたが,何の囲いもない牧地で群れを掌握するために去勢技術が発達していったのです。ゲームでは家畜の繁殖を特に表すことをはしませんでしたが,一定の群れを維持していくためには,去勢を前提とした自然の牧地での群れの管理という面が必要であることも知っておくとよいでしょう(吉田順一,上掲書,pp.184-187)。




◆戦国時代の領域国家を、秦が統一する
秦王が領域国家を初めて統一、「皇帝」を名乗る
 前349年に晋が断絶すると,どの諸侯を霸者にするかをめぐり対立が勃発します。魏は周に霸者になりたいと迫りましたが,韓は周と結んで秦の〈孝公〉を霸者にさせました。そこで魏は周王朝を倒そうとしましたが,斉によって敗れます。その後,秦の〈恵文王〉(位前338~311)は「周王」を称したものの斉・魏が干渉したためあきらめ,前325年におとなしく「秦王」を名乗ります。

 秦だけでなく,楚,斉,趙も,黄河中流域の中原(ちゅうげん)の外部で成長した国家でした。こうなってしまうと,「中原の支配権を獲得した霸者が,諸侯をまとめて外部勢力を倒し,周王をお助けする」という秩序は,もはや崩壊です。魏の人の〈張儀〉(?~前310)は6国の諸侯と秦が個別に同盟を組むことを説きました(連衡策)。周の人の〈蘇秦〉(?~前284?) は6国の諸侯が同盟を組んで秦に対抗しようとしました(合従策)。
  
 前3世紀中頃秦の国内は,〈呂不韋〉(りょふい,?~前235)という男が,〈荘襄王〉(そうじょうおう,在位 前250~前247)を王の位につけて操り人形にし,黒幕として権力を握っている状態でした。しかし,その〈呂不韋〉をスキャンダルから追い出したのは,〈荘襄王〉の息子〈政〉でした。実は,呂不韋は政の実の父ではないかという話もあります(#漫画 〈原泰久〉『キングダム』)。
 〈政〉【本試験H6】は,前221年に咸(かん)陽(よう)【京都H21[2]】を都として中国を統一すると,「王」や「天子」という従来あった称号では満足せず,「皇帝」【本試験H6周の封建制・漢によって用いられるようになったのではない】という称号を採用し,〈始皇帝〉【本試験H3中国を統一した時期に封建制が始まったわけではない,本試験H12大運河は建設させていない】と名乗りました(前211~216, 映画「始皇帝暗殺」(1998中国・日本・フランス)は始皇帝暗殺未遂事件を描きました)。

 なぜ「皇帝」という称号をつくったのかについては異論もありますが,皇帝とは「煌々(こうこう)たる上帝(中国で信仰されていた宇宙神)」のことであり,天の命令を受ける「天子」では満足しなかったと考えられます(注) 【本試験H6殷の君主の称号ではない】。
(注)西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会,1983。「天子」の称号は漢の時代に儒家の影響を受けて復活します。「皇帝」は臣下である王侯向けに用いられ,「天子」は天地鬼神(死者の霊魂と天地の神霊)と国外の諸国や蛮夷(ばんい,漢民族以外の民族)に対して用いられた称号であったとされます。ですから「天子」の称号は,今後東アジアが中国の君主によって結び付けられていく際に,重要な象徴となっていきます。

 彼は諸国で異なる基準を採用していた度量衡を統一し【本試験H19武帝ではない】,貨幣も半両銭【本試験H10図版(始皇帝がこれにより全国の貨幣を統一しようとしたか問う),本試験H12始皇帝の政策か問う,本試験H12始皇帝の政策か問う】【本試験H22五銖銭ではない】【本試験H24】(注1)に統一,漢字【東京H28[1]指定語句】も統一して小篆(しょうてん)という書体をつくらせました【共通一次 平1:春秋戦国時代に国により文字の形に違いがあったか問う】。
国古代史家)の解説を引きます。

(注1) 「始皇帝は中国の貨幣を統一した」は誤り?
  「ただし,ここで勘違いしてはならないのは,当時の国家(とくに戦国秦)が,必ずしも民の生活のために半両銭体制を施行したわけではない点である。むしろそれは,「国家の,国家による,国家のための貨幣」だった。すなわち,単一の銭が下々に行きわたれば,国家の収支決済は楽になる。それによって民間の物資を買い上げ,大きな利益もあげられる。だから戦国秦は,すでに穀物・黄金・布・青銅塊などが貨幣として流通していた戦国時代に,わざわざ銭を鋳造し,それを貨幣のリストに加えた。…中略…こうして半両銭は,国家による支払い(官吏・兵士への給与支払など)や,国家への支払(罰金や納税)などに頻繁に用いられた。」(柿沼陽平『中国古代の貨幣――お金をめぐる人びとと暮らし (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館,2015年,p.57)。 
 しかし,その一方で,半両銭以降,秦漢帝国は中国世界の貨幣を完全に統一していたわけでもありません。半両銭だけでなく,《穀物・黄金・布・青銅塊》などの複数の貨幣が競合し,地域により多様な貨幣システムが併存していました。また,人々のコミュニケーションの手段も,貨幣だけでなく爵位や徳行,互酬的な原理など,極めて多様でした。上掲書で柿沼氏は,理想論を展開するわけではないとは前置きしつつ,少なくとも漢帝国が,《それらの組み合わせを上手に運営し,社会システムの系統的な危険(リスク)を,ある程度縮減(ヘッジ)できていたようにみえる》と論じています。
 〈始皇帝〉による半両銭の統一は、『史記』始皇本紀に記述はなく、『史記』六国年表(前4~前3世紀)で前336年に「銭を行う」とあるだけ。現実には半両銭にはさまざまなサイズがあり、戦国時代の秦の〈恵文王〉から前漢〈武帝〉の時代まで発行されています。また戦国各国の貨幣や布なども貨幣として流通しており、相互の換算レートは法律で規定されていました(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.52)。




◆郡県制、法家を採用し、北方の匈奴を攻撃するが、農民反乱が起きて滅ぶ
秦は制度統一を急いだが、短期間で滅亡する
 郡県制【本試験H3漢の高祖の制定ではない,本試験H12郡県制ではない】【追H21秦代か問う、H28節度使が軍閥化した時代ではない】を施行して,県を36(のち48)設置し役人を中央から地方に派遣し,法家を採用しました【本試験H13法家を弾圧していない】(注1)。

 さらに『史記』によると,「詩書を焚(や)いて,術士を阬(あなうめ)にした」とあります。
 「術士」とは〈始皇帝〉に「不老不死になれる」といって金をだましとった方士という人々を指していて,「自分に逆らうと,こんな目にあう」ということを示すために,思想書を焼き反対派を虐殺しました。このときに儒家も弾圧にあったので【本試験H13儒家を擁護していない】,〈始皇帝〉が亡くなった後,「自分たちだけが狙われて,さんざんな目にあった」というストーリーに変わり,後世に伝わったとみられます(焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)) 【追H27漢の高祖ではない】 【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】【本試験H23前漢ではない,H29曹操(そうそう)が行ったわけではない】(注2)。

 さらに,前5世紀~前4世紀から南下を始めた匈奴【本試験H12「黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化」の影響を受けたか問う】【本試験H13吐蕃ではない】や東胡の進出にも対処して,戦国時代に各国が建設していた長城を修築しました【本試験H13】【早・法H31】(注3)。現在の万里の長城は,のちに明(1368~1644) 【本試験H9】の皇帝が修復させたものです。


 彼は前220年から滅ぼした6か国を含む地方を渡り歩き,前219年には泰山(たいざん)で天と地に自分が支配者になったことを報告する封禅(ほうぜん)という儀式をおこないます。さらに,不老長寿を願う儀式も行い,服用した水銀が体調に影響を与えたともいわれます。

 しかし秦の厳しい負担(戦争や土木作業)に耐えかねた農民【本試験H14】の反乱(陳勝【東京H28[3]】・呉広の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H22・H27,本試験H30漢ではない】)がきっかけで,たったの15年で滅びます。彼らのスローガンは「王侯将相いずくんぞ種(家柄)あらんや」(王・貴族・将軍・官僚の何が偉いんだ!)です【慶文H30李自成の乱のスローガンではない】。
 宮殿の阿房宮の火は3ヶ月燃え続け,墓地の驪山陵に副葬された品々は30万人で1ヶ月運んでも終わらなかったほどだといいます。〈始皇帝の陵墓〉近くからは,兵馬俑(へいばよう) 【本試験H9[20]図版・南越国王・漢の武帝・唐の玄宗の陵墓の附属施設ではない】【本試験H24,H28,H31「始皇帝陵の近くで」出土したか問う】というテラコッタでできた多数の等身大の軍人・家畜像が埋葬されているのが発見されています(注4)。

 こうして秦は滅亡しますが,「天下を統一」し「皇帝」という称号を名乗ったこの王朝の影響力は、後世に至るまで計り知れません。
 例えば、英語のチャイナもフランス語のシィンも秦が語源です。
 ただ、秦に代わって「天下を統一」し「皇帝」を名乗った前漢は、秦から前漢への「王朝交替の正当性を示すために、秦朝崩壊の必然性を法の過酷な支配に求め」ました。しかし、漢の「律九章」という法は秦の律令図書に基づいていますし、秦が厳格な法治をおこなったのであれば漢も同様でした。前漢がしだいに儒教的な統治に転換していく中で、秦の法治が「厳しかった」、「だから短期間で滅んだのだ」という論調が生まれていき、それが現代のわれわれの「秦の支配は厳しかった」という」イメージにもつながっていったようです(注5)。


 なお、日本との関わりについても述べておきましょう。
 『史記』によれば,〈始皇帝〉に命じられた〈徐(じょ)福(ふく)〉(実在か不明)という人物が不老不死の霊薬を求めて東に旅立ったが,結局出港はせずまんまと援助金をだまし取ったとされています。日本や朝鮮王朝では,この〈徐福〉が実際に来航したとする伝説が広く残されています(徐福伝説)。

(注1) 『史記』秦始皇本紀(前1世紀)には、〈李斯〉が〈秦王〉の事業を賛美する形で、「法令は一統に由る」とあります。「法令は一統に由る」というのは法律を統一いしわけではなく、「天下統一と同時に法令の執行系統が中央集権化した」という意味です(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.53)。
 郡県制については、従来知られていなかった郡に関する史料も近年みつかっている(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』『中国の歴史』3、講談社、2004年)ため、近年では教科書に郡の数を明示しないようになってきている(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17)。
(注2) 専門の官職についているなど、職務上の理由で保有する以外の民間所有を禁じました。その後、『詩経』『尚書』や諸子百家の書物に通じる者を調査し、金文によって復元されることになります(例えば隷書体で『尚書』がかかれ直されました)。古い書物の収集はその後も続き、〈景帝〉のときには〈孔子〉の旧宅から『尚書』『礼記』『論語』『孔経』が発見されました(孔壁古文)。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年pp.221-222。 
(注3) 長城は〈始皇帝〉以前から各国が遊牧民の進出を防ぐ目的で建設していました。阪倉篤秀『長城の中国史 中華VS.遊牧 六千キロの攻防』2004,講談社。
(注4) 秦の〈献公〉元年に殉死が禁止されたとありますが、兵馬俑で殉死の風習がまったくなかったわけではありません(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、pp.208-210。
(注5) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.53。




◆秦の滅亡後の抗争の末,〈劉邦〉が漢王朝を樹立した
前漢の建国期には,いまだ諸王の権限は強かった
 反乱勢力のうち,〈項羽〉(こうう,前232~前202) 【本試験H21】と〈劉邦〉(りゅうほう,前247~前195) 【本試験H21】【追H18】が,協力して秦の残存勢力を滅ぼしました。
当初は楚王の〈項羽〉が強い勢力を持っていましたが,部下の諸侯からの不満が高まり,その諸侯らを率いた庶民出身の〈劉邦〉(りゅうほう)との一騎打ちに発展。前202年に「四面楚歌」の故事で有名な垓下(がいか)の戦いで〈項羽〉を敗死させた〈劉邦〉が,〈高祖〉(位 前202~前195)として皇帝の位につきました【H29共通テスト試行 年代「前202年」(グラフ問題)】。

 国号は漢,都は長安【本試験H21】です。漢は途中で一度滅び,復活するので,前半の漢を前漢,後半を後漢といって区別します。

 〈高祖〉は自分の側についた勢力(「劉邦集団」(注1))に対し,その功績に応じてふさわしい地位を与えました。一方,優れた将軍として“国士(こくし)無双(むそう)”と称された部下(〈韓(かん)信(しん)〉(?~前196))のように,左遷された者もいます。

 さらに,「劉」氏ではない諸王の削減に力をさき,晩年には特に広大な領地をもっていた楚,梁,淮南の3王を廃して代わりに「劉」氏の王を置いています。こうして長沙(ちょうさ)以外の王はとりつぶされ,「劉」氏の王は独自に官僚機構・軍隊を任され,のちに半ば“独立王国”化していくことになります(注2)。

 なお、春秋時代の頃には都市のことを「邦」、戦国時代に各地にできた領域国家のことを「邦家」と表現するようになっていました。秦が統一したのはこの「邦家」であり、それをさらに漢が再統一したわけです。しかし、中国には「権力者の名に使われる漢字を使用するのを避ける文化」があります。邦家の場合、〈劉邦〉の「邦」とカブってしまいます。そこで、大小の領域を意味する「国(國)」という文字が選ばれ、「国家」という言葉が生まれたのです(注3)。

(注1) 福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。
(注2) 寺田隆信『物語中国の歴史―文明史的序説』中公新書,1997,p.62~63
(注3) 漢代以降、「国(國)」は都市国家を意味する語句としても使われるようになります。秦代の領域国家は、やがて軍区の単位となり「郡」と呼ばれるようになり、「郡」の下にあった都市国家(国(國))は漢代には「県」と呼ばれるようになりました(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.24-25。平勢隆郎『中国の歴史2 都市国家から中華へ』講談社、2005年も参照)。




・前400年~前200年のアジア  東アジア  現⑤・⑥朝鮮半島
朝鮮半島で、「衛氏朝鮮」が建国された
 中国が戦国時代(前403~前221)に突入していたことの朝鮮半島では,朝鮮人の間に首長(しゅちょう)が出現して各地でまとまりをみせていました。燕(えん,前323に王号を称し,前222年に秦に滅ぼされます)は東方からの異民族の進出に備え長城を建設し,朝鮮半島の人々と交易を行っていました。朝鮮半島の政権が,中国の歴史書の伝える「箕子朝鮮」(きしちょうせん)であったかどうかは定かではありません。箕子朝鮮というのは,『史記』や『漢書』といった中国の歴史書の中に「殷が滅んだときに〈箕子〉(きし)という中国人が朝鮮に逃げて儒学を伝え,のちに前漢の〈武帝〉が冊封した」という話に基づくものであり,歴史的な裏付けはありません。

 前221年に中国を秦が統一すると〈蒙恬〉が遼東半島方面に遠征し,朝鮮半島の政権を服属させたとのことです。この地域には戦乱を避けた亡命漢人も多く居住しており,〈衛満〉(えいまん)は斉(せい)や燕(えん)の人々をまとめ上げて漢に対する反乱を起こし,王険城(平壌)を首都とし衛氏朝鮮【慶・法H30】を建国しました。
 言い伝えによると,先ほどの箕子朝鮮はこのときに〈衛満〉によって滅ぼされたといいます。衛氏朝鮮は朝鮮半島の臨屯(イムドゥン;りんとん),真番(チンバン;しんばん)を支配下に起き拡大していきます。




○前400年~前200年のアジア  東南アジア

◆ヴェトナムでドンソン文化とサーフィン文化が栄え、北部には中国の王朝が進出する
ドンソン文化とサーフィン文化が栄える
 この時期の東南アジア大陸部では,稲作による定住農耕が発展し,社会がさらに発展していきました。
 北ヴェトナムでは,前4世紀頃から,雲南(うんなん)地方と北ヴェトナムにドンソン文化【本試験H21】という青銅器・鉄器文化が生まれました。雲南地方の文化が,メコン川を通じて北ヴェトナムに伝わったと見られます。
 ドンソン文化に特徴的な独特な形をしている銅鼓【本試験H21図が出題】は,祭りや威信財として使われたと見られます。威信財というのは,みんなを「すごい」と思わせることのできる物のこと。持ち主は,それによって人々に権威をアピールしたのです。スマトラ島やジャワ島など,島しょ部(ユーラシア大陸以外の東南アジアのこと)でも見つかっています。

 北ヴェトナムでは,前257年に甌雒(アウラック)国が文郎国を併合したという伝説がありますが定かではありません。ハノイ近くにその首都の遺跡が残されています。

 しかしこの頃から,中国の進出が始まりました。
 前214年に秦が今の広州に南海郡,ヴェトナム北部に象(しょう)郡,内陸に桂林郡を設置しました。

 しかし秦が滅びると,今度は前203年に南海郡の軍人の〈趙佗〉(ちょうだ,在位前203~前137)が桂林郡(けいりんぐん)と象郡(しょうぐん)を合わせて南越国【京都H21[2]】【追H20滅ぼした人を問う】を建てました。
 このとき,北ヴェトナムの甌雒(アウラック)国は滅ぼされました。
 その後,前漢の〈高祖〉により,〈趙佗〉は南越王として認められています。

 東南アジアの島しょ部でも,だんだんと交易活動が盛んになってきます。島しょ部に青銅器文化が伝わったのはおそらく前3世紀頃です。ドンソン文化の特徴をもつ銅鼓は,スマトラ島やジャワ島でも見つかっています。

 前3世紀から後2世紀にかけて,フィリピンからヴェトナム,タイランド湾にかけてはチャム人がサーフィン文化を生み出し(サーフィンはヴェトナム中部の地名),交易活動を行っていたとみられます。サーフィンとは「波乗り」のことではなく,中部ヴェトナムの地名です。




○前400年~前200年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・前400~前200年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・前400年~前200年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン
◆アレクサンドロス大王の遠征後に、北インドを統一する王朝が出現する
マウリヤ朝が建国されて南に拡大、仏教も保護へ
 ガンジス川流域のマガダ国は,前4世紀半に始められたナンダ朝のときにさらに強大化し,デカン高原東北部のカリンガにも遠征していました。

 そんな中,〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)が西北インドに進入し,インダス川を渡ると,十六大国の一つガンダーラ国を滅ぼしてしまいます。〈大王〉は部下の反対により,それ以上の進軍を諦めて帰ってしまうのですが,その混乱のさなかでパータリプトラを倒して,王位に就いたのはナンダ朝マガダ国の武将である〈チャンドラグプタ〉(位前317~前293?) 【追H28】【本試験H9[12]アショーカではない】 です。彼は,混乱状態にあったインダス川流域を征服し,ガンジス川流域とインダス川流域を史上始めて統一しマウリヤ朝【本試験H18バクトリアを滅ぼしていない】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのではない】を建国し,都をパータリプトラ【追H28】【本試験H16フランス植民地ではなかった,本試験H21ムガル帝国の都ではない,H30地図が問われた】に置きました。

 彼はインダス川上流に,60万ともいわれる圧倒的な兵力で向かいます。すでに〈アレクサンドロス大王〉は亡くなっており,ディアドコイ(後継者)である〈セレウコス1世〉(位 前305~前281)が前312年に建国したセレウコス朝がインダス川に慌てて向かいました。
 結局マウリヤ朝が勝利。このときの協定ではマウリヤ朝は象を500頭セレウコス朝に渡し,セレウコス朝はガンダーラなどをマウリヤ朝に割譲したといわれています。

 さて,〈チャンドラグプタ〉(?~前298?,在位 前317~前298) 【本試験H9[12]アショーカではない】は,ギリシア語の記録にはサンドロコットスという名前で登場します。だいぶ印象が変わりますが,どちらもインド=ヨーロッパ語形の言葉ですね。チャンドラとはインドの「月の神」のことで,ろうそくという意味もあります。チャンドラとキャンドルという言葉,なんとなく似ていますよね。彼はじつはシュードラ(奴隷)階級出身といわれますが,これはバラモン教以外の宗教を優遇したため,彼を低く見る言い伝えが残ったとも考えられます。彼の宰相〈カウティリヤ〉(前350~前283)は,政治についての『実理論』が有名です。
 マウリヤ朝の最盛期は〈チャンドラグプタ〉の孫〈アショーカ王〉(位 前268~前232頃) 【本試験H4アショーカ王のころには仏像は製作されていない,本試験H9[12]】【本試験H15ダルマに基づく政治を目指したかを問う,本試験H17中国から仏教が伝わったわけではない,本試験H21玄奘の訪問先ではない,H25,H31】のときです。99人の異母兄を殺して王に就任したともいわれています。ローマが第二次ポエニ戦争をしていたころ,インドでもやはり領土拡大の戦争の真っ最中で,〈アショーカ王〉はデカン高原北東部のカリンガ国と戦争して,多大な犠牲を払ってこれを征服し,間接統治をしました。こうして,南端をのぞく全インドの支配が確立されたのです。少なくとも4つの州が置かれ,マウリヤ家の王子が太守として派遣されました。

 〈アショーカ王〉はこの戦争後,仏教【本試験H25】の教えに耳を傾けるようになり,その影響を大きく受けるようになります。『阿育王経』によれば,8つに分けて治められていたブッダの遺骨(仏舎利)を取り出して,あたらしくストゥーパ(仏塔)を建てて,84,000に分けたといわれます(そんなに分けられるんでしょうか…)。また,第三回仏典結集【本試験H4仏典結集か問う】を開催させたり,王子〈マヒンダ〉(前3世紀頃)をセイロン島(現在のスリランカ)に派遣し,シンハラ王国(前5世紀?~1815)の王も仏教を信仰するようになりました【本試験H4多くの布教師を周辺の国々に派遣したか問う】。
 今後セイロン島【本試験H4「スリランカ」】は上座仏教【本試験H4「上座部仏教(小乗仏教)」】の中心地となっていき,【本試験H16大乗仏教ではない】のちに東南アジアの大陸部(ビルマ【本試験H4】やタイ【本試験H4】)に広まっていきます。

 〈アショーカ王〉は,仏教に基づきながらも宗派を超えた倫理である法(ダルマ【本試験H15】)を発布して,各地に建てた柱や国境付近【本試験H31ガンジス川流域ではない】の岩壁に,言語は当時の俗語(プラークリット語)で、文字はカローシュティー文字(西北インド)やブラーフミー文字で刻まれました。アフガニスタンの東部では、短文ではありますがアラム語・アラム文字,ギリシア語・ギリシア文字で彫らせました(注1)。
 それぞれ,石柱碑【本試験H9[12]図版 チャンドラグプタ,アレクサンドロス,カニシカ王によるものではない】【本試験H31】(柱頭にライオン像のあるものはインドの1ルピー札のデザインになっています),磨崖碑(まがいひ)といいます。

 「ダルマ」というのは,「生き物を殺してはいけません。父母に従いなさい。僧侶やバラモンを尊敬しなさい。年上の人や師を尊敬しなさい」などという“不戦主義”がその内容です。

 なおブラーフミー文字は,現在のインドの文字の多くやチベット文字【本試験H9】【本試験H15図版・インドの文字を基につくられたかを問う】,東南アジアの文字(ミャンマー(ビルマ)文字【本試験H15図版(解答には不要)】,タイ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,ラーオ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,クメール文字【本試験H15図版(解答には不要)】)に影響を与えています。
 十六大国の戦乱,そして領土拡大戦争が終わり,世の中に秩序をもたらすには,「道徳」(人間として守るべきこと)が必要だと考えたのですね。
 厳しい決まり(法)を,広い領域内の人々に武力によって無理やり守らせるよりも,コストがかからないとの判断もあったでしょう。王自身も率先してダルマを実践し、ベジタリアンとなって、人だけでなく動物のための病院を建設、街道沿いに樹木を植え給水所を設け、裁判の公正と刑罰の軽減にに努めました(注2)。

 〈アショーカ〉王のダルマの精神は,「チャクラ(法輪)」というシンボルによって表され,各地に建てた石柱碑の柱頭に彫られました。現在のインドの国旗の中央部に描かれています。



 マウリヤ朝は137年続きましたが,〈アショーカ〉王の死後に分裂し,前180年頃滅亡しました。「頃」が多いのは,インドには歴史書が少なく,バラモンの伝承や外国人の記録を基に推定するしかないからです。
 インド南端に近い地域では,〈アショーカ〉王の碑文によると,前3世紀にチョーラ,パーンディヤ,ケーララなどのタミル人による王国がありました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.19。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.19。




○前400年~前200年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


・前400年~前200年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ
◆アレクサンドロスの東方遠征によりアケメネス朝が滅び、ギリシア人の国家が建設される
ギリシアの影響受ける一方、イランは遊牧民が自立

 この時期には〈アレクサンドロス〉大王の電撃的な東方遠征によって、アケメネス朝ペルシアが滅亡。
 彼はアケメネス朝の後継者を自任しましたから、「ギリシアの文化をアケメネス朝に伝えた」「劣ったアケメネス朝をギリシア人が制圧した」などと考えるのは後世、特にヨーロッパの人々による後知恵(あとぢえ)に過ぎません(注)。

 大王が急死するとその帝国はたちまち分裂し,後継者(ディアドコイ)たちによって,
・メソポタミアとイラン高原の大部分にセレウコス朝シリア【本試験H4】【本試験H18時期】【追H25マケドニアに滅ぼされていない】【立教文H28記】
・エジプトにはプトレマイオス朝エジプト【追H28時期は中国の唐代ではない】【本試験H4】【東京H18[3]】
・マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア【本試験H4セレウコス朝・プトレマイオス朝と合わせヘレニズム3王国というか問う】が建国されました。

 セレウコス朝シリアからは,前247年頃アルシャク(アルサケス)朝パルティア(前247?~228) 【東京H14[3]】【本試験H4王の道を整備していない】【本試験H18大秦国王安敦と無関係,本試験H24チャンパーではない,本試験H27】【セA H30モンゴル高原ではない】が自立しました。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは,〈アルサケス〉(ギリシア語ではアルサケース,中国では「安息」と音写,前247~前211)によってカスピ海南岸のパルティア地方から発祥しました。
 はじめはギリシア風のヘレニズム文化を受け入れましたが,のちにパルティアの独自の文化を発展させていきました。パルティア人の馬にまたがり,後ろに退却しながら弓を射るスタイルを,ローマ人は“パルティアン=ショット”と呼び恐れました。
 ローマと隣接していることから,ローマ帝国【本試験H22アンティゴノス朝ではない】とメソポタミアやアルメニアをめぐって争い,東西の中継貿易で栄えました。パルティア人の側の史料にとぼしく,研究者は同時代のローマの歴史書を手がかりに王名をたどっています。都はティグリス川【京都H22[2]】【早政H30】河畔,現在のバグダードの南東にあったクテシフォン【京都H22[2]問題文】【東京H14[3]アクスム王国と同じくインド洋で活動し,インドの物産や中国から運ばれてくる絹の購入を巡って競い合ったアジアの国の首都を答える】【本試験H27,本試験H30】【早政H30問題文】に置いています。
(注) 〈アレクサンドロス〉はヨーロッパ、アケメネス朝はアジアと線引きして考えるのは、時代錯誤の考え方です。森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。



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・前400年~前200年のアジア 西アジア 現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
◆アラビア半島南部に、ハドラマウトやカタバーンなど交易路を支配する小王国が並び立つ
南アラビアには交易で栄える諸王国が栄える
 アラビア半島南部には、オアシス地帯や交易路を支配するサバァ、カタバーン、ハドラマウト、アウサーン、ジャウフなどの小王国が並び立っていました。

 乳香(樹脂性の薫香料)・没薬(樹脂性香料・薬種)の産出は、インドやアフリカからの海上交易商人を引きつけ、ペルシア湾・地中海との陸上交易も栄えます。

 かつて強盛を誇っていたサバァ王国に代わって、前6世紀以降ハドラマウト王国や、ハドラマウト王国と提携していたジャウフの新興勢力であるマイーン王国が成長。マイーン王国はハドラマウト王国と香料の生産・集荷・輸送で提携し、エジプト、シリア、メソポタミアや地中海の島々にまで交易活動を広げていたと考えられます(注1)。さらに、紀元前500年以降になると、カタバーン王国が旧アウサーン王国領を獲得し、強大化していったようです(注2)。

 この時期、前4世紀後半に〈アレクサンドロス大王〉が東方遠征をしますが、南アラビアへの遠征計画は実施されずに中止されます。

 その後も、南アラビアとの交易に目をつけた周辺国のアラビア半島への遠征は続き、セレウコス朝の〈アンティオコス3世〉(位前223~前187)が、東アラビアやハサー地方のゲッラ(バハレーン島近くの内陸にあります)やバハレーン島に遠征しています(注3)。

 しかし、南アラビアにとってお得意様であったプトレマイオス朝が、第5次シリア戦争後にシリア南部を失ってからというもの自らペルシア湾の直接海上ルートを開拓するようになると、南アラビアの諸王国の交易活動は打撃を受けるようになっていきます(注4)。
 また前3世紀頃には、長距離交易の新たな拠点となる都市が各地に建設されるようになっています。

(注1)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,pp.30-32。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.29。
(注3)香料だけではなく、たとえばエジプトのプトレマイオス朝はセレウコス朝との戦いに必要な東アフリカ産の象を求めています。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.39。
(注4)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.40。



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・前400年~前200年のアジア  西アジア 前⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンは周辺の大国の支配を受ける
コーカサス山脈南部は、周辺の大国の支配下に
 この時期には〈アレクサンドロス〉大王の東方遠征を受け,アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。
 アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)も,〈アレクサンドロス〉大王の支配下となっています。

 しかし,大王が急死するとその帝国はたちまち分裂し,アルメニア高地は、後継者(ディアドコイ)たちによって建国されたセレウコス朝シリアの支配下に入りました。





●前400年~前200年のアフリカ

○前400年~前200年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 東アフリカには,エチオピア高地に農牧民が,ヴィクトリア湖周辺にはコイサン諸語系の牧畜民,その北の草原や沼沢にはナイロート系の牧畜民が生活していました。



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○前400年~前200年のアフリカ  南アフリカ・西アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


バントゥー系の大移動,ヴィクトリア湖方面へ

 西アフリカの現在のカメルーンでは,前3世紀に使用された鉄器が発見されています。
 ニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、前250~後50年の層の集落で、鉄利用後と魚など水産資源利用の跡が残されています(注)。
 
 前1000年頃より現在のカメルーン付近から移動を開始したバントゥー系の住民は,東西のルートに分かれて,中央アフリカ・東アフリカ・南アフリカ方面へ南下していました。

 西バントゥーは西アフリカ原産のアブラヤシ(デーツという甘い果実をつけます)とともに,前300年までにはコンゴ盆地の熱帯雨林地帯を通って,赤道をまたいでザイール川を南に超えました。
 東バントゥーは,前300年までには,コンゴ盆地の熱帯雨林の北縁をなぞるように東に進み,東アフリカのヴィクトリア湖の西部に到達しました。彼らはモロコシ(ソルガム)や,シコクビエやトウジンビエといった雑穀の農耕を行いました。

 このように,バントゥー系民族の大移動は,中央・東・南アフリカの社会に大きな影響を与えました。



 南アフリカでは,コイサン諸語系部族が狩猟採集生活を行っています。
(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○前400年~前200年のアフリカ  中央アフリカ
 中央アフリカにはピグミー系の狩猟民族が先に住んでいましたが,バントゥー系住民と,相互に依存しあう交易関係を築き上げました。また,南アフリカで狩猟採集生活をしていたコイサン諸語系住民は乾燥地域に移動を迫られましたが,バントゥー系住民との住み分けに成功していた地域もあります。




○前400年~前200年のアフリカ  北アフリカ
遊牧民が、地中海岸・ナイル河畔と共存・競合する
 北アフリカでは,現在のモロッコからリビアにかけての広い範囲でベルベル人のやベルベル系のガラマンテス人らの農牧民・遊牧民が生活していました。また,現在のリビアにはリブ人が農牧・遊牧をしています。
 沿岸部にはセム語派のフェニキア人が現・チュニジアにあるカルタゴや,現・リビアにあるレプキス=マグナ(注1)などの都市国家を建設し,せっせと地中海交易にいそしんでいます。地中海には反時計回りの海流があって,カルタゴ人は西地中海ではカルタゴ→シチリア島西部→サルデーニャ島南部→イビサ島(銀鉱が分布(注1))→ジブラルタル海峡周辺(カデス(注1)など)→カルタゴという周航ルート,東地中海ではカルタゴ→ナイル川河口→テュロス→キプロス島→ギリシア→カルタゴというルートを確立していました(注2)。
 フェニキア人は現リビアのレプキスを押さえることで,その内陸部でオリーブやナツメヤシの灌漑農耕・遊牧生活をおこなっていたガラマンテス人との交易ルートも確保します。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉によれば,「アウギラ(注:ナイル川中流域から西に進んだ地点)からさらに十日進んだところに,また塩の丘があり水や実のなるココ椰子が多数あることは,他の場所と同様である。ここの住民の名はガラマンテスといい,きわめて多数の人口を有する種族で,塩の上に土を運んで種子を蒔いている」とのこと。
(注1)レプキスは前8世紀に建設されたと考えられています。カデスは,グアダルキビル川をさかのぼると銀山に到達できる港です。青木真兵「研究ノート 西方フェニキア都市レプキス・マグナとガラマンテス」『神戸山手大学紀要』14巻,p.63~73, 2012,神戸山手大学
(注2) 栗田伸子,佐藤育子『通商国家カルタゴ』講談社,2009,p.160



◆エジプトは末期王朝(前525~前332)…第27王朝~第31王朝
 →ヘレニズム時代(前332~前30)…マケドニア朝~プトレマイオス朝

 エジプトは,短命な政権の交替する末期王朝時代にあたり,ファラオをアケメネス朝の王がつとめ,総督が派遣され属州(サトラペイア)として支配されました。


 最終的に第31王朝(前343年~前332)のときに,最後の総督が〈アレクサンドロス〉大王に戦わずして政権を譲り渡し,前332年に〈アレクサンドロス〉大王がファラオに即位しました(マケドニア朝)。

 こうしてエジプトはアレクサンドロス大王の帝国の属州となりました。大王が亡くなった後,〈フィリッポス3世アリダイオス〉(前323~前317),〈アレクサンドロス4世〉(前317~前310)が即位しますが(注1),間もなく後継者(ディアドコイ)をめぐる内戦が勃発(ディアドコイ戦争)し,プトレマイオス朝エジプト(前306~前30)が成立しました。

 プトレマイオス朝は支配の正統化を図るため,ギリシア文化や王立研究所【追H29】のムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスによる創設ではない】【追H29プトレマイオス朝による創設か問う(正しい)】【慶文H30記】における学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました(注2)。
(注1)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注2)アレクサンドロス大王以後に発生した後継者戦争において,後継者将軍の権力正当化の源泉になったのは,一般兵士にとっても誇りと賞賛の源泉となった「アレクサンドロス大王とともに戦ったという経験と記憶」でした。森谷公俊「アレクサンドロス大王からヘレニズム諸王国へ」『帝国と支配』(岩波講座 世界歴史 5)岩波書店,1998年,p.128





●前400年~前200年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 この時期の西ヨーロッパでは,ライン川・ドナウ川流域にかけてケルト人と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語族ケルト語派の人々が広く分布していました。ケルト語派の人々は,ユーラシア大陸側のケルトと,ブリテン島(現・イギリス)と中心とする“島のケルト”に大別され,近年では両者には少なからぬ共通点があることが指摘されるようになっています。
 大陸ケルトのうち,現・フランス周辺の人々をガリア語を話すガリア人と総称されます(注)。

 ケルト語派の分布域の東にはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,さらに東のドニエプル川までのあたりにスラヴ人が,バルカン半島西部にはイリュリア人が分布していました。いずれも複数のグループに分かれ,首長による小規模な政治的統合がすすんでいました。

 イベリア半島では,南西部にイタリック語派(現在のスペイン語,フランス語,イタリア語を含むグループ)のイベリア人,北西部にケルト語派のケルティベリア人が分布していました。
 イタリア半島北部にはエトルリア人の都市国家群があり,南部にはギリシア人の都市国家群がありました。中部の共和政ローマは,この時期にフェニキア人のカルタゴとポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】を戦い,領域を広げていきます。

(注) 「ガリア」はローマ人が出会ったガリア地方の人々が「雄鶏」の旗印をつけていたことから、雄鶏という意味のラテン語「ガリス」から名付けられたと言われます(松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.5)。



○前400年~前200年の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 しかし,前8世紀頃以降,「ケルト人」と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語系の諸民族によって,鉄器文化であるラ=テーヌ文化が生み出されました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも盛んに交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。

 イベリア半島の沿岸部は,北アフリカのフェニキア人の植民市カルタゴの勢力圏に入っていました。前264~前241年のポエニ戦争【東京H8[3]】でカルタゴが共和政ローマに敗れ,シチリアを失うと,カルタゴの貴族バルカ家〈ハミルカル=バルカ〉(前275?~前228)らは,前237年にイベリア半島の拠点(カルタゴ=ノウァなど)の建設や鉱山開発に乗り出します。しかし,その息子〈ハンニバル〉【本試験H6時期(アウグスティヌス存命中ではない)】【追H24『ガリア戦記』を記していない】が第二次ポエニ戦争(前218~前201)でローマに敗北すると,イベリア半島は共和政ローマの支配下に入りました。戦争中の前205年には属州ヒスパニアが置かれ,しだいに内陸部にも進出し南部のグアダルキビール川沿いにコルドバが建設されました。


・前400年~前200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆ローマがイタリア半島全域に拡大し,カルタゴからシチリア島を奪う
ラテン人(ローマ人)が西地中海に拡大する
 イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,半島各地の民族と戦い同盟を結んだり,服属させたりしていきました。 ローマは征服地の民族を,一律同じ扱いにするのではなく,格差をもうけて支配しました。各都市は個別にローマと同盟を結ばされ,(1)ローマ市民権がある都市,(2)投票権はある「ラテン市民権」のある都市,(3)市民権が与えられない都市(同盟市)に分けられました。キャッチフレーズは“デヴィーデ=エトゥ=インペラ”(devide et impera)。“分割して支配せよ”です。この分割統治により,一致団結して反抗されるのを防いだのです。

 戦争によって獲得した新しい土地の多くは公有地とされましたが,実際には一部の有力者が自分のものにしてしまう(占有する)例がみられるようになっていきます。彼らはそこで多数の奴隷を働かせる,ラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】【本試験H13マニュファクチュア,イクター,コルホーズではない】を営み,収穫物をローマ内外に輸出して巨利をあげました。また,相次ぐ戦争により平民(プレブス)には大きな負担がかかり債務を負う者も発生し,貴族(パトリキ)との経済格差が開いていました。

 前367年には,リキニウス=セクスティウス法【本試験H8平民の地位を向上させたか問う,H9これ以前にコンスル職は貴族の独占であったか問う】【本試験H14時期(前4世紀かを問う)】で,公有地を占有(せんゆう。事実上,自分のものにしてしまうこと)することの制限,執政官(コンスル)のうちの1名を平民(プレブス)から選ぶことが定められました。この法により土地の占有は「制限」されましたが「禁止」されたわけではなく,執政官に就任して貴族との結びつきを深めた平民(プレブス)は新貴族(ノビレス)にとして新たに土地を占有するようになっていきました。
 前356年には独裁官,前351年には監察官,前337年に法務官が,平民にも就任できるようになったのですが,実際にはこれらの官職は平民身分の新貴族(ノビレス)によって支配されるようになり,事実上,平民会も元老院の“言いなり”の状態でした。そこでプレブスは「市外退去」(セケッショ)の作戦をとり,前287年に貴族(パトリキ)に対して平民会の決議が元老院【追H30平民会ではない】の承認なしにローマの国法となることが認めさせました。これを,ホルテンシウス法【本試験H24ギリシアではない】【本試験H8平民の地位を向上させたか問う】【追H21内容,H28共和政ローマか問う(正しい)・平民の地位が向上したか問う(正しい),H30】【立教文H28記】といいます。

 このホルテンシウス法の直前,前272年にはギリシア人の植民市【本試験H27】(マグナ=グレキア)のあったイタリア半島南部を占領し,タレントゥム【本試験H16ギリシア人の植民市「タラス」だったかを問う】を獲得し,半島が統一されました。前4世紀末から建設が開始されたアッピア街道【東京H20[3]】【早・政経H31商品の流通を目的として建設されたわけではない】は,さらに南のブルンディシウムまで伸びる舗装道路で,“街道の女王”とうたわれます。

 貴族と平民間の身分闘争は,これで幕を閉じたようにも見えますが,実際には富裕な平民(新貴族;ノビレス)にしか執政官に就任することはできませんでした。官職は無給(給料が出ない)ですから,経済的に余裕がなければ就任は難しいのです。

 さて,これからローマはいよいよ地中海への進出を本格化させ,フェニキア人を3度のポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【本試験H15シチリア島はポエニ戦争のときのエジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】で滅ぼし,地中海を取り囲む外国領土を獲得していくことになります。
 イタリア半島の外の領土を属州(プローウィンキア) 【東京H29[1]指定語句】と呼びます。広い帝国を州に分けて総督に支配させる方式は,アケメネス朝のサトラップ(太守)とよく似ています。

 第一回ポエニ戦争(前264~前241)のときにカルタゴから獲得したシチリア島【本試験H7ガリアではない】【本試験H15エジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】が最初の属州です。こうして得た,属州の土木事業や徴税請負人として活躍し,富裕になった新興階級をエクィテス(騎士身分)といいます。誰に徴税を任せらていたかというと,元老院議員です。元老院議員には外国との交易をしてはいけない決まりがあったため,代わりに別の人に担当させて,利益を吸い上げたのです。

 ローマは第二回ポエニ戦争(前219~前201)で,スペインを本拠地とするカルタゴ人の将軍〈ハンニバル〉(前247~前183?182?)【本試験H30】【追H18『ガリア戦記』とは無関係、H24『ガリア戦記』を記していない】によるイタリア進入を阻止しました。〈ハンニバル〉は象を連れたアルプス山脈越えで有名ですが,寒さや険しい斜面で兵士や象の多くが命を落とす壮絶な行軍でした。ローマ側の将軍〈大スキピオ〉(前236~前183)は〈ハンニバル〉の拠点であるスペインを攻略し,前202年にカルタゴ近郊のザマの戦いで〈ハンニバル〉を破りました。このとき,科学者〈アルキメデス〉(前287?~前212)はシチリア島のシラクサ(ローマから寝返り,カルタゴ側についていました)にいて,ローマ兵に殺されました。地面に図形を書いて円周率を求めている最中であったと伝えられています。




○前400年~前200年のバルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆ギリシアの諸ポリスは衰退し,前337年に半島北部のマケドニアに支配される
 〈ソクラテス〉(前470?469?~前399)の愛弟子の〈プラトン〉(前429~前347) 【本試験H13】が「この世に絶対的な理想があるとして,そのことを人はなぜ知ることができるのか?」という問いに対する答え(イデア論【追H9(空欄補充)】【本試験H13】)を展開しました。また『国家論』【本試験H13】において,「民衆に政治をまかせると,失敗する。選ばれた少数の徳(=良い資質。アレテーといいます)を持つ人だけに,政治を任せるべきだ」と解きました。これを,哲人政治といいます。しかし,実際には,民主主義が暴走すると衆愚政治に,哲人政治が暴走すると独裁政治に発展しがちです。どちらのほうが望ましいのかということは,この後,長い年月をかけて議論されてきましたが,西洋において必ずといって参考にされ続けたのが,〈プラトン〉の『国家論』でした。彼は,当時交易で栄えていたギリシア人の植民市〈ディオニュシオス2世〉(在位前367?~357?)に招かれて哲人政治を実践しようとしましたが,失敗しています。
 〈ソクラテス〉は著述をのこしませんでしたが,〈ソクラテス〉が登場する著作を〈プラトン〉が多く残しました。
 なお、ローマ医学に多大な影響を与えた医学者〈ヒポクラテス〉【追H25平面幾何学を集大成した人ではない】は同時代の人物とみられます。



◆〈アリストテレス〉の学問研究は,オリエント周辺の学問に後世まで大きな影響を及ぼした
〈アリストテレス〉が,あらゆる知を総合する
 〈プラトン〉の学園(アカデメイア【本試験H21リード文】。アカデミーの語源です)に入門したのが,〈アリストテレス〉(前384~前322) 【本試験H2,本試験H6ミレトスで活動したわけではない】【本試験H13】で,彼はとにかくオールジャンルを研究し,当時の知識の“すべて”を体系化【本試験H13「諸学問を体系化させた」かを問う】させたといっても過言ではありません。
 代表作『形而上学』(けいじじょうがく)では,化学・物理・天文・生物に関する知識がまとめられました。
 物理学では,運動には「自然的」運動と「強制的」運動があることを説明しました。
 化学では,以前からギリシアの〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)によって主張されていた空気・火・土・水の四元素説を発展させました。
 天文学では,地動説(地球が宇宙の中心。のちヘレニズム時代の〈アリスタルコス〉(前310?~前230?)が否定)をとりました。ギリシア人による天文学が発展するにつれ,バビロニアの天文学は衰退していきました。
 生物学では,生物は生物以外の物から自然に発生する(自然発生説。のち19世紀にフランスの〈パスツール〉が実験により否定)という考えや,すべての生命には単純な生物から複雑な生物までの序列があるという考えを主張しました。
 また,演劇理論について研究した『詩学(しがく)』では,人はなぜ悲劇を見ると“心が洗われる”思いをするのかについて,現代でも使われる「カタルシス」という用語で説明しています。彼はのちに,〈アレクサンドロス大王〉の少年時代の家庭教師を務めました。

 その後もスパルタの独壇場というわけにはいかず,周辺のポリスがスパルタを攻撃し,アテネ(アテーナイ)も攻勢にまわったため,スパルタはアケメネス朝ペルシアと前386年に「大王の和約」を結び,小アジアのギリシア人の諸ポリスは結局ペルシアの支配下に置かれることになりました。

 前4世紀中頃にはテーバイ(テーベ) 【同志社H30記】が,長期にわたるスパルタの支配を脱しました。将軍〈エパメイノンダス〉(?~前362)のもとで前371年にレウクトラの戦いでスパルタを破り強大化しますが,のちアテネ(アテーナイ)も復活するなど,ポリス同士が争う中,前4世紀後半にはポリスを形成しなかった北方のギリシア人のマケドニア王国が,〈フィリッポス2世〉(位前359~前336)のもとで強大化しました。前341年には“馬を愛するトラキア人”といわれ,ギリシア人から恐れられたバルカン半島東部のトラキアを征服。
 前338年にはカイロネイアの戦い【本試験H17アクティウム・サラミスの海戦,マラトンの戦いではない,H31】【追H25】で,テーベ(テーバイ) 【追H25】とアテネ(アテーナイ) 【追H25】の連合軍を撃破し【本試験H31アテネ・テーベは勝利していない】,スパルタ以外のギリシアのポリスをコリントス同盟(ヘラス同盟) 【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】としてまとめて支配します。

これはどういうことかというと,各ポリスは自治を続けることができる代わりに,マケドニアの軍隊が駐留して監督し続けるというものでした。ポリスというのは,そもそも外敵の進入を防ぐために集住(シュノイキスモス)することでできたものですから,このコリントス同盟によってその大切な特徴が失われてしまったということになります。
 こうしてマケドニアの〈フィリッポス2世〉【追H25】はギリシアのポリスを,スパルタを除き支配することに成功しましたが,その後急死しました。


◆マケドニア王アレクサンドロスの東方遠征によりギリシア文化が東に拡大した
 父の死を受け王位を継いだ〈アレクサンドロス3世〉(位前336~前323) 【本試験H4王の道を整備していない】は,小アジア(アナトリア半島)に向け東方遠征を開始しました(#漫画『ヒストリエ』は彼に仕えた書記を主人公としています)。
 バルカン半島東部のトラキア全土を平定し小アジア(アナトリア半島)に上陸。前333年にイッソスの戦い【本試験H30】でアケメネス(アカイメネス)朝ペルシアの〈ダレイオス3世〉(ダーラヤワウ3世,在位前336~前330)を撃退【早・政経H31敗死させたわけではない】して,エジプトを征服。さらに前331年にアルベラの戦いで,ペルシアを滅ぼしインド北西部にまで進出し,各地にアレクサンドリア【本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】と命名した都市を建設。短期間で大帝国を築き上げました。
 大王は,ペルシアを攻略すると,ペルシア王の後継者と自称し,オリエント風の礼拝方式を取り入れるなど,ギリシア文明にオリエントの文明を導入しました。オリエント風の礼拝とは,自分を神としてあがめ(君主礼拝),ひざまずかせる礼(跪拝礼,プロスキュネシス)のことです。彼は,ポリスのギリシア人とは異なり,オリエントの文明を,格下に見ていなかったのです。

 しかし,大王はバビロンに帰還した後,宴(うたげ)の最中にハチに刺され,それがもとで32歳でこの世を去りました。遺言は「「最強の者が帝国を継承せよ!」。遺言通り,その広大な領土は後継者たちの過酷なぶんどり合戦となり(ディアドコイ戦争),結果的に〈セレウコス〉,〈アンティゴノス〉と〈プトレマイオスが〉,それぞれシリアからペルシアにかけて,マケドニア【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアと戦っていない】,エジプトを統治する体制となりました。



バルカン半島東部のトラキア人
 バルカン半島東部のトラキア人の王国は〈アレクサンドロス〉によって支配下に置かれていましたが,〈アレクサンドロス〉の死後は,将軍〈リュシマコス〉(前360~前281)に支配されました。前279~前212/211年にかけてケルト人が進入しトラキアで国家を建設,独立後はトラキア人の支配層で内紛が起き,衰退に向かいます。


バルカン半島西部のイリュリア人
 バルカン半島西部のイリュリア人の一派は,アドリア海(イタリア半島とバルカン半島の間の海)の東岸に位置する,入り組んだダルマツィア海岸に拠点をもうけ海上交易を盛んに行い,山がちの地形で羊や山羊の牧畜を行い栄えました。アドリア海への進出をねらっていた共和政ローマによりイリュリア人の交易活動は“海賊行為”とされ,前219年には領土を制圧されました。


バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人 
 ドナウ川中流域の左岸(北部)のダキア人とゲタイ人は,〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けた後,それぞれ前300年頃から西方から進出したケルト人の支配下に入りました。


◆アレクサンドリアが地中海世界の経済・文化の中心地として栄えた
 〈アレクサンドロス〉大王の東方遠征の結果,地中海世界の経済・文化の中心はプトレマイオス朝エジプト【本試験H10】のアレクサンドリア【京都H22[2]】【本試験H10ヘレニズム文化の中心地か問う,本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】をはじめとするオリエント世界に移りました。
 〈プトレマイオス1世〉が,自分が〈アレクサンドロス〉の正統な後継者であることを示そうと努めます。アレクサンドリア【本試験H4カイロではない】【本試験H16カイロではない,本試験H26】に王立の研究所【追H29】(ムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスの創設ではない】【本試験H25】【追H29プトレマイオス朝による創建か問う】。ミュージアムの語源です)が建てられ,古代のあらゆる知識がおさめられていたという大図書館が建てられました。
 ムセイオンには以下のような学者が集められます。

・地球の全周(子午線の全長)【本試験H23】【本試験H8】【追H17ストラボンではない】を計算して図書館長となった〈エラトステネス〉(前276?~前194?) 【本試験H2医学研究者ではない】【本試験H23】【追H17】【慶文H30記】

・シチリア島のシラクサ出身【本試験H10】の浮力【本試験H2】・てこの原理・球体の求積で知られる〈アルキメデス〉(前287?~前212) 【本試験H2,本試験H10】

・平面幾何学【本試験H8天動説ではない】【追H29】のテキスト『原論』で知られる〈エウクレイデス〉(英語ではユークリッド,生没年不詳だが前300年頃に活躍) 【本試験H2,本試験H8】【追H17、H25ヒッポクラテスではない、H29平面幾何学か問う】それまでの数学を体系化し,平面幾何学を大成しました【追H17医学ではない】。

・地動説(太陽中心説) 【本試験H8平面幾何学ではない】を唱えた〈アリスタルコス〉【本試験H27】が知られています。


 アレクサンドリアの大図書館は,そののちローマの〈カエサル〉の攻撃などいくつもの戦争で被災し,収められていた70万巻のパピルス文書の多くはどこかへ失われてしまいました。
 これは現代でたとえるならば,ある日突然インターネット上のすべてのデータが失われてしまうほどのインパクトであったと言えましょう。いわば情報の“大絶滅”です。
 なおアレクサンドリアといえば約134メートルの高さを誇る大灯台があったことでも有名です。14世紀前半の地震で崩壊し,“世界七不思議”の一つに数えられます。
 東地中海の国際共通語であったギリシア語が,広く用いられていました。ギリシアの標準語をコイネー(共通語という意味)といい,のちに〈イエス〉(前4~後28)やその弟子の活動等を記録した『新約聖書』もこの言葉で書かれています。〈アレクサンドロス〉の東方遠征は,ギリシア語とともに様々な情報を東方に拡大させる役割を果たしました。

 〈アレクサンドロス大王〉の東方遠征から,前30年にプトレマイオス朝が滅びるまでを,ヘレニズム時代といいます。この時代にはギリシア人の文化が,小アジア,シリア,パレスチナ,エジプト,メソポタミア,イラン高原やその周辺部に広がり,〈アレクサンドロス大王〉の死後各地に成立した諸政権の支配層を中心にギリシア文化が受け入れられました。


◆ポリスは衰退し,ストア派の思想が流行した
 一方,ギリシアの諸ポリスは,〈フィリッポス2世〉の進出時のヘラス同盟以降,マケドニア王国の従属下に置かれていました(自治は認められましたが,マケドニア軍が駐留・監督していました)。
 諸ポリスは,大王の死をきっかけに独立をこころみましたが,アテネ(アテーナイ)は独立戦争(ラミア戦争)の後に少数の富裕層の支配する体制(寡頭制(かとうせい))となり,古代アテネ(アテーナイ)民主政の歴史はここに終止符が打たれました。
 ちなみにスパルタも前331年にマケドニアに対する反乱に失敗し,その後は衰退の一途をたどります。
 思想では,ポリスの中やギリシア人だけで通用する“井の中の蛙”のような考え方ではなく,世界市民主義(コスモポリタニズム) 【本試験H10ヘレニズム文化に関連するか問う】という全人類に通用するスケールの大きな思想に広がっていきました。狭いポリスの中で政治的な議論をする風潮よりも,個人的な内面を大切にする傾向は,〈ゼノン〉(426?~491) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるストア派(禁欲【本試験H3ヘレニズム時代か問う,本試験H10】を重んじる思想) 【本試験H10ヘレニズム文化の中で生まれたか問う】【本試験H17問題文の下線部】や〈エピクロス〉(前341~前270) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるエピクロス派【本試験H3ヘレニズム時代か問う】(精神的な快楽を重んじる思想)にあらわれています。特にストア派は,のちにローマ帝国時代にかけて一世を風靡(ふうび)し,紀元後2世紀には五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉【本試験H3】【本試験H17】は(後期)ストア派の思想家として,自分の信条などを記した『自省録』【本試験H3キリスト教的な倫理観があらわされた著作ではない】【本試験H17】をのこしています。
 ヘレニズム時代のギリシア彫刻として有名なのは,両腕を失った状態で発見された「ミロのヴィーナス」や,トロイア戦争を題材とした「ラオコーン」が有名です。

 このヘレニズム【東京H7[1]指定語句】【本試験H10】という言葉は,19世紀のドイツの歴史家〈ドロイゼン〉(1804~84)によって提唱された歴史用語で,暗黙のうちに“すぐれたヨーロッパのギリシア文化が,オリエントの文化に良い影響を与えたのだ”という前提に基づいたものでした(注)。
 現在では,ギリシアの影響を強く受けたのは支配者に限られ,大多数の住民は従来の伝統的な生活を送っていたことがわかっており,かつて考えられていたほど,ギリシアの文化がオリエントの文化と融合したわけではないという見解が一般的です。

(注) ある意味、19世紀のドイツ帝国主義を正当化する役割を果たした側面もあるのです。 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.34o。




●前200年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化②,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-①
 定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域間で統合された広域国家(古代帝国)が拡大していく。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合がすすむ。

(1) ユーラシア
 定住民と遊動民の交流を背景に,より広域な国家(古代帝国)が形成されていく。

 中央ユーラシアでは西からサルマタイ人,アラン人,大月(だいげっ)氏(し),烏孫(うそん),匈奴が,遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。

 中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が,東アジアの黄河・長江流域の諸侯と,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結んでいる。
 モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一した匈奴(きょうど)は,東アジアの黄河・長江流域の定住民による前漢(前202~後8)と対立し,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結ぶ。

 南アジアでは,マウリヤ朝(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一しているが,その後は中央ユーラシアの遊牧民の影響も受ける。

 ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中,イタリア半島の都市国家ローマが成長し,交易をめぐりカルタゴを滅ぼし,〈アレクサンドロス〉の後継国家であるエジプトのプトレマイオス朝(前305~前30)と,セレウコス朝シリア(前312~前63)を滅ぼし,地中海を取り囲むローマ帝国(前27~1453)を樹立する。
 ローマ帝国は,遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス朝パルティア(前247?~後224)と抗争する。

 ユーラシア大陸では東西交易が盛んとなり,陸路ではシルク=ロード(絲綢之(しちゅうの)路(みち);絹の道)が〈張騫(ちょうけん)〉(?~114)の鑿空の攻により平定されたとされる。
 また,海路では季節風(モンスーン)を利用して沿岸を船で伝う交易技術が紀元前後に発見される。
 交易の結節点にあたるアフリカ大陸東部沿海部や,ユーラシア大陸沿海部には,農耕と交易による経済的資源を押さえた勢力による港市国家が成立していくこととなる。


(2) アフリカ
 アフリカ北部では西からベルベル人やリブ人が遊牧生活を送り,カルタゴやローマ帝国と共存・競合関係にある。
 エチオピア高原では,ペルシア湾との交易ルートを押さえた勢力が政治的統合を進め,アクスム王国に発展する。
 農牧民エリアは,バンツー系の移動とともに拡大している。
 

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカではメキシコ高原南部のサポテカ文化や,マヤ文明が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部の沿岸地帯に,モチェ文化とナスカ文化が成長する。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。




●前200年~紀元前後のアメリカ

○前200年~紀元前後のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現①カナダ ②アメリカ合衆国

 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカ一帯には,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を営んでいます。
 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。



○前200年~紀元前後のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆マヤ地域では都市の規模が拡大する
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカル(1世紀頃~9世紀)やカラクムルといった都市が代表的です。
 紀元後250年までのマヤ文明は先古典期に分類されます(注)。

◆メキシコ南部のオアハカ盆地ではサポテカ人の都市文明が栄える
 オアハカ盆地のモンテ=アルバンを中心に,サポテカ人の都市文明が栄えます。
 前100~後200年のどこかで,中央アメリカ〔メソアメリカ〕地域の共通文化の一つである球技場が建設されています。

◆メキシコ高原中央部ではティオティワカンに都市文明が形成される
 メキシコ高原中央部では,前150年頃からテスココ湖の東部の都市ティオティワカンに,オルメカ文明の影響を受けた都市が発達。
 50km南にあったクィクィルコは,前50年のシトレ火山の噴火により衰退に向かいます。

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」



○前200年~紀元前後のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○前200年~紀元前後のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方では従来の神殿文化が再編されていく
 南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1)。
 社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。

 一つ目は,アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)です。
 モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 二つ目は,アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
 ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。


 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住地ができていますが,階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注2)。

 その他,南アメリカ南東部のサバナ地帯や草原地帯には,狩猟採集民が生活しています。

(注1)モチェとナスカについては,関雄二「アンデス文明概説」・島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。





●前200年~紀元前後のオセアニア

○前200年~紀元前後のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
 彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。



○前200年~紀元前後のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●前200年~紀元前後の中央ユーラシア

 南ロシアでは,スキタイ人の後に勢力を拡大した騎馬遊牧民サルマタイ人が活躍しています。
 また,前3世紀半ばセレウコス朝から自立したアルシャク(アルサケス)朝パルティアは,急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。ギリシア文化の影響を受けますが,やがて公用語としてアケメネス朝ペルシアと同じアラム語を使用するなど,ギリシア人とは違うのだという自覚が高まっていくことになります。地中海で急拡大していたローマとは,メソポタミアをめぐる対立を繰り返すことになります。
中央ユーラシア東部のモンゴル高原で,騎馬遊牧民として初期に勢力を持っていたのは,匈奴(ションヌー,きょうど) 【本試験H12匈奴に文字はない】【本試験H18唐・北宋の時代ではない,本試験H19時期】や東胡(トンフー,とうこ)・月氏(ユエシー,げっし) 【本試験H19時期】の3大勢力です。
 騎馬遊牧民のライフスタイルは,定住農牧民の中国人からみると,「利を逐(お)うこと鳥が集まるごとく,困窮すれば瓦がくだけ雲が散るごとくに分散する」(『漢書』「匈奴伝」)のように見え,機動性の高い騎馬戦術が恐れられたとともに,早くからヒト・モノ・情報の交流が始まっていました。

 初め,匈奴は東胡と月氏は匈奴を支配していたのですが,秦の〈始皇帝〉即位の直後である前209年に匈奴の王となった〈冒頓単于)(ぼくとつぜんう、?~前174,在位 前209~前174) 【京都H20[2]】 【本試験H16,本試験H30】【追H25西晋を滅ぼしていない】【早・法H31】のときに強大化します。冒頓は,「バガトゥル」(勇士)の音訳と見られます。「単于」(ぜんう)【本試験H3ハン(汗)ではない,本試験H12(注を参照)】は「広くて大きい」という意味で,「天の子」と称して壮大な儀式を行い,天の神を最高神としてあがめる北アジアの遊牧民・狩猟民たちを納得させました。〈冒頓単于〉は,東の東胡を滅ぼし,西の月氏(げっし)【本試験H16】や北の丁零(ていれい)を撃退します。東胡はのちに,烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)となります【共通一次 平1:匈奴が文字を使用していたか問う。もちろん使用していない】。
(注)2000年度本試験〔3〕問1 資料 「ある中国の史書は次のように記している(中略)。…彼らは家畜を置いながらあちこちに移動している。単于のもとに置かれた左右の賢王(けんおう)より以下,当戸(とうこ)までの地位にあるものは,それぞれ大は一万騎から小は数千騎に至る戦士を部下に持っていた。」これを読み,「文中の史書に記されている遊牧民集団について述べた文として正しいもの」を選ぶ問題。選択肢は,「①南方の宋と結んで遼を滅ぼした。②独自の文字を用いて記録を残した。③首都カラコルムを建設し,モンゴル高原全域を支配した。④黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けた。」。

 月氏は,匈奴の〈老上単于〉(位前174~前160)に負けて,一部が西に移動し,前130年頃にアム川の上流部に移動した集団は,中国の文献(『史記』や『漢書』)では大月氏(だいげっし)と呼ばれるようになりました。ちなみに残ったほうは小月氏と呼ばれました。
 丁零は前3世紀頃から活動していたトルコ系の遊牧民です。

 このようにして,匈奴は,現在のモンゴル高原を中心とする広い範囲を勢力下におきました。他部族からは「皮布税」などを徴収していました。
 匈奴【本試験H13吐蕃ではない】の〈冒頓単于〉は,前215年に秦の将軍〈蒙恬(もうてん)〉(?~前210,筆の発明者とされます【共通一次 平1:文字は「筆を用いて紙にかかれること」が秦代に普通になっていたか問う。「紙」はまだ一般的ではない】)の30万の軍によってオルドス地方(黄河が北にぐるっと曲がっているところに当たります)からの撤退を余儀なくされました。しかしその後,秦がたったの15年間という短期間で滅亡したすきを狙い,中国への進入を再度こころみます。

 前200年,匈奴【本試験H4北アジアを支配していたか問う,本試験H7】【本試験H28突厥ではない】は40万の兵で中国の前漢に攻め込みました【本試験H3漢と激しく戦ったか問う】。このとき前漢【本試験H7】の皇帝となっていた〈劉邦(高祖【本試験H7】【セA H30煬帝とのひっかけ】)〉(前247~前195,在位 前202~前195)は,32万の軍勢とともに白登山(はくとさん)で,〈冒頓単于〉に包囲されるという大ピンチに陥ります。武将が冒頓単于の皇后に賄賂をおくったことで,あやうく難を逃れましたが,多くの兵士が凍傷で指を失ったといわれます(白登山の戦い) 【早・政経H31敗北し、和親策をとったことを問う】。
 これにより〈冒頓単于〉は後漢に対して優位な条件をつきつけ,毎年中国の物産を贈るように要求しました。漢から匈奴に対する税(貢ぎ物)ですね。単于(ぜんう)というのは,匈奴の王の称号です。単于の称号を初めて名乗ったのは,〈冒頓単于〉の父である〈頭曼単于(とうまんぜんう)〉(?~前209)でした。

 アム川の上流部を中心に発展したバクトリア王国は,前145年頃に北方から遊牧民が南下して,衰退・滅亡しました。この遊牧民グループの正体がいったい何なのか,月氏(大月氏)説や,スキタイ人説,サカ人説などさまざまですが,定説はまだありません。
 大月氏は,バクトリア地方を5つに分けて支配し,紀元前後~1世紀にそのうちのひとつクシャーン(貴霜)が北インドに領土を拡大しました(クシャーナ朝)。
 
 タリム盆地のさらに南,チベット高原では,人々は高地でも活動できる家畜ヤクを放牧・遊牧したり,雪解け水がつくる扇状地などの限られた水場を利用して,灌漑農業をしたりしていました。厳しい環境の中で,人々は氏族にわかれて小規模で生活し,ボン教というシャーマニズムを信仰していました。

 なお,ユーラシア大陸の北東部の,北アメリカ大陸のアラスカ(ここには,エスキモー系のユピック人やイヌイット系のイヌピアック人,アリューシャン列島にはアレウト人が居住しています)にほど近いチュコト半島やカムチャツカ半島には,古シベリア諸語を話すチュクチ人やカムチャツカ人が,寒冷地の気候に適応した狩猟・採集生活を送っていました。また,アムール川の河口から,北海道の北にある樺太島にはニヴフ人(かつてはギリヤーク人といわれていました)が分布しています。





●前200年~紀元前後のアジア
○前200年~紀元前後のアジア 東アジア・東北アジア
○前200年~紀元前後のアジア  東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。

(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯前200年~紀元前後のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島では中国・朝鮮からの移住者の影響で,水稲耕作と青銅器・鉄器の製作を特徴とする弥生文化(やよいぶんか)が栄えていました。
 中国の歴史書である『漢書』には,「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う」とあって,おおむね「当時の日本列島には100余りの小国(クニ)があって,楽浪郡に定期的に朝貢していた」という解釈がされます。
 農耕がはじまって富が蓄積されるようになり,支配層が各地に現れるようになっていたのです。また,朝鮮半島はユーラシア大陸の先進的な文明を受け入れる“窓口”でありましたから,特に西日本が当時の日本の中でも,より多くの情報やヒト・モノが大陸との間で交流される場所であったのです。

 北海道には水稲耕作は伝わらず続縄文文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。
 南西諸島にも水稲耕作は伝わらず貝塚文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。

・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現③中華人民共和国

◆官僚が出身地や血縁に関係なく採用され,法制度の整備により広域支配が実現した
 秦が滅び,前202年に〈劉邦〉(前202~前195)が楚の〈項羽〉(前232~前202)を倒して,前漢王朝(前202~後8)を建てました。〈劉邦〉の死後の称号は〈高祖〉(位前206~前195)です【本試験H29】。都は長安に置かれ,長安周辺の15郡では中央から官吏を地方に派遣して郡県制を実施するとともに,封建制も35郡で実施する郡国制【追H27前漢の代か問う】【本試験H16州県制ではない】がとられました【本試験H29】。秦のときに,郡「県」制による厳しい地方支配が失敗したことを,教訓にしたのです。
 税を徴収する対象となったのは,人口のほとんどを占める小規模な自営農民でした(注)。農産物で納める田租(でんそ),銅銭で納める人頭税・財産税の算賦(さんぷ),ほかに労働力を提供する徭役・兵役,市場での取引に課す市租がありました。
(注)渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986。

 次の〈景帝〉(前157~前141)は,土地を与え臣下にしていた諸侯【東京H29[1]指定語句】権力の力が強まることをおそれ,その支配権を削減しようとしました。前154年に,それに抵抗する呉楚七国の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H26黄巣の乱とのひっかけ,H31時期(漢代か問う(正しい))】が起きますが,鎮圧後に実質的に郡県制に変更して中央集権体制を確立しました。彼のときには,〈高祖〉の功臣として高い位を与えられていた「劉邦集団」に属する特権階級(さまざまな出自の人々が含まれていました)が,新しい官僚層に取って代えられる動きもありました(注)。
(注)福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。

 第7代(カウントの方法によっては第6代)の〈武帝〉(前141~前87) 【本試験H15節度使を設置していない】【追H30魚鱗図冊とは無関係,洪武帝とのひっかけ】【H27京都[2]】は,中央集権国家づくりを強力にすすめていきます【本試験H19洛陽に遷都していない】。
 まず年号(元号)をつくり,諸侯にも同じものを使わせました。また,青銅貨幣の五銖銭(ごしゅせん)が発行されました【本試験H22半両銭ではない,H29東周の時代ではない】。
 また,全国を州に分けてその長の刺史(しし)に,郡の太守・県の県令・長を取り締まらせました。そして,地方長官に将来官僚として使えそうな地方の有力者を推薦させる制度(郷挙里選(きょうきょりせん)) 【本試験H4唐の官吏は「郷挙里選制」によって選ばれ地方豪族出身者が多かったか問う,本試験H11「各地方で有力者が集まって投票を行い,官吏を推薦する制度」ではない(注)】【追H29九品官人法とのひっかけ】を本格的に実施しました。科目には,人間性を見る孝廉(こうれん),学問を見る賢良や文学がもうけられました。
 また,五経博士という職に〈董仲舒〉(とうちゅうじょ,前176頃~前104頃) 【追H9司馬遷,班固,鄭玄ではない、H19『五経正義』を編纂したのは孔頴達】を任命して教義を統一させ,彼の提案により儒教を国家の教学としました(それが〈董仲舒〉によるものだったのか,また儒教が国教といえる扱いとなったのは紀元前後ではないかという異論もあります) 【共通一次 平1】【本試験H13訓詁学を確立したわけではない】。五経【本試験H14『論語』は含まれない】は,『春秋』,『礼記』,『詩経』【本試験H14リード文の下線部・屈原の詩は収録されていない】【追H30魏晋南北朝時代ではない】,『書経』【京都H21[2]】【本試験H14リード文の下線部】,『易経』から成ります。
 〈武帝〉は豪族の大土地所有をやめさせるため,限田策(げんでんさく)を提唱しましたが,実施はされませんでした。ちょうど同じ頃共和政ローマでは〈グラックス兄弟〉が似たようなことをしています。漢の経済的な基盤は,5~6人の小家族による農業経営から成っており,彼らを保護する必要性が認識されていたのです。
(注)郷挙里選は,「①前漢の武帝の時には,この制度で官吏が推薦された」「③これは,地方長官が推薦した者を,朝廷が官吏として任用する制度であった」「④この制度によって,地方で勢力を持つ豪族の子弟が官吏となった」が正しい選択肢。

 また〈武帝〉は積極的に領域の拡大を図ります。

 西方:タリム盆地のオアシス諸都市を服属させることに成功。

 南方:秦から独立して政権を築いていた南越国【追H20滅ぼしたのが武帝か問う(後漢の光武帝,呉の孫権,唐の太宗ではない)】を滅ぼしヴェトナム北部へ進出。

 東方:朝鮮半島にあった衛氏朝鮮【本試験H13】【追H21後漢の光武帝が滅ぼしたのではない】【慶・法H30】(前2世紀に漢人〈衛満〉(えいまん)【本試験H30】が建国していた)を滅ぼして,前108に楽浪(らくろう)【本試験H13】・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の朝鮮四郡を設置【本試験H3武帝は,匈奴を倒し,その後これを分裂させたわけではない】。
 しかし,〈武帝〉の死後まもなく,臨屯と真番は前82年,玄菟は前75年に,住民の抵抗もあり廃止されました。

 広い範囲のさまざまな民族を支配する仕組みが,こうして中国でも確立したわけです。文化を共有する彼らは「中国人」「漢民族」としての意識を高めるようになり,〈武帝〉の代には歴史書『史記』【追H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)、H28『資治通鑑』とのひっかけ】【本試験H7時期(倭の五王が朝貢した時期ではない)】【本試験H31】【名古屋H31世紀と王朝を問う】が紀伝体(きでんたい,テーマ別の形式)【本試験H14編年体ではない】【追H21紀伝体か問う】【中央文H27記】【名古屋H31】により漢字で書かれ,〈司馬遷〉(しばせん,前135?~前93?) 【本試験H9後漢の歴史までは著していない】【本試験H31『史記』を著したか問う】【追H9董仲舒のひっかけ、H19】により編纂されました。伝説上の黄帝から前漢【本試験H9後漢までではない】の〈武帝〉に至るまでの歴代皇帝に関することは「本紀(ほんぎ)」に記されています【本試験H14始皇帝に関する事績が本紀に書かれているかを問う】。
 漢字のメリットは,読み方は地域によって様々でも,特定の字に特定の意味があるため,意味さえわかればコミュニケーションがとれるという点にあります。
 なお,〈司馬遷〉が宦官となったきっかけは,匈奴との戦いで敗れて捕虜になった友人の将軍〈李陵〉(りりょう,?~前74)をかばったことが〈武帝〉の逆鱗(げきりん)に触れ,宮刑(きゅうけい,宦官にされる刑)を受けたためです。ドン底に落とされた〈司馬遷〉ならではの人間への観察眼が豊かな『史書』は,その後に中国の歴代王朝によって編纂された歴史書とは異なる魅力を放っています。『史記』は〈司馬遷〉による個人作品でしたが,のちに正史(せいし)の一つとされ正統化されていきます。

 〈武帝〉【本試験H18光武帝ではない】の時代には,世界史上重要な一歩を踏み出した人物が現れます。西域に派遣された〈張騫〉(ちょうけん,?~前114) 【京都H21[2]】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】 【本試験H4前漢の人物か問う,本試験H12張角ではない。大秦国に派遣されたのは甘英】【本試験H21,H24】です。
 彼の切り開いたルートにより,ユーラシア大陸の中心部を東西に陸路で結ぶ“シルクロード”(絹の道)が開拓されました。以前から,より北方の“ステップ=ロード”(草原の道)による東西交流はありましたが,騎馬遊牧民の牛耳る世界であり,農牧民にとっては“死の領域”でありました。
 この新たなルート“シルクロード”を安全に行き来するには,モンゴル高原を拠点に北方の遊牧民たちを支配下に置いていた匈奴をなんとかしなければなりません。そこで〈張騫〉は,大月氏【本試験H24時期】と結んで匈奴を“挟み撃ち”にすることで,東西交易路の支配を狙いました。大月氏との同盟はなりませんでしたが,匈奴に敗れて西に逃げた月氏を追い,その途中にあったオアシス都市を従えることで,安全に通過することのできる東西交易路を切り開きました。これ以降,タリム盆地のオアシス都市,天山山脈の北の烏孫(うそん)【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】,さらに西の康居などをおさえるために西域都護(さいいきとご)【本試験H15節度使ではない】が置かれました。
 オアシス都市には,タリム盆地中央部の北にあり最盛期に10万人を越えた亀茲(きじ,クチャ)や,疏勒(そろく,カシュガル),沙車(ヤルカンド),玉(ぎょく)【早・法H31】の産地の于闐(うてん,コータン;ホータン【早・法H31】)などがありました。いずれも乾燥地帯であり,河川やオアシスも小規模だったので,必然的に小規模な都市国家となりました。
 さらに〈李広利〉(?~前90)を大宛(だいえん,フェルガナ) 【本試験H3『史記』大宛列伝の抜粋をよみ,大宛が定住農耕民であることを読み取る】に派遣し,汗血馬(かんけつば)という名馬を手に入れようとしました。

 〈武帝〉【追H20】は越(ベト)人の南越王国【追H20】を滅ぼし,9郡を設置しました。その南端の日南郡は,現在のフエと考えられています。
 前109年には,〈武帝〉により滇(てん)王国が滅ぼされました。これにより,内陸と紅河を結ぶ交易ルートは漢の支配下に入りました。

 一方,軍事費が増えて国家財政は苦しくなると,〈桑弘洋〉(前152~前80)の提案で,塩【追H27茶ではない】【共通一次 平1】【本試験H18】・鉄【共通一次 平1】・酒【共通一次 平1:茶ではない】【本試験H19,本試験H28砂糖ではない】の専売【追H27前漢であって後漢ではない】が実施されました。
 また,中小農民の生活安定を図るべく,物価の調整と安定【本試験H19】のために均輸法・平準法【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H24】【追H21秦代ではない,H30殷ではない】【H27京都[2]】が行われました。均輸法は,価格が下がっている時期に物資を国家が買っておき,価格が高騰した時に市場に販売するもの。均輸法は,価格が下がった物資を国家が買い,物資の不足により価格が高騰する地域に輸送して販売するもの。国家権力が商人の流通活動に介入したことで,商人の商売は“あがったり”になりました(このような経済現象を現在でも「民業圧迫」といいます)。

 この政策は,漢の財政基盤である5~6人の小家族の農業経営を保護し,商人や職人の活動を抑制したもので,功績を認められた〈桑弘洋〉は御史台(ぎょしだい)の長で,この時期に皇帝の側近としては従来の宰相(さいしょう)に代わりトップとみなされていた御史大夫(ぎょしたいふ)に任命されました。
 しかし,有力者に保護を求めた商人・職人や,国家が商業に関与することに対し儒学者からの反発も大きく,〈武帝〉の死後におこなわれた政策論争(塩鉄会議,前81)の結果,酒の専売は撤回されました。翌年〈桑弘洋〉は別件の政争によって処刑されています。官僚の〈桓寛〉は前60年代にこの議論を『塩鉄論』にまとめました。

 前1世紀後半には,次第に外戚(皇后の親族)や宦官(かんがん,皇帝につかえる去勢された男子)が政治に介入してくるようになります【本試験H14秦代ではない】。


・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮問題
 朝鮮半島には,亡命漢人の〈衛満〉(えいまん)による衛氏朝鮮が,臨屯(イムドゥン;りんとん)や真番(チンバン;しんばん)を支配下に置き拡大していました。当初は前漢も黙認していましたが,〈武帝〉は衛氏朝鮮を滅ぼし,衛氏朝鮮のあった場所に楽浪郡(らくろうぐん) 【京都H20[2]】【本試験H7時期(前漢代か問う)】【追H25秦が置いたのではない】【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】を置き,沃沮(オクチョ;よくそ)から高句麗にかけての地域には玄兎郡(げんとぐん)を置き,さらに臨屯郡(りんとんぐん),真番郡(しんばんぐん)【本試験H15時期(前2世紀),H29共通テスト試行 光武帝による設置ではない】の四郡(合わせて楽浪四郡と呼びます)を設置し,直接支配を目指しました。
 しかし,楽浪郡(らくろうぐん)以外は現地の首長が間接支配する形に変わっていき,前82年に臨屯郡,真番郡は廃止されました。

 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり;コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,勢力を拡大させていきました。





○前200年~紀元前後のアジア  東南アジア

 この時期になると,東南アジアとインド,さらに西のローマを結ぶ海のネットワーク(海の道,海のシルクロード)の姿が,だんだんと見えてくるようになります。 
 前2世紀末には,ヴェトナム中部に日南郡が置かれ,中国だけでなく,インドからも使者が訪れるようになっていました。
 中国にとって,東南アジアは「富」の宝庫でした。象牙,スズ(青銅器の原料)それに香辛料(スパイス)や,不思議な香りのする香料,ウミガメの甲羅や真珠。いずれも貴重な産物です。独特の香りのする竜脳という香木は,儀式において使用される貴重なものですが,熱帯雨林が原産です。前2世紀には,現在の広州(南越【追H20かつてのこの地方は「瘴癘(しょうれい)の地」とされ,「人々から恐れられる土地であった。瘴癘とは,熱帯・亜熱帯に生息する蚊が媒介する,マラリアの一種と考えられる。明末以降,沼沢や山林の開発が進み,人間の生活圏から蚊の生息地が減少すると,「瘴癘の地」としてのイメージは薄らいだ」】の都でした)で,熱帯雨林でしかとれないはずの竜脳が見つかっています。 船乗りたちが,船を乗り継ぎながら,ヴェトナム中部の日南郡から,メコン川下流を通り,マレー半島を陸で渡って,インドに向かっていたのです。




○前200年~紀元前後のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


 マウリヤ朝は,〈アショーカ王〉(位 前268~前232?) の死後に分裂しました。平和を愛するダルマの理念が重んじられて軍隊が弱体化したとか,仏教への寄進によって財政が破綻したとか,いくつも説がありますがハッキリとはわかりません。50年余りたって前180年頃に滅亡しました。次は,同じくパータリプトラに首都を置いたシュンガ朝(前180頃~前68頃)にかわりましたが,西北インドはバクトリアのギリシア人が支配していました。前68頃にシュンガ朝はカーンヴァ朝にとってかわられ,前23年頃滅亡しました。
 北インドの農牧民にとっての脅威はカイバル峠の北側の中央ユーラシアの勢力です。セレウコス朝シリアから,前255年頃にギリシア人が自立し,バクトリア王国が建国されていました。このバクトリアがマウリヤ朝崩壊のすきをついてガンダーラに進入し,インド=グリーク(ギリシア)朝を建国しました。その王〈メナンドロス1世〉(前342~前291)は,仏教の僧侶〈ナーガセーナ〉(前2世紀頃)と対談したといわれ,『ミリンダ王の問い』におさめられています。インド=ギリシア(グリーク)人は,円形の銀貨を発行し,ギリシアの神像がインドの文字(ブラーフミー文字など)とともに刻まれました。

 その後,前145年頃にアフガン系の遊牧民であるトハラ(大夏) 【本試験H18マウリヤ朝ではない】がバクトリア王国を滅ぼすと,とり残されたガンダーラ地方のギリシア人の中には仏教に改宗する者も現れました。
 さらに,そこに中央ユーラシアから大月氏が南下してきます。大月氏は,前2世紀後半に匈奴【本試験H7月氏ではない】に敗れた月氏【本試験H19時期】【本試験H7匈奴ではない】が,西方のバクトリアに移動して大月氏と呼び名を変えたものです。その大月氏が配下にしていた5つの諸侯のうちの一つ貴霜(クシャーナ族)が独立し,勢力を増し,紀元後1世紀には北インドに進入することになります。
 また,中央ユーラシアのスキタイ系の民族であるシャカ族は,前2世紀末~前1世紀初めにかけて西インドに南下し(インド=スキタイ人),前1世紀半ばにインド北西部一帯を支配しました。
 
 なお,カリンガはマウリヤ朝の分裂後に独立し,前1世紀にジャイナ教を保護した〈カーラヴェーラ〉のもとで栄えました。ガンジス地域のギリシア人や,デカン高原のサータヴァーハナ朝,南のタミル人と戦い勝利したという碑文が残っています。

 南アジアの最初の王朝は,前1世紀に成立したサータヴァーハナ朝(前1世紀~3世紀) 【追H20時期(14世紀ではない)】です。南アジアとは,ヴィンディヤ山脈よりも南のデカン高原一帯のこと。バラモンによる文献では「アーンドラ」族と呼ばれているので,アーンドラ朝ということもあります。1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。
 インド南端に近い地域では,タミル人が紀元前後にタミル語によりラブストーリーや戦争についてうたった古典文学(シャンガム文学)をのこしています。それによると当時そこには,チョーラ(南東部に流れるカーヴェリー川流域),パーンディヤ,チェーラの王国があって,抗争していたようです。チェーラはおそらくケーララ(インド南東部)のことです。

 仏教は,前3世紀に〈アショーカ〉王によりインド北西部に伝えられ,中央ユーラシアの「西域」(中国の漢人による呼び名)の都市国家は仏教を受け入れました。やがてインドや中央ユーラシア出身の僧侶が,中国に布教に訪れることになります。




○前200年~紀元前後のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン



◆ポエニ戦争でカルタゴに勝利したローマが東地中海に進出する
ローマが東地中海沿岸へ進出する

 この時代、「西アジア」にイタリア半島のローマが食い込むように拡大していきます。ローマは「ヨーロッパ」の国だから、「アジア」の歴史とは関係ないというのは、現代のわれわれによる「後知恵」。地理的に「西アジア」に進出していったローマの歩みを、ここでも一度確認しておきましょう。

 この時期のローマは第二次ポエニ戦争(前218~前201) 【本試験H14時期(前4世紀ではない)】で、北アフリカの現在のチュニジアに拠点を置くカルタゴと、地中海の交易の覇権をめぐり争っていました。
 その後ローマは第三次ポエニ戦争(前149~前146年)で,カルタゴを最終的に滅ぼします【本試験H22】。

 同じ頃,前148年にはマケドニア戦争で,マケドニアも属州としています。カルタゴとマケドニアの両方の地で活躍した〈スキピオ〉(小スキピオ,前185~前129)は,マケドニアで捕虜となった〈ポリュビオス〉(ポリビオス,前204?~前125?) 【追H21『アエネイス』の著者ではない】【東京H22[3]】【H30共通テスト試行 『歴史』から引用】【同志社H30記】を保護しました。〈ポリュビオス〉)はローマ史を書きながら政体の移り変わり(循環)について考えた『歴史』で知られます。彼はローマの国政には、コンスルという王政的要素【H30共通テスト試行】、元老院という貴族【H30共通テスト試行「僭主」ではない】的要素、民衆という民主制的要素【H30共通テスト試行】が存在しており、これら三者が互いに協調や牽制をしあってバランスをとっていると論じました。

 新たに獲得した属州は公有地でしたが,貴族(パトリキ)や騎士(エイクテス)などの有力者はこれを占有し,奴隷にはたらかせて小麦や果樹を栽培して大儲けしました。彼らが占有した大所領のことをラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】といいます。
 属州からブドウやオリーブといった安価な産品がイタリア半島に流れ込むようになると【本試験H7】,広い土地を持たない中小農民【本試験H7「ローマ軍の主力をなしてきた人々」】【追H25】は価格競争に負けて没落【本試験H7】【本試験H21】していきました。
 中小農民は,ローマの重装歩兵の主力【本試験H21】【追H25騎兵ではない】であったため,彼らが没落したことでローマ軍も弱体化していきます。都市には土地を失った者(無産市民)が流れ込み,彼らに穀物や娯楽を与える有力者が,力を付けていくようになります。また,ローマ周辺の公有地は借金の返済のために売られて私有地となり,土地を買い集めた富裕層(ふゆうそう)と中小農民との格差は開くばかりでした。

 そんな中,〈グラックス兄弟〉(兄ティベリウスは前162~前132,弟ガイウスは前153~前121)が改革をしますが【本試験H2富裕な階層の利害を代表するわけではない】【本試験H14時期(前4世紀ではない)】,貴族と無産市民との対立は止まりません。兄は前133年に護民官(ごみんかん)に就任し,リキニウス=セクスティウス法を復活させ,貴族の所領を土地のない無産市民に分けるべきだと主張しました。農民が土地を持ち自作農になっていれば,兵隊として国防を担う余裕ができるはずだと考えたのです。しかし,元老院を軽視したことから,大土地所有者である元老院内の保守派により殺されてしまいました。
 兄の遺志を受け継いだ弟〈ガイウス〉も前123年に護民官になりましたが,反対派に攻められて自殺しました。
 それ以降のローマは“内乱の1世紀” という混乱期に入ります。

 〈グラックス兄弟〉の改革が失敗した後,ローマの根本的な問題は解決されぬまま,大土地所有はエスカレートしていきました。しかし,そんなことでは中小農民は土地を失い,ローマ軍の兵士として活動できなくなってしまい,国防は手薄になってしまう。
 そこで,無産市民たちに給与・武器・食料を支給して軍隊とする有力者が現れるのです。この有力者,自分の財力で軍隊を編成するのですが,無産市民にとっては,自分たちに「兵隊」という仕事を与えてくれた有力者は“恩人”です。こうして,“親分”である有力者に,多くの無産市民が“子分”がつかえるようになると,やがて有力者どうしの争いが生まれ,ローマはますます混乱します。

 元老院の貴族と結んだ有力者グループを閥族派といい,民会の人々と結んだグループを平民派といいます。有力者は,貴族や貧民に武具を支給して味方につけ,自分のプライベートな武装集団(私兵【東京H29[1]指定語句】)を組織し,各地で起こる暴動を鎮圧しつつ,勢力を拡大させていきました。私兵には退役すると征服地が分け与えられ,ローマ市民権も与えられました。特に,前1世紀には,閥族派の〈スラ〉(前138~前78) が,平民派の〈マリウス〉(前157~前86)と権力をめぐり激しく衝突しました。

 前91~前88には「同盟市」に位置づけられた諸都市がローマ市民権【本試験H2】を求めて反乱を起こし(同盟市戦争【本試験H2ローマ市民権を要求して結束したか問う,本試験H7属州内諸都市ではない】【東京H29[1]指定語句】),前88~前64年には,東方のポントス王〈ミトリダテス6世〉による小アジアにおける反乱が勃発し,長期間にわたる戦争となりました。
 そんな中,前73年に剣奴の〈スパルタクス〉【追H26】が反乱を起こし(前73~前71),多数の奴隷【追H26コロヌスではない】とともにイタリア半島を縦断してローマは大混乱に陥ります。反乱後は奴隷の待遇は改善に向かい,奴隷制をゆるめて小作人制が導入されるようになっていきます。

 これらの危機に対し,鎮圧しているのは有力者の子弟で,有効な手が打てない元老院は支持を失っていくのは当然です。
 それに対し,有力者がめざす目的は,ローマの政治の主導権を握ることでした。そのために邪魔な存在である元老院を抑える必要がある。そこで,閥族派の〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【本試験H6元老院と同盟したスパルタクスを打倒していない,本試験H9オクタヴ(ママ)ィアヌスとの共同統治ではない】が平民派の〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6,本試験H7】【H30共通テスト試行「共和政期末の内戦を勝ち抜いたかに見えた」が、ローマの国政を「壊そうとしているという疑いをかけられ、暗殺されてしまった」人物を答える(オクタウィアヌスではない)】 が,コンスルの経歴を持つ富豪で軍人の〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6】を誘って,裏でローマの政治を動そうと団結しました(〈クラッスス〉はスパルタクスの乱を鎮圧した指揮官です)。
 この3者の提携関係をのちに,第一回三頭政治といいます。平民派の〈カエサル〉は財務官(クアエストル)や法務官(プラエトル)など,名だたる官職を経験したエリート軍人。前59年には執政官(コンスル)に上り詰めています。

 前58年に,〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6元老院に接近していない】【本試験H31『ガリア戦記』を記したか問う】は,ガリア地方(現在のフランス) 【本試験H7ローマの全市民に市民権を与えていない,『ゲルマニア』を書いていない】に遠征して,小麦がたくさんとれるこの地方を属州とする手柄をたてました。この地方に分布していた人々の様子は,事細かに『ガリア戦記』【本試験H7『ゲルマニア』ではない】【本試験H31】【追H18ハンニバルとは無関係、H24ハンニバルによるものではない】に記されています(注)。
(注)当時〈カエサル〉が「ゲルマン人」と呼んだ人々は、「当時いわゆるゲルマン語系の言葉を用いていたとは今日考えられていない」。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。


 前53年にアルシャク(アルサケス)朝パルティア【本試験H6】との戦争への遠征中に〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6パルティアに遠征したのはポンペイウスではない】は,メソポタミア方面のカルラエ(現在のトルコ南東部)で戦死し,第一回三頭政治が崩れます。絶妙なバランスを保っていた三人の三角形は崩れ,残された2人による1対1の対立になってしまいました。
 〈ポンペイウス〉(前106~前48)は〈カエサル〉がガリア遠征で手柄をたてたことを嫌い,元老院側に寝返り,〈カエサル〉を排除しようとしました。しかし,意を決してローマに戻ってきた〈カエサル〉は,元老院の勢力とともに〈ポンペイウス〉を撃退することに成功。このときの〈カエサル〉の決意は,「賽(さい)は投げられた」という名言が表しています。〈カエサル〉は元老院議員が属州を私物化し,ローマの伝統である「共和政」にすがるも中小農民の没落になんら方策を打たなかった旧来の支配層が,ローマの危機をもたらした“悪の根源”だと考えていたのです。
 〈ポンペイウス〉が前48年にエジプトで暗殺されると,〈カエサル〉に歯向かう者は誰もいなくなりました。前45年にはインペラートル(将軍)の称号が与えられ,自らを“神”と崇(あが)めさせるようになり,誕生した月もその名をとって〈ユリウス〉(英語のJulyの語源)と呼ばせました。暦の制定にあたってはエジプトの太陽暦をローマに導入し,自ら名をとってユリウス暦【本試験H2太陽暦から発達したか問う】【本試験H23グレゴリオ暦とのひっかけ】とし,従来のメソポタミア由来の太陰太陽暦(たいいんたいようれき)に代えました。この暦はのちにローマ教会がうるう年を修正し,現在もつかわれているグレゴリウス暦となっています。日本で「西暦」といえばこの暦のことを指します。

 〈カエサル〉は元老院を軽視し,独裁官(ディクタートル)として独裁政治をおこないましたが,ローマの伝統である共和政を支持する〈カッシウス〉(前87~前42)らのグループににらまれ,〈ポンペイウス〉像の前で前44年に暗殺されてしまいます。
 暗殺グループの一人の顔を見て,「〈ブルートゥス〉,お前もと言ったというセリフは,特にイギリスの劇作家〈シェイクスピア〉(1564~1616)の劇『ジュリウス=シーザー(ユリウス=カエサルの英語読み)』のセリフ「Et tū, Brūte? Then fall, Caesar!」(エト トゥー ブルーテ?)で有名です。〈ブルートゥス〉(前85~前42)は〈カエサル〉に父親代わりとして育てられた人物であり,〈カエサル〉は「ブルートゥスまでが暗殺に加わっているというなら,もう仕方ない」と諦めたのです。


 さて,〈カエサル〉【本試験H15ポンペイウスではない】亡き後のローマでは,〈オクタウィアヌス〉(前63~後14) 【追H26】【本試験H17ローマ法大全を編纂していない】【H30共通テスト試行 暗殺されていない(カエサルとのひっかけ)】とカエサルの部下〈アントニウス〉(前83~前30) 【追H26ハドリアヌスではない】【本試験H4プトレマイオス朝を滅ぼしていない,本試験H6レピドゥスではない】と,政治家の〈レピドゥス〉(前90~前13) 【本試験H6アントニウスとのひっかけ】 【本試験H15クラッススではない】が,正式に「国家再建3人委員会」に任命され,政治を立て直そうとしました(第二回三頭政治【追H26】)。国家はいま緊急事態であるとして,共和政を維持しようとするグループを弾圧し,国家権力を強めようとしたのです。
 〈オクタウィアヌス〉の父〈ガイウス〉は,そこまで名門の家柄ではありませんでしたが,母が〈カエサル〉の姪(めい)でした。つまり,〈カエサル〉は〈オクタウィアヌス〉にとって大伯父(おおおじ)にあたります。早くから〈カエサル〉に才能を見出され,相続人に指名されたのでした。〈オクタウィアヌス〉はイタリア半島以西,〈アントニウス〉は東方の属州,〈レピドゥス〉は北アフリカを担当としましたが,その後すぐに内乱となり,反旗をひるがえした〈レピドゥス〉を失脚させた〈オクタウィアヌス〉と,〈アントニウス〉との一騎打ちになりました。当時,〈オクタウィアヌス〉を擁護し,〈アントニウス〉を「独裁者になるおそれがある」と批判したのは,雄弁家として名高い〈キケロ〉(前106~前43) 【本試験H17ローマ建国史は著していない】【追H29『ガリア戦記』を著していない】【法政法H28記】です。

 一方,〈アントニウス〉【本試験H4オクタウィアヌスとのひっかけ,本試験H6レピドゥスではない】【本試験H29】は,プトレマイオス朝エジプトの女王〈クレオパトラ7世〉(前69~前30) 【追H26アメンホテプ4世ではない】【本試験H4,本試験H6「エジプトの女王」,本試験H12アレクサンドリアを建設していない】【立教文H28記】と関係を深め【本試験H15「協力関係」にあったかを問う】,ローマの属州を与えてしまいますが,結局前31年にアクティウムの海戦【東京H13[1]指定語句】【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,本試験H29,本試験H31サラミスの海戦とのひっかけ】で〈オクタウィアヌス〉【本試験H31テミストクレスではない】に敗れました【本試験H29勝っていない】。アクティウムというのは,エジプト沖ではなくて,ギリシアのペロポネソス半島沖です。
 〈アントニウス〉は〈クレオパトラ〉とともにここに海軍を集結させていたのですが,緒戦で「負けた」と判断した〈クレオパトラ〉が戦線を離脱し,〈アントニウス〉も慌ててそれを追いかけると,取り残された海軍は〈オクタウィアヌス〉軍によって全滅してしまいました。アレクサンドリアに逃げた〈アントニウス〉には,“女を追いかけて逃げた”という悪評の立つ中,〈クレオパトラ〉が死んだという話を聞き,前30年に自殺を図ります。最期は,実は死んでいなかった〈クレオパトラ〉の腕の中で迎えたと言われています。その〈クレオパトラ〉も,前30年にコブラの毒で自殺しました。こうして,プトレマイオス朝エジプトは滅び【本試験H4】,〈オクタウィアヌス〉による地中海統一が成し遂げられたのです。地中海はローマの内海となり,“我らが海(マーレ=ノストルム)”と讃えられました。

 〈アレクサンドロス大王〉の後継者の建てた国は,これで全てなくなったので,東方遠征以来の「ヘレニズム時代」の終わりとして区分することもできます(ヘレニズム時代とは,19世紀のドイツ人歴史学者〈ドロイゼン〉(1808~84)の用語です)。



◆内乱を終わらせた〈オクタウィアヌス〉が帝国全体の統治権を獲得する
一人の支配者の全ローマ支配を元老院が認めた
 エジプトからローマに凱旋した〈オクタウィアヌス〉(前63~前14、77歳という長生き)は,内乱中に手にしていた軍隊の指揮権をいったん元老院(=国家)に返したものの,前27年に元老院がアウグストゥス(尊厳者) 【追H27時期を問う】 【本試験H3,本試験H6】という称号を彼に与え,多くの属州の支配を任せたので、再び軍隊の指揮権を確保しました。アウグストゥスの称号はつまり,死後は神として礼拝される存在になるということです。
 軍隊の指揮権(インペラートル) 【早・政経H31「市民の中の第一人者」ではない】を手にした彼は、管轄する属州に自分の代理人を総督や軍団司令官を送り込みました。
 またさらに、元老院の管轄する属州における総督を選ぶ権利(人事権)も手に入れたことで、帝国全体の統治権を一挙におさめたのです。
 なお、コンスル(執政官)、護民官(トリブヌス=プレビス)、最高神祇官(じんぎかん、ポンティフェクス=マクシムス)の役職も手に入れています。

 一見独裁者のようですが,〈オクタウィアヌス〉は「君主のようにふるまえば,〈カエサル〉のように共和政を重んじるグループに目をつけられ,暗殺されるかもしれない。形の上では,自分は「市民のうちの一人」ということにしておこう」と考えていました。
 しかも,大土地所有をする名だたる有力者の集まる元老院を敵に回すのは,現実的ではありません。そこで,アウグストゥス(亡くなったら“神”になる神聖な存在)が,あくまで元老院と協調して広大なローマの領土を支配する元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3ドミナートゥスではない】という体制が成立したのです【本試験H9「名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重するものだった」か問う】【H29共通テスト試行 ローマ皇帝(アウグストゥスからネロまで)の系図】【追H25テオドシウス帝のときではない】。

 また、後継者は彼の私的な相続人(〈ティベリウス〉(位14~37))に受け継がれ、ローマは「王朝」の支配する国家となっていきます。

 ただ,ローマの地方支配はゆるやかで,行政の大部分は自治の与えられた地方の都市に任せられていました。ローマは中国と比較しても役人が少なく,公共建築や土木請負や徴税請負などは民間に請け負われていました。ケルト人の定住都市に軍団を駐屯(ちゅうとん)させることでロンディニウム(現在のイギリス・ロンドン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,コローニア=アグリッピナ(現ドイツ・ケルン),ウィンドボナ(現オーストリア・ウィーン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,ルテティア(現フランス・パリ【東京H14[3]】) 【本試験H2ローマが建設した都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】など,現在にまで残る都市が建設されました。



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・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア、⑪ヨルダン

 この時期、ペルシア湾岸の交易が現在のバーレーン〔バハレーン〕や、その近くの内陸都市ゲッラなどで栄えています。
 ペルシア湾と地中海・南アラビアを結ぶ隊商路の結節点にあったゲッラには、南アラビアのマイーンの商人や、シリアの現・ヨルダンのペトラと交易を行っていたようです(注1)。

 また、現在のイラクにあるカラクス=スパシヌーという都市も、バハレーン、オマーンと強い結びつきを持ち交易で栄え、前2世紀後半にセレウコス朝のサトラップのアラブ人〈ヒュスパオシネス〉が一時独立し、カラケーネー王国を成立させたほどです(注2)。その後パルティアの宗主権の下で半独立状態となります。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.43。
(注2) ペルシア湾の湾頭に位置することから、セレウコス朝のエリュトラー海州の拠点でした。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.44。


・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ

 ユダヤ人はバビロン捕囚から解放されてパレスチナに帰ってからも,アケメネス〔アカイメネス〕朝,さらに〈アレクサンドロス大王〉の支配を受けました。
 続いて〈アレクサンドロス〉の後継者によるセレウコス朝シリアの支配下に入りました。セレウコス朝の〈アンティオコス4世〉はユダヤ教を禁止し,イェルサレムのヤハウェ神殿にギリシア神話の主神のゼウス像を建てるというギリシア化政策を強行。
 これに対し,前166年にハスモン家の〈ユダス=マカバイオス〉(?~前161頃)による反乱(マカベア戦争)が起きて,前140年頃にはハスモン朝として独立を果たしました。

 しかし,第一回三頭政治のメンバーの一人だった〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【早・法H31】が,前64年にセレウコス朝を破り【追H25セレウコス朝はマケドニアに滅ぼされたのではない】【早・政経H31クラッスス、マリウス、キケロではない】,前63年にハスモン朝を支配下に置きました。

 こうしてパレスチナにまで勢力範囲を広げた共和政ローマは,直接パレスチナを支配せず,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ大王〉の厳しい支配の中で,ユダヤ人の中からは様々な意見が生まれます。そのような中で,〈イエス〉(前6?4?~後30) 【本試験H12キリスト教の始祖かを問う】【本試験H19時期】がベツレヘムで誕生したのです。
 〈イエス〉の生誕地とされる場所には聖誕教会が建設されています(◆世界文化遺産「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」,2012(危機遺産))。


・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)はセレウコス朝シリアの支配下にありましたが,前189年にセレウコス朝がローマ軍に敗れたことをきっかけに,アルメニア人の〈アルタシェス1世〉(位前189~前160)が独立し,ローマの支援を受けてアナトリア半島の付け根からカスピ海の南東にかけてアルメニア王国(アルタシェス朝)を建てました。その後,ローマとパルティアの狭間に置かれながらも,交易の拠点として栄えました。〈ティグラン2世〉(位前95~前56)のときが最大領域です。しかし〈ティグラン2世〉はローマ軍の進出に苦しみ,次代の王はパルティア王の進出を受けます。アルメニア王国はローマとパルティアの間の“クッション”(緩衝)的な存在となり,紀元後6年には滅亡しました(注)。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.33-35,38-39。





●前200年~紀元前後のアフリカ

 地図を見ると,地中海とインド洋の間には陸地があり,一番狭くなっている部分をスエズ地峡といいます。首の皮一枚でユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながっている格好です。
 スエズ地峡を超えると,アラビア半島の南側に紅海があって,そこを南東に通り抜ければ,インド洋(アラビア海)に出ることができます。ナイル川から紅海アケメネス〔アカイメネス〕朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉の建設した運河が存在したといわれていますが,クレオパトラの時代にはすでに泥に埋まってしまっていたようです。




○前200年~紀元前後のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 紅海は,地中海とインド洋を結ぶ重要な「水路」です。前120年頃,エチオピア高原の北部アクスム【東京H14[3]】を都としてアクスム王国が建てられました【東京H14[3]「ローマの勢力が後退した機をとらえて,紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国」の首都を答える】【本試験H24ザンベジ川の南ではない】。
 アラビア半島のアフロ=アジア語族セム語派の(アフロ=アジア語族)による国家といわれ,のちにキリスト教を受け入れました。エチオピア正教会はカルケドン公会議で異端とされた単性論ではありませんが,451年のカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないので非カルケドン派ともいわれます。21世紀の今でもキリスト教が多くの国民に信仰されています。おそらく,ローマ帝国との関係を良くするための政策だったのでしょう。
 エチオピア高原はコーヒーの原産地【本試験H11アメリカ大陸は原産地ではない】でもあり,カッファ地方がその語源。伝説では〈カルディ〉というヤギ飼いが,ヤギの食べている赤い実を口に含んだところカフェインの刺激に驚き,人づてに実を入手した修道士が栽培を初め,実を煎じて飲むようになったということです。紅海から積み出され,アラビア半島南部のモカ(ムハー)からアラビア商人によって運ばれたため,その名はイエメン高地で栽培される品種「モカコーヒー」という名前に残っています。

 アクスム王国は文字も持ち,貨幣を鋳造し,巨大な石柱群(ステッレ)は世界遺産になっています。近くには,『旧約聖書』にも登場する,南アラビアの〈シバの女王〉の浴槽とされる物も見ることができます。伝説上の人物なのですが,イスラエル(ヘブライ)王国の王〈ソロモン〉(位 前961?~前922?)を訪れ,金や宝石,乳香や白檀(香料)を贈ったとされています。エチオピアでは,この2人の子が,アクスム王国の初代の王〈メネリク1世〉となったという言い伝えがあります。インディ=ジョーンズの映画で有名になった「失われたアーク(モーセの十戒の記された石版が収められているといわれる)」は,この〈メネリク〉が獲得し,その力で王になったと言われているんですよ。現在もエチオピアのシオンのマリア教会の礼拝堂で保管されているといわれ,1年に1度だけティムカットというお祭りのときに,一般公開されます。
 さて,このアクスム王国はインドとも交易をしていました。地中海~エジプト~紅海~インド洋を結ぶ海の道の交易ルートの重要な拠点だったのです。アクスム王国はアラビア半島の南端のイエメンも支配し,黄金・奴隷や,アフリカの動物の象牙・サイの角・カバの革などを輸出して栄えました。




○前200年~紀元前後のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ




○前200年~紀元前後のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン




○前200年~紀元前後のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 ニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、前250~後50年の層の集落で、鉄利用後と魚など水産資源利用の跡が残されています。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○前200年~紀元前後のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


 エジプトは〈アレクサンドロス大王〉の死後,プトレマイオス朝エジプト(前306~前30)により支配されていました。
 プトレマイオス朝は伝統的なファラオとしてエジプトの信仰を保護しつつ,〈アレクサンドロス〉の後継者として支配の正統化を図るため,ギリシア文化やムセイオンにおける学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました。

 一時,フェニキア人のカルタゴと結んで共和政ローマと対立しましたが,カルタゴが第三回ポエニ戦争で滅ぶと,共和政ローマによる進出の危険にさらされました。
 そこで,女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30)は共和政ローマの政治家〈カエサル〉,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となりました。






●前200年~紀元前後のヨーロッパ

○前200年~紀元前後の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


ローマの将軍カエサルがケルト人の世界を征服
 前8世紀頃以降,「ケルト人」と後に総称されることになる民族により,鉄器文化であるラ=テーヌ文化が生み出されました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。

 しかし前58年~前51年のガリア戦争で,共和政ローマの政治家・軍人〈カエサル〉(前100~前44)により全ガリア【セA H30ルーマニアとは無関係】地域がローマによって征服され,属州となりました。

 〈カエサル〉は征服地の住民を捕虜や奴隷とし、物品を略奪、従う人々には金をばらまくことで支配を確立しました。
 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれました。


 バルト海東岸には,バルト語派のバルト人が定住していましたが,前1世紀頃からフィン=ウゴル語(現在のフィンランド語やハンガリー語がこれに属する)のリーヴ人が,フィンランドの南(フィンランド湾の南)のエストニアに移動してきました。この地はリヴォニアといわれるようになります。
イベリア半島は第二次ポエニ戦争(前208~前201)中に共和政ローマの属州【東京H11[1]指定語句(イベリア半島史について)】(ヒスパニア属州)となり,ローマは次第に半島内陸部にも進出していきました。イベリア半島西部のルシタニア人,中央部のケルティベリア人が倒され,前133年にはイベリア半島支配が確立されました。イベリア半島からは穀物・鉱産物が大量に輸出され穀物価格が下落したことが,共和政ローマの中小農民の生活に打撃を与え「内乱の1世紀」をもたらしたとみられます。その後は〈カエサル〉や〈アウグストゥス〉による支配を受けます。〈アウグストゥス〉の時には,イベリア半島北部のカンタブリア人との戦争が起きています。
 このときイベリア半島北部のバスク人(インド=ヨーロッパ語族ではない,系統不明の言語)はローマ側につき,自治がゆるされていました。この時期以降,バスク人を除くイベリア半島の住民は,ローマ文化の影響を強く受けていくことになります。


・前200年~紀元前語のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー

 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれました(注)。

(注) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。




○前200年~紀元前後のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆バルカン半島東部ではトラキア人が活動した
 前300年頃から約2世紀はケルト人の支配を受けた後,首長〈ブレビスタ〉(前111?~前44?)が一時期ドナウ川河口のゲタイ人とトラキア人を合わせた王国を建てましたが,前44年頃に王は暗殺され,トラキア人国家は分裂。そんな中ローマ帝国の〈オクタウィアヌス〉が前28年にドナウ川の右岸(南側)を征服し,紀元後46年には属州トラキアとなりました。ちなみに,前73年にローマに対し奴隷反乱を起こした剣奴の〈スパルタクス〉(?~前71)は,トラキア人だったといわれます。


◆バルカン半島西部ではイリュリア人がアドリア海の交易に従事した
 バルカン半島西部のイリュリア人は,またアドリア海沿岸で交易活動に従事しイリュリア王国を築いていましたが,バルカン半島と東地中海への進出をねらう共和政ローマに目を付けられ,前229~前168年にかけて戦われたイリュリア戦争の結果,共和政ローマに制圧されました。
 イリュリア王国の南半は共和政ローマの保護領になり,その周辺も含め前32年から前27年頃にかけてイリュリクム属州に編入されました。


◆バルカン半島北部ではゲタイ人・ダキア人がローマの進出を受けた
 現在のセルビアとブルガリアの地域には,ドナウ川下流のゲタイ人を撃退した後に,属州モエシアを置きました。
 さらに共和政ローマは前33年に,ドナウ川流域に属州パンノニアを置きました。


◆バルカン半島南部のマケドニアはローマに敗れた
マケドニア王国はローマに敗れて,前148年に属州マケドニアが置かれました。


●紀元前後~200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化③,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-②
 定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動域の間を中心につくられた広域国家(古代帝国)が,広域地域ごとに特色を発展させていく。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合が発展する。

(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸の東部では,東南アジア大陸部で政治的な統合がすすみ,インドシナ半島南東部にオーストロアジア語族クメール人の扶南や,オーストロネシア語派チャム人のチャンパー【東京H30[3]】といった港市国家も出現。
 東アジアでは,中国に後漢(ごかん)王朝が栄える。

 ユーラシア大陸の中央部には西アジアのパルティアと,中央ユーラシアから南アジアに進出したクシャーナ朝東西交易路(シルク=ロード)のオアシス国家との中継交易で栄える。

 ユーラシア大陸西部ではローマ帝国(前27~1453)が「ローマの平和」といわれる安定的な支配を実現する。
  
 これら定住農牧民地帯を支配した「古代帝国」は,国家機構や理念を整備して広域を支配するが,相次ぐ戦争と開発により衰退に向かうことになる。

(2) アフリカ
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。
 また,この時期には東南アジアの島しょ部からオーストロネシア語族のマレー人がアウトリガー=カヌーによってインド洋を横断し,マダガスカル島に到達したとみられる。

(3) 南北アメリカ
 北アメリカ大陸では南西部にバスケット=メーカー文化(トウモロコシ農耕),中央アメリカにはメキシコ高原ではトウモロコシ農耕民の文化,南アメリカ北部にはキャッサバ農耕民の文化が発達。
 中央アメリカでは,ティオティワカン文明(メキシコ高原),サポテカ文明(オアハカ渓谷),マヤ地域の都市国家群が栄える。
 南アメリカ北西沿岸部にモチェ文化で政治的な統合が発展し,神殿建造物がつくられる。

(4) オセアニア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人も,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつある。





●紀元前後~200年のアメリカ

○紀元前後~200年のアメリカ  北アメリカ

 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。


 北アメリカ各地では,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集を基盤とする生活を営んでいます。
 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○紀元前後~200年のアメリカ  中央アメリカ
メキシコ高原のティオティワカンの影響力が強まる
◆マヤ地域では神殿を中心とする都市が大規模化している
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカルやカラクムルといった都市が代表的です。
 紀元後250年までのマヤ文明は,先古典期に分類されます (注)。前1世紀には「長期暦」という種類の暦法が考案されていました。

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
 メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明がモンテ=アルバンを中心に栄えます。

◆メキシコ高原中央部では,ティオティワカンに都市文明が形成される
ティオティワカン
 紀元の直前頃から後250年頃までに階段状ピラミッドをともなう大都市ティオティワカン(前150~後650)が出現。
 「死者の道〔死者の大通り〕」は,北に対して東に15度25分だけ正確にズラして建設され,8月12日または13日と,4月29日または30日に太陽がちょうど真上を通るようになっています。おそらくもともと太陽の通り道に祭祀の対象があって,それをもとにして都市が計画されたと考えられています。
「死者の道」の北方に,巨大な「月のピラミッド」が100年以降に建設されていきます。
 サンフアン川をはさんで南方にはケツァルコアトルの神殿が,後2世紀以降に建設され,周囲にはエリート層の住居跡もつくられていきます。

 ティオティワカンの信仰は多神教で,水の神トラロック,火の神ウエウエテオトル,人の皮を剥ぐ神シペ=トテク,羽毛のあるヘビ型の神ケツァルコアトル(「羽毛のある」という意味)が信仰され,のちのアステカ王国〔メシーカ〕にまで継承されます。
 装飾品などに貝殻が多く使用されており,中央アメリカの広範囲に交易ネットワークを形成していたとみられます。ティオティワカンは黒曜石の山地も近く,当方のユカタン半島のマヤ諸民族や,南方のオアハカ盆地のサポテカ人にも,影響が残っています。ただ,この「影響」が軍事的な征服を指すのか,文化的な影響に留まるのかをめぐっては,様々な説があります。

 ティオティワカンの50km南のクィクィルコは,シトレ火山が200年頃に噴火し,壊滅しました(注)。ティオティワカンの火の神ウエウエテオトルなどに,クィクィルコの文化の影響がみられるという説もあります。

チョルーラ
 ティオティワカン南方のチョルーラは,紀元1世紀以降,ティオティワカンに対して独立を維持します。当時のメキシコ高原のナンバー2の勢力です。

(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。


○紀元前後~200年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島



○紀元前後~200年のアメリカ  南アメリカ
アンデスのナスカ,モチェに政治的統合すすむ
◆アンデス地方では沿岸部にナスカ,モチェが栄える
ナスカ,モチェ
 南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1)。
 社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。

 一つ目は,アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)です。
 モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 二つ目は,アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
 ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。



◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土です。しかし前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が開発されています。





●紀元前後~200年のオセアニア

○紀元前後~200年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつあります。



○紀元前後~200年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●紀元前後~200年の中央ユーラシア

◆モンゴル高原では鮮卑の遊牧帝国が勢力を拡大する
 紀元後1世紀後半~2世紀に,黒海の北岸にアラン人という騎馬遊牧民が出現します。サルマタイ人の支配域よりも東方です。彼らはローマの歴史書だけでなく,中国の史書に初めて登場する西ユーラシアの騎馬遊牧民です(『魏志』西戎伝,『後漢書』に阿蘭として登場します)。言語的にはイラン系です。
(注)アラン人はサルマタイ人(前4~後4)から分かれた民族グループ。サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス,アランに分かれていました。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。


 モンゴル高原では,匈奴の一族〈日逐王比〉が単于に即位できなかったことから,南匈奴を率いて漢に服属し〈呼韓邪単于〉(こかんやぜんう,位48~55)を名乗りました。これにより匈奴は南北に分裂し,衰退することになります。そのうち,北匈奴の勢力10万戸余りを吸収し,東方から移動してきたのが,東胡の末裔といわれる鮮卑です。
2世紀中頃,後漢の〈桓帝〉の代には,〈檀石槐〉(だんせきかい)が鮮卑の族長となり,後漢を攻め,東の夫余(ふよ),西の烏孫(うそん)【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】,北のテュルク系の丁零を討伐して,勢力を拡大しました。
 中国で黄巾の乱が起きると,戦乱を逃れた中国人の中には,鮮卑のもとに移動するものも現れ,中国文化の影響を受けるようになっていきました。

 中央ユーラシアの中央部では,バクトリアを拠点にクシャーナ朝が東西交易の利を得て栄えています。

 中央ユーラシア北方に広がる,針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ地帯(夏の間だけコケが生える地帯)の人々が,狩猟採集やトナカイ遊牧を行っていました。また,バルト海沿岸にはフィン人やサーミ人,北極海沿岸内陸部にはコミ人などのウラル語族フィン・ウゴル語派の民族です。






●紀元前後~200年のアジア

○紀元前後~200年のアジア  東アジア・東北アジア
○紀元前後~200年のアジア  東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が生活しています。このうち,南部にはツングース語系の〈朱蒙〉が建国したといわれる高句(こうく)麗(り)(紀元前後~668)が台頭します。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯紀元前後~200年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現①日本
◆弥生時代の日本では政治的な統一が進み,中国の皇帝への使いも送られた
 このころの日本列島は,弥生(やよい)文化の時期にあたります。中国史料では倭(わ)と呼ばれていましたが,統一した国家があったわけではなく,小国(クニ)にわかれて互いに抗争していたとみられます。稲作により食糧生産が増えると,その取り分をめぐる争いが激しくなっていったのです。近畿地方では銅鐸,中国地方では銅剣,九州北部には銅矛・銅戈(どうか)がみつかっていて,その形状の違いからこれらの地域ごとに何らかの政治的なまとまりがあったのではないかと考えられています。
 中国の後漢(ごかん)王朝の〈光武(こうぶ)帝(てい)〉最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に「建武中元二年,倭の奴国・・・光武賜ふに印綬を以てす」と記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。

 『漢書』が「安帝の永初元年,倭国王帥升等,・・・生口百六十人を献じ・・・」と記録するように,107年には倭国の王〈帥升〉(生没年不明)が,奴隷(=生口)160人を皇帝に献上したのだといいます。この〈帥升〉は一般には「すいしょう」と読むとされていて,日本史上で初めて実名の記録がのこっている人物ということになります。
 その後,2世紀後半に,小さな国家どうしが争う大規模な戦乱があったと,『漢書』は伝えています(倭国大乱(わこくたいらん)。「桓霊の間」に起きたというので,2世紀後半ということがわかるのです。各地には,防御的機能を備えた高地性集落や環濠集落がつくられた跡が残っています。交易ルートをめぐり,日本列島のさまざまな勢力が,朝鮮半島の勢力と関係を持っていたとみられます。

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
 前漢末期(前202~後8)において,讖緯説(しんいせつ)【本試験H16】という思想を用いて実権を握ったのは外戚の〈王莽〉(おうもう,漢字の「モウ」の「大」の部分は本当は「犬」,前45~後23) 【京都H21[2]】【追H9前漢のあとをうけた王朝か問う,本試験H12,H30王建とのひっかけ】【本試験H16】です。
 これは「天のお告げは,目に見える形でどこかに現れる」という当時強い影響力を持っていたに考えです。人間の世界が天との関わりを持つという考えは前漢の五経博士〈董仲舒〉(とうちゅうじょ)によっても天人(てんじん)相関説(そうかんせつ)として唱えられてはいました。儒教を解釈するには『五経』だけでは足りず,天の思し召しを解読する技術も必要だということです。彼は,井戸の中で見つかった石に「自分が皇帝になれ」と書いてあったと主張し,皇帝に譲位を迫って新王朝を建てました。
 〈王莽〉(位8~23,莽の「大」の部分は厳密には「犬」) 【京都H21[2]】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】【本試験H16,本試験H28則天武后ではない】の建てた新【本試験H4則天武后の周とのひっかけ】【本試験H14秦ではない,本試験H16】は,周【本試験H14,本試験H26明ではない】の時代の政治を理想とし【本試験H12儒教を排斥したわけではない】,現実離れした政策で民衆の支持を失い,農民による赤眉の乱(せきびのらん) 【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H27】【追H25隋ではない】が起こりました。

 これを鎮圧した豪族出身の〈劉秀〉(りゅうしゅう,光武帝(こうぶてい),在位25~57年) 【H29共通テスト試行 楽浪郡を設置していない】でした。
 前漢の皇帝の〈景帝〉(位前157~前141)の末裔といわれます。〈劉秀〉は25年に中国を統一して漢を復興し(後漢),都は雒陽(らくよう,漢は五行思想で“火”の徳を持つとされたので,さんずいの付く洛陽(らくよう)の“洛”の字が避けられました) 【京都H21[2]〈張衡〉「東京賦」の東京が洛陽であることを答える】【本試験H2地図上の位置を問う(長安との位置ひっかけ),本試験H4明ではない,本試験H9長江下流域ではない】【本試験H22地図(長安ではない),H28 鎬京ではない】【追H19】に移されました。
 豪族【追H28】とは,地方で大土地を所有している人々で,すでに前漢の半ばから現れていました。豪族によっては本当に“大”土地で,山や川も持っているし,家畜も飼っている。一族を率いて農業だけでなく職人に物を作らせたりして自給自足的な経営をしていました。農民には自由民だけでなく,隷属民である奴婢(ぬひ) 【追H28「没落した農民を、奴隷や小作人として使役した」か問う】も含まれ,豪族によっては奴婢を百人も千人も持っている。さらに,領地内の人々を保護する見返りに彼らを兵隊として組織する。つまり,私兵(しへい)【東京H29[1]指定語句】です。だから豪族はやがて国家の言うことを聞かない軍事集団に成長するおそれだってあるわけです。

 〈劉(りゅう)秀(しゅう)〉自身も豪族ですし,他の豪族の協力なしには新を滅ぼすことができなかった。だから,大土地所有自体を規制することはしませんでした。
 しかし,国家の安定のカギは,国民が安心してご飯を食べられることにあるのは今も昔も同じ。前漢の〈文帝〉・〈景帝〉から〈武帝〉の時代にかけては,農民の暮らしは非常に良かったのですが,政治の混乱が続き,農村にもやがて貧富の差が生まれるようになっていました。
 そこでまず,奴婢(ぬひ)を解放したのです。税率も下げました。31年には常備軍も解散し,農民の徴兵を緩和しました。
 数々の改革をしましたが,中国の国家の基本は儒教であるという原則をしっかりと確認しました。〈王莽〉は儒学者を重用しましたが,このことが,結果的に儒学を学ぶ人を増やすことにもつながっていました。29年には首都の雒陽(らくよう)に太学(たいがく,官僚養成学校)が設置されました。儒学が国教化されたのはこのときであるという説もあります。
 ただ,〈光武帝〉の子が仏教の儀式をおこなっていたように,すでに中国には紀元前後に西域から仏教が伝わっていたとみられます【本試験H23殷代には伝わっていない】【追H19時期】。

 最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【京都H21[2]記述(説明)】【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。
 儒教では,皇帝に仕え『春秋三伝異動説』などを著した〈馬融〉(ばゆう,79~166)と,その弟子の〈鄭玄〉(じょうげん,ていげん,127~200) 【本試験H7】【追H9董仲舒とのひっかけ】による訓詁学【共通一次 平1:考証学ではない】【本試験H7】【本試験H13董仲舒による確立ではない】が大きな成果をあげました。訓も詁も,「意味」という意味です(訓読みの訓はこれが語源です)。焚書坑儒によって失われていた儒教の文章や,その読み方の解読作業がすすめられたのです。なにせ古いものだと周の時代に書かれた文章ですから,800年ほど前の文章になるわけです。日本で800年前というと鎌倉時代の古文ですよね。読み方がわからなければ,違う解釈が生まれてしまうので,官学(官僚になるために必要な学問。国家公認の学問)としてはふさわしくありませんよね。
 さて,後漢【本試験H3前漢ではない】の時代に〈班超〉(はんちょう、Bān Chāo、32~102) 【追H28ビザンツ帝国に使者を派遣していない】 【本試験H4,本試験H12「後漢では,班超が西域都護となり,西域経営を推進した」か問う】【本試験H14,H24ともに時期】が西域に派遣され【本試験H14ビザンツ帝国に使者を送っていない】,クシャーナ朝を撃破し,西域の都市国家を制圧して西域都護【本試験H12】【本試験H24】としてこれらの支配をまかされました。
 94年にはパミール高原よりも東の50余りの国が,後漢に服属しています。『虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず』という故事成語があります。“宝くじを買わなければ,宝くじには当たらない”というような意味です。

 〈班超〉が,西域の東部にある都市国家の桜蘭(ろうらん前77年に鄯善(シャンシャン,ぜんぜん)と改称)を手なずけようと交渉をしていたところに,匈奴の使者もやってきて,一触即発の危機になったところ,「いまやらなければ,いつやるんだ。36人でもやれる。」とわずかな部隊で匈奴を夜襲し成功した故事に基づいています。

 97年には,〈班超〉の部下の〈甘英〉(生没年不詳) 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12】がローマ(大秦国)【本試験H3遊牧民ではない,本試験H12張騫ではない】に派遣されました。このころのローマは五賢帝時代(90~180年)にあたります。〈甘英〉は安息(アルシャク(アルサケス)朝パルティア)を通ってシリア(条支国)まで向かったと言われますが,結局引き返しました。中継貿易で利益をあげていたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの妨害ではないかとされています。

 ちなみに〈班超〉の兄である〈班固〉(32~92) 【京都H21[2]】【追H9董仲舒のひっかけ、H24資治通鑑を著していない】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】は,父〈班彪〉の構想を受け継ぎ正史(せいし)として『漢書』(かんじょ)を紀伝体の形式で【本試験H30編年体ではない】〈明帝〉(位57~75),〈章帝〉(位75~88)の下で編纂(へんさん)し〈班固〉の死後に妹の〈班昭〉(45?~117?)が完成させました。後漢の王朝を“正義”として,前の時代の前漢・新までの歴史書を書いたというところが,筆者の自由な主観が認められた『史記』とは異なる点です。中国ではこの『漢書』をもとに,後の王朝によって正史(“正しい”歴史)が編纂されていくようになりました。
 166年には,ローマ帝国の五賢帝の最後を飾る〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝〉(位161~180)の使者を名乗るものが,ヴェトナム中部の日南郡【本試験H27】に来航しました。彼らが名乗ったのは「大秦国王安敦」(だいしんこくおうあんとん) 【本試験H4マルクス=アウレリウス=アントニヌスか問う】【本試験H18アルシャク(アルサケス)朝パルティアの使節ではない,本試験H27】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】という名前。真偽は不明ですが,アントンはアントニウスっぽい!?ということで,この頃インド洋から中国にいたるまでの交易ネットワークが存在したことが推測できます。

 また,後漢の時代には,宦官の〈蔡倫〉(さいりん,生没年不詳) 【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】【東京H17[3]】【慶商A H30記】が,製紙技術を改良し,当時の皇帝〈和帝〉に献上しています。従来は,板や竹をひもでくくって巻き上げた木簡や竹簡【追H28「死者の書」が記された媒体ではない】が用いられていましたが,かさばりますし,削りとって改ざんすることが可能なことが問題でした。ちなみに1枚のシートを「冊」(さく),冊を何枚も重ねて巻き上げたものを「巻」(かん)といいます。また,〈許慎〉(きょしん)が『説文解字』という,小篆(しょうてん)という書体の漢字を9353字収録した部首分類付きのものとしては最古の字書を著しています。小篆に代わって,隷書(れいしょ)という書体も用いられるようになりました。現在では新聞の題字に使われています。


 後漢末期には“お子ちゃま皇帝”が多く,第9代〈沖帝〉(2歳で即位,毒殺?),10代〈質帝〉(7歳で即位,毒殺),11代〈桓帝〉(14歳で即位),12代〈霊帝〉(12歳で即位)と続きます。皇帝の嫁の家族である外戚,地方の豪族出身の官僚,さらに宦官(かんがん)には政治に付け込み利益をため込むすきがあったわけですが,とくに皇帝の身辺の世話をする宦官と皇帝の結びつきが問題視されたようです。
 宦官とは,宮廷に仕えるために去勢(きょせい)した男子のことです。宮廷につかえている人が女性だと,権力を得ようとして皇帝の子を生もうとする者が現れがちです。反対に男性の場合でも,皇帝のかわいがっている女性に近づいて,その子をもうけることで,権力の座に付こうとする者が出てこないともかぎりません。もちろん宦官は宦官で,皇帝のそばにおつかえするわけですから,政治への介入は起こりえます。それでも皇帝にとっては,男性・女性よりは中性的な宦官のほうが都合がよく,宮廷の複雑な儀式や習わしを伝える上で,宦官は必要不可欠な存在となっていきました。なお,宮廷における宦官の存在は中国に限ったものではなく,他地域にも見られます。
 〈桓帝〉のときに「わるいのは宦官だ」と,外戚や豪族がみずからを「清流」と称して,宦官200人余りを逮捕しました。これを党錮の禁 (とうこのきん;党人の禁錮,166年と169年)【本試験H8 3世紀のことではない】【追H24時期(晋が呉を滅ぼした年、九品中正の制度創始との並べ替え)】といいます。
 このときに訓詁学(くんこがく)者の〈鄭玄〉(じょうげん) 【追H9董仲舒とのひっかけ】も牢屋に入れられています。儒学者ら批判的な知識人は“清流”(せいりゅう)を称し,宦官勢力(=“濁流”と称されました)の腐敗に抵抗しました。
 政治が混乱するなかで,「蒼天已死,黄天当立」(蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし)をスローガンとする黄巾の乱(こうきんのらん) 【本試験H6紅巾の乱ではない】【本試験H22,H29共通テスト試行 時期(グラフ問題),本試験H31後漢で起きたか問う】【慶文H30李自成の乱とは無関係】がおきて,混乱のさなかに滅亡します。漢は五行思想では火徳ですから赤でした。これを倒すには,土徳の黄というわけで,頭に黄色いハンカチを巻いたわけです(#小説 吉川英治『三国志』https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52410_51061.html青空文庫)。

 36万もの農民を率いたのは〈張(ちょう)角(かく)〉(?~184) 【本試験H12張騫とのひっかけ】【本試験H22時期,本試験H26朱全忠ではない】【中央文H27記】のはじめた宗教集団の太平道(たいへいどう) 【本試験H2道教の源になったか問う】 です。豪族による支配が強まり,生活の基盤を失った農民たち。何もしてくれない皇帝の支配から逃れ,罪を懺悔(ざんげ)して教団に入れば助け合いの精神で食べ物を分け合い,呪術(じゅじゅつ)によって病気を治したり,辛い生活の中にも幸せを感じたりすることもできる。太平道は困窮した農民たちを魅了し,勢力を増していたのです。
 なお,四川(しせん)や陝西(せんせい)などの西部では,〈張陵〉(ちょうりょう,生没年不詳)が五斗米道(ごとべいどう)を起こしていました。農民に米5斗(=500合。90リットル相当)を差し出させ,まじないで病気を治療して信者を増やし,〈張陵〉を天師とする宗教国家を形成しました。215年に〈曹操〉に降伏しましたが,のちの道教(天師道→新天師道→正一教と名前が変わる) 【セA H30朝鮮で成立していない】の原型です。

 最後の皇帝の〈献帝〉(位189~220)はわずか8歳で即位。身の危険を感じた皇帝は,魏を建国していた〈曹操〉(155~220)を頼ります【本試験H29曹操は焚書・坑儒は行っていない】(#漫画 王欣太『蒼天航路』)。
〈曹操〉は事実上の支配権を握りますが,皇帝の位は要求せず,魏王の地位にとどまりました。彼は「漢が理想としたように,すべての人々から平等に税をとるのは無理だ」と考え,資産別に徴税をする戸調制(こちょうせい)をはじめました。また兵役も,素人に担当させるのではなく,特定の家柄に世襲させました(兵戸制(へいこせい))。
 大土地所有者が各地にはびこっている以上,「資産のあるやつから,ある分をとる」ほうが現実的だったからです。でも,豪族は税をとりに来た官僚の立ち入りを実力で阻止することも多く,自分の土地が特別な土地(荘園(しょうえん) 【本試験H6「荘園」は「辺境防衛に携わる人々に賦与された土地」ではない】)であると主張するようになっていました。
 豪族に対抗するには,戦乱の中で土地を失った農民たちが豪族の大土地に流れこむのを防ぐしかありません。そこで,彼らを収容するために屯田制(とんでんせい)を実施しました。
 これら〈曹操〉による改革は,どれも時代の変化に対応したものばかりです。屯田制の内容は,のちに西晋の占田・課田法(せんでんかでんほう)に受け継がれたとみられます(詳しい実施内容は不明)。

 しかし,その息子〈曹丕〉(位220~226)が,すでに有名無実だった〈献帝〉から禅譲される形で皇帝に就任し,後漢は滅びました。このへんの〈曹丕〉の立ち回りは入念で,〈献帝〉から皇帝位を譲られる→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉即位というプロセスを踏んでいます。この儀礼は,今後も歴代王朝に受け継がれていきました。自分から積極的に皇帝位を奪ったわけではないんだ,というパフォーマンスでもあります。
 当時流行していた五行説(ごぎょうせつ。この世のすべてを5つの元素の相互関係で説明する考え)という思想によると,漢王朝の元素は「火」とされたため,〈曹丕〉は魏の初めの年号を「火」を打ち消すために「土」の元素に当たる色(黄)を付けた黄初(こうしょ)としました。五行説ではこの世の元素は木→火→土→金→水の順序で生成を繰り返すとされていたのです。

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現⑤・⑥の朝鮮半島
 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
 彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,2世紀初めには勢力を拡大させていきます。

 朝鮮半島には楽浪郡が置かれていましたが,中国で〈王莽〉(おうもう)が一時政権を握ると支配から脱しようとする動きがありました。しかし30年に〈光武帝〉によって鎮圧されます。
 朝鮮半島の南部には,韓人による国家が形成されていました。南西部には馬韓(2世紀末~4世紀中頃)の首長国が50あまり,南東部には辰韓(しんかん,前2世紀~356)の首長国が12か国,南部には弁韓12か国(前2世紀~4世紀) 【慶・法H30】が並び立っていました。これらの様子は『三国志』の「魏書」東夷伝からわかります。




●紀元前後~200年のアジア  東南アジア
 インド洋には季節ごとに違う方向から風が吹くことが知られ,それを利用した航海術が,1世紀頃にアラビア海で発達しました。西アジアとインドとの交易ネットワークは,東南アジアの交易ネットワークともつながっていきます。おそらく3世紀頃には,アラビア半島を一気に横断できるようになっていたと考えられます。

 ここでいうネットワークというのは,誰かがその完成図を持っていて,それに従い整備していくようなものではありません。
 みんながそれぞれ目的をもって,それぞれの意志で物を交換するために航路を開拓していった結果,最終的にそれらが“網の目”のように結びつく,複雑な全体を構成するようになったものを,ネットワークというのです。
 しかし,よく見てみると,ネットワークには多くの人が必ず通る地点というものがあります。これを「ノード」といいいます。そこからまた枝葉のように,それぞれの目的地に向かって出発するような地点のことです。「結節点」とか「交通の要衝(ようしょう)」ともいわれます。
 こうした地点を握った国家が,この時期にいくつか出現します。

 まず,ヴェトナム南部のメコン川下流で,扶南(ふなん,1世紀~7世紀) 【追H9時期】【本試験H16時期・カンボジアに興ったとはいえない,本試験H25】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が成立しました。マレー半島からベンガル湾にかけての交易ルートを握って栄えます(注)。
 外港であるオケオ(オクエオ) 【本試験H22ピューの都ではない,本試験H25扶南の港かどうか問う・地図上の位置を問う】からは,ローマの金貨,インドの神像,中国の後漢時代の鏡が出土しています(注)。当時はまだマラッカ海峡を通るルートは主流ではなく,大陸から横顔の象の鼻のように垂れ下がったマレー半島を,いくつかのルートにより陸路で横断するルートが使われていました。中国の資料によると,この地域を通り積荷をインド洋側に運ぶことができるよう,モン人などのいくつもの政治権力が現れました。

 北ヴェトナムでは,40年頃,〈徴側〉(チュンチャク,?~43)と〈徴弐〉(チュンニー,?~43)の姉妹が,紅河流域の住民とともに反乱を起こしました(徴(チュン)姉妹の反乱)。この2人は,土着の首長の娘たちです。漢は〈馬援〉(ばえん,14~49)により鎮圧し,ドンソン文化は衰退して漢人の文化が拡大していきます。

 ヴェトナム中部の日南郡からは,チャム人【共通一次 平1:,モン,クメール,タミルではない】が独立し,中国側からは林邑(りんゆう,192~19世紀)と呼ばれ,南シナ海の交易ルートを支配します。この頃,南シナ海でも季節風を利用した交易が導入されるようになって,人や物資の移動が活発化したのです。ヴェトナム中部のフエ付近にあった日南郡は,東南アジアの交易の中心地となります。

 さらに,中国の文献によると,2世紀末にヴェトナム中部沿岸の港市をチャム人が統一。中国側の文献では林邑という名で現れますが、チャム人【共通一次 平1:モン,クメール,タミルではない】【本試験H5】【追H25クメール人ではない】の側からはチャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1「ヴェトナム中・南部に拠点をおいて,古来,海上貿易で栄え,南下するヴェトナム人との間で抗争をくりひろげた民族」を問う】【本試験H4タイではない,本試験H5真臘ではない】【本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H25クメール人ではない】と呼ばれています。
 都はインドラプラ。季節風交易を通してインドとの関わりも深かったことが特徴です。

 166年には,ローマ皇帝の使者「大秦国王安敦(だいしんこくおうあんとん)」を名乗る者が,日南郡に来航しました。五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉のことではないかと考えられています。

 ジャワ島には,おそらく諸薄(しょはく。ジャワ?)中心とする交易ネットワークもあったと考えられています。クローブ(丁字)という独特な風味のある香辛料は,マルク(モルッカ)諸島でしかとれませんが,すでに中国に輸出されていました。マルク諸島は,フィリピン諸島の南東に位置します。
 ここまで見て,ちょっと変だなと思いませんか? 林邑,扶南,諸薄。全部漢字です。文字史料が少ないために,中国人を始めとした外国人による記録に頼らざるをえないのです。
 
 扶南も林邑も,人口密度の増えた農牧民の世界の国家とは違う成立過程を持つ国家です。良い港には,多くの船が集まります。その治安を維持し,安全に取引が行われるように保障する代わりに,内陸から川で運ばれてきた食料や飲み水を提供したり,船を修理するドックを整備します。その財源を,船から税として商品をとりたてるのです。多くの税をとるには,交易が盛んになったほうが良いので,別の港市を支配したり,船の通り道の安全を確保しようとするのです。農牧民の支配が中心ではないので,領土を支配しようという意図はあまり強くありません。このようなタイプの政治権力を,港市国家といいます。

 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。




○紀元前後~200年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・紀元前後~200年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・紀元前後~200年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン
◆祭祀至上主義をとるバラモン階級は民間信仰を取り入れ,大乗仏教運動も始まった

北部はクシャーナ朝

 紀元後1世紀に大月氏の一族、または、大月氏の支配下の土着の有力者であったクシャーナ人の〈クジューラ=カドフィセース〉(前1世紀前半~1世紀後半)が王と称して、他の4諸侯を統一し,ガンダーラ地方を支配しました。彼は自分の像を刻んだ銅貨を,インド=ギリシア人にならって発行しています。
 その孫〈ウィマ=カドフィセース〉(位1世紀後半~2世紀初め)が北インド中部に進入して建国したのが,クシャーナ朝【本試験H10この王朝で新たに広まった宗教を問う。ゾロアスター教,ジャイナ教,マニ教ではなく,大乗仏教】というのが定説でした(『後漢書』では〈ウィマ〉は〈クジューラ〉の子となっています)。また、その後即位した〈カニシカ〉(カニシュカ)王は〈クジューラ〉→〈ウィマ〉の王統とは別系統であるという説が支配的でした(注1)。

 しかし、1993年に定説がくつがえされます。
 アフガニスタン島北部のラバタクで新たな碑文が発見されたのです。
 これによると、〈クジューラ〉王の次に〈ウィマ=タクトゥ〉がいたことが明らかとなりました。ということは〈カニシカ〉は〈クジューラ〉の孫ということになります。


 クシャーナ朝は,中央ユーラシアに本拠地を置き,中国方面の漢帝国とローマ帝国を結ぶ中継貿易で栄えました。ローマ帝国は,イランのアルシャク(アルサケス)朝パルティアと抗争を繰り返していたため,商品はいったんクシャーナ朝に入り,西インドから海を通って西方に届けられるようになりました。
 先のラバタク碑文によると、クシャーナ王家は特別にゾロアスター教の女神を信仰し、同時にヒンドゥー教の最高神となるシヴァの妃神なども信仰の対象としていました。ゾロアスター教とヒンドゥー教の融合がみられたのです(注2)。

 〈ウィマ=カドフィセース〉の子,〈カニシカ(カニシュカ)〉王(位130~155?または78~103?) 【本試験H9アショーカではない】【本試験H15仏教を保護したか問う】【追H30アクバルとのひっかけ】は,都をプルシャプラ【追H30アグラではない】として,ガンジス川の中流域(または下流域まで)の北インド一帯を支配しました。
 王は称号として「王中の王」を意味するバクトリア語(東部イラン語)の称号(シャオ=ナノ=シャオ)を用いました(貨幣に刻印されています)。また「神々の子」という称号は、中国の「天子」に由来しているのではないかという説もありますし、ギリシア語由来の「バシレオス=バシレオーン」、インド語の「ラージャーディラージャ」、ローマの〈カエサル〉由来の「カイサラ」という称号も用いられており、まさに東西をまたぐ支配意識を持っていたと考えられています。(注3)
 〈カニシカ〉は地方統治の方式として、その土地土地の有力者を服属させる形の間接統治をとりました。
 銀貨ではなく金貨を鋳造し,王家にはゾロアスター教の信仰があったとみられます。〈カニシカ〉は正統性を神々に求めるとともに自己を神としてあがめさせ、そのために神殿に先王・現王の像を置いたことが分かっています。
 一方彼は,第四回仏典結集【本試験H15】がインド北部のカシミールで開かれると,これを援助しています。
 彼のものと考えられる像は,コートにベルトを着用した姿が表現されています(頭部は見つかっていません)。

 クシャーナ朝では,ローマ,ギリシア,イラン,インド,中国などさまざまな文化が融合されたことでも知られ,特にインド文化とギリシア文化【本試験H23イスラームではない】が融合したガンダーラ美術が栄えました【本試験H10ヘレニズム文化の美術がガンダーラ美術の影響を受けたわけではない。その逆】【本試験H14時期(クシャーナ朝時代)】。すなわち,ギリシア彫刻の影響で,仏像が製作されはじめたのです【本試験H4時期(アショーカ王の次代には仏像は製作されていない)】。
 また,マウリヤ朝の副都だったデリーの近くのマトゥラーでも,仏像が製作されていました。
 クシャーナ朝は3世紀半ばに,イランのササン(サーサーン)朝と地方の自立によって滅ぶことになります。



デカン高原はサータヴァーハナ朝
 クシャーナ朝のライバルは,南インドのデカン高原【本試験H28】で栄えたサータヴァーハナ朝(前1世紀~後3世紀【本試験H4時期(1世紀頃か問う)】【本試験H28時期】【追H20時期(14世紀)】)やパーンディヤ朝で,どちらもドラヴィダ系の王国です。ローマからの商人が季節風貿易でインドの港に入ってくると,インドの商品と引換えに金貨が渡されました。パーンディヤ朝,セイロン島に面するマンナール湾の真珠の産地を握り,その交易で栄えます。このことは『エリュトゥラー海案内記』にも記されています(注3)。

 デカン高原のサータヴァーハナ朝では,1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。南端部のチョーラ朝【本試験H31】(インド南東部のカーヴェリー川流域。前3世紀頃~後4世紀頃)の宮殿では,ギリシア人が雇われ,ローマの金貨が積み込まれていました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,9~13世紀のチョーラ朝と区別し,古代チョーラ朝ともいいます。
 1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
 冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)

 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。

 また,2~3世紀に大乗仏教という,新しい仏教の考え方が成立します【本試験H19マウリヤ朝のときではない】。もともと仏教は,出家をして修行によって,個人的に解脱(げだつ,悟りを開くこと)することを目標とするものでした。
 しかし,前1世紀頃から「出家をせずに家に残っている人(在家)たちにも,解脱のチャンスを与えるべきだ」という考えが起こります。彼らは,従来の仏教(部派仏教)は,まるで小さい乗り物(ヒーナヤーナ,小乗) 【本試験H23大乗仏教は部派仏教からの蔑称ではない】のようだと批判し,在家にもチャンスをひらく新たな仏教を大きな乗り物(マハーヤーナ,大乗)と呼びました。こうした説を唱えた大衆部(だいしゅぶ)に属する人々は,「悟りを求めて努力すること(ボーディ=サットヴァ(菩薩))」を大切にしました。努力とは,自分を犠牲にしてでも,この世のあらゆる存在を救おうと頑張ることを指します。でも,普通の人にはそんなことは難しいので,そういう努力をしている存在として,新たなキャラクターを創造しました。それが,弥勒菩薩(みろくぼさつ,マイトレーヤ)や観音菩薩(かんのんぼさつ,アヴァローキテーシュヴァラ)です【本試験H12「白蓮教は,弥勒仏が現世を救済するために現れると主張した」という文章の正誤判定】【慶文H30李自成の乱とは無関係】。
 彼らの想像力はとどまることをしらず,菩薩よりもレベルの高いブッダを考案しました。彼らは,仏国土というブッダの世界に住んでいて,今でもブッダの説法を聞くことができる。そこに行くには,阿弥陀仏(あみだぶつ,アミターバ)にお願いするしかない,といった具合です。こうした新しい考えは『般若経』『法華経』『阿弥陀経』『華厳経』などの新たな経典にまとめられました。こうした経典は,唱えたり書いたりすることも重視されました。
 大乗仏教【本試験H10クシャーナ朝の下で新たに広まった宗教か問う】【本試験H21上座仏教ではない,本試験H23上座仏教からの蔑称ではない】を完成させたバラモン出身の〈ナーガールジュナ〉(中国語名は〈竜樹〉(りゅうじゅ),150頃~250頃) 【本試験H21】は,仏教思想に“空(くう)”の思想を加えて大胆にアレンジし,『中論』を著しました。

 インドの文化は,交易ルートに沿って東南アジアにも広がり,1~2世紀に東南アジアでインドの影響を受けた国家が成立しています。また,仏教は西アジアに広がり,マニ教や,神秘主義的な思想で知られるグノーシス派,古代ギリシアの〈プラトン〉の哲学が一神教的に読み替えられた新プラトン派(〈プラトン〉の思想でいう「この世のあらゆるものは,イデア界の“劣化版コピー”にすぎないという考え方は,「この世は完全な“一者”がみずからを流出させることで生まれた」という考え方に読み替えられ,「イデア=神」と変換されます。これは,一神教の思想の説明に都合がよかったため,その後のキリスト教神学と深く結びついていくことになります)にも影響を与えました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.22。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.21。
(注3) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.21。
(注4) 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.53。





○紀元前後~200年のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 この時期の西アジアは、地中海東岸はローマ帝国の、ペルシア湾岸周辺はイランのアルサケス朝〔パルティア〕の支配下に置かれ、各地に交易を支配する国家が並び立っていました。

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・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア、⑪ヨルダン

 この時期、ペルシア湾岸の交易が現在のバーレーン〔バハレーン〕や、その近くの内陸都市ゲッラなどで栄えています。
 ペルシア湾と地中海・南アラビアを結ぶ隊商路の結節点にあったゲッラには、南アラビアのマイーンの商人や、シリアの現・ヨルダンのペトラと交易を行っていたようです(注1)。

 また、現在のイラクにあるカラクス=スパシヌーという都市も、バハレーン、オマーンと強い結びつきを持ち交易で栄え、前2世紀後半にセレウコス朝のサトラップのアラブ人〈ヒュスパオシネス〉が一時独立し、カラケーネー王国を成立させていました(注2)。その後パルティアの宗主権の下で半独立状態となっていましたが、ローマ帝国の〈トラヤヌス〉帝が2世紀初めメソポタミアに遠征した際、カラケーネー王は貢納し臣従しています。
 しかしその後パルティアの支配下に戻りますが、2世紀の第二四半期の王号には「オマン〔オマーン〕人の王」とあり、ペルシア湾の南部にまで勢力がおよんでいたことがうかがえます(注3)。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.43。
(注2) ペルシア湾の湾頭に位置することから、セレウコス朝のエリュトラー海州の拠点でした。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.44。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.45。

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・紀元前後~200年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ
◆ローマ帝国の支配に対し「世界宗教」のキリスト教が生まれた
パレスチナで、キリスト教が生まれる
この時期にパレスチナでは,男女・年齢・集団に関係なく誰でも平等に扱う新たな宗教(キリスト教)が芽生えました。特定の民族にこだわらないことから,そのような宗教を世界宗教といいます。
 共和政ローマはパレスチナにも勢力範囲を広げますが,直接支配する代わりに,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ王〉の厳しい支配のなかで,ユダヤ人の中にはいくつもの意見が生まれます。
 「あくまでローマと戦うべきだ。神との契約をしっかり守らないからこういうことになるのだ」と戒律主義を守ろうとするパリサイ派。「ローマと友好関係を結んで,自分たちの立場を守りたい」とする上層司祭を中心とするサドカイ派が代表です。
 そんな中,現在のイスラエルの北部にある「ナザレ」という地に現れたのが,〈イエス〉【本試験H12キリスト教の「開祖」かを問う】【本試験H15モーセではない】です。『新約聖書』によると,母〈マリア〉は父〈ヨセフ〉との婚約時代に聖霊(多くの場合「精」霊とは書かない)によって身ごもり,イェルサレムの南にあるベツレヘムの馬小屋で〈イエス〉を出産したということです(注)。
 ユダヤ人であった〈イエス〉は,戒律を厳しく民衆に適用しようとしたパリサイ派に対して“貧乏人・病人・罪人には厳し過ぎて守れない!”と批判します。もちろん,「こんなに苦しんでいるのに,神は何も語りかけてくれない。助けてもくれない。本当に神はいるのだろうか?」と疑う人も大勢いました。それに対して〈イエス〉は,“神はすべての人を愛している(神の絶対愛,アガペー)。貧乏人であっても関係はない。みな神につくられた存在なのだから,愛し合うべきだ。ローマ人だろうと,ユダヤ人だろうと関係ない”と主張します。
(注)「聖霊」は、独立の位格である「真の神」と考えられています。つまり、「神とは別物の何か」ではありません。「聖霊」については、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(『ルカ』1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(『ルカ』3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(『ヨハネ』20.22)などを参照。


 「愛」というと,今は家族愛とか,恋愛関係の愛とか,仲間に対する愛とかを指すことが多いわけですが,イエスがここで強調したのは,そのどれでもない「真実の愛」です。『されど我ら汝らに告ぐ,汝らの敵を愛し,汝らを迫害する人のために祈れ』。敵であっても祈るというのが,本当の愛だというのです。これを隣人愛といいます。

 また,人間が何を祈るかなんて神はお見通しのだから,くどくど祈るのではなく一人で隠れて次のように祈るように言いました。
「天にいますわれらの父よ, 御名(みな)があがめられますように。 御国(みくに;神の国)がきますように。 みこころが天に行われるとおり, 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を, きょうもお与えください。 わたしたちに負債(=罪)のある者をゆるしましたように, わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで, 悪しき者からお救いください。」(『マタイによる福音書』6:5以下(口語訳)、)内は筆者注)

 やがて,〈イエス〉を救世主(メシア)と信じる人々が増えると,パリサイ派やサドカイ派だけでなく,ローマの総督である〈ピラト〉からも目をつけられるようになり,〈イエス〉は「自らを神の子(注1)でありユダヤ人の王であると称し,神(ヤハウェ)を冒涜(ぼうとく)した」という罪状で告発され,〈ピラト〉の下で裁判が始まりました。
〈ピラト〉は〈イエス〉の無罪を悟っていたと言われます。しかし,傍聴していた群衆の批判を恐れ,有罪を宣告してしまいました。このときの群集はユダヤ人であったわけですから,今後キリスト教徒がユダヤ人を敵視する理由の一つになってしまうわけです。
 こうして,〈イエス〉は十字架にかけられて処刑されました。しかし,「彼はその3日後に復活したのだ」という信仰が広まりました(注2)。
 普通の人間だったら,死後にすぐ復活するわけがありません。だから,やはり〈イエス〉は普通の人間ではなく,人類に何か(≒自分たちに罪があること)を気づかせるためにやってきた特別な存在なのではないか,という考えへと発展していきます。
 ユダヤ人の中には,「神は,いつまでたっても自分たちの祈りに答えてくれない」「神なんて信じられない」という人も増えていました。そんなユダヤ人に,もう一度「天国」に入るチャンスを与えるために,いや,ユダヤ人だけとは言わず,すべての人類がもともと持っている“罪”をかぶり,皆が「神の国」に入ることできるよう,〈イエス〉は自ら進んで十字架にかかったんじゃないか。そこまでして初めて,人々は自分たちの罪を悟り,本当の愛とは何なのか,気づいてくれるのではないか,と。
(注1)なお「神の子」という用語は旧約聖書(創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節)にもみられる。
(注2)この「復活」こそがキリスト教徒にとって最重要の信仰内容です。なお日曜日に教会に集まるのが復活した日が日曜日であったからです。


 〈イエス〉の弟子たちは,〈イエス〉の考えを後世に残す活動(伝道)をはじめます。彼らのことを使徒(しと)といいます。最後の審判は近い,と言っていたわけです。時間がありません。〈ペテロ(ペトロ)〉(?~64頃)や〈パウロ〉(10?~67?) 【本試験H3】が有名な使徒(イエスの教えを伝える人)ですね。イエスの教えは,「今気づけば,最後の審判まだ間に合う!」という「良い知らせ(福音(ふくいん))」といい,〈パウロ〉を含む4種類の福音書【本試験H3】が『新約聖書』に収録されました。
 〈パウロ〉はもともとパリサイ派の熱烈な信者で,キリスト教を迫害した側の人間でした。しかしのちに回心して,小アジアやマケドニアなど,ローマ帝国内のユダヤ人以外の人々に対しての伝道をすすめました。「イエスが十字架にかかったことで,すべての人間の罪はゆるされた」というキリスト教の中心となる考えは,〈パウロ〉がまとめたものです。
 『新約聖書』【本試験H23ユダヤ教徒の聖典ではない】というのは,使徒の布教の様子を記した記録(『使徒行伝』(しとぎょうでん) 【本試験H3】)や多くの手紙(書簡),そして『黙示録(もくしろく)』という世界の終わりを描写した謎めいた予言などから構成され,2~4世紀に現在のかたちになりました。〈パウロ〉が,各地のキリスト教の拠点(教会)との間でやりとりした手紙の多くも,『新約聖書』に収められています。
 なお,ユダヤ教の聖典『旧約聖書』のほうは,紀元前3世紀中頃から前1世紀の間に「70人訳聖書」として,共通ギリシア語(コイネー)に翻訳されました。ヘブライ語の読めないユダヤ人が増えたためです。『新約聖書』は,『旧約聖書』の引用をするときにこのギリシア語訳を用いたため,ヘブライ語で書かれたもともとの意味とのズレが生じることもありました。そのため,16世紀の宗教改革の時期になると,ヘブライ語版の聖書の研究者も現れました。例えばドイツの人文学者〈ロイヒリン〉(1455~1522)は,ヘブライ語文法書を著しました。

 また,〈アンデレ〉(生没年不詳)は,小アジアや南ロシアに布教し,ビザンティウムで最初の司教になったとされ,ロシアでは守護聖人になっています。また,〈バルマトロイ〉はイラン・インド方面に布教したといいます。ほかにも,〈トマス〉がインドに渡り,キリスト教を布教したという伝説が,インドに残っています。

 しかし,皇帝や伝統的な神々(ギリシアのオリンポス12神や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】)に対する礼拝をこばむキリスト教の人々は,歴代のローマ皇帝から危険視され,特に後64年の〈ネロ帝〉(位54~68)のときの迫害(〈ペテロ〉,〈パウロ〉は殉教しました)と,〈ディオクレティアヌス帝〉(位284~305)のときのいわゆる“最後の大迫害” 【追H28ローマ市民権を全自由民に与えたわけではない】 【本試験H25バーブ教を迫害していない,H26】が重要です。キリスト教徒の中には,ローマ人があまり近寄らなかった地下の墓地(カタコンベ;英語でカタコーム)【本試験H21国教化とともにつくられたわけではない】【本試験H24】や洞窟で密かに集団生活や礼拝を営む者もいました。

 ユダヤ人たちは〈イエス〉の死後に反乱を起こしたことで,ローマによって征服され,地中海周辺をはじめとする各地に散り散りになります。これをユダヤ人のディアスポラといいます。




・紀元前後~200年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 アルメニアはローマの進出を受けますが,ローマとパルティアの対立の間にあって,66年にはパルティアのアルサケス家の〈トゥルダト1世〉が〈ネロ〉による戴冠を受けています。
 サーサーン朝により出にアルメニア人が4万世帯が強制連行。9000世帯のユダヤ人が追放されています。




○紀元前後~200年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

季節風(モンスーン)交易が始まる
 1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
 冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)

 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。
 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。





●紀元前後~200年のアフリカ

○紀元前後~200年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。


○紀元前後~200年のアフリカ  南・中央・西アフリカ

南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


 アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。


 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、後50年~400年の層の集落で、グラベリマ種のイネのもみが出土しています。栽培化されたアフリカ産イネ(アフリカイネ)の最古級の例です。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○紀元前後~200年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


 エジプトでは,プトレマイオス朝の女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30) 【本試験H10時期を問う】は共和政ローマの政治家〈カエサル〉【追H21】,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となっていました。
 〈イエス〉の死後,キリスト教が〈マルコ〉により伝道されたとされ,その後「コプト正教会(コプト教)」として普及していきました。

 2世紀末には,現在のリビア北西部の港湾都市レプティス=マグナ(かつてのフェニキア人の植民市)から皇帝〈セプティミウス=セウェルス〉(位193~211)が出て,最盛期を迎えます(◆世界文化遺産「レプティス=マグナの考古遺跡」,1982(2016危機遺産))。彼は,初のアフリカ属州生まれの皇帝。いわゆる「軍人皇帝時代」の初例です。



●紀元前後~200年のヨーロッパ

○紀元前後~200年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


◆ローマ皇帝は元老院の権威を利用し,自身を頂点とする体制をつくった
軍国主義的なローマは、戦争で領域を拡大した
 かつてローマ帝国が対外戦争をたびたび起こしたのは「自分たちの同盟国の安全を確保するための防衛的・受動的な意味合いが大きい」と考えられていました(防衛的帝国主義)。
 しかし今日では、ローマでは軍事的な才能のある人物に高い官職が与えられ、また、戦争で勝利した周辺勢力を軍事的同盟国として兵員を提供させた点に注目し、軍国主義的な色彩が強かったと見られています(この論争を「ローマ帝国主義論争」といいます(注1))。

 〈アントニウス〉を倒した〈オクタウィアヌス〉(位 前27~後14)は,前27年に元老院からアウグストゥスの称号を授与されましたが,プリンケプス((市民の)第一人者【本試験H3ドミヌス(主人)と呼ばれていない】【追H24非自由民の呼称ではない】【東京H29[1]指定語句】「第一人者」)を自称していました。「元老院」の筆頭議員という意味です。ですから,元老院が存在することで,はじめて〈オクタウィアヌス〉も権力をふるうことができるわけです。
 しかし,〈オクタウィアヌス〉には帝国各地の軍隊や行政に対する命令権であるインペラートルが認められ,次第に元老院のもつ権力は皇帝の権力に吸収されていきました。

 インペラートルを持っている〈オクタウィアヌス〉や,彼の後継者たちの地位を,日本語では訳しようがなかったため,まったく別物である中国の「皇帝」という言葉が使われるようになりました。
 皇帝には,インペラートル以外にもたくさんの称号が与えられ,その中でも重要とされたのが,「アウグストゥス」や「インペラートル」の他に,「プリンケプス」それに「カエサル」でした。〈カエサル〉は,ほんらい人の名前なのですが,その死後に神聖視され,そのまま称号になりました。日本語では直接翻訳しようがないので,便宜上,中国の「皇帝」という言葉を使って表しているだけです。
 なお近年では,「帝国」という言葉は,「広い範囲にわたって多くの民族や地域を支配する国」という意味で使うことが一般的になっています(注2)。

 さて,数多く与えられた称号の中でもオクタウィアヌスは「プリンケプス」という称号を選んで名乗り,「皇帝といっても,ローマの一市民に過ぎない」という点を強調しました。そこで,彼の統治を,元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3専制君主政(ドミナートゥス)ではない,本試験H9】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。
 皇帝の神格化も図られ,〈アウグストゥス〉はギリシアの神々(オリンポス12神)の影響を受けたローマの愛と美の神ウェヌス(ヴィーナス)の系譜に位置づけられました。ウェヌスは〈カエサル〉家の始祖とされる神でもあり,〈カエサル〉とともに神格化されたことがわかります。鎧(よろい)を着た彼の全身像の足元には,ウェヌスの系譜を示すキューピッドの姿があります。

 なお、ローマ帝国の官僚の定員は、約6000万人の人口に対してわずか300人。皇帝は、各官僚や軍に裁量権を与えて行政決定を任せていたため、皇帝が行政に励まずとも帝国が麻痺することはありませんでした。
 なぜそれでなんとかなっていたかというと、地方都市に地方行政を丸投げしていたからです。ほとんどの都市は人口1万程度で、約1000の都市がありました。都市の自治を担ったのは、政務官・参事会・民会で、ローマ中央の機構を真似たものでした(注3)。

(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.36。
(注2) 山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003
杉山正明(1952~,モンゴル史学者)は,歴史上実在した「帝国」の類型として以下の9点を挙げ,次のように整理しています。
(1)単一の超越的・絶対的な権威・権力をもつとされる君主・指導者・王統のもとに,異種の臣民たちが,下部単位となる氏族・部族・集団・共同体・社会などをこえて包摂される政治的統合体
(2)同一の君主・王権・象徴のもとに,複数の地域権力・政治体が合一もしくは連携する政治形態
(3)単一の国家・王国・政治体をこえて,ゆるやかに地域と地域をむすびつける多言複合型の広域の連合体
(4)なんらかの理念・思想・価値観・宗教などのもとで,人種・民族・地域や,時には文明圏の枠さえもこえて広域にひろがりゆく政治体,もしくは擬似政治体――
(5)大小の複数の下位にある国家・王国・政権・政治体・在地権力や多様な地域・社会・民族などをよりあわせたSuper State。単一の中央機構をそなえ,もしくは時にそれを補う複数の権力体からなる統合力をもつ――
(6)中央権力とその他の国家・政治体・地域権力・民族集団・社会勢力などとの間に,なんらかの支配―被支配,もしくは統制―従属,中心―周辺などの関係が存在している状態――
(7)中小の地域・国家・社会を乗りこえ,大空間における時にゆるやかな,時には緊迫した交流・交易・流通・往来などの関係や連携を推進・演出する政治・経済・文化機構。中核となる政治体そのものは,小規模もしくは拠点支配型でかまわない――
(8)本国とは別に,おもに海外に植民地・属領・自治領などの附属地・遠隔領・飛び地をもち,その全体がゆるやかにむすびつく広域国家システム。行政・軍事・経済・文化などの各面にわたって,本国を中心にかたちづくられた人的な環流構造が重要なささえとなる――
(9)近隣もしくは周辺・遠隔の国家・地域に対して,強制的・独善的・威圧的な支配力をふるう覇権的国家――
(注3) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.40-41。




◆ローマは大規模な建築技術を発達させる
 ローマは今でも中心部にさまざまな遺跡が残されていますが,中でも大規模なのはフォロ=ロマーノです(フォロ(原形はフォルム)は広場という意味のラテン語です)。近辺には巨大なパンテオン(万神殿(ばんしんでん))や,会堂(バシリカ),公共浴場(テルマエ)が多数建設されました(#漫画 ヤマザキマリ「テルマエロマエ」)。
 また,各地に水道橋が建設され(南フランスのニームにあるポンデュガールや,スペインのセゴビア(ラテン語読みでセゴウィア)のものが有名です),上水(じょうすい)が都市に安定供給されました。
 ローマ帝国では属州支配を担当させる官僚数は多くなく,地方の財政は都市の有力者による「寄付」によって成り立っていました。彼らは,社会的なインフラ建設の援助や保全維持活動をおこなうことで,自らの権威を高めようとしたのです。
 コロッセウム【東京H28[3]】【本試験H27ペルセポリスにはない,H29共通テスト試行 オリンピアの祭典とは無関係】【追H25中世に建設されていない】(ローマにある円形闘技場。実際には188×156mなので楕円形に近く,5万人収容)や,ギリシア風の劇場,戦車の競走場なども多数作られ,都市の貧民に対する「パンとサーカス」(食料と娯楽)の提供は,人気取りとして皇帝や有力者にとって欠かせないものとなりました。



◆「征服されたギリシア人は猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け発展
 ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け,それをさらに個性的で活力あるものとして発展させていきました(ギリシア文化のほうがローマ文化よりも“優れている”という考えは,近代のヨーロッパ諸国において形成されていったストーリーといえます (参考)高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統』岩波書店,1999)。
 〈リウィウス〉(前59?~後17?) 【本試験H17キケロではない,本試験H26】【本試験H8「リヴィウス」】【追H21カエサルではない】に『歴史(ローマ建国史;ローマ史)』【本試験H17,本試験H26世界史序説ではない】【本試験H8】【追H21】の編纂を命じ,ローマ建国から〈アウグストゥス帝〉までの歴史を書かせました。
 多くの名作を生んだ〈アウグストゥス〉【本試験H8】【セA H30コンスタンティヌスとのひっかけ】の治世は「ラテン文学黄金期」といわれます。「征服されたギリシア人は,猛きローマを征服した」の名言をのこした抒情詩人〈ホラティウス〉(前65~前8) 【本試験H8『アエネイス』を書いていない】が有名です(ただし,ギリシア文化がローマ文化よりも優れていたという話には,後世のヨーロッパ人が誇張したストーリーという面もいなめません)。
 〈ウェルギリウス〉(前70~前19) 【本試験H17『労働と日々』ではない】【本試験H8ホラティウスではない】【追H21ポリビオスではない】はトロイア戦争に題材をとった長編叙事詩『アエネイス』【本試験H8】【追H21】を,〈アウグストゥス〉の命により書き上げました。「ナルシスト」の語源になったナルキッソスのエピソードなどが治められた,ギリシア・ローマ神話がテーマとなっている『変身物語(転身譜)』や『恋の技法(愛の歌)』で有名な〈オウィディウス〉(前43~後17)もこの時代の作家です。
 ほかに,ギリシア人の歴史家・地理学者〈ストラボン〉(前64または前63~後23) 【追H17地球の外周の測定をした人ではない】 【法政法H28記】は,『地理誌』や歴史書(現存せず)を記しました。



◆〈アウグストゥス〉の死後,1世紀末までのローマ帝国は混乱が続く

 〈アウグストゥス〉は,ライン川以東のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々勢力とも戦いましたが,紀元後7年のトイトブルク森の戦いで,戦死者20000人以上を出して敗北しました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の諸民族の指導者は〈アルミニウス〉(前16~後21)です。その後,次の〈ティベリウス〉帝のときに,なんとかガリア(現在のフランス)への進入は防いでいます。

 さて,皇帝〈アウグストゥス〉は自分の子を跡継ぎにしたかったようですが,次々に先立たれてしまいました。
 〈アウグストゥス〉が77歳という当時では長命で亡くなると、妻の連れ子の〈ティベリウス〉(位14~37)が継ぐことになりました。
 ここにローマは「王朝」が支配する国家となったのです。

 〈ティベリウス〉は〈アウグストゥス〉の支配体制を維持したものの,治世は不安定化します。
 その後を継いだ〈アウグストゥス〉の家系の〈カリギュラ〉(位37~41)は当初期待を持って迎えられましたが,後に「暴君」になったと伝えられる人物です。壮大な見世物を上演するのが好きだった彼は,本物の船を使って浮き桟橋を作らせて,愛馬インキタトゥスにまたがり,〈アレクサンドロス大王〉の胸当てをつけて橋を渡ったそうです。そんな彼は元老院と対立して暗殺され,〈クラウディウス帝〉(位41~54)が後を継ぎますが,また暗殺されてしまいました。

 〈クラウディウス帝〉の妻の連れ子が後を継ぎ,〈ネロ帝〉(位54~68) 【本試験H8家庭教師の人物セネカを問う,本試験H10時期を問う】として即位しました。ストア派【本試験H8】の哲学者〈セネカ〉(前4?~後65) 【本試験H8】をブレーンにつけて政治をはじめましたが,のちに暴君(ぼうくん)となります。

 さて,〈ネロ〉は哲学者〈セネカ〉を陰謀に加担したという疑いから,自殺に追い込みましたが,彼自身も属州総督の反乱が原因で,自殺しました。
 79年にはヴェスヴィオ山が大噴火し,ふもとの都市ポンペイは火山灰に埋もれ,16世紀陶に偶然発見されるまで街の様子はタイムカプセルのように保存されることになります(◆世界文化遺産「ポンペイ,エルコラーノ,トッレ=アヌンツィアータの考古地区」,1997)。
 このとき『博物誌』【本試験H2天文学者プトレマイオスではない】を著した〈プリニウス〉(23?24?~79)は,市民の救出と調査に向かうも,火山ガスにより亡くなってしまいました(#マンガ ヤマザキマリ「プリニウス」)。



◆都市の有力者がローマ皇帝の支配を支えていた
都市有力者は、帝国を「後ろ盾」に支配

 ローマ市の皇帝政府から元老院議員・騎士身分の人々が帝国各地の統治のために派遣されたものの、その総数はたったの300人ほど。
 それだけで支配が貫徹できたのは、各地にあった都市の自治と都市の有力者の協力のおかげです。

 この時期にはローマ風の制度・生活を採用する都市も増え、都市を行政単位として都市有力者に支配を任せました。都市有力者にとっても、帝国を後ろ盾にすることで支配をスムーズにおこなうことができるわけです。

 ローマ「文明」を受け入れることは都市有力者にとって「名誉ある」こととされ、2世紀頃には多くの都市内に民会・都市参事会がもうけられるようになっていきました(注)。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.25。



◆パレスチナで活動した〈イエス〉の改革思想が,1世紀後半にはユダヤ教から分離する
東方思想の影響下に,キリスト教がゆっくり形成へ
 パレスチナでユダヤ教徒の〈イエス〉が貧民らの支持を得て宗教的な集団を形成しました。しかし,支配的なユダヤ教徒のグループからローマ帝国に告発され,処刑されます。
 〈イエス〉は神の愛がすべての人類に分け隔てなく与えられるものと説き,その教説は弟子(使徒)らによって発展・継承されました。
 このうちパレスチナのユダヤ人の共同体を越えて布教するべきとした小アジア生まれの〈パウロ〉(?~65?)を中心に,〈イエス〉の思想が理論的にまとめられていきます。
 しかし,初期のキリスト教は「ユダヤ教イエス派」とでもいうべき集団であり,ユダヤ教徒と儀式や見た目の上でも大きな違いはありませんでした。
 しかし,その伝統ゆえにローマ帝国内での信仰の自由が認められていたユダヤ教徒に対し,かたくなにローマの儀式への参加をかたくなに拒む「ユダヤ教イエス派」は,3世紀の猛烈な迫害に比べると穏やかではあるものの,次第に当局から目を付けられる存在となっていきます。

 例えば,ローマ帝国皇帝の〈ネロ〉は64年に起きたローマ大火の責任を「ユダヤ教徒イエス派」におわせ,〈ペテロ〉【本試験H30】と〈パウロ〉【本試験H30】を殉死に追い込んだとされます。このとき逆さ十字架にかけられて死んだといわれる〈ペテロ〉の墓が,サン・ピエトロ大聖堂にあり,彼は初代「ローマ教皇」とされています。〈イエス〉は生前,「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(岩とはペテロを意味している)と言ったといわれ,のちにローマ=カトリック教会が,数ある教会のなかで最も地位が高いと主張する根拠となりました。

 しかし「教義」面の整備は遅れ,〈イエス〉の福音や使徒の記した手紙を集めた『新約聖書』の形式が整えられ始めていったのは1世紀後半のことでした。
 この1世紀後半から3世紀までのキリスト教のことを「初期キリスト教」と区分します。
 当時のキリスト教には東方の宗教思想の影響も強く,2世紀中頃までには〈ヘラクレオン〉(生没年不詳)によるグノーシス主義的なキリスト教解釈が,人気を博していました。
 しかし,この世には2つの神によりつくられたのだとするグノーシス主義は,唯一神によりこの世がつくられたのだとする『旧約聖書』以来のストーリーにはなじみません。そこで,キリスト教会の指導者はグノーシス主義の論破に尽力していきます。なかでもフランスのリヨンの〈エイレナイオス〉(130?~202)が,ユダヤ教徒の『旧約聖書』(2世紀後半までは,キリスト教徒にとってもこれが唯一の聖典であり,単に「書物」とよばれていました(注))に登場する神と,〈イエス〉=神が同じであると論じ,支持を集めました。
(注)ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.69~p.76。


◆「五賢帝」の時代にローマは“パクス=ロマーナ”(ローマの平和) 【本試験H3】を迎える
最大領域に達したローマの社会は変質に向かう
 その後,しばらく混乱が続きましたが,ようやく安定期に入ったが96~180年の「五賢帝」(Five Good Emperors) 【本試験H3,本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H13神聖ローマ帝国とは無関係】時代です。息子や家族を次の皇帝に指名するのではなく,優秀な部下を自分の養子にする形で次の皇帝に任命したために,優秀な皇帝が5人連続で輩出されたのだとされています。
 この時期を「人類史上もっとも幸福な時代」と『ローマ帝国衰亡史』【東京H22[3]問題文】で評したのは18世紀イギリスの歴史学者〈ギボン〉(1737~1794)でしたが,実際には領域の拡大,開発の進展により,ローマ社会は確実に変質へと向かっていました。“領土が増える”ということは,それだけ維持コストがかかり,領土拡大戦争が終われば奴隷(=労働力)の調達も滞ることにもなります。また,“市民が国家を守る”という原則も,領域の拡大によって次第に崩れていきます。

 では,いわゆる「五賢帝」を確認していきましょう。
 1人目〈ネルウァ〉(位96~98)の統治は不安定で,後継者を指名した後に亡くなっています。

 次の〈トラヤヌス〉(位98~117)の時代は、ローマ帝国の領土が史上最大となったときです【本試験H3最大領土となったか問う,本試験H6 2世紀初めのローマ帝国の領域を別の時代の領域を示した地図から判別する】【本試験H30】【追H24領土が最大となった】。ダキア(現ルーマニア) やメソポタミアに領土を拡大し,アルシャク(アルサケス)朝パルティアとも戦いました。ただし,アイルランド(ヒベルニア)【本試験H20アイルランドは獲得していない・地図】やスコットランド(カレドニア)の支配にはいたっていません。この2人の時代は自由な雰囲気のもとで,政治家の〈タキトゥス〉(55?~120?) 【本試験H15】【追H20トゥキディデスではない、H25『ガリア戦記ではない』】【H27名古屋[2]】が,ライン川の東・ドナウ川の北のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々について記録した『ゲルマニア』【本試験H7ガリア戦記ではない】【本試験H15ガリア戦記ではない】【追H20・H29『対比列伝』ではない、H25『ガリア戦記』ではない】【H27名古屋[2]】や歴史書の『年代記』など多くの著作を残しています。〈タキトゥス〉は,婿(むこ)として嫁いだ先の義理の父〈アグリコラ〉(40~93,ブリタニア遠征をおこなった)の伝記『アグリコラ』【早政H30】も執筆しています。
 〈トラヤヌス〉帝のときの帝国人口は5000万以上,ローマにはなんと80万~120万人が居住していたと言われます。前3500年の西アジアでの成立以降,世界中に発達していった都市は,ついにこれほど巨大な100万都市の規模に発展していくことになったのです。


 3人目の〈ハドリアヌス〉(位117~138) 【追H24『自省録』を著していない】のときに,ブリタニア(現在イギリスがある島)にケルト人に対する防壁として「ハドリアヌスの長城」を建設します(◆世界文化遺産「ローマ帝国の境界線」,1987(2005,2008範囲拡大))。
 ユダヤ人に対して支配を強化したため,ユダヤ戦争が起きたのも彼のときです。

 4人目の〈アントニヌス=ピウス〉(位138~161) の時は,帝国に大きな混乱もなく,まさに「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」【東京H8[1]指定語句】を実現させた皇帝です。
 その妻の甥で,〈アントニヌス〉の養子となった〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉(位161~180) 【本試験H4大秦国王安敦として中国に知られたか問う,本試験H8】は,ストア派哲学の著作ものこした通称「哲人皇帝」で,『自省録』【追H24ハドリアヌスではない、H27アウグストゥスとどちらが古いか】【本試験H8ギリシア語で書かれていない】を著しました(剣闘士を描いた映画「グラディエーター」は彼の治世が舞台です)。彼の使者を名乗る一行が,166年に現在のヴェトナムのフエに到達したと,中国の歴史書が記しています。ローマ帝国はインド洋の季節風交易【追H26この交易が始まったのは9世紀後半以降ではない】にも参入し,中国(秦(しん)の音訳から「ティーナイ」と呼ばれていました)からは絹がはるばる伝わり,ローマ人の特権階層の服装となっていました。ローマからは,ローマン=グラスというガラスが盛んに輸出されました。なお,皇帝〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉につかえた医師〈ガレノス〉(129?~200?) 【追H20時期(〈ガレノス〉を知らなくても〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉の侍医ということで時期がわかる)】の研究は,その後イスラーム医学やヨーロッパの医学に影響を与え続けました。

 この時代にはギリシア生まれの〈プルタルコス〉(46?~120?) 【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】【追H21,H24,H29タキトゥスではない】【同志社H30記】が『対比列伝(英雄伝)』【追H21,H24プルタルコスの著作か問う、H29】【早・法H31】【中央文H27記】という,ギリシアvsローマの“有名人対決”という企画モノの伝記をのこしました。例えば,〈アレクサンドロス〉と〈カエサル〉が比べられています。『倫理論集(モラリア)』は随筆のジャンルの草分けで,のちのルネサンスの時代に〈モンテーニュ〉の『エセー』に影響を与えました。
 ローマの属州ヒスパニアとなったイベリア半島では,北部のバスク人やカンタブリア人を除いたイベリア半島の住民はローマ文化の影響を強く受けていきました。各地に劇場,フォルム(広場),コロッセウム(闘技場)や水道橋(セゴビアの水道橋など)が建造され,コルドバは“小ローマ”とも呼ばれました。皇帝〈トラヤヌス〉や〈ハドリアヌス〉はヒスパニア出身です。1世紀にもたらされたキリスト教も,3世紀までにヒスパニア全域に広がりました。



◆ローマの東部の属州では,インド洋を利用した交易が活発化する
「ヒッパロスの風」が活用され海上交易がさかんに
 ローマ帝国の東部の属州(シリア,パレスチナ,エジプト)では,紅海を経由しインド洋を股にかける海上交易が盛んになっていました。
 紅海からインド東方のベンガル湾にいたるまでの広い範囲の港町や産物について記したガイドブック『エリュトゥラー海案内記』【追H28エーゲ海交易についての書ではない】は,ローマ領エジプト州のギリシア人船乗り〈ヒッパロス〉(不詳)によって1世紀中頃に著されたとみられます。エリュトゥラー海とはアラビア海【追H28エーゲ海ではない】のことで,アラビア半島とインドの間に広がる海を指します。
《…インドの犠牲を司る者や予言者たちは特に災厄を予防するのに珊瑚(さんご)を身につけることが役立つと考えている。そこで珊瑚は装飾にも宗教にも役に立つ。この事が知られるまではガルリア人らは剣や盾や兜をこれで飾っていた。…》(不詳,村上堅太郎訳註『エリュトゥラー海案内記』中公文庫,1993年,p.191)。

 なおこの記録はギリシア語で記されていました。ローマ帝国時代でも地中海東部では依然としてアラム語やギリシア語が使用されていたのです。

 アラビア海は季節ごとに風向きの変わる季節風(モンスーン)が吹いているので,季節によって風を読むことで東西の移動が可能でした。
 当時のインド南部ではサータヴァーハナ朝【本試験H4 時期(1世紀ごろか問う)】【追H20時期(14世紀ではない)】,チェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝【本試験H31】などがローマや東南アジア方面との交易で栄えていました。チェーラ朝はコショウの産地,パーンディヤ朝は真珠の産地です。特に真珠は,仏教の七宝の一つとして高い価値を持っていました(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.54。






・紀元前後~200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー

 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれていました(注)。

(注) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。


○紀元前後~200年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

・バルカン半島西部
 イリュリア王国はローマ帝国の属州イリュリクムに編入され,6年~9年の反乱も〈アウグストゥス〉により鎮圧されました。10年にはイリュリクム属州は南北に分割され,北部はパンノニア属州,南部にはダルマティア属州となりました。


・バルカン半島北部
◆ローマ帝国の〈トラヤヌス〉帝はドナウ川北部のダキアを征服した
 ローマ帝国はバルカン半島においてドナウ川を異民族との国境線(リーメス)としていました。「国境線」といっても今日的な意味での「国境線」ではありません。ローマ人が支配しておくのに都合がいい「属州」の外に広がる空間も、あくまでローマ人が支配するべき土地であって、そうした「境」を通る行き来は駐屯するローマ軍によって管理されているものの、ローマ的な文物は「境」を超えて広範囲に通じていたのです(注1)。

 リーメスを超えて移動したのは、文物だけではありません。
 たとえば、すでに皇帝〈アウグストゥス〉のときに5万人のゲタエ人が、ドナウ川河口近くの属州モエシアに受け入れられています。
 次の皇帝〈ティベリウス〉(位14~37)の初年に、4万人のゲタエ人がガリアに受け入れられています。〈ネロ〉帝のときの属州モエシア総督は10万人の人々を属州に移したという碑文があります。
 つまり「境」の外の人々に対してもローマの中で暮らす権利を認めていたわけで、戦時出ない限り異民族として排斥していたわけではないのです(注2)。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.26。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.27。


 しかし、攻撃を受けるとなると話は変わります。
 ドナウ川北岸(左岸)のダキア人の王や黒海北岸の,イラン系遊牧民サルマタイ人(前4世紀~後4世紀)の攻撃を断続的に受けるようになったため,歴代皇帝は戦闘を続けなければなりませんでした。

 そして,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときにドナウ川南部のモエシアやパンノニアの兵を率いて,101年・105年にダキア(現在のルーマニア)に遠征し,106年に属州ダキア(106~271)を建設しました。
 ローマ市内のトラヤヌス広場にはこの時の戦勝を記念して戦闘風景を螺旋(らせん)状にレリーフに刻んだ高さ30mの記念柱(トラヤヌスの記念柱,113建造)が今でも残されています。
 のち皇帝〈ハドリアヌス〉(位117~138)はダキアを上ダキアと下ダキアに分割し,ドナウ川の石橋を撤去。ローマ人が多数入植して「ローマ化」が進み,トランシルヴァニア地方では金・銅・鉄・岩塩の鉱業に従事しました。
 しかし,サルマタイ人やゲルマン系の諸民族(マルコマン人,ゴート人,ゲピド人)は依然として続き,防衛の負担は増していきました。



●200年~400年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化④,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-③
 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,広域国家(古代帝国)が崩壊し,古代末期の民族大移動がはじまる。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスで,各地方の政治的統合がすすむ。

この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸

 ユーラシア大陸には,地中海周辺にローマ帝国,西アジアにパルティア,東アジアに後漢王朝(25~220)が並び立っていた。

 しかし,騎馬遊牧民の移動を受け,ローマ帝国ではゲルマン語派がローマ帝国領内に押し寄せ,各地での建国が認められる。

 東アジアでも後漢王朝が滅びると,南北に分かれて政治的な統合がすすむ。北部では騎馬遊牧民が複数の政権(五胡十六国)を建て,漢人は南部の長江下流部(江南(こうなん))に移動して中国文化を維持する。やがて,騎馬遊牧民の鮮卑(せんぴ)のうち拓(たく)跋(ばつ)部が中国文化を受け入れて華北を統一し台頭していく。

 南アジアでは,ガンジス川流域のグプタ朝のマガダ国(320~550)が北インドを中心に諸地域を服属させる。

 西アジアのイラン高原では印欧語族パルティア人が,印欧語族ペルシア人のサーサーン朝(224~651)に滅ぼされる。



 ユーラシア大陸では東西を結ぶ陸海の交易ネットワークの繁栄は続く。
 東南アジアではモンスーン(季節風)を利用した交易の活発化にともない,大陸部にクメール人の扶(ふ)南(なん)がマレー半島横断ルートをおさえ栄え,チャム人のチャンパーも東アジアとの中継交易で栄えた。大陸部のピュー人,ビルマ人,タイ人,モン人の地域,島しょ部でも政治的な統合が進んでいる。
 地中海~紅海~インド洋を結ぶ交易ルートでは,エチオピアにセム系のアクスム王国が台頭,アラビア半島南端のセム系のヒムヤル王国,南アジア南端ドラヴィダ語族のチョーラ朝,チェーラ朝,パーンディヤ朝などが栄える。


(2) アフリカ
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。


(3) 南北アメリカ大陸
 北アメリカ大陸南西部では,カボチャやトウモロコシ農耕と狩猟採集を営む古代プエブロ人(アサナジ)によるバスケット=メーカー文化が栄える。
 中央アメリカでは引き続きティオティワカン文明,サポテカ文明,マヤ文明に都市文明が栄える。
 南アメリカでは北西沿岸部のモチェ文化,ナスカ文化のほか,アンデス山地での政治的統合が進み,ティティカカ〔チチカカ〕湖周辺をティワナク〔ティアワナコ〕文明が統合する。


(4) オセアニアではポリネシア人の大移動がすすむ
 オセアニアでは,ポリネシア人がオセアニア東部への移動を開始,マルケサス諸島(現・フランス領ポリネシア)からアウトリガー=カヌーの航海により計画的に移住を開始している。


解説
3・4世紀以降,ユーラシア大陸では草原世界の騎馬遊牧民の大移動が起き,ユーラシア大陸の農耕地帯を支配してきた古代帝国が次々に衰えていきます。地中海周辺のローマ帝国(395年分裂),西アジアのアルシャク(アルサケス)朝パルティア(228年滅亡),南アジアのクシャーナ朝(3世紀滅亡),東では漢王朝(220年滅亡)です。
 これらの古代帝国は,拡大期には戦争による領土拡大や征服地からの徴税が見込めましたが,やはりそのような手段による成長には限界があり,絶え間ない戦争や東西交易によって各地に伝わった伝染病の影響もあり人口も減少します。ユーラシア大陸の陸路の交易ネットワーク(シルクロード)も一時的に衰退に向かいました。
 他方で,騎馬遊牧民が農耕低住民地帯の国家に進出すると,各地で文化の複合が起きました。
 アフリカ大陸ではラクダの普及にともない遊牧民の活動が活発化し,サハラ横断交易も始まっています。

◆南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどる
 アフリカ大陸・ユーラシア大陸と直接の交流を持たなかった南北アメリカ大陸では,メキシコ高原でテオティワカン文明,中央アメリカでマヤ文明が栄えていました。




●200年~400年のアメリカ
○200年~400年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアンが,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活(地域によっては農耕を導入)を送っています。

 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。

 北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,マウンドとよばれる大規模な埋葬塚(墳(ふん)丘(きゅう)墓(ぼ))が建設されています。

 北アメリカの南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】)の灌漑農耕が行われていました。




○200年~400年のアメリカ  中央アメリカ
ティオティワカン系の進出を受け,マヤ文明が最盛期を迎える

マヤ地域
 現在のメキシコ南部,グアテマラ,ベリーズ,ホンジュラスなどの中央アメリカでは,3世紀中頃から900年頃まで,「古典期」(250年頃~900年頃)の文明を生み出していました(注1)。
 「古典期」というのは,“ヨーロッパ文明の源流は前5~4世紀ギリシアの輝かしい古典文明(Classical Greece)にあった。中央アメリカの文明の源流は,250年~900年あたりのマヤにあるのだろう” という“イメージ”から,ヨーロッパ人によって名付けられた名称に過ぎません。

 マヤ文明には広い地域を支配する中央集権的な国家はなく,45~50の都市国家によって成り立っていました。担い手はマヤ語族の諸民族です。
 3世紀には象形文字マヤ文字が記録されるようになり,獣皮や樹皮を漆喰に浸して折本にしたものや,石碑に記録されました。約850の象形文字には表音文字と表意文字が混ざっていて,書体も複雑な頭字体と簡略化した幾何体があることがわかっており,大部分が解読されています。
 マヤの社会では厳しい階級制がしかれ,支配層は幼少時に頭に木を挟んで頭が細長い形になるようにする風習がありました(トウモロコシみたい)。マヤで重視されていた鉱物はヒスイ。また,タバコの喫煙の習慣があり儀式などで用いられました。
 マヤ文明ではおそらく手足の指の数をもとにした二十進法が用いられ,ゼロ(0)を表す文字の最古の例として357年頃のものが確認されています。
 1は「・」,2は「・・」,3は「・・・」,4は「・・・・」,5は「──」,6は「  ・   」というように記し,9は「 ・・・・ 」,10は「=」,11は「=の上に点(・)を1つ載せた形」,19は「≡の上に点(・)を4つ載せた形」。20になると位取りが替わります。

 マヤ低地南部のティカルやカラクムルなどの大都市の王は,自らを神聖化し,神殿や墓として用いられたとみられる階段型ピラミッドを建設しました。また3世紀以降は長期暦(前3114年8月13日を起点とし,1日ずつ足していく暦)とともに刻まれた石碑が多くの残され,各都市の王朝の系譜などが明らかにされています。

ティカル
 現在のグアテマラに残るティカル(1世紀~)のピラミッドは公共広場に面して建設され,70メートルもの高さがあります。王名の刻まれた石碑が残されおり,最も古いものは292年にさかのぼります。
 その記録をたどると,378年1月16日にティカルに〈シヤフ=カック〉(シヤッハ=ハック)(注2)という人物が軍事的に進出。その息子〈ヤシュ=ヌーン=アイーン1世〉がティカルの王に379年9月12日に即位するに至ります。
 この王朝は以後200年にわたって繁栄することになりますが,この〈シヤフ=カック〉という個人が何者なのかをめぐっては諸説がありますが,彼を同時期に成長したティオティワカンの将軍とみる説もあります。彼がティカルを襲う前の378年1月8日,80km離れた都市コパンにも来訪の記録があります。
 同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいたのは事実です。

(注1)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
(注2)シヤッハ=ハックは「火は生まれた」という意味。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.251。


◆メキシコ高原ではティオティワカンの都市文明が栄える
ティオティワカン
 メキシコ高原北部のテオティワカン(◆世界文化遺産「テオティワカンの古代都市」,1987)には,100年~250年にかけて階段型の「太陽のピラミッド」が建設されます。
 太陽のピラミッドの地下にも洞窟があって,当時の人々の世界観を表しているとみられます(メソアメリカでは,おおむね天界13層,地下9層の世界観が共有されていました)。
 ティオティワカンは, 200年から550年頃までの最盛期には12万5000または20万人の大都市にまで成長し,中央アメリカ各地と交易をおこなっています。同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいました。

チョルーラ
 ティオティワカン南部のチョルーラ(後1世紀~)は,独立を維持しています。

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
 トウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】)の農耕地帯であったメキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えています(サポテカ文明,前500~後750)。200年~700年が全盛期で,ティオティワカンとも外交関係がありました。






○200年~400年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方で地域ごとの政治的統合がすすむ

◆アンデス地方沿岸部ではナスカ,モチェが栄える
モチェで政治統合が進展,ナスカに地上絵が出現
モチェ
 アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ,人々の階層化が深まり,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

ナスカ
 アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
 南部沿岸のモチェほどには統合されておらず,王墓なども存在しません。
 当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは,300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると,儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。

 こうして有名な「ナスカの地上絵」がつくられ始めるわけです。
 
 地上「絵」といっても実際には「線」が多く,ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると,下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが,少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ,サル,クモ,鳥などがあって,天体と連動する説が支持されたこともありますが,現在では儀礼的な回廊とか,雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼,すなわち「雨乞い」です(注)。

(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに,地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。



◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。





●200年~400年のオセアニア

○200年~400年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつあります。



○200年~400年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●200年~400年の中央ユーラシア
◆フン人は西方のローマ帝国領内へ,中国にも遊牧民の進出が相次ぐ
民族大移動が本格化する
中央ユーラシア西部
 中央ユーラシア西部では,紀元後1世紀後半~2世紀にかけてカスピ海北岸で活動したアラン人は,350年頃に騎馬遊牧民フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされる) 【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】の進入を受け,カフカス山脈に移動しました。現在のオセット人の祖先です。375年にはフン人は,黒海北岸のゲルマン系の東ゴート王国に進入し,敗れた東ゴートは西方に移動した。
 フン人は,アラン〔アラニ〕人や黒海沿岸のゴート人を“雪だるま”式に加えながら(注)バルカン半島を南進。 いわば“難民”と化したゴート人は,当時禁止されていたドナウ川の通過を,ローマ帝国の皇帝〈ウァレンス〉に要求しました。
 フン人の猛威を悟ったローマ皇帝は「ゴート人を国境警備隊として配置すればよい」と考え、帝国内部への定住を許可しますが,扱いのひどさに対してアラン,ゴート人が反乱を起こしました。378年〈ウァレンス〉帝は鎮圧に向かいましたが敗れ,ゴート人はドナウ川を渡って,ギリシア方面へと南下をしていくことになります。

(注) “ドミノ倒し”という表現は正確ではありません。フンはアランを破ると,アランは子分となってフンとともに連合して東ゴートに進出。今度はフン,アラン,東ゴートの連合軍が,西ゴートを攻撃するのです。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.272。
 なお,フン人が北匈奴を出身とするという説は定説ではありませんが,4~5世紀にはドナウ川からカスピ海にかけて,わりと均質的な文化が広がっていることから,フン人が短期間で多くの民族を巻き込み、または追放しながら西に移動していったこととの関連も考えられます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.274。
 また、ゴート人がドナウ川を渡る時点で、彼らの中に「西ゴート人」や「東ゴート人」といった意識を持っていた人々がいたわけではなかったというのが、現在の通説です(南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.71)。



中央ユーラシア東部
 中国の西晋【本試験H18前漢ではない】で八王の乱(291~306) 【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H18,本試験H31時期(漢代ではない)】が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑,チベット系の諸民族(氐・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史では五胡十六国時代(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)といいます【本試験H19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】。
 漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H12北魏を建てた民族を問う】【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。
 拓跋部【追H21問題文】を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年に北魏【本試験H12】【本試験H28】【追H21】を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられた柔然【本試験H7突厥を破っていない,本試験H12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。

 北匈奴がモンゴル高原から西方に移動すると,北方にいた高車(こうしゃ)(テュルク系の丁(てい)零(れい)の一派)が南下し,また,拓跋部から自立した柔然の勢力が強まりました。柔然は東胡の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代可汗〈社崙〉(しゃろん,在位402~410)の率いる柔然を討伐し,柔然はモンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐し,天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配しました。
 柔然はしばしば中国に進入し,農民や家畜を略奪して農耕に従事させたとみられます。





●200年~400年のアジア

○200年~400年の東アジア・東北アジア
○200年~400年の東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が定住しています。紀元前後から台頭したツングース語系の高句麗(紀元前後~668)は,この時期に朝鮮半島に南下をすすめます。彼らが日本列島に進出して日本に武人政権を建てたとする〈江上波夫(えがみなみお)〉(1906~2002)の「騎馬民族征服王朝説」は,現在では主流ではありません。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯200年~400年の中国
◆後漢が滅ぶと,北方の遊牧騎馬民族が定住農牧民地帯に移動していった
騎馬遊牧民と定住農牧民が,対立・融合する
 秦以来の中国文明の中心地は,黄河流域の「中原(ちゅうげん)」(華北平原)でした。しかし,後漢末の混乱により,北方の民族が南下すると,前漢・後漢の支配者層や住民の多くは,命を失うか南方に移住をしていきました。これにより,中国地域における黄河の重要性は低くなり,漢民族の文化を受け入れた北方の遊牧民の力も強まっていきました。また,大土地所有がさかんとなり,地方において農奴のように扱われる農業労働者(佃客(でんきゃく),衣食客(いしょくきゃく))や,武装集団(部曲(ぶきょく))を従えるようになった豪族が有力となっていきます。
 こうして,各地で自立した豪族や,中国に進出した遊牧民により,中国は分裂の時代に突入します。分裂しているということは,逆にいえば,中国(漢民族)の文化を共有する人々が,黄河以外の地域にも現れるようになったということです。


 さて,順番にみていきましょう。
 後漢末の混乱の引き金となった黄巾(こうきん)の乱は184年に勃発。後漢の滅亡と,皇帝の位をゆずりうけた魏の建国は220年。その後,華北に本格的に北方の諸民族が進出するのは,4世紀初めのことです。311年に匈奴は,長安を占領しています(永(えい)嘉(か)の乱)。
 北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京【本試験H4明(みん)の遷都先ではない】(当時は建(けん)康(こう)【追H30】【H27京都[2]】)に逃れて東晋【追H30 東周ではない】を建てて王朝を存続させました。
 同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々進入が加速し,395年の東西ローマ帝国への分裂につながっています。

 184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた〈曹操(そうそう)〉(155~220)は,
 ・南方の軍事集団の長である,四(し)川(せん)(長江上流域の盆地)の〈劉備〉(161~223) 【東京H8[3]】と,
 ・江南(長江下流域)の〈孫権〉(182~252) 【H27京都[2]】 【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】 と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。

 後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな),181~234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これを赤壁の戦いといいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
 〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者(豪族)の〈袁紹〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。

 しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,「魏(220~265年)」という王朝を創始します。それを認めない〈劉備〉【東京H8[3]】【本試験H30】は四川の成都【本試験H9】【本試験H22洛陽ではない】【中央文H27記】を都にに蜀(しょく,221年~263年) 【本試験H9】【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京) 【セA H30華北ではない】を都に呉(ご,222年~280年) 【追H9】を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。
 魏と蜀・呉との境界は,黄河と長江の間のラインで,チンリン(秦嶺)山脈とホワイ川(淮河(わいが))を結ぶ線にあたります。

 蜀は正式には「漢」という国号で,蜀漢(しょっかん)とも呼ばれます。蜀は漢を受け継ぐ王朝であると主張したため,蜀には「炎興」(えんこう)のように,漢の守護色(五行説という思想で,漢に宿っているとされたパワーを持つ元素)である火を連想させる元号が使われました。この頃には学問の研究もおこなわれ,魏に仕えた〈劉徽〉(りゅうき,生没年不詳)は,古代の数学書『九章算術』に注釈を加え,円周率を3.1416と計算したほか,ギリシアの〈ピュタゴラス〉(前582~前496)の定理と全く同じ公式も現しています。また,渾天儀(こんてんぎ,天体観測器)や,候風地動儀(こうふうちどうぎ)という地震計も発明されています。

 このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ) 【本試験H9[21]】に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです(#映画「レッド・クリフ」(2008中国))。



◆魏の導入した九品官人法により門閥貴族が形成された
 魏の〈曹丕〉(文帝)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官【本試験H11】が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用する九品中正(九品官人法)の制度【本試験H8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H24時期(党錮の禁、呉の滅亡との時系列)、H29「有力豪族による高級官職の独占を招いた」か問う】も整えられていきました。

 しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就く貴族や,その中でも特に優遇された家柄である門閥貴族【本試験H26明代ではない】【本試験H8】が生まれるようになっていきます【本試験H11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました(注)。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。

 〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のときに魏は,四川盆地の蜀を263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の〈司馬炎〉(武帝)【本試験H16司馬睿ではない,本試験H30】のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝である晋を建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋を西晋,遷都後を東晋と区別します。

 この西晋が江南の呉をほろぼした【追H24時期()】ことで,三国時代は統一されました。この頃には〈王叔和〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む『傷寒(雑病)論』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?~219)の医書を参考に編集しています。

 しかし,すでに北方遊牧民の華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,〈武帝〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290~306年,八王の乱) 【京都H20[2],H27[2]】【本試験H3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】【本試験H14秦代ではない】が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。

 西晋には,南匈奴の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し,漢が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴の単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
 このとき,鮮卑の拓跋部は西晋【京都H20[2]】を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に代(だい)の王に任ぜられています。しかし316年に長安が占領され〈愍帝〉が殺害されると,316年西晋は滅亡しました。
 大混乱の中,西晋の漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は,建康【本試験H2】(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)【本試験H22地図】を首都として東晋を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に〈司馬睿〉(元帝,しばえい,在位317~322) 【本試験H16司馬炎ではない】が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
 東晋には華北から多数の漢人が逃げてきましたが【本試験H26時期】,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」という土断法(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降,江南の開発がさらに進んでいきました【本試験H15時期】。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。

 華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって,五胡十六国(ごこじゅうろっこく) 【本試験H3】といいます。五胡【東京H6[3]】は,(1)匈奴【本試験H3五胡十六国の一つか問う】【早・法H31】、(2)羯(けつ,匈奴の別種)、(3)鮮卑、(4)氐(てい) 【東京H6[3]】、(5)羌(きょう) 【東京H6[3]】。(4)・(5)はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
 このようにして,華北は五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。
 初めのうちは十六国の中にも,前燕(ぜんえん,現在の北京周辺に建国された鮮卑の国家)や前涼(ぜんりょう,長城よりも北にあった漢人により建国された国家)のように東晋に従う勢力もありました。しかし,氐により建国された前秦が前涼・前燕を滅ぼし,北魏の元になる国である鮮卑人の代(だい)をも滅ぼしてしまいました。そのまま東晋の滅亡も狙いましたが,東晋の武将〈謝安〉(しゃあん,320~385)との決戦に破れて衰えました(383年,淝水(ひすい)の戦い)。

 その後東晋では,五斗米道の指導者による反乱を鎮圧した長江中流域の軍人が,402年に建康で皇帝に即位。それを鎮圧した下層階級出身軍人〈劉裕〉がこれを倒し,さらには十六国のうち山東半島の南燕(なんえん。鮮卑人の国),後秦(長江中流域で建国された羌の国)も滅ぼし,洛陽・長安も奪回しました。この輝かしい実績を背景とし〈劉裕〉はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)により東晋から皇帝を譲られる形で,420年に宋の王朝を創始しました(のちの時代の宋とは別の王朝です)。

 386年には,鮮卑人【セA H30】のうち拓(つぶせ)跋(ばつ)【京都H20[2]】という集団の指導者〈拓跋珪(けい)〉は,「魏」を建国していましたが,398年に〈拓跋珪〉は山西省の平城(へいじょう) 【京都H20[2]】で北魏【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】【セA H30元ではない】の初代皇帝〈道武帝〉(どうぶてい北魏皇帝在位398~409)となり,権力を強化していきます。さらに孫の〈太武帝〉(在423~452) 【本試験H12】がモンゴル高原の柔然【本試験H12時期(漢の西域経営に進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】に対抗して支配領域を広げていき,439年に華北を統一【追H21「江南の併合」ではない、H28「中国の統一」ではない】して五胡十六国の分裂状態を収拾しました【本試験H12「五胡十六国の分裂状態を収拾した」か問う】。

 一方、中国南部で建康を都としていた宋は,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し【本試験H12道教を禁止したわけではない】,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のときに雲崗(うんこう)の石窟寺院【本試験H31道教の寺院ではない】【追H18,H20漢代ではない】の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し,道教の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。

 次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈馮(ふう)太(たい)后(こう)〉【立教文H28問題文】)が実権を握りました。皇后は〈献文帝〉に迫り,我が子を即位させました。これが〈孝(こう)文帝(ぶんてい)〉【追H9前漢のあとをうけた王朝を建てていない,H19,H30唐代ではない】です。
 〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ(均田制)が実施されています【本試験H15農耕社会の統治に消極的ではない,本試験H16北斉代ではない,本試験H24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】【本試験H8】【追H19宋代ではない、H21北魏で始まったか問う】【大阪H31論述(導入の背景と後代へ与えた影響)・時期】。
 大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした【本試験H8支給対象は成年男子だけではない】(注)。

 〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉は洛陽に遷都して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました(漢化政策) 【本試験H15漢民族の文化を排除していない】。鮮卑人は少数派だったため,南朝と張り合って政権を運営するには,北朝の有力な門閥貴族の協力が必要だったのです。たとえば,皇室の「拓跋」という姓も,「元」という中国風の一文字の姓に変えられました。このようにして,鮮卑の文化と従来の中原中心の王朝の文化が,互いに影響を及ぼし合いながら,中国文化が形成されていったのです。
 これらの政策には,保守的な鮮卑人の反発も多く,不満はのちのち六鎮の乱となって爆発することになります。
 北魏の時代には〈酈道元〉(れきどうげん,469~527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう) 【京都H21[2]】を,〈賈思勰〉(かしきょう,不詳) 【本試験H22昭明太子ではない】が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ【本試験H22】)を著すなど,学問も盛んでした。

漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。

(注) のちに大谷探検隊の発見により、トゥルファンでは規定通りではないものの、均田制が施行されていたことが明らかになっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。





◯200年~400年の朝鮮半島
 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
 中国の東北部には前3世紀頃から扶余(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。朝鮮半島の東部の濊(わい)人という説もありますが,定かではありません。
 前1世紀に鴨緑江の中流部の貊(ハク)人が高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668) 【セA H30府兵制は実施されていない】を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。高句麗は首長による連合をとり,住民は農耕に狩猟を加えた生活を営んでいました。建国の伝説によると,黄河の神(河伯)の娘が扶余(ふよ)の王に閉じ込められていたとき,日光に当たって卵を生み,そこから生まれた〈朱蒙〉(しゅもう,チュモン)が建国したといいます。〈朱蒙〉は扶余人から逃れる途中に魚や亀に助けられて川を渡り,高句麗を建国したということです。
 朝鮮半島の東北部には沃沮(よくそ;東沃沮(とうよくそ))が活動し,高句麗が拡大すると対抗の必要から魏に接近しました。

 中国の後漢末の混乱に乗じて,遼東を支配していた〈公孫度〉(こうそんたく)が楽浪郡と玄兎郡に支配領域を伸ばし,204年に〈公孫康〉が楽浪郡の南部を分離させ帯方郡(たいほうぐん)としました。当時は,朝鮮半島の東部の濊(わい)人の活動や,南部の韓人,日本列島の倭人の活動が盛んで,南部でこれら異民族に対抗する必要があったのです。濊(わい)人は海獣や海産物の漁労のほか農耕にも従事し,オットセイやラッコを輸出していました。
 帯方郡は濊,韓,倭の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国の魏により〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の〈卑弥呼〉【本試験H7「倭の女王」】【追H18】は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏【本試験H7派遣先は建康ではない】【追H18】に朝貢させています。
 しかしその後,中央集権化を果たした高句麗が313年には楽浪郡を滅ぼし【本試験H21時期】,【追H19時期】遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では〈広開土王〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)【本試験H9[13]】によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教の教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。

 また,朝鮮半島の南部には,韓人による小国家が形成されていました。3世紀には西南部の馬韓(マハン;ばかん)に50余り,東南部の辰韓(チナン;しんかん)に12余り,南部の弁韓(ビョナン;べんかん)に12余りの小国家があったといわれます。
 これらの小国家のうち,馬韓や弁韓(安邪(アニヤ)国,狗邪(クヤ)国など)は,共通の王を建てて連合を築いていました。狗邪国はおそらく「魏志」倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく,のちの任那(イムナ;みまな)国,金官(クムグヮン;きんかん)国)を指します。魏が辰韓を攻撃するとこの連合は崩壊し,帯方郡に従属させられます。
 馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のちの百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】につながっていきます。
 また,辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,のちの新羅(シルラ,しんら,しらぎ)に成長していきました。

 伯済は,北方で高句麗が急拡大する情勢をに警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代ではない)】のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し【本試験H21時期】,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安【慶・法H30】にある広(こう)開土(かいど)王(おう)碑(ひ)【本試験H9[13]4世紀末の東アジアの動向が記されているが,そこに現れる国はどれか(後漢,魏,隋,百済)。百済以外は4世紀末に存在しないので,百済が正解】という碑文に刻まれています。

◯200年~400年の日本
 2世紀後半の「倭(わ)国(こく)大乱(たいらん)」(注)の後,西日本を中心とした小国の連合邪馬台国(やまたいこく)は,〈卑弥呼〉(ひみこ) 【本試験H24・H27】を中心として統一を進めていました【H29共通テスト試行 奴国の時代ではない】。邪馬台国の支配層はみずからの権威付けのために,中国の魏【本試験H24,本試験H27北魏ではない】に239年に朝貢使節を送り「親魏倭王」(しんぎわおう) 【本試験H27】の称号をもらい,冊封(さくほう)を受けました。冊封されれば,その地域における支配が認められ,支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからです。
 『三国志』の「魏書」東夷伝(いわゆる『魏志』倭人伝)によると,このときに銅鏡(青銅製でつくられた鏡。当時は光り輝いていた)が100枚も与えられたといいます。全国各地の古墳(墓のこと)から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が見つかっていて,このときに中国から与えられたものではないかという説にもあります。
 3世紀前半に中国の後漢王朝は滅び,魏・蜀・呉の並び立つ三国時代に突入していました。魏としては,〈卑弥呼〉と結ぶことで呉を”挟み撃ち”にしようとする意図があったようです。
 朝鮮半島南西部の百済は,朝鮮半島北部の高句麗の急拡大を警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう,好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安にある広開土王碑(こうかいどおう)という碑文に刻まれています。
 3世紀中頃から末にかけて,日本ではヤマト政権が成立したと考えられています。
(注)中国の『三国志』の魏志倭人伝(『三国志』の「魏書」における「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条)や,『後漢書』「東夷伝」(東夷列伝)による。


○200年~400年の東南アジア
 3世紀になると季節風(モンスーン)を利用した航海【本試験H30】が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。
 それにともない,港町の人口密度が高くなって都市(港市)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの(威信材)として利用されるようになっていきました。
 北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に,港市(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えました。

 イラワジ川流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域の上ビルマと下流域の下ビルマに分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響で灌漑による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここにはピューという民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています【本試験H22オケオは関係ない】。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では「驃国」として登場します。




○200年~400年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・200年~400年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・200年~400年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン

 3世紀頃にインド南部のサータヴァーハナ朝は衰退し,デカン高原北部ではヴァーカータカ朝(3世紀中頃~6世紀中頃)が栄えました。お得意先であったローマ帝国が,3世紀後半に航海の出口の支配権を失ってしまったためです。4~5世紀には,インド南端部のタミル人によるチェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝が衰退しました。
 インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インドをグプタ朝(320~550)が再統一します【本試験H20】【本試験H8エフタルとのひっかけ】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのはマウリヤ朝ではなくグプタ朝】。地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。

 「最高のヴィシュヌ信者」の称号を持つ王は,ヒンドゥー教を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ【本試験H7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が,ヴィシュヌ【本試験H21マニ教の神ではない】のほかにブラフマーという神や破壊神シヴァ【本試験H24,H30】という神に結び付けられていったものがヒンドゥー教です。

 グプタ朝にマヌ法典【本試験H12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】【本試験H15,本試験H24,H28時期】【追H19旧約聖書とのひっかけ】という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられました。
 絶対的な聖典というよりは習わしに近く,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。
 そこではヴァルナ制度は「人類の起源にさかのぼる神聖な制度」とされています。
 ただ現実的には自分のヴァルナに従っていては生活できない場合もありえます。その場合は例外的に下のヴァルナの仕事に就くこともゆるされるなど、ある程度の柔軟性がゆるされていました(注1)。

 現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原のアジャンター石窟寺院【本試験H26時期】【追H20】やエローラ石窟寺院のグプタ様式の仏教【追H20】建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にもインド独自の特徴が見られます【本試験H4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】。

 サンスクリット語【東京H10[3]】【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】【追H19ウルドゥー語ではない】をサンスクリット文字〔梵字(ぼんじ)〕(注2)で記した文学もつくられ,〈カーリダーサ〉【追H19ウマル=ハイヤームではない】は戯曲『シャクンタラー』【追H19】をつくり,古代から伝わる叙事詩『マハーバーラタ』【東京H10[3]】『ラーマーヤナ』の編集もすすみました。ゼロ(0)が文字として表わされたのも,この時期のことです【本試験H2シュメール人により発達されたのではない】。

 父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは〈チャンドラグプタ〉(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320~335頃) 【本試験H20玄奘は訪問していない】で,かつてマウリヤ朝の首都であったパータリプトラは繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。

 第2代〈サムドラグプタ〉(位335頃~367頃)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。

 第3代〈チャンドラグプタ2世〉(位375頃~414頃) 【本試験H15北インド全域を支配したか問う,本試験H19アンコール=ワットは建てていない】が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家〈カーリダーサ〉がつかえ『メーガドゥータ』や『シャクンタラー』【本試験H12ジャイナ教の聖典ではない】【本試験H26時期】を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した〈法顕〉(ほっけん)【本試験H5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,本試験H12】【本試験H27孔穎達ではない】というお坊さんは,王に謁見したと『仏国記』(ぶっこくき)【本試験H27】【追H19マルコ=ポーロの著作ではない、H24小説ではない】に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】,帰りは海路【本試験H12海路かを問う】を利用し,412年に帰国しました(注3)。

(注1) 「窮迫時の法」といいます。 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.23。
(注2) アーリヤ人の言語(サンスクリット)を記すために用いられたカローシュティー文字は、諸説ありますがアラム文字起源であるという説もあります。カローシュティー文字はやがて用いられなくなり、やや遅れてブラフミー文字が定着。これが現在もインドの公用語であるヒンディー語を記すデーヴァナーガリー文字につながります。なおブラフミー文字は東南アジアの諸文字のルーツでもあります。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.39,p.46。
(注3) 法顕に関する年号は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120



○200年~400年のアジア  西アジア

◆教会の保護者となったローマ帝国によってキリスト教の正統教義が定められた
何が「キリスト教」なのか,ゆっくりと選別されていく(注)
 西アジアには有力なキリスト教会が,シリアのアンティオキアとパレスチナのイェルサレムにあります。
 この時代には,みずからを〈ゾロアスター〉・〈釈迦〉・〈イエス〉の預言者であるとする〈マニ〉(マーニー=ハイイェー,216~276?)が,ペルシアの二元論的な信仰(善と悪の戦いの結果,悪の神によって生み出されたこの世界や我々人間の肉体は汚(けが)れているとする思想)や,〈パウロ〉の福音主義の影響を受け,マニ教を創始しています。
 東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義やミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。

 その一方でローマ帝国では,ユダヤ教徒と違い,皇帝の儀式に参加しようとしないキリスト教徒(1世紀以降,ユダヤ教の教団との違いが互いにハッキリとしていました)たちに対し,迫害する皇帝も現れます。
 しかし,迫害すればするほどに下層民を中心に信者は増えていき,〈ディオクレティアヌス〉帝による「最後の大迫害」を経て,〈コンスタンティヌス〉大帝(位324~337)の時代に公認されます。彼自身も,キリスト教になった最初のローマ皇帝です。

 公認とは「信じてもいいよ」ということですが,キリスト教の信仰の内容には,先述のグノーシス主義の影響を受けたものなど,様々なバリエーションが存在したため,公認する以上,正統な教義を明確化する必要が出てきました。皇帝支配に都合の悪い説も,存在するかもしれません。
 そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H31教皇の至上権が再確認されたわけではない】を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた,仏典結集と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張したアタナシウス〔ニカイア〕派【本試験H29アリウス派ではない】の三位一体(さんみいったい,トリニタス,トリニティ)説です。

 一方,異端となったのは,イエスを人とするアリウス派。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります【本試験H29】。
(注)われわれが「キリスト教の歴史」を学ぶとき,もとから「キリスト教」が何であるかガッチリと定まっていて,〈イエス〉の教えがそのまま「キリスト教」であるかのようにとらえがちです。しかし,何が「キリスト教」で何が「キリスト教ではない」のかは,さまざまな主体によってゆっくりと定まっていくのです。「どれが聖典か議論されたわけではなくて,ゆっくり選別されていく,ゆるやかな作用が在ったのである」(ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.75~p.76。) つまり,「これが『新約聖書』を構成する文書だ」と,あらかじめハッキリと決まっていたわけではなく,「一連の書物が人気を得るにつれて」,『新約聖書』に収録されるべき文書がゆっくりと選定されていったのです。



◆ローマ帝国の支配機構を真似て,有力な教会によりキリスト教の支配機構がつくられていった
 ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国も東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時,ローマ,コンスタンティノープル,アンティオキア,イェルサレム,アレクサンドリア【本試験H12】の五本山(五大教会)【本試験H12】に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
 特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
 はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった〈ペテロ〉(?~64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。

 遊牧民パルティア人によるアルシャク(アルサケス)朝パルティアを倒した【本試験H26アケメネス朝ではない,本試験H27】のが,農耕に従事するイラン人によるササン(サーサーン)朝です(注) 【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H3時期(6世紀のイランか),本試験H4王の道を整備していない,本試験H8ソグド人ではない】。
 建国者は〈アルダシール1世〉(位224~241頃)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼はゾロアスター教を国教とします【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】。インダス川方面【本試験H25ガンジス川ではない】まで進出し,北インドのクシャーナ朝を衰えさせました。

(注)「ササン(サーサーン)朝ペルシア」という呼称もありますが,実際にはペルシア(ファールス)は領域の一つに過ぎず,支配集団にはさまざまな出自を持つ者がいました。例えば後のセルジューク朝やインドのムガル朝で使われていた言語はペルシア語です。イランだからといって脊髄反射的に“ペルシア”と呼ぶのには,「イランには,かつてギリシア人と戦ったペルシア人の国がある」というヨーロッパからの単純な歴史観も背景にあります。春田晴郎によると、サーサーン朝はかつてのアケメネス〔ハカーマニシュ〕朝よりも、アルシャク朝〔パルティア〕との連続性が強いと主張しています(春田晴郎「イラン系王朝の時代」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年)。
 また,かつては建国年は226年とされていましたが,王の名が打刻されたパルティア貨幣や史料の研究から現在では224年が有力となっています。



 それに対して3世紀の【本試験H251世紀ではない】〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をとるマニ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】【本試験H21ヴィシュヌは主神ではない】【本試験H25】は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教の教父(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)【本試験H17ストア派ではない】として有名になる〈アウグスティヌス〉(354~430) 【東京H22[3],H30[3]】【本試験H6時期(同時代の出来事を選ぶ)】【本試験H17ディオクレティアヌスではない】【追H19『神学大全』を著していない,H21、H25アウグストゥスではない】が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が『告白(録)』【本試験H17】に記されています。
 ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教は摩尼教,ゾロアスター教は祆教(けんきょう) 【追H25イスラーム朝ではない】と呼ばれ,唐代(618~907)に流行しました。

 第2代の〈シャープール1世〉(位241~272) 【東京H29[3]】【本試験H3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,本試験H10時期を問う】【本試験H25】は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝〈ウァレリアヌス〉【本試験H25ネルウァではない】【早政H30】を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。
 
 なお,イラン人は,ガラス・銀・毛織物・陶器などの工芸品の製作に優れ,ササン(サーサーン)朝で用いられた「獅子狩(ライオン狩り)」のデザインは,法隆寺に伝わる四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん(にしき))にも見られることから,ユーラシア大陸に広く用いられた図案であったことがわかります。正倉院の漆胡瓶(しこへい)・白瑠璃碗(しろるりわん)にも,サーサーン朝の美術の影響があります。

 東西ローマの分裂後も,小アジア,シリア,エジプトは東ローマ帝国の支配下に置かれていました。小アジア中央部のカッパドキアは奇岩が分布していることで有名で,キリスト教徒の隠れ家として利用されていました。4世紀にはカッパドキア三教父と呼ばれる神学者が現れ,三位一体説の教義に影響を与えました。

 現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下でパルミラ【追H26リード文、H30ソグド人と無関係】【京都H22[2]】が繁栄し,東西交易で栄えました。これは260年代には事実上ローマ帝国から分離しています(注)。
 遺跡はのちに世界文化遺産に登録されましたが,「イスラーム国」により破壊され「危機遺産」となっています。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。




◯200年~400年のアジア  西アジア 現⑱アルメニア
 アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉【本試験H31】によりテマ=アルメニアコンという軍管区(テマ)に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。





●200年~400年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。

 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。



●200年~400年のアフリカ

○200年~400年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。




○200年~400年のアフリカ  南・中央・西アフリカ

南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


 アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。


 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、後50年~400年の層の集落で、グラベリマ種のイネのもみが出土しています。栽培化されたアフリカ産イネの最古級の例です。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。


○200年~400年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 エジプトのアレクサンドリアにはキリスト教の五本山の一つ,アレクサンドリア教会が位置しています。






●200年~400年のヨーロッパ

○紀元前後~200年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



◆ローマ帝国ではバルカン半島のトラキア人やイリュリア人が台頭し,「軍人皇帝時代」となる
ローマ皇帝にバルカン半島人が即位,重心は東方へ
 ローマ帝国では皇帝〈カラカラ帝〉(位198~217) 【本試験H3,本試験H7カエサルではない】が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握。カラカラ浴場(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
 212年には「世界中のすべての外人(帝国内の全自由民【本試験H3,本試験H7】)にローマ市民権を付与する」法(アントニヌス勅法)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したローマ市民法と,万民法(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法) 【本試験H8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。アルシャク(アルサケス)朝パルティアを攻めようとしたのは,〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)への憧れからとみられます。

 〈カラカラ帝〉が帝国の全自由民に市民権を与えたのは税収を増やすための政策だったと考えられますが(注1),これにより辺境地帯の有力者が政治に積極的に介入するようになっていきました。
 たとえば,235年に即位した〈マクシミヌス=トラクス帝〉(位235~238)は,トラキア人の羊飼い出身から皇帝に上り詰めた人物です。イタリアでの反乱鎮圧に向かう途中,部下の兵士に暗殺されて以降,284年までのあいだ,実に26人の皇帝がほとんど寿命をまっとうせずに短期間で交替していく軍人皇帝時代に突入します。その多くガエリート出身でなく一兵卒からの叩き上げでした。

 260年には属州ガリアや属州ゲルマニアで反乱が起き「ガリア帝国」と呼ばれる分離国家も生まれます(注2)。

 社会不安の中,キリスト教が帝国内に広まっていくのは,この時期のことです。なお,〈アウレリアヌス帝〉(位270~275)のときには,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入が激しくなったことから,271年にドナウ川北岸のダキアから撤退しました。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。
(注2) 古山正人他編『西洋古代史料集 第2版』東京大学出版会,2002,p.218。



◆ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を複数の皇帝で共同統治し,混乱をおさめようとする
現クロアチア生まれの皇帝が,帝国統治を改革へ
 そんな中,現在のクロアチアで生まれた〈ディオクレティアヌス〉(位284~305) 【追H28全自由民にローマ市民権を与えたわけではない】は,軍人として活躍後,小アジアのニコメディアで皇帝に即位しました。ですから彼も“軍人皇帝”です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。
 しかし,東に首都を移してしまえば,今度は西側が手薄になっていきます。そこで彼自身は帝国の東方を担当し,ローマ帝国の西半は軍の同僚の〈マクシミアヌス〉(位286~305)を共同皇帝としてを担当させることにしました。
 その後,西の〈マクシミアヌス〉と東の〈ディオクレティアヌス〉が,それぞれ東西の「正帝」(アウグストゥスといいます)として,東西の「副帝」(カエサルといいます)を任命して,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々がライン川とドナウ川の防衛線を突破しないように担当させました。広い帝国を4人で統治するこの制度はテトラルキア(四分統治) といいます。

 〈ディオクレティアヌス〉は反乱を防止し,自身に権力を集めるため,まず属州を100程度に細分化しました。従来,属州は元老院議員などの有力者の拠点となっていましたが,その力を奪おうとしたのです。中央から属州総督を派遣して行政を担当させ,国境線の防衛は軍司令官に担当させました。軍事と行政の分担です。さらに官僚制を整備して,増税を図りました。そして,皇帝崇拝を導入し,それを認めないキリスト教徒を弾圧しました(最後の大迫害)。しかし,すでにキリスト教は官僚などの支配層にも広がっており,拡大を食い止めることは不可能でした。
 軍人皇帝の時代に起きていたインフレーションを抑えようと貨幣もつくりなおし,物価を抑えるために最高価格令も導入しましたが,これはあまり効果がありませんでした。

 このように,元老院の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これを専制君主政(ドミナートゥス) 【本試験H3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】 【追H25テオドシウスのときではない】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。



◆コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
 〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりました。
 〈コンスタンティヌス帝〉(大帝,在位306~337)は【Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】【H29共通テスト試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】【追H25テオドシウスとのひっかけ】【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】は「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,313年にもう一人の正帝〈リキニウス〉(位308~324)と連名(注1)でミラノ勅令【本試験H3】でキリスト教を公認しました【本試験H3国教としたのではない】【本試験H18アリウス派を異端にしていない,本試験H27,本試験H29帝政を始めたのはアウグストゥス】【追H25テオドシウス帝ではない】【セA H30アウグストゥスではない】。

 最終的に内戦に勝利した〈コンスタンティヌス〉は、東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせます。

 324年には,ギリシア人の植民市であったビザンティウム〔ビュザンティオン〕【東京H14[3]位置を問う】に新たな都市コンスタンティノープル【Hセ10】【追H30 6世紀ではない】を建設を開始。みずからの名を付けた都市にふさわしく、城壁、キリスト教的な建造物や競技場・浴場・広場・記念柱・大通りを建設していきました。
 ただそれは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」(アルテラ=ローマ)を建設する意図があったか、はっきりとはわかりませんが、国防目的に加えキリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます(治世末期にはこの都市の元老院を議員の人数を300人から約2000人に増員しています)(注2)。
 またローマ【追H30アテネではない】市内にはコンスタンティヌスの凱旋門(がいせんもん)【本試験H17】【追H27コンスタンティヌス大帝が建てたか問う、H30】を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門【本試験H17直接は問われていない】や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。

 また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民を小作人(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のことをコロヌスと呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではなくコロヌス(移動の自由のない小作人) 【追H20奴隷ではない】を使用した大土地経営のことをコロナートゥス(コロナトゥス) 【追H20】といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)【本試験H29共和政ローマの時代には始まっていない】。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)では農奴と呼ばれることになります。

 キリスト教を公認するからには教義の統一が必要となったため,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H18ミラノ勅令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H21時期を問う、H27コンスタンツ公会議ではない】で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス【東京H6[3]】)によるアタナシウス(ニカイア)派の三位一体(さんみいったい)説です。
  アリウス派【追H21、H27】【H27名古屋[2]記述(内容を説明)】は異端(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
 異端とされたアリウス派【本試験H25ネストリウス派ではない】はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。

 このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した〈エウセビオス〉(260?265?~339) 【東京H22[3]】【早政H30】がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。
 〈コンスタンティヌス〉大帝によって建設された都市コンスタンティノープルが、キリスト教の篤い信仰に基づいたものであったとする記述も、〈エウセビオス〉によるもの(『コンスタンティヌスの生涯』)。本当に大帝がそのような意図に基づいていたか確証はありません(注3)。
 このようにして確立されていったキリスト教会の歴史観を「普遍史」といいます。

(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.31。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.151。
(注3) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.150。



 再び「強いローマ」を目指し〈コンスタンティヌス〉大帝の時代に皇帝は神聖化され、そのもとで寵愛を受けた一部の有力元老院議員、官僚、宦官が政治を動かすようになっていきます。
 大帝の死後、3人の子が帝国を分割。大帝以降の皇帝は、基本的にコンスタンティノープルの聖使徒教会に埋葬されるようになります(注1)。
 死後もローマ帝国の国力は衰退しませんでしたが(注2)、兄弟間の争い(長男〈コンスタンティヌス2世〉は三男〈コンスタンス1世〉に殺害されます)、皇位の簒奪といったごたごたを経て、次男〈コンスタンティウス2世〉(位337~361)が単独の皇帝となります。
 その後、大帝の次男〈コンスタンティウス2世〉に任じられガリアを統治していた西の副帝〈ユリアヌス〉(大帝の甥)が360年に反乱を起こします。しかし361年に次男〈コンスタンティウス2世〉が急死したことからすぐに決着がつきます(〈コンスタンス1世〉も部下により殺害される)。

 このゴタゴタを切り抜けた〈ユリアヌス〉(位361~363)は皇帝に即位すると、〈コンスタンティヌス〉大帝以降のキリスト教を保護する支配スタイルを抜本的になくし、伝統行事(ローマの神々に犠牲獣をささげる儀式など)を重んじます。もともとローマ帝国では,古来からローマでは多神教【本試験H3】が支配的で、エジプトの神イシス【本試験H25リード文】や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】なども信仰されていました。
 しかし、363年にサーサーン朝ペルシアへの遠征中ティグリス河畔で死去すると、後継はキリスト教徒の〈ヨウィアヌス〉(位363~364)となりました(注3)。
 〈ユリアヌス〉はキリスト教の伝統的な歴史観では,異教を復活させようとしたことから,「背教者」と呼ばれますが,それでもキリスト教の拡大は止まりません。信者の増加には,200年頃から〈ヒエロニムス〉(340?~420)らによりラテン語訳『聖書』(『ウルガタ』といいます)が刊行されるようになったことも影響しています。

 なお、フランク人の一小部族であるサリ=フランク人が、358年にトクサンドリア(ライン川河口~ベルギー北東部)に定住を許されたのは〈ユリアヌス〉帝による決定です。
 これ以降フランク人はローマ軍に有能な兵士を供給することになり、急速にガリア社会に進出していくことになります(注4)。

(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.166。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。〈ヨウィアヌス〉はササン朝ペルシアと講和して遠征を中止し、ティグリス川以東の配置とメソポタミアの若干の都市・砦を失いますが、ローマ帝国が対外的に衰退したわけではありません(同、p.30)。
(注4)フランク人が史上にあらわれるのは3世紀後半のこと(260年代。3世紀頃に「カマウィ、シャルアリ、サリ、アムスウェリといったライン川下流の部族が同盟したとされます。ラテン語化したFrancusには「大胆なもの」「勇敢なもの」という意味があります。福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.57)。
 当時のフランク人は、カマウィ、ブリュクテリ、アムスウェリ、シャルアリ、シカンブリ、サリなどいくつもの小部族の混成状態にありました。4世紀後半になると、帝国の重要な軍事官職にもフランク人が登場するようになります。「外国人なのになぜ?」と思うかもしれませんが、ローマ的価値観を受け入れたなら、帝国の外の人々であっても柔軟に受け入れるのあ「ローマ的な世界秩序」であったのです。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.72-73。



◆テオドシウス帝の死後,ローマ帝国の全土を一人で支配できる皇帝はいなくなる
外部民族の受け入れが加速する中、フン人が侵入
 〈ヨウィアヌス〉帝の死後、〈ウァレンティニアヌス1世〉(位364~375)が即位。彼は即位一ヶ月後、帝国所領の担当を2つに分割し、東半分を弟〈ウァレンス〉(位364~378)にまかせ共同統治の形をとっています。これは「帝国が分裂」したわけではなく、緊密な連携を保ちつつ帝国を支配するための効率的な解決策でした。「皇帝のいる所がローマである」という2世紀の言葉があるように、複数の皇帝が同時に存在して別々の場所にいる限り宮廷も2つに分けるしかないということでした。〈ウァレンス〉はトラキアを水源とするウァレンス水道を建設し、コンスタンティノープルの水供給インフラを確立した皇帝でもあります(注1)。
 その後、〈ウァレンティニアヌス1世〉の子〈グラティアヌス〉(位367~383)が帝国西半の皇帝に即位しますが、殺害されました。〈グラティアヌス〉の共同皇帝として〈ウァレンティニアヌス1世〉の子である〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)が即位しています。

 軍人皇帝時代から皇帝たちの出身地はドナウ南岸からバルカン半島にかけてイリュリクム地方の人々が多く、〈ウァレンティニアヌス1世〉の家系も例外ではありませんでした(注2)。
 4世紀になると、帝国のフロンティアにあった属州には外部部族集団(たとえばアラマンニ人)が移住する例が増え、皇帝が組織的にそういった外部部族を定住・植民させて、ローマとの同盟関係を結んで帝国領内で自治を得て暮らす例もみられるようになります。4世紀後半には皇帝の側近に軍の最高司令官にも、帝国外部にルーツをもつ軍人が就任していたのです(注3)。
 375年にフン人【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】が東から黒海北岸に出現したのも、まさにこういった事態が進行していたときだったのです。
 フン人の脅威を逃れて属州トラキアへの移住を迫ったゴート人に対し、帝国の東半分を治めていた弟〈ウァレンス〉(位364~378)は受け入れを許可したわけですが、彼らを受け入れれば「ローマ兵として戦力になりそうだ」と考えてのことでした。受け入れに先例がなかったわけではないのです(注4)。しかし受け入れ後にローマ人が過酷な扱いをしたがために暴徒化し、おさえきれなくなったローマ軍が敗走したため移住者集団をコントロールすることができなくなったため、ゴート人だけでなくフン人やアラニ〔アラン〕人までもが外部から進出するようになってしまいます。
 しかし378年、〈ウァレンス〉帝はゴート人と戦って、敗北。皇帝は殺害され、ローマ軍は壊滅します。

 そんな中,西方を支配していた〈グラティアヌス〉(位367~383)が防衛の“頼みの綱”としたのが〈テオドシウス〉でした。彼は379年に〈テオドシウス1世〉(大帝,在位379~395) 【追H25】 として即位し,ゴート人に勝利。帝国の北部に押し返すことはできなかったものの、382年に彼らを同盟部族(フォエデラフィ)として受け入れたのです。現代風に考えれば「ゴート人がローマ帝国内に“独立国”を建てた」とみなせそうですが、そういった措置自体は特別なものではなく、先例もありました。
 しかしそれ以降、歴史の流れが転換していくのは、彼らが「定住」することなく再び「移動」を繰り返したこと、そして帝国内から見た外部民族に対する目が厳しくなっていったことでした(注5)。

 その後、383年皇帝〈グラティアヌス〉が将軍に殺害され、危険の迫った共同皇帝〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)は共同皇帝〈テオドシウス1世〉を頼り、〈ウァレンティニアヌス2世〉→西半の皇帝・〈テオドシウス1世〉→東半の皇帝のように分担することにしました。
 しかし、〈ウァレンティニアヌス2世〉は392年に疑わしい死を遂げます。
 おそらく、フランク人の将軍(ローマ軍の総司令官として活躍していた〈アルボガスト〉(?~394))によって殺害されたとみられます。
 代わってフランク人将軍が皇帝に擁立したのは修辞学の教師であった〈エウゲニウス〉でした。

(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32,154,168。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32。
(注3) 帝国領内に定住・植民し軍事奉仕するようになった者は「ラエティ」と呼ばれ、ローマと同盟関係を結び自治をエて、独自の指揮権の下でローマ軍兵士として戦った部族・軍隊は「フォエデラティ」(同盟部族)と呼ばれました。アラマンニ人のほかにはフランク人もそういった活動をしていた部族として知られます。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.34-35。
(注4) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.36。
(注5) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.38。



◆〈テオドシウス〉大帝はキリスト教を国教と定めた
ローマ帝国でキリスト教が国教とされる
  異教を復活させようとする〈アルボガスト〉らに対し、〈テオドシウス〉大帝は対立します。

 〈テオドシウス〉大帝がキリスト教に着目したのには理由があります。
 キリスト教徒の人口は増え続け,各地の都市の行政を握る都市参事会においてもキリスト教の司教の発言力が高まっていたのです。
 「全土を効率よく支配するには,人々の心や活動に大きな影響を与えている教会組織を利用したほうがよい」と考えた〈テオドシウス帝〉は,381年にコンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議を開催。アリウス派の異端問題に決着をつけるとともに,ニカイア=コンスタンティノポリス信条を採択しました。
 この信条は,ローマ教会,正教会を始め,多くのキリスト教派(教派(英:デノミネーション)とは同じキリスト教ではあるが異なる信仰スタイルを持つグループのこと)で「正しい」とされていますが,解釈は教派によってちょっと異なります。字句の解釈をめぐりローマの教会とコンスタンティノープルの教会は,今後まったく“別物”の教派へと分かれていくことにもなりました。

 こうして,〈テオドシウス1世〉【本試験H3コンスタンティヌスではない】【追H25】は392年にキリスト教をローマ帝国の国教と定めました【追H25】。

 それに対しキリスト教化に反対する元老院勢力は〈エウゲニウス〉帝に協力。
 〈テオドシウス〉大帝はゴート人の力も借りて、392年にイタリア北部のフリギドゥス川で交戦し、これを破りました(フリギドゥス川の戦い)。
 
 戦争に勝利した彼は、ギリシア・ローマの伝統的な神々や異教を徹底弾圧し、キリスト教のもと、ローマ帝国をひとつの皇帝権のもとでまとめることに成功したのです。
 しかし、大帝が395年に突然死去すると,すでに共同皇帝であった息子の2人に広大な領土を分けて継承することになります (西→次男〈ホノリウス〉,東→長男〈アルカディウス〉)。
 帝国を東西の皇帝により分割統治することには先例があり、4世紀後半には普通となっていましたから珍しいことではありませんでしたし、法制度上分離しているわけでもありませんでしたが、その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
このことを,後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂といいます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。

 今後,ローマの西方領土は慣用的に「西ローマ帝国」といいます。
 若年の東西皇帝の側近を占めたのは外部民族出身者でした。東の〈アルカディウス〉の重臣はガリア出身の〈ルフィヌス〉、西の〈ホノリウス〉の重臣はローマ人の母とヴァンダル人の父を持つ人物〈スティリコ〉でした。ドナウ川を超えたゴート人は、ローマ人に不信をいだき、コンスタンティノープルからギリシャに南下し、さらにバルカン半島西岸を北上します。そんな中、東西帝国の重臣がゴート人の対応や領域をめぐって対立。のち、東ローマの重臣は西ローマの東方拡大を恐れ、逆にゴート人に東西両帝国の境界領域の統治権を委ねます(注1)。〈アラリック〉率いるさまざまな人々の集団は401年には北イタリアに入ってミラノを包囲、西ローマを苦しめます。西ローマの〈スティリコ〉は北方の属州を守るはずのローマ軍をかき集め、さらにフン人やアラニ人などを加えた連合軍で、これを迎え討つほかなかったのです(注2)。
 西ローマの正帝はミラノ,のちラヴェンナに置かれていましたが,ゴート人の襲撃を受け、東ローマに比べ統治は弱体化。北方を守るべきローマ軍を呼び寄せてしまっては、もはやローマが属州の治安を維持することも難しくなります。
 476年に西ローマの正帝がインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の傭兵隊長〈オドアケル〉により殺害された後は,西ローマに正帝が即位することはなくなってしまいました。これを,後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。

 その後,コンスタンティノープル【Hセ10】を首都とする東方領土の正帝(以後東ローマ帝国(またはビザンツ(ビザンティン)帝国【Hセ10】)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は1453年に滅亡します)。

 ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も,天動説【本試験H2,本試験H8地球の公転・自転説ではない,本試験H12地動説ではない】を体系化した〈プトレマイオス〉(100頃~170頃) 【追H26地動説を体系化していない】【本試験H15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】【本試験H2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,本試験H8】などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。
 ローマ帝国において,著しく発達していったのは建築・土木や法律の分野です。従来の様式を,より普遍的な様式に高める努力がなされ,ギリシアの柱頭の装飾様式を組み合わせたり,民族を越えた普遍法の制定が研究されたりします。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.42。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.44。





○200年~400年のヨーロッパ  東・中央・北ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 ドナウ川とライン川よりも北側の森林地帯には,狩猟や農耕・牧畜【本試験H7農耕を行わなかったわけではない】によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が生活,キヴィタスと呼ばれる部族国家を形成していました。
 キヴィタスには,貴族・平民・奴隷の区別があり【本試験H7】,貴族中心ではありますが,成年男子全員【本試験H7女性は参加していない】が民会で重要な事柄を決めました。
 有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました(従士制)。彼らの様子については,〈カエサル〉【追H29】の『ガリア戦記』【本試験H15『ゲルマーニア』とのひっかけ】【追H29キケロが著していない】を,〈タキトゥス〉の『ゲルマニア』(98年)などから知ることができます。
 やがて,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も定住農耕をするようになると,人口が増加し,耕地が不足したために,ローマ帝国領内に進入するインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も出てきました。ローマ帝政が終わりに近づくと,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々はドナウ川の下流域にまで活動区域を広げていました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の部族は,集団ごとにローマの傭兵団として各地に駐屯(ちゅうとん)するようになり,やがてローマ帝国を脅かすようになっていきました。





○200年~400年のヨーロッパ  バルカン半島,西ヨーロッパ
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆ローマ帝国は,進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々を軍団として認め,定住と国家建設を許可した

 バルカン半島のドナウ川北部のダキアは,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときに属州となっていましたが,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々や黒海北岸からの騎馬遊牧民の進入が相次ぎ,軍人皇帝〈アウレリアヌス〉(位270~275)のときに手放すことが決まりました(271年撤退)。
 黒海北岸方面からバルカン半島には,黒海沿岸の低地を通ればカンタンに進出できます。黒海沿岸部の西には,カルパティア山脈がドイツの中部にかけて弓なりに伸び,ここをつたってドナウ川中流域のパンノニア平原(現在のハンガリー)に至ることも可能です。

 212年に皇帝〈カラカラ〉(188~217)【追H28ディオクレティアヌスではない】により全ローマ帝国自由人【早政H30】に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年にはゴート人がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。
 3世紀後半に歴代皇帝がゴート人と戦っています。このころのゴート人は複数の集団に分かれていました(注)。
(注)ゴート人が当初から東西別々のアイデンティティをもっていたわけではないと考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.17,p.70。



 バルカン半島西部のイリュリア人のローマ化(イリュリア人らしさがなくなり,ローマ文化を受け入れること)も進み,ダルマツィア地方からは皇帝〈ディオクレティアヌス〉(位284~305)が輩出され,帝国の危機を四分統治(テトラルキア,帝国の管区を東西に2分しそれぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置く制度)で救おうとしました。
 330年には皇帝〈コンスタンティヌス〉(位306~337)が首都をビュザンティオンに置き,元老院議員以外の身分や職業を固定化して,中央集権化を強めました。

 しかしローマ皇帝の改革もむなしく,異民族のさらなる進出は国境地帯の情勢不安定をさらに悪化させていきます。
 その頃、黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされるフン人【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【追H30】がバルカン半島方面【追H30ブリタニアではない】に移動していました。
 360年に黒海沿岸のゴート人を征服し【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【H27名古屋[2]】アラン〔アラニ〕人も含む多数の民族を巻き込んで、ドナウ川下流地帯に迫って来ました。
 そんな中,ゴート人(注1)はローマ皇帝〈ウァレンス〉と交渉し,兵士を提供するかわりにドナウ川以南で耕作する権利を獲得しました。ローマ帝国はライン川・ドナウ川の「国境」(リーメス)地帯の防衛のため,異民族の進入を異民族の軍団によって制圧する作戦をとっていました(“夷を以て夷を制す”)。皇帝〈ウァレンス〉はゴート人を軍団として受け入れて、国境周辺の守りを固めようと、彼らにバルカン半島東部のトラキアを用意します。
 しかし,15000~20000人の戦闘員、家族を含めて40000人ほど(注2)のゴート人が大挙して川を渡ろうとすると,キャパオーバーだったことが発覚しました。皇帝〈ウァレンス〉は一転して移住を阻止しようとゴート人への攻撃を決意。
 対する〈アラリック〉王に率いられたゴート人は食料不足で飢え死に寸前。決死のゴート人は378年にアドリアノープルの戦いでローマを破り,皇帝〈ウァレンス〉(位364~378)の命を奪いました。

 395年には〈テオドシウス1世〉がローマ帝国領を2人の息子に相続し,これ以降ローマ帝国が統合されることはありませんでした。このときの分割線はバルカン半島西部を南北に走り,現在のセルビアとボスニア=ヘルツェゴヴィナの国境線とほぼ一致します。また,現在のローマ=カトリック教会と正教会の勢力を分ける線でもあります。
 この分割線よりも東の地域は,今後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やスラヴ系諸民族との関係が深まっていくことになります。

 ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,定住して建国します(西ゴート王国【東京H11[1]指定語句】【H30地域を問う】)。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたわけです。
(注1)彼らを「西」ゴート人とすることも一般的ですが、当時のゴート人に「西ゴート」「東ゴート」としての意識はなかったというのが、現在の通説です。正確には「〈アラウィウス〉王に率いられたテルウィンギ集団を中心とする人々が、ついで同じくゴート人のグレウトゥンギ集団やアラニ人たちが、さらにはフン人の集団も渡河した」と考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。
(注2) 史料(同時代の〈エウナピウス〉(4~5世紀))によっては約20万人の渡河があったといいますが、現在では過大な数字とされています。家族を含めて4万人程度であったとするならば、帝政前期からみられていた平和的移住と規模はあまり変わりません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。




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・200年~400年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現⑩ベルギー
ゲルマン人は現・ベルギーの北部にまで進出する
 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれていました(注1)。
 その後、396年に東ゴート人がローマ帝国内に移動を開始してから、ヨーロッパは「民族大移動」の波に飲み込まれます。
 現・ベルギーにはフランク人が移動しました。
 ローマ軍はガリア=ベルギカ属州を東西に走る軍用道路(ケルン~ブーロニュ間)にまで退却し、フランク人も追ってきましたが、軍用道路以南の山岳地帯にまで進出することはできませんでした。
 これが、のちのちまで続く、ゲルマン系の北部と、ローマ(ラテン)系の南部の境界線となっていくのです(注2)。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。
(注2) 明確な境界線ではなく、良系言語の共存地域もありました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.8。


○200年~400年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
◆ローマ帝国は,森林地帯からローマ帝国に移住してきたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の軍事力を頼り,帝国内の建国を許した イベリア半島は属州ヒスパニアとされローマ帝国の支配下にありましたが,南部のコルドバは“小ローマ”といわれるほどローマ化がすすみ,「自分たちはローマ人なんだ」という意識が根付いていきました。3世紀にはイベリア半島全域にキリスト教も拡大していき,325年のニケア(ニカイア)公会議ではコルドバ司教〈ホシウス〉が主席を務めました。キリスト教を国教化した〈テオドシウス〉帝もコルドバ出身です。
 一方北部のカンタブリア人やバスク人は,ローマの文化を受け入れず独自の文化を保っていました。



●400年~600年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流②,南北アメリカ:政治的統合をこえる交流①
 古代末期の民族大移動を受けて,ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,新たな広域国家の形成に向かう。
 アメリカでは中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に,政治的統合をこえる交流が広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸
 ユーラシア大陸の各地で遊牧民が大移動し,定住農牧民を支配下に置いていた古代帝国が崩壊し,遊牧民・農牧民の文化の融合が進むのがこの時代。
 次第に,遊牧民が農耕民の支配層と融合・提携し,「農牧複合国家」(中央ユーラシア型国家)が建設されていく。

・東アジア
 拓(たく)跋(ばつ)部の鮮卑(せんぴ)が華北を統一,漢人支配層と融合した北朝が,南朝と対立する
 魏(ぎ)晋(しん)南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)が続く中国では,華北で騎馬遊牧民の鮮卑(拓跋部)が,漢人支配層と融合して北朝(ほくちょう)を樹立。長江流域の南朝と対立するが,6世紀末に北朝の北周の支配層が隋(ずい)王朝を建て,中国全土を支配する。

・南アジア
 エフタルの進出を受け,インドのグプタ朝は崩壊,イランのサーサーン朝は撃退
 西アジア・南アジアでは中央アジアからの騎馬遊牧民エフタル(匈奴系とみられる)【本試験H8グプタ朝ではない】の進出を,イラン高原のペルシア人によるサーサーン朝【本試験H8ソグド人ではない】が,モンゴル高原のテュルク系の騎馬遊牧民突厥(とっけつ)【本試験H8】とともに撃退。
 南アジアでは,北インドを統一していたグプタ朝マガダ国は,エフタルの進出を受け崩壊した。デカン高原以南には,西海岸にヴァーカータカ朝(3世紀後半~6世紀前半)やカダンバ朝(3世紀後半~13世紀),チェーラ朝,東海岸にパーンディヤ朝など,ドラヴィダ語族系の諸王朝が栄えます。



・ヨーロッパ
 フン人の進出を受け,ローマ帝国西方はフランク,ゴート,東方はビザンツ帝国
 ユーラシア大陸西部のローマ帝国西方の領内では,東方からの騎馬遊牧民フン人(匈奴系という説あり)の進出を受け,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が国家建設をゆるされ,キリスト教とローマ文化を受け入れていきます。
 特にフランク人(フランク王国),ゴート人(西ゴート王国,東ゴート王国),ブルグンド人(ブルグンド王国),ヴァンダル人(ヴァンダル王国)が,先住のラテン人の情報を取り入れて台頭していきます。

 伝統的な理解では、「ゲルマン人の侵入と西ローマ帝国の崩壊」をもって「古代」が終わり中世が始まるととらえ、一方,重心を東方にうつしていたローマ帝国では「古代帝国」の特色が温存され,コンスタンティノープルを中心とする皇帝が,陸海の交易路をおさえて繁栄を続ける(ビザンツ帝国)というストーリーが描かれるのが一般的でした。
 しかし、近年、「「古典古代」から「中世」への移行期は、おおよそ200年~800年頃までの長期におよび、それ自体が独自の活力を持った時代であって、古典古代が衰退したとか、没落したといった認識は適切ではないとする主張」が提出されるようになりました(注)。
(注) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.35。



 この時期には,陸海で新たな交易ルートがひらかれ,各地でパワーバランスが変わる。
 特に西アジアにおけるビザンツ帝国とサーサーン朝の対立を受け,アラビア半島の紅海沿岸(ヒジャーズ地方)の都市を経由する隊商交易が活発化。エチオピア高原を拠点とするアクスム王国と交易ルートをめぐる対立が起きる。交易の安全を図るため,アラブの遊牧民の統一を目指す運動が起きることとなる。
 東南アジアでは,マレー半島横断ルートに代わりマラッカ海峡を通行するルートが盛んとなり,従来のインドシナ半島南部のクメール人の扶南(内陸のメコン川流域に,クメール人の新勢力である真臘が扶南から自立する)や,チャム人のチャンパーに代わり,スマトラ島・ジャワ島やマレー半島南部にオーストロネシア語族系マレー人の政治的統合が進む。



(2) アフリカ
 アフリカ大陸北部では,北方のサハラ沙漠と西アフリカのニジェール川流域の間のラクダによる塩金貿易が盛んとなり,ニジェール川流域の政治的な統合が