Contents


世界史の「輪切り」


はじめに

 本書は,世界史を「とことん極める」ことを目的に,700万年前から現代にいたる世界史を26段階に「輪切り」すると同時に,地域ごとに分解して再構成した講義形式のテキストです。

 同じ地域を時代別に読み飛ばすもよし,同じ時代のさまざまな地域を比較するもよし。縦横無尽に活用ができるよう工夫しました。

 大学入試での活用にも対応し,大学入試センター試験に出題されたことのある箇所を本文中に示しています。頻繁に問われてきた語句は何なのか,どのようなひっかけ問題がつくられるのか確認することもできます。

 また,文化史も本文中に入れ込み,各時代の出来事や時代と関連付けて説明してありますので,別々に学習しがちな文化史も,世界史の流れの中での理解を目指します。

 さらに,アマゾン川流域やアフリカ各地,シベリア,北アメリカ,オセアニアの人々など,世界史学習ではスポットの当たりにくい地域も取り扱っています。





内容
●世界史のまとめ方 5
〈1〉時間の区切り方 5
〈2〉環境のとらえ方 8
〈3〉地域の区切り方 15
地域区分の一覧 19
●約700万年前~前12000年の世界 人類の出現 33
●約700万年前~前12000年のアメリカ 38
●約700万年前~前12000年のオセアニア 38
●約700万年前~前12000年のアジア 38
●約700万年前~前12000年のアフリカ 39
●約700万年前~前12000年のヨーロッパ 39
〇コラム ホモ=サピエンスは,どんな動物か 39
●前12000年~前3500年の世界 人類の生態の多様化① 43
●前12000年~前3500年のアメリカ 45
●前12000年~前3500年のオセアニア 49
●前12000年~前3500年の中央ユーラシア 50
●前12000年~前3500年のアジア 51
●前12000年~前3500年のアフリカ 55
●前12000年~前3500年のヨーロッパ 55
●前3500年~前2000年の世界 人類の生態の多様化② 56
●前3500年~前2000年のアメリカ 57
●前3500年~前2000年のオセアニア 59
●前3500年~前2000年の中央ユーラシア 59
●前3500年~前2000年のアジア 61
●前3500年~前2000年のアフリカ 67
●前3500年~前2000年のヨーロッパ 72
●前2000年~前1200年の世界 生態系をこえる交流① 73
●前2000年~前1200年のアメリカ 74
●前2000年~前1200年のオセアニア 76
●前2000年~前1200年の中央ユーラシア 77
●前2000年~前1200年のアジア 78
●前2000年~前1200年のアフリカ 87
●前2000年~前1200年のヨーロッパ 90
●前1200年~前800年の世界 生態系をこえる交流② 93
●前1200年~前800年のアメリカ 94
●前1200年~前800年のオセアニア 97
●前1200年~前800年の中央ユーラシア 98
●前1200年~前800年のアジア 99
●前1200年~前800年のアフリカ 104
●前1200年~前800年のヨーロッパ 105
●前800年~前600年の世界 生態系をこえる交流③ 108
●前800年~前600年のアメリカ 109
●前800年~前600年のオセアニア 110
●前800年~前600年の中央ユーラシア 110
●前800年~前600年のアジア 111
●前800年~前600年のアフリカ 117
●前800年~前600年のヨーロッパ 118
●前600年~前400年の世界 生態系をこえる交流④ 125
●前600年~前400年のアメリカ 126
●前600年~前400年のオセアニア 128
●前600年~前400年の中央ユーラシア 128
●前600年~前400年のアジア 129
●前600年~前400年のアフリカ 135
●前600年~前400年のヨーロッパ 136
●前400年~前200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化①
南北アメリカ:都市文明の発達 143
●前400年~前200年のアメリカ 144
●前400年~前200年のオセアニア 146
●前400年~前200年の中央ユーラシア 147
●前400年~前200年のアジア 148
●前400年~前200年のアフリカ 157
●前400年~前200年のヨーロッパ 158
●前200年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化②
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-① 166
●前200年~紀元前後のアメリカ 167
●前200年~紀元前後のオセアニア 169
●前200年~紀元前後の中央ユーラシア 170
●前200年~紀元前後のアジア 172
●前200年~紀元前後のアフリカ 181
●前200年~紀元前後のヨーロッパ 183
●紀元前後~200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化③
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-② 185
●紀元前後~200年のアメリカ 186
●紀元前後~200年のオセアニア 189
●紀元前後~200年の中央ユーラシア 189
●紀元前後~200年のアジア 190
●紀元前後~200年のアフリカ 201
●紀元前後~200年のヨーロッパ 202
●200年~400年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化④
南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-③ 209
●200年~400年のアメリカ 211
●200年~400年のオセアニア 214
●200年~400年の中央ユーラシア 214
●200年~400年のアジア 216
●200年~400年のアフリカ 226
●200年~400年のヨーロッパ 226
●400年~600年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流②
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流① 233
●400年~600年のアメリカ 235
●400年~600年のオセアニア 238
●400年~600年の中央ユーラシア 239
●400年~600年のアジア 240
●400年~600年のアフリカ 250
●400年~600年のヨーロッパ 252
●600年~800年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流③
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流② 259
●600年~800年のアメリカ 261
●600年~800年のオセアニア 263
●600年~800年の中央ユーラシア 264
●600年~800年のアジア 267
●600年~800年のアフリカ 299
●600年~800年のヨーロッパ 301
●800年~1200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流④
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流③ 310
●800年~1200年のアメリカ 314
●800年~1200年のオセアニア 318
●800年~1200年の中央ユーラシア 319
●800年~1200年のアジア 321
●800年~1200年のアフリカ 347
●800年~1200年のヨーロッパ 351
●1200年~1500年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑤
南北アメリカ:政治的統合をこえる交流④ 378
●1200年~1500年のアメリカ 384
●1200年~1500年のオセアニア 391
●1200年~1500年の中央ユーラシア 392
●1200年~1500年のアジア 403
●1200年~1500年のアフリカ 425
●1200年~1500年のヨーロッパ 429
●1500年~1650年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑥(沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化① 466
●1500年~1650年のアメリカ 470
●1500年~1650年のオセアニア 482
●1500年~1650年の中央ユーラシア 485
●1500年~1650年のアジア 487
●1500年~1650年のアフリカ 517
●1500年~1650年のヨーロッパ 524
●1650年~1760年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展① (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化② 562
●1650年~1760年のアメリカ 563
●1650年~1760年のオセアニア 571
●1650年~1760年の中央ユーラシア 573
●1650年~1760年のアジア 576
●1650年~1760年のアフリカ 592
●1650年~1760年のヨーロッパ 601
●1760年~1815年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展② (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:欧米の植民地化③ 623
●1760年~1815年のアメリカ 625
●1760年~1815年のオセアニア 634
●1760年~1815年の中央ユーラシア 639
●1760年~1815年のアジア 639
●1760年~1815年のアフリカ 650
●1760年~1815年のヨーロッパ 659
●1815年~1848年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展③ (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:独立① 685
●1815年~1848年のアメリカ 686
●1815年~1848年のオセアニア 694
●1815年~1848年の中央ユーラシア 697
●1815年~1848年のアジア 698
●1815年~1848年のアフリカ 708
●1815年~1848年のヨーロッパ 717
●1848年~1870年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展④ (沿海部への重心移動)
南北アメリカ:独立② 735
●1848年~1870年のアメリカ 737
●1848年~1870年のオセアニア 751
●1848年~1870年の中央ユーラシア 754
●1848年~1870年のアジア 755
●1848年~1870年のアフリカ 769
●1848年~1870年のヨーロッパ 776
●1870年~1920年の世界 世界の一体化①:帝国の拡大Ⅰ 791
●1870年~1920年のアメリカ 801
●1870年~1920年のオセアニア 814
●1870年~1920年の中央ユーラシア 819
●1870年~1920年のアジア 823
●1870年~1920年のアフリカ 857
●1870年~1920年のヨーロッパ 866
●1870年~1920年の南極 890
●1920年~1929年の世界 世界の一体化②:帝国の拡大Ⅱ 891
●1920年~1929年のアメリカ 894
●1920年~1929年のオセアニア 899
●1920年~1929年の中央ユーラシア 900
●1920年~1929年のアジア 901
●1920年~1929年のアフリカ 912
●1920年~1929年のヨーロッパ 917
●1920年~1929年の南極 928
●1929年~1945年の世界 世界の一体化③:帝国の動揺Ⅰ 929
●1929年~1945年のアメリカ 934
●1929年~1945年のオセアニア 944
●1929年~1945年の中央ユーラシア 946
●1929年~1945年のアジア 948
●1929年~1945年のアフリカ 957
●1929年~1945年のヨーロッパ 963
●1929年~1945年のヨーロッパ 963
●1929年~1945年の南極 975
●1945年~1953年の世界 世界の一体化④:帝国の動揺Ⅱ 976
●1945年~1953年のアメリカ 982
●1945年~1953年のオセアニア 986
●1945年~1953年の中央ユーラシア 987
●1945年~1953年のアジア 989
●1945年~1953年のアフリカ 1001
●1945年~1953年のヨーロッパ 1006
●1945年~1953年の南極大陸 1010
●1953年~1979年の世界 世界の一体化⑤:帝国の再編Ⅰ 1011
●1953年~1979年のアメリカ 1013
●1953年~1979年のオセアニア 1025
●1953年~1979年の中央ユーラシア 1027
●1953年~1979年のアジア 1028
●1953年~1979年のアフリカ 1049
●1953年~1979年のヨーロッパ 1058
●1953年~1979年の南極 1067
●1979年~現在の世界 世界の一体化⑥:帝国の再編Ⅱ 1069
●1979年~現在のアメリカ 1074
●1979年~現在のオセアニア 1085
●1979年~現在の中央ユーラシア 1089
●1979年~現在のアジア 1091
●1979年~現在のアフリカ 1119
●1979年~現在のヨーロッパ 1135
●1979年~現在の南極 1152
●参考文献 1153


表記について

1.読み方
 なるべく現地語主義をとっていますが,万全を期すものではありません。慣例の表記がないと理解しにくいものについては〔  〕や(  )で囲み併記しました。外国語の転写の方法は,『角川世界史事典』等を参照しました。
 (例)コロン〔コロンブス〕

2.人名
 人名は,地名など他の語句と混同しないように〈  〉で囲みました。

3.生没年・在位年・在任年
(1) 人名の後の(  )には,よみがなや生没・在位・在任年などを付しました。
(2) 宰相・首相・大統領・閣僚などは在「任」としました。
(3) 国王・皇帝などは在「位」としました。
(4) 何も書いていない場合は,生没年を表します。異説がある場合は併記しました。
  まったく不詳の場合には「生没年不詳」と表記しました。

4.その他の語句
(1) 読みにくい言葉の後には,(  )を付け,よみがなを付けました。
(2) 異称がある場合は,「;」を用いて併記しました。

5.年代
(1) 「紀元前」は「前」と表記,「紀元後」の年号はおおむね省略していますが,紀元をまたぐ場合には表記しました。
(2) 「年」を省略して「1453」のように表記してあることもあります。
(3) 明らかではない年代には数字の後に「?」を付け,異説がある場合は併記しました。
6.参考資料・史料
(1) 書籍名には『』を,その他の作品名には「」を用いました。
(2) 史料・資料に基づいた引用には「」とともに出典を(注)に示しました。
(3) セリフ調の説明,例えた言葉やくだけた表現,通称には“ ”や「 」を用いています。
7.地域
(1)大地域 各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
(2)中地域 各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
(3)小地域 現在の国家所在地を基本単位とし,各小地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。

●世界史のまとめ方


 「世界史のまとめ」というと、高校生のときに世界史を勉強した人であれば、「テスト前のノートまとめ」「受験勉強の暗記用ノート整理」のような作業を思い出すことと思います。

 しかし、ここで取り組みたいのは、試験に出る知識のまとめではなく、世界史そのもののまとめです。

 果たしてそんなことは可能なのなのでしょうか。
 「時間」,「環境」,「地域」の3つの観点から考えていきましょう。
お急ぎの方は,読み飛ばしていただいても構いません。
〈1〉時間の区切り方

◆世界史はいつからはじまるのか
 インド古来の伝説によると,神様がミルクの海をぐるぐるとかき混ぜ,そこから太陽や月,牛や人間など,あらゆるものが生まれたのだといいます。この「乳海攪拌」の光景は,世界遺産アンコール・ワットの第一回廊のレリーフの劇的に再現されています。

 一方,現代の科学者たちは,この宇宙の世界の始まりには「乳海攪拌」ではなく,「ビッグバン」が起こったのだと考えています。それは現在から約137億年前のことであるとされ,宇宙開闢(かいびゃく)に起点を置いて,壮大な記録を紡ぐ試みも近年では試みられています(注1)。

 しかし,ひとまずわれわれは,「世界史」を人類の誕生からまとめていこうと思います。それは,今から約700万年前にさかのぼります。

 文字に残された記録が現れるのは,だいたい今から約5000年前のこと。過去にあったことを文字情報をもとに復元できるのは,それ以降のことになりますし,常に文字の資料が十分にのこされているとは限りませんので,関連する遺骨・遺物や地層の状態などの“状況証拠”をもとに,過去を復元することも必要となります。


◆どこで時代を区切るべきか
 とはいえ,それでも「約700万年」というのは長大です。いっぺんに取り掛かるのは無論,無謀です(注)。
 じゃあ,どこかで区切ればいいじゃないか,ということになる。
 でも,今度はどこで区切るべきかが問題です。

 どのような観点や指標に基づくかによって,区切り方はただ一つに定まるわけではありません。
 例えば,子供の成長を区切る方法を考えてみましょう。
 ①誕生~,②こども園児時代,③小学生時代,④中学校時代…のように時期区分することができるかもしれません。
 でも,②こども園から,③小学校に上がると,何から何まで全部が劇的に変わってしまうのかというと,そういうわけではありませんね。
 通う場所や目的,交友関係や活動範囲は変わるかもしれませんが,子どもの中身が「別人」のようになってしまうわけではありません。それは,③から④にかけての変化でも同じことです。

 そうなると,交友関係の広がりに応じて,時期を区切ることも可能かもしれません。発達心理学の考え方を用いて,認知的な発達の度合いに応じて時期を区切ることも可能でしょう。

 このように「時代区分」というのは,ある一定の基準や指標に基づいて区切られるものであるがゆえに,すべてをカバーする区切り方というのは困難です。でも,区切ったほうが,区切らないよりも,その時期の特徴を取り出して議論することができるようになります。
 そういう意味で,時期区分というのはあくまで便宜的なものに過ぎないということです。
 先の例でいえば,われわれは②こども園児時代から③小学生に豹変するのではなく,②の自分を抱えながら③の時代に入り込んでいくのです。
 それが,世界史の「時代区分」となると,さまざまな地域のさまざまな人間が関わってくるわけですから,全員が「せーの!」で一斉に「中世!」とか「いまから近代!」のようになるわけはありません。すべての地域が一律の“お手本”に従い,段階的に“進化”していくように見えることもあるかもしれませんが,現在ではそのような一般法則(発展段階説)は認められていないのです(注)。

 とはいえ,世界史を眺めてみると,要所要所に,多くの地域を巻き込むようなインパクトを持つ共時的な変化に出くわすことがあります。
 そのような変化を駆動する節目(ふしめ)節目に,思い切って包丁(ほうちょう)を入れることで,約700万年の世界史を26パーツに切り分けて整理してみようというのが,「世界史のまとめ」の試みです。
 もちろん,全世界的(グローバル)に,ほぼ同時にわれわれの社会が変化するということは,たとえ,21世紀の現在であっても,そんなに簡単なことではありません。学びやすさも考慮し,あくまで便宜的に切り分けたものだと考えてください。
(注)例えば、ドイツの歴史化〈ケラリウス〉(1638~1707)は、17世紀のスタンダードの教科書とみなされていた世界史三部作『古代史』(1685)、『中世史』(1688)、『近代史』(1696)において、中世を世界史の中で中心となる完全な時代、ヨーロッパの発展に不可欠の時代として扱った(高山博『『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ 』、山川出版社、2002年、p.82)。



◆26のパーツには,大きな3つの節目がある
 ここでさらに本書では26個のパーツのうち、3つの重要な節目に注目したいと思います。

 第一の節目は,今から約1万年前。
 人間が動物を飼いならし,植物の生育をコントロールするようになっていく時期です。
 第二の節目は,西暦800年頃。
 気候が比較的温暖になり,人間の活動範囲が拡大していく時期にあたります。
 第三の節目は,西暦1760年頃。
 蒸気機関が発明され,人間が莫大な力を持つパワーを手にしてからの時代。
 
 この時代区分はもちろん便宜的なものですが,「世界史」に取り組む上での一つの道標(みちしるべ)となるはずです。

(注1)デヴィッド・クリスチャン他『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016。
(注2)そもそも,「世界史がわかる」とか「●時間でわかる世界史」などという触れ込みが,到底不可能な代物であるということは,自明です。「わかる」のではなく,「わかった気になる」といったほうが正確です。学校教育には様々な科目が用意されていますが,「世界史」ほど得体の知れない科目はありません。ともすれば,“苦役の道”をたどり,重箱の隅をつつくように用語をたくさん詰め込めば「わかった」ことにされがちな落とし穴を抱えています(小川幸司「苦役への道は世界史教師の善意でしきつめられている」『歴史学研究』 (859),青木書店,2009年10月号,p.191-200。

〈2〉環境のとらえ方

◆世界の舞台はどこにあるのか
 世界史の舞台は,もっとも大きなスケールで考えると,われわれの地球を擁(よう)する宇宙にあります。
 われわれの地球は,われわれの銀河系の中の,われわれが「太陽」と呼ぶ恒星を周回する惑星です。
 地球という惑星は水と大気が豊富で,自らの情報を複製・継承することのできる生命(細菌,古細菌,真核生物(動物・菌類・植物))で満ちあふれ,複雑に絡み合った生態系(エコシステム)を形成しています。
 太陽のもたらす莫大なエネルギーは,生命の活動の源であり,水や大気の循環にも影響し,地球内部のエネルギーとともに,気候や地形に変化を与え続けています。


◆人類の生態にはどのようなパターンがあるのか
 われわれ人類も,そんな舞台で活動する動物の一種(ホモ=サピエンス)であり,生態系の一員。
 その発達した知能と情報共有能力を駆使し,各地の気候や地形に合わせ,他の生物と共生・競合しながら,みずからを環境に適応させていった点が,人類という動物の持つ大きな特徴です。


◆「定住」(動かない暮らし)と,「遊動」(動く暮らし)
 多くの動物同様,初期の人類は動物や植物を獲得することで食料を得ていました。狩猟・採集生活です。魚介類をつかまえることは漁労〔漁撈(ぎょろう)〕といいます。必ずしも移動生活(「遊動」)を送っていたわけではなく,豊かな猟場・森林・漁場のあるところでは「定住」も可能でした。

 一方,今から約1万年前を過ぎたころ,地球の気候が各地で変動する中で,人類は動物や植物を管理し繁殖・収穫させる技術を獲得していきます。農耕・牧畜の開始です。
 牧畜をするにはある程度の広い土地が必要ですし,狩猟・採集と組み合わせるケースもありましたから,農耕・牧畜イコール「定住」というわけではありません。熱帯地域では焼畑(やきはた)農業といって移動を必要とする農法も導入されていました。

 このように「移動」の観点から人類の生態をみると,「定住」と「遊動」の2つのパターンの組合せが選択肢として考えられます。「動かない」と「動く」の違いというよりはむしろ,「あまり動けない」と「動かざるをえない」といったほうがいいかもしれませんね。種を一度植えてしまったらみんなで面倒をみなければいけませんし,雨が降らず家畜に与える餌がなくなれば移動せざるをえないですから。


◆「遊牧」という選択肢
 人類は各地の気候に合わせ,それぞれの生態系の一員として,狩猟・採集・漁撈や,農耕・牧畜を組み合わせた生態を営んでいきます。
 しかし,今から約3000年ほど前になると,新しいタイプの生活スタイルをとる人類が現れます。
 「遊牧」です。
 これも,生活スタイルを「とる」というよりは,「とらざるを得なかった」といったほうがよいでしょう。
 世界各地に分布する沙漠の一歩手前の気候であるステップ気候。降水量が少ないために,まばらな草原が広がるばかりで,水場でなければ定住・農耕は難しい地帯です。
 その地で家畜の群れをコントロールしながら,季節ごとに草原地帯を廻りながら生活する形態が「遊牧」です(遊んでいるわけではありません)。


◆異なる生態を営む人類どうしの「共生」と「競合」
 「遊牧」を営まざるをえない地域は,乾燥している地域のうち,あとちょっとで沙漠になりかねない草原(ステップ)地帯です。
 世界地図をみてみると,アフリカの北部や,ユーラシア大陸の沙漠の周辺部に分布していることがわかります。
 遊牧民にとって家畜(livestock)は生きている資産(stock)です。家畜が死なないように,草原と水場を求めて遊動します。
 季節によって農耕を営むケースもありますが,基本的に彼らは家畜からつくられたモノ(肉,皮,毛,乳製品など)を,別の生態を営む定住農牧エリアの人々の生み出したモノ(農産物や手工業製品など)と交換することで生活を成り立たせています。

 遊牧民は家畜にまたがって戦うことを得意とし,軍事力の面でも定住農牧民に優っていました。
 一方,経済力の面では,収穫物を蓄えることのできる定住農牧民のほうに軍配が上がります。
 両者は,互いに足りないものを補い合う「共生」関係をとることもあれば,相争う「競合」関係に入ることもあります。

 同様に,海を活動範囲とする人々(海民)の間にも,海獣の狩猟や漁撈,海産物の採集などを営んだり,沿岸や島で農耕を行ったりする者がいて,互いに足りないモノを補い合ったり,陸を活動範囲とする人々と関係を結ぶケースもみられます。
 また,森を活動範囲とする人々も,狩猟・採集で得たモノを,異なる生態を営む人々との間と交換していました。

 このように,人類はそれぞれの環境に適応し異なる生態を営むことができたからこそ,様々な「交流」が生まれ,しだいに情報や技術が地域をまたいで拡大し,各地に特色ある広域エリアが生まれていくことになるのです。

 さらに,人類の群れが,親族グループのような顔見知りの集団を超え,ある一定規模にまで達するようになると,これまた地域ごとに特色ある政治機構(国家)と,それを支える組織化された思想(宗教組織)が発達していくことになります。


◆環境は有限である
 人類は誕生以来,平均気温のアップダウンや気圧配置の変化といった気候変動や,地球内部の活動にともなう地震や噴火も,人類に計り知れない影響を与えてきました。
 また,過剰な開発により環境に対して負荷をかけすぎたために,持続することができなくなった人類集団の事例は,世界史の中に数多く見られます。
 特に1760年以降,人類は自らの活動範囲を生物圏(動植物の世界に)に対して飛躍的に拡大し,大気や海洋,土壌(石炭などの鉱産資源)といった生態系そのものに,取り返しの付かないような影響力を発揮していくようになりました。
  人類の個体数(人口)は,理論的には倍に倍に増えていく傾向がありますが,ふつう食料の確保はそれに追いつくことができません。無理やり確保しようとすれば,乱開発を生み持続可能性を失います(これを「マルサスの罠」とよびます)。

 テクノロジーの進歩により,われわれ人類は「マルサスの罠」を抜け出したように見えますが,21世紀に入った現在,棚上げにされてきた様々な問題が,じわじわと目を覚まそうとしているように思われます。

 人の名前や国の名前をいたずらに覚えるのが世界史ではありません。
 人類の歩んだ道のりを,生態系の一員としてとらえ,多種多様な人類の営みの相互関係に注目をすることが,世界史理解のカギを握っているのです。


【補足】 環境(Environment)のとらえ方
◆人類を生活様式によって分ける方法もある
移動か定住か,獲得か生産か
 また,人類を生活様式によって分けることもあります。
 まず,狩猟・採集・漁労など,自然にあるものを獲得して生活するタイプ。この場合,よほど豊富に獲得できる所出ない限り,移動生活が基本となります。
 一方,狩猟・採集・漁労できるほどに環境が豊かでない場所では,工夫しなければ食べ物は手に入りません。こういったところでは,食べられる植物を他の動物に食べられたり枯れないように一定の場所で管理したり,おとなしい動物を一定の場所で管理する行為がみられるようになります。
 初期のホモ=サピエンスは今までのホモ属と同じように旧石器をつくり,狩猟採集生活をおこなっていました。この時期の社会は血縁によるつながりでまとまっていて,非常に小規模なものです。血縁社会は仲間意識が強いことが特徴です。
 完新世の初期のヨーロッパで1人が狩猟採集生活をおくるには,1人あたり10平方キロメートルの土地が必要だったと考えられています。人口が増えすぎると生活ができなくなってしまうので,選択的な子殺し(注)や高齢者を死なせる風習が必要とされました。
(注)障碍を持つ子ども,双子,女児などが対象でした。クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.44。現在も世界各地で狩猟採集生活を送る人々はいますが,彼らの生活は長い歴史の間に外部との接触がゼロではない場合も多く,先史時代の狩猟採集生活のあり方をそのまま保存しているとは限りませんが,示唆を与える点は少なくありません。
 オーストラリア北部のギジンガリ=アボリジニは季節ごとに規則的な移動をともない,雨季には沼沢地が満水となるためスイレンの一種を食用とし,乾季にはヤムイモの採れる地域に移動し,次には湿地で渡り鳥を狩猟し女性はカヤツリグサの塊茎を採集。乾季の最終局面になるとソテツの実を採集し,主食用としたり,儀式や宗教,社会的行事のために集まる大勢に供給されます。また,カナダのハドソン湾北部・西部のナチリク=イヌイットも,季節に応じて集団の人数を変えて移動しながらトナカイ〔カリブー〕やアザラシ猟に従事します。
 参照 上掲,pp.42-43。

◆農耕は栽培植物との共生,牧畜は家畜との共生
各地の気候に合わせ,人類は生態系の一部となる
 すべての植物が管理しやすいわけではないですし,おいしく食べられるわけではありませんが,管理しやすく,食べやすく,貯蔵しやすい特性をもつ植物も中にはあります。これを選び抜いて,さらに利用しやすく品種改良していったものを「栽培植物」といい,その多くが炭水化物・タンパク質・脂質を摂るために栽培される穀類・豆類・根菜類です。

 また,管理しやすく,おとなしく,荷物を運ばせたり毛皮をとったり,また乳や肉の利用ができる動物を選び抜き,利用しやすく血統を管理していった動物を「家畜」といいます。

 農耕も牧畜も,スタートするのは氷期が終了してからのこと。いずれも自然に働きかけ,人為的にその資源を利用する営みです。
 ただ,牧畜といっても季節的に家畜のエサ場を移動する「遊牧」という生活様式もありますし,焼き畑農耕のように移動しながら行う農耕もあります。
 同じ民族集団でも,環境や季節に応じて生活様式を変えたり,複数の生活様式を採用したりしていることもあります。
 ですから,農牧民の〇〇人,牧畜民●●人,狩猟民◎◎人のように特定の民族を分類する方法は,生活様式を固定的にとらえることになり,その集団の実態を正確にとらえているとは限らないのです。
 なお,海域に暮らす人々は,漁労だけでなく,沿岸の海棲生物(アザラシやコンブ)を狩猟・採集する生活を送っている場合もあります。

◆異なる生態を送るグループが,互いに棲み分けと役割分担をしている
定住民と遊動民は,持ちつ持たれつの関係を結ぶ
 人類の特徴は,異なる気候に合わせて生活技術を工夫し,それぞれに適応した生活様式を採用して住み分ける点にあります。
 遊動民と定住民は,それぞれが適応する環境において“棲(す)み分け”をしているとみることもできるでしょう(注)。
 また,それぞれの活動範囲の中でも,遊動民と定住民が持ちつ持たれつの“役割分担”をしているケースもみられます。8世紀の中央ユーラシア東部でウイグルという遊牧民の国家が発達するのですが,757年~758年頃に草原地帯に建設された都市バイ=バリクには,多くの定住民も生活をしていました。住民は「略取・投降・勧誘」など様々な理由によって遊牧国家にやって来たのだと考えられますが,史料によると「ソグド人と中国人の(絹(けん)馬(ば)貿易の)ために」建設されたのだといいます(注)。遊動民にとっての目玉商品は馬。これを,草原地帯では生産できない定住民地帯の絹(シルク)と交換するために,売り場や輸送ルートの安全を確保することで,定住民地帯からやって来る商人を取り込もうとしたわけです。
(注)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.308。

 ある意味人類は,地球上の多様な自然環境に適応して,他の動植物・細菌の生物圏,大気・土壌・海洋などとともに生態系(エコシステム)の一部を構成しているといえます。
 しかし,次第に人類の総数が増加し,環境負荷を超えるほどに自然環境を改変する技術を発展させていったときに,生物圏に対するきわめて大きな影響を与えることとなります(18世紀後半以降を「人生代」(アントロポシーン;Anthropocene)という地質学的な時期区分も使用されはじめています)。

◆人種と民族のほかに,言語によって集団を分ける方法もある
人種・民族・語族は絶対的な区分ではない
 生態が異なれば,日々の暮らしぶりや自然との関わりも違うわけですから,振る舞いや考え方にも違いが生まれていきます。
 人類は,群れをつくって生活をする動物です。
 群れを成り立たせるためには,自分たちの結束を高めることで,外部の他の群れや自然との関係を築いていく必要がありました。

 人間は言葉を用いて,さまざまな形で「群れ意識」を表現するようになっていきます。
 例えば,体に入れ墨をほどこしたり,歯を削ったりする人々もいます。また,現在でも,同じ集団であることを示すために羊の毛の刈り方に独特な意味を持たせる風習のある遊牧民もいます。

 おなじ種であるにもかかわらず,人類は「群れ意識」(民族意識)を共有していったことで,その互いの対抗関係や共生関係を通して,目には見えない考え方を複雑に発達させ,みずからの群れや自然環境そのものを,自分たちの考え方に沿(そ)うように変化させていく技術を身につけていくことになるのです。
 こんなことをする動物は,われわれをおいて,ほかにいません。

 世界史には,さまざまな民族意識を持つ集団(=民族)が登場します。生活の結びつき(注)を通して,共通の仲間意識を持った人々のことを「民族」といいます。民族は普通「○○人」の形で呼びます。ただ,同じ「民族」が,必ずしも同じ属性をもつ人々によって構成されているわけではありません。

 外見(生物学)的特徴によるホモ=サピエンスの分類を人種といい,見た目による主従関係や偏見・差別・迫害などは,世界史の中におびただしい事例が残されています。ただ,見た目が同じも支配する/される関係が生まれる例も多くありますし,逆に見た目が違っても同じ仲間として理念を共有するケースもままあります。
 歴史上の人種・民族の区分は絶対的な区分ではなく,複数の民族意識を持つ者や,複数の言語を使い分けることのできる者もいました。また,自分と「同じ」人種なのか「違う」人種なのかも,考え方や基準によって揺れ動く概念であり,ハッキリと白黒がつけられるものではないのです。
 なお,近年ではミトコンドリアDNAの解析によりハプログループに区分し,特定の地域の集団がどのようなルーツをもつのか推定することができるようになっています。

 なお,民族の名前には自称と他称があります。例えば,日本は自称,ジャパンは英語による他称です。さまざまな言語がある以上,民族にはさまざまな呼び名があるのは普通です。しかし最近では,「なるべくその民族が,そう呼んでほしい呼び名で呼んだほうがいい」「差別的な意味合いがある呼び方は,その民族の意見も聞いた上で,避けたほうがよい」と考える人が増えています。
 また,「民族」意識は固定的なものとは限らず,自分が所属していると考える集団は状況によって変化し,複数の所属意識を持つことは珍しいことではありません。


 また,人種・民族の他に,言語の種類によって人々の集団を語族に分ける方法があります。語族とはずばり「言葉の親戚関係」を表したもので,英語とドイツ語とインドのヒンディー語は,インド=ヨーロッパ語族という“言語ファミリー”の中にあることがわかっています。
 語族は,古代の歴史や,手がかりが少ない地域の歴史を説明するときによく使用されますが。史料が少なかったり,移動生活を送っていたりするために,“つかみどころのない”民族を研究する際にも,史料に現れる「言語」を頼りにすれば,どの集団とどの集団が同じグループに属していたかを推定し,歴史を復元することができると考えられるからです。
 例えば,A地点で使われていた言語から枝分かれしてできたとされる言語が,遠く離れたB地点(A地点の遺跡よりも数百年後の地層)でも発見された場合,A地点の人々が数百年後にB地点に移動したと推測できる可能性があるわけです。「言語」が似ているということは,その「文化」にも共通点が多い可能性があります。ちなみに語族よりも小さなくくりに語派があります。○○語族と言わずに,○○系という場合もあります。ただ,語族によって民族を分類する方法には不備も多く,あくまで分類法の一つと考えておいたほうがよいでしょう。




〈3〉地域の区切り方

 さて,人類の活動場所は具体的には陸と海にあります。
 これらを地域ごとに切り分ける方法(地域区分)も時期区分と同じく様々ですが,漏れなくダブりなく全世界を区分するためには,21世紀現在の各国家の国境線にのっとっるのが簡便です。
 現在の国家の国境線を下地(したじ)にし,その上で世界史の展開を動かしていくことで,逆に現在の世界がどのように形作られてきたのかが明るみになるでしょう。また、世界史において様々な民族集団がどのような生態(注)を営み,どのようなスケールで活動していたのかも逆に明らかになるはずです。
 特に,海を舞台にして,無意識のうちにわれわれが当たり前だと思いこんでいる「国境」を縦横無尽に越え出る動きが存在することにも,気付かされることでしょう。


 どこからどこまでがひとまとまりの「地域」なのかということは、実際に人間が移動可能かどうかという地理的・技術的な点と、人間の頭の中のイメージの両者によって左右されます。また権力者によって、地域の境界線が恣意的に設定されることもままあります。つまり、「地域」の定義は時代によって揺れ動くものなのだということも知っておきましょう(注2)。

(注1)  生態への注目については,梅棹忠夫『文明の生態史観』中央公論社,1967,高谷好一『多文明世界の構図』1997,中公新書,川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社,1997,松田壽男『アジアの歴史―東西交渉からみた前近代の世界像』岩波書店,2006,岡本隆司『歴史序説』中央公論新社,2018などを参照。




◆陸
 陸は,大陸と島に分かれます。
 大陸には南北アメリカ大陸,オーストラリア大陸,ユーラシア大陸,アフリカ大陸,南極大陸があります。

 陸地には,大きく分けると乾燥気候エリア(雨が降らない(少ない))と湿潤気候エリア(雨が降る(多い))があります(注)。乾燥エリアでは草原地帯で家畜を連れた遊動生活(遊牧や狩猟・採集)を営んだり,灌漑やオアシスを利用して定住生活を行う集団もあります。

 高緯度地域には寒冷エリア(寒い)が分布し,赤道周辺には熱帯エリア(暑い)が分布します。
 寒冷エリアは,氷雪地帯・ツンドラ地帯・森林地帯に分かれ,それぞれにおいて狩猟・採集・漁撈(暖かい地域・時期には農耕・牧畜も)などによる定住または遊動生活が主流です。
 ユーラシア大陸東南部一帯は熱帯エリアとも重なり,季節風(モンスーン)の影響を受け,多くの降雨がもたらされるエリアです。雨季・乾季のあるサバナ地帯や森林地帯で,気候に合わせた農耕・牧畜・狩猟・採集が営まれています。

 また,動物や植物,細菌の分布も,地域により異なります。
 例えば,ユーラシア大陸やアフリカ大陸では家畜の候補となる大型動物が豊富に分布していましたが,南北アメリカ大陸には分布していませんでした(氷期に馬が分布していたが狩猟により絶滅していました)。また,栽培が可能な植物は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸に麦類,南北アメリカ大陸にトウモロコシやジャガイモが分布していましたが,オーストラリアは候補がわずかでした。

 このように人類は,各地の地形や周辺環境に応じて異なる生態を送り,互いに足りないものを交易により補って相互に関係し合うことになります。
(注)〈高谷好一〉(1934~2016)は,陸地を「野」(草原),「沙漠」,「森」に分け,世界史における諸生態の俯瞰を試みました(高谷好一『世界単位論』京都大学学術出版会,2010)。

◆海
 人類は早くから船を発明し,多くの陸上動物の成しえなかった海上移動を可能にしました。
 海は,海流や陸地や島々の分布によって,いくつかの海域に分けることができます。
 人類の移動がもっとも活発となるのはユーラシア南岸の諸海域で,インド洋から太平洋にかけていくつもの海域が“数珠つなぎ”になっています。
 漁撈・採集によって海で生活をするのに長けた海民も,世界各地に分布しています。農耕・牧畜を合わせておこなったり,沿岸の農耕・牧畜民と物やサービスの交換(交易)を通じて関係を結ぶこともしばしば見られます。


◆陸と海
 異なる生態の人間集団どうしが活発化すると,両者の間にはしばしば「競合」関係や「共生」関係が生まれます。

 例えば,下の5つのエリアの相互関係について,考えてみましょう。
 【★寒冷エリア(寒帯または冷帯)】
 【△乾燥草原エリア(乾燥帯)】
 【∴乾燥沙漠エリア(乾燥帯)】
 【●湿潤エリア(熱帯,温帯または冷帯)】
 【§海洋エリア】

 例えば,【★寒冷エリア】の狩猟採集民は,毛皮や海産物を内陸の【△乾燥草原エリア】の遊牧民の畜産物と交換します。
 【△乾燥草原エリア】の遊牧民は畜産物を,【∴乾燥沙漠エリア】に住む定住民との間に交換します。定住民は家畜の管理を遊牧民に委託(いたく)したり,農産物の輸出のために遊牧民の軍事力を利用したりすることもあります。
 
 一方,【△∴乾燥エリア】の中でも大河などの水場を擁するエリアでは,大規模な都市が発達。この都市も,内陸の【∴乾燥沙漠エリア】のオアシス集落に市場を求めてしばしば進出し,【△乾燥草原エリア】の遊牧民との間に利害関係をめぐっての対立が起きます。
 【∴乾燥沙漠エリア】に隣接する【●湿潤エリア】は,生産性が高く経済力に優れ,沿岸の港市では,【§海洋エリア】の海民との間で交易活動も行われます。


◆異なる「高度」間の交易
 最後に,高山エリアにおける特色あるやり取りについても触れておきます。
 南アメリカのアンデス山脈の太平洋岸は,平地が少なく,後背には高山がそびえ立っている地域です。
 ここでは,低地の海岸と,より高度の高い山岳地帯との間で交易が行われ,谷あいの集落が発達していきます。高度によって生産する家畜・植物にバリエーションがあり,いわば異なる高度間の交易がおこなわれていたのです。


◆地域区分の一覧
 ここでは最後に,これから取り組んでいく世界の地域区分について具体的にお示ししておきます。
 地域は前述の通り現在の国家を基本単位(小地域)とし,その上位に中地域,5つの大地域を設定しました。
 中央ユーラシアの動向は世界史理解において肝要であるため,アジアの大地域に併記する取扱いとしています(注)。
(注)中央ユーラシアの地域概念は研究者によっても一致していませんが,V.リーバーマンの区分「黒海の北方・東方,ヒマラヤ山脈や朝鮮の北,現代イランの大部分,中国本土(チャイナ=プロパー)の北方・西方,ツンドラ地帯やシベリアの森林帯の南方」をおおむね採用しています(Victor Liberman, “Strange Parallels: Volume 2, Mainland Mirrors: Europe, Japan, China, South Asia, and the Islands: Southeast Asia in Global Context, c.800–1830”, Cambridge University Press, 2009,p.97)。中央ユーラシアの地域概念をめぐる問題については,秋田茂他編『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房,2016も参照。

(1)大地域 
 各時代において,アメリカ→オセアニア→アジア・中央ユーラシア→アフリカ→ヨーロッパの順に解説しています。
 アメリカからヨーロッパに至るまで,「W」の字を描くように,想像上の飛行機で世界を一周するイメージを持ってください。
 (例)
 ●200年~400年のアメリカ

(2)中地域 
 各大地域において,おおむね東→南→西→北→中央の順番に述べています。
 東からぐるっと時計回りに一周をするイメージです。
 (例)
 ○200年~400年のアメリカ  北アメリカ

(3)小地域
 現在の国家所在地を基本単位とし,各中地域において東→南→西→北→中央の順番に解説しています。こちらも時計回りに一周するイメージを持ってください。
 (例)
 ・200年~400年のアメリカ  北アメリカ  現①アメリカ合衆国 
地域区分の一覧

●アメリカ
○北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
○中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
○カリブ海(諸国・地域)…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

●オセアニア
○ポリネシア…現在の①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
○オーストラリア…現在のオーストラリア
○メラネシア…現在の①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○ミクロネシア…現在の①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

●アジア
○東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)
○東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
 ①・⑦の一部(マレー半島側)・⑧・⑨・⑩・⑪を「大陸部」,それ以外(⑦の一部(ボルネオ島側)を含む)を「島しょ部〔島嶼部〕」に分類することもあります。
○南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
○中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 「中央アジア」は,ソ連によって国境が確定される20世紀までは,「中央ユーラシア」の項に分類しています。これらの諸国が截然(せつぜん)と区分されたのは,世界史上ではきわめて最近の話なのです。
○西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 (注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

●アフリカ
○東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
○西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
○中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
○西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
○北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

●ヨーロッパ
○東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパの諸国は別の項目を立てています。

○中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
 どこがヨーロッパの「中央」なのかをめぐっては,歴史的に様々な見方が存在しました。
○バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
○イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
○西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
○北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

●南極


●約700万年前~約12000年の世界
人類の誕生

ホモ=サピエンスが氷期を生き抜き,南北アメリカ大陸を除く世界各地に広がる。

◆最古の人類の化石はアフリカ大陸西部で発見されている
サルと人類との境界線は曖昧だ

 現在,地球上を覆っている現生人類(ホモ=サピエンス)は,哺乳類のうち霊長目(れいちょうもく;サル目)の中のヒト属(ホモ属)の一つに分類される動物です。
 それをもっと細かく分類していくと,「ヒト上科」(テナガザル科,ヒト科を含む) →「ヒト科」(オランウータン亜科,ヒト亜科) →「ヒト亜科」(ゴリラ族,ヒト族) →「ヒト族」(チンパンジー亜族,ヒト亜族)の中のヒト亜族(サヘラントロプス属,アウストラロピテクス属,ヒト属(ホモ属))という具合になります。

 かつては,われわれ現生人類とチンパンジーは遺伝的に遠い関係にあると考えられていましたが,DNAの解析を進めていくと,どうやらわれわれ人類とチンパンジーは遺伝情報的には1%しか違いがなく,同じ「ヒト族」に属するということがわかってきました。
 ようするに,われわれにいたる進化の過程をたどっていくと,どこかの時点でチンパンジーとの“共通の祖先”にさかのぼることができ,さらにさかのぼるとゴリラとの“共通祖先”にたどりつく可能性があるということです。
 チンパンジーからいきなりわれわれ現生人類が枝分かれしたわけではなく,チンパンジーと現生人類をつなぐ,すでに絶滅してしまった我々とは異なる種に属する人類(化石人類)が存在していたのだと考えられています。

 しかし,19世紀以前には,われわれ人類が出現する以前の地球に関する情報は,ほとんど知られていませんでした。例えば,17世紀の英国国教会アイルランド大主教〈アッシャー〉らの『聖書』をもとにした推定により,天地創造は紀元前4004年との知識が“常識”となっていました。つまり地球ができてから現代のわれわれまで,約6000年しか経っていないということになります。1878年にイグアノドンの化石がイギリスで発見されて研究が進展するまでは,大型爬虫類(恐竜)が,約2億3000万年前から約6500万年前の間に地球に存在していたことも知られていませんでした(今聞いたとしてもピンと来ない気の遠くなる話ですが)。
 地球外からの隕石の衝突と地球寒冷化を原因とする恐竜の絶滅後,代わって新生代には哺乳類が地球各地に拡散し繁栄しました。やがて霊長類が出現し,この中に属するヒト上科とオナガザル上科がおそらく2500万年前後に分岐し,それが「ヒト族」(チンパンジー亜族,ヒト亜族)につながるのです。
 では,われわれの属するヒト亜族と,チンパンジー亜族は,いつ,どのように分岐したのでしょうか。両者をつなぐ“ミッシング=リンク”(失われた鎖の環。欠けた部分に想定される化石生物のこと)は,かつてイギリスの生物学者〈ダーウィン〉(1809~1882) 【本試験H12カントとのひっかけ】【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦)】によって「アフリカから見つかるはずだ」と予測されていました。
 そんな中,20世紀後半から世界各地で化石人類の化石が見つかるようになり,20世紀前半には〈ダーウィン〉の予言どおりアフリカ南部から東部で,のちのホモ属につながる「最も古い人類」が発見されていきました。

 ホモ属につながると考えられるアウストラロピテクス属に属するという人類種(しゅ)は,1924年に南アフリカで初発見され(アウストラロピテクス=アフリカヌス,300万~250万年前),1959年にタンザニアのオルドヴァイにおけるジンジャントロプス(270万~120万年前)の発見で一躍世界中に注目されます(注)。
(注)ジンジャントロプスは,アウストラロピテクス属ではなくパラントロプス属の種とする研究者もいます)なお,1974年には発掘作業中のビートルズの楽曲にちなみ”ルーシー”として知られるアウストラロピテクス=アファレンシス(380万~300万年前)の保存状態の良い化石がエチオピアで見つかっています(現在のエチオピア南西部のオモ川下流域は,さまざまな時代の人類化石の出土する重要地域となっています(◆世界文化遺産「オモ川下流域」,1980))。

 アウストラロピテクス属は約400万~約200万年前の南・東アフリカの森林に生息し,伝統的には「猿人」【本試験H4ホモ=サピエンスではない】に分類されます。彼らは木から降り直立二足歩行をしており,自由になった両手を使って石器を製作・使用していました。南アフリカではじめに発見され,東アフリカ一帯の広い範囲で化石が発見されてきたため,“人類のゆりかご”は東アフリカだったと考えられてきました。

 しかし,20世紀終わりから新発見が相次ぎ,従来の定説は塗り替えられつつあります。

 まず,人類種の出現年代がどんどんさかのぼっていきました。1994年には日本の〈諏訪元〉(すわげん,1954~) が1994年にエチオピアで440万年前の化石とされるラミダス猿人(アルディピテクス=ラミダス)を発見しました。しかも,生息していたのは想定されていたような草原地帯ではなく森林地帯であった可能性があり,定説を覆しました。また,2001年にはエチオピアでアルディピクス=ガダバ(580万~520万年前),ケニアでオロリン=ツゲネンシス(600万~580万年前)の化石が報告されています。
 そしてさらに2002年には,西アフリカのチャドで,約700万年前のサヘラントロプス属という種がフランスの研究チームにより報告され,トゥーマイ猿人と名付けられました。サヘラントロプス属は,チンパンジーからヒト科に分かれた直後の種,つまり最古のヒト科ではないかとされるようになりました。彼らは直立二足歩行をしていたと考えられるものの,半分は地上,半分は木の上で生活(半樹上生活)していたとみられます。
 チンパンジーからの分岐に迫る化石が発見されるにつれ,「縮小した犬歯」の特徴は確認されるものの,”直立”二足歩行をしていたとは言い切れないような例も見つかるようになっています。また,どのように分類するべきかを巡っては決着がついていないものも少なくありません。どこからが人類でどこまでが人類でないかという判定は,研究者によっても様々です。



◆猿人は絶滅,原人もユーラシア大陸に進出したが絶滅した
猿人と原人は,繰り返される氷期の中で絶滅した
 現在わかっている中でもっとも古いホモ属(ヒト属)は,ホモ=ハビリス(約240万年前~ 140万年前)で,東アフリカのタンザニアで見つかりました。伝統的に,彼らは「猿人」と「原人」の中間に分類されています。この頃から約1万年前までの間を「旧石器時代」【追H27】と区分します【立教文H28この時期にはヤギ・ヒツジの飼育は始まっていない】。旧石器というのは文字通り「古い石器」ということで,主に打製石器【追H27磨製石器ではない】が道具として作られ,使われた時期にあたります。石器時代を,「旧→中→新」の3つに区分するのは,18世紀前半に提案された伝統的区分です。

 アウストラロピテクス属や,そこから分岐したホモ属は,石を加工して石器という道具を製作していました(最古の石器の時期には定説はありません)。打ち割って作られた石器のことを打製石器といい,打製石器が主に見られる時代を旧石器時代といいます。はじめは石の一部を打ち欠いてつくった単純な礫石器(れきせっき) 【本試験H4「石を内欠いただけでの簡単な打製石器」を猿人が使用していたと推定されるか問う】が主流でしたが,のちに“切る”“削る”“掘る”作業のために,石を打ち欠いて形を整えた石斧(ハンド=アックス)が製作されるようになりました。
 旧石器時代は,厳しい気候変動を経験した時期でもあります。地質学者の研究により,地球上には今まで何度も氷期という寒冷期があったことを突き止めています。旧石器時代には氷期は2度ありました。

 170万年~7万年前には,北京原人【本試験H4狩猟・採集生活を送っていたか問う】【追H21火を使用していたとされるか問う】やジャワ原人【本試験H11:土器を使用していたか問う】の名で有名な,ホモ=エレクトゥスが登場しました。彼らは昔は「ピテカントロプス=エレクトス」として,ホモ属とは別種の「原人」【本試験H4時期(約50万年前)。アジア・アフリカ・ヨーロッパにわたる広い地域で生活していたか問う】と分類されてきましたが,現在ではホモ属の一種であるとされています
 ジャワ原人の化石は,オランダの植民地時代の19世紀末に,オランダ人の軍医〈デュボワ〉(1858~1940)が発見したものです(◆世界文化遺産「人類化石出土のサンギラン遺跡」,1986。ジャワ島の中部にあります)。
 北京原人の化石は,日中戦争の混乱の中で行方不明となっており,現在ではレプリカのみが残されています。

 彼らは猿人よりも身体や脳容積がひと回り大きく,ホモ属として初めてアフリカの外に移動を開始し(原人の“出エジプト”),ユーラシア大陸の広範囲に移動・居住しました。
 人類最初の“エネルギー革命”ともいえる,火の使用【本試験H4北京原人が知っていたか問う】【追H21 北京原人かどうか問う】【立教文H28旧石器時代かどうか問う】が確認されているのは,彼らの段階からです。人類は火を手にしたことにより,消化しやすいように食べ物を調理することができるようになり(料理の誕生),暖をとったり動物を追い払ったりすることもできるようになりました。
 彼らの喉や口の構造から,言語【立教文H28旧石器時代のことか問う】によるコミュニケーションも可能だったのではないかと考えられています。


◆アフリカからユーラシア大陸にわたった原人は,のちにネアンデルタール人に進化した
ネアンデルタール人は,我々と同時期に存在した
 ホモ=エレクトゥスの一部はアフリカに残留し,さらなる進化を遂げます。
 60万年前にホモ=ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)。彼らはヨーロッパのドイツで発見されているように,一部はアフリカを出て,ヨーロッパに到達しました。
 
 20万年前に一旦温暖な気候に向かった地球は,一転して19万5000年前~12万3000年前頃まで氷期を迎えます。寒さのゆるむ間氷期(かんぴょうき)をはさんで,約7万年前に最期の氷期,すなわち最終氷期がホモ属を襲いました。
 この時期には,北アメリカでは北緯40度近くまで,ヨーロッパでは北緯50度近くまでが氷床(ひょうしょう)に覆われていたことがわかっています。また,森林があった地域は荒れ地か草地になり,沙漠が拡大しました。
 この寒冷化の原因として,約7万年前に大噴火したインドネシアのスマトラ島にあるトバ火山の噴煙を挙げる学説もあります。この説によると,地球の平均気温が5度近く下がってホモ=エレクトゥスは完全に滅び,ネアンデルタール人とホモ=サピエンスが生き残ったのだとされます。

 そんな気候の大激変期をユーラシア大陸で生き抜いたが,ネアンデルタール人【本試験H17ラスコーとのひっかけ,本試験H19約9000年前ではない】【本試験H4時期(旧石器時代後期)】です。ヨーロッパに到達したホモ=ハイデルベルゲンシスが,ヨーロッパで進化しネアンデルタール人につながったのではないかと考えられています。
 彼らは伝統的に「旧人」【本試験H4磨製石器を使用して狩猟していない】と呼ばれるヒト属の一種で,約40万年前に出現しましたが,後からユーラシア大陸に進出したホモ=サピエンス(約20万年前に出現)に圧倒されて,約4万年前に絶滅しました。死者の埋葬【立教文H28記】の風習があったことが確認されています。

 ネアンデルタール人は,DNA鑑定の結果,現在のわれわれ「ホモ=サピエンス(ヒト)」とは別の種(ホモ=ネアンデルターレンシス)なのですが,共通点もあります【本試験H4現在の人類とほぼ同じ形質の新人であったか問う】。
 アフリカに残ったホモ=ハイデルベルゲンシスから進化したと考えられています。最近では,ホモ=サピエンスの中に彼らのDNAが混ざっていることも明らかになっており,両者の間で交流があったのではないかともいわれています。

◆人類(新人,ホモ=サピエンス)は20万年前にアフリカで生まれ,世界中に広がった
ホモ=サピエンスは,アフリカで生まれた
 アフリカに残留したホモ=ハイデルベルゲンシスから,ホモ=サピエンス【本試験H4「猿人」ではない】が進化しました。ホモ=サピエンスとは,つまり私たちの種に当たります。
 つまり,一昔前に考えられていたように「旧人から新人に進化した」わけではありません。むしろ,旧人のネアンデルタールと,新人のホモ=サピエンスが同時に存在していた時期があったことになります。ネアンデルタール人がなぜ滅んだのか詳しいことはわかっていませんが,ホモ=サピエンスのほうが集団での狩猟技術に長けていただけではなく,ホモ=サピエンスとネアンデルタール人との抗争があったのはないかという研究者もいます。
  「ホモ=サピエンス」とは「知恵ある人」という意味で,18世紀に「学名」を提案したスウェーデン人の博物学者〈リンネ〉【東京H9[3]】【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない、H25コントではない】が名付けました。
 我々の細胞内にあるミトコンドリアDNAの解析を調べた結果,ホモ=サピエンスは,数回にわたってアフリカを出て,全世界に広がっていったことがわかっています。現在,各地域に分かれている民族のDNAを解析すると,どの時期にアフリカを出た集団なのかがある程度つかめるようになっています。Y染色体ハプログループという部分に注目すると,アフリカを出たホモ=サピエンスは,イランのあたりで南ルート,北ルート,西ルートに分かれ,それぞれオーストラロイド,モンゴロイド,コーカソイドの特徴を持つようになり,アフリカを出なかった者はネグロイドの特徴を持つようになったのではないかと考えられています。つまり,現在のわれわれの全員の祖先は,アフリカにいたということです(単一起源説,アウト=オブ=アフリカ説)。われわれのDNAに共通に受け継がれているミトコンドリアDNAを分析すると,われわれの母方をたどっていくと,約20~12万年前にアフリカにいた共通の女性(“ミトコンドリア=イブ”)にたどり着くのではないかという説も出されています。



◆ホモ=サピエンスは南北アメリカを除く四大陸に拡散する
アフリカ→ユーラシア→オセアニアに移動する

◆北ルート
ホモ=サピエンスは高緯度地域にも適応していく
 ホモ=サピエンスは約10万年前に初めてアフリカ大陸を出たと考えられています。
 約10万年~9万年前にアフリカを出た人類は,地中海や西アジアに広がりました。北ルートをとったホモ=サピエンスのうち,フランスで発見されたクロマニョン人【本試験H4旧人ではない】が知られています(注)。

 その後,6万年前までに北ルートをとったホモ=サピエンスは,中央ユーラシア,東アジア,東南アジアに進出します。中国の北京で発見された周口店上洞人,沖縄県で発見された港川人の化石がその例です。

 先述の通り,ホモ=サピエンスがユーラシア大陸に到達したころ,そこにはすでにネアンデルタール人【本試験H4時期(旧石器時代後期)】の姿がありました。しかし彼らは“食料確保”の面でホモ=サピエンスに劣っていたため,生存競争に負け,前4万年頃までには絶滅してしまうのです。

 ホモ=サピエンスはすでにこのころ,動物の毛皮を衣服として用いていました。普通に巻いているだけではずり落ちてしまいますから,動物の骨から縫い針を発明して,繊維を使って縫ったのです。この“衣服革命”により,素っ裸のネアンデルタール人は圧倒されていきます。

 なお,もともと高緯度地域というのは日射量が少なく,太陽光線を受けて体内で生成されるビタミンD(骨の生成に必要)が足りなくなり,病気になってしまうおそれがありました。たまたま肌の色が薄く(つまりメラニン色素が少なく)生まれた人のほうが,効率よくビタミンDをつくることができ,骨の病気にかからずに済んだのでしょう。こうして北ルートをとった人々の肌は,アフリカに残った人々よりも薄い色が主流なっていきました。環境に適応して,外見的特徴が変わっていったのです。

 ホモ=サピエンスはまた石のかけらで矢じりや槍の穂先をつくって投げ槍を発明し,マンモスのような大型動物を大量に狩猟することに成功。さらにイヌの家畜化により,獣を追い込む方式の狩りが可能になりました。また,仲間でコミュニケーションをとり,協力をする能力にも優れていました。一方,待ち伏せや,手に持った斧による攻撃で獲物を仕留めていたネアンデルタール人は劣勢になっていきます。ホモ=サピエンスはさらにその骨で住居を作るなどし,寒さをしのぎました。
(注)クロマニョン人は1868年に南西フランスレ=ジーの岩陰で化石骨が発見され、岩陰の遺跡の名前からクロマニョン人と名付けられました(福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.22)。




◆南ルート
ホモ=サピエンスは陸続きのオーストラリアに達する
 南ルートをとったホモ=サピエンスがオセアニアに到達した約6万年前~約5万年前の期間は,地球上の気温が一時的に上昇した時期にあたります。
 オセアニアとは,ポリネシアとメラネシア,それにミクロネシアという3つの地域から構成されます。
 ニュージーランドとハワイ諸島・イースター島を三角形で結んだ範囲のポリネシア。ニューギニアからニュージーランド北部までの赤道以南の地域であるメラネシア。フィリピンの東にあるグアムやサイパンなど,だいたい赤道以北の島々が分布するミクロネシア。

 南ルートで移動してオーストラロイドという人種に分類される人々は,当時陸続きだったニューギニア島からオーストラリア大陸,タスマニア島にかけて移住したとみられます。今よりも海面は80メートルも低かった時期ですが,ジャワ島の東側からニューギニア島までは,丸木船で島を点々とホップして海を渡る必要がありました。丸木船は,はじめはアウトリガーカヌーという船体の片方の横に浮きをつけて安定させたものが,遠洋航海には船体を横に2つ連結させた双胴船(ダブルカヌー)いう大きな船が用いられました。アフリカから拡散した人類は,ここで初めて海を渡る大規模な移動をおこなったのです。オーストラリア西南部の内陸にある遺跡からは,エミューの卵とともに貝殻が発掘されています。

 かつて,ニューギニア島とオーストラリアは一体化して,「サフル大陸」という大陸を形成していました。 ボルネオ島やジャワ島などは,ユーラシア大陸と合体していました(スンダ陸棚)。ニューギニア島とオーストラリアもくっついています(サフル大陸)。スンダ陸棚とサフル大陸の間には100キロメートルの海域があったため,現在でもサルはスンダ側にはいますがサフル側にはいませんし,カンガルーなどの有袋類はサフル側にはいますがスンダ側にはいません。
 しかし人類は,約3万5000年前頃までには,この海域を船で移住することに成功したのです。
 その後の海面上昇によって前8000年~前6000年頃にニューギニアと切り離されると,オーストラリア大陸にいた人類は外界から取り残され,その後長期にわたって狩猟採集文化を維持しました。
 一方,ニューギニア島では前7000年~前5000年頃にタロイモやサトウキビの農耕をおこなっていた形跡も残されています。

 しかし,人類の移動はソロモン諸島(ニューギニア島のさらに東に位置する島々)で一旦ストップします。これより東にいくと島がまばらになり,航海が困難になったためです。ここまでを「ニアーオセアニア」,ソロモン諸島よりも東を「リモートオセアニア」と呼ぶことがあります。


◆東ルートをとった人類は,寒冷地域にも進出する
ホモ=サピエンスは寒冷地域にも適応していく
 そのうち,東ルートをとったモンゴロイド人種は,ユーラシア大陸東部に広がっていきました。
 日本の沖縄県では前16,000年前の新人である港川人が発見されています。日本列島では縄文人が縄文文化を発達させていました。港川人と縄文人との関係はわかっていませんが,南方の東南アジアとの関係性も指摘されています。

 この地域の人々が次に向かったのは,寒冷な地域です。3万5000年前までにはロシア,2万年前までにはシベリアに到達しています。

 ところで,3万年前頃に地球は,再び寒冷で乾燥した気候に逆戻りしています。
 このとき,沙漠が拡大し,森林が減少しました。2万1000年前から1万7000年前の間がピークだったとみられ,人類は一番寒い時期に寒さに立ち向かっていたのです。

(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14






●約700万年前~前12000年のアメリカ
◆北アメリカ大陸とユーラシア大陸は,ベーリング地峡によってつながっている
南北アメリカ大陸に人類は,まだいない
北アメリカ大陸の大部分は,太平洋岸のコルディエラ氷床,北東部のローレンタイド氷床という厚い氷のカタマリに覆われていました。
 現在はベーリング海峡で分かれていたユーラシア大陸と北アメリカ大陸の間も,当時はベーリング地峡によってつながっていました。
 北アメリカには馬が生息していたほか,マンモスとマストドンのような大型哺乳類も分布していました(注)。

 南アメリカ大陸は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
 寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています。
(注)巨大なナマケモノ…その名もオオナマケモノや,巨大なビーバーのカストロイデスなども生息していました。






●約700万年前~前12000年のオセアニア
 アメリカ大陸からオセアニアに目を移しましょう。
 南半球にはオーストラリア大陸があります。ここに人類がわたったのは約6万年前のことです。

 最終氷期には東南アジア方面から陸橋(りくきょう)がつながっていましたが,完全に陸続きではなかったため移動には船も用いられたとみられます。

 南部のウィランドラ湖地域(約20000年前に干上がった湖の跡地)からは,新人の遺跡やアボリジナル(アボリジニー)の祖先の岩絵が見つかっています(◆世界複合遺産「ウィランドラ湖地域」,1981)。
 オーストラリア北部は,熱帯からサバナまで多様な自然環境がみられる地域。ここでは,まるでレントゲンで透視したかのように骨格や内臓を浮き出したに動物・人間の岩絵(X線画法と呼ばれます)が見つかっています(◆世界複合遺産「カカドゥ国立公園」,1981(1987,1992範囲拡大,2011範囲変更))。

 この時期に人類は,ニューギニア島からソロモン諸島にまで移動しています。
 ニュージーランドや,南太平洋・東太平洋にあたるポリネシアの大部分には,まだ人類は到達していません。





●約700万年前~前12000年のアジア

 東アジアには,現在の北京郊外の周口店に新人段階の周口店上洞人(しゅうこうてんじょうどうじん)の化石が発見されています。ここからさらに北に進んでベーリング今日を越えていく集団もいました。また,朝鮮半島を経由して前4万年前には現在の日本列島にも移住する集団が現れます。
 南アジアには前6万年頃に最初の移住があったとみられます。
 これらの地域では海産物が重視され,海岸付近や河口付近に住む場合が多く見られました。

 西アジアには10万年前に最古の埋葬跡がみられます(イスラエルのカフゼー洞窟)。また,イスラエルのナトフ谷では自生する穀物の集中管理・貯蔵が行われていました。まだ農業とはいえませんが,やがてこの地で史上初の農業がはじまりを告げます。前12000年(注)には石臼(いしうす)の使用が西アジアで始まっています。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.15






●約700万年前~前12000年のアフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 アフリカ人は現生人類の揺籃(ようらん)の地です。
 アフリカ南部に移動した集団は,12万年前頃から集落を残し,前42000年にはライオン洞窟で体に塗りつける赤い顔料(赭土)が出土,アポロⅡ遺跡にはアフリカ最古の岩絵(26000年前(注))を残しています。
 なお,この頃のサハラ地方は比較的雨の多い気候であり,チャド湖も現在の数十倍の面積でした(大チャド湖)。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14。





●約700万年前~前12000年のヨーロッパ

 人類は前35000年ころまでにヨーロッパに移動していますが,このころはまだ氷床が大部分を覆っている状態。もともとネアンデルタール人が居住していましたが,現生人類に圧倒され,イベリア半島で前27000年に最後のネアンデルタール人が絶滅しました(注)。
(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14


○特集 ホモ=サピエンスは,どんな動物か

 このように,ネアンデルタール人を駆逐して,全世界の環境に広がったホモ=サピエンスは,発達した大脳新皮質をコンピューターのように駆使し,感覚・運動・知覚・感情・記憶・思考などのさまざまな情報を処理する能力に長けていました。もちろん,ネアンデルタール人にも言語はありましたが,複数の情報をもとにアタマの中で考えたことを,仲間で共有する能力は,ホモ=サピエンスに軍配が上がります。この飛躍的な情報処理能力の発達を“認知革命”ともいい,今後ホモ=サピエンスがさまざまな分野で活躍していく前提条件ともいえます。

 動物であれば,情報が世代を超えて受け継がれることはありません。
 しかし,人類は情報を言葉で伝えたり共有したりすることで,次の世代に伝えることができます。
 どうすれば寒さがしのげるか。服を縫うには何が必要か。家を立てるには,狩りをするにはどうすればよいか。これらはみな,当時の人類が積み重ねていった情報の結晶といえます。

 さらに人類は,目には見えない抽象的なイメージを,歌や言葉でストーリー(物語)に発展させたり,踊り,絵画や彫刻などの形に残し,他の人と共有したりすることができるようになっていました。

 狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられるアボリジナル(アボリジニ)【本試験H27】の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランスのショーヴェ洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランスのラスコー洞穴壁画【本試験H5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】【本試験H17】や,1万8000年前頃から描かれたスペイン【本試験H31】のアルタミラ(アルタミーラ) 【本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H17ラスコーとのひっかけ,H31ラスコーではない】【追H20】【立命館H30記】洞穴壁画では,人類と動物【追H20「動物の絵が見られる」か問う】との間の生き生きとした交流が描かれています。ショーヴェ洞窟にはふさふさの毛をもつサイの仲間であるケサイ,ラスコー壁画には牛の祖先の野生種オーロックスの姿が描かれています。南ヨーロッパが現在よりも寒冷であったことが推測できます(◆世界文化遺産「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」,1979(注))。
(注)ラスコーは現在は立入禁止となっていますが,精巧に復元された近くのラスコーⅡが一般公開されています。

 手を壁に当て,絵の具を口からブッと吹きつけて残した手形(ロックアート)も,世界各地でみられます(◆世界文化遺産「ピントゥラス川のクエバ=デ=ラス=マノス」,1999。現在のアルゼンチン南部のパタゴニア地方に残る800以上の手形)。

 2万5000年前頃からユーラシア大陸では,現在のオーストリアのヴィレンドルフ【立教文H28アルタミラ,グリマルディ,ネアンデルタールではない】などで「ヴィーナス」と呼ばれる女性の裸像が多く見つかっており,こちらは土地の神(地母神)への信仰と関係があるのではないかという見方もあります。「死」という限界が今よりも格段にリアルだった当時の人類にとって,豊かな恵みと厳しい脅威を与える「自然」に対する信仰は,自然に生まれていったのでしょう。また,「人はなぜ生まれたのか?死んだらどうなるのか?」という問いも,世界各地の人類によって,だんだんと独自に説明されるようになっていきました。

 このように人類は,目には見えない“不思議な力”やこの世界の成り立ちを仲間で共有し,共通の活動や儀式をおこなうことで,自分たちが生まれてきた意味や死んでいく意味を納得しようとしたわけです。こうした人類特有の世界観やそれに基づく行為を「宗教」といいます(注)。
 当時のホモ=サピエンスは,現代のわれわれよりも「自分が自然の中の一員なのだ」という思いを切実に感じていたはずです。例えば,ある動物を一族の守護神として大切にするトーテミズム。「自分たちの仲間の祖先はライオンで,ライオンをまつることで自分たちにもパワーが宿る」と考えるわけです。また,聖霊(アニマ)が自然界の動植物や無生物に宿っていると考えるアニミズム。これらは想像上の世界であるわけなのですが,“目には見えない”世界について語り,共有することによって,互いに仲間意識を強めていくことができたのです。
(注)「世界には日常の体験によっては証明不可能な秩序が存在し,人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し,その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的,永続的に説明できるという信念の体系」(『日本大百科事典』「宗教の項」)。
 また,「…宗教の世界の概念は,生活がなされ,演技がなされ,何かが体現される世界である。それは,いつも神に祈る,肉体から遊離した精神だけの世界ではない。……より全体的な見通しに立てば,宗教的な人々は,膨大な行動様式の多様性の中に聖なるものを表現する演技者である。宗教の世界は,教義の歴史や宗教哲学の中にだけ体現されているのではなく,祭りや記念祭,通過儀礼,暦,修行の諸形態,家内の聖なるもの,塑像や絵画,特別の衣服や象徴的な事物,病気治療と祈禱の技術,聖歌と宗教音楽,そして無数の各地の家族や国民の習慣など,あらゆる行動や状況の中に体現されている。」 (阿部美哉『比較宗教学』(大法輪閣,2014年),pp.49-50)
 かつて人間は,食料の源を強く意識せねばならない環境下にありました。そこでは,人間と自然はいわば渾然一体に近い関係にありました。熊が山から贈られてくるという考えから,熊の神に祈念する狩猟民もいます。その過程で,人類は自然の背後にあって,様々な恵みと災いを贈与する存在に対して,さまざまな考えと行動を生み出してきました。
 自然は,恵みを与えてくれるだけでなく,同時に畏怖(いふ)を抱く対象でもありました。人間はある時期から,あらゆる自然現象の背後に,なんらかの行為主体を認識するようになったと考えられます。「自然界の激変は目にみえる世界の向こう側に何か得体のしれない力のあることを感じさせる。さらにまた,生命ある人間の死,とりわけ慣れ親しんだ身近な霊魂は目に見える世界の向こう側に今もいきつづけるという思いがしてならないのだ》(本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書,2005年,p.25)。自然に対する崇拝や,供犠(きょうぎ)のような儀式も,行き過ぎた自然破壊に一定の歯止めをかける行為であったことを評価する説もあります(中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌 (叢書・文化学の越境)』森話社,2007年,p.179)。そして,こうした宗教的な営みの中で,しばしば王権は,人間の世界(ミクロコスモス)と自然の世界(マクロコスモス)を媒介する存在として,歴史を通じて様々な形の神聖性を帯びることも少なくありませんでした。
 宗教的な実践神聖な対象に対する「行為が定式化されて,非日常的な神聖な行為として宗教儀礼,祭礼」の形がとられることがあります(『日本大百科事典』)。儀礼(反復される形式的行動)は,国家をはじめとする権力とも結びついてきました。ビザンツ帝国の皇帝が,コンスタンティノープル総主教によって戴冠される際に人民からあがる叫びや歓呼も様式化されたものであったことが分かっています(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005年,pp.11-12)。
 「形式的行動は視覚化されるために,儀礼は,抽象的な権力を目に見えるかたちに換え,知識の共有(という観念)を人々に可能にする(「人々がその事を知っている」ということを皆が知っているということを可能にする。これは人々の対立を緩和させる)。》(p.206)…(中略)…「国家は儀礼と通して表現される。それ以外に国家を全的に表現する手段はない」(青木保『儀礼の象徴性』東京・岩波書店,1984年),「儀礼の執行を通して国家が作り出される」(山下晋司『儀礼の政治学―インドネシア・トラジャの動態的民族誌』東京・弘文堂,1997年)という考えがある。人々は,儀礼行為を通じて,支配されているという感覚をもつことなく,権力の生成に自ら参加する。あるいは,人が主体的に動いているようにみえて,実は権力の枠組によって動かされる状況を,儀礼行為は比較的容易につくることができる。…(中略)…儀礼は,伝統的・恒常的である,という観念を創り上げることで,実際におきている変化を正統化/正当化する文化装置ともいえる。」(妹尾達彦「前近代中国王都論」中央大学人文科学研究所研究叢書『アジア史における社会と国家』中央大学出版部,2005年,pp.206-207)
 われわれが歴史上の宗教について理解するには,歴史上の人びとが,何に対して権威を感じていたのかということを推し量りつつ,彼らがいかなる儀礼的な行為を社会の中で共有し,現実的に利益を感じていたのかということに注目することが必要です。

 そのような“理想”や“願い”を実現するため,自然に手を加えたり形を変えたりする方法を技術といいます。人間は,知能を働かせて,自然に対して積極的にイメージ通りに手を加え,特定の技術に関する情報を,世代を越えて受け継ぐことができる存在となったのです。そうすれば,石器を作るにも,いちいちゼロから考えずに済みますし,情報が人伝いに拡大するに従い,世代を経るに従って技術がだんだん進歩していくというわけです。

 しかし,一方で人間はライオンに比べ圧倒的にか弱い存在です。時間は有限であること,自分自身に限界があることを理解したホモ=サピエンスは,ときにそれに逆らいながらも,どうしたら豊かな人生を送ることができるのか“理想”を描き,それを仲間と共有する中で地域ごとに特色のある文化が生み出されていきました。
 文化は,その土地土地の自然や気候と密接な関わりがあるといわれています。一年中常夏の地域と,四季の移ろいのある地域とでは,人々の共有する感性に違いが出てくるわけです。「自分がどういう人間なのか」「どんなふうに生活するべきなのか」を気づかせ,影響を与えるような自然環境のことを,哲学者〈和辻哲郎〉(1889~1960)は「風土」と呼びました。
 ホモ=サピエンスは初め,多くの動物と同じように狩猟・採集を中心とする生活を送っていました。自然にあるものを獲り交換・分配・消費する仕組みを獲得経済と呼びます。
 しかし,地球が温暖化に向かうと,やがて世界の多くの地域で植物の栽培,さらに家畜の飼育が始まりました。自然に積極的に働きかけ,自然を作り変えることで価値ある物を生み出す営みを生産経済といいます。
 ただし獲得経済にせよ生産経済にせよ,資源には必ず限りがあります。これらをどのように分配していくかということが問題となります。
 限りあるもの(目に見える物や,目に見えない労働力も含む)を人々の間で交換したり,取り合ったりすることを交易といいます。交易がうまくいかないと,飢えや戦争(略奪)に発展することもあります(注)。

(注)「交易」という言葉を広い意味でとらえると,次のように考えることもできます。「人間は自然と関係するとき,肉体を動かすだけではなく,呪術・宗教・「理論的」表象のなかで観念的に交流し交通しながら,その観念的表象に合わせて自然から材料を切り取り(「略奪」「搾取」とも言えるが),切り取られた材料を,一つの空間から他方の空間に移動させるし,特定の時間から他の時間へと移動させながら,一方では材料を観念のなかで加工し,他方では物質的・身体的な行動のなかで変形する。人間が生産し労働することも,十全なる権利をもって,交易とみなすことができる。」今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)――贈与と交換の人間学』講談社選書メチエ,2000年,p.54

 人間はライオンのような鋭いきばや爪もない弱い存在ですが,道具を用いれば他人の命も奪うことも可能です。たしかに,暴力を使えば短期的には相手集団もいうことを聞くかもしれません。しかし戦いは“敵”と“味方”を生み出し,次の世代にも爪あとを残すかもしれません。長い目でみると,お互いが納得のいく仕組みをつくったほうが,お互いにとっても合理的な場合は少なくありません。ホモ=サピエンスは長い歴史の中で,より多くの人々が納得できるような様々な“しくみ”(制度)を考え出していきます。世界史は,ホモ=サピエンスによるその試行錯誤の歴史でもあります。「もうこれ以上はよくならない」「今のままで問題ない」と立ち止まるのではなく,われわれの先祖の“しくじり”に接することで,未来を考える。それが,世界史を学ぶ意義の一つです(注)。
(注)世界史を学習すると,人間は競争がすべてで弱肉強食から生き残った者が勝つのだという“社会闘争”的な印象を抱きがちです。たしかに,そのような局面もあったかもしれませんが,人間は平和によりよく生きていくために,よりよい社会制度を産み出そうとしてきたのです。さもなくば,戦いに明け暮れる戦争だらけの歴史観に陥り,「昔の人は好戦的で愚かだったのだ」「民衆はいつでも支配者と闘争し“普遍的価値”を勝ち取ってきたのだ」という白か黒かの評価を与えかねません(小川幸司『世界史との対話――70時間の歴史批評(中)』地歴社,2012年,p.4)。事態はもっと動態的で,多層的なのです。

●前12000年~前3500年の世界
人類の生態の多様化①
温暖化にともない狩猟・採集とともに農耕・牧畜が始まるが,再寒冷化にともない前3千年紀の中央ユーラシアで民族大移動がおきる。

(注)「最寒冷化」はヤンガードリアス期と呼ばれます。

この時代のポイント
(1) 地球が温暖化し気候区分・植生が変化する
この時期に,大型哺乳類の多くが絶滅する
 紀元前12000年頃から地球は温暖化に向かい,地質学的に後氷期(完新世)と呼ばれる時期が始まります【本試験H19時期を問う】。北アメリカやヨーロッパの大部分を覆っていた氷河が減少し,森林地帯や草原地帯が広がっていきます。

 それとともに,ユーラシア大陸のマンモス,ヘラジカやオーストラリアの有袋類,北アメリカ大陸のマストドン,オオナマケモノ,オオアルマジロ(グリプトドン),ウマ(エウクス)などの大型哺乳類・鳥類・爬虫類が次々に絶滅していきます(注)。

 代わってウサギ,イノシシやシカといった小型の哺乳類が分布するようになりました。すばしっこくピョンピョン跳ねる小型動物を仕留めるため,弓矢の先端に取り付けたり,皮を剥ぎ肉を切ったりするための細石器(さいせっき)が発明されました。
 また,根菜や種を付ける植物(種子植物)も食用とされるようになっていきます。

 
 ウマは原住地である北アメリカ大陸から姿を消し,のちにユーラシア大陸での生き残りが家畜化されることになります。もしアメリカ大陸にウマが生き残っていたら,当然その後の歴史はまったく違ったものになっていたはずです(アメリカ大陸におけるウマの絶滅)。
(注)これらの絶滅は気候変動だけでは説明がつかず,人類による狩猟の影響があったと考える研究者もいます。


(2) 各地の気候に合わせ,狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
狩猟・採集・漁撈のほか,農耕・牧畜が導入される
 紀元前【本試験H6 B.C.とは「Before Centuryの略」ではない】12500年には,ホモ=サピエンス(人類)は南アメリカに到達し,前9000年にはその南端に到達していました。
こうして南極大陸以外のすべての大陸に広がった人類は完新世に入り地球が温暖化すると,地域によっては細石器を製作する中石器時代を経て,新石器時代に磨製石器【追H27旧石器時代ではない】という新たな道具を製作する技術を生み出す集団も現れます。

 温暖化にともない陸地を覆っていた氷河が縮小し,大型哺乳類も減少すると,各地の人々はその営みを環境の変化に適応させていきます。
 各地で家畜や栽培植物の集中管理(農耕・牧畜【本試験H4時期が新石器時代か問う】)(注1)も始まり,人類は狩猟・採集による獲得経済だけではなく生産経済へと生存の基盤を変化させます。
 人類は積極的に生態系を作りかえ,食料や道具の材料となる動植物をコントロール下に置くことを可能にしていったわけです(注2)。

 人類はもともと遊動生活(一定の場所に長期間とどまらない生活)を送っていましたが,この時期以降,各地に定住集落も出現します。
 しかし,定住集落が必ずしも農耕・牧畜に基づいていたわけではなく,狩猟・採集・漁撈に基づく定住集落もありますし,いくつかの生業を組み合わせたり,共同体の内外での物資の交換もおこなわれていました。

 共同体の中にいるメンバー間の格差はまだそれほど大きくありませんが,共同体の置かれた環境によっては経済格差が広がり,経済資源・軍事・思想をコントロールする勢力が現れるようになっていきます。
 自然との密接なつながりを持っていた当時の人類は,自然との関係の中で,みずからの生命の限界や人生の意味,死後の世界と新たな生命の誕生について,さまざまな思想を膨らませていきました。
 世界の始まりと生命の起源,人間の理想と自然の意志,祭りの祝詞や生活の知恵,人生の喜びと死の悲しみ,目にはみえない幻想的なイメージや恐怖を鎮める呪術(じゅじゅつ),集団の系譜や出来事などが,歌・舞踊・楽器の演奏や,身体の装飾,薬物や生贄(いけにえ)などを用いた儀式を通じて人々の間に共有され,受け継がれていきます。

 かつてはユーラシア大陸とつながっていた南北アメリカ大陸でも,この時期には中央アメリカや南アメリカのアンデス地方で農耕・牧畜が導入されていきます。ベーリング海峡によって隔てられたため,アメリカ大陸はユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独自の歩みをたどることになります(注3)。

 オセアニアでは,すでにニューギニアの高地で,前8000年前にまでさかのぼるバナナやヤムイモの初期農耕の遺跡が発見されています(注4)。

(注1) 牧畜についての補足。「天水のみでは栽培食物が育たないという地域で,人間が消化できない雑草(セルロースが主成分)を飼い慣らした草食動物に食べさせて,乳や肉を利用することで,不安定な狩猟にかわって資本として動物をストックする術を得ました。人類は家畜(生きる資本=livestock)群を連れ,可耕地の外の原野に出て行くことができるようになったのです。これが牧畜の成立です(もっとも松井健は,放牧地のなかの可耕地が農業に特化した人たちの定住地になった可能性も否定していません。
 したがって,「農耕・牧畜の開始によって,人類は定住生活を開始した」という説明は,少々粗っぽいということになります。逆に「定住の開始にともなって,農耕・牧畜を開始した」という説明も,牧畜民が可耕地から出て行った可能性を排除してしまいます(注2も参照)。松井健『遊牧という文化――移動の生活戦略』(歴史文化ライブラリー)吉川弘文館,2001年,p.9

(注2) これを「新石器革命」とか「農業革命」とも呼びます。この時期の革命を第一次農業革命,第一次産業革命(工業化)の前提になったとされる17~19世紀のイギリスにおける革新を第二次農業革命【東京H19[1]指定語句】,1930~60年代の品種改良などの革新を第三次農業革命と呼ぶことがあります。
 ただ考古学者〈G.チャイルド〉(1892~1957)により唱えられた「新石器革命」(食料生産が可能になったことで定住生活が始まったとする説)が,世界のどの地域においてもみられる普遍的なパターンであったという考え方は,現在では問い直されています。
 豊かな漁場や猟場,植物採集が可能な地域では,農耕・牧畜に基づかなくても定住が可能だったからです(遊動生活を基本としていた人類が,農耕・牧畜を中心とする生活へと移行したのに,定住の開始が大きな影響を与えている点については,西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫,2007年も参照)。「農耕・牧畜→定住」という図式は,全ての集団に当てはまるわけではないのです。なお,狩猟・採集民も,畑地をつくり火を入れ,野生植物を移植して種をまき,草を取り小規模の灌漑をほどこすなど,ある種の栽培は行っていました(参考 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.67)。
(注3)増田義郎はラテンアメリカのことを「世界史の孤児」と表しましたが,あくまでユーラシア大陸・アフリカ大陸との接触が疎遠だったという点に注目しての表現です。ユーラシア大陸・アフリカ大陸における人類史の道のりが「正統」で,ラテンアメリカの文明が「異端」とか「特殊」であったという見方は一面的です。「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.8。
(注4) ニューギニア島の南部山岳州(◆世界遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。



●前12000年~前3500年のアメリカ

◆後(こう)氷期(ひょうき)にアメリカ大陸でトウガラシ,アボカド,ヒョウタン,カボチャなどの栽培が始まる
南北アメリカには、ユーラシア大陸から人類が移住

 陸続きであった時期には、長い時間をかけていくつもの集団がユーラシア大陸から【追H24】アメリカ大陸に移住しました。

 しかし、前12000年頃から始まる温暖化によりベーリング地峡がベーリング海峡になります。これによりユーラシア大陸との交流は断たれた南北アメリカ大陸は,基本的に1500年前後まではユーラシア大陸・アフリカ大陸とは独立した歩みをたどっていくこととなるのです(注:11世紀初めに北ヨーロッパのヴァイキングが北アメリカ北西岸に到達。また,オセアニア東部のポリネシア人も,南アメリカ大陸に到達していた可能性があります)。前11500年頃,北アメリカの人々は鋭(するど)い尖頭器(せんとうき)が特徴的なクローヴィス文化(クロヴィス文化)を生み出しています。

 南北アメリカ大陸で早くに農耕がおこった地域は,中央アメリカ(メソアメリカ)と南アメリカのアンデス地方です。両者をあわせて「核アメリカ」と呼ぶことがあります。
 中央アメリカのメキシコやグアテマラでは,テオシントというイネ科の野生植物が,次第に現在のトウモロコシに改良されていきました(注1)。現在のトウモロコシとは似ても似つかないような小さなサイズをしています。
 南アメリカのアンデス地方の高地では,数千メートルの高度差・季節ごとの気候差を利用した狩猟・採集のほか,前8000年頃にはインゲンマメ,リマビーンズ,トウモガラシなどの作物栽培も導入されていくようになります(注2)。
 どちらの地域でも,人々は農耕のみを生活の基盤としていたわけではなく,狩猟・採集や漁撈を組み合わせる生業が営まれていました。
 特にアンデス地方中央部では,海岸近くには沙漠があって沖合には豊富な漁場が分布しています。そこに流れ込む川をさかのぼると,一気にアンデス山脈の高地にたどり着きます。海岸から山地まで多彩な気候のバリエーションに富むアンデス地方では,河川の流域や高度別の谷などを基本単位にし,さまざまな人々が気候に適応した生活を送っていたのです。


 南北アメリカ大陸には,アフリカやユーラシアのように,牛,豚,鶏,羊,山羊,馬といった家畜になりうる中型の哺乳類は分布していません。ですから,動物に犂(すき)を引かせて耕したり,物を運ばせたり車輪を引かせて戦車にしたりといった発想は実現化されていません。
 家畜化された動物は少なく,中央アメリカ・カリブ海地域の家畜はシチメンチョウ(七面鳥),イヌくらいで,南アメリカではラクダ科のラマやアルパカの原種とみられる動物,小型のテンジクネズミ(モルモット)がいるくらいです。
 もともと北アメリカ大陸にも馬【本試験H7馬はアメリカ大陸の「固有種」ではない。アメリカ大陸に分布していた種は絶滅した。ただ,「固有種」という用語を広義にとると,この問題は解答不能となる】などの大型哺乳類は分布していたのですが,乱獲あるいは気候変動で絶滅したとみられます。そのことが,アメリカ大陸の文化の特徴をつくっていくわけです。
 馬は,肩当て付きの荷車があれば1トンの荷物を運ぶことができましたが,ラマの場合は30キロほどしか運ぶことができません。これでは高山地帯の人類が運ぶことのできる20キロほどと,あまり変わりません。マヤ文明でジャガー付きの玩具が見つかっていることから,車輪の発想がなかったわけではありません。しかし,家畜の力と組み合わせて運搬用に応用されることはありませんでした。
 すでに前6000年頃には狩猟の対象が鹿から,野生のラクダ科動物へ変化していました。山へぴょんぴょん逃げていってしまう鹿の狩猟よりも,群れで生活し移動性の低いラクダ科の動物のほうが狩猟の対象に適していたのです。おとなしい個体が選別され,やがて前2500年頃には,リャマやアルパカといった飼育種が登場します(注3)。

(注1)山本紀夫「植物の栽培化と農耕の誕生」『アメリカ大陸の自然誌3:新大陸文明の盛衰』岩波書店,1993。
(注2)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注3)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。




○前12000年~前3500年のアメリカ  北アメリカ
◆氷床(ひょうしょう)の合間を縫うように,モンゴロイド人種が北アメリカ大陸に到達する
人類は大型哺乳類を追って北米に入る
 地球の温暖化にともない,北極圏の氷床が融けていくのに従い,人類は当時はまだ陸地であったベーリング陸峡(ベーリンジア)をわたってユーラシア大陸【追H24】から現在の北アメリカに到達。この一団をパレオ=インディアン(古インディアン)と呼びます。
 彼らはマンモスやマストドンなどの大型哺乳類を追い,氷床(ひょうしょう)が融けている部分(注1)を通って南へ南へ移動していくことになります。
 
 北アメリカに石器を尖らせてクローヴィス尖頭器(せんとうき)と呼ばれる槍を製作したクローヴィス人が現れるのは,前10000年以降とみられています(注2)。彼らの盛んな狩猟活動が,北米の大型哺乳類の多くを絶滅に至らしめたという説もあります(注3)。 
 もともと北アメリカには馬が分布していましたが,前9000年までには絶滅。気候変動によるものという説もありますが,大型哺乳類の狩猟生活を基盤としていたクローヴィス人は衰退していきます。

 クローヴィス人に代わって,長い角を持つ大型の野生牛を狩るフォルサム人が台頭し,前7000年までには南米のフエゴ岬に到達していたとみられます(注2)。
 フォルサム人はクローヴィス人の文化を継承しつつ,前7500年~前4500年まで中小型動物を狩猟を営みます。

 一方,前9000年には別のモンゴロイド人種のグループが,ベーリング地峡を越えて現在の北アメリカ大陸にわたっています(注3)。

・アラスカからユーラシア大陸に向かって突き出るアリューシャン諸島にわたったグループは,現在のアリュート人の祖。
・極北に分布したグループは,現在のイヌイト(イヌイット;エスキモー)の祖です。

 このように,人類は3~4度に分けて大規模に北アメリカ大陸に進出したことがわかっています。
 初めに進出したクローヴィス人やフォルサム人などのグループの歯の裏側は“シャベル”のような凹型になっているのが特徴で,これは現在のアメリカのインディアンにも連なる特徴ということです。
(注1)ローレンタイド氷床と太平洋岸のコルディエラ氷床の間にできた狭い“通路”があったという説(フィオレンツォ・ファッキーニ,片山 一道訳『人類の起源』同朋社,1993)。この通路(マッケンジー回廊といいます)は存在しなかったという異説もあります。
(注2)クローヴィスというのは,アメリカ合衆国の南部ニューメキシコ州の地名で,ここを拠点とした尖頭器を用いる文化をクローヴィス文化といいます。彼らの活動年代については多説ありますが,前10000年というのが有力です(綾部恒雄・富田虎男(『講座世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 北米』明石書店,2005,p.17)。なお,フォルサムはニューメキシコ州の地名です。なお,ジェレミー・ブラック(同,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14)は,やや早い年代(前11000年)を採用しています。
(注3)こちらも多説あり。


○前12000年~前3500年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカで農耕・牧畜が導入される
 中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。
 太平洋岸に比べて豊かな自然環境を持つユカタン半島のマヤ地域南部の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。

 前8000年にはヒョウタンがすでに栽培されていた痕跡があります(注)。ほかに中央アメリカ原産の栽培植物は,トウガラシ,アボガド,カカオ。南アメリカでも栽培されていたものにカボチャ,インゲンマメがあります。
 「栽培」といっても,まだこの時期には「採集」(自然)と「農耕」(人間の管理)のあいだのようなもの(初期農耕)。
 「トルティーヤ」の生地など,いまや中央アメリカに欠かせないトウモロコシの栽培化も始まりますが,前5000年の時点で実の部分はわずか2.5cmにすぎなかったといわれています。

 中央アメリカ原産の家畜は七面鳥のみ。南アメリカ原産のリャマ,アルパカの原種とみられるラクダ科の動物(ビクーニャやグアナコ)も中央アメリカに進出します。イヌも分布されていて,中央アメリカの犬種はチワワやメキシカン・ヘアレス・ドッグが有名です。

(注)ここで注目すべきは,ヒョウタンはアフリカ原産であるとされるのに,なぜこんなに古い時代の北アメリカで栽培されていたのか?という問いです(しかもアフリカでの栽培化よりも早い!)。
 アフリカからの漂着説もありますが,ヒョウタンのDNA分析によるとアジアの品種に近いとのこと。人類によってベーリング地峡を陸路で移動したのではないかともいわれています。考古学的な証拠の年代を考慮し,船で北アメリカを南下した人類がいたのではと考える研究者さえいます(湯浅浩史「ヒョウタンと古代の海洋移住」,笹川平和財団,https://www.spf.org/opri-j/projects/information/newsletter/backnumber/2013/306_3.html)。


○前12000年~前3500年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカで農耕・牧畜が導入される
 南アメリカ大陸は,昔から現在のように熱帯雨林が生い茂る地ではありませんでした。
 寒冷・乾燥な気候と,温暖・湿潤な気候を繰り返し,前20000年~前12000年に最後の寒冷・乾燥期(ヴュルム氷期の最盛期)を迎え,それ以降,再度温暖化・湿潤化して,森林地帯が復活したと考えられています(注1)。
 中央アメリカ原産の家畜は七面鳥のみ。南アメリカ原産のリャマ,アルパカの原種とみられるラクダ科の動物(ビクーニャやグアナコ)も分布しています(家畜化は前2500年以降(注2))。

(注1) 実松克義『衝撃の古代アマゾン文明』講談社,2004。Jonathan Adamsの研究による。
(注2)増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000。



○前12000年~前3500年の中央アメリカ
 中央アメリカではカリブ海にせり出す格好(かっこう)のユカタン半島(現在のグアテマラ,ベリーズの周辺)やメキシコ高原中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれました。
 この地方の住民はウサギやシカなどの小型の動物を狩猟し,木の実・豆,野生のイネ科種子,トウモロコシ,カボチャ類を採集しつつ,移動生活を送っていました。
 前8000年前後から,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類などの栽培が始まりました(注)。

 トウモロコシ(前5000年に頃にはすでに栽培されていましたが,主食としての収量があがるのは前2000年頃からです),豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。

 家畜はシチメンチョウやイヌくらいで,アンデス地方のようなリャマやアルパカなどのラクダ科の動物はいませんでした。

(注)増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,p.37。トウモロコシはイネ科の野生植物「テオシンテ」から栽培されたとされています。最古のものは穂軸が1.9ないし2.5センチほどしかなく,実も36ないし72粒ほどしかなかったそうです。ポンティングは,トウガラシ,アボカド,パパイヤ,グアバ,カボチャ,ヒョウタン,豆類のうち早いものは前7000年頃に栽培されていたとし,トウモロコシは前5000年頃にはすでに栽培されていたとします(クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.88。トウガラシも前7000年ころには利用されていました(山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.5)。


○前12000年~前3500年の南アメリカ

アンデス地方
 アンデス地方中央部でも農業が発達していきます。アメリカ大陸における最初の植物栽培に関する考古学的な証拠はペルーの中部山岳地帯の前8000~前7500年頃とされています。トウガラシその頃には利用されています(注)。(注)山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.8。

 ジャガイモも栽培化(正確な年代は不明)され,高山でも育つ作物として重要でした。一般に根菜作物は保存が難しいので蓄積することができず,強大な王権が発展しにくいといわれますが,アンデス山脈から太平洋沿岸にかけたダイナミックな標高差を活かし,各高度の気候・地形に合わせた様々な交易ネットワーク(高い所と低い所の間の交易)を束ねる権力が生まれていったのだと論じる研究者もいます(一方,南北アメリカ大陸では南北間の交易は,ユーラシア大陸に比べると大規模に発展することはありませんでした)(注1)。

 しかし,栽培可能な植物や飼育可能な大型動物の少なさもあって,アメリカで大陸で農耕文明が発達するスピードは,アフリカ大陸やユーラシア大陸に比べるとゆっくりとしたものになっていきました。

アマゾン流域
 南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)では,前5000年にはすでにキャッサバ(マニオク),サツマイモ,カボチャ(注2),クズウコンとおそらくナンキン豆(注3)が栽培されていた可能性があります。
(注1)山本紀夫『国立民族学博物館調査報告 No.117 中央アンデス農耕文化論――とくに高地部を中心として』国立民族学博物館,2014年
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.90


狩猟・漁労・採集が主流の地域も多い
 北極圏周辺ではアザラシなどの狩猟採集生活,太平洋岸では漁労を中心とした生活,南西部の乾燥地帯では遊牧生活,さらにロッキー山脈(北アメリカの太平洋岸近くを南北に走る険しい山脈)の東側に広がるグレートプレーンズという乾燥草原(短い草原が広がる)地帯では,バイソンの狩猟や採集を基盤とした生活が主流でした。
 一方,アルゼンチンの大平原やアマゾン川上流域では狩猟採集民が生活していました。





●前12000年~前3500年のオセアニア

○前12000年~前3500年のオセアニア  オーストラリア

 この時期に人類は,ニューギニア島からソロモン諸島にまで移動していきます。

 ニュージーランドや,南太平洋・東太平洋にあたるポリネシアの大部分には,まだ人類は足を踏み入れていません。

 またこの期間には,ニューギニア島の高地でタロイモやバナナの栽培があったことが確認されています(◆世界文化遺産「クックの初期農業遺跡」,2008)。



○前12000年~前3500年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種のアボリジナルが,引き続き狩猟採集文化を送っています。
 タスマニア島はもともとオーストラリア大陸本土とつながっていましたが,気候の温暖化の影響で前6000年頃に分離。オーストラロイド人種のタスマニア人はオーストラリア本土のアボリジナルとの交流を,まったく失うことになります。




●前12000年~前3500年の中央ユーラシア
◆中央ユーラシアでは牧畜を主体とする文化が営まれるようになる
ウクライナで馬が家畜化される
 前4000年頃には黒海北岸のウクライナの草原地帯の人々が,馬の家畜化に成功したとみられます。ウクライナのドニエプル川下流のデレイフカ遺跡の集落跡で見つかった雄馬の臼歯(きゅうし)の化石が斜めにすり減っていることから,はみ(馬銜)という馬具を噛ませていたと推測されていいます(注1)。
 馬にまたがって載ることも試みられてはいましたが,当時はまだ一般的ではありません(注2)。

 こうして牛・馬・豚・山羊・羊・ラクダなど,ユーラシア大陸の主要な中型の家畜が出揃いました(注3)。

◆前3500年~前200年の寒冷・乾燥期に,中央ユーラシアの住民が南方に民族移動する
 農耕よりも牧畜を主体とした生活が適する地域は,アフリカ東部のサバンナ地帯,西アジアの沙漠地帯,ユーラシア大陸の草原(ステップ)地帯などがありますが,とくにユーラシア大陸に東西8000kmにわたり広がる草原地帯は,前3500年頃から前200年にかけて地球の気候が乾燥・寒冷化。ユーラシア大陸中央部~北部の人々の暮らしに,壊滅的な打撃を与えます。中央ユーラシアの人々は危機的な状況の中で,従来のように狩猟・採集をおこなうのではなく,計画的に家畜を飼育・管理する技法を洗練させていったのです。
 彼らは前3000年紀(前3000~前2001年)にユーラシア大陸各地を南下。これが中央ユーラシアからの民族移動の第一波です。

 一方,ユーラシア大陸北部の針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ(夏の間だけ短期間コケの生える地帯)では,古シベリア諸語を話す人々などが寒冷な気候に適応し,アザラシなどの海獣の狩猟や採集による生活を送っていました。


(注1)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.46。
(注2)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.27。
(注3)家畜の多くは野生種のころと比べ骨格が変化することが多いのですが,馬はあまり変化していないことから「家畜化」の証拠をつかむのは容易ではありません。




●前12000年~前3500年のアジア
○前12000年~前3500年の東北アジア
 新石器時代のユーラシア大陸北部の森林地帯には,南ロシアからモンゴル高原,朝鮮半島までの広い範囲に櫛目文(くしめもん)土器が分布しています。ユーラシア大陸を東西に結ぶ交流があったことを物語ります。



○前12000年~前3500年の東アジア  日本

 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を行っていました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 約前5300年頃に九州南方の鬼界(きかい)カルデラが爆発的な噴火(大量のマグマが一気に地上に噴出する壊滅的な噴火(注))が起こったとされ,この影響で縄文時代の文化は一旦途絶したともされています。
 縄文土器には,ユーラシア大陸で出土する土器とも関連があるのではないかともいわれています(新石器時代のユーラシア大陸各地では,櫛目文(くしめもん)土器という様式の土器がフィンランドから朝鮮半島までの広範囲で出土しています)。
 また,日本列島各地の特徴を持つ土器が縄文時代前期の末期から八丈島(はちじょうじま)からも見つかるようになっています。神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始めていたと考えられています。

 なお,青森県の三内丸山遺跡からはクリの栽培種も見つかっていますが,縄文時代に農耕が行われていたかどうかについては議論が続いています。
 縄文時代早期と前期の境目の時期には,九州南方の鬼界カルデラが大噴火を起こし,日本列島全域に火山灰が降り積もるなどの被害がもたらされました。


 沖縄諸島では,前4600年頃に九州方面から移住した縄文人によって,貝塚文化が栄えました。貝塚文化の栄えた時代を貝塚時代,または縄文時代と呼びます。
(注)「巨大溶岩ドーム 鹿児島沖で確認 世界最大級直径10キロ」,毎日新聞,2018.2.9(https://mainichi.jp/articles/20180210/k00/00m/040/110000c)。橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.55。鬼界カルデラの噴火によって南九州周辺は特に壊滅的被害を受けました。


○前12000年~前3500年のアジア・ヨーロッパ 東アジア

◆中国の黄河流域ではキビ,長江流域では水稲(初めは陸稲)の灌漑農耕が始まる
黄河・長江のみならず複数地域に文明が生まれた

 黄河【本試験H29地図が問われる】流域の人々は前6000年頃にはキビ(黍)などの雑穀の栽培に成功します。
 中国の大地は広く黄土で覆われています。「黄土は肥沃だ」とよく言われますが、黄土自体は別段肥沃というわけではなく、肥料を施すなどの入念な管理が必要です(注)。
 炭水化物源の穀物のほかに,タンパク源の大豆(だいず)の栽培も始まっていました。西アジアとは異なり小麦(導入は前1300年頃),大麦(小麦よりやや後に導入)の野生(やせい)種(しゅ)は自生していませんでした(注1)。
 アワ(粟)などの雑穀(ざっこく)が栽培していました。
 なお中国の神話では,神農(しんのう)という神様が五穀(米・小麦・大麦・粟・豆)の作り方を黄河一帯の人間(漢民族,漢人)に教えたのだとされています。ちなみに茶を発見したのも神農と伝えられます。
(注)歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.8。


 前5000年紀には黄河(こうが,ホアンハー)中流域で彩文土器(さいもんどき,彩陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】【追H19】)を特徴とする仰韶(ヤンシャオ)(ぎょうしょう)文化が発展し,集落も形成されていきました。家畜として犬,鶏,豚【本試験H7ブタが新石器時代に飼われていたか問う】が飼われ,粟【セA H30稲作ではない】などの雑穀(ざっこく)【追H19】が栽培されています。
 黄河の下流域では,前4100年頃~前2600年頃に山東半島を中心に大汶口(だいぶんこう)文化が栄え,これがのちの竜山(ロンシャン)文化(りゅうざんぶんか)につながるとも考えられています。

 黄河流域と同時期の長江(ちょうこう,チャン=チアン)の中・下流域では,稲作【追H27新石器時代か問う】を中心とした集落が出現します。稲の原種はインドのヒマラヤ地方からタイ北部,中国南部にかけての地方に複数のルーツを持つと考えられています。

 現在の長江下流【追H27新石器時代に稲作が行われていたことを問う】,黄シナ海をのぞむ寧波(ニンポー)の近くの河姆(かぼ)渡(と)遺跡(かぼといせき,1973・78年発掘)が発掘されています。
 また、長江上流の四川盆地の三星堆遺跡(さんせいたいいせき、1986年発掘)では,明らかに黄河流域とは違う特徴をもつ青銅器【本試験H19約9000年前にはまだ青銅器時代ははじまっていない】の工芸品が大量に見つかっています。三星堆の縦目仮面には、殷の青銅器との共通性があることも指摘されています(注2)。

 また,朝鮮半島に近い遼河でも,前4500年~前3000年に紅山文化が発展しています。

 このように中国の文化イコール「黄河文明と長江文明」というわけではなく、いくつもの地域の文明が同時並行的に存在し発展していったのです(注3)。

(注1) クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.83
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、pp.89-91。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、p.91。



○前12000年~前3500年の東南アジア
 東南アジアの人々は,大陸部(ユーラシア大陸側の東南アジア)では,狩猟採集生活を送っていました。島しょ部ではオーストロネシア語族の人々が狩猟採集生活や漁労を行っています。
 東南アジアの大陸部には内陸からいくつかの河川が流れています。
 現在のミャンマー(ビルマ)には,イラワジ(エーヤワディー)川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のミャンマーとタイの国境を流れるサルウィン川(怒江)
 現在のタイにはチャオプラヤー川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のラオスからカンボジアを通り,ヴェトナム南部に注ぐメコン川【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30地図上の位置】
 現在のヴェトナム北部のハノイに注ぐホン川(紅河)です【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】
○前12000年~前3500年の南アジア
 南アジアの新石器文化は,イラン高原からインダス川流域にかけて前7000~前6000年頃に始まりました。人々は日干しレンガで住戸をつくり,大麦,小麦,ナツメ,ナツメヤシを栽培していました。その他の地域の人々は,狩猟採集生活を送っていました。

 前6000年頃にはサトウキビ【本試験H11南北アメリカ原産か問う(原産地はニューギニア島周辺)】が伝わっています。


○前12000年~前3500年の西アジア
 かつては人類初の農耕・牧畜がはじまった場所は,大河流域であったと考えられていました。

 ですから,大河で灌漑農耕をやっていた文明を4つ集めて「四大文明」などと呼んでいたわけです。
 でも実はこの言葉には「日本三景」とか「世界七不思議」のように,べつだん大きな意味があるわけではありません。意味がないどころか,インダス文明のように,そもそも大河の灌漑農耕により強大な指導者が生まれてなどいなかったり,メソアメリカ文明,アンデス文明のようにそもそも大河の灌漑農耕がなくとも文明が生まれていたことがわかってきています。


 しかしながら,そのようなことも念頭に置きながら西アジアの文明をみてみると,それでもやはり歴史は古い。
 前7300年頃には,すでに農耕・牧畜をやっていて,都市を形成したチャタル=ヒュユクというところもあります(注)。
(注)現在のトルコ共和国中南部には,前7300年頃に定住が始まった世界最古級の都市チャタル=ヒュユクが代表的で,密集した都市や女性をかたどった神像など現在でも日本を含む調査団による発掘が進められています(◆世界文化遺産「チャタルヒュユクの新石器時代の遺跡」2012)。

 ではこのチャタル=ヒュユクは大河流域にあるかというと,現在のトルコ共和国の中南部の内陸部の山麓地帯なのです。
 たまたま羊や山羊の野生種にあたる動物が分布していたことや,小麦のご先祖にあたる植物が分布し,適当な降雨もあったことが幸いしました。



前8000年頃に山羊,羊,豚,前6000年頃に牛が家畜化される
人類による動物の飼育と利用が始まった
 前8000年頃にはトルコ東南部に接するシリア北部で山羊(ヤギ),羊,豚が家畜化されました。
 西アジア・南アジアでは前6000年頃には牛が家畜化されました(ヨーロッパが原産で西南アジアに逆輸入されたともいう説もあります(注1))。

 初めのうちは,家畜が大きくなったらすぐに殺して食べていたと考えられますが,途中から肉や皮だけでなく,毛からは繊維をとり糸を紡いで編めば衣服に,糞は畑にまけば肥料に,それに人や荷物も運べますし,犂(すき)をひかせて畑を耕せば強力な動力になることに気づきました。
 なお,乳(ちち)をしぼる技術をはじまったのはヤギからで,ミルク(乳)からはヨーグルトやチーズがつくられました(乳は人類の体質に合わなかったため,利用は少し遅れます)。

 各地域で徐々に農業生産性を上げていった人類は,前1万年頃に1000万人だったのが,前4000年頃には人口が5000万人に増加していたと考えられています。多くの場合狩猟・採集も合わせておこなわれていましたが,多くの人口を養うためには農耕・牧畜が欠かせなくなりました。
 前7000~前6000年の西南アジアの農業人口は主に高地に分布していましたが,その後の人口増加に対応することができなくなり,天水農耕では対応できなくなっていったのです。

 前5500年には現イラン南西部のフーゼスターンで灌漑(かんがい)が始まります(注2)。水路をもうけて,畑に水を注ぐためのシステムです。前5000年から前3000年にかけて導入される地域が増加。
 灌漑の導入直後は多くの収穫が見込めますが,長期に渡り水路を利用するには維持・管理が必要です。集団をまとめあげる組織や管理の必要性から,社会が次第に階層化に向かう一因となります。


前5500年~前4000年 ウバイド文化
 西アジアのティグリス川・ユーフラテス川の下流域では,前5500~前3500年に灌漑農耕を基盤とするウバイド文化が栄え,高い生産性により集落の人口密度が上昇していきました。神殿を中心に宗教(しゅうきょう)組織(そしき)の権威によって余剰生産物が集められ,住民に食料が再分(さいぶん)配(ぱい)される仕組みも整えられていきます。幾何学的な模様を持つ彩文土器が製作されました。

 しかし,前4000年から前3000年にかけ,ユーラシア大陸からアフリカ大陸にかけてさらに乾燥化が進むと,従来は自然の降水(天水(てんすい))に頼っていた地域でも農耕・牧畜が成立しなくなっていきました。人々は水場を求めて高原地帯から低地に移動し,ますます大規模な河川から取水・貯水する灌漑(かんがい)が必須となっていきます。余剰生産物が増えれば増えるほど,人口密度が飛躍的に高まり,生産物の管理をめぐって社会の階層化が進んでいきます。



前4000年~前3100年 ウルク文化
 ウバイド文化は前4000年頃に崩壊し,担い手がウルク文化に交代します。
 この時期,メソポタミア南部に都市ウルクが建設されました。

 ついに,西アジアに都市文明が生まれたのです。

 都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化する祭祀センター(神殿)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります(注3)。
 豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつくる手工業者が,物質文化を支えました。
 交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設(壁(かべ))や軍隊もつくられていきます。
 農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます。銅,金,銀製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています(注4)。

 このように,都市の経済力や物質文化(=文明)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団が交易を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は,都市=文明の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕が都市=文明の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。





●前12000年~前3500年のアフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


◆アフリカ大陸のサハラ沙漠は現在よりもはるかに湿潤で,草原や森林も分布していた
この時期は「緑のサハラ」で農耕・牧畜も営まれる
 西アフリカでは,サハラ砂漠(現在のアルジェリア)にこの時期の岩絵群が残されています。
 狩猟や牧畜の様子が描かれており,当時のサハラ砂漠一帯が緑に覆われていたことがうかがえます(◆世界複合遺産「タッシリ=ナジェール」,1982。前6000年頃から湿潤化したサハラ砂漠のことを、「緑のサハラ」ともいいます(注1))。

 北アフリカのナイル川流域には,灌漑農耕を営む集落が出現し,前5000年~前4000年の先王朝時代,前4000年~前3500年のナカダ文化Ⅰ期には政治的な統合もすすんでいきます(注2)。

 ヌビア(ナイル川の上流、現スーダン)には前4000年紀に、「Aグループ」と呼ばれる陶器・銅製品をともなう墓が見つかり、エジプトが統一される前4000年紀終わり頃に、その政治権力がピークを迎えます(注3)。

 なお、角(つの)の長い牛は前4000年紀までにニジェールのアイール山地(現ニジェール北西部の山地)まで到達していました(注4)。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.144。
(注2) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注3) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.174。
(注4) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.71, 205。





●前12000年~前3500年のヨーロッパ

◆ヨーロッパでも農耕・牧畜が始まり、狩猟・採集・漁労から少しずつ移行する
農耕・牧畜が伝わり、新石器時代に入る

○前12000年~前3500年のヨーロッパ  地中海沿岸
 農耕・牧畜は,西アジアから地中海東岸(西南アジアと気候があまり変わらないのでスムーズに受け入れられました)・黒海(こっかい)北岸や小アジア(しょうあじあ。アナトリア半島。現在のトルコ共和国のある地域です)からバルカン半島を経由して東ヨーロッパ・南ヨーロッパにも伝わって,前5000年~前4000年には黒海の北岸からウラル山脈に広がります。
 前6000年期には、打製石器に代わって磨製石器が登場し、新石器時代に突入。鎌、石臼などの農具や土器もつくられるようになります。
 前6000年紀(前6000~前5001年)には、地中海沿岸地域で羊の家畜化が始まり、野生の牛・鹿・ウサギの狩猟とともに食料確保の方法として用いられるようになります(注1)。
 前5000年紀(前5000~前4001年)には、牛も飼育されるようになり、飼育地は内陸部から大西洋沿岸部にまで拡大します(注2)。

 地中海沿岸ではオリーヴ,ブドウ,イチジクの栽培も始まります。
 新石器時代のマルタ島とゴゾ島には,巨石神殿の遺跡が残されています(ゴゾ島のジュガンティーヤと,マルタ島の5つの神殿)(世界文化遺産「マルタの巨石神像群」,1980,1992範囲拡大,2005範囲変更)。



○前12000年~前3500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ
 気候が冷涼(れいりょう)で西南アジアと異なり鬱蒼(うっそう)と茂った原生林のある中央ヨーロッパにも農耕が伝わります。
 帯状文様土器を特徴とするにドナウ文化は、焼畑・輪作による定住農耕が特徴で、牛の飼育に優れていました。



○前12000年~前3500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ、西ヨーロッパ
 新石器文化の時期にあたるこの頃の西ヨーロッパでは、巨大な石の構造物を建設する巨石文化が出現します。
 石を建てたものをメンヒル(立石)といいますが、フランスのブルターニュ地方のカルナックには、メンヒル3000本が11列に4kmにわたって連なる大規模な構造物があります。一部の人のお墓に豪華なものがそなえられていることから、富や身分の差があったとみられます。
 これだけのものをつくるには、組織された複雑な農耕社会があったはずです(注3)。

 前4200年~前2000年には、櫛目(くしめ)の模様をほどこした櫛目陶器文化が栄えます(注4)。

 北極圏の周辺では,中石器時代が続き,狩猟採集生活を送る人々が生活しています。
 農業が伝わるのはもっと後のことで、前3000~前2000年に北西ヨーロッパ,さらに1000年遅れることデンマーク,スウェーデン南部に伝わります。作物としてはオート麦やライ麦が栽培されました。
(注1) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注2) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.24。
(注3) 福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
(注4) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.9。




●前3500年~前2000年の世界
人類の生態の多様化②
 ユーラシア大陸・アフリカ大陸では,乾燥地帯で灌漑農業が始まり,定住集落が大規模化する(古代文明の成立)。乾燥草原地帯では,牧畜遊動民のエリアが拡大する。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカや南アメリカのアンデスで狩猟採集のほかに農耕・牧畜の導入も始まる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,農耕・牧畜が広い範囲に広まり,経済的な基盤となる。
 経済的資源をコントロールしようとした指導者が,軍事組織と信仰組織とも関係することで,地方では集落が都市に発展して政治的な統一がすすむ。

 内陸部の乾燥草原地帯では,馬を利用した牧畜文化が拡大する。中央ユーラシア西部にはヤムナヤ文化に次いでカタコンブナヤ文化,中部~東部にはアファナシェヴォ文化に次いでアンドロノヴォ文化が栄える。この時期の終わりまでに青銅器を受け入れ,車輪も使用していた。
 

 一方,大河の流域では都市国家群が栄える。
 例えば,前3150年?~前2584年?の間にエジプトでは初期王朝時代を迎え,古王国(前2584?~前2117?)の時代には大規模な記念建造物(ピラミッド)が建設される。
 東アジアでは,黄河流域で竜山文化(前3000年紀)という農耕を基盤とする文化が栄える。モンスーンの影響を受ける湿潤な長江流域にも農耕文化が栄える。
 南アジアでは,インド亜大陸の北西部のインダス川流域にインダス文明(前2500年~前1700年)が栄える。交易ネットワークの中心として栄えた都市国家群であったとみられる。
 西アジアのメソポタミアでは,ウルク期からアッカド帝国の時期にあたり,農耕を基盤とする都市国家群が栄える。

(2) 南北アメリカ
 南北アメリカ大陸では狩猟・採集・漁撈に加えて,中央アメリカや南アジアのアンデス地方で農耕・牧畜も導入される。
 


●前3500年~前2000年のアメリカ

○前3500年~前2000年の北アメリカ
 北アメリカの北極圏周辺には,カリブー(トナカイ)を狩猟する人々が生活しています。


 北極圏よりも南の北アメリカ一帯には,インディアンの諸民族が,各地の気候に合わせて生活をしていました。
 北アメリカ東部には狩猟・採集民,太平洋岸には狩猟・漁労・採集民,南西部の乾燥地帯には狩猟採集民が生活しています。
 前3000年には,北アメリカの中部の大平原地帯の人々は,バイソン(バッファロー)の狩猟文化を生み出しています。バッファローの皮を使ったティーピーという円錐形のテント,同じく皮で作ったモカシン靴という履物,盾や日用品などが,バッファローの骨から作られていました。アルゴンキン人,アサパスカン人,スー人の3つの語族が分布しています。




○前3500年~前2000年の中央アメリカ,カリブ海
◆中央アメリカやカリブ海では狩猟・採集・漁撈による生活が営まれ,農耕・牧畜も導入される
中米では狩猟・採集・漁撈に加え農耕・牧畜も

 前3400年頃には栽培種のトウモロコシが,ようやく5~7cmにまで大きくなっています。でも30cm前後になる現在のトウモロコシに比べると,まだまだです。

 中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に,ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。太平洋岸に比べて,豊かな自然環境を持つマヤ地域の高地(高地マヤ)の人々は,こうした先行する文化の影響を受けつつ,前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。




○前3500年~前2000年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方に神殿が建設されはじめる
 南アメリカ大陸の太平洋側には,南北にアンデス山脈が走ります(最高峰はアコンカグア山の6961メートル)。
 海岸からほど近いところに大山脈があるために平地が少なく,熱帯雨林気候,乾季のある熱帯気候,乾燥気候など,さまざまな気候がおおむね高度別に分布しているのも特徴です。

 アンデス地方中央部沿岸はすぐれた漁場を有し,海岸付近の人々はカタクチイワシ(アンチョビー)などの漁労にも従事していました。ウミドリの糞であるグアノも,古くから人々に利用されていた痕跡もみつかっています(⇒1870~1920年の南アメリカ 19世紀後半にはペルーを中心に輸出向けの開発が進展することになります)。漁獲量は沿岸の海水温に左右されます。海水温が暖かくなるエル=ニーニョや冷たくなるラ=ニーニャ現象と呼ばれ,この付近にとどまらぬ地球規模の海流や気圧の変動メカニズムによるものとされています。

 沿岸部を流れる海流は南極方面から北上する寒流であるため,沿岸部には乾燥した偏西風が吹きつける影響で,沙漠気候となります。
 沿岸部の気候と高山部の気候にはズレがありますから,高山部で降った雨が川となって沙漠に恵みをもたらします。また,沿岸部や山の斜面に発生する霧(ロマスと呼ばれます)も,野生の動植物の繁殖を助けます。
 海産物は基本的に季節に左右されませんから,人々はまず沿岸に定住して,カニとか貝などの海産物を漁撈・採集しました。
 やがて,山地で開発されていた農耕技術を,平地の河川地域に適応しようとする人々がやってきて,生態をこえた密接なつながりが形成されていくことになります(注1)。

ペルー沿岸
 こんなプロセスをたどって,前2500年頃以降,アンデス中央部の山地~沿岸部に公共建造物が出現します。
 公共建造物は,なんらかの「正義」を表現することで,人々を巻き込んで動かそうとした勢力によって建てられるものです。ですから,公共建造物が出現したということは,ある程度,食べ物が安定して獲得・生産されるようになって,その備蓄・分配・生産をコントロールしようとする人々が出現していたことの現れともいえます。
 現在のペルーの太平洋岸近くのカラル=スペ(◆世界文化遺産「聖都カラル=スーペ」,2009)からは,前3000~前1800年頃までの都市遺跡が残されています。広場とともに基壇(ピラミッド)状の構造物があって,農産物だけではなく海産物も発見されています。すでに情報伝達手段である組紐(くみひも)のキープがみつかっています。
 現在のペルーの北部山地のコトシュでは「コトシュ宗教伝統」と呼ばれる神殿遺跡がみつかっています。ここでは神殿が建てられては壊され,また建てられては壊されるという「神殿更新」の形跡がみとめられています。同様の習慣は日本の伊勢神宮(三重県)で20年毎に営まれる「式年遷宮」(しきねんせんぐう)にもみられますね。立て直しのたびに労力や物資が必要になりますから,次第に神殿が大規模になるに従い,その刺激を受けて生産規模・集落規模も拡大していったとみられています。


アマゾン川流域
 南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)の熱帯雨林地帯には,狩猟・採集民が分布しています。前2000年にはすでに小規模な農村がつくられていました(注2)。主食はマニオク(キャッサバ)の根っこです。
 乾季をもつ熱帯(サバナ気候)や,現在のアルゼンチンに広がる乾燥地帯の草原でも,狩猟民が生活をしていました。
(注1)関雄二「アンデス文明概説」, 増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。





●前3500年~前2000年のオセアニア

○前3500年~前2000年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
◆オーストロネシア語族が台湾から東南アジアに向けて移動を開始し,ラピタ文化を生み出す
オーストロネシア語族が台湾からオセアニアに南下へ

 前4000年頃に台湾から南に移動を開始したオーストロネシア語族の人々(人種的にはモンゴロイド人種)は,東南アジア方面に向けて前1500年頃までに島伝いに移動をしていきました。

 前3000年頃にフィリピンからインドネシア方面に東西二手に分かれて南下し,前2000年頃にさらに東西に分かれ,東に向かった集団はニューギニア島北岸からビスマルク諸島に進んでいきました。

 彼らは船の航行にすぐれ,犬・豚・鶏を家畜とし,漁労を営み黒曜石(こくようせき)を扱い,ラピタ土器(幾何学的模様をもつ丸みを帯びた土器)を製作しました。これをラピタ文化といいます。



○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前3500年~前2000年の中央ユーラシア
◆牧畜の文化は,ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)の方面に広がる
ユーラシアが牧畜エリアと農耕エリアに分かれる

 前4000年頃には,人類ではじめてウクライナの乾燥草原(ステップ)地帯で馬が家畜化されていました。定住生活を営む集団が主で,農業と牧畜を組み合わせた生活もしていたようです。

 この生活様式は前3000年紀末に気候が寒冷化・乾燥化するに従い(注),ユーラシア,ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)を通って東方に広がっていきました。
(注)植生については時代による変化もあることに注意が必要です。例えば黒海に注ぐドン川流域では7000年紀~3000年紀まで森林が広がっていましたが,前2200年~前2000年にかけて森林が交替し,乾燥草原となります(甲元眞之「気候変動と考古学」『文学部論叢』97,2008年,p.1~p.52(http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf))。




西のヤムナ文化,東のアファナシェヴォ文化
 まず,ウクライナからドン川とヴォルガ川流域に広がる中央ユーラシア西部をみてみましょう。
 前3600年頃~前2200年頃に,竪穴墓(ヤームナヤ;ヤムナ)文化が,黒海北岸からカスピ海北岸にかけて栄えます。
 銅製品を製作する銅器時代(金石併用時代)にあたります。
 すでに車輪が製作されていて,牛車が使用されていました。文化的には


 一方,中央ユーラシア中部~東部のカザフ=ステップ方面の文化をアファナシェヴォ文化といいます。前3500年頃から前2500年頃に栄えました。
 牧畜のほかに狩猟もおこなわれていて,銅器時代から青銅器時代にかけての文化にあたります。

 これらの文化は,先行する同地域の文化も含めてクルガン(高い塚(墳丘)という意味)文化とも呼ばれ,ユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいますが,論争に決着はついていません。

 クルガン文化の担い手の一部は,前3000年紀にはバルカン半島に広がっていたとみられます。


◆気候の寒冷化・乾燥化にともない,青銅器を受け入れた遊牧文化が変化する
西のカタコンブナヤ文化,東のアンドロノヴォ文化
 前2600年頃から前2000年頃まで,黒海北岸では地下式墳穴(カタコンブナヤ)文化が発達し,前2000年頃には南シベリアから中央アジアのカザフ草原にかけ,青銅器文化であるアンドロノヴォ文化が発展します。
 この東西2つの文化圏では,馬の引くことのできるスポークを付けた車輪や,馬具が発見されています。アンドロノヴォ文化の担い手は,のちにユーラシア大陸西部~中部に拡散していったインド=ヨーロッパ語族のうちインドやイラン系の人々につながるのではないかという説もありますが,詳細は不明です。

 前2000年頃になると,アンドロノヴォ文化の特徴と似ている青銅器が,東アジアの草原地帯(モンゴル)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられています。

 アム川やシル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕を行う,定住集落が見られました。しかし前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する民族(インド=ヨーロッパ語族)が南下を初め,衰退することになります。





●前3500年~前2000年のアジア

○前3500年~前2000年のアジア  東アジア
・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が八丈島(はちじょうじま)からも見つかり,神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大していたと考えられています(注)。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。


・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現③中国

 前3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶【本試験H24唐三彩のひっかけ】)を特徴とする竜山文化(りゅうざん,ロンシャン) 【追H25ドンソン文化とのひっかけ】が栄えました。竜山というのは,1930年にはじめて遺跡の見つかった竜山鎮にちなみます。
 前5000年紀の仰韶(ぎょうしょう、ヤンシャオ)文化に比べると,集落の内部の階層化が進む例が多く見られるようになります(注)。日用品としては灰陶が用いられましたが、初期的な青銅器も見つかっています。都市が出現するのもこの頃で,山東省の城子崖遺跡(じょうしがい)のように城壁で囲まれた集落が見つかっています。
 この頃になると土器づくりには,ロクロが使われるようになります。土をのせた台座をくるくる回しながら,指の微妙な加減によって形をつくっていくこの作業には,熟練のわざが必要です。山東省の丁公遺跡の陶器のかけらに,11個の符号が書かれているものが発見されていて,文字ではないかという説もあります。
 人々は麻から繊維をとって服にしていましたが,前2700年頃からカイコガの幼虫(蚕(かいこ))のサナギの繭を煮詰めて生糸にし,よりあわせて太くした絹糸から絹布(シルク)を製作するようになっていたようです。

 前2500年~前2000年の気候変動を受け,社会の構造がだんだんと複雑化。この時期の遺跡から武器や傷跡のある人骨,城壁や巨大な墓が見つかっており,政治権力が強大化していったとみられます。黄河の中・下流域の竜山文化は,やがて二里頭文化(にりとうぶんか)に発展していったのではないかという説もあります。

 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられます。
(注) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.74。



○前3500年~前2000年のアジア 東南アジア
 前3000年頃から,大陸からモンゴロイド人種が台湾からフィリピン経由で東南アジアの島しょ部に移動したと考えられています。
 彼らによって東南アジアは土器と磨製石器を持つ,新石器文化に移行しました。彼らの語族(人類を言語により分類した集団のこと)は,オーストロネシア語族(マレー=ポリネシア語族ともいいます)です。彼らはおそらくイモやバナナを食料としており,前2000年頃から,稲作水耕が始まります。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。



◯前3500年~前2000年のアジア  南アジア
◆インダス文明は大河と権力が結びついた文明ではなく,交易ネットワークにより発展した都市群
インダス川流域に交易ネットワークが発達する
 前2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では,インダス文明【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】【本試験H17ヴァルナ制は発展していない】が発展します。

 インダス川流域は,沙漠や乾燥草原が分布する乾燥地帯。代表的な遺跡モエンジョ=ダーロの年降水量はなんと100mm程度です(注1)。
 彼らは西方の西アジアの文明の影響を受けて青銅器を製作しています。
 完全に残っている遺跡が少ないことと,文字が未解読であることから,詳細はわかっていませんが,現在南インドに分布するタミル語【本試験H23ウルドゥー語ではない,本試験H24ヒンディー語,アッカド語ではない】などのドラヴィダ系の言語を話す人々(ドラヴィダ人) 【追H9アーリヤ人ではない】が担い手であったとみられます。

 従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア,黄河の文明と同一視し「四大文明」の一つに数えることが普通でした。
 しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない(注2)ことや,遺跡の地域差 (インダス川流域の上流部にある都市遺跡ハラッパー【本試験H2,本試験H5ラスコーとのひっかけ】【本試験H30地図】と下流域のモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ) 【追H26インダス川流域か問う】【本試験H17,本試験H20ガンジス流域ではない】(注3)(世界文化遺産,1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。

 未解読【本試験H15,本試験H24解読されていない】のインダス文字【追H28】【本試験H15,本試験H21図版】は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろうコブ牛の像などとともに,四角形の印章(いんしょう)【追H28】に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。
 インダス文字の印章は,数は少ないもののメソポタミアでも見つかっており,代わりにインドでもメソポタミアの印章や,丸型のペルシアの印象(注4)も見つかっていることから,域外の世界との間に相互に活発な交易があったことが認められます。
 当時は,季節風(モンスーン)【本試験H30】を用いた貿易はまだ発達しておらず,沿岸を伝ってペルシア湾沿岸部の港町まで船で行き来していたとみられます。インダス文明の遺跡は,当時の海岸線(現在よりも2メートル海水面が高かった)に沿って分布しており,香辛料,綿織物,象牙,宝石が輸出され,かわりに鉱物や穀物が輸入されていたと推定されます(注5)。
 輸出品や生活物資は船や牛車によりインド各地から遊牧民によって輸送されました(注6)。インダス文字は域内の異なる文化圏の人々のコミュニケーションとしても役立ったと考えられます。冬小麦が中心のインダス川周辺の人々は,モンスーンの降雨に恵まれ小麦の夏作が中心のガンジス川周辺の人々と,異なる生態を超えた交流を持っていたのです。
南アジアは現在でも多様性がきわめて高い地域ですが,そのような共存の発祥が,インダスの交易ネットワークのあり方から浮かび上がります(注7)。

 インダス文明は前2000年から衰退を始めます。
 古くに唱えられていた「アーリヤ人進出説」は,インダス文明を単一の王権と考えたことによる誤りです。
・インダス川のほかに存在したもう一つの大河であるサラスヴァティー川が消滅した
・気候が変動した
・界面が変動しメソポタミアとの貿易が停止した
 このような自然の変化にインダス川周辺の大都市群が衰退した原因を求める説もありますが,「1つだけでは無理がある」(注8)と考えられています。有力なシナリオは,衰退にあたる時期にモンスーンの活動が強化され,インダス川周辺で洪水が多発。これに悩まされていた人々が,東部のガンジス川流域に移動したというものです(注9)。

 なお,インド南部からスリランカにかけて,皮膚の色の濃いオーストラロイド人種に属するとみられるヴェッドイドと呼ばれる人種も分布しています。彼らはユーラシア大陸から南ルートをとったホモ=サピエンスの子孫とみられ,オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ) 【本試験H27】と同型とみられます。
(注1)降水量,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.421。
(注2)記念建築物なし。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.412。
(注3) モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市【追H9】で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場【本試験H17】もあります。土器をつくるのにロクロが作られ,木綿の布を織って衣服にしていました。
 ここに「穀物倉」が存在したという〈ウィーラー〉の説(M.ウィーラー『インダス文明の流れ』創元社,1971)は,現在では否定されています。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.405。
(注4)丸型,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注5)2m,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413。
(注6)長田俊樹『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』京都大学学術出版会,2003,p.274。
(注7)悪弊として指摘されるカースト制度にも,元来は,異なる生態を送る人々が「お互いを支えながら共存するための社会システム」という側面がありました。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.418,p.420。
(注8)長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.410,p.421。
(注9)サラスヴァティー川は,インダス文明の時代には大河ではなかったとする説もあります。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.129,p.422。乾燥地帯で洪水が起こるのかと思われるかもしれませんが,2010年7~8月に現在のパキスタンを史上最悪のモンスーンに起因する洪水が襲い,1984年に死者を出しています(防災研究フォーラム「2010年7月末からのパキスタン洪水災害」,2011,http://whrm-kamoto.com/assets/files/Indus%20Flood%20in%20Pakistan%202010%20in%20Japanese.pdf)。


○前3500年~前2000年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

灌漑農耕が余剰生産物を生み、都市が出現する
 西アジアのメソポタミア地方(ペルシア湾に注ぐティグリス川とユーフラテス川に囲まれた低地)の下流域には,前5500年~前3500年の間に灌漑農耕を特色とする集落が出現しました。
 狩猟・採集から本格的に農耕・牧畜を中心とする生活様式に転換していくと,余剰生産物(食べずにとっておくことのできる収穫物)が残せる余裕も出ていきます。

 以前から場所によっては狩猟・採集や初期的な農耕に頼りながら定住生活を営むことも可能だったわけですが,この時期のメソポタミア地方には,内部に農耕に従事しない階層を含む大規模化な定住集落(=都市)も現れるようになっていきます(注1)。
 こうしていくつもの都市が出現し,支配層の組織が複雑化して国家が成立していったのです。王号を表す粘土板に書かれた文字がみられることから,王権の存在が確認できます。このような国家は,広大な領域を支配する現代の国家とは異なり都市国家といいます。


ヒトコブラクダの家畜化により、遊牧民が出現する
 なお、野生のヒトコブラクダが家畜化されたのは、前3000年紀のアラビア半島においてだったと考えられています。当初は乳や肉の食用目的で、運搬・移動目的ではありませんでしたが、ラクダ遊牧の成立により、羊・山羊では踏み込めない砂漠地帯での生活が可能となりました。
(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.4。
(注2) 灌漑農耕の普及にともなう大規模な定住集落(=都市)の誕生に注目し,この現象を「都市革命」という研究者もいます。しかし,「定住農耕」→「都市=文明の誕生」という図式が,他地域にも当てはまるパターンというわけではありません。


 メソポタミア地方を中心とする考古学的な区分に従って、西アジアの様子を確認していきましょう。

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前4000年~前3100年 ウルク文化
 メソポタミアでは,ユーフラテス川【京都H22[2]】下流域(注1)の都市ウルクに代表されるウルク文化が,都市文明を生み出していました。担い手は民族系統不明のシュメール人【追H28ウルを建てたのはアッカド人ではない】【本試験H2ウルを建てたか問う・ゼロの観念や10進法を発達させたか問う,本試験H6】です(注2)。
(注1) 通説では当時の海岸線は現在よりも内陸の方にありました。この地域の河川は長い時間をかけて上流から土砂を運び,しだいに下流に土砂が積もっていくことで,海岸線が海の方に移動していったわけです。ただし、メソポタミア史の前川和也は海岸線が現在とあまり変わらない位置にあったという説も紹介しています(前川和也「古代メソポタミアとシリア・パレスティナ」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年)。たとえ海岸線が現在よりもペルシア湾側にあったとしても、下流付近には沼沢地がひろがっていたので海上交易は可能であったと考えられます。
(注2) 「スメル」のほうが言語に近い(小林登志子『シュメル―人類最古の文明』中公新書、2005年)。



 都市には多数の人口が居住し,大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ,その支配を正当化する祭祀センター(神殿)が人々の信仰の的となり,生活の支柱となります(注3)。
 豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ,余るほど集まった食料を背景に,農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつくる手工業者が,物質文化を支えました。
 交易ルートの支配や財産を守るために,防御施設(壁(かべ))や軍隊もつくられていきます。
 農耕民の富をめぐっては,周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが,遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し,見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます。銅,金,銀製品が出土するのはこの時期からです。つまり,地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や,輸送ルートが存在したことを物語っています(注4)。

 このように,都市の経済力や物質文化(=文明)の刺激を受けつつ,異なる生態系にある人間集団が交易を通して密接に絡み合い,相互に影響し合うようになっていくわけです。

(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は,都市=文明の出現の前提条件というわけではありません。また同様に,定住農耕が都市=文明の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも,前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから,これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32。



 都市ウルクは現在のバグダードの南240kmに位置し,王が都市の神をまつり政治と軍事の実権をにぎって人々を支配するしくみを編み出しましていました。
 「シュメールの都市支配者や王に課せられた義務は,外からの攻撃に対する防衛と,支配領域内の豊穣と平安を確たるものにすること」であり,王の正統性の源は,都市や神殿にかかわる人々の生命・財産の安全保障にありました(注1)。前3500年の人口は約1万人,前2000年の人口は8万人とも推定される当時世界最大の都市です。

 ジッグラト(聖塔) 【追H25王墓ではない・古代メソポタミアか問う(「聖塔ジッグラト」の表記),H30メンフィスに建てられていない】と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れるバベルの塔のモデルではないかともいわれています。
 神殿には都市の守り神(守護神)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易(注2)が行われたと考えられています【本試験H12「シュメール人の都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】。古代メソポタミアでは各人に個人の守護神があると信じられていて,王にもその守護神がありました(注3)。
 ほかに,キシュやウル【追H28アッカド人の都市ではない】【本試験H2シュメール人の都市か問う】【本試験H16シュメール人が建設したか問う】という都市国家も,シュメール人によって建設されました。


(注1) 前田徹『メソポタミアの王・神・世界観――シュメールの王権観』山川出版社,2003年,p90
(注2) 例えば,古代メソポタミアでは租税・貢納品・戦利品を集中させた王およびそれと結んだ集団に権力が集中し,遠隔地交易の発注者となっていきました。例えばアッカドのナラームスィーン[ナラムシン]〔B.C.2155?~B.C.2119?,アッカド王国の王〕は諸国の富を潤沢に集めたといいます。しかしその後のメソポタミアの歴史をみると,遠隔地交易を管理しようとする宮廷により委託受けた商人だけでなく,利益動機にもとづき私経済を回そうとする商人たちも登場するようになります。商人の中には収益を事実上の租税として神殿に納める者もいたようです(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,pp.38-39,pp.64-68)。「広汎な商業に資金を提供し,倉庫に大量の品物を貯え,宮廷付属の工場で輸入原料を加工させたり,あるいは輸出用の品物を作らせたりする――これに必要な資力と能力は,実に宮廷こそが手にしていた。こうして王室経済は次第に交換目当てに行なわれるようになった生産の中心であり,商品経済,貨幣経済はその市場圏内で強力に飛躍した。私的商人たちにとってもこの発展は有利であった。とくに宮廷と結んで,少なくとも取引の一部分を宮廷から委託されたときには,かれらも利益を得ることができた。…」。このような商人を王が管理下に置き,法典により社会秩序を築こうとしたのは,彼らが貸付業・高利貸し業に進出し,労働者と兵士としての価値がある小生産者たちを没落させてしまうことを恐れたからであった。(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,p.238,pp110-111)。
(注3) 歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.9。




◆前3000年前後に、シュメール人は「文字」を発明した
会計記録を表現するための表記が文字に発展した
 シュメール人【共通一次 平1】【追H30】は,粘土板(ねんどばん)(クレイ=タブレット) 【追H28】【本試験H15】【本試験H8】に楔形(くさびがた)文字(もじ)【東京H23[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満洲文字,西夏文字との写真判別,平1:創始がシュメール人か問う】【本試験H15】【本試験H8】【追H28、H30】を記録しました。大きな川が上流から運んだ土砂が,粘土板の材料です。

 初めは絵文字(象形文字)でしたが,のちに表音文字(音をあらわす)としても使われるようになりました。粘土板は乾燥するとカチンコチンになるおかげで,われわれは彼らの記録を読むことができるのです。彼らの信仰したさまざまな神の存在も,それら文字史料からわかりますが,記録のほとんどは神殿に蓄えられた収穫物や家畜の数などを表した会計簿です。

 記録は,専門家(書記(しょき))が行いました。完全な文字体系がシュメール全土に普及するのは前2500年頃のことです。(注1)。
 楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた】(注2)。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,p.5。
(注2) 古拙文字は,それに先行するブッラとトークンから発達します。以下にその詳細を説明します。
 古拙文字のうち最古のものは前3000年~前2900年頃にウルクでドイツの調査隊により1928~1931年に発見された約800枚のウルク古拙(っこせつ)文書。その後の発見により,断片も含めると3000枚。古拙文字(絵文字)の数は1000,うち200の表語文字が楔形文字の原形となります。ほとんどが会計簿で,シュメール語かどうかは意見がわかれます。
 その後1970年代以降にアメリカ人考古学者が,古拙文字に先行する段階の「表現方法」を発見しました。物資や家畜を管理するためのブッラやトークンと呼ばれるものです。ブッラとは内部が空洞の土でできた球体のことで,中にトークンという穀物や家畜の種類を示す物体を入れ,外側にスタンプ(印章)を渡すことで,物資・家畜の取引・契約の証拠としました。のちに,穀物や家畜の種類を示す印はブッラの外側に押され,またとがった筆で刻むようになると,それがやがてウルク古拙文字(楔形文字)に発達していったのではないかと考えられています(歴史学研究会編『世界史史料1―古代のオリエントと地中海世界』岩波書店,pp.4-5)。
 このように、計算を記述するために文字が発生(前3100年のウルク4a層の会計担当者が最初の文字を発明)し、そこから絵文字や表音文字に前3100年~前3000前の間に発展していったという説は、デニス シュマント・ベッセラ『文字はこうして生まれた』岩波新書、2008年、p.115,123を参照してください。




 また,六十進法【本試験H2 10進法ではない】で数値を記録し,1週間を7日とするなど,現代にも影響をのこしています。六十という数字が選ばれたのは,それが11個もの約数を持っているため,分割に便利だからでしょう。また,農耕に使用するために,また,19年に7回閏月(うるうづき)をおく太陰太陽暦 (月の満ち欠けによる1年354日の暦を,1年365日となるように修正したもの)が用いられていました。暦の作成のために天体の動きが研究されて,バビロン第一王朝の頃から始まる占星術(せんせいじゅつ。人間界の出来事を天体の運行により説明・予言する技術)へと発展しました【本試験H2また,シュメール人はゼロの観念を発見していない】。


 文字が使われるようになったことで,人類はその短い一生を越えて,その知恵や知識を口伝えよりも確かな形で後世にのこすことができるようになりました。また,先人の成功に学び,他人の失敗を教訓とすることができるようになり,何から何までゼロから考える必要がなくなりました。
 取引する品物が未開封であることを証明するために,円筒印章なるものが発明されました。開封部分に粘土を貼り付けて,そこに楔形文字や図の彫られた筒型のハンコをゴロゴロと転がします。乾燥気候のメソポタミアでは,すぐに乾いてカチコチになる。その商品を受取るべき人以外が開けると,バレてしまうというわけです。

 また,ウルクでは『ギルガメシュ叙事詩』【本試験H30】という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。なお,叙事詩の中には現在のバーレーンが産地であった真珠(アコヤガイ)採りを思わせる部分が含まれています(注1)。当時から真珠はシュメール人らの交易品の一つでした。
 ウルクのシュメール人の都市文明は「メソポタミア南部」という地域を越え,交易ネットワークを確立していたという説があります。
 ・イランのペルシア湾岸のエラムに植民
 ・ティグリス,ユーフラテス川の上流を開発
 ・シリアやアナトリア半島(現在のトルコ共和国)に植民
 ・北メソポタミアや南西イランを拠点に,各地の物産の輸送ルートを確保
 このような順序でネットワークを形成していったのだというものです(注2)。
(注1) 『旧約聖書』によるとこのとき〈ノア〉は「清い動物」は七つがいずつ、清くない動物は一つがいずつを載せました(「創世記」7:3)。
(注2) 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.48。
(注3) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.32~p.33。




前3100~前2800年 ジェムデト=ナスル期
 しかしウルクの交易ネットワークは前3100年に崩壊。
 前3100年からは別のシュメール人の担い手による装飾的な土器を特徴とするジェムデト=ナスル期となります。
 これと連動して,ウルクの交易ネットワークに組み込まれていたイラン高原の人々が,自分たち主導の物流を確保しようとしていきました。これを原エラム文明といいます(注1)。
 彼らはアフガニスタンでとれる宝石ラピスラズリを,イラン高原の沙漠や乾燥草原の都市を結んでメソポタミア東方のスーサ〔スサ〕にまで輸送し,ここで食糧や工芸品と交換しました。
 この物流の流れを,後藤健は次のように表現しています。

 「イラン高原の交易ネットワークを経てスーサに集められた物資を,適正価格で買い取ることは初期のメソポタミア文明にとってどうしても必要な活動だった。また,その対価であるメソポタミアの農産物を得ることは,世界有数の乾燥地が中心に位置するイラン高原にとっては,どうしても必要な活動だった。
 二つの隣接地は,自然環境の違いから,都合よく相互補完の関係にあり,資源の交換は両者にとって宿命であった。」(注2)

 後藤が「宿命」と表現したこの関係を打破しようと,原エラム文明はインダス文明に接近。さらにペルシア湾岸のオマーンに移住して,銅鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは,ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。

(注1) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注2) ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.67。





前2800~前2350年 初期王朝時代(注1)
 さらに担い手が代わって,彩文装飾土器が増えるシュメル初期王朝時代に入ります。
 この時代のことがどうしてわかるかというと,各都市の伝承をもとにした王の名前の記録(「シュメール王名表」)が残されているからです。
(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』によれば,前2900年~前2335年。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.7。「洪水」をはさんで2つのパートに分かれており,後半部にウルク第一王朝,ウル第一王朝が現れる。「王朝」といっても,一時期に1つの王朝がバビロニアを支配していたわけではなく,複数の王が併存していたと考えられます。


 前24世紀頃にはウルクの〈エンシャクシュアンナ〉王(紀元前24世紀頃)が都市国家キシュを滅ぼし,都市国家の枠を越えた称号である「国土の王」を名乗りました。
 ラガシュでは前24世紀前半に最後の王〈ウルカギナ〉が即位一年後に,王位を奪った〈ルガルアンダ〉時代の悪行を糾弾し,減税や奪われた土地を弱者に返すなどの改革をしたことが史料から明らかになっています(注1)。この時代にはすでにそのような社会改革がおこなわれていたことがわかるわけです。
 また,初め都市国家ウンマを拠点としていた〈ルガルザゲシ〉王(位前2375頃~2350頃(注2))は,隣接都市のウルクに拠点を移してシュメール人の諸都市国家を統一しました。



アッカド人の帝国
 しかしそんな中,乾燥化の影響からメソポタミアにはアラビア半島からアフロ=アジア語族セム語派の人々が移動してくるようになります。
 ウルクを含むシュメール人の都市国家は,前24世紀後半に〈サルゴン〉(位前2334~前2279) 【立教文H28記】を王とするアフロ=アジア語族セム語派【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】【本試験H29インド=ヨーロッパ語系ではない】のアッカド人【京都H22[2]】によって滅ぼされます。
 「滅ぼす」というのは,史料の中では「町を征服し,城壁を破壊した」というように表現されます。支配というのはこの時代にはすなわち「都市の支配」であったのです。

 その支配領域はメソポタミアからシリアに及びましたが,首都アッカドの位置はわかっていません。広範囲を支配した〈サルゴン〉は「全土の王」を名乗りました。

 その後の第4代〈ナラム=シン〉は現代のオマーンにまで遠征し,地中海(「上の海」)からペルシア湾(「下の海」(注3))に至るまでの最大領域を実現。「四方世界の王」を称して,最高神エンリルの権威を利用し自らを「アッカドの神」(注4)と称して王の神格化を図りました。

 アッカド人が支配権を持ち,都市国家マリとエラムも屈服。一方,ウルクに滅ぼされていたキシュ市を復興させ,かつての住民を保護しました(注5)。交易も盛んで,南アジアのインダス文明(⇒前3500~前2000の南アジア)の産品(インダス文字の刻まれた印章)も発見されています。

 アッカド人の王朝は前23年紀後半に滅亡しました。〈ナラム=シン〉の後継の王も,自身を神格化するようなことはありませんでした(注6)。
 その原因は,23世紀中頃の大干ばつや塩害(注7)であるという説もあります。都市に定住するようになったヒトにとっての最大のネックは,不作による飢えです。同じところに長く住み続けるわけですから,食料が安定的に得られるうちは人口も増えますし,環境破壊も進行します。灌漑農業にもリスクはあって,土地に水を注ぎすぎると,地下水位が上昇してしまい,水が地下にしみこむ前に蒸発し,地中に塩分が残されてしまいます。これにより農業に影響が出る塩害がおきることもしばしばでした。前20世紀頃にかけ,シュメールの土地はますます農業に不適となり,衰退の一途を辿っていきます。

 アッカド人の王朝には,西方のシリア方面からセム語派のアムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱しますが,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000) 【立教文H28記】を始めました。これはシュメール人最後の王朝で,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行いました。

 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方のエラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.12。〈ウルギカナ〉の改革碑文はフランスのルーブル美術館にある。
(注2) ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典。
(注3) 「上の海」と「下の海」というのはあくまで慣用句であり,実際の支配領域と一致するとは限りません。歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注4) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.15。
(注5) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.13。
(注6) 歴史学研究会編『世界史史料1』,2012年,p.16。
(注7) 塩害とは、灌漑農耕をしているときに排水不足で起きる現象。高温のため水分が蒸発し、土壌中の炭酸カルシウムと水が反応し水酸化カルシウムという塩が土壌を覆ってしまうものです。
 なおメソポタミア史の前川和也によると、ヘロドトスが『歴史』で収穫量は平均して播種量の200倍、最大で300倍と述べたのは誇張で、ラガシュの初期王朝末期(前24世紀中頃)で76.1倍、ウル第3王朝(前22~前21)で30倍というように収穫量は逓減していったと試算されます(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.5)。逆に、毎年定期的に氾濫が起きていたナイル川では、地力維持と塩害防止が可能となりました(鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.35)。





●前3500年~前2000年のアフリカ


○前1200年~前800年のアフリカ  東アフリカ・南アフリカ・中央アフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 現在のナイジェリア東部からカメルーンにかけての地域に,現在ではサハラ沙漠以南のアフリカに広範囲に分布するバントゥー語の起源となる言語を話す人々が分布していたとみられます。



○前3500年~前2000年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 前4000年頃から前3000年頃のアフリカ大陸からユーラシア大陸の気候は,乾燥化が進みました。
 現在のサハラ砂漠の湿潤状態(緑のサハラ)は、前3000年には乾燥化により終りを迎えます。
 それとともに、砂漠の一部住民がオアシスなどを求め南下した形跡が残されています。人々は草原地帯からナイル川沿岸やチャド湖などに移住。
 西アフリカで時や挽臼が見つかっていますが、野生穀物の最終とも考えられるため、農耕の始まりであるかはわかりません(注1)。
 

 この気候変動によって,家畜や人類が感染すると「眠り病」という死に至る病原体を媒介するツェツェバエという蝿の生息範囲が変わったことも,サハラの人々の南下に関わっているとみられます。
 前4000年紀までにはニジェールのアイール山地まで到達していた牛も、乾燥化のために南下していきました(注2)。
 なお,地中海沿岸からサハラ沙漠を超えるルートは,紀元前後まではほとんど拓(ひら)かれていません。この期間には,水を採取するための地下水路フォガラがサハラ沙漠に現れます。

 サハラ沙漠を流れるニジェール川下流の熱帯雨林地帯では,前3000~前2000年にかけてヤムイモ,アブラヤシ,コーヒー(【本試験H11】原産地はアメリカ大陸ではない),ヒョウタンなどの植物が栽培されるようになりました。サハラ沙漠の先住民はベルベル人で,現在は地中海沿岸のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア(いわゆるマグリブ諸国(注3))に多く分布しています。
 山岳地帯にはベルベル系のトゥアレグ人が分布しています。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145。
(注2) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145。
(注3) この地方が「マグリブ」と呼ばれるようになるのは,アラブ人の大征服によってイスラーム教が広められて以降のことです。





○前3500年~前2000年のアフリカ  北アフリカ

ナイル川上流のヌビア
 ナイル川をさかのぼっていくと,6か所の急流があり,そこを船で乗り越えて航行することができません。ナイル川の第2急流よりも上流地域をヌビアといいます。ヌブ(金)が取れる地ということで,のちにローマ人がそう呼んだのです。

 下流にエジプトに第1王朝(前3100年?~前2890年?)が成立していたころ,ネグロイド(黒色)人種のヌビア人により第3急流のすぐ南のケリーマを都に王国が現れました(ケリーマ王国)。
 
 その後、ナイル川下流のエジプトが中王国時代(前2040年?~前18世紀)に南下を始めるとエジプトの勢力は第二瀑布にまでやって来て、金採掘をめぐる争いも起き,ヌビアの勢力はいったん衰えました(注1)。
(注1) 中王国の時代に、ヌビアに関する記録が初めてエジプトの文献に言及されます。宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.174。



ナイル川下流のエジプト

 ナイル川の第1急流(アスワン)よりも下流の地域のことをエジプトといいます。住民はアフロ=アジア語族の古代エジプト語を話していました(アフロ=アジア語族は,セム語派を含む語族です。古くは古代エジプトの言語は“ハム語派”に分類されていましたが,キリスト教の価値観の影響を受けた分類法で実態を反映したものと言えず,現在では用いられていません)。

 「エジプトはナイルのたまもの」【追H26】【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】という言葉があります(ギリシア人の歴史家〈ヘロドトス〉(前485?~前420?)によるもの) 【追H17、H26】【東京H22[3]】【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】【本試験H31】【慶文H30】【同志社H30記】(注1)。

 「今日ギリシア人が通航しているエジプトの地域は、いわば(ナイル)河の賜物(たまもの)ともいうべきもので、エジプト人にとっては新しく獲得した土地なのである。……エジプトという国の地勢を一言でいえばこうである―先ず海路エジプトに近づき、陸地からなお1日の航程の距離をおいて測鉛をおろしてみると、泥土が上ってきて、水深は11オルギュイアであることが判る。これによって沖積土が実にこのあたりまで及んでいることが知られるのである」(ヘロドトス『歴史』より)(注2)

 定期的な氾濫が,上流から栄養分をたっぷり含む土(ナイル=シルト)を運んだことを表したものです。土は流域の窪地(くぼち,ベイスン)に溜まり,定期的に増減水してくれるため塩害も起きにくく,その窪地が耕作地に利用されました(ベイスン灌漑)(注2)。

 メソポタミアは塩害により衰えましたが,エジプトは1年に一度塩分をドバっと流してくれるので,その心配もありません。同時にナイル川を下っていけば,交易の盛んな地中海に出れますし,年中南向きの風が吹いているので,上流へとさかのぼるのも簡単です。ただし6箇所の急流ポイントでは,一度船を降りなければなりませんでした。


 さて、すでにエジプトのナイル川沿岸では、下流(下エジプト)にメリムダ文化(前5500年頃~)、上流(上エジプト)にパダリ文化(前5000年~)がありました。両者は別系統の起源と考えられています(注3)。

 このうち上エジプトのパダリ文化から、前4000年頃になるとナカダ文化が発展します(注4)。
 前3500年~前3150年はナカダ文化Ⅱ期に区分されます。
 前3150年~前3000年はナカダ文化Ⅲ期となり、内容的には大きな変化はありませんが、上エジプト北部に大型墓地が出現したことから、北への人口移動、浸透がみられるようになったと考えられています(注5)。

(注1) じつは〈ヘロドトス〉の先輩である〈ヘカタイオス〉(前550~前476)がすでにそのエジプト史に使用したフレーズだといいます。また、ここでいう「エジプト」とは、ナイル川河口の「デルタ(三角州)」地域のことを指します。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2) それだけ多くの土が、上流から氾濫によってもたらされ続けているのだという〈ヘロドトス〉の観測である。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.147。
(注3)「農地を畦で囲み,犁でその地表面を撹拌しておく。洪水季になると,堤の一部を開き,ナイル川のシルト(泥土)を含んだ氾濫水を耕地に引き,湛水させた。…その後,畦を開き,隣の耕地に排水した。」 古代オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年,p.429「灌漑」,pp.423-429。
(注4)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.7。
(注5)上掲書、p.7。
(注6)上掲書、p.7。屋形禎亮「古代エジプト」『岩波講座世界史』2、1998年を引いて。屋形氏は、上エジプトに「原王国」群があって、そのうちティニスの首長が「上エジプト王国」を統合し、そして有力な「原王国」群のなかった下エジプトを各個撃破し征服したとしています(大貫良夫他編『人類の起源と古代オリエント』(『世界の歴史』1)中央公論社、1998年)。




前3150年?~前2584年? 初期王朝時代(注)
(注)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。

 沿岸にいくつもの都市国家がうまれますが,前3500年以降,ナイル川上流の雨量が減少して乾燥化が進むと,限られた資源をめぐる争いが激化しました。

 一方,エジプトでは前3100年~前3000年頃に,下エジプト(下流の三角州(デルタ)の地帯)と上エジプト(デルタから第一急流まで)にあった小規模な都市国家群(注1)を,上エジプトの王〈メネス〉(ナルメル?,前3125?~前3062?) (注2)が統一しました。

 上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川の下流のメンフィス【追H30ジッグラトは築かれていない】を都に定めたとされています。
 なお,彼の時代には象形文字【共通一次 平1】であるヒエログリフ(神聖文字) 【東京H10[3],H23[3]】【共通一次 平1】が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石【共通一次 平1】に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布するパピルス草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
(注1)この小規模な都市国家のことを,ギリシア人の歴史家は「ノモス」と呼びならわしました。
(注2)前3世紀のプトレマイオス朝エジプトの神官〈マネトー〉の『エジプト史』では〈メネス〉が初代の王という記述があり,現在ではこの〈メネス〉が〈ナルメル〉と同一人物ではないかと考える説が有力です。




 エジプト【本試験H16ヒッタイトではない】では王はファラオとよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。
 洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのように納得をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。

 なお、ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために,測地術(測量) 【本試験H2フェニキア人の考案ではない】が発達します(注1)。のちのピタゴラスの定理の元となる面積の公式も,すでに使われていました。
 また暦として正確な太陽暦【本試験H2ユリウス暦のもとになったか問う】が用いられていました。


 エジプトでは,長期間に渡っていくつもの王朝が成立と断絶を繰り返していきます。
 王の系譜の断片的な情報をもとに系図を推測し,比較的連続性のある王朝をいくつかセットにした区分が用いられています(注2)。

 古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
  …ピラミッドが建設された時期はここ。

 第一中間期(?~2066?):第7王朝~第11王朝前期

 中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
  …南部の勢力による政治的統合です。

 第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
  …ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

 新王国(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。

 第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
  …各地の君侯が自立する時期。

 サイス朝(前664~前525):第26王朝
  …下流のサイスを治めていた君侯が,進出してきたアッシリア側について政権を掌握。

 末期王朝(前525~前332):第27王朝~第31王朝
  …第27,31王朝はペルシア人の王朝。最後はアケメネス朝の〈ダレイオス3世〉の支配です。

 ヘレニズム時代(前332~前30):マケドニア王朝(〈アレクサンドロス〉)~プトレマイオス王朝(〈クレオパトラ7世〉まで)
(注1) 幾何学の発展が、ナイル河の氾濫後の整地という必要から生まれたと〈ヘロドトス〉が述べています(ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.226)。
(注2) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。




◆古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
古王国は巨大なピラミッドが建てられた時代
 古王国【本試験H2都はテーベではない】は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流のメンフィス【本試験H2テーベではない】を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓であったかどうかは不明)が建設された時期にあたります。

 第3王朝の初代ファラオ〈ジョセル〉(ネチェルイリケト;ネチェリケト)は,サッカーラに最古のピラミッド(階段ピラミッド)を建設させました。すでに王を神聖視する思想があったようです。テーベ北部のナイル川東岸にはカルナック神殿は第12王朝時代に創建されました。西岸にはネクロポリス(死者の都)と呼ばれる墓地遺跡群が残されています(◆世界文化遺産「古代都市テーベと墓地遺跡」1979)。

 その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊のギザにある三大ピラミッド(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド) 【本試験H20セレウコス朝の遺跡ではない,H31時期(新王国時代ではない)】が生まれました。
 ・〈クフ〉王…第一ピラミッド 現在146.5m
 ・〈カフラー王〉…第二ピラミッド 現在144m
 ・〈メンカウラー王〉…第三ピラミッド 現在66.5m

 ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,かつては「王の墓」である(注1)といわれてきましたが,王(ファラオ)の権力を象徴【本試験H31「ファラオの権力を象徴」】させるとともに,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。
 いずれにせよ,最大の〈クフ〉王(前2589~前2566) 【追H27クノッソス宮殿を建てていない】のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80日×20年間働かせるだけの権力が必要です。
 ピラミッドの建設は,ファラオの支配下にあった人々を,農作業の忙しくない時期(農閑期)に働かせる公共事業だったのではないかという説もあります。
 スフィンクス像も,前2500年頃〈カフラー〉王によって建造が命じられたと伝えられます。

 〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国では太陽神ラー【追H27】【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H21時代を問う,H31古代インドではない】への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿には列柱が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺のエーゲ文明やギリシア文明に取り入れられました。

 古王国は前2120年に滅びました。
 すると,従来の太陽神をまつる信仰にも変化が起こります。
 あの世(幽界)の王であるオシリス神をまつり,「人は死んだら“あの世”で復活できる」と考える新しい信仰の成立です。
 オシリス神はもともと農耕神で,ヌトという神とゲブという神の間に生まれたとされます。しかし,オシリス神は弟であるセト神に殺害されましたが,妹でありながら妻となったイシスがシリアに流れ着いた遺体を発見し,エジプトに持ち帰ったところ,セト神はイシスからその遺体をまた奪い,バラバラにした挙げ句エジプト中にばらまきます。これをイシスが拾い集めて布でぐるぐると巻いたところ(ミイラの由来(注2)),オシリスは“あの世で”復活。それ以来,オシリス神は幽界(あの世)の王となったといいます。なお,オシリス神の子であるホルス神は,父のかたきを討ってセトを破ったそうです。

 この思想は,古王国の崩壊後,下エジプトと上エジプトの抗争により起こった社会の混乱を背景としているとみられます。結果的に上エジプトのテーベ(ナイル中流域) 【本試験H2古王国の首都ではない】【本試験H30ニネヴェとのひっかけ】の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)までを中王国の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。
(注1) 〈ヘロドトス〉はケオプス、ケプレン、ミュケリノスの墓であり、中に遺体が眠っている(p.243)と報告する。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、pp.240-243。
(注2) 製法が説明されている。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.212。




◆中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
 中王国とはマネトの王命表によると第11王朝、第12王朝、それに異論もありますが第13王朝のことを指します(注1)。
 第11王朝の第4代〈メンチュヘテプ2世〉が前2040年頃に国土を再統一したのが中王国の始まりとされます。性急な中央集権化に反発した地方豪族の支持により、宰相〈アメンエムハト〉がクーデタをおこし、第12王朝を建てました。〈アメンエムハト3世〉の死後第12王朝は衰え、短命な王が交替する第13王朝となりました(注2)。

 中王国は,パレスチナやヌビア(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海のクレタ文明〔ミノア文明〕とも交易をしています。
 中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。

 この時期には,北シリアからエジプト【追H30】に,騎馬に優れた遊牧民(ヒクソス【追H30】【中央文H27記】と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。
 ヒクソスは馬、戦車(戦闘用二輪馬車)、複合弓、小札鎧(こざねよろい)などの新兵器をエジプトにもたらし次第に政治にも干渉し,第13(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱します(注3)。
 第14王朝はナイル川のデルタにおこり、第13王朝と並立していました(注4)。
 第15(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至ります。

 上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。

(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.9。
(注2) 上掲書、p.9。
(注3) なお古代エジプト史研究の屋形禎亮氏は、この頃にデルタ東部国境が空白地帯となったことが、パレスチナのバアル神を信仰する人々の移住を可能にし、彼らこそが「ヒクソス」と考えられるとしています。上掲書、p.10。
(注4) 上掲書、p.10。
(注) この項目全般について、古代エジプト史の年代については,諸説あり。







●前3500年~前2000年のヨーロッパ

○前3500年~前2000年のヨーロッパ  バルカン半島
東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ

 バルカン半島と小アジア(アナトリア半島)の間に位置するエーゲ海周辺では,オリエントの文明の影響を受けて青銅器文明が栄えました。これをエーゲ文明と総称します。

 バルカン半島には,黒海北岸から沿岸部を通って中央ユーラシアの遊牧民(⇒クルガン文化:前3500~前2000の中央ユーラシア)が進出しやすく,また西方のアルプス山脈以北の地域や東方の西アジアの小アジア(アナトリア半島)との交流も盛んでした。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ

 前3000年紀(前3000~前2001年)の半ば頃には、現在のフランスで金属(銅)の製造が始まっています(注1)。
 西ヨーロッパで青銅がつくられるようになるのは前2000年前後のことです。青銅をつくるにはスズ(錫)が必要ですので、広範囲の資源の交易ネットワークも構築されていきます(注2)。


 またこの時期、西ヨーロッパを中心とする地域では、巨石建造物が建造されています(注:巨石文化)。
 数個の巨石の上に巨石を載せたドルメン(支石墓(しせきぼ)),巨石を直立させたメンヒル(モノリス),列状に巨石を並べたアリニュマン,輪の形に並べたストーン=サークル(ウェールズ語ではクロムレック)と呼ばれます。
 ストーン=サークルとして有名なのは,ロンドンの西200kmに残されたストーン=ヘンジです。前2500年~前2000年頃に建てられたと考えられています。夏至になると,中心の石と立石(メンヒル)を結んだ直線上に太陽が昇る構造になっています。夏至や冬至がわかることから,農業の広まりと関係しているとみられます(◆世界文化遺産「ストーンヘンジ,エイヴベリーの巨石遺跡と関連遺産群」1986,2008範囲変更)。
(注1)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.25。
(注2)福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.26。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
 ユーラシア大陸西端で,北アフリカに突き出ているイベリア半島には,前3000年紀には民族系統不明のイベリア〔イベル〕人が生活していました。彼らの文化には,エジプト文明やクレタ文明〔ミノア文明〕の影響がみられます。



○前3500年~前2000年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 前3300年頃には,ユーラシア大陸北西部のフィンランドで,櫛目文(くしめもん)土器をもちいる人々が現れます。櫛目文土器は,新石器時代のユーラシア大陸の広い範囲に分布する土器です。フィンランド南部にはウラル語族の言語を話すフィン人,北部にトナカイの遊牧生活を行う同じくウラル語族のサーミ人の祖先が分布していました。



●前2000年~前1200年の世界
生態系をこえる交流①
 ユーラシア大陸では,前17世紀頃から中央ユーラシアの遊牧民の民族大移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が影響を受ける。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに定住農耕民エリアが広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 中央ユーラシアには遊牧を基本とする文化が拡大している。青銅器の普及によって騎馬遊牧民となり,軍事的なリーダーも現れる。定住農耕民エリアと相互に関係を結んでいる。

 東アジアから東南アジア,南アジアにかけての地域は,季節風(モンスーン)の影響を強く受けるため降雨に恵まれ,イネなどの穀物や焼畑農耕が営まれている。
 西アジアや北アフリカのエジプトなどの乾燥地帯の大河の流域では,灌漑農業によって生産性が向上し,経済的な資源をコントロールしようとする勢力が,軍事組織・宗教組織を政治的にまとめ上げようとしている(古代文明)。
 ヨーロッパには西アジアから青銅器や農耕・牧畜が伝わる。

(2) アフリカ
 アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方には,農耕を導入した定住集落が出現し,神殿の建設も始まる。

(4) オセアニア
 オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れる。熱帯の島々に適応した農耕・牧畜・漁撈を基本とするラピタ文化が,船によってメラネシア方面に拡大していく。




●前2000年~前1200年のアメリカ
○前2000年~前1200年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカ東部のミシシッピ川下流域には,この地に住む狩猟採集民により同心円状の巨大なに土塁(マウンド)が残されていますが,詳細はわかっていません。最大規模のものには,外径が1kmにおよぶポヴァティ=ポイントが知られています(◆世界文化遺産「ポヴァティ=ポイントの記念碑的土塁群」,2014)。




○前2000年~前1200年のアメリカ  中央アメリカ,カリブ海
 中央アメリカではカリブ海にせり出すユカタン半島(現在のグアテマラ,ベリーズの周辺)マヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】やメキシコ高原中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれます。
 トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。



◆メキシコ湾岸地方にオルメカ文化がおこる
オルメカ文化がおこる
 前1600年頃から,メキシコ盆地(標高2000mの台地にある)で,火山灰の土を利用した農耕が行われ,やがて文明に発展していきます。

 前1400年頃にメキシコ南部のメキシコ湾岸地帯の人々は,オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。
 ネコ科の猛獣ジャガーを信仰するオルメカ文化の影響は中央アメリカ全域に及び,同時期に南アメリカのアンデス地方中央部のチャビン=デ=ワンタルにもジャガーのモチーフが確認されることから,交易などによる関連性も指摘されています。

 オルメカ文化の諸都市には多くの階段型ピラミッドをはじめとする公共建造物〔記念建造物〕が建てられ,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像(巨石人頭像。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。

 都市ラ=ベンタには玉座や,豪華な副葬品をともなう墓が発見されています。これだけの物がつくられたということは強力な権力を持つ者がいたと思われますが,その社会統合がどれくらいのレベルであったのか詳しいことはまだわかっていません。正確な暦が制作され,絵文字や数字も使用されましたが,前300年には衰退します。


◆ユカタン半島の高地マヤ地域に文明がおこる
ユカタン半島にマヤ文明が形成される
 ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11地図:位置を問う】【追H25中央アンデスではない】の高地(マヤ高地)では,前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場が出現していました。
 マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。

 マヤ地域にはユーラシア大陸のような大河はありませんが,特に高地マヤ(現在のグアテマラのキチェー地方からメキシコのチアパス地方にかけて)の自然環境は沿岸よりもずっと豊かで,農耕により人口を増やした都市が交易ルートを掌握し,文明を発展していったとみられます。
 
 マヤ文明の担い手は,マヤ語族の言語を話す人々(現在はキチェーやツォツィルなど約30の集団に分かれています)です。
 後代に記録されたものとはいえ,マヤ文明における思想をよく表しているとみられる神話に『ポポル=ヴフ』があります(11世紀以降のキチェー人の王国で記録されたものです(注))。
 これによるとマヤの信仰は多神教で,水の中の支配者であるグクマッツ(ケツァルコアトルに通じる)やテペウが,天の心(フラカン。ハリケーンの語源といわれます)と話し合って,大地・動物を創造。しかし,泥で人間を作ったところ失敗。木で作り直したがこれも失敗し,洪水を起こしてリセット。洪水後も生き残ったのがサルになりました。さらに神々はトウモロコシで4人の人間をつくったところ,神と同等の能力を備えた完璧人間ができてしまったことから,目を曇らせて近くのもののみ見えるようにしました。これがキチェー人になったということです。トウモロコシでつくったというところが,なんとも中央アメリカらしいですね。

 なお,この時期のマヤ文明は古期に区分されます(前8000年~前2000年)。マヤ文明にオルメカ文明の影響が及ぶようになるのは,少なくとも前1400年以降のことです(注2)。
(注1)キリスト教の聖書の影響も指摘されています。 篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社,2005,p.8。芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010も参照。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.235~p.238。




○前2000年~前1200年のアメリカ  南アメリカ

アンデス地方
 沿岸部には,農耕・海産物の採集・漁撈を中心とした定住集落があって,神殿が建設されていました。
 しかし前1800年頃から,内陸の河川地域の神殿が放棄され,内陸の河川流域に集落が移動してきます。神殿のデザインには,ジャガー,ヘビ,猛禽類など,新たなシンボルが登場。異なる思想によって人々をまとめようとしたリーダー層の存在が考えられます。

 山地では,コトシュ宗教伝統が衰退し,別の大きな神殿が建てられ始めます(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.175。


アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)には,カボチャ,サツマイモ,マニオックを移動しながら焼畑農耕する人々がいました。
 当時のアマゾン川流域は、前4000年頃から始まる低温下・乾燥化にともない、森林の点在する草原地帯で、森はわずかとなっていました(注1)。
 前2000年頃には,小さな農村がつくられるようになラマゾン川の流れに沿って,地域間の交易が盛んになっていきました(注2)。交易された産物は,淡水魚やマニオックの根(キャッサバ)です。



ラプラタ川流域
 前2000年頃、現在のパラグアイの地には、のちにグアラニー人と呼ばれることになる民族はいませんでした。
 アマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、この後1500年のスパンにわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注3)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注4)。

(注1) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.31。
(注2) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注4) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。



●前2000年~前1200年のオセアニア

 オセアニアでは,オーストラリアやニューギニア島などで,人種的にはオーストラロイド系の人々による旧石器文化が栄えていました。オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられましたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れます。

○前2000年~前1200年のオセアニア  ポリネシア
 しかし,前1500年頃から東南アジアから新石器文化に属し,人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々が,オセアニア南西部に南下をはじめます。彼らはラピタ土器という幾何学的な模様のある丸みを帯びた薄手の土器をつくったため,彼らはラピタ人,彼らの文化をラピタ文化と呼びます。ラピタというのは,この土器の発掘されたニューカレドニア島の地名です。
 彼らはアウトリガーカヌー(船を安定させるための舷外浮材付きのカヌー)を製作し,天文学の知識を基に高い航海能力を生かし,人類として初めて船に乗って南太平洋への移動を開始しました。
 島から島へ数千キロも離れた距離を移動し,東南アジアを起源とするタロイモ(日本のサトイモのような芋),ヤムイモ(日本のヤムイモのような芋)の農耕や,ココヤシ,パンノキ,バナナなどの果樹の栽培,イヌ,ニワトリ,ブタの牧畜を行っていました。ヤシの樹皮を敷物や帆に使う布として加工したり,入れ墨をほどこしたりする文化も特徴的です。ディズニー映画の「モアナと伝説の海」に登場するキャラクターにも,ニワトリやブタがいますね。一見“楽園”のように見える“南の島”の生活は,実は過酷です。

 特にサンゴ礁によってできた島では土がやせていて農業が難しく,水の確保も大変です。一方,火山でできた島では,集約的な灌漑農業によって人口が増加し社会が階層化し,のちにトンガやハワイのように首長国や王国の成立する地域もありました。しかし島の面積には限りがありますから,ユーラシア大陸の農牧民を支配した国家のような強大な王権が生まれることはありませんでした。



○前2000年~前1200年のオセアニア  メラネシア
 メラネシアでは,オーストロネシア語族から分かれた人々が,島々で旧石器文化(ラピタ文化)を持つオーストラロイドと混血して,ポリネシアとは違った文化が形成されました。資源の豊富な島と資源があまりない島との間では,「クラの交換」という儀式の形をとった交易を行っていた人々もいました(注)。
(注)クラとは,トロブリアンド諸島における儀礼的な交換行為であり,マリノフスキ(1884~1942,ポーランド出身の文化人類学者)の研究が代表的です。クラとは,この島々をカヌーによって環状に結んで行われるメラネシア人の交易であり,時計の反対周りに白い貝の腕輪(ムワリ),時計回りに赤色の貝の首飾り(ソウラヴァ)儀礼的に贈答されます。これに合わせて必需品の交易も行われますが,義務や名誉の呪術的・伝統的な観念と複雑に結びついており,単純に経済的な交易・交換とみなすことはできません(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010年)。




○前2000年~前1200年のオセアニア  ミクロネシア
 ミクロネシアには前1500年前後に,フィリピン周辺からマリアナ諸島に,インドネシア系の言語を話す集団が移動します。土器や,貝でできたアクセサリーが特徴です。根菜の農業と,ニワトリの飼育を行っていたとみられますが,詳しいことはまだわかっていません。ラッテという巨石建造物も見つかっています。
○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前2000年~前1200年の中央ユーラシア
◆前2000年紀(前2000~前1001)末にかけて,遊動する牧畜(遊牧)の文化は,黒海北岸の現・ウクライナから現・カザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)をつらぬいて,東方に広がっていく
遊牧文化の東方拡大
 前3000年紀から,アム川やシル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕・牧畜を行う定住集落が見られました。
 しかし,前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する遊牧民(インド=ヨーロッパ語族)が新たに進出して来たため,衰退していきます。

 馬が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には,クルガン(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られます(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳),カタコムブナヤ(地下式墳穴),スルブナヤ(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化,アンドロノヴォ文化,カラスク文化など)。
 この地域をユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいます。

 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられます。
 ユーラシア大陸の草原地帯は,幅8000kmにわたる壮大なスケールをもっていますが,馬に乗る技術の発展により,東西を結びつける“道”の役割を果たすようになります。中央ユーラシアとれる翡翠(ヒスイ)という緑色の宝石は,中国では「玉(ぎょく)」と呼ばれて支配階級に珍重されるようになります。



○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  西部
 中央ユーラシアの遊牧民の一部はメソポタミア北部,シリア北部に南下し,前2000年紀前半にはミタンニ王国(前16~前14世紀)を建国し最盛期にはアッシリア王国を支配下に置いています。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  中央部
インドへ
 また,別の一派は前3000年紀末までにイラン東部のマルギアナや,アム川上流のバクトリアに南下して,インダス川上流部の北インドに進入しました(インド=アーリア人,またはアーリア人)。

イランへ
そのまた別の一派は,イラン高原方面に南下しました(イラン=アーリア人,イラン語群の人々)。西アジアから,カスピ海,アム川・シル川流域にかけて,イラン語群の言語が広がることになります。
 こうしてみると,インド人とイラン人は,ざっくり言えば共通の祖先を持っているということになるわけです。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  東部
 前13~前12世紀頃からは,南シベリアやモンゴル高原で,新たな集団がカラスク文化という青銅器文化を生み出しました。彼らは山羊や馬,鹿を青銅器にデザインしています。中国の殷の終わりから西周の文化とも関係しているようです。





●前2000年~前1200年のアジア

○前2000年~前1200年のアジア 東アジア
・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく,各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が八丈島(はちじょうじま)からも見つかり,神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め,前期~前後期にかけて拡大し,晩期の中頃には完成していたと考えられています(注)。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。




・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現③中国
青銅器時代の中国には複数の王権があった
中国で夏(?)・殷・周の3勢力が発展する
 前2500年~前2000年の中国は気候が大きく変動し,温暖な気候から冷涼・乾燥な気候帯が拡大していました。そこで,前3000年~前2000年にかけて人々は水を求めて大河の流域へ移動を開始します。前2000年頃には,メソポタミア方面から小麦や大麦が伝わって栽培されるようになりますが、本格的な導入は後代のこととなります。

 黄河は上流地帯の黄土といわれる土を大量に運んで来るため,下流の川底はすぐに浅くなります。 だから黄河は頻繁に氾濫を起こすのです。
 漫画「ドラゴンボール」に登場するような龍は,中国では聖なる生き物とされていますが,龍は氾濫する暴れ川を表しているんです。龍のいうことを聞かせ,洪水を抑えることができた指導者こそ,その資格があるというわけです。

 この時期の初め頃には、従来の社会構造が崩れ,各地で政治権力が特定の上層階級に集まっていく動きが見られました。
 前2000年頃に黄河中流域(河南省偃師(えんし)市)で成立した二里頭文化(にりとうぶんか)は,竜山文化を受け継ぐものとされています。二里頭遺跡は洛陽(らくよう)の東方にあり,1957年に青銅でできた最古の爵(しゃく。三足になっている酒器)が発見されたことで注目されました

 中国の国家的歴史プロジェクトである「夏商周年表プロジェクト」によれば、夏(か,シア)【H27京都[2]】のという王朝があった年代は前2070年~前1600年とされています(注2)。
  たしかに,特徴的な土器が中国のほぼ全土から出土していることからも,夏という王朝は広い範囲に影響を及ぼしていたとは見られますが,日本の歴史学界ではその存在自体が否定されています。
 日中の見解の違いは,一つには歴史学のアプローチの違いによるものです。中国では,発掘された遺跡とともに『詩経』などの記述を合わせて判断し(二重証拠法といいます),前1500年頃におきた商王朝(殷王朝)は,この夏を滅ぼして発展した王朝だったのではないかと考えられています。

 中国古代の伝説上の王に,堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)がいますが,最後の禹は,黄河の水をおさめた人物であると言われ,彼が王位を譲ったことで,伝説上の王朝「夏(か)」が建国されたとされているのです。

 どの都市が夏の都であったのか?
 どの都市が、夏を滅ぼしたとされる殷の都であったのか?
 滅ぼされた夏の人々は、どの都市に移されて支配されたのか?
 これらの疑問を解く鍵は、まだ完全に明らかとなってはいませんが、夏、殷、周というのは直線的に発展した王朝というわけではなく、それぞれ別個の勢力であったと考えたほうが良さそうです。
 
(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.72。




◆商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
長江上流域にも「巴蜀」文明があった

 なぜ中国が国家プロジェクト(1996~2000、夏商周断代工程)を立ち上げてまで「夏」にこだわるかというと,その後の中国の支配者が「自分の支配のルーツの古さ」を誇るときに,文献の上で「有った」と記されている「夏」との繋がりを強調しようとしたからです。

じゃあ,当時の中国には,黄河流域の「夏」にしか強大な王権がなかったかというと,そんなわけはありません。

長江上流域の四川(しせん)という盆地に,三星堆(さんせいたい)遺跡という大規模な遺跡が見つかっているのです。ここで出土した青銅器は,ぜひ一度見てみてください。黄河で見つかった青銅器とは似ても似つかぬ異様な容貌の謎の生物をかたどった仮面に驚くはずです。

見た目は変わっていますが,青銅器の製法は北方のそれと変わらぬもので,原材料のとれる鉱山も同じところであったことがわかっています(注)。
(注)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017,P.61。



◆商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
黄河流域では殷が青銅器文明を発展させる

おなじ頃黄河流域では,前1600年頃(注1)に登場した商王朝(殷(いん)王朝) 【本試験H3】【追H19】が栄えていました。

商王朝は何度も遷都をおこなっていますが,殷は王〈盤庚〉(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽【東京H8[3]】の郊外にある小屯(しょうとん)でみつかった殷墟(いんきょ) 【追H18】 【東京H10[3]】といいます。
 先行するスウェーデンの〈ヘディン〉(1865~1952)、イギリスの〈スタイン〉(1862~1943、ハンガリーからイギリスに帰化)、日本の〈濱田耕作〉(1881~1938)・〈鳥居龍蔵〉(1870~1953)の調査に対抗する形で、1928年に国立アカデミーによって〈李済〉(りさい、1896~1979)を中心に1937年まで15次にわたって発掘が行われました(注2)。殷墟からは甲骨文字や王族の墓が見つかっています(◆世界文化遺産「殷墟」2006)。

 王【本試験H6皇帝ではない】は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族から青銅器【追H27鉄製農具の使用は始まっていない】【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】を獲得したとみられ,戦車や武器に用いられました。
 城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。

 商(殷) 【セA H30】では,甲骨文字【東京H10[3]】【名古屋H31】【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,西夏文字との判別】【本試験H11インカ帝国のものではない】【本試験H21図版】【追H19】【セA H30】という文字が使用されていました。
 占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)の邑(ゆう,都市国家) 【本試験H2】をまとめて支配していたと考えられます【本試験H21郷挙里選は行っていない】。
 甲骨文字は,亀の腹甲(ふっこう。背中の甲羅ではありません)や動物の肩甲骨などに穴を開け,質問をしてから火であぶって現れた割れ目(卜占(ぼくせん))を見て,王が吉凶を判断しミゾ(卜辞(ぼくじ))を彫ってその結果を表したのです【名古屋H31用途を問う】。
 表記の形式は、日付、貞人(前辞)、内容(命辞と占辞)のパートに分かれます。
 やがて甲骨文字は、形によって事物を表現する象形(しょうけい)文字へと発達していきました。なお占いという意味の「卜」(ぼく)という言葉の当時の読み方「プク」は,あぶられた骨が割れる音を表しているといいます。日本の歴史学会はこれを文字とする意見に当初は懐疑的でしたが、1943年に〈小川茂樹〉(貝塚茂樹、1904~1987)が文字と認める講演をおこなったのが転機となりました。

 甲骨文字発見のエピソードとして「清朝末期に〈王懿栄〉(おういえい)がマラリアの持病を治すために北京の達人堂(たつじんどう)という薬局から「龍骨」と呼ばれる漢方薬を購入すると、そこに文字らしいものが書かれており、食客の学者〈劉鶚〉(りゅうがく)とともに研究に励むようになった」というものがあります。しかし、これはいささか正確ではなく、〈王懿栄〉は骨董として買い求めたらしく、甲骨文字自体も古くから「文字」と認識されていたようです(注2)。
  
(注1) 「夏殷周年代プロジェクト」による。
(注2)佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.40。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年pp.3-5。



 殷には奴隷がいたことは間違いありませんが、奴隷が主要な生産者であった(「奴隷制社会」であった)証拠はありません(注1)。

 宗教面では、祖先の崇拝がおこなわれていました【本試験H23仏教は殷代にはない】。人の魂は死んでしまうと“あの世”に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。

 すでに青銅器【追H27鉄器ではない】が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界から戦車が伝わったことが,戦争を激化させることになりました。

 商には東シナ海・南シナ海・インド洋から,貨幣としてもちいられた子安貝(タカラガイ)の貝殻などを運び込まれていました。タカラガイを求めて南西諸島の宮古島にも殷人がやってきて,そこから稲が“海上の道”北上して九州に伝わったのだと,民俗学者の〈柳田國男〉(やなぎたくにお,1875~1962)は考えましたが,柳田説は現在では否定されています(注2)。

 中央ユーラシアとも盛んに交易をし,中国では特に価値の高いものとされたヒスイをはじめとする産物を手に入れていました(台湾の故宮博物院にあるヒスイでできた白菜(翠玉白菜(すいぎょくはくさい))が有名です)。

殷の勢力は前1600年ころから前1000年ころまで続き,黄河中流域の農業に適した中原(ちゅうげん)を支配して栄えます。

しかし,青銅器の増産は資源の枯渇を招き、これが殷の衰退の背景となったようです。より豊かな銅の鉱山を獲得した西方の周(しゅう)の勢力が,殷に代わって黄河流域の支配権を獲得することとなるのです(注3)。

(注1) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.57。文献の中にあらわれる「衆」が奴隷を指すのではないかと〈郭沫若〉(かくまつじゃく、1892~1978)は指摘しています。また日本の〈白川静〉(1910~2006)は、「邑」という漢字に見える「ひざまづく人々」は諸族から王のもとに召集され保護された集団であり、奴隷とされていたのは羌(きょう)という民族や南人であるとしました(外間守善『沖縄の歴史と文化』中公新書、1986年、p.10)。
(注2)華南から琉球へ渡る際、長期滞在に備えて稲をいっしょに持っていったとの説に対しては、沖縄学の父〈伊波普猷〉(いはふゆう)は九州から南に伝わった説を主張しました()「。
(注3)小田中直樹他『世界史/いま,ここから』山川出版社,2017年,p.62。




・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 朝鮮半島
 朝鮮半島には新石器文化の担い手が居住し,櫛目(くしめ)文(もん)土器が製作されています。




○前2000年~前1200年のアジア  東南アジア
 前2000年紀に,中国から稲作が伝わると,大陸部の山地に農牧民が生まれました。前1000年紀には,諸島部でも稲作が始まりました。熱帯雨林では焼畑による稲作が,ジャワ島の中・東部では火山の裾野に水を引き水稲栽培が行われました。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。のちのドンソン文化(前4世紀以降)の源流です。




○前2000年~前1200年のアジア  南アジア
 インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
 その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。
さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
 中央ユーラシアの草原で遊牧をしていたインド=ヨーロッパ語族のアーリア人は,インダス川上流のパンジャーブ地方【追H30】に前1500年に進入しました(インド=アーリア人【追H30「アーリヤ人」】)。彼らは先住のドラヴィダ人を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在のヒンディー語【本試験H24タミル語,アッカド語ではない】などにつながります。

 前1500年~前1000年を前期ヴェーダ時代といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級) 【東京H6[3]】の聖典『リグ=ヴェーダ』【追H28神々への讃歌の集成か問う】【本試験H7「インド神話の古い形」が現れるか問う】が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
 神々への賛歌(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン【本試験H9ウラマーとのひっかけ】と呼ばれる聖職者階級。この信仰を「バラモン教」と呼んでいます【追H9】。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。
 なお,前1000年頃に中央ユーラシアから西アジアに南下したアーリヤ人を「イラン人」と呼びます。



○前2000年~前1200年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


◆メソポタミアのシュメール人の都市国家群を,セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
 一方,メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

 この法典は1902年にスサでフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリのルーブル美術館(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。

 メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。




◆バビロン第一王朝の滅亡後,海の国,カッシート,ミタンニ,アッシリア,ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し,「国際化」の時代に
 しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
 前1700年頃からメソポタミア南部では,バビロン第一王朝から自立した海国第一王朝といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
  それと並行してペルシア湾のエラム人主導による,その植民先であるオマーン(マガン国)や,バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。

 しかし,メソポタミア南部には民族系統不明(注1)のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島のヒッタイト王国の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
 その後混乱の中でカッシートは(カッシート)朝(前15世紀頃~前1155年;バビロン第三王朝)(注2)を建国し,前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。

 この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル(アッシリア)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。

 このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します(注3)。
(注1)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。
(注2)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。
(注3) 「国際関係の時代」ともいいます。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。



◆ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
 古気候の研究によると,前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。

 寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯(中央ユーラシア)から,遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
 彼らのルーツの元をたどると,ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が,この言語Xをルーツにもつ“言葉の家族”の一員であることが立証されているからです。この“言葉の家族”(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます(注)。

(注)18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに“先祖”となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,“インド=ヨーロッパ祖語”と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。


 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 古来、ヒッタイトの製鉄技術は「世界最古」とされてきましたが、近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説が有力。研究の進歩の成果です。

 前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


◆北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
アマルナ文書に当時の国際関係が記される
 この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられるミタンニ人の王国(住民の大部分はフルリ人?(注1)),アナトリア半島を拠点としたヒッタイト人の王国,エジプトには新王国が強大化し,国際関係が複雑化していきます。

 前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
 前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。

 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)(注2)。アッシリアは、中継貿易の拠点でもある都市アッシュルの神アッシュルに対する強い信仰のもとで統合されていました(注3)。
 前13世紀になると,ヒッタイトと新王国はカデシュの戦い(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。

(注1) ミタンニを「インド=ヨーロッパ系」に分類していた時代もありましたが、その背景には「ヨーロッパ人のご先祖」である「インド=ヨーロッパ系」の「遊牧民」はすごかったんだぞ! と言いわんとするがための意図もありました。断片的な史料のみでミタンニの人々を「インド=ヨーロッパ系」と断定するのは無理がありますが、支配階級はインド=ヨーロッパ系の民族、住民の大部分は民族系統不明のフルリ人であったという見解に落ち着いています。『最新世界史図説タペストリー 十七訂版』(帝国書院、2019年)では、ミタンニ王国は民族系統不明と表示されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。
(注2) アッシリアに「残虐」「野蛮」なイメージがつきものなのは、時代による使用言語のばらつき、文書の出土状況の不均衡などが背景にあります。たとえば、前3千年紀末には古アッカド語、前2千年紀前半に古アッシリア語、前2千年紀後半に中期アッシリア語、前1千年紀前半に新アッシリア語のように移り変わっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.11。月本昭男「前二千年紀西アジアの局外者たち」『岩波講座世界歴史』2(岩波書店、1998年)を挙げて。
(注3) アッシリア商人は、古アッシリア時代から東方のスズ(錫)と、南のバビロニアからの織物などの羊毛製品を小アジアに運び、アナトリアで銀・金を得ました。取引の文書は古アッシリア語で書かれています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。



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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン、④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦

◆ペルシア湾岸を舞台にしたイラン高原のエラム人の活動がさかん
原エラム文明がラピスラズリの道をおさえ栄える
 メソポタミアで,前24世紀半ばに建国されたアッカド人の王朝が滅ぶと,西方のシリア方面からセム語派のアムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱し,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000)を始めました。
 これはシュメール人最後の王朝であり,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行っています。
 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方のイラン高原のエラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。

 なお,エラム人によるイラン高原の原エラム文明は,メソポタミアの都市文明との対抗のため,インダス文明に接近していました。アフガニスタンのラピスラズリの輸送ルート支配するため,メソポタミアではなくインダス川周辺の都市国家群と提携していたのです。
 エラム人はすでに前2500年よりペルシア湾岸のオマーンに移住して,銅鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは,ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。前2000年にはバーレーンやクウェートにも拠点をもうけるにいたりました。

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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現③イラク

◆メソポタミアのシュメール人の都市国家群を,セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
 一方,メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域のバビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【本試験H16エジプトを含むオリエントは統一していない,本試験H28バビロンは「世界の半分」ではない】(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前18世紀頃には,〈ハンムラビ王〉【本試験H9[16]】【本試験H17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前1776年頃にハンムラビ法典【追H27神聖文字が記されていない】【本試験H9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【追H27神聖文字ではない】【本試験H2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,本試験H9[16]】で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法” 【本試験H9[16]】【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

 この法典は1902年にスサでフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリのルーブル美術館(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。

 メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。



◆バビロン第一王朝の滅亡後,海の国,カッシート,ミタンニ,アッシリア,ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し,「国際化」の時代に
 しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
 前1700年頃からメソポタミア南部では,バビロン第一王朝から自立した海国第一王朝といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
  それと並行してペルシア湾のエラム人主導による,その植民先であるオマーン(マガン国)や,バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。

 しかし,メソポタミア南部には民族系統不明のカッシト(カッシート)人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島のヒッタイト王国の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
 その後混乱の中でカッシートは(カッシート)朝(前15世紀頃~前1155年;バビロン第三王朝)(注)を建国し,前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。

 この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル(アッシリア)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。

 このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します。
(注1)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015,p.42~p.43。



◆ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
 古気候の研究によると,前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。

 寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯(中央ユーラシア)から,遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
 彼らのルーツの元をたどると,ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が,この言語Xをルーツにもつ“言葉の家族”の一員であることが立証されているからです。この“言葉の家族”(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます(注)。

(注)18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに“先祖”となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,“インド=ヨーロッパ祖語”と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。

 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 製鉄技術は,近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説も出ています。前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


◆北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
アマルナ文書に当時の国際関係が記される
 この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられるミタンニ人の王国(住民の大部分はフルリ人?),アナトリア半島を拠点としたヒッタイト人の王国,エジプトには新王国が強大化し,国際関係が複雑化していきます。

 前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
 前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国【追H26古王国ではない】の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイト【追H26】によって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代のアマルナ文書によって明らかになっています。
 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていたアッシリア【本試験H2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)(注2)。

 前13世紀になると,ヒッタイトと新王国はカデシュの戦い(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。
(注1)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。
(注2)アッシリア商人は、古アッシリア時代から東方のスズ(錫)と、南のバビロニアからの織物などの羊毛製品を小アジアに運び、アナトリアで銀・金を得ました。取引の文書は古アッシリア語で書かれています。しかし中期アッシリア時代になると、ミタンニ王国の攻撃に苦しめられるようになりました。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
ラクダはまだ騎乗・運搬用としては未発達
 なお、アラビア半島で家畜化されていたヒトコブラクダは、前12世紀頃になるまでは荷駄を負わせることのできる鞍は発明されておらず、主に食用が中心でした。
(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.7。

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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,
セム語派のヘブライ人のルーツが現れる
 ヘブライ人【本試験H2ティルスは彼らの都市ではない】は『旧約聖書』に登場する〈アブラハム〉を“ご先祖”と考えていた人々で,紆余曲折を経て現代でもユダヤ人として文化を残す歴史ある民族です。ヘブライ人は他称で,自分たちのことはイスラエル人と呼んでいました。初め多神教でしたが,唯一神ヤハウェ【本試験H3ユダヤ教は多神教ではない】【本試験H30アフラ=マズダとのひっかけ】【追H19太陽神ではない】 (注)と契約を結び,現在のパレスチナにあたる“約束の地”カナンが与えられ前1500年頃に移住したとされます。カナンは彼らの民族叙事詩・神の律法である『創世記』(『旧約聖書』の一部)に,「乳と蜜の流れる場所」と表現されています。沿岸部では前1500年頃からカナン人が活動していました。

 彼らの一部はエジプトに移住しましたが,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫である〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】【追H21キュロス2世,ソロモン王ではない。ヘブライ人の国王かを問う】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。
 なお〈アブラハム〉の子孫には〈モーセ〉以外にもキリスト教で神の子とされる預言者〈イエス〉や,イスラーム教をはじめた預言者〈ムハンマド〉も含まれます。ユダヤ教,キリスト教,イスラーム教を信仰する人々の中には,今でもイェルサレム郊外のヘブロンのアブラハムの墓にお参りする人もいて,この3宗教を合わせて“アブラハムの宗教”とも呼びます。
(注) YHWH(神聖四文字)のように表記されます。「ヤハウェ」と読むことになっていますが,定説はありません。そもそも神の名を妄りに読んだり書いたりしてはいけないのです(十戒のうちの一つ, (2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと)。ユダヤ教徒はYHWHを発音せず、「我が主」(アドナイ)と言い換えていました。それがエホバと誤記されていきました(塚和夫編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.1006)。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑭レバノン,⑮シリア
◆シリアにはセム語派のアラム人,フェニキア人が現れる
小アジアとエジプトを結ぶシリアは交易の要衝に

 小アジアとエジプトを結ぶルートは,低地が少なく,地中海に面する地帯にあります。北をシリア,南をパレスチナといいます(両者をあわせて「歴史的シリア」と呼ぶこともあります)。

 パレスチナには,前1500年頃以降,カナン人が進出していました。しかし,前12世紀初めには「海の民」(注)が小アジアのヒッタイトを滅ぼし,エジプトの新王国を衰えさせたことで,間のシリアとパレスチナは,権力の“空白地帯”となりました。
 シリアの内陸部では,アラム人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない,H6】【東京H6[3]】がダマスクス【東京H6[3]】【追H28フェニキア人の拠点ではない】【本試験H6】を中心にして陸上【本試験H27海上ではない】の中継貿易で活躍しました。アラム語【本試験H15エジプトの死者の書には記されていない】【追H19】は西アジアの国際通商語となりました。
(注)「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。



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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑯キプロス,⑰トルコ

 前2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「小(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりにヒッタイト王国【セ試行,本試験H5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】【追H29戦車を使用したか問う】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的に鉄【本試験H5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車【本試験H5】【追H29ヒッタイトが使用したか問う】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 製鉄技術は,近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説も出ています。前16世紀初めになるとヒッタイト人【本試験H29アッカド人ではない】のヒッタイト王国【本試験H5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【本試験H16王はファラオではない】が鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【本試験H27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部(ハブ(こしき(轂))と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。


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・前2000年~前1200年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆ティグリス川・ユーフラテス川の源流地帯には古代アルメニア人の国家ができていた
アルメニアにも国家が建設される
 ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯には,アルメニア高地と呼ばれる周囲を高い山脈に囲まれた高原があります。
 黒海の南部のポントス山脈,小アジアとの間のアンチタウロス山脈,小アジアに抜けるタウロス山脈,黒海とカスピ海の間を横切るコーカサス山脈と小コーカサス山脈に囲まれたアルメニア高地には『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)の流れ着いた場所といわれるアララト山(5165メートル)や,ヴァン湖という大きな湖があります。
 アルメニア高地の西部にはハヤサという小王国の連合体が成立し,前14世紀初めのヒッタイト王国の国王が攻撃し,服属させようとしていた記録があります。これがのちにアルメニアと呼ばれることになる人々とみられます(注1)。
 また,前1300年頃にはアルメニア高地の東部(ヴァン湖の周辺)にウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)などの小王国がありました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.25-27。
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.30。




●前2000年~前1200年のアフリカ

◯前2000年~前1200年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 アフリカ大陸の東部に出っ張っている“アフリカの角”には,標高4000m級のエチオピア高原があります。ナイル川は,上流部で二つの川が合流して北に注ぐのですが,エチオピア高原から雨をあつめて流れるのが青ナイルです。一方,南方の赤道近くのウガンダ方面から流れ込むのは「白ナイル」といいます。
 伝説では,前1000年頃にアラビア半島の〈シバの女王〉が,パレスチナの〈ソロモン〉王を訪問したということですが,その息子〈メネリク1世〉(生没年不詳)がエチオピア高原にひらいたのが,エチオピアの王朝の始まりなのだという建国伝説が残されています。
 エチオピア高原は北側の紅海の交易ルートをおさえ,アラビア半島との交易に従事していたとみられます。そのため,ユダヤ教の文化がこの地に伝播していたのです




◯前2000年~前1200年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン


 アフリカ大陸の南部では,コイサン人が狩猟・採集生活を送っています。



◯前2000年~前1200年のアフリカ  中央アフリカ・西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

雑穀栽培で集落形成、牛連れ湿潤地域に移動も

ニジェール河沿岸
 ニジェール川はサハラ沙漠の乾燥地帯を貫く外来河川(雨の降る地方から,雨の降らない地方に流れて来る川のこと)です。

 中流域の乾燥地帯のオアシスでは集落の遺跡が発見されており,前2000年~1500年頃に雑穀が栽培されていた証拠が発見されています(注1)。
 雑穀は,アフリカの乾燥地帯で典型的に栽培されていたもので,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアで盛ん。モロコシ、トウジンビエ、フォニオのほかイネも栽培されていました。

 前2500年頃に始まるサハラ沙漠の乾燥化にともない,もともとサバナ気候だったところが沙漠や乾燥草原(ステップ)に変貌していく地域も出てくると,南縁のサヘルと呼ばれる地域に,人々が水場(オアシスや河川)を求めて南下していったとみられます。
 ともなって牛も南下。フータ=ジャロンあたりで、ツェツェバエに対する強い抵抗をもつンダマという短い角を持つ牛の種が選ばれ、湿潤地域での飼育も容易となっていきます。



ギニア湾沿岸
 アフリカ大陸は「┓」のような形をしていますが,左下(南西)部分の海域のことをギニア湾といいます。
 ギニア湾沿岸には,熱帯雨林とよばれる熱帯の森林が生い茂るエリアや,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアが広がり,ヤムイモを栽培する農牧民が分布しています。

(注1)マリ東部、ニジェール川の大湾曲部近くのカルカリチンカート遺跡からは、前2000年~前1500年の雑穀が出土されていますが、定住の証拠とは断言できず、家畜の飼養・漁労も兼ねていたと考えられています(宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.145)。




○前2000年~前1200年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


◆第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
 ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

ヒクソスの政権(第二中間期)に、ヌビアは勢力拡大

 エジプトでは,中王国時代に傭兵として導入されていた北シリアから騎馬に優れた遊牧民(ヒクソスと呼ばれました)が次第に政治にも干渉し,第13王朝(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱し,第15王朝(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至っていました。

 上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します(注1)。



 一方、上流のヌビア(現在のスーダン)のクシュでは、第3瀑布のすぐ南のケリーマを首都に考古学的にはCグループと呼ばれる人々が前2500年頃には住みつき、ナイル上流との交易ルートかつ農耕エリアとして栄ます。
 エジプトが第2中間期に入ると、ケリーマの勢力はアスワンにまで拡大。
 エジプトと同盟関係を結び、文化を吸収します。


 
◆新王国(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。
テーベ中心に「新王国」が栄え、上流まで支配する

 エジプトを支配していたヒクソスの王朝は,〈イアフメス1世〉(位前1550~前1525)により追放されました。
 彼を始祖とする第18王朝から第20王朝までを新王国と区分します。王朝の拠点はメンフィスとテーベの2箇所です。メンフィスはユーラシア大陸への進出基地として重要視されました。テーベはヌビアへの進出基地であるとともに,王家の出身地であり太陽神ラー【本試験H11インカ帝国で信仰されていない】【本試験H31古代インドではない】と同一視されて信仰されたアメン神(テーベの都市神)の中心としてテーベも重視されました。テーベには多数の巨大記念建築物が建造され,王の権威を高め人々を動員させる役割を果たしました。


 〈トトメス1世〉のときに「王家の谷」に初の王墓が築かれ,シリアにも遠征しています。
 彼はヌビアのケリーマを滅ぼし、第5瀑布にまで支配エリアを拡大。こうして前述のヌビアのCグループは、エジプトの小作人や農奴に転落していきました(注)。

 その娘〈ハトシェプスト〉(前1479?~前1458?)は,次王となる〈トトメス3世〉が幼少であったため,ファラオと称して実権を握りました。

 〈トトメス3世〉(前1479?~前1425?)のときには,スーダン南部のヌビアや紅海沿岸に進出したほか,シリアへの17回の遠征をおこなった記録もあり,最大領域を実現しています。
 そこでヌビア人は,紀元前900年頃,今までの都であるケルマよりも南 (上(かみ)ヌビアといい,現在のスーダン北部に位置します)に移動し,ナパタ(第4急流のやや下流側)でクシュ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を建てました。クシュ王国は,エジプトのヒクソスの王朝と友好関係を結び,テーベのエジプト人による第17王朝を“挟み撃ち”にして対立します。

 しかし,次第にテーベのアメン=ラーをまつる神官団が政治への介入を始めると,これを嫌った〈アメンホテプ4世〉(位前1349~前1333)(注) 【追H26クレオパトラではない】【本試験H12】【本試験H27クレオパトラではない】【立教文H28記】は彼らの力を排除し,王自らを神格化させるために拠点をテーベとメンフィスのほぼ真ん中に位置するアケト=アテン(遺跡の名称はテル=エル=アマルナ) 【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H27】にうつし,唯一の太陽神アトン【中央文H27記】のみを信仰させる宗教改革を断行しました。アメン=ラーをはじめとする従来の多神教を廃止し,唯一の太陽神アテン〔アトン〕信の仰を強制。みずからをアクエンアテン(イクナートン(アクエンアテン),アトン神に有益な者)と称しましす(都のアケトアテンは,アテンの地平線という意味)。
 彼の時代には,従来の宗教的な縛りがなくなったため,写実的なアマルナ様式の美術(アマルナ美術【京都H22[2]】【本試験H29クフ王の時ではない】【中央文H27記】)も栄えます。

 しかし,改革はたったの1代で失敗【本試験H12アトン信仰は〈イクナートン〉の死後も長く信じられていない】。彼の子〈トゥトアンクアテン〉は〈トゥトアンクアメン〉(位前1333~前1324)(注)と改名し,都もメンフィスにうつされました。1922年イギリスの〈カーナヴォン卿〉に支援された考古学者〈ハワード=カーター〉が黄金のマスクを発見し,いわゆる“ツタンカーメン”として知られています。“発掘関係者が早死にした”とか“ツタンカーメン暗殺説”など,古代のミステリーとしてしばしば取り上げられるファラオでもあります。彼の死後,王朝は混乱に向かいました。

 なお,「〈アメンホテプ4世〉が人類初の一神教の創設者で,これがのちにユダヤ教に伝わっていった」というストーリーは,精神分析学者の〈フロイト〉(1856~1939)のものなどが有名ですが,確証はありません。


 第19王朝【追H26古王国時代ではない】の〈ラムセス2世〉(位前1279~前1212)(注) 【中央文H27記】はシリアのカデシュでヒッタイト王国【追H26】と戦いましたが,勝敗のつかぬまま条約が結ばれました。このときヒッタイト王〈ハットゥシリス3世〉(前1275~前1250)は,エジプトのファラオと,シリアの領有権について取り決め,「相互不可侵」を約束しています。さらに,ヒッタイト王は2人の娘を〈ラムセス2世〉に嫁がせることで,平和を確保しました。〈ラムセス2世〉はエジプト最南端のアスワンに4体の巨大な石像で有名なアブシンベル神殿の建設や,テーベ(テーバイ)北部のカルナック神殿のオベリスクなどを建立しています。アブシンベル神殿は,アスワンハイダムによる水没を防ぐために,1960年代に国連教育科学文化機関(ユネスコ,UNESCO) 【本試験H10 1944年のブレトン=ウッズ会議で設立が決められたわけではない】が移築させています。

 第20王朝の〈ラムセス3世〉(位前1186~前1154)のとき,地中海方面からヒッタイトも滅ぼしたとみられる「海の民」(シー=ピープルズ)の進出を受けました。彼はこれを撃退しますが,王朝はその後分裂して衰えていきます。「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。

(注1) エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注2) (注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。


 古代エジプトの文字はパピルス(水辺に生えるカミガヤツリという植物の一種) 【本試験H15】に書かれました。パピルスに適した書体として,前2800~前2600年頃,ヒエログリフ(神聖文字) 【東京H11[3]】【共通一次 平1】が考案されました。これを崩したのがヒエラティック(神官文字) 【東京H11[3]】,さらに崩したものがデモティック(民衆文字)です。ヒエログリフが解読されるのは,この文字が刻まれた碑文を,1824年に〈ナポレオン〉(1769~1821)の遠征隊が発見したときのことです。冥界の王オシリスの裁判【本試験H21・H24】に備え,死者を埋葬するときに棺に一緒に入れられた『死者の書』【本試験H9[18]図版ファラオの遠征,太陽暦,新王国時代の王の婚礼を描いたものではない】【本試験H15】の多くは,ヒエログリフ【本試験H15アラム語ではない】でパピルス【追H28竹簡ではない】【本試験H15】に書かれています。
 文字の誕生によって,ヒトは「目にはみえない考え」を文字にすることができるようになり,文字を生み出している“自分”という存在に目を向け,さらに生み出された文字によって逆に“自分”自身の考えをも豊かにしていくようになっていきます。例えば,名言などの言葉によって励まされたり,自分の考えを整理したりということもできるようになっていきます。また,“考え方”を他のヒトと共有することで,結束を深めたり,先祖代々の知識を仲間とともに積み上げていったりといったこともできるようになっていくのです。ただし圧倒的多くの人々には文字を読む力(識字能力)はなく,専門の教育機関で書字・読字を学んだ書記に限られていました。
 また,エジプトでは太陽暦【セA H30】が用いられています。





●前2000年~前1200年のヨーロッパ

◆ヨーロッパが鉄器時代に突入する
ヨーロッパにインド=ヨーロッパ語系の人々が到来
○前2000年~前1200年の東・中央・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


 前2600年~前1900年にかけ,ヨーロッパに初の青銅器文化(ビーカー文化)が生まれました。
 紀元前2000年頃には,インド=ヨーロッパ語族のバルト=スラヴ語派に属する,バルト語派の言語を話すバルト人が,バルト海東岸部に定住しています。現在のラトビア語,リトアニア語がバルト語派にあたり,インド=ヨーロッパ語族の古い時代の特徴を残している言語で,スラヴ語派とも近い関係にあります。
 地理的に「辺境」(へんきょう)にあたる北ヨーロッパに青銅器文化がみられるようになるのは前1800年頃のことです。


○前2000年~前1200年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆地中海北岸には交易で栄える小規模な都市国家が成立していく
 古代には,地中海を中心に一つの文化圏が生まれました。沿岸部を中心に都市が生まれましたが,大きな川がないので平野にめぐまれず,気候も乾燥しておりブドウやオリーブなどの果樹栽培や山羊などの牧畜が主流です。ブドウからは早くからワインが作られ,オリーブからはオリーブ油が製造されていました(ワインは水で割って飲んでいたようです)。したがってオリエントのように治水に必要となる強力な権力は生まれませんでした。農耕・牧畜を営むためには降水量も少なく土地も狭いため,地中海に繰り出して沿岸のオリエントの穀倉地帯から必要な物資を得るのは生きるために必要なことでした。



◆青銅器段階のクレタ文明が栄えたが,火山の噴火や資源の枯渇により滅ぶ
クレタ島が東部地中海交易の中心地として栄える
 前3000年紀からエーゲ海周辺には青銅器文明(エーゲ文明)が栄えていましたが,前2000年頃からバルカン半島と小アジアの中間地点に位置するクレタ島【本試験H16地図】で,おそらくインド=ヨーロッパ語系ではない人々(民族系統不明)が,クレタ文明〔ミノア文明;ミノス文明〕を生み出しました【本試験H16ミケーネ文明を滅ぼして成立したわけではない】(クレタ文明を「エーゲ文明」の中に含めることもあります)。
 彼らは伝説的な王〈ミノア〉王にちなんでミノア人と呼ばれ,オリエントやバルカン半島南部(ギリシア)を結ぶ中継交易の利をもとに各地の港を王が支配し,巨大で複雑な宮殿が各地に建設されました。
 このうちクノッソスにある宮殿【追H27クフ王が建てたのではない】【本試験H20ヒッタイトの遺跡ではない】は王の住居で,広場にある貯蔵庫には各地から生産物が貢納されており,集められた生産物は再度各地に再分配されていました。線文字A(ミノア文字)などの絵文字【本試験H16文字がなかったわけではない】が使われていたということは,これらの出し入れが記録されていたのではないかと考えられます(ただし未解読です)。青銅器文明であり,鉄器はまだ使用されていません【本試験H16鉄器は未使用】。

 遺跡がありますが城壁がない【本試験H5堅固な城塞はない】ことから,王は宗教的な権威によって支配していたとみられ,のちのミケーネ文明に比べると平和な文明であったと考えられます。
 クノッソス宮殿の王宮の壁画【本試験H5】(フレスコ画)や陶器の絵【本試験H5】には,明るいタッチでイルカ【本試験H5海の生物】の絵が描かれています。発掘したのはイギリスの〈エヴァンズ〉(1851~1941) 【本試験H5シュリーマンではない】【本試験H16クレタ文明を発掘した人物】で,後述の実業家〈シュリーマン〉【本試験H5エヴァンズとのひっかけ】の発見に刺激されて1900年に王宮を発見しています。



◆アカイア人により,ギリシャに青銅器段階のミケーネ文明が形成された
城壁をともなうミケーネ文明が栄えた
 バルカン半島南部のギリシアも,中央ユーラシアからのインド=ヨーロッパ語族の民族移動の影響を受けます。
 前2000年頃に北方から移住してきたインド=ヨーロッパ語族の古代ギリシア人(アカイア人【セ試行ドーリア人ではない】)によって,前1600年以降にギリシア本土(注1)にミケーネ(ミュケナイ),ティリンス,ピュロスなどの都市国家が建設されました。これをミケーネ〔ミュケナイ〕文明【セ試行,本試験H8文字はある】といいます。
 開放的なクレタ文明とは対照的に堅牢な城壁付きの王宮もみられ,地中海をまたいだ西アジアや北アフリカのオリエントの専制国家の影響を受けているとみられます(⇒新王国(前1567~1085?)/前2000~前1200北アフリカ)。
 発掘したのは19世紀ドイツの実業家〈シュリーマン〉(1822~90)です。前15世紀にクレタ島に進入して,これをを支配し,さらに小アジアのトロイア(トロヤ)にも勢力圏を広げました。クレタ文明の線文字Aをもとにして作られた,線文字B【本試験H8文字がなかったわけではない】(イギリスの建築家〈ヴェントリス〉(1922~56)が,第二次世界大戦時の暗号解読技術を駆使して解読しました)を用いていました。

 前1530年頃には,クレタ島の北にあるテラ〔サントリーニ〕島で火山が大爆発しました。
 この火山噴火がによりクレタ文明は甚大な被害を受け,衰退に向かいました(注2)。のちに古代文明が海底に沈んだとされる「アトランティス伝説」のモチーフになったともいわれます(のちに〈プラトン〉の著作がモチーフにしていますが,内容は史実に基づくものではありません)。



◆アカイア人の一派はイオニア人と呼ばれてアテネを建設することになる
エーゲ海沿岸でトロイア戦争が起きたと伝えられる
 なお,アカイア人の一部はイオニア人と呼ばれるようになり,のちにアテネ(アテーナイ(注3))という都市国家を形成していきます。
 また,アイオリス人【セ試行 スパルタを建設していない】もバルカン半島北部から南下し,紀元前2000年頃にはギリシア中部からエーゲ海のレスボス島,さらに小アジア(アナトリア半島)西部に植民していきました。のちにテーベ(テーバイ)という都市国家を形成していきます。
 のちに吟遊詩人〈ホメロス〉(前8世紀末?) 【共通一次 平1:〈アリストファネス〉ではない】【追H21『神統記』の著者ではない】が叙事詩『イーリアス〔イリアス〕』【共通一次 平1】,『オデュッセイア』で伝えるトロイア戦争は,ミケーネが小アジアのトロイア(英語でトロイ)に対して起こした戦争がモチーフになっているといわれますが確かな証拠は今のところありません。一説には前1250年頃の戦争がモデルではないかともいわれています。物語に登場する「トロイアの木馬」は現在トロイア遺跡に復元されていて中にも入れます。

 前2000年紀には,バルカン半島からトラキア人,フリュギア人が小アジア(アナトリア半島)に移動します。
 トラキア人はアナトリア半島のトロイア文化の担い手の一部ではないかともいわれています[芝1998:35]。
(注1)ギリシア本土とは,エーゲ海の島々や小アジア(アナトリア半島)を除いた,バルカン半島南部のギリシア人の世界を指します。
(注2) クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.20。ミケーネ文明滅亡の原因として、森林の消滅による環境破壊や耕地面積の消滅といった説もあります。以前言われていたような「ドーリア人」のや「海の民」の侵入による滅亡という説は否定されています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.26。
(注3)古代ギリシア語では都市を複数形で呼ぶので,複数形の“アテーナイ”となります。現在の英語でもアテネはAthens(アス(θ)ィンズ)となり複数形です。




●前1200年~前800年の世界
生態系をこえる交流②
 ユーラシア大陸では,前2000年紀末から中央ユーラシア遊牧民の大規模な民族移動が起き,乾燥地帯の大河流域の古代文明が再編される。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に定住農耕民エリアが広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸では,農耕・牧畜をおこなう人々のエリアが拡大し,定住または遊動しながら多様な生活が営まれている。

 北部の寒冷地域には,狩猟・採集を基本とする遊動民。
 乾燥草原地帯には,牧畜を基本とする騎馬遊牧民。
 内陸の乾燥地帯には,オアシスで定住農耕・牧畜を営む人々。
 大河流域には,気候に合わせた農耕・牧畜を営む人々。
 沿岸や海域の島々には農耕・牧畜・漁撈を組み合わせる人々。
 
 このような“棲み分け”が発達していき,相互に必要な物を交換するネットワークも形成されていく。

 軍事的には内陸の遊牧民のほうが優位であり,しばしば定住民エリアに進出し,経済的な資源をコントロール下に置こうとします。
 とくに「インド=ヨーロッパ語族」とされる遊牧民は波状的にユーラシア大陸沿岸方面に移動していく。南アジアに進出したインド=アーリヤ人,西アジアのイラン系の諸民族,ヒッタイトなどが代表例だ。
 東アジアでは黄河流域の殷(前17世紀~前11世紀頃)が,西方の勢力に滅ぼされる。当時の中国北方には,すでに中央ユーラシアの遊牧民の文化の影響が認められる。

(2) アフリカ 
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
  アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方には,農耕を導入した定住集落が出現し,チャビン=デ=ワンタルなどで神殿の建設も始まる。

(4) オセアニア
 オーストロネシア語族のラピタ人は,前1200年頃にはソロモン諸島の東部,前1100年頃(前1000年頃)にはニューカレドニア島,前1000年頃(前1100年頃)にはバヌアツ,前900年頃にはフィジー,前850年頃(前900年頃)にはトンガ,前750年頃(前800年頃)にはサモアにまで広がる。



 

●前1200年~前800年のアメリカ

 中央アメリカや南アメリカでは,農耕の導入された地域を中心に神殿などの公共建造物がつくられており,各地で経済をコントロールしようとしていた勢力の存在がうかがえます。神殿建設が農耕の開始よりも前に遡るという調査結果も出ており,何度も建てては壊しを繰り替えす「神殿更新」の習慣が,次第に生産力を刺激し,各地の社会的な統合を強めていったとみられます(注)。
(注)大貫良夫『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版,2010。

○前1200年~前800年のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
 北アメリカのパレオ=インディアン(現在のインディアンの祖)やパレオ=エスキモー(極北の狩猟採集民)は,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を送っています。




○前1200年~前800年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆メキシコ湾岸地域にオルメカ文化がおこる
メキシコ湾岸にオルメカ文化の都市群が栄える
 メキシコ湾岸地帯は年間を通して気温が高く降雨も多い熱帯気候。
 そんな地域に住む人々は前1400年頃,オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。発掘の先駆者はアメリカ合衆国の〈スターリング〉(1896~1975)です。
 多くの階段型ピラミッドをはじめとする記念建造物を建て,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像(巨石人頭像。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。ヘルメットをかぶったアメフト選手のような見た目です(その風貌からアフリカ系の人々と関係があるのではという説も,ないこともありません)。

 東部の都市ラ=ベンタ(前900頃~前400頃)は,湿地に浮かぶ小島につくられたオルメカ文化最大の計画都市。高さ34mのピラミッドはメソアメリカ最古です。玉座(ぎょくざ)や,ヒスイなど豪華な副葬品をともなう玄武岩の柱で覆われた墓が発見されています。
 ラ=ベンタの西のサン=ロレンソ(前1200頃~前900頃),西部のトレス=サポテスも大都市です。
 オルメカ文化では,正確な暦も制作されていました(注)。
 ジャガーを信仰するオルメカ文化の影響は,中央アメリカにまで及んでいます。
(注)青山によると,オルメカ文明の都市サン=ロレンソ近くで中央アメリカ〔メソアメリカ〕最古の文字が発見されています(青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007)。ほか,芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010参照。オルメカとは「ゴムの国の人々」という意味で,アステカ王国の人々の16世紀頃の呼称がもとになっています(同,p.24)。


◆ユカタン半島にマヤ文明がおこった
マヤ文明で定住農耕文明が栄える
 ユカタン半島の高地マヤ地域【追H26マヤ文明の位置を問う】【本試験H11地図上の位置を問う】では,すでに前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場がありました。
 マヤ文明が“ジャングルの奥地の文明”という神秘的なイメージは,250年~900年の古典期のもの。当時の気候ではマヤ地域は今よりも乾燥していて草原が広がり,集約的な農業が大規模に行われていたことが明らかになっています。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。

・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。



◆メキシコ南部のオアハカ盆地に定住農耕文明が栄える
オアハカ盆地に文明がおこる
 前1150年以降,オアハカ盆地のサン=ホセ=モゴデに文明がおこっています。担い手は現在のサポテカ人に通じる人々です(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.42。



◆メキシコ中央高原には定住農耕集落が栄える
 この時代のメキシコ中央高原には,狩猟・採集に加え,トウモロコシ農耕を基盤とするに定住農耕集落が栄えています。




○前1200年~前800年のアメリカ  カリブ海
 1492年にスペインに派遣された探検家・事業家〈コロン〉(コロンブス)が,バハマ諸島で出会ったアラワク語族のタイノ人は,まだカリブ海はいません。
 彼らの祖先にあたる人々(アラワク語族のアラワク人)は南アメリカ北部のベネズエラ,オリノコ川下流に分布していました(注)。
(注)アーヴィング=ラウス,杉野目康子訳『タイノ人―コロンブスが出会ったカリブの民』法政大学出版局,2004,p.63。



○前1200年~前800年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方では,地域ごとに農耕を導入した都市が栄える
チャビン=デ=ワンタルの神々への信仰広まる
 アンデス地方中央部の山地では,前1000年頃に標高3000メートル級のチャビン=デ=ワンタル(3150m)に都市が生まれました。
 内部に水路のある基壇状の構造物や石彫が特徴で,発掘したのは〈フーリオ=C=テーヨ〉です。柱の上にジャガーの頭をかたどった像(半分人間で半分ジャガーの“ジャガー人間”)が付けられたものや蛇の像が見られ,農業に必要な水の神への信仰だとも考えられます。
 この都市の文化と同じような様式の土器が各地でも発見されたため,「チャビン文化の担い手が,前1000年頃に南アメリカ一帯を統合した」とされたこともあります。
 しかし調査の進展により,チャビン=デ=ワンタルには,この時期以前に建設された神殿の遺構もあることや,「チャビン文化」とされてきたアンデス地方各地の文化にも多様性があることがわかってきました。

 例えば,この時期のアンデス地方中央部の北部沿岸の文化は,チャビン文化と考えられていましたが,それとは別のクピスニケ文化であることがわかっています。
 


 一般にイモは保存に向かないので,食料の蓄積が進まず,国家のような大きな組織はなかなか生まれにくいとされます。しかし,高地で栽培されたジャガイモは,寒さを利用して「チューニョ」と呼ばれるフリーズドライの状態にすると半永久的に保存することができます。また,トウモロコシは段々畑に灌漑水路を整備すれば高地でも十分栽培可能です。またアンデスの高地と沿岸の低地との間に魚介類と各地の農産物を交換する交易ネットワークも生まれています(南北アメリカ大陸では,ユーラシア大陸の東西ネットワークように南北間の交易ネットワークは大規模化しませんでしたが,高い所と低い所の間の交易は発達していったのです)。


(注)大河は都市国家の文明が成立する必要条件ではありますが,十分条件ではありません。パミラ・カイル・クロスリー(1955~,近代中国史家)が述べるように,《東アフリカや,南米のアンデス山脈のように,大河川が前提となっていないものもいる》(パミラ・カイル・クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』岩波書店,2012年,p.79)。



◆アマゾン川流域にも定住集落ができるようになった
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落ができるようになりました。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。

(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。





●前1200年~前800年のオセアニア

○前1200年~前800年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々は,前1300年~前1200年頃にビスマルク諸島から,島伝いに東へ移動していきました。
 彼らのことをラピタ人と呼びます。

 彼らは過酷な島の環境を知っています。気まぐれな移動ではなく,ブタやタロイモを船に乗せた計画的な植民でした。

 前1200年頃にはソロモン諸島の東部,前1100年頃(前1000年頃)にはニューカレドニア島,前1000年頃(前1100年頃)にはバヌアツ,前900年頃にはフィジー,前850年頃(前900年頃)にはトンガ,前750年頃(前800年頃)にはサモアにまで広がります(注)。約4000キロの距離をこれだけの短期間で移動したのは驚くべきことです。
(注)( )内の年代は,1960年代頃の移動仮説を再検討した結果を踏まえた,印東道子『島に住む島に住む人類―オセアニアの楽園創世記』臨川書店,2017,p.21~p.23による。

 彼らは島の気候に適応し,次第にポリネシア人としての文化を形成するようになります。
 20世紀に観光が資本主義と結びつき,「南の島」には“楽園”のイメージが結び付けられていきました。しかし,まわりが海で囲まれていて,作物の育つ土もわずかなさんご礁の島は,実は“沙漠”のような環境なのです。
 南太平洋の主食はイモです。湿潤な環境を好むタロイモと,乾燥を好むヤムイモ。それに,豚・犬・ニワトリの家畜の飼育が盛んです。ヤムが実ると収穫祭が行われ,ヤムが無いときにはパンノキやバナナを食べます。パンノキは果樹なのですが,ふかしてココナッツミルクで煮ると,お芋のような食感です。調理には土器を使わず,石で蒸し焼きするのが普通です。半分に切った竹で,葉にくるんだ食物の上に焼けた石を載せて熱します。しかし,サンゴ礁でできた島には十分に土がないので,ココヤシとかパンノキを栽培することが多いです。パンノキは発酵させて,食物不足に備えます。
 南太平洋の気候で新たな文化を生み出したポリネシア人の拡散は,サモアで一旦ストップします。
 この時点では,ニュージーランド,ハワイ,イースター島には,まだ到達していません。





○前1200年~前800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前1200年~前800年の中央ユーラシア
◆中央ユーラシアは前1000年紀初頭から初期鉄器時代に入る
初期鉄器時代に入り,騎馬遊牧文化が花開く
 この時期にまでには中央ユーラシアの広い範囲の遊牧民たちは,似通った特徴を持つ文化を共有するようになっています。

 前9世紀~前8世紀にかけて,黒海北岸からカフカス山脈(黒海とカスピ海の間を横切るけわしい山脈)の北部にいた人々が,武装して馬にまたがる騎馬遊牧民文化を生み出します。

 痩せた土地,極寒の冬。
 草原や水場だけが頼りの環境で,彼らは考えます。

 「農業できないなら,馬飼えばいいじゃん」

 馬からは肉や乳は食用に,さらに骨と毛皮(毛皮からはフェルトが作られました)は移動に適した組立て式住居や衣服として有効活用されました。組立て式の家屋はいっけん粗末のようですが,保温に優れ,室内は過ごしやすいのです。

 もっとも古い時代の騎馬遊牧民は,前8世紀頃に南ロシア【追H25】で国家を築いたスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H7騎馬技術を発展させた初期の遊牧民か問う,本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【本試験H19時期】【追H25,H30中国東北部ではない】です。


○前1200年~前800年の中央ユーラシア  中央部・東部
 スキタイ人と同じような機能・デザインの馬具・武器を持ち,鹿石(しかいし)という石のモニュメント立てる儀式を持った文化が中央ユーラシア全域に見られるようになります。

 中国北方では1000年紀初めに本格的な遊牧がはじまっており,黄河が湾曲している地域のオルドスや夏家店上層文化に,初期遊牧民文化の痕跡がのこされています。例えば,西周の頃の中国北部の青銅器には,カフカス山脈北部でも発見されている青銅器の釜(ふく(金へんに复)という容器)と同じ特徴があります。


○前1200年~前800年の中央ユーラシア  北部
 なお,主に狩猟民として生活する道を選んだ人々も,中央ユーラシア北方の森林地帯には多くいました。狩猟と農耕・牧畜を組み合わせるスタイルもみられます。





●前1200年~前800年のアジア

○前1200年~前800年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,約1万年にわたって狩猟採集生活や漁労を中心とした縄文文化を営んでいました。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は,現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)
 この時期はこのうちの晩期にあたり,日本列島全域をカバーする交易ネットワークがその中頃には完成していたと考えられています(注)。前8世紀以降の九州~本州西部への稲作の普及も,縄文時代の交易ネットワークのおかげともいえましょう。
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001,p.92。

・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現在の③中国
黄河流域に西周が栄える
 黄河の支流の渭水(いすい) 【本試験H6】に建国された周(前11世紀頃~前256,首都の移動とともに西周と東周に分かれる) は,だいたい前1050年頃,服属していた殷を滅ぼして【共通一次 平1】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】,鎬京(こうけい) 【共通一次 平1】【本試験H6】【本試験H28光武帝による遷都ではない】【追H25唐の都ではない】【セA H30華北かどうか問う】を都として黄河流域【共通一次 平1:華北か問う】を支配しました。殷の最後の〈紂王〉(ちゅうおう)は「酒池肉林」を地で行く暴君とされ,周の〈武王〉【追H9「文公」ではない】に攻撃されて,自殺しました。

 周の一族は姫(き)姓を称し,始祖(祖先神)は農耕(キビ=稷)の神〈后稷〉(こうしょく)です。「天」を崇拝し,王は「天子と呼ばれ,人々の意向を反映した「天」が,王に命を与えるのだと考えられました。「革命」という言葉は,もともとは「天」による「命」をあらため(革め)て,「王」の血筋が交替することを表したものです。すると王の姓が変わる(易わる)ので,「易姓革命」(えきせいかくめい) 【中央文H27記】といいます。
 殷代や周代の歴史は,後の漢人の王朝が「周」を理想の王朝とみなしたため,殷をおとしめ周を美化する内容であることが多く,新史料にもとづく実態の再検討がすすんでいます(そもそも,当時の人々は漢字という記号に魔力のようなものが備わっていると感じていたとみられ(注),漢字を使いこなして宗教儀礼や文書行政をおこなう漢人の文化は,黄河流域だけでなく次第に南方の長江流域でも “憧れ”と“畏怖(いふ)”の存在となっていくのです)。
(注)この傾向は,漢字に限ったものではありません。


 〈武王〉は即位すると数年でなくなったので,次に第2代の〈成王〉(前1021?~前1002?)が即位しましたが年少だったので,〈周公旦〉(しゅうこうたん,前1043?~前1037?)が補佐しました。周の制度を,殷の制度をもとにして整備したのは,彼の業績です。周の天子は血縁関係のある一族や,功臣(手柄のあった部下)に領地を与え,諸侯(しょこう)とし,忠誠を誓わせました。領地を「封土(ほうど)」といい,官職とともに采邑 (さいゆう,土地と人民)が与えられました。諸侯は国君(こっくん)として都市とその周辺を支配し,臣下を卿(けい) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【追H28元代ではない】【共通一次 平1】,さらに彼らが領地を分け与えた士【追H28元代ではない】【共通一次 平1】のように階層的に組織しました。卿と大夫は有力貴族階級で,世族(せいぞく)とも呼ばれます。このような土地による結びつきをもうけることを「封建」(ほうけん)といい,与えられた土地は代々受け継がれました(注1)。

 周は自国の直轄地を「夏」とか「中土」と呼んでいます。これはのちに「夏」→「華」→「中華」(5世紀前半の『後漢書』で初めて使われる表現です),「中土」→「中国」と変化していきます。それとともに,自分たち周人の文化を受け入れた地域を指すようになって,拡大していきました。

 氏族のまとまりを維持するために,宗法【東京H29[1]指定語句】【共通一次 平1】【本試験H15,本試験H17六諭ではない】という決まりが守られ,宗族(そうぞく)【本試験H15三長制とは無関係,本試験H26豪族ではない】と呼ばれる一族(氏族共同体) 【共通一次 平1「地縁的秩序を守ろうとするもの」ではない】の長老が祖先の霊をまつるための儀式をとりおこないました。中国人の祖先崇拝は,ここに起源をもちます。諸侯は,土地を与えてくださった王を,天の神の命令を受けた「天子」として尊重し,国家の祭祀や軍事行動に参加することで支えました。
 しかし,時間がたつにつれ,せっかく天子に与えられた“ありがたい”封土は,いつしか“あたりまえ”のものになってしまうのが世の常です。
 第4代〈昭王〉の南征の失敗が西周の衰退へのターニングポイントでした(注2)。
 第5代の〈穆王〉(ぼくおう,前985?~前940)のころに領土拡大が終わると,卿や大夫といった貴族階層どうしの封土の取り合いや支配権をめぐる争いも起きるようになります。

 これをやめさせようとした前842年には〈厲王〉(れいおう)が追放されてしまうと,前841~前828年(注3)に王のいない時期になりました。『史記』ではこの頃から年代が記載されているので,中国はここから「歴史時代」に入ったといえます。
 『史記』によるとこの時期に〈周公〉と〈召公〉が「共に和して」政治を行ったということです。王のいない政治を「共和政」というのは,このことが語源です。

 しかし,〈宣王〉(前827~前782)の代から王は復活しましたが,その後王位をめぐる内紛が起きます。この内紛が長引き,同時に西方の遊牧民である西戎との抗争もあって,前8世紀には周は拠点を鎬京から東に移動させることになります。

(注1) この「封建」が、のちに中世ヨーロッパの「フューダリズム」(feudalism)の訳語として使われるようになりましたが、もともとの「封建」の意味とは異なり、土地所有のあり方に関する使われ方をされることが多い言葉です。
 もともと、周王朝は殷王朝を滅ぼした後、各地に諸侯の国を建てました。これを「諸侯を封建した」と表現します。ただし、その範囲は当初は中原(ちゅうげん)という狭い範囲に限られていました。漢代になると、漢字圏である天下の中すべてが皇帝の統治し王道を敷くものととされるようになり、天下の9つの州を天子と8人の方伯で治めた大国どうしの関係が「封建」とと再規定されることとなりました(歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.12-13)。
(注2) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。卿というのは、大夫の中でも執政を担当する者を指します(同、p.126)。その運用のされ方については、後に周代の政治が「中国の理想」とされるようになったことから内容が盛られているところもあり、議論があります(同、pp.126-127)。五等爵(公侯伯子男)についても同様です(同、p.128)。儒家が後代に理念化したことが影響していて、『周礼』は特に扱いに注意が必要です(同、p.134)。
(注3) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。




・前1200年~前800年のアジア  東アジア 現在の⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮半島では櫛目文土器に代わり,前1000年頃から無文土器が製作されるようになり,青銅器の使用も始まります。



○前1200年~前800年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

 ヴェトナム北部では,前1000年紀の前半から青銅器の使用が増えていきました。金属は武具として用いられ,稲作農耕の道具としては石や木が用いられました。ニワトリや牛といった家畜を飼って,狩猟・漁労・採集もしていたようです。この文化は,やがて前4世紀頃から中国や東北タイの影響を受けてドンソン文化に発展していきます。




○前1200年~前800年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
アーリヤ人が南下し,ドラヴィダ人を支配する
 パンジャーブ地方に半定住生活を営んでいたアーリヤ人は,前1000年頃から,もっと豊かなガンジス川への移動を開始し【本試験H21】,農耕を営むようになります。この頃,前1000年~前600年を後期ヴェーダ時代といいます。

 彼らはヤムナー川とガンジス川上流域に定着しつつ,ヒマラヤ山脈方面の森林を伐採しながら東に進んでいきました。
 乾燥地帯であるインダス川流域よりも,モンスーン(季節風)の影響を受け降雨にめぐまれたガンジス川流域のほうが魅力的だからです。
 この過程で,アーリヤ人は乾燥草原での牧畜民時代の信仰を残しつつ,先住のインド人の信仰にも影響を受け,自分たちの思想に取り込んでいくようになります。

 前1000年頃には鉄器があらわれ,前800年頃から普及します。先住民から稲作を学び,牛に犂(すき)を引かせて農業生産性を高めました。
 農業生産性が高まると,人口密度も高まり,余剰生産が生まれると,支配階級が形成されていきました。この時期には,各部族の社会が複雑化して国家を形成するようになり,ラージャン(王)が出現しました。人々を納得させるため,バラモン(司祭階級)による儀式が利用されました。軍事的・政治的に王を支えることで,支配階級になろうとした者たちはクシャトリヤ(クシャトラ(権力)をもつ者) 【本試験H26ヴァイシャではない】【追H24非自由民の呼称ではない】と呼ばれるようになります。しかし,この段階ではまだ都市も貨幣もみられません。

 やがて,前9~8世紀に,ガンジス上流のクル族内の王位をめぐる内紛が,叙事詩『マハーバーラタ』【追H26イランの自然神の讃歌集ではない】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】の伝える戦争に発展しました。
 この時期に『サーマ=ヴェーダ』(賛歌の歌や旋律をまとめたもの),『ヤジュル=ヴェーダ』(祭りの詞をまとめたもの),『アタルヴァ=ヴェーダ』(呪詞をまとめたもの)がつくられました。他にも,儀式の規定についてのブラーフマナ(祭儀書),哲学的な解説のウパニシャッド(奥義書)も成立しました。



◆インド=ヨーロッパ語族が生んだ,インドのバラモン教とイランのゾロアスター教
インドのアスラ(阿修羅)とイランのアフラは”双子”
 アーリヤ人のこうした祭儀をバラモン教【追H9インダス文明の信仰ではない】といいますが,火を通じた神への祈祷の方式や神々のルーツをみてみると,ペルシア人【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】の信仰したゾロアスター教【本試験H4仏教はゾロアスター教の成立に影響を与えていない】【追H9伝播経路を問う(アラビア半島からインド洋を横断してインドに伝わったわけではない),追H29中国から伝わったのではない】【中央文H27記】との共通点が認められます。

 しかし,時を経るうちにもともとは善神(良い神様)として信仰されていたアスラは,インドでは悪神(悪い神様)とみなされるようになったのに対し,イランではアスラが「アフラ=マズダ」(善神)としてまつられるようになります。
 共通のルーツを持ち“双子”の関係にあるインドとイランでは,神に関する知識の“読み替え”が生じていき,それが民族性の違いとなっていくのです。




○前1200年~前800年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


◆「海の民」の大移動と,セム系民族による交易の発達で,オリエントでは大国の時代が終わる
前12世紀の東地中海全域が大混乱におちいる

 前1200頃~前1150頃にかけ,地中海周辺では“青銅器時代”が幕を閉じ,“鉄器時代”に移行します。この変動期に関する史料は少なく,非常に混乱した時代だったと考えられています(“青銅器時代の崩壊”)。
 エーゲ海から海の民(海の諸族;Sea Peoples)と総称される諸民族が地中海東部に進出し,ヒッタイトやシリア,パレスチナ,エジプト新王国を攻撃したと考えられています。
 「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています(注)。

 小アジアでは,前1200年頃にヒッタイト王国が滅びました。
 従来はこれによりヒッタイト王国の独占していた製鉄技術が周辺諸国に拡散したという説がありましたが,現在ではヒッタイト王国滅亡以前から西アジア一帯に製鉄技術が広まっていたことが明らかになっています。
 ヒッタイト王国では,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車ではなく,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました。この二輪戦車には6本のスポークが付けられていました。
 バルカン半島からわたったインド=ヨーロッパ語族のフリュギア人(⇒前1200~前800のヨーロッパ>バルカン半島)がアナトリア半島中央部に東西交易ルートをおさえて勢力を伸ばし,西部にリュディア人がサルディスを都に発展しました。
(注) ミケーネ文明が滅亡後、ギリシアから流出した集団とみる説もあります(エジプトを襲った「海の民」は、パレスチナに定住してペリシテ人となり、彼らがミケーネ様式の土器を継承していることから)。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年。古山正人・本村凌二「地中海世界と古代文明」『岩波講座世界歴史』4、岩波書店、1998年を引いて。



 メソポタミア北部では,ヒッタイトの攻撃によりミタンニ王国が衰えると,支配下に置かれていたアッシリア人が自立し,アッシリア王国が再建されました。前1115年に即位した〈ティグラトピレセル1世〉(前1115~前1077)は都をニネヴェ【東京H18[3]名称と地図上の位置】にうつし,領域を拡大。征服民の強制移住政策を行ったのはこの時代です。アラム人の活動が活発化する中、アッシリアの公式記録はアッカド語(粘土板に楔形文字)とアラム語(羊皮紙にインクで)の2言語で記されるようになりました(注)【H30共通テスト試行「戦車と鉄製の武器を用いて、オリエントを統一した」とあるのはおそらくアッシリアのことであり、アテネのことではない】。

 しかし,さらに北部のティグリス川とユーフラテス川の源流にあたるアルメニア高原では,前1000年頃にウラルトゥ王が小王国を統一しビアイナ王国を建国しました。このウラルトゥの王国が強大化し,アッシリアの地中海に向けた通商路をふさいだために,アッシリア王国は以後200年間は衰退期に入るのです。

 メソポタミア南部のバビロニアでは,バビロンを巡ってカッシート(カッシト)人の王朝が前1155年にイラン高原南部のペルシア湾岸を中心とするエラム人により滅ぼされると,イシン第二王朝(前1158~前1026)が覇権を握りました。この王朝はエラム人の首都スーサを攻撃し,彼らが持ち去ったバビロンの主神マルドゥク像を奪い返しています。
 しかし,のちにシリア方面からアラム人が進出して混乱。アラム人はオリエント全域に陸上交易の拠点を持ち,各地にネットワークをつくって交易ルートを支配しました。彼らは統一国家をつくることはありませんでしたが,その商業的影響力によりアラム語【東京H10[3]】はこの時代の西アジアにおける国際共通語(リンガ=フランカ)になっていきました。

(注) こういったところにアッシリア王国の「厳しい側面」だけでなく、広大な領域の統治のため、「現地語主義や異文化理解をはかりながら巧妙に統治するアッシリアの姿」がうかがわれます。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.13。渡辺和子「アッシリアの自己同一性と異文化理解」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年を引いて。



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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン、イラン
◆イランではペルシア湾岸のエラム人が強大化する
イランで〈ゾロアスター〉が宗教改革をおこす
 イラン方面では,ペルシア湾岸のエラム人が前13世紀半ば強大化し,前12世紀頃にメソポタミアへの進出を繰り返していました。
 メソポタミア南部のバビロニアでは,バビロンを巡ってカッシート(カッシト)人の王朝が前1155年にイラン高原南部のペルシア湾岸を中心とするエラム人により滅ぼされると,イシン第二王朝(前1158~前1026)が覇権を握りました。この王朝はエラム人の首都スーサを攻撃し,彼らが持ち去ったバビロンの主神マルドゥク像を奪い返しています。
 しかし,のちにシリア方面からアラム人が進出して混乱。アラム人はオリエント全域に陸上交易の拠点を持ち,各地にネットワークをつくって交易ルートを支配しました。彼らは統一国家をつくることはありませんでしたが,その商業的影響力によりアラム語【東京H10[3]】はこの時代の西アジアにおける国際共通語(リンガ=フランカ)になっていきました。



 イラン高原には,インド=ヨーロッパ語族のアーリヤ系の諸民族(「アーリヤ人」)が分布しています。前1000年頃には,イラン高原の東北部(カザフスタン説もあります)出身の〈ゾロアスター〉(生没年不詳,前12世紀頃?(注)),が,アーリヤ人の多神教を改革し,ゾロアスター教を開いたとされます。

 〈ゾロアスター〉の思想は,こうです。この世界は最高神〈〉
(注)青木健『古代オリエントの宗教』講談社,2012。

 ゾロアスター教は,西方のキリスト教に対抗する意味合いから,紀元後にはハッキリと二元論的な色彩を強めていきます。

 最高神であったアフラ=マズダは善神に変化し,この世は善神アフラ=マズダ【本試験H30ヤハウェとのひっかけ】と暗黒神アーリマンが限りなく戦う場であるとみなされます。
 最後の審判【本試験H24キリスト教に影響を与えたことを問う】の際に,楽園に入れるのだという善悪二元論【H29共通テスト試行 ユダヤ教の特徴ではない】【H29共通テスト試行 神によって選ばれた民が救済されるわけではない】です。
 この「最後の審判」の考え方は,ユダヤ教やキリスト教にも影響を与えたとされています【H29共通テスト試行 輪廻転生の考え方にはたたない】。
 聖典は『アヴェスター』【追H28パルティアの時代に編纂されたか問う】【本試験H15各ヴァルナの義務が示されているわけではない,H29共通テスト試行 『旧約聖書』『新約聖書』は聖典ではない】といいます。

 儀式の際に司祭が火【H29共通テスト試行 火を尊ぶのはユダヤ教の特徴とはいえない】をけがさないようにマスクを着用する光景は,火そのものを拝んでいるように映ったため,のちに中国で「拝火教」と呼ばれることになります。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン
◆アラビア半島でラクダが家畜化され、対象交易が始まる
アラビア半島の南北がラクダキャラバンで結ばれる
 アラビア半島では12世紀頃に荷駄を負わせることができる鞍(くら)が考案されました。
 その結果、文明の先進地帯であったアラビア半島北部と、南部が結ばれるようになりました。

 隊商交易ルート(「香料の道」)沿いのオアシスには都市も生まれ、小国家を形成するものも現れます。隊商にラクダを提供して護衛・ラクダ引きにあたった遊牧民と、オアシスに定住する隊商の人々をまとめる存在が必要となったのです(注)。

(注)「香料の道」というのは、南アラビアの特産品が乳香(にゅうこう)であったためで、地中海東岸~南アラビアのルートと、ペルシア湾岸~南アラビアの2ルートが重要です。この時期のラクダ交易の隆盛と、この時期初めに地中海東岸を襲った破局的な出来事(「海の民」の襲来)との因果関係はわかっていませんが、蔀勇造は「新勢力の台頭が経済を活性化させ、アラビア半島も含めた諸地域間の交易活動に与えたインパクトが、新しいラクダ鞍の開発の遠因となったということも十分考えられる」と述べています。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、pp.7-8。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア
◆シリア,パレスチナを拠点にセム系の民族が栄える
陸上交易はアラム,海上交易はフェニキア
 シリア,パレスチナをめぐっては長い間,小アジアのヒッタイト,メソポタミアのバビロニア,エジプトの新王国による争奪戦が繰り広げられていました。しかし,「海の民」によりいずれの国家も衰えると“権力の空白地帯”となったこの地域で,交易に従事したり独自の文化を発展させたりする民族が出現しました。
 内陸部のダマスクス【京都H22[2]地図上の位置】を中心にアフロ=アジア語族セム語派のアラム人【京都H22[2]】【本試験H16フェニキア人ではない】が内陸交易で王国(アラム王国)を築きました。沿岸部では,ミケーネ文明に代わって発達したフェニキア人【セ試行】【本試験H2ヘブライ人の都市ではない,本試験H6】【追H28ダマスクスが拠点ではない、H29地図(勢力範囲を選ぶ。ギリシア人の勢力範囲とのひっかけ)】がシドン【セ試行 フェニキア人】【本試験H6】やティルス【セ試行 フェニキア人】【本試験H2,本試験H6】【追H28ダマスクスではない】【本試験H16ダマスクスではない】といった東地中海沿岸の植民市を拠点に地中海交易で栄えます。地中海沿岸で栽培されるオリーブオイルは,灯りの燃料,化粧品(スキンローション),調理用のオイルとして重要な交易品でした。

 パレスチナでは,アフロ=アジア語族セム語派のイスラエル(ヘブライ)人が強大化します。彼らは前1500年頃に移住したとされ,一部はエジプトに移住しました。しかし,前13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫とされる〈モーセ〉(預言者とされます) 【本試験H15・H30ともにイエスとのひっかけ】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。〈モーセ〉は途中シナイ半島のシナイ山で,神との契約を交わしたとされます(注)。
(注)このときの契約はのちに成文化され,『旧約聖書』を構成する「出エジプト記」にあります。日本語では「十戒」(じっかい)と呼ばれ,その内容は次の通り。(1) ヤハウェのほかなにものをも神としないこと,(2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと,(3) 安息日を記憶してこれを聖とすること,また他人に対する愛について,(4) 父母を敬うこと,(5) 殺さないこと,(6) 姦淫しないこと,(7) 盗まないこと,(8) 偽証しないこと,(9) 他人の妻を恋慕しないこと,(10) 他人の所有物を貪らないこと。

 『旧約聖書』の記述に従えば,イスラエル人は「士師」(しし,裁く人(Judge)という意味)という指導者を中心に,海岸付近のペリシテ人【東京H18[3]】(「海の民」?)やカナーン人を撃退した後,〈サウル〉(前10世紀?)が王政を開始しました。これをイスラエル王国(ヘブライ王国) 【中央文H27記】といいます。
 前1000年頃,ヘブライ人は,ペリシテ人を打ち払ったとされる〈ダヴィデ〉(位前1000年?~前960) 【東京H18[3]】と〈ソロモン〉(在位前960?~前922?) 【追H19モーセではない、H21モーセやキュロス2世ではない。パレスチナのヘブライ人の国王かを問う】のときに最盛期を迎えますが,〈ソロモン〉がなくなると南部がユダ王国【中央文H27記】として分離しました。このあたりの記述については史料が乏しいこともあり,『旧約聖書』や伝承に依拠せざるをえない状況です。

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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑯キプロス

 シリア沖に浮かぶキプロス島は,銅の産地として知られ,混乱が収まると交易活動が盛んになっていきました。


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・前1200年~前800年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 メソポタミア北部では,ヒッタイトの攻撃によりミタンニ王国が衰えると,支配下に置かれていたアッシリア人が自立し,アッシリア王国が再建されました。前1115年に即位した〈ティグラトピレセル1世〉(前1115~前1077)は都をニネヴェ【東京H18[3]名称と地図上の位置】にうつし,領域を拡大。

 しかし,さらに北部のティグリス川とユーフラテス川の源流にあたるアルメニア高原では,前1000年頃にウラルトゥ王が小王国を統一しビアイナ王国を建国しました。このウラルトゥの王国が強大化し,アッシリアの地中海に向けた通商路をふさいだために,アッシリア王国は以後200年間は衰退期に入るのです。





●前1200年~前800年のアフリカ

○前1200年~前800年のアフリカ  西アフリカ・東アフリカ・南アフリカ・中央アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 前1000年頃から後12世紀頃までにかけ,バントゥー語系の住民が西アフリカから,東アフリカや南アフリカにかけて大移動を開始します。現住地は現在のカメルーンとナイジェリア国境地帯とされ,サハラ沙漠の乾燥化や,中央アフリカ熱帯雨林のサバンナ化の影響によるものと考えられていますが,原因は明らかではありません。
 バントゥー語系の人々は,東西の二手に分かれて鉄器とともに南下しました。家畜化した牛を引き連れ,ヤムイモ,モロコシ(ソルガムともいいます)とアワの栽培を広めながら,サバンナを南へ南へと移動していきました。



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○前1200年~前800年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
  …各地の君侯が自立する時期。

エジプトは海の民の襲撃後に衰退する
 エジプトに移動した「海の民」(Sea Peoples)は,新王国時代の〈ラムセス3世〉により前1175年頃に撃退されます。
 しかしその後,王(ファラオ)権の衰退が始まります。
 この「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。

 新王国では次第にアメンをまつる神官団の力が強まり,ファラオの権力が衰退。第20王朝(前1185?~紀元前1070?)の滅亡とともに,新王国時代のエジプトの統一は終わりました。

 ここからを第三中間期といいます。
 第21王朝は下エジプト(ナイル川下流)のタニスを中心に樹立されました。
 一方、テーベにはアモン神官団が第21王朝の支配から独立する勢力を築いていました。

 続く第22王朝は(前945~前715)は、第21王朝(前1069~前945年)に仕えていたリビア人の傭兵の末裔による王朝で、〈ショシェンク1世〉によってエジプトが再統一された格好です。
 この王(ファラオ)はパレスチナにも遠征しています。



エジプトが衰退するとヌビアの勢力が拡大する
 エジプトが衰退に向かうその時,ナイル川中流のナパタ(第4急流から,やや下流にある都市)を中心としてヌビア人の勢力が拡大します。
 ナパタではもともと新王国時代にエジプトの文化的な影響を受け、アモン信仰が広まり、王もファラオを称していました。







●前1200年~前800年のヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

○前1200年~前800年のヨーロッパ  東・中央・西・北ヨーロッパとイベリア半島
 青銅器時代に入っていたこの地域の人々は「ケルト人」【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】と総称され,前1200年頃から現在のフランスから東ヨーロッパのチェコ,スロバキア,ハンガリーにかけて共通の文化を生み出していました。これをハルシュタット文化といい(前1200年頃~前500年頃),のち前800年以降に鉄器文化に移行することになります。
 「ケルト人」は前1000年を過ぎたころにはピレネー山脈を越え,イベリア半島にも移動しています。イベリア半島には先住のイベリア(イベル)人が分布していました。

(注)以下,地中海に面する南ヨーロッパはイタリア半島周辺とバルカン半島周辺に分けて整理します(イベリア半島は前出の「西・北・東ヨーロッパ」に含めます)

 イタリア半島にはすでにエトルリア人【追H21】が分布していましたが,前1000年頃,インド=ヨーロッパ語族の古代イタリア(イタリック)人が,イタリア半島に南下しました。イタリア人の中には,のちにローマを建国するラテン人【セ試行】も含まれています。


○前1200年~前800年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

ギリシア本土
◆ギリシャに鉄器が伝わり,混乱期を経て都市国家(ポリス)が形成される
大河なき山岳地帯に都市国家(ポリス)が生まれる
 前1200年頃,ミケーネ(ミュケナイ)文明を構成していたミケーネ(ミュケナイ),ティリンス,ピュロスなどの諸王国は次々に崩壊してしまいます。前1200年頃はヒッタイト王国が崩壊しエジプトを「海の民」(Sea People)が襲撃した時期にあたりますので,海の民による襲撃が滅亡原因ではないかという説もあります。
 ミケーネ(ミュケナイ)人に代わり,東地中海で商業活動を活発化させていったのはシリアの地中海沿岸に,テュロスやシドンなどの都市国家を建設したアフロ=アジア語族セム語派のフェニキア人です。
 シドンからの植民者は,伝承では前814年に現在のチュニジア【セ試行シチリアではない】にカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴが接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】という都市国家を建設しました。地中海を東西に射程範囲におさめることのできる,戦略上きわめて都合の良い港を獲得した形です(◆世界文化遺産「カルタゴの考古遺跡」,1979)。
 フェニキア人は地中海に反時計回りの海流があることを見抜き,各地に植民市を建設し【セ試行アフリカ北岸からイベリア半島東岸にかけての地域か問う】,ブリテン島(現在のロンドンがあるイギリスの島)のスズ(青銅器の製造に用いる)や,イベリア半島でとれる銀を地中海東部へと輸出して巨利をあげていました。

 ミケーネ(ミュケナイ)文明の崩壊した頃,西北方言群であるドーリア方言を話すドーリア人が南下しました。彼らは,ミタンニ王国やヒッタイト王国から伝わった鉄器をギリシア本土に持ち込み,前13世紀末~前12世紀初めにかけてギリシアは鉄器文化に突入することになります。この頃のギリシアでは混乱により文字の記録がわずかとなったため,“暗黒時代”(初期鉄器時代)と呼ばれます。
 前2000年以降ギリシア本土に南下していた先住のギリシア人である,アカイア人の一派イオニア人や,別系統のアイオリス人【本試験H6エトルリア人とのひっかけ】は,バルカン半島から小アジアやエーゲ海に浮かぶ島々に移動していきました。

 戦乱の中,各地では有力者が武装して集団で定住(集住;シュノイキスモス)し,農耕地帯を含めた都市国家(ポリスといいます)【セ試行】を各地で形成し,地中海の交易活動にも従事して,前800年頃には新たな特色を持つギリシア文明の担い手となっていきます。
 ポリスというのは華々しいイメージがあるかもしれませんが、貧しさゆえに集住したのです(注1)。

 ただ、ギリシアのすべての地域がポリスを形成したわけではなく、「エトノス」といわれる諸集落がゆるやかな枠組みの国家を形成した地域もありました(注2)。

(注1) ヘロドトスは『歴史』において、「ギリシアにとってつねに貧困はともに育った兄弟のようなものである」という、スパルタ王の言葉を引いています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.27。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.27。

●前800年~前600年の世界
生態系をこえる交流③
 ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展する。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 中央ユーラシアの騎馬遊牧民勢力が台頭し,黒海北岸のスキタイ(前8~前3世紀)遊牧国家のように,経済的資源をコントロール下に置き,軍事組織・宗教組織を含めて政治的に統一する勢力も出現する。

 東アジアでは,黄河流域に周(西周(前1046?~前771))が都市国家群を軍事的・宗教的に従えて,政治的な統合を進める。周辺の遊牧民とは,協力・競合関係にあった。
 南アジアでは,インド=アーリヤ人がガンジス川流域に政治的統合をすすめ,バラモン教を支配原理としていた。
 西アジアでは,メソポタミア北部のアッシリアが軍事的に強大化し,一時的に西アジアからエジプトにかけての広域を統一する。
 ヨーロッパでは地中海周辺に,局地的に政治的な統合が進んでいる。

(2) アフリカ 
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
  アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
 バンツー系の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明),南アメリカのアンデス地方(チャビン=デ=ワンタルなど)には,農耕を導入した定住都市が栄える。

(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まる。





●前800年~前600年のアメリカ
○前800年~前600年のアメリカ  北アメリカ

○前800年~前600年のアメリカ  中央アメリカ
◆メキシコ湾岸にオルメカ文化が栄える
オルメカ文化の影響は中央アメリカ各地に広がる
 メキシコ湾岸地帯のオルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)では,ラ=ベンタ(前900頃~前400頃)などに大都市が栄えています。

◆ユカタン半島にマヤ文明【H18アステカ帝国ではない】が発達する
 この時期,ユカタン半島のマヤ地域【本試験H11】【追H30ロゼッタ=ストーンとは無関係】の文明は先古典期の中期にあたります(注)。
 神殿ピラミッドは,前700年~前400年頃から建造され始めています。
(注)
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)
 (実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23)

◆メキシコ南部のオアハカ盆地にサポテカ人の文明が栄える
 オアハカ盆地には,サポテカ人の文明が栄えています。

◆メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄える
 メキシコ中央高原には農耕定住集落が栄えています。


○前800年~前600年のアメリカ  南アメリカ
◆アンデス地方では各地に神殿をともなう文化が栄える
農耕を基盤に,神殿をともなう都市が栄える
 南アメリカ大陸では,アンデス中央部の高地で都市チャビン=デ=ワンタルが栄えています。経済の基盤はトウモロコシやジャガイモの農耕です。
 アンデスの北部沿岸ではクピスニケ文化が栄えています。経済の基盤は沿岸部での海産物の採集・漁撈から,河川流域での灌漑農耕に比重をうつしています


◆アマゾン川流域でも定住が営まれている
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落が営まれています。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。


(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。







●前800年~前600年のオセアニア

○前800年~前600年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。ラピタ文化を共有していた地域は,ニューギニア島北東のビスマルク諸島から,西へソロモン諸島~バヌアツとニューカレドニア~フィジー~トンガとサモアまでです。彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。
 ラピタ人の拡大は,サモア付近で一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族につながる文化を生み出していくようになります。




○前800年~前600年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアでは,オーストラロイド人種の先住民(アボリジナル)が,引き続き狩猟採集文化を送っています。





●前800年~前600年の中央ユーラシア

○前800年~前600年の中央ユーラシア  西部
 前9~前8世紀にかけて,中央ユーラシアの遊牧民は,青銅器製の馬具や武器を用いた文化を発展させていました。
 前7世紀にはいよいよ,黒海北岸(南ロシア)【追H25,H30中国東北部ではない】でスキタイ人【京都H19[2]】【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】【追H25】が騎馬遊牧文化を発展させました。言語的にはイラン系です。

 騎馬遊牧民は機動性が高く,戦闘が不利になった場合には騎乗をしない農牧民と違ってすぐさま退却することが可能でした。また,圧倒的な軍事力を背景に各地で商工業・農耕を営む人々をしばしば傘下(さんか)に入れ,お互いが利益となるような提携関係を結んだり,提携が破綻すれば激しく攻撃したりしました。それゆえ騎馬遊牧民の支配領域では,服属下に置いた他の騎馬遊牧民集団や,さまざまなバックグラウンドを持つ民族をも含み持つ混成的な社会が生まれました。

 スキタイ人の動きは〈ヘロドトス〉【東京H22[3]】【本試験H31】【追H21】の『歴史』【追H17ペルシア戦争の歴史を叙述したか問う、H21神統記ではない】や,当時のアッシリア王国の粘土板文書によって明らかになっています。彼にとっては,農業をせずに家を運びながら生活するスキタイ人の生活は目からうろこでした。
 『歴史』によれば,マッサゲタイ人に攻撃されたため,ヴォルガ川を渡り黒海北岸に移動し,先住のキンメリア人を打倒しました。キンメリア人の残存勢力がカフカス山脈からイランに南下すると,スキタイ人もそれを追ってイランに進入しました。

 当時,西アジアを統一していた農牧民の建てたアッシリア帝国は,北方のウラルトゥ王国やキンメリア人の勢力を恐れ,スキタイと同盟を組みました。アッシリア王の〈エサルハッドン〉(位前680~前669)は,スキタイの娘と結婚しています。アッシリアに限らず,西アジアの農牧民による諸国家は,遊牧民の戦闘能力を買って,さかんに傭兵として招き入れていました。
 スキタイ人はいくつかのグループに分かれていたとされ,一部はやがて東ヨーロッパやバルカン半島にも移動することになるスラヴ人の祖先ではないかとも考えられています。

 スキタイ人は動物文様が有名で,馬具や武器に見られます。これらは,スキタイ人が中央ユーラシアの東部から受け入れたのではないかともされています。動物文様を持つ金製の装飾品も有名です。

○前800年~前600年の中央ユーラシア  中央部・東部
 スキタイ人と同じような,草原を舞台にする騎馬遊牧民文化は,中央ユーラシア全域に広まっていました【本試験H12その騎馬文化が匈奴に影響を与えたか問う】。現在のカザフスタンあたりまではイラン系が広がっており,それよりも東のモンゴル高原・中国の北部にはテュルク系・モンゴル系の民族が分布していました。





●前800年~前600年のアジア

○前800年~前600年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前800年~前600年のアジア  東アジア 中国

◆西方の牧畜民との抗争を避けた周の王室は,拠点を東に移した
周は東に都をうつした

 周では王位をめぐる内紛が起きていましたが,〈幽王〉(前781~前771)が西方の山岳地帯に住んでいた犬戎(けんじゅう) 【本試験H6五胡ではない】に攻撃を受けて亡くなり,西周は滅びました。ここまでの周を「西周」【本試験H6前17~16世紀頃に成立した王朝ではない】といいます。
 〈幽王〉の后(きさき)である〈褒姒〉(ほうじ)は絶世の美女であったと伝えられ、「その美貌は西周の衰退の原因になった」(傾国の美女)というストーリーが、のちに『史記』周本紀に取り上げられました。
 ことのあらましは以下の通りです。
 〈褒姒〉はこれまで一度も笑ったことがなく、〈幽王〉はどうにかして笑わせようと四苦八苦。
 そんな中、〈幽王〉は実際には何も起こっていないのに「緊急事態」を知らせるのろしを上げ、困っている将軍たちの姿を〈褒姒〉に見せました。すると〈褒姒〉は初めて笑みをこぼします。
 これに味を占めた〈幽王〉はなんどものろしを上げるようになり、将軍からの信頼は失墜。
 政治からも遠ざかるようになった上、〈褒姒〉を贔屓して太后としました。
 太后を降ろされた一族の〈申侯〉は西の犬戎(けんじゅう)と組み、〈幽王〉を攻めますが、このとき王がいくらのろしを上げても、将軍は誰も信用してくれず、結局〈幽王〉は殺され、〈褒姒〉は捕まえられました。
 
 …とまあ、こんな形で西周は滅びましたよというのが、言い伝えです。
 この頃周の〈幽王〉の太子(廃太子され、別の場所に逃れていました)で、東方の洛邑(らくゆう) 【本試験H6】に遷都し,周を復興したのはこの〈平王〉(へいおう、前771~前720)によるもの。
 しかし、実際には周の王位をめぐる内紛が完全に収まったのは前740年頃のこと。西周の滅亡後、ただちに東に遷都したわけではないのです(注1)。中国史の約束事としてこれ以降の周を東周(とうしゅう)と区別することになっています。

 中原(ちゅうげん)を中心に,周から封建された諸侯による国家が多く並び立っていましたが,表立って周王の権威を傷つけようとする諸侯はまだ現れていません。諸侯国の領域は西周時代には「邦」と呼ばれ,都城のある「国」(或)と,周辺の「邑(ゆう)【東京H29[1]指定語句】」によって成り立っていました。都城には人々が徴発され集住されていき,西周後期には「邦国」,春秋時代には「国」と呼ばれるようになります。
 「春秋の五霸」(注2)と総称される有力な諸侯(国君)【本試験H30】は周辺の遊牧民らと戦い,たがいに宗教的な儀式に基づく「盟」(めい)を結びつつ(注3),競って周王の保護を受けようとしました。周王を大切にし,異民族を追い払う“尊皇(そんのう)攘夷(じょうい)” 【東京H18[3]記述(意味)】が理想とされました。
 国君は軍事的な指導者(王)として卿(けい) 【共通一次 平1】・大夫(たいふ) 【共通一次 平1】といった支配階層を従えさせるとともに,国君の祖先神をまつる儀式をおこなう神官として,「天」や「上帝」といった神に対して働きかけることで権威をアピールしました。

 前722年からは歴史書『春秋』の注釈書である『春秋左氏伝』(左伝)の記録が始まりました。『春秋』は前481年までの記録ですが、「左氏伝」には前479年の記録までが記されています(注4)。
 前679年には斉の〈桓公〉(かんこう,前685~前643) 【京都H21[2]】が,中原の諸侯と同盟に加えて霸者(はしゃ) 【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】となりました。中原の諸侯にとっても最も手強いライバルは,長江流域の楚(そ)です。
〈桓公〉の死後は,宋(周の東方)の〈襄公〉じょうこう,(位前650~前637)が覇権を握ろうとしましたが,前638年に楚に敗れ,翌年亡くなりましたに。楚軍が川を渡っている途中にやっつけることもできたのでしょうが,敵に情けをかけたがために,結局自分が死んでしまった。“無用の情け”という意味の「宋襄の仁」という故事成語が生まれました。

 楚の勢力は増す一方で,中原諸国への進出が進むと,晋【追H9周ではない】の〈文公〉(位前636~前628)が宋を助けて,周から「霸者」と認定されました。前632年~前506年にわたり,晋は周王の下で霸者であり続け,周王をお守りする晋を中心とした国家間の外交のなかで,礼が重んじられました。それとともに,まだ国家ができていないため「礼」に従うことができない漢人以外の周辺民族は低く扱われ,次の戦国時代になると,東夷・南蛮・西戎・北狄という野蛮な民族として呼ばれるようになり,中原の「中華(中国)」を中心とする「華夏族」(中国ではこの名称が用いられます)としての自覚が高まっていきました(注5)。
 すなわち,中華の王はその徳(人間性)が高ければ高いほど,周辺の「野蛮」な民族を,華夏族のように「文明」的な暮らしに変えていくことができると考えられたのです。

 前618に鄭が楚に降伏すると,晋と楚の間で対立が起きました。楚の〈荘王〉(そうおう,前613~前591)は前606年に洛陽に迫って周の王に「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)」を問いました。鼎というのは,夏→殷→周と伝わっている王位の象徴であり,楚は鼎を狙っていたのです。王の側近は,「鼎の重さは,持つ人の徳によって決まるのだ。周の王は,まだ天子としてふさわしい徳をもっている。そんなことを聞くのは無礼だ」と〈荘王〉をいさめたという故事成語です。
 このような話が残されるくらい,周の王室が揺らぎ,晋・斉・楚などの有力諸侯の間での抗争も激しくなっていたわけです。

(注1) 前8世紀中盤。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.22。
(注2) ちなみに「五」というのは,後世(戦国時代後期)になって五行説という占いの影響からキリのいい数字として選ばれただけで,5つの諸侯が順に霸者になっていったというわけではありません。
 ラインナップに書物ごとに異説がありますが、斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔閭(こうりょ)、そして越の勾践をセレクトしたのは、『荀子』(王覇)でした。『荀子』の歴史観では、周王朝のある中原の地イコール「中国」で、それが五覇によって危うくなったという考え方をとります。しかし、実際に周王朝が、周代に青銅器文化が栄えた範囲を超えた広い範囲を「天下」としておさめていたわけではなく、夏・殷・周が栄えた範囲の外部にも「別の青銅器文化」があったことがわかっています。ですから、「春秋の五覇」によって周王朝がないがしろにされたのだというのは、「史料的根拠に欠け」る話です(歴史学研究会編『世界史史料 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.16-17)。
 なお、「覇者」という言葉自体は春秋時代のみに設定されるものではなく、たとえば『春秋左氏伝』では夏・殷・周の時代の覇者が論じられています(同、p.17)。
(注3) 盟誓の儀式では牛の耳をすする儀式がおこなわれました(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.98)。牛の耳を切り落とし順番にその血をすするのです。血をすする順番は地位の高い人から。「牛耳を執る」(→牛耳る)という故事成語はそこからとられています。
(注4) 佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.142。
(注5) なお、「中国」という言葉が初めて現れるのは、西周第2代の王のとき(同、p.98)。のちの漢人(漢族,漢民族)の民族意識の基となる民族です。固定的な概念ではなく,たとえ「野蛮」な周辺民族とされた人々でも,華夏族の風習や文化を取り入れ華夏族となることもありえました。



・前800年~前600年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 前7世紀から前6世紀にかけて朝鮮半島で水田耕作が始まり,集落間で貧富の差が生まれると各地に首長が出現するようになりました。巨大な土台の岩の上に覆うように岩を置いた支石墓(しせきぼ)も築かれます。
 日本列島の九州や本州西部にも水田耕作が伝わり,弥生(やよい)文化の成立に影響を与えたと考えられます。

 僧の〈一然〉(1206~1289)による『三国(さんごく)遺事(いじ)』(1280年代)などに残された伝説の上では,前2333年に平壌(へいじょう;ピョンヤン)を都に檀君(だんくん)朝鮮が建国されたことになっています。中国の天帝の子である〈桓雄〉(かんゆう;ファヌン)が地上に降り立ち,人間の女性の間に生まれたのが〈檀君(だんくん)〉であったということです。



○前800年~前600年の東南アジア
ドンソン文化の銅鼓が,北ヴェトナムの発展を示す
 東南アジアでは,モンスーン(季節風)のもたらす豊かな降水に恵まれ,稲作農耕が発達していました。
 大陸部(ユーラシア大陸側)には,西からビルマ人(チベット=ビルマ語派),タイ人(シナ=チベット語族やオーストロアジア語族に近い),モン人(オーストロアジア語族),クメール人(オーストロアジア語族),チャム人(オーストロネシア〔南島〕語族)が分布しています。
 島しょ部(島々がある側)には,マレー人(オーストロネシア語族)やパプア諸語(オーストロネシア語族でもオーストラリア諸語でもない)が分布します。
 この時期には,現在のヴェトナム北部に,ドンソン文化【追H25竜山とのひっかけ】が栄えます。担い手はオーストロアジア語族系。当時は光り輝いていた青銅器製の銅(どう)鼓(こ)【追H25灰陶ではない】が,その独特な形をしているのが特徴で,当時の支配層がみずからの権威を誇るためにつくらせ,各地の支配層に贈ることで威圧したり友好関係を結んだりしたとみられます。この銅鼓は大陸部だけでなく,島しょ部でも広範囲で発見されています。




○前800年~前600年の南アジア

◆前800年頃から南アジアで鉄器の使用が始まり,ヴァルナ制の確立とともにバラモン教への批判も生まれる
南アジアではヴァルナ制という身分制がはじまった
 この時期のインド北西部は,前1000年~前600年の後期ヴェーダ時代の後半です。クシャトリヤ(戦士)の代表である王は,バラモン(司祭) 【東京H6[3]】に権威を認めてもらう代わりに,これを保護しました。
 バラモンは,口伝えによって儀式の秘密を独占し,別の階級との結婚を規制して秘密を守りました。アーリヤ人秘伝の正しい方法で儀式を執り行わなければ,神は起こって災いをもたらすというのが彼らの主張です。これをバラモン教【セA H30インドで成立したか問う】といいます。
 ヴァイシャは農業と牧畜を行う階級で,シュードラ【追H26インドの隷属民か問う】【東京H6[3]】は隷属民です。征服された先住民だけでなく,アーリヤ人の中にもシュードラに転落する者もいました。農業にも牧畜にも従事せず,狩猟採集生活を行っていた部族は,もっとも身分の低い賤民(せんみん)として扱われ,シュードラ以下とする不可触賤民(ふかしょくせんみん)とされた集団もいました。触ることもできないような身分の低い人々という意味です(注)。

 このような身分・階級制度のことをヴァルナ制度【追H9インダス文明の制度ではない、H28ササン朝ペルシアの制度ではない】【本試験H17インダス文明の制度ではない,本試験H26ジャーティとは違う】と呼びます。ヴァルナとは色のことで,初期のアーリヤ人が先住民の肌の色が自分たちよりも暗かったことから,色を意識した呼び名になったのです。
 ヤムナー川とガンジス川の2つの川の流れる地域のクル国,パンチャーラ国,ガンジス川の中流にあるコーサラ国などが,有力な国家となりました。コーサラ国は叙事詩『ラーマーヤナ』【本試験H26・H30】の主人公であるラーマの王国です。ラーマは妻のシーターを悪魔から取り戻すために,スリランカに行って帰ってくるという内容です。

 後期ヴェーダ時代には,バラモンによる儀式の独占に対する批判も起こるようになります。バラモンは形式的に儀式をとりおこないますが,それによって人々の抱えるさまざまな悩みが癒えるわけではありません。この時期には,生前の業(ごう。行いのこと)によって,来世にどんな生き物に生まれ変わるかが決まるという,輪廻(りんね)の思想【本試験H24イスラームとは関係ない】が確立されました。現在よりも死亡率の高い時代です。人間に生まれたとしても,高い階級に生まれるかどうかはわかりません。どうしたら,この永遠の輪廻から抜け出すことができるのか。その答えが,この時代の新しい思想家(ウパニシャッド哲学者) 【本試験H26時期】の説をまとめたウパニシャッド(奥義書(おうぎしょ))に残されています。
 つらい出来事があっても,それ必ず理由がある。この世の全ての現象には,絶対に逆らうことのできない宇宙の法則(=ブラフマン(梵))がある。目に見える世界の物事には,それを成り立たせている目に見えないパワーがある。自分の魂(アートマン(我))を,その宇宙の根本原理に合わせることができれば,心に落ち着きがもたらされ,精神的に解放されるという,梵我一如の考え方です。心の中で精神を集中させて考えることを重んじたことから,のちのジャイナ教や仏教の成立に影響を与えました。

 前600年頃になると,北インドの人類社会の中心はガンジス中・下流域に移っていき,複数の国家がいくつも現れて覇を競う時代となっていきます。

(注) 前7世紀ころになると、シュードラの下にチャンダーラと呼ばれる不可触賤民階級が形成され、「第五のヴァルナ」と呼ばれるようになりました(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.23)。




○前800年~前600年の西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


・前800年~前600年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑯キプロス,⑰トルコ

◆アッシリアは,各地の都市国家を支配下に入れ強大化した
アッシリア帝国は,苛政への抵抗により短期で滅ぶ
 小アジアでは,フリュギア王国が,メソポタミア北部から進出したアッシリアの〈サルゴン2世〉(位前722~前705)に敗北し,遊牧民キンメリア人による前7世紀前半の攻撃で滅ぶと,代わってリュディア王国が勢力を伸ばしました。

アッシリアが強大化する
 アッシリア王国は,ティグリス川上流部の都市アッシュル(◆世界文化遺産「アッシュル(現・イラクのカラット=シェルカット)」,2003)を中心に,イラン高原の錫(スズ)を小アジアに中継する貿易で栄え,この時期に強大化していきました【東京H18[3]公文書に記述された文字を2つ問う(アラム文字,楔形文字)】。
 アッシュルにはジッグラトや宮殿もみられ,楔形文字を記した粘土板も出土していますが,2003年のイラク戦争により危機遺産に登録されています(⇒1979~現在の西アジア イラク)。

 前8世紀半ばの〈ティグラトピレセル3世〉(位 前744~前727)はバビロンを支配下に置き,軍隊や地方支配の改革をおこない,征服した都市国家の住民の反乱をおさえるために強制移住政策を実行します。

 前727年には〈サルゴン2世〉がイスラエル王国を滅ぼし,アナトリア半島のウラルトゥ王国(前9~前7世紀)も破っています。歴代の王は圧倒的な兵力により都市国家を支配下に入れていき,〈エサルハドン〉(前681~前669)のときにはエジプトにも進出し,メンフィスを占領。〈アッシュールバニパル〉王(位前668~前627)のときにはエジプトのテーベを占領し,イランのエラム人も征服。「宇宙の王」を名乗り最盛期を迎え,首都ニネヴェ【本試験H30】からは大量の粘土板を保管する図書館が見つかっています。これはアッシュルバニパル文庫といわれ,バビロニアの宗教・叙事詩・天文学・辞書に関わる著作が集められました。オリエントにおいてバビロンは,長きにわたって学術の中心地として重要視されていたのです。
 のちに天動説【本試験H12地動説ではない】【追H17】を唱えた〈プトレマイオス〉【追H17ジョルダーノ=ブルーノではない】【東京H27[3]】が前8世紀以降の暦を完成させたのも,バビロニア天文学(いわゆる「バビロニア占星術」)の成果にのっとったものです。
 しかし,強制移住政策や貢納など厳しい支配への反発が起こり,彼の死後にカルデア人(メソポタミアに移住したアラム人の一派)の〈ナボポラッサル〉がバビロンで挙兵し,前625年に新バビロニア王国を建国(前625~前539)しました。前612年にメソポタミアの新バビロニア王国と,イランのメディア王国〈キュアクサレス1世〉とされる初代の王が連合して反乱を起こし,アッシリアは前612年にニネヴェとアッシュルを失いました。逃れたアッシリアの支配層も前609年に攻撃され,完全に滅びました。



◆アッシリアが滅ぶと,小アジア,エジプト,メソポタミア,シリア四王国が分立する時代となった
アッシリア滅亡後のオリエントに四王国が分立する

 このようにアッシリアの支配が幕を閉じると,メソポタミアには新バビロニア王国,エジプトにはエジプト王国の第26王朝(リビア系の支配者とされています),小アジアには最古の鋳造貨幣【本試験H6アテネ,スパルタ,ペルシアではない】【追H30】(金属を溶かして一定の形に固めて作った貨幣)を使用したリディア王国【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアではない】【追H30バクトリアとのひっかけ】,イランにはメディア王国が並び立つ,四王国分立の時代となりました。

・小アジア…リディア王国(注1)
・メソポタミア…新バビロニア
・エジプト…エジプト第26王朝
・イラン高原…メディア王国


 イラン高原のメディア王国は,前8世紀後半にイラン系により建国され,前6世紀後半にアケメネス朝〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21ヘブライ人の指導者ではない】に倒されるまで続きます。
 メソポタミアの新バビロニア王国は,〈ネブカドネザル2世〉のときにエジプト=サイス王朝の〈ネコ2世〉(ネカウ2世)に勝利し,エジプトはシリアを失いました。また彼は,パレスチナ南部のユダ王国を滅ぼし,住民をバビロンに移住させました。これを「バビロン捕囚」(ほしゅう) 【追H19】といいます。この頃のバビロンには,都市神マルドゥクの神殿や大城壁が建設され,神殿は『旧約聖書』の“バベルの塔”のモデルではないかという説もあります。彼の死後は内紛が相次ぎます。
 なお,北アフリカのことになりますが,エジプトはリビア系の第26王朝(サイス朝)により支配されています。ファラオの権力には,もはやかつてのような栄光はありませんが,定期的な氾濫(はんらん)のおかげで塩害(えんがい)(注2)にも無縁なナイル川流域は依然として生産力が高く,地中海沿岸における経済的な重要性は健在です。

(注1) リディアだけはアッシリアの領域外であった点に注意(アッシリアから4王国が自立したのではありません!)。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.16。
(注2) 水路による灌漑に頼ったメソポタミアでは,深刻な塩害の被害に悩まされ,次第に生産量は低下していきました。環境破壊が文明を崩壊させた一例といえます。



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・前800年~前600年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア

◆強大化したアッシリア帝国がヘブライ人を連行したことが,ユダヤ教の成立につながる
ヘブライ人のアイデンティティが,書物に刻まれた
 この時期には,アッシリアの勢力が強大化します。かつてはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)で強盛をほこったウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)の王国は,アッシリアの〈サルゴン2世〉(位前721~705)により衰えます。

 パレスチナ地方北部のイスラエル王国(北イスラエル王国)は,前722年にアッシリア王国に滅ぼされました。
 また,イスラエル王国から分離していた南のユダ王国は前586年に新バビロニア【本試験H2アッシリアによるものではない】【本試験H26】【追H29】のネブカドネザル2世(前605~前562)に滅ぼされました。新バビロニアは首都のバビロンにヘブライ人【本試験H26】を強制的に連れ去り【追H29「強制移住」】,そこにとどめおきました(前586~前538【東京H6[3]時期「前6世紀」】,バビロン捕囚【本試験H2アッシリアによるものではない】【東京H6[3]】【追H29新バビロニアによるものか問う】)。この王はバビロンに「空中庭園」を建設させたことでも有名(空中にあるわけではなく,5段のテラスに土を持って植物を栽培させたもの。世界七不思議の一つ)。
 連行されたヘブライ人たちの中には,異国の地で教会(シナゴーグ)をつくって団結を続けた者もいました。「いまは辛い目にあっているが,きっと救世主(メシア、ヘブライ語で「油をつけられた者」(注)という意味) 【本試験H3】が現れて,ヘブライ人だけを救ってくれるはずだ」という選民思想【本試験H3「選ばれた民族」】【H29共通テスト試行 ゾロアスター教の特徴ではない】を抱き,彼らは唯一神ヤハウェへの信仰を保とうとします。
 新バビロニアの滅亡後,彼らはイェルサレムに帰還しますが,一神教の信仰を維持することは容易ではありませんでした。その後,一神教を信仰する集団によって,前515年にヤハウェのための神殿が再建され,ヘブライ人の思想や習慣は『旧約聖書』【追H19マヌ法典ではない】にまとめました。
 “旧約”(神との古い契約)という呼び名は,のちのキリスト教徒がイエスの言葉(福音)を“新約”(神との新しい契約)と考えることによります。つまり,キリスト教徒側の呼び方です。

 『旧約聖書』のうち,ユダヤ教で重視されるのは『モーセ五書(トーラー)』で,『創世記』・『出エジプト記』・『レビ記』・『民数記』・『申命記』までが含まれ,神のことば(律法)が文章に表されたものです。天地創造から前331年までのヘブライ人(人類)の歴史を,前1000年頃~前100年代にかけて著され,ヘブライ語(部分的にアラム語)で記されました。『トーラー』に記された神の言葉は難解です。「安息日(サバト)にやっていいことと悪いことは何か」「食べてもいいものと悪いものは何か」「結婚式はどのように執り行うべきか」などなどが,長い年月をかけて現実の生活に合わせた解釈がなされてきました。この解釈の集大成を『タルムード』といい,『口伝律法(くでんりっぽう,ミシュナ)』やその解釈などから構成され,ユダヤ教徒の生活規範となっています[関[2003]]。
 さて,ヘブライ人はイェルサレムへの帰還以降,ヘブライ人ではなく「ユダヤ人」と呼ばれることが多くなります。ユダヤというのは主要部族である「ユダ部族の土地」という意味です。
(注)CATHOLIC ENCYCLOPEDIA: Messiahより(http://www.newadvent.org/cathen/10212c.htm)。



◆フェニキア人は地中海に外から物を送り届け,表音文字を生み出した
フェニキア人,アルファベットを発明する
 フェニキア人は,シリアの沿岸部,現在のレバノンという国の南部を拠点として,レバノン山脈のレバノン杉の海上交易で栄えました。シドンやティルス【本試験H18地図】といった海港都市から,地中海はおろか,イギリスのブリテン島(青銅器の材料になるスズが産出されます)や,北欧のバルト海(木材や琥珀(こはく)がとれます),またはアフリカ方面まで航海し,各地の貴重な物産を持ち帰り取引したといわれています。地中海沿岸には植民市が建設され,ティルスを母市とするカルタゴ【東京H10[3]公用語を答える(フェニキア語)】【セ試行】【本試験H18地図、H24ヴェトナムではない】【H30共通テスト試行 「共和政ローマ」とカルタゴが接触した可能性があったか問う】【追H24 3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】が,地中海のど真ん中,現在のチュニジアにあって栄えました。レバノン杉は,エジプトでミイラをおさめる棺の木材となり,船の建造にも用いられましたが,森林伐採が進み,現在ではほとんど残っていません。
 イタリア半島は長靴の形をしていて,その長靴で3個の“ボール”が蹴られていると考えてみてください。一番南にシチリア島【本試験H16地図】,さらにその北にサルデーニャ島【本試験H16地図,19世紀似にイタリア統一した国王の統一前に支配していた島を問う】,その北がコルシカ島【本試験H16地図・ナポレオン1世の出身地かを問う】【追H24地図】です。
 シチリア島とアフリカ大陸は目と鼻の先の位置にあり,フェニキア人がアフリカ大陸側に建設した都市カルタゴは,戦略的にもとても重要な港となっていきました。文字は最初は象形文字(しょうけいもじ,物をかたどって作られた記号)から始まりますが,フェニキア語は表音文字【セ試行】【本試験H8表意文字ではない】(一つ一つが別の音をあらわし,その組み合わせで一定の発音を表す記号)のフェニキア文字【セ試行】【本試験H8】として表記され(原カナン文字【本試験H8楔形文字ではない】から改良された22文字のアルファベット),8世紀にはキプロス島を伝わり,のちにギリシア文字【セ試行】【本試験H8】のアルファベットの元になっていきます。
 ちなみにアルファベットは,ヘブライ文字の22文字の最初の2文字「アレフ」と「ベイト」を合わせた「アレフベート」が語源です。ユダヤ人はヘブライ文字自体を「アレフベート」と呼びます。

 こうして,アルファベットの発明により,原理的にはすべての言語の表記が可能となったわけです。フェニキア人の拠点は,前9世紀末にティルスからの植民によって築かれた,地中海中央部の北アフリカにあるカルタゴ(現・チュニジア,前814~前146)へとシフトしていきます。
 地中海東部を中心に拡大したギリシア人は,交易上のライバルでした。東方からアケメネス朝〔ハカーマニシュ〕がギリシア諸ポリスを攻撃したペルシア戦争(前499~前449)では,アケメネス朝に水軍を提供して支援しています。




・800年~前600年のアジア  西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
◆アラブの遊牧民・オアシスをまとめる小国家が南アラビアに現れる
遊牧民・農耕民・隊商を統合する小国家が出現
 前9世紀になると「アラブ」という語が史料に登場するようになります。遊牧民の部族集団が定住社会の脅威となったからと考えられます(注2)。
 南北の人の往来が盛んになるにつれ、地中海東岸から伝わったアルファベットがアラビア半島に伝わり、古代南アラビア文字が生まれています。こうしてアラビア半島も徐々に歴史時代に突入するのです。

 アラビア半島南部の史料に初めて登場する国家はサバァ王国です。
 この地域の諸王国は、共通の神への崇拝と祭儀によって結ばれた諸部族の連合体でした。夏のモンスーンが山脈にぶつかると農耕が可能で、山裾のオアシスで灌漑農業が営まれ、雨季に流れる涸れ川〔ワーディー;ワジ〕の水を堰き止めたダム湖が、砂漠と山裾の接線上に連なっています。初期の隊商路はこのオアシスのラインにあって、そこに都市が数多く成立したのです。

発掘された王の碑文によれば、周辺の勢力(南のカタバーン、さらに南のアウサーン、その東のハドラマウト、北方のジャウフなど)を服属させながら、少なくとも8世紀のうちには成立していたはずで、前700年前後には支配が確立していたと考えられています。

 前8世紀末~前7世紀初めにかけ、サバァの2人の首長がアッシリア王にラクダ・香料を献上したとするものです(注3)。メソポタミアにとってアラビア半島のラクダや商品は、ヨダレが出るほどほしいものだったのです。サバァの小王国は、現在のアラビア半島の南西部(ヒジャーズ地方)にある都市の小王国との結びつきが強かったと考えられています。
 アッシリア王〈サルゴン2世〉の年代記においても、前716/5年におこなわれた遠征で、サバァの〈イタァアマル〉(生没年不詳)から貢物を受け取ったという記事があります。アッシリア王〈センネアケリブ〉のときには、前685年にサバァ王〈カリビル〉が宝飾品・香料を献上したとあります(注4)。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、pp.4-5。
(注2) やはり地中海東岸で生まれたフェニキア文字の属する「北西セム系アルファベット」とは別系統の「南セム系アルファベット」に属します。7世紀に『コーラン』を記すのに使われたのは「北西セム系」のアラビア文字ですが、それ以前の古いアラビア文字はエチオピアで現在でも用いられています(アラビア半島やエチオピアなど「南西セム語派」で用いられたので「南セム系」と呼びます)。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、pp.9-10。
(注3) サバァは、『旧約聖書』の「シェバの女王」(日本では英語のSheba(シーバ)をシバと読んだものがひろまっています)と関係があるのではないかと昔から考えられていますが、研究者は懐疑的です。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.13。
(注4) 蔀勇造はこの「サバァ」を南アラビアの小王国ではないとする説を批判し、サバァ王国の古都シルワーフの神殿跡でこの2人の首長によって建てられた石碑をもとに、アッシリアと南アラビアとの関係があったことを裏付けています。こうしてアラビア半島南半の大きな砂漠(ルブゥ=アルハーリー砂漠)の南西に突き出たラムラト=アッサブアタイン砂漠の辺縁に、サバァを中心とするカタバーン、アウサーン、ハドラマウト、ジャウフなどの王国が成立しました。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018、p.15。


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・800年~前600年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 この時期には,アッシリアの勢力が強大化します。かつてはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)で強盛をほこったウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)の王国は,アッシリアの〈サルゴン2世〉(位前721~705)により衰えます。





●前800年~前600年のアフリカ

○前800年~前600年のアフリカ  東・南・中央・西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆バントゥー系の民族が,中央・東・南アフリカに農耕・牧畜を伝えながら移動する
バントゥー系の大移動が始まる
 サハラ以南のアフリカでは,密林地帯をはじめとして環境が過酷で,マラリアやツェツェバエなどの感染症も深刻です。海に出ようとしても海風が激しく,川をくだろうとしても階段状の地形が多いことから急流に阻まれます。
 そんな中,西アフリカのカメルーンを現住地とするバントゥー系の人々は,牛を連れてヤムイモやアブラヤシの農耕をしながら,中央・東・南アフリカに移動をはじめていました。




○前800年~前600年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
エジプトは「第三中間期」にあって分裂状態
 エジプトは,各地の君侯が自立して栄えます。
 第21王朝(前1073?~前948?)
  …下エジプトの王と,上エジプトのテーベの大祭司が対立して分裂。
 第22王朝(前948?~前715?)
  …ショシェンク王家。テーベの大祭祀の政権を併合。リビア人の国家。
 第23王朝(前867?~前724?)
  …テーベが独立。
 第24王朝(前735?~前721?)
  …西の侯国(デルタ地域のサイス)
 第25王朝(前752?~前656)
  …ヌビアのクシュ人。


◆ヌビアのクシュ王国が一時エジプトを占領,のちメロエに退いて製鉄技術を発展させた
ナイル上流のヌビア人が,下流のエジプトに拡大

 エジプト文化を吸収していたヌビアのナパタを中心とするクシュ王国は、分裂していたエジプトに勢力を拡大。

 〈ピアンキ〉王はエジプトの第 24王朝を倒し,第 25王朝 (前 730頃~656) を発展させ (したがって,この王朝をクシュ王国,ナパタ王国と呼ぶ【本試験H9[24]地図上の位置を問う】) ,エジプトの中心となりました。

 第4代の王〈タハルカ〉は第25王朝を樹立するほどに勢力を拡大します。
 しかし、前671年には急拡大したアッシリア王国の〈エサルハドン〉〈アッシュルバニパル〉によって征服され,前670年にはさらに上流(南方)のメロエ(第5急流と第六急流の間)に遷都しました(注1)。
 アッシリアは〈ネコ1世〉(ネカウ1世,位 前672~前664)を支持してファラオに即位させましたが,クシュ王国によって殺害されました。その後,〈ネコ1世〉の子がアッシリアから自立し,第26王朝を建てました。第26王朝はサイスを拠点としたことからサイス王朝とも呼ばれ,ギリシア人との交易で栄えます。ナイル川の河口にはギリシア人の植民市ナウクラテスが建設されていました。
 メロエ王国【本試験H29】時代のヌビア人は,鉄鉱石を採掘しアッシリアから伝わった製鉄技術を積極的に導入します。前5世紀頃の鉄器製造の証拠が見つかっていて,メロエは「アフリカのバーミンガム(18世紀後半以降のイギリス産業革命(工業化)時代の鉄鋼都市)」とも呼ばれます(注2)。
 メロエ人はメロエ語を話し,始めはヒエログリフで表記していましたが,のちにメロエ文字をつくりましたが未解読です。また,メロエにはエジプトのものよりも傾斜の大きい四角錐のピラミッドが建設されました(ヌビアのピラミッド)。

 クシュはその後再興をはかりますが,第 26王朝によりナパタは制圧され (前 590) ,クシュの首都はメロエに移り,宗教的中心として命脈を保ちます。

(注1) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.176。
(注2) メロエ王国から西アフリカに製鉄技術が伝わったという説は否定されています(宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.146)。



●前800年~前600年のヨーロッパ

○前800年~前600年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 青銅器時代に入っていたこの地域の人々(のちに「ケルト人」と総称されます)は,前1200年頃から現在のフランスから東ヨーロッパのチェコ,スロバキア,ハンガリーにかけてハルシュタット文化を生み出していました。前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わると,ハルシュタット文化は鉄器文化に移行し前500年頃まで続きました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも交易を行い,鉄製武器を備えた支配階級の戦士がイベリア半島から黒海北岸にかけて進出していきました。

 イベリア半島のケルト人は先住のイベリア(イベル)人(民族系統不明)との混血がすすみ,ケルト=イベリア(ケルティベリア)人の文化を生み出していきました。前7世紀になるとバルカン半島南部のギリシア人が,イベリア半島南部への植民を始めます。

 また,のちに東ヨーロッパのポーランド人や,南ヨーロッパのセルビア人に分かれていくスラヴ人の祖先は,現在のウクライナの西からベラルーシの南にかけて分布していたとみられています。

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・前800年~前600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
イタリア半島ではエトルリア人の勢力が支配的に
しだいにラテン人の都市国家ローマが台頭へ
 ラテン人の都市国家ローマはイタリア半島中部の都市国家に過ぎず,はじめは先住民のエトルリア人の王の支配下【本試験H6ケルト,カッシート,アイオリスではない】【本試験H14時期(前4世紀にはエトルリア人の王の支配下にはない),本試験H29】【追H21】にありました。彼らの根拠地では鉄やスズがとれるため,南部のギリシア人と早くから接触があり,高い文明を手に入れました。そのため,エトルリア人はアーチ建築をはじめとする土木技術に優れ,剣闘士の競技や凱旋式,服装などとともに,のちのローマに影響を与えました。しかし,ギリシア文字からつくられたエトルリア文字は未解読で,多くはわかっていません。

 伝説によると前8世紀に,ローマを流れるティベル川【セ試行】に,捨てられた双子の兄弟が流れ着いたところから始まります。
 この〈ロムルス〉と〈レムス〉の血筋は,ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(前70?~前19)【追H24ポリビオスとのひっかけ,H30】の『アエネイス』【追H21ポリビオスが著者ではない,H30著者を問う】【中央文H27記】によるとトロイアの貴族にまでさかのぼるとされています。2人は野生のオオカミに育てられ,あらたに見つけた都市の支配権をめぐって兄弟喧嘩がおこり,兄の〈ロムルス〉が〈レムス〉に勝利したため,「ローマ」と命名されたといいます。
 ローマはラテン語【追H19】を話すラテン人【セ試行】により建設されましたが,エトルリア人【セ試行】の王による支配を受けた期間がありました。しかし,前509年【追H26時期(前6世紀)】に彼らを追放すると,王政【追H26共和政ではない】から共和政【追H26王政ではない】になります【本試験H14時期(前4世紀にはすでにエトルリア人の王の支配下にはない)】。
 彼らはエトルリア人を経由して,ギリシア文化の影響を受けていました。政治的には,共和政,つまり,君主はおかず,所定の手続きにもとづく話し合いによって問題を解決する政治形態をとっていました。しかし,民主共和政(市民の多くが政治に参加することができる共和政)ではなく,貴族共和政(少数の貴族のみが参加する共和政)でした。
 彼らの都市は,広場(フォルム【本試験H18アゴラとのひっかけ】),神殿,城壁によって構成されていました。貴族共和政は,実権を握る構成メンバーが少ないため,貴族「寡頭」政(かとうせい)とも呼ばれます(寡頭とは,リーダー(頭)が寡(すくな)いという意味)。

 貴族は,元老院(セナートゥス)という長老会議のメンバーで,元老院は王政のときには王の諮問機関(助言をするための機関)でしたが,王の追放後にはローマの政治を牛耳るようになります。貴族はラテン語でパトリキ【本試験H9】。父(パテルpater)が語源です。彼らは自らの血筋を誇り,大土地・奴隷・クリエンテス(奴隷ではないが,貴族の保護下に置かれた下層の平民。「私的な庇護民」)を所有して,平民との違いを強調しました。彼らは国家(レースプーブリカ。英語republic(共和制)の語源です)の官職に就任するための選挙で,賄賂(わいろ)や買収などあの手この手が用いられました。特に,小麦を無料で配給されていた下層民(プローレーターリウス。ドイツ語ではプロレタリアート)は,票集めのための格好の対象でした。
 平民はプレブス【本試験H29】と呼ばれる農民で,要職につくことはできず【本試験H29要職を独占していたわけではない】,貴族と平民の間の結婚も禁止されていました。

 ちなみに,執政官(コンスル) 【本試験H9】【立教文H28記】は任期1年の最高官職で,貴族から2名が選ばれました。コンスルとは,元老院と「相談」する人という意味なので,英語の「コンサルタント」などの語源となっています。
 また,国の一大事など緊急事態にあっては,2名がいると舵取りが難しいことから,任期半年で,すべての権利を握ることができる独裁官(ディクタートル)という官職が認められていたことも特色です。ディクタトルは英語の独裁者(ディクテイター)の語源です。
 一方,ローマではフォロ=ロマーノと呼ばれる広場フォルム(英語ではフォーラム。後ろにローマが付くと格変化して“フォロ”になる)が,前624年頃から前579年頃にかけて整備されていきました。



○前800年~前600年のヨーロッパ  バルカン半島

バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆ギリシアでは都市国家が建設されたが,同時期のオリエント的な強大な権力は現れなかった
オリエントの辺境にギリシア人の集落ができる
 前8世紀になると,ギリシア人各地にポリス【本試験H18アゴラとのひっかけ】が建設されるようになります。
 ポリスは,有力な貴族の指導のもと,集住(シノイキスモス;シュノイキスモス)によって成立した都市国家のことです。ポリスにはアクロポリス(城山) 【本試験H18アゴラとのひっかけ】という城砦があって,敵の進入を確認するとともに,ポリスの神々をまつる神殿が置かれ,祭祀(さいし)がおこなわれたり,公金を管理したりする場所でもありました。アテネ(アテーナイ)の場合,麓(ふもと)に向けてパンアテナイア通りがのびて,近くのアゴラ(広場) 【本試験H18アクロポリス・フォルム・ポリスではない】【慶文H29】は政治や市場の中心でもあり,民衆裁判所や評議会議場が隣接していました。

 スパルタは,テーベ(テーバイ)というボリスを支配下におさめた後,バルカン半島南西部のペロポネソス半島の先住民を,第一次メッセニア戦争(前743~前724)で撃退し,ポリスを形成しました。獲得した土地は,貴族と平民からなる市民(スパルティアタイ)に平等に分配されました。
 前685年には,先住のメッセニアが反乱を起こしましたが,第二次メッセニア戦争(前685~前668)で鎮圧されました。

 戦後のスパルタは,貴族と平民は皆平等に兵士(平等者(ホモイオイ)と呼ばれました)となり,征服地の住民(戦争奴隷)【本試験H25】からなる奴隷(ヘイロータイ(英語はヘロット)) 【追H24非自由民の呼称か問う、H28交易に従事していない】 【本試験H2アテネではない,本試験H10】【立教文H28記】の反乱をおさえるために,軍国主義的な支配体制をつくっていきました。彼らは幼い頃から男女別に共同生活・共同食事をともなう訓練が行われ(“スパルタ教育”の語源です),市民の団結のために格差が生まれないように貴金属貨幣を禁止し,鎖国政策が取られます。スパルタ【本試験H2アテネではない】の国内には,商工業に従事する周辺民(ペリオイコイ【追H26奴隷身分ではない】【本試験H2アテネにおける呼称ではない】【東京H26[3]】)が居住していました。 スパルタのあるラコニア地方では穀物の自給が可能であるため,鎖国することも可能だったのです。政治は,軍事指揮権のみをもつ2人の名目な王と,選挙で選ばれた5人の監督官(エフォロイ)と長老会が王を監視する体制がとられ,実質的には貴族政でした。



 一方,バルカン半島東南部のアテネ(アテーナイ)はイオニア系のギリシア人のポリスで,アッティカ半島を拠点とします。人口の3分の1が奴隷【本試験H13奴隷制は廃止されていない】で,家内奴隷・農業奴隷や鉱山での採掘労働に使われました。奴隷ではない自由民は,貴族と平民に分かれていて,平民は参政権を持たず,財産にも格差がありました。
 アテネ(アテーナイ)の家族は,子供数名と夫婦からなる核家族が普通だったようです。男の結婚年齢は30歳くらい(女は15歳前後)と高く,一夫一婦制が基本で家族の人数は少なかったようです。

◆ギリシア人による地中海・黒海の植民市建設がさかんになった
貧しいギリシアは交易に活路を見出す
 しかし,社会が安定するとしだいに人口が増えて土地不足が問題となり,前750年頃から約2世紀にわたりギリシア人は植民活動を活発化させました。ギリシア人は武装して船舶に乗り込み,地中海からボスフォラス海峡・ダーダネルス海峡を通って北上し,黒海沿岸に至るまで植民市を建設していきます(ギリシア人【東京H18[3]】の植民活動)。植民市は,栽培した穀物【本試験H6】を輸出し,各地からオリーブ油【本試験H6】やブドウ酒【本試験H6】を輸入して栄えます。

 ドーリア人のポリスであるメガラの植民者は,ビュザンティオン(ビザンティオン) 【東京H14[3]位置を問う,H18[3]】を建設しました。のちにビザンティウム→コンスタンティノープル【追H30 6世紀ではない】→イスタンブルと支配者や名称が変わっていきながらも,2500年以上の長きにわたり東西交流の中心として繁栄していくことになる歴史ある都市です。
 同じくドーリア人によりバルカン半島南西部のペロポネソス半島とギリシア本土を結ぶ交通の要衝(ようしょう。重要な地点のこと)に,商業都市コリント(コリントス)が建設されました。

 イオニア人は小アジア(アナトリア半島)沿岸のミレトス【本試験H6アリストテレスの活動地ではない】や,黒海沿岸を中心に植民しました。
 植民に当たってはデルフォイの神託に従い植民者の指導者や地域が決められました。母市(メトロポリス)のポリスの団結意識を表す「共通のかまど」から聖火を分け,植民市(アポイキア;娘市)のかまどに移す儀式が行われましたが,母市・娘市は政治的には独立していました。植民市の中には,早かれ遅かれ母市からの独立意識を強める所も現れます。
 ほかには,地中海と黒海の間に位置するビザンティオン【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】,シチリア島のシラクサ【東京H14[3]】,イタリア半島の南部(タレントゥムなどを拠点とするマグナ=グレキア),フランス南部のマッサリア(現・マルセイユ) 【本試験H6】【東京H14[3]位置を問う】などが建設されていきました。

 彼らは,当時盛んに地中海交易をおこなっていたフェニキア人の文字に刺激され,ギリシア語のアルファベット(表音文字)がつくられ,商業活動で使われました(ギリシア文字)。また,前8世紀に,盲目の詩人〈ホメロス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1】が『イリアス(イーリアス)』【共通一次 平1:『神統記』ではない】【本試験H30】や『オデュッセイア』などのギリシア語の詩を残し,ギリシア人独自の文化も深まっていきました(ホメロスの実在を疑う説もあります)。
 前700年頃には,〈ヘシオドス〉(生没年不詳) 【共通一次 平1:ホメロスではない】【本試験H7】【本試験H17ローマのウェルギリウスではない,本試験H31政治を風刺する喜劇作家ではない】【追H21ヘロドトスとのひっかけ、H29ペルシア戦争について叙述していない(それはヘロドトス)】が神々の系譜を『神統記』【本試験H7神々の系譜が書かれているか問う】【追H21、H24ホメロスの作品ではない,H25】に,植民市での農作業の様子などを『仕事〔労働〕と日々』【共通一次 平1】【本試験H15ラテン語ではない,本試験H17】に著しています。
 ほか,前612年生まれの女性詩人〈サッフォー〉(生没年不詳)は乙女への愛ををうたった抒情詩を多く歌っています。少女に対する愛情をうたったことから,彼女の活動したレスボス島(ミティリニ島)が,近代になるとに女性同性愛者(レズビアン)を意味するようになっていきました。

 交易が盛んになり鋳造貨幣も流通し【本試験H10時期を問う(図「4ドラクマ銀貨」をみて答える)】,平民の中には農産物を自分で売り,富裕な平民となる者があらわれ,自分で武器を買って戦争に参加する者も現れました。当時,兵士としてポリスを守ることができるものには,政治に参加する権利が与えられましたが,兵士になるための武具は自分で調達する必要があったのです。交易がさかんになると,商工業の発展にともない武具の価格が下がったことも,平民に幸いしました。平民は鎧(よろい)を着て,馬に乗ることができなくても,青銅器でできた兜(かぶと),胸当て,よろい,すね当て,それに盾と,鉄器の槍を持って密集隊形(ファランクス)を組めば,馬を凌駕(りょうが)するほどの立派な戦力となります。
 このような部隊を重装歩兵【本試験H2】部隊(ホプリタイ)といい,商工業に従事し国防を担(にな)う富裕な平民が貴族と対立し【本試験H10】富裕な平民が参政権を主張するきっかけとなっていきます【本試験H2貴族の権力が強化されていったわけではない】。



◆ギリシア人による自然哲学が盛んになった
万物の根源を問う論証が積み上げられた
 さて,前7世紀頃の社会の変動期に現れた,新しい考え方が「イオニア自然哲学」【追H25スコラ学ではない】です。イオニア地方【本試験H10〈タレース〉はシチリアのシラクサ出身ではない】というのは,現在のトルコがあるアナトリア半島(小アジアとも呼ばれる地方)の,エーゲ海に面している地方のことで,このころ盛んに各地で交易をしていたギリシア人の拠点であり,合理的に物事を考える習慣がついていたのでしょう。また,ギリシアはオリエントの文明と違い,強大な権力を持つ宗教指導者や王がいません。ですから,自由に物事を考える気風や,説得力ある弁舌や論理的な説明が重んじられる傾向がありました。例えば,〈タレス〉(タレース,前624?~前546?) 【追H9ソクラテスではない、H17万物の根源はアトムとしたのではない、H20、H25】【セ試行 イオニアの自然哲学者か問う】【本試験H10】【本試験H13】は,万物の根源(アルケー) 【追H9ソクラテスと無関係、H25】【本試験H17ストア派ではない】を水【本試験H29】【追H17原子(アトム)ではない、H25】と考え,この世界の成り立ちを合理的にとらえようとした自然哲学者【本試験H13】の一人で,“哲学の父”と呼ばれます。西洋哲学の流れの中では「ソクラテス以前の思想家」として分類されることが多いです。哲学とは,答えのない(カンタンには出ない)問いを,自分の頭をつかって徹底的に考えることです。のちに成立するヨーロッパ世界や,のちにイスラーム教が広まる世界(イスラーム世界)では,彼以降現れたギリシアの思想家の影響を強く受けることになります。



◆アテネでは都市国家の政治参加者数が拡大され,法・政治制度が確立されていった
交易の発展を背景に,部族制が崩れる
 交易が発展して財力を得る平民も現れると,自ら武器を装備し,ポリスのために重装歩兵として戦うことで貢献するようになった平民の中から,政治に参加する権利を要求する声もあがります【本試験H6交易の発展の結果,もっぱら貴族の手中に富が集まり,諸ポリスに貴族制が確立したわけではない】。

 前7世紀に〈ドラコン〉【本試験H25スパルタではない】が,貴族の独占していた慣習法を成文化し,平民にもルールがハッキリと示されるようになりました。内容は主に刑法で,刑罰にはかなり残酷で厳しいものもありました。
 前6世紀初めには〈ソロン〉(前640頃~前560) 【本試験H18時期】【早・政経H31アテネ最古の成文法を制定していない】が,参政権をめぐる争いを財産によって参政権を定める,いわゆる財産政治(ティモクラティア) 【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期において禁止されたか問う】によって解決しようとしました。こうして富裕な平民には参政権が与えられました。役人は上位3ランクからのみ選ばれるという内容です。
 また,アテネ(アテーナイ)の発展とともに問題となっていたのは,債務奴隷【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期(民主制の完成期と類推する)において禁止されたか問う】です。このころの農民は,生産物の1/6を富裕な者におさめなければならず,支払えなければ“カタ”として債務奴隷(ヘクテモロイ)にされてしまうことが問題になっていました。〈ソロン〉はこれを禁止し,貧しい平民が増えて社会の秩序が乱れることを防ぎます。ちなみに〈ソロン〉は,〈ドラコン〉の法のうち,殺人に関するもの以外を廃止しています。

 しかし,こうした貧しい平民の支持を集め,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)によって政権を奪う政治家が現れます。その背景には民衆を巻き込んだ貴族間の激しい抗争がありました(注)。
 混乱をおさめるため、僭主(せんしゅ) 【本試験H18】【H30共通テスト試行 ポリュビオスがローマの国制のうち「元老院」について、「僭主」的であるとは表現していない(「貴族的」が正しい)】による一人支配が求められたのです。
 前6世紀中頃に〈ペイシストラトス〉(?~前527) 【本試験H18】が,隣国のメガラとの戦争で活躍し,中小農民の支持を受け,前561年以降断続的に独裁をおこなったのが有名です。独裁とはいえ,〈ペイシストラトス〉のように,人々の意見をちゃんと反映していたとプラスの評価がされる者もおり,僭主が一概に「暴君(タイラント。僭主を意味するギリシア語「テュランノス」が語源です)」というわけではありませんでした。
 神殿建築を造営したり,お祭り(パンアテナイア祭やディオニュシア祭【本試験H31リード文(アテネ南麓の劇場は酒神ディオニュソスを祀る国家的祝祭の舞台だった)】など)を積極的に運営したりして,アテネ(アテーナイ)市民の団結感を高めました。なお,この時期(前8世紀~前6世紀)につくられた像は,目は笑ってないのに口だけ微笑んでいる「アルカイック=スマイルという特徴を持り,アルカイック期と呼ばれます。
 また,彼は中小農民を保護して自作農を育成したため,彼らがのちの民主政の支持基盤となっていくことになりました。

 前508年には,〈クレイステネス〉(生没年不詳) 【東京H28[3]】【本試験H15】【追H21】は僭主が現れないようにするため,陶片追放(オストラキスモス) 【東京H8[3]】【本試験H9[17]】【本試験H15】【追H21, H30スパルタではない】の制度をつくります。当時はまだ紙がありませんでしたから(紙が実用化されるのは後漢時代の中国),記録するのに陶器のかけら(陶片(オストラコン)【追H28】【本試験H15】)【本試験H21図版。甲骨文字,インダス文字ではない】を削ったわけです。人気が加熱しすぎた政治家を,「僭主になるおそれがある者」【追H28】としてアテネ(アテーナイ)から追放できるようにしたものです【本試験H9[17]評議員・執政官や将軍を選出したわけではない】。「僭主になる恐れのある人物【本試験H9[17]党派ではない】」が投票され,6000票以上の得票者のうちの最多得票者が追放されたものとみられます。

 彼はまた,従来の伝統的な4部族制(血縁に基づく)が社会の実態に合っていないと考え,血縁を考慮しない地理的な区割り(デーモス【立教文H28記】)を考え,それを組み合わせて人工的に10部族をつくりました。こうすることで,人々が自分の部族のことばかりを考えるのではなく,ポリス全体のことを考えることをねらったのです。ちなみにこのデーモスは,デモクラシー(democracy,民主政)という英語の語源となりました。デーモスからは,人口比例で選ばれる五百人評議会を作りました。

(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。


●前600年~前400年の世界
生態系をこえる交流④
 ユーラシア大陸では,中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け,定住農牧民との交流が発展。乾燥草原の遊牧民も,乾燥地帯の大河流域の定住民も,国家の支配地域を拡大させる。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 騎馬遊牧民の活動が,ユーラシア大陸各地の定住民エリアに影響を与える。

 東アジアでは,周王朝に服属する呉(ご)の〈夫差(ふさ)〉(位495~前475)らの諸侯が各地で経済開発を進める。
 南アジアではガンジス川流域に,〈アジャータシャトル〉(位494~462?)のマガダ国などの諸国が経済開発を進める。
 西アジアではペルシア人のアケメネス朝〔ハカーマニシュ朝〕が,広域を統一する。最盛期の〈ダレイオス1世〉(位前522~前486)は,北方の遊牧民スキタイに敗北している。
 ヨーロッパでは,地中海沿岸にカルタゴ(前9世紀後半~前146)やギリシア人の諸都市が交易活動で栄える。

 社会の変動に合わせ,東アジアに諸子百家,南アジアに〈マハーヴィーラ〉(前6世紀頃~前5世紀後半)や〈ガウタマ=シッダールタ〉(前6世紀頃?),西アジアに〈ゾロアスター〉(前10世紀説もある),ギリシアに〈ピュタゴラス〉(前582~前496)など,様々な新思想が生まれます。


(2) アフリカ
 アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
 アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは,狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
 バンツー系の人々は中央アフリカ,東アフリカ方面に移動を始めている。


(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのオルメカ文化の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部のサポテカ文化が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部では高地のチャビン文化のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。



●前600年~前400年のアメリカ

○前600年~前400年のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
 北アメリカの北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○前600年~前400年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆メキシコ湾岸のオルメカ文化は衰退に向かう
オルメカ文化が衰え,都市が放棄される
 オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)は衰退に向かいます。
 大都市ラ=ベンタ は前400年には放棄されました。

◆マヤ地域では小規模な祭祀センターや都市次第に成長する
 この時期のマヤ文明は先古典期(前1000年~前250年)に区分されます(注)。

(注)この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。


◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,神殿が建設され始める
オアハカ盆地に神殿が建設され,軍事的に拡大へ
 一方,トウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,前500年~前300年頃にメキシコ南部のオアハカ盆地で大規模な神殿が作られるようになりました。
 オアハカ盆地の中央にある標高400mの山頂にはおそらく砦が建設され,征服活動を表したレリーフがあり,ティオティワカンとも外交していたとみられます。また,中央アメリカ〔メソアメリカ〕最古とみられる,260日暦と365日暦のシステムを整えた暦法を残しています(注)。
 担い手はサポテカ人で,中心都市はモンテ=アルバンです。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.42。


◆メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えている
 メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えています。

○前600年~前400年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 

○前600年~前400年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方には各地に農耕を基盤とする文明が栄え,神殿が築かれる
山地にチャビン文化,南海岸にパラカス文化
 南アメリカのアンデス地方中央部の山地にあるチャビン=デ=ワンタルでは,前1000年頃からチャビン文化が栄え,前300年頃に衰えるまで続きました。
 アンデス地方の南海岸にはパラカス文化(前4~前2世紀)が栄えます。以前は独立した文化と考えられていましたが,土器のスタイルの違いのみで,担い手はのちのナスカ文化と同じ集団です(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.10。




◆アマゾン川流域でも定住が営まれている
グアラニー人の南下が続く
アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住集落が営まれています。階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注1)。



ラプラタ川流域
 前4000年頃からのアマゾン川流域の乾燥化・森林の減少にともない、前2000年頃から前500年頃ににわたって、アマゾン川流域からグアラニー人が小規模な集団を組んで、ゆっくりと大移動していくことになります(注2)。
 グアラニー人は、ラプラタ川周辺で旧石器文化を送る先住民と対立し、グアラニー人はしだいにパラグアイ川以東を居住権とし、先住民をパラグアイ川以西の乾燥地帯に追いやったり、自らの社会取り込んでいくことになります(注3)。


(注1) デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.32。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.33-34。








●前600年~前400年のオセアニア

 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
 彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。




●前600年~前400年の中央ユーラシア

○前600年~前400年の中央ユーラシア 西部
 中央ユーラシアには,草原を舞台にした騎馬遊牧民による同じような特徴をもつ文化が広範囲にわたり広がっていました。その証拠に,前5~前4世紀には,中央ユーラシア東部のアルタイ地方で,ギリシア美術のデザインや,中国の絹織物や青銅器の鏡も出土しています。

 なんといっても最大の勢力を誇っていたのは黒海北岸のスキタイ人です。アケメネス朝〔ハカーマニシュ朝〕の遠征軍を破り,その軍事力を轟(とどろ)かせました。

 サウロマタイ人(前7~前4世紀)は,西部カザフ,ウラル南部,ヴォルガ下流,北カフカス,ドン川下流地方で活動した,スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く,ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。

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○前600年~前400年の中央ユーラシア 中央部
 中央ユーラシアのど真ん中に位置するタリム盆地は,雨がほとんど降らない乾燥地域ですが,北を東西に走る天山山脈や,西部のパミール高原からの雪解け水に恵まれて,地下水や湧き水を利用した都市が,古くから生まれていました。このような定住地のことをオアシス,都市に発展したものをオアシス都市といいます。しかし,せっかく山ろくの地表に水が湧き出ても,ほっとくと高温と乾燥ですぐに蒸発してしまいます。そこで,山ろくから地下水路をオアシスに向けて伸ばして,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ(カレーズ)) 【本試験H5中央アジアのオアシス都市では「小規模な灌漑農業が行われていた」か問う】が作られるようになっていきました。上空から見ると,穴がいくつもぼこぼこ開いているように見えるのが特徴です。





●前600年~前400年のアジア

○前600年~前400年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国


・前600年~前400年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国

 前632~前506年にわたって,周王の権威の下で,晋が「覇者」として君臨していました。前589年に晋は斉を破り,前575年に楚を破りました。晋は,長江下流域の呉に前584年に楚と戦わせるなどして勢力削減を図り,前562年には楚から鄭を奪い返し,中原への進出を断念しました。
 呉からの攻撃が相次いだため,楚は前546年に晋と和平を結んでいます。晋を霸者とすることで,中原諸国は楚を仮想敵国として同盟(会盟)を組んだり争ったりということを繰り返しました。
 しかし,晋が楚との関係を改善させたことに対し,中原諸国の中には晋の言うことを聞かなくなる国も現れはじめます。前506年には晋が中原の蔡に救援を頼まれたときに,蔡を見捨てて楚を攻撃しなかったことがきっかけになって「覇者」としての君臨は終わり,中原諸国は次々と晋の言うことを聞かなくなっていきました。

 前496年には,呉が越と戦い,呉王〈闔閭〉(こうりょ)は戦死しました。〈闔閭〉の遺言は「必ずカタキをとれ」。息子の呉王〈夫差〉(ふさ,在位前495~前473)は,「三年以内に」と答え,“薪の上で寝る(臥す)”ことで,父を失った屈辱を忘れまいとしました。そして迎えた前494年,越王〈句践〉(こうせん,前496~前465)を破り,“親父のカタキ”をとったのです。しかし,今度は〈句践〉が“胆(きも)を嘗(な)める”ことで屈辱を忘れずに国力増強に挑み,その結果,越は前473に呉を滅ぼしました。これらを合わせて「臥薪嘗胆」という故事成語ができました。リベンジのために何が何でも耐えるぞ!という意味です。前479年には『春秋左氏伝』(左伝)の記述が終わっています(注1)。

そんな中,この時期の中原諸国では,身分に応じた家臣とは別に,能力に応じた人材をとりたてる動きが加速しました。特に有名なのは〈孔子〉(前552?551?~前479)ですね【本試験H13ソクラテス,釈迦,孔子ではない】。

 晋では趙【本試験H15山東半島が拠点ではない】・魏・韓の三晋が,周から事実上独立を図るようになります(注2)。

 前447年,楚の〈恵王〉(前488~前429?)が,蔡(さい)を滅ぼして領土に加えたのち,宋の進出も狙いました。これに対して兼(けん)愛(あい)(家族を超えた博愛主義)【本試験H15】・非攻【本試験H17法に基づく統治ではない】を唱えた〈墨子〉【追H9孟子とのひっかけ】【本試験H17法家ではない】(前480?~前390?)の武装集団(墨家(ぼっか)【本試験H15,本試験H31法家とのひっかけ】【慶文H30記】)が阻止しています。

 前404年に趙・魏・韓の三晋が,周王〈威烈王〉(前425~前402)の命で斉を破り,前403年に諸侯と任命されました。
 この時点で,東周の前半部の春秋時代が終わり,ここから戦国時代【本試験H19五代十国時代とのひっかけ】とすることが一般的です(宋の時代の『資治通鑑』(1084年完成)など)。なお,「戦国」は,漢の〈劉向〉(りゅうきょう,前77~前6)の『戦国策』が語源です。

(注1) 『春秋左氏伝』の記述の終わる479年から戦国時代の始まりとする説に対し、前漢の時代の歴史書である『史記』は六国年表の立つ475年を始期とする説もあります(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.196)。
(注2) 晋が3つに分割された前453年を、戦国時代の始期とする説もあります(同、p.196)。




・前600年~前400年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島

 殷が周に滅ぼされると,殷の最後の王〈紂王〉(ちゅうおう)の親戚であったとされる〈箕子〉(きし)が,周に従うことを拒否し朝鮮半島に移住して「箕子朝鮮」を建国したと,中国の歴史書(『史記』や『漢書』)が伝えていますが,実在は定かではありません。




○前600年~前400年の東南アジア
 北ヴェトナムには,前1000年紀の中頃に,紅河(ホン川)流域に文郎国(ヴァンラン)という伝説上の国があったといいますが,定かではありません。ただ,この地域では水稲農耕が発展し,金属器も生産され,人口密度が高くなり,社会が複雑化していきました。インドや中国からの文化の流入も始まっていました。



○前600年~前400年の南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


・前600~前400年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 スリランカ中央部には,インド=ヨーロッパ語族系統のシンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。初代国王は〈ウィジャヤ〉(位 前543~前505)とされ,インド北部から移住した勢力とみられます。

(注)シンハラ人の来住は「およそ前5世紀ころのことと考えられる」。辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.168。


・前600年~前400年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン

 前600年に後期ヴェーダ時代が終わり,この頃からアーリヤ人の中心地はガンジス川中・下流域に移りました。
 西のほうからやって来たアーリヤ系の民族によるという説もありますが、むしろ、「アーリヤ文化に接し、それを受け入れて自らクシャトリヤ(武人階級)と称した先住の農耕部族の側」が担い手であった可能性も強いです。そうなると、従来のバラモンたちの権威が失墜し、新たな社会階層である地主・手工業者・商人組合の長らの自由な発想が貨幣経済の発展とともに台頭し、バラモンに批判的な「六師外道」(ろくしげどう、代表的な6人の思想家)、「六十二見」(多くの自由思想家)が活躍する時代がやってきます(注1)。

 こうした北インドのガンダーラから,デカン高原北部のアシュマカまで,16の国家に分裂して覇を競う時代が到来。これらを十六大国と呼びます。
 ガンジス川流域にあったコーサラ国とマガダ国には,強力な王が官僚と軍隊に支えられる王国が形成されていました。コーサラ国はマガダ国に滅ぼされます。

 マガダ国の都はラージャグリハで,王は部族にとらわれず実力本位で人材を登用し,官僚・軍隊を強化しました。〈ブッダ〉を保護した〈ビンビサーラ〉王(前550~前491)が有名です。

 バラモン教に対する批判【追H30擁護していない】として生まれた新たな思想の一つが,ジャイナ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まった宗教ではない】【追H30バラモンとヴェーダの権威を擁護していない】です。
開いたのは〈ヴァルダマーナ〉(前549~前477?)という男です。彼はマガダ国で生まれた王子で,若いうちに結婚して子どもをもうけましたが,30歳で親と生き別れました。
 彼は両親の死も含め,人間にとって逃れられない苦しみをどう乗り越えていけばよいか考えるようになります。自分の財産をすべて捨て13ヶ月間瞑想した結果,苦しみの根源が「所有」にあると悟りました。バラモンのようにきれいな衣服をまとい裕福で物にあふれていても,そこからまた新たな苦しみが生まれる。彼は,都市国家間の戦争も激しさを増し,多くの人が命を落としていく時代を生き,新しい時代をよりよく生きる生き方を人々に説いたのです。
 ジャイナ教が批判した考え方に「輪廻転生」(りんねてんしょう)があります。バラモン教は「輪廻転生」の考え方を持っています。簡単に言えば「生まれ変わり」です。せっかくいい人生を送ることができたと思っても,その生き方次第で,来世ではミミズになったりネズミ,あるいは奴隷になったりしてしまうかもしれないという世界観です。
 ただ,この考え方に縛られると,現在の自分は,まるで永遠に続く来世のために頑張っているということになりますから,これはかなり辛い。永遠のグルグルから抜け出すことを解脱(げだつ)というのですが,このためにはバラモンに莫大なお布施(ふせ)を支払ったりする必要があるとされました。
 「そんなことする必要はないじゃないか」と考えたのが,〈ヴァルダマーナ〉という人物です。マハーヴィーラ(偉大な英雄)と呼ばれる彼は,12年間修行をした末にジナ(=勝利者)になったと讃えられています。彼は徹底した不殺生(ふせっせい,アヒンサー,生き物を殺さないこと)を首長し菜食も奨励しました。現在の信徒数は約3,000万人です。




◆貨幣経済の成立に対応し、人生は「苦」という認識から出発した〈ブッダ〉が教えを説いた
階級社会の個人の心を救済する新思想が成立

 〈ヴァルダマーナ〉と同じ頃,バラモン教という当時の“常識”から目覚めた人物がいます。目覚めた人という意味の〈ブッダ〉です。目覚めることを,“悟りを開く”といいます。悟りを開く前は〈ガウタマ=シッダールタ〉(前566~前486頃または前464~前384頃) 【本試験H12仏教の「開祖」ではない】【本試験H13ソクラテス・釈迦・カントではない,本試験H15仏教の開祖かを問う,本試験H19時期】という名のクシャトリヤ階級でした。人間は永遠に輪廻転生するということが当たり前だったインドで,「輪廻転生の苦しみから逃れる方法」について悟った人物です。

 彼は〈ヴァルダマーナ〉と同様,王子としてシャールキヤ族に生まれました。シャールキヤを漢訳すると釈迦(しゃか)になります。「ムニ」という偉い人を敬う呼び方をつけて,「釈迦牟尼」とも言います。
 シャールキヤ族は,マガダ国のライバルであるコーサラ国の部族の一つでした。十六大国時代ですから,まさに戦国時代。故郷のカピラヴァストゥという町(インド側は「インドにあった」と主張し,ネパール側は「ネパールだ」と主張しています)で,母〈マーヤー〉(摩耶)と王から生まれた〈ガウタマ〉ですが,出生7日後に母は死んでしまいました。結局〈マーヤー〉の妹によって育てられ,宮殿で可愛がられて育ち,やがて16歳で結婚し,子どもをもうけます。

 しかし,バラモン教の考え方に疑問を持っていた彼は,夜中に王宮を抜け出し,修行の旅に出ます。29歳のことでした。彼はいくつかの師匠につきましたが,「これじゃない」と思い,結局森に入って35歳までの6年間,体を痛めつける苦しい修行に励みます。しかし,「こんな厳しい修行をしても,意味はない」とようやく気づく。 
 断食をやめて川にたどりつくと,村の娘の〈スジャータ〉からお米を牛乳で似たおかゆをもらう。これで元気が出た〈ガウタマ〉は,近くの木の下で瞑想をはじめたのです。

 途中で悪魔が邪魔をしようとしたのですが,これを退散することに成功し,その後座って瞑想しつづけた〈ガウタマ〉は,「なぜ人間は苦しむのか」「苦しみから逃れる道はなにか」という問いに対する答えを見つけます。つまり,ブッダ(目覚めた人)になったのです。

 「でもこの教えをみんなに教える必要はないだろう」と思っていたブッダに対して,「教えたほうがいいよ」とアドバイスしたのは,ヒンドゥー教のブラフマー(梵天)なんですね。そこで,現在はヒンドゥー教の聖地としてのほうが有名なヴァラナシの近くのサールナートで,〈ブッダ〉は初めて自分の考えをお披露目しました。その相手は,かつて森の中で苦行に励んだ5人の仲間だったのです。たちまち信者は1000人を越え,その名声をきいたマガダ国の〈ビンビサーラ王〉(位前546~前494?)も弟子となり,土地や建物を寄進(きしん)(注2)したといわれています。


(注1) 「六師外道」には、「①道徳否定論を説いた〈プーラナ=カッサパ〉(前6~前5世紀),②7種の要素をもって人間の個体の成立を説いた〈パクダ=カッチャーヤナ〉(前6~前5世紀),③輪廻の生存は無因無縁であるとし決定論を説いた〈マッカリ=ゴーサーラ〉(前6~前5世紀),④唯物論を主張した〈アジタ=ケーサカンバラ〉(前6~前5世紀),⑤不可知論を唱えた〈サンジャヤ=ベーラッティプッタ〉(前6~前5世紀、〈シャカ〉の二大弟子である〈サーリプッタ〉 (舎利弗) と〈モッガラーナ〉 (木犍連)はもともとサンジャヤの弟子である),⑥ジャイナ教の祖師である〈ニガンタ=ナータプッタ〉(マハービーラ) がいます(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)。
(注2) 宗教的な権威が,資源や土地に関する権限の調整や再分配を行う例は,歴史上に多くみられます。「自力救済」が支配的な前近代社会にあって,民間の経済活動や財産は,権力者によって侵害されることはよくありました。そこで,寺院や境界に財産を寄託したり,権力者の腐敗を防ぐために市場の管理を寺院が担ったりこともふつうに見られました。それら財産や経済活動の管理の主体として,寺院の果たした役割は大きかったのです。医療活動や福祉活動を通して住民の人心をとらえることもありました。
 十六国時代にはすでに,王がバラモンに村や土地を施与(せよ)する慣行が始まっていました(「村の施与とはその村から徴収される諸税の享受権を与えることであり,土地の施与とは開拓可能な未耕地などを免税の特権とともに与えることを意味する」 辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,pp.54-55)。仏教教団にとっても寄進は重要でした。「ブッダに帰依する者はバラモンから不可触民にいたるあらゆる階層からでたが,教団を物質的に支えたのは,主として都市の住民,とりわけ王侯と商人であった。マガダ国の都ラージャグリハにあった竹林精舎も,コーサラ国の都シュラーヴァスティーにあった祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)も,彼らの寄進したものである。」(辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,p.62)。


 順調のように見えた〈ブッダ〉を襲ったのは,故郷シャールキヤの滅亡でした。ブッダのことを慕っていたコーサラ国王〈プラセーナジット〉が,留守中にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)にあってしまい,新たに王位についた〈ヴィルーダカ〉がカピラヴァストゥを攻め滅ぼしてしまったのです。結局〈ヴィルーダカ〉も,勝利に酔いしれている最中に雷が落ちて死んでしまうのですが。
 故郷を失った〈ブッダ〉は,それでも布教をつづけましたが,とある村で出されたキノコが原因で,亡くなってしまいます。〈ブッダ〉も「人」であることには変わりはなかったのですが,亡くなるといっても〈ブッダ〉は悟っているわけですから,輪廻転生の心配のない安らかな眠りです。


 〈ブッダ〉の死後,弟子たちは,2つのものを分け合いました。

 まずは〈ブッダ〉の遺骨。仏舎利ともいうこの遺骨を,ストゥーパという塔に納めてまつりました。実は,仏像がつくられるようになるのは,〈アレクサンドロス大王〉(前356~前323)が東方遠征でインダス川流域【追H29】にまで到達したのがきっかけです。
 〈アレクサンドロス大王〉が連れてきたギリシア人が,彫刻の制作技術を伝えたのです。それが現在ののアフガニスタンにあるガンダーラ地方です。アフガニスタンは,カイバル峠でインダス川上流部とつながっている地域です。アフガニスタンには,ギリシア人の国バクトリア王国(前255~前145頃) 【本試験H8ソグド人ではない】が前255年にたてられていて,ギリシア人が植民してます。ギリシア系住民が,ガンダーラ様式の仏像【本試験H4図版(純インド的な様式ではない)】をつくる以前は,人々は,〈ブッダ〉の遺骨を崇拝していたのです。〈ブッダ〉は正しい「考え方」を追究することで,生きる苦しみから逃れる道を探したわけですが,やっぱり「物」をありがたがるほうが,わかりやすいですからね。この時期の,アフガン方面から北インドにかけての美術をガンダーラ美術【本試験H8】【セA H30ビザンツ文化の影響ではない】ともいいます。

 そして,二つ目は〈ブッダ〉の残した教えと法と決まりです。
 〈ブッダ〉の語った言葉は,のちにいろいろ解釈されていき,数百年たつと,どれが本当に〈ブッダ〉の語ったことなのかわからなくなってしまった。そこで,何度かその教えをまとめる作業がおこなわれました。これを結集(ブッダ)といいます。

 仏教のお経を聞いていると「にょーぜーがーもん」というフレーズがよく出てきます。これは,「如是我聞」,かくのごとく我聞けり。「わたしはこう聞いた」という意味です。お経というのは弟子たちが,「俺はこう聞いた」「いや,私はこう聞いた」という聞伝えなんですね。お経といいましたが,もう一つ重要なのは律(教団の規則)です。
 〈ブッダ〉の死から100年経った頃の仏教を部派仏教(アビダルマ仏教)といいます。
 第二回仏典結集が開かれたときに部派仏教の教団は,「もうすこし規則(律)をゆるくしよう」というグループと「規則は絶対だ」というグループに分かれていました(根本分裂)。前者を大衆部,後者を上座部といいます。この
 人間が集まってつくられた組織というのは,時が経てば何かしらを争点として,「変えよう」というグループと「このままでいよう」というグループに分かれるものです。前者を革新派,後者を保守派といいます。ブッダの死後300年たつと,グループはさらに20部派にまで分かれていたといいます。
 このうち有力だったのは,インド北西部の上座部に分類される説一切有部(せついっさいうぶ)で,この世界を成り立たせているダルマ(法=ブッダの教え)は諸行無常(すべてのものは移り変わっていく法則)に反し,過去・現在・未来に渡って“存在”すると主張しました。
 しかし,説一切有部が仏教の理論研究を重視している姿は,南インドの大衆部(だいしゅぶ)には“修行している本人のみが救われる” 狭い営みに映りました。大衆部は説一切有部のことを「小乗仏教」と批判しています(大衆部(だいしゅぶ)にはその後の大乗仏教につながったという説と,つながりを否定する説があります)。
 個人の修行を重視するスリランカ(セイロン島)の上座部は,のちに東南アジアに伝わりました。中国・朝鮮・日本に伝わった北伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】と違い,南から伝わったので南伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】といい,上座仏教(テーラワーダ)【本試験H6「上座部仏教」,菩薩信仰が中心思想ではない】と呼ばれます。上座仏教は,部派仏教時代の上座部とは厳密にはイコールではないので,以前呼ばれていたように“上座部仏教”(じょうざぶぶっきょう)とは呼ばれなくなってきています。

 〈ヴァルダマーナ〉や〈ガウタマ=シッダールタ〉の活動した前6世紀頃には,中国でも新しい思想家たち(諸子百家)が現れます。ギリシアで〈ピュタゴラス〉(前570?~前495?) が現れるのも前6世紀のこと。イランで〈ゾロアスター〉(生没年不詳)がゾロアスター教を開くのも一説にはこの頃といわれます(前1000年頃という説もある)。同時多発的に,世界各地で新たな考え方が開花したことに注目し,19~20世紀のドイツの実存主義の哲学者〈ヤスパース〉(1883~1969)は前6世紀を「枢軸の時代」と名付けました。


 なお、この頃の文字史料は、ヤシ科の葉を用いた貝葉(ばいよう)や、樺の樹皮を用いた樺皮(かばひ)などに記されました。脆弱な素材と過酷な気候のために痛みやすく、古い写本の多くは残っていません。永久に残すべき記録は石や金属に銘文として刻まれましたが、その多くは寺院などへの寄進文書でした。その中では寄進の内容だけでなく、銘文を残した王とその祖先の事績を称える長文の詩が残されることがしばしばでした【追H28リード文(第4問)】。




○前600年~前400年のアジア  西アジア

西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

・前600年~前400年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆アケメネス朝がエジプトからインダス川流域に至る広大な領域を支配する
分立時代を終結させたペルシア人の帝国が拡大
 アッシリア帝国が滅んだ後,オリエントは四国分立時代になります。

 その後,オリエントを再統一することになるのは,イラン高原南西部のパールス(現在のペルシア語ではファールスと発音します)地方の人々でした。パールスというのは「馬に乗る者」という意味があるように,名馬の産地として知られていました。
 現在のイラン中央部に位置するイラン高原は年降水量が200mm程度の乾燥帯に分類され,夏場は高温になるために,農業のために灌漑施設が必須です。地表に水が湧き出ても蒸発してしまうため,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ)の整備をめぐって,人々をまとめる権力者が登場します。また,南部には険しいザグロス山脈という山脈が,メソポタミア方面からペルシア湾と並行に,イランの南の縁を横切るようにのびています。
 それに比べ,イラン高原の北部のほうにある,世界最大のカスピ海の南岸地方は,エルブールズ山脈によって,イラン高原と区切られています。カスピ海から吹く風が山脈にぶつかって雨が降るため,農業もさかんです。
 パールス地方においてすぐれた騎馬戦法を発展させたアケメネス家〔ハカーマニシュ〕が強大化し,アケメネス朝【京都H22[2]】【本試験H17ハンムラビ王は無関係】〔ハカーマニシュ朝〕を建国しました(注)。
 建国者は〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21出エジプトの指導者ではない】で,メディア王国とリディア王国を征服し,さらに前539年にはバビロンに入城。さらに前538年には“バビロン捕囚”をうけていたユダヤ人を解放しました。〈キュロス2世〉は,北方のスキタイ人(ペルシア語の史料では「サカ人」)も討伐しています。
 王位を継承したのは長男〈カンビュセス2世〉(?~前522)で,前525年にエジプトを征服し,第26王朝を滅ぼして,なんと自身がファラオに即位しています。しかし,彼はペルシアに帰る途中,病死あるいは暗殺されました。
 これをチャンスとみた,アケメネス家の〈ダレイオス〉は,ペルシアの有力貴族に支持されて,王の弟を暗殺し,キュロスの家系から王位を奪います。

 こうして王位についた第3代〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世(注2),位522~前486) 【本試験H6】【本試験H27アルシャク(アルサケス)朝パルティアの王ではない】【追H30】は,黒海沿岸から北インド(インダス川上流部)にかけて遠征し,エーゲ海の東部やエジプトを含む広大な領土を支配することに成功します。
 アム川上流部のバクトリアや,その西のマルギアナも支配下に置いています。
 彼により建設されたザグロス山脈(イラン高原南部をペルシア湾と並行に走る山脈)の中央の新都ペルセポリス【本試験H17ギリシアではない,本試験H27コロッセウムはない】にあるレリーフ(浮き彫り)には,インド人が牛を連れている姿や,バクトリア人がフタコブラクダを連れている様子も刻まれています。楔形文字を使用した碑文も各地に残っています。スーサ王宮建設碑文(ペルシア語・エラム語・アッカド語)や,即位宣言が,ゾロアスター教の善神アフラ=マズダから王位を与えられるレリーフとともに刻まれているビーストゥーン(ベヒストゥーン)碑文が知られています【本試験H15楔形文字は碑文にも刻まれた例があるかを問う】。

 広大な領土から,効率よく情報や税金を集めるために,公用語としてアラム語・アラム文字が使用されました。また,アラム語の影響を受けてソグド文字が,イラン系のソグド語の表記に用いられるようにもなりました【本試験H6ダレイオス1世は,シルク=ロードを通して東西交易に力を注ぎ,中国へ使節を送ったわけではない】。

 広大な領土を支配するために,帝国を行政区に分割して,土地の広さや実態に応じて,金または銀を納めさせました。従来は,各地の民族が王に対して献上品(贈り物)を不定期に貢納するのが普通でしたが,これを定期的な物の徴収に改め,しかも各地区ごとに額を設定したことは革新的でした。広大な領域を州に区画し,納税額を設定して徴税する方法は,今後周辺の世界にも受け継がれていきました。

 ペルシア人の王族・貴族はサトラップ(サトラプ,太守) 【追H24非自由民の呼称ではない、H30】に選ばれ,各行政区を軍事的に間接支配させました。行政区は21の行政区(サトラピー)に分割されていました(注3)。
 サトラップは徴税の責任者であり、銀あるいは金で定められた超税額を国庫に納入させました。
 ただ不正をはたらく心配もあるため,「王の目」「王の耳」という監察官が不正防止のために派遣されます。こうした統治方法は,のちのローマ帝国にも受け継がれていきました。
 よくよく考えると、これって畜産管理の方式を人間に転用したともいえるでしょう。多数の人を効率よく管理するにはどうすればいいか、過去の方式を継承しつつさらにパワーアップさせていったわけです(注4)。

 さて〈ダレイオス1世〉は,税をおさめ,兵を出すなどの言うことを聞いている限り,基本的には征服地にペルシア語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族か問う】・ゾロアスター教やペルシア人の法を押し付けることはありませんでしたし,征服地の支配者も,サトラップの言うことを聞いている限りは,その身分は保障されました。“アケメネス朝は支配地域に対して寛容だった”と,よく説明されますが,ようするにそのほうが,支配にかかるコストがかからないわけです。
 ただ,これだけ広い地域を支配するには,「情報」や「物資」の伝達が不可欠です。例えば,地方で反乱が起きたときには,その情報をいちはやくつかみ,兵や食糧を迅速に輸送する必要があります。
 そこで,首都スーサ【東京H20[3]】から小アジアのサルディスまで「王の道」【本試験H4地図(王の道のルートと,道を整備した国の名称(アケメネス朝ペルシア)を答える),本試験H6シルク=ロードではない】が整備されました。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) は,全行程約2400kmで,所要日数は90日だったと伝えていますが,通常は3ヶ月かかったと考えられています。馬や使者が各地に用意され、リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できたようです【本試験H4『歴史』の史料が転用される。「「王の道」と呼ばれるその街道には,王の宿駅や立派な旅宿が随所にある。リディアとフリギアの区間は94パラサンゲス半(注*約520km)の距離だが,宿駅は20にのぼる。その先ハリス川の地点には関所と,それを守る衛所とがある。宿駅の総数は111。サルデスから都スサまでの間にこれだけの数の宿泊所があったことになる。」】(注5)。
 
 アケメネス朝では,前1000年頃に創始されたゾロアスター教が信仰されていました。〈ダレイオス1世〉は,ペルセポリスという都を建設しましたが,新年祭の儀式をとり行う場であったと考えられています。〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)に破壊され,現在は廃墟となっています。

(注1) ハカーマニシュはペルシア語、アカイメネスはギリシア語。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17。
(注2) 上掲書、p.17。ダレイオスはギリシア語、ダーラヤワウはペルシア語。
(注3) ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉によればアカイメネス家発祥のペルシスには免税特権地区でありましたが、必ずしもペルシスが課税対象外であったわけでないから、21行政区と考えるのが妥当です。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注4) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。
(注5)川瀬豊子によれば、全長2400kmで、20~30km間隔に111の宿泊施設が設けられていたとのこと。エラム語粘土板文書群(城砦文書)によると各駅では1日分の食糧が支給されたことから、111日かかったとみるのが妥当で、スサ~ペルセポリス間だけでなく、ペルセポリス~メディア、またはアレイア・バクトリア・インド方面にまでも同じような宿駅があり、一部の路面は切石・砂利・砕石により敷き詰められていたことが示唆されるとしています。「リレー方式でスサ~サルディス間を約1週間で走破できた」というのも川瀬による推定。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.18。

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・前600年~前400年のアジア 西アジア 現⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
 アラビア半島南部には、オアシス地帯や交易路を支配するサバァ、カタバーン、ハドラマウト、アウサーン、ジャウフなどの小王国が並び立っていました。

 乳香(樹脂性の薫香料)・没薬(樹脂性香料・薬種)の産出は、インドやアフリカからの海上交易商人を引きつけ、ペルシア湾・地中海との陸上交易も栄えます。
 サバァからは、前1000年紀の前半に、紅海の対岸(現在のエリトリアからエチオピア北部)にかけて移民がおこなわれたらしいこともわかっています(注1)。

 なかでもサバァ王国は前700年頃に南アラビアの諸王国を服属させ強盛を誇りますが、前6世紀頃を境に国力を低下させます。
 「ムカッリブ」というサバァ王が称していた称号は前6世紀以降、ハドラマウト王国の王も名乗るようになりました(注2)。
 前に7世紀末ころには、ジャウフの新興勢力であるマイーン王国が成長。サバァと交易をめぐって厳しく対立していましたが、王は「ムカッリブ」と名乗ってはいません。ハドラマウトと香料の生産・集荷・輸送で提携し、エジプト、シリア、メソポタミアや地中海の島々にまで交易活動を広げていたと考えられます(注3)。
 さらに、紀元前500年以降になると、カタバーン王国が旧アウサーン王国領を獲得し、強大化していったようです(注4)。


(注1)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.25。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.27。
(注3)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,pp.30-32。
(注4)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.29。

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・前600年~前400年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 アッシリア帝国が滅んだ後,オリエントは四国分立時代になります。
 イラン高原ではメディア王国が拡大し,前590年にはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)でかつて強盛をほこったウラルトゥの王国を併合しています(注)。
 その後,アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)は,アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれています。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.32。





●前600年~前400年のアフリカ

○前600年~前400年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 東アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。



○前600年~前400年のアフリカ  南アフリカ

南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


 南アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。





○前600年~前400年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 中央アフリカの熱帯雨林地帯では,ピグミー系の人々が狩猟採集生活を送っています。




○前600年~前400年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

◆西アフリカで鉄器の製造が始まる
ナイジェリア北部で製鉄がはじまる
 この時代にも,現在のカメルーン周辺を現住地とするバントゥー系の住民の中央アフリカ方面への大移動が続いています。

 ニジェール川下流域の現在のナイジェリア北部では,農業生産が発展。
 前500年頃~前200年頃に鉄器が製作された後が残されています。
 発見されたのは現在のナイジェリア北部のジョス高原で、最初に発見されたノク村から、ノク文化と呼ばれています。
 出土品は、のちのこの地域に栄えるヨルバ人の彫刻にフォルムが似ています(注)。
 前500年以前にも鉄器利用の証拠があり,同じく鉄器文化の栄えたナイル川上流部のメロエ王国の遺跡よりも年代が古いほか製法も異なるため,西アフリカで鉄器文化が独自に発展したのではないかという説も提唱されています。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、pp.146-147。




○前600年~前400年の北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

◆サイス朝(前664~前525)…第26王朝
 エジプトでは,ナイル川河口のサイスを拠点に第26王朝(前664~前525)が,ギリシアとの交易で栄えていました。

◆末期王朝(前525~前332)…第27王朝~第31王朝
 しかし,前525年にイラン高原でおこったアケメネス朝の〈カンビュセス2世〉(位前530~前522)がエジプトに進出し,支配下に置かれました。エジプトには総督であるサトラップが派遣され,アケメネス朝の属州(サトラペイア)となりました。このペルシア支配下の王朝を第27王朝(前525~前404)といいます。
 これ以降,第31王朝まで短命な政権が続き,最終的に〈アレクサンドロス大王〉による征服で滅びるまでの期間を「末期王朝時代」といいます。





●前600年~前400年のヨーロッパ

○前600年~前400年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパとイベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

◆ケルト人の鉄器文化が発達した
ヨーロッパではケルト人が鉄器文化を営む
 しかし,前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わっておりケルト人による文化は前450年頃から従来のハルシュタット文化からラ=テーヌ文化へと移行していきました。彼らは,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えた支配階級の戦士が各地に遠征しました。

 北ヨーロッパにも鉄器が伝わるのはやや遅く,前500年頃のことです。

 イベリア半島には,ケルト人が先住のイベリア人と混血したケルティベリア人が分布していましたが,前7世紀にはバルカン半島南部のギリシア人が移住するようになり,前6世紀にはイベリア半島東北部に植民市エンポリオンが建設され,イベリア半島内陸部との交易も行っていました。

 一方,アッシリア帝国の崩壊後に勢力を伸ばしたフェニキア人の植民市カルタゴ(現在のチュニジアにあります)も地中海沿岸各地に植民市を建設。前540年にはイベリア半島とアフリカ大陸を分かつジブラルタル海峡を占領し,エンポリオンを除くギリシア人をイベリア半島から駆逐しました。イベリア半島の住民はカルタゴにより傭兵として採用され,鉱山の開発も進められました。


・前600~前400年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア半島
◆イタリア半島ではギリシア人やフェニキア人が海上交易で栄える
ローマでは平民が貴族に対し政治的権利を求めた
 イタリア半島北部にはエトルリア人が,南部ではギリシア人の植民地(マグナ=グラエキア(大ギリシア))が分布していました。シチリア島にも,シラクサ(シュラクサイ)というギリシア人の植民市があり,アテネ(アテーナイ)の進出に対しペロポネソス戦争(前431~前404)ではスパルタ側について戦っています。シラクサでは前405年に僭主〈ディオニュシオス1世〉(前405~前367)が即位し,僭主政治を行い交易で栄え,カルタゴと対立しました。〈ディオニュシオス1世〉は〈太宰治〉『走れメロス』に登場する暴君のモデルとなった人物です。
 イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,初めエトルリア人の王に支配されていましたが,前509年に追放し共和政が始まりました。当初は政治は貴族(ノビレス)が独占していましたが,平民(プレブス)が重装歩兵部隊【早・政経H31「三段櫂船の漕ぎ手」とのひっかけ】の主力として活躍するようになると,護民官(トリブーヌス=プレービス)と平民会の設置を要求しました。前494年と前449年の聖山事件(せいざんじけん)という平民の反乱により護民官・平民会ともに設置されました。護民官は神聖な役職とされ,「ウェトー(Vetō,私は拒否する)」と言うことで,人々のために元老院がくだした決定をくつがえすことができました。ただし独裁官(ディクタートル)の決定は例外です。さらに,前450年頃には,十二表法【本試験H17時期(前5世紀かを問う)】【本試験H8慣習法を成文化したローマ最古の法か問う】【早・法H31】が公開されて,貴族が口伝えで受け継いできた法の独占が破られていきました。




○前600年~前400年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆バルカン半島の諸民族は、西方からのケルト人や黒海北岸からスキタイ人などの遊牧民と対抗した
バルカン半島東部のトラキア人
バルカン半島の東部では,前6世紀初め頃から,トラキア人が国家を形成します。代表的なのはオドリュサイ王国で,前5世紀諸島に国家の基礎を確立し専制君主制をとって黒海北岸のスキタイ人とも外交関係を結んでいました。

バルカン半島西部のイリュリア人
 バルカン半島西部のイリュリア人は,進出したケルト人に服属しました。ケルト人はバルカン半島を横断して黒海北岸まで到達しています。

バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人
 バルカン半島北部にも黒海北岸のスキタイ人の圧力が強まり,ドナウ川中流域の左岸(北部)にはダキア人やゲタイ人が対抗しました。活動範囲は,現在のブルガリア北部とルーマニアにかけての地域にあたり,ギリシアの〈ヘロドトス〉や〈ストラボン〉によれば,バルカン半島東部のトラキア人のうちの北方のグループが東西に分かれて生まれたとされます。ギリシアの〈トゥキディデス〉(前460?~前395?) の歴史書によると,ゲタイ人はスキタイ人と同じく騎馬射手の軍隊を持っていました[芝1998:36]。アケメネス朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉(⇒前600~前400の西アジア)は,前573年にスキタイ遠征を実施した際にゲタイを攻撃しました。その後〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けました。




◆アケメネス朝は,保護下にあったフェニキア人とともにギリシア人の植民市を奪おうとし失敗した
アケメネス朝の小アジア・ギリシアに拡大は失敗
〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世,前522~前486)率いるペルシア人のアケメネス朝(古代ペルシア語ではハカーマニシュ,当時のギリシア語ではアカイメネス)は,保護下に置いていたフェニキア人の商業圏を広げるため,エーゲ海への進出をめざして小アジアを東に進出してきました。アケメネス朝はフェニキア人の海軍力を利用し,地中海交易を支配下に入れようとしたのです。
 ミレトス【追H28アケメネス朝の都ではない】【東京H14[3]】を中心とするイオニア植民市はペルシア人の進出に対して反乱を起こし,それを救援するためにアテネ(アテーナイ)とエレトリアが立ち上がり,(ギリシア=)ペルシア戦争(前500~前449) 【大阪H31】が勃発しました。

 この戦争の詳細については,〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) 【追H29ヘシオドスではない】が『歴史(ヒストリアイ)』に記録していることからわかっています。『歴史』には同時代のギリシア以外の広い地域の様子についても記されていて,東は遊牧騎馬民族のスキタイ人についてまで説明されています。

 前492年の〈ダレイオス1世〉による第一回ギリシア遠征は失敗。同じく〈ダレイオス1世〉による第二回遠征は前490年のマラトンの戦い【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ】でアテネ(アテーナイ)【本試験H29スパルタではない】の重装歩兵軍が,スパルタ軍の到着する前にペルシアを破りました。
 勝利に酔っていたアテネ(アテーナイ)市民をよそに,「やがてペルシアはもう一度やってくる。今度は海戦になるはずだ」と予測した〈テミストクレス〉(前528?前527?~前462?前460?) 【本試験H31】が,海軍の増強を主張。その財源はラウレイオン銀山で採掘された銀を使うと,堂々たる演説を行うと,前483年の民会で決議され,200隻の軍艦建造が決まりました。
 〈テミストクレス〉の予言通り,ペルシア軍はまた襲来。

 北方ではスパルタが陸路で攻めてきた〈クセルクセス1世〉(位前485~前465)率いるペルシア軍に,テルモピュライ(テルモピレー)で敗北。この戦闘に加わっていたのは,約1000人のギリシア軍(うち300人が〈レオニダス〉将軍率いるスパルタ軍)でした(映画「300(スリーハンドレッド)」(2006) 山と海に挟まれた狭い街道に誘い込む作戦が失敗した様子が描かれていますが,ペルシア人側が野蛮な姿に描かれていることに,イラン政府は抗議しています。ペルシア戦争は近世以降のヨーロッパにおいて,“文明的なヨーロッパ側のギリシアの民主政が,野蛮なアジアのペルシア皇帝に勝ったのだ”というストーリーとして理解されてきた経緯があります【大阪H31オリエントを蔑視するは発想のきっかけとなった戦争の名称を答えさせた(答えは「ペルシア戦争」)】」)。

 この第三回遠征では,前480年のサラミスの海戦【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,H31アクティウムの海戦ではない】【追H30ギリシア軍は敗北していない】でペルシア軍を破りました。ちなみに,第二回までは〈ダレイオス1世〉が指導していましたが,第三回は〈クセルクセス1世〉によるものです。

 当時のギリシア人には,デルフォイにあるアポロン【本試験H7主神ではない】の神殿で神託をうかがい,重要事項を決めるしきたりがありました。
 〈テミストクレス〉がデルフォイで占った結果,神が出したお告げは「木の柵を頼れ」でした。彼はこれを,建造した艦隊のことだと判断し,巧みな戦略で2倍の艦隊数を誇るペルシア海軍をサラミス海峡に誘い込み,壊滅的打撃を与えることに成功したのです。

 ギリシア人はポリスの違いに関係なく,オリンポス12神【本試験H25】【追H20一神教ではない】への信仰が盛んでした。主神ゼウス【本試験H7アポロンではない】をはじめ,オリエントの神々とは違い,人間の姿をしていて【本試験H25】人間臭いところがあるのが特徴です。いくつかのポリスが隣保同盟を組んで,神々を一緒にまつることもありましたが,デルフォイ【H29共通テスト試行】とオリンピアだけは,すべてのギリシア人にとっての聖地でした【H29共通テスト試行 アメン=ラー神信仰ではない,バラモンは無関係】。オリンピア【本試験H27アテネ(アテーナイ)ではない】では定期的にポリス対抗の競技大会が開かれ(古代オリンピック) 【本試験H27,H29共通テスト試行 コロッセウムでは開催されていない】,〈ピンダロス〉(前518~前438)が祝勝歌をつくっています。別々のポリスであっても同じギリシア人(ヘレネス)意識を持っていた彼らは,ギリシア語を話さない異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す者) 【本試験H10「手工業に従事する人々」ではない】と呼び,自分たちよりも遅れた存在と見なしていました。



◆エーゲ海沿岸では,「この世界」や「物体」「自分自身」が “ある” ということは一体どういうことか,考える人々が現れた
エーゲ海沿岸に「哲学」の文献が多数残される
 なお,小アジア西岸のイオニア地方では自然哲学者の研究がさかんとなり,万物の根源(アルケー)を追究する人々が現れました。万物の根源は「水」とした〈タレス〉の弟子で万物の根源を「無限なもの」とした〈アナクシマンドロス〉(前610?~前546?),その弟子で「空気」とした〈アナクシメネス〉(前585?~前528?)がいます。また,〈アナクサゴラス〉(前500?~前428?)は太陽を「燃える石」と説いて不敬罪で告訴されました。
 万物が,たったひとつの要素から構成されているのか(一元論),それとも複数の要素から構成されているのかということは(多元論),長い間議論の的でした。〈ピュタゴラス〉(ピタゴラス,前570?~前495?) 【本試験H10】【法政法H28記】はエーゲ海のサモス島【本試験H10シチリア島のシラクサ出身ではない】出身でしたが,南イタリアに逃れて万物の根源とされた「数」を崇める教団(ピュタゴラス学派(教団))を形成しました。ピタゴラス音階(ドレミ…の音階)を理論的に生み出したのも、彼らの功績です。

 また,万物が永遠不変の変わらないものがあるとする説と,そうではなくあらゆるものは移り変わっていくとみる説も対立していました。後者は,〈ヘラクレイトス〉(生没年不詳) 【追H26】が有名です。彼は,万物の根源は「火」【追H26原子ではない】で「世界は常に移り変わりながらも調和を維持している」と説明しました。
 一方,〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)は万物は「火・空気・水・土」の4元素から成り立ち,それがくっついたり離れたりすることで,さまざまな物質が生まれるのだと考えました。それに対して,〈デモクリトス〉(前460?~前370?) 【本試験H2天文学者プトレマイオスではない,本試験H10シチリア島(シラクサ)出身の自然科学者ではない】は,4元素説を否定し,万物の根源は「原子」(アトム) 【追H26これを説いたのはヘラクレイトスではない】によって成り立っていると考えました。




◆ペルシア戦争(前499~前449)後も,ペルシアはスパルタと結んでアテネ(アテーナイ)と対立した
諸ポリスへのアテネの支配が強まる(アテネ帝国)

 ペルシア戦争後も,ペルシアはポリス間の政治に介入して,軍資金を提供することでコントロール下に置こうとしました。
 そこでアテネ(アテーナイ) 【本試験H31スパルタではない】は自らを中心にして周りのポリスを従え,交易ネットワークも支配下に置いて(注),ペルシアに対する共同防衛のためデロス同盟【本試験H31】を結成しました。
 同盟国から集められた資金をしまう金庫はエーゲ海の入り口にあたるデロス島に置かれましたが,のちにアテネ(アテーナイ)はこの資金を流用していきます。例えば,前447年から「黄金比」の比率で有名な,ドーリア式(装飾のない列柱を持つ様式) 【東京H24[3]】のパルテノン神殿【セA H30アテネで作られたか問う】【名古屋H31論述(世界遺産の登録基準をどのような意味で満たしているか)】が建設され,建築監督を務めた彫刻家〈フェイディアス〉(前465?~前425?)は,象牙と黄金で作られたアテナ女神像を,かつてはパルテノン神殿の横にあるイオニア式(柱の上部に水の渦巻きを著した列柱を持つ様式)のエレクテイオン神殿に安置しました。

 また,ペルシアとの海戦で,武具の買えない貧しい平民(無産市民)らは,三段櫂船(さんだんかいせん。3段に座席のある漕ぎ手がオールを動かし,最大時速20kmで敵船に突っ込み,沈没させることができました【本試験H6図版(ジャンク船,カラベル船,蒸気船と見分ける)】【本試験H22ジャンク船・ダウ船・亀甲船ではない,本試験H29】【H30共通テスト試行 アテネが「最高度の輝きを放った」時期のアテネで、「下層市民」が漕ぎ手として活躍したか問う】【早・政経H31重装歩兵部隊ではない】)の漕ぎ手として活躍しました。このことから,戦後には彼らも含めたすべての成年男性市民が民会に参加することができ【本試験H29】,多数決で直接ポリスの政治に参加することが認められました(直接民主政)。役人はくじ引きで決められ,裁判はくじ引きで選ばれた陪審員(手当が支給されました)が民衆裁判所で判決をくだしました。
 ただし,女性や奴隷,アテネ(アテーナイ)国内の外国人には参政権はありませんでした。また,将軍〈ペリクレス〉【追H21】と協力してクーデタをおこし,貴族から政権を奪った民主派の政治家〈エフィアルテス〉(?~前461)により,前462年には貴族の合議機関として残されていたアレオパゴス会議から政治の実権のほとんどを奪っています。実質上の最高職となった将軍職(ストラテゴス)は,くじ引きではなく民会における選挙で選出されました。
 任期1年,10人が選出され,再任は可能です【本試験H12「ペリクレス時代のアテネでは神官団の政治的権限が民会以上に強かった」わけではない】。こうしてアテネの成年男子による民主政は「完成」しました(つまり、女性や奴隷に参政権はありませんでした)【追H21】【大阪H31 論述(参政権の範囲の変遷について西欧近現代と比較する)】。

(注)「交易ネットワークを支配下に置く」とは,どういうことか,下記の史料(抜粋)を参照。
「取るに足らないことから言うとすれば,まず第一にアテナイ人は海上支配のおかげで様々な人々と交わり,各種の贅沢を見出した。……かりにあるポリスに船舶用木材が豊富にあるとしても,海の支配者の同意なしにそれをどこへ持ち込むことができるであろうか。またもしあるポリスが,鉄や銅や亜麻を豊富に産するとしても,海の支配者の同意なくしては一体どこへ売り込むことができようか。しかし,これらの品々はまさしく船には必須の品々である。あるところからは亜麻を,そしてまたあるところからは蜜蝋を,という風に集めねばならない。そのうえ,敵国への輸出は禁じてある。これを破れば海を利用させない。…[Pseudo Xenophon, Athenaion Politeia 2, 7~12]」。この中の「海の支配者」とはアテネ(アテナイ)のことです。
古山正人ほか編訳『西洋古代史料集』東京大学出版会,1987年,pp.61-62



◆スパルタは軍国主義的な政策をとり、経済的に「鎖国」した

 バルカン半島南西部のペロポネソス半島(ラコニア地方)のスパルタ【本試験H27アテネではない】には王がいましたが,民会で話し合う前に元老院(ゲロンテス)長老と一緒に起案された事項を先に協議する必要がありました。元老院は28人の長老と2人の王で構成され、おもに司法を担当します。一方、監督官(エポロイ)という役職が王を処罰、拘禁することもできました。
 王は軍隊の指揮をとる将軍ではあるものの、その権限を行使するには実質的に長老や貴族の了解が必要であったということなのです(注1)。

 このような制度をつくったのは伝説上の王〈リュクルゴス〉(前390?~前324) 【本試験H27】【中央文H27記】と伝えられ,前6世紀中頃までに成立したとみられます(注2)。


 こうしてスパルタは,圧倒的多数を占める奴隷の反乱をおさえつつ,ギリシア最強の陸軍国となったわけです。しかしペルシア戦争では戦闘に破れ,戦後アテネ(アテーナイ)がデロス同盟【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】で勢力を伸ばしたのに対抗して,スパルタを盟主とするペロポネソス同盟【本試験H19デロス同盟,コリントス同盟,四国同盟ではない】を結成しました。

 ペルシア戦争当時,そもそもギリシアの全ポリスが団結してペルシアに立ち向かったわけではありません。“自由”なギリシアの正義が,“専制”のペルシアに勝ったのだ!というふうにアテネ(アテーナイ)の〈ペリクレス〉将軍(前495?~前429)は演説しましたが,それはあくまでアテネ(アテーナイ)側の視点にすぎません。そもそも〈ペリクレス〉は前451年に法により,アテネ(アテーナイ)の市民権が与えられる条件を,「両親ともに市民である18歳以上の男性」に限定していました。彼はパルテノン神殿の造営を企画し,アテナ女神像やパルテノン神殿のフリーズ(欄間(らんま))の彫刻で知られる彫刻家〈フェイディアス〉(前5世紀)が監督しました。アテナ女神像には象牙や黄金が用いられています。これらにはデロス同盟でおさめられた同盟国からの資金が流用されました。

(注1) 集合名詞としては「ゲルシア」。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。
(注2) スパルタの諸制度が〈リュクルゴス〉により定められたのかは、古来意見が分かれます。ヘロドトス、松平千秋訳『歴史(上)』岩波文庫、1971年、p.395。



◆アケメネス朝はスパルタを支援しアテネ(アテーナイ)側に勝利,戦後のアテネは衰退する
ポリス間の戦争が泥沼化し周辺諸国の干渉を生む
 前431年にアテネ(アテーナイ)を盟主とするデロス同盟vsスパルタ盟主のペロポネソス同盟の間で,ペロポネソス戦争が勃発(前431~前404) 【本試験H31】【立教文H28記】。アテネ側をバルカン半島のトラキア人が支援。
 対するスパルタ側【本試験H31】を,アケメネス朝ペルシア【本試験H31「スパルタがペルシアの支援を受けた」ことを問う】やシラクサ(アテネ(アテーナイ)と交易で対立していたシチリア島の植民地)が支援しました。

 アテネ(アテーナイ)は,市内に立てこもる作戦をとりましたが,疫病で〈ペリクレス〉将軍を亡くし,スパルタに破れます。
 このペロポネソス戦争【共通一次 平1:ペルシア戦争ではない】【追H29トゥキディデスが叙述したか問う(正しい)】については,ペルシア戦争の叙述(『歴史』【追H20『ゲルマニア』ではない】【本試験H31ササン朝との戦争を扱っていない】)で知られる〈ヘロドトス〉と並ぶ歴史家〈トゥキディデス〉(前455以前~前400?) 【東京H22[3]】【共通一次 平1】【本試験H26リウィウスではない】【追H20、H29】【同志社H30記】による客観的な記録(『歴史』)が知られています。
 ペロポネソス戦争の前後,アテネ(アテーナイ)では【本試験H10この時期のポリスについて(「①ポリス市民間の貧富の差が拡大した,②土地を失うポリス市民が現れた,③ポリスの間に傭兵の使用が広まった,④ポリス市民としての意識や結束が強まった」か問う。④が誤り)】,〈クレオン〉(?~前422)のように,人々をいたずらに煽(あお)り立てる煽動政治家(デマゴーグ)が現れるようになります。
(注)このことを,かつては「衆愚政」と呼び,民主政の失敗パターンとして理解されていました。しかし,とりたてて「衆愚政」という理解をすることは,現在では少なくなっています(橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社,2016)。アテネの民主政を「衆愚政」と呼ぶとき、それに対する批判的な価値判断がはたらいています。たとえば師匠である〈ソクラテス〉を裁判によりなくした〈プラトン〉は、アテネ民主政を憎悪し「理想国家」を追求していきます。その文脈においてアテネ民主政は否定的にとらえられています。彼のテキストを参照した後代の史料は、それにひきずられるようにアテネ民主政に欠陥があったものという立場に立ちがちです。しかし、アテネの民主政は、従来考えられていたよりもはるかに整ったシステムを備えていたものとみられています(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.31も参照)。


 
 戦争が激しくなると,ギリシア文化は古典期(前5~前4世紀)と呼ばれる時期に入ります。ペロポネソス戦争という戦時下にありながらも,悲劇や喜劇【本試験H31リード文(指導者らに痛烈な批判を浴びせる批判的な性格をもっていた)】はさかんに上映されました。

 かつてペルシア戦争期に,戦闘に参加してアテネ(アテーナイ)の華々しい活躍を目撃した〈アイスキュロス〉(前525~前456) 【追H24】は,『アガメムノン』を含むオレステイア3部作など雄大な悲劇を多数残しました。しかし,アテネ(アテーナイ)の没落期を生きた〈ソフォクレス〉(前496?~前406) 【追H24】は,『オイディプス』王など,運命に縛られた人間の絶望を描き,多くの人が戦場に散っていく世相にマッチして人気を得ました。また,〈エウリピデス〉(前485?~前406) 【追H24】は,『メデイア』など,悲劇を日常的で身近な人間ドラマに仕立て上げる新たな手法を導入し,人気を博しました。喜劇作家としては『雲』『女の平和』【立教文H28記】で知られる〈アリストファネス〉【共通一次 平1】【本試験H31直接明示されてはいないが,「政治を風刺する喜劇」をつくった人はアリストファネスであり,ヘシオドスではない】【追H24三大悲劇詩人ではない】がいます【共通一次 平1:主著は『イリアス』ではない】。

 口先だけの弁論術が重視され,「人間は万物の尺度である」【追H9ソクラテスの主張ではない】と主張した〈プロタゴラス〉(前480頃~前410頃) 【セ試行イオニアの自然科学者ではない】 【追H9ソクラテスではない,本試験H17ソクラテスとのひっかけ】のようなソフィスト(話し方の家庭教師) 【本試験H13,本試験H17問題文の下線部】という職業が人気を得ました。立場によって簡単に意見を変える【本試験H13ソフィストたちは「絶対的な真理の存在」は主張していない】ソフィストの相対主義的な考え方(絶対的な答えなんてないという考え方)を批判した哲学者が〈ソクラテス〉(前469~前399) 【追H9「徳は知である」と主張したか問う】【本試験H17ストア派ではない】です。彼は,「ソフィストの連中は,自分が“何も知らない”ということを“知らない”(無知の知)【本試験H17人間は万物の尺度である,ではない】」「この世の中には絶対的な正義というものがあるはずだ。それにしたがって生きるべきだ(知徳合一)【本試験H13孔子・釈迦・カントではない】」と主張しました。自分の活動を「知恵を愛すること(フィロソフィア)」と説明したことが,フィロソフィー(英語の「哲学」)の語源となっています。〈ソクラテス〉は市民をまどわせた罪で,ポリスの法に従って毒をあおって亡くなりまってしまいました。〈ソクラテス〉の言行は,弟子の〈プラトン〉(前429?~前347)が著作に残しています。また,『ギリシア史』を書いた〈クセノフォン〉(前430?~前354?)は,ソクラテスが生きていた頃について『ソクラテスの思い出』に記しています。

 前415年にアテネ(アテーナイ)は〈アルキビアデス〉(前450?~前404)の発案のシチリア遠征に失敗。スパルタは東方のアケメネス朝ペルシアと結んで,アテネ(アテーナイ)を挟み撃ちにしようとしました。アテネ(アテーナイ)は前404年に降伏。貴族により民主政は崩壊しましたが新政権は民衆の支持を得られず,前403年には民主政が復活しました。
 なお,ギリシア人の海外植民市のうち,黒海北岸のクリミア半島周辺には,前438年にボスポロス王国が建てられました(前438~後376)。騎馬遊牧民のスキタイ人と交易をし,バルト海の産物も届けられていました。


●前400年~前200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化①,南北アメリカ:都市文明の発達
 ユーラシア大陸・アフリカ大陸北部では,定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域の間を中心に広域国家(古代帝国)がつくられていく。
 サハラ以南のアフリカ大陸では,農耕・牧畜民の拡大が続く。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手による都市文明が成長する。

この時代のポイント
(1) ユーラシア
 定住民と遊動民の交流を背景に,より広域な国家(古代帝国)が形成されていく。

 中央ユーラシアでは西からスキタイ人,サルマタイ人,サカ人,月氏が,遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。

 中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が,東アジアの黄河・長江流域の諸侯と,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結んでいる。
 モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一した匈奴(きょうど)は,前209年に〈冒頓単于〉の下で最盛期を迎える。東アジアの黄河・長江流域の定住民による秦(前221~前206)や前漢(前202~後8)と対立し,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結ぶ。

 ヨーロッパでは〈アレクサンドロス〉大王(位前336~前323)が,西アジアのアケメネス朝(前550~前330)を領土に加える帝国を建設し,アケメネス朝の後継者を自任(注)。東西交易が活性化。大王の滅亡後は,西アジアから中央ユーラシア中央部にかけてギリシア文化が拡大する。

 南アジアでは,〈アレクサンドロス〉大王の遠征の刺激を受け,マウリヤ朝(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一。 

 〈アレクサンドロス〉の後継国家として,エジプトのプトレマイオス朝(前305~前30)と,セレウコス朝シリア(前312~前63),遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス朝パルティア(前247?~後224)が有力となる。
 ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中,イタリア半島の都市国家ローマが成長し,交易をめぐりカルタゴと抗争する。
(注)森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。




(2) アフリカ
 アフリカ北部では西からベルベル人やリブ人が遊牧生活を送り,通商国家カルタゴが,ナイル川流域の政権(メロエやエジプトを支配したアケメネス朝やアレクサンドロスの大帝国)と共存・競合関係にある。
 アラビア半島では,南西部において農牧業・商業で栄えたシバ王国が,アラビア半島の遊牧民と共存・競合関係にある。


(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのオルメカ文化の諸都市が放棄され,代わってメキシコ高原南部のサポテカ文化や,マヤ文明が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部では高地のチャビン文化のほかに,沿岸部の定住集落も盛んになる。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。





●前400年~前200年のアメリカ

○前400年~前200年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカの各地では,パレオ=インディアン(古インディアン)が,狩猟・漁労のほかに農耕を営んでいました。
 北東部の森林地帯では,アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○前400年~前200年のアメリカ  中央アメリカ
◆メキシコ湾岸のオルメカ文明の諸都市は放棄される
 メキシコ湾岸のオルメカ文化の都市ラ=ベンタは前400年に放棄されています。ただ「放棄」が何を意味するのかをめぐっては,支配者の交替も含め多説あります。
 西部のトレス=サポテスの繁栄は続き,後期オルメカ文化ともいわれます(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.38。

◆マヤ地域では都市文明が発達している
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では,都市文明が発達しています。
 紀元後250年までのマヤ文明は先古典期(注1)に分類されます。
 神殿ピラミッドが建設され,石の土台の上にA形に石を積み上げてアーチのような構造をほどこす疑似アーチという技法が用いられました (注2)。

 マヤ中部のエル=ミラドール(前400~後150)はこのころ大都市となり,“ジャングルの中の巨大なピラミッド”というマヤ文明のイメージは,このあたりから来ています。
(注1)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.75。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク

◆メキシコ南部のオアハカ盆地では都市文明が発達する
 メキシコ中央高原とマヤ地域の間に位置するオアハカ盆地で,前500年~前300年頃に大規模な神殿が作られるようになっています。
 担い手はサポテカ人で中心都市はモンテ=アルバン,テオティワカン文化やマヤ文明の影響がみられます。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。

◆メキシコ高原中央部では農耕集落のほか都市が発達する
アメリカ大陸原産【本試験H11】のトウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,ティオティワカンに農耕集落ができます。
 その50km南のクィクィルコには都市が繁栄します(注)。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。


○前600年~前400年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

○前400年~前200年のアメリカ  南アメリカ
チャビン文化が衰え,パラカス文化が栄える

 南アメリカのアンデス地方の中央部の山地に,都市チャビン=デ=ワンタルが前1000年頃から栄えていましたが,前300年頃に衰えます。

 アンデス地方の南海岸に,パラカス文化(前400~前200)が栄えます。この担い手はナスカ文化と同じです。

アマゾン川流域には定住農耕地域も
 アマゾン川流域(アマゾニア)では前350年頃に,熱帯のやせた赤土(ラトソル)を木炭や有機物を混ぜることで改善し,黒い土(テラブレタ)を開発していたことがわかっています(注)。
(注)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。





●前400年~前200年のオセアニア

○前400年~前200年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 ラピタ人(注)の拡大は,引き続きサモアで一旦止まっています。
(注)ラピタ人とは,ラピタ土器(Lapita ware)を特徴とする文化で,メラネシアの東部を中心に分布します。ラピタはニューカレドニア島西岸の地名からとられ,幾何学的な文様が特徴で,土には砂や貝が混ぜられました。



○前400年~前200年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●前400年~前200年の中央ユーラシア

○前400年~前200年の中央ユーラシア 西部
スキタイは黒海を通じて地中海と交易する
 前4世紀後半~前3世紀初めの後期スキタイ時代のスキタイ人は,黒海沿岸のギリシア植民市オルビアやパンティカパイオンを通じて,ギリシアの物産(陶器,貴金属,オリーブ,ワイン)を受け取り,畜産物等と交換していました。ギリシア文化の影響も受けるようになり,金製品の装飾には人物表現もみられるようになります(注)。
(注)藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.222,224。

 また,前4世紀頃に遊牧民サルマタイ人の活動が活発化します。
 彼らは中央・北カザフまたはアラル海沿岸から南ウラル地方にかけて移動し,そこで先行するサウロマタイ文化(前7世紀~前4世紀)と融合。言語的にはスキタイ人と同じイラン系で,のちのアラン人に近いです(注)。彼らの祖先は,伝説の女戦士集団である「アマゾン」とスキタイの青年との間から生まれたとされています。
 槍を持った重装騎兵は,同時期のアルシャク(アルサケス)朝パルティアからの影響を受けていると考えられます。
 前2世紀には,彼らはドニエプル川【慶文H30】流域からスキタイ人を追い出しています。

(注)サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス,アランに分かれます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。
 なお,サウロマタイは,西部カザフ,ウラル南部,ヴォルガ下流,北カフカス,ドン川下流地方で活動した,スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く,ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。


 アケメネス朝が前330年に〈アレクサンドロス大王〉により滅ぼされると,〈アレクサンドロス〉はアケメネス朝の後継者を自任(注)し「アジアの君主」と称して,北インドにわたる広大な領土を支配しました。彼はアム川をわたりソグディアナを支配しましたが,シル川の北の遊牧民勢力(サカ人)を前にして,これ以上の遠征を断念し,バビロンに引き返し,〈大王〉は前323にあっけなく病死しました。

 〈大王〉の死後,武将〈セレウコス〉が後を継ぎましたが,北インドはガンジス川の勢力マウリヤ朝に奪われ,アム川上流では前255年頃にバクトリア王国(前255頃~前145頃) 【本試験H18マウリヤ朝に滅ぼされていない】が自立しました。バクトリア地方は農耕がさかんで,〈アレクサンドロス〉の建設したギリシア人の植民都市の交易活動も盛んでした。

 また,前3世紀半ばには,カスピ海の東南部で遊牧を営んでいたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの〈アルサケス〉兄弟が,セレウコス朝から自立。中国の文献で「安息」【本試験H27】と出てくるのは,このことです。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。
(注)森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。



○前400年~前200年の中央ユーラシア 中央部
 アム川よりも東のバルハシ湖周辺には,イラン系のサカ人(サカイ)が活動しています。〈ヘロドトス〉はスキタイ人のことだとし,後漢の〈班固〉は『漢書』で「塞」と記しましたが,詳しい実態はわかっていません。

○前400年~前200年の中央ユーラシア 東部
 モンゴル高原の方面では,イラン系とみられる月氏【本試験H19時期】の勢力が強力でした。

○400年~前200年の中央ユーラシア 北部
 なお,ユーラシア大陸北西部の北極圏ではフィン=ウゴル語派系の民族が,北東部では,古シベリア諸語系の民族が,寒冷な気候に適応した狩猟採集生活を送っていました。





●前400年~前200年のアジア

○前400年~前200年のアジア  東北アジア・東アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。

 中国の東北部には前3世紀頃から扶余(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。彼らは朝鮮半島東部の濊(わい)人であるという説もありますが,定かではありません。

(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

○前400年~前200年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前400年~前200年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
◆宗族(そうぞく)を中心とした社会や周の王権が崩れ,戦国時代が始まる
鉄製農具・牛耕の普及で生産力がアップ
 春秋時代の終わり頃【追H27殷代ではない】から鉄製農具【東京H9[3]】【本試験H6】が普及しました。
 これにより耕地が増えて区画整理が進んだので、牛が前に進む力を農業に利用することができるようになります。犂(すき)という道具を使って耕させたのです。木製や石製ではなく、先端に鉄製の器具を取り付けることで、初めて実際の耕作に使えるレベルとなりました。これが牛耕【東京H9[3]】です。
 牛耕が普及したために、さらに農業の生産高がアップします【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題)】(注1)。

 生産効率が上がったことにより、宗族(そうぞく)ごとにまとまる氏族共同体によって経営されていた農地も,小家族により経営されるようになりました。
 その結果小規模な農民が増え、余剰生産物が増えるとともに,商工業もさかんになり出します。
犂(すき)の形をした布貨(ふか) 【本試験H10図版の判別「五銖銭」とのひっかけ。黄河中流域の諸国で使用されたか問う(正しい)】【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H22交鈔ではない,本試験H25】,刀貨(とうか) 【追H27「刀の形をした貨幣」が戦国時代に流通したか問う】【本試験H10図版の判別。戦国時代に入ると使用されなくなったわけではない】,円銭・タカラガイの形をした蟻鼻銭(ぎびせん) 【本試験H10図版の判別。戦国時代の楚で使用されたか問う(正しい)】,円銭(えんせん)といったさまざまな形の青銅貨幣【本試験H2時期(春秋・戦国時代か)】も用いられました。


 宗族を中心とする氏族共同体が崩れると,実力本位の価値観が高まり,従来のように身分を大切にする考え方が薄れ,ときに下剋上(げこくじょう)を唱える者も現れます(注2)。
 かつてはもっとも忠実な周の諸侯であった晋(しん,?~前369)が,前453年に家臣の韓(かん)氏【京都H21[2]秦の東方の国を答える】,魏(ぎ)氏【京都H21[2]趙の南方の国を答える】,趙(ちょう)氏にのっとられて3つに分裂し,戦国時代と呼ばれる時代が始まりました。周王の権威などどうでもよいと考える諸侯が現れるようになり,「戦国の七雄(せんごくのしちゆう)」【東京H18[3] 燕・斉・楚・秦・韓・魏・趙から3つ選ぶ】【本試験H17藩鎮ではない】と一くくりにされる有力国家が,たがいに富国強兵を推進して相争う時代がやってくるのです。山東半島【本試験H15】を拠点とした斉【本試験H15山東半島を拠点としたのは趙ではない】の臨淄(りんし),現在の北京周辺の燕(えん)は遼東半島方面に郡を置き,防備を固めています。西方の辺境の秦(しん)はのちに中国を統一する勢力に発展します。南方の辺境には楚(そ)が強大化しています。諸国は長城という防壁を築いて,騎馬遊牧民の進入に備えました。

(注1) 牛耕が普及したのには鉄製農具の普及が関係しています。
 鉄製農具の普及によって耕作地が激増して区画整理が進むことで、はじめて牛の前に進む力が利用できるようになったからです。
 ただし、牛耕の起源については不明な点が多く、犂(すき)が中国由来なのか外来の農具なのかも未解決です(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、pp.21-22)。
 また、製鉄の起源については、潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』(吉川弘文館、1982年)参照されたい。
(注2) 周の王は「鼎」(かなえ)を諸侯のランクに応じて授けていました(用鼎制度)。『春秋左氏伝』には、「礼に、祭るに、天子は9鼎、諸侯は7、卿大夫士は5、元士は3なり」とあります(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年p.126)。しかしこの時代には鼎を自分でこしらえるようになる諸侯も現れます。この「礼楽崩壊」現象に対し、前の時期に〈孔子〉は「周監於二代、郁郁乎文哉。吾從周」(子曰く、周は二代於に監(かんがみ)て、郁郁(いくいく)乎(こ)として文(あや)なす哉(かな)。吾(われ)は周に從(したが)ふと)と延べ、周を理想化しています。



◆「下剋上」の気風の中、さまざまな思想家が現れた
「諸子百家」の活動がさかんとなる
 各国は積極的に有能な人材を集めようとしたため,さまざまな思想家(いわゆる諸子百家、しょしやっか)が登場します。
 『漢書』によると,以下の「家」を「十家者流」といいます(注1)。

① 儒家
② 道家
③ 陰陽家
④ 法家
⑤ 名家
⑥ 墨家
⑦ 縦横家
⑧ 雑家
⑨ 農家
⑩ 小説家

 この①~⑩大分類が「十家」(十家者流)であり、小分類が「三百九十二家」といいます。「諸子百家」というのは、後者の「三百九十二家」をおおざっぱに表わした表現です(注2)。



儒家
 このうち中国の歴史において後々に大きな影響を残すこととなるのが、〈孔子〉(前552?前551?~前479) 【名古屋H31】のはじめた儒家(礼(れい)や仁(じん)を重んじれば国はおさまるという思想を唱えた派) 【名古屋H31】でした。
 氏族共同体の崩壊にともない,新たに「孝」(こう,親によく従うこと)や,「悌」(てい)(兄や年長者によく従うこと)といった家族道徳【本試験H15】をしっかりし,礼楽(儀式と音楽)をしっかり行うことで,個人→家族→国がしっかりおさまるのだ(「修身斉家治国平天下」(しゅうしんせいかちこくへいてんか,『礼記』の言葉))と説きました。儒家は,死後の魂や鬼(鬼神)を信じず,神秘的な考えを疑う“ドライ”な面も持ち合わせています。

 儒家の「礼」は目上の人(親や兄など)を敬う心ですが,それは人為的な考え方にすぎず,ありのままに自然の道理(法則)に従ったほうがよい(無為自然(むいしぜん)【本試験H16孟子ではない】)と考えたのが,〈老子〉(実在は不明)・〈莊子〉(生没年不詳,戦国時代中期)の道家です。
 一方,まごころを家族だけに注ぐのは,心が狭い。誰に対しても愛を注ぐべきだと主張した〈墨子〉(生没年不詳)による墨家(ぼっか) 【本試験H31法家とのひっかけ】 【追H9孟子とのひっかけ】でした

 また,儒家の説は直接の弟子の次の世代になると,さらに新たな要素も加わって発展していきました。例えば,〈孟子〉(もうし,前372?~前289) 【追H9兼愛・非攻を説いていない・「法による統治,信賞必罰,君主権の強化」を唱えていない】【本試験H16】は,人には生まれながらにして仁(じん)や礼が備わっていると考える性善説【追H9「本性は悪」という説ではない】【本試験H16】をとりました。



〈荀子〉と法家
 それに対して,〈孔子〉の有力な弟子(孔門十哲)の一人である〈子(し)夏(か)〉(前507?~前420?)の門弟である〈李悝(りかい)〉(生没年不詳)は,成文法をまとめた『法経』六篇をあらわし,刑法を制定することによる社会改革をめざします(注3)。

 彼の影響を受けて〈荀子〉(じゅんし,生没年不詳。前4世紀末?生まれ) 【追H9孟子とのひっかけ】は性悪説(人間は外部からの強制力がなければ悪いほうに流れてしまうという考え)【追H9性善説ではない】をとり,礼を国家の統治原理としつつ,法による支配の重要性を説きました。
 〈李悝(りかい)〉の法は,秦で〈商鞅〉(しょうおう,?~前338) 【本試験H12始皇帝の政策顧問ではない】【本試験H14時期(秦代),本試験H16内容,本試験H17時期】によって九篇の律(りつ)として実践され,秦は強国にのし上がります。この改革を変法(へんぽう)【本試験H17時期】といい,法の専門家グループは法家(ほうか)【東京H16[3]】【本試験H17墨家とのひっかけ】と呼ばれるようになります。〈商鞅〉の律は,のちに漢の律,唐の律に受け継がれるので重要です(注)。
 法家の思想はのち〈韓非〉(かんぴ,?~前234),〈李斯〉(りし,?~前210) 【本試験H12始皇帝の政策顧問。商鞅とのひっかけ】【本試験H25荀子ではない】に受け継がれていきます。「法の規制によって国を強くしよう」という考え方です。法家の思想は,氏族共同体が崩れ小家族を単位とする小農民が増加する中で,君主が一方的に強い権力を発動して官僚や軍を用いて領域内の人々を支配するためには都合のよいものでした。



その他
 ほかにも以下のような人たちがいます。
・「孫氏の兵法」で知られる兵家の〈孫武〉(そんぶ,春秋時代)。
・戦国時代の斉で活動し,陰陽五行説【本試験H16】により天体の運行と人間生活が関係していると説いた〈鄒淵〉(すうえん) 【本試験H16孟子ではない】ら陰陽家(いんようか)。
・農業を国家の基本とする農家。
・〈蘇秦〉・〈張儀〉らの縦横家(じゅうおうか)。合従策(六国が組んで秦に対抗!)by〈蘇秦〉と連衡策(秦と各国に個別に和平を結ばせよう)by〈張儀〉。(#覚え方 “がっそう・れんちょう”)
・「白馬は馬にあらず」で有名な,論理学の名家。
・さまざまな説をに合わせた雑家(秦の〈呂不韋(りょふい)〉(?~前235)や前漢の〈劉安〉(『淮南子』(えなんじ))が代表)


 なお,〈屈(くつ)原(げん)〉(前340~前278頃) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】によって『楚辞』【本試験H14『詩経』とのひっかけ】【追H19】という情感豊かな詩歌集がつくられたのは,戦国時代の楚(そ)においてです。
 王族であった彼は縦横家の〈張儀〉(?~前309)の連衡策を怪しんで,「それは間違いだ。秦に対抗すべきだ」と〈懐王〉(かいおう,在位前329~前299)に進言しました。
 しかし受け入れられず,国を憂えて汨羅川(べきらがわ)に入って自死。
 結果的に〈懐王〉は秦の〈張儀〉の作戦にまんまとはまり,秦で幽閉されて死去しました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.30。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・中央アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.30。
(注3) 貝塚茂樹『中国の歴史 上』岩波書店,1964,p.116。



◆騎馬遊牧民の戦法を導入した秦は,法家を導入して中国(黄河・長江流域)を初統一する
秦王が初めて「皇帝」を称し、中国を統一する
 戦国の七雄の一つで諸国のうちもっとも西方に位置していた秦は,縦横家をブレーンに採用し,外交戦略と軍備増強によって,燕・斉・楚・魏・趙・韓をつぎつぎに倒していきます。
 前4世紀中頃には,従来の戦車にかわって,数万人規模の歩兵が戦場に用いられるようになっていました。前5世紀~前4世紀頃から,騎馬文化の影響を受けた【本試験H12黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けたか問う】匈奴(注) 【本試験H3遊牧民であるか問う】や東胡につながる遊牧民が,モンゴル高原から南下するようになり,遊牧民の騎馬技術を習得するようになります。例えば,趙は〈武霊王〉(位前325~前298)のときに,騎馬遊牧民匈奴に学び「胡服騎射」を取り入れています。
 一方,北方の各国は騎馬遊牧民【追H30ウズベク人ではない】の進入に備え,長城【追H30】と呼ばれる防壁を建設しました。

 また,前4世紀前半には〈孝公〉に仕えた宰相〈商鞅〉(しょうおう,前390?~前338)が,法家の思想を実践して厳しい刑罰をともなう「変法」(へんぽう)を行いました。「信賞必罰」を基本とする法家の思想は,君主が一方的に強い権力を発動して官僚や軍を用いて領域内の人々を支配するためには都合のよいものでした。
(注) 彼らの主たる舞台であるモンゴル高原は,内陸アジアの北部を東西にのびるステップの東半分を占めます。モンゴル高原の南北の境界付近には,やや湿潤な森林ステップ(山の北斜面に発達する森林と,日当たりの良い南斜面や平坦地に発達する草原が,混在する植生)が分布し,その内部には純ステップ,その内部には沙漠性ステップが分布します。
 森林ステップは水資源と草木が豊かなため家畜を飼育でき,森林の野獣も利用できるほか防衛もしやすく,しばしば強大な遊牧国家の根拠地となったのは,この地域です(匈奴,鮮卑拓跋部,突厥,ウイグル,契丹,モンゴルなど)。 吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『歴史における自然』(シリーズ世界史への問い1)岩波書店,1989年,pp.176-178。
 寒さで積雪が多かったり,夏に暑く悪虫が発生したりする場所もみられます。〈ルブルック〉のフランス王〈ルイ9世〉への報告には,「〔夏に〕水のない牧地は,冬に雪があるとき牧地として使う。雪が水として彼らの役に立つからである」という記述がみられます(吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い1 歴史における自然』(岩波書店,1989年),p.179)。
 同じ場所にとどまると,家畜の糞尿による駐営地の汚染や伝染病の流行などにより,生活環境が悪化する場合もあります。遊牧民は季節的な移動の他に,適宜よりよい牧地・駐営地を求め,非季節移動を数回繰り返すのです(吉田順一「6 遊牧民にとっての自然の領有」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い1 歴史における自然』(岩波書店,1989年),p.182)。
 遊牧の単位は,一つの家族または複数の家族からなる拡大家族であることが多く,生活空間は自然環境に規定された伝統的な季節的牧地とそれを結ぶ移動経路から成っており,この空間(縄張り)への他の集団の移動は,容認できぬ侵害となりました。
 のちに登場するモンゴル族の場合,馬以外の家畜も合わせて飼育されました。駄獣交通となる馬や,肉(乳)と毛(フェルト)を得ることのできる羊以外にも,森林ステップでは牛が,沙漠性ステップや沙漠ではラクダ・山羊が,山岳地帯では粗食に耐える山羊が合わせて飼育されました。森林ステップの遊牧単位は,協同で畜群の管理を任せ合い,羊・山羊の群れ,馬の群れ,牛の群れの三つを個別に放牧管理をしてきましたが,何の囲いもない牧地で群れを掌握するために去勢技術が発達していったのです。ゲームでは家畜の繁殖を特に表すことをはしませんでしたが,一定の群れを維持していくためには,去勢を前提とした自然の牧地での群れの管理という面が必要であることも知っておくとよいでしょう(吉田順一,上掲書,pp.184-187)。




◆戦国時代の領域国家を、秦が統一する
秦王が領域国家を初めて統一、「皇帝」を名乗る
 前349年に晋が断絶すると,どの諸侯を霸者にするかをめぐり対立が勃発します。魏は周に霸者になりたいと迫りましたが,韓は周と結んで秦の〈孝公〉を霸者にさせました。そこで魏は周王朝を倒そうとしましたが,斉によって敗れます。その後,秦の〈恵文王〉(位前338~311)は「周王」を称したものの斉・魏が干渉したためあきらめ,前325年におとなしく「秦王」を名乗ります。

 秦だけでなく,楚,斉,趙も,黄河中流域の中原(ちゅうげん)の外部で成長した国家でした。こうなってしまうと,「中原の支配権を獲得した霸者が,諸侯をまとめて外部勢力を倒し,周王をお助けする」という秩序は,もはや崩壊です。魏の人の〈張儀〉(?~前310)は6国の諸侯と秦が個別に同盟を組むことを説きました(連衡策)。周の人の〈蘇秦〉(?~前284?) は6国の諸侯が同盟を組んで秦に対抗しようとしました(合従策)。
  
 前3世紀中頃秦の国内は,〈呂不韋〉(りょふい,?~前235)という男が,〈荘襄王〉(そうじょうおう,在位 前250~前247)を王の位につけて操り人形にし,黒幕として権力を握っている状態でした。しかし,その〈呂不韋〉をスキャンダルから追い出したのは,〈荘襄王〉の息子〈政〉でした。実は,呂不韋は政の実の父ではないかという話もあります(#漫画 〈原泰久〉『キングダム』)。
 〈政〉【本試験H6】は,前221年に咸(かん)陽(よう)【京都H21[2]】を都として中国を統一すると,「王」や「天子」という従来あった称号では満足せず,「皇帝」【本試験H6周の封建制・漢によって用いられるようになったのではない】という称号を採用し,〈始皇帝〉【本試験H3中国を統一した時期に封建制が始まったわけではない,本試験H12大運河は建設させていない】と名乗りました(前211~216, 映画「始皇帝暗殺」(1998中国・日本・フランス)は始皇帝暗殺未遂事件を描きました)。

 なぜ「皇帝」という称号をつくったのかについては異論もありますが,皇帝とは「煌々(こうこう)たる上帝(中国で信仰されていた宇宙神)」のことであり,天の命令を受ける「天子」では満足しなかったと考えられます(注) 【本試験H6殷の君主の称号ではない】。
(注)西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会,1983。「天子」の称号は漢の時代に儒家の影響を受けて復活します。「皇帝」は臣下である王侯向けに用いられ,「天子」は天地鬼神(死者の霊魂と天地の神霊)と国外の諸国や蛮夷(ばんい,漢民族以外の民族)に対して用いられた称号であったとされます。ですから「天子」の称号は,今後東アジアが中国の君主によって結び付けられていく際に,重要な象徴となっていきます。

 彼は諸国で異なる基準を採用していた度量衡を統一し【本試験H19武帝ではない】,貨幣も半両銭【本試験H10図版(始皇帝がこれにより全国の貨幣を統一しようとしたか問う),本試験H12始皇帝の政策か問う,本試験H12始皇帝の政策か問う】【本試験H22五銖銭ではない】【本試験H24】(注1)に統一,漢字【東京H28[1]指定語句】も統一して小篆(しょうてん)という書体をつくらせました【共通一次 平1:春秋戦国時代に国により文字の形に違いがあったか問う】。
国古代史家)の解説を引きます。

(注1) 「始皇帝は中国の貨幣を統一した」は誤り?
  「ただし,ここで勘違いしてはならないのは,当時の国家(とくに戦国秦)が,必ずしも民の生活のために半両銭体制を施行したわけではない点である。むしろそれは,「国家の,国家による,国家のための貨幣」だった。すなわち,単一の銭が下々に行きわたれば,国家の収支決済は楽になる。それによって民間の物資を買い上げ,大きな利益もあげられる。だから戦国秦は,すでに穀物・黄金・布・青銅塊などが貨幣として流通していた戦国時代に,わざわざ銭を鋳造し,それを貨幣のリストに加えた。…中略…こうして半両銭は,国家による支払い(官吏・兵士への給与支払など)や,国家への支払(罰金や納税)などに頻繁に用いられた。」(柿沼陽平『中国古代の貨幣――お金をめぐる人びとと暮らし (歴史文化ライブラリー) 』吉川弘文館,2015年,p.57)。 
 しかし,その一方で,半両銭以降,秦漢帝国は中国世界の貨幣を完全に統一していたわけでもありません。半両銭だけでなく,《穀物・黄金・布・青銅塊》などの複数の貨幣が競合し,地域により多様な貨幣システムが併存していました。また,人々のコミュニケーションの手段も,貨幣だけでなく爵位や徳行,互酬的な原理など,極めて多様でした。上掲書で柿沼氏は,理想論を展開するわけではないとは前置きしつつ,少なくとも漢帝国が,《それらの組み合わせを上手に運営し,社会システムの系統的な危険(リスク)を,ある程度縮減(ヘッジ)できていたようにみえる》と論じています。
 〈始皇帝〉による半両銭の統一は、『史記』始皇本紀に記述はなく、『史記』六国年表(前4~前3世紀)で前336年に「銭を行う」とあるだけ。現実には半両銭にはさまざまなサイズがあり、戦国時代の秦の〈恵文王〉から前漢〈武帝〉の時代まで発行されています。また戦国各国の貨幣や布なども貨幣として流通しており、相互の換算レートは法律で規定されていました(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.52)。




◆郡県制、法家を採用し、北方の匈奴を攻撃するが、農民反乱が起きて滅ぶ
秦は制度統一を急いだが、短期間で滅亡する
 郡県制【本試験H3漢の高祖の制定ではない,本試験H12郡県制ではない】【追H21秦代か問う、H28節度使が軍閥化した時代ではない】を施行して,県を36(のち48)設置し役人を中央から地方に派遣し,法家を採用しました【本試験H13法家を弾圧していない】(注1)。

 さらに『史記』によると,「詩書を焚(や)いて,術士を阬(あなうめ)にした」とあります。
 「術士」とは〈始皇帝〉に「不老不死になれる」といって金をだましとった方士という人々を指していて,「自分に逆らうと,こんな目にあう」ということを示すために,思想書を焼き反対派を虐殺しました。このときに儒家も弾圧にあったので【本試験H13儒家を擁護していない】,〈始皇帝〉が亡くなった後,「自分たちだけが狙われて,さんざんな目にあった」というストーリーに変わり,後世に伝わったとみられます(焚書(ふんしょ)・坑儒(こうじゅ)) 【追H27漢の高祖ではない】 【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】【本試験H23前漢ではない,H29曹操(そうそう)が行ったわけではない】(注2)。

 さらに,前5世紀~前4世紀から南下を始めた匈奴【本試験H12「黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化」の影響を受けたか問う】【本試験H13吐蕃ではない】や東胡の進出にも対処して,戦国時代に各国が建設していた長城を修築しました【本試験H13】【早・法H31】(注3)。現在の万里の長城は,のちに明(1368~1644) 【本試験H9】の皇帝が修復させたものです。


 彼は前220年から滅ぼした6か国を含む地方を渡り歩き,前219年には泰山(たいざん)で天と地に自分が支配者になったことを報告する封禅(ほうぜん)という儀式をおこないます。さらに,不老長寿を願う儀式も行い,服用した水銀が体調に影響を与えたともいわれます。

 しかし秦の厳しい負担(戦争や土木作業)に耐えかねた農民【本試験H14】の反乱(陳勝【東京H28[3]】・呉広の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H22・H27,本試験H30漢ではない】)がきっかけで,たったの15年で滅びます。彼らのスローガンは「王侯将相いずくんぞ種(家柄)あらんや」(王・貴族・将軍・官僚の何が偉いんだ!)です【慶文H30李自成の乱のスローガンではない】。
 宮殿の阿房宮の火は3ヶ月燃え続け,墓地の驪山陵に副葬された品々は30万人で1ヶ月運んでも終わらなかったほどだといいます。〈始皇帝の陵墓〉近くからは,兵馬俑(へいばよう) 【本試験H9[20]図版・南越国王・漢の武帝・唐の玄宗の陵墓の附属施設ではない】【本試験H24,H28,H31「始皇帝陵の近くで」出土したか問う】というテラコッタでできた多数の等身大の軍人・家畜像が埋葬されているのが発見されています(注4)。

 こうして秦は滅亡しますが,「天下を統一」し「皇帝」という称号を名乗ったこの王朝の影響力は、後世に至るまで計り知れません。
 例えば、英語のチャイナもフランス語のシィンも秦が語源です。
 ただ、秦に代わって「天下を統一」し「皇帝」を名乗った前漢は、秦から前漢への「王朝交替の正当性を示すために、秦朝崩壊の必然性を法の過酷な支配に求め」ました。しかし、漢の「律九章」という法は秦の律令図書に基づいていますし、秦が厳格な法治をおこなったのであれば漢も同様でした。前漢がしだいに儒教的な統治に転換していく中で、秦の法治が「厳しかった」、「だから短期間で滅んだのだ」という論調が生まれていき、それが現代のわれわれの「秦の支配は厳しかった」という」イメージにもつながっていったようです(注5)。


 なお、日本との関わりについても述べておきましょう。
 『史記』によれば,〈始皇帝〉に命じられた〈徐(じょ)福(ふく)〉(実在か不明)という人物が不老不死の霊薬を求めて東に旅立ったが,結局出港はせずまんまと援助金をだまし取ったとされています。日本や朝鮮王朝では,この〈徐福〉が実際に来航したとする伝説が広く残されています(徐福伝説)。

(注1) 『史記』秦始皇本紀(前1世紀)には、〈李斯〉が〈秦王〉の事業を賛美する形で、「法令は一統に由る」とあります。「法令は一統に由る」というのは法律を統一いしわけではなく、「天下統一と同時に法令の執行系統が中央集権化した」という意味です(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.53)。
 郡県制については、従来知られていなかった郡に関する史料も近年みつかっている(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』『中国の歴史』3、講談社、2004年)ため、近年では教科書に郡の数を明示しないようになってきている(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.17)。
(注2) 専門の官職についているなど、職務上の理由で保有する以外の民間所有を禁じました。その後、『詩経』『尚書』や諸子百家の書物に通じる者を調査し、金文によって復元されることになります(例えば隷書体で『尚書』がかかれ直されました)。古い書物の収集はその後も続き、〈景帝〉のときには〈孔子〉の旧宅から『尚書』『礼記』『論語』『孔経』が発見されました(孔壁古文)。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年pp.221-222。 
(注3) 長城は〈始皇帝〉以前から各国が遊牧民の進出を防ぐ目的で建設していました。阪倉篤秀『長城の中国史 中華VS.遊牧 六千キロの攻防』2004,講談社。
(注4) 秦の〈献公〉元年に殉死が禁止されたとありますが、兵馬俑で殉死の風習がまったくなかったわけではありません(佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』講談社、2018年、pp.208-210。
(注5) 歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.53。




◆秦の滅亡後の抗争の末,〈劉邦〉が漢王朝を樹立した
前漢の建国期には,いまだ諸王の権限は強かった
 反乱勢力のうち,〈項羽〉(こうう,前232~前202) 【本試験H21】と〈劉邦〉(りゅうほう,前247~前195) 【本試験H21】【追H18】が,協力して秦の残存勢力を滅ぼしました。
当初は楚王の〈項羽〉が強い勢力を持っていましたが,部下の諸侯からの不満が高まり,その諸侯らを率いた庶民出身の〈劉邦〉(りゅうほう)との一騎打ちに発展。前202年に「四面楚歌」の故事で有名な垓下(がいか)の戦いで〈項羽〉を敗死させた〈劉邦〉が,〈高祖〉(位 前202~前195)として皇帝の位につきました【H29共通テスト試行 年代「前202年」(グラフ問題)】。

 国号は漢,都は長安【本試験H21】です。漢は途中で一度滅び,復活するので,前半の漢を前漢,後半を後漢といって区別します。

 〈高祖〉は自分の側についた勢力(「劉邦集団」(注1))に対し,その功績に応じてふさわしい地位を与えました。一方,優れた将軍として“国士(こくし)無双(むそう)”と称された部下(〈韓(かん)信(しん)〉(?~前196))のように,左遷された者もいます。

 さらに,「劉」氏ではない諸王の削減に力をさき,晩年には特に広大な領地をもっていた楚,梁,淮南の3王を廃して代わりに「劉」氏の王を置いています。こうして長沙(ちょうさ)以外の王はとりつぶされ,「劉」氏の王は独自に官僚機構・軍隊を任され,のちに半ば“独立王国”化していくことになります(注2)。

 なお、春秋時代の頃には都市のことを「邦」、戦国時代に各地にできた領域国家のことを「邦家」と表現するようになっていました。秦が統一したのはこの「邦家」であり、それをさらに漢が再統一したわけです。しかし、中国には「権力者の名に使われる漢字を使用するのを避ける文化」があります。邦家の場合、〈劉邦〉の「邦」とカブってしまいます。そこで、大小の領域を意味する「国(國)」という文字が選ばれ、「国家」という言葉が生まれたのです(注3)。

(注1) 福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。
(注2) 寺田隆信『物語中国の歴史―文明史的序説』中公新書,1997,p.62~63
(注3) 漢代以降、「国(國)」は都市国家を意味する語句としても使われるようになります。秦代の領域国家は、やがて軍区の単位となり「郡」と呼ばれるようになり、「郡」の下にあった都市国家(国(國))は漢代には「県」と呼ばれるようになりました(歴史学研究会編『世界史史料3 東アジア・内陸アジア・東南アジアⅠ』岩波書店、2009年、p.24-25。平勢隆郎『中国の歴史2 都市国家から中華へ』講談社、2005年も参照)。




・前400年~前200年のアジア  東アジア  現⑤・⑥朝鮮半島
朝鮮半島で、「衛氏朝鮮」が建国された
 中国が戦国時代(前403~前221)に突入していたことの朝鮮半島では,朝鮮人の間に首長(しゅちょう)が出現して各地でまとまりをみせていました。燕(えん,前323に王号を称し,前222年に秦に滅ぼされます)は東方からの異民族の進出に備え長城を建設し,朝鮮半島の人々と交易を行っていました。朝鮮半島の政権が,中国の歴史書の伝える「箕子朝鮮」(きしちょうせん)であったかどうかは定かではありません。箕子朝鮮というのは,『史記』や『漢書』といった中国の歴史書の中に「殷が滅んだときに〈箕子〉(きし)という中国人が朝鮮に逃げて儒学を伝え,のちに前漢の〈武帝〉が冊封した」という話に基づくものであり,歴史的な裏付けはありません。

 前221年に中国を秦が統一すると〈蒙恬〉が遼東半島方面に遠征し,朝鮮半島の政権を服属させたとのことです。この地域には戦乱を避けた亡命漢人も多く居住しており,〈衛満〉(えいまん)は斉(せい)や燕(えん)の人々をまとめ上げて漢に対する反乱を起こし,王険城(平壌)を首都とし衛氏朝鮮【慶・法H30】を建国しました。
 言い伝えによると,先ほどの箕子朝鮮はこのときに〈衛満〉によって滅ぼされたといいます。衛氏朝鮮は朝鮮半島の臨屯(イムドゥン;りんとん),真番(チンバン;しんばん)を支配下に起き拡大していきます。




○前400年~前200年のアジア  東南アジア

◆ヴェトナムでドンソン文化とサーフィン文化が栄え、北部には中国の王朝が進出する
ドンソン文化とサーフィン文化が栄える
 この時期の東南アジア大陸部では,稲作による定住農耕が発展し,社会がさらに発展していきました。
 北ヴェトナムでは,前4世紀頃から,雲南(うんなん)地方と北ヴェトナムにドンソン文化【本試験H21】という青銅器・鉄器文化が生まれました。雲南地方の文化が,メコン川を通じて北ヴェトナムに伝わったと見られます。
 ドンソン文化に特徴的な独特な形をしている銅鼓【本試験H21図が出題】は,祭りや威信財として使われたと見られます。威信財というのは,みんなを「すごい」と思わせることのできる物のこと。持ち主は,それによって人々に権威をアピールしたのです。スマトラ島やジャワ島など,島しょ部(ユーラシア大陸以外の東南アジアのこと)でも見つかっています。

 北ヴェトナムでは,前257年に甌雒(アウラック)国が文郎国を併合したという伝説がありますが定かではありません。ハノイ近くにその首都の遺跡が残されています。

 しかしこの頃から,中国の進出が始まりました。
 前214年に秦が今の広州に南海郡,ヴェトナム北部に象(しょう)郡,内陸に桂林郡を設置しました。

 しかし秦が滅びると,今度は前203年に南海郡の軍人の〈趙佗〉(ちょうだ,在位前203~前137)が桂林郡(けいりんぐん)と象郡(しょうぐん)を合わせて南越国【京都H21[2]】【追H20滅ぼした人を問う】を建てました。
 このとき,北ヴェトナムの甌雒(アウラック)国は滅ぼされました。
 その後,前漢の〈高祖〉により,〈趙佗〉は南越王として認められています。

 東南アジアの島しょ部でも,だんだんと交易活動が盛んになってきます。島しょ部に青銅器文化が伝わったのはおそらく前3世紀頃です。ドンソン文化の特徴をもつ銅鼓は,スマトラ島やジャワ島でも見つかっています。

 前3世紀から後2世紀にかけて,フィリピンからヴェトナム,タイランド湾にかけてはチャム人がサーフィン文化を生み出し(サーフィンはヴェトナム中部の地名),交易活動を行っていたとみられます。サーフィンとは「波乗り」のことではなく,中部ヴェトナムの地名です。




○前400年~前200年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・前400~前200年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・前400年~前200年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン
◆アレクサンドロス大王の遠征後に、北インドを統一する王朝が出現する
マウリヤ朝が建国されて南に拡大、仏教も保護へ
 ガンジス川流域のマガダ国は,前4世紀半に始められたナンダ朝のときにさらに強大化し,デカン高原東北部のカリンガにも遠征していました。

 そんな中,〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)が西北インドに進入し,インダス川を渡ると,十六大国の一つガンダーラ国を滅ぼしてしまいます。〈大王〉は部下の反対により,それ以上の進軍を諦めて帰ってしまうのですが,その混乱のさなかでパータリプトラを倒して,王位に就いたのはナンダ朝マガダ国の武将である〈チャンドラグプタ〉(位前317~前293?) 【追H28】【本試験H9[12]アショーカではない】 です。彼は,混乱状態にあったインダス川流域を征服し,ガンジス川流域とインダス川流域を史上始めて統一しマウリヤ朝【本試験H18バクトリアを滅ぼしていない】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのではない】を建国し,都をパータリプトラ【追H28】【本試験H16フランス植民地ではなかった,本試験H21ムガル帝国の都ではない,H30地図が問われた】に置きました。

 彼はインダス川上流に,60万ともいわれる圧倒的な兵力で向かいます。すでに〈アレクサンドロス大王〉は亡くなっており,ディアドコイ(後継者)である〈セレウコス1世〉(位 前305~前281)が前312年に建国したセレウコス朝がインダス川に慌てて向かいました。
 結局マウリヤ朝が勝利。このときの協定ではマウリヤ朝は象を500頭セレウコス朝に渡し,セレウコス朝はガンダーラなどをマウリヤ朝に割譲したといわれています。

 さて,〈チャンドラグプタ〉(?~前298?,在位 前317~前298) 【本試験H9[12]アショーカではない】は,ギリシア語の記録にはサンドロコットスという名前で登場します。だいぶ印象が変わりますが,どちらもインド=ヨーロッパ語形の言葉ですね。チャンドラとはインドの「月の神」のことで,ろうそくという意味もあります。チャンドラとキャンドルという言葉,なんとなく似ていますよね。彼はじつはシュードラ(奴隷)階級出身といわれますが,これはバラモン教以外の宗教を優遇したため,彼を低く見る言い伝えが残ったとも考えられます。彼の宰相〈カウティリヤ〉(前350~前283)は,政治についての『実理論』が有名です。
 マウリヤ朝の最盛期は〈チャンドラグプタ〉の孫〈アショーカ王〉(位 前268~前232頃) 【本試験H4アショーカ王のころには仏像は製作されていない,本試験H9[12]】【本試験H15ダルマに基づく政治を目指したかを問う,本試験H17中国から仏教が伝わったわけではない,本試験H21玄奘の訪問先ではない,H25,H31】のときです。99人の異母兄を殺して王に就任したともいわれています。ローマが第二次ポエニ戦争をしていたころ,インドでもやはり領土拡大の戦争の真っ最中で,〈アショーカ王〉はデカン高原北東部のカリンガ国と戦争して,多大な犠牲を払ってこれを征服し,間接統治をしました。こうして,南端をのぞく全インドの支配が確立されたのです。少なくとも4つの州が置かれ,マウリヤ家の王子が太守として派遣されました。

 〈アショーカ王〉はこの戦争後,仏教【本試験H25】の教えに耳を傾けるようになり,その影響を大きく受けるようになります。『阿育王経』によれば,8つに分けて治められていたブッダの遺骨(仏舎利)を取り出して,あたらしくストゥーパ(仏塔)を建てて,84,000に分けたといわれます(そんなに分けられるんでしょうか…)。また,第三回仏典結集【本試験H4仏典結集か問う】を開催させたり,王子〈マヒンダ〉(前3世紀頃)をセイロン島(現在のスリランカ)に派遣し,シンハラ王国(前5世紀?~1815)の王も仏教を信仰するようになりました【本試験H4多くの布教師を周辺の国々に派遣したか問う】。
 今後セイロン島【本試験H4「スリランカ」】は上座仏教【本試験H4「上座部仏教(小乗仏教)」】の中心地となっていき,【本試験H16大乗仏教ではない】のちに東南アジアの大陸部(ビルマ【本試験H4】やタイ【本試験H4】)に広まっていきます。

 〈アショーカ王〉は,仏教に基づきながらも宗派を超えた倫理である法(ダルマ【本試験H15】)を発布して,各地に建てた柱や国境付近【本試験H31ガンジス川流域ではない】の岩壁に,言語は当時の俗語(プラークリット語)で、文字はカローシュティー文字(西北インド)やブラーフミー文字で刻まれました。アフガニスタンの東部では、短文ではありますがアラム語・アラム文字,ギリシア語・ギリシア文字で彫らせました(注1)。
 それぞれ,石柱碑【本試験H9[12]図版 チャンドラグプタ,アレクサンドロス,カニシカ王によるものではない】【本試験H31】(柱頭にライオン像のあるものはインドの1ルピー札のデザインになっています),磨崖碑(まがいひ)といいます。

 「ダルマ」というのは,「生き物を殺してはいけません。父母に従いなさい。僧侶やバラモンを尊敬しなさい。年上の人や師を尊敬しなさい」などという“不戦主義”がその内容です。

 なおブラーフミー文字は,現在のインドの文字の多くやチベット文字【本試験H9】【本試験H15図版・インドの文字を基につくられたかを問う】,東南アジアの文字(ミャンマー(ビルマ)文字【本試験H15図版(解答には不要)】,タイ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,ラーオ文字【本試験H15図版(解答には不要)】,クメール文字【本試験H15図版(解答には不要)】)に影響を与えています。
 十六大国の戦乱,そして領土拡大戦争が終わり,世の中に秩序をもたらすには,「道徳」(人間として守るべきこと)が必要だと考えたのですね。
 厳しい決まり(法)を,広い領域内の人々に武力によって無理やり守らせるよりも,コストがかからないとの判断もあったでしょう。王自身も率先してダルマを実践し、ベジタリアンとなって、人だけでなく動物のための病院を建設、街道沿いに樹木を植え給水所を設け、裁判の公正と刑罰の軽減にに努めました(注2)。

 〈アショーカ〉王のダルマの精神は,「チャクラ(法輪)」というシンボルによって表され,各地に建てた石柱碑の柱頭に彫られました。現在のインドの国旗の中央部に描かれています。



 マウリヤ朝は137年続きましたが,〈アショーカ〉王の死後に分裂し,前180年頃滅亡しました。「頃」が多いのは,インドには歴史書が少なく,バラモンの伝承や外国人の記録を基に推定するしかないからです。
 インド南端に近い地域では,〈アショーカ〉王の碑文によると,前3世紀にチョーラ,パーンディヤ,ケーララなどのタミル人による王国がありました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.19。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.19。




○前400年~前200年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン


・前400年~前200年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ
◆アレクサンドロスの東方遠征によりアケメネス朝が滅び、ギリシア人の国家が建設される
ギリシアの影響受ける一方、イランは遊牧民が自立

 この時期には〈アレクサンドロス〉大王の電撃的な東方遠征によって、アケメネス朝ペルシアが滅亡。
 彼はアケメネス朝の後継者を自任しましたから、「ギリシアの文化をアケメネス朝に伝えた」「劣ったアケメネス朝をギリシア人が制圧した」などと考えるのは後世、特にヨーロッパの人々による後知恵(あとぢえ)に過ぎません(注)。

 大王が急死するとその帝国はたちまち分裂し,後継者(ディアドコイ)たちによって,
・メソポタミアとイラン高原の大部分にセレウコス朝シリア【本試験H4】【本試験H18時期】【追H25マケドニアに滅ぼされていない】【立教文H28記】
・エジプトにはプトレマイオス朝エジプト【追H28時期は中国の唐代ではない】【本試験H4】【東京H18[3]】
・マケドニアにはアンティゴノス朝マケドニア【本試験H4セレウコス朝・プトレマイオス朝と合わせヘレニズム3王国というか問う】が建国されました。

 セレウコス朝シリアからは,前247年頃アルシャク(アルサケス)朝パルティア(前247?~228) 【東京H14[3]】【本試験H4王の道を整備していない】【本試験H18大秦国王安敦と無関係,本試験H24チャンパーではない,本試験H27】【セA H30モンゴル高原ではない】が自立しました。アルシャク(アルサケス)朝パルティアは,〈アルサケス〉(ギリシア語ではアルサケース,中国では「安息」と音写,前247~前211)によってカスピ海南岸のパルティア地方から発祥しました。
 はじめはギリシア風のヘレニズム文化を受け入れましたが,のちにパルティアの独自の文化を発展させていきました。パルティア人の馬にまたがり,後ろに退却しながら弓を射るスタイルを,ローマ人は“パルティアン=ショット”と呼び恐れました。
 ローマと隣接していることから,ローマ帝国【本試験H22アンティゴノス朝ではない】とメソポタミアやアルメニアをめぐって争い,東西の中継貿易で栄えました。パルティア人の側の史料にとぼしく,研究者は同時代のローマの歴史書を手がかりに王名をたどっています。都はティグリス川【京都H22[2]】【早政H30】河畔,現在のバグダードの南東にあったクテシフォン【京都H22[2]問題文】【東京H14[3]アクスム王国と同じくインド洋で活動し,インドの物産や中国から運ばれてくる絹の購入を巡って競い合ったアジアの国の首都を答える】【本試験H27,本試験H30】【早政H30問題文】に置いています。
(注) 〈アレクサンドロス〉はヨーロッパ、アケメネス朝はアジアと線引きして考えるのは、時代錯誤の考え方です。森谷公俊『アレクサンドロス大王 東征路の謎を解く』河出書房新社、2017年。



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・前400年~前200年のアジア 西アジア 現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
◆アラビア半島南部に、ハドラマウトやカタバーンなど交易路を支配する小王国が並び立つ
南アラビアには交易で栄える諸王国が栄える
 アラビア半島南部には、オアシス地帯や交易路を支配するサバァ、カタバーン、ハドラマウト、アウサーン、ジャウフなどの小王国が並び立っていました。

 乳香(樹脂性の薫香料)・没薬(樹脂性香料・薬種)の産出は、インドやアフリカからの海上交易商人を引きつけ、ペルシア湾・地中海との陸上交易も栄えます。

 かつて強盛を誇っていたサバァ王国に代わって、前6世紀以降ハドラマウト王国や、ハドラマウト王国と提携していたジャウフの新興勢力であるマイーン王国が成長。マイーン王国はハドラマウト王国と香料の生産・集荷・輸送で提携し、エジプト、シリア、メソポタミアや地中海の島々にまで交易活動を広げていたと考えられます(注1)。さらに、紀元前500年以降になると、カタバーン王国が旧アウサーン王国領を獲得し、強大化していったようです(注2)。

 この時期、前4世紀後半に〈アレクサンドロス大王〉が東方遠征をしますが、南アラビアへの遠征計画は実施されずに中止されます。

 その後も、南アラビアとの交易に目をつけた周辺国のアラビア半島への遠征は続き、セレウコス朝の〈アンティオコス3世〉(位前223~前187)が、東アラビアやハサー地方のゲッラ(バハレーン島近くの内陸にあります)やバハレーン島に遠征しています(注3)。

 しかし、南アラビアにとってお得意様であったプトレマイオス朝が、第5次シリア戦争後にシリア南部を失ってからというもの自らペルシア湾の直接海上ルートを開拓するようになると、南アラビアの諸王国の交易活動は打撃を受けるようになっていきます(注4)。
 また前3世紀頃には、長距離交易の新たな拠点となる都市が各地に建設されるようになっています。

(注1)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,pp.30-32。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.29。
(注3)香料だけではなく、たとえばエジプトのプトレマイオス朝はセレウコス朝との戦いに必要な東アフリカ産の象を求めています。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.39。
(注4)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.40。



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・前400年~前200年のアジア  西アジア 前⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
◆ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンは周辺の大国の支配を受ける
コーカサス山脈南部は、周辺の大国の支配下に
 この時期には〈アレクサンドロス〉大王の東方遠征を受け,アケメネス朝ペルシアは滅亡しました。
 アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)も,〈アレクサンドロス〉大王の支配下となっています。

 しかし,大王が急死するとその帝国はたちまち分裂し,アルメニア高地は、後継者(ディアドコイ)たちによって建国されたセレウコス朝シリアの支配下に入りました。





●前400年~前200年のアフリカ

○前400年~前200年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 東アフリカには,エチオピア高地に農牧民が,ヴィクトリア湖周辺にはコイサン諸語系の牧畜民,その北の草原や沼沢にはナイロート系の牧畜民が生活していました。



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○前400年~前200年のアフリカ  南アフリカ・西アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


バントゥー系の大移動,ヴィクトリア湖方面へ

 西アフリカの現在のカメルーンでは,前3世紀に使用された鉄器が発見されています。
 ニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、前250~後50年の層の集落で、鉄利用後と魚など水産資源利用の跡が残されています(注)。
 
 前1000年頃より現在のカメルーン付近から移動を開始したバントゥー系の住民は,東西のルートに分かれて,中央アフリカ・東アフリカ・南アフリカ方面へ南下していました。

 西バントゥーは西アフリカ原産のアブラヤシ(デーツという甘い果実をつけます)とともに,前300年までにはコンゴ盆地の熱帯雨林地帯を通って,赤道をまたいでザイール川を南に超えました。
 東バントゥーは,前300年までには,コンゴ盆地の熱帯雨林の北縁をなぞるように東に進み,東アフリカのヴィクトリア湖の西部に到達しました。彼らはモロコシ(ソルガム)や,シコクビエやトウジンビエといった雑穀の農耕を行いました。

 このように,バントゥー系民族の大移動は,中央・東・南アフリカの社会に大きな影響を与えました。



 南アフリカでは,コイサン諸語系部族が狩猟採集生活を行っています。
(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○前400年~前200年のアフリカ  中央アフリカ
 中央アフリカにはピグミー系の狩猟民族が先に住んでいましたが,バントゥー系住民と,相互に依存しあう交易関係を築き上げました。また,南アフリカで狩猟採集生活をしていたコイサン諸語系住民は乾燥地域に移動を迫られましたが,バントゥー系住民との住み分けに成功していた地域もあります。




○前400年~前200年のアフリカ  北アフリカ
遊牧民が、地中海岸・ナイル河畔と共存・競合する
 北アフリカでは,現在のモロッコからリビアにかけての広い範囲でベルベル人のやベルベル系のガラマンテス人らの農牧民・遊牧民が生活していました。また,現在のリビアにはリブ人が農牧・遊牧をしています。
 沿岸部にはセム語派のフェニキア人が現・チュニジアにあるカルタゴや,現・リビアにあるレプキス=マグナ(注1)などの都市国家を建設し,せっせと地中海交易にいそしんでいます。地中海には反時計回りの海流があって,カルタゴ人は西地中海ではカルタゴ→シチリア島西部→サルデーニャ島南部→イビサ島(銀鉱が分布(注1))→ジブラルタル海峡周辺(カデス(注1)など)→カルタゴという周航ルート,東地中海ではカルタゴ→ナイル川河口→テュロス→キプロス島→ギリシア→カルタゴというルートを確立していました(注2)。
 フェニキア人は現リビアのレプキスを押さえることで,その内陸部でオリーブやナツメヤシの灌漑農耕・遊牧生活をおこなっていたガラマンテス人との交易ルートも確保します。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉によれば,「アウギラ(注:ナイル川中流域から西に進んだ地点)からさらに十日進んだところに,また塩の丘があり水や実のなるココ椰子が多数あることは,他の場所と同様である。ここの住民の名はガラマンテスといい,きわめて多数の人口を有する種族で,塩の上に土を運んで種子を蒔いている」とのこと。
(注1)レプキスは前8世紀に建設されたと考えられています。カデスは,グアダルキビル川をさかのぼると銀山に到達できる港です。青木真兵「研究ノート 西方フェニキア都市レプキス・マグナとガラマンテス」『神戸山手大学紀要』14巻,p.63~73, 2012,神戸山手大学
(注2) 栗田伸子,佐藤育子『通商国家カルタゴ』講談社,2009,p.160



◆エジプトは末期王朝(前525~前332)…第27王朝~第31王朝
 →ヘレニズム時代(前332~前30)…マケドニア朝~プトレマイオス朝

 エジプトは,短命な政権の交替する末期王朝時代にあたり,ファラオをアケメネス朝の王がつとめ,総督が派遣され属州(サトラペイア)として支配されました。


 最終的に第31王朝(前343年~前332)のときに,最後の総督が〈アレクサンドロス〉大王に戦わずして政権を譲り渡し,前332年に〈アレクサンドロス〉大王がファラオに即位しました(マケドニア朝)。

 こうしてエジプトはアレクサンドロス大王の帝国の属州となりました。大王が亡くなった後,〈フィリッポス3世アリダイオス〉(前323~前317),〈アレクサンドロス4世〉(前317~前310)が即位しますが(注1),間もなく後継者(ディアドコイ)をめぐる内戦が勃発(ディアドコイ戦争)し,プトレマイオス朝エジプト(前306~前30)が成立しました。

 プトレマイオス朝は支配の正統化を図るため,ギリシア文化や王立研究所【追H29】のムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスによる創設ではない】【追H29プトレマイオス朝による創設か問う(正しい)】【慶文H30記】における学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました(注2)。
(注1)エイダン・ドドソン,ディアン・ヒルトン,池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林,2012,p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。
(注2)アレクサンドロス大王以後に発生した後継者戦争において,後継者将軍の権力正当化の源泉になったのは,一般兵士にとっても誇りと賞賛の源泉となった「アレクサンドロス大王とともに戦ったという経験と記憶」でした。森谷公俊「アレクサンドロス大王からヘレニズム諸王国へ」『帝国と支配』(岩波講座 世界歴史 5)岩波書店,1998年,p.128





●前400年~前200年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 この時期の西ヨーロッパでは,ライン川・ドナウ川流域にかけてケルト人と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語族ケルト語派の人々が広く分布していました。ケルト語派の人々は,ユーラシア大陸側のケルトと,ブリテン島(現・イギリス)と中心とする“島のケルト”に大別され,近年では両者には少なからぬ共通点があることが指摘されるようになっています。
 大陸ケルトのうち,現・フランス周辺の人々をガリア語を話すガリア人と総称されます(注)。

 ケルト語派の分布域の東にはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,さらに東のドニエプル川までのあたりにスラヴ人が,バルカン半島西部にはイリュリア人が分布していました。いずれも複数のグループに分かれ,首長による小規模な政治的統合がすすんでいました。

 イベリア半島では,南西部にイタリック語派(現在のスペイン語,フランス語,イタリア語を含むグループ)のイベリア人,北西部にケルト語派のケルティベリア人が分布していました。
 イタリア半島北部にはエトルリア人の都市国家群があり,南部にはギリシア人の都市国家群がありました。中部の共和政ローマは,この時期にフェニキア人のカルタゴとポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】を戦い,領域を広げていきます。

(注) 「ガリア」はローマ人が出会ったガリア地方の人々が「雄鶏」の旗印をつけていたことから、雄鶏という意味のラテン語「ガリス」から名付けられたと言われます(松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.5)。



○前400年~前200年の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 しかし,前8世紀頃以降,「ケルト人」と後に総称されることになるインド=ヨーロッパ語系の諸民族によって,鉄器文化であるラ=テーヌ文化が生み出されました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも盛んに交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。

 イベリア半島の沿岸部は,北アフリカのフェニキア人の植民市カルタゴの勢力圏に入っていました。前264~前241年のポエニ戦争【東京H8[3]】でカルタゴが共和政ローマに敗れ,シチリアを失うと,カルタゴの貴族バルカ家〈ハミルカル=バルカ〉(前275?~前228)らは,前237年にイベリア半島の拠点(カルタゴ=ノウァなど)の建設や鉱山開発に乗り出します。しかし,その息子〈ハンニバル〉【本試験H6時期(アウグスティヌス存命中ではない)】【追H24『ガリア戦記』を記していない】が第二次ポエニ戦争(前218~前201)でローマに敗北すると,イベリア半島は共和政ローマの支配下に入りました。戦争中の前205年には属州ヒスパニアが置かれ,しだいに内陸部にも進出し南部のグアダルキビール川沿いにコルドバが建設されました。


・前400年~前200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆ローマがイタリア半島全域に拡大し,カルタゴからシチリア島を奪う
ラテン人(ローマ人)が西地中海に拡大する
 イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,半島各地の民族と戦い同盟を結んだり,服属させたりしていきました。 ローマは征服地の民族を,一律同じ扱いにするのではなく,格差をもうけて支配しました。各都市は個別にローマと同盟を結ばされ,(1)ローマ市民権がある都市,(2)投票権はある「ラテン市民権」のある都市,(3)市民権が与えられない都市(同盟市)に分けられました。キャッチフレーズは“デヴィーデ=エトゥ=インペラ”(devide et impera)。“分割して支配せよ”です。この分割統治により,一致団結して反抗されるのを防いだのです。

 戦争によって獲得した新しい土地の多くは公有地とされましたが,実際には一部の有力者が自分のものにしてしまう(占有する)例がみられるようになっていきます。彼らはそこで多数の奴隷を働かせる,ラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】【本試験H13マニュファクチュア,イクター,コルホーズではない】を営み,収穫物をローマ内外に輸出して巨利をあげました。また,相次ぐ戦争により平民(プレブス)には大きな負担がかかり債務を負う者も発生し,貴族(パトリキ)との経済格差が開いていました。

 前367年には,リキニウス=セクスティウス法【本試験H8平民の地位を向上させたか問う,H9これ以前にコンスル職は貴族の独占であったか問う】【本試験H14時期(前4世紀かを問う)】で,公有地を占有(せんゆう。事実上,自分のものにしてしまうこと)することの制限,執政官(コンスル)のうちの1名を平民(プレブス)から選ぶことが定められました。この法により土地の占有は「制限」されましたが「禁止」されたわけではなく,執政官に就任して貴族との結びつきを深めた平民(プレブス)は新貴族(ノビレス)にとして新たに土地を占有するようになっていきました。
 前356年には独裁官,前351年には監察官,前337年に法務官が,平民にも就任できるようになったのですが,実際にはこれらの官職は平民身分の新貴族(ノビレス)によって支配されるようになり,事実上,平民会も元老院の“言いなり”の状態でした。そこでプレブスは「市外退去」(セケッショ)の作戦をとり,前287年に貴族(パトリキ)に対して平民会の決議が元老院【追H30平民会ではない】の承認なしにローマの国法となることが認めさせました。これを,ホルテンシウス法【本試験H24ギリシアではない】【本試験H8平民の地位を向上させたか問う】【追H21内容,H28共和政ローマか問う(正しい)・平民の地位が向上したか問う(正しい),H30】【立教文H28記】といいます。

 このホルテンシウス法の直前,前272年にはギリシア人の植民市【本試験H27】(マグナ=グレキア)のあったイタリア半島南部を占領し,タレントゥム【本試験H16ギリシア人の植民市「タラス」だったかを問う】を獲得し,半島が統一されました。前4世紀末から建設が開始されたアッピア街道【東京H20[3]】【早・政経H31商品の流通を目的として建設されたわけではない】は,さらに南のブルンディシウムまで伸びる舗装道路で,“街道の女王”とうたわれます。

 貴族と平民間の身分闘争は,これで幕を閉じたようにも見えますが,実際には富裕な平民(新貴族;ノビレス)にしか執政官に就任することはできませんでした。官職は無給(給料が出ない)ですから,経済的に余裕がなければ就任は難しいのです。

 さて,これからローマはいよいよ地中海への進出を本格化させ,フェニキア人を3度のポエニ戦争【東京H8[3]】【本試験H7】【本試験H15シチリア島はポエニ戦争のときのエジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】【追H18、H24カルタゴが3回のポエニ戦争でローマに敗れたか問う】で滅ぼし,地中海を取り囲む外国領土を獲得していくことになります。
 イタリア半島の外の領土を属州(プローウィンキア) 【東京H29[1]指定語句】と呼びます。広い帝国を州に分けて総督に支配させる方式は,アケメネス朝のサトラップ(太守)とよく似ています。

 第一回ポエニ戦争(前264~前241)のときにカルタゴから獲得したシチリア島【本試験H7ガリアではない】【本試験H15エジプトからの獲得ではない,本試験H16地図・第一回ポエニ戦争後に属州とされたかを問う,本試験H27ブリテン島ではない】が最初の属州です。こうして得た,属州の土木事業や徴税請負人として活躍し,富裕になった新興階級をエクィテス(騎士身分)といいます。誰に徴税を任せらていたかというと,元老院議員です。元老院議員には外国との交易をしてはいけない決まりがあったため,代わりに別の人に担当させて,利益を吸い上げたのです。

 ローマは第二回ポエニ戦争(前219~前201)で,スペインを本拠地とするカルタゴ人の将軍〈ハンニバル〉(前247~前183?182?)【本試験H30】【追H18『ガリア戦記』とは無関係、H24『ガリア戦記』を記していない】によるイタリア進入を阻止しました。〈ハンニバル〉は象を連れたアルプス山脈越えで有名ですが,寒さや険しい斜面で兵士や象の多くが命を落とす壮絶な行軍でした。ローマ側の将軍〈大スキピオ〉(前236~前183)は〈ハンニバル〉の拠点であるスペインを攻略し,前202年にカルタゴ近郊のザマの戦いで〈ハンニバル〉を破りました。このとき,科学者〈アルキメデス〉(前287?~前212)はシチリア島のシラクサ(ローマから寝返り,カルタゴ側についていました)にいて,ローマ兵に殺されました。地面に図形を書いて円周率を求めている最中であったと伝えられています。




○前400年~前200年のバルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆ギリシアの諸ポリスは衰退し,前337年に半島北部のマケドニアに支配される
 〈ソクラテス〉(前470?469?~前399)の愛弟子の〈プラトン〉(前429~前347) 【本試験H13】が「この世に絶対的な理想があるとして,そのことを人はなぜ知ることができるのか?」という問いに対する答え(イデア論【追H9(空欄補充)】【本試験H13】)を展開しました。また『国家論』【本試験H13】において,「民衆に政治をまかせると,失敗する。選ばれた少数の徳(=良い資質。アレテーといいます)を持つ人だけに,政治を任せるべきだ」と解きました。これを,哲人政治といいます。しかし,実際には,民主主義が暴走すると衆愚政治に,哲人政治が暴走すると独裁政治に発展しがちです。どちらのほうが望ましいのかということは,この後,長い年月をかけて議論されてきましたが,西洋において必ずといって参考にされ続けたのが,〈プラトン〉の『国家論』でした。彼は,当時交易で栄えていたギリシア人の植民市〈ディオニュシオス2世〉(在位前367?~357?)に招かれて哲人政治を実践しようとしましたが,失敗しています。
 〈ソクラテス〉は著述をのこしませんでしたが,〈ソクラテス〉が登場する著作を〈プラトン〉が多く残しました。
 なお、ローマ医学に多大な影響を与えた医学者〈ヒポクラテス〉【追H25平面幾何学を集大成した人ではない】は同時代の人物とみられます。



◆〈アリストテレス〉の学問研究は,オリエント周辺の学問に後世まで大きな影響を及ぼした
〈アリストテレス〉が,あらゆる知を総合する
 〈プラトン〉の学園(アカデメイア【本試験H21リード文】。アカデミーの語源です)に入門したのが,〈アリストテレス〉(前384~前322) 【本試験H2,本試験H6ミレトスで活動したわけではない】【本試験H13】で,彼はとにかくオールジャンルを研究し,当時の知識の“すべて”を体系化【本試験H13「諸学問を体系化させた」かを問う】させたといっても過言ではありません。
 代表作『形而上学』(けいじじょうがく)では,化学・物理・天文・生物に関する知識がまとめられました。
 物理学では,運動には「自然的」運動と「強制的」運動があることを説明しました。
 化学では,以前からギリシアの〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)によって主張されていた空気・火・土・水の四元素説を発展させました。
 天文学では,地動説(地球が宇宙の中心。のちヘレニズム時代の〈アリスタルコス〉(前310?~前230?)が否定)をとりました。ギリシア人による天文学が発展するにつれ,バビロニアの天文学は衰退していきました。
 生物学では,生物は生物以外の物から自然に発生する(自然発生説。のち19世紀にフランスの〈パスツール〉が実験により否定)という考えや,すべての生命には単純な生物から複雑な生物までの序列があるという考えを主張しました。
 また,演劇理論について研究した『詩学(しがく)』では,人はなぜ悲劇を見ると“心が洗われる”思いをするのかについて,現代でも使われる「カタルシス」という用語で説明しています。彼はのちに,〈アレクサンドロス大王〉の少年時代の家庭教師を務めました。

 その後もスパルタの独壇場というわけにはいかず,周辺のポリスがスパルタを攻撃し,アテネ(アテーナイ)も攻勢にまわったため,スパルタはアケメネス朝ペルシアと前386年に「大王の和約」を結び,小アジアのギリシア人の諸ポリスは結局ペルシアの支配下に置かれることになりました。

 前4世紀中頃にはテーバイ(テーベ) 【同志社H30記】が,長期にわたるスパルタの支配を脱しました。将軍〈エパメイノンダス〉(?~前362)のもとで前371年にレウクトラの戦いでスパルタを破り強大化しますが,のちアテネ(アテーナイ)も復活するなど,ポリス同士が争う中,前4世紀後半にはポリスを形成しなかった北方のギリシア人のマケドニア王国が,〈フィリッポス2世〉(位前359~前336)のもとで強大化しました。前341年には“馬を愛するトラキア人”といわれ,ギリシア人から恐れられたバルカン半島東部のトラキアを征服。
 前338年にはカイロネイアの戦い【本試験H17アクティウム・サラミスの海戦,マラトンの戦いではない,H31】【追H25】で,テーベ(テーバイ) 【追H25】とアテネ(アテーナイ) 【追H25】の連合軍を撃破し【本試験H31アテネ・テーベは勝利していない】,スパルタ以外のギリシアのポリスをコリントス同盟(ヘラス同盟) 【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】としてまとめて支配します。

これはどういうことかというと,各ポリスは自治を続けることができる代わりに,マケドニアの軍隊が駐留して監督し続けるというものでした。ポリスというのは,そもそも外敵の進入を防ぐために集住(シュノイキスモス)することでできたものですから,このコリントス同盟によってその大切な特徴が失われてしまったということになります。
 こうしてマケドニアの〈フィリッポス2世〉【追H25】はギリシアのポリスを,スパルタを除き支配することに成功しましたが,その後急死しました。


◆マケドニア王アレクサンドロスの東方遠征によりギリシア文化が東に拡大した
 父の死を受け王位を継いだ〈アレクサンドロス3世〉(位前336~前323) 【本試験H4王の道を整備していない】は,小アジア(アナトリア半島)に向け東方遠征を開始しました(#漫画『ヒストリエ』は彼に仕えた書記を主人公としています)。
 バルカン半島東部のトラキア全土を平定し小アジア(アナトリア半島)に上陸。前333年にイッソスの戦い【本試験H30】でアケメネス(アカイメネス)朝ペルシアの〈ダレイオス3世〉(ダーラヤワウ3世,在位前336~前330)を撃退【早・政経H31敗死させたわけではない】して,エジプトを征服。さらに前331年にアルベラの戦いで,ペルシアを滅ぼしインド北西部にまで進出し,各地にアレクサンドリア【本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】と命名した都市を建設。短期間で大帝国を築き上げました。
 大王は,ペルシアを攻略すると,ペルシア王の後継者と自称し,オリエント風の礼拝方式を取り入れるなど,ギリシア文明にオリエントの文明を導入しました。オリエント風の礼拝とは,自分を神としてあがめ(君主礼拝),ひざまずかせる礼(跪拝礼,プロスキュネシス)のことです。彼は,ポリスのギリシア人とは異なり,オリエントの文明を,格下に見ていなかったのです。

 しかし,大王はバビロンに帰還した後,宴(うたげ)の最中にハチに刺され,それがもとで32歳でこの世を去りました。遺言は「「最強の者が帝国を継承せよ!」。遺言通り,その広大な領土は後継者たちの過酷なぶんどり合戦となり(ディアドコイ戦争),結果的に〈セレウコス〉,〈アンティゴノス〉と〈プトレマイオスが〉,それぞれシリアからペルシアにかけて,マケドニア【本試験H22アルシャク(アルサケス)朝パルティアと戦っていない】,エジプトを統治する体制となりました。



バルカン半島東部のトラキア人
 バルカン半島東部のトラキア人の王国は〈アレクサンドロス〉によって支配下に置かれていましたが,〈アレクサンドロス〉の死後は,将軍〈リュシマコス〉(前360~前281)に支配されました。前279~前212/211年にかけてケルト人が進入しトラキアで国家を建設,独立後はトラキア人の支配層で内紛が起き,衰退に向かいます。


バルカン半島西部のイリュリア人
 バルカン半島西部のイリュリア人の一派は,アドリア海(イタリア半島とバルカン半島の間の海)の東岸に位置する,入り組んだダルマツィア海岸に拠点をもうけ海上交易を盛んに行い,山がちの地形で羊や山羊の牧畜を行い栄えました。アドリア海への進出をねらっていた共和政ローマによりイリュリア人の交易活動は“海賊行為”とされ,前219年には領土を制圧されました。


バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人 
 ドナウ川中流域の左岸(北部)のダキア人とゲタイ人は,〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けた後,それぞれ前300年頃から西方から進出したケルト人の支配下に入りました。


◆アレクサンドリアが地中海世界の経済・文化の中心地として栄えた
 〈アレクサンドロス〉大王の東方遠征の結果,地中海世界の経済・文化の中心はプトレマイオス朝エジプト【本試験H10】のアレクサンドリア【京都H22[2]】【本試験H10ヘレニズム文化の中心地か問う,本試験H12クレオパトラが建設したわけではない】をはじめとするオリエント世界に移りました。
 〈プトレマイオス1世〉が,自分が〈アレクサンドロス〉の正統な後継者であることを示そうと努めます。アレクサンドリア【本試験H4カイロではない】【本試験H16カイロではない,本試験H26】に王立の研究所【追H29】(ムセイオン【本試験H2天文学者プトレマイオスの創設ではない】【本試験H25】【追H29プトレマイオス朝による創建か問う】。ミュージアムの語源です)が建てられ,古代のあらゆる知識がおさめられていたという大図書館が建てられました。
 ムセイオンには以下のような学者が集められます。

・地球の全周(子午線の全長)【本試験H23】【本試験H8】【追H17ストラボンではない】を計算して図書館長となった〈エラトステネス〉(前276?~前194?) 【本試験H2医学研究者ではない】【本試験H23】【追H17】【慶文H30記】

・シチリア島のシラクサ出身【本試験H10】の浮力【本試験H2】・てこの原理・球体の求積で知られる〈アルキメデス〉(前287?~前212) 【本試験H2,本試験H10】

・平面幾何学【本試験H8天動説ではない】【追H29】のテキスト『原論』で知られる〈エウクレイデス〉(英語ではユークリッド,生没年不詳だが前300年頃に活躍) 【本試験H2,本試験H8】【追H17、H25ヒッポクラテスではない、H29平面幾何学か問う】それまでの数学を体系化し,平面幾何学を大成しました【追H17医学ではない】。

・地動説(太陽中心説) 【本試験H8平面幾何学ではない】を唱えた〈アリスタルコス〉【本試験H27】が知られています。


 アレクサンドリアの大図書館は,そののちローマの〈カエサル〉の攻撃などいくつもの戦争で被災し,収められていた70万巻のパピルス文書の多くはどこかへ失われてしまいました。
 これは現代でたとえるならば,ある日突然インターネット上のすべてのデータが失われてしまうほどのインパクトであったと言えましょう。いわば情報の“大絶滅”です。
 なおアレクサンドリアといえば約134メートルの高さを誇る大灯台があったことでも有名です。14世紀前半の地震で崩壊し,“世界七不思議”の一つに数えられます。
 東地中海の国際共通語であったギリシア語が,広く用いられていました。ギリシアの標準語をコイネー(共通語という意味)といい,のちに〈イエス〉(前4~後28)やその弟子の活動等を記録した『新約聖書』もこの言葉で書かれています。〈アレクサンドロス〉の東方遠征は,ギリシア語とともに様々な情報を東方に拡大させる役割を果たしました。

 〈アレクサンドロス大王〉の東方遠征から,前30年にプトレマイオス朝が滅びるまでを,ヘレニズム時代といいます。この時代にはギリシア人の文化が,小アジア,シリア,パレスチナ,エジプト,メソポタミア,イラン高原やその周辺部に広がり,〈アレクサンドロス大王〉の死後各地に成立した諸政権の支配層を中心にギリシア文化が受け入れられました。


◆ポリスは衰退し,ストア派の思想が流行した
 一方,ギリシアの諸ポリスは,〈フィリッポス2世〉の進出時のヘラス同盟以降,マケドニア王国の従属下に置かれていました(自治は認められましたが,マケドニア軍が駐留・監督していました)。
 諸ポリスは,大王の死をきっかけに独立をこころみましたが,アテネ(アテーナイ)は独立戦争(ラミア戦争)の後に少数の富裕層の支配する体制(寡頭制(かとうせい))となり,古代アテネ(アテーナイ)民主政の歴史はここに終止符が打たれました。
 ちなみにスパルタも前331年にマケドニアに対する反乱に失敗し,その後は衰退の一途をたどります。
 思想では,ポリスの中やギリシア人だけで通用する“井の中の蛙”のような考え方ではなく,世界市民主義(コスモポリタニズム) 【本試験H10ヘレニズム文化に関連するか問う】という全人類に通用するスケールの大きな思想に広がっていきました。狭いポリスの中で政治的な議論をする風潮よりも,個人的な内面を大切にする傾向は,〈ゼノン〉(426?~491) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるストア派(禁欲【本試験H3ヘレニズム時代か問う,本試験H10】を重んじる思想) 【本試験H10ヘレニズム文化の中で生まれたか問う】【本試験H17問題文の下線部】や〈エピクロス〉(前341~前270) 【セ試行 イオニアの自然哲学者ではない】によるエピクロス派【本試験H3ヘレニズム時代か問う】(精神的な快楽を重んじる思想)にあらわれています。特にストア派は,のちにローマ帝国時代にかけて一世を風靡(ふうび)し,紀元後2世紀には五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉【本試験H3】【本試験H17】は(後期)ストア派の思想家として,自分の信条などを記した『自省録』【本試験H3キリスト教的な倫理観があらわされた著作ではない】【本試験H17】をのこしています。
 ヘレニズム時代のギリシア彫刻として有名なのは,両腕を失った状態で発見された「ミロのヴィーナス」や,トロイア戦争を題材とした「ラオコーン」が有名です。

 このヘレニズム【東京H7[1]指定語句】【本試験H10】という言葉は,19世紀のドイツの歴史家〈ドロイゼン〉(1804~84)によって提唱された歴史用語で,暗黙のうちに“すぐれたヨーロッパのギリシア文化が,オリエントの文化に良い影響を与えたのだ”という前提に基づいたものでした(注)。
 現在では,ギリシアの影響を強く受けたのは支配者に限られ,大多数の住民は従来の伝統的な生活を送っていたことがわかっており,かつて考えられていたほど,ギリシアの文化がオリエントの文化と融合したわけではないという見解が一般的です。

(注) ある意味、19世紀のドイツ帝国主義を正当化する役割を果たした側面もあるのです。 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.34o。




●前200年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化②,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-①
 定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動地域間で統合された広域国家(古代帝国)が拡大していく。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合がすすむ。

(1) ユーラシア
 定住民と遊動民の交流を背景に,より広域な国家(古代帝国)が形成されていく。

 中央ユーラシアでは西からサルマタイ人,アラン人,大月(だいげっ)氏(し),烏孫(うそん),匈奴が,遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。

 中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が,東アジアの黄河・長江流域の諸侯と,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結んでいる。
 モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一した匈奴(きょうど)は,東アジアの黄河・長江流域の定住民による前漢(前202~後8)と対立し,内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ,交易関係を結ぶ。

 南アジアでは,マウリヤ朝(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一しているが,その後は中央ユーラシアの遊牧民の影響も受ける。

 ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中,イタリア半島の都市国家ローマが成長し,交易をめぐりカルタゴを滅ぼし,〈アレクサンドロス〉の後継国家であるエジプトのプトレマイオス朝(前305~前30)と,セレウコス朝シリア(前312~前63)を滅ぼし,地中海を取り囲むローマ帝国(前27~1453)を樹立する。
 ローマ帝国は,遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス朝パルティア(前247?~後224)と抗争する。

 ユーラシア大陸では東西交易が盛んとなり,陸路ではシルク=ロード(絲綢之(しちゅうの)路(みち);絹の道)が〈張騫(ちょうけん)〉(?~114)の鑿空の攻により平定されたとされる。
 また,海路では季節風(モンスーン)を利用して沿岸を船で伝う交易技術が紀元前後に発見される。
 交易の結節点にあたるアフリカ大陸東部沿海部や,ユーラシア大陸沿海部には,農耕と交易による経済的資源を押さえた勢力による港市国家が成立していくこととなる。


(2) アフリカ
 アフリカ北部では西からベルベル人やリブ人が遊牧生活を送り,カルタゴやローマ帝国と共存・競合関係にある。
 エチオピア高原では,ペルシア湾との交易ルートを押さえた勢力が政治的統合を進め,アクスム王国に発展する。
 農牧民エリアは,バンツー系の移動とともに拡大している。
 

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカではメキシコ高原南部のサポテカ文化や,マヤ文明が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部の沿岸地帯に,モチェ文化とナスカ文化が成長する。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は,サモア周辺で一旦止まっている。




●前200年~紀元前後のアメリカ

○前200年~紀元前後のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現①カナダ ②アメリカ合衆国

 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカ一帯には,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を営んでいます。
 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。



○前200年~紀元前後のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆マヤ地域では都市の規模が拡大する
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカル(1世紀頃~9世紀)やカラクムルといった都市が代表的です。
 紀元後250年までのマヤ文明は先古典期に分類されます(注)。

◆メキシコ南部のオアハカ盆地ではサポテカ人の都市文明が栄える
 オアハカ盆地のモンテ=アルバンを中心に,サポテカ人の都市文明が栄えます。
 前100~後200年のどこかで,中央アメリカ〔メソアメリカ〕地域の共通文化の一つである球技場が建設されています。

◆メキシコ高原中央部ではティオティワカンに都市文明が形成される
 メキシコ高原中央部では,前150年頃からテスココ湖の東部の都市ティオティワカンに,オルメカ文明の影響を受けた都市が発達。
 50km南にあったクィクィルコは,前50年のシトレ火山の噴火により衰退に向かいます。

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」



○前200年~紀元前後のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○前200年~紀元前後のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方では従来の神殿文化が再編されていく
 南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1)。
 社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。

 一つ目は,アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)です。
 モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 二つ目は,アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
 ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。


 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住地ができていますが,階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(注2)。

 その他,南アメリカ南東部のサバナ地帯や草原地帯には,狩猟採集民が生活しています。

(注1)モチェとナスカについては,関雄二「アンデス文明概説」・島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。





●前200年~紀元前後のオセアニア

○前200年~紀元前後のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
 彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。



○前200年~紀元前後のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●前200年~紀元前後の中央ユーラシア

 南ロシアでは,スキタイ人の後に勢力を拡大した騎馬遊牧民サルマタイ人が活躍しています。
 また,前3世紀半ばセレウコス朝から自立したアルシャク(アルサケス)朝パルティアは,急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(位123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。ギリシア文化の影響を受けますが,やがて公用語としてアケメネス朝ペルシアと同じアラム語を使用するなど,ギリシア人とは違うのだという自覚が高まっていくことになります。地中海で急拡大していたローマとは,メソポタミアをめぐる対立を繰り返すことになります。
中央ユーラシア東部のモンゴル高原で,騎馬遊牧民として初期に勢力を持っていたのは,匈奴(ションヌー,きょうど) 【本試験H12匈奴に文字はない】【本試験H18唐・北宋の時代ではない,本試験H19時期】や東胡(トンフー,とうこ)・月氏(ユエシー,げっし) 【本試験H19時期】の3大勢力です。
 騎馬遊牧民のライフスタイルは,定住農牧民の中国人からみると,「利を逐(お)うこと鳥が集まるごとく,困窮すれば瓦がくだけ雲が散るごとくに分散する」(『漢書』「匈奴伝」)のように見え,機動性の高い騎馬戦術が恐れられたとともに,早くからヒト・モノ・情報の交流が始まっていました。

 初め,匈奴は東胡と月氏は匈奴を支配していたのですが,秦の〈始皇帝〉即位の直後である前209年に匈奴の王となった〈冒頓単于)(ぼくとつぜんう、?~前174,在位 前209~前174) 【京都H20[2]】 【本試験H16,本試験H30】【追H25西晋を滅ぼしていない】【早・法H31】のときに強大化します。冒頓は,「バガトゥル」(勇士)の音訳と見られます。「単于」(ぜんう)【本試験H3ハン(汗)ではない,本試験H12(注を参照)】は「広くて大きい」という意味で,「天の子」と称して壮大な儀式を行い,天の神を最高神としてあがめる北アジアの遊牧民・狩猟民たちを納得させました。〈冒頓単于〉は,東の東胡を滅ぼし,西の月氏(げっし)【本試験H16】や北の丁零(ていれい)を撃退します。東胡はのちに,烏桓(うがん)や鮮卑(せんぴ)となります【共通一次 平1:匈奴が文字を使用していたか問う。もちろん使用していない】。
(注)2000年度本試験〔3〕問1 資料 「ある中国の史書は次のように記している(中略)。…彼らは家畜を置いながらあちこちに移動している。単于のもとに置かれた左右の賢王(けんおう)より以下,当戸(とうこ)までの地位にあるものは,それぞれ大は一万騎から小は数千騎に至る戦士を部下に持っていた。」これを読み,「文中の史書に記されている遊牧民集団について述べた文として正しいもの」を選ぶ問題。選択肢は,「①南方の宋と結んで遼を滅ぼした。②独自の文字を用いて記録を残した。③首都カラコルムを建設し,モンゴル高原全域を支配した。④黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けた。」。

 月氏は,匈奴の〈老上単于〉(位前174~前160)に負けて,一部が西に移動し,前130年頃にアム川の上流部に移動した集団は,中国の文献(『史記』や『漢書』)では大月氏(だいげっし)と呼ばれるようになりました。ちなみに残ったほうは小月氏と呼ばれました。
 丁零は前3世紀頃から活動していたトルコ系の遊牧民です。

 このようにして,匈奴は,現在のモンゴル高原を中心とする広い範囲を勢力下におきました。他部族からは「皮布税」などを徴収していました。
 匈奴【本試験H13吐蕃ではない】の〈冒頓単于〉は,前215年に秦の将軍〈蒙恬(もうてん)〉(?~前210,筆の発明者とされます【共通一次 平1:文字は「筆を用いて紙にかかれること」が秦代に普通になっていたか問う。「紙」はまだ一般的ではない】)の30万の軍によってオルドス地方(黄河が北にぐるっと曲がっているところに当たります)からの撤退を余儀なくされました。しかしその後,秦がたったの15年間という短期間で滅亡したすきを狙い,中国への進入を再度こころみます。

 前200年,匈奴【本試験H4北アジアを支配していたか問う,本試験H7】【本試験H28突厥ではない】は40万の兵で中国の前漢に攻め込みました【本試験H3漢と激しく戦ったか問う】。このとき前漢【本試験H7】の皇帝となっていた〈劉邦(高祖【本試験H7】【セA H30煬帝とのひっかけ】)〉(前247~前195,在位 前202~前195)は,32万の軍勢とともに白登山(はくとさん)で,〈冒頓単于〉に包囲されるという大ピンチに陥ります。武将が冒頓単于の皇后に賄賂をおくったことで,あやうく難を逃れましたが,多くの兵士が凍傷で指を失ったといわれます(白登山の戦い) 【早・政経H31敗北し、和親策をとったことを問う】。
 これにより〈冒頓単于〉は後漢に対して優位な条件をつきつけ,毎年中国の物産を贈るように要求しました。漢から匈奴に対する税(貢ぎ物)ですね。単于(ぜんう)というのは,匈奴の王の称号です。単于の称号を初めて名乗ったのは,〈冒頓単于〉の父である〈頭曼単于(とうまんぜんう)〉(?~前209)でした。

 アム川の上流部を中心に発展したバクトリア王国は,前145年頃に北方から遊牧民が南下して,衰退・滅亡しました。この遊牧民グループの正体がいったい何なのか,月氏(大月氏)説や,スキタイ人説,サカ人説などさまざまですが,定説はまだありません。
 大月氏は,バクトリア地方を5つに分けて支配し,紀元前後~1世紀にそのうちのひとつクシャーン(貴霜)が北インドに領土を拡大しました(クシャーナ朝)。
 
 タリム盆地のさらに南,チベット高原では,人々は高地でも活動できる家畜ヤクを放牧・遊牧したり,雪解け水がつくる扇状地などの限られた水場を利用して,灌漑農業をしたりしていました。厳しい環境の中で,人々は氏族にわかれて小規模で生活し,ボン教というシャーマニズムを信仰していました。

 なお,ユーラシア大陸の北東部の,北アメリカ大陸のアラスカ(ここには,エスキモー系のユピック人やイヌイット系のイヌピアック人,アリューシャン列島にはアレウト人が居住しています)にほど近いチュコト半島やカムチャツカ半島には,古シベリア諸語を話すチュクチ人やカムチャツカ人が,寒冷地の気候に適応した狩猟・採集生活を送っていました。また,アムール川の河口から,北海道の北にある樺太島にはニヴフ人(かつてはギリヤーク人といわれていました)が分布しています。





●前200年~紀元前後のアジア
○前200年~紀元前後のアジア 東アジア・東北アジア
○前200年~紀元前後のアジア  東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。

(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯前200年~紀元前後のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島では中国・朝鮮からの移住者の影響で,水稲耕作と青銅器・鉄器の製作を特徴とする弥生文化(やよいぶんか)が栄えていました。
 中国の歴史書である『漢書』には,「夫(そ)れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う」とあって,おおむね「当時の日本列島には100余りの小国(クニ)があって,楽浪郡に定期的に朝貢していた」という解釈がされます。
 農耕がはじまって富が蓄積されるようになり,支配層が各地に現れるようになっていたのです。また,朝鮮半島はユーラシア大陸の先進的な文明を受け入れる“窓口”でありましたから,特に西日本が当時の日本の中でも,より多くの情報やヒト・モノが大陸との間で交流される場所であったのです。

 北海道には水稲耕作は伝わらず続縄文文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。
 南西諸島にも水稲耕作は伝わらず貝塚文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。

・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現③中華人民共和国

◆官僚が出身地や血縁に関係なく採用され,法制度の整備により広域支配が実現した
 秦が滅び,前202年に〈劉邦〉(前202~前195)が楚の〈項羽〉(前232~前202)を倒して,前漢王朝(前202~後8)を建てました。〈劉邦〉の死後の称号は〈高祖〉(位前206~前195)です【本試験H29】。都は長安に置かれ,長安周辺の15郡では中央から官吏を地方に派遣して郡県制を実施するとともに,封建制も35郡で実施する郡国制【追H27前漢の代か問う】【本試験H16州県制ではない】がとられました【本試験H29】。秦のときに,郡「県」制による厳しい地方支配が失敗したことを,教訓にしたのです。
 税を徴収する対象となったのは,人口のほとんどを占める小規模な自営農民でした(注)。農産物で納める田租(でんそ),銅銭で納める人頭税・財産税の算賦(さんぷ),ほかに労働力を提供する徭役・兵役,市場での取引に課す市租がありました。
(注)渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986。

 次の〈景帝〉(前157~前141)は,土地を与え臣下にしていた諸侯【東京H29[1]指定語句】権力の力が強まることをおそれ,その支配権を削減しようとしました。前154年に,それに抵抗する呉楚七国の乱【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H26黄巣の乱とのひっかけ,H31時期(漢代か問う(正しい))】が起きますが,鎮圧後に実質的に郡県制に変更して中央集権体制を確立しました。彼のときには,〈高祖〉の功臣として高い位を与えられていた「劉邦集団」に属する特権階級(さまざまな出自の人々が含まれていました)が,新しい官僚層に取って代えられる動きもありました(注)。
(注)福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』64・65巻,p.11~p.22,2018.3。

 第7代(カウントの方法によっては第6代)の〈武帝〉(前141~前87) 【本試験H15節度使を設置していない】【追H30魚鱗図冊とは無関係,洪武帝とのひっかけ】【H27京都[2]】は,中央集権国家づくりを強力にすすめていきます【本試験H19洛陽に遷都していない】。
 まず年号(元号)をつくり,諸侯にも同じものを使わせました。また,青銅貨幣の五銖銭(ごしゅせん)が発行されました【本試験H22半両銭ではない,H29東周の時代ではない】。
 また,全国を州に分けてその長の刺史(しし)に,郡の太守・県の県令・長を取り締まらせました。そして,地方長官に将来官僚として使えそうな地方の有力者を推薦させる制度(郷挙里選(きょうきょりせん)) 【本試験H4唐の官吏は「郷挙里選制」によって選ばれ地方豪族出身者が多かったか問う,本試験H11「各地方で有力者が集まって投票を行い,官吏を推薦する制度」ではない(注)】【追H29九品官人法とのひっかけ】を本格的に実施しました。科目には,人間性を見る孝廉(こうれん),学問を見る賢良や文学がもうけられました。
 また,五経博士という職に〈董仲舒〉(とうちゅうじょ,前176頃~前104頃) 【追H9司馬遷,班固,鄭玄ではない、H19『五経正義』を編纂したのは孔頴達】を任命して教義を統一させ,彼の提案により儒教を国家の教学としました(それが〈董仲舒〉によるものだったのか,また儒教が国教といえる扱いとなったのは紀元前後ではないかという異論もあります) 【共通一次 平1】【本試験H13訓詁学を確立したわけではない】。五経【本試験H14『論語』は含まれない】は,『春秋』,『礼記』,『詩経』【本試験H14リード文の下線部・屈原の詩は収録されていない】【追H30魏晋南北朝時代ではない】,『書経』【京都H21[2]】【本試験H14リード文の下線部】,『易経』から成ります。
 〈武帝〉は豪族の大土地所有をやめさせるため,限田策(げんでんさく)を提唱しましたが,実施はされませんでした。ちょうど同じ頃共和政ローマでは〈グラックス兄弟〉が似たようなことをしています。漢の経済的な基盤は,5~6人の小家族による農業経営から成っており,彼らを保護する必要性が認識されていたのです。
(注)郷挙里選は,「①前漢の武帝の時には,この制度で官吏が推薦された」「③これは,地方長官が推薦した者を,朝廷が官吏として任用する制度であった」「④この制度によって,地方で勢力を持つ豪族の子弟が官吏となった」が正しい選択肢。

 また〈武帝〉は積極的に領域の拡大を図ります。

 西方:タリム盆地のオアシス諸都市を服属させることに成功。

 南方:秦から独立して政権を築いていた南越国【追H20滅ぼしたのが武帝か問う(後漢の光武帝,呉の孫権,唐の太宗ではない)】を滅ぼしヴェトナム北部へ進出。

 東方:朝鮮半島にあった衛氏朝鮮【本試験H13】【追H21後漢の光武帝が滅ぼしたのではない】【慶・法H30】(前2世紀に漢人〈衛満〉(えいまん)【本試験H30】が建国していた)を滅ぼして,前108に楽浪(らくろう)【本試験H13】・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の朝鮮四郡を設置【本試験H3武帝は,匈奴を倒し,その後これを分裂させたわけではない】。
 しかし,〈武帝〉の死後まもなく,臨屯と真番は前82年,玄菟は前75年に,住民の抵抗もあり廃止されました。

 広い範囲のさまざまな民族を支配する仕組みが,こうして中国でも確立したわけです。文化を共有する彼らは「中国人」「漢民族」としての意識を高めるようになり,〈武帝〉の代には歴史書『史記』【追H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)、H28『資治通鑑』とのひっかけ】【本試験H7時期(倭の五王が朝貢した時期ではない)】【本試験H31】【名古屋H31世紀と王朝を問う】が紀伝体(きでんたい,テーマ別の形式)【本試験H14編年体ではない】【追H21紀伝体か問う】【中央文H27記】【名古屋H31】により漢字で書かれ,〈司馬遷〉(しばせん,前135?~前93?) 【本試験H9後漢の歴史までは著していない】【本試験H31『史記』を著したか問う】【追H9董仲舒のひっかけ、H19】により編纂されました。伝説上の黄帝から前漢【本試験H9後漢までではない】の〈武帝〉に至るまでの歴代皇帝に関することは「本紀(ほんぎ)」に記されています【本試験H14始皇帝に関する事績が本紀に書かれているかを問う】。
 漢字のメリットは,読み方は地域によって様々でも,特定の字に特定の意味があるため,意味さえわかればコミュニケーションがとれるという点にあります。
 なお,〈司馬遷〉が宦官となったきっかけは,匈奴との戦いで敗れて捕虜になった友人の将軍〈李陵〉(りりょう,?~前74)をかばったことが〈武帝〉の逆鱗(げきりん)に触れ,宮刑(きゅうけい,宦官にされる刑)を受けたためです。ドン底に落とされた〈司馬遷〉ならではの人間への観察眼が豊かな『史書』は,その後に中国の歴代王朝によって編纂された歴史書とは異なる魅力を放っています。『史記』は〈司馬遷〉による個人作品でしたが,のちに正史(せいし)の一つとされ正統化されていきます。

 〈武帝〉【本試験H18光武帝ではない】の時代には,世界史上重要な一歩を踏み出した人物が現れます。西域に派遣された〈張騫〉(ちょうけん,?~前114) 【京都H21[2]】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】 【本試験H4前漢の人物か問う,本試験H12張角ではない。大秦国に派遣されたのは甘英】【本試験H21,H24】です。
 彼の切り開いたルートにより,ユーラシア大陸の中心部を東西に陸路で結ぶ“シルクロード”(絹の道)が開拓されました。以前から,より北方の“ステップ=ロード”(草原の道)による東西交流はありましたが,騎馬遊牧民の牛耳る世界であり,農牧民にとっては“死の領域”でありました。
 この新たなルート“シルクロード”を安全に行き来するには,モンゴル高原を拠点に北方の遊牧民たちを支配下に置いていた匈奴をなんとかしなければなりません。そこで〈張騫〉は,大月氏【本試験H24時期】と結んで匈奴を“挟み撃ち”にすることで,東西交易路の支配を狙いました。大月氏との同盟はなりませんでしたが,匈奴に敗れて西に逃げた月氏を追い,その途中にあったオアシス都市を従えることで,安全に通過することのできる東西交易路を切り開きました。これ以降,タリム盆地のオアシス都市,天山山脈の北の烏孫(うそん)【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】,さらに西の康居などをおさえるために西域都護(さいいきとご)【本試験H15節度使ではない】が置かれました。
 オアシス都市には,タリム盆地中央部の北にあり最盛期に10万人を越えた亀茲(きじ,クチャ)や,疏勒(そろく,カシュガル),沙車(ヤルカンド),玉(ぎょく)【早・法H31】の産地の于闐(うてん,コータン;ホータン【早・法H31】)などがありました。いずれも乾燥地帯であり,河川やオアシスも小規模だったので,必然的に小規模な都市国家となりました。
 さらに〈李広利〉(?~前90)を大宛(だいえん,フェルガナ) 【本試験H3『史記』大宛列伝の抜粋をよみ,大宛が定住農耕民であることを読み取る】に派遣し,汗血馬(かんけつば)という名馬を手に入れようとしました。

 〈武帝〉【追H20】は越(ベト)人の南越王国【追H20】を滅ぼし,9郡を設置しました。その南端の日南郡は,現在のフエと考えられています。
 前109年には,〈武帝〉により滇(てん)王国が滅ぼされました。これにより,内陸と紅河を結ぶ交易ルートは漢の支配下に入りました。

 一方,軍事費が増えて国家財政は苦しくなると,〈桑弘洋〉(前152~前80)の提案で,塩【追H27茶ではない】【共通一次 平1】【本試験H18】・鉄【共通一次 平1】・酒【共通一次 平1:茶ではない】【本試験H19,本試験H28砂糖ではない】の専売【追H27前漢であって後漢ではない】が実施されました。
 また,中小農民の生活安定を図るべく,物価の調整と安定【本試験H19】のために均輸法・平準法【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H24】【追H21秦代ではない,H30殷ではない】【H27京都[2]】が行われました。均輸法は,価格が下がっている時期に物資を国家が買っておき,価格が高騰した時に市場に販売するもの。均輸法は,価格が下がった物資を国家が買い,物資の不足により価格が高騰する地域に輸送して販売するもの。国家権力が商人の流通活動に介入したことで,商人の商売は“あがったり”になりました(このような経済現象を現在でも「民業圧迫」といいます)。

 この政策は,漢の財政基盤である5~6人の小家族の農業経営を保護し,商人や職人の活動を抑制したもので,功績を認められた〈桑弘洋〉は御史台(ぎょしだい)の長で,この時期に皇帝の側近としては従来の宰相(さいしょう)に代わりトップとみなされていた御史大夫(ぎょしたいふ)に任命されました。
 しかし,有力者に保護を求めた商人・職人や,国家が商業に関与することに対し儒学者からの反発も大きく,〈武帝〉の死後におこなわれた政策論争(塩鉄会議,前81)の結果,酒の専売は撤回されました。翌年〈桑弘洋〉は別件の政争によって処刑されています。官僚の〈桓寛〉は前60年代にこの議論を『塩鉄論』にまとめました。

 前1世紀後半には,次第に外戚(皇后の親族)や宦官(かんがん,皇帝につかえる去勢された男子)が政治に介入してくるようになります【本試験H14秦代ではない】。


・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮問題
 朝鮮半島には,亡命漢人の〈衛満〉(えいまん)による衛氏朝鮮が,臨屯(イムドゥン;りんとん)や真番(チンバン;しんばん)を支配下に置き拡大していました。当初は前漢も黙認していましたが,〈武帝〉は衛氏朝鮮を滅ぼし,衛氏朝鮮のあった場所に楽浪郡(らくろうぐん) 【京都H20[2]】【本試験H7時期(前漢代か問う)】【追H25秦が置いたのではない】【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】を置き,沃沮(オクチョ;よくそ)から高句麗にかけての地域には玄兎郡(げんとぐん)を置き,さらに臨屯郡(りんとんぐん),真番郡(しんばんぐん)【本試験H15時期(前2世紀),H29共通テスト試行 光武帝による設置ではない】の四郡(合わせて楽浪四郡と呼びます)を設置し,直接支配を目指しました。
 しかし,楽浪郡(らくろうぐん)以外は現地の首長が間接支配する形に変わっていき,前82年に臨屯郡,真番郡は廃止されました。

 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり;コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,勢力を拡大させていきました。





○前200年~紀元前後のアジア  東南アジア

 この時期になると,東南アジアとインド,さらに西のローマを結ぶ海のネットワーク(海の道,海のシルクロード)の姿が,だんだんと見えてくるようになります。 
 前2世紀末には,ヴェトナム中部に日南郡が置かれ,中国だけでなく,インドからも使者が訪れるようになっていました。
 中国にとって,東南アジアは「富」の宝庫でした。象牙,スズ(青銅器の原料)それに香辛料(スパイス)や,不思議な香りのする香料,ウミガメの甲羅や真珠。いずれも貴重な産物です。独特の香りのする竜脳という香木は,儀式において使用される貴重なものですが,熱帯雨林が原産です。前2世紀には,現在の広州(南越【追H20かつてのこの地方は「瘴癘(しょうれい)の地」とされ,「人々から恐れられる土地であった。瘴癘とは,熱帯・亜熱帯に生息する蚊が媒介する,マラリアの一種と考えられる。明末以降,沼沢や山林の開発が進み,人間の生活圏から蚊の生息地が減少すると,「瘴癘の地」としてのイメージは薄らいだ」】の都でした)で,熱帯雨林でしかとれないはずの竜脳が見つかっています。 船乗りたちが,船を乗り継ぎながら,ヴェトナム中部の日南郡から,メコン川下流を通り,マレー半島を陸で渡って,インドに向かっていたのです。




○前200年~紀元前後のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


 マウリヤ朝は,〈アショーカ王〉(位 前268~前232?) の死後に分裂しました。平和を愛するダルマの理念が重んじられて軍隊が弱体化したとか,仏教への寄進によって財政が破綻したとか,いくつも説がありますがハッキリとはわかりません。50年余りたって前180年頃に滅亡しました。次は,同じくパータリプトラに首都を置いたシュンガ朝(前180頃~前68頃)にかわりましたが,西北インドはバクトリアのギリシア人が支配していました。前68頃にシュンガ朝はカーンヴァ朝にとってかわられ,前23年頃滅亡しました。
 北インドの農牧民にとっての脅威はカイバル峠の北側の中央ユーラシアの勢力です。セレウコス朝シリアから,前255年頃にギリシア人が自立し,バクトリア王国が建国されていました。このバクトリアがマウリヤ朝崩壊のすきをついてガンダーラに進入し,インド=グリーク(ギリシア)朝を建国しました。その王〈メナンドロス1世〉(前342~前291)は,仏教の僧侶〈ナーガセーナ〉(前2世紀頃)と対談したといわれ,『ミリンダ王の問い』におさめられています。インド=ギリシア(グリーク)人は,円形の銀貨を発行し,ギリシアの神像がインドの文字(ブラーフミー文字など)とともに刻まれました。

 その後,前145年頃にアフガン系の遊牧民であるトハラ(大夏) 【本試験H18マウリヤ朝ではない】がバクトリア王国を滅ぼすと,とり残されたガンダーラ地方のギリシア人の中には仏教に改宗する者も現れました。
 さらに,そこに中央ユーラシアから大月氏が南下してきます。大月氏は,前2世紀後半に匈奴【本試験H7月氏ではない】に敗れた月氏【本試験H19時期】【本試験H7匈奴ではない】が,西方のバクトリアに移動して大月氏と呼び名を変えたものです。その大月氏が配下にしていた5つの諸侯のうちの一つ貴霜(クシャーナ族)が独立し,勢力を増し,紀元後1世紀には北インドに進入することになります。
 また,中央ユーラシアのスキタイ系の民族であるシャカ族は,前2世紀末~前1世紀初めにかけて西インドに南下し(インド=スキタイ人),前1世紀半ばにインド北西部一帯を支配しました。
 
 なお,カリンガはマウリヤ朝の分裂後に独立し,前1世紀にジャイナ教を保護した〈カーラヴェーラ〉のもとで栄えました。ガンジス地域のギリシア人や,デカン高原のサータヴァーハナ朝,南のタミル人と戦い勝利したという碑文が残っています。

 南アジアの最初の王朝は,前1世紀に成立したサータヴァーハナ朝(前1世紀~3世紀) 【追H20時期(14世紀ではない)】です。南アジアとは,ヴィンディヤ山脈よりも南のデカン高原一帯のこと。バラモンによる文献では「アーンドラ」族と呼ばれているので,アーンドラ朝ということもあります。1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。
 インド南端に近い地域では,タミル人が紀元前後にタミル語によりラブストーリーや戦争についてうたった古典文学(シャンガム文学)をのこしています。それによると当時そこには,チョーラ(南東部に流れるカーヴェリー川流域),パーンディヤ,チェーラの王国があって,抗争していたようです。チェーラはおそらくケーララ(インド南東部)のことです。

 仏教は,前3世紀に〈アショーカ〉王によりインド北西部に伝えられ,中央ユーラシアの「西域」(中国の漢人による呼び名)の都市国家は仏教を受け入れました。やがてインドや中央ユーラシア出身の僧侶が,中国に布教に訪れることになります。




○前200年~紀元前後のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン



◆ポエニ戦争でカルタゴに勝利したローマが東地中海に進出する
ローマが東地中海沿岸へ進出する

 この時代、「西アジア」にイタリア半島のローマが食い込むように拡大していきます。ローマは「ヨーロッパ」の国だから、「アジア」の歴史とは関係ないというのは、現代のわれわれによる「後知恵」。地理的に「西アジア」に進出していったローマの歩みを、ここでも一度確認しておきましょう。

 この時期のローマは第二次ポエニ戦争(前218~前201) 【本試験H14時期(前4世紀ではない)】で、北アフリカの現在のチュニジアに拠点を置くカルタゴと、地中海の交易の覇権をめぐり争っていました。
 その後ローマは第三次ポエニ戦争(前149~前146年)で,カルタゴを最終的に滅ぼします【本試験H22】。

 同じ頃,前148年にはマケドニア戦争で,マケドニアも属州としています。カルタゴとマケドニアの両方の地で活躍した〈スキピオ〉(小スキピオ,前185~前129)は,マケドニアで捕虜となった〈ポリュビオス〉(ポリビオス,前204?~前125?) 【追H21『アエネイス』の著者ではない】【東京H22[3]】【H30共通テスト試行 『歴史』から引用】【同志社H30記】を保護しました。〈ポリュビオス〉)はローマ史を書きながら政体の移り変わり(循環)について考えた『歴史』で知られます。彼はローマの国政には、コンスルという王政的要素【H30共通テスト試行】、元老院という貴族【H30共通テスト試行「僭主」ではない】的要素、民衆という民主制的要素【H30共通テスト試行】が存在しており、これら三者が互いに協調や牽制をしあってバランスをとっていると論じました。

 新たに獲得した属州は公有地でしたが,貴族(パトリキ)や騎士(エイクテス)などの有力者はこれを占有し,奴隷にはたらかせて小麦や果樹を栽培して大儲けしました。彼らが占有した大所領のことをラティフンディア【追H28中世西ヨーロッパではない】といいます。
 属州からブドウやオリーブといった安価な産品がイタリア半島に流れ込むようになると【本試験H7】,広い土地を持たない中小農民【本試験H7「ローマ軍の主力をなしてきた人々」】【追H25】は価格競争に負けて没落【本試験H7】【本試験H21】していきました。
 中小農民は,ローマの重装歩兵の主力【本試験H21】【追H25騎兵ではない】であったため,彼らが没落したことでローマ軍も弱体化していきます。都市には土地を失った者(無産市民)が流れ込み,彼らに穀物や娯楽を与える有力者が,力を付けていくようになります。また,ローマ周辺の公有地は借金の返済のために売られて私有地となり,土地を買い集めた富裕層(ふゆうそう)と中小農民との格差は開くばかりでした。

 そんな中,〈グラックス兄弟〉(兄ティベリウスは前162~前132,弟ガイウスは前153~前121)が改革をしますが【本試験H2富裕な階層の利害を代表するわけではない】【本試験H14時期(前4世紀ではない)】,貴族と無産市民との対立は止まりません。兄は前133年に護民官(ごみんかん)に就任し,リキニウス=セクスティウス法を復活させ,貴族の所領を土地のない無産市民に分けるべきだと主張しました。農民が土地を持ち自作農になっていれば,兵隊として国防を担う余裕ができるはずだと考えたのです。しかし,元老院を軽視したことから,大土地所有者である元老院内の保守派により殺されてしまいました。
 兄の遺志を受け継いだ弟〈ガイウス〉も前123年に護民官になりましたが,反対派に攻められて自殺しました。
 それ以降のローマは“内乱の1世紀” という混乱期に入ります。

 〈グラックス兄弟〉の改革が失敗した後,ローマの根本的な問題は解決されぬまま,大土地所有はエスカレートしていきました。しかし,そんなことでは中小農民は土地を失い,ローマ軍の兵士として活動できなくなってしまい,国防は手薄になってしまう。
 そこで,無産市民たちに給与・武器・食料を支給して軍隊とする有力者が現れるのです。この有力者,自分の財力で軍隊を編成するのですが,無産市民にとっては,自分たちに「兵隊」という仕事を与えてくれた有力者は“恩人”です。こうして,“親分”である有力者に,多くの無産市民が“子分”がつかえるようになると,やがて有力者どうしの争いが生まれ,ローマはますます混乱します。

 元老院の貴族と結んだ有力者グループを閥族派といい,民会の人々と結んだグループを平民派といいます。有力者は,貴族や貧民に武具を支給して味方につけ,自分のプライベートな武装集団(私兵【東京H29[1]指定語句】)を組織し,各地で起こる暴動を鎮圧しつつ,勢力を拡大させていきました。私兵には退役すると征服地が分け与えられ,ローマ市民権も与えられました。特に,前1世紀には,閥族派の〈スラ〉(前138~前78) が,平民派の〈マリウス〉(前157~前86)と権力をめぐり激しく衝突しました。

 前91~前88には「同盟市」に位置づけられた諸都市がローマ市民権【本試験H2】を求めて反乱を起こし(同盟市戦争【本試験H2ローマ市民権を要求して結束したか問う,本試験H7属州内諸都市ではない】【東京H29[1]指定語句】),前88~前64年には,東方のポントス王〈ミトリダテス6世〉による小アジアにおける反乱が勃発し,長期間にわたる戦争となりました。
 そんな中,前73年に剣奴の〈スパルタクス〉【追H26】が反乱を起こし(前73~前71),多数の奴隷【追H26コロヌスではない】とともにイタリア半島を縦断してローマは大混乱に陥ります。反乱後は奴隷の待遇は改善に向かい,奴隷制をゆるめて小作人制が導入されるようになっていきます。

 これらの危機に対し,鎮圧しているのは有力者の子弟で,有効な手が打てない元老院は支持を失っていくのは当然です。
 それに対し,有力者がめざす目的は,ローマの政治の主導権を握ることでした。そのために邪魔な存在である元老院を抑える必要がある。そこで,閥族派の〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【本試験H6元老院と同盟したスパルタクスを打倒していない,本試験H9オクタヴ(ママ)ィアヌスとの共同統治ではない】が平民派の〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6,本試験H7】【H30共通テスト試行「共和政期末の内戦を勝ち抜いたかに見えた」が、ローマの国政を「壊そうとしているという疑いをかけられ、暗殺されてしまった」人物を答える(オクタウィアヌスではない)】 が,コンスルの経歴を持つ富豪で軍人の〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6】を誘って,裏でローマの政治を動そうと団結しました(〈クラッスス〉はスパルタクスの乱を鎮圧した指揮官です)。
 この3者の提携関係をのちに,第一回三頭政治といいます。平民派の〈カエサル〉は財務官(クアエストル)や法務官(プラエトル)など,名だたる官職を経験したエリート軍人。前59年には執政官(コンスル)に上り詰めています。

 前58年に,〈カエサル〉(前100~前44) 【本試験H6元老院に接近していない】【本試験H31『ガリア戦記』を記したか問う】は,ガリア地方(現在のフランス) 【本試験H7ローマの全市民に市民権を与えていない,『ゲルマニア』を書いていない】に遠征して,小麦がたくさんとれるこの地方を属州とする手柄をたてました。この地方に分布していた人々の様子は,事細かに『ガリア戦記』【本試験H7『ゲルマニア』ではない】【本試験H31】【追H18ハンニバルとは無関係、H24ハンニバルによるものではない】に記されています(注)。
(注)当時〈カエサル〉が「ゲルマン人」と呼んだ人々は、「当時いわゆるゲルマン語系の言葉を用いていたとは今日考えられていない」。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。


 前53年にアルシャク(アルサケス)朝パルティア【本試験H6】との戦争への遠征中に〈クラッスス〉(前115~前53) 【本試験H6パルティアに遠征したのはポンペイウスではない】は,メソポタミア方面のカルラエ(現在のトルコ南東部)で戦死し,第一回三頭政治が崩れます。絶妙なバランスを保っていた三人の三角形は崩れ,残された2人による1対1の対立になってしまいました。
 〈ポンペイウス〉(前106~前48)は〈カエサル〉がガリア遠征で手柄をたてたことを嫌い,元老院側に寝返り,〈カエサル〉を排除しようとしました。しかし,意を決してローマに戻ってきた〈カエサル〉は,元老院の勢力とともに〈ポンペイウス〉を撃退することに成功。このときの〈カエサル〉の決意は,「賽(さい)は投げられた」という名言が表しています。〈カエサル〉は元老院議員が属州を私物化し,ローマの伝統である「共和政」にすがるも中小農民の没落になんら方策を打たなかった旧来の支配層が,ローマの危機をもたらした“悪の根源”だと考えていたのです。
 〈ポンペイウス〉が前48年にエジプトで暗殺されると,〈カエサル〉に歯向かう者は誰もいなくなりました。前45年にはインペラートル(将軍)の称号が与えられ,自らを“神”と崇(あが)めさせるようになり,誕生した月もその名をとって〈ユリウス〉(英語のJulyの語源)と呼ばせました。暦の制定にあたってはエジプトの太陽暦をローマに導入し,自ら名をとってユリウス暦【本試験H2太陽暦から発達したか問う】【本試験H23グレゴリオ暦とのひっかけ】とし,従来のメソポタミア由来の太陰太陽暦(たいいんたいようれき)に代えました。この暦はのちにローマ教会がうるう年を修正し,現在もつかわれているグレゴリウス暦となっています。日本で「西暦」といえばこの暦のことを指します。

 〈カエサル〉は元老院を軽視し,独裁官(ディクタートル)として独裁政治をおこないましたが,ローマの伝統である共和政を支持する〈カッシウス〉(前87~前42)らのグループににらまれ,〈ポンペイウス〉像の前で前44年に暗殺されてしまいます。
 暗殺グループの一人の顔を見て,「〈ブルートゥス〉,お前もと言ったというセリフは,特にイギリスの劇作家〈シェイクスピア〉(1564~1616)の劇『ジュリウス=シーザー(ユリウス=カエサルの英語読み)』のセリフ「Et tū, Brūte? Then fall, Caesar!」(エト トゥー ブルーテ?)で有名です。〈ブルートゥス〉(前85~前42)は〈カエサル〉に父親代わりとして育てられた人物であり,〈カエサル〉は「ブルートゥスまでが暗殺に加わっているというなら,もう仕方ない」と諦めたのです。


 さて,〈カエサル〉【本試験H15ポンペイウスではない】亡き後のローマでは,〈オクタウィアヌス〉(前63~後14) 【追H26】【本試験H17ローマ法大全を編纂していない】【H30共通テスト試行 暗殺されていない(カエサルとのひっかけ)】とカエサルの部下〈アントニウス〉(前83~前30) 【追H26ハドリアヌスではない】【本試験H4プトレマイオス朝を滅ぼしていない,本試験H6レピドゥスではない】と,政治家の〈レピドゥス〉(前90~前13) 【本試験H6アントニウスとのひっかけ】 【本試験H15クラッススではない】が,正式に「国家再建3人委員会」に任命され,政治を立て直そうとしました(第二回三頭政治【追H26】)。国家はいま緊急事態であるとして,共和政を維持しようとするグループを弾圧し,国家権力を強めようとしたのです。
 〈オクタウィアヌス〉の父〈ガイウス〉は,そこまで名門の家柄ではありませんでしたが,母が〈カエサル〉の姪(めい)でした。つまり,〈カエサル〉は〈オクタウィアヌス〉にとって大伯父(おおおじ)にあたります。早くから〈カエサル〉に才能を見出され,相続人に指名されたのでした。〈オクタウィアヌス〉はイタリア半島以西,〈アントニウス〉は東方の属州,〈レピドゥス〉は北アフリカを担当としましたが,その後すぐに内乱となり,反旗をひるがえした〈レピドゥス〉を失脚させた〈オクタウィアヌス〉と,〈アントニウス〉との一騎打ちになりました。当時,〈オクタウィアヌス〉を擁護し,〈アントニウス〉を「独裁者になるおそれがある」と批判したのは,雄弁家として名高い〈キケロ〉(前106~前43) 【本試験H17ローマ建国史は著していない】【追H29『ガリア戦記』を著していない】【法政法H28記】です。

 一方,〈アントニウス〉【本試験H4オクタウィアヌスとのひっかけ,本試験H6レピドゥスではない】【本試験H29】は,プトレマイオス朝エジプトの女王〈クレオパトラ7世〉(前69~前30) 【追H26アメンホテプ4世ではない】【本試験H4,本試験H6「エジプトの女王」,本試験H12アレクサンドリアを建設していない】【立教文H28記】と関係を深め【本試験H15「協力関係」にあったかを問う】,ローマの属州を与えてしまいますが,結局前31年にアクティウムの海戦【東京H13[1]指定語句】【本試験H17カイロネイアの戦いとのひっかけ,本試験H29,本試験H31サラミスの海戦とのひっかけ】で〈オクタウィアヌス〉【本試験H31テミストクレスではない】に敗れました【本試験H29勝っていない】。アクティウムというのは,エジプト沖ではなくて,ギリシアのペロポネソス半島沖です。
 〈アントニウス〉は〈クレオパトラ〉とともにここに海軍を集結させていたのですが,緒戦で「負けた」と判断した〈クレオパトラ〉が戦線を離脱し,〈アントニウス〉も慌ててそれを追いかけると,取り残された海軍は〈オクタウィアヌス〉軍によって全滅してしまいました。アレクサンドリアに逃げた〈アントニウス〉には,“女を追いかけて逃げた”という悪評の立つ中,〈クレオパトラ〉が死んだという話を聞き,前30年に自殺を図ります。最期は,実は死んでいなかった〈クレオパトラ〉の腕の中で迎えたと言われています。その〈クレオパトラ〉も,前30年にコブラの毒で自殺しました。こうして,プトレマイオス朝エジプトは滅び【本試験H4】,〈オクタウィアヌス〉による地中海統一が成し遂げられたのです。地中海はローマの内海となり,“我らが海(マーレ=ノストルム)”と讃えられました。

 〈アレクサンドロス大王〉の後継者の建てた国は,これで全てなくなったので,東方遠征以来の「ヘレニズム時代」の終わりとして区分することもできます(ヘレニズム時代とは,19世紀のドイツ人歴史学者〈ドロイゼン〉(1808~84)の用語です)。



◆内乱を終わらせた〈オクタウィアヌス〉が帝国全体の統治権を獲得する
一人の支配者の全ローマ支配を元老院が認めた
 エジプトからローマに凱旋した〈オクタウィアヌス〉(前63~前14、77歳という長生き)は,内乱中に手にしていた軍隊の指揮権をいったん元老院(=国家)に返したものの,前27年に元老院がアウグストゥス(尊厳者) 【追H27時期を問う】 【本試験H3,本試験H6】という称号を彼に与え,多くの属州の支配を任せたので、再び軍隊の指揮権を確保しました。アウグストゥスの称号はつまり,死後は神として礼拝される存在になるということです。
 軍隊の指揮権(インペラートル) 【早・政経H31「市民の中の第一人者」ではない】を手にした彼は、管轄する属州に自分の代理人を総督や軍団司令官を送り込みました。
 またさらに、元老院の管轄する属州における総督を選ぶ権利(人事権)も手に入れたことで、帝国全体の統治権を一挙におさめたのです。
 なお、コンスル(執政官)、護民官(トリブヌス=プレビス)、最高神祇官(じんぎかん、ポンティフェクス=マクシムス)の役職も手に入れています。

 一見独裁者のようですが,〈オクタウィアヌス〉は「君主のようにふるまえば,〈カエサル〉のように共和政を重んじるグループに目をつけられ,暗殺されるかもしれない。形の上では,自分は「市民のうちの一人」ということにしておこう」と考えていました。
 しかも,大土地所有をする名だたる有力者の集まる元老院を敵に回すのは,現実的ではありません。そこで,アウグストゥス(亡くなったら“神”になる神聖な存在)が,あくまで元老院と協調して広大なローマの領土を支配する元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3ドミナートゥスではない】という体制が成立したのです【本試験H9「名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重するものだった」か問う】【H29共通テスト試行 ローマ皇帝(アウグストゥスからネロまで)の系図】【追H25テオドシウス帝のときではない】。

 また、後継者は彼の私的な相続人(〈ティベリウス〉(位14~37))に受け継がれ、ローマは「王朝」の支配する国家となっていきます。

 ただ,ローマの地方支配はゆるやかで,行政の大部分は自治の与えられた地方の都市に任せられていました。ローマは中国と比較しても役人が少なく,公共建築や土木請負や徴税請負などは民間に請け負われていました。ケルト人の定住都市に軍団を駐屯(ちゅうとん)させることでロンディニウム(現在のイギリス・ロンドン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,コローニア=アグリッピナ(現ドイツ・ケルン),ウィンドボナ(現オーストリア・ウィーン) 【本試験H2ローマの都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】,ルテティア(現フランス・パリ【東京H14[3]】) 【本試験H2ローマが建設した都市か問う】【本試験H16ギリシア人の植民市ではない】など,現在にまで残る都市が建設されました。



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・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア、⑪ヨルダン

 この時期、ペルシア湾岸の交易が現在のバーレーン〔バハレーン〕や、その近くの内陸都市ゲッラなどで栄えています。
 ペルシア湾と地中海・南アラビアを結ぶ隊商路の結節点にあったゲッラには、南アラビアのマイーンの商人や、シリアの現・ヨルダンのペトラと交易を行っていたようです(注1)。

 また、現在のイラクにあるカラクス=スパシヌーという都市も、バハレーン、オマーンと強い結びつきを持ち交易で栄え、前2世紀後半にセレウコス朝のサトラップのアラブ人〈ヒュスパオシネス〉が一時独立し、カラケーネー王国を成立させたほどです(注2)。その後パルティアの宗主権の下で半独立状態となります。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.43。
(注2) ペルシア湾の湾頭に位置することから、セレウコス朝のエリュトラー海州の拠点でした。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.44。


・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ

 ユダヤ人はバビロン捕囚から解放されてパレスチナに帰ってからも,アケメネス〔アカイメネス〕朝,さらに〈アレクサンドロス大王〉の支配を受けました。
 続いて〈アレクサンドロス〉の後継者によるセレウコス朝シリアの支配下に入りました。セレウコス朝の〈アンティオコス4世〉はユダヤ教を禁止し,イェルサレムのヤハウェ神殿にギリシア神話の主神のゼウス像を建てるというギリシア化政策を強行。
 これに対し,前166年にハスモン家の〈ユダス=マカバイオス〉(?~前161頃)による反乱(マカベア戦争)が起きて,前140年頃にはハスモン朝として独立を果たしました。

 しかし,第一回三頭政治のメンバーの一人だった〈ポンペイウス〉(前106~前48) 【早・法H31】が,前64年にセレウコス朝を破り【追H25セレウコス朝はマケドニアに滅ぼされたのではない】【早・政経H31クラッスス、マリウス、キケロではない】,前63年にハスモン朝を支配下に置きました。

 こうしてパレスチナにまで勢力範囲を広げた共和政ローマは,直接パレスチナを支配せず,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ大王〉の厳しい支配の中で,ユダヤ人の中からは様々な意見が生まれます。そのような中で,〈イエス〉(前6?4?~後30) 【本試験H12キリスト教の始祖かを問う】【本試験H19時期】がベツレヘムで誕生したのです。
 〈イエス〉の生誕地とされる場所には聖誕教会が建設されています(◆世界文化遺産「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」,2012(危機遺産))。


・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)はセレウコス朝シリアの支配下にありましたが,前189年にセレウコス朝がローマ軍に敗れたことをきっかけに,アルメニア人の〈アルタシェス1世〉(位前189~前160)が独立し,ローマの支援を受けてアナトリア半島の付け根からカスピ海の南東にかけてアルメニア王国(アルタシェス朝)を建てました。その後,ローマとパルティアの狭間に置かれながらも,交易の拠点として栄えました。〈ティグラン2世〉(位前95~前56)のときが最大領域です。しかし〈ティグラン2世〉はローマ軍の進出に苦しみ,次代の王はパルティア王の進出を受けます。アルメニア王国はローマとパルティアの間の“クッション”(緩衝)的な存在となり,紀元後6年には滅亡しました(注)。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.33-35,38-39。





●前200年~紀元前後のアフリカ

 地図を見ると,地中海とインド洋の間には陸地があり,一番狭くなっている部分をスエズ地峡といいます。首の皮一枚でユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながっている格好です。
 スエズ地峡を超えると,アラビア半島の南側に紅海があって,そこを南東に通り抜ければ,インド洋(アラビア海)に出ることができます。ナイル川から紅海アケメネス〔アカイメネス〕朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉の建設した運河が存在したといわれていますが,クレオパトラの時代にはすでに泥に埋まってしまっていたようです。




○前200年~紀元前後のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 紅海は,地中海とインド洋を結ぶ重要な「水路」です。前120年頃,エチオピア高原の北部アクスム【東京H14[3]】を都としてアクスム王国が建てられました【東京H14[3]「ローマの勢力が後退した機をとらえて,紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国」の首都を答える】【本試験H24ザンベジ川の南ではない】。
 アラビア半島のアフロ=アジア語族セム語派の(アフロ=アジア語族)による国家といわれ,のちにキリスト教を受け入れました。エチオピア正教会はカルケドン公会議で異端とされた単性論ではありませんが,451年のカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないので非カルケドン派ともいわれます。21世紀の今でもキリスト教が多くの国民に信仰されています。おそらく,ローマ帝国との関係を良くするための政策だったのでしょう。
 エチオピア高原はコーヒーの原産地【本試験H11アメリカ大陸は原産地ではない】でもあり,カッファ地方がその語源。伝説では〈カルディ〉というヤギ飼いが,ヤギの食べている赤い実を口に含んだところカフェインの刺激に驚き,人づてに実を入手した修道士が栽培を初め,実を煎じて飲むようになったということです。紅海から積み出され,アラビア半島南部のモカ(ムハー)からアラビア商人によって運ばれたため,その名はイエメン高地で栽培される品種「モカコーヒー」という名前に残っています。

 アクスム王国は文字も持ち,貨幣を鋳造し,巨大な石柱群(ステッレ)は世界遺産になっています。近くには,『旧約聖書』にも登場する,南アラビアの〈シバの女王〉の浴槽とされる物も見ることができます。伝説上の人物なのですが,イスラエル(ヘブライ)王国の王〈ソロモン〉(位 前961?~前922?)を訪れ,金や宝石,乳香や白檀(香料)を贈ったとされています。エチオピアでは,この2人の子が,アクスム王国の初代の王〈メネリク1世〉となったという言い伝えがあります。インディ=ジョーンズの映画で有名になった「失われたアーク(モーセの十戒の記された石版が収められているといわれる)」は,この〈メネリク〉が獲得し,その力で王になったと言われているんですよ。現在もエチオピアのシオンのマリア教会の礼拝堂で保管されているといわれ,1年に1度だけティムカットというお祭りのときに,一般公開されます。
 さて,このアクスム王国はインドとも交易をしていました。地中海~エジプト~紅海~インド洋を結ぶ海の道の交易ルートの重要な拠点だったのです。アクスム王国はアラビア半島の南端のイエメンも支配し,黄金・奴隷や,アフリカの動物の象牙・サイの角・カバの革などを輸出して栄えました。




○前200年~紀元前後のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ




○前200年~紀元前後のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン




○前200年~紀元前後のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 ニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、前250~後50年の層の集落で、鉄利用後と魚など水産資源利用の跡が残されています。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○前200年~紀元前後のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


 エジプトは〈アレクサンドロス大王〉の死後,プトレマイオス朝エジプト(前306~前30)により支配されていました。
 プトレマイオス朝は伝統的なファラオとしてエジプトの信仰を保護しつつ,〈アレクサンドロス〉の後継者として支配の正統化を図るため,ギリシア文化やムセイオンにおける学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました。

 一時,フェニキア人のカルタゴと結んで共和政ローマと対立しましたが,カルタゴが第三回ポエニ戦争で滅ぶと,共和政ローマによる進出の危険にさらされました。
 そこで,女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30)は共和政ローマの政治家〈カエサル〉,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となりました。






●前200年~紀元前後のヨーロッパ

○前200年~紀元前後の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


ローマの将軍カエサルがケルト人の世界を征服
 前8世紀頃以降,「ケルト人」と後に総称されることになる民族により,鉄器文化であるラ=テーヌ文化が生み出されました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。

 しかし前58年~前51年のガリア戦争で,共和政ローマの政治家・軍人〈カエサル〉(前100~前44)により全ガリア【セA H30ルーマニアとは無関係】地域がローマによって征服され,属州となりました。

 〈カエサル〉は征服地の住民を捕虜や奴隷とし、物品を略奪、従う人々には金をばらまくことで支配を確立しました。
 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれました。


 バルト海東岸には,バルト語派のバルト人が定住していましたが,前1世紀頃からフィン=ウゴル語(現在のフィンランド語やハンガリー語がこれに属する)のリーヴ人が,フィンランドの南(フィンランド湾の南)のエストニアに移動してきました。この地はリヴォニアといわれるようになります。
イベリア半島は第二次ポエニ戦争(前208~前201)中に共和政ローマの属州【東京H11[1]指定語句(イベリア半島史について)】(ヒスパニア属州)となり,ローマは次第に半島内陸部にも進出していきました。イベリア半島西部のルシタニア人,中央部のケルティベリア人が倒され,前133年にはイベリア半島支配が確立されました。イベリア半島からは穀物・鉱産物が大量に輸出され穀物価格が下落したことが,共和政ローマの中小農民の生活に打撃を与え「内乱の1世紀」をもたらしたとみられます。その後は〈カエサル〉や〈アウグストゥス〉による支配を受けます。〈アウグストゥス〉の時には,イベリア半島北部のカンタブリア人との戦争が起きています。
 このときイベリア半島北部のバスク人(インド=ヨーロッパ語族ではない,系統不明の言語)はローマ側につき,自治がゆるされていました。この時期以降,バスク人を除くイベリア半島の住民は,ローマ文化の影響を強く受けていくことになります。


・前200年~紀元前語のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー

 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれました(注)。

(注) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。




○前200年~紀元前後のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆バルカン半島東部ではトラキア人が活動した
 前300年頃から約2世紀はケルト人の支配を受けた後,首長〈ブレビスタ〉(前111?~前44?)が一時期ドナウ川河口のゲタイ人とトラキア人を合わせた王国を建てましたが,前44年頃に王は暗殺され,トラキア人国家は分裂。そんな中ローマ帝国の〈オクタウィアヌス〉が前28年にドナウ川の右岸(南側)を征服し,紀元後46年には属州トラキアとなりました。ちなみに,前73年にローマに対し奴隷反乱を起こした剣奴の〈スパルタクス〉(?~前71)は,トラキア人だったといわれます。


◆バルカン半島西部ではイリュリア人がアドリア海の交易に従事した
 バルカン半島西部のイリュリア人は,またアドリア海沿岸で交易活動に従事しイリュリア王国を築いていましたが,バルカン半島と東地中海への進出をねらう共和政ローマに目を付けられ,前229~前168年にかけて戦われたイリュリア戦争の結果,共和政ローマに制圧されました。
 イリュリア王国の南半は共和政ローマの保護領になり,その周辺も含め前32年から前27年頃にかけてイリュリクム属州に編入されました。


◆バルカン半島北部ではゲタイ人・ダキア人がローマの進出を受けた
 現在のセルビアとブルガリアの地域には,ドナウ川下流のゲタイ人を撃退した後に,属州モエシアを置きました。
 さらに共和政ローマは前33年に,ドナウ川流域に属州パンノニアを置きました。


◆バルカン半島南部のマケドニアはローマに敗れた
マケドニア王国はローマに敗れて,前148年に属州マケドニアが置かれました。


●紀元前後~200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化③,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-②
 定住民・遊動民の交流を背景に,両者の活動域の間を中心につくられた広域国家(古代帝国)が,広域地域ごとに特色を発展させていく。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに,新たな担い手により各地で政治的な統合が発展する。

(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸の東部では,東南アジア大陸部で政治的な統合がすすみ,インドシナ半島南東部にオーストロアジア語族クメール人の扶南や,オーストロネシア語派チャム人のチャンパー【東京H30[3]】といった港市国家も出現。
 東アジアでは,中国に後漢(ごかん)王朝が栄える。

 ユーラシア大陸の中央部には西アジアのパルティアと,中央ユーラシアから南アジアに進出したクシャーナ朝東西交易路(シルク=ロード)のオアシス国家との中継交易で栄える。

 ユーラシア大陸西部ではローマ帝国(前27~1453)が「ローマの平和」といわれる安定的な支配を実現する。
  
 これら定住農牧民地帯を支配した「古代帝国」は,国家機構や理念を整備して広域を支配するが,相次ぐ戦争と開発により衰退に向かうことになる。

(2) アフリカ
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。
 また,この時期には東南アジアの島しょ部からオーストロネシア語族のマレー人がアウトリガー=カヌーによってインド洋を横断し,マダガスカル島に到達したとみられる。

(3) 南北アメリカ
 北アメリカ大陸では南西部にバスケット=メーカー文化(トウモロコシ農耕),中央アメリカにはメキシコ高原ではトウモロコシ農耕民の文化,南アメリカ北部にはキャッサバ農耕民の文化が発達。
 中央アメリカでは,ティオティワカン文明(メキシコ高原),サポテカ文明(オアハカ渓谷),マヤ地域の都市国家群が栄える。
 南アメリカ北西沿岸部にモチェ文化で政治的な統合が発展し,神殿建造物がつくられる。

(4) オセアニア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人も,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつある。





●紀元前後~200年のアメリカ

○紀元前後~200年のアメリカ  北アメリカ

 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。


 北アメリカ各地では,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせて狩猟・採集を基盤とする生活を営んでいます。
 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○紀元前後~200年のアメリカ  中央アメリカ
メキシコ高原のティオティワカンの影響力が強まる
◆マヤ地域では神殿を中心とする都市が大規模化している
 中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカルやカラクムルといった都市が代表的です。
 紀元後250年までのマヤ文明は,先古典期に分類されます (注)。前1世紀には「長期暦」という種類の暦法が考案されていました。

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
 この時期のマヤ文明は,先古典期に区分され(前2000年~前250),さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて,小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
 メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明がモンテ=アルバンを中心に栄えます。

◆メキシコ高原中央部では,ティオティワカンに都市文明が形成される
ティオティワカン
 紀元の直前頃から後250年頃までに階段状ピラミッドをともなう大都市ティオティワカン(前150~後650)が出現。
 「死者の道〔死者の大通り〕」は,北に対して東に15度25分だけ正確にズラして建設され,8月12日または13日と,4月29日または30日に太陽がちょうど真上を通るようになっています。おそらくもともと太陽の通り道に祭祀の対象があって,それをもとにして都市が計画されたと考えられています。
「死者の道」の北方に,巨大な「月のピラミッド」が100年以降に建設されていきます。
 サンフアン川をはさんで南方にはケツァルコアトルの神殿が,後2世紀以降に建設され,周囲にはエリート層の住居跡もつくられていきます。

 ティオティワカンの信仰は多神教で,水の神トラロック,火の神ウエウエテオトル,人の皮を剥ぐ神シペ=トテク,羽毛のあるヘビ型の神ケツァルコアトル(「羽毛のある」という意味)が信仰され,のちのアステカ王国〔メシーカ〕にまで継承されます。
 装飾品などに貝殻が多く使用されており,中央アメリカの広範囲に交易ネットワークを形成していたとみられます。ティオティワカンは黒曜石の山地も近く,当方のユカタン半島のマヤ諸民族や,南方のオアハカ盆地のサポテカ人にも,影響が残っています。ただ,この「影響」が軍事的な征服を指すのか,文化的な影響に留まるのかをめぐっては,様々な説があります。

 ティオティワカンの50km南のクィクィルコは,シトレ火山が200年頃に噴火し,壊滅しました(注)。ティオティワカンの火の神ウエウエテオトルなどに,クィクィルコの文化の影響がみられるという説もあります。

チョルーラ
 ティオティワカン南方のチョルーラは,紀元1世紀以降,ティオティワカンに対して独立を維持します。当時のメキシコ高原のナンバー2の勢力です。

(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.50。


○紀元前後~200年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島



○紀元前後~200年のアメリカ  南アメリカ
アンデスのナスカ,モチェに政治的統合すすむ
◆アンデス地方では沿岸部にナスカ,モチェが栄える
ナスカ,モチェ
 南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが,紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1)。
 社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は,あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。

 一つ目は,アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)です。
 モチェでは人々の階層化もみられ,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 二つ目は,アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
 ナスカといえば「地上絵」ですが,当初から地上絵が描かれていたわけではなく,当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。



◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土です。しかし前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が開発されています。





●紀元前後~200年のオセアニア

○紀元前後~200年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつあります。



○紀元前後~200年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●紀元前後~200年の中央ユーラシア

◆モンゴル高原では鮮卑の遊牧帝国が勢力を拡大する
 紀元後1世紀後半~2世紀に,黒海の北岸にアラン人という騎馬遊牧民が出現します。サルマタイ人の支配域よりも東方です。彼らはローマの歴史書だけでなく,中国の史書に初めて登場する西ユーラシアの騎馬遊牧民です(『魏志』西戎伝,『後漢書』に阿蘭として登場します)。言語的にはイラン系です。
(注)アラン人はサルマタイ人(前4~後4)から分かれた民族グループ。サルマタイはのちに,アオルソイ,シラケス,王族サルマタイ,ロークソラノイ,イアジュゲス,アランに分かれていました。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.243。


 モンゴル高原では,匈奴の一族〈日逐王比〉が単于に即位できなかったことから,南匈奴を率いて漢に服属し〈呼韓邪単于〉(こかんやぜんう,位48~55)を名乗りました。これにより匈奴は南北に分裂し,衰退することになります。そのうち,北匈奴の勢力10万戸余りを吸収し,東方から移動してきたのが,東胡の末裔といわれる鮮卑です。
2世紀中頃,後漢の〈桓帝〉の代には,〈檀石槐〉(だんせきかい)が鮮卑の族長となり,後漢を攻め,東の夫余(ふよ),西の烏孫(うそん)【本試験H20キルギスに滅ぼされていない】,北のテュルク系の丁零を討伐して,勢力を拡大しました。
 中国で黄巾の乱が起きると,戦乱を逃れた中国人の中には,鮮卑のもとに移動するものも現れ,中国文化の影響を受けるようになっていきました。

 中央ユーラシアの中央部では,バクトリアを拠点にクシャーナ朝が東西交易の利を得て栄えています。

 中央ユーラシア北方に広がる,針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ地帯(夏の間だけコケが生える地帯)の人々が,狩猟採集やトナカイ遊牧を行っていました。また,バルト海沿岸にはフィン人やサーミ人,北極海沿岸内陸部にはコミ人などのウラル語族フィン・ウゴル語派の民族です。






●紀元前後~200年のアジア

○紀元前後~200年のアジア  東アジア・東北アジア
○紀元前後~200年のアジア  東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が生活しています。このうち,南部にはツングース語系の〈朱蒙〉が建国したといわれる高句(こうく)麗(り)(紀元前後~668)が台頭します。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯紀元前後~200年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現①日本
◆弥生時代の日本では政治的な統一が進み,中国の皇帝への使いも送られた
 このころの日本列島は,弥生(やよい)文化の時期にあたります。中国史料では倭(わ)と呼ばれていましたが,統一した国家があったわけではなく,小国(クニ)にわかれて互いに抗争していたとみられます。稲作により食糧生産が増えると,その取り分をめぐる争いが激しくなっていったのです。近畿地方では銅鐸,中国地方では銅剣,九州北部には銅矛・銅戈(どうか)がみつかっていて,その形状の違いからこれらの地域ごとに何らかの政治的なまとまりがあったのではないかと考えられています。
 中国の後漢(ごかん)王朝の〈光武(こうぶ)帝(てい)〉最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に「建武中元二年,倭の奴国・・・光武賜ふに印綬を以てす」と記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。

 『漢書』が「安帝の永初元年,倭国王帥升等,・・・生口百六十人を献じ・・・」と記録するように,107年には倭国の王〈帥升〉(生没年不明)が,奴隷(=生口)160人を皇帝に献上したのだといいます。この〈帥升〉は一般には「すいしょう」と読むとされていて,日本史上で初めて実名の記録がのこっている人物ということになります。
 その後,2世紀後半に,小さな国家どうしが争う大規模な戦乱があったと,『漢書』は伝えています(倭国大乱(わこくたいらん)。「桓霊の間」に起きたというので,2世紀後半ということがわかるのです。各地には,防御的機能を備えた高地性集落や環濠集落がつくられた跡が残っています。交易ルートをめぐり,日本列島のさまざまな勢力が,朝鮮半島の勢力と関係を持っていたとみられます。

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
 前漢末期(前202~後8)において,讖緯説(しんいせつ)【本試験H16】という思想を用いて実権を握ったのは外戚の〈王莽〉(おうもう,漢字の「モウ」の「大」の部分は本当は「犬」,前45~後23) 【京都H21[2]】【追H9前漢のあとをうけた王朝か問う,本試験H12,H30王建とのひっかけ】【本試験H16】です。
 これは「天のお告げは,目に見える形でどこかに現れる」という当時強い影響力を持っていたに考えです。人間の世界が天との関わりを持つという考えは前漢の五経博士〈董仲舒〉(とうちゅうじょ)によっても天人(てんじん)相関説(そうかんせつ)として唱えられてはいました。儒教を解釈するには『五経』だけでは足りず,天の思し召しを解読する技術も必要だということです。彼は,井戸の中で見つかった石に「自分が皇帝になれ」と書いてあったと主張し,皇帝に譲位を迫って新王朝を建てました。
 〈王莽〉(位8~23,莽の「大」の部分は厳密には「犬」) 【京都H21[2]】【本試験H3この時期に封建制が創始されたのではない】【本試験H16,本試験H28則天武后ではない】の建てた新【本試験H4則天武后の周とのひっかけ】【本試験H14秦ではない,本試験H16】は,周【本試験H14,本試験H26明ではない】の時代の政治を理想とし【本試験H12儒教を排斥したわけではない】,現実離れした政策で民衆の支持を失い,農民による赤眉の乱(せきびのらん) 【本試験H4紅巾の乱とのひっかけ】【本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H27】【追H25隋ではない】が起こりました。

 これを鎮圧した豪族出身の〈劉秀〉(りゅうしゅう,光武帝(こうぶてい),在位25~57年) 【H29共通テスト試行 楽浪郡を設置していない】でした。
 前漢の皇帝の〈景帝〉(位前157~前141)の末裔といわれます。〈劉秀〉は25年に中国を統一して漢を復興し(後漢),都は雒陽(らくよう,漢は五行思想で“火”の徳を持つとされたので,さんずいの付く洛陽(らくよう)の“洛”の字が避けられました) 【京都H21[2]〈張衡〉「東京賦」の東京が洛陽であることを答える】【本試験H2地図上の位置を問う(長安との位置ひっかけ),本試験H4明ではない,本試験H9長江下流域ではない】【本試験H22地図(長安ではない),H28 鎬京ではない】【追H19】に移されました。
 豪族【追H28】とは,地方で大土地を所有している人々で,すでに前漢の半ばから現れていました。豪族によっては本当に“大”土地で,山や川も持っているし,家畜も飼っている。一族を率いて農業だけでなく職人に物を作らせたりして自給自足的な経営をしていました。農民には自由民だけでなく,隷属民である奴婢(ぬひ) 【追H28「没落した農民を、奴隷や小作人として使役した」か問う】も含まれ,豪族によっては奴婢を百人も千人も持っている。さらに,領地内の人々を保護する見返りに彼らを兵隊として組織する。つまり,私兵(しへい)【東京H29[1]指定語句】です。だから豪族はやがて国家の言うことを聞かない軍事集団に成長するおそれだってあるわけです。

 〈劉(りゅう)秀(しゅう)〉自身も豪族ですし,他の豪族の協力なしには新を滅ぼすことができなかった。だから,大土地所有自体を規制することはしませんでした。
 しかし,国家の安定のカギは,国民が安心してご飯を食べられることにあるのは今も昔も同じ。前漢の〈文帝〉・〈景帝〉から〈武帝〉の時代にかけては,農民の暮らしは非常に良かったのですが,政治の混乱が続き,農村にもやがて貧富の差が生まれるようになっていました。
 そこでまず,奴婢(ぬひ)を解放したのです。税率も下げました。31年には常備軍も解散し,農民の徴兵を緩和しました。
 数々の改革をしましたが,中国の国家の基本は儒教であるという原則をしっかりと確認しました。〈王莽〉は儒学者を重用しましたが,このことが,結果的に儒学を学ぶ人を増やすことにもつながっていました。29年には首都の雒陽(らくよう)に太学(たいがく,官僚養成学校)が設置されました。儒学が国教化されたのはこのときであるという説もあります。
 ただ,〈光武帝〉の子が仏教の儀式をおこなっていたように,すでに中国には紀元前後に西域から仏教が伝わっていたとみられます【本試験H23殷代には伝わっていない】【追H19時期】。

 最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【京都H21[2]記述(説明)】【H29共通テスト試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【H29共通テスト試行 史料】に記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【H29共通テスト試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【H29共通テスト試行 図版と史料】。
 儒教では,皇帝に仕え『春秋三伝異動説』などを著した〈馬融〉(ばゆう,79~166)と,その弟子の〈鄭玄〉(じょうげん,ていげん,127~200) 【本試験H7】【追H9董仲舒とのひっかけ】による訓詁学【共通一次 平1:考証学ではない】【本試験H7】【本試験H13董仲舒による確立ではない】が大きな成果をあげました。訓も詁も,「意味」という意味です(訓読みの訓はこれが語源です)。焚書坑儒によって失われていた儒教の文章や,その読み方の解読作業がすすめられたのです。なにせ古いものだと周の時代に書かれた文章ですから,800年ほど前の文章になるわけです。日本で800年前というと鎌倉時代の古文ですよね。読み方がわからなければ,違う解釈が生まれてしまうので,官学(官僚になるために必要な学問。国家公認の学問)としてはふさわしくありませんよね。
 さて,後漢【本試験H3前漢ではない】の時代に〈班超〉(はんちょう、Bān Chāo、32~102) 【追H28ビザンツ帝国に使者を派遣していない】 【本試験H4,本試験H12「後漢では,班超が西域都護となり,西域経営を推進した」か問う】【本試験H14,H24ともに時期】が西域に派遣され【本試験H14ビザンツ帝国に使者を送っていない】,クシャーナ朝を撃破し,西域の都市国家を制圧して西域都護【本試験H12】【本試験H24】としてこれらの支配をまかされました。
 94年にはパミール高原よりも東の50余りの国が,後漢に服属しています。『虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず』という故事成語があります。“宝くじを買わなければ,宝くじには当たらない”というような意味です。

 〈班超〉が,西域の東部にある都市国家の桜蘭(ろうらん前77年に鄯善(シャンシャン,ぜんぜん)と改称)を手なずけようと交渉をしていたところに,匈奴の使者もやってきて,一触即発の危機になったところ,「いまやらなければ,いつやるんだ。36人でもやれる。」とわずかな部隊で匈奴を夜襲し成功した故事に基づいています。

 97年には,〈班超〉の部下の〈甘英〉(生没年不詳) 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12】がローマ(大秦国)【本試験H3遊牧民ではない,本試験H12張騫ではない】に派遣されました。このころのローマは五賢帝時代(90~180年)にあたります。〈甘英〉は安息(アルシャク(アルサケス)朝パルティア)を通ってシリア(条支国)まで向かったと言われますが,結局引き返しました。中継貿易で利益をあげていたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの妨害ではないかとされています。

 ちなみに〈班超〉の兄である〈班固〉(32~92) 【京都H21[2]】【追H9董仲舒のひっかけ、H24資治通鑑を著していない】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】は,父〈班彪〉の構想を受け継ぎ正史(せいし)として『漢書』(かんじょ)を紀伝体の形式で【本試験H30編年体ではない】〈明帝〉(位57~75),〈章帝〉(位75~88)の下で編纂(へんさん)し〈班固〉の死後に妹の〈班昭〉(45?~117?)が完成させました。後漢の王朝を“正義”として,前の時代の前漢・新までの歴史書を書いたというところが,筆者の自由な主観が認められた『史記』とは異なる点です。中国ではこの『漢書』をもとに,後の王朝によって正史(“正しい”歴史)が編纂されていくようになりました。
 166年には,ローマ帝国の五賢帝の最後を飾る〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝〉(位161~180)の使者を名乗るものが,ヴェトナム中部の日南郡【本試験H27】に来航しました。彼らが名乗ったのは「大秦国王安敦」(だいしんこくおうあんとん) 【本試験H4マルクス=アウレリウス=アントニヌスか問う】【本試験H18アルシャク(アルサケス)朝パルティアの使節ではない,本試験H27】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】という名前。真偽は不明ですが,アントンはアントニウスっぽい!?ということで,この頃インド洋から中国にいたるまでの交易ネットワークが存在したことが推測できます。

 また,後漢の時代には,宦官の〈蔡倫〉(さいりん,生没年不詳) 【追H27仏典の翻訳・布教をしていない】【東京H17[3]】【慶商A H30記】が,製紙技術を改良し,当時の皇帝〈和帝〉に献上しています。従来は,板や竹をひもでくくって巻き上げた木簡や竹簡【追H28「死者の書」が記された媒体ではない】が用いられていましたが,かさばりますし,削りとって改ざんすることが可能なことが問題でした。ちなみに1枚のシートを「冊」(さく),冊を何枚も重ねて巻き上げたものを「巻」(かん)といいます。また,〈許慎〉(きょしん)が『説文解字』という,小篆(しょうてん)という書体の漢字を9353字収録した部首分類付きのものとしては最古の字書を著しています。小篆に代わって,隷書(れいしょ)という書体も用いられるようになりました。現在では新聞の題字に使われています。


 後漢末期には“お子ちゃま皇帝”が多く,第9代〈沖帝〉(2歳で即位,毒殺?),10代〈質帝〉(7歳で即位,毒殺),11代〈桓帝〉(14歳で即位),12代〈霊帝〉(12歳で即位)と続きます。皇帝の嫁の家族である外戚,地方の豪族出身の官僚,さらに宦官(かんがん)には政治に付け込み利益をため込むすきがあったわけですが,とくに皇帝の身辺の世話をする宦官と皇帝の結びつきが問題視されたようです。
 宦官とは,宮廷に仕えるために去勢(きょせい)した男子のことです。宮廷につかえている人が女性だと,権力を得ようとして皇帝の子を生もうとする者が現れがちです。反対に男性の場合でも,皇帝のかわいがっている女性に近づいて,その子をもうけることで,権力の座に付こうとする者が出てこないともかぎりません。もちろん宦官は宦官で,皇帝のそばにおつかえするわけですから,政治への介入は起こりえます。それでも皇帝にとっては,男性・女性よりは中性的な宦官のほうが都合がよく,宮廷の複雑な儀式や習わしを伝える上で,宦官は必要不可欠な存在となっていきました。なお,宮廷における宦官の存在は中国に限ったものではなく,他地域にも見られます。
 〈桓帝〉のときに「わるいのは宦官だ」と,外戚や豪族がみずからを「清流」と称して,宦官200人余りを逮捕しました。これを党錮の禁 (とうこのきん;党人の禁錮,166年と169年)【本試験H8 3世紀のことではない】【追H24時期(晋が呉を滅ぼした年、九品中正の制度創始との並べ替え)】といいます。
 このときに訓詁学(くんこがく)者の〈鄭玄〉(じょうげん) 【追H9董仲舒とのひっかけ】も牢屋に入れられています。儒学者ら批判的な知識人は“清流”(せいりゅう)を称し,宦官勢力(=“濁流”と称されました)の腐敗に抵抗しました。
 政治が混乱するなかで,「蒼天已死,黄天当立」(蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし)をスローガンとする黄巾の乱(こうきんのらん) 【本試験H6紅巾の乱ではない】【本試験H22,H29共通テスト試行 時期(グラフ問題),本試験H31後漢で起きたか問う】【慶文H30李自成の乱とは無関係】がおきて,混乱のさなかに滅亡します。漢は五行思想では火徳ですから赤でした。これを倒すには,土徳の黄というわけで,頭に黄色いハンカチを巻いたわけです(#小説 吉川英治『三国志』https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52410_51061.html青空文庫)。

 36万もの農民を率いたのは〈張(ちょう)角(かく)〉(?~184) 【本試験H12張騫とのひっかけ】【本試験H22時期,本試験H26朱全忠ではない】【中央文H27記】のはじめた宗教集団の太平道(たいへいどう) 【本試験H2道教の源になったか問う】 です。豪族による支配が強まり,生活の基盤を失った農民たち。何もしてくれない皇帝の支配から逃れ,罪を懺悔(ざんげ)して教団に入れば助け合いの精神で食べ物を分け合い,呪術(じゅじゅつ)によって病気を治したり,辛い生活の中にも幸せを感じたりすることもできる。太平道は困窮した農民たちを魅了し,勢力を増していたのです。
 なお,四川(しせん)や陝西(せんせい)などの西部では,〈張陵〉(ちょうりょう,生没年不詳)が五斗米道(ごとべいどう)を起こしていました。農民に米5斗(=500合。90リットル相当)を差し出させ,まじないで病気を治療して信者を増やし,〈張陵〉を天師とする宗教国家を形成しました。215年に〈曹操〉に降伏しましたが,のちの道教(天師道→新天師道→正一教と名前が変わる) 【セA H30朝鮮で成立していない】の原型です。

 最後の皇帝の〈献帝〉(位189~220)はわずか8歳で即位。身の危険を感じた皇帝は,魏を建国していた〈曹操〉(155~220)を頼ります【本試験H29曹操は焚書・坑儒は行っていない】(#漫画 王欣太『蒼天航路』)。
〈曹操〉は事実上の支配権を握りますが,皇帝の位は要求せず,魏王の地位にとどまりました。彼は「漢が理想としたように,すべての人々から平等に税をとるのは無理だ」と考え,資産別に徴税をする戸調制(こちょうせい)をはじめました。また兵役も,素人に担当させるのではなく,特定の家柄に世襲させました(兵戸制(へいこせい))。
 大土地所有者が各地にはびこっている以上,「資産のあるやつから,ある分をとる」ほうが現実的だったからです。でも,豪族は税をとりに来た官僚の立ち入りを実力で阻止することも多く,自分の土地が特別な土地(荘園(しょうえん) 【本試験H6「荘園」は「辺境防衛に携わる人々に賦与された土地」ではない】)であると主張するようになっていました。
 豪族に対抗するには,戦乱の中で土地を失った農民たちが豪族の大土地に流れこむのを防ぐしかありません。そこで,彼らを収容するために屯田制(とんでんせい)を実施しました。
 これら〈曹操〉による改革は,どれも時代の変化に対応したものばかりです。屯田制の内容は,のちに西晋の占田・課田法(せんでんかでんほう)に受け継がれたとみられます(詳しい実施内容は不明)。

 しかし,その息子〈曹丕〉(位220~226)が,すでに有名無実だった〈献帝〉から禅譲される形で皇帝に就任し,後漢は滅びました。このへんの〈曹丕〉の立ち回りは入念で,〈献帝〉から皇帝位を譲られる→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉即位というプロセスを踏んでいます。この儀礼は,今後も歴代王朝に受け継がれていきました。自分から積極的に皇帝位を奪ったわけではないんだ,というパフォーマンスでもあります。
 当時流行していた五行説(ごぎょうせつ。この世のすべてを5つの元素の相互関係で説明する考え)という思想によると,漢王朝の元素は「火」とされたため,〈曹丕〉は魏の初めの年号を「火」を打ち消すために「土」の元素に当たる色(黄)を付けた黄初(こうしょ)としました。五行説ではこの世の元素は木→火→土→金→水の順序で生成を繰り返すとされていたのです。

・紀元前後~200年のアジア  東アジア 現⑤・⑥の朝鮮半島
 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
 彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,2世紀初めには勢力を拡大させていきます。

 朝鮮半島には楽浪郡が置かれていましたが,中国で〈王莽〉(おうもう)が一時政権を握ると支配から脱しようとする動きがありました。しかし30年に〈光武帝〉によって鎮圧されます。
 朝鮮半島の南部には,韓人による国家が形成されていました。南西部には馬韓(2世紀末~4世紀中頃)の首長国が50あまり,南東部には辰韓(しんかん,前2世紀~356)の首長国が12か国,南部には弁韓12か国(前2世紀~4世紀) 【慶・法H30】が並び立っていました。これらの様子は『三国志』の「魏書」東夷伝からわかります。




●紀元前後~200年のアジア  東南アジア
 インド洋には季節ごとに違う方向から風が吹くことが知られ,それを利用した航海術が,1世紀頃にアラビア海で発達しました。西アジアとインドとの交易ネットワークは,東南アジアの交易ネットワークともつながっていきます。おそらく3世紀頃には,アラビア半島を一気に横断できるようになっていたと考えられます。

 ここでいうネットワークというのは,誰かがその完成図を持っていて,それに従い整備していくようなものではありません。
 みんながそれぞれ目的をもって,それぞれの意志で物を交換するために航路を開拓していった結果,最終的にそれらが“網の目”のように結びつく,複雑な全体を構成するようになったものを,ネットワークというのです。
 しかし,よく見てみると,ネットワークには多くの人が必ず通る地点というものがあります。これを「ノード」といいいます。そこからまた枝葉のように,それぞれの目的地に向かって出発するような地点のことです。「結節点」とか「交通の要衝(ようしょう)」ともいわれます。
 こうした地点を握った国家が,この時期にいくつか出現します。

 まず,ヴェトナム南部のメコン川下流で,扶南(ふなん,1世紀~7世紀) 【追H9時期】【本試験H16時期・カンボジアに興ったとはいえない,本試験H25】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が成立しました。マレー半島からベンガル湾にかけての交易ルートを握って栄えます(注)。
 外港であるオケオ(オクエオ) 【本試験H22ピューの都ではない,本試験H25扶南の港かどうか問う・地図上の位置を問う】からは,ローマの金貨,インドの神像,中国の後漢時代の鏡が出土しています(注)。当時はまだマラッカ海峡を通るルートは主流ではなく,大陸から横顔の象の鼻のように垂れ下がったマレー半島を,いくつかのルートにより陸路で横断するルートが使われていました。中国の資料によると,この地域を通り積荷をインド洋側に運ぶことができるよう,モン人などのいくつもの政治権力が現れました。

 北ヴェトナムでは,40年頃,〈徴側〉(チュンチャク,?~43)と〈徴弐〉(チュンニー,?~43)の姉妹が,紅河流域の住民とともに反乱を起こしました(徴(チュン)姉妹の反乱)。この2人は,土着の首長の娘たちです。漢は〈馬援〉(ばえん,14~49)により鎮圧し,ドンソン文化は衰退して漢人の文化が拡大していきます。

 ヴェトナム中部の日南郡からは,チャム人【共通一次 平1:,モン,クメール,タミルではない】が独立し,中国側からは林邑(りんゆう,192~19世紀)と呼ばれ,南シナ海の交易ルートを支配します。この頃,南シナ海でも季節風を利用した交易が導入されるようになって,人や物資の移動が活発化したのです。ヴェトナム中部のフエ付近にあった日南郡は,東南アジアの交易の中心地となります。

 さらに,中国の文献によると,2世紀末にヴェトナム中部沿岸の港市をチャム人が統一。中国側の文献では林邑という名で現れますが、チャム人【共通一次 平1:モン,クメール,タミルではない】【本試験H5】【追H25クメール人ではない】の側からはチャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1「ヴェトナム中・南部に拠点をおいて,古来,海上貿易で栄え,南下するヴェトナム人との間で抗争をくりひろげた民族」を問う】【本試験H4タイではない,本試験H5真臘ではない】【本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H25クメール人ではない】と呼ばれています。
 都はインドラプラ。季節風交易を通してインドとの関わりも深かったことが特徴です。

 166年には,ローマ皇帝の使者「大秦国王安敦(だいしんこくおうあんとん)」を名乗る者が,日南郡に来航しました。五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉のことではないかと考えられています。

 ジャワ島には,おそらく諸薄(しょはく。ジャワ?)中心とする交易ネットワークもあったと考えられています。クローブ(丁字)という独特な風味のある香辛料は,マルク(モルッカ)諸島でしかとれませんが,すでに中国に輸出されていました。マルク諸島は,フィリピン諸島の南東に位置します。
 ここまで見て,ちょっと変だなと思いませんか? 林邑,扶南,諸薄。全部漢字です。文字史料が少ないために,中国人を始めとした外国人による記録に頼らざるをえないのです。
 
 扶南も林邑も,人口密度の増えた農牧民の世界の国家とは違う成立過程を持つ国家です。良い港には,多くの船が集まります。その治安を維持し,安全に取引が行われるように保障する代わりに,内陸から川で運ばれてきた食料や飲み水を提供したり,船を修理するドックを整備します。その財源を,船から税として商品をとりたてるのです。多くの税をとるには,交易が盛んになったほうが良いので,別の港市を支配したり,船の通り道の安全を確保しようとするのです。農牧民の支配が中心ではないので,領土を支配しようという意図はあまり強くありません。このようなタイプの政治権力を,港市国家といいます。

 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。




○紀元前後~200年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・紀元前後~200年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・紀元前後~200年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン
◆祭祀至上主義をとるバラモン階級は民間信仰を取り入れ,大乗仏教運動も始まった

北部はクシャーナ朝

 紀元後1世紀に大月氏の一族、または、大月氏の支配下の土着の有力者であったクシャーナ人の〈クジューラ=カドフィセース〉(前1世紀前半~1世紀後半)が王と称して、他の4諸侯を統一し,ガンダーラ地方を支配しました。彼は自分の像を刻んだ銅貨を,インド=ギリシア人にならって発行しています。
 その孫〈ウィマ=カドフィセース〉(位1世紀後半~2世紀初め)が北インド中部に進入して建国したのが,クシャーナ朝【本試験H10この王朝で新たに広まった宗教を問う。ゾロアスター教,ジャイナ教,マニ教ではなく,大乗仏教】というのが定説でした(『後漢書』では〈ウィマ〉は〈クジューラ〉の子となっています)。また、その後即位した〈カニシカ〉(カニシュカ)王は〈クジューラ〉→〈ウィマ〉の王統とは別系統であるという説が支配的でした(注1)。

 しかし、1993年に定説がくつがえされます。
 アフガニスタン島北部のラバタクで新たな碑文が発見されたのです。
 これによると、〈クジューラ〉王の次に〈ウィマ=タクトゥ〉がいたことが明らかとなりました。ということは〈カニシカ〉は〈クジューラ〉の孫ということになります。


 クシャーナ朝は,中央ユーラシアに本拠地を置き,中国方面の漢帝国とローマ帝国を結ぶ中継貿易で栄えました。ローマ帝国は,イランのアルシャク(アルサケス)朝パルティアと抗争を繰り返していたため,商品はいったんクシャーナ朝に入り,西インドから海を通って西方に届けられるようになりました。
 先のラバタク碑文によると、クシャーナ王家は特別にゾロアスター教の女神を信仰し、同時にヒンドゥー教の最高神となるシヴァの妃神なども信仰の対象としていました。ゾロアスター教とヒンドゥー教の融合がみられたのです(注2)。

 〈ウィマ=カドフィセース〉の子,〈カニシカ(カニシュカ)〉王(位130~155?または78~103?) 【本試験H9アショーカではない】【本試験H15仏教を保護したか問う】【追H30アクバルとのひっかけ】は,都をプルシャプラ【追H30アグラではない】として,ガンジス川の中流域(または下流域まで)の北インド一帯を支配しました。
 王は称号として「王中の王」を意味するバクトリア語(東部イラン語)の称号(シャオ=ナノ=シャオ)を用いました(貨幣に刻印されています)。また「神々の子」という称号は、中国の「天子」に由来しているのではないかという説もありますし、ギリシア語由来の「バシレオス=バシレオーン」、インド語の「ラージャーディラージャ」、ローマの〈カエサル〉由来の「カイサラ」という称号も用いられており、まさに東西をまたぐ支配意識を持っていたと考えられています。(注3)
 〈カニシカ〉は地方統治の方式として、その土地土地の有力者を服属させる形の間接統治をとりました。
 銀貨ではなく金貨を鋳造し,王家にはゾロアスター教の信仰があったとみられます。〈カニシカ〉は正統性を神々に求めるとともに自己を神としてあがめさせ、そのために神殿に先王・現王の像を置いたことが分かっています。
 一方彼は,第四回仏典結集【本試験H15】がインド北部のカシミールで開かれると,これを援助しています。
 彼のものと考えられる像は,コートにベルトを着用した姿が表現されています(頭部は見つかっていません)。

 クシャーナ朝では,ローマ,ギリシア,イラン,インド,中国などさまざまな文化が融合されたことでも知られ,特にインド文化とギリシア文化【本試験H23イスラームではない】が融合したガンダーラ美術が栄えました【本試験H10ヘレニズム文化の美術がガンダーラ美術の影響を受けたわけではない。その逆】【本試験H14時期(クシャーナ朝時代)】。すなわち,ギリシア彫刻の影響で,仏像が製作されはじめたのです【本試験H4時期(アショーカ王の次代には仏像は製作されていない)】。
 また,マウリヤ朝の副都だったデリーの近くのマトゥラーでも,仏像が製作されていました。
 クシャーナ朝は3世紀半ばに,イランのササン(サーサーン)朝と地方の自立によって滅ぶことになります。



デカン高原はサータヴァーハナ朝
 クシャーナ朝のライバルは,南インドのデカン高原【本試験H28】で栄えたサータヴァーハナ朝(前1世紀~後3世紀【本試験H4時期(1世紀頃か問う)】【本試験H28時期】【追H20時期(14世紀)】)やパーンディヤ朝で,どちらもドラヴィダ系の王国です。ローマからの商人が季節風貿易でインドの港に入ってくると,インドの商品と引換えに金貨が渡されました。パーンディヤ朝,セイロン島に面するマンナール湾の真珠の産地を握り,その交易で栄えます。このことは『エリュトゥラー海案内記』にも記されています(注3)。

 デカン高原のサータヴァーハナ朝では,1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。南端部のチョーラ朝【本試験H31】(インド南東部のカーヴェリー川流域。前3世紀頃~後4世紀頃)の宮殿では,ギリシア人が雇われ,ローマの金貨が積み込まれていました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,9~13世紀のチョーラ朝と区別し,古代チョーラ朝ともいいます。
 1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
 冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)

 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。

 また,2~3世紀に大乗仏教という,新しい仏教の考え方が成立します【本試験H19マウリヤ朝のときではない】。もともと仏教は,出家をして修行によって,個人的に解脱(げだつ,悟りを開くこと)することを目標とするものでした。
 しかし,前1世紀頃から「出家をせずに家に残っている人(在家)たちにも,解脱のチャンスを与えるべきだ」という考えが起こります。彼らは,従来の仏教(部派仏教)は,まるで小さい乗り物(ヒーナヤーナ,小乗) 【本試験H23大乗仏教は部派仏教からの蔑称ではない】のようだと批判し,在家にもチャンスをひらく新たな仏教を大きな乗り物(マハーヤーナ,大乗)と呼びました。こうした説を唱えた大衆部(だいしゅぶ)に属する人々は,「悟りを求めて努力すること(ボーディ=サットヴァ(菩薩))」を大切にしました。努力とは,自分を犠牲にしてでも,この世のあらゆる存在を救おうと頑張ることを指します。でも,普通の人にはそんなことは難しいので,そういう努力をしている存在として,新たなキャラクターを創造しました。それが,弥勒菩薩(みろくぼさつ,マイトレーヤ)や観音菩薩(かんのんぼさつ,アヴァローキテーシュヴァラ)です【本試験H12「白蓮教は,弥勒仏が現世を救済するために現れると主張した」という文章の正誤判定】【慶文H30李自成の乱とは無関係】。
 彼らの想像力はとどまることをしらず,菩薩よりもレベルの高いブッダを考案しました。彼らは,仏国土というブッダの世界に住んでいて,今でもブッダの説法を聞くことができる。そこに行くには,阿弥陀仏(あみだぶつ,アミターバ)にお願いするしかない,といった具合です。こうした新しい考えは『般若経』『法華経』『阿弥陀経』『華厳経』などの新たな経典にまとめられました。こうした経典は,唱えたり書いたりすることも重視されました。
 大乗仏教【本試験H10クシャーナ朝の下で新たに広まった宗教か問う】【本試験H21上座仏教ではない,本試験H23上座仏教からの蔑称ではない】を完成させたバラモン出身の〈ナーガールジュナ〉(中国語名は〈竜樹〉(りゅうじゅ),150頃~250頃) 【本試験H21】は,仏教思想に“空(くう)”の思想を加えて大胆にアレンジし,『中論』を著しました。

 インドの文化は,交易ルートに沿って東南アジアにも広がり,1~2世紀に東南アジアでインドの影響を受けた国家が成立しています。また,仏教は西アジアに広がり,マニ教や,神秘主義的な思想で知られるグノーシス派,古代ギリシアの〈プラトン〉の哲学が一神教的に読み替えられた新プラトン派(〈プラトン〉の思想でいう「この世のあらゆるものは,イデア界の“劣化版コピー”にすぎないという考え方は,「この世は完全な“一者”がみずからを流出させることで生まれた」という考え方に読み替えられ,「イデア=神」と変換されます。これは,一神教の思想の説明に都合がよかったため,その後のキリスト教神学と深く結びついていくことになります)にも影響を与えました。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.22。
(注2) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.21。
(注3) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.21。
(注4) 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.53。





○紀元前後~200年のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

 この時期の西アジアは、地中海東岸はローマ帝国の、ペルシア湾岸周辺はイランのアルサケス朝〔パルティア〕の支配下に置かれ、各地に交易を支配する国家が並び立っていました。

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・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア、⑪ヨルダン

 この時期、ペルシア湾岸の交易が現在のバーレーン〔バハレーン〕や、その近くの内陸都市ゲッラなどで栄えています。
 ペルシア湾と地中海・南アラビアを結ぶ隊商路の結節点にあったゲッラには、南アラビアのマイーンの商人や、シリアの現・ヨルダンのペトラと交易を行っていたようです(注1)。

 また、現在のイラクにあるカラクス=スパシヌーという都市も、バハレーン、オマーンと強い結びつきを持ち交易で栄え、前2世紀後半にセレウコス朝のサトラップのアラブ人〈ヒュスパオシネス〉が一時独立し、カラケーネー王国を成立させていました(注2)。その後パルティアの宗主権の下で半独立状態となっていましたが、ローマ帝国の〈トラヤヌス〉帝が2世紀初めメソポタミアに遠征した際、カラケーネー王は貢納し臣従しています。
 しかしその後パルティアの支配下に戻りますが、2世紀の第二四半期の王号には「オマン〔オマーン〕人の王」とあり、ペルシア湾の南部にまで勢力がおよんでいたことがうかがえます(注3)。

(注1) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.43。
(注2) ペルシア湾の湾頭に位置することから、セレウコス朝のエリュトラー海州の拠点でした。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.44。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018年、p.45。

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・紀元前後~200年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ
◆ローマ帝国の支配に対し「世界宗教」のキリスト教が生まれた
パレスチナで、キリスト教が生まれる
この時期にパレスチナでは,男女・年齢・集団に関係なく誰でも平等に扱う新たな宗教(キリスト教)が芽生えました。特定の民族にこだわらないことから,そのような宗教を世界宗教といいます。
 共和政ローマはパレスチナにも勢力範囲を広げますが,直接支配する代わりに,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ王〉の厳しい支配のなかで,ユダヤ人の中にはいくつもの意見が生まれます。
 「あくまでローマと戦うべきだ。神との契約をしっかり守らないからこういうことになるのだ」と戒律主義を守ろうとするパリサイ派。「ローマと友好関係を結んで,自分たちの立場を守りたい」とする上層司祭を中心とするサドカイ派が代表です。
 そんな中,現在のイスラエルの北部にある「ナザレ」という地に現れたのが,〈イエス〉【本試験H12キリスト教の「開祖」かを問う】【本試験H15モーセではない】です。『新約聖書』によると,母〈マリア〉は父〈ヨセフ〉との婚約時代に聖霊(多くの場合「精」霊とは書かない)によって身ごもり,イェルサレムの南にあるベツレヘムの馬小屋で〈イエス〉を出産したということです(注)。
 ユダヤ人であった〈イエス〉は,戒律を厳しく民衆に適用しようとしたパリサイ派に対して“貧乏人・病人・罪人には厳し過ぎて守れない!”と批判します。もちろん,「こんなに苦しんでいるのに,神は何も語りかけてくれない。助けてもくれない。本当に神はいるのだろうか?」と疑う人も大勢いました。それに対して〈イエス〉は,“神はすべての人を愛している(神の絶対愛,アガペー)。貧乏人であっても関係はない。みな神につくられた存在なのだから,愛し合うべきだ。ローマ人だろうと,ユダヤ人だろうと関係ない”と主張します。
(注)「聖霊」は、独立の位格である「真の神」と考えられています。つまり、「神とは別物の何か」ではありません。「聖霊」については、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(『ルカ』1.35)、「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」(『ルカ』3.21~22)「彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(『ヨハネ』20.22)などを参照。


 「愛」というと,今は家族愛とか,恋愛関係の愛とか,仲間に対する愛とかを指すことが多いわけですが,イエスがここで強調したのは,そのどれでもない「真実の愛」です。『されど我ら汝らに告ぐ,汝らの敵を愛し,汝らを迫害する人のために祈れ』。敵であっても祈るというのが,本当の愛だというのです。これを隣人愛といいます。

 また,人間が何を祈るかなんて神はお見通しのだから,くどくど祈るのではなく一人で隠れて次のように祈るように言いました。
「天にいますわれらの父よ, 御名(みな)があがめられますように。 御国(みくに;神の国)がきますように。 みこころが天に行われるとおり, 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を, きょうもお与えください。 わたしたちに負債(=罪)のある者をゆるしましたように, わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで, 悪しき者からお救いください。」(『マタイによる福音書』6:5以下(口語訳)、)内は筆者注)

 やがて,〈イエス〉を救世主(メシア)と信じる人々が増えると,パリサイ派やサドカイ派だけでなく,ローマの総督である〈ピラト〉からも目をつけられるようになり,〈イエス〉は「自らを神の子(注1)でありユダヤ人の王であると称し,神(ヤハウェ)を冒涜(ぼうとく)した」という罪状で告発され,〈ピラト〉の下で裁判が始まりました。
〈ピラト〉は〈イエス〉の無罪を悟っていたと言われます。しかし,傍聴していた群衆の批判を恐れ,有罪を宣告してしまいました。このときの群集はユダヤ人であったわけですから,今後キリスト教徒がユダヤ人を敵視する理由の一つになってしまうわけです。
 こうして,〈イエス〉は十字架にかけられて処刑されました。しかし,「彼はその3日後に復活したのだ」という信仰が広まりました(注2)。
 普通の人間だったら,死後にすぐ復活するわけがありません。だから,やはり〈イエス〉は普通の人間ではなく,人類に何か(≒自分たちに罪があること)を気づかせるためにやってきた特別な存在なのではないか,という考えへと発展していきます。
 ユダヤ人の中には,「神は,いつまでたっても自分たちの祈りに答えてくれない」「神なんて信じられない」という人も増えていました。そんなユダヤ人に,もう一度「天国」に入るチャンスを与えるために,いや,ユダヤ人だけとは言わず,すべての人類がもともと持っている“罪”をかぶり,皆が「神の国」に入ることできるよう,〈イエス〉は自ら進んで十字架にかかったんじゃないか。そこまでして初めて,人々は自分たちの罪を悟り,本当の愛とは何なのか,気づいてくれるのではないか,と。
(注1)なお「神の子」という用語は旧約聖書(創世記6章2、4節、詩篇28章1節、知恵の書2章18節、5章5節、18章13節)にもみられる。
(注2)この「復活」こそがキリスト教徒にとって最重要の信仰内容です。なお日曜日に教会に集まるのが復活した日が日曜日であったからです。


 〈イエス〉の弟子たちは,〈イエス〉の考えを後世に残す活動(伝道)をはじめます。彼らのことを使徒(しと)といいます。最後の審判は近い,と言っていたわけです。時間がありません。〈ペテロ(ペトロ)〉(?~64頃)や〈パウロ〉(10?~67?) 【本試験H3】が有名な使徒(イエスの教えを伝える人)ですね。イエスの教えは,「今気づけば,最後の審判まだ間に合う!」という「良い知らせ(福音(ふくいん))」といい,〈パウロ〉を含む4種類の福音書【本試験H3】が『新約聖書』に収録されました。
 〈パウロ〉はもともとパリサイ派の熱烈な信者で,キリスト教を迫害した側の人間でした。しかしのちに回心して,小アジアやマケドニアなど,ローマ帝国内のユダヤ人以外の人々に対しての伝道をすすめました。「イエスが十字架にかかったことで,すべての人間の罪はゆるされた」というキリスト教の中心となる考えは,〈パウロ〉がまとめたものです。
 『新約聖書』【本試験H23ユダヤ教徒の聖典ではない】というのは,使徒の布教の様子を記した記録(『使徒行伝』(しとぎょうでん) 【本試験H3】)や多くの手紙(書簡),そして『黙示録(もくしろく)』という世界の終わりを描写した謎めいた予言などから構成され,2~4世紀に現在のかたちになりました。〈パウロ〉が,各地のキリスト教の拠点(教会)との間でやりとりした手紙の多くも,『新約聖書』に収められています。
 なお,ユダヤ教の聖典『旧約聖書』のほうは,紀元前3世紀中頃から前1世紀の間に「70人訳聖書」として,共通ギリシア語(コイネー)に翻訳されました。ヘブライ語の読めないユダヤ人が増えたためです。『新約聖書』は,『旧約聖書』の引用をするときにこのギリシア語訳を用いたため,ヘブライ語で書かれたもともとの意味とのズレが生じることもありました。そのため,16世紀の宗教改革の時期になると,ヘブライ語版の聖書の研究者も現れました。例えばドイツの人文学者〈ロイヒリン〉(1455~1522)は,ヘブライ語文法書を著しました。

 また,〈アンデレ〉(生没年不詳)は,小アジアや南ロシアに布教し,ビザンティウムで最初の司教になったとされ,ロシアでは守護聖人になっています。また,〈バルマトロイ〉はイラン・インド方面に布教したといいます。ほかにも,〈トマス〉がインドに渡り,キリスト教を布教したという伝説が,インドに残っています。

 しかし,皇帝や伝統的な神々(ギリシアのオリンポス12神や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】)に対する礼拝をこばむキリスト教の人々は,歴代のローマ皇帝から危険視され,特に後64年の〈ネロ帝〉(位54~68)のときの迫害(〈ペテロ〉,〈パウロ〉は殉教しました)と,〈ディオクレティアヌス帝〉(位284~305)のときのいわゆる“最後の大迫害” 【追H28ローマ市民権を全自由民に与えたわけではない】 【本試験H25バーブ教を迫害していない,H26】が重要です。キリスト教徒の中には,ローマ人があまり近寄らなかった地下の墓地(カタコンベ;英語でカタコーム)【本試験H21国教化とともにつくられたわけではない】【本試験H24】や洞窟で密かに集団生活や礼拝を営む者もいました。

 ユダヤ人たちは〈イエス〉の死後に反乱を起こしたことで,ローマによって征服され,地中海周辺をはじめとする各地に散り散りになります。これをユダヤ人のディアスポラといいます。




・紀元前後~200年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 アルメニアはローマの進出を受けますが,ローマとパルティアの対立の間にあって,66年にはパルティアのアルサケス家の〈トゥルダト1世〉が〈ネロ〉による戴冠を受けています。
 サーサーン朝により出にアルメニア人が4万世帯が強制連行。9000世帯のユダヤ人が追放されています。




○紀元前後~200年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

季節風(モンスーン)交易が始まる
 1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【本試験H4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
 冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)

 別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【本試験H4引用された箇所】。
 上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。
 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。





●紀元前後~200年のアフリカ

○紀元前後~200年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


 エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。


○紀元前後~200年のアフリカ  南・中央・西アフリカ

南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


 アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。


 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、後50年~400年の層の集落で、グラベリマ種のイネのもみが出土しています。栽培化されたアフリカ産イネ(アフリカイネ)の最古級の例です。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○紀元前後~200年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


 エジプトでは,プトレマイオス朝の女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30) 【本試験H10時期を問う】は共和政ローマの政治家〈カエサル〉【追H21】,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となっていました。
 〈イエス〉の死後,キリスト教が〈マルコ〉により伝道されたとされ,その後「コプト正教会(コプト教)」として普及していきました。

 2世紀末には,現在のリビア北西部の港湾都市レプティス=マグナ(かつてのフェニキア人の植民市)から皇帝〈セプティミウス=セウェルス〉(位193~211)が出て,最盛期を迎えます(◆世界文化遺産「レプティス=マグナの考古遺跡」,1982(2016危機遺産))。彼は,初のアフリカ属州生まれの皇帝。いわゆる「軍人皇帝時代」の初例です。



●紀元前後~200年のヨーロッパ

○紀元前後~200年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


◆ローマ皇帝は元老院の権威を利用し,自身を頂点とする体制をつくった
軍国主義的なローマは、戦争で領域を拡大した
 かつてローマ帝国が対外戦争をたびたび起こしたのは「自分たちの同盟国の安全を確保するための防衛的・受動的な意味合いが大きい」と考えられていました(防衛的帝国主義)。
 しかし今日では、ローマでは軍事的な才能のある人物に高い官職が与えられ、また、戦争で勝利した周辺勢力を軍事的同盟国として兵員を提供させた点に注目し、軍国主義的な色彩が強かったと見られています(この論争を「ローマ帝国主義論争」といいます(注1))。

 〈アントニウス〉を倒した〈オクタウィアヌス〉(位 前27~後14)は,前27年に元老院からアウグストゥスの称号を授与されましたが,プリンケプス((市民の)第一人者【本試験H3ドミヌス(主人)と呼ばれていない】【追H24非自由民の呼称ではない】【東京H29[1]指定語句】「第一人者」)を自称していました。「元老院」の筆頭議員という意味です。ですから,元老院が存在することで,はじめて〈オクタウィアヌス〉も権力をふるうことができるわけです。
 しかし,〈オクタウィアヌス〉には帝国各地の軍隊や行政に対する命令権であるインペラートルが認められ,次第に元老院のもつ権力は皇帝の権力に吸収されていきました。

 インペラートルを持っている〈オクタウィアヌス〉や,彼の後継者たちの地位を,日本語では訳しようがなかったため,まったく別物である中国の「皇帝」という言葉が使われるようになりました。
 皇帝には,インペラートル以外にもたくさんの称号が与えられ,その中でも重要とされたのが,「アウグストゥス」や「インペラートル」の他に,「プリンケプス」それに「カエサル」でした。〈カエサル〉は,ほんらい人の名前なのですが,その死後に神聖視され,そのまま称号になりました。日本語では直接翻訳しようがないので,便宜上,中国の「皇帝」という言葉を使って表しているだけです。
 なお近年では,「帝国」という言葉は,「広い範囲にわたって多くの民族や地域を支配する国」という意味で使うことが一般的になっています(注2)。

 さて,数多く与えられた称号の中でもオクタウィアヌスは「プリンケプス」という称号を選んで名乗り,「皇帝といっても,ローマの一市民に過ぎない」という点を強調しました。そこで,彼の統治を,元首政(プリンキパトゥス) 【本試験H3専制君主政(ドミナートゥス)ではない,本試験H9】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。
 皇帝の神格化も図られ,〈アウグストゥス〉はギリシアの神々(オリンポス12神)の影響を受けたローマの愛と美の神ウェヌス(ヴィーナス)の系譜に位置づけられました。ウェヌスは〈カエサル〉家の始祖とされる神でもあり,〈カエサル〉とともに神格化されたことがわかります。鎧(よろい)を着た彼の全身像の足元には,ウェヌスの系譜を示すキューピッドの姿があります。

 なお、ローマ帝国の官僚の定員は、約6000万人の人口に対してわずか300人。皇帝は、各官僚や軍に裁量権を与えて行政決定を任せていたため、皇帝が行政に励まずとも帝国が麻痺することはありませんでした。
 なぜそれでなんとかなっていたかというと、地方都市に地方行政を丸投げしていたからです。ほとんどの都市は人口1万程度で、約1000の都市がありました。都市の自治を担ったのは、政務官・参事会・民会で、ローマ中央の機構を真似たものでした(注3)。

(注1) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.36。
(注2) 山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003
杉山正明(1952~,モンゴル史学者)は,歴史上実在した「帝国」の類型として以下の9点を挙げ,次のように整理しています。
(1)単一の超越的・絶対的な権威・権力をもつとされる君主・指導者・王統のもとに,異種の臣民たちが,下部単位となる氏族・部族・集団・共同体・社会などをこえて包摂される政治的統合体
(2)同一の君主・王権・象徴のもとに,複数の地域権力・政治体が合一もしくは連携する政治形態
(3)単一の国家・王国・政治体をこえて,ゆるやかに地域と地域をむすびつける多言複合型の広域の連合体
(4)なんらかの理念・思想・価値観・宗教などのもとで,人種・民族・地域や,時には文明圏の枠さえもこえて広域にひろがりゆく政治体,もしくは擬似政治体――
(5)大小の複数の下位にある国家・王国・政権・政治体・在地権力や多様な地域・社会・民族などをよりあわせたSuper State。単一の中央機構をそなえ,もしくは時にそれを補う複数の権力体からなる統合力をもつ――
(6)中央権力とその他の国家・政治体・地域権力・民族集団・社会勢力などとの間に,なんらかの支配―被支配,もしくは統制―従属,中心―周辺などの関係が存在している状態――
(7)中小の地域・国家・社会を乗りこえ,大空間における時にゆるやかな,時には緊迫した交流・交易・流通・往来などの関係や連携を推進・演出する政治・経済・文化機構。中核となる政治体そのものは,小規模もしくは拠点支配型でかまわない――
(8)本国とは別に,おもに海外に植民地・属領・自治領などの附属地・遠隔領・飛び地をもち,その全体がゆるやかにむすびつく広域国家システム。行政・軍事・経済・文化などの各面にわたって,本国を中心にかたちづくられた人的な環流構造が重要なささえとなる――
(9)近隣もしくは周辺・遠隔の国家・地域に対して,強制的・独善的・威圧的な支配力をふるう覇権的国家――
(注3) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.40-41。




◆ローマは大規模な建築技術を発達させる
 ローマは今でも中心部にさまざまな遺跡が残されていますが,中でも大規模なのはフォロ=ロマーノです(フォロ(原形はフォルム)は広場という意味のラテン語です)。近辺には巨大なパンテオン(万神殿(ばんしんでん))や,会堂(バシリカ),公共浴場(テルマエ)が多数建設されました(#漫画 ヤマザキマリ「テルマエロマエ」)。
 また,各地に水道橋が建設され(南フランスのニームにあるポンデュガールや,スペインのセゴビア(ラテン語読みでセゴウィア)のものが有名です),上水(じょうすい)が都市に安定供給されました。
 ローマ帝国では属州支配を担当させる官僚数は多くなく,地方の財政は都市の有力者による「寄付」によって成り立っていました。彼らは,社会的なインフラ建設の援助や保全維持活動をおこなうことで,自らの権威を高めようとしたのです。
 コロッセウム【東京H28[3]】【本試験H27ペルセポリスにはない,H29共通テスト試行 オリンピアの祭典とは無関係】【追H25中世に建設されていない】(ローマにある円形闘技場。実際には188×156mなので楕円形に近く,5万人収容)や,ギリシア風の劇場,戦車の競走場なども多数作られ,都市の貧民に対する「パンとサーカス」(食料と娯楽)の提供は,人気取りとして皇帝や有力者にとって欠かせないものとなりました。



◆「征服されたギリシア人は猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け発展
 ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け,それをさらに個性的で活力あるものとして発展させていきました(ギリシア文化のほうがローマ文化よりも“優れている”という考えは,近代のヨーロッパ諸国において形成されていったストーリーといえます (参考)高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統』岩波書店,1999)。
 〈リウィウス〉(前59?~後17?) 【本試験H17キケロではない,本試験H26】【本試験H8「リヴィウス」】【追H21カエサルではない】に『歴史(ローマ建国史;ローマ史)』【本試験H17,本試験H26世界史序説ではない】【本試験H8】【追H21】の編纂を命じ,ローマ建国から〈アウグストゥス帝〉までの歴史を書かせました。
 多くの名作を生んだ〈アウグストゥス〉【本試験H8】【セA H30コンスタンティヌスとのひっかけ】の治世は「ラテン文学黄金期」といわれます。「征服されたギリシア人は,猛きローマを征服した」の名言をのこした抒情詩人〈ホラティウス〉(前65~前8) 【本試験H8『アエネイス』を書いていない】が有名です(ただし,ギリシア文化がローマ文化よりも優れていたという話には,後世のヨーロッパ人が誇張したストーリーという面もいなめません)。
 〈ウェルギリウス〉(前70~前19) 【本試験H17『労働と日々』ではない】【本試験H8ホラティウスではない】【追H21ポリビオスではない】はトロイア戦争に題材をとった長編叙事詩『アエネイス』【本試験H8】【追H21】を,〈アウグストゥス〉の命により書き上げました。「ナルシスト」の語源になったナルキッソスのエピソードなどが治められた,ギリシア・ローマ神話がテーマとなっている『変身物語(転身譜)』や『恋の技法(愛の歌)』で有名な〈オウィディウス〉(前43~後17)もこの時代の作家です。
 ほかに,ギリシア人の歴史家・地理学者〈ストラボン〉(前64または前63~後23) 【追H17地球の外周の測定をした人ではない】 【法政法H28記】は,『地理誌』や歴史書(現存せず)を記しました。



◆〈アウグストゥス〉の死後,1世紀末までのローマ帝国は混乱が続く

 〈アウグストゥス〉は,ライン川以東のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々勢力とも戦いましたが,紀元後7年のトイトブルク森の戦いで,戦死者20000人以上を出して敗北しました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の諸民族の指導者は〈アルミニウス〉(前16~後21)です。その後,次の〈ティベリウス〉帝のときに,なんとかガリア(現在のフランス)への進入は防いでいます。

 さて,皇帝〈アウグストゥス〉は自分の子を跡継ぎにしたかったようですが,次々に先立たれてしまいました。
 〈アウグストゥス〉が77歳という当時では長命で亡くなると、妻の連れ子の〈ティベリウス〉(位14~37)が継ぐことになりました。
 ここにローマは「王朝」が支配する国家となったのです。

 〈ティベリウス〉は〈アウグストゥス〉の支配体制を維持したものの,治世は不安定化します。
 その後を継いだ〈アウグストゥス〉の家系の〈カリギュラ〉(位37~41)は当初期待を持って迎えられましたが,後に「暴君」になったと伝えられる人物です。壮大な見世物を上演するのが好きだった彼は,本物の船を使って浮き桟橋を作らせて,愛馬インキタトゥスにまたがり,〈アレクサンドロス大王〉の胸当てをつけて橋を渡ったそうです。そんな彼は元老院と対立して暗殺され,〈クラウディウス帝〉(位41~54)が後を継ぎますが,また暗殺されてしまいました。

 〈クラウディウス帝〉の妻の連れ子が後を継ぎ,〈ネロ帝〉(位54~68) 【本試験H8家庭教師の人物セネカを問う,本試験H10時期を問う】として即位しました。ストア派【本試験H8】の哲学者〈セネカ〉(前4?~後65) 【本試験H8】をブレーンにつけて政治をはじめましたが,のちに暴君(ぼうくん)となります。

 さて,〈ネロ〉は哲学者〈セネカ〉を陰謀に加担したという疑いから,自殺に追い込みましたが,彼自身も属州総督の反乱が原因で,自殺しました。
 79年にはヴェスヴィオ山が大噴火し,ふもとの都市ポンペイは火山灰に埋もれ,16世紀陶に偶然発見されるまで街の様子はタイムカプセルのように保存されることになります(◆世界文化遺産「ポンペイ,エルコラーノ,トッレ=アヌンツィアータの考古地区」,1997)。
 このとき『博物誌』【本試験H2天文学者プトレマイオスではない】を著した〈プリニウス〉(23?24?~79)は,市民の救出と調査に向かうも,火山ガスにより亡くなってしまいました(#マンガ ヤマザキマリ「プリニウス」)。



◆都市の有力者がローマ皇帝の支配を支えていた
都市有力者は、帝国を「後ろ盾」に支配

 ローマ市の皇帝政府から元老院議員・騎士身分の人々が帝国各地の統治のために派遣されたものの、その総数はたったの300人ほど。
 それだけで支配が貫徹できたのは、各地にあった都市の自治と都市の有力者の協力のおかげです。

 この時期にはローマ風の制度・生活を採用する都市も増え、都市を行政単位として都市有力者に支配を任せました。都市有力者にとっても、帝国を後ろ盾にすることで支配をスムーズにおこなうことができるわけです。

 ローマ「文明」を受け入れることは都市有力者にとって「名誉ある」こととされ、2世紀頃には多くの都市内に民会・都市参事会がもうけられるようになっていきました(注)。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.25。



◆パレスチナで活動した〈イエス〉の改革思想が,1世紀後半にはユダヤ教から分離する
東方思想の影響下に,キリスト教がゆっくり形成へ
 パレスチナでユダヤ教徒の〈イエス〉が貧民らの支持を得て宗教的な集団を形成しました。しかし,支配的なユダヤ教徒のグループからローマ帝国に告発され,処刑されます。
 〈イエス〉は神の愛がすべての人類に分け隔てなく与えられるものと説き,その教説は弟子(使徒)らによって発展・継承されました。
 このうちパレスチナのユダヤ人の共同体を越えて布教するべきとした小アジア生まれの〈パウロ〉(?~65?)を中心に,〈イエス〉の思想が理論的にまとめられていきます。
 しかし,初期のキリスト教は「ユダヤ教イエス派」とでもいうべき集団であり,ユダヤ教徒と儀式や見た目の上でも大きな違いはありませんでした。
 しかし,その伝統ゆえにローマ帝国内での信仰の自由が認められていたユダヤ教徒に対し,かたくなにローマの儀式への参加をかたくなに拒む「ユダヤ教イエス派」は,3世紀の猛烈な迫害に比べると穏やかではあるものの,次第に当局から目を付けられる存在となっていきます。

 例えば,ローマ帝国皇帝の〈ネロ〉は64年に起きたローマ大火の責任を「ユダヤ教徒イエス派」におわせ,〈ペテロ〉【本試験H30】と〈パウロ〉【本試験H30】を殉死に追い込んだとされます。このとき逆さ十字架にかけられて死んだといわれる〈ペテロ〉の墓が,サン・ピエトロ大聖堂にあり,彼は初代「ローマ教皇」とされています。〈イエス〉は生前,「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(岩とはペテロを意味している)と言ったといわれ,のちにローマ=カトリック教会が,数ある教会のなかで最も地位が高いと主張する根拠となりました。

 しかし「教義」面の整備は遅れ,〈イエス〉の福音や使徒の記した手紙を集めた『新約聖書』の形式が整えられ始めていったのは1世紀後半のことでした。
 この1世紀後半から3世紀までのキリスト教のことを「初期キリスト教」と区分します。
 当時のキリスト教には東方の宗教思想の影響も強く,2世紀中頃までには〈ヘラクレオン〉(生没年不詳)によるグノーシス主義的なキリスト教解釈が,人気を博していました。
 しかし,この世には2つの神によりつくられたのだとするグノーシス主義は,唯一神によりこの世がつくられたのだとする『旧約聖書』以来のストーリーにはなじみません。そこで,キリスト教会の指導者はグノーシス主義の論破に尽力していきます。なかでもフランスのリヨンの〈エイレナイオス〉(130?~202)が,ユダヤ教徒の『旧約聖書』(2世紀後半までは,キリスト教徒にとってもこれが唯一の聖典であり,単に「書物」とよばれていました(注))に登場する神と,〈イエス〉=神が同じであると論じ,支持を集めました。
(注)ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.69~p.76。


◆「五賢帝」の時代にローマは“パクス=ロマーナ”(ローマの平和) 【本試験H3】を迎える
最大領域に達したローマの社会は変質に向かう
 その後,しばらく混乱が続きましたが,ようやく安定期に入ったが96~180年の「五賢帝」(Five Good Emperors) 【本試験H3,本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H13神聖ローマ帝国とは無関係】時代です。息子や家族を次の皇帝に指名するのではなく,優秀な部下を自分の養子にする形で次の皇帝に任命したために,優秀な皇帝が5人連続で輩出されたのだとされています。
 この時期を「人類史上もっとも幸福な時代」と『ローマ帝国衰亡史』【東京H22[3]問題文】で評したのは18世紀イギリスの歴史学者〈ギボン〉(1737~1794)でしたが,実際には領域の拡大,開発の進展により,ローマ社会は確実に変質へと向かっていました。“領土が増える”ということは,それだけ維持コストがかかり,領土拡大戦争が終われば奴隷(=労働力)の調達も滞ることにもなります。また,“市民が国家を守る”という原則も,領域の拡大によって次第に崩れていきます。

 では,いわゆる「五賢帝」を確認していきましょう。
 1人目〈ネルウァ〉(位96~98)の統治は不安定で,後継者を指名した後に亡くなっています。

 次の〈トラヤヌス〉(位98~117)の時代は、ローマ帝国の領土が史上最大となったときです【本試験H3最大領土となったか問う,本試験H6 2世紀初めのローマ帝国の領域を別の時代の領域を示した地図から判別する】【本試験H30】【追H24領土が最大となった】。ダキア(現ルーマニア) やメソポタミアに領土を拡大し,アルシャク(アルサケス)朝パルティアとも戦いました。ただし,アイルランド(ヒベルニア)【本試験H20アイルランドは獲得していない・地図】やスコットランド(カレドニア)の支配にはいたっていません。この2人の時代は自由な雰囲気のもとで,政治家の〈タキトゥス〉(55?~120?) 【本試験H15】【追H20トゥキディデスではない、H25『ガリア戦記ではない』】【H27名古屋[2]】が,ライン川の東・ドナウ川の北のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々について記録した『ゲルマニア』【本試験H7ガリア戦記ではない】【本試験H15ガリア戦記ではない】【追H20・H29『対比列伝』ではない、H25『ガリア戦記』ではない】【H27名古屋[2]】や歴史書の『年代記』など多くの著作を残しています。〈タキトゥス〉は,婿(むこ)として嫁いだ先の義理の父〈アグリコラ〉(40~93,ブリタニア遠征をおこなった)の伝記『アグリコラ』【早政H30】も執筆しています。
 〈トラヤヌス〉帝のときの帝国人口は5000万以上,ローマにはなんと80万~120万人が居住していたと言われます。前3500年の西アジアでの成立以降,世界中に発達していった都市は,ついにこれほど巨大な100万都市の規模に発展していくことになったのです。


 3人目の〈ハドリアヌス〉(位117~138) 【追H24『自省録』を著していない】のときに,ブリタニア(現在イギリスがある島)にケルト人に対する防壁として「ハドリアヌスの長城」を建設します(◆世界文化遺産「ローマ帝国の境界線」,1987(2005,2008範囲拡大))。
 ユダヤ人に対して支配を強化したため,ユダヤ戦争が起きたのも彼のときです。

 4人目の〈アントニヌス=ピウス〉(位138~161) の時は,帝国に大きな混乱もなく,まさに「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」【東京H8[1]指定語句】を実現させた皇帝です。
 その妻の甥で,〈アントニヌス〉の養子となった〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉(位161~180) 【本試験H4大秦国王安敦として中国に知られたか問う,本試験H8】は,ストア派哲学の著作ものこした通称「哲人皇帝」で,『自省録』【追H24ハドリアヌスではない、H27アウグストゥスとどちらが古いか】【本試験H8ギリシア語で書かれていない】を著しました(剣闘士を描いた映画「グラディエーター」は彼の治世が舞台です)。彼の使者を名乗る一行が,166年に現在のヴェトナムのフエに到達したと,中国の歴史書が記しています。ローマ帝国はインド洋の季節風交易【追H26この交易が始まったのは9世紀後半以降ではない】にも参入し,中国(秦(しん)の音訳から「ティーナイ」と呼ばれていました)からは絹がはるばる伝わり,ローマ人の特権階層の服装となっていました。ローマからは,ローマン=グラスというガラスが盛んに輸出されました。なお,皇帝〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉につかえた医師〈ガレノス〉(129?~200?) 【追H20時期(〈ガレノス〉を知らなくても〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉の侍医ということで時期がわかる)】の研究は,その後イスラーム医学やヨーロッパの医学に影響を与え続けました。

 この時代にはギリシア生まれの〈プルタルコス〉(46?~120?) 【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】【追H21,H24,H29タキトゥスではない】【同志社H30記】が『対比列伝(英雄伝)』【追H21,H24プルタルコスの著作か問う、H29】【早・法H31】【中央文H27記】という,ギリシアvsローマの“有名人対決”という企画モノの伝記をのこしました。例えば,〈アレクサンドロス〉と〈カエサル〉が比べられています。『倫理論集(モラリア)』は随筆のジャンルの草分けで,のちのルネサンスの時代に〈モンテーニュ〉の『エセー』に影響を与えました。
 ローマの属州ヒスパニアとなったイベリア半島では,北部のバスク人やカンタブリア人を除いたイベリア半島の住民はローマ文化の影響を強く受けていきました。各地に劇場,フォルム(広場),コロッセウム(闘技場)や水道橋(セゴビアの水道橋など)が建造され,コルドバは“小ローマ”とも呼ばれました。皇帝〈トラヤヌス〉や〈ハドリアヌス〉はヒスパニア出身です。1世紀にもたらされたキリスト教も,3世紀までにヒスパニア全域に広がりました。



◆ローマの東部の属州では,インド洋を利用した交易が活発化する
「ヒッパロスの風」が活用され海上交易がさかんに
 ローマ帝国の東部の属州(シリア,パレスチナ,エジプト)では,紅海を経由しインド洋を股にかける海上交易が盛んになっていました。
 紅海からインド東方のベンガル湾にいたるまでの広い範囲の港町や産物について記したガイドブック『エリュトゥラー海案内記』【追H28エーゲ海交易についての書ではない】は,ローマ領エジプト州のギリシア人船乗り〈ヒッパロス〉(不詳)によって1世紀中頃に著されたとみられます。エリュトゥラー海とはアラビア海【追H28エーゲ海ではない】のことで,アラビア半島とインドの間に広がる海を指します。
《…インドの犠牲を司る者や予言者たちは特に災厄を予防するのに珊瑚(さんご)を身につけることが役立つと考えている。そこで珊瑚は装飾にも宗教にも役に立つ。この事が知られるまではガルリア人らは剣や盾や兜をこれで飾っていた。…》(不詳,村上堅太郎訳註『エリュトゥラー海案内記』中公文庫,1993年,p.191)。

 なおこの記録はギリシア語で記されていました。ローマ帝国時代でも地中海東部では依然としてアラム語やギリシア語が使用されていたのです。

 アラビア海は季節ごとに風向きの変わる季節風(モンスーン)が吹いているので,季節によって風を読むことで東西の移動が可能でした。
 当時のインド南部ではサータヴァーハナ朝【本試験H4 時期(1世紀ごろか問う)】【追H20時期(14世紀ではない)】,チェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝【本試験H31】などがローマや東南アジア方面との交易で栄えていました。チェーラ朝はコショウの産地,パーンディヤ朝は真珠の産地です。特に真珠は,仏教の七宝の一つとして高い価値を持っていました(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.54。






・紀元前後~200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー

 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれていました(注)。

(注) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。


○紀元前後~200年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

・バルカン半島西部
 イリュリア王国はローマ帝国の属州イリュリクムに編入され,6年~9年の反乱も〈アウグストゥス〉により鎮圧されました。10年にはイリュリクム属州は南北に分割され,北部はパンノニア属州,南部にはダルマティア属州となりました。


・バルカン半島北部
◆ローマ帝国の〈トラヤヌス〉帝はドナウ川北部のダキアを征服した
 ローマ帝国はバルカン半島においてドナウ川を異民族との国境線(リーメス)としていました。「国境線」といっても今日的な意味での「国境線」ではありません。ローマ人が支配しておくのに都合がいい「属州」の外に広がる空間も、あくまでローマ人が支配するべき土地であって、そうした「境」を通る行き来は駐屯するローマ軍によって管理されているものの、ローマ的な文物は「境」を超えて広範囲に通じていたのです(注1)。

 リーメスを超えて移動したのは、文物だけではありません。
 たとえば、すでに皇帝〈アウグストゥス〉のときに5万人のゲタエ人が、ドナウ川河口近くの属州モエシアに受け入れられています。
 次の皇帝〈ティベリウス〉(位14~37)の初年に、4万人のゲタエ人がガリアに受け入れられています。〈ネロ〉帝のときの属州モエシア総督は10万人の人々を属州に移したという碑文があります。
 つまり「境」の外の人々に対してもローマの中で暮らす権利を認めていたわけで、戦時出ない限り異民族として排斥していたわけではないのです(注2)。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.26。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.27。


 しかし、攻撃を受けるとなると話は変わります。
 ドナウ川北岸(左岸)のダキア人の王や黒海北岸の,イラン系遊牧民サルマタイ人(前4世紀~後4世紀)の攻撃を断続的に受けるようになったため,歴代皇帝は戦闘を続けなければなりませんでした。

 そして,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときにドナウ川南部のモエシアやパンノニアの兵を率いて,101年・105年にダキア(現在のルーマニア)に遠征し,106年に属州ダキア(106~271)を建設しました。
 ローマ市内のトラヤヌス広場にはこの時の戦勝を記念して戦闘風景を螺旋(らせん)状にレリーフに刻んだ高さ30mの記念柱(トラヤヌスの記念柱,113建造)が今でも残されています。
 のち皇帝〈ハドリアヌス〉(位117~138)はダキアを上ダキアと下ダキアに分割し,ドナウ川の石橋を撤去。ローマ人が多数入植して「ローマ化」が進み,トランシルヴァニア地方では金・銅・鉄・岩塩の鉱業に従事しました。
 しかし,サルマタイ人やゲルマン系の諸民族(マルコマン人,ゴート人,ゲピド人)は依然として続き,防衛の負担は増していきました。



●200年~400年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化④,南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-③
 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,広域国家(古代帝国)が崩壊し,古代末期の民族大移動がはじまる。
 南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスで,各地方の政治的統合がすすむ。

この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸

 ユーラシア大陸には,地中海周辺にローマ帝国,西アジアにパルティア,東アジアに後漢王朝(25~220)が並び立っていた。

 しかし,騎馬遊牧民の移動を受け,ローマ帝国ではゲルマン語派がローマ帝国領内に押し寄せ,各地での建国が認められる。

 東アジアでも後漢王朝が滅びると,南北に分かれて政治的な統合がすすむ。北部では騎馬遊牧民が複数の政権(五胡十六国)を建て,漢人は南部の長江下流部(江南(こうなん))に移動して中国文化を維持する。やがて,騎馬遊牧民の鮮卑(せんぴ)のうち拓(たく)跋(ばつ)部が中国文化を受け入れて華北を統一し台頭していく。

 南アジアでは,ガンジス川流域のグプタ朝のマガダ国(320~550)が北インドを中心に諸地域を服属させる。

 西アジアのイラン高原では印欧語族パルティア人が,印欧語族ペルシア人のサーサーン朝(224~651)に滅ぼされる。



 ユーラシア大陸では東西を結ぶ陸海の交易ネットワークの繁栄は続く。
 東南アジアではモンスーン(季節風)を利用した交易の活発化にともない,大陸部にクメール人の扶(ふ)南(なん)がマレー半島横断ルートをおさえ栄え,チャム人のチャンパーも東アジアとの中継交易で栄えた。大陸部のピュー人,ビルマ人,タイ人,モン人の地域,島しょ部でも政治的な統合が進んでいる。
 地中海~紅海~インド洋を結ぶ交易ルートでは,エチオピアにセム系のアクスム王国が台頭,アラビア半島南端のセム系のヒムヤル王国,南アジア南端ドラヴィダ語族のチョーラ朝,チェーラ朝,パーンディヤ朝などが栄える。


(2) アフリカ
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。


(3) 南北アメリカ大陸
 北アメリカ大陸南西部では,カボチャやトウモロコシ農耕と狩猟採集を営む古代プエブロ人(アサナジ)によるバスケット=メーカー文化が栄える。
 中央アメリカでは引き続きティオティワカン文明,サポテカ文明,マヤ文明に都市文明が栄える。
 南アメリカでは北西沿岸部のモチェ文化,ナスカ文化のほか,アンデス山地での政治的統合が進み,ティティカカ〔チチカカ〕湖周辺をティワナク〔ティアワナコ〕文明が統合する。


(4) オセアニアではポリネシア人の大移動がすすむ
 オセアニアでは,ポリネシア人がオセアニア東部への移動を開始,マルケサス諸島(現・フランス領ポリネシア)からアウトリガー=カヌーの航海により計画的に移住を開始している。


解説
3・4世紀以降,ユーラシア大陸では草原世界の騎馬遊牧民の大移動が起き,ユーラシア大陸の農耕地帯を支配してきた古代帝国が次々に衰えていきます。地中海周辺のローマ帝国(395年分裂),西アジアのアルシャク(アルサケス)朝パルティア(228年滅亡),南アジアのクシャーナ朝(3世紀滅亡),東では漢王朝(220年滅亡)です。
 これらの古代帝国は,拡大期には戦争による領土拡大や征服地からの徴税が見込めましたが,やはりそのような手段による成長には限界があり,絶え間ない戦争や東西交易によって各地に伝わった伝染病の影響もあり人口も減少します。ユーラシア大陸の陸路の交易ネットワーク(シルクロード)も一時的に衰退に向かいました。
 他方で,騎馬遊牧民が農耕低住民地帯の国家に進出すると,各地で文化の複合が起きました。
 アフリカ大陸ではラクダの普及にともない遊牧民の活動が活発化し,サハラ横断交易も始まっています。

◆南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどる
 アフリカ大陸・ユーラシア大陸と直接の交流を持たなかった南北アメリカ大陸では,メキシコ高原でテオティワカン文明,中央アメリカでマヤ文明が栄えていました。




●200年~400年のアメリカ
○200年~400年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアンが,各地の気候に合わせて狩猟・採集生活(地域によっては農耕を導入)を送っています。

 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。

 北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,マウンドとよばれる大規模な埋葬塚(墳(ふん)丘(きゅう)墓(ぼ))が建設されています。

 北アメリカの南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】)の灌漑農耕が行われていました。




○200年~400年のアメリカ  中央アメリカ
ティオティワカン系の進出を受け,マヤ文明が最盛期を迎える

マヤ地域
 現在のメキシコ南部,グアテマラ,ベリーズ,ホンジュラスなどの中央アメリカでは,3世紀中頃から900年頃まで,「古典期」(250年頃~900年頃)の文明を生み出していました(注1)。
 「古典期」というのは,“ヨーロッパ文明の源流は前5~4世紀ギリシアの輝かしい古典文明(Classical Greece)にあった。中央アメリカの文明の源流は,250年~900年あたりのマヤにあるのだろう” という“イメージ”から,ヨーロッパ人によって名付けられた名称に過ぎません。

 マヤ文明には広い地域を支配する中央集権的な国家はなく,45~50の都市国家によって成り立っていました。担い手はマヤ語族の諸民族です。
 3世紀には象形文字マヤ文字が記録されるようになり,獣皮や樹皮を漆喰に浸して折本にしたものや,石碑に記録されました。約850の象形文字には表音文字と表意文字が混ざっていて,書体も複雑な頭字体と簡略化した幾何体があることがわかっており,大部分が解読されています。
 マヤの社会では厳しい階級制がしかれ,支配層は幼少時に頭に木を挟んで頭が細長い形になるようにする風習がありました(トウモロコシみたい)。マヤで重視されていた鉱物はヒスイ。また,タバコの喫煙の習慣があり儀式などで用いられました。
 マヤ文明ではおそらく手足の指の数をもとにした二十進法が用いられ,ゼロ(0)を表す文字の最古の例として357年頃のものが確認されています。
 1は「・」,2は「・・」,3は「・・・」,4は「・・・・」,5は「──」,6は「  ・   」というように記し,9は「 ・・・・ 」,10は「=」,11は「=の上に点(・)を1つ載せた形」,19は「≡の上に点(・)を4つ載せた形」。20になると位取りが替わります。

 マヤ低地南部のティカルやカラクムルなどの大都市の王は,自らを神聖化し,神殿や墓として用いられたとみられる階段型ピラミッドを建設しました。また3世紀以降は長期暦(前3114年8月13日を起点とし,1日ずつ足していく暦)とともに刻まれた石碑が多くの残され,各都市の王朝の系譜などが明らかにされています。

ティカル
 現在のグアテマラに残るティカル(1世紀~)のピラミッドは公共広場に面して建設され,70メートルもの高さがあります。王名の刻まれた石碑が残されおり,最も古いものは292年にさかのぼります。
 その記録をたどると,378年1月16日にティカルに〈シヤフ=カック〉(シヤッハ=ハック)(注2)という人物が軍事的に進出。その息子〈ヤシュ=ヌーン=アイーン1世〉がティカルの王に379年9月12日に即位するに至ります。
 この王朝は以後200年にわたって繁栄することになりますが,この〈シヤフ=カック〉という個人が何者なのかをめぐっては諸説がありますが,彼を同時期に成長したティオティワカンの将軍とみる説もあります。彼がティカルを襲う前の378年1月8日,80km離れた都市コパンにも来訪の記録があります。
 同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいたのは事実です。

(注1)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
(注2)シヤッハ=ハックは「火は生まれた」という意味。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.251。


◆メキシコ高原ではティオティワカンの都市文明が栄える
ティオティワカン
 メキシコ高原北部のテオティワカン(◆世界文化遺産「テオティワカンの古代都市」,1987)には,100年~250年にかけて階段型の「太陽のピラミッド」が建設されます。
 太陽のピラミッドの地下にも洞窟があって,当時の人々の世界観を表しているとみられます(メソアメリカでは,おおむね天界13層,地下9層の世界観が共有されていました)。
 ティオティワカンは, 200年から550年頃までの最盛期には12万5000または20万人の大都市にまで成長し,中央アメリカ各地と交易をおこなっています。同時期のユカタン半島には,ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいました。

チョルーラ
 ティオティワカン南部のチョルーラ(後1世紀~)は,独立を維持しています。

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人の都市文明が栄える
 トウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】)の農耕地帯であったメキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えています(サポテカ文明,前500~後750)。200年~700年が全盛期で,ティオティワカンとも外交関係がありました。






○200年~400年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方で地域ごとの政治的統合がすすむ

◆アンデス地方沿岸部ではナスカ,モチェが栄える
モチェで政治統合が進展,ナスカに地上絵が出現
モチェ
 アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ,人々の階層化が深まり,労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

ナスカ
 アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
 南部沿岸のモチェほどには統合されておらず,王墓なども存在しません。
 当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは,300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると,儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。

 こうして有名な「ナスカの地上絵」がつくられ始めるわけです。
 
 地上「絵」といっても実際には「線」が多く,ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると,下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが,少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ,サル,クモ,鳥などがあって,天体と連動する説が支持されたこともありますが,現在では儀礼的な回廊とか,雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼,すなわち「雨乞い」です(注)。

(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに,地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。



◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。





●200年~400年のオセアニア

○200年~400年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつあります。



○200年~400年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●200年~400年の中央ユーラシア
◆フン人は西方のローマ帝国領内へ,中国にも遊牧民の進出が相次ぐ
民族大移動が本格化する
中央ユーラシア西部
 中央ユーラシア西部では,紀元後1世紀後半~2世紀にかけてカスピ海北岸で活動したアラン人は,350年頃に騎馬遊牧民フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされる) 【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】の進入を受け,カフカス山脈に移動しました。現在のオセット人の祖先です。375年にはフン人は,黒海北岸のゲルマン系の東ゴート王国に進入し,敗れた東ゴートは西方に移動した。
 フン人は,アラン〔アラニ〕人や黒海沿岸のゴート人を“雪だるま”式に加えながら(注)バルカン半島を南進。 いわば“難民”と化したゴート人は,当時禁止されていたドナウ川の通過を,ローマ帝国の皇帝〈ウァレンス〉に要求しました。
 フン人の猛威を悟ったローマ皇帝は「ゴート人を国境警備隊として配置すればよい」と考え、帝国内部への定住を許可しますが,扱いのひどさに対してアラン,ゴート人が反乱を起こしました。378年〈ウァレンス〉帝は鎮圧に向かいましたが敗れ,ゴート人はドナウ川を渡って,ギリシア方面へと南下をしていくことになります。

(注) “ドミノ倒し”という表現は正確ではありません。フンはアランを破ると,アランは子分となってフンとともに連合して東ゴートに進出。今度はフン,アラン,東ゴートの連合軍が,西ゴートを攻撃するのです。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.272。
 なお,フン人が北匈奴を出身とするという説は定説ではありませんが,4~5世紀にはドナウ川からカスピ海にかけて,わりと均質的な文化が広がっていることから,フン人が短期間で多くの民族を巻き込み、または追放しながら西に移動していったこととの関連も考えられます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999,p.274。
 また、ゴート人がドナウ川を渡る時点で、彼らの中に「西ゴート人」や「東ゴート人」といった意識を持っていた人々がいたわけではなかったというのが、現在の通説です(南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.71)。



中央ユーラシア東部
 中国の西晋【本試験H18前漢ではない】で八王の乱(291~306) 【本試験H14時期(秦代ではない),本試験H18,本試験H31時期(漢代ではない)】が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑,チベット系の諸民族(氐・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史では五胡十六国時代(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)といいます【本試験H19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】。
 漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H12北魏を建てた民族を問う】【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。
 拓跋部【追H21問題文】を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年に北魏【本試験H12】【本試験H28】【追H21】を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられた柔然【本試験H7突厥を破っていない,本試験H12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。

 北匈奴がモンゴル高原から西方に移動すると,北方にいた高車(こうしゃ)(テュルク系の丁(てい)零(れい)の一派)が南下し,また,拓跋部から自立した柔然の勢力が強まりました。柔然は東胡の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代可汗〈社崙〉(しゃろん,在位402~410)の率いる柔然を討伐し,柔然はモンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐し,天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配しました。
 柔然はしばしば中国に進入し,農民や家畜を略奪して農耕に従事させたとみられます。





●200年~400年のアジア

○200年~400年の東アジア・東北アジア
○200年~400年の東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が定住しています。紀元前後から台頭したツングース語系の高句麗(紀元前後~668)は,この時期に朝鮮半島に南下をすすめます。彼らが日本列島に進出して日本に武人政権を建てたとする〈江上波夫(えがみなみお)〉(1906~2002)の「騎馬民族征服王朝説」は,現在では主流ではありません。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88

◯200年~400年の中国
◆後漢が滅ぶと,北方の遊牧騎馬民族が定住農牧民地帯に移動していった
騎馬遊牧民と定住農牧民が,対立・融合する
 秦以来の中国文明の中心地は,黄河流域の「中原(ちゅうげん)」(華北平原)でした。しかし,後漢末の混乱により,北方の民族が南下すると,前漢・後漢の支配者層や住民の多くは,命を失うか南方に移住をしていきました。これにより,中国地域における黄河の重要性は低くなり,漢民族の文化を受け入れた北方の遊牧民の力も強まっていきました。また,大土地所有がさかんとなり,地方において農奴のように扱われる農業労働者(佃客(でんきゃく),衣食客(いしょくきゃく))や,武装集団(部曲(ぶきょく))を従えるようになった豪族が有力となっていきます。
 こうして,各地で自立した豪族や,中国に進出した遊牧民により,中国は分裂の時代に突入します。分裂しているということは,逆にいえば,中国(漢民族)の文化を共有する人々が,黄河以外の地域にも現れるようになったということです。


 さて,順番にみていきましょう。
 後漢末の混乱の引き金となった黄巾(こうきん)の乱は184年に勃発。後漢の滅亡と,皇帝の位をゆずりうけた魏の建国は220年。その後,華北に本格的に北方の諸民族が進出するのは,4世紀初めのことです。311年に匈奴は,長安を占領しています(永(えい)嘉(か)の乱)。
 北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京【本試験H4明(みん)の遷都先ではない】(当時は建(けん)康(こう)【追H30】【H27京都[2]】)に逃れて東晋【追H30 東周ではない】を建てて王朝を存続させました。
 同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々進入が加速し,395年の東西ローマ帝国への分裂につながっています。

 184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた〈曹操(そうそう)〉(155~220)は,
 ・南方の軍事集団の長である,四(し)川(せん)(長江上流域の盆地)の〈劉備〉(161~223) 【東京H8[3]】と,
 ・江南(長江下流域)の〈孫権〉(182~252) 【H27京都[2]】 【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】 と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。

 後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな),181~234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これを赤壁の戦いといいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
 〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者(豪族)の〈袁紹〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。

 しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,「魏(220~265年)」という王朝を創始します。それを認めない〈劉備〉【東京H8[3]】【本試験H30】は四川の成都【本試験H9】【本試験H22洛陽ではない】【中央文H27記】を都にに蜀(しょく,221年~263年) 【本試験H9】【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京) 【セA H30華北ではない】を都に呉(ご,222年~280年) 【追H9】を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。
 魏と蜀・呉との境界は,黄河と長江の間のラインで,チンリン(秦嶺)山脈とホワイ川(淮河(わいが))を結ぶ線にあたります。

 蜀は正式には「漢」という国号で,蜀漢(しょっかん)とも呼ばれます。蜀は漢を受け継ぐ王朝であると主張したため,蜀には「炎興」(えんこう)のように,漢の守護色(五行説という思想で,漢に宿っているとされたパワーを持つ元素)である火を連想させる元号が使われました。この頃には学問の研究もおこなわれ,魏に仕えた〈劉徽〉(りゅうき,生没年不詳)は,古代の数学書『九章算術』に注釈を加え,円周率を3.1416と計算したほか,ギリシアの〈ピュタゴラス〉(前582~前496)の定理と全く同じ公式も現しています。また,渾天儀(こんてんぎ,天体観測器)や,候風地動儀(こうふうちどうぎ)という地震計も発明されています。

 このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ) 【本試験H9[21]】に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです(#映画「レッド・クリフ」(2008中国))。



◆魏の導入した九品官人法により門閥貴族が形成された
 魏の〈曹丕〉(文帝)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官【本試験H11】が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用する九品中正(九品官人法)の制度【本試験H8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H24時期(党錮の禁、呉の滅亡との時系列)、H29「有力豪族による高級官職の独占を招いた」か問う】も整えられていきました。

 しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就く貴族や,その中でも特に優遇された家柄である門閥貴族【本試験H26明代ではない】【本試験H8】が生まれるようになっていきます【本試験H11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました(注)。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。

 〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のときに魏は,四川盆地の蜀を263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の〈司馬炎〉(武帝)【本試験H16司馬睿ではない,本試験H30】のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝である晋を建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋を西晋,遷都後を東晋と区別します。

 この西晋が江南の呉をほろぼした【追H24時期()】ことで,三国時代は統一されました。この頃には〈王叔和〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む『傷寒(雑病)論』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?~219)の医書を参考に編集しています。

 しかし,すでに北方遊牧民の華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,〈武帝〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290~306年,八王の乱) 【京都H20[2],H27[2]】【本試験H3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】【本試験H14秦代ではない】が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。

 西晋には,南匈奴の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し,漢が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴の単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
 このとき,鮮卑の拓跋部は西晋【京都H20[2]】を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に代(だい)の王に任ぜられています。しかし316年に長安が占領され〈愍帝〉が殺害されると,316年西晋は滅亡しました。
 大混乱の中,西晋の漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は,建康【本試験H2】(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)【本試験H22地図】を首都として東晋を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に〈司馬睿〉(元帝,しばえい,在位317~322) 【本試験H16司馬炎ではない】が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
 東晋には華北から多数の漢人が逃げてきましたが【本試験H26時期】,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」という土断法(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降,江南の開発がさらに進んでいきました【本試験H15時期】。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。

 華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって,五胡十六国(ごこじゅうろっこく) 【本試験H3】といいます。五胡【東京H6[3]】は,(1)匈奴【本試験H3五胡十六国の一つか問う】【早・法H31】、(2)羯(けつ,匈奴の別種)、(3)鮮卑、(4)氐(てい) 【東京H6[3]】、(5)羌(きょう) 【東京H6[3]】。(4)・(5)はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
 このようにして,華北は五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。
 初めのうちは十六国の中にも,前燕(ぜんえん,現在の北京周辺に建国された鮮卑の国家)や前涼(ぜんりょう,長城よりも北にあった漢人により建国された国家)のように東晋に従う勢力もありました。しかし,氐により建国された前秦が前涼・前燕を滅ぼし,北魏の元になる国である鮮卑人の代(だい)をも滅ぼしてしまいました。そのまま東晋の滅亡も狙いましたが,東晋の武将〈謝安〉(しゃあん,320~385)との決戦に破れて衰えました(383年,淝水(ひすい)の戦い)。

 その後東晋では,五斗米道の指導者による反乱を鎮圧した長江中流域の軍人が,402年に建康で皇帝に即位。それを鎮圧した下層階級出身軍人〈劉裕〉がこれを倒し,さらには十六国のうち山東半島の南燕(なんえん。鮮卑人の国),後秦(長江中流域で建国された羌の国)も滅ぼし,洛陽・長安も奪回しました。この輝かしい実績を背景とし〈劉裕〉はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)により東晋から皇帝を譲られる形で,420年に宋の王朝を創始しました(のちの時代の宋とは別の王朝です)。

 386年には,鮮卑人【セA H30】のうち拓(つぶせ)跋(ばつ)【京都H20[2]】という集団の指導者〈拓跋珪(けい)〉は,「魏」を建国していましたが,398年に〈拓跋珪〉は山西省の平城(へいじょう) 【京都H20[2]】で北魏【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】【セA H30元ではない】の初代皇帝〈道武帝〉(どうぶてい北魏皇帝在位398~409)となり,権力を強化していきます。さらに孫の〈太武帝〉(在423~452) 【本試験H12】がモンゴル高原の柔然【本試験H12時期(漢の西域経営に進展により衰えたわけではない)】【本試験H16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,本試験H20世紀を問う】に対抗して支配領域を広げていき,439年に華北を統一【追H21「江南の併合」ではない、H28「中国の統一」ではない】して五胡十六国の分裂状態を収拾しました【本試験H12「五胡十六国の分裂状態を収拾した」か問う】。

 一方、中国南部で建康を都としていた宋は,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し【本試験H12道教を禁止したわけではない】,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のときに雲崗(うんこう)の石窟寺院【本試験H31道教の寺院ではない】【追H18,H20漢代ではない】の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し,道教の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。

 次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈馮(ふう)太(たい)后(こう)〉【立教文H28問題文】)が実権を握りました。皇后は〈献文帝〉に迫り,我が子を即位させました。これが〈孝(こう)文帝(ぶんてい)〉【追H9前漢のあとをうけた王朝を建てていない,H19,H30唐代ではない】です。
 〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ(均田制)が実施されています【本試験H15農耕社会の統治に消極的ではない,本試験H16北斉代ではない,本試験H24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】【本試験H8】【追H19宋代ではない、H21北魏で始まったか問う】【大阪H31論述(導入の背景と後代へ与えた影響)・時期】。
 大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした【本試験H8支給対象は成年男子だけではない】(注)。

 〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉は洛陽に遷都して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました(漢化政策) 【本試験H15漢民族の文化を排除していない】。鮮卑人は少数派だったため,南朝と張り合って政権を運営するには,北朝の有力な門閥貴族の協力が必要だったのです。たとえば,皇室の「拓跋」という姓も,「元」という中国風の一文字の姓に変えられました。このようにして,鮮卑の文化と従来の中原中心の王朝の文化が,互いに影響を及ぼし合いながら,中国文化が形成されていったのです。
 これらの政策には,保守的な鮮卑人の反発も多く,不満はのちのち六鎮の乱となって爆発することになります。
 北魏の時代には〈酈道元〉(れきどうげん,469~527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう) 【京都H21[2]】を,〈賈思勰〉(かしきょう,不詳) 【本試験H22昭明太子ではない】が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ【本試験H22】)を著すなど,学問も盛んでした。

漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した鮮卑【本試験H28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。

(注) のちに大谷探検隊の発見により、トゥルファンでは規定通りではないものの、均田制が施行されていたことが明らかになっています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。





◯200年~400年の朝鮮半島
 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
 中国の東北部には前3世紀頃から扶余(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。朝鮮半島の東部の濊(わい)人という説もありますが,定かではありません。
 前1世紀に鴨緑江の中流部の貊(ハク)人が高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668) 【セA H30府兵制は実施されていない】を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。高句麗は首長による連合をとり,住民は農耕に狩猟を加えた生活を営んでいました。建国の伝説によると,黄河の神(河伯)の娘が扶余(ふよ)の王に閉じ込められていたとき,日光に当たって卵を生み,そこから生まれた〈朱蒙〉(しゅもう,チュモン)が建国したといいます。〈朱蒙〉は扶余人から逃れる途中に魚や亀に助けられて川を渡り,高句麗を建国したということです。
 朝鮮半島の東北部には沃沮(よくそ;東沃沮(とうよくそ))が活動し,高句麗が拡大すると対抗の必要から魏に接近しました。

 中国の後漢末の混乱に乗じて,遼東を支配していた〈公孫度〉(こうそんたく)が楽浪郡と玄兎郡に支配領域を伸ばし,204年に〈公孫康〉が楽浪郡の南部を分離させ帯方郡(たいほうぐん)としました。当時は,朝鮮半島の東部の濊(わい)人の活動や,南部の韓人,日本列島の倭人の活動が盛んで,南部でこれら異民族に対抗する必要があったのです。濊(わい)人は海獣や海産物の漁労のほか農耕にも従事し,オットセイやラッコを輸出していました。
 帯方郡は濊,韓,倭の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国の魏により〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の〈卑弥呼〉【本試験H7「倭の女王」】【追H18】は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏【本試験H7派遣先は建康ではない】【追H18】に朝貢させています。
 しかしその後,中央集権化を果たした高句麗が313年には楽浪郡を滅ぼし【本試験H21時期】,【追H19時期】遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では〈広開土王〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)【本試験H9[13]】によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教の教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。

 また,朝鮮半島の南部には,韓人による小国家が形成されていました。3世紀には西南部の馬韓(マハン;ばかん)に50余り,東南部の辰韓(チナン;しんかん)に12余り,南部の弁韓(ビョナン;べんかん)に12余りの小国家があったといわれます。
 これらの小国家のうち,馬韓や弁韓(安邪(アニヤ)国,狗邪(クヤ)国など)は,共通の王を建てて連合を築いていました。狗邪国はおそらく「魏志」倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく,のちの任那(イムナ;みまな)国,金官(クムグヮン;きんかん)国)を指します。魏が辰韓を攻撃するとこの連合は崩壊し,帯方郡に従属させられます。
 馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のちの百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】につながっていきます。
 また,辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,のちの新羅(シルラ,しんら,しらぎ)に成長していきました。

 伯済は,北方で高句麗が急拡大する情勢をに警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412) 【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代ではない)】のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し【本試験H21時期】,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安【慶・法H30】にある広(こう)開土(かいど)王(おう)碑(ひ)【本試験H9[13]4世紀末の東アジアの動向が記されているが,そこに現れる国はどれか(後漢,魏,隋,百済)。百済以外は4世紀末に存在しないので,百済が正解】という碑文に刻まれています。

◯200年~400年の日本
 2世紀後半の「倭(わ)国(こく)大乱(たいらん)」(注)の後,西日本を中心とした小国の連合邪馬台国(やまたいこく)は,〈卑弥呼〉(ひみこ) 【本試験H24・H27】を中心として統一を進めていました【H29共通テスト試行 奴国の時代ではない】。邪馬台国の支配層はみずからの権威付けのために,中国の魏【本試験H24,本試験H27北魏ではない】に239年に朝貢使節を送り「親魏倭王」(しんぎわおう) 【本試験H27】の称号をもらい,冊封(さくほう)を受けました。冊封されれば,その地域における支配が認められ,支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからです。
 『三国志』の「魏書」東夷伝(いわゆる『魏志』倭人伝)によると,このときに銅鏡(青銅製でつくられた鏡。当時は光り輝いていた)が100枚も与えられたといいます。全国各地の古墳(墓のこと)から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が見つかっていて,このときに中国から与えられたものではないかという説にもあります。
 3世紀前半に中国の後漢王朝は滅び,魏・蜀・呉の並び立つ三国時代に突入していました。魏としては,〈卑弥呼〉と結ぶことで呉を”挟み撃ち”にしようとする意図があったようです。
 朝鮮半島南西部の百済は,朝鮮半島北部の高句麗の急拡大を警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう,好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し,朝鮮に進出した倭も撃退したということが,現在の中国東北部にある集安にある広開土王碑(こうかいどおう)という碑文に刻まれています。
 3世紀中頃から末にかけて,日本ではヤマト政権が成立したと考えられています。
(注)中国の『三国志』の魏志倭人伝(『三国志』の「魏書」における「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条)や,『後漢書』「東夷伝」(東夷列伝)による。


○200年~400年の東南アジア
 3世紀になると季節風(モンスーン)を利用した航海【本試験H30】が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。
 それにともない,港町の人口密度が高くなって都市(港市)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの(威信材)として利用されるようになっていきました。
 北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に,港市(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えました。

 イラワジ川流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域の上ビルマと下流域の下ビルマに分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響で灌漑による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここにはピューという民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています【本試験H22オケオは関係ない】。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では「驃国」として登場します。




○200年~400年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・200年~400年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・200年~400年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,パキスタン

 3世紀頃にインド南部のサータヴァーハナ朝は衰退し,デカン高原北部ではヴァーカータカ朝(3世紀中頃~6世紀中頃)が栄えました。お得意先であったローマ帝国が,3世紀後半に航海の出口の支配権を失ってしまったためです。4~5世紀には,インド南端部のタミル人によるチェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝が衰退しました。
 インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インドをグプタ朝(320~550)が再統一します【本試験H20】【本試験H8エフタルとのひっかけ】【追H24ササン朝に敗れて衰亡したのはマウリヤ朝ではなくグプタ朝】。地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。

 「最高のヴィシュヌ信者」の称号を持つ王は,ヒンドゥー教を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ【本試験H7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が,ヴィシュヌ【本試験H21マニ教の神ではない】のほかにブラフマーという神や破壊神シヴァ【本試験H24,H30】という神に結び付けられていったものがヒンドゥー教です。

 グプタ朝にマヌ法典【本試験H12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】【本試験H15,本試験H24,H28時期】【追H19旧約聖書とのひっかけ】という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられました。
 絶対的な聖典というよりは習わしに近く,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。
 そこではヴァルナ制度は「人類の起源にさかのぼる神聖な制度」とされています。
 ただ現実的には自分のヴァルナに従っていては生活できない場合もありえます。その場合は例外的に下のヴァルナの仕事に就くこともゆるされるなど、ある程度の柔軟性がゆるされていました(注1)。

 現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原のアジャンター石窟寺院【本試験H26時期】【追H20】やエローラ石窟寺院のグプタ様式の仏教【追H20】建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にもインド独自の特徴が見られます【本試験H4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】。

 サンスクリット語【東京H10[3]】【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】【追H19ウルドゥー語ではない】をサンスクリット文字〔梵字(ぼんじ)〕(注2)で記した文学もつくられ,〈カーリダーサ〉【追H19ウマル=ハイヤームではない】は戯曲『シャクンタラー』【追H19】をつくり,古代から伝わる叙事詩『マハーバーラタ』【東京H10[3]】『ラーマーヤナ』の編集もすすみました。ゼロ(0)が文字として表わされたのも,この時期のことです【本試験H2シュメール人により発達されたのではない】。

 父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは〈チャンドラグプタ〉(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320~335頃) 【本試験H20玄奘は訪問していない】で,かつてマウリヤ朝の首都であったパータリプトラは繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。

 第2代〈サムドラグプタ〉(位335頃~367頃)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。

 第3代〈チャンドラグプタ2世〉(位375頃~414頃) 【本試験H15北インド全域を支配したか問う,本試験H19アンコール=ワットは建てていない】が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家〈カーリダーサ〉がつかえ『メーガドゥータ』や『シャクンタラー』【本試験H12ジャイナ教の聖典ではない】【本試験H26時期】を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した〈法顕〉(ほっけん)【本試験H5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,本試験H12】【本試験H27孔穎達ではない】というお坊さんは,王に謁見したと『仏国記』(ぶっこくき)【本試験H27】【追H19マルコ=ポーロの著作ではない、H24小説ではない】に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】,帰りは海路【本試験H12海路かを問う】を利用し,412年に帰国しました(注3)。

(注1) 「窮迫時の法」といいます。 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.23。
(注2) アーリヤ人の言語(サンスクリット)を記すために用いられたカローシュティー文字は、諸説ありますがアラム文字起源であるという説もあります。カローシュティー文字はやがて用いられなくなり、やや遅れてブラフミー文字が定着。これが現在もインドの公用語であるヒンディー語を記すデーヴァナーガリー文字につながります。なおブラフミー文字は東南アジアの諸文字のルーツでもあります。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.39,p.46。
(注3) 法顕に関する年号は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120



○200年~400年のアジア  西アジア

◆教会の保護者となったローマ帝国によってキリスト教の正統教義が定められた
何が「キリスト教」なのか,ゆっくりと選別されていく(注)
 西アジアには有力なキリスト教会が,シリアのアンティオキアとパレスチナのイェルサレムにあります。
 この時代には,みずからを〈ゾロアスター〉・〈釈迦〉・〈イエス〉の預言者であるとする〈マニ〉(マーニー=ハイイェー,216~276?)が,ペルシアの二元論的な信仰(善と悪の戦いの結果,悪の神によって生み出されたこの世界や我々人間の肉体は汚(けが)れているとする思想)や,〈パウロ〉の福音主義の影響を受け,マニ教を創始しています。
 東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義やミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。

 その一方でローマ帝国では,ユダヤ教徒と違い,皇帝の儀式に参加しようとしないキリスト教徒(1世紀以降,ユダヤ教の教団との違いが互いにハッキリとしていました)たちに対し,迫害する皇帝も現れます。
 しかし,迫害すればするほどに下層民を中心に信者は増えていき,〈ディオクレティアヌス〉帝による「最後の大迫害」を経て,〈コンスタンティヌス〉大帝(位324~337)の時代に公認されます。彼自身も,キリスト教になった最初のローマ皇帝です。

 公認とは「信じてもいいよ」ということですが,キリスト教の信仰の内容には,先述のグノーシス主義の影響を受けたものなど,様々なバリエーションが存在したため,公認する以上,正統な教義を明確化する必要が出てきました。皇帝支配に都合の悪い説も,存在するかもしれません。
 そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H31教皇の至上権が再確認されたわけではない】を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた,仏典結集と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張したアタナシウス〔ニカイア〕派【本試験H29アリウス派ではない】の三位一体(さんみいったい,トリニタス,トリニティ)説です。

 一方,異端となったのは,イエスを人とするアリウス派。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります【本試験H29】。
(注)われわれが「キリスト教の歴史」を学ぶとき,もとから「キリスト教」が何であるかガッチリと定まっていて,〈イエス〉の教えがそのまま「キリスト教」であるかのようにとらえがちです。しかし,何が「キリスト教」で何が「キリスト教ではない」のかは,さまざまな主体によってゆっくりと定まっていくのです。「どれが聖典か議論されたわけではなくて,ゆっくり選別されていく,ゆるやかな作用が在ったのである」(ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016,白水社,p.75~p.76。) つまり,「これが『新約聖書』を構成する文書だ」と,あらかじめハッキリと決まっていたわけではなく,「一連の書物が人気を得るにつれて」,『新約聖書』に収録されるべき文書がゆっくりと選定されていったのです。



◆ローマ帝国の支配機構を真似て,有力な教会によりキリスト教の支配機構がつくられていった
 ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国も東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時,ローマ,コンスタンティノープル,アンティオキア,イェルサレム,アレクサンドリア【本試験H12】の五本山(五大教会)【本試験H12】に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
 特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
 はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった〈ペテロ〉(?~64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。

 遊牧民パルティア人によるアルシャク(アルサケス)朝パルティアを倒した【本試験H26アケメネス朝ではない,本試験H27】のが,農耕に従事するイラン人によるササン(サーサーン)朝です(注) 【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H3時期(6世紀のイランか),本試験H4王の道を整備していない,本試験H8ソグド人ではない】。
 建国者は〈アルダシール1世〉(位224~241頃)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼はゾロアスター教を国教とします【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】。インダス川方面【本試験H25ガンジス川ではない】まで進出し,北インドのクシャーナ朝を衰えさせました。

(注)「ササン(サーサーン)朝ペルシア」という呼称もありますが,実際にはペルシア(ファールス)は領域の一つに過ぎず,支配集団にはさまざまな出自を持つ者がいました。例えば後のセルジューク朝やインドのムガル朝で使われていた言語はペルシア語です。イランだからといって脊髄反射的に“ペルシア”と呼ぶのには,「イランには,かつてギリシア人と戦ったペルシア人の国がある」というヨーロッパからの単純な歴史観も背景にあります。春田晴郎によると、サーサーン朝はかつてのアケメネス〔ハカーマニシュ〕朝よりも、アルシャク朝〔パルティア〕との連続性が強いと主張しています(春田晴郎「イラン系王朝の時代」『岩波講座世界歴史』2、岩波書店、1998年)。
 また,かつては建国年は226年とされていましたが,王の名が打刻されたパルティア貨幣や史料の研究から現在では224年が有力となっています。



 それに対して3世紀の【本試験H251世紀ではない】〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をとるマニ教【本試験H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,本試験H12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】【本試験H21ヴィシュヌは主神ではない】【本試験H25】は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教の教父(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)【本試験H17ストア派ではない】として有名になる〈アウグスティヌス〉(354~430) 【東京H22[3],H30[3]】【本試験H6時期(同時代の出来事を選ぶ)】【本試験H17ディオクレティアヌスではない】【追H19『神学大全』を著していない,H21、H25アウグストゥスではない】が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が『告白(録)』【本試験H17】に記されています。
 ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教は摩尼教,ゾロアスター教は祆教(けんきょう) 【追H25イスラーム朝ではない】と呼ばれ,唐代(618~907)に流行しました。

 第2代の〈シャープール1世〉(位241~272) 【東京H29[3]】【本試験H3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,本試験H10時期を問う】【本試験H25】は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝〈ウァレリアヌス〉【本試験H25ネルウァではない】【早政H30】を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。
 
 なお,イラン人は,ガラス・銀・毛織物・陶器などの工芸品の製作に優れ,ササン(サーサーン)朝で用いられた「獅子狩(ライオン狩り)」のデザインは,法隆寺に伝わる四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん(にしき))にも見られることから,ユーラシア大陸に広く用いられた図案であったことがわかります。正倉院の漆胡瓶(しこへい)・白瑠璃碗(しろるりわん)にも,サーサーン朝の美術の影響があります。

 東西ローマの分裂後も,小アジア,シリア,エジプトは東ローマ帝国の支配下に置かれていました。小アジア中央部のカッパドキアは奇岩が分布していることで有名で,キリスト教徒の隠れ家として利用されていました。4世紀にはカッパドキア三教父と呼ばれる神学者が現れ,三位一体説の教義に影響を与えました。

 現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下でパルミラ【追H26リード文、H30ソグド人と無関係】【京都H22[2]】が繁栄し,東西交易で栄えました。これは260年代には事実上ローマ帝国から分離しています(注)。
 遺跡はのちに世界文化遺産に登録されましたが,「イスラーム国」により破壊され「危機遺産」となっています。
(注)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。




◯200年~400年のアジア  西アジア 現⑱アルメニア
 アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉【本試験H31】によりテマ=アルメニアコンという軍管区(テマ)に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。





●200年~400年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。

 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。



●200年~400年のアフリカ

○200年~400年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。




○200年~400年のアフリカ  南・中央・西アフリカ

南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


 アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。


 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、後50年~400年の層の集落で、グラベリマ種のイネのもみが出土しています。栽培化されたアフリカ産イネの最古級の例です。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。


○200年~400年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 エジプトのアレクサンドリアにはキリスト教の五本山の一つ,アレクサンドリア教会が位置しています。






●200年~400年のヨーロッパ

○紀元前後~200年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



◆ローマ帝国ではバルカン半島のトラキア人やイリュリア人が台頭し,「軍人皇帝時代」となる
ローマ皇帝にバルカン半島人が即位,重心は東方へ
 ローマ帝国では皇帝〈カラカラ帝〉(位198~217) 【本試験H3,本試験H7カエサルではない】が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握。カラカラ浴場(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
 212年には「世界中のすべての外人(帝国内の全自由民【本試験H3,本試験H7】)にローマ市民権を付与する」法(アントニヌス勅法)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したローマ市民法と,万民法(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法) 【本試験H8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。アルシャク(アルサケス)朝パルティアを攻めようとしたのは,〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)への憧れからとみられます。

 〈カラカラ帝〉が帝国の全自由民に市民権を与えたのは税収を増やすための政策だったと考えられますが(注1),これにより辺境地帯の有力者が政治に積極的に介入するようになっていきました。
 たとえば,235年に即位した〈マクシミヌス=トラクス帝〉(位235~238)は,トラキア人の羊飼い出身から皇帝に上り詰めた人物です。イタリアでの反乱鎮圧に向かう途中,部下の兵士に暗殺されて以降,284年までのあいだ,実に26人の皇帝がほとんど寿命をまっとうせずに短期間で交替していく軍人皇帝時代に突入します。その多くガエリート出身でなく一兵卒からの叩き上げでした。

 260年には属州ガリアや属州ゲルマニアで反乱が起き「ガリア帝国」と呼ばれる分離国家も生まれます(注2)。

 社会不安の中,キリスト教が帝国内に広まっていくのは,この時期のことです。なお,〈アウレリアヌス帝〉(位270~275)のときには,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入が激しくなったことから,271年にドナウ川北岸のダキアから撤退しました。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.28。
(注2) 古山正人他編『西洋古代史料集 第2版』東京大学出版会,2002,p.218。



◆ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を複数の皇帝で共同統治し,混乱をおさめようとする
現クロアチア生まれの皇帝が,帝国統治を改革へ
 そんな中,現在のクロアチアで生まれた〈ディオクレティアヌス〉(位284~305) 【追H28全自由民にローマ市民権を与えたわけではない】は,軍人として活躍後,小アジアのニコメディアで皇帝に即位しました。ですから彼も“軍人皇帝”です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。
 しかし,東に首都を移してしまえば,今度は西側が手薄になっていきます。そこで彼自身は帝国の東方を担当し,ローマ帝国の西半は軍の同僚の〈マクシミアヌス〉(位286~305)を共同皇帝としてを担当させることにしました。
 その後,西の〈マクシミアヌス〉と東の〈ディオクレティアヌス〉が,それぞれ東西の「正帝」(アウグストゥスといいます)として,東西の「副帝」(カエサルといいます)を任命して,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々がライン川とドナウ川の防衛線を突破しないように担当させました。広い帝国を4人で統治するこの制度はテトラルキア(四分統治) といいます。

 〈ディオクレティアヌス〉は反乱を防止し,自身に権力を集めるため,まず属州を100程度に細分化しました。従来,属州は元老院議員などの有力者の拠点となっていましたが,その力を奪おうとしたのです。中央から属州総督を派遣して行政を担当させ,国境線の防衛は軍司令官に担当させました。軍事と行政の分担です。さらに官僚制を整備して,増税を図りました。そして,皇帝崇拝を導入し,それを認めないキリスト教徒を弾圧しました(最後の大迫害)。しかし,すでにキリスト教は官僚などの支配層にも広がっており,拡大を食い止めることは不可能でした。
 軍人皇帝の時代に起きていたインフレーションを抑えようと貨幣もつくりなおし,物価を抑えるために最高価格令も導入しましたが,これはあまり効果がありませんでした。

 このように,元老院の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これを専制君主政(ドミナートゥス) 【本試験H3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】 【追H25テオドシウスのときではない】【大阪H31論述(ローマの政体の変遷)】といいます。



◆コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
 〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりました。
 〈コンスタンティヌス帝〉(大帝,在位306~337)は【Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】【H29共通テスト試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】【追H25テオドシウスとのひっかけ】【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】は「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,313年にもう一人の正帝〈リキニウス〉(位308~324)と連名(注1)でミラノ勅令【本試験H3】でキリスト教を公認しました【本試験H3国教としたのではない】【本試験H18アリウス派を異端にしていない,本試験H27,本試験H29帝政を始めたのはアウグストゥス】【追H25テオドシウス帝ではない】【セA H30アウグストゥスではない】。

 最終的に内戦に勝利した〈コンスタンティヌス〉は、東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせます。

 324年には,ギリシア人の植民市であったビザンティウム〔ビュザンティオン〕【東京H14[3]位置を問う】に新たな都市コンスタンティノープル【Hセ10】【追H30 6世紀ではない】を建設を開始。みずからの名を付けた都市にふさわしく、城壁、キリスト教的な建造物や競技場・浴場・広場・記念柱・大通りを建設していきました。
 ただそれは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」(アルテラ=ローマ)を建設する意図があったか、はっきりとはわかりませんが、国防目的に加えキリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます(治世末期にはこの都市の元老院を議員の人数を300人から約2000人に増員しています)(注2)。
 またローマ【追H30アテネではない】市内にはコンスタンティヌスの凱旋門(がいせんもん)【本試験H17】【追H27コンスタンティヌス大帝が建てたか問う、H30】を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門【本試験H17直接は問われていない】や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。

 また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民を小作人(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のことをコロヌスと呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではなくコロヌス(移動の自由のない小作人) 【追H20奴隷ではない】を使用した大土地経営のことをコロナートゥス(コロナトゥス) 【追H20】といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)【本試験H29共和政ローマの時代には始まっていない】。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)では農奴と呼ばれることになります。

 キリスト教を公認するからには教義の統一が必要となったため,325年にニケア(ニカイア)公会議【本試験H18ミラノ勅令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H21時期を問う、H27コンスタンツ公会議ではない】で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス【東京H6[3]】)によるアタナシウス(ニカイア)派の三位一体(さんみいったい)説です。
  アリウス派【追H21、H27】【H27名古屋[2]記述(内容を説明)】は異端(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
 異端とされたアリウス派【本試験H25ネストリウス派ではない】はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。

 このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した〈エウセビオス〉(260?265?~339) 【東京H22[3]】【早政H30】がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。
 〈コンスタンティヌス〉大帝によって建設された都市コンスタンティノープルが、キリスト教の篤い信仰に基づいたものであったとする記述も、〈エウセビオス〉によるもの(『コンスタンティヌスの生涯』)。本当に大帝がそのような意図に基づいていたか確証はありません(注3)。
 このようにして確立されていったキリスト教会の歴史観を「普遍史」といいます。

(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.31。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.151。
(注3) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.150。



 再び「強いローマ」を目指し〈コンスタンティヌス〉大帝の時代に皇帝は神聖化され、そのもとで寵愛を受けた一部の有力元老院議員、官僚、宦官が政治を動かすようになっていきます。
 大帝の死後、3人の子が帝国を分割。大帝以降の皇帝は、基本的にコンスタンティノープルの聖使徒教会に埋葬されるようになります(注1)。
 死後もローマ帝国の国力は衰退しませんでしたが(注2)、兄弟間の争い(長男〈コンスタンティヌス2世〉は三男〈コンスタンス1世〉に殺害されます)、皇位の簒奪といったごたごたを経て、次男〈コンスタンティウス2世〉(位337~361)が単独の皇帝となります。
 その後、大帝の次男〈コンスタンティウス2世〉に任じられガリアを統治していた西の副帝〈ユリアヌス〉(大帝の甥)が360年に反乱を起こします。しかし361年に次男〈コンスタンティウス2世〉が急死したことからすぐに決着がつきます(〈コンスタンス1世〉も部下により殺害される)。

 このゴタゴタを切り抜けた〈ユリアヌス〉(位361~363)は皇帝に即位すると、〈コンスタンティヌス〉大帝以降のキリスト教を保護する支配スタイルを抜本的になくし、伝統行事(ローマの神々に犠牲獣をささげる儀式など)を重んじます。もともとローマ帝国では,古来からローマでは多神教【本試験H3】が支配的で、エジプトの神イシス【本試験H25リード文】や東方のミトラ教【本試験H31神聖ローマ帝国で流行していない】なども信仰されていました。
 しかし、363年にサーサーン朝ペルシアへの遠征中ティグリス河畔で死去すると、後継はキリスト教徒の〈ヨウィアヌス〉(位363~364)となりました(注3)。
 〈ユリアヌス〉はキリスト教の伝統的な歴史観では,異教を復活させようとしたことから,「背教者」と呼ばれますが,それでもキリスト教の拡大は止まりません。信者の増加には,200年頃から〈ヒエロニムス〉(340?~420)らによりラテン語訳『聖書』(『ウルガタ』といいます)が刊行されるようになったことも影響しています。

 なお、フランク人の一小部族であるサリ=フランク人が、358年にトクサンドリア(ライン川河口~ベルギー北東部)に定住を許されたのは〈ユリアヌス〉帝による決定です。
 これ以降フランク人はローマ軍に有能な兵士を供給することになり、急速にガリア社会に進出していくことになります(注4)。

(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.166。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.29。〈ヨウィアヌス〉はササン朝ペルシアと講和して遠征を中止し、ティグリス川以東の配置とメソポタミアの若干の都市・砦を失いますが、ローマ帝国が対外的に衰退したわけではありません(同、p.30)。
(注4)フランク人が史上にあらわれるのは3世紀後半のこと(260年代。3世紀頃に「カマウィ、シャルアリ、サリ、アムスウェリといったライン川下流の部族が同盟したとされます。ラテン語化したFrancusには「大胆なもの」「勇敢なもの」という意味があります。福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.57)。
 当時のフランク人は、カマウィ、ブリュクテリ、アムスウェリ、シャルアリ、シカンブリ、サリなどいくつもの小部族の混成状態にありました。4世紀後半になると、帝国の重要な軍事官職にもフランク人が登場するようになります。「外国人なのになぜ?」と思うかもしれませんが、ローマ的価値観を受け入れたなら、帝国の外の人々であっても柔軟に受け入れるのあ「ローマ的な世界秩序」であったのです。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.72-73。



◆テオドシウス帝の死後,ローマ帝国の全土を一人で支配できる皇帝はいなくなる
外部民族の受け入れが加速する中、フン人が侵入
 〈ヨウィアヌス〉帝の死後、〈ウァレンティニアヌス1世〉(位364~375)が即位。彼は即位一ヶ月後、帝国所領の担当を2つに分割し、東半分を弟〈ウァレンス〉(位364~378)にまかせ共同統治の形をとっています。これは「帝国が分裂」したわけではなく、緊密な連携を保ちつつ帝国を支配するための効率的な解決策でした。「皇帝のいる所がローマである」という2世紀の言葉があるように、複数の皇帝が同時に存在して別々の場所にいる限り宮廷も2つに分けるしかないということでした。〈ウァレンス〉はトラキアを水源とするウァレンス水道を建設し、コンスタンティノープルの水供給インフラを確立した皇帝でもあります(注1)。
 その後、〈ウァレンティニアヌス1世〉の子〈グラティアヌス〉(位367~383)が帝国西半の皇帝に即位しますが、殺害されました。〈グラティアヌス〉の共同皇帝として〈ウァレンティニアヌス1世〉の子である〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)が即位しています。

 軍人皇帝時代から皇帝たちの出身地はドナウ南岸からバルカン半島にかけてイリュリクム地方の人々が多く、〈ウァレンティニアヌス1世〉の家系も例外ではありませんでした(注2)。
 4世紀になると、帝国のフロンティアにあった属州には外部部族集団(たとえばアラマンニ人)が移住する例が増え、皇帝が組織的にそういった外部部族を定住・植民させて、ローマとの同盟関係を結んで帝国領内で自治を得て暮らす例もみられるようになります。4世紀後半には皇帝の側近に軍の最高司令官にも、帝国外部にルーツをもつ軍人が就任していたのです(注3)。
 375年にフン人【H30共通テスト試行 移動方向を問う(西アジアからヨーロッパへの移動ではない)】が東から黒海北岸に出現したのも、まさにこういった事態が進行していたときだったのです。
 フン人の脅威を逃れて属州トラキアへの移住を迫ったゴート人に対し、帝国の東半分を治めていた弟〈ウァレンス〉(位364~378)は受け入れを許可したわけですが、彼らを受け入れれば「ローマ兵として戦力になりそうだ」と考えてのことでした。受け入れに先例がなかったわけではないのです(注4)。しかし受け入れ後にローマ人が過酷な扱いをしたがために暴徒化し、おさえきれなくなったローマ軍が敗走したため移住者集団をコントロールすることができなくなったため、ゴート人だけでなくフン人やアラニ〔アラン〕人までもが外部から進出するようになってしまいます。
 しかし378年、〈ウァレンス〉帝はゴート人と戦って、敗北。皇帝は殺害され、ローマ軍は壊滅します。

 そんな中,西方を支配していた〈グラティアヌス〉(位367~383)が防衛の“頼みの綱”としたのが〈テオドシウス〉でした。彼は379年に〈テオドシウス1世〉(大帝,在位379~395) 【追H25】 として即位し,ゴート人に勝利。帝国の北部に押し返すことはできなかったものの、382年に彼らを同盟部族(フォエデラフィ)として受け入れたのです。現代風に考えれば「ゴート人がローマ帝国内に“独立国”を建てた」とみなせそうですが、そういった措置自体は特別なものではなく、先例もありました。
 しかしそれ以降、歴史の流れが転換していくのは、彼らが「定住」することなく再び「移動」を繰り返したこと、そして帝国内から見た外部民族に対する目が厳しくなっていったことでした(注5)。

 その後、383年皇帝〈グラティアヌス〉が将軍に殺害され、危険の迫った共同皇帝〈ウァレンティニアヌス2世〉(位375~392)は共同皇帝〈テオドシウス1世〉を頼り、〈ウァレンティニアヌス2世〉→西半の皇帝・〈テオドシウス1世〉→東半の皇帝のように分担することにしました。
 しかし、〈ウァレンティニアヌス2世〉は392年に疑わしい死を遂げます。
 おそらく、フランク人の将軍(ローマ軍の総司令官として活躍していた〈アルボガスト〉(?~394))によって殺害されたとみられます。
 代わってフランク人将軍が皇帝に擁立したのは修辞学の教師であった〈エウゲニウス〉でした。

(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32,154,168。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.32。
(注3) 帝国領内に定住・植民し軍事奉仕するようになった者は「ラエティ」と呼ばれ、ローマと同盟関係を結び自治をエて、独自の指揮権の下でローマ軍兵士として戦った部族・軍隊は「フォエデラティ」(同盟部族)と呼ばれました。アラマンニ人のほかにはフランク人もそういった活動をしていた部族として知られます。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.34-35。
(注4) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.36。
(注5) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.38。



◆〈テオドシウス〉大帝はキリスト教を国教と定めた
ローマ帝国でキリスト教が国教とされる
  異教を復活させようとする〈アルボガスト〉らに対し、〈テオドシウス〉大帝は対立します。

 〈テオドシウス〉大帝がキリスト教に着目したのには理由があります。
 キリスト教徒の人口は増え続け,各地の都市の行政を握る都市参事会においてもキリスト教の司教の発言力が高まっていたのです。
 「全土を効率よく支配するには,人々の心や活動に大きな影響を与えている教会組織を利用したほうがよい」と考えた〈テオドシウス帝〉は,381年にコンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議を開催。アリウス派の異端問題に決着をつけるとともに,ニカイア=コンスタンティノポリス信条を採択しました。
 この信条は,ローマ教会,正教会を始め,多くのキリスト教派(教派(英:デノミネーション)とは同じキリスト教ではあるが異なる信仰スタイルを持つグループのこと)で「正しい」とされていますが,解釈は教派によってちょっと異なります。字句の解釈をめぐりローマの教会とコンスタンティノープルの教会は,今後まったく“別物”の教派へと分かれていくことにもなりました。

 こうして,〈テオドシウス1世〉【本試験H3コンスタンティヌスではない】【追H25】は392年にキリスト教をローマ帝国の国教と定めました【追H25】。

 それに対しキリスト教化に反対する元老院勢力は〈エウゲニウス〉帝に協力。
 〈テオドシウス〉大帝はゴート人の力も借りて、392年にイタリア北部のフリギドゥス川で交戦し、これを破りました(フリギドゥス川の戦い)。
 
 戦争に勝利した彼は、ギリシア・ローマの伝統的な神々や異教を徹底弾圧し、キリスト教のもと、ローマ帝国をひとつの皇帝権のもとでまとめることに成功したのです。
 しかし、大帝が395年に突然死去すると,すでに共同皇帝であった息子の2人に広大な領土を分けて継承することになります (西→次男〈ホノリウス〉,東→長男〈アルカディウス〉)。
 帝国を東西の皇帝により分割統治することには先例があり、4世紀後半には普通となっていましたから珍しいことではありませんでしたし、法制度上分離しているわけでもありませんでしたが、その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
このことを,後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂といいます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【本試験H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。

 今後,ローマの西方領土は慣用的に「西ローマ帝国」といいます。
 若年の東西皇帝の側近を占めたのは外部民族出身者でした。東の〈アルカディウス〉の重臣はガリア出身の〈ルフィヌス〉、西の〈ホノリウス〉の重臣はローマ人の母とヴァンダル人の父を持つ人物〈スティリコ〉でした。ドナウ川を超えたゴート人は、ローマ人に不信をいだき、コンスタンティノープルからギリシャに南下し、さらにバルカン半島西岸を北上します。そんな中、東西帝国の重臣がゴート人の対応や領域をめぐって対立。のち、東ローマの重臣は西ローマの東方拡大を恐れ、逆にゴート人に東西両帝国の境界領域の統治権を委ねます(注1)。〈アラリック〉率いるさまざまな人々の集団は401年には北イタリアに入ってミラノを包囲、西ローマを苦しめます。西ローマの〈スティリコ〉は北方の属州を守るはずのローマ軍をかき集め、さらにフン人やアラニ人などを加えた連合軍で、これを迎え討つほかなかったのです(注2)。
 西ローマの正帝はミラノ,のちラヴェンナに置かれていましたが,ゴート人の襲撃を受け、東ローマに比べ統治は弱体化。北方を守るべきローマ軍を呼び寄せてしまっては、もはやローマが属州の治安を維持することも難しくなります。
 476年に西ローマの正帝がインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の傭兵隊長〈オドアケル〉により殺害された後は,西ローマに正帝が即位することはなくなってしまいました。これを,後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。

 その後,コンスタンティノープル【Hセ10】を首都とする東方領土の正帝(以後東ローマ帝国(またはビザンツ(ビザンティン)帝国【Hセ10】)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は1453年に滅亡します)。

 ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も,天動説【本試験H2,本試験H8地球の公転・自転説ではない,本試験H12地動説ではない】を体系化した〈プトレマイオス〉(100頃~170頃) 【追H26地動説を体系化していない】【本試験H15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】【本試験H2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,本試験H8】などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。
 ローマ帝国において,著しく発達していったのは建築・土木や法律の分野です。従来の様式を,より普遍的な様式に高める努力がなされ,ギリシアの柱頭の装飾様式を組み合わせたり,民族を越えた普遍法の制定が研究されたりします。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.42。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.44。





○200年~400年のヨーロッパ  東・中央・北ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 ドナウ川とライン川よりも北側の森林地帯には,狩猟や農耕・牧畜【本試験H7農耕を行わなかったわけではない】によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が生活,キヴィタスと呼ばれる部族国家を形成していました。
 キヴィタスには,貴族・平民・奴隷の区別があり【本試験H7】,貴族中心ではありますが,成年男子全員【本試験H7女性は参加していない】が民会で重要な事柄を決めました。
 有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました(従士制)。彼らの様子については,〈カエサル〉【追H29】の『ガリア戦記』【本試験H15『ゲルマーニア』とのひっかけ】【追H29キケロが著していない】を,〈タキトゥス〉の『ゲルマニア』(98年)などから知ることができます。
 やがて,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も定住農耕をするようになると,人口が増加し,耕地が不足したために,ローマ帝国領内に進入するインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も出てきました。ローマ帝政が終わりに近づくと,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々はドナウ川の下流域にまで活動区域を広げていました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の部族は,集団ごとにローマの傭兵団として各地に駐屯(ちゅうとん)するようになり,やがてローマ帝国を脅かすようになっていきました。





○200年~400年のヨーロッパ  バルカン半島,西ヨーロッパ
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆ローマ帝国は,進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々を軍団として認め,定住と国家建設を許可した

 バルカン半島のドナウ川北部のダキアは,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときに属州となっていましたが,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々や黒海北岸からの騎馬遊牧民の進入が相次ぎ,軍人皇帝〈アウレリアヌス〉(位270~275)のときに手放すことが決まりました(271年撤退)。
 黒海北岸方面からバルカン半島には,黒海沿岸の低地を通ればカンタンに進出できます。黒海沿岸部の西には,カルパティア山脈がドイツの中部にかけて弓なりに伸び,ここをつたってドナウ川中流域のパンノニア平原(現在のハンガリー)に至ることも可能です。

 212年に皇帝〈カラカラ〉(188~217)【追H28ディオクレティアヌスではない】により全ローマ帝国自由人【早政H30】に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年にはゴート人がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。
 3世紀後半に歴代皇帝がゴート人と戦っています。このころのゴート人は複数の集団に分かれていました(注)。
(注)ゴート人が当初から東西別々のアイデンティティをもっていたわけではないと考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.17,p.70。



 バルカン半島西部のイリュリア人のローマ化(イリュリア人らしさがなくなり,ローマ文化を受け入れること)も進み,ダルマツィア地方からは皇帝〈ディオクレティアヌス〉(位284~305)が輩出され,帝国の危機を四分統治(テトラルキア,帝国の管区を東西に2分しそれぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置く制度)で救おうとしました。
 330年には皇帝〈コンスタンティヌス〉(位306~337)が首都をビュザンティオンに置き,元老院議員以外の身分や職業を固定化して,中央集権化を強めました。

 しかしローマ皇帝の改革もむなしく,異民族のさらなる進出は国境地帯の情勢不安定をさらに悪化させていきます。
 その頃、黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされるフン人【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【追H30】がバルカン半島方面【追H30ブリタニアではない】に移動していました。
 360年に黒海沿岸のゴート人を征服し【本試験H12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【H27名古屋[2]】アラン〔アラニ〕人も含む多数の民族を巻き込んで、ドナウ川下流地帯に迫って来ました。
 そんな中,ゴート人(注1)はローマ皇帝〈ウァレンス〉と交渉し,兵士を提供するかわりにドナウ川以南で耕作する権利を獲得しました。ローマ帝国はライン川・ドナウ川の「国境」(リーメス)地帯の防衛のため,異民族の進入を異民族の軍団によって制圧する作戦をとっていました(“夷を以て夷を制す”)。皇帝〈ウァレンス〉はゴート人を軍団として受け入れて、国境周辺の守りを固めようと、彼らにバルカン半島東部のトラキアを用意します。
 しかし,15000~20000人の戦闘員、家族を含めて40000人ほど(注2)のゴート人が大挙して川を渡ろうとすると,キャパオーバーだったことが発覚しました。皇帝〈ウァレンス〉は一転して移住を阻止しようとゴート人への攻撃を決意。
 対する〈アラリック〉王に率いられたゴート人は食料不足で飢え死に寸前。決死のゴート人は378年にアドリアノープルの戦いでローマを破り,皇帝〈ウァレンス〉(位364~378)の命を奪いました。

 395年には〈テオドシウス1世〉がローマ帝国領を2人の息子に相続し,これ以降ローマ帝国が統合されることはありませんでした。このときの分割線はバルカン半島西部を南北に走り,現在のセルビアとボスニア=ヘルツェゴヴィナの国境線とほぼ一致します。また,現在のローマ=カトリック教会と正教会の勢力を分ける線でもあります。
 この分割線よりも東の地域は,今後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やスラヴ系諸民族との関係が深まっていくことになります。

 ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,定住して建国します(西ゴート王国【東京H11[1]指定語句】【H30地域を問う】)。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたわけです。
(注1)彼らを「西」ゴート人とすることも一般的ですが、当時のゴート人に「西ゴート」「東ゴート」としての意識はなかったというのが、現在の通説です。正確には「〈アラウィウス〉王に率いられたテルウィンギ集団を中心とする人々が、ついで同じくゴート人のグレウトゥンギ集団やアラニ人たちが、さらにはフン人の集団も渡河した」と考えられています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。
(注2) 史料(同時代の〈エウナピウス〉(4~5世紀))によっては約20万人の渡河があったといいますが、現在では過大な数字とされています。家族を含めて4万人程度であったとするならば、帝政前期からみられていた平和的移住と規模はあまり変わりません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.70。




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・200年~400年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現⑩ベルギー
ゲルマン人は現・ベルギーの北部にまで進出する
 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれていました(注1)。
 その後、396年に東ゴート人がローマ帝国内に移動を開始してから、ヨーロッパは「民族大移動」の波に飲み込まれます。
 現・ベルギーにはフランク人が移動しました。
 ローマ軍はガリア=ベルギカ属州を東西に走る軍用道路(ケルン~ブーロニュ間)にまで退却し、フランク人も追ってきましたが、軍用道路以南の山岳地帯にまで進出することはできませんでした。
 これが、のちのちまで続く、ゲルマン系の北部と、ローマ(ラテン)系の南部の境界線となっていくのです(注2)。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。
(注2) 明確な境界線ではなく、良系言語の共存地域もありました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.8。


○200年~400年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
◆ローマ帝国は,森林地帯からローマ帝国に移住してきたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の軍事力を頼り,帝国内の建国を許した イベリア半島は属州ヒスパニアとされローマ帝国の支配下にありましたが,南部のコルドバは“小ローマ”といわれるほどローマ化がすすみ,「自分たちはローマ人なんだ」という意識が根付いていきました。3世紀にはイベリア半島全域にキリスト教も拡大していき,325年のニケア(ニカイア)公会議ではコルドバ司教〈ホシウス〉が主席を務めました。キリスト教を国教化した〈テオドシウス〉帝もコルドバ出身です。
 一方北部のカンタブリア人やバスク人は,ローマの文化を受け入れず独自の文化を保っていました。



●400年~600年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流②,南北アメリカ:政治的統合をこえる交流①
 古代末期の民族大移動を受けて,ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では,新たな広域国家の形成に向かう。
 アメリカでは中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に,政治的統合をこえる交流が広がる。

この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸
 ユーラシア大陸の各地で遊牧民が大移動し,定住農牧民を支配下に置いていた古代帝国が崩壊し,遊牧民・農牧民の文化の融合が進むのがこの時代。
 次第に,遊牧民が農耕民の支配層と融合・提携し,「農牧複合国家」(中央ユーラシア型国家)が建設されていく。

・東アジア
 拓(たく)跋(ばつ)部の鮮卑(せんぴ)が華北を統一,漢人支配層と融合した北朝が,南朝と対立する
 魏(ぎ)晋(しん)南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)が続く中国では,華北で騎馬遊牧民の鮮卑(拓跋部)が,漢人支配層と融合して北朝(ほくちょう)を樹立。長江流域の南朝と対立するが,6世紀末に北朝の北周の支配層が隋(ずい)王朝を建て,中国全土を支配する。

・南アジア
 エフタルの進出を受け,インドのグプタ朝は崩壊,イランのサーサーン朝は撃退
 西アジア・南アジアでは中央アジアからの騎馬遊牧民エフタル(匈奴系とみられる)【本試験H8グプタ朝ではない】の進出を,イラン高原のペルシア人によるサーサーン朝【本試験H8ソグド人ではない】が,モンゴル高原のテュルク系の騎馬遊牧民突厥(とっけつ)【本試験H8】とともに撃退。
 南アジアでは,北インドを統一していたグプタ朝マガダ国は,エフタルの進出を受け崩壊した。デカン高原以南には,西海岸にヴァーカータカ朝(3世紀後半~6世紀前半)やカダンバ朝(3世紀後半~13世紀),チェーラ朝,東海岸にパーンディヤ朝など,ドラヴィダ語族系の諸王朝が栄えます。



・ヨーロッパ
 フン人の進出を受け,ローマ帝国西方はフランク,ゴート,東方はビザンツ帝国
 ユーラシア大陸西部のローマ帝国西方の領内では,東方からの騎馬遊牧民フン人(匈奴系という説あり)の進出を受け,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が国家建設をゆるされ,キリスト教とローマ文化を受け入れていきます。
 特にフランク人(フランク王国),ゴート人(西ゴート王国,東ゴート王国),ブルグンド人(ブルグンド王国),ヴァンダル人(ヴァンダル王国)が,先住のラテン人の情報を取り入れて台頭していきます。

 伝統的な理解では、「ゲルマン人の侵入と西ローマ帝国の崩壊」をもって「古代」が終わり中世が始まるととらえ、一方,重心を東方にうつしていたローマ帝国では「古代帝国」の特色が温存され,コンスタンティノープルを中心とする皇帝が,陸海の交易路をおさえて繁栄を続ける(ビザンツ帝国)というストーリーが描かれるのが一般的でした。
 しかし、近年、「「古典古代」から「中世」への移行期は、おおよそ200年~800年頃までの長期におよび、それ自体が独自の活力を持った時代であって、古典古代が衰退したとか、没落したといった認識は適切ではないとする主張」が提出されるようになりました(注)。
(注) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.35。



 この時期には,陸海で新たな交易ルートがひらかれ,各地でパワーバランスが変わる。
 特に西アジアにおけるビザンツ帝国とサーサーン朝の対立を受け,アラビア半島の紅海沿岸(ヒジャーズ地方)の都市を経由する隊商交易が活発化。エチオピア高原を拠点とするアクスム王国と交易ルートをめぐる対立が起きる。交易の安全を図るため,アラブの遊牧民の統一を目指す運動が起きることとなる。
 東南アジアでは,マレー半島横断ルートに代わりマラッカ海峡を通行するルートが盛んとなり,従来のインドシナ半島南部のクメール人の扶南(内陸のメコン川流域に,クメール人の新勢力である真臘が扶南から自立する)や,チャム人のチャンパーに代わり,スマトラ島・ジャワ島やマレー半島南部にオーストロネシア語族系マレー人の政治的統合が進む。



(2) アフリカ
 アフリカ大陸北部では,北方のサハラ沙漠と西アフリカのニジェール川流域の間のラクダによる塩金貿易が盛んとなり,ニジェール川流域の政治的な統合がはじまる。
 アフリカでは,中央アフリカ(現・カメルーン)を発祥とするバントゥー諸語系の大移動が大詰めを迎え,南アフリカにまで到達。先住のコイコイ系の牧畜民が南端に追いやられ,共存・競合関係を結ぶ。さらにサン系の狩猟採集民は南東端に圧迫される。


(3) 南北アメリカ
 北アメリカ大陸のバスケットメーカー文化,中央アメリカのティオティワカン・サポテカ・マヤ,南アメリカ北西沿岸部にナスカやモチェが栄える。
 アンデス山脈北部やアマゾン川河口部や中流域では,小規模な政治的な統合がみられるが,強大な権力には発展していない。


(4) オセアニア
 ポリネシア人が600年頃までにマルサケス島(現・フランス領ポリネシア)への移動をすすめ,さらに北方のハワイ諸島(700年頃),ラパ=ヌイ島(イースター島,700年頃,諸説あり)への進出をすすめていく。





●400年~600年のアメリカ

○400年~600年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。


 北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,各地の気候に合わせ,狩猟・採集・漁撈・農耕により生活を営んでいます。

 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
 北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,大規模なマウンドという埋葬塚が建設されています。
 北アメリカの南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】)の灌漑農耕が行われていました。

○400年~600年のアメリカ  中央アメリカ
ティオティワカンが衰え,マヤの都市国家群が繁栄
◆マヤ地方の都市国家群が栄える
 この時期の中央アメリカ(現在のユカタン半島とグアテマラ東部・南部)では,マヤ文明が「古典期」(注)を迎えています。
 都市国家,コパン,カラクムル,ティカル(◆世界複合遺産「ティカル国立公園」,1979)が発展しました。

コパン
 コパンは低地マヤ南東部に位置する都市国家です。
 コパン(426年~9世紀前半?)(◆世界文化遺産「コパンのマヤ遺跡」,1980)は5~9世紀に栄え,「祭壇Q」という祭壇の遺跡には歴代の王の肖像画が彫られています。コパンにはオルメカの文化的影響が色濃く残されています。

ティカル
 ティカルは低地マヤ南方の中央部に位置する都市国家です。
 現在のグアテマラにあったティカル(前4世紀~後9世紀後半?)は,湿地と熱帯雨林の中央部に位置し,乾季に対応するために,雨水が巨大な貯水池ネットワークに集められました。絶頂期には,8~12万人の人口をかかえることになります。

パレンケ
 パレンケは低地マヤ南西部に位置する都市国家です。
 431年に〈クック=バラム1世〉(「ケツァル鳥・ジャガー」という意味)によって建国されました。
 7世紀の王〈パカル1世〉(位615~683)の墓は,1952年に階段型ピラミッドの中から見つかり,従来は神殿であると考えられていた「碑文の神殿」が王墓とみられることがわかっています(1949年に発見,世界文化遺産「パレンケの古代都市と国立公園」,1987)。
 現在のパレンケに残る神殿は〈パカル1世〉の治世以降に建てられたものです。
 顔をべったり覆っていた豪華なヒスイの仮面や装身具は,彼らの技術力の高さや,交易範囲の広さを物語っています。

カラコル
 カラコルは低地マヤ南方の中央部に位置する都市国家です。
 カラコル(6世紀中頃~7世紀後半)は,当初はティカルに従属していましたが,反乱を起こして戦争となりました。562年の「星の戦争(金星戦争)」で勝利し,やはり低地マヤ南方の中央部に位置する強国カラクムルの傘下に入って成長します。

(注)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。


◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地にサポテカ人の都市文明が栄える
 トウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えました(サポテカ文明,前500~後750)。


◆メキシコ高原中央部のティオティワカン文化が衰退する
 メキシコ高原の中央部では,大都市のテオティワカンを中心にテオティワカン文化(前100~後600)が栄えますが,550年~750年の間に人口が激減し,衰退しました。
 衰退の原因としては支配層の内部抗争,外部から異民族の進入や気候変動などが考えられています。
 なお,ティオティワカンの南東のチョルーラ(紀元後1世紀~)は独立を維持しています。


○400年~600年のアメリカ  カリブ海


○400年~600年のアメリカ  南アメリカ

◆アンデス地方沿岸部ではナスカ,モチェが栄える
モチェで政治統合が進展,ナスカに地上絵が出現
モチェ
 アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ,人々の階層化が深まり,労働や租税の徴収があったとみられます。
 おそらく6世紀頃,ペルー北部の沿海地域の約600kmの範囲に覇権を確立します。

 信仰は多神教的で,神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や,金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 しかし,干ばつとエルニーニョの影響でモチェ南部の政権が衰え,中心は北方の政権(パンパ=グランデが中心)に移ります。パンパ=グランデは550~600年に建設された都市です(注)。
(注)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。



ナスカ
 アンデス地方南部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
 南部沿岸のモチェほどには統合されておらず,王墓なども存在しません。
 当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは,300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると,儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。

 こうして有名な「ナスカの地上絵」がつくられ始めるわけです。
 
 地上「絵」といっても実際には「線」が多く,ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると,下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが,少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ,サル,クモ,鳥などがあって,天体と連動する説が支持されたこともありますが,現在では儀礼的な回廊とか,雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼,すなわち「雨乞い」です(注2)。

(注1)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.179。
(注2)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに,地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。


◆アンデス地方中央部の高地,ティティカカ湖周辺にティワナク文化が形成される
ティワナクが山地と沿岸部の生態系を合わせ発展

ティワナク
 また,アンデス地方中央部の高地では,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃までティワナク文化が栄えまています(8世~12世紀が最盛期)。
 範囲は,現在のボリビアを中心に,チリ北部,ペルー南部にかけての地域です。

 ティワナクは標高3200mの高地に立地し,ティティカカ湖畔でジャガイモなどの集約農耕をおこなっていました。
一方でティワナクは太平洋岸の谷間にも飛び地を持ち,こちらではトウモロコシが栽培されます。
また,ラクダ科の家畜(リャマ)により現在のチリの方まで隊商交易をおこなっていたこともわかっています。
 ティワナクは,高度によって変わる多彩な生態系を効率よく利用し繁栄していたのです。


ワリ
 500年頃から,現在のペルー南部からチリ北部にかけての高地では,ワリ文化を生み出したワリ文化が栄えます (6~11世紀が最盛期)。
 範囲は,ペルーの南部から北部・中部にかけてです。
 ワリは以前,ティワナクと混同されていたこともありますが,別個の文明です。
 織物技術が高くいことで知られ,ワリの都市は,高い壁に囲まれた広い空間が,多機能を持つ小さな空間に区分され,広場を取り囲む形になっています。ワリの都市構造はアンデス各地に影響を与えますが,軍事的拡大によるものかは不明です(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.178。



◆アマゾン川流域でも定住集落が栄える
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でした。しかし,すでに前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が用いられていたとみられます。





●400年~600年のオセアニア

○400年~600年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 ポリネシア人は,410年~1270年の間にイースター島に到達したと考えられています。




○400年~600年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。






●400年~600年の中央ユーラシア
民族大移動がつづく
◆モンゴル高原の騎馬遊牧民は,国際商業民族のソグド人と協力して交易ルートを支配する
騎馬遊牧民は,商業民族ソグド人と提携
 中央ユーラシア東部のモンゴル高原では,鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)から自立した柔然(じゅうぜん)【京都H20[2]】の勢力が強まりました。柔然は東胡(とうこ)の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代〈社崙〉(しゃろん)の率いる柔然(じゅうぜん)を討伐し,柔然はモンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐。天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配して,君主は「可汗」(かがん)の称号を名乗りました。のちの「ハン(カン)」や「ハーン(カーン)」といった遊牧民の君主の称号の起源です。しばしば中国に進入し,農民を略奪して北方で農耕に従事させることもありました。

 542年に高車は滅びましたが,その頃から同じくテュルク系の鉄勒(てつろく)や突厥(とっけつ) 【本試験H7柔然に滅ぼされたのではない,本試験H9モンゴル系の柔然を滅ぼしたか問う】【本試験H19時期】が中国の史書に登場します。カスピ海北岸からモンゴル高原北部に至るまで,テュルク系の民族はユーラシアの草原地帯に広く分布していました。突厥はもともと鉄勒に属していた一派(阿史那(あしな)氏)が建てた国家とされ,阿史那氏はシャーマンだったのではないかという説もあります。シャーマンとは,儀礼によって天の神(テングリと呼ばれました)や自然界の聖霊とコミュニケーションをとることができ,予言や治療ができた人たちのことです【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】。
 中国で北朝が西魏と東魏に分かれて争っていた頃に,突厥はイラン系でアム川上流域のソグディアナ地方出身【本試験H12地図(ソグド人の出身地域を問う) ティグリス川・ユーフラテス川の下流域,コーカサス地方,モンゴル高原(バイカル湖の南西)から選択する】【追H30パルミラではない】のソグド人【追H30】【本試験H4,本試験H8】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】【大阪H30論述:ソグド人の遊牧民地帯における政治・宗教・文化面での貢献】を仲介役として,絹馬(けんば)貿易(中国に馬を売り,絹を得る貿易)に従事していました。ソグド人は各地にコロニー(植民市)を建設し,遊牧民や定住農牧民の国家に接近して外交【大阪H30論述】面で活躍。また,西アジアのゾロアスター教やマニ教などの諸宗教を東方に伝える【大阪H30論述】とともに,アラム文字【大阪H30論述】を持ち込んで,突厥文字やウイグル文字(ユーラシアの遊牧民の文字【大阪H30論述】)の成立に影響を与えました。

 580年頃,突厥【本試験H20鮮卑ではない】は隋の攻撃によってアルタイ山脈あたりで東西に分離【本試験H9 6世紀に分裂したか問う】し,630年には東突厥【本試験H18匈奴ではない】は唐により滅んでしまいます。

◆エフタルの遊牧帝国は,サーサーン朝と突厥によって挟み撃ちにあい滅亡
当時,5世紀半ばから,カスピ海北岸にまで勢力を広げていたイラン系またはテュルク系の遊牧連合エフタル【本試験H7中国には勢力を伸ばしていない】【本試験H23,H30大月氏ではない】【追H18】が,ササン(サーサーン)朝を圧迫していました。ササン朝は突厥と連携してエフタルを挟み撃ちにし,558年に滅ぼしました【本試験H21・本試験H23・H24,H27時期】

 アム川とシル川に挟まれたソグディアナ地方では,オアシス都市に拠点を持つソグド人【東京H20[3],H30[3]】が,活発に交易に従事しました。広域の支配を目指した遊牧民や農牧民の国家は,彼らの識字能力や情報能力を高く評価し,活動を保護しました。彼らはオアシスに植民して都市を築き,農業も行っています。ソグド人はもともとゾロアスター教を侵攻していましたが,マニ教も伝わり,6世紀末にはソグディアナの中心都市サマルカンドに教団がありました。



◆フン人がドナウ川を渡ったことが,ローマ帝国にゲルマン語派の人々が進入するきっかけに
フン人の西進がゲルマン語派の人々の移動を刺激
 中央ユーラシア西部では,フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)が、ユーラシア大陸西部(ヨーロッパ)への移動を進め、ゲルマン語派の人々(注1)の移動を刺激していました。

 その 【本試験H4匈奴ではない】王〈ブレダ〉(390?~445?)と〈アッティラ〉(406?~453) 【セ試行 オドアケルではない】 【本試験H4匈奴の建国者ではない】【本試験H27時期】【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない】の兄弟が434年に東ローマ皇帝に貢納を倍増するように要求しました。

 兄が死に単独の王となった〈アッティラ〉は,東ゴート人を用いて,バルト海からカスピ海にわたる“アッティラ帝国”を築き上げました。
 西ローマ帝国に進入し,451年に西ローマ帝国・西ゴート王国と,カタラウヌム(近年「マウリアクム」ではないかとされています)の戦いを交えています。
 〈アッティラ〉のフン軍には、フン以外にもスエウィ人、フランク人、ブルグンド人、ゲピド人がいましたし、西ローマ軍の重要指揮官は西ゴートですし、フランク人、サクソン人、ブルグンド人がいました(注2)。
 西ゴート王国が参戦したのも、指揮官〈アエティウス〉(391?~454)率いる西ローマ帝国と連合したというより、自国の領土の危機を救うためという面が大きなものでした。しかも指揮官〈アエティウス〉は、フン人とのパイプの強かった人物です。
 ですから「西ローマ帝国・西ゴート王国が連合して、フン人の進入を食い止めた」という伝統的な説明は、ちょっと単純すぎます。

 はっきりとした勝敗はつきませんでしたが、この戦いで西ゴート王〈テオドリック1世〉(?~451、のちの東ゴート王とは別人)は戦死し,フン人はいったんドナウ川中流のハンガリーに退却しました。
 しかしフン人はこれであきらめたわけではありません。
 翌年452年にイタリア半島に進入しましたが,ローマ教皇〈レオ1世〉の説得で,またハンガリーに退却します。

 その翌年453年にみずからの結婚の祝宴の夜に〈アッティラ〉が亡くなると,翌年には服属していた諸民族が反乱して“アッティラ帝国”は崩壊し,残った人々はのちにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,ブルガール人(テュルク(トルコ)系)やアヴァール人(モンゴル系もしくはトルコ(テュルク)系) 【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】に吸収されていきました。なお,フン人の正体が「匈奴(北匈奴)」ではないかという説には,真偽の決着がついていません。

(注1)総称して「ゲルマン人」と呼ぶことが多いですが、ここでは「ゲルマン語派の人々」と表現することにします。ローマ帝国の辺境の属州や、属州の外(「自由ゲルマニア」と呼ばれていました)に住んでいた人々のことを指しますが、彼らがまとまって「ゲルマン人」と呼ばれていたわけではありません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.63。




●400年~600年のアジア

○400年~600年のアジア  東アジア・東北アジア
○400年~600年の東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。この時期には西方の騎馬遊牧民の契丹(きったん)(キタイ)や柔然(じゅうぜん)の圧迫を受けるようにもなっています。
 ツングース語系の高句(こうく)麗(り)(紀元前後~668)の勢力は朝鮮半島では百済や新羅によりブロックされ,西方の中国の北朝との間に摩擦を生んでいます。

 さらに北部には,古シベリア諸語系の民族が居住します。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88



◯400年~600年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国


◯400年~600年の日本
◆ヤマト政権は王権の正統性をアピールするため,南朝に使いを送った
高句麗に対する対抗のため,讃珍済興武が動いた
※済=〈允恭天皇〉,興=〈安康天皇〉,武=〈雄略天皇〉,

 大和地方中心のヤマト政権は,地方の首長らを支配し大王(おおきみ)と称し,鉄資源を求め朝鮮半島南部にも進出しました。大王は農耕儀礼を重視し,春には祈年祭,秋には新嘗祭をとりおこない,巨石・巨木・山などの自然を神体をしてまつりました。山自体が神体として祀られている大神神社は,その一例です。禊(みそぎ)・祓(はらえ)といった風習や,鹿の骨をあぶって現れた裂け目によって占う太占(ふとまに)の法や,熱湯を用いて神意を占う盟神探湯(くかたち)などの呪術が,政治・社会において用いられました。

 5世紀を通じて〈讃〉,〈珍〉,〈済〉,〈興〉,〈武〉(さん・ちん・せい・こう・ぶ,倭の五王【本試験H7時期】)が,中国の南朝の宋(420~479)に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。彼らは朝鮮王朝に南下していた高句麗への対抗上,中国に冊封されることで国内の権威を高めようとしたのです。
 〈武〉は「ワカタケル大王」(のちの雄略天皇)のこととされ,彼の名が現在の埼玉と熊本の古墳の遺物に刻まれていたことから,ヤマト政権の権力が関東に及んでいたと考えられます。〈武〉は,「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王(しじせつととくわしらぎみまなからしんかんぼかんりっこくしょぐんじあんとうだいしょうぐんわこくおう)」の称号が欲しいと宋の皇帝に頼むのですが,すでに百済が冊封体制の中に入っていたので,「六国諸軍事安東大将軍」が与えられました。
 しかし,当初の期待とは裏腹に,中国では南朝よりも北朝のほうが有力になっていきました。そこで,479年に宋が滅亡して以来は,中国に対する朝貢は行わず,日本列島の支配に重点にを移すようになっていきます。


 3世紀後半から西日本に大規模な墳墓である前方後円墳がみられるようになり,4世紀後半~5世紀末に関東・瀬戸内・南九州で巨大化し,副葬品に武具がみられるようになりました。5世紀末には朝鮮半島の影響で横穴式石室が増え,有力農民のものとみられる群集墳も現れました。6世紀末からは古墳に代わり寺社建築が盛んに造られるようになっていきます。
 6世紀には大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々(渡来人(とらいじん))が日本に移住し,仏教・儒教・律令制度【本試験H18時期】といった大陸の文化を伝えました。仏教の伝来には552年と538年がありますが,538年説が有力とされています。弥生土器系の土師器(はじき)に代わって5世紀からは朝鮮の土器の影響を受けた須恵器(すえき)が用いられるようにもなりました。

 6世紀初めに九州の筑紫の国造(くにのみやつこ)〈磐井〉(?~528)が,新羅と同盟して反乱を起こし,ヤマト政権に鎮圧されています(磐(いわ)井(い)の乱)。

◆天皇家と蘇我氏の内紛を,〈厩戸皇子〉が中国文化の導入と集権化によって解決に導く
聖徳太子(574~622)とムハンマド(570?~632)は同時代
 587年に大臣(おおおみ)だった〈蘇我馬子〉(そがのうまこ,?~626)が,ライバルで大連(おおむらじ)の〈物部守屋〉(もののべのもりや,?~587)を暗殺。さらに592年には第31代〈崇峻天皇〉(すしゅんてんのう,位587~592)を暗殺して実権を握りました。

 〈崇峻天皇〉の先代は,〈欽明天皇〉と〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)の子である第31代〈用(よう)明(めい)天皇〉。
 暗殺された第32代〈崇(す)峻(しゅん)天皇(てんのう)〉は〈欽明天皇〉と〈小姉(おあね)君(ぎみ)〉(=蘇我氏)の子でした。
 〈小姉君〉系の〈崇峻天皇〉は,〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)系の〈炊屋(かしきや)姫(ひめ)〉にとってジャマ存在に映ったのでしょう。そこで,〈堅塩媛(きたしひめ)〉は弟の〈蘇我馬子(そがのうまこ)〉と図って,〈崇峻天皇〉を暗殺したのだという説もあります。

 このような泥沼の状態にあって,その調整役として白羽の矢が立ったのが,〈厩戸皇子〉(うまやとのみこ;聖徳太子)でした。彼は,〈欽明天皇〉と〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)の子である第31代〈用(よう)明(めい)天皇〉と,〈小姉(おあね)君(ぎみ)〉(=蘇我氏)と〈欽明天皇〉の子〈穴(あな)穂部(ほべ)皇女〉の間に生まれ,蘇我氏の両方の系統を帯びていたのです。
 〈厩戸皇子〉は,〈馬子〉と〈崇峻天皇〉の甥にあたり,新たに即位した女性の〈推古天皇〉(すいこてんのう,位592~628)を摂政(せっしょう)として助け,大陸の先進文化を導入しながら混乱を収拾するための改革を断行しました。
 すでに中国は隋により統一されて中央集権化がすすんでおり,政権の強化は急務でした。しかし,600年に派遣した使いはおそらく不成功に終わっています。中国の『「隋書」倭国伝』に記載があるものの『日本書紀』には600年の遣隋使の記載が見られないのです。遣隋使派遣のためには身分位階をきちんと整え,皇帝に示さなければ,一人前の外交主体として“相手にされない”ことがわかった〈厩戸皇子〉は,603年に冠位十二階を整えていくこととなります。

・400年~600年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
◆北魏では鮮卑が漢人と協力・同化し,定住農牧民民を支配する
五胡十六国時代→北魏の統一 → 北魏の東西分裂 → 隋
 北魏は,五胡【本試験H21・H29】の一つである鮮卑人の王朝ですが,皇帝主導の急激な漢化政策に対する反発もありました。かつての首都の近くの防備に当たっていた軍団(六鎮)が,523年に反乱にを起こすと,北魏は無政府状態に陥り,534年に〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉(位532~534)を殺害しました。
 同年,反乱を起こした〈高歓〉(496~547)が実権を握り,〈孝静帝〉(こうせいてい,孝武帝のいとこの子,位534~550)を擁立して534年に東魏を建国しましたが,これに対抗して〈宇文泰〉(うぶんたい, 505~556)が〈文帝〉(孝武帝のいとこ)を擁立し,長安を首都として535年西魏を建国(注)。こうして北魏は東西に分裂【追H25時期が梁の武帝の在位期間中かを問う】したのです。

図式 〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉を暗殺。
    〈宇文泰〉は〈文帝〉を擁立→【西魏】
    それに対して,
   〈高歓〉が反乱し〈孝静帝〉を擁立→【東魏】
(注)535年をもって北魏の分裂の年とする。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120

 さらに,550年に東魏は北斉(550~577) 【京都H20[2]】に,西魏は北周(556~581)にそれぞれ取って代わられました。
 このように華北は,五胡十六国 → 北魏が統一 → 東魏・西魏 → 北斉・北周 というように移り変わっていきます。これらはすべて鮮卑系の王朝ですが,このうちの北周の外戚だった〈楊堅〉【本試験H16】は,北周の皇帝から禅譲をうけ,581年に隋【本試験H16】を建国することになります。




◆華南では,長江下流域に移動した漢人が,先住民族と協力して江南開発・海上交易をすすめます
王朝の変遷…東晋 → 宋 → 斉 → 梁 → 陳 
 建康(けんこう)【追H28長安ではない】を首都とする東晋【追H28】は,420年に武将の〈劉裕〉(りゅうゆう)により倒され,①宋が建国されました(960年に始まる宋と区別するため劉宋という場合もあります)。

 その後短期間のうちに②斉(せい)。北魏討伐で活躍した寒門(階級の低い一族)出身の軍人〈蕭道成〉(しょうどうせい,在位479~82)が〈高帝〉として即位。

 ③梁(りょう) 【追H25】。軍人〈蕭衍〉(しょうえん)が〈武帝〉【追H25在位期間中に東西に分裂した華北の王朝を選ぶ(○北魏、×北元、×北周、×北斉)】として建康を占領して即位。

 ④陳のように建っては滅び,建っては滅びました。華北を支配していた遊牧民たちの勢力が強く,常に臨戦態勢であることが求められたため,華北を奪回しようとする将軍の力が強まり,作戦に成功した将軍が皇帝に即位することが多かったためです。

 梁の時代は比較的平穏な時代であり,〈武帝〉の皇太子〈昭明太子〉(しょうめいたいし)【本試験H22】【名古屋H31】が四六駢儷体【本試験H31韓愈は復興を唱えていない】【名古屋H31】で書かれた作品を集めた『文選』(もんぜん)【本試験H22斉民要術ではない】【追H24元代に原形ができた小説ではない】【名古屋H31】【中央文H27記】を代表として文化が栄えました。九品中正(九品中正法) 【本試験H3】は南朝でも続けられましたが,貴族たちは華北時代の家柄にしがみつこうとし,高いランクが付けられた家柄から高級官僚が決められる仕組みは,依然として残りました。こうして,江南にもともといた豪族や軍人,華北から移住してきた華北出身の貴族の家柄に比べ,低い地位に置かれていたのです。
 最終的に,南朝最後の王朝である陳は,四川や長江北部は北朝の西魏に獲得されてしまうほど,弱体化していました。

 陳は,589年に北朝の隋【本試験H6北周ではない】に滅ぼされ,こうして中国は統一され,南北朝時代は幕を閉じます。

 なお,ここで,この時代の中国の時代区分についてまとめておきましょう。
 三国時代は,魏の建国から蜀の滅亡まで(220~263年)。長くとれば,西晋による呉の滅亡まで(220~280年)。
 五胡十六国時代は,匈奴による華北での「漢(前趙)」の建国から北魏の統一まで(304~439年)をさします。
 南北朝時代【本試験H19五代十国時代ではない】というときは,北魏の建国から隋の統一まで(439~589年)をさします。
 魏晋南北朝時代というときは,魏・西晋から隋の統一まで(220~589年)をさし,これがもっとも長い時代区分のとり方です。
 六朝(りくちょう)時代という呼び方もあります。これは,現在の南京に首都を置いた6つの王朝の時代をまとめたものです。
 すなわち,呉【追H25】(当時の地名は建業【追H18】)→東晋(以降は建康)→宋→斉→梁→陳の時代です。「ろく」ではなく「りく」であるのは,この頃の漢字の読み方(呉音といいます)に即して読む習わしになっているからです。この時代は,日本に漢字が大量に伝わった時期でもあります。多くは仏教の経典として日本に伝わりましたから,お経の漢字の読み方に,ちょっと変わったものが多いのはそのためです。例えば,お経の「きょう」は,「経済」の「けい」とは違います。唐の時代になると,首都周辺で話されている言葉が「漢音」として日本に伝わっていきます。現在の漢字の音読みの多くは,漢音の影響を受けたものなのです。例として,「一万(呉音)と万国(漢音)」「無理(呉音)と無事(漢音)」「大工(呉音)と工場(漢音)」「建立(呉音)と建設(漢音)」などなど。

 このように三国時代から隋の成立までの中国は,争いの絶えない時代でした。しかし,逆に言えば,「この考え方が正しく,その考え方は禁止!」というように思想を統制することのできる強力な国家がなくなったため,さまざまな文化が栄える時代でもありました。
 古くから根付いていた民間信仰が,神仙思想(仙人や不老不死をめざす考え方) 【本試験H2】や道家の考え方が体系化されていきました。〈寇謙之〉(こうけんし,363~448) 【京都H20[2]】【追H19時期、H28道教は「仏教の普及に刺激されて」成立したのは確かだが、その時期は明代ではない】【本試験H2北魏の人であることを問う】【本試験H22唐代ではない】【中央文H27記】は北魏の〈太武帝〉【本試験H12道教を禁止したわけではない】に接近して保護を受け,道教の教団(新天師道) 【本試験H19時期】をつくっています(のちに宋代に正一教と呼ばれるようになり,現在に至ります) 【本試験H2中国仏教が道教の体系化に大きな影響を与えたことを問う】。

 政治的に不安定な時代であったことを反映し,政治に関する直接的な発言は避けつつ,老荘思想などについて議論を交わしつつ遠まわしに語り合う「清談(せいだん)」【追H19時期、H24清代ではない】というスタイルが流行しました。
 〈阮籍〉(げんせき,210~263)に代表される,竹林の七賢【本試験H17時期(春秋戦国時代ではない)】が有名。阮籍は魏の時代の政治家でしたが,汚職まみれの政治が嫌になって,酒を飲んで政治の世界から一線を置く道を選びました。古代ギリシアの〈ディオゲネス〉(前412~前324頃)のようです。金と陰謀で汚れた人間がやってくると,彼らは白い目でにらんだという言い伝えから,「白眼視」という言葉が生まれます。一見哲学的な議論の形式をとることで,当時の政治を批判する意図もあったようです。

◆大乗仏教の“大翻訳運動”がはじまった
サンスクリット文字から,漢字への翻訳がすすむ
 道教に対して,インドから伝来した大乗(だいじょう)仏教【本試験H4中央アジアを経て中国に伝わったか問う】は,4世紀後半から栄えはじめます。インドの言葉ではわからないので,〈仏図澄〉(ぶっとちょう,?~348) 【本試験H18・H24時期】や〈鳩摩羅什〉(くまらじゅう,344~413) 【京都H20[2]】 【本試験H4前漢の人物ではない,本試験H12時期(鳩摩羅什は隋王朝に招かれたわけではない)】【追H19,H27仏典の翻訳・布教をしたか問う、H30五胡十六国時代ではない】 が布教や仏典の漢訳【本試験H12鳩摩羅什が訳経事業に従事したか問う】で活躍しました。
 インドの〈ナーガールジュナ〉(150頃~250頃)の『中論』を漢訳したのは〈鳩摩羅什〉です。石窟寺院も多数作られました。
 北魏の時代につくられた,平城近郊の雲崗(うんこう。インドのグプタ朝(320~550)美術の影響を受けています) 【中央文H27記】や洛陽近郊の竜門【追H27唐代の長安ではない】【本試験H22地図・後漢代ではない】が重要です。竜門の石窟寺院は,〈孝文帝〉の漢化政策の影響もあり,中国風の衣装をまとっていいます。ただ,それでも仏教は中国人にとっては”外国思想”ですから,理解するのが難いものでした。そこで,老荘思想や道教などの中国の考え方を混ぜた格義仏教の形で信仰されることも多かったのです。
 しかし,仏教に対する政策は支配者によって様々でした。例えば,北魏の5人の皇帝は,雲崗石窟の仏像を自分たちの姿に似せて作らせました。「皇帝=仏」ということを,人々に知らしめそうとしたのです。南朝で梁を建てた軍人出身の〈武帝〉(〈蕭衍〉(しょうえん))は,仏教を厚く信仰したことで知られます。一方,北魏の〈太武帝〉(位423~452) 【本試験H12】や北周の〈武帝〉(位560~578)は,仏教を厳しく弾圧しました(唐の〈武宗〉(位840~846)),後周の〈世宗〉(位954~959)の迫害と合わせ中国の仏教界では”三武一宗の法難”と呼びならわされています)。


◆南朝では,漢人による貴族文化が開花する
“中原”の漢人の文化が,次代に発展・継承される
 政治の世界から一歩引く風潮は,詩文の世界にも見られます。憧れだった都は荒れ果て,豊かさが“うわべ”だけのものだったことに気づいた人々は,時間のたっても変わらない素朴な「自然」の姿に,一度きりの人生の“理想”を求めたのです。例えば,東晋の〈陶潜〉(とうせん,〈陶淵明〉(とうえんめい),365?~427) 【本試験H3長恨歌の作者ではない】【京都H20[2]】【名古屋H31人名と「東晋」代の人ということを問う】。なお,このように2つの呼び方があるのは,中国人が,人の名前を軽々しく呼ぶことを嫌がったためで,陶潜の場合,「潜」は名であり,これをむき出しにするのは失礼と考え,代わりに「淵明」という通り名で呼んだことによります。前者を諱(いみな),後者を字(あざな)といいます。〈陶潜〉は官僚の職を辞して辞,故郷の田園生活に戻る決断をします。他に同じく,山水詩で有名な宋の〈謝霊運〉(しゃれいうん,385~433) 【名古屋H31人名と「宋」代の人であることを問う】がいます。彼は,霧につつまれた,うら寂しく深い山や険しい谷を眺めながら「官僚としての生活を送るなかで,若い頃の自分ではなくなってしまった」と嘆く,そんな詩を読みました。陶潜と謝霊運をあわせて「陶謝」ともいいます。

 南朝に移動した門閥貴族(高い家柄の貴族)たちの間には,自分たちにしかわからないような絶妙で繊細な文化を尊ぶことで,庶民との違いを見せつけようとする文化が発展しました。
 例えば,美しい文章の書き方として,四六駢儷体がもてはやされます。梁の時代の〈昭明太子〉(501~531)による『文選』(もんぜん)が有名です。

 また,『女史箴図』(じょししんず) 【追H29】 【立教文H28記】という女性のマナー書の挿絵を書いた〈顧愷之〉(こがいし,344?~405?) 【本試験H15王羲之とのひっかけ,本試験H22顧炎武とのひっかけ】や「蘭亭序」(らんていじょ)【追H29】で有名な〈王羲之〉(おうぎし,307?~365?) 【本試験H15「女史箴図」の作者ではない,本試験H17唐代ではない,本試験H22】【追H27仏典の翻訳・布教をしていない、H29リード文】【早・政経H31蘭亭序の作者か問う】が,それぞれ絵と書をきわめます。彼の子〈王献之〉(344~388)も書画で有名です。

 中国では「書」と「画」がセットで価値を持っていた点に特色があります。
 また,南朝の宋の時代には〈范曄〉(はんよう,398~445)により正史の『後漢書』が紀伝体で編纂されました。




・400年~600年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮半島西南部の馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,6世紀には百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【追H9朱子学と書院は栄えていない】【H29共通テスト試行 時期(奴国の時代に百済はない)】として統一が進みます。
 また,朝鮮半島東南部の辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,新羅(シルラ,しんら,しらぎ)によって6世紀には統一されていきました。

 朝鮮半島北部では高句麗が勢力を拡大させ,〈広開土王〉(クヮンゲトワン;こうかいどおう;好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに東南部の百済や,南部の任那(イムナ,みまな)や安羅,日本列島の倭の勢力と戦いました。
 次の〈長寿王〉(チャンス;ちょうじゅ,位413?~491)の代の427年には,現在の北朝鮮の首都である平壌に遷都し,南部への支配を本格化させました。彼は中国の北朝の北魏と南朝の宋の両方に朝貢し,新羅と百済との対立に備えます。百済は475年に高句麗によって一時滅亡しましたが,首都を熊津(ゆうしん;ウンジン)に移して再興されました。
 新羅は5世紀中頃まで高句麗に従っていましたが,5世紀後半には対立を始めます。500年に新羅は王号を名乗るように成り,〈法興王〉(位514~540)の下で王権が強化されました。百済とも提携しながら高句麗に対抗していきます。

 高句麗の南進に備え,南部の加耶地域の安羅や金官と協力し,日本列島の倭にも接近してきました。この時期の倭に贈られた七支刀(しちしとう)は,百済の倭への接近を示しているとみられます。倭(日本)のヤマト政権は,彼らの持っていた高い技術力や先進的な文化を歓迎し,渡来人(とらいじん)として受け入れました。こうして日本にも漢字や仏教・儒教や律令制度【本試験H18】が伝えられることになったのです。例えば〈王仁〉(わに,生没年不詳)が『論語』や『千字文』などの儒教のテキストを伝え,513年には五経博士を派遣しました。522年には職人〈司馬(しば)達(たつ)等(と)〉(生没年不詳)が日本に移住し,その孫〈鞍作(くらつくりの)鳥(とり)〉(止利仏師,生没年不詳)は後に法隆寺金堂の本尊釈迦三尊像で知られる仏像製作者となります。


◆新羅が南部に進出すると,百済は倭のヤマト政権と結んで対抗した
 その後,百済と新羅は南進し,ともに鉄資源の豊かな南部の加耶地域に進出します。522年に新羅は加耶諸国のうち5世紀後半に台頭していた大加耶(高霊(コリョン))と同盟し,532年には金官国(金海(キメ))を滅ぼしました。
 このとき,金官国(かつての狗邪(こうや;クヤ)国)は,密接に交流をしていた倭のヤマト政権に救援を求めました。ヤマト政権は加耶地域の鉄資源を押さえようと,527年に〈近江毛野〉(おうみのけぬ,?~530)に朝鮮半島南部に進軍させようとしましたが,九州の豪族で筑紫国造であった〈磐井〉(いわい)が528年にそれを阻止しました(磐井の乱)。〈磐井〉を初めとする九州の豪族は新羅とのつながりが深く,百済とのつながりの深いヤマト政権との交易ルートをめぐる対立があったとみられます。
 541年と544年には百済が主導し,倭も参加する形で加耶の復興会議が開かれましたが,562年に加耶地域は新羅の支配下となりました。これをもって朝鮮半島は高句麗,新羅,百済の三国時代【本試験H31 高句麗・新羅・百済が並び立ったか問う】【追H19時期】となります。実力の認められた新羅は中国の北朝(北斉)と南朝(陳)に冊封されると,高句麗や百済も対抗して中国への朝貢を実施。581年に中国に隋が成立すると,高句麗・百済・新羅の三国が朝貢しました。



○400年~600年のアジア  東南アジア
 5世紀頃に,季節風(モンスーン)を利用した航海が確立して,中国やインド洋方面との貿易がますます活発化していきました。従来のようにマラッカ半島を陸路で横断するのではなく,マラッカ海峡の重要性も高まっていきました。

 北ヴェトナムでは漢人に対する反乱が相次ぎましたが,隋は590年に鎮圧し,支配のための都を現在のハノイに移しました。ハノイは,中国と東南アジアを結ぶ河川の集まる,重要な地点に位置しています。
中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えています。5~6世紀頃から,サンスクリット語の碑文が見つかるようになり,中国側の史料によるとインド風の宮廷・ヒンドゥー教の僧侶などの特徴を備えるようになっていたようです。研究者はこのことを,東南アジアの「インド化」といいます。インドの文化を取り入れることで,権威を高めようとしたのです。東南アジアでは「バラモン教」「仏教」「ヒンドゥー教」などをハッキリと区別して受け入れていったわけではなく,「インドの文化」としてざっくり受け入れ,地元の文化とも積極的にミックスしていく傾向があることにも注意しましょう。日本で,神道(しんとう)と仏教,儒教,道教が共存してきたこととも似ています。

 メコン川下流域の扶南は,6世紀前半で中国に朝貢使節を覇権しなくなりました。マラッカ海峡を通るルートが東西ルートのメインになり,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】などの勢力に圧倒されたためと見られます。

 中国の東晋時代に,長安から西域を経由して陸路【本試験H12「西域経由」か問う】でインドのグプタ朝に渡った僧〈法顕〉(ほっけん,337~422) 【本試験H12】は,「海の道」【本試験H12帰路は海路か問う】を通って中国に帰ってきます。帰路は412年に200人以上のインド商船で出航し,セイロン島(現スリランカ)を経由して,耶婆提(やばてい)で5ヶ月風待ちしたあと,別の商船で中国に帰ったと記録しています。耶婆提とは,マレー半島かスマトラ島のどこかの地点を指すとみられます。
 盛んとなった交易を背景にして,東南アジア各地には,交易ルートを支配する権力が成立するようになります。例えば,マラッカ半島の付け根,マラッカ海峡,スマトラ島南部,ジャワ島などの交易国家が,中国に朝貢していました。
 それと同時に,インドの影響を強く受けた交易国家も登場します。これを「インド化」といいます。ジャワ島西部のボゴールや,カリマンタン島東部のクタイなどでは,サンスクリット語の碑文が発見されています。王はバラモンをたくさん周りにはべらせ,インド的な行政制度や服装,法が導入されました。支配者は,発展レベルが高いと考えられたインドの文化をたくみに導入することで,国内外の人々にその支配の正しさ(正統性)を納得させようとしたのです。

 イラワジ川流域では,ピュー人の国が栄えていたことが,中国の史料から明らかになっています(朱江と呼ばれていました)。6世紀後半~7世紀初めには,東のチャオプラヤー川にまで勢力を広げ,クメール人【本試験H5チャム人ではない,ヴェトナム中部ではない】のカンボジア(中国名は真臘【本試験H5,本試験H11:時期を問う(6~15世紀かどうか)・地域を問う(マレーシアではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と争っていたといいます。



○400年~600年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・600年~800年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています(5世紀に都は一時的にシーギリヤ(◆世界文化遺産「古都シーギリヤ」,1982。シーギリヤロックで有名)に移っています)。

 スリランカは上座仏教の中心地となっており,5世紀以降に仏教徒により編さんされた歴史書『マハーヴァンサ』などには,スリランカのシンハラ人が北インドから来住したことをつたえる建国神話が記されています(注)。
 アヌラーダプラの王権は上座仏教の教えを遵守し,水利施設を整備することで人々をまとめようとしました。

(注)辛島昇『世界各国史』山川出版社,2004年,p.168。


・600年~800年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆北インドではグプタ朝が衰え,エフタルの攻撃で崩壊,南インドでは地方国家が交易で栄えます
 5世紀に入ると中央ユーラシアの遊牧民エフタル(フーナ)が,グプタ朝【本試験H29ムガル帝国ではない】に進入するようになりました。
 5世紀末の進入により,グプタ朝はインド西部を失い,同じ頃から諸侯や地方長官の独立が始まりました。
 こうして,6世紀半ばまでにはグプタ朝は多くの領土を失い(注),7世紀【共通一次 平1:当時(7世紀)のインドでサンスクリット語が使用されていたか問う(パスパ文字,アラム文字,インダス文字ではない)】後半に残存勢力が盛り返したものの,8世紀に入ると消滅しました。
 グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。
 このうち,プシュヤブーティ朝から,7世紀初めに〈ハルシャ〉【本試験H20・H27】が出て,ヴァルダナ朝【本試験H20玄奘が訪問したか問う,本試験H19時期(アンコール=ワット建設と同時期ではない)】【追H24】を開き,北インド【本試験H27,H30南インドではない】【追H24南インドではない】を統一することになります。
 インド南部では,6世紀からパッラヴァ朝が,首都カーンチープラム(現在のチェンナイ付近)を中心に栄えます。仏教やジャイナ教寺院が多数建立されましたが,6世紀以降,北インドの影響によりヒンドゥー化が進みました。
(注)520年にエフタルの攻撃を受けて分裂崩壊とするのは,『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120




○400年~600年のアジア 西アジア

◆キリスト教の「異端」とされたネストリウス派や単性説が広まる
ローマの東方ではキリスト教の信仰がつづく

 コンスタンティノープルを中心都市とする東ローマ帝国では、強力な皇帝権力とキリスト教の東方正教会を軸とする支配体制が確立されるようになっていきました(注)。
(注)かつては不正確な知識から、東ローマ帝国の皇帝は、正教会の総主教を兼任していたという理解(皇帝教皇主義)もありましたが、現在では否定されています(久松英二『ギリシア正教 東方の智 (講談社選書メチエ)』講談社,pp.76-77)。


 そんな中、〈テオドシウス2世〉(位408~450)の呼びかけで431年に現在のトルコ共和国の西部にあるエフェソスでエフェソス公会議が開かれ,イエスには神の部分と人の部分があるが,それらは完全に別物として存在しているとするネストリウス派が異端とされます。「マリア」の扱いについては,異端のネストリウス派が,マリア=人としてのイエスの母という立場をとったのに対して,“マリア=「神の母」”説が正統とされました。のちにイラン高原のササン(サーサーン)朝を通過し,唐代【本試験H29漢代ではない】の中国で景(けい)教(きょう)【京都H20[2]】【本試験H21拝火教ではない】【追H19、H30】として大流行します。
 なお,エフェソスは歴史の長い都市で,ヘレニズム時代やローマ時代の遺跡(図書館やローマ劇場,アルテミス神殿)が残されています。5世紀からは,ここで余生を送ったとされる聖母マリアの家が巡礼地の一つとなっていました(◆世界文化遺産「エフェソス」,2015)。

 さらに451年のカルケドン公会議では「イエスは完全に神である」という単性論【早政H30】が異端とされ,こちらは現在ではシリアやエジプトに残っています。とくに,エチオピア正教会やエジプトにあるコプト教会は単性論とみなされることはありますが,実際には別物です(どちらもカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないため,非カルケドン派ともいわれます)。エチオピアのキリスト教には,ユダヤ教の影響もみられます。



◆フン人という“共通”を前に、東ローマの皇帝権力とサーサーン朝との関係は平穏だった
東ローマとサーサーン朝との関係は初め平穏
 中央ユーラシアの遊牧騎馬民族フン人は395年・396年にアルメニアとメソポタミアに進入し、ササン朝ペルシア帝国や、カッパドキア、ガラティア、シリアなどローマ帝国東部属州に被害を与えていました(注1)。
 410年にローマ市でゴート人によりローマが劫略(ごうりゃく)されると、〈テオドシウス2世〉の後見人であった官僚(オリエンス道長官〈アンテミウス〉(任405~414))はコンスタンティノープル市の西に街を取り囲む形の三重の堅固な大城壁(“テオドシウスの城壁”)の建設を指示。これがコンスタンティノープルを1453年まで守り続けることになります。422年・434年にフン人の王〈ルア〉はトラキアを攻撃し、壊滅的な被害を与えました。その後〈ブレダ〉と〈アッティラ〉の共同統治となり、445~453年の〈アッティラ〉単独統治期間には、コンスタンティノープルの宮廷は貢納金を支払って何度も和議を結びますが、447年にはバルカン半島への最大規模の遠征があり甚大な被害を受けました(注2)。

 しかし、小アジア・シリア・エジプトなど、東部諸州の被害は少なく、“フン人”という「共通の敵」を前にしてササン朝ペルシアとの関係も、ペルシアの王が権威を誇示するために起こしたローマへの遠征(〈ヤズデギルド2世〉(位438~457)の441年のローマ攻撃)を除いては、〈ヤズデギルド1世〉(位399~420)と子〈ヴァハラム5世〉(位420~438)のときには使者の交換がみられるなどおおむね平穏でした(注3)。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.146。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.147。



◆インド洋の海上交易をめぐって東ローマ帝国とサーサーン朝が対立する
交易をめぐる東ローマとササン朝の関係が悪化へ
 その頃アラビア半島には,アフロ=アジア語族のセム語派のアラブ人が居住していました。
 沙漠が大部分を占めることから,周辺の国家による支配は難しく,オアシスの周りで農業をおこなったり,遊牧をしたりする集団がいくつもの共同体を形成していました。商業を行う集団も少なくなり,地中海沿岸のシリア方面と,紅海やインド洋を結ぶ中継貿易で栄えた部族もいました。沙漠という過酷な環境下で,アラブ系遊牧民(ベドウィン)の諸部族は多神教を中心とする宗教によって連帯し,共存するとともに争い合っていました。のちにイスラーム教の聖地となるメッカでは,泉(ザムザムの泉)やカーバ神殿【追H20ヒンドゥー教との信仰の中心ではない】【セA H30メッカで「カーバ神殿が造られた」か問う】が遊牧民の信仰を集め,5世紀中頃には遊牧民のクライシュ族が支配下に置きました。
 アラビア半島にはユダヤ人やキリスト教徒も分布していました。

 5世紀後半には,中央ユーラシアから遊牧民エフタル【本試験H8グプタ朝ではない】が進出し,ササン(サーサーン)朝【本試験H8ソグド人ではない】は危機的状況となりました。しかし,〈ホスロー1世〉(位531~579) 【本試験H5ヒッタイトの王ではない】が,モンゴル高原のトルコ系遊牧民の突厥(とっけつ,とっくつ) 【本試験H8】と同盟して挟み撃ちにしました。彼は,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565)とも領土争いをしています。孫の〈ホスロー2世〉(位590~628)もローマ帝国と争っています。両者ともにエジプトやシリア方面をねらっていました。“アケメネス朝の跡継ぎ”を自任するサーサーン朝にとって,かつての領土の回復には,王の威信(プライド)がかかっていたのです。〈ホスロー2世〉は614年にシリア・パレスチナ,619年にエジプトを占領。
 ササン(サーサーン)朝は工芸技術にも優れ,日本の法隆寺の獅子狩文錦(ししかりもんきん)や正倉院の漆胡瓶(しっこへい)にはその影響がみとめられます。



◆大国の抗争を避け,主要な東西交易ルートがアラビア半島を南に迂回(うかい)するように
海上交易の要衝がアラビア半島南部にうつる
 サーサーン朝の面目躍如もつかの間。ビザンツ帝国も黙ってはいません。
 6世紀以降になり,コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国と,イラン高原を支配するササン(サーサーン)朝との間の戦争が多発。イラン高原から地中海を抜ける陸上の交易ルートや,ペルシア湾を通るルートは危険そのものとなります。
 そこで,イランからアラビア海に南下しそこからアラビア半島を迂回して,地中海に抜ける海の交易ルートを通る商人が急増。サーサーン(ササン)朝もアラビア半島南部のイエメンに支配圏を広げていこうとしました。紅海を通るルートよりも,いったんジッダで荷揚げをしてラクダに積み替え,内陸部のメッカやメディナを拠点としてシリアへの隊商(キャラバン)交易(注)をするルートが頻繁に使われるようになり,アラビア半島の紅海側の都市には,各地から商人が集まるようになります。

 6世紀後半,のちにイスラームを広めることになる〈ムハンマド〉(メッカ【H27京都[2]】生まれ)の曽祖父〈ハーシム〉が遠隔地交易に従事し,シリアからイエメンにかけてのアラビア半島各地の遊牧民の部族と安全保障の取り決めを交わしていました。
(注)中東=イスラーム世界のキャラバンの安全保障は,個々の隊とキャラバンの通過路に遊牧地をもつ部族集団・地方勢力との個別の関係,イスラーム諸国家の商業政策に左右された。原則としてキャラバンの安全は自己責任で,遊牧部族から護衛を雇うか,あらかじめ通貨料を払って略奪を防ぐことも行われていました。 尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】(弘文堂,1994年)』,p.169

 〈ムハンマド〉の誕生した6世紀末には,ハーシム家はクライシュ族の内紛に巻き込まれ,〈ムハンマド〉の父〈アブドゥッラーフ〉は彼の誕生時にはすでに他界していました。6歳で母〈アーミナ〉も他界し,8歳のときには祖父も亡くしています。そこで〈ムハンマド〉は父方の伯父(おじ)に育てられ,若くしてシリア方面への隊商交易に従事し,そこでキリスト教の思想にも触れています。

・400年~600年のアジア  西アジア 現⑱アルメニア
 アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉によりテマ=アルメニアコンという軍管区に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。




●400年~600年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。



●400年~600年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。





●400年~600年のアフリカ

○400年~600年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 東アフリカのインド洋沿岸には,東南アジア方面からオーストロネシア系のマライ人が船で航海してきました。このときに,米,ココヤシ,バナナ,サトウキビ【本試験H11原産地はニューギニア周辺と考えられ,その後前6000年頃にインドに伝わりました】,イモが伝わったのです。彼らは10世紀にマダガスカルにアウトリガー=カヌーを用いて移動していくことになります。




○400年~600年のアフリカ  南アフリカ・中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

◆バントゥー系が中央アフリカ・南アフリカにも拡散し,南端にコイコイ系の牧畜民が追いやられ,サン系の狩猟採集民は南東端に圧迫される
バントゥー系が,バナナの力で熱帯多雨林に拡大
 5世紀頃,バントゥー語系の人々の住むコンゴ盆地に,東南アジア原産のバナナが流入しました。日本で食べられている果実用のバナナとは違い,料理用バナナであるプランテンバナナはヤムイモに比べ,湿潤な熱帯雨林気候でも育ちやすく(注)土地生産性も高いため,人口が増大しました。
 発生した余剰生産物は,狩猟採集民や漁労民との交易にも用いられましたが,しだいに農牧民の社会の規模が拡大し,15世紀以降にコンゴ王国などの国家が出現することになりました。このようなバナナの流入によるコンゴ盆地の社会の変化を,“バナナ革命”と呼ぶ研究者もいます。
(注)市川光雄「人類の生活環境としてのアフリカ熱帯雨林 歴史生態学的視点から」『文化人類学』74巻4号,2010,p.566~584,https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/74/4/74_KJ00006252825/_pdf/-char/ja

○400年~600年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、400~900年の層から大量の骨壷が見つかり、人口が増加し集中していたとみられます。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○400年~600年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア


 北アフリカ沿岸部一帯は,ローマ帝国の属州として支配下に置かれました。
 エジプトでは〈イエス〉の死後,キリスト教が〈マルコ〉により伝道されたとされ,その後「コプト正教会(コプト教)」として普及しています。コプト教は451年のカルケドン公会議の結果を承認しなかったため,非カルケドン派に分類される教会です。


 北アフリカ西部のマグリブ地方(現在のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア)の内陸部には,5世紀~6世紀初めにベルベル人の諸王国がありました。
 北アフリカ西部には、インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ヴァンダル人【東京H23[3],H30[3]】【H27名古屋[2]】がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島方面からアフリカ大陸に進出し,現在のチュニジアにあるカルタゴを占領して429年にヴァンダル王国【立命館H30記】を樹立しました。カルタゴから穀物を輸入していたローマ市民は打撃を受けました(注)。
 しかしヴァンダル王国【追H28滅亡された時期を問う。~379年~479年~642年~のいずれの時期か】は〈ユスティニアヌス〉帝の治世のビザンツ王国に滅ぼされ,647年までその支配下に置かれます。
(注) ローマ市、コンスタンティノープル市には公的な食糧供給制度(フルメンタティオネス)が整備されていましたが、ヴァンダル王国の建国により、北アフリカ・シチリア島からの食糧供給が途絶えます。エジプト産穀物はコンスタンティノープルに主として供給されるようになりました。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.126。






●400年~600年のヨーロッパ
○紀元前後~200年のヨーロッパ  中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



◆ローマ文化を受け入れたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,ローマ帝国時代の制度を利用して国家を建設する
この時期に、ローマ的な世界秩序が崩壊する
 ローマ帝国は,各地に進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派(注)の人々に対してなすすべもなく,ローマ帝国と同盟を結んだ軍団として認めて定住させることで混乱を収拾し,帝国の防衛を担当させようとします。
 彼らの族長はローマ帝国の軍司令官となり,従来の属州各地の行政機構のトップに君臨し,ローマに属していた土地の一部を仲間に分け与えていきました。ローマはもともと,地方行政を各地の都市にまかせていたので,トップがインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の族長へと代わっただけです。
 ただ、外部民族の暴力的な進入や略奪がすすむにつれ、帝国外部の人々に対する視線は厳しいものとなり、外部の人々を「文明的なローマ人」とは異なる「野蛮なゲルマン人」とみなす風潮も高まっていきました。

 外部からやって来たゲルマン人たちは,各地で現地のローマ人の有力者との関係を築き,ローマ教会のアタナシウス(ニカイア)派に改宗し,ローマ法の影響を受けた法典を作成したりする国家も現れます。
 かつて都市の有力者はローマ帝国を「後ろ盾」に徴税などの責任を負い、ローマ帝国の統治に協力していましたよね。でも、ローマ軍の国境防衛・治安維持能力がこれほどまでに低下してしまえば、都市有力者がローマ帝国にこれ以上すがる理由はありません。かくして都市の「ローマ離れ」が進んでいくのは必至です。
 政府の役人や都市の有力者に代わって各地で指導的な立場になっていくのは、キリスト教の教会指導者でした。
(注1)総称して「ゲルマン人」と呼ぶことが多いですが、ここでは「ゲルマン語派の人々」と表現することにします。ローマ帝国の辺境の属州や、属州の外(「自由ゲルマニア」と呼ばれていました)に住んでいた人々のことを指しますが、彼らがまとまって「ゲルマン人」と呼ばれていたわけではありません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
(注2)南川は、外部のゲルマニアからフロンティア「地帯」を通ってローマに受け入れられ「ローマ人」となる可能性のあった人々を「ゲルマニア人」と呼び、この時期の排外思想の高まりからフロンティアの国境「線」の外部の人々を「ローマ人」となりえる可能性のない「他者=ゲルマン人」と呼んで区別しています。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.47。


フン人
 4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくったフン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,408年・409年・422年にバルカン半島に進出しました。5世紀前半に〈アッティラ王〉を中心として,今日のハンガリー平原であるパンノニアを中心にして帝国を建設しました。


ゴート人(ゲルマン語派)
 ゴート人を率いた〈アラリック〉は410年にローマに侵入し、3日にわたり略奪・殺戮をはたらきます。
 最盛期の100万人に比べると人口は半減していたものの、〈アラリック〉のローマ略奪は地中海世界に大きな衝撃を与えたと考えられます(注1)。
 その後〈アラリック〉は死去し、弟の〈アタウルフ〉が率いて西に移動したゴート人(西ゴート人)は、412年にガリアに入ります。〈アタウルフ〉は西ローマと友好関係を保ちますが、その後西ローマの総司令官の圧迫を受け本拠をスペインに移動。〈アタウルフ〉は殺害されますが、次の〈ウァリア〉のときにヴァンダル人を攻撃する代わりに食糧援助を約束され、ゴート人がガリア南西部(アキテーヌ)に定住することを認めました。
 この西ゴート王国【H30地域を問う】の建国年は415年で、承認されたのは418年です (注2)。
(注1) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.46。
(注2) 年号は参照『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.120。しかし厳密に言えば,トロサ〔トゥールーズ〕の王国(トロサ王国)であり,507年まで続きます。その後,イベリア半島拠点の西ゴート王国は507~711年の期間,存続します。

 東ゴート王国もバルカン半島のドナウ川以北に進出しましたが,488年に〈テオドリック〉(位474~526)がイタリアに進出し,のち493年にイタリア北部で東ゴート王国(493~555)を再建します【追H24成立時期が13世紀か問う】。

ブルガール人
 空白地帯となったドナウ川以北には今度はテュルク系の騎馬遊牧民ブルガール人が進出し,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を圧迫していくことになります。

アヴァール人
 また,騎馬遊牧民アヴァール人【本試験H21 カール大帝に撃退された世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が黒海北岸から493年にバルカン半島に移動し,ドナウ下流域からハンガリー盆地にも進出してアヴァール=カガン(可汗)国を建国しました。可汗の称号を使用したことから,モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧民柔然(じゅうぜん)(⇒柔然:400~600中央ユーラシア)の一派ではないかともいわれます。アヴァールは東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス1世〉(位527~565)に対して558年に使節を派遣し同盟を結びましたが,ササン朝とも組んでビザンツ帝国を圧迫し続けました。しかし,のち内紛で衰退していきます。


ヴァンダル人(ゲルマン語派)、スエウィ人(ゲルマン語派)、アラニ人
 インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ヴァンダル人【H27名古屋[2]】やスエウィ人、アラニ人は406年の大晦日に現在のドイツのマインツ市付近で凍っていたライン川を越えて、帝国領内に侵入。
 当時、帝国領のフロンティアを守るべきローマ軍はほとんどいませんでした。
 先に入っていたフランク人を押しのけ、ガリアの中心地トリーアなどを攻撃。都市やウィッラ(農業屋敷)は略奪と破壊の対象となりました。
 彼らはヒスパニア(イベリア半島)に進入。ヴァンダル人の一部とスエヴィ人は北西部(ガラエキア(ガリシア))に軍団として定住しました。また,別のヴァンダル人の一派は南部に定住しました。
 しかしイベリア半島に移動したゴート人(西ゴート人)が415年に西ゴート王国を建国すると、押し出される形となったヴァンダル人はジブラルタル海峡を越え,〈ガイセリック〉王(389?~477)のもと,北アフリカ【本試験H14】のカルタゴ近くにヴァンダル王国を建設します。
 これによりローマ市民の生命線である穀物の供給がストップ。ローマはますます衰退していきます。
 ヴァンダル人にカルタゴ(ヒッポ)が包囲される中,神学者〈アウグスティヌス〉(354~430) 【本試験H3】【追H9,追H21、H25】 は息を引き取りました。のちにローマ教会が「正しい」(正統)とする説を生み出した神学者ということで,「(ラテン)教父」(きょうふ)とも呼ばれます。主著は『神の国』【本試験H3】【追H9,追H21、H27時期を問う(アウグストゥスとどちらが古いか)】で,青年時代にマニ教を信仰していたことを『告白』に綴(つづ)っています。
 半島北西部に残ったスエヴィ人はスエヴィ王国を建国しました(585年に西ゴート王国に併合されました)。



ブルグンド人やアラマンニ人
 この時期初めに、やはりライン川をわたり、属州に進入しました。


ゴート人(ゲルマン語派)のうち、西ゴート人
 イタリア半島からさらに西方に移住したゴート人(西ゴート人)は、現在のフランス南西部を拠点に王国を樹立します。
 これが西ゴート王国です。

 西ゴート王国は建国当初は南ガリアのトロサ(現在のトゥールーズ)を首都とし、フランスのアキテーヌ地方を支配していましたが、5世紀後半にはヒスパニアにまたがる強国となりました。
 5世紀後半にはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家初の法典にであるゲルマン法(エウリック法典)がラテン語で成分化され,6世紀初めにはローマ系の住民向けにローマ法(アラリック法典)が制定されています。400万~600万人のローマ系住民を,20万人前後の西ゴート人が治めるのですから,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の法だけで支配することはできなかったわけです。
 西ゴート王国の支配者層は,ローマ教会の教父〈(セビーリャの)イシドールス〉(560?~636)が633年に第4回トレード公会議を主導し,587年にキリスト教アリウス派からアタナシウス(ニカイア)派に集団改宗しています。
 〈イシドールス〉は当時非常に大きな影響力を持っていた人物で,古代ギリシアの思想を学びTOマップ【追H24,H27リード文】(世界の中心はイェルサレム,その周りにある3大陸は,3つの河川・海洋で区切られ,いちばん周りは大きな海が取り囲んでいるという世界観)として知られる世界地図を作成し,『ゴート人・ヴァンダル人・スエヴィ人の歴史』という民族移動から625年までの年代記も残しています(彼のもたらした学芸の発達を「イシドールス=ルネサンス」ということもあります)。
 のちに『偽イシドールス』として知られる偽書は,ローマ帝国の〈コンスタンティヌス〉大帝が西ローマ帝国の領土をローマ=カトリック教会に寄進したという書状(コンスタンティヌスの寄進状)が記され,ローマ=カトリック教会が皇帝権力よりも上に位置することを示す文書として利用されたものです。内容に意図的な誤りを含み,イシドールスとも関係がないものですが,中世の時期にヨーロッパでは大きな影響を持っていました。



◆ブリテン島(ブリタンニア)は西ローマから離脱する
ブリタンニアはローマ帝国から離脱した
 ブリテン島では406年に西ローマ帝国に離反する動きがあり、このうち〈コンスタンティヌス〉という人物がブリテン島で皇帝に推戴された後、フランスやスペインを攻略しますが、その間にブリテン島で政変が起きてコントロールが及ばなくなります。
 その過程で西ローマ皇帝がブリテン島を支配することはできなくなり、409年にブリタンニアは帝国から離れました。



◆フン人は西ゴートとフランクの戦力により,パンノニアに撤退する
ゲルマン人と連合し、西ローマはフン人を撃退した
 4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくったフン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,5世紀前半に兄の死後単独の王となった〈アッティラ〉によりバルト海からカスピ海にわたる“アッティラ帝国”を築き上げられました。

 〈アッティラ〉は、西ローマ帝国に進入し,451年に西ローマ帝国・西ゴート王国と,カタラウヌム(近年「マウリアクム」ではないかとされています)の戦いを交えています。
 〈アッティラ〉のフン軍には、フン以外にもスエウィ人、フランク人、ブルグンド人、ゲピド人がいましたし、西ローマ軍の重要指揮官は西ゴートですし、フランク人、サクソン人、ブルグンド人がいました(注)。
 西ゴート王国が参戦したのも、指揮官〈アエティウス〉(391?~454)率いる西ローマ帝国と連合したというより、自国の領土の危機を救うためという面が大きなものでした。しかも指揮官〈アエティウス〉は、フン人とのパイプの強かった人物です。
 ですから「西ローマ帝国・西ゴート王国が連合して、フン人の進入を食い止めた」という伝統的な説明は、ちょっと単純すぎます。

 はっきりとした勝敗はつきませんでしたが、この戦いで西ゴート王〈テオドリック1世〉(?~451、のちの東ゴート王とは別人)は戦死し,フン人はいったんドナウ川中流のハンガリーに退却しました。
 しかしフン人はこれであきらめたわけではありません。
 翌年452年にイタリア半島に進入しましたが,ローマ教皇〈レオ1世〉の説得で,またハンガリーに退却します。
 しかし453年に〈アッティラ〉が死ぬと服属していた諸民族が反乱を起こし、またたく間に帝国は崩壊しました。



◆西ローマ帝国の皇帝が廃位され、「西ローマ帝国」は「滅亡」する
西ローマ帝国は実質的に消滅する
 カタラウヌムの戦いを指揮した西ローマ帝国の〈アエティウス〉は、息子を皇帝の娘と結婚させようとしてその野心をうたがわれ、皇帝〈ウァレンティニアヌス3世〉(位425~455)により454年に暗殺されました。その後、皇帝は〈アエティウス〉の元部下であった私兵に暗殺されます。敵討ちでしょうね(注1)。

 その後、西ローマの総司令官〈リキメル〉(405?~472、父がスエウィ人、母が西ゴート人)が“操り人形”のような皇帝を次々に建てる時代が続き、病死後には甥の〈グンドバド〉(ブルグンド人)が実権を握ります。
 もはや「ローマ人」じゃない支配者ばかりですね(注2)。

 一方、こんなふううにごたごたしている時、北アフリカではヴァンダル王国(435年)が建国され、ローマ市は脅威を受けています。単独の対処は難しく、東ローマ皇帝に頼らざるを得ず、即位する皇帝を認めてもらうよう申し出ていました。
 そのうち皇帝が空白の期間も生まれるようになり、実質的に西ローマ皇帝の必要性自体も低下していました。「ローマ」と銘打っているだけで、実質的な意義は失っているのです。
 そんな中、東ローマに推戴された皇帝が、軍の総司令官の抵抗を受けて逃亡。この総司令官はフン人の〈アッティラ〉の元部下だったのです。総司令官は自分の子を皇帝に即位させると、外部の部族の傭兵団の司令官〈オドアケル〉(433~493)【追H25アッティラとのひっかけ】が反乱を起こし、この皇帝を殺害。次の皇帝となっていたその息子(〈ロムルス=アウグストゥルス〉(位475~476))を廃位し、年金をわたして追放しました(注3)。
 〈オドアケル〉は皇帝位を東ローマに返上し、イタリアに皇帝を送り込む必要はないと通告。
 これが世に言う「西ローマ帝国」の滅亡【追H25】です。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.65。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.66。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.67。



◆フランク人の王〈クローヴィス〉はガリアに浸透していたローマ=カトリック教会との提携を選んだ
フランク人の王が現地の教会と協力し権力を確立

ブルグンド人
 ブルグンド人【本試験H14】は5世紀初めにガリアに進出し、ローマ皇帝から「同盟部族」として認められます。その後、定住することになったのはガリア【本試験H14北イタリアではない】の南部でした。ガリア南部でブルグント王国を建国したのは443年のことです。だいたい今のフランスのリヨンあたりの地域です。
 当時、ブルグンド人がフン人と戦った事実が、のちに伝えられた『ニーベルンゲンの歌』です。
 なお、ブルグント王国は534年に成長したフランク王国に滅ぼされてしまいますが,ブルグントの名前は,南東フランスのブルゴーニュという名前に今も残っています。



フランク人
 一方、フランク人はガリアの北部【本試験H8黒海北岸から西進したわけではない】【本試験H14イベリア半島ではない】にフランク王国を建国しました。ただし○○人といってもこれらは統一的なエスニック・グループではなく、さまざまな小集団からなる混成部族にすぎず、彼らだけでなく呼んでいたローマ人もそのような認識でした(注1)。
 皇帝〈ユリアヌス〉帝のときに帝国内への定住がゆるされ、ローマ軍の有力指導者にも抜擢されるようになっていたのは、小部族のひとつ「サリ=フランク人」でした。
 サリ=フランク人の〈クローヴィス〉(位481頃(注2)~511) 【セ試行】【本試験H7】【本試験H19時期,H29共通テスト試行 ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠は受けていない,H30】【H29共通テスト試行 レコンキスタとは無関係】は、ローマ帝国の役人でもあった父から位を継いで強大化しました。
 
 〈クローヴィス〉は西ゴート王国の上手(うわて)をねらい,支配下に置いていたローマ人(ラテン人【東京H6[3]】) 【本試験H7】との同盟関係を強化するため,ローマ教会が正統な教義と認めていたアタナシウス 〔ニカイア〕 派に496年に改宗【本試験H7アリウス派ではない】【本試験H19時期,本試験H23ネストリウス派ではない,H29共通テスト試行 王妃に改宗を拒否されていない他(史料読解),図版(クローヴィスの洗礼を描いた図を選ぶ)】し,フランク人の支配層も集団改宗しました。
 ゴート王国はアリウス派を維持し,儀式もゴート語でおこない続けたのとは対照的です。
 「キリスト教と提携した」と聞いて「信心深かったんだなあ」と感じるだけでは不足です。そこには現実的な政治判断がはたらいていたのです。
 彼に洗礼をあたえたランスの司教〈レミギウス〉はもともとローマ人貴族でガリアの有力者。その父はまだ司令官(または伯)の地位にありました。
 つまり、フランク王国といえども、ローマ帝国の制度や人脈を利用しなければ国づくりができなかったのです(注3)。

 すでの西ローマの皇帝は不在となり、かつて属州であった地域の権力は「空白」となっています。それを埋めるように、ガリア各地で世襲の権力を確立しようとしていたのは、キリスト教の司教を中心とする聖職者たちでした。そんな中〈レミギウス〉は、かつてローマ帝国の第二ベルギカ州という属州の統治者として、みずからが大司教をつとめるその属州をキリスト教の教会と協力しながら(キリスト教の倫理によって)統治してくれるよう〈クローヴィス〉に期待したのです(注4)。

 〈クローヴィス〉は507年には西ゴート王国と争いガリア南部の大部分を奪っています。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.18。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.77。
(注3) ゲルマン人移動以後の歴史は、しばしば「ローマ帝国の没落の歴史」としてネガティブに語られていきました(〈ギボン〉の『ローマ帝国衰亡史』が代表例)。しかし、この時代(4~7世紀)はローマ帝国の時代とは別の思考様式・感性・社会規範・心性・文化形態を持った時代なんだという議論(〈ピーター=ブラウン〉の「古代末期」論)が注目され、日本の〈佐藤彰一〉も4~7世紀を「ポスト=ローマ期」として独立して区分しています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.42。
(注4)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.80。





◆イタリア半島で〈ベネディクトゥス〉が修道院を開き、ローマ教皇はゲルマン人への布教に注力
「祈り、働け」をモットーにした修道院がひらかれる
 6世紀になると,ローマの南東の山地モンテ=カッシーノ【追H17時期(6世紀か問う(正しい))、H19,H30】で〈ベネディクトゥス〉【追H30グレゴリウス1世ではない】【慶文H30記】により修道院が開かれます。イエスの時代の生活をモデルとし,自給自足を基本とする信仰生活をおくるための団体です。モットーは「祈り,かつ働け」。

 教皇〈グレゴリウス1世〉(位590~604) 【追H30モンテ=カッシーノを創立していない】も,〈イエス〉などの聖画像(イコン)や聖歌(現在にも伝わるグレゴリオ聖歌の発案者です)を効果的に用いて,文字を読むことができない西ゴート人やアングロ=サクソン人への布教を成功させていきます。

 こうして次第に、ローマ帝国の役人や都市の有力者ではなく、キリスト教の教会指導者が各地で指導的な立場となる時代へと移行していくことになるわけです。





○400年~600年のヨーロッパ  東・中央・北ヨーロッパ,バルカン半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆西ローマ帝国の皇帝が滅び,ゲルマン語派の人々がイタリア半島にも国を建てる
フン人に刺激されゲルマン語派の人々が移動する
 4世紀末以降のローマ帝国は,〈テオドシウス〉大帝を最後に1人で全土を統一できた者はついに現れず,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制が固定化されていました。このことを後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂と呼んでいます【H29ユスティニアヌス帝の死後ではない】。その後,ローマの東半の正帝は,唯一のローマ皇帝として西半の奪回に努めるようになっていくのです。

 ローマの西半はゲルマン語派の人々(注1)の大移動などの影響から急速に衰退。最盛期の2世紀に100万人の人口を誇ったローマ市も、5世紀初頭には50万人、5世紀半ばには35万人にまで人口をへらすことになります(注2)。

 皇帝位をめぐる争いに外部の部族の傭兵団の隊長〈オドアケル〉(433~493) 【セ試行 フン族の王アッティラではない】【本試験H29】が介入し,西ローマの正帝となっていた幼少の〈ロムルス=アウグストゥルス〉(475~476)【本試験H29フランク国王ではない】を退位させ,西ローマ帝国を滅ぼしました。すでに皇帝には権力がほとんどない状態であったわけですが、この事件を後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶわけです。

 〈オドアケル〉は,西ローマ帝国の証を東ローマ皇帝〈ゼノン〉に譲り、「今後はイタリアに皇帝を送る必要がない」と通告します。
 しかし彼自身は,東ローマ皇帝〈ゼノン〉により、その代理としてイタリアを支配することが認められました。
 東ローマの正帝も当初はそれを追認するのですが,のちに結局東ゴート王国の〈テオドリック〉大王に〈オドアケル〉を倒させました。

 その手柄が認められた〈テオドリック〉大王(位471~526) 【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】は,北東イタリア【本試験H14シチリアではない】のラヴェンナを都として東ゴート王国を建国することが許され,「イタリア王」(位493~526)を称します。この「イタリア王」という称号は,その後もローマの西方領土の支配者によって伝統的に使用されていくことになります。
 ラヴェンナは,ポー川の河口近くに位置する豊かな土地であり,東ゴート王国はローマ文化を受け入れながら発展していきました。ビザンツ様式【本試験H10】のサン=ヴィターレ大聖堂【本試験H10,ピサ大聖堂,サンタ=マリア大聖堂,サン=ピエトロ大聖堂とのひっかけ】【追H25ビザンツ様式か問う】がラヴェンナに建設されるのもこの頃です。

(注1) 総称して「ゲルマン人」と呼ぶことが多いですが、「ゲルマン人」という単一で確固たる民族があったわけではありません。ここでは「ゲルマン語派の人々」と表現することにします。ローマ帝国の辺境の属州や、属州の外(「自由ゲルマニア」と呼ばれていました)に住んでいた人々のことを指しますが、彼らがまとまって「ゲルマン人」と呼ばれていたわけではありません。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.16。
(注2) 南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.125。

 しかし,東ゴート王国とヴァンダル王国【本試験H30】【H30共通テスト試行 ヴァンダル王国は東ローマ帝国と接触した可能性があるか問う】は,かつてのローマ帝国の広大な領土の“回復”をねらう東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス帝〉によって滅ぼされることになります。



◆ランゴバルド人によりランゴバルド王国、スポレート公領、ベネヴェント公領が築かれる
ランゴバルド人がイタリア半島で建国する
 東ローマ帝国はつかの間イタリア半島を支配しますが,そこへ進出していった民族がランゴバルド人【本試験H6】です。
 イタリア半島に進出したランゴバルド人は推定30万人。
 568年に東ゴート王国を倒しイタリア半島の付け根,北東部をミラノの南方のパヴィーア (注1) を都にランゴバルド王国【本試験H27】を建てます。
 さらに南下したランゴバルド人は、イタリア半島中部のアドリア海側にスポレート公領、さらにイタリア半島南部にベネヴェント公領といった領土を築きました(注2)。
 ランゴバルド人はほかのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の国家と同じくアリウス派を信じていたので,ローマ教会と対立。ローマ文化を受け入れず,自らの文化を維持し続けました。
 北イタリアのミラノ周辺を「ロンバルディア」といいますが,これは彼らの民族名からうまれた名前です。
 アリウス派キリスト教を強く信仰した7世紀の〈ロターリ〉王のもとで、最初の部族法典であるロターリ法典(643年)(注3)がラテン語で作成されるなど、イタリアの文化との融合がみられました。


 これらのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家のうち,もっとも移動距離が短く,肥沃な地域を獲得したのが,フランク王国です。この王国はのちのフランス,イタリア,ドイツの元となる重要な国家となっていきます。

(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.38。
(注2) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年、p.38。
(注3) 世界大百科事典 第2版。



◆ゲルマン語派の大移動の影響が“無傷”の東ローマ帝国は,ローマ帝国復活を目指すも失敗
東ローマはローマ的世界秩序の中心に躍り出る
 395年のいわゆる「ローマ帝国の東西分裂」後、476年以降西ローマ帝国の皇帝が立たなくなると、東側のローマはローマを中心とする世界秩序の中心に躍り出るようになります。
 都市コンスタンティノープルは、もともと前660年頃にギリシア植民市のビザンティオン【東京H14[3]位置を問う】〔ビュザンティオン〕としてに整備されたものです。その後前330年に〈コンスタンティヌス〉大帝が都市を建設したわけですが、それは単に慣例にならった戦勝記念事業にすぎず、当初から「第二のローマ」を建設する意図があったか、はっきりとはわかりません(注1)。
 その頃、5世紀初頭のコンスタンティノープル市の人口は、およそ20~30万人とされ、創建当時から100年ほどで10倍もの人口増加が起こったことにあります(注2)。海陸交通の要衝にあったとはいえ、陸側からの外敵進入や地震災害のおそれのある都市でした。

 すでにフン人は395年・396年にアルメニアとメソポタミアに進入し、ササン朝ペルシア帝国や、カッパドキア、ガラティア、シリアなどローマ帝国東部属州に被害を与えていました(注3)。410年にローマ市でゴート人によりローマが劫略(ごうりゃく)されると、〈テオドシウス2世〉の後見人であった官僚(オリエンス道長官〈アンテミウス〉(任405~414))はコンスタンティノープル市の西に街を取り囲む形の三重の堅固な大城壁(“テオドシウスの城壁”)の建設を指示。これがコンスタンティノープルを1453年まで守り続けることになります。422年・434年にフン人の王〈ルア〉はトラキアを攻撃し、壊滅的な被害を与えました。その後〈ブレダ〉と〈アッティラ〉の共同統治となり、445~453年の〈アッティラ〉単独統治期間には、コンスタンティノープルの宮廷は貢納金を支払って何度も和議を結びますが、447年にはバルカン半島への最大規模の遠征があり甚大な被害を受けました(注4)。

 しかし、小アジア・シリア・エジプトなど、東部諸州の被害は少なく、“フン人”という「共通の敵」を前にしてササン朝ペルシアとの関係も、ペルシアの王が権威を誇示するために起こしたローマへの遠征(〈ヤズデギルド2世〉(位438~457)の441年のローマ攻撃)を除いては、〈ヤズデギルド1世〉(位399~420)と子〈ヴァハラム5世〉(位420~438)のときには使者の交換がみられるなどおおむね平穏でした(注5)。

 結果として東ローマは、西ローマが経験したほどの「民族大移動」の影響を受けずに済んだのです(ゴート人などゲルマン諸語派の人々に対する反感も、同時期の西ローマよりは低いものでした)(注6)。

 こうして、大都市コンスタンティノープルを中心とする東ローマ帝国は後世の歴史家によってビザンツ(ビザンティン,ビザンチン)帝国と呼ばれるようになっていきます。この呼称は伝統的には「ローマ的な要素、ギリシア的な要素、キリスト教的な要素、コンスタンティノープルという大都市」が組み合わさって生まれた「ビザンツ文明」というひとつの文明があったのだという立場から、のちのち名付けられた呼称です。
 コンスタンティノープル市にある帝国政府が支配したその国家が、そのような意味での「ビザンツ文明」の特徴を帯びるのは中期ビザンツ帝国(610~1025年)からという学説が一般的ですが、実際にはビザンツ帝国の人々は。自らをただ単に「ローマ人」とか「キリスト教徒」などと呼んでいたわけなので、たしかに根強い「ローマ人意識」を抜きにしてビザンツ人の意識を説明することはできません(注7)。
 しかし、彼ら「ローマ人」にとって、世界の中心はローマからコンスタンティノープルへと移っていました。この新たな世界秩序の中心となったコンスタンティノープルに拠点を置く「独裁〔専制〕君主」的な皇帝をトップにした、複雑な(注8)官僚制と軍事機構を持つ中央集権的な国と社会の仕組みの基盤には、皇帝の権力とキリスト教の東方正教会という2つの強い政治理念があり、そのルーツはローマ帝国の後期(コンスタンティヌス大帝やテオドシウス大帝の時代)にさかのぼることができます。一般には皇帝の権力は民衆(デーモス)、元老院、軍の3者に基づくとされますが、皇帝の選出には少数の文武の官僚が大きく関わっていました。


 東ローマの皇帝は、当初はかつてのローマ帝国の西半の領域やキリスト教会に対する支配を目指しましたが,住民の多くはギリシア語を話していましたし,6世紀前半の『ローマ法大全』【本試験H17オクタウィアヌスは編纂していない,本試験H25】【本試験H8西ローマ帝国ではない】もギリシア語で発布されました。7世紀以降はギリシア語【東京H10[3]】が公用語となり【本試験H13時期(「東西教会が最終的に分離した後」ではない),本試験H15・H27ともにラテン語ではない】,正教会を保護して発展していきました。コンスタンティノープルは,第四回十字軍【追H19】のときにヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】に占領されたこともありましたが,1453年にオスマン帝国に攻撃されるまで,帝国の重要な拠点として名を馳せました。

 西ローマ帝国は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動の影響をもろに受けましたが,東ローマ帝国はほとんど影響を受けずに済んだこともあり順調に発展していきます。

 東ローマ帝国の皇帝は,コンスタンティノープルのキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられました総主教に皇帝を任命する権利があるわけではありませんが,政治に介入する場合もありました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。
 なお正教会(Orthdox=正しく(オルソス)+神を賛美する(ドクサ))という名称は,5世紀のカルケドン公会議を認めず離脱した「異端」の教会に対して用いられたもので,東方正教会(Eastern Orthodox Church)とも呼ばれます。離脱したグループはアルメニア使徒教会(アルメニア正教会),コプト正教会,エチオピア正教会を形成していきますが,東方諸教会(Oriental Orthodox Church)と総称されることがあります。ただ,名称の使用は統一されているとは限りません。
 16世紀以降は聖書にギリシア語が使用されていることからギリシア正教ともいわれます。ただギリシアの正教会はギリシア正教(またはギリシア正教会)といわれるので注意が必要です。日本の正教会は,キリストのギリシア語読みということで,日本ハリストス正教会と称しています。
 教義としては,381年の公会議で採択されたニカイア=コンスタンティノポリス(ニケア=コンスタンティノープル)信条を基本とし,ローマ教皇の首位権や煉獄(れんごく)・生神女(聖母マリア)の無原罪懐胎(御宿り)を認めません。聖職者の妻帯が認められ,イコン(聖像画)が重視されています。
 正教会はローマ教会と同じく監督制をとっています。監督制とは,管轄する地域においてビショップ(主教。ローマ教会では「司教」)が教会をまとめ,下位のプリースト(preast,司祭),デコン(daecon輔祭(ローマ教会では助祭))を指導する制度です。管轄地域は国ごとに設置され組織も国別につくられますが,コンスタンティノープル総主教が事実上すべての管轄地域に対する首座とされています。ほかに,五本山と呼ばれたアレキサンドリア,アンティオキア,イェルサレムの教会ノトップも特別な地位とみなされ,この3つとロシア,セルビア,ルーマニア,ブルガリア,グルジア(ジョージア)のトップは総主教,その下にギリシアなどの大主教,ポーランドや日本などの府主教というランクの違いがあります。

 コンスタンティノープルを無敵の都とした防壁は〈テオドシウス2世〉(位408~450)により建設されました。彼はテオドシウス法典の編纂を始めさせ,エフェソス公会議【本試験H25ニケア(ニカイア)公会議,コンスタンツ公会議,トリエント公会議ではない】を招集してネストリウス派を異端【本試験H19ワッハーブ派のひっかけ】【本試験H25】としました。
(注1)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、pp.148-149。
(注2)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.124。
(注3)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注4)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.144。
(注5)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.147。
(注6)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.146。
(注7)南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.135。
(注8)英語でbyzantineには「迷路のように)入り組んだ; 理解しにくい,複雑な」(研究者英和中辞典)という意味があります。東ローマに影響を与えた後期ローマ帝国時代の国家機構は、皇帝(と皇帝顧問会議(コンシストリウム))の下、東西に分かれる民政職(東のオリエンス・イリュリクム道と西のイタリア・ガリア道、それぞれの長官と、ローマ市長官・代官、コンスタンティノープル長官。さらに下に管区代官、属州総督)、中央政府職(その下に各宮廷における官房長官、法制長官、国庫管理総監、官邸護衛騎兵総監・官邸護衛歩兵総監、書紀局長)、宮廷職(その下に各宮廷における宮内長官、帝室財産管理総監、宮廷執事長)、軍政職(その下に各宮廷における総司令官の下、歩兵司令長官・騎兵司令長官、さらに帝国西部(ガリア方面軍司令官)・帝国東部(オリエンス方面軍司令官・トラキア方面軍司令官・イリュリクム方面軍司令官)があって、軍事総監・軍指揮官を指揮)がありました。これだけ複雑なわけですが、皇帝は事実上「専制君主」とはいえず、ただ「君臨」していればすむような行政機構が構築されていたのです。南川隆史編『歴史の転換期2 378年 失われた古代帝国の秩序』山川出版社、2018年、p.139。



◆「東西ローマの統一」という時代錯誤の〈ユスティニアヌス大帝〉は,一代限りで終わった
 527年に即位した〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565) 【本試験H21西ローマ皇帝ではない】【追H19】は,ローマ帝国を復活させようとして,増税をしたために,国民の反乱を招き,532年には「ニカ!(勝利を!)」と叫びながら暴動を起こす事態(ニカの乱)となったのですが,この時,サーカスの踊り子出身の皇后〈テオドラ〉(位527~548)が威勢よく励ましたお陰で,ユスティニアヌスは鎮圧に成功したと伝えられます。
 このころ,旧・西ローマ帝国の領内にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の国家が多数建てられていたのですが,東ローマはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入の被害が少なく,地中海や黒海・バルト海,またはさらに東の内陸ユーラシアやインド洋を結ぶ交易の中心地として経済が栄え,ノミスマ【早政H30】という金貨が発行されました。ラテン語ではソリドゥス硬貨と呼ばれ,ドルマーク($)の由来となっています。
 ユスティニアヌスはその後,534年に北アフリカのヴァンダル王国【本試験H21】【法政法H28記】,555年にイタリア半島の東ゴート王国を次々と滅ぼします【本試験H21イタリア半島の領土を失っていない】。戦闘で活躍したのは名将〈ベリサリウス〉(500?565?~565)です。
 554年には西ゴート王国にも遠征しています。こうして,かつてのローマ帝国の最大版図に近い範囲に領土を広げることに成功しました。また彼はコンスタンティノープルに,ビザンツ様式のハギア=ソフィア大聖堂【京都H20[2]】【本試験H13レオン3世の命ではない,本試験H19ウィーンではない,H21】【追H27ユスティニアヌス帝が建てたか問う、H29ユリアヌス帝による建立ではない】を再建(537年竣工(注))しています。
 〈ユスティニアヌス〉西方に領土を拡大しようとしている間,531年に即位したササン(サーサーン)朝【本試験H13コンスタンティノープルを占領したことはない】の最盛期の王〈ホスロー1世〉(位531~579)【本試験H30】も西方に進出。両者は戦争の結果,〈ホスロー1世〉がアンティオキアで東ローマ帝国に勝利しメソポタミアを死守しています。

(注)大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「アヤ・ソフィア」の項、岩波書店、2002年、p.69。



◆ユスティニアヌス大帝はローマ文化・キリスト教を重視,ギリシアの学術はペルシアに中心を移す
 文化的には,529年にアカデメイアを閉鎖。プラトンにより建てられた学術機関ですが,西方支配のためにはキリスト教の教会ネットワークを頼る必要があり,教会に敵対的なアカデメイアを閉鎖することで提携をねらったのです。ここで研究していた学者はサーサーン朝のジュンディー=シャープール学院に避難。古代ギリシア・ローマの情報はペルシアで保存されることになりました。
 また,法学者〈トリボニアヌス〉に,従来のローマ法の集大成をつくるよう命じ,『ローマ法大全』【本試験H21・H30】が編纂され,534年に皇帝はこれをギリシア語で発布しました。特に,元首政(プリンキパトゥス) 時代の学説がまとめられた『学説彙纂(ディゲスタ)』が重要で,法律のはじめに「総則」を置き,そのあとで具体的にしていくスタイルは,現在の日本の民法を含む各国の法律に影響を与えています。
 経済的には,中国の独占していた養蚕(ようさん)技術【東京H26[3]】が伝わり,絹織物産業が盛んになりました【本試験H27】。


◆インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に続きスラヴ人が,森林地帯から移動を始める
 なお,また,のちに東ヨーロッパのポーランド人や,南ヨーロッパのセルビア人に分かれていくスラヴ人の祖先は,もともと現在のウクライナの西からベラルーシの南にかけて分布していたとみられています。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の移動が始まった時期には,ポーランドの南部(ヴィスワ川の上流)に移動するスラヴ人の集団もありました。6世紀以降,さらに西に進んでいった集団が西スラヴ人です。
 バルカン半島に進出していったのが南スラヴ人(スロヴェニア人,クロアチア人,セルビア人を形成)です。





○400年~600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク


・400年~600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
フランク王国がアタナシウス派に接近する

西ゴート王国
 西ローマ帝国の領域内に建国された西ゴート王国は、スペインに拠点を移すまでは現在のフランス南西部アキテーヌ地方を支配していました。
 西ゴート人は早々にガリアのローマ人と融合。

 その後、西ゴート王国がイベリア半島のトレドに遷都した後も、現在のスペイン国境近くのラングドックは西ゴート王国の領土にとどまりました。
 この地域が現在でも独自の文化を持つのは、その影響です(注1)。


フランク王国
 一方、セーヌ川以北には、「ローマ人の王」を称する者がローマ人を支配するエリアが残っていました。
 481年にフランク王国をメロヴィング家の〈クローヴィス〉が統一。
 彼は486年に、セーヌ以北を支配していた〈シアグリウス〉(430~486)をソワソンの戦いで破ります(注2)。
 〈クローヴィス〉は496年にアタナシウス派に改宗し、ローマ=カトリック教会に接近します。

 6世紀末にはアイルランドから〈コロンバヌス〉(543~615)がガリアを訪れ、修道院運動の布教に努めました。しかしアイルランドの慣習を持ち込んだために反対を受けます。

 8世紀の初頭にはカロリング家の支配門閥が覇権を握り、北海やライン川地方の人脈から俗人司教・修道院長として司教座都市・有力修道院を牛耳る者たちが採用されるようになっていきます。

 こうしてローマ帝国の権威に基づく世俗の都市伯による支配は、次第にローマ=カトリックの司教による司教座都市支配にとって変えられていき、ローマの古代文化は7世紀にかけてゆるやかに衰えていくこととなりました(注3)。

(注1) 福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、pp.59-60。
(注1) 福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.59。
(注3) 福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.65。




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・400年~600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
ブリテン島にはアングロ=サクソン人が進出する
 ローマ帝国は5世紀初めにはブリテン島のブリトン人に対する支配を終えましたが,ローマ教会のガリア司教などによるキリスト教の布教が進行しました。

 さらにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の進出がはじまると,ブリトン人【東京H6[3]またはケルト人】の地という意味の「ブリタニア」という呼称は,しだいに大陸からインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の移住が進むと,「アングロの地」という意味である「イングランド」へと変わっていきました。

 中世の騎士道物語や年代記(『カンブリア年代記』『ブリトン人の歴史』など)にみられる「アーサー王」伝説は,アングロ=サクソン人と戦ったブリトン人の伝説的な指導者をモチーフにしていると考えられています(俗にいうように大陸の「ケルト文化」との関連はないといわれています)。アングロ=サクソン人【本試験H14】は,今後 600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国,ヘプターキー) 【本試験H14・H30】を建国していくことになります。



 アイルランドでも先住のスコット人に,〈パトリック〉(387~461)によってキリスト教が伝わり,修道生活を重んじるキリスト教文化が発展していきました(注1)。
 ガリア中・東南部には〈セクンディウス〉〈アウクシリウス〉〈イセルニヌス〉。
 ガリア南部に〈パラディウス〉が布教しています。
 教皇〈ケレスティヌス1世〉(位422~432)のときに「キリストを信じるアイルランド人」の司教に〈パラディウス〉が任命されたという記述が431年に見えます(注2)。

 6世紀末にはアイルランドから〈コロンバヌス〉(543~615)がガリアのフランク王国を訪れ、修道院運動の布教に努めています。布教地域はガリア中・北部(注3)。

 アイルランドの人々はケルト語派に属する言語を使用しており”島のケルト”と呼ばれることもありますが,ヨーロッパの大陸に分布していた”ケルト人”と総称される人々との文化的つながりは,今日では否定されるようになっています。

(注1) ふくろうの本)』河出書房新社、2017年、p.11。
(注2) 現在のアイルランド旗にある「聖パトリック十字」は18世紀につくられたもののようです(山本正『図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)』河出書房新社、2017年、p11。
(注3) 福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、pp.59-60。



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・200年~400年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現⑩ベルギー
ゲルマン人は現・ベルギーの北部にまで進出する
 現在のベルギーの地には、「ベルガエ」と呼ばれる人々がおり、ローマの属州「ガリア=ベルギカ」の一部に組み込まれていました(注1)。
 その後、396年に東ゴート人がローマ帝国内に移動を開始してから、ヨーロッパは「民族大移動」の波に飲み込まれます。
 現・ベルギーにはフランク人が移動しました。
 ローマ軍はガリア=ベルギカ属州を東西に走る軍用道路(ケルン~ブーロニュ間)にまで退却し、フランク人も追ってきましたが、軍用道路以南の山岳地帯にまで進出することはできませんでした。
 これが、のちのちまで続く、ゲルマン系の北部と、ローマ(ラテン)系の南部の境界線となっていったのです(注2)。

 ベルギーを統治していたフランク人はいくつかの部族に分かれていました。
 このうち、5世紀前半に現ベルギー南東部のトンヘレンという町を拠点とするサリという民族グループの〈クローディオ〉がローマ軍を破り、首長となり、それを〈メローヴィス〉(メロヴィング朝の由来)が引き継ぎます(注3)。
 その孫〈クローヴィス〉は496年にアタナシウス派キリスト教に改宗し、フランク人を統合し、507年に全ガリアを統一しました。


(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.7。
(注2) 明確な境界線ではなく、良系言語の共存地域もありました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.8。
(注3)松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.9。

●600年~800年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流③,南北アメリカ:政治的統合をこえる交流②
 古代末期の民族大移動と中央ユーラシアの陸上交易の発展を受けて,ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部にかけて,新たな広域国家が形成される。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方で政治的統合の再編がすすむ。
この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸
 遊牧民が定住農牧民地域への進出を続け,農牧複合政権(「中央ユーラシア型国家」)が樹立される。
 軍事的に優位な遊牧民が,経済的に優位な定住民と提携するには,広域支配を可能にするための新思想が要求されるから,キリスト教,マニ教,イスラーム教,仏教などのいわゆる「世界宗教」が各地の政権で保護され,宗教組織を発展させていった。


 東アジアでは,騎馬遊牧民の拓跋部鮮卑(せんぴ)が,漢人支配層と融合して隋(ずい),続いて唐(とう)王朝を樹立。テュルク系の騎馬遊牧民突厥(東西に分裂)やウイグル(回鶻;回紇) 【京都H20[2]】と競合しつつタリム盆地方面にも進出する。東アジアでは,支配原理が儒教とされ,道教や仏教が民衆の生活にも浸透する。

 南アジアでは,6世紀半ばに騎馬遊牧民エフタルの進出でグプタ朝(320~550)が滅んでいたが,北インドをヴァルダナ朝(7世紀前半)が統一するが,その後は地方政権が各地に並び立つ状況となる。南アジアでは,大乗仏教運動に対抗しバクティ信仰とヴィシュヌ派が普及し,バラモン教がドラヴィダ系の多神教と融合していわゆるヒンドゥー教が形成され,民衆の生活に浸透していく。


 地中海東部周辺でローマ帝国(いわゆる東ローマ帝国;ビザンツ帝国)もバルカン半島への騎馬遊牧民の進出や,黒海北岸のハザール=カガン国の進出,さらに南方からのアラブ人の拡大を受ける。ローマ帝国は,「ギリシアの火」(焼夷兵器)や装甲騎兵などによりこれを撃退し,軍政改革(軍管区の設置)をおこない命脈(めいみゃく)を保つ。

 ユーラシア大陸西部には,バルカン半島に騎馬遊牧民のアヴァール=カガン国やドナウ=ブルガール王国が建国される。
 圧迫されたヨーロッパでは,騎兵とキリスト教,ローマ文化の積極的導入で強国となったフランク王国が対峙する。 ヨーロッパの政権はキリスト教が支配原理となり,民衆の生活にも浸透する。

 アフリカ大陸の北西部では,ベルベル系遊牧民がラクダを用いたサハラ越えルートの塩金交易をおこなっていた。7世紀以降,交易で発展したアラビア半島南部を中心に,アラビア半島のアラブ系遊牧民を糾合したイスラーム勢力が周辺への拡大を開始(“アラブ=コンクェスト”(アラブの征服)(注))。アラブ人の拡大とともにイスラーム教が支配原理となり,民衆の生活に浸透する。

 東南アジアではマラッカ海峡を通行する海上ルートが栄え,マレー半島,スマトラ島,ジャワ島の広範囲を,スマトラ島を拠点とするマレー系のシュリーヴィジャヤ王国が統合した。この勢力は,のちにジャワ島の勢力シャイレーンドラ朝と統合する。これらは港市国家の連合体であり,東南アジア島嶼部の国家の典型例となる。東南アジアの港市国家では,インドと中国の宗教が支配原理として取り入れられていった。


(2) アフリカ 
 ベルベル系遊牧民の地域に進出したアラブ人は,西アフリカのニジェール川流域(ガーナ王国【追H30】【本試験H8】)との塩金交易【追H30】【本試験H8】にも従事するようになる。
 アラブ人はイベリア半島にも進出して西ゴート王国を滅ぼしたが,騎兵を整備したフランク王国は進出を食い止めた。


(3) 南北アメリカ
 アメリカ大陸では,北アメリカの古代プエブロ人によるバスケットメーカー文化が拡大,中央アメリカではマヤ文明の中心が北部に移り,古典期が終わる。ティオティワカン文明は650年頃に急激に衰退した。人口増加と環境破壊の進行が原因と考えられている。
 アンデス地方では北西部沿岸にモチェ文化が栄える。アンデス地方から沿岸部にかけて,ワリ文化やティワナク文化の影響が広域化している。


(4) オセアニア
 ポリネシア人は700年頃に東部ポリネシアのラパ=ヌイ島,北部ポリネシアのハワイ諸島に到達する。残すところはニュージーランドである。





●600年~800年のアメリカ

○600年~800年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。


 北アメリカでは,現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が,狩猟・採集・漁撈・狩猟などを各地の気候に合わせて営んでいます。

 北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。

 北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,大規模なマウンドという埋葬塚が建設されています。

 北アメリカの南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシの灌漑農耕が行われていました。860年~1130年にかけて,現在のニューメキシコ州のチャコ=キャニオンに,大規模な集落が建設され,神殿とも考えられる建造物も見つかっています。




○600年~800年のアメリカ  中央アメリカ
マヤの都市国家が最盛期を迎えるが,のち衰退へ
◆マヤ低地の都市国家が最盛期を迎えるが,8世紀後半頃から都市の放棄が始まる
 この時期の中央アメリカ(現在のユカタン半島とグアテマラ東部・南部)では,マヤ文明が「古典期」を迎えていました。大都市カラクムル,コパン,パレンケやティカルが発展しました。

 マヤ低地中部ティカルは湿地と熱帯雨林の中央部に位置し,乾季に対応するために雨水が巨大な貯水池ネットワークに集められました。絶頂期には,8~12万人の人口を抱えています。
 しかし,648年に内部抗争が勃発すると,その後カラクルムにマヤ低地中部の覇権が移ります。
 その後,おそらく695年には外部からの民族(一説にはティオティワカンの難民)を受け入れたティカルは同年にカラクルムに勝利し,カラクルムは衰退。その戦勝記念にティカルには「神殿2」が建てられます(注1)。

 コパンは,第13代〈ワシャクラフン=ウバーフ=カウィル〉王(位695~738?)により最盛期を迎えています。

 都市パレンケの支配者〈パカル1世〉(603~683)の墓は,1952年に階段型ピラミッドの中から見つかっています。顔をべったり覆っていた豪華なヒスイのマスクは,彼らの技術力の高さや,交易範囲の広さを物語っています。

 
 760年頃からマヤ低地南部の都市の放棄がすすみ,9世紀になるとマヤ低地中部の都市国家も衰退に向かいます。
 滅亡の原因として,内部抗争,外部からの侵入が想定されていますが,それらの背景には開発の行き過ぎや干ばつなどの気候変動も考えられています。
 文明の中心は次第にマヤ低地北部に移動していくこととなります(注2)。
(注1)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.120。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.260。


◆メキシコ高原南部
 トウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えましたが,650年頃のティオティワカンの崩壊と足並みをそろえ,少しずつ衰退に向かいます(サポテカ文明,前500~後750)。


◆メキシコ高原北部のティオティワカンの都市文明は衰退
 メキシコ高原中央部では,テオティワカン(前100~後600)を中心とする都市文明は,550年~750年までの間に衰退します。




○600年~800年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島




○600年~800年のアメリカ  南アメリカ
沿岸部のモチェ,ナスカは衰退へ
 南アメリカのペルー北部海岸地帯ではモチェ,南部海岸地帯ではナスカ文化が栄えますが,この時期の終わりに向かい衰退します。

山岳部ではティワナク,ワリが栄える
 また,アンデス地方中央部の高地では,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃までティワナク文化が栄えました(8世~12世紀が最盛期)。ティワナクは標高3200mなので,ジャガイモだけが頼りです。
 同時期には現在のペルー南部からチリ北部にかけての高地では,ワリ文化を生み出したワリ文化が生まれていきます(6~11世紀が最盛期)。標高差を利用し,生態系をこえた支配領域を包摂して栄えます。


◆アマゾン川流域では定住集落が栄える
 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。





●600年~800年のオセアニア

○600年~800年のオセアニア  ポリネシア,メラネシア,ミクロネシア
 オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人は,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成して,アウトリガー=カヌーを用いて計画的に遠洋航海による植民を行います。

 700年頃に東部ポリネシアのラパ=ヌイ島(イースター島),700年頃に北部ポリネシアのハワイ諸島に到達しています。

 なお,ラロトンガ島の船乗り〈ウイ=テ=ランギオラ〉(生没年不詳)が,650年頃に南極大陸(ニュージーランド南方のロス海)に到達していたことを示唆する史料も残されています(注)。
(注)Antarctica, “Encyclopedia Britannica”,https://www.britannica.com/place/Antarctica/History#ref390155




○600年~800年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。





●600年~800年の中央ユーラシア

◆突厥が東西に分裂し,東突厥は7世紀前半に唐に服属,西突厥も8世紀に滅ぶ
東突厥は唐の皇帝に「天可汗」の称号を与えた
 580年頃,突厥【大阪H30史料:629年当時の中央アジアの遊牧地帯の国家を問う。西突厥が適当か】はアルタイ山脈あたりで東西に分離し,630年には東突厥は唐の支配下に入ります。
 唐は遊牧民の支配層を破壊せず,温存させたまま支配する「羈縻支配(きびしはい,羈縻政策)」【本試験H20王朝を問う、H24日本の植民地朝鮮での武断政治とのひっかけ】【追H18】をとりました【大阪H30論述:どのようなシステムで周辺の諸民族・国家を支配し,または外交関係をむすんで帝国を維持しようとしたか。唐から宋朝にかけての時代を中心に】。遊牧民の側も唐の〈太宗〉(位626~49)を「天可汗」(テュルク語でテングリカガン)と呼び,「可汗」の支配として統治を受けました。
 しかし,のちに682年に東突厥は再び自立しましたが,内紛が相次ぎ,744年にテュルク系の鉄勒の部族のうちの一つウイグルに攻められ,ウイグルの首長が可汗となり,突厥によるモンゴル高原支配は滅びます。
 また西突厥は,支配層であった氏族である阿史那氏が741年頃に滅亡。その後は,突騎施(テュルギシュ)や葛邏禄(カルルク,歌邏禄;葛禄)の勢力が強まります。



◆イスラーム勢力が中央アジアに進出し,ウイグルが台頭。突厥とソグド人が衰退する
ウイグルの台頭とイスラームの拡大が,草原地帯や中国にも影響を及ぼす
 鉄勒(てつろく)の部族のなかに,「トグズ=オグズ」という部族がおり,そのうちの一つがウイグル(回鶻(かいこつ)) 【追H18】と呼ばれていました。トグズ=オグズというのは9つの連合体という意味で,9つの部族がまとまって連合を組んでいたので,そう呼ばれます。ウイグルの初代可汗〈キョル=ビルゲ〉(位744~747)との子〈葛勒可汗〉(位747~759)は,支配領域を拡大しました。

 そんな中,ソグド人の父と突厥人の母をもつ節度使の〈安禄山〉(あんろくさん,705~757)と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとする安史の乱(755~763年)が起こされました【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなったわけではない】【本試験H16赤眉の乱ではない】【追H18】。彼の反乱の背景には,この頃,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民の突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいたことがありました(注)。
  これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族のウイグル【本試験H21月氏ではない,本試験H23】【追H25紅巾の乱ではウイグルとともに鎮圧していない】に鎮圧を要請し,ようやくおさまる体(てい)たらくでした。

 唐に保護されていた商業民族ソグド人の本拠地(アム川とシル川に囲まれたソグディアナ地方)が,イスラーム軍による進入を受けていた影響も少なくありません(751年にはタラス河畔の戦いで唐【本試験H14ウイグルではない】【追H19,H20・H30隋のときではない】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています)。
(注)森安孝夫「ウイグルから見た安史の乱」『内陸アジア言語の研究』17,p.117-170,2002.9(https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/17824/sial17-117.pdf)。また,杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者 ─遼 西夏 金 元─』2005,講談社を参照。



◆突厥人とソグド人を両親に持つ〈安禄山〉らの乱は,ウイグルの軍事力で鎮圧される
草原地帯は,突厥からウイグルの時代に向かう
 その後のウイグルは,その見返りに唐に大量の絹を要求するようになり,唐の財政を圧迫させるようになりました。次の〈牟羽(ブグ)可汗〉も反乱鎮圧に協力し,中国からマニ教の僧侶を連れて帰りました。このときから,ウイグルの支配層にマニ教が伝わるようになるのです。マニ教は,〈ゾロアスター〉〈ブッダ〉〈イエス=キリスト〉を先駆者として認めるイランの宗教で,マニ教の神(光明神)が,遊牧民の天の神(テングリ)と結びついて受け入れられたと考えられます。
 ウイグルは,モンゴル高原のオルホン川流域に宮殿を築き,オルドゥ=バリクなどと呼ばれる都市を建設しました。遊牧民がこれだけの大都市を草原地帯につくり,上層部が定住するようになるというのは,珍しいことです。また,突厥文字の影響を受けたウイグル文字【本試験H15遊牧民最古の文字ではない】を作成しました。
 また,この時期にはモンゴル高原からカザフスタンにかけて,石人という石像がしばしば建てられました。2~3頭身くらいのヒゲを生やした男性の像が,草原の中にぽつんと東向きに建てられているのが特徴です。

◆チベットの吐蕃は東西交易ルートを確保し,唐と対立した
インドの密教がチベット帝国に伝わった
 チベット高原を7世紀に統一したのは,〈ソンツェン=ガンポ〉(位629~649) 【本試験H4,本試験H7】【本試験H20】【追H30中国東北部ではない】【慶商A H30記】です。中国はこの王国を吐蕃(とばん;チベット帝国,7~9世紀中頃) 【京都H21[2]】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)・地図上の位置を問う(タリム盆地ではない)】【Hセ3唐代に和蕃公主が嫁がされていない,Hセ7鮮卑ではない,本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】【本試験H17成立の時期】【セA H30】と呼びました。インドの文字からチベット文字【本試験H9】【本試験H17】をつくり,インドから伝わった密教(みっきょう)と,チベットの民間信仰(ボン教)が合わさった神秘的なチベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)を吐蕃(とばん;チベット帝国)の国教として採用しました。
 密教は7~8世紀に,庶民に広がった大乗仏教に対する批判から生まれた仏教です。この時期には西北インドにイスラーム勢力が進出していたため,北方にはヒマラヤ越えルートで伝わります。だから,まずチベットに密教が伝わったわけです。

 唐の皇帝〈李世民〉は,娘(文成公主)(公主とは王女のこと)を〈ソンツェン=ガンポ〉の子〈クンソン=クンツェン〉の嫁にやることで,友好関係を結ぼうとしました。このように異民族に政略結婚のために贈られた女性のことを和蕃公主(わばんこうしゅ)といいます。

 吐蕃は東西交易ルートにも進出し,コータンや敦煌といったオアシス都市を支配下に収めました。
 また中国南部山岳地帯の雲南を通って東南アジアにまでいたる「茶馬古道」(ちゃばこどう)という交易ルートにより,チベットからは毛織物,毛皮や薬草が,中国方面からは茶,銀,絹などが運ばれました。
 貨幣として用いられていたのはユーラシア西南沿岸でしかとれないタカラガイ。海から遠く離れたチベット高原で,南の島の貝殻が貨幣として用いられていたわけです(注)。
(注)上田信『貨幣の条件─タカラガイの文明史』筑摩書房,2016。



◆アヴァール人,ブルガール人がヨーロッパに進出,ハザル人とともに交易活動に従事した
遊牧民の活動により,交易活動が活発化した
 ヨーロッパ中心の歴史の見方に立つと,「遊牧民の進出によって,ヨーロッパが被害を受けた」という捉え方になりがちです。
 しかし,機動力のある遊牧民の活動は,ユーラシア東西を結ぶ物や情報の交流を活発化させる役割を果たしていました。

アヴァール人
 中央ユーラシア西部では,モンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされるアヴァール人【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】が,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス1世(大帝)〉(位527~565)のときにカフカス山脈の北に現れ,黒海を通ってドナウ川中流域のパンノニア(ハンガリー平原)に進入しました。のちに,バルカン半島に進入します。623~24年にはコンスタンティノープルを包囲しますが,ビザンツ帝国の〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)が撃退しました。その後,8世紀末~9世紀初めにフランク王国〈カール大帝〉【追H25】により撃退され,その後の消息はわかりません。アヴァール人は柔然(じゅうぜん)と関係があるのではないかという説には確証はありません。

ブルガール人
 ほかに,カフカス山脈の北には5世紀頃からテュルク系の言語のブルガール人がおり,7世紀にアヴァール人を抑えようとするビザンツ帝国と結んで強大化しましたが,東方にいたテュルク系の言語のハザルにより崩壊しました。
 その後ブルガール人の一派は,ドナウ川方面に移動し,680年にビザンツ帝国を打倒して,スラヴ人の農牧民を支配しました。しかし,やがてスラヴ人と同化し,864年にはキリスト教を国教としました【追H29北イタリアで王国を建てていない(それは東ゴート人やランゴバルド人)】。

ハザル人
 ハザル人は6世紀末に西突厥の下で,カスピ海北岸~黒海北岸に移動し,7世紀中頃に独立したとみられ,カフカス山脈を越えてササン(サーサーン)朝や,イスラーム教徒と戦っています。「ハザルがいたおかげで,カフカス山脈よりも北にイスラーム教が広まらなかった」とみる研究者もいます。
 彼らはカスピ海やヴォルガ川の水運を支配し,8世紀半ば以降,積極的に交易活動に従事。その中で,ハザル人の支配者はユダヤ教に改宗しています。





●600年~800年のアジア

○600年~800年のアジア  東北アジア・東アジア
○600年~800年のアジア  東北アジア
◆西から東突厥・唐の圧迫を受ける中,高句麗が滅亡し渤海に交替し,沿海州(えんかいしゅう)で女真が成長する
高句麗から渤海へ,さらに契丹と女真が台頭へ
※沿海州とは,オホーツク海に面するユーラシア大陸東岸のことを指します
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 西方からの騎馬遊牧民の東突厥(ひがしとっけつ)による圧迫を受ける中で,特に女真(女直,ジュルチン)人【追H27】が台頭していきます。

 ツングース語族系の高句麗(紀元前後~668)は668年に唐と新羅の攻撃により滅び,その遺民【追H28タングート族ではない】により渤(ぼっ)海(かい) 【追H28地図上の位置を問う(西夏とのひっかけ)】【京都H21[2]】(698~926)が建国された。北方の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)にも拡大して女真を圧迫し,唐の制度を導入して台頭していきます。
 しかし926年に渤海は契丹(キタイ)により滅び,代わって沿海州の女真は複数の首長によって統合がすすみます。契丹は遼を建国し,中国文化を受け入れて皇帝を宣言し,中国進出をすすめます。契丹の北方のモンゴル高原では,タタール人やモンゴル人が成長していました。



◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

◆極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注1)/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃にチューレ文化が生まれました。チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,銛(もり)(精巧な骨歯角製)・弓矢・そり・皮ボート・調理用土器・ランプ皿・磨製のスレート石器が特徴です(注2)。

(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項

○600年~800年のアジア  東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国


○600年~800年のアジア  東アジア 現①日本
◆朝鮮半島を経由して漢字・思想・統治制度など導入され,中央集権化が推進された
 7世紀前半には都の飛鳥(あすか)を中心に仏教文化が栄えました。仏教は教義を理解した上で信仰されたとはいえず,一種の呪術的な要素が重視され,豪族は権威を示すために大規模な寺院を建設しました。例えば〈蘇我〉氏は法興寺(ほうこうじ;飛鳥寺(あすかでら)),〈厩戸王〉(しょうとくたいし)は四天王寺や法隆寺(ほうりゅうじ;斑鳩寺(いかるがでら))を建設しています。法隆寺は世界最古の木造建築ですが現存する建物は670年の焼失後に再建されたものです。いずれも,従来の掘っ立て柱(地面に直接立てられた柱)と板葺き・桧皮葺(ひわだぶき)といった建築様式ではなく,礎石の上に建築され屋根は瓦(かわら)葺きの中国風の建築様式となっています。
 仏像の様式は初めは中国の北朝の影響を受けた厳しい表情の様式がみられ,法隆寺金堂釈迦三尊像が代表例です。百済や中国の南朝の影響を受けた穏やかな仏像もつくられ,広隆寺・中宮寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)や法隆寺の百済観音像(くだらかんのんぞう)が知られます。
 ヤマト政権で高い位を与えられていた 〈蘇我馬子〉(そがのうまこ)が政権を握ると,暗殺された〈崇峻天皇〉(すしゅんてんのう)と〈蘇我馬子〉の甥にあたる〈聖徳太子〉(しょうとくたいし;厩戸王(うまやとおう),574~622)が,新たに即位した女性の〈推古天皇〉(すいこてんのう,位592~628)を摂政として助け,大陸文化を導入しながら混乱を収拾するための改革を断行しました。
  大陸では589年に隋が中国全土を統一しており,勢力を拡大して日本に迫る危険性もありました。
 中国との外交を確立するため,倭(中国側の日本の政権の呼び名)が600年に使者を遣わしたという記述が『隋書』に残されています。603年には冠位十二階の制を,604年には憲法十七条を定め国家としての制度を整えた上で607年に〈小野妹子〉(生没年不詳)らを遣隋使として隋の第二代〈煬帝〉(ようだい)に遣わしました。隋の第二代皇帝〈煬帝〉(ようだい,楊広(ようこう))は,対等な外交を求める日本の国書を「蛮夷(ばんい)の書,無礼なる有らば,復(ま)た以て聞(ぶん)する勿(なか)れ」と一蹴しました。しかし,〈推古天皇〉の政権(倭)は翌608年の遣隋使には学者〈高向玄理〉(たかむこのげんり,?~654)や僧の〈旻〉(みん,?~653)も同行させて,大陸の文化を吸収し旧来の氏姓に基づく制度を刷新しようとしました。
  〈聖徳太子〉が622年に亡くなると,大臣(おおおみ)の〈蘇我蝦夷〉(?~645)・〈蘇我入鹿〉(?~645)が政治の実権を握り,〈聖徳太子〉の子〈山背大兄王〉(やましろのおおえのおう,?~643)を排除しました。

◆唐の強大化に対抗し,中央集権化がすすめられたが,白村江の戦いで敗北した
 中国で618年に成立した唐が勢力を拡大する中,〈中大兄皇子〉(なかのおおえのみこ,626~671),〈中臣鎌足〉(なかとみのかまたり,のち藤原鎌足,614~669)は,645年に〈蘇我蝦夷〉と〈蘇我入鹿〉を武力で倒し(乙巳(いっし)の変),646年以降,唐の制度を導入して中央集権化を進める政治改革(大化の改新)を断行しました。
 天皇は〈皇極天皇〉(こうぎょくてんのう,位642~645)から〈孝徳天皇〉(こうとくてんのう,位645~654)にかわり,〈孝徳天皇〉の甥の〈中大兄皇子〉は皇太子となりました。646年に出されたとされる改新の詔(かいしんのみことのり)は,原文のままではなく後世に書きかえられたものと考えられています。
 なお,乙巳の変で〈蘇我〉氏は倒されたものの,その後も〈蘇我〉氏は〈聖武天皇〉が〈藤原〉氏から皇后をもらうまで,天皇家との婚姻関係を持ち続けています。

 〈孝徳天皇〉にかわって即位した〈斉明天皇〉(さいめいてんのう,位655~661)は,朝鮮半島の百済が唐と新羅【追H24「宋と金」ではない】の連合軍により滅ぼされる(百済の滅亡【追H24】)と百済の救援に向かい,663年の白村江(はくそんこう;はくすきのえ)の戦いで大敗しました。
 唐の日本襲来に備え〈中大兄皇子〉は日本各地に防備を築き,〈天智天皇〉(てんじてんのう,位668~671)として即位してさらなる集権化を進めました。原本は残されていませんが近江令(おうみりょう)を定めたとされ,670年には初の全国戸籍として庚午年籍(こうごねんじゃく)が作成されました。
 〈天智天皇〉の死後,後継者争いである壬申(じんしん)の乱が起き,東国や飛鳥の豪族の支持を受けた〈大海人皇子〉(おおあまのみこ,631?~686)が天智天皇の子〈大友皇子〉(648~672)に勝利し,〈天武天皇〉(てんむてんのう,673~686)として即位し権力を確立しました。彼は八色の姓(やくさのかばね)を制定して,従来の豪族の身分制度に対抗しました。


◆唐の制度を導入しつつ,律令制を整備していった
 〈天武天皇〉の死後は皇后の〈持統天皇〉(じとうてんのう,位690~697)が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を制定・施行します。女性である彼女が統治した期間は,唐の〈武則天〉の統治期間に重なります(〈武則天〉が周を建国した年に〈持統天皇〉が即位)。

 また中国の都を模倣した藤原京(ふじわらきょう)を奈良盆地の畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)・香具山(かぐやま)に囲まれた平野に造営し,権威を演出しました。
 〈天武〉・〈持統〉天皇の時期の新たな国家建設に向けた勢いを反映し,唐の文化や仏教の影響を受けた若々しく力強い文化(白鳳文化,はくほうぶんか)が栄えました。代表例は薬師寺東塔(730頃),薬師寺金堂薬師三尊像,興福寺仏頭(もとは飛鳥の山田寺の本尊でした)です。法隆寺金堂壁画には,インドのアジャンター石窟寺院の影響もみられます。高松塚古墳の壁画には,中国や朝鮮風の衣装を着た人々も描かれており,中国の〈永泰公主〉(唐の〈中宗〉の七女の墓の壁画(8世紀初頭))の図案との関連性も指摘されています。

 〈天武天皇〉は大規模な寺院を建設し,寺院・僧侶,さらに伊勢神宮を代表とする神社をも管理下に置こうとしました。朝廷では漢詩がさかんにつくられた一方で,〈柿本人麻呂〉(かきのもとのひとまろ)(生没年不詳)らが五七調の和歌を発達させていきました。 
 701年には大宝(たいほう)律令が制定され,「日本」という国号も使用されるようになりました。
 中央には,神祇官(じんぎかん)・太政官(だいじょうかん)の二官庁がトップに置かれ,太政官では左大臣・右大臣や上級の官僚(公卿(くぎょう))が合議し,最終決定は天皇がくだしました。
 中央の実務は二官の下の八省が担当し,長官 (かみ) ,次官 (すけ) ,判官 (じょう) ,主典 (さかん) の四等官によって官僚が指揮されました。上級の官僚は畿内の大豪族が多く,位階は事実上世襲されることも多く貴族階級が形成されていきました。
 北海道を除く日本列島は畿内・七道(しちどう)の行政区画に分けられ,さらにその下には国(こく)・郡(ぐん)・里(り)が設置されました。中央からは国司が派遣され,国府(国衙(こくが))を支配拠点としました。地方に派遣された国司は,現地の有力者(豪族)を郡司(ぐんじ)に任命し,住民を50戸からなる里に編成し,里長を責任者として支配をすすめようとしました。
 人々には田租・庸【共通一次 平1:資産税ではなく人頭税】・調などの税や,雑徭(ぞうよう)・兵役(へいえき)などの労役が課されました【追H27時期を問う】。なかには都の警備である衛士(えじ)や,九州北部の防備のため防人(さきもり)として徴用されることもありました。人口の多くは良民(その多くが農民)でしたが,数%は官有または私有の賤民(せんみん)として扱われました。
 なお,大陸に対する国防・外交のため,九州北部には太宰府(だざいふ)を設置しました。


◆平城京が建設されたころ,日本では女性天皇が続き,日本の国家機構の建設がすすんだ
元明(げんめい)・元正(げんしょう)・孝(こう)謙(けん)(称(しょう)徳(とく))天皇は,女性だった
 〈持統天皇〉を,孫の〈文武(もんむ)天皇〉(位697~707)が引き継ぎ,さらに〈天智天皇〉の娘〈元正(げんしょう)天皇〉(位)が引き継ぎます。〈元正天皇〉の母は〈蘇我〉氏です。
 この〈元正天皇〉のとき,710年には都が平城京に遷都されました。外国人が多く居住した都では,唐の制度をとりいれた国際色豊かな要素が色濃く,日本の国家としての自覚を反映した文化が栄えました(天平(てんぴょう)文化)。
 例えば,中央には大学・諸国に国学という貴族・豪族向けの教育機関が置かれ,儒教の経典の研究が進みました。儒教は受容されたものの,日本では科挙が制度化されることはありませんでした。

 碁盤の目に区切られた左右対称の条坊制(じょうぼうせい)をとった平城京には,大安寺(だいあんじ)・薬師寺・元興寺(がんごうじ)・興福寺(こうふくじ),さらに東大寺(とうだいじ)・西大寺(さいだいじ)などの仏教寺院が建設され,法相(ほっそう)宗,三論(さんろん)宗,倶舎(くしゃ)宗,成実(じょうじつ)宗,華厳(けごん)宗,律(りっ)宗の南都六宗(なんとろくしゅう)の研究が進みました。
 律令政府は仏僧や寺院をきびしく管理しようとしましたが,民衆からの絶大な支持を受けた〈行基〉(ぎょうき,668~749)による布教や灌漑施設の建設といった事業を規制することはできませんでした。

◆白村江の戦いの敗北を受け,『古事記』・『日本書紀』などの歴史書が編まれた
国家の成り立ちを記す書物が,漢字で書かれた
 中国の正史にならって『古事記』(712),『日本書紀』(720)といった史書が編纂され,漢文で記されました。これ以降10世紀初めにかけて編纂されていく『日本書紀をはじめとした史書を六国史と総称します。また地理書として各地の「風土記」が編纂されました。
 唐における漢詩ブームを反映し漢文が重んじられ,漢詩文集『懐風藻』(かいふうそう)が編纂されます。一方,漢詩の影響を受けて成立した和歌には,短歌や長歌(ちょうか)といった形式が発展し8世紀末には万葉仮名(まんようがな)という漢字によって日本語の音を記した日本各地の詩を多数収録した『万葉集』が編纂されました。


◆〈蘇我〉氏に代わり,〈藤原〉氏が天皇家との関係を強化する
〈藤原〉氏の他(た)氏(し)排斥(はいせき)に対し,抵抗も起きる
 しかし次第に,〈藤原〉氏による他の一族の排除(他氏排斥)が目立つようようになっていきます。
 早くから日本の律令制度にはほころびが生じており,厳しい負担を逃れる農民や,浮浪・逃亡した農民を受け入れる有力者の存在が問題視されるようになっていました。人口の増加に対応して耕地を増やそうと,722年には〈長屋王〉(ながやおう,?~729)が百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を立てたものの失敗。翌723年には三世一身法(さんぜいっしんのほう)により,あらたに灌漑施設を建設して田を開墾した者に,三代にわたって私有を認めるというものでした。
 729年には〈藤原不比等〉(ふじわらのふひと,659~720)の4人の息子たち(藤原四子)が左大臣の〈長屋王〉をほろぼし,〈不比等〉の娘である〈光明子〉(こうみょうし,701~760)が〈聖武天皇〉(しょうむてんのう,位724~749)と結婚し,天皇との婚姻関係を獲得するに至りました。

 疫病や飢饉の流行により〈藤原四子〉が死去すると,皇族の出身である〈橘諸兄〉(たちばなのもろえ,684~757)が遣唐使帰りの〈玄昉〉(げんぼう,?~746)や〈吉備真備〉(きびのまきび,683?~775)をブレーンにつけて政権を握りました。これに対しては,〈藤原広嗣〉(ふじわらのひろつぐ,?~740)が九州で反乱を起こし,鎮圧されました。

 〈聖武天皇〉は仏教の力で国難を乗り切ろうとし,741年に国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり),743年に大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)を発布。こうして東大寺に今も残る”奈良の大仏”が作られました。こうした政策は,実は〈武則天〉がみずからを弥勒菩薩(みろくぼさつ)の生まれ変わりと称し,各地に大雲経寺を建てて「自分が国家を守るのだ」とうたった鎮護(ちんご)国家思想の影響を受けています。

 また,743年には墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出され,条件付きで開墾した土地の永久私有を認め開墾を奨励しました。しかし効果は裏目に出て,有力な中央の貴族や寺院が競って開墾し初期荘園(しょきしょうえん;墾田地系荘園ともいいます)が形成されていく原因となりました。この頃の地方では,中央政府の派遣した国司や,地方の豪族を任命する郡司の力が残されており,初期荘園には国司・郡司に対して税を支払う義務がありました。

 8世紀以降,新羅との関係悪化にともない,遣唐使のルートは朝鮮半島沿岸部を航行する北路から,東シナ海を横断し明州(現在の寧波(ニンポー)【早政H30】)に到る危険な南路に移っていきました。唐の〈玄宗〉時代には,〈阿倍仲麻呂〉(あべのなかまろ,698?~770?) が安南都護府の長官に出世しています。また唐の仏僧〈鑑真〉(がんじん,688?~763)は幾度の失敗を経て日本に戒律を伝えました。新羅との外交関係悪化後も,新羅からは民間の商人の来航が続いていました。
 渤海(ぼっかい,698~926)も外交使節を8世紀前半から交換し,しだいに貿易が中心になっていきました。727年から919年までの間に渤海から日本には33回の遣使,日本から渤海には728~811年に13回の遣使が実施されています。太宰府と平安京には鴻臚館(こうろかん),越前に松原客院,能登に能登客院が置かれ,渤海からの使者の滞在・接遇に用いられました。

 8世紀後半には〈藤原仲麻呂〉(ふじわらのなかまろ,706~764)が実権を握りましたが,仏僧〈道鏡〉が〈孝謙太上天皇〉(位749~758)と〈称徳天皇〉(しょうとくてんのう,位764~770)に保護されて政権を握り,〈仲麻呂〉は敗れて亡くなっています。
 藤原氏は〈称徳天皇〉の死後に〈道鏡〉を排除し,〈天武天皇〉の系譜とは別の〈光仁天皇〉(こうにんてんのう,位770~781)をたてて,混乱を収拾しようとしました。
 しかし,日本が制度を輸入してきた唐は755年の安史の乱以後は急速に衰えをみせ,社会不安も増していました。



 6~7世紀から,現在の北海道の人々は,擦文式土器を特徴とする擦文文化を生み出していました。サケやマスなどの漁労や,狩猟を行っていたようです。主に本州との交易により,鉄器も獲得していました。
 また,北海道沿岸を含むオホーツク海沿岸には,漁業や海獣の狩猟を中心とする文化を生み出した人々がいました(オホーツク文化,3~13世紀)。




・600年~800年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
◆中央ユーラシアにおける突厥の強大化に連動し,隋唐王朝が東アジアの覇権を握る
突厥の台頭に対抗し,隋唐王朝が生まれた
 この時代に中国を統一した隋王朝(581~618)と唐王朝(618~907)は,中央ユーラシアにおける騎馬遊牧民突厥(とっけつ)の強大化に対応し,遊牧騎馬民族の鮮卑が中国文化を受け入れて支配層に融合して成立した王朝です。唐の〈太宗(たいそう)〉にいたっては,遊牧騎馬民族から彼らの王にあたる称号(天可(てんか)汗(がん))の称号を与えられます。こうして東アジアの国際関係は,ユーラシア大陸の歴史の変動により一層結び付いていくことになります。「中国史」だからといって「中国」の王朝だけをみていても,本質をつかむことはできないのです。

 東アジアでは,隋・唐の皇帝(天子)が周辺の国家に重要度に応じて位(くらい)を与え,実際には統治していなくても支配下に置く制度(冊封(さくほう)制度)が形成されていきました。冊封を受けた国家は中国の皇帝と朝貢貿易ができるため有利ですが,中国の皇帝にとっては返礼として高価な産物を与えなければいけないので大変です。しかし中国の皇帝にとっての朝貢貿易は,中国の皇帝としての面子(メンツ)を壊さないために重要な儀礼でした。皇帝は,中「華」を支配し,その徳によって野蛮な周辺国(夷)を従えるとする華夷(かい)思想が重んじられていたからです。このような東アジアにおける国際関係の下で,中国の新制度を導入した新政権が,東アジア各地に建てられていきます。
 文化面では,華北の漢人文化・五胡の文化が北方のテュルク文化,江南の南朝の文化,西域(さいいき)の文化と複合し,現在の中国文化の基となる文化が誕生していきました。
 冊封体制は東アジアの国際関係の常識として19世紀後半まで続きましたが,朝貢貿易をどの程度実施するかは,中国の王朝の国力や東アジアの情勢によってまちまちだったので,常に朝貢貿易を推進していたわけではありません。

 鮮卑系の隋が南北朝を統一し,北朝で発達した諸制度が導入されていった
 隋と唐は漢人中心の歴史の見方では「漢人によって中国が再統一された」と表現されることが多いですが,実際にはそんなに単純な話ではありません。
 581年に隋を建てたのは,北朝の軍人であった鮮卑系の〈楊堅〉(ようけん,在位581~604)でした【本試験H17軍機処は設置していない】。 前漢時代から都とされていた都市・長安は老朽化も進んでおり,その南東に新たな都城の大興城(だいこうじょう) 【追H27隋代ではない】を建設します。城とは中国語では壁で囲まれた「都市」のことです。これがそのまま次の唐代には長安城として利用されることになります。
諡(おくりな,死後与えられる名)は文帝です。589年に南朝最後の陳【本試験H17宋ではない】を滅ぼし,約300年ぶりに中国の領域が統一されました。
 南北朝の時代に,漢人や鮮卑人の支配層は一体化が進んでおり,そもそも隋が「漢人の国」なのか「鮮卑人の国」なのかということをとやかく言うことにはあまり意味がありませんが,北方の突厥や南匈奴の勢力が迫り,南朝の漢人政権に対して自らの正統性を主張するために,隋の支配層は漢人の王朝としての意識を強めていきます。

 北朝の流れをくむ隋では,均田法(農民に国家が土地を与え耕作させる)・租調庸制(均田法で田畑を与えた農民から税を取る)・府兵制【追H25玄宗の時代ではない】(均田法で田畑を与えた農民から兵をとる)といった制度が受け継がれました。
 ベースになっているのは「天下の土地は皇帝のもの。そこにいる人々も皇帝のもの」という考え方です。一人一人をもらさず支配しようとする,この統治方式を,個別人身支配という名で説明することがあります。この方式は隋から唐にも受け継がれましたが,皇帝には完全実施できるほどの権力はまだなく,8世紀に入ると崩れていきました。

(1)均田法
 まず,均田法は北魏によって創始されました。(参考魏・蜀・呉→西晋→五胡十六国→北魏)。北魏では穀物を栽培させる一代限りの土地(露田(ろでん)),蚕(カイコという絹の原料がとれる蛾)のエサとなる桑(くわ)を栽培させる世襲の土地(桑田(そうでん)),繊維のとれる麻(あさ)を栽培させる一代限りの土地(麻田(までん))が支給されました。奴婢(ぬひ)や耕牛(こうぎゅう)や妻にも支給されたため,奴婢や耕牛,妻をたくさん持っていれば持っているほど土地の支給があるということになり,大土地所有者(豪族)に都合のいい制度のようにも見えます。しかし,実際には北魏は三長制【本試験H15宗族とは関係ない】【中央文H27記】によって豪族支配下にあった奴婢に戸籍を与えていき,土地を与えることで,国家の管理下に置こうとしたのです。
 隋の時代には奴婢・耕牛への支給がなくなり,唐の時代には妻への支給もなくなります。

(2)租調庸制
 租調庸制は,魏の屯田制を受け継いだ,西晋の占田・課田法(詳しい実施内容は不明)に由来しています。

(3)府兵制
 府兵制は,西魏の府兵制が元になっています。(参考北魏→東魏・西魏→北斉・北周)

(4)科挙制
 さらに,魏【本試験H11呉ではない】のはじめた九品中正(九品官人法) 【本試験H3武帝の始めた制度ではない,本試験H11】【本試験H21呉ではない,本試験H26明代ではない】【追H29】の制度は,地方に中正官を派遣し,人材の将来性を見込んで9段階にランク付けし,中央に報告するものでした。しかし,だんだんと中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れるようになり,意味のないものになっていました。
 そこで,隋【追H29元ではない】は九品中正に代えて,科挙(当初は「選挙」と呼ばれた) 【本試験H11】【本試験H18殿試は実施していない】【名古屋H31実施目的も問う(記述)】を実施し,ペーパー試験によって儒学の素養をためすことにより有能な人材をとろうとしました。統一試験によって,地方分権的なしくみを中央集権的なしくみに変えようとしたのです。科挙では詩を作る能力や文を書く能力が重んじられました。詩をつくらせれば韻(いん)を踏んでいるかどうかで,漢字を正しく読めているかがわかりますし,内容が五経(ごきょう)などの古典に基づいた文を書かせれば,それを正確に覚えているかがわかります。広大な領土を支配する官僚にとって,話し言葉は違えど共通の文字である漢字による文書管理能力が,何よりも求められたのです。
 しかし,実際にはコネ(恩蔭(おんいん。任子ともいいます)という試験なしの入学)などの抜け道が多く,一部の良い家柄(門閥貴族(もんばつきぞく))が高い官職を占める実態は続きました。



◆大運河の建設により,華北の経済圏が長江下流域と結びついていった
鮮卑の拓跋部の隋は,中国の南北交通を結んだ
 〈文帝〉の子は,〈煬帝〉(ようだい(楊広(ようこう)) 【追H24高句麗に遠征し攻撃したか問う】,在位604~618) 【セA H30漢の建国者ではない】です。彼は各地で掘削されていた運河を連結し大運河(だいうんが)【追H26漢代ではない】【本試験H9,本試験H12始皇帝による政策ではない】【本試験H19明代ではない,H29地図が問われる,H29共通テスト試行 時期は唐末五代(755~960)ではない】を整備し,江南【追H26】と華北【追H26】を結合させました。大運河の建設は,この時期に物流の流れが“東西”から“南北”に移動していったことが背景にあります。つまり,季節風交易の確立にともなって,ユーラシア大陸全体の物流の流れが,陸上輸送から海上輸送に変化していったわけです。中国南部の港町に効率的にアクセスするために,中国を南北に貫く大運河が求められたのです。
 また,長江下流の江南(こうなん)は,呉【追H25】が都を建業に置いて以来,東晋~陳の建康を通して開発がすすみ,経済の一大中心地へと重要性が増していたのです。彼は長江下流の江都(現在の揚州)に,大規模な龍舟(りゅうしゅう)という船にのって視察し,力を見せつけたといわれます(◆世界文化遺産「京杭大運河」,2014)。

 〈煬帝〉は対外的には,南はヴェトナム南部のチャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】,西は西域への入り口周辺を支配していたチベット系の吐谷渾(とよくこん)に遠征し,北は東突厥の可汗に大して大規模な訪問をするなど,軍事力と派手な儀式で周辺民族のいうことをきかせようとしました。また,倭は彼のもとに遣隋使を派遣しています。
  しかし,大運河(永済渠(えいさいきょ)【H27京都[2]問題文】)を現在の北京(涿(たく)郡(ぐん)【H27京都[2]問題文】)に向けて開削しつつ3度にわたって実施した高句麗遠征【本試験H17】【本試験H7百済ではない】【追H24】【H27京都[2]】(612,613,614)は大失敗に終わり,それをきっかけに反乱が起きました。反乱には〈煬帝〉の側近の一族や将軍らも加わり、各地で火の手が上がります。また北方の突厥や南匈奴の勢力も迫っていました。



◆建国後の唐は西域に積極的に進出,ソグド商人を管理下に置き東西交易を支配しようとした
鮮卑の拓跋部は,隋に代わって唐の支配層となる
 その中で軍閥出身の〈李淵〉(りえん,在位618~626)は隋の宮城である大興城を落とし,〈煬帝〉は部下に暗殺されました。〈煬帝〉は〈李淵〉のいとこであり,両者ともに鮮卑の出自をもちます。
 〈李淵〉はもともと孫に跡を継いでいましたが,その孫から禅譲される形で,〈李淵〉は618年に唐を建国【本試験H17軍機処は設置していない】。煬帝に対して「煬」(“天に逆らい,民を虐げる”という意味)という字を付けた諡号(しごう,おくりな)を贈ったのは,勝者である〈李淵〉です。〈李淵〉も隋と同じく鮮卑系のルーツを持っており,皇帝支配に正統性を持たせるため,漢人の王朝としての意識を強めていきます。

 唐の都は隋の大興城をほぼそのまま引き継ぎ,長安【追H25鎬京ではない,H27大運河と黄河の接点ではない】【本試験H22地図】に置かれました。東西(左右)【本試験H16南北対称ではない】対称に碁盤の目状に街路が配置され【本試験H22】、その構造は周辺諸国に模倣されました【追H25】。周辺諸国からさまざまな民族の商人・留学生・芸人【本試験H6】が訪れる国際的な都市でした。

 長安には多数の仏教寺院【本試験H16】のほかに,エフェソス公会議(431年) 【京都H20[2]】【本試験H25】で異端となったネストリウス派キリスト教(景(けい)教(きょう)と呼ばれました【本試験H5ヒッタイトの宗教ではない】【本試験H21拝火教ではない,本試験H30】)や,イランの民族宗教であるゾロアスター教(祆教(けんきょう,拝火教【本試験H14】【追H29中国からイランにつたわったのではない】)と呼ばれました),さらに,その異端であるマニ教(摩尼教) 【本試験H12中国に影響が及んだか問う】【追H30】の寺院も立ち並んでいました。
 651年にイラン高原のササン(サーサーン)朝が滅亡すると,イラン人が難民となって唐に移住し,ゾロアスター教【追H29中国から伝わったのではない】を始めとするイランの宗教・文化や,保護されていたネストリウス派が中国に流れ込むとともに,政治家としての手腕を発揮する者も現れました。なお,この時期に流行した,馬にのってボールを打つ「ポロ」(ポロシャツはポロの競技のときに着る服がもと) 【追H28これが都で流行したのは明(みん)代のことではない】もイラン【追H28】由来です。こうした西方の人々は「胡人」【本試験H6】と呼ばれ,その風俗が流行しました。

 イラン系の言語を話すソグド人【本試験H4】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】が,シルクロード各地に拠点をつくり,遠く長安まで商業活動を展開していたことも重要です。
 彼らは当初はゾロアスター教を信仰し,のちマニ教に改宗する者が増えました。ソグド人は子どもの手にニカワ(動物由来の接着剤)を握らせ(お金がくっつくように),甘い言葉が出るように氷砂糖をなめさせたという言い伝えが,『旧唐書』(くとうじょ)にあります。のちに唐に対して安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】を起こす〈安禄山〉(あんろくさん) 【本試験H7】は,父がソグド人の有力者で,母は突厥でした。
 ほかにも,イスラーム商人【本試験H4】も多数往来し,東西交易に従事しています。

 唐の時代には唐三彩(とうさんさい)【本試験H24彩陶,染付,黒陶ではない】という陶器がさかんに作られましたが,ソグド人がラクダの上に乗っているデザインが有名です。なお,〈李淵〉と次の〈李世民〉につかえた〈欧陽詢〉(おうようじゅん,557~641)は楷書の見本とたたえられる均整のとれた書を残しています(『九成宮醴泉銘』(きゅうせいきゅうれいせんめい)が代表作)。次の〈李世民〉につかえた〈虞世南〉(ぐせいなん,558~638),〈褚遂良〉(ちょすいりょう,596~658)とともに“初唐の三大家”に数えられています(このうち〈褚遂良〉は〈高宗〉が〈武后〉(ぶこう)を后とすることに反対し,〈欧陽詢〉の息子〈欧陽通〉(同じく書家)は〈則天武后〉の宰相となったものの後に対立して獄死しています)。

 食生活の面では、都市でうどんなどの粉食が普及し、農業用の灌漑用水を動力とする大規模な石臼を用いた製粉事業(碾磑(てんがい))がさかんとなり、王族・大寺院・富裕な商人が担い手となりました【追H26リード文、唐代に華北で小麦栽培がさかんになったか問う(正しいが難問)】。

 さて,7世紀前半といえば,610年にアラビア半島でイスラーム教が生まれます。イスラーム教は商業活動を肯定し,多くのムスリム商人が中国にも海路でなだれこみます。とくに長江よりも南にある,揚州(ようしゅう。長江の下流)や広州(こうしゅう。中国の南部。長江の下流,大運河の南端に位置する杭州【東京H8[3]】という,日本語だと同じ読みの都市もあるので注意)のような港町には,アラブ人の居住地(蕃坊(ばんぼう))が設置されるほどでした。ちなみにモスクのことを清真寺(せいしんじ)といいます。


◆二代目の〈太宗〉はクーデタで即位,モンゴル高原の東突厥を滅ぼしています
〈太宗〉は,遊牧民から天可汗の称号を受けた
 二代目の〈太宗〉(李世民,在位626~649) 【追H27李成桂ではない】【本試験H4】は,626年に玄(げん)武門(ぶもん)の変というクーデタで兄を殺害,一代目の〈李淵〉(高祖)を閉じ込めてに皇帝に即位した人物。やってることは隋の〈煬帝〉とたいして変わらないですね。しかし,〈太宗〉の治世は,後世の歴史家が「いい時代だった」と絶賛する時代で,『貞観政要』(彼の言行録)によれば,「貞観の治(じょうがんのち)」【本試験H4太宗の治世か問う】【本試験H21開元の治ではない・時期】とうたわれます。逆にいえば,即位時の埋め合わせを“良い情報”を後世に残すことで穴埋めしようとしたようにもみえます。
 一方で対外的には,即位直後にモンゴル高原を統一していた東突厥(ひがしとっけつ)が長安めがけて襲撃してくるという大ピンチに見舞われます。しかし,名将〈李靖〉(571~649)の活躍もあり,何とか寸前で東突厥と取り決めをして危機を回避。その後630年には東突厥を滅ぼしました。このとき,中央ユーラシアの遊牧民の首長たちから「天可汗」(てんかがん,テングリカガン)の称号を与えられると,鮮卑の拓跋部の建てた唐は名実ともに広大な領土を支配下に置く大帝国となったわけです(「拓跋帝国」という場合があります)。

 いまだ周辺諸国が不安定だったこの時期に,出国の禁止を破って「本当の経典を手に入れる!」という野望のもと,629年にインドに旅立ったのがのちに“三蔵法師”として知られる〈玄奘〉(げんじょう) 【セA H30】です。彼は「上に飛鳥(ひちょう)なく,下に走獣(そうじゅう)なし」と言われた過酷なゴビ沙漠を通り,天山山脈を超える際には10人のうち3~4人を凍死で失ったものの,なんとかアフガニスタンを回ってインドに入ることができました。
 インド【セA H30ビルマではない】のヴァルダナ朝では〈ハルシャ=ヴァルダナ王〉(位606~647) 【東京H8[3]】に謁見し,ナーランダ大学(僧院。ナーランダとは“蓮のある所”という意味) 【本試験H17墨家とのひっかけ】【追H20ジャワにはない,H25教義研究が行われたか,H30仏教が研究されたか問う】でも学びました。彼の学んだ「唯識」(ゆいしき)という仏教思想は,日本にも伝わり,奈良の薬師寺が継承しつづけています。彼の旅行記『大唐西域記』【本試験H12義浄の著書ではない】【大阪H30史料】(だいとうさいいきき)は,かつて仏教が栄えたアフガニスタンのバーミヤンを含む当時の様子が生き生きと描かれた,一級の史料です。バーミヤンの石仏は21世紀に入って,アフガニスタンのイスラーム過激派ターリバーン政権によって爆破されたことで有名になりました。

◆三代目の〈高宗〉は最大領土を実現し,間接的な羈縻(きび)支配をおこなった
東アジアに唐を中心とする冊封体制が建設された
 三代目の〈高宗〉(こうそう,在位649~683) 【本試験H17徽宗とのひっかけ】は,積極的な対外進出により最大領土を獲得した皇帝です。
 この動きに対して危機感を持った朝鮮半島東部の新羅では,〈金春秋〉が日本と高句麗との同盟を考えますが失敗し,〈武烈王〉(位654~661)として即位し,唐と同盟する決意をします。
 また,遣隋使によって中国の制度を導入しつつあった日本も,唐の進出に危機感を強める中,645年に大化改新(たいかのかいしん)が起こり,天皇を中心とした国づくりを進めていくことになります。
 
 朝鮮半島で唐【京都H21[2]】は,新羅【京都H21[2]】の〈武烈王〉と同盟して,663年に百済【本試験H21滅亡時期】【本試験H7】,668年に高句麗【京都H21[2]】【本試験H17,本試験H21滅亡時期】を滅ぼしました。日本は,百済を救援するために663年に水軍を派遣しましたが,白村江(はくすきのえ,はくそんこう)の戦いで敗北してしまいます【本試験H20唐は敗れていない】【追H19時期】。唐は,新羅が朝鮮半島で強い勢力を維持したことから,日本へのさらなる攻撃は行いませんでした。
 日本は,唐が再び襲ってこないように防衛拠点を築きつつ,天皇を中心に国内の集権化に集中するようになっていきました。唐の進出に備え,中国東北部の新興国渤海【追H21中国が元の時代ではない】や新羅【本試験H7】は,日本に使節を派遣しています。

 唐は,征服した先に「都護府(とごふ)」【本試験H6理藩院ではない】【追H18】【京都H20[2]】を設け,その地の支配者にいわば中国の「官吏」として支配を任せる間接統治をとりました。これを羈縻(きび)政策といいます。羈は馬の手綱(たづな)・縻(牛の鼻につなぐ綱)を指し,家畜を縄でつないでおくという意味です)。
 〈高宗〉の時代にインド【本試験H21グプタ朝ではない】にわたった仏僧は,〈義浄〉(ぎじょう,635~713) 【本試験H3史料中の「帆を挙げて」というところから,陸路で向かった〈玄奘〉ではなく〈義浄〉であると判断する】です。
 彼がインドに入った時点で,すでにヴァルダナ朝は分裂していました。帰路はスマトラ島に寄って,シュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】のパレンバンという都市で大乗仏教【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の理論を研究しています。行き帰りともに陸路だった〈玄奘〉と違って,〈義浄(ぎじょう)〉【本試験H27仏図澄ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】は行きも帰りも海路です。旅行の様子は,『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん) 【本試験H12『大唐西域記』ではない】【本試験H27】にまとめられています。
 彼ら渡印僧(といんそう。インドに渡った僧侶)の活躍によって,仏教の原典を主体的に中国人が訳し直したことで,だんだんと仏教に中国的な要素が入り込んでいくようになります。
 そうしてできていったのが,念仏を重んじる浄土宗(すでに東晋の〈慧遠〉(えおん,334~416)が白蓮社(びゃくれんしゃ)を開いていました)や,坐禅を通した瞑想(めいそう)を重んじる哲学的な禅宗【本試験H18中国に伝えられたわけではない,H21時代を問う】であり,ともに日本の仏教にも大きな影響を与えました。
 禅宗は,北魏の末に中国の洛陽を訪れたインド僧〈ボディーダルマ(達磨)〉(生没年不詳)が開祖で,「自分の心のなかに仏教の真理がある」という説をとなえ,実践しました。達磨は「面壁九年(めんぺきくねん)」といい,壁に向かって9年座禅をしたという故事で知られます。日本人の好きなダルマという縁起物は,“夢の実現に向かって忍耐!”ということを表したものです。

◆唐では律令制度が整備された
律令制とは,漢字を使用した文書支配のこと
 唐の制度には隋の制度を受け継いだものが多く,律(りつ)・令(れい・りょう)・格(かく・きゃく)・式(しき)という法に基づいた政治が整備されました。このほかにも皇帝の命令は勅(ちょく)と呼ばれ,律令よりもランクの高いものと位置づけられました。
 官僚たちのトップに君臨するのは宰相(さいしょう)です。
 中央には中書・門下・尚書の三省(さんしょう)が置かれ【本試験H19前漢の武帝の代ではない,時期(漢代ではない)】【追H21秦ではない】,それぞれ各2名の長官,合計6人が宰相に就任します(のち尚書省の長官は,特別に任命されたときのみになりました)。宰相にまで上り詰めることができるのは,ひと握りの門閥貴族です。彼らがいなければ,大多数の官僚を動かすことは難しいわけで,皇帝も彼らの意見を無視できなかったわけです。
 尚書省(しょうしょしょう)の下に吏・戸・礼・兵・刑・工(り・こ・れい・へい・けい・こう)の六部(りくぶ) 【本試験H31時期(漢代ではない)】 【追H21時期(秦代ではない)】が設けられました。科挙を実施するのは礼部でしたが,吏部(りぶ)は吏部試という二次試験において「誰を官僚にするか」を決める権力(人事権)を持っていたので,門閥貴族の根城になります。
 三省と六部はあわせて三省六部【追H27前漢のときではない】【本試験H4】と呼ばれます。

 なお,これらの活動を監察(チェック)するのが,御史台(ぎょしだい)の役目です。
 詔勅(しょうちょく)をつくるのは中書省【本試験H24清朝は設置していない】でしたが,門下省にはその案をボツにする権利(封駁(ふうばく)権)がありました。したがって,皇帝が何か決まりごとをつくろうとしても,門下省の会議をパスしなければ実現できないわけです。ただ,しだいに門下省のかわりに,中書省で会議が開かれるようになっていきました。
 ほかにも漢の頃から続く,鴻臚寺(こうろじ。外国使節の接待など)や大理寺(だいりじ。検察・裁判権)といった九寺という伝統的な機関は,六部(りくぶ)の管轄下に置かれたものの,これらをなくしてしまうだけの権力は,皇帝はまだありませんでした。
 支配地域は,隋と同じく州(長官は刺史(しし))と県(長官は令)に分けられ,州の上には道(巡察使と按察使が置かれました)を置きました。県より下は郷と里に分け,里の有力者を里正(りせい)として徴税を請け負わせました。

 もちろん官僚になるためには科挙に合格することが必要でした。科挙のために,〈孔頴達〉(くようだつ,こうえいたつ。574~648) 【本試験H7】【本試験H17,本試験H27】【追H19董仲舒とのひっかけ】らが『五経正義』(ごきょうせいぎ) 【本試験H7】【本試験H14韓愈らによる編纂ではない,本試験H17リード文,本試験H27仏国記ではない】【追H19】という五経の注釈書をつくりました。五経の解釈のスタンダードを示した【本試験H7】,いわば教科書です。また,試験科目に詩作があったことから,漢詩が流行します。

・“詩仙”(しせん)とよばれる〈李白〉(りはく,701~762) 【本試験H8則天武后の時代ではない】は一時〈玄宗〉につかえましたが,のちに皇子の側についたため反乱軍として流罪となりました。
・“詩聖”(しせい)とよばれる〈杜甫〉(とほ,712~770) 【本試験H8】【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【セA H30】
・〈白居易〉(はくきょい(白楽天(はくらくてん)),772~846) 【本試験H3長恨歌の作者か問う】

 以上の3名が漢詩 ”ビッグ3” です。
 長安で職に就いたものの安史の乱の反乱軍によって長安に軟禁された〈杜甫〉は,「国破れて山河あり」(「春望」)の一節で有名です。

 自然詩人としては〈王維〉(おうい,701?~761(注))【本試験H17南宋ではない】【慶文H30記】が有名で,水墨画にも優れ南宗画(なんしゅうが)(文人画) 【追H30秦代ではない】の祖とたたえられています。もいずれも唐が傾いていく時期にあたるのですが,いずれも暗い現実を,見事な芸術に高め,人々の共感を呼んだ人物です。
 また,古文を復興【本試験H17王朝,H31四六駢儷体ではない】した〈韓愈〉(かんゆ)【本試験H17王朝・H22,H31】や〈柳宗元〉(りゅうそうげん)【本試験H17王朝】【追H19】の文章も,人気を博しました。
(注)生年は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120

 さて,科挙が整備されたとはいえ,貴族の子弟には裏口入学が認められているなどの抜け穴も依然としてありました。完全に門閥貴族を排除するまでには,まだまだ時間がかかります。均田法が施行されていたとはいっても,貴族の大土地所有は認められていて,彼らのプライベートな土地は荘園(しょうえん)と呼ばれました。高い位にある者には官人永業田が,官僚として働いている者には職事田が与えられるなど,大土地所有は事実上認められていたのです。

 唐の支配下にあった人々は,土地の支給を受けることができる良民と,誰かの支配を受けている賤民(せんみん)に分けられていました。税の負担があるのは良民のみです。
 税の種類としては,穀物税(租),布の税(調),さらに庸【本試験H7明代ではない】という強制労働がありました(都で年に20日働き,故郷で年に40日働くことになっていました。地方での労働を雑徭(ぞうよう)といいます)。土地のうち,穀物(粟(ぞく))を植えた土地(口分田(くぶんでん) 【本試験H8】)は死んだら国に返還することになっています【本試験H8世襲はされない】。しかし,麻畑・桑畑は永業田(えいぎょうでん)といい,息子に世襲できました。ほかにも,府兵制によって徴兵を受けたり,国境地帯の警備(それぞれ衛士(えじ)と防人(ぼうじん))の任務を義務付けられたりしていましたが,兵役のある者は租調庸は免除です。それでも,大切な人手を兵役にとられてしまうのは,痛手です。

 だったら,貴族の私有地(荘園)で小作人(佃戸(でんこ) 【本試験H8宋代かどうか問う】【追H19両班ではない】)になったほうがいいと,逃げ出す者も出てくる。それに,国にもらわずに,自分で土地を開墾して新興地主(形勢戸(けいせいこ) 【本試験H8時期(11世紀には「新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていた」か問う)】)となる者もいました。この動きは宋代にかけて,特に生産力の上がった長江流域の江南(こうなん)で見られるようになっていきます。
周辺諸国は,中国と対抗関係や協力関係を結びつつ,程度の差はあるものの,中国の文化的な要素をしだいに受け入れていくことになりました。例えば,文字としての漢字,宗教としての仏教・道教,国家の制度としての儒教・律令制度(刑法の律【本試験H4】,行政法の令【本試験H4】,追加規定の格【本試験H4】,施行細則の式【本試験H4】)のことです。この時期に成立した,唐を中心とする中国の文化を通した結びつきを共有する地域のまとまりのことを,東アジア文化圏といったりします。


◆モンゴル高原の覇権が突厥からウイグルにうつり,唐・吐蕃・突厥が交易をめぐり対立する
モンゴル高原の派遣は,突厥からウイグルにうつる
 モンゴル高原【本試験H4西アジアではない】では,テュルク系の突厥(552~744年) 【本試験H4】が隋~唐中期までさかんでした。オルホン碑文とまとめて呼ばれる石碑群には,遊牧騎馬民族の使用したものとしては最古【共通一次 平1】の文字 突厥文字【共通一次 平1:鮮卑文字,ウイグル文字ではない。匈奴文字はない】【本試験H15内陸ユーラシアの遊牧騎馬民族としては最古の文字かを問う(ウイグル文字ではない)】が残されています。アラム文字が起源と考えられてきましたが,文字系統は不明です。

 突厥は6世紀末に東西に分裂してすいた衰退し,同じくトルコ系のウイグル(回紇,744~840年) 【本試験H4西トルキスタンに国家を建てていない・中国を征服していない】【京都H20[2]】の支配下に入ります。ウイグル【本試験H20烏孫ではない】は840年にキルギス(キルギズ) 【京都H19[2]】【本試験H14・H24】に敗れて西に移動し,タリム盆地を拠点としました。
 ウイグルは,安史の乱【本試験H4ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H9ウイグルが鎮圧したか問う,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】に介入したときにマニ教【本試験H9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】を信仰するようになりましたが,その後イスラーム教→仏教→イスラーム教と,何度も信仰を変えつついまに至ります。現在でも中国北西部で自治が認められていて人口は1,000万人以上もいます(スウェーデンよりも多い)。
 突厥やウイグルは,アラム文字の影響を受けて文字をつくりました。モンゴル高原のオルホンで初めに発見された7世紀末の突厥文字は,ウイグルでも発見されました。中国の文化に対抗する民族意識を育てていました。その後キルギスは衰え,やがて19世紀にロシアの支配下に置かれますが,1991年の独立時に制定された旗には,遊牧民のテントを真上から見た図案がデザインされています。

 このように7~8世紀の騎馬遊牧民のさかんな活動は,西方の南ロシアでも同じでした。西方ではアヴァール人(のちにカール大帝が撃退しました) 【本試験H21 世紀を問う、本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】やトルコ系ブルガール人【セ試行】がビザンツ帝国を圧迫しています。またハザール人は黒海北岸に建国し,イスラーム勢力がカフカス山脈を超えて北上をするのを防ぎました。

 長江上流の雲南(うんなん)【本試験H4チベットではない】地方では,チベット=ビルマ系の南詔(なんしょう,?~902) 【本試験H4】が唐の文化を導入して栄え,朝鮮では新羅が同様に栄えました【本試験H11:新羅では活版印刷は実用化されていない】。新羅は仏教を保護し【本試験H19仏教は朝鮮王朝時代に伝わったのではない】,慶州(けいしゅう)【本試験H22高麗の首都ではない,H27現在のソウルではない,H30】に仏国寺【本試験H20新羅の時代か問う,H30】が建立(こんりゅう)されました。律令制を導入しましたが,実際に支配階層にあったのは骨品制(こっぴんせい) 【追H28陳朝ではない】【本試験H16北魏ではない,セ18唐代ではない,本試験H22朝鮮王朝ではない,本試験H30】にもとづく高い家柄の氏族でした。

 唐に滅ぼされた高句麗の遺民〈大祚栄〉(だいそえい,大祚榮) 【京都H20[2]】【本試験H30〈衛満〉ではない,H31高麗を建国していない】が,中国東北地方に建国したのは渤海(ぼっかい,698~926) 【京都H21[2]記述(建国の経緯を説明)】【追H19時期,H21時期(中国が元の時代ではない)】【本試験H31高麗ではない】です。渤海使という使節を34回も日本におくり,律令制を導入し中国の長安をモデルにした都を建設するなどして栄えました【追H27渤海の都城構造に影響を与えたか問う】。
 渤海は新羅との対抗関係から,日本との同盟関係を求めたのです(日本の敵=新羅。新羅の敵=渤海。日本の“敵の敵”(=渤海)は味方)。都は5つありましたが,最も栄えたのは上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】です。

 東南アジアのうち,メコン川の中流域カンボジア,現在のヴェトナム中・南部に位置する港市国家チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】,義浄の立ち寄ったシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】も,中国に朝貢しています。
 日本も,飛鳥時代に遣隋使,奈良時代に遣唐使【東京H8[3]】をおくって,積極的に中国文化を導入していきました。豪族による支配を打破するために,大化の改新が遂行され,中国型の律令国家の建設が推進されました。長安→平安京(長安のコピー都市)。皇帝→“天皇”という称号。銅銭(四角い穴のあいた丸い銅銭=方孔円銭)→和同開珎(わどうかいちん)。唐→“日本”という国号。均田法→班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)…などなど【大阪H30北朝代から唐代にかけて形成された諸制度のうち,日本に取り入れられたものを具体的に一つ】。717年に遣唐使として中国に渡り,唐で官吏として採用されたものの,734年に36歳で亡くなった〈井真成〉(せいしんせい)という人物の墓誌が,2004年に西安(唐の時代の長安)で発見されています。「日本」から来たと書いてあるので,制定されていたばかりの「日本」という国号を中国側が認めていたことがわかります。

 ほかにも,〈玄宗〉【慶文H30記】の厚い信任を得て,安南都護府で働き,安南節度使にまで登りつめ,帰国を希望しながらも中国で亡くなった〈阿倍仲麻呂〉(あべのなかまろ,698~770) 【慶文H30記】も,故郷である奈良を思う歌(天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも)とともに有名です。

 奈良の東大寺には大仏がありますが,この近くにある宝物殿「正倉院(しょうそういん)」に,なぜイランのササン(サーサーン)朝のガラスのうつわが収められています。正倉院が“シルクロードの終着点”とも言われるゆえんです。



◆則天武后は,仏教を保護し科挙を徹底することで貴族勢力を排除しようとするも失敗した
則天武后は科挙官僚を登用し,政治を改革した
 〈高宗〉の妻(皇后(こうごう))の〈武(ぶ)照(しょう)〉(624?~705)は,政治に長けた人物で,みずからの称号を天后に変えて〈高宗〉と並んで政務をとりおこなっていました。鮮卑の拓跋部の文化では,女性の地位は高かったのです。
 しかし〈高宗〉が亡くなると,その子の〈中宗〉(ちゅうそう,在位683~684,705~710)を帝位につけて,自らも政務に残ります。しかし,母〈武照〉は「自分が政治をしたほうがよい」とみて,〈中宗〉を廃位。代わって,〈睿宗〉(えいそう)が皇帝になりましたが,さらにこれを廃位し,690年に自身が〈則天武后〉(そくてんぶこう、在位690~705)【本試験H4則天武后以来の混乱をおさめたのが玄宗か問う,本試験H8】【本試験H15,H29共通テスト試行 西太后ではない】【追H18】として皇帝に就任しました。みずからを弥勒菩薩の生まれ変わりとして,各地に大雲(だいうん)経(きょう)寺を建てる鎮護(ちんご)国家(こっか)政策をとります(この影響が日本の〈聖武天皇〉による国分寺の建立政策です)。龍門の石窟にある毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)は,このとき彼女に似せてつくられたといわれています。
 国号を「周」【本試験H4新ではない,本試験H8】【本試験H15,本試験H28新ではない,H29共通テスト試行】【立教文H28記】としたため,「唐」は一時滅亡しました。中国史では「悪女」中の「悪女」の扱いをされる人物ですが,新興の科挙官僚を優遇し,門閥貴族を徹底排除しようとした改革者でした。古株(ふるかぶ)の門閥貴族に代わり,有能な人材が政治の舞台にのぼり,国内の支配も安定します。この時期に中国に遣唐使に渡った日本人には,帰国後に三論宗をひらき『日本書紀』の編纂にも関わった〈道慈(どうじ)〉(?~744),『貧窮問答歌』で知られる〈山上憶良(やまのうえのおくら)〉(660~733?)がいます。

 さて,〈高宗〉の子である〈中宗〉(ちゅうそう)が皇帝の位に戻り,唐は復活したのですが,今度はその后の〈韋后〉が実験を握ります。しかし,〈韋后〉にまつわるスキャンダルが取り沙汰されると,その発覚をおそれ,〈韋后〉は〈中宗〉を毒殺。つづいて〈韋后〉が暗殺されるという大混乱の末,〈中宗〉の弟である〈睿宗〉(えいそう)が即位します。ここまでまとめると,〈高宗〉→〈中宗〉→〈睿宗〉→〈則天武后〉→〈中宗〉(2度目)→〈韋后〉→〈睿宗〉(2度目)という流れです。もうなにがなんだかわからんという状況。この時期を武韋の禍(ぶいのか)といいます。


◆8世紀の唐は中央ユーラシアの情勢の影響を受け,安史の乱により荒廃する
玄宗の治世前半は安定するが制度の崩壊も始まる
 この激動の時期を目の当たりにした〈睿宗〉の子,〈李隆基〉(りりゅうき,玄宗。在位712~756年) 【本試験H4】【本試験H15】【追H25】は,712年に即位すると,混乱した政治の立て直しを図りました。彼の治世の前半は,実態はともあれ後世の歴史家によって“開元の治” 【本試験H6同治中興ではない】と讃えられています。世界的に温暖な時期にあたる当時,唐では長安を中心に国際色豊かな文化が展開されました。彼に仕えた山水画家に“画聖”とも称される〈呉道玄〉(ごどうげん)【本試験H17孔頴達とのひっかけ】【追H20「唐の時代…山水画を描いた」か問う】がいます。

 一方,制度の崩壊もはじまっていました。
 均田法により土地を与えられた農民の中には,税を逃れるために逃げ出すものも現れていました。すると租調庸制による税の取り立てがままならなくなるだけでなく,府兵制による徴兵もできなくなります。そこで〈玄宗〉【本試験H15前漢の武帝ではない】【追H25】は傭兵をもちいる募兵制【本試験H29時期】【追H25府兵制ではない】を採用しするとともに,辺境防備を節度使【追H21秦代ではない】【本試験H15】にまかせました。節度使には,中央ユーラシアの広範囲で交易活動をしていたソグド人も任命され,ソグド人も各地に設置された植民市どうしの活動を唐に保障され,活発に活動していました。
 しかし〈玄宗〉は,62歳のときに息子の妃を取り上げて“貴妃”とした〈楊貴妃〉(719~756,このとき27歳) 【本試験H15】【立教文H28記】に夢中になるあまり,彼女の一族による政治への介入を受けるようになります。
 また,突厥がウイグルによって襲われるようになり,またソグド人の本拠地がイスラーム軍による進入 (751年にはタラス河畔の戦い【セ試行】で,唐【セ試行ササン朝ではない】【本試験H14ウイグルではない】【追H30唐ではない】【立教文H28記】【慶商A H30記】がアッバース朝【本試験H14ウマイヤ朝ではない】に敗北しています) を受けるようになると,今まで中央ユーラシアで力を持っていた遊牧民の突厥と,商業民のソグド人の立場が揺らいでいました【本試験H5中央アジアのオアシス都市の住民が,アラビア語を話す人々になるのは,この頃からのこと】。

 そんな中,ソグド人の父と突厥人の母をもつ節度使の〈安禄山〉(あんろくさん,705~757) 【本試験H7東北地方東部の震国の人物ではない】と武将の〈史思明〉(ししめい,?~761)とともに,中央ユーラシアの突厥人やソグド人を集め,唐から独立しようとする安史の乱(755~763年) 【本試験H4ウイグルが鎮圧したか唐・〈玄宗〉が退位するきっかけではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事ではない】【本試験H14,本試験H15黄巣の乱ではない,本試験H19紅巾の乱のひっかけ,H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】が起こされました。

 これには唐の軍事力だけでは鎮圧しきれず,遊牧騎馬民族のウイグル【本試験H4】【本試験H14,本試験H21月氏ではない,本試験H23】【セA H30春秋・戦国時代に勢力拡大したわけではない】に鎮圧を要請するほかありませんでした。書家で有名な〈顔真卿〉(がんしんけい,709~785)【本試験H21宋代ではない】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】も義勇軍を派遣しています。
 安史の乱の経過は悲惨で,〈安禄山〉は息子(〈安慶緒〉)に殺され,さらに〈安慶緒〉を殺した〈史思明〉を,息子の〈史朝義〉が殺し,最後に〈史朝義〉が自殺して幕を閉じました。もうめちゃくちゃです。なお,〈安禄山〉の「安」はブハラ人のこと,「禄山」は明るいという意味だそうです。
 この結果,中央ユーラシアではウイグルの支配権がますます強まり,ソグド人も没落していくことになりました。
 ウイグルの支援によってようやく反乱を鎮圧できた唐を見て,「なんだ,唐なんてたいしたことないじゃないか」と,節度使たちが唐から独立する勢いをみせるようにもなります。特に,中央のいうことをきかなくなった節度使のことを,藩鎮【本試験H8則天武后の時代ではない】【本試験H17春秋戦国時代ではない】といいます。〈安禄山〉は,自分の子に殺され,〈史思明〉父子は洛陽で反抗を続けましたが,ウイグル軍に破れます。安史の乱による長安の陥落を「春望(しゅんぼう)」という詩に読んだのは,漢詩の作品を残した〈杜甫〉(とほ)です。〈杜甫〉自身も乱に巻き込まれ,そのときの感慨を「国破れて山河あり,城春にして草木深し」とうたいました。国はなくなっても,山や川は,変わらずそのままなんだなあ(ため息)という意味です。


 安史の乱以降,ウイグル帝国は唐に対して,皇帝の娘を嫁がせたり,贈り物を要求したりと,勢いづきます。ウイグル帝国は,モンゴル高原に城郭都市を建てました。
 また,安史の乱が起きると,チベット人の吐蕃(とばん)も長安に進出し,占領しました。9世紀になると,ウイグルの他部族に対する支配は弱まり,遊牧国家は崩壊します。このときの戦争で捕虜になったり,戦乱を逃れて傭兵となったりしたトルコ人は,西アジアに流れ込んでいき,奴隷軍人(マムルーク) 【追H27アイユーブ朝で用いられたか問う、H28ウマイヤ朝で採用されたわけではない】としてイスラーム世界で活躍することになっていきます。
 ウイグルは,同じトルコ系のキルギス【京都H19[2]】に敗れると,タリム盆地に移動しました。これ以降のタリム盆地はトルコ語【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】が広まったためトルキスタンと呼ばれるようになります。
 均田法により土地を与えた農民から税をとる仕組みは,すでに破綻していました。そこで「あげたはずの土地に農民がいないというのだから,もう仕方がない。現に土地を持っている人から,その資産に応じて税をとるしかない」と考え,宰相〈楊炎〉(ようえん)【本試験H16,本試験H26司馬光ではない】によって780年に両税法【共通一次 平1】【本試験H7明代ではない】【本試験H16,本試験H24時期,H26・H30,H29共通テスト試行 春秋戦国時代~後漢代ではない】が租庸調制【本試験H16基になった均田法が始まったのは北斉代ではない,本試験H26】に代わって採用されます。徴税は夏・秋の年2回で,現住地の資産【共通一次 平1:人頭税ではない】に対して課税されました。これにより,余剰生産物が商品として売買されるようになり,商業の発達を促しました。




・600年~800年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 中国の隋は,朝鮮半島の高句麗の拡大を警戒し遠征を実施しましたが,〈煬帝〉による3回の遠征はすべて失敗に終わり,隋は滅亡しました。
 隋に代わり,618年に成立した唐は周辺勢力を次々に支配下に置いていきました(東突厥の服属(630),吐谷渾(とよくこん)の滅亡(635),高昌国の滅亡(640))。これに危機感を抱いた朝鮮半島の支配者層の間では,軍事力により旧来の政権を倒して権力を強化する動きが置きました。
 高句麗では将軍〈泉蓋蘇文〉(せんがいそぶん,?~665)が642年にクーデタで実権を握り,百済と同盟を結んで唐に対抗しようとしました。百済でも〈義慈王〉(ぎじおう,位641~660)による権力の集中が進み,朝鮮半島南部への進出を強めていました。それに対し新羅では王族の〈金春秋〉(キムチュンジュ;きんしゅんじゅう)が将軍〈金庾信〉(きんゆしん,695~673)とともに実権を握り,唐に接近する政策をとります。645年以降,唐の〈太宗〉は朝鮮に出兵。〈金春秋〉は654年に〈武烈王〉(ムヨル;ぶれつ,位654~661)として即位しました。
 唐と新羅の攻撃により661年に百済は滅亡。百済王室の〈鬼室福信〉(ポクシン;ふくしん,?~663)は人質として倭のヤマト政権にいた王子〈豊璋〉(ほうしょう;プンジァン,生没年不詳)を百済王に立てて抵抗しますが,〈豊璋〉自身と対立して殺されます。663年に錦江河口の白村(はくそん;白村江)で百済救援に向かった日本水軍が敗れると,百済の王族は倭に亡命して渡来人としてヤマト政権に技術や思想を伝えました。この時期に築かれた大野城や基肄(きい)城といった朝鮮式山城は,亡命百済人によるものです。

◆百済,高句麗が滅ぼされると,新羅は唐の勢力を朝鮮半島から排除した
 高句麗では〈泉蓋蘇文〉が亡くなると内紛となり,混乱の中で668年に都の平壌が陥落。唐により安東都護府が置かれて間接支配が始まりました。

 しかし今度は新羅【本試験H4】【共通一次 平1:時期を問う(12世紀半ばではない)】が唐の勢力を朝鮮半島から排除しようとし,676年に唐を破って半島を統一し,安東都護府も北に移動させました(新羅の朝鮮半島統一【追H18時期】)。
 朝鮮半島を統一した新羅は,唐との関係維持に努め【本試験H4】,律令制【本試験H4】や儒教の思想を取り入れつつ伝統的な官制をアレンジし,官位制を整備しました。これにより百済や高句麗の支配層を,新羅中心の官僚体制に取り込んでいったのです。8世紀中頃の〈景徳王〉(キョンドク)のときに仏国寺(ぶっこくじ,プルグクサ)をはじめとする多くの官寺が建設され,地方にも海印寺(ヘインサ,かいいんじ)が建てられました。

 新羅は初期の頃は唐への対抗の必要から倭との外交関係を重視していましたが,8世紀に唐が衰退し,沿海州に震国【本試験H7】(渤海(ぼっかい) 【本試験H7】)が建国されると日本との関係は悪化していきました。
 震国【本試験H7】(渤(ぼっ)海(かい))は高句麗の遺民で粟末靺鞨(ぞくまつまっかつ)部に属する〈大祚栄〉(テチョヨン;だいそえい) 【本試験H7安禄山ではない】が唐に反乱を起こし,現在の中国吉林省に698年に建てられた国家です。指導者は「渤海郡王」として,唐によって冊封(さくほう)されました。
 都は現在の中華人民共和国の黒竜江省寧安市に位置する上京龍泉府【追H27「上京竜泉府」】【慶・法H30】におかれ,各地の重要ポイントに5つの都が置かれました(一時,そのうちの中京・東京に拠点をうつしています)。唐の制度が盛んに導入され,上京龍泉府の都市計画には日本の平安京と同様に長安が参考にされました。農業・牧畜・狩猟・漁業が営まれ,仏教の信仰もあつく,漢字や儒学といった中国文化も積極的に受容しました。
 713年には唐により「渤海郡王」として認められ,靺鞨人の他の部族も支配下に入れていきました。ただ,黒竜江よりも北にいた黒水靺鞨部は渤海の支配に服さず唐に接近し,渤海を困らせました。
 渤海は西の唐,北の黒水靺鞨部,南の新羅に挟まれる地理的なハンデを,日本との提携によって乗り切ろうとしました。その結果,727年から919年までの間に渤海から日本には33回の遣使,日本から渤海には728~811年に13回の遣使が実施されています。
 第3代の〈文王〉(ムン,位737~793)はのときには唐との関係を改善したことで,郡王から国王に昇格しています。

 新羅では,8世紀末には支配が動揺して反乱も多発し,地方勢力が台頭していきます。



○600年~800年のアジア  東南アジア
◆マラッカ王国を通るルートがインド洋と東南アジア・東アジアを結ぶメインルートになった
 7世紀に入り,東南アジアには西アジアからアラブ人やペルシア人の来航が増えていきます。中国では隋・唐帝国が成立し,陸海ともに国際交易が盛んになっていました。
 隋の時代,604年にハノイに交州総管府が置かれ,唐も622年に同盟の政庁を置きました。679年には安南都護府【本試験H6現在でも大乗仏教・道教・儒教が入り混じった宗教が広く信仰されているか問う】が設置され,東南アジアの特産物を中国にもたらす上で,きわめて重要な役割を果たしました。
しかし,8世紀後半になると,マラッカ海峡を握るシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】やシュリーヴィジャヤ王国【追H9時期、H19仏教国か問う】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】の勢力が伸び,安南都護府も攻撃を受けたと見られます。
 また,雲南【本試験H4チベットではない】地方の南詔【本試験H4】【本試験H16・本試験H18大理に代わって南詔がおこったわけではない】の勢力が伸び,国王〈異牟尋〉(いぼうじん)は,ベンガル湾に進出するためにビルマのモン人のピュー王国を攻撃,メコン川流域に進出するためにクメール人の陸真臘【本試験H11:マレーシアの国家ではない】を攻撃するようになります。

 中南部【共通一次 平1】のヴェトナムでは,チャンパー(林邑) 【東京H30[3]】【共通一次 平1】が強盛を誇っていましたが,8世紀後半になると,南部を拠点とする港市に勢力が移り,それにともない中国側の呼び名も環王に変化しました。この時期にメコン川を下って南シナ海に進出したクメール人の国カンボジア(中国名は真臘(しんろう) 【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と結ぶためと考えられます。

 6~7世紀頃に農業生産が高まったジャワ島からの米の輸入により,マラッカ海峡沿岸の港町では,風を待つ人々の食事や,船乗りの食料補給が十分可能になりました。
 7世紀初めにマレー半島南部からスマトラ島にかけてを支配下に収めていた赤土国(せきどこく)という交易国家が,マラッカ海峡周辺の治安を確保したことも手伝って,マラッカ海峡を通るルートが,インド洋と東南アジアを結ぶメインルートになりました。
 マラッカ海峡ルートの繁盛にともない,島しょ部では,ジャワかバリには婆利という国が,スマトラ島のパレンバンにはマラユ国がありました。大陸部にはヴェトナム中部の林邑(りんゆう),メコン川中流のクメール人【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるカンボジア(中国名は真臘(しんろう)) 【本試験H11:マレーシアの国家ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】がありました。メコン川下流の扶南(ふなん)は,マラッカ海峡ルートがメインルートになったため,寄港地としての重要性が下がり,衰退し7世紀前半に真臘(カンボジア)の攻撃により滅亡しました。
 真臘(カンボジア)は8世紀に入ると,内陸交易ルートを掌握した陸真臘と,海上交易ルートをおさえた水真臘の2つの勢力に分裂していましたが,9世紀初頭に統一に向かいます。

 また,670年にはマレー半島東岸で室利仏逝(しつりぶっせい,シュリーヴィジャヤ王国)国【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が栄え,マラユ国を2万以上の軍で滅ぼし,パレンバンを奪いました。シュリーヴィジャヤはサンスクリット語ですから,インドの文化を取り入れていることがわかります。当時の島しょ部では,上座仏教が主流であった中,王は大乗仏教をあつく保護し,観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)像が出土しています。この頃687年に中国の唐【本試験H22前漢の時代ではない】の仏僧〈義浄〉(635~713) 【本試験H19,H23】が,シュリーヴィジャヤ王国に占領されたばかりのパレンバンを訪れます。彼は694年までパレンバンに滞在し,インド式の教育方法で1000人以上の僧侶とともに学問に打ち込みました。このことは『南海寄帰内法伝』(なんかいききないほうでん)【本試験H12『大唐西域記』ではない】に記されています。
 シュリーヴィジャヤ朝は,8世紀後半から9世紀後半まで,ジャワの訶陵(かりょう)による支配を受けました。おそらくジャワ島のシャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】のことだと考えられます。
 シャイレーンドラ朝は,東南アジアの大陸部にまで影響を及ぼし,767年に北ヴェトナムのハノイを攻撃したり,774年にカンボジア(真臘(しんろう))を支配したりしました。カンボジア(真臘)の〈ジャヤヴァルマン2世〉は802年に支配を脱し,クメール(アンコール)朝のカンボジア王国として独立しました。


 シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】も大乗仏教を保護し,ジャワ島【東京H24[3]】【本試験H20地図】【本試験H22マレー半島ではない】にボロブドゥール【東京H24[3]】【共通一次 平1:時期】【本試験H6,本試験H9[19]図版・アンコール=ワットとのひっかけ,ヒンドゥー教・イスラム教の寺院ではない】【本試験H16イスラーム教徒の寺院ではない,本試験H18,本試験H20地図,本試験H22】【H30共通テスト試行 インドネシアか、大乗仏教の寺院か問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】という巨大建築物を残しています【本試験H28ヒンドゥー教の寺院ではない】。
 なんのために作られたのかははっきりとしていませんが,9層のピラミッド状の建造物(高さ42m,底辺の長さ120m)で,たくさんの仏塔(ストゥーパ)が備え付けられています。仏教の世界観を立体的に表現し,王の権威を示そうとしたと考えられます。


 
 イラワジ川流域のビルマは,南詔の進入を受け,現在のヤンゴンの北部を中心としていたピューの勢力が,タイのモン人によるドゥヴァーラヴァティーに押されて衰えます。イラワジ川下流域には現在のヤンゴンや,バゴーなどにモン人の港市が成立していました。

 タイでは6~7世紀から11世紀頃まで,モン人【追H25ビルマ人ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】によるドゥヴァーラヴァティー(ドヴァーラヴァティー)王国【追H25ビルマ人の国ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が,海上交易によって栄えていました。
 タイのアユタヤ北方にあるロッブリーでは,スリランカに由来すると見られる上座仏教【本試験H6タイで広く上座仏教が信仰されているか問う】関係の遺物が見つかっています。ただ「王国」といっても,いくつかの権力者がそのときどきに応じて支配範囲を伸縮させるような状態であったと考えられています(注)。
 モン人の国家は,中国の史料に登場しなくなる8世紀には滅んだと考えられますが,モン人はその後もビルマのイラワジ川から,東はメコン川までを舞台として活動を続けました。

(注)「ちょうど銀河系に大小さまざまの天体があるように,東南アジアの前植民地的状況のもとには,数知れぬ「くに」〔東南アジアにおける政治的共同体〕が散らばっていた。それらの「くに」の政治的統合は外延ではなく中心によって規定されていた。つまり個々の天体が作る重力圏が,中心は規定できても外側の境界を持たないように,それぞれの「くに」には,王宮や王都という中心はあっても明確な国境は存在せず,中心の力が強ければ勢力圏もより広い範囲におよぶものの,中心から遠ざかるほど影響力は弱まり,やがてどこからともなく消えてしまうといったものだった。…だがその中心の力が弱まれば,周囲に引きつけられていた小さな「くに」は,近くの別の大きな中心に引きつけられ,すなわち,別の体系に入って朝貢関係を作った。」  関本照夫「東南アジア的王権の構造」伊藤亜人他編『現代の社会人類学3 国家と文明への過程』(東京大学出版会,1987年,p.15




○600年~800年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・600年~800年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には,アヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。

・600年~800年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン

◆大乗仏教に対抗し,シヴァ神やヴィシュヌ神に対する信仰が普及する
 北インド最後の統一王朝であるヴァルダナ朝が滅ぶと,インドは地方ごとに多くの国家が乱立する時代に突入しました。内陸部の貨幣経済は衰え,商人の寄進を基盤としていた仏教教団は衰え,自給自足を中心とする農村部でヒンドゥー教と総称されるシヴァ神やヴィシュヌ神などに対する信仰が浸透しました。
 南インドにも地方国家が立ち並び,海上交易がさかんにおこなわれました。南インドでは大規模なヒンドゥー教寺院を建設し,その権威をもとに農業開発・海上交易を推進するチョーラ朝【本試験H31】のような国家も栄えます。

 この時期には,海上交易にアラブ人やペルシア人などの商人が進出するようになり,南インド,西インド,東インド(注1)のベンガルは,海上交易の主導権を失っていきました。

 また,相次ぐ戦乱により商業都市が衰退し,王室に集められた富は軍事や寺院の建立に使われ,貨幣の発行も減少しました。 仏教は都市の商人による寄進を頼りにしていたこともあり,ヒンドゥー教の信仰の広まりを受けて,衰退に向かいました。一部の仏教はヒンドゥー教の考えを取り入れ,呪文(マントラ)をとらえたり,神秘的な儀式を重視したりするようになりました。そのような密教は,チベットや中国,日本に伝わり栄えました。しかし密教はしだいに「ヒンドゥー教の一部」ととらえられるようになり,仏教は発祥の地インドで急速に衰えていきました。

 商業が衰退するにつれ,農村を中心とする分権的な社会が生まれていきました。それに合わせてこの時期には,上から3番目のヴァルナであるヴァイシャは,商人のヴァルナとなり,農民や一般の庶民はシュードラに位置づけられるようになりました。代わって,5番目のヴァルナとして不可触賎民への差別が強まりました。各ヴァルナの中には,「生まれを同じくする集団」という意味の「ジャーティ」【本試験H26ヴァルナ制度ではない】が無数に形成されていきました。のちに南アジアにやって来るポルトガル人は,ジャーティのことをカーストと呼んだことで,ヨーロッパ人はこの制度のことをカースト制度【セA H30メソポタミアの制度ではない】と呼ぶようになりました(注2)。

(注1)ここでいう「東インド」は、17世紀初めころの北西ヨーロッパ人が「東インド」(アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域すべて)というときの地域とは異なり、インドの東部という意味で使われていることに注意しよう。
(注2) カースト制度というのは、古代インドから連綿と受け継がれている制度ではなく、複雑に変容してきた経緯があります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.53。



◆ヴァルダナ朝が北インドを統一して以降は,地方政権が分立する時代に突入する
 グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。

 このうち,現在のデリー北方のプシュヤブーティ朝の王族だった〈ハルシャ〉(位606?607?~646?647?) 【追H24】【東京H8[3]】が,北インドを統一【追H24南インドではない】し,ヴァルダナ朝【追H24】【大阪H30 629年頃のインドの王朝】を建てました。彼はシヴァ神を信仰していましたが,仏教も保護していた様子は,彼に謁見した中国(唐【本試験H19】)の僧〈玄奘〉(600?602?~664)【本試験H12玄奘は「上座部の開祖」ではない】の『大唐西域記』に書き留められています【本試験H12義浄の著書ではない】【本試験H19時期,本試験H20玄奘が訪問したか問う】【大阪H30史料】。彼は首都のカナウジを中心にガンジス川の上・中流域を直轄支配とし,それ以外の諸王は諸侯として,地租と貢納を取り立てました。グプタ朝よりも,さらにゆるやかな支配方式です。
 彼は641年に中国を支配していた唐の〈太宗〉(位626~49)に使者を派遣し,〈太宗〉は643年・647年に使者を派遣しています。
 彼は南インド支配をもくろみ,デカン高原に遠征しましたが,〈プラケーシン2世〉(?~643)のもとで最大領土を獲得した南インドのチャールキヤ朝(6世紀~8世紀)に阻まれ,領域は北インド一帯にとどまりました。

 先述のように,〈ヴァルダナ王〉と謁見した中国(唐【本試験H19】)の仏僧に,法相宗(ほっそうしゅう)の開祖〈玄奘〉(げんじょう,600?602?~664) 【本試験H12】 がいます。『西遊記』では女性の三蔵法師(さんぞうほうし)として描かれていますが,実際には男性です。629年にインド【本試験H12インドで学んだかを問う】に向けて出発し,645年に帰国。多数のお経を唐に持ち帰り,漢訳をおこないました【本試験H12「上座部の開祖」ではない】。「漢訳されたお経には間違いがあるおそれがある。インドの言葉で書かれた本当の経典が見てみたい」という強い思いがあったのです。
 旅行記は『大唐西域記』(だいとうさいいきき,646年)といい,〈玄奘〉の西域に関する情報を利用しようとした皇帝〈太宗〉(たいそう,在位626~649)が編纂させました。彼は長安郊外の大慈恩寺(だいじおんじ) で訳経に取り組み,その境内にある大雁塔(だいがんとう)に経典はおさめられています。〈玄奘〉には653年に中国に渡った日本人の僧侶〈道(どう)昭(しょう)〉(629~700)が弟子入りし,帰国後に元興寺に禅院を立てています(日本で最初に火葬された人物とされます)。なお,〈太宗〉は,〈ヴァルダナ王〉のもとに,〈王玄策〉(生没年不詳)を643年と647年の2度使節として送っていますが,2回目にはすでに王は亡くなっていました。
 〈ハルシャ〉の王国の統一は,王個人の力量によるところが大きく,死後すぐに分裂してしまいました。
 その後の北インドは,広範囲を支配する王国が現れることはなく,いくつもの王国が各地で抗争する時代となりました。


◆大乗仏教への反動から密教が成立した
大事なことをこっそり教えるのが,密教
 なお,〈ハルシャ〉の時代には密教(みっきょう)が成立。従来のように誰にでも教えをわかりやすく説くタイプの仏教ではなく,「ほんとうに大切なことは,選ばれし者にしか与えられない」という神秘的な要素を持つ仏教です。大乗仏教という「貧しい人にも手を差し伸べる」タイプの仏教が広がりすぎてしまったことに対する,富裕な人々の不満からおこった運動です。7~8世紀には大日経(だいにちきょう)(大毘盧遮那成仏神変加持経),金剛(こんごう)頂(ちょう)経(きょう)のような密教の経典が成立します。これらの経典には,仏により構成された夢のような世界がマンダラ(曼荼羅(まんだら))という宇宙図的に描かれ,儀式を演出する方法も洗練されていきました。サンスクリット語の原語も,そのまま呪文(真言(しんごん))として使用されます。


 ネパールの王朝(リッチャヴィ朝(4~9世紀))は,〈ハルシャ〉(生没年不詳)の死後,北インドに侵攻しています。
 南アジアでは,6世紀以降,パッラヴァ朝,パーンディヤ朝,チャールキヤ朝が互いに抗争をしていました。この頃,従来の仏教やジャイナ教に代わって,ヒンドゥー教の信仰がバクティ信仰を通して拡大しました。バクティ信仰というのは,まるで生身の人間のように思い描いた神に,絶対的な愛情を注ぐことによってご利益を得ようとする信仰です。



○600年~800年のアジア  西アジア

◆ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深刻化した
聖像禁止令をきっかけに東西教会が対立する?
 4世紀末に移動を開始したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,各地のローマの官僚機構を利用しながら国家を建設していきました。
 それに対しローマを本拠地とするローマ教会は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してアタナシウス(ニカイア)派の布教していきました。布教の際には文字よりも視覚に訴えやすい〈イエス〉や〈マリア〉などの聖画像(イコン)を使用しました。
 それに対し,726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人) 【追H27ウラディミル1世ではない】【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18,H31】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【追H27】【本試験H18,H31レオン3世の発布か問う】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会とローマ教会との間のケンカにエスカレートする…(聖像崇拝論争)というのが、従来よく語られてきたストーリーです。
 しかし、東ローマ帝国がらみの歴史は、ローマ教会側・西ヨーロッパの視点で編まれたものも多いので、慎重に割り引いて見ていく必要があります。

 〈レオン3世〉による聖像破壊(イコノクラスム)の本音は,教会財産の没収にあったようです。その後、聖像崇拝は復活し、787年の第二ニカイア公会議(第七全地公会)で、イコンを崇敬することが正統であるということが再確認されました。聖像破壊派の文書は破却され、はっきりとしたことはわかっていませんが、この時期にギリシア関係の書籍が大量に破却されたことがわかっています(注1)。なお、よく言われてきたように聖像破壊がイスラームの「偶像崇拝禁止」の影響を受けたという解釈は誤りです(注2)。


 〈レオン3世〉の息子〈コンスタンティノス5世〉(位741~775)は、父よりも厳しい政治をおこないます。彼は、黒海・カスピ海北方で北ヨーロッパから西アジア、中央アジアにいたるまで交易の利をあげ繁栄していたハザール=カガン国の娘をめとり、その子が〈レオン4世〉(位775~780)として即位。〈レオン4世〉の皇后〈イレーネ〉の後押しもあり、イコン崇敬を認める方向に傾いていきます(注3)。




東西教会の違いについて

 ただし、東西教会の間に教義の上で両者の間に違いが大きくなっていったのは事実です。〈マリア〉は聖霊によって〈イエス〉を身ごもったとされますが,この「聖霊」が父としての神から発すると主張したのが正教会(コンスタンティノープル教会)。いや,父だけでなく子としての〈イエス〉からも発するとしたのがローマ教会です。
 ほかにも,最後の晩餐の儀式を象徴する儀式(聖餐(せいさん))で使うパンに,パン種を入れるのが正教会,入れないのがカトリック教会。
 聖職者の妻帯(さいたい。結婚すること)を一部認めたのが正教会,認めないのがカトリック教会。
 また正教会はギリシア語を使用,カトリック教会はラテン語を使用した点にも違いがあります。

 そもそも東ローマ帝国の皇帝は,コンスタンティノープル【追H19ビザンツ帝国はラテン帝国の占領を除き遷都していない】のキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。〈レオン3世〉は聖像禁止令によって教義上の問題に首を突っ込み,それをローマ教会にも押し付けようとしたわけです。

 787年には東方教会とカトリック教会がともに認めた最後の公会議である,第二ニカイア(ニケア)公会議が開かれましたが,それ以降はカトリック教会による単独の公会議が開かれるようになり,別々の発展を遂げていくことになります。この会議でようやく聖像禁止令は廃止されました。

 こうしてビザンツ帝国は7~8世紀の(ギリシア古典文化を破壊したという意味での)「暗黒時代」を終え、9世紀になると「9世紀ルネサンス」ともいわれる、古典文化の復興が起きることになりま(す(注4)。

 このような事情から次第にローマ教会は,教義上の対立を含むコンスタンティノープル教会からの独立傾向を強め,聖像禁止令を押し付ける東ローマ皇帝にかわる新しい保護者が必要と痛感するようになるわけです。

(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.151。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。
(注2)上掲書、p.151。杉田英明によれば、8世紀前半のイスラームは「絵画に対して寛容ないし無関心」。それが、第2ニカイア公会議の結果に反発する形で、イスラームは「絵画不寛容」となっていくという(竹下政孝編『イスラームの思考回路』(『講座イスラーム世界』4)悠思社、1995年を引いて)。
(注3)上掲書、p.150。
(注4)クダスによると、ギリシア古典やローマ法は「ビザンツ帝国で保存」され、それが西ヨーロッパに伝わったのではなく、9世紀になって、「アラビア語に翻訳された著作」が、9世紀前半に「ビザンツ帝国でギリシア語で書写」されたといいいます。上掲書、p.147。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。



◆アラビア半島で唯一神「アッラー」を信仰する「イスラーム教」 が生まれた
「一神教」を押し進めたイスラーム教が成立したのは,ど田舎(=アラビア半島)だった
 ビザンツ帝国とササン(サーサーン)朝が抗争を繰り広げた影響で,陸上ルートが廃(すた)れ,代わってアラビア半島を南に回る海上ルートが栄えました。すると,ペルシア湾に面するアラビア半島のメッカ【本試験H27】(アラビア語ではマッカ)が,沙漠をラクダで超える隊商(キャラヴァン)【本試験H27】の拠点となり商業都市として栄えるようになりました。
 当時,交易の拠点となっていたメッカの部族クライシュ族【H29共通テスト試行 家系図】に,〈ムハンマド(本人の名)=(イ)ブン(~の息子という意味)=アブドゥッラー(父の名)=ブン=アブドゥルムッタリブ(父の父の名)〉(570?571?~632(注1)) 【本試験H12「イスラム教」の「開祖」かを問う】という男性がいました。アラブ人(注2)を含むアフロ=アジア語族セム語派の人々は「父系」といって,父方の血のつながりを大切にしてきたので,フルネームはこのような長い名前になるのです。
 
 彼は社会の激変期にあって,「アラビア半島の部族同士は交易の利益をめぐり争い,今や大商人となったクライシュ族が都市メッカを牛耳り貧しい人々が苦しんでいる」と,危機感を覚えていたようです。
 〈ムハンマド〉には当時のアラブ人と同じようにユダヤ教やキリスト教についての知識もあり,多くのアラブ人たちは「ユダヤ教やキリスト教のほうが,自分たちアラブ人の神々よりも立派なものだ」と考えていました(注3)。アラブ人は多神教で複数の神々を崇拝していましたが,なかでも最高神は「アッラー」といい,これは「神」という意味でした。この「神」はユダヤ教徒やキリスト教徒の信じるこの世界と人間をつくった神様と同じ神をあらわすのですが,アラブ人的には「神(アッラー)は自分たちアラブ人のところには来てくれなかったし,アラビア語の聖典も授けてくれなかったのだ」と信じるようになっていました(注3)。
(注1)570年説と571年説がある。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120
(注2)「アラブ人」がはっきりと特定の「民族」を表すようになるのは近代以降のこと。「ペルシア人ではない人」「イスラーム文化を身に着けアラビア語を話す人」「遊牧民」など,状況によって様々です。古くからアラビア半島の遊牧民はいくつもの部族に分かれており,自分たちが共通の部族とみなす範囲は時代や地域によって伸び縮みし,固定的なものではありませんでした。
(注3)カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.2(原著 “ISLAM : A Short History” 2000,2002)。
 *
 610年のラマダーン月17日,〈ムハンマド〉は体が襲われる感覚に苦しまれ,気づくと口からアラビア語による神(アッラーフ)からの聖典の語句が流れてくることに気づきました(このときの〈ムハンマド〉は,当時篭って瞑想をしていたヒラー山の洞窟で,天使ジブリール(ガブリエル)から啓示を受けたといいます)。初めの2年間はこの体験を妻〈ハディージャ〉や近しい人にしか明かしませんでしたが,自らを預言者として認識しました,意を決して周囲にも自分の受けた啓示を明かすようになっていきました(イスラーム教徒の歴史観ではイスラームが知られる以前の時代をジャーヒリーヤ時代(「知られていない」という意味)といいます)。啓示は一度ですべてが下ったわけではなく,632年にかけて足掛け22年間にわたり〈ムハンマド〉に下されました。
 啓示は彼の死後20年をかけて『クルアーン』(コーラン) 【本試験H18,本試験H25】【立教文H28記】【立命館H30記】としてアラブ人の言語であるアラビア語でまとめられることになります。「クルアーン」とは「読まれるもの」という意味です。文字の読み書きのできない者の多かった〈ムハンマド〉や信者にとっては,クルアーンは「読み上げられる」ものだったのです。翻訳は奨励されてはいますが,正式なバージョンはあくまでもアラビア語で書かれたものとされています。
 クライシュ族の大半は以前から「アッラーが世界の創造主で,最後の審判のときに人類を裁く」【本試験H24輪廻からの解脱を説いてはいない】と信じていましたから,〈ムハンマド〉の考えは突飛(とっぴ)なものではなく,彼の教えの重点は,その神の啓示がついに“アラブ人にも”もたらされたのだ,という点にありました。クライシュ族がまずおこないを改め,神の定めに従って平等な社会をめざして社会改革をするべきであり,そうでなければ社会は滅んでしまうと訴えたのです。彼の伝えた教えはやがてイスラーム(唯一神アッラーへの服従という意味)と呼ばれるようになります【本試験H18一神教かを問う】。
 なお,〈ムハンマド〉は『クルアーン』によれば,イスラーム教の最後の預言者です。「創始者」というのは,適当ではありません。キリスト教にとって,〈イエス〉は神と同格の存在でした。ですから,〈イエス〉)が人類に向けて送った“知らせ”(神の国に入ることができるという“良い知らせ”=福音(ふくいん))が,神からのメッセージということになります。そのメッセージは,〈イエス〉の使徒によって,さらに広範囲に伝えられます。
 しかし,イスラームにおいては,〈イエス〉という存在を想定しませんので,神のメッセージは直接『クルアーン』に記されていることになります。ですから,キリスト教における〈イエス〉は,イスラームにおける『クルアーン』に相当することになります。同じように,キリスト教の使徒にあたるものが,イスラームにおける預言者〈ムハンマド〉ということになります。

 『クルアーン』の内容を少しみてみましょう。
 「この世の生活は,(一時の)遊びや戯れに過ぎない。あなたがたが信仰して自分の義務を果すならば,かれはあなたがたに報奨を与える。あなたがたは財産(の放棄)を求められているのではない」(47章36)。
 「(…)だが来世においては(不義の徒に)厳しい懲罰があり,また(正義の徒には)アッラーから寛容と善賞を授かろう。本当に現世の生活は,虚しい欺時の享楽に過ぎない。」(57章20)
 「言ってやるがいい。「本当に主は,わたしを正しい道,真実の教え,純正なイブラーヒーム(〈アブラハム〉のこと)の信仰に導かれる。かれは多神教徒の仲間ではなかった。」(6章149)

 〈ムハンマド〉は,貧しいものには施し(ザカート)をして助け合うべきだと訴え,ラマダーン(断食時期)にはサウム(断食)をして貧しい人の気持ちに寄り添うべきだという神の啓示を伝えます。1日5回の礼拝のときも地面にひれ伏す平伏礼の姿勢をとり,豊かな人も貧しい人も横一列に並んで神の前での平等を強調しました。
 〈ムハンマド〉を通して人々に伝わったイスラームの教えには,6つの信じるべきこと(六信)と5つの行うべきこと(五行(ごぎょう))があります。六信としては,神(アッラー),天使(マラーイカ),啓典(キターブ),預言者(ナービー),来世(アーヒラ),天命(カダル)があります。五行とは,信仰告白(シャハーダ),礼拝(サラート),喜捨(ザカート),断食月(ラマダーン)における日の出から日没までの断食(サウム),メッカ【東京H20[3]】への巡礼(ハッジ) のことです。ほかにも,禁じてられていること(ハラーム)として,豚肉をたべることや酒を飲むこと,女性が人前で髪の毛や肌を見せることなどがあります。
 こうした規定は,ガチガチに守られるべき厳格なものと必ずしもとらえられてはいません。イスラーム教の教義には“人間は弱い存在”という価値観が根底にあり,信徒には,弱い方向に流れないように自己をコントロールしようとする努力が求められるのです。

 こうした〈ムハンマド〉の“社会改革”(注1)的な主張は,クライシュ族の大富豪の怒りを買い,「あなたが地から泉を涌き出させ」,「大空を粉ごなにしてわたしたちに落すまで。またアッラーそして天使たちを,(わたしたちの)面前に連れて来るまで」は信じないと,〈ムハンマド〉を批判。追い打ちをかけるように〈ムハンマド〉の妻〈ハディージャ〉や,彼に保護を与えていたハーシム家の長が亡くなりました。
 *
 立場が危うくなった〈ムハンマド〉に保護の手を差し伸べたのは,622年【本試験H2年号】にメッカ北方のオアシス都市ヤスリブ【本試験H23,本試験H25メッカではない,本試験H26地図上の位置を問う】の住民でした。当時,都市内で起きていた部族の争いを丸く収める形で指導者として迎えられ,初のウンマ【大阪H30論述:指定語句】を建設します。この出来事を,聖遷(ヒジュラ) 【本試験H2,本試験H5ジズヤではない,本試験H6】【本試験H19地図,H23内容を問う,H30】といい,イスラーム暦(ヒジュラ暦) 【追H17ムハンマドの生誕年が元年ではない,H26】では,この622年を紀元とします(注2)。部族のしがらみから逃れ,別の部族に加わった〈ムハンマド〉の行為は,部族が“全て”だった従来のアラビア半島では考えられない行為でした。ヤスリブにはユダヤ教徒や多神教徒もいましたが,部族や宗教の枠を越え,神(アッラー)の定める教えを実践できる共同体(ウンマ)がつくられたこの西暦622年こそが,イスラーム暦の始まりとされる所以(ゆえん)です。
 イスラーム暦の1日は日没に始まり,日没に終わります。ヤスリブはメディナ(アラビア語ではマディーナ。「あの町」という意味) 【京都H22[2],H27[2]】と名付けられました。

 純太陰暦【追H26】のため各月は新月の出る日から始まり,太陽暦の1ヶ月よりも短い月の周期に基づいています。したがって,「西暦」(ローマ帝国の〈カエサル〉のときに制定され,のちにキリスト教のローマ教皇が修正した暦)との間には,少しずつズレが生じることになります。月を基準にした暦は季節の変化とずれるため農業には役立ちません。ここにもイスラーム教が“都市の宗教”である特徴が現れているといえるでしょう。農作業のために農民はあわせて太陽暦も使用していました。
(注1)ヒジュラ暦(A.H.)の1年は西暦(A.D.)622年の7月16日。西暦2018年9月12日がヒジュラ暦1440年の初め,2019年9月1日が1441年の初め,2020年8月20日が1442年の初め,2021年8月10日が1443年の初め,2022年8月11日が1444年の初めです(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店,2002年,p.1128)。
(注2)アームストロングはイスラームが,中国の道教と儒教,インドのヒンドゥー教と仏教,中東の一神教(ユダヤ教やキリスト教),ヨーロッパの理性主義などと同様,商人的経済の成立と社会の拡大・複雑化により,新たな思想的な取り組みが求められた結果成立したものと論じています。「「社会正義はイスラームのきわめて重要な徳目だったのです。ムスリムには,その第一の義務として,富の公平な分配が行われ,思いやりや実戦される共同体(ウンマ)を設置することが命じられた。…(神学的推論)よりはるかに重要なのは,神の示した方法に従って生きる努力(ジハード)をすることだった。……このような社会的関心は,ヤスパースのいう「軸の時代」(紀元前700年頃~前200年頃)に発展した数々の偉大な世界宗教が視点のうちに必ず含んでいた重要な要素だ。この時代に,現在知られている文明が発達するとともに,人間らしい博愛の精神を今なお育み続けている自覚的な思想・宗教が登場した。これらの思想は,すべてそれまでの原始的な信仰を改革するものだった。商人的経済が成立して社会の拡大・複雑化が進むと,旧来の信仰はもはや社会に合わなくなり,新たな思想的取り組みが商人的経済に支えられて始まった。…また一部の思想は,自分たちの社会が抱える根本的な不公平に関心を寄せた。近代以前の文明は,どれも経済的には農業生産の余剰分を基盤としていた」(強調部は筆者)。カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.2(原著 “ISLAM : A Short History” 2000,2002)。


◆メディナでのウンマ建設後,いくつかの戦闘を経て,アラビア半島の平和的統一が実現した
アラビア半島が,イスラームの下に統一された
 「あのメディナに平和をもたらした」――アラビア半島に〈ムハンマド〉の立ち上げた教えの噂が広まっていきました。しかしメディナ内部では,〈ムハンマド〉に敵対的なユダヤ教徒の動きも強まり,624年には礼拝の方向(キブラ)をイェルサレムからメッカのカアバ神殿に変更しました。
 さらにメディナの〈ムハンマド〉派が,メッカのクライシュ族の隊商(キャラヴァン)を襲い略奪を働いていたことから両者の対立は深まり,624年には水飲み場であったバドルで戦いが起きました。しかし〈ムハンマド〉率いるイスラーム群はメッカのクライシュ軍に大勝利を果たします。
 その後,625年のウフドの戦いではメッカ軍が勝利,627年にはイスラーム軍がハンダク(塹壕)の戦いで勝利し,対立関係は続きました。メディナ内部のユダヤ教徒や多神教徒との対立も深刻化しますが,それと並行して〈ムハンマド〉はアラビア半島の遊牧民の諸集団と個別に和平を結んでいきました。
 *
 〈ムハンマド〉は平和的な終戦にこだわっていました。638年にメッカにハッジ(巡礼)をおこなうと宣言。巡礼者は武器を持ってはいけないことになっており,クライシュ族に狙われる危険もありましたが,これに約1000人のイスラーム教徒が同行することになりました。クライシュ族による攻撃の危険もありましたが,イスラーム教徒たちの実力を見込んだ遊牧(ベドウィ)民(ン)の支持を背景に,630年にはメッカのクライシュ族のほうが折れて〈ムハンマド〉と和議が結ばれました。630年にはクライシュ族が和議を破りますが,〈ムハンマド〉側の大軍を前にクライシュ族はメッカの城門を開き,メッカは無血征服されることになりました(注1) 【追H9アッバース朝の都ではない】。
 このとき,メッカで古くから神殿として用いられていたカアバ神殿(聖殿) 【本試験H18】【追H20ヒンドゥー教の聖地ではない】の偶像が破壊され,ここはイスラーム教の聖殿とされました。〈ムハンマド〉は自身の信仰を「〈イブラーヒーム〉(アブラハム)の「純正な一神教の復活」」(『クルアーン』3章-67)ととらえており,〈イブラーヒーム〉の息子〈イスマーイール〉(イシュマエル)の創建とされたカアバ聖殿が重視されたのです(もともとはナバテア人の神フバルにささげられたものでした)。もともとアラブ人の信仰を集めていた神殿を礼拝することにしたのは,アラブ人の伝統との連続性をもたせようとしたためと考えられます。
 イスラームでは六(ろく)信(しん)五行(ごぎょう)といって,6つの守るべき信仰と5つの行うべき行為が規定されています。五行のうちの一つに,一生のうち一度はメッカのカアバ聖殿を巡礼する義務(ハッジ【H27京都[2]】)が定められています。ただし余裕がない者が無理して行う必要はありません。カアバ聖殿は黒色の布で覆われており,偶像はありません。巡礼に集まった信者は,これを反時計まわりに七回まわり,カアバの壁にはめ込まれている黒石(隕石(いんせき)であるといわれています)に接吻(せっぷん)します。この儀式はいつでも行ってよく,ハッジのときにはカアバに接するサファーの丘から駆け足で谷を横断しマルワの丘で礼拝し,メッカ郊外のアラファートの平原で徹夜し,その後一同でムズダリファ谷に生きミナーの谷で岩に向かい小石を投げ,頭髪を剃り,巡礼最終日のイード=アル=アドハーに犠牲祭を執り行います(注2)。
 〈ムハンマド〉自身が商人であったこともあり,イスラーム教では商業が奨励されたため,イスラーム商人(ムスリム商人【追H19海上交易への進出時期】【東京H7[1]指定語句】)の活動は活発化していきます。

(注1)カレン・アームストロング,小林朋則訳『イスラームの歴史――1400年の軌跡』中央公論新社,2017,p.13(原著 “ISLAM : A Short History” 2000,2002)。
(注2)同上,pp.29-30



◆〈ムハンマド〉の死後,アラブ人は正統カリフの下で 「大征服」をおこなった
イスラームの拡大は,アラブ人の拡大でもある
 630年のフナインの戦いでの勝利により,アラビア半島の大部分には,メディナのウンマを中心に,イスラーム教の下にアラブ系諸民族が同盟を組むゆるやかな政治的まとまりが誕生しました。632年にはメッカ巡礼(ハッジ)を行った直後に,最後の預言者〈ムハンマド〉が亡くなると【本試験H23ヒジュラとは関係ない】,彼に男子の跡継ぎがいなかった(3男4女のうち,3人の男子はいずれも亡くなっていました)ことから、信徒を誰が引き継ぐべきかをめぐって主導権争いが起きます。

 主な対立は、ムハンマドと一緒にメディナに移住してきた人(ムハージルーン)と、それ以前からメディナにいてムスリムとなった人(アンサール)との間に起こります。

 主導権といっても、もともとイスラーム教には聖職者という身分がありません。人類はみな神によって平等につくられたと考えるからです。〈ムハンマド〉自身も「主に讃えあれ,わたしは使徒として(遣わされた)一人の人間に過ぎないではないか。」(『クルアーン』17章-90)としています。カリフは「えらい」わけではなく,ウンマを政治的・宗教的にまとめるために便宜的にもうけられた指導者なのです。

 結局、〈ムハンマド〉の親友で長老であった〈アブー=バクル〉(位632~634) 【追H30バグダードを建設していない】が、自分のほうがイスラームの信仰に入ったのが早いとして、〈ムハンマド〉の移住以前からメディナにいた人々たちを説き、両者が妥協したことで分裂は回避されました。




◆サーサーン朝が滅ぼされた

 〈アブー=バクル〉を指導者とする契約(バイア)が取り交わされたとはいえ、〈ムハンマド〉という求心力を失ったことは痛手です。
 アラビア半島の諸部族は「自分たちはあくまで〈ムハンマド〉と盟約を交わしたんだ。〈ムハンマド〉が亡くなったのだから、盟約は自動的に消滅した!」と主張。
 〈ムハンマド〉に代わる「偽預言者」まで出現します。

 そこで、〈アブー=バクル〉は「偽預言者」を討伐し、メディナのウンマを守るため、633年にはアラビア半島のインド洋岸のオマーン,イエメン,ハドラマウトも従わせ,アラビア半島全域にイスラームの下でのアラブ人の統合を図ります。

 さらに、次の〈ウマル〉(位634~644) 【H27京都[2]】は「ハリーファ=ハリーファ=ラスール=アッラーフ」(アブー=バクル)の代理として、メディナのイスラーム教徒(イスラーム教徒の男性をムスリム,女性をムスリマといいます)の間の集会で初代「正統カリフ」に選ばれます。
 〈ムハンマド〉の役目を引き継ぐ人 (カリフ【大阪H30論述:指定語句】」が選挙で選ばれました。カリフとは,「神の使徒の後継者」というアラビア語(ハリーファ=ラスール=アッラーフ)の「ハリーファ」がヨーロッパでなまった言葉です。
 信徒による選挙で選ばれた【追H9】カリフを「正統カリフ」【東京H30[3]】【追H9ムハンマドの直系の子孫ではない・アッバース朝初代~第4代までのカリフではない・異教徒の戦いで殉教した英雄ではない】【本試験H7オスマン帝国により倒されていない,本試験H12「宗教的にも政治的にも最高の権限を有していた」か問う(注)】【H29共通テスト試行 系図の読解】といい、その後〈ウスマーン〉、〈アリー〉まで続きます(注1)。

 ただ、どちらかというと〈ウマル〉は「カリフ」より「信徒の長」(アミール=アルムーミニーン)のほうを称し,軍事指揮官として「大征服」活動を本格化させていきます。
 632年のニハーヴァンドの戦い【本試験H25】【追H18、H30】でササン(サーサーン)朝【大阪H30史料:629年当時の西アジアの王朝を問う】【追H30】の〈ヤズデギルド3世〉を倒し,これを事実上滅ぼしています(サーサーン朝の滅亡)。古代ギリシア・ローマの情報の“リレー”は,ビザンツ帝国からサーサーン朝になされていましたが,ここでサーサーン朝に逃れていた古代ギリシア・ローマの系譜を継ぐ研究情報はイスラーム勢力に引き継がれていくこととなりました。

 イスラーム勢力はシリア,パレスチナを通って北アフリカにも進出し,西へと移動していきます【本試験H6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】。
 シリア,パレスチナ【本試験H15時期(正統カリフ時代かを問う)】とエジプトを奪われたビザンツ帝国では,テマ(セマ)制と屯田兵制を整備するようになりました(注2)。
 征服した各地の都市郊外にはアラブ人ムスリム【追H25】によって軍営都市(ミスル) 【追H25】が建設され,ミスルごとにアミール(総督)が任命されて集団で移住が実施されました。
 征服先の都市にはたいていユダヤ教やキリスト教の商人がいますから,新たに移住してきたイスラーム教の軍人との無用な対立を避けたわけです。
 ミスルにはディワーン(役所)が置かれ,登録された戦士に対して俸給(アター)が支給される仕組みでした。代表例は,イラクのバスラ(638年,〈ウマル〉により建設された),エジプトのフスタート(643年) 【東京H13[1]「エジプト史」を論じる問題。指定国は「エジプト」】,チュニジアのカイラワーン(670年)。現在イスラーム教の信仰やアラビア文字の使用がみられる地域は,この時期にアラブ人の急拡大があった所がほとんどです。

(参考) 現在アラビア語を公用語としている国々
・北アフリカのモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア,エジプト。
・スーダン,スーダンの西のチャド。東アフリカのソマリア,エリトリア,ジブチ。
・アラビア半島のクウェート,カタール,バーレーン,サウジアラビア,アラブ首長国連邦,オマーン,イエメン。
・肥沃な三日月地帯の,パレスチナ,イスラエル,ヨルダン,レバノン,シリア,イラク。
・大西洋の島国のコモロ(歴史的にアラブ商人が寄港)。


 なお,征服を受けたユダヤ教徒,エジプトのコプト教,シリア正教会などの住民の多くは,「アラブ人のほうが税負担が軽く,信仰に対しても寛容」であると見なし,その多くがアラブ人による征服を受け入れました。
(注1) カリフはアッバース朝の時代になると,次第に政治的権力を失い,宗教的な権威のみを持つようになります。
(注2) テマ(セマ)制はスラヴ人やブルガール人対策のために680年頃にバルカン半島に置かれたものが初めの例です。


◆イスラーム教の教えは〈ムハンマド〉の死後に文字に残され,「書物」の宗教として確立した
イスラームは教義を書物に残し,異説を封じた
 しかし,正統カリフの制度は長くは続きませんでした。第2代〈ウマル〉はペルシア人の奴隷により暗殺。
 第3代〈ウスマーン〉はウマイヤ家の出身でしたが,「ウマイヤ家から正統カリフが出るのはおかしい。〈ムハンマド〉の子孫が正統カリフを受け継ぐべきだ」というグループによってメディナで暗殺されてしまいます。〈ムハンマド〉の死後には,生前に話したことや行ったことがハディース(ムハンマドの伝承)にまとめられていきましたが,彼の時代には『クルアーン(コーラン)』の編纂も進められました。異なるバージョンのものはすべて焼却させたといいます。
 神に関する正しい情報が早い段階で確定されたことが,イスラーム教という宗教の今までの人類史にはない特徴といえます。

(注)最古のクルアーンの写本はウズベキスタンに保管されており,これには暗殺された〈ウスマーン〉の血痕が残っているとの言い伝えもありますが,〈ウスマーン〉が編纂を命じたことについて異説もあります。大川玲子「ウズベキスタンのウスマーン写本―「世界最古」のクルアーン(コーラン)写本―」『明治学院大学国際学研究』37巻,2010,p.87~p.93。


◆カリフの後継者争いの結果,ウマイヤ家が王朝を建設し,分派のシーア派などと対立した
スンナ派とシーア派が対立し,スンナ派が主流に
 混乱の中で即位した第4代カリフ〈アリー〉(位656~661) 【本試験H17】【追H20アッバース朝全盛期のカリフではない、H27ウマイヤ朝を開いていない】は,〈ムハンマド〉の父方の従弟で,〈ムハンマド〉の娘〈ファーティマ〉(606?614~632)と結婚していました。彼は混乱をおさえるためにイラクのクーファに遷都しましたが,「ウマイヤ家が正統カリフになるべきだ!」と主張する前シリア(注1)総督〈ムアーウィヤ〉(?~680) 【本試験H20インドではない】【H27名古屋[2]】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、追H26アッバース朝をひらいていない,H29】が挙兵し,最後はハワーリジュ派によって暗殺されてしまいます。
 ハワーリジュ派は,はじめは〈アリー〉派だったのですが,〈ムアーウィヤ〉に敗れた後で和約を結んだ〈アリー〉を裏切り者として攻撃しました。

 一方,〈アリー〉派はシーア派【本試験H17ワッハーブ派・ネストリウス派・スンナ派ではない】と呼ばれるようになります(注2)。
 カリフは「イマーム」とも呼ばれ,シーア派の最高指導者は「イマーム」と呼ばれることが一般的です。シーア派では「イマーム」は〈アリー〉【H27京都[2]】の子孫が担うべきだと主張します(注3)。『クルアーン』を神の言葉とする点は一致していますが,解釈にあたっては『クルアーン』以外の要素も加味するなど,スンナ派との違いが歴史的に形成されていくことになりました。

 ハワーリジュ派はシーア派ともスンナ派とも敵対し,カリフの位には神の権威を受け継いだ者がイスラーム教徒の共同体によって選ばれるべきであり,アラブ人であってもなくてもかまわないと主張し,のちに北アフリカのベルベル人の間に反アラブ的な思想として広がっていきました。
(注1)「シリア」はアラビア語でシャームと呼ばれ,周辺の現レバノン,パレスチナ,ヨルダンやトルコの一部も含む領域(歴史的シリア)を指しました。
(注2) はじめはムアーウィヤ派はシーア=ムアーウィヤと呼ばれていましたが、〈ムアーウィヤ〉がカリフに就任してシーア(=派)とする意味がなくなり、シーア=アリーのほうだけがのこりました(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.107)。
(注3) 〈ムハンマド〉の近親者であるハーシム家は、葬儀の準備をしていたため、〈アブー=バクル〉を指導者と認めるバイア(契約)に参加しませんでした。そこで、のちのシーア派は〈アブー=バクル〉、〈ウマル〉、〈ウスマーン〉のカリフ位を否定します。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.152)



◆ムアーウィヤはアラビア半島(=田舎)ではなくシリア(=都市)を中心とする官僚制国家を建設しようとした
イスラームの中心は,アラビア半島からシリアへ
 総督の〈ムアーウィヤ〉【追H29】は,661年にシリアのダマスクス(かつてアラム人の拠点でした) 【セ試行】【本試験H2ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H15イェルサレムではない,本試験H19地図】【H27名古屋[2]】【追H29イベリア半島ではない】にウマイヤ朝を開き【本試験H3時期(8世紀後半ではない)】【本試験H21インドではない,本試験H25時期,H29共通テスト試行 系図の読解】【追H27アリーが開いたのではない、H28トルコ人が奴隷軍人として採用されたわけではない,H29後ウマイヤ朝ではない】,玉座(ぎょくざ)に座ってカリフを称しました【大阪H30論述:7世紀後半に西アジアに成立した帝国では,社会や国家のあり方がどのように変化したか(指定語句:シャリーア,ウンマ,カリフ)】。

 彼に従った多数派をスンナ派【本試験H17シーア派とのひっかけ,H29共通テスト試行 アリーの子孫が指導者と主張したのではない】と呼びます。スンナとは〈ムハンマド〉以来イスラーム教徒の間で積み上げられてきた習わし(慣行)や,それを守る人から成る共同体を意味します。スンナに従う人をスンニーというので,日本ではスンニ派といわれることも多いです。
 スンナ派は「全体の合意」(イジュマー)によってイスラームの共同体を運営していこうとする集団ですが,実際に判断をくだすのはウラマー(学者)でした(注)。そこで支配者がイスラーム教を信仰する国家では,特定の教義に属するウラマーが保護されるようになっていきます。
 スンナ派の人々は,「ハワーリジュ派やシーア派は,〈ムハンマド〉以来のイスラーム共同体から離れていったグループだ。それに対して,自分たちは共同体の伝統を守り続けている正統派だ」と考えています。

(注) オスマン帝国史家の鈴木董は、ウラマーは「法律専門家」ではなく、本質的には「戒律学者」であり、その点ではユダヤ教の戒律学者である「ラビ」に近く、ラビの訳である「律法学者」としたほうがよい。しかしユダヤ教と混同するので、「戒律を中心としたイスラム教学の専門家」として「イスラム教学者」と訳する提案をしています。なお、「イスラム聖職者」というのは、イスラーム教では神→聖書(クルアーン)→人間の関係を媒介するなんらかの存在を認めないので、明確な誤りです(鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.95)。なお、イスラーム教における「聖書(クルアーン)」に対応するのは、キリスト教では〈イエス〉の福音です(中田考・橋爪大三郎『クルアーンを読む』太田出版、2015年)。



◆シーア派は〈アリー〉の直系の一族に従い,ウマイヤ朝のカリフに敵対した
 一方,〈ムアーウィヤ〉に反発する人々は,みんなで話し合い,意見を出し合ってウンマ(共同体)を建設するべきだと考えます。暗殺された〈アリー〉の次男〈フサイン〉は,〈ムアーウィヤ〉を倒そうとクーファに向かう途中,カルバラーというところで殺害されます。これを悲しんだ人々は〈フサイン〉の亡き息子たちを支持し,やがてシーア派と呼ばれるようになったのです。「シーア」とは「党派」という意味で,もともとは「シーア=アリー」と呼ばれていました。彼らは〈アリー〉の一族を重視し,その指導者イマームの下に団結します。今でもシーア派の人々は,毎年〈フサイン〉のお墓参りの行事をおこなっています。
 〈フサイン〉の妻はサーサーン朝の王女だったという言い伝えがあり,特にイラン(ペルシア)の人々に受け入れられていくことになります。つまり,スンナ派とシーア派の違いは,アラブの文化を受け入れた人々と,ペルシア文化を守る人々との対立でもあるのです。

 一方,スンナ派のカリフ〈ムアーウィヤ〉の在位は680年までです。以後カリフはウマイヤ家に世襲されるようになったので,ウマイヤ「朝」といい。英語ではThe Umayyad Caliphate(ザ=ウマイヤド=カリフェイト,ウマイヤ家のカリフ国)といいます。

 イスラーム教によって「平和」が実現されている範囲を「ダール=アル=イスラーム(イスラームの家)」といい,まだ「戦争」の絶えない異教徒の地域を「ダール=アル=ハルブ(戦争の家)」と,それぞれアラビア語で言います。異教徒がイスラーム教徒を攻撃してくる場合,イスラームの家を守るために,「ジハード(聖戦)」が認められています。ジハードとは本来は「(アッラーのための)努力」という意味なので,本来は「聖戦」のことだけを指すわけではありませんが(注)、この時期のイスラーム教世界の拡大は主として武力によって成し遂げられました。
 ただ、だからといってイスラーム教が「コーランか、剣か」(イスラーム教を信仰しないのなら、剣で攻撃するという意味)という不寛容な思想を本質的に持っていると決めつけるのは正しくありません。イスラーム世界は、さまざまな異教徒をも含み持つ重層的な世界であったのです。
(注)弱い自分と戦うための努力を小ジハード,外からの圧力に負けない努力を大ジハードというという議論です。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.102。



◆ウマイヤ朝はイベリア半島から中央アジアまで領土を急拡大し,交易ルートをにぎった
この頃のイスラームは、単一の政治体を持っていた
 さて,ウマイヤ朝は領土を次々に拡大し,中央ユーラシアのソグディアナ(ソグド人の出身地で,アム川とシル川の上流部)まで拡大します。
 イェルサレム(アラビア語ではクドゥス(聖地という意味))にある金の装飾の輝く岩のドームは,ウマイヤ朝のカリフ【本試験H15キリスト教徒ではない】により建てられました。建設地は,ユダヤ人のソロモン神殿があった場所のため,問題はゆくゆく複雑になっていきます。
 権力者は,寺院(モスク)や隊商宿(キャラヴァンサライ【本試験H30】)などの公共建築を建てるなどの寄進(ワクフ(ワクフ制度)) 【追H25・H27ワクフ(ワクフ制度)がモスクなどの宗教・公共施設の運営を支えていたか問う】をすることで,イスラーム教徒にふさわしい支配者として,人々から認められようとしました(注)。
(注)ワクフは宗教的な行為に見えて《交換を前提としたうえで,互酬を目的とし,そのパフォーマンスとして再分配の機能を果たした制度》であると見ることもできます(加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005年,p.190)。
 ウマイヤ朝はまた,インド西部にも進出しています【本試験H3インドのほぼ全域を征服していない】。

 7世紀後半~8世紀初めには,ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを何度か包囲し,海上封鎖して襲撃しようとしましたがいずれも失敗。ビザンツ帝国が,「ギリシアの火」というアスファルトを用いた火炎放射器で,ウマイヤ朝の艦隊を焼き払ったと見られています。その秘密は長い間謎につつまれていました。

 ベルベル人【立命館H30記】を主力とするウマイヤ朝【本試験H6時期(イベリア半島への進出がウマイヤ朝時代か問う)】の軍隊は北アフリカの海岸線をなぞりながら征服してイベリア半島に進出し,711年西ゴート王国を滅ぼしました【H30共通テスト試行ウマイヤ朝が征服した地図上の経路を問う(北アフリカ西部からイベリア半島に向かう矢印かどうか)】。このときの武将〈ターリク〉の上陸地点は「ターリクの丘」(ジャバル=アル=ターリク)と呼ばれ,これがジブラルタル海峡の語源になりました。

 ウマイヤ朝【追H25】【H30共通テスト試行マムルーク朝ではない】のイスラームの軍はのちに,732年メロヴィング朝フランク王国【H30共通テスト試行 マムルーク朝と接触していない】の宮宰〈カール=マルテル〉【追H25】の騎兵軍によりトゥール=ポワティエ間の戦い【セ試行 メロヴィング朝の成立に重要な意味を持っていない】【東京H29[3]交戦勢力のウマイヤ朝,メロヴィング朝を答える】【追H9アッバース朝ではない,H17(世紀を問う)、H25,H29ポワティエの戦いとのひっかけ】【立命館H30記】で敗れたものの,ピレネー山脈の南までを支配下におさめました。
 西ゴート王国の王族は,イベリア半島西北部に逃れてアストゥリアス王国(718~925)を建国しました。アストゥリアス王国は10世紀初めにレオンに遷都し,レオン王国となります。

 715年には,第6代カリフ〈ワリード1世〉(在位705~715)により,ダマスクスに現存する最古のモスクであるウマイヤド=モスクが完成しています。



◆イスラームのカリフ政権は,ユダヤ教・キリスト教を保護した
「クルアーンか,剣か」ではなく,「貢納」すればOK
 ウマイヤ朝はこれだけ広範囲に領域を広げたものの,大規模な反乱は起きませんでした。それはイスラーム教徒以前の支配者よりも低い税率を設定し,異なる宗教に対しても寛容であったためです。ユダヤ教徒とキリスト教徒は「啓典の民」(アフル=アル=キターブ)として扱われ,特に商業を積極的に保護したイスラーム教徒たちにとって,金融業を営むユダヤ教徒との取引は特に重要でした。
 イスラーム勢力は,かつて流布(るふ)されたように「クルアーンか,剣か」― つまり,「クルアーンに書いてあることを信じるか,さもなければ命を奪うか,さあどちらだ」という二者択一を迫ったわけではありません。貢納さえしていれば,よほどの抵抗さえしなければ信仰は守られたのです。世界の多様性(ダイバーシティ)を前提に,現実主義的に寛容(かんよう)な支配をしていったところが,イスラーム政権のポイントです。

 しかし,ウマイヤ朝の時代の支配層はアラブ人が中心だったため,たとえイラン人がイスラームに改宗しても,税を払わなくてよい特権をもっていたのはアラブ人だけでした。イスラームに改宗した非アラブ人(マワーリー)はアラブ人イスラーム教徒に対し不満を高め,一方で〈ムハンマド〉の家系を引く他の家門(例えばアッバース家)も,ウマイヤ家の血筋の者ばかり優遇されることにが不満を持つようになりました。こうして「ウマイヤ朝を倒して,すべてのイスラーム教徒が平等な国をつくろう」という動きが起こっていきます。第8代〈ウマル2世〉(位718~720)の改革は不十分に終わり,〈ヤズィード2世〉(位720~724)のときに北アフリカとイベリア半島南部(アンダルス)でベルベル人の改宗者(マワーリー)が反乱を起こし,ウマイヤ朝から自立しました。

 イランでは,第4代の正統カリフである〈アリー〉の子孫を指導者(イマーム)として支持する人々がシーア派を形成し,自立傾向を強めていました。彼らの中には,自分たちのイマームをカリフにつけようとするグループのほかにも,「カリフにはアッバース家が就任するべきだ」という考えを持つ人たちがいたため,アッバース家はイランのシーア派と提携を模索(もさく)します。
 彼らがイランで反乱を起こすと,アッバース家は,イラン北東部のホラーサーン地方を拠点に反ウマイヤ家の運動を本格化させます。なぜホラーサーン地方(アム川の南)を拠点にしたかというと,この地方の戦士団には精鋭部隊が揃っていたからです。ホラーサーン地方は,北方からイランに向けて進出する際の重要な“入り口”にあたる地点。古来,交易や略奪の経路として使用されてきたため,ウマイヤ朝時代にも精鋭部隊が置かれたのです。
 このホラーサーン軍が中心になって747年にウマイヤ朝に対する武装蜂起が起こります。749年にカリフに選ばれた〈アブー=アル=アッバース〉は,750年にウマイヤ朝最後のカリフ〈マルワーン2世〉(位744~750)を倒し,アッバース朝【東京H23[1]指定語句】が始まりました。結局シーア派の指導者はカリフにつくことができず終(じま)いでしたが【追H9シーア派の教義を採用しスンナ派を弾圧したわけではない】,アッバース朝ではイラン人【追H20】が官僚に登用【追H20】され,民族間の不平等は解消されていきます。この一連の政治変動をアッバース革命といいます。

 アッバース朝に入って以降のイスラーム世界は、単一の政治体(「イスラームの家」)が崩れ、しだいに王朝・国家(ダウラ)の併存する世界となっていきました。しかし、イスラームの戒律体型であるシャリーアには、そのような変容は反映されず、したがってイスラーム世界では「併存する複数のムスリム政治体間の関係を律する「国際法」は存在しない」わけです(注)。

(注)鈴木董は、この「イスラームは一つ」(イスラームの家)の理念はその後も長く保たれ、これが近代のパン=イスラーム主義を生み出す一つの背景となり、複数の国家の並立がデフォルトであった西ヨーロッパ世界とは対照的であるとしています。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.104。




◆アッバース朝と唐とのタラス河畔の戦いで製紙法が伝わり,“アッバース=ルネサンス”が開花
製紙法がイスラーム圏に伝わり,大翻訳運動へ
 〈アッバース〉は内陸ユーラシアにも進軍し,751年にタラス河畔の戦い【本試験H14ウイグルは関わっていない,本試験H25時期】で〈高仙芝〉(唐につかえた高麗人の武将)率いる唐【セ試行 ササン朝ではない】とトルコ系遊牧民のカルルクとの連合軍に勝利をおさめています(唐・宋のころの中国人は,アラビア人のことを大食(タージー)と読んでいました)。唐軍が総崩れとなったのはカルルクの裏切りによります。

 アッバース朝の捕虜になった唐の紙すき職人を通して中国の製紙法【追H28活版印刷ではない】【本試験H27】【セA H30「中国からイスラーム世界に伝わった」か問う】が西方に伝わることになったといわれてきました。
 ただし、近年ではそれ以前に伝わっていたのではないかという説もあります。

 紙という媒体自体は,これ以前にイスラーム世界でも知られていました。しかし,木材が豊富にない西アジア紙の原料に用いられていたのは羊皮紙(ようひし)でした。
 しかし、羊皮紙の供給量に限界があります。
 そこで,衣類に用いられた麻が製紙の原料とされるようになりました(注1)。

 759年にはサマルカンド【本試験H2タリム盆地のオアシス都市ではない】に,中国以外では初の製紙工場が作られています。そのことは,今後サマルカンドが文化や科学技術の中心となっていく前提をつくりました。793年にバグダード,10世紀にはダマスカス,カイロを通り,1151年にスペインを経由して→1348年フランス→1494年イギリス・1586年オランダ→1635年デンマーク→1690ノルウェー・アメリカ合衆国。イタリアを経由して,1276年→1390年ニュルンベルク→1491年ポーランド→1498年ウィーン→1576年モスクワのように西方に伝わっています。なお,朝鮮半島に伝わったのは600年頃,日本には610~625年頃の伝播です(注2)。
 イスラーム世界の各地では,ビザンツ帝国→サーサーン朝を介して継承されてきた,古代ギリシア・ローマの情報が,アラビア語に翻訳されていきました。これを大翻訳運動【東京H23[1] アラブ=イスラーム文化圏をめぐって生じた異なる文化間の接触や交流についての論述】ともいいます【追H19】。
 830年にはアッバース朝の第七代カリフ〈マアムーン〉(マームーン)がバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)を建設し,研究者を招いて学芸を充実させました。ある意味「アッバース=ルネサンス」と言っても差し支えないでしょう(注3)。
(注1) http://dtp-bbs.com/road-to-the-paper/paper/history-of-paper.html。吉田印刷所
(注2) 木村尚三郎編『世界史史料(上)』東京法令,1977,p.320。
(注)ディミトリ=クダス(同、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年)は、「翻訳機関たる「知恵の館」が主導したという解釈には否定的」で、「国家的組織的翻訳ではなく、あくまで民間のギリシア分権翻訳ブーム」の結果としています(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.152)。





◆アッバース朝は首都を東方のバグダードに移し,官僚機構を整備した
帝国統治に,イラン人官僚が活躍した
 なお,アッバース朝の時代になると,カリフは“ムハンマドの代理人”というよりも,“神の代理人”としての性格を持つようになっていきます。
 アッバース朝【本試験H22】第2代の〈マンスール〉(位754~775) 【追H30アブー=バクルではない】は,3重の城壁に囲まれた円形の新都バグダード【京都H22[2]地図上の位置】【本試験H3アッバース朝の首都か問う,本試験H6長安とならぶ大都市であったか問う】【本試験H22】【追H9メッカではない,追H20カイロではない,H25アッバース朝によって築かれた「円城」か問う、H30】(マディーナト=アッサラーム(平安の都))を現在のイラクを流れるテ
ィグリス川【本試験H22】河畔に計画的に建設しました。イスラーム政権はヨーロッパを圧迫したイメージが先行しがちですが,領域を接していたビザンツ帝国とは対立していたものの,その西方のフランク王国との外交関係は良好で,交易も盛んにおこなわれます。
 バグダードは高さ34メートルの城壁で囲まれ巨大都市に成長し,シリア門(北西),クーファ門(南西),果ては長安に通じる中央ユーラシアのシルクロードに向けたホラーサーン門(北東),バスラ門(南東)からは各地への街道が整備され,駅伝制(バリード)がしかれました。また,イラン人を官僚として採用し,文書による行政制度を発達させます。アッバース朝は,アケメネス朝以来のこの地域の帝国支配の伝統を,ハード面でもソフト面でも受け継いだわけです。
 さらに,行政システムを整え駅伝制も整備し,革命運動に協力したシーア派の反乱は鎮圧され,アッバース家による中央集権的な支配が固まります(注)。

 税制については,アッバース朝ではイスラーム教徒ならだれでも地租(土地にかける税,ハラージュ) 【共通一次 平1:人頭税ではない】を納めるようにし,イスラーム教徒ではない征服された人々【共通一次 平1:イスラーム教徒には課されない】からは地租に加えて人頭税(ジズヤ) 【本試験H5】【東京H21[1]指定語句】【共通一次 平1:資産税ではない】【本試験H13】【名古屋H31記述(説明)】を納めさせました。なお,ユダヤ教徒とキリスト教徒は,違った考え方によって信仰しているものの,同じ神を信仰し,その神によって創造された人間には変わりないということで,「啓典の民」(けいてんのたみ)【本試験H5「…啓典の民に〔ジズヤ〕を課すこともない…」という史料中で使用】に位置づけられ,人頭税(ジズヤ)を払う代わりにその信仰は保障されました【共通一次 平1:土地を持っている場合はハラージュも払う】。
 ウマイヤ朝では,アラブ人でない者は,イスラーム教徒に改宗したとしてもジズヤを納めることになっていましたから,イスラーム教徒の中での不平等は解消されたことになります。このことから,アッバース朝を「イスラーム帝国」とも呼びます。
 アッバース朝においてカリフの権限は必ずしも盤石なものではなく、ブワイフ朝がバグダードに入城するまでは、父子相続は確立されておらず、カリフの地位は原則として有力者の選挙で決められ、イスラーム教徒のバイア(契約・臣従の誓い)とフトバによって正統化されました(注2)。

 また,革命に参加したイラン人は,軍隊や官僚(書記)として採用され,アッバース朝の要職にも就任するようになっていきます。混乱が収拾すると,「イスラーム法(シャリーア)」【本試験H19 6世紀には成立していない(イスラーム成立よりも前なのだから),本試験H26ジハード,バクティ,スーフィズムではない】【大阪H30論述】に基づき,力でねじ伏せるのではなく制度と文書によって適切に統治が実現するようになっていきました(注3)。
 イスラーム法のスンナ派による解釈をめぐっては,預言者のハディース(言行)を重視する法学派シャーフィーイー派,各地域の慣行や商業活動を重視するハナフィー派,メディナ社会の慣行を重視したが過激派に厳しいマーリク派,ハディースを重視し非常に厳格なハンバル派などの学派に分かれていきましたが,統一的な見解を有する組織や制度はつくられませんでした(どれか一つの学派だけが各王朝で採用されたわけではなく,事件に応じて複数の学派の解釈が使い分けられていました)。
 一方,シーア派の法体系では,ハディースのほかにイマーム(シーア派指導者)の見解が重視されました。

(注1) 従来、「アッバース朝第2代カリフの〈マンスール〉が「私は地上におけるスルターン=アッラーフ(神の力)である」とフトバ(金曜日の説教)で語り、神から直接権力を授けられた「神のカリフ」という思想を打ち出した」という通説がありましたが、「神のカリフ」概念はそれ以前、第3代正統カリフ〈ウスマーン〉のときから存在していました。「カリフ権の神授」という説明はされなくなりましたが、アッバース朝のときにウラマーによってハディース(伝承)を利用する形でシャリーアとして理論化し、カリフはこのシャリーアに基づいて神権的権威が正統化されるようになっていきました(神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.107-109)。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.108。
(注3) 「シャリーア」というのは聖なる領域ではなく世俗の領域に関する法で,内容にはイスラームの教えが反映されています。キリスト教の世界では「宗教」と切り離された世俗法の領域が発達していきますが,イスラーム教の世界はユダヤ教の世界と同じく,「宗教」から切り離された純粋な世俗法はないのです(市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書,2019年)。

 農民から徴収した租税(ハラージュ)のうち,現物で徴収した分は市場で現金化され,官僚による財政管理によってホラーサーン軍や官僚に現金で俸給(アター)が支払われました。シャリーア(世俗法)が整備されていくと,それを受け入れた都市どうしの交易も活発化し,北アフリカからユーラシア大陸東端にいたるまでのイスラーム教徒の都市を結ぶネットワークが形成されていきました。




◆アッバース朝は〈ハールーン〉のときに最盛期を迎える
100万都市バグダードを生んだアッバース朝
 〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【追H9アッバース朝と関係あるか問う】のときに最盛期を迎え,バグダードは人口100万の大都市となりました。彼は,9世紀に原型ができていたといわれる『千夜一夜物語』(“アラビアン=ナイト”) 【追H28イラン起源の物語を含むか問う(正答だが、難しいだろう)】【東京H8[3]】にも登場しています。
 ちなみに,この物語に現れるシンドバッドの冒険,アリババと40人の盗賊,アラジンと魔法のランプ,空飛ぶ絨毯などの話は,のちにヨーロッパ人によって追加されたものです。

 アッバース朝はさかんに金貨(ディーナール)や銀貨(ディルハム)を発行し,為替手形(かわせてがた,スフタジャ)や小切手(こぎって,サック)も使用されていました。小切手はペルシア語ではチェックといい,これが英語のcheckのもとになりました。

 イスラーム商人はインド、東南アジアを超えて遠く中国にまで出身地別に交易網を広げていきました。
 そのネットワークをさまざまな物が東西に動きます。
 楽器では、インドの撥弦楽器が、西のイスラーム世界でウードとなり、それが西ヨーロッパでリュートとなり、中世の吟遊詩人の商売道具となりました。
 遊戯では、インドで生まれたボードゲームが、ササン朝経由でイスラーム世界でサトランチュとなり、西ヨーロッパでチェスとなりました。逆に、東に移動したものが将棋です(注)。 

(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.112。




◆イベリア半島ではウマイヤ朝が存続する

 ウマイヤ家の多くはアッバース革命のなかで殺害されてしまいましたが,シリアからモロッコに脱出したウマイヤ朝のカリフの孫〈アブド=アッラフマーン1世〉(位756~788)はイベリア半島【本試験H21小アジアではない】で,北アフリカのベルベル人【本試験H29イスラーム教への改宗が進んだことを問う】からの支持を得ました。そして,756年にイベリア半島のコルドバ【東京H18[3]】【本試験H30】を都に後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝) 【東京H18[3]】【追H9スルターンの称号を得ていない、H18カール大帝が滅ぼしてはいない、H25アッバース朝は後ウマイヤ朝に滅ぼされたのではない】【本試験H16】【立命館H30記】を建国します。
 首都コルドバは,アッバース朝の首都で発達したイスラーム固有の学問(イスラーム教に関する神学・法学・歴史学など)や外来の学問(ギリシア【本試験H3】・ローマやインド【本試験H3】,イラン【本試験H3】で発達した自然科学・数学・哲学など)を取り込むことで,文化の中心地になっていきました【本試験H3イスラーム文化は「多様な民族を担い手とする国際的文化である」か問う】。
 イスラーム教では偶像崇拝が禁止されているので,人物や動物の絵画は避けられます【本試験H3神像や礼拝像が盛んに制作されたのではない】。そこで,アラビア語に装飾を施したイスラーム書道(ペンには,かつて古代エジプトでパピルスに記入するのに使われた葦ペン(カラーム)が使われました)や,植物や図形をモチーフにした幾何学文様(アラベスク【本試験H5ジズヤではない】【追H18】)が発達していきました。





●600年~800年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。





●600年~800年のアフリカ
○600年~800年の東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆東アフリカでは,紅海沿岸のアクスム王国が衰え,代わってインド洋沿岸の都市国家が栄える
 キリスト教の栄えていたエチオピア高原のアクスム王国は,アラビア半島にイスラーム教が広まったこともあって交易ルートをおさえることができなくなり,衰退していきました。
 代わって,東アフリカのインド洋沿岸にはアラブ人やペルシア人のイスラーム教徒が頻繁に来航するようになりました。8世紀にアッバース朝が成立すると,紅海よりもペルシア湾での交易がさかんになり,オマーンからアラブ人やペルシア人の商人が奴隷などの取引に訪れるようになったのです。東アフリカから輸出された黒人奴隷はザンジュと呼ばれました。インド洋沿岸の都市国家キルワの「シラジ」と呼ばれる人々は,もともとペルシアのシーラーズの出身者ではないかと考えられています。




○600年~800年の中央アフリカ

コンゴ川には首長制の萌芽も見られる
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 アラブ人の陸路でのアフリカ大陸中央部の南下は,中央アフリカの熱帯雨林に阻まれました。現在でもイスラーム教徒の分布は,中央アフリカのカメルーンあたりが南の限界(南限)となっています。

 コンゴ川上流部は、焼畑による移動耕作が前提の共同体的保有制度に支えられた集落がありました。8世紀頃からコンゴ川上流部には料理用の陶器や墓などの遺跡が見つかりつつあり、首長制の芽生えとも考えられますが、「階級」というべきものではなかったとされます。宗教・政治的権威と結びついた親族組織の分化があったとみられ、官僚制度は未分化です。内部からの富の収奪ではなく、遠隔地交易が経済的な基盤でした(注1)。

(注) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.89。




○600年~800年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

◆サハラ沙漠の横断交易が盛んになりガーナ王国が栄える
ニジェール川流域で複雑な社会が現れるように
 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、400~900年の層から大量の骨壷が見つかり、人口が増加し集中していたとみられます(注1)。

 8世紀のアラビア語史料の中に,ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,本試験H9[24]地図上の位置を問う】に関する情報が初めて現れます。「黄金がニンジンのように土地から生える」という伝説が,地中海地方に伝わったというほど,金を産出することで知られていました。

 アラブ人は,サハラ沙漠から南の地域を一括して「スーダン」とよんでいました。「黒人の国」という意味で,現在のスーダンはこのうちの東スーダンです,チャド湖付近を中央スーダン,ニジェール川流域を西スーダンということもあります。

(注) ニジェールのエル=ワレジ遺跡では、600年~1000年にかけて、内部に石室のある15メートルの塚が出現。鉄製道具、宝石、銅の装身具、土器とともに、葬られた人骨が発見されています(殉死の習慣か)。ニジェール川下流でも、900年頃に豪華な装飾品とともに埋葬された人骨が見つかっています(イボ=ウクウ遺跡)。宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。




○600年~800年の北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 632年にアラブ人〈ウクバ=イブン=ナーフィ〉により,サハラ沙漠にイスラーム教が伝わりました。670年には,地中海沿岸のチュニジアに軍営都市カイラワーンが建設されました。その後,711年にはウマイヤ朝の支配下にあったベルベル人の〈ターリク〉を中心に,多数のベルベル人やアラブ人の兵士をともなってイベリア半島に進出。西ゴートの支配者に圧政に対するキリスト教徒やユダヤ人の不満を利用し,〈ターリク〉の軍は西ゴート王国を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまってジブラルタルと呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。

 その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバを占領し,アミール【追H9スルターンの称号を得ていない】を称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)が建国されました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 〈アブド=アッラフマーン3世〉(位912~961)は929年にカリフ【追H9スルターンの称号を得ていない】の称号を名乗り,支配の黄金時代を迎えました。コルドバにはキリスト教の教会に隣接して,壮麗なモスク(メスキータ)【立命館H30記】も建てられます。
(注)「後ウマイヤ朝」は日本での呼び名です。イスラーム教諸国では,金曜日の集団礼拝(金曜礼拝)で説教師が説教(フトバ)をおこなうときに,世俗の支配者の名を述べます。その名で呼ばれた支配者が,その領域の世俗の支配者として認められるということになっていたのです。そのようにして支配者として認められた者には,領域内のイスラーム教の保護やインフラの整備,巡礼のために使用する街道の安全確保などが求められました。


 マグレブ地方とイベリア半島の大部分も,イスラーム教徒の支配圏に入っていきました。マグレブ地方とはアラビア半島からみて「日の沈むところ」という意味で,現在のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビアにかけての地中海沿岸地方を指します。

 北アフリカの先住民のベルベル人の多くは,少数派のハワーリジュ派を受け入れました。彼らは現・アルジェリアにルスタム朝(776?~909)を建てていました。〈イブン=ルスタム〉が、ハワーリジュ派イバード派のイマームとして推戴され、ターハルトを建設し首都としました。
 現・チュニジアにおこったスンナ派のアグラブ朝(800年~909年)の抗争が激しくなると、ルスタム朝は後ウマイヤ朝と結びます(注)。

 現・リビアは東部(キレナイカ地方)はエジプトの政権,西部(トリポニタニア地方)は西方の政権の影響を受けましたが,アラブ系遊牧民の活動範囲でした。

(注)大塚和夫編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.1055。





●600年~800年のヨーロッパ


東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



◆ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深刻化した
聖像禁止令をきっかけに東西教会が対立する
 4世紀末に移動を開始したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,各地のローマの官僚機構を利用しながら国家を建設していきました。

 それに対しローマを本拠地とするローマ教会は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してアタナシウス(ニカイア)派の布教していきました。布教の際には,文字よりもわかりやすい,〈イエス〉や〈マリア〉などの聖画像(イコン)を使用しました。

 それに対し,726年に東ローマ帝国イウサロス朝の創始者〈レオン3世〉(在位717~741,教皇レオ3世とは別人)【本試験H13聖ソフィア聖堂建設は命じていない,本試験H18】が聖像禁止令【東京H7[1]指定語句】【本試験H18】を発布して批判し,東ローマ帝国の保護する正教会と,ローマ教会との間のケンカにエスカレートしてしまいました(聖像崇拝論争)。〈レオン3世〉による聖像破壊(イコノクラスム)の本音は,教会財産の没収にあったようです。しかし,文字の読めない住民を多くかかえる西方のローマ教会にとっては,聖像禁止令は布教活動への“妨害”以外の何ものでもありませんでした。

 教義の上でも両者の間に対立がありました。〈マリア〉は聖霊によって〈イエス〉を身ごもったとされますが,この「聖霊」が父としての神から発すると主張したのが正教会(コンスタンティノープル教会)。いや,父だけでなく子としての〈イエス〉からも発するとしたのがローマ教会です。
 ほかにも,最後の晩餐の儀式を象徴する儀式(聖餐(せいさん))で使うパンに,パン種を入れるのが正教会,入れないのがカトリック教会。
 聖職者の妻帯(さいたい。結婚すること)を一部認めたのが正教会,認めないのがカトリック教会。
 また正教会はギリシア語を使用,カトリック教会はラテン語を使用した点にも違いがあります。

 そもそも東ローマ帝国の皇帝は,コンスタンティノープルのキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられていました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。〈レオン3世〉は聖像禁止令によって教義上の問題に首を突っ込み,それをローマ教会にも押し付けようとしたわけです。

 787年には東方教会とカトリック教会がともに認めた最後の公会議である,第二ニカイア(ニケア)公会議が開かれましたが,それ以降はカトリック教会による単独の公会議が開かれるようになり,別々の発展を遂げていくことになります。この会議でようやく聖像禁止令の廃止が確認されました(注)。

 このような事情から次第にローマ教会は,教義上の対立を含むコンスタンティノープル教会からの独立傾向を強め,聖像禁止令を押し付ける東ローマ皇帝にかわる新しい保護者が必要と痛感するようになります。

(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.151。



◆ローマ教会はフランク人の王に保護を求めた
フランク王国のカロリング家は,ローマ教会に接近
 そんな中,こつぜんと姿を現したのが,現在のフランス(ガリア)に移動していたフランク王国です。ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉が亡くなるとフランク王国は分裂し,メロヴィング家【H30共通テスト試行 メロヴィング朝はマムルーク朝と同時代ではない】は弱体化していました。
 一方で,フランク王国の東部を支配していたカロリング家は勢力を増し,687年には宮(きゅう)宰(さい)〈ピピン2世〉(大ピピンとも,位680~714)がメロヴィング朝の実権を掌握します。宮宰(マヨル=ドムス)というのは実質的にナンバー2の役職であり,フランス全体に支配権を広げていきます。
 〈ピピン2世〉の子,宮宰(国王ではありません)〈カール=マルテル〉(686~741)は,軍事力で732年にウマイヤ朝のイスラームの小規模な部隊を追いかけて撃退。「自分はイスラーム教徒を殲滅し,キリスト教世界を救ったのだ!」と話を盛りまくって,一気に名声を高めます。自分自身の出自の低さをカバーするための意図もあったとみられます。ローマ教会はこの功績を聞きつけ,「フランク王国のカロリング家は守護者として期待できる」と,フランク王国への注目を高めていきました。
 この戦いをトゥール=ポワティエ間の戦い【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】といい,カロリング家が台頭する上で重要な事件ではあるものの,戦闘の規模は決して大きなものではありませんでした。

 とはいえ〈カール=マルテル〉は家来たちに獲得した領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成していきます。
 こうして彼の子〈ピピン3世〉(小ピピンとも,位751~768) 【セ試行 カール大帝ではない】【本試験H7】【本試験H19時期】【追H29】は,ときの教皇〈ザカリアス〉(位741~752)の許可を得て,メロヴィング朝【H27名古屋[2]】の王を武力で排除し,ついにフランク王国国王に就任することができたのです【本試験H7コンスタンティノープル教会との関係を強化していない】。
 こうしてカロリング朝【追H29ピピンがひらいたか問う】(〈カール=マルテル〉が由来です)をひらくことに成功した〈ピピン〉は,教皇を圧迫していたランゴバルド王国を倒し【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】【追H30トゥール=ポワティエ間の戦いは無関係】,彼らが東ローマ帝国から奪い取っていたラヴェンナ地方を教皇に贈与します。
 宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。



◆〈カール大帝〉は“西ローマ皇帝”に任命された
ローマ教会は,ローマからフランクに“乗り換え”
 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】【追H18後ウマイヤ朝を滅ぼしてはいない】【セA H30】です。

 〈カール大帝〉は770年にイタリアのランゴバルド王国の王女と結婚しますが、その後、ローマ教皇の救援にこたえ、ランゴバルドを征伐。774年に首都パヴィアを占領し、ランゴバルド王のシンボルであった「鉄の王冠」を奪い、「フランク人とランゴバルドの王」を称し、その後息子の〈ピピン〉(位781~810)をランゴバルド王国領やスポレート公領も含めたイタリア王国の国王に任命しました(注1)。
 さらにラヴェンナにも進出して、ランゴバルド王国の跡地にフランク人の伯を大量に設置して支配を固めました。

 772年には、ドイツ北部のザクセン人(ゲルマン人の一派)を攻撃し、10回以上の遠征を数えるザクセン戦争がはじまります。頑強な抵抗に対して〈カール大帝〉はザクセン人を厳罰に処し、新たにフランク人の伯を任命することで、エルベ川以西の人々だけでなく東方のスラヴ人も含めてフランク王国の統治に服しました。
 ドナウ川上流のバイエルン人は788年に支配下に置き、791年にはアヴァール人を制圧してアヴァール辺境領を置いて、ウィーンも支配に置いています。
 北方のデーン人まで支配は及びませんでしたが、北方のフリース人と戦っています。

 さらに778年にはイベリア半島北部にも遠征。サラゴサのイスラーム教徒を制圧したところで撤退しますが、その途中に起きたバスク人との戦闘で多くの死傷者を出しました。このときに命をかけて戦った兵士が元となった叙事詩が『ローランの歌』です。795年にはピレネー山脈の南にスペイン辺境領を置いています。
 また、その北方のアキテーヌ地方には息子を王としたアキテーヌ王国を創設、西北フランスのブルターニュ地方も支配下に置いています。
 801年には現在のスペインのバルセロナにまで伯を置いています。

 さらに799年,暴動が起きたためローマから避難した教皇〈レオ3世〉【追H24グレゴリウス7世ではない】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。
 〈カール〉はこの事件を通し、「西におけるローマ帝国」が復興されたという意識を当時の人々に与えようとしました(注2)。
 当時のローマにはかつての帝国首都としての面影はまったくなく,寒空のもと,ローマ教会はコンスタンティノープルに拠点を置くローマ皇帝からも冷遇されていました。
 〈ペテロ〉の“後継者”としての由緒(ゆいしょ)を持つローマ教皇は,かつてのようなローマ帝国の皇帝との協力関係を復活させようと,ローマ文化を受け入れていたゲルマン語派の諸民族に目をつけます。
 候補の一つに,589年にアタナシウス派に改宗していたイベリア半島の西ゴート王国があったわけですが,こちらは711年にウマイヤ朝に滅ぼされている。そこで,フランク人を“ローマの代わり”に立てたわけです。
 こうして〈カール大帝〉は「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えたのです。

(注1) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。
(注2) 北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。



◆東ローマ帝国はイスラーム教徒の進出に対応し,中央集権化を進めます
 ローマ帝国の東方領土(東ローマ(ビザンツ)帝国)には,7世紀に入ってイスラーム教徒による領土拡大が始まりました。イスラーム教徒への対策として,〈ヘラクレイオス1世〉(位610~641)は帝国をいくつもの軍管区(テマ)に分ける制度を拡充し(注),地方の軍団の指揮官に,軍事権と行政・司法権を与え,間接支配させました(テマ制度(軍管区制度) 【追H28「軍管区の司令官に軍事・行政権を与えた」か問う】【本試験H14エンコミエンダ制とのひっかけ,本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う,本試験H21フランク王国ではない,H31オスマン帝国のティマール制とのひっかけ】),兵士には土地が与えられ,平和なときには農業に従事し,戦争のときには土地を守るために戦わせました(屯田兵制) 【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】。しかし,636年にはヤルムークの戦いで正統カリフ時代のイスラーム軍に敗れ,シリアやエジプトを失いました。

 なお、〈ヘラクレイオス1世〉は,東地中海の国際共通語であったギリシア語を公用語に定めたほか【追H19】,キリスト教の教会を統一するために教義を定めました【本試験H16ビザンツ帝国では政教分離が徹底されたわけではない】。
 歴代のビザンツ皇帝や学者たちは,古典ギリシア語で書かれた文献の研究や保存に熱心でした。この文献がイスラーム教徒に伝わりアラビア語に翻訳され,12世紀以降ラテン語に再翻訳されヨーロッパ諸国に古代ギリシア文化が伝わることになるのです。
(注)テマ(セマ)制は680年頃にすでにバルカン半島で,ブルガール人やスラヴ人対策のためにテマ(セマ)=トラキアが初めて置かれていました。
 なお,「東ローマ帝国」とか「ビザンツ帝国」という呼び名は後世の呼び名であり,この国の正式名称はずっと「SPQR」でしたこの「Senatus Populusque Romanus」(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)とは,「ローマの元老院と人民」(=ローマ帝国)という意味です。


 8世紀のイウサリア朝を創始した皇帝〈レオン3世〉(位717~741)以降,東ローマ帝国は再び勢力を回復するように成り,726年の聖像禁止令【本試験H16 ビザンツ帝国の政策かを問う】で聖画像(イコン)を禁止しました【本試験H18叙任権闘争とは関係ない】。この政策をイコノクラスム(聖画像の破壊)といいます。イコン(イエスなどの聖像)を使ってヴィジュアルの助けを借り,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してせっせと布教をしていたローマ教会は,聖像禁止令の押し付けには反対の立場をとり,東ローマ帝国の保護する正教会との聖像崇拝論争に発展します。のちにローマ教会は,東ローマ帝国に見切りをつけて,教会の新たな保護者としてフランク王国の〈カール大帝〉を選ぶことになります(800年,カールの戴冠【東京H7[1]指定語句】【セA H30】)。


◆様々な“特典付き”の土地が,農民とセットで主君から家臣に与えられる制度が成立した

 西ヨーロッパを中心に,ローマ由来の恩(おん)貸地(たいち)制度【本試験H3,本試験H6】と,ゲルマン由来の従士制(じゅうしせい)【本試験H3】が組み合わさり,隷属的な農民と土地を支配する制度と,その支配圏を認める階層的な支配構造が結びついた社会制度(荘園(しょうえん)制)【本試験H3】が組み上げられていきました【本試験H3最初から発達した官僚制がみられたわけではない】【大阪H31論述(「イスラム教徒、領主、軍事」の指定語句を用いて、荘園制が形成された背景、当時の政治制度全般との関係について)・時期】。

 この時期(中世前期一般的には西ローマ帝国の崩壊した5世紀から10世紀)のヨーロッパは,農業(小麦,大麦,えん麦,ライ麦など)を中心とした生産が農民により行われていました。自由な農民もいましたが,領主の経済的・人格的な支配下に入った農民も多く,後者は移動の自由【本試験H6】が認められず農奴(のうど) 【本試験H3】【本試験H23】といいます。
 経済的な支配とは,収穫物を納めたり(貢租(こうそ),貢納【本試験H23】ともいいます),領主の土地を耕したり(賦役(ふえき)【本試験H23】)する義務があったこと,人格的な支配とは移動の不自由のほかに,領主による裁判権(領主裁判権【本試験H8】)に従わなければいけないことや(領外)結婚税・死亡税【※以外と頻度低い】の支払いなどが挙げられます。農奴は家族を持つことでできましたが,家族も含めて領主の大切な“労働力”なので,娘が隣村に嫁いだり,誰かが亡くなると,その“補償”として結婚税・死亡税を納める義務があったのです。その代わり農民たちには,小麦粉をひいたり,きれいな水場を利用したり,お祭りに参加したりなどさまざまな保障が与えられていました。

 7世紀になると,現在のフランス北西部のフランク王国王領地では,古典荘園制が始まりました。土地を,領主直営地【本試験H5】と農民保有地に分け,前者は領主が経営し,後者は農民・農奴に小作地として貸し出されました。領主は農奴に賦役【本試験H5】をおこなわせたり,自由な農民を労働者として働かせ収穫を貢租としておさめさせたりしたのです。

 こういった領主の土地には,農民たちの集落が散らばって分布していて,集落のまわりに耕地が広がっていました。このころのヨーロッパにはまだ十分に森林が広がっていましたが,森は共有地(入会地(いりあいち) 【追H26】。農民が共同で利用する牧草地や森のこと【追H26】。中世ヨーロッパに限らず「誰のものでもない」土地は,近代以前の社会では広くみられました【本試験H17】)とされ,森で採れるドングリを冬に備えて豚に与えたり,薪(たきぎ)を拾って燃料にしたりと農民たちで共同利用されました。また,畑を耕すのための牛や,毛を刈り取る羊が飼育され,家畜の飼料に用いられる草の刈り取りも,共同作業でおこなわれました。
 このように土地と農民が組み合わさった土地制度を,土地領主制ともいいます。このような領地は,城を構える主君(封主(ほうしゅ))が,戦士・騎士として戦ってくれる人々に与えられることが多くなりました。土地(封土【本試験H3】)をもらった人は家臣(封臣(ほうしん))となり,主君に軍事的に仕える義務【本試験H3】を持つかわりに,その土地が得られる特権を得ることができました【本試験H8領主の「主たる経済基盤は,国王の宮廷での勤務による報酬」ではない】。

 フランク王国のカロリング朝の時代になると,国王に任命された伯や大公といった役職に応じて,こうした特権付きの所領が,軍事奉仕と引き換えに与えられるようになっていきました。家臣のほうが国王よりも力関係が上である場合も多かったため,不輸不入権(国王の役人が立ち入って徴税をしたり,裁判をしに立ち入ったりすることを防ぐ権利)【本試験H14自治・叙任ではない】が与えられていました。また,こうした所領を“功徳”(くどく)を得るためにローマ教会や修道院に寄付(寄進(きしん)といいます)することも,広く行われました。その代表例が,756年の〈ピピン3世〉によるラヴェンナ地方の寄進です。
 ローマ教会と提携をした〈カール大帝〉は,『旧約聖書』を根拠に勅令を定め,十分の一税【追H30】の徴収を法的に規定しました。これにより,農民からの税は教区ごとに徴収され,集めたうちの4分の1が最終的に司教のもとにわたることになりました。中世後期になるまで,農民たちの間にこの税に対する抵抗や批判はほとんど起きませんでしたが,税の徴収には後に俗人(教会関係者でない者)が関与するようになり,のち11世紀にはローマ教会と世俗権力との間の聖職叙任権闘争に発展していくことになります。



○600年~800年のヨーロッパ  東・中央ヨーロッパ,バルカン半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆6~8世紀にかけてバルカン半島はスラヴ化していった
バルカン半島のスラヴ化がすすむ
 異民族の進出を受けやすいバルカン半島では,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進出が落ち着くと今度はブルガール人,アヴァール人,スラヴ人の進出が続きました。
 6~8世紀にかけてバルカン半島はスラヴ化していきます。それにともない先住のイリュリア人やトラキア人は山岳部に避難し牧畜民となりました。11世紀以降に記録上に現れるアルバニア人には,イリュリア人との関連性が指摘されています。

◆バルカン半島東部にはブルガリア人国家「大ブルガリア」が成立した
 7世紀前半に黒海北岸のテュルク系ブルガール人は,部族連合の大ブルガリアを建てました。しかし,7世紀半ばにカスピ海北部のハザール=カガン国(⇒ハザール:600~800の中央ユーラシア)により滅ぼされたため,以下のように分裂しました。
1) 北上したブルガール人は,黒海に注ぐヴォルガ川をさかのぼってその中流部にヴォルガ=ブルガール王国を建国。バルト海と黒海の中継交易の利益をめぐり,ハザール=ハン国と対抗しました。
2) 黒海北岸を通ってバルカン半島に進出したブルガール人は,ドナウ=ブルガール=カン国を建国。これは第一次ブルガリア帝国とも呼ばれます。彼らは先住のスラヴ人とともにビザンツ帝国を積極的に攻撃し,681年にはビザンツ帝国から領土を割譲され,貢納の支払いを認めさせています。この頃,ブルガール人やスラヴ人に対する防衛のため,現地の軍団の司令官に国境線を防衛させ,中央から派遣された属州総督が行政を担うテマ(セマ)がビザンツ帝国史上初めて置かれました。ビザンツ帝国は彼ら初めは多神教のシャーマニズムを信仰し,ユルタといわれる移動式テントに居住していましたが,次第にスラヴ化されていきました。
 8世紀前半に国家制度が整えられていきましたが,8世紀後半には内紛が起きました。

 なお,7世紀にはアヴァール=カガン国の支配を逃れてマケドニアに移住したブルガール人もいましたが,のち衰えました。


◆バルカン半島西部にはスロヴェニア,クロアチア,セルビアが民族を形成する
スロヴェニア,クロアチア,セルビアの形成
 バルカン半島西部には南スラヴ人が移動し,西からスロヴェニア人,クロアチア人,セルビア人が民族文化を形成していきました。クロアチア人とセルビア人には,黒海北岸を中心とする騎馬遊牧民サルマタイ人も同化したのではないかといわれています[芝1998:64]。
 ビザンツ帝国皇帝〈ヘラクレイオス1世〉(位601~641)のときには,勢力を増したアヴァール人対策としてスラヴ人が招かれたとされます(“夷を以て夷を制す”の政策)。

 スロヴェニアは7世紀には小集団の部族のもとで連合が成りましたが,8世紀半ばに拡大したフランク王国の支配下に入りました。
 クロアチアはビザンツ帝国と同盟し,強大化していたアヴァール人のアヴァール=カガン国を挟み撃ちしようとしました。
 セルビア人は7世紀頃にバルカンに移住しています。
 なお,アドリア海とほぼ並行に南北方向に走るディナール=アルプス山脈周辺のボスニア地域は,非常に山がちな地域で統一勢力が育ちにくい場所で,様々な小勢力が分立し周辺からの支配を受けていました。




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・600年~800年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド

◆ポーランドは神聖ローマに対抗しながら民族意識を形成する
カトリックを受け入れ、一時はボヘミアも支配する

 現在の①ポーランドのある地方では、7世紀頃からヴィエルコポルスカ(中心都市はグニェズノとポズナン)のポラニェ人と、マウォポルスカ(中心都市はポーランド南部のクラクフ)のヴィシラニェ人を中心とするいくつかの定住農耕民が現れていました(注1)。

 このうちの前者のポラニェ人がのちに有力となっていきます。

(注1) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.4。






○600年~800年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
イベリア半島にも,イスラーム勢力が進出する
 イベリア半島南部では,625年頃までには東ローマ帝国の領土がなくなっていました。630年頃には西ゴート王国とローマ=カトリック教会が接近するようになり,654年には「西ゴート法典」が発布されています。

 一方,632年にアラブ人〈ウクバ=イブン=ナーフィ〉により,サハラ沙漠にイスラーム教が伝わりました。670年には,地中海沿岸のチュニジアに軍営都市カイラワーンが建設されました。

 北アフリカのイスラーム勢力は,711年にはウマイヤ朝の支配下にあったベルベル人の〈ターリク〉を中心に,多数のベルベル人やアラブ人の兵士をともなってイベリア半島に進出。
 当時の西ゴート王国では,710年に〈ウィティザ〉王が亡くなると〈ロデリック〉(スペイン語でロドリーゴ)王が即位しましたが,それに異議を唱える者が現れると後継者をめぐる内紛に発展し,分裂状態にありました。
 西ゴートの支配者に圧政に対するキリスト教徒やユダヤ人の不満(694年に西ゴート王国で開かれた公会議で,694年にユダヤ人からの財産没収と奴隷化を進めることが決定されていました)を利用し,ベルベル人やアラブ人から構成される〈ターリク〉の軍は〈ロデリック〉(位710~711)を殺害して,西ゴート王国を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまってジブラルタルと呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。

 イベリア半島各地の都市は〈ターリク〉率いるイスラームの支配下に置かれ,ウマイヤ朝の属州「アル=アンダルス」という地域として支配されることになりました。支配層のイスラーム教徒は,ベルベル人やアラブ人(アラブ人とシリア人の対立や,北アラブと南アラブの対立がありました)など多くのグループに分かれており,総督の位をめぐって争いも頻繁に起きています。西ゴート人のキリスト教徒や,イスラームに改宗した者(ムワッラド)が人口の大多数を占め,ユダヤ人とともに税を納めることで信仰の自由が認められました。

 西ゴート王国の王族・貴族の末裔(まつえい)には抵抗運動を続ける者もあり,718年には〈ペラーヨ〉が北西部にアストゥリアス王国を建国しました。722年にコドバンガで起きたアストゥリアス王国とウマイヤ朝との戦闘は,のちにレコンキスタ(国土回復運動)の“出発点”として記憶されることになります。
 
 イスラーム教徒の支配は内紛により不安定で,756年にコルドバを都として混乱を収めたウマイヤ家の〈アブド=アッラフマーン1世〉の後ウマイヤ朝(アンダルスのウマイヤ朝)でした。ウマイヤ朝は750年にアッバース朝によって倒されており,秘密裏にイベリア半島に逃れた彼が自立し「総督」(アミール)を自称しました。彼は各地の都市に重臣を配置し,ベルベル人の傭兵を採用,行政機構を整備しました。コルドバでは785年に大モスクの建設が始まっています。二重の馬蹄形のアーチ構造といってたイスラーム建築の特徴を備えています。
 一方,カロリング朝フランク王国の成長もめざましく,778年には〈カール大帝〉がサラゴーサに遠征しています。この動きにアストゥリアス王国の〈アルフォンソ2世〉は797年に〈カール大帝〉に施設を派遣しました。





○600年~800年のヨーロッパ  西・北ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

○600年~800年のヨーロッパ  西・北ヨーロッパ
◆ガリア地方では,のちのカロリング家が騎兵隊を組織し,ローマ教会の提携を進めた
イスラーム退治(たいじ)が,キリスト教世界での名声に
 インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々によって旧・西ローマ帝国内に建国された国家のうち,現在のフランス(ガリア)で建国されたのはフランク王国でした。
 ローマ教会が正統とするアタナシウス(ニカイア)派に改宗していた初代国王〈クローヴィス1世〉【追H25西ローマ帝国を滅ぼしていない、オドアケルとのひっかけ】が亡くなると,フランク王国は分裂し,メロヴィング家は弱体化していました。一方で,フランク王国の東部を支配していた勢力(のちのカロリング家)が勢力を増していきました。
 〈トゥールのグレゴリウス〉(538?539?~594)が『歴史十巻』(フランク史)を口語ラテン語で著し,時代がローマ人の古典古代から,フランク人とローマ教会による支配へと移り変わっていくであろうことを論じました。
 イングランド出身の聖職者〈ボニファティウス〉(672?~754)は,フランク王国支配下のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対するアタナシウス派の布教を積極的におこない,徐々にアタナシウス派の住民を増やしていきました。のちにカロリング家と呼ばれることになる家柄が,宮宰(マヨル=ドムス)という実質的にナンバー2の役職を世襲しており,やがてフランス全体に支配権を広げていきます。メロヴィング朝のフランク王国に仕えた,王国ナンバー2の宮(きゅう)宰(さい)(国王ではありません)の職にあった〈カール=マルテル〉(686~741) 【本試験H7】は,ローマ教会の領土や当時拡大していた修道院の領土を没収し,それを収入源として戦士団を養成。騎兵を導入してインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々やガリア南部を従えました。
 フランク王国【追H30ランゴバルド王国はない】が,732年にイスラーム教徒のウマイヤ朝の進出に対してトゥールとポワティエの間で勝利したのは,この軍事力によるものです(トゥール=ポワティエ間の戦い) 【東京H29[3]交戦勢力を答える】【本試験H14キリスト教徒とイスラーム教徒との戦いかを問う】【追H30】。
 ただ,この戦いは決して大きな規模ではなく,〈カール=マルテル〉が自らの家柄の格(かく)を高めるために利用した側面はいなめません。実際,その後もイスラーム教徒はイベリア半島に支配圏を形成し,ピレネー山脈を越えることはなかったものの,フランク王国を脅かし続けました。
 彼の功績の宣伝を聞きつけ,「ビザンツ皇帝に代わる,教会の守護者として期待できる」と,ローマ教会は,カロリング家のフランク王国への注目を高めていきました。

 〈カール=マルテル〉もこの勝利を利用し,家来たちに領地を与えて,メロヴィング家に対抗できるだけの軍事力を育成するとともに,ローマ教会に接近します。

○600年~800年のヨーロッパ  西・北ヨーロッパ
○600年~800年のヨーロッパ  西・北ヨーロッパ
◆異端(アリウス派)の退治が,キリスト教世界での名声につながった
 〈カール=マルテル〉の子〈ピピン3世〉(位751~768) 【本試験H19時期】は,今度は教皇を圧迫しているランゴバルド王国に着目【本試験H21世紀を問う・滅ぼしてはいない】。彼らは,ラヴェンナにあったローマ帝国の総督府を占領していましたが,ここにいた東ローマ(ビザンツ)帝国の軍隊はそこから撤退していたのです。
 つまり,ランゴバルド王国からラヴェンナを奪えば,イタリア半島支配の重要拠点が手に入ることになります。
 ローマ教会の側からみても,アリウス派を信仰するランゴバルド王国がラヴェンナを支配しているよりも,協力的なフランク王国に支配してもらったほうが安心でした。
 そこで,ランゴバルド王国を退治してくれる代わりに,カロリング朝の建国を認めてもらう取引がおこなわれたわけです。
 こうして,教皇〈ザカリアス〉(位741~752)の認可を得てフランク王に即位し,カロリング朝を創始。獲得した旧・ラヴェンナ総督領を教皇に寄進(きしん)しました。教皇はこれにより財政基盤を確保。フランク王国との政治・経済的なつながりが密になっていきます。
 宗教的な権威に土地や物を寄付することを「寄進」(きしん)といいますので,このことをピピンの寄進【本試験H31時期を問う】といいます。このときの領土が,のちのちまで続く教皇領の元となります。ローマ教皇も「領域国家」を持ち,みずからの収入源を確保するようになったわけです。
 教皇領は19世紀以降小さくなってしまって,残ったのがヴァチカン市国ということになります(ローマ市内にあります)。

 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【H29共通テスト試行 クローヴィスとのひっかけ】【本試験H6】です。〈カール大帝〉は799年,暴動が起きたためローマから避難していたローマ教皇〈レオ3世〉【本試験H6】【H27名古屋[2]】【セA H30「ローマ教皇」】の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました。ローマ教皇によって「西ローマ皇帝」に任命され,西ヨーロッパの大陸部の分裂状態は一時的に終わりを迎えます。




○600年~800年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 708年にフランス北西部沿岸の島モン=サン=ミッシェルに,司教〈オベール〉が聖堂を建設したと伝えられています(◆世界文化遺産「モン=サン=ミッシェルとその湾」,1979(2007範囲変更))。




○600年~800年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑧アイルランド
◆アイルランドにはキリスト教文化が栄える
アイルランドではケルズの書が残された
 民族移動の波に飲まれなかったアイルランドでは、平穏な状況が続き、キリスト教文化が栄えました(注)。
 8~9世紀には「ケルズの書」(福音書がラテン語で羊皮紙に手写されたもの)が多く残されました。
 石造りで十字に円環を組合せ浮き彫りを施したケルト十字架も建てられます。

 しかし、795年にはアイルランド東岸のダブリン沖ランベイ島がスカンディナヴィアから来たヴァイキングに襲撃されると、平穏な時代は終わります。
(注)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、pp.13-14。




○600年~800年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑨イギリス
◆ブリテン島南東部にイングランド王国が成立した
アングロ=サクソンの王国が成立したが,8世紀末にヴァイキングが初めて現れる
 インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派のアングロ=サクソン人は,ブリテン島にわたって,600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国,ヘプターキー) 【本試験H30】を建国していました。

 キリスト教のアイルランド教会は,ローマ教会と競うようにイングランドに布教活動を行いました。アイルランドからは学芸が書物や学者を通じてイングランドに伝わり,カンタベリやヨークでノーサンブリア文化が栄えました。〈ベーダ〉(673?~735)は『イングランド教会史』を著しています。

 9世紀末~10世紀初めにかけて七王国のなかのウェセックスの王が中心になり,統合が進んでいきました。ウェセックス王の〈アルフレッド〉大王(位871~899)【本試験H14・H27】【追H29デーン人の王国を建てたわけではない】がデーン人【本試験H14,本試験H27アヴァール人ではない】の襲来を防ぎ,973年には〈エドガー〉(位959~975)が,カンタベリ大司教のもとで「全ブリテン島皇帝」を称したことを,イングランド王国の成立とみることができます。ちなみに〈アルフレッド〉は歴史書『アングロサクソン年代記』の編纂を命じています。

 国王は各地を移動しながらその声と体と豪華な儀式や奇跡(手で触れると病気が治るなど)【本試験H16リード文(アンリ4世の触手儀礼について)】で人々に権威を示し,現地で議会や裁判所を開いて回りました(移動宮廷。中世ヨーロッパで広く見られた支配方式です)。また,地方には州(シャイア,現在のイギリスのヨーク「シャー」などにも残る言葉です)が設置されました。

 なお,793年にはヴァイキング(ノルマン人【東京H6[3]】)の一派が,イングランド北部の大修道院を襲撃しています。彼らに関する初の記録です。次の時期に入ると,彼らの活動は一層本格化していくことになります。



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・600年~800年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現⑩ベルギー

 フランク王国の支配下にあったベルギーは、フランク王国最盛期の王〈カール大帝〉の生誕の地といわれています(注)。

(注) 現・ベルギーのリエージュ近郊の町であるエルスタルといわれています。リエージュにはシャルルマーニュの記念像が建てられています。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.10。

●600年~800年の南極
7世紀にポリネシア人が南極大陸に到達?
 オセアニアのラロトンガ島の船乗り〈ウイ=テ=ランギオラ〉(生没年不詳)が,650年頃に南極大陸(ニュージーランド南方のロス海)に到達していたことを示唆する史料が残されています(注)。
(注)Antarctica, “Encyclopedia Britannica”,https://www.britannica.com/place/Antarctica/History#ref390155


●800年~1200年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流④,南北アメリカ:政治的統合をこえる交流③
 広域国家の新たな理念を共有する諸国家が,中央ユーラシアの交易の覇権をめぐって抗争する。
 テュルク人の大移動を背景に,ユーラシア大陸に農牧複合国家が栄えるが,東西交易は陸上から海上に重心を移す。温暖な気候の影響を受け各地で開発がすすみ,人口・領域が拡大する。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方で交流の広域化がすすむ。
 

この時代のポイント
 「中世温暖期」にあたるこの時期には,世界各地で開発の進展と人口の増加,民族移動がみられる。

(1) ユーラシア
・中央ユーラシアでは,テュルク系のウイグル帝国が同じくテュルク系のキルギス人の進出で崩壊。テュルク系民族が西方に大移動し(テュルク系の大移動),タリム盆地のカルルク人,カザフ草原のキメク人,カスピ海周辺のオグズ人などが,定住農牧民の世界に進出。
 モンゴル高原や中国北方周辺ではタタール人,モンゴル人,タングート人,キタイ(契丹)人も台頭し,中国文化を受容したタングートは西夏を,契丹は遼を建国した。
 西方のテュルク系民族はイスラームを受容し,タリム盆地ではカラ=ハン朝,アフガンではガズナ朝が建国される
 とくにオグズ人はテュルクマーンともいわれ,イラン高原からイラク・シリア・アナトリア半島にかけてセルジューク朝を建設し西アジアを席巻。ローマ=カトリック教会と結びついたアルプス以北の君主国やイタリア商人の東方拡大である「十字軍」の進出と衝突する。


・東アジアでは唐が滅び,貴族文化が衰え新興地主層が台頭して市場経済が発展し,五代十国時代を経て宋が建てられる。江南の開発がすすみ,沿岸の港市も繁栄する。
 北海道周辺には狩猟採集民のアイヌが交易で台頭する。
 唐王朝の滅亡後,定住農牧民の世界には,中国に五代十国,朝鮮半島に高麗,雲南に大理,沿海州に渤海が並び立つ。


・東南アジアでは集約的な灌漑農耕により各地で政治的な統合がすすみ,カンボジアのアンコール朝クメール王国,タイ中流部にモン人のハリプンチャイ王国,下流部にラヴォ王国,ビルマのパガン朝,ヴェトナム北部に大越,南部にチャンパーが栄える。

・南アジアではデカン高原以南にヒンドゥー教の諸王国が,集約的な灌漑農業や海上交易によって栄える。東南部のチョーラ朝【本試験H31】は東南アジアのマラッカ海峡に進出し,シュリーヴィジャヤ王国と抗争する。

・西アジアにはテュルク〔トルコ〕系が大移動し,各地で政権を樹立する
 西アジアでは従来のイラン系に代わってテュルク系の進出を受け,各地にイスラーム教を保護する支配者による地方政権が自立するようになって,アラブ人のカリフの権威が衰えた。

・ヨーロッパでは,2度目の民族大移動(ノルマン人,マジャール人,スラヴ人)の影響を受け,地域内の交流が活発化,森や低地の開発も進展し「拡大」の時代を迎える

 西ヨーロッパではフランク王国が現在のフランス,ドイツ,イタリアを統合。東地中海方面のローマ帝国(いわゆる東ローマ帝国;ビザンツ帝国)と対抗する。

 フランク王国の分裂後は地方政権が分立する。
 特にイングランド(デーン人の支配地域への再征服が進められ,10世紀後半までには国王の宮廷と州からなるアングロ=サクソン人の統一王国が成立し,国王も「イングランド王」と呼ばれるようになっていた),フランス(例えば〈フィリップ2世〉(1180~1223)は王領を拡大),ドイツの王権が抗争した。
 人口増にともないドイツ人は東方に移動し(ドイツ東方植民),東ヨーロッパ・中央ヨーロッパ・バルカン半島に拡大していたスラヴ人のポーランド,ベーメンなどの王権と対立した。この2国をめぐっては,ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会との間に“布教合戦”が繰り広げられたが,東方(ドニエストル川流域から9世紀末にカルパティア盆地に移動)から移住したマジャール人のハンガリー(9世紀初めに建国されていたモラヴィア人の国を滅ぼし,ザクセンとバイエルンを圧迫した)とともに,最終的にはローマ=カトリックを受け入れた。
 イベリア半島では西部ではレオン王国が後ウマイヤ朝と領土を争い,南部のセビーリャを奪回したことからイタリア商人が直接北海に進出できるようになった点は重要。東部ではバルセロナ伯領(旧・スペイン辺境伯領【立命館H30記】)が拡大して1137年にはアラゴン王国と統合した。イベリア半島(イスラーム側からはアンダルスと呼ばれた)ではイスラーム商人,ユダヤ商人が活躍し,北アフリカ,シリア,パレスチナとの交易ルートをめぐり,マケドニア朝のビザンツ帝国(867~1056)と抗争した。皇帝〈バシレイオス2世〉(位976~1025)はブルガリア王国を併合して,最盛期を迎えた。
 これら諸国の支配層(君(くん)侯(こう))は,国を超えた家門どうしの婚姻(こんいん)によって結びついたが,相続をめぐる争いも起きるようになっていく。また第二次民族大移動の影響を受け,各地に城塞(じょうさい)が建築されるようになっていった。交易ルートが危険にさらされたことで,食料確保のために王侯の指導で森林が切り拓かれ,湿地が干拓された。君侯は修道院の労働力を利用し土地の開墾がすすみ,次々に新しい村がつくられた。原生林が減ったヨーロッパでは交流が活発化し,各地で都市も成長した。都市から都市を渡り歩く修道院が,当時のヨーロッパの情報や資金のネットワークをつくっていく原動力だったが,その富に目をつけた君侯による私物化もすすみ,教皇の座をめぐる内部抗争とも結びつき聖職叙任権闘争につながる。

バルカン半島では,スラヴ人のセルビアや東方から進出してきたブルガールが,ビザンツ帝国と対立しつつキリスト教の正教会を受け入れている。
 北方のノルマン人はキリスト教を受け入れ,イングランド,北フランス,ロシア,南イタリアに移動して建国するとともに,北アメリカにも進出している。ノルマン人の騎士はローマ教皇と手を結び,地中海地域の一体化にも貢献する。

(注1)現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州に位置します。写真は,参照 ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.298-299。
(注2)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.11



(2) アフリカ
 アフリカ大陸では北アフリカ地中海沿岸に,イスラームの地方政権やベルベル系の政権が並び立つ。
 ニジェール川流域では,ニジェール=コンゴ語派マンデ諸語系のガーナ王国(9~12世紀)は,11世紀後半にベルベル系のムラービト朝の南方への進出を受けて滅亡する。チャド湖周辺にはカネム王国が栄える。
 東アフリカのインド洋沿岸部には,アラブ人やペルシア人の植民が進み,アラビア半島南部のイエメンやペルシア湾岸,南インドとのダウ船による季節風交易で栄え,スワヒリ文化圏を形成する。

(3) 南北アメリカ
 北ヨーロッパのノルマン人(ヴァイキング)の一派が,1000年頃に北アメリカ沿岸に到達した。スペインの支援を受けて〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する約500年前のことだった。
 北極圏の寒冷地では,従来のドーセット文化に代わり,現在のエスキモー=アレウト語族の原型となるテューレ文化が拡大する( 現在のエスキモー系の民族は,おおきくイヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいる)。

 アメリカ大陸では北アメリカ南西部の古代プエブロ人がチャコ=キャニオンに巨大な建造物を生み出している (注1)。ミシシッピ川流域,大西洋岸の農耕民地帯も拡大し,にミシシッピ川流域には神殿塚文化が栄える。
 カリブ海では,アラワク人がカヌー(カヌーはアラワク語)で南アメリカ北部からカリブ海に進出。キャッサバ農耕や漁撈を営む。
 中央(メソ)アメリカではマヤ文明の中心地はマヤ地方北部に移動し,メキシコ高原ではティオティワカン文明の崩壊(7世紀中頃)以降はトゥーレなど中規模の都市国家が並びたつ。

 南アメリカではアンデス地方でワリ文化,ティワナク文化が衰退に向かい,アンデス地方は地方政権(北部沿岸のシカン文化など)が各地で栄える。


(4) オセアニア
 オセアニアではポリネシア人の拡大が最終局面を迎え,北はハワイを頂点に,南西のニュージーランド(1250年頃到達),南東のラパ=ヌイ島を結ぶ巨大な三角形(アメリカ合衆国の本土の2倍に相当)の範囲を占めるに至る。彼らは地球でもっとも広範囲に拡散した民族の一つだ(注2)。




解説

① 「中世温暖期」にあたるこの時期には,ユーラシアの陸海の交易ネットワークが拡大する
 この期間は,地球全体の温暖化が進行した時期にあたります(中世温暖期(注1))。ユーラシア大陸には,都市と都市を結ぶ交易路が紀元前から網の目のように発達してきました。これが13世紀にかけてより一層発展していき,アフリカ大陸からユーラシア大陸にかけて伸びる陸海の巨大な交易ネットワークが形成されていきました。
 交易で交換されるものは物だけとは限りません。人や動物,病気(疫病),それに加えて文化もユーラシア大陸を東西に越えて移動していくことになりました。特に,文化の交換により異なる地域で発展した情報の交換が進み,文化の発展にかかるスピードがどんどん早くなっていきます。「751年に唐から西方に伝わった」とされる製紙法も,情報の伝達量とスピードに貢献しました(注2)。
 また,東西で感染症の交換が起きたことで,はしか,天然痘,腺ペストなど一地方の感染症が地域を超えて広まる疫病の交換も起き,相当な被害者が出たと考えられます(医療 ペストの大流行)(注)。
(注)マクニールは,ある疾病の原因となる感染症を保有する集団を「疾病共同体」と呼び,その内部での流行をエンデミック(局地的流行),それをを超えた感染症の流行を「パンデミック」と呼びました。W.H.マクニール『疾病と世界史』新潮社,1985。

 こうした東西の交易に大きな役割を持っていたのは,陸では騎馬遊牧民やオアシス国家,海では海洋を支配した港市国家です。この時点では,農耕地帯を支配する国家がこうした陸と海のネットワークを支配下に置くことはまだできていません。
 各地域内の交易も盛んになり,ヨーロッパでは南北を結ぶ交易路が開発され,ゴシック様式の教会が各地に建てられました。西アフリカでは,地中海とサハラ沙漠以南を結ぶ交易も盛んになります。

② 世界各地で「開発」と「技術革新」が進む
 一方,農耕地帯を支配した国家は,積極的に農業生産力を向上させようと努めるようになります。従来の国家は,戦争により征服地から食料や資源を奪ったり租税をとることを重視していましたが,それにもやはり限界があります。10世紀頃から温暖な気候もあり世界各地で食料生産量が増加したことも手伝って,農業開発や技術革新が盛んになります。
 開発が進んだのは従来は“辺境”とされていた地域でした。長江流域や東南アジアの大河の河口の稲作地帯が大規模に開発され,北部の黄河流域を抜き南部の長江下流域が人口密集地帯となっていきます(注3)。
 中国南部では新たな米の品種(占城稲(せんじょうとう) 【追H26時期は9世紀後半~13世紀だが、黄河流域ではない】 【東京H19[1]指定語句,H26[3]】)が導入されました(米の品種改良)。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地で酒楼(しゅろう)や喫茶【追H20宋代の中国に江南で広く栽培されるようになった作物を問う。トウガラシではない、H27時期を問う】がにぎわいをみせました。農業用の鉄器や陶磁器の生産量も増加し,その窯で用いられていたコークス(石炭を蒸したもの)を鉄鍋料理の高火力に用いたことが,現在につながる“中華料理”のルーツとなります。



 同じ頃のヨーロッパでも、農業分野で多くの技術革新(イノベーション)が起きました(注4)。
 三圃制(さんぽせい) 【本試験H19時期(6世紀ではない)】が導入され,馬の首あてが改良され,重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき) 【追H26】【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】【本試験H17】が発明されました。特に重量有輪犂によってより深く固い土を耕すことができるようになり,農業生産性がぐんと上がります【追H26】。余剰生産物が増えると商業都市が発達し,民衆の文化も発展,各地にゴシック様式の教会が建造されました。
 この時期には北ヨーロッパや東ヨーロッパでも農業がさかんになったため,新たな土地を求めたノルマン人やスラヴ人による人口移動も盛んになります。
 東南アジアでは,灌漑農業を奨励した王朝により,東西南北の交易ネットワークの中心にであるアンコールに巨大記念建造物アンコール=ワットが造営されます。イスラーム世界に,アフリカ原産の綿やモロコシ(ソルガム)が登場するのもこの頃です。
 アフリカのサハラ沙漠以南の地域でもサハラ沙漠を越える塩金貿易【追H30】が活発化し,ニジェール川流域では農耕も栄えます。

 さて,これら農耕文明の富と,陸海に発展した交易路を一挙に管理下に置いていくのが,次の時期で登場するモンゴル帝国です。その前段階として,ユーラシア北部の騎馬遊牧民がユーラシア中央部から南部の農耕定住民地帯に国家を建国していきました。
(注1) IPCC第4次評価報告書(2007年)は,950年~1100年の北半球における平均気温が,この2000年の間では温暖だったことが示唆されるとしています。
(注2) 11世紀初頭のカイロ(エジプト)の図書館には10万冊の蔵書があり,その多くが紙の本であったといわれます。デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.258。
(注3) 同上,2016年,p.261。
(注4) リン=ホワイト=ジュニアはこれを「中世の農業革命」と呼びます(リン・ホワイト・ジュニア『中世の技術と社会変s道』思索社、1985年)。




●800年~1200年のアメリカ

◆この時期に北米のヴァイキングが有史以来初めて北アメリカと接触する
ヴァイキングが北米に到達,中南米の交流が広域化

○800年~1200年のアメリカ  北アメリカ
◆北アメリカでも農耕を基盤とする地域的な政治統合がすすむ

・800年~1200年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国,②カナダ
北アメリカ北部 (寒帯・冷帯エリア)
 北アメリカの北部では,1000年頃には,現在のイヌイットの祖先であるテューレ人(テューレ=イヌイット)が,アザラシやセイウチの狩猟技術を発展させ栄えました。彼らの言語はシベリアの北東部の言語と近縁です。
 北アメリカには,アイスランドのヴァイキングが到達しています。この時代には,1000年頃にヴァイキングの〈エリクソン〉が,葡萄の実る豊かな国「ヴィンランド」を発見したとされ(彼らの叙事詩『サガ』によります),彼らが植民した場所を,記録を元にノルウェーの歴史学者が1960年代に調査したところ,ニューファンドランドのランス=オー=メドー(世界文化遺産,1978)であることが突き止められました。
 この地では8か所の住居跡,製材所,鍛冶場のほかに,青銅器や鉄器も発見されており,北アメリカ大陸初の鉄の精錬が行われていたことがわかっています。

 テューレ人の一部は,気候の温暖化にも助けられ,グリーンランドに移動しました。テューレ人がヴァイキングの文化と接触した可能性もあります。


◆北アメリカ南西部に巨大建築物と大集落がつくられたが,森林破壊が進み12世紀に崩壊した
集落が大規模化し,南西部に神殿が建設される
北アメリカ北東部 (温帯・冷帯エリア)
 北アメリカの北東部にはイロクォア語族などが分布しています。彼らは同じ氏族に属する数家族がロングハウスという樹皮でつくった木造の長屋に暮らしていました。

北アメリカ東南部 ミシシッピー川流域 (温帯エリア)
 北アメリカ東南部には,この時期にトウモロコシが伝わりました。この結果,余剰生産物が発生し,首長による政治的な統合がみられるようになります。
 現在のイリノイ州のカホキアには多くのマウンド(埋葬塚)が残されており,強力な支配階層が出現し1250年頃まで栄えました。これがユーラシア大陸で農牧民を支配した国家と同じような「国家」といえるかどうかは,よくわかっていません。
 1000年頃には,現在のオハイオ州南部にグレート=サーペント=マウンドが建造されています。

北アメリカ西南部 コロラド高原流域 (乾燥エリア)
 北アメリカの西南部のコロラド高原では,トウモロコシの灌漑農耕によって大規模な集落ができていました。
 「中世温暖期」にあたる860年~1130年にかけては,チャコ=キャニオンに数千の部屋をもつ5階建ての大規模な集合住宅(一部は神殿として用いられていた可能性もある)が建設されています(注1)。周辺に生い茂っていたオークの林の伐採がすすみ12世紀には放棄されたことがわかっています(注2)。人口の増加と生態系の悪化による文明崩壊の例の一つといえます。
 また,コロラド州のメサ=ヴェルデ国立公園には,崖下に建設された大規模な住居群(クリフ=パレス)が残されており,礼拝所とともに貯水・灌漑施設も整備されていました(世界文化遺産,1978)。
(参照)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.242-243
(注1)現在のアメリカ合衆国ニューメキシコ州に位置します。奥行きは200メートル,幅は95メートルであり,ニューヨークに20世紀後半に「摩天楼(まてんろう)」が出現する前は,北アメリカ大陸最大の建築物でした。写真は,参照 ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.298-299。
(注1)同上,pp.319-321




○800年~1200年のアメリカ  中央アメリカ
マヤやサポテカの諸都市が放棄され,中央高原は諸国家が割拠する

◆マヤ文明の中心は北部に移動する
マヤの中心が北部(チチエン=イツァーなど)に移る
 ユカタン半島を中心とするマヤ地域の高山地域(マヤ高地)の都市国家は,おそらく人口の過密や土地侵食・森林破壊などの農業環境の悪化により次々に放棄されていきました。840年頃には大きな干(かん)ばつが起こっていることもわかっています。マヤの暦(長期暦)に記された最後の日付は909年(または899年)です。

 マヤ文明の中心はマヤ低地北部のチチエン=イツァーに移り,「後古典期」(900年頃~1524(1541))が始まりました(注1)。マヤ低地北部には250年以前の先古典期から存続していた都市もあるので,すべての諸都市が「古典期」の終焉とともに「滅んだ」というわけではありません。
 北部にはセノーテという地下水の湧水池があって,灌漑農耕に使用されました(セノーテの形成には隕石の衝突が関わっているという説があります)。
 チチエン=イツァーの担い手であるイツァー人の出自には諸説あります(古典期マヤ文明に比べ碑文を残す文化がないので,史料がぐっとすくなくなります)が,おそらく低地マヤ地域の中部から移動してきたのではないかとみられています。ケツァルコアトル神信仰や,メキシコ方面の文化の影響もあることから,トルテカ人が移動してきたのではないかという説もあります。

 また,マヤ文明の中心が北部に移った背景には,交易ルートが内陸ルートから沿岸部を通るルートに変更したからだという説もあります。

 なお,マヤ南部の高地(マヤ高地)でも,キチェー人(マヤ神話『ポポル=ヴフ』を記録した民族)のウタトランとカクチケル人のイシムチェなどの諸都市が栄えています。

(注1)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.23。
(注2)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.122。
(注3)ジェレミー・サブロフ『新しい考古学と古代マヤ文明』新評論,1998。

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地ではモンテ=アルバンが放棄され,ミシュテカ人が台頭する
 メキシコ高原南部のオアハカ盆地ではサポテカ人によるモンテ=アルバンが1000年頃に放棄されます。サポテカ人の諸都市の王朝には,代わってミシュテカ人が入り込んでいき,代わって台頭します(900~1522)。これ以降は,中規模の都市が並び立って栄える時期となります(注)。ミシュテカ人は巧妙な装飾品に優れ,「ナットール絵文書」などからその歴史が研究されています。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010,p.45。

◆メキシコ高原北部には,複数の国家が並び立つ
 メキシコ高原ではティオティワカンに代わって,いくつかの中規模な国家(カカシュトラ,トゥーラ,テオテナンゴ,ショチカルコ,エル=タヒン,チョレーラ)が栄えます。
 このうちチョレーラは,後1世紀以降に栄えたケツァルコアトルの聖地です。



○800年~1200年のアメリカ  カリブ海
 カリブ海域にはアラワク語族の人々が分布し,各地で首長による政治的に統合されています。





○800年~1200年のアメリカ  南アメリカ
◆アンデス地方ではワリ文化が拡大する
 この時期の南アメリカでは,ペルーの北部海岸地帯で栄えていたモチェ文化は衰退。
 南部海岸地帯のナスカ文化も衰退しています。

 アンデス地方中央部,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から12世紀頃までティワナク文化が栄え(8世~12世紀が最盛期),同時期には現在のペルー南部からチリ北部にかけてワリ文化が栄えました(6~11世紀が最盛期)。
 特にワリ文化の影響は,山地と沿岸部を合わせて広範囲に及びます。

◆アンデス地方の北部海岸地帯でシカン文化,チムー王国が栄える
 ペルーの北部海岸地帯のモチェ北方の政権は,拡大するワリに貢納する僻地となっていました(注)。
 そのワリの影響を受けつつ,モチェでは9世紀にシカン文化が発展しました。金属製作や交易に長ける人々を担い手とします。
 そのシカン文化を吸収するようにして,1200年頃以降,ペルーの海岸地方のチャン=チャンを中心としてチムー王国が建てられます。 

(注)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化とシカン文化の関係」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.180。


◆アマゾン川流域の定住農耕集落の規模が大きくなる
 アマゾン川流域(アマゾニア)には,1000年~1500年の間に定住農耕集落の規模が大きくなります。
 1970年以降ようやく研究が進むようになったこの地域の複雑化した社会のことを,「アマゾン文明」と呼ぶ研究者もいます。アマゾン川流域の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭に,排泄物・木の葉・堆肥などの有機物をまぜて農耕に向く黒土(テラ=プレタ)を開発していたと考える研究者もいます(注)。
(注)実松克義『驚異のアマゾン文明』講談社,2004,p.68。





●800年~1200年のオセアニア

○800年~1200年のオセアニア  ポリネシア

◆ポリネシア人の拡散が最終局面を迎え,イースター島では盛んに石像が建造される
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

 ポリネシア人は,1000年頃にツバルに移住し,ツバルからソロモン諸島,ミクロネシアの南部にも移動していきました。
 12世紀ごろにはポリネシア人のトンガのトンガタプ島に,〈ツイ=トンガ11世〉によって建設されたとする巨石建造物が建設されるなど,首長を中心とする身分制社会が形成されていました。

 ポリネシア人の移動したイースター島でも,1100年頃からモアイという石像が建てられるようになりました。イースター島の家畜は,ニワトリだけ。大型の家畜を持たないために島を横断して石像を運ぶには,人力で引きずるか丸太を転がすしかありませんでした。サツマイモを主体とする食糧生産に労働力を必要としなかったため,支配層を中心に複雑な祭祀が執り行われました。(注)。12~15世紀の最盛期の人口は1万人前後と推定されています。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.14。


 なお,ポリネシア人はそのまま東に進み,南アメリカ大陸に到達していた可能性があります。
 クック諸島のマンガイア島では,紀元後1000年にサツマイモを食べていた証拠も見つかっています。
 〈コロン〉〔コロンブス〕がアメリカ大陸に到達する以前に,サツマイモは,マルケサス島→イースター島・ハワイ島・ニュージーランドのポリネシア地方に,太平洋航海者によって広がっていたのです。南アメリカ大陸の人々が逆にオセアニアに進出したという人類学者〈ヘイエルダール〉(1914~2002)の説は,今日では否定されています(ちなみにヘイエルダールはペルーから8000km離れた南太平洋まで,いかだで到達する実験を成功させています)。




○800年~1200年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ)は,オーストラリア大陸の外との接触を持たないまま,狩猟採集生活を営んでいます。
 タスマニア人も,オーストラリア大陸本土との接触を持たぬまま,狩猟採集生活を続けています。



○800年~1200年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
  ヨーロッパ人の到達以前のメラネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
 現①フィジーは,地理的にはメラネシアに分類されますが,古くからポリネシア文化との交流があり,メラネシアとポリネシアの“交差点”としての役割を果たしています。
 この地域にはオーストロネシア諸語を話す人々が分布しています(注)。
(注)オーストロネシア諸語とは,今から5000年ほど前に台湾で話されていた「オーストロネシア祖語」のことをいいます。「オーストロネシアン――言葉で結ばれた人びと――」菊澤律子研究室,国立民族学博物館(http://www.r.minpaku.ac.jp/ritsuko/japanese/essays/languages/austronesia_people.html)




○800年~1200年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 ヨーロッパ人の到達以前のミクロネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
 この地域にはオーストロネシア諸語を話す人々が分布しています。

 ④ミクロネシアのヤップ島では,1000年頃からタロイモ栽培の規模が大きくなり,階層的な社会が成立しました。ヤップ島では中央に穴のあいた巨大な石の貨幣が威信財として使用されていました。巨石貨幣は,⑤パラオや北マリアナ諸島の⑥サイパンで製作されたものです。

 他のサンゴ礁島では,ヤップ島のような火山島のとは異なり資源が限られていたため,周辺の島々との交易によって不足する資源がやりとりされました。





●800年~1200年の中央ユーラシア

 7世紀中頃以降,黒海北岸からカスピ海北岸にかけて,積極的に交易活動に従事したユダヤ教の国家ハザルは,10世紀以降は遊牧民ペネチェグ人やキエフ公国のルーシの攻撃を受けるようになり,965年にキエフ公国により滅びました。

 チベット高原では,7世紀初め,〈ソンチェンガムポ〉(ソンツェン=ガンポ,在位593~638,643~649) 【本試験H16】が氏族を統一し,吐蕃(とばん)王朝【京都H21[2]】【本試験H9[14]ヴェトナム北部ではない,イスラム文化と中国文化は融合していない,フビライの攻撃で滅んでいない】を建国しました。彼はネパールから王女として〈ティツゥン〉を招き,インド方面から学問を取り込みました。また,当時仏教の盛んだったカシミールからサンスクリット文字を学び,チベット文字【本試験H4南詔でつくられたのではない,本試験H9】がつくられました。641年には唐から〈太宗〉の娘〈文成公主〉をいただき,友好関係を築きます。しかし,7世紀後半になると,タリム盆地に向かう交易ルートを奪うために唐と対立するようになり,670年には唐が西域支配の急先鋒にしていた安西都護府を一時亀茲から立ち退かせ,突厥と結んで攻撃をしました。その後,〈デツクツェン〉王(位704~754)は和平を結び,仏教・儒教・道教が伝わり,〈ティソンデツェン〉王(位754~796)のときに密教が伝来し,仏典がチベット語訳され始め,もともと信仰されていたボン教というシャーマニズムも取り込んで,独自のチベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)に発展していきます。

 なお,大乗(だいじょう)仏教は,2世紀頃に南インドの〈龍樹〉(ナーガルージュナ)により体系化された新仏教で,密教は大乗仏教への反発から起こったものです。ただ,大乗仏教的な要素は,チベット仏教にも強い影響を与えています。
 大乗仏教では,「すべての命あるものが悟ることができるまで,自分自身は悟らない!」と決心した優しさに満ち溢れた菩薩(ぼさつ)という存在を信仰します。菩薩は,人々を仏教で導く王に化身(けしん)すると考えられ,チベット仏教ではその「菩薩王」が,多数生み出されました。〈ソンツェンガムポ〉王や〈ティソンデツェン〉王もその一人なのです。

 吐蕃【追H29唐に侵入したのは吐蕃であって,西夏ではない】は唐が安史の乱で混乱しているところを狙い,長安を占領し(848年まで),790年には亀茲の安西都護府を陥落させ,ウイグルと対抗し,東西貿易ルートを支配下におさめるにいたります。こうして,チベット文化,チベット仏教は,タリム盆地を越えて,広がっていくことになるわけです。なお,〈ディツクデツェン〉王(位815~841)は唐と和解(唐蕃会盟(とうばんかいめい))しています。



◆パミール高原以西・以東のテュルク化とイスラーム化が進んだ
テュルク系が西に移動し,イスラーム化がすすむ
 840年にキルギス【京都H19[2]】の進出によって,ウイグルはモンゴル高原を追われます【追H28中央アジアでは「匈奴」の分裂をきっかけとしてトルコ化が進んだのではない】【H29共通テスト試行 地図(「トルコ系の勢力は,モンゴル高原から西方に広がった」ということの読み取り)】。
 キルギスはその後モンゴルに支配され,パミール高原のほうに移動し,現在に至ります。遊牧帝国は建設しなかったのです。

 モンゴル高原を出たウイグルは,天山山脈あたりで国家(天山ウイグル王国)を形成し,別の部族はさらに西でカルルクという遊牧民と合流して建国しました。
 後者はおそらく突厥の有力氏族(阿史那)の血を引くと首長する者が「カガン」を名乗り,940年にカラ=ハン(カラハン)朝【京都H19[2]】【追H19時期、H21イラクの王朝ではない】を建国したといわれますが,定説はありません。

 カラ=ハン朝【京都H19[2]】はテュルク系民族として初めて,(1)タリム盆地周辺と(2)アム川・シル川上流部を合わせた地域を支配しました。また,〈サトゥク=ボグラ=ハン〉の代に,西から伝わったイスラーム教に王や住民が一斉に改宗したという伝説が残されています。999年にはブハラを攻撃して,サーマーン朝【本試験H24】【追H19時期、H21】を滅ぼしました。
 なお,(1)と(2)の境はパミール高原です。カラ=ハン朝は11世紀の初めには,コータンやクチャといったオアシス都市も支配下におき,11世紀後半には住民の多くがテュルク系の言語を話すようになっていました。
(1)と(2)を合わせた地域は,テュルク系の言語を話す人々が増えたこと(注1)からトルキスタンと呼ばれるようになり,(1)を西トルキスタン,(2)を東トルキスタンと呼ばれます。 (1)の中心都市としてはカシュガルやベラサグン(注2),(2) の中心都市にはサマルカンド【本試験H2ソグド人の中心都市であったことを問う】やブハラがあります。この地域の住民は,従来はイラン系の言語を使っていましたが,10世紀を過ぎると次第にテュルク語を受け入れていきます。ブハラやサマルカンドでは,ペルシア語も引き続き使用されました。
(注1)このことをタリム盆地の「テュルク化」とも言います。現在でもこの地方は,テュルク系のイスラーム教徒の多い地域となっています。
(注2)バルハシ湖の南方,天山山脈の北に位置します。

 キルギス人,ウイグル人,カルルク人はいずれもテュルク系の遊牧民です。彼らは抜群の騎馬戦闘能力を誇っていたため,アッバース朝が親衛隊として雇うようになり,彼らは「マムルーク」(奴隷軍人)と呼ばれました。サーマーン朝(875~999)はマムルークを育成・輸出することで栄えました。
 彼らは統一した勢力ではありませんでしたが,個々の集団は強力な軍事力を持っており,やがて政治にも介入するようになり,アッバース朝が衰える主因となっていきます。
 マムルークは異教徒の世界(ダール=アル=ハルブ)から輸入されましたが,テュルク系の人々の活躍が目立っていきます。

 カラ=ハン朝【京都H19[2]】は,1132年ころ,中国から西に逃げてきた契丹人の建国した西遼(カラキタイ) 【本試験H27】によって間接支配を受けることになります。





●800年~1200年のアジア

○800年~1200年のアジア  東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア… 現在①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○800年~1200年のアジア  東北アジア
 中国東北部の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)では,ツングース諸語系の渤海が,モンゴル諸語系とみられる契丹(きったん)の建てた遼(916~1125)【東京H6[3]】に926年に滅ぼされ,代わってツングース諸語系【追H27モンゴル系ではない】の女真(女直,ジュルチン)人【追H27半猟半農生活を行っていたか問う】が拡大していきます。
 しかし926年に渤海は契丹(キタイ)により滅び,代わって沿海州の女真は複数の首長によって統合がすすみます。契丹は遼を建国し,中国文化を受け入れて皇帝を宣言し,中国進出をすすめます。契丹の北方のモンゴル高原では,タタール人やモンゴル人が成長していました。
 のち,女直の建てた金(きん)(1115~1234)は1125年に遼を滅ぼし,中国北部に進出して北宋(960~1126)を滅ぼします。南宋と和平が結ばれ,金(1125)は沿海州から淮(わい)河(が)付近までの広範囲の遊牧民と定住農牧民を支配下におさめました。南宋の支配権は中国南部に限られ,“半壁(はんぺき)の天下”と呼ばれる状況となります。

◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

◆極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注1)/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃にチューレ文化が生まれました。チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,銛(もり)(精巧な骨歯角製)・弓矢・そり・皮ボート・調理用土器・ランプ皿・磨製のスレート石器が特徴です(注2)。
(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項



○800年~1200年のアジア  東アジア
◆朝鮮・大越(現ヴェトナム)・日本では,中国の文化を導入しつつ独自の文化が生まれる
 東アジアの秩序のど真ん中にあった唐が,907年に滅びたことは,東アジアの諸国家にも影響を与えます。唐の文明を参考にしつつ,各国がオリジナリティーあふれる文化を形成していくのがこの時代です。

◆朝鮮半島を高麗が統一する
 朝鮮半島では新羅末期の混乱(後三国時代)を経て,〈王建〉(位918~943) 【追H9朱子学は栄えていない,H29高麗を建てたか問う,H30王莽ではない】が都を開城【本試験H22慶州ではない】【追H30】【慶・法H30】に定め高麗【追H24モンゴルの服属を受けたか問う,H29】を建て,935年には新羅を吸収し,936年に朝鮮半島を統一しました。高麗は科挙【本試験H21】により官僚を登用しましたが,新羅以来の貴族の力がまだ強く,科挙の合格者 (両班(ヤンバン))【本試験H8明の制度を取り入れていない】が実権を握る体制とはなっていませんでした。
 儒教も研究されましたが,仏教も盛んで,経典をまとめた『高麗版(こうらいばん)大蔵(だいぞう)経(きょう)』【本試験H17墨家とのひっかけ】が編纂されました。中国以外の磁器としては初となる高麗青磁(こうらいせいじ) 【東京H9[3]記述(特徴を説明する)】【共通一次 平1:赤絵ではない】が有名です。また,世界最古の金属活字【追H19高麗か問う,H28高麗で「金属活字が作られた」か問う】【共通一次 平1:銅活字であったか問う】【本試験H11:15世紀初めに実用化されたか問う,新羅ではない】【本試験H22朝鮮王朝ではない】が発明されましたが,広く普及はしませんでした(ちなみに銅による活字は15世紀初めの朝鮮王朝の時代)。漢字は種類が多く,活字には向かなかったのでしょう【共通一次 平1:訓民正音は高麗時代には用いられていない】。
 1170年以降は武人(武班)が政権を握り,文人(文班)は迫害を受けるなど,科挙官僚が実権を握る仕組みは作られませんでしたが,次第に宋代の中国で確立され13世紀に朝鮮半島に伝わった朱子学も普及していきました。

 ヴェトナム北部では中国からの独立政権ができ,1009年には李朝(りちょう)が国号を大越国【追H18】として独立しました。

 雲南地方では,南詔(なんしょう)にかわって,チベット=ビルマ系のペー族の大理(937~1254) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H18大理→南詔の順ではない】が支配権を握ります。雲南というのは,チベット高原方面から,中国の南部にかけて高原地帯が続いているところで,長江とメコン川の上流地域です。“高原地帯の勢力は,なかなか落としにくい”の法則通り,独立を保ったまま,唐から冊封(さくほう)されました。ペー人は現在でも200万人足らずいて,米が主食でワサビを食べるなど,日本と似通った文化を持つ方々です。

◆日本では分権的な体制が発達し,武家政権が成立する
 日本では,784年に長岡京,794年に平安京に遷都され律令制に基づく国家が建設されていましたが,しだいに天皇の実権は失われ,貴族・院・武家や寺社勢力が荘園(しょうえん)を財政的な基盤として同時に存在する分権的な体制が生まれていきました。
 漢字を参考にした仮名文字や,『源氏物語絵巻』のような大和絵(やまとえ)がつくられ,国風文化が栄えます。しかし〈平清盛〉(たいらのきよもり,1118~81)【本試験H30】が,武士として初めての太政大臣に就任し,日宋貿易で宋銭を輸入することによって貨幣経済を活発化させようとしました。彼の政権(平氏政権【立命館H30記】)は,日本初の武家政権です。しかし12世紀末に源氏と平氏の抗争が勃発し,平家は滅亡。勝利した〈源頼朝〉(みなもとのよりとも,1147~99)は鎌倉幕府を開いています【本試験H21時期】。



○800年~1200年の東アジア  現①日本
 北海道の人々は,6~7世紀から引き続き,擦文式土器を特徴とする擦文文化を生み出していました。
 沖縄諸島の人々は“貝の文化”ともいわれる先史文化が12世紀前後まで続きました。海産物が腕輪や首飾りなどに加工され,日本列島につながる“貝の道”という交易ルートが発達していました。沖縄諸島には水稲耕作は伝わっていませんでした。
 また,宮古・八重山諸島では台湾やフィリピンなどの文化の影響が強く見られます。

・800年~1200年のアジア  東アジア 現③中国
唐が衰えると,東アジア各地で独自の政権が自立した。唐の滅亡後,遊牧騎馬民族が中国内で政権を建てたが,それを統一した宋は“小さな中国”をめざし,江南開発・海上交易を発展させた。

◆唐が滅亡すると中国は,突厥の一派による政権と,南部の漢人地方政権に分かれた
ウイグルの強大化,黄巣の乱により唐は滅亡へ
 唐は財政難に陥り塩の専売制を導入しますが,原価の数十倍もの課税は“超大型間接税”(歴史学者〈砺波護〉(1937~)の表現)に等しく,民衆の負担は過酷なものでした。
 また,安史の乱(755~763)の鎮圧に強力したウイグルの勢力が強まったことは,第15代皇帝〈武宗(ぶそう)〉(位840~846)による外来宗教の大弾圧の背景となりました。このときには仏教もターゲットとなり,三(さん)武一宗(ぶいっそう)の法難(ほうなん)の一つに数えられますが,ウイグルの信仰していたマニ教に対する弾圧が主な目的です。
 こんな混乱の中でも日本からの遣唐使の派遣は続いており,のちに〈最澄〉に師事して天台宗の山門派をひらく〈円仁(えんにん)〉(794~864)は,最後の遣唐使についての『入唐(にっとう)求法(じゅほう)巡礼(じゅんれい)行記(こうき)』でその様子を書き留めています。結局894年には〈菅原道真〉の建議で遣唐使は廃止。
 結局9世紀後半の黄巣の乱(塩の密売商人の〈黄巣〉による反乱) 【本試験H19紅巾の乱とのひっかけ,本試験H22北宋代ではない,本試験H26呉楚七国の乱とのひっかけ】により混乱しました。彼は,何度も科挙にトライして不合格となった人物で,同業者の〈王仙芝〉とともに挙兵しました。当時最大の貿易港であった広州の節度使就任を要求しましたが拒否されると,879年に広州に侵攻し,外国人居留地(蕃坊(ばんぼう))でイスラーム教徒のアラブ人やペルシア人(大食(タージー))を初めとする多数の外国人が殺害されました【本試験H3アッバース朝の頃,ムスリム商人の活動範囲が「遠く東南アジアや中国にまで及んだ」か問う】。
 その後は,北に反転して長安を占領。長安の皇帝一族は四川に避難します。反乱は884年に鎮圧されたので革命には至りませんでしたが,その頃の唐はもはや“風前の灯火(ともしび)”。
 907年に節度使の〈朱全忠〉(892~912年)によって滅ぼされることになります【本試験H26張角とのひっかけ,H29文字の獄は行っていない】。


◆唐を滅ぼした〈朱全忠〉は商業都市に遷都し,門閥貴族の没落を促した
五代では,商業都市が首都となった
 権力をにぎった〈朱全忠〉は,大運河【本試験H16】が黄河【本試験H16】とまじわる地点にある汴州(べんしゅう【早政H30】,開封(かいほう) 【本試験H2地図上の位置を問う,北宋時代に「空前の繁栄期」を迎えたか問う】【本試験H16】)で即位し,後梁(こうりょう) 【H27京都[2]】を建国しました。従来の黄河流域から大運河の結節点への遷都は,〈朱全忠〉の現実主義的な政策を示しています。

 その後,突厥人が後梁をたおして,後唐(唐を再建したと主張) 【京都H20[2]】を建てました。彼は貴族官僚を粛清(しゅくせい)し,才能を重視した官吏登用をおこないました。つまり,これによって九品官人法以来つづいていた門閥貴族の支配に“とどめ”が刺されたわけです。

 さらに後晋→後漢(五代でもっとも短命)→後周【立命館H30記】と,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)の頻発する不安定な突厥(沙陀(さた)部)の政権がつづきます。



◆江南では高い経済力を背景として独自の政権が立てられ、文芸が盛んとなった
江南では南唐と呉越がしのぎを削る
 一方江南は,節度使の自立した藩鎮による十国が並び立ち政治的には比較的安定し,経済的には江南の開発をすすめて海上交易も発展しました。
 十国(じっこく)とは、前蜀(ぜんしょく)、後蜀(こうしょく)、呉(ご)、南唐、呉越(ごえつ)、荊南(けいなん)(南平)、(びん)、楚(そ)、岐(き)、燕(えん)、南漢、北漢など10あまりの国を指します。実力で王朝を樹立した十国の君主は、五代の皇帝と対等であるという意識をもっていました。
 とくに長江下流部(現在の浙江省と江蘇省の一部)を支配した呉越(907~978年)の経済力は強く、建国者の〈銭鏐〉(せんりゅう、太祖、位907~932)は杭州出身の、元・塩の密売商人。唐末に唐の将軍の下で黄巣の反乱軍を鎮圧し「鎮海節度使」となるもさらに周辺を占拠し907年に華北の後梁から呉越王に封じられました。王は、杭州を流れる銭塘・江海塘を修理し、太湖の水防・灌漑施設の建設を実施し、農業生産力を向上。同じく十国の南唐と抗争しつつ日本や契丹・高麗・渤海、十国の閔・南漢との交流も持ち栄えますが、5代〈銭弘俶〉の代978年に宋に敗れ、領土が献上されました。

 呉越のライバルであったのは南唐(937~975年)です(「唐」を名乗りましたが、歴史上の他の「唐」と区別するため南唐と呼びます)。
 はじめ淮南(わいなん)・江東地方には902年に〈楊行密〉(ようこうみつ)が建国した呉(ご)都が揚州を都としてありましたが、937年に呉の〈李昪〉(りべん)が呉を滅ぼし、南唐を樹立。都は金陵(現在の南京)に置かれました。
 975年に宋の〈太祖〉に滅ぼされるまで38年という短い間ですが,江南の経済を背景に文芸が発達し,宋代に発達することになる南宗画(なんそうが)の基礎が築かれました。戦乱に明け暮れた華北から漢人が移住してきたためです。
 南唐の君主〈李景〉・〈李煜〉は「南唐二主」とも呼ばれ、詞(節をつけた詩)の名人として知られます。


 というわけで,この時代を華北【本試験H6建康が首都ではない】で五代が興亡,江南で呉越・南唐などの十国が並び立った時代ということで,五代十国時代というのです【本試験H19戦国時代,五胡十六国時代,南北朝時代ではない】。10の国が戦国時代のように興(おこ)っては滅び,興っては滅んだわけではありません。




◆中央ユーラシアの騎馬遊牧民は,本拠地を北方に置きつつ,定住農牧民を支配していった
遼、西夏、金が建国され、華北の王朝を圧迫する
 この時期にはユーラシア大陸東部においても,騎馬遊牧民による国家を形成され,中国本土もその影響を受けました。
 かつては中国の漢人を中心とした歴史観の影響から,この時期に北方から南下して中国の農耕定住民地帯をも支配した国家は「征服王朝」(コンクェスト=ダイナスティ、Conquest Dynasty)と呼ばれていました(ドイツ出身の歴史学者〈ヴィットフォーゲル〉(1896~1988)の命名)。
 しかし,中国が純粋な“漢人”“によって支配されたということは歴史上ありえず(隋や唐も鮮卑系の国家です),“漢人ではない異民族が,漢人を支配してつくった王朝”というのは適切な見方とはいえません。

 800年~1200年にかけては,ユーラシア北部の騎馬遊牧民がユーラシア南部の農耕定住民地帯に進出した時期であり,中国の歴史もその流れの中に位置づけられます。
 その影響をもろに受けた華北では,唐の滅亡後,五代(突厥の一部族が王朝を建てています)→大遼(遼,契丹人)・大夏(西夏,タングート人)・金(女真(女直)人)の各王朝が推移します。これらの王朝の支配層には漢人もおり,大夏(西夏)以外には正史が編纂されました。
 先述の通り、中国の南部では,唐の滅亡後,十国(じっこく)と総称される地方政権が並び立ち(南漢・北漢・前蜀・後蜀・呉・南唐・荊南・呉越・閩・楚),十国を統一した北宋に対する北方の大遼(遼),西方の大夏(西夏)の圧力が強まり,金の南下により南方に遷都(南宋)しました。
 以上の南北2つの流れを合わせることになるのが,モンゴル人の王朝である元ということになります。



◆宋は経済発展を背景に,澶淵の盟によって契丹に対する安全保障を実現した
お金で平和を買った,宋
 この時代、宋の周辺では、さまざまな民族による国家が建設されていきます。
 まずはキタイ人です。
 モンゴル高原では,東南部の契丹(きったん。キタイ。モンゴル系です)に主導権が移ります。916年に即位した〈耶律阿保機〉(やりつあぼき,太祖,位916~926) 【本試験H31金の建国者ではない】 【京都H20[2]】は大契丹(だいきったん,のち「大遼」と改称。「遼」【東京H6[3],H10[3]】と呼ばれることが多いです) 【追H27燕雲十六州を加えたか問う、H28二重統治体制の内容を問う】 【共通一次 平1:地図上の領域を問う(淮河付近までは支配していない)】【本試験H14地図(最大領域の範囲を選ぶ),本試験H15,本試験H18匈奴ではない・唐代ではない】を建国しました。
 彼らは渤海(ぼっかい)を滅ぼしモンゴル高原にも進出。彼らの大帝国は「キタイ」として西方にも知られ「中国」の代名詞ともなり,現在では香港の航空会社「キャセイ」パシフィックにその名を残します。
 第2代〈耶律堯骨(太宗)〉のときには,五代の一つである後晋の建国援助した見返りに,河北地方・山西地方の一部燕雲十六州【東京H30[3]】【共通一次 平1:地図上の領域(もっと南の淮河付近までは支配していない)】【追H25地図上の位置,H27契丹が領土に加えたか問う】【本試験H15時期(10世紀),本試験H23ウイグルではない,本試験H29,H30東京】【中央文H27記】を獲得しました。また946年には国号を中国風の“大遼”に変更。同時に“遼”の国号も残し,中国とモンゴル高原をまたにかける支配をねらっていきました。
 遼【本試験H7突厥ではない】の第6代〈聖宗〉【本試験H13耶律阿保機ではない】のときには,のちに宋【本試験H29秦ではない】の第3代〈真宗(しんそう)〉(位997~1022)【本試験H7】との間に1004年,澶淵(せんえん)の盟【本試験H7】【本試験H13史料・耶律阿保機の代ではない,本試験H15唐代ではない,本試験H30】が結ばれました。宋と兄【本試験H7】,遼を弟をみなしすもので,宋は安全保障のために,毎年銀【本試験H13金・鉄・馬ではない】と絹【本試験H13金・鉄・馬ではない】を契丹に贈りつづけることにしました。“お金で平和を買う”作戦です。契丹は宋から贈られた銀により貿易赤字を穴埋めしようとしたのです。
 契丹(きったん)は中国本土の支配にも積極的で,遊牧民と農牧民を同時に支配する二重統治体制を目指しました【追H28「遊牧民と農耕民とを、異なる制度の下で支配した」か問う】。
 遊牧民は北面官が部族制【本試験H14】により,農牧民は南面官が州県制【本試験H14,本試験H16前漢ではない】により支配しました。支配下の漢人は初めは手工業・農業に従事させましたが,のちに参謀などとして中国支配のために利用する場合もありました。
 契丹文字【東京H6[3],H10[3]】【本試験H8満洲文字ではない】【本試験H24時期,H28キリル文字ではない,H30東京(図版)】は太祖がつくったとされる民族文字です。中国の影響を受けた絵画や陶磁器も発達しました。また仏教が信仰され,中京大定府には74mの高さを誇る仏塔(大明塔)が建造されました。

 2つ目はタングート人【本試験H12】【追H21、H28渤海を建国していない】。
 中国からシルクロードへの入り口にあたる,陝西(せんせい)や甘粛(かんしゅく)の地方には,チベット系のタングート人【追H21】が勢力を拡大させていました。982年にはタングート人のうち平夏部の〈李継遷〉が北宋から自立し,1038年に孫の〈李元昊〉(りげんこう,在位1038~48)が西方の寧夏や甘粛にまで支配圏を広げ,皇帝を称して大夏(西夏)(注) 【共通一次 平1:時期(12世紀ではない)・地図上の位置(甘粛の周辺かどうか)を問う】【本試験H3唐は和蕃公主を嫁がせていない】【追H21バクトリアではない,H28地図上の位置(渤海とのひっかけ)、H29唐に侵入していない】を建国しました。宋代には海上交易の比重も高まっていきますが,大夏(西夏)は依然として内陸ユーラシアとの陸上交易を保護して栄えました。
 大夏(西夏)は漢字の影響を受けて複雑な部首やつくりを持つ西夏文字【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,楔形文字の写真と判別させる】【本試験H8満洲文字ではない,本試験H12「漢字を模して,パスパ文字」をつくっていない】【本試験H15モンゴル語を表すための文字ではない】を駆使して公文書を作成し,仏教の経典を翻訳しました。また中国に対して圧力をかけ,1044年に中国から毎年の贈り物を送ることを交換条件に,慶暦の和約を結んでいます【本試験H13】。西夏は1036年に敦煌を占領しましたが,このときに大量の仏典が莫高窟(ばっこうくつ)の秘密のスペースに隠され,入り口が塞がれました。これがのち1900年に発見されることとなる敦煌文献です。
(注)10世紀後半~13世紀前半。大夏という正式な国号の代わりに西夏【本試験H22】といわれることが多いのは,漢人中心の歴史観の影響によるものです。ちなみに遼,金と異なり,西夏には正史が作られていません。

 3つ目はジュシェン人。
 渤海が滅んだあとの中国東北地方には,女真(女直)(じょしん;ジュシェン,女直(じょちょく;ジュルチン) 【追H27】【本試験H6】)が強大化しました。ツングース系【追H27モンゴル系ではない】で,唐代には靺鞨(まっかつ)と呼ばれ、半農半猟生活【追H27】をおくっていました。靺鞨のうち,黒水靺鞨からおこったのが女真(女直)人【本試験H5契丹人ではない】という民族です。1115年に〈完顔(ワンヤン)部の阿骨打(アクダ)〉(位1115~1123) 【本試験H31金の建国者か問う。耶律大石とのひっかけ】【追H19西遼の建国者ではない】が独立し,金(きん)(1115~1234) 【本試験H3唐の時代に和蕃公主が嫁いだ国ではない,本試験H5渤海を滅ぼしていない,本試験H11この女真が清朝の満洲族と「同じ系統」か問う】 【本試験H18中国全土に駅伝制を設けていない】を建国しました。都は中都(のちの北京)です。女真人は契丹文字と漢字をもとにして,女真文字をつくっています【本試験H5西夏文字ではない,本試験H12西夏の文字ではない】【本試験H31満州文字ではない】【追H21】。


◆女真(女直;ジュシェン)人は,契丹(キタイ)人をタリム盆地に追いやった
契丹はタリム盆地へ,女真は淮河まで南下
 女真(女直)人は遼には鷹狩用の鷹を輸出しており,特に遼の王には最高級のハルビン産の鷹が献上されていました。『遼史』によると,遼王〈天祚帝〉(任1101~1125)のもとで1112年に宴が催されたとき,参加した各部族の長は踊るよう命じられます。そのとき,女真の〈完顔阿骨打〉(ワンヤンアグダ)は踊ることを拒否。しかしそれにに対し,〈天祚帝〉は「礼儀は知らないが,狩りは上手い」と許します。その3年後,〈完顔阿骨打〉は金【本試験H11この女真人が清朝を建国する満洲人と「同じ系統」か問う】を建国し,宋と協力して遼を挟み撃ちにして滅ぼすことになるのです(注)。

 遼の王族であった〈耶律大石〉(やりつたいせき,在位1132~43) 【本試験H21,本試験H24時期,本試験H31金を建国していない(耶律阿保機とのひっかけ)】【追H21,H29】はタリム盆地に逃げて,ベラサグンを都に西遼(カラ=キタイ) 【本試験H4唐の高宗によって討たれていない】【本試験H14澶淵の盟により国力が増したから西に移動したわけではない,本試験H21,セ23ウイグルに滅ぼされていない,本試験H27時期】【追H21完顔阿骨打ではない,H29カラ=ハン朝ではない】という国家を形成しました。
 ただし,すべての契丹の支配層が西に移ったわけではなく,金王朝の支配層に《横すべりして生き続けた》者も多くいました(杉山正明・北川誠一『世界の歴史9 大モンゴルの時代』(中央公論新社,2008年),pp.89-90)。
(注)阿南・ヴァージニア・史代「遼・金王朝 千年の時をこえて 第18回」(http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2010-08/03/content_288521.htm)

 金では,お札(ふだ)や不老長寿薬を使ったり,大土地を持ち農民から金をふんだくったりするようになった今までの道教を改革する全(ぜん)真(しん)教(きょう)【本試験H22西夏ではない】【追H30】がうまれ,流行しました。従来の道教は,正一教(しょういつきょう)としてこれと対立します。たてたのは,金の支配下にあった漢人の〈王(おう)重陽(じゅうよう)〉(1112~70)です。儒教や仏教(例えば禅宗の座禅や出家)の要素をプラスし,自分のために修行をすること(真功)だけでなく,他人を救うこと(真行)も大事だと説きました。仏教のお経『般若心経』も,重視されています。
 現在でも,道教は全真教と正一教の二大宗派に分かれています。正一教の総本山は,江西省の竜虎山で,全真教の本部は北京の白雲観(はくうんかん)です。ほかに道教関係の建物としては,『三国志演義』で人気の〈関羽〉(かんう)を神として祀(まつ)った関帝廟(かんていびょう)は横浜を含む世界各地の中華街にみられます。
 また,宋代に大型のジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】が開発されたことを背景に,海の守護神である媽祖(まそ)を祀った媽祖廟(まそびょう)は中国南部や香港・台湾・日本にみられます。


◆宋は常備軍と科挙に基づく官僚制を整備し,江南開発と海上交易も栄えた
交易ブームを背景として,宋も首都を開封に置く
 五代期の政治は「武断政治」といわれ,武力がものをいう時代でした。最後の後周の〈世宗〉は禁軍(皇帝直轄の舞台) 【早・政経H31解体していない】【中央文H27記】を強化し,959年には燕雲十六州(936年に後晋の〈高祖〉が割譲していました)を遼から一部奪回しています。
 しかし,彼により強化された禁軍の総司令官〈趙匡胤〉(ちょうきょういん(太祖),在位960~976) 【本試験H18,H29共通テスト試行 建国の年代(グラフ問題)】【追H27王安石ではない、H29南宋を建てた趙高ではない】は,部下の支持を集めて皇帝に即位します。〈世宗〉の子が幼すぎたため,支配層によって推挙されたのです。これが,禅譲によって王朝が代わった最後の例となります。

 新たな王朝である宋(960~1127の北宋【京都H21[2]】と1127~1276(1279に皇族が全滅)の南宋に分ける)の首都は,五代と同じく開封(かいほう)です【本試験H25長安,咸陽,建康ではない】。宋が商業による収入増を見込んだことがわかります。この時代の開封【早・法H31】の反映は、北宋から南宋にかけての宮廷画家であった〈張択端〉(ちょうたくたん)によるとされる「清明上河図」【早・政経H31解答に直接必要なし】に描かれています(北京の故宮博物院に所蔵)。

 宋の悩みは,周辺諸民族の勢力拡大です。防衛費用は年々増し,遊牧民に毎年の贈り物を用意しなくてはならず,国家財政を圧迫していきます。国内開発と商業振興を原動力とする経済発展によって,その費用を補おうとしたのです。
 開封は東京(とうけい)ともいわれ,中央アジアからはラクダに乗って商人がやって来る国際色を備え,夜中まで飲み屋や劇場が歓楽街がにぎわうなど,現代につらなる“商業”的な大都市として発展します。この様子は〈張択端(ちょうたくたん)〉筆の『清明上(せいめいじょう)河図(がず)』(12世紀後半)に描かれています。

 また,科挙に合格した文人官僚を重用し【本試験H18】文治主義(ぶんちしゅぎ)を推進。中央では貴族の根城(ねじろ)であった門下省を中書省に吸収して中書門下省とし,貴族の合議によって政策を決定する形から皇帝専制への道をひらきました。六部を従える尚書省は残しましたが何度か廃止・復活され,財務については三司(塩鉄・度支・戸部)が独立して設けられています。
 軍人が政治の実権をにぎる習わしをなくすため,官僚が枢密院によって皇帝直属軍(禁軍)を管轄する制度をつくります。節度使にも軍人ではなく文官をあてるようにし,軍事権をとりあげました。科挙を整備し,最終試験に皇帝の直接試験である殿試(でんし) 【本試験H9宰相が試験官ではない,本試験H11宋代以降に行われ「皇帝と官僚の結びつきが強化された」か問う】【本試験H18隋代ではない,H21元代ではない】【追H26時期を問う、H30唐代ではない】【早・法H31】【明文H30記】が導入されました。
 こうして,隋唐代に栄華を極めた貴族が没落し,科挙に合格した官僚と,皇帝直属軍の禁軍が皇帝独裁体制を支える存在になっていったのです.
 科挙の合格者は,新興地主層(形勢戸(けいせいこ)) 【追H18】が中心でした。彼らは唐末・五代の混乱のなかで,特に江南(長江流域)で新たに土地を占有し,小作人の佃戸(でんこ) 【本試験H6「奴婢」ではない】【本試験H26時期,H29共通テスト試行 戦争捕虜を奴隷としたわけではない(755~960の時期について)】の労働力によりのし上がった人々です。

 朝貢貿易は唐の時代よりも縮小しましたが,大規模なジャンク船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】の改良により民間貿易がさかんになって,広州・泉州【H27京都[2]】・明州(現・寧波(ニンポー【追H29地図】【早政H30】)) が繁栄し,市舶司(しはくし) 【東京H8[3]】 【本試験H20節度使ではない,本試験H23,本試験H25時期】【追H29地図(天津には置かれていない)】【立命館H30記】が貿易を管理していました【本試験H7 絹を海外輸出し,大量の銅銭が流入した事実はない】。

 ジャンク船というのは,内部に防水のための仕切り板を持つ船で,一部が浸水しても船全体に伝わることのない仕組みを持っていました。西洋の船と違い,中央部に竜骨(キール)を持ちません。
 日本では,〈平清盛(たいらのきよもり)〉が武士出身の者として初めて政権を握りました。彼の財源は,現在の兵庫にある大輪(おおわ)田(だ)の泊(とまり)と中国を結ぶ日宋貿易でした。大量の宋(そう)銭(せん)が輸入され,日本列島各地で流通していきます。広島の厳島神社はその航海の安全を祈ったもの。宋代から中国で盛んになった媽(ま)祖(そ)(航海の守り神)の信仰とも同期しています。
 なお、「海の道」(海のシルクロード)を通って中国産の陶磁器【東京H20[3]】が西の海域に輸送されたことから,この海上の交易ネットワークのことを「陶磁の道(セラミック=ロード)」と呼ぶこともあります。



◆宋代には商品経済が発達した
商業都市が生まれ,紙幣が刷られ,新技術が出現
 宋というのはいよいよ商業が盛んになる時期です。唐代には商業は都市のなかだけで認められていたのですが,宋になるとその規制もゆるみ,あちこちに商業都市(草市や鎮)が整備されていきます。草市(そうし) 【本試験H16都市の城壁外や地方農村の交易場のことか問う,本試験H23衛所ではない,本試験H25同業者組合ではない】【立命館H30記】というのは,はじめは都市の城壁の外で馬のエサ(まぐさ)を売る市場のことをいったのですが,やがて粗末な市場というニュアンスになったものです。鎮(ちん) 【本試験H23衛所ではない】はもともと軍隊の駐屯地を指す言葉でしたが,宋の時代には交通の要所に自然発生的にできた商業都市のことをいうようになります。
 商業や手工業の同業者組合として,以前からあった行(こう)【本試験H16】【立命館H30記】や作(さく)の活動が積極的になりました。これらは隋・唐の時代には城壁の中に区画された市の限定された場所で活動していましたが,宋代になると都市の枠を越え,活動の場を広げていきます。ただし,国家による規制は強く,官僚への物資の納入を担当するようになる行(こう)も出ていきます。また,客商売をする商人である客商(きゃくしょう)に物資をおろす,仲買人や問屋である牙行(がこう)と呼ばれる大商人の力も強まっていきました。
 取引が増えれば,貨幣が用いられるようになり,銅銭が大量発行され,この時期には日本にも輸出されています。また,遠距離間の支払手段として,銅銭をジャラジャラ持ち運ぶのは大変不便なので,信用を保証するしくみをつくって,民間の手形【本試験H10遼や西夏に毎年贈るために用いられたわけではない】である交子(こうし)【本試験H5 18世紀の米価騰貴はこの大量発行によるものではない,本試験H10交鈔ではない,宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】【追H29唐が銀の地金に加えて,交子を使ったか問う】【立命館H30記】や会子(かいし【本試験H10宋の紙幣かを問う】【本試験H22交鈔ではない】)が使われるようになり,やがてそれ自体が紙幣として価値をもつようになっていきました。また,唐~宋の時代の送金手形は飛(ひ)銭(せん)【立命館H30記】とよばれ,盛んに用いられています。
 取引された商品としては,白磁や青磁という磁器があります。シンプルですらっとした美しさが特色です。飾りを削ぎ落とそうとする姿勢は,当時発展した新しいタイプの儒学も関係しています。磁器とは,カオリンという珪酸塩鉱物を含む土から作られる陶器で,1300度の高温で焼き上げた半透明のうつわのことです。陶器よりも厚めで,ツヤのある白いボディが特徴です。カオリンという名は,磁器【本試験H7茶ではない】の一大産地である景徳鎮(けいとくちん) 【東京H9[3],H17[3]】【本試験H7】【本試験H16絹織物生産地ではない,本試験H27(陶磁器の産地かどうか問う),H30】にある地名「高陵」からとられ,磁器のことを英語ではchina(チャイナ)といいます。
 なお“三大発明”と称される,火薬【追H25中国からイスラーム世界に伝播されたか問う】,活版印刷【追H28唐代の中国からイスラーム世界に伝わったのではない(それは製紙法)】【共通一次 平1:元ではない】【本試験H2唐代に金属活字による印刷術は普及していない】,羅針盤(らしんばん)【本試験H2】【東京H9[3]】の技術は,宋代【東京H9[3]】におこりました(羅針盤はのち【本試験H2時期(明代にヨーロッパに伝わったのではない)】にイタリア【東京H9[3]】【セA H30】で改良)。


◆新儒教(朱子学)が新たな支配階層の間に広まった
木版印刷の発展で,科挙が完成し,思想が栄えた
 北宋の〈周敦頤〉(しゅうとんい,1017~73) 【慶文H30記】や〈程顥〉(ていこう)と〈程頤〉(ていい),の兄弟,従来の儒教を哲学的に高め,南宋の〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H9,本試験H11】 【本試験H13四書を重視し宋学を大成したか問う,本試験H14】【立命館H30記】が大成した宋学(朱子学) 【本試験H9官学とされたのは陽明学ではない,本試験H11陽明学ではない。内容も問う「宇宙の原理や人間の本質などの探究を目指す」】です【本試験H13,本試験H27】。新儒教(ネオ=コンフューショニズム)ともいわれます。
 すでに手垢のついた五経よりも四書【本試験H17墨家とのひっかけ,H31朱子学で重んじられたか問う】(『大学』,『中庸』,『論語』【本試験H13,本試験H14五経には含まれない】,『孟子』)を重んじ,科挙官僚になった知識人(読書人ともいいます)である士大夫(したいふ)層に支持されました。宋代以降の科挙は皇帝が最終試験を自ら行うようになったため,官僚と皇帝の結びつきが強くなり,唐代の支配階層であった貴族は没落し,代わって科挙に合格した士大夫層に代わりました。
 科挙受験には特別な資格は必要ありませんでしたが【本試験H11「特別な受験資格が必要」ではない】,科挙合格者を出した家柄は官戸【本試験H4,H9(11世紀に新興地主が科挙によって官僚となり,その家は官戸と称されていたか問う),H11】とされ,特権【本試験H4役(えき)などの負担が免除されたか問う】が与えられます。木版印刷【明文H30記】によって印刷されやすくなった科挙のテキストは,科挙の試験対策として使用されていきます。
 宋学は「大義名分論」【本試験H14】といって,中華⇔夷狄(いてき),君主⇔家臣の区別を重視した【本試験H9平等を説いたわけではない】ため,実際には遊牧民に取り囲まれていた宋の人々を勇気づける考えでもあったのです。
 〈朱熹〉の「性即理」を唱える朱子学に対抗して【本試験H7】,「心即理」(しんそくり)【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】を論じたのが,同時代の〈陸九淵〉(りくきゅうえん) 【本試験H7,本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】です。彼の説はのちに儒教の1ジャンルとして独立し,陽明学として体系化されていきます。

 唐代には漢詩が盛んにつくられましたが,宋代には〈欧陽脩〉(おうようしゅう,『新唐書』『新五代史』が主著) 【本試験H11『資治通鑑』ではない】【本試験H21唐代ではない,本試験H25】時期】や〈蘇軾〉(そしょく,「赤壁の賦(ふ)」で有名) 【本試験H3長恨歌の作者ではない,本試験H11:宋代の文化か問う。散文の代表的作者か問う】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】といった古文のスタイルをみならい復興させた,散文【本試験H3】の名文家も現れます。すぐれた8人は「唐宋八大家」(はちだいか,はちたいか。唐の〈韓愈(かんゆ)〉【本試験H3宋代ではない】【本試験H22古文を復興したか問う】と〈柳宗元(りゅうそうげん)〉【本試験H3宋代ではない】。宋の〈欧陽脩(おうようしゅう)〉【本試験H11『資治通鑑』の著者ではない】,〈蘇洵〉,〈蘇軾(そしょく)〉,〈蘇(そ)轍(てつ)〉,〈曾鞏(そうきょう)〉,〈王安石〉【追H27】【慶文H30記】)と称されました。現実には周辺民族にすっかり“押され気味”となっていた宋では,歴史上の王朝を振り返り“あのころは良かった”と懐かしむ古典主義的な風潮が流行したわけです。

 仏教も宋代にスタイルが変化します。唐代に庶民の間に流行った浄土宗に代わり,より哲学的な禅宗が流行るのです。とくに科挙官僚などの上層階級では,庶民にはわからない複雑な問題を扱う禅宗をたしなむことが,ステータスとされた面があり,芸術作品にも影響を与えました。浄土宗も禅宗も木版印刷によって盛んに印刷物を発行し,当時中国にわたった鎌倉時代頃の日本人の仏僧は両者の思想を日本に広めていきました。これを鎌倉仏教と総称します。
 浄土宗は1175年に美作(みまさか)出身の〈法然〉により開かれ,『選択(せんちゃく(じゃく)本願(ほんがん)念仏集(ねんぶつしゅう)』が主著。
 浄土真宗は1224年に教徒の〈親鸞〉により開かれ,『歎異抄(たんにしょう)』『教(きょう)行(ぎょう)信証(しんしょう)』が主著。
 時宗は1274年に伊予の〈一遍〉により開かれます(死後『一遍上人語録』が編纂)。
 日蓮宗は1253年に安房の〈日蓮〉により開かれ『立正安(りっしょうあん)国論(こくろん)』が主著。
 臨済宗は1191年に備中の〈栄西〉により開かれ『興(こう)禅(ぜん)護国論(ごこくろん)』が主著。
 曹洞宗は1227年に京都の〈道元〉により開かれ,弟子の〈懐弉(えじょう)〉が『正法眼蔵随聞記(しょうぼうげんぞうずいもんき)』を著します。
 また、博多港に居留して日宋交易に活躍した華人の大商人〈謝国明〉(未詳)は、臨安〔杭州〕出身で、禅宗の僧侶〈円爾〉(えんに、弁円;聖一(しょういつ)国師、1202~1280)のために、1241年に承天寺(じょうてんじ)を建立しています。当時の博多は国際都市で、邸宅を構えて居留する外国人は博多綱首(ごうしゅ)と呼ばれていました。




◆新技術・新田開発・品種改良により農業生産性が向上した
新技術導入・江南開発・品種改良で,人口が急増
 貨幣で土地を買い占めた大地主は,小作人として佃戸(でんこ) 【本試験H26時期】を働かせ,なかには奴隷同然の佃戸もいました。
 大地主は長江下流の,従来はぐちゃぐちゃで農業どころではなかった低湿地を堤防で囲んで干拓しました(囲田)。また,低地から高地への水のくみあげには,従来から使用されていた竜骨車(りゅうこつしゃ)(chain pump)が改良されます。農業用の鉄器製造のためには製鉄業も盛んとなり,石炭にコークスを混ぜる技術が発達。
 また,東南アジアからチャンパー米(まい)(占城稲(せんじょうとう))という収穫量の多い新しい品種も導入されました【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題。春秋戦国時代~後漢または清代ではない)】。こうして生産力がアップすると,「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」【追H25時期が宋代か問う】(長江下流域で稲穂が実れば,中国人みんなのお腹を満たすことができる)といわれるようにもなりました。
 お腹がいっぱいになれば,間食(かんしょく)も増える。というわけで,喫茶(きっさ)の風習が広まります。現在のようにお湯を沸かして急須に入れて,茶葉から直接煮出す「煎茶(せんちゃ)」の方式ではありません。蒸して固めた茶葉の塊を削り,粉末を茶釜で煎じたり,それを粉末にして飲むスタイルでした。日本に臨済宗を伝えた〈栄西〉(えいさい;ようさい,1141~1215)は,1191年にお茶も伝え,『喫茶養生記』で茶の効用を説いています。


◆宋代には官僚と常備軍の維持のため財政が逼迫し,新法という改革が断行された
 しかし,経済が盛んになればなるほど,人々の間に経済格差が生じます。また,北方の異民族の進入に対処するための軍事費も膨れ上がり,財政のやりくりがたいへんになっていました。
 そこで,1067年に即位した〈神宗〉(しんそう,在位1067~85) 【本試験H22徽宗ではない】のときに,〈王安石〉(1021~86) 【追H27宋を建てていない】 【本試験H21】【慶文H30記】【明文H30】が登用されます。25歳で科挙に4位で合格したエリートです。彼が財政再建のために提案したのは,歳出を減らし歳入を増やすとともに,軍事力を強化するための一連の新法(しんぽう)でした【京都H21[2]】【本試験H21】。例えば,民兵を訓練して治安維持に用いる保甲法【本試験H14秦代ではない】,働くことで税をおさめる力役(りきえき)を免除するために免役銭を集めて働きたい者を雇う募役法,植え付け時に貧農に金銭・穀物を低金利で貸す青苗法(せいびょうほう【本試験H22一条鞭法ではない】),中小商人に低金利で貸し付ける市易法(しえきほう【本試験H24漢代ではない】【追H21北魏の制度ではない】),そして物価安定をめざす均輸法などです。これらの施策によって国家財政は好転し,かなりの効果を収めました。
 しかし,特に市易法(しえきほう)や青苗法(せいびょうほう)は,貸付によってもうけていた大商人や地主【本試験H30】の反発も強く,反対派の旧法党【追H26東林派とのひっかけ】と新法党との間の党争が起きました【本試験H17唐代ではない】。旧法党の政治家としては、歴史家で『資治通鑑』(しじつがん(注)) 【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9,本試験H11】【本試験H13南宋の和平派とのひっかけ】【追H21編年体か問う、H24班固の著作ではない,H28司馬遷による編纂ではない】を編年体【本試験H3紀伝体ではない,本試験H9】であらわした〈司馬光〉(しば こう1019~86) 【本試験H9】【本試験H26両税法の楊炎ではない,本試験H30】が有力です。
 しかし,〈司馬光〉の死後に新法は復活され,南宋でも施行されました。
(注)『資治通鑑』は周の〈威烈王〉23年(前403)から後959年までの通史で,当初はまさに『通史』という名前でしたが〈神宗〉が「歴史を鑑(かがみ=手本)とする」という意味を込めて『資治通鑑』と名付けました。294巻,1362年分の歴史という長大なものだったので,〈朱熹〉が『資治通鑑綱目』というダイジェスト版をつくっています。

 なお,〈王安石〉は科挙の試験科目を「進士科」(しんしか)に一本化。進士科は,詩と賦という二種類の韻を踏む詩の作成(作詩)だけではなく,経書の理解,論文の作成(論策)までもが求められるハイレベルな科目で,暗記力だけではなく,合格者の人柄も含めて判断しようとしたわけです。
 〈王安石〉自身『三経新義』という科挙テキストを作成し,その貢献から死後は孔子廟(〈孔子〉のお墓)に一緒に祀(まつ)られることになりました。
 しかし,科挙の受験勉強には莫大な費用がかかったことから,宋代では経済的に余裕のある新興地主(形勢戸【本試験H11科挙の特別な受験資格を持った家のことではない】)の合格者が多数を占めていました。
 それに,“政治家肌”であった〈王安石〉の「王学」は,やがて“思想家肌”の〈朱熹(しゅき)〉による「朱子学」に取って代わられるようになり,孔子廟からも〈王安石〉は移され,代わりに〈朱熹〉が入ることとなりました。

 画院【本試験H17】という芸術家を集めた官庁を保護した〈徽宗〉(きそう,位1100~25) 【本試験H17高宗ではない】【追H19】のころには,庭を作るためにお好みの奇岩(花石綱)を調達しようとして民衆を酷使したことなどがきっかけで,1120年に方臘の乱(ほうろうのらん)というマニ教徒の乱が起き,各地は大混乱に陥りました。このときの民衆反乱に加わった無頼層(アウトロー)たちの活躍が,物語『水滸伝』(すいこでん) 【追H24元代に原形ができたか問う(正しい)】のモチーフになっているといわれます。『水滸伝』は北宋末の梁山泊(りょうざんぱく,山東省の架空の地名)を舞台とし,108人の豪傑たちが義兄弟の契りを結んで悪徳官僚と戦うストーリーで,元代に原形ができて明代に現在の形に編集されました。



◆北宋は女真(金)の進入によって滅び,長江下流に遷都した
 そんなときに,1126~27年に金が開封に攻め込んできたために対応が遅れ,上皇〈徽宗〉(きそう,在位1100~25,生没年1082~1135)と皇帝〈欽宗〉(位1125~27,生没年1100~61)(きんそう)は捕虜となり,華北を失いました。これを靖康の変【東京H8[3]】【H27京都[2]】【本試験H18地図・土木の変ではない,H21 世紀を問う】【早・法H31】(せいこうのへん)といいます。
 〈欽宗〉の弟〈高宗〉(こうそう;趙高,在位1127~62) 【追H29趙匡胤ではない】が江南に逃げて皇帝となって,宋を復活(南宋,1127~1276(1279に皇族が全滅)) 【追H29】し,大運河の終着点である臨安(現在の杭州) 【本試験H2金陵とは呼ばれていない(それは明代の現・南京),本試験H4明の遷都先ではない】【本試験H21】【追H18】を都にしました。

 なお,〈徽宗〉は宮廷の画院(がいん)【早・法H31】を拠点にした院体画(北宗画(ほくそうが)) 【早・法H31】の画家としても有名で,「鳩桃図」(きゅうとうず) 【本試験H11:宋代の文化かどうか問う。文人がの代表作ではない】が代表作です。この絵はのちに〈足利義満〉のもとに流れ着き,日本の国宝になっています。

 こうして宋は,淮河(わいが(淮水,わいすい)) 【本試験H5】【H27京都[2]】以北を金に占領されてしまう事態となり,金に対して臣下の礼をとることとなりました【早・法H31】。
 金【本試験H21元ではない】との和平派【本試験H13旧法党ではない】の〈秦檜〉(しんかい,1090~1155) 【本試験H21】と主戦派の〈岳飛〉(がくひ,1103~41)との対立も起きます。金【本試験H8遼ではない】の南進を不安視した〈秦檜〉は,1141年に〈岳飛〉らを処刑し,1142年に和議を成立させました(紹興の和議)。これは金を臣,南宗を君とする内容で【本試験H8「金の臣下になるという条件」か問う】,銀25万両と絹25万疋を毎年支払うもので,“金で平和を買った”わけです。
 金に勝った英雄〈岳飛〉を,〈秦檜〉が自分の出世のために獄死に追いやったとされ,「中華」のほうが異民族より“上”なのだという大義名分論を説く朱子学の考え方では,〈秦檜〉は“悪者中の悪者”(国賊(こくぞく))です。
 金は猛安・謀克(もうあんぼうこく) 【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【本試験H16・H27・H30】【追H19】という,遊牧民と定住農牧民とで支配の方式を使い分ける制度を導入しました。
 すでに1276年に首都臨安を失っていた南宋は1279年に,モンゴル人で元の皇帝〈クビライ=カアン(フビライ=ハーン)〉(位1260~94) 【追H9チンギス=ハンではない】に敗れ,逃亡していた南宋の皇族たちが亡くなり,完全に滅びました。


・800年~1200年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 8世紀末に新羅では支配が動揺し,地方勢力の台頭が活発化していました。9世紀末には,西南部で大規模な農民反乱である赤袴(せきこ;チョッコ)賊の反乱が起きています。
 900年には農民出身の〈甄萱〉(キョノン,けんけん)が後百済(フペクチェ,ごくだら)王を宣言して自立,901年には〈弓裔〉(クンイェ,きゅうえい)が後高句麗を建国すると,新羅・後百済・後高句麗が並び立つ後三国時代となりました。

 後高句麗につかえていた開城の豪族〈王建〉(ワンゴン,おうけん)は918年にクーデタを起こし高麗(コリョ,こうらい)を建国。926年に契丹により滅んでいた渤海の遺民を受け入れ勢力を伸ばし,935年に新羅を併合,936年には後百済を滅ぼし,半島を統一しました。高麗は新羅時代の家柄にもとづく骨品制をやめて,官僚に対してその功績に応じて田地を支給する田柴科(でんさいか,チョンシクァ)制度を導入しました(940年)。高麗は北方の契丹人や女真(女直)人との対抗の必要から,中国の五代の王朝から冊封(さくほう)を受けました。958年には科挙が導入され,官僚制が整備されていきます。
 すると次第に地方の豪族出身で中央政界に進出し,文官と武官どちらか【本試験H8文官と武官を「兼ねた」わけではない】の官僚として特権を獲得し,「両班」(ヤンバン)階級【追H19佃戸ではない,H26】が形成されていきました。文官と武官は,党派に分かれて争うようになり,しばしば政治の混乱を招くようになります【本試験H8】。
 民衆の大部分は良人(りょうじん) 【追H26リード文】身分の農民で,さらにその下には賤人(せんじん)身分の奴婢(ぬひ) 【追H26リード文】【本試験H6】がいました。
 高麗では豪族の間に禅宗が流行し,天台宗も合わせて信仰されました。1020年頃には『大蔵経』の版木が彫られました。

 高麗は,10世紀末には急成長した契丹の遼の圧迫を受けると契丹の冊封体制下に入る道を選びました。しかし,首都の開城は11世紀初めに遼の攻撃を受けています。一方で女真(女直)人も勢力を拡大して朝鮮半島に南下し,一部の勢力は日本の九州北部に海路で南下し,日本側からは刀伊の入寇(といのにゅうこう)として記録されています(1019年)。
 のち,1125年に遼が崩壊し【本試験H12匈奴により滅んだわけではない】,1127年に南宋が成立すると,高麗は1128年に女真(女直)人の金の冊封体制下に入りました。高麗ではその後内紛が勃発し,下級の武臣によるクーデタにより12世紀末に武臣政権が成立しました。

 渤海では第10代〈宣王〉(ソン,位818~830)が今まで従っていなかった北方の黒水靺鞨の服属に成功し,最盛期を迎えます。この頃の渤海の繁栄は「海東の盛国」とうたわれました。しかし〈宣王〉の死後には衰退が始まり,926年に契丹によって滅びました。




○800年~1200年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
内陸の王権が,交易ルートをめぐり対立する
・800年~1200年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム
◆チャンパーや南詔が,交易ルートをめぐり中国と対立する
 9世紀初めには,チャンパー【東京H30[3]】王国(環王)の勢力が盛んになり,漢人の王朝である唐(618~907)の設置した安南都護府が攻撃されました。
 防衛のために軍事力を強化すべく,現地の豪族が用いられるようになると,8世紀後半には今度は彼らが安南都護府に干渉するようになります。

 9世紀後半には,雲南の南詔が,南シナ海の交易ルートにアクセスしようと,安南都護府を攻撃するようになります。しかし,唐にとって安南都護府は,東南アジアとの交易のための“生命線”です。なんとか維持しようとしましたが,次第に大型のジャンク船【本試験H22三段櫂船ではない】【立命館H30記】が発達・普及していくにつれ,ヴェトナム中部から直接,海上で南シナ海沿岸の広州などを結ぶルートが主流になると,ヴェトナム北部の重要性は低下し,勢いは衰えていきました。

 こうして,紅河デルタの人々は,中国の王朝から政治的に独立していくことになります。
 初めは906年の曲(クック)氏でした。しかし,五代十国時代の十国のひとつで,王は広東アラブ人商人の末裔とされる南漢の介入にあい,混乱します。その後の政変で938年に〈呉権〉(ゴークエン,在位939~944)が挙兵し,王を称しましたが944年に亡くなります。
 一方,河口で商業ルートをおさえていた〈丁部領〉(位968~979)が,宋に朝貢して郡王に任命されましたが,979に暗殺されました。宋は北ヴェトナムに侵攻しましたが,〈丁部領〉の武将だった〈黎桓〉(位981~1005)が王朝を開き,中国に朝貢しました。
 しかし,紅河の農耕地帯の拠点を押さえていなかったために国力は弱く,将軍〈李公蘊〉(リ=コウ=ウアン,りこううん,在位1009~28)が李朝【本試験H16時期・元を撃退していない,本試験H20唐代ではない】を建て,国号を大越(ダイベト)としました。首都は安南都護府のあったハノイで,昇龍(タンロン)城と名付けました。彼は三角州を開拓して農業生産を高め,紅河上流からは亜熱帯の山の幸を集めて,海域からは海の幸を取り込み,国力を増していきます。のちに,ヴェトナム南部のチャンパーも攻撃しています。

 ヴェトナム中南部では,863年の安南都護府の陥落とともに,9世紀に南部沿岸を拠点とするチャム人の環王の勢力が拡大しました。しかし,やがてヴェトナム中部の勢力から〈インドラヴァルマン2世〉が即位し,877年に唐に朝貢しました。この勢力を占城(せんじょう)といいます。彼らチャム人は大乗仏教(密教)を信仰し,寺院が建設されました。占城はその後,宋にも朝貢していますが,10世紀末に南部のヴィジャヤに中心を移しました。主要な交易品は,沈香(じんこう)という香りのする木です。

・800年~1200年のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
◆交易ルートの辺境に位置していたジャワ島は,農業生産アップで商業を活発化させた
マラッカ海峡を通る海上交易が栄える
 シャイレーンドラ朝【共通一次 平1:時期】【本試験H11:カンボジアではない。時期も問う(8~9世紀か)】【本試験H16ボロブドゥールが建立されたかを問う,本試験H18,本試験H20地図,H22】は9世紀半ばにジャワ島で勢力を失うと,9世紀後半にはマラッカ海峡方面に拠点が移動しました。

 中部ジャワでは,717年に中部ジャワの南部(現在のジョグジャカルタ)にマタラム王国(古マタラム王国,717~1045)が成立しました。プランバナン寺院群という巨大なヒンドゥー寺院が建てられています。しかし,929年頃〈シンドック〉王により東部ジャワのクディリに中心地が移されます。詳しい理由はわかっていませんが,おそらく火山の噴火といった災害によるものと考えられます。1016年に内戦が起きると,東部ジャワを再統一してクディリ朝を立て直し,最盛期をもたらしたのは〈アイルランガ〉王(位1019~42?)です。クディリ時代の東部ジャワは,高い農業生産力を背景に,交易の中心地として栄えました。
 インドとの活発な交易を背景に「ヒンドゥー教」や大乗仏教と土着の文化が融合し(⇒800~1200南アジア),ヒンドゥー=ジャワ文化が栄えました。特に,『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』【東京H10[3]】を題材にした影絵芝居のワヤン=クリ(ワヤン,ワヤン=クリット)【本試験H26地域を問う】【追H24ジャワの影絵芝居か問う】は10世紀には上演されていました。



◆マラッカ海峡の港市国家群が東西交易をめぐり競い合ったが,南インド勢力の進出を受ける
マラッカ海峡の港市国家に南インドの政権も進出
 10世紀のマラッカ海峡では,三仏斉(さんぶっせい)という港市国家が,中国の史料で確認されます。これは単一の国家を指したものではなく,南インドのチョーラ朝【本試験H31】の勢力やシュリーヴィジャヤ王国など,この地域にあったパレンバンを含む交易国家を一括りにした呼び名と見られます。960年,中国で宋が成立すると,三仏斉の国々は中国との貿易を独占しようとし,「自分がマラッカ海峡を支配するリーダーだ!」と主張し,競って朝貢をしました。
 三仏斉は,インドのパーリ語やタミル語ではジャーバカ(“ジャワに関連する”という意味),イスラーム教徒にはアラビア語でザーバジュと呼ばれました。
 しかし,1025年にインド南東部のチョーラ朝【本試験H31中国の清に使節を派遣していない(時期が違う)】がマラッカ海峡に大遠征軍を差し向け,交易ネットワークを支配しようとしましたが,1080年頃から支配は弱まります。


 現在のシンガポールは未開の地でした(注)。

(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。。


・800年~1200年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
◆農業生産を拡大したカンボジアが交易ルートをにぎる
「水利都市」アンコールが繁栄をもたらす
 ヴィジャヤに移ったヴェトナム南部のチャム人の港市国家占(せん)城(じょう)(チャンパー)は,漢人の王朝宋(960~1126,1127~1276)と組んでヴェトナム北部の李朝を挟み撃ちにしようとしました。
 しかし,のちに9世紀初頭にメコン川中流域のトンレサップ湖北岸を中心にしたクメール人のカンボジア王国の勢力が拡大。チャム人にとっての新たな脅威となります。

 カンボジア王国は伝承では〈ジャヤヴァルマン2世〉(?~850)が始祖とされており,王は神聖な存在とされ,ヒンドゥー教の影響を受けた寺院が建てられましたが,交易ルートをめぐってたびたび争いが起きます。王はクメール人の国土をジャワ人から解放し,ジャワ島の寺院建築様式や灌漑システムを導入しました(注1)。
 のちに1113年に東北タイの台地から南下した〈スールヤヴァルマン2世〉(位1113?~50?) 【本試験H19チャンドラグプタ2世ではない】は,アンコールで即位し,1116年には中国の宋に朝貢。東南アジア諸国にとって,中国の皇帝からより高い位(くらい)を与えられることは,中国との衝突を避けつつ,周囲の国家よりも「自分のほうが上だ!」とマウンティングするための重要な手段でした。
 「ナンバーワン」より「ナンバーツー」を狙う戦略といえます(注2)。
(注1) 石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.231。
(注2)秋田茂・桃木至朗「グローバルヒストリーと帝国」『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.27。

 また,南シナ海の交易ルートをねらって,香木の一種沈香(じんこう)を輸出していたチャム人の占城を1145年に攻撃。1128年には北ヴェトナムの李朝も攻撃しました。

乾季対策として貯水池を建設し,労働力を確保
 一方,アンコール周辺では,9世紀以降(注1)大規模な灌漑設備が整備され,都市に大量の食料が供給される体制が整えられていきました。アンコールの“水瓶(みずがめ)”は,乾季でも涸れることのないトンレサップ湖です。シェムリアップ川から膨大な量の水を引き,東バライと西バライという灌漑のための貯水池を整備し,自然の傾斜を利用して大田地へと水を流していきました(注2)。
 乾季にも栽培できるように早生種が導入され,確保した労働力が王の権威を象徴する巨大施設建設に振り向けられました。これが,65mの塔を持つ大規模な寺院(アンコール=ワット) 【本試験H9[19]図版・イスラム教の寺院ではない】【本試験H21大乗仏教の寺院ではない,本試験H19シュリーヴィジャヤ王国ではない・時期,H31クメール人によって建てられたか問う】【追H17地図上と時期(8世紀ではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】です。

 アンコール=ワットは,都城アンコール=トム【本試験H27】の南部に建設されました。
 寺院は当初はヒンドゥー教【本試験H19】の神々を祀(まつ)るために建てられました。なお,アンコール=ワットから東へ60kmのところにはベン=メリア寺院があり,“東のアンコール”と呼ばれます(建設時期はアンコール=ワットより早い)。
(注1)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.230。
(注2)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.227~p.228。1979年に〈ベルナール=フィリップ=グロリエ〉が提起した「アンコール水利都市論」による。



 アンコールに集められた周辺の産物は,西のチャオプラヤー川,北西のピマーイ,北東のワット=プーやメコン川,東部のプノンペンやチャンパー方面に向かう4つの幹線道によってトンレサップ湖まで輸送され,メコン川から南シナ海に流されました。「すべての道はアンコールへ」といわれるゆえんです(注1)。この富をめぐっては,内陸に進出しようとしたチャンパーとも抗争が起きています(注2)。
(注1)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p.243。
(注2)バイヨンの第一回廊に,1177年のチャンパー軍とのトンレサップ湖における海戦の様子が描かれています。石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.86。

 〈スールヤヴァルマン2世〉の死後,一時分裂した王家を,王子〈ジャヤヴァルマン7世〉(位1181~1218?)が統一しました。彼は,王宮アンコール=トム(大きなアンコールという意味)を整備しました。王宮の中央部には,大乗仏教寺院のバイヨンが建てられ,観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)像が豪華に配置されました。
 彼は従来の王と異なり仏教に重きを置き,国内各地に施療院や宿駅を慈善事業として建設しました。ヒンドゥー教による立国“宗教改革”です。中央の祠堂では王と〈仏陀〉が一体化した像が安置されていたといい,王権の神格化をドラマチックに演出する効果がありました(注1)。アンコール朝では長い時間をかけて外来の大乗仏教やヒンドゥー教が,地元の信仰と結びつき,カンボジア的なヒンドゥー教に変化していていましたから(注2),「ヒンドゥー教」をやめて「大乗仏教」に変えた,というわけではありません。大乗仏教の要素をより多く取り入れていったということです。
 現在は木の根によって覆われてしまったタ=プロムも,このときに建てられた寺院で,観光の目玉になっています。
 王は,すでに荒廃していた灌漑設備の代わりに,1200年頃から各地に石橋ダム(注3)と導水路を建設。しかし,次第に泥土が堆積し,灌漑設備の維持は困難になっていったとみられます。

(注1)石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.85。
(注2)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005。
(注1)石澤良昭・大村次郷『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.77,p.133の写真(コンポン=クデイの石橋)を参照。

・800年~1200年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
◆ビルマでも農業生産を拡大させたパガン朝が栄える
上座部仏教は,セイロン島からビルマへ
 ビルマでは,ピューが衰えたのち,11世紀に〈アノーヤター〉王(位1044~1077)が即位してパガン朝【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H5,本試験H11:時期(11~13世紀かどうか問う)】【本試験H18スマトラ島ではない,本試験H19インドネシアではない,本試験H26地域を問う】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が開かれました。
 パガンはイラワジ川中流域で,南下したビルマ人【本試験H5モン族の文化を保護していない】により建国され,灌漑を奨励して栄えました。上座仏教【本試験H6ビルマで上座仏教が信仰されているか問う】【本試験H16大乗仏教ではない,本試験H19・H22】を国教とし,多くのストゥーパ(パガン)が多数建立されました。だからパガン朝というのです。ビルマ(ミャンマー)観光の目玉シュエズィーゴン=パゴダは,〈アノーヤター〉王が建設させた寺院です(注)。
 上座仏教はその後,タイ,カンボジア,ラオス方面に広がっていきます。これらの地域の寺院や仏僧は,現在にいたるまで高い社会的地位を保っています。同時にインドの南方系の文字がモン人を介して伝わり,11世紀頃にはビルマ文字がつくられています。
(注)https://www.jtb.co.jp/kaigai_guide/asia/republic_of_the_union_of_myanmar/RGN/125153/ JTB



○800年~1200年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・800年~1200年のアジア  南アジア 現③スリランカ
セイロン島はチョーラ朝のタミル人の支配を受ける
  なお,インド=アーリヤ系のシンハラ語を話す民族の住んでいたスリランカは,前3世紀頃に上座仏教を王権が受け入れました。

 その後は,アヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えていましたが,南インドのタミル人の進出に悩まされるようになります。
 結局,10世紀後半にチョーラ朝(後述)に占領されるに至りました(注1)。シンハラ人のアヌラーダプラ王国は南方のポロンナルワに遷都しました(ポロンナルワ王国,11世紀~14世紀初め)。
 チョーラ朝によるセイロン島の支配は1279年まで続きます。


 チョーラ朝占領時代にヒンドゥー教が広まりましたが,1055年にチョーラ朝勢力を駆逐した〈ヴィジャヤバーフ1世〉(位1055~1110)(注2)は,スリランカの北部を中心に支配を確立。
 スリランカ北部は強い乾季をともなうサバンナ気候なので,水の確保が支配者にとって大きな政治課題となります。
 〈ヴィジャヤバーフ1世〉も,仏歯寺を建立してミャンマーから僧侶を招くなどして上座仏教を復興させることで人々を納得させるとともに,水利施設を建設しました(注2)。
 また次の〈パラークラマバーフ1世〉(位1153~86)(注2)は,全島を統一し中央集権支配を確立します。


 しかし,13世紀になると,インドやマレー半島方面からの侵入が相次ぐようになります。
 それほどスリランカの位置は海上交易上の利点が大きいのです。

 北部のジャフナにはタミル人の王国(ジャフナ王国)が建てられ,ポロンナルワを中心とするシンハラ人の王権はしだいに弱まり,やがてポロンナルワは放棄され,シンハラ人の政治的な中心地は中部の山岳地帯に移動していきました(注2)。

(注1)チョーラ朝がスリランカに侵攻した原因は,チョーラ朝と争っていたパーンディヤの王がスリランカに逃げ込んだことにありました。辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.168。
(注2)辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.169。


・800年~1200年のアジア  南アジア 現④モルディブ

 モルディブはアラブ人による海上交易の重要拠点とされるようになっています。
 南インドのチョーラ朝の王〈ラージャラージャ1世〉(位985~1014)は,アラブ商人への対抗からモルディブにも遠征しています(注)。
(注)辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.163。



・800年~1200年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆政治的には分裂したが「ヒンドゥー教」の文化が各地に浸透した一方,イスラーム教も伝わった
北はイスラーム政権,南はヒンドゥー地方政権
 この時期のインドは地方の諸国家に分裂していた時代です。

 「分裂」と聞いて,「停滞していた時代」と考えるのは早計です。
 各地の政権がそれぞれに社会経済を発展させ,豊かな地方文化が栄えた時代なのです。

 例えば,『マハーバーラタ』【東京H10[3]】や『ラーマーヤナ』が地方語に訳されていったのもこの時期です。
 インドでは現在でも地域によって多種多様な言葉が話されていますが,「ヒンドゥー教」という共通項によってゆるやかに結び付けられていますよね。

 インド各地でシヴァ神やヴィシュヌ神にまつわる聖地が「巡礼の道」で結ばれ,8世紀に盛んになったバクティ信仰も吟遊詩人によって各地に伝わりました。バラモンによる自然神に対する祭祀を中心とする信仰(バラモン教)が,シヴァ神やヴィシュヌ神などの民間信仰と結びついた信仰は,のちにインドを植民地化するイギリス人によって「ヒンドゥー教」と総称されることになります。
 また,イスラーム教が本格的にインドに伝わったのもこの時期のことです。



 各地の政権の様子を見てみましょう。

 インド東部のベンガルでは,8世紀半ばにパーラ朝(8世紀後半~12世紀)が高い生産力とガンジス川河口の港を握って栄え,8世紀後半にはガンジス川上流域にまで進出しました。第2代〈ダルマパーラ〉王はヴィクラマシラー僧院を建て,密教研究の中心地となりました。
 しかし,パーラ朝は,インド西部でクシャトリヤの末裔を自称したプラティハーラ朝(8世紀~11世紀)や,デカン高原のラーシュトラクータ朝(8~10世紀)に阻止されます。ベンガルでは支配権はセーナ朝(11~13世紀)に移り,その後はイスラーム勢力により衰退しました。
 
 9世紀のネパールでは,チベット=ビルマ系の民族によるタークリ朝が,チベット王国(吐蕃)に服属していました。9世紀末にマッラ朝のネパールは,チベットから独立したものの,14世紀後半まで分裂状態が続きます。

 インド西部のインダス川周辺では,マイトラカ朝が5~8世紀に勢力を広げました。また,西インドで起こったプラティハーラ朝(8世紀~11世紀)は,シンド地方へのアラブ人への進入を防ぐなどし,北インドのカナウジに遷都して栄えました。しかし,領内では,ヒンドゥー教を信仰するラージプート(王の子を意味する「ラージャプトラ」のなまった言葉)を名乗る有力者が自立をはじめ,相争う時代(ラージプート時代)となりました。彼らは自分たちを,神話に登場する神の子孫であると主張したのです。
 ラージプートは,灌漑施設や都市を建設し,サンスクリット語・サンスクリット文字を共通語とするサンスクリット文化圏を形成し,ヒンドゥー教の信仰を広めました。有力な王国に,チャーハマーナ(チャウハーン)朝(10世紀~12世紀)があり,王を主人公とした『プリトゥヴィーラージ=ラーソ』がヒンディー語により著されました。


 デカン高原では,ラーシュトラクータ朝(8世紀~10世紀),のちに後期チャールキヤ朝(10世紀~12世紀)が栄えており,南インド(トゥンガバドラー川)以南のチョーラ朝と勢力を争いました。
 チョーラ朝は海外交易の利益をもとに,デカン高原からバラモンの移住をうながし,ヒンドゥー教の正統理念を掲げて中央集権化を試みます(注1)。
 チョーラ朝の王〈ラージャラージャ1世〉(位985~1014)(注1)と,その子〈ラージェンドラ1世〉(位1012~1044)の時代には,海上交易の覇権を握るために積極的に遠征をし,1025年には〈ラージェンドラ1世〉によってシュリーヴィジャヤ王国がコントロール下に置いていたマレー半島中部の中心都市カダーラムを陥落させています(注2)。
 父子は中国に3回使節を送っており,2人の王の名は『宋史』に記載があります。

(注1)辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.162。
(注2)辛島昇『南アジア史』山川出版社,2004,p.163。




イスラーム教がインドに伝わる
 イスラーム教徒のインドへの進出もこの時期のことです。
 642年にニハーヴァンドの戦い【追H30】でササン(サーサーン)朝【追H30】を滅ぼしたイスラーム教徒たちは,アラビア海に沿ってインドに向かってきました。661年にウマイヤ朝が成立すると,711年にイラク総督の命令で〈ムハンマド=イブン=カーシム〉(?~715?)がシンド地方に進入し,シンド王国を滅ぼし,インダス川中流域まではイスラーム教徒が支配しました。

 その後もイスラーム教徒による地方政権は続きましたが,アッバース朝(750~1258(1517))が衰えるにつれて自立傾向が強まっていきました。
 アッバース朝の支配下だった,イランのホラーサーン地方の総督が821年に自立してターヒル朝を建国。アッバース朝の建国時からカリフを支えていたホラーサーン軍(ホラーサーンとは「太陽ののぼる地」という意味)が,世代交代により反旗をひるがえす形となり焦ったカリフは,親衛隊として中央ユーラシアからテュルク(トルコ)人を奴隷軍人として大量に輸入しました。彼らはマムルークと呼ばれ重用されます。

 ターヒル朝出身で鍛冶職人から身を立てた〈ヤアクーブ〉が,アフガニスタン方面で867年にサッファール朝を建国。ターヒル朝を滅ぼしたサッファール朝の〈ヤアクーブ〉は,アッバース朝によりシンド総督に任命されました。シンド地方は,地中海⇔エジプトのカイロ⇔アラビア半島を結ぶ交易の中心地。イスラーム教徒に改宗する人々も増えていくようになりました。

 アッバース朝が衰退すると,アム川とシル川に挟まれた地域(マーワラー=アンナフル地方) 【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】では,875年にこの地域のイラン系【本試験H10】貴族の〈サーマーン〉がイスラーム教に改宗した後,サーマーン朝【本試験H10】【追H18時期】を建てました。サーマーン朝はアッバース家から自立し,サッファール朝を破りました。首都はブハラです。
 しかし,965年頃,今度はサーマーン朝につかえていたトルコ人マムルークである〈アルプテギン〉が,アフガニスタン【本試験H10ここを本拠とするか問う】のガズナで独立し,ガズナ朝(962~1186) 【本試験H10】【追H19時期,H21時期(10世紀か)】
【追H21】
が自立しました。〈マフムード〉(位998~1030) 【慶文H29】のときに,北インドへの侵攻を開始しました【本試験H31北インドへの侵略を繰り返したのはマムルーク朝ではない】。

 カリフ以外で初めてスルターンを名乗ったのは,ガズナ朝の〈マフムード〉(971~1030)です。のちのセルジューク朝の〈トゥグリル=ベク〉はカリフにスルターンの称号を要求しましたが,〈マフムード〉はカリフの権威は認めていました。この〈マフムード〉王にペルシア語【追H28サンスクリット語ではない】で『王書』(シャー=ナーメ) 【追H28『王の書』】という叙事詩を書き献上したのは〈フィルドゥシー〉(フェルドウスィー,934~1025)。さらに〈アル=ビールーニー〉(973~1048)は彼の遠征に同行して『インド誌』を記録しています。

 プラティハーラ朝は,1018年に彼にカナウジを占領されて滅んでいます。彼の死後には王朝は弱体化し,1038年にセルジューク朝にホラーサーンのニシャープールを奪われ,1148年頃にアフガニスタンでゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない】が自立したため,ガズナ朝はインドのパンジャーブ地方に拠点を移しますが【本試験H219世紀ではない】,1186年に滅びます。



◆南インドのチョーラ朝はマラッカ海峡に進出し,海上交易で栄える
チョーラ朝,東南アジアにヒンドゥー文化を伝える
 インド南端部では,南東のチョーラ朝(850頃~1279頃) 【追H20時期(14世紀か)】がカーヴェリ川の三角州でダムや灌漑施設を整備したことで栄え,〈ラージャラージャ1世〉(位970~985)は,南部の諸王国とスリランカを破り,さらにガンジス川や東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国(注) 【追H9時期、H19】【本試験H18マジャパヒト王国ではない、H22前漢の時代ではない】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】にまで遠征して,一時マレー半島を支配するまでに発展し,海上交易で栄えました【本試験H29】【追H20東南アジアにまで遠征したか問う,時期(14世紀か)】。東南アジアにはインドの「ヒンドゥー教」文化が伝わり,10世紀頃のジャワ島【追H20】ではインドの神話を題材とした影絵芝居【追H20】ワヤン(ワヤン=クリ;ワヤン=クリット) 【追H20】が上映されていました。ちなみに,現在のインドネシアの国章に描かれるガルーダ(国営航空会社の名でもあります)は,ヒンドゥー教のヴィシュヌ神の乗り物です。

 その子〈ラージェーンドラ1世〉(位1012~44)とともに,中国に使節を送っていたことが『宋史』からわかっています。この進出には,アラブ商人への対抗という意図もありました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,古代チョーラ朝(前3世紀頃~後4世紀)と区別し“中世チョーラ朝”ということがあります。古代チョーラ朝にはタミル語による古典文学(サンガム文学)が栄え,中世チョーラ朝はその末裔(まつえい)を名乗る支配層により建国されました。

 南インドには,東西貿易に従事する商人組織のネットワークが形成されており,イスラーム教徒による政権が成立してからは,南インドでも戦闘に馬を用いるようになりましたが,飼育に適した草原がないため,アラビア半島からの馬の輸入が増加していきます。また中国の陶磁器の輸入や,東南アジアへの綿布の輸出が盛んになるなど,東西交易はますます活発化していきました。
(注)複数の港市を支配下におさめたシュリーヴィジャヤ王国について,中国の宋の役人(福建路提挙市舶)は13世紀初頭に次のように述べています。「もし商戦が過ぎてはいらざれば,すぐ船を出して合戦す。」(趙汝适(ちょうじょかつ)著『諸蕃志』)




・800年~1200年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 インドからヒマラヤ山脈を越えてチベットに至るには,ネパール(カトマンズ)盆地を通るルートがありました。盆地周辺では穀物の栽培も可能で,チベット=ビルマ語派のネワール人が分布していました。



○800年~1200年のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

「フランク人」「テュルク人」の進出の時代
 温暖化の影響を受け,各地で地方政権が自立し,アラブ人のカリフの言うことをきかなくなるのがこの時代。
 お隣のヨーロッパにおいても人口増加を背景として,拡大運動が始まっています。その最たる例が1095年にローマ=カトリック教会の教皇により提唱された十字軍【東京H7[1]指定語句】でした。
 十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」(注2)と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。

 なお,この時代はテュルク人が活躍する時期でもあります。彼らはもともとモンゴル高原を拠点としていましたが,西に移住してイスラーム教を受け入れ軍人としての才覚を開花させ,11世紀にはセルジューク朝という大帝国を建設するに至ります。イランのサーマーン朝【慶文H29】はその育成・輸出で繁栄。そこからアフガニスタン方面のガズナ朝【本試験H3】,ゴール朝【追H17仏教国ではない】の北インドへの進出もこの時代です。
(注1)現在のシリアの領土とは違い,歴史的にシリア(アラビア語ではシャームと呼ばれます)と呼ばれる地域は現在のイスラエル,パレスチナ,ヨルダン,シリア,レバノンを含む東地中海沿岸の地域を指すことが普通でした。
(注2)「フランク」とはビザンツ帝国やイスラーム教徒による「ヨーロッパ人」を示す呼称でした。イスラーム世界にとって十字軍は「フランクの進出」と表現されることがあります。



◆バグダードでは「大翻訳運動」が進む
“アッバース=ルネサンス”が花開く(注1)
 〈ハールーン=アッラシード〉(位786~809) 【本試験H3シャープール1世ではない】【本試験H21時期】の死後,その子〈マアムーン〉(位813~833)のもとで〈フワーリズミー〉が代数学(アルジブラ) 【東京H23[1]指定語句】を発達させるなど学芸が栄えました。フワーリズミーとは「ホラズム地方出身」ということを表した名です。イスラームにおける数学には,インド【東京H23[1]指定語句】【追H28イスラーム世界からインドに伝わったわけではない】で発見されたゼロの記数法【追H19】が影響を与えています。
 アラビア数字【本試験H2バビロニア王国で考案された文字ではない】は,現在,世界で使用されている算用数字のもとです【本試験H2】。

 また,ウラマー(学者)の〈タバリー〉(位838~923) 【追H21リード文に登場】が『預言者たちと王たちの歴史』という長大な歴史書を,一神教世界観に基づく人類史の中に〈ムハンマド〉以降の歴史を位置づけた年代記の形で発表しています。
 カリフの〈マアムーン〉はバイト=アル=ヒクマ(知恵の館)を建設し,学者を招いて古代ギリシア・ローマの文献のアラビア語翻訳【追H18】を奨励しました。「アッバース=ルネサンス(復興)」つまり,古代ギリシアの情報のアッバース朝における“復興”といってもよいでしょう。例えば〈エウクレイデス〉の『原論』は9世紀後半に〈クスター・イブン=ルーカー〉によりアラビア語訳され、理論数学・幾何学に影響を与えました(注2)。

(注1) 「アッバース=ルネサンス」は筆者の造語。
(注2) 大塚和夫編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.1021。




◆ハールーンの死後,マムルークを導入したアッバース朝は衰退に向かう
テュルク系軍人の採用で,カリフの権威が衰える
 しかし〈ハールーン〉の死後,第八代カリフ〈ムスタスィム〉(位833~842)が自分の親衛隊としてテュルク系の奴隷軍人マムルークを採用したことが,衰退に向けた序曲となります。
 自派で固めるために〈ムスタスィム〉はバグダードからサーマーッラーに遷都しますが,のちにカリフ〈ムワッタキル〉(位847~861)がマムルークにより暗殺される事案も発生。
 サーマッラーからバグダードに再遷都されたころには,地方政権の自立もすすみ,カリフの権威はすっかり衰えていました。


◆地方政権の分裂が進むが,イスラーム教の信仰はテュルク人にも拡大した
イラン,イラク,シリア,北アフリカ,イベリア半島の各地で地方政権が自立へ
 しかし,9世紀初頭からだんだんとアッバース朝の各地域で,バグダードのカリフのいうことを聞かない権力者が現れるようになっていきました。カリフを倒すまでには至らないものの,その「いうことをきかなくなる」ことを「自立する」とか「独立する」と表現します。

 イランのホラーサーン地方の総督は821年に自立してターヒル朝を建国。アッバース朝の建国時からカリフを支えていたホラーサーン軍が,世代交代により反旗をひるがえす形となりました。焦ったカリフは,親衛隊としてアム川以東の地域(マー=ワラー=アンナフル)から主にテュルク(トルコ)系の人々を奴隷軍人として大量に輸入しました。彼らはマムルークと呼ばれ重用され,従来のホラーサーン軍との対立を生みましたが,しだいに政治・軍事の実権を握るまでに成長していきます(1250年にはエジプトで王朝を建設することになります)。マムルークは自由な生き方ができず,主人の持ち物として生きる存在でした(マムルークは「所有されるもの」という意味)。しかし,幼い頃から主人に育てられることもあって主人の間には特別な関係や愛情が生まれることも多く,有力者の主人が亡くなるとマムルークが後を継ぐということは,しばしば起こりました。

 アフリカ東海岸から輸出され,南イラクの耕作地で土木作業に従事させられていた黒人の奴隷(ザンジュ)が869~883年に大規模な反乱を起こすと,これに乗じてアラブ人も反乱を起こし,一時は独立王国を形成しましたが883年に鎮圧されました(ザンジュの乱。ザンジュは東アフリカの港市ザンジバルの省略形です)。この反乱によりカリフの権威は傷付き,地方に軍事政権が自立するなど,アッバース朝の支配は揺らいでいくことになりました。

 カリフにも,ペルシア人の貴族〈ムタワッキル〉(位847~861)が就任し,テュルク(トルコ)系の奴隷軍人(マムルーク) 【本試験H9アッバース朝が兵士としてマムルークを採用したか問う】【セA H30古代ギリシアではない】も政治に介入するようになっていくと,しだいにカリフは名目的な存在になっていきました。〈ムタワッキル〉の暗殺にはテュルク(トルコ)系が関与していたとみられ,政治は混乱します。

 また,イラクやシリアではアラブ系遊牧民が独自の政権を樹立するようになり,イラク北部ではハムダーン朝(890~1004)が建てられ,アッバース朝を圧迫します。のちにイラクやシリアにもアラブ遊牧民による政権(イラクのモースルのウカイル朝やシリアのアレッポのミルダース朝)やクルド人による政権(マルワーン朝)が樹立されました。
 アラビア半島南部イエメンにはザイド派のラッシー朝がアッバース朝から自立しており,イスマーイール派の活動も活発化していました。

 また,シーア派の一派であるカルマト派が,アラビア半島東部のバフラインを拠点に9世紀末から11世紀末にかけて国家を建設。930年にはカアバ神殿に侵入し,黒色を奪い取ってしまいます。その後951年に返還されますが,彼らの地下組織は各地に張り巡らされ,シーア派のファーティマ朝とも対決姿勢をとります。アッバース朝も聖地マッカ〔メッカ〕を守り切ることができなかったということで,権威の低下は免れません。

 現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えました。
 シリア山岳部ではシーア派の分派であるヌサイリー派(のちのアラウィー派)が信仰されています。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。

 ソグディアナ【本試験H10地域「西トルキスタン」か問う】ではブハラ【京都H22[2]】【本試験H30コルドバではない】を都として,イラン系【本試験H10】【追H21トルコ系ではない】の支配者によりサーマーン朝 (874~999) 【京都H22[2]問題文】 【本試験H10】【追H21時期(10世紀ではない)】【慶文H29】が独立しています。ブハラには,医学者(著書『治癒(ちゆ)の書(しょ)』)・哲学者(〈プラトン〉と〈アリストテレス〉の思想をイスラーム教に導入)として有名な〈イブン=シーナー〉(980~1037) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【本試験H16イブン=サウードではない】【追H20時期,追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→正しいが、11世紀から12世紀にかけて生きた〈ガザーリー〉(1058~1111)も選択肢にあるので超難問(センタ―試験史上最高峰?))、H30ラテン語に翻訳されたか問う】をはじめとする学者が集まり,世界屈指の文化・科学技術が発達する街となりました。
 それはブハラが,東西を結ぶ交易都市であり,東西からさまざまな人や情報が集まったからにほかなりません。


◆非アラブ人の軍事政権によりアッバース朝の権威が動揺し,ペルシア湾の交易ルートが衰えた
シーア派のブワイフ朝が,カリフから称号を獲得
 946年にはカスピ海の南西岸の山岳地帯ダイラムのシーア派(ザイド派)に属するブワイフ家が,ダイラム人を率いて軍事的に台頭し,アッバース朝から独立しブワイフ朝【本試験H16地域(西アジア),本試験H22 13・14世紀ではない・南アジアではない】【追H18】を建国しました。
 ブワイフ朝はアッバース朝の都バグダードに入城し【本試験H16,本試験H20世紀を問う】ブワイフ家の〈アフマド〉が,アッバース朝のカリフの〈ムスタクフィー〉(位944~946)に迫って「大アミール」(注)の職を授かり,ダウラ(国家)の守護者の称号を与えられるとともに,シャー=ハン=シャー(王の中の王)というイランの伝統的な王の称号も用いました。これはアッバース朝の時代にはカリフの次に重要なポストでした。
 こうして,ブライフ朝によるバグダード支配が始まります。
 日本の歴史に置き換えると,武士が「征夷大将軍」の役職を天皇に迫っているイメージでしょうか。いずれにせよ弓矢を射る騎馬兵が政権を得た点では,同時代の日本や西ヨーロッパと共通しています。

 ブワイフ朝は,配下の騎士に俸給を払うアター制に代わって土地を与え,その地で徴税をする権利(徴税権)まで与えました。徴税権付きの土地,あるいは徴税権そのもののことをイクター【本試験H5ジズヤではない】【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】といい,この制度をイクター制といいます【本試験H27後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)ではない,本試験H29】【追H25オスマン帝国が創始したのではない】【中央文H27記】。イラクでの実施が最初の例ですが,その後のイスラーム諸政権はイクター制に類する制度を採用することになります。
 アッバース朝の権威の低下により,ペルシア湾からイラクにいたる交易ルートは衰えました。しかし,交易の中心は北方の草原地帯やアラビア半島南部の紅海にシフトし,イラン,エジプト,シリアが繁栄を享受するようになります。都市はイスラーム教の保護者を自任する軍人支配者の寄進(ワクフ)によって栄え,交易路も保護されました。陸海の交易や都市経済の繁栄は続き,イスラーム法の下で社会も安定化していったのです(ただし,ブワイフ朝の末期には重税により農村は荒廃し,都市の治安も乱れ,イラクの交易や都市経済は衰退します)。
 なお,ブワイフ朝の支配層はシーア派のうち12イマーム派を保護しました。

(注) 10世紀初頭に〈ムーニス〉という将軍に与えられたのがはじまり。936年に〈ムハンマド=イブン=ラーイク〉に軍事・行政権のすべてが譲渡されて以降、事実上の世俗支配者の称号となります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.109。



◆テュルク系のセルジューク朝が強大化し,帝国を建設する
西アジアに,テュルクの時代が到来する
1071年:マラズギルト〔マンジケルト〕の戦い→1096年:第一回十字軍の開始

 ブワイフ朝は,軍人同士の対立やスンナ派とシーア派の対立,イクターを授与された軍人の厳しい徴税による農村の荒廃により衰えていきました。そんな中,11世紀にはテュルク人のイスラーム王朝(スンナ派【本試験H23】【追H21シーア派ではない】)であるセルジューク朝【本試験H6タリム盆地は含まない,小アジア・パレスティナ,イラン高原は領域に含む】【本試験H21地図上で進出ルートを問う・アイユーブ朝ではない,本試験H23地図上の位置を問う,H31】【追H25シーア派の学問を振興していない,H29】 (1038~1194)が,マムルークの軍事力により強大化しました。

 〈セルジューク〉(生没年不詳)は,当時シル川よりも北にいた遊牧民オグズ人集団の連合体の指導者でした。オグズは後に「トゥルクマーン」と呼ばれるようになります。その後〈トゥグリル=ベク〉【本試験H16ファーティマ朝の宰相ではない】は,1055年にバグダードに入城し,カリフに「スルターン」【セ試行「ウマイヤ朝で,スルターンの称号がイスラム史上はじめて世襲された」のではない】【本試験H9ウラマーのひっかけ】の位を要求し,希望通り授けられます。
 スルターンとは「権威者」という意味で,そもそもカリフに対する敬称でしたが,ここでは世俗の支配者を意味します。
 セルジューク朝は,遊牧国家であり首都は一定せず,バグダードやニーシャープールなどを季節的に移動していました。宰相(ワズィール)を中心とする中央集権的な行政組織がつくられ,ペルシア語が行政の公用語となりました(ただし,スルターンは当初はアラビア語,ペルシア語を理解しませんでした)。



◆小アジアにもイスラーム教徒の政権ができる
セルジューク朝の西進に対し,十字軍が起きた
 また,セルジューク朝は遊牧民のテュルク【京都H20[2]】系の集団を引き連れ小アジア〔アナトリア【本試験H31】【追H29モロッコではない】〕にも進出しビザンツ帝国を圧迫【本試験H31】します。

 第2代の〈アルプ=アルスラン〉(位1063~73)1071年にマンジケルトの戦い【京都H20[2]問題文】で勝利しました。セルジューク王族の一人〈スライマーン〉が小アジアのコンヤ【京都H20[2]問題文】を首都として1077年にはルーム=セルジューク朝(1077~1308) 【京都H20[2]】【本試験H8オスマン帝国ではない】【追H17十字軍のきっかけとなったのはブワイフ朝ではない】を建国しています。
 イェルサレムにも支配を拡大したことから「イスラーム教徒がキリスト教の巡礼者を妨害している」という主張が生まれ,第一回十字軍【H30共通テスト試行 移動方向(ヨーロッパから西アジア方向であることを問う)】【追H17きっかけはブワイフ朝の小アジア進出ではない】のきっかけとなりました。しかし,セルジューク朝が組織的に巡礼を妨害したという事実は,明らかになっていません。

 第3代〈マリク=シャー〉(位1072~92)のときにはシリアにも進出し,領域を拡大しました。各地に学院(マドラサ(アラビア語で「学ぶ場所」を指す一般名詞)【追H27イスラーム教の法・神学を学ぶ施設か問う】)を建て学問を奨励し,イラン人の宰相〈ニザーム=アルムルク〉(1018~92)によりバグダードやニシャープールになど9か所にマドラサ(学院)が建設され,ニザーミーヤ学院【東京H14[3]】【本試験H16カイロではない・ファーティマ朝による建設ではない】【追H25シーア派を振興していない】【慶文H29】と総称されました。
 マドラサでは学問的な修練を積んだウラマー(学者)を中心にイスラーム法学が発展する一方,難解な教義を通してではなく神秘的な体験を通してスーフィー【追H17】という聖者の指導で直接的な神との一体化【追H17】を目指すスーフィズム(神秘主義) 【本試験H6「復古主義,原理主義的で,「コーランの教えに帰れ」と唱えていた」わけではない(それはワッハーブ派など)】【追H17】が農村部で広がりをみせていました。スーフィズム教団は修行を積んだ師(シャイフ)に率いられ,民衆から聖者(ワリー)として尊敬を集めました。


 中央集権国家の建設を推進し『統治の書』を記した〈ニザーム=アルムルク〉は,反対派により暗殺されました。イスマーイール派の分派ニザール派(のちのヨーロッパでは謎めいた暗殺教団“アサッシン”と呼ばれ英語のasassine(暗殺者)の語源となりました。首謀者には大麻(ハシーシュ)が使われたとされていますが,多くは後世のヨーロッパ側からの想像によるものです)による犯行です。

 抒情詩『ルバイヤート(四行詩集)』が〈オマル(ウマル)=ハイヤーム〉(1048~1131。オマルはペルシア語読み。ウマルはアラビア語読み) 【追H19シャクンタラーとのひっかけ】によって編まれました。彼は,「右手(めて)に経典(コーラン),左手(ゆんで)に酒盃。ときにはハラール(イスラーム教で認められている項目),ときにはハラーム(イスラーム教で禁止されている項目)」と歌い,宗教的な縛りから自由な人間的な詩を読みました。〈ウマル〉は,ジャラーリー暦という,キリスト教徒のグレゴリウス暦よりも正確な太陽暦を天文観測によって作成した人物でもあります。30日×12ヶ月+年末の5日が基本で,4年に1度うるう年がもうけられる正確無比の暦でした。

 セルジューク朝は遊牧民の国家が農耕定住民の世界に進出して建国したわけですが,広大な領土維持のためには軍事力が必要で,軍人への俸給のためにブワイフ朝が導入していたイクターを支給しました。これにより地方の自立傾向が促進されていきます。




・800年~1200年の西アジア  現①アフガニスタン
ガズナ朝,ゴール朝がインドに進出
 962年には,アフガニスタン【本試験H10】でも,サーマーン朝【追H21時期(成立は10世紀ではない)】のホラーサーン地方(現在のイラン東部)総督だった〈アルプテギン〉(?~963以前?) 【本試験H9[25]マムルークの出身か問う】が自立し,ガズナ朝【本試験H3トルコ系か問う,本試験H9[24],本試験H10】【本試験H28時期,本試験H30】【追H21時期(10世紀か)】をおこし,10世紀末には北インドに進出し始めます【H29共通テスト試行 地図の読み取り(トルコ系の勢力がインドにも進出したことを読み取り)】。ガスナ朝時代の〈フィルダウシー(フィルドゥーシー)〉(934~1025)は『シャー=ナーメ』(『王書』)というイランの神話,伝説,歴史をペルシア語で記録した叙事詩を著し,ガズナ朝の王に献上しています。

 12世紀には,ガズナ朝からゴール朝(1148頃~1215) 【追H17仏教国ではない,H20】が自立して,インドに進入を繰り返し,1192年にはラージプート諸王国を倒して,インダス川・ガンジス川を含む北インドに支配を拡大しました。
 
 なお,アム川下流域のホラズムでは,地元勢力がガズナ朝の支配を振り切り1077年に自立します。自立したのはセルジューク朝の総督だった人物で,ホラズム=シャーを名乗り,ホラズム=シャー朝を樹立しました【本試験H7セルジューク朝を滅ぼしたのはオスマン帝国ではない】【本試験H31チンギス=ハンにより滅んだか問う】【追H29アルタン=ハンにより滅んでいない】。
 1215年にはゴール朝を破り【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない】,シル川からイランにかけて広大な領土を一時的に支配しました。ホラズム=シャー朝のもとでは,ペルシア語文学の傑作が〈ルーミー〉(1207~73) 【本試験H24リード文】によって発表されました。彼は,くるくるコマのように回転する儀式で有名なメヴレヴィー教団【本試験H24リード文】の開祖でもあります。




・800年~1200年の西アジア  現⑯キプロス
 キプロス島は東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕の支配下にあり,「トロードス地方の壁画聖堂群」(◆世界文化遺産,1985(2001拡張))のように,正教会をモチーフにしたビザンツ〔ビザンティン〕様式のフレスコ絵画がのこされています。


・800年~1200年の西アジア  現⑰トルコ
 この時期のアナトリア半島はイスラーム教徒の支配下に入り,11世紀中頃以降はテュルク〔トルコ〕人のセルジューク朝の支配地域となります。その地方政権であったルーム=セルジューク朝(1077~1308)が東地中海沿岸に向けて拡大し,東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕を圧迫していきます。


・800年~1200年の西アジア  現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
アルメニアはアラブの支配下に入る
 7世紀からアラブ人の支配下に入っていたアルメニア。
 この時期のアルメニアは7世紀からアッバース朝の支配下に置かれます。アラブ人とビザンツ帝国の間にあって,850年に〈アショット=バグラトゥニア〉家がアラブ人によりアミール(総督)に任命さます。同時にマケドニア朝ビザンツ帝国の〈バシレイオス2世〉により〈アショット1世〉(位885~890)として独立が認められ,独立王国として栄えました(東アルメニアのバグラトゥニ〔バグラト〕朝,885~1045)。

 のちにセルジューク朝の支配を受け,バグラトゥニ朝も11世紀に滅亡すると、キリキア(アナトリア半島南東部)への強制的な移住も実施されました。シリアへの移住者も多くなり、ファーティマ朝に官職を得るアルメニア人も現れます(注1)。
 11世紀初めから小国に分裂するようになり,に12世紀末にはグルジア人とアルメニア人は自立し繁栄期を迎えます。

(参考) 中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.62。
(注1)(注)大塚和夫編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.97。




●800年~1200年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。





●800年~1200年のアフリカ
○800年~1200年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 現③エチオピアでは,900年~1270年の間,アガウ人によるザグウェ朝がロハ(現在のラリベラ)を都として栄えます。
 12世紀末の王〈ラリベラ〉は,首都を“第二のイェルサレム”とすべく,エチオピア正教会の岩窟聖堂群を建設しました(ラリベラの岩の聖堂群(世界文化遺産,1978))。

 東アフリカ沿岸は,アラブ商人,ペルシア商人などのイスラーム教徒が来航し,モガディシュ(現④ソマリア),マリンディ(現⑤ケニア),モンバサ(現⑥タンザニア),ザンジバル(現⑥タンザニア),キルワ(現モザンビーク)などの港市国家が形成されていきました。
 この地方では,現地のバントゥー語系の言語にアラビア語の語彙(ごい)が加わってスワヒリ語【H30共通テスト試行 インドネシアではない】が生まれ,独特なスワヒリ文化【セA H30北アメリカではない】が形成されていきました(注1)。

 アラブ商人やペルシア商人は,9世紀頃からすでにマダガスカル島にも寄港しています。マダガスカルには巨鳥エレファント=バードが生息しており,『千夜一夜物語』の「船乗りシンドバッドの冒険」に登場する巨鳥のモデルといわれます(注2)。

(注1) 「スワヒリ」は、「沿岸」を意味するアラビア語「サーヒル」に由来します。イスラーム商人の到来以前の東アフリカでは、文字は使用されていませんでした。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
(注2) ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,p.312。



○800年~1200年のアフリカ  中央アフリカ

中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

内陸と沿岸を結ぶ交易路が栄える
 現在の⑨カメルーンのあたりから移動してきたバントゥー系の人々のうち,コンゴ盆地のザイール川上流域に移動した人々は,この時期にアフリカを横断する交易ネットワークを築いています。11世紀から13世紀にかけ,現在のザンビアからインド洋沿岸地方や,現④アンゴラなどの大西洋岸との交易路が形成されていきました。これがのちのコンゴ王国を生む外的要因です(注1)。
 コンゴ盆地には、のちにルバ王国、ルンダ王国が出現します。

 バントゥー系の人々の移動先の一つである,東南部を流れるザンベジ川や南のリンポポ川周辺は,高原地帯です。沿岸部のように人類や家畜にとって有害なツェツェバエが分布せず,周辺に比べると温暖湿潤で住みやすい土地でした。また,金が産出されたため,早くからインド洋沿岸の交易ネットワークとつながり,さまざまな産物が流入してきたのです。ここには遅くても900年頃から,バントゥー系のなかでもショナ人の文化が確認されるようになります。ショナ人は現在のジンバブエ共和国の多数派民族です。





◯800年~1200年の西アフリカ
西アフリカ…現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

◆塩金交易【追H30】で栄えたガーナ王国は,ベルベル人に滅ぼされた
西アフリカのイスラーム化は主として武力により進む
 ニジェール川流域のガーナ王国【東京H9[3]】【本試験H8サハラ縦断交易で栄えたか問う,H9[24]地図上の位置を問う】【追H25,H30】は,8世紀頃から黄金を産する国として,地中海沿岸の人々に知られていました。
 滅ぼしたのは,北西アフリカに分布するベルベル人です。

 ベルベル人のムラービト朝【追H25】は1076年から1077年にかけてこの地を征服(ジハード)するとともに,この地にイスラーム教を伝えました(注1)。
 現在でも,ニジェール川流域のマリ共和国の人口の80%は,イスラーム教徒です。なおガーナ王国の首都クンビ=サレーは現在の⑭マリ共和国の北部国境地方に位置し,現在の⑤ガーナ共和国の所在地とは別のところにあります。

 9世紀にサハラ沙漠においてラクダを交通手段とした隊商交易が盛んになり,サハラ沙漠で産出される岩塩とサハラ沙漠の南縁(セネガル川上流のバンブク周辺で産出される金(注2))で産出される金(キン)を交換する塩金【追H30】はますます盛んになっていました。そこで,ニジェール川沿岸の人々にとってイスラーム教に改宗することには,交易路の安全を確保し貿易をスムーズに行うというメリットもありました(注3)。


 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、400~900年の層から大量の骨壷が見つかり、人口が増加し集中していたとみられます。900年~1400年の初期にかけて町は最盛期を迎え、その後衰えていきました(注4)。

(注1) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
(注2)宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.153。
(注3) 11世紀のイベリア半島コルドバの〈アル=バクリ〉の記述によると、ガーナの首都は2つの都市に分かれていました。一方はムスリムの都市で、モスクは12ヶ所。他方は王の住む森に包まれた都市でした。この二重構造はこの地域に典型的な都市のあり方でした。宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年、p.152。
(注4) 宮本正興、松田素二『改訂新版 新書アフリカ史』講談社現代新書、2018年。





◯800年~1200年の北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
◆エジプトではイスラーム政権のファーティマ朝,アイユーブ朝が自立し繁栄した
 穀倉地帯としてアッバース朝の大事な“収入源”であったエジプトは,カリフの子の宗主権の下でアラブ人が支配していました。しかし,テュルク(トルコ)系マムルークの子がエジプトの支配を委ねられると実権を奪いトゥールーン朝(868~905)を建設,アッバース朝の宗主権下で事実上の独立を果たしました。

 10世紀になると地域政権が自立する傾向は一層すすみ,現在のチュニジア【H27京都[2]】でシーア派【本試験H16,本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激派にあたるイスマーイール派の布教活動によってファーティマ朝【京都H19[2] ,H27[2]】【追H9スルターンの称号を得ていない】【本試験H23地図上の位置,H29共通テスト試行 セルジューク朝の下でカイロが繁栄したわけではない,H31】が建国されました。主体となった民族はベルベル人【H27京都[2]】です。
 第六代〈ハーキム〉(位996~1021)はカイロに「知恵の館(やかた)」を建設。バグダードを拠点とするスンナ派のカリフに対抗し,イスマーイール派の信仰の拠点とします(彼はのちに姿をくらませますが,その彼の復活を救世主として待望するのが,現在のレバノンで信仰されているドゥルーズ派です)。

 アッバース朝はテュルク系のマムルークなどを派遣して鎮圧しようとしましたが,派遣されたイラン系の軍人がいうことを聞かなくなりファーティマ朝の攻撃を押しのけました。その功績から935年にカリフに認められる形でエジプトでイフシード朝(935~969)を建国しました。事実上の独立です。
 しかしチュニジアのファーティマ朝は,エジプトのイフシード朝が弱体化すると,969年にナイル川沿いの交易拠点でもある都フスタートに無血入城し,その北に新都カーヒラ(アラビア語で「勝利」という意味。英語だとカイロ【本試験H2時期(10世紀か),ファーティマ朝の首都になったか問う】【東京H8[3]イスラームの勃興後に建設された都市を地図から選ぶ】)を建設し,さらには「カリフ」を宣言してしまいます【本試験H16カリフを称したかを問う,H31カリフの称号を用いたか問う】。
 後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)の君主も「カリフ」宣言したので,なんとカリフが同時に3人存在する分裂時代となりました。ファーティマ朝のカリフは,シーア派【本試験H16・本試験H23ともにスンナ派ではない】の中でも過激な主張を唱えるイスマーイール派を保護し,アリーの後継者を自任しました。カイロ【追H25】【東京H14[3]】にはアズハル学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない・カイロにあるかを問う】【追H25ファーティマ朝時代か問う(アズハル学院(アズハル大学))、H29アッバース朝による創設ではない】というマドラサ(学院)が建設されました。
 地方政権の自立は,農村からの地租(ハラージュ)に依存していたアッバース朝にとって大きな打撃となります。
(注)765年に第6代イマームが亡くなった後,彼の長男〈イスマーイール〉をイマームにすべきと主張し,シーア派内の多数派から分離した派です。アッバース朝の支配にも激しく抵抗しました。
 なお,チュニジアを離れたファーティマ朝カリフは,現在のチュニジアからアルジェリア東部にかけてをベルベル人に任せ,ズィール朝(972~1148)が建国されました。のち,現在のアルジェリアがハンマード朝(1015~1152)として自立しました。さらにリビアにはアラブ人の遊牧民が活動し,アルジェリア西部からモロッコにかけてはベルベル人の諸部族君主が分立。マグレブ地方全域にわたる統一政権は成立しませんでした。
 ファーティマ朝時代にはユダヤ,キリスト,イスラーム教徒間での商工業の連携も盛んにみられましたが,カリフ〈ハーキム〉(位996~1021)はキリスト教徒やユダヤ教徒に対する抑圧を強め,イェルサレムにある〈イエス〉の墓「聖墳墓教会」の破壊を命じています。彼は死後に神聖視され,「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派ドゥルーズ派が生まれました(現在のレバノンを中心に信者がいます)。彼の死後はファーティマ朝の支配は動揺していきます。

 12世紀後半には,クルド人【東京H25[3]】の〈サラーフ=アッディーン〉(サラディン【東京H8[3],H13[1]指定語句】【H27京都[2]】,在位1169~93) 【本試験H16】【追H18、H20】が,スンナ派【本試験H16】のアイユーブ朝【追H27マムルークを用いたことを問う】【京都H19[2]】【本試験H16】を開き,1171年にファーティマ朝を滅ぼしました。
 彼はイェルサレム【東京H8[3]】をキリスト教徒から奪回し【本試験H29,H31マムルーク朝によるものではない】【追H20】,1187年には再奪回しようとした第三回十字軍【本試験H16第一回ではない】をヒッティーンの戦いで撃退しました【本試験H16イェルサレム王国は建国していない】。
 アイユーブ朝は,勇猛さで知られたトルコ系やカフカス(カスピ海と国家にはさまれた山岳地帯)系の人々を軍人として積極的に採用しました。彼らは「採用されたもの」という意味を指すマムルークと呼ばれます。
 なお〈サラディン〉に仕えた医者であり,ユダヤ人の哲学者〈マイモニデス〉(モーシェ;マイムーン,1135~1204)は,〈アリストテレス〉哲学を利用してユダヤ教教義をとらえなおした人物で,カイロで活躍します。




◆ベルベル人が,サハラ沙漠の横断交易の主導権を握ろうとした
 北アフリカの先住民のベルベル人の多くは,少数派のハワーリジュ派を受け入れていました(注1)。彼らはマグレブ地方にルスタム朝(776?~909)を建てています。

 リビアは東部(キレナイカ地方)はエジプトの政権,西部(トリポニタニア地方)は西方の政権の影響を受けましたが,アラブ系遊牧民の活動範囲でした。

 9世紀頃から金を産出するガーナ王国とエジプトの直接交易ルートが放棄され,代わりに大西洋岸の交易ルートが使われるようになると,サハラ沙漠西部の塩金交易が盛んになっていました(注2)。
 ハワーリジュ派のルスタム朝,イスマーイール派のファーティマ朝など,非スンナ派が各地で政権を握る中スンナ派を復活しようとする運動が起こり,1056年にベルベル系【本試験H3「ベルベル人」か問う,本試験H8「ベルベル人」か問う】のサーンハジャという遊牧民出身でスンナ派法学者の〈イブン=ヤースィーン〉(?~1059)が聖戦を宣言。モロッコのマラケシュ【追H28都はカイロではない】【本試験H25】にムラービト朝【東京H11[1]指定語句】【本試験H3ナスル朝とのひっかけ,本試験H8時期(11世紀),本試験H9マムルークにより樹立されていない,本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】【追H24フランク王国に滅ぼされていない】が建てられました【本試験H16地域,本試験H21建国時期】。ムラービトの由来は,運動の主体となったイスラームの戒律に従う「ムラービトゥーン」(修道士)で,ヨーロッパではスペイン語の影響を受けた「アルモラヴィド朝」と呼ばれます。彼らはカリフを称することなく,あくまでアッバース朝のカリフを中心にスンナ派の信仰を守る政権を建てようとしたのです。この背景には,サハラ沙漠の塩と金を交換する交易ルートをめぐる経済的な争いもありました。
 その証拠に,ムラービト朝【本試験H3】はサハラ沙漠を南に進軍し,ガーナ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】を1076~77年に滅ぼしています(ガーナ王国の滅亡【本試験H3】)。

 現在のセネガル地域にも,ムラービト朝の進出やイスラーム商人の交易により11世紀にイスラーム教えが伝わったとみられますが,信仰は支配者に限られていました(注3)。
(注1)ハワーリジュ派はシーア派ともスンナ派とも敵対し,カリフの位には神の権威を受け継いだ者がイスラーム教徒の共同体によって選ばれるべきであり,アラブ人であってもなくてもかまわないと主張し,のちに北アフリカのベルベル人の間に反アラブ的な思想として広がっていきました。
(注2)佐藤次高編『新版世界各国史 西アジア史Ⅰ アラブ』山川出版社,2002,p.223。
(注3)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.30。

 ムラービト朝は,当時30あまりに分裂していたイベリア半島(アラビア語でアンダルス)の小王国が,キリスト教徒の南下に対する救援を要請したことから派兵し,1090年から1110年頃にかけてムラービト朝の勢力下に入っていきました。ムラービト朝は厳格なスンナ派に基づきキリスト教諸王国の再征服運動(レコンキスタ,国土回復運動)に激しく抵抗し,対するキリスト教諸王国のイスラーム教諸国への十字軍運動が始まると,両者の争いは一層激しくなっていきました。しかし,北アフリカの遊牧民を母体とするムラービト朝【本試験H12エジプトのアレクサンドリアを支配したわけではない】は,本拠地がイベリア半島に移ったことで弱体化していき,1147年には同じくマラケシュに都を置くムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)、H24ムラービト朝はフランク王国による滅亡ではない】により滅びました。

 ムワッヒド朝は1072年にシチリア島のパレルモを占領し,ノルマン人とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝はムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,イベリア半島北部~中央部のカスティーリャ王国【東京H11[1]指定語句】と,北西部のアラゴン王国,西部のポルトガル王国(1143年にカスティーリャ=レオン王国【本試験H21神聖ローマ帝国ではない】から分離) などの推進していた再征服運動(レコンキスタ,国土回復運動)に立ち向かいました【本試験H21ドイツ騎士団によるものではない】【追H25】。



◆アグラブ朝が地中海の島々を占領する
イスラームの進出に対し,フランク王国は無策
 マグリブ地方ではベルベル人が国家を建てる一方,この地に駐屯していたアラブ人の中からはアッバース朝から自立する動きも起きます。

 現・チュニジアではアッバース朝の宗主権の下でアグラブ朝(800~909)が成立しました。アグラブ朝はビザンツ帝国領であったシチリア島を占領し(827年にパレルモが占領されています),さらにサルディーニャ島も一時占領しました。

 これに対し,分裂の進んでいた〈カール大帝〉亡き後のフランク王国には為す術がありません(843年にヴェルダン条約【セ試行】,870年にメルセン条約【セ試行】で三分裂【本試験H3】)。

 また,9世紀にはアッバース朝に対する反乱に失敗しモロッコに逃れたアリー派のアラブ人が,ベルベル人【H27京都[2]】の支持を得てイドリース朝(789~926)を建国しました【H27京都[2]問題文(わからなくても解答可能)】。
 アグラブ朝とイドリース朝の下ではイスラーム教の普及とアラビア語の使用が進み(「アラブ化」の進展),それに対するベルベル人の反乱も起きました。





●800年~1200年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


◆「第二次民族大移動」の影響を受け,地域内の交流が活発化,開発が進展し「拡大」の時代を迎える
ヨーロッパは森をひらき,政権はキリスト教を保護
 ヨーロッパはフランク王国の分裂後に地方政権に分立していて,特にイングランド(デーン人の支配地域への再征服が進められ,10世紀後半までには国王の宮廷と州からなるアングロ=サクソン人の統一王国が成立し,国王も「イングランド王」と呼ばれるようになっていた),フランス(例えば〈フィリップ2世〉(1180~1223)は王領を拡大),ドイツの王権が抗争します。
 初期の王権は王領地からの収入が少なかったので権力が弱く,各地を移動しながら人馬や品を公課として徴収したり,各地で裁判をおこない罰金を収入としたりする移動宮廷が普通でした(“シンデレラ城”のようなお城を中心に支配しているわけではないのです)。
 商業が活発化し王権が拡大するにつれ,こうした収入は貨幣に代えられ,首都の国庫に保管されるようになっていきます。

 人口増にともないドイツ人は東方に移動し(ドイツ東方植民),東ヨーロッパ・中央ヨーロッパ・バルカン半島に拡大していたスラヴ人のポーランド,ベーメンなどの王権と対立しました。
 この2国をめぐっては,ビザンツ帝国とローマ=カトリック教会との間に“布教合戦”が繰り広げられましたが,東方(ドニエストル川流域から9世紀末にカルパティア盆地に移動)から移住したマジャール人のハンガリー (9世紀初めに建国されていたモラヴィア人の国を滅ぼし,ザクセンとバイエルンを圧迫しました) 【本試験H5クリム=ハン国ではない】とともに,最終的にはローマ=カトリックを受け入れました(注)。
(注)神聖ローマ帝国オットー朝の保護するローマ=カトリック教会の下で,ボヘミア(プラハ)には司教座が置かれ,ポーランド(グニエズノ)とハンガリー(グラン)には大司教座が置かれました。〈オットー1世〉はザクセンのマクデブルクに大司教座を設置し,スラヴへの伝道の拠点としていました。一方で〈オットー2世〉はビザンツ帝国から后を迎えており,その子〈オットー3世〉はビザンツ帝国の血筋を引いていました。このことからもわかるように,1054年に東西教会が相互に破門したといっても,ヨーロッパ世界はキリスト教の統治理念・教会組織・共通の聖典という共通点や君侯同士の婚姻によって,“キリスト教文化圏”というまとまりを形成していたわけです。

 イベリア半島では西部ではレオン王国が後ウマイヤ朝と領土を争い,南部のセビーリャを奪回したことからイタリア商人が直接北海に進出できるようになった点は重要です。
 東部ではバルセロナ伯領(旧・スペイン辺境伯領【立命館H30記】)が拡大して1137年にはアラゴン王国と統合しました。イベリア半島(イスラーム側からはアンダルスと呼ばれました)ではイスラーム商人,ユダヤ商人が活躍し,北アフリカ,シリア,パレスチナとの交易ルートをめぐり,マケドニア朝のビザンツ帝国(867~1056)と抗争した。皇帝〈バシレイオス2世〉(位976~1025)はブルガリア王国を併合して,最盛期を迎えました。

 これら諸国の支配層(君(くん)侯(こう))は,国を超えた家門どうしの婚姻(こんいん)によって結びつきましたが,相続をめぐる争いも起きるようになっていきます。
 また,第二次民族大移動の影響を受け,各地に城塞(じょうさい)が建築されるようになっていきました。
 交易ルートが危険にさらされたことで,食料確保のために王侯の指導で森林が切り拓かれ,湿地が干拓されました(注1)。君侯は修道院の労働力を利用し土地の開墾がすすみ,次々に新しい村がつくられます(注2)。
 原生林が減ったヨーロッパでは交流が活発化し,各地で都市も成長しました。都市から都市を渡り歩く修道院が,当時のヨーロッパの情報や資金のネットワークをつくっていく原動力でしたが,その富に目をつけた君侯による私物化もすすみ,教皇の座をめぐる内部抗争とも結びつき聖職叙任権闘争につながります。
(注1)君侯が,開拓プランをたてた請負人に委託して,植民プロジェクトを立ち上げる場合もありました。請負人は労働力として農民を募ったが,強制的に人をさらう例もあったとみられます(その一つの事例が,ドイツのハーメルンという都市で1284年6月26日に発生した事件(いわゆる“ハーメルンの笛吹き男”の物語として知られる)にあることを,日本の歴史学者〈阿部謹也(あべきんや)〉(1935~2006)が実証しています)。当時は開発のための労働力はとても貴重であり,入植者には特権が与えられることも多くありました。
(注2)〈クレルヴォーのベルナルドゥス〉(1090~1153)は,1147年にエデッサがイスラーム勢力に攻略されたことを受けて十字軍を提唱し,各地の王侯の宮廷で十字軍の必要性を説教してまわりました。フランスの〈ルイ7世〉と神聖ローマ帝国の〈コンラート3世〉らが出征しました。失敗に終わりましたが,当時の君侯はこのようにキリスト教の理念と結びつくことで自分の正統性を確保するとともに,国内の開発をすすめていこうとしたのです。

 バルカン半島では,スラヴ人のセルビアや東方から進出してきたブルガールが,ビザンツ帝国と対立しつつ,正教会を受け入れています。
 北方のノルマン人はキリスト教を受け入れ,イングランド,北フランス,ロシア,南イタリアで建国するとともに,北アメリカにも進出している。ノルマン人の騎士はローマ教皇と手を結び,地中海地域の一体化にも貢献しました。

 この時期のヨーロッパのほとんどが農民です。領主の支配下にあって移動が制限されているため,特に農奴(のうど)といいます。
 カレンダーは農業を中心として周ります。それは,現在のように「過去 → 現在 → 未来」のように進んでいく,直線的な時間のとらえ方ではありません。

 「クリスマスを迎える待降節(アドベント)→12/25の降誕祭(クリスマス)→謝肉祭(カーニバル)→2月から40日間の四旬節(レント)→四旬節明けの復活祭(イースター)→聖霊降臨祭(ペンテコステ)→種々のお祭り→待降節→降誕祭…」のように,毎年同じ頃にキリスト教に関係したお祭りが催され,農作業もそれに対応します。
 飢え・戦争・疫病の影響から乳児死亡率も高く,死は身近なものでした。
 それゆえ,教会に対する信仰はとても自然におこなわれ,誕生→通過儀礼→結婚式→葬儀→埋葬にいたるまで,教会は民衆の生活に密着したものでした。

 一方で,魔術や占いのような民間信仰も盛んで,キリスト教の信仰と線引きされていないこともしばしばでした。聖者(せいじゃ)やその遺体や持ち物の一部(聖遺物)に対する信仰があったほか,魔術を操る魔女が尊敬と恐れの対象となりました。 しかし,「魔女」は17世紀以降の社会不安を背景として,厳しい「魔女狩り」の対象になり,きびしい弾圧の対象になっていくことになります。
 彼ら農民にはもちろん政治に参加する権利などなく,多くが移動の自由もなく,ときに一致団結して暴動や一揆を起こすことがありました。ドイツ農民戦争もその一つだったのです。





○800年~1200年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

ノルマン人とスラヴ人が移動し国を建設する
 民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川やヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアとポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。
 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシ,ウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンのヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流のキエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国,キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー・クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。
 このようにして,キリスト教文化圏は,東ヨーロッパ方面にも拡大していきました。

 西スラヴ人に含まれるのが,ポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人です。彼らはローマ=カトリックに改宗し,ラテン語の文化圏に入りました。
 ポーランドの祖先であるポラン人は「平地の人」という意味。名前のとおり周囲からの進入を受けやすい土地柄です。彼らは10世紀初めに,ピャスト(ピアスト)家(車大工出身であったそうです)を中心に公国(ピャスト(ピアスト)朝,960?~1370)を形成しています。〈ミュシェコ1世〉(960?~992)のときにローマ=カトリックのキリスト教を受容し,〈ボレスワフ1世〉(992~1025)の統治下の1000年には神聖ローマ帝国から大司教座を置くことが許可され,1025年にはローマ教皇によって王国に昇格しました。ポーランド人はローマ=カトリックを受け入れることによって,神聖ローマ帝国との和平を図ったのです。〈ボレスワフ〉はウクライナまで領域を拡大させています。しかしその後12世紀中頃にポーランドは,内紛によりクラクフなど複数の公国に分裂してしまいました。

 チェック人も10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】しましたが,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国の支配下に入りました。1000年までにはプラハに司教座が設置されています。




・800年~1200年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑥ウクライナ
ノルマン人とスラヴ人が移動し国を建設する
 民族の大移動を受けて西ヨーロッパの社会は自給自足の分権的な社会に入っていくと,黒海に北から注ぐドニエプル川やヴォルガ川を上流へさかのぼって,北方のバルト海につなげる交易ルートの往来が盛んになっていきました。これに目をつけたノルマン系のスウェード人の一派の首長である〈リューリク〉(位864~879) 【慶文H30】は,バルト海にほど近いノヴゴロドに国家を建設します【追H19、H27リトアニアとポーランドの合同によるものではない】【本試験H5ブルガリア人の国家ではない,本試験H7モンゴル人の支配から自立した国ではない】。この地に居住していたのは東スラヴ人の一派です。

 スラヴ人の現住地は,西ウクライナから南ベラルーシの付近といわれています。現在のロシア,ベラルーシ,ウクライナなどの地方に拡大したスラヴ人は,東スラヴ人に分類されます。ノヴゴロドに居住していたのは,東スラヴ人で,彼らの中ではこの地の交易のもうけをめぐって争いが絶えなかったといいます。そこで彼らは,スウェード人(スウェーデンのヴァイキングのことで,ロシアではヴァリャーグ人ともいいます)の軍事力を頼ったのだという記録が残されています。
 彼らスウェード人は,ここにいたスラヴ人【東京H6[3]】(正確には東スラヴ人)と交流して,やがて合流します。スウェード人のことを「ルーシ」ともいい,これが今のロシアの語源です(他説もあり)。

 さて,〈リューリク〉の親族である〈オレーグ〉(位882~912)は,交易の拠点をさらに南に移すため,ドニエプル川中流のキエフを占領し,各地の公を支配化において,自らは大公に就任しました。これがキエフ公国(キエフ大公国,キエフ=ルーシともいいます。9世紀末~1598) 【東京H6[3]】 【追H19,H28成立時期は中国の唐代か問う(正しい)】【本試験H2ビザンツ帝国の商人による建国ではない,本試験H5ポーランド人の国ではない】【本試験H25時期,本試験H30ブランデンブルクとのひっかけ】。
 各地は公国の支配者(クニャージ)により支配されていましたが,キエフの支配者は,ルーシの公たちを支配化に置き,「ヴェリーキー=クニャージ」の称号を用いました。日本語では公とか大公と訳されますが,王のような存在でした(注1)。

 キエフ公国は,黒海方面とバルト海との中継貿易で栄えていましたので,ビザンツ帝国との友好関係を重視するようになります。 980年頃に即位したキエフ公国の王〈ウラディミル1世〉(位980頃~1015) 【本試験H25】【追H19ウィリアム1世ではない】【慶文H30】は,ビザンツ帝国との友好関係を保つため,ギリシア正教に改宗して国教化【本試験H23,本試験H25ユダヤ教ではない,本試験H28ピョートル大帝ではない】【追H19】し,ビザンツ文化を受け容れ,専制君主政治をまねしました。彼は,ビザンツ皇帝の〈バシレイオス2世〉(位976~1025)の妹と結婚しています。さらに農民を農奴にして,貴族による大土地所有が発達していきます。彼の息子〈ヤロスラフ賢公〉(位1019~54)は,ロシア最古の成文法を整備し,11世紀後半にキエフに聖ソフィア聖堂を建てています。

 キエフ大公国の文化として、12世紀後半の『イーゴリ軍記』を挙げておきましょう。
 ノヴホロド=シヴェルスキーという小さな町の公である〈イーゴリ公〉(ウクライナ語ではイホル、1151~1202)と遊牧民ポロヴェツ人との戦いを描いた叙事詩で、やがて19世紀の作曲家〈ボロディン〉(1833~1887)が歌劇『イーゴリ公』を作曲しています(注2)。 


(注1) 「クニャージ」は英語の「キング」、ドイツ語の「ケーニヒ」の語源とも言われますが、のちにクニャージの息子・子孫も「クニャージ」と称するようになったため「公」並みの価値に下落し、訳語も「公」にされるようになりました。しかし、「本来はキエフ・ルーシ王国といったほうが実態から見て公平であると思われ、現にウクライナの民族主義的色彩の濃い史書には王国と称するものもある」(黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.24)。なお、同時代的には「ルーシ」とのみ呼ばれていました。「キエフ=ルーシ」として区別されるようになったのは、のちにロシアがモスクワで生まれた後の話です。「キエフ=ルーシ(キエフ(大)公国)」の歴史がロシアに属するのか、それともウクライナに属するのかという歴史に対する見方が問題となるわけです。
(注2) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.57。



○800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

スラヴ人が南下し、多くはビザンツの影響受ける

◆東ローマ帝国は,テュルク系イスラーム教徒の政権とスラヴ人の進出で勢力が衰える
 イスラーム教徒の進出により押され気味だった東ローマ帝国は,8世紀以降,とくにマケドニア朝(867~1056)のときに,勢力を回復していきました。
 10世紀の後半には,軍人出身ではない皇帝(文人皇帝a scholar-emperor)であった〈コンスタンティノス7世〉(在位913~920,920~944は共治,944~959)が即位。彼の治世の文芸の隆盛は,“マケドニア=ルネサンス”として知られます。古代ギリシアから連なるに学問研究が奨励され,学者が招かれました。自分でも『帝国統治論』や『儀式の書』を著しています。

 11世紀にビザンツ帝国【セ試行 神聖ローマ帝国ではない】は,ブルガール人【セ試行 時期(11世紀か問う)】の第1次ブルガリア帝国を滅ぼしますが,内紛や地方反乱が勃発。さらにテュルク系のセルジューク朝【京都H19[2]】の〈アルプ=アルスラン〉が小アジア東部に進入し,1071年にマンジケルト(マラズギルト)の戦いで東ローマ皇帝〈ロマヌス4世〉を捕虜としました。身代金の支払いを条件に釈放されましたが,その後の東ローマ帝国は小アジアを喪失し,勝利したセルジューク朝の一派は小アジアにルーム=セルジューク朝を建国しました(1077~1308,首都コンヤ)。この時期にテュルク系のグループが小アジアに進出するようになり,小アジアのイスラーム化・テュルク化(注)が進展していきます。
 セルジューク朝の進入により,東ローマ皇帝アレクシオス1世(位1081~1118年)はローマ教皇の〈ウルバヌス2世〉に救援を要請し,その結果第一回十字軍【本試験H25第四回十字軍ではない】【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が組織されました。

 しかし,ヴェネツィア商人【本試験H12フィレンツェではない】がイェルサレム奪回をタテマエにして第四回十字軍【追H17、H19】を主導し,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略したため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。

(注)「○○化」という言い方には,○○の特徴を有する人々がその地で支配権を拡大していった過程,その地で○○の特徴を有する住民が増えていった過程など,使われ方によって意味の変わる言葉です。一般に,「テュルク化」という場合にはテュルク系の出自を持ち,あるいはテュルク系の言語を用いる政権が支配を拡大していったこと,もしくは住民が増えていったことを指します。「イスラーム化」という場合には,その地の支配者の名がモスクの説教(フトバ)で唱えられ,イスラーム法(シャリーア)が施行されるようになっていく過程を指す場合もあります。



 6~8世紀にかけてバルカン半島のスラヴ化がすすみました。それにともない先住のイリュリア人やトラキア人は山岳部に避難し牧畜民となります。
 代わって黒海北岸からは遊牧民のブルガール人やマジャール人が進出してきます。




・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア

◆バルカン半島東部では第一次ブルガリア帝国が発展し,正教会を受け入れる
第一次ブルガリア帝国が正教会に改宗する
 7世紀にバルカン半島北部のドナウ川下流域(右岸)でブルガール人の一派により建国されたドナウ=ブルガール=カン国(第一次ブルガリア帝国)では9世紀初頭に皇帝(ハーン)〈クルム〉(位803~814)により中央集権化が進められ,官僚にスラヴ人が用いられ「スラヴ化」が推進されました。彼はビザンツ帝国皇帝〈ニキフォロス1世〉(位802~811)に勝利し,バルカン半島東部のアドリアノープルを陥落させたものの休止。
 のち〈ボリス1世〉(位852~889)の時代に東フランク王〈ルートヴィヒ2世〉(位843~876)とローマ教会の進出に対抗するためビザンツ帝国に接近し,国家統一に利用しようと正教会に改宗【本試験H25】しました。バルカン半島においては,ローマ教会と正教会のどちらの側に付くかはその時々の政治状況により絶妙なバランス感覚が要求されたのです。〈ボリス1世〉はビザンツ帝国皇帝の〈ミカエル3世〉(位842~867)に主教の派遣を要求しましたがかないませんでした。

 皇帝は,862年に西スラヴ系のモラヴィア王国に〈メソディオス〉と弟の〈キリロス〉を派遣してスラヴ語による聖書と典礼書(てんれいしょ,儀式に関する書物)の翻訳にとりかからせていました。兄弟はスラヴ人【追H30ケルト人ではない】への布教を目指して,スラヴ語訳のためにギリシア文字からグラゴール文字を考案しましたが難解で普及せず,ローマ教会の圧力もあって失敗に終わりました。
 10世紀後半にブルガリアの〈ボリス1世〉は〈メソディオス〉の弟子を招き,ギリシア文字をベースにキリル文字【本試験H28契丹文字ではない】【追H30】が考案されました(つまり,キリル文字は〈キリロス〉(キリル)にちなんでいるものの,〈キリロス〉がつくった文字ではありません)。
 ブルガリアではキリル文字により,歴史書・地理書・法典などが編纂され,多数設立された修道院を中心に地方の領主の力の強い国柄が形成されていきました。なお,キリル文字は現在のブルガリア,セルビア,ロシアで使用されている文字の原型です。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の〈キュリロス〉(827~869)と弟の〈メトディオス〉(826~885)は,スラヴ人の言語を表記するため,ラテン文字からキリル文字の元となるグラゴル文字を考案しました。
 〈シメオン1世〉(位893~927)のときスラヴ語が公用語化され,ビザンツ帝国に勝利し領域をアドリア海まで拡大しました。913年にはコンスタンティノープルを包囲し,コンスタンティノープル総主教がに〈シメオン〉に「皇帝」位を授けたとされ,彼は「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」の称号を名乗る勢いをみせます。
 ブルガリアを警戒したビザンツ皇帝は,キエフ大公国の〈スヴァトスラフ〉(位945~972)と同盟してブルガリアを攻撃し,のちビザンツ皇帝〈ヴァシリオス2世〉(バシレイオス2世,位976~1025)は1014年のクレディオンの戦いでブルガリアを完膚なきまでに攻撃し,ついにこれを滅ぼしました。捕虜の眼を無慈悲につぶして返還する行為をおこなったことから,“ブルガリア人殺し”の異名(いみょう)があります。これをもって第一次ブルガリア帝国の滅亡です。

 ブルガリアにはビザンツ帝国によりテマ制がしかれましたが,貨幣経済の浸透により農村・都市の民衆の生活は苦しくなっていきました。東ローマ帝国各地では大土地所有も進み土地貴族が形成され,テマ(セマ)が世襲されるプロニア制(プロノイア制)に変化していきました。ビザンツ帝国による地方支配がゆるむと,12世紀末にはブルガリアで反乱が起きブルガリア帝国が再建されました(第二次ブルガリア帝国,1185~1396)。ブルガール人による国家というよりは,遊牧騎馬民のクマン人,ギリシア人,山岳牧畜民のヴラフ人(古代のイリュリア人やトラキア人との関連も指摘されているラテン系の人々)も含む多民族国家でした。




・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシャ
 ビザンツ帝国の支配下にも北アフリカのイスラーム教徒が進出。

 クレタ島にはイスラーム政権であるクレタ首長国(824~961)が建てられ,交易の拠点となりました。
 961年に東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕が奪回しています。

・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑤アルバニア
 6~8世紀にかけてバルカン半島のスラヴ化がすすみました。それにともない先住のイリュリア人やトラキア人は山岳部に避難し牧畜民となります。
 11世紀以降に記録上に現れるアルバニア人には,イリュリア人との関連性が指摘されています。




・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑦モンテネグロ,⑧セルビア
セルビア、モンテネグロは正教会に改宗
 セルビアには10世紀に第一次ブルガリア帝国が西進し,皇帝〈シメオン1世〉(位893~927)に征服されました。セルビア人は正教会を信仰しています【追H27バルカン半島に定住後、ローマ=カトリックに改宗していない】【本試験H25ローマ=カトリックではない】。
 〈シメオン〉の死後,セルビアはビザンツ帝国とも強力してブルガリアを挟み撃ちしようとしましたが,1018年には今度はビザンツ帝国に征服されます。その支配下ではセルビア支配層に内紛が起きていました。現在のモンテネグロ周辺のセルビア西部はゼータ王国として独立し,〈ボディン〉(位1081~1101?)のもとで最大領域を達成しましたが,こちらもビザンツ王国に征服されました。ボスニアは1180年以降はハンガリーの宗主権下に置かれています。
 1168年に南西部から勢力を強めた〈ステファン=ネマニャ〉はセルビア国王(位1168~96)として西部を含むセルビア全域を統一し,ネマニッチ朝を創始。1180年に東ローマ皇帝〈マヌエル2世〉(位1143~1180)が亡くなると勢力を拡大させていきました。




・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ
ボスニアは周辺の支配を受け続けた
 アドリア海とほぼ並行に南北方向に走るディナール=アルプス山脈周辺のボスニアは非常に山がちな地域で統一勢力が育ちにくい場所で,様々な小勢力が分立し周辺からの支配を受けました。
 ボスニア北部・中央部は,クロアチア,ブルガリア,ビザンツ帝国の支配を受けたのち,12世紀にはハンガリーに併合されましたが,実権は地方貴族が握っていました。
 ボスニア南部(フム地方と呼ばれました)はネマニッチ朝の下で強大化したセルビアの支配を1168年から1326年まで受けました。




・800年~1200年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆バルカン半島西部にはマジャール人のハンガリー王国が成立し,スロヴェニア人やクロアチア人は支配下に置かれていく
クロアチア・スロヴェニアはローマ教会の影響強い
 フィン=ウゴル語系ウゴル語派の騎馬遊牧民マジャール人は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川下流域を現住地とし,9世紀頃から黒海北岸の草原地帯から東ヨーロッパへの移動を開始し,ドナウ川中流域のパンノニア平原で半農半牧の生活に切り替え,10世紀末にハンガリー王国【本試験H5クリム=ハン国ではない】【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】を建国しました【本試験H30チェック人ではない】。西方のローマ教会を受け入れ,大司教座が設置されました。彼らがパンノニア平原に進出したせいで,西に移動していたスラヴ人(西スラヴ人)は,北(そのまま西スラヴ人)と南(南スラヴ人)に言語的・文化的に分かれて発展していくことになりました。



 スロヴェニアは8世紀半ばにフランク王国の支配下に入っていましたが,10世紀末にマジャール人がハンガリー王国を建てると,ドイツ王の〈オットー1世〉(ドイツ王位936~73,神聖ローマ皇帝962~73)はスロヴェニアをケルンテン(カランタニア)侯領として編入し,ローマ教会を受け入れさせました。のち侯領は分裂し,強大化したハンガリーやヴェネツィアの支配下に置かれていき,スロヴェニアの国家形成は遅れました。

 アドリア海に面するバルカン半島西岸のダルマツィア地方には,いくつもの港市国家が立ち並び,その富と海軍力を狙って東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が進出しました。870年代にテマ(セマ)が置かれ,のちのドゥブロヴニク(ラグーザ)であるラグシウムやザダル(ザーラ)がビザンツ帝国の宗主権下で自治を行っていました。


 クロアチアには常に周囲の情勢をみながら,ローマ教会側と正教会側のどちらに付くべきかの選択が迫られていました。初め部族連合が成立していましたが,879年にローマ教会により国家と認められて独立【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。
 しかしのちに正教会のビザンツ帝国と組むことでマジャール王国やブルガリア帝国と戦いました。その後内紛が起こり,婚姻関係のあったハンガリー王〈ラースロー1世〉(位1077~95)に仲裁を要請し,1094年にザグレブにローマ教会の司教座が置かれることになりました。その後ハンガリー王〈カールマーン1世〉(位1095~1116)が1102年にクロアチアとダルマチアの王として戴冠され,クロアチアはハンガリーの影響下に置かれることになりました。クロアチア貴族の特権と自治は認められましたが,クロアチアの太守(バン)はハンガリーに任命されます。
 ハンガリーはクロアチア支配を足がかりにアドリア海への進出を図り,ハンガリー王かつクロアチア王の〈ベーラ3世〉(位1172~96)は1180年にヴェネツィアに占領されていたザダルを含むダルマチア地方,1182年にはボスニア,セルビアを占領しました。





○800年~1200年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…現①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ

 フランク王国の〈カール〉大帝が亡くなると,王国は3分裂。そのうち東フランク王国【本試験H8】のカロリング家は断絶し【本試験H8】,911年に有力な諸侯の選挙で王が決められるようになりました【本試験H26】【本試験H8「大諸侯」の選挙】。
 はじめに選ばれたのは,フランケン大公〈コンラート1世〉(位911~918)。しかし,アジア系の遊牧民マジャール人(フィン=ウゴル語形ウゴル語派)の進入に対して手を打てぬまま,ザクセン家の〈ハインリヒ1世〉(位919~936)を跡継ぎとして亡くなりました。こうしてできたのがザクセン朝です。〈ハインリヒ1世〉は「選挙で王が決められるのはもうやめにしよう」と,息子の〈オットー〉を跡継ぎにすることを,諸侯に承認させました。また,マジャール人対策のために,辺境領(マルク)の警備を強化しています。

 子の〈オットー1世〉【セ試行】【早・政経H31論述指定語句】は,マジャール人【セ試行】を955年にレヒフェルトの戦いで撃退【セ試行  時期(10世紀か)】したことで,名声を高めました。しかし国内に目を向けるとドイツには大諸侯が多く,いうことを聞いてくれるとは限りません。
 そこで,「王の領土を,司教に寄進してご機嫌をとる代わりに,教会の組織のえらい役職(司教など)を任命したりやめさせたりする権利を得よう」と考えました。本来であれば,教会の組織のえらい役職は,教会組織のトップであるローマ教皇が任命するのが自然です。しかしオットーは,皇帝が司教を任命(「叙任」といいます)すれば,その司教は皇帝の言うことを聞いてくれるはずなので,都合が良いと考えました。まるで,司教が皇帝の「諸侯」のようになるわけなので,彼らを「聖界諸侯」とも呼びます。聖界諸侯の勢力を増やすことで,ローマ教皇がドイツの教会に口出しすることも防ぎ,ドイツの大諸侯たちも黙ってくれるならば,一石二鳥だと考えたのです。この政策を帝国教会政策といいます。
 〈オットー〉はカール大帝と同様,異民族の進入をブロックし,教皇のご機嫌をとりました。「ようやくまた守ってくれる人があらわれた!」とばかりに,教皇〈ヨハネス12世〉(位955~964)は,東フランクの〈オットー1世〉【本試験H19時期】【セA H30】にローマ帝国の冠を授けます。962年のことです。今後は,ドイツ王に就任した人物が,このローマ帝国の皇帝となる習わしとなっていったため,この王国は後に「(ドイツ人の)神聖ローマ帝国」【セA H30オーストリア帝国ではない】といわれるようになります。

 そこでやはり問題になることがあります。
 「教会のほうがえらいのか?」それとも「皇帝のほうがえらいのか?」という問題です。
 皇帝からすると,ローマ教会の権威を利用して,皇帝をやらせてもらっている,というところもあります。大諸侯も,教皇から皇帝に任命されたのだったら,口出しできないな…となりますから。しかし,皇帝からすると,国内に教会の領土が増えすぎても,税金がとれなくなりますし,政治にも口出しされることは,あまり良くは思っていないわけです。
 やがて12世紀になると,この両者に叙任権闘争(じょにんけんとうそう) 【本試験H22 15世紀ではない】が勃発,〈ハインリヒ7世〉が,教皇〈グレゴリウス7世〉との間に1077年に“カノッサの屈辱”事件を起こしています。

 スイスでは,11世紀にはアルザス地方出身とされる貴族が, “鷹の城”(ハビヒツブルク)という城を建設し,のちに12世紀には自らも城の名で呼ぶようになりました。これがのちのハプスブルク家です。




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・800年~1200年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現①ポーランド

◆ポーランドは神聖ローマに対抗しながら民族意識を形成する
カトリックを受け入れ、一時はボヘミアも支配する

 現在の①ポーランドのある地方では、7世紀頃からヴィエルコポルスカ(中心都市はグニェズノとポズナン)のポラニェ人と、マウォポルスカ(中心都市はポーランド南部のクラクフ)のヴィシラニェ人を中心とするいくつかの定住農耕民が現れていました(注1)。

 このうちヴィシラニェ人は875年頃にモラヴィア(現在のチェコ東部)の支配に入りました。

〈ミェシュコ1世〉
 一方、ポラニェ人の君主〈ミェシュコ1世〉(位960頃~992)は周辺の諸部族を統合し、政治的に統一。12世紀に編纂されたポーランド初の年代記『匿名のガル年代記』によると、966年にはキリスト教を受容しました(注2)。
 このとき君主に洗礼を授けたのはバイエルン公国(現・ドイツ南部)の聖職者でした。
 ポーランドのライバルであったザクセン公国(現・ドイツ北部)と対抗するためです(注3)。

 〈ミェシュコ1世〉の息子〈ボレスワフ1世〉(992~1025)は1000年にグニェズノに大司教座を設置。さらにボヘミア王国の首都プラハに遠征して支配下に置きます。
 これにより1003~1018年にかけて神聖ローマ帝国との戦争となり、戦争中にはバルト海沿岸地方(ポモジェ)を失います。1018年の和約で征服地の一部を維持。1025年にはグニェズノでポーランド王として戴冠しました(注4)。


〈ミェシュコ2世〉以後
 次の〈ミェシュコ2世〉(位1025~34)はプラハに亡命。没後は農民反乱やボヘミア軍の襲来で混乱しますが、次の〈カジェミェシュ1世〉(位1034、1039~58)が再興。1034年にはクラクフに遷都し、〈ボレスワフ2世〉(位1058~79)のときには教会制度が再建されて、国家が安定しました(注5)。
 しかし〈ボレスワフ3世〉(位1102~38)は神聖ローマ帝国との争いに負け、バルト海沿岸地方(ポモジェ)を取り返したものの、ポランド全体を神聖ローマ帝国の封土として認めることに。さらに5人の息子に国を分割したために、統一は失われました(注6)。
 異民族の度重なる進出を受け、再び混乱の時代を迎えます。

(注1) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.4。
(注2) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.5。
(注3) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.5。
(注4) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.6。
(注5) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.7。
(注6) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.7。



・800年~1200年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②・③チェコ,スロヴァキア
 スラヴ人のうち西スラヴ系のチェック人は,10世紀にベーメン(ボヘミア)王国として統一【本試験H30ハンガリー王国ではない】してました。
 プラハは973年にはローマ=カトリック教会司教座が置かれています【一橋H31カトリックに改宗した東欧の王国を問う】。
 しかし,地理的にドイツ人の支配を受けやすく,11世紀に神聖ローマ帝国の支配下に入っています。





○800~1200年のヨーロッパ  イベリア半島
 北アフリカには現在,モロッコ→アルジェリア→チュニジア→リビアという国家が並んでいます。この地域を,アラブ人からみて「日が沈むところ」という意味で,アラビア語で「マグレブ地方(諸国)」といいます(♯寄り道 タジン鍋(モロッコは,ラム肉とアブラヤシ(デーツ)に塩漬けレモンを加えたものが有名)で有名な地域です)。
 もともとはベルベル人の分布地域でしたが,アラブ人が移動して以来,同化が進んでいきました。ベルベル人という民族名は,ギリシア語の「バルバロイ」(訳の分からない聞き苦しい言葉を話す人々) 【本試験H24】に由来しており,彼ら自身は「イマージゲン(自由人)」と名乗ります。

◆後ウマイヤ朝の君主はカリフを名乗り,文芸も栄えた
カリフを名乗り,文芸が栄えた後ウマイヤ朝
 711年にはウマイヤ朝支配下のアラブ人やベルベル人がイベリア半島に上陸し,西ゴート王国を滅ぼしました。このときに上陸したイベリア半島南部の小さな半島は「ターリクの山」(ジャバル=ターリク)と呼ばれるようになり,のちになまってジブラルタルと呼ばれるようになりました。現在でも地中海の入り口にあたる重要な地点を占め,スペインの領土に囲まれる形でイギリスの領土となっています。
 その後,イベリア半島領ではアラブ人の支配層内で部族対立が起きる中,756年にアッバース朝に敗れてお忍びで逃れて来たウマイヤ家の王子〈アブド=アッラフマーン〉(1世,位756~788)が住民の支持を得てコルドバ【東京H11[1]指定語句】を占領し,アミールを称して後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝,756~1031)を建国しました(注)。従来の支配層の抵抗は続き,〈アブド=アッラフマーン1世〉は777年にフランク王国の〈カール大帝〉(位768~814)に救援を求めています。
 この動きに対し,北西部のアストゥリアス王国の王〈アルフォンソ2世〉は,797年に〈カール大帝〉に使節を派遣しています。
 フランク王国は801年にバルセロナ【本試験H8】を占領し,ここにスペイン辺境領を建てました。
 なお,814年にはイベリア半島北西部のサンティアゴ=デ=コンポステーラ【本試験H31古代ローマの時代に巡礼熱が高まったのではない】【東京H20[3]】で〈ヤコブ〉の墓が発見されたといわれ,のちに爆発的な巡礼ブームを生むことになります。

 イベリア半島北部ではナバーラ王国が建国されています。

 〈アブド=アッラフマーン3世〉(位912~961)は929年にカリフの称号を名乗り,後ウマイヤ朝の黄金時代が到来します。対外的には北のキリスト教諸国と南のファーティマ朝に挟まれる形になっていましたが,カリフはイベリア半島北部のレオン王国やナヴァラ王国などを従わせ,産業・交易だけでなく都コルドバを中心に文芸も繁栄しました。
 〈ヒシャーム2世〉(位976~1009年,1010~1013)に仕えた宰相〈アル=マンスール〉(938?~1002)は,イベリア半島の全域に支配権を拡大しています。
 しかし11世紀に入るとカリフの支配は急速に崩れて1009年には内乱状態となり,1031年にカリフ制が廃止されて各地に小さな王国が分立する時代(第一次ターイファ(諸王国)時代,1031~1191)となりました。


◆アラゴン王国,カスティーリャ王国,ポルトガル王国が有力になっていった
 イスラーム教徒の小王国が互いに覇権を争う中,キリスト教徒の諸王国が北部から国土回復運動(レコンキスタ【追H25】)の攻勢を強めていきます。
 1000年にカスティーリャ伯領が,レオン王国から自立。同年にレオン王国では〈サンチョ3世〉が即位しています。
 1035年にはアラゴン王国が〈ラミーロ1世〉によって成立し,1076年にはナバーラ王国(~1134)を併合しました。
 1037年にはカスティーリャ=レオン王国が〈フェルナンド1世〉によって成立しました。〈フェルナンド1世〉の死後,〈サンチョ2世〉が即位。〈サンチョ2世〉に仕えた騎士〈エル=シッド〉(1045?~1099)はのちに1094~99年にバレンシアを領有し,イスラーム勢力との戦いでも活躍しました。1099年に戦死した彼の武勇はのちに「わがシッドの歌」(12世紀後半)として,レコンキスタを盛り上げる役割を果たすことになります(#映画「エル・シド」1961イタリア・アメリカ。〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)往年の名作)。

 1137年にはバルセローナ伯領がイベリア半島東部のアラゴン王国と同君連合の国家「アラゴン連合王国」を樹立します。アラゴン連合王国は,バルセローナやバレンシアを中心都市として,イベリア半島中央部のカスティーリャ王国,西部のポルトガル王国(1143年成立)とともに,イベリア半島ではキリスト教徒によるレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動) 【本試験H30地域を問う】【追H25】を本格化させていきました。
 13世紀~15世紀には地中海への進出を本格化させ,サルデーニャ島,コルシカ島,シチリア島,イタリア半島南部,アテネなどに領域を拡大し,アレクサンドリアやコンスタンティノープルを結ぶ香辛料交易を展開しました。

 ポルトガル王国は,この地におかれていた2つの辺境伯領の支配者〈アフォンソ〉が,1143年にカスティーリャ=レオン王国との戦いに勝利して自立し,建設されました。初代国王は〈アフォンソ1世〉(位1143~85)です。ポルトガル王国はイスラーム政権との戦い(レコンキスタ)にも積極的で,十字軍の騎士と宗教騎士団の支援によって徐々に領域を南下させていきました。

 イスラーム勢力の進出後,イベリア半島は多様な出自を持つ人々が共存する場となりました。支配層を形成したアラブ系ムスリム,軍の中核となった多数派のベルベル人,イスラーム教に改宗したスペイン人,さらにキリスト教徒(アラビア文化を身に付けアラビア語を話し「モサラベ」と呼ばれました)とユダヤ教徒です。キリスト教徒とユダヤ教徒はズィンミー(ジンミー)として保護され,自治が認められましたが,11~12世紀にムラービト朝とムワッヒド朝によりユダヤ教徒への迫害が強まると,北のキリスト教諸国に逃れました。これにより,ユダヤ教徒を通してイスラーム世界の情報がキリスト教世界に伝わることになりました。
 また,トレドではキリスト教徒たちがユダヤ人やコンベルソ(ユダヤ人からキリスト教徒への改宗者)の強力を得て,イスラーム世界【共通一次 平1】でアラビア語【東京H10[3]】に翻訳されていた古代ギリシア【共通一次 平1】の文献を積極的にラテン語【東京H10[3]】に翻訳していきました。この動きを「12世紀ルネサンス」【立命館H30記】といいます。なかには〈エウクレイデス〉や〈アリストテレス〉といった古代ギリシアの文献のアラビア語訳【本試験H12】も含み,西ヨーロッパ世界にそうした情報を伝える上で重要な役割を果たしました。
 カスティーリャ王国では13世紀にサラマンカ大学が創設され,〈アルフォンソ10世〉(位1312~50)はセビーリャに学者を集めて学芸を発達させました。



◆北アフリカのベルベル人がイベリア半島に進出し,キリスト教諸国と対立した
ベルベル人が,イベリア半島に進出する
 一方,北アフリカのベルベル人は〈アブー=バクル〉を中心に1056年にムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】を建国し,モロッコを占領して1086年にイベリア半島に上陸。
 1085年にトレドを占領【立命館H30問題文】していたカスティーリャ【立命館H30記】=レオン王の〈アルフォンソ6世〉(位1065~1109)に対し,イベリア半島のイスラーム教の小政権(タイファ)が救援を求めたことから,ムラービト朝が進出。イベリア半島のイスラーム政権の中にはベルベル人の進出を望まない者もいましたが,最終的にはトレドを除きイベリア半島はベルベル人の支配下に置かれることとなります。

 その後,1130年には宗教思想の対立からムラービト朝と対立したベルベル人〈イブン=トゥーマルト〉(1091?~1130)がムワッヒド朝(1130~1269) 【追H21時期(10世紀ではない)】を建国し,1147年にムラービト朝を滅ぼしました。ムワッヒドの語源は「タウヒード」(一般に神の唯一性と訳されます)というイスラームの教義を表す用語に由来し,支配者はカリフの称号を用いました。ムワッヒド朝は1072年にシチリア島のパレルモを占領し,ノルマン人とも戦っています。マグレブ地方東部のハンマード朝とズィール朝はムワッヒド朝に滅ぼされました。さらにイベリア半島にも遠征して支配域を広げ,ベルベル人の軍事力によりキリスト教諸王国とも戦いました。
 この時代には,イベリア半島にはアラブ人やベルベル人により,サトウキビ,米,綿,レモンといった農作物や灌漑技術が持ち込まれて農業開発が進みます。また都市は商業が盛んで,初め銀貨(ディルハム)・のち金貨(ディーナール)による貨幣経済が発達しました。

 ムラービト朝とムワッヒド朝はイベリア半島【本試験H29アナトリアではない】に進出したほか,サハラ沙漠より南にも遠征し,イスラーム世界をアフリカのサハラ以南に拡大させました。例えばムラービト朝は,アフリカのガーナ王国を滅ぼし,この地にイスラームを伝えています。




◆ローマ教皇ですら、イスラーム世界由来の学問を修めていた
ギリシア哲学がアラビア語経由でラテン語訳された

 なお,西ゴート王国の首都トレド【東京H23[1]指定語句】では,古代ギリシアやローマのアラビア語訳文献が,せっせとラテン語に再翻訳されていました。ギリシア語→アラビア語【追H28】【東京H10[3]】→ラテン語【追H28】【東京H10[3]】ですから,再々翻訳といったほうがよいかもしれません。特に,トレドをおさえたカスティーリャ=レオン王の〈アルフォンソ6世〉は,学者を招いて翻訳運動をバックアップしました。
 この頃のコルドバに生まれた〈イブン=ルシュド〉(1126~98) 【本試験H6幾何学研究ではない,本試験H8元を訪問していない,本試験H10】【本試験H25パン=イスラーム主義者ではない】【追H20イブン=サウードではない,サウジアラビア王国を建設していない、H28ギリシア哲学を研究したか問う】【法政法H28記】【立命館H30記】は,〈アリストテレス〉【本試験H10】【追H20】の『オルガノン』『形而上学』『自然学』といった著作の研究を深め,イスラーム神学をより緻密なものにするためにギリシア哲学【追H28】を用いて,ヨーロッパのスコラ哲学(スコラ学) 【共通一次 平1】【追H20、H25自然哲学ではない】にも影響を与えます。

 トレドでの翻訳運動【追H28】の積み重ねは,西ヨーロッパにおける12世紀ルネサンスへとつながっていきました【本試験H6「イベリア半島のイスラム文化」が,「中世ヨーロッパの文化」に影響を与えたわけではない】。
 たとえばこの頃の教皇(〈シルウェステル2世〉(位999~1003))ですら、即位前にコルドバにおもむき、数学や天文学を修めたと伝えられます。フランスやイタリアの学校でイスラーム世界に由来する高度な知識を広め、後に彼の見識を評価する神聖ローマ皇帝の支持を得て教皇となったのです【追H28リード文(第3問)】。





○800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆西ヨーロッパでは農業生産力が高まり,人口が増加。各地に都市が生まれ商業が活発化する
アッバース朝との友好関係が,フランク王国を成長させる
 〈ピピン3世〉の跡継ぎは〈カール大帝〉(フランク王在位768~814,西ローマ皇帝800~814) 【東京H11[1]指定語句】です。フランスの教科書ではフランス読みでシャルル1世。ドイツの教科書ではドイツ読みで〈カール1世〉と表記されるこの王。現在のフランス,ドイツ,さらにはイタリアにまたがる広大な領土を支配したことから,ローマ教会に頼りにされることになります。
 まず教皇領を圧迫していたランゴバルド王国を滅ぼしました。
 北ドイツのザクセン人と戦争をして,キリスト教を信仰していなかった彼らをアタナシウス(ニカイア)派に改宗させ,エルベ川まで拡大します。この戦争はカールのおこした戦争のなかでも特に過酷なものでした。
 また,かつてフン人が定着したパンノニアに移動していたモンゴル系(あるいはテュルク(トルコ)系)とされる騎馬遊牧民アヴァール人を撃退しました【本試験H21 世紀を問う本試験H27ブリテン島ではない、本試験H29】【追H25】【慶・文H30】。なお,すでにフン人はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々などに同化しており,見る影もなくなっています。

 さらに,イベリア半島では,アッバース朝によって滅ぼされたウマイヤ家の遺臣の建てた後ウマイヤ朝(アンダルス(コルドバ)のウマイヤ朝)を攻撃して,ピレネー山脈を乗り越え795年に複数の伯領からなるスペイン辺境領を設置しています。のちにバルセローナ伯が成長して,カタルーニャ地方の中心となっていきます(987年にカペー朝に対抗してカタルーニャ君主国として独立しました)。

 イベリア半島での戦いぶりは,騎士道物語(武勲詩(ぶくんし))『ローランの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H30】にうたわれています【本試験H12『カンタベリ物語』は騎士道物語ではない】。実際には778年のスペイン遠征の帰り道,ピレネーの谷間でバスク人に襲われた事件を題材にしているようですが,死に様まで生々しく描かれています(注)。
 「ローランは死期の近いのを感じた。その耳から脳漿が流れ出していた。…ローランは末期の冷かさが総身に廻って,頭から心の臓へ流れ下るのを覚えたので,一木の松の根方まで走っていって,青草の上に腹這いに伏し,剣と角笛とを体の下に隠し,頭を夷狄(注:イスラーム教徒)の勢のある方へ向けた」
 イスラーム教徒のほうに向かって最後まで戦ったのだという最後のポーズにまでこだわるローラン,恐るべし。

 騎士道というのは騎士が守るべき道徳のことで,キリスト教の価値観と結びつき十字軍(イェルサレムをキリスト教徒の拠点にするための戦争)やレコンキスタ(イベリア半島からイスラーム教徒の政権を追放する運動)の原動力ともなりました。
(注)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.421

 中世の騎士道物語には,他にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ブルグント人【本試験H15「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の英雄伝説に基づく」は○,本試験H23スラヴ人ではない】の伝説に基づく『ニーベルンゲンの歌』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H2中世に英訳されていない】【本試験H23】『アーサー王物語』【追H27中世ヨーロッパか問う】【本試験H15カール大帝の活躍が描かれているわけではない】などがあり,各地を渡り歩く吟遊詩人(ぎんゆうしじん)【本試験H15】によって歌われました。『ニーベルンゲンの歌』のほうはゲルマン語派の大移動の頃に生まれたブルグント人の英雄叙事詩で,フン人の〈アッティラ〉との戦いも題材にとられています。メインとなる話は,不死身の体を手に入れた〈ジーフリト〉と妻〈ブリュンヒルト〉とのラブロマンス,そして妻に仕えていた〈ハゲネ〉の裏切りにより〈ジーフリト〉の不死身を解く弱点が漏れ〈ジーフリト〉は殺害。その犯行が暴露され,〈ハゲネ〉が殺されるところまでを扱っています。キリスト教的というよりはゲルマン的なお話で,のちに作曲家〈ヴァーグナー〉が楽劇の題材としています(⇒1870~1920のヨーロッパ 中央ヨーロッパ ドイツ)。

 なお,当時のアッバース朝は新都バグダードの建設をおこなっており,共通の敵であるビザンツ帝国を持つフランク王国との間には友誼が保たれ,交易も盛んにおこなわれていました。当時のアッバース朝のカリフは〈ハールーン=アッラシード〉。この両者の提携があったからこそ,フランク王国は強大化することができたわけです(のちにベルギーの歴史学者〈ピレンヌ〉(1862~1935)は“ムハンマドなくしてシャルルマーニュ(カール大帝)なし”と端的に述べ,さまざまな議論を呼びました。この「ピレンヌ=テーゼ」は,イスラーム勢力の地中海進出により,ヨーロッパ経済が封鎖されて貨幣経済が衰退し,自給自足の物々交換による農業主体の経済が支配的になったため,フランク王国のように土地を媒介とする分権的な社会が成立したというものです。が,実際には地中海一帯の商業の衰退は,紀元前後には始まっていたことが明らかになっています)。

 さて,勢いづいた〈カール1世〉は799年,暴動が起きたためローマから避難した〈レオ3世〉の救援に応じ,800年に軍を引き連れてローマに入城。そこで,長年空位だった西ローマ帝国の皇帝の冠を授けられました(カールの戴冠)。
 〈カール1世〉は急拡大した領土を支配するために,キリスト教徒のネットワークを利用しました。もともと司教の監督するエリアである司教区は,大司教の監督下に置かれていました。彼はこれを行政単位として利用したのです。支配を確実なものとなるよう,各地方に国王の役人(伯(はく))【追H28】が任命され,毎年聖俗の大物を国王巡察使として派遣しました。
 特定の首都はなく,広大な領土を支配するために,〈カール〉は常に移動しながら政治をしていました(移動宮廷)。征服地の有力者に,にらみを聞かせる必要があったわけです。

 しかし,特に〈カール大帝〉が好んだのがアーヘン(現在のベルギーとドイツの国境付近)でした。805年にアーヘンに大聖堂を建設(世界文化遺産,1978)。16世紀までの間に神聖ローマ帝国の戴冠式が執り行われる場所となりました。

 学者を招き,ローマ文化・キリスト教について研究をさせました。とくにブリタニアの聖職者〈アルクイン〉(735?~804) 【本試験H23】の研究が有名です。〈アインハルト〉(770~840)には『カール大帝伝』を書かせています。これらはラテン語で表記され,表記には読み取りやすいカロリング小文字体が考案されました。
 〈アルクイン〉は「話し言葉に引きずられて古典の標準的規則から逸脱した用法を矯正し、文法と正字法の正しい姿を復活することは、神のことばを正しく人々に伝え、そして理解してもらうために必要だ」としています(注1)。なお、ビザンツ帝国との製造崇拝論争に対しては、民衆の教化にはイコンが必要だとしますが、行き過ぎた崇敬も破壊と同じく誤りと論じています(注2)。

 このように,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々であるフランク人が,宗教的にはキリスト教アタナシウス(ニカイア)派の文化を受け入れていったのですが,まだローマ教皇はフランク王国の〈カール大帝〉を保護者とすることに踏み切れないでいました。

(注1)福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.66。
(注2)福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.67。




◆ローマ教皇はローマ帝国からフランク王国へと,守護者を“乗り換え”
捏造文書で,理論武装
 しかし,いよいよ800年,クリスマスのミサのためにローマのサン=ピエトロ大聖堂を訪れた〈カール大帝〉に,教皇〈レオ3世〉(位795~816) 【本試験H18インノケンティウス3世ではない】は不意打ちでローマ帝国の冠を授けたんですね。〈レオ3世〉は前年に反対派により襲撃されていて,〈カール大帝〉の後ろ盾が必要だったわけです。
 こうして,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々であるフランク人が,キリスト教アタナシウス(ニカイア)派を受けいれ,さらにローマの皇帝に就任することで,西ヨーロッパ世界を一つの世界としてまとめ上げたことになるわけです。

 ただ,東ローマ帝国がこんなことを認めるわけがありません。
 ローマ教皇側も,反論されちゃ困りますので理論武装をおこないます。それが,のちに『偽イシドールス』として知られる偽書です。
 これは,かつてローマ帝国の〈コンスタンティヌス〉大帝が,「西ローマ帝国の領土をローマ=カトリック教会に寄進した」という内容が書かれた書状(コンスタンティヌスの寄進状)で,「皇帝が教皇に西ローマを渡したんだから,あとはどうしようがローマ教会の勝手じゃないか」という主張に利用されます。これは偽書(にせものの文書。捏造(ねつぞう)文書)であったことが15世紀に明らかにされるわけですが,中世の時期にヨーロッパでは大きな影響を持ちつづけます(注)。

 ともかく,ローマ教会がフランク人の〈カール大帝〉を“保護者”として選んだということは,フランク王国=西ローマ帝国に保護されたローマ教会と,東ローマ帝国に保護されたコンスタンティノープルの分裂をも意味します。しかし,多くの細かい違いはあるのの,イエスは神であり聖霊であると考える点においては,両者は一致しています。
 こうして,かつてのローマ帝国の領土は,大きくみれば2つに分かれたことになります。つまり,イエスは神であり聖霊であると考える西ヨーロッパ・東ヨーロッパと,神は生まず生まれず(神はそれ自体で絶対でありイエス=子のような存在を生むことはない)と考えるイスラームとの間への分裂です。
(注) 15世紀までは申請の書状として認識されていました。北村暁夫『イタリア史10講』岩波新書、2019年、p.40。



◆〈カール大帝〉の死後,分割相続によりフランク王国は衰退・分裂した
フランク王国は現在のフランス,ドイツ,イタリアの基
 フランク人にはもともと,親が死ぬと,土地を子で分割して相続する風習があったため,〈カール大帝〉が亡くなったら揉めると思われたのですが,たまたま息子は一人しか生き残っておらず,〈ルートヴィヒ1世〉(フランク王在位814~840,西ローマ皇帝在位814~840,〈敬虔王〉ともいわれます)がそのまま相続した。ここまではよかったものの,治世後半に政治が乱れ,今度は3人の息子たちによる揉め事がおきてしまいます【本試験H7ローマ=カトリック教会を支持するか否かで争ったわけではない】。
 そこで,843年のヴェルダン条約【セ試行】【本試験H8】で,長男がイタリアを含む中部フランクを,弟が西部と東部を相続しました。しかし,その後弟が中部の王国を自分たちの領土に加えてしまったため,870年にメルセン条約【セ試行】【本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】という取り決めが結ばれて,東西フランクの国境は,東フランクが西に拡大する形で決着が付きました【本試験H3三分されたか党,本試験H7「東西」に分裂したわけではない。三分裂した】。





・800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア,③ヴァチカン市国(ローマ教皇)
イタリアは,フランク王国の分裂で中部フランク王国【本試験H3「イタリア」】となっていました。しかしその後875年にカロリング朝が断絶し,さらに商業の発達とともに都市国家が立ち並び,分裂状態になります。
 神聖ローマ皇帝には“ローマ”の名を冠するるだけあり,自分が「イタリア王」でもあることをアピールする者も多かったのですが,「イタリア」といっても現在の「イタリア」をイメージしてはいけません。いまのイタリアの北半分という感じです。
 ここには都市国家(たとえばヴェネツィアなど)は含まれていませんし,ナポリとシチリアは両シチリア王国です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】。この王国は1130年にノルマン人の〈ルッジェーロ2世〉により建国されましたが断絶し,〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたり,フランスのアンジュー家に支配者が変わっていきました。



◆ローマ教会はアルプス以北のフランク王国に接近した
 ローマ教会は,早くからキリスト教教会の五本山(ごほんざん)の一つとみなされていました。
 早くからから首位権(キリスト教世界における最高の権威)をめぐってローマ教会と争ったのは,コンスタンティノープル教会でした。五本山には他にアンティオキア教会・イェルサレム教会・アレクサンドリア教会がありますが,7世紀以降イスラーム教徒の支配下に置かれたこともあって,衰退していきます。これら東地中海沿岸の地域では東方正教会だけでなく,カルケドン公会議(451) の教義を受け入れなかった教会(東方諸教会)も生き残っています。

 ローマ教会は,自分の教会をまとめるローマ総司教だけが,キリスト教の使徒ペテロの唯一の後継者「ローマ教皇」であると主張しました。
 それに対抗して1054年【追H17時期を問う(叙任権闘争開始後ではない)、H27 11世紀か問う】【本試験H25 13世紀ではない】にローマ教会と正教が相互に破門したのが,東ローマ(ビザンツ)皇帝の保護を受けたコンスタンティノープル教会(正教会)です。「1054年に正教会とローマ教会は分裂した」といわれることもありますが,教義の解釈をめぐり長い期間をかけて両者は別々の派に分かれていったので,1054年の時点で突然“分裂”したというわけではありません。

 正教会は,ギリシアには正教会,ロシアにはロシア正教会,日本には日本正教会というように,各国ごとに主教がいらっしゃいます。これらを全て束ねる人は,いません。東方正教会は,一般に「ギリシア正教会」とも言うこともありますが,この場合はギリシアの正教会という意味ではなく,正教会全体のことを指すので注意が必要です。

 しかし6世紀末のローマ教会の教皇〈グレゴリウス1世〉(位590~604)は,アリウス派を信仰する部族の多かったインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々にアタナシウス(ニカイア)派を熱心に宣教しました。

 726年には,テマ(軍管区)の長官出身のビザンツ帝国皇帝〈レオン3世〉(位717~741)が,聖像(崇拝)禁止令【本試験H29】を出し,教皇が布教のさいに〈イエス〉や母〈マリア〉の聖画像(イコン)を用いていることを批判しました。『旧約聖書』における「十戒」には「偶像を作ってはならない」とという神との契約があります。この神を信じるキリスト教も,タテマエとしてはこれを守らねばならぬはずでした。これを受け聖画像破壊運動(イコノクラスム)も起き,東西教会の関係は悪化します。

 ローマ教会としては「インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に布教するためには,『聖書』の言葉よりも,聖像のほうが伝えやすい!」というのが本音です。聖像禁止令によって悪化した東ローマ帝国との関係をなんとかするために,ローマ教会はフランク王国に接近するようになっていきます。フランク王国の王は496年にすでにアタナシウス(ニカイア)派に改宗しており,有力な後ろ盾の候補となったわけです。
教皇はブリテン島のウェセックス王国出身の宣教者〈聖ボニファティウス〉(672?~752)を通してカロリング家に接近し,751年の〈ピピン3世〉(位751~768)によるフランク王即位を後押ししました。〈ピピン3世〉はローマ教会を圧迫していたランゴバルド王国を討伐し,ラヴェンナをローマ教皇〈ザカリアス〉に寄進し,ローマ教会は財政基盤を獲得しました。

 結果的に800年にフランク王国の〈カール1世〔大帝〕〉が,教皇〈レオ3世〉により「西ローマ皇帝」として戴冠されました。しかし,王の死後にフランク王国は分裂。

 この間,聖画像崇拝は843年の公会議で復活し,聖画像崇拝論争は終結しました。

 フランク王国の分裂後100年余りの混乱期を経て,962年にドイツのザクセン出身の〈オットー1世〉(位936~973) 【本試験H23カルロス1世とのひっかけ】が,教皇〈ヨハネス12世〉(位955~964)によりローマ皇帝の戴冠を受け,神聖ローマ帝国【本試験H13五賢帝とは無関係】が成立しました。当初から「神聖ローマ帝国」と呼ばれていたわけではなく,当初は単に「帝国」と呼ばれ,古代ローマ帝国やフランク王国のカールの帝国に続く,ローマ=カトリックを保護する西ヨーロッパの支配者という意味合いが強いものでした。だからこそ,ローマを含むイタリアを支配・保護できていなければ,格好がつきません。歴代皇帝はイタリアを支配に組み込もうと努力しますが,そのことが逆にローマ教皇に煙たがられ,皇帝vs教皇の権力争い(叙任権闘争)に発展することにもなります。



◆11世紀以降の教会改革運動・叙任権闘争を通し,ローマ教皇は首位権を積極的に主張した
 古代の末期の頃から,有力者が,自分のプライベートな土地(私領)に教会や修道院を建てることはよく見られたことで,その場合その教会の聖職者や修道院長を選ぶ権利(これを叙任権といいます)は,その土地の領主が持っているのが普通でした。自分の土地に建てたマンションの管理人を,自分で選ぶような感覚ですね。やがて領主の権力が成長し,教会をいくつも自分の土地に所有しているような領主が現れると,その地域一帯の司教を誰にするかということについても,口出しする例が見られるようになります。
 自分の所有している教会の司教を選出するだけなのに,なぜそんなに意地を張るのかと思うかもしれません。教会を所有していれば,農奴が教会に支払った地代や十分の一税【本試験H28十分の一税は聖職者が支払うわけではない】をいくらか受け取ることができます。ある意味,教会は,合法的に民衆から税をとることができる(むしろ,民衆が進んで税を差し出す)組織でもあったわけで,権力者からすればとても美味しいものだったのです。

 教会の関係者としても,司教のような美味しい役職にありつきたいというわけで,教会を所有している領主に賄賂を渡すようになります。これが聖職売買です。こうして教会や修道院の長になった人物を聖界諸侯といいます。彼らが教会の規律を守るわけもなく,聖職売買や妻帯(さいたい)が横行するというわけです。

 教皇〈レオ9世〉(位1049~54)は教皇座の中央集権化を進めました。教皇はキリスト教会の頂点であり,枢機卿団(すうききょうだん)の選挙会(コンクラーヴェ)により選ばれるものとされ,皇帝や国王は介入すべきではないと主張。この件以外にも,教義の違いでもめていたコンスタンティノープル教会と1054年に相互に破門し合う自体に発展しました。



◆聖職叙任権闘争が起き,ローマ教皇はノルマン人と結び,神聖ローマ帝国に対決
ノルマン人が,ローマ教皇の親衛隊となった
 一方,ローマ教皇は聖職叙任権闘争【本試験H18聖像崇拝論争,カールの戴冠,ルイ9世の十字軍とは関係ない】をめぐって神聖ローマ皇帝との関係も日増しに悪化していました。
 1059年には教皇〈ニコラウス2世〉が教皇を枢機卿から選ぶよう改革し,神聖ローマ帝国の干渉をブロックしようとします。
 また,イスラーム教徒の進入を防いでくれる存在として,フランス王の臣下としてフランス北西部のに建国が認められていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】【東京H14[3]】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】に白羽の矢が立てられ,1066年にはノルマンディ公国によるイングランドの征服(ノルマン=コンクェスト)を支援しました。

 そんな中,1073年に即位した〈グレゴリウス7世〉(位1073~85) 【本試験H18】【追H24フランク王国のカール大帝に帝冠を授けていない】【早・政経H31論述指定語句】は,教会組織の腐敗をただす運動に着手しました。彼自身は,教会刷新(改革)運動【本試験H21】に積極的であったクリュニー修道院【本試験H21】【追H17時期を問う(8世紀ではない)、H19,H30】【立命館H30記】出身で,聖職売買【追H30】や聖職者の妻帯禁止などの改革を推進しました。この修道院を910年に建設したのはアキテーヌ公国の〈ギヨーム1世〉でした。
 〈グレゴリウス7世〉は大司教などの高位聖職者を任命する権利(聖職叙任権)が,(教会関係者ではない)世俗の権力に握られていることが問題の根源にあると考え,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ4世〉(神聖ローマ皇帝在位1084~1105) 【本試験H13,本試験H18,本試験H22 15世紀ではない】に対しても,「聖職叙任権はローマ教皇にある。神聖ローマ皇帝が,高位聖職者叙任しているのは,聖職売買にあたる」と非難しました。

 〈ハインリヒ4世〉は,高位聖職者を聖界諸侯として任命することで,世俗の諸侯に対抗させる政策(帝国教会政策)をとっていました。ドイツでは大きな世俗諸侯がいくつもひしめいていましたから,キリスト教の力を使って彼らをビビらせる作戦をとったのです。実際に当時の帝国の約半分は,教会領が占めていました。教皇に叙任権を取り上げられるとなると大きな痛手です。
 しかし,抵抗した〈ハインリヒ〉を,教皇はあっさり破門。破門された〈ハインリヒ〉に対し,神聖ローマ皇帝内の諸侯が,“破門された人物に皇帝はつとまらない。やめさせよう”と反乱を起こします。慌てた〈ハインリヒ〉はローマ教皇〈グレゴリウス7世〉に許しを乞うことになりました。1077年1月,厳寒の中,家族を連れ立って北イタリアのカノッサ城に向かい,裸足で3日間,教皇に謝罪したといわれています(カノッサの屈辱【早・政経H31論述指定語句】)。
 しかし,破門を解かれた直後に〈ハインリヒ4世〉は一転,〈グレゴリウス7世〉の廃位を宣言し,ローマを制圧しました。

◆聖職叙任権闘争はヴォルムス協約で収束したが,神聖ローマ帝国の権限は残された
ドイツの教会勢力は,「聖界諸侯」となっていく
 結局,1122年には,神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)とローマ教皇〈カリクトゥス2世〉(位1119~24)との間にヴォルムス協約【早・政経H31論述指定語句】が締結され,聖職叙任権があるのは教皇だということは確認されましたが,実際に司教や修道院長に所領(封土)を与えて主従関係を結ぶ権利は,皇帝が持つことになりました。
 つまり,神聖ローマ皇帝はドイツにおけるキリスト教勢力に所領や特権を与えることができたわけですから,「教皇に聖職叙任権がある」というのは,単なる“タテマエ”で,今後はドイツの司教と修道院長は皇帝にも忠誠を誓う聖界諸侯として,強い権力を持つようになっていくのです。
 ヴォルムス協約の中身をみてみましょう。「帝国内の教会は自由に叙任を行う権利を得ること」とありますが,「皇帝は帝国内で司教と修道院長の叙任に立会い,選出が難航した場合のみ指名する権利を得ること」とあるので,実質的に神聖ローマ帝国が司教と修道院長の選出に口出しすることは可能とであることがわかります。



◆ローマ教皇はアルプス以北の君主国に対抗し,教皇座を整備していった
アルプス以北の君主国 vs ローマの教皇座
 1122年のヴォルムス協約は“妥協”的な内容であったものの,教皇権と世俗の権力の分離が図られた点では重要です。
 アルプス以北のヨーロッパ各地で国王や皇帝(特定の家柄が世襲する)を中心とし,領域内の聖職者・諸侯・都市をまとめる君主国(くんしゅこく)が確立されていくと,教皇座(ローマ教会,ローマ司教の教権,あるいはローマ司教(=教皇)そのものを指す言葉)も中部イタリアの教皇国家の基盤を確立していきました。

 ローマ教皇と,世俗の国王や皇帝との対立が表面化していく中,キリスト教の神学の世界でも,神や教会をどのようにとらえるかを巡って議論が起きていました。イングランド王国のカンタベリ大司教〈アンセルムス〉(1033~1109) 【追H9】【本試験H17】【追H21アウグスティヌスとのひっかけ】は,“信仰(信じる気持ち)のほうが,理性(理屈で考えること)よりも大切だ。つべこべ言うな。「神」と呼ばれている存在がある以上,神という存在はある(実在する)んだ!”ということを,とっても複雑な説明を使いながら説明しました。これを実在論【追H9唯名論ではない】といいます。
 「いや,「神」という言葉があってはじめて,人間は神について知ることができるわけで,そういう意味で神の存在そのものよりは,「神」という名前のほうが,人間の認識にとっては重要なんじゃないか?」と考えたのが唯名論【追H9実在論ではない】【慶文H30記】の立場で,フランスの神学者〈アベラール〉(1079~1142) 【追H9実在論ではない】が代表的な論者です。〈アベラール〉は〈アンセルムス〉に対する論破で名声を得ましたが,家庭教師をしていた〈エロイーズ〉17歳との劇的な出会い,彼女の伯父の反対,駆け落ち,伯父により去勢,成功からの転落,〈エロイーズ〉との隔離…。このとき〈アベラール〉は39歳。赤裸々な内面を語った手紙のやりとりも有名です。

 なお,実在論と唯名論との論争を普遍論争といます。これは神学に関するものというよりはむしろ,言葉が対象そのものを表すことが果たして可能なのかという,記号論に関する議論に近いものだったという考え方もあります。


◆教皇が提唱の十字軍は失敗するが,国王の権威が高まり,イタリア諸都市の交易圏が拡大
十字軍=アルプス以北の君主国の地中海進出,商人の東方進出
 テュルク系の騎馬遊牧民の建国したセルジューク朝【京都H19[2]】が聖地イェルサレムを支配下におき,ビザンツ帝国領内にも進出する勢いとなったことに対し,ビザンツ皇帝がローマ教皇に「セルジューク朝がキリスト教徒の巡礼を妨害している」と救援を要請しました(注)。
 当時のヨーロッパは,ミレニアム(イエスの十字架上の死から1000年後)の余波で空前の巡礼ブームで民衆のキリスト教熱も高まり,イェルサレム以外にもローマや,スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラ【東京H20[3]】【本試験H19リード文,H31古代ローマの時代ではない】【立命館H30記】が三大巡礼地として注目されていました・このうち,サンティアゴ=デ=コンポステーラには,聖〈ヤコブ〉をまつる大聖堂が建設され,フランス方面からの巡礼者で賑わいました(◆世界文化遺産「サンティアゴ=デ=コンポステーラ」1985,「フランスのサンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路」,1998。「サンティアゴ=デ=コンポステーラの巡礼路:カミノ=フランセスとスペイン北部の道」,1993(2015範囲拡大)。巡礼地だけではなく,巡礼路までが世界文化遺産に登録されるという熱の入れよう)。

(注)セルジューク朝が「巡礼を妨害した」という事実は明らかになっておらず,当時のイェルサレムはセルジューク朝とエジプトのファーティマ朝の取り合いとなっており,1098年にはファーティマ朝の支配下となっていました。


 当時のローマ教皇は〈ウルバヌス2世〉(位1088~99)。1095年にクレルモン宗教会議をひらき「ペルシアから来た侵入者,トルコ人が武力でキリスト教徒を追放し,略奪を働き,町を焼き払っているのです」とセルジューク朝の脅威を訴え,キリストの兵士として異教徒に立ち向かうことを提案し,1096年に第一回十字軍【追H28】がスタートします。各国の諸侯や騎士【本試験H16サラディンではない】はコンスタンティノープルから1097年にアナトリア半島に渡ってルーム=セルジューク朝を破り,1098年にキリスト教徒の多いエデッサに十字軍国家であるエデッサ伯領を建国。さらに同年にはやはりキリスト教徒の多いアンティオキアを占領し,アンティオキア公領を建国しました。1099年にはイェルサレムを攻撃・占領し,1099年イェルサレム王国【京都H20[2]】【追H28イェルサレムを攻略したか問う】を建てました。
 このときに多くのイスラーム教徒やユダヤ人が虐殺されたという記録があります。のちに1109年にはトリポリ伯領が建国されました。こうして現在のシリア(注1)周辺にはフランス人諸侯を中心とする国家が樹立され,獲得した土地は封土として家臣に与えられました。

 十字軍は宗教的情熱から始まった運動ですが,それと同時に増加したヨーロッパ諸民族の対外拡大運動でもあったのです。少数のキリスト教徒(「フランク人」(注2)と呼ばれました)の支配者がイスラーム教徒の農民を支配する体制となり,軍事力を補うために騎士修道会による移民がおこなわれました。また当時のイスラーム教徒側は十字軍との戦いを必ずしも宗教的な戦いととらえておらず,キリスト教徒に対抗する勢力も一枚岩ではありませんでした。
(注1)現在のシリアの領土とは違い,歴史的にシリア(アラビア語ではシャームと呼ばれます)と呼ばれる地域は現在のイスラエル,パレスチナ,ヨルダン,シリア,レバノンを含む東地中海沿岸の地域を指すことが普通でした。
(注2)「フランク」とはビザンツ帝国やイスラーム教徒による「ヨーロッパ人」を示す呼称でした。イスラーム世界にとっての十字軍とは「フランクの進出」でした。

 ただ,初期の十字軍にはしっかりと組織されていなかったものも多く,それらは民衆十字軍(教皇の認可なしの騎士・農民の武装集団)と呼ばれます。〈隠者ピエール〉(生没年不詳)のように民衆の支持を集めた宗教指導者にあおられて聖地に向かったものの,ほとんどが失敗に終わっています。また,混乱のなか,結局は奴隷として売り飛ばされた少年十字軍のような悲劇や,どさくさにまぎれたユダヤ人迫害も起こりました。



◆ザンギー朝に対し第二回,アイユーブ朝に対し第三回十字軍が決行された
「フランク人」の進出にテュルク人・クルド人が対抗

 「十字軍」の到来を受け、北方のスンナ派のイスラーム勢力(ザンギー朝。分裂していたセルジューク朝の総督〈サンジャル〉(位1118~1157)が建国)は、南方のエジプト・シリアを支配するシーア派のファーティマ朝と対立している余裕がなくなり、協力して対抗しようとします(注1)。

 この北方のイスラーム勢力がジハード(異教の世界との戦い)として十字軍国家の一つ(エデッサ伯領)を奪回(注:実際の統治は,北イラクのモースルに本拠を置くテュルク系マムルークの〈ザンギー〉が担ったのでザンギー朝といいます)。
 この知らせを受けた教皇〈エウゲニウス3世〉により第二回十字軍が提唱され,シトー派の神学者〈ベルナール〉による煽(あお)りもあって,フランス国王〈ルイ7世〉と神聖ローマ皇帝〈コンラート3世〉により召集されました。〈ベルナール〉はスコラ哲学者〈アベラール〉との論争でも知られます。
 しかしザンギー朝の〈ザンギー〉と,第二代〈ヌールッディーン〉という強敵を前に,たいした成果はあげられずに失敗。しかし,十字軍国家のイェルサレム王国は存続します。

 1130年には,ローマ教皇がかねて臣下にしていたノルマン人【本試験H2「ヴァイキング」】のノルマンディー公国【本試験H2】【東京H14[3]】の貴族オートヴィル家の〈ルッジェーロ2世〉(位1130~54)(注2)が,イスラーム勢力と戦って,ナポリなどのイタリア南部とシチリア島で支配権を確立し,ノルマン=シチリア王国(ノルマン朝シチリア王国,両シチリア王国) 【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】を建国しました。ローマ教皇は心強い味方を得た形です。
 〈ルッジェーロ2世〉はアラブ人・ギリシャ人学者を登用。12世紀に活躍したコルドバの地理学者〈イドリーシー〉やギリシャ人神学者〈ネイロス=ドクソパトレース〉を宮廷に招いています(注3)。
 第2代〈グリエルモ2世〉(位1166~1189年)は医者や占星術師を保護してパトロンとします。


 12世紀後半には,シリアのザンギー朝(スンナ派)に仕えていたクルド人の軍人〈サラーフ=アッディーン〉【東京H13[1]指定語句「サラディン」】が頭角をあらわし,1169年にエジプトで宰相となって自立しました。彼は1171年にエジプトの大法官(カーディー)をシーア派からスンナ派に切り替え(注4),ファーティマ朝最後のカリフの死後,アッバース朝のカリフの名の下に新王朝(アイユーブ朝【追H28成立時期は中国の唐代ではない】)を立ち上げ,スルターン(位1171~93)となりました。アッバース朝はアイユーブ朝がエジプト,イエメン(アラビア半島の南西端),シリアを統治する権利を認め,十字軍国家も攻撃。1184年にはイェルサレム王国を攻囲し,キリスト教徒の身を保障する形でイェルサレムを明け渡させました。

 それに対して第三回十字軍が結成され,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ1世〉(皇帝位1155~90),イングランド国王〈リチャード1世〉(在1189~99),フランス国王〈フィリップ2世〉(位1180~1223),オーストリア公〈レオポルト5世〉(位1177~94)が参加しました。キリスト教諸国はイェルサレムを取り戻すことはできませんでしたが,イェルサレムへの巡礼は認められました。このときにキリスト教徒による異教徒に対する大規模な虐殺が起こっています。

(注1) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.126。
(注2) 〈ルッジェーロ2世〉のオートヴィル家の故郷は北フランスのオートヴィル=ラ=ギシャール。田舎貴族の成り上がりです。
(注3) 高山博『『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ』山川出版社、2002年、p.34。
(注4) これによりイスラーム世界における「スンナ派」の優位が決定づけられることになりました。エジプトのカイロのアズハル学院も、もともとはシーア派教学の研究教育機関であったのですが、これ以降はスンナ派の研究教育機関となります。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.126。



◆十字軍により利益を得たのは,ジェノヴァ・ピサ・ヴェネツィアなどのイタリア都市国家だった
十字軍の物資輸送で,東方貿易が盛んとなる
 十字軍により,地中海における人や物資の移動が活発化したことで,東方貿易【東京H27[1]指定語句】が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。1184年にシリアを旅行した〈イブン=ジュバイル〉によると,十字軍が起こっている中でもキリスト教徒とイスラーム教徒の一般人は平穏に過ごしており,民衆や商人の往来は妨害されることはなかったといいます(注1)。

 これは,エジプトを支配していたイスラーム教国のファーティマ朝やマムルーク朝の保護していたカーリミー商人との交易です。カーリミー商人は,アラビア半島南部のアデン【本試験H18地図(カリカットとのひっかけ)】においてインド商人から物資を中継ぎし,紅海経由でナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流のアレクサンドリア港でイタリア諸都市(ヴェネツィアやジェノヴァ)に売り渡していました(注2)。

(注1) 佐藤次高編『新版世界各国史 西アジア史Ⅰ アラブ』山川出版社,2002,p.302。
【資料】 「〔ダマスクスでは〕つぎのようなことが話されているのを聞いて驚いている。ムスリムとキリスト教徒の2つの勢力の政権の間で、日夜戦乱の炎が燃えており、ときおり両政権の兵団が遭遇し、戦闘隊列をとることがある。
 その状態でも、ムスリムやキリスト教徒たちは何の妨げもなく互いの間を通行できるのである。…(中略) 〔ムスリムと十字軍〕両政権の間に合意があり、すべての政権の間に一定の均衡があるのである。軍人は戦いに専念するが、一般人は平穏にすごしており、戦いに勝った者が政権を握るたけのことである。」(イブン・ジュバイル『旅行記』(12世紀)、歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年より)

(注2) カーリミーの語源については諸説あるが、ファーティマ朝時代の文書史料に現れる「カーリム」は、エジプト~イエメン~インド間の海域をむすぶ「輸送船団」「廻船」の意味に用いられていました。アイユーブ朝以後は、別称が「コショウと香料の商人」として知られるように、インド産の商品を集荷・貯蔵・輸送・仲介・販売することで莫大な利益を得ていました。〈ヌワイリー〉の『学問の神髄』(1333年)には、〈イッズ=アッディーン〉の父親が中国の元朝を訪れて莫大な財貨を蓄えたということを記録しています(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.370)。




◆ヨーロッパに,古代ギリシア文化のアラビア語訳文献が伝わった
ギリシア語→アラビア語→ラテン語の情報のリレー
 イスラーム世界との交流が活発化すると,古代のギリシアやローマの文献を保存・翻訳していたイスラーム世界やビザンツ帝国からの研究成果が伝わり,イタリアではのちのちルネサンス(古代ギリシアやローマの文化・芸術の復興)が起こっていくことになります。

 当時の地中海に面するイスラーム国は,以下のような布陣です。
・イラクにはアッバース朝(750~1258(1517))。
・イベリア半島のムラービト朝(1056~1147) 【本試験H9】,ムワッヒド朝(1130~1269)(⇒800~1200ヨーロッパ>イベリア半島) 【追H21時期(10世紀ではない)】【立命館H30記】。
・チュニジア周辺からサルデーニャ島,シチリア島,イタリア半島南部を支配したアグラブ朝(800~909)。
 エジプトからシリア,パレスチナにも進出したトゥールーン朝(868~905)。
 チュニジアで建国されエジプトカイロを都としたシーア派【追H21スンナ派ではない】のファーティマ朝(909~1171) 【追H21】(⇒800~1200アフリカ>北アフリカ)

 とくに,イスラーム教の勢力が押し寄せてきた前線地帯であるシチリア王国【東京H23[1]指定語句「シチリア島」】のパレルモと,イベリア半島にあったカスティーリャ王国のトレド【東京H23[1]指定語句】では,イスラーム教徒のアラビア語【東京H10[3]】文献が,中世ヨーロッパの国際共通語ともいえるラテン語【東京H10[3]】に翻訳されていきました。シチリア王国の王が〈フェデリーコ2世〉(神聖ローマ帝国の〈フリードリヒ2世〉となる人物です)であったときに,特に翻訳が盛んで,アラビア語の文献だけでなく,ビザンツ帝国の文献,さらには古代ギリシアやヘレニズム時代のギリシア語【東京H7[1]指定語句】文献も,イベリア半島のコルドバ【本試験H6「イベリア半島のイスラム文化」が栄えた都市か・後ウマイヤ朝の首都か問う】【本試験H30】やシチリア島のパレルモで活発にアラビア語【東京H7[1]指定語句】からラテン語訳【本試験H15】されていきました。

 たとえば,古代ギリシアやヘレニズム時代の文献としては,天文学分野の〈プトレマイオス〉『アルマゲスト』,〈プラトン〉や〈アリストテレス〉【東京H23[1]指定語句】の著作,数学では〈エウクレイデス〉【本試験H15プトレマイオスとのひっかけ】の『原論』,〈アポロニオス〉の『円錐曲線論』,〈アルキメデス〉『円の求蹟』,医学者〈ヒッポクラテス〉【追H25平面幾何学の人ではない】の『箴言』や〈ガレノス〉の著作などです。
 アラビア語の著作としては,神学では〈ガザーリー〉(1058~1111,ヨーロッパではアルガゼルとして知られました) 【本試験H6スーフィズムを体系化したか問う,本試験H10世界地図を作成した地理学者ではない】【追H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う→ガザーリーは11~12世紀なので誤りだが難問である),H30ユダヤ教の理論家ではない】,数学では〈フワーリズミー〉【本試験H10】の『代数学』【本試験H10】,医学【東京H23[1]指定語句】では〈イブン=シーナー〉(ヨーロッパではアヴィセンナ;アヴィケンナ) 【東京H23[1]指定語句】【本試験H10】【追H19,H20時期】の『医学典範』【本試験H10】【追H19、H20時期】・『治癒の書』といったものがあります。

◆神学を頂点とする教育機関(大学)が各地に設置された
イスラーム世界の学問研究が,刺激を与える
 こうしたイスラーム科学【東京H7[1]指定語句「イスラム科学」】などの新情報の影響を受け,12世紀頃からヨーロッパ各地に大学が建てられ,キリスト教神学はスコラ(哲)学【本試験H17人文主義ではない】というスタイルに発展し,神学を中心に様々な学芸が盛んになっていきました。
 下級3学といわれたラテン語の文法【慶文H29】・修辞学・論理学,上級4学といわれる数学,音楽,幾何学,天文学(あわせて自由七科といい,リベラルアーツともいいます)を修めた学生は,専門課程の神学・医学【慶文H29】・法学の3上級学部に進学することができました。「神」を疑うおそれもある「哲学」は,軽視され“哲学は神学のはしため(婢=仕える存在)”とされました【共通一次 平1:位置づけを問う】【追H20キリスト教と離れて研究をおこなったわけではない】。
 法学【追H29】としてはイタリアのボローニャ大学(1088) 【東京H14[3]】【共通一次 平1:パリ大学ではない】【本試験H17ケンブリッジではない,H23法学かを問う】【追H19,H29法学で有名か問う】,神学部【共通一次 平1:法学部ではない】としてはフランスのパリ大学(12世紀中頃) 【共通一次 平1】【本試験H17リード文,本試験H23神学かを問う】,イングランドの神学部オックスフォード大学(12世紀後半)・ケンブリッジ大学【本試験H17ボローニャ大学とのひっかけ】,医学で有名な南イタリアのサレルノ大学【本試験H16医学で有名かを問う,本試験H17リード文】【追H19】などが代表です。
 大学は教会・修道院に付属する研究機関【共通一次 平1】からスタートしたもののほかに,別の由緒をもつものもあります。学生の自治団体(ギルド=ウニウェルシタス【東京H14[3]】【本試験H17リード文】)が発祥なのはボローニャ大学,教師による自治団体(コレギウム)が起源なのはパリ大学です。教師も学生も聖職者であることが基本でしたので,女性の教師・学生はいませんでした【本試験H11[2]「中世以来ヨーロッパでは伝統的に,大学が女性にも高い教育を与える場であった」か問う】。

 また,イスラーム【共通一次 平1】の最新の科学も伝わり,イギリスの神学者〈ロジャー=ベーコン〉(1214?~74) 【本試験H8フランシス=ベーコンではない】【追H9『神の国』を著していない,本試験H12時期(1609年前後)かを問う】【本試験H17】は,何事も実験・観察を重視【本試験H17「経験を重視した方法論を説いた」かを問う】し,のちの近代科学の方法論の元となりました。彼はカトリックの司祭でしたが,〈アリストテレス〉などのギリシア【共通一次 平1】の文献を読み漁り,実験によって事実を突き止めていくさまは,当時においては“異端”スレスレの行為だったのです。
 古代ギリシアの学問がヨーロッパにおいて“復活”した,この一連の現象を「12世紀ルネサンス」【本試験H21リード文】といいます(注) 【本試験H12「アラビア語の哲学書や医学書がラテン語に翻訳され,西ヨーロッパの哲学・神学や医学に影響を与えた」か問う】。
(注)「12世紀の人々がなしえたことは,ギリシア人たちの科学的著作をふたたび西欧のものとし,これらの著作に対するアラビア人註釈家(ちゅうしゃくか)や翻訳家たちの知識を解き放ち,あらゆる分野で科学的活動に刺激を与えたことであった。」(〈C.H.ハスキンズ〉(1870~1937)『12世紀ルネサンス』創文社,1985,p.274。





・800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
◆カロリング朝が断絶した西フランク王国は大諸侯の力が強く,王権は弱かった
フランス「王国」の大部分は城主支配圏に分割

 西フランク王国【本試験H8】では,987年にカロリング朝が断絶し【本試験H8】,パリ伯の〈ユーグ=カペー〉(位987~996) 【追H27アルビジョワ派を制圧していない】が、妻がカロリング家出身であるということから王に選ばれ,カペー朝【本試験H8ヴァロワ朝ではない】がはじまりました【H29共通テスト試行 系図】。


 ただ、フランスには有力諸侯が多く,はじめはパリ周辺をおさえるのみで、「この時期のフランスはフランス王国が支配していた」ということはできません。
 王国の大部分は城主支配圏(城主が城を中心に治める数km四方の範囲のこと)に分割され、戦いは日常化し、人口も希薄。「人々は後代な森の中に孤島のように散在する集落に住んで」いました(注1)。
 そこでは公領、伯領、城主支配圏など、「異なるレヴェルの単位が、国として機能して」いました(注2)。
 例えば,ピレネー山脈のよりも南の地域のスペイン辺境領は,バルセローナ伯を中心に987年にカタルーニャ君主国として独立しています。

 特に山地を挟んだ南部は,オック語というフランス語とはかなり異なる言語が話される地域でした。他の諸侯をおさえるのに苦労したために,彼は生前に息子を共同王として即位させるほどでした。こうしてカペー朝(987~1328)がはじまりました。
 カペー朝は〈ルイ6世〉(位1108~37)のときに王を拡大,それを継いだ7代目の〈フィリップ2世〉(尊厳王,位1180~1223年) 【本試験H30カペー朝の創始者ではない】は,そんな弱体であったフランスの王権を強くしました。彼は第三回十字軍(1189~92)にも参加し,1190年代にはフランドル伯の領地を奪っています。

 〈フィリップ2世〉は,イングランドの王〈リチャード1世〉(獅子心王,在位1189~99)の子〈アーサー〉の面倒をフランスで見ていたのですが,イングランドの王の〈ジョン〉(欠地王,在位1199~1216)が王位を継ぐと,〈アーサー〉は暗殺されてしまいます。〈アーサー〉もイングランドの王位を継ぐ者とみられていたので,〈アーサー〉を〈ジョン〉が暗殺させたのではないかという疑いが持たれたんですね。それで,〈フィリップ2世〉と〈ジョン〉との間で戦争となり,結果的にノルマンディ(北部)やアンジュー(北西部)を〈ジョン〉から奪い取ります。これがもとで〈ジョン〉は「失地王」といわれますね。また,〈フィリップ2世〉は第三回十字軍にも参加しました。 

 この時期のフランスの人口の99%は農民であり、村の共同体の中で生活していました。生活が単調であるからこそ、祭りが必要とされます。自然のリズムの中に祝祭が生み出されていきました(注3)。
 

(注1) 高山博『『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ』山川出版社、2002年、p.126。
(注2) 高山博、上掲、p.126。
 高山博は次のように述べる。
 「この時期、フランスでは広大な領域をなす公領が国家としてのまとまりをもつこともあれば、その側がわずか半径数キロメートルの広がりしかない城主支配圏が統合されてより大きな国家をつくったり、逆に、公領が分解して複数の国家に分かれる、ということが頻繁に生じていた。つまりこの時期、国家は場所によって大きな偏差を持ち、時代によって急速に変化する流動性の高いものだったのである」(同、p.126)。
(注3) 高山博、上掲、pp.167-168。



・800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド

 スコットランドでは〈ダンカン1世〉(位1034~1040)が,南部にあったブリトン人の王国を滅ぼし,現在のスコットランドの領域とほぼ同じエリアの統一を果たします。


 アイルランドでは、ヴァイキングの侵入を受けるようになると、寄進などで豊かな財産を築いていた修道院が破壊の対象となります。アイルランドに定住するヴァイキングも現れます。現在のアイルランドの首都ダブリンもヴァイキングの定住地のひとつで、ダブリン王国が形成されていきました。南部のコーク、南部シュア川の河口ウォーターフォード、ウェクスフォード、南西部のシャノン川河頭リムリックなども同様です。ヴァイキングの公益活動の結果、貨幣が普及していきました。(注1)。

 そんな中、アイルランドではこの時代に政治的な統一への動きが起こります。
 アイルランド南部マンスター地方の小地域王(リー=モル)の息子として生まれた〈ブリアン=ボーリヴェ〉(940~1014)が、象徴的な権威をもっていた上王(アード=リー)(注2)の位を3世紀以来独占していたイ=ネール族から、1002年にその地位を奪ったのです。
 〈ブリアン〉は1005年に「アイルランド人の皇帝」を称し、1010年頃までにはアイルランドの地方・小地方王の多くが権威を認めます。
 しかし、1014年にレンスター地方王と、ダブリンを治めていたデーン人の王が反乱を起こし、〈ブリアン〉は戦死。あと一歩のところで政治的な統一は成りませんでした(注3)。

 12世紀後半になると、イングランドではプランタジネット朝が始まります(1154年)。本拠地はフランスのアンジュー伯領ですが、北のノルマンディー公領、南のアキテーヌ公領など広大な領土を保有しており、現在の感覚でいう「イギリス」のイメージを超える、まさに「アンジュー帝国」でした。
 
 そんなイングランドの拡大に対し、ブリテン島北部のスコットランド王国は独立を保ちます。
 一方、ブリテン島南西部のウェールズでは、11世紀後半に3つの公国(北部のグウィネッズ、中部のポウィス、南西部のデハイバース)が形成されており、相互に争っている状態です(注4)。

 おなじ12世紀後半、アイルランドではレンスター地方で内紛が起きると、イングランド人やウェールズ南部にいたノルマン系の辺境領主たちが、レンスターから追放された元王〈ディアルミド=マク=ムルハダ〉の側に立ち、アイルランドを攻撃。〈ムルハダ〉はアイルランド王位を取り戻します。しかし、〈ムルハダ〉が1171年に死ぬと、レンスター王位を継いだのはウェールズ南部にいたノルマン系の辺境領主。
 ノルマン系の辺境領主を敵対視した〈ヘンリ2世〉は1171年10月、アイルランドに大軍を率いて渡り、アイルランドのゲール系諸王たちとノルマン系の征服者たちに、みずからが「アイルランド宗主」(アイルランド卿)であることを認めさせました(注5)。
 
 イングランドの王が〈ジョン〉(位1199~1216)に代わると、アイルランドにイングランドの統治制度が、先住のゲール系の諸王の地域を除く地域に導入されます。ダブリンが首都とされ、諸都市には自治権が付与され、農村には王の役人である知事(シェリフ)を通じて王の裁判権に服属するカウンティ(県)が設置されました。
 〈ジョン〉王は〈ヘンリ2世〉から土地を相続されなかったことから“欠地王”(けっちおう)と呼ばれ、さらに大陸の領土を大幅に失い、大憲章(マグナ=カルタ)を諸侯との間に結んだことで知られます。


(注1) 山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、pp.14-15。
(注2) アイルランドの伝統的な5地域(アルスター、レンスター、マンスター、コナハト、ミーズ)の最有力者であった地方王(リー=クイシッド)の、さらに上位に立つ象徴的権威(山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.17)。
(注3) 山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.18。
(注4) 山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.22。
(注5) すでに1155年には、イングランド出身の教皇〈ハドリアヌス4世〉が、イングランド国王〈ヘンリ2世〉にアイルランドの領有を許可していました。真偽について諸説ありますが、これがのち16世紀半ばまでイングランド王のアイルランド領有権の根拠となっていくのです(アイルランド宗主〔卿〕の称号は1541年まで使用されます)。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、pp.22-23。



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・800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑨イギリス(イングランド)

 1066年以来続いていたノルマン朝イングランド王国の支配が1154年に終わりを迎えます。最後の王〈ヘンリ1世〉が跡継ぎを残さぬまま亡くなってしまったのです(長男はいたが,船が沈没した亡くなりました(ホワイトシップの遭難))。



◆ノルマン朝の跡継ぎ争いが起き,フランス貴族がプランタジネット朝をひらいた
フランスのアンジュー伯が,大帝国を実現する
 そこで,事故で亡くなった長男の姉〈マティルダ〉が後継者候補となります。彼女はザーリアー朝神聖ローマ皇帝〈ハインリヒ5世〉(ヴォルムス協約を結んだ人物)と結婚していましたが,彼が亡くなると,今度はアンジュー伯に嫁いでいました。
 しかし,女性を王にすることに反対する意見も多く,〈ヘンリ1世〉の妹の息子〈スティーヴン〉を王にしようとする勢力との間で内乱が勃発。
 ところが,最終的に〈マティルダ〉は,アンジュー伯との間に生まれた息子〈アンリ〉にイングランドの王位が回すことで妥協します。
 「フランス【追H9〈アンリ〉の出身地を問う。スペイン,イタリア,ドイツではない】の貴族なのになぜイングランドの王になれるのか?」と思うかもしれませんが,彼らには現在のような国民意識はありません。それでもフランスとイングランドで言語には当時から違いがありましたから,フランスの貴族〈アンリ〉は,〈スティーヴン〉の死後,イングランドで〈ヘンリ2世〉(位1154~89) 【本試験H18ジョンとのひっかけ,本試験H27・H30】という名前で即位します。これが,プランタジネット朝【本試験H2ヴァロワ・カペー・テューダー・ランカスター朝ではない】【本試験H17時期,本試験H27・H30】のイングランド王国です(1154~1328)。ちなみに当初から「プランタジネット朝」と名乗っていたわけではありません(〈アンリ〉の父のアンジュー伯が帽子にエニシダをつけていたからだとか)。
 即位直後に裁判制度を整備し,各地を定期的に巡回にする国王裁判官によって,民事(お金や家族などに関する揉め事)と刑事(殺人,傷害など)の裁判が実施されました。国王裁判に対しては,イングランドのローマ教会が反発し,〈トマス=ベケット〉大司教(1118頃~70)が〈ヘンリー2世〉の部下により暗殺されるなどの混乱も招いています。このときに積み上げられた判例(どういう場合に,どういう刑を課したかというデータ)が,コモン=ローという法体系にまとまっていきました。

 イングランド王〈ヘンリー2世〉は,本拠地のフランス北西部アンジューにおいては,フランスの一諸侯に過ぎません。しかし,その領域は,イングランド+フランスの西半分です。アンジュー伯〈アンリ〉は,広大な領域を誇るアキテーヌ公国の公女〈アリエノール〉と結婚していたからです(#映画「冬のライオン」1968イギリス)。
 こうしてプランタジネット朝は,フランス国王よりもはるかに広い領土を,ドーバー海峡を挟んだイングランドに拠点を構えながら支配するということになったわけです。

 彼はウェールズ(イギリスに併合されるのは1536年)やアイルランド(イギリスに併合されるのは1801年)にも勢力を拡大し,その広大な領土からアンジュー帝国ともいわれました。

 2代目の〈リチャード1世〉(位1189~99)は獅子心王(リチャード=ザ=ライオンハート)と呼ばれ,第三回十字軍に参加しましたが,捕虜になってしまい,身代金を用意して釈放されました。イェルサレムも。最期はカペー朝フランス王〈フィリップ2世〉(尊厳王(オーギュスト,ローマ皇帝アウグストゥスに由来),位1180~1223)と戦って,命を落とします。
 3代目の〈ジョン〉【本試験H3】【本試験H18ヘンリ2世とのひっかけ】は,即位時のゴタゴタによって,カペー朝フランス王〈フィリップ2世〉【本試験H3】と戦争となり,1214年のブーヴィーヌの戦いで敗れた【本試験H3勝っていない】ためにノルマンディとアンジューを失ってしまいます【本試験H3フランス内のイギリス領を拡大していない】。アンジューは,初代アンジューの領地だったところですよね。そんなに大事なところを失った挙句の果てに,貴族や聖職者らの諸侯・都市から税をとろうとしたため,彼らは猛反発。「王は承認なしに課税してはならない!」とうたったマグナ=カルタ(大憲章) 【追H28フィリップ4世が認めたのではない】【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H14,本試験H18ヘンリ2世ではない,H25・H30】を〈ジョン〉王【追H28フィリップ4世とのひっかけ】【本試験H14エドワード3世ではない,本試験H25】【慶文H30記】【慶文H30記】に突き付け,1215年【慶文H30記述】に守らせることに成功しました。王の権力を抑えるための法をつくったということで,マグナ=カルタはイングランド初の憲法(支配者をしばるための法)とされています。





・800年~1200年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
低地地方ではノルマン人の進出に対し,フランドル伯領が生まれ,神聖ローマ帝国とフランス王国の緩衝地帯となる

 フランク王国の中心地帯に位置するベルギーは、フランク王国最盛期の王〈カール大帝〉の生誕の地といわれています(注1)。
 フランク王国の王宮は、彼の生誕地から電車で30分足らずのアーヘン(現・ドイツ)に建てられました。“温泉好き”(アーヘンは温泉地)が関係しているともいわれています(注2)。


 9世紀初めから,北ヨーロッパからのノルマン人の進出が始まると,ライン川の河口付近の低地地方(現在のオランダやベルギーのある地域)でも,世俗の有力者やカトリック教会の司教を中心に防衛のために団結する動きがみられました。

 特にフランドル伯領は,カロリング家やイングランド王〈アルフレッド〉大王とも婚姻関係を結び,権威を高めていきました。また神聖ローマ帝国とフランス王国の間でうまくバランスをとり勢力範囲を徐々に広げていきます。
 11世紀頃からはイングランドから輸入した羊毛から毛織物を生産し,先進工業地帯として栄えるようになりました。土壌が染色植物の栽培に適し、染料を洗浄するための酸性白土も豊富だったことも要因です(注3)。
 フランドル伯領は地中海やバルト海方面に行商して布を売ったのですが、各地で市(いち)を開きました。現在のブリュッセルにある世界遺産グラン=プラスも、その名残です。それが成長していくと、やがて商人中心の自治都市になっていきます。たとえば、ブリュージュ、ヘント、ブリュッセル、イーペルといった都市は「自由フランドル」といって、フランドル伯によって自由を認められたのです(注4)。

 ルクセンブルクの名も963年には初めて現れています。


 現・ベルギー南部のルクセンブルク国境近くのブイヨンを拠点とした〈ゴドフロワ=ド=ブイヨン公〉(1060~1100)は第一回十字軍の指揮官の一人。イェルサレム王国の初代国王に選出されましたが、「王」の称号をきらって「聖墳墓守護者」を名乗ったとされます(注4)。

(注1) 現・ベルギーのリエージュ近郊の町であるエルスタルといわれています。リエージュにはシャルルマーニュの記念像が建てられています。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.10。
(注2)アーヘンはフランス語で「エクス=ラ=シャペル」。「シャペル」は礼拝堂という意味で、キリスト教布教の拠点ともなりました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.10。
(注3)松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.15。
(注4)松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.13。
(注5)松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.16。

○800年~1200年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

・800年~1200年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランド北部のサーミ人や南部のフィン人は,国家を建ててはいませんでした。彼らはライ麦や大麦を沿岸部で栽培し,冬になるとテン,ミンクなどの毛皮を求めて狩猟にも従事しました。12世紀後半には,スウェーデン人やデンマーク人による,キリスト教の布教をともなう攻撃を受けるようになり,フィンランドの住民は税をしばしば毛皮で納めました。フィンランドでは19世紀に民衆の間に伝わる神話や伝承を記録して『カレヴァラ』が編纂されましたが,それらがどのくらい昔にさかのぼるものなのかは不明です。

・800年~1200年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆ノルマン人の拡大により,バルト海世界に地中海・黒海方面から大量の銀がもたらされる
北の果てのヴァイキング社会が,商業活動で変動する
 一般にスカンディナヴィアの歴史では,8世紀半ば~11世紀半ばまでを「ヴァイキング時代」と区分します(1世紀~400年ころを「ローマ鉄器時代」。400年頃~500年頃「民族移動期」。550年頃~8世紀半ばを「ヴェンデル時代(メロヴィング時代;前期ゲルマン鉄器時代)」といいます)。同時代史料に「ヴァイキング」の名が現れる時期です。

 北ヨーロッパには,ノルウェー,スウェーデン,フィンランドの位置するスカンディナヴィア【東京H6[3]】半島沿岸部などに,氷河が長い年月をかけて山合いから海に地表を削りながら移動したことで,陸地の奥深くまで入り込んだフィヨルドという入り江が形成されています。

 この地方で活動していたゲルマン系の民族のことを,ノルマン人【東京H6[3]】とか,ヴァイキング(古い北欧の言葉ではヴィーキングルvíkingrといいます(注))といいます。
 8世紀末から現住地より低緯度の地域にも活動範囲を広げました【本試験H21,本試験H25アイスランドは現住地ではない】。「ヴァイキング」の語源は,「入り江(ヴィークvík)の人または子孫(-ing)」といわれます(#漫画 幸村誠『ヴィンランド・サガ』)。
 かつての氷期には氷河(ひょうが)でおおわれた地域のため,土壌は農業に不向きです。さらに気候も寒いときていますから,船を出して漁に出るか,交易にたずさわるしか生きていく道がありません。
 相手がこころよく交換してくれれば平和的に交渉成立となりますが,常にそうとは限りません。交渉が破綻すれば,武力で物を奪い取る略奪に発展することもありました。
 そうした状況になったとき,略奪が手段として選ばれるのは,別にヴァイキングに限ったことではありません。「略奪」のイメージが大きいのは,彼らに関する史料が乏しいこと。あるとすれば,「略奪された」側の史料に偏ってしまうことが原因です。
(注)『世界各国史 北欧史』山川出版社。「スカンディナヴィアでもちいられていたノルド語の「ヴィーキング」(víkingr)を英語よみしたもの……もともとの意味については諸説があるが,現在は語源不明というのが定説となっている。ヴァイキングということばは,ヴァイキング時代がおわったあとの12世紀以降にかかれた文献には数おおくあらわれる。…文字による同時代史料は二点のルーン碑文しかない。」(角谷英則『ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006,p.20)。

 ヴァイキングはしばしば,ドイツ・フランス・イギリスの沿岸をおそっては,川をさかのぼって略奪を働き恐れられました。西ヨーロッパ最古のヴァイキングの襲撃記録は,ブリテン島の北海沿岸を襲った793年のノルウェー=ヴァイキングのものです。彼らは799年にはロワール川河口を襲い,9世紀初めにはブリテン島北部のフェーロー諸島に植民,アイルランド本土の攻撃を開始します。デンマーク=ヴァイキングも841年にフランス北部のルーアン,842年にロンドン,845年にパリとハンブルクを占領しています。

 遠征の主体になったのは,上層の農民(豪族)でした。しかし,その多くが農民であるノルマン人の立場からすると,1年のうちで農業ができるのは,ほんのわずかの時期。彼らは農業ができない時期に,必要な食糧・物資や,自らの権威を高めるための珍しい物産を得るために,交易がしたかったのです。
 ビザンツ帝国の絹や,イスラーム教徒の発行した銀貨,それに進入先でつかまえた奴隷などが,標準20~40人乗りのヴァイキング船に載せられて取引されていました。ローマ帝国崩壊後のスカンディナヴィア半島には大量の金が埋蔵宝として出土しますが,8世紀半ば以降のスカンディナヴィア半島には各地に銀の埋蔵宝が見つかるようになります。金に代わって「銀の時代」とも呼ばれます(注)。8世紀後半にはスカンディナヴィアで初めてイスラーム貨幣がみつかりますが,975年頃を境にして西ヨーロッパの貨幣の流入が増加していきます。
(注)角谷英則『ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006,p.25~p.32。

 ヴァイキング船には甲板がなく,水深が低くても川をさかのぼって内陸に入り込んでいける構造を備えていました。彼らははじめ,初夏に出発し,冬の嵐を避けてわざわざ故郷に戻っていましたが,やがてブリテン島やガリアを流れる川の近くなどに拠点をつくり,定住するようになっていきました。
 キリスト教を受け入れる前のヴァイキングの宗教は,自然の神を信仰する多神教で,ヨーロッパ文化にも影響を与えました。例えば,英語のTuesday は天空神・軍神のテュール,Wednesday はオーディン,Thursday は雷神トール,Friday は愛の女神フレイに由来しています。

 交易の発達により,こうしたヴァイキングの伝統的な社会は,次第に各地で変容していくこととなります。
 ただ,「交易」(商業)といっても,現代社会における「交易」(商業)とまったく同じ前提に基づいていると考えてはいけません。つまり,“利己的な個人が,自分の利益を高めるために,自由に物を取引する”という前提で,当時のヴァイキングの交易をとらえることはできないということです。ヴァイキングの物の伝統的なやりとりには,返礼をともなわない贈与,返礼をともなう贈与,市場交換のような複雑な区分があったことが知られており,物の移動が,有力者との関係を示したり自分の威信を高めるために行われていたと考えられます。しかし,9世紀半ばになってヴァイキングの商業活動が活発化すると,人と人との結びつきを抜きにした「商業」のしくみが,古い制度に取って代わるようになります。こうして「誰」と「どのように」物を交換するか,ではなく,「何」を「どの価格で」交換するかにポイントが変わっていくのです(注)。
 それにともない,伝統的な世界観にもとづき,有力者の合意によって選出・推戴されていたスカンディナヴィアの君主のあり方も,変化を迫られるようになっていきます。
(注)角谷英則『ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006,p.168,p.201。「利潤原理と贈与原理が衝突して,後者が前者を混乱させた」山内 昶『経済人類学への招待』ちくま新書,1994。



スウェーデン
 スウェーデンのヴァイキングは9世紀前半には黒海方面にまで南下し,コンスタンティノープルに通じる交易網を形成していました。スウェーデン中部やスウェーデン東南部のゴットランド島からは大量のイスラーム銀貨が出土しています(当時のイスラーム世界は,アッバース朝の華やかなりし時代)。最初の王は,おそらく10世紀末の〈エーリック〉という人物ではないかと考えられています。彼の子〈ウーロヴ=シェートコヌング〉(位994?~1022?)は,初めてキリスト教の洗礼を受けています。
 1080年(1081?)には〈インゲ1世〉(位1079~1084,1087~1105)が,ローマ=カトリック教会の教皇〈グレゴリウス7世〉から,キリスト教を保護する代わりに王権に正統性を与えようという書簡を受け取っています(注)。1142(1143?)年にはウップサラ司教が史料に初めて現れ,1164年には大司教の設置の文書も出されています(注)。
 ヴァイキングの活動範囲が広がり,バルト海を取り囲む世界に地中海や黒海方面から大量の銀がもたらされるようになると,もはや君主の正統性はヴァイキング社会に属する人々の合意によっては認められなくなっていき,君主は新たにキリスト教を自らに正統性を与えてくれる存在として選び取っていったのです。
 なお,10~11世紀のスウェーデン中部には死者の業績をたたえたルーン文字(インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々により用いられた文字で,フェニキア文字・ギリシア文字にさかのぼる系譜を持ちます)の石碑が多く見つかっています【本試験H31リード文。デンマークのイェリングに残る大小2つの石碑(〈ゴーム老王〉とその息子〈ハーラル青歯王〉の建てたもの)】。
(注)角谷英則『シリーズ:諸文明の起源9 ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006,p.259~262。


デンマーク
 デンマークでは,10世紀の〈ハーラル=ゴームソン〉(ハーラル1世,958?~985?)が,実在が確認できる最古の王です。
 彼はノルウェーを平和的に支配下に置き,神聖ローマ帝国〈オットー大帝〉に敗れて洗礼を受けてキリスト教を広めました。スウェーデンの技術者によって1999年に開発されたブルートゥース(bluetooth)という無線通信の規格の名は,ノルウェーとデンマークを“橋渡し”をした彼のあだ名「青歯王(せいしおう)」に由来しています【本試験H31リード文「今日,このハーラルの統一事業は,多様な電波の統一という理念と重ねられ,北欧の企業を中心に開発された無線通信規格に,「青歯王」の名が用いられている」】。

 その後,息子の〈スヴェン〉(位1013~14)はイングランドに侵攻してデーン朝を建てて,アングロ=サクソン人【東京H6[3]】のウェセックス朝を一代のみ中断させました。

 さらに〈スヴェン〉の子〈クヌーズ〉(カヌート(クヌート),イングランド王在位1016~35,デンマーク王1028~35,ノルウェー王1028~35) 【本試験H14フランク人ではない,H31イングランド出身ではない】は,イギリス【本試験H22 9世紀ではない,本試験H25イベリア半島ではない】に進出してノルウェーとあわせて“北海帝国”を形成しました。彼は,スウェーデンの一部も領有しています。

 



ノルウェー
 ノルウェー(北の道という意味)では,9世紀末に東南部出身の〈ハーラル美髪王〉による沿岸部の南北統一が成ったといわれます。しかし南北の有力者による覇権をめぐる争いが続き,のち〈オーラヴ=トリュグヴァンソン〉(オーラヴ1世,位995~1000)の下でゆるやかに統一されました。彼はキリスト教信仰を広め,ノルウェー最古の教会を建設しています。
 各地の有力者はノルウェーの統一王権に抵抗しましたが,11世紀後半にはデンマークに対抗する必要から,内陸部も含めた統合が実現されていきました。それとともに伝統的な信仰が,次第にキリスト教の信仰に代わっていきました。豊富な森林資源を利用して各地に樽板教会(スターヴ教会)が建設され,12世紀前半に建てられたウルネスの木造教会(世界遺産)などが現存しています。

アイスランド,グリーンランド
 また,ノルウェー系のヴァイキング【追H30「ノルマン人」】は西方にも拡大をしており,870年代からアイスランド【追H30】への植民を始めました【本試験H25アイスランドは現住地ではない】。930年頃にはアルシング(全島集会)という集会制度が生まれ,豪族によって運営されていました。10世紀末にはキリスト教に改宗しています。
 北欧の伝説・歴史を伝える「サガ」と呼ばれる作品群の一つには,ノルウェー系のヴァイキング〈赤毛のエリクソン〉(950?~1030?) が982年にグリーンランド(緑の島) 【追H26ノルマン人が移住したことを問う(マジャール人ではない)】を発見したことや【本試験H25】,アイスランド生まれ・グリーンランド育ちの息子〈レイヴ=エリクソン〉(970?~1020?)が1000年頃にヴィーンランド(ブドウの国)を発見した伝説が登場します。彼らはイヌイット系(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅びました。


北アメリカ
 おそらくヴィンランドとは,考古学的な調査によると北アメリカ大陸【本試験H25】のニュー=ファンドランド島と推定されています。つまり,15世紀末に〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する前に,ノルマン人が先を越していたということになるのです。
 出来事を伝える「サガ」の他にもアイスランドの文学は北ヨーロッパの他地域と比べて盛んで,英雄詩エッダ(作者不詳の詩『古エッダ』と,豪族により散文・韻文で著された詩学の入門書『新エッダ(散文エッダ)』があります)には4世紀の古代インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々と共通のルーツを持つ北欧神話の英雄が登場します。スカールドと呼ばれた吟遊詩人が北ヨーロッパ各地の宮廷をまたにかけて活躍しました。


ノルマンディー公国
 また,先ほどのデーン人は北海や地中海沿岸の河川をさかのぼり,沿岸の都市に対する略奪を行うことがありました。北西フランスでは北海に流れ出るセーヌ川や,地中海に流れ出るロワール川をさかのぼり,沿岸の修道院や司教座都市が狙われました。
 デーン人の一派【本試験H2「ヴァイキング」。「フランク族」「アングロ=サクソン族」ではない】はノルマンディー【本試験H25イングランドではない】に移住し,西フランク国王〈シャルル3世〉(位879~929、単純公)との間に条約を結び、領地を得ることに成功。
 首長〈ロロ〉(?~927)はノルマンディー公としてノルマンディー公国【本試験H2】【本試験H21ノルマン朝ではない,本試験H25ノルマン朝ではない,本試験H27】をフランス王の臣下の形式をとって建国します(911年に公領として認定されました)。
 デーン人は西はコタンタン半島、東のコー地方、バイユー地方にも入植。この地域は、先住のガリア=ローマ人とフランク人が混淆しネストリウスと呼ばれていましたが、このいわばネストリウス人とデーン人との融合からノルマン人が誕生したといえます(注)。


ノルマン=コンクェスト
 さらに,すでにノルマンディー公国の貴族(オートヴィル家の〈ロベール=ギスカール〉(1015~85)と手を組んでいたローマ教皇の後ろ盾のもと,ノルマンディー公で〈ロロ〉の玄孫の子〈ギョーム〉【本試験H14】が1066年にイングランド【本試験H14スコットランドではない】をヘースティングズの戦い【法政法H28記】で破ることに成功。
 征服して〈ウィリアム1世〉【追H19ウラディミル1世とのひっかけ】と名乗り,ノルマン朝【本試験H14,本試験H25ノルマンディ公国ではない】を建てました(ノルマン=コンクェスト【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】)。
 当時ローマ教皇は,神聖ローマ皇帝と叙任権闘争をめぐり争っていたため,イスラーム教徒たちの進入を防いでくれる軍事力を求めていたのです。
 なお,このノルマン人【本試験H31マジャール人ではない】による占領の模様は「バイユーの刺繍画(タペストリ)」【本試験H31】【追H29リード文(〈ハロルド〉が〈ウィリアム〉への中世を誓って国王に即位した場面では,当時不吉と考えられていたハレー彗星が登場)】に鮮やかに編まれ,当時の様子をしのぶことができます。

 こうして,フランス王の臣下であるノルマディー公国が,イングランドで王国を開いたということになったので,ここから先,フランス王はイングランドに対する支配権を主張するおそれが出てきます。
 つまり,フランス側の主張はこうです。
「フランス国王の臣下がノルマンディ公。そのノルマンディ公がイングランドの王になったとしても,フランスの家臣にはかわりない。イングランドはノルマンディ公の支配地にすぎないのだから」
 一方,イングランド側の主張はこうなっていきます。
 「たとえノルマンディ公がフランスの家臣(諸侯)だったとしても,すでにイングランドの王になった以上は,フランス王と同等だ。下に見られる筋合いはない!」
 ややこしいですが,今後の英仏の対立の火種となってくすぶり続けることになりました。
(注)福井憲彦編『新版世界各国史 フランス史』山川出版社、2001年、p.61。




◆ノルマン=コンクェストにより,イングランドに封建制社会を基盤とする王政が成立した
 さて,ノルマン人〈ウィリアム1世〉は征服先のイングランドで厳しい検地をおこない,1085年12月以降ドゥームズデイ=ブック(最後の審判日の書)と呼ばれる土地台帳を作成していきました。
 これによりきわめて集権的で王の権力が強い【本試験H2】の支配体制を実現させ,デーン人の軍事的進入に備え,各地の領主の土地保有状況や提供することのできる騎士の数を把握しました。

 異民族の進入により混乱していた大陸ヨーロッパに比べ,そこから一定の距離が置けたイングランドでは,土地を保有していたローマ=カトリックの教会や修道院が王権の力を利用して自分の権利を確保しようとする思惑が強まっていました。教会勢力は王権を受け入れたため,短期間で検地が実現されたのです。イングランドの教会は,この頃はじまっていたローマ教皇〈グレゴリウス7世〉による教会改革運動とは距離を置いていました。
 また,翌1086年には〈ウィリアム1世〉はイングランド各地の有力な土地所有者に中世を誓わせています(ソールズベリ宣誓(せんせい))。



◆ノルマン朝が内紛に陥ると,アンジュー伯の〈アンリ〉が新王朝を建てた
 また,現在の英語の語彙(ごい)に,フランス語【本試験H15】の影響を受けたものが多いのも,ノルマン=コンクェストが関係しています。牛を表す英語アングロ=サクソン系,牛肉を表す英語の語源がフランス系なのは,牛を飼っていたのは支配される側のアングロ=サクソン人,胃袋に入れていたのはフランス人だったからという説もあります。
(注)川北稔『世界世界史 イギリス史』山川出版社,1998,p.50
 〈ウィリアム1世〉が亡くなると,ノルマンディ公領は長男が相続し,三男ウィリアムがイングランド王位を継ぎました。しかし,ブリテン島とノルマンディの領地を同時に支配するのは容易ではなく混乱しますが,〈ヘンリ1世〉(位1100~35)はノルマンディに拠点を置きつつ国政を整備します。
 しかし1120年に〈ヘンリ〉の長男が事故死すると,娘〈マティルダ〉に対して諸侯に忠誠を誓わせ,さらに彼女をノルマンディ南方のアンジュー伯に嫁がせました。
 〈ヘンリ1世〉の死後に彼の甥が即位しましたが,この即位をめぐり〈マティルダ〉派との間に内乱が起きます。〈マティルダ〉の死後に両者に協約が結ばれ,彼女の息子であるアンジュー伯の〈アンリ〉が1154年にイングランドの王位を〈ヘンリ2世〉(位1154~89)として継ぐことに成りました。


アンジュー伯の〈アンリ〉は,ブリテン島を支配しつつ,フランス南西部も統治した
 アンジュー伯の〈アンリ〉は,フランスのカペー王家からノルマンディ公に任命されていました。
 また,彼はフランス南西部のアキテーヌ公領の女子相続人とと結婚していたことから,この地も支配下に入れていましたので,アンジュー家の領地はブリテン島のスコットランドとの国境から,フランス南部のピレネー山脈方面にまで広がっていたことになります。
 この結果,イングランドのアンジュー伯は大陸の広大な領土を手中に収め,その領域は「アンジュー帝国」と呼ばれました。
 ただ,「伯」のくせに広大な領地を持つアンジュー伯は,フランスの王権にとっては“目の上のたんこぶ”です。




●1200年~1500年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑤,南北アメリカ:政治的統合をこえる交流④
 ユーラシアでは,モンゴル高原の遊牧騎馬民族が拡大し,連合政権を樹立,ユーラシア東西を結ぶ陸上・海上ネットワークが再編される。
 南北アメリカ大陸では,中央アメリカと南アメリカのアンデス地方で交流の広域化がすすむ。

この時代のポイント
 ユーラシアでは,モンゴル人が馬の力でユーラシア大陸をまとめ,交流の活発化でヒト・モノ・情報の移動が活発化し,技術革新につながる。

(1) ユーラシア
①モンゴルの時代
モンゴル人は商業を保護し,ユーラシア東西を結ぶ陸海のネットワークを統合する
 ユーラシア大陸の東西をモンゴル人が席巻(せっけん)し,ロシア(キプチャク=ハン国【慶文H30】),西アジア(イル=ハン国) 【京都H19[2]】【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11】,中央アジア(チャガタイ=ハン国【慶文H30】),中国(元)にモンゴル人の政権が建てられ,モンゴル人の指導者「大ハーン」の権威の下でゆるやかな統合が維持された。
 モンゴル人は,ユーラシア大陸各地に建設されていた農牧複合国家の農牧業・商業を保護し,アフリカ大陸からユーラシア大陸東西を結びつける海陸の交易ネットワークが整備されていく。
 東南アジア方面の大理【東京H6[1]指定語句】は1254年に滅ぼされ,海上交易の掌握をねらう元が遠征し,ビルマのパガン朝やジャワ島のクディリ朝が混乱,ヴェトナム北部の陳朝は撃退した。
 南アジアでは,インド北部のイスラーム政権である奴隷王朝【共通一次 平1:デリー=スルターン朝の初めか問う】【本試験H3】【本試験H13デリーを首都にした最初のイスラーム王朝かを問う,本試験H22時期,H29カージャール朝ではない】【追H30ムガル帝国とのひっかけ】【名古屋H31何世紀か問う】は,モンゴル帝国の侵入を免れた。デカン高原以南にはヒンドゥー教の諸政権が並立し,ペルシア,アラビア半島やアフリカ東部沿岸のスワヒリ地方の都市国家群との交易の利で栄える。
 西アジアのアッバース朝は1258年【慶文H29】にモンゴル人に滅ぼされたが,エジプトのイスラーム政権である新興のマムルーク朝がカリフを保護する。


② モンゴル後の時代
14世紀中頃に,ペスト(黒死病【東京H27[1]指定語句】)がユーラシア大陸から北アフリカで猛威をふるい,異常気象や災害も重なり,各地で政権が変化する

 ユーラシア大陸の交易ネットワークが緊密化すると,致死率の高いペスト菌の西方への大移動が起きた。アフリカのマムルーク朝が衰退する原因となり,ヨーロッパでは各地の君主国で壊滅的な被害が生まれる。
 また,14世紀中頃には東アジアで明王朝がおこる。モンゴル人はモンゴル高原に撤退するが,〈チンギス=ハーン〉の直系一族は,モンゴル高原を拠点に内陸ユーラシアにおいて依然として強い勢力を保った(チンギス統原理)。
 西アジアではモンゴル人の後継国家からティムール朝が生まれ,西方に拡大してテュルク系のオスマン朝と対抗する。
 西ヨーロッパではイングランド王国とフランス王国を中心とする百年戦争中にペストが大流行し,大規模な農民一揆【東京H8[3]「封建反動」について説明する】は旧来の社会体制を揺るがす。
 中央ヨーロッパや東ヨーロッパではリトアニア=ポーランドやモスクワ大公国が強大化。後者はモンゴル人からの支配を脱し,領土を拡大させている。

③ 大交易時代
15世紀中頃からユーラシア大陸で「大交易時代」がはじまる
 14世紀中頃のペストの大流行にともなう停滞期を経て各地で体制の再編がすすみ,海上ネットワークを中心とする大交易時代が始まる。
 ユーラシア大陸各地の政権は海上支配を目指し,中央集権化をすすめていった。明は南海大遠征を実施し,東南アジアのマジャパヒト王国やマラッカ王国,南アジアの諸政権など,インド洋一帯の交易活動が刺激される。

・ヨーロッパでは十字軍の影響で東方交易(レヴァント交易)が活発化し,各地の政権が覇権を争った。活性化する「大交易時代」の物流ネットワークのおこぼれにあずかることのできた。イタリア諸都市がキリスト教に代わる新たな価値観として古代ギリシア・ローマの情報を保護し,文芸復興(ルネサンス)がはじまる。特に西地中海ではピサとジェノヴァ,東地中海ではヴェネツィア(英語ではヴェニス) 【東京H14[3]ヴェネツィアの特産品を,刀剣類,毛織絨毯(じゅうたん),加工ダイヤモンド,ガラス工芸品(正解),手描き更紗(さらさ)から選ぶ(世界史の問題か?)】が交易を独占した。
 また,西ヨーロッパを中心に商工業が発達すると,都市を中心とする社会が成熟して従来の社会体制が変質。各地で中央集権化を進めた王権による国家統一が進む。

・オスマン帝国のヨーロッパへの進出が,イベリア半島諸国の海外進出につながる
 一方,テュルク系のオスマン帝国がバルカン半島・東地中海に進出すると,イタリア諸都市は衰退に向かう。オスマン帝国は,モンゴル系のティムール朝との間で,インド洋交易ネットワーク(紅海から,アラビア半島沿岸のイエメン,ハドラマウト,オマーンを経由しペルシア湾岸に向かうルート)の覇権をめぐり抗争する。
 没落したイタリア諸都市に代わり,イベリア半島諸国(ポルトガル王国,カスティーリャ=アラゴン(のちのスペイン))がインド洋への直接航路・西アフリカの金の直接取引を目指し,新航路の開拓に乗り出すことになる。15世紀末にはスペインの〈コロン〉がカリブ海(現・バハマ)に到達し,ヨーロッパ人にとっての「世界」に南北アメリカ大陸が加わることとなる。


(2) アフリカ
 アフリカではサハラ沙漠の横断・縦断ルートが活性化し,ニジェール川上流域のマリ帝国とソンガイ帝国,ニジェール川中流域のハウサ諸国,下流のベニン王国,チャド湖周辺のカネム王国,スーダンやエチオピアの諸王国が繁栄。
 インド洋沿岸のスワヒリ都市国家群は,現・モザンビーク沿岸部にも拡大し,内陸交易でマプングブエ,のちにグレート=ジンバブエが栄える。


(3) 南北アメリカ
中央アメリカのメキシコ高原と南アメリカのアンデス地方に広域政権が出現する
 南北アメリカ大陸でも南北を結ぶ交易路が存在したものの,ユーラシア大陸と異なり南北の気候・植生の違い(熱帯雨林が大きな障がいとなる),陸上交易の要となる馬や牛のような家畜の不在(山岳部のリャマを除く)が重なり,交易ネットワークは未熟だった。
 南アメリカからアラワク人がカヌー(カヌーはアラワク語が語源)で大アンティル諸島(現在のキューバ周辺)に渡っていたように,航海技術が発達していなかったわけではないが,ユーラシア大陸の「海の道」に比べ,遠洋航海技術は未発達であった。

 北アメリカ大陸南西部の古代プエブロ人の文化は,過剰な開発や干ばつの影響により衰退へ向かう。ミシシッピ川流域では政治的な統合がすすみ,神殿塚文化が栄える。
 カリブ海では,先住のアラワク人の地域に,南アメリカ北部からカリブ人が進出。小アンティル諸島を中心に活動範囲を広げる。
 メキシコ高原では都市国家群が栄え,15世紀にアステカ帝国が強大化する。
 アンデス地方ではペルー北部沿岸のチムー帝国が広域統一に向かい,ワリ帝国とティワナク帝国崩壊後の権力の空白を埋める。ペルー南部ではティワナク帝国崩壊後には,アイマラ人の諸王国が成立していたが,やがて高山地域のクスコを中心にインカ帝国が南大陸沿岸部から山岳部にかけてを広域統一する。
 アンデス山地北部からパナマ地峡,カリブ海の小アンティル諸島,南アメリカ北部のギアナ地方,アマゾン川流域の下流部と中流部では,政治的な統合も進んでいるが,広域を支配する強大な国家には成長しなかった。


(4) オセアニア
 ミクロネシア,メラネシア,ポリネシアの火山島・サンゴ礁島で,人々は農耕・牧畜・漁撈・採集を主体とした生活を送っている。
 この時期にニュージーランドに到達したポリネシア人(マオリ)は,狩猟を生業に導入する。
 オーストラリアの住民(アボリジナル)は外界との接触をほとんど持たず,狩猟・採集生活を送っている。



解説
◆前半にモンゴル人の大移動によって陸海のネットワークの相互関係が深まるが,開発の進展に対し人口増が限界をむかえ,小氷期も重なり各地で飢饉・戦争が起き生産性が低下する
 800年~1200年にかけて世界各地で開発や技術革新が盛んにおこなわれ,人口も増加傾向にありました(⇒800~1200の世界)。しかし,このような生産性の向上→人口の増加→経済成長という進展は,長くは続きませんでした。一般に,人口がどんどん増えていくと,増加分の人口を養うことのできる技術革新が起きない限りは,どこかで食料や資源の供給が追いつかなくなるとされます(「マルサス的停滞」)。のちに「1760年~1815年の世界」でみるように,人類がこの「限界」を突破するには,石炭のエネルギーを活用する技術革新(産業革命(工業化))の到来を待たねばなりません。
 それでも1200年代には,前時代の経済活動の活発化を受け,モンゴル高原の遊牧騎馬民(モンゴル人)が,ユーラシア一帯に短期間で勢力圏を広げ,草原地帯に拠点を維持しながら,定住農牧民の国家を各地で征服していきました。モンゴル人は陸上だけでなく海上交易も推進し,アフリカ大陸を含むユーラシア大陸の大部分に形成されていた交通・商業のネットワークが連結されていったのです(注1)。
 しかし,1250年~19世紀半ばの地球各地の平均気温は,それ以前の中世温暖期よりも寒冷化に向かっていました。この時期を「小氷期」と呼ぶことがあります。モンゴル帝国から分かれた主要な政権は,14世紀半ばの寒冷化の進行・飢饉・疫病の流行(いわゆる“14世紀の危機”)により打撃を受け崩壊します。特に14世紀なかばにユーラシア大陸全体を襲ったペスト(黒死病【追H26天然痘ではない】【東京H27[1]指定語句】)は,各地の社会に壊滅的な被害を与えました。


●ヨーロッパでは,都市社会が成熟し,都市内部に大商人・役人・高位聖職者・手工業者(親方(おやかた))などの支配層が形成されていきました。その下には小規模な商人や手工業者(職人や徒弟)がいて,さらに貧民層も形成されていきます。富裕となった手工業者や商人は市民(ブルジョワジー)という階層として台頭し,市民同士の紛争も起こるようになります。都市の中は街区に分けられ,それぞれの街区が信仰や行政,助け合い(相互扶助)の基本単位となりました。都市内部には行政をつかさどる市庁舎,司法の裁判所,立法の市参事会がもうけられ,商館や広場,教区の教会,修道院,施療院(せりょういん)が形成され,国王や周辺の領主の介入をしりぞけて自治を獲得する都市(自治都市)も増えていきます。またゴシック様式の大聖堂(カテドラル)は,都市の富の象徴でもありました。
 このような社会の変化に対応してヨーロッパ各地では,諸侯,都市の市民,聖職者により構成された身分制議会【一橋H31 論述(13世紀後半~14世紀にかけて成立した「君主と諸身分が合議して国を統治する仕組み」の事例を複数挙げ、中世から近代にかけての変化を視野に入れて論じる)】が,国王の政治を監視する形の君主国(モナルキア)が生まれていきました。例えばイングランド王国では1265年に諸侯がリーダーシップを発揮して,都市の代表を含む身分制議会を立ち上げる国政改革が実現しています。また,1295年には聖職者と世俗の代表をメンバーとする身分制議会が開かれて,君主国としてのまとまりが形作られていきました。
 イベリア半島では,1137年に成立したアラゴン連合王国と,1143年成立のポルトガル王国がレコンキスタ(国土回復運動)をすすめており,その勢いでポルトガルは大西洋へ,アラゴン連合王国は西地中海への進出もすすめます。
 ドイツの神聖ローマ帝国の〈フリードリヒ2世〉【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】はシチリア王国の王も兼任し,ギリシア語・アラビア語・ラテン語にも通じ,“世界の脅威”と絶賛されています。彼は行政機構を確率しましたが,アルプス以北の支配がゆるみ,教皇からも波紋を受けました。
 〈フリードリヒ2世〉の死後,神聖ローマ皇帝の命運は傾きます。シチリアは独立し,1256年以降の神聖ローマ帝国は大空位時代に突入。強力な君主国を形成することはできませんでした。
 各地で君主国が領域内の支配を強めていったのに対し,ローマ教皇〈インノケンティウス3世〉は教会の権威を高め,信仰生活の共通規範を定めるなどして対抗します。1209年にはフランチェスコ修道会,1215年にドミニコ修道会を認め,多くの修道士が都市で辻(つじ)説法(せっぽう)をおこなったり,モンゴルに派遣されたりしました(修道士の時代)。各地に設立されていた大学でもドミニコ会士が教鞭をとり,スコラ学【共通一次 平1】の権威は高まっていきました。
 13世紀には,新しい教皇が選出されるまで枢機卿が外部にに出られないというコンクラーヴェという制度が初められます。
 14世紀初めには,フランス人司教が教皇となり,フランスの王権を後ろ盾にして,教皇を中心とする集権化,軍事改革,徴税制度の整備をおこないました。この改革は南フランスのアヴィニョンで行われ,教皇庁もアヴィニョンに移動されました。アヴィニョン教皇庁の期間は“教皇のバビロン捕囚”といわれますが,実際には教皇庁の意向によるものでした。
 なお,ロシアはモンゴル人の支配を受けていましたが,そのうちノヴゴロド公の〈アレクサンドル=ネフスキー〉(1220?~1263)は貢納によって服属を回避し,スウェーデン,リトアニア,ドイツ騎士団と戦って独立を守っています。彼はモンゴル人とも提携しつつ敵対勢力を抑え,権力を強化しました。

◆ペストの大流行後,世界各地で再び成長期が始まり,ユーラシア大陸東西を結ぶ海域に“大交易時代”が展開する
 “14世紀の危機”を経て,世界各地で交易ネットワークが再び活性化します。
 モンゴル帝国の海上進出の刺激を受け,バルト海・北海~地中海・紅海・ペルシア湾~インド洋~東シナ海・南シナ海など東南アジアの海域に連なるユーラシア大陸南縁は,1400年頃から1570年〜1630年代をピークとする空前の海上交易ブームである“大交易時代”を迎えます。
 ただ,この時期には内陸を押さえつつ,同時に沿海部の交易活動を支配できるほどの強力な国家はありません。内陸の国家が交易を制限しようとするの対し,例えば東アジア近海では倭寇(わこう)をはじめとする海賊集団の活動も活発化します。各地の貿易の要衝(ようしょう)では港市国家が栄え,農業生産力を高めつつ銃砲・火砲を導入して軍事的に強大化する国家も現れていきます。

●中央アメリカではアステカ帝国が,南アメリカのアンデス山脈地域ではインカ帝国(タワンティン=スーユ)が周辺に拡大し,交易ネットワークを支配しています。
●中国では明(1368~1644)の〈鄭和〉(ていわ)が“西洋下り”(1405~1433)と呼ばれる南海大遠征を実行し,東シナ海・南シナ海・ベンガル湾・アラビア海・アフリカ東岸に至るまでの交易ネットワークを活性化させています【セA H30大西洋には行っていない】。
●南アジアでは,1336年に南インドでヴィジャヤナガル王国が建てられ,特産の米と綿布を西方に輸出し軍馬【本試験H31ウマを輸出していたわけではない】を輸入し,1347年に南インドで成立したバフマニー王国と覇権を争っています。
●西アジアではアナトリア半島からおこったテュルク系のオスマン帝国が,黒死病の流行の去った後のバルカン半島に進出し,1453年にはビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させています。次の時代(⇒1500~1650の西アジア)には地中海周辺に拡大し,イタリア諸都市と地中海交易をめぐり対決し(⇒1500~1650のヨーロッパ),インド洋交易ネットワークにも参入するようになっていきます(紅海を通してインド洋交易の拠点となっていたエジプトのマムルーク朝のカイロは,14世紀中頃の黒死病で壊滅的な被害を受けていました)。
●西アフリカでは,マリ帝国【本試験H8】がニジェール川流域を拠点に拡大し,中央アフリカの熱帯雨林地域や北アフリカの沙漠地帯との交易ネットワークを支配しています。1352~1354年には旅行家〈イブン=バットゥータ〉もマリ帝国に滞在しています。
●ヨーロッパでは14世紀中頃の黒死病の流行により,農民の耕作地放棄→廃村の増加→都市への貧民の流入→都市内の対立の激化という展開が生じ,農村では土地領主制が崩れ,自治都市の中でも社会不安が高まります。都市内では下層民による抵抗運動(1378年)や,ユダヤ人に対する迫害(後述)が起きています。
 流行が収束すると人口は回復していきますが,経営を立て直そうとした領主に対する農民反乱も起こります。領主は反乱の鎮圧とともに,地代の金納や耕作地を拡大をすすめ,中央ヨーロッパ・東ヨーロッパ(特にポーランドとプロイセン)では輸出向け作物を栽培させるために農奴制が導入されました。
 各地わずかな資源をめぐり争いが頻発し(注2),中小の国家が王朝の結びつきや宗派に基づき同盟・対抗関係を結びながら,財政を充実させるために商業活動にも積極的に関与していきます。

 例えば,イングランド王国とフランス王国は毛織物【本試験H2綿工業ではない,本試験H9綿織物ではない】工業の先進地域であるフランドル地方【本試験H2】をめぐり争い,百年戦争に発展しました(イングランドの〈エドワード3世〉は1340年にフランス王に即位することを宣言)。

 一方,神聖ローマ帝国の〈カール4世〉は宮廷をベーメンのプラハ(現在のチェコ)に移し,ボヘミア王とハンガリー王も兼任します。12世紀以降,ドイツ人の東方植民【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】がすすみ,ドイツ人居住地域が東に移動していった結果です。一方,帝国内部の諸侯たちは与えられた封土や官職を私物化し,戦争・相続・購入により領土を増やして地域的な“君主国”(領邦国家)を形成していきました。彼らは国王から司法権や貨幣をつくる権利を奪い,王位や領地を世襲していったので,神聖ローマ帝国の“分裂”がすすんでいきました。なお,この地域のユダヤ人は黒死病の流行時に激しい迫害を受け(混乱の中「井戸に毒を入れた」などの疑いをかけられたのです),居住区や服装が指定されたり,東ヨーロッパへの移住がすすんだりしていきました(東ヨーロッパに移住したユダヤ人をアシュケナジムといいます)。特にポーランド王国は多くのユダヤ人を受け入れ,国力を高めました。〈カジェミシュ3世〉はクラフク大学の創建を教皇により許可され(1364),成文法典も編纂させました。
 また,13世紀に新たなアルプス超えルートであるザンクト=ゴットハルト峠が開通して,ヨーロッパの南北交易ルートの重要地点となったスイスでは,ウーリ州【追H20】の諸侯が神聖ローマ帝国の介入に対抗し,他2州とともに1291年にスイス誓約同盟(スイス)【追H20スイスが,神聖ローマ帝国から独立したか問う。時期(ウィーン体制下ではない)】を建設しました。これが現在のスイスの原点です。誓約同盟はハプスブルク家,ブルゴーニュ家と対抗する中で優れた軍事力を発揮し,フランスやローマ教皇庁の傭兵としても活躍しました。

 この時期には,従来は「辺境」とみなされていた地域の開発も進み,タラのような魚が増加する人口向けの重要なタンパク源として注目されました。
 北ヨーロッパはバルト海を中心とする商業圏を充実させ,デンマーク王国の〈マルグレーテ〉女王を中心に1397年にノルウェー王国,スウェーデン王国はカルマル同盟【追H19】【立教文H28記】を結成して,バルト海東部方面から進出するドイツ人商人に対抗しています。北ヨーロッパの商業圏は,内陸の商業圏と結びついて,地中海の商業圏とつながっていました。

 地中海沿岸のイタリアの海洋国家ジェノヴァ共和国やヴェネツィア共和国【追H19】は交易と金融業で栄えますが,オスマン帝国の進出を受け,西アフリカの金(きん)の直接交易や,インド洋への直接進出を図るようになります。イスラーム商人の影響を受けて会計の記録技術も発達しました。〈パチョーリ〉による1494年の『スムマ』は現存する最古の複式簿記に関する記述です。
 ローマ=カトリックの教皇庁は1378~1417年の間,“大シスマ”といわれる分裂を経験しましたが,公会議によって解決されました。しかし,都市経済の発達を背景として,従来の教義に対する批判的な思想も芽生えていきました。イングランドの〈ウィクリフ〉の「聖書を大切にしよう」という主張の影響を受けたベーメンの〈フス〉によるローマ教皇庁批判は,ベーメンのスラヴ系住民の独立運動を押さえようとするドイツ諸侯軍による軍事介入(フス戦争【追H26ポーランドではない】)に発展しましたが,ベーメン側が新兵器であるマスケット銃と走行荷車(移動可能)を使用したため,1436年にはフス派の穏健グループと教皇との和解に終わっています。農民ですら扱えるマスケット銃の登場は,従来型の騎兵を投入した戦法を無効にするほどの威力であり,その後の騎士の没落【本試験H2】や戦術の変革に向かうことになります(軍事革命)。16世紀からは稜堡式城郭のように突き出た稜堡(りょうほ)を持つ城壁がさかんに建設されるようになりました【東京H14[3]その背景を答える「火器」】。

 イスラーム政権と長年にわたり対決していたイベリア半島の諸王国のうち,ポルトガル王国はすでに1340年代には北大西洋のアフリカ西岸近くのカナリア諸島に進出していました。大西洋における漁業の発展や西アフリカの金の直接取引への欲求が背景となり,15世紀半ばに東方の造船技術を参考にしてカラベル船【本試験H6図版(三段櫂船とのひっかけ)】を開発し,1482年に西アフリカに拠点を設けます。さらにのちにスペイン王国に発展するカスティリャ王国は15世紀にカナリア諸島に進出。カナリア諸島から北方に向かい,偏西風に乗ってヨーロッパに向かって帰るルートの途中にあったマデイラ諸島では,1450年代からアフリカから輸送した奴隷を用いたサトウキビ【本試験H11アメリカ大陸原産ではない】のプランテーションを開始します。プランテーションとは,大土地で大量に一種類の売れる作物(商品作物)を栽培し,工場のように収穫・加工して輸出する方式の栽培法のことで,のちカナリア諸島でも実施され,南北アメリカ大陸にも拡大していくことになります。
 なお,ロシアでは1480年に〈イヴァン3世〉【本試験H31「ツァーリ(皇帝)の称号を用いた」か問う】がキプチャク=ハン国からの自立を達成し,いわゆる“タタールのくびき”(モンゴル人による支配)から脱しています。


◆南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどっている
 この時期の南北アメリカ大陸は,15世紀末に至るまで,アフリカ大陸・ユーラシア大陸との交流はありません。
(注1)「アフリカ大陸を含むユーラシア大陸」とあるように,このネットワークにはオセアニアの大部分や南北アメリカ大陸は含まれていないことに注意しましょう。
(注2)ヨーロッパは現・中華人民共和国の面積と比べると,視覚的にこのくらいのサイズしかありません(参照:Website ”The True Size of...” https://thetruesize.com/#?borders=1~!MTcxNzcxOTE.NDEzMDEwMw*MzYwMDAwMDA(MA~!CN*NzE0NzYzNA.MTM3MzI5OTQ)Mw)。




●1200年~1500年のアメリカ

○1200年~1500年のアメリカ  北アメリカ
 イギリスの〈ヘンリ7世〉(位1485〜1509)の命で,〈ジョン=カボット〉(〈ジョヴァンニ=カボート〉,1450?~1499?)が,〈息子〉とともに1497年にニューファンドランドに到達し,そこにヴェネツィアとイギリスの国旗を立てました。
 沖合に漁場が広がっていることも発見。ここにはヨーロッパ各国から漁船が訪れ,ヨーロッパ市場向けにタラ漁がブームとなります。
タラは船の中で塩漬けにされるか,沿岸で天日干しにして,ヨーロッパ市場に運ばれました。

 なお〈カボット〉はセントローレンス湾にも到達しています。

 北アメリカ東部ではマウンド(埋葬塚)を建設する文化(マウンド文化)が栄えます。中心の一つであるカホキアには,首長層が巨大なマウンドを建設していました(◆世界文化遺産「カホキア墳丘群州立史跡」,1982)。13世紀初めの地震や気候変動の影響もあり,1350年には滅んでいます。



○1200年~1500年の中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆マヤ文明の中心はマヤ低地北部に移っている
 中央アメリカのマヤ地方北部の低地部(マヤ低地)では,12世紀頃から15世紀中頃までマヤパンがチチエン=イツァーに代わって主導権を握りました。マヤパン衰退後のマヤ地域には,有力な勢力は現れず,多数の都市が交易ネットワークを形成して栄えました。


◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地にはミシュテカ人の都市文明が栄える
 メキシコ高原南部のオアハカ盆地にはミシュテカ人の都市文明が栄えています。


◆メキシコ高原中央部ではトゥーラに代わり,アステカ人が征服活動を広げる
アステカ人がメキシコ高原の広域を支配する
 北アメリカのメキシコ高原中央部は,テスココ湖の北西のトゥーラなどの諸都市が栄えます。
 トゥーラは1150~1200年に衰退。
 テスココ湖周辺には,シャルトカン,テスココ,テナユカ,アスカポツァルコ,クルワカン,シコなどの新興国家のほか,ウエショツィンコ,トラスカラ,センポアラなどの以前からの国家などが並び立つ状況でした。

 トゥーラの繁栄の後,14世紀後半にメキシコ高原中央部に進出したのは狩猟による遊動生活を送っていたナワトル語系チチメカ人の一派です。
 彼らはその現住地とされる「アストラン」から,のちにアステカ人【追H26地図上の位置を問う】【本試験H30】と呼ばれるようになりますが,自称はメシーカ(メキシコの語源)です(注1)。彼らの国は一般に「アステカ王国」と呼ばれます。
 アステカ〔メシーカ〕人は,先住のティオティワカンの都市をみて,これを崇めたてまつって「「神々の都市」(テオティワカン)と命名。そして,テスココ湖の無人島に定住しテノチティトラン【追H24ポルトガルの海外拠点ではない,H28アステカ王国の首都か問う】【本試験H11インカ帝国の中心地ではない】【本試験H21,本試験H25,本試験H30】(「サボテンの実る地」という意味)を建設。現在のメキシコシティ【本試験H25】は,このテノチティトランに築かれた都市です。

 アステカ〔メシーカ〕人は近隣の都市国家のうち1428年にテスココとトラコパンという都市と同盟し(三都市同盟),周辺諸民族を征服し,貢納を徴収しました。征服活動は〈イツコアトル〉(位1427~40),〈モクテスマ1世〉(1440~1468),〈アシャヤカトル〉(位1469~1481),〈アウィツォトル〉(位1486~1502),〈モクテスマ2世〉(1502~1520)と,間断なく続きます。

 〈アウィツォトル〉王の治世には,マヤ高地に近い太平洋岸のソコヌスコ王国(現在のメキシコのチアパス州)をも征服しますが,西方のタラスコ王国や,テスココ湖東方のライバル トラスカラ王国(注2)を滅ぼすことはできませんでした。
 つまり,アステカ王国は「メキシコ全土を支配していた」わけではなく,あくまでテスココ湖周辺を中心に,周辺の勢力を従属させていたに過ぎないのです。
(注1)篠原説では「アステカ」は18世紀末までほとんど使用されず「アストラン人」に限定された呼称でした。王国の自称は「メシーカ」ですが,メキシコ全土を指すわけではなく,テノチティトラン(メシコとも呼ばれます),テスココ,トラコパンの三都市同盟の支配領域を指しました。篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社,2005,p.44。
(注2)のちにスペイン人〈コルテス〉の軍は,トラスカラ王国と同盟してアステカ王国を滅ぼすことになります。

 メシーカ〔アステカ〕人の経済的基盤は農耕です。
 2100mの高山の気候に対応するため,湖に浮き島(チナンパ)をつくることで農地を増やし,その上でトウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】),トマト,カボチャ,豆などが栽培されます。家畜はイヌと七面鳥です。征服だけではなく,専門の商人によりヒスイやジャガーの皮,穀物やカカオなどの交易も,メキシコ高原周辺の社会との間でさかんにおこなわれています。少ない資源をめぐって恒常的に戦争が起き,戦士が重用される好戦的な社会でした。
 社会は階級によって複雑に分かれ,頂点に君臨していたのは国王です。軍事政権を正統化するために神殿で民族神のウィツィロポチトリに多くの生贄(いけにえ)をささげることで,世界が終わらないように維持することができるとされました。神殿では人身御供(ひとみごくう)が広く行われていました。

 アステカ王国の支配域の人口は最大1100万人を数えます。
 彼らはアステカ文字を残しましたが,情報の多くがのちに進入するスペイン人により破壊されたため,現代に残る情報の多くがスペイン人修道士らの記録を通じたものです。




○1200年~1500年のカリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

カリブ人が,アラワク人の居住地に進出する
 カリブ海の島々には漁労採集・ヤムイモ,マメ,トウモロコシ,カボチャ,タバコの栽培に従事するアラワク語族のアラワク人が分布していました。各地で首長(「カシーケ」と呼ばれます)によって政治的な統合が進んでいました。

 しかし,13世紀に入ると,南アメリカ北東部に住んでいたカリブ語族のカリブ人が,カリブ海の東端に点々と連なる小アンティル諸島に北上を開始。
 男性は狩猟・漁労,女性は農耕に従事し,大型のカヌーで大アンティル諸島のアラワク人を攻撃し,アラワク人の居住地は狭まっていきます。
 15世紀末にカリブ海に到達したヨーロッパの人々により,「カリブ人は人肉を食べる」という噂が広まり,「カニバリズム(食人)」という言葉も生まれました。


◆〈コロン〉(コロンブス)がカリブ海の「西“インド”諸島」に到達する
アラワク人がジェノヴァ人の〈コロン〉と接触する
 1492年【セ試行 ポルトガル船がインドに到達する前か問う】にジェノヴァ【上智法(法律)他H30】の船乗り出身の〈コロン〉(コロンブス) 【上智法(法律)他H30】が,スペイン王〈イサベル〉【上智法(法律)他H30ジョアン2世ではない】の支援を受けカリブ海に到達しました。
 現在のバハマにある島をサン=サルバドル島【追H27クックではない】と命名し,キューバ島,イスパニョーラ島(現在のハイチ(ハイティ)とドミニカ共和国)を探検しました(第一回航海,1492~93)。
 イスパニョーラ島のサント=ドミンゴ(現⑤ドミニカ共和国の首都)には植民拠点が建設され,スペイン風の低層(ハリケーン対策のため)の石造建築物が建てられました(◆世界文化遺産「植民都市サント=ドミンゴ」,1990)。

 第二回航海(1493~1496)では,イスパニョーラ島の先住民(アラワク系のタイノ人)を虐殺する事件を起こしています。

 第三回航海(1498~1500)では南アメリカ大陸のオリノコ川河口(現在のベネズエラ)に到達し,イスパニョーラ島に北上しました。〈コロン〉は先住民を奴隷としてスペインに連行しています。また,カリブ海の島々に入植した白人の行為は,大変残虐なものであったと記録されています。
 入植者と〈コロン〉との間には対立も生まれ,先住民の抵抗もあって植民地経営は成功しませんでした。〈コロン〉は死ぬまで,自分の到達したのは“アジア”だと主張していました【セ試行 西インド諸島ではポルトガルによる経営はおこなわれていない】。


(参考)〈コロン〉〔コロンブス〕の4度の航海
①第一回航海 1492年8月~1493年3月:バハマ→キューバ→イスパニョーラ島
②第二回航海 1493年9月~1496年6月:サント=ドミンゴの建設
③第三回航海 1496年5月~1500年10月
④第四回航海 1502年5月~1504年11月
・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
 キューバのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
▼1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 ジャマイカのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1494年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。




・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されました。彼の初上陸の地はサン=サルバドル島ではないかといわれています。




・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ,⑤ドミニカ共和国
 ④ハイチと⑤ドミニカ共和国のあるイスパニョーラ島ののアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1492年に第一回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島は1493年の第二回航海で〈コロン〉に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコのアラワク系タイノ人は,首長(「カシーケ」といいます)により地域ごとに統合されていました。
☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人がとって代わります。

☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」され,島は「聖ウルスラと11000人の処女」(キリスト教の聖女の伝説に基づき)と命名されました。
・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
☆モントセラトは,1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。「モントセラト」という名称はスペインのカタルーニャ地方にあるモンセラート修道院に由来します。
☆グアドループ島は,1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されます。「グアドループ」という名称は,カスティーリャ王国の「グアダルーペの聖母」に由来しています。〈コロンブス〉は航海の後,聖母の彫像のある修道院に巡礼しています。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人がとって代わります。

☆1493年に第二回航海をおこなっていた〈コロン〉〔コロンブス〕に「発見」されました。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 アンティグア=バーブーダには,もともと14世紀まではアラワク人が居住していました。しかし,1200年以降,南アメリカのオリノコ川流域から北上してきたカリブ人にとって代わります。
★1498年,〈コロン〉の第三回航海で「発見」されています。

・1200年~1500年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 ボネール島,キュラソー島,のアラワク語族のカケティオス人は,もともと南アメリカのベネズエラに居住していましたが,カリブ人の進出から逃れてこの島々にやってきた人々です。
 これらの島々の人々は,1499年にフィレンツェ生まれの〈アメリゴ=ヴェスプッチ〉(1454~1512)らの上陸に遭遇しています。




○1200年~1500年のアメリカ  南アメリカ
地方王国期からインカ帝国の拡大へ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆チムー王国などのアンデス地方の伝統を継承し,インカ帝国が広域支配を実現する
アンデス地方が広範囲にわたって統合される
 アンデス地方の北部ではシカン文化が栄えていましたが,1375年頃のチムー王国に征服されました。王宮や王墓はチャン=チャンに置かれ,先行するワリ文化を継承し行政・流通などに関わる空間が都市に作られました。
 王が代わるたびに王宮が更新されたし,食糧を集めて再分配するための倉庫が整備され,優れた金属工芸がつくられたことは,のちのインカ帝国にも継承される要素となっています(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」,増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000,p.176。


 しかし一方,アンデス地方の中央部では,クスコ周辺に分布していたインカ人が1438年頃から〈パチャクテク〉王(位1438~1463)により,北は赤道付近,南は地理の中部までの広大な領域に活動範囲を広げ,クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H24ポトシではない,H29ポトシではない】に首都を整備しました(◆世界文化遺産「クスコの市街」,1983)。

 1470年代からチムー王国を攻撃して,支配下に加えました。インカ人はこの領域を4つにわけ,タワンティン=スーユ(4つの地方)と呼びました。これがいわゆるインカ帝国【追H26地図上の位置を問う】です。のちにスペイン人は,皇帝が“太陽の子” 【追H26王が太陽の子(化身)として崇拝されたか問う】【本試験H11:太陽神ラーは崇拝されていない。王が「太陽の子として崇拝され」ていたか問う】【本試験H31皇帝が太陽の化身(太陽の子)とされたか問う】として強力な権力でアンデス地方を支配していたと報告したため,「ローマ帝国」のような確固たる領域を持つ国のようなイメージがつくられていきました。
 しかし実際には,そびえ立つアンデスの山々のすべての地域をくまなく支配することは難しく,インカ人の王は各地の首長にさまざまな方法で自らの権威を認めさせようとしていたのです(注)。

 冬至に行なわれる太陽の祭り(インティライミ)は国王の権力を国民に見せ付ける上で,特に重要で盛大な儀式でした【本試験H11亀甲や獣骨を焼いて,そのひび割れによって神意を占ったわけではない】。
(注)インカ帝国領内の各地にはクラカ(首長)層による支配が続いていました。「クラカ(首長)層の権威は,アイユ(共同体)民にどれだけ大盤振る舞いできるかにかかっており,それをもっとも実現し得たインカ王が互酬関係の頂点にたって周辺諸国を統合した」のです(金井雄一他編『世界経済の歴史―グローバル経済史入門』名古屋大学出版会,2010年),p.54。網野徹哉『インカとスペイン帝国の交錯』講談社,2008年も参照)。



 人口調査も巡察使に行わせ,それにもとづき徴税し,記録はアルパカやラマの毛から作った縄の結び目で数量を表すキープ(結縄) 【東京H12[2]】 【本試験H11象形文字ではない】【追H24】【本試験H18,本試験H21ユカタン半島のマヤ文明ではない,H29共通テスト試行,本試験H30】【中央文H27記】でおこないました。労働による徴税(労務のことをミタといいます)もあり,神殿建設や農作業に従事させました。
 そのために張り巡らせたのが,南北にのびる「インカ道」(四大街道(カパック=ニャン))の整備です。駅舎や倉庫をもち,駅伝方式で情報や貢納品を飛脚(チャスキ) 【東京H12[2]】に伝達させたのです。インカの首都には巨大な倉庫があり,貢納品が各地から大量に輸送されました。インカ人の支配層はこのような方法で1000万人を超えたといわれる領域内の人々を把握しようとしたのです。
 1911年に考古学者〈ハイラム=ビンガム〉(映画「インディ=ジョーンズ」のモデルと言われます)によって発見された,標高2400mの“空中”都市マチュ=ピチュ【本試験H17,本試験H28】(◆世界複合遺産「マチュ=ピチュ」,1983)に見られるように,すき間なく石を積み上げる高度な石造技術も特徴的です。マチュ=ピチュは貴族のリゾート地とも,避難所ともいわれています。ちなみに,標高3400mの首都クスコ【本試験H11テノチティトランではない】【本試験H19マヤ文明ではない】にあった太陽神殿は,スペイン人による破壊により現存しません。
 なお,彼らの言語はルナ=シミ語といい,スペイン人はそれをケチュア語と呼びました。現在のペルーの第二公用語となっています。

 現在のベネズエラのカリブ海沿岸に,1498年に〈コロン〉〔コロンブス〕が上陸。この第三回航海で,彼はベネズエラの豊富な真珠を発見します。〈マルコ=ポーロ〉の『世界の記述』を通したインドか日本に真珠があるという情報から,〈コロン〉は「インドに到達したのだ」という確信を深めます。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.79。




●1200年~1500年のオセアニア
○1200年~1500年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

◆ポリネシア系のマオリはニュージーランドに到達し,狩猟採集生活をはじめる
ポリネシア人がニュージーランドに到達する
 ポリネシア人は,その卓越した航海技術により,人類でもっとも広範囲に拡大した民族となります。
 ポリネシア人が最後に移住したのはニュージーランドでした。ニュージーランドは,赤道付近の貿易風という東風と,ニュージーランド付近の偏西風という西風に挟まれた地点に位置するため,到達するのが一番難しかったのです。
 ニュージーランドに移住したポリネシア人をマオリ【セ試行 絶滅していない】といい,狩猟・採集・漁労文化を発展させました。彼らは当初から「マオリ」と自称していたわけではなく,ヨーロッパの人々と出会って以降,自分たちのことをそのように区別して呼ぶようになったと見られています(「マオリ」はマオリ語で「ふつうの」「正常の」という意味)(注2)。従来のバナナ,パンノキ,ココナツが生育できないことを知ると(タロイモ,ヤムイモも北島でしか育ちません),ワラビやニオイシュロラン(ヤシに似る)や海産物,それにキーウィ,ワカ,モア類のような走鳥類が新たな食料となりました。マオリが到達した頃のニュージーランドには,とべない鳥のモアが生息していましたが,マオリによる乱獲の結果,モア科の鳥は1400~1500年に絶滅してしまいました(注3)。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.60
(注2)山本真鳥編『世界各国史 オセアニア史』2000,p.168
(注2)従来は気候変動説が唱えられていましたが,現在ではマオリによる乱獲説が有力となっています。ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,p.308。


○1200年~1500年のオセアニア  オーストラリア
オーストラリア北部にはナマコ漁民が進出か
 なお,オーストラリアの北部のアラフラ海には,東南アジア方面からナマコを求める漁師が到達していたとみられます(注)。内臓をとって薄い塩水などで煮た後,乾燥させたナマコを海参(いりこ)といい,中華の高級食材として,中国人に重宝されたのです。

 ただ,内陸狩猟採集生活を続けていたオーストラロイド人種のアボリジナルとの直接的な交流はなかったようです。
(注)鶴見良行『ナマコの眼』筑摩書房,1993年。




○1200年~1500年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
 ヨーロッパ人の到達以前のメラネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
 現①フィジーは,地理的にはメラネシアに分類されますが,古くからポリネシア文化との交流があり,メラネシアとポリネシアの“交差点”としての役割を果たしています。
 この地域にはオーストロネシア諸語を話す人々が分布しています(注)。
(注)オーストロネシア諸語とは,今から5000年ほど前に台湾で話されていた「オーストロネシア祖語」のことをいいます。「オーストロネシアン――言葉で結ばれた人びと――」菊澤律子研究室,国立民族学博物館(http://www.r.minpaku.ac.jp/ritsuko/japanese/essays/languages/austronesia_people.html)


○1200年~1500年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 ヨーロッパ人の到達以前のミクロネシアについては記録がほとんどなく,未解明の部分が多く残されています。
 この地域にはオーストロネシア諸語を話す人々が分布しています。





●1200年~1500年の中央ユーラシア
◆モンゴル人は,ユーラシア大陸の定住農牧民のネットワークを統合する
ホラズムが滅び,モンゴルの時代が到来した
 ウイグルがキルギズにより840年に崩壊してからというもの,モンゴル高原には統一政権が存在しませんでした。契丹や金が,遊牧民がまとまり強力な政権が生まれないように画策していたためです。

 モンゴル人の拠点は,黒竜江(アムール川)上流のオノン川。12世紀後半の時点では,周囲のケレイト部(モンゴル高原中央部)や,ナイマン部(モンゴル高原西部)にくらべて弱小勢力でした。

 そこに現れたのが〈テムジン〉【立教文H28記】という男です。彼は有力氏族のボルジギン氏に属し,父はタタル部(モンゴル高原東部)に毒殺されました。
 彼は1200年~1202年にかけてモンゴル部族とタタル部族のリーダーとなり,1203年にはケレイト部を倒しました。さらに,ナイマン部を中心とする連合軍を破って,1206年にクリルタイ【東京H18[3]】【本試験H3】【本試験H26三部会ではない】【追H21】【立教文H28記】と呼ばれた会議で〈チンギス=ハン(カン)〉(位1206~27) 【追H27モンゴル帝国を建てたか問う】 【本試験H4】【H29共通テスト試行 系図】と名乗ることを認められ,モンゴル高原を統一しました。

 遊牧民が,ほかの部族を支配下に入れたり連合したりしてつくる「遊牧国家」は,〈チンギス=ハン〉以前にも存在し,匈奴による遊牧国家以来の伝統がありました。しかし,今までの遊牧国家と異なるのは,部族が連合して政治をおこなうのではなく,権力を〈チンギス=ハン〉とその家系に集めた点にあります。
 彼は千戸制(せんこせい,千人隊)を整備し,西への遠征を開始しました。千戸制とは,支配下の全遊牧民を1000家族にわけて,そこから1000人の兵士を出させて,千人隊を組織させたものです。普段の生活と戦争のときの集団の単位を同じにすることで,機動力を高めたのです。千人隊の隊長の子弟には,〈チンギス=ハン〉のもとで生活を送らせ,絆や連帯感をはぐくませました。

 華北へのモンゴルの進出は1210年代には始まっていました。とき同じくして黄河の大氾濫が起き,混乱に拍車がかかります。
 〈チンギス=ハン〉は巨大な部隊を引き連れ,すでに西遼(カラキタイ) 【本試験H23,本試験H27】を滅ぼしていたナイマン部(10世紀~1204) 【本試験H23ウイグルではない】,トルコ人奴隷(マムルーク)が建国しゴール朝を滅ぼしていたイランのホラズム=シャー朝(1077~1220)【本試験H13滅ぼしたのはガザン=ハンではない,本試験H24,本試験H31チンギス=ハンが滅ぼしたか問う】【追H20滅ぼしたのはセルジューク朝ではない,追H29滅ぼしたのはアルタン=ハンではない】と大夏(西夏,1038~1227)を滅ぼしました(注1) 。ちなみにデリー=スルターン朝時代のインド西北部も進入を受けています。モンゴルは,ホラズムのような抵抗した支配者に対しては容赦ありませんでしたが,征服した土地の農民や商工業者は労働力として重視されましたから,支配者が従えば徹底的に滅ぼすということはしませんでした。
 なお,タリム盆地の天山ウイグル王国の王は,〈チンギス=ハン〉の娘とと婚姻関係を持つことで服属し,〈チンギス=ハン〉の“5番目の子”という称号まで得ました。友好関係を樹立して命運を保ち,兵士・官僚としても大活躍しました。

 〈チンギス=ハン〉は広大な領土を東西に二分し,3人の弟に軍民が与えられ「東方三王家」(左翼三ウルス)となりました。ウルスというのは「土地+人々」を合わせた呼び方で「国民(くにたみ)」と訳されることもあります(注2)。
 また,西方には長男から三男に軍民が与えられ,「西方三王家」(右翼三ウルス)となります。このうちロシア方面に置かれたのは長男の〈ジョチ〉(ジュチ)で,のちにキプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)【京都H19[2],H22[2]】と呼ばれることになります。
 中央アジアには〈チャガタイ〉(チャーダイ)と〈オゴタイ〉(オゴデイ)が配置され,末子〈トゥルイ〉はモンゴル高原に置かれます(末子(まっし)相続の風習のため)。
(注1) 末期の大夏(西夏)は初めモンゴルと軍事同盟を結び金を攻撃し,のちに南宋とも連携して生き残りを図っていました。
(注2) 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.83。



◆オゴデイが大ハーンに即位し,首都を整備,駅伝制を施行した
オゴデイ,カラコルム建設,ジャムチ整備,金(きん)滅亡
 〈フビライ〉の後継者は,末子相続の風習にのっとれば〈トゥルイ〉ということになりますが,実際に継いだのは〈オゴデイ〉(オゴタイ,位1229~41) 【本試験H2大都に都を置いていない】【追H25モンケとのひっかけ】でした。彼は,モンゴル高原にカラコルム【京都H20[2]】【本試験H2大都ではない,本試験H12匈奴が建設していない】【本試験H19オゴデイのとき,本試験H18黄河上流ではない,本試験H28地図上の位置を問う】【追H30建設者を問う】【中央文H27記】という新都を建設し,駅伝制(ジャムチ【京都H20[2]】【東京H6[1]指定語句,H15[3],H20[3],H27[1]指定語句】)を整備しました【※東大の頻度高い】。
 通行手形(パイザ,牌符,牌子【東京H20[3]】)があれば領内を安全に通行することが可能でした。
 1234年に女真(女直)人の金(きん,1115~1234)を滅ぼしました【本試験H19】【追H25モンケではない】。また,「カン」に代わる「カアン」(大ハーン)という称号を初めて用いました(オゴデイ=ハーン)。これはかつてモンゴル高原を支配した柔然の王の称号「可汗(カガン)」がもとになっているといわれます。オゴタイ以降のモンゴルの指導者の称号は「カアン」です。
 彼には契丹人の〈耶律楚材〉(やりつそざい)が仕えていたように,有能な人物であればモンゴル人以外でも重用したことが特徴です。実力があるならば,民族の違いなど関係ないというわけです。ここにモンゴル人の強さの秘密があります。


◆モンゴル人は東ヨーロッパに進入し,ロシア人のキエフ大公国を支配した
 さらに〈バトゥ〉(1207~55) 【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【本試験H31チンギス=ハンではない】【追H25ロシア遠征したか問う】が,ユーラシアの草原地帯を走破して東ヨーロッパに進出し,1241年にワールシュタット(ワールシュタット〔ヴァールシュタット〕とはドイツ語で死体の山という意味です【セ試行 モンゴルは敗れていない】【本試験H3 時期(クビライの「即位後ただちに」ではない)】【本試験H31チンギス=ハンによる戦闘ではない】【追H24オスマン帝国がドイツ・ポーランド連合軍に勝利したものではない】。
 現在はポーランド領レグニツァなのでレグニツァ(ドイツ語ではリーグニッツ)の戦いといいます)の戦い【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前かを問う)】で神聖ローマ帝国【本試験H31「ドイツ」】・ポーランド【本試験H31】の連合軍を破ります【本試験H5ヨーロッパに侵攻したモンゴル人の多くは,キリスト教徒となったわけではない】。この遠征に従軍していたの〈モンケ〉は,次代のカアンに即位します。

 また,その〈モンケ=カアン〉(位1251~59) 【京都H20[2]】の命令で,弟の〈フレグ〉(1218~65) 【本試験H21イスラームを国教化していない】が1258年に西アジアのバグダードを陥落させ,アッバース朝のバグダード政権を滅ぼしました【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前ではない)】。このときにバグダードは100万人の人口を誇る都市でしたが,包囲戦によって数十万人以上の市民が犠牲になったといわれます。


◆モンゴル人は,バグダードのアッバース朝を滅ぼしたが,マムルーク朝に撃退される。アッバース家のカリフはマムルーク朝の保護下に存続する
諸民族・宗教に寛容な政策で,広域の商業を促す
 〈フレグ〉はその後,エジプトを拠点に1250年に建国されたマムルーク朝のスルターン〈バイバルス〉率いるマムルーク朝(1250~1517) 【追H28モンゴル軍を撃退したのはセルジューク朝ではない】とのパレスチナ北部でのアイン=ジャールートの戦い(1260) で敗れ,〈フラグ〉の与えられた領域はジョチ=ウルスと呼ばれ,イランとイラクの地域にまたがる政権となりました。この政権は,イル=ハン国とも呼ばれます【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】。首都はカスピ海南東の都市タブリーズです。

 なお,最後のカリフ〈ムスタアスィム〉(位1242~58)は〈フレグ〉に処刑されましたが,父方の叔父がマムルーク朝の〈バイバルス〉の元に脱出し,〈ムスタンスィル2世〉としてカリフに即位しました。これ以降,カリフはマムルーク朝の保護下に置かれる形で存続します【本試験H16「マムルーク朝の支配下,オスマン朝のカリフがここに擁立された」かを問う】。したがって,アッバース朝はその後も存続したとみることもできます。
 しかしカリフは事実上マムルーク朝の傀儡(かいらい。操り人形のこと)となり,メッカ(マッカ),メディナ(マディーナ),イェルサレムの三大聖都を統治したマムルーク朝は,一挙にスンナ派のリーダー的国家となりました。1291年には,シリアにあった十字軍最後の拠点アッコンを滅ぼしています(◆世界文化遺産「アッコの旧市街」,2001。現在のイスラエル)。

◆各地のウルス(政権)がゆるやかに結びつき,ハーンの権威の下でまとまりを形成する
モンゴル帝国は“分裂”したわけではない
 マムルーク朝を支配下におさめることには失敗したものの,こうしてユーラシア大陸のほとんどがモンゴルの支配下に入ることになり,広大な領域を包み込む交流圏が成立していきます。
 中央ユーラシアには,〈チンギス=ハン〉が子どもである〈チャガタイ〉と〈オゴタイ〉に軍民を与えていました。土地と人々を合わせてウルスとよびます。ウルスというのは,「国」とか「国民(くにたみ)」といった意味で,モンゴル人が,人を集団の単位として支配を考えていたことがわかる言葉です(注1)。
 このうち〈オゴタイ〉は自分の子どもたちにも軍民を与えたので,〈オゴタイ〉系の諸ウルスが立ち並ぶ状態となりました。ですから,かつて教科書に載っていたような「オゴタイ=ハン国」という国家が,ただ一つ存在していたわけではありません(注2)。
 〈グユク=ハーン〉以降は,モンゴル皇族の内輪もめもあって,各地に「ハン国」と呼ばれる以下の①~③の諸政権が成立していきます。
 ①先ほどの〈ジョチ=ウルス〉(キプチャク=ハン国,ロシア語のゾロタヤ=オルダ(注3)を訳すと金帳汗国(黄金のオルド))(ジョチ=ウルス))→南ロシア
 ②〈フレグ=ウルス〉(イル=ハン国)→西アジア
 ③〈ハイドゥ〉の政権→中央アジア
 〈ハイドゥ〉は,〈オゴタイ〉の孫ですからオゴタイ=ハン国ともいえそうですが,〈ハイドゥ〉の政権にはオゴタイ家の一門以外にも,チャガタイ家の当主やその一門,さらに〈アリク=ブケ〉も参加していましたから,どちらかというと「〈フビライ〉(クビライ)に反対する勢力」の結集した政権といったほうが正確です(注2)。ただし,反フビライ勢力といっても,〈ハイドゥ〉は〈フビライ〉のハーン位をねらっていたわけではありません。
 のちに〈フビライ〉も〈ハイドゥ〉も亡くなると,1305年に大元ウルスの〈フビライ〉家の皇帝と〈ハイドゥ〉政権は和解。しかし,翌1306年にチャガタイ家の当主である〈ドワ〉が,〈ハイドゥ〉の跡継ぎ争いに首を突っ込み,これを乗っ取ります。こうして成立したのがチャガタイ=ハン国【追H21時期、H25イル=ハーン国とのひっかけ】です。ただ,チャガタイ=ハン国にはオゴタイの一門も含まれていますから,純粋にチャガタイ家の一門の政権というわけではありません。

 こうしてモンゴル帝国(大モンゴル国;イェケ=モンゴル=ウルス)は,〈フビライ=ハーン〉の大元ウルスが,①キプチャク=ハン国,②イル=ハン国,③チャガタイ=ハン国や,その他の諸勢力の秩序を維持する形となりました。たしかに,①がマムルーク朝(〈バイバルス〉はキプチャク草原のポロヴェツ人の出身という共通項もあります)に接近して,②と抗争したように,政権同士の対立関係はありました。チャガタイ=ハン国は〈フビライ=ハーン〉の皇帝位を認めており,決して“分裂”していたわけではありません。
 また,政治的な区分が生じたとしても,経済的にはアフリカ大陸にも通じるユーラシア大陸(あわせて,アフロ=ユーラシアと呼びます)を陸海に結ぶ経済ネットワークは活発に動いていたのです。
 モンゴル帝国は広大な領域を,モンゴル文字(パスパ文字【追H19,H25突厥ではない】またはウイグル式モンゴル文字)による定型文書によって統治しました。文書の授受にあたっては各地で翻訳文書が作成され,多言語によるコミュニケーションの必要から,対訳語彙集や世界初の外国語会話マニュアルも登場しています(注4)。
(注1)モンゴル語で「国」に相当する「ウルス」,トルコ語の「イル」もしくは「エル」という言葉は,遊牧民に独特の集団概念で「人間集団」を原義とするため,土地や領域の側面での意味合いは薄いのです。杉山正明がいうように《固定された国家ではなく,人間のかたまりが移動すれば,「国(ウルス)」も移動してしまう類の国家》である(杉山正明『大モンゴルの時代』(世界の歴史9)中公文庫,2008年,p.86)。
(注2) 赤坂恒明による解説を参照。『歴史と地理』「世界史の研究」第255号,2018。
(注3)杉山正明『クビライの挑戦―モンゴル海上帝国への道』朝日新聞社,1995,p.29。
(注4)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.50~p.52。


 このうちイル=ハン国(フレグ=ウルス)は,ネストリウス派キリスト教を保護したほか,中国の絵画【追H25】が伝わってミニアチュール(細密画) 【追H25中国絵画の影響か問う】という技法で多くの絵が描かれました。これらは別個の国というわけではなく,大ハンのもとでゆるやかに連合していました。詩人〈サーディー〉(1184?~1291?)は『薔薇園(ばらえん)』を著しています。

 チャガタイ=ハン国のときに,パミール高原以西のアム川・シル川流域を中心とする西トルキスタンに,テュルク系の人々が多数移動し,定住するようになっていきました。彼らは書き言葉としてテュルク系のチャガタイ語(注)を発展させ,従来のペルシア語とともに使われるようになります。主にペルシア語を使用する人々は「タジク人」と呼ばれるようになりますが,複数の言語を話せる者もいました。
(注)一般に「テュルク語」【本試験H5インド=ヨーロッパ語族ではない】というと,チャガタイ語やオスマン語ができる前のトルコ系の諸語を指します。テュルク語系の「チャガタイ語」は13~19世紀の中央アジアの文章語を指します。単に,「トルコ語」という場合にはオスマン語と現代トルコ語のどちらか区別する必要があります。

◆クビライ=ハーンは海上進出を図り,ユーラシア大陸を東西に走る陸海のルートを結合させた
クビライは,南方の海民と結び海軍を掌握する
 第5代の〈クビライ=ハーン〉(位1260~94) 【本試験H3チンギス,オゴタイ,チャガタイではない】【本試験H26ヌルハチではない】【早・法H31】は,大ハーン位に就くと,オゴデイ(オゴタイ)家の〈カイドゥ〉(ハイドゥ,?~1301)による抵抗(カイドゥ(ハイドゥ)の乱【本試験H11「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】【本試験H14時期(ルブルックのカラコルム訪問以前ではない),本試験H30】)の鎮圧に苦慮することとなります。
 一方,現在の北京に進出してこれを大都【本試験H9】【本試験H31チンギス=ハンが定めていない】【追H19】【早・法H31】として,元(1271~1368)という国号に改めました。
 1279年【本試験H3時期(ハイドゥの乱の「最中」か問う)】には,すでに首都の臨安(りんあん)を1276年に失っていた南宋の残党・皇族を厓山(崖山,がいさん)の戦いで完全に滅ぼします【本試験H3】。
 さらに,日本や東南アジア各地に遠征軍を派遣。
 〈クビライ〉の強さの秘密は,降伏した南宋の将軍を,元の軍司令官としてそのまま重用したことにあります。「支配に役に立つ者はすべてモンゴルとして扱う」という,柔軟な対応のあらわれです。実際に,当時の史料中の「モンゴル」というのは民族の名前ではなく,モンゴルの支配層であれば民族の垣根を超える呼び名であったわけです。

 ビルマのパガン朝【本試験H13トゥングー朝ではない,本試験H26地域を問う】はこのとき滅んでいますが,ヴェトナムの陳朝大越国【本試験H16李朝ではない,本試験H19時期】【追H18フランスの侵略を受けていない】は撃退に成功しました。陳朝では民族意識が高まり字喃(チューノム)【本試験H24時期】という民族文字を13世紀頃から作り始め文学作品などで使用されましたが,公用文における漢字の使用は続きました。

 なお,当時支配地域を拡大していたアイヌ人(骨嵬)により圧迫されたニヴフ人が,樺太から元に対して支援を求めたことに端を発し,アイヌに対し交易ルートを確保する目的で遠征しています(北からの元寇)。



◆「中国」を草原地帯も含めてとらえることで,中国の士大夫はハーンを皇帝として受け入れた
北方遊牧民地帯も含めた「中国」概念が浸透する
 〈クビライ〉はあくまで「ハーン〔カアン〕」として中国支配に臨んでいます。
 モンゴル人はユーラシア各地で,統治のための手段として,現地の君主号を受け入れていたのです。
 一方,漢人の皇帝に仕えていた「士大夫」層も,積極的に〈クビライ〉を皇帝として受け入れました。モンゴルの君主が,漢人の「中国」を支配しているという現実を認めることで,自分たちの地位を守ろうとしたのです。
 従来は「夷狄」ととらえていた北方の遊牧民地帯も含めて「中国」であるという認識は,北も南も含めた「混一(こんいつ)」と表現されていました(注)。
(注)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.56。

 〈クビライ〉は中国を支配するのに,漢人よりも西域出身の色目人(しきもくじん)【東京H6[1]指定語句】を重用(ちょうよう)しました【本試験H4唐代ではない,本試験H9「色目人第一主義」をとったわけではない】【本試験H19蔑視されていない】。
 金の支配下にあった漢人・女真(女直)人や契丹人たちは漢人(北人とも呼ばれました),南宋支配下の住民は南人【東京H25[3]】と呼び待遇にランクをもうけました。
 中央の官制は,中書省が統治機関として置かれ,14世紀初めには尚書省を廃して六部から独立させました。
 地方支配にあたっては,中書省と同格の行中書省を各地に置き,統治しました。これが現在の中国の「省」の起源です。漢民族の土地制度である佃戸制(でんこせい)は,変更されることなく続きました【本試験H14】。

 元は,以前考えられていたほど中国文化に対して冷淡ではなかったとされています。元に仕えた宋の王族である〈趙孟頫〉(ちょうもうふ,1254~1322)は書画を極め,唐の頃のスタイルを復活させて多くの文人画を残しました。〈黄公望(こうこうぼう)〉・〈倪瓚(げいさん)〉・〈呉(ご)鎮(ちん)〉・〈王蒙(おうもう)〉も,のちのち明や清になってから「元末四大家」と絶賛されることになる南宗画の書画クリエイターです。

 たしかに科挙は一時停止され【東京H25[3]「科挙試験を一貫して重視したわけではない」】合格者も少なくなりましたが,科挙は1315年に再開されています。元の支配層にとってみれば,いくら儒教の経典に詳しくても「意味がない」わけです。それよりも即戦力のある人材,専門的な官僚(テクノクラート)がほしいというわけです。
 職を失った士大夫層は,宋の時代に異端とされていた〈朱熹〉(しゅき,1130~1200) 【本試験H11】【慶文H30記】の朱子学【本試験H11陽明学ではない】【慶文H30記】に飛びつきます。理気二元論【慶文H30記】,大義名分論【慶文H30記】を展開する朱子学は,元=異民族よりも漢人のほうが本来は上にあるべきだという読み方を儒教に提供し,支持されたわけです。朱子学は次の明代に官学化されることになります。
 〈クビライ〉は出版事業に積極的で,南宋代から編集のはじまっていた『事(じ)林(りん)広記(こうき)』という百科事典が出版され,元曲【追H18】(『琵琶記』(びわき)【追H18】、『漢宮秋』(かんきゅうしゅう)、『西廂記』(せいそうき))の台本や,明代に完成する『西遊記(さいゆうき)』『水滸伝(すいこでん)』『三国志演義(えんぎ)』【本試験H9[21]】の原型も出回りました。出版ブームに乗って,子供向けの『十八史略』(南宋の南宋の〈曾先之(そうせんし)〉作)や,元の政府が出版させた農書『農桑輯(のうそうしゅう)要(よう)』などが多数印刷されました。

 儒学者にとっては元代は「迫害」の時代とみなされますが,後世の “後付け”という面もあります。後世の儒学者は,この時代の儒学の境遇を,「九儒十丐(くじゅじっかい)」と表現し“乞食(丐)が上から10番目のランクなら,儒学者は上から9番目”と表現しましたが,西方の文化を熟知するモンゴル人にとって儒学者の情報が“無用”と映った点はいなめません(九儒十丐(くじゅじっかい)には前置きがあって,「一官二吏三僧四道五医六工七猟八民九儒十丐」のように世の中の職業をまとめた表現です)。

 元【本試験H27清ではない】では,イスラームの暦学・天文学【本試験H19,本試験H23】の影響を受けた授時暦【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H2時期(明末ではない)】【本試験H23イスラーム天文学の影響があったか問う】【追H21、H25】が成立しました。イスラーム天文学【本試験H2ヨーロッパ天文学ではない】で使用されていた観測機器を用いた漢人の〈郭守敬〉(かくしゅけい,1231~1316) 【本試験H6】【本試験H19,本試験H23,本試験H27顧炎武ではない】【追H17宋応星ではない、H21、H25徐光啓・湯若望・宋応星ではない】により,中国の伝統的な暦法によって作成されました(注)。中国では天子である皇帝が,天文台を設置して正確な暦を作成させることが求められていたのです。これは1281年から施行。暦のタイプは太陰太陽暦です。のちに江戸時代の日本に伝わり〈渋川(しぶかわ)春海(はるみ)〉により1684年に貞享暦(じょうきょうれき) 【本試験H6】が作成され,翌年施行されています(のち,清代にイエズス会士〈アダム=シャール〉の時憲暦の知らせを聞き,キリスト教色を排除した宝暦暦(ほうりゃくれき)(1755~98)が制定されましたが粗悪で,幕府天文方〈高橋至時〉により西洋の暦法をとりいれた寛政暦が制定(1798~1844),1844年以降は1873年のグレゴリオ暦導入までは天保暦を使用)。
(注)山田慶児『授時暦の道―中国中世の科学と国家』みすず書房,1980。



 〈クビライ〉はチベット仏教【本試験H12イスラム教を国教として保護したわけではない】の僧〈パクパ〉(パスパ,1235~80) 【追H28】 【慶商A H30記】を重用し,パクパ(パスパ)文字【東京H10,H30[3]】【本試験H12漢字をもとにしていない。タングート族の文字ではない】【本試験H14漢字をもとにしていない】【追H25突厥ではない,H30西夏ではない】というモンゴル語【追H28】のための文字をつくらせています。〈パクパ〉は11世紀中頃に西チベットではじまったサキャ派のチベット仏教指導者で,〈クビライ〉の支持を背景にして,チベットの支配権を強めました。

 イランのコバルト顔料を用い,白磁に青い着色をした染付(そめつけ)(青花) 【東京H27[1]指定語句】という磁器【本試験H24唐三彩とのひっかけ】も作られるようになりました。染付技術が可能になったのも,モンゴル時代のユーラシアに交流圏が成立したおかげです。

 モンゴル帝国〔大モンゴル国〕は交通路の安全を確保し,治安維持や駅伝制(ジャムチ) 【本試験H18金ではない】の整備によって,ユーラシア大陸の陸上交通がさかんになりました。例えば,西方からは十字軍を組織してイスラーム勢力と戦っていたキリスト教が,モンゴルと提携することによってイスラーム勢力を挟み撃ちにしようというもくろみもあり,多数の使節を派遣しました。モンゴル人の宗教はシャーマニズム(目にはみえない世界との交信ができる霊能者が,踊りなどによって何かが乗り移ったような状態で我を忘れ,占いやお祓いなどをするものです。)でしたが,〈クビライ=カアン〉の母(〈ソルコクタニ=ベキ〉)がネストリウス派キリスト教徒であったといわれるように,モンゴル帝国でもキリスト教の信仰はありました。〈モンケ=カアン〉もはじめネストリウス派を信仰していたようです。
 その噂もあってか,ローマ教皇〈インノケンティウス4世〉(位1243~54)は〈プラノ=カルピニ〉(1180?~1252) 【追H27世界地図の作成者ではない、H29暦の改定はしていない】を,フランスの〈ルイ9世〉(聖王) 【京都H20[2]】は〈ルブルック〉【京都H20[2]】【本試験H3マルコ=ポーロとのひっかけ】【本試験H14時期(ルブルックがカラコルムを訪れる以前に起きたものを選ぶ)】を〈グユク=ハーン〉(定宗,位1246~48)に送っています。この目的には布教の理由のほかに,当時イスラーム教徒との間で続けられていた十字軍への支援を求める意図もありました。この2人は〈フランチェスコ〉【京都H20[2]】派の修道会士です。
 ほかにも,父【本試験H3】と叔父とともに陸路で旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】【本試験H3ルイ9世に派遣されていない,本試験H8ジェノヴァではない(地図上の位置からもわかる)】【追H19】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) 【東京H17[3]】【本試験H3,本試験H8】 は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ【本試験H3「南人」ではない】,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』【本試験H3史料が引用・著者を答える】【追H19仏国記ではない】にまとめ,大きな反響をもたらします【本試験H3まだ活版印刷術は発明されていない】。

 たとえば,台湾の対岸にある泉州(ザイトゥン) 【本試験H10マカオとのひっかけ】に立ち寄り,「ザイトゥンには,豪華な商品や高価な宝石,すばらしく大粒の真珠がどっさり積み込んだインド船が続々とやってくる。この都市に集められた商品は,ここから中国全域に売られる」と繁栄ぶりを記しています。杭州(こうしゅう)も「キンサイ」として繁栄ぶりを記録しています。ただ,中国側には記録が残されていないため,疑問視する説もあります【本試験H8マルコ=ポーロの推定移動経路をみて,「メッカ」「カラコルム」を訪ねていないこと,「チャンパ」を経由していることを特定する】。

 13世紀末には〈モンテ=コルヴィノ〉(1247~1328) 【東京H6,H27[1]指定語句】【本試験H8元を訪問したか問う】【追H28,H30】 が,元(大元ウルス)【追H30カラ=ハン朝ではない】【本試験H8】の都・大都(だいと)【追H28】の大司教として中国初のカトリック布教【追H28】を成功させています。
 首都の大都には運河が延長され,長江から海をまわって北上して大都に至る海運も発達しました。従来の大運河も補修され【本試験H19】,大都に通じる運河も整備されました(新運河) 【本試験H9「江南の穀物が華北にある首都まで運河で運ばれた」か問う】【本試験H19】。
 商業の発展とともに,元の時代には庶民文化が発展し,元曲【本試験H3】という戯曲が多数つくられました【本試験H3「もっぱら宮廷の舞台で上演されたのではない」】。元曲はかっこつけた仰々しい言葉ではなく,庶民の口語で書かれたところがポイントで,恋愛結婚を題材とした『西廂記(せいしょうき,せいそうき)』【本試験H9[21]】【本試験H21時代を問う】のようなラブストーリーが好まれました。

 〈クビライ〉の晩年には,クリルタイで彼を支持した東方三王家の乱が起きますが,鎮圧。1294年に亡くなっています。跡継ぎを決める際にはクリルタイはひらかれず,大ハーンの位はクビライ家に世襲されることになります。
 しかしその後の元の君主は,チベット仏教(俗にいう「ラマ教」は,仏教とは別の宗教というニュアンスを含むため,チベット人はこの呼称を使いません)に入れ込み【本試験H14ルブルックのカラコルム訪問以前ではない】,交鈔(こうしょう) 【本試験H22,H29北魏の時代ではない】【本試験H8時期(マルコ=ポーロと同時期)】【追H19】という紙幣を濫発したために物価が高騰し,国力を弱めていきました。紙幣が流通するようになると,かさばる銅銭が余るようになり,「銅」そのものにも価値があるので近隣諸国にそのまま輸出されました。例えば,鎌倉大仏は,銅銭によって作られたのではないかといわれています。



◆「14世紀の危機」によりユーラシア大陸各地のモンゴル政権の支配は揺らぎ,モンゴル帝国の“跡継ぎ”国家や影響を受けた国家が各地で成立していく
 1310年頃から1370年頃にかけて,北半球は寒冷化し,各地で不作や飢饉がおきました。さらに,モンゴル帝国によってユーラシア一帯の人の移動が盛んになったこともあって,ミャンマーで流行していたとみられるペスト(黒死病) 【追H26天然痘ではない】 【本試験H5ペストの大流行の時期を問う】が,1320年以降西へと広がり,1335年に洛陽→1347年にイスファハーン・ダマスクス→1348年にヴェネツィア・メッカ・ロンドン…と,またたく間にユーラシア大陸一帯に広がります。交易に支障が出てくるようになると,モンゴル帝国各地で支配にゆるみが生じました。

 キプチャク=ハン国では1359年に〈バトゥ〉の血統が途絶え,分裂。東スラヴ系の諸公国・大公国の中から,モスクワ大公国【本試験H3時期(ハイドゥの乱の時期ではない)】が力を付けモンゴル帝国の血統を権威として用いて強大化していきます。なお,キプチャク=ハン国ではイスラーム教【本試験H5】が保護されています。

 チャガタイ=ハン国は1335年に東西に分裂しました。そのうち西チャガタイ=ハン国から,1370年に〈ティムール〉が領域拡大に乗り出し,ティムール帝国【追H26チャガタイ=ハン国出身の武将によって興されたか問う】を建設していきます。

 なお,マムルーク朝も14世紀中頃のペストの流行により,衰退に向かいます。



◆モンゴル高原でモンゴルは存続し,明代の中国への進出をはかり続けた
モンゴルは存続し,中国では臨戦態勢が続いた
 中国の元では,末期に1351年~66年に紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H4赤眉の乱・呉楚七国の乱・陳勝呉広の乱ではない,本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12白蓮教系の組織か問う】【本試験H19赤眉・黄巣・安史の乱ではない,本試験H21時期】【追H25ウイグルと強力して鎮圧していない(それは安史の乱)】が起きます。紅巾軍は,弥勒仏(みろくぶつ)【本試験H12】が現世を救済するために現れると信じる白蓮教系の組織から成っていました。彼らにより大運河が寸断され,江南と北京を結ぶ海運ルートが紅巾の乱とは一線を画して反乱を起こした有力者〈張士(ちょうし)誠(せい)〉(1321~1367)により遮断されると,補給路を絶たれた元はまさに“一巻の終わり”となります。
 白蓮教徒【本試験H12】の一派である〈朱元璋〉は,まずライバルの〈張士誠〉の反乱を鎮圧し,その上で1368年大都を陥落させました。最後の皇帝〈トゴン=テムル〉(順帝)はモンゴル高原に退却しましたが,帝室は存続したわけですので,厳密にいえば「滅んだ」わけではありません。

 20年間,元の帝室は持ちこたえましたが,明による攻撃により〈トグス=テムル〉(位1378~88)が襲われ,逃げている途中に殺害されました。中国(明)側は,これをもってモンゴル(大元)が滅んだという立場から,これ以降のモンゴルのことを「韃靼(だったん)」と呼ぶようになりました。

 しかし実際には,モンゴルは滅んでしまったわけではなく,存続しています。ただ,〈チンギス=ハーン〉と無関係なのに「ハーン」を名乗る者が現れるようになりました。
 モンゴル帝国以降,〈チンギス=ハーン〉の直系の者にモンゴル高原の遊牧民全体の支配者になる資格があるという原則が生まれます。そこで,支配者になろうとする者は「チンギス=ハーン」との血筋のつながりがある!と主張することで,遊牧民たちを納得させようとしたのです。

 例えば,15世紀初めにはオイラト部【本試験H16】の〈エセン〉【本試験H13アルタン=ハーンではない】【追H29アルタン=ハンではない】が,チンギス家と結婚関係をもつことで勢力を拡大しました。西方では女真(女直)人を,チャガタイ=ハン国の東半(モグーリスタン)を制圧しています。しかし,明との間で貿易をめぐるトラブルが生じ,1449年に中国に進入して明【本試験H20前漢ではない】の皇帝〈正統帝〉(英宗)【本試験H16万暦帝ではない】を捕虜にしました(土木の変【本試験H13,本試験H18地図・靖康の変ではない,H31時期(漢代ではない)】【追H29】)。〈エセン〉は1452年にハーンに即位しましたが,それには批判も多く,1454年に殺害されています。結婚関係だけではダメだというわけですね。



◆〈ダヤン=ハーン〉がモンゴルを再統一,チベットではツォンカパがチベット仏教を改革する
モンゴルが〈ダヤン=ハーン〉により再統一される
 そこでその後,チンギス家の直系である〈ダヤン=ハーン〉(位1487~1524)が,大ハーンとしてようやくモンゴル高原の広範囲を統一することに成功します。ダヤンというのは大元ということで,元(北元)の復興でもあります。明は「モンゴルは1388年に滅んだ」という立場をとったので,この勢力をタタールと呼びましたが,正確にいうとモンゴルに違いありません。
 彼はモンゴルを,直轄地であるチャハル【本試験H31】,ハルハ,ウリャンハンと,間接支配地に分けて統治しました。
 アルタンは現在も内モンゴルの中心になっているフフホタ(フフホト)を建設し,中国との通商を推し進めて発展していきました。フフホトは現在,中華人民共和国の内モンゴル自治区の省都として発展しています。

 チベットでは,元の時代に〈フビライ=ハーン〉に保護されたサキャ派への批判が高まり,さまざまな派が対立しました。その中から,〈ツォンカパ〉(1357~1419) 【本試験H13・H20,H22時期】がインドから伝わった経典を再編成したゲルク派を開き,黄色い帽子を用いたので黄帽派【東京H12[2]】【本試験H13・H20】【追H29】とも呼ばれました。


◆チャガタイ=ハン国西部からおこったティムール帝国は,モンゴル帝国の“跡継ぎ”国家
ティムール帝国は,モンゴル帝国の跡継ぎ
 タリム盆地を中心とする西トルキスタンでは,モンゴル系のチャガタイ=ハン国の東半分を占めたモグーリスターン=ハーン国では,〈トゥグルク=ティムール=ハーン〉がイスラーム教に改宗し,本拠地はバルハシ湖に注ぐイリ川周辺で,14世紀なかばにはシル川の東部から天山山脈東部までを領域に加え,東西のトルキスタンを合わせました。
 しかし,15世紀の後半になると,ウズベク人がアラル海の北部の草原地帯から南下すると,モグーリスターン=ハーン国は衰え,拠点を天山山脈南部のオアシス地帯に移しました。しかし,ハーンの王子たちが各地のオアシスに分立するようになると,一体性はなくなっていきます。

 そんな中,〈チンギス=ハン〉の息子〈チャガタイ〉の千人隊に属していた名門バルラス家に属する〈ティムール〉【本試験H31】【東京H8[3]】は,若い頃に指揮官として名を上げ,〈トゥグルク=ティムール〉に認められて指揮権を与えられました。しかし,その後反乱を起こしチャガタイ=ハン国東部の「モグーリスターン」の撃退に成功。
 サマルカンド【京都H19[2]】【東京H30[3]都市の略図を選ぶ】を拠点にして支配権を確立した〈ティムール〉は,政略結婚で〈チンギス〉家の婿(むこ)となることで,人々から支配者としてふさわしいと納得してもらうことにも成功し,1370年【追H20時期(14世紀)】にティムール朝【本試験H5時期(13世紀末~14世紀初めではない)】【追H20】【H27京都[2]】を樹立しました。サマルカンドには,宮殿,モスク,バザール(ペルシア語で市場。アラビア語ではスーク【本試験H21マドラサではない】)などを建設し,交通路を整備して商業活動を奨励しました。彼は都市の活動を重視し,征服先での不要な略奪は行いませんでした。
 彼は「モグーリスターン」,ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国。首都はヴォルガ川【慶文H29】中域のサライ),デリー=スルターン朝のトゥグルク朝,イル=ハン国(フレグ=ウルス)を次々に攻撃し(イル=ハン国は滅亡【本試験H15 19世紀のロシアが滅ぼしたのではない】),ティムール朝【本試験H18】を都サマルカンド【本試験H2ティムール朝の時代に衰えていない】【本試験H18】を中心に建設していきました。

 1402年にはオスマン朝をアナトリア半島のアンカラで破り(アンカラの戦い) 【追H17時期を問う(15世紀初頭か),H24ティムールに敗れたか問う,H28アッバース1世は無関係】【本試験H31エィムールがオスマン帝国を打ち破り,そのスルターンを捕虜にした戦いか問う,地図上の位置も問う(プレヴェザとのひっかけ)】ましたが,その後,明遠征を計画し,20万の大軍を出発させました。その中には,モンゴルから亡命してきたチンギス家の王子がおり,明を倒したあかつきには,彼を皇帝にして,モンゴル帝国を復興させようと夢見ていたのでしょう。しかし,シル川中流のオトラルで1405年にあっけなく病気で亡くなってしまいました。王子(〈オルジェイ=テムル〉(位1408~12))はそのままモンゴル高原に向かい,ハーンに即位して明の〈永楽帝〉と対立しました。

 〈ティムール〉の死後,〈シャー=ルフ〉(位1409~47)が政権を握り,安定した支配を実現しました。
 彼は,聖地メッカを保護下におさめていたマムルーク朝の君主から,カーバ神殿の覆い(キスワ)を提供する権利を得ています。そのようにして,イスラーム教徒たちに自分の支配権を納得させようとしたわけです【本試験H31リード文。ただし,認められたのは内側の覆いだけで,外側の覆いはマムルーク朝の君主が提供するものとされた】。

 子の〈ウルグ=ベク〉【追H26リード文】【慶文H29】が後を継ぎました。
 〈ウルグ=ベク〉自身も優れた学者であり,サマルカンド郊外の天文台【追H26リード文】で天文観察を行い,1年を「1年間は365日6時間10分8秒」と恐るべき精度で計算,天文表はアラビア語,オスマン語,ラテン語にも翻訳されるほどの精度でした。惑星の運行法則を示したドイツの〈ケプラー〉(1571~1630) 【追H20】の現れるずっと前のことです。

 しかし,しだいに各地で王子たちが独立をするようになり,ウズベク人【追H30匈奴とのひっかけ】【慶文H29】の進入も始まっていました。さらに,イラン方面からはテュルク系遊牧民(トゥルクマーン)の建てた黒羊朝(カラコユンル,1375~1468)や白羊朝(アヤコユンル1378~1508)が進入するようになっていき,サマルカンドとヘラートに拠点をもつ王族の間で内紛も勃発。
 テュルク系のアクコユンル(白羊朝)の〈ウズン=ハサン〉は,1468年にカラコユンル(黒羊朝)の〈ジャハーン=シャー〉を破り,アナトリア半島に進出しています。

 この間ヘラートでは学芸が盛んとなるのですが,1500年にウズベク人【慶文H29】の〈シャイバーニー=ハーン〉(1451~1510)が進入し,ついに滅んでしまいました。

 なお,モンゴル帝国により,中国で発明されていた硝石(硝酸カリウム)をもちいた黒色火薬【本試験H2】は,モンゴル人によって14~15世紀には西アジアやヨーロッパにも伝わります。早速ドイツ人は,15世紀末に,先込火縄式のマスケット銃を開発しています。こうした小銃の導入により,騎士は没落【本試験H2】していくことになり,大航海時代(注)における軍事的な優位を手に入れました。
 また,オスマン帝国も大砲を導入したことで,かつて難攻不落(なんこうふらく)を誇ったビザンツ帝国のコンスタンティノープルがついに陥落することになります(1453)。
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。





●1200年~1500年のアジア
○1200年~1500年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…現①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部


○1200年~1500年の東北アジア
◆金が滅ぼされ,モンゴル帝国の支配下に入る
モンゴル人は沿海州~オホーツク海へも拡大
 中国東北部の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)を本拠地とするツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)は金(きん)(1115~1234)を建国していました。金は南宋と和平を結び,金(1125)は沿海州から淮(わい)河(が)付近までの広範囲の遊牧民と定住農牧民を支配下におさめていました。
 しかし北方のモンゴル高原でモンゴル人が台頭すると,1234年に滅ぼされました。モンゴル人は沿海州を越えて,樺太(サハリン島)にも進出し,この地で台頭していたアイヌと戦っています(北からの蒙古襲来)。“もう一つの元寇”です。


◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

◆極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注1)/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃にチューレ文化が生まれました。チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,銛(もり)(精巧な骨歯角製)・弓矢・そり・皮ボート・調理用土器・ランプ皿・磨製のスレート石器が特徴です(注2)。

(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項


・1200年~1500年のアジア  東アジア

◆「中国」の範囲が北方まで拡大する
 女真の金が淮河まで南下し,北宋を滅ぼしたことで,金と南宋がそれぞれ「皇帝」を称して中国本土を分け合うことになります。
 その後,モンゴル人の君主〈クビライ=カアン〉が南下し,大都を首都として西方・北方の遊牧民世界を包括する「大元ウルス」(元)を立ち上げ,遊牧民世界の君主号「カアン」とともに漢人の文化圏における“全”世界を包括する君主号である「皇帝」を名乗ります。
 元の支配下で,ユーラシア大陸からアフリカ大陸にさえ通ずるに商業活動が活発化し,中国本土の社会は安定化。
 しかし1368年の白蓮教徒による紅巾の乱により,漢人を主体とする明(大明)王朝〔明朝〕が建設されます。モンゴル人の大元ウルスは北方のモンゴル高原に政権を移動させますが,大元ウルスのカアンが,南方の中国本土の皇帝と対峙する状況はつづきます。

◆日本,朝鮮では明の成立の影響を受け,新政権が樹立・強化される
 その頃日本では,後醍醐天皇(位1318~39)を中心として鎌倉幕府が倒され,その後南北朝の動乱となります。その混乱に乗じて日本近海では密貿易集団の活動が盛んになり,取締りが厳しくなるとが倭寇(わこう) 【中央文H27記】として沿岸から略奪行為をはたらきました。


 元に服属していた朝鮮の高麗では,この倭寇討伐で名をあげた〈李成桂〉(りせいけい(イ=ソンゲ) 【本試験H23】【セ試行 李舜臣とのひっかけ(豊臣秀吉の海軍を撃破していない)】【追H26明の初代皇帝ではない、H27李世民ではない、H30】,1335~1408)が高麗(こうらい)【追H30百済ではない】を倒し,1392年に王(太祖,在位1391~98)に即位し朝鮮王朝(1392~1910) 【追H9「李氏朝鮮」(ママ)】【本試験H13,本試験H23】を建てます。首都は漢(かん)城(じょう)【本試験H13開城ではない,本試験H22・H27ともに慶州ではない】,現在のソウルです。官学は朱子学【本試験H13】【本試験H8陽明学ではない】【追H19】と定められ,支配層は両班(ヤンバン)【本試験H13】【追H24朝鮮(李朝)のとき政治的実権を握っていたか問う、H30】と呼ばれました。
 同じ1392年には日本でも,南北朝に分かれていた政権が統一されています。
 その後,室町幕府3代将軍〈足利義満〉(あしかがよしみつ1338~1408) 【本試験H7】が,明から「日本国王」【本試験H7】に封ぜられて,勘合(かんごう)貿易【本試験H4鎖国政策をとっていたわけではない,本試験H7「倭寇の鎮圧に協力することを条件に」か問う,本試験H10】【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】をはじめました。勘合というのは,海賊船ではなく正式な朝貢船であることを確認するために用いられた,割印(わりいん)の押された証明書のことです【本試験H10民間の対外交易を促進するための政策ではない】。



・1200年~1500年の東アジア  東北アジア
 ユーラシア大陸の西の端っこは,北アメリカ大陸に向けて伸びていて,先っぽ付近では南に垂れ下がるようにカムチャツカ半島が伸びています。半島の先には,北海道(蝦夷ヶ島(注))東部に向けて島々が点々としています。
 また,北海道の北には樺太(サハリン)島があって,西側のユーラシア大陸との間にはオホーツク(オコーツク)海が広がっています。
 気候的には寒冷なので農業に向かず,緯度の高い寒冷地に適応したモンゴロイド人種の人々が,牧畜や漁労を中心とした生活文化を生み出していました。

 13世紀になると,北海道(蝦夷ヶ島)から樺(から)太(ふと)島にかけての地域に,アイヌ人が従来のオホーツク文化(3~13世紀)を継承し,鉄器など日本列島の文化の影響も受けながら,狩猟採集を基盤とする新たな文化を生み出しました。彼らは,本州の和人との間で,場所を決めて干し魚・毛皮を輸出し,鉄器などを輸入する交易を行っていました。

 樺太にはニヴフ人が居住していましたが,1268年にアイヌがユーラシア大陸との交易圏の拡大を求めて侵攻します。するとニヴフ人は,当時急成長していたモンゴル帝国に救援を求めたようで,元は14世紀にかけて何度も樺太に侵攻しました。鎌倉政権の日本に対する元寇(げんこう)(蒙古襲来)【本試験H11「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】の前に,すでに“北からの元寇”があったのです。

 北海道(蝦夷ヶ島)では14世紀に,安藤氏がアイヌやアイヌと混血した日本人の交易グループを支配下に置き,北海道南部の商館で交易を支配しました。14世紀頃から,津軽(現在の青森県)の十三湊(とさみなと)が繁栄をきわめたのには,このような北方世界の交易ブームが背景にあるのです。

(注)えぞがしま。入間田宣夫・斉藤利男・小林真人編『北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団』山川出版社,1999。

・1200年~1500年の東アジア  現①日本
南からの蒙古襲来は,クビライの海上進出の一端
 1199年に,征夷大将軍〈源頼朝〉(みなもとのよりとも,,位1192~99)が落馬によるケガにより亡くなりました。18歳の息子〈源頼家〉(よりいえ,,位1202~03)があとを継ぎましたが,父と違って政治的な能力に欠け,御家人(ごけにん)の不満は高まり,1198年に院政を始めていた〈後鳥羽上皇〉(天皇在位1183~98,1180~1239)も対決姿勢を見せ始めました。
 そこで,頼家の母〈北条政子〉(1157~1225)は,父であり執権の〈北条時政〉(在職1203~05)とともに〈頼家〉を伊豆に幽閉して,〈頼家〉の弟の〈源実朝〉(さねとも,位1203~19)に跡を継がせ,翌年〈頼家〉は〈北条時政〉により暗殺されました。
 1203年に〈北条時政〉が〈実朝〉の後見役(執権)に就任すると,執権は北条氏に世襲されることになりました。1221年〈後鳥羽上皇〉の倒幕計画(承久の乱(じょうきゅうのらん))は〈政子〉が主導権を発揮して対抗したため,失敗しています。


 この時期、民間商人や僧侶の往来の活発化を背景に、宋との交易が盛んになっています。
 また、博多港に居留して日宋交易に活躍した華人の大商人〈謝国明〉(未詳)は、臨安〔杭州〕出身で、禅宗の僧侶〈円爾〉(えんに、弁円;聖一(しょういつ)国師、1202~1280)のために、1241年に承天寺(じょうてんじ)を建立しています。当時の博多は国際都市で、邸宅を構えて居留する外国人は博多綱首(ごうしゅ)と呼ばれていました。


 しかしその後、中国にモンゴル人が進出して宋が倒れると、1274年,1281年に2度にわたって元寇【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】【追H19,H25】(モンゴル襲来;蒙古襲来)が実施されました。
 1274年の文永の役の前,1266年に大元ウルス〔元〕の〈クビライ=カアン〉【追H25オゴタイによるものではない】は,日本に通交を求める外交文書を送っています。この中で,「兵を用ゆるに至るは,夫れそれたれか好むところぞ。王,それこれを図れ」(兵を用いるなんて,誰が好むだろうか。王は,これを考えていただきたい)という内容に狼狽した日本は,死者を殺害。これが遠征の引き金となります。
 しかし,この部分は,高度に整備された文書行政を行っていたモンゴルの定型文(冒頭定型句)の翻訳に過ぎず,日本側が過剰反応したに過ぎないとの解釈も濃厚です(注)。
(注)堤一昭「モンゴル帝国と中国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.51。

 この過程で,北条氏はますます御家人への影響力を強めていきます。有力御家人との合議ではなく,家督である得宗が執権という職についていようがいまいが,最高権力者となる得宗(とくそう)専制になったのです。
 1292年に〈フビライ〉は日本遠征を再度はかりましたが,幕府は鎮西探題を置いて九州における軍事権を強化しました。結局〈フビライ〉の死により,3度目の遠征はありませんでした。

 1230年代に,津軽(現在の青森県)の安藤氏の内乱のすきを狙い,蝦夷(えぞ)の大放棄が起きました。北条氏政権はこれに対処できず,武士の間には次の武家の棟梁として〈足利尊氏〉(1305~58,将軍,位1338~58)を望む声が出るようになっています。
 1275年には,朝廷の跡継ぎ問題に幕府が介入し,2つの系統の出身者が交互に即位する「両統迭立」(りょうとうてつりつ)が決まりました。幕府によって皇位継承が決められることになったことに,朝廷から幕府に反発する声も出るようになります。〈後醍醐天皇〉は,「両統迭立」の原則に反して,自分の子孫に皇位を継承しようとし,「悪党」を組織化しつつ,倒幕を狙いました。
 1321年にから〈後醍醐天皇〉(位1318~39)は親政を始め,大義名分論を説く朱子学(宋学)の影響を受けつつ,「天皇が絶対的権力を握るのは当然だ」と主張しました。彼の皇子〈護良親王〉(1308~35)の呼びかけにより,〈楠木正成〉(?~1336)らの畿内の御家人ではなかった勢力や悪党,寺社が立ち上がりました。1333年には,武家からの支持を集めた〈足利尊氏〉が京都の六波羅探題を攻め,〈新田義貞〉が鎌倉を占領し,幕府は滅びました。
 〈足利尊氏〉は,1336年に「建武式目」を制定し,幕府の再興を宣言しました。幕府を京都の室町に置いたので,室町幕府と言います。しかし,のちに従来,寺社や本所が握っていた荘園(しょうえん)をどう扱うべきかをめぐり,政権運営をめぐった支配層が分裂し,1350年,全国の武士の間で争いが起きました(観応の擾乱(かんのうのじょうらん))。この乱によって,守護の権限が拡大され,管轄していた国における実権を拡大し,複数の国の守護職について,世襲する者も現れました(守護領国制)。幕府は,これら有力守護の連合体となっていきます。
 1350年以降,朝鮮半島南部における倭寇の活動が盛んになっていました。高麗政府はこれに対処しきれず,鎮圧で名を上げた〈李成桂〉(りせいけい,イソンゲ,在位1392~98)が朝鮮王朝を建国することになりました。
 倭寇の活動は中国沿岸にもおよび,1368年に明を建国した〈朱元璋〉(位1368~98)は,日本に「なんとかしろ」と使節を送って要求。外交使節は,当時なんとか九州でねばっていた南朝の勢力のところにやってきました。太宰府をおさえていた〈懐良親王〉(後醍醐天皇の皇子,かねよし(かねなが)しんのう,1329~83)の征西府と交渉し,1371年に明の〈洪武帝〉は〈懐良親王〉を日本国王として封じました。「室町幕府」には,倭寇退治をする実力も余裕もないとみなされていたのです。
 しかし1372年に征西府は,室町幕府の置いた九州探題の〈今川了俊〉(1325?~1420)により征服されました。すると,明は南朝ではなく北朝に交渉を切り替えました。これに答えたのが〈足利義満〉です。

 〈足利義満〉(在職1368~94)は,ライバルを順に蹴落とし,1394年に官制のトップである太政大臣にのぼりつめた上で,出家しました。出家するということは“無所属”になるということで,単なる公家のトップというだけでなく,同時に武家をも従わせるための作戦でした。そんな中,1401年に〈足利義満〉は明の2代皇帝〈建文帝〉(位1383~1402)から「日本国王」に冊封されました。しかし,明で1402年に靖難の役(せいなんのえき,靖難の変)が起き〈永楽帝〉(位1402~24) 【東京H18[3],H24[3]】が即位すると,〈永楽帝〉は「日本国王之印」の金印と勘合(かんごう)を送りました。こうして〈足利義満〉は,明との貿易独占を可能にしたのです。

 この期間は日本だけでなくユーラシア大陸全体の交易が活発化していった時代にあたります。海域や大陸の影響を受け,市場経済が発展していった時代なのです。
 中国からは12世紀なかば以降,貨幣が輸入されるようになり,13世紀後半には流通するようになりました。日本の幕府や朝廷は貨幣を発行しなかったからです。15世紀に銅線の代わりに,秤量貨幣(はかりで重さを量って価値を決める貨幣のこと)として銀が使われるようになると,貨幣の流入は減っていくことになります。

 しかし,日本の武家政権の雲行きは怪しく,1467年に,室町幕府の継承問題に支配者層の内紛が絡み,大規模な大乱が勃発しました。応仁の乱です。
 これをきっかけとして,各地に地域的な権力が独立し,戦国大名が出現しました。彼らは自らの支配領域や家臣を「国家」と呼び,独自の法を施行しました。
 そんな中,1498年には明応の大地震が本州中央部を襲います。鎌倉の大仏が大津波で破壊,浜名湖が誕生,伊勢の港市である大湊(おおみなと)も壊滅的被害を受けました。



・1200年~1500年のアジア  東アジア 現①日本 南西諸島
 琉球では農耕や陶芸の技術が伝わると貝塚時代が終わり,12世紀~15世紀になると各地に按司(あじ)という有力者が現れるようになります。この時代を,砦(とりで)として築かれた様々な形態のグスク(城)にちなみグスク時代と呼びます。
 按司は各地に役人(うっち)を派遣し徴税し,農耕の祭祀は姉妹(オナリ)に担当させました。14世紀には複数の按司を支配下に置く世の主(よのぬし)が現れ,沖縄本島の今帰仁(なきじん)の北山,浦添の中山【本試験H10】,大里の山南の3王国が有力となり,それぞれ1368年に明と冊封関係を結びました。これらを合わせて「三山」の呼び,それぞれの国名は中国から与えられたものです(「山」は島または国という意味)。
 その後,1420年代【本試験H10 時期(15世紀初めか問う)】に中山【本試験H10】の按司である〈尚巴志〉(しょうはし,1372~1439)が三山を統一をし,琉球王国(第一尚氏王朝) 【本試験H4,本試験H10】を建国し,明との朝貢貿易を実現【本試験H10明との間に対等な外交関係を結んでいたわけではない】。東南アジアから商品を中国に流す中継貿易をおこないました。明は海禁政策をとり自由な貿易を禁じたため,福建省の商人は東南アジア各地に移住し華僑となり,琉球王国にも交易ネットワークを張り巡らせていきました。琉球王国は明への入貢回数ナンバーワン(2位は黎朝,3位はチベットです)[村井1988]。
 琉球に来れば,日本からの日本刀,扇,漆器だけでなく,皇帝から琉球王国に授けられた品物や中国商人の品物が手に入るからです。日本の商人は琉球から,中国の生糸や東南アジアの香辛料・香料などを入手しました。
 琉球から明には2隻・300人の進貢使が2年に一度派遣され,初めは泉州のち福州に入港します。一行の一部は陸路で北京の皇帝に向かい,旧暦の正月(2月)に皇帝への挨拶とともに貢物(馬,硫黄,ヤコウガイ,タカラガイ,芭蕉布など)を献上すると,代わりに豪華な物品が与えられます。その間,福州では決められた商人との取引が許可されました。また,琉球王国の国王が代わるたびに冊封使(さくほうし)が中国から派遣され,皇帝から正統性が認められました。皇帝にとってみても,琉球王国が東南アジア(琉球は真南蛮(まなばん)と呼んでいました)にせっせと交易品を獲得しに行ってくくれれば,黙っていても東南アジアの産物が届けられるという好都合がありました。14~15世紀の琉球王国にとっての最大の貿易相手国はシャムのアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】でした。15世紀にはマラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】とも交易をしており,ポルトガルの〈トメ=ピレス〉は16世紀前半の『東方諸国記』で琉球を「レキオ」と表現しています。

 このころの琉球では,のち16世紀の日本で三味線(しゃみせん)に発展する三線(さんしん),紅型(びんがた),タイや福建省の醸造法に学んだとされる泡盛(あわもり)といった文化が,日本や東南アジアとの交易関係の中で生まれていきました。日本への貿易は,室町幕府との公式な交易だけではなく,大坂の堺や九州の博多【東京H27[1]指定語句】の商人との間でも行われました。15世紀後半に幕府の権威が弱体すると,前期倭寇が活発化する中,日本人が琉球王国を訪れ交易は続けられました。

 1470年に,那覇を中心に交易で力をつけた〈尚円〉(しょうえん,位1470~76)がクーデタを起こして即位し,第二尚氏王統が始まりました。息子の〈尚真〉(しょうしん,位1477~1526)は首里を中心とする体制を整備し,各地の有力者である按司(あじ)を首里に住まわせ,代わりに各地に官僚を派遣して支配を強化しました。按司には領地からの徴税権を認め,按司は琉球王国における貴族層を形成していきました。
・1200年〜1500年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島

◆高麗はモンゴル人に服属した
高麗で武臣政権が成立する
 高麗は12世紀前半に女真(女直)人の金に服属し,12世紀末には内紛が勃発し武臣政権が成立していました。
 ちょうど同時期に日本でも武家政権(鎌倉幕府)が成立したのと軌を一にしています。

 武臣たちは初め集団で執権していたのですが、〈崔忠献〉(チェチュンホン;さいちゅうけん,1149~1219)が1196年に文臣の支持も得て実権を握ります。
 の〈崔瑀〉(さいう;チェ=ウ、位1219~49)の代、1221年に自邸に「政房」(チョンバン)をもうけて、これを国政の中心とします(注)。
 教定都監の職は、高麗王の下で彼以降の4代にわたって崔氏により世襲されました。これを「崔氏政権」(武臣政権;ムシンヂョングォン)というのです。


 崔氏の私兵であった三別抄(サムベョルチョ;さんべっしょう)は,高麗の正規軍に代わる軍事力となります。「三」というのは左別抄・右別抄・神義軍に分かれていた編成に由来します。
 この部隊はのちにモンゴル帝国が1231年以降に高麗に断続的に進出した際,その撃退のために江華島に政権が避難した後も最後まで活躍しました。モンゴル撃退を祈念するため木版印刷による『高麗大蔵経』【本試験H11:活版印刷で刊行されたか問う。活版印刷ではなく木版。大量の版木が現在でも残されています】を作製させたのが先ほどの〈崔瑀〉(さいう;チェ=ウ、位1219~49)で,彼の時代の1232年に政権は江華島に移されました。
 しかし1258~60年にかけての攻撃で、1258年に〈崔竩〉(チェ=ウィ)が殺害されて武臣政権は崩壊。
 高麗の王太子〈倎〉(次代の国王〈元宗〉。位1260~74)が〈クビライ〉(フビライ)を直接訪れ,降伏しました【追H21「チンギス=ハン」のときではない、H24モンゴルに高麗が服属したか問う】。
 実は〈崔竩〉を殺害したのは、文臣の〈柳璥〉(ユ=ギョン)と武臣の〈金俊〉(キム=ジュン)。弱腰であった武臣政権に対抗しようとしたのです。

 しかしこれを認めない三別抄は反乱を起こし,国家組織も珍道(チンド;ちんとう)に移され抵抗が続きました。これにより,1274年の〈クビライ〉(フビライ)の第一回日本遠征(弘安の役)の計画は遅延します。

 また、崔氏政権を継いだ新政権内部でもモンゴルへの「降伏派」と「徹底抗戦派」の間で激しい仲間割れが起き、結局、1273年にはモンゴルとモンゴル側についた文臣らにより、国内の「徹底抗戦派」と三別抄の乱は平定され,1274年に高麗は〈クビライ〉(フビライ)に服属しました。
 元から帰った〈元宗〉が高麗に戻り国の建て直しをはかりますが、元の高麗の政治に対する介入は厳しく,歴代の王名には「忠」の一文字が必ず付け加えられました。

 なお、1279年には高麗軍主体の(東路軍)に加え,旧・南宋の軍主体の(江南軍)が動員され第二回日本遠征が実行されましたが,失敗しています【本試験H11「2度にわたる日本遠征が失敗した」ことは「元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事」ではない】。

(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.136。




◆倭寇(わこう)の討伐で台頭した朝鮮王朝では,朱子学を背景に両班(ヤンバン)が台頭し,訓(くん)民(みん)正音(せいおん)が公布された
元がたおれると、朝鮮王朝が建国される

 1351年,高麗で〈共愍王〉(きょうびんおう、位1351~1374)が元の命令により即位しました。
 高麗の王子は,元に滞在しないといけない決まりになっていたため,〈共愍王〉は元に滞在していました。
 しかし,元で紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなった出来事か問う,本試験H12】が勃発したことが伝えられると,これをチャンスとみた〈共愍王〉は,朱子学者を取り立てるなど,反元運動に乗り出しました。結局中国では元が倒され,1368年に明が建てられています。

 やがて朝鮮王朝を建国することになる〈李成桂〉の父は,王の反元運動に反応し,挙兵をしました。その遺志を継いだ子の〈李成桂〉(りせいけい(イソンゲ),1335~1408)は,全州李氏の生まれとされますが,女真(女直)族の出身であるという説もあります。父は女真(女直)人が多く住む地で高麗に仕える軍人だったため,女真(女直)人とのつながりが深かったのです。

 〈共愍王〉が亡くなると,元と接近しようとするグループ(向元派(こうげんは))が勢力を伸ばしました。1388年に明がかつて元の直轄領だった地域を併合しようとしたので,遼東半島地域に〈李成桂〉率いる高麗軍が派遣されました。しかし,彼は鴨緑江(おうりょくこう)の中洲で軍を引き返し,明を倒そうとした政治家たちを攻撃し実権を握りました。この事件を「威化島回軍」(いかとうかいぐん;ウィファドフェグン)といいます(注)。
 1391年には,科田法を制定し,官僚の力を弱めようとします。当時の官僚は徴税権付きの大土地(私田)が支給され,国家はそこからは税金がとれず、問題となっていたのです。

 1392年に,高麗最後の王〈恭譲王〉(きょうじょうおう、位1389~1392)から王位を譲られた高麗の武官〈李成桂〉(太祖(テジョ);りせいけい(イソンゲ),1335~1408)は朝鮮王朝の初代王に即位しました。明は,高麗の臨時の王として〈李成桂〉を認めましたが,正式な冊封関係は結ばれませんでした。しかし,1393年に「朝鮮」という国号が認められると(明から提示されたもう一つの案は「和寧」でした),〈李成桂〉が正式に「高麗」から譲られた王であることが認められたわけです。

 朝鮮王朝は,朱子学を国教化し【共通一次 平1:儒教が不振であったわけではない】科挙【本試験H27】を導入して,官僚制度を整えます。官僚になるルートには,科挙のうち,文人を選ぶ文科と,武人を選ぶ武科があって,文人と武人をあわせた両班(ヤンバン,りょうはん)といわれる支配階級は,王族の次に位置づけられ,朝鮮王朝の時期には特権階級として世襲化されていきました。
 中央には,行政の門下省,財政の三司,軍事の中枢院がおかれ,彼ら政府の高官が合議によって政治を行いました。この合議(都評議使司,のち議政府)に加わったメンバーは,建国の際に〈李成桂〉の側に立ち貢献した者たちでしたが,15世紀初めには議政府の権限は大幅に縮小され,〈太宗〉のときには国王の実権が固まりました。
 〈太宗〉の後を継いだのが,最盛期の〈世宗〉(せそう(セジョン),位1418~50)です。1403年には鋳字所(ちゅうじしょ)が置かれ,『朝鮮王朝実録』(李朝実録、チョソンワンジョシルロク)といった多くの書物が刊行されました。
 また28字(現在は24字)から成る訓民正音(くんみんせいおん(フンミンジョンウム),ハングルは後の呼称) 【東京H16[3]】を学者に作らせ1443年に制定し,1446年にその原理と用法を説明した同名の教科書を発表しました【共通一次 平1:高麗代ではない】【追H9ハングルとも呼ばれるか・15世紀に作られたか,本試験H12高麗代ではない、H19、H27チュノムではない】【本試験H13,本試験H15高麗代ではない,本試験H22・H24ともに時期】【慶商A H30記】。
 訓民正音はアルファベットのように表意文字でありながら,漢字のように「へん」や「つくり」のようなパーツがあるので,子音と母音を組み合わせて一つの音節を表すことができます。また,金属活字による出版【本試験H2唐代の中国で盛んになっていない】もおこなわれました。〈世宗〉の時代には『高麗史』(1451)も編纂され,白磁が生産されました。



 1419年には,すでに退位していた〈太宗〉(テジョン、位1400~1418)が,倭寇の本拠地と考えられた対馬を攻撃しました。日本では応永の外寇(おうえいのがいこう),朝鮮では己亥東征(きがいとうせい)といいます。
 朝鮮の支配階層は,同じ血縁のグループの系図である「族譜」(ぞくふ;チョクポ)をさかんにつくっていました。一番古いものは1423年のものといわれ,両班たちは,自分の由緒が正しいということを族譜により主張したのです。
 両班は15世紀には,中央政界で指導権を握るようになり,地方でも「郷案」という両班の名簿がつくられ,地方における両班の支配権も強まります。「郷案」に記載されていることが,両班の証でした。両班の下には,中人,良人,賤人(せんじん)という身分の差がありました。15〜16世紀に朝鮮では特に全羅道(チョルラド)・慶尚道(キョンサンド)で農地開発が進みました。
 中央では,中央政界に進出した士林派という新興勢力が,儒教的な道徳政治の実現を訴えるようになりました。
 〈申叔舟〉(しんしゅくしゅう;シン=スクチュ、1417~1475)による『海東諸国紀』(1471)は,日本や琉球について地図や国情が説明されています。また,『老松堂日本行録』(成立年未詳)は,応永の外寇(1419)の翌年に日本に使節として同行した〈宋希璟(そうきけい)〉(ソン=ヒギョン1376~1446)による紀行文です。

(注)鴨緑江は、現在の朝鮮民主主義人民共和国と中華人民共和国の国境線となっている川です。



・1200年~1500年のアジア  東アジア  現③中国
モンゴル人の進出により宋が滅び,元が建国された。元の下で中国とユーラシア大陸との結びつきが陸上・海上ともに一層強まっていった



◆モンゴル人の進出により、宋は滅亡する
中国でモンゴル人が「皇帝」として即位する
 中国でモンゴル人のハーン〔カアン〕〈クビライ=ハーン〉〔フビライ〕(1215~1294)は、モンゴル人として初めて中国風の国号(大元【追H19】)を定め、1271年に大都に都を置いて、中国の農耕定住エリアの支配を本格的に開始しました。

 大元は陸海の交易ルートの整備とそこから得られる収入を重んじたため、特に中国南部の沿岸にあった港が、朝貢貿易だけでなく民間交易によっても大変に繁栄します。
 たとえば福建の泉州で活躍した〈蒲寿庚〉(ほじゅこう、生没年不詳)のように、アラブ人のイスラーム教徒商人も居住していました。



◆明の白蓮教徒の反乱により、モンゴル人は北方に撤退した
モンゴル人は北方に退却、漢人の王朝が成立する
 白蓮(びゃくれん)教徒【本試験H3太平天国ではない,本試験H12】による紅巾の乱【東京H25[3]】【本試験H11元の中国支配が崩壊するきっかけとなったか問う,本試験H12】をきっかけに各地で反乱が起き,1368年,貧しい農民出身の〈朱元璋〉(しゅげんしょう,1328~98)は,長江下流域の金陵(きんりょう,現在の南京) 【本試験H2臨安ではない】【本試験H27長安ではない】で皇帝に即位し,国号を明としました。「洪武」という元号を制定し「洪武帝」(洪武帝,ホンウーディ) 【追H9】【本試験H24】と呼ばれました。死後におくられた名は太祖です。これ以降の元号は,皇帝の在位期間と連動することになりました(一世一元)。皇帝は“時間をも支配する”というわけです
 元を支配していたモンゴル人はモンゴル高原に退却し,明からは北元(1371~88) 【追H9】と呼ばれましたが,事実上モンゴル高原で存続し,南方の明(ミン)と併存する状況が続きました。
 なお,1368年には臨済宗の僧侶〈絶海(ぜっかい)中津(ちゅうしん)〉(夢(む)窓(そう)疎(そ)石(せき)の弟子,1336~1405)が明に渡り,1376年に帰国しています。



◆明は元末の混乱をおさめるため,農村支配を強め,対外的には厳しい「海禁」をとった
明は対外的に朝貢貿易のみ認めた
 さて,〈朱元璋〉は儒学者をブレーンにつけ,漢人の民族意識を強めることで農村支配を強化しようとしました。

 〈朱元璋〉は君主専制体制(注)をはかるため,反対勢力にあった官僚を容赦なく処刑し,従来実権をにぎっていた旧貴族勢力を政府から追放するために,中書省を廃止して,中書省の管理下にあった六部を皇帝直属とし,監察も強化しました。明律【本試験H25】と明令も制定しました。
 また,南宋の〈朱熹〉【本試験H11】が大成した朱子学【本試験H11陽明学ではない】を官学化して,科挙を整備して,明律・明令をつくらせました。


 また,倭寇対策のため,民間人の貿易は禁じられ朝貢貿易のみが許されました。華人の商人は、中国の政権と同伴する場合のみ、海外に渡航することができたのです。「貿易がしたいのなら,朝貢せよ。皇帝が冊封(さくほう)し,臣下となれば,貿易を許そう」と,海禁【東京H14[1]指定語句】【H27京都[2]】した上で朝貢を求めたのです。
 この政策によって、民間交易ができなくなった海を舞台に活動する人々は「海賊」化し、「倭寇」と称されるようになります。貿易がしたいなら、その人の属する国による公的な関係樹立が必要という法則は、同時代のインド洋沿岸諸国でさまざまなエスニック・グループが貿易に参入していたのとは対照的です。
 これに対し、周辺諸国の多くは抵抗することなく応じています(朝貢した国は約40か国にのぼった(注1))。たとえば日本・室町幕府の〈足利義満〉(任1368~94)は,「冊封されるのはいやだが,貿易するには仕方がない」と,国王に冊封されることで,朝貢の形をとった貿易を認めてもらうことにしました。これは、中国の皇帝が持っていた影響力の大きさや、中国との貿易による収益にはうまみがあったということを示唆しています。
 「寸板(すんばん)も下海(げかい)を許さず」というこの政策は、前後の時代の中国の政権がそこまで厳しく海外貿易を規制しなかったことや、同時代のインド洋沿岸にあった「陸の政権」が「海の政権」に対して自由放任の姿勢をとっていたのと比べると、きわめて厳しいものでした(注2)。


 また,民間人(民戸)の戸籍と軍人(軍戸)の戸籍を分けた軍事組織【追H26】である衛所制【追H26明代か問う】【本試験H17里甲制ではない,本試験H23宋代の地方小都市ではない】を整備します。
 農村では,110戸をあわせて1里とし,そのうちの豊かな10戸を里長戸とし,残りの100戸の甲首戸を10戸ずつにわけました。里長戸と甲首戸には,それぞれ10年1ローテーションで,里長戸から税金をとったり,治安をまもったりする義務を課せられました。これを里甲制【本試験H17】といい,モンゴルの千戸制(せんこせい)の影響がみられます。さらに「六諭」(りくゆ) 【追H9〈康煕帝〉の発布ではない。四書と明律・明令の総称ではない、H21秦代ではない、H26明代であることを問う】【本試験H14唐の太宗が定めたわけではない,本試験H17史料・宗法ではない】という6ヵ条の教えを,里(り)甲制(こうせい)【追H9】の下の村落における里老人(村の中の長老)にとなえさせ,民衆【追H9六部の官僚ではない】が守るべき道徳をゆきわたらせました。どこにどんな土地があって,誰がどこに住んでいるのかを把握するために,土地台帳の魚鱗図冊(ぎょりんずさつ)【共通一次 平1:人頭税の台帳ではない】【追H30漢の武帝によるものではない】(土地を描いた図柄が魚の鱗に見えることから)と,租税台帳の賦役黄冊【本試験H27北宋代ではない】(冊子の表紙が黄色であったことから)を整備させました。
(注1) 宮崎市定の用語では「君主独裁」制度。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.272。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.118。
(注3) 明がなぜこれほどまで厳しい海禁政策をとったのか、一致した見解があるとはいえません。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.117-118。



◆〈永楽帝〉は北京に遷都しモンゴル人と戦うとともに,南海大遠征をおこない海陸の交易ネットワークを支配しようとした
 〈洪武帝〉は自分の息子たちを,モンゴル人に対処するために北方の辺境地帯におくって支配させました。現在の北京である北平(ほくへい)【法政法H28記】(元のときには大都と呼ばれていた都市を改称したもの)にいた〈燕(えん)王(おう)〉(朱棣(しゅてい))は,洪武帝の次に即位した〈建文帝〉(位1398~1402)が,辺境の王たちの領土をなくそうとすると,挙兵して南京【早・政経H31北京ではない】を占領,内戦が勃発しました。〈燕王〉は北京【追H26明代か問う】【本試験H4「1402年の遷都」について問う】に遷都して皇帝に即位し,〈永楽帝〉(位1402~24) 【追H24 時期が13世紀か問う、H26北京に遷都したか問う】【東京H24[3]】【H27京都[2]】【早・法H31】を称します。この内戦を靖難(せいなん)の変といいます【早・法H31】【法政法H28記】。

 北京に建設された王宮を紫禁城といい,今後清の滅亡まで使用されました【本試験H28宋の時代ではない】。皇帝の政務を補佐するため,内閣大学士【本試験H4尚書省,中書省,軍機処ではない】【法政法H28記】が置かれました【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】。

 〈永楽帝〉は,『永楽大典』【本試験H25時期】【追H21時期】(2万2877巻のさまざまな書物関する書物の大全集),科挙のテキストとなった『四書大全』(全36巻の四書の注釈) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない】,唐の『五経正義』を朱子学の立場から書きなおしたテキスト『五経大全』,朱子学の学説を集めた『性理大全』(全70巻)を編纂させることで,思想の統制をはかりました。この思想統制の動きに抵抗したのが,『伝習録』を著して「致良知」【慶文H30朱熹の教えではない】「知行合一」【本試験H7】を唱えた〈王守仁(陽明)〉(1472~1529) 【本試験H7】でした。

◆〈永楽帝〉はイスラーム教徒の宦官に大艦隊を編成させ,インド洋一帯に朝貢貿易を迫った
〈鄭和〉の南海大遠征で,インド洋交易が活性化
 〈永楽帝〉は,さらに朝貢貿易【セ試行 民間交易ではない】を推進するため,イスラーム教徒の宦官である〈鄭和〉(1371~1434) 【セ試行 時期(明代初頭か)】 【東京H16[3]】に南海大遠征(「西洋下(くだ)り」ともいいます)を命じました【本試験H21時期】【セA H30】。
 〈鄭和〉の姓は「馬」といい,「ムハンマド」の最初の音から取られた中国のイスラーム教徒に特徴的な姓です。一族は,曽祖父の〈バヤン〉のときに雲南に移住し,元のときには「色目人(しきもくじん)」としてつかえたとされています。
 「明と貿易したければ,朝貢せよ」と呼びかけた鄭和はアフリカ東海岸のスワヒリ文化圏にまで120メートルの巨大な船で到達し【セA H30大西洋には到達していない】,インド洋沿岸の諸国までが明に朝貢使節をおくっています。そりゃ,317隻に2万7800余りの兵士(初めの遠征時)が武装して来航したら,誰だってビビります。〈鄭和〉の乗船した旗艦は4層の甲板(かんぱん)を備え全長120m。電車の車両は通常1両の長さが20mほどですから,だいたい6両分の大きさです(〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の船はだいたい26mほどでしたから,その違いは歴然)。
【本試験H4明の時代の海外への主要な窓口は,上海と香港ではない】

 「明との関係を築いたほうが交易に有利」と,多くの国が朝貢に同意しました。海禁を維持したまま,朝貢政策を維持するという点では,対外政策に変わりはありません。大遠征は次の〈宣徳帝〉(位1425~35)のときまで全7回行われ,第1~3回はインドまで,第4~7回は西アジア・東アフリカまで到達しました(注)。アメリカ大陸にも到達していたのでは?という説もありますが,証拠はありません。

 とくにムラカ(マラッカ)王国と,琉球(現在の沖縄)は,明から得た商品を周辺諸国に中継する中継貿易で栄華をきわめます。イスラーム教国【本試験H15】のムラカ(マラッカ)王国【本試験H15】はすでに14世紀末に成立していましたが,発展したのは〈鄭和〉の遠征がきっかけです。マラッカ海峡は,インド洋と南シナ海をつなぐ要所です。マジャパヒト王国(1293~1527?)も明に朝貢したものの,ムラカ(マラッカ)王国の発展の裏で衰退に向かいました。
(注)第一次(1405~07)→チャンパー,パレンバン,セイロン,カリカット
第二次(1407~1409)→ジャワ,カリカット,コーチン,シャム
第三次(1409~1411)→チャンパー,ジャワ,パレンバン,マラッカ,アチェ,セイロン,コーチン,カリカット
第四次(1412~1415)→アチェ,カリカット,ホルムズ,アフリカ東岸,アデン,ホルムズ
第五次(1416~1419)→セイロン,ホルムズ,アデン,アフリカ東岸
第六次(1421~1422)→スマトラ,アフリカ東岸,ペルシア湾
第七次(1430~1433)→カリカット,ホルムズ,メッカ,アデン
 明にとっては朝貢関係を周辺諸国と結べば結ぶほど,それだけ多くの諸国家を従えているということで,政権の権威も高まります。また,明を中心にした秩序が生まれると,インド洋から東アジアにいたるまでの地域交流が活発化していくようになりました。
 ただ,これだけのプロジェクトには当然莫大な費用(コスト)もかかったわけで,次の〈洪熙帝〉〈宣徳帝〉の代に中止されています。

◆〈永楽帝〉は北方のモンゴルにも遠征,一時,オイラト部が強大化し,明を圧迫する
モンゴルの覇権争いの中,オイラトが強大化
 また,海だけでなく陸の交流も活発化し,北方の民族は中国との自由な通商を一層求めるようになっていきました。
 モンゴル高原では,14世紀末にフビライ家直系が断絶したので,チンギス家の王族が大ハーンの位を継ぎました。モンゴルは,明からは韃靼(だったん)と呼ばれましたが,自らは「大元」【追H19】と名乗りました。
 〈永楽帝〉は,モンゴル高原に遠征【本試験H15】します。
 一方,15世紀半ばにはモンゴル高原北西部のオイラトが〈エセン=ハン〉(?~1454) 【本試験H13ネルチンスク条約の時期ではない,本試験H17時期(16世紀ではない)】【追H25】【H27京都[2]】の指導で強大化。
 当時,朝貢の形式をとらなければ中国との貿易ができず,回数なども厳しく決められていました。そこで彼は通商を要求して明の〈正統帝〉(位1435~49,57~64)を北京北西の土木堡(どぼくほ)で捕虜としてしまいました(土木の変【追H25】)。
 明は,現在に残る万里(ばんり)の長城を明代後期以降に修復して,北方民族の進入に備えました。長城の総延長は約6000kmにも達します(2003年の神舟5号の宇宙飛行士によると「月から見える」というのは言い過ぎであったようです(⇒1979~現在の東アジア 中国))。



○1200年~1500年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

・1200年~1500年の東南アジア  現①ヴェトナム
北ヴェトナムには陳朝がおこり,元を撃退して民族意識を高めたが,漢字の公的使用は続いた
 北ヴェトナムでは1225年に内戦を終結させた〈陳太宗〉が陳朝大越国【本試験H12】【追H28骨品制という身分制度はない】をたてました。しかし,ほどなくしてモンゴル人の元の侵攻が始まります(1251,84,87)。東南アジアを狙ったのは,豊かな交易ネットワークを手に入れるためでした。王族の〈陳興道〉(チャン=フン=ダオ,1228~1300)はこのときに必死に抵抗したことから,現在のヴェトナム人にとっての英雄となっています。陳朝では民族意識が高まり漢字を基にした【追H9】チューノム(字喃;チュノム) 【東京H10[3]】【追H9阮朝の時代ではない・漢字をもととしているか問う,H27ハングルとのひっかけ、H19,H31タイではない】【本試験H12】【慶商A H30記】がつくられましたが,公用文における漢字の使用は続き,儒教・仏教が尊重され,科挙も実施されました。

陳朝が滅ぶと,明の占領を撃退した黎利が王朝を開き,明の制度を導入して栄えた
 陳朝が1400年に重臣によって滅ぶと,胡朝が建てられました。しかし胡朝は暴政により,明の〈永楽帝〉の進軍を招き,短期間で滅びます。明の直接統治下にあって,陳朝の末裔が1407年に独立を宣言。しかし,明軍の攻撃にあって崩壊します。

 そんな中,陳朝の末裔をかついで台頭した豪族の〈黎利〉(レ=ロイ)が,陳朝の王族から実権を握って建国したのが黎朝(10世紀の前黎朝と区別して,後黎朝ともいいます,れいちょう,1428~1527,1532~1789) 【本試験H20カンボジアとのひっかけ,H31明軍を破って独立したか問う(正しい)】【追H17イスラム王朝ではない、H21陳朝とのひっかけ,元を撃退していない、H25明から自立したか問う】。首都はヴェトナム北部のハノイ。〈黎太祖(レタイト)在位1428~33〉として即位しました。
 〈黎利〉は明の制度を導入し,ヴェトナムで現存する最古の法典を編纂し,朱子学を導入。陳朝のときに考案されたチューノム文学もつくられました。

 黎朝は1527年に〈莫登庸〉 (ばくとうよう,マク=ダン=ズン,1483~1541,在位) がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を起こして中断しました(~1592年に黎朝はハノイを奪い返しました)。1532年に黎朝が復活しますが,実権は鄭氏(北部のハノイ中心。東京(トンキン)といわれます)と阮氏(中部のフエ中心。広南(コーチシナ)といわれます)にうばわれた状態です。やがて阮氏は,南にも勢力圏をすすめてチャンパーを倒し,メコン川の下流をカンボジア人や華人から奪うことに成功しました。



◆南ヴェトナムのチャンパーは元に服属,さらに黎朝の進出を受け分裂した
 1282年に元は占城(チャンパー) 【本試験H18ビルマではない】を海から攻撃しましたが泥沼化し,84年に撤退します。しかし,その後1312年に陳朝は占城を攻撃し,服属させました。
 のち,占城は1369年に明に朝貢し,陳朝(1225~1400)との戦闘は続きます。

 ヴェトナム北部の陳朝では,しだいに陳氏以外の官僚が中央に進出するようになり,1402年に陳朝が胡氏のクーデタにより滅ぶと,胡氏の大越はヴェトナム中部の占城(チャンパー)を奪います。
 占城(チャンパー)がこれを明の〈永楽帝〉に訴えると,1406年に明は大越を併合。南海大遠征を実行した〈鄭和〉は,南部のヴィジャヤ近くにある港町クイニョンを,東南アジアへの進出の拠点とすると,占城(チャンパー)は交易ブームに乗って栄えようとししました。
 しかし1428年に明は北ヴェトナムから撤退。このタイミングで豪族の〈黎利〉(レロイ)が黎朝大越国を建国し大越は占城のヴィジャヤを攻撃しました。こうして,1471年にヴィジャヤを拠点とする占城は滅んだのです。
 その後も,南部にチャム人の港市は栄えますが,最終的に17世紀終わりにヴェトナム中部の広南阮氏の征服を受けるまで存続しています。



・1200年~1500年の東南アジア  現⑤インドネシア
◆元の侵入後にマジャパヒト王国が建国されるが,15世紀末にはイスラームの地方政権が広がる
 ジャワでは1222年に〈ケン=アロク〉によりクディリ朝(928?929?~1222)が倒され,シンガサリ朝(1222~92)が開かれました。シンガサリはクディリの東部に位置し,どちらも東部ジャワにあります。5代目の〈クルタナガラ〉王(位1268~92)のときに,スマトラ島やバリなど,島しょ部の広範囲に渡って制服活動を行いました。
 しかし時おなじくして東南アジアに南下しようとしていたのは,モンゴル人が中国で建国した王朝の元でした【本試験H26】。元の〈クビライ=ハーン〉(位1271~1294)は,シンガサリ朝の〈クルタナガラ〉王に使節を送りましたが,顔に入れ墨を入れて送り返したことから,〈クビライ〉は激怒。大軍を派遣したときには,すでに〈クルタナガラ〉(?~1292)はクディリ家の末裔(まつえい)と称する〈ジャヤカトワン〉(生没年未詳)の反乱で亡くなっていました(1292年)。〈クルタナガラ〉の娘の夫〈ウィジャヤ〉は,元と協力して〈ジャヤカトワン〉を捉えました。しかし,その後〈ウィジャヤ〉は元軍を攻撃さし,元はジャワ征服を果たせぬまま撤退します。

 その後〈ウィジャヤ〉が〈クルタラージャサ〉王(位1293~1309)としてシンガサリの北部に建国したのが,マジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H17ヒンドゥー教国であったか問う、H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】です。14世紀半ばには〈ガジャ=マダ〉(?~1364)が,「世界守護」という名の大宰相という立場で,王国を支配し最盛期に導きます。積極的に対外進出し,その領域は現在のインドネシアの領域にマレー半島(ムラカ(マラッカ)を1377年に占領しています)を足して,ニューギニア島西部を引いた領土とだいたい同じくらいになりました。
 マジャパヒト王国は,元と明に朝貢し,西方では同じくヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国(1336~1647)とも通商関係を築きます(⇒1200~1500の南アジア。灌漑農耕が発達して国力を高め,東南アジアへの交易に乗り出していました)。
 1400年以降は王位継承を巡る東西の内紛で衰え,15世紀末にはスマトラ島,ジャワ島,ボルネオ島に次々とイスラーム政権が建てられていきました。マジャパヒト王国はジャワ島の中東部とバリ島を残すところとなり,最終的にはバリ島だけに縮小します。現在でもバリ島にヒンドゥー教の信仰が残るのは,このためです。
 その後も,イスラーム教の王国として,15世紀末にスマトラ島【本試験H20地図,H29セイロン島ではない】にアチェ王国(15世紀末~1903) 【本試験H25地図上の位置を問う・扶南の港ではない】,16世紀末にジャワ島中部にマタラム王国(1580年代末ころ~1755) 【本試験H15ジャワ最古のヒンドゥー教国かを問う,本試験H24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】【追H19、H20元に滅ぼされたか問う(されていない)】【上智法(法律)他H30】が建国されています。マタラム王国は,8世紀にもジャワ人による同名の国があり,古いほうを古マタラム王国と区別する場合があります。




・1200年~1500年の東南アジア  現⑦マレーシア
◆「大交易時代」を背景にイスラーム化がすすみ,15世紀初めに東南アジア初のイスラーム政権マラッカ王国が自立する
東南アジアの島々にイスラームが平和的に拡大
 主として東南アジアの島々へのイスラーム教の伝播は、平和的なものでした(注)。
 13世紀に入り,スマトラ北部の人々がイスラーム教に改宗をはじめるようになりました【追H9地図:伝播経路を問う】。1293年にスマトラ島の港市に風待ちで立ち寄った〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324)が言及しているのが,最初の文献です。
 このサムドラ=パサイ王国(1267~1521)が,イスラーム化の中心で,のちに〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368) 【本試験H3】【本試験H18宋の時代ではない,本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】や〈鄭和〉(1371~1434)も訪れています。

 1368年に成立した明は,海禁【本試験H15明代を通じて海外への移住が奨励されたわけではない,本試験H18】政策をとって,貿易を朝貢貿易に限ろうとしました。
 ジャワ島から急成長したマジャパヒト王国(1293~1478) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】は,1377年にスマトラ半島南部,マラッカ海峡に接する港町マラッカ(ムラカ)を占領。1420年には中国の明の〈鄭和〉が南海遠征で立ち寄っています。
 マラッカ海峡地域(三仏斉)の諸国は中国とのよりよい交易条件をめぐり,競って朝貢をしました。14世紀後半にジャワとパレンバンや中国人海賊との間で抗争が起きると,パレンバンの王子〈パラメスワラ〉が,マレー半島で建国しました。これが,東南アジア初のイスラーム教【本試験H2上座仏教ではない】の支配者による港市国家であるムラカ(マラッカ)王国(1402~1511)を建国しました【追H9時期、H25】【本試験H2時期(15世紀初めか問う)】【本試験H21イスラームに改宗した時期】。
 マラッカ王国【追H17儒教が国教ではない】は,西方のイスラーム勢力や東方の琉球王国(りゅうきゅうおうこく,1429~1879。同じく明に朝貢していました【本試験H26・H30】)【本試験H19 14世紀に衰退していない,本試験H20時期】とも関係を結び,マジャパヒト王国をしのぐようになっていきます(注)。
 マラッカ王国には西方からイスラーム教の宗教指導者が訪れ,東南アジアでの布教の拠点となっていきました。イスラーム教の拡大に一役買ったのは,スーフィー(神秘主義者) 【本試験H9ウラマーとのひっかけ】の集団です。「儀式や書物を通しての信仰では,神について知ることはできても,実感することができない!」と考えた人々が,さまざまな修行によって神との一体感を得ようとしたのです。イスラーム教では聖職者がいなかったわけですが,各地に「聖者(せいじゃ)」と呼ばれる人々が教団を開いて,この新しいスーフィーを人々に広めていきました。スーフィーは商人の船団に乗って,はるばる東南アジアにも布教しに向かったわけです。

(注1) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
(注2) 東西海洋交易の中継港となったムラカでは,外国人商人のなかから4人のシャーバンダル(①グジャラート商人,②マラバール,コロマンデル,ベンガル,下ベルマのペグーやパサイの商人の代表者,③パレンバン,ジャワ,カリマンタンのタンジョンプラ,ブルネイ,マルク諸島,ルソンの商人の代表者,④チャンパー,中国,琉球の商人の代表者)がシャーバンダルとよばれる港務長官に任命されました。担当地域から商船がくると,倉庫を割りあて,商品の価格の算定と市場への搬入を仲介したり,商人漢の争いの調停者としても活躍しました。
 一方,中国では市舶司とよばれる役所が港と交易の管理・課税にあたり,宋代には,広州・泉州・明州・杭州などに市舶司が設けられて,その関税が国家財政の重要な収入源となっていました。
 この時期の国家は商業を盛り上げ,その利益を吸い上げるようになっていることがわかります。

・1200年~1500年の東南アジア  現⑧カンボジア
灌漑施設の荒廃でクメール人の政権は衰えていく
 クメール人のアンコール朝は〈ジャヤヴァルマン7世〉(位1181~1218?)のときに都アンコールに王宮アンコール=トムが整備され,灌漑設備の技術も変革されました。
 13世紀初めにチャンパーを占領し,チャンパーの王にクメール人を建てていますが,1250年にアンコール地方を洪水が襲い,1260年には灌漑施設を再整備。すでに荒廃していたバライ(貯水池)による灌漑設備の代わりに,1200年頃から各地に石橋ダムと導水路を建設。しかし,次第に泥土が堆積し,灌漑設備の維持は困難になっていったとみられます。
 13世紀末期に漢人の王朝宋(960~1126,1127~1276)の〈周達観〉が訪れたころには,灌漑施設は完全には機能していなかったとみられます(『真臘風土記』に記録されています)。
(注)石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005年,p,233~p.236。

 次の〈ジャヤヴァルマン8世〉(位1243~95)は王位継承争いの末に登位。前王が仏教を保護したのに対し,ヒンドゥー教勢力による介入もあって,〈8世〉は仏教弾圧をおこなっています。この過程で,大乗仏教寺院として建てられたバイヨン寺院は,仏像が削り取られたりヒンドゥー教の図像が彫られるなど,ヒンドゥー教寺院への改装が試みられています(注)。
(注) 石澤良昭『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.94。〈ジャヤヴァルマン7世〉が寺院を建立したことで,アンコール朝は衰退に向かったとする〈セデス〉や〈グロリエ〉の説には懐疑的。

 
 13世紀末頃から,交易による繁栄は,カンボジアの外領であったチャオプラヤー川や東北タイのタイ人に移っていきます(注)。
 カンボジアは1434年にクメールを放棄。その後,15世紀後半には王家が3分裂しましたが,アユタヤ朝の介入により〈トゥモー〉(1471~1498)が国王となります。
(注) 石澤良昭『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002,p.102。

・1200年~1500年の東南アジア  現⑨ラオス
 なお,14世紀中頃に,タイ人の一派ラーオ人がが現在のラオス北部にラーンサーン王国(100万の象という意味)を建国しました。上座仏教を侵攻し,初めルアンパバーン(ルアンプラバン)を,のちにウィエンチャンを首都としました。ルアンパバーンには,今でも多くの仏教寺院が残されています(ただし,この時期に建てられたものに現存しているものはありません。1551年に建立されたワット=シーサケット(1818?に再建)が最古の寺院)。
 のち,タイと雲南の勢力が進出したことで分裂し,周辺勢力によってラーンサーン王国の王権が及ぶ地域は縮小していきました。
・1200年~1500年の東南アジア  現⑩タイ
東南アジア大陸部では,タイ人の勢力が従来のモン人やクメール人に代わり強大化した
 チャオプラヤー川流域では,クメール王国の〈ジャヤーヴァルマン7世〉(位1181~1218?1220?)が亡くなると,タイ人の活動が盛んになりました。タイ人とは,インドシナ半島北部の山地を中心に,現在はタイとラオスを中心に分布し,合わせて8000万人を超す人口を誇る民族です。山地には13世紀頃からタイ人の諸王国が成立するようになっていましたが,クメール人の支配を脱した最もタイ人の一派は,〈シー=インタラーティット〉(位1238?~70)のもとで1240年頃にスコータイ朝【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4地域がタイか問う】【本試験H19時期】【追H21元に滅ぼされたパガン朝とのひっかけ】を建国しました。この一派はシャム人とも呼ばれ,中国語の文献では暹(せん )と記されます。タイ人の中でも,もっとも南に位置する国家です。1251年に都をスコータイを置きました。スコータイから西に伸びる道をたどれば,ベンガル湾に通じる港町に到達できます。
 3代目〈ラームカムヘーン〉(位1279~1298年頃)は1292年にタイ語最古の碑文を残し,上座仏教を保護しました。このとき用いられたタイ文字(シャム文字)は,〈ラームカムヘーン〉がクメール文字を参考につくらせたといわれています(もとをたどると,インドのブラーフミー文字です)。王は,1282年には元に服属して独立を維持。
 しかし,スコータイ朝は14世紀後半に,あらたに成立したアユタヤ朝の属国になります。


◆アユタヤ朝がおこり,マレー半島やビルマ,カンボジアに拡大し,交易で栄える
 1351年に,現在のタイのアユタヤでアユタヤ朝【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H4時期(7世紀ではない),本試験H11:時期は14~18世紀にかけてか問う。地域はフィリピンではない】【本試験H14・H18・H21ともに時期】をおこした〈ウートーン〉はもともとスコータイ朝に仕えており,反乱を起こして〈ラーマーティボーディー1世〉(1351~1369)として即位しました。〈鄭和〉の遠征もあり,中国の明との朝貢貿易をおこない,栄えました。1438年にはスコータイ朝の継承者が断絶したため,これを吸収しました。チャオプラヤー川の広大名水田地帯を抱えつつ,交易ルートを押さえることで,王は“商業王”として君臨しました。
 15世紀半ばに明が貿易を制限するようになると,アユタヤ朝はマラッカ海峡の支配権を狙い,一時マラッカにも遠征しましたが,イスラーム教【本試験H15】の信仰されたマラッカ王国【本試験H19】【追H17儒教が国教ではない】は西方のイスラーム世界との貿易関係を結び強大化し,海上交易による利益【本試験H27】でアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたか問う】を圧倒していきました。アユタヤ朝のマラッカに対する進出は止まりましたが,マラッカはアユタヤにインドからの商品(綿布など)を,アユタヤはマラッカに米を輸出するという貿易関係は続きました。




・1200年~1500年の東南アジア  現⑪ミャンマー
 ビルマでは,イラワジ川中流域にビルマ人がパガン朝(849~1312) 【本試験H26地域を問う】【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】を建てていました。この王朝はセイロン島から伝わった上座仏教を保護。このころにはすでに,南インドの文字の系統に属し,モン人の文字に由来するビルマ文字(タライン文字)が使われています。
 パゴン朝には次第にシャン人が政権に介入するようになり,1287年にはモンゴル人の元の遠征軍に敗れて服属【追H21「モンゴル」が「進出した」か問う】。そのゴタゴタの最中(さなか)に内紛が起こり1299年にパガン朝の王は宰相に殺害されました。宰相によりたてられた新国王は一時的に元を撃退しましたが,1312年には王権がシャン人に譲られ,パガン朝は完全に滅びます【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30問題文ちゅうに「元の攻撃を受けて滅亡した」とあるが,直接的原因ではない】。

◆パガン朝が滅亡すると,イラワジ川流域にはシャン人,パガン人,モン人の政権ができる
・イラワジ川上流 →アヴァ朝(1364~1555)をシャン人が建国。
・イラワジ川中流 →タウングー朝(14世紀~1752) 【本試験H3イギリスにより滅ぼされていない(それはコンバウン朝),本試験H4タイではない】【追H19、H20 ジャワではない。16世紀成立ではない】【慶文H30記】をパガン朝の残存勢力(ビルマ人)が建国。
・イラワジ川下流より南→ペグー朝(1287~1539)をモン人が主体となって建国(都は1369年以降はペグー)。
・アラカン地方 →アラカン王国(1429~1785)でラカイン人が建国。アラカン地方は現ビルマの最西端に位置します(1979~現在の東南アジア ミャンマー。2010年代後半のロヒンギャ難民危機を参照)。





○1200年~1500年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


・1200年~1500年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ
バングラデシュにはイスラーム王朝が栄える
 現在のバングラデシュは,イスラーム教徒が89.1%,ヒンドゥー教徒が10%という比率になっています(注)。
 歴史をさかのぼってみると,この地域にはゴール朝の進出以来イスラーム教の普及が始まっていました。ベンガル湾沿岸の交易の拠点としても重要な地点です。

 この時期のバングラデシュには,トゥグルク朝(デリー=スルターン朝の一つ)から自立したイスラーム王朝(ベンガル=スルターン朝,1342~1576)が栄えています。
 1414年にはヒンドゥー教徒の王が即位したこともあり,イスラーム教とともにヒンドゥー教も保護されます。
 北インドのアウド地方(デリーの東方)には,デリー=スルターン朝の支配下とはならなかったジャウンプル=スルターン朝(1394~1479)があり,ベンガル=スルターン朝と抗争しています。
 ほかに,オリッサ地方(インド東岸,コルカタ(カルカッタ)の南方に位置する)にもヒンドゥー王朝(ガジャパティ朝(1434~1541))や,ビルマのベンガル湾岸のラカイン人の仏教国アラカン王国(1429~1785)との抗争もありました。
・1200年~1500年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 シンハラ人の国家であるコーッテ王国(1412~1597)は,15世紀中頃にはセイロン島全域を支配していました。
 なお,北部にはタミル人の国家であるジャフナ王国(1215~1624)が建国されています。


・1200年~1500年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆北インドにイスラーム教徒の政権が成立する

 この時期には,本格的にイスラーム教徒がインドに政権を建てることになります。イスラーム教への改宗者も増えましたが,強制的改宗というよりも,神秘主義教団(スーフィズム【本試験H26ジハード,バクティ,シャリーアではない】【追H17】)の人々スーフィー【追H17】による布教活動のおかげです【追H17インドへのイスラム教の浸透に寄与したか問う、シク教とは無関係】。
 彼らは,アラビア語の『コーラン(クルアーン)』を形式的に読み,教義を学べばそれでいいという風潮に反発し,信じる“気持ち”を重視しました。彼らは,厳しい修業を通して,神秘的な経験を得ることで,“言葉”や“理屈”ではなく,“直感”的に神と一体化【本試験H6「神との合一」】できると考えました。「一体化」とはざっくり言えば,“我を忘れる”とか“我を失う”という状態のことです。彼らは,人間が“我を失う”にはどうすればよいか,という技術を持ち合わせていたといえます。

 もともと南インドを中心に,“我を忘れて”神の名を唱えたり愛を伝えるバクティ信仰【本試験H26スーフィズムではない】や,苦しい修行を通して神との一体感を得ようとするヨーガといった伝統的な信仰も盛んだったため,スーフィズムがすんなり受け入れられる土壌があったのです。
 〈カビール〉(1440~1518)は,イスラーム教の影響を受け,ヒンドゥー教のカーストによる差別を批判する活動をおこないました。

 ゴール朝【追H17仏教国ではない】の〈ムハンマド(ムイズッディーン=ムハンマド)在位1203~1206〉インド西北部に進出し,チャーハマーナ(チャウハーン)朝の〈プリトゥヴィーラージャ〉を中心にラージプート諸王朝が連合して戦いましたが,内部分裂によって敗北し,インドに本格的にイスラーム教徒が進入するきっかけとなりました。



◆奴隷王朝がインドの北部に進出し,デリーに政権を樹立した
インドにイスラーム政権が成立する
 1206年に,〈ムハンマド〉が帰路で暗殺されると,武将でマムルークの〈アイバク〉(?~1210) 【本試験H3バーブルではない】【本試験H23シャー=ジャハーンではない】【追H24デリーにイスラーム王朝を建てたか問う、H25ティムールとのひっかけ】はデリー【共通一次 平1:商業・文化の中心はボンベイではない】【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の領域には入っていない】にとどまり,王朝を始めました。
 彼の政権を奴隷王朝【共通一次 平1:デリー=スルターン朝の初めか問う】【本試験H3】【本試験H13デリーを首都にした最初のイスラーム王朝かを問う,本試験H22時期,H29カージャール朝ではない】【追H30ムガル帝国とのひっかけ】【名古屋H31何世紀か問う】と呼び,インド初の本格的なイスラーム教徒による政権となりました。
 彼の配下の将軍は,パーラ朝により建設され,インド最後の仏教教学の拠点であったヴィクラマシーラ大学を破壊しています。
 また彼【追H25ティムールではない】はデリー南郊に高さ72.5mものクトゥブ=ミナール【本試験H30】【追H25クトゥブ=ミナール(クトゥブ=ミナレット)】という石塔を建てています。それから,ハルジー朝,トゥグルク朝,サイイド朝【慶文H29】,ロディー朝【早政H30問題文「アフガン系の王朝」】にいたるまで,ガンジス川【早政H30】に注ぐヤムナー川河畔のデリーを首都とするイスラーム政権がつづきます。どれもカイバル峠の向こう側,中央アジアとのつながりが強い政権です。
 これをまとめてデリー=スルターン朝【共通一次 平1:この諸王朝はマラータ王国との間で戦争を続けていない】といいます。デリーはガンジス川の支流であるヤムナー川沿いの都市です。

 ちなみに,ゴール朝は,1215年に新興のホラズム=シャー朝によって滅ぼされています。アム川下流域のホラズム地方でおこった国で,一時的にシル川からイランにかけて広大な領土を支配しました。
 しかしその直後,西征に出ていた〈チンギス=ハン〉によって,ホラズム朝【本試験H21滅亡時期】はブハラとサマルカンドを占領され,1231年に滅亡します。モンゴル人は,その後もチャガタイ=ハン国やイル=ハン国(フレグ=ウルス)が北インドに進入しています。

 1287年のイル=ハン国(フレグ=ウルス)のパンジャーブ進入により混乱した奴隷王朝では,〈ジャラールッディーン〉が即位してハルジー朝が始まりました。次の〈アラーウッディーン〉は,デカン高原に遠征し,南端にいたるまで支配領域を拡大しました。しかし,チャガタイ=ハン国の進入を受け,デリーを包囲される事態となりましたが,1305年にモンゴル軍を倒した〈ギヤースッディーン=トゥグルク〉が,〈アラーウッディーン〉の死後,1320年にトゥグルク朝を創始。彼は南インドのデカン高原支配に失敗し,派遣されていた武将が自立してバフマニー朝となりました。
 一方,北方からは,今度はティムール朝の進入を受け,1398年にはデリーに入城し,略奪を受けました。〈ティムール〉は翌年サマルカンドに帰りましたが,彼の派遣した〈ヒズル=ハーン〉はトゥグルク朝を滅ぼして,1414年デリーでサイイド朝【慶文H29】を建てています。この政権の中央アジアとのつながりのつよさがうかがえます。
 そのサイイド朝が弱体化したので,1451年にアフガンの諸部族がロディー朝を建てました。


◆ムガル帝国は,モンゴル帝国(大モンゴル国)の“跡継ぎ”国家を自任していた
 〈ティムール〉の子孫【追H26ティムール帝国の末裔がムガル帝国を建設したか問う】である〈バーブル〉(1483~1530) 【セ試行 死後にムガル帝国が分裂したわけではない】【本試験H3奴隷王朝を建てていない,本試験H12】【本試験H20・H22時期・ムガル帝国を滅ぼしていない】【H27京都[2]】は,アフガニスタンから来たインドに入って【本試験H12経路を問う】,1526年,デリー=スルターン朝最後のロディー朝を滅ぼし,ムガル帝国【本試験H12】【本試験H22】を建てることになります。
 〈バーブル〉は,ティムール朝で使われていたチャガタイ=テュルク語で回想録『バーブル=ナーマ』を著しているように,その建国にはティムール朝の“復興”という意図がありました【本試験H7インド亜大陸の南端までは統一できていない】。
 こういうわけで,「ムガル帝国」という名称はあくまで他称であり,彼ら自身は「インドのティムール朝」と認識していたのです(ムガルとはモンゴルの訛(なま)りで,ティムール朝をモンゴルと混同した呼び名です)。



◆南インドではヴィジャヤナガル王国などのヒンドゥー教の諸王国が,海上交易で栄えました
【本試験H7バーブルはインド亜大陸の南端までは統一していない】
 チャールキヤ朝とチョーラ朝に代わり,13世紀以降の南インドでは,セーヴナ王国,カーカティーヤ王国,パーンディヤ王国,ホイサラ王国が抗争する時代となりました。
 そんな中,デリー=スルターン朝のうち,ハルジー朝とトゥグルク朝が,デカン高原まで支配地域を広げましたが,デカン高原ではそこからヒンドゥー教徒が自立し,ヴィジャヤナガル王国(1336~1649) 【本試験H22・H23ともに世紀を問う,H31】【名古屋H31宗教を問う】が成立しました。こうして南インドの分裂状況は,一旦終わりました。インド南部は草原が少ないために馬の飼育に適さないため,特産の米と綿布をサファヴィー朝下のホルムズに輸出し,軍馬【東京H17[3]アラビア半島から買い付けられていた軍用の動物を答える難問。答えは「ウマ」】【本試験H31ウマを輸出していたわけではなく,「輸入」していた】を買い付けていました。

 1347年には,トゥグルク朝の武将が自立しバフマニー王国を建国したため,ヴィジャヤナガル朝との抗争に発展しました。バフマニー朝はその後,ビージャプル王国,ゴールコンダ王国などのいわゆるムスリム5王国が領域内で自立し,分裂していきます。ビージャプル王国,ゴールコンダ王国は,1649年頃ヴィジャヤナガル王国を滅ぼしました。

 インド最北部のカシミール地方では,初め仏教,後にヒンドゥー教が信仰され,14世紀にイスラーム教徒の支配下に入りましたが,ヒンドゥー教を保護する王もいました。

・1200年~1500年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネワール人のマッラ朝(1200~1769)がネパール(カトマンズ)盆地を中心とした地域を初めて統一しました。
 ヒマラヤ山脈山中にある標高1300メートルの盆地で,肥沃な土地で米や小麦が生産されました。国王はヒンドゥー教徒でしたが住民には強制せず,ヒンドゥー教と仏教の融合が進みました。

 ベンガル地方の民族による侵攻も受けましたが,ヒンドゥー教に基づく法制度を整備した〈ジャヤ=シンティ〉王(1382?~95?)と,次の〈ヤクシャ=マッラ〉(1429?~1482?)の下,最盛期を迎えました。

 15世紀後半にマッラ朝の領土は,〈ヤクシャ=マッラ〉王3人の息子に分け与えられ,カトマンズ,パタン,バドガオンに分裂。
 3国は互いに競いながら発展し,盆地周辺のチベットやインドとの交易ルートを支配し栄えました。3国の王宮周辺にはダルバール広場が建設され,多くの寺院が建設されました(◆世界文化遺産「カトマンズの谷」,1979。2015年の大地震で被害を受け,修復が進められています)。

 ネパールは地理的に,インドからチベットに向かう交易ルートの中継地点としての重要性を持っているとともに,北インドのヒンドゥスタン平原へのイスラームの進出にともなうヒンドゥー教徒たちの移住先にもなっていました。




○1200年~1500年のアジア  西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆アッバース朝のバグダード政権がモンゴル人により滅ぼされると,インド洋交易の中心は紅海に移った
 12世紀になると,東方からモンゴル人が押し寄せてきました。1258年【慶文H29】にはアッバース朝の首都バグダードが占領され,最後のカリフは殺害され,その親族がマムルーク朝の保護を求めました。
 アッバース朝【本試験H16セルジューク朝ではない】を滅ぼしたモンゴル人〈フレグ〉はイランとイラク(都はカスピ海南西のタブリーズ【本試験H16・H18サライではない】)にイル=ハン国(フレグ=ウルス) 【追H27エジプトは征服していない】【本試験H5,本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】 【本試験H21】【京都H19[2]】を建て,すでに1250年,エジプトのファーティマ朝をクーデタで倒していたマムルーク朝【本試験H3時期(16世紀初めか問う)】【本試験H20世紀を問う】と敵対します【本試験H9アイユーブ朝がマムルークのクーデタにより倒されたか問う】【追H24エジプトの王朝か問う、オスマン帝国が滅ぼしたのではない】。
 イル=ハン国(フレグ=ウルス)は,はじめネストリウス派キリスト教を保護し,〈ラッバーン=バール=サウマ〉(?~1294)を西欧に使節として送り,フランスの〈フィリップ4世〉やローマ教皇〈ニコラウス4世〉(位1288~92)に謁見させています。しかし,〈ガザン=ハン〉(位1295~1304) 【東京H6[1]指定語句】【本試験H5イル=ハン国の指導層がイスラームに改宗したことを前提とする史料問題(難問である),本試験H11「歴史書の編纂を命じ」「イスラム教に改宗した」人物の名を問う。フラグ,バトゥ,オゴタイ=ハンではない】【本試験H13ホラズムを滅ぼしていない,本試験H16ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)ではない】のときに(イル=ハン国が)イスラーム教を国教化しました【本試験H14,本試験H21フレグのときではない,H28ガザン=ハンが建国したわけではない,H31ユダヤ教ではない】。彼は,遊牧民としてのこだわりを捨て,イスラームの税制を導入して農業を振興したほか,文化も保護した名君です。
 彼の宰相〈ラシード=アッディーン〉(1247?~1318) 【追H24イル=ハン国の人物でありキプチャク=ハン国の人物ではない】は,『旧約聖書』のアダムとイヴから,イスラーム教の時代,そしてモンゴル人のチンギス家までの世界史(『集史』(ジャーミア=ウッタワーリーフ。歴史を集めたもの,という意味) 【本試験H11】【本試験H30】) 【追H21、H24『歴史序説(世界史序説)』ではない、H28 『歴史序説(世界史序説)』とのひっかけ】を,イランの言語のペルシア語で書くという壮大なスケールを持った歴史家でもありました。
 歴史家といえば,北アフリカのチュニスに生まれた〈イブン=ハルドゥーン〉(1332~1406) 【東京H22[3]】【本試験H3 史料をよみ「14世紀にインドを訪れた人物」を答えるがイブン=バットゥータのことである,本試験H6スーフィズムを体系化した神学者(ガザーリーなど)ではない,本試験H8中国の元を訪問していない】【本試験H31】【追H19、H21ラシード=アッディーン(ウッディーン)ではない、H25(時期「10世紀から11世紀にかけて生きた」哲学者・医学者か問う)、H28『集史』を著していない】は,『歴史(世界史)序説』【本試験H26、H31】【追H21『集史』ではない】【中央文H27記】において,人間の歴史には「定住」と「遊牧」の2つの過程がある。物資が乏しいが血気は盛んな沙漠の遊牧民が農耕定住国家を征服→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う→都市型の定住生活に慣れる→新たな遊牧民勢力が都市を襲う…の繰り返しだ,と主張しました。ある集団の「連帯意識」(アサビーヤ)に注目した彼の筆致は,実に客観的です。

 エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517)【本試験H20世紀を問う】をおこしました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。

 そんな中,モンゴル帝国(大モンゴル国;イェケ=モンゴル=ウルス)の〈フラグ〉(フレグ) 【追H9オゴタイ・フビライ・チャガタイではない,本試験H12ロシアに遠征していない、H18、H19,H25チャガタイ=ハン国を建てていない】【セ試行】【本試験H28ガザン=ハンではない】【H27京都[2]】がバグダードに入城してアッバース朝【セ試行 滅ぼされたか問う。バグダードを都とするか問う】のカリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります(1258年、アッバース朝の滅亡【追H25】)。

 しかし,シリアに進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました。この勝利に貢献した将軍〈バイバルス〉がスルターンの〈クドゥズ〉を暗殺し,1260年にスルターン(位1260~77)として即位しました。1261年にはアッバース朝の末裔(まつえい)〈ムスタンスィル〉をカリフとして保護しています。
 その後,メッカやメディナ【本試験H22】【追H18モンゴル帝国の支配領域ではない】も支配領域に入れて,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んだアッバース朝のバグダードに変わり,イスラーム世界の中心地として栄えました。
 マムルーク朝の君主は,毎年「巡礼のアミール」という役職を任命して巡礼者の警護に当たらせるとともに,聖地のカーバ神殿を飾る覆い(キスワ)を運ぶ任務を担わせました【本試験H31リード文】。そのように「イスラームの保護者」としてのイメージを広めることで,支配される側の人々を納得させようとしたわけです。


 しかし,マムルーク朝はのちにカフカース地方のチェルケス人が支配層に入り込み,アラブ人住民を支配していくようになります。


 マムルーク朝の時期にはカイロを中心に経済も栄え,アラビア半島南部イエメンの港町アデンで,インド商人から東南アジアやインドの物産を受け取る中継ぎ貿易を行ったカーリミー商人が各地の物産を大量に運び込みました。カーリミー商人は,アデンから紅海に入ると,ナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流のアレクサンドリア港【本試験H12】で,イタリア諸都市(ヴェネツィアやジェノヴァ)に売り渡していたのです。

 1世紀のインドに始まったサトウキビからの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んにななります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。
 この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,メッカに巡礼の旅【本試験H31】をし『三大陸周遊記』【追H27アウグストゥスとどちらが古いか】をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?) 【本試験H3史料をよみ14世紀にインドを訪れた人物として答える】【本試験H31】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物であるが、1402~1602年の間ではない)】がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。
 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【東京H14[3]】【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクにもうけられた学院【東京H14[3]】【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派の教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派のイスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー) 【本試験H9スルターン,バラモン,スーフィーとのひっかけ】が留学にやって来るようになっています。

◆オスマン帝国はバルカン半島に進出するとともに,ビザンツ帝国を滅ぼした
ビザンツ帝国が滅び,オスマン帝国がバルカンへ
 アナトリア半島では,セルジューク朝が地方政権(ルーム=セルジューク朝)を建てて以降,急速にトルコ人の住民が増え,群雄が割拠しました。オスマン帝国(1299~1922) 【本試験H8時期(1295年の「直後」に建国)】もその一つでした。都はアナトリア半島西部のブルサ【本試験H8サマルカンドではない】。勢力を固めたのち,バルカン半島に進出し,この地のキリスト教の有力者と戦ったり,同盟を結んだりしながら,領土を拡大していきました。

 〈バヤジット1世〉は,アナトリア半島の中部・東部に勢力を広げようとしましたが,1402年に〈ティムール〉(位1370~1405)に敗れて捕虜になり,それ以降,オスマン朝は一時混乱します。
 〈ティムール〉の出身であるチャガタイ=ハン国【慶文H29】は,当時,2つの政権に分裂していました。
 タリム盆地を含む東部のモグーリスタンにある,東チャガタイ=ハン国と,アム川・シル川流域の西部(マー=ワラー=アンナフル)にある西チャガタイ=ハン国です。〈ティムール〉はこのうちの西チャガタイ=ハン国から自立し,サマルカンド【東京H30[3]都市の略図を選択する】を中心にしてイラン高原やイラクにまで領土を広げた人物です。

 その後,〈メフメト2世〉(位1444~46,1451~81) 【Hセ10スレイマン1世とのひっかけ】 【本試験H23】【追H18】は,再びバルカン半島への進出をねらいます。すでにビザンツ帝国は,〈アレクシオス1世〉(位1081~1118)の頃から地方分権化が進み,皇帝は高級軍人や官吏に国有地を管理する権利やその土地からの全収入,さらに軍事権を与える制度(プロノイア制)【本試験H29】が導入され,皇帝の権力は衰えていました。
 また,ペルシア高原方面からは,テュルク系のアクコユンル(白羊朝)が,カラコユンル(黒羊朝)を破り,アナトリア半島に進出。

 一方,〈メフメト2世〉はバルカン半島への進出を決意し,1453年にコンスタンティノープルを占領して【本試験H23スルターンと時期】,ビザンツ帝国を滅ぼし【追H18】,オスマン帝国の首都としました。これ以降はしだいにイスタンブル(イスタンブール)と呼ばれるようになっていきます(◆世界文化遺産「イスタンブルの歴史地区」,1985)。

 かつて〈ユスティニアヌス大帝〉が6世紀にビザンツ様式(ドームとモザイク絵画【本試験H13,本試験H25ステンドグラスではない】が特徴)で再建したギリシア正教【本試験H12(下記の注を参照)】のハギア=ソフィア聖堂には,4本のミナレット(光塔)が加えられ,アヤ=ソフィアと呼ばれるイスラーム教のモスクに転用されました【東京H30[3]「モスクがキリスト教の教会に転用された」ことを答える】【本試験H17モスクに改修されたかどうかが問われる】。塔にはキリスト教の教会のような鐘はなく,人の声で礼拝時間を知らせます。モスクにはメッカの方向を示すミフラーブという空間,ウラマーが説教をするミンバル(説教壇)が備え付けられました。〈メフメト2世〉は,トプカプ宮殿【本試験H23チベットのラサではない】の建設も開始しています。
 宮殿にはハレムがおかれ,バルカン半島や小アジア,さらにカフカース地方の有力者の娘や女奴隷たちを住まわせ,オスマン帝国における上流階級の文化・芸術の拠点となった一方,のちに政治に介入する女性も現れています。
(注)【本試験H12】「(1897年に)オスマン帝国で実施された人口調査によると,イスタンブルの人口は90万人であり,その宗教・宗派別割合は次の図のとおり(円グラフ)である」という問い。円グラフには,イスラム教徒(58%),( a )のキリスト教徒(18%),アルメニア教会のキリスト教徒(17%),その他のキリスト教徒(2%),ユダヤ教徒(5%)とあります。( a )に入る語句を「①プロテスタント ②ローマ=カトリック教会 ③ギリシア正教会 ④ネストリウス派」から選ばせるもの。解答は③ギリシア正教会。オスマン帝国による支配以降も,コンスタンティノープル(イスタンブル)はギリシア正教会の拠点であり続けます。

 この頃からバルカン半島側に都が置かれ,今までのトルコ系の騎士に代わり,イェニチェリ【本試験H6スーフィズムを信仰するインド人の教団ではない】という歩兵が重視されるようになっていきます。バルカン半島(のちにエジプト)は間接統治される領土で,総督が派遣され,常備軍としてイェニチェリ【京都H19[2]】【本試験H21常備軍であることを問う】が用いられました。大音響で有名なオスマン帝国の軍楽隊(メヘテルハーネ)は,吹奏楽のルーツと言われ,ヨーロッパ諸国にも影響を与えました。なお,イェニチェリとして育成するために,バルカン半島の男子を強制的に徴発する制度をデウシルメ(デヴシルメ)【慶文H29】といいます。

 あくまで間接的な支配なので,もともといた支配者や統治のしくみは,そのまま残されていました。オスマン朝は,地図上でみると広範囲に領域の色が塗られているので,さぞかし強力な支配を全土に及ぼしていたのだろうと思うかもしれませんが,後に述べる直轄領以外は,実際にはこのような“ゆるやかな支配”によって統治されていたのです。さまざまな言語・民族の人々がひしめき合い,イスラーム教徒ではない人口のほうが多かったのですから,無理もないことです。非ムスリムには,人頭税(ジズヤ)の納入と引き換えに,地域ごとに宗教や言語別に自治組織をつくることが許されていました。
 オスマン朝の支配者は,トルコ語を使っていたわけではありません。15世紀までは,アラビア語やペルシア語が用いられていたのです。アラビア語は,宗教すなわち学問の言葉であり,ペルシア語は文学の言葉でもあります。16世紀以降は,トルコ語の一種オスマン語が用いられるようになります。当たり前のことですが,彼らには自分たちが「トルコ人」であるという意識などありません。現在の「トルコ」は,オスマン帝国が崩壊していく中で,アナトリア半島を領土にし,近代化によってヨーロッパ諸国に対抗しようとして建国された国なのです。


・1200年~1500年の西アジア  現⑭レバノン
 現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。

・1200年~1500年の西アジア  現⑯キプロス
 キプロス島は十字軍以降はローマ=カトリックの東地中海における拠点となっています。
 1192年に,元エルサレム王国であった〈ギー=ド=リュジニャン〉(1159~1194)が国王に即位し,1489年までリュニジャン朝となります。
 その後,リュニジャン家は断絶し,1489年以降はヴェネツィア共和国領となりました。

・1200年~1500年の西アジア  現⑱アルメニア
 アルメニアはモンゴル人の支配下に置かれますが,支配下では反乱も起きています。14世紀以降,キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)とイル=ハン国(フレグ=ウルス)【本試験H11地図:13世紀後半の領域を問う】がアゼルバイジャンの草原地帯をめぐって対立。アルメニアは,14世紀半ばにはペストの被害も受けています。
 その後,テュルク系の白羊朝,黒羊朝の支配,のちオスマン帝国の支配下に置かれます。1461年にはアルメニア人がオスマン帝国の〈メフメト2世〉により総主教に任命され,「エルメニ=ミッレト」という宗教的な自治組織をつくることが許可されたといいます(注1)。
 〈スレイマン1世〉は国内を35の州(エヤレット),下位区分として軍管区(県;サンジャク),郡(カザー)に編成して統治しました。このときアルメニアにはエルズルム=エヤレットが置かれています(注2)。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.62 
 オスマン帝国ではキリスト教やユダヤ教など非イスラーム教徒の宗教的な自治組織がつくられ,「ミッレト」【京都H19[2]】【追H30アッバース朝で認められたものではない】と呼ばれましたが,実態には不明な点も残されています。
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.63




●1500年~1650年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。



●1200年~1500年のアフリカ
◯1200年~1500年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆東アフリカのインド洋沿岸では港市国家が栄え,スワヒリ文化圏が生まれた

 エチオピア高原では 1270年には,パレスチナの古代イスラエル(ヘブライ)王国の〈ソロモン〉の末裔を自称する〈イクノ=アムラク〉が,ソロモン朝を創始します。
 14世紀には孫の〈アムデーシヨン〉が紅海沿岸にあったイスラーム教諸国を併合して,アデン湾からの交易ルートを確保しました。しかし,その領内は分権的でした。
 中国の明の皇帝〈永楽帝〉(1360~1424,位1402~24)は,イスラーム教徒の宦官〈鄭和〉(ていわ,1371~1434?)に南海遠征を命じ,その第4回~第6回の遠征では東アフリカにも寄港しています。第5回遠征では諸国がキリン,ダチョウ,シマウマ,ラクダが貢(みつ)ぎ物(もの)として差し出されました(⇒1200~1500の東アジア 中国)。
 ほかにも15世紀末にかけ,モガディシュ(現④ソマリアの首都モガディシオ(イタリア語読み)),マリンディ【本試験H27】(現⑤ケニアの港町。モンバサの北東約100km),モンバサ【本試験H30】(現⑤ケニア南東部。大陸部分とサンゴ礁島のモンバサ島から成ります)といった港市国家が,イスラーム教徒【本試験H27】(ペルシア商人やアラブ商人)との交易で栄えます。東アフリカ沿岸にはバントゥー系の言語にアラビア語をとりいれつつ変化したスワヒリ語による文化圏が広がり【本試験H19インド西海岸のカリカット周辺ではない,本試験H21】【H30共通テスト試行インドネシアの言語ではない】,イスラーム教。アラブ人とペルシア人のほか,ザンジュと呼ばれる黒人が住んでいました。

 1497年にはポルトガルの〈マヌエル1世〉の派遣した〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉【セ試行 時期(コロンブスがサン=サルバドル島に到達するよりも後のことか問う)】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】がリスボンを出発(7月8日)、喜望峰をまわり(11月22日)、モザンビークに到達(3月初め)。
 モザンビークの人々は見慣れない船団に動揺したに違いない。
 住民がイスラーム教徒であることを知った〈ガマ〉の一行は、キリスト教徒であることを隠すため沖に停泊したが、水と食料を得るために住民との交渉をせざるを得なくなった。しかし結局武力を行使することとなり、水場を守るモザンビークの人々に砲弾を浴びせ、地元の2人が殺害され、何人かが人質となった。翌日、ポルトガル人は水を手に入れるために上陸し、そのまま市街に入って当時知られていなかった銃を何発かぶっ放した。物資を得た〈ガマ〉の一行は、この一帯の慣わしであった港の使用料も支払わないまま、その後翌年1497年にはモンバサ、マリンディに寄港した(注1)。

 マリンディではインドからやってきた商船4隻に遭遇し、彼らがキリスト教徒であることに歓喜した(インド西南のケララ海岸にいるキリスト教徒である)(注2)。
 そして、現地の水先案内人を雇って4月後半にインド南西岸のカリカット【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】【同志社H30記】【セA H30西インド諸島ではない,アメリカ合衆国の20世紀末の拠点ではない】に向かいます。どうして4月後半かというと、4月~9月半ばまでが、東アフリカからインド亜大陸への航海に最適な季節風を利用できたからです。香辛料【追H18グラフ読み取り】の直接取引をねらったのです(南アジアはコショウの原産地)【追H9ポルトガルがインド洋に進出した理由を問う。インド亜大陸の支配・イスラム教徒からの聖地の解放・プロテスタントの布教の支援が目的ではない】。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.33-34。
(注2)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.35。



 東アフリカのインド洋沿岸はスワヒリ語の文化圏です。
 港市国家キルワ(現⑥タンザニアの首都ダルエスサラームの南300kmのインド洋に浮かぶ島にあります)では,13世紀にアラビア半島南部のイエメン系の支配者がイスラーム王朝を建てました。ここからは中国の貨幣や陶器も見つかっており,インド洋沿岸の交易ネットワークの広さが浮き彫りになっています(遺跡は,南方のソンゴ=ムナラ遺跡とともに世界文化遺産に登録されています)。
 モザンビークの港市国家ソファラ(現在のモザンビーク共和国の中東部のノヴァソファラ)からの金や,象牙・奴隷などを取引して栄えます。



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◯1200年~1500年の中央アフリカ 
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

中央アフリカの首長の連合体であるコンゴ王国は,ポルトガルとの交易を始める
 コンゴ川(ザイール川。現在の③コンゴ民主共和国南部から北に流れ,⑤コンゴ共和国との国境の一部となりながら西に向かい,ウバンギ川やカサイ川を併せながら大西洋に注ぎます)は,コンゴ盆地における重要な交通路として利用されていました。コンゴ川を用いて,内陸部と大西洋岸の間の遠隔地交易が盛んになるにつれて,14世紀末にバントゥー系のコンゴ人がコンゴ王国を建てました。熱帯雨林のうっそうと茂る中央アフリカのコンゴ盆地では大帝国は建設されにくく,コンゴ王国の実態も各地の首長の連合体のようなものでした。
 一方,レコンキスタ(国土回復運動)を終結させたポルトガル王国の商人は1482年にコンゴ王国に来航し,国王〈ンジンガ=ンクウ〉(位1470~1506)をキリスト教に改宗させました。王は1485年にポルトガルの〈マヌエル1世〉(任1495~1521)との間に対等な関係を結び,キリスト教の布教を認めました。その王子〈ムベンバ〉はポルトガルに留学し,のちに〈アフォンソ1世〉(任1506~1543)として国王に就任すると,コンゴのヨーロッパ化を進めていきます。




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◯1200年~1500年の西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

◆サハラ沙漠の交易ルートをマンデ人,のちにソンガイ人が掌握した

 西アフリカのニジェール川中流域ジェンネ(現・マリ共和国)にあるジェンネ=ジェノ遺跡では、400~900年の層から大量の骨壷が見つかり、人口が増加し集中していたとみられます。900年~1400年の初期にかけて町は最盛期を迎え、その後衰えていきました。

 またニジェール川流域では,1230年頃,イスラーム教に改宗したマンデ人の王〈スンジャータ〉(位1230?~55)がマリ王国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31ソンガイ王国とのひっかけ】【追H21】を建てました。その支配領域は,西はサハラ沙漠南縁から大西洋に注ぐセネガル川,東はニジェール川【追H26ティグリス川・ユーフラテス川流域ではない】の中流域のトンブクトゥ【追H26交易都市として栄えたか問う】【本試験H3「黄金の都」】【東京H9[3]】【H30共通テスト試行 金と岩塩の貿易が行われたか問う(生糸と銀、毛皮と薬用人参、香辛料を求めてヨーロッパ人が進出は、いずれも無関係)】(現在の⑭マリ共和国中部の都市)以東にまでおよびました。
 トンブクトゥからは沙漠の岩塩が,その西のジェンネ(◆世界文化遺産「ジェンネの旧市街」,1988(2016危機遺産))からは森林地帯の金が運ばれて栄えます。

 最盛期の〈マンサ=ムーサ〉(マンサは王の意。在位1312~37) 【本試験H31ソンガイ王国ではない】は,メッカを500人の奴隷とともに巡礼し,大量の金をロバ40頭で運んだ結果,マムルーク朝の首都カイロ【本試験H12首都はアレクサンドリアではない】の金相場が下落したほどだったといいます。伝説によれば使節の総数は77000人だったともいわれます。彼は帰国後に,トンブクトゥにモスクを建設しました。巡礼は,サハラ沙漠の横断ルートを開拓するためだったとも言われています。1353年には,〈イブン=バットゥータ〉(1304~1368?69?)がマリ王国の首都を訪問し,半年ほど滞在し,その様子を『三大陸周遊記』に報告しています。
 1464年に,稲作と漁労に従事していたソンガイ人【共通一次 平1:新大陸の民族ではない】は水軍を組織してニジェール川中流域のガオ(現在の⑭マリ共和国の中等部)を中心にソンガイ帝国【本試験H3「黒人王国」か問う】【本試験H31マンサ=ムーサ王はその王ではない】を築き,サハラ沙漠の交易ネットワークを支配【本試験H3】して栄えました。

 西アフリカの西端(現在の⑪セネガル)周辺は,ウォロフ人のジョロフ王国(14世紀~16世紀)が,マリ王国やソンガイ帝国との交易で栄えています。
 そこへ金の直接取引を目指してやってきたのはポルトガル王国です。1444年にセネガル最西端であるとともにアフリカ大陸の最西端であるカップ=ヴェール岬(これはのちにフランス人により命名されたフランス語で,もともとはポルトガル語でカーボ=ヴェルデ(緑の岬)という名で呼ばれていました(注2))にまで到達しています。このときセネガルの若者たちは一度ポルトガルに連行されてポルトガル語通訳として養成され,1455年に再びヴェネツィア商人による探検の際に同行させられました。このヴェネツィア商人の記録によれば,当時セネガル地域にはセネガ王国が栄えていたといいます。

(注1) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.117。
(注2)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.19。



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○1200年~1500年の北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
 現在の①エジプトでは1249年にはアイユーブ朝のスルターンが,第6回十字軍の戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517) 【京都H20[2]】【本試験H20世紀を問う】を,首都カイロ【本試験H12アレクサンドリアではない】に築きました。長年に渡る十字軍の過程で,テュルク(トルコ)系のマムルークらの軍隊の力が強まっており,〈アイバク〉が暗殺されると内紛が激化。そんな中,モンゴル帝国の〈フラグ〉(フレグ) 【本試験H11ガザン=ハンではない,本試験H12ロシアに遠征していない】【本試験H28ガザン=ハンではない】【追H21チンギス=ハンではない】がバグダードに入城してアッバース朝カリフを殺害し,多数の住民が犠牲となります。
 しかし,シリア【本試験H31】に進出した〈フラグ〉は〈モンケ=ハーン〉の死の知らせを聞いて退却を始めたため,マムルーク朝はアイン=ジャールートの戦いで勝つことができました【本試験H31マムルーク朝がシリアでモンゴル軍を撃退したか問う】。
 この勝利に貢献した将軍〈バイバルス〉がスルターンの〈クドゥズ〉を暗殺し,1260年にスルターン(位1260~77)として即位しました。1261年にはアッバース朝の末裔(まつえい)〈ムスタンスィル〉をカリフとして保護しています。

 その後,聖都であるメッカ(マッカ)やメディナ【本試験H22】(マディーナ)も保護下に入れ,すでに1258年にモンゴルの〈フレグ〉により滅んでしまったアッバース朝のバグダードに代わって,イスラーム世界の中心地として栄えました。メッカは10世紀以降は〈ムハンマド〉の子孫(シャリーフ)による政権が建っていましたが,周辺のイスラーム政権は権威付けのためにメッカの政権に介入してきました。マムルーク朝もメッカの政権に介入し,イル=ハーン国やインド洋交易で発展していたイエメンのラスール朝(1229~1454)と対立,14世紀末にはメッカを支配下に置くことに成功しました。マムルーク朝のスルターンは,毎年おこなわれるメッカ巡礼(ハッジ)を保護し,カーバ聖殿を覆う布を奉納しています。
 カイロを中心に経済も栄え,アラビア半島南部イエメンの港町アデンで,インド商人から東南アジアやインドの物産を受け取る中継ぎ貿易を行ったカーリミー商人が各地の物産を大量に運び込みました。カーリミー商人は,アデンから紅海に入ると,ナイル川上流に運び,ナイル川を下って下流のアレクサンドリア港で,イタリア諸都市(ヴェネツィアやジェノヴァ)に売り渡していたのです。

◆エジプトではサトウキビの生産がさかんとなり,カイロの学院はイスラーム世界の学問の中心地になった
カイロは,サトウキビと学問の都に
  1世紀のインドに始まったサトウキビ【本試験H11原産地はアメリカ大陸ではない。ニューギニア島原産】からの砂糖の生産は,7世紀頃イラン・イラク,そしてシリア・エジプトに広まっていました。この時期になると,エジプトではサトウキビからの砂糖生産が盛んになります。甘くておいしいアラブ菓子も,断食明けのエネルギー補給やお祭りなどのために作られるようになりました。この時期のカイロの繁栄を目の当たりにした人物として,『三大陸周遊記』をあらわした〈イブン=バットゥータ〉(1304~68?69?77?)がいます。彼はモロッコのタンジェ(タンジール)生まれで,アフリカからユーラシア大陸をまたぐ大旅行をした人物です。

 また,ファーティマ朝時代に設立された,カイロ【本試験H27アレクサンドリアではない】のアズハル=モスクに970年にもうけられた学院【本試験H16ニザーミーヤ学院ではない,本試験H21】は,はじめはシーア派の中のイスマーイール派の教育機関として設立されましたが,アイユーブ朝の時期にはスンナ派のイスラームの教義研究の名門となり,イスラーム世界各地から学者(ウラマー)が留学にやって来るようになっています。“入学随時・出欠席随意・修業年限なし”がアズハル学院の売り文句。現在では世俗教育もおこなっています。

 国家組織はスルターンを頂点とする中央集権的なものでした。スルターンの下で軍事行政・文書財政に携わることができたのはマムルーク軍人(法行政には当初はウラマーが担当した)で,閣僚や地方の州総督・県知事・地方官,軍団が組織されました。即位中のスルターンが保有するマムルークの発言権が高く,スルターンが交替するとマムルーク軍団同士で対立が生まれました。なお,マムルークには奴隷身分から解放されて自由身分となる道もあり,実力次第ではスルターンにまで上り詰めることもできましたが,その地位を世襲することは認められていませんでした。
 また,スンナ派の4つの法学派(シャーフィイー派,マーリク派,ハナフィー派,ハンバル派)を公認し,それぞれの大法官(カーディー)を頂点としたウラマー層による中央集権的な法行政組織が設けられました。これにより,スンナ派同士の対立が緩和されウラマー(学者)層に対する支配も強まりました。行財政組織はワズィール(宰相)を頂点とし,スルターンの財政,国家の財政,イクターの監督,文書行政がコントロールされました。

 マムルーク朝は1322年にモンゴル人支配層によるイル=ハーン国と和平を結びました。しかし,1347年以降の黒死病(腺ペスト)の大流行によりエジプトでは人口の3分の1が亡くなり,農村も貨幣経済も打撃を受け,マムルーク朝は衰退に向かいました。のち,1382年にカフカース地方のチェルケス人が初めてスルターンに即位し,1390年以降はチェルケス系の王朝がアラブ人住民を支配しました(1390年以前をバフリー=マムルーク朝,以降をブルジー=マムルーク朝として区別する場合もあります)。しかしその後はクーデタが多発し衰退に歯止めがかからず,農村の荒廃によりイクター収入が減少しマムルーク軍も弱体化しスルターンのいうことを聞かなくなっていきました。スルターンは銃砲を用いた黒人奴隷や都市のアウトロー集団により新軍を整備しましたが,そんな中エジプトに迫っていたのはアナトリア半島(小アジア)で急成長を遂げたオスマン帝国でした。


 イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国【追H25】と,北西部のアラゴン王国【追H25】は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。

 現在の④モロッコのマラケシュに都を置くムワッヒド朝では,ベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせ,1212年にラス=ナーヴァス=デ=トローサ(イベリア半島のコルドバ(現在のスペイン)の東)で敗北し,13世紀後半には滅びました【追H24 時期(13世紀に滅亡したか)を問う】。
 ムワッヒド朝が滅びると,⑦チュニジアではチュニス総督を務めていたベルベル人の一派ハフス家が独立を宣言し,ハフス朝を建国しました。
 また,④モロッコにはやはりベルベル人の一派がマリーン朝を建国。1269年にムワッヒド朝の都マラケシュを占領し,これを滅ぼしてムワッヒド朝の後継国家となりました。

 また,⑥アルジェリアにもベルベル人の一派によりザイヤーン朝が建国されました。
 ⑦リビアは東部(キレナイカ地方)はエジプトの政権,西部(トリポニタニア地方)は西方の政権の影響を受けましたが,アラブ系遊牧民の活動範囲でした。





●1200年~1500年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



◆十字軍は失敗に終わり,東方貿易・学問は活発化,教皇権は失墜,国王の権力は高まる
ヨーロッパの拡大運動が進むが、十字軍は失敗する

 前の時代から継続している十字軍は、人口増加にともなうヨーロッパの拡大運動の一つであるとともに、①アルプス以北の君主国の地中海進出、②地中海沿岸の都市国家・ローマ教皇による東方貿易の主導権の奪回の試みであったといえます(注)。
 とくにこの時代の初めには後者②の代表国であるヴェネツィア共和国が、ビザンツ帝国の首都を陥落させ一時滅亡に追い込み、短期間ではあるものの「ラテン帝国」を建国するという事件も起きています。

 第四回十字軍【追H17、H19】は,聖地までの物資輸送の資金が足りず,ヴェネツィア商人の資金力や櫂船・帆船を借りて実施されることになりました【本試験H25ウルバヌス2世ではない】。
 時の教皇は,〈インノケンティウス3世〉(位1198~1216) 【慶文H30記】のときで,教会法(カノン法)を根拠として教皇権を強化させていました(教皇権の絶頂【本試験H25】)。イングランドの〈ジョン王〉,フランスの〈フィリップ2世〉を破門し,「教皇は太陽,皇帝は月」という言葉を残したほどです。
 1215年の第四回ラテラノ公会議では,一般人の結婚に対する教会の管理強化,ミサにおける司祭の権利を拡大,ユダヤ人の服装規定といった事項が定められました。
 また,都市にのさばる教会に批判的な修道士に対抗し,民衆の支持を得るため,そして各地における情報を収集するために,信徒からの「告解」を聞いて相談にのるスペースが教会に設けられました。
 彼の提唱した王には,先進工業地帯として発達していたフランドル伯〈ボードゥアン9世〉が即位しています(皇帝在位1204~05)。
 ヴェネツィアのビザンツ様式のサン=マルコ大聖堂に飾られている四頭の馬の像は,このときにコンスタンティノープルから持って帰ったものです。ビザンツ皇帝は,ニケアに亡命政権を樹立し,生きながらえています(ニケア帝国)。
 エジプトを攻撃目標とした第五回十字軍(1218~1221)が失敗に終わると,神聖ローマ帝国〈フリードリヒ2世〉【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】に対して教皇が十字軍の実施を要求。〈フリードリヒ2世〉は要請に答えなかったので破門されましたが,破門状態のまま十字軍を開始しました。彼はアイユーブ朝の〈サラディン〉の死後,一族に相続されていたカイロやダマスクス間の対立を利用し,カイロを拠点とするアイユーブ朝のスルターンと提携する交渉を取りまとめ,イェルサレムを一時アイユーブ朝から奪回しています(注)。
(注)〈フリードリヒ2世〉による十字軍(無血十字軍)を,「第六回十字軍」としてカウントする場合もあります(その場合は,それ以降の回次は繰り下がります)。和約によりイェルサレムの統治権を〈フリードリヒ2世〉に譲渡したアイユーブ朝のスルターン〈カーミル〉はその後イスラーム教徒による厳しい批判にさらされ,1239年にはダマスクスの王により奪回されました。ダマスクスは,アイユーブ朝の〈サラーフ=アッディーン〉の一族の者が分割相続していて,半ば独立王国となっていました。

 第六回十字軍(1248~49)・七回十字軍(1270)は,フランス王国の〈ルイ9世〉(位1226~70) 【本試験H18シャルル7世ではない】がファーティマ朝,のちにマムルーク朝【本試験H20世紀を問う】に対して起こしました。チュニス【本試験H18イェルサレムではない】に派兵する現実的な案でしたが失敗しました。1249年にはアイユーブ朝のスルターンが戦時中に急死するとマムルーク軍が後継ぎのスルターンに対して反乱を起こして殺害し,クーデタにより〈アイバク〉(位1250~1257)がスルターンに選ばれマムルーク朝(1250~1517)をおこしました。死後に〈ルイ9世〉は教皇により聖人の位につけられています(称号は「聖王」(英語でセントルイス))。

 十字軍の主導権が国王に奪われていた一方,教皇も教義の整備に努めていました。しかし,12世紀以降イスラーム世界から伝わっていた古代ギリシアの〈アリストテレス〉の思想は,神を持ち出さずに,この世界について完全に説明しようとしたもので,神の存在によってこの世界の秩序を説明しようとしたキリスト教の神学者にとっては,脅威でありながら魅力も備えていました。

 ドミニコ修道会の〈トマス=アクィナス〉(1225?~1274) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】【追H9】は,師〈アルベルトゥス=マグヌス〉(1193?1200?~1280)による「キリスト教思想を〈アリストテレス〉の書いたテキストに即して,理性的に理解しなおそうとする」試みを受け継ぎ,〈アリストテレス〉の思想を批判的に読み砕くことでキリスト教の教義を組み立て直していきました【本試験H12「〈アリストテレス〉哲学がキリスト教の哲学に取り入れられ,これを体系化した書物が著された」か問う】。その成果である『神学大全』(1273) 【共通一次 平1】【追H9、H19アウグスティヌスの著作ではない、H21】【本試験H17】は,教皇がキリスト教の正しさを説明するときの重要な柱となっていきます。
 
 「…「神の本質」に関しては,第一には,神は存在するか…が考察されなくてはならないであろう。
 …次の3つのことがらが問題となる。
 第一 神が存在するということは自明的であるか
 第二 それは論証の可能なことがらであるか
 第三 神は存在するか」
 このような形で600あまりの命題と,各命題に対する反論・解答という形式で展開されています(注)。
(注)木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.419

 一方,〈アクィナス〉を唯名論の立場から〈フランチェスコ〉修道会の〈ドゥンス=スコトゥス〉(1265?~1308)が批判するなど,キリスト教の教義を理性的な立場から疑う動きも出始めていました。

 第六回・第七回十字軍以降は組織的な十字軍はなくなり,最終的に1291年に最後の拠点であったアッコン(現在のイスラエルの北部沿岸)が陥落して,終了しました。

 十字軍の期間には,イェルサレムに本拠地のあるテンプル騎士団,病院での医療奉仕を重視した聖ヨハネ騎士団【追H30リード文】のように聖地巡礼者を保護したり病院を設立する宗教騎士団【東京H6[3]】が活躍しました。バルト海東岸のケーニヒスベルクを中心とするドイツ騎士団領【本試験H21レコンキスタと無関係】のように,国家を形成したりキリスト教を東ヨーロッパや北ヨーロッパに布教したりする集団も現れました。
 なお,ヨハネ騎士団が十字軍時代に本拠を置いた城が,現在のシリアのクラック=デ=シュヴァリエです(◆世界文化遺産「クラック=デ=シュヴァリエとカラット=サラーフ=アッディーン」,2006(2013年危機遺産)。後者は「サラディンの城」という意味。)。
 ヨハネ騎士団は,のちにキプロス島,ロードス島【追H30リード文】,さらにマルタ島に拠点を移しています(◆世界文化遺産「ロドス島の中世都市」,1988。同「バレッタの市街」,1980)。

 ドイツ騎士団は,ポーランド王国から沿岸部を奪い,さらにバルト語派の民族とも戦って,バルト海沿岸にドイツ騎士団領を建設しました。これはのちのプロイセンの元になり,さらにはドイツ帝国の元になっていきます。ドイツ騎士団は,15世紀初めまでにバルト海の交易にも従事し,自らを主要産品の“琥珀(コハク)の王”と称していたといいます。しかし,1410年には急成長してきたスラヴ人のポーランドとリトアニアによりタンネンベルクの戦いで敗れ,領土の西半分を奪われ,東部もポーランドの宗主権下に置かれてしまいました。

 また,十字軍の失敗によって,言い出しっぺの教皇の権威は低下し,実際に遠征を指揮した国王の力が高まりました。逆に,火砲の導入もあって,騎士は没落に向かいます【本試験H8「長期にわたる十字軍とその失敗は,彼らの没落の一因となった」か問う】。
 それに対応して,13世紀以降は教皇庁の官僚組織が整備され,世俗の国家と張り合うことのできる行政機構を備えたいわゆる“教皇君主制”に発展していきました。今までの公会議や教皇の出した勅令もまとめられるようになり,15世紀半ばまでに『カノン法大全』がまとめられます。

 一方,宗教的な情熱のあまり,ユダヤ人に対する迫害も起きています。とくに14世紀中頃に黒死病(ペスト) 【追H26天然痘ではない】 【東京H27[1]指定語句】【本試験H15時期(10世紀半ばではない),本試験H19時期(12世紀ではない)】が流行した際には,「ユダヤ人が井戸に毒を入れたのだ」などの根も葉もない噂がヨーロッパ中に広まり,特に神聖ローマ帝国内部では虐殺なども起こりました。1462年には,帝国都市だったフランクフルト=アム=マインにユダヤ人居住区(ゲットー)が建設されています。ゲットーとしては,ベーメンのプラハのものも有名です。この頃,ドイツに居住していた多くのユダヤ人はポーランドに移住しました。人々の不安を反映し「死の舞踏」【本試験H24最後の審判の様子を表したものではない】という,あらゆる階級の人々がガイコツになって踊り狂う絵がさかんに描かれました。当時の人々にとって「死」は身近な存在であり,“メメント=モリ“(死を思え)というラテン語の標語は,現実世界よりも来世を重視する価値観のあらわれでもあります。

 地中海における人や物の移動が活発化したことで,東方貿易が盛んになり,イタリア諸都市が発展するきっかけにもなります。現在のクロアチアのアドリア海沿岸にある,赤レンガの美しい町並みで知られるドゥブロヴニク【追H28リード文】はその美しさから「アドリア海の真珠」とも称され,古来東ローマ帝国やヴェネツィア共和国,ハンガリー王国などの支配を受けていました。
 1358年になるとラグサ共和国として自立し,地中海交易で栄えます(◆世界文化遺産「ドゥブロヴニクの旧市街」,1979(1994範囲拡大))。

 イタリアには,古代のギリシアやローマの文献を保存・翻訳していたイスラーム世界やビザンツ帝国の研究成果が伝わり,これらの成果にもとづき,今後「ルネサンス」(文芸復興)が起こっていくことになります。

(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.127。






○1200年~1500年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ


・1200年~1500年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現在の①ロシア連邦,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ
ウクライナはポーランド、リトアニアに分割される
 キエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)がモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H18】に服属すると,東方のスラヴ人地域にも拡大するようになっていきました。1387年にローマ=カトリックを国教としましたが,スラヴ人の人口が多いため正教会の信仰も認められました。実際,リトアニア大国国の支配層は,スラヴ語派のルーシ語(ベラルーシ語の元)を話しており,貴族の多くがルーシ人(のちのベラルーシ人)でした。
 ドイツ騎士団に対抗するため,1386年にリトアニア大公国の〈ヨガイラ〉は,ポーランド王国の娘と結婚します。
 これにより,ポーランドとリトアニアは同君連合(ヤギェウォ(ヤゲロー)朝【追H27ノヴゴロド国ではない】【東京H6[3]】)となり,東ヨーロッパの強国,いや,ヨーロッパ最大の強国に発展していきます。最大領土は,黒海沿岸のウクライナにまで及び,1410年にはグルンヴァルト(ドイツ語ではタンネンベルク)の戦いでドイツ騎士団を撃退することにも成功しました。

 東スラヴ人のキエフ(大)公国(キエフ=ルーシ)は,13世紀にはモンゴル人の〈バトゥ〉【京都H20[2]】【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ】【追H25ロシア遠征したか問う】が遠征隊の攻撃を受け,約240年にわたるモンゴル人の支配下に置かれることになりました。このモンゴル人による支配期間のことを,ロシアでは「タタールのくびき」といいます(「くびき」(軛;頸木)というのは,車本体から前方に伸びた轅(ながえ)という日本の棒の先に,横にかけられた横木のことで,これを牛の首にひっかけて車をひかせるものです。この時期にロシアは,タタール人(モンゴル人のこと)によって首に横木をかけられて,大変な目にあったのだという比喩(ひゆ)です)。

 キエフ(大)公国の政治・社会・文化は、現在の西ウクライナの地に栄えたハールィチ=ヴォルィーニ大公国(ハーリチ=ヴォイルニ公国)に継承されます(注1)。キエフ=ルーシ(キエフ(大)公国)の後継者としてリューリク朝を存続させるとともに、モンゴルの進出に対して中央ヨーロッパ・西ヨーロッパを防衛する役割を果たしました。
 しかし、ポーランド王〈カジミェシュ3世〉(大王、位1333~70)の東方進出により、1340年代にヴォイルニはリトアニアに、ハールィチはポーランドに併合され、リトアニアとポーランドはハンガリーも含めハールィチ=ヴォルィーニ戦争となります。結果的に1392年にハールィチ=ヴォルィーニ大公国の領域ははポーランド領(ハールィチ公国つまりガリツィア)とリトアニア領(ヴォルィーニ公国つまりヴォルヒニア)に分割されることとなりました。
 その後のウクライナは17世紀なかばにコサックが中心勢力になるまでの間、ポーランド、リトアニア、そして後述するモスクワ大公国の支配下に入ります。キエフ=ルーシの時代から分化し始めていたロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語もそれぞれ独立した言語となっていきます。「ウクライナ」という地名やコサックが生まれたのものこの時期のことです(注2)。




ロシアではモスクワ大公国が強国化する
 その後、ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)のもとで「大公」(ロシアでは「王」を表す称号です)の位を授かったモスクワの〈イヴァン1世〉(位1325~40)のモスクワ大公国は,周囲の諸国からの徴税の請負で発展し,〈ドミトリー=ドンスコイ〉大公(位1359~89)がクリコヴォの戦い(モスクワの南東)でジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国,金帳汗国)を破りました。
 ジョチ=ウルスは,その後複数のハン国に分裂していきます【本試験H15ジョチ=ウルス(キプチャク=ハン国は19世紀後半のロシアによって併合されたわけではない)】。

 宗教面では、1326年にキエフ府主教座がモスクワに置かれることとなりました(注3)。

 1453年に東ローマ帝国が滅亡すると,最後の皇帝の姪(めい)〈ゾエ(ソフィア)〉が,モスクワ大公に嫁ぎました。〈イヴァン3世〉【本試験H20世紀を問う】は,「滅んだ東ローマから,ローマ皇帝の位がわれわれモスクワ大公に移ったのだ!」と主張し,自らをローマ皇帝(ロシア語でツァーリ【本試験H28】【追H21 13世紀ではない】)と自称しようとしたという説もあります。ただ実際には当時のロシアにおける「ツァーリ」には「王」程度の意味合いしかなく,どちらかというと「ハーン」(モンゴル人(この地域のモンゴル人はタタル人といいます)の君主)の意味が強いものでした(ツァーリ=皇帝ではないのです) 【本試験H31ツァーリ(皇帝)の称号を用いたか問う(大学入試センターによると「用いた」が正解)】。
 こうして1480年には,モンゴル人の支配から完全に脱却したのです【本試験H7ノヴゴロド公国(ママ)ではない】。
 彼はイタリア人の建築家を招き,モスクワにギリシア正教の壮麗な聖堂(ウスペンスキー大聖堂)を建てさせました(◆世界文化遺産「モスクワのクレムリンと赤の広場」,1990)。

 〈イヴァン3世〉の孫である〈イヴァン4世〉(雷帝,在位1533~84) 【京都H22[2]】【本試験H6】【本試験H18聖職者課税問題とは無関係】は,モスクワのウスペンスキー大聖堂で戴冠式をおこない,さらに中央集権化をすすめていきました。1547年には公式にツァーリの称号(「偉大なる君主,全ルーシ,ヴラディミル・モスクワ・ノヴゴロドのツァーリにして大公」)を使い【本試験H6】,貴族を抑える恐怖政治をおこない権力を拡大させていきました。さらに,南ロシアに残存していたモンゴル人の諸国家(モスクワ東部カザン=ハン国,ヴォルガ川西部のアストラハン=ハン国)を併合し(注4),「カザンのツァーリ,アストラハンのツァーリ」という称号も付け加えました。

(注1) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.26。ハールィチ=ヴォルィーニ大公国はキエフ=ルーシの南西部ハールィチ〔ハーリチ〕公国とヴォルイニ公国が、ヴォルイニ公〈ロマン〉(位1173~1205)により合併されてできたもので、1200年には一時キエフを占領。1240年にキエフが陥落した後も存続します。息子の〈ダニーロ〉(位1238~64)はキプチャク=ハン国の〈バトゥ〉に臣従の礼を示したものの、ローマ教皇に十字軍計画を持ちかけています(実行には移されませんでした)。〈ダニーロ〉はリヴィウ(ロシア語名はリヴォフ)を建設し、のちのウクライナ西部の中心都市となります。
 ハールィチはロシア語では「ガーリチ」といい、英語ではガリシアとかガリツィアと呼ばれます。
(注2) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.60。
(注3) 「キエフと全ルーシの府主教」と名乗っていました。13世紀中頃にモンゴル人に征服されると、実際に府主教は北東ロシアのウラジーミルやモスクワに住むようになっていました。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.72。
(注4) 多民族を含む複数の領域に分かれ,その中に階層的な秩序がつくられている国のことを「帝国」(山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003))と定義することが増えており,それに基づく立場からみると,この時点からロシア人の国家(ロシア国家)は「ロシア帝国」と呼ばれます。




・1200年~1500年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現③ラトビア
 リトアニアの北部では,ルト語派のラトビア人が,13世紀以降に入植したドイツ人(ドイツ騎士団など)によってキリスト教化されていきました。バルト海方面へのキリスト教世界の拡大運動を北方十字軍ということがあります。ドイツ人の住民は,その後もこの地で影響力を残し続けました。




・1200年~1500年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現④リトアニア
リトアニアはスラヴ圏に進出して大国に成長する
 スラヴ系でもなくゲルマン系でもないバルト語派のリトアニア人は、ポーランド北部のカトリック公の求めもあり、ドイツ騎士団を招いて防備のため定住させました。
 しかしこのドイツ騎士団と戦っているうちにリトアニア人の勢力もアップし、〈ミンダウガス〉(1200?~1263,ポーランド名はミンドーウェ)が1236年に統一して1251年にキリスト教に改宗,1253年にローマ教皇によって国王が与えられました(ただし「王」を名乗ることができたのは,彼の一代限りです)。
 〈ミンダウガス〉はハールィチ=ヴォルィーニ大公国の第2代〈ダニーロ〉と対立するなど、南部・東部のスラヴ人に対して進出しようとしました。
 しかし彼の死後には,リトアニア大公国は西からはドイツ騎士団,東からもドイツ人のリヴォニアによる進出を受けるようになり、南部・東部への進出は阻まれます。
 リトアニア大公となった〈ゲディミナス〉(位1316~41)はそれを打開、現在のベラルーシの大部分とウクライナ北部を領域とします。首都をヴィルニュスとして「リトアニアとルーシの王」を自称。彼の血筋は、ロシアやポーランドの多くの名門貴族の祖となりました(注1)。

 その後もリトアニアは拡大を続け、1362年にキプチャク=ハン国と戦って、ヨーロッパ側で最初の勝利をおさめます。
 さらにウクライナ中部ポディリアを征服してハールィチ地方以外の全ウクライナとベラルーシ(かつてのキエフ=ルーシ〔キエフ(大)公国〕の半分以上)の領域をおさめました。
 リトアニア人はスラヴ人の地域に拡大すると、貴族の多くは正教会に改宗し、ルーシの言語である「ルテニア語」が公用語となりました(注2)。

 その後、ポーランド王〈カジミェシュ3世〉(大王、位1333~70)が跡継ぎを残さず亡くなると、ポーランド、リトアニア、ハンガリーの君主継承が複雑化。
 ポーランド王はハンガリー王〈ラヨシュ1世〉(ポーランド語名ルドヴィク、位1370~82)が兼ねますが、〈ラヨシュ〉も男子がなかったので三女の〈ヤドヴィガ〉(ポーランド女王位1384~99)と、その将来の夫にポーランド王が継承されることに。
 そこで候補にあがったのが、リトアニア大公〈ヨガイラ〉(ポーランド語名はヤゲウォ)であったのです。

 リトアニアにとってみると、ドイツ騎士団からモスクワ大公国に対抗するにはポーランドとの友好は不可欠。
 ポーランドにとってみても同様です。
 こうして1385年にリトアニアをポーランド王冠に編入する約束(クレヴォの合同)が成り、1386年に2人の結婚、そして〈ヨガイラ〉がポーランド王(ポーランド名はヤゲウォ、位1386~1434)とリトアニア大公(位1377~92)を兼ねる形でポーランドとリトアニアの合同が成ったわけです(注3)。

 合同といっても、ポーランドとリトアニアは独自性を保っていました。リトアニアはこの時期〈ヴィタウタス〉大公(位1392~1430)が絶頂期で、ドニエストル川からドニエプル川にまたがり黒海にも到達する大領域を支配(注4)。 
 しかし次第にポーランドの勢力が強まっていくことになります。

(注1) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、pp.61-62。
(注2) キエフ=ルーシの伝統が「モスクワではなくリトアニア(大)公国によって継承された」といわれるゆえんです。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.63(「大」の一文字は筆者が追加)。
(注3) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.65。
(注4) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.66。


○1200年~1500年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ

◆〈フリードリヒ1世〉は十字軍に参加,〈ハインリヒ5世〉はシチリア島に進出,〈フリードリヒ2世〉は近代的な国家機構を整備しドイツ騎士団による東方植民を支援
「ドイツ人」の拡大運動が,ドイツ王により推進へ
 ここでいう「ドイツ」は,ほぼ神聖ローマ帝国【追H30「14世紀中頃~15世紀末の神聖ローマ帝国の版図」を選ぶ問題】の領域のうちイタリアを外した地域のこと。かつての東フランク王国の領域です。
 「神聖ローマ帝国」というおおげさな名前を付けた以上,この皇帝はローマのあるイタリアに進出しようと必死。しかし,これがなかなか難しい。ドイツでは皇帝の権力は強くなく,諸侯の独立性も強まっていきました【本試験H3神聖ローマ帝国の権力が次第に弱体化していき,次第に諸侯の独立性が強まったか党】。

 そんな中,中世温暖期を迎えていたヨーロッパでは人口が急増し,外へ外へ拡大する必要が出てきます。
 神聖ローマ帝国の領内のドイツ語を話すドイツ人の受け入れ先として,シチリア島が設定されましたがうまくいかず,ついにエルベ川【H30共通テスト試行】を東【H30共通テスト試行】に越えた「東方」への植民計画が実行に移されていきます。これが「ドイツ植民運動」です【H30共通テスト試行 移動経路はヨーロッパから西アジアにかけてではない。エルベ川以東でドイツ騎士団が中心となって行ったか問う】。

 さて,神聖ローマ帝国とローマ教皇との間に引き起こされていた叙任権闘争【追H17叙任権闘争の結果東西教会の分裂が起きたわけではない】は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に結ばれたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみていました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリン(教皇党【本試験H3】)と,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフ(皇帝党【本試験H3】)との間に内乱が勃発しました。

◆フリードリヒ1世
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策【本試験H8】を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それに対し,ミラノ【追H26北ドイツ・バルト海沿岸都市ではない】を中心にロンバルディア同盟【追H26】【本試験H19】が結成されます。彼はローマ法を整備し君主国の体制を強化しようとしましたが,あまりにイタリアに首を突っ込みすぎたため,国内の諸侯の力をじゅうぶんに押さえることはできませんでした【本試験H8「イタリア政策は,ドイツにおける集権化を促進した」わけではない】。

◆ハインリヒ6世
 〈フリードリヒ1世〉の後継〈ハインリヒ6世〉も意欲的な神聖ローマ皇帝でした。まず,ノルマン=シチリア王国の継承者〈コンスタンツァ〉と結婚し,ローマ教皇を南北から圧迫(北の神聖ローマ皇帝 vs ローマ教皇 vs南のノルマン=シチリア王国という構図)。ノルマン人の支配層を弾圧し,シチリア島へのドイツ人の植民をすすめます。

◆フリードリヒ2世【本試験H8同名のプロイセン王との混同に注意】
 しかし〈ハインリヒ6世〉は,若くして死去。シチリア島民の抵抗も起こる中,〈コンスタンツァ〉は孫〈フェデリコ〉とともにシチリア島でローマ教皇〈インノケンティウス3世〉の保護下に置いてもらう戦略をとりました。こうして,アラビア語など多言語に堪能(たんのう)となった〈フェデリコ〉は〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】【慶文H29】としてシチリア島を相続し,神聖ローマ皇帝にも選出されます。
 彼はシチリアの宮廷で官僚制を整備するとともに,ドイツ騎士団【H30共通テスト試行】を支援しました(騎士団総長の〈ザルツァ〉(任1209~1239)を支援)。彼らはバルト海沿岸に侵入し,先住のバルト系プルーセン人の支配とキリスト教化に成功します。これがのちのプロイセンのもととなります。その開拓のためにドイツ植民運動【H30共通テスト試行 移動方向を問う】が盛り上がっていったわけです。
 〈フリードリヒ2世〉はイタリア北部への拡大政策をとったため,諸都市はロンバルディア同盟を結成しています【本試験H30】。



○1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
◆〈フリードリヒ2世〉は拠点をドイツに置かず,ドイツは領邦国家となっていった
イタリア政策を重視するあまり,ドイツは不統一
 さて,〈フリードリヒ2世〉は,地中海の十字路ともいわれるシチリア島で,イスラーム教徒たちとも交遊しながら,幅広い知識を身に着けていた人物です。第五回十字軍では,イスラーム教徒間の争いを利用して,イェルサレムをアイユーブ朝の〈アル=カーミル〉との外交交渉で開城してしまうというスゴ腕の持ち主です。ただイスラーム教徒とべったりしているように見えた彼の行為には批判も多く,教皇から破門された状態での十字軍となりました(「破門十字軍」といいます)。
 また,教皇の下で設立されたボローニャ大学に対抗して,ナポリ大学も開いています。

 しかし,ドイツを留守にしがちだった〈フリードリヒ2世〉はドイツの領邦の機嫌をとるために,“独立国”であることを事実上認める妥協をしてしまいました(「諸侯の利益のための協定」)。こうして領邦は,皇帝から貨幣の発行権や裁判権などを認められて“領邦国家“へと発展していきました。彼の時代に東方に植民したドイツ騎士団も有力な領邦として,のちのプロイセンにつながっていきます。
 ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。
 有力諸侯による選挙で神聖ローマ皇帝が決められる仕組みもありましたが,「誰を選挙するか」を巡って難航したのです。「強力なリーダーシップを発揮できる強い人」が神聖ローマ皇帝になってくれればよいかというと,そういうわけでもありません。そんな人が皇帝になってしまったら,「自分の領邦がとりつぶされるかもしれない」と不安になりますし,ローマ=カトリック関係者も「ローマ教皇や教会に口出しをするようになるかもしれない」と危ぶみます。だから,みな強い皇帝を望まないわけです。
 1273年には,しかし,当時シチリア王に即位していたアンジュー家の〈カルロ1世〉が,フランスの王を神聖ローマ皇帝に就任させてローマ帝国を復活させようともくろんだことに対して,1273年に「フランス王が神聖ローマ皇帝につくよりは,もっと弱いハプスブルク家【本試験H26ホーエンツォレルン家ではない】の〈ルドルフ1世〉についてもらったほうがマシだ」ということで,ドイツ王兼神聖ローマ皇帝に就任させることを決定しました。
 こういうわけで,当時はまだ弱小諸侯だったハプスブルク家の〈ルドルフ〉(位1273~91)に,“大空位時代”に使い始められた「神聖ローマ皇帝」の称号が与えられました。名前だけで,実質的には“神聖”でも“ローマ”を支配しているわけでもありません。
 なお,教皇の取り決めで,ホーエンシュタウフェン朝の支配していたシチリア王国は,シチリア島がイベリア半島北東部のアラゴン王国に,ナポリ王国はフランスのアンジュー家に分割されて相続されました。



○1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
◆ハプスブルク家がオーストリアを拠点に成長する
オーストリアのハプスブルク家が成長 スイスは抵抗
 ハプスブルク家【本試験H4ヤゲウォ朝とのひっかけ】は11世紀にスイス北東部に“鷹の城”(ハビヒツブルク)を築いたことが発祥の弱小貴族でした。しかし,〈ルドルフ1世〉(位1273~91)は,ベーメン(ベーメンはドイツ語。ラテン語ではボヘミア) 【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域には含まれない】の〈オタカル2世〉(当時オーストリア公にも就任していました)からオーストリアを奪うと一気に強大化します。これ以降,ハプスブルク家の拠点はオーストリアとなります。でもオーストリアの獲得により,力がつきすぎてしまったハプスブルク家は,今後は諸侯に敬遠され,ドイツ王位が巡ってこなくなってしまいます。

 のちに1291年に,スイスのウリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデンの3州が,神聖ローマ皇帝に抵抗してスイス盟約者同盟を結成しました。これが現在のスイスの起源です。共和政が重んじられるとともに,スイス兵はヨーロッパ諸国で優れた傭兵として知られました。1499年にはシュヴァーベン戦争により,神聖ローマ帝国から実質的に13州が独立しました。


 神聖ローマ皇帝の位を巡り,“大空位時代”のような混乱が起きてしまっては,ドイツ地方はフランスやイングランドの進出を受けるおそれもでてきます。そこで,「皇帝を選ぶための手続きや原則が必要だ」という話になりました。
 こうして,ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉であり,神聖ローマ皇帝に即位していた〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【追H27 時期を14世紀か問う】【本試験H23】によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H27時期が14世紀か問う、H30】【立教文H28記】です。7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。
 彼はボヘミア王とハンガリー王も兼任し,神聖ローマ帝国の首都はプラハに移されて,「黄金のプラハ」と呼ばれ栄えました。

 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【東京H18[3]】【追H27アリウス派を異端としていない】【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,ローマ教皇の権威を確認して教会大分裂(シスマ)(1378~1417) 【セA H30】を終結させるとともに,〈フス〉派【東京H18[3]】【本試験H29】や〈ウィクリフ〉派【追H27イギリスの人ではない、時期が14世紀か問う】【本試験H22 15世紀ではない,本試験H30】を異端として,〈フス〉【追H19】を火刑【本試験H29】としました【H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】。このとき祭壇に掲げられていたのは,『聖書』と〈トマス=アクィナス〉(1225?~74) 【共通一次 平1〈アウグスティヌス〉ではない】の『神学大全』【共通一次 平1】でした。

 ベーメンにおける〈フス〉【追H19】【東京H18[3]】の教会批判は,ドイツ人(神聖ローマ帝国)の支配に対する批判の意味も込められており,〈フス〉支持者が反ドイツのフス戦争(1419~36) 【追H26ポーランドではない】【本試験H17時期・地域,H22】【セA H30時期】を起こします。チェック人の民族運動の側面もあったということです。

 1438年の〈アルブレヒト2世〉(ドイツ王在位1438~39)以降,神聖ローマ皇帝は,ハプスブルク家が事実上世襲するようになっていきました【本試験H26時期,ホーエンツォレルン家ではない】【本試験H8プロイセン王ではない】。「汝,結婚せよ」の家訓のもと,ハプスブルク家はヨーロッパの名門家系に一族を嫁がせまくり,ヨーロッパの支配階層の乗っ取りを初めていきます。
 なお,神聖ローマ皇帝の〈フリードリヒ1世〉と〈2世〉のころ,ドイツ人の東方植民が盛んになりました【H30共通テスト試行 人の移動方向を問う(ヨーロッパから西アジアへの移動ではない)】。12世紀にはブランデンブルク辺境伯領が成立【本試験H30キエフ大公国とのひっかけ】,13世紀にはドイツ騎士団が成立しました。ブランデンブルク辺境伯は,1356年の金印勅書により選帝侯国となり,神聖ローマ皇帝を選ぶ権利を獲得し,のちに南ドイツの名門によるホーエンツォレルン家【追H29スペインの王位を獲得したことはない】の支配を受けるようになりました。




○1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
◆ハプスブルク家が「結婚政策」によりブルゴーニュとスペインを獲得した
 さて,ハプスブルク家にはしばらく王位・皇帝位が回ってきませんでしたが,1440年に〈フリードリヒ〉がドイツ王に即位し,さらにローマで神聖ローマ帝国皇帝〈フリードリヒ3世〉に即位すると,勢力を盛り返します。一方,ハプスブルク家は,ヨーロッパの名門貴族と一族を親類関係にする戦略(結婚政策)を開始。〈フリードリヒ〉の息子〈マクシミリアン〉は,当時栄華を極めていたブルゴーニュ公国に接近します。ブルゴーニュ公国はスペインとフランスの干渉に悩まされており,ハプスブルク家と提携する理由がありました。彼は女公〈マリー〉と1477年に結婚し,マリーの父〈シャルル豪胆公〉が戦死するとブルゴーニュ公国を領有しました。
 2つ目に,スペイン王女の〈ファナ〉と王子〈ファン〉に,〈マクシミリアン1世〉は息子と娘をそれぞれ嫁がせることに成功。フランスを“挟み撃ち”にしようという意図から実現したのですが,運良く(?)スペイン王家が断絶したことで,1516年にスペインを領有しています。




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・1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド

◆ドイツ騎士団の影響が強まり圧迫され、リトアニアとの連合を選ぶ
ドイツ人の進出に対し、リトアニアとの連合で対抗

 西スラヴ人のポーランド人,チェック人【本試験H30ハンガリー人とのひっかけ】,スロヴァキア人は,ローマ=カトリック【慶文H30「10世紀にポーランドが受容したキリスト教の宗派」を問う】に改宗し,ラテン語の文化圏に入っていました。


ピアスト朝―ドイツ騎士団からの圧迫が強まる

 10世紀初めにピアスト朝を建国したポーランド人は,内紛により分裂していました。

 そんな中,モンゴル人の〈バトゥ〉【本試験H11ガザン=ハンとのひっかけ,本試験H12フラグではない】【追H25ロシア遠征したか問う】の侵攻を受けます。

 ポーランドの諸公国は,ドイツ騎士団とともにモンゴル人を撃退することに成功しましたが,その後東方植民やドイツ騎士団の誘致によってドイツ人の人口は増え続けていきました。移民の労働力を用いて農業生産力は拡大し,ドイツ商人が流入したことから都市も多く建設されました。
 具体的には現在のワルシャワのあるマゾフシェ侯〈コンラト〉が1226年にバルト海沿岸の異教徒であったプロイセン人やリトアニア人にカトリックを伝えようと、ドイツ騎士団を雇い入れると、騎士団はヴィスワ川中流に都市(ヘウムノやトルン)を建設し、ポーランドを圧迫。
 ドイツ騎士団は1237年にラトヴィアからエストニアにかけての「刀剣騎士団」(リヴォニア騎士団)と合同し、さらに強大化します(注1)。


 一方ドイツ商人とともにユダヤ人も1264年に〈ボレスワフ敬虔公〉(1221?~1279)によって発布されたカリシュ法により誘致され,移動してきました。ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人は,ポーランドに来れば信仰が守られることを知り,押し寄せて来たのです。


ピアスト朝 ―〈カジェミェシュ大王〉の時代に国力が回復
 1320年にはヴィスワ川上流(ポーランド南部)のクラクフで〈ヴワディスワフ=ウォキェテク〉(位1320~33)がポーランド王に戴冠され、統一の機運が盛り上がる中,14世紀前半にその子〈カジミェシュ大王〉(位1333~70、ポーランド史上唯一の「大王」です)が即位(注2)。
 ドイツ騎士団に領土を譲ることで争いを避け,ボヘミア王国の拡大を押さえつつ,防衛力を強化しウクライナの領土を獲得し王権を強めることに成功しました。
 内政では経済改革に着手、クラクフに大学を設置(のちのヤギェウォ大学)し,ユダヤ人を手厚く保護しました。
 これを15世紀の年代記編纂者〈ヤン=ドゥゴシュ〉が、大王のことを「(ポーランド)を木の国から煉瓦の国へ」変えた王と評しています(注3)。


 大王の死によって男子継承者のいなかったピアスト朝は断絶。
 フランスのアンジュー家出身のハンガリー王〈ラヨシュ1世〉(ポーランド名はルドヴィク、位1370~82)が王位を継承しました(注4)。彼は長女〈マリア〉に王位を継がせようと、1374年にポーランドの中小貴族に免税特権を与えました。〈ラヨシュ1世〉にも男の子の後継ぎがいなかったのです。

 しかし,ドイツ騎士団の勢力は強まる一方。
 そこで,バルト海沿岸でまとまっていたバルト語系のリトアニア人と手を結び,ドイツ人に対抗しようとする動きが出てきます。


 早速,〈ラヨシュ1世〉の次女〈ヤドヴィガ〉(位1384~1399)がポーランド初の女王国王として即位させられました(当時11歳)。
 そして,リトアニア大公国【慶文H30】の〈ヨガイラ〉と結婚させるため、1385年にリトアニアのヴィリニュス(ポーランド名はヴィルノ)近郊のクレヴァ(ポーランド名はクレヴォ)に集まって、〈ヨガイラ〉(ポーランド名はヤゲウォ)をカトリックに改宗させました。
 そして〈ヨガイラ〉(ポーランド王在位1386~1434)は〈ヤドヴィガ〉と結婚してともにポーランド王となることが決められ(クレヴォの合同)、1386年に正式に共にポーランド国王に即位しました(〈ヤギェウォ〉は〈ヴワディスワフ2世〉(位1386~1434)。として即位)(注5)。
 ポーランドにとってもリトアニアにとっても、“共通の敵”はドイツ騎士団だったのです。

 こうして,リトアニア大公国【本試験H13】はポーランド王国と合同してヤゲウォ(ヤゲロー)朝【東京H6[3]】【本試験H4ハノーヴァー・ハプスブルク・ロマノフではない,本試験H7イヴァン4世は無関係】【本試験H14ポーランド分割によって滅亡したわけではない,本試験H30ハノーヴァー朝ではない】のリトアニア=ポーランド王国【本試験H20世紀を問う】を立ち上げ,共同してドイツ騎士団に立ち向かう体制を整えたのです。

 15世紀にはドニエプル側下流域のウクライナ西部にまで進出し,黒海沿岸にいたる大帝国を形成しました。これにより,バルト海と黒海を南北に貫(つらぬ)く交易ルートを支配し,リトアニア=ポーランドは黄金時代を迎えます。
 1410年には,ポーランドとリトアニアの連合軍がグルンヴァルトの戦い(ドイツ語ではタンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団に勝利しています(注6)。しかし、騎士団領の首都であるマリーエンブルク(ポーランド名はマルボルク)を陥落させることはできませんでした(グダンスクの南東に位置する)。

 〈ヴワディスワフ2世〉の長男は〈ヴワディスワフ3世〉(位1434~44)としてポーランド王に10歳で即位。そこでクラクフ司教が政務を代行しました。彼はハンガリー王にも即位(位1440~44)しますが、オスマン帝国とのヴァルナの戦い(ヴァルナは現ブルガリア東部)で戦死しました(注7)。

 その後〈ヤン1世〉(位1492~1501)のとき、1493年にポーランド初の全国会議が開かれます。これは身分制議会で、王、元老院、下院の3者で重要議題が話し合われることとなりました(注8)。


(注1) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.8。
(注2) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、pp.8-9。
(注3) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.9。
(注4) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.14。
(注5) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、pp.14-15。
(注6) グルンヴァルトの戦いは、ドイツにとって20世紀にいたるまでポーランドとの対決・復讐のシンボルとなりました(⇒1870年~1920年のヨーロッパの「タンネンベルクの戦い」(第一次世界大戦中の戦い)を参照)。志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.60。
(注7) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.16。
(注8) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.17。


・1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②・③チェコ,スロヴァキア
 ルクセンブルク家のベーメン王(位1346~1378)〈カレル1世〉は,1355年に〈カール4世〉(位1355~1378)【東京H18[3]】【本試験H23】として神聖ローマ皇帝に即位。彼によって1356年に出されたのが「金印勅書(黄金文書(おうごんもんじょ))」【東京H18[3]】【本試験H19ユトレヒト条約ではない,H23】【本試験H8】【追H30】【立教文H28記】です。
 7人の「選帝侯」が決められ,彼らによって神聖ローマ帝国の皇帝が選挙されることになりました【追H30世襲されることになったわけではない】【本試験H8諸侯権力を制限し,皇帝権力の優位を確立したわけではない】。

 彼はボヘミア王とハンガリー王も兼任し,神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され,プラハの市域は拡大されて新市街が建設され,ヴルタヴァ〔モルダウ〕川の東岸・西岸を結ぶカレル橋や,王宮,1365年に建設されたティーンの聖母聖堂などは,「黄金のプラハ」と讃えられます(◆世界文化遺産「プラハの歴史地区」,1992(2012範囲変更))。



・1200年~1500年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④ハンガリー
◆バルカン半島西部ではハンガリー王国が強大化し,オスマン帝国の進出を受ける
 フィン=ウゴル語形ウゴル語派のマジャール人は,ウラル山脈周辺のヴォルガ川中下流域を現住地とし,ドナウ川中流域のパンノニア平原で10世紀末にハンガリー王国を建国していましたが,次第にドナウ川上流からはドイツ人の圧迫,下流からはオスマン帝国の圧迫を受けるようになっていきます。
 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402) 【早・政経H31スレイマン1世ではない】に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。




○1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆ビザンツ帝国は,第四回十字軍で首都がヴェネツィアに占領され,のちオスマン帝国により滅ぼされる
バルカン半島はオスマン帝国の支配下に置かれる
 第四回十字軍【追H17,H19】のときに,ヴェネツィア共和国【本試験H12フィレンツェではない】の商人がイェルサレム奪回の目的からそれ,商圏獲得のためにコンスタンティノープル【追H17イェルサレムではない】を攻略してしまったため,ビザンツ帝国はニケア帝国(1204~61)という亡命政権を建てました。

 一方のヴェネツィア主導の十字軍は,コンスタンティノープル【本試験H30】にラテン帝国【本試験H29第七回十字軍ではない】を樹立しましたが,その後東ローマ帝国は1261年にジェノヴァの支援を受けてコンスタンティノープルを奪回して復活します。

 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。
 しかし,1453年にオスマン帝国の〈セリム2世〉の攻撃でコンスタンティノープルが陥落し,東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕(395~1453)は約1000年の歴史に幕を下ろします。




・1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア
◆第二次ブルガリア帝国が勢力を増したが,のちオスマン帝国に敗れる
第二次ブルガリア帝国が拡大する
 第二次ブルガリア帝国(1185~1396)は,ビザンツ帝国の影響力を排除しブルガリアを独立教会とするためにローマ教皇〈インノケンティウス3世〉に接近し,1204年に使節を派遣しました。折しも1204年にはコンスタンティノープルが第四次十字軍により陥落し,ブルガリア王はヴェネツィアがコンスタンティノープルで建国したラテン帝国と戦い皇帝〈ボードワン1世〉(位1204~05)を処刑しています。
 その後,〈イヴァン=アセン2世〉(位1218~41)の時代が第二次ブルガリア帝国の最盛期で,ハンガリー王女とも結婚し国際的な地位を高めました。しかし,民衆反乱や地方の領主貴族が台頭しモンゴル人の進入も受け,次第に王権は衰えていきます。
 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。

・1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島  現④ギリシャ
 クレタ島は東ローマ帝国〔ビザンツ帝国〕が支配し,東地中海の拠点としていました。
 しかし,1204年に第四回十字軍を主導したヴェネツィア共和国の領土となっています。




・1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島  現⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ
◆バルカン半島南部ではセルビアが強大化したが,オスマン帝国の進出に敗れた
 同じく南スラヴ系のセルビア人は,東ローマ帝国の影響下でギリシア正教に改宗していました。1180年以降,〈ステファン=ネマニャ〉(位1168~96)の下でネマニッチ(ネマニャ)朝が勢力を拡大し,セルビア正教会(儀式(奉神礼)の用語は教会スラヴ語です)は1219年に独立教会となりました。14世紀前半にはブルガリアとの戦争にも勝利してバルカン半島におけるセルビアの優位を確立します。

 その後14世紀の〈ステファン=ドゥシャン〉(位1331~55)はビザンツ帝国の法典を基礎に「ドゥシャン法典」を聖帝し,ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,アルバニア,マケドニアを含むバルカン半島西半分を領土におさめた「大セルビア王国」を実現し強盛を誇りました。地方の領主のプロニア(世襲領地)を保護し支持を取り付け,1346年には首都スコピエ(現在のマケドニアの首都)でセルビア総主教から「セルビア人とギリシア人の皇帝」として戴冠されました。第一次世界大戦(⇒1870~1920年の特集「第一次世界大戦」)のときに,セルビア人青年がボスニアを併合したオーストリアの皇太子夫妻を暗殺したのは,かつてセルビアの領土であったボスニアを併合してしまったオーストリアへの非難を表明する思想に基づいたものです。

 しかしバルカン半島には,刻一刻と小アジア(アナトリア半島)からオスマン帝国の勢力が迫っていました。1355年に〈ドゥシャン〉が亡くなると,〈ウロシュ5世〉(位1355~71)の下で諸侯は独立傾向を強めバラバラになっていました。これをチャンスとみたオスマン帝国は1360年にまずアドリアノープル(エディルネ)【京都H19[2]】【慶文H29】を占領し,そこを足がかりに1389年6月15日にコソヴォの戦いでオスマン帝国の〈ムラト1世〉(位1362~89) 【早政H30】を殺害したものの戦闘自体に敗れると,オスマン帝国による支配が始まりました。


・1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島  現⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ
 ボスニア北部・中央部はハンガリーの支配下にありましたが,非常に山がちな地形のため統一的な支配は難しく実権は地方貴族が握っていました。12世紀後半に有力者〈クリン〉(位1180~1204)が首長(バン)となり1377年までハンガリーから事実上独立します。南部のフム地方(現在のヘルツェゴヴィナ)は1326年に北部の首長(バン)の国家が獲得。
 この地域はローマ教会と正教会との覇権争いが熾烈でしたが,1347年にバンの〈コトロマニッチ〉はカトリックに改宗しました。
 1377年には〈スチェパン=トヴルトコ〉が国王(位1353~91)として即位し「セルビア人,ボスニア人,沿岸地方の王」と名乗り,ボスニア王国となりました。晩年には「ダルマチアおよびクロアチアの王」も名乗り急成長を遂げます。
 しかし〈スチェパン=トマシェヴィチ〉(位1461~63)のときにオスマン帝国に敗れ,抵抗が続けられたものの1483年に完全に征服されました。


・1200年~1500年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑩クロアチア
 クロアチアはハンガリーの影響下に置かれていました。

 ドゥブロヴニク共和国と改称したアドリア海沿岸の港市国家ラグシウムは,ヴェネツィアとハンガリー王国の宗主権の下で交易活動が認められ西ヨーロッパとバルカン半島を結ぶ拠点として栄え,のちにオスマン帝国の支配下においても交易活動が保障されました(◆世界文化遺産「ドゥブロヴニクの旧市街」,1979(1994範囲拡大))。
 アドリア海沿岸のダルマチア地方にある都市ザダルは,第四回十字軍の際にヴェネツィアにより奪われましたが,ハンガリー王にしてクロアチア王である〈ラヨシュ1世〉(位1342~82)がダルマチア地方を奪回しています。

 のち,ハンガリー王〈ジギスムント〉の提唱で十字軍が提唱され,フランス,ドイツ,イングランド,イタリア地方の騎士が参加し,オスマン帝国の進出を防ごうとしました。しかし1396年にドナウ川沿いのニコポリス(ブルガリアの北境)【追H21】【慶文H29】で,オスマン帝国の〈バヤジット1世〉(1360?~1403, 位1389~1402)に惨敗し,オスマン帝国のバルカン半島の支配は決定的となりました。





○1200年~1500年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル

◆ポルトガルとカスティーリャ=アラゴンは,レコンキスタの完了後,イタリア諸都市とも連携して地中海を介さない東方貿易ルートを開拓していく
 イベリア半島は,12世紀までにマドリードやトレドを含む北半分がキリスト教圏となり,ポルトガル王国,カスティーリャ王国,アラゴン連合王国(アラゴン=カタルーニャ連合王国)が建国されていました。

 イベリア半島の北部~中央部のカスティーリャ王国と,北西部のアラゴン王国は,イベリア半島を支配していたムワッヒド朝【追H21時期(10世紀ではない)】との戦いを進めていました。ムワッヒド朝はベルベル人を中核とした初期の軍事力が衰えをみせる中,1212年にキリスト教諸国の同盟軍によってラス=ナーヴァス=デ=トローサ(コルドバの東)で敗北し,13世紀後半には滅びました。

 一方,イベリア半島南部のグラナダを都に,1232年に〈ムハンマド1世〉がナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H31セルジューク朝とのひっかけ】【H30共通テスト試行 スペイン王国と接触した可能性があるか問う】【追H19ヒンドゥー教の影響は受けていない、H25マムルーク朝ではない】【東京H24[3]】【立命館H30記】が建国されます。グラナダ【東京H11[1]指定語句】【本試験H6バルセロナではない,本試験H8】に残る,アラベスクの美しいイスラーム建築【本試験H21ロココ様式ではない】のアルハンブラ宮殿【本試験H6】【本試験H16コルドバではない,本試験H31セルジューク朝によるものではない】【追H9スペイン王国が造営していない】【立命館H30記】(アラビア語の「赤い城」(al-Kalat-al Hamrah)に由来)は,〈ムハンマド1世〉により建造が開始され,ナスル朝の繁栄を今に伝えています【本試験H28ビザンツ様式ではない】。
 しかしカスティーリャ王国による攻撃も受け,王位の継承にモロッコのマリーン朝(1196~1465)が介入して政権は混乱します。しかし,グラナダ朝は14世紀中頃の黒死病(ペスト)の流行や,カスティーリャ王国とアラゴン連合王国の対立にも助けられ,14世紀末にかけて〈ムハンマド5世〉(位1354~59,1362~91)の下で最盛期を迎え,アルハンブラ宮殿も改築されました。

 ポルトガル王国は,イベリア半島の他のキリスト教国に先駆けてイスラーム勢力の駆逐に成功していました。1249年に南端の都市ファロをイスラーム政権から取り返した〈アルフォンソ3世〉(位1248~79)のときのことです。レコンキスタの終了後もイスラーム教徒との交易は活発に行われたほか,フランドル地方,イギリス,フランスとの貿易も盛んに行われました。1255年には都がリスボン【本試験H8】となり,13世紀に開通していたイタリアとフランドルを結ぶ定期航路の中継点として,ポルトとともに商業で栄えました。ポルトガルはイタリアのジェノヴァ商人と提携し,資本,技術,軍事力を導入していきます。ポルトガル王国は,すでに1340年代までには,北東の風に乗りモロッコ沖のカナリア諸島に上陸。しかし,1348年には黒死病【東京H27[1]指定語句】が猛威をふるい,総人口の3分の1が失われました。
 〈エンリケ航海王子〉(1394~1460) 【本試験H15,本試験H18時期(17世紀ではない)】【追H20フランスではない】は,ジェノヴァ共和国の支援も受けて航海学校を設立し,西アフリカの黄金を直接手に入れるルートを開拓しようとし【本試験H15アフリカ西海岸の探検を行わせたかを問う】,1427年には大西洋の沖合のアゾレス諸島を発見させています。1450年にはマリ帝国に到達し,彼らに武器や織物などの日用品を提供する代わりに,奴隷や黄金を得るようになっていました。これがヨーロッパ人による,アフリカ人奴隷貿易の初めです。安く仕入れた物を高く売る。この行為がついに,ユーラシア大陸とアフリカ大陸をまたいで(のちに南北アメリカ大陸にまで広がって)展開されるようになります。
 さらに,1450年にはポルトガル人が,ジェノヴァ人の投資を受けてカナリア諸島の北のマデイラ諸島で砂糖プランテーションを開始。プランテーションはカナリア諸島でも始まりました。植民地におけるプランテーションの初めです。
こうしてポルトガル王国の都リスボン【セ試行 16世紀前半に世界商業の中心の一つであったか問う】【本試験H30】【同志社H30記】は繁栄の時代を迎えるのでした。



◆カスティーリャ王国とアラゴン連合王国が統一しスペイン王国となり,レコンキスタを完了させた
 カスティーリャ王国は1348年に黒死病(ペスト)の影響を受け,人口減少・物価高騰・領主の没落ににつながり,14世紀後半~15世紀前半にかけた混乱の中でユダヤ教徒に対する迫害(反ユダヤ運動)も発生しました。レコンキスタ真っ最中の頃には,“共通の敵”であるイスラーム教徒の存在があったためユダヤ人とキリスト教徒の関係は良好でしたが,レコンキスタがいよいよ最終局面を向かえる頃となると,キリスト教徒はユダヤ教徒に対する敵視を深めていくようになったのです。1391年にはセビーリャで反ユダヤ運動が起きています。ユダヤ教徒の中にはキリスト教徒に改宗する者(コンベルソ)も現れますが,今度はコンベルソがキリスト教徒から「隠れユダヤ教徒」との汚名を着せられ迫害の対象となりました。
 カスティーリャ王国では,14世紀後半に〈エンリケ2世〉(位1369~79)はトラスタマラ朝を創始し,歴代の国王は王権を強化しようとしていきましたが,国内の有力貴族の力は依然として強く,政治的には混乱が続きます。
 経済的には,フランドル地方に輸出するために有力者による牧羊業が盛んとなり,造船業も発達しました。輸出産業の担い手となったのは,イタリアのジェノヴァ商人です

 アラゴン連合王国も,やはり1348年にペストの猛威を受け,人口減少・物価高騰・領主の没落を招きます。14世紀後半ともなるとオスマン帝国の地中海への進出を受けて経済が衰え,反ユダヤ暴動の影響もあり社会も混乱しました。そんな中,15世紀前半にカスティーリャ王国の摂政が,カタルーニャとアラゴンとバレンシアの代表者らにより国王〈フェルナンド1世〉(位1412~16)に推され,アラゴン連合王国はカスティーリャ王国と同じくトラスタマラ朝となりました。次の〈アルフォンソ5世〉(位1416~58)は,ナポリに宮廷を移してルネサンス文化を保護し,地中海交易を支配しようとしましたが,死後には内紛で混乱をみます。
 こうして王権が強化され勢力を増していたカスティーリャ王国と,衰えをみせるようになったアラゴン連合王国の支配層は,「互いに争っていては,イスラーム政権のナスル朝にとって有利になるだけだ」【追H25中世後期に互いに対立していたためナスル朝は「漁夫の利を得て延命した」(問題文)】と考え,政治的な統一を目指すようになっていきます。一方ナスル朝では王位継承をめぐる内紛が続き,両国による攻撃も激しさを増していきました。もともと小国であったナスル朝の経済は,ジェノヴァ商人を介する北アフリカやヨーロッパからの輸入頼みであり,ポルトガル王国の南下により北アフリカとの交易がしにくくなり,ジェノヴァ商人が交易から撤退すると大きな打撃を受けることになります。
 そんな中,カスティーリャ王国王女〈イサベル〉【本試験H6イギリスにジプラルタルを譲っていない】【本試験H15,本試験H23,本試験H27】と,アラゴン連合王国王子の〈フェルナンド〉が1469年に結婚。1474年に〈イサベル〉はカスティーリャ女王(位1474~1504)に,〈フェルナンド〉は1479年にアラゴン国王(位1479~1516)に即位し,ポルトガルを除くイベリア半島を共同統治しました。一般に,この2人の王国の領域をもってスペイン王国(モナルキーア=イスパニカ) 【H30共通テスト試行 ナスル朝と接触した可能性があるか問う】が成立したとされますが,2王国の立法・行政・司法・軍隊は別々であり,あくまでも2人は別々の国の王の肩書きを維持する複合的な王国でした。
 1492年には,スペイン王国がイベリア半島におけるイスラーム教徒による最後【本試験H16イベリア半島最後の政権かを問う】の政権であるナスル朝(グラナダ王国) 【本試験H3ムラービト朝ではない】【本試験H16,本試験H21時期】の首都グラナダを陥落させ,最後の〈ムハンマド12世〉が北アフリカに逃亡すると,足掛け800年近くかかったレコンキスタがようやく幕を閉じました。

 レコンキスタの完了した1492年には,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の“カトリック両王”は,ユダヤ教徒追放令を発布。スペイン【本試験H13フランスではない】を追放されたユダヤ人やイスラーム教徒のなかには,オスマン帝国領内に移住した者もいました。なかにはキリスト教徒に改宗したり,改宗したように偽装したりする者もいました(キリスト教に改宗したイスラーム教徒のことをモリスコといい,改宗ユダヤ人のことをコンベルソといいます)。こうしたユダヤ教徒に対する迫害は14世紀後半以降高まっていた反ユダヤ運動運動の延長線上にあるものです。

 〈イサベル〉と〈フェルナンド〉は1496年に教皇から“カトリック両王”の称号を授けられ,言葉や制度は別々でありながらも宗教的なまとまりは強化されました。言語に関して言えば,人文主義者の〈ネブリーハ〉が当時としては画期的な文法書である『カスティーリャ語文法』を記し,以降のポルトガルを除くイベリア半島ではカスティーリャ語が“スペイン”の言語としての地位を獲得していくこととなります。


◆ポルトガルはレコンキスタの完了後,東方交易の新ルート開拓のため,西アフリカを南下した
ポルトガルは喜望峰まわりのルートを開拓
 スペイン王国に先んじてレコンキスタを終えたポルトガル王国は,サハラ沙漠を通過せずに塩金貿易を,地中海を通過せずに東方交易をするため,西アフリカ沿岸への探検を開始しました。

 その過程でポルトガル人は,1450年代に入るとキプロス島などの地中海で行っていたプランテーション(大農園制。広い土地で多くの労働力を使って,少ない種類にしぼって商品作物を大量生産し,市場に輸出するための農園)を,モロッコの東方のマデイラ諸島に導入し,サトウキビの生産を開始しました。
 その労働力として連行されたのが,アフリカ大陸(ギニア湾岸)の住民です。サトウキビの植え付けと刈り取りには,労働力が大量に必要になるのです。こうして,ヨーロッパ人によるギニア湾沿岸(西アフリカから中央アフリカにかけて)から大西洋を超える黒人奴隷貿易【本試験H24】が本格化していきます。産業革命(工業化)以前の社会では,奴隷と家畜は,重要な“動力源”だったのです。

 ポルトガルはその後,アフリカ大陸の西端のヴェルデ岬沖に浮かぶ,カーボヴェルデでも同じようにプランテーションと奴隷貿易を行いました。また,スペインもカナリア諸島で同様の栽培・奴隷貿易を行いました。1488年には〈バルトロメウ=ディアス〉(1450?~1500)【本試験H14】が喜望峰【本試験H14地図(ディアスの航路を選択する)】(注)を発見しています【追H29時期(マゼラン世界周航,クックの太平洋探検との並べ替え)】。
(注)岬なのに峰と呼ぶことについては,朝野洋一「喜望岬はどうして喜望峰なのか」を参照。http://open-university.yokappe.net/assignments/xiwangjiahadoushitexiwangfengnanokayuancichengxuexisentasuozhangchaoyeyangyi



◆スペインはレコンキスタの完了後,ユダヤ人を迫害した
レコンキスタと同時に、ユダヤ人迫害が起きる
 遅れてスペイン王国(アラゴン王国とカスティーリャ王国が合同して1479年に成立した【本試験H29ポルトガル王国ではない】。スペイン語ではエスパニャ王国)は,最後のムスリムの政権であるナスル朝(1232~1492) 【東京H24[3]】を滅ぼし,レコンキスタを完了させました。
 スペイン王国は支配下にあった全住民にキリスト教を強制したため,非キリスト教徒はイベリア半島から逃れました。その場にとどまり隠れて信仰を守る者もありました。ユダヤ人の中には,北アフリカや中東に逃れる者も多く,彼ら「離散ユダヤ人」はセファルディムと呼ばれています。


◆スペインの援助を受けた〈コロン〉は,アメリカ大陸に到達した
スペインの“逆転の発想”が新大陸発見につながる
 スペインは1492年,ジェノヴァ【上智法(法律)他H30】出身の〈コロン〉(コロンブス,1451?~1506) 【本試験H15イサベルの援助を受けていたかを問う,本試験H27カブラルではない】【上智法(法律)他H30】に投資し,大西洋に船隊を向かわせました。大西洋を西にすすめば,インドや日本(マルコ=ポーロは黄金の国「ジパング」と伝えていました)に近道で着けると考えたからです。〈コロン〉の弟は地図職人で,かつてポルトガルのリスボンに住んでいたときには,アイスランドにまで航海をしています。さらに,リスボン時代に地理学者〈トスカネリ〉(1397~1482) 【本試験H4大航海時代の始まった要因か問う】【本試験H15】との運命的な出会いを果たし,彼の主張する「地球球体説」【本試験H15】の正しさを確信しました。
 1484年,〈コロン〉はポルトガルの〈ジョアン2世〉(任1481~95) 【上智法(法律)他H30 支援は受けられなかった】に西回り航路への資金援助を打診しますが,断られます。すでにポルトガルは,アフリカ南端から東回りでインドをめざす航路開拓の事業をすすめていたからです。
 がっかりした〈コロン〉はスペインの港町パロスに移り,地元の貴族に資金提供をつのり快諾。さらにそのつてで,1486年スペインの〈イサベル〉女王【本試験H23】と〈フェルナンド〉王への謁見がゆるされたのです。しかし,またなかなか許可がおりません。
 そこで,イングランド王の〈ヘンリ7世〉(位1485~1509)やフランスの〈シャルル8世〉(位1483~98)にも援助を打診し,フランスに向かおうとしていたところ,ちょうど1492年1月にイベリア半島最後のイスラーム教徒の拠点であるグラナダが陥落し,ナスル朝が滅亡。財政的余裕ができたこともあり,〈イサベル女王〉はふたたび関心を示し,ようやく〈コロン〉への資金援助が決まります。
 王室と〈コロン〉は,次のような契約をします。

 「〈コロン〉は発見した土地の副王・総督に就任する」
 「発見した土地からの利益の10%は〈コロン〉のものになる」
 満を持してインドを目指した〈コロン〉。ですが,彼が到達したのはカリブ海に浮かぶサン=サルバドル島【本試験H23】でした。たしかに地球は球体だったのですが,「アメリカ大陸」の存在を前提にしていなかったので,地球を実際よりも1/3の大きさに見積もっていたのです。
 その後の3度の航海中に,住民のアラワク人を奴隷として連れ去ったり,現地でプランテーションをはじめたりした〈コロン〉は,最後までこの地の住民を「インド人」【上智法(法律)他H30】と考えていましたので,住民は“インド人”(スペイン語でインディオ)ということになりました。
 1492年には,〈イサベル〉女王のスペインの要請を受けたジェノヴァ生まれの〈コロン〉が,第一回航海に乗り出し,カリブ海のサンサルバドル島に到達しました。〈コロン〉は実はコンベルソ(改宗ユダヤ人)で,迫害を逃れユダヤ人の新天地を探していたのではないかという説もあります。当時のイベリア半島では,隠れユダヤ人や改宗ユダヤ人に対する異端審問が厳しくおこなわれていたのです。

 〈コロン〉は,ユーラシア大陸・アフリカ大陸になかった多くの新しい植物・動物を持ち込みました【本試験H14時期】。ジャガイモ【本試験H14時期,H29共通テスト試行 新大陸原産かを問う】,トウモロコシ【本試験H18】,トマト【本試験H18】,トウガラシ(南アメリカにおける総称は「アヒ」(注)),カカオ【本試験H18コショウ・ブドウではない】は,〈コロン〉以前は南北アメリカ大陸にしかなかったものです。ジェノヴァ生まれの彼がイタリアにトマトを持ち込んだことで,パスタのトマトソースが誕生することになります。また,シナモン・クローブ・ナツメグの香りをあわせもつとされることからオールスパイスと名付けられた香辛料もヨーロッパに持ち出されました。
 反対に〈コロン〉が南北アメリカ大陸に持ち込んだものもあります。馬,鉄,車輪,さらに感染症(天然痘,ペスト,梅毒など)です。とくに感染症は,免疫のない南北アメリカ大陸の人々に猛威を振るいました。
(注)山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016,p.5。

 この知らせを受け,1493年に教皇〈アレクサンデル6世〉(スペイン出身,在位1492~1503)が,大西洋上にスペインとポルトガルの境界線を引いた。これが教皇子午線です。
 しかし,スペインのライバルであった〈ジョアン2世〉は,「スペインに有利な引き方だ。ずるい! もっと西に引かせてほしい」と,〈イサベル〉女王に話を持ちかけ,境界線を教皇子午線よりも西に引き直した。これが1494年のトルデシリャス条約【本試験H23すべてがスペイン領になったわけではない,本試験H27,H31オランダとスペイン間の取り決めではない】【追H20スペインとイギリスの間の条約ではない】です。

 なお,のちにフィレンツェ【セ試行 イタリア人か問う】の〈アメリゴ=ヴェスプッチ〉(1454~1512) 【セ試行】【上智法(法律)他H30】が〈コロン〉の到達した地がアジアではなく「新世界」(“新大陸”とは言っていません)【本試験H18】であることを指摘したことから,ドイツの〈ヴァルトゼーミュラー〉(ヨーロッパ初の地球儀をつくった人物)が〈アメリゴ〉の名(ラテンゴ名はアメリクス)をとって,新大陸を「アメリカ大陸」と命名しました。これがアメリカの語源です【セ試行】【本試験H23先住民の言語由来ではない】。



◆〈コロン〉のアメリカ大陸発見後,ポルトガルはアフリカ大陸まわりのインド航路を開拓した
ポルトガル王室はアフリカまわりでインドに到達
 西まわりをとった〈コロン〉に対し,ポルトガルは喜望峰まわりでのインド航路を開拓しようとします。1498年には〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉(1460?~1524)が,喜望峰をまわって,東アフリカ沿岸のスワヒリ文化圏の都市国家マリンディに寄り,その地の航海士〈イブン=マージド〉のガイドでインド洋を渡り,西南インドのカリカットに到達しました【H29共通テスト試行 地図資料と議論(ヴァスコ=ダ=ガマの航海以降にインドと東アフリカの交流が始まったわけではない)】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】【名古屋H31記述(1500年前後のヨーロッパ人とインドの関わり)】。

 カリカットは,香辛料【東京H23[3]】【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】貿易の中心地で,コショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない】とシナモンを積荷として持ち帰りました。これだけで航海費の60倍の価値があったそうです。





○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆西ヨーロッパで農業生産力が高まり,商業が活発化する
 この時代の西ヨーロッパでは、遠隔地をむすぶ商業も盛んとなります。
 商業は,物資をある地点から別の地点に運ぶことで,「利ざや」を稼ぐ行為です。物自体に手を加えているわけではなく,ただ単に“珍しい”ものを地域に運ぶことで価値を生み出すわけです。しかし,高価な物は,山賊や海賊などに狙われるおそれがあります。安全な移動が商業活動にとっての生命線なので,その土地の支配者が誰なのかわからない状況であるよりは,統一的な権力が広い範囲にわたって平和を保障してくれていたほうが都合がよいのです。

 中世の前期,つまり5世紀の西ローマ帝国滅亡から,ノルマン人の移動が激しかった10世紀くらいまでのヨーロッパは,不安定な情勢が続きました。しかし,11世紀~12世紀くらいになると,農業生産力が向上して村落共同体が生まれ【本試験H15 11~12世紀にかけて封建社会が崩壊したわけではない】,停滞していた商業が復活します。
 そこには、この時期の地球が「温暖期」であったことが関係しているともいわれています。例えば,1000年頃のヨーロッパの人口は3800万人ほどと推定されますが,これが12世紀には5000万人,13世紀には6000万人,14世紀のペスト流行の直前には8000万人にまで増加していたのです。



○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆従来の農村拠点の修道院に代わり,都市を拠点とするフランチェスコ会が活発化する
托鉢修道会が都市と都市を結んだ
 12世紀までの修道会は農村に大土地を所有して定住し,祈りや労働を主体とした生活を営むのが一般的でした。6世紀に設立されたベネディクト修道会が代表例です。
 ヨーロッパの社会が安定し人口が増大すると,12~13世紀にはシトー修道会【追H30托鉢修道会ではない】などの修道院が,当時はまだヨーロッパ内陸部一帯に広がっていた森林を伐採し,耕地を広げる運動を起こすようになりました。この動きを大開墾運動【本試験H17リード文】ともいいます。
 それに対してシトー修道会は,クリュニー修道会【立命館H30記】を「豪華な服を着て儀式をする,貴族的なやつら」と敵視し,生地を染めずに白い法服をまとって,人里離れたところで農民の中に入って布教活動を行っていました。自給自足のつもりで経営していた農場は,いつしか利益を生むようになっていき,結果的に商業の活性化に貢献することにもなりました。
 しかし,所領が広がれば広がるほど修道院の財産は増え,「清貧」を重んじるキリスト教の精神に反する傾向も生まれます。

 そんな中,イタリアの修道院長〈フィオーレのヨアキム〉(1135~1202)の思想の影響を受けた人々が「これからの時代は,修道士がキリスト教世界を担うのだ」という運動をおこしていました(ヨアキム主義,異端とされました)。
 〈ヨアキム〉の説は,彼の思想は『新約聖書』の以下の記述に触発されたもので,千年王国論といいます。

 「彼らは生き返って,キリストと共に千年の間統治した。」
 「彼らは神とキリストの祭司となって,千年の間キリストと共に統治する。」
 (「ヨハネの黙示録」第20章4,6節)

 初期キリスト教の時代以来,この部分の解釈をめぐっては様々な説が展開されてきました(注)。
 「今はつらいけれども,千年王国がすべてを解決してくれる…」
 この魅力的な千年王国思想は,辛い境遇にある人々にこそ支持をひろげていきます。

 こうした思想の影響を受け,キリスト教の原点に立ち戻り,托鉢(たくはつ,寄付を募ること)を行いながら説教をして都市を渡り歩く新しいタイプの修道会が現れます。これを托鉢修道会といいます。
 12世紀末からすでに教会の刷新運動は起きており,1170年には,リヨンの商人の〈ワルド〉も,財産をなげうってラテン語ではなく話し言葉でイエスの教えを説いて回りました(注)。しかしこのワルド派は“異端”とされ,教会から破門されました。
(注)聖書の口語訳の最初。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.121

 その後,中部イタリアのアッシジの〈フランチェスコ〉(1181?82?~1226)自らすすんでセレブ暮らしを捨てて極貧生活を選び,托鉢(たくはつ。お金をくださいと人にお願いすること)をしながら人々に説教をしました。1209年に創設されたフランチェスコの修道会は,教皇の堕落にウンザリしていた人々の心を捉えていくと,フランチェスコ会の中でも穏健なグループが1210年に教皇〈インノケンティウス3世〉により公認されました。人々は,カトリック教会による神秘的な儀式よりも,わかりやすい説教を求めていたのです。なお修道会は,カトリック教会と目的や生活スタイルが異なるだけで,信仰の内容はカトリック教会と同じです。
 1215年には〈ドミニコ〉が南フランスでアルビジョワ(カタリ)派の改宗に尽くして,ドミニコ修道会を創設しました。ドミニコ修道会には過激な武闘派が集まりましたが,教皇は彼らの勢力をカタリ派退治に利用したわけです。
 彼らはパリ大学での教義研究にも熱心で,12世紀にイスラーム世界から伝わっていた古代ギリシアの〈アリストテレス〉の学説をキリスト教に導入するなど,最先端の知の導入にも積極的でした。
 フランチェスコ修道会とドミニコ修道会といった托鉢修道会が,都市を中心に学問・経済・文化・外交において活躍をした13世紀のことを「托鉢修道会の時代」ともいいます。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆西ヨーロッパ各地で開墾・開拓運動が活発化し,遠隔地交易が発達する
北の毛織物・ニシン,南からの香辛料
 ネーデルラントの工業地帯フランドルでは修道院が中心となって干拓(海の水を抜いて,陸地をつくること) 【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】を積極的にすすめ,運河も建設されるようになります。また,土地を持った農民は協力して堤防を築き【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】,開墾をすすめました。アムステルダムやロッテルダムなど,現在のオランダに残る地名の「ダム」は,堤防のことです。

 大開墾運動や鍛冶技術(かじぎじゅつ)の改良による鉄製農具の使用,さらに重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき。重い犂を牛に引かせるトラクターのこと)の利用にともない農業生産が増大していきました。
 地中海周辺の二圃制農業を夏に雨の降るアルプス山脈以北の気候向けにアレンジし,農地を大きく3区分(大麦・ライ麦の春耕地,小麦・えん麦の秋耕地,休ませる休耕地)し,年ごとにローテーションさせる三圃制【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した要因か問う】が,9世紀にフランク王国の一部,12世紀にはロワール川以北の西ヨーロッパで見られるようになりました。こうすれば,ライ麦やえん麦を家畜のエサにしつつ,休耕地を設けることで土地を休ませることができるため,生産力がアップしました。三圃制が導入された地域では,城主が広い土地を一円的に支配する動きがみられます。
 これら農具や家畜の共同管理,共同の農作業【本試験H7】の必要から,農民たちは団結して農村共同体をつくるようになります【本試験H7 11世紀以降の西欧で農業生産力が向上した結果,農民相互の結びつきが強くなったか問う】。

 他方,南フランスなどの地中海沿岸では穀物栽培よりもブドウ栽培や牧畜が盛んで,三圃制は普及せず(二圃制のまま),広い地域を支配する城主も現れませんでした。

 人口が増え,余剰生産物が発生し,それらを交換する人々が増えていきます。交換を効率よく行うには,欲しい人と売りたい人が出会う時間と場所が決まっていれば好都合です。初期のころは,「毎月1日に,どこどこに集まろう」と決めておいて,そこでマーケットを開きました。
 人が集まりやすいところというのは決まっています。川と川が交わるところとか,交通の便のよいところです。例えば12~13世紀の北フランスのシャンパーニュ地方【追H28】【本試験H23,H30】では,4つの都市で開催されていた6つの市場をつないだ「大市」(大規模な定期市) 【追H28】 【本試験H23】が開かれていたことで有名です。

 ヨーロッパの南北を結ぶ交易路は,ミラノ北方のサンゴタール峠を抜け→ストラスブール→ヴォルムス→マインツ→ケルン→ネーデルラントに至るルートや,スイスのジュネーヴ方面からアルプスを越え,ブザンソン→シャンパーニュ地方に至るルート,マルセイユからアヴィニョンに北上し,ローヌ川をさかのぼって→トロア→パリに向かうルートなどがありました。
 それが,1300年頃にヴェネツィアが北方のブレンナー峠を抜けてアウクスブルク→ニュルンベルクに至るルートを開通して以来,さらに活発化していくことになります。
 海路でも,1291年頃にジェノヴァ人がジブラルタル海峡を抜けて,ネーデルラントに至るルートを開拓。ジブラルタル海峡を挟むイスラーム教勢力のせいで阻まれていたルートに,光明(こうみょう)が差し込みます。

(1) 南から北へ …地中海に面するイタリアの港町や内陸都市から,東方の物産や工業製品がアルプスを越えて贅沢(ぜいたく)品が運ばれて来る。
(2) 北から南へ …バルト海沿岸の木材・海産物・穀物や,フランドル地方(現在のベルギー)の羊の毛織物【東京H17[3]】が運ばれてくる。
 (1)と(2)が出会う場所が,シャンパーニュであったということですが,イベリア半島のイスラーム政権の衰退とともに,海路ルートが盛んとなって次第に衰退に向かい,金融の中心もネーデルラント(低地地方)のアントワープに移っていきました。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆イタリア諸都市が商業によって栄え,金融業が発展し複式簿記も発達した
イタリア商人とドイツ商人が,自治を求めた
 ちなみに,地中海に面するイタリアの港市としては,ヴェネツィアやジェノヴァ,ピサが有名です。ビザンツ帝国などの東方から,香辛料・絹織物などのぜいたく品(奢侈品(しゃしひん))が運び込まれます。ピサには14世紀の教会大分裂の時期に,教皇庁が置かれたこともあります【本試験H24フィレンツェではない】。
 ジェノヴァは13世紀には,櫂船(オールでこぐ船)により,ジブラルタル海峡を経由して北海(イギリスとスカンディナヴィア半島,ユーラシア大陸の間に囲まれた海)に入りフランドル地方,バルト海に到達する交易ルートを開いていました。
 彼らの中には,お金を出資する人と,船を出して遠隔地交易をする人の役割分担がなされるようになり,コンパニア(カンパニーの語源です)やソキエタスといった共同事業を行う会社が作られるようになっていきました。遠距離航海には難破のリスクがありますが,成功すれば利益をがっぽり得るチャンスもあります。巨大プロジェクトの場合には莫大な資金が必要になりますが,利子(キリスト教で禁止されていましたが“罰金”という屁理屈で許可されました)をつけて後から返済する形で資金を集める仕組みも開発されていました。

 取引が複雑化するにつれ,すでに地中海沿岸の商人により使用されていた会計を「貸方」と「借方」に分けて記録する複式簿記も発達していきました。13世紀以降のイタリアでは「…記憶にしたがって取引することをやめ,みずからペンを執って取引にかかわることがらを克明に書き留めるようになった」。この「商業の文書化」が,「各地にはりめぐらされた商業通信網をつうじて代理人と連絡をとりながら取引をすすめるように」なる「商業の定地化」を促します。すると,商人から離れ他者に委託された貨幣も商品の安全を保証する仕組みとして,貨幣については為替や振替銀行,商品については運送業と保険が発達します。「このように入り組んだ取引関係を一望のもとに把握する手段として,簿記が発達して」いったのです(大黒俊二「為替手形の「発達」―為替のなかの「時間」をめぐって―」板垣雄三ほか編『シリーズ世界史への問い3 移動と交流』,p.114)。
 
 イタリアの内陸都市としては,フィレンツェやミラノ,シエナが有力で,11世紀以降,水車を利用した毛織物工業【本試験H24,本試験H30フィレンツェで栄えたのは綿織物工業ではない】や,それでもうけたお金を個人や外国政府に貸し付ける金融業(きんゆうぎょう)で栄えます。工業というのは,「物を作ること」だと思ってください。金融業は,「お金を貸して,利子でもうけること」です。
 フィレンツェ【追H28アウクスブルクではない】で金融業により栄えた一族を,メディチ家【追H28】といい,のちに市政を牛耳るだけでなく,〈レオ10世〉(ジョヴァンニ=デ=メディチ)のように教皇になる者も現れました。
 また,イタリアからドイツ方面を結ぶルートにあたる南ドイツでは,アウクスブルク【追H28フッガー家が栄えたのではない】や,その北のニュルンベルク【追H20地図問題】が発達しました。アウクスブルク【本試験H24フィレンツェではない】の銀山を支配し,金融で栄えたのはフッガー家【追H28メディチ家ではない】【本試験H7新大陸の銀を利用したわけではない】【本試験H22・メディチ家ではない・地図上の位置,本試験H24】です。神聖ローマ帝国に資金を貸し付けて,皇帝を手のひらで転がすようにもなっていきます。

 
 物資の交易が盛んになればなるほど,12世紀中頃までに農村部にも貨幣経済は広まっていきました。
 領主は所領でとれた収穫物を「市場に売ってお金に変えたい」と考えるようになりました。領主は生産物ではなく,貨幣によって地代(貨幣地代)をとるようになっていきます【本試験H5 「14~15世紀に領主の貨幣需要の増大,戦費の増加などにより,領主財政は危機に見舞われた」か問う(正しい)】。

 都市の起源はさまざまで,ローマ帝国に軍隊が駐留していた都市もあれば,ローマ教会の司教座都市(司教が置かれた教会のあるところ)を起源とするものもありました。しかし,商人にとってみれば「汗水たらして手にした財産を,支配者に税として取られるのは嫌だ」と思うのが自然です。
 領主は,自分の領地の中に商人の集まる商業都市ができると,商人から税金がたんまりとろうと画策します。当初都市は領主に従っていたものの,商工業の発達によって力をつけていくと,だんだんと領主から自治権【本試験H14不輸不入権・叙任権ではない】が与えられる動きがみられるようになります。こうして,11~12世紀以降に領主の支配を脱した都市を,自治都市といいます。都市は行政と立法の機能をもつ市参事会や,裁判・軍事・外交の機関を持っていました。
 北イタリアでは,司教を倒して自治都市(コムーネ) 【追H30】となる例が多く,周辺の農村も含めて【追H30「周辺の農村を支配に組み込んで」】完全に独立した都市国家となりました。
 フィレンツェでは平民層が都市の支配権を握ります。
 ヴェネツィアでは総督と都市貴族が評議会を結成してヴェネツィアと海外領土を支配しました。後背地の森林地帯は船の材料となるため伐採がすすみ,ヴェネツィアの海上進出を支えました。
 やがてミラノを中心に12~13世紀に2度ロンバルディア同盟を形成し,神聖ローマ帝国の進入に対抗するようになります。

 ドイツでは,神聖ローマ皇帝が「領邦と同じ地位を与える」特許状を与えて,自由都市(帝国都市)となる例が見られました。神聖ローマ帝国では,いくつもの領邦が立ち並ぶ“どんぐりの背くらべ”状態でした。そこで,とくに南ドイツの都市に,領邦と同等の権利を与えて帝国都市とし,皇帝・国王に直属させることで,他の領邦を牽制(けんせい)したのです。
 自由都市にはほぼ完全な自治権が与えられ,バーゼル,ケルン,マインツ,ヴォルムス,シュトラスブルク,シュパイアー,レーゲンスブルクの7都市が指定されました。のちに帝国都市と自由都市の区別はなくなり,帝国自由都市とされます。ライン川の重要な支流であるマイン川(マイン川を上流にさかのぼると,ドナウ川の上流に繋がります)の流れるフランクフルト=アム=マイン(フランクフルト)も帝国自由都市の一つで,市の参事会(さんじかい)には自分たちで指導者を選出する権利が認められていました。ただし自分たちで選べるといっても,投票できるのは一部の上層市民たちでした。

 リューベック【本試験H22,本試験H26地図上の位置,本試験H29フィレンツェではない】を中心とする諸都市の通商同盟であるハンザ同盟(13世紀~17世紀) 【追H26ロンバルディア同盟とのひっかけ】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】は,14世紀になると北ヨーロッパ商業圏(北海からバルト海にかけての商業圏)を支配するようになりました。互いの都市に支店や倉庫を置くことで,無用な争いを避けたのです。ハンブルク【本試験H19アントウェルペンとのひっかけ】やブレーメンのほか,遠隔地のロンドン,ブリュージュ,ノヴゴロド,ベルゲンにも商館が設置されました。リューベックには西方からは毛織物が,東方からは小麦,コハク,毛皮や木材・樹脂が運び込まれ,北ヨーロッパにおける東西貿易の中心部として栄えました。
 ハンザとは「組合」という意味で,共通の貨幣・法・度量衡・軍隊も保有していました。花形商品は“海の銀貨”と呼ばれたニシンです。バルト海のニシンは年に1度産卵のために浅瀬にやってくるのですが,春にニシンがやってくるスウェーデン南部の漁場には,毎年8~9月に塩漬けニシンの魚市場が開かれるよぬいなりました。ここはバルト海~北海を回遊するニシンの通り道でもあり,ドイツのリューベック商人などヨーロッパ各地から来る承認でにぎわいました。キリスト教徒には四旬節(しじゅんせつ)という期間(40日間)は肉を控えて金曜に魚を食べるという習わしがあったため,ニシンが重宝(ちょうほう)されたのです。(現在でもスウェーデン北部ではシュールストレミングという世界一臭い食べ物に認定されたニシンの発酵食品があります。まず口に近づけるだけでも大変なので,一人で食べきることは難しいと思います)。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆都市の内部にはギルドが形成された
都市内部では自由競争ではなくギルドによる団結
 イングランドでは,諸侯〈シモン=ド=モンフォール〉(1208頃~65) 【追H26ヘンリ8世に対して反乱を起こしたのではない】【立教文H28記】の反乱により,都市の代表が議会にはじめて招集されるようになりました【共通一次1989イギリス最初の議会ではない】。彼はのちに内戦で敗死しています。
 中世の自治都市【本試験H9城壁で囲まれていたか問う】の中には,ギルド【追H26自由競争を促進していない】【本試験H9】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】という同業組合がありました。ギルド(同業組合)とは何でしょうか。都市内部に,靴屋が3軒あったとします。この3軒が,たがいに安い価格を競ったら,体力が持たずにつぶれてしまうかもしれません。そこで「茶色い男性用革靴のLサイズの価格は最低でも1万円にしよう」などと取り決める。すると,お客さんはこの3軒のうちどの店に行っても1万円なので,それが予算内に収まっていれば,本当に欲しいなら1万円で買ってくれるはずです。短い目で見れば,他の2軒はお客さんを取られてしまったわけですが,長い目で見れば,競争を回避できます。また,1軒ずつ違う場所から材料の革を仕入れるよりも,3軒まとめて仕入れたほうが,輸送費・交通費・手数料は低く抑えられますね。人が足りないときには,従業員をシェアすることもできます。

 商人もギルドを作りました(商人ギルド【本試験H14時期(15世紀以降ではない)】)。遠く離れた場所に共同で使える旅館や休憩所,資金を借りることができる場所や,商品を置いておく倉庫が設置され,お互い助け合ってビジネスをする関係を築いていました。また,お金もうけは「情報戦」でもあります。「卵を一つのカゴに盛るな」という言葉どおり,資金のすべてを一つのビジネスにつぎ込んでしまったら,失敗したときのリスクは大きい。そこでリスク分散のために,商人はしばしば協力をしました。そのネットワークが広範囲で強いほど,その商人グループには多くの資金が集まっていくでしょう。彼らは都市の中で大きな声で意見を主張するようになり,やがて市政を独占するようにもなっていきました。市民のことをブルジョワと言います。誓約をたてて市民権を獲得した市民たちは,都市への愛着や結びつきが強く,都市の紋章・印璽(いんじ。公文書に押すハンコのこと)・年代記(13世紀頃から俗語による記録がみられるようになっています)・詩などが多く作られました。
 しかし,商人の輸出する商品をつくらされているのは手工業者です。手工業者が丹精込めて作った靴の値段を決めるのは,商人ギルド。
 それに対して,不満を持った手工業者は,組合(同職ギルド(ツンフト)【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない,本試験H10時期(古代ギリシアではない),本試験H12「自由競争を保証し,生産統制を撤廃した」か問う】【本試験H23自由競争を保障する組織ではない】)をつくって商人ギルドから分離し,商人ギルドの持っている市政に参加する権利を求めて争いました。これをツンフト闘争【東京H26[3]用語の説明】といいます。
 しかし,同職ギルドの組合員には,独立して自分の店を持つ親方しかなることができませんでした【本試験H2親方と職人・徒弟は対等ではない】【本試験H28職人・徒弟が加入できたわけではない】。親方になるためには,徒弟や,その上の職人の身分で長い下積み経験を経る必要があったのです。誰でも自由に親方になって店を開けてしまったら,店が多すぎて過当競争になってしまうという面があるからです。「自由(競争)」か「平等(規制)」かという選択は,今後も人類にとって大きな課題となっていきます。

 ちなみに,職人が親方として暖簾(のれん)を分けることが認められるには,マスターピースという作品をつくって,その出来を親方に認められる必要がありました。マスターピースには英語で「傑作」という意味がありますね。都市にはほかにも,共通の守護聖人を崇敬(注)する兄弟団という相互扶助組織がありました。少しずつお金を出し合って,困っているときや冠婚葬祭のときに少しずつ助け合うための組織です。
 なお,「都市の空気は自由にする」(Stadtluft macht frei,都市の空気は「その人を」自由にするという意味)【東京H23[3]】【慶文H29】という言葉のように,領主の支配下から逃亡された農奴や手工業者は,1年と1日,が経過すれば都市の住人として自由になれるとする法もありました。
(注)ローマ=カトリック教会では聖人を崇「拝」しているのではなく崇「敬」していると考える(カトリック中央協議会ウェブサイトhttps://www.cbcj.catholic.jp/)。



○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆大聖堂の建設は,ヨーロッパの経済発展を象徴するもの
聖母マリア信仰,ゴシック様式の大聖堂,聖歌
 さて,これだけ商業が発達すると,その経済力を背景に各都市には,天高くそびえ立つゴシック様式【本試験H23】【追H19】の聖堂が建てられるようになります。最初の例は1135年頃にフランスに建てられたサン=ドニ大聖堂(フランス王が埋葬される教会)です。尖ったアーチ(尖頭アーチ) 【追H25ゴシックの特徴か問う】と,太陽光がカラフルで幻想的な光となって入り込む仕掛けとなっているステンドグラス【本試験H25ビザンツ様式の特徴ではない】【追H25ゴシックの特徴か問う】,石積みの壁の重みを分散させるためのフライング=バットレスが特徴。
 以下の大聖堂が特に有名です。

・現在のフランス:パリのノートルダム大聖堂,シャルトル大聖堂【本試験H17】【追H30ロマネスク様式ではない】,アミアン大聖堂,ランス大聖堂
・現在のドイツ:ケルン大聖堂(ケルン司教座聖堂)【追H25ビザンツ様式ではない】(◆世界文化遺産「ケルンの大聖堂」1996,2008範囲変更)
・現在のイギリス;カンタベリ大聖堂

 ステンドグラスに表現されたのは,聖書の話や都市にまつわる聖人の物語です。聖堂には鐘楼が付けられており,鐘の音が都市の時間を支配していました。
 特にシャルトル大聖堂のステンドグラス「美しき絵ガラスの聖母」は,青を基調とした幻想的な仕上がりで有名です【本試験H17宗教改革を記念して建設されたわけではない(時期が異なる)】。この時期には聖母〈マリア〉のモチーフが,ノートルダム(=我々の貴婦人)という名前からもわかるように,広く信仰を集めます。

 ゴシック様式以前の,1000年頃から1200年頃には,厚い石壁と小さな窓を特徴とするロマネスク様式(【東京H24[3]】【本試験H10ロマネスク様式ではない】【本試験H23】【追H25尖塔・ステンドグラスが特徴ではない(ゴシック様式とのひっかけ)】斜塔のあるピサ大聖堂【本試験H10ビザンツ様式のサン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【本試験H30】【追H19】が有名)が有名でした。採光が弱いので,中に入ると薄暗く,重厚な雰囲気に包まれています。
 初期の頃は和音ではなく単音のフレーズから成り立っていたグレゴリオ聖歌も,天井の低いロマネスク式の教会の中なら音がこもって厚みが出ます。これにより,複数の旋律を合わせた多声の音楽(ポリフォニー)が発達していくことになります。
 神聖ローマ帝国の皇帝が,自らの権威を示すために各地に建てたのが始まりです。聖堂以外にも,市庁舎や商館など,さまざまな建物が建てられました。都市の中心には広場があって,政治的な発表,公開処刑,定期市が催されました。

 1300年頃からは従来の社会の仕組みがだんだんと変化し,新たな仕組みが見られるようになっていきます。
 主君から頂いた土地が“命”ほどの大切さとして感じられるには,「自給自足」の経済が前提です。土地がなければ何も手に入らない状況。それが崩れ始めるのは,商業が復活していったからです。小麦粉が欲しければ,小麦を栽培し,それを挽かなければなりませんが,商業が盛んになれば,市場に行けば簡単に手に入るようになります。
 農民の中には,自分で生産物を売って,貨幣を貯める者も現れます。領主も貨幣が欲しくなりますから,農民から貨幣で税をとろうとするようになる。従来,領主は自分の土地で農民に働かせる形の税(賦役(ふえき)といいました)を課していましたが,「これからはお金で納めてくれればいいから」と方針転換する領主も現れました。
 
 しかし,14世紀に入ると気候が寒冷化し,飢饉や不作が相次ぎ,追い打ちをかけるように黒死病(ペスト,ブラック=デス)が大流行し,人口が激減。そこで領主は,少ない農民で領地を経営していくために,生き残った農民たちを大切に扱うようになります。待遇を向上させた農民の中には,不自由な身分である農奴から解放される者も現れ始めました(イギリス,フランス,西南ドイツに多いです)。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
◆「14世紀の危機」を越え,各地で領域国家が形成されていく
 この「14世紀の危機」を乗り越え,ヨーロッパには排他的な支配領域を持つ領域国家が成立していくことになります。領域国家を建設していった国王らの支配層は,官僚制・常備軍を整え,域内のさまざまな身分の権力を押さえつつ財政基盤を確立しようとしました。
しかし,諸侯の中には没落して,さらに格上の大諸侯や国王に領主を取られるものも出てきます。

 さらに,14~15世紀には火砲が発明され従来の一騎打ちの戦法が歩兵と砲兵を主力とする戦法に変化し,諸侯や騎士は用無しになり始めていました。没落した騎士は,国王のいうことを聞く形で生き残りを図るようになります。
 国王は諸侯・騎士にいうことを聞かせるため,商人と結んで経済力をつけていきました。商人にとっても,統一的な権力があったほうがビジネスを安全におこなうためには有利なので,国王に戦争資金を援助するなどして,権力に取り込みます。国王は一部の商人に特権を与え,彼らを保護していきました。


・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 神聖ローマ帝国とローマ教皇との叙任権闘争は,1122年に〈ハインリヒ5世〉(位1106~25)と教皇との間に締結されたヴォルムス協約で,皇帝にドイツの司教に封土を与える権利があることを確認して,一応の決着をみました。
 〈ハインリヒ5世〉と次の〈ロータル3世〉(位1125~37)には子がなかったので,ザリエル朝が断絶し,諸侯の選挙でホーエンシュタウフェン家の〈コンラート3世〉がドイツ王に選ばれました。彼はイタリアへの積極的な進出をしたために,交易の活発化で成長していたイタリア諸都市の反発を招き,ホーエンシュタウフェン家の皇帝派のギベリンと,教皇派のヴェルヘン家によるゲルフとの間に内乱が勃発しました。
 しかし,〈コンラート3世〉の甥〈フリードリヒ1世〉が,ドイツ王(位1152~90)と神聖ローマ帝国皇帝(位1155~90)に即位しました。彼は通称・赤ヒゲ王(バルバロッサ)と呼ばれ,第三回十字軍に参加したほか,第三回十字軍(1189~92)にも参加しました。
 しかし,彼も和平を撤回してイタリア政策を推進し,1258年に北イタリアを占領しました。それにたいして,ミラノを中心にロンバルディア同盟【本試験H19】が結成されました。
 〈フリードリヒ1世〉の孫〈フリードリヒ2世〉(皇帝在位1215~50)【本試験H27ハプスブルク家ではない】はシチリア島を相続し,宮廷をもうけて官僚制を整備しました。〈フリードリヒ2世〉に対しても,イタリア北部の都市はロンバルディア同盟を結成しています。【本試験H30】。

 13世紀になると,イタリアの諸共和国では都市の貴族と民衆(武装した民衆。ポポロといいます)との対立が表面化し,紛争につけこんだ有力者(地方の地主貴族)によって市政が乗っ取られることもありました。この有力者はシニョーリ(領主)となって,都市の安全を保障するかわりに,一族により市政を牛耳るようになりました【本試験H2イタリアでは富裕な市民たちが政権を握る共和国が成立したか問う】。

 さて,〈フリードリヒ2世〉は,地中海の十字路ともいわれるシチリア島で,イスラーム教徒たちとも交遊しながら,幅広い知識を身に着けていた人物です。第五回十字軍では,イスラーム教徒間の争いを利用して,イェルサレムをアイユーブ朝の〈アル=カーミル〉との外交交渉で開城してしまうというスゴ腕の持ち主です。ただイスラーム教徒とべったりしているように見えた彼の行為には批判も多く,教皇から破門された状態での十字軍となりました(「破門十字軍」といいます)。
 また,教皇の下で設立されたボローニャ大学に対抗して,ナポリ大学も開いています。
 しかし,ドイツを留守にしがちだった〈フリードリヒ2世〉はドイツの領邦の機嫌をとるために,“独立国”であることを事実上認める妥協をしてしまいました(「諸侯の利益のための協定」)。こうして領邦は,皇帝から貨幣の発行権や裁判権などを認められて“領邦国家“へと発展していきました。彼の時代に東方に植民したドイツ騎士団も有力な領邦として,のちのプロイセンにつながっていきます。
 ホーエンシュタウフェン朝が断絶すると,皇帝不在の“大空位時代”(1256~73)【本試験H19】が始まりました。皇帝が短期間即位したこともありましたが,大して力のない諸侯や帝国の外の者であることが多く,不安定な時代でした。

 14世紀にはイングランドの〈ウィクリフ〉や,ベーメンの〈フス〉など,カトリック教会を批判する勢力が支持を集めていました。これに対し,神聖ローマ皇帝の〈ジギスムント〉(位1411~37)は,混乱収拾のためにコンスタンツ公会議(1414~18) 【本試験H14トリエント公会議(宗教裁判所による異端の取り締まりが強化される中での開催)ではない,本試験H18ニケア(ニカイア)公会議・メルセン条約・アウクスブルクの和議ではない,H22 15世紀ではない,H26エフェソス公会議ではない,H29トリエント公会議ではない】を開催し,自体の収拾を図ります。

 そんな中,15世紀前半にはミラノとヴェネツィアがイタリア東部をめぐり争いますが,1454年に和約を締結しています。ヴェネツィアは,一部有力家系が大評議会をつくり,ドージェ(頭領)を選出して政治を行っていました。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆イタリア諸都市では商人が政治・経済を独占し,ルネサンスのパトロンになった
メディチ家は,「古代ギリシア」文化を旗印とした

シエナ
 シエナには12世紀にコムーネが成立して,自治が行われていました。しかし約60km北にあるフィレンツェ共和国【本試験H22地図上の位置】とたびたび衝突し,14世紀中頃のペスト〔黒死病〕の流行により人口が激減し,衰退に向かいます。
 1382年に完成した大聖堂(ドゥオーモ)や,カンポ広場,マンジャの塔(102m)をもつゴシック様式の市庁舎が,当時の繁栄を物語っています(◆世界文化遺産「シエナの歴史地区」,1995)。

フィレンツェ
 フィレンツェ共和国【本試験H22地図上の位置】は交易により栄え,1252年にフローリン金貨を鋳造し,国外でも使用されています(◆世界文化遺産「フィレンツェの歴史地区」1982,2015範囲変更)。
 1378年に毛織物業者のチョンピの反乱が暴動を起こしています。毛織物をつくる過程のなかでも特に大変な工程である「梳毛(そもう)」を担当していたのは,都市のなかでも特に下層の職人。数ヶ月ではあるものの,下層労働者による政権がフィレンツェに樹立されますが,直後に上層労働者により崩壊しています。
 その後は上層市民への資本の蓄積がすすみ,1434年に銀行家のメディチ家【本試験H22・H24フッガー家ではない,本試験H15・H27ともに芸術家を保護したか問う】が支配的となっていました(#漫画 〈惣領冬実〉による漫画『チェーザレ 破壊の創造者』はこの時代を扱っています。〈マキャヴァッリ〉〈コロン〉なども登場)。
 〈ジョヴァンニ〉が銀行業で成功し,死後に長男の〈コジモ=デ=メディチ〉(1389~1464)が一時フィレンツェを追放されるも,翌年には復帰。
 彼はフィレンツェの美化に努め,フィレンツェ市民の支持を受けて地歩を固めていきました。愛称は“イル=ヴェッキオ”(おじいさん)。

 しかし,1453年。オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落のニュースはイタリア半島に衝撃を与えます。相争っている場合ではないと,〈コジモ〉はみずから動き,1454年にはイタリア諸都市,ナポリ王国,教皇との間の和約を取りまとめます(ローディの和)。
 このときの協定参加国は次の通り。
 ①メディチ家支配のフィレンツェ共和国
 ②スフォルツァ家支配のミラノ公国
 ③寡頭支配のヴェネツィア共和国
 ④ローマ教皇領
 ⑤ナポリ王国

 キリスト教の登場する前のギリシアやローマの思想を研究する学者を保護した〈コジモ=デ=メディチ〉【慶文H30記】は,古代の〈プラトン〉の私塾アカデメイアに憧れたてプラトン=アカデミーを開き,学者の活動を支援しました。例えば〈ピコ=デラ=ミランドラ〉(1463~1494)は,『人間の尊厳について』で人間には自由な意志があるのだことを主張。〈フィチーノ〉(1433~1499) 【慶文H30問題文】は〈プラトン〉研究をおこなっています。
 〈コジモ〉はほかにも,新しい技法を美術に導入していた〈ブルネレスキ〉【本試験H24】【慶文H30記】(1377~1446,フィレンツェ出身,フィレンツェのサンタ=マリア大聖堂【本試験H10ビザンツ様式ではない。サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】のドームを設計【本試験H24ハギア=ソフィア聖堂ではない】),〈ドナテッロ〉(1386~1466,フィレンツェ出身,線遠近法を開発)を保護しました。

 〈コジモ=デ=メディチ〉の死後に跡を継いだ〈ピエロ〉は短期間で亡くなり,その子の〈ロレンツォ=デ=メディチ〉(1449~1492) 【慶文H30記】が後を継ぎました。しかし,フィレンツェの支配権をめぐり教皇〈シクストゥス4世〉(位1471~84システィーナ礼拝堂を建設した人。システィーナとは彼の名)がメディチ家のライバルのパッツィ家と協力し,〈ロレンツォ〉と弟〈ジュリアーノ〉を襲撃。〈ジュリアーノ〉は殺害されたものの,生き残った〈ロレンツォ〉はこの“パッツィ家の陰謀”の事実を暴き,パッツィ家の人々を処刑。教皇は今度はナポリ王国と協力して攻めますが,〈ロレンツォ〉は和平に持ち込みます。
 彼は,ギリシア神話をモチーフとした「春」「ヴィーナスの誕生」を生み出した〈ボッティチェリ〉(1445~1510)【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】を保護し,「ダヴィデ像」で有名な〈ミケランジェロ〉の才能も発掘しました。

 しかし,〈ロレンツォ〉の息子〈ピエロ〉は外交政策で失敗し,フィレンツェから追放されます。

 代わって,1497年にドミニコ会士〈サヴォナローラ〉がメディチ家による市政の独占やローマ教皇を批判し,フィレンツェで宗教改革を目指し,「虚栄の焼却」と名付けて多くの書物や美術品を焼きました。しかし,ライバルのフランチェスコ会士の反発を受け,1498年に火刑に処されました。この混乱の直後,〈ミケランジェロ〉は巨人に立ち向かう「ダヴィデ像」を制作(1501~1504)。しかし,フィレンツェが活力を取り戻すことはありませんでした。


ヴェネツィア
 ヴェネツィアでは1284年にドゥカート金貨が鋳造されています。この金(きん)は西アフリカからエジプト経由でもたらされたものです。当時の西アフリカではマリ帝国が栄えています。
 この頃,父と叔父とともに陸路で東方に旅行したヴェネツィア共和国【本試験H29場所を問う】の商人〈マルコ=ポーロ〉(1254~1324) は,大都で元の〈クビライ〉につかえたとされ,帰路は元の皇女を結婚のためイル=ハン国まで運ぶ船に同乗しました。体験談を『世界の記述(東方見聞録,イル=ミリオーネ)』にまとめ,大きな反響をもたらします。



○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆シチリア島はノルマン人の支配下で,中央集権的な国家機構を発達させていった
「地中海の十字路」シチリアで政治・文化が栄える
 ナポリとシチリアにノルマン人によって1130年に建国されていた両シチリア王国(ノルマン=シチリア王国)です【本試験H16地図、本試験H29アヴァール人ではない】【H30共通テスト試行 地図上の移動経路(ノルマン人は、北アフリカからイベリア半島に進出して「シチリア王国」を建国したのではない)】【追H24地図上の位置】はのちに断絶し,神聖ローマ皇帝〈フリードリヒ2世〉を出したドイツのシュタウフェン朝にわたります。

 シチリア島はまさに「文明の十字路」で,古来さまざまな文化の行き交う“最先端”の島でした。両シチリア王国の〈ルッジェーロ2世〉(シチリア王、位1130~1154)には,イスラーム教徒の地理学者〈イドリーシー〉がつかえ,当時としてはかなり正確な世界地図(直径2mの純銀円盤に南を上にした形で描いたもの(注1))を描いています。
 彼はローマ法を整え,中央集権的な官僚制度が整えられていきます。
 ヨーロッパにおける近代国家の“先駆け”の様相を呈します(注2)。「中央集権的な官僚制度」とはいっても,中国のように官吏任用試験をおこなったわけではありません。1224年にナポリ大学を設立し,ここで官吏を養成したのです。さしずめ“公務員養成予備校”といったところです。

 しかし、13世紀初頭になると、王権がイスラーム教徒を半島部のルチェーラに隔離。イスラーム教徒の高い灌漑技術・農業技術とともに、シチリアの多様な農業も同時に失われることとなりました(注3)。


 
 この時期を通して,フランス王国と神聖ローマ帝国は,互いに競ってイタリアへの支配権を獲得しようとしていました。特に,神聖ローマ皇帝の支配下に置かれた都市は「ギベリン(皇帝派)」,教皇の配下の都市は「ゲルフ(教皇派)」に属し,互いに抗争を繰り返すようになっていきました。狙われるということは,それだけイタリア都市国家が栄えていたということでもあります。

(注1)その前史として、8世紀のアラビア語によるギリシア古典・ローマ法の翻訳運動、9世紀の聖像破壊運動後のビザンツ帝国における古典復興がありました。南イタリアは12世紀ルネサンスのセンターとなり、当時のヨーロッパ人にとっての「外来の学問」をラテン語に翻訳していきました。
 たとえば、イングランドの〈ヘンリ1世〉はバースのアデラード(アデラルドゥス、1090?~1160?)を派遣し、スコラ学研究のためアラビア学問を研究し、〈エウクレイデス〉を翻訳、インドの数体系を初めて西ヨーロッパに紹介しました(つまり、フランスのキリスト教神学、南イタリアのギリシア古典文化、アラブの吸収・創始した諸学問をまたぐ“知の巨人”であったのです!)。ほかに柴田平三郎(1946~)が「中世の春」ともいう〈ソールズベリのジョン〉(ヨハンネス、1150?20?~1180)の活躍や、ブロアのペトルス(1130?35?~1211?12)の活動があります。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.147。ディミトリ=クダス、山本啓二訳『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』勁草書房、2002年を引いて。
(注2)高山博『中世地中海世界とシチリア王国』東京大学出版会、1993年。
(注3) 高山博『『歴史学未来へのまなざし――中世シチリアからグローバル・ヒストリーへ』山川出版社、2002年、pp.38-39。


◆「シチリアの晩鐘」(1282)以降は,シチリア=アラゴン家,ナポリ=アンジュー家の支配へ
 シチリアとナポリの支配権は,シュタウフェン朝からフランスのアンジュー家へと代わります。
 しかし,アンジュー家貴族による過酷な支配へのシチリア島民の反乱をきっかけに,1282年“シチリアの晩鐘(ばんしょう)”と名付けられた騒乱が起き,シチリア島はイベリア半島のアラゴン家の支配下となりました。
 一方アンジュー家は,ナポリ王国を支配しつづけたので,シチリア王国とナポリ王国に別れることになりました。

1442年にアラゴン王国〈アルフォンソ5世〉の征服で,ナポリもアラゴン家の支配下に
 1442年にアラゴン王国〈アルフォンソ5世〉の征服により,シチリア=アラゴン家,ナポリ=アラゴン家となります。
 そこへ,1494年にフランスの〈シャルル8世〉がナポリ王国の継承を要求して始まったのが,第一次イタリア戦争なのです【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】。こうして,1454年に成立していたイタリア半島の5大国によるローディの和は破られ,イタリア半島は衰退の時代を迎えます。
 フランスの南進に対し,ボルジア家出身のローマ教皇〈アレクサンデル6世〉(位1492~1503)は対抗し,愛人との子〈チェーザレ=ボルジア〉(1475~1507)に軍を率いさせます。ボルジア家は“陰謀”の使い手で,権謀術数をもちいてイタリアの諸勢力を混乱させつつ,自身は権力を掌握していきました。この様子をみていたのは,のちに『君主論』をあらわすことになるフィレンツェの外交官〈マキャヴェッリ〉(1469~1527)でした。
 メディチ家の失策と,ローマ教皇のやりたい放題ぶりをみて,フィレンツェでは1498年に〈サヴォナローラ〉による教皇批判も起きています。

○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆イタリアの都市国家は東方貿易を通して新技術や情報を次々に導入する
イタリアは,ユーラシアに向けた「窓」に
 イタリアの都市国家の人々は,オスマン帝国との東方(レヴァント)貿易によって都市が商業的に栄えるとともに,イスラーム教徒を通して,キリスト教文化とは異なる文化に接するようになっていました。12世紀に始まるイスラーム教徒を通した【共通一次 平1】,古代ギリシア【共通一次 平1】などのキリスト教以前の文化の流入を12世紀ルネサンスといいます。
 ヨーロッパに羅針盤(らしんばん)【本試験H4】【本試験H27中国で生まれたことを問う】【セA H30発祥はポルトガルではなく中国】・火器【本試験H2「火薬」が中国で発明されたか問う】・活版印刷術が伝わり,改良,発達されていくのもこの時期です。羅針盤は大航海時代を刺激【本試験H4】,火器は騎士の没落を促進,活版印刷術は情報伝達により宗教改革などの新しい思想の伝達に威力を発揮しました。製紙法の伝播【本試験H27モンゴル人による伝播ではない】もこの頃でした。
 また,1494年にイタリアの商人・数学者〈ルカ=パチョーリ〉(1445?~1517)が,複式簿記に関する解説を著作『スムマ』の中でしており,これが複式簿記についての現存する最古の記録となっています(複式簿記自体は12世紀頃から使用されていました)。




○1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆イタリアで,古代ギリシア文化やローマ文化を再評価する人文主義の運動(ルネサンス)が活発化した
ヨーロッパ文化にギリシア・ローマ文化が接続される
 こうした革新的な情報の交流を背景に,「人間らしさ(人間性)」を我慢せずに自由に表現しようとする運動が,14世紀から16世紀にかけてヨーロッパで起きます。これがいわゆる“ルネサンス”です。
 その大きな特色は,ギリシア文化・ローマ文化【本試験H26ゲルマン文化】のように人間に中心を置く考え方である人文主義(ヒューマニズム) 【本試験H17スコラ学とのひっかけ】です。この考え方をとった知識人をヒューマニストと呼びます。

 中世ヨーロッパはキリスト教のカトリック教会の権威が絶対で,それに歯向かうことが許されていませんでした。しかし,いざ国家が宗教の束縛から自由になると,「自分の国のことだけ」を考えて,国家どうしが血も涙もない戦争に明け暮れる時代に突入したのです。これからの時代の君主たるもの,権謀術数(相手をだましたりはめたりしようと策をめぐらすこと)が必要だと解き,キリスト教に代わる新たな「正義」について考えたのが,フィレンツェの〈マキャヴェッリ〉【東京H22[3]】【本試験H7史料が引用。モンテーニュ,エラスムス,トマス=モアではない】【本試験H14ホッブズではない】です。「キツネのずる賢さと,ライオンのどうもうさ」というフレーズで有名な『君主論』【東京H22[3]】【本試験H14『リヴァイアサン』とのひっかけ】は,「権謀術数」のほうが強調されて広まりましたが,時代の変化に対応した国家運営について,この時期にもっとも深く考えていた人です。

 〈ダンテ〉(1265~1321) 【本試験H4時期(15~16世紀ではない)】 【本試験H15・H17】【追H28、H30】はフィレンツェで『神曲』【本試験H15・H17】【本試験H8時期(14~15世紀)】【追H28,H30】を口語【追H28ラテン語ではない】で書き,カトリック教会を物語の中で批判しています。物語の中には,古代ローマの詩人〈ウェルギリウス〉(英語名はヴァージル,前70~前19) 【追H30】が登場し,〈ダンテ〉本人とともに地獄・煉獄・天国をめぐるという内容です。中世のキリスト教の世界で使われていたラテン語はヨーロッパ文化圏の共通言語でしたが,教育を受けていない一般の民衆は読むことができませんでした【本試験H12「(12~13世紀の西ヨーロッパの)大半の人々は,ラテン語で書かれた聖書が読めなかった」か問う】。親しみのある口語(フィレンツェ地方のトスカナ語【本試験H15】)で記されたところが,今までになかった革新的な特徴です。
 〈ダンテ〉の影響を受けた〈ボッカチオ〉(1313~75) 【共通一次 平1〈ラブレー〉ではない】【本試験H8時期(14~15世紀)】【本試験H15画家ではない】【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】は『デカメロン』【共通一次 平1】を書いています。またボローニャ大学で法律を学んだ〈ペトラルカ〉(1304~74)【本試験H24時期】は,古典の研究をしながら,人間の内面を深くとらえた多くの恋愛抒情詩【本試験H24】を残し,“最初の近代人”ともいわれます。
 彼らの影響はヨーロッパの他の地域にも広がり,イングランドでは〈チョーサー〉(1340?~1400) 【共通一次 平1【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】が『カンタベリ物語』【共通一次 平1『ユートピア』ではない】【本試験H8時期(14~15世紀),本試験H12騎士道物語ではない】をロンドンの俗語【共通一次 平1:英語か問う】で書き“イギリス文学の父”と称されました。ネーデルラントでは〈エラスムス〉(1469~1536) 【本試験H4時期(15~16世紀か)】【本試験H24時期・H28,H31ラブレーではない】【追H20スコラ学(スコラ哲学)とは関係ない】が『愚神礼賛』【本試験H24,H28,H31(ラブレーではない)】【追H19モンテーニュの著作ではない】を書き,社会を風刺しています。イングランドでは16世紀末~17世紀初に〈シェイクスピア〉(1564~1616)が戯曲を発表しています。
 絵画では,15世紀前半に遠近法が確立され,「より本物らしく描く」ことが重要視されるようになります。古代ローマの建築が導入されて,大きなドームが印象的なルネサンス様式【本試験H10ロマネスク様式とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】がつくられます。
 16世紀には,「ダヴィデ像」の作者の〈ミケランジェロ〉(1475~1564)らにより,ローマでサン=ピエトロ大聖堂【本試験H10サン=ヴィターレ聖堂とのひっかけ】【追H20ロマネスク様式ではない】が新築されました(◆世界文化遺産「ヴァチカン市国」,1984)。
 「最後の晩餐(ばんさん)」【追H28遠近法を駆使したか問う】、肖像画「モナ=リザ」を描いた「万能の天才」〈レオナルド=ダ=ヴィンチ〉【本試験H4時期(15~16世紀か問う)】【追H9 ガリレオ=ガリレイとのひっかけ,H20、H28「最後の晩餐」を描いたか】もこのときの人で(注),聖母子像を描いた〈ラファエロ〉【本試験H14イエズス会の宣教師ではない(カスティリオーネとのひっかけ)】【大阪H30図版「アテネの学堂」】とともに,ルネサンスの三大巨匠といわれます。

 なお,美術の影響は他の地域にも広まります。
ネーデルラントでは,〈ファン=アイク兄弟〉(兄1370?~1426,弟1380?~1441)が油絵技法を改良しフランドル派の祖となりました。ただし,兄の実在には疑問もあります(兄は「ヘント祭壇画」,弟「アルノルフィニ夫妻の肖像」が代表作)。「四使徒」(四人の使徒)【追H20図版(解答には不要)】【慶文H29問題文】で有名なドイツの〈デューラー〉(1471~1528) 【追H20リード文】【慶文H29】は版画を制作し,ルターの考えに共感して〈ルター〉の訳した新約聖書からドイツ語の聖句が抜き出され「四使徒」の絵の下部に刻まれています【追H20リード文】。ザクセン選帝侯の宮廷画家〈クラナッハ〉(1472~1553)も,宗教改革を支持し「磔刑図」(たっけいず)や〈ルター〉の肖像画を残しています。
(注)「最後の晩餐」はミラノのサンタ=マリア=デッレ=グラーツィエ修道院に収められ,壁画自体も世界文化遺産に登録されています(◆世界文化遺産「同修道院とレオナルド=ダ=ヴィンチの『最後の晩餐』,1980」)。




・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
 北部のスコットランド王国ではイングランドの支配が強まり,1296年にはイングランド国王〈エドワード1世〉によって,スコットランド王家の象徴である「スクーンの石」(運命の石)が戦利品として略奪されます。
 その後,13~14世紀にかけてイングランドからの独立戦争が起きます。抵抗運動に立ち上がった英雄として〈ウィリアム=ウォレス〉(1270?~1305)が有名です。1306年に戴冠した〈ロバート1世〉(ロバート=ドゥ=ブルース。1306~1329)の下で勝利しています。

(注) 運命の石はウェストミンスター寺院のイスに埋め込まれました。1950年にはスコットランド民族主義者により盗難に遭い破損。1995年に正式に返還されました。リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002,xxxii~xxxiii。〈ロバート=ブルース〉は1314年のバノックバーンの戦いでイングランド軍に決定的勝利をおさめます(同,p.73)。





・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
◆フランス王国は,南フランスへの拡大に成功し,北アフリカへの進出に失敗する
フランス王国は王権を強め,地中海岸に拡大する
 カペー朝フランス王国の9代目〈ルイ9世〉(位1214~1270年)は,ローマ教皇のお墨付きを得て,南フランスへの進出を強めます。12世紀半ばからフランス南部のトゥールーズやカルカッソンヌなどのラングドック地方で一大勢力を築いていたアルビジョワ派(カタリ派【追H27】【本試験H16オランダではない,本試験H29】)退治が名目です(アルビジョワ十字軍【本試験H29】)。カタリ派の教義は不明な点も多いですが,現世=汚い=悪,来世=汚れがない=善という善悪二元論に基づき,ブルガリアで始まったボゴミル派(10世紀中頃)との関連があるようです。結婚(生殖=汚い)をしないことや厳しい菜食主義(肉=汚い)が理想とされ,腐敗していたローマ=カトリックと比べ魅力的と写ったようです。
 この十字軍はヨーロッパ国内の異端勢力を攻撃する者に,教皇が「イェルサレムの十字軍と同じくらいの功徳(くどく)がある」と認めて始まったもので,“ヨーロッパの内部における十字軍”でした。〈ルイ9世〉は1229年に,多大な犠牲を払って西南フランスのラングドック地方を制圧しています。

 〈ルイ9世〉の時代はフランスが平和を迎えた時代でした。パリを流れるセーヌ川のシテ島にあるサント=シャペル(1248完成)も,彼の命令で完成したステンドグラスをもつゴシック様式の教会です(◆世界文化遺産「パリのセーヌ河岸」,1991の一つ)。

 余裕ができた〈ルイ9世〉は,第七回十字軍を決行し,「聖王」(英語ではセントルイス)と呼ばれて権威を高めました。1248年に出発した〈ルイ9世〉はアイユーブ朝のエジプトを攻撃しましたが,マムルークである〈バイバルス〉に敗れて人質となり,莫大な身代金を支払って解放されました。
 なお,アイユーブ朝でもクーデタが起こり,マムルーク朝が誕生しています。このマムルーク朝の〈バイバルス〉は,1258年にバグダードを占領したモンゴル人の〈フラグ〉と対決し,勝利しています。
 前後しますが,〈ルイ9世〉は,イスラーム教勢力を挟み撃ちにできる相手を探すために,1253年にローマ=カトリック内部にあるフランシスコ会の修道士〈ルブルック〉【京都H20[2]】をモンゴル帝国へ派遣しています。さらに行政官や裁判官を整備して,国内の統治も強化していきました。

 一方,フランス南部の異端に対するアルビジョワ十字軍は,第11代の〈フィリップ4世〉(位1268~1314年) 【追H27ユーグ=カペーではない】のときに終わります。南部には独自のオック語文化が発展していて,フランス系の吟遊詩人(トゥルバドゥール。人名ではなく職業。宮廷で騎士の恋愛を抒情詩(気持ちをのせた歌)でうたった)は南部の出身者です。「愛する女性(ひと)を見た瞬間 突然おじけづく 眼はかすみ,顔は青ざめ 風にさわぐ木の葉のように震える私」…〈ベルナール=ド=ヴァンタドゥール〉の傑作より。こうやって,貴婦人に対する恋愛をこのように歌に乗せて読んだわけです(注)。
(注)詩は筆者が一部改編。木村尚三郎編『世界史資料・上』東京法令出版,1977,p.421


◆フランス王〈フィリップ4世〉は身分制議会をひらき,財政基盤を確立しようとした
 フランス王国の拡大を進めたカペー朝フランスの王には,増加していた宮廷費や軍事費を確保するために,国内の諸身分の合意を得ようとしました。商業の発達にともない生まれていた新興勢力の都市住民の代表を1つのグループ(第三身分【追H26平民は第二身分ではない】)として,今までの貴族(第二身分)や聖職者(第一身分)とともに,フランス王国を構成する重要な身分の1つに位置づけ,この三身分のバランスを考えてコントロールしようとするようになります。
 その例が〈フィリップ4世〉【東京H8[3]】【共通一次 平1】【本試験H18・H23・H26】【追H30三部会を招集したか問う】です。彼は,ノートルダム大聖堂の3つの身分を集めて,「これからローマ教皇〈ボニファティウス8世【共通一次 平1:グレゴリウス7世ではない】【本試験H25レオ3世ではない】【追H29インノケンティウス3世とのひっかけ】【立教文H28記】と争うことになるけれどもいいか」と意見を聞いたんですね。ばらばらに一人ひとりの意見を聞いて回っていては収拾がつきませんから,これは効率のよい方法です。

 フランスの身分制議会を三部会【共通一次 平1:フロンドの乱の拠点となった高等法院とのひっかけ】【本試験H12】【本試験H16,H23】【追H28フランスで封建的特権の廃止が決議されたか問う,H30】といい,初めての招集は1302年です。三部会の支持をとりつけた後で,〈フィリップ4世〉【追H27フィリップ2世ではない、H29】は教皇〈ボニファティウス8世〉をアナーニで捕らえようとして失敗(アナーニ事件【追H27】),〈ボニファティウス8世〉はショックのあまり3週間後に亡くなっています(しばしば「憤死」と表現します)。のちに新たに就任したフランス人の教皇(クレメンス5世)は,ローマの都市貴族同士の派閥抗争から逃れるためフランス南部のアヴィニョン【共通一次 平1 グレゴリウス7世をアヴィニョンに幽閉したわけではない】【本試験H17 12世紀ではない,本試験H22 15世紀ではない】【追H29パリではない】に教皇庁を移動させました。〈ダンテ〉(1265~1321)などのイタリアの詩人らは,これを『旧約聖書』の事件になぞらえ「教皇のバビロン捕囚」(1309~77)と呼びましたが,教皇をフランス人に移動させられた”被害者”とみるのは後のローマ教皇庁の見解に過ぎません。

 〈クレメンス5世〉はむしろ積極的に教皇庁に高度な官僚組織を組み上げ,大司教や司教の選出にも介入し,彼らから手数料を徴収するようにもなりました(注)。事務処理の増加にともない,アヴィニョン教皇庁には法学をおさめた聖職者が実務をこなしていました。
 このアヴィニョンの教皇が異端宣告をしたのが,イングランドの〈フランチェスコ〉修道会の〈ウィリアム=オッカム〉(1280?~1349?)です。信仰と理性は矛盾しないと訴え,教皇の権威よりも世俗の権力のほうが強いと主張したためです。
(注)聖職叙任権は理念としては教皇が持っていましたが,大司教や司教を選出する実権は聖堂参事会にありました。樺山紘一『パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治』人文書院,1990。

 〈フィリップ4世〉はさらに十字軍のときに結成されたテンプル騎士団を1314年に解散します。テンプル騎士団はイェルサレムに本部を置き,現金を持たずに巡礼者が安全に旅行できるような送金システムを整えたり,各地の信者からの多額の寄付を集めたりしたことで,多額の資産を管理する団体になっていました。フランスは,イングランドと戦争をするときに,よくテンプル騎士団から資金を借りていましたが,〈フィリップ4世〉はこれを踏み倒そうとしたのではないかと考えられます。テンプル騎士団といえば,映画化された小説『ダ・ヴィンチ・コード』のなかで,“キリスト教の秘密を握る謎の組織”として扱われていたように,イエスの十字架や聖杯(最後の晩餐のときに使われたとされるうつわ)を持っているのではないかとか,さまざまな「都市伝説」をもっている組織でもあります。


◆イングランドとフランスは,工業地域のフランドル地方をめぐり百年戦争をたたかった
 このように〈フィリップ4世〉のもとで一気に強大化したカペー朝ですが,1328年に跡継ぎがなくなり断絶。当時はフランスとイングランドの国としての違いは明確ではなく,支配者は血筋によってヨコにつながっていましたので,フランスの国王が亡くなったら,次は自分に王を継ぐ権利があると,イングランド王〈エドワード3世〉【本試験H4王権神授説を唱えていない】【本試験H27ハプスブルク家ではない,H29共通テスト試行「母方の血筋を理由として」継承を主張したかを問う】が主張したのです。彼は,〈フィリップ4世〉の娘と,〈エドワード2世〉の間に生まれた息子です。

 フランスではカペー家の傍系(遠い親戚)にあたるヴァロワ家から〈フィリップ6世〉が即位しており,ヴァロワ朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】が成立。しかもフランスでは伝統的に女系の王は認められていませんでした(フランク王国のサリカ法典(6世紀頃)が起源)。
 フランスとイングランド【本試験H13神聖ローマ帝国ではない】は工業地域のフランドル地方【本試験H2】をめぐっても対立し,百年戦争【本試験H5時期を問う】が始まりました。
 フランドル地方の都市は,イングランドの羊毛輸出先【本試験H31】として経済的に重要視されたのです。
 〈エドワード3世〉が挑戦状をおくったのが1337年,実際に戦闘がはじまったのは1339年のことです。

 百年戦争中にはペスト(黒死病)が大流行し,多くの犠牲者が出ました。労働力不足から農民の待遇が改善され,解放される農奴も現れました【本試験H5 14~15世紀に領主直営地において賦役が廃止されたことを問う】。しかし,黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(いわゆる封建反動)。百年戦争の被害もあり,厳しい負担をかけられていたフランス北東部の農民が1358年にジャックリーの乱【追H26】【本試験H2時期(百年戦争中か),本試験H5「農民に対する収奪の再強化に反抗」したものか問う,本試験H8ジェントリのひっかけ,本試験H10デカブリストではない】【本試験H17時期・地域・ジョン=ボールが引き起こしたわけではない,本試験H19時期,本試験H22・H30ともにイギリスではない】【慶文H29】を起こすなど混乱は続きます。

 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いで用いられたわけではない】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦い【追H29トゥール=ポワティエ間の戦いとのひっかけ】に勝利して,守り抜きました。
 フランスでは黒死病がはやったり,戦争と重税に耐えかねた農民一揆のジャックリーの乱(1358)が起こったりと,内政も危機にありました。
 1415年にはランカスター朝イングランドの〈ヘンリー5世〉(位1413~22)がアザンクールの戦いで,フランス軍に勝利。1420年にフランス王〈シャルル6世〉の娘キャサリンと結婚しトロワ条約によってフランス王位継承権を認めさせると,フランスは絶体絶命のピンチに追い込まれます。1422年にイングランド王〈ヘンリー5世〉もフランス王〈シャルル6世〉も亡くなると,〈ヘンリー5世〉の息子がイングランドとフランスの王〈ヘンリー6世〉(仏王位1422~53,英王位1422~1461)として即位。フランス側の〈シャルル王太子〉(1403~61)はフランス王位を継承できず,最後の重要拠点である都市オルレアンがイングランド軍に包囲されるのを黙ってみているほかありませんでした。

 そんな中,ドン=レミ村の農民出身の〈ジャンヌ=ダルク〉(出現当時16歳,1412~31) 【本試験H2時期(百年戦争末期か)】【本試験H15・H17】が現れて,イングランド軍に包囲されていたオルレアンを包囲から解放し【本試験H15・H17ともにバラ戦争ではない,H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】,戦局を逆転させたといい,結果的に〈シャルル7世〉(位1422~61)がランス大聖堂で戴冠することができました。
 しかし〈ジャンヌ〉には幻視(げんし)・幻聴(げんちょう)の兆候があったようで,パリ攻略に失敗し,当時イングランド側についていたフランス諸侯のブルゴーニュ公国に捕らえられると,「神の声を聞いた」ということを根拠に “異端”として裁判にかけられ,ルーアンで火刑に処されてしまいます。聖人に列せられ名誉回復するのは1920年のことでした(#寄り道「ジャンヌ=ダルク」(1999仏米)!刺激の強いシーンあり)。
 〈ジャンヌ〉の活躍もあり,フランスは1453年に百年戦争に勝利しました。イングランドは,フランス北部沿岸のカレーを除きユーラシア大陸から撤退しました。しかしフランスは,長年の戦争で諸侯や騎士が没落し,国王〈シャルル7世〉は大商人〈ジャック=クール〉(1395~1456)の力を借りて財政を強化しました。
 また〈ルイ11世〉(位1461~83)は,三部会によって国内の三身分の利害を調整しつつ,ブルゴーニュ公領を獲得するなど領土を拡大させ,常備軍(西ヨーロッパ初)も整備しました(ブルゴーニュ公国がスイスとの戦争に敗れたタイミングを狙いました)。

 また,1438年にはフランスのローマ=カトリックの教会収入と司教の叙任権をコントロールする権利を獲得し,フランス国内の教会に対する支配を強めるきっかけをつくりました。この政策をガリカニスムといいます。



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・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド
◆イングランド国王のアイルランド介入は、一時弱まる
アイルランドでは「ゲール化」が進み、軍閥割拠に
 1171年に〈ヘンリ2世〉がアイルランド宗主権を、アイルランドの先住のゲール人の諸王やノルマン系の征服者に認めさせてからというもの、イングランドからの介入や影響が強まっていきました。
 たとえば、ノルマン系の征服者は、獲得した土地を直轄地とそれ以外に分け、後者を従者に分け与えました。また牧畜中心であったアイルランドにイングランドから荘園制と、農耕・牧畜混合農業を導入し土地を開発、イングランドからの植民も実施しています(注1)。

 13世紀後半以降、土着のゲール人による「巻き返し」がスタート。
 イングランドの「ゲール化」も進むと、1366年にはキルケニーで開催された議会で「キルケニー法」が定められ、イングランド系にゲール語の使用・ゲール系との婚姻などを禁じます。それほどイングランド系とゲール系の交流が進んでいたことの現れでもあります(注2)。
 1315~1317年にアイルランドで大飢饉が勃発。1348~49年にはヨーロッパ大陸から伝わった黒死病が猛威をふるいます。こうした中、島に残ったイングランド系はますますアイルランド系との混交を深めていくのです。
 イングランド王は1360~1399年までの間、アイルランド統治に積極的。〈エドワード3世〉はアイルランドに息子を総督として派遣し、次の〈リチャード2世〉は1390年代に2度アイルランドに渡っています(注3)。
 しかし15世紀後半には、イングランド王の支配は、「ペイル(柵)」と呼ばれた、ダブリン周辺の4県のみになっていました。ゲール系有力族長は、重装歩兵の傭兵集団「ギャロウグラス」のほかに、騎兵や軽装歩兵(ホースメンやカーン)を支配圏内の有産層から徴用し軍閥化。ペイルの外は軍閥が割拠する状況となっていました(注4)。
 イングランド王は、ペイルの外を支配していたデズモンド伯(南西部)、オーモンド伯(中南部)、キルデア伯(東部)などイングランド系有力軍閥を国王代理(総督)に任命し「アイルランド統治はまかせた」と投げるほかありませんでした。百年戦争とその後に続くばら戦争に忙しく、アイルランド統治にまで手が回らなかったのです。
 
(注1)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.25。
(注2)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.26。
(注3)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.27。
(注4)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.30。



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・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑨イギリス
 この時期は小氷期(リトル=アイス=エイジ)と呼ばれる寒冷な時期にあたり,森林が暖炉の薪(たきぎ)や製鉄の原料として伐採されていったことで,森林資源が枯渇に向かいました。草原の丘がゆるやかにひろがる,イギリスの田園風景は,実は森林破壊の跡なのです。そこで代わりの燃料や,製鉄の原料として石炭が使われるようになっていきます。1273年には石炭を燃やすことにより大気汚染が起きるのを防止する煤煙(ばいえん)規制法が制定されています。石炭は,のちに1760年以降に蒸気機関の燃料として脚光を浴びることとなります。

 プランタジネット朝4代目の〈ヘンリ3世〉(位1216~72) 【本試験H14星室庁を利用していない】がマグナ=カルタを無視して政治をおこなったため,1265年フランス貴族のシモン=ド=モンフォールの乱【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H22デンマークではない,本試験H30】がおきました。彼の招集した身分別の議会がイングランドの議会の起源とされ,5代目の〈エドワード1世〉(位1272~1307) 【本試験H31模範議会を招集したか・時期を問う(17世紀ではない)】による聖職者・貴族・都市の代表による身分制議会(1295年。模範議会といわれる【共通一次平1:イギリス最初の議会ではない】【本試験H4「王権に忠実」ではない】【本試験H29フランスではない,H31時期を問う(17世紀ではない)】)に発展しました。

 7代目の〈エドワード3世〉(位1327~1377)のときに,二院制議会(上院と下院) 【共通一次 平1:最初から二院制だったわけではない】のしくみが整いました。ただ,選挙権は現在のように広く国民にひらかれていたわけではありません【共通一次 平1:中世末期には国民代表的正確を強めていたわけではない。それは19世紀以降】。
 この〈エドワード3世〉の母が,フランスの王〈フィリップ4世〉の娘だったため,当時断絶していたカペー朝の王位を主張して始まったのが,百年戦争ということになります。しかし戦争の最中にペスト(黒死病)が流行し,労働力が不足(人口の約3分の1が死亡するという未曾有の事態!)。農村では,人手を必要とする従来の穀物生産から,ヒツジの放牧へと土地利用が転換されていきました。
 従来からイギリスの農奴解放はかなり進んでいて,自分の土地を保有した農民はヨーマン(独立自営農民) 【本試験H19ジェントリではない】【本試験H8ジェントリのひっかけ】【追H25時期を問う(穀物法廃止、第二次囲い込みとの時系列)】と呼ばれるようになっていました。しかし,黒死病の流行で労働力が不足すると,領主もさらに農奴を解放して待遇を良くせざるを得なくなりました。
 しかし,この傾向が進むと,領主の暮らしが悪化。黒死病もおさまったころ,手のひらを返したように農民に対する待遇をまた厳しくする領主が現れます(封建反動)。
 イングランドでは1381年に起こり,身分制度を批判する動きが起きましたが,これらの農民一揆は鎮圧されてしまいます。〈ワット=タイラー〉の乱では,教皇権を批判し1378年(注1)に聖書の英訳を初めておこなった神学者〈ウィクリフ〉【追H27オランダの人ではない】を支持していた聖職者〈ジョン=ボール〉(1338?~81)【本試験H17ジャックリーの乱は引き起こしていない,本試験H22イタリアではない】が『アダムが耕しイヴが紡いだとき,誰がジェントリ(貴族)【慶文H29】だったのか』と説教をして農民軍を勇気づけたとされます(注2)。

(注1) 1384年になくなった後,1400年頃に完了。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.121。
(注2) アダムは「楽園」にいたという最初に創造された人類(カトリックでは人祖、プロテスタントでは人間の始祖)。アダムは「耕し」というのは「働き」という意味(『創世記』2:15に「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」とあります)神が「食べると必ず死んでしまう」(2:17,3:3)から禁止していた知恵の実を蛇に誘惑され、イヴは自分の意志で実を食べ、イヴの勧めたアダムもやはり自分の意志で食べました(『旧約聖書略解』日本基督教団出版局,1986年,p.14)。このアダムとイヴから受け継がれた罪のことを原罪といいます。


 このような社会の混乱期にあって,ローマ教会から贖宥状(しょくゆうじょう)を買って,生前の罪を軽くしようとする人も増えていました(注)。買えば天国と地獄の間にある煉獄(れんごく)での滞在時間を短くできると信じられたのです。
 もともとローマ=カトリックと正教会では,洗礼後に個人的な(宗教的な意味での)罪(つみ)を犯した信徒が聖職者にそれを告白し,聖職者がそれをゆるし,信徒が何かしらの行為によってそれをつぐなうことができるとされていました。これは教会に与えられた特別な儀式(サクラメント。カトリックでは秘蹟,正教会では機密という)の一つで,ローマ=カトリックでは「ゆるしの秘蹟」,正教会では「痛悔機密」と呼ばれます。贖宥状を買えば,つぐないの行為が免除されるとされたわけです。
(注)贖宥状は免罪符(めんざいふ)とも訳されますが、「罪を免れる」ものではなく「償いを免れる」ものなので、「贖宥状」や「免償符(めんしょうふ)」という表現のほうが適切です。なお、正教会にはそのような考え方はありません。



 14世紀後半には,イングランドのオックスフォード大学神学部教授〈ウィクリフ〉(1320?~84) 【追H27オランダの人ではない】【本試験H22 15世紀の人ではない】や,〈ウィクリフ〉の影響を受けたベーメン(現チェコ)のプラハ大学神学部教授〈フス〉(1370?~1415)が,「救いのへの道は,教会を通してではなく,聖書を通して得られる」と主張し,教会や教皇の批判を公然をおこなうようになります。〈ウィクリフ〉はロラード派という,聖職者の存在に反対する運動に参加していた人物です。



◆百年戦争を通して,フランスとイングランドは明確な領域に分離した
 百年戦争は,序盤では,長弓兵【本試験H17】を武器にしたイングランド軍が,フランスの弩(石弓,いしゆみ)兵に対して優勢を誇り,〈エドワード黒太子〉(1330~76) 【本試験H17時期】はフランス南西部の大陸領をクレシーの戦い【本試験H27】とポワティエの戦いに勝利して,守り抜きました。
 フランスでは黒死病がはやったり,戦争と重税に耐えかねた農民一揆のジャックリーの乱(1358) 【慶文H29】が起こったりと,政も危機にありました。

 1399年には,プランタジネット朝が〈リチャード2世〉(位1377~99,エドワード黒太子の息子)の下で断絶すると,かつての王〈エドワード3世〉(位1327~77)の子どもの一人でランカスター公の〈ジョン=オヴ=ゴーント〉(~1399)の子どもが〈ヘンリー4世〉(位1399~1413)として国王に就任。
 ランカスター朝【本試験H2プランタジネット朝とのひっかけ】を開きます。
 1415年には,次の〈ヘンリー5世〉(位1413~22)がアザンクールの戦いで,フランス軍に勝利。1420年にフランス王〈シャルル6世〉の娘キャサリンと結婚しトロワ条約によってフランス王位継承権を認めさせると,フランスは絶体絶命のピンチに追い込まれます。1422年にイングランド王〈ヘンリー5世〉もフランス王〈シャルル6世〉も亡くなると,〈ヘンリー5世〉の息子がイングランドとフランスの王〈ヘンリー6世〉(仏王位1422~53,英王位1422~1461)として即位。

 フランス側の〈シャルル王太子〉(1403~61)はフランス王位を継承できず,最後の重要拠点である都市オルレアンがイングランド軍に包囲されるのを黙ってみているほかありませんでした。

 そんな中,ドン=レミ村の農民出身の〈ジャンヌ=ダルク〉(出現当時16歳,1412~31) 【本試験H15・H17】が現れて,イングランド軍に包囲されていたオルレアンを包囲から解放し【本試験H15・H17ともにバラ戦争ではない,H29共通テスト試行 図版(クローヴィスの洗礼とのひっかけ)】,〈シャルル7世〉(位1422~61)がランス大聖堂で戴冠するのを助けました。しかし〈ジャンヌ〉には幻視(げんし)・幻聴(げんちょう)の兆候があったようで,パリ攻略に失敗し,当時イングランド側についていたフランス諸侯のブルゴーニュ公国に捕らえられると,「神の声を聞いた」ということを根拠に “異端”として裁判にかけられ,ルーアンで火刑に処されてしまいます。聖人に列せられ名誉回復するのは1920年のことでした。
 〈ジャンヌ〉の活躍もあり,フランスは1453年に百年戦争に勝利しました。イングランドは,フランス北部沿岸のカレー【本試験H24ボルドーではない】を除きユーラシア大陸から撤退しました。それ以降イングランドは,大陸への進出を試みることはなくなります。

 戦後【本試験H2時期(百年戦争の末期ではない)】は,ランカスター家とヨーク家によるバラ戦争(1455~85) 【本試験H4有力貴族が弱体化したから絶対王政が始まったか問う】が起こります。
 一方,イングランドでも〈ヘンリー6世〉(位1422~61,70~71)の王位が,かつてのプランタジネット朝〈エドワード3世〉の孫の孫〈エドワード4世〉(位1461~71,71~83)に移り,国王に就任。これが,ヨーク朝です。ランカスター家の〈ヘンリー6世〉との王位をめぐる争いは,百年戦争終結まで続き,ヨーク朝の王位は短命な〈エドワード5世〉(位1483)→〈リチャード3世〉(位1483~85)に継承されますが,風前のともし火という状態でした。

 そんな中,ヨーク家の国王の娘の婿(むこ)である,テューダー家の〈ヘンリー〉がこれを収め,1485年に〈ヘンリ7世〉(位1485~1509)として即位し【本試験H30ジェームズ2世ではない】【追H27ジョージ1世界ではない、H30ルイ14世ではない】,テューダー朝【追H27】【本試験H2プランタジネット朝ではない】を創始しました。
 彼は,バラ戦争の戦後処理のために1530年代から星室庁(せいしつちょう,The Court of Star Chamber) 【本試験H14ヘンリ3世のときの利用ではない】【追H30】を整備して,国王大権下で司法権を掌握するなど,急速に中央集権化を進めていきました。本格的に星室庁裁判所が利用されるのは〈ヘンリ8世〉の1540年代のことになります。




・1200年~1500年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆毛織物産業地帯フランドル地方をめぐり英仏が抗争したが,ブルゴーニュ公国の領土となった
フランドル伯の富が他国の争奪の的となる

 ライン川河口周辺の低地地方では,フランドル伯領が,カロリング家やイングランド王〈アルフレッド〉大王とも婚姻関係を結び,権威を高めつつ神聖ローマ帝国とフランス王国の間でうまくバランスをとり勢力範囲を徐々に広げていました。
 11世紀頃からはイングランドから輸入した羊毛から毛織物【東京H17[3]】を生産し,ブルッヘやヘントといった都市を中心に先進工業地帯として栄えるようになりました。

 そんなフランドル地方の富を狙い,各国の介入が激しくなっていきます。
 フランスの〈フィリップ4世〉が介入し,1297年にフランス王国に一時併合されたのです。
 フランドル伯はイングランドの〈エドワード1世〉と手を組み,フランスを撃退しました。 

 一方,フランドルの諸都市にはフランドル伯からの自由を求める動きもありました。1302年にブリュージュで民衆が蜂起し、フランス兵士が虐殺されたのです(注1)。
 なお、1328年にはカッセルの戦いでフランドル諸都市は、再びフランスに併合されました(注2)。

 しかし、構図は、フランスvsフランドル諸都市という単純なものではありません。
 フランドルの諸都市の反乱に際して,フランスが支配者であるフランドル伯のほうを支援。それを見て、フランドル伯はフランスに接近。反対にフランスの介入をおそれるフランドルの諸都市は,イングランドに接近するようになります。

 イングランドにとってもブリテン島の対岸の低地地方にフランスが進出することは,安全保障上の大問題だったのです。

 イングランドとフランスが,王位継承問題やスコットランド問題(1200年~1500年のブリテン島・アイルランドを参照)をめぐって対立すると,イングランドの〈エドワード3世〉は大陸への羊毛輸出を禁止。これにより毛織物産業に打撃を受けたフランドルの諸都市は,1337年にフランスに接近していたフランドル伯に対し反乱を起こして追放しました。
 その後1381年にフランドル伯の反撃で,フランドルの諸都市は再びフランドル伯領となりましたが,伯が亡くなるとその娘と結婚したブルゴーニュ公〈フィリップ豪胆公〉(ヴァロワ朝〈シャルル5世〉の弟,位1363~1404)が継承し,低地地方はブルゴーニュ公国の領域に編入されることになりました。
 ブルゴーニュ公国では商工業が栄え,〈ファン=アイク〉(弟)(1390?~1441)により油絵(油彩)技法が確立されました。代表作は「ヘントの祭壇画」です。
 ブルゴーニュ公〈シャルル突進公〉(位1467~77)はさらなる領域拡大を目指しましたが失敗し,娘〈マリー〉がオーストリア大公国のハプスブルク家〈マクシミリアン〉大公と結婚することを認めた後に,フランスとの戦いで亡くなりました。〈マリー〉はフランスの進出をおそれ,〈マクシミリアン〉大公と結婚。〈マクシミリアン〉はのちに神聖ローマ皇帝(位1508~19)に即位することになります。
 こうして低地地方の諸都市は,ハプスブルク家の手にわたることになったのです。

 なお,ルクセンブルクは1443年にブルゴーニュ公国の支配に入りました。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.16。
(注2) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.17。



○1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 この頃もサーミ人はスカンディナヴィア半島北部でトナカイの遊牧生活を送っており,周辺国から貢納を求められました。


・1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドでは,13世紀にフィン人がスウェーデンの支配下に置かれるようになり,スウェーデン人の移住も行われました。現在のフィンランド南部に分布するスウェーデン系の住民には,このとき以来の子孫が含まれます。
 「フィンランド」という名称は1229年にローマ教皇〈グレゴリウス9世〉が使用したのが初めての例(注1)。
 南西部は12世紀にはスウェーデンの影響下に入り、東部のカレリアはノヴゴロドの影響下にありました。
 スウェーデンは十字軍という形で勢力を広げ、3回の「北の十字軍」が展開されました。
 1240年にはスウェーデンはロシア北西部にまで遠征しますが、ノヴゴロド王国の〈アレクサンドル=ネフスキ〉に反撃されたとされます(注2)。
 三度目の遠征後、1323年にスウェーデンとノヴゴロド王国はパハキナサーリ条約を結び、南東部のカレリア地域の国境を画定しました。その背景には、ノヴゴロド王国に対するモンゴル人の攻撃がありました(注3)。
 パハキナサーリ条約によってフィンランドは正式にスウェーデンの支配下となりました。1276年に南部のオーボ〔トゥルク〕に司教座が設置され、発展の中心地となります。
 しかし、フィンランド全体がスウェーデンの領域になったわけではなく、カレリア地方はどちらかというとノヴゴロド王国との結びつきを強く保っていました。
 経済的には林業が盛んで、「緑の黄金」と呼ばれた材木や、タールの生産が貿易の主力品となります(注4)。

 一方、婚姻関係によって結びついたデンマークとノルウェーの国家連合にスウェーデンも参加し、カルマル連合〔カルマル同盟〕を形成。バルト海の覇権をめぐりドイツ人のハンザ同盟と対抗しました(注5)。
 しかし、カルマル連合内ではスウェーデンとデンマークの対立が表面化。
 デンマークはモスクワ大公国と結託してスウェーデンとの戦争(1495~97)となりました。フィンランドも戦場となりました(「古き怒り」と呼ばれます)。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.14。
(注2) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.15。
(注3) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.18。
(注4) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.24。
(注5) デンマークの統合に尽くした「再興王」〈ヴァルデマー4世〉(位1340~75)の娘〈マルグレーテ〉は、ノルウェー王〈ホーコン6世〉(位1343~80)の夫。
 ノルウェー王〈ホーコン6世〉が亡くなると、〈マルグレーテ〉との息子〈オーロフ〉が〈オーロフ2世〉としてデンマーク王に即位(位1376~87)。
 〈オーロフ2世〉は同時にノルウェー王にも即位します(〈オーラヴ4世〉(位1380~87))。
 〈オーロフ2世〉が亡くなると、〈マルグレーテ〉は「後見人」という地位に選出され、デンマークの事実上の王になります。
 その上で、〈マルグレーテ〉は、〈ヴァルデマー4世〉のひ孫〈エーリク=ア=ポンメルン〉を後継者に指名し、ノルウェー王(位1389~1442)、デンマーク王(位1396~1439)、スウェーデン王(位1396~1439)として承認され、1397年にカルマル連合の連合王とあいなりました。石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.27。


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・1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 北ヨーロッパのデンマークは王母〈マルグレーテ〉(1353~1412)を中心に1397年にスウェーデン,ノルウェーとともにカルマル同盟(カルマル連合)【本試験H17時期,本試験H27ポルトガルとのひっかけ】【追H19】【立教文H28記】を形成し,デンマークの女王〈マルグレーテ〉を中心とする同君連合の王国が成立しました。バルト海【本試験H2地中海ではない】で交易活動を活発化させていたドイツ人のハンザ同盟【本試験H2】【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】に対抗するために結成されましたが,スウェーデンやノルウェーは,デンマークによる支配に次第に反発するようになっていきました。



________________________________________・1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③デンマーク
 アイスランドは1262年に事実上デンマークの植民地となり,カルマル連合以降は連合の王がノルウェー王としてアイスランドを支配しました。
 15世紀以降,バルト海とデンマークを結ぶエーレスンド海峡の交易が盛んとなり,バルト海沿岸から日用品や食料が大量に西ヨーロッパに帆船(はんせん)で運ばれるようになっていきます。


________________________________________・1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③デンマーク
 アイスランドは1262年に事実上デンマークの植民地となり,カルマル連合以降は連合の王がノルウェー王としてアイスランドを支配しました。
 15世紀以降,バルト海とデンマークを結ぶエーレスンド海峡の交易が盛んとなり,バルト海沿岸から日用品や食料が大量に西ヨーロッパに帆船(はんせん)で運ばれるようになっていきます。



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・1200年~1500年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 スウェーデンは13世紀に貴族・聖職者の参加する王国参事会を設置され、15世紀からは王国参事会とは別に身分制議会もつくられ、農民の代表も参加していました。階級は世襲されましたがその区別は厳格ではなく、農奴制もしかれませんでした(注1)。また、13世紀以降、法制度も整えられていきました。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、pp.20-21。




●1500年~1650年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流⑥(沿海部への重心移動),南北アメリカ:欧米の植民地化①
 海上交易ルートが活発化し,広域国家の経済的比重が沿海部に移る。中央ユーラシアの遊牧民の勢力は健在だが,ヨーロッパ諸国は海上交易ルートへの進出を開始する。

この時代のポイント
(1) ユーラシア大陸ではヨーロッパがアジア,アフリカとの直接交易に乗り出す

 大交易時代の続くユーラシア大陸一帯に,西ヨーロッパ諸国が競って進出し,交易ネットワークに参入して商業活動で利益を挙げた(大航海時代)。東南アジアではイスラーム政権が台頭し,大陸部でも新興政権が交易ネットワークをめぐり争っている。しかし,銀の流入により貨幣経済が進んでいた明も,北方の遊牧民や海上の倭寇に対する防衛費や1556年に80万人が犠牲となった華県地震,日本の〈豊臣秀吉〉による壬申(じんしん)・丁(てい)酉(ゆう)の倭(わ)乱(らん)により財政難となり,東北アジアの交易で台頭した女真人が末期に清を建国し,中国を統治した。中央集権化を進めるヨーロッパ諸国では,キリスト教の改革派(ルター派やカルヴァン派)と従来の教会(旧教)との対立(宗教改革と対抗宗教改革【追H26カトリックによる対抗か問う】)が激化し,中央集権化をすすめる各国の王権の争いから三十年戦争に発展したたため,安全保障のために主権国家体制が整備されていく。一方,ロシアはシベリアに拡大をすすめている。


(2) アメリカ大陸はヨーロッパ諸国の進出を受け,文明が崩壊し人口が激減した。
 また,アフリカ大陸沿岸部から現地の政権により奴隷が売却され,西ヨーロッパ諸国は南北アメリカ大陸やカリブ海のプランテーションの労働力として輸送し,嗜好品を初めとする商品作物がヨーロッパ諸国に流れるようになった(大西洋三角交易【東京H25[1]指定語句「大西洋三角貿易」】【セA H30ヨーロッパ,アフリカ,アメリカを結んだものか問う】)。
 南北アメリカ大陸にはヨーロッパからの植民が増加し,先住民は感染症と酷使により激減し,黒人が輸送され,とくに中央・南アメリカでは相互の混血も進んで社会構成が変化する。
 ユーラシア・アフリカ大陸〔旧大陸〕のヒトを含む生物,物や思想が,南北アメリカ大陸との間に短期間のうちに相互に移動する「コロン〔コロンブス〕の交換」が始まった。特にジャガイモは救荒作物として旧大陸の津々浦々にひろまり,人口の増加に貢献する。



解説
地球規模の交易ネットワークが形成されていく
 アジア各地では,すでに1400年頃から1570年〜1630年代をピークとする「大交易時代」を迎えていました。
 その一方で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の勢力は衰え,草原地帯の比重は低下していきます。

 ティムール朝の滅亡以降,ユーラシア大陸ではオスマン帝国,サファヴィー朝,ムガル帝国のように,火砲・銃砲を中心とした新たな軍事技術や戦法の影響を受け,内陸部だけではなく沿海部の農耕定住民も支配する国家が形成されていきました。

 こうしたユーラシア大陸沿岸部の交易ブームに刺激を受け,ヨーロッパのポルトガルとスペインはアフリカやアジアとの直接交易を目指し,大航海時代(注1)が始まりました。ヨーロッパ人の活動を「世界の一体化」の開始点とする議論もありますが,ヨーロッパ人が南北アメリカ大陸(新大陸)に植民を開始し,大西洋をまたぎアフリカ大陸と交易圏を結びつけたことは,アフリカ・ユーラシア大陸とインド洋中心の東西交流が中心だった「世界史」(ある意味“アフリカ・ユーラシア世界史”)に,大西洋を取り囲む交流や太平洋を横断する交流が加わる(南北アメリカ大陸やオセアニアの一部を加えた「世界史」)という大きな意義がありました。

ポルトガル,スペイン,オランダは地域間のマージン(利ざや)によって栄えた
 インド洋への東廻り航路を開拓したポルトガル王国,インド洋への西廻り直接航路と南北アメリカへの直接航路を開拓したスペイン王国は,西アフリカ・中央アフリカ・東アフリカから黒人奴隷を輸送そ,プランテーションでの労働力としました。また,南北アメリカやカリブ海の人々や,黒人奴隷を酷使(こくし)して銀を初めとする鉱産資源をヨーロッパに輸出し,アジアに新大陸の銀を大量に持ち込みました(この新大陸銀の大移動を“銀の大行進”ともいい,1500年~1800年にアメリカ大陸で生産された銀の75%が最後に中国に行き着いたとされます(注2))。新大陸で産出された銀はメキシコでスペインの通貨ペソに鋳造され,ヨーロッパやアジアに輸送されましたが,1540年代のアジアでは銀はヨーロッパの価値の2倍で取引された一方で,中国の高品質な陶磁器が安価で販売されており,“低く買って高く売る”ことで利ざや(マージン)を稼ぎ出していたわけです(注3)。
 ただ,この時期のヨーロッパ諸国によるインド洋を中心とする海上交易は,既存の交易ネットワークに便乗したり,国家間の貿易政策の変化や違いを利用して中継貿易を行うに過ぎず,本格的に領土を支配していたわけではありません(注4)。
 しかし,ポルトガル,スペイン,オランダのように利ざやによって国家財政を稼ぐ方式はイギリスにも受け継がれ,18世紀に入るとイギリスにおける国家財政の歳入に占める関税や物品税の割合はどんどん高まっていきます。イギリスは歳入確保のために海軍を増強し物流ネットワークを維持するとともに,工業生産も増加させていきました。



◆人類の生態系に対する支配が強まった
 まずアフリカ・ユーラシア大陸に生息していた家畜である馬・牛・豚・羊・山羊がアメリカ大陸に持ち込まれたことで,南北アメリカ大陸の生態系が変化しました。平野の草原地域に暮らす先住民は騎馬文化を形成するとともに,ヨーロッパからの植民者たちによる支配と文化の移入にも役立ちました。
 植物としては,小麦,ライ麦や嗜好品(しこうひん)のサトウキビ,コーヒーなどが持ち込まれ,逆に新大陸からはカボチャ,ナス,トマト,トウガラシ【追H20宋代の中国にはまだない】,トウモロコシ(アメリカ大陸原産【本試験H11】),ジャガイモなど多種多様な作物がアフリカ大陸,ユーラシア大陸に運び出されました。これれの作物の栽培が広まると,世界各地で生産力が向上し人口も増加していきました。また,従来は一握りの支配階級に限られていたコーヒー,タバコなどの嗜好品が民衆の口にも届くようになり,生活スタイルが変化していきました(生活革命)。
 17世紀初めにはキャッサバ〔マニオク〕がアフリカ大陸の熱帯地域にもたらされ,耐乾性・耐病性が評価されて急速に広まりました(19世紀には南アジアに広まります)。トウモロコシ(アメリカ大陸原産【追H27唐代の中国で栽培がはじまっていない】【本試験H11】)は生産性が高く面積あたりの生産量で養うことのできる人口が多く,17世紀までにエジプトの主要な作物となったほか,次第に中国や西アフリカなど世界中で生産されるようになっていきました(注5)。
 また,感染症がヨーロッパから新大陸に持ち込まれたことにより,中央アメリカから南アメリカにかけての先住民の人口が激減し,ポルトガル人やスペイン人による現地政権の支配にとって有利に働くことになりました。


◆世界各地の政権は,新技術の導入や商業の利益によって統治機構・財政基盤を強めていった
 経済活動の活性化にともない,世界各地の政権は,新技術の導入や商業の利益によって統治機構・財政基盤を強めていきました。
●北アメリカには漁場や毛皮を求めてヨーロッパ諸国による植民が進んでいましたが,17世紀後半にはイギリスから北アメリカ大陸への植民も始まり,19世紀後半に北アメリカ東西沿岸を占める大陸国家となるアメリカ合衆国の基となる植民地群が建設されていきました(のちの13植民地)。北アメリカのインディアン諸民族との対立も生まれ始めています。
●中央アメリカ,南アメリカではスペイン王国とポルトガル王国の植民地統治が進められています。
●東アジアでは,明が全国的な検地と戸籍に基づき租税を徴収しており,貨幣経済の進展にともない一条(いちじょう)鞭法(べんぽう)(租税の銀納) 【東京H16[1]指定語句】【追H27時期を問う】【共通一次 平1】【本試験H5この時期の納税は銅銭が主ではない,本試験H7】が導入されています。アジアでは日本銀【本試験H4時期(15~16世紀)】【追H18】【東京H16[1]指定語句】が盛んに輸出され,交易をめぐり倭寇と呼ばれた海域世界の海賊集団との抗争も起きています。末期には北方の遊牧民や倭寇の活動が活発化し,東北アジアでの交易により台頭した女真人が1644年に中国に進出し王朝を交替させました。
●南アジアでは,ユーラシア大陸の草原地帯の比重の低下にともない,インド洋の中心に位置するインドの存在感が増していきます。特に,綿織物【東京H16[1]指定語句】は寒さや暑さを選ばず着用でき,染めやすく取扱いも用意なため急速に世界商品となっていきました。ムガル帝国が支配機構と租税制度を確立し,中央集権化を進めます。
●アフリカでは,西・中央・東アフリカの沿岸部の政権が,内陸部の住民を奴隷として売却し,西ヨーロッパ諸国がこれを大西洋の島々,北アメリカ,カリブ海,南アメリカのプランテーションでの労働力として使用しました(大西洋三角交易【東京H25[1]指定語句「大西洋三角貿易」】)。東アフリカの奴隷は,アラブ人などの商人によってインド洋を越えて西アジア,南アジアにも運ばれていますが,西ヨーロッパ諸国による奴隷交易との規模には及びません。
 サハラ沙漠以南のアフリカでは,奴隷交易により深刻な社会の停滞を生みました(東アフリカの黒人奴隷はザンジュと呼ばれていました)。
●この時期のヨーロッパは,伝統的に「近世」(注2)(きんせい;the early modern period,初期近代,15世紀末~18世紀末)と区分され,のちの「近代」(後期近代,18世紀末~20世紀初め)に通じる過渡期として位置づけられます。ルネサンス,科学革命,宗教改革,絶対王政などが特徴です。
 16世紀~17世紀中頃にかけ,世界各地で経済活動が活性化すると,ヨーロッパ全土でも人口の増加がみられ食糧が不足するようになりました。
 各地の政権は従来は「辺境」とされていた地域の開発を進めるようになり,租税収入を確保して財政基盤を確保させようとしていきます。
 モスクワを中心とするロシア国家はユーラシア大陸を東に進出していき,領主や小作農による開拓を奨励しました。ユーラシア大陸北部(シベリアなど)に分布していた狩猟採集民もヨーロッパやアジアの経済圏に組み込まれていき,次第に租税や毛皮の交易を通して市場経済に組み込まれていきました。ロシアは次の時代にかけて,ヨーロッパの枠を超えユーラシア大陸東部を含む大陸国家に変貌していくことになります。
 穀倉地帯であり亜麻布(あまぬの(リネン),綿織物以前に普及していた織物)の生産地であるポーランドを初めとする中央ヨーロッパと,海外進出と産業の振興を図る西ヨーロッパとの間には,経済や社会の違いが生まれていくことになります。
(注1)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。
(注2)かつて世界の歴史は,ヨーロッパを“トップランナー”として,世界の諸地域がヨーロッパの踏んだ「原始時代」→「古代」→「中世」→「近世」→「近代」→「現代」という段階を追いかけていくことで発展していくのだという話(発展段階論)が信じられていました。各段階には政治,経済,文化の指標があって,その“公式”通りに各地域が発展していくはずだが,発展のスピードは「文明」のない「野蛮」な地域ほど遅れるのだと考えられました。
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.276。
(注3)同上,p.275。
(注4)経済学者の〈ポメランツ〉(1958~)は,市場経済や工業の発達,生活水準などの面で,西ヨーロッパと中国の江南地方には18世紀末まで大きな差はなかったと論じています(ポメランツ,川北稔監訳『大分岐(the great divergence)――中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年)。
(注5)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.186-187


◆世界各地で伝統的な文化が変容していった
 地理的な知識が拡大するに従い,従来の伝統的な思想・慣習・制度を疑う動きも起きるようになっていきます。
 中国ではイエズス会【東京H12[1]指定語句】の宣教師が明の支配層に支持者を得て,西洋の技術を伝えました。イエズス会の宣教師の情報は同時代のヨーロッパ諸国にも広まり,中国の文物が理想化されて伝えられています。
 ヨーロッパでは〈フランシス=ベーコン〉(1561~1526) 【本試験H2,本試験H8ロジャー=ベーコンではない。エリザベス1世の時代か問う】【追H20】が「知は力なり」と説いて,大昔の思想家の学説を検討するよりも,現実の対象を偏見にとらわれることなく明らかにすることで,知識を拡大させていくべきだと唱え,帰納法(きのうほう) 【本試験H2】【追H20】という考え方が有効だと主張します。
 1540年代【追H30 時期(12世紀半ばではない)】にドイツの〈グーテンベルク【東京H16[3]】〉が改良・開発した活版印刷【東京H16[3]】機によって,情報伝達のスピードや量が格段に増大し,各地に設置されるようになったアカデミーなどの教育機関や企業,コーヒーハウス【東京H17[3]】などでは印刷物を介してさまざまなアイディアや思想がやりとりされるようになっています。

 とはいえ,この時期には世界各地における動力は,火力・人力・水力・馬力などに限られ,人類の大部分は農村部に居住していました。経済成長と人口増加は17世紀半ばの「寒冷化」によって一旦ゆきづまり(17世紀の危機),18世紀後半には世界各地で成長の限界にぶち当たることとなります。





●1500年~1650年のアメリカ

○1500年~1650年のアメリカ  北アメリカ


・1500年~1650年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
現アメリカ合衆国東部にイングランドが植民へ
 イングランドは,1607年に〈ウォルター=ローリー〉(1552?~1618)がジェームズタウン【上智法(法律)他H30年号】を建設し,彼はこれを未婚の女王にちなみ「ヴァージニア」と任命し,ヴァージニア植民地(現在のヴァージニア州)となりました。
 1620年には,プリマス【東京H7[3]】にイギリスのピューリタン【追H26】【本試験H8「ユグノー」は不適】【本試験H21,H31カトリック教徒ではない】(ピルグリム=ファーザーズ(巡礼始祖)【本試験H23,H31カトリック教徒ではない】【追H29時期を問う】といわれます)が,メイフラワー号【追H26ピューリタンの一団か問う】【本試験H23】で大西洋を越え,植民地を建設しています。
 「本国の国王〈ジェームズ1世〉【本試験H8エリザベス1世ではない】の迫害を逃れて北アメリカに自由で無垢(むく)な共同体を建設し,それがアメリカ合衆国の自由の精神の基になった」というのはアメリカ合衆国の“建国神話”に過ぎません。彼らは植民地にもイングランドと同じように権威に基づく階層社会を建設していったのです(注1)。



イングランド人がインディアンと接触した

 イングランドによる植民がはじまった頃,現在のアメリカ合衆国には200万~500万人の先住民(インディアン)が住んでいました(注2)。
 たとえば,北アメリカ東岸に到着したピルグリム=ファーザーズたちは,北アメリカ東部森林地帯に分布するアルゴンキン語族の一つワンパノアグ人(〔ワムパノーアグ人〕(注3)酋長は〈マソサイト〉(1581~1661))に食料などを支援され,トウモロコシの栽培法を教えられました。翌年の1621年の収穫祭にはワンパノアグ人も招待され,現在のアメリカ合衆国の祝日感謝祭(サンクス=ギビング=デー)の元になりました。
 イングランド人はニュー=プリマスを建設すると,さらに周辺に範囲を広げ,1630年にはニューイングランドのアルゴンキン語族のマサチューセッツ人の領土を占領。
 1636~37年には中部大西洋岸地域のモヘガン〔モホーク〕人(注4)と組んで,ニューイングランドのピクォート〔ピークォット〕人(注5)と戦い勝利しました(初のインディアン戦争。すべてアルゴンキン語族)。これによりピクォート人は大敗を喫し,壊滅しました。


 ところで「インディアン」というのは,イングランド人側の呼び方であり,彼らが“インド人”という言葉を名乗っていたわけではありません。インディアンは,多数の民族に分かれて生活をしており,北アメリカ各地の気候に合わせ,狩猟・採集・農業・漁労を営んでいました。大規模な農業は西南部のプエブロ人(トウモロコシ栽培)以外は普通ではなく,大いなる神秘(スー語の言葉でワカン=タンカ)と約される神=自然を信仰していました。キリスト教を信仰するイングランド人にとっては,さっぱりわからないものでした(注6)。
 社会は細かい集団に分かれていることが多く,強力な首長はいませんでしたが,民族を率いる酋長(しゅうちょう)がいました。率いているといっても,支配とはニュアンスが異なります。民族によって異なりますが,なにか揉め事や決めなければいけない事があると,メンバーがロングハウス(長方形の会議場)の中にあつまって,大いなる神秘のもとで酋長が調停するで合議をして決められることが一般的だったのです。また,土地を共同で保有・使用する概念もイングランド人には理解不能でした。
 イングランド人には「インディアン諸民族は,将軍である酋長(しゅうちょう)に率いられている」ように見えました。この勘違いは,その後のインディアンに対する戦争(インディアン戦争)においても,続いていくことになります
 
 
 一方,ジェームズタウン植民地では,元船乗りで植民地請負人〈ジョン=スミス〉(1580~1631)が,アルゴンキン語族で南部チェサピーク湾地域のポウハタン人(注7)を徐々に圧迫するようになっていました。1622年には,パウハタン人がジェームズタウンを襲撃し,多数のイングランド人を虐殺しました。ポウハタン人の酋長の娘〈ポカホンタス〉(1595?~1617?) 【追H20リード文・図版(ポカホンタスの洗礼の場面,解答には不要)】との交流があったとされますが,両者の関係友好的であったといいうわけではなく,多くはイングランド人にとって都合のいい話“心温まる話”として脚色されたストーリーに過ぎません。

 ほかにイングランド人は南部内陸部のクリーク人,チェロキー人,セミノール人とも接しています。



「13植民地」は当初から団結していたわけではない

 イングランド人の北米植民地は,1607年のヴァージニアから1733年のジョージアにかけて13に増えていきました。これを13植民地【本試験H19フロリダは含まれない】といいます。
 北から以下の通り。この時期に成立したのは下線を付した5つの植民地だけです。

①マサチューセッツ【本試験H19】(1629,1691にプリマスを併合)byマサチューセッツ湾会社
②ニューハンプシャー(1679にマサチューセッツから分離)
③コネティカット(1636)by〈トマス=フーカー〉
④ロードアイランド(1636)by〈ロジャー=ウィリアムズ〉
⑤ニューヨーク【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ,本試験H19】(1664)by〈ヨーク公〉
⑥ニュージャージー(1664)by〈ジョン=バークレー〉,〈ジョージ=カータレット〉
⑦ペンシルヴェニア(1681)by〈ウィリアム=ペン〉
⑧デラウェア(1703にペンシルヴェニアから分離)
◆⑨メリーランド(1634)by〈ボルティモア卿〉
◆⑩ヴァージニア【本試験H19】(1607最古)byヴァージニア会社
◆⑪ノース=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
◆⑫サウス=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
 ⑪・⑫は1729年に南北に分離
◆⑬ジョージアです(1732)by〈オグルソープ〉
 (◆印のものは「南部」植民地と呼ばれる)。

 イングランドの北米進出はヨーロッパ諸国の中では早い方とはいえず,いずれもフランス・オランダ・スウェーデンの植民地を避けるようにして拠点が築かれました(注8)。

 設立の事情はさまざまで,キリスト教の一派クェーカー教徒〈ウィリアム=ペン〉のフィラデルフィア植民地(1681)のように宗教的なものから,タバコ【追H29ゴムではない】のプランテーションを実施したヴァージニア(1607) 【追H29】のように商業的な目的で建設された自治植民地もあります。自治植民地には植民地議会が置かれ,自治制度が発達していました【本試験H12「植民地議会などの自治制度が発達していた」か問う】。
 特定の事業を独占的に遂行するために国王の特許状を獲得し,事業に賛同する出資者をつのって,利益が出たら出資者に配分する仕組み(共同出資会社(ジョイント=ストック=カンパニー))の制度も,海外進出を後押ししました(注9)。

 他方,ニューヨーク(1664)のように王族(〈ヨーク公〉のちの〈ジェームズ2世〉による)を領主とする領主植民地もあり,各植民地は当初から互いに団結していたわけではないのです。


 この時期に建設された植民地についていくつかピックアップします。


◆⑩ヴァージニア植民地
 1606年にロンドン商人の設立した会社(ロンドン会社)に国王〈ジェームズ1世〉が特許状を与え,ヴァージニア会社と改称。同年に植民者105人が派遣され,翌年1607年にジェームズ川を約48kmさかのぼった地点にひらいたのがジェームズ=タウン。指導者〈ジョン=スミス〉と,先住民(ポーハタン人)の支援によって生活を成り立たせ,のちにタバコのプランテーションを開始したことで植民地の経営が軌道に乗るようになった。1619年には植民地の人々に本国と同様の自由が保障されたが,当初予想されたほどの利益は得られなかったため,1624年に特許状が廃止されると王領植民地となっていった(注10)。

◆⑨メリーランド植民地
 ヴァージニアの北部にあるメリーランド植民地は,チェサピーク湾に面しています。カトリックであった〈メアリ1世〉にちなみ,カトリック教徒の避難する地として〈第二代ボルティモア卿〉(1605~1675)が父の遺志を引き継ぎ,1632年に国王の特許状を獲得して1634年に建設された。はじめは領主による植民地でしたが,結果的に多くのプロテスタントが移住することとなり,住民はタバコのプランテーションに従事しました(注11)。



(注1)大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」』講談社,1998年。今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 近世』山川出版社,1990,p.86。
(注2)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.28。
(注3)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。ほかにチェサピーク地域にはアポマトック人がいた。
(注4)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。中部大西洋岸にはほかにセネカ人,オナイダ人がいた。
(注5)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29によれば,。ピークォット人との戦争は1637年。ニューイングランドにはほかにマサチューセッツ人,ナラガンセット人がいた。
(注6)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.30。インディアン語による聖書訳の初めは,1641年からインディアン伝道をおこなった〈ジョン=エリオット〉(1604~1690)によるもの。1661年に初めて出版しています(リディア・マリア・チャイルド『孤独なインディアン―アメリカ先住民名品集』本の友社,2000年)。
(注7)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。南部チェサピーク地域にはほかにアポマトック人がいた。
(注8)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p33。
(注9)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p33。
(注10)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p35。
(注11)紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p36。



オランダも現在のアメリカ合衆国東岸に進出する
 スペイン王国との独立戦争を戦い,1648年に国際的に独立が承認されたネーデルラント連邦共和国。
 イングランド人〈ヘンリー=ハドソン〉の探検(1608~1611)を支援することで,ハドソン川流域と河口にニューデーデルラント(ニューネザーランド)植民地を築いています。



スウェーデンも現・アメリカ合衆国東岸に進出する
 ルター派に改宗して王権を強化していたスウェーデン王国。
 1638年~1640年にかけ,デラウェア川流域にニュースウェーデン植民地を建設しています。




・1500年~1650年のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
ビーバーとタラを求めて,北米植民がすすむ
 1497年にイギリス王室の保護した〈ジョン=カボット〉(1450?~1498)が,ニューファンドランド沖にタラの漁場を発見しました。彼は1497~98年頃にニューファンドランド島およびデラウェア湾,チェサピーク湾に到達したと推測されています(注)。
 するとヨーロッパ各国から漁船が訪れ,タラ漁がブームとなります。タラは船の中で塩漬けにされるか,沿岸で天日干しにして,ヨーロッパ市場に運ばれました。

 1534~43年には,フランス【追H20ドイツではない】王室(当時は〈フランソワ1世〉(位1515~47))の援助で〈ジャック=カルティエ〉(1491~1557)と〈ジャン=フランソワ=ド=ラローク〉がセントローレンス川一帯を探検し,ミクマク人と接触しています。このとき彼らは毛皮の取引を求めたということから,すでにヨーロッパ人と交易を行っていたと考えられます。ビーバーの毛皮は,ヨーロッパでは上流階級の間の高級品として需要がありました。
 さらに,セントローレンス=イロクォワ人と接触し,首長〈ドナコナ〉を説得して,十字架を立てました。〈ドナコナ〉の息子にはフランスでフランス語を学ばせ,1535年にこの2人を連れて現在のケベック【セ試行 イギリスのピューリタンによる建設ではない】【追H20】【H30共通テスト試行 カナダが「ブルボン朝の時代に、フランスの植民地」として建設されたか問う(正しい)】【セA H30アメリカ合衆国の植民地ではない】に入り,先住民の言葉で「集落」を意味する「カナタ」から「カナダ」という地名をつくり,セントローレンス川を命名しました。また,モントリオールにも到達していますが,越冬で部隊の多くを失いました。フランスはユグノー戦争に向かっていき,植民地建設は頓挫しました。

 1588年にイギリスはアルマダの海戦でスペインに勝利【上智法(法律)他H30年代】。イギリスはタラの干物を,ヨーロッパや西インド諸島に輸出して,巨利をあげました。カトリックの人々には,肉を断つ習慣があったため,需要は高かったのです。タラからとれる油も,ランプ油として用いられました。


 フランス【本試験H18スペインではない】は,1603~1635年に〈シャンプレーン〉(シャンプラン,1567?74?~1635)が11回にわたりセントローレンス川,五大湖地方,ミシシッピ川流域を探検し,イエズス会の宣教師も派遣されました。
 1608年には,ケベック【本試験H18】に毛皮交易所を置き,ヌーヴェル=フランス植民地(カナダ植民地)【本試験H18時期】の中心地としました。ケベック近くにいたアルゴンキアン語族モンタニェ族は,ヒューロン族と同盟関係を築いており,北アメリカ北東部のイロクォワ5族(イギリスやオランダに支援されていました)と戦闘状態にあり,その対立を利用しながら,フランスは勢力圏を拡大させていきました。北アメリカの東北部では,イロクォワ語族のうち,モホーク,オナイダ,カユーガ,セネカ,オノンダーガの5民族が,同盟を形成していました。
 フランスは,とうもろこし,豆,カボチャ,メイプルシュガー,ブルーベリーなどの栽培や,移動・越冬の方法を先住民から学びました。

 1610年にはニューファンドランドに植民会社が設立されました。


(注1) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.31。


○1500年~1650年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 1500年を境に,南アメリカ大陸の歴史はガラリと変わります。以前はユーラシア大陸・アフリカ大陸・オセアニアとの接触をほとんど持たなかった南アメリカ大陸が,スペインの王室が派遣した〈コロン〉【追H20リード文,図版(解答には不要)】が第三回航海でオリノコ川(ベネズエラを流れて大西洋に注ぐ川)に到達して以来,外部との接触を開始するのです。

○1500年~1650年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆スペイン人がきわめて短期間のうちにアメリカ大陸の諸文明を征服する
スペイン人が馬・火気・鉄器・車輪により征服へ

 この時期になっても,車輪,馬,鉄器【セ試行】【追H24】【本試験H21鉄器は使用されていない】が製作・使用されていなかった中央アメリカと南アメリカのアンデス地方の文明は,少人数のスペイン人の軍団に圧倒されてしまいました。


◆スペイン人〈バルボア〉が太平洋を「発見」する
 1513年には,スペイン人の〈バルボア〉(1475?~1519) 【セ試行 カブラルではない】【本試験H18テオティワカン文明を滅ぼしていない】【追H20太平洋岸に達したか問う】が,1513年にパナマ地峡を横断し,ヨーロッパ人として初めて太平洋を確認します。実際にはパナマ地峡の南側の湾だったんですけどね。


◆スペインの派遣した〈マゼラン〉の船団が南アメリカ南端近くを通過して,地球を一周する
 1519年にはポルトガル人の〈マゼラン(マガリャンイス)〉(1480?~1521) 【追H24西廻りの大航海をしたポルトガル人か問う,H29時期(クックの太平洋探検,喜望峰発見と並べ替え)】が,スペイン王室【本試験H15ポルトガル王室ではない】【H30共通テスト試行 時期(14世紀の人物ではなく、1402~1602年の間の人物であることを判別する)】に援助されて地球一周の航海に出ます。

 もともと,〈マゼラン〉はポルトガル王につかえ,東南アジアのマラッカをめぐる戦いにも参加していた経歴をもちますが,その後ポルトガル王〈マヌエル1世〉(幸運王,1495~1521)の命で,東回り【セ試行】の世界周航をめざしました。
 彼らがその存在を確認した「マール=パチフィコ(静穏な海。すなわち太平洋)」と命名」に出るためには,大西洋から南アメリカ大陸南端を通る必要がありました。〈マゼラン〉一行は1520年11月末に南アメリカ大陸南端の海峡(マゼラン海峡と名付けられます)を通り太平洋に入り,おそらくグアム島等を通って,3ヶ月と20日後の1521年3月中旬に,餓死寸前の状態でフィリピンに到着しました。
 〈マゼラン〉の頭の中には「太平洋」の存在は,なかったのです。当時ヨーロッパに出回っていた地図では,マゼラン海峡を超えて北上すれば「シヌス=マグヌス(大きな湾)」がある。その中に香料諸島(スパイス=アイランド)がある,と書かれていたのに従い〈マゼラン〉は北上しましたがなかなか見つからず,発想を転換して西に向かった結果,はからずも太平洋を横断することとなったわけです。
 〈マゼラン〉はフィリピン諸島中部のセブ島で,現地人をキリスト教に改宗させました。この際,セブ島の対岸のマクタン島の村を焼いたことで,マクタン島民の意見が割れました。〈マゼラン〉は勝利を確信してたったの49人でセブ島に上陸し,待ち伏せしていた王の一人〈ラプ=ラプ〉の1500人の軍に敗れ,死にました。少人数でアステカ王国を滅ぼした〈コルテス〉のことが頭にあったようです。
 残りの部隊は〈デルカーノ〉を中心として,ユーラシア大陸の沿岸部のポルトガル艦隊を避けて,喜望峰を東から西にまわり,1522年にスペインに帰還しました。こまめにつけていた日誌の日付の記録が1日ずれていたことも,地球一周の証拠となります【追H27世界周航はクックによる事績ではない】。これ以降スペインの〈カルロス1世〉はフィリピンに拠点を築くことを目指しますが,太平洋を往復する航路を開拓するのは容易ではありません。

 1564年に〈レガスピ〉(1505?~72)はアカプルコを出発し,翌年フィリピンのセブ島にサンミゲル市を建設しました。彼はフィリピンに残りましたが,その部下の〈ウルダネータ〉は,1565年にはセブ島から北上し,黒潮に乗って110日目に北アメリカのカリフォルニアに到着すれば近道(大圏航路といいます)であることを発見しました。フィリピンに残った〈レガスピ〉は,1571年にルソン島にマニラ【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】を建設し,往復航路の基地としました。こうして,北アメリカ大陸のアカプルコとフィリピンのマニアを結ぶ,ガレオン船による定期往復航路が開拓されたわけです。
 こうして,スペイン人が主導する形で,南北アメリカとのオセアニアが結び付けられることとなります。


◆アステカ王国がスペイン人に滅ぼされる
メキシコ高原がスペインの領土となる
 スペインは,ユダヤ人,イタリア人,ドイツ人の資本家からの支援を受けつつ,アメリカ大陸への進出を進めます。
 1521年にはスペイン【本試験H12】の〈コルテス〉(1485~1547) 【本試験H29】【追H25インカ帝国を征服していない】がメキシコ高原【セ試行】のアステカ王国〔メシーカ王国〕【セ試行「メキシコに栄えていた文明」】【本試験H12】【本試験H29地図上の位置を問う】【追H24鉄器は使用されていない】を滅ぼし,ヌエバ=エスパーニャ(新しいスペインという意味です)を建設しました。
 〈コルテス〉はアステカ王国を攻撃する際には,すでに〈コルテス〉に従属していたテスココ湖東方のトラスカラ王国の戦力も生かされました。

 ヌエバ=エスパーニャの初代総督は〈コルテス〉(位1522~26),のち〈ルイス=ポンセ=デ=レオン〉(位1526)→〈マルコス=デ=アギラール〉(位1526~27)→〈アロンソ=デ=エストラーダ〉(1527~28)と続きますが,1528年には統治機関としてアウディエンシアが置かれ(1528~31第一次,1531~35第二次),1535年からは本国から副王が派遣されるようになります(初代は〈メンドーサ〉(位1535~50),途中何度かアウディエンシアの統治もあります)。




◆ユカタン半島全域がスペインの支配下に入る
中央アメリカもスペインの領土となる
 中央アメリカのマヤ地方北部の低地部(マヤ低地)では,12世紀頃から15世紀中頃までマヤパンがチチエン=イッツァに代わって主導権を握りました。マヤパン衰退後のマヤ地域には,有力な勢力は現れず,多数の都市が交易ネットワークを形成して栄えていました。マヤパンは1460年代初めに滅んでいます(注1)。

 その後,スペイン人によってユカタン半島の全域が掌握されたのは1541年のことですが,ペテン=イッツァ王国のように17世紀まで生き延びた国家もあります(注2)。

 現在のグアテマラ,エルサルバドル,ベリーズ,ニカラグア,ホンジュラス,コスタリカ,パナマにあたる領域は,スペインに植民地化されてアウディエンシア(行政・司法と,一部の立法を担当する植民地の統治機関)が置かれ,1609年にはグアテマラ総督領となりました。
 現在のエルサルバドルにはマヤ系の王国(クスカトラン王国)がありましたが,1528年にスペイン人の征服者〈コルテス〉(1485~1547)の部下により滅ぼされています。

(注1)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.34。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016,p.34。





○1500年~1650年のアメリカ  カリブ海
カリブ海諸国・地域…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
キューバのタイノ人の酷使を〈ラス=カサス〉が暴露
 キューバはスペインにより植民地化されました。初代キューバ総督は〈ベラスケス〉(任1511~1524)です。
 先住のアラワク系タイノ人が感染症などにより亡くなっていくと,代わりの労働力としてアフリカから奴隷を導入します。
 キリスト教の托鉢修道会ドミニコ会の〈ラス=カサス〉(1484~1566)【本試験H31】はこの頃キューバに呼ばれ,先住民のひどい扱いを目の当たりにし,のち1519年に神聖ローマ皇帝〈カール5世〉にその実態を訴えます。

 1521年にキューバはヌエバ=エスパーニャ副王領の一部に編入。
 エンコミエンダ制が導入され,タイノ人やアフリカ出身の奴隷の酷使は続きました。
 
 1542年には〈ラス=カサス〉が「インディアスの破壊に関する簡潔な報告」で,過酷な実態をスペイン王〈フェリペ2世〉(位1556~1598)に具申しています。

 その後も,キューバからはプランテーションで栽培されたサトウキビからとれる砂糖が,スペインに莫大な富を稼ぎ出していきます。
 一方で,オランダやイギリスといった後発の西ヨーロッパ諸国のカリブ海進出も始まっていきます。




・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 ジャマイカはスペインの植民地となり,感染症で激減したアラワク系タイノ人に代わり,アフリカから奴隷が導入されてプランテーションが展開されました。
 ジャマイカはヌエバ=エスパーニャ副王領の一部として支配されています。



・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 1492年10月にジェノヴァ人〈コロンブス〉が到達して以来,島民のアラワク人は奴隷として連行されたり,ヨーロッパにしかなかった感染症にかかって,16世紀のうちにはほぼ死に絶えてしまいます。
 島の開発のため,入植したスペイン人は代わりにアフリカから黒人を奴隷として連行し,島の人々の構成はすっかり変わってしまうことになります。

 のち1647年にはイギリスが植民を開始します。



・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ,⑤ドミニカ共和国
 イスパニョーラ島はスペインの植民地となり,感染症で激減したアラワク系タイノ人に代わり,アフリカから奴隷が導入されてプランテーションが展開されました。
 スペインは島の東部を中心に,サント=ドミンゴ総督領として支配します。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコはスペイン領として支配されています。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 現在のアメリカ領ヴァージン諸島には,17世紀前半にスペイン,オランダ,イギリス,フランスやデンマークが入植を試みています。
 住民のアラワク系タイノ人は17世紀のうちには滅亡しています。

 現在のアメリカ領ヴァージン諸島には,17世紀前半にオランダが入植しています。

 現在のイギリス領アンギラ島は,17世紀前半にイギリスが植民していたアンティグア島の管轄となっています。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 セントクリストファー=ネイビスには,イギリスやフランスが競って植民を試みています。
 先住のカリブ人はヨーロッパ諸国によって殺害され,居住地を追われています。


・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
 アンティグア=バーブーダは1493年に〈コロンブス〉に「発見」されます。
 このうちアンティグア島にはスペイン,フランスの入植がおこなわれます。
 バーブーダ島にはイギリス人が進出します。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
 現在のイギリス領モントセラトは17世紀にイギリスにより入植がすすみ,アイルランド人の流刑地とされました。

 現在のフランス領グアドループ島は,フランスの植民地となり,感染症で激減したカリブ人に代わり,アフリカから奴隷が導入されてサトウキビのプランテーションが展開されています。



・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
ドミニカのカリブ人は外来者に激しい抵抗を続ける
 現在のドミニカ国では,カリブ人が激しい抵抗を続けています(現在でもカリブ人の比率が高い)。

 17世紀前半にフランスの植民地となっています。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 1502年の第四次航海で〈コロンブス〉はマルティニーク島に到達しました。その後は住民のカリブ人が抵抗を続けたので,スペイン人の入植は進みませんでした。
 その後イギリスが入植しましたが,1635年に入植したフランス人島での主導権を握ります。



・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 現在のセントルシアはおそらくスペインによって「発見」され,その後はイギリスとフランスにより領有をめぐる取り合いが起きています。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 現在のセントビンセントおよびグレナディーン諸島では,先住のカリブ人による抵抗が続き,ヨーロッパ諸国の植民を阻みます。沖合で難破した船に載っていた黒人が流れ着き,セントビンセントおよびグレナディーン諸島を含むカリブ海の島々に避難する例もみられました。

 17世紀にはフランスが植民をすすめていきます。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 バルバドスは17世紀前半にイギリスの植民地となり,ブラジル北東部のオランダ領(1630~1654)が放棄されると,その生産技術がバルバドスに導入されていきます。
 アイルランドなどからの年季奉公人や,アフリカ人の奴隷がサトウキビのプランテーションの労働力となりました。

・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 現在のグレナダでは,先住のカリブ人による抵抗が続き,ヨーロッパ諸国の植民を阻みます。


・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 トリニダード島とトバゴ島には,イギリス,フランス,オランダなど,ヨーロッパ諸国が進出していきます。


・1500年~1650年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 ベネズエラ沖のボネール島・キュラソー島・アルバ島は,オランダ領となります。





○1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆スペイン王国は黄金を求めて南北アメリカ大陸の諸国家を滅ぼした。王室は植民する征服者を初め支援し,のちに直接支配に乗り出した(ポルトガルはブラジルに進出した)
スペインにアステカ帝国とインカ帝国が滅ぼされた
 スペイン王国は,黄金を求めて大西洋を渡り,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカに進出し,1521年にアステカ帝国,1533年にインカ帝国(タワンティン=スーユ)を滅ぼしました。

 また,1532年には〈ピサロ〉(1478~1541) 【本試験H29,H31】【追H25コルテスとのひっかけ】がペルー【セ試行】のインカ帝国【セ試行「ペルーに栄えていた文明」】【本試験H22滅亡時期,本試験H29地図上の位置を問う,H31アステカ王国ではない】【追H24キープが使われていたか問う、H25コルテスに征服されていない】の王〈アタワルパ〉(1532~33)を会議に招き,服属とキリスト教徒への改宗を要求。1533年に身代金を金と銀で払わせた末,〈アタワルパ〉を処刑しインカ帝国を滅ぼしました。
 〈アタワルパ〉は兄との内戦に勝利して即位しており不安定な状態だったのに加え,スペイン人の持ち込んだ感染症の流行も火に油を注ぎました。〈ピサロ〉が建設したリマ中心の広場には,今でも彼の銅像が「リマ建設者ピサロ」と記され立てられています。

 征服者(コンキスタドーレス)は,先住民(インド人であるという誤解からインディオと呼ばれました)にキリスト教を布教するかわりに,スペイン王から先住民・土地の支配を委託されていました。これを,エンコミエンダ制【東京H12[2]】【追H28 16世紀のジャワではない】【本試験H14時期・軍管区制ではない,本試験H30】といいます。
 先住民にはスペイン人の持ち込んだ腺ペスト,はしか,天然痘【本試験H30】などの感染症【追H24人口が激減したか問う】に対する抵抗もなく,商品として売る作物を栽培する大農園(プランテーション)や,各地の鉱山での酷使によって【共通一次 平1】【本試験H10中国から大量の労働者が流入したか問う,本試験H11「先住民は,征服以後,鉱山などで過酷な強制労働に従事させられた」か問う】人口が激減【共通一次 平1】【本試験H30】しました【上智法(法律)他H30 奴隷貿易の対象にはなっていない】。メキシコと中南米の先住民は,征服後100年で5000万人から400万人に減ったといわれています。



◆新大陸とユーラシア・アフリカ大陸のさまざまな物が交換された
感染症は新大陸へ,ジャガイモは旧大陸へ
 〈コロン〉のアメリカ大陸到達以降,アメリカ大陸にあったモノやヒトがアフリカ・ユーラシア大陸に伝わり,その逆も起こりました。いわゆる「コロン〔コロンブス〕の交換」です(注1)。

 植物としては,ジャガイモが1570年ころにスペインに持ち帰られヨーロッパ各地に広まっていったらしいですが,食用としては普及しませんでした。ずんぐりとした見た目が敬遠され,偏見を生んだのです。のちにジャガイモは救荒食として“貧者のパン”と呼ばれ,軍用食として強国に導入されていくことになるのですが(注2)。ほかにトウモロコシ,トマト,トウガラシなどがヨーロッパ・アフリカ大陸に移動し,ヨーロッパ・アフリカ大陸からは小麦やライ麦も導入されました。

 動物としては,馬,羊,豚,羊,山羊といったユーラシア大陸の家畜が,アメリカ大陸についに到達。アンデス地方にリャマやアルパカに混じってヒツジが放牧される光景も見られるようになります。

 人類も交換の対象となりました。
 モンゴロイド人種に分けられる人々が居住していた南北アメリカ大陸に,ユーラシア大陸・アフリカ大陸の人々が移り住み,大陸を越えた主体的あるいは強制的な移動が起こります(注3)。

(注1)民族学者・人類学者〈山本紀夫〉(1943~)は両者の被ったインパクトを比較した上で,これを「コロンブスの不平等交換」であったと読み足しています(同『コロンブスの不平等交換 作物・奴隷・疫病の世界史』KADOKAWA,2017。
(注2)伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008,p.43。ジャガイモの民衆への普及には,聖職者や医者による啓蒙活動の成果もありました(南直人『〈食〉から読み解くドイツ近代史』ミネルヴァ書房,2015年,p.21)。
(注3)チャールズ・マンはこれを「ヒトのコロンブス交換」と表現しています。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.488。



 16世紀半ばに現在のボリビアでポトシ銀山【本試験H29】が発見されると,大量の銀がヨーロッパに輸出されるようになります。当時は「重金主義」といって,よりおおくの金銀財宝を輸入すれば,国家は豊かになると考えられていましたが,実際は逆で,金銀財宝が増えれば増えるほど,その価値は下がっていくインフレーションが起きました。また,「14世紀の危機」が終わると15世紀以降西ヨーロッパの人口は増加し,市場経済が拡大したこともインフレーションの要因ではないかともいわれています(この物価上昇は価格革命と呼ばれています)。

 キリスト教の聖職者のなかには,ドミニコ修道会士〈ラス=カサス〉(1474~1566) 【本試験H31】【東京H13[2]】のように,コンキスタドールのひどい実態と先住民の救済【本試験H31】をスペイン国王に訴えたものもいましたが,彼の言説は“デマ”(いわゆる黒い伝説)にすぎないと批判する者もいました。

 先住民を奴隷にすることは禁止されましたが,結果的に,労働力をおぎなうために西アフリカの住民が奴隷(“黒い積荷”“黒い象牙”(注)と形容されました)として大量に輸入されるようになっていきました(奴隷貿易)。カリブ海やアメリカ大陸行きの航路は,致死率の高い「中間航路」と呼ばれ,致死率は50%に達したといわれます。
 奴隷はカリブ海【本試験H5西インド諸島。フィリピン,インドネシア,ブラジルではない】で生産された砂糖(“白い積み荷”) 【本試験H4,本試験H5】や,北アメリカ大陸南部で生産されたタバコと交換。ほかにも,鉱山からは銀【本試験H4】が積み出されます【本試験H4胡椒・茶,ゴム・コーヒー,タバコ・毛織物ではない】。
 砂糖やタバコはヨーロッパで売りさばかれ,何も知らない上流階級の嗜好品(しこうひん。主食と違い,味や香り・ステータスを楽しむ品物)となりました。
 新しい商品の流入により,ユーラシア大陸の生活スタイルが激変していくことになりました(生活革命)。例えば,カカオ,タバコ,砂糖は「嗜好品」として,ヨーロッパの上流階級の人々を喜ばせました。砂糖入り紅茶【本試験H18,H29共通テスト試行 地図(カリブ海からイギリスへの輸出経路を選択する)】は非常に高価な飲み物であり,中国製の陶器に注いで飲むことがステータスとされました【追H27イギリスで紅茶の習慣が広まった時期を問う】【本試験H18 17世紀には労働者の家庭にまで普及していない】。砂糖は,紅茶の補完財であったのです(注)。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.103。




◆先住民人口が激減したため,黒人奴隷が新大陸に積み出される
コンゴやベニンから,黒人がアメリカへ連行される
 スペインとポルトガルの進出は,同時に中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの社会をも一変させました。前述の奴隷に加え,本国から移住したスペイン・ポルトガル系のペニンスラール(半島人という意味),アメリカ大陸生まれのスペイン系・ポルトガル系のクリオーリョ,スペイン系・ポルトガル系と先住民インディオの混血であるメスティソ【セ試行 白人と原住民(インディオ)の混血か問う】【東京H12[2]】,スペイン系・ポルトガル系と黒人との混血ムラート【東京H12[2]】,インディオと黒人の混血サンボのように,皮膚の色により社会的なステータスが区分されるようになっていきます。大土地所有者にはクリオーリョが多く,ペニンスラールの軍や官僚とともにアメリカ大陸における社会経済のトップに君臨していくことになります。

 西アフリカにはベニン王国やダホメー王国,中央アフリカにはコンゴ王国がありましたが,ヨーロッパ人はこれらの国々に火器や織物を積んで,現地の奴隷と交換しました。奴隷貿易が廃止にいたるまで,その数は数千万人にのぼり,奴隷が連行されたアフリカの地域は甚大な打撃を受けます。ポルトガルは西アフリカ【本試験H5】や中央アフリカのギニア湾岸から奴隷を供給できましたが,スペイン【本試験H5イタリアではない】の商人は奴隷交易のための拠点がなかったため,ポルトガル政府との間に奴隷を売り渡す契約(アシエント)を結び,莫大な収益を上げるようになっていきました(注)。
(注)アシエントは,「スペイン領アメリカへの奴隷の輸入にかんして,国王と商人などが結んだ契約」。増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99。

 17世紀前半になると,スペインはアメリカ大陸で先住民から土地を奪ったり買ったりして,熱帯ならではのお金になる作物(商品作物)を育てる土地農園を営むアシエンダ制をはじめるようになります。エンコミエンダ制では先住民の土地は奪わずに労働を強制していましたが,アシエンダ制では先住民は賃労働者となり経済的な支配しただけでなく,エンコミエンダ制と違って人格的にも支配しました。17世紀半ばから銀があまりとれなくなると,アシエンダ制はさらに拡大していきます。とくにブラジルでのサトウキビのプランテーションが発達しました。

 こうして,スペインとポルトガルといったラテン系の民族の進出したラテンアメリカでは,彼らを支配層とし,ラテンアメリカ生まれのラテン系の人々であるクリオーリョ,先住民との混血であるメスティソ【東京H12[2]】【H29共通テスト試行 独立運動を主導したのはクリオーリョ】,ラテン系の人々とアフリカ系住民との混血であるムラート【東京H12[2]】,さらに最下層にアフリカ系住民の奴隷といったような,ピラミッド型の身分社会が成立していったのです。ヨーロッパ系の民族が先住民と交わることはあまりみられなかった,北アメリカの植民地とは対照的です。



◆逃亡奴隷の集落がブラジル北東部に形成される
黒人奴隷と先住民が支配を逃れ,自立する
 ポルトガルの支配が進むのと並行して,ブラジル北東部のバイーア市などに,キロンボ(英語では「マルーン」といいます)という逃亡した黒人奴隷のコミュニティが形成されるようになります。
 ここには同じく迫害を受けた先住民も合流し,相互の混血も生まれていきました。




・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆ブラジルではポルトガルによるサトウキビのプランテーションが盛んとなる
ブラジルはポルトガルの勢力下に入る
 ポルトガルの王〈マヌエル1世〉(幸運王,位1495~1521)により,すでに〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の到達していたインドのカリカットの王と外交関係を結ぶ目的で1500年に派遣された〈カブラル〉(1467?~1520?) 【セ試行 パナマ地峡の横断が業績ではない】【追H30】が,誤って大西洋を南西に突き進み,1500年にブラジル【東京H23[3]】【追H30】を偶然発見。1494年にスペインとの間に締結されていたトルデシリャス条約の分割線【上智法(法律)他H30地図上の位置を答える】にもとづき,これをポルトガル【東京H23[3]】領【本試験H12スペインはプランテーション農業を展開していない】としました。

 ブラジルを領有したポルトガル【本試験H12スペインではない】ですが,当初はアジアの香辛料貿易への関心が高かったことから,ブラジルの有効活用はなかなかなされません。「ブラジル」の名の語源となった「パウ=ブラジル」(ブラジルの木)が,赤い染料の原料として輸出されたくらいで,交易やプランテーションの導入は進みませんでした。

 ブラジル沿岸部にはトゥピ=グァラニー語族の諸民族がおり,パウ=ブラジルの交易がおこなわれ,ポルトガル人との混血も進みました。しかし,1530年頃にからフランス人の進出が活発化すると,インディオの諸民族の対立を利用しながら,ポルトガル人の交易拠点を脅かし始めるようになります。ポルトガルの王室は入植地を増やしてこれに対抗し,のちに総督が任命されるようになりました。リオ=デ=ジャネイロが1565年に建設されると,付近に植民地を建設していたフランスを1567年に追放しています。

 やがて,パウ=ブラジルが枯渇すると,熱帯での栽培に適したサトウキビのプランテーションの格好の地として白羽の矢が立ちます。すでに大西洋上のマデイラ諸島(イベリア半島の南西1000km余りに位置します)で導入されていましたが,16世紀半ばに砂糖製造工場とともにサトウキビの第農園(プランテーション)がブラジルに建設されるようになりました。新大陸での有力なライバルであったスペインは,イベリア半島南部でサトウキビ栽培を行っていたことから新大陸(特に後に世界的産地となるカリブ海の島々)での栽培には積極的ではなく,ポルトガルの独壇場となりました。また,内陸部では牧畜も導入されていきます。

 労働力として,まず先住の諸民族(インディオ)が奴隷として用いられました。しかし,インディオはヨーロッパから持ち込まれた疫病による影響を受け,布教のために入植したイエズス会もインディオを奴隷として用いることに反対します(のちにポルトガル王室と対立し1759年に追放)。イエズス会はインディオをキリスト教徒にしようと各地に集落をつくります。1554年に建設されたサン=パウロもそのうちの一つです。しかし,結果としてブラジルにおけるインディオは激減し,現在のブラジルでは総人口の1%を下回る比率となっています。

 激減したインディオの代わりの労働力として多数導入されていったのが,アフリカ大陸のポルトガル植民地から輸入されたバントゥー系諸民族です【本試験H11「先住民の人口が激減すると,多くの奴隷が輸入されるようになった」か問う】。この黒人奴隷の導入は1570年以降,ポルトガル王室やそれと結びついたにポルトガル系ユダヤ人(注)によって奨励されていき,おもにアンゴラのルアンダやコンゴが積出港でした(⇒1500年~1650年の中央アフリカ)。次第に,黒人とポルトガル人との間に生まれたムラート(女性の場合はムラータ)の人口も増えていきました。ブラジルの文化には,こうしたインディオやアフリカの文化の影響が残されています。

 ポルトガル王位は1580年に〈フェリペ2世〉が継承し,これにより実質的に併合されることになりました【本試験H6時期】。
 それにともないポルトガルの植民地であったブラジルも,1640年に〈ジョアン4世〉が独立を回復するまでスペインの統治下に置かれることになります。その結果,オランダ独立戦争(1568~1646)を戦っていたネーデルラント北部(ネーデルラント連邦共和国,いわゆる「オランダ」)の西インド会社(1621年設立)による攻撃も受けるようになり,ブラジルの砂糖がヨーロッパ金融の中心地に成長していたアムステルダムに流れ込みました。
 1640年にポルトガルが独立を回復した後も,ブラジルではオランダに対する抵抗戦争が続き,1646年にはその功績が認められ,ブラジルは植民地からブラジル公国に格上げされ,ポルトガルの王太子はブラジル公の称号を有することになりました。
(注)彼らの多くは,1496年に〈マヌエル1世〉の命令でポルトガルからアムステルダムに亡命していました。ブラジルへの入植も行われています。




◆逃亡奴隷の集落がブラジル北東部に形成される
黒人奴隷と先住民が支配を逃れ,自立する
 ポルトガルの支配が進むのと並行して,ブラジル北東部のバイーア市などに,キロンボ(英語では「マルーン」といいます)という逃亡した黒人奴隷のコミュニティが形成されるようになります。
 ここには同じく迫害を受けた先住民も合流し,相互の混血も生まれていきました。





・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
◆この頃の「パラグアイ」は漠然と〈メンドーサ〉が国王に征服を許可された広大な地域を指した
パラグアイは「リオデラプラタ総督領」の一部に
 現在のパラグアイを含む広大な地域は、漠然とスペインの国王が征服者(コンキスタドーレス)の〈ペドロ=デ=メンドーサ〉(1487?~1537)との間に1534年取り決めた協約により、征服の対象となりました。
 16世紀初頭のスペイン人は、この広大な領域を「パラグアイ」と認識しており、16世紀末までは「巨大地方」とも呼ばれていました。トルデシリャース条約の領土境界線となった経度以西の地が、征服可能な地として漠然と定められた理由は、内陸の地理に関する知識がまだ希薄であったからです(注1)。

 現在もパラグアイの首都となっているアスンシオンは、1537年に〈メンドーサ〉の命を受けた〈フアン=デ=サラサル〉の探検により建設されました。1541年にブエノスアイレスを追われたスペイン人の入植者たちは(⇒1500年~1650年のアルゼンチンを参照)、アスンシオンに移り住みます。
 これ以降、〈メンドーサ〉が国王に許可された広大な領域は1617年までの間、「リオ=デ=ラ=プラタ総督領」と呼ばれるようになります(注2)。

 しかし「リオデラプラタ総督領」は、1539年の〈フランシスコ=デ=オレリャナ〉によるアマゾン探検を受けてブラジルが領土を西に拡張するにつれ、その北部から縮小。さらにスペイン人のアンデス山脈一帯における「黄金郷」探検の活発化により、北西部の領土も失っていきました。もはや領土の維持は難しく、1617年にはパラグアイ川流域から、ビルコマヨ川・イグアス川周辺よりも北のエリアを「パラグアイ総督領」(首都はアスンシオン)、ラプラタ川河口付近を「リオ=デ=ラプラタ総督領」として別の行政区分となりました。
 当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました(注3)。

 なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にあります。


(注1) 北東はガイアナ、南はフエゴ島までとされ、北西はペルーとチリの征服に関わった〈ディエゴ=デ=アルマグロ〉の発見エリアと接していました。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.26。
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.27。
(注3) 「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf)。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。


・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
ラプラタ川の河口にブエノスアイレスが建設される
 現在のアルゼンチンは,1516年にスペイン人により「発見」され,ペルー副王(副王はスペイン語でビレイvirrey。スペイン国王の代わりに統治を任された長官のことです)領に組み込まれました。

 現地には山岳部にケチュア人やアイマラ人(インディオと総称されます),草原地帯(ケチュア語でパンパと呼ばれます)やサバナ地帯(ケチュア語でチャコ)にはグアラニー人やチャルーア人が狩猟生活をおこなっていました。
 スペイン人の入植が進行して混血の人々(メスティソ)が生まれるとともに,アフリカ大陸のコンゴやアンゴラからバントゥー系の黒人が奴隷として輸入されました。

 1536年にブエノスアイレスが建設されましたが,鉱山や農産物に乏しいアルゼンチンにはスペインにとって”甘み”がなく,開発は遅れました。建設当初は良好であったラプラタ川河口付近の先住民との関係もやがて悪化し、武力衝突が続くと、1541年にスペイン人はブエノスアイレスを放棄。 

 ちょうどその頃現在もパラグアイの首都となっているアスンシオンが、1537年に〈メンドーサ〉の命を受けた〈フアン=デ=サラサル〉の探検により建設されます。1541年にブエノスアイレスを追われたスペイン人の入植者たちは、アスンシオンに移り住みます(⇒1500年~1650年のパラグアイを参照)。
 これ以降、〈メンドーサ〉が国王に許可された広大な領域は1617年までの間、「リオ=デ=ラ=プラタ総督領」と呼ばれるようになりました(注1)。
 その後、ブエノスアイレスは1580年になって再建されました(注2)。

 1588年からはイエズス会によるカトリックの布教も進行し,布教のための集落が各地に築かれます。
 大規模な農園(エスタンシア)も築かれましたが,広大な草原(パンパ)では馬や牛の放牧が大規模に展開され,ガウチョといわれる牧畜民が独自の文化を築き上げていきました(2010年代中頃の日本で流行したガウチョパンツは,彼らの服装にルーツを持ちます)。

 「リオデラプラタ総督領」は、1539年の〈フランシスコ=デ=オレリャナ〉によるアマゾン探検を受けてブラジルが領土を西に拡張するにつれ、その北部から縮小。さらにスペイン人のアンデス山脈一帯における「黄金郷」探検の活発化により、北西部の領土も失っていきました。もはや領土の維持は難しく、1617年にはパラグアイ川流域から、ビルコマヨ川・イグアス川周辺よりも北のエリアを「パラグアイ総督領」(首都はアスンシオン)、ラプラタ川河口付近を「リオ=デ=ラプラタ総督領」として分割されることになりました。当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました(注3)。
 なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。

(注1)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。
(注2)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.27。
(注3) 「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf)。田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。


・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア
◆ボリビアのポトシに,世界最大級の銀鉱山が発見される
ポトシの銀が,新大陸や中国に流れ込む
 
 アルト=ペルー〔現・ボリビア〕がスペインにより征服されると、ペルー副王領(1542年)に組み込まれました。
 ペルー副王領の下、現・スクレ市に置かれたアウディエンシア(王立聴訴院、1559年設立)の管轄下に置かれます。
 スペイン国王は、地方行政官(コレヒドール。任期5年の役人)がインカ帝国時代の原住民共同体の首長(カシケ)を支配する形で、植民地を支配しました。
 こうすることで、征服地を持つエンコメンデーロ(キリスト教布教の代わりに土地・住民支配権を獲得した私人)から支配権を奪い、植民地の人々を直接支配しようとしたからです(注1)。
 しかし、コレヒドールの給与が定額であったことから、彼らは別の“収入源”を求めるように。先住民に対し伝統的な徴用制度であるミタ制を行使し、首長のカシケもコレヒドールとの密な関係を強いられました(注2)。



 さてこの時期、南北アメリカ大陸では、各地の銀鉱山がスペイン人のターゲットとなります。

・メキシコ【本試験H10ブラジルではない】
 北中部のグアナフアト(◆世界文化遺産「グアナフアトの歴史地区と鉱山」,1988)
 北中部のサカテカス(◆世界文化遺産「サカテカス歴史地区」,1993)

・ボリビア
 ポトシ銀山【本試験H31ダイヤモンド鉱山ではない】【東京H16[1]指定語句】【追H9ポルトガル植民地ではない】

 これらから採掘された銀が大量に流れ込み,日本銀【東京H16[1]指定語句】の流入とともに東アジア世界の銀の流通量が増加する原因となりました【本試験H10時期を問う(16世紀)】。

 ポトシ銀山は当初は先住民より発見されたのですが,のち1545年にエンコメンデーロ(先住民の委託を受けた入植者)のものになります。山は「セロ=リコ」(富の山)と呼ばれ,入植者が殺到。16世紀の“シルバー=ラッシュ”となりました(◆世界文化遺産「ポトシの市街」,1987(2014危機遺産))。
16 世紀末~17 世紀前半にかけてポトシは12 万人(1572 年の人口調査)から16万人(1611年)という大都市に発展。リマ~クスコ~ポトシ間の幹線道路も1570年代までに「銀の道」として整備。その中間地点にあたるティティカカ〔チチカカ〕湖南東,アイマラ系先住民の住む所には1548年にラパスが建設されます(現在のボリビアの首都)。しかし,ポトシの標高はなんと約4000m。高地に適応できなかったため黒人奴隷は用いられませんでした。先住民はコカの葉を噛みつつ労働にあたり,多くが犠牲となっていきます(注3)。

(注1)真鍋周三『ボリビア知るための68章』明石書店、2006年、p.216。
(注2)真鍋周三『ボリビア知るための68章』明石書店、2006年、p.216。
(注3) 真鍋周三「植民地時代前半期のポトシ銀山をめぐる社会経済史研究 ―ポトシ市場経済圏の形成 ―(前編)」『京都ラテンアメリカ研究所紀要』11巻,p.57~p.84, 2011,https://www.kufs.ac.jp/ielak/pdf/kiyou11_04.pdf,p.58~p.59


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・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
インカ帝国が滅ぼされリマはスペイン支配の中心に
 スペイン王国は,黄金を求めて大西洋を渡り,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカに進出し,1521年にアステカ帝国,1533年にインカ帝国(タワンティン=スーユ)を滅ぼしました。

 1532年には〈ピサロ〉(1478~1541) 【本試験H29,H31】【追H25コルテスとのひっかけ】がペルー【セ試行】のインカ帝国【セ試行「ペルーに栄えていた文明」】【本試験H22滅亡時期,本試験H29地図上の位置を問う,H31アステカ王国ではない】【追H25コルテスに征服されていない】の王〈アタワルパ〉(1532~33)を会議に招き,服属とキリスト教徒への改宗を要求。1533年に身代金を金と銀で払わせた末,〈アタワルパ〉を処刑しインカ帝国を滅ぼしました。
 〈アタワルパ〉は兄との内戦に勝利して即位しており不安定な状態だったのに加え,スペイン人の持ち込んだ感染症の流行も火に油を注ぎました。〈ピサロ〉が建設したリマ中心の広場には,今でも彼の銅像が「リマ建設者ピサロ」と記され立てられています。


 1542年に「ペルー副王」(当初はヌエバ=カスティーリャ副王)が任命され(初代は〈ブラスコ=ヌニェス=ベラ〉(任1544~46))ましたが、組織化されたのは〈トレド〉(任1569~81)のときから。〈トレド〉はエンコミエンダ制やミタ制(インカ帝国時代から続く強制徴用制度)を縮減させ、現・ボリビアのポトシ銀山の開発を推進。
 一方、「滅んだ」といっても、植民者どうしの勢力争いともからみ各地で抵抗を続けていたインカ帝国の皇族の一人が建てていた〈マンコ=インカ〉(マンコ=カパック2世、位1533~1544)のビルカバンバの政権を攻撃し、最後の皇帝〈トゥパク=アマル〉(位1571~1572)を1572年に処刑。こうしてインカ帝国は息の根を止められました。

 大規模な抵抗はいったん終わりますが、その後もケチュア人にとって最後の皇帝〈トゥパク=アマル〉は、反スペインのシンボル的存在として生き続けることになります。




・1500年~1650年のアメリカ  南アメリカ 現⑩ベネズエラ
 現在のベネズエラのカリブ海沿岸に,1498年に〈コロン〉〔コロンブス〕が上陸していました。この第三回航海で,彼はベネズエラの豊富な真珠を発見します。〈マルコ=ポーロ〉の『世界の記述』を通したインドか日本に真珠があるという情報から,〈コロン〉は「インドに到達したのだ」という確信を深めます。
 ベネズエラにおける真珠採集には,バハマ諸島やベネズエラ沖のマルガリータ島,ベネズエラ沿岸から先住民が輸送・酷使され,カリブ海周辺の先住民の人口激減の一つとなりました。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.84~p.85。





●1500年~1650年のオセアニア

◆スペインにより太平洋横断交易が始まり,メキシコ銀が東アジアに輸出される
スペイン船に乗って,銀が太平洋を渡る

 〈マゼラン〉(注)が太平洋を横断した後も,ヨーロッパの人々は太平洋がどんな所なのか,正確な知識はほとんど把握していませんでした。
 16世紀末にスペイン人の〈レガスピ〉によって太平洋航路が開拓され,1571年にフィリピンにマニラ【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】が建設されました。グアムはこの交易の中継ポイントとして,重要な基地になりました。船には中国から買い付けた絹・陶磁器・香料が満載で,スペインが新大陸で掘り出した銀が交換のために用いられました。イギリスの海賊船は,このスペイン船を標的にしたわけです。

 そんな中,1596年にガレオン船の一つサン=フェリペ号が,日本の土佐(現在の高知県)沖に漂着し,〈長宗我部元親〉(ちょうそかべもとちか,1539~99)が〈豊臣秀吉〉(1561~98)に通報しています。また,1609年にはメキシコのアカプルコに向かっていたサン=フランシスコ号が下総(しもうさ,現在の千葉県)に漂着し,マニラの長官代理の〈ロドリーゴ〉(ドン=ロドリゴ,1564~1636)は駿府(現在の静岡県)で〈徳川家康〉と会見し,スペインの新大陸の植民地ヌエバ=エスパニャとの通商関係を求められました。これに対し,1610年に京都の商人〈田中勝介〉らが〈ロドリーゴ〉とおもにメキシコに渡航し,翌年帰国しました。1611年には伊達氏の家臣である〈支倉常長〉(はせくらつねなが,1571~1622)ら慶長遣欧使節団が,メキシコ経由でヨーロッパに派遣され,なんとスペイン国王〈フェリペ3世〉(位1598~1621)とローマ教皇〈パウルス5世〉(位1605~21)に謁見しています。
 1601年にスペイン人によりマリアナ諸島の中のサイパン島が確認され,17世紀後半からはスペイン人の宣教師がマリアナ諸島で布教活動を行いました。
 1606年にポルトガル人の航海長〈キロス〉は,バヌアツに到達しました。その後,船員のトレスは,オーストラリアとニューギニア島が離れていることを確認しました。ニューギニアには,すでにポルトガル人の〈メネゼス〉が到達しています。
 さらに遅れて,オセアニアに進出したのはオランダです。オランダはアジア貿易にも関心を示し,はじめは北極海を通る航路を開拓しようとしましたが失敗し,太平洋航路の開拓に乗り出します。1598年にロッテルダムを出航した船隊が難破し,残った1隻が日本の豊後(ぶんご,現在の大分県)に漂着し,〈徳川家康〉(1542~1616)に謁見したことは有名です。その後,1616年に〈ル=メール〉は,トンガやビスマルク諸島のニューアイルランド島などのニューギニア北東部の諸島を発見しました。また,17世紀に入りオランダ人の航海士たちはオーストラリア大陸に到達しますが,荒れ地ばかりでうま味がないと判断したようです。1642年に東インド会社の命令で探検した〈タスマン〉(1603~59)は,オーストラリア南部のタスマニア島【本試験H26】やニュージーランド南島の南端に到達しました。これが,ポリネシア系のマオリ人【セ試行ニュージーランドの原住民】にとっての,ヨーロッパ人との初接触です。その後,トンガやフィジー,ビスマルク諸島のニューブリテン島を回って,ジャワ島のバタヴィアに帰りました。その後のオランダは,アフリカ大陸南端のケープタウンを確保したことから,太平洋周りの航路への関心は低下していきました。

(注)〈マゼラン〉はポルトガル出身なのでポルトガル語読みで〈マガリャンイス〉と呼ぶのが“正しい”とされることもありますが,出身“国”にこだわるのは近現代以降にナショナリズムが盛んになって以降のことです。ここでいう「ナショナリズム」とは,要するに“お国自慢”のこと。




○1500年~1650年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…現在の①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

・1500年~1650年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
◆イースター島では資源資源が枯渇し,石像の建造もストップした(“イースター島の教訓”)
 ポリネシア人のイースター島では,16世紀頃にモアイの建造が突如ストップしました。島には今でも,未完成のモアイが150体も残されています。ポリネシア人が移住してきたときには緑豊かだった島は,過剰な人口にともなう森林伐採によって草原と化し,土壌が流出してサツマイモの収穫量が不足したため,限られた資源をめぐり争いが起きたのではないかと考えられています(注1)。
 漁に使う木製のカヌーを建造することもできなくなり,やがて布や漁網の材料であったカジノキも枯渇(注2)。
 1600年には島のほぼすべての森林が失われ,運搬する手段を失った石切場(いしきりば)の巨石が,そのまま放置されるようになりました。

 島民の間では,ライバルの集落のモアイを引き倒す行為がなされました。実力をたくわえた戦士階級は,モアイの変わりに鳥神マケマケの化身である鳥人への信仰を深め,木板に未解読のロンゴロンゴ文字を刻むようになります。

 18世紀にヨーロッパ人が訪れたときには,ほんの数体の石像のみがかろうじて立っている状態であったといいます。

 ただ,「イースター島でモアイづくりのために最後の木を伐採した人は,それが最後の木だとは気づかなかった」という“教訓”じみた挿話に関しては,異を唱える説もあります(ハワイ大学の研究者によると,ポリネシア人とともに島に流入したネズミが増加し,チリサケヤシという樹木が齧られたが,そもそも石像の運搬にはそれほど多くの人手は必要なかったといいます(注3))。

(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.15。
(注2)同上,p.16。
(注3)印東道子「イースター島の環境崩壊とモアイ」 国立民族学博物館http://www.minpaku.ac.jp/museum/enews/162,2014年

・1500年~1650年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 オランダの〈タスマン〉が1642年にタスマニア島の東方から北上し,ニュージーランドの南島を確認。しかし,ニュージーランドの住民(マオリ)による攻撃を警戒し,上陸することはありませんでした。彼はこの島々をオランダのゼーランドにちなみ,「ゼーランディア=ノヴァ」(英訳するとニュージーランド)と命名しています。

・1500年~1650年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 ポリネシア西部・中央部,メラネシアやミクロネシアの一部にまで交易圏を拡大させていたトンガ帝国ですが,この時期にはトゥイ=トンガ(トンガ大首長)の権力は衰退に向かいます。
 17世紀前半にはオランダやイギリスの船が来航しています。

・1500年~1650年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 スペインの〈メンダーニャ〉(1542~1595)が上陸していますが,植民はなされませんでした。




○1500年~1650年のオセアニア  オーストラリア
 この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
 オランダ人の〈タスマン〉(1603~1659)が,オランダ東インド会社(VOC)の下で1642年~1643年にニュージーランド西岸やタスマニア島南岸を,1644年にはオーストラリア北西岸周辺を航海しています。当時のヨーロッパで実在が謎とされていた「南方大陸(テラ=アウストラリス)」の正体を探すことがミッションでした。




○1500年~1650年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…現在の①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1500年~1650年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 1643年にオランダの〈タスマン〉が上陸しています。



・1500年~1650年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 1606年にポルトガルの〈キロス〉がバヌアツのニューヘブリディーズ諸島に上陸しています。



・1500年~1650年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 1568年にスペインの〈メンダーニャ〉(1542~1595)がソロモン諸島を訪れ,ガダルカナル島で発見した砂金から莫大な富の眠る島と勘違いし,古代イスラエルで栄華を誇った〈ソロモン〉王にちなみソロモン諸島と名付けました。



・1500年~1650年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 1526年にポルトガルの〈メネセス〉(1498?~1537)が上陸しています。



○1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…現在の①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 スペインの〈マゼラン〉(1480?~1521),〈エルカーノ〉(1486?~1526)さらに〈サーベドラ〉(未詳)らにより発見されています。




・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス




・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル




・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 1525年にポルトガル人がヤップ島とユリシー島に到達,1529年にはスペインがカロリン諸島に到達。1595年には,マリアナ諸島とカロリン諸島はスペイン領となりました。




・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 16世紀後半に,マリアナ諸島,グアム,カロリン諸島,フィリピンなどとともに,スペイン領東インドとなっています。




・1500年~1650年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 先住民はオーストロネシア語族マレー=ポリネシア語派のチャモロ人。
 1521年にスペインの派遣した〈マゼラン〉グアム島に到達。
 1565年には〈レガスピ〉によりスペイン領となっています。






●1500年~1650年の中央ユーラシア

○1500年~1650年の中央ユーラシア  東部
◆金が滅ぼされ,モンゴル帝国の支配下に入る
モンゴル人は沿海州~オホーツク海へも拡大する
 中国東北部の沿海州(えんかいしゅう)(オホーツク海沿岸部)を本拠地とするツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)はモンゴル人の支配下に入りますが,複数の部族の首長による統合は維持されていました。
 北部の野人女真,中部の海西女真,南部の建州女真が有力部族として台頭しますが,このうち南部の建州女真はオホーツク海と明・朝鮮との交易ルートや朝鮮人参【追H30薬用人参ではない】の生産地を掌握し,勢力を拡大させていきました。
 1616年には建州(けんしゅう)女真【京都H22[2]「女真」を答える】【本試験H6清が女真の王朝かを答える】の指導者〈ヌルハチ〉【本試験H8順治帝ではない】が女真の諸部族を統一し,アイシン国(金)を建国しました。女真が昔に建国した金(1115~1234)と区別するために,こちらを後金(こうきん)といいます。八旗という軍事制度を整備し,1619年には明をサルフの戦いで破ります。

 かれらはモンゴル人のうち〈チンギス=ハーン〉の直系子孫を服属させ,1636年には女真人・漢人・モンゴル人の代表による会議で,国号を清(しん)と変えることが決められ,第二代〈ホンタイジ〉【京都H22[2]】が中国の「皇帝」即位を宣言します。このときの都は瀋(しん)陽(よう)(盛京)【京都H22[2]】です。第三代〈順治(じゅんち)帝(てい)〉【京都H22[2]】【本試験H8】【追H9乾隆帝ではない】のときに北京を占領し,1644年に滅んだ明に代わって,北京【本試験H8】を首都に構えました。




○1500年~1650年の中央ユーラシア  中部
◆チベットに〈ダライ=ラマ〉政権が成立する
チベット高原が政治的に統一される
 チベット高原のチベット仏教は,複数の派に分裂し,互いに抗争する時代が続いていました。

 モンゴル高原のモンゴルを再統一した,モンゴルの一部族トゥメト部の〈アルタン=ハーン〉(位1551~1582) 【追H29土木の変を起こしていない】は,チベット高原のチベット仏教ゲルク派〈ダライ=ラマ3世〉(1543~1588)を保護します。
 〈アルタン=ハーン〉の孫が〈ダライ=ラマ4世〉として即位。

 チベット仏教ゲルク派は,その後,遊牧民のオイラトの一部族であるホシュート部を保護者として選び,ホシュート部の長〈グーシ=ハーン〉(1582~1654)は「ゲルク派」を救うという名目でチベットに進出。
 〈ダライ=ラマ5世〉(位1642~1682)はラサにポタラ宮殿を建設し,チベットの統一を実現しました。




○1500年~1650年の中央ユーラシア  北部

◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 ユーラシア大陸北東部の寒帯・冷帯の地域には,古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。

 しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。

 圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

◆極北では現在のエスキモーにつながるチューレ文化が生まれる
エスキモーの祖となるチューレ文化が拡大する
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注1)/1300年)の担い手が生活していましたが,ベーリング海周辺の文化が発達して900~1100年頃にチューレ文化が生まれました。

 チューレ文化は,鯨骨・石・土づくりの半地下式の住居,アザラシ,セイウチ,クジラ,トナカイ,ホッキョクグマなどの狩猟,銛(もり)(精巧な骨歯角製)・弓矢・そり・皮ボート・調理用土器・ランプ皿・磨製のスレート石器が特徴です(注2)。

(注1)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
(注2)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「エスキモー」の項






●1500年~1650年のアジア
○1500年~1650年のアジア 東アジア
◆明は北虜南倭や大地震(華県地震)の影響を受け,財政難に苦しめられる
北虜(ほくりょ)南倭(なんわ)と華(か)県(けん)地震,秀(ひで)吉(よし)の朝鮮侵攻に明(みん)苦しむ
 この時期の明にとっての脅威は,北虜【本試験H10】【セA H30】(ほくりょ,北方騎馬遊牧民【本試験H10倭寇との引っ掛け】)と南倭【本試験H10北虜ではない】(なんわ,倭寇)です。


北虜
モンゴル人が交易を要求して明に圧力かける
 モンゴル高原では,〈チンギス・ハーン〉の直系である〈アルタン=ハーン〉【追H29土木の変を起こしていない】は,勢力を増し,彼の側につく漢人の支配層や軍人,迫害を受けた白蓮教徒が北辺に移動し,都市を建設するようになっていました。アルタンの根拠地は現在のフフホトにあたります。漢人の軍人を受け入れていた〈アルタン〉は,中国の内情を熟知していまいした。1550年に北京を占領し【本試験H15,本試験H16北元による占領ではない】,朝貢貿易を再開するように圧力をかけました。


南倭
「灰吹法」の開発が、倭寇の活発化につながる
 北方の軍事費が増加するのにしたがって,15世紀半ばから銀による徴税がおこなわれるようになり,人々の生活を苦しめていました。
 そんな中、東アジア海域では海禁をくぐり抜けようとする密貿易集団(倭寇【セA H30】)が発達。
 1523年には朝貢の順位をめぐり,寧波(ニンポー)で大内氏と細川氏の遣明船が争う事件も起きています(寧波の乱)。この1523年以降、明は勘合貿易を10年に1度に制限するようになります(注)が、貿易が規制され銀が不足すればするほど,密輸が成功したときの利益は高くなります。

 ただ、日本からの輸入品は、中国によって「どうしても輸入しなければいけない」というほどのラインナップではありません。東南アジアと比べれば比重の低いものでした。
 しかし、ちょうどその頃、日本で石見銀山(いわみぎんざん)が発見され、朝鮮から灰吹法(はいふきほう)という銀の精錬技術が伝わり、日本における銀の生産量が飛躍的に増加するという“偶然”が起こります。
  
 中国における銀の需要を補うため、倭寇は日本の博多【東京H27[1]指定語句】商人やポルトガル商人を拠点に誘い,銀の輸出で巨利をあげるようになっていきます。
 有名なのは〈王直〉(おうちょく,?~1560)です。彼は,広東で巨大な船をつくり,銀、硫黄や生糸を,日本やアユタヤ朝などに密輸し,莫大な富を築き,日本・中国・朝鮮・東南アジアの密貿易集団を配下に置いて君臨しました。『鉄炮記』によれば1543年(ヨーロッパ史料にもとづけば1542年)に種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる、ポルトガル商人の乗っていた倭寇船も、この〈王直〉傘下のものでした。その後、1553年には嘉靖大倭寇といわれる襲撃事件が多発し,〈王直〉は1559年に処刑されています。



◆ポルトガル人が「密貿易」ネットワークに入り込む形で中国貿易に参入する
ポルトガル商人が広州における居留権を得る
 さて、同時期に東アジア海域にも進出していたポルトガルが、初めに中国に進出したのはマラッカ占領(1511)直後の1513年でした。ポルトガル商人〈アルバレス〉が、東南アジアと中国間の貿易に注目して華人のジャンク船に同乗し、広州を訪れたのです(注2)。
 しかし明との公式な貿易をおこなうには許可が必要です。
 1517年にポルトガルから〈トメ=ピレス〉が派遣され、広州【同志社H30記】で交易を開始。彼は1520年に〈正徳帝〉への謁見を南京でゆるされますが、皇帝の死後に状況が変化し、結局彼の一行は広州で投獄、財産も没収されてしまいます(注3)。
 その後、ポルトガル商人は珠孔河口にあるタマオ島(屯門島)に要塞を築き、沿岸住民を奴隷とし、船舶を襲うなどしたことから、明との関係が悪化。ポルトガル商人がインド洋沿岸で得意としていた大砲による砲撃も功を奏さず、1521年にはポルトガル人の退去が命じられます(注4)。
 その後もポルトガル商人による公的な貿易は認められず、東アジア海域で活動していたポルトガル人の貿易は「私的」な「密貿易」だったのです。その拠点は長江河口付近の寧波沖に浮かぶ舟山(しゅうざん)群島。華人やポルトガル人の根城でした。

 明の役人による攻撃が激しくなると、密貿易商人のリーダーであった〈王直〉(おうちょく,?~1560)は、拠点を日本の九州にある五島列島から、平戸に移します。五島列島も平戸も、東シナ海で活動するグループ(たとえば松浦党(まつらとう))の拠点。〈王直〉と組んでいたポルトガル商人は1550年に平戸を初めて訪れ、平戸の領主〈松浦隆信〉(まつらたかのぶ、1529~1599)に歓迎を受けます。
 〈王直〉は広東で巨大な船をつくり,銀、硫黄や生糸を,日本やアユタヤ朝などに密輸し,莫大な富を築き,日本・中国・朝鮮・東南アジアの密貿易集団を配下に置いて君臨しました。『鉄炮記』によれば1543年(ヨーロッパ史料にもとづけば1542年)に種子島に漂着して日本に鉄砲を伝えたとされる、ポルトガル商人の乗っていた倭寇船も、この〈王直〉傘下のものでした。ポルトガル人はこうした華人に雇われたり融資を受けたりすることで、中国産品を東南アジアや日本と取引していたのであって、“ヨーロッパから直接日本にやってきて、自律的に商品を売っていた”なんてことはなかったわけです。その後、1553年には嘉靖大倭寇といわれる襲撃事件が多発し,〈王直〉は1559年に処刑されています。

 アジアを拠点とするポルトガル人による(本国の王室のコントロールを離れた)「私的な交易」が活発化すると、本国の王室やゴアの副王・マラッカの長官も「中国がらみの貿易はもうかるぞ」ということに気づき始めます。1552年にポルトガルの王室艦隊司令官が沿岸の海賊退治の見返りに、杭州湾の入り口のマカオ半島への荷揚げと滞在を要求。媽祖(まそ、船乗りを守る女神)をまつる廟(びょう)があったことから、媽閤廟(まこうびょう)→「マカオ」と呼ばれることになりました。そうして、1557年に明がマカオ【追H27スペインの拠点ではない、地図上の位置を問う】【本試験H22時期,本試験H24地図上の位置を問う,本試験H25】【上智法(法律)他H30】での居留を認めるにいたったわけです(◆世界文化遺産「マカオの歴史地区」,2005)。ただ、これは毎年地租500両(テール)を納めることが条件で、決して植民地というわけではありませんし、明の国内の法に従うことが必要とされました(注5)。

 1570年頃には日本の大名〈大村純忠〉が長崎港を開き,1580年に長崎の町をイエズス会に寄進しました。ポルトガル商人が定期的に来航することをねらったものだろう(注6)。ポルトガルの影響力が高まりますが、その後日本においてキリスト教徒への弾圧が始まると,ポルトガルの勢力は削がれ,かわりに台湾に進出したオランダ【追H24フランスではない、H27ポルトガルではない】【セ試行 】の勢力が伸びます(1624年に台湾南部にゼーランディア城を築きました(注7))。
 新参者のオランダにとっては,中国人や日本人のパートナーが不可欠でした。そこで目をつけられたのが,福建省出身の〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,1604〜61)でした。彼は長崎の平戸に住んでいたことがあり,1624年に日本人の女性〈田川マツ〉と子どもをもうけていました。オランダに接近した〈鄭芝龍〉の勢力は拡大し,オランダも1639年には徳川幕府に長崎来航を認められます。
 同じ頃〈アルタン〉は1571年に明と和議を結び,国境地帯の貿易が認められました。彼は〈順義王〉に封ぜられて,漢人の文化も取り入れ,牧畜民・農牧民を支配しました。
 一方,1556年には陝(せん)西省(せいしょう)でマグニチュード8.0と推定される華県地震が勃発し,少なくとも80万人が犠牲となる未曾有の被害を残し,明の統治も影響を与えます。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.120。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.120。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.123。
(注4) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.123。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.126。
(注6) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.132。ちょうどマドラスがイギリスに便宜供与したのと似ています。
(注7) オランダは1624年に安平港にゼーランディア要塞を築きましたが,1661年に〈鄭成功〉がアモイから台湾に進出してこれをのっとります。1624~1661年までがオランダの台湾支配期ということになります。なお,バタヴィアにオランダが完全に退去したのは1662年のこと。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122




◆銀が流入し貨幣経済がすすみ,心即理をとなえた儒学者〈欧陽明〉が民衆の支持を集めた
貨幣経済が進行し、陽明学が流行する
 こうして,1570年頃以降,マニラにスペインの拠点ができて,メキシコから太平洋航路で銀が持ち込まれるようになってからというもの,ますます多くの銀が明に流れ込むことになりました。その量は,16世紀に2100〜2300トン,17世紀前半に5000トンと推計され,その約半数は日本銀でした。

 しかし,それでも中国の銀不足は解消されません。大商人や官僚が,銀を使わずに貯め込んでいたからです。蓄財がすすめば賄賂も横行します。農村の人々は,銀を手に入れるために手工業の副業を始めるようになり,長江下流域では生糸の生産が盛んになっていきました。収穫した米を小作料として地主に納めると,手元にはほとんど残りません。彼らは手工業により銀を手に入れ,それで米を買ったのです。その結果,生活の厳しい農民も多くなっていきました。

 このような状況で,〈王守仁〉(1472〜1529)は,学問的知識や厳しい修養がなくても,人間と世界の正しいあり方「理」に到達できると説きました。庶民であっても,あるがままの自然の心の中に「理」が備わっていると考えたのです。これを「心即理」【本試験H12時期「全真教が成立した王朝」のときのものか問う】といいます。庶民であっても,自分自身のもっている道徳に従えば「理」に到れるという考え方は,絶大な支持を集めました。

 のちには,泉州のムスリム家庭に生まれた〈李卓吾〉(1527~1602) 【本試験H9朱子学を継承・発展させたか問う(批判したので「継承・発展」とはいえない)】のように『論語』が「偽善者の言い訳」と言い放つ,自由な思想も現れるようになっていきました。


◆徐階による互市の設置と,張居正による税制改革がおこなわれた
海禁が解除され,税の銀納が認められるように
 当時の中国では全国的な流通網が発展し,山西商人【本試験H7,本試験H10「新安商人」とのひっかけ】【本試験H23】や徽州(きしゅう,新安)商人【本試験H7「新安商人」,本試験H10山西省出身ではない,華北中心ではない】【本試験H23】が活躍し,資本を蓄えました。
 交易をもとめて北虜南倭(北方の遊牧民と沿岸の倭寇)の圧迫が強まったことから,〈嘉靖帝〉(位1521~67)の下で内閣大学士の〈徐階〉(じょかい,1503~1583)が互(ご)市(し)の設置を提案。決められた場所での交易が認められることになりました。

 〈万暦帝〉(ばんれきてい,在位1572~1620) 【追H28軍機処を設けていない】は即位したもののまだ幼く,〈張居正〉(ちょうきょせい,1525~1582) 【追H26黄宗羲ではない】が政治の実権を握っていました。
 宰相(主席大学士)についた〈張居正〉は官僚をおさえつけて,内閣が監察官を監督する形にします。これでは,内閣をチェックする監察官の役割の意味がありませんよね。〈始皇帝〉にあこがれ,皇帝権力を強めることで,富国強兵・綱紀粛正による立て直しを図ったのです。陽明学による講学活動も禁止。書院を閉鎖させ,政府批判を禁じました。これが地方からの批判を生み,下野(政治家をやめて民間で活動すること)した人々から東林党【追H26旧法党ではない】というゆるいつながりを持った反政府グループも生まれ,東林党と非東林党との党争【本試験H30新法党・旧法党とのひっかけ】が激化しました。

 なお,〈張居正〉は複雑になっていた両税法をやめて,丁税(人頭税)と地税にまとめて,一括して銀で納税する一条(いちじょう)鞭法(べんぽう)【共通一次 平1「人頭税と資産税を銀で納入させた」か問う】【本試験H7明代か問う】【本試験H16元代ではない,本試験H24時期】を,華中・華南・華北の順に順次導入しました。スペイン銀や日本銀の大量流入により,貨幣経済が発達して,いろいろな農業生産物が栽培されるようになったことや,銀で納める税の項目が増えていたことが背景です。
 明代【本試験H27漢代ではない】の長江下流域(江南【東京H9[3]】地方)は綿織物【追H25唐代ではない】などの商品作物生産地帯となったため,穀倉地帯は長江中流域【追H27】に移り「湖広熟すれば天下足る」【東京H19[1]指定語句】【追H27元代ではない】【本試験H7中流域から過流域にうつったわけではない】 (長江中流域の湖沼地帯の稲が実れば,中国人のお腹はいっぱいになる) 【本試験H21江浙ではない,本試験H30】と呼ばれました。
 その一方で,16~17世紀にかけ,佃戸(でんこ)による地主に対する小作料の不払い運動(抗(こう)租(そ)【本試験H8】)も起きています(清代中期以降の政府への租税不払い運動である「抗(こう)糧(りょう)」と区別を)。

 さて,東林党と非東林党との党争が激化する中,文字も読めないのに多くの官僚を従えのし上がった宦官(かんがん)【本試験H9明朝では宦官の勢力が強くなったか問う】の〈魏忠賢〉(ぎちゅうけん,?〜1627)が,最高権力を握りました【本試験H8「16世紀には,大地主が官僚や商人を兼ね,外戚と称されていた」は,時代状況として不十分】。
 彼は反対派の東林党に対し厳しい弾圧を加え,弾圧から逃れようと各地に〈魏忠賢〉をまつる聖堂が建てられたほどでした。東林党を反政府勢力としてマークし,特別警察により関係者を逮捕し,弾圧しました。反〈魏忠賢〉派,つまり東林党の指導者は〈顧(こ)憲(けん)成(せい)〉【法政法H28記】です。
 〈崇禎帝〉(位1627〜44)が即位すると,〈魏忠賢〉は失脚して自殺。死後,彼に対する批判をテーマにとった小説や戯曲が,多数出版されました。






◆実学がさかんとなり,庶民向けの読み物も出版されるようになった
 西洋技術を導入した新たな農業技術も,イエズス会のメンバーと協力した【本試験H23排撃していない】〈徐光啓(じょこうけい)〉【追H27】【東京H17[3]】の『農政全書』【本試験H2時期(宋代ではない)】【東京H17[3]】【追H20薬学の書物ではない、H27徐光啓か問う】により紹介され,生産力アップに貢献しました。 
 また産業が盛んになると,さまざまな技術書や薬学に関する実用書・技術書も著されるようになり,情報共有が進みました【本試験H15】。

 〈宋応星〉【本試験H29】【追H17授時暦をつくっていない、H25授時暦をつくっていない】が『天工開物』【東京H9[3]図版(繭から生糸を紡ぐ作業を説明する)】【本試験H2時期(宋代ではない),本試験H11:朝鮮で出版されたものではない】【本試験H29本草綱目ではない】【追H30時期を問う(明代)】で産業技術を図入りで集大成しました。

 陶磁器【本試験H2,本試験H10絹織物ではない】の生産地である景徳鎮(けいとくちん)【本試験H2清代以降に発達したのではない】【東京H9[3]】では,染付(そめつけ)や赤絵(あかえ)【共通一次 平1:高麗青磁とのひっかけ】が発達し,ヨーロッパを含む国外【本試験H7ヨーロッパにまで明代後期以降,大量に輸出されたことを問う】にも盛んに輸出されていました。また,〈徐光啓(じょこうけい)〉はイエズス会士〈アダム=シャール〉とともに暦を改訂し,清代には実用化されました。のち,清がキリスト教徒に影響された暦を使用していることを知ると,キリスト教色を排除した宝暦暦(ほうりゃくれき)(1755~98)が制定されました。しかし,粗悪で,幕府天文方〈高橋(たかはし)至(よし)時(とき)〉により西洋の暦法をとりいれた寛政暦が制定(1798~1844),1844年以降は1873年のグレゴリオ暦導入までは天保暦を使用しています。
 ほかにも,〈李(り)時(じ)珍(ちん)〉【追H26】【本試験H11:清代ではない。四庫全書とは関係ない】【本試験H23】は『本草綱目(ほんぞうこうもく)』【本試験H23崇禎暦書ではない】【追H20茶の「薬効」が記された書物を問う、H26崇禎暦書ではない】で中国の薬学を集大成しました。
 なお,明の時代には生産や交易の発展にともない,庶民の力も増し,庶民向けの文学も盛んに印刷されました。四大奇書とされている,①〈呉承(ごしょう)恩(おん)〉の『西遊記(さいゆうき)』,②〈施耐(したい)庵(あん)〉の『水滸伝(すいこでん)』,③〈羅(ら)貫中(かんちゅう)〉『三国志演義(さんごくしえんぎ)』【本試験H9[21]】,④作者不詳の『金瓶梅(きんぺいばい)』です【覚え方:Sai・Sui・San金(“SSS金”)】。初めの3つの原型は,すでに元代に成立していました。また戯曲としては〈湯(とう)顕(けん)祖(そ)〉の『牡丹亭還(ぼたんていかん)魂記(こんき)』が人気を博しました。 美術は,院体画の流れを組んだ北宗画(ほくしゅうが)では〈仇英〉(きゅうえい)が,文人画の流れをくんだ南宗画(なんしゅうが)では〈董其昌〉(とうきしょう)が活躍しました。




◆明の支配がぐらつき,北東部で女真〔女直〕が交易で急成長,朝鮮を服属させ,明を滅ぼす
女真が成長し,遊牧民の支持を受け「中国」支配へ
 明の末期,指導力のとぼしい皇帝の即位が続きます。「跡継ぎとして長男を皇太子にする」という決まりあったため,選びようがなかったのです。
 そんな中,1580年代~1590年代には飢饉が起き,民衆の「税が払えません」暴動が多発。さらに1592,1597年に日本の〈秀吉〉が朝鮮を落として明の支配を狙うわ,「北虜南倭」(北方の遊牧民と海上の「倭寇」)の攻撃も増えるわで,ガタガタ。
 明から辺境に派遣された軍人の中には,軍事費を横領して自立をはかろうとした者も出ていました。例えば遼東半島に派遣されていた軍人は,東北アジアとのテン(貂)の毛皮や薬用の人参(朝鮮人参)の取引で,利益を得るようになっていました。

 ちょうどその頃,シベリアの針葉樹林地帯や,黒竜江の北で狩猟されたテンや,白頭山周辺で栽培されるニンジンを,朝鮮半島まで送り届けていたのは女真(女直)人です。こうした特産物のルートを掌握した建州部の〈ヌルハチ〉(1559〜1626)は,急成長を遂げました。

 朝鮮人と女真(女直)人との関係は深く,朝鮮王朝の建国者〈李成桂〉は多くの女真(女直)人を従えていました。あらたにヌルハチが女真(女直)人を統一すると,李朝の王や支配層は関係をどうするか対応に迫られます。当時の王〈光海君〉は友好関係を築こうとしましたが,重臣たちは反対して明【本試験H27南宋ではない】と同盟して〈ヌルハチ〉を攻撃しました。

 しかし,1619年に明と朝鮮の連合軍はサルフの戦い【本試験H27リード文】で〈ヌルハチ〉に敗北し,朝鮮王朝は抵抗の後,降伏。後金と講和しました。その後,後金はさらに〈ホンタイジ〉【京都H22[2]】【追H21】のときに朝鮮王朝を攻撃し,1636年に服属しました。これ以降,朝鮮の宗主国は清となります【本試験H10 1870年代の宗主国が清か問う】。




・1500年~1650年のアジア  東アジア 現①日本
◆琉球王国とポルトガル人が間に入り,日本銀や工芸品が輸出され,大陸の商品が輸入された
東アジアの交易の活性化とヨーロッパ勢力の進出
 メキシコ銀【本試験H5時期(16世紀以降)】【追H18】がスペインのマニラ【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】【大阪H31論述指定語句】経由で明に流入すると,中国での銀の需要が高まりました。それにこたえたのが,石見銀山(いわみぎんざん)を中心とする日本銀です【本試験H21時代を問う】。1526年に戦国大名〈大内〉氏が開発をはじめ,1533年以降朝鮮から伝わった新技術の灰吹法(はいふきほう)によって,生産量が増加していきました。これは,不純物の混ざった鉱石から銀を吹き分ける技術で,1533年に博多【東京H27[1]指定語句】の豪商〈神屋寿禎〉(かみやじゅてい)が〈慶寿〉(けいじゅ)と〈宗丹〉(そうたん)という技術者を朝鮮半島から招いて導入したものです(出典:島根県HP http://ginzan.city.ohda.lg.jp/wh/jp/technology/haifuki.html)。

 日本はこの銀を,中国(生糸【本試験H7時期(明代の江南か)】,絹織物【本試験H7時期(明代の江南か)】,陶磁器)や朝鮮(木綿)とたくさん交換したかったわけですが,残念ながら当時の明は海禁政策をとっており,勘合貿易も室町幕府の衰退により1549年にはおこなわれなくなっていました。
 そこに目をつけたポルトガルは日本との中継密貿易に参加して,莫大な利益をあげました。従来から東アジアに張り巡らされていた交易ネットワークに“便乗”(びんじょう)したといえましょう。
 実際,1543年(または1542年)に種子島(たねがしま)で銃砲を伝えたポルトガル人【本試験H4時期(15~16世紀にポルトガル人・スペイン人が東アジアに来航するようになったか問う)】【セA H30フランス人ではない】は,倭寇の指導者である〈王直〉(おうちょく,?~1560)のジャンク船に便乗して密貿易しようとしたところ,嵐にあって漂着しました。彼らはすでに前年の1542年にも種子島に来航していたこともわかっています【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】。
 1549年にイエズス会の〈ザビエル〉が,マラッカから〈アンジロー〉(弥次郎,薩摩の人,生没年不詳)の手引きで鹿児島に移動した手段もジャンク船でした。

 なお,明は後期倭寇の活発化を受け,1560年代に海禁をゆるめています。中国の福建省(漳州(しょうしゅう))からは,認可された船の外国への渡航が認められ,広東省でも朝貢以外の通商が認められました。ポルトガル人のマカオ【セ試行】【本試験H10泉州ではない】居住権が認められたのもこのときです。
 しかし、明は公式には華人の日本への渡航や日本人商人の中国渡航を認めなかったため、日本・中国の商人が取引をするには東南アジアに行き「出会い貿易」をする必要がありました。そういうわけでこの時代、東南アジアへの日本商人の進出が加速し、各地に日本人街が建設されていったのです(日本町(にほんまち))。

 日本の大名の中には〈大友宗麟〉〈大村純忠〉のようにキリスト教徒に改宗した者もいれば,純粋に貿易に従事しようとした大名もいました。しかし基本的にスペインやポルトガルの人々にとって,キリスト教徒の布教は必要条件であり,その先には植民地化という意図がありました(注)。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.134。




織豊政権から江戸幕府へ

 尾張地方(おわりちほう,現在の愛知県)の戦国大名であった〈織田信長〉は,天皇と室町幕府(足利将軍)の両方の権力を自らのものとすることで,「天下布武」のスローガンを掲げつつ,日本全土にわたる公権力を獲得しようとしました。彼は天台宗山門派(延暦寺),浄土真宗(一向宗(いっこうしゅう))の一向一揆による抵抗を徹底的に倒し,世俗権力が宗教権力よりも上にあるのだということを示しました。浄土真宗は,武家や農民もとりこみ,“宗教国家”を建設しようとしていたとみられ,危険視されたのです。
 〈信長〉は,太政大臣にも関白にも就任することなく,1582年に本能寺の変で亡くなりました。


 〈信長〉の跡を継いだのは〈豊臣秀吉〉です。朝廷や中国・四国・九州支配のために,大阪城を造営し,農業・商工業の生産力を確保しました。天下を平定した秀吉は,1585年に関白に藤原姓をもらって就任し,1586年に太政大臣に就任し豊臣姓を始めました。姓を自分でつくってしまうというのは,天下人の証です。彼は聚楽第という豪華な宮殿を京都に造営し,1588年後陽成天皇を招いて儀式を執り行い,自分が官職の序列のトップにいることを,公家と大名に示したのです。彼は,関白と太政大臣という地位により,検地や刀狩り,海賊停止令などのさまざまな政策が行われました。1590年には惣無事令を発し,従わなかった関東の後北条氏は小田原で討伐され,従った〈伊達政宗〉は服属して奥州は平定されました。これで全国統一の完成です。
 また、1587年には長崎をイエズス会から取り上げ直轄化し、宣教師追放令を発布しました。キリスト教布教がこれ以上進むことが、日本の政権に対するまぎれもない脅威であるととらえたのです。

 しかし〈秀吉〉【追H24「豊臣秀吉」】は,明の征服を夢見て,朝鮮への軍事的進出【本試験H29琉球ではない】を2度実行し,失敗に終わりました。
 それぞれ韓国では壬辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉倭乱【追H19,H24二度の侵略を受けたか問う,H30】【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】,日本では文禄の役・慶長の役といいます。
 〈秀吉〉はゆくゆくは明の征服をも企んでいましたが,朝鮮は〈李舜臣〉(1545~98) 【セ試行 李成桂ではない】【本試験H22李成桂ではない】【追H18】による亀甲船(きっこうせん,甲板を覆った軍艦) 【本試験H22三段櫂船ではない】の水軍や明の援軍【追H30】【本試験H7】もあり,秀吉が死ぬと撤退しました【京都H21[2]説明(中国側が援軍を出したことを説明)】。

 1598年に〈秀吉〉は,息子〈秀頼〉(6歳)に従うよう遺書を残し,あとを五大老・五奉行に託して亡くなりました。結局,五奉行の一人〈石田三成〉(1560~1600)は五大老の一人〈毛利輝元〉(1553~1625)と組み,西国大名とともに西軍を組みました。それに対し東軍を率いて勝利したのが〈徳川家康〉です。1600年に起きた“天下分け目の戦い”関ヶ原(せきがはら)の戦いです。

 1603年に〈徳川家康〉は,征夷大将軍の宣旨(せんじ)を受けました。しかし,〈秀吉〉のように関白には就任しませんでした。関白には〈秀頼〉も就任しており,それとは違う土俵で,あくまで「武家の棟梁」として,天下を支配することにこだわったのです。1615年には「武家(ぶけ)諸法度(しょはっと)」と「禁中並公家諸法度」が制定されています。
 1614~1615年にかけて大坂の陣がおこなわれ,依然として勢力を保っていた〈豊臣〉家の宗家(そうけ)である〈豊臣秀頼〉(1593~1615)が滅ぼされると,いよいよ〈徳川〉一強の体制が完成しました。

 〈家康〉は1615年に亡くなると,〈徳川秀忠〉(在職1605~23)に継がれます。〈家康〉の頃から,スペイン船やポルトガル船は相変わらず盛んに来航していました。

 また、明が正式に商人による日本との貿易を認めていなかったことから、日本人が東南アジアに進出して華人と「出会い貿易」をする事例が増えていましたが,〈家康〉はこれに朱印状を与えて許可することで、貿易を管理しながら商品の安定的な輸入を確保しようとしました(朱印船貿易) 【本試験H25宋代ではない】【セA H30】(注)。東南アジアとの貿易が中心となったのには,〈秀吉〉の朝鮮進出により朝鮮半島が大陸の窓口ではなくなっていたことも関係しています。

 しかし1616年以降,幕府が貿易を独占しキリスト教を制限・禁止する措置が,段階的に取られていきました。キリスト教の布教が、ポルトガルやスペインによる領土獲得と同時に行われていることへの懸念が高まったからです。
 このころキリシタン大名であった〈高山右近〉(たかやまうこん、1552~1615)【追H29リード文】は江戸幕府に抵抗してキリスト教の信仰を守ったため,1614年に国外に追放してマニラに移住し,翌年亡くなっています(フィリピンのマニラに現存する高山右近像。没後400年にあたる2015年にはローマ教皇庁により聖人に次ぐ「福者」にする手続きが開始され,その後承認されています【追H29リード文】)。

 1635年には,日本人の海外渡航・帰国が全面禁止となり,いわゆる「鎖国」の体制が始まりました。間一髪で帰国に間に合った平戸藩士の〈森本一房〉(もりもとかずふさ,生没年不詳)【本試験H19リード文】は,父の供養のためカンボジアのアンコール=ワットに渡り,壁面に「寛永九年正月初めてここに来る」という落書きを残しています。彼はアンコール=ワットを,〈ブッダ〉が修行した場所と勘違いしていたようです。
 貿易が制限されたといっても,まったく貿易が行われなくなったわけではありません。


 1637年に島原の乱が勃発すると,キリスト教に対する政策も強め,宗門改(しゅうもんあらため)を実施し,全国の住民を寺院の檀家(だんか)として登録させました。これ以降,日本の仏教寺院は幕府の保護の下,冠婚葬祭をとりおこなう,いわゆる“葬式仏教”となっていきます(#映画 「沈黙-サイレンス-」2016,日本・アメリカ)(#小説 遠藤周作『沈黙』が原案)。
 なお,キリスト教の布教に熱心ではない新教国オランダと清は,長崎【東京H22[1]指定語句】の出島において貿易が認められていました。幕府は,オランダを国外情勢を得るための窓口としても利用します。

 蝦夷のアイヌ人との交易には,松前氏に独占交易権を与えました。アイヌ人たちは,河川ごとに集団を形成して漁労を行い,獣皮・海産物を取引し,中国大陸のアムール川(黒竜江)流域の民族や,千島列島・樺太島のアイヌとも交易を行っていました。

 朝鮮との交易には,対馬藩主の宗氏を通して貿易と外交を行わせました。

(注)朱印状は日本に拠点があるさまざまな身分の者に与えられ、華人やヨーロッパ人にも発給されました。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.139。




・1500年~1650年のアジア  東アジア 現①日本の南西諸島
琉球は東南アジアとの交易で栄えるが,薩摩藩の支配下に
 琉球王国では, 1470年に,那覇を中心に交易で力をつけた〈尚円〉(しょうえん,位1470~76)がクーデタを起こして即位し,第二尚氏王統が始まっていました。

 息子の〈尚真〉(しょうしん,位1477~1526)は首里を中心とする体制を整備し,各地の有力者である按司(あじ)を首里に住まわせ,代わりに各地に官僚を派遣して支配を強化します。
 按司は領地からの徴税権を認められたので,しだいに琉球王国における貴族層となっていきました。
 
 こうした中央集権化には抵抗も起きます。
 しかし1500年には八重山のオヤケアカハチの戦いを鎮圧し,琉球王国は奄美大島から八重山諸島にいたる最大領土を獲得,各地を行政区分の下に支配しました。

 首里の王家の墳墓であるタマウドゥン(世界文化遺産,玉陵)はこの頃つくられています。16世紀前半には,琉球の歌謡が『おもろさうし』にまとめられはじめました。
 また,仏教や道教が琉球の御嶽(うたき)信仰と合わさって信仰されています。

 琉球王国は東南アジア諸国ともさかんに交易をしていました。ポルトガルの〈トメ=ピレス〉は16世紀前半の『東方諸国記』で琉球を「レキオ」と表現しています。

 しかし,後期倭寇が最盛期を迎えたことから16世紀半ばに中国が海禁策をゆるめると,ポルトガル・スペイン・日本船が琉球を中継貿易の基地として使うようになり,琉球船の活動はしだいに衰えていきました。 

 そんな中,1588年に〈豊臣秀吉〉が九州を平定し,琉球にも服属を求めました。薩摩藩の〈島津〉氏は,〈豊臣秀吉〉の命令を利用して琉球王国の交易支配を強めようとして,朝鮮進出の際に琉球王国に対して米などの軍役の負担を求めました。拒む琉球王国に対し薩摩藩は奄美大島の割譲を迫り圧力をかけ,結果的に琉球王国は軍役(米と負担金)を一部薩摩藩に納めました。しかし,残りの軍役は薩摩藩から借り入れる形となり,薩摩藩に経済的に従属することになりました。

 日本の政権が1603年に〈徳川家康〉に交替すると,琉球王国を明との交易交渉に利用しようと圧力をかけましたが,琉球王国は拒否。それに対して,〈島津家久〉【本試験H10〈大友〉氏ではない】【本試験H24「島津氏」】【追H21「島津氏」】は,徳川幕府に対する忠誠をアピールし藩の財政を立て直すために,1609年【本試験H10時期(17世紀初めか問う)】に銃砲を使用して奄美諸島を進出し,沖縄本島の首里を占領し武装解除し,国王〈尚寧〉を〈徳川家康〉に謁見させるため日本に連行しました。こうして,琉球王国は薩摩藩の服属下に置かれることになったのです。

 琉球王は明とも冊封を受けていましたが【本試験H24明への朝貢は断絶していない】【追H21「中国」への朝貢を断絶したわけではない】,朝貢の回数は2年1貢から10年1貢に減らされ,琉球王国は打撃を受けました。朝貢の資金は薩摩藩から借り入れるようにもなり,経済的な従属が強まっていきました。たとえ赤字でも,明の中では朝鮮に次ぐナンバー2の地位を持つ王国である以上,朝貢貿易を続けること自体に意味がありましたし,福州では役人の個人的な取引も許されていました。
 琉球王国からは徳川幕府の代替わりには慶賀使(けいがし),琉球王国の国王の即位のときには謝恩使(しゃおんし)が江戸まで送られました。江戸幕府にとっては明との関係を維持している琉球王国からの大陸の“最新情報”はきわめて貴重なものだったのです。

 日本との交易も続けられましたが,そのうちの一つが日本海の海運である北前船(きたまえぶね)によって運ばれた北方の昆布です。南北を結ぶこの交易路は“コンブロード”とも呼ばれます。また,薩摩藩の支配に苦しんだ琉球には,17世紀初めに新大陸原産のサツマイモが伝わり,盛んに栽培されるようになりました。琉球からはウコンや砂糖が輸出されました。

 16世紀後半には,女真(女直)(女真(女直))人の商業集団の指導者〈ヌルハチ〉(1559~1626)が,東北地方の女真(女直)人の諸族を統一し,1616年に後金(ごきん)という国号を使い,明から独立を宣言しました。彼らは1644年に明を滅ぼし,代わって清が中国本土を支配しました。明の残党は南部に南明政権を建てて抵抗しましたが,やがて清に服属します。
 琉球王国は明から清への交替(明清(みんしん)交替(こうたい))に際し,どちらの王朝に対しても文書書き換え等で対応できるように細心の注意を払いました。南明政権(福王政権(1644~45),唐王(1645~46),魯王(1646~54),桂王(1647~61))が清に滅ぼされていくと,17世紀中頃に明から授かった印綬(いんじゅ)を清に返還し,清の冊封を受けるに至りました。




・1500年~1650年のアジア  東アジア 現②台湾
 台湾にはマレーポリネシア系の諸民族が居住しています。

 一方,1624年にネーデルラント連邦共和国(オランダ。事実上,ハプスブルク家スペインから独立していました)の東インド会社【追H27ポルトガルではない】【セ試行 】は,台湾南部にゼーランディア城(安平古堡;あんぴんこほう)という要塞を建設し,中継貿易に従事しています。




・1500年~1650年のアジア  東アジア 現③中国

 明(1368~1644)の末期になると,地方社会では科挙合格者を出した名門出身者である郷紳(きょうしん)を中心として人々の結びつきが強まっていきました。郷紳は,皇帝支配と民衆の間に立ち,地域の経済発展を推進したり水利の維持・管理や慈善活動を指導するなどし,ときに皇帝支配に対する抵抗運動の主体ともなりました。明末期には長江下流域における集約型の手工業が発展して商品生産も拡大し,ヒト・モノ・カネの移動が活発化して紛争も増えていました。そのような社会の変化に対応するように,この時期からは郷紳が中心となり,父系の親族による組織である宗族(そうぞく)が復活するようにもなっていきました(注)。
(注)井上徹『中国の宗族と国家の礼制―宗法主義の視点からの分析―』研文出版,2000。

 海上交易がますます活発化する中,明は交易をコントロール下に置くことができなくなっていき,東アジアや東南アジアの海の世界(海域)の競合関係が強まっていきました。

 この時期は,ポルトガル王国【本試験H2】の大砲を積んだ船団が,インド洋を渡って東南アジアに進出してきた頃です。彼らはゴア【H24ポトシではない,本試験H27地図上の位置、H29イギリスの根拠地ではない】【追H24イタリアの16・17世紀の海外拠点ではない】【名古屋H31記述(1500年後のヨーロッパ人とインドの関わり)】やマラッカ【本試験H2アルブケルケによる占領か問う】【追H24ポルトガル人が占領したことを問う】といった港の重要拠点を占領しましたが,広い範囲にわたる支配ではありませんでした。ポルトガルは,中国人や日本人の密貿易に加わって,日本銀と中国の生糸を取引する倭寇と呼ばれる集団が活発化しました。一般に,14世紀の倭寇は前期倭寇,16世紀の倭寇は後期倭寇と区別します。

 この頃には,ポルトガルの進出により滅んだマラッカに代わって,スマトラ島ではアチェ王国が,ジャワ島ではマタラム王国が勢力を増しました。どちらもイスラームの国家です。
 また,大陸では,タイのアユタヤ朝(1351~1767) 【本試験H11:14~18世紀にかけて栄えたか問う。地域はフィリピンではない】,ビルマのタウングー(トゥングー)朝(1531~1752) 【本試験H4タイではない】【本試験H16時期,本試験H22ヴェトナムではない】【追H18】【慶文H30記】といった上座仏教の国家が,海上交易の利益を吸い上げ,火薬を使用した銃火器を使用して軍事力を高めて栄えました。

 16世紀のモンゴル高原では,〈アルタン=ハーン〉(1507~82) 【本試験H13エセン=ハンとのひっかけ,本試験H14ジュンガルではない】【追H21】の率いたモンゴル(タタール) 【追H21】がオイラト諸部を倒して強大化します。彼は,チベット仏教の普及にも熱心でした。中国の物産を取引しようとして明代に修築された万里の長城【本試験H9】を超えて進出を繰り返し,海上の後期倭寇と並んで「北虜南倭」と呼ばれ恐れられました。

 陸と海のダブルパンチをくらった明は,北方の陸上ではモンゴルとの交易場を設置し,南方の海上では海禁をゆるめました。
 1567年には漳州からの中国人の海外渡航をゆるし,東南アジアへの中国人の進出がはじまります。彼らは南洋華僑【本試験H7元代に盛んであったのではない】【セ試行 華僑の多くは山西省・安徽省の出身者ではない】【本試験H26】【追H30元代ではない(※)】と呼ばれるようになり,現在でも東南アジアに分布する多数の中国系住民のルーツとなります。出稼ぎや仮住まいの中国人という意味で「華僑」と呼ばれることがありましたが,現在では現地の国籍を取った者は「華人」と呼ばれることが増えています。
(※)H30選択肢「元代には,禁令をおかして,東南アジアに移住する者が増えた」。本試験H7は「元代は,東南アジアへの移住が史上最も盛んな時代であった」という選択肢(誤り)。

 いちど自由化された貿易を,明が再び管理下におくことはなかなか難しく,明に朝貢しているしていないにかかわらず,銃火器と交易による富を武器に強大化したいくつもの勢力が地域の覇権を得るために,ぶつかりあう時代になっていきます。
 中国東北部では女真(女直)(女直。のち満洲)が,薬用の人参や毛皮の交易によって強大化し,その利権をめぐって女真(女直)族内で抗争があり,勝ち上がった〈ヌルハチ〉(位1616~26)が部族を統一。1616年にアイシン(満洲語で「金」)という国を建てました。金は,12~13世紀にやはり女真(女直)人が建国した国家名なので,区別して「後金」といいます。〈ヌルハチ〉は,血縁や地縁にもとづいて軍隊の組織をつくり有力者を長に就けてバランスを保ち,平時にはそれをそのまま行政の単位としました(八旗【本試験H22順治帝による制度ではない】【本試験H27】)。また,漢字をもとにして満洲文字【本試験H8遼・西夏・渤海ではない,本試験H11康熙帝が「満洲族の伝統文化が失われるのを防ぐ目的で」定めたわけではない】【追H19】をつくらせました。
 なお,満洲というのは文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の「文殊」に由来します。女真人はチベット仏教を信仰していて,なかでも文殊菩薩への信仰が篤(あつ)かったのです。

 次の〈ホンタイジ〉(位1626~43) 【京都H22[2]】【追H21】は,モンゴルのうち当時混乱していたチャハル部を支配下にいれました【本試験H11時期(清朝前半期について「北京入城以前から,既に内モンゴルのチャハル部や李氏朝鮮(ママ)を服属させていた」か問う】【本試験H31チンギス=ハンが従わせたのではない】【追H21】。当時チャハル部の〈ハーン〉であった〈エジェイ〉は,元の帝室が代々受け継いできた玉璽(ぎょくじ。皇帝のハンコ)を,〈ホンタイジ〉に譲り,ここに元朝は滅びます。女真(女直)は草原の遊牧民をまとめあげる正統性を獲得し,1636年には満洲人・モンゴル人・漢人の支持を受け「皇帝」を称して,国号を清(1636~1912)に変えました。漢人の称号である「皇帝」を称したことで,八旗の諸王(旗王)に任命されていた満洲人の有力者よりも立場が上であるということも示すことができました。

 女真(女直)が草原の遊牧民をも従える大勢力に発展した事態を受け,明は軍事的に対処しようとしますが,ただでさえ財政が窮乏している状態です。各地で重税や飢饉に対する反乱がおきると,〈李(り)自成(じせい)〉(1606~45) 【京都H21[2]】【本試験H18呉三桂とのひっかけ(三藩の乱は起こしていない)】【本試験H8呉三桂のひっかけ【追H25鄭成功とのひっかけ】【法政法H28記】を指導者とする一団が1644年に北京に入城し最後の皇帝が自決,明は滅びました(李自成の乱)【本試験H22】【早・法H31】。〈李自成〉は「田を均しくし,三年間の租税を免除する」と約束して民衆の支持を得ました【慶文H30記】。
 
 〈李自成〉を鎮圧する名目で,たった6歳で即位した〈順治(じゅんち)帝(てい)〉【京都H22[2]】【本試験H17理藩院・新疆は無関係】は1644年に北京を占領し,それにとどまらず翌年中国全土を支配下に入れます。若い〈順治帝〉を補佐したのは〈ホンタイジ〉の后(孝荘文皇后(1613~1688))と,摂政の〈睿親王ドルゴン〉(ヌルハチの子,1612~1650)でした。

 〈順治帝〉を万里の長城の東の端っこである山海関(さんかいかん)から引き入れたのは,明の武将である〈呉三桂(ごさんけい)〉(1612~78) 【本試験H8李自成ではない,H11明朝の将軍であった呉三桂などの漢人も強力したか問う】でした。山海関から清の〈順治帝〉が華北に入ったことを「入関」といいます。〈呉三桂〉をはじめ清に協力した明の武将3名は,ほうびとして中国南部の雲南・広東・福建が与えられました。
 明に仕えていた儒学者〈黄宗羲〉(こうそうぎ) 【追H26張居正ではない】は,『明夷待訪録』の中で君主専制を批判し,最後まで清に抵抗しました。その思想には民主主義的な特徴もあり,”東洋のルソー”と称されています。

 清は,明代の漢人による軍隊を緑営として温存させるなど,明の制度を大体において引き継ぎましたが,軍の実権は漢人には与えませんでした。緑営とは別に,満洲人・モンゴル人・漢人の八旗【本試験H30緑営ではない】という軍隊を組織しています。ちなみに緑営というのは,八旗の旗の色と区別して「緑」の旗をかかげたことから来ています。なお北京を中心として漢人の農地を強制的に接収し,八旗の軍人に対して生計維持のために与えました。これを圏地(けんち)といいます。



◆清は“アメ”と“ムチ”を使い分けて,多数派の漢人を支配した
 清には,遊牧民の世界(モンゴル人を中心とする世界)と定住農牧民(漢人を中心とする世界)の世界の2つをまたぐ秩序を形成しようとする意識がありました。
 中国の王朝だからといって,漢人のみを支配した皇帝というわけではなく,遊牧民の大ハーンとしての意識もあるわけです。
 ですから,漢人に対して中華王朝の伝統を守る “アメ”(寛容な部分)を持ち合わせる一方,100%漢人寄りの政策をとるのではなく, “ムチ”(抑圧的な部分)も使い分ける方針をとりました【大阪H30論述】。

 官僚の任用試験である科挙は継続し,地方行政は漢人にも担当させています。一方,中央の高官は満洲人で固められました。儒学が批判的な意見を発展させないように,文書の獄(もんじょのごく) 【共通一次 平1:内容も問う】によって反体制的な発言を厳しく処罰し,禁書(きんしょ)を定めました。
 また,『康煕字典』(こうきじてん)【追H21清代か問う、H28漢代ではない】,『古今図書集成』(ここんとしょしゅうせい)【共通一次 平1】,『四庫全書』(しこぜんしょ) 【本試験H6洋務運動の象徴ではない・世界各国の古典の紹介ではない,本試験H9[21],本試験H11:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う。明代ではない。イエズス会によるヨーロッパ学術の紹介ではない】【本試験H15永楽帝が編纂させたわけではない,H31時期(明代ではない)】【追H21明代ではない】といった大編纂事業を国家プロジェクトとして運営し,携わった学者を優遇しました。あらゆる情報を収集することで,満洲人に都合の悪い情報をつかんでシャットアウトするという目的もありました。
 明清が交替する時期を目の当たりにした,〈顧炎武〉(こえんぶ,1613~83) 【本試験H22女史箴図は書いてない(顧愷之ではない),本試験H25時期,H31陽明学者ではない】・〈黄宗羲〉(こうそうぎ,1610~95)は,歴史や事実を客観的に見つめ,社会問題を解決しようとした儒学者です。清代中頃には〈銭大昕〉(せんたいきん,1728~1804) 【本試験H13満洲文字を考案したわけではない】に受け継がれ考証学【本試験H6洋務運動とは無関係】【本試験H25】として発展しました。

 皇帝も儒学の素養を身につけるため,中国伝統の学問に励む姿勢をみせました。しかし一方で,満洲人の風習である辮髪【本試験H5,本試験H8長髪ではない】(べんぱつ,施行したのは〈順治帝〉の摂政〈ドルゴン〉) 【共通一次 平1】を強制したり,夏場は北京から遠く離れた北方で狩りをして過ごしたりするなど,遊牧民の長としての立場も維持します【本試験H15風俗を漢民族風に改める政策を推進しているとはいえない】。


・1500年~1650年のアジア  東アジア 現④モンゴル
〈アルタン=ハーン〉がモンゴルを統一する
 16世紀のモンゴル高原では,当時バラバラになっていたモンゴルのうちの一部族,トゥメトブ部出身〈アルタン=ハーン〉(1507~82) 【本試験H13エセン=ハンとのひっかけ,本試験H14ジュンガルではない】【追H21】が,オイラト諸部を倒して強大化していきます。
 中国の物産を取引しようとして明代に修築された万里の長城【本試験H9】を超えて進出を繰り返すだけでなく,中国で支配に楯突いていた人々を多数受け入れるため1565年にはフフホトなどの定住都市も建設しています。
 1571年に明は〈アルタン=ハーン〉と講和して「順義王」という称号を与え,国境沿いで貿易を許可すると,フフホトは「帰化城」名付けられ,中国とモンゴル高原との貿易で栄えました。
 〈アルタン=ハーン〉は,チベットの〈ダライ=ラマ3世〉(1543~1588)の政権(ガンデンポタン)を保護したので,フフホトにはチベット仏教寺院が多数建立されました。

 モンゴルの強大化は,海上の後期倭寇と並んで明によって「北虜南倭」と呼ばれ恐れられました。

 その後,中国東北部では女真(女直)(女直。のち満洲)が,薬用の人参や毛皮の交易によって強大化し,その利権をめぐって女真(女直)族内で抗争があり,勝ち上がった〈ヌルハチ〉(位1616~26)が部族を統一。1616年にアイシン(満洲語で「金」)という国を建てました。金は,12~13世紀にやはり女真(女直)人が建国した国家名なので,区別して「後金」といいます。〈ヌルハチ〉は,血縁や地縁にもとづいて軍隊の組織をつくり有力者を長に就けてバランスを保ち,平時にはそれをそのまま行政の単位としました(八旗【本試験H22順治帝による制度ではない】【本試験H27】)。また,漢字をもとにして満洲文字【本試験H8遼・西夏・渤海ではない,本試験H11康熙帝が「満洲族の伝統文化が失われるのを防ぐ目的で」定めたわけではない】をつくらせました。
 なお,満洲というのは文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の「文殊」に由来します。女真人はチベット仏教を信仰していて,なかでも文殊菩薩への信仰が篤(あつ)かったのです。

 次の〈ホンタイジ〉(位1626~43) 【京都H22[2]】【追H21】は,モンゴルのうち,当時政治的に混乱していたチャハル部を支配下にいれました【本試験H11時期(清朝前半期について「北京入城以前から,既に内モンゴルのチャハル部や李氏朝鮮(ママ)を服属させていた」か問う】【追H21】。
 チャハル部の〈ハーン〉であった〈エジェイ〉は,元の帝室が代々受け継いできた玉璽(ぎょくじ。皇帝のハンコ)を,〈ホンタイジ〉に譲り,ここに元朝は滅びます。女真(女直)は草原の遊牧民をまとめあげる正統性を獲得し,1636年には満洲人・モンゴル人・漢人の支持を受け「皇帝」を称して,国号を清(1636~1912)に変えました。漢人の称号である「皇帝」を称したことで,八旗の諸王(旗王)に任命されていた満洲人の有力者よりも立場が上であるということも示すことができました。

 こうして,女真(女直)が草原の遊牧民をも従える大勢力に発展し,1644年には北京に入城し,中国本土も支配下に入れました。


・1500年~1650年のアジア  東アジア 現⑤大韓民国,⑥朝鮮民主主義人民共和国
 この時期の朝鮮半島を支配していたのは朝鮮王朝です。

 この時代,中国が貿易に制限をかけていたことから,日本と朝鮮との間には,さまざまな出身地を持つ民間貿易グループがひしめいていました。
 朝鮮の港には,多くの日本人が貿易に参加するために住み,貿易・接待のために倭館が建てられていましたが,密貿易を行うものもいたため,朝鮮の〈中宗〉(ちゅうそう)は居留する日本人へのコントロールを強化。このため,彼らは朝鮮との貿易を独占的に管理していた対馬の宗氏(そうし)の協力を得て,1510年に朝鮮の三浦(さんぽ)で反乱を起こし,朝鮮の役人を殺害しました(三浦の乱)。【追H29リード文】
 日朝関係は一時中断しましたが,1512年に再開されます。ただし,貿易が認められたのは乃而浦(ないじほ)だけに限られ,こうした形(恒居倭(こうきょわ))による貿易は廃れていくこととなりました。【追H29リード文】


 そんな中,東アジアにもヨーロッパの勢力が及ぶようになると,16世紀末に日本の〈豊臣秀吉〉は明の征服を夢見て,朝鮮への軍事的進出【本試験H29琉球ではない】を2度実行しました。
 それぞれ,韓国では壬辰倭乱(イムジンウェラン)・丁酉倭乱,日本では文禄の役・慶長の役といいます。明の征服をも企みましたが,朝鮮は〈李舜臣〉(1545~98) 【本試験H22李成桂ではない】による亀甲船(きっこうせん,甲板を覆った軍艦) 【本試験H22三段櫂船ではない】の水軍や明の援軍もあり,秀吉が死ぬと撤退しました。
 このときに〈鍋島直茂〉(1538~1618)によって連れてこられた〈李参平〉(?~1655)が日本に白磁の製法を伝え,これが伊万里焼(いまりやき)(有田焼(ありたやき))の基となりました。
 
 その後,1603年に成立した日本の江戸幕府は,対馬藩主の宗氏を通して朝鮮との貿易と外交関係を持ちました。

 しかし,1637年に朝鮮王朝は女真〔女直〕人の建国した清に服属することになります。
 朝鮮人の支配層は,女真(女直)人のことを自分たちと同じくらいか,それ以下と見ていましたから,その女真(女直)人が中国の皇帝となって自分たちを支配するに至って,さまざまな複雑な意識を生み出しました。「現在,漢人ではない民族が皇帝になってしまった。自分たちのほうが儒教の”正しい”伝統を持っているのだから,自分たちのほうがふさわしい。自分たちのほうが”中華”なのだ」という,「小中華」の考えが生まれていきました。
 その後17〜18世紀にも,激しい両班の党争は続きました。科挙に受かっても,高官は高い家柄に固定されるようになったこともあり,両班たちはさかんに議論を交わし合うことで,政治を動かそうとしたのです。
 地方でも,新たな勢力が,自分たちも両班の証である「郷案」のリストに載せてもらおうと,争いが起きるようになっています。





○1500年~1650年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

交易ブームと“華人の世紀”
 15世紀~17世紀の東南アジアは,東西の交易ネットワークに香辛料【セ試行 砂糖ではない】などの商品を積み出し,空前の“交易ブーム”を迎えます。
 また、中国から東南アジアへの人口移動が起き、現地の支配者と結びついて華人系の政権が樹立されるようにもなる。17世紀は、東南アジアの歴史の中で「華人の歴史」と呼ばれます(注)。

(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.150。


・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム
 ヴェトナムの黎朝【追H21陳朝とのひっかけ,元を撃退していない】では,16世紀初めに,異なる地域を本拠地とする官僚(初代〈黎利〉の出身地のタインホア)や軍人(紅河下流域)の間の対立が深まり,1527年には紅河下流域の〈莫登庸(マクダンズン)〉が皇帝を自殺に追い込み,自身が王朝(莫朝)を樹立しました。これ以降ヴェトナムでは,内乱が続きます。

(あ) 1592年に莫氏が,鄭氏によってハノイから追い出されると,莫氏は明を後ろ盾にして最北部には莫氏の王国を建てました。
(い) さらに,紅河デルタには鄭氏が大越国を1593年に樹立しました。トンキン(東京)と呼ばれます。
(う) さらに,中南部には鄭氏につかえていた軍人の阮コウ(さんずいに黄の旧字体)がフエで自立し,阮氏の広南国が建てられ,鄭氏と北緯17度付近で対立を続けました。こちらはアンナン(安南)とも呼ばれます

 こうしてヴェトナムは北から(あ)莫氏・(い)鄭氏・(う)阮氏に3つに分裂。
 その頃,南部ではチャム人の王国(チャンパー) 【東京H30[3]】がまだなんとか残っており,交易に従事していました。江戸時代初期には豪商の〈角倉了以(すみのくらりょうい)〉(1554~1614)がヴェトナムに朱印船を派遣し,巨利をあげています。

・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
 スペイン【セ試行】の〈レガスピ〉(1505?~72)がフィリピンを武力占領し,マニラ市【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】【大阪H31論述指定語句】を建設(1571)。ガレオン船による太平洋横断航路だけでなく,中国との交易【セ試行】の拠点となりました。

 1529年のサラゴサ条約【上智法(法律)他H30「海外領土分割条約」】で,スペインはポルトガルに香辛料の産地マルク(モルッカ)諸島を譲っていましたから,マニラはアジアの産物を運び出す上で重要な基地となったのです。ガレオン貿易は,この後1815年まで続き,〈ドレイク〉(1545?~96)をはじめとするイギリスの海賊たちの格好の標的となりました。
 中国からはジャンク船が多数来航し,メキシコから運ばれた大量の銀が,東南アジア・東アジアに流れ込みました。1500年頃の大型ジャンク船には,1000トン!もの積荷を載せることができたといわれています (同時代のインド洋【セA H30】で活躍していた三角帆の縫合船のダウ船【東京H15[3],H27[1]指定語句】【本試験H19,H22三段櫂船ではない】【セA H30】は400トン)。
 16世紀半ばから鉱山開発の進んだ日本からも銀は流入し,フィリピンのマニラ,ヴェトナムのホイアン,カンボジア,タイのアユタヤには日本町【セA H30メキシコではない】という日本人の居住地も建設され,日本人の海外渡航が禁止される1636年まで栄えました【H29共通テスト試行 地図資料と議論(17世紀初頭には日本から東南アジアに移民が移動していることの読み取り)】。安土桃山時代の豪商〈呂(る)宋(そん)助左(すけざ)衛門(えもん)〉はルソンを拠点に活動して巨万の富を得ましたが,〈豊臣秀吉〉に警戒され1598年に国外追放処分を受けています。
 江戸時代に入ってからもキリシタン大名(摂津国高槻城主)の〈高山右近〉(たかやまうこん;教名はジュスト,1552~1614)が1614年にマニラに追放され,1615年に亡くなっています(1563年に受洗,1587年に〈秀吉〉のキリシタン禁令に背き領地没収。1614年に〈徳川家康〉の禁教令で追放)。【追H29リード文】

 ポルトガルは1580年にスペインに併合され【本試験H6時期】,16世紀終わりから17世紀前半にかけてポルトガル船もマニラに来航しました。
 16世紀頃には,イスラーム教は,フィリピン南部のミンダナオ島やスールー諸島,ボルネオ島やセレベス島にまでも拡大しています。




・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア

◆東南アジアはイスラーム教徒だけにとどまらず、多様な出自を持つ人々の交易の場となった
東南アジアは世界の中心 多様性の海だった

 東南アジアが産出する香辛料には,胡椒(コショウ。産地はインド南西部【本試験H11】【名古屋H31インドの輸出品であることを問う(資料はA・G・フランクの『リオリエント』)】ですが東南アジアに広まりました。スマトラ島も主たる山地です),丁字(クローヴ。マルク諸島のテルナテ島,ティドーレ島,アンボン(アンボイナ)島等のみ),肉荳蒄(ニクズク。ナツメグ(注1)。肉荳蔲花(メイス)とともにマルク諸島のバンダ諸島でしかとれなかった(注2))があり,昔から中国向けに薬として用いられました。
 香辛料は今でいうところの「スパイス」という意味よりももっと広い意味で使われ、薬効が重視されていました。ヨーロッパでは14世紀以降,肉の味付けに使用されたことで需要が高まりました。
 ほかには以下のようなもの(注3)が取引されました。

・馬… アラビア半島やペルシアから。
・乳香… アラビア半島から。
・金や象牙… 東アフリカから。
・絹織物や絨毯(じゅうたん)… ペルシアから。
・綿織物… 北西インドのグジャラート地方、南東インドのコロマンデル海岸、北東インドのベンガル地方から(のちの産業革命の火付け役となります)。
・織物を染める藍… グジャラート地方。


(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.37。ショウガは南西インドのマラバール海岸とスマトラ島が主な山地です。
(注2) わたしは料理をしないので不得手ですが,「クックパッド」によるとナツメグを使ったレシピは2018年には20,000件以上存在。「独特の甘い香りを持つ,ナツメグ。ハンバーグ以外にも,お菓子の香りづけや,シチューなどにも大活躍!炒め物にパラリと入れるのもオススメ♪」と紹介されています。それに対し,クローヴは3383件,言わずもがなのコショウは73万件(!)以上です。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.38-39。




◆ポルトガル人の進出とイスラーム教を保護する政権の成立
東南アジアでは、多数の港町や王国が発展する


ムラカ王国

 そういった商品を運んでくる内陸や海上の人々と,外部から買い付けにやってくる商人を支配する,国際的な国家が各地で生まれました。スマトラ島北部のサムドゥラ=パサイ王国や,ムラカ(マラッカ)王国がその例で,いずれもイスラーム教を受け入れました【本試験H15東南アジアにおけるイスラーム化は,フィリピン諸島南部から始まったわけではない】。
 ムラカ(マラッカ)王国のムラユ語は,この地域の商業では欠かせない国際共通語として広まりました(現在の「マレーシア語」「インドネシア語」のもとになっている言語です)。

 港町では,中国や日本の貨幣も使われ,港にはシャー=バンダルという官僚がいます。シャー=バンダルの管理の下,その港を支配する王が買取る形で荷上げされた貨物は,各地から集まった商人によってさばかれます。港に注ぐ河川を上流に遡っていけば,香料や米などの特産品を売りに来る人々であふれるマーケットが各地に存在し,商人や王によって支配されました。



マジャパヒト王国

 一方,マジャパヒト王国(1292~1527?) 【東京H6[1]指定語句,H25[3]】 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H3時期(7世紀ではない),本試験H4タイではない,本試験H5今日のインドネシアの大部分やマレー半島に勢力を伸ばしたか問う,本試験H6ジャワ島を中心とするヒンドゥー教国だったか問う】【本試験H18義浄は訪れていない、本試験H22前漢の時代ではない】【追H19】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】【中央文H27記】【慶商A H30記】は,ムラカ(マラッカ)王国の台頭により衰えをみせ,1527年頃に侵攻のイスラーム勢力の攻撃により滅んだと言われています。王族はバリに避難。そのおかげで,現在に至るまでバリ島では豊かなヒンドゥー=ジャワ文化が残されています。



ポルトガルの進出と、ボルネオ島、マルク諸島、スマトラ島

 ポルトガル人は【本試験H22フランスではない】,1509年に初めてムラカ(マラッカ)を訪れ,1511年に〈アルブケルケ〉【本試験H2】が火器の威力により占領し,要塞を築きました(マラッカの占領【本試験H2】【追H24ポルトガル人によるものか問う】)。
 これに対し,ムラカの王族〈ジョホール〉は,マラッカ海峡の南端でジョホール王国(1530?~1718)をつくり,ポルトガルへの抵抗を続けます(注)。
 ジョホール王国はのちにオランダと組み,1641年にムラカ(マラッカ)からポルトガルを追放しています。これ以降,ムラカ(マラッカ)は,オランダ【本試験H2】の拠点となりました。

 ムラカを離れた人々の中には,ボルネオ島北部のブルネイ王国(15世紀後半~現在)に逃げる者もいました。ブルネイ王は16世紀初めにイスラームに改宗し,イスラーム布教の中心地として栄えました。1521年に〈マゼラン〉亡き後の艦隊が寄港し,「2万5000」の家屋が海上にあったと記されています。

 ポルトガルは1512年にはマルク(モルッカ)諸島に到達し,テルナテ島のスルターンとバンダ諸島の住民と,交易関係を結びました。この地の香辛料を,インド洋沿岸の拠点を結び,ヨーロッパに独占輸出しようとしたのです。しかし,ポルトガルがどんなにインド洋から喜望峰まわりで“香辛料の産地直送”をしようとしても,エジプトを抜ける紅海ルートを完全に規制することは不可能でした。16世紀前半には,オスマン帝国も紅海交易を積極的に推進しました。

 また,15世紀以降インド洋で活発に活動したインド北西部を拠点とする商人(グジャラート商人)は,スマトラ島北部から西部へ南下して,スンダ海峡を抜けるルートを使い,ポルトガルを避けました。
 これにより,スマトラ島北部のイスラーム国【本試験H22仏教国ではない】であるアチェ王国(15世紀末~1903) 【本試験H22】【上智法(法律)他H30】が新興勢力となり,マラッカ海峡ルートをとるムラカ(マラッカ)王国と対抗しました。
 アチェ王国は,ポルトガルのマラッカ占領に反発するイスラーム商人を受け入れつつ,少なくとも1534年までにはオスマン帝国との直接交易をおこない,オスマン帝国からコショウのお返しに兵士と火器(大砲)を得て,ポルトガルとも対抗しました。オスマン帝国は,紅海と地中海を結ぶ交易を発展させ,喜望峰まわりのポルトガルやムラカ(マラッカ)王国と対抗したのです。アチェには多くのイスラームのアラブ人ウラマーが訪れ,イスラームの中心地となりました。


 遅れて進出したスペイン王国の〈マゼラン〉の部下は,マルク(モルッカ)諸島のティドーレ島のスルターンと友好関係を築き,ポルトガルと友好的なテルナテと,香辛料取引をめぐり対立しました。アジアのスペイン・ポルトガルの支配圏を取り決めた1529年のサラゴサ条約で,マルク諸島の領有権はポルトガルがスペインから買い取ることになりました。しかし,他の島も,だんだんポルトガルの香辛料貿易の独占に反発するようになり,16世紀後半には,速くも独占は崩れます。

(注) ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都とするジョホール王国を建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。




ジャワ島の王国
マタラム王国がほぼ全土を統一する
 ジャワも,16世紀の間にはほぼ全土にイスラーム教の信仰が広がりました。
 ジャワ西部に1525年頃バンテン王国(16世紀前半~1813) 【共通一次 平1:時期(「イスラム政権が成立した」時期を問う)もので,「バンテン王国」の名称は聞かれていない】【上智法(法律)他H30】が建国され,コショウ生産地をおさえて繁栄します。オランダが1619年に交易拠点の建設,木材と米の確保のためにバタヴィア(現在のジャカルタ)を建設すると,中部ジャワのマタラム王国(16世紀末~1755)との対抗する必要から,当初は友好関係を結びました。
 マタラムおうこくは〈スルターン=アグン〉(位1613~46)のときにジャワ島のほぼ全土を征服し、最盛期となります。バンテン王国だけは征服できませんでしたが、内陸部での稲作による米輸出によっても栄えます(注1)。

 このようにイスラーム教徒の政権が拡大しますが、この海域がまるで“イスラームの海”となっていたというのは誤解です。ジャイナ教、ユダヤ教、キリスト教、アルメニア正教、グジャラート地方のヒンドゥー教(バニアと呼ばれていました)などさまざまなエスニック集団がひしめくなか、ポルトガル人もそのうちの1つに過ぎませんでしたし、イスラーム教徒といってもアデンのアラブ商人、ホルムズのイラン・アラブ商人、インドのマラバール海岸のマーッピラ商人(カンナノール郊外とポンナニ郊外)など出自に多様性がありました(注2)。キリスト教 vs イスラーム教のように“宗教の対立”が生まれたとみるのは誤った見方です。

(注1) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルターン・アグン」の項目、岩波書店、2002年、p.545。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.39。



シンガポール
 現在のシンガポールは、この時期にジョホール王国〔ジョホール=スルターン国〕の領土となりますが、未開の地でした(注)。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。




・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
 カンボジアは1434年にクメールを放棄。その後,15世紀後半には王家が3分裂しましたが,アユタヤ朝の介入により〈トゥモー〉(1471~1498)が国王となりました。
 この頃,安土桃山時代の豪商〈呂(る)宋(そん)助左(すけざ)衛門(えもん)〉は1598年に国外処分となった後,カンボジア国王に保護され活躍したといわれます。
 1635年には,日本人の海外渡航・帰国が全面禁止となり,「鎖国」【本試験H4中国が明の時代ではない】が完成しました。間一髪で帰国に間に合った平戸藩士の〈森本一房〉(もりもとかずふさ,生没年不詳)【本試験H19リード文】は,父の供養のためカンボジアのアンコール=ワットに渡り,壁面に「寛永九年正月初めてここに来る」という落書きを残しています。彼はアンコール=ワットを,〈ブッダ〉が修行した“祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)”と勘違いしていたようです。『地球の歩き方』もない時代,これだけ大規模な寺院ですから無理もないことです。


・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
 チャオプラヤー川流域のタイ人(シャム人)のアユタヤ朝【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H11:フィリピンではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】は,交易ブームの波に乗り,主に中国との関係を重視し,中継貿易で繁栄をきわめます。17世紀初頭には日本人傭兵も活躍し,1612年頃に〈山田長政〉が王の寵愛を受けました。彼はその後の王位継承争いの中で暗殺されました。




・1500年~1650年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー

1364~1555 アヴァ朝
 現在のミャンマーのエーヤワディー川上流部では,シャン人の王朝であるアヴァ朝が栄えていましたが,1555年に下流地域のタウングー朝の王〈バインナウン〉により滅ぼされています。


1287~1539 ペグー朝
1510~1752 タウングー朝
 現在のミャンマーでは,エーヤワディー川下流部を中心に,モン人を支配層とするペグー朝〔ハンターワディー朝〕が栄えていました。
 しかし,ビルマ人のタウングー朝の王〈タビンシュエティー〉により1539年に滅びます。

 16世紀初めにビルマ人がタウングー朝(1510~1752) 【本試験H4タイではない】 【本試験H13モンゴルにより滅ぼされてはいない(パガン朝ではない)】【追H20ジャワではない,16世紀の成立ではない】【慶文H30記】を開きました。
 一方,チャオプラヤー川流域のアユタヤ朝【本試験H11:フィリピンの国家ではない。14~18世紀にかけて栄えたわけではない】は,マレー半島の諸都市も支配下に起き,“商業王国”として栄えていましたが,急成長するタウングー朝の侵攻を受けるようになりました。

 国王〈タビンシュエーティー〉(位1531~51)は,銃砲を用いたポルトガル人傭兵やイスラーム教徒の兵を用いて,征服活動を行いました。
 国王〈バインナウン〉(位1551~81)は,1555年に北方のアヴァ朝を滅ぼし,1568年にアユタヤ北方にあるタイ人王国ラーンナー王国を攻め,1569年にアユタヤを占領し,一旦滅亡に追い込みました。しかし,アユタヤ朝は1584年に独立を回復しています。

 そして,〈バインナウン〉のときに,イラワジ川上流・下流地帯や周辺の山地がはじめて統一されることになりました。
 王都は南部のペグーに置かれ,外国船の積荷はすべてペグーで水揚げされる決まりでした。
 王は8人の外国人ブローカー(仲買人)を任命し,ムガル帝国やヨーロッパからも商人が訪れ,木材(チーク)や船の補給食料・飲料,宝石やジャコウなどが取引されました。



○1500年~1650年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
 西ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸への進出の結果,新大陸原産でビタミン豊富なトウガラシが南アジアの料理に重要な役割を果たすようになっていきます。

・1500年~1650年のアジア  南アジア 現①ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
 ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めています。
 15世紀後半から,指導者は世襲ではなく,「菩薩(ぼさつ)や如来(にょらい)の生まれ変わり」とされた人物によって受け継がれていく制度(化身(けしん)ラマ;転生ラマ)が採用されるようになります。
 しかし,16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン=ナムギャル〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。




・1500年~1650年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ

ベンガルにイスラーム王朝が栄えるが,ムガル帝国に併合される
 現在のバングラデシュは,イスラーム教徒が89.1%,ヒンドゥー教徒が10%という比率になっています(注)。
 歴史をさかのぼってみると,この地域にはゴール朝の進出以来イスラーム教の普及が始まっていました。ベンガル湾沿岸の交易の拠点としても重要な地点です。

 この時期には,ベンガル=スルターン朝(ベンガル王国,1342~1576)が栄えています。
 オリッサ地方(インド東岸,コルカタ(カルカッタ)の南方に位置する)にもヒンドゥー王朝(ガジャパティ朝(1434~1541))や,ビルマのベンガル湾岸のラカイン人の仏教国アラカン王国(1429~1785)との抗争もありました。

 しかし,1576年にムガル帝国に滅ぼされ,一地方となりました。

(注)2001年の統計,CIA,the World Factbook, https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/bg.html。


・1500年~1650年のアジア  南アジア 現③スリランカ


 セイロン島には香辛料のシナモンのほか,真珠が分布しており,ポルトガル領(1505~1658)となりました。
 ポルトガルは1517年に南西部のコロンボに商館を設置。北西部のマンナール島も1560年に獲得します。

 シンハラ人の国家であるコーッテ王国(1412~1597)は,15世紀中頃にはセイロン島全域を支配していました。しかし,ポルトガルの進出を受けて衰退し1521年に3つの勢力に分裂。そのうちのキャンディ王国(1469~1815)がセイロン島中部~東部にかけて台頭します。
 一方,タミル人の国家であるジャフナ王国は,コーッテ王国の支配から1467年に独立し,栄華を取り戻しますが,今度はポルトガルの進出を受けて衰退し1624年に滅亡します。

(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.92。




・1500年~1650年のアジア  南アジア 現④モルディブ
 モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年にはポルトガル王国が占領しています。
 代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国(注)は,モルディブを保護国化にしています(1796年まで)。

(注)オランダ。当時は,事実上ハプスブルク家のスペインから独立しています。




・1500年~1650年のアジア  南アジア 現⑤インド

・1500年~1650年のアジア  南アジア 現⑤インド(北インド)
ロディー朝→ムガル帝国
ティムールを始祖とするイスラーム王朝が拡大
 ティムール朝の王子であり,サマルカンド【本試験H28地図上の位置を問う】を支配していた〈バーブル〉(位1526~30。バーブルとは「虎」という意味) 【本試験H7タージ=マハルを建設していない】【追H30奴隷出身者ではない】は,母方の祖父が〈チンギス=ハン〉の次男〈チャガタイ〉でした。父方の祖先を〈チンギス=ハン〉までたどることができれば,「ハン」を名乗ることができるわけですが(ユーラシアの遊牧民の世界におけるこのルールをチンギス統原理といいます),いずれにせよ中央ユーラシアにおいては由緒正しい家系であることは間違いありません。
 サマルカンドがウズベク人の〈シャイバーニー=ハーン〉の手によって落ち,ティムール朝は滅び,シャイバーン朝(1500~99)が建国されました。〈バーブル〉は1500年にサマルカンドを奪い返しましたが,1501年に敗れて北東のタシュケントに逃げました。
 その後,アフガニスタンのカーブルを占領して,シャイバーン朝を攻撃しようとしますが,1501年にイランで成立していたサファヴィー朝の〈イスマーイール1世〉が,〈シャイバーニー=ハーン〉を撃破。
〈バーブル〉は,サファヴィー朝の〈イスマーイール1世〉に助けられながら,サマルカンドを再度狙いますが,失敗。

 そこで,「サマルカンドがだめなら,昔〈ティムール〉も攻めたことのあるインドを拠点にしよう」と発想を転換した〈バーブル〉【追H29アルタン=ハンではない】は,インダス川を越え,デリー北方のパーニーパット【追H29】で1526年にデリー=スルターン朝の最後のアフガン人のイスラーム政権であるロディー朝(1451~1526) 【本試験H7ヒンドゥー王朝ではない】【追H30勝利したのはムガル帝国か問う】を滅ぼし,デリーを首都としてムガル朝を建国しまた【本試験H28時期】【追H30】(パーニーパットの戦い)【追H29】。
 〈バーブル〉が1530年に死去すると,2代目の〈フマーユーン〉は,アフガン人の〈シェール=ハーン〉に敗れ,シンド地方に逃げ,さらにサファヴィー朝に亡命しました。デリーには〈シェール=ハーン〉のスール朝が成立し,〈シェール=シャー〉と名乗りました。
 1555年に〈フマーユーン〉は,スール朝が混乱しているすきにデリーを奪い返し,ムガル朝を復活させました。しかし,翌年に階段を踏み外して,亡くなってしまいました。
 〈バーブル〉が〈ティムール〉の血統であることからも分かるように,ムガル朝は,中央ユーラシアに対する支配にこだわりました。イランとの関係も深く,支配層は事実上の公用語(公式文書に用いられる言語)としてペルシア語をもちいたので【本試験H24・H27】【早商H30[4]記】,中央ユーラシアから文学者や芸術家が移住しペルシア風の作品がつくられ,『マハーバーラタ』もペルシア語に翻訳されました。〈シャー=ジャハーン〉【本試験H7バーブルではない】【本試験H23アイバクではない】【追H27、H29】の建てたタージ=マハル【本試験H7】【本試験H23】【追H20インド=イスラーム文化を代表する建築物か問う,H25インドの墓廟か問う、H27シャー=ジャハーンが建てたか問う、H29】は,インド=イスラーム文化【本試験H23ガンダーラ美術ではない】の代表例でもあります。ヒンディー語とペルシア語の混成言語であるウルドゥー語【追H19グプタ朝時代の成立ではない(サンスクリット語とのひっかけ)】【東京H30[3]】(アラビア文字で記され,現在のパキスタンの公用語) 【本試験H23タミル語ではない】もうまれました。

 さて,幼少時に捕虜となった経験を持つ第3代の〈アクバル〉(位1556~1605) 【京都H21[2]】【東京H25[3]】【共通一次 平1】【本試験H3ヒンドゥー教徒を迫害していない,本試験H8】【本試験H31最大領土になっていない(それはアウラングゼーブ)】【追H30カニシカではない】 は,首都をデリーの南方にあるガンジス川の支流ヤムナー川沿いのアグラ(アーグラー)【本試験H21パータリプトラ】【本試験H8】【追H30】におき,のちにアグラの西に新都ファテープル=シークリーを建設しています(短期間で放棄。世界文化遺産)。

 また,マンサブダール制【本試験H30】【早・政経H31アクバル帝による整備か問う】を整え,官僚機構も形成します。
ムガル朝につかえる有力者に10から5000までの位階(マンサブ)を与え,それに応じて確保するべき兵士・馬の数やが定められ,俸給(土地からの税金の一部を得ることを認められるか,現金によって支給されます)の額が定められました。マンサブを与えられた者をマンサブダールといい,インド外の出身者が多くを占め,その2割をヒンドゥー教徒【本試験H5ヒンドゥー教徒の旧支配者の多くは,ムガル帝国の統治機構に組み入れられたことを,史料から読みとる】で西北インドに拠点をもっていたラージプートという有力者が占めていました。
 500以上のマンサブダールはアミールと呼ばれ,貴族層となりました。なお,土地から税金をとる権利のことをジャーギールといい,収穫量の多い土地は高いマンサブを持つ者に割り当てられました(ジャーギールを持つ者はジャーギールダールと呼びます)。

 イスラームとヒンドゥー教には,多くの違いがあります。イスラームでは死者を土葬しますが,ヒンドゥー教では遺体を火葬し,灰は川に流します。イスラームでは豚を汚れたものとして食べず,ヒンドゥー教は牛を神聖なものとして食べません。しかし,〈アクバル〉は両者の対立を避け,人口の大多数を占めるヒンドゥー教徒を取り込む作戦に出ました【本試験H3ヒンドゥー教徒を迫害していない】。
 例えば,ヒンドゥー教徒からジズヤ(人頭税)を徴収するのをやめたり(ジズヤの廃止【共通一次 平1】【名古屋H31記述(ジズヤの説明とムガル帝国のジズヤ政策の変遷)】) ,ヒンドゥー教とイスラーム教の祭りをともに祝ったりなど,多数派のヒンドゥー教徒のことを考えた支配をしました。広まりませんでしたが,神聖宗教(ディーネイラーヒ)という新宗教まで創始しています。だらに彼自身,1562年には,ヒンドゥー教徒の複数の女性と結婚しました。
 彼の肖像画は,ペルシア【追H20ラージプート絵画の影響ではない】の細密画(ミニアチュール) 【東京H6[1]指定語句】【追H20】がインドの絵画と融合したムガル絵画【本試験H10ムガル帝国が「絵画で有名」か問う】【追H20】の様式で描かれています。象に乗っているものが有名ですね。
 他方,ヒンドゥー教徒の間では,イスラーム絵画の影響を受けつつ従来の庶民的な題材を扱った,伝統的なラージプート絵画【本試験H6インド=イスラーム文化の例か問う,本試験H8オスマン帝国の絵画ではない】が発達しました。

 この時代、諸宗教の融和がすすんだ結果,始祖〈ナーナク〉(1469~1538) 【本試験H12ヒンドゥー教の「開祖」ではない】【本試験H30】によりシク教【東京H28[3]】【本試験H19時期,本試験H30】【追H17スーフィズムではない】【法政法H28記】【早商H30[4]記】がとなえられ,カースト制度が批判されました。〈ナーナク〉は「グル」(尊師)と呼ばれ,グルの地位は10代目の〈ゴービンド=シング〉(1666~1708)まで継承されますが,その後は聖典「グル=グラント=サーヒブ」が“永遠のグル”とされました。シク教の寺院にはこのグル=グラント=サーヒブが安置されていますが,原本はパンジャーブ地方のアムリットサルのシク教寺院にあります。神からいただいた髪を伸ばし続けているため,頭にターバンを巻くのが敬虔(けいけん)なシク教徒の外見的な特徴です。

 〈アクバル〉の時代には,北はアフガニスタンのカーブル(1585年征服)やカシミール(1586年征服),インダス川中・上流域のパンジャーブ地方。
 西はシンド地方(1591年征服)や,綿織物の産地グジャラート地方(1573年征服)を中心とするインダス川下流域。
 南はデカン高原の北辺(16世紀後半~17世紀初めにかけて征服)。
 ガンジス川流域を下って,東はベンガル地方のベンガル=スルターン朝(1576年征服),オリッサ地方(1593年) 【本試験H8ビルマ全土は支配下に置いていない】。
 このような広大な領土を手に入れました。
 ただし,デカン高原よりも南には,ヴィジャヤナガル王国やイスラーム教徒の政権〔ムスリム五王国〕があり,支配は及んでいませんでした。


 1605年に〈アクバル〉の後をついだのが〈ジャハーンギール〉(位1605~27)です。1608年にインド北西部のスーラト(綿織物の産地)にイギリス東インド会社が船団を送ると、〈ジャハーンギール〉は有利な条件で貿易をおこなうことを許可します(注1)。


 さらに,愛妃の墓であるタージ=マハールで有名な〈シャー=ジャハーン〉(位1628~58) 【本試験H25 19世紀のパン=イスラーム主義者ではない】が即位しました。
 時同じくしてサファヴィー朝の最盛期〈アッバース1世〉(位1587~1629) 【追H19,H28アンカラの戦いとは無関係】は,アフガニスタンのカンダハールを狙い,ムガル帝国と対立しました。1599年にウズベク人のシャイバーン朝が崩壊し,同じくウズベク人のジャーン朝が後を継ぐと,ジャーン朝との関係も緊張します。カンダハールは結果的にサファヴィー朝の領土となり,これ以降のムガル帝国は,中央ユーラシアに進出しようとすることはなくなりました。
 
 一方この時期、1639年に地元の領主の招きによって、イングランドのイギリス東インド会社はマドラスの一定の土地を貸し与えられ、そこに要塞を築くことも認められました。マドラスでの関税は免除され、イギリス東インド会社以外の商人から徴収する関税収入の半分をイギリス東インド会社が得るという条件も付いていました。イングランドは思わぬ好条件によって、インド支配の足がかりをつかむことに成功したのです(注2)。
(注1)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.100。
(注2)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.101。




・1500年~1650年のアジア  南アジア 現⑤インド(南インド)
南部ではヒンドゥー王国や沿岸港市が栄える
1336~1649 ヴィジャヤナガル王国
1490~1686 ビジャープル王国

 この時期の南インドのデカン高原には,ヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が栄えます。
 沿岸部には港市が栄え,バトカル、カンナノール、カリカット【本試験H18地図】、コチ〔コーチン〕などにには独立・半独立の君主がいました。ヴィジャヤナガル王国は、こうした海岸の小王国をコントロール下におさめることはできなかったのです(注1)。
 伝統的に君主は商人が公正・安全に取引できるようにはからい、町には多種多様な出自の商人が共存していました。インド西海岸はコショウ【本試験H11アメリカ大陸が原産ではない。インド南西部のケーララが原産地】,ショウガ,シナモン(肉桂),白檀(ビャクダン)などが産出されるため,カイロのマムルーク朝(1250~1517)や,アラビア半島方面との重要な交易基地だったのです。

 1498年5月20日にポルトガルの〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉が初めて到達したのはこのうちカリカットの北方。現地の慣わし通りのスムーズで友好的な取引が果たせないまま、〈ガマ〉の一行はいったんポルトガルに帰国(注2)。香辛料や宝石がみつかったという〈ガマ〉の知らせは一大センセーションを巻き起こし、〈マヌエル1世〉も大喜び。ポルトガルは帰国の半年余り後の1500年3月上旬に、今度は〈カブラル〉を派遣しますが、ブラジルを発見したほかは、カリカットでの武力紛争で多数の犠牲を出すなど、かんばしい成果をあげることができませんでした。その後、大富豪となっていた〈ガマ〉は国王に申し出て1502年に再びインドに向けて出発。〈ガマ〉には絶対にもうかるという確信があったのです。アフリカ東岸の町やカリカットで略奪の限りを尽くした〈ガマ〉の一行は、1503年にインド南西部のコチ〔コーチン〕に拠点を残して一旦帰国。思惑通り香辛料1500トンを獲得して莫大な富を築き上げました。〈ガマ〉の「大航海」のどこかが、平和的な「交易への参入」でしょうか?港町を占領し、大砲や銃を使った武力による脅しで貿易活動を支配するというやり方は、その後のヨーロッパによるアジア進出の典型となっていったのです(注3)。
  なお、その後もポルトガルのアジア進出が進むなか、〈ガマ〉はコーチンで1524年に亡くなりました。


 さて、〈ガマ〉の成功に刺激され、ポルトガル王室は東インドへの進出に積極的となります。
 1505年には初代インド総督〈アルメイダ〉が,コーチンを拠点にインド洋交易支配に乗り出しました。ポルトガルのカラベル船は,舷側(横の部分)に大砲が取り付けてあり,マムルーク朝やオスマン朝のガレー船(大砲は船の先っぽに取り付けられていました)よりも,高い大砲の発射精度を備えていました。
 1509年グジャラートのイスラーム教国とカリカットのヒンドゥー王,マムルーク朝の連合軍は,ディウ沖の海戦でポルトガルに敗れました。

 そして,第二代インド総統〈アルブケルケ〉【本試験H2マラッカを制服したか問う】は,1510年ゴア【本試験H24ポトシではない、H27地図上の位置,H29イギリスの根拠地ではない】【追H24イタリアの海外拠点ではない】【上智法(法律)他H30 オランダの海外進出例ではない】(1530年からインド総督府はこちらに移転されます)を根拠地とし,さらに1511年には東南アジアのマラッカを占領しました【本試験H2時期(16世紀初めか),〈アルブケルケ〉率いる艦隊に征服され,「16世紀を通じて,ポルトガルの東南アジア貿易の中心地となった」か問う】【本試験H13オランダはヨーロッパ諸国の中で最も早く東南アジアに進出した国ではない】【追H24ポルトガル人の活動か問う】。
 ゴアには1534年に司教区が置かれ、ゴアの教会や修道院を建設・維持運営するために、ポルトガル国王が「布教保護者」(当時の勅書で用いられた表現)となりました。もちろんキリスト教の聖職者にとっては「アジアへの布教」「東方にいると伝えられるキリスト教王(プレスター=ジョン)の捜索」が目的であったわけですが、キリスト教の布教とポルトガル帝国の拡大は“セット”だったのです。そして、1542年にはイエズス会(1534年創設)の〈ザビエル〉(1506?~1552)がゴアに到着しています。のちに〈ザビエル〉が中国広州沖の上川島で亡くなり、遺体が移送された先もゴアでした。


 1623年のアンボン(アンボイナ)事件をきっかけに,イギリスは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。1639年(注)には,東海岸のマドラス【本試験H16フランス植民地ではない,本試験H23世紀を問う,H31イギリス東インド会社が拠点を置いたか問う】【追H18】に要塞を建設しています。

(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.101。



◆南インドのヒンドゥー王国はイスラーム教の王国によって滅ぼされる
デカン高原は、イスラーム王国の支配地域となる

 さて、ヴィジャヤナガル王国は,1649年にインド南西部のイスラーム教国ビジャープル王国〔アーディル=シャーヒー朝〕により滅ぼされます。

 ビジャープル王国〔アーディル=シャーヒー朝,1490~1686 〕は,デカン高原のイスラーム教国バフマニー朝(1347~1527)が5つに分裂したうちの一国です。このムスリム五王国〔デカン=スルターン朝〕には,バフマニー朝のほかに以下の王朝が含まれます。
・1490~1686 ビジャープル王国〔アーディル=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1490~1636 アフマドナガル王国〔ニザーム=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1518~1687 ゴールコンダ王国〔クトゥブ=シャーヒー朝〕→ムガル帝国により滅亡
・1487~1574 ベラール王国〔イマード=シャーヒー朝〕→アフマドナガル王国により滅亡

 バフマニー朝は,1510年に沿岸のゴアをポルトガルによって奪われています。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.41。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.48。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.52~56。



 南インドでは,かつてパーンディヤ朝が支配していたインド亜大陸東南部の沿岸には,真珠採集に従事する人々がいました。
 ポルトガルは彼らをパラワス〔パラバス〕と呼び,東南部沿岸を漁夫海岸と呼びました。そして,住民をキリスト教に改宗させた上で,真珠採りに従事させようとしました。これに従事し,約5万人のカトリック教徒を得たのがイエズス会の〈ザビエル〉です。しかし,スリランカのジャフナ王の攻撃を受けて挫折し,〈ザビエル〉は活動拠点さらに東へと移動させていきます(そして1549年に日本に上陸)(注)。


(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.89~p.91。



・1500年~1650年のアジア  南アジア 現⑥パキスタン
 現在のパキスタンにあたる地域の多くは,この時期にムガル帝国の支配下に入ります。
 
 インダス川下流のシンド地域は,1520~1591年までテュルク〔トルコ〕系やモンゴル系のイスラーム教国であるアルグン朝(イル=ハン朝の系譜を継ぐと主張),タルカン朝(1554~1591)が支配していました。
 その後,ムガル帝国の皇帝〈アクバル〉がタルカン朝の最後の王を打倒し,シンド地方を併合します。




・1500年~1650年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネワール人のマッラ朝の王家は3つの政権に分かれていました。王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあったゴルカ王国の力が強まっていきました。




○1500年~1650年のアジア  西アジア

西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

オスマン帝国が最盛期を迎える
 オスマン帝国【東京H13[1]指定語句】の〈セリム1世〉(位1512~20) 【追H26アイユーブ朝の支配者ではない】【本試験H22】【早・政経H31マムルーク朝を滅ぼしたのはスレイマン1世ではない】は内紛によりすっかり弱体化していたエジプトのカイロに1517年に入城してマムルーク朝のスルターンを処刑し,“肥沃な三日月地帯”の一部であるシリアとナイル川の育む灌漑農業地帯とともに,地中海とインド洋を結ぶ交易の重要地点であるエジプトを獲得【本試験H12リード文「商品や市場の情報も書簡でやりとりされた」(図版 エジプトのアレクサンドリアの商品価格リスト(出典の記載なし))】。

 オスマン帝国の勝因は大量の銃砲の使用にありました。

 さらにはマムルーク朝がおさえていたメッカとメディナ(この都市の位置する一帯をヒジャーズ地方といいます)の保護権も獲得し,「両聖徒の保護者」を自任しました。

 メッカのシャリーフ(〈ムハンマド〉の末裔)は,当時インド洋交易に進出していたポルトガル王国への対抗の必要から,マムルーク朝の保護を求めます。マムルーク朝はスエズに「インド洋艦隊」を置き,ポルトガル王国に対しインド西部のグジャラート(⇒1500~1650の南アジア)と東南アジアのアチェ王国(⇒1500~1650の東南アジア)と協力関係を築き対抗しました。

 “立法者”として知られる〈スレイマン1世〉(位1520~66) 【京都H19[2]】 【本試験H22セリム1世ではない】(注)は,イランに1501年に建国されたサファヴィー朝に勝ち,イラクを征服しました。また,1526年にモハーチの戦いでハンガリーを占領し,当時宗教改革への対応に追われていた神聖ローマ皇帝の寝耳に水を浴びせます。29年にはハプスブルク家の中心都市であるウィーンを包囲し,ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世は,一時ルター派を認めざるをえなくなりました。のちにこれを撤回したことが,ルター派などの新教を「プロテスタント」というようになった語源です。
 〈スレイマン1世〉はさらに地中海でも,1538年スペインとヴェネツィアの連合艦隊を,ギリシアのプレヴェザの海戦【本試験H31アンカラの戦いとのひっかけ(地図上の位置と内容)】【追H17時期を問う】で破り,東地中海がオスマン朝の制海権下にはいることになりました。すでにビザンツ帝国が滅ぼされていたことに加え,このことはヴェネツィア共和国【本試験H27,H29東方貿易に従事したことを問う】を含むイタリア諸都市の東方貿易に,多大な打撃を与え,のちにスペインとポルトガルが新航路開拓に向けて大西洋に船出する一因となりました。

 〈スレイマン〉はまた,建築家の〈シナン〉(1492頃~1588)に命じて,首都イスタンブル【本試験H31タブリーズではない】に壮麗なスレイマン=モスク【本試験H10ムガル帝国ではない】【本試験H31】を建造させています。また,16世紀半ばのイスタンブルには,世界で初めて「カフェ(カフヴェ)」がつくられ,にぎわったといいます。カフェはのちにヨーロッパの都市に伝わり,「コーヒーハウス」【東京H17[3]】【H29共通テスト試行 ジャガイモとは無関係】と呼ばれ,政治や文化に関する議論をする場として発展していくようになります。
 『哲学書簡(イギリスだより)』【本試験H2】で知られるフランスの啓蒙思想家〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【本試験H2】【追H24】は,パリのカフェ=プロコーブで,仲間と議論を交わしながら,ココア入りコーヒーを1日40杯飲んだと言われています。

 16世紀になると,オスマン朝にも火器が広まり,騎兵のシパーヒーから歩兵のイェニチェリに実権が移っていきました。16世紀後半に価格革命が起きると,貨幣で俸給を与えられていたイェニチェリは各地で反乱を起こすようになり,腐敗もすすんでいきます。
 16世紀以降,戦場に銃砲・火器が導入されはじめ,騎兵であるシパーヒーの役割は低下しました。かわりにイェニチェリが増やされ,シパーヒーに徴税権を与えるティマール制は無意味になりました。政府はティマール地からの徴税を自分でやるのも面倒なので,ティマール地を競売にかけて,富裕な商人や有力者に売り出しました。こうして彼らは,18世紀には徴税請負人として大土地を所有するアーヤーン(名士層)に発展していきました。

(注)以前「スレイマーン1世」と表記されることが多かったのは、アラビア語の「スライマーン」から来た慣用でしょう。トルコ語では「スレイマン」で、『旧約聖書』の「ソロモン」のことです。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.101。





・1500年~1650年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
アフガンはイランとインドの政権に挟まれ分裂
 1507年に,ウズベク人の〈シャイバーニー=ハーン〉(位1500~1510)が,現・アフガニスタン西部のヘラートを占領し,ティムール朝の支配を排除します。
 
 一方,ティムール家の子孫〈バーブルは〉,現・アフガニスタン東部のカーブルを拠点に,西部の〈シャイバーニー=ハーン〉に勝利するとともに,インドに進出して1526年にムガル帝国を築き上げます。

 一方,西方のイラン高原では,テュルク系のアゼルバイジャン人〔アゼリー人〕によるサファヴィー朝(1501~1736)が勃興して,アフガニスタン地域にも支配権を広げました。

 こうして,この時期のアフガニスタンは,イラン高原のサファヴィー朝とインドのムガル帝国に挟まれてそれぞれの支配が及び,政治的な統一もありませんでした。




・1500年~1650年のアジア  西アジア 現②イラン

サファヴィー vs ウズベク vs ティムール朝勢力
 〈ティムール朝〉崩壊後のペルシアから中央アジアにかけては,上記の3勢力の対立が勃発します。
 1501年に,アクコユンル(白羊朝,1378~1508)を破り,アゼルバイジャンのタブリーズ【本試験H31ここにスレイマン=モスクはない】を占領して建国されたサファヴィー朝【本試験H3時期(12世紀ではない),本試験H10】は,シーア派【本試験H10】【本試験H25スンナ派ではない】の神秘主義教団サファヴィー派が,テュルク系遊牧民の信徒を率いて挙兵してつくられた国家です。トルコ系遊牧民の騎兵集団は,キジルバシュと呼ばれる精鋭集団。教団のリーダーを「イマーム」の再来と考えスンナ派と対決しました。
 彼らはティムール朝を滅ぼしたウズベク人の〈シャイバーニー=ハーン〉を1510年にメルヴで破り,〈シャイバーニー〉は敗死。彼の頭蓋骨には金箔が貼られて,盃にされたといわれます(髑髏杯(どくろはい)という遊牧民の風習の一つ)。ウズベク人とキジルバシュの争いは,後者に軍配が上がりました。

 〈イスマーイール〉は,ウズベク人を挟撃しようと,サマルカンドのティムール朝の残党〈バーブル〉を支援しますが,のちシャイバーニー朝にサマルカンドを取り返されると,〈バーブル〉はインドでムガル朝を建国します(1526)。



◆オスマン帝国の歩兵鉄砲部隊が,サファヴィー朝の遊牧民を撃破する
「軍事革命」が遊牧騎馬民の覇権を揺るがした
 しかし,サファヴィー朝の遊牧騎馬兵にも,オスマン帝国の歩兵鉄砲部隊は粉砕することができませんでした。
 1514年にチャルディランの戦い【慶文H29】で,オスマン帝国の〈セリム1世〉率いる歩兵鉄砲部隊が,教団長イスマーイール1世(位1501~24)を撃退したのです【本試験H10「オスマン朝」と対立したか問う】。このときに威力を発揮したのが,イェニチェリ軍団の使用する銃砲でした。

 スキタイ以来の遊牧騎馬兵のアドバンテージが崩れ,一つの時代が終わろうとしていたのです。

 その後,サファヴィー朝は東方でもウズベク人に敗れると,過激なシーア派色を薄めるようになっていきます。〈イスマーイール1世〉は,シーア派【H29共通テスト試行】の中でも穏健な12イマーム派【東京H8[3]】
(9世紀に姿を“隠した”イマーム(初代〈アリー〉以降12代目)が,最後の審判の日に再び現れると信じるグループです)を国教に採用し,学者をアラビア半島,シリア,イラクなどから招いて,マドラサで研究・説教をおこなうことで,12イマーム派の教義を固めさせました。軍隊の中核はテュルク系のキジルバシュという集団が担い続けましたが,行政は伝統的にイラン系の官僚が担当していました。

 その後,“中興の祖”と讃えられる〈アッバース1世〉(位1587~1629)は,キジルバシュの力をおさえるために,多民族から構成される常備軍を設置し,彼らに支払う俸給を確保するために,キジルバシュの領地が没収されるようになりました。キジルバシュは高原の各地に与えられた領地から税を得る代わりに,部下を率いて参戦することになっていました。しかし、軍の主力が騎兵から火器をあつかう歩兵にうつると,その必要性は薄れていきます。

 〈アッバース1世〉はまたホルムズ島【京都H21[2]ペルシア沖合の島を答える】【追H28】【本試験H18地図(カリカットとのひっかけ)】からポルトガル人【追H28オーストリア人ではない】【本試験H31占領したのはフランスではない】を追い払い,交易路を整備しました。このとき皇帝は、イギリス東インド会社にポルトガル人追放の支援を依頼し、その見返りにイラン本土側の渡し場ガムローンにホルムズ島の機能を移転し、ここをバンダレ=アッバースと名付け、イギリス東インド会社の取引に関税をかけないことと、東インド会社が2隻の船を安全のために常駐させることを条件に関税収入の半分を与えるという好条件が許されています。要するに当時のサファヴィー朝の王には、自国の商人だけを優遇するという発想はなかったのでしょう(注1)。


 首都もイスファハーン【本試験H2アケメネス朝のころから知られ,サファヴィー朝最盛期の壮麗な首都か問う】にうつされ,17世紀なかばには人口50万と,当時としては大都市となりました。商工業者も多く移り住みましたが(注2),サファヴィー朝全体でみると,ほとんどの国民は農業と遊牧で生活をおくっていました。イスファハーンは多民族の集まる国際色豊かな都市であり,「王の広場」に代表される美しさは,「イスファハーンは世界の半分」【本試験H28バビロンではない】という言葉で自慢されました。
 また,王みずから聖地マシュハドにイスファハーンから巡礼して,シーア派の信仰を国民にアピールするなど一体感を演出し,スンナ派からシーア派に変える者も多く現れました。シーア派には免税するといった措置が取られたことも影響しています。現在のイランにシーア派が多いのも,このためです。ただスンナ派とシーア派の違いは曖昧で,相互の聖地を巡礼するなど互いの交流も密でした。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.103。
(注2)17世紀に数回,西アジア・南アジアに旅したフランスの宝石商〈タヴェルニエ〉の旅行記から,当時の様子がわかります。(松井透「商人と市場」樺山紘一他編『岩波講座世界歴史15 商人と市場――ネットワークの中の国家』(岩波書店,1999年),p.35)。「ガムルーン〔ペルシア南岸の港市…〕では一時にきわめて多数の船が入港してきて,町中の貨幣量を集めてもとても追いつかないほどの商品が溢れてしまうことがある。そんな時,商人たちはラール,シーラーズ〔両者いずれもペルシアの内陸都市〕,イスパハーン〔イスファハーン…〕,その他のペルシアの町々に急報を送る。すると貨幣をたくさんもっている人たち,その取引をする人たちは必ず,大急ぎでそれをガムルーンへ届ける。金を借りた日から三ヵ月の内に人は返済する義務がある。この「貨幣取引の料金」〔le change 実際上の金利…〕は,100につき6ないし12である。
 金額を返さなければ商品に手を触れることはできない,債権者が彼の誠実さを信頼して荷をほどくのを許さない限り。もしイスパハーンの住人でないペルシア商人が,彼の商品をさらに遠くへ運びたいという場合,彼は債務返済のために新たに〔イスパハーンで〕金を借りる。そして目的地に着いた時,彼はそれを返済する。…こうして彼らは行く先々で新しく借金をして前の借金を返済していくのである。エルズルームでの借金は,あるいはブルサー〔トルコ西部の商都〕,あるいはコンタンチノープル〔イスタンブール〕,あるいはスミルナ〔現イズミル,トルコ西岸の都市〕で返済される。…」(「商人と市場」『岩波講座世界歴史15 商人と市場』(岩波書店,1999年),pp35-39)
 なお,〈タヴェルニエ〉は,インドからダイヤモンドや宝石を持ち帰り,〈ルイ14世〉に売却し,貴族の身分が与えられています。17世紀半ばからはフランスでブリリアントカットという研磨法が発達し,その輝きから従来の「真珠」に代わる宝石として王侯貴族の憧れの宝石となっていきま。(山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.105)。






・1500年~1650年のアジア  西アジア 現③イラク
 1378年~1508年までテュルク系の遊牧民(トゥルクマーンと呼ばれるグループ)による白羊朝〔アク=コユンル〕の支配を受けていました。
 その後,テュルク系のアゼルバイジャン人〔アゼリー人〕によるサファヴィー朝(1501~1736)の支配に入りますが,イラク地域をめぐって,西方のオスマン帝国との抗争が激化していきます。

 16世紀にイラクはオスマン帝国の支配下となりますが,サファヴィー朝〈アッバース1世〉(位1587~1629)は1623年にバグダードを奪回しています(~1638)。
 その後のイラクは,オスマン帝国の支配下となります。




・1500年~1650年のアジア  西アジア 現④クウェート
 クウェートはオスマン帝国の支配下にあります。
 


・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑤バーレーン
バーレーンにポルトガルが進出する
 交易の拠点であり真珠の産地でもあるペルシア湾には,ヨーロッパ諸国を含む多方面から交易を求めて船舶が集まってきていました。

 ポルトガルは16世紀初め,ペルシア湾への入り口にあたるホルムズ島を支配していた王国(ホルムズ王国)(注1)を支配下に収めここを拠点として,バーレーンの支配もねらいます。
 バーレーンは,現在のサウジアラビア西部のハサー地方〔アル=ハサー〕のカティーフを拠点とするジャブリー家一族が支配していました。ポルトガルは1521年にバーレーンを奪い,約80年間支配下に置きます(注2)。
 
 バーレーンをめぐってはオスマン帝国も進出をめざしますが,その後,イラン高原を支配するサファヴィー朝の〈アッバース1世〉(位1587~1629)は,イギリスによる軍事援助を受けて軍備の近代化を果たし,1602年にバーレーンを奪い返します。
 この裏には,ポルトガル勢力をペルシア湾から駆逐したい,イギリスの思惑がありました。1616年にイギリスはペルシア湾に入航し,サファヴィー朝との直接交易がスタート。
 1622年にはイギリス海軍のバックアップで,サファヴィー朝〈アッバース1世〉はホルムズのポルトガル守備隊を排除します(注3)。
 
(注1)14世紀の初めに,本土のホルムズから移住してきた人々が島に新ホルムズを建設し,ホルムズ王は周辺の海域の要地を支配下に収めていました。蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.284。なお,1507年にいったん占領したものの,部下の反乱で一時撤退し,占領して砦を築いたのは1515年のことです。
(注2) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.287。
(注3) 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.289~p.290。




・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑥カタール
 18世紀以前のカタールの歴史について,詳しいことはわかっていませんが,沿岸部はペルシア湾の交易や真珠生産で栄えていたとみられます(注)。
(注)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.306。



・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑦アラブ首長国連邦
 18世紀以前のカタールの歴史について,詳しいことはわかっていませんが,沿岸部はペルシア湾の交易や真珠生産で栄えていたとみられます(注)。
(注)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.306。



・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑧オマーン
オマーンの王朝がポルトガルを駆逐する
 ペルシア湾の入り口にあたるホルムズを駆逐されたポルトガル王国は,拠点をアラビア半島北東部の港市マスカットに定めます(注1)。
 しかし,ポルトガルの勢力が交替すると,17世紀前半には代わって内陸のルスタークを拠点にヤァルブ家の〈ナースィル=イブン=ムルシド〉(位1624~1649)がイバード派のイマームに選出され,以降同家のイマームによる支配がはじまります。これをヤアーリバ朝といいます(注2)。

 ヤアーリバ朝はポルトガル勢力をマスカットに追い詰め,次の〈スルターン=イブン=サイフ〉(位1649~1680)のときにマスカットも陥落させ,海上進出を推進していきます。
(注1)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.290。
(注2)蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018,p.292。



・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 アラビア半島南西端のイエメンはシーア派の一派であるザイド派の拠点でした。

 オスマン帝国は支配を強めようとしましたが,1636年には撤退を迫られイエメンにはザイド派の国家が1872年のオスマン帝国による支配までは独立を保ちます。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
 当時のサウジアラビアには,複数の遊牧民族グループが各地を支配する状況で,オスマン帝国の支配は及んでいませんでした。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン
 オスマン帝国の支配下に入りますが,次第に支配は緩んでいきます。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル・⑬パレスチナ
 オスマン帝国の支配下に入りますが,次第に支配は緩んでいきます。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑭レバノン,⑮シリア
 シリアは,バルカン半島南部とアナトリア半島とともにオスマン帝国の直轄領となっています。
 厳しい検地によって納税者が確定され,騎士(シパーヒー)に徴税が任されました。シパーヒーは,ティマール地を支給され,その住民から徴税する権利を与えられた代わりに,軍事的な奉仕を義務付けられていました(ティマール制)【本試験H29ティマール制はセルジューク朝では施行されていない,H31ビザンツ帝国のテマ制とのひっかけ】【追H25イクター制ではない】。
 直轄領のシパーヒーらを支配していたのは,カーディーと呼ばれる法官です。カーディーには,マドラサ(学院) 【本試験H21スークではない】で学んだウラマー(宗教的な知識人)が任命され,地方の行政と司法を担当しながら,全国津々浦々に派遣されました。この頃以降,中央の財務や行政を担当する書記官僚の力が強まっていくようになります。

 現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロスは1489年以降ヴェネツィア共和国領でしたが,1571年にオスマン帝国が戦争に勝利して支配下に置かれます。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
 現在のトルコの領域は,オスマン帝国の支配下となっています。

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア)
 現在のジョージア(グルジア)は,コーカサス山脈の南部にあって,イスラーム教地域の辺縁に位置し,住民はキリスト教の正教会(グルジア正教会)を信仰していました。

 この時期のグルジアでは,東部の2王国(カルトリ王国・カヘティ王国),西部のイメレティ王国(いずれもバグラティオニ家)が分立し,ほかにもアブハジア公国などの5つの公国が分立する状況でした。
 東方からはサファヴィー朝,西方からはオスマン帝国の支配を受け,領域をめぐる抗争がつづきます。東部グルジアはイランの文化の影響を強く受け,軍人や官僚としてサファヴィー朝に仕える者もいました。オスマン帝国支配下でも改宗して軍人や官僚として活躍する者もいました。



・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑲アルメニア
 この時期,オスマン帝国はアルメニア東部(ヴァンからカルスにかけて)やバグダード,モースルなどを支配。一方,サファヴィー朝ペルシアはおおむねアルメニアの西部を支配しています。サファヴィー朝の全盛期〈アッバース1世〉の支配下では,アルメニア人のキリスト教徒はズィンミー(ジンミー)として自治がゆるされていましたが,強制移住もおこなわれています(注)。〈アッバース1世〉の死後には迫害が強まっていきました。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.200

・1500年~1650年のアジア  西アジア 現⑳アゼルバイジャン
 アゼルバイジャンからイラン高原に進出したテュルク系の遊牧民(アゼルバイジャン人;アゼリー人)は,神秘主義(スーフィズム)のサファヴィー教団を支持し,1501年にサファヴィー朝を建国しました。
 16世紀後半に,サファヴィー朝は故郷アゼルバイジャンを,オスマン帝国とシャイバーニー朝の攻撃により失いますが,17世紀初頭に〈アッバース1世〉(位1587~1629)がオスマン帝国と戦ってアゼルバイジャンを奪回しています。




●1500年~1650年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ,セーシェル


◆「平和な海」にポルトガル人が大砲による武力を持ち込んだ
ポルトガル人の「海の帝国」が築かれていった

 インド洋の島々はユーラシアを東西に結ぶ交易ルートの要衝として古くから多様な出自を持つ商人が往来してにぎわっていました。



南アジアへのポルトガル人の進出

 この時期の南インドのデカン高原には,ヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が栄えます。
 沿岸部には港市が栄え,バトカル、カンナノール、カリカット、コチ〔コーチン〕などにには独立・半独立の君主がいました。ヴィジャヤナガル王国は、こうした海岸の小王国をコントロール下におさめることはできなかったのです(注1)。
 伝統的に君主は商人が公正・安全に取引できるようにはからい、町には多種多様な出自の商人が共存していました。
 1498年5月20日にポルトガルの〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉が初めて到達したのはこのうちカリカットの北方。現地の慣わし通りのスムーズで友好的な取引が果たせないまま、〈ガマ〉の一行はいったんポルトガルに帰国(注2)。香辛料や宝石がみつかったという〈ガマ〉の知らせは一大センセーションを巻き起こし、〈マヌエル1世〉も大喜び。ポルトガルは帰国の半年余り後の1500年3月上旬に、今度は〈カブラル〉を派遣しますが、ブラジルを発見したほかは、カリカットでの武力紛争で多数の犠牲を出すなど、かんばしい成果をあげることができませんでした。その後、大富豪となっていた〈ガマ〉は国王に申し出て1502年に再びインドに向けて出発。〈ガマ〉には絶対にもうかるという確信があったのです。アフリカ東岸の町やカリカットで略奪の限りを尽くした〈ガマ〉の一行は、1503年にインド南西部のコチ〔コーチン〕に拠点を残して一旦帰国。思惑通り香辛料1500トンを獲得して莫大な富を築き上げました。〈ガマ〉の「大航海」のどこかが、平和的な「交易への参入」でしょうか?港町を占領し、大砲や銃を使った武力による脅しで貿易活動を支配するというやり方は、その後のヨーロッパによるアジア進出の典型となっていったのです(注3)。
  なお、その後もポルトガルのアジア進出が進むなか、〈ガマ〉はコーチンで1524年に亡くなります。
 1515年頃までにインド洋海域の港町の多くがポルトガルの「インド領」(エスタード=ダ=インディア)に組み込まれていきました(注4)。その事業は王室によるものでしたが、元手となる資金を小国であるポルトガル王国がすべて用立てることができたはずはなく、その多くがドイツ系・イタリア系の商人グループの出資に支えられていました。1515年以降はベルギーのアントワープに商館が設けられ、ここに東インドの香辛料が持ち帰られ、その販売代金によってフランドルの金融業者からあらかじめ募った資金を埋め合わせたのです(注5)。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.41。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.48。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.52~56。
(注4) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.59。
(注45) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.61。




・1500年~1650年のインド洋海域 インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
 アンダマン諸島・ニコバル諸島は,現在のミャンマーから,インドネシアのスマトラ島にかけて数珠つなぎに伸びる島々です。
 アンダマン諸島の先住民(大アンダマン人,オンガン人(ジャラワ人など),センチネル人)はオーストラロイドのネグリト人種に分類され,小柄な身長と暗い色の肌が特徴です。先史時代に「北ルート」と「南ルート」をとった人類の子孫とみられています(⇒700万年~12000年の世界)。
 外界との接触は少なく,狩猟・採集・漁撈生活を営んでいます。

・1500年~1650年のインド洋海域  モルディブ
 モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年にはポルトガル王国が占領しています。
 代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国(注)は,モルディブを保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ,事実上スペインから独立しています。


・1500年~1650年のインド洋海域  イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域
 現在のイギリス領インド洋地域にあるチャゴス諸島のディエゴガルシア島は,16世紀にポルトガル人〈ペドロ=マスカレナス〉(1470?~1555)に発見され,彼の出資者〈ガルシア〉にちなんで命名されました。
 命名に関しては,ポルトガルに仕えたスペイン出身の探検家〈ディエゴ=ガルシア〉(1496?~1544)が1544年に発見したことにちなむという説もあります。
 チャゴス諸島が地図上に現れる初めての例は16世紀末になってからです。



・1500年~1650年のインド洋地域  マダガスカル
 1500年にはポルトガルの喜望峰の発見者〈バルトロメウ=ディアス〉の兄弟〈ディエゴ=ディアス〉が,マダガスカル島を発見し,「聖ロレンソ島」と命名しました。
 沿岸部には黒人やアラブ系住民が居住しています。
 フランスの勢力は17世紀後半に駆逐されましたが,その後もフランスは支配を維持しようとします。


・1500年~1650年のインド洋地域  レユニオン
 1507年にポルトガル人が発見したときには無人島でした。
 1640年にフランス人が領有しています。〈ルイ13世〉(位1610~1643)によってブルボン島と命名されました。


・1500年~1650年のインド洋地域  モーリシャス
 レユニオンの東方のマスカレン諸島にある現モーリシャスは,1505年にポルトガルが到達したときには無人島でした。
 1638年にはネーデルラント連邦共和国(オランダ。当時は事実上スペインから独立)が植民し,〈オラニエ公マウリッツ〉にちなんで,マウリティウス(これを英語読みするとモーリシャス)と命名されました。
 オランダはサトウキビのプランテーションを実施し,島の外から奴隷を連行して労働につかせました。島にはドードーという飛べない鳥がいましたが,飛べないがゆえに狩猟の対象となり,生息数は短期間のうちに激減していきます。




・1500年~1650年のインド洋地域  フランス領マヨット,コモロ
 マヨットやコモロには,アフリカ東岸からアラブ人やペルシア人が交易の拠点を確保するために訪れ,マヨットは1500年にスルターンが統一しています。1505年にはポルトガルが来航していますが,植民地化はされませんでした。


・1500年~1650年のインド洋海域  セーシェル
 マヨットやコモロには,アフリカ東岸からアラブ人やペルシア人などの交易の拠点となっています。この時期にはヨーロッパ諸国による植民地化はされませんでした。





●1500年~1650年のアフリカ

 西ヨーロッパ諸国の南北アメリカ大陸との交流の結果,17世紀初めにはキャッサバ〔マニオク〕がアフリカ大陸の熱帯地域にもたらされ,耐乾性・耐病性が評価されて急速に広まりました(19世紀には南アジアに広まります)。



◯1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設していました。




・1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチには,アラブ人やソマリ人の融合した政権(アダル=スルターン国,1415~1577)が成立していました。アダルは内陸のエチオピア高原のアムハラ人によるエチオピア帝国とも抗争しています。
 宗教指導者〈アフマド=イブン=イブラヒーム〉(1507~1543)はアダルの軍を組織してエチオピア帝国に進出し,オスマン帝国から援助を受けた火砲を使用しています。
 
 〈アフマド〉の死後,アダルは領域を縮小させていき,1577年にはクシ諸語系の遊牧民アファール人の進出により滅びました。


・1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
エチオピア高原ではオロモ人の勢力が強まる
 エチオピア高原では,アムハラ人により建国されたソロモン朝のエチオピア帝国が広範囲を支配していました。

 しかし,アラビア半島との交易ルートで栄えたアダル=スルターン国との抗争が激化し,アダル=スルターン国を継いだ宗教指導者〈アフマド=イブン=イブラヒーム〉(1507~1543)が1535年にエチオピア帝国に対して聖戦を起こし,オスマン帝国からの軍事援助も受けてこれを打倒。〈イブラヒーム〉はおそらくソマリ人であったとされています。
 それに対して対するエチオピア帝国は,ポルトガル人で〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の息子〈クリストバオ=ガマ〉(1516?~1542)から火砲や銃砲(マスケット銃)などの軍事援助を受けていました。

 一方,16世紀以降は,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,エチオピア帝国は衰退に向かいました。オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。



・1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア

 東アフリカのインド洋沿岸【追H28東南アジア海域ではない】にはスワヒリ語文化圏が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。

 1498年にはポルトガル王国の〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?~1500?)に導かれインドのカリカットに到達しています。




・1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。





○1500年~1650年の南アフリカ

南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1500年~1650年の南アフリカ  現①モザンビーク
◆ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
 ザンベジ川【本試験H29ニジェール川ではない】流域では,現在のモザンビーク周辺に,ムタパ(モノモタパ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】【本試験H29】)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
 1488年に喜望峰を発見したポルトガル王国の進出が続き,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地にします。1505年(注)にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります【本試験H3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】。

 その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年(注)にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
 そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さらにジンバブウェとの間に金の取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。

 イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(1539~1606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
 現在のモザンビークのマプトを拠点としていたスワジ人は,1600年頃には現在のスワジランドの領域に移動しています。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 バントゥー系のソト人が南下し,先住のサン人が移動を迫られています。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国,⑤ナミビア
 バントゥー系の人々は農耕を基盤としているためカラハリ沙漠には進出できず,狩猟採集民のサン人が生活を営んでいます。

 東方から南下してきたバントゥー系の人々は,現在の南アフリカ共和国南東岸のポートエリザベス付近に河口をもつグレート=フィッシュ川付近まで,西暦1000年頃には南下を進めています。
 しかし,熱帯性植物の栽培を基盤とするバントゥー系の人々は,グレート=フィッシュ川以西に進出できませんでした。
 グレート=フィッシュ川以東にはバントゥー系のコサ人が分布しています。
 グレート=フィッシュ川以東にはコイコイ人が狩猟採集生活を送っています。




・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア,⑦マラウイ
 現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には1500~1700年頃の間マラヴィ王国が統治していました。沿岸部のポルトガルとの象牙の交易で栄え,〈マスラ王〉(位1600~1650)が有名です。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.42~p.43

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
 16~17世紀のジンバブエ高原では,トルワ王国が金の交易と牛の放牧を支配下に置いて栄えます。グレート=ジンバブエの影響を受け継ぎ,石壁の建設は続けられました。16世紀にはポルトガル人とも接触しています。



・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 南西部のカラハリ砂漠には,狩猟採集民のサン人が居住しています。

 17世紀にニジェール=コンゴ語族のツワナ人が,先住の狩猟採集民サン人を追ってボツワナに進出しています。





◯1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの〈アフォンソ1世〉(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れながらコンゴ王国を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸からキャッサバというイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理用バナナに比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。

 コンゴ王国とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
 コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。

 コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民を奴隷として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王に奴隷貿易への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合のサントメ島を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主にサトウキビのプランテーションで働かされました(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)。
 他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
 こうして1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。

 ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー系ルバ王国とルンダ王国が栄えました。
 東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。

 アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。


・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります。奴隷交易の拠点とともに,サトウキビのプランテーションが大々的に行われました。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。




◯1500年~1650年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


・1500年~1650年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 ニジェール川流域のマリ帝国【本試験H8】は14世紀後半から衰退。

マリ帝国はニジェール川中流域のソンガイ帝国【共通一次 平1:新大陸ではない】【本試験H5地図上の位置,本試験H8キリスト教国ではない】【本試験H22時期・南アジアではない】の支配下に入ります。

 ソンガイ帝国の建国は1010年頃とされ,当初はマリ王国の支配下にありましたが,1464年〈ソンニ=アリ〉(ソンニは王の意,1464~93)のときに独立します。
 農業・手工業者を優遇し,長距離交易を担うイスラーム教徒を弾圧した〈アリ〉の没後,王になった〈ムハンマド1世〉(位1493~1528)はイスラーム商人からの支持を得て,支配領域を拡大させます。彼は学者(ウラマー)を保護するなどイスラームの権威にのっとって大国を築き上げました。
 ニジェール川【H30共通テスト試行】の沿岸の都市トンブクトゥ【追H28「トンブクトゥ」が「西」アフリカの交易の中心都市であったか問う】【本試験H3「黄金の都」】【東京H9[3]】【H30共通テスト試行 金と塩の貿易がおこなわれたか問う】は,ソンガイ帝国【本試験H3】のときに史上もっとも繁栄します。16世紀中頃には,サハラ沙漠の横断交易(トランスサハラ交易)の物量は,スペインやポルトガルによる大西洋の交易をしのいでいたといわれます。

 現在のナイジェリア北部にいたハウサ人も,トランスサハラ交易の利で栄え,ソンガイ王国とチャド湖周辺のカネム=ボルヌ王国との間で同盟関係・対抗関係をとりつつ,いくつもの王国に分かれていました。ハウサ語が,サハラ沙漠の広い範囲で現在も通用するのは,商業言語として使用されていたためです。

 1590年に,モロッコのサード朝は,サハラ沙漠の岩塩の鉱山をおさえるために,ソンガイ帝国を滅ぼしました(ソンガイ帝国の滅亡)。スペインやポルトガルが,サハラ沙漠を経由せずに海路で金を運ぶようになったために,直接取引を目指そうとしたのです。サード朝は,スルターン〈マンスール〉の死後は衰退しますが,ニジェール川流域の支配は1833年まで続きました。ソンガイ帝国の滅亡により,ハウサ地方の諸国はモロッコに奴隷などを輸出して栄えました。奴隷狩りにはカネム=ボルヌ王国やハウサ諸国も従事しましたが,ヨーロッパによる大西洋奴隷交易の奴隷の多さとはケタが違います。

・1500年~1650年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル
 セネガルでは,ウォロフ人のジョロフ王国がソンガイ帝国との交易で栄えていました。しかし,次第にゴレ島を拠点とするポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどとの金や奴隷の交易も本格化していきます。ゴレ島の東岸には奴隷貿易のシンボル「奴隷の家」が残され,世界文化遺産(負の遺産,1978)に登録されています
 17世紀後半にはフランスの勢力が強まり,16世紀中頃にはセネガルの王国は分裂します。

・1500年~1650年のアフリカ  西アフリカ 現③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑫ガンビア
ギニア湾岸から住民が奴隷として積み出される
 ギニア湾岸には,ポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国が交易所や要塞を建設し,大規模な奴隷交易を展開しました。
 ギニア湾岸には,ヨーロッパ諸国によって以下のような通称が付けられていきます。
 ・奴隷海岸…②ナイジェリア西部,③ベナン,④トーゴ周辺の海岸
 ・黄金海岸…⑤ガーナ周辺
 ・象牙海岸…⑥コートジボワール周辺
           コートジボワールとは,フランス語で「象牙海岸」という意味です。
 ・胡椒海岸…⑦リベリア周辺



◯1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト

 オスマン帝国の〈セリム1世〉(位1512~20) 【慶文H29】【本試験H22】は,内紛によりすっかり弱体化していたエジプトのカイロに1517年に入城てマムルーク朝【本試験H7オスマン帝国によるものか問う】のスルターンを処刑し,“肥沃な三日月地帯”の一部であるシリアとナイル川の育む灌漑農業地帯であるエジプトを獲得。オスマン帝国の勝因は大量の銃砲の使用にありました。

 総督や常備軍(イェニチェリ)が派遣されましたが,バルカン半島と同じく間接統治領で,従来の行政組織を温存したまま柔軟な支配がなされた点がポイントです。例えばエジプトにはマムルーク朝のアミールがエジプトの総督に任命されています。〈スレイマン1世〉の代にマムルーク朝復活をもくろむ反乱も起きましたが鎮圧されました。
 また,インド洋交易により貨幣経済が栄えました。カイロ市内にはキリスト教徒(コプト教会,ギリシア正教会,アルメニア教会),ユダヤ教徒とスンナ派のイスラーム教徒が街区ごとにゆるやかに分かれ共存していました。



・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
 ナイル川上流部のスーダンでは,現在のスーダン南西部にダルフール王国(1596~1874)が栄えます。
 また,ナイル川の上流部(白ナイル)沿岸のセンナールという都市を中心に,フンジ人の王国(16世紀~1821年(注))が交易地として栄えています。

(注)『角川世界史辞典』「フンジ」の項目。



・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコにはオスマン帝国の支配はおよばず,各地を遊牧民の部族が割拠(かっきょ)していました。このうち,沿岸部から南部のサハラ沙漠にかけてサード朝(1511~1659)が有力となり,他部族を破りつつ,モロッコへの進出をねらうポルトガルの進出にも対抗しました。1541年にはポルトガルからアガディールを奪回しています。サード朝の最盛期は16世紀後半の〈マンスール〉(1578~1603)で,サハラ沙漠に進出して銃を配備していなかったソンガイ帝国を滅ぼしトンブクトゥやジェンネといった都市を奪いました。しかしのちに地方の遊牧民や山岳部のベルベル人の自立が始まり,サード朝は混乱していきます。

 マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。



・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア

 北アフリカ西部のマグレブ地方のアルジェリアは,テュルク系の軍人を従え海賊集団(ターイファ)を形成していたエーゲ海レスボス島出身の海賊長(ライース)である〈バルバロッサ〉兄弟により占領されました。
 しかし,弟の〈ハイル=アッディーン〉(ハイレッディン=バルバロッサ)が1519年に〈セリム1世〉によりアルジェの大総督(ベレイルベイ)に任命されることに。〈スレイマン1世〉(位1520~66)も、彼を用いて実戦的な海軍をつくりあげようとしました(注1)。
 1533年にはパシャ(総督)に任命され,オスマン帝国アルジェ州が成立します。

 オスマン帝国は“夷を以て夷を制す”の理念を実践し,地中海支配のために北アフリカの海賊(海上冒険者(コルサン)(注2))の軍事力を利用したのです。

 アルジェはオスマン帝国の地中海支配に重要な役割を果たし,海賊活動により17世紀に繁栄しました。1574年にはハフス朝の都チュニスを征服し,これを滅ぼしています。

(注1) 歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.243。
(注2)歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.243。




・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア

 チュニジアはチュニス州とされ,オスマン帝国が軍司令官(デイ)を派遣しましたが,次第にテュルク(トルコ)系の総督(ベイ)がデイをしのぎ自立していきました。

 マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。
 1609~14年にスペインで30万ものモリスコ(イスラーム教徒からキリスト教徒への改宗者)が追放され,チュニジアは最大の受け入れ先となりました。




・1500年~1650年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアの都市トリポリは1510年にスペインに征服され,1530年にはマルタ島に拠点を持つ聖ヨハネ騎士団が支配しました。しかし1551年にオスマン帝国艦隊により征服され,1711年までスルターンに任命されたパシャにより統治されました。








●1500年~1650年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


◆西欧諸国は南北アメリカ大陸とアジアに進出。新たな哲学が活発化し,「科学革命」も起きた
新大陸の情報が,ヨーロッパの情報を揺さぶった
 この時期には西ヨーロッパ諸国が南北アメリカ大陸に金銀を求めて進出しました。「大航海時代が始まるやいなや,ヨーロッパが植民地を獲得し,工業化が進んでアジアとの差がひらいていった」というわけではなく,当初はアジアの交易ネットワークに参入したり,南北アメリカ大陸から鉱産資源を積み出したりと,各地に物流の拠点を確保し商業を中心とした発展がすすめられていきました。
 また,西ヨーロッパ諸国にとって,今までの世界を飛び出すことで出会った異民族や知らない文物は,従来のヨーロッパ人が積み上げてきた常識を揺さぶっていくこととなります(アメリカやアジアへの新たな航路の開拓のことを“地理上の発見”といいます)。
 伝統的な学問を疑う実証主義的な姿勢から新たな哲学や科学が発展。例えば,「我思う故に我あり」【追H9】で有名な〈デカルト〉(1596~1650) 【追H9ソクラテスとのひっかけ】は『方法序説』において「我々人間は,本当にこの世界を正しく認識する能力を備えているのだろうか?」ということを突き詰めて考え,「たとえ聖書に書かれていなくても“今ハッキリとここで考えている私”が導き出した答えであれば正しいのではないか」と主張しました。
 落体の法則や,望遠鏡【追H9】を用いた木星の4つの衛星の発見で知られる〈ガリレオ〉(1564~1642) 【追H9ダ=ヴィンチではない】【本試験H30】らの「科学革命」もこの時期から始まります。ヨーロッパには分布していない動植物の研究も植物学・博物学として進んでいきます。例えば,フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(1517~1585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,1693~1761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています(⇒1650~1760の東アジア 日本)。
 新航路の開拓と人口増によって16世紀のヨーロッパは好況を迎えます。しかし,17世紀に入ると気候の寒冷化も影響し頭打ちに向かいます。


◆イタリアに始まるルネサンスがアルプス山脈以北にも伝わった
諸国のルネサンス,ラテン語から各地の言語へ
 この時期には,イタリアではじまったルネサンス(文芸復興運動) 【本試験H14時期(アメリカ大陸の文化の影響ではない)】が,諸国にも普及し,発展しました。
 例えば,〈エラスムス〉(1469?~1536) 【本試験H4時期(15~16世紀か)】は『愚神礼賛』で,「聖職者やスコラ哲学者がいうほど,人間は立派な存在ではない。愚かな面もあるからこそ,幸せな暮らしが送れるのだ」と主張します。彼の友人だった〈トマス=モア〉(1478~1535) 【共通一次 平1〈チョーサー〉ではない】【本試験H7マキャヴェッリとのひっかけ,本試験H8エラスムスではない】は『ユートピア』【共通一次 平1】【本試験H8】の中で,「キリスト教とは違う理想郷=天国」の新しいあり方を提案してイギリス社会の現実を諷刺しました【共通一次 平1:内容を問う】。ユートピアの人々は財産を持たず,生活物資は共用で,6時間の農業労働ののち,空き時間は余暇を楽しむといいます。後の社会主義思想にも,影響を与えました。ちなみにユートピアとはギリシア語からの造語で,「どこにもない場所」という意味です。

 フランス【共通一次 平1】の〈ラブレー〉(1494?~1553?) 【共通一次 平1】【本試験H8】【本試験H15エラスムスとのひっかけ,H31エラスムスとのひっかけ】【追H25マキャベリ、ボッカチオ、チョーサーではない】は『ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語』【共通一次 平1『デカメロン』ではない】【本試験H8「ガルガンテュア物語」】【本試験H15愚神礼賛とのひっかけ】【追H25作中人物「ガルガンチュア」から作者を答える】で,“反まじめ”文学に挑戦します。まじめくさったキリスト教的価値観をふっとばすようなストーリーゆえ,のちに反宗教改革のさいに禁書目録に搭載されてしまいました。彼はネーデルラントの〈エラスムス〉とも交流がありました。
 また,〈モンテーニュ〉(1533~1592) 【追H19エラスムスとのひっかけ、H28パスカルとのひっかけ】【本試験H7マキャヴェッリではない】は,ギリシアやローマの古典を参照しつつ,様々な物事について思索をめぐらした『随想録』(エセー) 【追H28パンセ(「瞑」想録)ではない】を著しています。

 スペイン【共通一次 平1:イタリアではない】のセルバンテス(1547~1616) 【共通一次 平1】による『ドン=キホーテ』【追H27中世ヨーロッパではない】【共通一次 平1】は,中世の騎士道物語に心酔する主君(ボケ役)と家来(ツッコミ役)のドタバタストーリーです。キホーテは痩せ馬のロシナンテにまたがり,家来のサンチョ・パンサを連れ立って,美女のドルシネーア姫をさがしもとめるのですが,姫に合うことはできず,最後は病気で死んでしまう,なんとも悲しい内容ですが,当時の社会の真実をするどく描き出すその手法(風刺(ふうし)文学)は,のちに18世紀アイルランドの〈スウィフト〉【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない】【追H9〈デフォー〉とのひっかけ】による『ガリヴァー旅行記』【追H9〈デフォーの作品ではない〉】などの市民向けの「小説」という分野【追H9】に影響を与えました。イングランドでは,〈シェイクスピア〉(1564~1616)が,戯曲を多作しました。
 このように,物語で扱われるテーマが,宗教ではなく「人間」や「社会」になっていったのもこの時代の特徴です。



◆各地域で国家の統合が進み,宗派の違いから戦争が多発。西欧・東欧の地域差が深まった
ハプスブルク家がフランスを挟み撃ちする
 多くの小さな国家に分裂していたイタリア半島では,1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼした後に,オスマン帝国の進出の影響を受けるようになりました。

 オスマン帝国に対抗するために,イタリアの諸国家は同盟を組みて立ち向かいましたが,1494年にフランス王〈シャルル8世〉(位1483~98)がイタリアに進入し,1495年にナポリを占領する事態に発展します。それに対して,時の教皇でボルジア家出身の〈アレクサンデル6世〉(位1492~1503)は,神聖ローマ皇帝〈マクシミリアン1世〉やヴェネツィア共和国,ミラノ公国と同盟を組むことで対抗し,フランス王を追い出すことに成功しました。これ以降,イタリアを巡るフランス王国と神聖ローマ帝国の戦争(イタリア戦争) 【本試験H18】が続くことになります。

 イタリアが混乱する中,1529年9月にはオスマン帝国の〈スレイマン1世〉【早・法H31】がハプスブルク家の中心ウィーン【本試験H25パリではない・世紀を問う】を取り囲む危機(第一次ウィーン包囲)に見舞われます【H29共通テスト試行 地図、H30共通テスト試行 移動経路を問う(「ウィーン包囲」(第一次という限定はなし)が西アジアからヨーロッパの方向か問う・オスマン帝国のスレイマン1世が行ったか問う)】【早・法H31】。ここぞとばかりにフランス国王〈フランソワ1世〉はオスマン帝国皇帝〈スレイマン1世〉(位1520~66) 【Hセ10コンスタンティノープルを占領したのは〈メフメト2世〉】【本試験H13ムハンマド=アリーとのひっかけ】【H30共通テスト試行】に接近し,〈セリム2世〉のとき(1569)には商人に対する財産の保障や通商特権【本試験H31】・領事裁判権など(カピチュレーション(居留特許条約))をフランス【本試験H31ムスリム商人ではない】に与えました【本試験H17モノカルチャーではない,本試験H27,本試験H31】【追H21 15世紀のオスマン帝国がフランスと同盟したか問う】(注)。
 カピチュレーションはのちに他のヨーロッパ諸国にも与えられるようになりました。のちにオスマン帝国の国力が弱体化すると、「不平等条約」と認識されるようになっていきます【本試験H10のちの不平等条約のもととなったか問う】。

 〈スレイマン1世〉は、1538年にはプレヴェザの海戦【本試験H8勝利して「地中海をほぼ制覇」したか問う(「ほぼ制覇」とは曖昧な表現である)】でスペインとヴェネツィアの連合艦隊を破るなど勢いがとまりません【本試験H29】。この海戦では、北アフリカの海上冒険者(コルサン)の力を取り込むことで作り上げた強大な海軍が威力を発揮しました。

 神聖ローマ帝国の皇帝〈カール5世〉はオスマン帝国対策のために,国内のプロテスタント(新教徒)を一時承認しました。オスマン帝国の脅威がなくなると,この承認をとりさげたので,当然ながら新教徒たちは抗議。プロテスタント(抗議する人)の語源はこれから来ています。

(注) 古くからイスラーム諸国家の君主は,異教徒の支配する領域(法体系の違う領域)の人々と和平を結び,法の取扱や異教徒の居留や活動に関する事項をアフドナーメという文書で取り決めていました。ヴェネツィアやジェノヴァなど異教徒の領域からイスラーム政権の領域を訪れた商人には,例えばマムルーク朝が領事裁判権などの特権が与えられました。オスマン帝国はこれを受け継ぐ形で,通商関係を結ぶキリスト教国家に対してスルターンが居留や活動の条件を定めた文書(アフドナーメ)を交わしました。オスマン帝国がバルカン半島に進出した14世紀後半以降,アドリア海沿岸のドゥブロヴニクやヴェネツィア,ポーランドに与えられるようになり,16世紀以降はヨーロッパ諸国にも対象範囲が広がり、ヨーロッパ側から「カピチュレーション」と呼ばれるようになります。

 なお,かつては〈スレイマン1世〉のときにアフドナーメが与えられたとされていましたが,現在では疑問視されています(堀井優「16世紀前半のオスマン帝国とヴェネツィア:アフドナーメ分析を通して」『史学雑誌』103 巻1 号p. 34-62,1994)。
 このいわゆる「1535年のカピチュレーション」は条約「案」であり、最初の確実な例は〈セリム2世〉(位1566~74)による1569年のアフドナーメです。この規定の大半は、以後も継続する友好関係の中でフランスに与えられる諸アフドナーメに継承されることとなります(歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ』岩波書店、2009年、p.242)。




ハプスブルク家〈フェリペ2世〉の贅沢(ぜいたく)な相続?
 広大な領土をまときれなかった〈カール5世〉は1556年に生前退位を決断しました。

 広大な領土【追H9 16世紀半ばの支配領域に,スペイン,オーストリア,ネーデルラント,デンマークが含まれるか問う。デンマークは含まれず】【本試験H31「16世紀半ば」(おそらくカール5世退位時)と「18世紀半ば」のハプスブルク家(ブルボン家ではない)のヨーロッパにおける支配領域を比べる地図問題】は,弟(神聖ローマ帝国)と子(ネーデルラントと南イタリア【本試験H31地図から読み取る】を含むスペイン王国【本試験H31地図から読み取る】)に相続されました。

 子の名前は〈フェリペ2世〉(位1556~98)です【本試験H26カルロス1世ではない】【セA H30カトリックを弾圧していない】。世界中に植民地を持ち「太陽の沈まない国」とうたわれたスペインの黄金時代の王です。
 とはいえ,1557年には「国家(バンカ)破産(ロータ)」を宣告。父の時代に相次いだ戦争により,莫大な借金も積み上がっていたのです。

 インターナショナルに活動していた〈カール5世〉と違い,彼はマドリード近郊の宮殿(エスコリアル宮殿)にとどまって,職務にあたりました。〈エル=グレコ〉(1541~1614)は,ギリシア生まれで,イタリアに学んで当時流行していたマニエリスム(空間を歪ませたり,複雑な動きを取り入れることで不安な感情を表現した技法のこと)を取り入れて神秘的な宗教画を残しました。当時絶頂を迎えていた〈フェリペ2世〉も,彼に絵画を発注しています。また,この時期のヨーロッパでは,王侯貴族や教会をパトロンとして,豪華で躍動感のあふれるバロック式の絵画が多く描かれました。例えば,宮廷画家のスペイン人画家〈ベラスケス〉(1599~1660)【本試験H28ホルバインとのひっかけ】,スペイン人〈ムリーリョ〉(1617~82)が有名です。
 なお,スペイン【共通一次 平1:イタリアではない】のセルバンテス(1547~1616) 【共通一次 平1】にが『ドン=キホーテ』【共通一次 平1】を著したのはこの頃。1630年には劇作家〈モリーナ〉が,色男(プレイボーイ)「ドン=ファン」が最後にしっぺ返しを食らう物語『セビーリャの色事師と石の招客』を著しています(この時期の演劇をスペイン黄金世紀演劇とも区分します)。


 〈フェリペ2世〉はフランスとカトー=カンブレジ条約(1559年) 【早・法H31】を締結してイタリア戦争を終わらせ,オスマン帝国の海軍をギリシアのレパントの海戦(1571) 【本試験H4破ったから大航海時代が始まったのではない】【追H21オスマン帝国は勝利していない、H28オスマン帝国が敗北したか問う】で破って西地中海の制海権を維持しました。すでに廃れた騎士道物語に憧れ冒険に出る主人公を通して社会を風刺した『ドン=キホーテ』(1605,15) 【共通一次 平1「没落騎士を諷刺した」か問う】【本試験H15,本試験H21,本試験H24時期】を書いたスペイン【共通一次 平1:イタリアではない】【本試験H15・H21】の文学者〈セルバンテス〉(1547~1616) 【共通一次 平1】【本試験H15・H21・H24】も,この戦いに参加し,左手を砲弾で失っています。同年にスペイン【本試験H19】は,フィリピン(王子時代のフェリペ2世が語源)にマニラ市【セ試行】【本試験H5時期(16世紀以降)】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H19時期,本試験H29フエとのひっかけ】【追H27スペインのアジア貿易の拠点か問う、地図上の位置を問う】【大阪H31論述指定語句】を建設(1571)。を建設し,メキシコのアカプルコとを結ぶ太平洋航路の拠点を築きました。

 なお〈フェリペ2世〉は1584年に,日本から派遣された天(てん)正少年(しょうしょうねん)使節(しせつ)をマドリードで歓迎しています。彼らはその後ローマ教皇〈グレゴリウス13世〉にも謁見し,日本へグーテンベルクの印刷機を持ち帰り「キリシタン版」の印刷に使用されました。しかし帰国する3年前に〈豊臣秀吉〉(1536~1598)は「バテレン追放令」により宣教師を日本から追放する政策に転換しており,彼らの多くは悲惨な目にあいます。この背景には,日本人を奴隷として交易したポルトガル以降の日本人奴隷問題もありました(注)。

 なお,〈グレゴリウス13世〉は従来のユリウス暦(4年に1度のうるう年を設けた太陽暦【本試験H23太陰太陽暦ではない】でしたが、ズレが生じていました)を修正し、同じく4年に1度のうるう年をもうけた太陽暦のグレゴリオ暦【本試験H23ユリウス暦ではない】を公布した教皇としても有名です。
 〈フェリペ2世〉は,断絶したポルトガル王位を兼任しました【本試験H21カルロス1世ではない】。さらにイングランドとフランスのカトリック勢力を支援します。例えば,イングランドの女王〈メアリー1世〉(位1553~58) と結婚し,イングランドにおけるカトリック復活をくわだてます。彼の頭の中には,スペイン人によるスペイン王国という“枠”はなく,ハプスブルク家によってカトリック世界を拡大させようという“理想”があったわけです。そもそも,この時代にはまだ「一つの国の中には,一つの国民がいて,支配者は国家と国民のために頑張るべきだ」という考えは,一般的ではなかったのです。
(注)ルシオ=デ=ソウザ,岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社,2017



スペインのアルマダはイングランドに大敗
 イングランド王国では女王〈メアリー1世〉の死後に即位した〈エリザベス1世〉(位1558~1603) 【本試験H8統一令を出したか問う】は,オランダ独立戦争(1568~1648)を支援してスペイン【本試験H8オスマン帝国ではない】と対決し,国王〈フェリペ2世〉はイングランドの支援をつぶすために無敵艦隊(アルマダ=インヴィンシブル) 【本試験H12】【追H18時期,H29】【明文H30記】を派遣しましたが,壊滅しました(1588年,アルマダの海戦) 【セ試行】【本試験H8,本試験H12イギリスの「無敵艦隊」がスペイン艦隊に大敗したわけではない】【本試験H26送ったのはスウェーデンではない】【追H29イングランドは敗北していない】【上智法(法律)他H30年代】。
 この「アルマダ」という表現,最近でもアメリカの〈トランプ〉大統領が北朝鮮を威嚇する際,「We are sending an armada. Very powerful.」というように使っています。単にarmadaというときは「艦隊」という意味になります(注)。
(注)‘Armada’ Trump claimed was deployed to North Korea actually heading to Australia https://www.independent.co.uk/news/world/americas/us-politics/donald-trump-north-korea-aircraft-carrier-sailing-opposite-direction-warning-a7689961.html,インディペンデント,2017.4.19

 イングランドの船乗り〈ドレイク〉(1545?~96)は,〈エリザベス1世〉から「海賊(バッカニア)」として公認され,世界を一周しながらスペイン船を襲いました。民間の船に,外国の船を襲わせることを私拿捕(しだほ)といいます。当時のイングランドは,海軍がまだあまり整備されていなかったためです。当時,太平洋航路を開拓していたスペイン船を主な標的になったわけです。

 しかし、そんなイングランドにとって、うかうかしてはいられないニュースが飛び込んできます。
 スペインからの独立を争っていたネーデルラント北部(現・オランダ)が、自前で東インドとの直接貿易を成功させたというのです。
 「東インドと貿易するには、地中海やモスクワを経由すればいいじゃないか」と考えていたイングランド商人たちは、その考えを転換。
 東インドとの貿易にはポルトガル王室でさえ単独で事業展開を続けることが難しいほど、莫大な資金がかかりますが、「地中海・モスクワ経由による貿易」を進めていた会社(レヴァント会社)のメンバーが、一回の航海ごとに資金を集め、航海が終わるごとに出資率に従い元本+利益を分けるという方式で出資を募る新会社を設立しました。確実な成功が保障されるように、宮廷の有力者に根回しし、〈エリザベス1世〉の特許状を獲得することにも成功(注1)。
 こうして1600年(グレゴリウス暦では1601年)(注2)には,個人の資本を組み合わせた共同企業(ジョイント=ストック=カンパニー。「株式会社」とは異なります(注3))であるイギリス東インド会社【セ試行 オランダに次いでの「東インド会社」の設立ではない】(EIC;East India Company)設立されたのです(注4)。第一回の船団(1601~1603年)は無事成功し、1604年には第二回の船団も送られました(最初の10年の利益率は155パーセント(注5))。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.81~82。
(注2) 当時のイングランドではユリウス暦が使われていたため、この日(1600年12月31日)はグレゴリウス暦に変換すると1601年1月10日となります。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.83。
(注3) 鈴木芳徳「株式会社とジョイント・ストック・カンパニー」神奈川大学『商経論叢』,38(1),2002,p.49~p.70。世界初の株式会社は,1602年設立のオランダ東インド会社(VOC)です。イギリス東インド会社は「王室が主導した国営企業」ではないし、領土獲得が目的でもなかった点にも注意しておきましょう。
(注4) ここでいう「東インド」は17世紀初めころの北西ヨーロッパ人の用法では「アフリカ南端の喜望峰からマゼラン海峡に至る間に位置する海岸沿いの諸地域すべて」という認識のもと使われた用語です。ほとんど「アジア」と重なりますが、地中海沿岸のトルコやシリアの領域や中央アジアは「東インド」とは認識されませんでした。(羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.27)。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.83。



 国内でも商工業の発達のため毛織物生産が振興され,牧羊地の確保【本試験H17木綿生産のためではない】のために農地を牧草地【本試験H9(※)】に変える第一次囲い込み(エンクロージャー) 【本試験H2 18世紀末には農民の所有地の多くが大地主の手中に集中されていたか問う,本試験H9】【本試験H17時期・木綿生産のためではない,本試験H21時期】が行われました。土地を失った農民の窮状は,〈トマス=モア〉(1478~1535)の『ユートピア』にも「羊が人間を食う(牧羊地の確保によって,農民が飢えで苦しむ)」のように表現されています。
「羊は非常におとなしく,また非常に小食だということになっておりますが,今や(聞くところによると)大食いで乱暴になり始め,人間さえも食らい,畑,住居,町を荒廃させ,破壊するほどです」【本試験H9史料として抜粋】
(※)①地主が牧羊のため,農民から土地を取り上げ,生け垣などで囲い込んだ。②地主が牧用地を生け垣などで囲い込んで農地に転換し,小麦を栽培した。③地主が高額の地代を課そうとしたために,農民は牧羊地を生け垣などで囲い込んで抵抗した。④地主が食料生産を増大させるために,農地を生け垣などで囲い込み,資本主義的大農経営を行った。 ①~④から正しい内容を選ぶ問題【本試験H9】

 また,〈エリザベス〉に重用された廷臣〈ウォルター=ローリー〉(1552?~1618)が,1584~87年にかけて北米を探検し,ここをエリザベスにちなんで「ヴァージニア」【東京H7[3]】と名付けたのもこの時代です(注)。
 〈エリザベス1世〉のもとでは文芸も栄え,〈エドモンド=スペンサー〉(1552?~99)が『神仙女王』の中で女王を主人公にしました。また〈シェイクスピア〉(1564~1616) 【追H9〈ミルトン〉とのひっかけ】は四大悲劇や『ハムレット』【追H9〈ミルトン〉の作品ではない】(To be, or not to be.のセリフで有名)『リア王』『オセロー』『マクベス』や,喜劇『夏の夜の夢』『ヴェニス(ヴェネツィア)の商人』(ユダヤ人商人が悪役として描かれました)など多くの劇を生み出しました。

 アルマダの海戦の敗北後,スペインはただちに衰えたわけではありません。ギリシアのクレタ島出身でスペインで活動した〈エル=グレコ〉(1541~1614)や,「女官たち(ラス=メニーナス)」で知られる宮廷画家〈ベラスケス〉(1599~1660)の絵画に代表されるバロック文化が栄えます。
 17世紀に入るとヨーロッパ全体の経済停滞の影響もあり,スペイン経済は下降線をたどり,新興国イングランド,オランダ,フランスの躍進のあおりを喰らいます。銀を輸入してりゃ永遠にもうかると思われた重金(じゅうきん)主義(しゅぎ)は,銀の枯渇により終焉。代わって奴隷をアフリカから積み出し,カリブ海で商品作物を作らせヨーロッパで売る大西洋三角交易【東京H25[1]指定語句「大西洋三角貿易」】に,新大陸の経済の中心が移っていきました。
 にもかかわらず,〈フェリペ3世〉(位1598~1621)のときには,キリスト教徒に改宗し産業に従事していイスラーム教徒(モリスコ)数十万人をモロッコに追放。有能な人材はどんどん海外に流出していき,スペインの産業の衰退に拍車をかけていきます。

 〈フェリペ4世〉(位1621~65)のときには三十年戦争に敗北し,1640~52年にはカタルーニャの反乱も起きています。フランスと続いていた戦争もスペインに不利なピレネー条約(1659)締結に終わっています。この条約では,〈フェリペ4世〉の娘が〈ルイ14世〉に嫁がされ,のちにスペインのハプスブルク家が断絶したときにフランスのブルボン家がスペインを“乗っ取る”口実にされていきます(結局乗っ取りは失敗しますが(スペイン継承戦争,1701~1714) 【追H29ホーエンツォレルン家は無関係】)。

(注) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.31。




○1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現①ロシア
◆イヴァン4世は拡大路線をとるが,動乱時代に突入
スウェーデン,ポーランドに圧倒されるツァーリ
 モスクワ大公国の君主〈イヴァン4世〉【セ試行】はツァーリを公的に名乗り,国力を高めていました。

 モスクワ大公国は,まず西のバルト海に進出しましたがリヴォニア戦争(1558~1583)に敗北。スウェーデンとポーランド=リトアニアにブロックされます。
 そこで,こんどは東に方向転換し,コサックの首領〈イェルマーク〉【セ試行 エカチェリーナ2世の命による派遣ではない】【東京H7[3]】に東のウラル山脈【京都H22[2]】を越えさせ,〈チンギス=ハーン〉の長男〈ジョチ〉の末裔の支配する由緒正しいシビル=ハーン国を占領することに成功。シベリア支配【セ試行】を開始しました。
 国内では農奴制を強化【追H28エカチェリーナ2世ではない】して貴族の力を押さえます。
 その〈イヴァン4世〉が1584年に亡くなると,次の〈フョードル1世〉の死(1598)で〈リューリク〉以来の血統が絶え,国内は貴族の内乱によって混乱,人口の3分の1が亡くなる大飢饉も起きる始末です。1605年からはロシア=ポーランド戦争も始まります。
 なお,1589年にはモスクワに総主教座を設置。アンティオキア,イェルサレム,アレクサンドリアと同格の地位を,コンスタンティノープル総主教庁から認められています。



◆ロマノフ朝が創始され,動乱時代が終わる
リューリク朝から,ロマノフ朝へ
 そんな中,〈ミハイル=ロマノフ〉(位1613~45)【セ18コシューシコを鎮圧していない,本試験H27グスタフ=アドルフではない】が,貴族・聖職者,官僚,軍人や大商人の参加する身分制議会である全国会議(ゼムスキー=サボール)でツァーリに選ばれ,ロマノフ朝【本試験H4ヤゲウォ朝とのひっかけ,本試験H12地域(ドイツではない)】の初代となりました。しかし,実権は全国会議と,モスクワ総主教である父〈フィラレート〉(1553~1633)により握られていたのが実態です。〈フィラレート〉はかつてツァーリの候補でしたが,政争に敗北。その夢を息子を操ることでかなえたのです。

 なお,1598~1613までの混乱期を,一般に動乱時代(スムータ)と区分します。
 1670年には,コサック(カザーク) 【慶文H30】という自治の認めれた遊牧民たちが,〈ステンカ=ラージン〉(1630~71) 【本試験H10デカブリストではない】【本試験H13ミュンツァーではない,本試験H18ポーランドではない,H31ポーランドではない】【追H21エカチェリーナ2世が鎮圧していない】の指導のもとで,南ロシアで反乱を起こしています【本試験H28ピョートル大帝は鎮圧していない】。彼らの多くは,ロシア正教に改宗したモンゴル人(タタール人とも呼ばれていました)でした。


 バルト海沿岸に建国されたドイツ騎士団領は,ホーエンツォレルン家と血のつながりのあった総長〈アルブレヒト〉(騎士団総長在位1510~25)が,1523年に配下の騎士と集団でルター派に改宗しまし,1525年にはドイツ騎士団領をプロイセン公国に組み変え,ホーエンツォレルン家の世襲する世俗の領邦を成立させました(位1525~68)。

 1550年代に〈イヴァン4世〉率いるモスクワ大公国が勢力を西に進めると,支配下に入ることを恐れたリヴォニア地方北部のエストニア人農民は、ロシアと結びついてバルト=ドイツ人の封建領主への蜂起を企てます。それに対してバルト=ドイツ人は、スウェーデンに保護を求めます。
 一方リヴォニア地方南部は、ポーランド=リトアニア王国に保護を求めます。
 都市リーガはいずれにも保護を求めず、ロシアやポーランド=リトアニアの脅威にさらされます(注1)。

 スウェーデン王国の〈グスタヴ1世〉(グスタヴ=ヴァーサ,位1523~60)はロシアとの対決を恐れバルト海東岸への進出には消極的でしたが,彼の後を継いだ〈エーリック14世〉(位1560~68)は1561年にエストニアを併合します。彼は1562年にフィンランド湾を封鎖し,デンマークやハンザ同盟の諸都市との対立も生んでいます。
 一方,ポーランド=リトアニアは、ロシアに対抗するためにスウェーデンに協力を求め(注2)、ドイツ騎士団であったリヴォニア(エストニア南部からラトビア北部にかけての地方)を保護下に収め,1582年にモスクワ大公国との間に結ばれた和平により承認されました。
 こうしてロシアのリヴォニアへの進出は抑えられました。

(注1) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.57。
(注2) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.58。



・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア、③ラトビア、④リトアニア
環バルト海地域の覇権争いが激化する

・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア
リヴォニア騎士団が解体されスウェーデンが進出
 エストニアにはドイツ騎士団の分派「リヴォニア(注1)騎士団」の支配の下,騎士団や司教による統治がなされていました。
 ドイツを中心に宗教改革が進展すると、反宗教改革を展開したイエズス会は、エストニア語で学ぶことのできる学校を設立し、1535年にはエストニア語で書かれた最も古い書物であるルター派教理問答を作成しています。
 東方からはロシア国家(モスクワ大公国)が拡大してきます。

 1550年代に〈イヴァン4世〉率いるモスクワ大公国が勢力を西に進めると,リヴォニア地方はスウェーデンやポーランド=リトアニアの保護下に入ることを模索します。
 こうして,1558~1583年,ロシアの進出に対抗するバルト海周辺諸国(リヴォニア騎士団,ポーランド=リトアニア,デンマーク=ノルウェー,スウェーデン)との間にリヴォニア戦争が勃発しました。

 スウェーデン王国の〈グスタヴ1世〉(グスタヴ=ヴァーサ,位1523~60)はロシアとの対決を恐れバルト海東岸への進出には消極的でしたが,彼の後を継いだ〈エーリック14世〉(位1560~68)は1561年にエストニアを占領します。このときリヴォニア騎士団はルター派の信仰を受け入れて世俗化し、スウェーデンの自治領となりました。カトリックの布教のためにつくられたリヴォニア騎士団は、こうして役目を終えたのです。これをエストニア公国(スウェーデン=エストニア,1561~1721)といいます。
 一方、1562年にリヴォニア騎士団の最後の団長〈ケトラー〉(1517~1587)は、ポーランド人によりクールラント公(リヴォニア南部。リーガ湾南岸の地域…③)の地位を与えられ、ポーランドの宗主権下に置かれました(注2)。


 一方,ポーランド=リトアニアはドイツ騎士団であったリヴォニア南部(リヴラント…②)を保護下に収め,1582年にモスクワ大公国との間に結ばれた和平により承認を得ます。
 1583年にはスウェーデンがリヴォニア北部(エストラント…①)を獲得し、その後ロシアとの和平に合意します。

 その後も,スウェーデン,ポーランド=リトアニア,モスクワ大公国などの間にはバルト海沿岸をめぐる対立が続きます。スウェーデンの支配下では,聖書がエストニア語・ラトビア語訳されたり,学術機関(注3)が設立されるなど,文芸が盛んになりました。

 そんな中でも,1561年に崩壊したリヴォニア騎士団の騎士としてエストニアの地に入植していたドイツ人は,バルト=ドイツ人として領主階級にとどまり続け,後々にまで影響を残し続けます。

 スウェーデンとポーランド=リトアニアによるリヴラント(エストニアとラトヴィアの間の地域)をめぐる争いは1601~1629年にわたって続きます。勝ったスウェーデンはリーガとリヴラント(…②)を手に入れ、リヴォニアの住民は大きな被害を受けました(注4)。一方、リヴォニア南東部のラトガレ(…④)は、ポーランド=リトアニアの直接統治下に置かれました。


 こうしてリヴォニア地方は、以下の①~④に分割されていきました(注5)。
①エストラント(最初にスウェーデン領となった地域)
②リヴラント(ポーランド=リトアニア領→スウェーデン領)
→リヴラント北部の現地農民は後にエストニア人としてまとまっていきます(注6)。
→リヴラント南部の現地農民は後にラトヴィア人としてまとまっていきます(注6)。
③クールラントとゼムガレ(ポーランド宗主権下のクールラント公国)
④ラトガレ(一時スウェーデン領→ポーランド領となったリヴォニアの地域)(注7)


(注1) リヴォニアとは,現在のエストニアからラトビアにかけての地域の歴史的な名前。
(注2) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.50。
(注3) 1632年に〈グスタフ=アドルフ〉によりつくられたアカデミア=グスタヴィアナ,のちのエストニアのタルトゥ大学。
(注4) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.58。
(注5) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.59。
(注6) タリンとリーガにはスウェーデンから派遣された総督が置かれ、それ以外の役人はドイツ人貴族が圧倒的でした。エストラントの貴族はある程度の自治が認められましたが、リヴラントの貴族は自治を獲得することはできませんでした。1641年にはリヴラントの耕作地の5分の2がスウェーデン人の所有となります。志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.66,69。
(注7) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.66。




・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現③ラトビア
北はスウェーデン,南はポーランドの支配下に
 ラトビアは以下のような変遷をたどります。
・北部…リヴォニア(エストニアも含む地域)は初めリヴォニア騎士団領でしたが,1561年にスウェーデンの進出を受けて崩壊し,スウェーデンの支配下に入ります。
 リヴォニア騎士団の残党はリヴォニア公国(1561~1621)として,リトアニア大公国に加盟します。

・南部…クールラントはポーランドの勢力が強まります。
 ラトビア南部,クールラントの一部のドイツ系住民(バルト=ドイツ人)は,東方からのロシアの進出を防ぐため,ポーランド王冠から封土を受ける形でクールラント公国(1562~1795)を建国し,“緩衝地帯”としています。この公爵となったのは,リヴォニア騎士団の最後の総長〈ケトラー〉(1517~1587)です。

 その後,ポーランドとリトアニアは1569年にポーランド=リトアニア共和国として合同(1569~1795)し,リヴォニア公国もその支配下に入ることとなりますが,1621年にスウェーデン王〈グスタフ2世アドルフ〉(位1611~1632)がリヴォニアを征服し,リヴォニア公国は滅びました。




・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現④リトアニア
リトアニアはポーランドに事実上併合される

 リトアニア大公国はポーランド王国との政治的な結びつきを強める一方で、国家としての独自性は保ち,ドニエプル川からドニエストル川にまたがり黒海にまでいたる大領域を獲得していました。

 しかししだいにポーランドの国力が高まると、1558~1583年のリヴォニア戦争中に両者は合同し,リトアニア=ポーランド共和国という政治組織が誕生しました。実質的にはポーランド王国〈ジグムント2世アウグスト〉(位1548~1572)によるリトアニアの併合です。
 リトアニアがロシアの進出の危機にさらされたことを背景とし,これをルブリン合同(1569)といいます。
 リトアニアはこうして当時の東ヨーロッパ随一の強国となったのですが,リトアニアの支配階層の間には文化や言語の面でポーランド化が進んでいきました。
 宗教面でも、ポーランドのカトリックの地位が高まり、貴族の中にはカトリックに改宗してポーランド化することでポーランド貴族と対等になろうという動きも起こります。こうして正教が「下層階級のもの」(注1)、リトアニア語は「農民の言葉」(話し言葉)とみなされるようになっていきます(注2)。
 リトアニアとポーランドは国家連合であったものの、その統合はすべての社会階層にわたっていたわけではないのです。

 こうして、エストニア・ラトヴィアのリヴォニア地域にルター派が広まるのとは逆に、リトアニアではカトリックの信仰が強くなっていきました。現在でもエストニア最大の宗教は正教会(16%)・ルター派(10%)、ラトヴィアもルター派(36%)であるのに対し、リトアニアはカトリックが最大です(77%)(注3)。

 なお、リトアニアには中央ヨーロッパ・東ヨーロッパからユダヤ人が多く移り住みました。最初にシナゴーグ(ユダヤ人の礼拝所)が建設された1573年以降、ヴィリニュスはヨーロッパ中東部のユダヤ人にとっての中心地となっていきます(注4)。

(注1) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.75。ポーランド東部の大貴族(マグナート)には、ポーランド化したリトアニア人貴族出身者が少なくありません(志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.62)。
(注2) リトアニア語は国家組織の文書用語・行政用語として使用されず、当初はスラヴ語、のちラテン語、そして17世紀にポーランド語が使用されました。1529年に発布されたリトアニア最初の法典はロシア語でした。ヴィリニュスとカウナスではドイツ語も用いられました。リトアニア語は、ある意味のリトアニアの農民によって維持されたといえます。志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、pp.63-64。
(注3) https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/lg.html
(注4) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.64。



・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑤ベラルーシ
 1569年にリトアニア=ポーランド共和国という政治組織が誕生すると,現在のウクライナの領域を支配する貴族層にはポーランド語やローマ=カトリックが広まっていきました。
 しかし,被支配層の農民層の多くは,ルーシ語を母語とし正教会を信仰しています。




・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑥ウクライナ
ポーランド支配のウクライナにコサック国家が建設

リトアニア=ポーランド
 ウクライナは17世紀なかばにコサックが中心勢力になるまでの間、ポーランド、リトアニア、そして後述するモスクワ大公国の支配下に入っていました。
 キエフ=ルーシの時代から分化し始めていたロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語もそれぞれ独立した言語となっていきます。「ウクライナ」という地名やコサックが生まれたのものこの時期のことです(注1)。


 その頃、リトアニア大公国はポーランド王国との政治的な結びつきを強める一方で、国家としての独自性は保ち,ドニエプル川からドニエストル川にまたがり黒海にまでいたる大領域を獲得していました。
 しかししだいにポーランドの国力が高まると、1558~1583年のリヴォニア戦争中に両者は合同し,リトアニア=ポーランド共和国という政治組織が誕生しました。実質的にはポーランド王国〈ジグムント2世アウグスト〉(位1548~1572)によるリトアニアの併合です。
 リトアニアがロシアの進出の危機にさらされたことを背景とし,これをルブリン合同(1569)といいます。
 すでに15世紀前半に中部のポディリア地方はリトアニア領からポーランド領になっており、さらにこのルブリン合同ではハールィチ地方とポディリア地方に加えて、ヴォルィーニ地方とキエフ地方もポーランド領となりました。
 こうしてウクライナのほぼ全域がリトアニア=ポーランドの領域(なかでもポーランド領)となったのです。
 ポーランドの大貴族(マグナート)は新開地を荘園にしようと開拓ブームがおこり、荘園管理人としてユダヤ人の東方への大量移住が始まりました。もともとウクライナには古くからユダヤ人が居住しており、ポーランド=リトアニアも13世紀以降伝統的にユダヤ人に対する優遇政策をとっていました。17世紀前半の50年間に、ユダヤ人の人口は45,000人から150,000人に増加します(注2)。


 リトアニア=ポーランドの支配、なかでもポーランドの勢力が強まるにつれ、現在のベラルーシの領域を支配する貴族層にもポーランド語やローマ=カトリックが広まっていきました。
 一方で被支配層の農民層の多くは,ルーシ語を母語とし正教会を信仰する形が続いています。
 貴族の中にはカトリックに改宗してポーランド化することでポーランド貴族と対等になろうという動きも起こります。こうして正教が「下層階級のもの」とみなされるようになっていくのです(注3)。
 正教とカトリックを合同しようとする運動も、特にローマ教皇側から起こります。ウクライナを正教圏から分離させようとしたのです。1596年にブレストでおこなった会議の結果、一部の正教会がカトリックとの合同が決まります。ウクライナにおける正教会の分裂です。
 カトリック側に立った正教会は、正教会の典礼を保ちながらローマ=カトリックに服従する形をとる「ユニエイト」(合同教会、ウクライナ東方典礼カトリック教会)を設立しました(オーストリア帝国では政策的にギリシア=カトリックとも呼ばれました。のちロシア帝国により禁止されると西ウクライナのリヴィウで存続され、第二次世界大戦後のソ連でも禁止されると、ユニエイトはウクライナのナショナリズムのシンボルとなっていきます(⇒1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ ウクライナ))。

 当時のウクライナには大都市はなく、貴族が商業を独占して富裕化し、村の自治を奪って領主として農民を農奴化していきました(注4)。
 大航海時代の経済的繁栄と人口増加にともなう穀物不足に対応し、ポーランド=リトアニアの領主は輸出向け穀物や商品作物生産でこたえようとしたわけです(注5)。ポーランドのルネサンス文化の繁栄の陰には、ウクライナの領主支配の強化があったのです。
 


コサック
 ウクライナにはポーランド=リトアニア領内の貧しい下級地主や町民が移住するようになり、クリミア=ハン国による奴隷狩りに対抗しつつ、ポーランド=リトアニア支配から逃れるために、黒海北岸地域で武装組織を形成するようになっていきました。
 彼らはタタール人、トルコ人、アルメニア人を襲撃し、特にクリミア=ハン国に対抗します。

 この集団はやがて「コサック」と呼ばれるようになります。
 コサックはもともとトルコ語で「分捕り品で暮らす人」あるいは「自由の民」という意味です(注6)。
 構成する人々は一枚岩ではなく、ポーランド=リトアニアの領主の締め付けを逃れた人々だけでなく、豊かだというウクライナに富を求めた貴族・町人もおり、モルダヴィア、ユダヤ、トルコ、タタール人など、スラヴ系以外の人々や、ポーランド=リトアニアの貴族の私兵・国境守備隊も含まれていました。これをまとめるリーダーは16世紀までには王により貴族が「ヘーチマン」として任命さるようになり、のちにコサック自身が選ぶように成っていきます。ウクライナのコサックは、ドニエプル川下流のザ=ポロージェ(ウクライナ語ではザポリッジア)を拠点とし、ドン川方面のコサック(ドン=コサック)と区別して「ザポロージェ=コサック」と呼ばれるようになります。17世紀初めにはドニエプル川中下流域で大きな政治勢力へ成長していき、周辺国のポーランド王国、モスクワ大公国などにも一目置かれる存在に発展していきました。陸戦だけでなく海戦にも優れていました。

 しかし独立不羈の精神の強いコサックは、コントロールが容易ではありません。放っておくとポーランド自身を脅かす存在でもあります。ポーランド王は1572年に登録したコサックに王の軍人としての地位を認め、軍務に対する給料を支払うことにし、コサックが自らヘーチマンを選び司法権・土地所有も保証することで、コサックをコントロール下におさめようとしました(注7)。
 ただ、コサックの登録数には限りがあり、待遇改善を求めるコサックや、コサック社会内部の貧富の差が問題化するようになります(登録コサックが地主化していったからです)。

 〈サハイダチニー〉(ヘーチマン任1614~22)(注8)は、ポーランド王に従い各地で戦ってその政治的な地位を高め、キエフのキエフ=モヒラ=アカデミーを中心に正教と学芸を振興させました。

 しかし、ポーランド王に対するコサックの不満は高まり、1648~1657年にはウクライナ=コサックの指導者(ヘーチマン)である〈フメリニツキー〉(1595~1657)が反乱を起こし,クリミア=ハン国のタタール人とも同盟し、ポーランド=リトアニアに勝利しました。これによりポーランド=リトアニアは痛手を負います。
 〈フメリニツキー〉はモスクワ大公国に接近、ウクライナ=コサックにヘーチマンを君主とするヘーチマン国家を建設させることを認めます。ポーランド=リトアニアとの緩衝地帯としようとの思惑があったといわれるこの協定(1654年)は、後にロシアがウクライナを自国の領域とする「根拠」として利用されていくことになります。しかし実際には、〈フメリニツキー〉が周辺国からの独立を守るために結んだ短期的な軍事同盟であったという見方が妥当です(注9)。




クリミア半島
 1502年にキプチャク=ハン国が滅亡すると、黒海北岸にはクリミア=ハン国が成立しました。圏局舎はタタール人〈メングリ=ギレイ〉(位1478~1514)で、〈チンギス=ハン〉の末裔を称しました。

 クリミア半島南岸には、クリミア=ハン国の成立以前にイタリアのジェノヴァ人の諸都市がありました。ここに1475年にオスマン帝国が進出し、カッファなどの諸都市を支配下に入れました。クリミア=ハン国もオスマン帝国の拡大を止めることはできず、宗主権を認め属国となりました。
 それでも比較的独立は許され、クリミア半島に居住する農民(クリミア=タタール人)だけでなく、黒海北岸の遊牧民(ノガイ=タタール人)も支配下におさめていました。
 経済的な基盤は奴隷貿易です。スラヴ人を奴隷としてオスマン帝国に供給していたのです(注9)。

(注1) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.60。
(注2) 19世紀~20世紀のロシア帝国やソ連で活躍するユダヤ人の多くは、このときにポーランドに移住した人々の子孫です。18世紀末のポーランド分割によって現・ベラルーシとウクライナを獲得したことで、ロシアは多くのユダヤ人を抱えることになるのです(「ユダヤ人であるトロツキー、ジノヴィエフ、カガノヴィッチ、シャガール、エレンブルクら」(上掲、p.73))。さらにアメリカ合衆国に移住するユダヤ人の多くのルーツでもあります。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、pp.72-73。
(注3) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.75。
(注4) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.67。
(注5) 西ウクライナは穀倉地帯となります。穀物はヴィスワ川河口グダンスクに運ばれ西欧に輸出されました。1491~92年に13,000tであった穀物輸出は、1618年に272,000tに増加しています。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.69。
(注6)黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.87。
(注7)黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.91。
(注8)黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.97。
(注9)黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.109。
(注10) ガリツィア地方ロハティンの司祭の娘〈アナスタシア=リソフスカ〉(1505~58?61?)はオスマン帝国の〈スレイマン大帝〉(位1520~66)のハーレムに入って、のち皇后となりました。ロクセラーナ(ルーシ女という意味のラテン語)という呼び名で通り、音楽(〈ハイドン〉(1732~1809)の「交響曲第63番」)、オペラや劇の題材となっています。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、pp.87-80。




・1500年~1650年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑦モルドバ
モルダヴィア公国はオスマン帝国の支配下にある
 現在のルーマニア北東部からモルドバ,ウクライナにかけての地域には,ルーマニア人のモルダヴィア公国がありました。モルダヴィアをルーマニア語で「モルドヴァ」というのです。
 16世紀初めにオスマン帝国の支配下に入り,自治を認められる形で服属しました。支配しているのは大土地所有者のルーマニア人貴族です。





○1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)

 西ヨーロッパ〔西欧〕のイングランド(イギリス),フランス,オランダなどがヨーロッパの外に植民地を持っていたのに対し,それをもたない東ヨーロッパ〔東欧〕諸国は,限られた領土の中で激しい覇権争いを繰り広げます。



・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
ポーランド=リトアニアはバルト海めぐり諸国と対立
 ポーランド=リトアニアは,この時期に台頭したモスクワ大公国(ロシア国家)と対決。バルト海への進出をブロックしようとします。

 ヤギェウォ(ヤゲロー)朝【東京H6[3]】【本試験H30】のリトアニア=ポーランド連合王国は,バルト海と黒海の広範囲を支配し,最盛期を迎えていました。

 しかし、次第に下院を構成する中小貴族(シュラフタ)が王権を制限する動きが活発化。1493年に初めて開かれた全国会議では、〈アレクサンデル〉(位1501~06)の代の1505年のニヒル=ノヴィ法の可決によって、王の決議には元老院と下院の同意が必要となりました(注1)。

 シュラフタの台頭の背景には、交易の縮小があります。
 オスマン帝国がバルカン半島に進出し,モスクワ大公国からの圧迫も強まると,交易はしだいに衰え,農業中心の経済になっていったのです。
 貴族たちは農民に対する直接支配を強め,大航海時代まっしぐらの西ヨーロッパへの穀物を大土地で大量生産・大量輸出するビジネスに精を出すようになりました。この時期に自由農民は自由を奪われ農奴となり,領主による人格的な支配を受ける農場領主制(注1)が発達していきました。
 ポーランドでは亜麻布(あまぬの,リネン)の生産も盛んで,バルト海沿岸の木材,鉄とともに帆船の帆の材料としてイギリスをはじめとする西欧に輸出されました(奴隷の衣服としても利用されています)(注2)。

 土地貴族(シュラフタ)たちはポーランド文化への憧れから,リトアニア出身であってもポーランド文化の影響を強く受けるようになります。
 しかも,ウクライナも支配下におさめているため,リトアニアからウクライナまで,ポーランド語を話すポーランド人支配層が,各地でリトアニア人,ベラルーシ人,ウクライナ人の農民を支配する構図が生まれました。これがのちのち,この地域にややこしい問題を引き起こすきっかけとなっていくのです。


 さて、シュラフタの拠点である下院を軽視する王〈ジグムント1世〉(位1506~48)に対し、シュラフタは「法の執行」を要求。モルダヴィア遠征への動員に反対したシュラフタは1537年に王への抵抗を開始(現ウクライナ西部リヴィウ(ポーランド名はルヴフ)に武装して終結し、長期間大量の鶏を消費したので「鶏戦争」とも言われます)し、王は動員を撤回する事態に。
 シュラフタたちの団結を支えていたのはは、自らの祖先がかつて騎馬遊牧民として武勇をとどろかせたイラン系サルマタイ人にあるという意識(サルマティズム)でした(注4)。

 こうしてシュラフタの権限が強まると、最盛期にはバルト海から黒海にいたる領域を支配していたポーランドは「シュラフタ共和国」(ジェチュポスポリタ=シュラヘツカ)ともいわれるようになりました。「共和国」と呼ぶゆえんは、シュラフタが選挙で国王を選出する権限を持っていたからです(注5)。

 そのころドイツ騎士団はというと、1519~21年にポーランドと戦って敗れ、ルター派に改宗。1525年にクラクフの中央広場で初代プロイセン公〈アルブレヒト=ホーエンツォレルン〉が、ポーランドの〈ジグムント1世〉の足元にひざまずき、臣従の誓いを建てました。
 こうしてドイツ騎士団は世俗のプロイセン公国となり、ポーランドとの長年の争いに終止符が打たれることとなったのです(注6)。


(注1) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.17。
(注2) 19世紀の経済学者〈エンゲルス〉(1820~95)は,これを「再版農奴制」(さいはんのうどせい)と呼びました。
(注3) 玉木俊明『北方ヨーロッパの商業と経済―1550~1815年』知泉書館,2008,p.233。
(注4) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.18。
(注5) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.18。
(注6) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.19。


 結局,最後の国王〈ジグムント2世アウグスト〉(位1548~72、即位は1529だが実質的治世は1548から(注1)) が後継者を残さずにヤゲウォ(ヤゲロー)朝【東京H6[3]】【本試験H30】が滅びると【本試験H13ポーランド分割により滅んだわけではない】,1569年にリトアニアとポーランドを同君連合とすることが定められ(ルブリン合同)(注2),1573年からは選挙王政【本試験H29東京】【本試験H22・H30】が始まります。

 こうして大土地を領有する貴族(シュラフタ)がセイム(議会)での選挙によって国王を決めるという体制(実質的に貴族共和政)となりました【本試験H29東京】。
 選挙議会が開かれ、96人のシュラフタが空位期の治安のため1573年に「ワルシャワ連盟」を組織。選挙をしても国内に有力候補がいなかったため、周辺の君主が候補になる中、結局ヴァロワ朝最後のフランス王にも就任することになる〈アンリ3世〉(ポーランド王在任1573~1575・ポーランド名はヘンリク=ヴァレジ,フランス王在任1574~1589)が選ばれました。フランスはポーランドにフランス人国王を建てることにより,ドイツの東西からの“挟み撃ち”を狙っていたのです。
 王といっても、シュラフタの特権を制限しないこと、議会の同意なしに国の問題を決めないことなどを定めた「ヘンリク条項」が調印されました。したがって、ポーランド王は単なるお飾りだったのです(実際に5ヶ月後に兄の〈シャルル9世〉が逝去すると、フランスで〈アンリ3世〉として即位することになります)(注3)。

 なお,“ポーランド貴族”であることはステータスの高いこととされ,リトアニア,ベラルーシ,ウクライナの貴族は,西スラヴ系のポーランド語を話し,ローマ=カトリックを信仰し,ポーランド文化を受け入れるようになっていきました。
 しかし,支配されていた農民たちの多くは,ウクライナ語などの東スラヴ系の言語を話し,東方正教会を信仰し続けていました。


 この時期のポーランドでは、のちに大きな影響を与える自然科学者〈ミコワイ=コペルニク〉(ラテン語名はニコラウス=コペルニクス【追H17】)。が誕生しています。太陽などの星々ではなく地球が動いているんだという地動説【追H17】を提唱した彼は、天動説を採用していたカトリックから異端審問にかけられることを恐れ『天球回転論』【追H17『天球の回転について』は地動説について述べたものか問う(正しい)】は死後1543年に出版されたのです【本試験H12(1609年頃の西ヨーロッパについて)「ローマ教皇庁はプトレマイオス以来の地動説を認めようとしなかったが,地動説は理論として発展しつつあった」の正誤判定。プトレマイオスは天動説を唱えたので,誤り】。
 また、〈ミコワイ=レイ〉はポーランド語で執筆した最初の作家として知られ、「ポーランド人はガチョウではない。独自の言葉を持っている」と主張しました(注4)。

 
 1587年に即位した〈ジグムント3世〉(位1587~1632)は、スウェーデンのヴァザ家。
 この後、1672年までヴァザ家がスウェーデン王としてポーランドに君臨します(注5)。
 〈ジグムント3世〉は絶対君主制を望み、イエズス会士を重用してカトリック製作を強行。1606年にクラクフ県知事が蜂起を呼びかけた全国のシュラフタと、王党派との間で内戦状態となります。
 結局、王党派に反対する勢力が敗北しシュラフタの力は弱まりシュラフタ民主政は衰え、代わってマグナト(大貴族)の寡頭政に転換することとなります(注6)。
 なお1596年にはクラクフのヴァヴェル城の火災をきっかけにワルシャワへの遷都が決まり、1611年に実際に遷都(注7)。

 1610年にロシアとの戦争が起こり、スモレンスクを包囲、スウェーデンとロシアの連合軍を破り、1612年までモスクワを占領しています。
 ポーランド王位に就いたヴァザ家のスウェーデンとの間で、三十年戦争の期間にわたりポーランド=スウェーデン戦争が勃発(1600年~1629年)。スウェーデンはポモジェを攻撃し、リヴォニアを支配しています。リガ近郊の戦い(1605年)、グダンスク近郊のオリヴァ沖の海戦(1627年)でポーランドはスウェーデンに勝利しましたが、1629年に屈辱的な講話を結ばされました。スウェーデンとの戦争は、次の時期にも続きます(注8)。
 
 なお、ポーランドはオスマン帝国との間とも戦闘しています(1620年)。
 ドニエプル川とドン川のほとりで活動していたコサックも、ポーランドにとっての問題となっていました。いくつか蜂起を繰り返すようになり、最大のものが1648年にウクライナで起こります。蜂起の立案は、元・王党派兵士〈フメリニツキー〉(ポーランド名はフミェルニツキ)。この蜂起は1654年に終結しますが、コサックには自治権が与えられました。これをコサックによる「ヘーチマン国家」(1649~1786)といいます(注9)。
 これにロシアが接近し,ポーランド=リトアニアは事実上黒海沿岸のウクライナを喪失していくこととなります。

 1648年には〈ヴワディスワフ4世〉が亡くなり、空位期間を置いて〈ヤン2世〉(位1648~68)が選ばれました。内政改革に取り組んだものの、マグナト(大貴族)の反対でことごとく失敗しています(注10)

(注1) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.19。
(注2) ロシア国家の中心地であったキエフは,このときにポーランド国家の一部となり,17世紀中頃までロシア国家から分離しました。キエフを首都とするウクライナとロシアとの間に対立があるのは,これが一因です。
(注3) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.22-23。
(注4) ほかに、ルネサンス期の詩人〈ヤン=コハノフスキ〉が『挽歌』やフラシュキ(小作品集)を残しています。渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.20。
(注5) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.24。
(注6) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.24。
(注7) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.25。
(注8) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.26。
(注9) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.28。
(注10) 渡辺 克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.29。



・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②チェコ,③スロヴァキア
 チェック人のボヘミア(ベーメン)王国には,ハプスブルク家の〈カール5世〉の弟で,のちにオーストリア系のハプスブルク家を継ぐことになる〈フェルディナント〉(のちの神聖ローマ皇帝〈フェルディナント1世〉)が就きました。
 〈フェルディナント〉のもとでベーメンにカトリックの信仰が強制されたため,1618年に新教徒によるハプスブルク家に対する反乱が起きました。神聖ローマ帝国が鎮圧しようとしましたが,戦闘は各地に飛び火し三十年戦争と呼ばれる大規模な戦乱となりました(1618~1648)。


・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②チェコ,③スロヴァキア
 チェコにはスラヴ語派のチェック人のボヘミア王国がありましたが,国外からの支配を受けやすく,しばしばハプスブルク家とか,ポーランドのヤゲウォ家,ハンガリーの王家による支配を受けます。
 しかし,ボヘミアの領主階級には「ボヘミア人」としての意識が強くあるわけではなく,自分の領地をきっちり保障してくれる王様が「ボヘミア国王」であれば問題ないわけです。
 そんな中,1526年にハンガリー王国の大部分がオスマン帝国に占領されると,安全保障のためにボヘミアの地主階級で構成される議会は,「ハプスブルク家の〈フェルディナンド1世〉にボヘミア王になってもらおう」と選挙で決定。〈フェルディナンド1世〉は,のちに神聖ローマ皇帝(位1556~1564)に即位することになる人物です。

 こうしてボヘミア王を神聖ローマ皇帝が兼ねるようになっていき,プラハにはハプスブルク家の政治的な建造物が建てられるようになり,たいへんに発展していきます。
 〈ルドルフ2世〉(神聖ローマ皇帝位1576~1612,ボヘミア王位1575~1612)に至っては,プラハ城を活動の拠点とし,芸術家を呼び寄せて文芸を盛んにしました。

 しかし,蜜月もつかの間。
 当時支持者を増やしていた宗教改革派の〈フス〉派が ,ボヘミアでも支持を増やしていました。そんな中,まじめなカトリック教徒の神聖ローマ皇帝〈フェルディナント2世〉(位1619~1637,ハンガリー王位1619~1637)が,ボヘミア王国で起きた〈フス〉派への弾圧に対するボヘミア貴族らの抵抗(注)【本試験H19】を受け,ボヘミア王国に出兵。ボヘミア【本試験H18】にローマ=カトリックの信仰を強制します。

 ボヘミア貴族は「〈フェルディナント2世〉がボヘミア王に即位するのは認めない。新教徒のプファルツ選帝侯〈フリードリヒ5世〉をボヘミア国王として選挙する!」と主張。

 これを鎮圧するためにハプスブルク家はボヘミア王国に派兵し,1620年にビーラー=ホラ(白山)の戦いでボヘミアの反皇帝勢力を鎮圧します。しかし,その後もボヘミア国内では抵抗が続き,他地域でも新教と旧教の間の争乱が次々に起こり泥沼化。
 ボヘミアの神聖ローマ皇帝に対する抵抗運動が,三十年戦争の発端となったわけです【H29共通テスト試行 時期(1566~1661の期間かどうかを問う)】。

(注)国王の使者5人が,プラハ市庁舎の窓(地上から20m!)から放り投げられ,3人が命をとりとめた事件。「プラハ窓外投擲(そうがいとうてき)事件」といいます。

・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④ハンガリー
オスマン帝国に敗れ,ハプスブルク家に王位うつる
 ヤギェウォ朝のハンガリー王国は1526年のモハーチの戦いで,大部分がオスマン帝国の〈スレイマン1世〉(位1520~1566)に占領され,併合されてしまいます。この戦いで国王〈ラヨシュ2世〉(位1516~1526)が戦死すると,親戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家にハンガリーの王位が移りました。
 ハプスブルク家の“結婚政策”が,ついにハンガリー王国(ハンガリーの北部と西部)にまで及んだわけです。

 オスマン帝国支配地域ではハンガリーは直轄地とされ,トランシルヴァニア地方のトランシルヴァニア公国は保護領となりました。
 デヴシルメ制により徴用された少年らは,イスラーム教に改宗の上,イェニチェリという常備歩兵軍団の一員やエリート軍人として養成されていきます。

 その後のハンガリーは,ハプスブルク家とオスマン帝国との領土争いの舞台となり続けます。



・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑤オーストリア
ハプスブルク家は結婚政策でフランスと対決
 1494年,ヴァロワ朝【早・法H31】のフランスの王がイタリアに進入。神聖ローマ帝国が対抗してイタリア戦争【早・法H31】が起こっていました。神聖ローマ帝国とフランスの関係が悪化する中,神聖ローマ帝国皇帝に即位していたハプスブルク家とスペインの関係は,緊密になっていました。

 1477年に,〈マクシミリアン1世〉は息子と娘を,それぞれハプスブルク家スペイン王女の〈ファナ〉と王子〈ファン〉にそれぞれ婚姻関係に持ち込むことに成功。

 ハプスブルク家のフランスを“挟み撃ち”にしようという意図は,1516年に〈フアナ〉の息子〈カルロス1世〉【東京H24[3]】がスペイン王国(カスティーリャ王国【本試験H8中心都市(マドリード)を問う】とアラゴン連合王国が合わさった国)の国王に即位することで実現します【追H21 15世紀のイベリア半島はオスマン帝国の領土ではない】。

 もう少し細かく説明します。
①神聖ローマ皇帝〈マクシミリアン1世〉(1493~1519)とブルゴーニュ公〈シャルル突進公〉の娘〈マリー〉の間に生まれたのが,ブルゴーニュ公〈フィリップ〉。
②その〈フィリップ〉が,アラゴン王〈フェルナンド2世〉とカスティーリャ女王〈イサベル1世〉の娘〈フアナ〉に嫁ぐ。
③つまり,この時点でハプスブルク家は,ハプスブルク家の血を引く〈フィリップ〉公の,カスティーリャとアラゴンの血を引く〈フアナ〉王女の結婚に成功したわけです。
④カスティーリャ女王の〈イサベル〉が亡くなり,〈フアナ〉(位1504~1555)が王位を継承しますが,この頃から精神に以上をきたすようになり,〈フィリップ〉が1506年に病死すると,〈フアナ〉は政務をとるどころではなくなりました。
⑤その後,〈フアナ〉と〈フィリップ〉の子である〈カール〉が,〈カルロス1世〉として即位することになったわけです。

 スペイン王〈カルロス1世〉は,その後選挙を勝ち抜いて1519年に神聖ローマ帝国の〈カール5世〉に選ばれました。
 “挟み撃ち”にあったフランスの〈フランソワ1世〉(位1515~47)は,“巻き返し”のために〈カール5世〉との戦闘を本格化。しかし,〈フランソワ1世〉は1525年にパヴィアの戦いで捕虜となります。このパヴィアでの勝利を導いたのは,ランツクネヒトという南ドイツの農民を用いた傭兵(ようへい)部隊でした。
 しかしのちに彼らは統制を失って1527年にローマに進入して街を徹底的に破壊。この悪名高い「ローマの劫略(ごうりゃく)」によって,ローマの没落は決定的になりました。〈カール5世〉(位1523~34)のローマ侵攻は,フランスと結んだメディチ家出身の教皇〈クレメンス7世〉への牽制が目的でしたが,略奪に対しては「自分とは責任がない」と述べています。
 他方,〈フランソワ1世〉の主力はスイスの傭兵でした。この時期のフランスとドイツの戦闘は傭兵として雇われた歩兵の力にかかっていたわけです。

(参考)当時のローマ教皇
〈アレクサンデル6世〉1492~1503 → 〈ピウス3世〉1503 → 〈ユリウス2世〉 1503~1513 → 〈レオ10世〉1513~1521 → 〈ハドリアヌス6世〉1522~1523 → 〈クレメンス7世〉1523~1534 → 〈パウルス3世〉1534~1549




◆オスマン帝国によりボヘミア=ハンガリー国王が戦死したため,ハプスブルク家が王位を継いだ
オーストリアは多民族国家の道をすすむ
 しかし,同時期に東方からはオスマン帝国が進出してきています。1526年にはモハーチの戦いでボヘミア=ハンガリー国王〈ラヨシュ2世〉(位1516~26)が戦死し,ハンガリーの大部分はオスマン帝国に割譲されました。実はすでに神聖ローマ帝国の〈マクシミリアン1世〉は,ボヘミア=ハンガリー国王の王子と王女に自分の孫を結婚させていました。
 ボヘミアでは16世紀初めからヨアヒムスタールというところの銀山の開発がすすみ,ここで銀貨が鋳造されるようになり,品質の良さから国際的にも「ターラー」として流通しました(これがのちにアメリカ大陸でなまってダーラー(日本語でいうドル)と呼ばれるようになります)。

 ボヘミアとハンガリーをどのように支配するかについては,問題もありました。
 このチェック人のボヘミア王国は選帝侯の一つであり神聖ローマ帝国の内部にありますが,マジャール人のハンガリーは帝国の外側に位置するので,枠組みが異なるからです。
 そこで,ハプスブルク家はボヘミア王とハンガリー王の両方に別個に即位するという形をとります。〈カール5世〉の弟ですでに1531年ドイツ王に即位していた〈フェルディナント〉(のちの神聖ローマ皇帝〈フェルディナント1世〉)が,初代の王としてそれぞれ即位しました。

 こうして,オーストリア系のハプスブルク家は,オスマン帝国のハンガリー進出をきっかけとして,急速にオスマン帝国と同様の,多民族を支配する帝国へと成長していきました。本拠地のオーストリア大公国のほかにボヘミア王とハンガリー王を兼ねつつ,神聖ローマ帝国としてキリスト教世界の最上位に君臨するという体制を手に入れます。以後オーストリア系のハプスブルク家は,神聖ローマ帝国を世襲することになりました。このオーストリア系ハプスブルク家による政権を,ハプスブルク帝国とかハプスブルク君主国と呼んでいます。

◆オスマン帝国のウィーン包囲を受け,ハプスブルク家は劣勢だった
当時の軍事力はオスマン帝国のほうが上手(うわて)
 しかし,オスマン帝国は1529年にウィーン包囲,1538年にプレヴェザの海戦での勝利を重ね,軍事的にハプスブルク帝国よりも有利な状況にありました。この頃の両国の協定を見てみると,〈カール5世〉や〈フェルディナント1世〉は,せいぜいオスマン帝国の大宰相と同等の格付けをされていました。つまり「皇帝」と見なしてはおらず,属国として「貢納金」の支払いまで課していました。
 オスマン帝国の強さの秘密は,歩兵に銃砲を持たせた部隊です。
 歩兵はバルカン半島の若いキリスト教徒を教育してつくったイェニチェリという部隊でした。

 一方のハプスブルク家とフランス王家との対立は,1529年のカンブレーの和約で一時的に〈カール5世〉はイタリアを手放し,和平が結ばれます。

 そんな中,大航海時代で獲得した新大陸から大量の銀が流入するとともに,西ヨーロッパ一帯で人口が増加したことで市場経済が活性化して「価格革命(激しいインフレ)」【東京H16[1]指定語句】【本試験H5時期(14~15世紀),本試験H10時期(16世紀以降か)】が起きました。それにより〈カール5世〉は,広大な領土を支配する余裕を失ってしまいます(北イタリアでは 1550 年~ 1620 年の期間で物価が2.5倍になっています)。
 1556年に〈カルロス1世〉(カール5世)は退位し,ハプスブルク家を2つに分割相続させます。
 スペインのハプスブルク家は子の〈フェリペ2世〉に,オーストリアのハプスブルク家は弟の〈フェルディナント1世〉に,という具合です。イタリア戦争は,1559年のカトー=カンブレジ条約で終結しましたが,今後もハプスブルク家とフランスの王家の争いは続いていくことになります。




・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑥スイス
スイスで〈カルヴァン〉の宗教改革が起きる
 1499年のシュヴァーベン戦争以降,ハプスブルク家から事実上独立状態にあったアルプス山脈地域のスイス盟約者同盟でも,ローマ教会を批判する新たな思想が芽生えました。
 人文主義者の〈カルヴァン〉(1509~64) 【本試験H7】【本試験H16,本試験H18イギリスではない】【追H21】【慶文H29】は,スイスのジュネーヴ【本試験H16チューリヒではない】に招かれて,神政政治をおこないました。
 彼の思想は,「神は予め救うものと救わないものを定めているのだ」(予定説【本試験H7内容を問う(「倫理」みたいな出題)】【本試験H16内容を問う】【追H19】)というもの。
 つまり,自分が救われる運命にあるのか,それとも逆かは,わからないよ,ということです【本試験H7「善行を積んだ者に対してのみ,魂の救済が予定されている」わけではない。何が善行であるか,人間の側は判断すらできないよ,ということ】。「神の愛は信じるものにみな与えられる」としたの〈ルター〉の考え方とは対照的です。

 〈カルヴァン〉としては,「“救われる”ということは,人間が期待できるものではない【本試験H7「人間の意志のあり方によって決定される」わけではない】。そもそも人間はまったく間違った存在(「全的に堕落した」存在(注))だ。“神のみぞ知る”。救われるか救われないかはわからないが,すでに決まっていることなのだから,“救われている”と思って与えられた生活と職業にマジメに禁欲的に【本試験H7】取り組むことが一番大切だ」と考えました。主著は『キリスト教綱要』です。
 つまり,どんな職業であっても,それは神があらかじめ定めていたものなのだから,職業に貴賎はないし,努力の結果得られた富も,神の思し召しなのだから決して汚いものではないということにあります。キリスト教には「お金儲け」を低く見るところがありましたが,蓄財【本試験H7】を認めるカルヴァン派の思想は,当時力をつけていた商工業者の心をとらえたわけです【本試験H7財産共有制の理想を貫徹している,なんてことはない】。
(注)ローマ=カトリック教会や正教会ではこのような考え方はとりません。


 のちにドイツの社会学者〈マックス=ヴェーバー〉(1864~1920)が,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(通称“プロ倫”)で,「どうして産業革命(工業化)は,プロテスタントの多い地域で起きたのか? それはカトリック教徒よりも,プロテスタントのほうが“お金もうけ”に対する心理的ハードルが低かったからだ」と主張したことで有名です。今日では彼の考えのすべてが認められているわけではありませんが,実際に商工業者にカルヴァン派が多かったことは確かです。
 〈カルヴァン〉は宗教改革のリーダー的存在となり,すでにチューリヒで宗教改革をしていた〈ツヴィングリ〉(1484~1531)派【本試験H22ミュンツァーではない】とも協力していくようになりました。〈ツヴィングリ〉は戦死しましたが,その後もツヴィングリ派の運動は残ります。

 なお,スイス人は屈強なことで知られ,ヨーロッパ各地で傭兵として活躍します。特に神聖ローマ皇帝〈カール5世〉に対立した,フランスの〈フランソワ1世〉はスイス傭兵を重用しています。“泣く子も黙る”スイス傭兵は,教皇〈ユリウス2世〉(位1503~13)の意向により1506年よりヴァチカンの教皇庁の衛兵としても用いられました。制服のデザインはルネサンスの芸術家〈ミケランジェロ〉によるものです。

 三十年戦争(1618~48)後の1648年に締結されたウェストファリア(ヴェストファーレン)条約【東京H18[1]指定語句】では,スイスの神聖ローマ皇帝からの独立が認められました。1685年にはフランスの〈ルイ14世〉【東京H8[3]】【追H24,H30】がナントの王令(勅令)を廃止【東京H7[3]】【本試験H26】【追H24ルイ14世によるか問う,H30】すると,ユグノー(カルヴァン派)【本試験H26カトリックではない】の商工業者がスイスに亡命してきました。「ロレックス」(1905創業)などで有名なスイスの時計産業は,さかのぼるとユグノーらが発展の基盤をつくったものです。



・1500年~1650年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ

◆ドイツ騎士団領がブランデンブルク選帝侯国と合わせ,プロイセン公国となる
プロイセン(元・ドイツ騎士団領)が台頭する
 バルト海沿岸に建国されたドイツ騎士団領は,ホーエンツォレルン家と血のつながりのあった総長〈アルブレヒト〉(騎士団総長在位1510~25)が,1523年に配下の騎士と集団でルター派に改宗しまし,1525年にはドイツ騎士団領をプロイセン公国に組み変え,ホーエンツォレルン家の世襲する世俗の領邦を成立させました(位1525~68)。

 1550年代には,〈イヴァン4世〉のモスクワ大公国が勢力を西に強めると,スウェーデンやポーランドの保護下に入ることを模索しました。スウェーデン王国の〈グスタヴ1世〉(グスタヴ=ヴァーサ,位1523~60)はロシアとの対決を恐れバルト海東岸への進出には消極的でしたが,後を継いだ〈エーリック14世〉(位1560~68)は1561年にエストニアを併合しています。一方,ポーランド=リトアニアはドイツ騎士団であったリヴォニア(エストニア南部からラトビア北部にかけての地方)を保護下に収めたため,スウェーデンとポーランドとのバルト海沿岸をめぐる対立が勃発しました。
 スウェーデンの〈エーリック14世〉は1562年にフィンランド湾を封鎖し,デンマークとハンザ同盟の諸都市との対立を生んでいます

 ホーエンツォレルン家が支配し,同じくルター派であったブランデンブルク選帝侯領とも1618年に合併して,ブランデンブルク=プロイセン公国になりました。プロイセンはドイツ辺境の北東の隅っこにあるため,三十年戦争(1618~48)の被害も少なくて済みました。1648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で,領邦の主権が認められて神聖ローマ帝国が有名無実化すると,プロイセンは自国の官僚・軍事機構を整備して,いわゆる領邦絶対主義を進めていくようになります・
 1701年からのスペイン継承戦争【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】では神聖ローマ皇帝側に立ち戦ったので,褒美としてプロイセン王国に昇格。今でも「ブランデンブルク」という名は,ベルリン中心部のブランデンブルク門の名に残されていますね。ブランデンブルク門から,並木道「ウンター・デン・リンデン」を東に向かうと,王宮にたどり着くようになっています。



神聖ローマ帝国は実質的に「ドイツ」の帝国へ
 神聖ローマ皇帝〈マクシミリアン1世〉(皇帝位1493~1519)は,1495年のヴォルムス帝国議会で永久ラント平和令を発布しします。領邦国家同士の争いは武力で決着をつけるのではなく,帝室裁判所の裁判で決めるべきだというものです。
 多数の国家を内にかかえこんだ神聖ローマ帝国の安全保障政策は,事実上,帝国が多数の領邦国家(等族)によって構成されていることを認めることに等しく,今後はいっそうバラバラな領邦国家の集まりとしての性格を強めていきます。
 また,彼は1512年に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という呼称をはじめて用い,「もう神聖ローマ帝国は,ローマにはこだわらない」と宣言。今後は,みずからがそうしたように,ローマにいながらにして皇帝に戴冠できることになりました(戴冠式はアーヘンでおこないます)。この習わしは,孫〈カール5世〉にも受け継がれていきます。

◆ドイツで,〈ルター〉による宗教改革が勃発する
ドイツの諸領邦が,ローマ教会から自立を目指す
 さて,中世末期から各所でローマ=カトリック教会に対する批判が起きていました。
 こうした“宗教改革”的な情報が広がっていった背景には,人文主義の流行 (古典古代の文化を見習って,人間らしさを重視する考え方) と活版印刷術と書籍の改良 (新しい思想を運ぶメディア)の普及がありました。
 活版印刷術【本試験H3時期(マルコ=ポーロの時代ではない)】【東京H16[3]】は15世紀半ばの〈グーテンベルク〉【東京H16[3]】によるもの。そして,書籍の改良については,1494年の〈アルドゥス=マヌティウス〉(アルド=アマーツィオ,1450?~1515)がページ番号を振った手軽に持ち歩ける見開き本を制作したことが見逃せません。今までの本というのは大きすぎて“持ち歩けなかった”のです(注)。
(注)雪嶋宏一「学術出版の祖アルド・マヌーツィオ」『早稲田大学図書館紀要』52巻,2003,p.1~p.33

 また,ローマ教皇や枢機卿を,ボルジア家やメディチ家などの世俗の有力者が占める例があったように,教会が本来の聖書に書かれたあり方を守っていないのではないかという人々の不信感も高まっていました。
 『(痴)愚神礼讃』((ち)ぐしんらいさん)【本試験H15】を著したネーデルラントの司祭〈エラスムス〉(1469~1536) 【本試験H15ラブレーではない】【本試験H7マキャヴェッリとのひっかけ,本試験H8トマス=モアとのひっかけ】のように,教会の内部からローマ教会を批判する者も現れましたが,全面的な対決には至りませんでした。

 このようにローマ教会に対する批判が起これば,神聖ローマ帝国の皇帝がなんとか対処してくれそうなものです。しかし,16世紀前半の神聖ローマ帝国は,オスマン帝国の進出に対処しつつ,神聖ローマ帝国の諸邦との対立もあり,それどころではありません。さらに,イタリア戦争では本来は守るべきはずのローマ教皇とも対立してしまっています。

 とくに,ザクセン選帝侯〈フリードリヒ3世〉は反皇帝派の代表格でした。神学者・修道士であった〈ルター〉(1483~1546) 【東京H16[3]】【本試験H23】【追H20,H21】がローマ=カトリックの贖宥状(しょくゆうじょう)販売を理論的に批判する『95か条の論題(意見書)』【追H28時期を問う(アウクスブルクの和議、ドイツ農民戦争との時系列)】【本試験H23】を発表したのも,ザクセンのヴィッテンベルク大学です。

 彼の主張はこうです。「贖宥状を買うという行為によって人は救われない。人は神の愛を受けて救われる。そのために贖宥状はいらない。聖書を読めばよいだけのことだ。教会が特権を持っているのもおかしい」。
 この文書は,神学的な議論のためにラテン語で書かれましたが,彼の予想をはるかに上回る反響となり,ドイツ語に翻訳されて活版印刷で大量に刷られ,各地に広まっていきました。

 これを聞きつけた教皇〈レオ10世〉は1520年,〈ルター〉に対し「60日以内に自説を撤回せよ。さもなければ破門する」と勅書を出しました。各地で彼の著書は焼かれましたが,ヴィッテンベルク大学の教授・学生の前でその勅書を焼き払ってしまうのです。結局〈ルター〉は破門され,皇帝もヴォルムス帝国議会に〈ルター〉を召喚して,自説の撤回を求めましたが,〈ルター〉はこれに応じません【早・政経H31年代】。

 それに対して〈ルター〉は言います。
 「教皇や公会議がしばしば過ちを犯してきたことは明白です。私は常に聖書によって克服されており,私の良心は神の御言葉にとらわれているのです。私は何事も撤回できませんし,撤回するつもりもありません。なぜなら,良心にそむいて行動することは不確実であり危険だからです」。
 〈ルター〉はザクセン選帝侯〈フリードリヒ3世〉【本試験H24神聖ローマ皇帝ではない】の保護下で,ヴァルトブルク城の中で著述活動を続けました。城のあるアイゼナハは,〈J.S.バッハ〉(1685~1750) 【セ試行 ロマン主義ではない】【追H9ロマン派の音楽家ではない、H26ロマン派の音楽家か問う】の出身地で,教会のオルガン奏者として活躍していました。彼はルター派の教会でも活動し,「マタイ受難曲」などのドイツ語の聖歌を作曲し,合唱の指揮をしました。〈バッハ〉を出しただけあって,現在でもルター派の教会では音楽が非常に重視されています。
 ほかにも,〈ルター〉の宗教改革に感動し,ドイツの〈デューラー〉(1471~1528)も,かつて4人の使徒(ヨハネ,ペテロ,パウロ,マルコ)の活動していた頃のキリスト教の精神がよみがえることを願って,制作した「四使徒」をニュルンベルク市に贈りました。
 それに対しネーデルラントの司祭〈エラスムス〉(1469~1536)は,神と人間との関係について〈ルター〉と激論を交わし,教会に対決しようとした〈ルター〉を批判しました。

 さて,〈ルター〉【本試験H8】による『新約聖書』【追H21】のドイツ語翻訳(初版は1522年)【共通一次 平1】【本試験H24】【本試験H8】【追H21】は,ザクセン選帝侯の保護下ですすめられました。彼はドイツのどの地域でも通じる,わかりやすいドイツ語表現ができるように苦労したといいます(北ドイツと南ドイツでは方言の差が非常に大きかった)。
 完成したドイツ語訳聖書は活版印刷術で印刷されていきました。

◆〈ルター〉以外にも中世以来の福音主義的な思想に基づき,多様な社会運動が起きる
ドイツでは千年王国論の影響を受けた社会改革も
 『新約聖書』にはこのような記述があります。
 「彼らは生き返って,キリストと共に千年の間統治した。」
 「彼らは神とキリストの祭司となって,千年の間キリストと共に統治する。」
 (「ヨハネの黙示録」第20章4,6節)

 初期キリスト教の時代以来,この部分の解釈をめぐっては様々な説が展開されてきました(注)。
 「今はつらいけれども,千年王国がすべてを解決してくれる…」
 〈ルター〉の活躍した時代にも,この魅力的な千年王国思想は各地に支持をひろげていました。

(注)13世紀初めにはフィオーレの修道士〈ヨアキム〉が,まもなく「精霊の時代」が到来すると主張し支持を集め,弾圧されました(⇒1200年~1500年のヨーロッパ)。15世紀初めには〈フス〉派の急進派(タボル派)も,〈イエス〉の千年王国が到来すると主張し,カトリック教会により1434年に鎮圧されています。

 そんな中,〈ルター〉の影響を受けて活動をはじめた〈ミュンツァー〉(1489?1490?~1525) 【東京H28[3]】【本試験H13 17世紀のロシアではない,本試験H22ツヴィングリではない】は,イタリアのフィオーレの〈ヨアキム〉(1135~1202)の思想や下層民との交流の中で独自の千年王国論を固め,司祭代理の職を追放されながらも,1523年にザクセン選帝侯飛領地アウシュテットの主任司祭の職を獲得。そこで農業・林業の下層民とともに暮らし,諸侯の側に付く〈ルター〉を非難するようになります。
 1524年には南ドイツのシュヴァーベン地方の修道院領で農奴が反乱。農奴制の廃止,賦役・貢納の軽減など「12ヶ条の要求」を掲げ,各地に農民蜂起が拡大していきました。この蜂起に対し〈ルター〉は初め同情的でしたが,蜂起が拡大すると諸侯らに鎮圧を要請。
 そんな中,1525年に南ドイツのテューリンゲン地方のミュールハウゼンでの蜂起を〈ミュンツァー〉が指導。都市民だけでなく農民・鉱山労働者によって強力な軍が組織されましたが,同年に彼は処刑されました(注)。
 この一連の農民蜂起のことをドイツ農民戦争(1524~25) 【本試験H7 時期(16世紀ドイツ)と内容を問う】 【本試験H17時期】【追H20「ルターは,ドイツ農民戦争以降も農民反乱に同情的な態度を貫いた」わけではない、H24時期を問う(13世紀か)、H28時期を問う(アウクスブルクの和議、95か条の論題の整序)】【早・政経H31年代】といいます。

(注)「〈ミュンツァー〉がドイツ農民戦争をはじめた」「1524年に農民を指導して反乱を起こし」などというのは誤り。〈ミュンツァー〉がどういう人物だったのかをめぐっては,下層民に味方し「社会主義」的な理想を持っていたとするマルクス主義的な見方(被支配者が支配層に打ち勝つことで人類は進歩していくのだという考え)や,宗教改革の本流から逸れた過激派という〈ルター〉の側に立った見方が主流でした(特に日本は,明治以来ドイツの歴史学の影響を強く受けてきたので,カトリックは悪,ルターは善という歴史観が色濃くのこりがちです)。木塚隆志は〈ミュンツァー〉という人物は,千年王国論(つまりこの世は滅ぶ)という終末論的な考えを持ちながらも,積極的に社会にはたらきかけて,社会の改革を通して理想の共同体を建設しようとしたのだと論じています。木塚隆志『トーマス・ミュンツァーと黙示録的終末観』未来社,2001,本文中は,p.188~p.192を参照。なお,p.188によれば〈ミュンツァー〉は1489年生まれ。比較的裕福な手工業者の過程に生まれたといいます。



 なお,〈ルター〉の唱えた主張に刺激され,神学者〈メランヒトン〉(1497~1560)は『アウクスブルク信仰告白』を発表し,ルター派の教義を体系化しようとしました。
 ルター派の思想は反皇帝派の諸侯にもひろがり,ルター派諸侯【本試験H19カトリック派諸侯ではない】によってシュマルカルデン同盟【本試験H21時期】が結ばれました。各領邦(神聖ローマ帝国を構成する君主国のこと)内でカトリックを弾圧し,〈カール5世〉【本試験H22農民戦争に対抗したわけではない】に対抗したため,神聖ローマ帝国は内戦となりました(シュマルカルデン戦争,1546~47) 【早・政経H31年代】 。さらに,ハプスブルク家(→カトリック)が即位している神聖ローマ皇帝(→カトリック)側の選帝侯(→カトリック)が,ハプスブルク家の強大化を警戒し,1552年にフランス側(→カトリック)について皇帝側(→カトリック)に寝返ると,カトリックの政権同士が戦う状態にも発展します。
 そんな中,すでに〈カール5世〉の在位中にドイツ王に即位していた弟〈フェルディナント〉は,カトリックとプロテスタントの仲直りに努め,1555年にアウクスブルクの和議【本試験H9チューリヒの和議ではない,本試験H12「アウグスブルク(ママ)の宗教和議でカトリック信仰が禁じられた」わけではない】【本試験H16ナントの王令とのひっかけ,本試験H18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H20ルター派を選択する権利が認められたか問う、H28時期を問う(95か条の論題、ドイツ農民戦争との整序)】【早・政経H31時期】を結びました。この中で,「ローマ教会をとるか,ルター派をとるかは,各領邦が自由に選択することができる。ただし住民は自由に選択できない」という領邦教会制度【東京H21[1]指定語句】【本試験H30】が確認されました。神聖ローマ帝国の中に存在する個別の領邦がどんな宗教政策をとるかについて,神聖ローマ帝国皇帝が口出しできないことになったわけです。

 こうして,従来の「ピラミッド的な教会組織により執り行われる儀式(サクラメント)によって信徒の罪をゆるし,信徒が善行によってつぐないをするのを助けるべきだ」とする伝統的なローマ教会と正教会は「旧教」と呼ばれるようになりました。宗教改革以降,ローマ教会はローマ=カトリック教会(またはカトリック教会)といわれることが多くなります。
 ローマ=カトリック教会は,人間に自由意志があることを認め,天国と地獄の間に煉獄(れんごく)があることを認めているほか,のちに崇敬の対象である聖母マリアの無原罪の御宿り(おんやどり,1854),教皇の不可謬性(1870),聖母マリアの被昇天(1950)といった教義が付け加えられています。
 組織は正教会と同じく監督制をとっており,大司教,司教が管轄区を担当し,司教の代理人の司祭が小教区(parish)で信徒を司牧します。聖職者の階級には,現在では司教,司祭,助祭の3つがあり,聖職者は妻帯できないのが原則です。
 一方,「教会組織も司祭(≒神父)もいらない(みんなが司祭なんだ(=万人司祭主義))。信じる心を持った信徒個人個人が,神に対して直接向き合い,聖書の読み方を牧師による説教や自主学習によって学ぶことを通じて神と出会うべきだ」とする〈ルター〉派などの新たな教派である「新教」との鋭い対立が生まれていきます。


 ドイツ人の都市同盟であるハンザ同盟は,15世紀以降,都市内部のツンフト闘争や領邦君主による編入,オランダ,イギリス,デンマーク,スウェーデンなどのバルト海への進出もあり,同盟自体の活動も衰退していきました。1598年には在外商館の一つであるロンドン商館が閉鎖されています。
(注) 「旧教」のことを指して「カトリック」という用法もあります。





○1500年~1650年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン王国,②ポルトガル王国


・1500年~1650年のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン王国

◆カステーリャ王国とアラゴン連合王国は,イベリア半島全域に支配領域を広げる
〈ザビエル〉を生んだナバーラもスペインが併合へ
 アラゴン連合王国とカスティーリャ王国の領域は,それぞれの国王〈フェルナンド〉と〈イサベル〉の“カトリック両王”のときに一体性を強めていました(スペイン王国)。

 両王は1504年にナポリを支配し,1512年にはカスティーリャ王国が,北のナバーラ王国を併合しています。
 このナバーラ王国で生まれ育ったのが,イエズス会(ジェズイット教団) 【東京H27[3]】【追H19セルジューク朝とは無関係】に参加することになる〈ザビエル〉(1506?~1652)です。
 イエズス会は,パリ大学の学生であった〈イグナティウス=ロヨラ〉(1491?~1556) 【本試験H15中国に大砲の技術を伝えてはいない,本試験H19ツヴィングリではない】によってパリで結成され,やはりパリ大の〈ザビエル〉(1506?~52) 【本試験H18】が最初の協力者となりました。
 ナバーラ王国は,フランスとスペイン(カステーリャ=アラゴン)の争いの結果,1515年にスペインに併合されおり,大国の争いにもまれる激動の時代に育ちました。彼は貴族出身で,住んでいたザビエル城(ハビエル城)はいまでもスペインのナバーラ州に残されています。
 〈ザビエル〉はやがて1549年に日本に上陸し,キリスト教(カトリック)を布教することになります。



◆婚姻関係に基づき,スペイン王にハプスブルク家が就任する
ハプスブルク家は婚姻によりスペインを獲得
 しかし,2人の子どもたちが相次いで亡くなり,カスティーリャ王国とアラゴン連合王国の跡継ぎは,次女の〈フアナ〉となります。〈フアナ〉は精神的に不安定となっていったため,一時王権をめぐる混乱が勃発。
 結局,〈フアナ〉の長男〈カール〉が〈カルロス1世〉(位1516~56)としてカスティーリャ王国とアラゴン連合王国の国王(=スペイン王国の国王)に即位しました。“カール”というのは彼の祖父のブルゴーニュ公〈シャルル突進公〉からとられています。

 〈フアナ〉はハプスブルク家の神聖ローマ皇帝の息子と結婚しており,スペイン王位の継承をねらうハプスブルク家の勢力は,カスティーリャの貴族に対抗してフランドル育ちの〈カルロス〉をスペイン国王に推したわけです。

 しかし〈カルロス1世〉はスペインのことなど全くわからず,スペインの言葉も話せない有り様でした(注1)。一方,〈カルロス〉の祖父〈マクシミリアン〉が1519年に亡くなると,ドイツのアウクスブルク【本試験H9「アウグ(ママ)スブルク」は南ドイツ産の銀で繁栄したか問う】を拠点とする富豪フッガー家【本試験H7】による資金貸付を受けてフランス国王〈フランソワ1世〉をおさえて神聖ローマ皇帝に選ばれます。しかし,フッガー家への借金の返済のために〈カルロス〉が身分制議会(コルテス)に上納金を求めたところ,「選挙費用を補填(ほてん)するのに課税するのはおかしい」と,1520年にカスティーリャ地方の諸都市は「誓約団体(コムニダーデス)」を組織して反乱を開始。しかし,このコムニダーデス反乱(コムネロス反乱)が1521年には鎮圧されると,〈カルロス1世〉の支配はようやく安定しました。

(注1) 現在のベルギーの都市ヘントの生まれであり、母語はフランデレンの上流貴族の用いていたフランス語でした。そして戴冠はアーヘンの地でおこなわれます(松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.18)。



◆スペイン国王〈カルロス1世〉(神聖ローマ皇帝としては〈カール5世〉)は新大陸の富によって栄えた
 〈カルロス1世〉がスペインに滞在したのは40年の治世のうちわずか16年間。もともとフランドル地方の生まれであったことに加え,ヨーロッパ各地に広がるハプスブルク家の領域や,新たに発見された新大陸の領土を維持するだけで,大変な労力がかかったからです。
 〈コロン〉(コロン)以降の新大陸への進出は〈カルロス1世〉の代にも進行し,下級貴族出身の〈コルテス〉(1485~1547) 【追H20ピサロのひっかけ】がアステカ帝国【本試験H31ピサロが「アステカ王国」を征服したか問う(誤り)】【追H20インカ帝国ではない】を滅ぼしました【セA H30メキシコは「オランダ」の統治下に置かれたのではない】。〈コルテス〉は莫大な富を手にしましたが,のちに王室に目をつけられ,1535年に新大陸で副王制が導入されると実権を失いました。

 さらにスペイン【本試験H12】の〈ピサロ〉(1475?~1541) 【共通一次 平1:南アメリカの独立運動を指導した人物ではない】【本試験H11】【追H20コルテスではない】がインカ帝国(タワンティン=スーユ) 【本試験H11,本試験H12】を滅ぼします。少数の兵士によって多数の人口をかかえた大帝国を滅ぼすことができたのは,アメリカ大陸に馬が分布していなかったことや,鉄製武器【セ試行】がつくられていなかったこと,ヨーロッパから持ち込まれた天然痘などの感染症がインカ帝国の人々に猛威をふるったことなどが原因です。傀儡の皇帝としてたてられたインカの王族〈マンコ=カパック〉(位1533~1544)【本試験H11:染田秀藤『インカの反乱』が問題文に引用。内容は問わず「スペイン人は虚言を弄し,ビラコチャ神の命令でやってきた使者だと言って,この国へ入ってきた。私はその言葉にだまされて,彼らの入国を許した」と〈マンコ=カパック〉が家臣に語った内容】は,すぐに自分が利用されていることに気付き,反乱を起こしますが鎮圧され,1535年にはリマ市が建設されました。しかし〈ピサロ〉の支配は長くなく,同僚の〈アルマグロ〉(1475~1538)との対立が内紛に発展し,暗殺され,皇帝〈マンコ=カパック〉もその後暗殺されました。実質的に最後のインカ皇帝です。

 新大陸の征服は,征服者(コンキスタドール)が国王の許可を得て個人的事業として遂行されましたが,その富をめぐってスペイン本国と対立。
 スペイン王国は,1524年にインディアス会議を設置し,コンキスタドールをおさえて新大陸の支配を確立しようと,1535年に①ヌエバ=エスパーニャ副王領,1542年に②ペルー副王領を設置し,副王を新大陸に派遣しました。
 新大陸の統治は,司法行政機関(一定の範囲内で立法権も持つ)のアウディエンシア(注)が担当し,都市に市参事会が置かれました。
 ①ヌエバ・エスパーニャ副王はメキシコシティを都に,北アメリカのメキシコから中央アメリカ,カリブ海,さらには太平洋を越えたフィリピン諸島のスペイン領を管轄しました。②ペルー副王はリマに都を置き,南アメリカ大陸を管轄しました。

 インディオと呼ばれた先住の諸民族への課税は,キリスト教徒の布教と引き換えに,王室が植民者(エンコメンデーロ)に対して委任しました。このエンコミエンダ制(注) 【東京H12[2]】の下,先住諸民族を奴隷として取り扱うことは禁じられましたが,実際の取り扱いは過酷であり,持ち込まれた伝染病や農場(赤い染料となるコチニールやタバコが主要産品)・鉱山(銀)での労働により大量の先住民が亡くなっていきました。この惨状を『インディアスの破壊についての簡潔な報告』【本試験H12リード文・図版「アメリカでのスペイン人の残虐行為を指摘したラス=カサスの著作が,著者の意図を離れて反スペイン宣伝のために出版されることがあった」】によって〈カルロス1世〉に訴えたドミニコ会士〈ラス=カサス〉(1474~1566) 【東京H12[2]】の努力が実り,1542年にはインディアス新法によりエンコミエンダ制は廃止されました。しかし植民者の反発は続く,実効性はありませんでした。1550年代以降,精錬技術の発達により銀の積み出しが増加します。先住民は,伝統的にはミタ制(もともとインカ帝国時代には,現物給与が支給され社会保障としての意味合いもありました。「ミタ」はケチュア語で「輪番」という意味)により駆り出され,輪番で強制労働に動員されました。

(注1)増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99。
(注2)同上,p.99。



◆スペイン国王〈カルロス1世〉は神聖ローマ皇帝として“キリスト教帝国”を建設しようとした
 〈カルロス1世〉(カール5世)は,みずからをキリスト教の守護者と自任し,ヨーロッパにローマ=カトリック教会を中心とする帝国を建設させようとしていました。しかし,その壮大な“夢”は①フランス王国,②オスマン帝国,③ローマ=カトリックに反対する勢力によって挫折します。
 ①フランス王国の〈フランソワ1世〉は,イタリア戦争で神聖ローマ皇帝と対立。戦闘と和平を繰り返しました。
 ②オスマン帝国は北アフリカ,西地中海にも本格的に進出し,フランス王国とも結びながら神聖ローマ皇帝を圧迫します。
 ③以上のような国外情勢を受け,神聖ローマ皇帝内での〈ルター〉(1483~1546)による宗教改革に対しては,1555年のアウクスブルクの和議による妥協を余儀なくされました。神聖ローマ皇帝を構成する君主が「うちはルター派がいい」と言えば,それでオーケーということになってしまったわけで,これにて〈カルロス1世〉(〈カール5世〉)の“カトリック帝国”の野望は終了したわけです
 彼はハプスブルク家の領土と在位中に積み上がった莫大な借金を,弟〈フェルディナント1世〉と息子〈フェリペ2世〉に相続して1556年に生前退位し,1558年に亡くなりました。



◆〈フェリペ2世〉は新大陸から輸入した銀と各地に課した重税により,対外戦争をつづけた
 〈フェリペ2世〉は父〈カルロス1世〉とは真逆でイベリア半島にとどまって仕事をし,マドリード【本試験H8カスティーリャ地方の中心都市を問う】に王宮を置いて“太陽の沈まぬ国”と評された広大な帝国支配に当たりました。エル=エスコリアル修道院(宮殿と修道院が合わさった建築物。1584年完成)にはバロック美術に分類されるクレタ島生まれの〈エル=グレコ〉(1541~1614)の宗教画や,幻想的な画風を持つ〈ボッシュ〉(1450?~1516,「快楽の園」で知られる)の絵画が飾られました。
 カトリックに反する勢力に対する締め付けも強化し,プロテスタント(新教徒)だけでなく,イベリア半島に居住するイスラーム教徒からの改宗者(モリスコ)やユダヤ教徒に対する弾圧も強まりました。

 軍事力を強化した〈フェリペ2世〉は,父〈カルロス1世〉以来の対外関係の解決に乗り出します。

 ① フランス王国をイタリアから締め出す
 1559年には長年対立していたフランス国王とカトー=カンブレジ和約を締結し,フランスのイタリアへの進出を阻止しました。また,フランス【追H21アイルランドではない】でユグノー戦争(1562~98) 【セ試行 時期(1558~1603年の間か問う)】【追H21】が始まると,フランス国内のカトリック勢力を支援しました。
 
 ② オスマン帝国との地中海をめぐる戦闘を終結させる
 オスマン帝国が1570年にキプロス島をヴェネツィア共和国から奪うと,ヴェネツィア共和国+ローマ教皇庁+スペインは神聖同盟を結成し1571年にレパントの海戦でオスマン帝国を破りました【早・政経H31当時のオスマン帝国のスルタンはスレイマン1世ではない】。この一戦でオスマン帝国が地中海から手を引いたわけではありませんが,1580年の協定でスペインとオスマン帝国との戦闘が終結し,地中海におけるオスマン帝国との緊張関係はゆるみました。
 なお,レパントの海戦には“黄金世紀”と呼ばれるスペインの華々しい文化を飾る,人物の内面の描写に優れた小説『ドン=キホーテ』(1605前編,1615後編) 【本試験H8】で知られる〈セルバンテス〉(1547~1616) 【本試験H8】【※以外と頻度低い】も参加しています。

 そんな中,〈フェリペ2世〉は1580年には後継者をめぐり混乱していたポルトガル王国に軍事的に進出し,ポルトガル議会の承認を受けて〈フェリペ2世〉がポルトガル王を兼ねることになりました。これ以降1640年まではポルトガル王国との同君連合【本試験H6】となります。ポルトガルの海外拠点をも手に入れた王は,文字通り“太陽の沈まぬ帝国”の頂点に立つことになったわけです。

 ③ 〈フェリペ2世〉のカトリックの押し付けに対し,ネーデルラント北部では独立戦争が起きる
 低地地方(ネーデルラント)の諸都市は,中世以来にフランドル地方での毛織物【本試験H9綿織物ではない】工業で繁栄していました。しかし,ルター派やカルヴァン派といったプロテスタント(新教)の信仰が広がると,〈カルロス1世〉や次の〈フェリペ2世〉は弾圧を強めます。

 特に〈フェリペ2世〉の時期の1567年に派遣された〈アルバ公〉による過酷な取締りに対し,オラニエ公の〈ウィレム〉【セ試行】が抵抗運動を組織して対抗、カルヴァン派の側は「海の乞食(ゼーゴイセン;ゴイセン)という軍事組織を立ち上げて抵抗しました。1577年にはヘントの和約が結ばれ、カルヴァン派の信仰が認められました。
 しかし、1579年にスペインから今度は〈パルマ公〉(1545~92)が派遣され、ネーデルラント南部に擦り寄り、ネーデルラント北部との“切り離し”を図ります(注1)。

 こうした対立が、ハプスブルク家【東京H22[1]指定語句】スペインからのオランダ独立戦争(1568~1648)へと発展していくのです。

 カトリック教徒【セ試行 新教徒ではない】の多い南部【セ試行】の州の一部(ワロン、フランデレン、エノーなど)、〈パルマ公〉の工作によって「アラス同盟」として1579年に独立派から離脱しました(注2)。

 それに対して、一部の南部諸都市(ブリュージュ、イーペル、ヘント、ブリュッセル)などは、宗教的にはカトリックであるものの、オランダ独立戦争に加わり、1579年に北部7州を中心とするユトレヒト同盟【セ試行】【東京H19[3]】に加わります。
 ユトレヒト同盟は1581年に独立宣言を発布(〈フェリペ2世〉の支配権を否定)します。

 しかし1585年には南ネーデルラント最大の貿易港アントワープがスペインによって陥落すると、ネーデルラント南部へのスペインの支配権は残される流れとっていきました。
 独立をねらうユトレヒト同盟側はイングランド王国が支援しており,それを阻止するためにスペイン国王〈フェリペ2世〉は無敵艦隊(アルマーダ=インベンシブレ)を派遣しました。しかし、イギリス海軍により徹底的に破壊され、打撃を受けます(1588年のアルマダの海戦)。


(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。
(注2) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。



◆〈フェリペ2世〉の没後,スペインの国力は衰退に向かう
オランダの独立が大きな打撃となる
 17世紀に入ると,スペイン本国でも支配が動揺するとともに,経済的な衰退も目立つようになります。〈フェリペ3世〉(位1598~1621)により1609~14年にキリスト教に改宗したイスラーム教徒(モリスコ)30万人が主にバレンシアとアラゴン王国から追放されると,農民の減少が食糧危機に発展しました。また,1647~54年流行したペストによって,16世紀に比べ人口も減少しました。オランダ独立戦争の休戦(1609),三十年戦争への参戦(1620)は彼の治世の出来事です。

 1621年には〈フェリペ4世〉(位1621~65)が即位。カスティーリャ王国中心に中央集権的な体制をつくろうとしましたが,1635年に三十年戦争にフランスが参戦すると,カタルーニャ地方での反乱も重なって,対外戦争と反乱鎮圧が王室財政をますます圧迫するようになります。1640年にはポルトガルがフランスとイングランドの支援を受け,スペイン王国から離脱しています(1580年からスペインと同君連合を形成していました。1668年のリスボン条約で独立承認)。


 スペインは結局1648年のウェストファリア条約で、ネーデルラント北部はネーデルラント連邦共和国(いわゆるオランダ)として独立することが承認されました。
 ネーデルラント連邦共和国〔オランダ〕による東インド貿易への新規参入は、スペインだけでなくポルトガルにとっても打撃となりました。
 一方ネーデルラント南部(現ベルギー)は、戦後に〈フェリペ2世〉の娘〈イザベラ〉(1566~1633)が、オーストリアのアルプレヒト(1559~1621)と結婚する際に贈与され、2人の共同統治下に置かれますが、名目上は独立国家とされました。ベルギーの人々はその後「独立」の実現を夢見るようになっていきます(注1)。


 新大陸からスペインへの銀流入は1630年代に激減し,銀の独占体制も崩れ,独立宣言を出したネーデルラント北部やイングランド王国が許可した私掠船 (しりゃくせん,王が特許を与え,外国船を攻撃する任務にあたった民間船のこと。いわば“「海軍」への民間の援軍”であり、両者の違いは紙一重です。なお、当時のヨーロッパでは海賊行為は厳しく禁止されていました) による船の積み荷の襲撃も増加しました。
 17世紀前半には国家破産宣告が何度も出される始末で,国際金融の拠点はネーデルラント北部のネーデルラントへと移っていきました。
 「新大陸でスペインが先住民に対して残虐な行いをしている」という宣伝(プロパガンダ)も,スペインを追い越そうとするフランスやイングランドなどによって流されるようになりました(“黒い伝説”と呼ばれます)。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。



・1500年~1650年のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル

◆ポルトガルはインド洋周辺に「海の帝国」を武力によって築こうとした
王室は各地から財源を募り、アジアの富を集める

 この時期のポルトガルは、前の時期の陶に〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉の持ち帰った莫大な香辛料・宝石に刺激され、王室が許可を与える形でインド洋への進出を進めていきます。

 1515年頃までにインド洋海域の港町の多くがポルトガルの「インド領」(ポルトガル領インド、エスタード=ダ=インディア)に組み込まれていきました(注1)。その事業は王室によるものでしたが、元手となる資金を小国であるポルトガル王国がすべて用立てることができたはずはなく、その多くがドイツ系・イタリア系の商人グループの出資に支えられていました。1515年以降はベルギーのアントワープに商館が設けられ、ここに東インドの香辛料が持ち帰られ、その販売代金によってフランドルの金融業者からあらかじめ募った資金を埋め合わせたのです(注2)。

 その拠点となったのはインド東海岸のゴア。ここにポルトガル国王の権限を代表する副王が駐在し、現地の評議会がインド領の実質的な運営を担っていました(注3)。
 交易に携わっていたポルトガル人の中には、王室や副王に認められる形の合法的な貿易をしていた者もほかに、「私的な」貿易に従事する者もいました。私的に参入したくなるほど、以前からインド洋各地でおこなわれていた地域間の貿易のあげる収益は魅力的だったのです。ポルトガル人と現地人との混血(ユーラシアン)もしだいに増加し、貿易の「現地化」の傾向も進んでいきました(注4)。

 さて、第二代インド副王〈アルブケルケ〉(1453~1515、位1509~15)は、東南アジアの交易の重要拠点であったマラッカという港町を占領。このときここにいたアラブ系ムスリムの処刑を命じています(注5)。こうしてポルトガルは東アジアの海域に進出する手がかりを得ることとなったのです。
 しかし「香辛料貿易を独占して暴利を得る」というビジネスモデルは早々に破綻。西アジアの紅海の入り口にあたる港町アデンをおさえることができなかったため、ここから香辛料が別ルートでヨーロッパに流れ込んむことを阻止できず、またホルムズでも香辛料を積む船の通行を完全にブロックすることができなかったので、香辛料の価格がしだいに下がっていってしまったからです(注6)。

 さらにオランダという東インド貿易の新規参入者の登場を受け、ポルトガルの貿易はさらに不調となり、この時期の終わり頃には斜陽となってしまいます。


(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.59。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.61。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.61。ゴアとポルトガルの連絡は最短でも10ヶ月かかったため、現地の運営に任せるほかありませんでした。
(注4) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.64-65、73-74。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.70。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.71-72。


○1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
◆各地域で国家の統合が進み,宗派の違いから戦争が多発。西欧・東欧の地域差が深まった
イタリアは戦国時代を迎え,権謀術数の時代に
 多くの小さな国家に分裂していたイタリア半島では,1453年にオスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼすと,オスマン帝国の進出の影響を受けるようになっていきます。


 オスマン帝国に対抗するために,イタリアの諸国家は同盟を組んで立ち向かいましたが,1494年にフランス王〈シャルル8世〉(位1483~98)がイタリアに進入し,1495年にナポリを占領する事態に発展します。それに対して,時の教皇でボルジア家出身の〈アレクサンデル6世〉(位1492~1503) 【早・政経H31贖宥状の販売を開始していない】は,神聖ローマ皇帝〈マクシミリアン1世〉やヴェネツィア共和国,ミラノ公国と同盟を組むことで対抗し,フランス王を追い出すことに成功しました。これを第一次イタリア戦争(1494~98年) 【本試験H18】と呼びます。フランスのイタリア進出は失敗しましたが,フランスにイタリア文化が広まるきっかけとなりました。

 ですが,フランスは諦めません。次に,フランスはロンバルディアを領土にしていたミラノ公国(1395~1796)を征服しました。それに対抗してスペイン王国は,ナポリを1513年まで征服します。これが第二次イタリア戦争(1499~1504年)です。

 ボルジア家出身の〈アレクサンデル6世〉は,愛人との子〈チェーザレ=ボルジア〉の軍事力を用いて,諸国を撹乱させようと画策しますが,〈チェーザレ〉は戦死し,教皇を継いだのはローヴェレ家出身の〈ユリウス2世〉(位1503~13)でした。
 彼は1508年にスペイン+フランス+ドイツで,反ヴェネツィアのカンブレー同盟を結成。
 しかし,これではフランスのイタリア半島への南下が容易となってしまいます。
 そこで,スペイン+ドイツ+ヴェネツィアで,こんどは反フランスの神聖同盟を結成します(ウィーン体制の神聖同盟とは別物)。

◆教皇〈レオ10世〉のとき後期ルネサンスが最盛期となるが,宗教改革がおこる
ミケランジェロ,ラファエロ,ダ=ヴィンチが活躍
 この過程で,フィレンツェで実権を握っていた〈マキャヴェッリ〉(1469~1527) 【東京H22[3]】本試験H28】【本試験H7モンテーニュではない】【追H25ガルガンチュア物語の作者ではない】が追放され(メディチ家の殺害陰謀事件に関与していた疑いがかけられたためです),メディチ家から新しいローマ教皇〈レオ10世〉(位1513~1521) 【早・政経H31贖宥状を販売したか問う】が生まれます。
 〈マキャヴェッリ〉は「近代政治学の父」ともうたわれ,宗教や道徳に縛られず,現実主義的に国際関係をとらえるべきだと主張した人物です。『君主論』(1513年) 【東京H22[3]】【本試験H7史料が引用】【本試験H28】において,君主は「キツネのようなずる賢さと,ライオンのような獰猛(どうもう)さ」を兼ね備えているべきだと主張しましたが,それには当時のイタリア半島の食うか食われるかの政治情勢が反映されています。

 一方,新たに即位したフランス王〈フランソワ1世〉(位1515~47) 【本試験H23】はミラノに侵攻し,当地のスフォルツァ家を追放しました。彼が,初代ミラノ公であるビスコンティ家の子孫であるというのが口実です。ローマ教皇はこれを黙認。〈フランソワ1世〉はミラノの〈レオナルド=ダ=ヴィンチ〉【追H26ロマン派の音楽家ではない 】を保護し,フランス滞在時代の〈ダ=ヴィンチ〉は肖像画「モナ=リザ」を描いています。

 そんな中,教皇〈レオ10世〉は,1517年にドイツでの贖宥状(しょくゆうじょう)販売を認めました【本試験H25禁止していない】。一般に,サン=ピエトロ大聖堂の修復資金を集めるためといわれています。
 これをドイツのルターが神学の立場から批判したことから,宗教改革が勃発します。

 その混乱のさなかに,神聖ローマ皇帝選挙が実施されました。ハプスブルク家の〈マクシミリアン1世〉(ドイツ王在位1486~1519,皇帝在位1493~1519)の孫で,スペイン王に就任していた〈カルロス1世〉(位1516~56) 【本試験H23オットー1世ではない】【本試験H30】と,フランス王〈フランソワ1世〉(位1515~47)が対決しました。
 結局,1519年に〈カルロス1世〉が〈カール5世〉【本試験H18聖職者課税問題とは無関係】として神聖ローマ皇帝に即位【本試験H30】しスペイン王と兼ねました。つまり〈カルロス1世〉と〈カール5世〉は,同一人物です。こうしてハプスブルク家のスペインと神聖ローマ帝国(ドイツ)が,ヴァロワ家のフランスを両側から挟む形成が生まれました。そこでフランスは,さらに一層イタリアへの南下を進めていくことになります。

◆カール5世によるローマ占領でローマは荒廃,オスマン帝国の進出も受ける
ローマ劫略(ごうりゃく),ウィーン包囲,プレヴェザの海戦
 1521年には,教皇〈レオ10世〉が神聖ローマ皇帝〈カール5世〉ともに,フランスに支配されていたミラノを奪回し,1525年に〈フランソワ1世〉は捕虜となります(26年に釈放)。これを第三次イタリア戦争(1521~1526)といいます。

 東方では,オスマン帝国(13世紀末~1922)がバルカン半島に刻一刻と迫っていました。1522年には東地中海のロードス島で,ヴェネツィア共和国がオスマン帝国との戦闘で敗北しました。
 イタリア諸国やローマ教皇にとっては,東からオスマン帝国の進入を受けつつ,同時にハプスブルク家の神聖ローマ帝国とスペイン王国,ヴァロワ家のフランス王国の進入を受けるというたいへん苦しい状態が続きます。
 そんな中,1526年,新教皇〈クレメンス7世〉(同じくメディチ家,在位1523~34)は,神聖ローマ帝国のイタリアへの介入に対抗し,フランス王国やヴェネツィア共和国などと同盟を結びました。それに対して〈カール大帝〉はローマを占領(ローマ略奪。「ローマ劫掠」(ごうりゃく)ともいいます),ローマ教皇は降参しました。
 メディチ家の教皇が敗れたため,一時フィレンツェではメディチ家が追放されました。その後は,フィレンツェを除くイタリア諸都市は,フランスではなくハプスブルク家の神聖ローマ帝国のいうことを聞くようになっていきました。

 さて,イタリアが混乱する中,1529年9月にはオスマン帝国がハプスブルク家の中心ウィーン【本試験H25パリではない・世紀を問う】を取り囲む危機(第一次ウィーン包囲)に見舞われます【H29共通テスト試行 地図】。オスマン帝国は,1538年にはプレヴェザの海戦でスペインとヴェネツィアの連合艦隊を破るなど勢いがとまりません【本試験H29】。〈カール5世〉はオスマン帝国対策のために,国内のプロテスタント(新教徒)を一時承認しました。オスマン帝国の脅威がなくなると,この承認をとりさげたので,当然ながら新教徒たちは抗議。プロテスタント(抗議する人)の語源はこれから来ています。
 広大な領土をまときれなかった〈カール5世〉は1556年に生前退位を決断しました。広大な領土は,弟(神聖ローマ帝国)と子(ネーデルラントと南イタリアを含むスペイン王国)に相続されました。


◆〈カール大帝〉の息子〈フェリペ2世〉はイタリア戦争を終結させた
イタリア戦争は終結,グレゴリオ暦が導入される
 子の名前は〈フェリペ2世〉(位1556~98)です【本試験H26カルロス1世ではない】。世界中に植民地を持ち「太陽の沈まない国」とうたわれたスペインの黄金時代の王です。
 〈フェリペ2世〉はフランスとカトー=カンブレジ条約(1559年)を締結してイタリア戦争を終わらせ,オスマン帝国の海軍をギリシアのレパントの海戦(1571)で破って西地中海の制海権を維持しました。

 なお〈フェリペ2世〉は1584年に,日本から派遣された天正少年使節をマドリードで歓迎しています。彼らはその後ローマ教皇〈グレゴリウス13世〉にも謁見し,日本へグーテンベルクの印刷機を持ち帰り「キリシタン版」の印刷に使用されました。しかし帰国する3年前に〈豊臣秀吉〉(1536~1598)は「バテレン追放令」により宣教師を日本から追放する政策に転換しており,彼らの多くは悲惨な目にあいます。

 なお,〈グレゴリウス13世〉は従来のユリウス暦に4年に1度のうるう年を設けた太陽暦【本試験H23太陰太陽暦ではない】のグレゴリオ暦【本試験H23ユリウス暦ではない】を公布した教皇としても有名です。


◆フィレンツェはメディチ家支配に戻り,トスカーナ大公国となった
フィレンツェにメディチ家が戻る
 フィレンツェは,1569年以降,メディチ家の〈コジモ〉の弟の家系に連なるトスカーナ大公国となりました(〈コジモ1世〉(位1569~1574))。大公位はローマ教皇により授与され,メディチ家の世襲となりました。

 この頃,メディチ家の〈カトリーヌ=ド=メディシス〉は,フランスの〈フランソワ1世〉の次男である〈アンリ〉に嫁いでいます。フランスに,フォークやナイフを用いるイタリアの食事作法や,シャーベットなどの料理を持ち込んだのは,彼女と一緒にフランスにわたった料理人たちでした。

 なお,〈コジモ1世〉が〈ヴァザーリ〉(1511~1574)に政務のために建設させたのが,フィレンツェに今も残るウフィツィ美術館の建物(1580完成)。執政室(オフィス)であったため,ウフィツィといいます。なお,〈ヴァザーリ〉は『画家・彫刻家・建築家列伝』(芸術家列連,1550)の著者として,ルネサンス時代の芸術家を記録・論評した人物でもあります。



・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現②サンマリノ
サンマリノは独立を維持する
 サンマリノは独立を維持し,1631年にはローマ教皇〈ウルバヌス8世〉(位1623~1644)により独立が認められています。



・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現③ヴァチカン市国
◆宗教改革の混乱の収拾が図られ,イエズス会の設立が認められる
トリエント公会議で,カトリックの巻き返しを目指す
 ルター派とカルヴァン派の拡大に対して,ローマ教皇は1545年からトリエント公会議【本試験H14コンスタンツ公会議ではない,本試験H25エフェソス公会議ではない,H31ニケーア公会議とのひっかけ】【追H20ルターは教皇の至上権をこの会議で確認していない】【上智法(法律)他H30】を開き,教皇【本試験H31教皇の至上権を再確認】とカトリックの教義の正しさを再確認しました。会議といっても,最終文書ができるまで20年もかかっていますが。
 会議では宗教改革によってプロテスタント(新教徒)から攻撃を受けた点を見直していきます。“やりすぎ”の是正です。要するに「ダメなところはダメ」というわけです。
 宗教改革の発端となった贖宥状(しょくゆうじょう)の販売は禁じられ,聖職者の堕落や腐敗は厳しく取り締まられることになりました。それに聖人(せいじん)の崇拝とか,聖(せい)遺物(いぶつ)(聖人の遺体の一部やゆかりの品)の販売とか,そういったものもやりすぎてはダメですよということになった。
 一方で,プロテスタント側の主張に対しても反論が用意されてました。その過程で〈ルター〉や〈カルヴァン〉の著作を初めとする禁書目録が定められ,宗教裁判所【本試験H14】も強化されました。
 〈ルター〉の訳したドイツ語訳『聖書』も,ギリシア語にもラテン語の原文にない語句が勝手に追加されているとして批判されます(例えば,『ローマ人の手紙』3章28節「……人が義とされるのは信仰のみによる」という訳の「のみ」はルターによる追加です)。
 また,〈カルヴァン〉の予定説もカトリック教会にとってはじつに都合が悪い。すでに救われるか救われないか予定されているというのでは,教会の指導は必要なくなってしまうからです。

 地動説を唱えた〈ジョルダーノ=ブルーノ〉(1548?~1600) 【東京H25[3]】【追H17『アルマゲスト』を著し天動説を体系化したのではない】は宗教裁判にかけられ,ローマで火刑に処されています。
 さらに,教会の栄光をアピールするために,豪華なバロック様式で教会建築物が建てられるようになりました。

 こうしたカトリック教会による動きを対抗宗教改革【追H26】といいます。



 また,失った信者を取り返す動きも活発化。
 イエズス会(ジェズイット教団) 【東京H27[3]】【本試験H9】 という組織が,〈イグナティウス=ロヨラ〉(1491?~1556) 【本試験H9】【本試験H15中国に大砲の技術を伝えてはいない,本試験H19ツヴィングリではない】によってパリで1534年に結成されました。彼の最初の協力者は〈ザビエル〉(1506?~52) 【本試験H18】です。彼はイベリア半島北東部の小さな国ナバラ王国出身でしたが,フランスとスペイン(カステーリャ=アラゴン)の争いの結果,1515年にスペインに併合されていました。イエズス会により,南欧などへのプロテスタントの拡大が阻止されるとともに,大航海時代の海外進出の流れにのってアメリカやアジアで布教をしました。日本にキリスト教を伝えた【本試験H18時期】〈ザビエル〉らがアジア布教の拠点にしたのは,インドのゴア【本試験H24ポトシではない,本試験H27地図上の位置、H29イギリスの根拠地ではない】【追H24イタリアの16・17世紀の海外拠点ではない】でした。イエズス会は厳格な規律のもとで伝道に燃えましたが,日本では江戸時代になると激しい弾圧にあっています。

 神聖ローマ帝国では,カトリックとプロテスタントの対立が,領邦君主と皇帝との争いに重なって,周辺諸国を巻き込む途方もない内戦に発展し,いっそう分裂が深まりました。
 従来の教会の考え方に反する科学の研究も進められるようになり,〈ケプラー〉(1571~1630) 【本試験H12リード文「1609年に『新天文学』をはっぴょうした」】【追H20気体の体積と圧力の関係ではない。それは〈ボイル〉】は惑星の楕円軌道を計算して「惑星の三法則」を発見しました。

 そんな中,神聖ローマ帝国の中にあったボヘミア(チェコ) 【追H21】で新教徒【追H21カトリックではない】による反乱が起きました。ボヘミア王に即位していたオーストリア生まれの〈フェルディナント2世〉(位1619~37)が,領内のプロテスタントの貴族にカトリックを強制したためです。彼は1619年に神聖ローマ皇帝【追H20ルター派の側に立っていない】にも即位し,傭兵隊長に〈ヴァレンシュタイン〉(1583~1634)【本試験H27リシュリューとのひっかけ】を起用します【本試験H29スウェーデンの傭兵ではない】。20年にビーラー=ホラーの戦いで勝って反乱を鎮圧しましたが,フランスの〈ルイ13世〉はそれを警戒。
 当時のフランスはスペインとオーストリアの領邦のハプスブルク家に挟まれており,信仰する宗派が同じローマ=カトリックであることよりも,安全保障上の問題が優先されました。フランスはカトリックであるにもかかわらず,周辺の新教国にはたらきかけたところ,ルター派に改宗していたデンマーク王が神聖ローマ帝国に進軍しました。しかし,皇帝軍の傭兵隊長〈ヴァレンシュタイン〉(1583~1634)によってデンマークは敗北します。
 皇帝軍が北にせまったことから,同じくルター派のスウェーデンも参戦に踏み切りました。国王は〈グスタフ=アドルフ〉(位1611~32) 【東京H29[3]】【本試験H13ポーランド分割に反対していない,本試験H23,H27ミハイル=ロマノフとのひっかけ,H31参戦したのはファルツ継承戦争ではない】です。当時のスウェーデンには,1616年にネーデルラントで設立されていた士官学校の卒業生も仕えており,軍事技術を高めていました(注)。
 スウェーデンは,フランスとオランダの支援もあって南進に成功し,一時休戦しますが,フランスが全面的に参戦したために戦況はますます長期化し,犠牲者数は増えていきます。
(注)菊池良生 『傭兵の二千年史』講談社,2002

 こうしてヨーロッパ全土を混乱の渦に巻き込むことになった三十年戦争(1618~48)【本試験H12地域(ドイツで諸侯がカトリックとプロテスタントの両派に分かれて戦ったか問う)】【追H20,H21】は,1648年にヴェストファーレン(ウェストファリア)条約が締結され終結しました。戦争は実質的にスウェーデンと,初めスウェーデンを支援し,のちに全面的に参戦したフランスの勝利に終わりました。フランスは東方に領土を拡大し,スウェーデンはドイツ沿岸を獲得しバルト海の覇権を確立します。スペインはオランダの独立を承認し,スイスの独立も正式承認【本試験H26第一次世界大戦後ではない】されました。また,神聖ローマ帝国内ではカルヴァン派がルター派と同じ地位となりました。また,神聖ローマ帝国を構成する領邦に完全な主権が認められ,実質的に多数の国家が乱立する状態となりました。各国からはそれぞれ君主や議会を代表する全権が派遣され,対等な形で条約が締結されました。代表を派遣することができたのは,その領域内で最高の権力を持ち,対外的にも独立した権力を持つ(と国際的に承認されている)国家でした。こうした国家を主権国家といい,ヴェストファーレン(ウェストファリア)条約は主権国家同士の間に結ばれた史上初の国際条約でした。


 なお,三十年戦争中のイタリアでは〈ガリレイ〉(1564~1642) 【追H19】が『天文対話』(1632)を発表しています。彼はロマネスク様式で有名なピサ大聖堂にある斜塔(しゃとう)で落体の法則を実証する公開実験をおこなったほか,木星の4つの衛星も発見しています。『宇宙という書物は数学の言葉で書かれている』という機械論的な自然観(自然は一つの機械のように,一定の法則による運動ととらえる見方)の持ち主であり,カトリック教会による宗教裁判にかけられ自分の説を撤回せざるをえなくなったときにも「それでも地球は動いている」とつぶやいたといわれます。


◆教皇〈ウルバヌス8世〉の主導でローマの復興がはじまる
ローマが〈ベルニーニ〉の噴水芸術で飾られる
 三十年戦争(1618~48)が猖獗(しょうけつ)を極める中,ローマ教皇〈ウルバヌス8世〉(位1623~1644)は権威の回復に乗り出します。1633年に〈ガリレオ〉の地動説を2回目の宗教裁判で撤回させ,建築家〈ベルニーニ〉(1598~1680)を支援してヴァチカンのサン=ピエトロ大聖堂前の広場を修築させました(1556~67)。ローマのあちこちに噴水を設置し,美化に貢献します。スペイン広場にある「舟の噴水」など,その多くがローマの風景に溶け込み,現在にのこされています。

 しかし,三十年戦争への介入は失敗し,お金を使いまくったために財政が厳しくなり,以降の教皇庁はふるわなくなります。〈ウルバヌス8世〉の時代はさしずめ“最後の輝き”です。


・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
マルタはオスマン帝国の地中海進出に対抗する
 マルタ島は,東地中海から シチリア島とチュニジアを抜けて西地中海に入る際の“入り口”に当たる交通の要衝です。そのマルタ島にも,オスマン帝国の東地中海への進出の影響が及びます。

 1479年に,地中海への進出をすすめたスペイン王国の支配下にありましたが,1522年にロドス島の拠点を失った聖ヨハネ騎士団(現・マルタ騎士団)が,1530年にマルタ島に移動,ここを拠点とします。
 1565年のオスマン帝国との戦いでも,聖ヨハネ騎士団はマルタ島を守り抜いています。当時の団長〈ヴァレット〉は,現在のマルタの首都名「ヴァレッタ〔バレッタ〕」の語源となっています。



・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑤モナコ
モナコがフランスの保護下に入る
 当時のモナコはグリマルディ家の支配下にありましたが,スペインの影響は残っていました。
 〈オノレ2世〉(位1604~1662)はモナコ「公」の称号を名乗り始め,フランスの〈ルイ13世〉に接近して,その保護下に入ります。
 こうしてモナコは,フランスの保護下に置かれ,スペインの影響力を排除していくのです。




・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
アンドラはフランス王によって「大公国」となる
 アンドラの領域は,12世紀前半にウルヘル司教が支配権を握っていましたが,実質的な統治権は13世紀初めにフォワ伯に委ねられるようになります。
 フォワ伯は司教と対立するようになったため,13世紀後半に両者が対等な立場でアンドラを統治することが定められました。しかし,その後フォワ伯が親戚関係をたどってナバル国王にも即位し,そこからまた親戚関係を経てブルボン家の〈アンリ4世〉がナバラ国王でありながらフランス国王に即位したことから,事態がややこしいことになります。
 つまり,フランスがアンドラの統治権を主張できることとなったのです。
 〈アンリ4世〉は,フランス王と司教1607年にはアンリ4世が,フランス王とウルヘル司教を共同の大公にすると決定して,アンドラは「大公国」となりました。




・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 フランス王国【追H21アイルランドではない】におけるカルヴァン派はユグノーと呼ばれ,カトリックと対立して内乱となりました。これをユグノー戦争(1562~98) 【追H21】【上智法(法律)他H30年代】といいます。1572年には〈カトリーヌ=ド=メディシス〉の意向を受けた国王の命令で,ユグノーの指導者が婚礼出席中に殺害され,ユグノー【本試験H23カトリックではない】【追H29】に対する無差別虐殺に発展しました。これをサン=バルテルミの虐殺【東京H14[3]パリで起きたか問う】【本試験H18アンリ4世による虐殺ではない,H23】【追H29】【上智法(法律)他H30年代】といいます。

 国王〈アンリ3世〉(位1574~89)はカトリック教徒同盟を支援しますが,のちにユグノーの指導者だった〈ナヴァール公アンリ〉(1553~1610)を支持するなど方針は揺れ,最後は暗殺されてヴァロワ朝【本試験H16カペー朝ではない】が滅亡しました。

◆〈アンリ4世〉はプロテスタントを認め,ユグノー戦争を終わらせた
新教徒の国王みずから,カトリックに改宗する
 王位争いにカトリックのスペインと,ユグノー側のイギリスが介入するおそれが浮上すると,虐殺事件のおきた婚礼の新郎〈ナヴァール公アンリ〉が〈アンリ4世〉(位1589~1610) 【追H27重商主義を実施していない】【本試験H9ルイ14世ではない】として即位し,ブルボン朝を成立させます。彼はもともとユグノーでしたが,カトリックに改宗する形で即位し,宗教戦争を丸く収めようとします。1598年【上智法(法律)他H30】にはナントの王令(勅令) 【本試験H9ルイ14世の発布ではない】【本試験H16アウクスブルクの和議ではない】【追H21】【上智法(法律)他H30年代】を出して,ユグノー【本試験H12カトリックの信仰がこれによって認められたわけではない】【追H21】に信仰の自由を認めました。この鮮やかな手法,寛容かつ現実主義的な人柄から,「大アンリ」(Henri de Grand)と慕われ,現在でもフランスで高い人気を誇ります。

 彼のときには1604年にフランス東インド会社【東京H16[1]指定語句】【本試験H16ルイ14世のときではない】が設立されました。イギリスやオランダの東インドに比べると、国の主導する色彩の強いもので(注)、まもなく経営不振に陥りました(実質的には,のち〈ルイ14世〉のときの財務総監〈コルベール〉のちからで本格的な国営貿易会社となります)。
(注)1664年設立の東インド会社の場合、1500万リーヴルの資本金のうち、国王・王族で45%、宮廷貴族・国王役人で16.5%でした。福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.216。



 この頃活躍した政治思想家に,『国家論』を著した〈ボーダン〉(1530?~96)【本試験H16ボシュエではない】がいます。彼は,「宗教的な揉め事にこだわるのはやめよう。宗教の違いに寛容になり,強力な主権国家を作り国家を統一させることが重要だ」と主張しました。

 フランスの政治家〈リシュリュー〉(1585~1642) 【本試験H27ヴァレンシュタインとのひっかけ,H30エカチェリーナの宰相ではない】【追H19アカデミー=フランセーズを創設したか,H24ルイ14世が宰相に登用したのではない】【慶文H29】は,彼は聖職者出身で,1614年の三部会に参加し〈ルイ13世の母〉による導きで宮廷の政治家に登用され,1624年以降は〈ルイ13世〉の宰相となります。なお三部会は1614年の召集以来,1789年まで開催されることはありませんでした【共通一次 平1】【本試験H16】【慶文H29】。いちいち国内の有力者をあつめて意見を聞かなくても済むほどに,王権が強くなったからです。
 また,新教徒(プロテスタント)を支援する形で三十年戦争【本試験H23】【【追H20,追H21】に参戦してハプスブルク家の神聖ローマ帝国側を戦う決断をし,国内でも中央集権的国家を建設するために尽くしました【本試験H12「プロテスタント側」に立ったのはスペインではない】。国内では1639年,ノルマンディ地方で塩の増税に反対する大規模な農民反乱がおきましたが,同年には鎮圧されています(ニュ=ピエの反乱)。

 次の〈ルイ14世〉(位1643~1715)はわずか4歳で即位。宰相の〈マザラン〉【本試験H6特権会社の創設・産業の育成に努めていない(それはコルベール)】【追H29アカデミー=フランセーズを創設したか問う(誤り)】が実質的な政治をおこないますが,中央集権政策に反発があがり,1648年(注)に高等法院【共通一次 平1:三部会ではない】の貴族のおこしたフロンドの乱【本試験H16時期(ルイ14世の親政開始後ではない)】【追H30ドラクロワとの関連を問う】でパリが占領されたので,親政(自分で政治をすること)開始前の〈ルイ14世〉は避難するはめになりました。貴族によるフロンドの乱は1653年まで続きました。

 この時期のフランスで活躍した哲学者に「人間は考える葦である」の『パンセ』(瞑想録(初版1670年)、死後に遺族が断片を編んで発行したもの。パンセとはフランス語の動詞「考える」の受動態で「思考」という意味)【追H28「随」想録(エセー)とのひっかけ】で有名な〈パスカル〉(1623~62) 【追H28モンテーニュとのひっかけ】【本試験H16ルイ15世の時代ではない,本試験H30】がいます。彼の思想にはカルヴァン派の予定説の影響を受けたネーデルラントの〈ヤンセン〉(1585~1638)の考え方が入り込んでいて,自由な発想に満ちあふれています。〈ヤンセン〉の思想(ヤンセニズム,ジャンセニスム)は,フランスの知識人の間でもてはやされますが,のちに1713年に教皇〈クレメンス11世〉により禁止されることになります。
(注)全面的な反乱は翌年から。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122



・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド

◆イングランド王国はローマ=カトリック世界から離脱し,絶対王政を確立した
イングランドは宗教改革でカトリックから離脱する
 イングランドのテューダー朝創始者〈ヘンリ7世〉はアイルランド統治を、有力軍閥であるキルデア伯に任せました。
 〈ヘンリ8世〉も即位10年ほどは父の政策を踏襲。
 引き続き第8代・第9代〈キルデア伯〉を総督として任用します。

 しかし1520年~1533年まで、目まぐるしく総督を交替。結局1532年にキルデア伯が総督に復帰するのですが、イングランド宮廷で行政改革をおこなっていた〈トマス=クロムウェル〉がキルデア伯の権限を縮小しようとすると、するどく対立。
 〈ヘンリ8世〉はキルデア伯を総督から解任すると、伯の息子〈トマス〉 は1534年6月に〈ヘンリ8世〉に反乱を起こします。〈トマス〉は1535年に投降し、乱は鎮圧。
 これ以降、イングランド王が直接アイルランド統治に乗り出すことになりました。

 1541年には、これまでイングランド宗主(Lord)であったイングランド王は「アイルランド王」という地位を採用。こうして「アイルランド王国」が成立します。
 こうして、これまでイングランド国王と敵対していたゲール系の地域有力氏族の長が、王と封建的主従関係を結ぶことで、氏族内部での権力闘争に歯止めがかけられました。この政策を推進したのはアイルランド東部の「ペイル(柵)」(イングランド王権の統治権が及んでいたダブリン周辺)出身の総督府官僚たちです(注1)。
 ペイルの外では改革に応じる地域有力者も少なくありませんでしたが、軍閥の武装解除はスムーズに進まず、反乱も起きています(注2)。
 なお、この時期にはイングランドからの植民も、国王政府・ダブリンの総督府や指摘なプロジェクトなど積極的におこなわれました。

 さて、1603年にイングランドとスコットランドが同君連合の形をとってステュアート朝がはじまります。ステュアート朝は、イングランド、スコットランド、アイルランドの3つの王国をそれぞれの君主としての立場で統治することになりました(注3)。
 ステュアート朝の王はスコットランド出身でありながらイングランド王国のロンドンを拠点としたため、君主不在のスコットランドと、アイルランドの統治に特に気を配ります。
 しかしアイルランドの状況は複雑です。
 支配層も、政治的にイングランドに好意的な層から反抗的な層、宗教的に英国国教会を受け入れる層から拒否してカトリックを信仰する層に分裂していました。とくにスコットランドとイングランドからアルスター地方への入植が活発化したことは、アイルランドのイギリス化(イングランド化、スコットランド化)に拍車をかけることになります。
 こうした動きに対し、1641年にアルスター地方で反イングランド、反プロテスタントの武装蜂起が起き、1642年までに全土でのカトリック反乱に発展。全アイルランドの中央組織「アイルランド=カトリック同盟」が1642年10月に結成され、アイルランドのプロテスタント支配層を圧倒します。
 しかし、イングランドの議会が国王派・議会派に分かれ争う形勢となると、アイルランドのプロテスタント支配層も2派に分裂。さらにカトリック同盟も、国王派・議会派に内部分裂します。国王とアイルランド=カトリック同盟との講和が1649年1月に成りますが、同年同月に国王〈チャールズ1世〉が〈クロムウェル〉率いる独立派により処刑される事態に。
 〈クロムウェル〉は、国王に接近していたアイルランド=カトリック同盟を敵視し、1649年8月にアイルランドを征服(アイルランド征服戦争~1652年。スコットランドは1650年7月に征服戦争)。アイルランドでは大規模な土地没収が実施され、さらなる植民が進行します(注4)。

(注1)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.33。
(注2)たとえば1595~1603年の「九年戦争」は、テューダー朝に対する最後にして最大の抵抗運動です。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.36。
(注3)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.42。
(注4)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.53。




・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑨イギリス

◆イングランド王国はローマ=カトリック世界から離脱し,絶対王政を確立した
イングランドは宗教改革でカトリックから離脱する
 バラ戦争(1455~85)後のイングランド王国にも,カルヴァン派は伝わっていました。そのころ,テューダー朝の王〈ヘンリ8世〉(位1509~47) 【追H18時期,H26シモン=ド=モンフォールの乱の対象ではない】【本試験H4「ヘンリー」8世が宗教改革を断交しローマ=カトリック教会から独立したか問う,本試験H9ヘンリ7世ではない】は子を産まない妻と離婚し,別の女性と再婚したいと考えていました。しかし教皇庁は離婚を認めなかったため,〈ヘンリ8世〉は1534年に国王至上法【東京H21[1]指定語句「首長法」】【上智法(法律)他H30年代】を制定し,イングランド国内の教会をローマ教皇から独立させ,なんと自分自身をイングランドの教会の首長にしてしまうんですね。こうして成立したのが,イングランド国教会【本試験H2フランスから伝えられて成立したのではない】【上智法(法律)他H30 成立年代】です。しかし成立時の儀式はカトリックと大きく変わらず,教会組織もピラミッド型の司教制が残されていました。

 これに反対したのが,大法官にまで上り詰めていた〈トマス=モア〉(1478~1535)です。彼は熱心なカトリック教徒で,国王の離婚とカトリック教会からの離脱に反対したため,反逆罪とされ処刑されてしまいました。
 次の結婚相手〈アン=ブーリン〉(1507~36)は,のちの女王〈エリザベス1世〉を産みますが,のちに〈ヘンリー8世〉により処刑されてしまいました。
 〈ヘンリー8世〉の宮廷画家として,活躍していたのはドイツ【本試験H28スペインではない】の画家〈ホルバイン〉(1497~1543)【本試験H28ベラスケスではない】【早・政経H31デューラーではない】です。〈エラスムス〉の紹介で,〈トマス=モア〉を知り,そのコネクションで宮廷に入り込んだのです。彼はネーデルラントの司祭〈エラスムス〉の肖像画【本試験H28】【早・法H31】も描いています。

 〈ヘンリ8世〉【【追H17ヘンリ3世界ではない・時期は16世紀というのは正しい、H30ジョージ1世ではない】は大土地を所有していた修道院を解散【追H17】して土地・財産を没収しました【本試験H21】【追H30】。この土地を獲得した新興地主階層をジェントリ【追H24プロイセンの貴族層ではない、H26ロシアの社会層ではない、H28近世東ヨーロッパではない】【本試験H3地主層であることを問う,本試験H8ゴイセン,ジャックリー,ヨーマンではない】といいます。彼らは国王に治安判事という役職に任命され,地方の行政・司法をまかされていました。従来の貴族にかわり,彼らを中心にした官僚組織が整備されていくことになります。
 1536年には,13世紀以降影響力を及ぼしていた,イングランドの西部のウェールズを併合しました。

 しかし,教義面での整備は後回しになっていました。次の〈エドワード6世〉(位1547~53)がカルヴァン派の教義をとりいれつつ一般祈祷書を作成させたものの,イングランド国教会は,教義的にはカトリックとほとんど差異がなく,カルヴァン派(イングランドではピューリタン(清教徒)と呼ばれた(注))を信仰する人々の動きも活発化し,女王〈メアリー1世〉(位1553~58) のときに,スペインと結んでカトリック世界に復帰します【本試験H4】。このとき多くのプロテスタント指導者が処刑されたことから,彼女には“血まみれのメアリー”(ブラッディーメアリー)というあだ名がついています(今ではトマトジュースをベースとしたカクテルに,その名が冠せられています)【本試験H4カトリックの復興をはかったのはエリザベス1世ではない(メアリー1世の名は問われていない)】。
 〈ヘンリー8世〉の娘〈エリザベス1世〉も,〈メアリー1世〉の厳しい統治のあおりを受け,少女時代は恵まれない境遇でした。
(注)「ピューリタン」の定義は,定義をする人や時代状況によって大きく揺れ動くので注意が必要です。
 ピューリタンを,イングランド国教会を改革しようとした人々と定義するならば,イングランド国教会の中の改革を求める人々,長老派その他のグループ(分離派,独立派【本試験H2農民の利害を代表していない】【追H21クロムウェルは長老派ではない、H26クロムウェルは長老派ではない】など)まで様々な集団が含まれることになります。しかし,これらの集団にまとまりがあったわけではなく,どのような教会制度を目指していたかにもズレがあります。
 長老派【追H21】は,〈カルヴァン〉がジュネーヴで実践したように主教を廃止して長老主義を導入しようとしたグループであり,住民を地域ごとに教区に組み入れて教会(教(チャ)区(ー)教会(チ))をつくっていこうとした点では,イングランド国教会と同じでした。
 反対に,イングランド国教会から分離した分離派(セパラティスト)や,その流れをくみ軍隊の士官の指示を得た独立派(インディペンデント)は,主教制度も教区教会も否定し,教会というのは個人が自発的に信仰共同体をつくることで成り立つものだとされました。
 これだけ様々な実態をもつ「ピューリタン」が一緒くたにされたのには,信仰の“自由”を求めて戦ったピューリタンを“自由”の象徴とみる,19世紀以降の歴史観が反映されています。 今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 近世』山川出版社,1990,p.84-85。

 ですが〈メアリー1世〉の死後に即位した,〈エリザベス1世〉(位1558~1603)【本試験H4,本試験H8】【早・法H31】が統一法(統一令,1559年) 【本試験H8】【本試験H14スコットランドの教会との統一ではない,本試験H18人民憲章ではない】【追H19】【早・政経H31カトー=カンブレジ条約に調印した王によるものか問う】を発布し,イングランド国教会が確立します。教義的にはカルヴァン派に近く,従来のカトリックの制度も残した形になりました【本試験H4カトリックの復興をはかっていない(それはメアリ1世)】。

 この頃のイギリスではこの頃から,実験にもとづく自然科学が発展しています。
〈エリザベス1世〉につかえた〈フランシス=ベーコン〉(1561~1626) 【本試験H13】が,「調べてもないのに,決めつけるのはやめよう!」「調べてみたからといって,正しいとは限らない。人間は4種類の偏見(イドラ)を持ちやすいのだ」「これからの学問は,新しい(考え方の)道具を使って行うべきだ」と『ノヴム=オルガヌム』(1620)で主張しました。
 彼のように事実の観察から一般法則を導く経験論(帰納法(きのうほう)【本試験H13合理論(演繹法)ではない。合理論とは,調べなくても,理性をうまく用いればアタマの中で組み立てさえすれば,答えなんて出るという説】の手法が学者の間で共有されていくにつれ,実験に基づく科学が発達していくようになりました。例えば,イギリスの〈ハーヴェイ〉(1578~1657) 【追H9種痘法の発見ではない。それはジェンナー】【本試験H2動植物・植物の分類をしていない(それはリンネ)】【本試験H16リンネではない】【追H20時期】はイギリス王立内科医協会の教授・国王〈ジェームズ1世〉の侍医(じい)として,実験に基づいて血液循環説【追H20時期】を発表しました。また,同じく王立協会のメンバー〈ボイル〉【本試験H2質量不変の法則ではない】(1627~91)は「ボイルの法則」【本試験H2質量不変の法則とのひっかけ】(気体の体積と単位体積あたりの圧力は反比例する) 【追H20ケプラーとのひっかけ】を発表しました。王立協会からは,次の時期に大御所〈ニュートン〉(1642~1727)が現れることになります。

 〈エリザベス1世〉の時代の1600年には東インド会社が設立され,アジアとの貿易が開始。このころのイギリスは日本の茶をオランダ経由で知りました。初めて入ってきたのはオランダ,フランス,ドイツと同時期の1630年ころと考えられます。ですから当時はイギリス人は茶を「チャ(チヤ)」と発音していました。その後,1644年に中国のアモイ(厦門)に拠点を築くと,福建語の発音である「テー」を知って,「tea」の発音になっていきます。なお,「チャー」というのは広東語の発音であり,陸路を通じて伝播していったため,ユーラシア各地の言語(モンゴル語,チベット語,ロシア語など)は現在でもこちらの広東語発音の影響を受けています。陸路で伝わると「ちゃ」,海路だと「ティー」ということです(注)。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.33~p.34。

◆ステュアート朝がイングランド王国と国教会優位の体制をつくったため,アイルランドとスコットランドや非国教徒(カルヴァン派)が反発した
 しかし,〈エリザベス1世〉は,1603年に世継ぎを残さぬまま死去しました。そこで,イングランドと遠い親戚関係にあるスコットランド【上智法(法律)他H30】の王家ステュアート家から王を招いて同君連合とすることにし,〈ジェームズ1世〉(位1603~25) 【共通一次 平1】【本試験H2ホッブズとのひっかけ】【本試験H18,本試験H31航海法を制定していない】【上智法(法律)他H30】が即位しました(ステュアート朝【本試験H30時期】【上智法(法律)他H30年代】)(1603~1688/1714(終わりを1714年とすることもあります。名誉革命(1688)以後の王室もステュアート家の血縁関係で王となったからです(注)))。
 ジェームズ1世はアイルランド王も兼任したので,史上初めて,イングランド,スコットランド,アイルランド(ヘンリ8世以来イングランド王がアイルランドを兼ねていました)の3王国の王となりました。
 〈ジェームズ1世〉は絶対王政の代表格としてよく説明されますが,実際のところ常備軍や官僚制は整備されておらず,支配のためには各地のジェントリの協力が必要不可欠でした。彼らの多くは,以前〈ヘンリ8世〉が修道院を解散させたときに新たな土地を獲得した新興地主で,国王から任命された治安判事として,無給で国王に代わって地方における司法や行政を担当していました。彼らは議会にも進出していて,この議会の承認がおりなければ,王は課税をとることすらできなかったのです。たびかさなる戦争で国家財政が悪化しており,〈ジェームズ1世〉は王権神授説【本試験H18】を信奉していたものの,ジェントリの協力がなければ国家運営ができなくなってしまうため,議会に対して高圧的な態度をとることはありませんでした。
 ただ,イングランド国教会【共通一次 平1:旧教ではない】を保護し,英訳の聖書(欽定(きんてい)訳聖書)を刊行。その一方でピューリタン(清教徒)とカトリック【共通一次 平1:国教徒を弾圧したわけではない】を弾圧したため,1605年にカトリック教徒によって火薬陰謀事件というテロ未遂事件が起きました。未遂に終わったことを祝うため,今でもイギリスではガイ=フォークス=デイという祝日になっています。その後の1611年には,英訳聖書を刊行しました。いわゆる「ジェームズ王訳(欽定訳)」です。ちなみにジェームズ1世は,就任後はスコットランドにたった1度しか帰っていません。

 次の〈チャールズ1世〉(任1625~49) 【本試験H31時期を問う】 【上智法(法律)他H30チャールズ2世ではない】は,本格的に課税をめぐって議会と対立しました。北アメリカ大陸にピューリタンが逃れたのも,彼の治世のことでした。1628年に議会は「権利の請願」(Petition(ペティション) of Right) 【共通一次 平1】【上智法(法律)他H30】を出して「議会が認めてないのに勝手に税をとるな」【共通一次 平1】と抗議しました。国王は特別税の承認と引き換えに請願を認めますが,翌年議会を解散してしまいます。

 さらに,スコットランド王国ではイングランド国教会が強制されたため反乱をまねき,アイルランド王国でもカトリックの住民が反乱を起こし,イングランドから入植したプロテスタントの人々が虐殺されているという情報も伝わりました。
 議会はこれらを非難して,国王に議会の主権を認めるように迫りましたが,国王が応じなかったためイングランドの内戦に発展しました。イングランドの内戦は,王党派【追H26】(≒宮廷派)vs議会派【追H26】(≒地方派)に割れて争われました。議会派にはピューリタンが多かったため,これをピューリタン革命(1640~60) 【本試験H6名誉革命とともに「イギリス革命」と総称するが,そこに産業革命は含まない,本試験H12地域(ドイツではない)】といいますが,イングランド王国が優位になることを恐れたアイルランド王国とスコットランド王国との戦争とも連動しているため,近年では「三王国戦争」という呼び名が提唱されています。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122

 議会派のうち、「独立派」【追H26長老派ではない】であったジェントリ出身議員の〈クロムウェル〉(1599~1658) 【本試験H4】【追H18,H19,H26クロムウェル、H29】が,1645年にニューモデル軍(鉄騎隊【本試験H30】が中核となっている)を編成して勝利しました。
 こうして〈チャールズ1世〉【本試験H31処刑されたか問う】【追H26ジェームズ1世ではない、H29ジェームズ1世ではない】【上智法(法律)他H30ジェームズ2世ではない】が1649年に公開処刑【本試験H31時期を問う(17世紀か)】され,共和政がはじまりました。

 また,1649~53年にはアイルランドに遠征し,大部分の土地を奪いました。アイルランドに対するイングランドの植民地化【本試験H4クロムウェルが行ったことを問う。チャールズ1世,チャールズ2世,ジェームズ2世ではない】の始まりです。
 また,処刑された〈チャールズ1世〉の息子は1649年にいったんフランスに逃れますが,スコットランドが息子〈チャールズ〉をスコットランド王にするという宣言を出し,イングランド主導の共和政に抵抗しました。

 スコットランドでは,ジュネーヴで〈カルヴァン〉に学んだ宗教改革者〈ジョン=ノックス〉(1505~1572)が,1560年にスコットランド信条を作成し,その教義と組織はスコットランドの長老派(プレスビテリアン=チャーチ) 【追H21クロムウェルは所属していない。彼は独立派】としてスコットランド議会に承認されていました。のちイングランドとスコットランドの王になった〈チャールズ1世〉は,イングランド国教会の祈祷書をスコットランドに強制したため,スコットランドとイングランドとの間に戦争(主教戦争(いわゆるスコットランド反乱),1639と1640)が起きました【共通一次 平1】。戦争はスコットランドの勝利に終わり,王は軍費調達のために長期議会(Long Parliament,1640)を開くことを迫られ,ここでの議会派と王党派の対立,スコットランド・アイルランド・イングランドの三国の対立が,三王国戦争(いわゆるピューリタン革命,1640~1660)に発展することになりました。



・1500年~1650年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆北部ネーデルラントがネーデルラント連邦共和国としてスペインからの独立を果たす
ネーデルラント連邦共和国(オランダ)が経済発展

 ライン川の河口周辺の低地地方(ネーデルラント)は,16世紀末にフランドル伯領をハプスブルク家が相続し,この地17州を統一しました。神聖ローマ帝国にとって低地地方(ネーデルラント)は,フランスに対する軍事的な拠点としても機能しました。
 ハプスブルク家の〈カール5世〉(スペイン王としては〈カルロス1世〉)の出身地は、現ベルギーのヘントです(注1)

 〈カール5世〉の下でネーデルラント17州は行政の中心ブリュッセルや国際金融の中心アントウェルペン【東京H16[1]指定語句(アントワープ)】を中心として空前の繁栄を遂げます。スペインの統治に反抗的だったブリュージュに代わってアントウェルペンが発展することとなったのです。また、ネーデルラントではブリュッセルが発展します。

 同時期にネーデルラントを拠点に活躍したのは画家〈ルーベンス〉(オランダ語の発音はリュベンス、1577~1640)(注2)や、地図作成者の〈メルカトル〉(1465~94)、人文学者〈エラスムス〉(1465~1536)がいます。〈メルカトル〉と〈ルーベンス〉はベルギーのルーヴェン=カトリック大学出身者で、いずれも国をまたいで活躍した人物でした。

 
 商工業の発展を背景に「金もうけは悪いことではない」と主張するカルヴァン派の信者が増加し,カトリックを信仰するハプスブルク家側により“ゴイセン”(乞食党)【本試験H16スコットランドではない】【本試験H6プロテスタントか問う,本試験H8ジェントリのひっかけ】【追H21】【上智法(法律)他H30】とあだ名されました。

 低地地方を〈カール5世〉から相続した〈フェリペ2世〉は,過酷な反カルヴァン派政策を行って,カトリックを強制しようとしたため【追H21】,低地地方の北部7州【上智法(法律)他H30】はハプスブルク家のスペインからの独立を目指す戦争の火ぶたをが切って落とされました(オランダ独立戦争,八十年戦争) 【追H21「ネーデルラントの独立戦争」】。

 発端は〈フェリペ2世〉の時期の1567年に派遣された〈アルバ公〉による過酷な取締りでした。オラニエ公の〈ウィレム〉【セ試行】が抵抗運動を組織して対抗、カルヴァン派の側は「海の乞食(ゼーゴイセン;ゴイセン)という軍事組織を立ち上げて抵抗しました。1577年にはヘントの和約が結ばれ、カルヴァン派の信仰が認められました。
 しかし、1579年にスペインから今度は〈パルマ公〉(1545~92)が派遣され、ネーデルラント南部に擦り寄り、ネーデルラント北部との“切り離し”を図ります(注3)。

 カトリック教徒【セ試行 新教徒ではない】の多い南部【セ試行】の州の一部(ワロン、フランデレン、エノーなど)、〈パルマ公〉の工作によって「アラス同盟」として1579年に独立派から離脱しました(注4)。

 それに対して、一部の南部諸都市(ブリュージュ、イーペル、ヘント、ブリュッセル)などは、宗教的にはカトリックであるものの、オランダ独立戦争に加わり、1579年に北部7州を中心とするユトレヒト同盟【セ試行】【東京H19[3]】に加わります。
 ユトレヒト同盟は1581年に独立宣言を発布(〈フェリペ2世〉の支配権を否定)します。

 しかし1585年には南ネーデルラント最大の貿易港アントワープがスペインによって陥落すると、ネーデルラント南部へのスペインの支配権は残される流れとなっていきました。


 ちょうどその頃、スペインの無敵艦隊(アルマダ)がイングランドによって破壊的敗北を喫していました。そのため、代わってポルトガルがイングランドによる私掠船(しりゃくせん、国家の承認を受けて海賊行為をすることができる民間船)のターゲットとなり、その結果コショウの値段が高騰。
 リスボンに荷揚げされたコショウは、ポルトガル王室と契約を結んでいたイタリア・スペイン・南ドイツの商人によって販売された一方、ネーデルラント北部〔現・オランダ〕の商人は自前でコショウを販売することができないでいました(注5)。
 こういった事情を背景として、1595~1597年にオランダ初の船団がアジアに派遣され、ジャワ島西部のバンテンに到達したのです。これにより多少の犠牲こそあれ莫大な富をもたらすことが確認され、それ以降、当時のポルトガルをしのぐ船団がアジアとオランダを往復。1599年にアムステルダムに帰ってきた〈ヤコブ=ファン=ネック〉の船団の利益率はじつに399パーセントにのぼりました(注6)。

 こうしたアジア貿易ブームを背景に、ネーデルラント北部の勝利は確かなものとなりました。
 1609年にはスペインとの休戦が成立し,1648年のウェストファリア条約【上智法(法律)他H30 1598年のユトレヒト条約ではない】でネーデルラント連邦共和国【上智法(法律)他H30】として,ヨーロッパ諸国によって独立が認められたのです。

 スペインは結局1648年のウェストファリア条約で、ネーデルラント北部はネーデルラント連邦共和国(いわゆるオランダ)として独立することが承認されました。
 ネーデルラント連邦共和国〔オランダ〕による東インド貿易への新規参入は、スペインだけでなくポルトガルにとっても打撃となりました。
 一方ネーデルラント南部(現ベルギー)は、戦後に〈フェリペ2世〉の娘〈イザベラ〉(1566~1633)が、オーストリアのアルプレヒト(1559~1621)と結婚する際に贈与され、2人の共同統治下に置かれますが、名目上は独立国家とされました。ベルギーの人々はその後「独立」の実現を夢見るようになっていきます(注7)。


 なお、1616年には,〈オラニェ公ウィレム〉の次男である〈マウリッツ〉(1567~1625)が陸軍士官学校を設立。軍事マニュアルを作成し,歩兵・騎兵・砲兵の三科を組み合わせた基本教練を,戦闘計画の立案・運営のプロである将校(しょうこう)の下に,傭兵制ではなく徴兵制【東京H18[1]指定語句】を組み合わせた近代的な軍事制度を完成させています。こうした動きを軍事革命ということがあります。

(注1) 〈カルロス1世〉の母語は、フランデレンの上流貴族の用いていたフランス語でした。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.18。

(注2) 〈ルーベンス〉はベルギー独立前のドイツ生まれ。父母はアントワープ生まれです。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。
(注3) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。
(注4) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.21。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、pp.76-78。
(注6) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、pp.79-80。





◆スペインの支配下に残った地域が,現在のベルギーの起源となる
スペインに従った南部地域は,現在のベルギーへ
 一方,低地地方南部10州はカトリックが多く,軍人〈パルマ公〉の工作もありスペインからの独立運動から途中で離脱し【上智法(法律)他H30】,「南ネーデルラント」として支配されました。

 〈パルマ公〉は,ブリュッセルやアントウェルペン(英語読みでアントワープ,フランス語読みでアンヴェルス)【本試験H19ハンブルクではない】を占領し,国際金融の中心地はこれ以降,北部のアムステルダム【追H19、H27 国際金融の中心地になったのは15世紀ではない】【本試験H2オランダ独立戦争で破壊されたのはアムステルダムではない,本試験H6ネーデルラント南部ではない】【本試験H26場所を問う・リューベックとのひっかけ,本試験H29場所を問う】に移ります。

 アムステルダム中心部の環状運河地区には16世紀末~17世紀初頭にかけて運河ネットワークが張り巡らされ,干拓をしながら市街地が拡張されていきました。運河は,アムステルダム旧市街からいちばん外側の運河まで扇状に広がっています(◆世界文化遺産「アムステルダム中心部:ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区」,2010)。


 ルクセンブルクも,ハプスブルク家の領土にとどまっています。




◆北部7州のネーデルラント連邦共和国(オランダ)は,国際商業・工業・金融の覇権を握った
北部ネーデルラントは覇権国家にのぼりつめる
 北部の7州が中心となって16世紀末に成立したのが,ネーデルラント連邦共和国です。
 7州はホラント州,ヘルダーラント州,ユトレヒト州,フリースラント州,オーファーアイセル州,フローニンゲン州,ゼーラント州。このうち,ホラント州が最大かつ最有力であったため,そのまま日本では「オランダ(ホラントのポルトガル語読みに由来)共和国」と表現するんですね。ちなみにゼーラント州は,オランダ人の「発見」したニュージーランドの語源でもあります。

 7州が主権をもつ連邦共和国ですが,ホラント州の有力政治家を独占していたのがオラニェ公家であり,統領という立場で7州をまとめるようになりました。のちに17世紀にはイングランド王家に嫁ぎ,名誉革命後にはイングランド王に就任するなど,権威を高めていきました。

 1599年にジャワ島から香辛料を山積みにして帰ってきた船隊が,初期投資の約4倍の利益を生み出すやいなや,1602年に世界初の株式会社である連合東インド会社【東京H16[1]指定語句】【上智法(法律)他H30[複数の会社が連合してつくった貿易会社]か問う】(正式名称は連合東インド会社,略称はVOC。6つの会社を合同したので「連合」といいます(注1))が設立され,商人(企業家)たちは独自の軍隊を組織して各地に進出しました(特許状によって、要塞建設・総督任命・兵士の雇用・現地支配者との条約締結などの権利が認められました)。
 第一回の戦隊は1603年に出港し、モザンビークやゴアなどのポルトガル人の拠点を襲撃しながら東インドに到達します。目指すは、ポルトガルの収益の源であった、東南アジアの香辛料です。
 その後、オランダはその産地である東南アジアのモルッカ〔マルク〕諸島とバンダ諸島(現・インドネシア)にも到達。ここはナツメグやクローヴのような高級香辛料の産地でした。

 当時のモルッカ〔マルク〕諸島のテルナテ島とティドーレ島には、イスラーム教の君主(スルターン)がおり、ポルトガルは当初テルナテ島のスルターンと協力。スルターンたちは貿易の利益を背景に、勢力を南に拡大しようとします。
 15世紀末になるとポルトガルはテルナテ島のスルターンと対立し、ティドーレ島に拠点を移します。しかし、香辛料の産地をおさえることは難しく、「独占」とは程遠い状況でした(注2)。

 そんな中オランダは、モルッカ〔マルク〕諸島とバンダ諸島の中間に位置するアンボン〔アンボイナ〕島のポルトガルの要塞を奪い、さらにテルナテ島のスルターンに接近。ティドーレ島に移っていたポルトガル人・スペイン人(当時のポルトガルはスペインに併合されていました)に圧力をかけます(注3)。
 オランダ【追H24ドイツではない】は、モルッカ〔マルク〕諸島とバンダ諸島から運ばれる香辛料貿易の拠点として当初ジャワ島のバンテンを利用していましたが、バンテン王国の支配を嫌い、王国やイギリス東インド会社と戦って奪ったジャカルタをバタヴィアと命名して利用することにしました。住民の12~13人に一人は、東インド会社の傭兵として渡航した日本人でした(注4)。オランダ東インド会社による支配は苛烈で、バンダ諸島では1620年・1621年に住民に対する虐殺事件も起きています(注5)。
 バタヴィア【セ試行】【本試験H6オランダ人が根拠地を置いていたか問う】【追H28オランダか問う】【本試験H18 時期,本試験H24地図上の位置を問う,本試験H26】【セA H30スペインの拠点ではない】へ、この時期、日本から長崎の貿易商の家族とともに追放された人物に,通称〈じゃがたらお春〉(1625?~97,父はイタリア人)がいます(帰りたくても帰れない悲しさを歌った「じゃがたら文」という手紙で江戸時代の日本人にも知られていましたが,贋作であることがわかっています)(#音楽 「長崎物語」“濡れて泣いてるじゃがたらお春”)。

 その後、アンボイナ島のオランダ東インド会社の要塞を「のっとろうとした」という理由により、イギリス東インド会社の商館長・商館員あわせて10人・日本人傭兵9人・1人のポルトガル人の虐殺事件(アンボイナ事件(1623年)) 【セ試行 これをきっかけにイギリスが活動地域をインドに移したか問う】【本試験H13時期(16・17世紀),本試験H22,本試験H24ポトシではない】が発生。この衝撃的な事件を受け、イングランド【本試験H13フランスではない】【明文H30記】の東インド会社は東南アジアに拠点を構えるのではなく、オランダ東インド会社を避ける形での香辛料購入のみを行う消極姿勢へと転換していきました【本試験H20イタリアは進出していない】。

(注1) もともと複数の出資者による東インド会社が各都市にありましたが、それぞれの会社が東インド会社の産物を大量に持ち帰ったら相場が崩れてしまいます。そこで、共和国の政府が間に入ってひとつの貿易会社にまとめようとしたのだ。アムステルダムの会社に有利との懸念もありましたが、ついに1602年に妥協が成立し、アムステルダム、デルフト、ホールン、ロッテルダム、エンクホイゼンの5都市と、ゼーラント州のミッデルブルクに拠点を置いていた6つの会社が合併してできました。つまり、国営企業ではないですし、6つの支部のほかには本社もありません。各支部には造船所があって、独自に艤装(船に装備を施すこと)をおこなって船を東インドに派遣しました。各支部の代表が「取締役会」を構成し運営し、60人中アムステルダム20人、ゼーラントは12人、ほか4支部が7人(当初そのポストは終身でした)という内訳でしたが、実質的な経営方針は取締役会の中から選ばれた17人の重役が担当(一七人会)が担当し、司令・注文はジャワ島のバタヴィアにあるインド評議会(総督が主宰し6人のメンバーからなる)に届けられました。インド評議会にはアジア諸地域間の貿易についてだけでなく、行政・法務・軍務関係の権限もあり、羽田正によれば「アジア本社といってよいほどの重みを備えた存在だった」。オランダの連合東インド会社がイギリス東インド会社と大きく異なっていた点は、ひとつの航海ごとに元本+収益を分配するのでなく、10年間据え置かれた点にあります。それだけ資金調達に余裕があったということです。出資した以上の責任は課されない仕組み(有限責任)は現代の株式会社にまで引き継がれています。(羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、pp.85-89、pp.105-108)。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、p.93。
(注3) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、p.94。
(注4) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、p.95。
(注5) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017年、pp.96-97。



 1600年には〈ヤン=ヨーステン〉(1557?~1623)や〈ウィリアム=アダムズ〉(1564~1620)の乗った帆船リーフデ号が豊後に漂着。〈ヨーステン〉は〈徳川家康〉に保護され江戸に居住し(八重洲(やえす)は彼の名に由来とも),東南アジアとの朱印船貿易【セA H30】に従事しました。東南アジアとの貿易が中心となったのは,〈秀吉〉の朝鮮進出により朝鮮半島が大陸の窓口ではなくなっていたからです。
 〈アダムズ〉は〈家康〉の外交顧問として三浦半島に領地を与えられ〈三浦按(みうらあん)針(じん)〉との日本名も持ち,平戸にイギリス商館を設立しています。
 なお,この時期にオランダの探検家・地理学者〈リンスホーテン〉は『東方案内記』を記し,この中の「ヤパン島について」(第26章)で日本について記述。この中に茶を飲む風習が記載されています。1609年にポルトガルの交易ネットワークをかいくぐり,初めて日本に来航したオランダ人はこの日本茶を初めてヨーロッパにもたらし,当時のイギリスはオランダから茶を買っていました。

 北アメリカ東岸では1626年にニューネーデルラント植民地【本試験H25ニューオーリンズではない】の中心としてニューアムステルダム【セ試行 17世紀初めに東南アジア経営の中心地として建設されたのではない】【追H28建設したのはイギリスではない、H30】(1664年イギリスに占領されニューヨーク【追H30】となる)を建設。
 南アフリカには1652年にケープ植民地を建設【本試験H4スペインの建設ではない】【追H9 1763年のパリ条約によるものではない,H24オランダの植民地か問う、H30フランスの建設ではない】。

 1658年にはインド南東のセイロン島を領有しています【本試験H17】(19世紀初めにイギリスに割譲することになります)。

 さらに太平洋では1642年に〈タスマン〉(1603~59) 【本試験H29】がオーストラリア南部のタスマニア島や,ニュージーランドの探検をしていますが,ケープ植民地が建設され,インド航路への中継地点が確保されましたから,オランダ人の太平洋に対する関心は薄れていきます。ケープ植民地へのオランダ人の植民は1657年にはじまり,オランダ語で「農民」という意味のアフリカーナー(ブール人)と呼ばれました。
 また,すでにスペインやポルトガルによって開発されているユーラシア大陸を南回りでアジアに向かうコースに代わり,北極海を通るユーラシア大陸の北回りコース(北東航路)を開拓した探検家もいました。極寒と氷山と戦った探検家〈バレンツ〉(1550?~97?)は,1594年にノヴァヤゼムリャ(スカンディナヴィアの北東の北極海に浮かぶ島です)に到達,さらに,すでにノルマン人により発見されていたスヴァールバル諸島(スカンディナヴィア半島の北方)を1596年に発見しましたが,1597年に亡くなりました。彼の名は,スカンディナヴィア半島北方に広がるバレンツ海に残されています。

 このようにして世界に海運ネットワークを広げていったオランダですが,のちのイギリスのように国家が主導して貿易政策をおこなっていたわけではありません。しかし,「オランダ商人の利益を守るため国際貿易のルールを決めるべきだ」という声も上がるようになります。
 オランダの法学者〈グロティウス〉(1583~1645) 【東京H22[1]指定語句,H29[3]】【本試験H12時期(1609年頃の西ヨーロッパ)】 【本試験H14,本試験H19リストではない,本試験H22・H25】【追H18】【上智法(法律)他H30】のように,人類なら誰でも守るべき自然法【本試験H25】があるという立場から,『海洋自由論』【本試験H18,本試験H22】において『海は万人に共通のもので,取引きの対象にはなりえない。つまり誰によっても所有されないものの一つだ』とし,公海における航行の自由を定める国際法【本試験H25】が必要だと主張しました。カンタンにいえば,「海はみんなのもの。海賊行為はダメ!」ということ。彼はほかにも三十年戦争(1618~48)の惨禍を目の当たりにしたことから,『戦争と平和の法』【東京H18[1]指定語句】【本試験H12「諸国を巻き込む宗教対立や戦争を見たグロティウスは,『戦争と平和の法』を発表し,国際法の概念を生み出した」か問う】【本試験H14】【上智法(法律)他H30】を著し,国を超えて人類共通に成り立つルールがあるはずだという自然法思想に基づき,国際法を整備することが必要だと説きました(彼は“(近代)自然法の父”ともいわれます)。
 ただし,オランダはのちのイギリスのように貿易に関するルールを他国に強制するところまではイタリませんでした(注)。

 17世紀のオランダでは,海外貿易の発展にともない,商工業が発展すると,さまざまな情報が集まるようになり,学芸(学問+芸術)も発展します。市民の集団肖像画『夜警』(やけい)【本試験H22デフォーではない】【追H29】で有名な“光と影”の使い手〈レンブラント〉(1606~69) 【追H20時期,H29「夜警」を描いたか問う】【上智法(法律)他H30】や〈フェルメール〉(フェルメール=ブルーという独特の鮮烈な青色で有名)といった画家は,教会のほかに商工業者からも仕事を受けていました。
 金融業に従事することの多かったユダヤ人の活動も盛んで,哲学者〈スピノザ〉(1632~77)はその主張が汎神論的(あらゆるものは神につくられたのではなく,神がさまざまな形に変化して現れているという考え)であったために,ユダヤ教団から破門されています。主著は『エチカ』で,オランダにも滞在したことのあるフランスの哲学者〈デカルト〉(1596~1650) 【追H9ソクラテスとのひっかけ】の考え方を批判しました。

(注) この時期に世界中の流通網を拡大させ,資本主義のルールによって統合された世界経済(〈ウォーラーステイン〉は,政治的なルールにより統合された「世界=帝国」(world-empire)に対し,「世界=経済」(world-economy)と呼びました)の「中核」に位置していたとされるオランダは,〈ウォーラーステイン〉(1930~)の唱えた「近代世界経済システム」論ではヘゲモニー国家(覇権国家)といわれます。ただし,“「中核」に位置するオランダが,「半周辺」「周辺」に位置するアジア・アフリカ・アメリカ大陸の諸国・諸地域の富を奪い取っていた”という見立ては,適当ではありません。




○1500年~1650年の北ヨーロッパ

北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 サーミ人はスウェーデンとフィンランド,デンマークとノルウェー,ロシアの領域をまたぎ,遊牧生活を送り,文化を共有していました。17世紀以降にルター派の布教を通してキリスト教化が進みましたが,周辺国への土地の割譲と従属が進みました。サーミ語の聖書はまだつくられていません。
 フィンランドにもルター派が伝わり,フィンランド語聖書の全訳は1642年に完成しました。
 
 1397年にデンマーク王国が中心となってドイツ人の都市同盟であるハンザ同盟(注)に対抗し,ノルウェーとスウェーデンをメンバーとするカルマル同盟〔カルマル連合〕が結成されていました。しかし,スウェーデンではデンマーク支配を嫌う声も増し,独立運動が起きます。
 これに対しデンマークの王〈クリスチャン2世〉は,ストックホルムでスウェーデンの貴族を100名以上虐殺します(いわゆる「ストックホルムの血浴(けつよく)」)。これを受け,反デンマークの動きは活発化し,1523年にドイツの自由都市リューベックの支援を受けて,スウェーデンがカルマル同盟(カルマル連合)から独立しました。
 国王に即位したのは,〈グスタフ=ヴァーサ〉(グスタフ1世,位1523~60)です。ルター派を採用してカトリック教会の財産を没収して国王の管理下に起き,絶対王政を確立していきました。このとき,スウェーデンの支配下にあったフィンランドもルター派に改宗しています(スウェーデンの宗教改革)。16世紀末にはカトリックを信仰するポーランド=リトアニア王がスウェーデン王を兼ねましたが,スウェーデン国内ではルター派の勢力が優勢となりました。




◆モスクワ大公国のバルト海進出をめぐり,スウェーデンやポーランドを巻き込む戦争となった
バルト海をめぐる瑞(スウェ)・波(ポー)・モスクワ大公国の駆け引き
 1550年代には,〈イヴァン4世〉(位1558~84)のモスクワ大公国が勢力を西に強めます。

 スウェーデン王国の〈グスタヴ1世〉(グスタヴ=ヴァーサ,位1523~60)はロシアとの対決を恐れバルト海東岸への進出には消極的でしたが,後を継いだ〈エーリック14世〉(位1560~68)はモスクワ大公国とのリヴォニア戦争(1558~83)の過程で,1561年にエストニアを併合しています。
 結局,モスクワ大公国はリヴォニアを得ることはできず,東方への進出に切り替えます。

 一方,ポーランド=リトアニアもロシアとのリヴォニア戦争の過程で,ドイツ騎士団であったリヴォニア(エストニア南部からラトビア北部にかけての地方)を保護下に収めたため,スウェーデンとポーランドとのバルト海沿岸をめぐる対立が勃発しました。

 スウェーデンの〈エーリック14世〉は1562年にフィンランド湾を封鎖し,デンマークとハンザ同盟の諸都市との対立も生んでいます。1563年にはデンマークがスウェーデンを攻撃し戦争(北方七年戦争,1563~70)が始まりましたが,国内では〈エーリック〉の圧政への帰属の不満が高まり1568年に反乱により廃位され,両国の敵対意識は後世まで残されました。1581年にはロシアとの講和で,スウェーデンがフィンランド湾をほぼ支配下に置いています。

 スウェーデンは三十年戦争(1618~48)の結果,対岸のドイツの一部を獲得し,1658年にはノルウェーから北海に通じる領土やスウェーデン南部のスコーネ地方も得て,最大領域を獲得しました(北海に通じる領土は1660年に返還しています)。

 デンマーク=ノルウェーも,16世紀前半にルター派に改宗します【本試験H21時期】。
 デンマークでは15世紀後半に書き言葉のデンマーク語が国と教会の公用語となり,ノルウェーも含めてデンマーク語訳聖書が用いられました。16世紀半ば以降,ロシアやスウェーデンがバルト海に支配圏を広げようとするとデンマークはこれと対決しましたが,スウェーデンとの戦争(北方七年戦争,1563~70)に敗北。16世紀末には〈クリスチャン4世〉(位1588~1648)が立て直しを図りました。

 1260年にデンマークの事実上の植民地となっていたアイスランドは,1550年にルター派が強制されました。1588年にアイスランド語訳聖書ができています。
(注)ハンザ同盟に加盟する諸都市は15世紀以降,内部のツンフト闘争や領邦君主や,重商主義政策をとる絶対主義諸国との抗争もあり,同盟自体の活動も衰退していきました。



・1500年~1650年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドの大部分はスウェーデンの領土の一部となっています。
 スウェーデンとデンマークやロシアとの戦争時には、フィンランドの農民が戦争に動員されました(注1)。
 一方で、フィンランドにおける学芸も発達。フィンランド南部のオーボ司教〈アグリコラ〉(1510?~57)は宗教改革を推進し、フィンランド語文法書である『ABCの本』を出版(1543)しのちに「フィンランド語の父」と呼ばれることになります。1640年にはオーボ王立アカデミーが設立され、知識人の活動が活発化。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.31。



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・1500年~1650年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 カルマル連合〔同盟〕内部で表面化していたスウェーデンとデンマークの争い。
 1520年にはその対立を背景に、ストックホルムで虐殺事件がおきます(「ストックホルムの血浴」)。
 これがもとでカルマル連合は形骸化。
 父が殺された〈グスタヴ=ヴァーサ〉がデンマークと戦い、1523年にスウェーデン王に即位(位1523~60)します。ここから〈グスタヴ2世アードルフ〉(位1611~32)、〈クリスティーナ〉(位1632~54)まで3代はヴァーサ朝と呼ばれます(注1)。
1563~70年にもスウェーデンはデンマークと戦争を起こしています。

 北エストニアにまで領土を拡張したスウェーデンは、ロシアとの間に1570年~95年に戦争を起こしました。1595年の講和条約により、スウェーデンとロシアとの国境が、フィンランド湾から北極海までの間で画定されました。

 そんな中、スウェーデンにも宗教改革の波が及びます。
 ポーランド王・リトアニア大公も兼任していたスウェーデン王〈シーギスムンド〉(ジグムント3世、位1592~99)に対して、1599年にスウェーデン議会は廃位を要求。すでに1536年にはスウェーデンの議会はルター派の教会であると宣言していましたが、〈シーギスムンド〉はカトリック教徒であったからです。
 これによりポーランドとの関係が悪化。王位をめぐる争いとなりますが、対抗して即位した元・摂政の〈カール9世〉(位1604~11)の勝利に終わります(注2)。

 〈グスタヴ2世アードルフ〉のときに絶対王政の基盤を整えたスウェーデンは、三十年戦争で北ドイツまで領土を拡大していきます。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.30。
(注2) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.33。


●1650年~1760年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展① (沿海部への重心移動),南北アメリカ:欧米の植民地化②
 中央ユーラシアの遊牧民の軍事力は火器の普及により劣勢に向かう。各地の広域国家は集権化を目指し海上交易に従事する。

この時代のポイント
(1) 「小氷期」という寒冷化の時期にあたり,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられる。
(2) 各地で開発による環境負荷が大きくなるが,イギリスでは労働節約的・資本集約的な技術(イノベ)革新(ーション)が進み,限界突破に向かう。
 アメリカ大陸はスペインが広大な植民地を維持しているが(ポルトガルはブラジルを支配),カリブ海の島々にはオランダ,イギリス,フランスが進出をすすめている。 中国の清は中央アジアへの進出を進め,チベット,タリム盆地のウイグルとジュンガル盆地のモンゴル人(新疆)を制圧して間接統治を実現した。一方,キリスト教の布教を禁止し,末期には外国貿易を広州一港に限定し,海禁を維持しようとした。
 中国南部の住民は東南アジアに移住し南洋(なんよう)華僑(かきょう)となり,「鎖国」政策前には日本人の日本(にほん)町(まち)との「出会い貿易」や東南アジアの現地政権への介入を通してインド洋~南シナ海・東シナ海の交易に従事した。
 オスマン帝国では第二次ウィーン包囲が失敗しバルカン半島の領土を失う。イランのサファヴィー朝も〈アッバース1世〉の最盛期の後は衰退。南アジアのムガル帝国でも分裂に向かい,イギリスとフランスの沿岸部への進出がすすんだ。
 1755年にマグニチュード8.5~9.0と推定されるリスボン大地震が起きるとポルトガルは打撃を受け,ヨーロッパの海外交易の覇権はオランダ,イギリス,フランスに移る。イギリスはオランダとの英蘭戦争【セ試行 時期】【早法H24[5]指定語句 論述(17世紀の英蘭の友好・敵対関係)】で北アメリカのニュー=アムステルダムを獲得し,ニューヨーク【東京H22[1]指定語句】を建設。フランスとの第二次英仏百年戦争の過程で,フランスを破りインドにおける覇権を確立している。

 イングランド(イギリス)王国とフランス王国が海外進出を推進して覇権を争った(第二次英仏百年戦争)。プロイセンとオーストリア,ロシアも中央集権化をすすめている。

解説
 各地域では,国家による統合が進んでいきます。現在,各国家・地域で「伝統文化」とされるものには,この時代に国家が統合される過程で形成されたものが少なくありません。1450年頃~1640年頃(「長い16世紀」と呼ぶことがあります) には,ユーラシア大陸の各地域に「帝国」を中心とする秩序が生まれ,活発な交易関係が形成されていました。
 しかし,「長い16世紀」の後半にあたるこの時期は,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられ,政権の崩壊や社会不安が各地で起こるようになっています。1645年~1715年にかけて太陽活動が低下し地球の寒冷化が進んだことも原因の一つと考えられていますが,18世紀末にかけて人口の増加に資源の調達重要が追いつかなくなっていたことも原因に挙げられます。このうち化石燃料の石炭と広大なアメリカ大陸,それに世界規模の海運ネットワークを確保していた西ヨーロッパ諸国は,18世紀末以降になると急速な経済発展を遂げていくことになります(この転換点を歴史学者〈ポメランツ〉(1958~)は「大分岐」(the great divergence)と呼んでいます)。

 ヨーロッパ内部では「長い16世紀」の前半に神聖ローマ帝国の〈カール5世〉の目指した「帝国」づくりは実現しませんでしたが,キリスト教を保護する複数の王朝が併存する関係は維持されていました。しかし,王朝ごとに領域国家の形成がすすみ,キリスト教の「宗派」を巡る対立も生じると国家同士の戦争が相次ぐようになりました。そこで諸国は,主権国家体制によって勢力均衡をめざす仕組みを形成し,安全保障を図るようになっていきます。この時期のヨーロッパ諸国は伝統的に「近世」(きんせい;初期近代)と区分される時期(15世紀末~18世紀末)の終わりにあたり,ルネサンス,科学革命,宗教改革,絶対王政を通して,のちの「近代」(後期近代,18世紀末~20世紀初め)に通じる過渡期に位置づけられます。

 南北アメリカ大陸では,ヨーロッパによる政治的・経済的な従属が引き続き進みます。一方,南北アメリカに植民したヨーロッパ系住民は,大西洋をはさんでヨーロッパの啓蒙思想の影響も受け,次第に政治的な独立を目指すようになっていきました。南北アメリカ大陸の先住民による抵抗も試みられますが,ヨーロッパ系住民との混血も進み,南北アメリカ大陸の社会構成は地域によって多様化・複雑化していきます。

 一方,アジアでは東南アジアの港市国家を中心に海上交易が隆盛し,ユーラシア大陸の農耕定住民の地帯で大砲・銃砲を駆使した大規模な軍事力を編成した国家による統合が進んでいました。ヨーロッパ諸国は初めアジアで交易拠点のみの支配にとどまりましたが,次第に内陸部も含めた領土支配に向かっていきます。それでも,少なくとも18世紀末までは,西ヨーロッパと中国との間には市場経済や産業革命(工業化)につながる工業の発展,それに生活水準の面で大きな違いはなかったとみられます(注)。
 他方,ロシアのシベリアの進出や清のモンゴルやタリム盆地への進出により,中央ユーラシアの騎馬遊牧民の勢力は急速に衰退していきました。アフリカ大陸では大西洋奴隷交易の影響を受ける地域も生まれています。
(注)経済学者の〈ポメランツ〉(1958~)は,市場経済や工業の発達,生活水準などの面で,西ヨーロッパと中国の江南地方には18世紀末まで大きな差はなかったと論じています(ポメランツ,川北稔監訳『大分岐(the great divergence)――中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年)。





●1650年~1760年のアメリカ
○1650年~1760年のアメリカ  北アメリカ

・1650年~1760年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国,②カナダ
◆北アメリカではフランス,イギリス,スペイン三国が勢力圏を争う
インディアン諸民族の抵抗が粉砕されていった
 1650年頃から,フランス人植民地(ヌーベルフランス)も,イロクォワ語族のインディアンによる襲撃を受けるようになり,フランス=イロクォワ戦争(いわゆるビーバー戦争)が始まりました。一方,白人の持ち込んだ感染症により,先住民の人口も減りつつありました。


 北アメリカ大陸の東部沿岸地方には,16世紀末からイングランド(1707年以降は大ブリテン連合王国(イギリス))が進出し,ニューイングランド植民地【追H29南部ではない】を形成していました。
 1675年~1676年にはイングランドの植民地ニューイングランドで,先住民ワンパノアグ〔ワンパノアーノグ〕人の〈メタコメット〉〔メタコム〕(1639~676)との戦争が起こり,ワンパノアグ人側が大敗しました(イングランド側は,フィリップ王戦争と呼びました)(注1)。これは植民地時代の最大の戦争で,17世紀初めに25,000人いたニューイングランド南部の先住民は,戦後には1500人程度となってしまい,ポーハタン人は17世紀終わりにはほとんど壊滅しました(注2)。

 ペンシルヴェニアでは,創設した〈ウィリアム=ペン〉の方針に反し,入植者はインディアンの土地を奪うようになっていきました。



英仏がインディアン諸民族の対立に介入する

 北アメリカ北東部ではヨーロッパが毛皮交易を始めたことで,先住民同士の戦いが起きるようになります。ニューヨーク北西部のイロィォワ語族のモホーク人,オナイダ人,オノンガダ人,カユーガ人,セネカ人(注3)は,すでに政治的連合を形成し,この頃になるとヨーロッパ人の侵入に共同で立ち向かうようになっていました。
 フランスの援助するヒューロン人が,イギリスとの関係を持つイロクォワ語族との戦いにより敗退し,フランスは毛皮の交易相手として重要なパートナーを失います。

 1701年にフランスと先住民はモントリオール条約で和議を結び,フランスはイロクォワ語族の政治的連合を「国家」とみなし,さらにイギリス・フランスと協力せず中立を守ることが定められました。
 しかし,1754年にイギリスは,フランスの植民地の攻撃を開始します。これが,フレンチ=インディアン戦争です。

 イロクォワ同盟はイギリス側にたち,アルゴンキン語族のモホーク人やミクマク人はフランス側に立って戦うことになりました。代理戦争です。
 また,フランス領ルイジアナでは,フランス側にチョクトー人が,イギリス側にチカソー人がついて,チカソー戦争(1720~60)が戦われていました。これも英仏によるミシシッピー川流域をめぐる代理戦争です。

 1711年からは南方のカロライナ植民地でもインディアンと白人入植者との戦争が始まります(1711~15のタスカローラ人との戦争)。1715~17年のヤマシー戦争では,ヤマシー人やクリーク人が敗れましたが,クリーク人はスペイン植民地のフロリダに逃れてセミノール人と合流し,19世紀前半に3度のセミノール戦争(1817~18,1835~42,1855~58)を戦うことになります。
 なお,フロリダのインディアンは,この地に逃れてきたアフリカ大陸出身の逃亡奴隷のコミュニティと提携し,「ブラック=セミノール」と呼ばれる集団に発展します。

 また,1730年代ころまでにスペインが持ち込んだ馬が,メキシコから大平原地帯に伝わり,馬によるバッファロー狩りがおこなわれ,生息数が激減し始めます。また,インディアン諸民族の中には,馬を利用する民族も現れるようになっていきました。


 フランスはヌーヴェル=フランスを1663年に直轄植民地とし,西インド会社に管轄させました。財務総監の〈コルベール〉は,毛皮や木材の供給先や,王立のマニュファクチュアで生産した製品の輸出先として,ヌーヴェル=フランスを重視していました。1682年には〈ラ=サール〉がミシシッピ川からメキシコ湾に到達し,流域を「ルイジアナ」と命名しています。18世紀には,ヌーヴェル=フランスの経済が活性化し,毛皮だけでなく,小麦,えんどう豆,からす麦や,木材,アザラシ油や魚類の輸出が増えました。この頃から,ヌーヴェル=フランスのフランス系住民の間には,「カナダ=フランス語」が広まり,自らを「カナディエン(カナダ人)」と呼ぶようにもなっています。
 また,1718年にはフランス領ルイジアナのミシシッピ川河口に,ヌーヴェル=オルレアン(新しいオルレアン)を建設。のちのニューオーリンズ(英語読み)です。カリブ海方面からの物資輸入の基地として栄えました。

 1713年にイギリスは,スペイン継承戦争(植民地ではアン女王戦争) 後のユトレヒト条約でニューファンドランド島【本試験H31オランダが獲得したのではない】とノヴァスコシア(アカディア)も獲得しましたが,北アメリカ大陸の大部分はフランスの植民地のまま残っていました【本試験H2地図(ユトレヒト条約による北米植民地の支配地域を問う)】。
 イギリスの政府は,植民地を発展させるために,ある程度の自治を許しました。”がっつり支配するよりは,資源の輸入先や市場としてゆる〜くキープしておいたほうが楽”というわけです。この政策を”有益なる怠慢”ともいいます(“なまけているほうがラクだから,がっつり支配するのは避ける”という意味)。




北部と南部で異なる植民地が形成されていった

 イングランド人の北米植民地は,1607年のヴァージニアから1732年のジョージアにかけて13に増えていきました。これを13植民地【本試験H19フロリダは含まれない】といいます。
 北から以下の通り。この時期に成立したのは下線を付したものです。

①マサチューセッツ【本試験H19】(1629,1691にプリマスを併合)byマサチューセッツ湾会社
②ニューハンプシャー(1679にマサチューセッツから分離)
③コネティカット(1636)by〈トマス=フーカー〉
④ロードアイランド(1636)by〈ロジャー=ウィリアムズ〉
⑤ニューヨーク【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ,本試験H19】(1664)by〈ヨーク公〉
⑥ニュージャージー(1664)by〈ジョン=バークレー〉,〈ジョージ=カータレット〉
⑦ペンシルヴェニア(1681)by〈ウィリアム=ペン〉
⑧デラウェア(1703にペンシルヴェニアから分離)
◆⑨メリーランド(1634)by〈ボルティモア卿〉
◆⑩ヴァージニア【本試験H19】(1607最古)byヴァージニア会社
◆⑪ノース=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
◆⑫サウス=カロライナ(1663)by〈クラレンドン卿〉ら8人の貴族
 ⑪・⑫は1729年に南北に分離
◆⑬ジョージアです(1732)by〈オグルソープ〉
 (◆印のものは「南部」植民地と呼ばれる)。

 いくつかピックアップしましょう。


◆⑪・⑫カロライナ植民地
 カロライナ植民地は,1663年にイングランド国王〈チャールズ2世〉が,王政復古(1660年⇒この時期のイングランドを参照)で功績のあった8人の貴族にご褒美として授けたのが始まりです。北緯29度~36度30分までの領域が直線的に引かれています。しかし植民者はなかなか集まらず,免役地代(土地所有者に課せられた税)を低くするなどの措置を図ったもののうまくいかず,1689年に新たに資金を集め移住者を募った貴族が新しい都市チャールズタウンを建設。領主が総督を任命し,貴族的な支配層が評議会を形成するという内容の憲法は,思想家・政治学者の〈ジョン=ロック〉(1632~1704)が起草したとされています。1712年には植民地の北部・南部が別々の総督の監督下となり,1719年に領主制が廃止されると,1729年に両者は別々の王領植民地として再編されました(注5)。


◆⑬ジョージア植民地【追H2719世紀のイギリスは生糸をジョージアから輸入していない】
 ロンドンの貧しい人々を救おうと,人道主義者の〈オグルソープ〉(1696~1785)が1732年に〈ジョージ2世〉(位1727~1760)から特許状を得て成立した。やはり〈ジョージ2世〉のとき1752年には王領植民地となった。
 イングランドの植民地の「南部防衛」と「慈善」というユニークな成立事情を持つジョージア植民地では,初期の頃,黒人奴隷の輸入を禁止する先駆的な特徴も持っていた(注6)。



 北東部ニューイングランドでは,本国で迫害を受けたプロテスタントたちが,集まってタウンを形成し,住民集会(タウン=ミーティング)で直接民主主義によって自治をおこなうことが許されていました。また,経済的には,工業(製鉄・造船)が発達し,小麦などの農業も行われていました。
 一方の南部では,西インド諸島から黒人奴隷を輸入し,大農園(プランテーション【東京H9[1]指定語句】)で藍(青い染料がとれる植物)・タバコなどを商品として生産していました。
 この北部と南部の経済構造の違いは,19世紀中頃に勃発する南北戦争という内戦の遠因になっていきます。

 なお,1728年にデンマーク人〈ベーリング〉【本試験H16時期・イェルマークではない】が,ロシアの〈ピョートル大帝〉(位1682〜1725)の命でベーリング海峡を発見し,1741年に北アメリカ大陸の北西部アラスカ【本試験H18時期(17世紀ではない)】に到達し,領有しています。ロシアは,1492年の〈コロン〉のアメリカ発見に約250年遅れたものの,ついに北アメリカ大陸にまで到達してしまったわけです。ロシアは,アラスカ周辺のラッコの毛皮を,中国と交易して利益を上げました。〈ジェームズ=クック〉も北アメリカの太平洋沿岸を探検しており,イギリスもラッコ漁の利権をめぐり,スペインと争うことになりました。

 17世紀の終わり頃から,ニューイングランド地方の植民者たちは西インド諸島のフランス人から糖蜜(砂糖を製造するときにできる液)を輸入して,自分たちでラム酒をつくるようになっていました。西インド諸島のフランス人たちはニューイングランド製のラム酒を買い,それで西アフリカの奴隷を買い付ける“第二の大西洋三角貿易”を始めていました。イギリスは,イギリス資本のラム酒製造を守るため1733年に糖蜜法を制定して規制を始めますが,糖蜜の密輸は続けられました。
 この酒はインディアンにももたらされ,交易のために多数の毛皮獣を殺すとともに,飲酒への依存などの弊害もみられるようになりました。



(注1) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。
(注2) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.29。
(注3) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.30。
(注4) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.30。
(注5) 紀平英作編『新版 世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,pp.36-37。
(注6) 西出敬一「ジョージア植民地における奴隷解禁論争」『徳島大学総合科学部人間社会文化研究』10巻,2003年,pp.83~97。



○1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 オランダ,イギリス,フランスは17世紀に入るとカリブ海に植民地を建設するようになります。彼らがねらったのは,スペインの防備の手薄な,小アンティル諸島です。
 イギリスでは1651年に航海法【本試験H31】が〈クロムウェル〉(1599~1658) 【本試験H31ジェームズ1世ではない】により制定され,オランダ船の出入りを規制するようになっていました。「金銀財宝を持ち込めば国は豊かになる」という重金主義の時代が幕を閉じ,「いかに輸出額を輸入額よりも増やすかが,国を豊かにする秘訣!」という重商主義の時代が幕を開けていくのです。
 〈クロムウェル〉は取引先としてアメリカ大陸を重視し,1654年にカリブ海のジャマイカを占領しています。17世紀の本格的な砂糖ブームに乗って,イギリスは大西洋をまたにかけてアフリカ西岸【共通一次 平1「東岸ではない」といいたいようだが,奴隷の積み出しは必ずしも西岸からとは限らない(モザンビークも)から,微妙な選択肢である】【本試験H5主な拠点が西アフリカ沿岸であることを問う】と南アメリカとを結ぶ三角貿易(大西洋三角交易) 【東京H25[1]指定語句】 【共通一次 平1】を発展させていきます。
 マニュファクチュア(工場制手工業)で生産した商品をアフリカに持ち込んで奴隷を購入し,奴隷を中間航路でアメリカ大陸のスペインなどの植民地【本試験H13スペイン植民地で黒人奴隷が導入されたかを問う】に運んで売りさばき,カリブ海の島々のサトウキビ農園【共通一次 平1「農場などでの労働力として使役されることはなかった」わけではない】で奴隷を働かせ,生産した砂糖【本試験H4】を仕入れてヨーロッパで売る。奴隷を含むモノとカネの流れは,全体としてはこのようになっていました。イギリスはこの大西洋三角交易で蓄えた資本を元手として,1760年代から始まる産業革命(工業化)に突入していくことになるのです。




○1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

・1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
 メキシコはスペインのヌエバ=エスパーニャ副王領として植民地支配されています。
 先住民にはレパルティミエント制による低賃金労働が強制され,人口が激減。1631年にレパルティミエント制は廃止されました。

 また17世紀後半のメキシコでは、メキシコの景観や歴史をモチーフとした屏風(【大阪H31 1690年頃に製作された「とても気高く忠誠心に篤いメキシコ市」の屏風】)のように、日本文化の影響もみられます。
 これには同時代の東アジア情勢が関わっています。
 当時の清は台湾の〈鄭成功〉と対立し海禁策をとっていましたが、引き続き東シナ海・南シナ海の中継貿易の中心を担った台湾は、東南アジアに進出していたスペインに日本の文物を伝えていたのです【大阪H31「スペインのセビーリャにあるインディアス総文書館の税関記録」において、1660年以降、台湾からマニラへ寄港した商船の積載品の一部として日本製磁器に関する情報があったことを題材とする】。スペインはフィリピンのマニラ【大阪H31[3]論述指定語句】から太平洋を横断し、中南米に日本製品を輸送していました。




・1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
 現在のグアテマラ,エルサルバドル,ベリーズ,ニカラグア,ホンジュラス,コスタリカにあたる領域は,グアテマラ総督領としてスペインの植民地支配を受けています。




・1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
 17世紀末にはスコットランドが,パナマを植民地化する計画(ダリエン計画)を進めようとしました
 しかし,イングランド側はスコットランドによる海外貿易の振興を敵視し,資本を引き上げ。
 スコットランドの植民地建設に対し,イングランド王〈ウィリアム3世〉は援助を与えず,スペインからの攻撃を受けて1700年に計画は頓挫しました。

 直後,スコットランドはイングランドの〈アン女王〉【本試験H31メアリ1世ではない】の下,1707年にイングランドと「合同」【本試験H31】し,グレート=ブリテン王国を形成することになります。
(注)渡辺邦博「ダリエン計画について」『社会科学雑誌』第4巻,2012年3月





○1650年~1760年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
 キューバではスペインの植民地支配下で,アフリカから移送した黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションが行われています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 ジャマイカはスペインが植民地支配をおこなっていましたが,1655年に〈クロムウェル〉率いる共和制(コモンウェルス)時代のイングランドが,ジャマイカに進出し,支配圏を獲得します。

 折しも1650年にアイルランドを植民地化していた〈クロムウェル〉は,アイルランド人の年季奉公人をジャマイカに移送し,労働力とします。
 その後,スペインのジャマイカの奪回に向けた努力が続きますが,1692年の大地震でスペイン時代の都市は壊滅,イギリスは新都を再建します。

 サトウキビのプランテーションの労働力として,アフリカから連行されてきた黒人奴隷の中には,支配を逃れて山中に逃げ込み,コミュニティを形成する者も現れます。逃亡黒人奴隷のことをマルーンといい,1731~1739年に第一次マルーン戦争が起きています。
 指導者の一人に,ガーナのアシャンティ出身の〈グラニー=ナニー〉(1686~1733)がいます。彼女は逃亡奴隷の都市を建設し,交易ルートや軍隊を整備して多数の奴隷を解放し,イギリス軍と戦いました(ジャマイカの紙幣にはグラニー=ナニーの肖像画が印刷されています)。
 1739年の停戦時にマルーンの共同体は自由と土地を獲得しています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
バハマはカリブの海賊(黒ひげ)の根城に
 1647年にイギリスが植民を開始。
 しかし,当時のカリブ海は航行する船舶を襲撃する海賊(いわゆる“カリブの海賊”,パイレーツ・オブ・カリビアンですね)の根城でした。 
 それに対しイギリス国王〈ジョージ1世〉は,〈ロジャーズ〉(1679~1732)をバハマ総督に任命。1718年に通称「黒ひげ」(エドワード=サッチ,1680?~1718)をはじめとする海賊を相当します(#漫画 「ONE PIECE」の黒ひげ海賊団提督の由来です)。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
ライスワイク条約でハイチはフランス領となる
 スペインはイスパニョーラ島の東部(現⑤ドミニカ共和国)を拠点に,サトウキビのプランテーションを行っていました。
 他方,フランスはイスパニョーラ島西部(現④ハイチ)は17世紀後半からフランスが植民をすすめていき,1697年のライスワイク条約でイスパニョーラ島の西1/3はフランス領(フランス領サン=ドマング)となります。
 フランスはここで黒人奴隷を移送して,サトウキビやコーヒーのプランテーションをおこない,巨富を稼ぎ出していきます。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑤ドミニカ共和国
 イスパニョーラ島は1697年のライスワイク条約によって,東側3分の2がスペイン領サント・ドミンゴとなります。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコはスペインの植民地として支配されています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 現在のアメリカ領ヴァージン諸島は,17世紀以降デンマーク領となります。
 現在のイギリス領ヴァージン諸島は,1672年にイギリス領となります。
 現在のイギリス領アンギラ島は,同じくイギリス領アンティグア島の管理下に置かれています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 セントクリストファー=ネイビスをめぐっては,17世紀後半にイギリスとフランスが抗争し,その結果1713年にイギリス領となることが確定しました。
 ネイビス島で,のちにアメリカ合衆国の財務長官を務める〈ハミルトン〉(1755~1804)が生まれています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
 アンティグア島はイギリスの植民地,バーブーダ島はイギリスの貴族の所領となっています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
 モントセラトはイギリスの〈クロムウェル〉時代に,植民地化されたアイルランド人が移送され,アフリカから連行された黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えます。

 グアドループはフランスによる黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えますが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中にイギリス軍が占領しています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
 ドミニカ国はフランスにより植民地化されています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島にはフランスの入植がすすみ,1658年に島のカリブ人が虐殺されると,アフリカから移送された奴隷にるサトウキビのプランテーションが盛んとなりました。
 マルティニーク島のサトウキビはフランスに莫大な富をもたらします。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 セントルシアをめぐっては,イギリスとフランスが抗争を続けています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 セントビンセントおよびグレナディーン諸島は,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の18世紀後半にイギリスの植民地となっています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 バルバドスはイギリスの植民地支配下で,アイルランド人の年季奉公人や黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれています。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 バルバドスはフランスの植民地支配下で黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれていましたが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の1762年にイギリスが植民地化します。
・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 トリニダード島とトバゴ島にはヨーロッパ諸国の植民が試みられています。
 17世紀後半には,バルト=ドイツ人のクールラント公国が短期の間,植民しています(⇒1650~1760のヨーロッパ 東ヨーロッパ)。

・1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島はオランダ領となっています。




○1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆ブラジルでは金鉱が発見され,ポルトガルの植民地の拠点は南部に移っていった
金とダイヤモンドに翻弄されるブラジル
 ブラジルでは1693年~95年にミナス=ジェライスで金鉱が発見され,18世紀初めにかけて大量の金(きん)がポルトガルに輸出されました。また1729年にはダイヤモンドが発見され,こちらも大量に輸出されます。従来は宝石といえば真珠でしたが,17世紀半ばよりインド産のダイヤモンドが王侯貴族の間に普及していました。ポルトガル商人は,ヨーロッパの宝石商の妨害にあいつつも,ブラジル産のダイヤモンドの売出しに邁進します(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.104。

 こうして植民地の中心は,かつてサトウキビのプランテーションの発展した北東部からリオ=デ=ジャネイロに移り,都市化が進むにつれて農牧業も発展していきました。

 18世紀半ばにはブラジル側を支配するポルトガルと,現在のアルゼンチン側を支配するスペインとの間に,ラ=プラタ川以東の土地をめぐる領土問題が発生しました。
 イエズス会はこの地でグァラニー人と共同生活を送りながら,農業・畜産指導や教育を通してキリスト教化していましたが,この地域がポルトガルに割譲されるとグァラニー人はイエズス会とともに抵抗(グァラニー戦争,1753~56)。
 しかし,スペインとポルトガルにより鎮圧されました(◆世界文化遺産「グアラニのイエズス会布教施設群」,1983(1984範囲拡大)。現在のブラジルとアルゼンチンにまたがります)。


◆アフリカ出身の逃亡奴隷と先住民の共同体がポルトガルに鎮圧される
逃亡奴隷(キロンボ)と先住民の奴隷共同体が敗北
 ブラジル北東部には,逃亡奴隷(キロンボ)に先住民が加わった共同体が複数存在していました。
 そのうちのキロンボ=ドス=パルマーレス(1605~1695)は,ポルトガルの攻撃により崩壊します。
(注)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.207。



・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
◆パラグアイ総督領は縮小の一途をたどる
ブラジルの拡大により海への出口を失う
 パラグアイではイエズス会のグアラニー人に対する布教がすすみ,ヨーロッパ諸国でイエズス会に対する弾圧が強まると(注1),イエズス会とグアラニー人らは協力してポルトガルやスペインと戦いました。
 17~18世紀にイエズス会の伝道の拠点として築かれた都市が各地に残されています。(◆世界文化遺産「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群」,1993)。

 当時のパラグアイは「リオ=デ=ラ=プラタ総督領」が1617年に2分割されたうちの、パラグアイ川流域から、ビルコマヨ川・イグアス川周辺よりも北のエリアにあたる「パラグアイ総督領」(首都はアスンシオン)として、スペインの支配を受けていました(注2)。この領土は18世紀初頭のユトレヒト条約(スペイン継承戦争の講和条約)にも反映され、ポルトガル領のブラジルが西部に拡張されました。
 さらに1750年にはスペイン・ポルトガルの間にマドリード条約が締結され、スペインから東部海岸地帯が割譲されます。こうしてパラグアイ総督領は海への出口を失ったのです(注3)。

なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。

(注1) イエズス会は絶対主義や啓蒙思想を批判したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html)
(注2) ラプラタ川河口付近を「リオ=デ=ラプラタ総督領」として分割されることになりました(参考書籍に「ブエノスアイレス総督領」とあるのは誤り(https://lacsweb.files.wordpress.com/2013/04/18koike.pdf))。当時のパラグアイはイグアス川の上流方向へ、大西洋への出口を持っていました(田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29)。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。



・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現③ウルグアイ,④アルゼンチン
グアラニー人とイエズス会が,スペイン勢力と争う
 ラプラタ川の河口を中心とするアルゼンチンには,16世紀初め以降,スペイン人がブエノスアイレスを中心に植民を進めていきました。しかし,ブラジル方面から進出してきたポルトガルが,ラプラタ川を挟んだ対岸に都市を建設。これを拠点にバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイとほぼ同じ領域)が成立しましたが,スペインとポルトガル両国により,帰属をめぐる衝突が続きました。
 18世紀後半にスペイン国王によりイエズス会の弾圧政策がとられると,アルゼンチンのイエズス会(一種の”独立王国”を築いていました)は先住民のグアラニー人と協力して,スペイン当局と戦いました。これをグァラニー戦争といいます。


 パラグアイではイエズス会のグアラニー人に対する布教がすすみ,ヨーロッパ諸国でイエズス会に対する弾圧が強まると(注1),イエズス会とグアラニー人らは協力してポルトガルやスペインと戦いました。
 17~18世紀にイエズス会の伝道の拠点として築かれた都市が各地に残されています。(◆世界文化遺産「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群」,1993)。

 当時のアルゼンチンは「リオ=デ=ラ=プラタ総督領」が1617年に2分割されたうちの、ラプラタ川河口付近の「リオ=デ=ラプラタ総督領」にあたります(注2)。この領土は18世紀初頭のユトレヒト条約(スペイン継承戦争の講和条約)にも反映され、ポルトガル領のブラジルが西部に拡張されました。
 さらに1750年にはスペイン・ポルトガルの間にマドリード条約が締結され、スペインから東部海岸地帯が割譲されます。このときにブエノスアイレスは東部海岸地帯の大部分を失います(注3)。
 なお、リオ=デ=ラ=プラタとパラグアイのどちらも、ペルー副王領の管轄下にありました。

(注1) イエズス会は絶対主義や啓蒙思想を批判したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html)
(注2) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、pp.28-29。
(注3) 田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.29。




・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
チリはペルー副王領となっている
 現在のチリの領域は、当時スペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。

 一方、南部ではマプチェ人〔アウラカノ〕の首長国が独立を保っており,スペインは1536年から断続的にアウラコ戦争(1536~1883)を戦っています。


・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア
 現在のボリビアはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。当時はアルト=ペルー(高地ペルー)と呼ばれていました。
 ポトシ銀山の採掘も続いています。




・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
 現在のペルーはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。

 18世紀に入るとインカ王の末裔(まつえい)を名乗る指導者による反乱が多発し,スペインの植民地支配を揺るがすようになります。
 インカ王の末裔〈インカ=ガルシラーソ=デ=ラ=ベーガ〉(1539~1616)の『インカ皇統記』によってかつてのインカ王の支配が,強大な権力と権威を持つ「インカ帝国」としてイメージされるようになり,スペイン支配を排除しようとする人々の支持を得るようになっていきます。

 1717年には,南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)が,ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されました。




・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ

 1717年に南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)は,ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されました。

 なお、現・コロンビアのトゥンハ市の教会には、17世紀後半につくられた伊万里焼(いまりやき)が装飾としてはめこまれていますが、これには同時代の東アジア情勢が関わっています【大阪H31】。

 当時の清は台湾の〈鄭成功〉と対立し海禁策をとっていましたが、引き続き東シナ海・南シナ海の中継貿易の中心を担った台湾は、東南アジアに進出していたスペインに日本の文物を伝えていたのです【大阪H31「スペインのセビーリャにあるインディアス総文書館の税関記録」において、1660年以降、台湾からマニラへ寄港した商船の積載品の一部として日本製磁器に関する情報があったことを題材とする】。スペインはフィリピンのマニラ【大阪H31[3]論述指定語句】から太平洋を横断し、中南米に日本製品を輸送していました。




・1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
 ヨーロッパでは,北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し,第二次英蘭戦争(1665~1667)が始まりました。
 1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻しネーデルラント継承戦争(1667~68,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク【東京H22[1]指定語句】)を含む北アメリカ北東岸のニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。
 また,このときにオランダが占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は,オランダ領ギアナ(現在のスリナム)になりました。




●1650年~1760年のオセアニア
オランダ人によるオセアニア探検がすすむ
 1642年の〈タスマン〉(1603?~1659?)の航海記が1694年にロンドンで出版され,その後も太平洋探検の旅行記が多数書かれ,ヨーロッパの人々の想像力をかきたてました。なかでも〈ダンピア〉(1652~1715)の『新世界周航記』はベストセラーとなります。
 1722年の復活祭(イースター)の日に,オランダ人の提督〈ロッヘフェーン〉は,イースター島のモアイをヨーロッパ人として初めて確認・報告しました(注)。3000人ほどの島民は枯渇した資源をめぐり絶え間ない戦闘に明け暮れていたといいます。ポリネシア人はラパ=ニュイ島と呼んでいます。
 その後,ソサエティ諸島やサモア諸島などを回って,ジャワ島に到達しています。オランダはジャワ島にすでにバタヴィア市を建設し拠点としていました。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7

○1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
イースター島がオランダに「発見」される
 1722年の復活祭〔イースター〕の夜に,オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉がラパ=ヌイ島を発見し,これをイースター島と命名します。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
 タヒチには複数の首長国があり,1750年には抗争が起きていました。
 ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 ニュージーランドではマオリが居住しています。まだヨーロッパ人よる植民は始まっていません。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 トンガでは12世紀以降王権が強化され,ニウエ,サモアやソロモン諸島,ニューカレドニアにかけての広範囲に勢力を及ぼします。17世紀には内戦が起こっています。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 この時期のアメリカ領サモア,サモアについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。
 ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。 
 1722年オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉が沖合からサモアを「確認」しています。

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 この時期のトケラウについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。 

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 この時期のツバルについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。 

・1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
 ハワイには複数の首長国がありました。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。




○1650年~1760年のオセアニア  オーストラリア
 この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
 アボリジナル〔アボリジニ〕が,狩猟採集生活を営んでいます。


○1650年~1760年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません。

・1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 ニューカレドニアにまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 バヌアツにはヨーロッパ人の植民は始まっていません。

・1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 ソロモン諸島の一部にまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。

・1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません。




○1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 スペイン領となりますが,植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。

・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 スペインが太平洋横断交易をスタートさせてからというもの,北マリアナ諸島やグアムの住民(チャモロ人)はスペインとの交易もおこなっていました。
 1668年以降,スペインのイエズス会が訪れるようになり,伝統的な信仰を守るためチャモロ人はスペイン勢力と戦争を起こします。この際,チャモロ人の大多数が犠牲となりました。







●1650年~1760年の中央ユーラシア
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がはじまる

中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル

○1650年~1760年の中央ユーラシア  東部・中部
◆女真の清が中国・満洲・台湾を直轄地として領域拡大するも,西方からロシアの進出が本格化
拡大する女真の清と,東方進出するロシアが衝突
 ツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)が1616年に建国した金(後金,アイシン)は,モンゴル人や漢人を服属させて1636年には清(しん)と改称して1644年に明を滅ぼし,拠点を北京にうつしていました。
 〈康煕帝〉のときに南部の漢人勢力をほろぼし,台湾の海賊勢力を排除し,中国本土・台湾・満洲を直轄地として確立させました。その後〈雍正帝〉・〈乾隆帝〉にかけて外征をくりかえし,外モンゴル(モンゴル高原)・チベット・タリム盆地・ジュンガル盆地方面まで領域を拡大させていきました。
 一方,西方からロシア帝国が東にすすんでいき,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約,1727年にはキャフタ条約を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める互(ご)市(し)という制度も定められました。


最後の遊牧帝国ジュンガルが清に滅ぼされる

 天山山脈南部のタリム盆地では,モグーリスターン=ハーン国が衰えを見せていました。

 1637年に,チベットの〈ダライ=ラマ5世〉と提携し,オイラトを統一した〈バートル=ホンタイジ〉は,ジュンガル盆地(アルタイ山脈の南,天山山脈の北に囲まれた盆地)を中心に,”最後の遊牧帝国”ともいわれるジュンガル帝国【本試験H13・H19】【追H21】を発展させていきます。
 しかし,1745年にジュンガルで内部争いが起こると,そのすきをみた清の〈乾隆帝〉【追H9明を滅ぼしていない】【本試験H19,H29康熙帝ではない】【追H21ホンタイジではない】が,1755年にジュンガルを滅ぼしてしまいました【本試験H13ジュンガルを滅ぼしたのはロシアではない】。

 清の皇帝は,満洲・モンゴル・漢人によってその皇帝位が承認されており,その上でさらにモンゴルの王侯から「ハーン」の称号を受けていました。
 ですから,「ハーンなのだから,もともとチャガタイ=ハーン国であったタリム盆地を,清の領土に加えるのは当然だ」という論理が成り立ちます。

 東トルキスタン【追H28】は1759年に「新疆」(新たな土地) 【追H28】 【本試験H17ホンタイジ,順治帝,康煕帝のときではない】と名付けられ、清【追H28明ではない】の領土となりました。
 ただ,実際には支配機関がイリ川流域に置かれただけで,タリム盆地のオアシス農耕地帯の支配は遊牧民有力者をベグに任命して統治を任せるなど,中国伝統の”間接支配”が基本です。ベグの下ではイスラーム教による支配が守られ,ワクフ(公共建築物の寄進)により灌漑水路やマドラサなどが整備されていきました。



・1650年~1760年の中央ユーラシア  チベット
チベットの〈ダライ=ラマ〉政権は清に領土を割譲
 チベットではオイラト系のモンゴル人〈グーシ=ハーン〉(1582~1654)が,チベットの全土を占領して,その領土を〈ダライ=ラマ5世〉に献上しました。〈ダライ=ラマ〉も,チベットに宗教的な政権を築き上げようとしていましたから,両者の意志が一致した結果です(〈カール大帝〉と〈レオ3世〉の関係と似ていますね)。
 これにより〈ダライ=ラマ5世〉にはチベットの支配が認められ,チベット高原のラサには1660年に壮大なポタラ宮殿【本試験H23トプカプ宮殿ではない,本試験H30】【追H20設計はカスティリオーネではない】が完成しました。彼は自らを観世音菩薩の生まれ変わりとし,チベット仏教の主要5派(元の時代に保護されたサキャ派や,ツォンカパの立ち上げた紅帽派など)の上に君臨します。

 しかし,17世紀初頭に〈グーシ=ハーン〉一族で内紛が起きると,これに清の皇帝〈雍正帝〉(ようせいてい)が介入し,チベットを分割してその東部を割譲させました。これ以降,チベット政府の支配領域は,チベット高原南部(ツァン地方)のみになってしまったわけです。



○1650年~1760年の中央ユーラシア  西部
◆ユーラシア大陸西部ではモンゴル系やテュルク系の「タタール人」が,ロシア人に抵抗する
ロシアはコサックを鎮圧し,カザフ草原にも進出へ
 また,ロシア帝国は,征服地の最前線にコサック(ロシア語でカザーク)という農民に防衛を担当させていました。「夷を以て夷を制す」のやり方です。
 しかし,ロシアからの支援が手薄になると, 1670〜71年にコサック(カザーク)の首領〈ステパン=ラージン〉が反乱を起こしましたが鎮圧されます。

 ロシアにとって,奥深い針葉樹林を抜けると一面に広がる草原地帯は,征服すべき”広い世界”であるとともに,遊牧民が進入してくる”危険地帯”でもあります。中央ユーラシアの中央部に広がる広大なカザフ草原では当時,ウズベク人から分離したカザフ人がハーンのもとで遊牧生活をしていました。
 他方,カザフ人は当時,南方からチベット人と提携したジュンガル人の攻撃を受けるようになっていました。1723年のジュンガルによる侵攻で打撃を受けると,カザフ人のハーンは泣く泣くロシア帝国に保護を求め,外交と交易関係が結ばれることになりました。
 ロシアは今後,草原地帯のカザフ人を支配下に入れつつ,さらなる南下を狙うことになります。


 アム川下流域のホラズムではヒヴァ=ハーン国が,中流域のブハラを中心にブハラ=ハーン国が成立していました。しかし,18世紀前半にイラン高原のアフシャール朝の〈ナーディル=シャー〉が進入するなど平和ではありませんでした。
 ブハラでは,ジャーン朝のハーンが〈ムハンマド=ラヒーム〉により滅ぼされ,1756年にマンギト朝が成立しています。マンギト朝は,18世紀末からイスラーム色を強めていきます。




○1650年~1760年の中央ユーラシア  北部
◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
シベリア地方にロシア帝国が進出する

 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

 さらにこの時期になると西方からロシア帝国が東進し,ツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人の居住地域も圧迫されていきます。







●1650年~1760年のアジア
○1650年~1760年のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国

・1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本
◆日本は外国の入国管理と貿易を制限し国内の開発をすすめ,国民意識が発展する
「大開発の時代」が行き詰まり,幕府は改革を断行
 中国では,1644年に清が北京に入城し,明の勢力は中国南部の各地で抵抗を続けました(南明)。この知らせを受けて,江戸幕府の儒学者〈林鵞峰〉(はやしがほう,1618~1680)は「夷狄(いてき。野蛮な民族)である女真(女直)が漢民族の明を滅ぼして清を建てた。清は夷狄【慶・法H30】のつくった王朝だから,中華ではない。むしろ日本が中華にふさわしい!」という考えをふくらませます。水戸藩の〈徳川光圀〉(水戸光圀,みつくに,1628~1700)が『大日本史』の編纂を命じたのは1657年,幕府が『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)の編纂を命じたのは1662年のことです。このように,本来は中国側からは夷狄とみられていた日本が,逆に自らを東アジア秩序の中心とみる考えを「小中華思想」(しょうちゅうかしそう) 【慶・法H30 朝鮮の「小中華思想」を扱った】と呼ぶことがあります。

 一方,江戸幕府は政治的に外国との距離を置き,国内の秩序づくりに努めました。台湾を拠点にした反清勢力〈鄭成功〉(ていせいこう)は日本人を母に持っていたこともあり,江戸幕府に救援を求めましたが,幕府はこれを拒否しています。
 ただし中国との経済的な関係は維持する政策をとり,管理下に置かれていたものの長崎での貿易は引き続き認められました。

 江戸幕府は農業生産の充実を目指し,各地で大規模開発が行われました。「大開発の時代」です。例えば,利根川の流路を江戸湾から太平洋に変更する工事が1654年に完成し,各地で用水路が建設され新田が開発されていきました。村々は領主から年貢米の納入をうけおい,城下町の倉庫に米が収められました。米や商品は藩内外に輸送され,東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路,東北地方の日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路,大坂と江戸を結ぶ南海路といった海運が発達し,大名は城下町や上方市場で年貢米を換金し,幕府財政にあてました。全国市場の成立に従って,1669年に全国統一の枡として京枡(きょうます)を指定しました。

 1651年に,徳川幕府の第3代将軍〈徳川家光〉が亡くなりました。第4代目の〈家綱〉は11歳であったため老中〈松平信綱〉や叔父〈保科正之〉(ほしなまさゆき)が支配しました。
 同年に,牢人による幕府転覆未遂事件である慶安事件が発覚し,1657年に明暦の大火が江戸を襲いました。

 1662年に,清に抵抗していた明の諸王による南明(なんみん)政権が滅ぶと,1663年に〈康煕帝〉は琉球王国【セ試行 清軍によって征服されていない】に冊封使を派遣し,〈尚質〉を国王にしました。

 琉球王国は,薩摩藩に服属しつつ,明からも冊封を受ける両属となりました。〈家綱〉は,これらに対して不干渉政策をとり,平和を重視しました。1645年と46年に,〈鄭成功〉(ていせいこう,1624~1662)は日本に対する援軍を依頼しましたが,日本側は拒否。〈鄭成功〉の母親は平戸の〈田川七左衛門〉の娘で,父〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,1604~1661)は海商でした。


 1669年にはアイヌの〈シャクシャイン〉が和人に対して蜂起しました。アイヌの戦いは1671年に鎮圧され,北海道の渡島(おしま)半島南部に和人が居住して商場(あきないば)での交易権を与えられ,松前藩が支配しました。

 1680年に五代将軍〈徳川綱吉〉(とくがわつなよし,,位1680~1709)が将軍を継ぎました。彼は〈柳沢吉保〉(やなぎさわよしやす,1658~1714)の補佐のもと,専制政治を進めるとともに,「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を改定して武士の価値観を軍事ではなく忠孝礼儀にあるとし,生類憐れみの令(動物だけでなく弱者を保護することを命じたもの)と服忌令(忌引の日数と喪に服す期間を定めたもの)により戦国時代の武断的な価値観を転換させようとしました。〈林鳳岡(信篤)〉(はやしほうこう,1644~1732)を大学頭に任命し,湯島に聖堂を建設させ,儒教を重視しました。同時に,仏教と神道も保護しています。

 1690年には愛媛県に別子(べっし)銅山が発見され,〈住友(すみとも)〉家の成長を支えました。

 しかし〈綱吉〉政権の末期には,1703年の元禄大地震が関東を襲い,1707年には富士山で「宝永の大噴火」が起こりました。
 そんな中,1709年に〈徳川家宣〉(とくがわいえのぶ,位1709~12)が将軍を継ぎ,大老格であった〈柳沢吉保〉をやめさせ「生類憐みの令」を廃止,政治改革に乗り出しますがその途中で死去し,1712年には〈徳川家継〉(とくがわいえつぐ,位1713~16)が将軍を継ぎました。この間,政権の中心にあったのは,側用人〈間部詮房〉(まなべあきふさ,1667~1720)と儒学者〈新井白石〉(あらいはくせき,1657~1725)です。彼は生類憐れみの令を廃止し,儒教色の強い民衆教化を行おうとしました。また,金銀流出を防ぐために,1715年に海舶互市新例(かいはくごししんれい)を出して,中国の清(しん)とヨーロッパのネーデルラント連邦共和国(オランダ)との貿易規模を縮小させました。

 1700年頃には耕地の拡大は一段落し,今度は,農業技術や肥料による生産力の向上が目指されるようになっていきます。それに従い,商品作物や加工品の生産も,全国で盛んになります。その中で,従来は輸入に頼っていた生糸や砂糖を「輸入代替」する動きも起こりました。
 東京・大阪・京都の三都の問屋は販売の専業化に向かい,特に越後屋(三井)は薄利多売方式で巨利を上げました。経済活動の活発化を背景にして,町人や農民を主体とする元禄文化が発展します。人形浄瑠璃で好評を博した劇作家〈近松門左衛門〉の『国性爺合戦』(本当は「姓」ですが,フィクションであることを示すため「性」という字を当てました)は,あの〈鄭成功〉をモデルとしたものです。

 1716年に〈徳川吉宗〉(在職1716~45)は第8代将軍に就任しました。彼は積極的に新田開発を推進し,幕府財政建て直しのために上米の制を定めました。〈吉宗〉のとき,儒学者〈青木昆陽〉の尽力により,中国の農書を参考にして,薩摩藩経由で琉球王国から取り寄せたサツマイモを東京の小石川御薬園で栽培し,全国に普及させました。荒れた畑でもよく育つため,飢えを防ぐ作物として重宝されました。西洋の学術にも興味を示し,キリスト教以外の洋書の輸入を解禁し,長崎を中心に蘭学(らんがく)が栄えました。フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(1517~1585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,1693~1761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています(⇒1650~1760の東アジア 日本)。また,1728年にはヴェトナムからゾウを輸入し,長崎から江戸まで街道を歩かせています。

 1751年に後を継いだ第9代〈徳川家重〉(在任1745~60)は政治力に欠ける人物であったといい,享保の改革以来の増税に反対する大規模な百姓一揆(郡上一揆(ぐじょういっき))も起こっています(注)。
(注)近世の農民にとって,年貢や諸役を納めることが百姓としての彼らの職分を果たすことだったのですが,それには領主が,きちんと耕地や水利の改良や配分のような勧農を行い「百姓(ひゃくしょう)成立(なりたち)」(再生産の保障)をすることが引き換えとなっていたのです。これを保障しないような過酷な年貢諸役の賦課や二重賦課をしようものなら,農民は反対の訴訟や一揆を起こす根拠となりました。この源流は,中世の百姓における年貢の減免要求にもみられます(佐藤和彦編『租税』(日本史小百科)東京堂出版,1997年,p.96,p.189)。

・1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本  小笠原諸島

 1675年に江戸幕府は小笠原諸島(おがさわらしょとう)に調査船を送り、「此島大日本之内也」という碑文を設置。「無人島」(ブニンジマ)と名付け,その名の通り人は住まず,植民もなされませんでした。



・1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本  南西諸島

 琉球王国は明から清への交替(明清交替(みんしんこうたい))に際し,どちらの王朝に対しても文書書き換え等で対応できるように細心の注意を払います。
 勝ったほうに“乗り換え”できるよう、“二股”をかけたわけです。

 しかし明の王族が清に抵抗して各地に立てていた南明政権(福王政権(1644~45),唐王(1645~46),魯王(1646~54),桂王(1647~61))は、次々に降伏。

 17世紀中頃になると明から授かった印綬(いんじゅ)を清に返還し,清の冊封を受けるに至りました。

 17世紀中頃には,摂政(セッシー)の〈羽地朝秀〉(はねじちょうしゅう,1617~1676)が琉球王国政府の改革に乗り出しました。日本文化との融和策を打ち出すことで古い習慣をなくそうとしまし,夫役の緩和と開墾の奨励により農村を復興させました。
 1650年に著された歴史書『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)には,日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)の考え方もみられます。



・1650年~1760年のアジア 東アジア 現②台湾
台湾に漢人が多数移住する
 台湾にはオーストロネシア語族系の先住民が分布していましたが,1624~1662年の間,オランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕【追H25】が南部に拠点を設けます。
 これを〈鄭成功〉(ていせいこう) 【追H25明の滅亡後に清に抵抗した人物を問う。李自成ではない】【大阪H31[3]指定語句】が駆逐し,1662~1683年の間,清に滅ぼされた明を支援しつつ台湾に政権を樹立します。
 1683年に清の〈康煕帝〉は台湾の鄭氏政権を滅ぼし,清の直轄支配が始まりました。

 直轄地といっても,清は台湾を「化外の地」(けがいのち,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)と位置づけ,オーストロネシア語族の諸民族は「化外の民」(けがいのたみ,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)とされました。
 とはいえ,この時期に中国から漢人が大量に移住し,のちに「本省人」(ほんしょうじん)といわれる民族グループを形成していきます。出身地としては福建省,広東省が多いです。




・1650年~1760年のアジア 東アジア 現③中国
◆清は集団ごとに様々な権威を利用し,広大な領土を直接・間接支配した
清は,北方草原地帯と南方農耕民地帯を合わせる
 1661年にたった8歳で即位した〈康煕帝〉は,中国における支配制度を整えていきました。「少数の女真(女直)人が,多数は漢人をどう支配するか?」これが一番の大問題です。
 もちろん8歳で政治をとることができるわけはないので,政務は〈順治帝〉以来に〈ホンタイジ〉の后がとっています。この后は〈チンギス=ハン〉のボルジギン家の末裔です。

 軍事的にはモンゴル人に組織させた蒙古八旗や,女真(女直)人(満洲人と改称しています)に組織させた満洲八旗と同様に,漢人八旗【本試験H8漢人部隊が含まれなかったわけではない】を整備しました。また,常備軍として緑営(りょくえい)も組織しました。
 また,科挙を実施し,行政には漢民族の官僚を中央や地方で積極的に用いました【本試験H15「明の官僚制度を廃止し中央の要職には漢民族を採用しなかった」わけではない】。儒教のテキストを編纂させる巨大プロジェクトを実施し,儒教界にも影響を与えようとします。


編纂プロジェクトの例
①〈康煕帝〉(こうきてい)【京都H21[2]】【本試験H11満洲文字を定めていない】(注)は4万7035字を部首・画数別に収録した,中国史上最大の漢字辞典である『康煕字典』を編纂させました(1716年完成)

②〈雍正帝(ようせいてい)〉【早・政経H31乾隆帝のとき編纂開始ではない】は,中国最大の1万巻を誇る中国文学全集『古今図書集成』(ここんとしょしゅうせい、1725年完成) 【早・法H31】。

③〈乾隆帝〉【本試験H15永楽帝ではない】は7万9070巻の大文学全集『四庫全書』(しこぜんしょ)【本試験H11:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う】【本試験H15】を,考証学者の〈戴震〉(たいしん)らに編纂させました(1746年に完成)。「四庫」というのは,経・史・子・集(けいしししゅう)という4つの分類に従って,古くから伝わる中国の漢籍を収めたことにちなみます。
 最大領域を実現した〈乾隆帝〉は『五体清文鑑』(ごたいしんぶんかん) 【東京H12[2]何語の辞典であるか問う】という中国語・満洲語・チベット語【東京H12[2]】・ウイグル語【東京H12[2]】・モンゴル語【東京H12[2]】の5ヶ国語対照辞典を編纂させています。


 あわせて,文字の獄(もんじのごく) 【東京H12[1]指定語句,H25[3]】【本試験H13,本試験H15反清思想に対して寛大であったわけではない】【本試験H8】【追H18】や禁書【追H21清代か問う】【本試験H8】などの思想統制を実施します【本試験H29朱全忠が行ったわけではない】。
 こんな状況下で下手に新しい意見を言うと弾圧の対象になってしまうおそれもあります。そこで,過去に書かれた経典の文章が,どういう経緯で書かれ,どのような解釈をすればいいのかを研究する考証学【本試験H25】が儒学の主流になっていったのです。
 経書というのは別々に成立したものですから,相互に矛盾しているところがたくさんあるのは当たり前。古文の場合には長い年月の間に解釈に相違も出てきます。そこに整合性を付けていく作業をしていったわけです。

 〈顧炎武〉(こえんぶ,1613~1682) 【本試験H13考証学を批判していない,本試験H15銭大昕の唱えた学説を発展させたわけではない,本試験H26時期】が考証学【本試験H25】の祖とされます。〈銭大昕〉(せんたいきん,1728~1804) 【本試験H15時期(顧炎武よりも後の人物)】は『二十二史考異』を著し,歴代の正史に注をつけました(正史は一般に「二十四史」とされますが,ここでは新唐書と旧唐書,新五代史と旧五代史がそれぞれ1つとしてカウントされています)。
 一方,皇帝独裁批判をした〈王夫之(船山)〉(おうふうし,1619~1692)のように,「異民族」の王朝である清に対して抵抗する学者もいました。彼の作品の多くは清の政府により禁書にされ,日の目をみたのは19世紀後半の〈曾国藩〉(そうこくはん)によります。
 〈戴震〉(たいしん,1724~1777)は,『孟子字義疏証』(もうしじぎそしょう)で儒教の概念について解説し,欲望を肯定した合理的で自由な思想を展開しています。また,地理・暦法・音声などの周辺の領域を駆使して考証学の手法を確立させました。〈段玉裁〉(だんぎょくさい,1735~1815)は〈戴震〉を師匠とし,音韻(おんいん)に注目するとともに,『説文解字注』(後漢の〈許慎〉(生没年不詳)による『説文解字』(100年頃に成立)の註釈⇒紀元前後~200年の中国)を著し,字の音や意味がどのように変遷していったのかを実例を挙げながら整理しました。
(注)1661年に〈順治帝〉がなくなり,子の〈康熙帝〉が即位。改元したのは翌年で1662年が康熙元年だから,即位と1年ずれる。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122




◆清は東シナ海一帯の〈鄭成功〉を鎮圧するが,華僑の東南アジアへの拡大がすすむ
「経済」の中心である南部の海上勢力を鎮圧する
 さて,〈康煕帝〉が即位したころは,まだ明の勢力も各地で抵抗を続けており,そのうちもっとも手強い勢力が,東シナ海一帯に海軍を保有していた〈鄭成功〉(1624~62) 【追H25明の滅亡後に清に抵抗した人物を問う】【大阪H31[3]指定語句「鄭氏」】の一派でした。
 1661年にはオランダ【追H25】から台湾【追H25】を奪い,台湾から中国大陸の反明勢力を支援しました。清の〈康煕帝〉(位1661~1722)は〈鄭成功〉を孤立させるために海禁政策(遷界令)をとり,83年にこれを滅ぼしました。
 海禁政策は東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東)の中国人商人は,東南アジアに追われ移住をしていくようになります。
 彼らは南洋華僑と呼ばれ,東南アジアを拠点に各地に出身者別に交易ネットワークを張り巡らせ,海域世界を牛耳ります。

 1673年には,漢人武将〈呉三桂〉【本試験H8李自成ではない,本試験H11清朝に協力したか問う】【本試験H18李自成ではない】(ごさんけい)らが、清に協力したご褒美として与えられていた中国南部【本試験H16満洲ではない】の三藩画の勢力削減の対象となったため、反乱が勃発。
 〈康煕(こうき)帝(てい)〉【本試験H8乾隆帝ではない】は大砲をドンドコ打ち徹底的に鎮圧しました(1673~81,三藩の乱【本試験H14時期(ネルチンスク条約の頃かを問う,本試験H18】【本試験H8乾隆帝のときではない】【追H30中国東北部ではない】)。
 どうして大砲を活用できたかというと,イエズス会士がヨーロッパ式の砲術を伝授していたからです。
 ベルギー出身のイエズス会の宣教師で,欽天監(天文台の官庁)で天体観測をおこない,『坤輿全図』の作成でも知られる〈フェルビースト〉(南懐仁(なんかいじん),1623~88)【本試験H14イグナティウス=ロヨラではない】【追H24坤輿万国全図を作成していない、H30『幾何原本』は翻訳していない】が指導したのです。

 三藩の乱以降は,漢人による大規模な抵抗運動はなくなりました。


 しかし,今度は北方でロシア帝国の極東への進出が本格化。
 1689年には黒竜江(アムール川)にまで進出したことから,一触即発の事態となりますが,「ロシアと戦うよりは和平を結んだほうがいい。オイラトの一派であるジュンガル部を倒すほうが今は重要だ」と考え,1689年にネルチンスク条約【本試験H13史料(第一条が出題)キャフタ・アイグン・ペキンではない】を結び,スタノヴォイ山脈を清露の国境線としました。清が対等な関係で外国と取り決めをしたのは,史上初のことです。

 ロシアとの和平を結んだ〈康煕帝〉は安心し,みずから遠征して1697年ジュンガル部の〈ガルダン=ハーン〉を破り,外モンゴル(=モンゴル高原)を平定しました。



◆雍正帝(ようせいてい)はジュンガルとの提携を阻止するためチベットを併合し,軍機処(ぐんきしょ)をもうけた
雍正帝はチベット仏教圏(ジュンガル,チベット)に進出する
 負けたジュンガルは本拠地をタリム盆地にうつし,チベットの黄帽派【追H29】【東京H12[2]】の教主〈ダライ=ラマ〉のちからを借りて勢力を盛り返そうとしました。

 「チベットとジュンガルが組んだら面倒だ」と考えた次の〈雍正帝〉(ようせいてい,在位1723~35) 【京都H22[2]】は,チベット【京都H22[2]】を分割して一部を併合し,勢力下に入れたのです(雍正帝のチベット分割)。領土を増やした〈雍正帝〉【本試験H24康煕帝ではない】は,ロシア勢力との国境を決めるため,1727年にキャフタ条約【本試験H17サハリンを領有したわけではない,本試験H24南京条約ではない】【早・政経H31乾隆帝の代ではない】で,バイカル湖の南方の国境も確定しました。同時にこのとき,ロシア人の通商・外交・布教の権利を認めています。
 軍機処【追H28】【本試験H17隋唐代ではない,本試験H24】【本試験H8漢人が要職につけなかったわけではない】という機関を設置したのも〈雍正帝〉【追H28万暦帝ではない】です。当初は,ジュンガル遠征の際につくられた臨時の機関でした。今まで設けられていた内閣にはすぐに言うことを聞かない勢力もおり,手続きが面倒で迅速な決定には向かなかったのです。満洲の皇族や貴族から構成される会議(議政王大臣会議)も面倒な存在です。高級官僚の半数を満洲人,もう半数を漢人とする満漢(偶数)併用制【本試験H5モンゴル人と漢人が約半数ずつ高級官僚に任命されたわけではない,本試験H8漢人が要職につけなかったわけではない】【追H18】をおこなっていたこともあり,中国語と満州語の翻訳も悩みのタネです。かといって,皇帝の意のままに政治をするとなると,皇帝の業務量はハンパではなくなります(官僚からの皇帝に向けて私信(奏摺(そうしゅう))の数は膨大で,皇帝はその一つ一つに朱書きで訂正や決済の処理をしていました)。
 そこで,スムーズに政策を決定することができるよう,はじめは皇帝がツバをつけた数人の軍機大臣(漢人も任命されています)に軍事に関することを任せて処理させていたのですが,やがて一般の政治に関する事項も軍機処の担当になりました。軍機処は皇帝の意を受け,不正を防ぐための制度を遵守して迅速に政務をこなすようになり,それにともなって従来の内閣や議政王大臣会議は形だけのものになっていきました。

◆〈乾隆帝〉のときにジュンガルを平定し,新疆を設置,最大領域を実現した
タリム盆地は「新疆」として間接支配下に置かれる
 〈雍正帝〉が亡くなると,遺言に従って次に〈乾隆帝〉(位1735~96) 【本試験H17】が即位しました。
 〈康煕帝〉→〈雍正帝〉→〈乾隆帝〉の時代は“三世の春”といって,清の統治が充実した時期にあたりますが,〈雍正帝〉は自分の亡き後,無能な者が跡を継がないように,生前から蝋による封印文書の中で跡継ぎを指名していたのです。

 〈乾隆帝〉は10回にわたってみずから遠征し(十全武功),みずからを十全老人と誇ります。
 彼はオイラトの一派であるジュンガル【京都H22[2]】を平定し,東トルキスタンを「新疆」(しんきょう,新しい領域)と名付け,支配下に組み込みました。
 新疆も含め広大な領域を勢力下に収めることとなった清は,その領域を直轄地と藩部(はんぶ)と朝貢国の3つのレベルに分けます。
 モンゴル,青海,チベット【本試験H15,本試験H20明の藩部ではない】【本試験H8モンゴル,東トルキスタン,チベットではない】,新疆は,藩部【本試験H20】【本試験H8】とされ,理藩院【東京H21[1]指定語句】【本試験H13中書省ではない,本試験H15,本試験H17ホンタイジ・順治帝・康煕帝のときではない,本試験H24】【本試験H6都護府とのひっかけ,本試験H8門下省ではない】が担当し,間接支配がされました。
 中国本土と,満洲人のふるさとである東北部【本試験H16三藩は設置されていない】【本試験H8】,それに台湾は「直轄地」です。
これだけの広大な領土に〈乾隆帝〉は莫大な経費をかけて巡幸(じゅんこう)しました。とくに江南への巡幸は6度おこなっています(六巡南下)。皇帝がやってくるのですから,料理も豪華でなければなりません。「象の鼻,毒蛇,麝香猫(じやこうねこ),つばめの巣,フカヒレ,銀耳(シロキクラゲ)などの高級材料や珍奇な材料をぜいたくに用い,2~3日にわたって食べる料理」(注)である満漢(まんかん)全席(ぜんせき)。ふるまったのは揚州で塩の商人がふるまったのが最初とされます。この材料として日本から俵物(たわらもの)(干し鮑やナマコ,フカヒレ)が盛んに輸出されました。いわば“巡幸特需”です。
 東南アジア諸国の中には,清に朝貢をおこなっていた国もあります。朝鮮や琉球王国は,定期的に朝貢使節を送っていました。
(注)『世界大百科事典』平凡社


◆戸籍から逃れる人が多かったため,税制を簡素化する改革をおこなった
税制は一条鞭法から,地丁銀制に転換される
 財政の規模が大きくなるにつれ効率的な税制が求められ,各種の税や徭役(ようえき)を銀に一本化して納めさせる一条鞭法(いちじょうべんぽう)【追H18】から、18世紀には地丁銀制(ちていぎんせい) 【共通一次 平1:清代か問う】【本試験H7一条鞭法ではない】【本試験H16地税と丁税を別々に徴収するわけではない,本試験H23時期・時期】【追H19天朝田畝制度ではない、H27「丁税を土地税に繰り込んだ」時期を問う、H30隋代ではない】が実施されるようになります。これは,従来別々にとっていた丁税(ていぜい,人頭税)を土地税に組み込んで,土地の所有者【共通一次 平1:佃戸ではない】に対して徴税する【共通一次 平1】制度です。
 実質的に丁税はなくなったので,従来,丁税の対象としてカウントされるのがイヤで隠れていた人々が表面化するようになり,かえって安定的に地税を集めることが可能となりました。
 納税は原則的に銀でされました【共通一次 平1】。〈康煕帝〉の時代である1717年に広東省から始まり,〈雍正帝〉のときに全国に拡大されました。


 1741年の人口調査によれば,清の人口は1億1億4341万1559人。当然ながら遺漏はあるものの,よく補足したものです。

◆商工業が発展し,庶民文化が栄えた
庶民文化が盛ん,宮廷文化はヨーロッパの影響も
 清代は,商工業が発展し,庶民文化も栄えた時代です。
 科挙をめぐるドロドロの人間模様や儒者の破廉恥(はれんち)な有り様を描いた〈呉敬梓〉(ごけいし,1701~1754)の『儒林外史』(じゅりんがいし,1745~49) 【追H24元代に原形ができた小説ではない】 【明文H30記】,〈曹雪芹〉(そうせっきん,1715?~1763?64?)の古臭い貴族への批判もこめられた中国史上最高とも歌われる恋愛小説『紅楼夢』(こうろうむ,1791) 【本試験H15】,〈蒲松齢〉(ほしょうれい,1640~1715)の伝奇小説『聊斎志異』(りょうさいしい,1766,成立は1779頃)が代表です。戯曲では〈洪昇〉(1645~1704)の『長生殿』(ちょうせいでん,唐の〈玄宗〉と〈楊貴妃〉の悲恋がモチーフ,1688),〈孔尚任〉(こうしょうじん,1648~1718)の『桃花扇』(とうかせん,1699)が人気を博しました。

 絵画の世界では,イエズス会の〈カスティリオーネ〉(郎世寧(ろうせいねい),1688〜1766) 【本試験H14『幾何原本』を著していない】【追H21、H24明朝の下で円明園を設計したか問う】【早・法H31】が〈雍正帝〉と〈乾隆帝〉【早・政経H31カスティリオーネが仕えたか問う】につかえ西洋美術の技法を伝え,円明園【本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H20ヴェルサイユ宮殿・サン=スーシ宮殿・ポタラ宮殿ではない、H24】の設計にも携わっています【本試験H14ラファエロではない】。
 一方で,〈八大山人〉(はちだいさんじん,1626〜1705)や〈石濤〉(せきとう,1641?〜1707?)が南宗画(なんしゅうが)に自由な発想を持ち込み,数多くの個性的な山水画を残しました。



◆イエズス会の宣教師が清の支配層にヨーロッパの科学技術を伝え,ヨーロッパに中国思想・制度・美術を伝えた
イエズス会の宣教師が,中国とヨーロッパをつなぐ
 一方で,ヨーロッパ人の来航も増えています。
 とくにイエズス会【本試験H2プロテスタント系ではない】の宣教師は,科学技術を伝える者として清で重用され,ドイツ人の〈アダム=シャール〉(湯若望(とうじゃくぼう)、1591~1666) 【本試験H23元代ではない】【追H24坤輿万国全図を作成していない、H25授時暦をつくっていない(「湯若望」の形で出題)】は1627年に北京へ,ベルギー人の〈フェルビースト〉(南懐仁(なんかいじん)、1623~88)は1670年に北京へ入り,2人は天文観測の分野で活躍をしました。

 〈アダム=シャール〉は〈徐光啓〉(じょこうけい) 【追H17ブーヴェではない,H25授時暦をつくっていない、H26李時珍ではない】【本試験H2マテオ=リッチと協力したか問う】【本試験H23李時珍ではない】【法政法H28記】と協力して『崇禎暦書』(すうていれきしょ) 【追H17ブーヴェの事績ではない、H26崇禎暦書とのひっかけ】【本試験H23】を発表,のち清になって1645年に時憲暦(じけんれき)と呼ばれ実用化されました。〈徐光啓〉は,明の〈万暦帝〉(ばんれきてい)の宮廷につ
かえた〈マテオ=リッチ〉(利瑪竇(りまとう)1552~1610)【本試験H14カスティリオーネではない,本試験H19ミュンツァーではない,本試験H21清ではない】【本試験H2,本試験H8元を訪問していない】【追H30フェルビーストではない】と名乗って活動し,ヘレニズム時代の〈エウクレイデス〉(英語でユークリッド)【追H28】の幾何学の研究書を『幾何原本』(きかげんぽん) 【本試験H2「ヨーロッパの数学」】【追H30】【早・法H31】として中国語訳しました【追H28時期が明代か問う】【早・政経H31宋代ではない】。図形に関する数学を「幾何学」と呼ぶのは,これが元です。

 また〈マテオ=リッチ〉【追H24フェルビースト、ブーヴェ、アダム=シャールではない,H27プラノ=カルピニではない】は『坤輿万国全図』(こんよばんこくぜんず) 【追H24作者を問う、H27製作者と時期(清代ではない)を問う】【本試験H13乾隆帝の命でつくられたわけではない,本試験H15皇輿全覧図とは異なる,本試験H19】【H30共通テスト試行 時期(解答に直接必要はなし)】という世界地図【本試験H14】も製作しました。


 フランス人の〈ブーヴェ〉(白進、1656~1730) 【追H17天文学の知識を紹介した人ではない、H24坤輿万国全図を作成していない】【本試験H2皇輿全覧図を作成したか問う】【本試験H21】は1687年に〈ルイ14世〉に派遣された宣教師団の一員として寧波に来航し,88年に北京に入り,のち実測による中国地図「皇輿全覧図」(こうよぜんらんず)【本試験H15図版(アフリカ大陸・アメリカ大陸は含まない),本試験H21】【本試験H2ブーヴェの作成か問う,本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H30宋代ではない】を作成し『康熙帝伝』(1697)により中国の様子をフランスの〈ルイ14世〉に伝えました。イタリア人の〈カスティリオーネ〉(郎世寧、1688~1766)は1715年に北京入りし,暦・地図・画法を伝えました。

 〈マテオ=リッチ〉は,キリスト教の神がどんな存在かを中国人に説明するのは難しいと考え,ラテン語のデウス(神)を,中国人になじみの深い「天」という言葉を使い「天主」と訳しました。また,〈孔子〉の崇拝や祖先の祭祀を認める【本試験H21否定していない】方策をとり,中国人の信仰に合わせる形で柔軟に布教しました。この方式をイエズス会の「適応主義」といいます(注)。
 しかし,以前から中国で布教していた〈フランチェスコ〉派などの他の派の宣教師は,イエズス会の方式を問題視し,ローマ教皇に訴えたことから,教皇はイエズス会の布教法を否定する事態に発展。しかし,イエズス会から最新情報や技術を得ていた清にとってイエズス会の存在は捨てがたく,1706年に〈康煕帝〉はイエズス会以外の宣教師の布教を禁止しました【本試験H15】。これを「典礼問題」(布教の方法をめぐる問題) 【セA H30清ではない】といいます。そこで〈雍正帝〉はキリスト教の布教を禁止して対抗しました。
 イエズス会士は中国の文化をヨーロッパに伝える役目も果たし,フランスの思想家の〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【本試験H2,本試験H12『経済表』を書いていない】【追H24】や,『経済表』【本試験H12ヴォルテールが書いていない】の著者で経済学者(重農主義【追H28重「商」主義ではない】)の〈ケネー〉(1694~1774) 【追H28】は,中国の政治や思想を高く評価しています。
 17~18世紀のヨーロッパで広がった中国文化の受容を,シノワズリー【東京H12[1]論述】【大阪H30論述】【追H28「中国趣味(シノワズリ)」】(フランス語で「中国趣味」という意味, chinoiserie)といいます。
 ヴェルサイユ宮殿【追H20カスティリオーネの設計ではない】の庭園の中にも中国風の建物を持つ休憩用の小宮殿(トリアノン宮)が建てられ、〈マリ=アントワネット〉に愛用されました(のちに第一次世界大戦の際に連合国とハンガリーとの講和条約の締結に,このうちのグラン=トリアノンが使用されました(⇒1920~1929のヨーロッパ))。

◆「互市」が各地に置かれ,民間交易も盛んになっていく
海上交易は1757年に広州で限定的に公認される
 台湾【本試験H8】の〈鄭成功〉(ていせいこう,1624~62) 【本試験H8】【大阪H31[3]論述指定語句】が清に降伏すると,海禁(かいきん)は緩和され,1685年に税関(海関。かつての市舶司から改名)が設置されました。海関に管理させるという形で民間交易を認めたわけです。
 もちろん,皇帝による朝貢貿易も続いてはいますが,「買いたい人がいるときに品物を手に入れたい!」「買ってくれる人がいるところに商品を持っていきたい!」と思うのは商人にとって当たり前。
 民間の「互市貿易」(ごしぼうえき,貿易をしてもいい場所を決めて,ヨーロッパ人を含めた民間商人の取引を許可すること)のほうが普通になっていきました。

 ところが,ヨーロッパ船の来航が増えると,1757年に〈乾隆帝〉は来航を広州一港に限定し【本試験H2泉州ではない,本試験H4「門戸開放」を進めたので,中国人の海外移住が促進されたのではない】【本試験H18・H27】,特権商人の組合(公行(こほん)) 【本試験H2,本試験H10「(アヘン戦争前に)公行に欧米諸国との海上貿易の独占権を与えていた」か問う】【本試験H22,本試験H27広州の位置を問う】のみが外国貿易を管理できるものとしました【本試験H28,本試験H30泉州ではない】。
 事実上,朝貢貿易以外の形の交易を認めたことになります。

 しかし,その直後1760年代からイギリスで産業革命(工業化)が起きると,イギリスは19世紀にかけて”自由”な貿易を要求していくことになりますが,アジアの海域に張り巡らされた様々な民族の商人ネットワークが大きな壁として立ちはだかることになります。
(注)吉澤誠一郎「思想のグローバル・ヒストリー」水島司『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.156。




・1650年~1760年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
朝鮮王朝は日本との国交を回復し,対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じた貿易が行われていました。江戸時代を通じて12回の「通信使」【本試験H10】が江戸に派遣され,日本と対等な外交関係を築きました(ただし江戸幕府にとっての通信使には,朝鮮を“従えている”というアピールの意味もありました)。
 同時に,朝鮮は清からの冊封(さくほう)を受けていましたが,自分たちのほうが女真(女直)人より“上”だという意識から「小中華思想」も根強いものがありました。貿易は日本との釜山での貿易と,清との朝貢貿易に限定されていました。
 科挙により官僚を出した家柄は「両班」(ヤンバン)と呼ばれ,その高い社会的地位はしだいに世襲化されて身分のようになっていきました。
 17世紀初めに新大陸原産のトウガラシ【追H20宋代の中国にはない】が朝鮮半島に伝来すると,保存食として以前から作られていた漬物に使用され,辛いキムチがつくられるようになりました。白菜をつかったキムチはペギュキムチといいます。農業の開発にともない商業も発展し,実学の普及も進みました。
 〈英祖〉(位1724〜76)のときに法典が整備され,均役法が制定されました。また,奴婢制の改革をし,両親のどちらかが良人であれば,その子も良人であるということになりました。奴婢は19世紀半ばにはほぼ消滅しました。パンソリという音楽劇が成立するのも,この頃です。







○1650年~1760年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

◆大陸部ではビルマが強大化し,カンボジア・ラオスが分裂により弱体化した
 17世紀初め,東シナ海を中心とする海域世界に強力な海軍を保有していたのは,交易集団の首領〈鄭成功(ていせいこう)〉(1624~62) 【本試験H10】【セA H30台湾が拠点か問う】【中央文H27記】の一派です。彼の勢力は,1661年にはオランダから台湾島を奪い,台湾【セ試行 】【本試験H10琉球ではない】を拠点として中国大陸の反清勢力(明(1368〜1644)の王族の末裔の建てていた政権)を支援し,海域も含めたアジア地域を統一する政権を建てることを夢見ていました。
 しかし,清の〈康煕(こうき)帝(てい)〉(位1661~1722)は【追H9六諭を発布していない】【本試験H17理藩院・新疆は無関係,H29共通テスト試行 即位の年代(グラフ問題)】,〈鄭成功〉(ていせいこう)を孤立させるために海禁政策(遷界令(せんかいれい))をとります。海岸近くの住民を強制退去とし,立ち入り禁止としたのです。そうすれば〈鄭成功〉は補給を大陸から得ることができなくなります。

 1683年に〈鄭〉氏一族は滅び,台湾島【本試験H15地図・時期(康煕帝の代)】は直轄地に加えられました【本試験H14台湾を初めて領有した中国王朝を問う(清),本試験H19時期】。
 これ以降,台湾島ではオーストロネシア語族の先住民に加え,漢人の人口が増加していきます。

◆台湾島は直轄化され,海関のみでの交易が許可される
東シナ海沿岸の漢人が東南アジアに大移動する
 康煕帝は1684年に展界令を出して,遷界令を解除。広州(粤(えつ)),漳州(閩(びん)),寧波(浙),上海(江)の4か所に海関という役所を設置して,ここでの貿易のみ許可します。

 この「海禁」政策は,東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東) 【セ試行 山西省・安徽省出身ではない】の中国人商人の東南アジアへの移住が始まりました。
 はじめは海外の長期滞在を禁じていましたが,食糧を輸入する必要もあったため,のちに緩和。彼らは南洋華僑(華人)と呼ばれ,東南アジア各地に会館【本試験H2唐代ではない】や公所【本試験H2唐代ではない,本試験H7,本試験H10同業組合の力を背景に都市の自治権を獲得していったわけではない】【本試験H16,本試験H21租界】という同郷者の助け合い(互助)組織【本試験H10】【本試験H28】をつくり旅先でお金を貸し合ったり,ビジネスの情報交換などをおこなっていき,東南アジアで影響力を及ぼしていくことになります。
 メコン川下流域ではミトやカントーなど中国人の商業都市も生まれ,中国出身者が衰えていたカンボジア王国の政治や,タイ人の国家アユタヤ朝に介入するようになりました。タイではその後,アユタヤ朝の滅亡後の1768年に,中国人(潮州出身)らの支援で〈ターク=シン〉が短期間ではありますがトンブリー朝を建国しています。




・1650年~1760年のアジア  東南アジア  現①ヴェトナム
ヴェトナムの黎朝の権威が衰え,南北に分裂する
 ヴェトナムでは,黎朝の皇帝はなんとか存続していましたが,政治的には南北に分裂していました。
 北のハノイを中心とする紅河流域の鄭氏の大越と,中南部の阮氏の広南の対立です。


・1650年~1760年のアジア  東南アジア  現②フィリピン
スペイン領フィリピンに,多数の華僑が進出する
 フィリピンはスペインの植民地支配の下,海上交易の拠点として栄えます。
 中国人が多数移住し,現地のマレー系住民とも混血して支配階層を形づくっていきます(フィリピンの華僑)。やがて中国系住民と在来住民との軋轢(あつれき)も生じ,17世紀前半には中国系住民の反乱が起きています。
 スペインによる住民のカトリック化も進んでいます。

 一方,フィリピン諸島南部はスペインの植民地支配に対して強く抵抗し,ミンダナオ島やスル諸島のイスラーム教徒はスペインと戦闘を続けます。

・1650年~1760年のアジア  東南アジア  現③ブルネイ
 ヨーロッパ諸国のブルネイへの関心は低く,植民はすすみませんでした。

・1650年~1760年のアジア  東南アジア  現④東ティモール
 ティモール島は,16世紀初め以来ポルトガルの植民地となり,ビャクダンの輸出などにより富が流出しました。
 その後,西方のインドネシア方面からオランダの進出を受けることとなっていきます。

・1650年~1760年のアジア  東南アジア  現⑤インドネシア
◆オランダは,島しょ部の交易拠点を拠点に領土支配に向かう
コショウはもう儲からず,領土支配に切り替える
 1619年にジャワ島に拠点バタヴィアを置いていたオランダの連合東インド会社〔オランダ東インド会社〕は,16世紀後半(1669年)(注1)にスラウェシ島南部のマカッサル王国を崩壊させます。
 この王国は香辛料の産地マルク〔モルッカ〕諸島との交易で栄えており,東インド会社はマルク諸島を支配権に収めるために,マカッサル人に敵対的なブギス人と組んで滅ぼしたのです。
 オランダは16世紀後半には,スラウェシ島北部やマルク諸島にも支配地域を拡大しています。
 さらに,1623年のアンボイナ事件【明文H30記「モルッカ諸島の基地で起きた事件」】【早法H24[5]指定語句】を起こして,イングランド【明文H30記】を東南アジアから撤退させました。

 1670年代末までにオランダは島しょ部の支配権を確立しましたが,とき同じくしてヨーロッパ市場でコショウ価格が暴落しましています。
 さらに,オランダは1661年に,日本の生糸交易の拠点だった台湾を〈鄭成功〉に奪われました。日本も「鎖国」政策をとったため,商品を買い付けるための銀・銅を日本から持ち出しにくくなってしまいます。

 オランダ東インド会社の軸は「貿易」から「領土支配」に転換していくのはこのへんからのことです。西部ジャワやバタヴィアの後背地、ジャワ島北部の沿岸部を直轄領に編入。
 コショウ貿易でもうからなくなった分を,商品作物のプランテーションによって穴埋めしようとしたのです。現地から,綿糸,香辛料,ツバメの巣(中華の食材に使用する),真珠,藍(青い着色剤),硫黄(火薬の原料),食料や木材,を住民に割り当てて徴収させました。
 注意しなければいけないのは,この時点ではオランダは各地の拠点をおさえていただけで,海域も含めて完全に支配することはできておらず,18世紀以降の強力な植民地支配のような状態ではなかったということです。本国のオランダ東インド会社の取締役会のトップを占める一七人会や、バタヴィアの評議会のメンバーの多くは、「オランダ東インド会社はあくまで商事会社なのであって、領土拡大は望ましくない」と考えていました。実際、その後も18世紀後半まで、オランダ東インド会社は北西ヨーロッパ諸国の東インド会社の中では最大の貿易量を誇っていました(注2)。


(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.89。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.319-320。



◆インドネシアでコーヒーのプランテーションが始まる
ジャワ島にコーヒー栽培が導入される
 のちに,1650年にオックスフォードでヨーロッパ初のコーヒーハウスが開業されて以降(52年にはロンドンで開業),ヨーロッパで人気が出始めていたコーヒーの栽培が17世紀末~18世紀初めに導入されると,主流になっていきました。
 コーヒーの生産量を増やすには,人手を増やすしかありません。オランダに栽培を強制されたジャワ西部の首長たちは,農民の食糧確保のために稲の水田開発に乗り出しました。以前は焼畑農業を営んでいたこの地の首長の権力が,一転して強まっていくことになりました。

 各地で,オランダに対する反乱や抵抗も見られるようになる中,マタラム王国の内紛にオランダが介入し,1755年には2つの勢力に分裂し,ほとんど無力になりました(マタラム王国の分裂)。
 オランダは,1752年に西部ジャワのバンテン王国も支配下に置き(属国),ちゃくちゃくと属国と直轄領地域を増やしていき,1758年頃にはジャワ島の大部分の植民地化を完了させています。

 スマトラ島のアチェ王国,西部ジャワのバンテン王国,東部ジャワのマタラム王国といったイスラーム教国は,内紛やオランダの介入などにより,繁栄は衰退に向かいました。




・1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール,⑦マレーシア
マラッカの支配圏がポルトガルからオランダへ移る
 ポルトガル領のマラッカは,1641年にオランダとジョホール王国が奪い,これによりオランダ領マラッカが成立しました。
 この地域におけるポルトガルの覇権に,終止符が打たれたわけです。

 現在のシンガポールはジョホール王国〔ジョホール=スルターン国〕の領土で、ほぼ未開の地でした(注)。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。
 ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。





・1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
カンボジアの王家は分裂し,衰退する
 メコン川中流域のクメール人のカンボジア王国は,17世紀後半から東西に分裂していました。東の勢力はヴェトナム,西の勢力はシャムとそれぞれ提携する形となっています。
・1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑨ラオス
ラオスの王家は18世紀に分裂して衰退に向かう
 メコン川上流,現在のラオスに位置するラーオ人(タイ人の一派)のラーンサーン王国は,〈スリニャウォンサー〉王(位1637~94)のもとで最盛期を迎えます。メコン川上流の中国やビルマ北部から,メコン川下流を結ぶ交易で潤いました。

 しかし,18世紀初めに北方のルアンパバーンと,中部のウィエンチャンの王家に分裂。さらに,1713年には南方のチャンパーサックで王国を開いたため,3分裂状態となりました。

・1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
アユタヤは米輸出で栄えるがビルマの攻撃受ける
 チャオプラヤー川流域のアユタヤ朝【セ試行 16・17世紀のアジアについての問い。コンバウン朝ではない】【追H18】支配下のシャム(現・タイ)は,18世紀初めから,主に中国向けの米輸出が始まり栄えます。

 しかし1765年に始まる戦争で,1767年にビルマのコンバウン朝に攻め込まれ滅ぼされました。アユタヤには,このときに破壊された首のない仏像が残されています。

・1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
タウングー朝が滅ぼされコンバウン朝が成立する
 ミャンマーのイラワジ川流域では,1752年にタウングー朝【追H18】【慶文H30記】が下ビルマのモン人により滅ぼされ,ビルマ人によってコンバウン朝(アラウンパヤー朝,1752~1886) 【追H27成立時期を問う】【セ試行 タイではない】【本試験H6地域がビルマか,イスラーム教を国教としたか問う】 【慶文H30記】が新たにおこっています。






○1650年~1760年のアジア  南アジア              
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1500年~1650年のアジア  南アジア 現①ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
 ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めており,15世紀後半からは,指導者は世襲ではなく,「菩薩(ぼさつ)や如来(にょらい)の生まれ変わり」とされた人物によって受け継がれていく制度(化身(けしん)ラマ;転生ラマ)が採用されるようになっていました。

 16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン=ナムギャル〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。
 


・1650年~1760年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ
 この時期のバングラデシュは,ムガル帝国の支配下にあります。

・1650年~1760年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 セイロン島は,ポルトガルに代わって,1658年~1796年までオランダの植民地となります。

・1650年~1760年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
 ムガル帝国では,病気にかかっていた第五代〈シャー=ジャハーン〉が,息子にアーグラ城の一室に閉じ込められていました。この息子が,第六代の〈アウラングゼーブ〉(位1658~1707) 【共通一次 平1:最大版図(はんと)を実現したか問う】【セ試行 死後に分裂した皇帝は〈バーブル〉ではない】【本試験H8】【本試験H26,H31最大領土となったか問う】【追H27最大版図を示した地図を選ぶ、H30】【H27京都[2]】【セA H30ムガル帝国を】として即位。〈シャー=ジャハーン〉は,窓から見える愛妃の墓である白大理石のタージ=マハールを見つめ,計画倒れに終わった黒大理石の”ブラック=タージ”を夢見ながら,晩年を送ったといわれています(切ない話です)。
 〈アウラングゼーブ〉は厳格なスンナ派イスラーム教徒で,イスラーム法をインドにも厳しく適用しようとし,非ムスリムに対する人頭税を復活させました【本試験H26】【本試験H8廃止ではない】【追H30廃止ではない】。増税をねらったというよりは,スンナ派の支配者としてのアピールが目的であったといわれています。ヒンドゥー教徒は,本来ならば人頭税が免除される「啓典の民」(ユダヤ教,キリスト教)には含まれませんからね。
 しかし,〈アクバル〉によって廃止【共通一次 平1】されていたヒンドゥー教徒らの人頭税(ジズヤ)が復活されたことで,各地で反乱がおき,軍人に分け与える土地も不足し,財政は悪化。後継者争いも起きると,インドは分裂に向かっていきます【セ試行 バーブルのときではない】。

 南インドのデカン高原には,バフマニー朝から分裂した5つのイスラーム教国のうち,2つの国が残っていました。そのうち武将の一族だった〈シヴァージー〉(生没年不詳,在位1674〜80)は,1645年につかえていたイスラーム教国から独立しようとし,反乱を起こしました。〈アウラングゼーブ〉の軍は〈シヴァージー〉を逮捕し,アーグラ城に軟禁しましたが,〈シヴァージー〉は洗濯カゴに隠れてまんまと脱出したといわれています。
 〈シヴァージー〉はインド東海岸にある現在のムンバイ周辺を支配地域とするマラーター国王に即位しました。〈アウラングゼーブ〉は1707年,マラーター王国を倒すことができないまま亡くなっています。
 このデカン高原【本試験H2パンジャーブではない】のマラーター王国は,周辺の諸国を諸侯とし,ゆるやかな政治連合であるマラーター同盟【本試験H21時期】【本試験H2パンジャーブ地方ではない,本試験H5ムガル帝国の没落の原因か問う,本試験H8北インドのマラータ族ではない】【追H24ムガル帝国を滅ぼしていない】を形成し,インド各地に勢力を拡大していきます。1713年以降,同盟の宰相は,バラモンによって世襲されるようになっていきました。

 1720年には,デカン高原で,ムガル帝国のデカン総督であった〈ニザーム=ウル=ムルク〉が帝国を裏切ってハイダラーバードのニザーム国として自立。ムガル帝国中央部のアワド州では,シーア派のアワド王国が建てられます。

 また,1736年にイランのサファヴィー朝を滅ぼしたアフシャール朝(1736~96)の〈ナーディル=シャー〉(位1736〜47)は,デリーを占領し,ムガル帝国の宮殿にあったルビー,エメラルド,ダイヤモンドを散りばめた「孔雀の玉座」をイランに持ち帰ってしまいました。
 同時期には,シク教徒【東京H29[3]】の勢力も強大化し,ムガル帝国に対して抵抗するようになります。
 1747年に〈ナーディル=シャー〉が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(1747~1842)をおこしています。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯にも進入を繰り返しています。

 このように,〈アウラングゼーブ〉死後のムガル帝国では,内外で地方政権が生まれ,支配が揺るがされていきました。



◆ムガル帝国沿岸部に,ヨーロッパ諸国の交易拠点が建設されていく
インドに、蘭・英・仏の拠点が新設される
 また,17世紀以降のムガル帝国は,ヨーロッパ諸国【本試験H5スペイン海軍ではない】の進入も受けるようになっていきます。


オランダ
 
 この時期、インド洋の幅広い場所で他のヨーロッパ諸国の活動を圧倒していたのがオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕です。
 17世紀前半にインド北西のグジャラート地方の港町・スーラトに商館を設置。
 17世紀なかばにはインド西南海岸の港町・コーチンを占領(ポルトガル人の拠点でした)。
 さらに、シナモンの産地セイロン島からもポルトガル人を追放。
 インド東海岸のマスリパトナム、プリカットにも商館を設置しています(注)。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.99。



イングランド

 1623年のアンボン(アンボイナ)事件をきっかけに,イングランドは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。

 まず,1640年には東海岸のマドラス【追H28フランスの拠点ではない】【セ試行 ポルトガルがアジア貿易の拠点としたのではない】にセント=ジョージ要塞を建設します。

 この頃のイングランドは,三王国戦争(ピューリタン革命)の真っ最中。〈クロムウェル〉の築いた共和政が王政復古で幕を閉じたのが1660年。国王に復位したステュアート家の〈チャールズ2世〉は,1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインドのボンベイ島を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの“生命線”になろうとは,思いもよらなかったわけです。なお,彼女はこのときにインドの喫茶の風習もイギリスに持ち込み,従来のアルコールに代わって,茶が広まっていくきっかけをつくりました(注)。
 ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸にボンベイを建設(⇒1650~1760の南アジア)。 さらに,1690年にカルカッタ【本試験H27地図上の位置】【本試験H8フランスの建設ではない】に商館を開設します。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.39。


フランス
 これに対して,フランスは1673年に南インドの東海岸にポンディシェリ【東京H27[3]】【本試験H27・H30】【本試験H2フランスの拠点はゴアではない,本試験H8イギリスの建設ではない】【追H19,H20地図(インド亜大陸の東海岸か),ポルトガルが16世紀に居住権を得ていない,それはマカオ。17世紀にフランスが拠点を築いたか問う】を建設,1688年にはベンガル地方のシャンデルナゴル【追H28ポルトガルの拠点ではない】【セ試行】【本試験H16】にフランス東インド会社【本試験H6他のヨーロッパ諸国に先んじての設立ではない】【本試験H16ルイ14世が創設したわけではない】の商館が設置されています(注)。

(注)ここで、フランス東インド会社にまつわる厄介な事情について説明しましょう。
 フランス東インド会社は,1604年に〈アンリ4世〉のときに創設されたもののまもなく経営不振となり,1664年に財務総監の〈コルベール〉により再建されていました【本試験H16】。しかし〈コルベール〉の死後は活動が停滞。その後、国王〈ルイ15世〉(位1715~1774)の信任を得た経済学者〈ジョン=ロー〉が財務総監に就き、個別に存在していた海外貿易をおこなう会社(西インドやアフリカを担当する西洋会社〔西方会社〕や、東インドを担当するフランス東インド会社)をフランスインド会社に統合。東インドの商品で西アフリカの奴隷を購入し、西インドに運んで砂糖プランテーション生産された砂糖をヨーロッパに運び、銀を得て東インドの商品を買い…というグローバルな視野を持つプロジェクトが考案されたのです。しかしこれらを統合するのは現実には難しく、実質的には1731年にアフリカ・西インドの貿易は自由化されたので、独占会社としてのフランスインド会社は「フランス東インド会社」というべきものになりました。ですから、〈ジョン=ロー〉による統合以降、厳密にいうと「フランス東インド」会社は消滅しましたが、業務内容は実質的には「東インド」に関するものですから、その後も慣例的に「フランス東インド会社」ということが多いです。厄介ですね。この改革によってフランス東インド会社はちょっとだけ株式会社的な性質を持つに至りますが、イギリスやオランダにくらべれば王権と政府の影響力が強かったのが特徴です。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.294-295。



◆ムガル帝国の覇権がゆるみ混乱する現地政権に英仏の東インド会社が介入する
東インド会社が、商事会社から政治権力に変わる
 ムガル帝国の国力が低下し社会が不安定化すると、イギリスとフランスの商館や居留地では安全を確保するために軍事力を増強する動きが進んでいました。各国の商館・居留地は、現地の政権と個別に協力関係を結ぶようになっていきます。たとえばこの頃、ポンディシェリーのフランス総督が、マラーター勢力と敵対するアルコット(マドラスやポンディシェリーに近い)の太守(ナワーブ)からの求めに応じ、これを援助。アルコットのナワーブは感謝の印として、ポンディシェリー近郊の2つの村をフランス東インド会社に譲り、ムガル帝国がフランスの総督を「ナワーブ」(太守)としてくれるように取り計らってくれたのです(注1)。
 これは大変な変化です。
 のちの歴史の流れを先読みすれば、単なる商事会社としての東インド会社が、「陸の帝国」をめざす第一歩であったともいえます。
 当然フランスが現地政権と手を結ぶ動きをとれば、やはりイギリスも対抗して同じ姿勢をとります。
 1744年には,オーストリア継承戦争と連動した第一次カーナティック戦争,その後の第二次・第三次カーナティック戦争で,南西インドではイギリスが優勢になっていきます。カーナティックというのは戦争のあったカルナータカを英語風に読んだものです。
 しかしこうしたインドのフランス総督の動きを、本国のパリ本社執行部は嫌います。フランス総督〈デュプレクス〉(1697~1763)は、インドのデュプレクスはフランス士官によってインド人歩兵にヨーロッパ式の操銃訓練を学ばせる先進的な作戦で巨額の富を得ていたのです。彼は1754年に解任され、本国で貧窮のうちに亡くなっています。

 1749年には,ポルトガルにより1522年に拠点となっていたサン=トメをマドラスに併合。このサン=トメのタテ縞(しま)模様の木綿は,江戸時代(寛政年間)の日本にも伝わり「桟留(さんとめ)」と呼ばれ,「粋(いき)」な柄として人気を博していました。ほかに縦糸が絹,横糸が木綿でできた褐色・紫色の縞織物であるベンガラ(ベンガルが語源),セイラス縞(セイロン縞が語源),茶宇縞(ちゃう,インド西海岸のチャウル地方が語源)などが,ポルトガルやオランダを通じて日本に持ち込まれました(注2)。


 その後、ヨーロッパの七年戦争【追H20】と連動し、かつてカーナティック戦争でフランスを撃破したこともある〈ロバート=クライヴ〉(1725~74)がシャンデルナゴルのフランス要塞を攻撃、これを降伏させています(注3)。
 その4ヶ月後、ベンガル州の太守(ナワーブ)〈スィラージュ=アッダウラ〉がイギリス東インド会社の要塞を占領するという事態が発生。それに対し、〈クライヴ〉率いるイギリス東インド会社が軍事行動を起こし、1757年のプラッシーの戦い【本試験H18時期(50~60年代ではない),本試験H11時期(1880年代か問う)、本試験H25】【H30共通テスト試行 現在のカナダ全体で第一言語の比率として英語が高いのは、「プラッシーの戦いの結果、イギリスによる支配の基礎が築かれた」ことが背景にあるか問う(正しい)】【追H17時期はオーストリア継承戦争が行われた時期ではない、H24フランスが勝利していない】の結果,イギリス【追H24フランスではない】側が勝利します。じつは〈クライヴ〉は〈スィラージュ=アッダウラ〉の叔父で軍司令官であった〈ミール=ジャーファル〉と裏取引し、〈ミール〉を新しいナワーブとすることを承認していました。
 その後もフランス東インド会社による反攻はつづき(第三次カーナティック戦争)、1758年~59年にはフランスによるマドラスの包囲も起こりますが、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに決定的に敗北。
 1763年には七年戦争の結果、イギリス・フランス・スペイン間でパリ条約が結ばれ,フランスは一部の商業都市を除き、インドから撤退することになりました。〈クライヴ〉は1765年にベンガル知事に任命され、巨額の富を築きます。
 こうして,次の時期にはイギリス東インド会社によるインドの「領域」支配が進行していき、その後インドでフランス勢力がイギリスに対して力を盛り返すことはありませんでした。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.307。
(注2) 神奈川世界史教材研究会「桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物」『高等学校 世界史のしおり』2003.9,帝国書院。
(注3) 「プラッシーの戦いは、フランス東インド会社とベンガル太守の連合軍が、イギリス東インド会社に撃破された」という説明は正確ではありません。時系列でいえば、まずイギリス東インド会社がフランス東インド会社を攻撃し、その後、イギリス東インド会社がベンガル太守を攻撃しています。たしかにベンガル太守軍にはフランス東インド会社も兵力を出していますが、その数わずか40人でした。どちらかというと、1760年のヴァンディヴァッシュの戦いのほうが、フランスの決定的敗北という大きな意義を持っています。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.311。


・1650年~1760年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネワール人のマッラ朝は15世紀後半に2つに分裂していましたが,1619年にさらに分裂し,王家は3分されました。
 王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあったゴルカ王国(1559~1768)の力が強まっていきました。






●1650年~1760年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
ヨーロッパ諸国の参入が相次ぐ
 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
 しかし、この時期インド洋の幅広い場所において、ポルトガルやスペインなどの他のヨーロッパ諸国の活動を圧倒するようになっていたのがオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕です。
 17世紀前半にインド北西のグジャラート地方の港町・スーラトに商館を設置。アラビア半島のモカ、ペルシャ湾のバンダレ=アッバースにも商館を置いています。
 17世紀なかばにはインド西南海岸の港町・コーチンを占領(ポルトガル人の拠点でした)。
 さらに、シナモンの産地セイロン島からもポルトガル人を追放。
 インド東海岸のマスリパトナム、プリカットにも商館を設置しています(注)。

(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.99。



・1500年~1650年のインド洋海域 インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
 アンダマン諸島・ニコバル諸島は,現在のミャンマーから,インドネシアのスマトラ島にかけて数珠つなぎに伸びる島々です。
 アンダマン諸島の先住民(大アンダマン人,オンガン人(ジャラワ人など),センチネル人)はオーストラロイドのネグリト人種に分類され,小柄な身長と暗い色の肌が特徴です。先史時代に「北ルート」と「南ルート」をとった人類の子孫とみられています(⇒700万年~12000年の世界)。
 外界との接触は少なく,狩猟・採集・漁撈生活を営んでいます。

・1650年~1760年のインド洋海域  モルディブ
 モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年にはポルトガル王国が占領しています。
 代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国(注)は,モルディブを保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ,事実上スペインから独立しています。

・1650年~1760年のインド洋海域  イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域
 ディエゴガルシア島を含むチャゴス諸島へのヨーロッパ諸国による植民は始まっていません。
 

・1650年~1760年のインド洋地域  マダガスカル
 フランスの勢力は17世紀後半に駆逐されましたが,その後もフランスは支配を維持しようとします。

 一方,15世紀以来の奴隷交易の利益や牛の牧畜と稲作の支配を背景に,マダガスカル島の中央部の高原地帯には,17世紀初めにメリナ王国をはじめとする諸小王国が建ち並びんでいました。
 いずれもオーストラロイド語族の言葉を話すマラガシー人で,アラブ文化やマレー文化などのさまざまな文化の影響がみられます。
 マラガシー人の一派サカラバ人は,奴隷交易で手に入れた武器を背景として,17世紀半ばにマダガスカル西部に支配圏を広げ,18世紀半ばにかけて王国を築きます。サカラバにあって,メリナになかったものは銃でした。



・1650年~1760年のインド洋地域  レユニオン
 1507年にポルトガル人が発見したときには無人島でした。
 1640年にフランス人に領有されたブルボン島(現レユニオン島)は,1665年にフランス東インド会社がアジアへの中継基地として植民を始め,コーヒーやサトウキビの栽培を開始します。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.169,292。



・1650年~1760年のインド洋地域  モーリシャス
 レユニオンの東方のマスカレン諸島にある現モーリシャスは,1505年にポルトガルが到達したときには無人島でした。1638年以降,ネーデルラント連邦共和国(オランダ。当時は事実上スペインから独立)の植民が始まりましたが,経営に失敗して1710年には撤退します。

 代わって1715年にフランスが植民し「フランス島」に改称。すでにフランスの財務総監〈コルベール〉(1619~1683)の頃に、アジアへの中継基地が設けられていました(注)。奴隷を導入したサトウキビのプランテーションがおこなわれます。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.169,292。


・1650年~1760年のインド洋地域  フランス領マヨット,コモロ
 マヨットのヨーロッパ人による植民地化はすすんでいません。

 ヤアーリバ朝オマーン(1624~1720)の君主〈スルターン・イブン・サイフ〉(1692~1711)が,東アフリカのポルトガル勢力を駆逐したことを背景に,コモロには,イスラーム教徒による複数の国家が建ち並んでいました。


・1650年~1760年のインド洋海域  セーシェル
 セーシェルには1742年にフランスが植民を始め,1756年に領有を宣言します。








●1650年~1760年のアフリカ
◆ヨーロッパ諸国は,アフリカ大陸の現地勢力と通商関係を結び,奴隷交易を発展させる
○1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 一方,オスマン帝国の勢力が拡大し,アラビア半島方面との奴隷交易も盛んです

・1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチを拠点としていたアダルの領域には,南方からクシ語派のオロモ人が進出しています。

・1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
エチオピア高原でオロモ人の勢力が強まる
 エチオピア高原に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国の皇帝〈スセニョス1世〉(位1606~1632)は,銃器を提供してくれるポルトガルに接近。皇帝はカトリックに改宗したことで内戦が起き,1632年に退位。
 その後,都はゴンダルにうつされ,比較的平和な時代が訪れます。

 オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。

・1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア

 東アフリカのインド洋沿岸【追H28東南アジア海域ではない】【H30共通テスト試行 インドネシアではない】にはスワヒリ語【追H28】文化圏が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。

 1498年にはポルトガル王国の〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?~1500?)に導かれインドのカリカットに到達しています。




・1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。





○1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

 ポルトガル王国は,アフリカ大陸南西部(大西洋側)のアンゴラ【追H18】と,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地化していきます。

 ・1650年~1760年のアフリカ  南アメリカ 現①モザンビーク
 アフリカ東南部のバントゥー系ショナ人によるモノモタパ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】では,ポルトガル人による介入が相次いでいました。
 そんな中,王国につかえていた牛の監督官〈チャンガミレ〉が1680年代に勢力を拡大して,ポルトガル商人を追放するとともにモノモタパ王国を圧倒し,高原南西部を支配しました。
 これ以降,この地域にはショナ人による小国が分裂するようになります。モノモタパ王国は存続こそしたものの,1694年~1709年の内戦で王が9代交代し,18世紀初め以降は支配下にあった首長が独立を始め,19世紀末に事実上消滅することになります。
 チャンガミレ王国も,18世紀を通して衰退に向かっていきました。

・1500年~1650年の南アフリカ  現①モザンビーク
◆ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
 ザンベジ川【本試験H29ニジェール川ではない】流域では,現在のモザンビーク周辺に,ムタパ(モノモタパ王国【本試験H9[24]地図上の位置を問う】【本試験H29】)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
 1488年に喜望峰を発見したポルトガル王国の進出が続き,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地にします。1505年(注)にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります【本試験H3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】。

 その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年(注)にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
 そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さらにジンバブウェとの間に金の取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。

 イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(1539~1606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
 バントゥー系のングニ人の一派が,現在のモザンビークのマプト周辺から現在のスワジランドに移住したのは17世紀初め頃のことで,スワジ人のまとまりを形成していきました。18世紀前半に〈ドラミニ3世〉が現在につながるスワジランド王国の基礎を築いています。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 バントゥー系のソト人は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすみます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
 先住のサン人は居住地を追われていきました。

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 内陸の高地にはバントゥー語系のソト人や,同じくバントゥー語系のツワナ人などがいて,国家を形成しています。
 もともと居住していた狩猟採集民のコイコイ人は,南西部に居住しています。

 そんな中,1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕が,喜望峰の北方に植民都市ケープタウンを建設。この地域は温暖な地中海性気候で,果樹栽培や農耕が可能でした。これをケープ植民地といいます【本試験H4スペインの建設ではない】【追H9 1763年のパリ条約によるものではない,H24オランダの植民地か問う、H30フランスの建設ではない】。

 1685年にフランスでナントの王令が廃止されると,カルヴァン派〔ユグノー〕も植民に参加。
彼らはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていきました。
 しかし,バントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,両者に対立も生まれるようになります。


・1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部にはナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群のヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。


・1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。

・1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には1500~1700年頃の間マラヴィ王国が統治していました。沿岸部のポルトガルとの象牙の交易で栄え,〈マスラ王〉(位1600~1650)が有名です。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.42~p.43

・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
 ジンバブエでは,かつてグレート=ジンバブエの栄えた地(現在のジンバブエ南東部)から北350kmの地に,15世紀前半にムタパ王国が建国されました。

 一方,南西部の高原地帯のカミを中心に15世紀半ば以降トルワ王国が金の採掘や牧畜で栄え,リンポポ川下流のモザンビーク方面でアラブ人やポルトガル人との交易も行っていました。
 17世紀後半にはバントゥー系のショナ人が台頭し,トルワ王国を打倒してロズウィ王国を建国しています。


・1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系のツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系のサン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕のケープタウンへの植民が始まると,北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになります。






○1650年~1760年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの〈アフォンソ1世〉(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れながらコンゴ王国を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸からキャッサバというイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理用バナナに比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。

 コンゴ王国とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
 コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。

 コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民を奴隷として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王に奴隷貿易への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合のサントメ島を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主にサトウキビのプランテーションで働かされました(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)。
 他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
 こうして1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。

 ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー系ルバ王国とルンダ王国が栄えました。
 東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。

 アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。


・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります。奴隷交易の拠点とともに,サトウキビのプランテーションが大々的に行われました。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。

・1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。






○1650年~1760年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流のベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によるオヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。

ハウサ諸王国
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立しています。
 ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
 現在の④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国(Gyaman)などが栄えています。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 ヨーロッパ人によって「胡椒海岸」と命名されていた現在のリベリア。1662年にはイギリスの交易所が設けられています。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。この地の牧畜民フラニ人は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げています。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,⑫ガンビア
 セネガルでは,ウォロフ人のジョロフ王国がソンガイ帝国との交易で栄えていました。しかし,次第にポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどとの金や奴隷の交易も本格化していきます。17世紀後半にはフランスの勢力が強まり,16世紀中頃にはセネガルの王国は分裂します。1659年にフランスはサン=ルイという交易所を建設し,1677年にはアフリカ最西端のカップ=ヴェール岬(ポルトガル語ではカーボ=ヴェルデ岬)近くのゴレ島をオランダから奪い,内陸から運ばれてくる奴隷の集荷・発送の拠点となっていきました。ヨーロッパ諸国はここに鉄,織物,武器を持ち込み,金や奴隷,アラビアゴムと交換しました(注1)。ゴレ島は“負の遺産”として世界文化遺産として登録(1978)されています。フランス人の入植がすすむとともに,セネガルの住民との混血もすすみます。サン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織もつくられていきました。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.22。読み物として「黒人奴隷クンタの20年間」を参照(http://kunta.nomaki.jp/)。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在のモーリタニアでは,1644~1674年の戦争でアラブ系の遊牧民がベルベル系の遊牧民の連合(サンハージャ)を打倒して以来,アラブ化がすすんでいます。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
 ニジェール川沿岸部はサハラ砂漠を越える金と岩塩の交易の拠点でした。モロッコ方面からサアド朝が進出し支配していましたが,17世紀に入ると支配は弱まります。

・1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,モシ王国が栄えていました。






○1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 エジプトにはオスマン帝国の総督が置かれ,インド洋交易により貨幣経済が栄えました。カイロ市内にはキリスト教徒(コプト教会,ギリシア正教会,アルメニア教会),ユダヤ教徒とスンナ派のイスラーム教徒が街区ごとにゆるやかに分かれ共存していました。

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン

ダルフール=スルターン国,ワダイ=スルターン国
 スーダン南西部のダルフール地方では,フル人の指導者がチャド湖周辺のボルヌ帝国の支配を脱し,16世紀末にイスラーム教国のダルフール=スルターン国を建国し,エジプト方面への奴隷交易で栄えています。17世紀前半にはさらにその西のチャド東部を拠点にワダイ=スルターン国が建国されています。

フンジ=スルターン国
 また,ナイル川の上流部(白ナイル)沿岸のセンナールという都市を中心に,フンジ人のセンナール王国(フンジ=スルターン国,16世紀~1821年(注))が交易地として栄えています。

その他
 ナイル川上流部の現・南スーダン周辺には,ナイル=サハラ語族ナイロート系の農牧民のシルック人(ナイル=サハラ語族)が多数の小王国の連合を形成しています。ほかに,同じくナイロート系のディンカ人や,ヌエル人などの農牧民が社会を形成しています。

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコは,アルジェリア・チュニジア・リビアと違ってオスマン帝国を防ぐことに成功し,〈ムハンマド〉の家系(シャリーフ)を称するサード朝(1511~1659)が有力となりました。サード朝はサハラ沙漠にも進出しましたが,17世紀初めに最盛期の〈マンスール〉が亡くなると地方の遊牧民や山岳部のベルベル人の自立が始まり,1659年に最後の王が暗殺され滅亡しました。各地に政権が林立する中,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現しました(アラウィー朝)。

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 北アフリカ西部のマグレブ地方のアルジェリアは,オスマン帝国アルジェ州として間接統治されていました。

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアはチュニス州とされ,オスマン帝国が軍司令官(デイ)を派遣しましたが,次第にテュルク(トルコ)系の総督(ベイ)がデイをしのいで自立していきました。1611年にベイに任命された〈ムラード〉家が1702年にシパーヒー(騎兵)長官に暗殺されるまでベイ職を世襲し,パシャ(総督)の称号も与えられました。事実上の王朝建設であり,ムラード朝(1613~1705)と呼ばれます。
 1705年には騎兵隊長官〈フサイン〉がアルジェの勢力を排除して実権を握り,1957年まで続くフサイン朝(1705~1957)を築きました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フサイン朝はオスマン帝国の自立を進め,ヨーロッパ諸国とも独自に条約を締結するほどでした。

・1650年~1760年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアは,1711年までスルターンに任命されたパシャにより統治されていました。しかし,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました。支配権が一族に世襲されたためカラマンリー朝といいます。地中海の海賊活動やユダヤ人・キリスト教徒の交易活動を保護して繁栄しました。








●1650年~1760年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


◆悲惨な宗教戦争(三十年戦争)の結果,停滞するヨーロッパに「主権国家体制」が生まれた
「軍事革命」が,ヨーロッパ主権国家体制を生む
 この時期のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれる停滞期にあたります。

 ドイツの神聖ローマ帝国では,プロテスタントとローマ=カトリックとの対立がベーメンの民族運動とも結びつき,1618~48年には三十年戦争が起きました。戦場となったドイツは大きな被害を受け,神聖ローマ帝国内の諸領邦に国家としての主権が認められました。

 これ以降,ヨーロッパ各国は互いの国家の主権を認め,外交官を交換し合って対等な関係で外交関係を築く体制(主権国家体制)を作り上げていくようになります。具体的には,三十年戦争後に締結されたウェストファリア条約(1648)で取り決められました。

 現実問題,キリスト教世界が正教会,ローマ=カトリック,プロテスタント諸派に分裂し,それを取り仕切っていた神聖ローマ帝国の実権もなくなってしまった以上,普遍(ふへん)的な力で国家の枠組みを越えた全ヨーロッパをまとめ上げることは,もはや不可能となっていました。
 一方で軍事革命により銃砲・大砲により戦争の犠牲者数のケタが跳ね上がり,悲惨さも増していました。三十年戦争による死者数は400万人(!) とも見積もられています。そりゃ,どうにかして“平和なヨーロッパ”を構築しなければという思いに至るのは当然です。

 抜きん出た力を持つ国家が存在しない以上,ある程度まとまった領域を互いに定め,互いの主権(他国を自国の国内問題に口出しさせない権利)を認め,国際会議を開き戦争のルールも含めた国際条約をその都度つくってバランスをとっていくしかないと考えたわけです。対等な国家同士のバランスをとることで平和を維持しようとすることを勢力均衡といいます。皇帝に冊封(さくほう)されることで域内のバランスをとる東アジアの華夷秩序(かいちつじょ。中国と周辺国家の“上下関係”に基づく秩序)とは,根本的に異なるわけです。
 もちろんこれらを決定できる権限は国民にはなく,国家は王家の“持ち物”とみなされました。したがって,主権国家体制のもとでヨーロッパの国王の中には,国内の諸勢力のバランスをとりつつ常備軍と官僚を整備し中央集権化をすすめる政権も現れます。これを絶対王政といいます。







○1650年~1760年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

・1650年~1760年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現①ロシア
◆ロシア国家が台頭し,バルト海とシベリアに領域を拡大した
 ポーランド=リトアニア連合王国とスウェーデン王国に代わり東アジアで台頭していったのが,ロシアです。
 その母体は,モスクワ大公国で,1480年にモンゴル(タタール)人の支配から自立すると,1453年に滅亡していたビザンツ帝国最後の姪と結婚した〈イヴァン3世〉(位1325~41)はツァーリ【本試験H18】を名乗り,ギリシア正教(東方正教会)の保護者としてローマ帝国の後継国を自任しました。のちにモスクワは「第3のローマ」と呼ばれるようになっていきます。
 1533年に即位した〈イヴァン4世〉(雷帝,在位1533~84) 【本試験H10】は中央集権を推し進め, 1547年にはツァーリを称し,「全ロシアの君主」として戴冠式を行いました。東のシベリア【本試験H10】に領土を広げ,このツァーリによるロシアはヨーロッパの枠を越えた帝国へと発展していくことになります。

 〈イヴァン4世〉の死後,ツァーリのロシアでは貴族の反乱が起こり動乱時代を迎えますが,1613年にロマノフ朝(1613~1917,第一次世界大戦中のロシア革命まで)が始まると,強力な農奴制と官僚制に基づくロシア型の絶対王政(ツァーリズム)が確立していきました。

 しかし,1648年にはウクライナでコサックが反乱を起こし,指導者が反ポーランドの立場からモスクワ大公国に接近。モスクワ大公国はウクライナを併合しようという思惑から自治権を与えました。これをコサックによる「ヘーチマン国家」(1649~1786)といいます(1654年にペレヤスラフでの協定が結ばれました)。コサックのヘーチマン(指導者)である〈フメリニツキー〉が独立を守るためにとった選択であり短期的な軍事同盟でしたが、ロシアにとっては事実上黒海沿岸のウクライナを併合する思惑があったといわれます。ただヘーチマン国家には1764年までは広範な自治が認められていました(注1)。
 その後、ロシア、ポーランド、クリミア=ハン国などがウクライナ地域をめぐる対立抗争を激化させ、ヘーチマン国家も巻き込まれます(〈フメリニツキー〉(1595~1657)死後20年は、ウクライナ史では「荒廃」(ルイーナ)の時代と呼ばれます)(注2)。
 なお1670年には,ドン=コサックの〈ステンカ=ラージン〉(1630~71) 【本試験H18ポーランドではない・時期】【追H21エカチェリーナ2世は鎮圧していない】の指導のもとで,南ロシアで反乱が起きています。反乱鎮圧後には農奴制が強化されました。

(注1) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.108。
(注2) 黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.112。



◆ロシアの南下とともにオスマン帝国との戦争が続き,〈ピョートル大帝〉は黒海沿岸に進出した
内陸からバルト海へ,ツァーリから皇帝(インペラートル)へ
 その後〈フョードル3世〉(任1676~82)のときには,1676年~1681年にオスマン帝国とクリム=ハン国【京都H22[2]】との戦争(露土戦争)を起こします。露土戦争というと1877年~78年のものが最も有名ですが,それ以前にも断続的に何度も引き起こされているのです。
 その後,ロマノフ朝が強国にのし上がるきっかけをつくったのが,1682年に即位した〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725) 【東京H7[3]】【本試験H22,本試験H26イヴァン4世ではない,本試験H28】です。同時代の西欧(オランダやイングランド)の最先端の政治・経済を学ぶために2度にわたり視察旅行(1697~98,1716~17)をおこない,大砲の鋳造や造船術を導入して,バルト海への進出のため海軍を創設しました。急速な工業化を進めるためマニュファクチュア(工場制手工業)を振興しましたが,そこでは農奴を強制労働させることが許可されています(農奴制マニュファクチュア)。また,領主貴族の長子相続制を定め,分割相続を禁止しました。これにより,長男は領主として農奴から人頭税を徴収できても,次男・三男は14階級に分けられた文武の官僚として働かなくてはならなくなります。なお,重税への抵抗から,1707~08年にはドン=コサックの反乱が起きています。
 文化面では西ヨーロッパ風の服装や文化を採用し,ロシア人がたくわえていた“あごひげ”を禁止しました。またカレンダーとしてユリウス暦を採用するとともに,ギリシア正教会の総主教への支配を強化。教育改革をおこない,ロシア科学アカデミーがペテルブルクにひらかれ,1705年には東方への進出を見据えて日本語学校もつくらせています。

 南方には,1695~96年にオスマン帝国と戦って黒海北岸のアゾフ海に進出。
 西方では,スウェーデン王国と1700~21年の北方戦争【本試験H28】【追H21エカチェリーナ2世ではない,H30ルイ14世のときではない】(大北方戦争ともいいます)で戦い,〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725)【本試験H28】がスウェーデンの〈カール12世〉(在1697~1718)を破りました。
 戦争中の1703年から,〈ピョートル大帝〉はバルト海沿岸に新都ペテルブルク【本試験H26モスクワではない】【追H19時期(17世紀の国際貿易港ではない)】も建設しています。〈カール12世〉がポーランドで戦っている間のことです。
 このペテルブルクは,バルト海への軍事的・経済的進出だけではなく,西ヨーロッパの文芸や科学技術を導入するための”西方への窓”となりました。
 1721年には元老院を構成する支配層が〈ピョートル〉に「祖国の父,全ロシアのインペラートル(皇帝),偉大なるピョートル」の称号を贈ると,彼は一旦これを形式的に拒否し,その後受け入れました。ロシア国家の君主の称号は「全ロシアのツァーリにして大公」という称号から,「全ロシアのインペラートルにして専制君主」に変わったので,これをもってロシア帝国が成立したと考えるのが一般的です。



◆ロシアは清との国境を設定し,ベーリング海峡を発見,さらにカムチャツカ半島の漂流日本人を連行し日本語学校をつくった
バルト海から太平洋まで,ヨーロッパからアジアまで
 東方はシベリアを通過してオホーツク海に到達し,清との間に国境画定の条約を結び通商を開始します。1689年に〈康煕帝〉との間に締結されたネルチンスク条約【京都H22[2]】【本試験H13史料,本試験H17イリ地方を清から割譲していない,本試験H21キリスト教布教の自由は認めていない,本試験H25】【早・政経H31乾隆帝の代ではない】では,ロシアと清の国境が外興安嶺山脈と黒竜江の支流であるアルグン川と定められました。さらに〈ベーリング〉がベーリング海峡を発見しています。
 また,1697年からは〈アトラソフ〉率いる軍がカムチャツカ半島にも南下をすすめ,アイヌ人や日本人の戦闘も置きます。これを憂慮した江戸幕府は1700年に松前藩に地図の作成を要請。しかし1706年にロシアはカムチャツカ半島を領有しました。
 カムチャツカ半島を探検した〈アトラソフ〉は,現地に漂着していた日本人〈伝兵衛〉(でんべえ,1695年に大坂を出港し遭難)をロシアに連行し,日本語教師となりました。のちにも何人かの日本人が連行され,同様に日本語教師となっています。次の女帝〈アンナ〉(位1730~40)の時代には薩摩の出身者らによって,史上初のロシア語=日本語辞典(露日辞典)が編纂されています。

 〈ピョートル〉大帝の治世が終わると,1727年には清の〈雍正帝〉とキャフタ条約【本試験H8】が締結され,シベリアや外モンゴル【本試験H8「モンゴル」】との国境がもうけられました。また,オーストリアと同盟関係を結び,オスマン帝国に対抗する政策がとられます。




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・1650年~1760年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア
ロシアがバルト海東岸に進出する

 現エストニア北部のエストラントはスウェーデンの支配下となっています。
 現エストニアから現ラトヴィアにかけてのリヴラント地方もスウェーデンの支配下です。
 タリンにはスウェーデンから総督が派遣され、ほとんどの役人はバルト=ドイツ人貴族でした。

 その後、ロシアによるバルト海東岸地域への進出が強まります。
 現・エストニアの北部エストラントはスウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となりました。
 現・エストニアから現・ラトヴィアにかけてのリヴラントも、スウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となりました。


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・1650年~1760年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現③ラトヴィア

ロシアがバルト海東岸に進出する
 現エストニア北部のエストラントはスウェーデンの支配下となっています。
 現エストニアから現ラトヴィアにかけてのリヴラント地方もスウェーデンの支配下です。
 リーガにはスウェーデンから総督が派遣され、ほとんどの役人はバルト=ドイツ人貴族でした。

 1695~97年の水害・霜害の被害はエストニア人の人口を約20%も喪失させるほどの大飢饉を招きました(注1)。

 その後、ロシアによるバルト海東岸地域への進出が強まります。
 現・エストニアの北部エストラントはスウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となりました。
 現・エストニアから現・ラトヴィアにかけてのリヴラントも、スウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となりました。


 現ラトヴィアのリーガ湾南岸地域のクールラント公国は、ポーランド=リトアニアの宗主権下にあります。クールラント公はドイツ人で、支配階層はすべてバルト=ドイツ人でした。
 〈ヤコブ=ケトラー〉公(初代ゴッドハルト=ケトラーの孫、位1642~82)の在位中1651年には海外に植民地の獲得にも乗り出し、西アフリカのガンビアとカリブ海のアンティル諸島のトバゴに進出しています(注2)。しかし、ロシア、ポーランド=リトアニア、スウェーデン間の1654~67年の戦争に巻き込まれて植民地を喪失し、経済的にも衰えていきます。
 1710年にはロシアの〈ピョートル大帝〉の姪〈アンナ〉がクールラント公に嫁ぎました。1730年に大帝が亡くなると〈アンナ〉は女帝(位1730~40)となりますが、クールラント公に後継者がなかったため、〈アンナ〉はバルト=ドイツ人の〈ビューレン〉男爵にクールラント公国を与えることとしました(注3)。

(注1) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.72。
(注2) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.76。
(注3) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.78。



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・1650年~1760年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現④リトアニア

◆ポーランド=リトアニアは中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
ポーランド=リトアニアはウクライナやバルト海喪失
 ポーランド=リトアニア連合王国は,ヤゲウォ(ヤゲロー(注))朝【本試験H7イヴァン4世は無関係】【本試験H30】が断絶して1572年から選挙王政【本試験H30】となり,大土地を領有する貴族(シュラフタ)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。しかし,外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権も進みません。
 しかし,1649年にウクライナのコサックが「ヘーチマン国家」を樹立し,1653年にロシアの保護下に入ると,事実上ウクライナの一部を喪失。
 1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争(北方戦争)で領土を分割される寸前まで追い詰められています。

 それでも〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年の第二次ウィーン包囲に出兵してオスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。しかし国内の集権化には失敗です。
 1697年には〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況に。

 北方戦争でスウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。

(注)ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。







○1650年~1760年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ

中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
海外植民地なき中央ヨーロッパは,国外向け穀物生産で栄え,激しい覇権争いが繰り広げられる

・1650年~1760年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
ポーランド=リトアニア連合王国は中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
 ポーランド=リトアニア連合王国は,ヤゲウォ朝【本試験H30】が断絶して1572年から選挙王政【本試験H30】となり,大土地を領有する大貴族(マグナト)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。
 1648年に即位した〈ヤン2世〉は内政改革に大貴族の反対で失敗。
 1652年には「リヴェルム=ヴェト」(自由拒否権)の制度が定められました。これはラテン語で「私は自由を認めない」という表現に由来し、「一人の代議員の反対でも議会が流会という権利・権限のこと」を指します。王権の制限がいっそう進んでいくことになりました(〈ヤン2世〉は廃止しようとしましたが、1668年に国王が退位する結果となります)(注1)。

 そんな中、1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争で領土を分割される寸前まで追い詰められる有様(注2)。
 スウェーデンは撤退し、1688年の王の退位で3代80年に及ぶスウェーデン出身のヴァザ家の支配は終わりますが、その後「ピャストの王(ポーランド人の王)」として選ばれた〈ヴィシニョヴィエツキ〉(位1669~73)は1672年にオスマン帝国との争いでポドリアを喪失。
 〈ヴィシニョヴィエツキ〉が亡くなると、オスマン帝国軍を破った将軍〈ヤン=ソヴィエツキ〉が王に選ばれ(ヤン3世、位1674~96)、ハプスブルク家と提携してオスマン帝国に対抗する政策をとります。
 〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年にオスマン帝国が第二次ウィーン包囲を実行すると、援軍を出して国王自ら参戦、オスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。
 王のために建てられたワルシャワ郊外のヴィラヌフ宮殿は、バロック文化の隆盛を物語ります。
 しかし国内の集権化には失敗。

 次いで1697年にはザクセン選帝侯〈フリードリヒ=アウグスト1世〉が王に選ばれ、〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。
 しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。
 1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況…。
 北方戦争が起きると、無謀にも戦争に介入。戦争の途中でシュラフタの一部は別の人物を国王に立てますが(位1704~09)、その後〈アウグスト2世〉は復位し、ザクセン軍をポーランドに駐留させようとしますが、シュラフタの強い反対で阻止されます(注3)。

 スウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。
 〈アウグスト2世〉が1733年に亡くなると、シュラフタは1704~1709年に王位に立てた〈レシュチンスキ〉を再度国王に選びました。しかし反対派は〈アウグスト2世〉の息子を国王〈アウグスト3世〉(位1733~63)に立てます。
 両者の争いに周辺諸国もからみ、ポーランド継承戦争となりました(1733~1735年)。
 最終的に〈アウグスト3世〉の即位が正式に承認されます(注4)。

(注1)渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.29。
(注2) 1655年にスウェーデン軍がポモジェとリヴォニアから侵攻し、ポーランド内陸部にまで到達。このときポーランドの大貴族(マグナト)は貿易に消極的でしたが、最終的にスウェーデン軍はリヴォニア北部を除くポーランドから撤退しました。19世紀後半の小説家〈ヘンリク=シェンキェヴィチ〉が長編『大洪水』(1884~86)で17世紀のスウェーデンの侵攻を取り上げたことから、「大洪水」とも呼ばれています。渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.27。
(注3)渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.31。
(注4)渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.31。




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・1650年~1760年の中央ヨーロッパ  現④オーストリア,⑤ハンガリー
◆オスマン帝国の支配下にあったハンガリーは,オーストリアの直轄地となった
オーストリアはハンガリーを獲得し,「ドナウ帝国」に
 16世紀以降バルカン半島に進出していたオスマン帝国では,イスタンブールのスルターンや大宰相の実権が低下し,イェニチェリの権力が強まっていました。
 1679年にはペストが流行し,ウィーンで9万人が亡くなる惨事に。1681年には現在にのこるペスト記念塔が市内に建てられました(注)。
 そんな中,1683年にオスマン帝国は第二次ウィーン包囲を決行。ウィーンの防衛軍は1万5000人(注)に過ぎませんでしたが,ポーランド=リトアニアの〈ヤン=ソビェスキ〉とロートリンゲン公〈カール〉率いる神聖ローマ皇帝軍により撃退されました。1686年にはハンガリーのブダを占領し,翌1687年にはトランシルヴァニアも占領,1699年にカルロヴィッツ条約【本試験H31】【追H24領土を拡大していない】【京都H19[2]】【追H20】を締結してオスマン帝国に支配されていたハンガリーを奪回しました【本試験H31エジプトではない】【追H20オスマン帝国がオーストリアを領有したわけではない】。
(注)大江一道『新物語世界史への旅』山川出版社,2003,p.127

 1718年にはオスマン帝国に対する戦争(1716~18)の結果,パッサロヴィツ条約が締結され,オーストリアの領土は最大となります。〈カール6世〉(1711~40)はプラグマティシェ=ザンクツィオンを発布してハプスブルク家の家領が一体であることを法制化し,1724年には帝国基本法として公布しました。一体とされたハプスブルク家の領土は,オーストリア世襲領+ボヘミア諸邦(ボヘミア王国,モラヴィア辺境伯領,シレジア公国)+旧ハンガリー王国領です。
 なお,プラグマティシェ=ザンクツィオンでは,オーストリア世襲領とボヘミア諸邦では,女系の君主が世襲することが認められました。しかし,ハンガリーでは伝統的に女系の君主は認められていませんでした。そこでハンガリー貴族は抵抗運動を起こし,ハンガリーの国法や特権の維持を認めてもらう代わりに,女系の君主による世襲を承認しました。これによりハンガリーは事実上オーストリアから自立した地位を確立していくことになります。

 女系の君主による世襲に対しては,1740年にバイエルン選帝侯がフランスとともに異議を唱え,それに乗じてプロイセン王〈フリードリヒ2世〉【本試験H8啓蒙専制君主であったか問う】【追H18】もヨーロッパで最も繊維工業が発達していたシレジア公領を要求し,オーストリアとの間に戦争が起きました(オーストリア継承戦争)。
 オーストリア家領を構成するハンガリーの支持が不可欠とみた〈マリア=テレジア〉は,まだ乳飲み子であった長男〈ヨーゼフ〉を抱っこしてハンガリーの議会で支援を訴えます。これに心を打たれたハンガリー貴族らは,〈マリア〉に対してハンガリーの国法を守り,ハンガリー貴族の特権を維持し,行政の自治を認めることを条件に,オーストリア側に立つことを約束しました。
 また〈マリア〉はイギリスの支援を得ることにも成功します。
 しかし,ボヘミアではフランスに支援される形で,ハプスブルク家に対するボヘミア貴族の反乱が起きたため,1743年に〈マリア〉はプラハでボヘミア王に即位し,ボヘミア支配を強めます。

 1741年には1748年のアーヘンの和約で和平が結ばれ,シレジアは占領されたものの,オーストリアの〈マリア=テレジア〉の夫による神聖ローマ帝国皇帝即位が認められました。

 しかしその後,オーストリアの前フランス大使であった〈カウニッツ〉が1753年にオーストリアの宰相に就任すると,長年の宿敵であったフランス【本試験H8】【追H17イギリスではない】と同盟を結ぶ“外交革命”が実現。これにロシアの〈エリザベータ2世〉も加わり,プロイセン包囲網が成立しました。
 この包囲網に対し,1756年にプロイセンはボヘミアを攻撃するためにザクセンに侵入し,七年戦争が勃発しました。プロイセンは初めは劣勢でしたが,1762年にロシア皇帝が親プロイセンの〈ピョートル3世〉(〈フリードリヒ2世〉の崇拝者でした)に代わると盛り返し,1763年にフベルトゥスブルク条約で和平が結ばれました。オーストリアはシレジアを失う代わりに〈マリア=テレジア〉の帝位世襲は認められました。
 オーストリアは自国の“遅れ”を痛感し,強権を発動して上からの改革を実施していくことになります(啓蒙絶対主義)。

 プロイセンは,三十年戦争後には,大選帝侯と称される〈フリードリヒ=ヴィルヘルム〉(位1640~88)が,ライバルだったポーランドとスウェーデンの間隙を縫って領土を拡大し,大土地を所有し農奴を持つ領主貴族(ユンカー) 【本試験H26イタリアではない】【本試験H8大規模な奴隷制,アフリカの黒人奴隷,自由な農業労働者の雇用とは無関係】【追H24ジェントリではない】を保護して,彼らを官僚や兵士に登用(とうよう)しました。
 こうして,同時期のイングランドでは,議会の力が増していったのとは対照的に,プロイセンでは議会の力が,王に忠実なユンカーによっておさえられていくことになりました。他方で,国内の産業を発展させるために,ナントの王令が廃止【東京H7[3],H21[1]指定語句「ナントの王令廃止」】されたためにフランスから亡命したユグノーを受け入れています。

 スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に立ったことにより,プロイセンには王号が与えられ,プロイセン王国となりました。ブランデンブルク選帝侯領は,プロイセン王国の一部となりました。
 〈フリードリヒ=ヴィルヘルム1世〉(位1713~40,同名の大選帝侯とは別人) 【本試験H27】は軍事力を拡大させて絶対王政の基礎を築き,その後の〈フリードリヒ2世〉(大王,在位1740~86) 【追H9北方戦争は起こしていない】 【本試験H27ハプスブルク家ではない】が周辺国との戦争を本格的に開始しました。

 〈フリードリヒ2世〉【本試験H17ヴィルヘルム2世ではない,本試験H25マリア=テレジアではない】は,オーストリアで大公を誰に継承するかという問題が起きた際に,オーストリア継承戦争【本試験H17】を始めフランス【早・政経H31イギリスではない】と同盟,さらに七年戦争(1756~63)【本試験H22】ではイギリスと同盟し,最終的にシュレジエン【本試験H25】【追H20ウィーン議定書によるものではない,追H29フランドルとのひっかけ】を獲得します。

 イギリスはこのとき,植民地でもフランス【本試験H12ポルトガルではない】と戦っています(フレンチ=インディアン戦争【本試験H12フランスとスペイン,ポルトガルとイギリス,オランダとスペインの戦争ではない】)。相手方に強敵フランス,さらにはロシアが加わったため,七年戦争は厳しい戦いとなりましたが,ロシアが途中でプロイセン側に寝返ったため勝利にこぎつけました(ロシアがプロイセン側に突如まわったのは,戦争に介入した〈エリザヴェータ〉(女帝です,1709~62)から,途中でドイツ出身の〈ピョートル3世〉(位1762)に代替わりしたためです。彼はプロイセンの〈フリードリヒ2世(大王)〉(位1740~86)を敬愛していました。この〈ピョートル3世〉【H29共通テスト試行 リード文】の皇后が,後に女帝となる〈エカチェリーナ2世〉です。

 ちなみに〈フリードリヒ2世〉【追H9サンスーシ宮殿を「建設した」か問う、H24ヴォルテールと親交を結んだか問う】は「啓蒙専制君主」といわれ,「人間が働きかければ、社会は必ず進歩する」という啓蒙思想の発想から、トップダウンで国内をまとめようとしました。
 例えば,ベルリン郊外のポツダム【追H30マルセイユではない】にロココ様式【追H9】のサン=スーシ宮殿【東京H24[3]】【追H9フリードリヒ2世の建設か問う,H20設計はカスティリオーネではない,H25ビザンツ様式ではない、H30】【本試験H8】【本試験H27王はハプスブルク家ではない,H28ヴェルサイユ宮殿ではない】を建てて,フランスの思想家の〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【追H24フリードリヒ2世が招いたか問う】や,バロック派最大の作曲家である〈バッハ〉(1685~1750)を招いており,彼自身も読書に燃え,フルートの演奏も披露しました。またユダヤ教徒などに対する宗教寛容令を発しています。彼は,自分のことを「国家第一の下僕」と称し,国民のためにさまざまな政策を導入しましたが,国民に無制限の権利を与えたわけではありません。イングランドやフランスが急成長している中で,遅れをとっているプロイセンが生き残るためには,国民をある程度満足させつつ(飴),強い権力で国をまとめること(鞭)が必要だと考えたのです。同じような方法を,当時のオーストリアやロシアもとっています。なお,荒れ地でもよく育つ作物として当時はまだ食用として普及していなかったジャガイモの栽培を奨励し,七年戦争後には捕虜(薬剤師の〈パルマンティエ〉)を通してフランスでも栽培されるようになりました【本試験H18リード文】。


 オーストリア大公国は,ハプスブルク家が神聖ローマ帝国を兼任しており,神聖ローマ帝国の中心的存在でした。しかし三十年戦争後のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で多くの領邦が主権を持つようになったので,神聖ローマ帝国の皇帝といってもオーストリアだけを支配する君主に過ぎなくなってしまいました。
 それでもオーストリアは,1683年にオスマン帝国の第二次ウィーン包囲を撃退し,1699年にはカルロヴィッツ条約【本試験H31】【京都H19[2]】を締結して,1526年にオスマン帝国に奪われていたハンガリー【本試験H13オスマン帝国最盛期の領土に含まれていたかを問う,H31エジプトではない】を獲得しました。さらにはスペイン継承戦争後に,南ネーデルラントを獲得し,着々と領土を拡大させていきました。17世紀末からは,フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗して,歴代皇帝がウィーン郊外にシェーンブルン宮殿を造営しました。
 しかし,〈カール6世〉(神聖ローマ皇帝在位1711〜40)に男子の跡継ぎが生まれず,男系のみの王位継承を原則としていたオーストリアに危機を迎えていました。そこで,生前の〈カール6世〉は,女子でも相続できる規定を盛り込んだ国事詔書を発布し,女性の〈マリア=テレジア〉(位1740~80) 【H29共通テスト試行 エカチェリーナ2世とのひっかけ】【本試験H8】を即位させるという離れ業(はなれわざ)に踏み切ります。
 しかし,「はやく断絶しろ〜」とばかりに,オーストリア大公の位を虎視眈々とねらっていた周辺の王侯貴族は,それに反発。プロイセンとオーストリアの戦争に発展し,敗れたオーストリアはシュレジエンを失ってしまいました(オーストリア継承戦争,1740〜48)。

 シュレジエン【追H29フランドルではない】を取られた女王〈マリア=テレジア〉は【追H29】,「リベンジをするには宿敵フランス王家と同盟するしかない」と,政策を転換。当時のフランス王〈ルイ15世〉(位1715~74) 【本試験H16時期】は同盟に乗り気ではありませんでしたが,愛人の〈ポンパドール侯夫人〉(1721~64)が動かし,決意させたといいます。

 こうして,長年のフランス王家vsハプスブルク家の対立関係をくつがえす,この七年戦争【追H9オーストリア継承戦争ではない】におけるフランス王家【本試験H8】【本試験H25イギリスではない】【追H29】とオーストリアのハプスブルク家の歴史的提携のことを「外交革命」【本試験H22】と呼びます。これからは,王家対王家が”意地を張って”争う時代ではなくなり,国際情勢の流れを見て,自分の国にとって有利か不利かで味方になったり敵になったりする時代になっていくのです。このとき”仲直り”の印に,ハプスブルク家からは,ブルボン家に〈マリ=アントワネット〉(1755~93)が嫁がされました【本試験H8】。彼女はのちのフランス革命で,夫〈ルイ16世〉とともに処刑される運命にあります(#漫画 言わずとしれた〈池田理代子〉の『ベルサイユのばら』があります。ただし「男装の麗人」〈オスカル〉と,〈オスカル〉を愛する平民〈アンドレ〉は架空の人物)。
 外交革命によって,イギリス~オランダ~プロイセン vs フランス~オーストリア~ロシアという構図が生まれました。フランスはオーストリアを挟み撃ちにするために,従来はオーストリアの向こう側にあるポーランドと友好関係を結んでいましたが,「外交革命」以降は,ポーランドから遠ざかることとなり,これがのちのオーストリア・プロイセン・ロシアによるポーランド分割の遠因となりました。

 〈マリア=テレジア〉の長男〈ヨーゼフ2世〉(位1765~90) 【本試験H8】【本試験H13,本試験H15,本試験H22プロイセンではない,H27】【追H18,H30】は,〈マリア=テレジア〉と共同で,啓蒙思想【本試験H22】【本試験H8フランス革命に影響を与えたか問う】に基づいてオーストリアを統治しました(1765~80)。プロイセンの〈フリードリヒ2世〉と同様,1681年に宗教寛容令を発布し,ユダヤ教やプロテスタントの信仰を認めました。同時にローマ教会や修道院を閉鎖・解散したり,ドイツ語を公用語にするなどの中央集権化をすすめ,農奴解放【本試験H13,本試験H15】【追H30】もおこないますが,政策の多くは貴族の反対でくつがえされてしまいました。
  彼はロシアとプロイセン【本試験H8フランスではない】とともに第一回(1772)ポーランド分割に参加し,さらには1778~79年にバイエルンの王位継承に介入し,それを止めようとしたプロイセン王国の〈フリードリヒ2世〉(位1740~86)と戦いました。実際に戦闘は多くはおこなわれず,食料調達のため“ジャガイモばかりを掘っていた”ということから“ジャガイモ戦争”という別名もあります。この時代には新大陸原産のジャガイモ栽培がヨーロッパに普及していたのです(〈フリードリヒ2世〉はジャガイモ栽培を奨励していました【本試験H18リード文】)。
 また,この頃の首都ウィーンでは,作曲家〈モーツァルト〉(1756~91)が活動するなど,「音楽の都」として名を馳せるようになりました(映画「アマデウス」(1984米))。なお,ウィーン近郊のシェーンブルン宮殿は,〈マリア=テレジア〉のときに完成をみています。外観はバロック式,内装はロココ式となっています。



◆ドイツ人のハンザ同盟は衰退していった
 1241年に結成されたドイツ人の都市同盟であるハンザ同盟は,15世紀以降,都市内部のツンフト闘争や領邦君主による編入,オランダ,イギリス,デンマーク,スウェーデンなどのバルト海への進出もあり,同盟自体の活動も衰退していきました。ハンザ会議は1699年を最後に開かれることがなくなり,最後までハンザ都市を称して活動したのはリューベック,エルベ川河畔のハンブルク【慶文H29「エルベ川河畔」と「ブラームスの生誕地」から答えさせる問題。前者から答えるしかないだろう】,ブレーメンのみとなりました。

 なお,この時期のドイツでは,ライプツィヒに生まれ,マインツ選帝侯とハノーファー侯に仕えた〈ライプニッツ〉(1646~1716)【追H20植物分類学の基礎を築いていない】が微積分を考案し,単子論(モナド論)を説きました。彼は1700年にベルリン=アカデミーの初代会長となっています。





○1650年~1760年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 バルカン半島の大部分はオスマン帝国の支配下にあります。
 ヴェネツィア共和国の支配していたクレタ島も,戦争の末1669年にオスマン帝国領となっています。







○1650年~1760年のヨーロッパ  イベリア半島

イベリア半島…①スペイン王国,②ポルトガル王国
 大航海時代に強盛を誇ったポルトガル王国ですが,この時期には以前の栄光はすっかり影をひそめていました。1640年にスペインから独立したものの,ブラジルでのサトウキビ生産が17世紀後半に砂糖価格の下落によって行き詰まると,今度は金鉱の開発に着手して乗り切ろうとしました。
 しかしイングランドとの間に1703年,ポルトガルのワインを安くイングランドに輸出する代わりに,イングランドの綿織物を独占的に輸入することを定めたメシュエン条約という通商条約(注)が結ばれると,ポルトガルの織物工業は壊滅し,イギリスの綿織物購入のためにブラジルの金(きん)があてられ,大量のブラジル金がイングランドに流れ込むことになりました。この金が,イギリスの産業革命(工業化)の資本の元となっていくわけです。
(注)ポルトガルをオランダやオーストリア側に立たせ,フランスを包囲する意図のもとで結ばれました。




○1650年~1760年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル

◆西ヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン継承戦争の結果,スペイン王国はブルボン朝となった
 イベリア半島では17世紀に入るとハプスブルク家によるスペイン王国の支配が衰え,1640年には同君連合を形成していたポルトガル王国が離脱しました。かつて“太陽の沈まない帝国”と呼ばれたスペインも,ネーデルラント連邦共和国(いわゆるオランダ)やイングランド,フランスの追い上げを受け,国際的な覇権も失っていきました。
 1665年に〈カルロス2世〉(位1665~1700)がわずか4歳で王位を次ぐと,初めは母后が摂政となりますが,フランスの〈ルイ14世〉による対外戦争が激しさを増し,治世は不安定でした。
 オランダ戦争(1672~78)ではフランドル地方の諸都市とフランシュ=コンテ(11世紀以来は神聖ローマ帝国,14世紀にブルゴーニュ公国,15世紀後半にハプスブルク家の神聖ローマ帝国の領土となっていました)を失いました。プファルツ継承戦争(1688~97) 【本試験H31三十年戦争とのひっかけ】の結果,1697年のライスワイク条約では領土の喪失はありませんでしたが,跡継ぎのいなかった〈カルロス2世〉が亡くなると,フランスの〈ルイ14世〉は自分の孫〈フィリップ〉を〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)としてスペイン国王に即位させようとしました【追H24「自らスペイン王を兼ねた」のではない】。

 しかし,周辺諸国は「フェリペ5世がスペイン王だけでなくフランス王を兼ねるつもりなのではないか」と不安視。イングランド王国とネーデルラント連邦共和国は,オーストリア大公国とともに大同盟を結成して〈フェリペ5世〉の即位に反対し,スペイン継承戦争(1701~14)となりました。〈フェリペ5世〉の即位に対しては,スペイン国内においてもアラゴン連合王国,バレンシア,カタルーニャ王国が反対し,対外戦争が終結した後もカタルーニャ王国軍は〈フェリペ〉に対して抵抗を続けました。
 この戦争に関わったイングランドとフランスは,ヨーロッパでの戦争に連動する形で北アメリカ大陸で植民地を争奪する戦争(アン女王戦争,1702~1714)を起こしています【追H9スペイン継承戦争で,イギリスはフランスを支持していない】。1713年のユトレヒト条約【名古屋H31時期・史料(注)】,1714年のラシュタット条約で戦争は終結し,スペインをブルボン家が継承することは認められつつも,フランスとの合同は将来にわたって禁止され,以下の多くの領土をハプスブルク家のオーストリア大公国や,イングランド王国側に割譲しました。

 ・スペイン領ネーデルラント → オーストリア=ハプスブルク家
 ・ナポリ  → オーストリア=ハプスブルク家
 ・シチリア島 → サヴォイア公国(19世紀のイタリア王国建設を主導することになる国家)
 ・ミラノ → オーストリア=ハプスブルク家
 ・サルデーニャ島 → オーストリア=ハプスブルク家
 ・ジブラルタル → イングランド王国
 ・メノルカ → イングランド王国

(注) 第6条……スペイン王位に対するフランス側の同様の継承権放棄と……他の王位継承取り決めによってフランスとスペインの王位は、常に分かたれており、……決して合同されることはない【名古屋H31より】。



 戦後のスペイン王国では,ブルボン家の〈フェリペ5世〉の下で,アラゴンやカタルーニャに対してもカタルーニャ中心の中央集権的な支配が適用されました。これにより,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の“カトリック両王”以来続いていた,地方の習慣や制度を残しつつ,複数の王国が連合する形の制度に終止符が打たれたのです。特に最後まで〈フェリペ〉に楯突いたカタルーニャに対する締め付けは強く,地方の特権の削減やカスティーリャ語の導入などの中央集権化が強まりました。こうして,のちのちまで続く中央と地方の対立が深まっていきます。
 〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)とその次の〈フェルナンド6世〉(位1746~59)は,スペイン継承戦争で失った領土を回復しようと,常備軍の整備を進めていきました。ポーランド継承戦争(1733~35)とオーストリア継承戦争(1740~48)ではフランス側に立ち参戦し,〈カルロス3世〉(位1735~59)のときにはシチリアとナポリを回復することに成功しました。スペインにとって,イギリスが新大陸で覇権を握ることは最も避けたいことであり,イギリスを共通の敵とするフランスと組んだのでした(この間,私掠船や密貿易を繰り返していたイギリスとの間に,いわゆる「ジェンキンズの耳戦争」(1739~48)が起きています)。続く七年戦争(1756~63)も,やはりフランス側に立ってイギリスと戦っています。






○1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆17世紀後半から18世紀後半にかけ,フランスはイギリスとの植民地獲得戦争をたたかった
 フランス王国では,1640年~52年に起きたカタルーニャの反乱に介入した〈ルイ13世〉(位1610~1643)は,1659年のピレネー条約でフランス・スペイン国境をピレネー山脈とし,以北のカタルーニャはフランス領となりました。また,1640年にはポルトガルでブラガンサ朝が独立しました。ポルトガルを支援したのは,スペインに対抗しようとしたフランスとイングランドです(独立の承認は1668年)。
 フランスの〈ルイ14世〉(位1643~1715)はイギリスに対抗して重商主義【共通一次 平1:16世紀から18世紀にかけて,イギリス・フランスなど西ヨーロッパ諸国がとった経済政策を問う。選択肢は①重農主義,②自由貿易主義,③重商主義,④門戸開放政策】を推進して絶対王政を確立し,フランスの領土を拡大させるために各地で進出戦争を起こしました。
 進出戦争は,世界商業の主導権をめぐるイングランド(イギリス)との争いに発展し,北アメリカ大陸・カリブ海やユーラシア大陸において植民地獲得戦争が今後100年以上にわたり続くことになります。これを第二次英仏百年戦争といいます(注) 【一橋H31論述(両国の対立の背景および1763年に至るまでの戦いの経緯を説明し、この争いの結末がその後、世界史に与えた影響)】。オランダと同君連合となったイングランド(イギリス)によるファルツ王戦争(大同盟戦争,1688~1697)がその始めで,1815年に終結するナポレオン戦争まで続きます。

 〈ルイ14世〉の進出戦争と英仏の植民地戦争が結びついた最後の例がスペイン継承戦争でした。スペインでハプスブルク家が1700年に断絶したのに目をつけた〈ルイ14世〉は,孫である〈フェリペ5世〉を王として送り込むことで,勢力範囲をスペインに広げようと考えたのです。
 これを警戒したイングランド(1707年からはスコットランドと合同するので,大ブリテン連合王国(イギリス) 【本試験H27】となる)やオーストリア,オランダは,フランスとの間に戦端を開きました。これがスペイン継承戦争(1700~1714年)で,植民地における戦争はイングランド(イギリス)の王名をとってアン女王戦争といいます。

(注)ヨーロッパでオーストリア継承戦争が起きると,植民地ではジョージ王戦争が勃発。1742年には〈デュプレクス〉(1697~1763)がフランスのインド総督となり,イギリスとの対決姿勢を強めていきます。
 1744~48 第一次カーナティック戦争
 1744~48 ジョージ王戦争【追H17オーストリア継承戦争の時期が問う(正しい)】
 1748    ハイデラバード継承戦争
1750~54 第二次カーナティック戦争
1756~63 七年戦争
 1757    プラッシーの戦い
 1758~63 第三次カーナティック戦争
  1758年~59年、フランスによるマドラスの包囲、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに敗北
 1763    パリ条約
 1775~82 第一次マラーター戦争
 1780~84 第二次マラーター戦争
 1783    パリ条約


 戦争は,イギリス側に軍配が上がりました。スペインは南ネーデルラント,南イタリアを喪失し,地中海から大西洋への出口として最重要地点であったジブラルタル【本試験H30スペインは獲得したのではなく喪失した】や,西地中海のメノルカ島(ミノルカ島)はイギリスに奪われました。イギリスは21世紀の現在においても,ジブラルタルを海外領土として保持しています。
 また,イギリス【追H20フランスが獲得したわけではない】はフランスから北アメリカの植民地を獲得。北アメリカ北東部のアカディア(ノヴァスコシア)とニューファンドランド島【本試験H31オランダが獲得したのではない】【追H20】,北アメリカ北部のハドソン湾です。

 さらに,イギリスやオランダは大西洋の制海権を獲得し,イギリスは奴隷貿易独占権(アシエント。アフリカ大陸の住民をアメリカ大陸まで船に乗せて運ぶ権利)を獲得します【追H9スペインは18世紀に奴隷貿易の最も重要な担い手ではなかった】。こうしてイギリスの南海会社は,1750年までに毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地に供給し,巨富を得ました。

 これらを定めたユトレヒト条約【本試験H19金印勅書とのひっかけ】【追H20内容】【名古屋H31時期・史料】では,ブルボン家がスペイン王国を継承することは認められましたが,スペインとフランスとの合同は禁止されました。

 イギリスは奴隷貿易のもうけにより資本を蓄積していき,これがイギリスにおける産業革命(工業化)の元手の一つになっていくのです。港湾都市リヴァプールは,奴隷貿易の拠点として栄えました。当時の人気版画家〈ホガース〉(1697~1764)の描いた「放蕩一代記」という当時の上流階級を風刺(ふうし)した版画には,上流階級の家庭に黒人が召使いや“ペット”として登場します。彼は南海会社の株価の急騰と暴落(南海泡沫事件。史上初のバブルで,バブルの語源になりました)も,版画のテーマにしています。


・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 イタリアでは諸国による分裂状態が続いています。
 ヴェネツィア共和国は,1669年に地中海交易の重要拠点クレタ島をオスマン帝国に奪われます。かつて“アドリア海の真珠”とうたわれたヴェネツィアも落ちぶれてしまったものです。

 ローマ教皇庁は17世紀前半の〈ウルバヌス8世〉が〈ベルニーニ〉とタッグを組みローマの復興・美化をすすめ,領域も拡大させます。しかし,財政的には厳しい状況となり,衰退に向かいます。

 フィレンツェは,1569年以降,メディチ家の〈コジモ〉によるトスカーナ大公国となっていました(〈コジモ1世〉(位1569~1574))。大公位のメディチ家による世襲は,第七代〈ジャン=ガストーネ〉(位1723~1737)をもって終わり,1737年には〈マリア=テレジア〉の夫で神聖ローマ帝国〈フランツ1世〉(皇帝位1745~1765)が〈フランチェスコ2世〉(位1737~1765)として大公位を兼ねます。
 事実上,ハプスブルク家の一部となったフィレンツェですが,あくまでハプスブルク家領とは別の枠組みとして維持されることとなります。



・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
マルタ島は,マルタ騎士団の拠点
 マルタ島は地中海中央部の交通の要衝(ようしょう)。
 1530年以降,マルタ島はマルタ騎士団(旧・ヨハネ騎士団)の所領となっています。
 しかし,アジア方面との交易が活発化するにつれ,東地中海への“入り口”に位置するマルタ島へのイギリスやフランスの関心は高まっていきました。

・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
◆主権国家体制の成立にともない絶対王政が確立し,商工業を発展させ貿易を振興したが,ギルドや領主は残された。イギリスとの植民地戦争には敗北した
ルイ14世は72年間の在位を誇る「太陽王」
 フランスでは,貴族によるフロンドの乱が,1653年まで続きました。フランスの啓蒙主義の文筆家〈ヴォルテール〉(1694~1778)は『ルイ14世の時代』の中で,このときに17歳の〈ルイ14世〉(位1643~1715)が反乱を起こした貴族に向かって「朕は国家なり!(私は国家である)」といい放ったというふうに描いています。このセリフは1661年から親政をはじめた〈ルイ14世〉の王権神授説に基づく絶対王政を象徴するフレーズとなりました。
 王権神授説の理論家は〈ボシュエ〉(1627~1704) 【追H21】で「フランス王国をローマ教皇から分離させ,フランス独自の教会をつくろう」と主張しました(ガリカニスム(国家教会主義))。要するに「フランスの教会にローマ教皇庁は口出しするな」というわけです。

 また,「自然国教説」をとなえ,四方八方に領域拡大をねらいました。
 すべて失敗に終わりますがネーデルラントと戦うとともに,1681年にはストラスブールを併合しています。

 〈ルイ14世〉はまたの名を「太陽王」といい,パリ郊外に建設されたヴェルサイユ宮殿【本試験H12地域(ドイツではない)】【本試験H18,H31フランソワ1世による建造ではない】【追H20設計はカスティリオーネではない、H25ビザンツ様式ではない】で,自らギリシアの太陽神アポロンに扮してバレエを踊ったといいます。ヴェルサイユ宮殿はバロック様式【本試験H18ゴシック様式ではない,H28ロココ様式ではない】の傑作で,国内外の貴族・聖職者が集まる華やかな外交の舞台となり,フランス語はヨーロッパ各国の「外交の言葉」となりました。正しいフランス語の読み書きが『アカデミー辞典』によって確立するのは,〈ルイ13世〉の宰相〈リシュリュー〉(1585~1642)が1635年に勅許したアカデミー=フランセーズ【追H19リシュリューによるものか問う、H29マザランによる創設ではない】が規定を定めてからのことです。この頃には,〈ラシーヌ〉(1639~1699)や〈コルネイユ〉(1606~1684)の悲劇や,〈モリエール〉(1622~1673) 【追H24宮廷画家ではない】の喜劇【本試験H19『百科全書』編纂はしていない,本試験H28】などギリシアやローマの演劇を発展させた古典主義の演劇も人気となりました。作家たちは国王の強力な権力の後ろ盾(だて)を得て,キリスト教による縛りから離れた自由な創作活動が保証されたわけです。なお,〈リシュリュー〉はのちに〈デュマ〉(大デュマ,1802~1870)の『三銃士』(1844)に“悪役”として登場します。

 軍事革命を背景として,火砲を組み込んだ常備軍を整備した結果,フランスの陸軍はヨーロッパ最大の規模となりました。軍事的なバランスが崩れた結果,フランスを脅威とみなしたオランダは,名誉革命後のイングランドの王位を兼ねることで,〈ルイ14世〉に対抗しようとしました。



◆17世紀の危機を乗り切るため、国内経済の水準を引き上げようとした
国際競争力を上げる「コルベール主義」が推進
 オランダへの対抗から,〈ルイ14世〉【追H27アンリ4世ではない】の信任を得た蔵相〈コルベール〉(1619~83) 【追H27ネッケルではない】【本試験H28年代を問う】が王立のマニュファクチュア(工場制手工業)【本試験H13ラティフンディア・コルホーズ・イクターのひっかけ】を推進します。手工業者の自由な活動をコントロールし、規制を強化したのです(注1)。

 1604年に創建されたものの経営不振におちいっていた東インド会社を再建(1664。ただし実質的な貿易活動は1664からとなります【上智法(法律)他H30オランダではない】)するなど【本試験H16ルイ14世のときに「創設」されたわけではない,本試験H28】,輸出額>輸入額となるよう重商主義政策をおこないました。これをコルベール主義〔コルベルティスム〕ともいいます(注2)。
 北アメリカでは1682年にミシシッピ川流域を領有し,王の名にちなみ「ルイジアナ」と命名しました【本試験H16時期】。
 また,西インドではプランテーションをすすめ,とくにファルツ継承戦争【本試験H15ルイ13世による戦争ではない】後のライスワイク条約(1697年)で獲得したハイチ(ハイティ)では,サトウキビ栽培で巨富を得ます。ハイチ(ハイティ)には黒人奴隷が労働力として移入され,のちに1804年に独立してからはサトウキビプランテーションの中心地はキューバに移りましたが,その影響は引きずられていきます。

 そんな〈ルイ14世〉が挫折を味わったのが,スペイン継承戦争【本試験H15イタリア統一戦争とは無関係】です。スペインでライバルのハプスブルク家が断絶しましたが,婚姻関係があったことから,ルイ14世の孫〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)を王位につけ,スペインをブルボン家(スペイン語ではボルボン家)の支配領域にしようとしたのです。
 もちろんそんなことが実現したら,スペイン=フランスのブルボン家の大帝国が出現してしまいますから,オランダ・イングランド(戦争中にスコットランドと合同して大ブリテン連合王国(イギリス)になりました)・オーストリアが阻止しようとして戦争になりました。結果,フェリペ5世のスペイン王即位は認められましたが,フランスとスペインの合同は永久に禁じられます。さらに,スペイン継承戦争の期間中,海外植民地においても戦争となり(アン女王戦争),スペインはイベリア半島南端近くのジブラルタルと西地中海に浮かぶミノルカ島(都市マオーはマヨネーズの語源ともいわれます)をイギリスに,フランスは北アメリカのハドソン湾,ニューファンドランド島,アカディアをイギリスに割譲しました。

(注1) こうした政策に対し、17世紀末~18世紀になると、経済的自由主義や重農主義の立場からの批判が生まれることになります(福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、p.217)。
(注2)〈コルベール〉の発想はことさら新しいものではなく、すでに〈リシュリュー〉にも見られたものですが、それをさらに徹底させていったものといえます(福井憲彦『新版世界各国史12 フランス史』山川出版社、2001年、pp.216-217)。



◆経済的自由主義や重農主義など、国家の規制に批判的な思想が生まれる
貿易や産業の自由を求める運動がさかんとなる
 ネーデルラント(オランダ)やイングランド(イギリス)が経済的に発展していくにつれ,フランスでも,時代の変化に対応した新しい思想が活発化していきます。その代表が,従来の伝統的なしきたりの中にある,合理的ではない部分を批判していった啓蒙思想(けいもうしそう) 【東京H12[1]指定語句】【セA H30時期(18世紀のヨーロッパか)】です。〈モンテスキュー〉(1689~1755) 【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う】【H30共通テスト試行】は,『ペルシア人の手紙』(1721)の中で,2人のペルシア人の言葉を借りて,みんなが言いたくても言えなかったフランスの政治・社会の古臭さを批判し注目されました。彼は三権分立【H30共通テスト試行 内容を問う(最大多数の最大幸福、王権神授説、王は君臨すれども統治せずではない)】を主張した『法の精神』【追H9】も著しています。

 無神論(“神なんていない”)者の〈ダランベール〉(1713~84) 【追H9】【本試験H19ルソーではない】や数学者・物理学者〈ディドロ〉(1717~83) 【本試験H12啓蒙思想家〈ディドロ〉が『百科全書』を編集したか問う】【本試験H19モリエールではない】【追H21『第三身分とは何か』の著者ではない】は,キリスト教の影響の色濃い従来の知識に変わり,合理的な価値観でこの世の全ての情報を編集し直そうと考え,その道の専門家らを執筆者として迎えた『百科全書』【東京H9[3]】【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う,本試験H12フランスか問う】編纂プロジェクトを立ち上げ,20年以上かけて完成させました(1751~1772) 【本試験H12「伝統的な学問や制度を批判し,新たな世界観を提示した」か問う】。
 また,〈ケネー〉(1694~1774) 【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う,H12ヴォルテールとのひっかけ、H28重商主義ではない】は国が栄えるには農業を重視するべきだ!と重農主義【追H28重商主義ではない】【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】【追H9】【本試験H16財務総監にはなっていない】を主張し,どのような取り組みをおこなえば富が増えていくかというプロセスを表した壮大な『経済表』【追H9,本試験H12ヴォルテールが著していない、H21アダム=スミスではない】を著しました。彼は大規模な経営を,政府からの押し付けではなく人々の自由な経済活動に任せる“レッセ=フェール”(自由放任)による生産性アップを目指しました。
 これら啓蒙思想には,中国などの非ヨーロッパ世界の学問・制度も影響を与えていたことがわかっています。例えば〈ケネー〉の重農主義には,イエズス会の宣教師がヨーロッパに伝えた中国の農家(諸子百家の一つ)などの農本思想が影響を与えているといわれています。

 しかし,〈ルイ14世〉【東京H7[3]】【早法H24[5]指定語句】は1685年にナントの王令を廃止【東京H7[3],H21[1]指定語句】【追H24ルイ14世によるか問う】。ユグノー(カルヴァン派)の人々には商工業者が多かったのですが,これにより彼らはアムステルダム【東京H7[3]オランダ】,ロンドン【東京H7[3]イギリス】,スイスなどへの移住を迫られます。フランスの商工業の発展がおくれることとなる理由の一つです。




・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド
◆イングランド系の入植がすすみ、プロテスタント系の支配層の力が強まっていった
土地没収が進み、カトリック勢力が削減される
 アイルランドでは、1641年にアルスター地方で反イングランド、反プロテスタントの武装蜂起が起き、1642年までに全土でのカトリック反乱に発展。全アイルランドの中央組織「アイルランド=カトリック同盟」が1642年10月に結成され、アイルランドのプロテスタント支配層を圧倒します。
 しかし、イングランドの議会が国王派・議会派に分かれ争う形勢となると、アイルランドのプロテスタント支配層も2派に分裂。さらにカトリック同盟も、国王派・議会派に内部分裂します。国王とアイルランド=カトリック同盟との講和が1649年1月に成りますが、同年同月に国王〈チャールズ1世〉が〈クロムウェル〉率いる独立派により処刑される事態に。
 〈クロムウェル〉は、国王に接近していたアイルランド=カトリック同盟を敵視し、1649年8月にアイルランドを征服(アイルランド征服戦争~1652年。スコットランドは1650年7月に征服戦争)。アイルランドでは大規模な土地没収が実施され、さらなる植民が進行します(注1)。
 1652年にイングランド議会は「アイルランド土地処分法」を制定、プトテスタントでかつイングランド議会につねに忠実であった者以外はすべて「反徒」とされ、アイルランド=カトリック同盟や国王派の指導層は死刑と規定されました(注2)。
 これを機にアイルランドで土地を拡大させていったのはプロテスタントの支配層です。彼らは1660年の〈チャールズ2世〉による王政復古後に〈クロムウェル〉による土地没収を追認。
 しかし〈ジェームズ2世〉が名誉革命によってフランスの〈ルイ14世〉のもとに亡命し、さらに1689年3月にフランスの援軍とともにイングランド王への復位をねらってアイルランドに上陸します。

 〈ジェームズ2世〉のアイルランド上陸を支持したのは、プロテスタントの支配層の台頭により土地を失っていたカトリック教会の勢力でした。〈ジェームズ2世〉が1689年に召集した議会では、土地没収を追認した法(1662年)を撤回。

 こうした事態に、アイルランドのプロテスタント支配層は、イングランドの〈ウィリアム3世〉による鎮圧を要求。ようやく1690年にアイルランドに上陸し、ボイン川の戦いで〈ジェームズ2世〉軍に完勝します。その後、オランダ人の指揮官がイングランド側に立ち、アイルランド側にはフランス人が立つも、1691年のオークリムの戦いでカトリック勢力は決定的な劣勢に。アイルランド南西部リムリックで降伏し、アイルランド側に寛大な講和条約(リムリック条約)が締結されました(注3)。

 こうしたところを見ると、「〈ジェームズ2世〉の亡命と、〈ウィリアム3世〉・〈メアリ2世〉の即位による名誉革命は、無血革命だった」という説明は怪しいということがわかるでしょう。この国王交替にあたって、アイルランドでは大量の血が流れているわけですから(注4)。名誉革命により王位継承からのカトリックの排除が始まったことも、アイルランドにとって大きな転換点となりました(注5)。リムリック条約の民事条項は否定され、財産相続権・武具保有権の制限、子弟の国外教育の禁止、軍・行政・法曹界からの排除、国会議員の選挙権の否定など、カトリックであるだけでさまざまな差別がもうけられます(注6)。アイルランドはイングランド系プロテスタント優位の島となり、イギリスの“植民地”としての性格を強めていったわけです。

 1714年にステュアート朝が断絶すると、ドイツのハノーファー選帝侯〈ゲオルク〉が〈ジョージ1世〉として即位し、ハノーヴァー朝が始まります。
 アイルランド人の中には、こうした不当な扱いに対する批判も高まります。
 1720年代には、ダブリンの聖パトリック大聖堂の主席牧師で『ガリヴァー旅行記』【追H9〈デフォー〉の作品ではない】を著した〈スウィフト〉【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない】【追H9〈デフォー〉とのひっかけ】が、匿名でアイルランド民衆が貧しいのはイギリスのアイルランド通貨政策のせいだと主張しています。しかしイギリス議会は黙殺。1720年にはイギリス議会がアイルランド議会より「上」とする「宣言法」が制定され、立法権も制限されます(注7)。
 しかし、スコットランドのジャコバイト反乱にみられるような、イギリスの体制に抵抗する動きは、アイルランドでは起きませんでした。

 経済的には北東部のアルスター地方ではブリテン島の毛織物工業と競合しない麻織物工業が盛んになっています。ほかに、ダブリン市西部のセントジェイムズ=ゲートに一大醸造所をかまえた「ギネス」が有名です(1756年創業)(注8)。


(注1)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.54。
(注2)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.55。
(注3)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、pp.61-62。
(注4)なお、スコットランドでも「グレンコーの虐殺」が起きています。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.55。
(注5)1701年の王位継承法でさらに具体化さました。1689年の寛容法では、国王に忠誠を誓う限り非国教徒にも信仰の自由が保障されましたが、そこにカトリックと無神論者は含まれていませんでした。なお、プロテスタントの非国教徒も、引き続き公職に就くことができない状態です。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.63。
(注6)これらを定めた1690年代~1720年代の一連の法律「刑罰諸法」を受け、プロテスタントへの改宗も進んでいきました。また、航海法はアイルランドにも適用されましたが、密貿易はかなり行われ、イギリスの毛織物産業に対抗して麻織物産業に切り替えるなど、柔軟な対応もみられました。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.65,68。
(注7)アイルランドの政治は、ロンドンの枢密院の任命するイングランド人総督の代わりに、ダブリン総督府のイングランド出身官僚と、これと癒着しつつ多くの子分議員を抱えて王国議会(庶民院)を牛耳る「請負人」と呼ばれる現地の大物政治家が動かしていました。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.68,70。
(注8)山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.90。



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・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑨イギリス(イングランドとスコットランド)
三王国戦争の終結後,スコットランドはイギリスに

〈クロムウェル〉のコモンウェルス

 スコットランドの王家ステュアート家で,イングランドとスコットランドの国王を兼ねていた〈チャールズ1世〉は,1649年に処刑。
 イングランド史上初の共和政の指導者となったのは〈クロムウェル〉(1628~74) 【共通一次 平1】【本試験H31航海法の制定者を問う】【追H21】でした。
 処刑された〈チャールズ1世〉の息子は1649年にいったんフランスに逃れますが,スコットランドが息子〈チャールズ〉をスコットランド王にするという宣言を出しました。たためスコットランドに再上陸,翌年スコットランド国王に即位しました。
 しかし,1651年にウスターの戦いで〈クロムウェル〉軍に敗れ,フランスに再亡命。彼はのちに王政復古することになる〈チャールズ2世〉です。
 その後アイルランドも征服した〈クロムウェル〉は,3つの王国にまたがる共和政(コモンウェルス)を成立させたことになります。

 〈クロムウェル〉は海外進出にも積極的で、1657年にイギリス東インド(EIC)に特許状を与え、その体制を固める基礎をつくっています(注1)。



王政復古

 〈クロムウェル〉の死後まもなく,〈チャールズ2世〉が即位(王政復古)します。
 〈チャールズ2世〉はイギリス東インドに対し特許状を出し、ようやくその体制を固めます。すなわち、会社が永続的な資本を保有することを認め、さらに会社が東インドで司法権・貨幣鋳造権・貿易活動を守るための軍事権・違法貿易船の検挙権を認めます(注1)。

 しかし、その後〈ジェームズ2世〉の亡命により,〈ジェームズ2世〉の長女〈メアリ〉(1662~94)とその夫〈ウィレム〉(オランダの統領でした,1650~1702)がオランダから招かれ,国王に就任。オランダは当時軍事的に急拡大していたフランスを不安視し,イングランドと組んでフランスに対抗しようとしたのです。

 その後〈アン〉女王の治世,1707年にスコットランドのイングランドへの合同が議決され,スコットランド王国は大ブリテン王国(グレート=ブリテン王国)の一部となりました。これをスコットランド合同といいます。
 当然これに反対する勢力もいます。〈ジェームズ2世〉の息子や孫の「イングランドとスコットランドの国王」としての即位を支持する勢力はジャコバイトと呼ばれ,抵抗運動を続けますが,1746年のカロデン=ムーアの戦いが最後の組織的戦闘となり,以降は下火となりました(注2)。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.108-109。オランダの連合東インド会社と異なり、イギリス東インド会社では、間接的とはいえ株主は出資額に応じて会社の経営に参画することができました。株主総会で24人の取締役が選ばれ、取締役会が会社の運営に責任を持っていました。こうしたロンドンの本社機能に対し、東インドでは当初、ジャワ島のバンテンと西北インドのスーラトの商館に中心的な機能が置かれていました。しかし、これらの商館はその土地の支配者から自由に行動することは難しく、のちにインドのマドラス、ボンベイ、さらに17世紀末からはカルカッタが重要となり、17世紀末までにはそれぞれ総督が置かれるようになります。3つの総督管区はそれぞれ各地の商館を管轄下に置かれるようになっていき、一定程度の独立性を有していたとはいえ、オランダに比べるとロンドンの本社機能の影響は強いものでした(羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.110-111。)。
(注2) リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002,p.xxv,p.152~p.156。



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1650年~1760年の現⑨イギリス
◆三王国戦争を経てイングランド王国が有力となり立憲君主制を確立した
 1650年にオックスフォードでヨーロッパ初のコーヒーハウス【東京H17[3]】が開業されました(52年にはロンドンで開業) 【本試験H18リード文】。コーヒーハウスでは,当時珍しかったコーヒーを飲むだけでなく科学者やジャーナリスト,投資家などの男性【本試験H18女性は集っていないし,女性は参政権を獲得していない・農民も集まっていない】が集まり,備えられた新聞【本試験H18】などのメディアを通して政治や社会について活発に語り合う場が形成されるようになっていました。このような公共の話題に関する人々の議論のことを「公論」と呼びます。コーヒーハウスはビジネスの話題が飛び交う場にもなり,海外情勢やお金になる話を求めて貿易業者も訪れました。海上保険を生み出したロイズも発足当初はコーヒーハウスでした。

 時代は,三王国戦争(ピューリタン革命【追H21】)の真っ最中。〈チャールズ1世〉が処刑された後,イングランド史上初の共和政の指導者となったのは〈クロムウェル〉(1628~74) 【共通一次 平1】【追H21】【本試験H31航海法の制定者を問う】でした。彼はジェントリ出身であることもあり,貧民の権利についてはあまり考えていません。ですから,さらに多くの人々に参政権を与えることを要求した水平派を弾圧しました。
 また,処刑された〈チャールズ1世〉の息子は1649年にいったんフランスに逃れますが,スコットランドが息子〈チャールズ〉をスコットランド王にするという宣言を出しました。たためスコットランドに再上陸,翌年スコットランド国王に即位しました。しかし,1651年にウスターの戦いで〈クロムウェル〉軍に敗れ,フランスに再亡命しました。彼はのちに王政復古することになる〈チャールズ2世〉です。
 アイルランド遠征(イギリス史上初の本格的なアイルランド進出です)によってカトリック勢力を鎮圧し,アイルランド【本試験H20地図・アイスランドではない】を事実上支配し,大規模な土地没収を行います。
 こうして,〈クロムウェル〉は3つの王国にまたがる共和政(コモンウェルス)を成立させたことになります。

 〈クロムウェル〉の時代の混乱状態を目の当たりにして,思想家の〈ホッブズ〉(1588~1679) 【本試験H14】【追H9ルソーとのひっかけ】は『リヴァイアサン』(1651年) 【追H9ルソーの著作ではない】【本試験H14『君主論』ではない】を執筆します。彼は言います「人々が安全・安心に暮らしていくためには,強力な政治権力によって守ってもらうことが必要だ」と。彼にとっては〈クロムウェル〉の政治は,政府が有って無いようなものに映ったのでした。
 〈クロムウェル〉は厳格なピューリタンでしたので,彼の時代には厳格なピューリタン文学が理想とされ,〈ミルトン〉(1608~74) 【追H9、H28】の『失楽園』(1667) 【追H9『ハムレット』ではない】【本試験H22〈デフォー〉ではない,本試験H27】や〈バニヤン〉(バンヤン、1628~88)の『天路歴程』(1678,84)が著されました【追H21アメリカ独立宣言に影響を与えていない】。
 〈クロムウェル〉【本試験H31ジェームズ1世ではない】はまた,中継貿易【早法H29[5]指定語句】により海上貿易の覇権を握っていたオランダ【本試験H22】に対し,航海法(1651年) 【共通一次 平1】【本試験H22,本試験H31】を発布して対抗しました。その内容は,輸出入をイギリス船と,その相手国の船に限定し,オランダ船を締め出すことだったため【共通一次 平1:輸入品に高率の関税をかけたわけではない】,イングランド=オランダ戦争(英蘭戦争【早法H24[5]指定語句】)に発展【共通一次 平1】【本試験H11:オランダ東インド会社はこの敗北をきっかけに解散されたわけではない】。その後,3次にわたり戦争が断続的に続きます(最終的にオランダは敗北。イギリスに世界の物流をコントロールする支配権がうつります) 【早・政経H31オランダ優位に終わったわけではない】。

 彼は1653年に,最高職である終身の護国卿(ごこくきょう)に就任し,事実上の独裁体制をとったため人々の心が離れました。彼が死ぬと「王政のほうがましだ」ということで,1660年にフランスに亡命していた〈チャールズ1世〉の子の〈チャールズ2世〉(位1660~85) 【追H21名誉革命ではない】を国王として呼び戻しました(王政復古【追H21名誉革命によるものではない】)。
 彼は1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインドのボンベイ島を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの“生命線”になろうとは,思いもよらなかったわけです。ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸にボンベイを建設(⇒1650~1760のアジア 南アジア)。

 さて,〈チャールズ2世〉は共和政以来続いていたオランダとの対決姿勢も強めます。
 北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し,第二次英蘭戦争(1665~1667)が始まりますが,1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。ロンドン大火の教訓から,火災保険が成立することになります(海上保険から発展)。

 そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻しネーデルラント継承戦争(1667~68,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を含む北アメリカ北東岸のニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。また,このときに占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は,オランダ領ギアナ(現在のスリナム)になります。

 しかし,〈チャールズ2世〉は実はドーヴァー密約(1670)により〈ルイ14世〉と水面下で同盟を結んでおり,フランス=オランダ戦争(仏蘭戦争,1672~78。ナイメーヘンの和約で終結)とリンクする形で,第三次英蘭戦争(1672~74)を起こしました。しかし,イングランド政府の中には,「オランダがフランスに飲み込まれてしまえば,イングランドの安全保障や経済も危うくなるのでは」との懸念も生まれたため,ウェストミンター条約により和議が結ばれ,ヨーク公の娘メアリーをオランダの〈ウィレム3世〉に嫁がせました。この〈メアリー〉はのちに〈ウィレム〉とともにイングランド女王となる〈メアリー2世〉(位1689~94)です。
 こうして3度にわたる英蘭戦争は,イギリスの劣勢に終わりました【本試験H15イギリスは勝利していない】。

 〈チャールズ2世〉は国内では王立学会(王立協会)を設立し,学芸を保護しました。気体の圧力の研究をした〈ボイル〉(1627~91)や,フックの法則や細胞説で知られる〈フック〉(1635~1703),陶器で有名な〈ウェッジウッド〉(1730~95)は,その会員です(〈ニュートン〉(1643~1727)は1703~1727年に会長を務めています)。
 また,国教会を尊重し,議会も審査法(1673年) 【本試験H9】【本試験H30エリザベス1世の時ではない】【追H21】によってカトリックなどの非国教徒【追H21】が公職につけないようにしました【追H21公職就任が認められたわけではない】。また,不当な逮捕や拘禁を防ぐ人身保護法(1679) 【本試験H6「人身保護律」(ママ)は労働問題解決の法ではない】【本試験H25】も制定されました。
 しかし国王の弟(〈ジェームズ〉)がカトリック教徒であることがわかると,議会は〈ジェームズ〉派(トーリ党と呼ばれるようになる王党派です)と反〈ジェームズ〉派(ホイッグ党と呼ばれるようになる議会を尊重する勢力です)に分裂しました。なお,カルヴァン派(ピューリタン)の多かったピューリタン革命前の議会と違い,議会の多数は国教徒でした(注)。

 結局〈ジェームズ2世〉がイングランド・スコットランド・アイルランドの王に即位しました(スコットランドの王としては〈ジェームズ7世〉,位1685~1688)。彼はカトリックのフランス王〈ルイ14世〉と親しく,当初から疑念がありました。
 実際にカトリックを公職に就任させたり議会を軽視したりしたため,議会は国王の先手を打ってジェームズの長女〈メアリ〉(1662~94)とその夫〈ウィレム〉(オランダの統領でした,1650~1702)をオランダから招いて,国王としました。オランダは,当時軍事的に急拡大していたフランスを不安視し,イングランドと組んでフランスに対抗しようとしたわけです。



◆〈ジェームズ2世〉は,長女〈メアリー〉とオランダ総督〈ウィレム〉により王位を追われた
“名誉革命”というクーデタで,王権の制限は確立
 国王〈ジェームズ2世〉【慶文H30記】【上智法(法律)他H30チャールズ2世ではない】は国を追われ,平和裏に国王が交替しました。
 1689年,夫妻は議会の要求を受けてそろって王に即位。
 〈ウィリアム3世〉【慶文H30記】(位1689~1702) 【慶文H30記】とメアリ2世(位1689~94)です。
 2人は,議会の承認なしに国王は勝手に税をとることはできない【共通一次 平1:「議会の承認を経ない課税の違法性が承認された」か問う】とする「権利の章典」【共通一次 平1】【追H24フランス革命中に制定されたものではない】を制定しました(「権利の宣言」【慶文H30記】を成文化したもの)。
 この一連の政権交替を名誉革命【追H21「王政復古ではない」】【立教文H28記】【早法H24[5]指定語句】【上智法(法律)他H30】といいます。革命というよりは「クーデタ」です。

 名誉革命後,国王に即位できる対象者からカトリックが外されました(注1)。
 また国王に忠誠を誓う限り、プロテスタントの信仰を認めたことで,1685年にフランスの〈ルイ14世〉によるナントの王令の廃止【東京H21[1]指定語句】【追H24ルイ14世によるか問う】【早法H30[5]指定語句】により迫害を受けていたフランスのカルヴァン派(ユグノー)がイングランドに向かいました。カルヴァン派には商工業者が多かったので,イングランドの工業化にとっては大きなプラスとなります(注2)。
 彼らを出迎えたジャーナリストに〈ダニエル=デフォー〉(1660~1731) 【追H9】【本試験H22】がいました。『ロビンソン=クルーソー』(1719, ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険) 【追H9『ガリヴァー旅行記ではない』】【本試験H22『失楽園』ではない,本試験H27ミルトンではない】は無人島に流れ着いても前向きにゼロから何でも一人でのりこえていく主人公の小説【追H9「小説」】描き,当時商工業に従事していた市民の間で人気を博しました。
 「権利の章典」【共通一次 平1】により,議会が立法や予算について国王大権よりも優越している(国王が議会の承認なしに課税できない) 【共通一次 平1:内容を問う】【本試験H25内容を問う,本試験H27】ことが確認されました。要するに,“議会がイングランドの最高権力者だ”ということです。こうして国王をコントロールすることができる体制が確立されました。国王のような統治権力をコントロールするための法を憲法といい,憲法によってコントロールされている王政を,立憲王政といいます。

 この一連のクーデタを,思想家の〈ロック〉(1632~1704) 【追H21アメリカ独立宣言に影響を与えたか問う】は強く支持します。「国王の権力は人民が信託したことにより成り立っているのだから,国王が専制政治をおこなうなど,国民の信託にそむいた場合は,それを倒す権利(革命権または抵抗権)がある」と論じたのです。
 当時のヨーロッパにおいてはかなり過激な思想といえますが,イングランドではもはや新聞・雑誌の論説などの公論(こうろん)を無視することができなくなっていたわけです。ただ,当時の有権者は成人男子のうちごく一部であり,その範囲が広げられるのは第一回選挙法改正(1832)を待たねばなりません。

 またこの頃では,以前に引き続き実験観察に基づく自然科学が発達し,王立協会会長を〈ニュートン〉(1642~1727) 【本試験H22デフォーではない】【追H9、H17ラプラースではないH20ラヴォワジエではない,追H29】が務めました。リンゴの落下を見て,ふと「どうして月は落ちてこないのか」と考え,それが糸口になって万有引力の法則【追H9,追H29】が発見されて,近代物理学【追H9】の基礎が打ち立てられます。主著は『プリンキピア』です【追H17ラプラースではない】。彼は自然を一定の法則にもとづき運動する機械のようにとらえていましたが,『プリンキピア』の末尾に『神は永遠にして無限,全能にして全知であります』と述べられているように,「神の秘密を解き明かすために,観察や数学を用いる」と考えていたようです。

 こうして,従来はイングランドを同盟国としていた〈ルイ14世〉は後ろ盾を失い,最後の進出戦争であるプファルツ継承戦争(1688~1697)【本試験H15ルイ13世による戦争ではない】では,イングランド,神聖ローマ帝国,スペイン,ネーデルラント連邦共和国(オランダ),スウェーデンなどのヨーロッパ諸国が大同団結してフランスを包囲しました。これをアウクスブルク同盟(大同盟)といいます。〈ルイ14世〉はプファルツ選帝侯の継承という目的を達成することなく,1697年にライスワイク条約によって講和しました。この戦争は植民地においても争われ,特にイングランドとフランスの植民地をめぐる争い(ウィリアム王戦争)は,この先も約100年続く“第二次英仏百年戦争”の幕開けとなります。ライスワイク条約では,フランスはアルザス地方の都市ストラスブールと,カリブ海のサン=ドマング(現在のハイチ(ハイティ))を獲得しました。また,イングランドの名誉革命が国際的に承認されました。

 一方,アイルランドやスコットランドでは,名誉革命後も残存するステュアート家の〈ジェームズ2世〉派の抵抗は続き,のちに〈ジェームズ2世〉の子をイングランド・スコットランド・アイルランド王“〈ジェームズ3世〉として担ぎ上げ,抵抗をつづけました(スコットランド王しては〈ジェームズ8世〉。老僭王と呼ばれました)”(自称位1701~1766)。ステュアート家側のグループをジャコバイトといい,スコットランドの北部高地ハイランドの血縁集団と協力し,反乱は1745年まで続きました。

(注1)1701年の王位継承法でさらに具体化されました。ただし、プロテスタントの非国教徒は引き続き公職に就くことはできませんでした。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.63。
(注2)ただし、プロテスタントの非国教徒は引き続き公職に就くことはできませんでした。山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.63。



◆イギリスは豊富な財政基盤により植民地戦争でもフランスを打倒し,資本の蓄積を進める
ジェントルマンが支配層を占めるように
 
 名誉革命後の体制で支配層の地位を占めるようになったのは、「ジェントルマン」と呼ばれる地主階層です。
 これは、①爵位を有する貴族に、②庶民身分の中の上位層を合わせた分厚い層で、いずれも英国国教徒の大地主層でした。
 さらに、貿易商などの都市の富裕層も「疑似ジェントルマン」と呼ばれ、ジェントルマンに加えることもあります。
 
 ここでこの時期のイングランドの経済事情についても見ておきましょう。
 イングランドはこの時期,多くの戦争に参加し海外交易を推進しており,お金不足に困っていました。そこに目をつけたスコットランドの商人〈パターソン〉(1658~1719)は,「120万ポンドの資金を集め,8%の利息をつけて国家に貸し付ける」計画を発表し,国王の許可を得て1694年にイングランド銀行という株式会社を設立し,120万ポンドまで銀行券を発行しました。このとき,オランダのアムステルダムの大商人の資金や,1685年のフランスでのナントの王令の廃止【東京H7[3],H12,H21[1]指定語句「勅令」】【追H24ルイ14世によるか問う】により亡命してきたユダヤ人の資金が,大量にイングランド銀行に集まりました。イングランドは戦争で勝って発展していく見込みがあり,投資すればリターンが返ってくるはずだと,投資家たちが信用したからです。イングランドは議会の商人を得て国債を発行し,イングランド銀行が国債を刷りました。国債はただの紙ですが,イングランド議会が将来利子をつけて返済することを保証したため,その変動を利用してもうけようとする投資家たちは国債をロンドンのシティ金融市場で取引しました。

 しかし,せっかく投資してもイングランドに返済能力がなければ信用は生まれません。ですが,当時のイギリスには国民から税金を確実にとることのできる仕組みが確立されていました。一人あたりの税額はフランスの2倍近くあったといわれます。18世紀後半にかけ,土地税の割合は減り,商品やサービスにかけられる間接税が増えていき,18世紀末には所得税も導入されました。こうしたことから,海外の投資家たちは「イギリス政府には税金をとる能力があるから,国債(借金)を返済する能力がある」と考え,イギリスへの投資が増えていったのです。
 イギリスが,人口も経済力も4倍だったフランスとの植民地戦争に勝利できたのは,財政基盤の確立により軍事費を増やすことができたからだと考える研究者もいます(このような観点からみた国家体制は「財政軍事国家」と呼ばれます)。





 1701年には,王位継承者プロテスタントに限る法律が制定され,〈アン女王〉(位1702~14)が即位しました。
 
〈アン女王〉のときには,スペイン継承戦争が起きます。
 その背景には、フランスの拡張主義がありました。
 フランス王国では,1640年~52年に起きたカタルーニャの反乱に介入した〈ルイ13世〉(位1610~1643)は,1659年のピレネー条約でフランス・スペイン国境をピレネー山脈とし,以北のカタルーニャはフランス領となりました。また,1640年にはポルトガルでブラガンサ朝が独立しました。ポルトガルを支援したのは,スペインに対抗しようとしたフランスとイングランドです(独立の承認は1668年)。
 フランスの〈ルイ14世〉(位1643~1715)は重商主義を推進して絶対王政を確立し,フランスの領土を拡大させるために各地で進出戦争を起こしました。
 進出戦争は,世界商業の主導権をめぐるイングランド(イギリス)との争いに発展し,北アメリカ大陸・カリブ海やユーラシア大陸において植民地獲得戦争が今後100年以上にわたり続くことになります。これを第二次英仏百年戦争といいます。オランダと同君連合となったイングランド(イギリス)によるファルツ王戦争(大同盟戦争,1688~1697)がその始めで,1815年に終結するナポレオン戦争まで続きます。
 〈ルイ14世〉の進出戦争と英仏の植民地戦争が結びついた最後の例がスペイン継承戦争でした。スペインでハプスブルク家が1700年に断絶したのに目をつけた〈ルイ14世〉は,孫である〈フェリペ5世〉を王として送り込むことで,勢力範囲をスペインに広げようと考えたのです。
 これを警戒したイングランド(1707年からはスコットランドと合同するので,大ブリテン連合王国(イギリス) 【本試験H27】となる)やオーストリア,オランダは,フランスとの間に戦端を開きました。これがスペイン継承戦争(1700~1714年)で,植民地における戦争はイングランド(イギリス)の王名をとってアン女王戦争といいます。
 
 戦争は,イギリス側に軍配が上がりました。これによりスペインは南ネーデルラント,南イタリアを喪失し,地中海から大西洋への出口として最重要地点であったジブラルタル【本試験H30スペインは獲得したのではなく喪失した】や,西地中海のメノルカ島(ミノルカ島)はイギリスに奪われました。イギリスは21世紀の現在においても,ジブラルタルを海外領土として保持しています。
 また,イギリスはフランスから北アメリカの植民地を獲得。北アメリカ北東部のアカディア(ノヴァスコシア)とニューファンドランド島【本試験H31オランダが獲得したのではない】,北アメリカ北部のハドソン湾です。

 さらに,イギリスやオランダは大西洋の制海権を獲得し,イギリスは奴隷貿易独占権(アシエント。アフリカ大陸の住民をアメリカ大陸まで船に乗せて運ぶ権利)を獲得します。こうしてイギリスの南海会社は,1750年までに毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地に供給し,巨富を得ました。

 これらを定めたユトレヒト条約【追H20内容】【名古屋H31時期・史料】【本試験H19金印勅書とのひっかけ】では,ブルボン家がスペイン王国を継承することは認められましたが,スペインとフランスとの合同は禁止されました。

 イギリスは奴隷貿易のもうけにより資本を蓄積していき,これがイギリスにおける産業革命(工業化)の元手の一つになっていくのです。港湾都市リヴァプールは,奴隷貿易の拠点として栄えました。当時の人気版画家〈ホガース〉(1697~1764)の描いた「放蕩一代記」という当時の上流階級を風刺(ふうし)した版画には,上流階級の家庭に黒人が召使いや“ペット”として登場します。彼は南海会社の株価の急騰と暴落(南海泡沫事件。史上初のバブルで,バブルの語源になりました)も,版画のテーマにしています。


 〈アン女王〉の代の1707年に、イングランド王国はスコットランド王国と合同し,大(グレート=)ブリテン連合王国が成立しました【本試験H27】。スコットランドとの合同以降は,イングランド主導で大ブリテン島全土が一つになったということで,大(グレート=)ブリテン連合王国という国名になりました。これ以降,この王国のことを「イギリス王国」と表現するのが普通です。

 女王には跡継ぎがいなかったため,〈アン〉の死後,ドイツのハノーファー選帝侯を王として,ハノーヴァー朝となりました。オランダとの同君連合が解消され,今度はオランダと対抗しつつ,フランスの東部のハノーファー選帝侯と組むことでフランスを押さえようとしたのです。




◆1721~1742年  〈ウォルポール〉の内閣(ホイッグ党)
ウォルポールのときに議会の信任による内閣となる
 ハノーヴァー朝の〈ジョージ1世〉【追H27テューダー朝を開いていない,H30修道院を廃止していない】はドイツ人で,英語が得意ではなかったため,実質的な政治は,議会の多数派の党が行いました。王は「君臨すれども統治せず」の原則です【H29共通テスト試行、H30共通テスト試行 モンテスキューの考えを示した表現ではない】。多数党の指導者が首相として内閣を組織し,国民の代表である議会に対して責任を負う形の支配方式を責任内閣制【早政H30】といい,ホイッグ党の〈ウォルポール〉首相【本試験H28・H30時期】のときに確立したといわれています(注1)。
 彼は、1720年に世界最初の経済バブルといわれる南海泡沫事件(1720年)が起きると、ホイッグ党の最有力者として第一大蔵卿に就任し、議会の支持を受けて政権を担当。これが〈ウォルポール〉内閣(1721~1722、1722~1727は〈タウンゼンド子爵〉(注2)が主要閣僚として二人三脚、外交方針をめぐって対立し、1727~1730年には〈ウォルポール〉が主導する内閣)です。
 事件の混乱をおさめ、対外的には平和を重視する政策をとっていましたが、議会の反スペインの気運に押され、のちにスペインに宣戦布告して1739年にジェンキンスの耳戦争が起こります。

 〈ウォルポール〉政権末期の1740年には、大陸でオーストリア継承戦争(1740~1748)が起こっていました。

 なお、1710年にハノーファー選帝侯の宮廷楽長となっていたドイツ出身の音楽家〈ヘンデル〉(1685~1759)【追H26ロマン派の音楽家ではない】は、のちにイギリス国王として即位した〈ジョージ1世〉に迎えられてイギリスに帰化し、1717年には「水上の音楽」が演奏されています。

(注1) 時期については1721年に首相に再任したときが内閣制度の初めといわれます。彼が最初にホイッグ党の最有力者として第一大蔵卿となったのは1715年で1717年まで担当しています。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122。
(注2)〈タウンゼンド子爵〉(1674~1738)は大陸の進んだ農業技術を導入し,生産量を増大することに成功したことから、“カブのタウンゼンド”のあだ名がついています。
 カブとクローバーを,ノーフォークにある自分の領地で栽培し,従来の三圃制(さんぽせい)のようなローテーションに加えました(カブ→大麦→クローバー→小麦)。カブは冬の間の家畜のエサになりますし,クローバーは窒素固定細菌を持つので,植物の栄養となる窒素たっぷりの土をつくってれます。このノーフォーク農法により収穫が増え,もうかる農家が出ると「じゃあうちもやってみようか」と新技術が広がっていきます。土地は「自分たちが食べるものをつくるところ」というよりは,「利益を生むもの」(資本)ととらえられるようになっていました。こうしてイングランドの地主の中からは,領主のような存在ではなく,儲け話に目がない資本家(農業資本家)が登場するようになっていったのです。
 食料生産が安定化したことで,従来は頻繁に起きていた飢饉(ききん)が減りました。農業資本家たちは経営の効率化を高めていき,19世紀にかけてゆっくりとしたペースで農業ではなく産業に携わる人が増えていき,都市の人口増加にもつながっていきました。
 こうした農業生産の変革を「(第二次)農業革命」【東京H19[1]指定語句】と呼ぶことがあります。



◆1742~1743〈スペンサー=コンプトン〉内閣
◆1743~1754〈ペラム〉内閣
ホイッグ党の内閣が続き、大陸の戦争にも関与
 つなぎの〈コンプトン〉内閣に代わって、〈ウォルポール〉内閣での閣僚経験もある〈ペラム〉内閣が成立。ホイッグ党の最有力者でありながら、トーリ党からの起用もおこない、長期政権となります。
 1745年にはかつてのステュアート朝の残党であるジャコバイトの反乱を鎮圧します。
 1748年には、アーヘンの和約によってオーストリア継承戦争を終結させます。
 1749年にイギリス海軍を再編。
 1751年にはジン法を制定し、下層民にはびこっていたジン(お酒)の消費を抑えようとしました。
 1752年には、いまだに使用していたユリウス暦をやめて、グレゴリオ暦の使用を決定しました。
 1753年にはユダヤ人帰化法によって、ユダヤ人の帰化を簡単にしようとしましたが、反ユダヤ主義の反対にあって、廃止となります。
 1753年には結婚の制度を整備する結婚法を制定し、その結果、上流階級(ジェントルマンと貴族)と庶民がこっそり結婚することが難しくなりました。




◆1754~1756年〈第一次ニューカッスル公爵(トマス・ペラム=ホールズ)〉内閣(ホイッグ党)
◆1756~1757年〈第4代デヴォンシャー公爵〉内閣(ホイッグ党)
◆1757~1762年〈第二次ニューカッスル公爵(トマス・ペラム=ホールズ)〉内閣(ホイッグ党)
七年戦争への対応めぐり政権内が対立する
 〈ニューカッスル公〉は前の〈ペラム〉首相の兄にあたります。
 北アメリカ大陸におけるフレンチ=インディアン戦争(1755~1763)と、大陸における七年戦争(1756~1763)に介入しますが、ミノルカ島の海戦(1756)に敗れるなど戦果は思わしくなく総辞職となります。庶民院(タカ派の〈大ピット〉(ウィリアム=ピット、1708~1778)が牛耳っていた)における支持の弱さが背景にありました。

 代わって立った〈デヴォンシャー公爵〉内閣は、首相(第一大蔵卿)は〈デヴォンシャー公〉(1720~64)が担当しますが、事実上〈大ピット〉が戦争を指導します。
 どうして〈デヴォンシャー公〉になったかというと、〈大ピット〉が〈ニューカッスル公〉がカムバックするのを嫌がったからです。

 しかし、〈デヴォンシャー公〉が王に更迭されると、1757年に〈ニューカッスル公〉が返り咲いて第二次内閣を組織し軍事費を調達、戦争の指導は〈大ピット〉がおこないました。
 
 そんな中、国王〈ジョージ2世〉が1760年に亡くなり、孫であった〈ジョージ3世〉が即位すると、政界と対外政策の雲行きも変化することとなります。




 なおこの時期、世界各地の珍しい骨董品コレクションが,医師によりロンドンに集められ,1753年の博物館法で「大英博物館」(ブリティッシュ=ミュージアム)として引き継がれました(一般公開は1759年)。また,世界各地の珍しい植物がロンドンに集められ,王立植物園も設置(キュー王立植物園)されました。
 植民地の拡大は,世界各地の生態系(動植物が複雑に絡み合ってつくりあげている世界)にも影響し,そのバランスが崩れることで生物多様性(地球上のさまざまな生き物の複雑なつながり)にも影響を及ぼすようになっていきます。





・1650年~1760年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆ネーデルラント北部は仏の拡大に対しイングランドと同盟,オランダ資本がイングランドに流入
ネーデルラント北部の経済的派遣は英に交替へ
 栄華(えいが)をきわめたネーデルラント(オランダ)にも,弱点はありました。フランスとドイツとの国境が低地で陸続きであったことと,大西洋に出るためにはイングランドとフランスに挟まれたドーヴァー海峡を通るしかなかったことです。
 イングランドは,1652~54年,65~67年,72~74年の3度に渡りイングランド=オランダ戦争(英蘭戦争)をおこし,オランダの海上覇権に挑戦しました。フランスも〈ルイ14世〉が進出戦争を仕掛けてきました。統領である〈オラニェ公ウィレム〉の指導力で撃退しましたが,フランスに対抗する必要があったため,婚姻関係にあったイングランドで名誉革命が起きると,〈オラニェ公ウィレム3世〉(1650~1702)は〈ウィリアム3世〉としてイングランド王に即位しました(オラニェは英語でオレンジ)。

 オランダはイングランドと同盟を組む代わりに,かつてのような自由な貿易は制限されることになったため,香料価格が低迷し,花形商品が綿織物や茶に変わったことも加わって,18世紀半ばには衰退に向かいます。

 この時期のオランダは,物資だけではなく様々な情報の集まる場となったことから,学芸が非常に盛んになりました。
 例えば,〈ホイヘンス〉(1629~95)が振り子時計を発明,土星の環の発見,光の波動説を提唱しました。
 また,ヨーロッパ各地で,豪華で躍動感のあふれるバロック式の絵画が,各地の王権を反映して多く描かれ,フランドル出身の画家も活躍しました。フランドル派の〈ルーベンス〉(オランダ語の発音はリュベンス、1577~1640)と(注1),その工房出身の弟子で〈チャールズ1世〉の首席宮廷画家となった〈ファン=ダイク〉(ヴァン=ダイク、1599~1641)。
 〈ルーベンス〉の作品では、『フランダースの犬』でネロ少年の心酔した『キリスト昇架』(1610)・『キリスト降架』(1614)が有名です。
 宮廷画家のスペイン人〈ベラスケス〉(1599~1660),スペイン人〈ムリーリョ〉(1617~82)が有名です。

 一方で,スペインの支配下にとどまった低地地方南部(南ネーデルラント,現在のベルギー)は,スペイン継承戦争(1700~14)後にフランス〈ルイ14世〉と神聖ローマ帝国〈カール6世〉との間に結ばれたラシュタット条約で,ハプスブルク家オーストリア大公国の領土に編入されました。
 これには,フランス王国によるオランダ進出をオーストリアに食い止めさせる意図もありました。
 この時期のベルギーはまるで「大国の嫁入り道具」(松尾秀哉氏の表現)のように取り扱われたわけです(注2)。

 オーストリア=ハプスブルク家はベルギーに代理を置き、実際の支配は現地の人々に任せました。啓蒙専制君主〈ヨーゼフ2世〉はベルギーの人々を「ビールのことしか考えないフランス風のやつら」と軽蔑したそうです。国のことを第一に考える〈ヨーゼフ2世〉と、カトリックの信仰や都市の自治を大切にするベルギー人との間にはギャップがあったのです(注3)。
(注1) 〈ルーベンス〉はオランダ独立戦争後、スペイン=ハプスブルクの君主によって、ネーデルラント北部との外交任務に当たるようにもなっていました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.34。
(注2) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.22。
(注3) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.24。




○1650年~1760年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



・1650年~1760年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
スウェーデンの敗北によりフィンランド領は縮小へ
 17~18世紀にかけデンマーク=ノルウェー(同君連合,1524~1814)とスウェーデン王国は,ともに
 こうした戦乱と拡大の背景には、「小氷期」とも呼ばれる寒冷な気候がありました(「17世紀の危機」)。この時期にスウェーデンは対外的に、アフリカの一部、カリブ海、北アメリカ東部デラウェア川沿岸に植民活動を展開しています。植民者の多くはフィンランド人であったといいます(注1)。

 その後、スウェーデンの〈カール12世〉は、1700~21年の(大)北方戦争【追H9】【本試験H28】で〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725) 【追H9プロイセンのフリードリヒ大王ではない】【本試験H28】率いるロシアに敗北。スウェーデンの支配下だったフィンランドは一時ロシアに占領され、略奪や暴行に対するゲリラ的な抵抗が展開されました(フィンランドでは「大いなる怒り」と呼ばれます)。

 1721年のニスタット条約〔ニースタット〔ウーシカウプンキ〕条約〕によって、カレリア地峡(のちに「古フィンランドと呼ばれます」)をスウェーデンに返還されますが、このときのロシア占領の記憶はその後も「大いなる怒り」として刻まれます(注2)。

 なお、1640年に設立されていたオーボ王立アカデミーでは歴史研究も進み、フィンランド人の先祖は旧約聖書に登場するマゴグという人々だという説が唱えられ、フィンランド語とヘブライ語・ギリシャ語との同系言語説も主張されました(〈ダニエル=ユスレニウス〉(1676~1752)による『新旧のオーボ』(1700))(注3)。
 植物学者〈リンネ〉のもとで学んだ植物学者・冒険家〈ペール=カルム〉(1716~1779)もフィンランド人です。また、〈ペール=カルム〉の下で学んだ牧師・議員・思想家〈アンダシュ=シデニウス〉(1729~1803)は、自由貿易、出版・信仰の自由など急進的な改革を唱えました。
 言語的には、主な公的文書はフィンランド語にも訳されていたものの、大学では主にラテン語が使用され、1630年代からオーボなどの都市部に設置されたギムナジウムではスウェーデン語が教育言語となっていました。軍隊でもスウェーデン語が使用されていました(注4)。


 フィンランド北部「ラップランド」の民族サーミ人は、スウェーデンとフィンランド,デンマークとノルウェー,ロシアの領域をまたぎ,遊牧生活を送り,文化を共有していました。17世紀以降にルター派の布教を通してキリスト教化が進みましたが,周辺国への土地の割譲と従属が進みました。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.37。
(注2) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.38。
(注3) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.42。
(注4) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.45。

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・1650年~1760年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク,⑤ノルウェー
 17~18世紀にかけデンマーク=ノルウェー(同君連合,1524~1814)とスウェーデン王国は,ともに海外進出をして植民地を獲得します。デンマーク=ノルウェーは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。また,インド東南部などにも拠点を築いています。
 スウェーデンもアフリカ大陸ギニア湾岸の黄金海岸や,北アメリカ大陸の大西洋岸,西インド諸島のサン=バルテルミー島(のち1878年にフランス領)にも一時植民地を持っていました(大西洋岸の植民地はオランダに奪われました)。1731年に設立され中国貿易を担当した東インド会社と1784年に設立されカリブ海を担当した西インド会社が,商業活動に従事しましたが,大きな成果はあげられませんでした。

 グリーンランドは,ノルウェー系のヴァイキング〈赤毛のエリクソン〉(950?~1030?)に発見され【本試験H25】,それ以降イヌイット系(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅んでいました。この時期にはデンマークがかつての植民者との再開を願って再び探検をこころみましたが,すでにその跡はなく,代わりに先住民イヌイット人との接触が生まれました。デンマーク人の探検家〈エーイェゼ〉は植民地として開拓を進め,同時にキリスト教の布教をはじめイヌイット語辞書の出版(1750)や,『新約聖書』のイヌイット語訳(1766)を完成させました。



________________________________________・1650年~1760年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデンはロシアとの戦争で敗北する
 スウェーデン王国は,中世以来デンマーク王国を盟主とするカルマル同盟(カルマル連合)【本試験H30】に従属していましたが,1523年に独立を達成し,三十年戦争ではドイツ沿岸部を獲得し,「バルト帝国」の建設を進めていきました。

 1655年~1660年には,ポーランド=リトアニア連合王国との戦争を起こし,ポーランドは領土を分割される寸前まで追い詰められています。

 こうした戦乱と拡大の背景には、「小氷期」とも呼ばれる寒冷な気候がありました(「17世紀の危機」)。この時期にスウェーデンは対外的に、アフリカの一部、カリブ海、北アメリカ東部デラウェア川沿岸に植民活動を展開しています(注1)。

 スウェーデンの〈カール12世〉は、1700~21年の(大)北方戦争【追H9】【本試験H28】で〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725) 【追H9プロイセンのフリードリヒ大王ではない】【本試験H28】率いるロシアに敗北。軍事的に衰退していくことになりました。

 この時期のスウェーデンでは学芸が盛んで,〈リンネ〉(1707~78) 【東京H9[3]】【本試験H16ジェンナーではない,本試験H29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない】は,ラテン語で属名→種名(種小名)の順に学名を付けていく植物分類学を『自然の体系』(シュステーマ=ナートゥーラエ)で確立し,スウェーデンのウップサーラ大学の学長も勤めています。
 また「スウェーデン人は旧約聖書の〈ノア〉の末裔であり、神に選ばれたゴート人の末裔だ」という説(ゴート主義)も16~17世紀にかけて唱えられました(注2)。

(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.36。
(注2) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.43。


●1760年~1815年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展② (沿海部への重心移動),南北アメリカ:欧米の植民地化③
 イギリスで産業革命が起きるが,依然としてアジアの経済は盛ん。各地で自由主義と保守主義の対立が起き,大西洋周辺部では政治変動が起こる(環大西洋革命)。

この時代のポイント
(1) イギリスで史上初の「産業(インダストリアル)革命」(蒸気力による機械工業化)(注1)が起き,資本集約・労働節約的な経済が発展,生物圏に対する人間の支配力が高まっていく。
(2) 一方,東アジアを中心に労働集約・資本節約的な「勤勉(インダストリアス)革命」が進行しており,高い生産性と急増する人口ゆえGDP総額はヨーロッパより高く,アジアの域内貿易は盛んであった。
(3) 「交通革命」により,地球のネットワークの規模が広がり,交流も活発化する。

 産業革命(工業化)の起きたイギリスでは都市人口比率が高まり,自由主義・保守主義の対立が生まれ,社会問題も起きる。啓蒙思想が大西洋を取り囲む地域の政治的な変動(環大西洋革命【大阪H31 論述(18世紀~19世紀初頭の革命の連鎖について、人物・思想にふれつつ説明する)】)に影響を与え,北アメリカではアメリカ合衆国が建国された。アジアの地域間交易は盛んだが,イギリスの産業革命(工業化)に匹敵するような技術革新は起こらなかった。1755年のリスボン地震でポルトガルの都リスボンは打撃を受け,1763年のパリ条約でフランスが北アメリカ植民地から撤退すると,非ヨーロッパに おける商業の主導権はイギリスに移っていきました。イギリスによるオセアニアの探検が進み,オーストラリア大陸への植民が始まっている。
 中国では人口が2億人を突破(1763年)。労働集約的な産業が盛んで,アジアの地域間交易も盛んにおこなわれている。


◆イギリスで産業革命(工業化)が起こり,生物圏に対する人間の支配力がつよまっていった
 この時期にイギリス人は機械を用いて製品の大量生産を可能にする技術革新(イノベーション)を起こし,それが蒸気力を動力するための蒸気機関【東京H9[3]】の開発と,それを生産技術に応用する技術が生まれました(動力革命)。これを,産業革命(工業化)(Industrial Revolution) 【本試験H5これにより,親方と職人との対立が起こったわけではない】といい,人類にとって約1万年前に始まった農耕・牧畜の開始(農業革命)に匹敵(ひってき)するインパクトを生むこととなります。
 蒸気機関の燃料には石炭が用いられ,豊富な埋蔵量を誇るイギリスには有利な展開となりました。3億年前の石炭紀(注2)に地球上に繁茂していたシダ植物が受けた太陽エネルギーが,朽ち果てて泥沼の下に埋まって黒くなった石炭の中に蓄積されており,それを燃やすことにより3億年の時空を超えて太陽エネルギーが動力エネルギーとして解放されることになったのです。
 従来,動力として用いられていたのは小作人,奴隷,家畜などの人間や動物でした。しかし,産業革命(工業化)によって,それらとは比べ物にならないほどの強力なエネルギーが農業・工業などのあらゆる分野で使用されると,食料の増産や資源の獲得が人口の増加分に追いつき,人口がどんどん上昇していくこととなりました(注3)。
 また,化石燃料が燃焼することで大気中の二酸化炭素濃度の上昇も始まりました。この時期に人類の活動により絶滅したといわれる動物には,ジュゴン科のステラーカイギュウ(北太平洋に生息,1768?),ニュージーランドの巨鳥ジャイアントモア(1770?),ウシ科のブルーバック(1800)などがいます。人類は,地球の生態系や大気圏の化学組成にも大きな影響を及ぼす(支配できる)唯一の動物となったわけで,イギリス産業革命(工業化)以降の地質学的な区分を「完新世」の後に継ぐ「アントロポシーン(人世代)」とする意見も出ています。

(注1)「産業革命」という考え方は20世紀後半になると「工業化」という言葉に置き換えられ,「後進国」が見習うべき模範として意識てきに目標とすべき変化とみなされるようになっていきました。『世界各国史 イギリス史』山川出版社,1998,p.246
(注1)約3億5500万年前~約2億9000万年前までの期間で,海だった地層からはサンゴやウミユリなど,陸だった地層にはリンボクやシダ植物の大森林の化石がみられます。
(注2)これを経済学者〈マルサス〉(1760~1834)は,「産業革命(工業化)の前だったら,人口がある程度まで増えると,土地には限りがあるのでどこかで食料の増産が追いつかなくなる。飢饉・疫病・戦争などで死亡率が上がるか,そもそもの出生率を意図的に下げることで調整するしかない(これを「マルサスの罠」といいます)。だから,貧困をなくすには,道徳的に人口の増加を抑えるべきだ」,こんなふうに主張しました。でも,産業革命(工業化)によって生産性が向上すると,人口の増加に食料の増産の増産が追いつくようになる。つまり,「マルサスの罠」を突破できる。さらに生活水準が上がるから,死亡率が下がって人口が増えていく」。だから実際には人口はどんどん増えていったのです。


◆交通革命により,地球のネットワークの規模が広がり,交流も活発化していく
 蒸気力による技術革命(産業革命(工業化))は鉄道・蒸気船に応用され,長距離の移動時間が格段に短縮,運搬量が増加されていきます(交通革命)。このことは,世界の様々な地域に住む人々・細菌を含む動植物の相互交流を加速させていくことにもつながりました。輸送が容易になることは,世界各地の情報伝達のスピードや量を向上させ,「新たなアイディア」が加速度的に広まっていく要因にもなります。

◆都市人口比率が高まり,自由主義・保守主義の対立が生まれ,社会問題も起きた
 1760年当時,人類のほとんどは農村に住んでいました。しかし,産業革命(工業化)の起きたイギリスでは19世紀にかけてしだいに都市人口比率が上昇し,ここに産業社会が出現しました。産業社会においては自由競争が認められ,実力しだいでいくらでも富を築くことが可能な社会となります。それは新たな技術(イノベ)革新(ーション)へのモチベーションを生み出すこととなり,「進歩」することは“良いこと”とされる世の中になっていきます。しかし「豊か」になっていく都市内部では「貧しさ」を初めとするさまざまな社会問題が起こり,どのような「社会」をつくるべきかをめぐり社会主義のような革新的な思想が生まれていきます。また,「進歩」によって失われる伝統社会を守ろうとする保守主義と,「進歩」をめざす自由主義との対立もみられるようになりました。

◆啓蒙思想が,大西洋を取り囲む地域の政治的な変動に影響を与えた
 。一方,この頃1783年6月~12月にアイスランドでラーキ山(レイキャビークの東に位置する標高818メートルの火山)が,日本では浅間山(長野県と群馬県の県境にある2568メートルの火山)が大噴火しました。これらの噴煙は,世界各地に異常気象や天候不順をもたらし,同時代の世界各地の社会不安に少なからぬ影響を与えたと考えられています。
 同時期には大西洋を挟んだヨーロッパと南北アメリカで,合理的ではない伝統的権威に対抗し人民主権や平等を求める啓蒙思想の影響を受けた体制の変革を求める運動が多発しました。これを環大西洋革命(かんたいせいようかくめい)と総称することがあります。

 南北アメリカにおける革命の担い手は,ヨーロッパから移住した植民者やその子孫(クリオーリョ【追H26イベリア半島生まれの白人ではない】【セA H30】)でした。北アメリカでは,人間の理性によって自然の秩序を合理的に発見しようとするヨーロッパの啓蒙思想(けいもうしそう,Enlightenment)の影響を受けたイギリス系植民者による独立運動で13植民地が独立し急速な経済成長を遂げる一方,先住民は独立運動には加わらず,ヨーロッパ人に対する抵抗運動が続きました。
 南アメリカでは北アメリカと異なり,ヨーロッパの植民者との混血が進んでおり,社会構成は複雑でした。大陸の啓蒙思想や体制変化の影響を受け,ヨーロッパのスペイン・ポルトガル系植民者による独立要求が次第に高まりましたが,本格化していくのは1820年代以降のことです。
 カリブ海のハイチ(ハイティ)では黒人奴隷の反乱が成功し独立しましたが,その他の地域の先住民の抵抗は失敗に終わります。

 さらにヨーロッパでは啓蒙思想に加えアメリカ合衆国の独立にも影響を受け,フランスでは急速な体制変化が起き王政が倒れ,共和政が成立。イギリス,プロイセン,オーストリア,ロシアをはじめとするヨーロッパの君主国家との戦争に発展します。戦争を指揮した〈ナポレオン〉が皇帝に即位し,産業革命(工業化)を進めるイギリスに対抗し,フランスにおける多様な利害を調整してヨーロッパ諸国の多くを従属させますが敗戦。戦後は王政が復活し,君主国による主権国家体制への揺り戻しが起こりました。

◆アジアの地域間の交易ネットワークは健在
  依然としてアジアの地域間交易は盛んなままでしたが,18世紀末以降は生産性の面で西ヨーロッパ諸国との差が生まれていくようになります。
 西アフリカから中部~南アフリカを中心とするアフリカ大陸の諸地域では,ヨーロッパ諸国による大西洋奴隷交易が続けられていましたが,フランス革命中の第一共和政は1794年に奴隷廃止を決議(のち〈ナポレオン〉が復活し,1848年に奴隷制は再廃止),1807年にはいよいよイギリス帝国内の奴隷交易が廃止されます(奴隷制そのものは1833年に廃止)。

◆オセアニアの探検が進み,オーストラリア大陸への植民が始まる
 オセアニアの探検が活発化し,ヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアへの海上進出を進める大航海時代(注)は最終局面を迎えます。
 1788年にはオーストラリアへの植民が始まり,先住民アボリジナル(アボリジニ)は持ち込まれた伝染病で人口が減少し始め,土地も奪われていきました。
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。
 実際には,15世紀の朝鮮王朝で,アフリカ大陸南端も含めたアフリカ全土やヨーロッパまでも描かれた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」【H30共通テスト試行 図版が使用された(1402年に作製されたとする)】が描かれているように,「喜望峰の発見」などというのは「ヨーロッパによる発見」に過ぎないのです。
 一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。





●1760年~1815年のアメリカ
○1760年~1815年のアメリカ  アメリカ合衆国
北アメリカ…①カナダ ②アメリカ合衆国

・1760年~1815年のアメリカ  北アメリカ 現①カナダ
◆ケベック法の成立により,イギリス植民地でありながらフランス人の権利が認められる
イギリスの植民地だが,フランス系の影響力強い
 七年戦争後のパリ条約【本試験H2地図(1763年パリ条約による北米植民地のフランス,イギリス,スペインの勢力分布を問う)】【名古屋H31史料・時期】により,イギリスはヌーヴェル=フランス(のちのカナダ【本試験H22デンマークではない】)を手に入れ,ケベック市(◆世界文化遺産「ケベック旧市街の歴史地区」,1985)を中心にイギリス領ケベック植民地【追H24スペインの建設ではない】が建設されました。
 フランスはこれにより,ニューファンドランド南端にあるサンピエール島とミクロン島と一部の漁業権を除き,北米植民地を失うことになります。

 しかし,ケベック植民地の住民はフランス系のカトリック教徒です。
 イギリスは彼らの信仰の自由や財産を保障し,イギリス文化を積極的に押し付けることはしませんでした。
 1763年に〈ジョージ3世〉は国王布告により,アレゲーニー山脈とミシシッピ川に挟まれた土地を,インディアン領として留保しました。オタワ人の〈ポンティアック〉率いるインディアン同盟軍による抵抗運動が激化し,西部への移民を停止することで,ケベック植民地にイギリス系住民が移住することを奨励したのです。

 また,1774年にはケベック法がイギリスで可決され,フランス系住民に領主制やカトリック教会の徴税権を認め,カトリック教徒が立法評議会の議員になることが認められました。イギリスの植民地でありながら,フランス民法やフランス語の使用も許されたのです。
 また,ケベック植民地の領土を,五大湖の南のミシシッピ川近くにまで拡大させましたが,逆にインディアンたちは領土を失うことになりました。

 1774年に第一回大陸会議【本試験H12】【セA H30ドイツ統一を話し合っていない】はケベック植民地にも革命への参加を呼びかけましたが,拒否。大陸軍は翌年モントリオールを占領しました。結局1783年のパリ条約で,イギリスはアメリカ合衆国に,ケベック法で拡大されていた領土や,五大湖の中心線以南をアメリカに割譲することになりました。
 アメリカ独立革命後には,革命軍に反対し国王派についたイギリス系住民10万人近くが,多数ケベック植民地やノヴァスコシアに亡命していきました。イギリス政府は,ケベック植民地での英仏系住民の衝突が生じないように,1791年のカナダ法で,アッパー=カナダ(upper)とロワー=カナダ(lower)の東西にわけられます。こうして「カナダ」という名称が,はじめてこの地域の名称になるわけです。

・1760年~1815年のアメリカ  北アメリカ 現②アメリカ合衆国

◆13植民地に対する本国の政策への反対運動が、独立運動に発展する
「13植民地」が、theU.S.A.として独立する
 さて,1763年に七年戦争(植民地ではフレンチ=インディアン戦争)が終結し,イギリスはフランスから北アメリカの全領土を獲得しました。また,このときイギリス国王〈ジョージ3世〉は,インディアンとの戦争を防ぎ治安を安定化させるとともに,13植民地人に対してはアパラチア山脈の西側にこれ以上移住したり土地を購入することを禁止しました(1763年宣言)。13植民地の人々の中では,王によるこの宣言に対する不満が高まっていきます。

 1763年のパリ条約以後,フランスは財政状況が悪化し,財政問題を解決する必要に迫られることになりました。

 さて,“七年”(フレンチ=インディアン戦争は8年)も戦争をしていたイギリス本国(植民地に対して,イギリスのことを「本国」(ほんごく)と言います)は,財政的にへとへとです。
 たしかにベンガル知事〈クライヴ〉がインドのベンガル・オリッサ・ビハールの徴税権を獲得するなど、イギリス東インド会社の財政状況は順風満帆であったかのようにみえます。しかし、1770年のベンガル大飢饉、マイソール戦争(1767~1799年)などにおける軍事費の増大、非効率な統治と本国との連絡の不備などが重なりイギリス東インド会社の収益は思ったようにあがらず、結果的にイギリス政府がイギリス東インド会社を救済せざるをえなくなったのです(注1)。

 ニューイングランド植民地に対する規制としては,1733年の糖蜜法がありましたが,フレンチ=インディアン戦争以降は,今までの”有益なる怠慢”政策 (“適当にやってたほうが有益”という意味。植民地のゆる〜い支配)を本格的に見直し,野放しにしていた13植民地に対する課税を強化する政策に転換されていきました【共通一次 平1:「七年戦争の戦費支出に苦しんだ本国が,戦費の一部負担を植民地人に求めたものであった」か問う】【本試験H3ウォルポールはこの政策に関与していない】【追H9 1763年のパリ条約の影響で課税強化をねらったか問う】。
 例えば,砂糖法(1764年),印紙法(65年) 【共通一次 平1】【名古屋H31史料(注)】,ガラス・ペンキ・紙・茶に関税をかけるタウンゼンド法(67年),茶法(73年) 【共通一次 平1】【本試験H21】です。要するに,なんでもかんでも,とれるものからじゃんじゃん税をとったわけです。とくに印紙法は,出版物も税金のターゲットになったことが問題になりました。出版物に対する徴税は,「自由に意見を発表する権利」を奪うものと考えられたからです。
 印紙法【共通一次 平1】に対する反対運動は,「代表なくして課税なし」【共通一次 平1:トマス=ペインの主張ではない】【本試験H28,本試験H31】をスローガンに盛り上がりって撤廃されました【共通一次 平1:撤廃されなかったわけではない】。

 どのような租税であっても、直接人民自身、またはその代表者による同意を得なければ、これを人民に課してはならないことは、人民の自由にとって、またイギリス人の明白な権利にとって不可分で、本質的なことである。

 (超訳:税金をとるんだったら、ちゃんと取られる側の同意を得てからにするのは、イギリスで積み上げられてきた人民の権利獲得の歴史を踏まえれば当たり前だろ!)

 ……植民地の人民は、イギリスの下院に代表を送っていないし、また地理的事情によって代表を送ることができないのである。

 (超訳:で、北アメリカの13植民地の人たちは、税をとるかを話し合うイギリスの議会に議員を送ることができないでいる。そんな状況で税金を勝手に取るのはおかしい!)(資料は【名古屋H31】より転載)





 一方,窮乏する東インド会社を救うため、イギリス議会が制定した茶法【共通一次 平1:「東インド会社の貿易特権を廃止する代わりに,植民地に高率の茶税を課すものではない」】【本試験H21】は、大規模な反対運動を招きました【本試験H21茶法の廃止に対する反対ではない】。この法は、東インド会社がイギリス本国を経由することなく直接茶を13植民地に持ち込み、独占販売することを認めたものです。13植民地に茶を輸入する税率を大幅に引き下げ、すでにイギリスに輸入された茶についても輸入税を払い戻した上で再輸出することが認められていました。東インド会社にとっては、輸入税払い戻しを受けた上で再輸出できますし、13植民地人にとっても「安くお茶が飲める」ようになるわけですから、一見win-winです(注2)。
 しかし反対運動のポイントは「そんなことを勝手にイギリスの議会できめること自体が許せない!」というもの。取り立てる税は、取り立てられる人の代表が決めるべきだという論理です。また「東インド会社以外の業者から購入できないのは自由じゃない!」という主張もあります。ボストンにはオランダやスウェーデンの東インド会社が持ち込んだ茶を密輸入していた業者もあったのです。
 この反対運動は、1773年「ボストンティーパーティー(ボストン茶会事件)」【本試験H18時期(17世紀ではない)】に発展します。「自由の息子たち」を名乗る植民地人グループがボストンのコーヒーハウスで策略を練ったもので,ボストン港【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ】でインディアンに扮して東インド会社の商船4隻から積荷の紅茶を海に投げ込み,ボストン湾を紅茶の海にしました。
(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、pp.325-326。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.323。



 「ボストンティーパーティー」に対してイギリスはボストン港を封鎖【本試験H6綿花貿易をめぐる対立から閉鎖されたわけではない】しましたが,同じような運動は各地でも起き,紅茶を飲まない運動も広まりました(この頃からアメリカはコーヒー派になっていくのです)。ジョージア以外の13植民地は,ペンシルベニア植民地のフィラデルフィアにて第一回大陸会議【本試験H12】をひらき,イギリスを非難しました【本試験H12「大陸会議を組織して本国の圧政に対抗した」か問う】。植民地が集まって会議を開いたのは,前代未聞のことでした。
 一方で,1773年には,ヴァージニア植民地でアメリカ植民地とインディアンのショーニー人との戦いも起きており(ダンモア伯の戦争),イギリスからの独立戦争を戦うためには,西部のインディアンと同時に戦うだけの体力も必要です。イギリスはインディアンの諸民族を支援し,アメリカ植民地を“挟み撃ち”にする作戦をとっていきます。

 不穏な空気が続く中,1775年,レキシントンとコンコードでのイギリス軍とマサチューセッツ植民地の民兵の武力衝突をきっかけに,第二回大陸会議(全植民地が参加)は独立の方針をとり,植民地軍が組織されました。最高司令官はのちの初代大統領〈ワシントン〉(1732~99) 【本試験H19ジェファソンではない】【追H20リード文「文民統制の原則を重んじ,アメリカ軍総司令官の職を辞する姿を描いた」絵画(解答には不要)、H24独立戦争の総司令官・初代大統領か問う】【セA H30リンカンではない】です。各州からは兵が集められ,一つの軍としてイギリス,そしてイギリス側についたインディアン諸民族と戦うことになったのです。
 こうして,アメリカ独立戦争(第一次アメリカ=イギリス戦争) 【追H28時期を問う】 【本試験H6市民革命ととらえてアメリカ独立革命とも呼ばれるか問う,本試験H10マッツィーニは関係ない】【本試験H23】【上智法(法律)他H30年代】と,インディアン戦争が始まりました。イロクォワ人によるイロクォワ連邦はイギリス側に立ち,壊滅的な被害を受けました。

 当初は開戦に否定的だった人々も,〈トマス=ペイン〉(1737~1809) 【追H21】【本試験H19】が1月に出版した『コモン=センス』(常識) 【追H21アメリカ独立宣言ではない】【共通一次 平1「その中で「代表なくして課税なし」と主張」していない】【本試験H19】というパンフレットがベストセラーになると,イギリスからの独立がCommon Sense と考えるようになっていきました。
 1776年7月4日は,〈ジェファソン〉(1743~1826) 【本試験H9共和党の候補ではない(当時は共和党はまだない)】【本試験H19ワシントンとのひっかけ】【追H21起草者の一人か問う。トマス=ペインではない、H26・H28アメリカ独立宣言の起草者か問う】らが13植民地の連合による「アメリカ独立宣言」【追H21・H26・H28】【本試験H8フランス革命の影響は受けていない(フランス革命のほうが後に起こった)】を起草します。
「人々の基本的人権を保障しない政府は,倒しても大丈夫!」とする当時としては過激な革命権(抵抗権) 【本試験H12「革命権がうたわれている」か問う】や,幸福を追求する権利の保障が盛り込まれました。この思想にはイングランドの思想家〈ジョン=ロック〉(1632~1704。主著『市民政府二論』(1689)・『人間悟性論』(1689)同時代の人物ではないので注意)【追H21】の社会契約論の影響があります。
 ただ,起草者の〈ジェファソン〉自身はヴァージニア植民地【追H29プランテーションの多い南部か問う(正しい)】のプランテーション地主の生まれで,ありあまる土地と150人の奴隷を所有していたわけですが。

 さて,イギリスから独立するとはいうものの,もともとあった植民地には,それぞれ個別の歴史と仲間意識がありました。個々の植民地には,それぞれ別々の事情で建てられた自治政府がありますから,独立したら別々のState(ステート),つまり「国」になればいいじゃないかという意見もあったのです。
 なお,アメリカ独立戦争には、パリに留学していたポーランドの〈コシューシコ〉(コシチューシコ、1746~1817)【本試験H31パリ=コミューンへの参加ではない】やフランスの貴族〈ラ=ファイエット〉(1757~1834)も義勇兵として参加しています【本試験H10マッツィーニは参加していない】。
 それでも,まず倒すべき敵はイギリスです。作家・発明家・科学者・政治家・外交官と,さまざまな顔をもつ〈フランクリン〉(1706~1790)の活躍もあって,フランス【本試験H2「アメリカ独立戦争」に際してイギリスの敵として参戦したか問う,本試験H12「フランスもイギリス側に立って参戦した」わけではない】・スペイン・オランダを味方に引き込むことに成功。このときの戦費がフランス財政を苦しめ,のちのフランス革命の遠因(えんいん)となったとみることもできます【共通一次 平1】。ちなみに〈フランクリン〉は1746~47年の凧揚げによる実験で,雷は電気現象であることを証明しています(なお,彼に憧れたイタリアの〈ヴォルタ〉(1745~1827)は電池を発明することになります)。

 ヨークタウン【本試験H14フィラデルフィアとのひっかけ】の戦いでの植民地軍の勝利【本試験H19イギリスは勝利していない】が決定打となり,1783年のパリ条約で和平を結んで,「各」植民地の独立が認められました。
 独立した13植民地の連合体には,ミシシッピ川以東のルイジアナ【本試験H18以西ではない】が割譲されました。インディアン諸民族の意向は無視され,彼らの土地の多くはアメリカ合衆国に割譲されました(インディアンにとってのパリ条約)。

 さて,独立が承認されたとはいえ,インディアンにとっては寝耳に水です。これ以降,イギリス勢力を追い出したアメリカ植民地人は,インディアンとの戦争をさらに激化させていくことになります。例えば,チェロキー人とのチカマウガ戦争(1776~94)は,パリ条約締結後も続きました。

 また,イギリスから「独立」したのは,あくまでも「各」植民地です。じゃあ今度は,その個々の独立した元・植民地どうしがまとまるのか,それともバラバラに独立するのか。くっつくとしても,どの程度まとまるべきか。
 そのような議論の末,一つの結論が1777年の連合規約【名古屋H31時期・史料(注)】の採択(1781年に各国で批准)により出ていました。これによると各「国」が主権を持ち,13の各「国」が集まった連合会議(旧・大陸会議)で,外交や軍事についての政策を話し合うというものでした。


 第1条 この連合の名称を「アメリカ合衆国」と定める。
 第2条 各州は主権、自由、独立を保持し、またこの規約が明文で連合会議に委任していない一切の権限、管轄権、権利を保有する。【名古屋H31より】


 しかし,戦争が終わってみると,結局戦争にかかった費用を各邦でどう分担するかとか,まったく違う経済の仕組みや貿易をしている北部と南部とで,貿易政策を一致させるのか,それとも別々の政策をとるのかなどなど,解決すべき問題は次から次へと出てきました。
 各邦で話し合った上で,連合会議でもう一度話し合うにしても,立場の異なる13の「国」が話し合っても平行線をたどってしまう。でも,それではまた今度万が一イギリスが攻めてきたときなどの緊急事態に対処できない…。

 そこで,1787年にフィラデルフィア【本試験H14ボストン,ニューヨーク,ヨークタウンではない】で憲法制定会議【本試験H14】が行われ,13の国が代表を出し合って連邦議会を設置し立法する,大統領を選出して連邦政府を置く,連邦裁判所を置く,さらにこれらを憲法に規定しコントロールする,といった連邦主義【本試験H18】が採用されたのです。また,同年1787年には北西部条例が決議され,北西部の土地(五大湖の南,オハイオ川の北と西,ミシシッピ川の東に囲まれた地域)に新しく州を設定する形で入植することが認められました。ただし,ここでは奴隷制は禁止とされ,その後もしばらく奴隷制OKの国とNGの国の境界とされ続けます。これに対抗したインディアン諸部族は,〈ワシントン〉将軍らにより鎮圧され,1795年にはこの地域のインディアン諸民族はアメリカ合衆国に併合されました。
 
 このように政治制度が決まる一方で,連邦政府に力が強くなりすぎてしまったら,イギリスの“国王”と変わらないじゃないかという意見も,当然出てきます。そこで,各国の政府を残し(州政府),軍も残しました(州軍)。州軍は,ふだんは州知事の指揮下にありますが,アメリカ合衆国が緊急事態となったときには,連邦政府から動員されることになっています。さらに,連邦政府の権力が大きくなりすぎないように,議会・裁判所によるコントロールとバランスがきくような仕組みをとりました(三権分立) 【本試験H18・H19・H29】。三権分立は,フランスの哲学者〈モンテスキュー〉(1689~1755) 【本試験H19】が『法の精神』【本試験H19】で主張していた考え方でした。

 こうして成立したのが,アメリカ合衆国なのです。ユナイテッド=ステーツという言葉は直訳すれば,“国家の連合”(ステーツ=国家)という意味です。「合衆国」という翻訳では,そのしくみがいまひとつよく伝わりませんが,すでに広まってしまったので,どうしようもありません。

 国(くに)の主権は,連邦政府を置くことによって制限されるようになったので,日本語では従来の国を「州」と読んで表現しました。アメリカ合衆国憲法【本試験H18】には,のちに憲法修正が付け加えられ(修正第1条~10条まではイングランドの「権利の章典」(1689)【共通一次 平1】にちなみ「権利の章典」という),国民の基本的人権がことこまかに明記されました。そのうち「武装する権利」は,銃社会アメリカにとって現在でも争点になる権利の一つです。
 
 連邦政府の権力をどうするべきかという問題をめぐっては,強くするべきだというグループ(連邦派(フェデラリスト))と,各州の権力を維持するべきだというグループ(反連邦派。アンチ=フェデラリスト)との間の対立が生まれました。商工業者を中心とする北部と,奴隷による綿花プランテーション【本試験H5綿花やタバコ】【本試験H25】を中心とする南部とでは,経済的なしくみも大きく異なっていました。なお,南部では1793年に〈ホイットニー〉【追H19】【上智法(法律)他H30アークライトとのひっかけ】が綿繰(く)り機【追H19】【上智法(法律)他H30 水力紡績機ではない】を発明し,効率よく綿花の種をとる技術を編み出し,綿花がさかんに産業革命(工業化)期のイギリスに輸出されていきました。
 連邦派をひきいるのはワシントンの副官を務めた〈ハミルトン〉(1755?~1804)で,『ザ・フェデラリスト』を執筆して護憲を主張しました。反連邦派は〈ジェファーソン〉が率いました。その後,前者がアメリカ=ホイッグ党から,さらに共和党【追H18結党時期】へ,後者が民主党へ発展することで,現在にまで続く二大政党を形作っていくことになります。
 また,1790年の帰化法では,5年間アメリカ合衆国に住めば,移民に国籍を与えると定められました。「移民の国」アメリカ合衆国の幕開けです。

 1811年に,ショーニー人の〈テカムセ〉がアメリカに宣戦しました。アメリカ合衆国の人々は,ショーニー人をイギリスが支持していると考え,イギリス海軍が1812年にアメリカ合衆国船がフランスと貿易するのを制限しようとすると,同年〈マディソン〉大統領(任1809〜17)はイギリスに宣戦布告し,米英戦争【追H24その結果グアムを獲得していない,H27この結果太平洋岸への移民が増加したのではない】【本試験H31】【東京H10[1]指定語句】となりました。1814年に膠着状態のまま終わりましたが,1818年の協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。

 この米英戦争(1812~14)は,第二次独立戦争ともいわれ,このときにイギリスの工業製品の輸入がとまったことで,輸入品の国産化による産業革命(工業化)が始まった【本試験H31工業化が抑制されたわけではない】わけです。民間の起業家が,イギリスの織物機械の国家機密を記憶し,アメリカ合衆国に持ち帰り,初の織物工場を建設したのです。“産業スパイ”の走りですね。ほかにも鉄鋼業の発展も始まりました。
 こうして「アメリカはイギリスとは違う」という意識や愛国心も高まり,「星条旗よ永遠なれ」という国歌もこのときの戦いが元になっています。アメリカには,ヨーロッパのように伝統的な要素がないぶん,新しいことにも果敢にチャレンジしていこうという気風がありました。紅茶=イギリスの圧政というイメージもあり,紅茶の習慣は薄れていき,輸入されたコーヒーがアメリカ人の国民飲料として定着していくことになります(スターバックス1号店は1971年にアメリカ西海岸シアトル開業)。

 米英戦争はまた,インディアン諸民族にとっては,イギリスと同盟して,アメリカ植民地人を追い出す“最後のチャンス”でした。
 独立当初は元・13植民地と,ミシシッピ川より東のルイジアナだけを領域としたアメリカ合衆国は,第3代〈ジェファーソン〉大統領(任1801~09)の政策でインディアンからの土地の取得をすすめていき,1803年には〈ナポレオン〉率いる統領政府(まだ皇帝ではない)のフランス【本試験H3】からミシシッピ川以西のルイジアナ【本試験H3】【追H19地図】を破格の1500万ドルで購入しました。しかし,この地にはアメリカン=バッファローを生活の糧(かて)としていたインディアン諸民族が暮らしています。ショーニー人の〈テカムセ〉らの抵抗は,1811年に鎮圧されました。〈テカムセ〉は南東部のマスコギ語族のチョクトー人やクリーク人(クリーク戦争(1813~14)で敗北),イロクォワ語族のチェロキー人にもアメリカ合衆国への抵抗を呼びかけ,イギリスと同盟して米英戦争を戦いましたが,イギリスの敗北により,インディアンらは今後イギリスをアテにすることができなくなってしまったのです。
 スペインは,1760年代後半からメキシコを北上して,カリフォルニアに支配権を拡大していきます。この地でのラッコの漁(毛皮がとれます)に関心を示すようになっていきました。
 なお,フランスの〈ナポレオン〉はスペインからミシシッピ川以西のルイジアナをフランスに返還させた後,財政的な理由でアメリカ合衆国に売却しました。その河口のニューオーリンズ港には,1804年にハイチ(ハイティ)革命が成功すると,旧支配層(フランス人や黒人との混血の人々)が移住し,フランス文化やハイチ(ハイティ)の黒人の文化などが融合し,独特の文化が栄えました。




○1760年~1815年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 ラテンアメリカ(主にスペイン,ポルトガルの植民地となったアメリカ大陸の地域)では,スペインのブルボン(ボルボン)朝による植民地行政の改革に対して,植民地社会からの不満が高まっていました。直接の矛先(ほこさき)となったのは,イベリア半島生まれの白人(ペニンスラール,「イベリア半島(ペニンスラ)生まれの人々」という意味)です。しかし,先住諸民族(インディオ)による反乱は成功せず,抵抗運動の主役は植民地生まれの白人(クリオーリョ;クリオーヨ) 【追H26イベリア半島生まれの白人ではない】に移っていきました。
 ラテンアメリカの社会は,①ペニンスラール(イベリア半島人)→②クリオーリョ(新大陸出身の白人)→③メスティソ(先住民と白人の混血) 【追H26】【東京H12[2]】→④ムラート(白人と黒人の混血) 【追H26】 【東京H12[2]】やサンボ(インディオと黒人の混血),解放されて自由な身分になった黒人→⑤奴隷(黒人,ユダヤ人,イスラム教徒)や先住民のインディオ【追H26インディオ(インディアン)】のように,ピラミッド型に序列化されていきました。



○1760年~1815年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
 現在のグアテマラ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタリカはグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
 しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化していきました。
 イギリスの武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東部ベリーズには,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となりました。




○1760年~1815年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

・1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
◆カリブ海に浮かぶハイチではアフリカ系の奴隷による革命が成功し,共和国が建国された
ハイチでは,解放奴隷が共和国を建国する
 1789年に勃発したフランス革命でうたわれた平等思想に勇気づけられ,植民地だったハイチ(ハイティ) 【追H9地図上の位置を問う。キューバ,メキシコ,ベネズエラではない】では1791年に黒人奴隷の反乱が勃発しました。
 ハイチ(ハイティ)はフランスの植民地として,アフリカから黒人奴隷を輸入して,サトウキビのプランテーションがおこなわれていました。当時の名前は「サン=ドマング」です。西アフリカのダホメー王国から連行された奴隷の一人から生まれた〈トゥサン=ルヴェルテュール〉(1743~1803) 【本試験H27アルジェリアではない,H31メキシコではない】は,農園主に読み書きを習い,フランスの最先端の自由主義の思想に感銘をうけます。やがて,フランス革命が勃発すると,刺激をうけたトゥサンは,奴隷解放運動をおこしました。フランス革命のうち最も革新的であったジャコバン派に接近し,国民公会に奴隷制廃止を宣言させました。しかしテルミドールのクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で〈ロベスピエール〉が失脚すると〈ナポレオン〉の時代になります。〈ナポレオン〉は,ハイチ(ハイティ)は植民地として「使える」が,〈トゥサン〉は「邪魔な存在」であると判断し軍隊を派遣,逮捕されてフランスの刑務所で亡くなります。

 彼の部下だった〈デサリーヌ〉(位1804~06)は,1804年にフランス【H30共通テスト試行】の〈ナポレオン〉軍を排除して,史上初の黒人共和国【H30共通テスト試行】であるハイチ(ハイティ)共和国【H30共通テスト試行 カナダではない】が独立【東京H7[3],H25[1]指定語句「ハイチ独立」】しました。国名の「ハイチ(ハイティ)」は先住民の言葉です。黒人奴隷の子である〈デサリーヌ〉は,黒人国家ハイチ(ハイティ)に奴隷制が復活しないよう,島に残ったフランス人を処刑するなど,皇帝〈ジャック1世〉として独裁をふるい,反乱を鎮圧する最中の1806年に暗殺されてしまいました。




・1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはアメリカ独立戦争の間,1782年~1783年の間にスペインに占領されますが,1783年の講和条約であるヴェルサイユ条約でイギリス領となります。
 このときに奴隷は解放されます。

・1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島で黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションは,フランスに莫大な富をもたらしていました。
 七年戦争(1756~1763)中にはイギリスに一時占領されますが,パリ条約(1763)によりマルティニーク島は確保します。その代わり,西インド諸島では⑩ドミニカ,⑮グレナダ,⑬セントビンセントおよびグレナディーン諸島,⑯トバゴ島はイギリスに返還しています。
 その後も,1780年のアメリカ独立戦争では,1780年にマルティニーク島の海戦がおこなわれています。

 フランス革命の影響を受け,1791年にマルティニークの黒人が解放を求めて反乱を起こします。しかし,王党派のプランテーション大地主はこれを武力で鎮圧。
 フランスが共和制に代わると,大地主はイギリス側に立ち,1794~1802年の間イギリス軍がマルティニーク島を占領することとなりました。

 1802年にアミアンの和約に基づきイギリスは撤退。

 その後〈ナポレオン〉はサン=ドマング(現ハイチ)で黒人奴隷反乱を起こしていた〈トゥサン=ルーヴェルテュール〉を逮捕し,共和制フランスの国民公会が1793年に決議していた奴隷制の廃止にもかかわらず,ハイチの独立を妨害します。
 しかしその後ハイチの独立は1804年に成功。
 それでも〈ナポレオン〉はマルティニークにおける奴隷制を継続させます。

 マルティニークのサトウキビプランテーションはフランスの金づるですし,何より〈ナポレオン〉の最初の妻〈ジョゼフィーヌ〉(1763~1814)はマルティニーク島のプランテーション大地主(貴族階級)の娘だったのです。




○1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
南アメリカでは,独立に向けた動きも起きる
 南アメリカでは,ナポレオン戦争によるスペインやポルトガル本国からの支配がゆるむと,現地のクリオーリョを中心に独立を求める動きが活発化していきます。
 なお,アメリカ大陸各地に見られるように,南アメリカでも,解放奴隷(マルーン)が先住民と結んで森林・山岳地帯に共同体を建設する動きがありました。共同体は,ブラジルでは「キロンボ」といわれます。

 この時期のスペイン領南アメリカを探査(1799~1804)した地理学者にプロイセン出身の〈フンボルト〉(1769~1859)がいます。彼はペルー沿岸の寒流を発見したことから,フンボルト海流と呼ばれ,沿岸地帯のペンギンはフンボルトペンギンと呼ばれています。彼の兄はプロイセン王国の外交官でもあった言語学者〈フンボルト〉(1767~1835)です。



・1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆〈ナポレオン〉戦争中,ポルトガルの王室はブラジルに避難する
ポルトガル王室がブラジルに避難する
 18世紀半ばに金の輸出がピークに達していたブラジルでは,1763年にリオ=デ=ジャネイロが首都となり,副王が置かれました。金やダイヤモンドの産出されるミナスの外港であるリオを押さえることで,王室が交易の利益を独占しようとしたのです。しかし1760年以降,金の生産は激減。ポルトガル当局による金の上納制度に反対した現地の知識人の中には,アメリカ独立革命やフランス革命の影響を受けて独立を志す者も現れます。しかし当局は独立の陰謀を未然に鎮圧し,実行に移されることはありませんでした。

 〈ナポレオン〉がスペインを占領しポルトガルへの進出を狙うと(⇒1760年~1815年のヨーロッパ>イベリア半島),ポルトガルの王室は大挙してブラジルに避難しました。ポルトガルはイギリスの支持を受け,〈ナポレオン〉の大陸封鎖令に抵抗したため目をつけられたのです。1815年にはリオ=デ=ジャネイロがポルトガル=ブラジル帝国の首都に定められました。
 なお,ブラジル側のポルトガルと現アルゼンチン側のスペインは,ラ=プラタ川以東をめぐって争っていましたが,18世紀後半には大体の植民地の境が画定していきました(ただし,紛争は独立まで続きます)。

 また,アマゾン川流域部〔アマゾニア〕の大部分には支配は及んでいません。






・1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
◆ブルボン改革の影響からさらに領土が縮小する
パラグアイ総督領はさらに領土を減らす
 ブルボン〔ボルボン〕改革と呼ばれるスペイン王権が主導する行財政改革が実施されると、パラグアイは1776年にペルー副王領から分離されたリオ=デ=ラ=プラタ副王領の行政下に入ります。また、1782年にパラグアイ総督領の北部の一部はボリビアに編入されました(注)。

(注)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.27。


・1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
現アルゼンチンではクリオーリョが自治を求める
 18世紀後半,スペイン本国での改革(ブルボン〔ボルボン〕改革)の影響は現・アルゼンチンのエリアにもおよびます。
 16世紀以来現在のアルゼンチンにあたる領域はペルー副王領の一部でしたが、リオ=デ=ラ=プラタ副王領(首都はブエノスアイレス)として分離されました。

 この頃から,自由貿易によりパンパで放牧された牛や馬からつくられた製品をヨーロッパに輸出してもうけたいグループと,それに反対する内陸諸都市との間の対立も生まれます。それとともにアルゼンチンの社会では,イベリア半島出身者(ペニンスラール)が,アメリカ大陸出身のクリオーリョよりも高い地位にあり,クリオーリョたちの不満も高まってきます。
 そんな中,ヨーロッパにナポレオン戦争が起きてスペイン本国が占領されると,そのすきにイギリスは1806年,ブエノスアイレスに軍事的に進出しました。

 しかし,イギリスの進出をクリオーリョ(アルゼンチンで生まれた白人)の編成した民兵が阻止することに成功すると,植民地としての地位から脱して「自治」を求める動きに発展します。

 しかし,ヨーロッパ文化が根付いたブエノスアイレスと,内陸のガウチョ(牧畜民)らの世界との間には歴然とした違いがあり,両者をまとめて「ひとつの国家」として自治・独立を達成しようとするには,大きな課題が待ち受けていました。




・1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
◆先住諸民族(インディオ)による反乱は成功しなかった
ペルーの先住民ケチュア人の反乱は鎮圧される
 ペルーでは,1780年にクスコの首長でメスティソの〈コンドルカンキ〉(1742?~1781)が反乱を起こしました。スペイン出身者の支配者による先住民ケチュア人やメスティソ(白人と先住民の混血)の住民への過酷な強制労働をやめさせるように要望したものの無視されたことがきっかけです。

 かつてクスコで処刑されたインカ帝国(タワンティン=スーユ)の王〈トゥパク=アマル〉の血を引く彼は,インカ帝国の復興を志して「トゥパク=アマル」を名乗り抵抗したのです。貧農の支持を得て反乱は全国に及び,あとちょっとでリマやクスコを陥落させるところまでいったのですが,スペイン軍に鎮圧され,〈トゥパク=アマル〉は1781年にかつての〈トゥパク=アマル〉と同じように処刑されました。

 この〈トゥパク=アマル〉の反乱の影響は他の地域にも及び,アンデス地方では原住民10万人の反乱に発展。これを鎮圧したスペイン当局は支配をゆるめるとともに,インカ帝国風の文化に結びつくおそれのある先住民の文化への弾圧を強めていきました。





●1760年~1815年のオセアニア
◆オセアニアの島嶼国が,ヨーロッパ人と本格的な接触を開始する
18世紀後半はヨーロッパ人の太平洋探検の時代
 列強による太平洋の植民地化は,アジアやアフリカに比べると時期は早くありません。その理由の一つは,資源の乏しさです。魅力的な産品といえば,サンゴやベッコウなどの海産物や,ナマコと白檀(香料)くらいでした。


イギリスによるオーストラリアへの入植がはじまる
 ヨーロッパでは,「南方大陸(テラ=アウストラリス)」が太平洋の南部にあるのだという考えは,いまだにまことしやかに信じられていました。大陸が北にかたよっているので,重さを調節するためには南に大陸がなければいけないと考えられたのです。
 1770年に現在の①チリ領イースター島は,名目的にスペインに併合されましたが,資源も少なく本格的な植民地支配には至っていません(注)。1774年には後述のイギリスの〈クック〉が訪れています。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。

 一方,18世紀後半からは,イギリスやフランスによる太平洋探検が本格化します。フランス人の〈ブーゲンヴィル〉(1729~1811)は,1768年にタヒチに滞在しヨーロッパに紹介した著作は,「南太平洋には地上の”楽園”がある」というイメージを人々に与えました。
 特に太平洋を広範囲にわたり探検したのは,イギリス人の〈クック〉(1728~1779) 【本試験H21世紀を問う】【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】【追H27 18世紀にオセアニア(南太平洋)を探検したか問う、H29年代を問う(マゼラン世界周航,喜望峰発見との並べ替え)】です。史上初の科学的調査を目的とする探検で,イギリス王立協会の会員も同行させました。1768~79年までにハワイで殺害されるまで,3回にわたり航海を行いました。一度目は,ニュージーランド探検では北島と南島を分ける「クック海峡」を発見。二度目はオーストラリア南東部。3度目は,ベーリング海峡やアラスカ沿岸を航海し,北西航路(太平洋と大西洋を結ぶ航路)が存在しないということを突き止めましたが,ハワイで息を引き取りました。
 〈クック〉の航海でもカバーできなかった地域については,1785~88年にかけてフランスの〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)などが航海をしています。ヨーロッパ人の太平洋進出と並行して,キリスト教の布教も進んでいきました。


◆北太平洋沿岸のラッコの毛皮交易や捕鯨ブームにともない,イギリス,アメリカ,ロシアが進出
ラッコの毛皮や捕鯨をめぐり,北太平洋が交易ブームに
 大航海時代(注)を,ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアへの海上進出の時代とみなせば,この時代のイギリスによるオセアニアの探検をもって大航海時代が完了したとみることができるでしょう。
 ロシアによるベーリング海周辺への進出により,北太平洋周辺の毛皮交易にうま味があることが明らかになると,ヨーロッパ諸国はこぞってこれに参加するようになっていきます。
 その過程で,南太平洋周辺の島嶼国の探検も進み,オーストラリアでは植民もスタートします。
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。




○1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
タヒチでイギリス人の支援で西欧化した王朝始まる
 1789年,イギリス海軍の徴用船であるバウンティ号で反乱が起こり,反乱メンバーはピトケアン諸島に身を寄せました。1818年の時点でメンバーのうち1人が生き残っていたことが確認されています。

 タヒチでは,ヨーロッパ人の宣教師(注)から布教活動を承認する見返りに火器(マスケット銃)の支援を受けた首長〈ポマレ1世〉(位1743~1803)が武力統一に成功。このヨーロッパ人たちはバウンティ号の反乱(1789)を起こしたイギリス人のメンバーでした。〈ポマレ1世〉は1803年に死去。
 彼の〈ポマレ2世〉は他の首長の抵抗を受けて一旦タヒチ島から避難しますが,キリスト教に改宗してイギリス人の支援を受けタヒチを奪回。〈ポマレ2世〉(位1803~1821)として即位し,ここにポマレ朝が始められました(注)。フランスの〈ナポレオン〉の在位と,だいたい同じくらいの時期ですね。彼の下で,伝統文化が改革され,島の西欧化が推進されます。
 タヒチというとのちにフランスの画家〈ゴーガン〉(ゴーギャン)がユートピアのような島の暮らしを描いたように,のどかなイメージが先行しがちですが,この時代にはヨーロッパ勢力の進出がいよいよポリネシアにまで及んでいったわけです。
(注)ロンドン伝道教会。
(注)池田節雄 『タヒチ』 彩流社,2005。なお,タヒチでは支配階級層のことを「アリイ」と呼びます(矢野將編 『オセアニアを知る事典』 平凡社,1990)。



・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
ニュージーランドのマオリが商人と宣教師と出会う
 この時期のニュージーランドにも遅れて”大航海時代”の波が押し寄せます。まずは探検家が訪れ,その後は海獣(アザラシ,オットセイ)やクジラ,亜麻・木材を仕入れに来た商人がやってきました。
 同じころ,キリスト教の宣教師もやってきます。1814年には英国国教会の牧師〈マースデン〉がクリスマスの礼拝をおこなっています(注)。
(注)山本真鳥編『世界各国史 オセアニア史』2000,p.169


・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。 

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。

・1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
 この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家〈クック〉(1728~79)でした。
 1778年にハワイに到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(〈クック〉は住民との争いの中で命を落としています)(注)。
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(https://www.britannica.com/topic/sandwich)。

 〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは〈カメハメハ1世(大王)〉(1736?/58?~1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して,白檀(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。

 ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。



○1760年~1815年のオセアニア  オーストラリア
◆オーストラリアのアボリジナル〔アボリジニ〕が,イギリス人と接触する
オーストラリアが流刑地として植民の対象となる
 オーストラリアでは,長らく外の地域世界とほとんど接触をもたなかったアボリジナル(アボリジニ)   【セ試行「オーストリアの先住民」】【本試験H21マオリではない,本試験H27】が,ついにヨーロッパとの接触を開始することになります。イギリスが1788年にオーストラリアへの植民をはじめると,アボリジナルは持ち込まれた伝染病で人口が減りはじめ【セ試行 絶滅していない】,土地も奪われていきました。イギリスの初期の植民は,犯罪者を島流しにする「流刑(るけい)制度」によるもので,のちに政府が渡航費を援助する補助移民に変わりました。

 アジアからは移民を受け付けなかったため,白人の比率の高い植民地が形成されていきます。〈ジェームズ=クック〉が1770年にニューサウスウェールズと名付け,1788年に初の流刑植民地となったポートジャクソンは,のちのシドニーです。囚人収容施設はタスマニア島などにも建設され,負の遺産として世界文化遺産に登録されています(◆世界文化遺産「オーストラリアの囚人収容所遺跡群」,2010)。




○1760年~1815年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 1774年にイギリスに〈クック〉が来航。
 その後のフィジーには香木の一種である白檀(ビャクダン;サンダルウッド)とナマコの採集を目的とした商人が盛んに来航します。特に1804年にフィジー第二の島バヌアレブで,ビャクダンが見つかったことがヨーロッパ諸国の商人の進出を加速させます(“ビャクダン=ラッシュ”)。
 商人らはフィジーの民族グループに接近して銃火器を提供し,そのことが島の内戦の元となっていきます。
 

・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 イギリス人〈クック〉は1774年,沖合からニューカレドニアの様子を眺め,その山がちな様子が「スコットランド(カレドニア)」のようだということで,ニューカレドニアと命名しました。
 その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種である白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触することになります。
・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 1768年にフランスの航海士〈ブーゲンビル〉(1729~1811),1774年にイギリスの〈クック〉が訪れています。〈クック〉は「ニュー=ヘブリティーズ諸島」と命名しました。

・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 この時期にソロモン諸島の諸民族は,ヨーロッパ人の来航対して抵抗します。

・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 ヨーロッパ人の来航は沿岸にとどまり,内陸部についてはまだよく知られていませんでした。




○1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン=マーシャル〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。


・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。

・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 この地域はスペインの支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島のチャモロ人はグアムに移住させられたとみられます。
 





●1760年~1815年の中央ユーラシア
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
・1760年の~1815年のタリム盆地(新疆(しんきょう))~アム川・シル川流域
 清の国力が揺らぐと,間接統治を受けていた新疆の社会も不安定になっていきました。
 コーカンド(シル川上流,パミール高原の西)のウズベク人の一派が,清との交易で力をつけ,17世紀中頃から勢力を増してハーン家を称するようになりました(コーカンド=ハーン国)。1809年にはシル川上流のタシュケント,1814年にはトルキスタンを占領し,北のカザフ草原を圧迫するまでになります。
 こうして,19世紀初頭のトルキスタンには,ヒヴァ,ブハラ,コーカンドの3ハーン国が並び立つことになったのです(ブハラでは18世紀末からイスラーム色が強まりアミールを名乗るようになるので,ブハラ=アミール国のほうが正確です)。彼らは農業生産を拡大し,ウズベク人の定住化も進みました。3ハーン国は,イスラーム教の中心であるオスマン帝国との関係を重視します。

・1760年~1815年の黒海北岸
 ロシア帝国の進出地域の,モンゴル系やテュルク系の「タタール人」の中からは,1773年のプガチョフの乱【追H19、H26これをきっかけに農奴制は廃止されていない】【本試験H13,本試験H22ピョートル大帝代ではない,H29共通テスト試行 リード文】のような抵抗の動きも出てきました。〈エカチェリーナ2世〉(位1762〜96)は,〈プガチョフの乱〉のようなタタール人による反乱が拡大することをおそれ,また,オスマン帝国に配慮して,イスラーム教徒に対する支配を緩めました。この時期にタタール人は,ユーラシア大陸のカザフ草原を東西に結ぶ交易活動を発展させていき,中には巨富を築く大商人も現れるようになっていきます。同時にタタール人は,ブハラを中心とするイスラーム復興運動を盛り上げていくことになります。
 その一方で,オスマン帝国と戦い,オスマン帝国の保護下にあったクリミア半島のクリミア=ハーン国を併合しています。





●1760年~1815年のアジア
○1760年~1815年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○1760年~1815年のアジア  東北アジア
◆女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出するロシアが対峙
 西方から拡大したロシア帝国が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約【本試験H5時期(17世紀末)】,1727年にはキャフタ条約【本試験H8】を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める互(ご)市(し)という制度も定められました。
◆ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営むツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人の居住地域も圧迫されていきます。

・1760年~1815年のアジア  東アジア 現①日本
◆北太平洋の毛皮交易をめぐる欧米の抗争が,日本近海にも及ぶ
欧米の船が捕鯨やラッコ交易のため沖合に現れる
 まず国内の動向から見てみましょう。
 1760年に第10代〈徳川家治〉(任1760~1786)が即位しました。1772年に老中となった〈田沼意次〉(1719~1788)は,金を貨幣として使っていた江戸と,銀の上方(かみがた,大坂・京都)の通貨圏を統合しようと,南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)を導入しました。また,貿易奨励策をとり,中国の高級食材向けに,いりこ(なまこを煮たあとで干したもの)や干しアワビ,フカヒレを俵物として輸出しました。
 松前藩は1773年に,国後島のアイヌとの交易を始めています。1774年には,ウルップ島でアイヌとロシア人の交易が始まっていたため,幕府は対ロシア対策の必要性を現実的に考えるようになっていたのです。〈工藤平助〉(くどうへいすけ,1734~1801)は『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)において蝦夷調査の必要性を〈田沼〉に示し,1783年に〈最上徳内〉(もがみとくない1754~1836)が国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・ウルップ(得撫)島のロシア人を探査しています。

 そんな中,1783年に浅間山(あさまやま)の大噴火が甚大な被害を与えました。成層圏まで吹き上がった噴煙により悪天候が続き,1789年に至るまで冷害が続き,天明の大飢饉が勃発します。商品作物の普及に伴い,農民の中には富農と貧農への分解がすすんでいたことも,飢饉が大規模化した一因です。三都,商人資本は和紙や織物の問屋姓家内工業を進め,それに従った手工業者は賃労働者になっていきました。また,米価の高騰を受けて1787年に天明の打ちこわしが起きました。
 前年に解任された老中〈田沼意次〉に代わり,老中首座〈松(まつ)平定(だいらさだ)信(のぶ)〉が,農村の復興による幕府の財政再建,治安回復,ロシアの南下対策といった政策を実施しました(寛政の改革)。

 そんな中,ロシアの日本への接近はいよいよ現実的なものとなります。
 1791年(寛政3)に,現在の和歌山県串本町に,アメリカ合衆国の商船レディ=ワシントン号とグレイス号が来航。紀伊藩の役人が対応する前に,すでに姿を消していました。
 さらに,福岡県,山口県,島根県に正体不明の外国船(イギリスの商船アルゴノート号)が現れたことを受け,幕府は異国船取扱令(いこくせんとりあつかいれい)を発令し,警戒を強めます(注1)。
 実は,当時のイギリスとアメリカ合衆国は,北太平洋沿岸のラッコの毛皮を,中国の清朝に輸出するために抗争をしていたのです(注2)。
 事の発端はロシアの〈ベーリング〉による探検(第一次1725~1730,第二次1733~1743)。ロシアは北太平洋沿岸のラッコ毛皮を,ロシアとのキャフタにおける内陸交易で清朝に流していたのです。
(注1)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.187。
(注2)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.188。

◆北太平洋を舞台に,欧米諸国による太平洋探検と,交易をめぐる抗争が本格化する
18世紀の「太平洋探検」を受け,日本は「鎖国」を認識
 そもそも太平洋岸一帯を勢力圏としていたのはスペインでした。
 トルデシリャス条約【本試験H31】が根拠です。
 しかし,18世紀後半にイギリスの〈クック〉による太平洋探検が実施されると,もはや太平洋はスペイン一国の勢力圏ではなくなり,アメリカやイギリス船の航行が活発化します(⇒1760~1815のオセアニア)。

 さらに〈エカチェリーナ2世〉の治世の1792年【本試験H10】,使節〈ラクスマン〉(1766~1806) 【本試験H10】【本試験H24】【追H19,H21時期(18世紀後半か問う),H30】が〈大黒屋光太夫〉(だいこくやこうだゆう,1751~1828)を連れ立って,通商を要求するため【本試験H10】に根室(ねむろ)に来航しました。しかし,幕府はロシアとの通商を拒否し,長崎入港を許可しました。これ以降,沿岸防備策を進めます。すでにロシアは択捉島に上陸し,アイヌとの毛皮交易をおこない,ロシア正教を布教していました。
 これに対し幕府は1798年に〈最上徳内〉(もがみとくない1754~1836),〈近藤重蔵〉(こんどうじゅうぞう,1771~1829)らに択捉島に上陸させ,「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を建てさせます。さらに,1799年には東蝦夷地を直轄地として,入植を開始します。1802年に蝦夷奉行(のち箱館奉行)を置きました。

 一方,1804年にロシアの使節〈レザノフ〉(1764~1807)は長崎に来航し,日本に通商を要求します。幕府が通商を拒否したことから,1806年にロシア海軍は樺太を襲撃,1807年に択捉島(えとろふとう),礼文島(れぶんとう),利尻島(りしりとう)を襲撃しました。これによる,北方の緊張はこれまでになく高まります。
 こうしたロシア船の出現も,北太平洋方面の毛皮を中国市場へと売り込もうとする欧米諸国の競争が背景にありました。
 相次ぐ外国船の接近は,江戸幕府に対し「鎖国」という自己意識を形成させていくこととなりました。蘭学者〈志筑忠雄〉(しづきただお,1760~1806)が,〈ケンペル〉の『日本誌』を和訳して「鎖国論」と題したのは1801年のことです。江戸幕府は,17世紀以来,ずっと「日本は鎖国している」という外交方針をとっていたわけではないのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193~194。

◆フランスのナポレオン戦争の影響が及び,長崎でイギリス船がオランダ船を拿捕する
19世紀には毛皮交易に代わり捕鯨がブームに
 1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎に進入し,オランダ船を拿捕しようとしました(フェートン号事件)。しかし,すでに長崎港にオランダ船はいなかったのため,食料と薪(たきぎ)が与えられると港から出ていきました。ナポレオン戦争で,オランダは〈ナポレオン〉に服属したため,イギリスはオランダ船を拿捕(だほ)しようとしたのです。ヨーロッパの戦争が,直接日本に影響したこの事件は,幕府に衝撃を与えました。

 この頃日本近海にはアメリカ合衆国の船舶も,姿を見せるようになっています。19世紀に入ると毛皮のターゲットとなった海獣や陸上の哺乳類の生息数が乱獲により減少。捕鯨がブームになっていくのです。
 クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのできるマッコウクジラがターゲットになりました。灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通称“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されます(注)。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。

◆高い識字率と印刷術を背景に,文学や絵画が民衆の人気を博する
浮世絵は19世紀後半に「印象派」に影響を与える
 なお,1765年に〈鈴木春信〉(すずきはるのぶ,1724~1770)により浮世絵(はじめ錦絵と呼ばれました)が作られ始め,1781年~1801年頃に〈喜多川歌麿〉(1753?~1806,きたがわうたまる(ろ))や〈東洲斎写楽〉(とうし(じ)ゅうさいしゃらく,生没年不詳)の美人画・役者画が,版画による大量生産によって安価となり,大人気となりました。〈葛飾北斎〉(1760~1849)や〈歌川広重〉(うたがわひろしげ,1797~1858)は風景画を通して地方の魅力を全国に伝え,伊勢参宮や富士山参詣を目的とした旅が人びとの間で流行しました。この時期の絵画の題材や構図は,フランスで活躍した〈ゴッホ〉(1853~1890)や〈モネ〉(1840~1926)らの作風にも多大な影響を与えています。
 文化期(1804~18年)に,出版物は貸本屋によって広く流通し,旅に出られない庶民は〈十返舎一九〉(じっぺんしゃいっく,1765~1831)の滑稽本『東海道中膝栗毛』(19世紀初め)を読み,想像をふくらませていたのです。

 伝統的な儒学に対する批判は,〈本居宣長〉(もとおりのりなが,1730~1801)国学(こくがく)や蘭学(らんがく)に代表される洋学によってなされました。とくに後者では医学などの実学が重んじられ,〈前野良沢〉(まえのりょうたく,1723~1803)や〈杉田玄白〉(すぎたげんぱく,1733~1817)らは1774年に『解体新書』を刊行しました。また,沿岸防備の必要性から正確な地図測量が求められ,1802年からの測量によって〈伊能忠敬〉(いのうただたか,1745~1818)が「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず;伊能図(いのうず))を完成させました。1811年には蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)により洋書の翻訳と洋楽の研究が推進されました(蛮書和解御用は後の東京大学へと発展する組織です)。

・1760年~1815年のアジア  東アジア 現①日本 小笠原諸島
 小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。
・1760年~1815年のアジア  東アジア 現③中国
 18世紀には中国の人口が3億人に達します【本試験H5増大した人口の大部分は都市の賃労働者となっていない】。
 土地不足解消のために山地でアメリカ大陸原産【本試験H11】のサツマイモ【東京H23[3]】やトウモロコシ【東京H19[1]指定語句,東京H23[3]】【追H27唐代ではない】【本試験H5,本試験H8時期(マルコ=ポーロの死後),H11】の導入が推進されたからです【H29共通テスト試行 時期(グラフ問題)】。
 人口が増えたことで農業に従事する労働力も増え,商品作物(タバコ,藍など)の生産も増えていきました。
 その一方で,開発の行き過ぎによって土砂災害や洪水も深刻化。
 社会不安の高まるなか,〈嘉慶帝〉(位1796~1820)の治世にあたる1796年に白蓮教徒の乱(びゃくれんきょうとのらん、1796~1804) 【東京H21[3]】【本試験H12時期18世紀末か問う】【本試験H27,H30隋の時ではない】が引き起こされ,1813年に北京や山東で「反清復明」をスローガンにして起きた天理教徒の乱とともに,清に打撃を与えました【本試験H12「清朝の財政を圧迫した」か問う】。
 天理教も白蓮教の一派といわれ,複数の教派が〈林清〉(りんせい,?~1813)や〈李文成〉らによって統一されて反乱を起こしましたが,事前に計画が発覚して失敗に終わっています。

 さて,18世紀後半には1783年6月~12月にアイスランドで大噴火した火山のラーキ山(レイキャビークの東に位置する標高818メートルの火山)と,日本で大噴火した浅間山(長野県と群馬県の県境にある2568メートルの火山)の噴煙は,世界各地に異常気象や天候不順をもたらしていたことがわかっています。
 最大版図(はんと)を実現した清の〈乾隆帝〉の在位は1735~1795年。末期になると世界各地の火山噴火にともなう天候不順により,社会不安が高まっていきました。
 清では地方の行政はある程度,地方の有力者にまかせられていましたが,しだいに,明代【本試験H23】から成長した,科挙に合格することにより得られる肩書を持つ地方のエリート層(郷紳(きょうしん))は,清に対し強気の姿勢をみせるようになります。彼ら郷紳はみずから義勇兵(郷勇)を組織して,これらの反乱を鎮圧してくれる存在でもありましたから,清も彼らに対して頭が上がらなくなっていったわけです(注)。
(注)「天下は皇帝一人で到底治めきれるものではなく,国家権力が人民生活の隅々まで介入しようとすることは,かえって社会の安寧を疎外し国力を弱体化する,といった議論は,当時の知識人の間で耳慣れたものであり,特に明末清初には「封建」体制を高く評価するこのような反専制論が高揚した」といいます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)pp.57-58)
 実際,皇帝が権力をもつことができるのは,郷紳たちが無力であるわけではありません。郷紳たちもそれぞれに権力をもっています。皇帝は,統治理念に基づき皇帝として期待される儀礼行為や権威を遂行することによって初めて,郷紳たちの権力を束ねることができます。そのような拮抗関係と協力関係の束によって,皇帝による広域支配は成り立っているともいえます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)p.62)。


 そんな中,産業革命(工業化)の始まっていたイギリスが,広州の一港に貿易を限定していた清に揺さぶりをかけ始めます。
 清は東アジア各地の国家と政治的な関わりを積極的には持たないようにし,経済は「互市」(ごし)という管理貿易の拠点に限定する政策をとっていました。東アジアでは,唐代以降の冊封体制(さくほうたいせい)が国際関係の基本で,中国が「上」,周辺諸国を形式上「臣下」に置くことで,実際には周辺諸国を支配しているわけではありませんが,中国を中心とする「華夷秩序」の下で国際秩序を維持していたのです。全体の貿易額に比べると微々たるものですが,依然として朝貢貿易【立命館H30記】も行われていました。
 〈マカートニー〉(1737~1806) 【京都H22[2]】【追H24 18・19世紀に清が彼の貿易制度の改善要求を拒んだか問う,H26コッシュートとのひっかけ、H28清との貿易交渉に失敗したか問う】【セ試行 時期(18世紀末か問う)】【本試験H21】【慶文H30記】は1792年に中国への最初の使節として〈乾隆帝〉(けんりゅうてい,位1735~96)に挨拶しましたが,主権国家同士の対等な関係を築こうとするイギリスの外交観とのギャップは大きく,交渉は失敗しました(1793年) 【セ試行】【本試験H21成功していない】。
 続くイギリス【本試験H15】の〈アマースト〉(1773~1857) 【本試験H15】は〈嘉慶帝〉(かけいてい,位1796~1820)に謁見する前段階で,三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼という儀式のしきたりを拒否しました。清にとって外交とは「異民族が皇帝に対して朝貢するもの」,イギリスにとって外交とは「対等な主権国家が交渉するもの」。外交に対する認識の違いから,交渉は難航します。

 そうこうしているうちに“午後の紅茶”需要で,18世紀以降【本試験H5】,茶【本試験H5】や陶磁器を買いまくっていたイギリスの貿易赤字は,どんどんかさんでいきました【追H27イギリスで紅茶を飲む習慣が広まった時期を問う(中国での茶の生産開始、タバコ=ボイコット運動との並べ替え)】。
 かといって資源の乏しい小国イギリスには,中国人が買ってくれるような商品を大量に調達する余裕はありません。

 片側の国ばかりが儲かる,この「片貿易」の構造をなんとかするために利用されたのが,インドです。
 インド【追H27中国ではない】でアヘン【追H27】【本試験H2,本試験H5】を栽培させ中国【追H27インドではない】に密輸し,アヘンの代金として銀【東京H9[3]】を得ることで,イギリスが中国に支払った銀の穴埋めをしようとしたのです【追H27】【本試験H2】【本試験H16中国産のアヘンをインドに輸入していない】。
 この貿易は東インド会社の貿易特権が廃止されると【本試験H22インド帝国成立後ではない】,承認を受けた民間の貿易商人や現地商人にも委託されるようになっていきました。この貿易構造を三角貿易【追H27三角貿易以前イギリスの対中貿易は輸入超過であったか、またアヘンは中国からインドに輸出されたか問う】【東京H9[3]「銀の輸出を減らすため,オランダやイギリスの商人が組織した貿易」は何か問う】といいます。
 なお,この頃1810年に香港を拠点としていた大海賊〈張保〉(?~1822)は清の前に降伏。中央ユーラシアで馬を乗りこなす遊牧民の時代が終わろうとするなか,海でもジャンク船を乗りこなす海賊の時代が終わろうとしていたのです(#映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』アメリカ,2007 の中国海賊のモデルといわれます)。

・1760年~1815年の東アジア  現⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮では1776年に〈正祖〉(位1776~1800)が即位し,中興の名君と讃えられますが,権力を独占し,王のかわいがる両班の官僚や外戚などばかりが優遇される「勢道政治」(せいどうせいじ)は彼の支配以降強まります。

 18世紀以来,地方の伝統的な両班層が没落し,庶子などの新興勢力が台頭するなど,民乱(民衆の反乱)も多発。奴婢制も解体され,商品経済も地方に及ぶようになっていました。
 また,1794年には,朝鮮にカトリック (朝鮮では天主教といいます) が伝来し,両班層の中にも,カトリックの洗礼を受ける者も現れます。プロテスタント (基督教といいます) の伝来は,19世紀末期のことです。

 1811年には,〈洪景来〉(こうけいらい,ホンギョンネ,?~1811) 【慶・法H30】の乱が起きました。〈洪景来〉は平安道出身で科挙を受験して合格しましたが,平安道の一族は官僚採用において差別を受けていたため,これに抵抗して大規模な民乱を起こしたのです。反乱には,商人,農民,不平を持つ両班など,さまざまな階層が加わり,大規模化しました。




○1760年~1815年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ベトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー


◆大陸部ではビルマ,タイ,ヴェトナムで王朝の支配圏が確立、中国人の流入も続いている

 1623年以降,東南アジアからインドに関心を移していたイギリスが,東南アジア貿易にカムバックしていきます。18世紀後半から,イギリス東インド会社が中国の茶の輸入量を激増させると,中国との取引のために銀が必要になりました。そこで,インドから綿花やアヘン,東南アジアからはコショウ,スズ,ツバメの巣,ナマコなどを中国に輸出して,銀の獲得に務めました。イギリス東インド会社が直接おこなったわけではなく,貿易の許可を与えた民間商人やインド人に,業務を任せました。

 中国と東南アジアの取引が増えると,東南アジアに移住する中国人も増えました。彼らを南洋華僑といい,潮州(広州の東)や福建など中国南部出身者が多くを占めています。
 彼らは東南アジア各地の三角州(デルタ)や熱帯雨林を開拓し,輸出向けにサトウキビ・米などの商品作物の栽培や鉱山開発を進めていきました。こうして,現地の人々の結びつきとは別に,華僑のネットワークが東南アジア各地に張り巡らされていくようになります。



・1760年~1815年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム
フランスの援助で阮朝が建国される
 ヴェトナムでは,黎朝に皇帝は存続していましたが,政治的に紅河(ホンハ;ソンコイ川) 流域の鄭氏の大越と,阮氏の広南の対立が続いていました。しかし,広南の内部で争いが起きる中,1773年に中部の西山(タイソン)出身の〈阮文岳〉(げんぶんがく,?~1793)ら3兄弟が反乱を起こし,〈阮文岳〉が王を称して1788年に西山朝(1788~1802) 【慶文H30記】を建国し,広南を滅ぼしました。「阮」というのはヴェトナムではよくある姓で,広南の阮氏とのつながりはありません。この反乱を西山(たいそん)(阮氏)の反乱【本試験H20時期,本試験H30】といいます。
 のちに末の弟の〈阮文恵〉(位1788~92)が皇帝を称して兄から自立し,北部の黎朝と清をも撃退して南北を統一しました。

 この混乱の中,広南の阮氏の一族〈阮福暎(グエン=フック=アイン)〉(1762~1820) 【本試験H18 14・15世紀ではない】【追H21、H25】は,フランスの探検隊を頼って立て直しを図ります。フランス人宣教師【追H25】〈ピニョー〉を通してフランスに救援を要請すると,〈ルイ16世〉は軍艦4隻・1200人の歩兵の支援を約束。そのかわり,フランスに貿易特権を与え,同盟を結ぶという条件でした。しかし,その直後に革命が勃発すると,実現はされませんでしたが,以後フランスはヴェトナムに積極的に介入していくことになります。
 〈阮福暎〉は1783年に一旦シャムに移動し,できたばかりのラタナコーシン朝の〈ラーマ1世〉にかくまわれます。彼はここで華人(東南アジアに移り住んだ中国人)の支援も得ます。ちょうどその頃,西山阮氏はハノイを占領し,鄭氏を滅ぼしていました。しかし阮3兄弟は支配権をめぐり争い,3兄弟のうちの〈阮文恵〉がフエで皇帝に即位して〈乾隆帝〉に謁見,紅河から北緯17度付近のフエまでを支配する西山阮氏の安南国が認められました。

 そこに先ほどの〈阮福暎〉が攻めこみ,1802年にハノイを陥落させ,西山阮氏の安南国は滅びました。彼はフエで即位(位1802~20)し,越南国王【追H21】として清【追H21】から冊封を受けました。越南,つまりヴェトナムという国号の由来はここにあります。ただし,彼は国内向けには皇帝を称しました。これが阮朝【追H19フランスの侵略を受けたか問う、H25】です。
 こうして歴史上はじめて年牧ヴェトナムが政治的に統一されたわけです。




・1760年~1815年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
 フィリピンでは,住民のカトリック化【本試験H6アメリカ合衆国の統治下で伝えられたものではない】【東京H25[3]】が進み,18世紀末以降は教会や修道会が中心となって大土地所有(アシエンダ)制が進みました。フィリピンのスペイン総督は1767年以降,中国人商人が植民地から追放され,植民地支配を固めようとしました。1781年にはタバコの強制栽培・専売がルソン島に導入されています。




・1760年~1815年のアジア  東南アジア 現④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
◆フランス革命・ナポレオン戦争中,イギリスが島しょ部のオランダ領を占領した
 1777年に西部ジャワの反乱を鎮圧したオランダは,ジャワ全土の支配権を確立しました。各地の民族間の対立を利用して「分割統治」を進めた結果,各地の社会に新たな対立を生みました。各地の首長には資源をオランダにおさめる義務を課し,住民は苦しみました。

 一方,マラッカ海峡地方では,ジョホール王国が1670年前後から(注1)衰えをみせる中,イギリスが1786年にペナンを占領しました。さらに,オランダがナポレオン戦争中に占領されると,オランダの総督は「戦争終結までオランダ植民地の統治をイギリスに任せる」と命じました。
 そこでイギリスは1796年に喜望峰とセイロン,1795年にムラカ(マラッカ) 【本試験H13時期(16・17世紀ではない)】【上智法(法律)他H30イギリスがポルトガルから奪ったわけではない】,1796年にジャワなどほぼ全てのオランダ領を支配下に押さえました。

 ペナンにある商館の書記だったイギリスの〈ラッフルズ〉(1781~1826)は,1811年(注)にジャワを一時占領・統治し,現地社会を混乱させます。ナポレオン戦争が終わると,オランダにはネーデルラント(オランダ王国)が成立し,ナポレオン追放後のロンドン条約でオランダの旧植民地の多くを返還することが決められ,1816年にイギリスは植民地を全部返還しました(注2)。しかし,植民地行政は困窮状態にあり,各地の支配者による反乱の危機も迫っていました。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123。


シンガポール
 現在のシンガポールはジョホール王国〔ジョホール=スルターン国〕の領土で、19世紀初頭に150人ほどの住民がいたと考えられています。うちマレー人が130人、20人が中国人で、中国人は南西端へ流れるシンガポール川河口付近で漁業をおこないジャングルを開墾して農業をおこなっていたほか、ジョホール水道に面する北部一帯は海賊の拠点となっていました。


(注1) ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
(注2)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。。




・1760年~1815年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
 18世紀半ば,東西からヴェトナムとシャムの干渉を受けていたカンボジアでは,ヴェトナムとシャムの了承により〈アン=ドゥオン〉(位1847~59)が即位しました。しかし,実質的にカンボジアはメコン川下流のヴェトナムと上流のシャムに分割されており。メコン川下流がヴェトナムのものとなったため,カンボジアは“内陸国”になってしまったわけです。そこで,ワラをもすがる気持ちですがったのが,フランスでした。〈アン=ドゥオン〉王が亡くなると,長男の〈ノロドム〉(位1860~1904)はフランスの保護国化(1863)を受け入れることになります。

・1760年~1815年の東南アジア  現⑩タイ

 この時期に中国の潮州出身の人々は、タイ人(シャム人)との関係を深めていきました。
 チャオプラヤー川流域のシャム(現在のタイ)では,アユタヤ朝(1351~1767)がビルマのコンバウン朝により滅ぼされていました。
 その後,アユタヤ朝で県知事を務めていた潮州人〈タークシン〉(1734~82,在位1767~82)が短命のトンブリー朝(1767~82)を建てました。このときに多くの潮州人が,シャムに移住しています。
 しかし,〈タークシン〉は晩年に精神が不安定になったため,アユタヤ王家と中国人の血を引く〈ラーマ1世〉(1735~1809,在位1782~1809)が,〈タークシン〉を処刑して,チャクリ朝(ラタナコーシン朝,1782~現在) 【共通一次 平1:時期を問う】【本試験H6イスラーム教が広く信仰されたか問う】【本試験H26時期】【慶文H30記】を始め,首都をバンコクに置きました。これが現在まで続く王朝です。王名の〈ラーマ〉は,古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公からとられており,タイがインド文化の影響を受けていることがここからもよくわかります。〈ラーマ1世〉は『ラーマーヤナ』を下地にした民族叙事詩『ラーマキエン』の編纂を〈タークシン〉から引き継ぎ,1797年に宮廷詩人に命じ,完成させました(1973[吉川])。バンコクには王宮や,その敷地内ワット=プラケオ(エメラルド寺院)などの豪華な建造物が建てられました。
 王室は中国系でしたが,だからこそ支配の正統性をタイ人の伝統に求めました。実際には古来シャムではモン人やクメール人など様々な民族が活動していたわけですが,「シャムは,スコータイ朝→アユタヤ朝→チャクリ朝という単純な王朝交代によって,古くからずっとタイ人によって支配されてきたのだ」というタイ人中心の歴史観が形成されていったのです。




○1760年~1815年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・1760年~1815年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 1658年~1796年までセイロン島はオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕領でした。
 しかし,オランダ本国が〈ナポレオン〉により占領されると,そのスキにイギリスが占領。1802年のアミアンの和約でイギリスの領有が認められます。

 島の中央部から東部にかけてはキャンディ王国(1469~1815)の支配下にありましたが,1815年にイギリスにより滅亡します。




・1760年~1815年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆ムガル帝国の権威が低下し地方国家が栄えたが,イギリス東インドの領土支配が本格化する
東インド会社が貿易会社から政治権力に変化する
 ムガル帝国の内部では,ヒンドゥー【セA H30キリスト教ではない】教徒のマラーター同盟【セA H30】やシク教国【本試験H8地域(パンジャーブ地方)を問う】の勢力が増し,アフガニスタンではドゥッラーニー朝が一時北インドに南下するなど,政治的な分断が進み,ムガル帝国の権威は衰えていました。
 一方,イギリスがフランスとのインドをめぐる競争に勝利し,インドの本格的な植民地化へと転換していくのもこの時期です【本試験H5 18世紀後半のムガル帝国について,国内の市場は分断されていなかったことを,史料から読み取る問題】。
 1747年に〈ナーディル=シャー〉(1688~1747,在位1736~47)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(1747~1818,1839~1842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝はシク教徒の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。

 1757年のプラッシーの戦い【本試験H10 時期:1850~60年代ではない】により,ベンガルの太守(ナワーブ)と東インド会社書記の〈クライヴ〉(1725~1774)の率いるイギリス東インド会社が決戦し,イギリス側が勝利しました(注)。実はこの戦いにベンガル内部の“内輪もめ”も関係していて、〈クライヴ〉は新たにベンガル太守(ナワーブ)となった軍司令官に接近し、戦後にベンガルの太守(ナワーブ)として認めることを約束していたのです。そこでこの軍司令官は「お礼」に所領(ジャーギル)を〈クライヴ〉に与えたため、イギリス東インド会社の一職員に過ぎない〈クライヴ〉がインドの「領主」となることができたわけです。
 その後もフランス東インド会社による反攻はつづき(第三次カーナティック戦争)、1758年~59年にはフランスによるマドラスの包囲も起こりますが、1760年ヴァンディヴァッシュの戦いでフランスがイギリスに決定的に敗北。1763年にパリ条約が結ばれ,イギリスはインドにおけるフランスに対する優位を勝ち得ました。
(注) 「プラッシーの戦いは、フランス東インド会社とベンガル太守の連合軍が、イギリス東インド会社に撃破された」という説明は正確ではありません。時系列でいえば、まずイギリス東インド会社がフランス東インド会社を攻撃し、その後、イギリス東インド会社がベンガル太守を攻撃しています。たしかにベンガル太守軍にはフランス東インド会社も兵力を出していますが、その数わずか40人でした。羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.311。


 1765年には,ムガル皇帝がイギリス東インド会社に,オリッサを含むベンガル州とビハール州の徴税財政権(ディーワーニー)を与えました。ディーワーニーというのは,税金をとり、決まった額をムガル宮廷と現地の太守(ナワーブ、1765年の協定で武装解除されていました)に送れば、残額を軍事費や行政費として支出することのできる権利なのです。
 つまりこれはイギリス東インド会社が,単なる商事会社、貿易会社ではなくなり,インドという植民地を支配する政治権力としての役割に変化したことを意味します。
 でも,いきなり支配なんてできませんから,はじめは現地のインド人の支配層に代理で税をとらせていました。しかしそんなところに1770年にベンガル大飢饉が発生し、イギリス東インド会社は統治の困難に直面。1771年にイギリス東インド会社は,代理制度をやめて直接税をとろうと決議します。同年には東インド会社の株主が配当金の増額を要求し、7~8%から12.5%にまでアップ。それほど東インド会社には実質とかけ離れた過剰な期待が集まっていたのです。1772年に〈ヘースティングズ〉(1732~1818)がベンガル管区の知事になって,徴税制度と司法制度を整備。
 1773年,イギリス本国はイギリス東インド会社をコントロール下に置こうとして,〈ノース〉首相(任1770~1782)が「ノースの規制法」(一連のインド統治法の一つ)を制定。ベンガル知事を総督に格上げし,マドラスとボンベイ管区の各知事も,ベンガル総督の指揮下に組み込まれました。そして、1774年の初代ベンガル総督〈ヘースティングズ〉が、強力な指導によってインド統治を起動に乗せていくことになります。
 ちなみに同時代に、政府の東インド会社救済を批判したのが、自由放任主義を主張した〈アダム=スミス〉(1723~1790)でした。当時の東インド会社職員の中には、短期間でアヘン貿易・横領・賄賂などで莫大な富を築き帰国する「成金」(ネイボッブ)もいて、「東インド会社の財政状況があんなに大変なのに、職員は何やっているんだ」と批判の対象になっていたのです。しかし、その批判に逆行するように、1784年には〈ウィリアム=ピット〉首相(任1783~1801、1804~1806)の主導で制定された「インド法」によって、東インド会社はイギリス政府の強い監督下に置かれるようになりました(注1)。
 とはいえ東インド会社はその後も東インドからの商品の輸出入と、インド統治を続けます。「インド法」の制定された年には、中国茶の輸入税率が119%から12%に劇的に引き下げられ輸入量がアップしましたが、茶の購入にあてる銀がタラず、1773年以降インドで独占生産が認められていたアヘンを中国に輸出することになります。これが後の「アヘン戦争」の遠因です(注2)。

(注1) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.332。
(注2) 羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.334。



◆ザミンダーリー制とライヤットワーリー制の導入で、インド社会が変質する
インドに近代的な土地制度が導入される
 1793年にはベンガル管区にザミンダーリー制【本試験H23ライヤットワーリー制とのひっかけ,本試験H27植民地インドで導入されたか問う】【早・政経H31「ザミンダール」はイギリス人入植者のことではない】が導入されました。ザミンダーリー制とはザミーンダールに徴税を担当させる制度。ザミンダールとは土地所有者(ペルシア語)のことで,彼らに毎年定額の地租を納入させようとしたのです。これにより,インドの農村社会は,劇的な変化を迫られることになりました。
 南部でも農民に土地を所有させてライヤットワーリー制が実施されました【本試験H23領主層を地税納入の責任者としたわけではない,H28エジプトではない】【早商H30[4]記】。

 こうした近代的な租税制度によって,「この土地は誰のもの」ということが明確化されていきました。つまり,「みんなでつかう土地」とか「あいまいな土地」がなくなってしまうわけです。 もともとインドの農村では,職業集団(ジャーティ)に編成されていたカースト制度のもとで,洗濯屋・鍛冶屋・牛飼い・葬儀屋など,生活していくのにかかせない職業が,その村に必ず存在しました。洗濯屋は一日中洗濯をする代わりに,農民から収穫物が支給されます。助け合いを基本とする当時の農民にとっては必要不可欠な社会制度でもあったのです。
 しかし,イギリスの導入した,「すべての土地には所有者がいて,所有者が税を払う義務を持つ」という近代的な徴税制度のもとでは,洗濯屋も土地を持ちますから,税を払わなければなりません。当然このことが,彼らの生活を大変なものにしていったのです。このように,カースト制度はイギリスによる植民地支配によって,より一層厳しい身分制度になっていったのではないかという見方ができます。



◆産業革命の進展により、イギリス本国での自由貿易を求める運動が高まる
東インド会社の貿易独占権が廃止された
 イギリス本国で,自由貿易へ要求が高まると,1813年の特許状法により,中国を除くアジアの貿易が自由化され,東インド会社の貿易独占権が廃止【上智法(法律)他H30オランダ東インドではない】されました。インドの伝統的な綿織物産業は,イギリス製の綿布の流入によって破壊されていきます。1810年にはインドとイギリスの綿織物の輸出入量が逆転し,イギリス産の機械式綿織物がインド市場を席巻(せっけん)するようになりました(注)。
(注) イギリスの産業革命の進展と、インドの綿織物産業の衰退は、同時代を結びつける上で重要なトピックです。【本試験H16「インドを自国の綿製品の市場とした」かを問う】【H30共通テスト試行 統計読み取り(①アジア(主にインド)から西へ輸出された綿布の総額が減り、イギリスから東へ輸出された綿布の総額が増えていく」ことを示したグラフ(1770~1840)と、②イギリスで消費された綿花の消費量の総量の変化・綿花の生産地別の比率を示したグラフ(1786~1880年)から、①1820年ころを境にイギリス産綿布の輸出総額がインド産綿布の輸出総額を上回ったこと、②原料綿花コストの低下よりも、蒸気機関の導入にともなう生産コストの低下のほうが、綿糸価格の低下に果たした影響が大きいこと、③19世紀半ばのイギリスはアメリカ合衆国産の綿花をおもな原料として綿布を生産しインドなど東に大量に輸出していたこと、④イギリスではイギリスへの原料綿花の輸入とイギリスからの綿布輸出がともに産業革命期に増加していることとを読み取る】【追H18グラフの読み取り(インドの木綿工業の衰退を読み取るもの)】


 また,インドに対してキリスト教の布教も自由化され,インド社会に影響を与えることになりました。例えばバラモンの家系に生まれながら,キリスト教にも学び「諸宗教の根本となる神は同じだ」と考え,にヒンドゥー教を改革した〈ラーム=モーハン=ローイ〉(1772~1833)です。ヒンドゥー教には「夫が亡くなったら,妻も一緒に殉死する(生きたまま火葬)」という風習がありますが,「あまりに残酷だ。ヒンドゥー教も変わらなければならない」と考え,このサティー(寡婦殉死)という風習の廃止運動をおこないました。
 いま「ヒンドゥー教」という言葉を使いましたが、「インドには「ヒンドゥー教徒」という宗教があって、それこそが「インド文明」なのだ」という“乱暴”な見方を発見したのは、この時期のイギリス人です。南アジアの人々が多様な信仰・儀礼によって実践してきた精神文化や人生観が、ヨーロッパ的な「宗教」というカテゴリーと同じくくりにまとめられるようになっていったのです。


 さて、イギリス【本試験H2】東インド会社は,マラーター同盟に対して,第一次マラーター戦争(1775年~1782年),第二次マラーター戦争(1803年~1805年)を起こしています。
 また,南部のマイソール王国に対しては,第一次(1767年~1769年),第二次(1780年~1784年),第三次(1789年または1790年~1792年),第四次マイソール戦争(1798年~1799年)を起こし,滅ぼしました【追H30マイソール戦争に勝利したのはムガル帝国ではなく,イギリス(東インド会社)】。
 マイソール王国の〈ティプ=スルターン〉(1753~1799)は,オスマン帝国やフランスに使者を送り同盟・支援を求めたり,フランスにならって軍隊の近代化を図ったりしましたが,当時のオスマン帝国はロシアの南下に対抗してイギリスに接近し,さらにフランスでは革命(フランス革命)が起こっていたために,手を差し伸べることはできなかったのです。


 一方、紅茶の産地として有名なダージリンは1835年にシッキムから割譲された高原地帯。うだるような暑さと感染症の多さが問題である低地部の都市のイギリス植民地官僚は,避暑地(ひしょち)としてダージリンを利用し栄えました。



・1760年~1815年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 1769年にゴルカ王国(1559~1768)の〈プリトゥビ=ナラヤン=シャハ〉(位1768~1775)がマッラ朝の勢力を滅ぼし,ゴルカ朝ネパール王国としてネパール(カトマンズ)盆地を周辺地域を含めて再統一し,中央集権化を進めました。ネパールは東部のブータンから西部のカシミールにかけての領土拡大を狙っていたのです。
 しかしチベット地方の領土をめぐり1788~1789年に清と戦争となり,敗北後は冊封体制に組み込まれ朝貢が義務付けられました。1809年にはシク教徒とパンジャーブ地方をめぐり戦争。さらに1814年には,植民地インドを防衛しようとしたイギリス東インド会社との戦争(グルカ戦争)が起き,敗北しました。




○1760年~1815年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
ヨーロッパ諸国の進出に対し,各地で近代化による改革や,復古による改革の運動が起きる

○1760年~1815年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 1747年に〈ナーディル=シャー〉(1688~1747,在位1736~47)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(1747~1818,1839~1842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝はシク教徒の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。
○1760年~1815年のアジア  西アジア 現②イラン
 1796年から1925年まで,首都をテヘランに置くカージャール朝【本試験H30】が,イラン高原を支配していました。しかしイランは,南下しようとするロシアと,インド周辺を固めようとするイギリスのダブルパンチにあい,苦労することになります。

○1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑤・⑥・⑦・⑧・⑨・⑩アラビア半島
 このワッハーブ王国というのは,アラビア半島【本試験H24エジプトではない】のサウード家が,イスラーム教の復興運動をとなえていた〈イブン=アブデュル=ワッハーブ〉と結んで建国した,ワッハーブ派【本試験H6スーフィズムとのひっかけ】【本試験H19十二イマーム派,ネストリウス派,長老派ではない,本試験H24ワフド党ではない,H30】【H27京都[2]】の王国です。
 当時のアラビア半島の遊牧民たちの中には,もはやイスラームを信仰していない者も多くおりました。〈ワッハーブ〉は「ヨーロッパが進出し,われわれが弱くなったのは,〈ムハンマド〉時代の教えを守らなくなったからだ」と主張したのです。後ろ盾として選んだのが,アラビア半島北部の有力者サウード家でした。
 サウード家は,1744年からエジプトの〈ムハンマド=アリー〉【本試験H12】に滅ぼされる1818年まで,アラビア半島北部のリヤド郊外のディルイーヤを都として第一次サウード(ワッハーブ)王国)を建国しました。シーア派の聖地であるカルバラー(1802)を奪い(注),1803~05年には,メッカ(マッカ)とメディナ(マディーナ)を陥落させています。このときのシーア派住民との対立が,現在まで続くサウジアラビアとイランの対立の遠因となっています(最近でも,2016年以来,イラン・サウジは国交を断絶しています)。
 メッカ・メディナを占領されたことにショックを受けたオスマン帝国は,もはや自前の常備軍で鎮圧することはできず,エジプト総督〈ムハンマド=アリー〉に鎮圧を命じるしかありませんでした。1812年~18年の戦闘でメッカ,メディナを奪回し,第一次サウード王国は滅亡します。打倒した〈ムハンマド=アリー〉の株は上がりました。
(注)シーア派では聖者の崇拝が盛んで,メッカへの巡礼(ハッジ)とは別に“お参り”することが認められていましたがワッハーブ派にとってはこれが〈ムハンマド〉の教えからの逸脱とみえたのです
 その後,1823~1889年まで都をリヤドに移し,第二次サウード(ワッハーブ)王国が建国されますが,ライバルのラシード家に奪われて,また崩壊しました。

・1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑭レバノン,⑮シリア
 現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。

・1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。

・1760年~1815年の西アジア  現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 黒海からカスピ海にかけて東西に伸びるコーカサス山脈。この南をロシア語で「ザ=カフカージェ」(コーカサスの向こう)と呼びます。
 1784年にヴラジ=カフカスが建設され,南下するロシアに対してチェチェン人,イングーシ人,オセット人,チェルケス人といった山岳民族との対立が起こります。
 1801年には東グルジアにあった王国(カルトリ=カヘティア王国)(注)がロシアに併合され,ガージャール朝ペルシアとの間に領土をめぐる戦争も起きます。1813年のギュリスタン条約で,南コーカサス(ザカフカース)はガージャール朝からロシア帝国の領有となりました。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.68




●1760年~1815年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
 イギリスはインド洋の島々に目をつけ,1810年にイギリス領モーリシャスとしてディエゴガルシア島を含む島々を領有しています(現在のイギリス領インド洋地域)。

マダガスカル
 マダガスカルでは,〈アンドゥリアナムプイニメリナ〉(位 18世紀末~1910)がメリナ人を統一し,島の西部を支配していたサカラバ人など,中央高原にあった他民族の小国家を打倒し,島の統一を進めていきます。彼の子がマダガスカルの初代国王〈ラダマ1世〉(位1810~1828)です。

(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。





●1760年~1815年のアフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 一方,オスマン帝国の勢力は後退し,対岸のアラビア半島のジッダの影響力が強まっています。

・1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。

・1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 エチオピア高原に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国は,この時期には比較的平和な時期を迎えています。
  
 オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。

・1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
東アフリカはオマーンの保護下に入る
 東アフリカのインド洋沿岸には,アラビア半島北東部マスカットを拠点とするオマーン王国が〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)の下で進出し,アラブ人などによる奴隷交易が営まれていました。

・1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。
 ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部のブガンダ王国は,象牙や奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。



○1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


・1760年~1815年の南アフリカ  現①モザンビーク
ポルトガルはザンベジ川流域に植民する
 ポルトガル王国は,南東部(インド洋側)のザンベジ川流域を中心に現在のモザンビークを植民地化していっています。奥地からは奴隷や金が積み出されています。


・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
スワジランド王国の支配が確立する
 バントゥー系のングニ人の一派スワジ人は,〈ングワネ3世〉(位1745~1780)の下,この時期にポンゴラ川流域でスワジランド王国を確立します。次の〈ジコゼ〉(位1780~1815)のときに支配機構が整備されます。

・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 バントゥー系のソト人は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすんでいます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
 先住のサン人は居住地を追われていきました。

・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 このうちズールー王国では,のちに軍事的に急拡大することになる〈シャカ〉(1787?~1828)が1787年頃に誕生しています。

 内陸の高地にはバントゥー語系のソト人や,同じくバントゥー語系のツワナ人などがいて,国家を形成しています。
 もともと居住していた狩猟採集民のコイコイ人は,南西部に居住しています。

 ケープタウンに入植したヨーロッパ人(主にオランダ系。フランスのユグノーも含む)は支配領域を拡大し,中にはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていく者もいました。
 それに対しバントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,1779年以降,100年間にわたって戦争が勃発します(コーサ戦争)。


・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部にはナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群のヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。


・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。

・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 この時期のマラウイには大きな政治的組織はありません。

・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
ロズウィ王国がポルトガルの新入を阻む
 金の交易で栄えたムタパ王国は1760年頃に崩壊。ポルトガル人が内陸部に進出する一方で,ジンバブエの南部高原地帯にはロズウィ王国がポルトガル勢力を阻んでいます。グレート=ジンバブエの遺産を引き継ぎ,石壁建築がつくられています。


・1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系のツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系のサン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 ケープタウンから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています。



○1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国とルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流はコンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。


・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。

・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。

・1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。



○1760年~1815年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流のベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によるオヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。

ハウサ諸王国
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立しています。
 ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。


◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起きる
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 この時期には,牧畜民フラニ人(プール人)とトゥクルール人が立ち上がり,イスラーム教改革運動を支持して新国家を立ち上げます。

 この背景には,従来これらの牧畜民,周辺国家から重税を課されるなど支配されていたこと(注1)。
 ギニア湾岸では,引き続きアシャンティ王国【東京H9[3]】,ダホメー王国,ベニン王国,オヨ王国などが,ヨーロッパ諸国に奴隷を供給するために「人狩り」を行っていたことに反感が高まったことが挙げられます。
 
 そんな中,②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(1754~1817)が「ジハード」(聖戦)を宣言。王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していきました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 また,ニジェール川流域には,セグー王国,マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)も,東方のソコト帝国の成立に刺激を受けています(注)。

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され(注2),サハラ交易は活発化していきました。
(注1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.167。
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?~1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
 現在の④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 ヨーロッパ人によって「胡椒海岸」と命名されていた現在のリベリアには,1662年にはイギリスの交易所が設けられています。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,⑫ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在のモーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
 ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国(1712~1861)を建国しています。

・1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,モシ王国が栄えていました。



○1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 エジプトには,フランス革命後に〈ナポレオン〉(1769~1821)が進出し,イギリスと支配権を争い,エジプトの多方面の勢力を巻き込む争乱が勃発します。
 そんな中で台頭した〈ムハンマド=アリー〉(1769?~1849)はオスマン帝国の総督を名乗り,その地位を追認され,半ば自立して各地への拡大を開始します。
 〈ナポレオン〉と〈ムハンマド=アリー〉,この2人はほぼ同い年なんですね。
 順にみていきましょう。

 エジプトが,オスマン帝国からの支配に入ったのは1517年のマムルーク朝滅亡のときです。それ以来,エジプトにはオスマン帝国の総督(パシャ)がおかれていました。ですからエジプトの支配者はイスタンブルから派遣される総督ということになっているのですが,実際に権力を握っていたのはエジプトに定着して徴税請負人として富を築いたマムルークたちでした。

 一方,ナイル川流域のエジプトの住民は比較的まとまりが強く,外からやってきたマムルークたちに対する不満は高まっていました。

 そんな中,1798年に〈ナポレオン〉率いるフランス軍が進出し,「ピラミッドの戦い」に勝利してナイル川下流を支配下に置きました。しかしイギリスの〈ネルソン〉率いる海軍にアブー=キール湾の戦いで敗北し,エジプトの有力者による抵抗も起きます。
 そんな中で〈ナポレオン〉はイスラーム教を保護し,マムルークに対抗する姿勢をアピールし,ウラマーや現地のイスラーム教団指導者と関係を結びました。しかし,占領に対する民衆蜂起が起きると〈ナポレオン〉は武力で応え支持を失い,1799年8月にフランス本国に逃れました。〈ナポレオン〉亡き後,イギリス軍はフランス軍に勝利し,1802年アミアンの和約でイギリス軍はエジプトから撤退。オスマン帝国の任命した総督はもはや有名無実という権力の“空白”状態の中,フランス軍との戦いで頭角をあらわしたオスマン帝国のアルバニア非正規軍の副隊長であった〈ムハンマド=アリー〉(1769?~1849) 【本試験H12】【追H18】【セA H30チュニジアではない】【東京H13[1]指定語句】でした。
 彼は,オスマン帝国,マムルーク勢力,イギリス軍が各地で活動する中,これらの間にたくみに入り込むことによって実権を得ることに成功し,カイロの住民やウラマー層の支持を得る形で,オスマン帝国の任命した総督を差し置き「総督」への就任を宣言。もはやオスマン帝国はこれに逆らえず,総督位が追認されました。これ以降のエジプトでは〈ムハンマド=アリー〉の一族が総督位を世襲し,事実上オスマン帝国から自立することになったため,ムハンマド=アリー朝(ヨーロッパ列強から世襲権が承認されたのは1840年のロンドン条約)とも呼ばれます。
 彼は農地を国有化し徴税請負制を廃止し,ナイル川の洪水に頼らない灌漑農耕を導入して商品作物を栽培し,専売制度を実施しました。これらの収益によって西洋式軍隊(1822年に徴兵制を導入)や国営工場を設立し,中央集権的な国家を建設していきました。


・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
 スーダン南西部のダルフール地方では,フル人の指導者がチャド湖周辺のボルヌ帝国の支配を脱し,16世紀末にイスラーム教国のダルフール=スルターン国を建国し,エジプト方面への奴隷交易で栄えています。17世紀前半にはさらにその西のチャド東部を拠点にワダイ=スルターン国が建国されています。
 スーダン南部ではフンジ人のセンナール王国(フンジ=スルターン国)が栄えています。

 ナイル川上流部の現・南スーダン周辺には,ナイル=サハラ語族ナイロート系の農牧民のシルック人(ナイル=サハラ語族)が多数の小王国の連合を形成しています。ほかに,同じくナイロート系のディンカ人や,ヌエル人などの農牧民が社会を形成しています。



・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ ④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。

・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 北アフリカ西部のマグレブ地方のアルジェリアは,オスマン帝国アルジェ州として間接統治されていました。

・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアはオスマン帝国のチュニス州とされて間接統治されていましたが,1705年に騎兵隊長官〈フサイン〉が実権を握ってから,1957年まで続くフサイン朝が成立し,事実上オスマン帝国から自立していました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。

・1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアでは,テュルク系の〈カラマンリー〉の一族が1722年から1835年までスルターンによりパシャに任命され,実権を握りました(カラマンリー朝)。カラマンリー朝は地中海の海賊活動やユダヤ人・キリスト教徒の交易活動を保護して繁栄する一方,サハラ沙漠の横断交易ルートも握りました。19世紀初頭には地中海に進出したアメリカ合衆国の船舶の航行を妨害する事件が起きています。






●1760年~1815年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


○1760年~1815年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
○東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
◆ロシアでは皇帝の権力が強まり,オスマン帝国から黒海北岸を奪い,三度にわたりポーランドを分割する
 ①ロシアでは,18世紀後半にはモスクワを都とするロシア帝国の〈エカチェリーナ2世〉(位1762~96) 【H29共通テスト試行 マリア=テレジアではない】【本試験H7シベリア進出を始めたわけではない】【追H21ステンカ=ラージンの乱を鎮圧していない、H28農奴制を強化していない】【慶文H30】が,夫〈ピョートル3世〉が無能だったことに失望して,側近や軍の協力を得てクーデタを起こして皇帝になりました。 1773年~1775年には農奴解放を求めるプガチョフの乱【本試験H10デカブリストではない】【追H21ステンカ=ラージンの乱ではない、H26これをきっかけに農奴制は廃止されていない】が起きると,国内支配を強化。農奴を保有する地主貴族を保護する一方で,マニュファクチュア(工場制手工業)を推進しました。
 対外的には1774年にはクチュク=カイナルジ条約を結び黒海北岸を獲得し,セヴァストーポリに軍港を建設します。1783年にはクリミア半島【慶文H30】に位置するモンゴル系のクリム=ハーン国【本試験H5マジャール人の国ではない】をオスマン帝国から独立させています。その後,オスマン帝国とヤッシー条約を結び,ドニエストル川をそのまま国境とし,クリム=ハーン国を併合しました【京都H22[2]】【本試験H30,H29共通テスト試行 クリミア戦争を戦ったわけではない】。
 〈エカチェリーナ2世〉【本試験H24】は,西は北海道の根室に〈ラクスマン〉(1766~1803?) 【本試験H24】 を来航させています【本試験H28ピョートル大帝のときではない】。〈ラクスマン〉とともに帰国したのは1782年に伊勢を出てカムチャツカ半島に流れ着いた船乗り〈大黒屋光太夫〉(だいこくやこうだゆう,1751~1828)でした。〈光太夫〉は1791年にはペテルブルクで〈エカチェリーナ2世(大帝)〉に謁見しています。
 なお,〈エカチェリーナ2世〉は,ベルリンの画商〈ゴツコフスキー〉から絵画コレクションを購入して離宮に収蔵しました。これが,世界三大博物館ともいわれるエルミタージュ博物館です(注)。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-743

◆工業化を進めるロシアは北アメリカのアラスカに進出し,日本への通商も要求した
 国政の近代化は進まなかったが,フランスの〈ナポレオン〉の東進を防ぐ
〈レザノフ〉は中国市場を見据え日本に通商を要求
 ロシアは1799年には北アメリカのアラスカの支配を開始。西ヨーロッパでフランスの混乱が続く中,1801年には改革に意欲的な〈アレクサンドル1世〉(位1801~25)が即位し,工業化を推進します。
 1804年には〈レザノフ〉を日本の長崎に派遣し,通商を要求しましたが,これは失敗。すでに1799年に設立されていた毛皮事業に携わるで露米会社の設立に携わった〈レザノフ〉(注)は,北太平洋沿岸の毛皮交易ブームに乗り遅れまいとしたのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193。

 皇帝は自由主義的な改革を急ぎ,西ヨーロッパに追いつくために様々な改革が実行されていきます。中央の官制が改革され,陸軍・海軍・外務・内務・大蔵・文部・司法・商務の省庁と大臣が設けられました。農奴制の解放には到りませんでしたが,1803年の勅令では条件付きで領主貴族の所有する農奴を有償で解放させました。これに対しては保守派(いままでの制度を維持しようとするグループ)の反発も少なくなく,皇帝にまかされた〈スペランスキー〉は憲法を制定し,国会(ドゥーマ)を開設して三権分立を確立し,立憲君主制の国づくりを進めようとしますが,1812年には国政から追放されています。

 ロシアはアラスカ方面から北アメリカ大陸にも進出を続けており,北アメリカ北西部の海岸の先住民トリンギット人との間で,1804年に大きな戦争がありました(シトカの戦い)。彼らは“贈り物合戦”(ポトラッチ)の風習やトーテムポールで知られ,クジラなどの漁労や採集を営んでいた民族です(注)。
 また,七年戦争(1756~63)では当初は中立を守っていましたが,イギリスが中立国の船まで攻撃(拿捕(だほ))する方針をとったため,デンマークとともに武装中立を提唱し,イギリスとの戦争に発展しました。
 その後アメリカ独立戦争でも,1778年にスウェーデンが中立国の船を保護するように訴えたのに乗っかり,〈エカチェリーナ2世〉【追H18】は1778年に武装中立同盟【追H18】を提唱しました【本試験H16ロシアはイギリスに宣戦布告していない,本試験H19イギリスは参加していない】。「戦争の当事者国じゃないのに,海を自由に通行してアメリカとの貿易ができないのはおかしい!」と国際的な圧力をかけ,イギリスを間接的に追い詰める役目を果たしました。
(注)ポトラッチとは,北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持ちます。相手よりも多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのです。詳しくは下記を参照。
「〔ポトラッチは〕北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持つ。…多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのである。…しかし,贈り物を貰いっぱなしでいることは,貰った側の社会的威信が下がることを意味する。そこで,贈り物を受け取った者は,今度は自分が儀礼の主催者となる機会に以前贈り物をくれた人物を招待し,貰ったものと同等あるいはそれ以上のお返しの贈り物をすることで自らの面子を保とうとした。ところが,最初の贈り主は,自分が贈った以上に相手から贈られると自らの面子がつぶれることになる。このようにして,お互い相手より多くの贈り物をしようと,交換のパートナーの間では,贈り物合戦が際限なく続いていき,次第に贈り物の額や量がエスカレートしていく結果となった。
贈り物としては,食料やこの地方で貴重な財であった毛皮や毛布が利用されたが,最終的には銅製のプレートが贈与の対象となった。このプレートはそれ自体実用的な価値はないが,固有の名前をもち,その由緒が知られているもので,プレートを受け取るためには多量の毛布が必要なためその価値はきわめて高かった。そして,こうした贈与の競争が極端な形になると,相手に贈与するのではなく,相手からのお返しはいらないとばかりに,わざと相手の目の前で,これらの貴重な財を燃やしたり海に投げ捨てるなどの破壊行為が行われた。」(尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】』弘文堂,1994年,pp.744-745)


 その後ロシアは,フランスの皇帝に即位した〈ナポレオン〉に対する1805年にイギリスを中心とする第三次第仏大同盟によって,オーストリアやイギリスとともにフランスを包囲しようとしました。
 〈ナポレオン〉はイギリスに上陸することはできませんでしたが(1805年トラファルガーの海戦で敗れる【東京H29[3]】【本試験H29】),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【本試験H22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【本試験H22】,1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。
 ロシアはこのときフィンランドの支配権を〈ナポレオン〉に確認し,1808年にフィンランドに侵攻し,1809年にはスウェーデンからフィンランドを奪うことに成功しました。こうして生まれたのが,フィンランド大公国(1809~1917)です。フィンランドの名前がついているものの,君主はロシアの〈アレクサンドル1世〉という傀儡国家でした。

 〈ナポレオン〉との戦争を戦いながら,領土の拡大もすすめ,1812年には現在のルーマニアとの国境付近のベッサラビアをオスマン帝国から獲得。1814年にはイラン方面のカスピ海西部を獲得しています。1812年に開始された〈ナポレオン〉のモスクワ遠征を防ぎ,1813年からは諸国民戦争で〈ナポレオン〉に勝利し,退位に追い込みました。1814年にはじまるフランス戦後処理のためのウィーン会議には外務省の〈ネッセルローデ〉(1780~1862)が全権として出席しています。



・1760年~1815年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現③ラトビア,④リトアニア

 現・エストニアの北部エストラントはスウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となっていました。
 現・エストニアから現・ラトヴィアにかけてのリヴラントも、スウェーデンの支配下にありましたが、ロシアとスウェーデン間の大北方戦争により1710年にロシアが占領し、1721年のニスタット条約で正式にロシア領となっていました。

 現・ラトヴィアのリーガ湾南岸のクールラント公国は、ポーランド=リトアニアの宗主権下にありましたが、ロシアによる介入が目立つようになります。
 1710年にはロシアの〈ピョートル大帝〉の姪〈アンナ〉がクールラント公に嫁ぎました。1730年に大帝が亡くなると〈アンナ〉は女帝(位1730~40)となりますが、クールラント公に後継者がなかったため、〈アンナ〉はバルト=ドイツ人の〈ビューレン〉男爵(位1737~1758、1763~1769)にクールラント公国を与えることとしました(注1)。その支配層であるバルト=ドイツ人は、ポーランド派とロシア派に分かれて混乱。第3次ポーランド分割の際に、クールラント公国は〈ビューレン〉の息子(位1769~95)によりロシアに譲渡されました。

(注1) 志摩園子『物語 バルト三国の歴史―エストニア、ラトビア、リトアニア』中公新書、2004年、p.78。

 1772年,1793,1795年【慶文H30】の3度にわたるロシア,オーストリア(第二回は不参加),プロイセン【共通一次 平1:オスマン帝国は参加していない】によるポーランド分割【共通一次 平1】により,ポーランド王国は滅亡しました。
 このとき,ポーランドと同君連合を組んでいたリトアニア大公国の領土の大半もロシアにより占領されてしまいました。
 リトアニアの北方のラトビアも,ロシアの支配下に置かれます。




○1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ

・1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
◆ポーランドは3度わたって,ロシア,プロイセン,オーストリアにより分割され消滅した
ポーランドが3回にわたる分割により消滅する
 ポーランドでは,ロシアの〈エカチェリーナ2世〉の寵臣であるロシア人貴族を〈スタニスワフ2世〉(位1764~95)として王に選ばれます。
 彼はパリのサロンをまねて文芸に力を入れたほか、1765年には「騎士の学校」というシュラフタ(中小貴族)出身の若い若者向けの軍事教育施設を設立。
 また、1773年には議会の決議で、啓蒙教育に従事する「国民教育委員会」が設立。ヨーロッパ初の文部省ともいわれます。この委員会はポーランド語を教授言語として認めています(注1)。

 この改革に対し、ロシアは圧力をかけますが、ポーランドのシュラフタはそれに反発。
 1768年にシュラフタは「バル連盟」(バルはポーランド南部の都市名)という武装連盟をつくり戦いますが、ロシアに降伏(注2)。
 このころからポーランド分割の動きがプロイイセン、オーストリア、プロイセンの3国間で活発化し、1772年にはペテルブルクでプロイセンとオーストリアとともに第一回ポーランド分割を実行する調印がおこなわれました【本試験H13ポーランド分割によりヤゲウォ朝が滅んだわけではない,H29共通テスト試行 以後ポーランド分割にエカチェリーナ2世が参加したかを問う】。

 こうした自体に対し、1788~1792年に「四年国会」(別名は大国会)で議論が行われ、1791年には「5月3日憲法」が制定されました。この中で、選挙王政の廃止と、〈スタニスワフ=アウグスト〉以降はザクセン家が王位を継承することや、リベルム=ヴェト制を廃止して多数決制をとること、マグナトとシュラフタの権限を狭めること
しかし、こうした改革に対する反対派も多く、反対派はロシアに軍事介入を要請、これがロシアの〈エカチェリーナ2世〉【本試験H18ミハイル=ロマノフではない】による1793年の第二回ポーランド分割につながります。
 このときにはオーストリアはバイエルン併合に関心を持っていて分割に参加せず、プロイセンのみの参加でした。
 「5月3日憲法」を擁護する改革派の〈コシューシコ〉らの軍は善戦しましたが、〈スタニスワフ2世アウグスト〉の降伏で分割は実行されました。
 しかし〈コシチュシュコ〉(コシューシコ)(1746~1817) 【本試験H12コッシュートとのひっかけ。時期(19世紀前半ではない)】【本試験H13グスタフ=アドルフではない,本試験H18,本試験H22「連帯」の指導者ではない,H31】はクラクフで蜂起。ロシアに対して戦います。
 彼はアメリカ独立戦争【本試験H31パリ=コミューンではない】にも義勇軍として参加し,〈ワシントン〉の副官として戦った人物です。

 しかしこの蜂起が引き金となって、1795年【慶文H30】には再びプロイセン,オーストリアとともに第三回ポーランド分割を決行。〈スタニスワフ2世アウグスト〉は退位し、ポーランドは滅亡しました。

(注1)渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.39。
(注2)渡辺克義『物語 ポーランドの歴史―東欧の「大国」の苦難と再生』中公新書、2017年、p.40。




・1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
 さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年には第三次第仏大同盟によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。

 〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805年トラファルガーの海戦で敗れる【東京H29[3]】【セ試行 時期】【本試験H29】【追H19、H25フランスがイギリス海軍に敗れたか党】),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【本試験H22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【本試験H22】,1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。

 〈ナポレオン〉統治下のプロイセンでは,〈シュタイン〉(首相任1807~08) 【本試験H9オーストリアではない,本試験H12「ドイツ国民に告ぐ」の講演をしていない】【本試験H23】は農民解放【本試験H13時期(三十年戦争のときではない),本試験H23】【本試験H6】,都市の自治を推進しました。〈ナポレオン〉の圧力で〈シュタイン〉が辞任すると,今度は〈ハルデンベルク〉(外相任1804~06,宰相任1810~22) 【本試験H9オーストリアではない】【本試験H23】が営業の自由,ユダヤ人解放,農民の領主に対する義務の廃止(ただし有償)といった近代化政策が実行に移されました。フランス支配を通して,否応(いやおう)なしに,新しい思想の影響を受け,また危機意識が生まれたのです。
 この改革により土地を獲得して農奴ではなくなった農民は,代償として領主に土地の3分の1~2分の1や村の共同地を取られ,細々とした農地で生活が成り立つわけもなく,領主のもとで働く労働者(農業労働者)となりました。こうして,かつて農奴を用いてグーツヘルシャフト(農場領主制)(⇒1200年~1500年の東ヨーロッパ)を経営していたユンカー(領主層)は農業労働者による経営を始め,また新たに土地を購入してユンカーになる資本家も現れました(いわゆる“ユンカー経営”)。結局本質的には何も変わっていないという結果です。
 それでも,このようにフランスを見本に改革をすすめていけば,いつかドイツでも産業革命(工業化)が起きる。そうすれば,従来の身分制度が崩れ,今よりももっと自由な市民による社会が生まれるだろうという期待が持たれていました。しかし,誰でも自由に取引きができる市民社会がもしやって来たら,その分,新たな争いごとが増えるおそれもあります。そんな新しい時代に求められる道徳について構想したのが,東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクで活動した〈カント〉(1724~1804)です【本試験H12マルクス・ダーウィン・ベンサムではない】【本試験H13ソクラテス,孔子,釈迦ではない】。彼は,(大陸)合理論【本試験H12】の〈デカルト〉のように「法則は理性(アタマ)だけで導き出すことができる」とも,(イギリス)経験論【本試験H12】の〈ロック〉【追H21アメリカ独立宣言に影響を与えたか問う】のように「人は経験を通じてのみ世界を認識することができる」ともせず,その両者の折衷(せっちゅう)案を考え,ドイツ観念論【本試験H12】と呼ばれる学派の祖となります。これまでの哲学者は,この世の中にある物が,人間の心の中の像にスクリーンのように映ることで,“物がある!”と認識できるのだと考えていましたが,〈カント〉はそれをひっくり返して(コペルニクス的転回といいます),人間のほうが認識の枠組みをフル活用して対象を捉えようとしているんじゃないか,と考えたのです。そして,人間はたしかに,感性(時間や空間を認識)や悟性(量・質・関係・様相(状態)を認識)を組み合わせて,この世で起きている現象について認識することはできる。つまり,人間が“認識できた!”と思っているものは,所詮人間の認識枠組みによって再構成されたものに過ぎないわけで,本当にその物自体を認識できているわけではないんだと考えたのです。人間の理性には,認識できる領域とできない領域がある。そのように吟味することを批判と呼び,彼は『純粋理性批判』(1781),『実践理性批判』(1788),『判断力批判』(1790)を発表しました【本試験H13「人間の認識能力に根本的な反省を加え,批判哲学を確立した」かを問う】。
 
 〈カント〉の影響を受けたドイツ人【追H28フランスではない】の〈フィヒテ〉(1762~1814) 【本試験H12〈シュタイン〉ではない】【追H19,H28人権宣言を起草していない,H29ルイ14世の支配に対抗したわけではない】は,〈ナポレオン〉占領下のベルリンで,「ドイツ国民に告ぐ」【本試験H12時期(19世紀前半か問う)】【追H19,H29】という連続講演を行い,自信をなくしている人々に「〈ナポレオン〉によってドイツ人は“統一”を失ってしまった。ドイツ統一のために立ち上がろう。自分たちは“ドイツ人”なんだ!」という意識を盛り上げました。実際には,「ドイツ」という国が“統一”されていたことは一度もなかったわけなのですが…。

 また,ドイツ人の哲学者〈シェリング〉(1775~1854)は,イェーナ大学に〈ヘーゲル〉(1770~1831) を講師として招いた人物です。のちに〈ヘーゲル〉は,自由に活躍できるようになった個人が,どうやったら理想の社会をつくりあげていくことができるのかということを,突き詰めて考えました。彼は,世の中は何かが生まれると,それに対立するものによって否定され,ぶつかりあうことでより高い段階に発展する。それを繰り返していくと,やがて社会は発展していく。この世界には,人類の社会を発展させる見えない力(絶対精神)が存在していて,人類は「自由」を最終ゴールとして進歩していくのだ,と考えました。彼は世界史とは『自由の意識が前進していく過程』と断言しています。
 人類の歴史は「絶対精神」に導かれ「自由」を目指して進歩していく…そんな〈ヘーゲル〉の考えに影響を受けながらも,「ヘーゲルの考える「絶対精神」は,抽象的でよくわからない。人間の社会を動かす力を,もっと客観的に考えることはできないか」と考えたのが〈フォイエルバッハ〉(1804~1872)です。「人間主義的な唯物論」と説明されることが多いです
 彼の考え方を受け継いだのが〈マルクス〉(1818~83) 【本試験H2】で,人間の社会や政治・思想は経済的な関係(生産関係)が変化することによって進歩していくと考えました。そして,その最終段階では,共産主義にもとづく理想の社会が出現すると予想したのです。共産主義の社会とは,階級の存在しない社会のことです。『歌の本』【本試験H15,本試験H18『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』ではない】【立命館H30記】を著したロマン主義の詩人〈ハイネ〉(1797~1856) 【本試験H10ロマン主義かどうかを問う】【本試験H15時期と地域(19世紀前半のドイツ),本試験H18ゲーテではない】は,〈マルクス〉との交流も持っていました。彼は1830年代~50年代にかけて盛んになったドイツの若手の詩人中心の「青年ドイツ派」(若きドイツ)という運動にも参加。文学によって政治に参加し,絶対主義国家に対し抵抗し,自由を求めました。

 一方,〈マルクス〉【本試験H19フーリエではない】は国を越えて社会主義運動を起こそうとして1864年にロンドン【東京H26[3]】【本試験H27】で国際労働者協会(第一インターナショナル) 【東京H26[3]】【本試験H3時期(19世紀後半か),本試験H8,本試験H12 時期(19世紀後半か問う)】【本試験H14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたわけではない,本試験H19,H27】を設立し,個人の革命家や様々な団体を集めました。
 しかし,アナーキスト(政府をこの世からなくすことで理想の社会をつくろうとした人々)の〈バクーニン〉(1814~76)らとの内部対立や,パリ=コミューン【東京H28[3]】を支援したことから各国で弾圧を受けて崩壊しました。国際的な社会主義運動は,ドイツの社会民主党が主導し、パリ【追H26】で結成された1889年の第二インターナショナル【本試験H14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたかを問う,本試験H19ソ連の設立ではない】【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない、追H26】に受け継がれました。

 文学の世界では,はじめはギリシア・ローマの文学を受け継いだ格調高い古典主義【本試験H13バルザックは古典主義ではない】がブームでしたが,〈シラー〉(1759~1805)や〈ゲーテ〉(1749~1832) 【本試験H10】【本試験H19ハイネとのひっかけ】【法政法H28記】はおおよそ1767年~1785年までの間に疾風怒濤運動(シュトゥルム=ウント=ドランク)という運動で,「理性よりも感情のほうが大事だ!」と訴え,〈シラー〉は『群盗』『ヴァレンシュタイン』,〈ゲーテ〉【本試験H29シラーではない】は『若きウェルテルの悩み』【本試験H18】『ファウスト』【本試験H18,H29】を著しました(この2人は文学史のカテゴリーでは古典主義【本試験H10自然主義ではない】に分類されることもあります)。
 また代表作に『青い花』がある〈ノヴァーリス〉(1772~1801)も,ロマン主義に分類される作品を多数残しています。




○1760年~1815年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 バルカン半島の大部分はオスマン帝国の支配下にありますが,ヨーロッパ諸国の啓蒙思想や民族主義思想の影響を受け,自分たちの民族や宗教の意識が次第に高まっていきます。



○1760年~1815年のイベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル

◆七年戦争の敗戦後,スペインでは啓蒙主義的な改革がおこなわれた
 〈カルロス3世〉(位1735~59)の代に参戦した七年戦争(1756~63)では,スペインは新大陸への進出を強めていたイギリスを“共通の敵”とするフランス側に立ち,イギリスに対抗しようとしました。
 しかし,戦争の結果フランス,スペイン,イギリスの間で締結されたパリ条約【名古屋H31史料】では,
 ①フランス→イギリス:北アメリカのカナダと,北アメリカにあるミシシッピ川以東のルイジアナ【追H17フランスにわたったわけではない、H20スペインにわたったわけではない】
 ②スペイン→イギリス:北アメリカのフロリダ
 ③フランス→スペイン:北アメリカにあるミシシッピ川以西のルイジアナ【追H9スペインはルイジアナを失ったわけではない】
 ④フランス→イギリス:フランスに占領されていたミノルカ島(メノルカ島)
 ⑤フランス→イギリス:アフリカ大陸のセネガル
 現⑥フランス→イギリス:カリブ海のトバゴ
 ①~⑥のような領土の変更が取り決められました【追H9フランスは中米で覇権を確立していない,オランダは南アフリカに植民地を獲得していない】。

 イギリスに対して新大陸のフロリダ【明文H30記】を割譲することになったスペインの支配層の中には,「イギリスに対抗するためには,古臭い制度を廃して社会改革や政治的・経済的な近代化を進め,国内をまとめるべきだ」という意見が出てくるようになります。
 1766年にマドリードで起きた食糧暴動をきっかけに本格的な改革(ブルボン改革(スペイン語の読みで「ボルボン改革」))が始まり,暴動の陰謀を企んだという罪を着せられたイエズス会が国外追放され財産を没収されました。イエズス会はローマ教皇庁の影響力を強く受けており,中央集権的な社会改革を進めようとした支配層にとって邪魔な存在となっていたのです。

 植民地にも,ブルボン(ボルボン)改革の波が及びます。従来は大西洋における貿易はセビーリャ港(1717年以降はカディス)が独占していましたが,イギリスなどによる密貿易や海賊行為を完全に押さえることができず苦慮していました。そこで1765年以降,スペインとアメリカ大陸との自由貿易が順次許可されていきました。これにより大西洋を取り巻く貿易額は格段に拡大していきます。
 また,アメリカの植民地は「海外諸県」という呼び名に変えられ,植民地の支配方式も変更されました。ペルー副王領から,すでに1717年にヌエバ=グラナダ副王領が分割されており,1776年にはリオ=デ=ラ=プラタ副王領が新しく設けられました。
 中央集権的な改革への反発と,啓蒙思想の広がりを背景として,クリオーリョ(植民地生まれのスペイン系の人々)やによる反乱も起きています。また,1781年には先住民が植民地を支配するスペイン人官僚やクリオーリョに対して大反乱(トゥパク=アマルの反乱)も起きています。
 さらに,1783年に北アメリカの13植民地がイギリスから独立したことは,スペインと新大陸の植民地に甚大な影響を与えました。

◆スペインはフランス革命と〈ナポレオン〉による占領を経て,自由主義的な動きが高まった
 そんな中,〈カルロス4世〉(位1788~1808)が父の座を継ぐと,翌年1789年に隣国フランスではフランス革命が勃発。啓蒙主義的なブルボン(ボルボン)改革を進めていたスペインでは,革命を防ぐために政策が一転して保守化していきます。〈カルロス4世〉が政治的な能力に欠けていたため,王妃やその寵愛を受けていた宰相〈ゴドイ〉が実質的に実権を握る時代となりました(1789~98,1800~1808)。〈ゴドイ〉は「上からの近代化」を急速に進め,さまざまな改革を実行しつつ,〈ルイ16世〉を保護しようとしましたが,1793年に〈ルイ16世〉が処刑されるとフランスの国民公会とスペイン王国は戦争を開始。このとき,カタルーニャ地方の民衆のうち自由主義的な人々はフランス側について,スペインに挑みました。
 しかし,のちに〈ナポレオン〉の時代には,1805年にイギリスとスペインの連合艦隊がトラファルガーの海戦【追H25】【東京H29[3]】で敗れると,スペインは劣勢に立たされます。〈ナポレオン〉はイギリスの同盟国であったポルトガルを押さえるためにスペインの〈ゴドイ〉に対して軍隊の通過権を要請し,これを受けたがためにスペインは〈ナポレオン〉による軍事的な進出を受けることになりました。反〈ゴドイ〉派は〈フェルナンド7世〉(位1808,1814~33)を新国王に立てたものの,〈ナポレオン〉により廃位され,代わって6月に彼の兄〈ジョゼフ〉を〈ホセ1世〉(位1808~13)として即位させ,ボナパルト朝を樹立しました。これに先立つこと1ヶ月前の5月3日には,蜂起を起こしたマドリード住民の銃殺刑がとりおこなわれ,〈カルロス4世〉の宮廷画家であった〈ゴヤ〉(1746~1828)【本試験H4】が「5月2日の蜂起」,「5月3日の処刑」【本試験H4図版 ナポレオン軍の侵入に対する蜂起か問う。諸国民戦争・スペイン継承戦争・三十年戦争に関する絵画ではない】(スペインのプラド美術館所蔵)と題した絵画を発表しています。

 ボナパルト朝の樹立直後からスペイン各地で様々な独立運動が起きていました。1810年にはカディスで議会が開かれ,国民主権の原則が確認されました。この議会にはアメリカ大陸の代表も参加しており,こうした自由主義的な動きはアメリカ大陸のスペイン植民地の独立運動にも影響を与えることになります。なお,カディス議会では,自由主義的な1812年憲法(カディス憲法)が制定されました。

 このスペイン独立戦争に対して〈ナポレオン〉は大規模な陸軍を動員しますが,1811年以降は小さな部隊が敵の戦力を撹乱させる「ゲリラ戦」(ゲリラは,「ゲラ」(スペイン語で“戦争”)に縮小語尾がついたもの)により悩まされるようになり,ロシア遠征のためにスペインの兵力が削減されるとイギリスの支援するスペイン軍が反撃する形となり,1813年には〈ホセ〉が退位。1814年には国境付近のカタルーニャから撤退しました。
 しかし,元国王の〈フェルナンド7世〉は自由主義者を弾圧して復位し,1810年に招集されたカディス議会で制定されていた自由主義的なカディス憲法(1812年憲法)を無効とし,復位しました。「フランス革命の影響をなくし,革命前の体制(アンシャン=レジーム)」に戻すための政策が実行され,それに対する自由主義者たちの反発は日増しに高まっていきました。





○1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現①イタリア
 イタリアは,複数の国家が割拠する状態でした。
 このうち,北西部ではサルデーニャ王国が台頭します。
 
 しかし,フランス革命後の1796年に〈ナポレオン〉がイタリアに進出。

 当時,オーストリアに服属していたミラノのほか,教皇領の北部の諸小国は〈ナポレオン〉を,オーストリアの支配からの“解放者”として支持。
 これに対してオーストリアは,ヴェネツィア共和国の協力によりイタリアに進出。ヴェネツィアは,1797年のカンポ=フォルミオの和約で,オーストリア領として譲渡されています(のち,1805年にフランスの支配する「イタリア王国」に譲渡)。

 〈ナポレオン〉は1797年に北イタリア地域を,チザルピーナ共和国として一括支配。
 翌年にはローマも占領しました。
 1802年にはチザルピーナ共和国をイタリア共和国(首都はミラノ,大統領はナポレオン)に再編し,1805年にはイタリア王国(首都はミラノ,国王はナポレオン)とします。

 南部のブルボン朝ナポリ王国は,1806年に〈ナポレオン〉に占領され,初めナポレオンの兄〈ジョゼフ〉がナポリ王(位1806~1808)に,のち〈ジョゼフ〉がスペイン王となると義弟〈ミュラ〉(位1808~1815)が継いでいます。

・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現②サンマリノ
 1631年に教皇により独立が認められていたサンマリノは,このときから共和国でした。
 〈ナポレオン〉時代にも,〈アントニオ=オノフリ〉(1759~1825)の外交努力により,独立を維持しています。




・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現③ヴァチカン市国
 教皇〈クレメンス13世〉(任1758~1769)は,当時のヨーロッパの諸王国でイエズス会を排斥する動きが高まっていことに対し,1765年の回勅でイエズス会を擁護しています。
 次の教皇〈クレメンス14世〉(任1769~1774)は,諸王国における反イエズス会の動きにあらがうことはできず,1773年にイエズス会を解散させました。
 教皇〈ピウス6世〉(任1775~1799)のときにはフランス革命が勃発。フランス軍によりローマが占領される中,1799年に死去。

 教皇〈ピウス7世〉(任1800~1823)は,1801年にフランスの〈ナポレオン〉との間にコンコルダートを成立させ,1804年には戴冠式にも出席。〈ナポレオン〉が自らの権威を利用する姿にショックを覚えます。
 のち〈ナポレオン〉は教皇領を奪ったため,教皇は彼を破門。教皇は〈ナポレオン〉により1814年まで幽閉されました。




・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現④マルタ
 地中海の中央部の要衝に浮かぶマルタ島は,1798年に〈ナポレオン〉がエジプト遠征の際に占領。マルタ騎士団はロシア皇帝〈パーヴェル1世〉(位1796~1801)に保護を求めました(彼は騎士団の総長となっています)。
 〈ナポレオン〉の権力が衰えると,1814年のパリ条約でマルタはイギリスに併合されました。イギリスにとってマルタ島は,インドへの道(インド=ルート)の上に位置する商業的・軍事的な重要地点だったのです。

・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑤モナコ
 グリマルディ家のモナコ公はフランス王国の臣下の地位にありましたが,独立は保っていました。
 しかし,フランス革命中にはフランス共和国により占領を受けます。




・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
 アンドラのウルヘル司教は,フランス国王とともに共同大公の地位にありました。
 しかし,1793年の〈ルイ16世〉の処刑により,フランス国王=アンドラ大公が不在に。アンドラとフランス共和国との関係は断絶されましたが,のち〈ナポレオン〉が関係を修復。共同大公の制度が復活します。




・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス

フランス革命が勃発する【追H28時期を問う】

 引き続き啓蒙思想が,フランスの伝統的な政治や社会に対する批判を強めていました。拠点となったところには,貴族や市民の社交の場であるサロン【本試験H12】や,カフェ(コーヒーハウス)【本試験H12】があります(パリのカフェ=プロコーブが有名)。啓蒙思想家〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【本試験H12『経済表』を著していない】は,仲間と議論を交わしながら,新大陸産のココア入りコーヒーを1日40杯飲んだと言われています。

 〈ジャン=ジャック・ルソー〉(1712~1778) 【本試験H8啓蒙思想が,フランス革命に影響を与えたかを問う】【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う】は,啓蒙思想家に分類されますが,どちらかというとパリのカフェやサロンとは距離を置き,音楽や恋愛小説執筆に没頭した自由人でした。
 彼の著作である『社会契約論』(1762)【本試験H2ロックの著書ではない】【追H9『リヴァイアサン』ではない】は,当時から注目されていた論文ではありませんが,後世に与えた影響は計り知れません。
 これは,“王のいない政治”がどうやったら実現可能かプランを示したものです。彼は,「そもそも社会は,人々が「どういう社会をつくっていきたいのか」という思いにもとづいて社会契約を結んだ上で,作られるべきだ」と考えます(社会契約説【追H20スコラ哲学(スコラ学)の主張ではない】)。ただ,「社会を作るからといって,メンバーの自由や個々の利益は奪いたくない。でも,国としてのまとまりは必要だ。だから,メンバーは “みんなの共通の利益” を代表する“一般意志”のもとでまとまるべきだ」と主張したのです。彼は,この「一般意志」がどういったものか,丁寧に説明を試みます。
 また,彼は,人為的な要素を排した自由教育にも興味を持ち,新たな時代に対応した教育論『エミール』も著しました。のちに,ドイツ人哲学者〈カント〉(1724~1804)が,日課も忘れて読みふけることになる書物です。〈ルソー〉はほかに『人間不平等起源論』【本試験H2「人間の不平等は私有財産を是認する社会体制から生じたとした」ことを問う】【追H21、H28シェイエスの著作ではない】も著しています。
 〈ルソー〉は1778年に亡くなりましたが,彼の思想は行き続けます。
 「フランス革命」【東京H12[1]指定語句】の勃発は,もはや時間の問題でした。

 イギリスの産業革命(工業化)が急ピッチで進むなか,一刻も早く自国の技術革新を達成して生産性を高め,より多くの商品をより安く生産する仕組みをつくらなければ,経済的にも政治的にも支配されてしまうかもしれない…他国は警戒感を強めていました。
 しかし,古い体制(フランスではアンシャン=レジーム(旧体制)といいます【追H26「フランス革命以前のフランス」】)においては,国民は身分や職業ごとに分かれバラバラの状態でした。国王がトップにいて,その次に聖職者(第一身分),次に貴族(第二身分)がおり,平民(第三身分【追H24貴族ではない、H26第二身分ではない】)が続きます。みなそれぞれの身分・家系・職業・教会のことを考えていて,これではまとまるはずがありません。
 しかし,時代は産業化の時代です。第三身分の資本家(市民,フランス語でブルジョワジー)を中心に,自由な競争によって技術革新を起こして産業革命(工業化)を実現させなければ,フランスの市場はやがてイギリスの製品に飲み込まれてしまう危険性がありました。

 自由な考えを持つ資本家たちは厳しい競争を勝ち抜いた努力の成果(=財産)を社会的に認められることなく,フランス社会は依然として国王・聖職者・貴族を中心とした体制が続いていました。もちろん,聖職者や貴族の中にも,同様の危機感を抱いていた人々もいます。

 「これからの時代は,家柄や身分によって人生が決まる時代ではない。それではイギリスとの競争に負けてしまう。これからの時代は,人々が自由に競争をしてその能力を活かし,結果として手にした財産の多さによって,権利が与えられるようにするべきだ」と,自由主義者はこのように主張します。
 ここでいう「自由」というのは,「空を自由に飛びまわりたい」という言葉のように,のんびりとしたイメージではありません。「自由にやってもいいが結果は自分で責任をとりなさい」ということです。弱い立場にある貧しい人々(都市の下層民や農村の農奴)にとっては,自由主義は厳しい考え方なのです。
 一方,富裕ではない人々が求めた理想は,「自由」ではなく,「平等」でした。従来,都市で商工業を営んでいた手工業者にとっても,互いに生産量や価格・営業時間の協定を結びながら助け合う「ギルド」【本試験H21自由競争を保障する組織ではない】という組織にとっても,自由に競争することは価格競争により倒れる親方が出るおそれもあり,受け入れがたい考え方でした。
 産業化の競争の時代にあっては,フランスは一つの国として団結しイギリスに対抗する必要がありました。その中で,フランス人の団結心を強めることが主張され,同胞(兄弟,仲間)に対する愛(友愛)が大切だという価値観が生まれていきます。

 「自由」を主張すれば,「平等」がかないません。「平等」を主張すれば,その「友愛」の精神がフランス人だけなのか,フランス人以外の者も含むのかという問題とぶつかります。「友愛」を主張すれば,「自由」な競争の生む格差に対処できません。当時のフランスは,相互に矛盾し合うこの3つのキーワードをさまざまな人々がいろんな形で主張していく激動の時代にありました。

 ただし,フランスはイギリスに全く遅れをとっていたわけではありません。例えば,学問の分野では,注目すべき業績を起こした人々が多くいます。
 例えば,〈ラプラース〉(1749~1827) 【追H17】が星雲が凝縮することで太陽系ができたのだという説(星雲説)を提唱し,確率論の研究も行って”フランスのニュートン”とも言われました【追H17万有引力の法則を発見し『プリンキピア』を著したのではない】。

 化学の分野では〈ラヴォアジェ〉(ラヴォワジエ,1743~94) 【本試験H2ボイルとのひっかけ】【追H9,追H20】が質量不変の法則【本試験H2ボイルの法則ではない】【追H9血液循環原理の発見ではない】【本試験H16種痘法ではない】【追H20万有引力の法則ではない】を提唱しましたが,徴税請負人という立場が批判されフランス革命の中,ギロチンで処刑されてしまうことになります。




◆海外貿易の自由化が進む一方、国内改革で行き詰まり、特権身分の反抗が動乱につながる
自由貿易を推進するが、国内改革に失敗する
 王室の状況に目を移しましょう。
 七年戦争では,イギリスがオランダとプロイセンと組み,フランスはオーストリア・ロシアと組みました。後者のチームが敗北。フランスは植民地の多くを喪失し,財政再建が必要となりました。〈ルイ16世〉(位1774~92)は,先進的な重農主義(自由放任主義【追H21自由放任主義を批判してはいない】)の経済学者〈テュルゴー〉(1727~81) 【追H21】,次に〈ネッケル〉(1732~1804)を財務総監(ネッケルは外国人のため財務長官)として,ギルドの廃止(のちフランス革命の間に廃止されることになります【本試験H28】)や,国内関税(フランス国内の商品の移動にかかる関税)の廃止(こちらもフランス革命により廃止)について考えさせました。

 すでに先代の〈ルイ15世〉(位1715~1774)の時代には、財政の悪化したフランス東インド会社の活動は停止。西インド貿易に従事していいた貿易商人や海外貿易への投資をすすめようとする人々の要求が取り入れられ、〈ルイ16世〉の代の1775年には東インド貿易が正式に自由化されました。同じ時期に政府が独占権を与えていたイギリス東インド会社とは対照的で、自由貿易という点ではフランスのほうがイギリスよりも進んでいたわけです。1787年以後、貿易額もオランダ東インド会社を上回る規模でした(注)。

 このように〈ルイ16世〉は,学者の意見をとりいれつつ経済の立て直しを図っていたわけなので,〈エカチェリーナ2世〉のように啓蒙専制君主の一人に数えてもよいのではないかという意見もあるんです(“アホなルイ16世がフランス革命で倒された”というのは,ちょっと単純すぎる説明です)。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.337。


 しかし、問題だったは国内の制度改革です。
 財務総監〈ネッケル〉らの改革もなかなか進まなかったため,国王は、1783年に財務総監に就任した〈カロンヌ〉(1734~1802、財務総監任1777~81、88~89、89~90)の「第一身分と第二身分も含む全身分から上地上納金をとるべきだ」という意見を、臨時で組織した名士会で承認させようとします。しかし、「それはおかしい」と,第一身分・第二身分【共通一次 平1:免税特権を持っていたか問う】が反対。彼らの拠点である高等法院は,〈カロンヌ〉をやめさせて名士会も解散。
 代わって〈ルイ13世〉以降ずーっとひらかれていなかった【共通一次 平1】三部会【本試験H12「封建的特権の廃止を決定した」か問う】【本試験H16ルイ16世による召集】【追H24三部会を召集したのはルイ14世ではない,H28封建的特権の廃止を決議したか問う。決議したのはその後の国民議会】を開催したほうがよいのではないかということになりました。国王ははじめ第一身分・第二身分の意見に反対しますが,三部会を開く方向で妥協する方向をとり,〈ネッケル〉を財務総監にもう一度就任させ,改革を続行させようとしました。

 1789年5月に招集されましたが,新税をとりたてられたくない両身分に対し,市民の属する第三身分は採決方法について異議を申し立て,三部会とは別に「国民議会」【共通一次 平1:バスティーユ牢獄事件の結果,成立したわけではない】を創設しました。このときの第三身分は,都市の銀行家・産業資本家・地主を中心とする大ブルジョワジーや,医師・教員・弁護士・記者といった専門職を営む小ブルジョワジーが中心でした。資本家の中には,1786年にイギリスと結ばれた自由貿易を認める条約(英仏通商条約【本試験H2】)で,イギリスから安価な繊維製品が流入し打撃を受けた者もおり,経済的に苦しい状況なのに「第一身分と第二身分は何もしてくれない」と考える第三身分も少なくありませんでした【本試験H2イギリスから安価な繊維製品がフランスに流入し,フランス工業が打撃を受けたことを問う】。

 彼らは球戯場(テニスコート)の誓い【本試験H27ネーデルラントではない】で憲法の制定まで国民議会を解散しないことを誓いました。この頃,〈シェイエス〉(1748~1836)【追H28『人間不平等起源論』は書いていない。それはルソー】という聖職者のパンフレット『第三身分とは何か』【追H21】は第三身分を支持する内容であり,広く読まれました。
 国王による憲法なき絶対王政を終わらせ,古くさい中世の身分制社会を廃止し,その能力に応じて自由に社会的に上昇可能な社会をつくることを目指したのです。国民議会は,7月9日以降は「憲法制定国民議会」【慶文H30記】と呼ばれます。

 そんな中,7月11日,国王は反対派に押されて,改革をめざしていた財務長官の〈ネッケル〉(1732~1804)を罷免しました。第三身分出身の〈ネッケル〉が首にされたことに絶望したパリの民衆は,7月14日にバスティーユ監獄(牢獄)【セA H30ヴェルダンにはない】を襲撃しました【共通一次 平1:国民議会の成立より前ではない】【H29共通テスト試行 図版と時期】【追H25ナポレオン3世による建設ではない】。
 100年後の1889年にはパリで第二インターナショナルが結成され,200年後の1989年には東欧革命や天安門事件【セA H30】が起こるなど,後世にもフランス革命【本試験H6産業革命も同時に進行しているわけではない】がはじまった“特別な年”として記憶されることになります。

 「パリの市民が国王に抵抗した」という知らせはまたたく間にフランス全土に広がり,人々の心の中には「悪いのは国王,第一身分,第三身分だ」という構図が生まれます。
 そして,1785年の旱ばつや1788年の天候不順などの不作と食料価格の高騰に苦しんでいた農村で,農民たちが一種の群集心理(パニック状態)に陥り領主の館を襲う「大恐怖」という反乱があちこちで起こりました。急速に悪化する治安に対して,国民議会は有償ではありますが「封建的特権の廃止」【本試験H9無償で廃止されたわけではない】を宣言し(8月4日) 【本試験H12三部会が「封建的特権の廃止を決定した」か問う】【追H28三部会が「封建的特権の廃止」を決議したか問う】,領主の人格的な支配を否定しました。ただ,領主が地代をとる権利は,まだ容認されていました。

 さらに8月26日には,アメリカ独立戦争にも参加した自由主義貴族の〈ラ=ファイエット〉【共通一次 平1:アメリカ独立戦争に参加したか問う】【本試験H26リンカンではない】【追H30ナポレオンではない】の起草した「(フランス)人権宣言」(人と市民の権利宣言,英語ではThe Declaration of the Rights of the Man and of the Citizen)【東京H30[1]指定語句】【本試験H14】【追H18】【慶文H29】が国民議会【本試験H14】で採択され,従来の身分制度を真っ向から否定しました【本試験H14】。
 しかし,前年の不作から食料高騰に苦しむ女性を中心とするパリの市民は,1789年10月5日に武装してヴェルサイユ宮殿まで行進しスイス人傭兵を殺害して宮殿を襲撃,国王らをパリに連行しました(ヴェルサイユ行進)。〈ルイ16世〉がパリに戻れば食料も一緒に戻ってくると信じられたので,国王は“パン屋の主人”とあだ名されました。

 第一身分の聖職者に対しては,1789年11月に聖職者の〈タレーラン〉(1754~1838,のちにウィーン体制時代に外相として活躍する人物です)の主張により教会財産の国有化が決議され(実施は90年),1790年7月には聖職者民事基本法(聖職に関する民事基本法;僧侶民事基本法)によって聖職者を公務員化し,カトリック教会はフランスの管理下に置きました。僧侶は「精神的な軍人」なのだから,国家に仕える身であるべきだという理屈です。しかしのちにローマ教皇やフランスの聖職者の多くがこれにNOを突きつけ,基本法に従う宣誓派と抵抗する忌避派が対立しました。

 没収された教会財産を担保として債権の「アシニア」が発行されました(のちに紙幣として流通し,乱発により価値が著しく下落することになります)。
 聖職者は財産も十分の一税をとる権利も失ってしまったため,公務員になりさがったわけです。これに反対する教皇(当時は〈ピウス6世〉(位1775~99))派の聖職者は,ドイツのトリーア選帝侯を拠点とした貴族とともに反革命勢力を形成していきました。
 また,国民議会はギルドを廃止【本試験H2コルベールのときではない】【本試験H22】し自由な経済を実現させようとしました。
 さらに,国王の権力をコントロールすることを目指して,1791年【追H25】に三権分立を定めた立憲君主政【追H25共和政の憲法ではない】をフランスの政治制度とし,制限選挙制【本試験H14】による議会が制度化されました (1791年憲法) 【本試験H14】。「人権宣言」はその前文となっています。「人権宣言」の「人権」の中に「女性」の権利が含まれていないということを批判し「女の人権宣言【東京H30[1]指定語句(女性史)】」を執筆した女性に,〈オランプ=ド=グージュ〉(1748~93)がいます。

 フランス革命の担い手の中心は,革命の進行とともに上の階級から下の階級へとだんだん下がっていきます。
 上の階級は「自由」を主張しましたが,下の階級は「平等」を主張します。
 中世の身分制度を崩して「平等」を主張するには,かなり過激な社会の改変が必要となりますから一筋縄にはいきません。すでに手にした土地や資本がある人は、それを手放さまいと必死になりますから。

 1791年憲法をもとに,同年10月1日に立法議会と呼ばれる議会が招集されました。この憲法は,そもそも制限選挙が規定されていたので,一定の財産をもつ者でなければ,議員になることができませんでした。
 第一身分・第二身分を中心とした「上」の身分の人々を中心とした,フイヤン派(フイヤン=クラブ,1791年パリのフイヤン修道院に本部を置いていたグループで,ジャコバン=クラブの中の右派である〈ラ=ファイエット〉(1757~1834)や〈シエイエス〉(1748~1836)の1789年クラブと,貴族特権の廃止と議会制の立憲君主主義を主張した〈バルナーブ〉らの三頭派が合わさって成立しました)は「もう憲法をつくって,自由な社会を話し合いでつくる準備が整ったのだから,革命はこれで“おしまい”にして,国王を中心としたフランスを維持しようじゃないか」と主張しました。彼らは立法議会の中の右翼(議会正面から見て右側を陣取っていたことから,このように呼ばれます)を占めます。
 しかし,フイヤン派よりも「下」の身分に属し,資本家も含むジロンド派は,「革命はまだ“おしまい”じゃない。今の選挙制度では財産資格が厳しく,民主的ではない。もっと民主化を図るべきだ!」と主張し,次第に保守的なフイヤン派を圧倒していくようになりました。
 さらにジロンド派は「せっかく王を縛る憲法を制定したのに,外国がそれをじゃましようとしている。国王の妻の実家のあるオーストリアを早めににつぶしておくべきだ」と,オーストリアとの開戦を主張し,1792年4月にジロンド派が多数を占める立法議会【本試験H19国民議会ではない】はオーストリアに宣戦布告をしました。
 フランス国内のジロンド派に対抗する王党派などの勢力も「ジロンド派主導の戦争はどうせ負ける。負けてくれれば革命は終わる」と考え,戦争に賛同しました。

 しかし,この戦争では,かつてオーストリア継承戦争と七年戦争では犬猿の仲であったプロイセン王国が,オーストリア大公国とタッグを組んだため(どちらも君主国なので,フランスの革命に対抗したのです),フランスは苦戦します。
 プロイセンとオーストリアとの戦争がうまくいかない理由,をジロンド派は次のように考えました。
 「国王の軍隊の中に,“裏切り者”がいるに違いない。作戦計画を漏らしているのだ。フイヤン派は,国外の革命を阻止するために,国外のオーストリアによって革命を代わりにつぶしてもらおうとしているのではないか…」

 こうして訪れた1792年8月10日。パリの民衆により構成された国民衛兵やフランス各地の義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃し,衛兵を務めていたスイス人傭兵や貴族が多数殺害され,立憲君主派フイヤン派は壊滅しました。国王の一家は拘束されてタンプル宮に閉じ込められました。立法議会により王権の停止が宣言されます。
 折しも同年9月20日,フランス軍はプロイセン・神聖ローマ帝国との戦闘に勝ちました。外国との革命戦争始まって以来の勝利でした。このときプロイセン川に従軍していた〈ゲーテ〉(1749~1832)は「ここから,そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」という言葉を残しています。傭兵を雇って戦う国王や皇帝の時代はもう終わった。これからの時代は,国民が団結した強力な国家(国民国家(ネイション=ステート;nation state【本試験H16リード文の下線部】)の時代になるのだと直感したのでしょう。その翌日9月21日,初勝利の歓声があがる中,新憲法制定のために男子普通選挙制【本試験H4七月革命後の実施ではない,本試験H12 パリ=コミューンが初の普通選挙の実施例ではない】で選出された議員により国民公会が召集され,王権の停止が決定されました【本試験H25国民議会ではない】。この政体をフランス政治史では1度目の国王不在の時期ということで第一共和政とよびます。
 国民公会は翌年1793年1月には〈ルイ16世〉の処刑を決議し,セーヌ川沿いのコンコルド広場で執行されました【本試験H19総裁政府の時ではない】。

 国民公会は,国内では「上」の階層の属するライバル政党をおさえ,同時に国外では革命を阻止しようとするオーストリア,プロイセン,スペインやイギリス(全部,君主の国)と戦争する必要にせまられていました。とくに〈ルイ16世〉の処刑は,周辺の君主国に衝撃をあたえ,イギリスの若手の首相〈ピット〉(1759~1806) 【本試験H3ウォルポールとのひっかけ】【本試験H18アメリカ合衆国ではない】は1793年,第一次対仏大同盟【本試験H3ウォルポールではない】【本試験H18,本試験H26第一次世界大戦後ではない】をヨーロッパ諸国と組みました。

 ただ,ここでまた,「どこまで革命をすすめるか」という問題が浮かび上がります。ジロンド派は,フイヤン派よりも「下」の階級ではありましたが,資本家も多く属しており,さらに「下」の都市の民衆は山岳派(ジャコバン派)という,さらに急進的な革命を主張するグループを形成しました。
 ジャコバン派は急速に台頭し,やがてジロンド派を追放します【本試験H10打倒したのは〈バブーフ〉ではない】。中心となったのは〈ロベスピエール〉(1758~94)です。彼は,幼くして両親を失い,コレージュ卒業後,ルイ大王学院の奨学生となった苦労人です。ラテン語の優秀生として,ルイ16世の前で献辞を読んだこともありました。卒業後は故郷で弁護士を開業し,のち政治の世界に足を踏み入れました。民衆思いの彼は,しだいに過激化し,「危機に対処するためには,国家に強力な権力を与えることが必要」と考えるようになりました。そこで,公安委員会を中心に,領主制度が無償廃止されたり(封建的諸特権の無償【本試験H2時期(ジャコバン派支配のとき)】廃止【本試験H2これにより農民が保守化し「ナポレオンを支持する勢力の一つになった」か問う】),最高価格が定められたりしました(最高価格令)。メートル法【追H18時期】の採用が決定されたのも国民公会のときです(正式に採用されたのは総裁政府時代)。
 また,1793年には国王の所蔵品に亡命した貴族やローマ=カトリックの没収財産を加えたコレクションを,ルーブル美術館として公開しました。美術館は国民主権のシンボルだったのです。

 しかし,国内の急激な改革は,「上」の階級の人々を不安にさせ,“裏切り者”を探すために,反対勢力と目された人々は容赦なくギロチン(断頭台)に送られました(「恐怖政治(テロル)」) 【追H21恐怖政治の終わった後,ジャコバン派が独裁体制を樹立したわけではない】。

 古臭い伝統を根絶し合理的な社会の建設を目指した彼らは,週を7日とするキリスト教のグレゴリオ暦をやめて週を十進法に合わせて10日とする革命暦を導入したり【追H17立法議会が制定したのではない、H26ドイツではない】【本試験H14総裁政府の下で制定されたわけではない,本試験H19国民公会の時かを問う】,キリスト教に代わり理性を崇拝する人工的な宗教を創設してノートルダム大聖堂で祭典を開きました(理性の祭典,1793年11月の祭典がピーク)(注)。また,革命戦争の遂行のために30万人募兵令を発布し,徴兵制による国民皆兵を目指しました。
(注)〈ルソー〉の構想した「市民宗教」の思想の影響を受けています。なお,大聖堂の内部には〈フランクリン〉,〈ヴォルテール〉,〈ルソー〉,〈モンテスキュー〉の像が立てられていました。

 平等な社会をつくろうとしたのに,人々の自由を奪ってしまう矛盾を招いたロベスピエールは,1794年にテルミドール9日のクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で銃弾を浴び,失脚しました。
 〈ロベスピエール〉のいなくなった国民公会は,ジャコバン派よりも「上」の階級に主導権が戻ります。1795年憲法【本試験H14】が国民公会で制定され,独裁者が出ないように5人の「総裁」を置いた政府,「総裁政府」が成立しました。資本家の財産を守るために所有権が尊重され,「下」の階層が政治に参加してまた社会が混乱しないように制限選挙【本試験H14】がとられました。

 フランス革命の流れを単純に図式化すると,以下のようになります。
 第一段階は,国王派vsフイヤン派。
 聖職者・貴族が,自分たちの免税特権を守るために,国王の課税に対して反抗します。
 ↓
 第二段階は,フイヤン派vsジロンド派。
 都市の市民(ブルジョワジー)が,聖職者・貴族の身分による社会のしくみに対して,自由を叫んで反抗します。
 ↓
 第三段階では,ジロンド派vsジャコバン派。
 ブルジョワジーの自由主義に対して,より下層の民衆が平等を求めて抵抗します。

 総裁政府の成立後も,混乱はまだ続きます。革命はまだ“おしまい”ではないと考える山岳派の残党や,革命を完全に“リセット”させようとする王党派が,各地で衝突しています。王党派は,国民公会の末期にカトリック教会への弾圧や徴兵制に反対したヴァンデ地方の農民反乱(ヴァンデ反乱,1793~96)を支援し,総裁政府と激しく対立しました。
 また,平等な社会を求める〈バブーフ〉【東京H21[3]】【本試験H2反乱は成功していない,本試験H10内容「総裁政府の下での革命の後退を阻止するための企てであった」か問う(ナポレオンの独裁を打倒しようとしたわけではない)】も反乱を計画しますが,未然に発覚して処刑されています。

 しかも同時に,依然として周辺諸国との戦争も続いている危機的状況です。
そこにさっそうと現れるのが,コルシカ島【本試験H16地図 シチリア島ではない(ナポレオン1世の出生地かを問う),本試験H20地図(のちの流刑先ではない)】【追H24地図】生まれの青年将校〈ナポレオン=ボナパルト〉(1769~1821) 【東京H27[3]】【追H30】 です。まず国内では1793年末にトゥーロンで王党派の反乱を鎮圧し,リヨンでも反乱を押さえます。次にイタリアに遠征し,フランス包囲を狙っていたオーストリアを撃破して講和条約を結び,第一回第仏大同盟を終結させました(イタリア戦役,1796~97)。
 さらに,イギリスの産業化をじゃまするため,イギリスがインドに向かうルート(インド=ルート)を遮断しようとして,オスマン帝国【本試験H16サファヴィー朝ではない】領であったエジプトに遠征【セ試行 ナポレオン3世は実施していない】【本試験H18時期】。これがきっかけで第二回対仏大同盟(1798~99年)がイギリス主導で結成され,アブキール湾の海戦で破れました。このとき,〈ナポレオン〉【東京H13[1]指定語句 エジプト史の論述】軍はアレクサンドリア近郊のロゼッタ(現ラシード)で,黒い玄武岩を発見。このロゼッタ=ストーン(石) 【東京H10[3]】【追H27一部にギリシア文字が使用されているか問う】【本試験H4楔形文字解読の契機ではない,本試験H9図版】【本試験H13ナポレオン3世の遠征時ではない,本試験H15】に刻まれた謎の文字(神聖文字【共通一次 平1】)を解読したのが,フランス【共通一次 平1】の天才的な言語学者〈シャンポリオン〉(1790~1832) 【共通一次 平1】【中央文H27記】です。
 彼は,謎の2種類の文字(神聖文字【本試験H9ペルシア文字ではない】と神官文字【本試験H9アラム文字ではない】)の下に,ギリシア文字【追H27】【本試験H9フェニキア文字ではない】【本試験H15】が刻まれていたことをヒントに,「ギリシア文字もアルファベットが,2種類の記号と対応しているに違いない」と考えました。
 そして,その内容が,ヘレニズム時代のプトレマイオス朝【本試験H9セレウコス朝やアンティゴノス朝ではない】【追H30マヤ文明ではない】エジプトの〈プトレマイオス5世〉が13歳で王位継承することを認めたものであると突き止めたのでした。
 従来から古代エジプトに関する史料は,前3世紀頃のエジプトの神官〈マネトン〉(生没年不詳)の王の名前の記録が知られていました。しかし,「キリスト教の歴史がエジプトよりも古いのだ」と主張するキリスト教の教父らにより,正確な理解に至ることはありませんでした。
 しかし,神聖文字の解読により従来の常識が崩されたことは,キリスト教徒の歴史観(世界の誕生から最後の審判までを6千年とする,「普遍史(ふへんし)」(〈エウセビオス〉(263?~339)が有名)といいます)をも覆す結果をもたらすこととなります。そりゃ,エジプトの歴史のほうが,実際には長いですからね。
 〈ナポレオン〉の遠征も呼び水となり,ヨーロッパでは“古代のロマン”をかき立てるエジプト趣味が広まりました。しかし,その多くがロマン主義的なイメージに飾られたもので,事実に照らした理解とはほど遠いものであったのが実態です。

 さて,イギリスに敗戦した〈ナポレオン〉ですが,1799年11月9日(革命暦8年ブリュメール(霜月)18日),パリに舞い戻ってクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を起こし,財政が悪化し人気が低迷していた総裁政府【本試験H19立法議会ではない】と議会(五百人会と元老院)を打倒しました。こうして,自分を含む3人の「統領」が政治をおこなう「統領政府」【本試験H14これ以降の政体の変遷を問う】を発足させました(1799年に新憲法を発足させました)。
 このクーデタをブリュメール18日のクーデタ【セA H30イタリアではない】といいます【※以外と頻度低い】。

 〈ナポレオン〉の支配の特色は,軍事力によって国民の「安全」を確保した上で(1801年のオーストリアとの講和,1802年のブリテン島・アイルランドとの講話(アミアンの和約)),フランスのあらゆる階層をひきつける“八方美人”のような政策にありました。
 例えば,1800年のフランス銀行【追H30 ルイ14世の施策ではない】の設立は,資本家の支持を受けます。
 また,1801年にローマ教皇〈ピウス7世〉(位1800~23)と政教条約(コンコルダート)を結んだことは,国内の聖職者にとっても朗報でした。1790年に聖職者民事基本法によって聖職者は公務員となり,ローマ教会はフランスの管理下に置かれたほか,フランス革命中にはグレゴリオ暦を革命暦に改めるなどの,非カトリック的な政策がめじろおしで,フランスとローマ教皇は断絶状態だったのです。こうして,敬虔な信徒である農民たちも,〈ナポレオン〉の支持者となっていきました。
 周辺諸国との戦争状態にピリオドを打ち,世の中を安定させたことも,自由に移動して商品を取引する産業資本家が彼を支持する要因になりました。
 〈ナポレオン〉の急成長ぶりをみたイギリスの首相〈ピット〉は,「1798年にアイルランドで独立をめざす反乱が起きた。カトリック教徒の多いアイルランドは,同じカトリックのフランスと組んでいるに違いない。アイルランドとフランスとの関係を断つ必要がある!」と,1801年にアイルランドを併合。こうして,すでにスコットランドとイングランドが同君連合を組むことで成立していた「大ブリテン王国」(イギリス)は,アイルランドと合併し,大ブリテン及びアイルランド連合王国(the United Kingdom)ができました。イギリスの国旗であるユニオン=ジャックは,もともとイングランドの赤十字(背景は白),スコットランドのナナメ白十字(背景は青)が重ねられていましたが,ここにアイルランドの赤いナナメ十字(背景は白)が加わることになります。

 一方の〈ナポレオン〉は,1802年の憲法で終身統領となり,1804年には「所有権の不可侵」「法の下の平等」【追H28「法の前の平等」という理念に基づくか問う】「家族の尊重」などを定めた民法典【本試験H3「ナポレオン法典」。ナポレオン3世によるものではない】【追H18時期、H24「ナポレオン法典」時期を問う,H28「ナポレオン法典」】を発布。時代の大きな流れをくみとり,従来の身分に基づく社会のしくみから,各人の能力にもとづいて自由に経済活動ができ,社会的に評価されるような新たな社会を組み上げようとしました。ただし女性の権利は制限され,一家を代表する男性が家父長として強い権利を持つ内容でした。

 このフランス民法典で定められたルールは,到来する資本主義社会に対応するための内容でした。契約とはどうすれば成立するのか,所有権はどうやって確定され保護されるのか,こういったことをしっかりと定め,資本主義という「ゲーム」の「ルール」を定めたわけです。これにより,資本家たちが安心して企業を起こす前提条件が整います。

 なお,この頃〈ナポレオン〉の懸賞に応募した〈アペール〉(1749~1841)が1804年に瓶詰を発明し,軍隊の糧食として活用されるようになっています。

 そして,同年1804年に満を持して皇帝に即位【本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】しました。このとき,彼はローマ教皇から冠を取って,それを自分で自分の頭の上に乗せています。その光景は,ギリシア・ローマの文化の影響を受けて調和を重んじた古典主義【H29共通テスト試行】の宮廷画家〈ダヴィド〉【本試験H31「ナポレオンの戴冠式」を描いたか問う】に,ローマ帝国時代を彷彿とさせるような表現で描かせました。彼は,ナポレオンのアルプス越えの絵【追H24リード文で図版が使用】も描いています。

 皇帝即位の知らせを聞いて失望したといわれるのが,作曲家の〈ベートーヴェン〉(1770~1827) 【追H18】です。平民の彼は,彼にフランス革命の精神である“平等”を期待していたのですが,それは誤解だったということがわかると,〈ナポレオン〉に捧げるつもりだった交響曲の譜面の表紙を破いたのだと伝えられます。彼の時代にはすでに鍵盤楽器ピアノが普通に使われるようになっていて,「エリーゼのために」といったピアノ曲が作曲されるようになりました。ピアノの普及とともに,象牙の需要が高まりました。20世紀にかけて,推定3万頭のアフリカゾウが殺されたといいます。
 なお,オーストリアの〈シューベルト〉(1797~1828) 【追H26ロマン派の音楽家か問う(正しい)】は,ナポレオン戦争期のウィーンで小学校教師・ピアノ教師として,多数の歌曲や交響曲を書いた”庶民派”の作曲家です。"歌曲の王"と称されロマン派に分類されます。

 さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年には第三次第仏大同盟によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805年トラファルガーの海戦で敗れる【本試験H29】【追H25】),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【本試験H22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【本試験H22】,1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。

 〈ナポレオン〉は,伝統的な身分制度にかわって,能力主義的な近代市民社会の精神をヨーロッパ各地に広める役割を果たしました。しかし,一方で新たな考え方に 感化された進出先の民族にとっては,〈ナポレオン〉自身が伝統的な支配を振りかざす“古い存在”に映り,「他の民族に支配されたくない!」という民族主義(ナショナリズム【東京H18[1]指定語句】)的な考えを主張するようになっていきました。
 例えば,スペインでは,1808年に〈ナポレオン〉の兄が王に就任すると大規模な反乱(スペイン反乱,1808~14)【本試験H23時期】が勃発し,ゲリラ戦によってフランスを苦しめました。このときスペイン人がフランス軍に銃殺されようとしているシーンを描いたのは宮廷画家であった〈ゴヤ〉(1746~1828)です(作品名は『マドリード,1808年5月3日』)。

 〈ナポレオン〉【本試験H28ナポレオン3世ではない】はユーラシア大陸【本試験H21アメリカ合衆国ではない】へのイギリスの製品をブロックしようとして,1806年にベルリン【東京H14[3]】で大陸封鎖令【東京H14[3]】【追H18時期、H24時期がフランス革命~第一帝政時代か問う】を発布しましたが,農業国のプロイセン,オーストリア,ロシアにとってはいい迷惑です。サトウキビの輸入がストップしたために,寒冷地でもよく育つ甜菜(てんさい)(ビート)というカブから砂糖をとる方法が広がります(現在でも甜菜生産量の一位はロシア)。
 封鎖を破ってイギリスと取引をしたロシアに対して〈ナポレオン〉は1812年に遠征に踏み切りました(ロシア遠征)。しかし,ロシア軍が住民を疎開させて火を放ったモスクワに引き込まれたフランス軍は,極寒のために退却をせまられます。

『不可能だと貴官より報告されても,その言葉はフランス語ではない』とは,1813年に補給品を断られたときの〈ナポレオン〉の手紙です。“余に不可能の文字はない”で有名なセリフですが,実際には大ピンチのときの言葉のようです。

 パリに帰ってこれたフランス軍は,当初の60万からたったの5000人となりました(モスクワ遠征)。〈ナポレオン〉が弱っているところを,オーストリア,ロシア,プロイセン連合が反撃し,1813年ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い) 【本試験H16年号「1813」を問う】でフランスを破り,1814年にパリは陥落しました。

 ナポレオンは,一度地中海のエルバ島【本試験H20地図(コルシカ島ではない)】に流されますが脱出し,1815年3月20日に復位します。しかし,6月18日ワーテルローの戦いで敗北し,同22日にあっけなく退位しました。このナポレオンが再起をかけた期間を,百日天下といいます。
 後継者に指名されていた〈ナポレオン2世(ジョセフ)〉が,形式的にフランス皇帝を継ぎますが,7月8日に,〈ルイ16世〉の弟〈ルイ18世〉(位1814~15,15~24)がフランス王に即位し,ブルボン朝【本試験H23ヴァロワ朝ではない】の復古王政時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)がはじまりました。エルバ島に流されたナポレオンは,1815年に支持者にともなってパリに再入城して権力の座にしがみつきますが(百日天下),ワーテルローの戦いでイギリスとプロイセンに敗れて退位し,大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に流されました。死因についてのフランスの公式見解はヒ素による中毒死です。壁紙に塗られた美しい緑色のヒ素由来の顔料に,カビがついたことでガスが発生したのではないかという説もあります。
 なお,ナポレオンの子〈ジョセフ〉(7月7日まで皇帝でした)には妻子がなく,母がハプスブルク家の〈マリ=ルイーズ〉であったことから,ハプスブルク家に引き取られ,オーストリアで亡くなりました。したがって,今後もしも〈ナポレオン〉の跡を継ぐことができる人物がいるとすると,それは甥(おい)の〈ルイ=ナポレオン〉(のちの〈ナポレオン3世〉) 【本試験H3,本試験H7】ということになりました。〈ナポレオン〉はフランス人に「夢」を見させてくれたということで,退位後も「〈ナポレオン〉はすごかった」という“ナポレオン神話”が語り継がれ,支持者は根強く残っていくのです。




・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス


◆1757~1762年〈初代ニューカッスル公爵〉内閣(ホイッグ党)
◆1762~1763年〈第3代ビュート伯〉内閣(トーリ党)
◆1763~1765年〈グレンヴィル〉内閣(ホイッグ党)
ジョージ3世の下ホイッグ党からトーリ党に交替
 1757年に国王の命令で〈ニューカッスル公〉が返り咲き、第二次内閣を組織し軍事費を調達、戦争の指導は〈大ピット〉がおこないました。
 しかし二人のコンビは長続きしません。
 そんな中、国王〈ジョージ2世〉が1760年に亡くなると、孫であった〈ジョージ3世〉が即位。〈ジョージ3世〉の家庭教師であった〈ビュート伯爵ジョン=ステュアート〉(1713~1792)の発言力が強まったのです。
 〈ニューカッスル公〉や〈大ピット〉らは北アメリカ大陸のフランスを徹底的に叩くことを目指していたのに対し、〈ビュート伯〉は戦争の早期解決を欲します。

 こうして〈ジョージ3世〉のバックアップの下、1762年にトーリ党の〈第3代ビュート伯〉内閣が組織されました。1763年には七年戦争を終結させるパリ条約を締結しましたが、人気は低く、短期間で辞職しました。

 代わって、〈グレンヴィル〉内閣(任1763~1765)が発足。辞職した〈ビュート伯〉の推薦であり、ホイッグ党とはいえ実態は〈ビュート〉の操り人形でした。
 1763年には政権を批判した庶民院の急進派である〈ジョン=ウィルクス〉(1725~1797)を、強硬な方法で逮捕。〈ジョージ3世〉のパリ条約締結を批判する内容が、国王に対する“反逆”と受け取られたのでした。しかしその強硬な手法は、かえって大きな批判を呼びます(ウィルクス事件)。
 一方、北アメリカの13植民地に対しては、七年戦争が終わると支配を強化。1763年にはアレゲーニー山脈以西を「インディアン保留地」に設定して、白人の立ち入りを禁止。これが植民地の人々の反感を買います。さらに1764年には植民地に輸入する砂糖に高い関税をかける砂糖法を制定。1765年に制定された印紙法に対する反対運動(「代表なくして課税なし」がスローガン。印紙法は1766年に廃止)が激化してしまいます(⇒1760年~1815年のアメリカ アメリカ合衆国)。
 結局〈グレンヴィル〉内閣は〈ジョージ3世〉と対立し、総辞職となりました。



◆1782 〈第2代ロッキンガム侯爵〉(ホイッグ党)
◆1782~1783 〈第2代シェルバーン伯爵〉内閣(ホイッグ党)
◆1783 〈第3代ポートランド公爵〉内閣(ホイッグ党)
◆1783~1801 〈小ピット〉内閣(トーリー党)
 〈第2代ロッキンガム侯爵〉首相は、アメリカ合衆国の独立を承認しますが、首相の死去で短命に終わります。

 次の首相は、〈ロッキンガム侯爵〉派の〈第3代ポートランド公爵〉を推す議会の意見に反し、国王がの〈第2代シェルバーン伯爵〉首相を任命したことで国王と議会が対立。

 ホイッグ党の〈フォックス〉とトーリー党の〈ノース〉は〈シェルバーン〉を降ろし、代わって〈ロッキンガム侯爵〉派の〈第3代ポートランド公爵〉を首相に建て、〈フォックス〉は外相・〈ノース〉は内相を務めることとなりました(「ノース=フォックス連合」)。
 1783年のパリ条約でアメリカ合衆国との戦争状態を終結させました。
 しかし、東インド会社の改革は〈ジョージ3世〉の反対で阻止され、事実上の更迭。

 次のに史上最年少の24歳で任命された〈小ピット〉首相が、1784年に東インド会社を規制するインド法を制定します。
 また、中国の清には〈マカートニー〉使節団(1792~94)を派遣し自由貿易の交渉を試みています(失敗)。
 そんな中、イギリスで革命ののろしが上がると、1793年には〈ルイ16世〉の処刑をきっかけに第一回対仏大同盟を結成しました。
 ネーデルラント連邦共和国がフランスに占領されると、1795年にケープ植民地を占領します。
 フランス革命の影響がアイルランドに及ぶことを阻止するため、1801年にはアイルランドを併合しました。これ以降のイギリスは「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」と呼ぶのが適切です(長いのでイギリスとします)。しかし、アイルランドに多いカトリック教徒を解放するかいなかをめぐっては〈ジョージ3世〉と対立し、辞職することとなりました。


◆1801~1804 〈ヘンリー・アディントン〉首相(トーリー党)
◆1804~1806 〈小ピット〉首相(トーリー党)
◆1806~1807 〈グレンヴィル男爵〉首相(ホイッグ党 “総人材内閣”)
 イギリスは〈ナポレオン〉と和議を結ぶことになり、1802年にアミアンの和約が締結されました。しかし、1803年にフランスが和約を破ると、退陣しました。

 再登板した〈小ピット〉は、第三次対仏大同盟を結成し〈ナポレオン〉に対決。1805年にはトラファルガーの海戦で勝利しますが、在職中に亡くなります。

 引き継いだ〈初代グレンヴィル男爵〉首相(かつての〈グレンヴィル〉元首相の息子)。かつてはトーリー党として〈小ピット〉の外相(任1791~1801)を務めていましたが、ホイッグ党に鞍替え。トーリー党も含めた“総人材内閣”を銘打って組閣します。
 自由貿易の立場から奴隷貿易を廃止しますが、ホイッグ党指導者の〈フォックス〉(1849~1806)が亡くなるとぐらつき、カトリック教徒の解放に関して国王〈ジョージ3世〉と対立し、辞職しました。



◆1807~1809 〈第3代ポートランド公爵〉 首相(トーリー党)
◆1809~1812 〈パーシヴァル〉首相(トーリー党)
◆1812~1827 〈第2代リヴァプール伯爵〉首相(トーリー党)
 引き継いだ〈第3代ポートランド公爵〉内閣は、政権内の対立が激しく不安定な状態となります。
 〈パーシヴァル〉内閣も求心力に欠け、〈ジョージ3世〉が精神的な障害に陥ると、〈ジョージ王太子〉摂政時代となります。そんな中、ナポレオン戦争は続き、スペインにおける「半島戦争」に参戦しています。〈ポートランド公爵〉は、最期は暗殺されていまいました(イギリスの首相の中で唯一)。

 それを引き継いだ〈第2代リヴァプール伯爵〉のときには、海上封鎖をめぐってアメリカ合衆国との米英戦争(アメリカ=イギリス戦争)が勃発しています。
 その後、ついにナポレオンがエルバ島に流されると、1814年からウィーン会議が開催されました。



◆イギリスで産業革命が起きる
産業革命はインド綿織物の輸入代替からはじまる
 政治の流れを先に眺めてきましたが、今度は経済的な側面をチェックしていきましょう。

 七年戦争後のイギリスでは、人類全体にとっても大きな意味を持つ経済的な革新が起きています。
 「産業革命」です。

 イギリス産業革命(工業化) 【東京H25,H30[1]指定語句】【本試験H14最初に産業革命(工業化)が起こったのはドイツではない】【H30共通テスト試行 「産業革命をリードした綿工業」に関する統計問題】とは,産業に遅れをとっていたイギリスが,先進国のアジアの国々に追いつこうとして起こった技術革新(イノベーション)と,それにともなう社会の激変のことをいいます。

 18世紀の世界における産業の先進地域は,アジアでした。とくに日本や清を含む東アジアはヨーロッパに比べると平和で安定しており,人々が儒教の倫理にのっとって汗水たらしてせっせと働くことで経済的にも高い生産性を誇っていました(これを産業革命(工業化)(インダストリアル=レヴォリューション)とかけて勤勉革命(インダストリアス=レヴォリューション)とよぶ研究者もいます)。
 中国からは茶や陶磁器,インドからはさわり心地のよいカラフルな綿織物【本試験H5】【京都H19[2]】【東京H16[1]指定語句】(キャラコ【上智法(法律)他H30】) 【H30共通テスト試行 原料の綿花コストが年々低下していった理由を問う】がイギリスに輸入されました。キャラコは下着,ドレス,寝具,テーブルクロスなどに利用され大人気となりますが,イギリスの毛織物業者の反対で輸入禁止になって以降,アフリカに転売されて奴隷と交換されました[角山1984:20]。イギリスは奴隷貿易で巨利を稼ぎますが,それでも全体としてはアジアに対してイギリス側は貿易赤字となり,支払い用の銀がイギリスから流出しました。

 そこで,インドから輸入された綿織物を買うと赤字になるんだったら,「自国でつくってしまえ」という発想が生まれました。「買うのがいやだから,自分でつくる」。これを「輸入代替」といいます。



◆工業化の背景には,奴隷交易・農業革命・プトロ工業化・合理的な思想の普及などがある
資本の蓄積や農業革命が,技術革新につながる
 綿織物を輸入代替するためには,まず綿が必要です。綿は棉花という植物からとれるのですが,イギリスは1713年にスペイン継承戦争後のユトレヒト条約や,七年戦争後のパリ条約で植民地を拡大させており,北アメリカといった棉花の原料供給地を確保することができました。さらに,事業をおこす上で必要となる資本としては,スペイン継承戦争後にスペインから手にした奴隷貿易独占権(アシエント)により,大西洋の黒人奴隷貿易で稼いだ利益を元手とすることができました(資本とは,お金を生み出すための元手のことです。例えばお金は,誰かに貸して利子をとれば増やせますから,お金=資本です。土地も,誰かに貸したり,そこで営業したりすればお金になりますから,土地=資本です。さらに働き手も,働かせることで利益を生みますから,労働力=資本です)。1688年の名誉革命以降,国王が国民の所有権を侵害することが正式に規制されたため,自由に物を売り買いする権利も,認められるようになっていました。

 16~18世紀のヨーロッパ諸国は戦争が相次ぎ,富国強兵のために軍事技術の改良や産業発展が急がれ,新たな技術の開発と導入のために“合理的に考える”風潮が広がっていました。せっかく新技術を生み出しても,社会の変化するスピードが遅ければ,発明しようという気も弱まります。変革を求める社会の雰囲気が,貪欲(どんよく)な技術革新(イノベーション)へとつながったのです。
 なお,貿易や産業をつうじて利益を生み出すためには,それを買ってくれる人が不可欠です。大航海時代以降,さまざまな物産がヨーロッパに流入され,「必要最小限の物」を買い求めるだけではなく,「いらなくても生きていけるけれど,欲しいから買う」「なくても困らないが,あるとステータスになる」といったお金による消費行動をとる人々が次第に増えていました。農業を中心とする時代から,商業を中心とする時代への転換が起こっていたわけです。
 そのためには,必要最小限の食べ物が,十分に供給されている必要があります。それを可能にする最新鋭の農法が開発されていました。中世の時代の三圃制にかわる,“四圃制”ともいうべきノーフォーク農法です。耕作地を4分割して,マメ科植物の栽培を含む4つのローテーションで回転させることで,地力を飛躍的に向上させることに成功させました。

 イギリスでは,領主が農奴に働かせる効率の悪いやりかたから,独立自営農民(ヨーマン)が自分で耕地を持ち経営する方式への転換が,早くに進んでいました。しかしまだまだ地主は多く,議会に進出して地方でも力を及ぼすジェントリ【本試験H3商業資本家・借地農・産業資本家ではない。地主層であることを問う】が活躍していました。
 しかし農業によって利益を得ようとする者は,地主から土地を借りて新農法を利用した市場向けに穀物を生産しようとしていきました。生産性を高めるためには,小さい土地をぽつぽつ持っているよりは,広大な土地を一気に経営したほうがよいため,第二次囲い込み(エンクロージャー) 【本試験H15】【本試験H2 18世紀末には,農民の所有地の多くが大地主の手中にあったか問う】【追H25時期を問う(穀物法廃止、ヨーマン出現との時系列)】がはじまりました。囲い込みはスコットランド北部のハイランド地方でも激しく行われ,食肉(ラム肉)や羊毛用の羊の飼育も盛んに行われました。これを“ハイランド=クリアランス(放逐)”といいます。

 ハイランドのケルト系の人々は氏族ごとに独特な模様(タータン=チェック)を持っていましたが,18世紀前半にはイングランドによって氏族が解体され,伝統的なバグパイプや服装(ハイランド=ドレス)やケルト系のゲール語の使用が禁じられました。スコットランドの力が弱まり,ロマン主義が流行して古代に憧れを持つヨーロッパ人が増えると,ハイランドの伝統文化は急に注目されるようになり,タータン=チェックはいかにもスコットランドっぽいファッションとして流行するようになっていきました。スコットランドのうちイングランドに近い低地(スコットランド低地,ロー=ランド)は,早くから積極的にイングランドに協力し,貴族・資本家・学者などを生みました。古典派経済学【本試験H12】(注)の〈アダム=スミス〉(1723~90) 【本試験H2重商主義ではない,本試験H12「重商主義を批判して古典派経済学の基礎を築いた」か問う】【追H21『経済表』は著していない】や哲学者の〈ヒューム〉(1711~76),スコットランド民謡を集めた国民的詩人〈バーンズ〉(1759~96)(蛍の光の作詞者),蒸気機関を発明する〈ワット〉(1736~1819) 【本試験H4】【本試験H14】【追H18時期】はスコットランド人です。
(注)古典派経済学というのは,売る人と買う人に完全に同じ情報が与えられているものとして,需要と供給の関係を論じた経済学のことです。このような市場(完全競争市場)が存在するとすれば,そこでは需要と供給の関係が,自然に均衡価格に定まるのだと説明されました。

 囲い込みを推進していた人々は議会にも進出していたため,非合法的におこなわれた第一次囲い込みとは異なり,第二次囲い込み【本試験H15】【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「囲い込みの進展で、都市部に人口が流入したこと」であることを推論する】は穀物増産のため,議会の立法という形をとって合法的に推進されました。こうして穀物の増産が可能となり,商業を中心とした社会への転換の前提が整います。また,土地を奪われた農民の中にはやがて労働力として都市で雇用される者もいました【本試験H15】が,農村における人手は今まで通り重要で,19世紀に入るまでは都市人口よりも農村人口のほうが依然として高い水準にありました。

 従来のように規模が小さく競争を禁じたギルドとは違って,機械を使って創意工夫を発揮した工業を行うにはそれなりに資金を集める必要も出てきます。すでに18世紀末のイギリスにはイングランド銀行が設立され国内市場が整備されており,他人から資金を集める制度も活発でした。産業革命(工業化)の始まる以前にも,資本を持っている人が道具や原料を調達し,農村部のヒマな農民に前貸しして製品を回収する問屋制家内工業【本試験H7 16世紀ドイツで発展していない】が行われていましたが,やがて工場に人々を労働者として集め,そこに置いてある道具を用いて分業で生産させる手法が一般化していきました(工場制手工業(マニュファクチュア)。やがて工場制機械工業に発展します)(注)。また,カルヴァン派などの非国教徒が審査法により公職に就くことができなかったため,商工業に従事するようになっていったことも,産業革命(工業化)の開始要因の一つに挙げられます。
(注)工場制機械工業が爆発的に進展する産業革命(工業化)の前段階にみられる,繊維製品を中心とする農村工業の発展を「プロト工業」といい,「産業革命(工業化)が突然起こったわけではなく,その前提となる条件があったとすれば,それは何だったのか?」という議論が流行した1970年代に,盛んに研究された概念です。




◆綿工業分野の技術革新が,蒸気機関を生む
蒸気機関が発明される
 このような動きを背景にして,イギリスでは綿工業【本試験H2,本試験H4「木綿工業」】の分野で以下のような技術革新がすすみました。

(1)布を大量に織る(織布という)ための発明(1733年飛び杼(とびひ)。〈ジョン=ケイ〉(1704~64)による発明【本試験H27紡績機ではない,H29コークス製鉄法ではない】。
(2)棉花から大量に糸を紡ぐ(紡績という)ための発明 
 1764年頃の多軸(ジェニー)紡績機。〈ハーグリーヴズ〉(?~1778) 【本試験H29蒸気船ではない,H31時期を問う(17世紀ではない)】による発明。
 1769年の水力紡績機。〈アークライト〉(1732~92) 【上智法(法律)他H30ホイットニーではない】による発明(◆世界文化遺産「ダーヴェント峡谷の工場群」,2001。イギリス中部のダーヴェント川に沿って初めて水力紡績機を導入した工場や,労働者の住宅などが建設され「工業都市」のモデルとなった地区です)。

 1779年のミュール紡績機【追H19】。〈クロンプトン〉(1753~1827) 【本試験H14ワット,ニューコメン,フルトン,スティーヴンソンとのひっかけ】【追H19、H24 18・19世紀イギリスか問う】による発明。

(3)人力,水力にかわる新たな動力の発明(1769年,蒸気機関の改良【本試験H4】【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「蒸気機関が、工場の動力として導入されたこと」であることを推論する】。スコットランドの〈ワット〉(1736~1819) 【本試験H4蒸気機関の改良か問う】【本試験H14クロンプトン,ニューコメン,スティーヴンソン,フルトンではない】による。すでに〈ニューコメン〉【本試験H14ワット,クロンプトン,フルトン,スティーヴンソンではない】によって炭鉱からの水の排出に使用されていた蒸気機関に改良を加えました。

(4)紡績部門の生産性が高まったため,布を織る部門の生産性が追いつかず,一時に手織り工が増える傾向もみられました(注)。蒸気機関を織機に応用した発明(1785年,力織機の発明。〈カートライト〉(1743~1823)による。
 綿織物の生産工程が機械化されたことで,イギリスは同時代の世界でもっとも効率よく大量の綿織物を生産できる技術を手に入れたことになります。
(注)川北稔編『世界各国史 イギリス史』山川出版社,1998,p.246


◆イギリスは石炭の埋蔵量が豊富だったことも,工業化にとって強みとなった
燃料は木炭から石炭へ,石炭からコークスへ
 蒸気機関の燃料である石炭と,機械の材料である鉄鉱石に関して,イギリスが自国で産出できたという点も強みでした。燃料としてもともと使われていたのは木炭でしたが,森林伐採が進み資源が枯渇するという問題に直面していました((現在のイギリスの,木の生えていないなだらかな丘の続くのどかな田園風景は,多くが森林破壊の爪痕(つめあと)なのです)。
 しかし,鉄鉱石から鉄をつくるのに石炭を用いると,化学変化の関係から脆(もろ)い鉄ができてしまうことが難点でした。そこで,〈ダービー〉(1677~1717) 【本試験H29ジョン=ケイではない】は,石炭を加工してコークスという燃料にして用いたことで,その後は木炭から石炭へと燃料がシフトしていきます。
 なお,この技術は中国では宋の時代にすでに開発されています。
 石炭は地下水を含む地層から産出されることが多く,排水の必要があったことから,蒸気機関による排水ポンプの発明を促しました(〈ニューコメン〉(1664~1729)による)。

 機械があれば綿織物がつくれるようになると,中世以来の手工業者の熟練労働力は不要になっていきました(1810年代にはランカシャー地方で,ラッダイト(機械打ち壊し)運動【本試験H4労働者によって起こされたか問う,本試験H12「職人・労働者が,機械を改良して旧来の生産組織を守ろうとした運動」ではない】【本試験H21,H30時期,H29共通テスト試行 時期(1566~1661の期間ではない)】が起きています。「仕事がなくなったのは機械のせいだ!」と,機械製の織物機を破壊したのです。それに対し,1769年と1812年には“機械を打ち壊したら死刑”という法が制定されています。
 かつては,徒弟(とてい)の身分から身を立て,親方(おやかた)のもとで厳しい修行を受け,何年も何十年もかけてようやく一人前になれるという伝統的なシステムがありました。それが,機械の置いてある工場で“経験ゼロ”から誰でも働ける時代が到来したわけです。今までのように親方に入門して人格的な支配を受けることもなく,給料をもらったら「バイバイ」することもできます。
 ただし工場の労働者の待遇は良いものとはいえず,たいてい利益(利潤といいます)のほとんどは工場の経営者である産業資本家のところに集まるようになっています。産業資本家も,新たに得た利潤をギャンブルでパァ~っと使うのではなく,合理的に次の投資先を考えさらに利潤を増やそうとしていきました。
 産業資本家からすれば,汗水垂らし,才能を発揮して稼ぎ出した利潤です。
 彼らは,次第にこう考えるようになっていきました。
 「こんなに頑張っているのに,なぜ議会は自分たちの経営にマイナスとなる法律ばかりつくるのだろう。家柄ではなく才能,大土地所有ではなく築き上げた財産,宗教や伝統ではなく合理性…これからの新しい時代に合った,新しい法律をつくりたいのに…。産業資本家には選挙権がないのは不公平じゃないか?」と。
 こうして,産業資本家による参政権の要求が始まっていくのです。
 
 一方,産業資本家が利益を追い求めるあまり労働者の権利を無視しまうこともしばしばでした。そうした “暴走”を食い止めるための法律は,当初は整備されていなかったのです。
 きわめて“ブラック”な環境に置かれた労働者は,急激に都市化したためにトイレ(下水)も井戸(飲料水,洗濯等の生活用水)も整備されていない不衛生な家屋街(スラム)での生活を余儀なくされました。女性【本試験H11「産業革命によって,単純労働が減少したため,女性は工場労働から排除された」か問う】だろうが,子どもだろうが,安価な労働力として危険な作業に長時間従事させることもしばしばでした(女性や子どもを含めた低賃金労働【本試験H5】【本試験H15時期(産業革命(工業化)期)】)。

 感染症や伝染病の流行により,乳児死亡率も高く,さまざまな社会問題が発生しました。この時期のイギリスでは,医師〈ジェンナー〉(1749~1823) 【本試験H2結核菌・コレラ菌は発見していない】【本試験H16ラヴォアジエではない】が,1796年に実験によって種痘法(しゅとうほう)を開発し予防接種(よぼうせっしゅ)の原型を生み出したように,医療技術も徐々に進歩していくことになります。




◆交通革命の進展で,地球上の時間距離が縮まり,世界の一体化が急展開する
蒸気機関車・船の登場が,物流の流れを刺激する
 さて,蒸気機関は交通機関にも応用され,人類史上いちどにもっとも多くの物資・旅客を運ぶことのできる乗り物が,陸では蒸気機関車,海では蒸気船【本試験H29】として登場しました。

蒸気機関車
 蒸気機関車【追H26イギリスで産業革命の時期に実用化されたか問う】【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「運河や鉄道などの交通網が整備されたこと」であることを推論する】は,〈スティーヴンソン〉(1781~1848) 【本試験H4】により1830年【本試験H6 1830年以降ヨーロッパに広まったか問う】に,大西洋奴隷貿易で発展してきた港町リヴァプール【東京H25[1]指定語句】と綿(めん)工業【本試験H22】【上智法(法律)他H30】の発達したマンチェスター【東京H9,H15[3]】【本試験H2ロンドンではない】【本試験H22】の間で実用化されました【本試験H22時期(19世紀前半)を問う】。
 蒸気機関車はアメリカ合衆国やインドから運ばれた綿花を,リヴァプールからマンチェスターに運び,マンチェスターで加工した綿織物をリヴァプールに運ぶのに用いられ、従来の運河【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「運河や鉄道などの交通網が整備されたこと」であることを推論する】の水運とともにさかんに輸入されます。

蒸気船
 外輪式の蒸気船【東京H14[1]指定語句「汽船」】は〈フルトン〉(1765~1815) 【東京H15[3]】【本試験H14ワット,ニューコメン,スティーヴンソン,クロンプトンではない,本試験H29ハーグリーヴズではない】が1807年に建造したクラーモント号が実用的なものでは最初です。1819年にはやはり外輪式の蒸気船であるサヴァンナ号【東京H15[3]】が,初めて大西洋を横断しています。これにより,遠距離間を短時間で結ぶことが可能となった結果,ますます世界は一体化していくことになります。

 エジプトや北アメリカ,ブラジル,インドで棉花を収穫する労働者,その棉花を積む奴隷をアフリカから北アメリカに運搬する労働者。金やダイヤモンドを,南アフリカのケープ植民地から掘り起こす労働者,イギリス人の消費する小麦を育てるニュージーランドやアメリカ合衆国,アルゼンチンの労働者。

 まるで世界中のイギリスの植民地の人々が,イギリスという工場の労働者になっていくような状況が生まれます。イギリスにとっては,直接彼らを雇っているわけではありませんので,人件費はとても安く上がる。しかも,北アメリカで棉花を積んでいるのは黒人奴隷です。1790年には約70万人だったアメリカ合衆国の奴隷は,1860年には約400万人に膨れ上がっていきます。

 イギリスの産業資本家は,できるだけ安く大量に原料を輸入しようとしますが,立場の弱い植民地は,イギリスの要求を飲むしかありません。イギリスは「自由貿易」を主張して,世界各地から製品の原材料を安価で大量に輸入し,製品をこれらの植民地で販売します。世界中から原料を集めて,製品を世界中に売りさばいていくイギリスは,まるで「世界の工場」のようなポジションとなっていく中,イギリスは世界各地に「市場(製品の買い手がいるところ)」を求めるようになっていきます。

 イギリス製品のほうが安価に販売されるため,世界各地にあった伝統工業がだんだんと衰退していくことにもなりました。こうして,多くの国や地域は,イギリスのために天然資源を輸出して,稼いだ資金でイギリス製品を買う「経済的従属」を余儀なくされていきました。インドであれば棉花を輸出することで,南アフリカであればダイヤモンドを輸出することで,その国の経済を成り立たせようとするようになっていく。つまりイギリスという取引先の都合に合わせて,自国の産業を「棉花だけ」「ダイヤモンドだけ」にしていくわけです。これを経済の「モノカルチャー化」【本試験H17 マレー半島を例にして出題。カピチュレーションではない】といいます。
 それを防ぐには,イギリスにならって産業革命(工業化)を達成し,イギリスの供給する製品を“自前化”するしか道はありません。こうして,イギリスに“追いつけ追い越せ”の産業革命(工業化)競争がスタートしていきます。
 19世紀前半(1830年以降)にはフランス,オランダ,ベルギーで産業革命(工業化)が開始され,19世紀後半にはドイツ(プロイセンが中心),アメリカ(北部が中心)がイギリスを追い越すまでに成長します。ロシアは,フランスと露仏同盟(1891年(注1))を締結した後,日本は1894~95年の日清戦争後に産業革命(工業化)を開始します【追H24ロシアの工業化の開始時期が18・19世紀か問う】。



◆「世界の工場」イギリスの製品が,何でもかんでも世界各地の産業を圧倒していくわけではない
英の綿織物はアジア市場を開拓できず
【追H27「世界の工場」と19世紀に呼ばれたのがイギリスであることを問う(ロシア、イタリア、ブラジルではない)】
 こうして世界が,産業革命(工業化)の達成した地域,達成しようとしている地域,達成できず達成した地域に従属している地域へと色分けされていき,今後の世界のあり方を大きく変えていきました。その意味で,産業革命(工業化)のことを「大分岐」(グレート=ディヴァージェンス,the great divergence)とよぶ研究者もいます(注2)。

 ただ,いくらイギリスで工業化が起こったとしても,輸出品に魅力がなければ需要は見込めません。実際に,イギリスが機械で製造した長繊維の綿花は,厚手の太糸であり,インドや東アジアで主流の短繊維綿花の細糸・薄手の布に取って代わることはできませんでした。ですから,従来考えられていたように「イギリスの産業革命によって,インドの綿工業は壊滅した」というわけではなく,実際には19世紀後半にかけてインドや日本の綿工業は高度に発達し,互いに競合することになるのです。



◆生活革命による貿易赤字を補填するための輸入代替から,産業は始まった
イギリスは,輸入国から輸出国に転じる
 一方,産業革命の進展するイギリスでは実質成長率は年に1%に満たない水準であり,「産業革命などなかった」という説が提起されたこともあります。しかし,イギリスで起こった経済の変動は18世紀末にとつぜん起こったものではなく,長い目でみると大航海時代(ヨーロッパの発見,アフリカ・アジアとの直接貿易の開始)以降だんだん準備されていったものと考えることができます。
 アジア,アフリカでは世界中の人が欲しがる商品(世界商品)を産出し,その生産地や物流をめぐって覇権国家(ポルトガル,オランダ,フランス,イギリスなど)がしのぎを削って争いました。ヨーロッパの人々は新しい商品に目を輝かせ,生活や消費のスタイルを次々に変えていきました(生活革命)。
 その中で,奴隷交易で資本をため込み,海外進出を支えるための金融市場や財政基盤をいち早く獲得したイギリスの企業家が,諸国に先立って輸入品を自国で大量につくってしまおうと起こしたムーブメントが産業革命ということになります。
 それに対し1789年から起きたフランス革命は,イギリス中心の自由貿易体制に対する“反動”だったとみることもできます。ただ,イギリスの側ではフランス革命に対して懐疑(かいぎ)的な意見が根強く,たとえば〈エドマンド=バーク〉(1729~1797)は『フランス革命の省察』(1790)を著し,革命の本質を冷静にとらえていました。

 さて,19世紀に入るとイギリスではキリスト教徒による奴隷廃止運動が盛んになり,1807年に奴隷貿易が廃止されました【本試験H17「ヨーロッパ諸国の中には19世紀に奴隷貿易を禁止する動きがあった」かどうかを問う,H29共通テスト試行】。奴隷【早政H30】そのものを売買するビジネスには,もはや旨味がなくなっていたのです。廃止に尽力したのはイギリスの博愛主義者〈ウィルバーフォース〉(1759~1833)【早政H30史料】です。
 1789年には,現在のナイジェリアから連行された黒人奴隷〈イクイアーノ〉による自伝『アフリカ人,イクイアーノの生涯の興味深い物語』が出版されるなど,「黒人奴隷貿易は悪いことだ」という認識が生まれていました。しかし,今度は黒人奴隷の代わりにインド人移民や中国人移民が,労働力として売り買いされていくことになっていきました【H29共通テスト試行 地図資料と議論】。なお,19世紀に入ると,東アフリカではアラブ人を中心とする商人が,現タンザニアのザンジバルを拠点に奴隷の積み出しを本格化させていくこととなります。
(注1)1891年に政治協定が成り,1892年以降軍事同盟としての取り決めがすすんでいき,1894年に最終的に決定されました。この間両者の同盟は秘密とされ,公表されたのは1895年のことです。『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.123
(注2)K・ポメランツ,川北稔訳『大分岐―中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年。



・1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
現オランダ
 低地地方のうち北部はネーデルラント連邦共和国として独立していました。
 1780年からの第四次英蘭戦争の打撃をうけたオランダ東インド会社は、他にも複合的な原因が重なり多額の負債をかかえていました。1795年には財政破綻し国営化し船の艤装ができなくなり、1799年に会社が廃止されてしまいます(注)。
(注)羽田正『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』講談社学術文庫、2017、p.338。



現ベルギー
仏革命の影響で革命政府ができ、その後仏領に
 南部は南ネーデルラントとして,スペイン継承戦争後はオーストリア=ハプスブルク家の支配下にありました。
 国家権力を強化しようとする啓蒙専制君主〈ヨーゼフ2世〉とベルギーの人々の間には溝があり、1786年の宗教寛容令に対しては、ルーヴェン=カトリック大学が閉鎖し、ブラバント全土にわたる暴動にまで発展しました。フランス革命の影響です。
 オーストリア軍は撤退し事なきを得ました(ブラバント革命)(注1)。
 1790年に南ネーデルラントで革命が起き,ベルギー全国議会が新憲法を採択ブリュッセルを首都とするベルギー連合国(United Belgium States;ベルギー共和国(注2))が成立。これを認めないオーストリア=ハプスブルク家〈レオポルド2世〉は軍を率いてナミュール、ブリュッセルを占領し,同年末にあっけなく滅びました。

 しかし、今度ベルギーをねらうのはフランスです。
 オーストリアに芽をつまれたベルギーの「共和政」を復活させようとしたのです。
 その後,フランスのジロンド派内閣による宣戦を受け,プロイセンとオーストリアはフランス王国と戦争状態に入りました。フランス軍は南ネーデルラントのオーストリア軍と戦い,南ネーデルラントを占領。
 総裁政府のときに南ネーデルラントはフランスに併合され(1795年併合宣言(注3)),1797年のカンポ=フォルミオの和約により,南ネーデルラントはフランス領となりました。フランス支配は,〈ナポレオン〉の敗北まで続きます。この間、徹底したフランス語の導入がすすめられ、1794年にはオランダ語の使用は禁止されました(注4)。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.25。
(注2) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.26。
(注3) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.27。
(注4) 1806年には道路標識もフランス語で表記されました。言語統一による国民国家の形成を目指すフランス革命の影響です。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.27。


現ルクセンブルク
 スペイン継承戦争により,ルクセンブルクはオーストリア=ハプスブルク家の領土となっていました。
 しかし,フランス革命中に南ネーデルラントとともにフランスに占領され,1795年にフランス領となりました。フランス支配は,〈ナポレオン〉の敗北まで続きます。





○1760年~1815年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 デンマーク=ノルウェーとスウェーデンは,1775年に始まるアメリカ独立戦争では,イギリスが他国船に対する攻撃を初めたことから,スウェーデンが1778年に中立船の保護を主張。その後,ロシアの〈エカチェリーナ2世〉は1780年に武装中立同盟を提唱し,スウェーデンとデンマーク=ノルウェーが受け入れました。のちにプロイセン,オーストリア,ポルトガルも参加し1783年まで続きました。これは後の戦時における中立政策の走りです。
 1788年にスウェーデンの〈グスタヴ3世〉(位1771~92)はフランス寄りの姿勢を重視し,フィンランドやバルト海支配を目論むロシアとの間に戦争を開始しました。しかし戦果は良くなく,フランス革命に対する対応が急務となったために1790年にロシアと講和。〈グスタヴ3世〉は臣下の〈ファッシェン〉(フランス語ではフェルゼン,1755~1810)をフランスに差し向け,〈ルイ16世〉救援を図りますが,1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件は未遂に終わり,1792年には〈グスタヴ3世〉が貴族に暗殺されました。〈グスタヴ3世〉の差し向けた〈フェルゼン〉は,〈ルイ16世〉の王妃〈マリ=アントワネット〉の愛人といわれる人物です。

 〈グスタヴ3世〉を継いだ〈グスタヴ4世〉(位1792~1809)は,デンマーク=ノルウェーとの関係を中立同盟により改善させました。英仏の海上での抗争が激化し,イギリスが中立国の船の航行に干渉し出すと,1800年にはデンマーク,スウェーデン,ロシア,プロイセンとともに第二回の武装中立同盟を結んでいます。大陸でのナポレオンの影響が,北ヨーロッパにも及んだのです。スウェーデンの〈グスタヴ4世〉は革命フランスに敵対し,〈ナポレオン〉に対してイギリスとロシア,オーストリアとともに第三回対仏大同盟に参加しました。しかし,大陸でプロイセン,オーストリア,ロシアが〈ナポレオン〉と講和し「ナポレオン帝国」が築かれるとスウェーデンは大陸から撤退しました。こうしてロシアは〈ナポレオン〉とヨーロッパの東西を分け合う形となりました。

 1808年にはロシアはフィンランド全土を占領し,ロシア皇帝を大公と,これを補佐する総督によるフィンランド大公国の設立を宣言しました。

 一方デンマークはイギリスとの同盟関係を結ぶことに失敗し,1807年にフランスに占領されます。フランス軍がスウェーデン南部に上陸するのは,時間の問題でした。
 そんな中,〈グスタヴ4世〉が軍人・官僚によるクーデタで倒れ,臨時政府が樹立。憲法が制定され前王の叔父の〈カール13世〉(位1809~18)が即位し,各国と講和しました。
 ナポレオン戦争末期のごたごたの中で,スウェーデンはデンマークに侵攻して1814年1月にキール条約で力ずくで講和を認めさせました。なお,〈カール13世〉には跡継ぎがいなかったため,1810年には〈ナポレオン〉軍の〈ベルナドット〉が後継の王に指名され,のちに実現しています。

 この結果,ノルウェーはスウェーデンに割譲されることになり,デンマーク=ノルウェーの同君連合は幕を閉じました。
 ノルウェーは憲法を制定し独立宣言を発しますが孤立無援に陥り,結果としてスウェーデン王国との同君連合を認めました。
 デンマークはアイスランド,グリーンランド,スレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ),ホルステン(ドイツ語でホルシュタイン)はデンマークの領域にとどまっています。1814~1815年のウィーン会議では,この動きが既成事実として認められることになります。

 スウェーデンに割譲されたノルウェーや,ロシアの従属下に置かれたフィンランドでは,支配されたことに対する反発から民族意識が高まり,国語や国民文化を形作っていく運動が盛んになっていきました。一方,スウェーデンではみずからをゲルマン諸民族の一派「ゴート人」であると見なし,それをスウェーデン人の誇りとする運動もみられます。

 なお,デンマーク=ノルウェー(デンマーク)は17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。デンマークの奴隷貿易は1807年まで続き,その後も奴隷制は1848年まで続きました。



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・1760年~1815年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
フィンランドはロシアに占領されることになる
 ナポレオン戦争に際し、スウェーデン王〈グスタヴ4世アードルフ〉は、フランスの皇帝〈ナポレオン〉の大陸封鎖令に従わず抵抗します。
 〈ナポレオン〉はロシアに指示してフィンランドを攻撃させ、1808~1809年にスウェーデンとロシアは「フィンランド戦争」が起こりました。
 この結果、スウェーデンはフィンランドをロシアに割譲することになりました。
 スウェーデンによるフィンランド支配の終焉です。1808年にはロシアはフィンランド全土を占領し,ロシア皇帝を大公と,これを補佐する総督によるフィンランド大公国の設立を宣言しました。

 一方、フィンランドを失ったスウェーデンは、1814年のキール条約によって代わってノルウェーを手に入れます(スウェーデンとの同君連合)。



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・1760年~1815年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク、⑤ノルウェー
ノルウェーはデンマークからスウェーデン支配に

デンマーク=ノルウェーとスウェーデンは,1775年に始まるアメリカ独立戦争では,イギリスが他国船に対する攻撃を初めたことから,スウェーデンが1778年に中立船の保護を主張。その後,ロシアの〈エカチェリーナ2世〉は1780年に武装中立同盟を提唱し,スウェーデンとデンマーク=ノルウェーが受け入れました。のちにプロイセン,オーストリア,ポルトガルも参加し1783年まで続きました。これは後の戦時における中立政策の走りです。
 1788年にスウェーデンの〈グスタヴ3世〉(位1771~92)はフランス寄りの姿勢を重視し,フィンランドやバルト海支配を目論むロシアとの間に戦争を開始しました。しかし戦果は良くなく,フランス革命に対する対応が急務となったために1790年にロシアと講和。〈グスタヴ3世〉は臣下の〈ファッシェン〉(フランス語ではフェルゼン,1755~1810)をフランスに差し向け,〈ルイ16世〉救援を図りますが,1791年6月のヴァレンヌ逃亡事件は未遂に終わり,1792年には〈グスタヴ3世〉が貴族に暗殺されました。〈グスタヴ3世〉の差し向けた〈フェルゼン〉は,〈ルイ16世〉の王妃〈マリ=アントワネット〉の愛人といわれる人物です。

 〈グスタヴ3世〉を継いだ〈グスタヴ4世〉(位1792~1809)は,デンマーク=ノルウェーとの関係を中立同盟により改善させました。英仏の海上での抗争が激化し,イギリスが中立国の船の航行に干渉し出すと,1800年にはデンマーク,スウェーデン,ロシア,プロイセンとともに第二回の武装中立同盟を結んでいます。大陸でのナポレオンの影響が,北ヨーロッパにも及んだのです。スウェーデンの〈グスタヴ4世〉は革命フランスに敵対し,〈ナポレオン〉に対してイギリスとロシア,オーストリアとともに第三回対仏大同盟に参加しました。しかし,大陸でプロイセン,オーストリア,ロシアが〈ナポレオン〉と講和し「ナポレオン帝国」が築かれるとスウェーデンは大陸から撤退しました。こうしてロシアは〈ナポレオン〉とヨーロッパの東西を分け合う形となりました。

 1808年にはロシアはフィンランド全土を占領し,ロシア皇帝を大公と,これを補佐する総督によるフィンランド大公国の設立を宣言しました。

 一方デンマークはイギリスとの同盟関係を結ぶことに失敗し,1807年にフランスに占領されます。フランス軍がスウェーデン南部に上陸するのは,時間の問題でした。
 そんな中,〈グスタヴ4世〉が軍人・官僚によるクーデタで倒れ,臨時政府が樹立。憲法が制定され前王の叔父の〈カール13世〉(位1809~18)が即位し,各国と講和しました。
 ナポレオン戦争末期のごたごたの中で,スウェーデンはデンマークに侵攻して1814年1月にキール条約で力ずくで講和を認めさせました。なお,〈カール13世〉には跡継ぎがいなかったため,1810年には〈ナポレオン〉軍の〈ベルナドット〉が後継の王に指名され,のちに実現しています。

 この結果,ノルウェーはスウェーデンに割譲されることになり,デンマーク=ノルウェーの同君連合は幕を閉じました。
 ノルウェーは憲法を制定し独立宣言を発しますが孤立無援に陥り,結果としてスウェーデン王国との同君連合を認めました。
 デンマークはアイスランド,グリーンランド,スレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ),ホルステン(ドイツ語でホルシュタイン)はデンマークの領域にとどまっています。1814~1815年のウィーン会議では,この動きが既成事実として認められることになります。

 スウェーデンに割譲されたノルウェーや,ロシアの従属下に置かれたフィンランドでは,支配されたことに対する反発から民族意識が高まり,国語や国民文化を形作っていく運動が盛んになっていきました。一方,スウェーデンではみずからをゲルマン諸民族の一派「ゴート人」であると見なし,それをスウェーデン人の誇りとする運動もみられます。

 なお,デンマーク=ノルウェー(デンマーク)は17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。デンマークの奴隷貿易は1807年まで続き,その後も奴隷制は1848年まで続きました。



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・1760年~1815年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデンは反フランス革命の立場をとる
 スウェーデンは、議会中心の政治が展開されますが、ロシアとの関係をめぐって国内で意見が対立。反ロシアの「ハット党」と、親ロシアの「キャップ党」との対立です。
 しかし〈グスタヴ3世〉(位1771~92)は王権を強化し、議会の権限を制限します。
 王はフランス革命に対しては反対の立場をとりました。

 このころフランス王妃〈マリ=アントワネット〉に接近したスウェーデン人〈フェルセン〉伯爵は、当時フランスに駐在していた〈グスタヴ3世〉の寵臣でした。国王一家の脱出をはかりますが、結局失敗。このへんは『ベルサイユのばら』でも知られるエピソードですね(注1)。
 フランス革命に対抗する立場を固めるために、ロシアとも講和することになりました。
(注1) 石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書、2017年、p.49。

●1815年~1848年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展③ (沿海部への重心移動),南北アメリカ:独立①
産業革命の波が欧米に波及し,各地で自由主義と保守主義の対立が勃発する。依然としてアジアの経済は盛ん。交通革命により,帆船は蒸気船に,馬・ラクダは鉄道に交替する。
◆ユーラシア大陸・アフリカ大陸
・政権の中心が,ユーラシアの遊牧民エリアから,沿岸地帯に移る。
・ヨーロッパ勢力が海の道に参入し,各地に拠点を設ける。

◆南北アメリカ大陸
南北アメリカ大陸では,ヨーロッパからの植民者の独立が進む。

この時代のポイント
(1) イギリスの産業(インダストリアル)革命」(蒸気力による機械工業化)(注1)がヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国に伝わり,「国際分業」が進展していく。
(2) 一方,東アジアを中心に労働集約・資本節約的な「勤勉(インダストリアス)革命」が進行しており,アジアの域内貿易は盛んであった。
(3) 「交通革命」により,地球のネットワークの規模が広がり,新・旧大陸の交流も活発化する。

 ヨーロッパでは保守主義に対する自由主義・急進主義の運動が活発化する。北アメリカではアメリカ合衆国がインディアン諸民族と対決しながら(インディアン戦争),経済的な自立を進めた。南アメリカではヨーロッパ向けの一次産品の輸出を支配する大土地所有者の支配が残り,ヨーロッパの資本への従属が進んだ。
 西アジアでは,オスマン帝国の領域内の反政府運動に西ヨーロッパ諸国が結びつき東方問題が深刻化した。イギリスの東インド会社の商業活動が廃止されると,東インド会社による南アジア・東南アジアの統治が本格化していく。清は朝貢貿易をゆるやかなものにしようとしたが,イギリスとのアヘン戦争に敗北し,開港と不平等条約の締結を余儀なくされた。この情報を受けた日本では,近海に現れていたロシア,イギリス,アメリカ等の外国船に対する対応を軟化(なんか)させるとともに,海防のために西洋技術の導入を急いだ。他方,清の弱体化を背景に,インド洋・南シナ海・東シナ海の海域世界では民間商人のネットワークが活性化し,アジア域内交易が盛んになっていきます。

解説
 ヨーロッパでは自由主義的な運動への反動から,君主国による主権国家体制への揺り戻し(ウィーン体制)が形成されましたが,フランスを“震源地”とする革命(1830年の七月革命と1848年の二月革命)の影響により崩壊に向かいます。
 北アメリカでは,特にアメリカ合衆国がヨーロッパからの政治的・経済的な自立が進みましたが,先住民のインディアン諸民族の抵抗は続きました。
 南アメリカはスペイン植民地からの独立運動が成功し,アルゼンチン,チリ,ボリビア,ペルーなどの共和国が独立を達成しました。しかし,独立後にも大陸生まれの白人層(クリオーリョ)は勢力を持ち,イギリスを始めとする対外資本と結び付いて現地の政治・経済を握る体制がつくられていきました。南アメリカ諸国はスペインから独立したものの,今度はイギリスに対する経済的な従属を強めていったのです。
 アジアではヨーロッパ諸国による領域支配が進められ従属が進んでいきましたが,現地の政権や住民による抵抗運動も起きました。イギリスは清をアヘン戦争(1840~42)で開国させ不平等条約を締結させるなど,武力で自由貿易を押し付けようと試みました。しかし,清の弱体化を背景に,アジアの地域間の交易ネットワークはより一層活性化に向かうことになります。「アヘン戦争の衝撃によって,東アジアの政治・経済体制が何から何まで変動した」(ウェスタン=インパクトといいます)というのは言い過ぎで,欧米の進出を受けながらも,アジアの海域世界では各地の商人ネットワークが張り巡らされていった点は重要です(注)。
 アヘン戦争の情報を受けた日本では,1825年の無二念打払令(むにねんうちはらいれい)(異国船打払令)が1842年に薪水(しんすい)給与令(きゅうよれい)に緩(ゆる)められ,西洋技術を導入した大砲鋳造などで海防の強化を急ぎました。
 アフリカでも各国による内陸部の探検がはじまり,沿岸部だけではなく内陸部の領域支配に向かっていくと,現地の政権や住民による抵抗運動が起きています。1830年にはフランスがアルジェリアに進出しています。
 オセアニアではオーストラリアやニュージーランドへのイギリスの進出が本格化し,世界経済に結び付けられていきました。
(注)濱下武志『香港―アジアのネットワーク都市』筑摩書房,1996。濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013。



●1815年~1848年のアメリカ
○1815年~1848年のアメリカ  北アメリカ
モンロー主義の下,太平洋方面に領土を拡大する
・1815年~1848年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
 イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は,人口の増加にともない領土を拡大する必要から,先住民のインディアン諸民族の地域への進出を本格化させていきました。スペイン植民地だったフロリダでは,スペインと組んだセミノール人との間第一次セミノール戦争(1817~18)が勃発します。司令官は,〈モンロー〉大統領(任1817~25)に命じられた〈ジャクソン〉【東京H19[3]】(のちの大統領(任1829~37)) 【追H18,H21】です。敗れたセミノール人はその後も,さらに2度のセミノール戦争(1835~42第二次,1855~58第三次)を戦うことになります。アメリカの関わった戦争としては,最も長期間にわたるものでした。

 こうした内政問題もあり,建国の父・初代大統領〈ワシントン〉(任1789~97) 【セA H30】は,アメリカは“内向き”の国であるべきだ,と考えていました。“新大陸”に位置するアメリカは,アメリカ大陸の防衛に専念するべきであり,“旧大陸”のヨーロッパと関わるべきではないという考え方です。
 旧大陸には貴族制度や領主制度の長い歴史がありましたが,アメリカには貴族や領主制度もありません。まったく新しい価値観によって生まれたアメリカが,ヨーロッパの国際政治にかかわることによって,予期せぬもめごとに巻き込まれることを恐れたということでもあります。

 この“内向き”政策を「孤立主義」といい,1812年に始まったアメリカ=イギリス(米英)戦争の勝利の後,アメリカの基本的な外交方針になっていきます。

 “内向き”なアメリカにとっての一番の心配事は,インディアン諸民族の抵抗です。また,中米・南米の多くが,スペインやポルトガルの植民地であったことも悩みのタネでした。しかし,ヨーロッパにナポレオン旋風が巻き起こり,スペインやポルトガルがナポレオンに屈すると,植民地だった地域が次々に独立を開始しました。

 それに対してヨーロッパで,ウィーン体制を推進していた〈メッテルニヒ〉は,独立を阻止する動きをみせたため,1823年に〈モンロー〉大統領(任1817~25)が「今後ヨーロッパ【本試験H19アジアではない】は,アメリカ大陸【本試験H19アフリカ大陸ではない】に植民したり,政治に首を突っ込んだりしないでほしい」と,議会に送る教書のなかで述べました(モンロー宣言(教書) 【東京H10[1]指定語句】【本試験H19,本試験H23時期】【名古屋H31史料・時期】)。そうすれば,かわりにヨーロッパ諸国の争いにも介入しないわけなので,大規模な軍隊を維持しておく必要もなくなります。

 1818年には,イギリスとの協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。
 また,1819年にはスペイン王国【本試験H3メキシコではない】【追H24フランスではない】からフロリダ半島周辺【本試験H3】【追H19地図,H24】【明文H30記】を買収【追H24】しています。


 米英戦争後,インディアン諸民族はますます劣勢になっていきました。1830年には〈ジャクソン〉大統領(任1829~37) 【追H21、H28】が,インディアン強制移住法【東京H25[3]】【追H21,H30】【上智法(法律)他H30】に署名し,先住民をミシシッピ川以西【追H19地図、H28以「東」ではない】【H29共通テスト試行】に置いたインディアン準州(現在のオクラホマ州)の保留地に移住させ,白人社会に同化させようとする政策が実施されていきました。〈ジャクソン〉は,白人男子普通選挙を実現させ【本試験H25ホームステッド法とは関係ない】【追H21女性ではない、H28】,その政策は“ジャクソニアン=デモクラシー”と讃えられた一方で,黒人【追H28】や先住民【追H28】には参政権は与えられませんでした。
 また、1813~14年には,インディアンのクリーク人,1817~18年にはフロリダのインディアンセミノール人に対する戦争を指揮したように,インディアンに対しては超強硬派でした。1838年~39年に,1300キロメートルもの道を移住させられた12000人中8000人以上のチェロキー人が犠牲者となり,そのルートは「涙の旅路」として記憶されています。
 また,さらなる進出にともない,大平原北部のスー人,コマンチ人,シャイアン人といった狩猟生活を行う民族は,馬を利用するようになっており,騎馬によってアメリカ合衆国の人々(アメリカ人)の進出に激しく抵抗するようになっていきました。彼らは,夏至の頃に大自然の力を回復させるためにおこなうサン=ダンスという儀式を行うことで有名です。
 また,南西部のアパッチ人も沙漠などでしばしばアメリカ人を襲撃しました。

 1845年には,すでにメキシコからの分離を勝ち取り独立していたテキサス共和国を,アメリカ合衆国が併合する形で,テキサス【本試験H3イギリスからの購入ではない】【本試験H24米墨戦争の結果ではない,本試験H25時期,本試験H31米墨戦争の原因か問う】【追H20米英戦争の結果ではない】が併合されました。
 1846年には,米英戦争の後イギリスとアメリカが共同で領有していたオレゴン【追H19地図】が,オレゴン協定によって北緯49度線を境にカナダとアメリカ合衆国に分けられることになり,現在のワシントン,オレゴン,アイダホが成立しました。
 さらに,1848年【本試験H10時期(191世紀半ばか)】に現在のカリフォルニア【追H19地図、H27スペインから獲得したのではない】【本試験H3スペインと戦ったのではない】,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺をメキシコから買収します【本試験H6 「19世紀初頭にアメリカ合衆国を代表する貿易港に発展した」わけではない】。
 カリフォルニア【本試験H10】が州に昇格したのは,金が見つかり(ゴールド=ラッシュ【東京H14[1]指定語句】) 【本試験H5 16世紀以降に大量の金が東アジアに流れ込んでいない,本試験H10時期(19世紀半ばか)】 【本試験H22アメリカ「西部」かどうかを問う】【セA H30グラフ(ゴールド=ラッシュの時期を問う)】人口が激増した【本試験H10】からです。多くの人は“時すでに遅し”で金を採掘できずじまい,49年に到着した人々は「もう遅いよ」ということで“フォーティーナイナーズ”とあだ名されました。
 同じ頃,ミシシッピ川流域では淡水真珠が発見され,パール=ラッシュが勃発。ティファニー社がさまざまなブローチを生産し,第二次世界大戦後にプラスチック製ボタンが隆盛となるまで栄えます(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.122。

 この時期のアメリカ合衆国では〈エドガー=アラン=ポー〉が「アッシャー家の崩壊」(1839),「モルグ街の殺人」(1841),「黄金虫」(1843)を著し“推理小説の父”とされています。科学的な知見を小説に織り込む試みは,のちフランスの〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)にも影響を与えました。

 カナダでは,イギリスからの移民が増加し,カナダにおけるイギリス系住民が増えていきました。また,1846年にイギリスで輸入穀物に関税をかける穀物法が撤廃された【本試験H24穀物法は「輸入穀物の関税を撤廃していた」わけではない】【早・政経H31 年代】ことで,モントリオールで木材や小麦を輸出していた商人は打撃を受けます。




○1815年~1848年の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆中央アメリカ,カリブ海,南アメリカのスペイン・ポルトガル植民地生まれの白人(クリオーリョ)が,本国からの独立運動を成功させた【共通一次 平1:クリオーリョが「独立運動に反対した」わけではない】
 スペインやポルトガルの植民地であった「ラテン=アメリカ」ではスペイン,ポルトガルからの独立運動がいよいよ本格化します。アメリカ合衆国と同じように,植民地生まれの白人(クリオーリョ【東京H10[1]指定語句】)が主導し,この時期に9つの共和国と1つの帝国(ブラジル帝国)が成立しました。
 いずれの国でも自由主義が重視されたものの,イギリスの強い影響下に置かれます。産業革命(工業化)が軌道に乗っていたイギリスは,自由に製品を売ることができる相手として,中央・南アメリカの新興国家を選んだわけです。
 同時に,これら諸国は工業製品の原料や農産物,畜産物の仕入先にもなりました。独立を支援【共通一次 平1:反対して干渉したわけではない】したのはイギリスのトーリー党(〈リヴァプール伯爵〉(任1812~27)内閣の自由主義派〈カニング〉外相(外相任1807~09,22~27,首相任27)です【本試験H18ジョゼフ=チェンバレンではない】。〈カニング〉は,市場拡大をねらって,ラテン=アメリカのスペイン植民地の独立運動を援助しました(〈カニング〉外交)【本試験H5】。



○1815年~1848年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

・1815年~1848年のアメリカ  中央アメリカ  現①メキシコ
メキシコではメスティーソとインディオの独立運動を,クリオーリョが鎮圧し,地主寡頭制の下で輸出向け作物の増産が図られた
◆メキシコは1821年に独立する
 さて,メキシコ(スペイン語ではメヒコ)でも〈イダルゴ〉神父(1753~1811)が農民中心の独立運動を起こしました。1810年の「ドロレスの叫び」演説で独立を訴えますが,クリオーリョを運動に巻き込むことができず1811年に処刑されました。でも結局クリオーリョが反乱を起こして,1821年に独立を達成しました。

 メキシコは1821~23年に共和政をとり,1822年には中央アメリカのコスタリカ,ニカラグア,ホンジュラス,エルサルバドル,グアテマラとともに中央アメリカ連邦を形成しています。1823年~24年に帝政となるも,1824年には共和政に戻ります(~1864年)。首都はメキシコシティで〈サンタ=アナ〉(1794~1876)が独裁権を握りました。
 1845年にアメリカ合衆国はメキシコからテキサスを併合【本試験H31ほか】。この直後にアメリカ合衆国では,自国の領土を拡大していくのは”マニフェスト=ディスティニー”【追H27アメリカ合衆国か問う】【東京H19[3]】(明らかな運命,明白なる天命)だという論調が展開されました。1846年~48年にアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争) 【本試験H2アメリカ独立戦争ではない】【本試験H31テキサス併合がきっかけか問う】【追H18米西戦争とのひっかけ】が起こり,メキシコはカリフォルニアとニュー=メキシコ【明文H30記】をアメリカ合衆国に奪われ,領土は従来の3分の1となりました。



・1815年~1848年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ

 現在のグアテマラ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタリカはグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
 しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化し,1821年にグアテマラ総督領は独立しました。同年にメキシコに建国されたメキシコ帝国に一時併合されますが,1823年にアメリカ合衆国をモデルとした中央アメリカ連合として独立しました(1823~25は三頭政治,1825~29に〈ファゴアガ〉大統領が就任)。しかし,エルサルバドルとグアテマラの間の内戦により1839年に崩壊し,グアテマラ(1839~大統領制),エル=サルバドル(1841~大統領制),ホンジュラス(1839~大統領制),ニカラグァ(1838~大統領制),コスタ=リカ(1825~国家元首制)に分裂しました(注)。
 イギリスの武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東部ベリーズには,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となっていました。しかし,スペインから独立した隣接するグアテマラ(1824~39は中央アメリカ連合州)との国境をめぐる紛争は続きました。
(注)中央アメリカ連合と,各国の年号は参照 増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,pp.76-86。




○1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島


・1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。
・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑪マルティニーク島
 フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションを続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立した第二共和政が,奴隷制を廃止するまで続きます。




○1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ
・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆ブラジルではクリオーリョの支持を受け,平和裏に「ブラジル帝国」が成立する
ポルトガルの王子がブラジル皇帝に即位する
 ポルトガル【本試験H22スペインではない】王室は,〈ナポレオン〉戦争中に摂政〈ジョアン〉を中心にブラジルのリオ=デ=ジャネイロに遷都していました。自由貿易のパートナーとしてイギリスの経済圏に組み込まれていったポルトガル王室支配下のブラジルでは,摂政であった〈ジョアン〉が〈ジョアン6世〉(温厚王,位1816~26)として即位。しかし,植民地生まれのポルトガル人(クリオーリョ)は,イギリスと協力関係を結ぶイベリア半島から渡ってきた半島人との間には亀裂が生まれるようになっていきました。イギリスは奴隷制廃止の方針をとっていましたが,クリオーリョたちはプランテーションに多数の奴隷を使っていたからです。
 1820年にポルトガルでは立憲君主制を実現させようとする革命が起きると,1821年にようやく〈ジョアン6世〉はポルトガルに帰還することになります。このとき,皇太子〈ドン=ペドロ〉はブラジルにとどまりましたが,ポルトガル本国側がブラジルを“植民地”に降格させようとしていることが発覚すると,ブラジル生まれのポルトガル人(クリオーリョ)たちは〈ドン=ペドロ〉をかついで独立を宣言。こうして〈ペドロ1世〉を“皇帝”(位1822~31)とするブラジル帝国が成立しました。ポルトガル本国はこれを1825年に承認し,帝政はこの後1899年まで続きます。
 ほとんど平和裏に独立を達成したブラジルの例は,ラテン=アメリカでも珍しいものです。帝政は,ポルトガルの王室出身者を担ぎ上げたクリオーリョにより支えられており,プランテーションの所有者による支配が継続していくことになったわけです。国内には多種多様な民族・人種が混在し,ブラジルとしてのまとまりを維持することはカンタンではありませんでした。2010年現在のブラジルの人種構成は,白人47.7%,白人と黒人の混血(ムラート)43.1%,黒人7.6%,アジア系1.1%,先住民0.4%となっています(注 The World Fact Book,Central Intelligence Agencyによる)。
 1824年には中央集権的な憲法が成立し,地方では中央政府に対する反乱も起きました。特に以前からスペインとの間で領土問題が起きていた南部ではアルゼンチンの支援を受けて独立が宣言され,1828年にイギリスが調停する形でウルグアイ東方共和国が建国されました。
 1831年に支配に対するクリオーリョの抵抗が強まると〈ペドロ1世〉は,たった5歳の〈ペドロ2世〉に譲位してポルトガルに帰国。以降は摂政による統治(1831~40年)となりました。この間,ブラジル各地で政府に対する反乱が多発します(1824年・1837年に北東部で反乱,1835~40年にアマゾン川流域で反乱,1835~45年に南部で反乱,1839年に北部で反乱,1842年に南部の内陸ミナス=ジェライスで自由派による反乱)。摂政制という不安定な政治体制の下,国内ではブラジル国内に連邦制をしいて共和政を実現させようとするグループ,憲法を制定し皇帝による支配を実現させようとするグループ,〈ペドロ1世〉にポルトガルからもう一度来てもらい絶対主義的な支配を復活させようとするグループなどに分かれ,ブラジルという国の方向性をめぐる争いが続きましたが,結局は〈ペドロ2世〉が1841年から親政することで決着がつきます。
 〈ペドロ2世〉(位1831~89,親政は1841~89)は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力し,自由党と保守党のバランスを重視して,まず1844~48年の間は自由党に政権を担当させました。また,経済的にはコーヒー産業を発展させ鉄道を敷設させ,ポルトガルからは多くの移民を受け入れました。数百万人の移民はブラジルに“ヨーロッパの風”を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。




・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現③ウルグアイ,④アルゼンチン
ウルグアイとアルゼンチンは、白人中心に独立する
 アルゼンチンでは,スペインからの自治・独立を求める動きが,アメリカ大陸生まれの白人(クリオーリョ)を中心に盛り上がっていました。しかし,ヨーロッパ文化が根付いたブエノスアイレスと,内陸のガウチョ(牧畜民)らの世界との間には歴然とした違いがあり,両者をまとめて「ひとつの国家」として自治・独立を達成しようとするには,大きな課題が待ち受けていました。さらに,独立国家の体制をどうするかをめぐり,「インカ皇帝を復活させるべき」「共和政にするべき」「スペイン王を迎えるべき(これは独立運動家の〈サン=マルティン〉が主張しました)」など,さまざまな意見がありました。

 そんな中,1816年に南アメリカ連合州(リオ=デ=ラ=プラタ連合州)の独立宣言が先住民の言語であるケチュア語とスペイン語で発表され,インカ皇帝の復活が決められました。
 しかし,この独立を主導したブエノスアイレスのクリオーリョたちは,内陸部からに畜産物を輸出し,ヨーロッパから工業製品を輸出する自由貿易を推進したため,「それでは輸入品により内陸部の手工業が壊滅し,安い価格で畜産物(皮革製品,塩漬けした加工肉)が買い叩かれるだけだ」と内陸部の諸都市はブエノスアイレス主導の国づくりに真っ向から対立します。
 内陸部の諸州は自由貿易に対して保護貿易を主張し,大土地所有者の持っていた権利を守ろうとしました。そのためには少数の大土地所有者たちが少数で政権をまわすほうが,都合がよかったわけです。

 南アメリカ連合州(リオ=デ=ラ=プラタ連合州)内部での争いが続く中,スペインからの独立を守るため,周囲の諸地域をスペインから解放するための戦いが続けられました。1817年にはチリへの遠征が独立運動家〈サン=マルティン〉【追H27アメリカ合衆国の独立の指導者ではない】により試みられ,チリとともにペルーをスペインから解放します。

 その一方で,地方諸州の攻撃により,ブエノスアイレス主導の南アメリカ連合州(リオ=デ=ラ=プラタ連合州)は1820年に崩壊。
 しかし,地方諸州とブエノスアイレスの対立が決定的となる中,ラ=プラタ川の向こう側にあるバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイに相当)を取り替えそうという機運がが盛り上がり,1825年には独立(1822年)間もないブラジルとの戦争(ブラジル戦争)となりました。
 ブラジルに対してともに戦う中で連邦は「アルヘンティーナ」と改称。しかし1828年にイギリスが介入する形で,バンダ=オリエンタルは「ウルグアイ東方共和国」として独立することになりました。

 ラ=プラタ川の向こう側の領域を「ウルグアイ」として独立する形で失ったアルゼンチンでは,ブエノスアイレス主導の国家建設に反対する連邦派の〈ロサス〉が1829年に主導権を握り,1832年に全アルゼンチンを統一しました。
 〈ロサス〉時代には,ブラジルとの間に位置するウルグアイとをめぐる領土紛争が激化し,この地への進出をねらうイギリスとフランスも敵に回すことになりました。しかし,1833年にはマルビナス(英語名はフォークランド)諸島がイギリスに占領されています(のち,1980年代にこの島をめぐってイギリスとの戦争が起きました⇒1979~現在の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ>アルゼンチン)。




・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
独立後のチリはイギリスの経済圏に組み込まれる
◆チリでは安定した中央集権的な政府の下で,イギリスとの経済的な関係が強まった
 独立を勝ち取ったチリでは,独立運動に関わった〈オイヒンス〉の独裁政権(1819~23)に続き,自由主義派と保守派との対立が続きました。しかし1830年に保守派が勝利し,1833年に憲法が発布。カトリックを保護して〈ポルターレス〉(1793~1837)の下で中央集権的な安定した体制が1860年まで続きました(ポルターレス体制と呼ばれます)。
 この間,イギリスとの関係を強め,工業製品を輸入し一次産品が輸出されました。チリの支配層はこうしたイギリスとの貿易の利益にあずかることになります。
 1836年にはペルー=ボリビア連合に宣戦布告し,1839年にペルー=ボリビア連合を崩壊させました。
・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
◆〈ボリバル〉と〈サン=マルティン〉を中心に独立戦争が遂行された
ボリビア、ペルーの白人中心にスペインから独立
 さて,その頃,アルゼンチンでも独立運動が勃発。その知らせを聞いて,急きょ留学中のスペインからふるさとに舞い戻ったのが,同じくクリオーリョの軍人〈サン=マルティン〉(1778~1850)です。スペインに残っていれば出世間違いなしのはずであった彼は,「ラテンアメリカ統一」という夢をかかげて,動き出します。彼の計画は,アルゼンチンを拠点にし,チリとペルーを解放したのち,ペルーの高地地方(現在のボリビア)を解放するというもの。
 チリとペルーを解放後,なかなかボリビアを攻めることができず困った〈サン=マルティン〉は,北部で活躍していた〈シモン=ボリバル〉と会談し,「俺を部下にしてくれ!」と頼み込んだそうです。しかしながら,ボリバルは共和主義,サン=マルティンは君主主義だったためにお互いの考えには溝があったのも事実。提携構想は流れてしまいました。
 〈サン=マルティン〉が落とせなかったペルーの高地地方(アルト=ペルー)の解放を託された〈ボリバル〉は,1825年にスペイン【追H25オランダではない】軍を破り,独立と南アメリカからのスペイン軍の撤退を勝ち取りました。この地は〈ボリバル〉の名前にちなんで,ボリビアと名付けられました。

 ボリビアの初代大統領には〈シモン=ボリバル〉がむかえられました。この地を近代化させるため,スペイン系の支配層やカトリック教会の持っていた特権を取り上げる改革が行われました。
 やがて,彼の部下たちの間に意見の対立が生じ始めるなか,〈ボリバル〉は後任に副官であった〈スクレ〉(終身大統領任1826~28)を据え,教会財産の没収などの中央集権化が推進されました。

 このように,今後の中央アメリカ~南アメリカの政治の基本軸は,スペイン支配時代の遺産(カトリック教会や大土地所有制)を温存する保守派と,それを解体してヨーロッパやアメリカ合衆国といった先進国との自由な貿易を認めようとする自由主義派という2つの勢力の力関係によって動いていくことになります。自由な貿易を認めれば農地や鉱山を持つ大土地所有者は潤いますが,他方で輸入品によって伝統的な手工業や農業が破壊される恐れもあり,これにスペイン系のクリオーリョから先住民に至るまで複雑な民族構成がからんで,さまざまな利害が交錯することとなったわけです。

 ボリビアでもパン=アメリカ主義を唱える〈ボリバル〉に対する反対派が台頭し,ペルーでは〈マル〉(任1827~29)と〈ガマーラ〉(任1829~33)が,〈ボリビア〉による大コロンビアへの併合をやめさせようとボリビアに軍事的に進出。これによりボリビアの〈スクレ〉大統領(任1826~28)は辞任し,ペルーでも地方に有力者が台頭して混乱の時代となりました。
 そんな中,ボリビアの〈サンタ=クルス〉(任1829~39)がペルーに軍事的に進出し,ペルーとボリビアを合わせました(ペルー=ボリビア連合)。彼はインカの王族を祖先にもつ母と,スペイン系の父の子として生まれました。
 しかし,〈ポルターレス〉率いる隣国チリとの対立が強まり,1836年にはチリからの宣戦布告を受け戦争が始まり,1839年にペルー=ボリビア連合は崩壊。〈サンタ=クルス〉はヨーロッパに亡命しました。

 その後,ペルーでは〈ガマーラ〉大統領(1839~41)の下で,ボリビアを再び併合しようと図りましたが,彼は1841年に戦士。翌年,和平が結ばれました。戦後のペルーでは混乱が続きましたが,混乱を収拾した〈カスティーヤ〉(1797~1867)が大統領となり,中央集権と近代化を推進しました。

 一方のボリビアでは,ペルーの軍事的な進出により混乱し,独裁政権が成立することになります。

・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ
◆ベネズエラ,コロンビア,エクアドルは大コロンビアとして独立したが,のち分裂した
白人中心に独立・形成した大コロンビアは分裂へ
 ベネズエラではすでにクリオーリョの〈ミランダ〉(1750~1816)が,ベネズエラ解放運動をおこしていました。彼はスペイン軍に入隊し,アメリカ独立戦争にも参戦,さらにフランス革命にも参加しているという強者です。その彼がベネズエラでスペイン人を追放し,革命政府を樹立していること耳にし,〈シモン=ボリバル〉(1783~1830)は運動に参加しました。彼は指導者としてコロンビアをまず独立させ,ベネズエラとあわせて大コロンビア(グラン=コロンビア)共和国としました。これを拡大させていけば,いつかは「パン=アメリカ主義」(アメリカは一つにまとまるべきだという考え)が実現できるというわけです。彼の名は,現在のベネズエラの正式名称「ベネズエラ=ボリバル共和国」にも使われています【本試験H22ボリバルはキューバを独立させていない】。



◆〈ボリバル〉のパン=アメリカ主義に対する抵抗から,大コロンビア共和国が解体。ペルーは混乱するボリビアに進出して連合を形成した
 こうして個々の地域を解放していった〈ボリバル〉は,やがて「旧スペイン植民地を一つにまとめる構想」を抱くようになります。これをパン=アメリカ主義を提唱といい,アメリカ合衆国に接近して1826年にパナマ会議を開催しました。彼は手始めに第コロンビア共和国にペルー,ボリビアを合体させようと考えていたようですが,実現には程遠く,1830年には大コロンビア共和国がベネズエラ,コロンビア,エクアドルに分解し,失意のうちに引退しました。

 なお,『種の起源』で進化論を論じた〈ダーウィン〉(1809~1882) 【追H29】は,1831年から海軍のビーグル号に乗って大西洋,太平洋(1835年にガラパゴス諸島,ニュージーランド,1836年にオーストラリアのシドニー)各地を訪れ,進化論の着想を得ました。



◆大コロンビアは分裂し,自由主義派と保守派の対立を経て,少数の有力者による支配が強まる
 1819年に成立した大コロンビア(グラン=コロンビア)共和国は,独立後に内紛が生じて〈ボリバル〉のリーダーシップが低下すると,1829年にベネズエラ,1830年にエクアドルが分離独立しました。残された部分は1831年にヌエバ=グラナダとなり,最終的に解体しました。
 カリブ海沿岸のベネズエラでは初代の〈パエス〉大統領(任1831~35)が,中央集権的な〈ボリーバル〉派のやり方に対して地方の独立を重視する政策をとり,教会特権が廃止され,コーヒーやカカオの輸出で経済的には恵まれた出だしとなりました。しかし,独裁化する〈パエス〉のやり方に対し,自由党が結成され抵抗を強めます。1847年には〈モナガス〉将軍が大統領に就任(任1847~51)し,奴隷制を廃止し自由主義政策をとりました。自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続くことになります。
 パナマを含むコロンビアはヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。
 赤道直下のエクアドルでは保守派の〈フローレス〉(任1830~35)の下でカトリックが保護されましたが,のち自由主義派の政権(任1835~39)に代わった後,また〈フローレス〉(任1839~45)となり専制化していきます。これに対して1845年に反〈フローレス〉の革命が起き,保守派への揺れ戻しが起きました。のち自由主義派と保守派の内紛や,周辺諸国との戦争により,エクアドルは内外をめぐって動揺します。





●1815年~1848年のオセアニア
○1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ


・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
タヒチ王国がフランスに保護国化される
 1803年にポマレ朝をひらいた〈ポマレ2世〉(位1803~1821)は,イギリスの支援の下,着々と近代化を推進。

 次の〈ポマレ3世〉(位1821~1827)はなんと1歳で王位を継ぎ,6歳で亡くなります。そりゃ目を付けられますよね。1826年にはアメリカ合衆国との通商条約が締結されています。日本よりも30年近く早い締結です(1858年日米修好通商条約)。
 後を継いだのは親戚の〈ポマレ4世〉(位1827~1877)という女性。彼女の長い在位の中で,イギリスやフランスの「布教」名目の進出が本格化していきます。
 フランスは女王不在時に摂政との間に保護国化を認める条約を締結。保護国化への抵抗が,周辺の島々も巻き込んだフランスとの戦争に発展(1843~1847,フランス=タヒチ戦争)。1847年にフランスが勝利。しかしイギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはありませんでした(注)。
(注)春日直樹『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社,1999,p.75~p.76。



・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 この頃,ニュージーランドにヨーロッパから商人や宣教師が訪れるようになっています。1822年にウェズリー派が訪れ,その後カトリックも布教されました。マオリ【セ試行「ニュージーランドの先住民」】の中にはイギリスを訪れる者も現れ,ニュージーランドのアイランズ湾周辺のンガプヒ族の大首長〈ホンギ=ヒカ〉は宣教師とともにイギリスで〈ジョージ4世〉に謁見しています。彼は帰国時の1821年に銃が与えられ,それがもとで他部族との戦争に発展,〈ホンギ=ヒカ〉による領土拡張の野望は1828年まで続きました。

 1831年にはフランスの軍艦がニュージーランドに訪れると,イギリスの宣教師・商人とともに現地の首長らは「イギリスに助けを求めよう」という合意をしました。この提案が国王に伝わると1833年に駐在事務官〈バズビー〉がニュージーランドにやって来て,「ニュージーランドの独立を,イギリス国王に認めてもらえば安全は確保される。独立宣言に署名してほしい」と首長らに訴えます。1835年,こうして首長34人の署名により,ニュージーランド部族連合国が成立したのです。もちろんこれには,ニュージーランドを自国の支配下に置きたいイギリスの思惑が絡んでいました。

 一方,イギリス商人もニュージーランドを新たな資源獲得地として注目しており,1838年にはニュージーランド会社が設立され,ニュージーランドの北島と南島にまたがる広大な土地が買収されました。会社の手引きにより,ニュージーランドへの移民も続々と到着していきます。

 この動きをイギリス政府【H29共通テスト試行】は憂慮。〈ホブソン〉代理総督が派遣され,1840年にマオリ【セ試行 絶滅していない】【本試験H21オーストラリアの先住民ではない,H29共通テスト試行】の首長たちを集め,アイランズ湾のワイタンギで条約を結びました。
 これにより,マオリの主張はすべての権利をイギリス国王(王冠)に全面的に譲渡されることが合意されました。その内容がわかっていれば,マオリの首長たちも反対できたはずですが,条約内の「主権」という言葉の翻訳が,マオリ人にはわからない造語によって表現されたため,その解釈をめぐるギャップが生まれることになります。

 ともかく,このワイタンギ条約によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されることとなったのです。


・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。 

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。

・1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
 この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家〈キャプテン=クック〉(1728~79)でした。
 1778年にハワイに到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(〈クック〉は住民との争いの中で命を落としています)(注)。
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(https://www.britannica.com/topic/sandwich)。

 〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは〈カメハメハ1世(大王)〉(1736?/58?~1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して,白檀(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。

 ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。



○1815年~1848年のオーストラリア
 オーストラリアへのイギリス人の入植は,当時は流刑(るけい,犯罪者を島流しにすること)制度によるものでしたが,19世紀前半を通して,次第に囚人の人口に占める割合は減っていきました。

 ニューサウスウェールズ(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が設立され,鉄道も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり,ゴールドラッシュが起きました(オーストラリアのゴールドラッシュ) 【追H20時期(19世紀か)】。移民の増加により【追H20】人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
 1863年にはタスマニア島【本試験H26ドイツ領ではない】で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。




○1815年~1848年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア

・1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種である白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触しています。

○1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン=マーシャル〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。


・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。

・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。

・1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 この地域はスペインの支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島のチャモロ人はグアムに移住させられたとみられます。
 




●1815年~1848年の中央ユーラシア
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
・1815年~1848年の中央ユーラシア  タリム盆地(新疆(しんきょう))
 1840〜42年のアヘン戦争により疲弊した清は,新疆やコーカンドの商人に対する課税を強化したため,イスラーム教徒(回民と呼ばれました)による反乱が起こるようになっていきます。

・1815年~1848年の中央ユーラシア タリム盆地~アム川・シル川流域
 新疆を通して清との交易をおこない力を増していたウズベク人の一派のコーカンドのハーンは1830年に,タリム盆地の西部の都市カシュガルを占領します。コーカンドの進入に対して,清は有効な対応を打てず,一説には新疆における有利な条件を清に約束させたといいます(1835年)。
 しかしこのへんから,ロシア帝国によるトルキスタンへの進出が加速します。1839年にロシアはヒヴァ=ハーン国に遠征したのは序の口。中央ユーラシアの覇権をめぐる,ロシアとイギリスの「グレートゲーム」といわれる争いに勝利するには,トルキスタンは絶対に確保しなくてはならない場所とされたのです。

・1815年~1848年の中央ユーラシア  現カザフスタン
 16世紀末からウラル山脈を越えてシベリアに進出したモスクワ大公国,のちのロシア帝国は,1820年代に入るとカスピ海〜アラル海〜バルハシ湖の北部に広がるカザフ草原のハーンたちを直接支配下に置くようになり,セミパラチンスク州などの州に分割されました。カザフ人たちは,タリム盆地で勢力を拡大していた,ウズベク人の一派のコーカンドのハーンを警戒していたのです。こうして,カザフ草原にロシア帝国の支配が及ぶことになると,遊牧民が従来のルートで遊牧することができなくなることもありました。また,このころには,タタール人によりイスラーム教の布教が進み,従来の伝統宗教からの改宗が進んだり,スラヴ人の農民が移住してきたりしました。そうなると,カザフ人のなかには不満も出てくるようになり,カザフ語の普及などを通し,カザフ人としての意識がだんだんと形作られるようになっていきました。





●1815年~1848年のアジア

○1815年~1848年のアジア  東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○1760年~1815年のアジア  東北アジア
◆女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出したロシアが対峙
 西方から拡大したロシア帝国が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約【本試験H5時期(17世紀末か)】,1727年にはキャフタ条約【本試験H8】を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める互(ご)市(し)という制度も定められていました。

◆ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
ロシアが沿海州への進出を狙いつつある
 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営むツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人も支配下に入っています。

○1815年~1848年の東アジア
◆イギリスとの「アヘン戦争」に敗北し,ヨーロッパ諸国との通商が始まった
 イギリスによるアヘンの密貿易は,清の深刻な社会問題を引き起こしました。とはいえ,アヘンは危険な薬物ですし,密貿易も問題です。はじめは東インド会社が担当していましたが,イギリス国内で資本家が参政権を獲得(1830年の七月革命の影響を受けた,1832年の第一回選挙法改正)してからは,資本家寄りの自由主義的な政策がつよまり,「東インド会社にアジア貿易を独占させるのはずるい」という意見が出ました。そこで,1833年には東インド会社の対中国貿易独占権廃止(1834年に実施)となり,それ以降はジャーディン・マセソン商会がアヘン密輸を担当するようになりました。イギリスは,民間の商人を「カントリー=トレーダー」として,貿易許可を与えていたのです。

 中国にはアヘン中毒者が激増。これを見かねた第8代〈道光帝〉(位1820~50)は,湖広総督でアヘン禁止派だった〈林則徐〉(りんそくじょ,1785~1850)を欽差大臣に任命します。〈林則徐〉は広州のアヘンを廃棄処分とし【本試験H10:イギリス向けアヘン輸出を厳禁したわけではない】,このニュースが半年後にイギリスに伝わると(この時期の情報伝達速度を物語っています)(注),これを口実にイギリス政府はアヘン戦争(1840~1842年) 【セ試行】【追H27イギリスのアヘン貿易の禁止が原因ではない】 【東京H14[1]指定語句】を起こしました。

 イギリス国内では反対意見もありましたが,開戦。蒸気船の威力にジャンク船がかなうわけがなく,清は敗北し,1842年に南京条約【セ試行 北京条約ではない】【本試験H6香港をイギリスに割譲した】【東京H8[1]指定語句】【追H30天津条約ではない】を締結します。このときに中国がイギリスに割譲したのが,香港(ホンコン)島です【本試験H10アヘン戦争後に「租借地」となったわけではない(「割譲された」が正しい)】。また,自由貿易の障害とされた公行(コホン) 【本試験H10】を廃止,賠償金の支払い,さらに広州・厦門(かもん,アモイ)・福州(ふくしゅう)・寧波(ねいは,ニンポー【早政H30】)・上海(シャンハイ)の5港を開港しました【本試験H18天津は含まれていない(天津は長江河口ではない)】【追H30】。

 南京条約に入れそびれた様々な取り決めは,1843年の五港(五口)通商章程や虎門寨(こもんさい)追加条約で定められました【Hセ10「南京条約などにより,開港や領事裁判権をイギリスに認めた」か問う。「など」の中に翌年の2つの取り決めが含まれるから適当というわけですが,「など」という表現は微妙です】。また,清【本試験H23中華民国ではない】は1844年にはアメリカ【追H21】と望厦(ぼうか)条約【本試験H23】【追H21】,フランスと黄埔(こうほ)条約【本試験H24イギリスではない】を結んでいます。これらを締結した女真(女直)人の〈耆英〉は,のちに自殺に追い込まれています。

◆「海関」の置かれていた上海が,列強に租借され,東アジアの交易拠点に急上昇する
上海の租界は,交易の拠点・革命勢力の拠点に
 現在の上海の夜景スポットとして名高い「外灘(ワイタン)」地区には,1845年の清による上海(しゃんはい)租地(そち)章(しょう)程(てい)の公布以降に建てられたイギリスの建築物が多数残された上海バンドという地区があります。五港通商章程で治外法権(外国人が悪いことをしても,中国の司法権で裁くことができない)が定められ,アメリカ・フランスとも同様の内容の条約が結ばれたため,外国人向けの特別地区が設けられました。清の土地の一部をレンタルするという形式で与えられたこの地区を「租界」【東京H11[3]】といいます。「イギリスが,上海の一部エリアを清から租借した」というふうにいいます。上海には欧米資本の金融機関が多数建てられたほか,百貨店,映画館などのヨーロッパ文化が盛んに持ち込まれていきました(この当時の雰囲気は,〈スピルバーグ〉監督による『太陽の帝国』(1987)で描かれています)。
 しかし,南京条約の締結後も,イギリスの期待どおりには工業製品の中国向け輸出は増えませんでした【本試験H5直後から中国がイギリス綿製品の市場となったわけではない,本試験H10期待どおりに増えたわけではない】。

 上海の租界には,中国各地から移住者が移り住み,出身地別に街区に勢力圏がつくられていきました。このうち,〈黄金(こうきん)栄(えい)〉(1868~1953)・〈杜(と)月(げつ)笙(しょう)〉(1888~1951)・〈張嘯(ちょうしょう)林(りん)〉(1877~1940)らギャングを頭目とする青幇(チンパン)は,大運河をとりしきる業者として麻薬取引・賭場経営などで巨富を上げ,闇組織ネットワークを形成し,清朝打倒の革命運動に対する支援もおこないます。洪門という組織も同様の地下組織で,“滅満興漢”をスローガンに18世紀中頃に福建に起こり華中・華南で組織され,対外的には天地会(てんちかい)(三合会)と呼ばれました(他にも,華中の哥(か)老会(ろうかい)など,雑多な組織が多く含まれ「紅幇(ホンパン)」とも総称されます)。欧米との貿易に関与した中国人商人のことを買弁(ばいべん)【東京H11[3]】といいます。
(注)木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.96。


・1815年~1848年の東アジア  現①日本
◆アメリカやイギリスの進出が活発化,日本は海防を強化していった
捕鯨ブームと中国市場進出を受け,欧米船が接近
 この時期の欧米では,クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのできるマッコウクジラが,ビジネスのターゲットとなります。
 灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通商“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されていました(注)。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。

 1816年イギリスは琉球王国に通商してほしいとお願いしますが失敗。しかし,1818年にはイギリスの海軍将校〈ゴルドン〉が通商目的で浦賀に入港,1822年にはイギリスの捕鯨船が浦賀に補給を求め入港(注),1824年にはイギリス船が常陸に上陸し水戸藩が尋問後に釈放(大津浜事件,水戸学の〈藤田幽谷〉(1774~1826)はこれを批判します),同年には薩摩の宝島(たからじま)に上陸したイギリス船が島民との間に交戦しています(宝島事件)。大津浜では村民がカタコトの英語でコミュニケーションをとっていたことから,すでに洋上で頻繁に接触していたことを物語ります(注)。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.197。
 また,北方では1821年に松前奉行(まつまえぶぎょう。初め蝦夷奉行(1802),のち箱館奉行,さらに松前奉行と改称)が廃止され蝦夷地が松前藩に返還されていましたが,1824年にはイギリス船が東蝦夷地に来航。

 一連のイギリス船の活動を受け,1825年に幕府は,接近する船が捕鯨船であることや国際情勢を踏まえた上で,異国船(無二念)打払令を出し,沿岸のロシア,イギリス,アメリカ船を発見したら「有無に及ばず一図に打ち払」う(上陸したら逮捕か射殺する)ことを命じました。

 なお,1823年にはドイツ人医師〈シーボルト〉(1796~1866)が来日し,長崎のオランダ商館の医師として着任。1824年には塾をひらいて〈高野長英〉(1804~1850),〈伊東玄朴〉(いとうげんぼく,1800~1871)らに西洋医学を講じます。しかし出国時に日本地図(幕府天文方の〈高橋景保〉(たかはしかげやす,1784~1829)に贈られた〈伊能忠敬〉の日本・蝦夷の地図)を持ち出そうとしたため,〈シーボルト〉は国外追放,門下も処罰されました(〈高橋景保〉は獄死)。1828年に帰国しています。

 しかし1837年に今度はアメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に接近し,現在の愛知県の漂流民3名(〈音吉〉,〈岩吉〉,〈久吉〉)と熊本県の漂流民4名の計7名を返すから通商をしてほしいと要求しました。しかし,沿岸から砲撃されて鹿児島に移動後,薩摩藩兵が砲撃しマカオに至りました。

 〈高野長英〉は『夢物語』の中で鎖国政策を批判し,幕府の目付〈鳥居耀蔵〉(とりいようぞう,?~1874)により蛮社の獄(1839,ばんしゃのごく)という思想弾圧を受け,同じく尚歯会(しょうしかい)に属する『慎機論』(1837,未完成)の〈渡辺崋山〉(わたなべかざん,1793~1841)とともに投獄されました(〈渡辺〉は自殺,〈高野〉は脱獄したが江戸で見つかり自殺)。
 そんな中,アヘン戦争(1840~42)で清が敗北した情報が知れ渡ると,いよいよ危機感が高まり,1841年に老中〈水野忠邦(みずのただくに)〉(1794~1851)は将軍〈徳川家慶〉(いえよし,位1837~53)のもとで天保(てんぽう)の改革をおこないます。1841年に〈高島秋帆〉が幕府に西洋式の砲術技術に関するアドバイスをし,その教えを受けた〈江川英龍〉(えがわひでたつ;江川太郎左衛門,1801~55)も研究を重ねています。1842年に薪水(しんすい)給与令(きゅうよれい)が出され,従来のような外国船に対する強硬策を転換させました。国内では,農村を復興させ物価騰貴をおさえる目的で,株仲間を解散させましたが,のちに撤回。幕府権力の衰えには歯止めがかかりません。その一方で諸藩は独自に改革を進めており,専売制や藩営工業によって発展した薩摩(さつま)藩・肥前(ひぜん)藩・土佐(とさ)藩は力を蓄え,「雄藩」(ゆうはん)と呼ばれるようになります。

 なお,1844年に中国との間に望厦条約を結んだアメリカ合衆国は,太平洋を横断する航路の開拓に前向きとなっていました(注)。1846年には今度はアメリカ合衆国の海軍士官〈ビッドル〉(1783~1848)が浦賀に来航して通商を要求,幕府はこれを拒否しています。
(注)「異国船の渡来と浦賀」横須賀市, https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/tokubetuten/16.html
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.207。のち,〈ペリー〉と同時期に,航路開拓の調査のため,北太平洋測量艦隊が派遣されています。当時は捕鯨資源が減少していたこともあり,アメリカ合衆国の漁場は20世紀初めには北極海にまで到達するようになっていきます。


・1815年~1848年のアジア  東アジア 現①日本 小笠原諸島
 小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。
 しかし,1830年には,ハワイから白人5人,ポリネシア人25人が入植し,「ボニン・アイランズ」(Bonin-Islands)と呼ばれます。

・1815年~1848年のアジア  東アジア 現①日本 南西諸島
◆琉球王国に対する通商が要求され,幕府はこれを黙認し西欧との通商が始まった
琉球王国の「開国」を,江戸幕府は黙認する
 外国船の来航は止まらず,1844年にはフランス船アルクメーヌ号が琉球王国の那覇港に入港。通商を要求しています。アヘン戦争の際に強硬策をとったために清がひどい目にあったことを知っていた薩摩藩の担当者は柔軟な対応をとりました。1844年にはイギリスも琉球王国に通商を要求しており,薩摩藩は幕府の許可を得てフランスとイギリスの間の通商を許可しています。




○1815年~1848年のアジア  東南アジア
東南アジア…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー


イギリス植民地  現①ブルネイ、⑥シンガポール、⑦マレーシア、⑪ミャンマーを中心に
◆イギリス東インド会社の〈ラッフルズ〉は、アジアの交易の要衝としてシンガポールに注目した
「東洋の交易拠点」を押さえていったラッフルズ
 現在のシンガポールは当時イスラーム王朝であるジョホール王国〔ジョホール=スルタン国(注1)〕の領土で、19世紀初頭に150人ほどの住民がいたと考えられています。うちマレー人が130人、20人が中国人で、中国人は南西端へ流れるシンガポール川河口付近で漁業をおこないジャングルを開墾して農業をおこなっていたほか、ジョホール水道に面する北部一帯は海賊の拠点となっていました(注2)。
 植民地行政官の〈ラッフルズ〉(1781~1826、世界一大きな花「ラフレシア」を発見した調査隊のリーダーでもあります)は,シンガポールを支配していたジョホール王が別の島に居住し、オランダの支配下にあることがわかると、この王と対立していた弟を持ち出します。すなわち、弟のほうを「正統な王」と承認し、年5000ドルの年金を支払う代わりに、シンガポール川の河口付近一帯を東インド会社の領土とすることを認めさせたのです(注3)。
 こうして1819年にジョホール王からシンガポール【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】【本試験H16時期】を条約により割譲させ領有。そんなことしたらオランダも黙っていないわけですし、〈ラッフルズ〉の行為も東インド会社本部の承認を得ていない越権行為です。
 しかしシンガポールを占領した既成事実を盾に、イギリスはスルターンと新たに年1万8000ドルを支払う条件で契約し、シンガポール全島がイギリス東インド会社の領土となりました(注4)。
 1824年マラッカ海峡よりも東側をイギリス,西側をオランダとする英蘭(ロンドン)協約をオランダ王国【本試験H13フランスではない】と結びました。
 歴史上,こんなところに境界線が引かれたことは一度もなかったわけですが,この取り決めがのちのマレーシアとインドネシアの国境線のもとになっていくのです【本試験H13】。

 1826年には,ペナン【東京H19[3]】,マラッカ【東京H19[3]】,シンガポール【東京H19[3]】を海峡植民地【東京H14[1]指定語句】【追H30スペインの植民地ではない】(Straits Settlements)として統合し,関税を課さない自由貿易港にしました。
 インド東インド会社のベンガル総督府(カルカッタにあります)の管轄の下、海峡植民地の知事は当初ペナンのジョージタウンに駐在しました。のちシンガポールの重要性が高まると、1832年にシンガポールに移されます(注5)。
 これにより,中国や東南アジアの船は,バタヴィアではなく,海峡植民地に来航するようになり,交易が活発化しました。イギリスの自由貿易政策による,オランダつぶしですね。特に,マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは,貿易の中心地として,ペナンをしのぐようになり,1845年にはシンガポールの総人口の過半数は中国人になりました。また,インド人も労働者として移住してくるようになりました。 こうしてシンガポールには,多くの人種が混ざり合う多彩な社会が形成され、1842年にイギリスの植民地となる中国の香港とともにアジアの自由貿易ネットワークの拠点となっていくのです。
 しかし、これら3拠点は自由港であり関税収入はのぞめず、1833年に東インド会社の貿易独占権が廃止されると、東インド会社にとっての海峡植民地の重要性は低下していきました。

 一方マレー半島では,スズ【慶商A H30記】鉱山の開発も進みました。1810年にイギリスで缶詰が発明され,ヨーロッパでのスズの需要が高まったことが背景にあります。中国人やインド人の労働者がスズ鉱山で働きました。中国人の増加を背景にし,ムラユ人諸国の内紛は,マレー半島全域に広がっていくことになります。気候の適した天然ゴム【慶商A H30記】のプランテーションの導入も始まりました【本試験H17コーヒーではない】。マレー半島で生産された資源はシンガポールで輸出され、鉱山会社、ゴム会社、貿易会社、銀行、保険会社がシンガポールに置かれ、マレー半島のイギリス植民地との経済的結び付きが強まっていきます(注6)。

(注1) 「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544)。
ジョホール王国は、ムラカ〔マラッカ〕王国の〈スルタン=マフムード=シャー〉が、マレー半島を南下し、ビンタン島を都として建設したものです。17世紀の初頭からオランダと協力し、1641年のオランダのムラカ占領を支援し、マレー半島南部からスマトラ島中部にかけての一大貿易拠点となりました。1670年前後から衰退し初め、1699年に〈スルタン=マフムード〉殺害事件により、ムラカの王統は断絶します。1819年にイギリス人〈ラッフルズ〉がジョホール王からシンガポール島を獲得し、その後、オランダとイギリスの間の英蘭条約によって1824年マレー半島南部のジョホール王国と、リアウ諸島とスマトラ中部のリアウ王国の分離が決定されました。つまり、このときにオランダとイギリスの間にとりきめられた国境線が、のちのインドネシアとマレーシアの国境線となるわけです。(大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503)。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.4。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.8。
(注4) なおこのときすでに〈ラッフルズ〉は帰国(1823年)しており、全島が植民地化されたときのシンガポールの総督は第二代〈クロウファード〉です。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.9。
(注5) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。
(注6) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.23。



 ビルマでは,1752年にコンバウン朝(1752~1885)がおこっていましたが,イギリス東インド会社がインドの植民地化を加速するのをみて,コンバウン王はベンガル東部の割譲を要求しました。イギリス側はそれを拒否したため,1822年にビルマ軍がインドに進入,アッサムなどを占領しました。1824年から第一次イギリス=ビルマ戦争【東京H23[3]3次まで続くか問う】が始まりました。1826年の停戦条約で,コンバウン朝【本試験H3タウングー朝ではない】のビルマは最南部の地域(アラーカーン,テナーセリウム)をイギリスに奪われました。 



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フランス植民地  現①ヴェトナム、⑧カンボジア、⑨ラオスを中心に

 フランスは,宣教師〈ピニョー〉が〈阮福暎〉を援助し阮朝越南国【追H28中国の唐代の時期ではない】の建国を助けたこともあり,この地方への影響力を維持しようとしました。
 阮朝の皇帝は,はじめはフランスのキリスト教布教に対して寛容でしたが,早くも19世紀前半にはキリスト教布教への取締りを始めます。
1844年にフランスは,アヘン戦争(1840~42)後の清と個別に結んだ黄埔条約【追H17アメリカ合衆国が結んだのではない】を中国進出の足がかりとしようとすると,ヴェトナムの戦略的な重要性が高まり,本格的な植民地化に向け,動きが進んでいくことになります。



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スペイン植民地  現②フィリピンを中心に

1815年に,スペインによるマニラとメキシコ間のガレオン貿易(アカプルコ貿易)は終了しました。1834年には,フィリピンのマニラが開港されると,王立フィリピン会社は財政難で解散しました。外国船がフィリピンに入港し,中国人の移民も増えます。1850年代後半からフィリピンは急速に世界経済に組み込まれていくことになります。


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オランダ植民地  現④インドネシアを中心に

 ジャワ島などのオランダ植民地は,ナポレオン戦争語の1816年にイギリスからオランダに返還されました。困窮状態にあった植民地行政府は,住民たちを直接働かせる政策をとりました。徴税請負人として中国人が活動するようにもなってきました。そのため,従来は,住民とオランダの間で権力を与えられていた首長や王の立場が弱まり,1825~30年のマタラム王家による反乱(ジャワ戦争)につながりました。反乱の指導者は,中部ジャワはジョクジャカルタのスルタン(注)の〈ディポヌゴロ〉(1785?~1855)です。同時期に,スマトラ島西部でも反オランダのパドリ戦争(1821~38)が起き,植民地政庁は大赤字。
 そんな中,1830年にオランダからベルギーが独立すると,本国の財政も悪化。「住民を働かせて税金をとる政策」よりも,現地人支配層の協力を得て「住民に強制的にヨーロッパ諸国で売れる商品作物を生産させる政策」をとったほうが効率がよいと,総督〈ファン=デン=ボス〉は提案しました。現地の支配層をおさえこむよりは,温存させたまま,取れるものをむしりとるという作戦です。商品作物には,藍【本試験H13】・サトウキビ【本試験H13】・コーヒー【本試験H13米ではない,本試験H25】が選ばれました。この「政庁栽培(一般に強制栽培制度と呼びます【東京H22[1]指定語句】【追H28エンコミエンダ制とのひっかけ】【本試験H2マラッカで実施されていない,本試験H7時期を問う】【本試験H13ポルトガルではない,本試験H25,H29共通テスト試行 時期(1566~1661の期間ではない)】)」によって莫大な収益を得たオランダは,産業革命(工業化)をすすめていきます。強制栽培制度は一番長いもので20世紀初めまで続けられ,スマトラ島やスラウェシ島でも行われました。
 これにより,従来は開発されていなかった地域も開発の対象となり,ジャワ島の人口は急増しました(他地域からの移民流入による社会的な増加も含みます)。モンスーン地帯なので雨が多く,多くの人口を養うことのできる稲作(熱帯地方は土壌が農業向きではないので土地を改良する必要があります)がおこなわれているため,人口の増加に食糧生産も追いつくことができたわけです。開発されたプランテーションの多くは宗主国や,宗主国側についた有力者が吸い取り,強制栽培制度が終了した後も不公平な経済構造は残されていきましたが,19世紀における高い人口増加率と食糧増産は,その後の経済発展に貢献することとなります。

(注)「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544。



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ポルトガル領  現④東ティモールを中心に

 ポルトガルが植民地化していたティモール島では、前の時代にオランダからの攻撃を受け、ポルトガルは主に東ティモールを支配するようになっています。


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独立を維持   現⑩タイ

 現在のタイを支配していたチャクリ朝(1782年~現在)は、この時期
 受動的な背景としては、イギリスとフランスの進出の間に位置することから両者の「クッション」としての役割を果たした点が挙げられ、しばしば「タイが独立を保てたのは、フランスとイギリスの「間」にあったからだ」という説明がなされます。

 しかし、すべての物事を「地理的な位置関係」だけで説明しようとするのは、あまりに乱暴です(注1)。
 積極的な背景としては、チャクリ朝がこの頃とったさまざまな改革(チャクリ改革)の成果も見逃せません。

 1826年にチャクリ朝はイギリスとバーネイ条約という、欧米との初の条約を締結。
 これにより各地方権力の裁量にゆだねられていた欧米諸国との貿易が、チャクリ朝が一元的にコントロールできることになりました。
 当時のチャクリ朝では、中央の貴族官僚や彼らの掌握する政府内の各部局(クロム)、地方の諸権力(地方国)が、個別に臣民(自由民(プライ)とタート(不自由民))から徴税する権利を持っていましたが、条約を批准するために、これを中央集権的なものに改める必要がでてきたのです。王弟は、立憲君主制への移行とそれにともなう官僚制の整備を訴えましたが、王は日本のような立憲君主制は拒否。しかし、官僚制の整備にはオーケーし、クロムを解体して機能的に12の省に分けて、これらの大臣(うち9名は王族)からなる内閣をたてて、国王をトップとする親政体制をうちたてました(注2)。
 また、チャクリ朝の領内のモン人、クメール人、ラーオ人の居住地域については、徴税権を得る代わりに、シェムリアップなどの周辺地域をイギリス、フランスに割譲しました。これにより徴税権と領域が確定されたことで、チャクリ朝はより一層中央集権的となっていきます(注3)。
 

(注1)単純化された俗流「地政学」を標榜した一群の書籍について、近藤暁夫は「ポップ地政学」と呼んでいます(2018年度日本地理学会春季学術大会発表「「ポップ地政学」本の掲載地図批判―主に高校地理レベルの内容の誤りについて」、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2018s/0/2018s_000334/_pdf/-char/ja)。
(注2)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、pp.212-213。小泉順子「タイにおける国家改革と民衆」歴史学研究会編『講座世界史3』東京大学出版会、1995年を引いて。
(注2)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.214。小泉順子「タイにおける国家改革と民衆」歴史学研究会編『講座世界史3』東京大学出版会、1995年を引いて。



○1815年~1848年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1815年~1848年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 ウィーン議定書により,イギリスはセイロン島をオランダから獲得。
 真珠(注)の産地を手に入れたことになります。従事したのはタミル人やマレー人,セイロン島に住むアラブ人などの下級労働者(クーリー;苦力)です。
 同時期にイギリスはペルシア湾沿岸地域も押さえていきますから,真珠の産地を2つも確保したことになります。
(注)真珠採りと作業工程についてはこちらを参照。山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.109。

・1815年~1848年のアジア  南アジア 現⑤インド
 この時期にイギリス東インド会社は,インド貿易独占権を失い,植民地インドの統治機関となっていきます。
 イギリスの民間貿易事業者(カントリー=トレーダー)は東南アジアや中国方面との交易にいそしみ,このうち中国の清へのアヘンの密輸が問題視され,1840~1842年にはアヘン戦争が勃発しました。
 イギリスでは,一般庶民に至るまで茶の消費が拡大し,その新たな供給地として目を付けられたのが,インド東北部のアッサムでした(1823年に発見)。1839年にはアッサム会社がつくられ,茶樹栽培と製茶事業がスタートします。19世紀後半以降,国際市場における,中国茶とインド茶や日本茶との戦いが幕を開けることになります(注)。
(注)角山栄『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会 改版』中公新書,(1980)2017,p.128。

 また,この時期にはイギリス東インド会社によるインドの諸政権の鎮圧が進んでいきます。
 1817年~18年の第三次マラーター戦争【本試験H11 時期:1880年代】で,マラーター同盟を滅ぼしました。
 一方,1801年に,〈ランジート=シング〉(1780~1839)が,シク教の諸勢力を結集して,イギリスに対抗して独立を守ろうと,パンジャーブ地方【本試験H8】にシク王国【本試験H8】を建国していました。
 彼は,イギリスと相互に領土を保障し,1819年にはカシミールをバーラクザイ朝アフガニスタンの〈ドースト=ムハンマド〉(1793~1863,在位1826~63)から奪っています。しかし,〈ランジート=シング〉の死後に分裂したシク王国に対し,イギリス東インド会社は,1845年に攻撃し,パンジャーブ地方のラーホールを占領してしまいます(第一次シク戦争) 。さらに,1848年に再度攻撃し,1849年に滅ぼしました(第二次シク戦争)【本試験H25時期を問う、本試験H28】【追H17時期を問う】。

 最期の抵抗勢力であるシク王国が滅び,イギリスのインド征服は完成しましたが,服属した無数の国は藩王国【追H27インド帝国で「藩王国」は廃止されていない】として統治されることになりました。これは「被保護国」のようなもので,外交権をイギリスが保護している状態です。イギリスが植民地を手放した1947年の時点で,藩王国は約560もありました。これらの藩王国に跡継ぎがいなくなった場合にどうするか,1840年代になると「取りつぶし」も含めた基準が設けられていきます。
 また,鉄道敷設や農地開発のために奥地まで植民地の支配の手が及ぶと,森などを遊動し狩猟採集生活を送っていた山地民の人々の生活の糧が奪われ,次第に追い詰められていくようになります。これが“犯罪部族”とされる「ダコイト」です(注)。
(注)竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010,p.240~241。

 こうした一連の急速な社会の混乱が,のちにインド大反乱(1857年~58年) 【東京H20[1]指定語句】【本試験H8,H10 時期:1850~60年代ではない】という抵抗運動の背景となっていくのです。

 なお,夫が亡くなると妻も道連れになって殉死するというサティー(寡婦殉死)の慣行は,1829年にベンガル総督によって廃止されますが,その後も完全にはなくなっていません(注)。
(注)竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010,p.242。

○1815年~1848年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネパール盆地を中心に領土拡大・中央集権化を進めていたネパール王国は,1814年に植民地インドを防衛しようとしたイギリス東インド会社との戦争(グルカ戦争)が起き,敗北。1816年の条約で国土の3分の1を失い,イギリスの保護国となりましたが,王政は存続しました。
 19世紀中頃以降,宰相を務めたラナ家に実権を奪われていきました。勇猛な部隊を持つことで知られるネパール人は,イギリスの傭兵(グルカ兵)として世界中の戦争の精鋭部隊として活躍しました。このこともあり,ネパールでは実質的に自治が認められていました。
 ネパールの東のシッキムは東インド会社に保護国化されました。紅茶で有名なダージリンは1835年にシッキムから割譲されます。




○1815年~1848年のアジア  西アジア
西アジア…現①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆衰退するオスマン帝国をめぐり,ヨーロッパ諸国の進出が強まる
 オスマン帝国は,1774年にはロシアの〈エカチェリーナ2世〉とキュチュク=カイナルジ条約〔クチュク=カイナルジャ条約〕を締結し,ロシアのクリミア半島への進出を認め,さらにオスマン帝国内部のギリシア正教との保護権を認めさせられました。ロシアはこのとき,ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の商船の自由航行権を獲得し,さらに黒海で軍艦を建造する権利も獲得したことで,今後の南下にはずみをつけます。
 もう,いつロシアが軍艦を建造して,イスタンブールに攻め込もうとしてもおかしくはない…。さすがに,この悲惨な状況をみて,皇帝(スルターン)も改革に踏み切ります。



〈セリム3世〉(位1789~1807)
〈マフムート2世〉(位1808~1839)
〈アブデュルメジト1世〉(位1839~1861)
 スルターン〈セリム3世〉(位1789~1807)は西欧式軍隊(新式軍隊;ニザーム=ジェディード)を導入して,時代遅れのイェニチェリ軍団のかわりに育成させようとしましたが,イェニチェリが反乱をおこし,次の皇帝によって殺されます。
 スルターン〈マフムート2世〉(位1808~39)は,軍を近代化させようと、1826年にイェニチェリ軍団を解散に追い込みます。
 ターバンやトルコ装を禁止したのも、このスルターンのときです(注)。

 スルターン〈マフムート2世〉(位1808~39)は,1826年にイェニチェリ軍団を解散に追い込みますが,ギリシャが独立戦争に勝利し,オスマン帝国【本試験H12ロシアではない】から独立してしまいました(ギリシャ独立戦争本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)【本試験H12時期(19世紀前半か問う)】【本試験H31オーストリアからの独立ではない】)。

(注) 断髪令については全臣民を対象にしたものであったのに対し、オスマン帝国は官僚・軍人に限定されたものでした。鈴木董はこれを全臣民を対象にした日本の「断髪令」と比較しています。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.272。



◆イギリスはアラビア半島沿岸部の首長国を保護下に置いていった
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の海賊集団がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,武力をちらつかせながら1820年にペルシア湾岸(1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーン)と休戦して保護下に置き,1835年にオマーンとも休戦しました。

 イラク地方ではマムルークの州総督(1749年以降実権を握っていました)の下で,イランのカージャール朝と敵対しつつ,オスマン帝国によるタンジマート(近代化政策) 【東京H11[3]その結果を説明する(記述)】が実施されました。マムルークの州総督は1831年に解任され,オスマン帝国の中央集権的な支配下に置かれます。1834年には北部のクルド人の支配者も追放されています。


◆明治維新よりも早期に近代化改革を実施するも失敗し,英仏による経済的な従属に向かう
 ヨーロッパの自由主義や民族主義はオスマン帝国の支配下にも伝わり,オスマン帝国領内のさまざまな宗教・言語集団が自分たちのことを「民族」と自覚するようになり,支配が不安定なものになっていました。そこにつけこんで,オスマン帝国が支配していた地域をヨーロッパ列強が勢力圏に入れようとし始めます。このような「オスマン帝国の衰退に乗じてヨーロッパ列強が進出したことで,オスマン帝国領に起きた国際紛争のこと」を東方問題(イースタン=クェスチョン)というのです。現在,中東で混乱している地域の多くは,旧オスマン帝国領であり,その多くに中東以外の大国の思惑がからんでいることを考えると,「東方問題は21世紀初頭にあっても,まだ続いている」ともいえます。
 オスマン帝国は,1922年に滅亡することになりますが,欧米列強はあの手この手を使って,衰えゆくオスマン帝国の領土内に自国の勢力圏を増やそうとしていきました。



◆エジプト太守が自立を求めた第一次エジプト=トルコ戦争(1831~33)に列強が介入する
 エジプトで太守としての地位が認められていた〈ムハンマド=アリー〉(1769~1849) 【追H18】【東京H14[3]】は,シリアの行政権を要求したためにオスマン帝国と戦争になりました。これを第一次エジプト=トルコ戦争【本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)】【追H18統計の読み取り(時期)】といいます。
 それだけなら,エジプトvsオスマン帝国の構図にすぎないのですが,ここでロシアはオスマン帝国を支援します。
 ある国がある国を「助ける」ということには,かならず裏があります。ロシアは,これまでさんざん争ってきたオスマン帝国を援助することにより,お返しを求めようとしたのです。これではロシアが南下してしまいます。あわてたイギリス,フランス,オーストリアがエジプト側について,オスマン帝国に干渉しました。両者はキュタヒヤ条約を結んで和解し,〈ムハンマド=アリー〉は,要求通りエジプトとシリアの一代限りの支配権を得ました。なお,1836年に〈ムハンマド=アリー〉はフランスに古代エジプトのオベリスクをプレゼントしています。今でもパリのコンコルド広場に建っています。

 ところが,オスマン帝国とロシアの間に1833年に,ウンキャル=スケレッシ条約が結ばれます。オスマン帝国は支援をしてくれたロシアに対して,ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の独占通行権を与えたのです。イギリス,フランス,オーストリアは,当然この動きを警戒します。
 1838年にはイギリスとオスマン帝国の間に通商条約が締結され,オスマン帝国は関税自主権を喪失しました。これによりオスマン帝国の産業は破壊されていきます。



◆第二次エジプト=トルコ戦争(1839~1840)にも列強が介入した
 しかし戦後になって〈ムハンマド=アリー〉は,「一代限りでは満足できない。世襲権が欲しい」と主張。再度オスマン帝国と開戦しました(第二次エジプト=トルコ戦争【追H18統計の読み取り(時期)】)。
 エジプトは,初めはフランスの支援を受けていたので強気だったのです。
 
 しかし,「今度エジプトが勝ってしまうと,オスマン帝国が一気に崩壊してしまう。助けたフランスの地位も高くなる。さらに,そのすきにロシアが南下してしまうかもしれない。オスマン帝国を助けているの国がロシアだけだと,助けた代わりとしてロシアはオスマン帝国から領土を獲得して一気に南下してしまうかのうせいがある」と恐れたイギリス,オーストリアも,こぞってオスマン帝国側を支援しました。

 1840年にロンドン【東京H14[3]】で会議【本試験H18時期】が開かれ,〈ムハンマド=アリー〉【本試験H19アブデュル=メジト1世ではない】にはエジプトとスーダンの世襲権を与えますが,シリアは放棄させます。すべての当事者国が集まって正々堂々と会議をしたわけなので,第一次のときのようにオスマン帝国とロシアとの間で個別の取り決めはなされませんでした。ウンキャル=スケレッシ条約は,ある意味,全体会議が終わった後で,2人だけが残り,大切なことを決めてしまったようなものでした。ロンドン条約(締結国が英・露・普・墺(イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリア)であったことからロンドン四国条約ともいいます。1841年にはフランスも締結しています)では,ウンキャル=スケレッシ条約の内容は破棄されましたから,ロシアの南下政策は失敗です。さらに,〈ムハンマド=アリー〉を介してシリアに手をのばそうとしていたフランスの野望も撃沈です。
 このロンドン会議をとりきったのは,やり手のイギリス外相〈パーマストン〉(外相在任1830~34,35~41,46~51,首相在任55~58,59~65)です。1839~40年というと,アヘン戦争にむかって大忙しの時期。そんな中で,ロシアの南下とフランスのエジプト・スーダン・シリアへの勢力圏の拡大を同時にブロックした彼の外交は,「パーマストン外交」ともいわれる見事なものでした。

 一方,オスマン帝国は港湾施設や鉄道といった近代的なインフラをイギリスやフランスに借金し,その資本を導入することで建設しようとしました。しかし,この外債の導入が,のちに財政を逼迫(ひっぱく)させていくことになります。こうして,オスマン帝国は領土的には植民地とされることはありませんでしたが,イギリス,フランスに対し経済的に従属していくことになったのです。

・1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑭シリア,⑮レバノン
 先にみたように,この時期のシリアはエジプト総督〈ムハンマド=アリー〉の息子〈イブラーヒーム〉による占領を受けました。現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていましたが,支配者のエジプトはイスラーム教徒とキリスト教徒を協調させる政策をとったことが裏目に出て,レバノン山岳部は宗教の対立がみられるようになりました。
 マロン派キリスト教徒の領主(シハーブ家の〈バシール2世〉(位1789~1840))はドゥルーズ派イスラーム教徒の領主と対立し,エジプト側について権力を維持しようとしました。それに対してイギリスとフランスはマロン派を支援し,エジプトとドゥルーズ派と戦いました。1840年のエジプトの撤退と〈バシール2世〉の亡命後も両者の対立は続き,フランスがマロン派を支援するとイギリスはドゥルーズ派を支援しました。それに加えてロシアはレバノンの正教徒を保護しようとしたため,レバノンをめぐってイギリス,フランス,ロシアが干渉する構図となりました。1843年にはこうしたヨーロッパ諸国の介入を防ぐため,レバノン山岳部はオスマン帝国の直轄支配地域となりました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。

・1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。

・1815年~1848年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 南コーカサス(ザカフカース)をめぐるロシア帝国とガージャール朝ペルシアとの戦争は続きますが,1828年にトルコマンチャーイ(トゥルクメンチャイ)条約【東京H26[1]指定語句】【追H21エカチェリーナ2世は結んでいない】によって完全にロシア領となりました。




●1815年~1848年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

マダガスカル
 イギリスやフランスの進出という危機を前に,メリナ人を統一しメリナ王国の初代国王となった〈ラダマ1世〉(位1810~1828)は,イギリスに接近して軍事・教育・経済の西欧化を進めました。これには保守派の反発も大きく,マダガスカルの社会情勢は不安定なものになっていきます。



●1815年~1848年のアフリカ
商業活動が発展し各地で新国家が建設されるが,民族間の抗争がヨーロッパの進出に利用される
○1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆東アフリカではアラブ人の奴隷貿易が栄える
ザンジバルが,インド洋奴隷交易の中心となる
 東アフリカのスワヒリ地域では従来からの金や象牙に加えて奴隷交易が活発化。現在のタンザニアにあるザンジバル島は,奴隷交易の中心地にのし上がりました。1839年に送り出された奴隷は1年で4万人に達するといいます(注)。1840年にアラビア半島東岸のオマーンが進出し,アラブ人によるインド洋奴隷交易が本格化します。
 奴隷は内陸のザンビア東部,マラウィ,モザンビークから奴隷が多数積み出されました。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.44

・1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 この時期には〈ムハンマド=アリー〉統治下のエジプトの進出が強まっています

・1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。

・1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 エチオピア高原に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国は,この時期には比較的平和な時期を迎えています。
  
・1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
東アフリカはオマーンの保護下に入っている
 東アフリカのインド洋沿岸には,アラビア半島北東部マスカットを拠点とするオマーン王国が〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)の下で進出し,アラブ人などによる奴隷交易が営まれていました。
 現・タンザニアを構成するザンジバル島には,1830年代にオマーンの王宮が建設されています(◆世界文化遺産「ザンジバル島のストーン・タウン」,2000)。


・1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
象牙の乱獲からアフリカゾウの個体数が激減する
 ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部のブガンダ王国は,象牙や奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。
 19世紀には象牙の需要が高まり,インド洋岸のザンジバルなどからキャラバンも組まれるようになります。獲れば売れるので銃火器でアフリカゾウが乱獲され,個体数は激減していきます。






○1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1815年~1848年の南アフリカ  現①モザンビーク
ポルトガルはザンベジ川流域に植民する
 ポルトガル王国は,南東部(インド洋側)のザンベジ川流域を中心に現在のモザンビークを植民地化していっています。奥地からは奴隷や金が積み出されています。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
スワジランド王国の支配が確立する
 スワジランド王国の〈ソブーザ1世〉(位1815~1836)は,南方のズールー王国の拡大から独立を守っています。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位1822~1870)は南方のズールー王国の拡大に直面し,ングニ人の進出も受けましたが,独立を守っています。

・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
ズールー王国が軍事拡大し民族間の抗争が起こる
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 このうちズールー王国は〈シャカ〉(位1817~1828)王のときに周辺に軍事的に急拡大していきました。

 ケープタウンに入植したヨーロッパ人(主にオランダ系。フランスのユグノーも含む)は支配領域を拡大し,中にはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていく者もいました。
 それに対しバントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,1779年以降,100年間にわたって戦争が勃発します(コーサ戦争)。


◆ナポレオン戦争後,ケープ植民地がイギリス領となると,先住のボーア人は北上する
イギリス人がケープへ,ボーア人は北へ”トレック”
 ナポレオン戦争中にイギリスが上陸していたオランダ領ケープ植民地は,ウィーン会議の結果,イギリスの領有となりました。
 先住のオランダの人々のうち,内陸に入った者たちは「ボーア人」と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。フランス人やベルギー人の移民の末裔も含まれ,現在では一般的にアフリカーナーと呼ばれます(注1)。
 しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地の東部に済んでいたボーア人の農民は生きるすべをなくすことになります(ボーア人の中には,ケープタウンにのこった富裕な人々(職人,商人,下級官吏,比較的富裕な農民)もいます)。貧しい農民のボーア人たちは,ウシとマレー半島から連れてこられた奴隷を連れて北上を開始したのです。これをグレート=トレックといいます。
 移住の末に「トレック=ブール」と呼ばれたアフリカーナーは,1838年にナターリア共和国を建国するも,4年後にはイギリスの植民地となりました。その後,さらに北部の高地草原地帯に移動していきます(注2)。

 このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で〈シャカ〉王(位1816~1828)の下で拡大していたバントゥー諸語系のズールー王国です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
(注)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.24。
(注2)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.13。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部にはナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群のヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。

 1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。

・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 この時期のマラウイには大きな政治的組織はありません。

・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
ロズウィ王国がポルトガルの新入を阻む
 ジンバブエの南部高原地帯にはロズウィ王国がポルトガル勢力を阻んでいました。
 この時期には南方のズールー王国が〈シャカ〉王の下で強大化していましたが,そこから自立した将軍〈ムジリカジ〉が北方に移動して,ヌデベレ王国を建国。

 さらに同時期にはケープタウン方面からオランダ系のアフリカーナー人〔ボーア人〕が北上しており,両者に押されたロズウィ王国は,ヌデベレ王国により占領されます。
 ヌデベレ王国の〈ムジリカジ〉はブラワヨを建設して拠点とし,軍事力を強めでアフリカーナー人に対抗しました。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系のツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系のサン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 ケープタウンから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています。



○1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国とルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流はコンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。


・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。

・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。

・1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。






○1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流のベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によるオヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。


◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起きる
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです。

 そんな中,②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(1754~1817)が「ジハード」(聖戦)を宣言。王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 ニジェール川流域では,セグー王国,マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています(注)。

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され(注2),サハラ交易は活発化していきました。
(注1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.167。
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?~1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。

 海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,イギリス領黄金海岸〔ゴールド=コースト〕となっています。
 現在の④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 現在のリベリア共和国【本試験H5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】【追H17リビアとのひっかけ(のちにイタリアに占領されていない)】【東京H7[3],H19[3]】のある地域では,1816年にアメリカ合衆国のアメリカ植民協会が,奴隷から解放された黒人をアフリカに返そうとする計画を建てました。1820年に黒人88名が西アフリカに移され,「リベリア共和国(英語ではライベリア)」の建設が始まりました。リベリアとは「自由な」という意味のラテン語からとられており,15世紀以降にヨーロッパの探検者によって「胡椒海岸」と名づけられた地域でした。
 1824年にはアメリカ合衆国の第5代大統領〈モンロー〉(任1817~25)の名にちなみ,首都はモンロヴィアと改称。当初から先住民との抗争が相次ぐ中,1847年にはアメリカ合衆国憲法を参考に独立を宣言しました。



・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,⑫ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます。
 西端のセネガルはゴレ島を拠点に奴隷貿易の拠点として発展しますが,1848年のフランス第二共和政は奴隷貿易を廃止しました。
 フランスの交易拠点であるサン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織も次第に形成されていきました。1840年のフランスにおける政令により,サン=ルイには独自の議会設置が認められ,議会の長にはフランスから派遣される総督が任命され,議員はフランス人の居住者と現地人から形成されていました(注)。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.24。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在のモーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。

・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
 ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国(セグー王国,1712~1861)を建国しています。

 このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜民フラニ人(フルベ人,自称はプール人)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方でソコト帝国を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位1818~1845)の指導下に,マシナ王国(1818~1862)が建国されます(注)。


・1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,モシ王国が栄えていました。




○1815年~1848年の北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
フランスがアルジェリアに出兵する

・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
◆エジプト総督が自立を求めて第一次エジプト=トルコ戦争(1831~33)を起こすと列強が介入する
 〈ナポレオン〉による占領と撤退後の混乱の中,エジプトで「総督」に就任した〈ムハンマド=アリー〉(1769?~1849)は,オスマン帝国からの自立を進めるとともに,商品作物の栽培と専売による収益を利用して西洋式軍隊(1822年に徴兵制を導入)や国営工場,ヨーロッパ的な教育施設や出版施設を設立し,中央集権的な「エジプト国民」の国家を建設していました。独自の財源を持ち,ヨーロッパ諸国からの借金に頼らなかった点が,同時期のオスマン帝国との違いですが,エジプトの農業はヨーロッパを中心とする世界経済への従属下に置かれていくことになります。
 さらに〈ムハンマド=アリー〉はシリアの行政権を要求します。1831年にシリアとアナトリア半島に進出して戦端が開かれるや,なんとオスマン帝国は今までさんざん戦ってきたロシアに助けを求めました。「ロシアが南下しては困る!」とイギリス,フランス,オーストリアは反対にエジプト側について,オスマン帝国に干渉しました。これが第一次エジプト=トルコ戦争です。
 結局,両者は1833年にキュタヒヤ条約により和平を結び,〈ムハンマド=アリー〉は要求通りエジプトとシリアを割譲してもらいました,1836年に〈ムハンマド=アリー〉はフランスに古代エジプトのオベリスクをプレゼントしています。今でもパリのコンコルド広場に建っています。

 ところが,オスマン帝国とロシアの間に1833年に,ウンキャル=スケレッシ条約が結ばれると,事態は急変します。この条約は,オスマン帝国が支援をしてくれたロシアに対して,ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の独占通行権を与えるものでした。イギリス,フランス,オーストリアは,ロシアの南下を許すことになるとして,条約の成立に断固反対しました。
 なお,1838年にはイギリスとオスマン帝国の間に通商条約が締結されています。これによりオスマン帝国は関税自主権を喪失し,外国製品の輸入によって在来の産業が破壊されていくことになりました。

◆第二次エジプト=トルコ戦争(1839~1840)にも列強が介入した
 しかし戦後になって〈ムハンマド=アリー〉は,「一代限りでは満足できない。世襲権が欲しい」と主張。再度オスマン帝国と開戦しました。
 エジプトは,初めはフランスの支援を受けていたので強気だったのです。
 しかし,「今度エジプトが勝ってしまうと,オスマン帝国が一気に崩壊してしまう。助けたフランスの地位も高くなる。さらに,そのすきにロシアが南下してしまうかもしれない。オスマン帝国を助けているの国がロシアだけだと,助けた代わりとしてロシアはオスマン帝国から領土を獲得して一気に南下してしまうかのうせいがある」と恐れたイギリス,オーストリアは,こぞってオスマン帝国側を支援しました。

 1840年にロンドンで会議【本試験H18時期】が開かれ,イギリス,ロシア,オーストリア,プロイセンとともにロンドン四カ国条約(1841年にはフランスも参加)を結びました。この中で,〈ムハンマド=アリー〉【本試験H19アブデュル=メジト1世ではない】にはエジプト総督世襲権が与えられましたが,スーダン以外の支配地は認められませんでした。エジプトには市場開放が求められ,ナイル川流域の農作物がヨーロッパを中心とする世界経済に一層巻き込まれていくことになりました。
 エジプトがロシアと個別に結んでいたウンキャル=スケレッシ条約は破棄され,ロシアの南下政策は失敗。さらに,〈ムハンマド=アリー〉を介してシリアに手をのばそうとしていたフランスの野望も撃沈です。
 このロンドン会議をとりきったのは,やり手のイギリス外相〈パーマストン〉(外相在任1830~34,35~41,46~51,首相在任55~58,59~65)です。1839~40年というと,アヘン戦争にむかって大忙しの時期。そんな中で,ロシアの南下とフランスのエジプト・スーダン・シリアへの勢力圏の拡大を同時にブロックした彼の外交は,「パーマストン外交」ともいわれる見事なものでした。
 

 一方,オスマン帝国は港湾施設や鉄道といった近代的なインフラをイギリスやフランスに借金し,その資本を導入することで建設しようとしました。しかし,この外債の導入が,のちに財政を逼迫(ひっぱく)させていくことになります。こうして,オスマン帝国は領土的には植民地とされることはありませんでしたが,イギリス,フランスに対し経済的に従属していくことになったのです。


・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
 現在のスーダン,南スーダンは〈ムハンマド=アリー〉のエジプトの支配下に入ります。
 南西部のダルフール=スルターン国は進出に抵抗します。


・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。
・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
フランス勢力を〈アブド=アルカーディル〉が抵抗
 アルジェリアの地中海沿岸は,アルジェの海賊の根城となっていました。交易のため地中海を航行する必要の合ったアメリカ合衆国は1815年にアルジェに遠征して,海賊行為をやめるよう協定を結びました。しかしそれでもアルジェの海賊活動はやまず,翌年にはオランダ・イギリス艦隊が攻撃したものの,それ以降も続きました。
 フランスではブルボン復古王朝の〈ルイ18世〉を継いで,弟の〈シャルル10世〉(位1824~30)【本試験H23ルイ=フィリップとのひっかけ】が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。〈ポリニャック〉首相(任1829~30)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすためにアルジェリアに出兵しました【本試験H5,本試験H12時期(1880年代ではない)】【追H25フランスか問う。オランダ、ドイツ、フランス、ベルギーではない】。

 マルセイユ商人の支持を背景に,アルジェの海賊に対する報復をおこなうというのが名目でした。フランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族〈アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。彼は一時はアルジェリアの3分の2を占領し国家組織を形成しましたが,鎮圧されました(注)。アルジェリアは1834年にフランスに併合されました(アルジェリアの植民地化)【H30共通テスト試行 アルジェリアを植民地化したのはド=ゴールではない】。

(注)マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。なお,〈アブド=アルカーディル〉の父はスーフィズムの教団であるカーディリー教団の指導者でした。



・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアはオスマン帝国のチュニス州とされて間接統治されていましたが,1705年に騎兵隊長官〈フサイン〉が実権を握ってから,1957年まで続くフサイン朝が成立し,事実上オスマン帝国から自立していました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フランスがチュニジア国境付近まで迫ると,安全保障のためオスマン帝国に接近するようになります。チュニジアの支配者はオスマン帝国のタンジマートにならって近代化政策を実施していきました。


・1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアでは,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました(カラマンリー朝)。しかしオスマン帝国が1835年にカラマンリー家を滅ぼし,リビアを支配下に置きました。





●1815年~1848年のヨーロッパ

東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン



 フランス革命とナポレオン戦争のごたごたの後,ヨーロッパの王侯貴族が集まって,革命以前の秩序をとり戻すために会議をひらきました。主導権をとったのはオーストリアのウィーンです。
 ハプスブルク家のオーストリアは,フランス革命により,ブルボン家に嫁がせた〈マリ=アントワネット〉が処刑され,さらにナポレオン戦争でも大きな被害を受けるなど,さんざんな目にあっています。また,なんといっても1806年には,ハプスブルク家から,皇帝を代々出し続けていた神聖ローマ帝国が滅亡させられたということが大きい。ですから,会議で大きな声をあげることができたわけです。
 オーストリアは,1804年に〈ナポレオン〉が皇帝となったときに,同年オーストリア皇帝を名乗っていました。1806年に,神聖ローマ帝国内の領邦が,「もうオーストリアには頼れない。〈ナポレオン〉を皇帝として,彼に守ってもらおう」と考え,バイエルン【慶文H30記】を中心としてライン同盟【本試験H26】【本試験H6年代,本試験H8】【早法H28[5]指定語句,論述(ナポレオン支配からドイツ帝国成立までの経緯を,オーストリアの役割に留意して述べる)】を結成したため,同年,神聖ローマ帝国は解体しました【本試験H14ナポレオンは神聖ローマ帝国を復活させていない】【本試験H8「ライン同盟結成によって最終的に解体した」か問う】。滅亡後も,オーストリアは「皇帝」を名乗り続け,もう一人の「皇帝」〈ナポレオン〉と戦い続け,最終的にナポレオンを退位させることに成功したわけです。

 「ナポレオン後のヨーロッパの秩序をどうするか」ということで開かれたのがウィーン会議【追H20】です。主導権を握ったのはオーストリアで外相(のち宰相)を務めた〈メッテルニヒ〉(1773~1859) 【追H28アルジェリアに出兵していない】【本試験H17時期(19世紀後半ではない)・工業化を推進していない】です。もともと神聖ローマ帝国という“ありがたい”国家の皇帝をつとめていたオーストリアですから,会議の主導権を握ろうとするのも当然です。でも,やっかいなことに〈ナポレオン〉を倒すのに貢献した国は,ほかにもあります。

 例えば,ロシアはモスクワ遠征によって,〈ナポレオン〉没落のきっかけをつくりました。諸国民戦争(1813)では,オーストリア,プロイセン,ロシアが活躍。さらにイギリスはワーテルローの戦いでとどめを刺しましたね。
 そして,最後にフランス革命最大の“被害者”であるブルボン家のフランス。フランスの外相〈タレーラン〉(1754~1838) 【共通一次 平1】は,「ブルボン家はわるくない。自由を叫んだり,王のいうことを聞かないやつらがわるいんだ! フランス革命の起きる前の状態に戻しましょう」という「正統主義」【共通一次 平1】【追H18】をスローガンにした巧みな外交で,各国の要求をうまく調整して国境線を確定させていきました。

 どれかの国の領土が広くなりすぎないように,バランスが重視されました。A国がB国から領土を得たとしたら,B国はC国から領土をもらう。そのかわりに,C国はA国から領土をもらう…というようにです。これのような国際秩序のつくり方を,「勢力均衡」といいます。しかし,こんなことやっていたら,当然ながらなかなか決まりません。動かないわりには,夜には舞踏会(ぶとうかい)ばかりやって,ぐるぐる回っている。この様子を,当時の参加者が「会議は踊る,されど進まず」【本試験H31ウィーン会議を風刺したものか問う】と表現したわけです。

 しかし,時代は確実に変化しています。
 イギリスでは産業革命(工業化)が起き,商品をつくることで資本(元手となるお金)をふやしていこうとする,新しいタイプの商売人である産業資本家が,政治に参加するようになっていきます。〈ナポレオン〉は,安くて高品質のイギリス製品がフランスの産業を破壊しないように1806年にベルリン【東京H14[3]】で大陸封鎖令【東京H14[3]】【追H24時期】を発布しました。グローバリゼーション(お金や商品が国境を越え,地球全体に広がっていくこと)は,このときから大きな政治課題になっていたのです。
 しかし,ウィーン体制は,こうした「自由にビジネスがしたい!」という声を封じ込めようとしました。自由=よいもの,という考え方は,国内にいる自分の国をもたない民族たちの独立運動を刺激させてしまうのではないかと,各国の君主は恐れたからです。
 たとえば,ポーランド。ポーランド分割でオーストリア,プロイセン,ロシアによって国家が消滅した後,〈ナポレオン〉は1807年ポーランドに「ワルシャワ大公国(原語ではワルシャワ「公」国)」をつくって,独立をみとめました。一見ポーランドが独立国家をつくったようにみえますが,実は操り人形国家(傀儡(かいらい)国家)で,〈ナポレオン〉のいいなりでした。
 結局ウィーン会議によって,プロイセンは1772年の第一回ポーランド分割のときの領土(ポズナン地方)をとりもどし,ロシアは3度のポーランド分割で得た地域をほぼすべて確保しました。ポーランド【東京H26[1]指定語句「ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について…述べるもの」】立憲王国が建国されますが,ロシア皇帝〈アレクサンドル1世〉が国王に即位するという傀儡(かいらい)国家です。
 南部の古都であるクラクフは,オーストリア・プロイセン・ロシアで分割されました。このときの分割を第四次ポーランド分割ともいいます。今後ポーランドでは「ポーランド人の国をつくろう」という運動が何度もわきあがりますが,なかなかうまくいきません。

 またナポレオン戦争中にスウェーデン領フィンランドに侵攻していたロシアは,ウィーン会議において,ロシア皇帝がフィンランド大公を兼任する形となりました。こうして成立したフィンランド大公国では,スウェーデン語のほかに初めてフィンランド語も公用語として認められたこともあり,「フィンランド人意識」が次第に高まっていきました。1835年には民族叙事詩『カレワラ』が出版されています。

 このように,各国の思惑を調整したのが,イギリスです。イギリスはすでに産業革命(工業化)がはじまっていますから,インドとの連絡路が確保できればよいので,インド防衛のために現在のスリランカ(セイロン島)をオランダ【本試験H17,本試験H20フランスではない】から獲得し,さらにインドへの通商路の確保のために,地中海ではマルタ島をフランスから,さらに喜望峰周りのコースの中継地点としてケープ植民地をオランダ【本試験H21フランスではない】から獲得し,領有します。
 なお,インド洋西部の島々モーリシャス(マダガスカルの東)は1814年にフランスから奪い獲得,同年にはマダガスカルの北にある島々セーシェルもフランスから奪い1815年に獲得しています。これらの島は,古くからアラブ人,インド系やマレー系の住民による中継貿易の中継地となっていた重要地点です。
 イギリスとしては,ロシアがポーランドの大部分を,プロイセンがザクセン地方・ラインラント・西ポンメルンを,オランダが南ネーデルラントを,オーストリアがロンバルディアとヴェネツィアを獲得するなど,当然乗り気ではなかったわけですが,「勢力均衡」を主張して会議を穏当にまとめた上で,世界各地の植民地をつなぐネットワークを構築していった。このときのイギリス外相は〈カッスルレー〉(1769~1822)です。イギリスの圧倒的経済力を背景に,ナポレオン戦争後のヨーロッパには,比較的安定した情勢が訪れました(イギリスの平和,パクス=ブリタニカ【東京H8[1]指定語句】)。

 なお,スウェーデンはノルウェーを獲得【本試験H21独立は認められていない】,スイスは永世中立国として認められたほか,神聖ローマ帝国から脱退してつくられたライン同盟は廃止され,あらたにオーストリアを議長とするドイツ連邦(35の君主国と4つの自由都市で構成)が結成されました【本試験H6年代】【本試験H18時期】。連邦国家というよりは,“同盟”に近いもので,ドイツというまとまった国家ができたわけではなく,その中に多くの国(領邦)と自由都市がある感じです。ですから各自由都市というのは,領邦と同等の権利を持っている都市のことで,神聖ローマ帝国の時代には帝国議会に,ドイツ連邦の時代には連邦議会に代表を派遣することができました。

 また大国が足並みをそろえてウィーン体制【東京H10[1]指定語句】【早法H28[5]指定語句】を守るため,革命をもたらす動きの武力制裁をおこなう四国同盟【本試験H19ペロポネソス同盟とのひっかけ】(1818年にフランスが加盟して五国同盟【本試験H19時期】となります)が結成されました。また,ロシアの〈アレクサンドル1世〉【共通一次 平1:メッテルニヒではない】【本試験H25ニコライ1世ではない】の提唱で,キリスト教の愛の精神でヨーロッパに平和をもたらそうとする神聖同盟【共通一次 平1】【本試験H5いギリスは加盟していない】【本試験H25】【追H20ローマ教皇は提唱していない】が結成されました。

 神聖同盟を結成したのは“北国のスフィンクス”の異名と美貌をもつ〈アレクサンドル1世〉(位1801~25)です。彼はナポレオンのモスクワ遠征軍を追撃し,〈ルイ18世〉(位1814~15,15~24)の王政復古を支援した人物で,〈メッテルニヒ〉とともにウィーン体制を支えようとしました【共通一次 平1:自由主義者ではない】。

 オランダは〈ナポレオン〉に占領され,彼の弟が王に即位し「オランダ王国」となっていました。オランダ東インド会社も18世紀末に解散しています【上智法(法律)他H30】。
 その後,ウィーン会議(1814~1815)によってオラニェ=ナッサウ家(代々ネーデルラント連邦共和国の総督を務めてきた名家)が復活し,憲法を制定してオランダ立憲王国が建設されました。このときオーストリアは,南ネーデルラントを手放してオランダ立憲王国のものとしました。
 しかし南ネーデルラントにはカトリック住民が多く,カルヴァン派が多数の北部による支配はやがて大きな反発を呼び,1830年のフランス七月革命【本試験H12】【本試験H16】の影響を受け,南部はベルギー王国【追H26オランダから1830年革命の結果独立した国か問う、地図上の位置(スイスとのひっかけ)】【本試験H19】としてオランダ【本試験H16,本試験H19フランスではない】から独立することになりました。承認されたのは1839年のロンドン条約(オランダとの平和条約)で,ベルギーは永世中立国となることが定められました。
 しかしベルギー王国内部にも,北部にはオランダ語系(フラマン語)の住民が,南部にはフランス語に近い言葉(ワロン語)を話す住民の違いがありました。19世紀にはフランス語系のワロン語のみが公用語だったため,のちのちベルギー内部では言語戦争と呼ばれる対立を生むことになります。
 ベルギーではスペイン植民地だった17世紀初めから,新大陸原産のカカオから作られるチョコレートを飲む習慣がありましたが,しだいに消費量が増え,1828年にはオランダのバンホーテン社がココアパウダーを製造する技術を開発すると,固形のチョコレートが作られるようになり,1838年以降さかんに作られるようになりました(ココアバターが混ぜられるようになるのはイギリスのフライ&サンズ社の製品(1847年発売)によります)。

 さて,このウィーン体制は,ヨーロッパに再度革命が起こらないように形成されたものでしたが,産業社会に変化しつつあった当時の情勢を止めることはできず,人々が自由を求める声を止めることはできなくなっていました。
 自由を求める思想は,かつてはフランス革命に影響もを与えた啓蒙思想でした。しかし,人間の理性を重視しすぎる啓蒙主義の考え方に対しては,反発も生まれるようになっていました。
 そこで,「人間の理性によって考え出された『カンペキ』には,どこか『人間味』がない。啓蒙主義は「人間の理性をフル回転すれば,理想の社会がつくれる」と主張したが,これからはもっと「感情や個性」【本試験H15時期(18世紀末から19世紀前半ではない(それは古典主義)),H29共通テスト試行】を重視するべきじゃないだろうか」と考える人々が増えていきました。
 このような考え方に基づく芸術・文学を,ロマン主義【本試験H13写実主義ではない,本試験H15古典主義・自然主義ではない,H29共通テスト試行 古典主義・社会ダーウィニズム・印象派ではない】【追H21 19世紀の歴史学について,ロマン主義(やナショナリズムの高揚)の影響下に歴史研究が発達したか問う。正しい】【大阪H31 記述(1822年頃のパリで発売されたカレンダーにみられるギリシアとオリエントの対比を題材に、ロマン主義的の動向について説明させる)】といいます。
 例えば美術では,「民衆を導く自由の女神」【本試験H4図版(直接的に問うものではない)】【追H30図版 シャルル10世亡命と関連することを答える】で知られるフランスの画家〈ドラクロワ〉(1798~1863) 【追H20時期,H30】が有名です。
 人々の血が流れる革命の中に美しい女神が現れる構成からは,見せかけの調和ではなく,おどろおどろしさ【追H20「人間の醜さや苦悩」】の中に美を求める姿勢がみてとれます。文学では『レ=ミゼラブル』【追H20『戦争と平和』ではない】で知られるフランスの国民的作家〈ユゴー〉(ユーゴー,1802~85) 【本試験H13リード文の下線部(解答には必要なし)】【追H20】,音楽ではポーランド出身の〈ショパン〉(1810~49)が代表格です(映画「レ=ミゼラブル」(2012英))。



◆1815年ウィーン体制の発足直後
 ドイツでは,イエナ大学などの学生組合(ブルシェンシャフト【本試験H4七月革命の影響ではない,本試験H10カルボナリとのひっかけ】【本試験H16農民政党ではない・地域】)が,ドイツの統一・自由を掲げて集会を開いて,現体制を批判しました。初めは黙ってみていたメッテルニヒでしたが,1819年にチェコのカールスバートにドイツ連邦の10政府の代表をあつめて,大学の教育内容の監視や出版物の検閲を決議しました。これをカールスバート決議といいます。さらにフランクフルトの連邦議会でその内容を採択しました。

スペイン  
 スペインでは,軍の将校の〈リェゴ〉(リエーゴ,1785~1823)率いる舞台が1812年マドリードに入城しました。1808~14年のスペイン反乱のときに制定されたカディス憲法の復活を,国王〈フェルナンド7世〉(1784~1833)に要求し認めさせます。彼は憲法を復活させ(1812年自由主義憲法)自由主義的な政府を樹立しましたが,五国同盟がこれに介入しようとしました。しかし,自由主義色のつよくなっていたイギリスがこれに反対して足並みがそろわなくなっていたところに,ブルボン家のフランスがスペインに出兵し,自由主義政府を倒しました。〈リェーゴ〉はマドリードのセバダ広場で絞首刑となりました。

イタリア  
 分裂していたイタリアでは,秘密結社カルボナリ(炭焼党) 【東京H21[3]】【本試験H10スパルタカス団,ブルシェンシャフト,フェビアン協会ではない】【本試験H19】というグループが活動します。スパゲッティみたいな名前ですが,カルボナーラの語源はまぶされた黒コショウが炭のように見えることから。結成されたのは,ナポリタン,いや,ナポリです。当時のナポリはウィーン体制によってブルボン家となっていました。〈カルボナリ〉は1820年,スペインの自由主義的な動きに刺激されて活動を開始。カルボナリのメンバーだった若手将校が立ち上がって,ナポリに入城しました。「スペインで認められたカディス憲法を,ナポリでも認めてほしい」と主張したカルボナリの内部では,王を廃止するか存続させるかで内部対立が起き,結局翌年にオーストリアが干渉して,失敗に終わりました。

ロシア  
 ロシアでも,若手の将校が立ち上がりました。国を変えるには武力が必要ですから,いずれの国でも実力行使に出るのは軍,それもまだ地位も名誉もない若手将校が多い。やはり若い頃の感動や衝撃というのは,心にしみつくものです。かつてナポレオンと戦った若手将校が,負かしたとはいえ敵国フランスの先進的な考え方を知れば知るほどに,大きな影響を受けます。かつて〈エカチェリーナ2世〉が啓蒙主義者〈ヴォルテール〉から教えを受けたように,ロシアの貴族や軍人にとっての憧れの対象はフランスでした。「なぜロシアは遅れているのか?」という問いは,今後もロシアを縛りつづけることになりますが,このときの彼らはこう考えます。「ロシアが遅れているのは,皇帝が専制政治をしているからだ。それに農奴制がのこっているから,産業も発展しない」。
 しかし,ロシア人以外の民族も支配していたロシアが自由主義をとり,国民の声を聞き始めたら,きっと一気に分裂してしまうおそれもあった。そこで,皇帝は専制政治を崩しません。
 しかし,皇帝〈アレクサンドル1世〉が亡くなると【本試験H10ナロードニキにより暗殺されたわけではない】,改革派は12月に武装蜂起を起こしました。このグループは,デカブリスト(12月党) 【東京H21[3]】【本試験H3ナロードニキとのひっかけ,本試験H10ステンカ=ラージン乱,プガチョフの乱,ジャックリーの乱ではない】【追H20ウィーン体制下ではない】と呼ばれます。反乱の最中に皇帝に就任した〈ニコライ1世〉(位1825~55)は,これを鎮圧し,首謀者は絞首刑に,関わったものをシベリアに流します。彼のあだ名は「ヨーロッパの憲兵」。ヨーロッパ諸国で革命運動が起きると,軍を出して干渉するようになります。
 なお,この時期にさまざまなジャンルで作品を残し,ピョートル大帝の像をたたえた詩『青銅の騎士』や『オネーギン』【本試験H15ゴーリキーとのひっかけ】をはじめ,のちのロシア文学に大きな影響を与えた〈プーシキン〉(1799~1837)が活躍しています。



◆1820年~1830年
 ラテンアメリカでスペインとポルトガルからの独立運動が起きるようになるのは,この時期です。〈メッテルニヒ〉はこれを押さえ込もうとしますが,アメリカとイギリスの後押しにより,ラテンアメリカ諸国は無事独立をすることができました。

オスマン帝国
 オスマン帝国にも,自由主義・国民主義の考えが飛び火します。当時のオスマン帝国は,バルカン半島全域におよんでいましたが,その多くはスラヴ系の民族でした。
 はじめに革命の火の手があがったのはギリシアです。古代ギリシア以来大変ご無沙汰しているギリシアですが,地中海の海上交通の要衝に位置することもあり,マケドニアの〈フィリッポス2世〉以降というもの,ローマ帝国,東ローマ帝国の支配を受け,最終的にオスマン帝国の支配下にはいりました。
「1民族1国家」という国民主義(ナショナリズム)の影響を受けたギリシア人は,かつてのギリシア人の勢力範囲(かつてギリシア人が植民市を建設した地域)に,オスマン帝国【本試験H12ロシアではない】から独立しギリシアという国家をつくろうという運動をおこし,1821年に武装蜂起を開始,1822年1月にギリシア独立宣言を発表,1829年までつづくギリシア独立戦争【本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う),本試験H5】【本試験H18,本試験H27時期,本試験H31オーストリアからの独立ではない】となりました。
 戦争中にオスマン帝国【追H29オーストリア帝国とのひっかけ】が,キオス島というところで20,000人(諸説あり)を虐殺したことを題材にとった作家〈ドラクロワ〉(1798~1863) 【追H29ルノワールとのひっかけ】は,これを「キオス島の虐殺」【追H29図版(作者と虐殺した国を問う)】として展覧会に出品し,ある意味彼は“戦場カメラマン”として,ギリシアの惨状をヨーロッパに伝えることになったのです。当時のヨーロッパでは,自国の文化の源流がギリシアにあるんじゃないかというロマン主義的な風潮が流行していましたし,何もわるいことをしていない一般市民がイスラーム教徒によって攻撃されていることに義憤を燃やした人々が,義勇兵としてギリシアに向かいました。
 『チャイルド=ハロルドの遍歴』『ドン=ジュアン』で知られるイギリスのロマン主義【本試験H10写実主義ではない】の詩人〈バイロン〉(1788~1824) 【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない,本試験H10】【本試験H16イギリスのロマン主義かを問う,本試験H18トゥルゲーネフではない】もギリシア救援に向かった一人【本試験H18】。結局彼は熱病にかかってなくなっていますが,ギリシアの激戦地では,彼の慰霊碑に今でも花がたむけられています(〈バイロン〉と交流のあった女性作家に『フランケンシュタイン』(1818)で知られる〈シェリー〉(1797~1851)がいます)。
 1827年,ナヴァリノの海戦(ペロポネソス半島の西南部)で,オスマン帝国・エジプトの連合軍を,イギリス・フランス・ロシアがギリシア側にたって撃破し,1829年にアドリアノープル条約でギリシアの自治を承認させました。結局,イギリス・フランス・ロシアは,ロンドン会議で,ギリシアの独立を正式に認めました。ここにはプロイセンとオーストリアは入っていません。

 イギリス【本試験H5】・フランス【本試験H5】・ロシア【本試験H5】も,「ギリシアがかわいそうだから」助けたわけではなく,「助けておけば,独立した後で,いうことをきかせることができる」という思惑あってのことです。イギリス・フランスは地中海からインド洋に向かう通商路の中継地点を確保したいという思惑があり,ロシアにとっては南下の足がかりを得たいという思惑があったのです。



◆1830年 フランス七月革命
 ウィーン体制ではフランスにブルボン朝が復活し,〈ルイ18世〉が即位しました。〈ルイ16世〉の息子〈ルイ17世〉はフランス革命中にタンプル塔に閉じ込められ,わずか10歳で病死していました。過酷な虐待を受けていたといわれています。〈ルイ18世〉は,フランス革命が勃発すると,神聖ローマ帝国の選帝侯の一つであるトリール大司教のもとに亡命し,難を逃れていました。
 〈ルイ18世〉【本試験H13ルイ16世ではない,本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】はフランス国王に即位すると,選挙権を全国民の0.3%に限定する制限選挙を実施します。一般民衆が政治に関わることに対するアレルギーがあるのですね。また,自分と同じように海外に亡命していた王侯貴族を暖かく迎え,革命前の絶対王政をふたたび復活させようとしました。

 〈ルイ18世〉の次代は,弟の〈シャルル10世〉(位1824~30) 【追H28メッテルニヒとのひっかけ】 【本試験H4】【本試験H23ルイ=フィリップとのひっかけ】【追H30】が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。
〈ポリニャック〉首相(任1829~30)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすためにアルジェリアに出兵しました【追H28メッテルニヒの施策ではない】【本試験H5】。マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。フランスの進出に対し,アラブ系の〈アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。

 アルジェリア出兵後も民衆の不満はおさまらず1830年にパリで革命が起き,倒されました(七月革命) 【セ試行 二月革命とのひっかけ】【本試験H12】【本試験H13時期(1802~85),本試験H23ルイ=フィリップが廃位されたわけではない】。新たに王に選ばれたのは,ブルボン家の遠い親戚にあたるオルレアン家の〈ルイ=フィリップ〉(位1830~48) 【本試験H4】【本試験H23】【追H18】【立教文H28記】です。
〈ルイ=フィリップ〉による王政を七月王政といいます【本試験H12「共和政が実現するには至らなかった」か問う】【本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】【追H30ドラクロワの絵画の関連を問う】。
 彼を持ち上げたのは銀行家たちでした。銀行の頭取(とうどり)レベルの大金持ちだと思ってください。王権神授説をとらず,自分は「フランス国民の王」だとアピールし期待を集めたのですが,しだいに批判的な勢力が拡大していきました。

 七月革命の影響は,ポーランド,ポーランドと同君連合を組んでいたリトアニアにも波及しました。当時の両国は,事実上ロシアの支配下にありました【共通一次 平1:ワルシャワ大公国ではなく,ポーランド立憲王国だった】。ロシア皇帝がポーランド王を兼ねる同君連合(ポーランド立憲王国【本試験H5国王はロシア皇帝が兼ねたか問う】)だったのです。

 ここで1830年に十一月蜂起ともいわれるポーランド・リトアニアにおける反乱【追H18】がおきます。しかし,ロシア皇帝兼ポーランド王〈ニコライ1世〉による鎮圧を受け,多くのポーランド人やリトアニア人が祖国をあとにしました。当時ウィーンに滞在していたロマン派のポーランド人作曲家〈ショパン〉(1810?~1849)も,風当たりが強くなってフランスのパリに避難し,その地で反乱失敗の知らせを聞きます。翌31年に仕上げた『革命のエチュード(練習曲)』は,この悔しさと怒りに基づくものだとも言われています。この時代以降,多くのポーランド人やリトアニア人が,アメリカ合衆国にも移住しています(現在のアメリカ合衆国の人口の3%がポーランド系です)。


 スペインではブルボン家の〈フェルナンド7世〉(位1808,1813~33)による反自由主義的な政治が続いていましたが,彼が死去すると王位継承問題に加えスペインに自由主義を導入するかしないかをめぐってカルリスタ戦争(1833~76)という三度の内乱が勃発しました。
 ドイツ連邦の中では,ザクセンとハノーファーで立憲君主政が樹立されています。



◆1848年 フランス二月革命

 七月革命の結果できた体制は,参政権に財産による制限をもうけたため【本試験H4男子普通選挙制度ではない】,大資本家(銀行家)しか政治に参加できませんでした。しかし,産業革命【本試験H4フランスの産業革命の始まりの時期(19世紀「半ば」ではなく,「前半」が適当)】の進行にともない労働者の数は増加。〈プルードン〉(1809~1865)【追H9スパルタクス団ではない】のような無政府主義者(アナキスト)も主張をつよめます(『財産とはなにか』(1840))。
 政権に反対する集会(規制をかいくぐるため「改革宴会」と呼ばれました)が二月革命【本試験H12普通選挙が実施されたか問う(実施された)】【本試験H16アイルランドは独立していない,本試験H21】(1848年革命【早法H28[5]指定語句】)へと発展します【セ試行 新たな課税に反対して起こったのではない】。
 〈ルイ=フィリップ〉はスイスに亡命し【本試験H29】,共和派の自由主義者【セ試行】に加え,社会主義者の〈ルイ=ブラン〉【セ試行】【本試験H12】も入閣する第二共和政が成立しました【本試験H22年代を問う,H29】。リュクサンブール委員会という,労働者の意見を聴くための組織も作られました。
 労働者が政権をとったというニュースは各国にも大きな影響をあたえましたが,多くは失敗しました。
 3月にはオーストリアの首都ウィーンでも暴動【セ試行】が起き,〈メッテルニヒ〉は失脚【本試験H7】【追H18】。ロンドンに亡命し【セ試行 】【本試験H22年代を問う,H29】,名実ともにウィーン体制は崩壊しました(三月革命【本試験H7】)。

 二月革命の影響はイギリスにも伝わり,第一回選挙法改正で選挙権を獲得できなかった労働者が,男子普通選挙を求める「人民憲章(ピープルズ=チャーター)」【本試験H18エリザベス1世による発布ではない】を議会に提出しようとする運動(チャーティスト運動)が盛り上がりました【本試験H26責任内閣制とは関係ない】【本試験H8労働者階級の参政権獲得を訴えたものか問う】。
 ポーランド南部はポーランド分割にいよりオーストリア領となっていましたが,1846年に自治権を持っていた南部の中心都市クラクフで,オーストリアに対する反乱が起きました(クラクフ蜂起)。しかし,反乱勢力のうち土地貴族(シュラフタ)と農民との歩調が合わず,失敗しました。

 二月共和政【本試験H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う),本試験H21】の成立したフランスでは〈ルイ=ブラン〉の学説を実践にうつした国立作業場【本試験H21】が閉鎖に追い込まれるなどの失政により急速に支持を失い,四月選挙【セ試行】で敗退。労働者らは六月暴動を起こし社会不安が起きる中,11月には新しい憲法(三権分立)が制定されました。しかし,フランスを保守的な政治に戻すか,自由主義を推進するかをめぐり,政治は混乱し続けます。


 さて,産業革命(工業化)は1830年以降,次第にヨーロッパ諸国に広がっていきました。目まぐるしく社会が変動し,さまざまな社会問題が発生するようになります。その社会問題から目を背けずに客観的に観察して,汚い部分も含めて”ありのまま”に描くことで,人々に問題に気づかせることができるのではないかと考える作家も現れます。19世紀中頃から本格化する「写実主義」【本試験H10ロマン主義,古典主義とのひっかけ】【本試験H13バルザックの文芸上の傾向を答える,H16ロマン=ロランではない】の文学者たちです。
 例えば,フランスの〈スタンダール〉(1783~1842) 【本試験H10古典主義者ではない】の『赤と黒』,フランスの〈バルザック〉(1799~1850) 【追H28】の『人間喜劇』【追H28バルザックの著作か】【本試験H13象徴主義・ロマン主義・古典主義ではない】,フランスの〈フロベール〉の『ボヴァリー夫人』におけるブルジョワジーに対する批判が代表です。イギリスでは,国民的作家〈ディケンズ〉(1812~70) 【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない】が『二都物語』や『クリスマス=キャロル』などで,民衆に寄り添った作品で人気を集めました。
 イギリスでも,自然や伝統の良さを描いたロマン主義の文学者が人気を集めます。湖水地方に移住して自然を描いた詩人〈ワーズワース〉(1770~1850),詩人・歴史小説で有名な〈スコット〉(1771~1832),ギリシア独立戦争に参加した〈バイロン〉(1788~1824)が有名です。




○1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)

◆民族主義,国民主義の波が,中央ヨーロッパを席巻した
 いままでは民族A・民族B・民族Cがともに暮らしていた帝国内で,“民族A”が「国民A」としてまとまろうとすると,民族Bと民族Cは自分たちも「国民B」「国民C」だと主張し,「国民A」と争うことになる。そんな状況が中央ヨーロッパを席巻(せっけん)します。
 言語も宗教もバラバラな地域が多い中,いずれかの民族だけまとまろうとすれば,そのまとまりの中には,その「まとまり意識」に納得のいかない少数民族が,必ずといっていいほど存在します。これが,中央ヨーロッパの「国民国家」づくりの苦難でした。



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・1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
「諸民族の春」を先取りしたクラクフ蜂起
 1846年にポーランド南部のクラクフでシュラフタ(中小領主)による蜂起が起きました。オーストリアからの独立運動です。彼らはガリツィアの農民にも蜂起への参加を呼掛けましたが,農民にとってはオーストリアよりも領主の方が憎むべき的でしたから,農民たちが逆にシュラフタを攻撃して幕を閉じました(クラクフ蜂起,ガリツィア暴動)。
 ウィーン体制に挑戦する民族主義運動は,パリの二月革命に先立ち,ポーランドですでに勃発していたのです。



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・1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④ハンガリー
◆ハンガリー語を中心とする民族運動がもりあがったが,クロアチア人の民族的自覚も高まる
「青年ハンガリー」が形成され,1848年革命へ
 ハンガリーでも自由主義・民族主義を求める運動が盛んになりますが,「民族」としてまとまるにも,「ハンガリー人」としての基準はあいまいでした。

 そこでハンガリー語を「ハンガリー人」としての「まとまり意識」の中心に据えようとする動きが起こります。
 1836年・1844年にはハンガリー語を公用語とする法律が制定。

 しかしポーランドでの反オーストリアを掲げたクラクフ蜂起が,農民蜂起によって失敗した知らせを聞いたハンガリーの民族主義者たちは,民族としての「まとまり」を強くするには,まず第一に農民の貧しさを解消することが必要と考えるに至ります。こうして,1848年にかけて「青年ハンガリー」が領主の特権の廃止を求める活動を展開し,社会主義者も登場します(注1)。

 しかし,ハンガリーの領域には,ハンガリー語を話さないスロヴァキア人,クロアチア人,ルーマニア人もおり,ハンガリー人が民族的にまとまろうとすればするほど,彼らは彼らで民族的な自覚を高めていくことになりました。

 なお、ハンガリー出身のドイツ系の作曲家〈フランツ=リスト〉(1811~1886)が一連の「ハンガリー狂詩曲」を作曲し始めたのはこの時期のことです(注2)。

(注1) 南塚信吾「1848年革命と民族問題―ハンガリー革命と西ヨーロッパ」『週刊朝日百科 世界の歴史107』,1990,p.B-676
(注2)19世紀中頃~20世紀にかけ、民族主義的なテーマをもとにした作曲家を「国民楽派」といいますが、ドイツ人としてのアイデンティティを持っていた〈リスト〉は「国民楽派」にはカテゴライズされません。



・1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
◆工業化を達成するためナショナリズムが推進されるとともに,科学技術が発達した

 イギリスでは,英語を話す人々(イングランド人)が,ケルト系の言葉を話す人々(スコットランドやアイルランド)を領土に加え,「イギリス」を形成していきました。
 フランスでも,政府により「フランス」の統一が進みました。例えば,フランス南部のマルセイユの人々は,自分が「マルセイユの住民だ」という意識はあっても,「フランス国民である」という意識は,まだそこまで強くなかったのです。言葉だって,「プロヴァンス語」といって,どちらかというとイタリア語に近い言葉を話していました。19世紀後半以降「小学校」で“正しい”フランス語が教えられ,マルセイユ人も“正しい”フランス語を話すようになっていきましたが,今でも独特のアクセントは残っています。
 日本でいうと関西人が,小学校で“標準語”を習っても,日常生活ではその地の関西弁を話すというのに近い。でも,まがりなりにも「フランス」という国家のまとまりが,政府によって重視されていくと,人々の意識もだんだんと変わっていきました。
 
 人類が仲間意識を強める方法は,いつの時代でも同じ。“敵”を設定し,自分と敵との関係を説明するストーリーを共有することです。フランス人にとっては,まず陸続きにあるドイツ人。さらに,経済面で勝るイギリス人でした。
 しかし,ドイツ人たちは統一した国家を形成していません。
 かつて「神聖ローマ帝国」(962~1806)という国がありました。“ローマ”を名乗っている割に,実際には「ドイツ帝国」というべき国家です(領内にはチェック人やマジャール人など,異民族も多くいました)。
 しかし,やがて諸侯の力のほうが強くなり,1356年には皇帝を有力な諸侯が選挙で選ぶ方式となり,さらに15世紀からはオーストリア出身のハプスブルク家が,皇帝位を世襲するようになっていきました。しかし,三十年戦争(1618~48)でハプスブルク家が敗北後に結ばれたヴェストファーレン(ウェストファリア)条約(1648)によって,「神聖ローマ帝国」というのは一応の秩序を保つための“枠”のようなものになってしまって,その中にある諸侯の領域が「国家」のように独立した主権をもつようになります。それらを領邦といいます。
 とどめを指したのは〈ナポレオン〉です。1806年に神聖ローマ帝国を解体【本試験H18】し,その中にあった領邦を連合させて,自分のいうことを聞かせるためにライン同盟をつくらせました。
 〈ナポレオン〉が去り,オーストリアの〈メッテルニヒ〉は1815年にドイツ連邦【本試験H18】を結成します。これは,領邦と都市による国家連合で,「神聖ローマ帝国」という時代遅れな名称にかわり(だってローマを支配しているわけではないですから…),「ドイツ連邦」として,ドイツ人に対する主導権を握ろうとしたものです。


 オーストリアにとってのライバルは,北東部のプロイセン王国でした。プロイセン王国は,〈ナポレオン〉の占領下における〈シュタイン〉(1757~1831)と〈ハルデンベルク〉(1750~1822)の改革によって,すでに農奴を解放していました【本試験H6 19世紀初頭のプロイセンで「農民解放」がおこなわれていたか問う】。さらにウィーン議定書で工業地帯であるラインラントを獲得したため,発展の途上にありました。
 1834年(注)には,七月革命(1830)の影響【セ試行 】を受け,プロイセン【本試験H25オーストリアではない】【追H30オーストリアではない】中心にドイツ関税同盟【セ試行 】【本試験H6年代】【本試験H25】【追H30】が結成されました(従来から存在した関税同盟を拡大させたもの)。これにより,1835年にはドイツ初の鉄道が敷設され,鉄鋼を供給した〈クルップ〉(1812~1887,2代目)のクルップ社が巨万の富を得ました。クルップ社は軍需産業にも参入し,大砲の開発を進めていきました。
(注)条約成立は1833年,発効は1834年1月。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123

 ドイツ関税同盟を提唱した経済学者〈リスト〉(1789~1846) 【東京H11[3]】【本試験H18『海洋自由論』ではない,本試験H22国家による経済の保護に反対していない】はこんなふうに考えます。
「ドイツはまだ生まれたばかりの赤ちゃんだ。イギリスと対等には戦えない」
「“自由”とは勝者のみが主張できるもの。歴史的に差が付いているのだから,ドイツにはイギリスからの輸入に対して,共通の関税をかけてブロックする必要がある。」
 イギリスの古典派経済学者(1776年に『諸国民の富(国富論)(注1)』【追H9〈マルクス〉の著作ではない、H28『資本論』とのひっかけ】【早政H30】を著した〈アダム=スミス〉(1723~90) 【本試験H12】【本試験H22】【追H9〈マルクス〉のひっかけ】(注12や〈リカード〉(1772~1823) )は,イギリスの議会主導の重商主義制度(注3)を批判【本試験H12重商主義を批判したかを問う】し,自由競争と自由貿易を主張する古典派経済学の理論をつくっていました【本試験H12アダム=スミスが古典派経済学の基礎を築いたか問う】【本試験H22自由貿易に反対していない】。〈リスト〉はそれに対抗する理論を打ち立てたのです。
(注1) 先に「国富論」と訳され,その名が通用していましたが,のちに経済学者〈大内兵衛〉(1888~1980)らの新訳により『諸国民の富』が広まりました。
(注2) 少し長いが,〈アダム=スミス〉の論をここに引いてみましょう。
 「長期間の徒弟修業はまったく不必要だ!(徒弟とは,手工業の世界で親方の下に長期間働く使用人のこと)。柱時計や懐中時計をつくるのは普通の職業よりもたしかに技術はいる。しかし,長い教育課程が必要なほどの秘伝があるわけではない。…どんな青年に対してもつくり方をマスターするのに数週間以上はかからないだろうし,数日で済むかもしれない。 もちろん徒弟がみんな辞めてしまって,自由競争が導入されれば,親方は損するだろう。しかし,手工業製品がはるかに安く市場にもたらされれば,社会の利益にはなるだろう」(アダム=スミス,大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波書店,1959,p.340-341を意訳)
(注3) 絶対王政が主導する王室的重商主義に対し,議会的重商主義ともいいます。

 〈リスト〉はドイツ関税同盟【早政H30「関税」を答える】の成立に関与し,先進国からドイツへ安価な工業製品が大量に輸入されるのを防ごうとしました。
 「外国製品をブロックし,自国製品の生産者を守ろう」
 このような考えを保護貿易主義といいます。反対語は,イギリスの推進する自由貿易主義【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】です。〈リスト〉の考え方は,20世紀になってから,ヨーロッパ経済共同体(EEC)に応用されていくことになります。
 なお,ドイツ関税同盟にはオーストリア【東京H11[3]】は加盟していません。

 おなじくイギリスの経済学者の批判をした思想家にの一人に,プロイセン出身の〈マルクス〉 (1818~83) 【本試験H2,本試験H8「カール=マルクス」,本試験H10】【本試験H19】【追H9『諸国民の富』を著していない】がいます。彼は「現在イギリスの推進している自由な競争に基づく経済のしくみは,資本家が労働者を搾取することで成り立っている。労働者が立ち上がって,この関係をなくせば,良い社会がつくれる」と主張します。彼は,これまでの人間の歴史が,物をどのように生産し,それによってどのような社会や思想が生まれ,矛盾が生じて変化してきたかによって形成されていったのだと考えました。これを史的唯物論(唯物史観) 【本試験H2】【追H21】【中央文H27記】といい,のちに大きな影響を与えることとなります。
 〈マルクス〉【追H28アダム=スミスとのひっかけ】【本試験H12カントではない】は友人の〈エンゲルス〉(1820~95) 【本試験H19】とともに,1848年(二月革命の前です)『共産党宣言』【本試験H12】【本試験H19】で世界中の労働者に向けて国際的に連帯して階級闘争(労働者が資本家をたおすこと)を呼びかけ【本試験H8】,1867年には古典派経済学の誤りを正す目的で『資本論』【本試験H10】【追H9『諸国民の富』ではない、H28アダム=スミスの作品ではない】の第1巻を刊行しました(第2巻は85年,第3巻は94年)。〈エンゲルス〉は『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)というルポルタージュ(現地報告)で,産業革命(工業化)を達成したイギリスの労働者の悲惨な状況を克明に描いたことでも知られます。

 しかし,実際に1848年にプロイセンで起きた三月革命(リン暴動べる)【セ試行 】で,政府に参加したのは「自由主義者」,つまり,“自由”にビジネスがしたいと考える資本家たちでした。ただ,労働者たちの反発も強く,結果的には大土地所有者(ユンカー)らの保守的な勢力が復活し,革命の進行は止まってしまいます。
 
 フランクフルトでは1848~49年に,ドイツ統一に関する【セ試行】【本試験H29メッテルニヒはこれにより失脚したわけではない】国民会議(フランクフルト国民議会) 【セ試行】【本試験H7】【本試験H16オーストリア中心の統一を求めることで一致していない,本試験H22年代を問う,H24】【追H18】【セA H30大陸会議ではない】がひらかれ,自由主義者が集まって議論が交わされました。
 議論の中心は,まだ見ぬ“統一ドイツ”の範囲。
 複雑な言語・民族分布となっている中央ヨーロッパの広範囲に,ドイツ語を話す人々が住むものの,そこには複数の国家があり,「ドイツ人」としての意識にも様々なあり方がありました。

 「ドイツ統一というけれど,どこまでがドイツなんだ?」
 これが大問題だったのです。

 さらに,ベーメンにいるチェック人は統一ドイツに入れるか入れないかも問題となります。会議に参加するよう求められた,チェック人の独立運動の代表である〈パラツキー〉(1798~1876)は,ドイツ統一に巻き込まれることを恐れ出席を拒否。独自にスラヴ人をまとめて独立させようとする運動を起こし,1848年6月にチェコのプラハでスラヴ人会議を開催しました。

 フランクフルト国民会議では,統一ドイツの政治のしくみも議論になりました。
 「新しいドイツでも,領内の王国や公国などは残そう(連邦制)。でも,それをまとめる皇帝はどうする?」
 「プロイセン国王に就任してもらおう。そして,暴走しないように憲法でしばればいい(立憲君主制)」
 こうして,オーストリアを外し,プロイセンを中心として統一する考え方(小ドイツ主義【本試験H7大ドイツ主義ではない】)の考えのもと,以上の内容を盛り込んだ帝国憲法が制定されました(1849年3月)1849年に立憲君主制・連邦制を定める帝国憲法が制定されたのです。

 しかし,プロイセン国王は,「国民が皇帝を決めるなど,何事か!」と皇帝就任を拒否。国民の側からのドイツ統一は失敗に終わったのです。
 この混乱を逃れるためにドイツの自由主義者が向かった先はアメリカ合衆国。今でもイギリス系に次ぐ約15%の国民が,ドイツ系であると自己申告しています。ドイツのハンザ都市ハンブルクの名の付くハンバーグも,19世紀にドイツからの移民がアメリカに持ち込み,1830年頃にはアメリカでハンバーグステーキが作られるようになったといわれています(発祥の地はテキサスのアセンズ説とコネティカットのニューヘイヴン説がある)。また,1870年代にはフランクフルト=ソーセージをパンに挟むホット=ドッグが考案されています。

 また,ハンガリーでは〈コシュート〉(コッシュート1802~94) 【追H26コブデン、マカートニー、ケレンスキーではない】が,1849年にハンガリー独立宣言【追H26】【本試験H12時期(19世紀前半か問う)。〈コシューシコ〉ではない】【本試験H19ハンガリーの1848年革命を指導していない】を発表しましたが,オーストリアの派遣したクロアチア総督兼軍司令官の〈イエラチチ〉(イエラチッチ1801~59)の部隊により鎮圧されました。クロアチア人にとってはいくらオーストリアから独立することができても,次はハンガリーに支配されてしまう危機感もありました。
 ハンガリー人の〈コシュート〉は「ハンガリー語を話す者がハンガリー人だ」と主張しましたが,ハンガリーにはクロアチア人やルーマニア人など,ハンガリー語を話すがハンガリー人という意識のない民族も多く分布していたのです。
どこかの領域で,ある民族が独立を叫ぶと,別の民族の独立が犠牲になる…。複雑な歴史を持つ宗派・言語の集団が共存していた空間の中で,突然「民族」としてまとまろうとする運動が起きると,このような矛盾が各地で起きていくことになるわけです。





○1815年~1848年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 オスマン帝国の支配領域にも,自由主義・国民主義の思想と無縁ではありませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島全域におよんでいましたが,その多くはスラヴ系の民族でした。

・1815年~1848年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシア
 古代ギリシア以来大変ご無沙汰しているギリシアですが,地中海の海上交通の要衝に位置することもあり,マケドニアの〈フィリッポス2世〉以降というもの,ローマ帝国,東ローマ帝国の支配を受け,最終的にオスマン帝国の支配下となっていました。
 しかし,「1民族1国家」という国民主義(ナショナリズム)の影響を受けたギリシア人は,かつてのギリシア人の勢力範囲(古代にギリシア人が植民市を建設した地域)に,オスマン帝国【本試験H12ロシアではない】から独立しギリシアという国家をつくろうという運動をおこし,1821年に武装蜂起を開始,1822年1月にギリシア独立宣言を発表,1829年までつづくギリシア独立戦争【本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う),本試験H5】【本試験H18,本試験H27時期】となりました。
 戦争中にオスマン帝国が,キオス島というところで20,000人(諸説あり)を虐殺したことを題材にとった作家〈ドラクロワ〉(1798~1863)は,これを「キオス島の虐殺」として展覧会に出品し,ある意味彼は“戦場カメラマン”として,ギリシアの惨状をヨーロッパに伝えることになったのです。当時のヨーロッパでは,自国の文化の源流がギリシアにあるんじゃないかというロマン主義的な風潮が流行していましたし,何もわるいことをしていない一般市民がイスラーム教徒によって攻撃されていることに義憤を燃やした人々が,義勇兵としてギリシアに向かいました。
 『チャイルド=ハロルドの遍歴』『ドン=ジュアン』で知られるイギリスのロマン主義【本試験H10写実主義ではない】の詩人〈バイロン〉(1788~1824) 【本試験H3ロビンソン=クルーソーの著者ではない,本試験H10】【本試験H16イギリスのロマン主義かを問う,本試験H18トゥルゲーネフではない】もギリシア救援に向かった一人【本試験H18】。結局彼は熱病にかかってなくなっていますが,ギリシアの激戦地では,彼の慰霊碑に今でも花がたむけられています(〈バイロン〉と交流のあった女性作家に『フランケンシュタイン』(1818)で知られる〈シェリー〉(1797~1851)がいます)。
 1827年,ナヴァリノの海戦(ペロポネソス半島の西南部)で,オスマン帝国・エジプトの連合軍を,イギリス・フランス・ロシアがギリシア側にたって撃破し,1829年にアドリアノープル条約でギリシアの自治を承認させました。結局,イギリス・フランス・ロシアは,ロンドン会議で,ギリシアの独立を正式に認めました。ここにはプロイセンとオーストリアは入っていません。

 イギリス【本試験H5】・フランス【本試験H5】・ロシア【本試験H5】も,「ギリシアがかわいそうだから」助けたわけではなく,「助けておけば,独立した後で,いうことをきかせることができる」という思惑あってのことです。イギリス・フランスは地中海からインド洋に向かう通商路の中継地点を確保したいという思惑があり,ロシアにとっては南下の足がかりを得たいという思惑があったのです。

 〈ムハンマド=アリー〉が事実上オスマン帝国から自立していたエジプトはギリシア独立戦争の際に,オスマン帝国のSOSを受けて出兵。
クレタ島などを占領しました。
 東地中海の交易ルートの独占を目指した〈ムハンマド=アリー〉は,その“お礼”としてシリア総督の地位を要求。拒否されたことでオスマン帝国と開戦します(第一次エジプト=トルコ戦争;第一次エジプト事件)。勝利したエジプトはシリア総督の地位と,クレタ島の支配権を獲得しました。
 しかしエジプト勢力の拡大を危険視したイギリスなどヨーロッパ列強の反発を背景に,1839年~1840年に再度オスマン帝国と開戦(第二次エジプト=トルコ戦争;第二次エジプト事件)。エジプトはクレタ島やシリア総督の地位を失う代わりに,オスマン帝国の宗主権下でのエジプト総督の世襲が認められました。



○1815年~1848年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現①スペイン,現②ポルトガル

 スペインでは〈フェルナンド7世〉が復位し,〈ナポレオン〉の占領下から独立戦争中にかけて盛んになった自由主義的な動きを弾圧し,フランス革命前の体制に戻そうとしました。
 しかし,カディスで開かれた議会の制定した自由主義的な1812年憲法(カディス憲法)は,「スペイン王国による支配」を打ち破り自由な体制をつくろうとしていたアメリカ大陸の植民地生まれのスペイン系子孫に希望の光を与えました。
 こうして1810年代から1820年代にかけて,スペイン領・ポルトガル領の植民地で次々に独立運動が成功していくのです。
 北から順に独立したスペイン領植民地を見ていくと,以下のようになります。
 メキシコ(1821年)
 中央アメリカ連邦共和国(1823年)
 大コロンビア共和国(1819年)
 ペルー(1821年)
 ボリビア(1825年)
 パラグアイ(1811年)
 ウルグアイ(1828年)
 アルゼンチン(1810年) 【本試験H12時期(19世紀前半か問う)】
 チリ(1810年)

 さて,これだけ広大な植民地が独立していったわけですから,スペインの政治・経済が打撃を受けないわけがありません。
 1820年には〈リエゴ〉がクーデタを宣言して各地で反乱が起き,国王は圧力に屈して1812年憲法(カディス憲法)を一時復活させました。自由主義的な〈リエゴ〉政権はすぐさま改革に乗り出しましたが,指導層の間に対立が起きる中,ウィーン体制を守るためにフランスが軍事的に干渉し,〈リエゴ〉派を追放しました。

 その後,国王〈フェルナンド7世〉は絶対王政を復活させましたが,もはや自由主義派を無視することはできず,国王の死後には王位継承権をめぐる内乱が勃発します(〈フェルナンド7世〉は女子への王位継承を認め,自由主義を認める王妃との間に生まれた女子〈イサベル〉への継承を狙いましたが,自由主義に反対する勢力が王弟〈カルロス〉を推したのです。カルロス派のことを「カルリスタ」というので,この反乱をカルリスタ戦争といい,第一次カルリスタ戦争は1833~39,第二次は1872~76年に起きています)。
 この内乱ではバスク地方,ナバーラ,カタルーニャなどが〈カルロス〉派につき,主に中央部から南部にかけての自由主義派と対立しました。
 この内乱は,教会や貴族といった絶対王政を支持する勢力vs地主や資本家などの自由主義勢力という構図だけでなく,中央と地方との争いでもあったのです。結果的に両者は妥協して1837年に国民主権をうたった新たな憲法が制定されました。その後,フランスで起きた二月革命の影響は,スペインではカタルーニャの一部に地域にとどまります。





○1815年~1848年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1815年~1848年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス

◆ウィーン体制から距離を置き、国内では自由主義的な改革が進展する
工業化を達成した英は自由貿易体制を推進する

 〈ナポレオン〉は1815年の2月にエルバ島を脱出し、6月から「百日天下」をスタートさせました。
 不屈の精神ですね。
 これに対しイギリス陸軍の〈ウェリントン〉(1769~1852)は、ベルギーのワーテルローの戦いでナポレオン軍に最後のとどめを差し、〈ナポレオン〉は大西洋に浮かぶイギリス東インド会社領のセントヘレナ島に流されました(その後死去するまで、周辺の警備は海軍によって厳重に続けられ、〈ウェリントン〉は1818年までフランスに占領軍を駐留させました)。

 〈ナポレオン〉が敗北した後のイギリスはウィーン体制に参加して,海外の領土を確保していきました。
 しかし,「大陸の揉め事に巻き込まれないために,大陸の決め事にはかかわらないほうがよい」という雰囲気が広がり,オーストリアの〈メッテルニヒ〉【共通一次 平1】の提唱した四国同盟からも,1822年以降は実質的に脱退。
 ロシアの〈アレクサンドル1世〉の提唱した神聖同盟【共通一次 平1】【追H20ローマ教皇は提唱していない】には「意味がない」と,そもそも加盟していません【共通一次 平1:メッテルニヒの提唱ではない】。

 その背景には,イギリスでは18世紀後半以降産業革命(工業化)が起き,産業資本家の意見が政治に反映されるようになっていたからです。能力ではい上がった産業資本家たちにとって,〈メッテルニヒ〉がヨーロッパに打ち立てようとしたウィーン体制は,ビジネスにとって邪魔で保守的なものとしか移りませんでした。

 それに〈メッテルニヒ〉は,ラテンアメリカ(中央アメリカ,カリブ海,南アメリカ)の独立運動に対して「自由主義は革命につながる」として警戒し,弾圧をしようとしましたが,イギリスの産業資本家は「ラテンアメリカの植民地を支援し,独立してもらったほうが,機械で生産した綿布を売りつけるビジネスチャンスだ!」と考え,〈メッテルニヒ〉によるアメリカに対する干渉に反対しました。
 
 イギリス国内における自由化の流れは,政治的な分野と経済的な分野において進んでいきます。
 産業革命(工業化)後のイギリスでは,裕福になった産業資本家が「自分たちの意見も反映させてほしい」と,参政権を求める運動が起きました。伝統的な社会では個人の考えがおさえられることが普通だったわけですが,「これからの社会は社会で個人が自由に活躍できることだ」と主張したのです。しかし,個々人が自分の利益を求めてバラバラにふるまえば,問題も起きます。そこで,「社会全体の幸せを脅かすものだけは,規制するべきだ」と考えたわけです
  こうして〈ベンサム〉(1748~1832) 【本試験H2,本試験H12カントとのひっかけ】【H30共通テスト試行モンテスキューとのひっかけ】は,「社会全体の幸せ」とは何で,どうすればを測ることができ,実現できるかということについて研究しました。そして,それを実現するには「最大多数の最大幸福」【本試験H2】【H30共通テスト試行 三権分立の考えではない】の実現が大切で,だからこそ普通選挙制(誰でも投票できる制度)をすぐに導入して,代議制民主政治を完成させるべきだと考えたのです。彼のような思想を功利主義【本試験H2】といいます。

 しかし,実際には,すべての人に政治参加が認められていたわけではありません。1801年にイギリスが併合したアイルランド王国は,カトリック教徒が多数派でした。しかし,審査法の影響で公職につくことが認められていませんでした。アイルランド人〈オコンネル〉(1775~1847)の活動も実り,1828年に審査法が廃止され【本試験H9貴族身分が廃止されたわけではない】【本試験H19制定ではない】【早・政経H31 年代】,翌年1829年にはカトリック教徒解放法でハッキリとカトリック教徒でも公職につけることが認められました【本試験H29スペインではない】。

 なお、1824年には団結禁止法が廃止されています【早・政経H31 年代】。



◆奴隷制度・穀物法・東インド会社の貿易特権が廃止される
イギリスでは,自由貿易主義が拡大する
 1832年のホイッグ党の〈グレイ〉伯爵内閣(任1830~32,彼のためにブレンドされたのが始まりといわれるのはアールグレイティー(グレイ伯爵=アールグレイ)です)のとき選挙法改正(第一回選挙法改正)で,産業資本家【追H30女性ではない】に参政権が与えられると,経済的な自由を認める制度の改革が加速しました【本試験H5 19世紀中葉のイギリスは,高い生産力を背景に,輸入抑制政策のもと輸出を伸ばしたわけではない(自由貿易政策がとられた)】。
 1807年には奴隷貿易を禁止【早・政経H31 年代】していましたが,1833年には奴隷制度廃止法が成立【東京H14[1]指定語句「植民地奴隷制の廃止」】。1838年に全奴隷が解放されました。

 また、1846年には輸入穀物に関税をかける穀物法が〈コブデン〉(1804~65) 【追H26コッシュートとのひっかけ】【本試験H12】【本試験H22】と〈ブライト〉(1811~89) 【本試験H12】【本試験H22】の反対運動【本試験H12支持する運動ではない】により廃止されました【東京H19[1]指定語句「穀物法廃止」】【本試験H22,本試験H24穀物法は「輸入穀物の関税を撤廃していた」わけではない】【追H25ヨーマンの出現、第二次囲い込みとの時系列を問う】。

 さらに1849年には自由貿易【早法H29[5]指定語句】の障害となっていた航海法が廃止されました【早法H29[5]指定語句,論述(航海法廃止の理由を,当時の政治・経済の情勢に関連付けて述べる)】。

 東インド会社の貿易特権も1833年に廃止されました【本試験H22インド帝国の成立後ではない】。1840年から1869年まで,中国の新茶をいち早くロンドンに届けるための競争が盛んになり,3本の帆をもつティークリッパー(クリップとは大急ぎで進むこと)という高速帆船が建造されました。現在のボジョレーヌーボーみたいなもんです。最後に建造されたカティ=サーク号は再建され,標準時子午線の通るグリニッジ市内に展示されています。

 その一方で,選挙権が与えられなかった労働者・女性などの人々は,チャーティスト運動を起こし,二月革命の際に最高潮を迎えましたが,成果は得られませんでした。
 なお,1840年には,蒸気船による大西洋航路の定期便が就航されるようになっています。


◆産業社会の展開の影で,社会問題・労働問題が発生し,社会主義思想・社会政策も発達する
〈マルサス〉の罠,生活協同組合,工場法
 さて,産業化が進めば,人間の社会は物質的に豊かになっていきます。しかし,今までにはない様々なの社会問題も発生するようになりました。イギリスの〈マルサス〉(1766~1834)は『人口論』で,社会問題は人口と食料の関係によって決まると主張し,社会の発展のためには一定の人口調整が必要だと主張しました。彼の考えは,人口爆発が起きた20世紀後半以降,再び注目されるようになっています。
 また,〈オーウェン〉(1771~1851)【追H9】のように,労働者が資本家に搾取(さくしゅ)されないような工場を考案する人も現れました。彼のニュー=ラナーク工場やニュー=ハーモニー村の建設は失敗に終わりますが,「生活協同組合」のアイディアは先駆的でした。
 「みんなで出資して,みんなではたらいて,みんなで買うおう。そうすれば誰がつくっているのか生産者の顔も見れるし,資本家に搾取されて生活が苦しくなることもない」
 のち,イギリスのロッチデール先駆者協同組合(1844)に受け継がれ,現在の生協の発祥となります。
 なお,1833年には,労働条件の改善のために工場法【本試験H2時期(18世紀末にフランスで制定されたのではない),本試験H6人身保護法ではない】が制定されています。




・1815年~1848年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
一時オランダに併合されたベルギーが独立へ

 〈ナポレオン〉は1815年2月にエルバ島を脱出、6月から「百日天下」をスタートさせます。
 しかし周辺国の攻撃を受け、ワーテルローで最終決戦となり、敗北して退きます。
 
 〈ナポレオン〉がなぜワーテルローを最終決戦地として選んだのかというと、現・ベルギーのネーデルラント南部には親仏派が多いことが背景にあるとみられます(注1)。
 ベルギーはフランス革命中に一時共和国を建設し、その後〈ナポレオン〉の統治下で将来の独立に向けた国づくりをすすめていました。

 しかし〈ナポレオン〉敗北後の1815年のウィーン議定書によって、ネーデルラントは南北をあわせてネーデルラント連合王国(オランダ王国)となりました。
 ネーデルラント南部(現ベルギー)にとってみれば、独立の挫折です。
 このとき,ルクセンブルク大公国はドイツ連邦に加盟していますが,ネーデルラント連合王国との同君連合とされ,ネーデルラント連合王国の一部にとどまりました。


 南部を支配下におさめたネーデルラント連合王国の国王〈ウィレム1世〉は、オランダ語を南部に強制する政策を強行しました(注2)。また、経済的に貧しいベルギーからも一律に税を徴収し、下院議員数もオランダ人が優遇されていました。
 こうした北部による南部に対する言語・文化の強制から南北に亀裂が走り,1830年にフランスで七月革命【追H21】が起きると,同年にオランダ語使用に関する勅令を撤回していた国王〈ウィレム1世〉を“弱腰”と見た南部の人々は一斉に蜂起し、独立を宣言しました。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.30。
(注2) 1817年から20年の間に初等学校を設立し、オランダ語を教育言語とし、そうした学校にのみ補助金が出されました。松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、pp.30-31。




◆ベルギー王国が成立し、当時としては革新的な自由主義的な憲法が制定される
共和政と君主制の狭間ベルギーは王政となった
 南部は1831年には,ウィーン議定書によりドイツ連邦を構成していたザクセン=コーブルク=ゴータ家の〈レオポルド〉を初代国王〈レオポルド1世〉(位1831~65)として招いてベルギー王国が建国され【追H21七月革命の影響か問う】,憲法も制定されました。
 フランス革命期に一時共和国が成立したベルギーですが、周辺国の圧力もあり、当時としてはかなり自由主義的な内容の憲法を制定することで決着を図ったわけです(注1)。
 国王はイギリスの〈ヴィクトリア女王〉の親戚でもあります。

 北部のネーデルラント連合王国(オランダ王国)にとって,南部にカトリック国ベルギー王国が出現したことは安全保障上の大問題でした。ベルギーがフランスと組む可能性も否定できないからです。
 そこで,オランダはベルギーに永世中立国(どことも同盟関係を組まないことにした国)であることを宣言させることと引き換えに,1839年のロンドン条約でベルギーの独立【追H21】を承認しました。このときにルクセンブルク大公国はネーデルラント連合王国から独立しました(ただしネーデルラントとの同君連合と,ドイツ連邦加盟は維持されます)。

 ベルギーはイギリスとフランスの間でうまくバランスをとろうとしており,事実ベルギー国王〈レオポルド1世〉は,〈ヴィクトリア女王〉の親戚であるとともに,フランス七月王政の王〈ルイ=フィリップ〉の娘と結婚しています。
 ベルギーにはイギリス・フランスからの資本が投下され産業革命(工業化)が起きました。国内では石炭が産出され鉄鋼業も栄えます。

(注1) 松尾秀哉『物語ベルギーの歴史―ヨーロッパの十字路』中公新書、2014年、p.44。



○1815年~1848年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 ナポレオン戦争末期のごたごたの中で,スウェーデンはデンマークに侵攻して1814年1月にキール条約で力ずくで講和を認めさせました。これによりノルウェーはスウェーデンに割譲されることになり,デンマーク=ノルウェーの同君連合は幕を閉じました。ノルウェーは憲法を制定し独立宣言を発しますが孤立無援に陥り,結果としてスウェーデン王国との同君連合を認めました。
 なお,跡継ぎのいない〈カール13世〉(位1809~18)に対し,1810年に〈ナポレオン〉軍の将軍〈ベルナドット〉が後継の王として指名されていました。彼は1818年にスウェーデン王に即位し,これが現在まで続くベルナドッテ朝スウェーデン王国なのです(ちなみに〈ベルナドット〉の妻は,〈ナポレオン〉の元婚約者)。スウェーデンの歴史には,〈ナポレオン〉が色濃い影響を残しているのです。

 1814~1815年のウィーン会議【本試験H4七月革命後の会議ではない】では,こうした動きが既成事実として認められました。

 デンマークは,ウィーン議定書により,ユラン(ドイツ語でユトランド半島)において,中部のスレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ)公爵領【セ試行 地図上の位置をホルシュタイン公爵領とともに問う】,ホルステン(ドイツ語でホルシュタイン)公爵領【セ試行 地図上の位置をシュレスヴィヒ公爵領とともに問う】,さらにその南部のラウエンブルク公爵領との同君連合を形成していました。しかしホルシュタインとラウエンブルクの住民はドイツ語を話すドイツ人で,ドイツ連邦にも加盟していました。「一つの民族が一つの国民となり一つの国家をつくるべきだ」とするナショナリズム(国民主義)の論調が盛り上がる中,この南ユラン問題は次第に大きな問題となっていきました。「デンマークはスカンディナヴィアという地域の一員なのだから,その一部であるスレースヴィとホルステンはデンマークであるべきだ」という主張や,「シュレスヴィヒとホルシュタインはドイツの統一にとって必要不可欠だ」という主張の対立の中に,この地域は飲み込まれていくことになるのです。
 アイスランド,グリーンランドは,デンマークの領域のままです。


 スウェーデンに割譲されたノルウェーや,ロシアの従属下に置かれたフィンランドでは,支配されたことに対する反発から民族意識が高まり,国語や国民文化を形作っていく運動が盛んになっていきました。一方,スウェーデンではみずからをゲルマン諸民族の一派「ゴート人」であると見なし,それをスウェーデン人の誇りとする運動もみられます。
 デンマーク=ノルウェーは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。奴隷貿易は1807年に廃止されていましたが,奴隷制は1848年に廃止されました。インドの拠点も1845年にイギリスに売却されました(ニコバル諸島の支配は継続)。




●1848年~1870年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展④ (沿海部への重心移動),南北アメリカ:独立②

産業化を進める欧米諸国で自由主義・保守主義・社会主義の対立が起きるが,生活水準の向上にともない国民国家の形成がすすみ,帝国主義に向かう。アジアでは東アジアへの市場開放要求が強まり,南アジア・東南アジアも植民地化がすすむ。
この時代のポイント
(1) 「産業革命」の進展により成長した産業資本家と労働者階級が対立したが,自由主義を唱える前者が国家権力とも結び付き成長していった。
(2) 「産業革命」の進展とともに国民国家が形成されたが,国家建設をめざす民族の運動(ナショナリズム)の多くは実現しなかった。
【大阪H30論述:人口調査(センサス)の手法が確立されていったのが,1848年革命以降であることを踏まえ,欧米各国で人口調査が確立されていった背景を,国民国家の形成と関連づけて述べる問題。産業社会の成立と国民国家の成立を背景に,納税・徴兵制・初等教育の確立のため個人の掌握,国民意識・国語統一のため母語・民族意識の調査が必要になった旨を述べる】

解説
 アメリカ合衆国では南北戦争を経て産業革命(工業化)を達成。中央アメリカ・南アメリカではイギリスの資本に対する従属が進む。
 東南アジアでは,ヴェトナムがフランスの進出を受け,マレー半島から島しょ部にかけてはイギリスとオランダが進出,ビルマはイギリスが進出している。中国ではアロー戦争の敗北により新たな開港・不平等条約の締結を迫られる。南アジアのインドではイギリス支配に対するインド大反乱【東京H20[1]指定語句】【本試験H8】が鎮圧され,ムガル帝国が滅亡した。西アジアではオスマン帝国領内の東方問題が激化し,ロシア帝国の南下を阻止するヨーロッパ諸国がイギリスを中心に介入し,ヨーロッパ諸国間に軍事同盟が締結されていく。
 アフリカの探検も進展し,イギリスは南アフリカのケープ植民地で先住のオランダ系ボーア〔アフリカーンス〕人を圧迫する。
 西ヨーロッパを中心に国民国家への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与えた。イタリアは統一運動により1861年に建国(イタリア王国),ドイツでもプロイセンを中心に統一運動が進み,末期にフランスとの戦争後にドイツ帝国を建国する。

◆西ヨーロッパを中心に国民国家への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与える
西欧を中心に,国民国家への統合が進む
 この時期は,15世紀半ば以降に世界の各地域に形成されていた広域的な政治的秩序が,ヨーロッパで形成されていった「国民国家」(内部の住民を,まとまった「国民」に統合していくことにより成り立たせる主権国家)によってバラバラに再編されていく時期といえます。
 ヨーロッパでは,すでに産業革命(工業化)を達成していたイギリスに続き,フランス,ベルギー,オランダといった西ヨーロッパの諸国で工業化が進展していきました。イギリスは自由貿易のルールを世界各地に要求して物流ネットワークを拡大させていき,多くの地域が西ヨーロッパを頂点として経済的な“役割”を分担しているような形に編入されていきました(垂直的な分業体制といいます)。
 アメリカ合衆国の歴史社会学者の〈ウォーラーステイン〉(1930~)は,この様子を,西欧を中心とする「世界 = 経済」(world-economy)が,旧来のユーラシア大陸の「世界 = 帝国」(world-empire)を包み込んでいく過程ととらえ,しだいに現在につながる「近代世界システム」(the modern world-system)が形成していったのだと1970年代に主張し,強い影響力を持ちました。

 しかし,19世紀末にかけて「ヨーロッパ」が主導することで地球全体にグローバルな物流ネットワークが広がっていくのはたしかですが,非「ヨーロッパ」地域であるアジア,アフリカ,アメリカ,オセアニアが受け身の立場で包み込まれていったわけではありません。
 「国民国家」に再編されつつあったヨーロッパ諸国は,15世紀半ば以降に世界各地に生まれていた秩序に影響を与え,それに対し非「ヨーロッパ」地域の国家や非政府組織はさまざまな対応を試みていくことになるのです。
 ある国家は,西ヨーロッパ諸国の「国民国家」の考え方を受け入れ「近代化」を果たし,またある国家は外圧に押されて政治的な干渉を受けることになります。この過程で,西ヨーロッパの国民国家は,ヨーロッパの外部に支配を拡大させ,やがて「帝国」を形成していくことになるのです。

 非「ヨーロッパ」地域の諸国家は西ヨーロッパ諸国から借款(しゃっかん)を受けたり,資源供給・市場開放したりすることで経済的に従属していきます(注)が,特に東アジア・東南アジアでは工業化に成功した日本や華僑(中国系住民)やインドの商人を中心に,アジアの域内貿易を次第に活性化させていきました。
(注)例えば,イギリスが南アメリカのアルゼンチンの農牧業の産品・加工品の輸出を通して,経済的な影響力を強めていたことを,「イギリスはアルゼンチンを植民地として取り込んだ(公式帝国(formal empire)に取り込んだ)のではなく,経済的な勢力圏に取り込んだ(非公式帝国(informal empire)に取り込んだ)と説明する研究者もいます。



 ヨーロッパ内の地域では1848年~49年の自由主義・民族主義的な運動が起き,多くが成果を挙げられなかったものの,さまざまな民族を支配する帝国に対する揺さぶりが始まっていきました。
 また,資本主義に対抗する思想として多様な社会思想が芽生えましたが,なかでも社会主義を推し進めて最終的には階級や国家を消滅させようと考えた〈マルクス〉(1818~1883)の共産主義が注目されました。
 この時期に南北戦争(“内戦”,1861~65)を経験したアメリカ合衆国は南北戦争を経て国家と市場の統一が進み,急速な経済成長を遂げました。西部開拓が進み太平洋側にも進出をしたことで,北アメリカ大陸の東西沿岸に広がる広大な国家に発展していくことになります。
 ヨーロッパやアメリカ合衆国では,自然科学の研究成果が次々に技術に応用され,その多くが植民地支配に利用されていきました。社会科学の知識もヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)が優れているという思想に利用され,非ヨーロッパの国・地域が劣っているという思想も形成されていきます(本文の社会ダーウィニズムを参照)。
 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国では,スペインに代わってイギリスに対する経済的な従属が進んでいきました。国内では,しばしば社会的に上層に位置する白人系(アメリカ大陸生まれの白人系住民。クリオーリョ)が権威主義的な支配体制を確立し,自由主義派により国外の資本と結びついた一次産品の輸出が目指されますが,それに反対する保守主義派との対立も深まっていきます。
 アジア諸国はヨーロッパによる従属が強まり,イギリス・フランス・オランダ・ロシアを中心に植民地・勢力圏が広げられていきました。その一方で,南アジアのインドや,東南アジアの植民地を含めたアジアの地域内交易は,急速な近代化に向かっていた日本(日本の近代化)の積極的な参入もあり,ますます活況を呈していくこととなります。
 中央ユーラシアではロシアの東方進出と南下に対し,海上覇権を握るイギリスが対立をはじめ,内陸部の遊牧民の政権の多くがロシアの従属下に入っていきました。この対立を中央ユーラシアをめぐるイギリスとロシアの“グレート=ゲーム”ともいいます。
 オセアニアではオーストラリアとニュージーランドがイギリスによって国際経済に結び付けられ,島しょ部に対するヨーロッパ諸国の進出も本格化していきます。
 アフリカではヨーロッパ諸国による中央部の探検が本格化し,内陸部の領域支配が強まると,各地の政権や住民による抵抗運動が起きています。





●1848年~1870年のアメリカ
○1848年~1870年のアメリカ 北アメリカ
・1848年~1870年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆1 アメリカ合衆国の金と石油が,世界に大きな影響を与えた
アメリカで金と石油が見つかり,西部拡大が加速
 金と石油。この時期にアメリカ合衆国で発見されたこの2つの鉱産物が,世界に大きな影響を与えることになります。
 まずは金(きん)。
 1848年には,カリフォルニア州で金鉱山が発見され,多くの人が一攫千金をもとめて押し寄せるゴールド=ラッシュが起きました。噂を聞いて集まった人々が着いた頃には,すでに取り分はほとんどなく,“あと(1849年)からやってきた奴ら”ということで,彼らは“フォーティーナイナーズ”とからかわれました。
 この頃,日本の漁師〈ジョン萬次郎〉(中濱萬次郎,なかはままんじろう,1827~1898)は,出漁中に遭難して伊豆諸島の鳥島(とりしま)に漂着し,1841年にアメリカ合衆国の捕鯨船に救出され,船長の保護の下,マサチューセッツ州で英語で多くの学問を修めました。彼は帰国資金を得るために1850年にカリフォルニア州にわたり,ゴールド=ラッシュの恩恵を受けています(1851年にハワイ経由で帰国)。
 現在のカリフォルニア,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺は,メキシコから買収され,アメリカ合衆国の領土となっています。

 次は,石油。1859年に〈ドレーク〉大佐(1819~1880)という人物が,ペンシルヴァニア州のタイタスビルで油田を採掘しました。初めはエンジンのような動力向けの使用ではなく,ランプに使用するものでしたが,19世紀末に自動車のエンジンが発明されると,“石油の世紀”といわれる20世紀の幕開けとなります。
 西部への進出は,インディアン戦争も激化させました。1862年にはナバホ人が沙漠に強制移住させられ,1868年に故郷に帰ることを許されますが,すでに住み着いていたホピ人との間の争いが始まります。1864年には,コロラド州で無抵抗のシャイアン人らが襲撃される,サンドクリークの虐殺が起きています。

◆2 アメリカ合衆国は太平洋に進出し,琉球王国と日本を開国させる
アメリカは捕鯨と市場獲得のため,太平洋を超える
 新たにカリフォルニアを獲得したアメリカ合衆国。
 北東アメリカにいるロシア帝国(アラスカにいます)の進出に対抗してラッコなどの毛皮交易を支配下に置きつつ,中国市場をにらんで,北太平洋蒸気船航路の実現が構想されました(注)。
 そのため,太平洋に展開する海軍の建設が急がれました。
 蒸気船による艦隊の司令官となったのが,〈マシュー=ペリー〉(1794~1858)。希望峰まわりでマラッカ海峡を通って琉球王国に通商を要求しつつ,1853年,54年の江戸時代末期の日本に「開国」を要求しにやって来ます。アメリカが日本を必要としたのには「捕鯨の基地を獲得するため」「中国との蒸気船航路の石炭補給地を確保するため」といった動機がありました。
 しかし,それと同時にアメリカが西に拡大すればするほど不安要因となったのは,ロシア帝国がアラスカを領有していたことです。モンロー宣言には,ロシアが北アメリカ太平洋側に南下することへの牽制(けんせい)という意味合いもあったのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.186。

 1854年に日米和親条約【セA H30時期】,1858年に日米修好通商条約【東京H20[1]指定語句】が締結されました。日米修好通商条約を締結した駐日公使〈ハリス〉は,1850年に南鳥島での漂流中にアメリカ船に救助されアメリカ国民となっていた〈ジョゼフ=ヒコ〉(浜田彦蔵,1837~97)を神奈川領事館の通訳として採用しています。

◆3 西漸運動によりインディアン諸民族の居住地を奪い,ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れた
西部のインディアンを追放し,新移民を受け入れる
 アメリカは西へ西へと領土を広げていきました(西漸運動といい,その最前線をフロンティアといいます)が,先住民のインディアン諸民族の居住地を奪いながらの拡大で,インディアンは指定された保留地に移動を余儀なくされたのでした。
 白人の圧倒的な支配を目の当たりにしたインディアン諸民族は,救いを信仰に求めました。1869年には西部のパイユート人の予言者が「ゴースト=ダンスを踊れば,死者がこの世に戻り,白人を追い出してインディアンの社会が復活される」と説き,インディアン諸民族の間で大流行します。

 “内向き”なアメリカは,ヨーロッパからの移民の受け入れをストップしたわけではありません。初期の移民は,イギリスやドイツからの移民(旧移民)が多かったのですが,だんだんとイタリアなどの南欧,東欧,ロシアからの移民(新移民) 【追H20時期(19世紀前半ではない。19世紀後半である)】が増えていきました。 旧移民はプロテスタント(新教徒)が多かったのに対し,新移民は,南欧はカトリック,東欧・ロシアは正教会やユダヤ教徒が多く,アメリカは多様な宗教とルーツをもつ人々の集まりになっていったわけです。やがて,カトリックであるアイルランド系の人々も1840年代のジャガイモ飢饉【東京H7[3],H19[1]指定語句「アイルランド」】【H29共通テスト試行】(大飢饉;アイルランド語でアン=ゴルタ=モー(An Gorta Mór);英語でThe Great Famine)をきっかけに拡大します。原因は,ジャガイモの伝染病(アメリカ起源のジャガイモ疫病)の流行です(注)。
(注)伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008,p.61。感染が爆発的に広まった一因として,収量の多い品種に偏って栽培されていたため遺伝的多様性が低かったことが挙げられています(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.158)。

 代わりに穀物(パン)をイギリスから輸入しようとしたのですが,1815年に地主【追H30産業資本家ではない】を保護するために【本試験H5自由貿易主義に則り輸入を促進するためのものではない】制定されていた穀物法【本試験H2時期(18世紀末の制定ではない),本試験H5】のせいで価格が高くなっており,手に入れることができなかったのです。その上,賃料が払われないとの理由で,地主から土地を奪われる者も多く,事態は余計に悪化。イギリス政府(保守党の〈ピール〉首相(任1834~35,1841~46))も,アイルランドに対して根本的な対策を講じようとはしませんでした。
 アイルランド人のうち20%(80万人から100万人)が餓死・病死し,200万人が島外に移住したとみられます。その子孫の一人が,ケネディ家です。パトリックは事業に成功して下院議員となり,その子〈ジョゼフ〉は〈フランクリン=ローズヴェルト〉に実業家として資金提供,そのまた息子は大統領にのぼり詰めます(〈ジョン=F=ケネディ〉(任1961~63))(『タイタニック』(1997米)には〈モネ〉(1840~1926)の絵を所有する主人公のジャックとローズが,二等船室のアイルランド人たちと踊り騒ぐシーンが出てきます。なお豪華客船タイタニックは1912年に沈没しました)。
 こうした,多くの移民を受け入れるとともに,民主化もすすんでいきます。〈ジャクソン大統領〉(任1829~37)は男子普通選挙を導入。ヨーロッパと比べると,驚くべき早さでの実現です。

◆4 アメリカ合衆国独自の文学,音楽,思想が発達した
「アメリカ」文化が成長する
 長い伝統を持たないアメリカ合衆国でも,しだいに独自の文化が生み出されるようになっていきます。
 音楽ではアイルランド移民系の〈フォスター〉(1826~64)が,アメリカ南部をテーマに黒人ゴスペル風のヒット曲「おおスザンナ」(1848)「スワニー河」(1851)などの親しみやすい歌を書きました。当時は,白人が顔を黒塗りにするミントレル=ショーという見世物が人気で,黒人の文化を取り入れて,新しい芸術をつくろうという動きがあったのです。
 また,文学では〈ホーソン〉(1804~64)は『緋文字』(ひもじ),〈ホイットマン〉(1819~92)の『草の葉』が作られました。〈ソロー〉(1817~62)は『森の生活』野中で,物質文明と距離を置き,自然と調和した暮らしの魅力を伝え,エコロジー思想や自然保護運動の先駆となりました。手付かずの大自然の残されていたアメリカならではの気づきでしょう。


◆5 経済制度・奴隷制をめぐる南北対立【共通一次 平1】が,南北戦争に発展した
南北戦争を経て,西部を含む国民統一に向かう
 さて,アメリカ合衆国の本格的な工業化は,南北戦争【東京H10[1]指定語句,H20[3]】【H30共通テスト試行 アテネの内戦ではない】【早法H30[5]論述(南部・北部の状況)】という内戦により,北部の白人(アメリカ大陸生まれの白人(クリオーリョ))が主導する形で達成されることになりました。
 南北戦争の背景には,北部と南部の政治・経済状況の違いがありました。
 北部の諸州は,産業革命【早法H30[5]指定語句】を達成したイギリスの技術を導入し,工業中心の経済となっていました。南部は18世紀末以降,綿花プランテーション【東京H20[1]指定語句】【追H9 19世紀前半の南部で綿花が主要な輸出品であったか問う】【本試験H27】【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「アメリカ合衆国」(インドではない)の「黒人奴隷を大農園で働かせる制度」(農奴ではない)であることを推論する】【上智法(法律)他H30】が経済の中心で,北部にとっては自由な労働者が,南部にとっては奴隷【本試験H14】【早法H30[5]指定語句「奴隷制」】が欠かせませんでした。
 北部の工場主たちは「奴隷を働かせるよりも,働きたい人を自由に募集して雇ったほうが,コストがかからない」と考えていましたし,南部が奴隷制をとっているせいで南部の黒人を労働力として使えないことに,不満をもっていたのです。また,イギリスに工業化で遅れをとっている北部にとっては輸入品に関税をかけたいところ(保護貿易) 【本試験H3・本試験H12南部は「保護貿易」を主張していない】【上智法(法律)他H30】。しかし南部にとっては,綿花のお得意様であるヨーロッパ諸国と自由な貿易関係を維持したいだけでなく,イギリス製の安くて質の良い鉄鋼や綿織物がほしい(自由貿易【東京H10[1]指定語句「自由貿易主義」】【本試験H3・本試験H12南部は「保護貿易」を主張していない】【本試験H14】【早法H30[5]指定語句】)。
 統一的な保護貿易を行うために,北部は連邦政府の力を強くする連邦主義【本試験H3】【早法H30[5]指定語句】をとりますが,南部はそれをきらって州の自治【上智法(法律)他H30】を大幅にみとめる州権主義【本試験H3】をとります。
 北部と南部の諸州には,ざっとみてもこれだけの対立点があり,北部は共和党【本試験H3】支持者,南部は民主党【本試験H3】支持が優勢となっていったのです。

 さて,アメリカ合衆国の西部では,人口が増え新しい州を設置する際に,その州で奴隷制を認める奴隷州【東京H25[1]指定語句】【上智法(法律)他H30】とする,認めない自由州とするかを決めることになっていました。
 だからこそ北部と南部の州は,競うように西部開拓をすすめていったのです。なぜそれが大問題になるのか?
 それはアメリカ合衆国の連邦政府のうち,上院は各州から2名ずつが均等に議員に選出されることになっていたからです。奴隷を認める奴隷州と,禁ずる自由州の数が同じなら,アメリカ合衆国としての意見は拮抗(きっこう)して結論が出ぬまま終わるわけですが,どちらかが増えてしまうと大問題なわけです(映画「それでも夜は明ける」(2013米英)には1841年にワシントンD.C.で誘拐され南部で売られた自由身分の黒人の実話を基にしています)。
 奴隷制度廃止運動も活発化し,南部から北部やカナダに奴隷を移送する組織「地下鉄道(地下鉄組織)」(Underground Railroad,本当に地下に道があったわけではありません)が奴隷の解放に寄与しました(これを支援した黒人女性〈ハリエット=タブマン〉(1820?~1913)は出エジプトの〈モーセ〉とも呼ばれ,2020年に黒人女性初のアメリカ合衆国紙幣(20USD)の顔となる見込みです)。1859年には白人の運動家〈ジョン=ブラウン〉(1800~1859)がヴァージニア州で反乱を起こし,同年に処刑されています。

 かくして,運命の時がやってきます。
 1860年の大統領選挙では民主党の候補が分裂した影響で,奴隷制に否定的な【本試験H12奴隷制擁護を唱えていない】共和党【本試験H9】から立候補した〈リンカン〉(任1861~65) 【本試験H9共和党か問う】【セA H30初代大統領ではない】が当選したのです。
 彼は,翌年3月の就任演説で「南部諸州に直接的にも間接的に干渉するつもりはない」と訴えました。しかしそのかいもなく,彼の当選に反対する南部11州【本試験H12カリフォルニア州は南部の側についていない(カリフォルニア州は自由州)】【追H18「北部諸州」ではない】【上智法(法律)他H30「南部諸州」】はアメリカから離脱して1861年,アメリカ連合国(南部連合(Confederate States of America)) 【上智法(法律)他H30】をリッチモンド【本試験H14北部の首都ではない】【上智法(法律)他H30】に建て,やり直し選挙の結果〈ジェファーソン=デイヴィス〉(任1861~65)が当選しました。
 〈リンカン〉は丸太小屋に生まれ,ほとんど正式の教育を受けることはありませんでした。イリノイ州で雑貨屋を経営したり,郵便局長をしたりしながら法律を学び,弁護士を開業した苦労人です。1856年に共和党に入って,1858年には上院議員選挙で落選をしましたが,民主党のダグラスとの討論会で有名となり,1860年の大統領戦争に当選しました。選挙キャンペーン中に,少女からの「ヒゲを生やした方がかっこいい」という手紙をきっかけにあごひげを蓄えるようになった逸話が有名です。
 奴隷制廃止運動の機運をつくりあげたといわれるベストセラー『アンクル=トムの小屋』(1851~52) 【本試験H8コモン=センスではない】【本試験H26】の著者,〈ストウ〉(1811~96) 【本試験H8コモン=センスではない,H12「ストウ夫人(ハリエット=ビーチャー=ストウ)が奴隷制廃止ロンギに大きな影響を与えた」か問う】【本試験H26ヘミングウェーではない】は,南北戦争中に〈リンカン〉のもとを訪れています。リンカンは歓迎して,社会を大きく動かした夫人をたたえたといいます。この本は南部のほとんどの州で禁書となっています(注)。
(注)亀井俊介『アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで』昭和堂,2006,p.100。

 北部の〈リンカン〉大統領は,1862年にはホームステッド法【東京H7[3]】【本試験H3】【本試験H18西部開拓が進展したかを問う・H23,本試験H26男子普通選挙とは関係ない】【上智法(法律)他H30】により,開拓した農民に無償で土地にを与えることを定め,西部の人々の北軍【上智法(法律)他H30】への支持を取り付けます。約800メートル四方(160エーカー)の土地を開拓し,そこに5年続けて住めば与えられるというもの。碁盤(ごばん)の目のように土地割りがされた名残が,今でもアメリカ合衆国の中西部に残されています(タウンシップ制といいます)(注)。
(注)なお,1861年にはカンザス,アイオワ,ネブラスカでジャガイモのち上部分を葉脈と茎を残して食べ尽くすコロラドハムシ(北アメリカ原産)という甲虫が猛威をふるっていました。1870年には中西部に広がり,のち大西洋岸に拡大します(1877年にドイツでも確認)。この駆除には,ヒ素と銅の化合物パリスグリーンが用いられましたが,この農薬自体も人体に有害であったことに加え,1912年以降は耐性を持つ昆虫も出現するようになります(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160)。


 さらに,イギリスが南部を支援する可能性が浮上したことから,〈リンカン〉【本試験H26ラ=ファイエットではない】は1863年には奴隷解放宣言【本試験H12南北戦争中にリンカンが出したか問う】【本試験H26,H29共通テスト試行 奴隷解放宣言の結果,南北戦争がはじまったわけではない、H30共通テスト試行 「国を二分した内戦の中」のアテネで出されていない】【上智法(法律)他H30大統領就任に際して発したわけではない】を発表し,南部の奴隷(黒人だけでなく混血の人々も含む)は解放されました。しかし,じつは北部にも奴隷州がありましたが,そこでは解放はされませんでした。〈リンカン〉も実際には奴隷解放論者ではなく,「奴隷制はいけない」という人道的な理由を持ち出すことで,イギリスやフランスが南部を支持しにくくするためのものだったと考えられます。もともとの理由は「保護貿易vs自由貿易」「奴隷制廃止vs賛成」という経済的な理由だったんですけどね。



◆6 戦後,北軍は南部を占領し制度を改革するが,撤退後は南部で黒人差別が再強化される
戦後も,黒人差別はなくならず
 1863年に〈リンカン〉大統領【追H29】がペンシルヴェニア州のゲティスバーグ(北軍が敗退した激戦地【本試験H14】)で行った戦死者を追悼する演説は,アメリカ国民に今なお語り継がれる名文句「Government of the people, by the people, for the people(人民の人民による人民のための政府) 【追H29リンカンによるものか,この演説が南北戦争中か問う】」を残しています。
 南北戦争での死者数は約62万人。
 第一次世界大戦のアメリカ人の死者は11.2万人。
 第二次世界大戦のアメリカ人の死者は32.2万人。
 なんと,二度の大戦を合計するよりも多くのアメリカ人が,亡くなっているのです。
 戦争は結果的に北部の勝利で終わり,アメリカ合衆国分裂の危機は回避されました。しかし,これだけ多くの国民が亡くなったからこそ,新しい国家はどうあるべきかを訴える必要性があったからこそ,〈リンカン〉は『戦うことにより,自由の精神をはぐくみ,自由の心情にささげられたこの国家(=アメリカ合衆国)が,あるいは,このようなあらゆる国家が,長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである』と訴え,『これらの戦死者の死を決して無駄にしないために,この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために,そして,人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために』(注),この土地を守り抜こうと訴えたのです。
 こうした使命感を抱く北部は,敗れた南部を1877年まで占領することになるのです。
(注)「ゲティスバーグ演説 (1863年)」,アメリカンセンターJAPAN https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2390/

 南部では黒人に対し「自由」を与える政策が実施されます。
 しかし,土地を獲得した黒人は少なく,獲得できたとしても小区画に分けられ,農機具・種子・肥料・住居・が貸し出されるものの,収穫の一定の割合を地主に納める【上智法(法律)他H30】分益小作人(シェア=クロッパー【上智法(法律)他H30】)として貧しい生活を強いられます【本試験H3「自立的な生活が営めるようになった」わけではない】。これをシェア=クロッピングといいます。プランター(地主)にとっては,かつての奴隷だった黒人を「労働者」として現物支給で雇うことができるし,黒人にとっては自分の住居に住んで自分の区画を耕せるということで,Win-Winのようですが,長い間奴隷身分であった黒人が身の回りのものを揃えるのには,どうしてもプランターから予定される収穫物をカタにして,利子つきのツケで商品を借りる必要がありました(注:クロップ=リーン制)。これでは実質的な独立は保障できません(注1)。
 負けた側の南部も,北部に対する反感はなくなったわけではなく,現在でもミシシッピ州やフロリダ州の旗を見ると,アメリカ連合国の旗のデザインが組み込まれていることからもわかります。


 〈リンカン〉大統領によって1863年に出されていた奴隷解放宣言によって,黒人(混血の人々も含む)は奴隷ではなくなりました。南部が北部に復帰する前の1865年には,憲法修正第13条が批准され,憲法においても奴隷制が廃止されました(このときまで北部には2州だけ奴隷制を認めていた州がありました) 【本試験H9共和党・民主党の議会討論を通じて廃止されたわけではない】。1868年には憲法修正第14条で市民権,1870年に第15条で選挙権も与えられています【本試験H12「南北戦争の結果,アメリカでは,黒人とともに女性も選挙権を獲得した」わけではない】。
 北部では戦後,黒人の状況を改善する施策も導入されましたが,1867年の州選挙のころから雲行きが怪しくなり,北部諸州で共和党に代わって民主党が大幅に進出するようになります。1868年の大統領選挙は,南部の黒人の「自由」をめぐる戦いとなり,テロ組織(クー=クラックス=クラン〔KKK〕)による選挙妨害も起こります。結果として北部の共和党候補〈グラント〉(任1869~)が圧勝しました(注2)。

 1883年に連邦最高裁が「各州には憲法修正第14条よりも強い権限がある」という判決を出して以降,南部の諸州は白人と黒人を分離する州法(いわゆるジム=クロウ法) 【上智法(法律)他H30】を制定していったため,バス,鉄道,学校,食堂などの公共交通・公共施設で黒人・白人を隔離したり,選挙権【上智法(法律)他H30被選挙権だけではない】・被選挙権が制限され,黒人差別はその後も根強く残りました【共通一次 平1「黒人への差別や迫害は根強く残った」か問う】。


(注)紀平英作『新版世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.203。
(注)紀平英作『新版世界各国史24 アメリカ史』山川出版社,1999年,p.202。


 こうして,南北戦争後のアメリカ合衆国では,南部と北部の白人どうしが和解をし,黒人を排除しつつ国内市場が統一されていきました。産業革命(工業化)が進展し,19世紀末にはイギリスやドイツを抜く世界最大の工業国となりました。
 自動車の発明【本試験H7年代を問う】で石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年に原油の機械掘りが始まり,”黒いゴールドラッシュ”の時代を迎えます。
 1867年にはアラスカをロシアから買収【本試験H29カナダが買収したのではない】【追H24】し,ロシア帝国による北部からの脅威はなくなりました。
 1869年に敷設された大陸横断鉄道【本試験H3,本試験H6年代(南北戦争後か問う)】【東京H7[3],H15[3]地図から1869年開業の路線を選ぶ】【追H9時期。ペリー日本来航,ハワイ併合との順序、H27「最初の大陸横断鉄道」の完成とともにフロンティアが消滅したのではない】【H30共通テスト試行 1860年代の西部で、「中国人移民のための労働力需要を支えた」か問う(パナマ運河ではない)】【上智法(法律)他H30※】は,東部の工業と西部の資源を結びつけ,アメリカ合衆国の経済的統一に大いに貢献しました【本試験H3】。それにともない,巨大企業(複数の企業が合わさったトラスト【本試験H5】や,連合したカルテル)も形成されていくこととなります。
 大陸横断鉄道にの建設には,中国から「輸出」された肉体労働者(苦力,クーリー【東京H25[1]指定語句「年季労働者(クーリー)」】)や,アイルランド人の移民【東京H25[1]指定語句「白人下層労働者」】が携わりました。
 すでに選挙権を獲得していた男子の労働者の間には,巨大企業の独占に反対する動きが起き,反トラスト法の制定につながっていきました。
※ニューオーリンズとロサンゼルスを結ぶ区間が開通したわけではない。東からアイルランド系移民(正しい),西からは中国系のクーリー(苦力)(正しい)が労働力となり,建設が進み,ユタ州プロモントリーで結ばれた(正しい)。


・1848年~1870年のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
東西の英仏住民対立を経て,カナダ自治領が成立
 1841年に西部のイギリス系住民主体のアッパー=カナダ〔上カナダ〕と,東部のフランス系住民主体のロワー=カナダ〔下カナダ〕が統合することで,連合カナダが成立していましたが,民族対立が悩みのタネでした。まず首府を,旧アッパー=カナダの西カナダに置くか,旧ロワー=カナダの東カナダにするのかをめぐっても紛糾。ケベック,トロントなどを転々とします。
 さらに,イギリス系,
 1848年にカナダ連合法が改定され,英語だけでなくフランス語も公用語として規定されました。同年には責任政府も成立しています。

 また,アメリカ合衆国との関係にも苦慮します。連合カナダの実業家の中には,アメリカ合衆国との自由な貿易を望む声もあり,1854年米加互恵通商条約が締結。
 その後,1857年にはブリティッシュ=コロンビアのフレイザー川の金鉱(前年に発見)でゴールド=ラッシュが起こり,1858年にはニュー=ファンドランドとイギリス間に初の大西洋海底ケーブルが完成しています
 1861年にアメリカ合衆国で南北戦争が勃発すると,「中立」の立場をとったイギリスに対する北部の敵視が強まり,連合カナダとアメリカ合衆国との関係は悪化。アメリカ合衆国の中には「カナダ併合論」も高まります。
 
 アメリカ合衆国の拡大の危機が高まる中,イギリスは植民地を守るために重い腰を上げ,連合カナダだけではなく沿岸のニューブランズウィック,プリンスエドワード島,ノヴァスコシアを含めた連邦結成が検討され始めます。
 しかし,ノヴァスコシア,ニューブランズウィック,プリンスエドワード島の3植民地は,従来ほとんどカナダとの結びつきがなく,アメリカ合衆国との関係のほうが緊密でした。しかし,1866年に米加互恵通商条約がアメリカ合衆国によって廃止されたことを受け,3植民地も連合カナダに接近。

 1865年にプリンスエドワード島で行われたシャーロットタウン会議で3植民地だけの同盟案を棚上げし,1866年のケベック会議でニューファンドランドを含む5植民地政府代表がケベック決議を採択。
 これは,イギリス系住民の多い西カナダをオンタリオ州,フランス系住民の多い東カナダをケベック州とし,この2州が中心となって,沿岸の3植民地や人口希薄地帯の西部を取り込む中央集権色の強いものでした。
 当然,沿岸3植民地ではケベック決議に反対。そこで,1865年に連邦推進派の〈マクドナルド〉(のちの初代首相)はイギリスに政治的圧力をかけるよう要請。本土から遠いプリンスエドワード島とニューファンドランドを除く,連合カナダ+ノヴァスコシア+ニューブランズウィックによる連邦結成が本格化。1867年に,イギリス領北アメリカ法(ブリティッシュ=ノース=アメリカ=アクト)が成立・発効しました。
 カナダ側は「カナダ王国」という国名を希望しましたが,イギリス外相は拒否。
 あくまで“植民地”としてカナダを死守したいイギリス政府は,「自治領」(ドミニオン)という語句を旧約聖書の『詩篇』からひねり出し,カナダ自治領【H30共通テスト試行 カナダは「イギリス連邦の成立まで、イギリスに従属する植民地であった」わけではない】と命名し,同年成立しました。
 カナダ連邦が成立したのと同年に,アメリカはロシアからアラスカを購入しています。

 つまり,北アメリカ北部の植民地をまとめ上げた「カナダ」は,第一に,連合カナダで既得権益を持つ指導者が,アメリカ合衆国からの圧力を受ける中で,独立を守ろうとして成立したものです。そして,第二には,イギリスがカナダを植民地として手放したくないがために成立させたという側面があります。
 当時の総人口350万人。そのうち,イギリス系は60%,フランス系はケベック州を中心に3分の1。先住民は3万人です。
 1868年にイギリス議会でルパーツランド法が制定され,1870年にはハドソン湾会社から購入したルパーツランド(ハドソン湾沿岸の広大な地域)と北西領が,ノースウェスト準州としてカナダ自治領に編入されます。
(参考)木村和男編『新版世界各国史23 カナダ史』山川出版社,1999,p.163~p.183。




○1848年~1870年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆19世紀中頃よりイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国の経済的な進出が進み,南アメリカはヨーロッパに農産物・鉱産物を輸出し製品を購入する市場になっていく
一次産品の輸出に依存する経済により南アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持する
中米は,ヨーロッパの原料供給地・市場となる
 多くの独立後のラテンアメリカ諸国では,一部の大地主などの有力者が強権的な支配体制を築きました。
 彼らは国内の天然資源をイギリスなどに輸出することで利益を得ており,自由主義を推進します。一握りの有力者が中米の政治の支配権を握っていくのです(自由主義寡頭制支配)。



・1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑪マルティニーク島
 フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションを続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立した第二共和政が,奴隷制を廃止するまで続きます。



・1848年~1870年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
◆独立したメキシコはアメリカ合衆国に領土を割譲され,インディオ出身の自由主義者が土地改革を行うが,フランスの介入を受ける
領土縮小したメキシコは,フランスの進出を受ける
◆メキシコは,米墨戦争でカリフォルニアなど広大な領土を失う
 メキシコは,1845年にテキサス【追H18米西戦争での獲得領土ではない】を失うと,アメリカ合衆国との戦争(アメリカ=メキシコ戦争,米墨戦争,1846~48) 【本試験H23時期】【追H18米西戦争とのひっかけ】【上智法(法律)他H30「メキシコとの戦争」】が勃発しました。
 テキサスは,すでにメキシコから分離・独立して「テキサス共和国」【上智法(法律)他H30】となっており,その政府がアメリカ合衆国に併合を要請【上智法(法律)他H30】したことで,アメリカが併合を宣言したという経緯があります。

 しかし,アメリカ合衆国に敗れ,カリフォルニア【本試験H22】【上智法(法律)他H30フロリダは含まれない】など領土の大半を失ったメキシコ【上智法(法律)他H30メキシコ政府は,1830年代にアメリカ系住民のテキサスへの移住を推奨していたわけではない】。



◆インディオの〈フアレス〉が大統領に就任するが,英・西・仏が干渉する
 インディオ出身の〈フアレス〉が大統領に就任し,1857年に憲法を制定しました。彼は自由主義的な考えを持ち,大土地所有者に財産が集中する状況を批判にします。当時の南アメリカで大土地を持っている代表格は,キリスト教の教会です。そこで1857年憲法では教会の財産にメスを入れ,土地改革を実施しました。
 しかし,これがもとで内紛が勃発し,そこへ1861年にイギリス・スペイン・フランスが介入。



◆1861~1867年 フランス干渉戦争(メキシコ出兵)
 1864年にはフランスがオーストリアのハプスブルク家出身の〈マクシミリアン〉を連れてきて,メキシコ帝国を建国します。当時のフランスは皇帝〈ナポレオン3世〉の時代。フランスの市場拡大をねらった行為でした。しかし住民の抵抗や国際的批判を受け,〈マクシミリアン〉は処刑され,1867年には共和制に戻っています(メキシコ出兵) 【追H9 19世紀末のメキシコは世界最大の石油の生産国であったわけではない】。
 この間,メキシコの大統領の座にとどまり続けたのは〈フアレス〉(任1858~1872)です。

〈フアレス〉政権が復活する
 フランス勢力を追い払った〈フアレス〉は,軍部の影響力を薄めるために軍縮を進めるとともに,メキシコの近代化をはかっていきます。


・1848年~1870年の  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
中央アメリカでは統一の動きは見られず
 中央アメリカは中央アメリカ連邦共和国(1824~39)が崩壊すると,グアテマラ,エルサルバドル,ニカラグア,ホンジュラス,コスタリカの間には抗争が続きます。
 そんな中,アメリカ合衆国の〈ウィリアム=ウォーカー〉(1824~60)は,中央アメリカの抗争に介入することで,国家を領有して利益を得ようと画策しました。保守派との争いが続いていたニカラグアの自由党は〈ウォーカー〉を傭兵として招き,間もなく大統領に就任して実権を掌握。ニカラグアに太平洋と大西洋を結ぶ運河を建設し,カリブ海の中心として発展させることを夢見ます。
 この〈ウォーカー〉(任1856~57)のニカラグアは,コスタリカを中心とする他の中央アメリカ諸国により崩壊しました。
 その後の中央アメリカにも統一の兆(きざ)しはなく,輸出用のプランテーションが発展していきました。

 グアテマラのお隣のベリーズにはイギリスが植民を進めており,1862年にはジャマイカ総督下にイギリス王冠植民地である英領ホンジュラスを樹立しています(その後,1884年に単独の植民地となります)。




○1848年~1870年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
スペイン領
 1804年に革命が起きて独立したハイチに代わり,世界最大のサトウキビ生産国となっていたスペイン植民地のキューバ。
 タバコ生産も盛んとなり,次第にスペインからの独立運動も活発化していきます。
 そんな中,1853年に〈ホセ=マルティ〉(1853~1895)が誕生。のちの独立運動家であり,作家です。
 1868年にスペインからの独立運動がはじまると,彼はすぐに身を投じ,翌年には投獄されています。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
イギリス領
 イギリスの植民地として多数の黒人奴隷が導入されていたジャマイカ。
 1807年に奴隷貿易が禁止,1833年に奴隷制が廃止されると,今度はインドやアフリカからの年季奉公人(期限付きの契約の労働者)がジャマイカに移動して来るようになります。

 一方,解放された黒人奴隷には依然として十分な参政権が与えられず,経済的自立からは程遠い状況でした。
 1868年には〈ポール=ボーグル〉(1822~1865)という聖職者が,黒人の参政権を求めて暴動を起こす事態に発展。総督は徹底的にこれを鎮圧しましたが,その内容をめぐって,イギリスでは議論もわき起こります。
 結局,しっかりとしたイギリス本国による支配を望むジャマイカの農場主の声が反映され,1866年にジャマイカはイギリスの直轄植民地となりました。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
イギリス領
 バハマはイギリスの植民地支配を受けていますが,アメリカ合衆国にほど近いこともあり,両国の間で交易を巡るトラブルも起きます(1840年のエルモッサ事件と1841年のクリオール事件)。
 アメリカでの南北戦争(1861~1865)中は,バハマは南軍の拠点として発展。
 しかし,バハマの社会は少数の白人,混血の人々と,大多数の黒人との間に大きな亀裂があり,統一に向けた支障となっていきます。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
独立
 1804年に独立を果たしていたイスパニョーラ島西半のハイチですが,複数の政権が樹立され混乱に陥っていました。
 このうち,〈ボワイエ〉(?~1850)が,スペイン系の大農園主によってイスパニョーラ島の東半に建国されていた政権(のちのドミニカ共和国)を倒して併合し,1822~1844年まで島を統一しました。

 この〈ボワイエ〉の独裁に対し,内外で抵抗する動き(1844年にドミニカ共和国がハイチから独立)も起きますが,この混乱を〈フォースタン〉が収拾し,1849年に自ら皇帝〈フォースタン1世〉に即位してハイチ帝国を建国。結局,1859年に倒れます。
 共和政に戻ったハイチは,産業も未熟でフランスへの賠償金支払いにも苦しみ,不安定な政治も続きました。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑤ドミニカ共和国
ハイチ領→スペイン領→独立
 イスパニョーラ島の東半には,西半のハイチによる支配が及んでいましたが,1844年に支配を脱し,1845年ドミニカ共和国として独立します。
 のちに保守派の大統領がスペインへの併合を求め,スペインによる植民地となりますが,独立戦争の結果1865年に再び独立を果たします。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
スペイン領
 スペインの植民地となっていたプエルトリコ島では,サトウキビのプランテーションは発達せず,黒人奴隷はあまり使用されませんでした。次第にスペインからの独立運動も起きるようになっていきます。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 小アンティル諸島の最北端,プエルトリコ島の東方に位置するヴァージン諸島。

デンマーク領
 そのうち西側に位置する現在のアメリカ領ヴァージン諸島は,当時はデンマーク領。黒人奴隷を導入したプランテーションが行われていました。

イギリス領
 東側に位置する,現在のイギリス領ヴァージン諸島でも,黒人奴隷を導入したプランテーションが行われています。

イギリス領
 その南に位置するのがアンギラ島。イギリスの植民地支配下に,南方のセントクリストファー=ネイビスによる管理下に置かれています。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
イギリス領
 セントクリストファー島とネイビス島は,イギリスの植民地支配下にあります。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
イギリス領
 アンティグア島はイギリスの植民地。バーブーダ島はイギリスの貴族(コドリントン家)の私領でしたが,のちイギリスに併合されます。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
イギリス領
 モンサラット〔モントセラト〕島は,イギリスの植民地。

フランス領
 グアドループ島は,フランスの植民地です。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
イギリス領
 現・ドミニカ国はイギリスの植民地です。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
フランス領
 マルティニーク島はフランスの植民地です。
 1848年の二月革命により成立した第二共和政では黒人奴隷の廃止が決められました。しかし,その後実施が延期されたことから,たまりかねた黒人奴隷による反乱が発生します。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
イギリス領
 セントルシアはイギリスの植民地です。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
イギリス領
 セントビンセントおよびグレナディーン諸島はイギリスの植民地です。
・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
イギリス領
 バルバドスはイギリス領です。
・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
イギリス領
 グレナダは,イギリス領です。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
イギリス領
 トリニダード島とトバゴ島は,ともにイギリス領です。

・1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
オランダ領
 ベネズエラの西部沖に浮かぶ島々。
 西のボネール島はオランダ領。黒人奴隷が導入され,塩の生産が行われていました。
 中央のキュラソー島もオランダ領。黒人奴隷が導入されています。
 東のアルバ島もオランダ領です。




○1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
ゴムとコーヒーに湧くブラジル
 ブラジルでは,〈ペドロ2世〉は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力していました。コーヒー産業が発展し,食肉,製糖,木綿工場なども設立されていきました。
 また,天然ゴムの栽培・出荷も右肩上がり。1856年から1896年にかけて輸出量は10倍に増え,アマゾン川加工のベレンは天然ゴムのおかげで金融センターに成長していきました(注)。
(注)ゴムによる繁栄は,1876年にイギリスの産業スパイが禁を破って天然ゴムを国外に持ち出すまで続きます。1897年には早速イギリスの植民地のセイロン島とマレーシアでも栽培が開始されます。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160。

 その労働力として導入された数百万人の移民はブラジルに“ヨーロッパの風”を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。

 一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。
 奴隷制を温存していた北アメリカのアメリカ合衆国でも,南北戦争(1861~65)中に1863年には奴隷解放宣言が〈リンカン〉大統領(位1861~65)によって発表されました。南北戦争が終わってみると,南北アメリカで奴隷制をやっているのはブラジルの他にキューバくらい。
 次第に奴隷制に対する反対運動も盛り上がっていきました。
 これにもっとも大きな影響を与えたのはフランスの実証主義者〈コント〉(1798~1857) 【追H25分類学(リンネ)ではない】です。
 〈コント〉は人類の社会が「秩序と進歩」に向かって段階的に発展していくはずだと信じ,経験に即して社会をバージョンアップしていこうと訴えました。
 現在のブラジル国旗のデザインをよくみると,〈コント〉の“合言葉”である「秩序と進歩」という言葉が記されているのがわかります。

 1850年以降,フランスのイエズス会によるアマゾニアの住民への布教活動が活発化しています。



・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
戦争に負け、現在の領域がほぼ確定する

 この時期、1864年には独裁者〈ロペス〉率いるパラグアイが軍事的に拡大しようとしたのに対して,アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジルが対抗しました(パラグアイでは「三国同盟戦争」といいます(注))。これに敗北したパラグアイの国境線は、ほぼ今日のものと同じものです。

(注)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.30。



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・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
パラグアイから領土を獲得する
 アルゼンチンは,ヨーロッパ文化が根付き,ヨーロッパへの畜産物の輸出によって経済を回そうとするブエノスアイレスの人々と,内陸のガウチョ(牧畜民)との間で,どのような形でスペインから独立するべきかをめぐり,方向性の対立が続いていましたが,1829年以降は連邦派の〈ロサス〉が強権的な支配を全土に及ぼしていました。
 〈ロサス〉はウルグアイとパラグアイへの軍事的な進出をめぐり,隣国のブラジルやイギリス・フランスと争います。しかし,1852年にブラジル・ウルグアイと手を組んだ反〈ロサス〉勢力が〈ロサス〉を破り,〈ロサス〉時代は終わりを告げました。
 1853年には自由主義者により憲法が制定され,これ以降のアルゼンチンでは「自由主義」を主導する政権によって近代化(西欧化)が進みます。そこで,まっさきに試みられたのは,アルゼンチンへのヨーロッパからの移民の奨励です。しかし,中央集権化を望むブエノスアイレスと,連邦主義を望む地方諸州とのギャップはなおも大きく,一時ブエノスアイレスはアルゼンチン連合から離脱してしまいました。しかし,1862年に両者が妥協する形で「アルゼンチン共和国」として国家統一が達成され,ヨーロッパ移民の受け入れ奨励がいよいよ本格化します。
 一方,自由貿易が進めば進むほど内陸の伝統的な産業は破壊されていき,次第にアルゼンチンは「畜産品や穀物のヨーロッパへの供給地」に成り下がり,「ヨーロッパ製品を買うだけの市場(マーケット)」としての地位に固定化されていきました。これが,アルゼンチンにおける工業化が遅れた原因です。
 また,南アメリカ内部の国家間の戦争も起き,1864年には独裁者〈ロペス〉率いるパラグアイが軍事的に拡大しようとしたのに対して,アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジルが対抗しました(パラグアイでは「三国同盟戦争」といいます(注))。

(注)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.30。




・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
◆ペルーではグアノの輸出経済が発展し,近代化が目指された
火薬と化学肥料の素になるグアノ輸出がブームに
 ペルーでは〈カスティーヤ〉(1797~1867,任1845~51,55~62)大統領の下で近代化と中央集権化が目指され,海軍を充実し南アメリカ初の鉄道も1851年に建設されました。

 1840年代以降,イギリスに向けてグアノという海鳥の糞に由来する肥料がさかんに輸出され,1860年代にはチリの国家歳入の75%を占めるに至ります(1840~80年をグアノ時代ともいいます)。このように,単一の品目のみに依存する国家の経済のことをモノカルチャー経済といいます。

 また,1860年代にペルー南部のアカタマ沙漠で火薬の原料となる硝石が発見され,こちらの輸出も盛んとなりました。
 これらの産業には中国人労働力も導入されました(注)。

(注)ペルーに向かった中国人出稼ぎ・移民の下層労働者(苦力;クーリー)の多くはは,リマの東200kmに位置するチンチャ諸島のグアノ採掘にあたりました(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154)。
 グアノの糞を出してくださる海鳥たちは,ペルー沖で豊富にとれるアンチョビー(カタクチイワシ)をエサに集まってきます。ペルーの沖合には寒流が赤道方面に向かって北に流れており(フンボルト海流),このときに深海付近の栄養たっぷりのプランクトンを海面付近にまでわき上げてくれるため,魚がたくさん集まるのです。深層から上昇する海水の流れのことを「湧昇流」(ゆうしょうりゅう)と呼びます。


・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ
◆自由主義的な専制政権が生まれ,保守派との抗争が起こった
 かつて〈シモン=ボリーバル〉(1783~1830)により統一された大コロンビア共和国は,1830年にベネズエラ,ヌエバ=グラナダ(現コロンビア),ベネズエラの3国に解体していました。いずれの国でも中央集権的な保守派と,自由貿易を推進する自由主義派との政治的対立が起きる中,天然資源の輸出に依存する少数の有力者による政権が台頭していくことになります。
 このうちカリブ海沿岸のベネズエラでは,専制政治をとった初代大統領に対抗し,1847年には〈モナガス〉将軍が大統領に就任(任1847~51)し,奴隷制を廃止し自由主義政策をとりました。自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続くことになります。
 パナマを含むコロンビアはヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。しかしヨーロッパの二月革命などの自由主義的な政治思想が伝わると,〈ロペス〉政権(任1849~53)が成立し,奴隷制の廃止やカトリック教会への対抗を含む自由主義的な政策がとられました。
 エクアドルでは,専制政治をとっていた〈フローレス〉政権に対する革命が起き,保守派への揺れ戻しが起きました。その後,自由主義派との内紛だけでなく周辺国との国境紛争も起き,エクアドルは内外ともに混乱。しかし次第にカカオの輸出産業が栄えると,グァヤキルを拠点とする集団が台頭しました。それに対し再び保守派への揺れ戻し(1861~65,67~75)が起き,カトリック教会が強力に保護される時代が続き,自由主義派は押さえ込まれました。

・1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
 ギアナ高地の北部に位置し,カリブ海に面するギアナ地方。

イギリス領のガイアナ
 西に位置する現・ガイアナはイギリス領。サトウキビのプランテーションの労働力として,インド人の年季奉公人が導入されました。現在もインド人の比率が高くなっている原因です。
 主都はジョージタウン。〈ジョージ3世〉からとられています。

オランダ領のスリナム
 中央の現・スリナムはオランダ領。プランテーションの労働力として,インド人やインドネシア人(同じくオランダ領)の年季奉公人が導入されました。

フランス領のギアナ
 東にはフランス領ギアナがあります。1850年代末に金鉱がみつかり,人口が急増していきます。





●1848年~1870年のオセアニア
○1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
◆太平洋の島々にイギリス,フランス,アメリカが捕鯨の基地・グアノ採掘を求めて進出する
欧米は,ポリネシアにクジラとグアノを求める
 工業化・都市化がすすむにつれ,増えゆく人口を支えるための食糧が自国だけではまかないきれなくなった,欧米の先進工業国。
 そこで目を付けたのが,化学肥料の原料となる硝石の素(海鳥の糞(グアノ))。これで生産性をアップさせ,収穫量の限界を突破することに成功(注1)。
 グアノからは火薬の原料も抽出できるから,一石二鳥です。

 グアノを重視したアメリカ合衆国は1856年にグアノ島法を制定。アメリカ国民がグアノのある島に到達したらアメリカが領有できることとなり,1903年までに66の島と環礁が領有されました。しかし,多くは放棄され,うち9島がアメリカ領となりました(注2)。
(注1)人口の増加の勢いに,食糧増産の勢いは追いつけないので,人口は必ずどこかで行き詰まるとする「マルサスの罠(わな)」の考えが破られたわけです。これ以前の農業は,地面を一生懸命ガリガリ耕して,丹念に植物を育てる営み。それが化学肥料の登場により,種をどさっとまいて,そこに「栄養分を畑にどさっとまく行為」が,新しい時代の農業になっていきます(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154)。
(注2)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.154。

・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
フランスの支配圏が拡大する
 ①イースター島(ラパ=ヌイ島)ではペルー人による島民の奴隷狩りが深刻化しています。
 ②イギリス領ピトケアン諸島は1829年にイギリス領と宣言。島民は1789年のイギリス船バウンティ号の反乱を起こした船員の子孫です。
 ②フランス領ポリネシアは,すでにマルキーズ諸島(1842)がフランスに領有され,1858年にはトゥアモトゥ諸島もフランス領となります。

 タヒチ島は1843~1847年のタヒチ=フランス戦争の結果,フランスの保護国となっています。
イギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはなかったフランス。その背景には,1848年には二月革命が起きて,七月王政が倒れるという国内情勢もありました。
 


・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島,④ニウエ
 ③クック諸島には1858年にラロトンガ王国が成立しています。④ニウエは現地の首長により統治されています。

・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
NZは独立した英植民地になるが,マオリの抵抗も
 ニュージーランドは1840年のワイタンギ条約によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されていました。ニュージーランド会社は1858年には解散。広大な土地は移住者の手に渡り,自作農が増加。階級社会が支配的なイギリスと違い,ニュージーランドには比較的平等な白人により構成される社会が発展していくことになります。

 ニュージーランドには,当初は北島・南島とスチュアート島の3つの州がありました。しかしスチュアート島は北島に編入され,1852年には州は6箇所に分かれることになり,各州の大幅な自治が認められることとなりました(この地方分権的な制度は1876年まで続きます)。
 各州の上には全体議会がもうけられましたが,マオリの議席は1867年までは0でした(1867年に4議席が割り当てられるにとどまります)。最初の全体議会は1854年に開催されています。

 その間,マオリはヨーロッパから持ち込まれた感染症により人口が激減し【セ試行 絶滅していない】,1840年に8万人と推定される人口は,1891年には4万2000人にまで落ち込みます。また,ワイタンギ条約では「マオリが売りたいといったときのみ土地を購入でき,国王に先に購入する権利がある」という内容が規定されていたにもかかわらず,彼らの土地はたくみに買い占められ,イギリス人の手にわたることになっていきました。それと同時に,マオリらは自らの土地を守る運動を開始。1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉がマオリの王に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます

また1865年には「先住民土地法」が制定され,土地がマオリの個人所有ということになり,国王の土地先買権が廃止されました(先住民土地法廷も設置)。共同体による所有から個人所有に切り替えさせることによって,マオリの土地を購入しやすくしたのです。

 この時期には,オーストラリアから牧羊も導入され,1850年代に50万頭であった羊は,1870年には300万頭に膨れ上がります。羊毛生産のほか林業も盛んで,金鉱も1840年代に発見されています(最盛期は1866年頃)。金鉱の労働者として流れ込んだのは中国人でした。
(参考)山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.178~190
・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
イギリス人の支援で,トンガが統一され王国に
 現⑥トンガ諸島では国王による統一が,ヨーロッパからの商人・宣教師の来航の影響で混乱に向かいます。キリスト教のメソジスト派と結んだ〈タウファアフ=トゥポウ〉(1845~1893)は,イギリス人から武器の供給を受けて全トンガを1852年に武力を用いて統一します。

・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 現⑦サモアには捕鯨(ほげい)の基地としてアメリカ合衆国,ドイツ,イギリスが進出しています。

・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 現⑧トケラウは18世紀後半にイギリスによってすでに発見されていました。

・1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 現⑨ツバルはサンゴ礁島で資源に乏しく “うま味”に欠けるため,本格的な欧米勢力の進出は遅れます。
○1848年~1870年のオセアニア  オーストラリア
オーストラリアでゴールド=ラッシュが起き人口急増
【追H27 19世紀のオーストラリアから、イギリスが羊毛を輸入していたか問う(正しい)】
 オーストラリアでは,イギリスによるニューサウスウェールズ(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が設立され,鉄道も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり,ゴールドラッシュが起きました(オーストラリアのゴールドラッシュ【追H29】)。移民の流入【追H29】により人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
 1863年にはタスマニア島【本試験H26ドイツ領ではない】で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。


○1848年~1870年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
ニューカレドニアはフランス領になる
 ②ニューカレドニア(ヌーヴェルカレドニ島)は,白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地として注目され,1853年にフランス領となっています。
 しかし先住民族はヨーロッパ人の持ち込んだ感染症にかかって人口を減らし,抵抗も起きるようになりました。のちには,住民が奴隷として連れ去られ,フィジーやオーストラリア北部のプランテーションに従事させられる「ブラックバーディング」という奴隷交易も横行します(南太平洋の奴隷交易)(注)。
(注)Ben Doherty, 'Full truth': descendants of Australia's ‘blackbirded’ islanders want pioneer, The Guardian, Aug 24, 2017(https://www.theguardian.com/australia-news/2017/aug/24/full-truth-needs-to-be-told-descendants-of-blackbirded-south-sea-islanders-want-memorials-amended)

・1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 バヌアツのあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスとの間の争奪の的となっています。

・1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 ソロモン諸島にはイギリスが進出をすすめています。

・1848年~1870年のオセアニア メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 パプアニューギニアの東半の南部にはイギリスが進出をすすめています。

 パプアニューギニアの東半の北部にはドイツが進出をすすめています。
 パプアニューギニアの西半には,オランダが進出をすすめています。
 住民たちにとっては,いきなり来たヨーロッパ人に対し「???」という状況でしょう。


○1848年~1870年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム





●1848年~1870年の中央ユーラシア
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割が本格化

中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
◆ロシアの東進・南下とそれに対するイギリスとの抗争の舞台となり,抵抗運動としてパン=イスラーム主義が広まる
 蒸気船(1807年発明)の発達により,交易ルートとしての中央ユーラシアの重要性はますます薄れていきました。ユーラシア大陸東端に港湾拠点を建設したいロシアは東方進出をすすめ,それに対して海上覇権を握るイギリスが対抗する,いわゆる「グレート=ゲーム」が本格化していきました。
 相次ぐヨーロッパ列強との戦争により疲弊した清は,新疆やコーカンドの商人に対する課税を強化したため,イスラーム教徒(回民と呼ばれました)による反乱が起こるようになっていきます。 
 1862年には,大規模な回民反乱がタリム盆地のクチャやヤルカンドを拠点として起こり,1864年には新疆全土に広がりました。反乱の指導者は,現地に浸透していたスーフィー(イスラーム教の神秘主義教団)が中心で,清へのジハードと,住民へのイスラーム法の遵守を首長しました。

・1848年~1870年の中央ユーラシア  現①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
◆イギリスへの対抗,綿花を求める産業界の要請から1860~70年代にトルキスタン進出が進む
トルキスタンへのロシアの南下が進む
 同時にロシアも,1853年〜56年のクリミア戦争が終わると,カザフ草原からトルキスタンに向けての進出を加速していきます。この進出の背景には,綿花を求める産業界の要請もありました(注1)。
 ロシア【本試験H18清ではない】は1865年にはタシュケントを占領して,トルキスタン総督府を設置し軍政を開始。1868年にはサマルカンドを占領してブハラ=ハーン国を保護国化【本試験H15・H18】しました。
 この混乱の中,タリム盆地西部の反乱軍は,コーカンドのハーン国に応援を頼むと,軍人〈ヤークーブ=ベグ〉が1865年にカシュガルに派遣されました。彼は次々に反乱勢力を鎮圧し,1870年に天山山脈以南のタリム盆地を征服しています。


◆ロシアとイギリスの勢力争いの真っ只中で,イギリスの援助を取り付けたウイグルが自立する
〈ヤークーブ=ベク〉がタリム盆地から一時,清を駆逐
 清はタリム盆地と,天山山脈の北方のジュンガル盆地を「新疆」(しんきょう)として支配していました。支配階層の中には辮髪(べんぱつ)を結うことで,清への忠誠心を示す者もいましたが,19世紀前半には清に対する反乱も起きていました(⇒1815~1848の中央ユーラシア)。

 1864年の反乱では,ついに〈ヤークーブ=ベク〉(1820~1877)の指導の下,ウイグル人が清の支配を駆逐することに成功します。
 カシュガルの〈ヤークーブ=ベク〉政権の支配エリアは,タリム盆地の広範囲に及び,タリム盆地南西のホタン,ヤルカンド,西部のカシュガル,北西部のアクスー,クチャ,北東部のコルラ,さらにタリム盆地の北東のトルファン盆地(天山北路の通り道)のトゥルファンを含みます。

(注1) 『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,p.B-709。現在でもウズベキスタンやタジキスタンが綿花の生産上位国となっています。過剰な生産を求めアラル海から取水する灌漑をすすめたことが,のちのアラル海の面積減少につながっていきます(1959年に利用開始したカラクーム運河)。

・1848年~1870年の中央ユーラシア  現⑦中華人民共和国のチベット,⑧モンゴル
 モンゴルは清の支配下にあり,外藩蒙古,八旗蒙古,内属蒙古に分けられて統治されています。





●1848年~1870年のアジア
○1848年~1870年のアジア  東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○1848年~1870年のアジア  東北アジア
◆ロシア連邦が沿海州に南下し,太平洋進出のための海軍基地を建設する
ロシアはウラジヴォストークを建設,太平洋へ進出。
 ロシアは清がアロー戦争(1856~1860)に忙殺されているタイミングをねらい,1860年に北京条約【早法H30[5]指定語句】を締結して清から沿海州【東京H26[1]指定語句】を獲得します。ここに建設されたウラジヴォストーク【追H28 金(きん)がひらいた港ではない】は,ロシアの太平洋進出の足がかりとなっていきます。このことは,日本にとって安全保障上の喫緊の脅威と認識されました。

◆ロシアは北アメリカのアラスカをアメリカ合衆国に売却した
ロシアは沿海州~ベーリング海まで支配下に置く
 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営むツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人も支配下に入っています。
 ベーリング海対岸のアラスカは1867年にアメリカ合衆国に売却したため,ロシアとアメリカ合衆国との境界線は今日にいたるまで,ベーリング海の西側に確定することになりました。



○1848年~1870年のアジア  東アジア
・1848年~1870年のアジア  東アジア 現①日本
 1848年に北アメリカのカリフォルニアで金鉱が発見されるや(ゴールドラッシュ)(#日本 〈ジョン萬次郎〉については⇒1848~1870の北アメリカ アメリカ合衆国を参照),またたく間にフロンティア【本試験H3】【共通一次 平1】が太平洋に到達しました。これを「フロンティアが消滅した」【本試験H3】【追H24時期は20世紀前半ではない】と表現します。
 アメリカ合衆国は中国との貿易中継地や捕鯨(ほげい。元乗組員〈メルヴィル〉(1819~91)の小説『白鯨』(1851)が有名です)基地として日本を重視し,1853年にアメリカ東インド艦隊の司令長官〈ペリー〉【追H9時期。大陸横断鉄道開通,ハワイ併合との順序】に〈フィルモア〉大統領の国書を持たせて派遣し,老中〈阿部正弘〉はこれを仕方なく受け取りました。1854年に再来日した〈ペリー〉は,日米和親条約を締結【本試験H13時期(19せいき 後半)・フランスとの条約ではない】。ここでは,通商は許可されませんでしたが,下田・函館の開港,漂流民救助,下田に領事を置くこと,片務的最恵国待遇(ほかの国ともっといい条件で条約を結んだら,自動的にアメリカ合衆国にも同じ内容を適用)などを定めました。
 こうして,日本の「鎖国」体制は幕を閉じたのです。
 同じ年には,イギリスと日英和親条約,ロシアの使節〈プチャーチン〉と日露和親条約,オランダとは日蘭和親条約が締結されました。
 イギリスが日本に接近しなかったのは,すでに1840~42年のアヘン戦争で中国を得ていたからでしょう。〈ペリー〉が日本に来航した際には,イギリスはロシアとのクリミア戦争(1853~56)に力を割いていました。しかし,極東で敵国ロシアと戦うためには,日本との補給も必要になると考え,英国東インド中国艦隊司令〈スターリング〉(1791~1865)が締結しました。イギリスに対しては,函館と長崎が開港されました。
 さらにアメリカ合衆国は1858年に日米修好通商条約案として,神奈川(実際には横浜1859開港後に下田を閉鎖)・長崎(1859)・新潟(1860)・兵庫(実際には神戸1863)・江戸(1862)・大阪(1863)などの開港場の新たな設定と,完全な自由貿易,アメリカ人の居留地を置くこと,治外法権(日本で罪を犯したアメリカ人を日本人が裁くことができない),協定関税(日本が自分で関税を決めることができない)などを要求しました。
 困った幕府の老中首座〈堀田正睦〉は,〈天皇〉に許しを得ようと相談しましたが,天皇はこの条約を拒否。相手方の事情をよく知る将軍家は「これではまずい」と感じ,譜代大名筆頭の彦根藩主〈井伊直弼〉を大老に就任させ,交渉に当たらせました。アメリカ合衆国は,「イギリスとフランスが来る前に,アメリカと条約を結んでおいたほうがよい」と説き,結局〈天皇〉のゆるし(勅許)のないままに条約が承認されました。その直後,イギリス,ロシア,オランダ,フランスの艦隊がやって来て,同じ内容の条約を締結することになったのです(安政の五カ国条約)。〈井伊直弼〉は勅許なしの承認を批判する勢力を粛清し,安政の大獄を実施しました。
 1860年には〈勝海舟(かつかいしゅう)〉艦長がオランダ製の咸(かん)臨丸(りんまる)に乗って,アメリカ合衆国のポーハタン号とともに日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカ合衆国に旅立っています。この咸臨丸には,近代化による日本の自立の必要性を説いた〈福沢(ふくざわ)諭(ゆ)吉(きち)〉(1835~1901)も同乗しています。

◆アメリカの進出は一旦小康状態となるが,条約勅許問題は地方下級武士による倒幕に発展する
南北戦争で米の進出は止まり,日本は倒幕運動へ
 アメリカ合衆国で1861に南北戦争(1861~1865)が勃発すると,アメリカ合衆国の日本への積極進出は一時的にやみます。戦後も西部と南部の開発が優先され,海運業は衰退。1869年のスエズ運河の開通にともない,ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はイギリスに軍配が上がることとなります(アメリカはフロンティアの「消滅」する1890年代以降,起死回生を図っていきます)。

 欧米諸国との条約の締結に対して盛り上がっていったのは,武士階級による攘夷(じょうい)運動です。
 1860年には〈井伊直弼〉(いいなおすけ)が桜田門外の変で暗殺されると,跡を継いだ〈安藤信正〉は,〈孝明天皇〉の妹〈和宮〉を将軍〈徳川家茂〉と結婚させて,失墜した幕府の権威を公家の力によって盛り返そうとしました。
 しかし,ロシア海軍が対馬を占拠し,1862年に坂下門外の変で〈安藤〉は負傷。そんな中,薩摩藩主の実父〈島津久光〉は勅命を受けて,〈一橋慶喜〉を将軍の後見職につけ,朝廷と提携する形で文久の改革を行いました。
 また〈吉田松陰〉の門下である長州藩の〈久坂玄瑞〉と〈高杉晋作〉らは,武力により外国船を打払うことで,日本の軍事力を西洋化するべきと主張します。彼らは民衆だけでなく朝廷の支持を受け,1862年に朝廷の圧力によって幕府は〈孝明天皇〉に攘夷を約束します。

 長州藩はこの日以降,下関海峡を通行する外国船への砲撃を始めました。しかし,将軍と天皇を頂点とする公武合体をつくりあげたかった〈孝明天皇〉は,1863年に会津藩と薩摩藩の軍事力によって,攘夷派の長州藩とそれに協力する公家を京都から追放(八月十八日の政変)。
 これに対し,イギリスは,1862年のブリテン島・アイルランド人殺傷事件(生麦事件)を口実に薩摩藩を報復砲撃(薩英戦争)します。また,1864年には長州藩に対して,イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国連合艦隊が下関の砲台を全て破壊しました(四国連合艦隊下関砲撃事件)。
 これにより「攘夷なんて不可能だ」と身にしみて実感した両藩は,これ以降互いに接近を開始します。

 1865年には,イギリス・フランス・オランダの三国艦隊(アメリカの代表も参加していた)が大阪湾に進入し,攘夷派の長州藩を攻めに大坂に来ていた〈徳川家茂〉に対して,「天皇に条約を勅許(ちょっきょ)させろ」と要求。勅許というのは,天皇が許可を出すことです。
 この一連の動きを見て,ようやく〈孝明天皇〉は条約を勅許し,1866年に改(かい)税(ぜい)約書(やくしょ)により外国商品の輸入関税立は5%という定率に設定されました。
 こうして,日本は植民地化こそまぬがれたものの,不公平な形で,欧米の主導する資本主義システムに組み込まれることになったわけです。これを受け,欧米諸国に対し一刻も早くフェアトレードを求めるため,ヨーロッパに認められる形に国家を近代的に整備し,外交交渉をすすめて行く道を選ぶべきだと考える勢力が台頭していくことになります。

 1866年1月に京都で薩長(さっちょう)同盟(どうめい)が結ばれ,薩摩藩の〈西郷(さいごう)隆盛(たかもり)〉,長州藩の〈木戸(きど)孝(たか)允(よし)〉が両藩の代表者となりました。同年7月に〈徳川家(とくがわいえ)茂(もち)〉が大阪城で病死し〈徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)〉が後を継ぎ,天皇家でも12月に〈孝明天皇〉が死去して〈明治天皇〉が後を継ぎました。
 〈徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)〉は当初は幕府勢力を温存させようという思惑から1867年10月に京都の二条(にじょう)城(じょう)を舞台に大政(たいせい)奉還(ほうかん)を実行しましたが,「それでは強力な国家は建設できない」とみた倒幕(とうばく)派は,12月に〈岩倉(いわくら)具(とも)視(み)〉ら倒幕勢力がうごいて王政(おうせい)復古(ふっこ)のクーデタを敢行し,江戸幕府を滅ぼしました。
 それを認めない幕府軍と,新政府軍とあいだに内戦(戊辰(ぼしん)戦争(せんそう))が起こりますが,1869年の箱館(はこだて)戦争で幕を閉じ,維新(いしん)政府による新国家の建設が始まりました。この政治変動をまとめて明治(めいじ)維新(いしん)(御一新)といいます。

・1848年~1870年のアジア  東アジア 現③中国
◆アロー戦争の敗北により,列強と新たな不平等条約が結ばれた
 イギリスは一連の条約によって貿易高が上がると思っていたのですが,実際にはそうでもなかったため,条約の改定を虎視眈々と狙っていました。そんなとき,アロー号事件【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】が起きました。広州で,怪しい船が発見され,ただちに清の官憲がチェックをおこなったところ,乗組員は「イギリス船籍」を名乗ります。しかし,確認が取れなかったため,中国人の船員12名を拘束し,うち3人を海賊の容疑で逮捕しました。
 当時,広州に派遣されていたイギリスの領事は〈パークス〉(1828~85)です。彼は4歳で母を,5歳で父を亡くし,姉を頼って13歳で清のマカオに渡り,中国語を学びなが外交官のもとで働く道を選んだ苦労人。アヘン戦争の調印にも立ち会い,若干15歳でイギリス領事館で働くようになったのが1843年のことです。
 〈パークス〉はアロー号事件のさいに,清の官憲によってイギリス国旗が引きずり下ろされたことに注目し,「これはイギリスに対する侮辱である」と厳重抗議しました。実際には,アロー号のイギリス船籍としての有効期限は事件当時には切れていたので,法的な問題点はなかったとみられます。

 本国の議会で開戦案が否決されると,〈パーマストン〉首相は議会を解散。新たに招集された議会の承認を得るだけでなく,当時海外進出に積極的であった〈ナポレオン3世〉のフランス【追H21ポルトガルではない】を誘い込みます。
 こうして起きたのが第二次アヘン戦争ともいわれるアロー戦争【本試験H2参戦国を問う,本試験H10アロー戦争を契機に太平天国との戦争を始めたわけではない,本試験H12時期(1880年代かを問う)】です。
 ちなみにフランス【本試験H3】の参戦の口実は,広西省におけるフランス人宣教師殺害事件【本試験H3】でした。

 英仏連合軍の攻撃により広州が占領され,1858年には一旦天津条約【本試験H3】【追H30上海など5港の開港は認めていない】【京都H19[2]条約締結地「天津」を答える】【明文H30記】が結ばれることになりましたが,批准書の交換の寸前に清軍が外交使節を砲撃したことで,戦争が再開。結果的に清が破れ,1860年に北京条約が結ばれました【セ試行 アヘン戦争の講和条約ではない】【本試験H3南京条約ではない,本試験H10太平天国との間に結ばれたわけではない,本試験H12キリスト教布教の自由を認めたか問う】【本試験H29時期】。
 北京条約の内容は,以下のような項目です。
・アヘン貿易の公認
・ヨーロッパ諸国の主権国家体制であった外国公使を外国に駐在させるという仕組みの導入(北京に駐在) 【セ試行 】
・キリスト教布教の自由(布教の名目で内地まで旅行できるようになります) 【京都H19[2]「内地旅行」を答える】【本試験H12キリスト教布教の自由を認めたわけではない】【本試験H21認めたのはネルチンスク条約ではない】【明文H30問題文】
・開港場の追加(沿岸の天津だけでなく
・南京などの長江沿岸の内陸の河港(かわみなと)にも拡大)

 また,イギリスは香港北部の九龍(きゅうりゅう,クーロン)半島南部【立教文H28記】を割譲してもらい,香港植民地を拡大します。また,従来のような朝貢【京都H19[2]】による外交関係を見直し,ヨーロッパ諸国と対等に外交をするための役所として,総理各国事務衙門(総理衙門(じむがもん))が設立されました【京都H19[2]】【東京H20[1]指定語句】【本試験H24】(皇帝の謁見儀礼についても、従来の「三跪九叩頭の礼」をあらため、1873年には「鞠躬五回」となります(注))。

 アロー戦争のどさくさに紛れて,ロシアも極東に南下しています。〈ニコライ1世〉が設置したシベリア総督に就いていた〈ムラヴィヨフ〉(1845~1900) 【本試験H24世紀を問う】は,まず,1858年にアイグン条約【本試験H3北京条約とのひっかけ】【本試験H29明代ではない】を締結し,アムール川【本試験H18】以北の領土を獲得し,念願のアムール川河口にまで進出することに成功。さらに,日本海に面する沿海州【東京H26[1]指定語句】は,中国との共同管理地に設定しました。 さらに,1860年の北京条約【本試験H3アイグン条約ではない】ではその沿海州【本試験H3アムール川以北の地ではない】も獲得しました【本試験H15地図(沿海州の位置を問う),本試験H17内容を問う】。

 沿海州を獲得したということは,次は朝鮮半島や日本への進出にリーチをかけたということになります。沿海州から北海道まで,最短ルートで300kmです。もし朝鮮半島の南部の釜山まで南下をしたとしたら,直線距離で対馬まで約65kmです。英仏間のドーバー海峡の30kmの2倍ではありますが,日本にとっては安全保障上,きわめて問題です,しかも当時の日本は近代国家の建設途中。ムラヴィヨフは沿海州の南端に、ロシア語で「東方を征服する」という意味のウラジヴォストーク(ヴラディ=ヴォストーク) 【本試験H14時期(19世紀)】という軍港を建設しました。イスタンブールの金角湾によく似て,奥まで細く陥入した入り江があることから,天然の良港であり,冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)でもあります。今後のロシアの極東進出の拠点となりました。

 アヘン戦争の後,中国の民衆の生活は悲惨で,各地で捻軍(ねんぐん)などの集団による農民反乱が起きました。その動きとも連動しながら,〈洪秀全〉【追H20】の立ち上げた上帝会(拝上帝会) 【本試験H12「白蓮教から派生した宗教結社」ではない】というキリスト教【本試験H12白蓮教ではない】的な宗教結社による反乱が起きました。スローガンは「滅満興漢」(めつまんこうかん)【本試験H10義和団事件のスローガン「扶清滅洋」とのひっかけ】をスローガンに掲げ,満洲人の支配に抵抗します【追H20キリスト教などの西洋的な建物・文化を破壊する仇教運動ではない】。
 広西省金田村(きんでんそん)ではじまった蜂起はまたたく間に広まり,南京を占領し,太平天国【本試験H3東学党,義和団,白蓮教徒ではない】の首都天京(てんけい) 【京都H19[2]現在の地名「南京」を答える】【本試験H9拠点は成都ではない】【セA H30華北ではない】と名付けました。

 理想社会の実現のため,女真(女直)人の風習をとりやめ(辮髪を廃止したため“長髪賊” 【本試験H3】と呼ばれました) 【本試験H11「長髪の禁止」をしたわけではない】,女性の足の発育をさまだげ自由を奪う纏足(てんそく)を禁止【本試験H11】,当時はびこっていたアヘンの禁止,さらに天朝田畝制度(てんちょうでんぽせいど。(男女区別なく,年齢に応じた平等な土地の分配【本試験H11「土地の均分」がされたか問う】を主張しましたが未実施に終わります)などが掲げられました。男女平等【本試験H11】も掲げられましたが,指導者は男性ばかりでした。

 あまりに大規模なスケールとなった太平天国の乱(たいへいてんごくのらん、1851~62) 【本試験H3,本試験H9】【H29共通テスト試行 年代(グラフ問題)】【追H21地図(進出の経路を問う)、H25】を清の正規軍(緑営(りょくえい),八旗(はっき))は鎮圧することができず,地方の郷紳による義勇軍である郷勇【追H25】が活躍しました。

 有名なものは,以下の2つ。
・湖南省の〈曾国藩〉(そうこくはん,1811~72) 【本試験H6】【H27京都[2]】 【明文H30記】による湘軍(しょうぐん)
・安徽省の〈李鴻章〉(りこうしょう,1823~1901) 【本試験H8扶清滅洋を掲げていない】【東京H29[3]】 による淮軍(わいぐん)です。

 「清にはもはや太平天国を鎮圧する余裕などない」。

 そう感じた列強は,租借地の上海での自国民の安全をはかるため,アメリカの〈ウォード〉(1831~62)が西洋式軍隊である常勝軍【本試験H10外国人が指揮するか問う】【本試験H19インド大反乱とは関係ない,H30】を結成し,太平天国と戦います。
 兵士は中国人傭兵が主体で,常勝軍はEver Victorious Armyの漢訳です。上海防衛戦を戦いましたが1862年に〈ウォード〉は戦死しています。このとき中国にいた長州藩士の〈高杉晋作〉は,西洋の軍事力を目の当たりにし,のちに奇兵隊を結成することになります。
 〈ウォード〉の戦死後はイギリスの〈ゴードン〉(1833~85) 【本試験H30】が指揮しましたが,彼はのちにスーダンのマフディー派【本試験H5】との戦いで殉死しています。
 太平天国は指導者内部の争いもあり,鎮圧されましたが,清における政治的な混乱は長期化します。

(注) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.266。




◆漢人官僚が西洋の技術を導入する洋務運動を起こしたが,政治制度の近代化は遅れた
洋務運動は本格的な近代化に至らなかった
 アヘン戦争のさなか,公羊学(くようがく)者の〈魏源〉(ぎげん,1794~1856)は『海国図志』(1843年初版)をあらわし,いかに中国の技術がヨーロッパに立ち遅れているかを訴えました。
 彼は,アヘン戦争開戦のきっかけとなったアヘン没収・廃棄を支持した欽差大臣〈林則徐〉(りんそくじょ,1785~1850)の友人で,〈林則徐〉は〈魏源〉に外国情報に関する資料を提供したこともあります。魏源は「西洋人の進んだ技術を用いて,西洋人を制するのだ」と訴え,女真(女直)人支配に焦りを感じる漢人官僚たちに改革の必要性を感じさせました。

 漢人官僚というのは太平天国の乱を鎮圧して台頭した【本試験H11 当時(1871年前後)の中国の近代政策を,太平天国の鎮圧を機に台頭した漢人官僚が推進したか問う】〈李鴻章〉【東京H29[3]】,〈曽国藩〉,〈左宗棠〉(さそうとう,1812~85),〈張之洞〉(ちょうしどう,1837~1909) 【東京H27[3]】らのことです。17歳,28歳,27歳,3歳 …アヘン戦争勃発時の4人の年齢をみると(〈張之洞〉は,アロー号事件のときに18歳),1つ世代が下にあたる〈張之洞〉をのぞき,清の技術がヨーロッパに圧倒される様子を,まざまざと目撃しているわけです。彼らは「西洋の軍事技術を積極的に導入して,国を強くしよう」(中体西用【追H29時期(清代か問う)】【立教文H28記】)考えのもと,洋務運動【本試験H6時期(太平天国後の「開元の治」ではない),本試験H9[22]このときに科挙を廃止したわけではない,本試験H11 当時(1871年前後)の中国の近代化政策として「欧米諸国から近代的な産業技術を導入することを図った」かどうか問う】をおこないました。

 彼ら漢人官僚は,故郷では郷(きょう)勇(ゆう)という私兵も保有する実力者でした。軍事を含む政務の最高機関であった軍機処【本試験H15,本試験H24】はすでに力を失い,軍事力をもつ集団が政治に介入しはじめるようになっていました。こうした勢力は,のちに中央政府のコントロールのおよばない軍閥に発展していくことになります。
 富国強兵という観点からみれば、1880年代までに編成された広東水師・福建水師・北洋水師は当時のアジア最強の艦隊でした。1884年~1885年の清仏戦争で福建水師は壊滅しましたが、全局においては互角であったといいます(注1)。

 しかし、中国における近代的な軍隊の国家的統一は、日本やオスマン帝国のようにちゃんと整備されず、「有力官人の私的軍隊的性格」の強いもので、日本の「維新」のような体制変革をともなわない「体制内変革」でした(注2)。
 また、日本のようにヨーロッパの事情に通じた人が改革を主導するのではなく、一部の体制側の漢人官僚が改革を主導したことも、挙国一致ですすめられた日本の近代化との大きな違いと言えるでしょう(注3)。
 そもそも洋務運動の「洋」も、ニュアンスとしては伝統的な「夷」(い)という意識と同じように使われており、1858年の天津条約第51条において、「夷務」を「洋務」とか「外国事件」とする旨が明記されたため「洋」があてられたに過ぎないのです(注4)。

(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.211。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。
(注2) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、pp.266-267。
(注3) なかにはアメリカ合衆国のイェール大学で法学を学んだ〈容閎〉(ようこう、1828~1912)や、フランスで法学を学んだ〈曽紀沢〉(そうきたく、1839~1890。曽国藩の息子) のような人物もいましたが、前者は駐米講師、後者は駐仏・駐露行使となるにとどまり、改革の中心に座ることはありませんでした。鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.266。
(注4)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.210。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。


・1848年~1870年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 1862年には壬戌民乱が起き,南部一帯の民衆が抵抗しました。1863年に国王〈哲宗〉(チョルジョン,位1849~63)がなくなるとつぎの国王には,〈高宗〉(ゴジョン,位1863~97)が就任しました。当時権力をふるっていた安東金氏を抑えようと,遠い家柄から選ばれた国王でした。その父が〈興宣君〉で,〈大院君〉と呼ばれることになりました。まだ国王は幼かったため、この〈大院君〉(興宣大院君,こうせんだいいんくん;フンソンデウォングン,1820~1898) 【本試験H31欧米諸国の開国要求を受け入れていない】が摂政として国政の実権を握ることとなりました。
 19世紀には,全州李氏の次に,安東金氏が高位を占めるようになっており,〈大院君〉は安東金氏の勢力を弱めるために官制改革を断交。また,王権を強化するために,地方にあった両班層の教育機関である書院を廃止し,さらに両班から新税を徴収しました。




○1848年~1870年のアジア  東南アジア
◆ヨーロッパ諸国による植民地支配が本格化したが,タイは柔軟な外交・改革により回避した
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー


・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム,⑧カンボジア
フランスは戦争によりインドシナに武力進出する
 ヴェトナムは,1802年以来,阮朝(げんちょう)越南国(えつなんこく)が統一をしていました。しかし,1844年にフランスは,アヘン戦争(1840~42)後の清と個別に結んだ黄埔条約【追H17アメリカ合衆国が結んだのではない】を中国進出の足がかりとしようとすると,ヴェトナムの戦略的な重要性が高まっていきます。
 「何か攻める理由がないか」と考えていたフランスは,ヴェトナムで捕らえられていたフランス人宣教師の解放を口実に進出を開始。ときの皇帝〈ナポレオン3世〉が,1858年に阮朝と開戦しました。

 1862年にサイゴンで条約が締結され,メコン川下流のコーチシナ東部の割譲,メコン川の自由な通行,3港の開港,賠償金の支払いが取り決められました。この露骨な進出に対し,割譲された領土の返還交渉がパリでおこなわれたものの,1867年にはコーチシナ西部も武力併合し,メコン川下流の三角州地帯はすべてフランスの植民地となってしまったのです。
 その間,1863年にはカンボジアがフランス【セA H30イギリスではない】によって保護国化されました。

 こうしたフランスの進入を受け,1867年に中国の太平天国にも参加していた客家(ハッカ)出身の軍人〈劉永福〉(りゅうえいふく,1838~1917)【本試験H13】ヴェトナムの阮朝の下で,1867年に農民主体の私兵(黒旗軍【本試験H13】)を率いてフランス軍と戦う準備を整えていきました。



○1848年~1870年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
フィリピンでは輸出向け農園支配が強まっていく
 フィリピンでは1850年代後半から,本格的に輸出向けの商品作物生産が始まっていきました。砂糖(サトウキビからつくります),マニラ麻(ロープの材料,アバカともいう) 【慶商A H30記】,タバコが輸出品の85%を占めました。
 特にアメリカとイギリス向けの輸出が多く,イギリスからの輸入が多くを占めていました。
 こうして大土地所有のアシエンダ制が拡大していきます。



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・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ
 ブルネイは,スルタン〈オマル=アリ=サイフディン2世〉(位1829~1852)、〈アブドゥル=モミン〉(位1852~1885)により統治されていますが、イギリスの周辺への進出も強まります。

(注1) 「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544。

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・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現④東ティモール
 東ティモールをめぐっては,1859年にポルトガルが西ティモールをオランダ側に割譲しています。



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・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア
 インドネシアはオランダの植民地(オランダ領東インド)となっています。
 栽培制度(強制栽培制度とも。住民に指定された農作物を強制的に栽培させて、植民地の政府が独占的に買い上げる制度)は、1854年の蘭印統治法により緩和され、徐々に廃止されていきました。




・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール、⑦マレーシア
イギリスはマラッカ海峡周辺をおさえる
 この時期、現在のシンガポール、マレーシアの大部分はイギリス東インド会社の管轄する地域でした。
 すでに1826年にペナン【東京H19[3]】,マラッカ【東京H19[3]】,シンガポール【東京H19[3]】は海峡植民地【東京H14[1]指定語句】【追H30スペインの植民地ではない】(Straits Settlements)として統合され,関税を課さない自由貿易港とされていました。
 インド東インド会社のベンガル総督府(カルカッタにあります)の管轄の下、海峡植民地の知事は当初ペナンのジョージタウンに駐在しました。のちシンガポールの重要性が高まると、1832年にシンガポールに移されていました(注1)。

 これにより,中国や東南アジアの船は,バタヴィアではなく,海峡植民地に来航するようになり,交易が活発化しました。イギリスの自由貿易政策による,オランダつぶしですね。特に,マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは,貿易の中心地として,ペナンをしのぐようになり,1845年にはシンガポールの総人口の過半数は中国人になりました。また,インド人も労働者として移住してくるようになりました。 こうしてシンガポールには,多くの人種が混ざり合う多彩な社会が形成され、1842年にイギリスの植民地となる中国の香港とともにアジアの自由貿易ネットワークの拠点としてい期待されたです

 しかし、これら3拠点は自由港であり関税収入はのぞめず、1833年に東インド会社の貿易独占権が廃止されると、東インド会社にとっての海峡植民地の重要性は低下していきました。

 また1857年にインドで起きた大規模な暴動(インド大反乱)を受け、1858年にイギリス東インド会社が廃止されると、イギリス本国はインド省(the Colonial Office)を創設し、インド省の管轄下にあるインド植民地政府がインドを統治することに。海峡植民地もインド植民地政府の管轄下となりました(注2)。
 しかしインドから支配されることを嫌った海峡植民地のヨーロッパ商人の要望を受け、1867年に海峡植民地はイギリスの植民地省の直接統治下(「Crown colony」(王冠植民地)という地位)に置かれることとなりました。植民地省の下に海峡植民地総督が置かれ、それを行政評議会と立法評議会が補佐する大勢です(注2)。

(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。




・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
カンボジアの
 この時期のカンボジア王国はピンチを迎えていました。
 西はタイのシャム王国(チャクリ朝)から圧迫され、東はヴェトナムの阮朝(げんちょう)に圧迫。
 1841年には阮朝に併合され、ヴェトナム化政策が実行されました。
 
 当時、シャム王国に滞在していた〈アン=ドゥオン〉は、シャムと阮朝との協議の結果国王に即位することになりました(位1845~1859)が、その後もシャムと阮朝の“挟み撃ち”は続きます。
 そこで〈アン=ドゥオン〉は近代化政策を進めて独立を守るとともに、フランスの皇帝〈ナポレオン3世〉に「保護」を要請しています。
 なお、1859年にフランスの探検家に〈アンリ=ムオ〉は〈アン=ドゥオン〉に謁見し、翌年シェムリアップで密林に覆われていたアンコール=ワットを発見しています。

 さて、後継となったのは〈ノロドム〉(位1860~1904)です。以前としてシャムのチャクリ朝とヴェトナムの阮朝の干渉が続く中、〈ノロドム〉はフランスへの「保護」を要請。
 これが1863年にフランスによるカンボジアの保護国化につながりました。
 王は王宮をウドンからプノンペンに移動させ、1867年にフランスはシャムに対して「カンボジアに口出しするな。保護権はフランスにある」という内容の条約を結ばせます。




・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑨ラオス

 この時期、現在のラオス北部はルアンパバーン王国、南部はチャンパーサック王国が支配していました。


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○1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
タイではチャクリ改革(集権化)により独立を維持
 シャムのチャクリ朝(ラタナコーシン朝)では,“啓蒙君主”と呼ばれる〈ラーマ4世(モンクット)〉(位1851~68) 【上智法(法律)他H30 チュラロンコンではない】は,得意の英語を駆使して,各国に直接親書を送りました。その相手は,〈ヴィクトリア女王〉,〈ナポレオン3世〉,〈リンカン大統領〉。

 また,1854年には中国への朝貢を停止し,シャムが独立国であることを列強にアピール。さらに1855年に香港総督〈バウリング〉との間に修好通商条約(バウリング〔ボウリング〕条約) 【慶文H30記】を締結しました。
 これにアメリカとフランスも続き,3国は治外法権と通商・居住権を獲得します。彼はまた,欧米の科学技術を遺憾なく導入し,宣教師の妻を家庭教師にして子どもたちに英語教育をほどこしました。この話は,「王様と私」というミュージカル(のちに映画化)となりましたが,西洋からの“上から目線”が問題視され,現在タイで観ることは難しい状態です。
 なお、バウリング条約の批准書交換と追加協定を担当したのは、同時期の日本に対する外交でおなじみの〈パークス〉です。また、同年のアメリカとの通商条約は、日米修好通商条約を締結した〈ハリス〉です(注)。


 このように〈ラーマ4世〉は,すぐれた国際感覚によって,列強による植民地化を東南アジア諸国で唯一まぬがれたのです【本試験H3イギリスにより「マライ連邦」に編入されていない】【本試験H13東南アジアで唯一植民地支配を免れたかを問う】【追H20フランスの植民地ではない】。
 その息子〈ラーマ5世(チュラロンコン)〉【東京H27[3]】【セA H30】【上智法(法律)他H30ラーマ4世とのひっかけ】のときに,さらに進んだ近代化政策が展開されることとなります。
 国内では,19世紀後半に王の弟で仏教の僧侶の〈ワチラヤーン〉【セA H30リード文】が中心となって,経典学習のシステムが整備されるとともに,「サンガ法」と呼ばれる国家によって規定される仏教教団の枠組みが作られました。
 最高位の僧である法王を頂点とし,行政制度に連動する命令系統を備えた教団組織は,現在のタイ仏教教団の原型となるものでした【セA H30ここまでリード文】。

(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.212。




・1848年~1870年のアジア  東南アジア 現⑪ビルマ
イギリスはインドを死守するためビルマをねらう
 コンバウン朝【本試験H3タウングー朝ではない】のビルマは,第一次ビルマ戦争(1822~24)で,すでに最南部をイギリス【追H28ビルマ(ミャンマー)を植民地したのはスペインではない】に割譲していました。
 その後も,イギリス東インド会社によるインドの植民地化は進みます。インド周辺部の守りを固めるために,ビルマへのさらなる拡大が求められたのです。

 そして1852年第二次ビルマ戦争【東京H23[3]3次まで続くか問う】では,イラワジ川下流の下ビルマ(ペグーなど)が占領され,1853年に併合されました。




○1848年~1870年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1848年~1870年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 この時期のセイロン島はイギリス領です。




・1848年~1870年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆南北戦争後に綿花供給地としての重要性が高まり,英はインドに経済的依存を強めていった
 東インド会社は,圧倒的多数のインド人を支配するために,インド人の兵を雇っていました。インド人傭兵のことをシパーヒー【東京H29[3]】といいます。インド人がなぜ支配者のイギリスの兵隊として働くのかと思うかもしれませんが,彼らにとっては生計を立てる大切な手段だったのです。とくに,1856年に取り潰されたアワド藩王国の兵士の多くが,シパーヒーとして再雇用されました。物価が急激に上がっているにもかかわらず,給与が上がらなかったことも,シパーヒーの不満の要因でした。
 そんな中,イギリスの配備した新式銃を操作する際に,豚と牛の脂(あぶら)の塗られた火薬包み(カートリッジ)の紙を口で噛み切らなければならないことが判明。意図的に塗られたものかどうか,真偽は謎のままです。新式銃の使用を拒否したシパーヒー85名の投獄がきっかけとなり,シパーヒーは蜂起しました(シパーヒーの反乱) 【京都H19[2]】【東京H28[3]】 【本試験H3「インド人傭兵」,本試験H11時期:1880年代か問う】【本試験H19・H29,本試験H29図版と時期】。
 その後,全インドのあらゆる階層【本試験H3】に反乱が拡大(インド大反乱【追H26イギリスの支配への不満から起きたことを問う】【本試験H8】)。マラーター同盟の王族の娘として生まれ,嫁いだ先の小国ジャーンシー藩王国がイギリスに併合されたため,反乱に加わり果敢に戦った女性〈ラクシュミー=バーイー〉(?~1858)は“インドのジャンヌ=ダルク”として知られています。
 ムガル帝国の皇帝は「このまま反乱軍がイギリス東インド会社をやっつけてくれないか」と期待していましたが,結局イギリス東インド会社に鎮圧され,最期の皇帝〈バハードゥル=シャー2世〉(位1837~58)はビルマに流され,ムガル帝国は滅亡しました。

 この反乱の責任をとる形で東インド会社は解散【本試験H8改編・強化されたわけではない】となり,準備期間をおいて,1858年のインド統治改善法により,イギリスの直接統治が始まりました【本試験H3】【本試験H16 時期(18世紀後半には始まっていない)】。
 直轄地以外の地域では,ほとんどの王国が藩王国として存続がゆるされました【本試験H8藩王国のほとんどが滅ぼされたわけではない】。
 植民地官僚のうち,高級官僚(キャリア組)は,インド高等文官試験という難関試験を突破した者のみに開かれたコースでした。1853年からはロンドンで開かれ,インド人の合格者はわずかで,ほとんどオックスフォード大学,ケンブリッジ大学の卒業生に限られていました。やがて,インド国民会議派はそれを批判します。
 この大反乱の鎮圧を受け,これ以降はインドの民族運動は武力を用いるものは主流ではなくなっていきます。

◆イギリスは「本国費」をインドから収奪したが,綿織物産業の発展により民族資本家が成長した
 アメリカ合衆国で南北戦争が起きると,イギリスは綿花の輸入先としてインドに目をつけ,茶とともにインドを原料の供給地としてますます利用していくようになりました。
 インドでは1860年以降綿花栽培が拡大するとともに,綿織物産業も発展。1868年にボンベイで綿貿易会社を設立し,綿紡績業で財を成した〈ジャムシェトジー=タタ〉(1839~1904)を初めとするインド人の資本家(民族資本家)が成長し,イギリスやインド政庁とも強力しつつ現地エリート層を形成していきました。

 例えば,北東部の山間部のアッサムやダージリンの茶(中国のチャノキよりも紅茶向き),ベンガル地方では繊維のジュート,デカン高原では綿花が有名ですね。セイロン島(現在のスリランカ)でも茶が栽培され,『午後の紅茶』の茶の原産地でもあります。茶のプランテーションのために,イギリス人は北部にインドの南部に暮らしていたドラヴィダ系のタミル人を働き手として移住させました。タミル人はヒンドゥー教徒ですが,スリランカには伝統的に上座仏教を信じるドラヴィダ系とインド=アーリア系が歴史的に混成したシンハラ人(英語名のシンハリーズから慣用的にシンハリ人ともいいます)がいましたから,両者の対立はのちに深刻化していきます。
 生産された綿花と茶は,内陸部まで敷設された鉄道によって港湾に積み出され,各地に輸出されました。こうして生み出された貿易黒字が「本国費」(ほんごくひ)してイギリスに送られ,圧倒的に貿易赤字であったイギリスの貿易収支を補う役目を果たしたのです。当時,イギリスが黒字を出していたのは保険事業や海運事業などのサービス部門に限られていました。「本国費」を使うことでイギリスから派遣された官僚の給与・年金を支払うことができ,またインドへの投資に対する配当金,インドにおける傭兵の雇用などの軍事費にあてることができたわけです。まさにインドからの“富の流出”。イギリスが最後の最後までインドにこだわった理由はそこにあります。

 なお,同じ頃イギリスの勢力下に置かれたペルシア湾で採取された真珠が,イギリスの植民地ボンベイに輸送されています。ボンベイは真珠取引の中心地となっていきました(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.118。

・1848年~1870年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
  ネパール盆地を中心に領土拡大・中央集権化を進めていたネパール王国の王家は,19世紀中頃以降,宰相を務めたラナ家に実権を奪われていきました。1854~56年には,チベットと領土をめぐる戦争を起こしています。
 勇猛な部隊を持つことで知られるネパール人は,イギリスの傭兵(グルカ兵)として世界中の戦争の精鋭部隊として活躍しました。このこともあり,ネパールでは実質的に自治が認められていました。
 なお,イギリスは,1864年にはシッキム(ネパールの東)の東にあるブータンと戦争を起こしましたが,翌年和平条約が結ばれ,ベンガルに接する地域が割譲されました。



○1848年~1870年のアジア  西アジア

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
バーラクザイ朝(1826~1973年)
〈ドースト=ムハンマド〉(位1826~1863)
 ドゥッラーニー部族連合のバーラクザイ部族から君主を出すバーラクザイ朝(初めはハーンが称号,1835年以降はアミール)が,アフガニスタンを支配しています(1835年以降はアフガニスタン首長〔アミール〕国といいます)。初代君主は〈ドースト=ムハンマド〉です。

 イギリスはインド周辺を防御し,ロシアの南下を防ぐため,バーラクザイ朝の対抗部族に接近し,アフガン戦争を起こします(第一次アフガン戦争(1838~1842))。
 〈ドースト〉はのちイギリスに接近し,南部のカンダハールや西部のヘラートに領域を拡大させていきました。
 次の〈シール・アリー・ハーン〉(位1863~1866,1868~1879)のときには,ロシアやイギリスの介入が激しくなり,しだいに国内は分裂していきます。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現②イラン
カージャール朝はロシアとイギリスの狭間で苦しむ
 イラン高原は,カージャール朝の支配下にあります。
 〈モハンマド=シャー〉(位1834~1848)は,西欧化を推進し,ロシアやイギリスの進出に立ち向かおうとしました。
 しかし,〈モハンマド=シャー〉が亡くなると,シーア派の一派で,政府に批判的なバーブ教徒の反乱により,社会は混乱。
 次の〈ナーセロッディーン=シャー〉(位1848~1896)は,ロシアの支援を受けつつ,〈サイイド=アリー=ムハンマド〉を指導者とするバーブ教徒の乱を鎮圧します。
 〈シャー〉は軍政・官制の西欧化を推進していた大宰相〈アミール=キャビール〉(1807~1852)を解任。イギリスとの条約で東部のヘラートを奪われ,不平等な条項を認めるなど,しだいにイギリスに対して従属的になっていきます。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現③イラク
 現在のイラク地域は,オスマン帝国領です。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現④クウェート
イギリス東インド会社と提携し,交易で栄える
 イラク南部に位置するクウェートは,ペルシア湾に面する重要ポイント。
 1752年以来,首長のサバーハ家の支配下にありましたが,アラビア半島中央部からのサウード家の勢力の進出や,オスマン帝国の進出を退けるため,サバーハ家はイギリス東インド会社と提携していました。
 この時期は〈ジャービル1世〉(位1814~1859)の支配下でイギリス東インド会社と提携してペルシア湾の交易活動に従事。現在のアラブ首長国連邦周辺の勢力(“海賊”)との抗争も,1853年の和平により終わりました。次の〈サバーハ2世〉(位1859~1866)の時代にかけ,ペルシア湾の通商路は一段と安全なものとなっていきます。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦
 ペルシア湾岸の諸勢力の抗争は,イギリス海軍の下で1835年以降,停戦状態となっていました。
 しかし,1860年代にバーレーンとカタールの部族間の関係が悪化。バーレーンは,アブダビの勢力と連合してカタールを攻撃。
 こうして起きた1867~1868年のカタール=バーレーン戦争(カタール独立戦争)により,バーレーンのハリーファ家は,カタールによる支配を退けることに成功。カタールのサーニー家が独立していることは,イギリスとの条約により認められます。

 ペルシア湾はアコヤガイやクロチョウガイなどが分布する世界最大の真珠の産地でもあり,イギリスはその中心であるバーレーンを確保し,交易で巨利をあげていきます。採取された真珠はイギリスの植民地ボンベイに運ばれ,取引の中心地となっていきました(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.118。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑧オマーン
◆イギリスはアラビア半島沿岸部の首長国を保護下に置いていく
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。

 もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の“海賊”集団(イギリス側から見た呼び名です)がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。ペルシア湾岸地帯の勢力が,イギリスにとってはジャマな“海賊”にみえたわけです。
 イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,武力をちらつかせながらペルシア湾岸(1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーン) やオマーンを保護下におさめていきます。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑨イエメン
イエメン北部:イギリス領
 すでにイギリスは1839年にイエメンの南部を占領し,アデン周辺を植民地化していました。紅海への入り口にあたるアデン湾は,イギリスがインドに向かう航路を確保する上で,超重要ポイントだったのです。1869年には保護領とします。

イエメン南部:オスマン帝国領
 一方,北イエメンはオスマン帝国の支配下に置かれています。



・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
 アラビア半島の現・サウジアラビアの地域では,部族や周辺国家の支配権をめぐる対立の舞台となっています。
 まず,サウード家がワッハーブ派の教団と提携したワッハーブ王国(1824~1891)が1824年に復興(第二次ワッハーブ王国)。アラビア半島のリヤドを中心に,ペルシア湾にかけての地域を支配します。
 一方,リヤドの西方のナジド地方のラシード家も有力で,ジャバル=シャンマル王国(1836~1921)は第二次ワッハーブ王国を圧迫し,実権を奪っていきます。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン
 現在のヨルダンの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,現⑬パレスチナ
 現在のイスラエル,パレスチナの地域はオスマン帝国の支配下にあります。
 イェルサレムの聖地管理権を巡ってフランスがロシアと対立したことが,クリミア戦争(1853~1856年)のきっかけとなっています。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑭レバノン
 現在のレバノンの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。
 オスマン帝国領であったシリアのうちレバノン山岳部には,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が有力氏族の下で分布し,宗派対立が激化していました。1840年にエジプトがシリアから撤退すると,フランスがマロン派を支援するとイギリスはドゥルーズ派を支援しました。それに加えてロシアはレバノンの正教徒を保護しようとしたため,レバノンをめぐってイギリス,フランス,ロシアが干渉する構図となりました。1843年にはこうしたヨーロッパ諸国の介入を防ぐため,レバノン山岳部はオスマン帝国の直轄支配地域となっていました(北部はマロン派,南部はドゥルーズ派の行政官が任命されます)。しかし,住民と領主層との争いに宗教的な対立が重なると両者の紛争は激化し,問題をおさめようとオスマン帝国,イギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロイセンはキリスト教徒の覆いレバノン山岳部をシリアから切り離して,治安維持を図りました。「宗教・宗派の違い」が,ヨーロッパ諸国の進出に利用されたわけです。
 それに危機感を抱いたキリスト教徒の知識人たちは,「自分たちは“アラブ人”なのだから,宗教・宗派の違いをあおるヨーロッパ諸国の策略にはまってはいけない」と主張し,アラブ民族主義的な運動を盛り上げていきました。この動きは一部のイスラーム教徒にも広がり,「アラブの覚醒(かくせい)」というムーブメントに発展していきます。ただ,イスラーム教徒には〈アフガーニー〉(1839~97) 【東京H19[3]】【追H28「ムスリムの連帯を唱えた」か問う】【本試験H25】【法政法H28記】の唱えたパン=イスラーム主義(汎イスラーム主義)の影響が強く,キリスト教徒とイスラーム教徒が手を結ぶような機会は限られていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。


・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑮シリア

 現在のシリアの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。
 オスマン帝国領であったシリア内陸部では,徴税請負で力を付けた地域エリートであるアーヤーン(名望家層)が,イェニチェリやウラマーの力をバックに付けて都市を支配していました。エジプトの占領後,シリア内陸部にヨーロッパ諸国を中心とする資本主義経済の波が押し寄せ,社会の変化によって都市暴動も起きました。
 社会不安の中で「宗教・宗派の違い」が持ち出され,キリスト教徒が殺害される例もみられました。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑯トルコ

◆西欧化の過程で西欧諸国からの借金が積み上がり,国家財政は破綻に向かう
クリミア戦争で英仏の援助を受けるも,依存強まる
〈アブデュル=メジト1世〉(位1839~1861)
 1839年に,国政の西欧化に向けた改革をはじめたのが〈アブデュル=メジト1世〉(位1839~61) 【本試験H18ムハンマド=アリーとのひっかけ】です。
 彼はギュルハネ(バラ園)勅令を発布し,「オスマン帝国のなかにいる人はみな平等だ。ムスリムも非ムスリムも関係なく,法のもとにある」ということをうたい,三権と軍事・財政の改革(タンジマート)【共通一次 平1:時期を問う(青年トルコ人革命とミドハト(ミトハト)憲法)との時系列】をこころみます。

 しかし,クリミア戦争【東京H20[1]指定語句】【H29共通テスト試行 エカチェリーナ2世による戦争ではない】が起きたために,戦争の資金調達のために外国に借金をしたことが誤算でした。クリミア半島には敗北し,さらに借りた金を返せなくなってしまうのです。

 フランスの立場からすると,せっかく〈ムハンマド=アリー〉を可愛がっていたのにもかかわらず,イギリスに邪魔されてしまったわけです。しかし,フランスがオスマン帝国内に領土を要求するための口実はほかにもありました。
 イェルサレムの聖地管理権【本試験H6クリミア戦争のきっかけを問う】です。聖地イェルサレムには,世界中の巡礼者が集まってきますが,フランスは16世紀以来,オスマン帝国内のイェルサレムのキリスト教地区の管理権をにぎっていました。
 フランス革命のときに,革命政権は第一身分であるカトリックを迫害しましたから,一時聖地のことを管理しているどころではなくなっていました。ジャコバン派の時代には管理権を放棄。それをロシアが獲得したのです。〈ナポレオン〉がエジプト遠征をしたときに,ロシアはオスマン帝国側を支援ため,オスマン帝国にその謝礼として要求したのです(1808年)。

 ロシアは東方正教会の信者を保護しようとしますが,その後フランスで〈ナポレオン3世〉が皇帝に就任すると,「イェルサレムの聖地管理権はもともと,オスマン帝国からもらっていた権利だ。カトリック教徒の保護のために,イェルサレムを取り戻す」と主張。管理権を奪い取ってしまった。当時のオスマン帝国はタンジマートの最中。近代化のために,フランスから学ぶべきことも多く,要求をのんだのです。

 そこで,ロシアの〈ニコライ1世〉【共通一次 平1:オーストリア帝国内の民族運動を支援していない】【本試験H25アレクサンドル2世ではない】が「オスマン帝国の東方正教会の信者があぶない」ということで,戦争がはじまりました。フランス=ロシア戦争といってもいいこの戦争なのですが,ロシアがイェルサレムの管理権を狙っているというのが「南下」の口実であることは見え見えですので,イギリスもオスマン帝国側について参戦しました。さらに,フランスとの領土問題でもめていたサルデーニャ王国【セ試行 】も,フランスの“ご機嫌”をとるためにオスマン帝国側について参戦します。
 激戦地がクリミア半島にあったロシアのセヴァストーポリ要塞であったことから,クリミア戦争【セ試行 】【東京H20,H26[1]指定語句】といいます。野戦病院で傷病兵に対して科学的なアプローチで献身的な看護にあたったのが,イギリスの医療制度改革者〈ナイティンゲール〉(1820~1910) 【東京H30[1]指定語句】【本試験H8】 です。彼は,「看護学の祖」「クリミアの天使」と呼ばれます。このときの惨状を目の当たりにしたロシアの文豪〈トルストイ〉(1817~75) 【本試験H9第一次世界大戦を題材に歴史小説を書いたか問う(クリミア戦争の誤り)】には,「非暴力主義」という考え方を発展させるきっかけとなりました。

 クリミア戦争は,1856年のパリ条約で終結し,黒海の中立化(黒海はどこの国のものでもない)とドナウ川の航行の自由(ドナウ川はロシアのものだけではない)が定められて,ロシアの南下にまたストップがかかりました。また,オスマン帝国からモルダヴィア=ワラキア連合王国が独立承認されて,のちのルーマニアのもとになっていきます(1861年にルーマニア公国に改称,完全独立は露土戦争後のベルリン条約で承認される1878年,1881年にルーマニア王国になります【本試験H14第一次世界大戦後に誕生したわけではない,本試験H15ソ連から独立して成立したわけではない】)。

◆オスマン帝国はヨーロッパ諸国への経済的な従属を強め,抵抗運動としてパン=イスラーム主義が生まれる
借金まみれのオスマン帝国,欧米の介入を受ける
 現在のトルコの地域は,首都をイスタンブルに置くオスマン帝国の支配下にあります。

 オスマン帝国は,イギリスやフランスに対する経済的な従属を深めていきました。港湾・鉄道などの近代的なインフラや軍事施設や軍隊の整備のため,イギリスやフランスから莫大な資金を借り受けるようになります。
 この返済によってオスマン帝国の財政はますます厳しくなっていきます。


・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑰ジョージア(グルジア)
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南西に位置するジョージア〔グルジア〕の地域は,19世紀前半以降,ロシア帝国の支配下にありました。カフカス山脈の南側のことを「ザカフカース」といいます。

 ロシア帝国は,1816年~1861年,カフカス山脈の北部の諸勢力(チェルケス人やチェチェン人など)との戦争を続けており,グルジア人の中にはロシア側に立ち,これら山岳民族と戦う者もいました。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑱アルメニア
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南に位置するアルメニアの地域は,19世紀前半のトルコマンチャーイ条約(1828年)以降のロシア帝国の支配地域と,オスマン帝国の支配地域に分断されていました。
 しかし,1848年の二月革命に端を発する政治思想の影響を受け,アルメニア人は次第に「アルメニア人」としての民族的な意識を高めていくようになります。
 つまり,逆にいえば,それ以前には現在のような「アゼルバイジャン人」「アルメニア人」「グルジア人」の間にハッキリとした違区分は存在しなかったということです。

 特にオスマン帝国支配下のアルメニア人の中には,タンジマートの影響で法的に平等な権利を手に入れ,西ヨーロッパに留学するエリートも現れました。
 当時のオスマン帝国内部には「タンジマートでは真の近代国家は建設できない。イスラームに根ざしつつ,議会制民主主義と自由主義を実現させるべきだ」と考える「新オスマン人」(のちの「青年トルコ」とは別の組織)という秘密結社が支持をひろげていました。アルメニア人の中にも新オスマン人に刺激を受け,改革や民族運動の担い手となる者も現れていきます。

 なお,小規模であるものの,アメリカ合衆国にわたり,コミュニティを形成したアルメニア人もいます(アメリカ合衆国への移民が急増するのは1890年代以降のこと)。

・1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑲アゼルバイジャン
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南東,カスピ海西岸に位置する現・アゼルバイジャンの地域,19世紀前半のトルコマンチャーイ条約(1828年)以降のロシア帝国の支配地域と,オスマン帝国の支配地域に分断されていました。




●1848年~1870年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

マダガスカル
 イギリスやフランスの進出という危機を前に,近代化を推進したメリナ王国の初代〈ラダマ1世〉(位1810~1828)に代わって即位した,〈ラナヴァルナ1世〉(位1828~1861)率いる保守派が対立。次の〈ラダマ2世〉(位1861~1863)は近代化を目指すも暗殺され,その妃〈ラスヘリナ〉(位1863~1868)が即位するなど,国王の支配はぐらぐらです。



●1848年~1870年のアフリカ
○1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


・1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 この時期には〈ムハンマド=アリー〉統治下のエジプトの進出が強まっています

・1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。

・1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
◆エチオピアはヨーロッパ諸国の侵入に備え,中央集権化を目指す
エチオピアは西欧化・中央集権化をすすめる
 エチオピアでは〈テオドロス2世〉(位1855~68)が中央集権化を推進し,ヨーロッパの技術を導入して軍備を強化していきました。
 しかし,1868年にイギリスの軍事的進出と敗北を受けて,自殺しました。スエズ運河の完成(1869)を目前に,イギリスは紅海の入り口にあたるエチオピアへの進出を狙っていたのです。


  
・1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
◆ザンジバルを拠点に,オマーンのアラブ人によりインド洋黒人奴隷交易が活発化する
オマーンのアラブ人による黒人奴隷交易が活発に
 スワヒリ地域では,現タンザニアのザンジバルを拠点に,アラビア半島のオマーンのアラブ人が中心となって,奴隷交易が活発化していました。奴隷はマラウィ,モザンビーク,ザンビア東部から積み出され,現地社会に大きな爪痕(つめあと)を残します。奴隷交易は,大西洋を舞台とする西アフリカ~アメリカ大陸~ヨーロッパのものだけではないのです。



・1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
象牙の乱獲からアフリカゾウの個体数が激減する
 ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部のブガンダ王国は,象牙や奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。
 19世紀には象牙の需要が高まり,インド洋岸のザンジバルなどからキャラバンも組まれるようになります。獲れば売れるので銃火器でアフリカゾウが乱獲され,個体数は激減していきます。





○1848年~1870年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1848年~1870年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 中央アフリカのギニア湾岸に位置するアンゴラと南東アフリカのモザンビークを植民地化していたポルトガル王国は,内陸部に進出すれば,大西洋からインド洋に喜望峰をまわらずに陸路で到達できるため,19世紀前半に探検隊を派遣し調査を本格化させていきました。
 イギリスにより派遣されたスコットランド人の探検家・宣教師〈リヴィングストン〉【東京H19[3]】【追H30太平洋探検ではない】は,1855年(注)に世界三大瀑布のひとつである巨大な滝を発見し,当時の〈ヴィクトリア女王〉の名から「ヴィクトリア滝(フォールズ)」と命名しています。彼は当初,インド洋からザンベジ川を貨物船でさかのぼれば,この滝に到達できると考えていましたが,高低差があるため1858年(注)には航行が不可能であることが判明しました。
(注)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.51

・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現②スワジランド
 スワジランド王国は〈ムスワティ2世〉(位1840~1868)が支配し,ケープタウン方面から移動してきたヨーロッパ系のアフリカーナーと対抗しつつ,領域を拡大させています。
・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位1822~1870)が独立を維持しています。

・1848年~1870年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 先住のオランダ系【セ試行 オランダ人の子孫か問う】の人々は「ボーア人」【セ試行】と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地のボーア人は生きるすべをなくすことに…。
 そこでボーア人たちは,ウシを連れて北上を開始したのです。これをグレート=トレックといいます。
 しかし,このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で拡大していたバントゥー諸語系のズールー王国です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
 こうしてボーア人【本試験H4】が建設したのが,トランスヴァール共和国(1852)(注) 【追H27オランダが併合したのではない】【本試験H4】【東京H7[3]】と,オレンジ自由国(1854) 【追H27オランダはオレンジ自由国を併合していない】【本試験H4】だったのです。しかし,ここでダイヤモンドと金(きん)【東京H7[3]】の鉱山が発見されるや,イギリスによる手が差し伸べられていくことになるのです。

(注)正式名称は「南アフリカ共和国。The South Africa Republic。」前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006,p.25。


・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部にはナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群のヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。

 1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。



・1848年~1870年の南アフリカ  現⑥ザンビア,⑦マラウィ
 このころ,現ザンビア東部やマラウィは,アラブ人による奴隷交易の奴隷供給先となっており,マラウイ湖畔の支配者や,チェワ人の首長が,住民をつかまえて商人に売り渡していました。

 この時期のザンビアにははロジ人の国家などがありますが,内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。

 モザンビークとタンザニアの国境付近からマラウイ湖に1840年ころに移動したヤオ人は,アラブ人から武器を入手し,住民を襲ってアラブ人に売却していました(注1)。南アフリカのズールー人の王国から逃げたンゴニ諸族の一派も,19世紀前半にマラウィ湖南部に北上し,住民に対する攻撃をしています(注1)。
 イギリスにより派遣されたスコットランド人の探検家・宣教師〈リヴィングストン〉【東京H19[3]】は,ヴィクトリア滝の発見後,ザンベジ川の支流シーレ川をさかのぼり,マラウイ湖に至りました。1861年にマラウイ湖畔のコタコタというところで奴隷交易に関わる指導者と,奴隷交易をやめるよう交渉しています(注2)。奴隷交易は19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきました。
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.46
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.45Z

・1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系のツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系のサン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 ケープタウンから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています。





○1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。

・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国とルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流はコンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。


・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。
 
 19世紀後半にポルトガルによる奴隷貿易は廃止されましたが,奴隷制が継続していたブラジル向けに奴隷輸出は続いていました(ブラジルでは1888年に廃止)。
・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 現在の赤道ギニアはイギリスの奴隷交易の拠点となっていましたが,1843年イギリスが撤退すると代わってスペインが農業プランテーションのために植民を進め,1844年以降,ギニア湾に浮かぶビオコ島での開発を進めていきました。1850年代に入ると大陸側のリオムニへの植民も進めていきます。


・1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。




○1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流のベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によるオヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。


◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起きる
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです。

 そんな中,②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(1754~1817)が「ジハード」(聖戦)を宣言。王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 ニジェール川流域では,セグー王国,マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています(注)。

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され(注2),サハラ交易は活発化していきました。
(注1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.167。
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?~1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。

 海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,イギリス領黄金海岸〔ゴールド=コースト〕となっています。
 現在の④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 1847年にアメリカ合衆国のアメリカ植民協会によって建国が支援されたリベリア共和国【本試験H5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】【東京H7[3],H19[3]】では,初代大統領に〈ロバーツ〉(任1848~56)が就任しました。しかし,政権をとったアメリカ系黒人(アメリカ合衆国の解放奴隷をルーツとする人々)は,先住の諸民族を支配する構図となり,先住民の抵抗も強まっていきます。


・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,⑫ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます。
 西アフリカ西端の⑪セネガルでは,1840年に交易拠点のサン=ルイに議会が設置され,フランスから派遣される総督が議長を務め,現地人とフランス人居住者から議員が選出されました。1848年にフランスで二月共和制が始まると,サン=ルイやゴレ島の住民は「コミューン」としてフランス本国の自治体と同等の権利を要求するようになりました。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.19。


・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在のモーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。

・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
 ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国(セグー王国,1712~1861)を建国しています。

 このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜民フラニ人(フルベ人,自称はプール人)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方でソコト帝国を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位1818~1845)の指導下に,マシナ王国(1818~1862)が建国されます(注)。


・1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,モシ王国が栄えていました。




○1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
◆アメリカ合衆国の南北戦争(1861~1865)勃発を受け,エジプトが綿花栽培地として注目される
綿花の産地となったエジプトにスエズ運河ができる
 ムハンマド=アリー朝のエジプトは,1840年のロンドン四カ国条約でエジプト総督の世襲権を獲得したもののスーダン以外の支配地域は放棄し,市場開放が求められました。エジプトには1838年にオスマン帝国がイギリスと結んだ不平等な通商条約が適用されましたが,ナイル川流域の農作物の生産力はきわめて豊かであり,アメリカ合衆国で南北戦争(1861~65)が勃発すると,価格の高騰する綿花供給の代替地として大注目されました。綿花輸送のために南フランスのマルセイユと地中海沿いのアレクサンドリア,さらにスエズとインドのボンベイの間に蒸気船航路がつくられ,カイロとアレクサンドリア,カイロとスエズの間に鉄道が開通しました。さらに1869年には地中海と紅海・インド洋を結ぶスエズ運河が,エジプト政府とフランス政府が大株主となったスエズ運河株式会社により設立・運営されました(イギリス政府は運河株を購入しませんでした)。

 インド支配を進めていたイギリスが地中海と紅海~インド洋を直結させる鉄道を計画していたのに対し,〈ナポレオン3世〉支配下のフランスではスエズ運河の建設がフランスの〈レセップス〉の外交交渉によって実現。話に応じた当時のエジプト「総督」〈サイード=パシャ〉(位1854~1863)は,エジプトの農民を無償徴用して多数の人命が失われ,財政も悪化しました。〈レセップス〉は〈サイード〉の家庭教師を務めたことがあり,〈ナポレオン3世〉の妻〈ウジェニー〉とも親しくしていました。この“コネ”により〈レセップス〉は1858年に設立したスエズ運河会社を通してフランス・エジプトから資金を調達することに成功。運河は1869年に完成し,オープンセレモニーではイタリアの〈ヴェルディ〉作曲の「アイーダ」が演奏されています。完成後まもなく,日本の岩倉使節団【セA H30】がスエズ運河を通っています。〈久米邦(くめくに)武(たけ)〉が『米欧回覧実記』(1839~1931)に記録を残しています。
・1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ
 モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。19世紀後半にイギリス(1856),スペイン(1860~61),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を結ぶと,ヨーロッパ諸国に従属していくようになりました。
 スペインはモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で「スペイン領モロッコ」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域)を形成しました。

・1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 アルジェリア【本試験H8】ではフランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族〈アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しましたが鎮圧されました(注)。1848年にはアルジェリアにフランス本国と同じ「県」が置かれ,フランス【本試験H8】人入植者(コロン)によって支配されました。コロンによって農場や工場が建設され近代化が進む一方で,当初は住民は従来の現地支配層により管理されました。

 〈ナポレオン3世〉は「同化政策」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めましたが,現地支配層はそれに反発し,普仏戦争で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きました(アルジェ=コミューン)。

・1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアのフサイン朝は,オスマン帝国のタンジマートにならって近代化をすすめ,1861年には憲法を公布しました(1864年に停止)。しかし急速な近代化は財政を圧迫し,ヨーロッパ諸国から借金をしたために1869年に破産してイギリス・フランス・イタリアによる財政管理状態に陥りました。

・1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアは,1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれました。





●1848年~1870年のヨーロッパ
○1848年~1870年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ(注)…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
(注)冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。

 クリミア戦争のさなかの1855年,ロシア皇帝〈ニコライ1世〉(位1825~55)はインフルエンザで亡くなります。代わって即位したのが〈アレクサンドル2世〉【本試験H9】【本試験H14ニコライ1世ではない】【追H19】です。彼は「ロシアが負けたのは,フランスやイギリスに比べて遅れているからだ」と自覚し,貴族の反対を押し切って1861年には農奴解放令【本試験H6農民への土地の無償分与ではない,本試験H9】【本試験H13時期(クリミア戦争の敗北後),本試験H14時期(19世紀)】【追H19】を発布します。

 こういう内容です。
 まず,農民に貴族(領主)の土地を有償【本試験H6無償ではない】で分け与え,自由な身分としました。
 しかし,「有償」といっても,農民がポンと土地代を支払えるわけがありません。そこで,土地を得たい農民は従来からあるミールを改編した農村共同体に入って,みんなで協力して支払う制度にしました。「農奴解放」といっても,自由になった農民が自由の土地を手にするのは難しかったのです。結局ロシアでは,19世紀後半になっても,都市労働者は全人口の5%にとどまりました。知識人(インテリゲンツィア)【追H9】の中には,1860~70年代に,〈チェルヌイシェフスキー〉らを中心に,農村共同体に直接入り込み農民を教育することで,西ヨーロッパとは異なる形で平等な社会を作ろうとする運動が起きました。
 農村共同体(ミール)【本試験H6】を基盤とし「人民の中へ(ヴ=ナロード)」【本試験H10「1870年代に多くの青年・学生が農村に入り,革命を宣伝しようとした」ものか問う,時期を問う(フランス資本の導入(露仏同盟締結)以降ではない)】をスローガンにした彼らはナロードニキ【追H9】といわれました【本試験H3デカブリストではない,本試験H6,本試験H12「農村共同体(ミール)を基盤にして社会を改革しようとした」か問う】【本試験H22 時期1848年ではない】。

 しかし,理想を追い求めるあまり,挫折した者は急激に社会を変えようとテロリズムに走る派閥(人民の意志(1879年結成)皇帝〈アレクサンドル2世〉【本試験H10アレクサンドル1世ではない】を暗殺しました)も現れるようになります。
 農奴が領主の支配を離れると,地方自治をする必要が出てきたため,1864年には地方自治機関のゼムストヴォを設置しました。また,1870年には都市法も制定し,都市の自治組織も整備しました。

 このような改革姿勢に対し,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と期待を持ったのは,バルト海から黒海まで広い範囲を支配していたポーランド=リトアニア連合王国の領域内にいた,ポーランド人,リトアニア人,ベラルーシ人(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人),ウクライナ人(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちです。
 1861年にロシアで発布された農奴解放令がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました(一月蜂起,ポーランド反乱) 【本試験H6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】【本試験H16時期・フランスからの独立ではない,本試験H22 19世紀後半に独立を回復していない】。

 ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉【本試験H6】は自由主義的な姿勢を弱めることに。
 ポーランドとリトアニアでは徹底的にロシア化政策(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
 このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア=スクウォドフスカ〉(マリー=キュリー【東京H30[1]指定語句(マリー)】【本試験H17 X線の発見ではない,本試験H23レントゲンではない】,キュリー夫人,1867~1934) 【本試験H8】は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質のラジウム【本試験H8】とポロニウムを発見し(1898) 【本試験H17X線ではない】 ,ノーベル賞を受賞しました。

 リトアニアの北方のラトビアも,18世紀以降ロシア【本試験H16オスマン帝国の支配下ではない】の支配下に置かれていましたが,ロシア化政策が強まるにつれ,19世紀後半からはラトビア語文学も作られるようになり,「ラトビア人意識」が高まっていきました。しかし,中世にドイツ騎士団が支配していた影響から,ドイツ系の住民(バルト=ドイツ人)も多く,国民的としての統一はスムーズにはいきませんでした。

 その後皇帝〈アレクサンドル2世〉は,父〈ニコライ1世〉が果たせなかった南下にリベンジを賭けるようになっていきます。
 ロシアでは,西欧諸国と比べた発展の”遅れ”に対して目を背けず,汚い部分も含めて”ありのまま”に描くことで,人々に問題に気づかせることができるのではないかと考える「写実主義」に分類される作家が現れていました。
 早くには〈トゥルゲーネフ〉(1818~33) 【本試験H18バイロンとのひっかけ】の『猟人日記』(農奴制を批判)・『父と子』(主人公の思想はニヒリズム)。その後,〈ゴーゴリ〉(1809~52)の『検察官』『死せる魂』,〈ゴーリキー〉(1868~1936)の『どん底』【本試験H15『オネーギン』ではない】,〈ドストエフスキー〉(1821~81) 【追H20ユーゴーとのひっかけ、H28魯迅とのひっかけ(『狂人日記』は書いていない)】の『カラマーゾフの兄弟』(注),『罪と罰』,〈トルストイ〉(1828~1910) 【追H20ユーゴーとのひっかけ】の『戦争と平和』【追H20ユーゴーの作品ではない】,〈チェーホフ〉(1860~1904)の『桜の園』が代表です。
(注)青空文庫『カラマーゾフの兄弟』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000363/card42286.html




○1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ ※これらは現在の中央ヨーロッパにある国家の名称ですから,この時期に同じ領域の国家があったわけではありません。本文に示した番号(上記①~⑦に対応)は,おおむね現在の国家が位置する領域を指して用いていますが,完全に一致するわけではありません。

・1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
 ポーランド王国では,ロシア帝国が君主を兼ねる政体が続いていました。
 〈アレクサンドル2世〉(位1855~1881)がクリミア戦争後に近代化に向けて自由化政策をとると,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と支配下にあった諸民族の期待を生みました。
 かつてバルト海から黒海まで広い範囲を支配していたポーランド=リトアニア連合王国の領域内にいた,ポーランド人,リトアニア人,ベラルーシ人(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人),ウクライナ人(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちもそうです。
 1861年にロシアで発布された農奴解放令がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました(一月蜂起,ポーランド反乱) 【本試験H6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】【本試験H16時期・フランスからの独立ではない,本試験H22 19世紀後半に独立を回復していない】。

 ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉【本試験H6】は自由主義的な姿勢を弱めることに。
 ポーランドとリトアニアでは徹底的にロシア化政策(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
 このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア=スクウォドフスカ〉(マリー=キュリー【東京H30[1]指定語句(マリー)】【本試験H17 X線の発見ではない,本試験H23レントゲンではない】,キュリー夫人,1867~1934) 【本試験H8】は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質のラジウム【本試験H8】とポロニウムを発見し(1898) 【本試験H17X線ではない】 ,ノーベル賞を受賞しました。





・1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー(当時はクロアチアとスロヴェニアを含みます),⑤オーストリア

◆都市改造された帝都ウィーンは,中央ヨーロッパう随一の国際色豊かな都市として発展へ
オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する
 ハプスブルク家のオーストリアは,1866年に普墺戦争【追H29】で敗北すると支配下に置いていたハンガリー人による自治要求をおさえることが困難となり,1867年に西部のハンガリーを除外した領域((a)ハプスブルク家世襲領と,(b)ボヘミア・モラヴィア・シレジア・ガリツィア・ブコヴィナ・アドリア海沿岸)と,東部のハンガリーの同君連合として再編成されました。

 この“妥協”のことをドイツ語でアウグスライヒ(妥協),ハンガリー語でキエジェゼーシュ(妥協)と呼び,成立した国家はオーストリア=ハンガリー【東京H8[1]指定語句】二重帝国と呼ばれます。
 オーストリア皇帝として即位していた〈フランツ=ヨーゼフ1世〉(位1848~1916)が,1867年にハンガリー国王に即位し,帝国の初代皇帝にも即位することで成立しました。
 皇帝・王は,ウィーンの旧市街を囲っていた城壁を取り除き,リンクシュトラーセという環状道路を建設。近代的な施設を建設し,都市改造に取り組みました(◆世界文化遺産「ウィーンの歴史地区」,2001)。

 両国共通の皇帝の下には外相・陸相・蔵相には共通大臣が置かれ,西部のオーストリア(多様な領域を含むため,各地に配慮して1915年までは「オーストリア」とは呼ばれませんでした)と東部のハンガリーの各首相をあわせて共通閣議が設けられました。分担金はオーストリア70%,ハンガリー30%の比率。
 なお,東部のハンガリーにはクロアチア=スラヴォニア(現在のクロアチアとスロヴェニア)が含まれ,この地域でのクロアチアの地方公用語としての使用や,部分的な自治が認められていました。



・1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
 この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,〈ビスマルク〉(1815~98) 【早法H28[5]指定語句】です。
 1862年にプロイセンの首相に就任(任1862~90)するや,1864年にデンマーク戦争【追H17,H19】でホルシュタイン州とシュレスヴィヒ州を獲得【追H17】 【本試験H30】。

 さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争) 【追H17戦争相手を問う】に勝つとドイツ連邦を解体し【追H29】【本試験H13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家(北ドイツ連邦【追H17戦った相手(オーストリア)を問う】【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国としました。

 北ドイツ連邦に加盟していなかったのは,バイエルン【慶文H30記】をはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
 「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
 南ドイツ諸邦は悩みます。

 そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に,ホーエンツォレルン家(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
 すでにアメリカの〈モース〔モールス〕〉(1791~1872) 【本試験H11】【追H20コッホではない、H27電話機の発明ではない】が,点と線の組合せによるモールス電信(1838年頃まで) 【東京H15[1]指定語句「モールス信号」】という有線電信【追H27電話機ではない】【本試験H11:電話機ではない】を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。

 〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。
 事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました(普仏戦争) 【本試験H27勝利していない】【追H17戦った相手を問う】。アルザス地方とロレーヌ地方【本試験H12時期(1880年代ではない)】【本試験H24ウィーン体制の結果ではない】も,プロイセンにより占領されました。

 プロイセン国王〈ヴィルヘルム1世〉(プロイセン王在位1861~88)は,1871年にフランスのヴェルサイユ宮殿で,南ドイツ諸邦を含むドイツ帝国(1871~1918) 【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の初代皇帝(位1871~88)に即位しました【本試験H18】。
 このとき宮殿を戴冠式に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。
 ドイツ帝国は外見的立憲政治といわれ,一見憲法にもとづき議会による政治が行われているように見えますが,実態は皇帝に責任を負う宰相が立法権を管理することができ,議会は形だけの組織に過ぎませんでした。議会には連邦参議院と,下院の帝国議会【本試験H19】があり,帝国議会の提出した法案を連邦参議院が批准(ひじゅん)する仕組みになっています。帝国議会の議員は男子普通選挙【本試験H19】で選ばれますが,連邦参議院の議員は22の君主国と3自由市の代表で構成されていました。
 アルザス地方とロレーヌ地方は,ドイツ帝国の領土となりました。ロレーヌ地方に住んでいたルクセンブルク生まれの〈シューマン〉(1886~1963)はドイツ国民となり,のちにフランスの政治家(外務大臣)となりドイツ・フランスの和解を呼びかけ,“欧州連合の父”される人物です。

 のちに,〈ビスマルク〉は語っています。
「統一ドイツが出来上がるためには,その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」
 外側に敵を作ることで,一気に国民の統一を図ろうとしたわけです。

 また,ロマン主義【追H21】やナショナリズム【追H21】の高揚の影響下に,内側でも「ドイツ人【追H21フランスではない】らしさとは何か?」というテーマが,様々な分野で検討されました。
 歴史学では〈ランケ〉(1795~1886) 【本試験H28,本試験H31】 【追H21】が「それは本来いかにあったか」をスローガンに,厳密な史料批判【本試験H31】に基づく近代的な歴史学研究法(近代歴史学【本試験H31】)を始めました【本試験H28時期】。
 なお,〈ランケ〉の弟子の〈ルートヴィヒ=リース〉(1861~1928)は,明治時代の帝国大学のお雇い外国人となり,初の「史学科」を開いています。

 また,ドイツの〈ドロイゼン〉(1808~84)は「ヘレニズム」という歴史的な概念を提案しました。〈サヴィニー〉(1779~1861)は,その民族にはその民族の歴史に基づいた法があるべきだという歴史法学を主張し,ローマ法を中心とする従来の法学の伝統に対抗しました。
 文学では〈グリム兄弟〉(兄ヤーコプ1785~1863,弟ヴィルヘルム1786~1859)が〈サヴィニー〉の影響からドイツ各地の昔話の収集を始め『グリム童話集』としてまとめ,ドイツ語の言語学的な研究も行い『グリム=ドイツ語大辞典』を編纂しました(完成は死後の1960年)。彼らは言語や昔話の中に,ドイツ人の民族らしさがこめられていると考えたのです。
 音楽界ではザクセン王国生まれの〈シューマン〉(1810~56)が,多くのピアノ曲・歌曲・交響曲を残し,ロマン派の代表とされます。作曲家の〈ヴァーグナー〉(1813~1883) 【本試験H16オランダのロマン主義ではない・本試験H18】は,ロマン派の歌劇(オペラ)を楽劇(がくげき)【本試験H18】に高め,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の物語にテーマをとった「ニーベルンクの指輪」で有名です。
 また,科学分野での発達も進み,〈マイヤー〉(1814~78) 【本試験H17ファラデーではない】と〈ヘルムホルツ〉(1821~94) 【本試験H11:無線通信を発明していない】【本試験H17ファラデーではない】【追H20コッホではない】はエネルギー保存の法則【本試験H17】をそれぞれ発見(1842)・体系化(47)しました。また,〈リービヒ〉(1803~73)は有機化学を体系化し,化学合成や農薬開発に貢献しました。
 またドイツの〈ジーメンス〉(1816~92)は,発電機(1867)を発明しました。のちに,イギリスの〈ファラデー〉(1791~1867)【本試験H17】の発明した電磁誘導現象【本試験H17エネルギー保存の法則ではない】を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年には電気機関車(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)。

○1848年~1870年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 すでにギリシャは独立していましたが,その他多くの地域はいまだにオスマン帝国の領域下にあります。
 しかしオスマン帝国の力が弱まるのに従って,ヨーロッパ勢力がその支配地域に付け込み,互いに争う「東方問題」がバルカン半島を揺さぶっていました。

 現・ギリシャのクレタ島はオスマン帝国の支配下にありましたが,1866年にオスマン帝国支配に対する反乱が起こりますが鎮圧されます。

○1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島
・1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
◆スペインでは国民統合が進まず,経済的にも外国資本への従属が進んだ
スペインでは外国資本への従属がすすむ
 スペインでは〈イサベル2世〉(位1833~68)の即位を巡って起きた第一次カルリスタ戦争(1833~30)中に,1837年に国民主権をうたった新たな憲法が制定されていました。しかし,スペインにおける国民的な意識の形成は進まず,さまざまな地域言語が残りスペイン語も普及しませんでした。19世紀末にはカタルーニャ(カタルーニャ語を話します)やバスク(バスク語を話します)における民族主義が活発になっていくことになります。

 1850年代末から60年代初めにかけて自由主義派の連合政権ができ,セウタをめぐるモロッコとの戦争(1859~60),フランス・イギリスとともに行動したメキシコ出兵(1861~62),1844年にハイチ(ハイティ)から独立していたサント=ドミンゴの併合(1861~65)など,対外的な進出も積極的におこないました。
 一方,1851年にはローマ教皇庁との間の宗教協約(コンコルダート)によりスペインの国教であることが確認されて,教育や聖職者への俸給など国家と教会との関係は一段と深まっていきました。国教がしっかりと定まっていれば国家の統一が保たれるようにも思えますが,「正しい教え」をめぐって国内の対立を引き起こすマイナス要因でもありました。

 1850年代~60年代にかけて鉄道の敷設がブームとなり,外国資本を導入してさまざまなインフラが整備されていきました。それと引き換えに国内の鉱山などの採掘権が譲渡され,先進の列強諸国への従属も強まっていきます。
 1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年に第一共和政(1870~73)が樹立されました。

・1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
ポルトガルはイギリスへの経済的従属がすすむ
 ポルトガルでは,刷新党と歴史党によるイギリス流の二大政党制が定着しました。1851年に成立した刷新党の〈サルダーニャ〉内閣は,外資を導入して交通・通信などのインフラ整備に取り組み,1856年には初の鉄道が開通されました。工業化のスピードは非常に遅く,イギリスを中心とする外国資本への従属が進んでいきました。



○1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 イタリア半島は,ウィーン議定書の取り決めにより,複数のに国家に分裂した状態となっていました。
 北西には,サルデーニャ王国【本試験H16地図(サルデーニャ島の位置)】。
 北東には,ロンバルディア=ヴェネト王国(オーストリア皇帝が王位を兼ねています)。
 中央部には,ローマ教会の教皇国家。
 南部には,ブルボン家の両シチリア王国。
 ほかにも大小の国々がありました。

 イタリアでも統一を求めたり,自由をもとめたりする運動が起きていましたが,七月革命(1830年)・二月革命(1848年)に刺激されて起こった,カルボナリや青年イタリア【共通一次 平1】などの「下からの統一」運動は組織内の内紛もあり失敗してしまいます。

 例えば1849年には教皇国家において共和派の運動が盛り上がると1848年に教皇〈ピウス9世〉はナポリに亡命し,1849年に共和派主導の男子普通選挙により成立した議会でローマ共和国【共通一次 平1】【本試験H10】の建国が宣言されました。かつて青年イタリア【共通一次 平1】【本試験H16】を率いていた〈マッツィーニ〉【共通一次 平1】【本試験H7ガリバルディではない,本試験H10ガリバルディ,人民戦線政府を樹立した人,アメリカ独立戦争の義勇兵ではない】【本試験H16】(1805~1872)は,革命の“広告塔”として招かれ,執政官に就任しましたが,同年フランス軍【本試験H10】に鎮圧されました。

 共和主義的な運動がことごとく失敗していく一方で,「上(支配者)からの統一」を目指す動きはなかなか活発化しませんでした。
 期せずして“イタリア統一”を担っていくことになったのは,オーストリアから領土を奪って北イタリア地域に拡大しようとした,イタリア半島の付け根に当たる北西部とサルデーニャ島【本試験H20地図】を領土とするサルデーニャ王国でした(当初からイタリア半島統一をねらっていたわけではありません)。
 道のりは順風満帆なものではありませんでした。
 オーストリアを追い出しロンバルディアとヴェネツィアを獲得しようとした国王〈カルロ=アルベルト〉(位1831~49)は,オーストリアと戦って大敗を喫しています。
 立て直しをはかったのが,サルデーニャ王国の自由主義者〈カヴール〉(1810~61) 【本試験H9ドイツではない。ビスマルクとのひっかけ】です。彼は1852年に首相に就任し,「イタリアも,イギリスやフランスにならって,自由主義を認め,産業化をすすめる必要がある。だが,そのためには,フランスとオーストリアを同時に“敵”に回すことはできない。フランスの協力が必要だ」と考えました。
 〈カヴール〉は,フランスの〈ナポレオン3世〉にニース【東京H30[3]】とサヴォワを割譲すると約束(1858年,プロンビエールの密約)し,フランスとともにオーストリアと開戦。これが1859年に始まるイタリア統一戦争【共通一次 平1】【本試験H15スペイン王位の継承問題とは無関係】です。サルデーニャ王国は,オーストリアからロンバルディアを併合しますが,そのとき〈ナポレオン3世〉はハッとします。
「このままサルデーニャ王国が南下すれば,教皇国家が飲み込まれてしまう。そうしたら,国内のカトリック勢力の支持を失ってしまうのでは…」と考えた〈ナポレオン3世〉は,突如オーストリアと休戦してしまいます(ヴィラフランカの休戦)。あとちょっとのところで,統一計画は頓挫してしまったのです。

 しかし,この頃から統一に向けた動きが広がっていきました。北部から中部にかけての小国では,反乱によって新たな政府が樹立。さらに,〈ガリバルディ〉(1807~82) 【本試験H7 1848年にローマを占領していない。マッツィーニとのひっかけ】【セA H30】【法政法H28記】は義勇軍(赤シャツ隊【セA H30】)を組織して,1860年に両シチリアを獲得。これらの地域では住民投票によって,サルデーニャ王国への併合が決まります。
 外国人(北部ではオーストリア人,南部ではフランス人)による支配よりも,サルデーニャ王国を選んだわけです。
 こうしてサルデーニャ国王の〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉(位1861~78) 【本試験H12時期(19世紀後半か問う)。国王は〈ヴィルヘルム1世〉ではない】【本試験H27ローマ進軍は組織していない】が国王となって1861年にイタリア王国が成立しました。ですから,イタリア王国とは”サルデーニャ王国”の拡大ともいえます。
 イタリア統一期に活躍した作曲家に,〈ヴェルディ〉(1813~1901)がいます。もともとは,ミラノのスカラ座で活躍したオペラ歌手でしたが,従来の劇を改革し,スケールの大きなオペラを作り上げました。代表作は古代エジプトを部隊にした「アイーダ」で,スエズ運河開通記念のカイロ大歌劇場開場式のために作曲されたオペラですが…現在はサッカー日本代表の応援歌です。また「バビロン捕囚」をテーマにした「ナブッコ」の挿入歌,「行けわが想いよ黄金の翼に乗って」は,イタリアの“第二の国歌”のような扱いとなっています(バビロンから故郷イェルサレムを想う ヘブライ人の哀怨を歌う)。

 その後,1866年の普墺戦争(ふおうせんそう)の際にオーストリアからヴェネツィアを獲得し,1870~71年の普仏戦争(ふふつせんそう)の際にはローマの教皇国家【本試験H16トリエステではない】を占領し,領域を広げました。
 しかし,イタリア語を話す人々がすべてイタリア王国の領域内に居住していたとは限りません。イタリア王国の外のイタリア語話者の多い地区は“未回収のイタリア” 【追H27シチリアは含まれない】【本試験H24サルデーニャ島は含まれない】と呼ばれ,南チロル【本試験H24地図上の位置を問う,H31仏伊間の対立ではない】,トリエステ【本試験H16普仏戦争のときに併合していない,本試験H31フランス・イタリア間の対立ではない】,イストリア半島の併合が王国の今後の目標となりました。

 また,統一戦争時の混乱から,多くのイタリア移民がアメリカ合衆国に渡っていきました。特に工業化の遅れた南部出身者が多く,19世紀前半までにアメリカに移り住んだ移民(旧移民,the old immigrant)と区別し,東欧系の移民とともに「新移民」(the new immigrant) 【追H20時期(19世紀前半ではない)】と呼ばれることがあります。




・1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年にスエズ運河が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。 ・1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス

 「自由な競争が認められ,成功した人は,従来のように身分ではなく,才能や財産によって評価される」そんなしくみが,イギリスの社会を変えつつありました。政治家にのぼりつめた成功者は,自由な社会をつくるために新たな法律をつくり,ビジネスチャンスを求めて,国の力で海外に市場や支配地を求めるようになっていきます。イギリス製品を“自由”に売り込み,その原料や,農業をやらなくなった分だけ必要になった農産物の輸入を“自由”におこなう(自由貿易)を,武力を用いて他国(インドのムガル朝や,中国の清)に求めていく手法を,自由貿易帝国主義と呼ぶ研究者もいます。

 この時代に国を股にかけて活動したのが,ユダヤ人のロスチャイルド家です。すでに18世紀後半にドイツのフランクフルトで〈マイアー・アムシェル・ロートシルト〉(1744~1812)が,貴族への貸付を行うユダヤ人銀行家(宮廷ユダヤ人)として成功してました。彼の5人の息子は,フランクフルト・ウィーン・ロンドン・ナポリ・パリに支店を開業。1842年からはドイツの鉄道建設事業に投資をし,巨利を得ます。ロンドンとパリのロスチャイルド家は,のちに日露戦争のときに日本に巨額の貸付けを行ったことで知られます。ロスチャイルド家のような大銀行資本が,政府と結びついていく時代の到来です。

 安くて質の良いイギリス製品が,黙ってみていればドバドバと流入してくる現状に,プロイセンはさすがに焦りを感じていました。1851年にはロンドンで第一回万国博覧会(万国産業製作品大博覧会) 【東京H20[1]指定語句】【本試験H25,H29共通テスト試行 1932年ではない】【追H19。H30】が開かれ,入場者600万人以上という大成功を収めます。このとき,プロイセンもクルップ社の巨大な大砲を展示し,“軍国主義”的なイメージを来場者に与えることになりました。
 会場には,鉄骨とガラスを使った大規模な水晶宮(クリスタル=パレス) 【追H19,H25リード文・図版[3-C],H30】という建築物が登場し,国内外の人々を驚かせました。鉄を用いた建築技術や,照明技術の発達により,19世紀後半には大規模な建築物が次々と作られることになっていきます。

 これに焦ったフランスの自由主義者(産業資本家)は,ナポレオンの甥(おい。ナポレオンの息子(〈ナポレオン2世〉)には,妻子がいなかったため,甥が選ばれたのです)である〈ルイ=ナポレオン〉【本試験H7】を支持し,1852年には〈ナポレオン3世〉(位1852~70)として第二帝政を開始します(一度目は〈ナポレオン1世〉)【H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】。

 二月共和政となったフランスでは,臨時政府が〈ルイ=ブラン〉(1811~1882) 【本試験H12】【追H9】の学説を実践にうつし,国立作業場(こくりつさぎょうじょう,Atelier national)を設置しました【本試験H12】。しかし,国立作業場の実態は“自転車操業”状態であり,閉鎖に追い込まれました。こうした失政により急速に支持を失い,四月選挙で敗退。労働者らは六月暴動(六月蜂起)【本試験H7 1848年にルイ=ナポレオンが鎮圧したわけではない】を起こし社会不安が起きる中,11月には新しい憲法(三権分立)が制定されました。新憲法の下で立法議会の選挙が行われると,保守的な旧・王党派の秩序党が勝利。秩序党は労働者や農民の権利を縮小するため,1850年に国民の選挙権を制限する方針を示しました。
 そこに現れたのがナポレオンの甥〈ルイ=ボナパルト〉(1808~1873) 【本試験H13時期(1802~85)】です。彼は「男子普通選挙を守る!」とアピールし,圧倒的支持のもと1851年にクーデタを成功させ立法議会を解散し,人民投票でも圧倒的な賛成を受けました。さらに,1年後の1852年には帝政復活を人民投票で実現し,なんと皇帝に即位しました(第二帝政)。これが〈ナポレオン3世〉(位1852~70)です。彼は,国内の多様な集団の利害を,一見民主的な手続きをとりつつ,〈ナポレオン〉の甥という権威のもとで巧みにコントロールする政治手法(いわゆる“ボナパルティズム”)を用いました。フランスの国際的・経済的な発展を望んでいた多くの国民によって,彼の体制は支持されました。
 当時の資本家や政治家の注目を集めていたのは〈サン=シモン〉(1760~1825)【追H9ラッダイト運動を指導していない】の考え方(注)。彼は言います。
 「豊かになれば貧しさは消滅し,貧富の差もなくなる。政府は積極的に産業の振興につとめるべきだ」
 〈ナポレオン3世〉は「産業者」が政府に参加して経済を成長させるべきだ」と考える経済学者らをブレーンにつけ,経済改革を断行しました。例えば,スエズ運河【東京H15[1]指定語句】【本試験H14地図】建設(1869年開通【本試験H18時期,H29時期】)を主導した〈レセップス〉(1805~94) 【追H9 パナマ運河を建設していない】も〈ナポレオン3世〉のブレーンとなったサン=シモン主義者の一人です。
 鉄道網を整備したり,金融機関をつくって企業に投資する資金を確保したりなどして,1830年代に始まっていた産業革命(工業化)をいよいよ本格化させ1860年代には完了させました(フランスの産業革命(工業化)の進行は比較的ゆっくりとしたペースです)。当時に社会福祉を充実させる政策もとっていきます。
(注)同時期の社会思想家に,『愛の新世界』を著した〈フーリエ〉(1772~1837)【追H9二月革命後のフランス臨時政府に参加していない】がいます。彼は『四運動の理論』(1808)において,社会にも自然科学のように運動の法則があると主張し,理想的協同体(ファランジュ)の建設をめざしましたが,同時代に評価はかんばしくありませんでした。


 1860年になると,〈ナポレオン3世〉はいっそう自由主義的な政策をとるようになっていきました(自由帝政ともいわれます)。やはりサン=シモン主義者の経済学者・政治家の〈シュヴァリエ〉(1806~79)は,「すでにフランスは自由貿易をするための体力が整った。保護貿易はやめ,自由貿易のほうが国にとってメリットが大きい」と考え,自由貿易を推進する英仏通商条約を結びました。
 一方,この頃,画家の〈クールベ〉(1819~77)は「石割り」で,民衆の生活の苦しさを描いています。このように社会問題をありのままに表現しようとする美術は,「写実主義」と分類することが多いです。ほかに,七月王政に対する風刺版画で有名な〈ドーミエ〉(1808~79)が知られます。
 しかし,産業革命(工業化)により都市化が進むに従い,伝統的な農村の風景にこそ”忘れてしまった人間らしさ”があるのではないかと考える人々も現れます。代表的な自然主義の画家に,バルビゾン村の貧農の農作業を描いた「落ち穂拾い」〈ミレー〉(1814~75) 【本試験H18ルノワールではない】や,風景画を描いた〈コロー〉(1796~1875)がいます。

 一方〈ナポレオン3世〉は,1853~1856年【京都H19[2]年号】のクリミア戦争【京都H19[2]】【東京H20,H26[1]指定語句】【追H9】【早法H30[5]指定語句】で,イギリス【追H9】・サルデーニャとともにロシア【本試験H27ロシア側ではない】【追H9】の〈ニコライ1世〉(1868~1918,位1894~1917)と戦い,圧倒的な覇権を誇っていたイギリスにすり寄り,ロシアの南下を防ごうとしました(ロシアの皇帝は途中から〈アレクサンドル2世〉【本試験H25クリミア戦争を始めたのはニコライ1世】)。
 また,1859年のイタリア統一戦争,1856~60の清(しん)とのアロー戦争【本試験H12時期(1880年代かを問う)】,1862年のインドシナ出兵などなど,海外進出を加速させていきます。1861~67年には,南北戦争(1861~65)中のアメリカ合衆国のスキをついて,メキシコへの市場進出をねらいメキシコ出兵【本試験H6ヴィルヘルム1世によるものではない】【本試験H13時期(19世紀後半),本試験H19時期】もしています(これは最終的には失敗して撤退)。
 1867年にはパリで万国博覧会がひらかれました。これには日本(江戸幕府と薩摩藩と佐賀藩)が初めて出展し,“ジャポニスム”(日本趣味)が流行するきっかけとなり,フランスの美術界(とくに後の印象派)に影響を与えます。なおこのとき派遣された〈徳川昭武〉(徳川慶喜の弟,1853~1910)は,フランス滞在中に大政奉還の知らせを知りますが,そのままパリでの留学を続け,1868年に帰国しています。

 この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,〈ビスマルク〉(1815~98) 【本試験H9】【早法H28[5]指定語句】です。1862年にプロイセンの首相に就任(任1862~90)し,1864年にデンマーク戦争でホルシュタイン州とシュレスヴィヒ州を獲得【本試験H30】。さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に勝って【本試験H13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家(北ドイツ連邦【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国としました。

 北ドイツ連邦に加盟していなかったのは,バイエルンをはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
 「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
 南ドイツ諸邦は悩みます。

 そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に,ホーエンツォレルン家(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
 すでにアメリカの〈モース(モールス)〉(1791~1872) 【追H20コッホではない】が,点と線の組合せによるモールス電信(1838年頃まで)という有線電信を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。

 〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました(普仏戦争) 【本試験H27勝利していない】。アルザス地方とロレーヌ地方【本試験H24ウィーン体制の結果ではない】も,プロイセンにより占領されました。

 プロイセン国王〈ヴィルヘルム1世〉(プロイセン王在位1861~88) 【本試験H6メキシコ出兵をおこなっていない】は,1871年にフランスのヴェルサイユ宮殿で,南ドイツ諸邦を含むドイツ帝国(1871~1918) 【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の初代皇帝(位1871~88)に即位しました【本試験H6国民投票によるものではない】【本試験H18】。このとき宮殿を戴冠式(たいかんしき)に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。




・1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
 産業革命(工業化)の結果,19世紀後半には大半の人が都市に住むようになり,ロンドンの人口は膨れ上がっていきました。都市労働者の通勤が増加したことで,馬車の利用が増え,1858年には(馬糞による)大悪臭といわれる公害が発生。1832,48,65年にはコレラも発生しました。そこで,生物学の発展で感染症の発生を防ぐ公衆衛生の必要性が知られるようになると,下水道や上水道の整備が急ピッチに進み,1863年には世界最初の地下鉄(ロンドン=アンダーグラウンド,チューブ)が運行,1891年までに下水道が整備されていくことになりました。しかし,石炭の煤(すす)が原因のスモッグの問題はながらく解決されませんでした。
 ただ,「地下鉄」といっても,その経路は地表すれすれの浅い路線に限られ,動力も蒸気力でした。しかし,動力に電気が用いられた地下鉄道【東京H15[3]】が開発されると,1890年にはテムズ川底を横切る路線も開業します(パリは1900年,ベルリンは1902年,ニューヨークは1904年)。
イギリスでは1856年に〈ベッセマー〉(1813~98)が,安価に鋼を大量生産できるベッセマー法を完成させました。今後,鋼はさまざまな巨大建造物(工場・高層ビル・鉄道・自動車・蒸気船),さらにもちろん軍事技術に応用されていくことになります。
 また,世界初の実用的海底ケーブルが1850年にイギリスのドーバーとフランスのカレーの間にしかれました(翌年開局)。大西洋横断ケーブルも1858年に開通(直後に停止,1865年に復活)。これらの有線通信は,イギリスが世界中を植民地支配するにあたっても,大変便利な科学技術となりました。
 
 そんな中,〈ベンサム〉の主張していた功利主義を発展させたのが,イギリスの〈J.S.ミル〉(ジョン=ステュアート=ミル,1820~1903) 【慶文H29】です。彼は〈ダーウィン〉【追H29】の進化論【追H29】や,〈イエス〉の隣人愛の思想の影響を受けながら,人間は良心を持っているのだから外部から強制されなくても自然と社会全体の幸福を高めていくことができる存在だと主張しました。主著は『自由論』(1859),『功利主義論』(1861)で,1865年には下院議員に当選し,選挙法改正運動でも活躍しました。
 しかし,実際には資本主義社会はさまざまな問題も生み出していたのですが,功利主義の思想家〈スペンサー〉(1820~1903)は,人類の社会はどんどん良くなっていくものだから(社会進化論),必ず解決できるはずだと論じました。このように,ノリにのっているイギリスの思想では,ある意味”楽観的な”思想が主流だったのです。

 産業革命(工業化)が進行し,農村部の人々が都市部に移動すると,もともと農村で行われていたスポーツが都市の中流・上流階級にも伝わるようになりました。交通革命によって遠距離移動がカンタンになると,中・上流階級の通うパブリックスクールや大学同士の交流試合も増えていきます。ただ,そうした伝統的なスポーツはちょっと暴力的で,お祭り騒ぎからケンカ騒ぎに発展してしまうこともしばしばだったことから,“お行儀よく紳士的に”競技を行うためにルールの策定が必要になりました。例えば,1863年にロンドンでフットボール・アソシエーションが設立され,今日のサッカーが生まれました。また,テニスは1873年に軍人〈ウィングフィールド〉が考案し,1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されました。
 こうしてスポーツは,統一の規格への標準化が進んで,フェアプレーの精神が強調されていくようになるとともに,酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のための手段と考えられるようになっていきます。また,国家も,軍事力増強のために“健康で力強くたくましい”男子を育てる手段として重視するようになっていきます。

・1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

 1839年に独立が正式に認められた低地地方南部のベルギーはイギリスとフランスの間でうまくバランスをとろうとし,事実ベルギー国王〈レオポルド1世〉は,〈ヴィクトリア女王〉の親戚であるとともに,フランス七月王政の王〈ルイ=フィリップ〉の娘と結婚しています。
 独立後のベルギーにはイギリス・フランスからの資本が投下され産業革命(工業化)が起きました。国内では石炭が産出され鉄鋼業も栄えます。1850年にはベルギー国立銀行も設立されました。

 1865年にはその子〈レオポルド2世〉(位1865~1909)が王位を継承しました。
 ルクセンブルクでは国内に鉄鉱石が発見され,1834年に発足したドイツ関税同盟の一員として工業化を進めていきました。

 なお,1860年には日本の〈勝海舟(かつかいしゅう)〉艦長が咸(かん)臨丸(りんまる)に乗って,アメリカ合衆国のポーハタン号とともに日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカ合衆国に旅立っています。この咸臨丸はオランダ製です。




○1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
・1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 大公をロシア皇帝が兼ねるフィンランド大公国では,従来のスウェーデン語(フィンランド貴族はスウェーデン語を話していました)でもなくロシア語でもない,フィンランド語による独自の文化を守ろうという運動が起きています。それに対し,スウェーデンやデンマークではスカンディナヴィアの一体性を説くスカンディナヴィア主義も唱えられ,フィンランド人の民族意識は東(=ロシア)と西(=フランスを初めとする西欧),またはスカンディナヴィアという共通項とフィンランドという独自性をめぐって揺れ動いていました。
 またフィンランドの南部にはスウェーデン語を母語とするスウェーデン系フィンランド人も居住していましたが,1809年にフィンランド大公国が建設されると,これを建設したロシアは彼らを「フィンランド人」として統治に組み込みました(例えば,のちにキャラクター「ムーミン」を生み出した絵本作家の〈トーベ=ヤンソン〉(1914~2001)も,スウェーデン系フィンランド人です【本試験H30地理B】)。

 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とするクリミア戦争(1853~56) 【東京H20,H26[1]指定語句】が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(位1855~81)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。


・1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 1846年にイギリスが穀物法を廃止したことを受け,デンマーク王国はイギリス向けの農産物輸出を本格化させていきました。1864年にはプロイセンとの戦争でスレースヴィとホルステン(ドイツ語ではシュレスヴィヒとホルシュタイン)を失うことになるものの,教育機会にも恵まれた自作農らによる積極的な荒れ地の開墾と畜産・酪農の発展が進められ,協同組合を設立して輸出を増やしました。デンマークで生産されたベーコンやバターは,“イギリス人の朝食”にとって欠かせないものとなりました(注)。
(注)百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社,1998,p.247。

・1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 デンマークの支配におかれていたアイスランドはイギリスへの接近を図り,漁業や食品加工業によって国力を高めつつ,1843年に復活した諮問議会のアルシングを中心に,デンマークからの独立志向を強めていきました。
 デンマークは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に植民地を建設していました,1850年にイギリスに売却されました。
 また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄え,奴隷貿易は1807年に廃止されていましたが,奴隷制は1848年に廃止されました。インド東南のベンガル湾上に浮かぶニコバル諸島は1868年にイギリスに売却されました。

 フランスの二月革命を震源としてヨーロッパ全域に自由主義と民族主義を求める動きが広がりましたが,ユトランド半島の南ユラン問題(スレースヴィ(シュレスヴィヒ)とホルステン(ホルシュタイン)の帰属をめぐる対立)を抱えるデンマーク以外では情勢は比較的落ち着いていました。
 デンマークでは,〈クリスチャン8世〉(位1839~48)に代わった〈フレデリク7世〉(位1848~63)がスレースヴィ=ホルステン公国の併合を表明すると,1848~52年に第一次スレースヴィ=ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)戦争が勃発。両者は成果を得ないまま,ロンドンで講和しました。

 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とするクリミア戦争(1853~56)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。

 その後,1863年にデンマーク王国はホルステン(ホルシュタイン)をデンマークから切り離し,スレースヴィ(シュレスヴィヒ)はデンマークに残すという方針に憲法を改正。それに反発したプロイセンの〈ビスマルク〉首相は王位継承規定が先のロンドンでの講和の規程に反していると主張し,オーストリアを誘って開戦し,第二次スレースヴィ=ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)戦争(いわゆるデンマーク戦争)が始まりました。〈ビスマルク〉は,スレースヴィユトランド半島の付け根を獲得することで,北海とバルト海を結ぶ運河を建設したかったのです。降伏したデンマークは,ホルシュタインをオーストリアの管理下,シュレスヴィヒとキール港をプロイセンの管理下に置き,ラウエンブルクをプロイセンに買収させました。しかしオーストリアのホルシュタイン管理をめぐる対立からプロイセンはオーストリアと対立,1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)に発展しました。
 その後のデンマーク人にとって,デンマーク人の住むスレースヴィ(シュレスヴィヒ)北部の返還が,政治的な宿願となりつつ,先述のように内政と国力の充実が優先されるようになっていきます。このへんの話は宗教家〈内村鑑三〉(うちむらかんぞう,1861~1930)によって感銘をそのままに『デンマルク国の話』で語られています(注)。
(注)内村鑑三『デンマルク国の話』青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/card233.html。以下,青空文庫より引用「デンマークは1864年,ドイツ,オーストリアに迫られて開戦に追い込まれる。敗戦によって国土の最良の部分を失ったこの国は,困窮の極みに達する。そのヨーロッパ北部の小国が後に,乳製品の産によって,国民一人あたりの換算で世界でももっとも豊かな国の一つとなった。荒れ地を沃野に変えて国を蘇らせたのは,天然と神に深く信頼し,潅漑と植林の技術をもって樹を植える事に取り組んだ人の営為だった。」


・1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 ノルウェー王国は1814年以降スウェーデン王国との「同君連合」をとっていましたが,それも名ばかりで,外交権はスウェーデンが持ち,スウェーデン優位の体制となっていました。

・1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とするクリミア戦争(1853~56)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(位1855~81)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。



●1870年~1920年の世界
世界の一体化①:帝国の拡大Ⅰ
欧米諸国で国民国家の形成がすすみ,帝国主義的進出をはかるようになる。アフリカとオセアニアの分割が本格化し,列強(欧米の大国)は第一次世界大戦に突入。反戦運動からロシアで社会主義勢力が政権を実現するが,民族運動は各地で抑圧される。

この時代のポイント
(1) 「大不況」と新産業の出現により巨大企業と金融資本が結びつき,帝国主義が推進される。アメリカ合衆国【本試験H4産業革命の始まりの時期】とドイツ【本試験H4産業革命の始まりの時期】を中心に第二次【追H20】産業革命(工業化) 【本試験H6】が起き,イギリスは「世界の工場」の座を降りた【本試験H6第二次産業革命の結果,イギリスが「世界の工場」になったわけではない】。代わって,イギリス帝国は保険・運輸・サービスなどによる収入を確保するとともに,インドからの「本国費」で輸入超過の赤字を穴埋めしていた。

(2) 一方,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える。1880年代以降,西ヨーロッパ諸国により徹底的に植民地支配を受けたアフリカ大陸でも,支配への抵抗運動が生まれている。

(3) 「世界分割」に乗り遅れたドイツは「再分割」を要求。紛争の国際的な解決をめざす動き【早法H30[5]指定語句 論述(19世紀末~1920年までの代表的な動き・内容を述べる)】もあったが,第一次世界大戦【追H30グラフ読み取り:年号を問う】に向かうことになる。高度に発達した科学技術により新兵器が生み出され,未曾有の死傷者を出した。他方,ロシアでは社会主義革命(ロシア革命)が成功し,先進資本主義国との対立をもたらした。

解説
◆「大不況」と新産業の出現により巨大企業と銀行資本が結びつき,帝国主義が推進された
先進工業国で大不況後に金融資本の形成が進む
 1873年にはウィーンにおける株価暴落に始まる「大不況」【本試験H5「1870年代に起こった恐慌」がトラストなどによる資本と企業の集中・独占を促したか問う】が始まり,1896年まで続く世界的な経済危機となりました。
 この不況の原因は複合的ですが,70年代前半に,欧米各国で金本位制が採用され,従来は高かった銀の価値が暴落したこと。第二次産業革命【東京H9[3]】【追H20】により重化学工業がさかんになったことで,従来型の産業(繊維工業や農業)がふるわなくなったことなどが関係しています。
 新たな産業には,以前よりも多額の資本が必要となったため,資金調達のために産業は銀行資本との結びつきを深め,独占的な金融資本【本試験H5トラストなどによる資本の企業の集中・独占,本試験H6「独占資本」】を形成するようになっていきます。
 国内だけでは資源と人口に限りがありますから,欧米(のちに日本)の諸国は競って海外の領土支配に乗り出したり,勢力圏を広げて鉄道や工場を建てる直接投資を進めたりしていきます。つくった物を単純に外国に運んで売るのではなく,生産設備を建設するなど資本を外国に投入することを「資本輸出」【本試験H6】といいます。

 日本はヨーロッパ向けに生糸を生産していましたが,生糸価格が暴落すると日本で生糸生産に携わっていた豪農が没落するきっかけとなりました。フランス向け生糸を生産していた秩父の生産者は,1882年にリヨン製紙取引所での生糸価格が大暴落により打撃を受け,1884年の大規模な農民蜂起(秩父(ちちぶ)事件)へと繋がります(注)。
 不況を解決するため,1880年代以降になると,ヨーロッパやアメリカ(欧米)に台頭した「国民国家」群は,アフリカ,アジア,太平洋,カリブ海へと進出をし,植民地にしたり勢力圏に加えたりするようになっていきます(世界分割)。このように,産業化を背景にして対外進出を積極的に行う動きを帝国主義といいます【本試験H6「帝政」をとる帝国主義陣営と,「共和政」をとる反帝国主義陣営との間で対立が深まったわけではない。帝国主義諸国の国内で,軍部・特定政党による独裁化がすすみ議会政治が衰退したわけではない】。

 世界史の中に,広大な領域を支配する「帝国」は数多く存在しましたが,この時期のように「国民国家」が競い合って国外に進出し,異なる人間集団をさまざまな形で支配下に置いていくようになるのは,この時期に特有の現象といえます。「国民国家」群は,国内の住民を「国民」として統合しながら,国外の植民地等の住民を本国の「国民」とは別の枠組みで支配することにより,本国と植民地の住民の間にはさまざまな「帝国意識」が形成されていきました。

 1880年代以降は,特にアフリカに関心が集中します。
 通貨の価値を裏付けるものとして,重要性の高まっていた金(きん)を獲得するためです。
 中央ユーラシアでもイギリスとロシアが“グレート=ゲーム”と呼ばれる勢力圏争いの火花を散らし,短期間で近代化を達成し大陸進出を狙う日本はイギリス側について日露戦争(1904~05)を戦うことになります。
(注)脇田修・大山喬平他編『日本史B 新訂版』実教出版,2017年,p.247。



◆アメリカ合衆国とドイツを中心に第二次産業革命が起きた
石油と電気の時代がやってきた
 産業革命(工業化)を達成したイギリスを追いかけて,ヨーロッパ諸国やアメリカも“追いつけ追い越せ”で産業革命(工業化)を成功させていきます。19世紀後半には,ドイツとアメリカ合衆国が,イギリスを追い抜く勢いをみせ,科学技術の発達により動力が石炭・蒸気力から石油・電力にシフトすると,重化学工業【追H20】を専門とするより大規模な企業が登場して急速に工業化をすすめるようになっていきました(第二次産業革命【東京H9[3]】【追H20】)。日本も「大不況」(1873~96)の際の銀価格の低下を追い風に輸出を増やし,松方デフレから回復,産業革命(工業化)へとつながっていきます(日本の産業革命(工業化))。
 巨大企業の発展で中小企業がつぶれたり,都市の発達で農業に携わっていた人々が失業したりすると,仕事にあぶれた人たちはやむを得ず国を離れて,外国を目指しました。彼ら移民の向かった先として人気だったのはアメリカ合衆国。“自由の国”アメリカでアメリカン・ドリームをつかむことを夢見て,大西洋を横断した移民が初めに降り立つのはニューヨークのエリス島。近くには1886年にフランスから贈られた自由の女神像がたっています。19世紀後半から第一次世界大戦にかけ,ヨーロッパからアメリカ大陸にはじつに5000万人が移動したと計算されており(注),特に多くの移民を受け入れたアメリカ合衆国における社会の多様性が高まりました。一方,巨大企業の経営陣は,大量の原料を輸入するために海外の植民地の獲得を政府に要望するようになっていきます。
 1890年代【上智法(法律)他H30大陸横断鉄道開通から約20年後か問う】にフロンティアが消滅したアメリカ合衆国は“太平洋側”への進出を積極化させ,カリブ海,オセアニアや東南アジア,東アジアへの進出を加速。海軍力の大幅な増強が叫ばれたのも,この時期です(大海軍論【上智法(法律)他H30】)。
 1914年【追H25】には大西洋【セA H30地中海】と太平洋【セA H30紅海】を直結させる【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】を開通させ,次第に“太平洋国家”を目指すようになっていきます。
(注)木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.97。

◆イギリス帝国による覇権が拡大する一方で,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える
イギリスの覇権(ヘゲモニー)の下,アジア間交易が盛り上がる
 従来,「イギリスの産業革命の結果,インドを初めアジアの伝統的な工業は衰退した」という説明がなされることが少なくありませんでした。
 しかし,それでは19世紀後半に,アジア各地で工業化が進み,商人のネットワークが張り巡らされていた事実を説明することはできません。
 ある時点で,ある要因により,“勝ち組”の欧米と,“負け組”のアジアが「分岐」したという説明も,同様です。
 もちろん,19世紀後半のイギリスは,地球規模の影響力を行使することのできる唯一の国家でした。こういう国家のことを,覇権国家〔ヘゲモニー国家〕といいます。
 影響力には軍事力のようなハード面だけでなく,リンガ=フランカ〔国際公用語〕としての英語や,安全な海運,世界標準時,自由貿易のルール【H30共通テスト試行 統計読み取り(綿糸価格が低下していった理由の一つが「保護貿易によって、輸入品の価格が下がったこと」ではなく、自由貿易が進展したことであると推論する】,決済手段としてのポンドといったソフト面も含みます。

 この時代を読み解くには,世界の覇権を握るイギリスが地球規模で提供したソフト,ハード両面の制度の下で,その恩恵にあずかりながら植民地インドや日本の実業家が,工業化を発展させていった事実を整理する必要があります。いたずらに,「帝国主義によってアジアの発展は遅れた」ということはできませんが,イギリスが自由貿易体制を世界各地の植民地内外に広めていったからこそ,綿業を基軸とし,それを呼び水として消費財に拡大したアジアの工業化や,日本,清と香港,東南アジア,植民地インド一帯のアジア間交易は発展していったのだとも考えられます。
(注1)秋田茂「綿業が紡ぐ世界史」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』名古屋大学出版会,2013,p.262。

 イギリスは17世紀~20世紀末にかけて,①世界各地の白人定住植民地(自治領;ドミニオン)…オーストラリア,カナダ,ニュージーランド,②非「ヨーロッパ」諸地域の植民地(英領インド,マラヤ,香港など)により構成されるイギリス帝国(いわゆる「大英帝国」)を形成していきました。特に19世紀後半~20世紀前半【東京H8[1]19世紀中頃から20世紀50年代までの「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退について述べる問題】のイギリスがつくりあげた国際秩序をパクス=ブリタニカ【東京H8[1]指定語句】といいます。

 この国際秩序を維持するためにイギリスは,コストのかかる官僚組織や軍事力を用いて各地の植民地を支配しながら,同時にさまざまな “しくみ” を構築していきました。
 ・自由貿易【東京H8[1]指定語句】のルール(国際取引法などの国際法)
 ・物流ネットワーク(世界各地を結ぶ定期航路)
 ・国際経済制度(金と兌換(だかん)できるポンド(スターリング)を基軸通貨とする国際金本位制の仕組み,ロンドンのシティを中心とする国際金融業)
 ・国際郵便制度
 ・国際標準時
 ・国際共通語(リンガ=フランカ)としての英語
 ・通信ネットワーク(海底電信網や通信社によるニュース情報(1851年にロイター通信が設立されています))
 ・安全保障制度(王立海軍やインド軍(陸軍)を世界規模で配置し,スエズ運河ルートと喜望峰周りルートを保護)
 世界各地の取引に使われたのはイギリスのポンド(スターリング)手形であり,19世紀末~20世紀初めには世界の経済をポンドが巡る多角的な決済機構が成立していました。この時期のイギリスは“世界の工場”というよりは“世界の銀行”であったといえます(この時期のイギリス経済を,歴史学者〈ケイン〉と〈ホプキンズ〉(1938~)は「ジェントルマン資本主義」と表現しています)。
 イギリスは日本同様,島国であるため食糧を輸入したり工業製品の原料を輸入する必要があり,貿易赤字(輸入>輸出。つまり輸入超過)にありましたが,鉄道敷設【東京H15[3]】など海外投資による利子・配当金収入や保険金,船の運航費,それにインドから送られる本国費によって穴埋めしていくようになります。
 イギリスが「世界の工場」から「世界の銀行家」になっていく境目は1870年代の「大不況」以降のこと。マンチェスターの製造業を中心とする「モノの輸出」から,ロンドンのシティの金融業者中心とする「カネ・サーヴィスの輸出」。この変容後のイギリスの経済構造を,〈P.ケインズ〉と〈A.G.ホプキンズ〉は,「ジェントルマン資本主義」と表現しました。
 陸軍の主体となったインド軍とともに,この時期のイギリスにとってのインドはまさに“生命線”だったのです。

 イギリスによる世界各地の国家・植民地同士を結ぶ貿易のもとでも,アジアの地域内では盛んに貿易が行われていました。中国人,インド人,日本人の出稼ぎ労働者が各地で生産に携わり,各地の商人も工業化を進め,資本を蓄えていきました
 アジア間交易が盛んになればなるほど,「ゲームのルール」を整備しているイギリスは儲かります。
 すなわち,交易の利便性を高めるために港湾・鉄道・電信網などのインフラ整備のために株式や債権を発行したり,商社の取引手数料・海運収入を得ることで,先のロンドンのシティの金融業者の元に利益が舞い降りていくシステムとなっているのです。

 この過程で,アジア内部には,商品作物・穀物の生産や天然資源の採掘に携わる地域と,金融に携わる地域,輸入代替工業(輸入品を自国で生産する工業)を盛んに進めていく地域といった違いがみられるようになります。宗主国が特定の集団を経済的に優遇したり,外部から労働者を連れてきたりしたことで,アジアの伝統的な社会にも変化がもたらされました。

 植民地を含めたアジア内部での綿業を中心とする交易(アジア間交易)が活発に行われることで,日本だけでなく植民地統治下のインドや東南アジア各地,一部が欧米の勢力圏に置かれた清の商工業者が競って交易活動に従事し,アジア各地で民族資本家が成長していきました。宗主国と植民地住民の間に新たなエリート階層を形成し,植民地経営に協力する者だけでなく,民族独立運動を推進する主体も現れるようになりました(反植民地主義,反帝国主義)。
 近代化による改革を説くグループと,「伝統に戻るべきだ」と考えるグループ,さらに両者をうまく折り合わせようとするグループなどが各地で活動をすすめます。

 ただ,いち早く近代化を推進していた日本はイギリスにとって格好のパートナーとして目をつけられることになります。例えば,日本は日清戦争(1894~95)の賠償金をポンドで受け取っていますが,これはそのままイングランド銀行の日本銀行の講座に外国為替基金として預託されたのです。この基金を金準備に,1897年に日本銀行は従来の銀本位制から金本位制に転換することができたわけです(注)。これにより日本はイギリスのポンドを中心とする国際的な決済の仕組みの一員に加わり,イギリスにとっても金準備を維持するためには好都合でした。ポンドは金との兌換(だかん)が保証された通貨だったので,イギリスがしっかりと金を準備しておかなければ,ポンドの国際的な信用が下がってしまうからです。イギリスは金融面で日本との関係を緊密にする一方で,1902年には日本の軍事力によってロシア帝国の南下をおさえようと日英同盟を締結しています(1905,1911に改定・更新)。日露戦争の戦費調達にあたって,イギリスにおけるユダヤ系のマーチャント=バンカー等から多額の外債を発行し,イギリス製の軍艦や装甲巡洋艦を購入することができたのも,日本とイギリスの緊密な連携関係が背景にあったのです。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議では,民族自決の適用はヨーロッパに限定されましたが,戦後に設立された国際連盟で,日本は常任理事国【本試験H5ソ連とアメリカは常任理事国ではない】の地位を得ています。このときに事務次長の一人に選ばれたのが著書『武士道』で世界的に知られていた〈新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)〉(1862~1933,任1920~1926)です。
(注)秋田茂「アジア国際秩序とイギリス帝国,ヘゲモニー」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.107。

 世界分割に乗り遅れたドイツは「再分割」を要求し,第一次世界大戦を誘引します。
 また,先進資本主義国の“最終形態”である帝国主義戦争に反対したロシアの社会主義者が,第一次世界大戦中に資本主義に代わる新たな体制を打ち立てるロシア革命を成功させたことは,世界各地の植民地に反対する運動や資本主義を批判する運動に大きな影響を与えました。第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議では,資本主義的な経済の立て直しと延命が目的とされ,社会主義の考え方と鋭く対立しました。


◆近代科学技術・思想がヨーロッパによる支配を支えたが,第一次世界大戦における大量殺戮を招いた
 植民地から輸入された原料で生産された製品が欧米の国民生活を向上させていくと,19世紀前半のように労働者vs資本家という戦いの構図がだんだん薄れていきます。生活レベルが上がり,労働者がだんだんと現状に満足していくようになったからです。資本家と戦うよりも,給料アップを目指して,資本家と“なあなあ”の関係を築いたほうがマシだと感じる労働者が増えたのです。
 国家は,国民の多数を占めるようになっていた労働者のご機嫌をとるために,「社会福祉」を重んじるようになっていきます。例えば,年金・保険制度の充実です。国や企業は,余暇を労働者に奨励し,週末になると海水浴やスポーツ,旅行などのレジャーが盛んになっていきます。労働者が,週末に酒や賭け事等いかがわしいことに手を出さないようにし,ちゃんとした遊びを提供したほうが治安も良くなりますから。
 こうして,だんだんと欧米各国の内部で,労働者も資本家も“みな一つの国民”という意識が強まっていったのもこの時期です。さらに通信社や新聞社の発達によって,メディアを通して世界各地の植民地の様子が伝えられるようになると,「野蛮」なアジア・アフリカ・太平洋・ラテンアメリカに比べて,欧米諸国はきわめて「文明」的である!という優越意識も同時に芽生えるようになっていきます。科学者の中には,うさんくさい証拠を並べ立てて,欧米の白色人種のほうが,黒人や黄色人種よりも生物学的に優秀だと主張するも現れました。特に,生物学者〈ダーウィン〉(1809~82) 【本試験H12カントとのひっかけ】【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦),追H29】の進化論【追H20,追H29】(『種の起源』(1859))における適者生存(環境によりよく適応できた種が生き残る)の説が,人種間や人間社会の優劣にも都合よく適用されていきました(社会ダーウィニズムといいます【H29共通テスト試行 内ロマン主義ではない】)。また,発表当時は注目されませんでしたが,〈メンデル〉(1822~84)【本試験H17 時期】【追H19】が現在のチェコで遺伝の法則性【本試験H17相対性理論ではない】【追H19、H25相対性理論ではない】を発見しています。

 たしかに,ヨーロッパは,コミュニケーション手段や軍事力の分野において,ヨーロッパ以外の地域を圧倒していきました。1874年に万国郵便連合が結成されたことで,世界中どこでも郵便が送られるような制度が整えられていきました。また,1880年代に〈ハイラム=マキシム〉(1840~1916)により発明されたマキシム機関銃【追H29ナポレオン戦争のときには開発されていない】は,植民地支配に強力に貢献しました。

 電信技術の発達もめざましく,アメリカの〈ベル〉(1847~1922) 【本試験H11:モールスではない】【追H20コッホではない】は1876年に電話機【本試験H11】を発明しました。さらにイタリアの〈マルコーニ〉(1874~1937) 【東京H15[1]指定語句】【本試験H11:ヘルムホルツではない,本試験H12】は1895年に無線電信機【本試験H11:ヘルムホルツではない,本試験H12時期を問う(19世紀後半)】を発明しています(1896年に電信装置を携えてロンドンに渡り,イギリスで特許を取得しました)(注)。
 こうした科学技術の発達は第一次世界大戦で遺憾なく発揮され,未曾有(みぞう)の犠牲者をもたらすことになります。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123

 交通機関の発達としては,アメリカの〈ライト兄弟〉(兄1867~1912,弟1871~1948)が初の動力飛行機【本試験H2時期(第一次世界大戦後ではない)】「フライヤー1号」(1903)を発明しました。一生涯で特許を1300もとったアメリカの〈エディソン〉(1847~1931) 【追H27】【本試験H21自動車の大量生産方式ではない】は,蓄音機(フォノグラフ。ただし実用化に寄与したのはドイツ出身のアメリカ人〈ベルリナー〉(1851~1929)のレコード盤式蓄音機グラモフォン(1887)),電球【追H27「電灯」】,映画【追H30時期(19世紀初頭ではない)】を発明しています。「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗からなる」は,小学校を中退して発明家となった彼の名言です。

 このような対外進出と同時に,ヨーロッパ各国は国内で起きている“労働者vs資本家”の対立軸の代わりに「国民国家」の仲間意識を作り上げることによってまとめ上げようとしました。「みんな同じ国民なんだから」という理屈で,国内の少数派を押さえ込むことで,国内のさまざまな立場の人々を“一枚岩”にまとめあげようとしていったのです。
 帝国主義による植民地の取り合いをめぐる対立は,アジアやアフリカ,バルカン半島,中央ユーラシアで激しくなりましたが,この時期には従来は足を踏み入れることができなかった極地探検も”国家プロジェクト”として積極的に行われました。
 まずは,寒い地域への到達。アメリカ人の〈ピアリ〉はグリーンランドを探検し,3回目の挑戦で北極点に史上初めて到達しました(1909) 【追H27クックではない】。さらに,ノルウェーの〈アムンゼン〉(1872~1912) 【H30共通テスト試行 時期(14世紀あるいは1402~1602年の間ではない)】は,1911年南極点に初めて到達しました。イギリス人の〈スコット〉(1868~1912)は,2度目の南極探検で南極点に到達しましたが,帰りに遭難死しました。
 北極も南極も過酷な環境です。しかし,北極点に立つと,ユーラシア大陸全域と北アメリカ大陸を,そして南極点に立つとアフリカ大陸・南アメリカ大陸や,インド洋や大西洋などを射程範囲に修めることができます。戦略的に重要視されたわけです。

 このように列強は急速に対外拡大を進めていたものの,19世紀末からは好景気がつづきヨーロッパやアメリカの中心地では大きな戦争は起こりませんでした。
 しかも,生活水準はどんどん上がり,国民は日進月歩で進展していく科学技術の恩恵を受け,都市の生活を謳歌するようなっていきました。都市の人々は,多くの人々の群れの中にあって,だんだんと自分の考えを主張するというよりは,他の人の動きを見ながら,自分の考えを決定していく傾向が見られるようになっていきます。経済が発展していくにつれ,可もなく不可もないそれなりの生活を送ることができる中間層が20世紀にかけて生まれていきました。彼らは国家による社会福祉を受けながら,消費(買い物)を楽しむようにもなっていきます。このような社会を大衆社会といい,「総力戦【東京H18,H30[1]指定語句】」となる第一次世界大戦では社会主義の政党,労働組合も国家に協力する動きもみられました。

◆西ヨーロッパ・中央ヨーロッパを中心とする国際的な運動が盛り上がる
 この時期には,ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を中心として,世界のさまざまな制度を標準化しようとする動きがみられました。例えば,世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議で本初子午線として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。
 1899年と1907年の2回にわたり,オランダのハーグ【本試験H5アムステルダム,パリ,ジュネーヴではない】で万国平和会議【本試験H5】【早法H25[5]指定語句】が開かれ,戦争にかかわる国際法が多く定められました。また,戦争の被害者が増大するなか,スイスの実業家〈アンリ=デュナン〉(1828~1910)が1863年に国際赤十字【本試験H8】を設立しました。彼はイタリア統一戦争時にソルフェリーノの戦いの激戦地で救援活動に当たり,国を越えた医療の協力関係の必要性を痛感したのです。第一回ノーベル平和賞を受賞しています。
 各地で盛んになっていたスポーツ競技の国際大会を設立しようとする動きも高まり,フランスの〈クーベルタン男爵〉(1863~1937)が,古代ギリシアで行われていたに古代オリンピックを復活させる形で近代オリンピックを提唱し,1896年には第一回アテネ(アテーナイ) 【東京H14[3]】大会が開かれました。 帝国主義に反対しつつ,労働者の国際的な連帯を生み出そうとしたのが,1889年にパリ【追H26】で成立した第二インターナショナル【追H26】です。ドイツ社会民主党(SPD,エスペーデー)を中心とし,第一インターナショナルとは異なり個人資格ではなく,イギリス労働党やフランス社会党などの1国1政党が中心となって,社会主義の運動を世界に広げようとしました。しかし,第一次世界大戦の開戦時には,「今は自分の国のために戦うべきだ」という世論が大きくなり,第二インターナショナルは分裂してしまいます【本試験H9 開戦直後,各国の社会主義政党は一斉に反戦運動を展開したわけではない】。



◆1914年~1918年 第一次世界大戦
【本試験H29年代を問う】【追H29年代を問う】
「総力戦」が,人類の社会を大きく変えた

 この項では,第一次世界大戦にともなう世界的な動きを,まとめて扱っていきます。
 オスマン帝国で1908年に青年トルコ革命(サロニカ革命)【追H17時期は第一次バルカン戦争後ではない】がおきると,混乱に乗じてオーストリアは,ボスニア州とヘルツェゴヴィナ州(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)を併合しました。この2つの州にはスラヴ系の住民が多かったので,ロシアだけでなく南スラヴのリーダーを自任していたセルビアを中心に,オーストリアへの反発が高まりました。
 対抗したロシア【本試験H26フランスではない】は1912年に,バルカン諸国をまとめ(バルカン同盟) 【本試験H25】,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いのセルビア,ドナウ川下流のブルガリア,アドリア海沿岸に近いモンテネグロ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,ギリシア(すでにオスマン帝国から独立済み)です。
 オスマン帝国が,イタリアとの戦争(イタリア=トルコ戦争,1911~12)に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦(第一次バルカン戦争),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
 しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,ブルガリア vs 他の3か国の争いに発展してしまいます(第二次バルカン戦争)。
 敗れた【本試験H13勝利していない】ブルガリア【本試験H13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】は,ロシアではなくオーストリアとドイツ側に接近するようになっていきました。
 そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合したボスニア=ヘルツェゴヴィナ(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これをサライェヴォ事件【本試験H15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】といいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです(注)。
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。

 サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアはセルビアに対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいます)。

(1)ドイツ=オーストリア vs セルビア
すると,セルビアはバルカン同盟に所属していますから,後ろ盾のロシアはセルビアを支援します。
(2)ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア
 そうすると,露仏同盟,英露協商が適用され,イギリスとフランスも参戦します。
(3)ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア=フランス=イギリス
さらに,イギリスの同盟国である日本も参戦します(1902年日英同盟)。

(4)ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア=フランス=イギリス=日本
 また,オスマン帝国とブルガリアは,ドイツ=オーストリア側で参戦。

(5)同盟国(中央同盟国) :ドイツ,オーストリア【本試験H9ロシア側ではない】,ブルガリア【本試験H9】,オスマン帝国【本試験H9ロシア側ではない。同盟国側にスイス,イタリア,ベルギーはない】
  協商国(連合国)    :セルビア,ロシア,フランス,イギリス,日本

このように,いつのまにか複数の国家が,今まで結んでいた同盟や協商の関係を連鎖的に適用して次々に参戦していく事態になってしまいました。これが未曾有の被害をもたらす第一次世界大戦【本試験H7時期を問う】の始まりになろうとは,開戦当初は思いもよらないことでした。

 イギリスは1901年に〈ヴィクトリア女王〉が亡くなると,すでに同君連合が解消されていたドイツのハノーファー家を家名として名乗るのをやめて,夫〈アルバート〉のほうの出身家名をとってサクス=コバーグ=ゴータ朝に変更されていました。この王朝の長男〈エドワード7世〉(位1901~10)ですが,〈ヴィクトリア〉の血統がとだえたわけではないので,ハノーヴァー朝と呼び続けることが普通です。ドイツとの親戚関係があること自体は仕方がないわけですが,第一次世界大戦中が勃発すると,「さすがに敵国であるドイツの領邦の名がついているのはマズい」ということになり,1917年に王宮があった地名をとってウィンザー家に家名を変更しています。それ以降のイギリスはウィンザー朝と呼ばれ,現在に至ります。 
 さて,ドイツはかねてから立案していた作戦どおり,「短期戦」で決着をつけようとしていました。短期間でフランスに進入するためにドイツをはじめとする同盟国【本試験H15】がとったのは,1839年以来永世中立国であったベルギーに進入【本試験H15】すること。一気に北フランスに入ろうとしたのです。しかし,フランスは1914年9月のマルヌの戦い【本試験H31】でこれを防ぎ【本試験H31防げなかった(=ドイツの進撃を阻止できなかった)わけではない】,ドイツ軍とフランス軍は地中に溝を掘って,相手の出方をうかがいながら一進一退を繰り返すことになりました。地上に出てしまうと,機関銃【追H29ナポレオン戦争時に開発されていない】,戦車(タンク 【本試験H9】【本試験H27】。1916年のソンムの戦いでイギリス軍により使用開始)などの攻撃を受ける恐れがありましたし,空から飛行機【本試験H2時期(動力飛行機は第一次世界大戦後に発明されたのではない),本試験H9】によって偵察【本試験H9】や爆撃(空爆)【本試験H9】を受ける可能性もあります。この溝(みぞ)のことを塹壕(ざんごう)といいます。
 雨がたまってビショビショになり感染症が蔓延し,冬は凍えるほど寒くなるという過酷な環境に対応するために,トレンチ(塹壕)コートという軍服が考案されました。
 この塹壕に毒ガス(化学兵器)【本試験H9】が投入されては一巻の終わりです。ドイツの化学者〈ハーバー〉(1868~1934)らによる開発の成果は,1915年にイーペルの戦いでのフランスに対する塩素ガスの攻撃で遺憾なく発揮されました。〈ハーバー〉は化学肥料などに使用される窒素化合物を生成するためのハーバー=ボッシュ法の開発の功績がみとめられ,1918年にノーベル賞を受賞していますが,“化学兵器の父”ともいわれます(20世紀末の日本でオウム真理教が長野県と東京都で一般市民に対して使用したサリンは,第二次世界大戦中にドイツが量産を計画した化学兵器です)。塹壕(ざんごう)戦【本試験H9】で感染症に倒れる兵士を見たことがきっかけとなり,イギリスの生物学者〈フレミング〉(1881~1955)は,1920年代の研究中に重なった偶然により,抗生物質ペニシリンを発見することになります。
 これらの新兵器によって,従来の戦争とは比べ物にならないほど,死者数が膨れ上がりました。戦争の悲惨さは,ドイツの作家〈レマルク〉(1898~1970)の『西部戦線異状なし』にも描かれています。科学技術の発達によって,戦場における大量殺害が可能となってしまったのです。戦場から帰ってきた兵士には,塹壕で砲撃の爆音を聞き続けた恐怖から精神的な後遺症(シェル=ショック)といった精神疾患を患う者も多く,夢分析で知られる〈フロイト〉(1856~1939) 【追H25】による精神分析学【追H25】研究など精神医療が発展していきました。その後の第二次世界大戦にいたると,大量殺害の現場は,一般庶民の暮らす町にも及んでいくことになります。

 当初の「電撃戦」プランの狂ったドイツは,ロシアに対する東部戦線(フランスに対する戦線を西部戦線といいます)では,1914年8月にタンネンベルクの戦いでロシアを破ることに成功。この時の将軍〈ヒンデンブルク〉(1847~1934) 【東京H12[2]】は,のちにドイツの大統領となる人物です。ちなみにこの地では1410年にも「タンネンベルクの戦い」があって,ポーランドとリトアニア軍が,ドイツ騎士団に勝った戦いでした。この時は負け戦でしたが,「その雪辱をついにはらした!」ということで,その勝利はドイツで祝福されました…が,その後はロシアの“冬将軍”の到来もあり,東部戦線も膠着状態がつづきます。膠着状態になればなるほど,戦場に送る兵士や武器・弾薬・物資の補給が間に合わなくなっていくのは必至です。
 そこで各国は,「国内で働ける者には,男でも女でも全員働いてもらおう」という総力戦【東京H18[1]指定語句】体制がとられました。女性も武器工場で働いて,戦争遂行に貢献したことで,戦後には女性を含む参政権の拡大を図る国が増えました。
 また,「海外の植民地も本国のために協力をするべきだ」と物資の供給や徴兵を要求しました。しかし,植民地における民族運動の高まっている中で,下手に刺激をするのは危険と考えた西欧諸国は,「協力してくれれば,戦後に自治・独立を約束するよ」と飴をちらつかせて,協力を求めます。戦後にその約束をなかったことにしたり場当たり的な約束をしたりした結果,余計に民族運動が激しくなったり(インド自治・独立運動),新しい民族紛争が起きる原因を作ってしまった例もありました(パレスチナ問題がもっとも有名な例です)。
 さて,戦争の推移にあたって,3つの重要なトピックがあります。

(1)イタリアが協商国側で参戦した
 イタリアは,三国同盟を結んでいたのでドイツ,オーストリア側に立って参戦するものと思われましたが,なんと協商国側で参戦しました。「未回収のイタリア」問題をめぐって,オーストリアと対立していたイタリアを,フランスが引き込んだのです。ロンドン秘密条約という密約によって成立しました。

(2)アメリカ合衆国がヨーロッパの戦争に参戦した
 また,ドイツ【本試験H9アメリカではない】【本試験H29イギリスではない】が「無制限潜水艦作戦」【本試験H9】【本試験H18時期キール軍港の反乱後ではない】という,敵国に関連すると見られる船を民間船も含めて手当たりしだい警告なしで攻撃する作戦をとった(1915年のルシタニア号撃沈事件)ことが引き金となり,アメリカ合衆国が協商国(連合国)側【本試験H12】に立って参戦します。ヨーロッパ大陸の国際対立に関与しない代わりに,ヨーロッパによるアメリカ合衆国への関与を拒否する「モンロー主義」は幕を閉じ,代わりにアメリカ合衆国は“民主主義の兵器廠(へいきしょう,武器庫)だ!”という使命感が喧伝(けんでん)されていきました。
 アメリカ合衆国は,その経済力を“武器”に,イギリスやフランスに多額の貸付を行いました(戦債の発行)。戦後のアメリカ合衆国は,その借金の“回収”もあって,一層力を付けていくことになります。

(3)ロシア帝国が滅亡した
 さらに,協商国側で参戦していたロシアでは,国内での反戦デモが革命に発展し,最後の皇帝〈ニコライ2世〉が退位して,ロマノフ朝が滅びました(ロシア第二革命のうちの三月革命)。
 しかし新政府は戦争継続の方針をとったため,社会主義者を中心とする反発が続き,11月には〈レーニン〉(1870~1924)と〈トロツキー〉(1879~1940)らが新政府を打倒し,1918年3月にはドイツと単独講和しました(十一月革命)。
 つまり,ドイツが負けるまで,みんな(三国協商)で最後まで頑張ろう!と言っていたところ,ロシアが「いち抜けた」と言って,勝手にドイツと仲直りしてしまったということで,協商国側に大きな衝撃を与えました。
 〈レーニン〉らの政府は,戦後の世界についての構想を発表。これが「平和に関する布告」と「土地に関する布告」【追H26ロシア革命で出されたか問う】【本試験H23中国で出されていない】【同志社H30記】です。

 これに対抗してアメリカ合衆国の大統領〈ウィルソン〉(任1913~21)が発表したのが,「十四か条」【東京H18[1]指定語句】【本試験H5いずれも実現しなかったわけではない】【本試験H30エカチェリーナ2世ではない】【早法H27[5]指定語句】という指針です。
 ドイツは,〈レーニン〉のロシア(ロシア革命政府)と講和を結んだことから「東部戦線」がなくなったので,フランスとの「西部戦線」に残りのパワーをつぎ込もうとしましたが,アメリカも加わった連合軍(協商国軍)に反撃を受け,ブルガリア→オスマン帝国→オーストリア→ドイツの順に降伏していきました。
 ドイツ帝国ではキール軍港で水兵が戦争続行に反対し蜂起したことがきっかけとなって【本試験H12】【本試験H24時期・イタリアではない,H29,H29共通テスト試行 史料】革命が勃発し,最後の皇帝〈ヴィルヘルム2世〉はオランダに亡命,ドイツ帝国は共和国になりました。最終的に降伏したのは,このドイツの共和国政府です。

(4) 従来のヨーロッパ文明や価値観を疑う風潮が生まれた
 第一次世界大戦の“悪夢”を経験した若者たちの間には,希望に満ちあふれているように思えたヨーロッパの文明や科学技術に対し,“疑いの目”を向ける者も現れるようになりました。
 ヨーロッパの芸術家の中には旧来の価値観を否定しようとする運動(フランスのダダイスム)が生まれました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,ダダイスムとも交流を持ちながら,独創的な作品を製作。1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も“芸術”そのものを疑う活動を続け,現代美術に大きな影響を与えました。





●1870年~1920年のアメリカ
○1870年~1920年のアメリカ  北アメリカ
・1870年~1920年の北アメリカ  現①アメリカ合衆国
◆19世紀末にアメリカ合衆国は世界第一位の工業国となる
アメリカ合衆国は世界一位の工業国に上り詰める
 1873年~1896年の世界的な経済危機(「大不況」)をきっかけに,中小企業を吸収した大企業が巨大化します。
 アメリカ初のトラスト【追H17時期を問う(19世紀後半に進んだ)】【上智法(法律)他H30内容を選択】である石油企業スタンダード・オイル社(1870設立)のロックフェラー財閥(〈ロックフェラー〉(1839~1937)ドイツに逃れたフランスのユグノー系移民),銀行家で多業種に進出したメロン財閥(〈メロン〉(1855~1937))黒色火薬・ダイナマイトを扱い,後にポリマーやナイロン【東京H9[3]】(20世紀前半に発明された合成繊維【本試験H2718世紀ではない】)・合成ゴムなどの化学製品も製造したデュポン財閥,銀行家で鉄鋼業USスチール(1901設立)も設立したモルガン財閥(〈J・P・モルガン〉(1837~1913) (注)),ポーツマス条約後に南満洲鉄道への進出を要求した(失敗)鉄道王〈ハリマン〉(1848~1909)のハリマン財閥,カーネギー製鋼会社で成功したスコットランド遺民の〈カーネギー〉(1835~1919)【本試験H21リード文】のカーネギー財閥など,名だたる富豪が輩出されました。富裕層は節税目的も兼ねて財団を設立し,文化施設や教育施設を創建するなど慈善活動(フィランスロピー)をおこないました。
(注)〈J・P・モルガン〉の甥は1901年の来日中に出会った京都の祇園の芸姑〈お雪〉(モルガンお雪,1881~1963)と1904に結婚。しかし排日移民法により帰化はゆるされず,夫の死後はフランスに移住,その後日本に帰国するも財産を差し押さえられるなど,波乱万丈の人生を追っています。

 企業が巨大化するに従い書類仕事(デスクワーク)も膨大になっていき,事務職や企画・営業職などのホワイトカラー【本試験H21リード文】と呼ばれる労働者も増えていきました(産業構造の転換【本試験H21リード文】)。企業の収益が増えるにつれて労働者の収入も増え,人口における中産層(ミドル=クラス)の厚みが増えていきました。同時に,いかに効率よく多くの社員を働かせるかというマネジメント(近代経営学)が注目されるようになっていきます(『マネジメント』で有名な〈ドラッカー〉(1909~2005)は1939年にナチスの迫害を逃れアメリカに移住することになります)。
 ヨーロッパに比べ由緒正しい「伝統」を持たないアメリカ合衆国では,なんでも「まずはやってみよう」という精神が強く,それが思想にも影響します。19世紀後半にはプラグマティズムという思想が発展し,何が真理かは「有用性」によって決まる,科学的な知識や道徳は「問題解決」のための「道具」だ,という論を展開。〈パース〉(1839~1914)や〈ジェームズ〉(1842~1910,主著『プラグマティズム』),〈ジョン=デューイ〉(1859~1952,主著『民主主義と教育』)が知られます。



◆「新移民」に対する迫害や規制がもうけられる
「新移民」が規制される
 連邦政府は自由放任主義(歩国は経済に関することは放っておいたほうがよいという考え)をとっていたため,しだいに労働者の問題が深刻化していきました。南・東ヨーロッパを中心とした新移民【東京H11[3]北・西欧からは「ドイツ人」,南欧からは「イタリア人」が多い】を受け入れ,彼らを低賃金労働者として働かせたことも,都市にスラム(不良住宅地区)が発達する原因となります。ヨーロッパ諸国にとってのアメリカ大陸は,“国内問題のはけ口”だったのです。

 しかし,中国人を始めとするアジア系移民の増加【H30共通テスト試行 1860年代の西部での大陸横断鉄道の建設」のための労働力需要を支えたか問う】により「アジア系移民が白人の仕事を奪う」という主張も生まれました。カリフォルニアのゴールド=ラッシュのときに大量の移民がアメリカに渡って以降,国内の騒乱(太平天国の乱)を避けて移住する者が増えていきました。1875年の移民法ではアジア系(ターゲットは中国・日本その他の東洋の国)からの女性移民を禁止しました。そうすれば同じ出身の移民同士で結婚ができなくなり,人口も増えないだろうと考えたのです。1882年にはクーリー(苦力)とよばれた労働者など中国人移民が一括禁止されました【東京H24[1]指定語句「アメリカ移民法改正(1882年)」】【上智法(法律)他H30アイルランド移民ではない】。
 彼らの上陸したニューヨークや,カリフォルニア州のサンフランシスコには,現在でも大規模なチャイナタウンがみられます。中国人移民は会館や公所を設立し,同族や同郷どうしでまとまって暮らしていました。中国では同じ省(しょう)出身の中でも方言の違いから言葉が通じない場合もあるので,異国の地であっても出身地別のまとまりが重要になります。
 1885年には,ハワイ王国と日本の間で,日本人の契約移民をハワイのサトウキビのプランテーションに派遣できる取り決めがなされました。その後,ハワイ王国がアメリカ合衆国の領土になると,日本人はアメリカ西海岸に渡り,農業労働者になっていきました。1882年に禁止された中国移民の代わりに,日本人労働者が増えましたが,日露戦争で日本がロシアに勝つと,「黄色人種の拡大がヨーロッパ文明を危うくする」という根拠のない「黄禍論」(こうかろん)も盛り上がっていたこともあり,白人労働者の“仕事を奪う”日本人移民を追い出そうとする運動が盛り上がりました。1907年に日米紳士協定が結ばれて,日本人の労働移民に対するパスポートの発給数が制限されることになりました。

 なお、1910年代に〈ドリュー=アリ〉(1886~1929?)が布教活動し、アメリカ=ムーア科学寺院を創設。「ニグロ」(黒人の蔑称)ではなく「誇り高いムーア人」というアイデンティティをかかげ、十数の都市の黒人コミュニティに勢力を広げました(注)。

 19世紀末は金融資本家と政治家がつるみ経済格差が広がったことから,その風潮は当時の小説家〈マーク=トゥウェイン〉(1835~1910『トム=ソーヤーの冒険』で有名)により「金ぴか時代」とも揶揄(やゆ。からかうこと)されています。労働者の権利を求める運動も起こり,1886年にはユダヤ人〈サミュエル=ゴンパーズ〉(1850~1924)を会長として熟練労働者の労働組合であるアメリカ労働総同盟(AFL)【本試験H26時期。20世紀ではない】【上智法(法律)他H30 CIO,IWW,労働代表委員会ではない】が結成されました。中央部の大平原から,西部のロッキー山脈の東部のグレートプレーンズにかけては,広大な領土で気候に合わせたトウモロコシ,小麦,大豆などの栽培(適地適作)が行われ“世界の穀倉”となりました。
 開発がすすむにつれて環境破壊も問題となり,環境保護に対する意識も高まりました。1892年には世界最初の国立公園であるイエローストーン国立公園が設置されています。自然保護団体シエラ=クラブを中心として,カリフォルニア州のヨセミテ渓谷を含む一帯を国立公園にする運動が起こされています(1890年に設立されていたヨセミテ国立公園に1906年にヨセミテ渓谷などを統合)。

 そこで,20世紀初めにかけて「国は経済にもっと干渉して社会問題を調整するべきだ」という革新主義【追H28人種差別への反対から起きたわけではない】【本試験H31内容を問う(企業の独占が推進されたわけではない)】【上智法(法律)他H30】を打ち出して大統領となる者が現れました。政権にとってもっとも心配だったのは,労働者が放っておけば社会主義になびいてしまう可能性があったことです。ヨーロッパ諸国は,国内では国民を一致団結させ(国民国家),国外への植民地獲得を目指す(帝国主義)ことで国力を強めようとしていましたから,国内における労働者vs資本家の対立はなんとしても避けなければなりません。こうして,民間の経済活動は放っておけばなんとかなるという自由放任主義は転換され,連邦政府が企業の独占や鉄道料金などの分野にさまざまな規制をかけていくようになりました。

(注) 正統派イスラームとは異なり、キリスト教の影響も受けたものでした。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。



バスケ,バレー,野球…スポーツが整備されていく
 また,この時代にスポーツの全国的な団体の整備が進んでいきました。酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のために,スポーツが重視されるようになっためです。また,国家も,軍事力増強のために“健康で力強くたくましい”男子を育てる手段として重視するようになっていきます。
 例えば,1891年にはバスケットボールがカナダ人体育教師〈ネイスミス〉(1861~1939)により考案されました。1895年にはバレーボールがアメリカ人〈モーガン〉(1870~1942)によりニューヨークで考案されます。また,1830年代頃にアメリカ合衆国北部で成立したといわれる野球は,1869年に世界初のプロ球団(シンシナティ=レッドストッキングス)が設立,1871年には世界初のプロ野球リーグが設立されました(1876年にナショナルリーグ(大リーグ(メジャーリーグベースボール)に引き継がれました)。1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されていたテニスは,1881年に全米テニス協会が設立され全米オープンの元となる大会も開催され,ルールの統一が進みました。



インディアンの抵抗が終結する

 アメリカの帝国主義は,西部のフロンティアの消滅以降加速します。アメリカ合衆国は広大な面積を保有する大陸国家のようにみえますが,実際には西部と東部沿岸部に人口が集中し,中央部は人口があまり分布していません。

 沿岸部の安全保障を図るためには海への進出が必要だという,海軍の〈マハン〉(1840~1914。主著は『海上権力史論』(1890))の地政学(国家の力関係を,地理的な位置関係によって説明し,政治・軍事戦略に活かそうとする学問)的な主張により,海軍が増強されていくことになりました。

 中央部の大平原では,アメリカ合衆国の入植者の乱獲によりバッファローが絶滅寸前となり,獲物の減った大平原のインディアンの人口も減少を続けます。
 1876年にゴールドラッシュが現在のノースダコタ州やサウスダコタ州で起きると(ダコタ=ゴールドラッシュ),この地に居住していたスー人との間に戦争が起きました(ぶブラックヒルズ戦争(1766~77))。〈カスター〉中佐(1839~76)は,スー人,シャイアン人らがサン=ダンスの儀式をしているところを狙いましたが,ラコタ人の戦士〈クレイジー=ホース〉(1840?~77?)の参加もあり失敗,部隊は全滅します(リトルビッグホーンの戦い)。1890年には,死者が復活し白人を追い出すとの信仰に基づくゴースト=ダンス(⇒1848~1870の北アメリカ)の儀式をとりおこなっていた無抵抗のスー人約300名がウンデッド=ニーで虐殺されると,大平原のインディアンの抵抗は終結しました。
 南西部でも,アパッチ人の戦士〈ジェロニモ〉(1829~1909。「酋長」ではありません)などの抵抗がありましたが1886年に降伏しています。それ以降は,インディアン庶民像の組織的な抵抗はなくなりました。
 従来はインディアン諸民族は「保留地」に移動させられ,部族単位に土地が割り当てられていました。しかし,インディアンの保留地で金などの資源が新たに発見されると,1887年にインディアン一般土地割当法(ドーズ法)が制定され,「土地はインディアン個人のもの」とされていきました。このときにインディアンの世帯に与えられたのはホームステッド法(1862) 【東京H7[3]】と同じ160エーカー。同時に,幼い頃からインディアンを親元から離し,インディアン寄宿学校で“アメリカ人として”教育していく政策(同化政策)も推進されました。
 最後の“生粋(きっすい)”のインディアンのひとりである,現カリフォルニア州のヤヒ人の〈イシ〉(1860?~1916)は,1860年代以降の虐殺(民族浄化;ジェノサイド)を生き延び,自らの文化や体験を研究者に提供したことで知られます(注)。
(注1)ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.293-295。

 この時期には,黒人に対する差別に反対する運動もみられるようになりました。1910年には黒人の〈デュボイス〉(1868~1963)が中心となり全国黒人地位向上協会(NAACP)が設立されています。

 アメリカ合衆国は,南のカリブ海と西の太平洋の2方向に向けて拡大をすすめ,19世紀末には海軍を増強するべきだという主張が強まりました。もともとアメリカ合衆国は,常備軍を置かない伝統でしたが,海軍の規模は徐々に大きくなっていきました。カリブ海は「アメリカの裏庭」として強力に進出し,巨大な市場である中国に対してはヨーロッパ諸国や日本を牽制していきます。後者については,〈マッキンリー〉・〈セオドア=ローズヴェルト〉大統領ののもとで国務長官を務めた〈ジョン=ヘイ〉(1838~1905)は中国に対して門戸(もんこ)開放(かいほう)政策【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】【本試験H4乾隆帝とは無関係(乾隆帝は交易を広州に限った)】を提唱しています。国務長官というのは,副大統領に次ぎ,アメリカ合衆国の実質ナンバー3の役職です。

 〈マッキンリー〉大統領(任1897~1901) 【本試験H26「棍棒外交」を推進していない】【追H24棍棒外交を展開していない】は共和党の人物。1898年に,キューバのハバナ港に停泊中のメイン号が爆破され,根拠がないまま新聞が「スペインによる陰謀だ」と世論をあおり,アメリカ=スペイン(米西)戦争に発展し,勝利しました。世論をあおったのは,新聞王〈ハースト〉(1863~1951)の新聞記事でした。
 スペインは,カリブ海のプエルトリコ(アメリカが獲得) 【本試験H26ドイツ領ではない】【追H20スペイン領となったわけではない】やキューバ(アメリカが保護国化)を失ったことで,1492年の〈コロン〉以来のカリブ海におけるスペイン支配は,ここでおしまいです。アメリカはキューバに対してプラット条項と呼ばれる「財政や外交にアメリカが口出しをする権利」を,憲法に明記させました。実質,保護国化です。なお,保護国というのは,外交権や行政権など,ほんらいはその国が持っているべき権力の一部を,外国によって奪われている国のことです。
 また,〈マッキンリー〉【本試験H19セオドア=ローズヴェルトではない】のときにハワイ王国を併合しています。

 〈セオドア=ローズヴェルト〉(任1901~09) 【本試験H5】【本試験H19ハワイを併合していない】も共和党の人物。「棍棒(ビッグスティック)外交」【本試験H26マッキンリーではない】【追H24マッキンリーではない】といって,武力をちらつかせて,中米諸国(グアテマラ,ベリーズ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタリカ,パナマや,カリブ海の島々)に対する勢力圏を広げていきます。

 この帝国主義的【本試験H5反帝国主義的ではない】な方針を,カリブ海政策といいます。その目玉がパナマ運河の建設です【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】。
 1903年にコロンビアから運河地帯を独立させて永久所有権を獲得し,次の民主党〈ウィルソン〉大統領のとき1914年に完成させています。また,太平洋の向こう側にある巨大な中国市場への進出を狙い,1905年7月に桂=タフト協定という外交上の覚書(おぼえがき)を交わして日本の朝鮮での指導権を認める代わりに自国のフィリピンの優越を認め合い,日露戦争の講話条約(1905年9月のポーツマス条約)の間を取り持ち,東アジアの情勢にも関わろうとしました。
 また,ドイツが1905年に第一次モロッコ事件【本試験H5】【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】でモロッコのスルターンを支援する動きを見せると,それを止めるために1906年にアルヘシラス国際会議を提唱するなど,ヨーロッパ列強の関係にも首をつっこみました。

 19世紀末にはイギリスに代わって世界一の工業国に上り詰めていったアメリカ合衆国【追H25フランス、イタリア、ロシアではない】。
 しかし国内では大企業の独占を批判し,1890年に制定されたシャーマン反トラスト法を適用してロックフェラー(1839~1937)のスタンダード石油を33社に分割する命令も出されています。
 ロックフェラーは1860年代に精油事業を開始し,1880年代までに全国の95%を独占する巨大企業に成長させていたのです。彼は解体を機に引退し,シカゴ大学などの研究機関の創立や慈善事業に努めました。アメリカの富豪にはこのようなノブリス・オブリージュ(豊かな者にはそれ相応の社会貢献をする義務があるという意味)の伝統があるものの,経済格差はひらきます。

 〈タフト〉大統領(任1909~13)(共和党)のときには,中米諸国と中国の投資をさかんに行い「ドル外交」といわれました。

 〈ウィルソン〉大統領(任1913~21)は民主党の大統領として,「新しい自由」【慶文H30記】というスローガンを掲げて就任しました。これは共和党の革新主義と似通った考え方で,やはり国家が民間の経済を調整するべきだという主張です。海外への投資が増え,ますます巨大化していた銀行や企業の独占状態を制限するとともに(クレイトン反トラスト法),関税を引き下げ,鉄道労働者の8時間労働などで労働者を保護しました。彼の在任中には,禁酒を定める憲法が修正されています(禁酒法【追H27アメリカ合衆国の法か問う】)。
 外国に対しては,中米諸国やカリブ海への進出を引き続き進め,ハイチ(ハイティ),ドミニカ,キューバに派兵し,メキシコ革命にも自国に有利になる側を支援するなどの干渉をしました。その口実として「アメリカの民主主義を世界に布教しようとしているんだ」と主張しました。これを「宣教師外交」【慶文H30記】といいます。生まれたばかりの国家であるアメリカ合衆国は,「伝統」がない代わりに,時代を越えて正義とされるような「理念」を重視する傾向があります。今後もアメリカ合衆国の指導者は,「理念」を旗印に「敵」を設定し,国外に進出していくようになるのです。

 20世紀は“映像の世紀”と言われます。映画技術【本試験H11:問題文で「19世紀末に発明された」と言及】を発明していた〈エディソン〉(1847~1931)は,1908年にトラストを設立して映画業界を支配下に置こうとしました。それに対し,中小の映画業者は西海岸に移住し,1911年にカリフォルニアのハリウッドに初の映画スタジオができました。移住してきた俳優や製作者には,ユダヤ系やイタリア系などの新移民が多かったのが特徴です。例えば,ユダヤ系ドイツ人の〈カール=レムリ〉(1867~1939)は,1912年に映画会社8社と合併し,ユニバーサル映画を設立しています。




○1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆中央アメリカ,カリブ海,南アメリカが天然資源の産地として,世界市場に包み込まれていった
冷凍船により南米の肉がヨーロッパ人のお腹へ
 1870年代に冷凍船が発明されると,南アメリカのアルゼンチンなどで大規模な牧畜業が盛んになり,赤道を超えてヨーロッパに冷凍輸出されるようになりました。この冷凍食肉が,産業化のすすんでいたヨーロッパの人口増を支えたのです。
 ラテンアメリカからは,ほかにも世界市場のために小麦,コーヒー【本試験H11アメリカが原産地ではない】,砂糖,綿,天然ゴムのような農産物,硝石,銅,石油,銀といった鉱産物が輸出されました。海鳥やアザラシの糞が長い年月を積もり積もった物(窒素化合物,リン酸塩を含む)で,有機肥料として用いられるグァノ(ケチュア語の「糞」に由来)もエクアドル,ペルー【追H27 19世紀のイギリスがペルーから輸入していたのはグァノであって麻ではない】,チリの沿岸で産出されます。
 これらの採掘・生産は近代的な方式でなされたものではなく,独立直後から続く不公平な社会関係にもとづいていたため,世界市場との関係が深まれば深まるほど,少数の大土地所有者や大商人に富が偏って蓄積されていくという矛盾(むじゅん)がありました。
 しかも,同時に外国資本による進出が強まり,1910年にはなんとアメリカ合衆国の資本家が,メキシコの全資産の実に90%(!)を支配するに至りました。こうした矛盾に対し,1910年に始まるメキシコ革命のように下層の民衆の抵抗運動や社会改革も起きるようになっていきます。

◆南アメリカにはヨーロッパからの移民が急増し,アメリカ合衆国による干渉も強まった
「母をたずねて三千里」はイタリア移民のお話
 この時期には国外からの移民も急増します。ヨーロッパ(スペイン,ポルトガル,イタリア,さらに中欧・東欧)からブラジルやアルゼンチンへの流れが大多数で,さらに少数ですがアジア(中国,日本,インド)からの移民がいました。1871年からの40年間に,ブラジルには200万人,アルゼンチンにはじつに250万人のヨーロッパ人が移住してきたのです。日本で1970年代に放映されたアニメに『母をたずねて三千里』という作品がありますが,これはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに出稼ぎ出たまま行方のわからない母を,1882年にイタリアのジェノヴァから少年マルコが探しに行く物語です。1908年には,日本から笠戸丸による第一回ブラジル移民が実施されています。

 ラテンアメリカには,ヨーロッパだけではなくアメリカによる経済的な進出も強まっていきました。1889年以降,パン=アメリカ会議【東京H10[1]指定語句】を定期開催し,ラテンアメリカを勢力圏に入れようとしていきます【本試験H25アメリカ合衆国の勢力拡大を牽制することが目的ではない】。モンロー主義(ヨーロッパはアメリカに首をつっこむな!という方針)は,だんだんと“ラテンアメリカに首をつっこむな!アメリカ合衆国の庭付きプールだ!”という主張に変化していったのです。
 アメリカは,20世紀初めには,大西洋から直接太平洋に抜けるためのパナマ運河を建設するために,コロンビアからパナマ地方を独立させパナマ共和国とし,運河条約を締結してパナマ運河地域の恒久的な管理権を獲得します。運河は1914年に完成しました。




○1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆一次産品の輸出に依存する経済により中央アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持したが,社会改革運動も起きた
 その中で,各国内では労働者階級が形成にされていくと,従来の保守主義(大土地所有者を中心とする伝統的な社会を守ろうとする考え),自由主義(ヨーロッパ諸国への一次産品を推進する考え)に代わり,労働者や中産層が社会の変革を叫ぶ声も挙がるようになっていきます。1880年以降はアメリカ合衆国の経済進出が加速。1889~90年にかけてアメリカ合衆国〈ブレーン〉がワシントンで第一回パン=アメリカ会議を開催しますが,経済的な統合には失敗しています。

・1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
メキシコに対するフランスの進出は失敗し,20世紀初頭にはメキシコ革命が起きた
 1877年に〈ディアス〉大統領が大統領に就任し独裁政治(1877~1880,1884~1911)を展開。この間に外国資本の導入がすすみ,サトウキビ,タバコ,綿花,銀,銅,石油の輸出が進みました。欧米の資本を導入して近代化をすすめましたが,1910年に〈マデロ〉(1873~1913,大統領任1911~13)を中心に〈ディアス〉【本試験H29】を打倒するメキシコ革命が引き起こされました。
 しかし,例によって,社会改革をどこまですすめるかということをめぐり激しい対立が起き,一時農民運動の指導者である〈サパタ〉(1879?~1919) 【本試験H29】【追H18】と〈ビリャ〉(1878~1923)が1914年末に首都を占領する事態となりましたが,アメリカの〈ウィルソン〉大統領による軍事干渉もあって,1917年に民主的な憲法が制定されると,そこで落ち着きました。この憲法には,土地改革や労働者の権利などが定められています。〈サパタ〉はその後も貧農を中心として農民軍を指揮し,のちに反対派に暗殺されています。芸術家〈シケイロス〉(1896~1974)は,革命によってもたらされた新しい考え方と,スペイン人に植民地化される前のメキシコ独自の文化や歴史について,文字の読めない人々にわかりやすく伝えようと,メキシコ壁画運動を始めました。いまでも,メキシコ各地に原色の力強い巨大な壁画が残されています。

・1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア
 輸出用作物のプランテーションが進んでいた中央アメリカでは,エルサルバドルを中心に中央アメリカの連邦を再建しようとする動きが強まります。1896年にはエルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグアの3国で中央アメリカ大共和国(Greater Republic of Central America)を建国し,首都はホンジュラスに置かれましたが,1898年に崩壊しました。
 エルサルバドルでは,1913年~23年にかけて〈メレンデス〉一族から大統領が輩出されることが多くなり,コーヒーのプランテーションが経済の中心となりました。

・1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
パナマ運河建設を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立した
 コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下,コーヒー輸出産業が盛んとなり,鉄道建設ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビア共和国となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
 そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国がパナマ地峡を削ってパナマ運河を建設する計画を実行するため,1903年にパナマをコロンビアから分離独立させました。




○1870年~1920年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆カリブ海地域ではイギリスによる支配が続く
 しかし,カリブ海地域では,いまだにイギリスによる植民地支配が続いており,しだいに反植民地主義の運動が始まります。イギリス領トリニダードのアフリカ系弁護士〈エリック=ウィリアムズ〉(1911~81)(注) 【セA H30リード文】は,1900年にロンドンでパン=アフリカ会議を開いて,人種差別に反対しました。
(注)〈ウィリアムズ〉はのちにカリブ海のトリニダード=トバゴ共和国初代首相となる人物でもあり,黒人奴隷交易で蓄積された資本がイギリス産業革命(工業化)を可能にしたという,いわゆる“ウィリアム=テーゼ”を論証した歴史学者でもあります。博士論文は『資本主義と奴隷制』【セA H30リード文】。彼の著作や関連資料は1999年にユネスコの『世界の記憶』(記憶遺産)に登録されています。
・1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
 キューバでは,1886年までアフリカ出身の奴隷を用いたサトウキビ=プランテーションと製糖業が行われていましたが,次第にアメリカ合衆国の投資家が砂糖産業に進出。砂糖企業が結集して設立されたアメリカン=シュガー=リファイニング社は,キューバのサトウキビ産業を支配するにいたりま。1898年の米西戦争でアメリカ合衆国が勝利し,パリ条約によりスペインはキューバに対するすべての主権を放棄し無期限の保護国化(第1条),カリブ海のプエルト=リコ島や西インド諸島,オセアニアにあるマリアナ(ラドロネス)諸島のグアム島【追H24米英戦争で獲得したのではない】(第2条),フィリピン諸島(第3条)をアメリカに譲りました。
 アメリカ合衆国軍は1903年にキューバを撤退しましたが,独立後のキューバの憲法にはアメリカ合衆国はキューバ政府に対して口出し(「干渉する権利」(第3項))を認める「プラット条項」が組み込まれていました。
 アメリカ合衆国からキューバには,サトウキビを中心とするに産業に莫大な投資がなされており,これをみすみす手放すわけにはいかなかったのです。キューバのグアンアタナモ湾はアメリカ合衆国が租借し,現在もグアンアタナモ海軍基地として維持されています。




・1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。




・1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 プエルト=リコは米西戦争の結果,スペインからアメリカ合衆国の領域となりました。アメリカ合衆国向けの砂糖産業が発展し,1917年にはアメリカ合衆国の市民権が与えられています。




・1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
フランス領
 マルティニーク島ではフランスの植民地として,サトウキビのプランテーションが行われていました。
 フランスが第三共和制になると,マルティニーク島の黒人にもフランスで認められている様々な権利が与えられるようになります。

 フランス人と同じように住民を扱うことで,不満をやわらげ,同じ仲間意識をもたせようとする政策を「同化政策」といいます。同化政策の背景には,フランス人はカリブ海の人々よりも「進んでいる」という優越意識や,「カリブ海の人たちが遅れているのは“かわいそう”だ。われわれフランス人がなんとか手を差し伸べてやろう」という「文明化の使命」の意識があったのです。

 しかし,1902年にはプレー火山が大噴火し,島の中心部が崩壊し,3万人が亡くなる壊滅的な被害を受けます。






○1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

・1870年~1920年の南アメリカ  現①ブラジル
◆輸出の利権を握った3州の政治家が、ブラジルの政治・経済に強い影響力を握った
コーヒー農園主と輸出業者中心の共和国
 帝政が続いていたブラジルでは1888年にようやく奴隷制が廃止されました。
 しかし,帝政を支えていた地主層の支持を失い,共和主義を支持する軍人によるクーデタによって1889年には共和政に移行。ブラジル連邦共和国(旧共和国;第一共和政,~1930年)となりました。

 国旗には独立時の空に浮かぶ星座が,フランスの社会学者〈コント〉(1798~1857)の「秩序と発展」という言葉とともにデザインされています。独立時の指導者の多くが,人類の進歩を信じる〈コント〉の実証主義にあこがれていたからです。2代にして最後の皇帝〈ペドロ2世〉(位1831~89)は最終的にイギリスの軍艦に乗ってヨーロッパに亡命しました(注1)。

 こうして共和政が始まったブラジルではさまざまな近代化政策が実行されていきますが,その内実は地主たちに権力の集中する寡頭制(オリガーキー)に過ぎませんでした(注2)。
 帝政時代には中央集権的であった政治制度は,1891年の新憲法の下で地方分権的な連邦共和政になり,ブラジル合衆国という国名になりました。直後に陸軍によるに政治への介入が強まりますが,1894年に文民の大統領が就任します。

 「地方分権」的というのはどういうことかというと、各州の権限が強く、連邦制でありながら中央政府が各州を統一の方針によってまとめることが難しいということです。
 特に、コーヒーのプランテーションと牧畜の盛んなミナスジェライス州と、輸出・金融業の栄えるサンパウロ州の発言権が非常に高く、大統領のほとんどがこの2州とリオデジャネイロ州から輩出されました。
 コーヒーの木は1890年にサンパウロ州で2億本あったものが、1905年には6億8900万本にまで急増(注3)。サントス港もこのころ建設され、コーヒーの積出港として発展します。政府は工業製品や食料品を輸入し、その関税収入を頼りにしていましたが、輸入品の購入にはコーヒー輸出で獲得した外貨があてられました(注4)。まさにこの時期のブラジルは“コーヒーで持っていた”のです。
 1886年以降、アメリカ合衆国の成長による需要増と、現・スリランカの病害による生産減を受け、コーヒー価格が上昇しますが、1895年に国際的な供給超過によって価格が暴落。このとき政府(〈プルデンテ=デ=モラエス〉政権(任1894~1898)と〈カンポス=サーレス〉政権(任1898~1902))はブラジル通貨の切り下げによって乗り切ろうとしたため、インフレが低所得者を直撃しました(注5)。1898年に〈サーレス〉大統領は、イギリスの銀行ロスチャイルドとの間に債務返済の一時停止を合意しています(注6)。

 20世紀初めの〈アルヴェス〉政権(任1902~1906)のときには、潤沢な資金で首都の公衆衛生・都市改造事業をおこない、有名なコパカバーナ街区が整備され、黄熱病などの撲滅が推進されました。これらは住民の移動をともなう強権的なもので、貧しい住民は中心街から排除されて丘の上や湿地帯にスラム(ファベーラ)を形成していきました(注7)。
 しかし、この〈アルヴェス〉政権に抵抗して、サンパウロ、ミナスジェライス、リオデジャネイロ3州の知事が、コーヒーの価格を維持するために外国から融資を受け余ったコーヒーを買い取って貯蔵することなどを決めたため、ブラジルのコーヒー産業は余計に海外資本の資本を受けることとなります(注7)。
 
 ブラジルのコーヒー産業を支えていたもう一つの要因は、豊富な移民労働力です。
 もともと奴隷にプランテーションで働かせていたブラジルの農園主ですから、移民に対する仕打ちも相変わらず劣悪で、これを問題視したイタリアは1902年にブラジル移民を禁止する2度目の決定をしています。1910年代の移民の総数を占めていたのはイタリア人で、さらにポルトガル人、スペイン人、ドイツ人、オーストリア人、日本人、ロシア人、シリア・レバノン人が続きました(注8)。
 1906年にはサンパウロ州政府は植民・労働局、1907年には移民監督極が設置されました。
 1908年には日本人移民の第一弾781名が笠戸丸によってサン=パウロ州のサントス港に上陸しています(⇒1870年~1920年のアジア  東アジア 日本)。1908年~1914年までにサンパウロにやって来た日本人移民は1万5000人。1914年に助成が打ち切られますが、大戦中にヨーロッパからの移民が途絶えたので1917年に再開。1920年までに1万3000人を越える日本人移民が移住しました(注9)。その後サントスは第二次世界大戦までの間,日本人移民の町として発展していきます。

 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策がとられました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカで唯一の参戦国となりました。

 戦争が終わるとにヴェルサイユ会議に参加し,国際連盟にも加盟しています。

(注1) 逆に言えば、ブラジルの奥地に住む先住民は「近代」的ではないものというレッテルを貼られ、迫害を受けることに。それに対する抵抗運動が各地で起きています。ブラジル南東部がコーヒー産業に湧いていたころ、ブラジル北東部は悲惨な干ばつに何度も見舞われていました(1877~1879年に死者30万人、1888~1889、1898、1900、1915年にも干ばつが襲います)。義賊(民衆の“味方”)的な盗賊団が横行する中、奥地住民を神秘的なカトリック教会指導者〈コンセリェイロ〉(1830~1897)による大規模な反乱がバイーア州で起きます(1893~1897年、カヌードスの反乱)。同様の宗教的な運動はセアラー州南部で、千年王国的な農民反乱(「コンテスタード」、1912~1916年)がサンタカタリーナ州で起き、両方とも共和国政府により鎮圧されています。
 共和国による先住民への迫害を『奥地』(オス=セルトンイス、1902年)に著したのは〈エウクリーデス=ダ=クーニャ〉、当時としては珍しい社会派の作家です(シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.409,411,420-421)。
(注2) 堀坂浩太郎『ブラジル―飛躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.15。
(注3) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.367。
(注4) 上掲書、、p.368。
(注5) 上掲書、p.371。
(注6) 上掲書、p.371。
(注7) 上掲書、p.402。
(注8) 上掲書、p.372。
(注9) 上掲書、p.374。
(注10) 上掲書、pp.376-378。




・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
パラグアイの大部分が周辺国家に分割される
 パラグアイは1864~1870年,周囲のアルゼンチン,ボリビア,ブラジルとの三国同盟戦争により,すでに〈ロペス〉大統領(任1862~1869)が死去。国土の大部分が分割され,首都のアスンシオンも占領下に置かれています。
 ・アルゼンチンとボリビアは,現・パラグアイ北部のグランチャコを獲得
 ・ブラジルは現・パラグアイ東部を獲得
 ・アルゼンチンは現・パラグアイ南部を獲得

 戦争により約50万の人口は約20万に激減。ブラジルのコーヒー=プランテーションに連行されるパラグアイ人もおり,混乱の中でもともとほとんどが国有であったパラグアイの土地は,アルゼンチンやイギリスなど海外資本により買い占められました。自由貿易が強制され,海外からの移民も増加していきます。
 1887年に保守的なコロラド党と自由党が結成され,周辺国家の介入を招きます。1904年には自由党が政権を獲得し,1936年まで続きます。

 現・パラグアイ北部のチャコ地方をめぐり,ボリビアとの紛争が勃発しています。


・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現③ウルグアイ
ウルグアイはブラジルとアルゼンチンの緩衝国家に
 ラプラタ川下流のウルグアイは,三国同盟戦争(パラグアイ対,アルゼンチン・ブラジル・ボリビア)後,1875年~1890年まで軍事政権が続きます。

 1880年代以降,南ヨーロッパを中心に移民が多数到来し,ヨーロッパ資本の導入された大農園(エスタンシア)で,ヨーロッパ向けの畜産物が生産されました。
 この背景には,大規模な牧草地で大量の家畜を管理するための有刺鉄線の発明(1867年にアメリカ合衆国で発明)と,新鮮さを保ち輸送することのできる冷凍船の発明(1870年代に実用化)がありました。

 音楽のジャンルの一つタンゴが生まれたのは,この時期のウルグアイかアルゼンチンです。
 
 1903年に政権に就いた保守派のコロラド党〈バッジェ〉(任1903~07,11~15)は,途中ブランコ党との内戦を乗り越え,特に第二次政権時代(1911~1915)には労働者の保護や社会保障の整備を進めていきます。


・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
アルゼンチンは移民を受け入れ,インディオを制圧する
 1864年に起きた三国同盟戦争は1870年にブラジル,アルゼンチン,ウルグアイ側の勝利で終結しました。敗北したパラグアイは国民の半数が亡くなる壊滅的な被害をこうむり,実質的にイギリスとアルゼンチンによる支配を受けることとなります。

 1862年に「アルゼンチン共和国」として国家が統一されたアルゼンチンでは,1880年にブエノスアイレスが首都となりました。その過程で内陸部の牧畜民ガウチョの文化を「遅れた(野蛮な)文化」とみなす見方が生まれ,彼らに対する弾圧が強まっていきます。

 また,この頃にパタゴニアでインディオたちと結んだフランス人が独立王国を建設したことから,アルゼンチン政府はパタゴニアの制圧作戦を開始。草原地帯(パンパ)の先住民(とくにマプーチェ人)に対する制圧が実行され,広大な領地は輸出作物や畜産物を生産するための土地として収奪されていきました。

 19世紀末には,イギリスの資本とヨーロッパ移民がアルゼンチンに流入していき,イギリスを初めとするヨーロッパ諸国から巨額の貸付が行われました。冷凍船が発明されたことでアルゼンチンの牛肉が新鮮さを保ったままヨーロッパの食卓にのぼることが可能となったため,アルゼンチンの経済的な地位はぐんと上がりました。イギリスにとってみれば余った資本をアルゼンチンに投下すれば漏れなくもうかったわけで,鉄道敷設やヨーロッパ風の建築もブームとなりました。
 ヨーロッパ移民やインディオの制圧作戦を背景に,アルゼンチンは「南米のパリ」とうたわれるほどの白人国家となっていきます。
 アルゼンチンは,第一次世界大戦においては中立政策をとりました。

・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
◆チリはグァノ(肥料の原料)をめぐってボリビアと争い,敗北したボリビアは内陸国家となる
チリは,グアノをめぐりホリビアと争う

 チリ【追H27 19世紀のイギリスはペルーから麻を輸入していたわけではない】では銅(1860年代に世界生産の4割のシェアがあった)や小麦の輸出で栄え,鉄道などのインフラが整備されていきました。教会の特権をめぐる自由党と保守党との対立ののち,1861~91年には自由主義派の政権となりました。

 1879年にはペルー,ボリビアと硝石をめぐって太平洋戦争(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです(注1)。

 1886年には〈バルマセーダ〉政権(1886~91)が成立し,ヨーロッパにならった近代化を進めるとともに,硝石産業を国有化してチリの企業に払い下げました。払い下げへの反発から支持を失った〈バルマセーダ〉は自殺しますが,彼の政策は国外勢力に対抗してチリの産業の自立を図ったものとして重要です。

 彼の死後は大統領の権限が弱まり,硝石や銅の輸出業者が議会を通じて支配層を形成していきます。硝石ビジネスがイケイケドンドンとなるなか,やがてチリ政府の歳入のほとんどが硝石に依存するようになっていきます(注2)。1890年以降は労働者による社会運動も高まりをみせるようになります。

 一方,1880年代に南部のマプーチェ人とも戦ってこれを制圧し,領域を南にも拡大させていきました。“お得意様”だったイギリス帝国が自前で硝石を獲得する先を探した結果,目をつけた先はオセアニアの小島ナウル島でした(⇒1870~1920のオセアニア ミクロネシア。1888年にドイツ領。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました)。

(注1) 1904年に正式にボリビアに割譲。ボリビアはそのかわり、ポトシからアリカまでの鉄道整備を保障されました。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。
(注2)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.352。




・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
◆ボリビアでは錫,ペルーではグァノや硝石の輸出経済が栄え,それを推進する政権が成立する
ボリビア・ペルーは鉱産資源の輸出ブームで反映
 政権が混乱したボリビアでも,1860年代以降に硝石・グァノの開発,1870年代に銀の採掘が進み,共有地を失った先住民らが鉱山や農場で働く日雇い労働者となっていきました。鉱山の利権を持つ者や農場主は独裁権を握った軍人指導者(カウディーリョ;カウディーヨ)(注1)と結びついていました。
 ボリビアでは始め保守党の支配が1899年まで続きましたが,チリとの太平洋戦争に敗れると,新興の錫(すず)鉱山主の支持を得た自由党が勢力を伸ばします。
 自由党員の拠点はラパスで、このときの反乱を「連邦革命」と呼びます。
 独立当初の首都は「スクレ」と憲法に明記されていますが、このときに首都がラパスに移転されることになりました(現在でも三権の一つである最高裁はスクレにあります)(注2)。

 当時のヨーロッパでは缶詰や軽金属の合金の需要が高まっており,錫ブームが到来。
 「連邦革命」の3年後には錫が輸出額で銀を抜きます(20世紀ボリビアは「錫の世紀」(注3))。

 1899年に自由党の〈パンド〉(任1899~1904)が成立し,錫輸出産業と結びついた支配層を形成していきました。自由党政権は1920年にクーデタで倒されるまで続きます。この間、インフラや都市の近代化が進みますが、錫財閥+大地主+一部の支配層(弁護士や政治家)による寡頭政治を背景に身分制は維持され、先住民共同体の解体とアシエンダ(大土地所有制)の拡大は信仰しました(注4)。

 錫に依存する輸出経済は典型的な「モノカルチャー経済」であり、ボリビアの足かせとなっていきますが、他のラテンアメリカ諸国と異なるところは、鉱山の多くが外資ではなく民族資本により開発されたところにあります(注5)。

 なお、1899年には北部に入植したブラジル人ゴム業者が分離運動を起こし、ボリビアは敗北。1903年の条約でアクレ地方をブラジルに割譲。さらに1904年には太平洋戦争で失った海岸部をチリに正式に割譲する条約を結び、その代わりチリはラパスから海岸部のアリカへの鉄道感性を保障し、錫を輸出するためのインフラ整備が進められていきました(注6)。

(注1) カウディーヨは,「地方または国の政治で勢力をもつボス」。増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99。
(注2) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.132。
(注3) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.132。
(注4) パティーニョ、アラマヨ、ホッホチルドの三大財閥。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.133。
(注5)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.133。
(注6)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。



 ペルーでは,肥料となるグァノや硝石の採掘や,砂糖や綿花のプランテーションが盛んとなり,外国への一次産品の輸出でもうける経済構造ができあがっていきました。それにともない現れた新興の資本家(新興輸出業者や輸出用の農場主)らの支持により,1872年~76年に輸出経済を推進する文民党(シビリスタ)政権が成立しました。
 1879年にはペルー,ボリビアと硝石をめぐって太平洋戦争(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです。
 1884年には,都市の中産階層の支持を得た民主党(デモクラタ)も結成。1895~99年には太平洋戦争から続いていた軍人支配に代わって,文民の民主党〈ピエロラ〉政権が成立しました。このの政権の下で外国資本を積極的に招致して近代化を推進しました。しかし実際には政権を支持していたのは輸出産業でもうけていた勢力であり,外国資本に従属する構図はますます深まっていきました。

 20世紀に入ると,砂糖と綿花のプランテーションが拡大。民族運動や社会主義的な運動も起こるようになります。
 1904年には太平洋戦争でボリビアが失った海岸部を正式に獲得する条約をボリビアと結んでいます(注1)。

 なお,1866~1869年には,ペルーの再征服をねらったスペインとの最後の戦争が起き,南アメリカ諸国が勝利し,これをもって南アメリカ諸国はスペインからの独立が確実なものとなります。

(注1)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.134。





・1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ  現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ
◆ベネズエラ,コロンビア,エクアドルでは自由主義的な専制政権が生まれ,保守派と抗争する
輸出産業と結んだ有力者による不安定な政権続く
 かつて〈シモン=ボリーバル〉(1783~1830) 【本試験H10】により統一された大コロンビア共和国は,1830年にベネズエラ,ヌエバ=グラナダ(現コロンビア),ベネズエラの3国に解体していました。いずれの国でも中央集権的な保守派と,自由貿易を推進する自由主義派との政治的対立が起きる中,天然資源の輸出に依存する少数の有力者による政権が台頭していました。
 このうちカリブ海沿岸のベネズエラでは,自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続きました。その後は連邦制をとる自由主義的な〈カストロ〉政権(任1858~59)が,保守派との対立を生み,1863年まで連邦(長期)戦争と呼ばれる内紛に発展。結局〈ファルコン〉政権(任1863~68)のときにベネズエラ連邦が成立し,1870~88年の間は自由主義的な〈ブランコ〉(任1870~77,79~84,86~88)の下,少数の有力者による長期政権が成立し,反教会的な自由貿易を推進する政策がとられました。この保守派政権は1888年にクーデタで崩壊,連邦議会により選出された〈パウル〉政権(任1888~90)は自由化を進め,改憲をめぐる内紛をおさめた〈クレスポ〉将軍が大統領に就任(任1892~94,94~98)すると,コーヒーの輸出が活況を呈し,1890年代には輸出の約80%を占めるほどとなり,陸上輸送のために外資を導入した鉄道建設も盛んとなりました。しかし,19世紀末からコーヒー価格が低迷すると1899~1903年に内乱が起こり,1899~1935年までの間,牧場労働者出身の〈カストロ〉と〈ゴメス〉(1908年にクーデタで実権を握ります)が独裁者となってベネズエラを専制支配する結果となりました。しかし,ベネズエラでは外債が積み上がり返せなくなった借金が問題となり,1902年にはイギリス,イタリア,ドイツが“借金取り”としてベネズエラを海上から攻撃する事態に発展。これに対しアメリカ合衆国の〈セオドア=ローズヴェルト〉大統領(任1901~09)は「カリブ海に警察権を及ぼすことができるのはアメリカ合衆国だけだ」と,ヨーロッパ諸国による南アメリカ攻撃を牽制(けんせい)しています。
 
 パナマを含むコロンビアは,ヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。しかしヨーロッパの二月革命などの自由主義的な政治思想が伝わると,〈ロペス〉政権(任1849~53)が成立し,奴隷制の廃止やカトリック教会への対抗を含む自由主義的な政策がとられました。しかし地主,カトリック教会は土地を守るために自由党に反対しました。一方,イギリス製品により在来産業が破壊されることに反対した手工業者の政治勢力は,クーデタによって〈ロペス〉の後任の〈オバンド〉(任1853~54)政権を倒し,保守的な〈メロ〉政権(任1854~55)を樹立しました。自由派・保守派がともに〈メロ〉政権を倒すと,1857年に連邦制をとるグラナダ連邦となり,1863年には国名をコロンビア合州国としました。こうして,かつての大コロンビア共和国の構成国の中で,コロンビアはもっとも地方分権が進み自由主義的な国家となったのです。

 エクアドルでは,19世紀末まで保守派の政権が続いていました。海岸部のグァヤキルは,輸出の拠点として急成長しており,グァヤキルを中心とする自由党は首都キト(キート)の保守派政権を攻撃して,商人〈アルファーロ〉が大統領に就任(1896~1901,06~11)し,自由主義的な政策をとりました。カカオ輸出が好調で鉄道建設ブームも起き,のちに主要な産業となる石油開発も始まりました。〈アルファーロ〉は反教会政策を初めとし,イギリスやアメリカ合衆国の資本を導入して自由主義的な政策を展開しました。彼は1912年に暗殺されていますが,自由党政権は外資導入・輸出産業推進の政策を1925年まで積極化させていくことになります。

◆パナマ運河を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立する
アメリカは運河のためにパナマを分離独立させる
 コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下,コーヒー輸出産業が盛んとなり,鉄道建設ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビア共和国となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
 そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国がパナマ地峡を削ってパナマ運河を建設する計画を実行するため,1903年にパナマをコロンビアから分離独立させました【H30共通テスト試行 大陸横断鉄道とのひっかけ(時期的に1860年代ではない)】【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う, H25,H29時期を問う】。




・1870年~1920年の南アメリカ  現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
インド,ジャワ,中国などから労働者が移動する
ガイアナ
 イギリス領
 ガイアナはイギリスの植民地支配の下,プランテーションの地主優位の体制となっています。また,イギリス領であったインドからは,年季奉公人としてインド人労働者が移送されています。

 こうしてガイアナには,少数の白人,多数のアフリカ系,インド系,さらに先住民という複雑な民族構成ができあがっていくのです。

 しかし,20世紀に入ると労働者や中産階層の不満が高まり,1905年にジョージタウンの港湾労働者,続いてジョージタウン近郊のルインベルト農場で暴動が起こりました。イギリス軍により鎮圧され,死傷者を出しています。暴動の参加者の多くは,アフリカ系のガイアナ人でした。

 第一次世界大戦中には,ガイアナの人々もイギリス軍への参加を求められました。1917年にはインド側からの批判もあって,インド人の年季奉公人のガイアナへの移送が非合法化されています。
 また1917年には初の労働組合が結成されています。


スリナム
 オランダ領
 1863年に制度的には奴隷制が廃止されたものの,アフリカ系の元奴隷の多くの状況は劣悪です。賃労働になったとはいえ,プランテーションにおける労働は続きます。
 また,現在のインドネシアを植民地(オランダ領東インド)としていたオランダは,そこから主に中国系住民が奴隷に代わって年季奉公人として移送するようになります。1916年まではインド系年季奉公人も多く導入されました。1890年以降はジャワ島からの年季奉公人も増えます。

 こうしてスリナムには,少数のオランダ系支配層と,多くのアフリカ系(マルーンと呼ばれます),ジャワ系,中国系,インド系(東インド系と呼ばれます),先住民で構成される複雑な社会が組み上がっていくのです。
 2012年現在のスリナムの人口比率は,インド系27.4%,アフリカ系21.7%,クレオール(黒人と白人の混血)15.7%,ジャワ系13.7%となっています。
 
(注)Hindustani (also known locally as "East Indians"; their ancestors emigrated from northern India in the latter part of the 19th century) 27.4%, "Maroon" (their African ancestors were brought to the country in the 17th and 18th centuries as slaves and escaped to the interior) 21.7%, Creole (mixed white and black) 15.7%, Javanese 13.7%, mixed 13.4%, other 7.6%, unspecified 0.6% (2012 est.),https://www.cia.gov/library/publications/the-world-factbook/geos/ns.html。


フランス領ギニア
 フランス領ギニア〔ギュイヤンヌ〕は,隣国スリナムやブラジルとの間に,1853年に発見された金鉱をめぐる紛争を抱えています。
 金鉱の位置する南部アマパ地方ではフランス人の入植者により,独立ギアナ共和国(1886~1891)が一時期建国されています。天然ゴムの国際的な需要の高まりもあり紛争は長引きますが,1900年の調停でブラジル領とされます。





●1870年~1920年のオセアニア
◆イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・オーストラリアなどによる植民地化がすすむ
ヨーロッパ諸国の「オセアニア分割」が本格化する

○1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア
◆ポリネシアは英仏のほか,19世紀末にアメリカ合衆国が食い込むように進出する
ミッドウェー,ハワイ,パルミラ,東サモアは米領に
ポリネシア…①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島
 現①チリ領土イースター島の島民のほとんどは1877年にペルー人により奴隷として連行されますが,最終的に1888年に島はチリ領となります。島民はハンガロアという地区に押し込められ,チリ政府はイギリスの羊毛会社に島の土地を売却し,4万頭の羊が飼育される大牧場となるのです(注)。

・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現②ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ
 ②ピトケアン諸島はすでに1829年にイギリス領。
 ②フランス領ポリネシアは,すでにタヒチ島(1842) 【セA H30フランス領か問う】,マルキーズ諸島(1842),トゥアモトゥ諸島(1858)がフランス領。この頃フランスのポスト印象派〈ゴーギャン〉(ゴーガン,1848~1903)は二度に渡りフランス領ポリネシアにわたり,タヒチ島やマルキーズ諸島を訪れ,現地で亡くなっています。
 なお,フランス領ポリネシアの北西に位置するフェニックス諸島(イギリス),ライン諸島北端のクリスマス〔キリティマティ〕島(イギリス)は,ともにイギリス領となっています(現・キリバス)。クリスマス島の北のパルミラ島(1897)はアメリカ領です。

 ③クック諸島のラロトンガ王国は1888年にイギリスの保護国となり,1901年にニュージーランドの属領となりました。
 ④ニウエでは1876年に現地の国王が支配権を握りますが,1900年にイギリスが保護国化,1901年にニュージーランドの属領となります。

・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉がマオリの王に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘(土地戦争)をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます。1881年にはマオリ王は政府との和解交渉を受け入れています。

 1870年頃からイギリスの資金を導入した鉄道・道路のインフラ整備が政府により進められ,電信線も敷設されました。しかし,中央政府が近代化を進めようとすると,今までの地方分権的な制度とのバッティングが起きるようになり,1876年に地方分権的な制度は廃止されました。
 開発が急速にすすみ,1870年代初期には国民一人当たりの所得は世界トップレベルとなっていました。しかし,1870年代後半には羊毛価格の下落,金の生産の減少,オーストラリアの銀行の破産が続き,不況の時代を迎えます。
 そんな中,ニュージーランドの経済を救ったのは冷凍船の登場です。羊毛輸出に依存していた畜産業は,1880年代以降はヨーロッパ向けのラム肉輸出に舵をきることとなったのです。1895年~1907年は好景気に戻っていきます。

 政治的には1879年には普通選挙法が制定されました。1891年以降は,小農と都市労働者を基盤とする自由党による政党内閣が成立し,1912年にかけて自由主義的な政策をとっていきます。政府の政策により大土地所有者の手から土地が手放され,農民に分配されていきました。
 しかし自由党の政策に不満を感じる農民は「改革党」を支持するようになっていきます。

 また,産業の進展にともない労働者向けの制度の整備もすすみ,社会保障制度も充実していきました。なお,1893年には女性選挙権も認められています。世界的にみてもかなり早い時期の承認となりますが,女性の被選挙権が認められるのは1919年で,実際に女性議員が選ばれるのは1933年のこととなります(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.190~193)。

 1895年には,増加していた中国人移民をターゲットとし,受け入れを制限する法律案が提出されましたが,イギリス本国はこれを認めなかったため実現はしませんでした(日本をパートナーとして重視していたイギリスの意向とみられます)。その後移民制限は,言語能力をみるテストにより実施され,徐々に中国人に対する締め出しが進んでいきます。
 1899年にイギリスは南アフリカ戦争を開始しましたが,ニュージーランドはこれに兵を送っています(マオリ兵の派遣は見送られました)。20世紀に入ると14~20歳の全男子による国防義勇軍が結成されています。その後,第一次世界大戦が1914年にはじまると,マオリたちの中には「自分たちもイギリスのために戦って株を上げることで,ニュージーランドの中での地位を高めよう」と考える人々も現れます。ヨーロッパ式の教育を受けたエリートからなる青年マオリ党です。ニュージーランド軍は,ドイツ領であった西サモアのアピアに戦わずして上陸。その後はさらにアンザック(ニュージーランドとオーストラリアの連合軍)が,オスマン帝国との戦いで多くの犠牲者を出しています(2721人が戦死)(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.196~198)。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。


・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア独立国
サモアはドイツ(のちNZ)とアメリカに分割される
 ⑦サモア諸島(現アメリカ領サモア(東サモア)とサモア(西サモア))には,サモア王国がありました。しかし,1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域となりました。

 1899年には,ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割されています。
 しかし,第一次世界大戦でのドイツの敗北を受け,1919年のヴェルサイユ条約で西サモアは国際連盟委任統治領となり,その統治はニュージーランドに任されました。

 サモアの人々の頭越しに,その支配者がヨーロッパで開催された国際会議で決定されたわけです。


・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 ⑧トケラウは1889年にイギリスの保護国となり,1916年にはギルバート=エリス諸島に組み込まれています。

・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 ⑨ツバルは,1892年にエリス諸島と命名され,北部のミクロネシアに属するギルバート諸島(現在のキリバス)とともに,ギルバートおよびエリス諸島として支配されることになりました。イギリスの保護領です。


・1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
 ハワイには,1885年に第一回の日本移民(日系ハワイ移民)が上陸しました。19世紀後半になるとアメリカ合衆国の進出が激しくなり,1893年にはアメリカ合衆国は海軍を派遣し,最後の女王〈リリウオカラニ〉(位1891~93)を幽閉し,現地でサトウキビ・プランテーションをおこなっていたアメリカ人農園主らの支持で傀儡(かいらい)政権であるハワイ共和国を建国。

 女王は1893年に退位を迫られ,反逆罪を背負って王宮に幽閉されることとなります。彼女が若い頃につくったとされる「アロハ=オエ」には,アメリカ合衆国の進出を受け衰える王国への悲しみが漂っています。この曲はそんな実情とは裏腹に,アメリカ合衆国で19世紀末にヒットし,観光産業と結びついて商業的なハワイアン=ミュージックが形成されていくことになります。

 その後,〈マッキンリー〉大統領(任1897~1901)は,1898年にハワイ共和国をアメリカに併合します【追H9大陸横断鉄道開通とペリー日本来航との順序】【本試験H21スペイン領だったわけではない】。 
 ハワイ共和国の大統領をいとこにもつアメリカ人〈ドール〉は,1901年にハワイアン・パイナップル社を設立しパイナップルの缶詰を製造し,“パイナップル王”と称されました(「Dole」のシールのバナナで有名な,現在のドール=フード=カンパニー)。



○1870年~1920年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリア大陸に初めて探検したヨーロッパ人は,オランダ人の〈タスマン〉【本試験H29スタンリーとのひっかけ】(1603?~1659以前?1661以前?)の一団でした。しかし〈クック〉(1728~1779)の航海後,18世紀後半にイギリスが領有し,初めは罪人を島流しにする場所として使われていました。しかし,だんだんと自分から移り住む者も増え,19世紀中期にゴールド=ラッシュ【本試験H5 16世紀以降の東アジアに金が流入していない】が起きると,600部族に分かれていた先住民のアボリジナル(アボリジニ)【本試験H27】を迫害しながら,発展がすすんでいきました。
 18世紀に30万人いた人口は,1901年の国勢調査では約6万と,5分の1以下に激減してしまいます。

 1860年代から真珠を生み出すシロチョウガイ採取が,北岸のアラフラ海で盛んとなりました。しかし,アボリジニーは泳ぐことに慣れていなかったため,フィリピン人,マレー人やオセアニアの人々が潜水夫として従事しました。
 1883年になると日本人が採用され,和歌山県,愛媛県,広島県,沖縄県から漁夫が出稼ぎに向かいました。拠点は,ケープヨーク半島とニューギニア島の間にあるトレス海峡に浮かぶ木曜島と,オーストラリア北東岸のブルーム。1900年代初めには日本人町も建設されるようになっています(注1)。

 1901年にはオーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ,西オーストラリア,南オーストラリア,ヴィクトリア,クイーンズランド,タスマニアの6州)として,大英帝国内の自治領として認められました。
 1903年の移民法で有色人種の入国が禁止されましたが,日本人は真珠採りのために木曜島・ブルームに限って滞在が許可されます(注2)。
(注1)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.125。
(注2)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.126。

 ニュージーランドとオーストラリアからは,第一次大戦が始まるとイギリス軍の指揮下で合同軍(ANZAC(アンザック)軍団)が編成され,戦地に派遣されました。特に,対オスマン帝国戦では,ダーダネルス海峡を突破してマルマラ海に進入してコンスタンティノープルを占領する作戦に参加しました。
 このガリポリの戦いでは,オスマン帝国の指揮をドイツの将軍がとり,〈ケマル=パシャ〉(1881?~1938,のちのトルコ共和国の建国者)も参加し,最終的にイギリスとアンザックが多数の犠牲者を出して敗北。彼らはソンムの戦いなどの激戦に投入され,さらなる犠牲者を生みました。上陸作戦の開始日である4月25日は,アンザック=デーとしてオーストラリア,ニュージンランドなどの国民の祝日となっています(⇒1870~1920のアジア 西アジア トルコ)。



○1870年~1920年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
英支配下でメラネシアにアジア系移民が移動する
 イギリスは19世紀後半に,フィジー,ニューギニア島南東部,ソロモン諸島などを領有しています。フィジーはサトウキビのプランテーションで栄えます。
 1879年にはフィジーにインド人移民【明文H30記フィジーに限らず,19世紀半ば以降のインド人出稼ぎ労働者の急増に関する問い】が導入されるなど,アジア系移民がオセアニア地域に流入していきました。

・1870年~1920年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
イギリス領
 現①フィジー諸島は1874年にイギリスの植民地となります。1879~1916年の間にサトウキビのプランテーションの働き手としてインドからのヒンドゥー教徒やイスラーム教徒の移民が導入されました。
 これにともない,先住のポリネシア人に加えてインド人の人口が急増し,フィジー社会は根本的な変化を経験することとなるのです。


・1870年~1920年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
フランス領
 現②フランス領のニューカレドニア(ヌーヴェルカレドニ)は,すでに1853年にフランス領【本試験H20イギリス領ではない】となっています。

・1870年~1920年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
イギリス・フランス共同統治領
 現在③バヌアツのあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスの共同統治となっています。

・1870年~1920年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
イギリス領
 現在の④ソロモン諸島は1899年にイギリス領となりました。

・1870年~1920年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
ニューギニア島は英独蘭に3分割される状態に
 現⑤パプアニューギニアの東半の南部は,1884年にイギリス領となっています。
 それに食い込む形でオセアニア分割に新規参入したのはドイツです。ドイツは⑤パプアニューギニア東半の北部を領有するとともに,1884年にビスマルク諸島(もちろん〈ビスマルク〉首相に由来)を獲得しています。

 一方,東南アジアにオランダ領東インドを経営するオランダは,すでに1828年にはニューギニア島の西半分を併合していますから,ニューギニア島はオランダ,ドイツ,イギリスによって三分割される形となったわけです。



○1870年~1920年のオセアニア ミクロネシア
◆米西戦争敗北によりスペイン領からアメリカ・ドイツ領に転換,大戦後には日本が委任統治へ
スペインから米・ドイツへ,ドイツから日本領へ
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

 ドイツは国内統一に出遅れたため,太平洋への進出も出遅れます。
 19世紀後半になって太平洋のうちメラネシア西部と,ミクロネシアの諸島を領有していきました。1885年には①マーシャル諸島を獲得。なお,マーシャル諸島北東のミッドウェー諸島(1867),北方のウェーク島(1889)はすでにアメリカ合衆国の領土となっていました。

 ドイツ【追H9日本,アメリカ,イギリスではない】は,米西戦争(1898)でアメリカに負けたスペインから,1899年に④北マリアナ諸島(グアムを除いたマリアナ諸島)と,カロリン諸島【追H9】(現④ミクロネシア連邦),⑤パラオ諸島を売却され,獲得しています。

 スペインは⑥グアムをアメリカ合衆国に割譲しています【追H24米英戦争の結果ではない】。

 ③ナウルは1888年にドイツ領となり,20世紀に入って化学肥料の原料となるリン鉱石の採掘が始まります。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました(注)。
 ②キリバスのうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入しています。

 やがてオセアニアのドイツ植民地は,ドイツが第一次世界大戦(1914~1918)で敗れると,国際連合の委任統治領に代わります。
 ミクロネシアは日本の,ドイツ領ニューギニアはオーストラリアの委任統治領となりました。日本はついに“南の島”への進出を始めるのです。
 ミクロネシアの⑤パラオには日本の南洋庁が置かれ,日本による統治が始まりました。パラオには,現在でも日本語が公用語とされている州があるほどです。

(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.354。





●1870年~1920年の中央ユーラシア
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割が完了

中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル


・1870年~1920年の中央ユーラシア 現①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
◆東トルキスタンはイギリスとロシアによるグレート=ゲームの争奪地となる
 中央ユーラシアには,ティムール帝国を崩壊させたウズベク人【慶文H29】が,チンギス=カンと〈ムハンマド〉の末裔たるハーンを担いで,3つの国家を形成していました。

・ヒヴァ=ハーン国
・ブハラ=ハーン国
・コーカンド=ハーン国【追H20】

 これら3つの国家です。
 一方,この頃ロシア帝国は,ユーラシア大陸全域で南下を試みており,その影響はこの地域にも及ぶこととなります(#漫画 〈森薫〉の漫画『乙嫁語り』はこの時期(クリミア戦争後)の中央アジアを舞台としています)。
 ロシアの南下を嫌うイギリスとの間に“グレート=ゲーム”と呼ばれる,中央ユーラシアを舞台にした列強の領土争いが進行していくのです。

◆一時,新疆のウイグルがイギリスの支持を背景に清の支配を追放することに成功
〈ヤークーブ=ベク〉のカシュガル王国が一時独立

 疲弊した清に対し,新疆(しんきょう)のウイグル人イスラーム教徒は各地で反乱を起こしていました。そのうちタリム盆地西部の反乱軍は,コーカンドのハーン国に応援を頼むと,軍人〈ヤークーブ=ベク〉が,1865年にカシュガルに派遣されました。
 彼は次々に反乱勢力を鎮圧し,1870年に天山山脈以南のタリム盆地を征服しました。

 一方ロシアはイリ地方【東京H26[1]指定語句】に進出。これ以降をイリ事件といいます。イリ地方というのは,天山山脈から北のバルハシ湖へと注ぐイリ川流域のエリアです。
 ロシアの南下を嫌い,清の勢力をタリム盆地から排除したかったイギリスは,この事態を歓迎。〈ヤークーブ=ベグ〉政権を承認し,これを支援します。

 しかしそれに対して清は1876年に欽差大臣〈左宗棠〉(さそうとう,1812~1885)を派遣し,〈ヤークーブ〉軍を破ります。イギリスはこれを憂慮し,清の朝廷の中でもイギリスに対する対応策をどうするか意見が分かれました。 
 
 清にとってのもうひとつの悩みのタネは,タリム盆地に進出しようとしているロシアの出方です。ロシアは同じ頃,1877~1878年にオスマン帝国との戦争(露土戦争)に追われ,タリム盆地における紛争に本腰を入れることができていない状況でした。

 ロシアとの開戦を主張する〈左宗棠〉の意見に反し,1879年にイリ地方の西部・南部を割譲する条約が結ばれ,全面戦争は回避。
 1881年には最終的にイリ条約【追H21時期(19世紀後半か問う)】が結ばれ,国境が確定されました(1881年イリ事件)。
 この中で,イリ地方の一部は清に返還されたものの,イリ地方の西部はロシアに割譲され,ロシアはあわせて賠償金と通商上の利権を獲得しました。


 戦後,清は新疆への統治を強めるとともに,漢語を押し付けるなどの政策をとりました。その結果,新疆の地域では清への反感が高まっていきました。また,ロシアは占領地を失ったものの,ロシアの領土に編入されていたタタール人やウズベク人が,新疆に対して商売をするようになると,「パン=イスラーム主義」の情報なども伝わって来るようになります。ロシアと清との貿易で力をつけた商業資本家たちは,自分の子どもをロシアやオスマン帝国に留学させるようになっていきました。ロシアは,1873年にヒヴァを占領し,ヒヴァ=ハーン国を保護国化【本試験H15・H18・H30】しました。軍人〈ヤークーブ〉を派遣していたコーカンド=ハーン国も,1876年にロシアの攻撃や,領内のクルグズ人の反乱により滅び,ロシアの支配下に置かれました【京都H19[2]】【本試験H15・本試験H18】【追H20時期(19世紀以降),併合したのはソヴィエト連邦ではない】。ロシア軍の軍政に対する反発も起こり,1898年にはフェルガナのアンディジャンで,ロシア軍に対するイスラーム教徒の反乱が起きています。
 1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,新疆でも1912年に独立運動が起きてウルムチに政権が建てられましたが,漢人の〈楊増新〉により事実上「独立政権」が樹立されて住民による運動はおさえられ,清の政策を引き継ぐ体制が続きました。この漢人政権は,中華民国政府との関係も維持していました。


◆ヨーロッパや日本により,中央アジアの学術的な探検が組織される
敦煌文書(もんじょ)が発見される
 なおこの頃,敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)の未知のスペースに隠されていた大量の仏典(敦煌文献)が1900年に発見されたという情報を聞きつけ,イギリスの探検家〈スタイン〉(1862~1943)が来訪。
 1906年からの第二回探検(第一回は1900年)の成果として,敦煌の文書を持ち帰っています。

 フランスの〈ペリオ〉(1878~1945)も遅れて敦煌に入り,文献の一部を持ち帰っています。
 なお,同時期に日本の浄土真宗本願寺派の僧〈大谷光瑞〉(おおたにこうずい)も,3度に渡る探検をしています(1902~04,1908~09,1910~14)(注)。

 敦煌文書からは,従来は中国の漢字史料以外は知られていなかった西域諸国の歴史的な事実が次々に明らかになっていきます。現在ではイギリスの大英図書館,フランス国立図書館などに保管されています。
(注) 大谷探検隊によりトゥルファンでは規定通りではないものの均田制が実施されていたことが明らかになりました。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.79。





・1870年~1920年の中央ユーラシア  現⑧モンゴル(中華人民共和国の内モンゴルを含む)
◆外モンゴルではチベット仏教の活仏(かつぶつ)が皇帝に推され,政権が樹立される
中華民国成立後,外モンゴルに政権が生まれる
 モンゴル高原では,1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,「清の皇帝が倒されたのだから,モンゴル人と清との関係はなくなった」とみなし,外モンゴル【本試験H19】のハルハ地方のチベット仏教の僧侶によって独立が宣言され【本試験H19辛亥革命のときかを問う】,新しい政権が建てられました。

 彼らはチベット仏教で〈ブッダ〉の生まれ変わりとされる活仏〈ジェブツンダムバ=ホトクト8世〉(チベット人です)を皇帝(ボグド=ハーン)として選ぶことで,清支配下にあったモンゴル人を統一しようとしたのです。

 彼らが恐れていたのは,〈孫文〉を中心とする中華民国(1912~)が,清の支配を引き継いでモンゴルを支配し続けること。そこで清に対抗するために,ロシア帝国からの軍事的な支援を求めるようになったのです。

 ところが,この動きを警戒したのは,当時日露戦争に勝利し,大陸への進出を見据えていた日本でした。
 「ボグド=ハーン政権がロシアの支援を受けてしまえば,ロシアの事実上の南下につながってしまう」
 こう考えた日本側は,ロシア側と調整。

 日露戦争で負けたロシアも争いは望まず,ひとまず内モンゴル(モンゴル高原南部)を,ロシアと日本とで勢力圏に分けることにしました。

 しかしその上で,ロシアと中華民国は〈ボグド=ハーン〉政権に介入し,一気に関係は複雑化。1915年のキャフタ協定で一応その存在は中華民国とロシアによって認められましたが,中華民国の宗主権下にある外モンゴルの〈ボグド=ハーン〉政権の領域は,あくまで「外モンゴル」のみとされ,「内モンゴル」は除外される形となりました(自治の対象外となった内モンゴル)。

 その後,1917年にロシア革命によってロシア帝国が崩壊すると急展開をむかえます。
 ロシア帝国が倒されたことで,日本は「革命の阻止」を口実に勢力を北に拡大。〈ボグド=ハーン〉政権の領域は,日本と中華民国が進出を受ける可能性が出てきます。

 そんな中,シベリアのバイカル湖周辺のモンゴル人(ブリヤート=モンゴル人)が,モンゴル人の自治を守り独立をめざすための運動を起こします。
 1920年には中国を排除しようとするモンゴル人民党が結成され,これを革命ソヴィエト政権が支援。モンゴルにとってソヴィエトは”助け船”であったわけです【本試験H11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた」のはモンゴルであって,チベットではない】。




・1870年~1920年の中央ユーラシア  現⑦中華人民共和国のチベット
 チベットは,インドの植民地化を進め,ロシアの南下を阻止しようとしていたイギリスにとって,戦略的に重要な場所にありました。
 清はチベットに対する宗主権を主張していたものの,チベットはあくまで「独立」を主張。
 イギリスはロシアが勢力を及ぼすのを避けるため,チベットの独立を認めることで言いなりにした上で,清にもチベットに対する宗主権を認める “二枚舌外交”を展開していました。

 1903~1904年にはチベットを攻撃しラサに入城した上で1904年ラサ条約を結びチベットが独立状態にあることを示しました。
 しかし一方,1907年の英露協商では,清がチベットの宗主権を持っていることを承認しています。

 1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,〈ダライラマ13世〉を中心に独立運動が始まりますが,1913年には,イギリスと中華民国とチベットの3者間でシムラ会議が開かれ “中国の宗主権のもとで自治が認められる”という曖昧な取り決めがありました。
 しかし国境線に関して不満であった中国は代表を引き上げ,条約はイギリス・チベット間のみの締結となり,最終的に中国側は調印を拒否。チベットの地位をめぐる国際的な合意は得られぬまま持ち越しということになりました。

 なお,黄檗宗の僧〈河口慧海〉(かわぐちえかい,1866~1945)は,日本人として初めて1901年にチベットのラサを訪れ,翌年まで1年余り滞在し,『西藏旅行記』(1904)を出版しています(注)。
(注)河口慧海「チベット旅行記」青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html)。冒頭部分は,以下の通りです(太字は筆者による)。
「チベットは厳重なる鎖国なり。世人呼んで世界の秘密国と言う。その果たして然しかるや否やは容易に断ずるを得ざるも,天然の嶮(けん)によりて世界と隔絶し,別に一乾坤(けんこん)をなして自ら仏陀(ぶっだ)の国土,観音の浄土と誇称せるごとき,見るべきの異彩あり。」





●1870年~1920年のアジア
○1870年~1920年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○1870年~1920年の東北アジア
◆日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州は革命勢力の支配地域となった
清が滅び,沿海州は赤軍の支配地域となる
 女真(女直,ジュルチン)を支配層とする清は,日清戦争(1894~1895)を経て19世紀後半に弱体化し,1912年に滅びました。
 その間,女真の根拠地の満洲(まんしゅう)や朝鮮半島をめぐって,南下をすすめるロシア帝国と日本との間に日露戦争(1904~1905)【東京H14[1]指定語句】【明文H30記】が勃発。その後,ロシア帝国が第二次ロシア革命で滅びると,沿海州は革命勢力と資本主義諸国との間の戦場となりました。このとき最後まで満洲に軍隊を進駐(シベリア出兵)させた日本は,最終的に1922年に撤退。沿海州は革命勢力である白軍の支配地域となりました。
 
 日本は清の最後の皇帝〈溥儀(ふぎ)〉(1906~1967)と接触し,満洲への進出をめざす日本政府と,再びみずからの国家を樹立したい女真人の思惑が交錯していくことになります。

◆沿海州~ベーリング海峡までの地域は,赤軍の支配地域となる
沿海州~ベーリング海も赤軍の支配地域となる
 イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営むツングース人,ヤクート人,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人は,ロシア帝国に代わって,革命勢力である白軍の支配下に入ります。

○1870年~1920年のアジア  東アジア
西洋技術の導入が図られるが,保守派の抵抗も
 アロー戦争(1856~60)や太平天国の乱(1851~62)の鎮圧を通して欧米の軍事力の威力を思い知った清の指導者は,女真(女直)人ではなく漢人官僚を中心に,清の産業・軍事技術の近代化を目指す洋務運動【本試験H10立憲君主政を求める運動ではない】を始めました。
 〈咸(かん)豊(ぽう)帝〉(位1861~75)はこれを推進しましたが,実験を握っていたのは母親の〈西太后〉(皇帝であり父である咸豊帝の皇后) 【H29共通テスト試行 則天武后ではない】【明文H30記】です。〈同治帝〉が19歳の若さで亡くなるまで,政治の実権を握っていました。
 
 〈西太后〉は,漢人官僚〈李鴻章〉(1823~1901) 【東京H29[3]】の軍事力を頼って,洋務運動を支持・推進しました。しかし,依然として欧米との不平等条約は改定されず【本試験H11 当時(1871年前後)に不平等条約が改定され欧米諸国との対等な外交関係が樹立されていたか問う】,“同治の中興(ちゅうこう)” 【本試験H11 当時(1871年前後)の中国の近代化政策として,「同治中興」という安定期があったかを問う】といわれた〈同治帝〉(位1875~1908)の治世には,次々に洋務運動の失敗が明るみに出ます。一般に同治中興【本試験H6時期(太平天国後の「開元の治」ではない),本試験H8時期(義和団事件の後ではない)】【追H18】は,時期は即位翌年1862年の洋務運動の開始から,同治年間が終わるとき(1874)までを指します(注)。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123。

(1) 1884~1885年 清仏戦争【本試験H10 時期:1850~60年代ではない】でフランス(第三共和政)に敗北し,ヴェトナムの宗(しゅう)主権(しゅけん)を喪失。
(2) 1894~1895年 日清戦争で日本(大日本帝国)に敗北し,朝鮮の宗主権を喪失。

 1392年以来続いていた朝鮮王朝では,1811~1812年に大規模な農民反乱が起こりました。中央支配層の両班(ヤンバン)の権力闘争や腐敗に対する批判が,重税に苦しむ農民反乱と結びついたのです。指導者の〈洪景来〉(ホンギョンネ,こうけいらい,1780~1812)は一時現在の北朝鮮北部を制圧しましたが,王朝軍に殺され反乱も鎮圧されてしまいました。〈崔済愚〉(チェジェウ,さいせいぐ,1824~64)は1860年,「キリスト教に代表される西洋の思想の次には,東洋の思想の時代がやってくる」と主張し,「東学」【追H26農民戦争を1894年に起こしたか問う】【本試験H6】【セA H30】を旗印に儒教・仏教・道教【本試験H6キリスト教と民間信仰・儒教を結びつけたわけではない】【セA H30ゾロアスター教の影響は受けていない】を融合して,ヨーロッパ批判だけでなく儒教道徳を押し付ける朝鮮王朝批判を展開しましたが,弾圧されます。

 そのころ朝鮮王朝【本試験H10 1870年代の朝鮮の宗主国が清か問う】第26代の王は〈高宗〉(〈李太王〉,在位1863~1907)でしたが,実権は〈大院君〉(たいいんくん,1820~98)がにぎっていました。〈大院君〉はアメリカやフランスの来航に対しあくまで攘夷(じょうい。外国勢力を打ち破ること)を主張しました【本試験H13フランスは朝鮮を開国させていない,H31開国要求を受け入れたわけではない】【本試験H3「李氏朝鮮」は鎖国攘夷政策をとったが,清の宗主権を否定し,清がこれを認めることはなかった。また,開化政策をとり鎖国攘夷派により失脚もさせられていない】。
 しかし,〈大院君〉の息子である〈高宗〉の后の〈閔妃〉(ミンビ,びんひ,1851~95)一派が〈大院君〉を失脚させ,1873年に〈閔妃〉一族が政治に介入します。これを閔妃政権といい,日本から軍事顧問を招いて軍事力の西洋化をすすめました。
 しかし,日本【本試験H10イギリスではない】【本試験H13フランスではない】は1875年に江華島事件【東京H20[1]指定語句】を起こし,翌1876年に日本側の全権日本側全権〈黒田清隆〉(くろだきよたか,1840~1900),〈井上馨〉(いのうえかおる,1836~1915)と朝鮮側全権〈申櫶〉(しんけん,1810~1884)らとの間に日朝修好条規【セA H30日清修好条規ではない,アメリカ合衆国が開国させていない】が結ばれ,朝鮮を開国させました【本試験H13時期(19世紀後半)】。軍艦で威圧する砲艦外交によって,日本がかつてアメリカ合衆国の〈ペリー〉から受けたのと同じようなことがなされたわけです。

 日朝修好条規では,朝鮮は自主の邦とされたものの,日本の領事裁判権を認める(第10款「日本國人民朝鮮國指定ノ各口ニ在留中若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ」)などです。また,すでに日本公館のあった釜山(プサン)以外の2港の開港と通商も求められ(第4・5款),結局,元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)が開港されました。付属第7款では,開港場での日本の貨幣の使用も可能となりました。朝鮮側には同様の条項がないので,日朝修好条規は不平等条約といえます。
 
 こうして従来の中国の皇帝を中心とする従来の冊封体制(さくほうたいせい)を切り崩し,ヨーロッパ式の外交のルールにのっとり,日本側に有利な日朝の政治・通商関係をつくろうとしたのです。
 「どうしてそんな条約を日本と結んだんだ!」と〈閔妃〉一族に対する不満が,軍隊の反乱として現れました。「〈大院君〉にもう一度政治の舞台に戻ってもらおう」と担ぎ出し,〈閔妃〉一族や日本人が殺されました(1882年壬午軍乱)。
 これに対し,「宗主権を持っているのだから出兵をするのは当たり前」という清と,「〈閔妃〉一族や日本人保護のため軍隊を派遣するのは当たり前」という日本が同時に朝鮮に出兵する事態に。結局〈閔妃〉一族を助けたのは清で,このとき〈大院君〉は清によって捕まえられました。助けられた〈閔妃〉一族は,その後清と結びつくようになります。
 こうして,「日本と結びつくのは危ない。やはり清を頼りにして,保護してもらうべきだ」と考える〈閔妃〉政権に対し,「日本のように朝鮮を近代化するべきだ。そのために日本と協力しよう【追H20敵対したわけではない】」という開化派(独立党) 【追H20】の対立が始まります。
 開化派の〈金玉均〉(1851~94) 【本試験H3日朝修好条規に対し反日クーデタを起こしていない,大院君は開化政策をとろうとしていない】や〈朴泳孝〉(1861~1939)らが首都の漢城で,〈閔妃〉政権を一時的に崩壊させるクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が起きました。1884年の甲申政変です。結局これも清が鎮圧して,失敗に終わります。

 ただ,朝鮮半島で何かが起きるたび,日本と清の軍隊が場当たり的に派遣され,「戦争一歩手前」の事態に発展していては,毎回冷や汗モノです。
 そこで,1885年の天津条約では「いったん日本の清も朝鮮から撤退して,今後出兵するときには,必ず事前に通告するようにしましょう」という内容が取り決められました。



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆朝鮮をめぐり日清戦争が起き,日本が勝った【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】
日清戦争で勝利した日本は、工業化を推進する
 東学【追H26農民戦争を1894年に起こしたか問う】【H29共通テスト試行 時期(当時の朝鮮はまだ日韓協約を締結していない),H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】はヨーロッパや日本の進出に抵抗し(「斥洋倭」(ちくようわ)がスローガン),朝鮮王朝をも批判する教義により,広範囲に支持者を増やしていました。
 閔妃政権は東学に弾圧を加えますが,1894年2月に朝鮮半島東南部の全羅道で,地方幹部の〈全琫準〉(チョンボンジュン;ぜんほうじゅん) 【東京H21[3]】【本試験H12蒋介石ではない】率いる民(みん)変(ペン)(甲午農民戦争【追H26 1894年に東学が起こしたか問う】【本試験H3「東学党」は太平天国とは関係ない,本試験H10 時期 1850~60年代ではない,本試験H12】【H30共通テスト試行 時期(「1402年」・「楽浪郡の設置」・「豊臣秀吉が送った軍勢の侵攻」の並び替え)】)が,地方政庁の収奪や,日本勢力や閔妃政権に対して勃発しました。

 農民軍が政府軍を倒して拡大していくと,自力で鎮圧するのは無理とみた閔妃政権は清の〈袁世凱〉(えんせいがい) 【東京H27[3]】に派兵を求めました。それに対抗し,日本政府も公使館と現地の日本人を保護するという名目で出兵しました。

 当時の農民軍は,東南部の全州で政府軍に包囲されており,清と日本が出兵したことを聞くと,6月10日には農民軍と政府軍との間で「全州和約」が結ばれ,農民軍は撤退しました。
 和約が成ったので閔妃政権は日本と清に撤退を求めましたが,日本政府は清に反乱の鎮圧と朝鮮の内政改革を提案しました。この時点ですでに日本は仁川,漢城を占領していました。日本軍は武力を背景に政府軍を武装解除し,〈大院君〉を支持して閔妃政権を倒しました。
 さらに日本の艦隊は清の北洋艦隊を攻撃(豊島(プンド)沖の開戦し,1894年日清戦争【追H26農民反乱をきっかけにはじまったか問う】が勃発しました。日本は朝鮮政府(開化派政権)・地方官庁に圧力をかけつつ,平壌の戦い,黄海海戦に勝利しましたが,民衆の間には日本に対する抵抗運動も置きていました。〈全琫準〉率いる朝鮮半島東南部の全羅道の農民軍は,日本と結んだ政権(開化派政権)と日本に対する蜂起を10月に再び起こしましたが,1895年1月には鎮圧されました。日本は清と戦いつつ,朝鮮半島で農民軍とも戦い,朝鮮政府に対する日本の圧力を高めていったわけです。
 1895年4月に下関条約【本試験H13日露戦争・第一次大戦・日中戦争による獲得ではない,本試験H15】【追H20これに対し五四運動は起きていない】が締結され,日清戦争は終わりました。この中で朝鮮が清から独立していること【本試験H15地図(朝鮮の位置を問う)】,日本への賠償金の支払い,遼東半島・台湾【本試験H5】【本試験H13】・澎湖(ほうこ)諸島【本試験H19日露戦争による獲得ではない】の日本への割譲が決まりました。こうして清は朝鮮に対する宗主権を失いました。
 日本は莫大な賠償金(2万両(テール))を元手に,産業革命(工業化)をいよいよ本格化させていきます。また,清における鉱山の採掘権・鉄道の敷設権も獲得しました。
 閔妃政権はこれを機に,日本ではなくロシアに接近することで,日本の進出を押し止めようとしていきます。これをみた日本公使〈三浦梧楼〉(みうらごろう)は1895年10月に〈大院君〉を支援し,王宮の京福宮で〈閔妃〉を殺害しました(閔(びん)妃(ひ)事件,乙未(いつみ)事変)。これにより,日本の支援を受けていた開化派政権に対する朝鮮人の支持は低下し,親ロシア派の官僚がロシア兵の支援を受け〈高宗〉をロシア公使館に移し(露館播遷),クーデタを起こして開化派政権を倒しました。


○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆清は欧米・日本の経済的な従属下に置かれ,知識人の間に危機感が生まれる 
 「日本に倒せるなら,清(しん)なんてちょろい」とばかりに,ロシア,フランス,ドイツ,イギリスが清の利権や日本を狙い始めます。1895年には日本の進出を南下の障害とみたロシアは,フランス【本試験H3ナポレオン3世の時代ではない】とドイツ【本試験H2イギリスではない】を誘って遼東半島を清に返還させます(三国干渉) 【本試験H2】【本試験H17イギリスは参加していない・時期】。
 清に恩を売ったロシアは,1896年ウラジヴォストーク【東京H15[3]】に向けた東清鉄道の敷設権【本試験H6清の国営事業として建設されたのではない】【立教文H28記「東清」】を獲得し,1898年には旅順【東京H26[1]指定語句】【本試験H20時期】や大連【本試験H20時期】などの遼東半島南部を租借します。

 その頃,ロシアが動きます。
 1896年〈高宗〉をロシア公使館に避難させ、〈金弘集〉(1842~1896)政権を倒して親ロシアの新政権を成立させたのです。これを露館播遷(ろかんはせん;俄館播遷)といいます。
 その後1897年に〈高宗〉は慶運宮にうつって元号を「光武」とし、国号を「大韓」(テハン,だいかん)と改め,〈高宗〉は皇帝に即位しました(大韓帝国【京都H19[2]】【追H9朱子学と書院の栄えた時代ではない,H30大韓民国ではない】)(注1)。
 その後,朝鮮の利権をめぐって日本とロシアは譲歩をしつつ,次第に対立を深めていきます。大韓帝国の中では、ロシアに接近しようとする皇帝に対し、独立を守り抜こうとする独立協会が設立され、全部ハングル文字で書かれた『独立新聞』を創刊。しかし政府に弾圧されます(注2)。



 さて中国では,その後立て続けに欧米・日本によって勢力圏が事実上決められていきました。

・1898年にドイツ【立教文H28記】は山東半島南東部に膠州湾(ジャオジョウワン,こうしゅうわん)【本試験H14フランスではない,本試験H15時期(19世紀末),本試験H25】を租借
・1898年にイギリスは,山東半島の東部に威海衛(いかいえい)【本試験H25時期】と九龍半島の新界を租借。長江流域【セ試行 時期(19世紀末までにか)】も勢力圏に加えます。
・1899年フランスは広州湾(グワンジョウワン,こうしゅうわん)を租借していきました
・日本は,1895年に獲得していた台湾の対岸にある福建【本試験H15イギリスの勢力圏ではない・地図】を勢力圏に入れていきます。

 「勢力圏」というのは,他国の進出をブロックすることができる地域のことをいいます。「中国分割」というのは,中国の清の主権を奪う「植民地化」ではなく,そこに鉄道を敷設したり鉱山を採掘したり,工場を建設したりする利権を,ヨーロッパ諸国が獲得していったことを意味します。

 ヨーロッパ諸国が中国に勢力圏を広げていくことに不快感を示したのはアメリカ合衆国です。事実上この「中国分割(中国の領土が租借されたり勢力圏に組み込まれたりしていったこと)」に乗り遅れたアメリカの〈マッキンリー〉大統領は,国務長官(外務大臣のこと)である〈ジョン=ヘイ〉【本試験H25】(1838~1905)の作成した門戸(もんこ)開放宣言(通牒(つうちょう)) 【本試験H2英仏がアメリカを誘って発したわけではない】【本試験H23時期,本試験H26】に同意。1899年にイギリス,ドイツ,ロシア,日本,イタリア,フランスの外交官に発送されました。「中国に「勢力範囲」を設定するのはいいんだけど,自由に通商ができる場所は欲しい。それに,通商は「機会均等」となるようにしてほしい」とお願いしたのが初めの2原則(門戸開放・機会均等の原則)。さらに1900年に義和団事件【本試験H8時期(同治中興の前ではない)】が起きると,出兵した連合軍に対して「清の領土及び行政の保全」(領土保全の原則)と通商の機会均等を要請しています。

 中国の人々にとって「中国分割」の事態はとりわけ深刻に受け止められました。ヨーロッパで流行してした社会進化論の影響もあり,「このままでは優れた人種であるヨーロッパによって中国が滅んでしまう」という言説もみられました。特に,外国に留学した漢人エリートたちの中には「同じアジア人である日本の明治維新に見習おう」という動きが生まれ,変法運動(へんぽううんどう)へとつながっていきました。

(注1)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.270。
(注2)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.270。



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆日本の明治維新を見本とする改革 (変法運動) が起きたが,保守派により中止される
 1888年に編成された清の北洋艦隊は,日清戦争の黄海海戦・威海衛海戦で壊滅。生みの親である〈李鴻章〉(1823~1901) 【東京H29[3]】,山口県の下関で条約を結んだ張本人でもあり,洋務運動の成果である北洋艦隊が壊滅したことで,彼の権威は失墜しました。
 ただ,彼はそれでも〈西大后〉に可愛がられ,政治の舞台からは完全に退くことはありません。彼は「日本の次に脅威になるのはロシアだ。そのためには,ロシアと仲良くしておいて,日本の進出に対抗したほうがよい」との考えから,1896年には満洲におけるロシアの権益(東清鉄道の敷設権)をみとめる内容の露清密約が結ばれました。これが後の1898年の旅順・大連の租借につながります。

 時の皇帝は第11代〈光緒帝〉(こうしょてい,位1875~1908) 【共通一次 H1 清朝の最後の皇帝ではない。満州事変の原因・結果に関連しない】【本試験H11清朝の最後の皇帝ではない】【H30共通テスト試行 この「清国皇帝」は政治改革を阻もうとしたわけではない】です。
 とりわけ日清戦争での敗北にショックを受けた清の漢人官僚のなかに,「洋務運動のように形だけ西洋技術をとりいれても無駄だ。もっと根本的に政治制度をつくりかえよう。そのときにモデルにするのは日本の明治維新だ」というグループが台頭してきました。〈康有為〉(こうゆうい,1858~1927) 【H30共通テスト試行 史料を読み、康有為の「国政の改革」の時期を判断する】【早・政経H31蘭亭序の作者ではない】や〈梁啓超〉(りょうけいちょう1873~1929) 【本試験H11 胡適とのひっかけ】【追H21孫文とのひっかけ】・〈譚嗣同〉(たんしどう,1865~98)らの公羊学派(くようがくは)による変法運動(変法自強運動)【本試験H9ヴェルサイユ条約に反対したものではない】【H30共通テスト試行 史料から時期を判断する】です。公羊学派というのは『春秋』を革命の書として,「儒教はもともと社会を変えようという考えだったじゃないか。社会改革を積極的に行おう」という儒教のグループです。〈康有為〉は1888年に北京で〈光緒帝〉に改革の必要性を書面で訴えましたが,保守派は相手にせず,日清戦争を迎えます。敗戦後に〈康有為〉の弟子〈梁啓超〉【追H21】が1895年に強学会を建てると,〈康有為〉とともに出版活動を活発におこない,湖南省など一部の地方の官僚の中は,公羊学派の説を取り入れた改革をおこなう者も現れました。

 この動きをみた〈光緒帝〉は〈康有為〉を取り立て,伝統的な制度を廃止し,近代的な学校(京師大学堂(けいしだいがくどう))の建設や科挙の改革を通して立憲君主制をめざす変法が始まりました。これを,戊戌の変法【H30共通テスト試行 康有為の「国政の改革」】といいます。
 しかし,〈李鴻章〉の跡継ぎである〈袁世凱〉【東京H27[3]】に支援された〈西太后〉【本試験H8】らの保守派【H30共通テスト試行 「旧守派」は共和国の樹立を目指していない】にはばまれて,〈光緒帝〉は幽閉され,〈康有為〉・〈梁啓超〉【追H21】は日本に亡命するという結果に終わりました(戊戌の政変【本試験H8】【H30共通テスト試行 史料から時期を判断する】)。こうして“改革”が失敗すると,危機感を持った知識人・学生の間には“革命”が選択肢に急浮上することになります。



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆欧米・日本の進出に対する民衆反乱である義和団事件が鎮圧され,清はさらなる従属下に置かれた
 列強の進出が進むなか,1858年の天津条約で認められた「キリスト教布教の自由と宣教師の保護」にもとづいて欧米各国の宣教師が各地でキリスト教を布教していました。それに対抗する民衆運動を,仇教運動(きゅうきょううんどう,教案) 【追H20太平天国は無関係】【立教文H28記】といいます。
 もちろん,キリスト教だけではなく,欧米によって伝統的な社会経済が壊されたことへの不満も大きいものでした。欧米の資本が導入されて,鉄道や蒸気船,電信が採用されるようになると,従来の車夫(人力車の運転手),船頭(せんどう)や飛脚が失業するようになります。また,鉄道の敷設が,伝統的な寺院や墓地を破壊することもありました【本試験H10「キリスト教会や鉄道を破壊した」か問う】。地方の官僚たちにはこの仇教運動を黙認する者も多かったのですが,都の北京にほど近い山東省の巡撫(じゅんぶ,長官のこと)に対し,「中国に滞在している公使館員を守るため,山東省で急拡大している義和団の動きを止めてほしい」とヨーロッパ諸国が要請するようになります。 

 義和団【本試験H8時期(同治中興の前ではない)】【本試験H19】とは,反清・反欧米の集団で「扶清滅洋」(ふしんめつよう) 【本試験H8李鴻章ののスローガンではない,本試験H10太平天国のスローガンではない】【本試験H19】をスローガンにかかげ,ヨーロッパ諸国の進出に抵抗するために武術した白蓮教(びゃくれんきょう)の一派でした。「洋」といっても、その中には日本も含まれていました(注)。
 ヨーロッパ諸国の圧力を受けて清朝は巡撫は罷免し,代わりに〈袁世凱〉が就任すると,義和団は北京へと移動するようになりました。ドイツが勢力圏とした山東半島で武装蜂起すると,そのまま北京に迫る勢いを見せました。
 〈西太后〉は,はじめは義和団側について「義和団なら,ヨーロッパ諸国を追い出してくれるかもしれない」とばかり思い,ヨーロッパ諸国の軍を攻撃しドイツ公使が殺害,さらに列強に宣戦します。こうして,北京の公使館地区を包囲した義和団に対し,日露英仏米独伊墺の8か国連合軍【本試験H8西太后はこれを破っていない,本試験H10西太后が派遣を要請したわけではない】【本試験H19ポルトガル軍は参加していない】【早・法H31】が公使館員を守るために共同出兵しました(ほかにオランダも) 【本試験H20時期】。しかし,多くの地方長官は清の宣戦布告に従うことなく,治安の維持に務めて連合軍との戦いを避けました。あわてた清は,遅ればせながら義和団の鎮圧にまわりましたが,反乱の責任をとって1901年に清は連合国と北京議定書(辛丑和約(しんちゅうわやく)) 【京都H19[2]】【本試験H8】【追H21】を結びました。この中では,外国軍隊の北京公使館区域(および北京と海港の間)駐兵権【本試験H19上海ではない】【追H21「外国軍の北京中流」】や莫大な賠償金(4億5000万両の39年払い)などが決められ,中国の半植民地化は決定的なものとなりました。

(注)永原陽子「南アフリカ戦争とその時代」歴史学研究会 編 講座世界史5『強者の論理―帝国主義の時代』東京大学出版会、1995年。



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆イギリスとの中央ユーラシアの取り合いが太平洋沿岸にまで広がり,日露戦争の引き金となる
 東アジアには朝鮮や中国東北地方(満洲)をねらう日本とロシアの対立という構図が生まれていました。
 義和団事件(1900~1901)の勃発時,アメリカはアメリカ=フィリピン(米比)戦争でフィリピンの植民地化をすすめ,イギリスは南アフリカ〔ブール〕戦争で南アフリカの植民地化をすすめていました。ですから,中国に派兵する余裕があまりありません。
 義和団事件が終わってもなかなか中国東北地方〔満洲〕から撤退しようとしないロシア【追H20「アメリカ合衆国の東アジア進出に対抗して」ではない】を警戒したイギリスは,1902年1月に日英同盟【本試験H5 1920年代ではない,本試験H9,本試験H12】【追H18、H20】【中央文H27記】を結ぶことで,日本の軍事力によってロシアの南下を阻止する戦略に出ました。
 日英同盟は,ロシアを仮想敵国(将来日本かイギリスがロシアと戦争したら,共同して戦うぞという国)とする同盟で,従来「光栄ある孤立」を旗印に他国と同盟を結ぶことを極力避けていたイギリスがその政策を180度転換したわけです。イギリスの政治的な後ろ盾を得た日本は,日銀副総裁の〈高橋是清〉(たかはしこれきよ,1854~1936)がイギリスのユダヤ人資産家(ロスチャイルド家)とロンドンで会談して戦争に向けた資金の提供も受け,万全の体制をとっていきます。

 日本とロシアの思惑に挟まれた大韓帝国(1897年に改称)は皇帝権を強化し,列強の進出を打破しようとしました。民衆の間にも抵抗運動が起きています。

 しかし,1904年に日本は日本陸軍は海軍の護衛を受けながら朝鮮の仁山に上陸し,翌日にかけて旅順港の攻撃と仁川沖海戦をもって日露戦争【本試験H2イギリス・フランスがともに日本を支援したか問う,本試験H12時期(軍事費が1904~05年に多いことを読み取る)】が始まりました。中立をとっていた韓国の漢城は日本に占領され,日韓議定書の調印を迫られました。
 ロシアはこのまま援助を受けずに単独でたたかうことを避け,応援が来るまでなんとか旅順港を死守しようとしました。その後日本陸軍は陸からの旅順攻略を主張しましたが,海軍は「陸軍の援助などいらない」と主張し,対立。しかし,ロシアがバルト海の艦隊を日本海に向かわせていることがわかると,海軍は陸軍に旅順攻略を助けてもらう案を承知します。多大な犠牲を払い旅順の攻略には成功しましたが,ロシアのバルト海艦隊は日本に迫っています。そんな中,1905年3月には奉天会戦で陸上での決戦を制し,1905年5月には〈東郷平八郎〉(1847~1934)を司令官とする日本海軍が,バルチック艦隊を撃破することに成功しました(日本海海戦)。
 その直前1905年1月には第一次ロシア革命が勃発していて(血の日曜日事件),戦争の終結が難しくなっていました。1905年6月には,黒海艦隊で戦艦ポチョムキン号の反乱も起きています。実はこうした「革命を起こさせて,ロシアを内側から崩壊させる」作戦も,陸軍のスパイである〈明石元二郎〉(1864~1919)により秘密裏に遂行されていたといわれています。

 とはいえ長期化する戦争が財政を圧迫していた日本は,アメリカ合衆国の後ろ盾を得て,有利な形で早期決着を図ろうとします。1905年7月には,〈桂太郎(かつらたろう)〉首相(兼臨時外相,任1901~06,08~11,12~13)とアメリカの特使〈タフト〉陸軍大臣の間に桂・タフト協定が結ばれ,アメリカにフィリピンでの支配権を認めるかわりに,日本の韓国(1897年から朝鮮王朝は,大韓帝国と名前を変えています)での支配権を認めてもらうことに成功しました。

 そして,1905年9月,アメリカ【本試験H10イギリスではない】大統領の〈セオドア=ローズヴェルト〉(愛称はテディ,任1901~09) 【追H21】による調停を受け,ポーツマス条約【本試験H10イギリスの調停ではない】【本試験H13下関条約ではない,本試験H16中国とアメリカが結んだわけではない】が結ばれて講和しました【追H21日清戦争の講和ではない】。〈ローズヴェルト〉は1906年にノーベル平和賞を受賞しています。
 日本の全権は〈小村寿太郎〉(1855~1911),ロシア全権は〈ヴィッテ〉(祖先であるオランダ語読みはウィッテ,1849~1915) 【中央文H27記】です。条約において,日本の韓国に対する「指導,保護および監督」の権利が認められます。指導,保護,監督…拡大解釈が可能なように,あえてあいまいにな言葉にしているわけです。さらに,遼東半島南部を租借し,ロシアがもっていた利権(東清鉄道の支線であるハルビン~長春~大連~旅順間の南満洲鉄道【共通一次 平1:日露戦争の後「日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)」を作っていたか問う】)を受け継ぐこと。南樺太(サハリン)【本試験H24樺太全島ではない】を日本に割譲すること。沿海州の漁業権を日本が獲得することなどが取り決められました。このときに日本の製紙会社は,樺太に進出し,針葉樹林からパルプ生産が可能となりました。また,漁業権獲得は,日本の水産企業をうるおしました。

 なお、日露戦争(1904~05)で日本が効果的に大砲や機関銃,巨大な火砲を備えた軍艦(大艦巨砲)を使用したことは,第一次世界大戦(1914~18)以降における各国の戦法に影響を与えました。ドイツやイギリスも負けじと建艦競争を進め,“敵国よりもでかい軍艦を作らなければ勝てない!”という大艦巨砲主義へとつながっていきました。



◆日露戦争における日本の勝利は、世界各地の抑圧されていた民族に影響を与えた
日本の戦勝は、各地の民族運動に影響を与える

 日露戦争での日本の勝利は,世界各地に大きなインパクトを与えました。
 まず,日本のロシアに対する勝利は,ヨーロッパ列強による支配下にあった民族を勇気づけました(日露戦争の影響を受けた反帝国主義・民族主義運動)。


オスマン帝国
 〈エンヴェル=パシャ〉(1881~1922)らが1908年に青年トルコ革命を起こし,スルターンの〈アブデュルハミト2世〉(位1876~1909)の専制政治を廃位します。「青年トルコ」とは「青年イタリア」などにならった,ヨーロッパ側の呼び名です。

イラン
 トルコ同様,ロシアの南下に苦しめられていたイランでも,1906~1911年に幅広い階層が参加したイラン立憲革命 【東京H14[1]指定語句】【本試験H10イギリスとトシアの干渉によって挫折したか問う】【追H25イランの憲法はアジア最初の憲法ではない】が起きましたがロシアの侵攻により鎮圧されました。

インド
 インドでは国民会議派カルカッタ大会が〈ティラク〉(1856~1920)【追H27】らの主導により開かれ,イギリスのベンガル分割令【追H24時期(プールナ=スワラージ、ガンディー暗殺との時系列)】に対抗して反英民族運動【追H27】を盛り上げます。


ヴェトナム
 ヴェトナムでは,〈ファン=ボイ=チャウ〉(1861~1940) 【追H25ホー=チ=ミンとのひっかけ】【本試験H10】らがドンズー(東遊)運動【追H25,H27】【本試験H10内容も】【H30共通テスト試行インドネシアではない】を組織します。


中国
 中国では〈孫文〉(1866~1925) 【本試験H6,本試験H12蒋介石ではない】【本試験H14維新会を指導していない・共産党を国民党から追放していない・白話運動の中心ではない】が東京で日本人のアジア主義者の〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922) 【H30共通テスト試行 『三十三年之夢』でフィリイピンの独立運動を支援するくだりが出題される】の支援を受けて中国同盟会【東京H21[3]】【本試験H9重慶が結成地ではない,本試験H10,本試験H12】【明文H30記】を結成しています。


フィンランド
 また,ウィーン議定書でロシアの支配下におかれ,フィンランド語禁止のロシア化政策が強要されていたフィンランド大公国(君主はロシア皇帝)では,日露戦争中にロシア人の総督の暗殺事件が起きています。その後も自治・独立運動は続き,独立がかなうのは1917年のことになります。作曲家〈シベリウス〉(1865~1957)は「フィンランディア」1900年に作曲しましたが,独立運動を盛り上げるおそれがあるとして弾圧されています。そして,ロシア革命をきっかけとして1917年に独立宣言を出し,パリ講和会議でフィンランド共和国の独立が認められました【本試験H16ソ連の解体時ではない,本試験H25第二次大戦中ではない】。




○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆日本は大韓帝国 (韓国) を植民地化した
 日露戦争で,日本の「指導,保護および監督」におかれるまでの朝鮮は,じわりじわりと日本による進出がすすんでいました。1894年の日清戦争まで一旦もどってみましょう。
 1895年に清が日清戦争で敗北すると,〈閔妃〉政権は「清はもう頼れない。ロシアに鞍替えして,日本に対抗しよう」としました。
 これに対し,日本側は1895年になんと〈閔妃〉を殺害してしまいます。
 この事態に,朝鮮は「朝鮮はどこの国のものでもない。もはや中国の朝貢国でもないし,日本にも従わない」ということを示すため,国王の〈高宗〉は皇帝を宣言し,1897年に大韓帝国と改称(通称は「韓国」。現在の「大韓民国」とは区別してください)します。つまり,この時期の東アジアには,ヴェトナムの阮朝,清,大日本帝国,大韓帝国…と皇帝を名乗る国がいくつも立ち並んでいたことになり,それほど清の威厳が失墜していたということがわかります。

 大韓帝国ではこの時期に近代化に向けた改革がなされました(1897~1907年,光武改革)が,日本の進出は止まりませんでした。1904年1月に中立宣言をしていた韓国の仁川に対し2月8日に日本は派兵し,翌9日に仁川沖海戦・旅順港攻撃を実施しました。日本は漢城を占領し,大韓帝国政府に日韓議定書に調印させ,日本は韓国内の軍事行動の自由や「便宜」を与えること,内政干渉の権利などを認めさせました。朝鮮半島北部でロシア軍と日本軍は対峙し,1904年5月末には,第一次日韓協約【本試験H24時期(19世紀末ではない)】で,韓国に日本人財政とアメリカ人外交顧問などを派遣し,内政への支配を強めました。これにより1904年11月には政府から貨幣発行権を奪い,1905年には韓国警察や電信・郵便・電話も監督下に置きました。
 大韓民国では日本の軍事的進出に対する抵抗運動も起きましたが,〈宋秉畯〉(ソンビョンジュン;そうへいしゅん)の一進会のように日本との協力を説く組織もありました。

 1905年4月に日本は韓国を保護国化する方針を閣議決定し,アメリカ合衆国との桂=タフト協定(7月),イギリスとの第二回日英同盟(8月)により,ロシアとのポーツマス条約(9月)列強の承認を得て外堀を埋めていきました。
 日露戦争後1905年11月には,〈伊藤博文〉特派大使による〈高宗〉と,外部大臣〈朴斉純〉(パクチェスン)や〈李完用〉(イワニョン)ら各大臣への圧力の結果,第二次日韓協約(乙巳(いっし)保護条約)が締結され,韓国の外交権を日本が掌握しました。独立国家にとって「どこの国とどう付き合うか」ということは重要な主権の一つです。それが失われたということですから,これをもって保護国化です。「保護」というと「守っている」イメージがあるかもしれませんが,国家を保護するとは“主権の一部をコントロールする”=“言いなりにする”という意味があります。これにより漢城には1906年に統監(とうかん,初代統監は〈伊藤博文〉)がおかれ,韓国政府は統監におうかがいを立てなければ,他国と条約を結ぶことができなくなりました。
 この事態に対する反対運動が日本憲兵隊により鎮圧される中,大韓帝国【本試験H27清ではない】の皇帝〈高宗〉(李太王,在位1863~1907)は,1907年にオランダのハーグでアメリカ合衆国〈ジョン=ヘイ〉国務長官の提唱で開かれていた第二回万国平和会議【本試験H27】(第一回はロシア皇帝〈ニコライ2世〉の提唱で1899年に開催)に密かに代表者を派遣。全世界に大韓帝国の窮状を訴えようとしたのです(注)。しかし,大韓帝国の外交権は日本に握られており,列強は〈高宗〉のいうことに耳を傾けることはなく,結局〈高宗〉は退位させられ,息子である〈純宗〉(スジョン;じゅんそう)が即位となりました。彼は日本の傀儡です。
(注)第一回では,ハーグの常設仲裁裁判所設立につながった国際紛争平和的処理条約,「交戦国」「宣戦布告」「戦闘員」の定義や捕虜の取扱い,使用してはならない戦術について定めたハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約),「投射物および爆裂物の投下」「窒息性または有毒性のガスの撒布」「ダムダム弾」の使用を禁止する宣言などが定められました。
 反対運動が過激化する中で,1907年7月に〈伊藤博文〉統監と〈李完用〉首相は第三次日韓協約を締結。大韓帝国の内政権を日本の統監の指導下に起き,韓国警察・軍隊を解散しました。反日義兵運動という反日闘争【東京H12[2]】【本試験H10「日露戦争後,日本は朝鮮の反日運動を弾圧」したか問う】が高まるなか,日本政府は韓国への派遣軍を増派し弾圧をすすめました。
 また,愛国啓蒙運動をおさえようと,出版や教育の統制も行いました。
 1909年7月日本による韓国の併合が閣議決定されます。そんな中,10月には満洲のハルビン駅で〈安重根〉(アンジュングン)が,初代統監〈伊藤博文〉【本試験H16朝鮮総督府の総督ではない】を暗殺しました。1910年8月には韓国併合に関する条約【本試験H10時期(日露戦争後か問う)】【追H24日韓基本条約ではない】が公布され,韓国は植民地化されました【本試験H16明治維新後に初めて獲得した海外領土ではない】。統監に代わって,ソウルには総督が置かれました(朝鮮総督府)。総督には武官が任命されました。
 日本は土地調査事業(1910~18)によって土地所有権を確定し,税金を確実にとるしくみを作り,財政基盤を整備しました【本試験H16併合と同時に創氏改名は実施されていない】。また,米や綿花の強制栽培とともにダムや灌漑施設などのインフラを整備することで,日本への食糧の供給を増やしていきました。日本は始め武断政治【本試験H24羈縻政策ではない】により民族運動を厳しく取り締まりました。



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆清による政治改革は中途半端なまま,民族資本家が欧米から利権を取り戻す運動が始まる
清の対応に,「今さら感」がただよう
 さて,義和団事件によって多額の賠償金を支払うこととなり,なおかつ首都に外国軍が駐留するという最悪の事態となった〈光緒帝〉(こうしょ;こうしょてい,位1875~1908)の清。これだけの目にあって,ようやく改革へと動き出します。これを光緒新政【明文H30記】といいますが,実権は〈西太后〉【セA H30上海クーデタを起こしていない】に依然として握られていました。
 六部(りくぶ)が廃止されて行政機構が整理されるとともに,1905年に科挙が廃止されました【本試験H9[22]洋務運動期ではない】【本試験H23中華民国ではない】【追H20】【セA H30】。また,1904年以降近代的な学校(新式学堂)が設立され,留学生の目的地として日本が選ばれると,「社会」をはじめとする多くの日本人の作った熟語が中国語に導入されるようになりました。中国の伝統社会を批判した小説家の〈魯迅〉(ろじん,1881~1936) 【本試験H6】【追H20魯迅の著書は『水滸伝』ではない】が現在の東北大学の医学部に留学していたように,この時期の留学生が,後に清を打倒する革命運動への参加や中華民国・中華人民共和国のリーダーになっていくことになります。日本の明治憲法を参考にした憲法大綱(たいこう)を発表し,9年以内の国会開設も公約(のちに1913年開設が約束されましたが実現せず)しましたが,「立憲君主国家」は外見だけで,女真(女直)族の皇帝や皇族・官僚が支配を続ける点では,実質的に大きな変化がありませんでした。
 また,ドイツから顧問を招いて,西洋式軍隊である新軍が設立されました。しかし,のちに清が滅ぶ辛亥革命の発端になったのは,この新軍の武装蜂起であったことは皮肉です。新軍のうちの「北洋軍」を指揮していたのが,〈袁世凱(えんせいがい)〉です。

 これらの改革には莫大な費用がかかりましたが,その費用は地方に押し付けられることが多く,増税にあった農民の不満も高まりました。実際に新式の学校に通うことができたのは,一部の地方エリートにすぎなかったのです。こうして,中央の政府と地方のエリート,さらに農民との対立も深まっていきました。

 1908年,〈西太后〉によって幽閉されていた〈光緒帝〉が死去すると,〈西太后〉は翌日死去しました。2人のあまりに死期が接近しているので,毒殺説すらあります。
 代わって,2歳10ヶ月の〈溥儀(宣統帝)〉【早・法H31】が即位しました。第12代にしてラストエンペラー(最後の皇帝)です(映画「ラスト・エンペラー」(1987中伊英)は溥儀の即位からプロレタリア文化大革命までの中国現代史を描いています)。
 1911年に,最高機関である軍機処が廃止され,責任内閣制となりますが,満洲人貴族の影響力の強い内閣(親貴内閣(しんきないかく)といって閣僚13人中8人が満洲人(うち5人が皇族))であったため,「これでは何も変わっていないじゃないか!早くしないと本格的に植民地化されてしまう!」と,にわかに改革派の動きが激しくなっていきました。

 もともとは医者であった〈孫文〉(孫中山,1866~1925)は,広東省の客家(ハッカ)出身です。客家とは,中国の南部の山間部に分布する漢民族の一派で,客家語を話し,客家文化を受け継ぎます。商業に従事することが多く,台湾や東南アジア各地にも移住し,独自のネットワークを持っているところが,しばしばユダヤ人と比べられます。
 〈孫文〉は,ハワイにいた兄を頼り現地で進学・卒業し,帰国して香港の大学で医学を学び,マカオで医師として開業。
 清に批判的な華僑【本試験H6】の支持を受け,革命運動を拡大していきます。

 〈孫文〉【本試験H4陳独秀ではない】は,1894年にハワイ【本試験H6】で興中会【本試験H4陳独秀が設立していない,本試験H6国民党ではない】【本試験H14】【追H21袁世凱が弾圧したわけではない】を結成します。
 しかし,出だしは不調で,翌年1895年に香港で拡大改組されました(注1)。また,日本人の中には「ヨーロッパの進出に対抗するためにアジアを一つにまとめよう」という考えを持つものも多く,「そのためには弱体化した清を倒そう」と考える〈孫文〉を助ける者もいました(のちに首相になる犬養毅は家を提供した)。〈孫文〉は中国で2回挙兵しますが,いずれも失敗。
 彼【本試験H12蒋介石ではない】はのちにアメリカとヨーロッパを旅しながら「排満興漢(はいまんこうかん)」(注2)を唱え革命資金を集め,1905年には日本に戻り,日本のアジア主義者〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922) 【H30共通テスト試行 著作が資料として出題される】の協力で,3つの組織(〈孫文〉の興中会+〈黄興〉・〈宋教仁〉の華興会+〈章炳麟〉・〈蔡元培〉の光復会)を合わせて中国同盟会【本試験H12】を設立しました。東京での結成には,日露戦争での日本の勝利が強く影響しています。機関紙は『民法』(1905創刊)で〈章炳麟(しょうへいりん)〉(1869~1936)編集長が清を批判する論を展開しました。
 このときの〈孫文〉【追H20】は「三民主義」【東京H8[1]指定語句】【本試験H13】【追H20】を基本理念として固め,具体的に四大綱領(駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権)規定しました。三民主義は,民族【本試験H13】の独立・民権【本試験H13】の伸長・民生【本試験H13】の安定を指します。
(注1)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123
(注2)天児慧『中華人民共和国史 新版』岩波書店,2013年,p.3



○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆辛亥革命が起こり中華民国(共和政)が建てられたが,実権を握った軍人〈袁世凱〉が集権化をすすめた
 清朝は,莫大な賠償金を支払うために自国にある鉄道や鉱山を列強に借金のカタ(担保)として与え,お金を借りようとしていました。借金を返すために,自分の家を担保にして,さらにお金を借りるようなものです。
 しかし,担保に入れようとした鉄道は,中国人の資本家(民族資本家)や海外の留学生・革命家・企業家たちがお金を出し合って,列強に奪われていたものを回収している最中でした(利権回収運動【東京H14[1]指定語句】)。清が1911年に幹線鉄道国有化【本試験H6】【東京H20[3]】を図り,四国借款団(英・米・独・仏)からお金を借りようとすると,四(し)川(せん)で暴動が起きました【本試験H6,本試験H11「清朝の滅亡によって」起きたわけではない】【本試験H18・H30】。清は新軍に鎮圧を要請しましたが,その新軍には海外留学組も含まれており革命思想をもった若い兵士も少なくありません。
 新軍第八師団の工兵大隊が1911年10月10日に武(ぶ)昌(しょう)蜂起(ほうき)を起こし【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【本試験H6,本試験H11「清朝の滅亡によって」起きたわけではない】【本試験H22地図】,たった一日で武漢地区は革命軍に占領されます。そして,各地の省は次々に独立宣言【本試験H6】を発表していきます。まさに中国“分裂”です。

 当時,〈孫文〉はアメリカにいましたが,12月25日に上海に帰国すると,〈孫文〉は革命派のリーダーとしてまつりあげられ,翌1912年1月1日,〈孫文〉【東京H14[1]指定語句】【本試験H11】【追H24周恩来ではない】は当時は臨時約法という暫定憲法をもとに臨時大総統【本試験H6,本試験H11】【追H24周恩来が就任していない】に任命され,中国史上最初の共和国である中華民国【本試験H6】が南京(なんきん)【本試験H6北京ではない,本試験H11】【本試験H23,H30北京ではない】を首都として成立しました。
 ただし,北京にはまだ清が存続していることに注意です。清は新軍の一つである北洋軍の指導者である〈袁世凱〉に革命の鎮圧を図りますが,〈孫文〉は〈袁世凱〉に「清を裏切って,中華民国に協力してくれたら,臨時大総統のポストをあげよう」とウラ取引きをしていましたから,〈袁世凱〉【本試験H16】は1912年に逆に最後(ラスト)の(エン)皇帝(ペラー)〈宣(せん)統(とう)帝(てい)〉(愛(あい)新覚(しんかく)羅(ら)溥儀(ふぎ))【本試験H6,本試験H11光緒帝ではない】【本試験H16】を退位に追い込み,清は滅亡します【セA H30グラフ問題(年代を問う)】。こうして,〈袁世凱〉【追H21梁啓超ではない】は第2代臨時大総統となり【本試験H30】,北京に遷都します。

 この一連の過程を「辛亥(しんがい)革命」【セ試行】【本試験H6中国で史上最初の共和国を出現させたか問う】といい,多くの華僑【セ試行】が清を倒す運動を支援しました。

 さて,国会議員の選挙が1913年に実施されると,半分近くが〈孫文〉の国民党(中国同盟会から発展) の議席となりました。しかし,国民党の総理(指導者)の〈宋教仁〉を暗殺されたことに対して第二革命が勃発します。〈袁世凱〉は議会を解散し正式な大総統に就任し【本試験H11「袁世凱は,国民党の反対で,最後まで正式な大総統になれなかった」わけではない】,臨時約法を否定し「新約法」によって自らの権限を強化しました。1914年に〈孫文〉は東京に亡命して中華革命党という秘密結社をつくりました。

 そんな中1915年には〈袁世凱〉が,日本【追H21ロシアではない】の大隈重信内閣との間に二十一カ条要求【追H19】を取り交わし,日本のバックアップも得ます。
 さらに皇帝宣言(帝政復活宣言【追H21】)をしたため,第三革命が勃発。1916年には即位しましたが,反発が激しくなったため取り消し,まもなく病死しました。後継者は,武昌蜂起(ぶしょうほうき)を指導した〈黎元洪〉(れいげんこう,1866~1928)ですが,実際には彼は傀儡(かいらい,操り人形のような人物ということ)で,各地に並びたつ軍閥による分裂状態となってしまいます。
 そのうちの安徽派(あんきは)の〈段祺瑞〉(だんきずい,1865~1936,北洋軍時代からの〈袁世凱〉の側近です)はしばしば日本の支援を取り付けようとして,首相〈寺内正毅〉(てらうちまさたけ)が送ってきた実業家であり政治家(〈西原亀三〉)からお金を借りています(総額1億4500万円の西原借款)。
 〈黎元(れいげん)洪(こう)〉は1917年に安徽(あんき)派の〈段祺瑞(だんきずい)〉を罷免。これに起こった〈段〉は,軍人の〈張勲〉(1854~1923)に北京に乗り込ませ,12日間だけラストエンペラー〈溥儀〉を復位させています。〈黎元洪〉は辞任を余儀なくされ,今度は直隷派(ちょくれいは)の〈馮国璋〉(ふうこくしょう,1859~1919)が大総統に就き,〈段祺瑞〉は国務総理と陸軍総長として実権を握りました。〈段祺瑞〉は,ドイツに対して宣戦し,第一次世界大戦に参戦しました。日本のご機嫌をとることで,先ほどの西原借款を実現させるためです。このように,軍閥(ぐんばつ)政権はたがいに争いながら,外国勢力との後ろ盾を得つつ,国家のためにというよりは「自分の軍閥が生き残るためにはどうするか」という行動を取り続けていきました【本試験H5第一次世界大戦時に,「利権の拡大をめざす日本やそれと提携する軍閥に対する批判が強まった」か問う】。
 この間に日本の進出も進み,1917年には石井=ランシング協定で,日本がアメリカの門戸開放政策(中国はどの国にとっても開かれている国であるべきだという考え)を認める代わりに,アメリカが満洲と内モンゴル東部における日本の特殊権益を認めています。〈石井菊次郎〉は外務官僚出身で〈大隈〉内閣の外相(任1915~16)を務めた人物で,協定には特命全権大使として調印しました。〈ランシング〉(任1915~20,辞任理由は国際連盟規約をめぐる〈ウィルソン〉大統領との対立でした)は当時のアメリカの国務長官です。

○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆西洋の科学の刺激を受け新文化運動が始まり,列強の進出に反対する大衆運動も起きた
 「中国がここまで衰えたのは,中国人の「考え方」そのものに問題があったためではないか? 儒教のテキストにとらわれて,自由な考え方ができなかったのが問題ではないか?」
 そんな問題意識が知識人の間に共有されていくにつれ,第一次世界大戦中から従来の儒教文化を批判【本試験H11:儒教に基づく民族主義を高揚させたわけではない】する新文化運動【本試験H24】が始まっていきました。拠点となったのは北京大学【明文H30記】です。

 「儒教の影響を強く受けた伝統的な文章の書き方をやめて,話したり頭の中で考えたりしたとおりに,文章を書こう」【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】という運動(白話運動;文学革命) 【共通一次 平1:時期を問う(辛亥革命後か)】 【本試験H6文化大革命ではない,本試験H11】【本試験H24】が〈胡適〉(「こせき」と読みますが,慣用的に「こてき」とも読まれます,1891~1962) 【本試験H11梁啓超ではない】 【本試験H14孫文ではない】【セA H30杜甫ではない】により提唱されます。
 彼はアメリカのコロンビア大学で,プラグマティズムの教育者〈デューイ〉の門下で学んだ人物で(⇒1870~1920の北アメリカ アメリカ合衆国),運動の開始は1915年とすることが普通です。1916年から北京大学の学長に就任し,白話運動を推進します。白話運動というのは,話し言葉と書き言葉を一致させようという言文一致運動のこと。中国では伝統的に儒教の経典の文章が良い文章とされてきましたが,これでは読みにくく,書き方にしばられて自由な発想ができない。そこで「話し言葉で書くべきだ」という運動を始めたわけです。こうした意見は,1917年に雑誌『新青年』2巻5号の「文学改良芻議(すうぎ)」において発表されました(文学革命の出発点をこの時点にとる考え方もあります(注))。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124

 〈陳独秀(ちんどくしゅう)〉【本試験H4興中会を建てていない,本試験H11】は雑誌『新青年』【東京H16[3]】【本試験H11】を創刊し【本試験H11:時期を問う(日露戦争中ではない)】,旧来の儒教の道徳や,目下軍閥が支配している情勢を批判します。

 〈李大釗〉(りたいしょう)は,マルクス主義【追H28明(みん)代ではない】を中国に紹介し,このときに彼の働く図書館で学んだのが〈毛沢東〉だったのです。

 作家〈魯迅〉【本試験H11:新青年についての問い】【追H20、H28ドストエフスキーとのひっかけ】は,かつて日本に留学し医学を目指しますが,中国に戻って1918年に『狂人日記』【本試験H11:新青年についての問い】【追H20『水滸伝』は彼の作品ではない、H28ドストエフスキーの作品ではない】,1921年に『阿Q正伝』を著します。どちらも儒教や体制をたくみに批判する内容でした。

 さて,1919年1月から始まったパリ講和会議により締結されたヴェルサイユ条約【追H20下関条約ではない】によれば,ドイツ【本試験H25フランスではない】の支配圏だった山東省【本試験H7】を日本の勢力下に置くものとされ,二十一条要求は撤廃されないままとなりました【本試験H5イギリスとフランスにより撤回されていない】。
 交渉に当たった政治家がやり玉に上げられ,労働者によるストライキにまで発展してしまったため,最終的に6月28日に調印を拒否し【本試験H19時期,本試験H25調印していない】,逮捕した北京大学【本試験H25上海ではない】の学生を釈放することで決着します。これを五・四運動【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【本試験H25,本試験H30年代が問われた】【追H20下関条約に対する運動ではない】【立命館H30記】といいます。
 〈孫文〉は五・四運動を見て,「民衆の力が,政治を動かした。これからの中国は,ようやく民衆が主人公になって,政治を変えていく時代になっていくはずだ」と感動し,秘密結社であった中華革命党を組み替えて,1919年に中国国民党【追H28時期を問う】とします。
 しかし,結局北京政府は,国際的な孤立を避けるため,ヴェルサイユ条約に調印しました。山東省の問題は棚上げにされたままです。

○1870年~1920年のアジア  東アジア
◆朝鮮における「民族自決」の理念を掲げた反帝国主義運動は鎮圧された
 朝鮮人の間でも,1918年1月にアメリカ合衆国〈ウィルソン〉大統領が十四カ条【本試験H5いずれも実現しなかったわけではない】【東京H18[1]指定語句】【早法H25[5],H26[5]指定語句】でうたった「民族自決」【早法H27[5]指定語句,論述(20世紀前半までの世界にどのように波及したか述べる)】の原則に刺激され,内外で独立に向けた運動が活発化しました。上海の組織はパリ講和会議に代表を派遣して独立を請願し〈金奎植〉(キムギュシク;きんけいしょく,1881~1950)が独立請願を起草,アメリカ合衆国の朝鮮人組織は〈李承晩〉(イスンマン;りしょうばん,後の大韓民国の初代大統領。上海【東京H12[2]】に亡命政権を樹立) を代表に立てました(アメリカ合衆国政府により出国は拒否されます)。東京の留学生も1919年2月に独立宣言を発表しています。〈金奎植〉はパリに派遣されましたが,朝鮮を代表する資格は与えられませんでした。

 朝鮮では1919年1月に〈高宗〉が亡くなると日本人による毒殺説がささやかれ,3月3日の葬儀に先立ちソウルの鐘路(チョンノ)パゴダ公園で独立運動家が集まり「独立宣言書」が読み上げられ,「独立万歳」が叫ばれました。参加していたのは東学から改称された天道教,キリスト教,仏教を代表するに運動家33名。起草したのは〈崔南善〉(チェナムソン;さいなんぜん,1890~1957)でした。
 全国に広がるストライキやデモに対して朝鮮総督府は武力での鎮圧でのぞみ,同年6月には歩兵6個大隊が増派され,言論・集会の規制も強化されました。これを,三・一独立運動【本試験H16時期】【本試験H7】【早法H27[5]指定語句】といいます。
 これまでにない大規模な反乱に対し朝鮮総督府は,従来の強硬な姿勢を転換し,朝鮮人を日本文化に“同化”させることで,支配に対する不満をやわらげる方針をとります。〈斎藤実〉(さいとうまこと,位1919~27)総督の下,“内鮮融和”(日本と朝鮮の融和)が説かれるようになります。1922年の改正教育令では内鮮共学として日本語学習の時間が増やされ,1926年には京城帝国大学が設置されました。こういった政策を文化政治【追H24皇民化政策ではない】といいます。
 また,言論・出版・集会・結社の規制がゆるめられ,社会運動も活発化。1925年に朝鮮共産党が結成されていましたが,こちらは弾圧されています。
 この時期に三井系,日窒系などの日本企業が盛んに朝鮮に進出しています。また,シベリア出兵の際に米騒動が勃発したことを教訓とし,日本は1920年代に朝鮮の米作を品種改良・土地改良により奨励して米不足に備えようとしました。この産米増殖計画は,のちに世界恐慌の影響を受けるまで続けられ,生産高の約4割が日本向け輸出に振り向けられました(台湾でも同様の政策を行っています)。農業生産性が上昇し一部の地主が恩恵を受けた反面,貧しい農民の中には日本(1930年に29万8000人)や満洲(1930年に60万人)に出稼ぎに行く者もいました。日本における朝鮮人労働者の組織化も進んでいった一方,1923年の関東大震災では混乱の中で朝鮮人の殺害事件も起きています。

 中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動として五・四運動が起きました。中国代表団は最終的に,結局調印を拒否しています【本試験H26調印していない】。



・1870年~1920年のアジア  東アジア 現①日本
◆日本は,欧米の制度・文化を導入して近代化と中央集権化を図り,植民地化をまぬがれる
 1867年,王政復古のクーデタにより,維新政府は徳川幕府を滅ぼしました。しかし,統一軍隊の結成などをめぐり諸藩の対立は深まり,政府に批判的な〈西郷(さいごう)隆盛(たかもり)〉は軍事力を薩摩藩に引き上げる始末。
 1871年に,新政府の首脳は,薩摩藩・長州藩・土佐藩の兵力を御親兵として上京させ,廃藩置県を断行しました。これにより,全国民を戸籍により一元的に支配する体制を作り上げました。一刻も早く不平等条約を改正し,欧米と対等な近代国家を建設するために,〈岩倉具視〉(いわくらともみ)を団長とする岩倉使節団【セA H30】がアメリカ合衆国とヨーロッパに向けて出発します。
 「文明開化」がスローガンとなり,中央集権国家を建設するために,インフラや法制度・教育制度が急ピッチで整えられていきました。

 欧米への留学生も増加し,1871年には〈津田梅子〉がアメリカ合衆国への留学に旅立っています【本試験H11リード文 1900年には女子英学塾を創設】。

 そんな中で1871年,宮古島の船が琉球王国に貢納に向かった帰りに漂流し,台湾に漂着し,そこで原住民に殺害されるという宮古島島民遭難事件【本試験H10「琉球人の殺害事件」】が起きました。新政府が清に厳重抗議すると,清は「化外の地」(支配が及ばない地域)のことだからしょうがない,との回答。そこで日本は1874年に犯罪捜査などを理由に,台湾に出兵(警察ではなく軍)することを決定しました(台湾出兵) 【本試験H10】【本試験H24時期(19世紀末)】。

 その間,新政府内部では,朝鮮半島に進出するかいなかをめぐる征韓論で,対立が起きました。征韓論は封じ込まれましたが,石油などの資源の乏しい日本では,海外への領土拡大による発展を目指そうとする動きは今後も出ていきます。
 1873年に〈西郷隆盛〉〈板垣退助〉〈江藤新平〉が一斉に下野。残った〈岩倉具視〉と〈大久保利通〉による政権は1873年に内務省の整備,1875年に千島樺太交換条約で国境問題を解決,同年には横浜からイギリス・フランス軍が撤退,1876年に日朝修好条規【本試験H3これに対し金玉均は反日クーデタを起こしていない】で朝鮮王朝に不平等条約を認めさせました。

 北方では,1875年にロシアの首都サンクトペテルブルクで樺太・千島交換条約が締結され,樺太の南半分はロシアに譲り,千島列島の全ては日本領となりました【本試験H20時期】。

 琉球王国をどうするかについては,台湾出兵以降,話し合いが続けられていました。廃藩置県(はいはんちけん)で沖縄県【本試験H10】【追H20日清戦争の結果ではない】が設置されたことを,清はまだ認めていなかったことです。清はアメリカ前大統領の〈グラント〉(任1869~77,1822~85)に調停を求めたことから,日本の〈伊藤博文〉が日清交渉を始めます。日本側は宮古・八重山を中国へ引きわたす代わりに,清が日本に欧米並みの通商権を与えるという「分島・増約案」を提案し,清はこれに同意したものの,1881年の調印直前になり〈李鴻章〉(1823~1901)の意向で棚上げされ(分島問題),日清戦争にいたるまで曖昧な状態が続きました。
 1876年には,小笠原諸島をイギリス・アメリカに日本領土であることを認めさせています。
 しかし1876年から地租改正反対一揆が起こり,これと連動して熊本・秋月・萩で氏族の反乱が起きました。1877年には薩摩半島の士族が〈西郷隆盛〉の指導で反乱(西南戦争)を起こしましたが,鎮圧されます。



◆日本はアジアの地域内貿易の繁栄と日清戦争の賠償金に支えられ産業革命を達成する
大阪の紡績業は「東洋のマンチェスター」に
 この時期,イギリスの女性探検家・作家〈イザベラ=バード〉(1831~1904)は,1878年に東京から北海道にかけての地域を旅行しました。その著書『日本奥地紀行』は当時の習俗を生々しく書き残しています。
 明治維新以前に諸藩で試みられていた産業技術の近代化が,政府の主導で大規模に行われていきました(殖産興業)。欧米から「お雇い外国人」という学者・技術者が,国費で招かれました。以前から綿糸生産はおこなわれていましたが,輸入綿糸の増加に対抗して明治政府は1878年に,本場イギリスのマンチェスターからミュール紡績機を購入し官営工場を設立し,続々と民間に払い下げていきました。
 とくに大阪(明治維新以降,大「坂」ではなく大「阪」と表記されるようになります)では,ヨーロッパの技術を取り入れた紡績業がさかんになっていました。1882年には,〈渋沢栄一〉(しぶさわえいいち,1840~1931)により,日本最初の蒸気力紡績会社である大阪紡績会社(現在の東洋紡)が設立されています。こうして大坂は“東洋のマンチェスター”とうたわれるようになりました。

 原料と製品の輸出入が盛んになるにつれ,海運業も発達していきます。1870年に〈岩崎彌太郎〉(いわさきやたろう)が九十九商会(後の三菱商会)を建て,当時の東アジアの海運を握っていた米国のPM社(パシフィック=メール=スティームシップ=カンパニー)に対抗し,1875年に日本~上海の定期便を就航。PM社の撤退後にも,イギリスのP&O社(ペニンスラー&オリエンタル=スティームナヴィゲーション=カンパニー)などが,インドのボンベイと日本を結ぶ航路を牛耳っていました。

 郵便汽船三菱会社は,1885年に国内のライバル共同運輸会社と合併し,日本郵船会社に発展。 1893年には,ボンベイから綿糸の原料の綿花を輸入するため,神戸とインドのボンベイを結ぶ航路を開通させています。インドで綿花を取り扱う民族資本であるタタ商会が,「日本が定期航路に参入してくれたほうがイギリスによる独占が崩れ,運賃が安くなる」とし,日本を支援したのです(⇒1870~1920のアジア 南アジア インド)。

 イギリスにとっても,インドの綿花が売れてくれたほうがインドが貿易黒字となり,インド政庁からイギリスに送金される本国費(ほんごくひ)もアップするのでウハウハです。こうして,インドと日本で製造された綿糸は,中国市場をめぐって競争を繰り広げることになっていきます。
 イギリスの経済的進出によっても,アジア地域内の貿易構造は崩壊したわけではなかったのです。植民地化された地域を含め,東アジア,東南アジア,南アジアの各地が,相互に依存し合いながら貿易関係を維持しました。インド人商人,中国人商人,大阪商人らが,香港・シンガポール・大坂・神戸などを拠点にさまざまな物資を取引します。

 対外的には,日本は朝鮮をめぐり清と日清戦争(1894~95)を戦って,勝利を収めました。1895年4月の日清講和条約(下関条約) 【追H21ポーツマス条約ではない】で,日本は台湾,遼東半島,澎湖(ほうこ)諸島を割譲されます。しかし,直後にドイツ,フランス,ロシアが遼東半島を清に返還するように要求(三国干渉)。その影響もあり,台湾の島民は同年5月に台湾民主国の樹立を宣言しましたが,南方を防衛していた〈劉(りゅう)永福(えいふく)〉【本試験H30】の逃亡により終結しました。1896年に台湾総督府が設置されました。なお,同年にはイギリスに留学中の博物学者〈南方熊楠〉(みなかたくまぐす,1867~1941)が,ロンドンに亡命中の〈孫文〉(孫逸仙(そんいっせん),1866~1925)と交流しています。〈南方〉は翌1898年に大英博物館で受けた人種差別をきっかけに暴力事件を起こし,1900年に帰国しました。
 沖縄では1898年に徴兵令が導入され,方言を使うことをやめさせたり,日本式の姓名に変更させたりしました。北海道では,1896年に徴兵令が導入され,1898年に北海道旧土人保護法により,アイヌ人を日本人に同化させるための政策が始まりました。 

 19世紀末にヨーロッパ列強による「中国分割」が始まる中,日清戦争の賠償金や遼東半島を返した際の代償金を元手に,極東に進出するロシアに対して軍事力が増強され,1897年には金本位制(きんほんいせい)に移行しました。
 義和団事件が起きると日本はイギリスから出兵するよう要請を受け,義和団を鎮圧するための連合軍に参加しました。イギリスは当時ボーア戦争のために余力がなく,アメリカもフィリピンの独立戦争鎮圧(米比(べいひ)戦争)のために忙しかったのです。1901年の北京議定書により,日本は賠償金を手に入れ,北清駐屯軍(ちゅうとんぐん)を配置しました。


◆日本は大陸への進出を積極化させ,第一次世界大戦後にはオセアニアにも進出した
日本はユーラシア大陸東部,オセアニアに進出へ
 ロシアの太平洋側への進出(南下) 【追H20アメリカ合衆国の東アジア進出ではない】に対し,イギリスにとっての日本の地理的な重要性が高まり,1902年には日英同盟【追H20】が結ばれました。南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは,日本にロシアの南下に対し対抗させようとしたのです。軍部は第一次〈桂太郎〉内閣に迫り,1904年御前会議(ごぜんかいぎ)で開戦が決定され,日本艦隊は仁川(じんせん,インチョン)にあったロシア軍艦を攻撃し,宣戦布告しました。日露戦争の結果,1905年ポーツマス条約が締結されました。内容は以下のようなものです。
・日本は韓国に対する指導・監督権【本試験H19】を獲得
・日本は,旅順・大連ならびに付近の租借(そしゃく)権を獲得
・日本は,長春~旅順の間の鉄道・付属炭坑を獲得
・日本は,カラフト(樺太)南部を獲得(もともとは樺太・千島交換条約でロシア領となっていました)
・日本は,ロシア沿海の漁業権を獲得

 一方,日本は1910年にかけて,韓国(大韓帝国)の内政に干渉し,1910年の韓国併合条約を承認させて植民地化しました。同年に朝鮮総督府が置かれました。

 こうして日本は,一気に帝国主義化を進めていきます。イギリスは韓国の保護権を認める代わりに,日英同盟の範囲をインド帝国にまで拡大しました(1905年の改正日英同盟)。これは,イギリスによるインドの植民地化を,日本も認めていたということです。アメリカも同様に,フィリピン支配を認める代わりに,韓国に対する優越権を認めてもらいます(1905年の桂=タフト協定)。また,フランスのインドシナ支配を認め,中国の勢力圏を相互に認め合いました(1907年の日仏協約)。これを機に,ドンズー(東遊)運動【追H27】【明文H30記】で留学中の独立運動家は国外追放の憂き目にあうことになります。

 時同じくして,ドイツを包囲する必要に迫られたイギリス・フランスは互いに接近し1904年に英仏協商【追H18】を結びます。
 さらに1907年には英露協商が結ばれ,チベット(中国の宗主権を認めました)・アフガニスタン(イギリスの勢力圏としました)・カージャール朝(イギリスとロシアの勢力圏を決めました(⇒1870~1920の西アジア))にかけての勢力圏が設定されました。

 こうして別個に構築された英・仏・露の三国協商に加え,アメリカが満洲市場に参入するのに対抗するために,ロシアに接近し,1907年に第一次日露協約が結ばれました。両国は,1912年の第三次日露協約までに,満洲と外蒙古の勢力範囲を確定させていきました。しかし,それと同時に1907年には〈明治天皇〉に承認を受けた帝国国防方針で,陸軍はロシアを,海軍はアメリカを仮想敵国として軍拡が行われることになりました。海軍と陸軍は,互いに対抗しながら,より多くの予算を獲得するために対抗していくことになります。


◆第一次世界大戦が勃発すると,日本は中国・山東半島とドイツ領の南洋諸島を占領した
日本の対外拡大を,大戦後にアメリカが警戒する
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,日本はアジア・アフリカの市場に綿糸を,アメリカには生糸を輸出し,軍需物資もさかんに輸出しました。また,日英同盟【本試験H9「日英同盟にもとづいて参戦し」】【本試験H27】を理由に1914年8月にドイツに戦線し,ドイツの租借していた山東半島【本試験H9,本試験H12】の青島(チンタオ) 【本試験H9】を占領しました。また,日本は,ドイツの領有していた赤道以北のマーシャル諸島【本試験H20フランスの領有ではない,本試験H26】などドイツ領南洋諸島【本試験H18時期キール軍港での水兵反乱の後ではない・本試験H24】も占領しました。イギリスの要請で日本軍艦が地中海の船団の護衛にもあたっています。

 日本が南洋諸島に進出すれば,アメリカ領であるグアムやフィリピンと本土との間にジャマが入ることになります。それに加え,南洋諸島に生息するアホウドリなどの海鳥からは,ヨーロッパ向け輸出用の婦人帽の羽飾り・剥製,それにリンや窒素がとれる糞(グァノ)がとれたことも,日米の摩擦を生む原因となっていきます。

 ヨーロッパが戦場になっているすきに,日本【追H21ロシアではない】の第二次〈大隈重信〉内閣は1915年に〈袁世凱〉【追H21】に対して二十一カ条の要求【追H19,H21】を承認させました。大戦中には日本各地にドイツ人捕虜の収容所が建設され,一部では徳島で〈ベートーヴェン〉の交響曲第九番が日本で初めて演奏されたように一般市民との交流も行われました【本試験H27リード文】(注)。
 戦後のヴェルサイユ条約により,日本【本試験H5】は山東半島と南洋諸島【本試験H5】の権益をドイツから継承しました。

 1919年には,アメリカ合衆国の〈ウィルソン〉大統領のうたった民族自決に刺激された朝鮮での三・一独立運動【本試験H16時期】を弾圧し,中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動である五・四運動が起きました。中国代表団は結局調印を拒否しました【本試験H26調印していない】。

 なお,第二次ロシア革命の勃発を受け,日本はアメリカ,イギリス,フランス,イタリア,カナダ,中華民国とともに,シベリアに出兵し,日本は,石油産地である北樺太(南樺太は日露戦争で獲得していました)や沿海州は占領しました。ロシア帝国が滅ぼされたことで,北東アジアに支配圏を広げるチャンスと考えたのです。しかし,ソヴィエト=ロシア(のちソ連)がロシア帝国の領土をほとんど受け継いだため,ロシア革命の残党(白軍【慶文H30】)とソヴィエト軍(赤軍)を巻き込んだ戦闘が続きました(シベリア出兵,1918~22)。これにより軍事物資となった米を買い占める商人が現れたため,全国各地で米騒動が起こりました。1920年には沿海州のアムール川河口のニコライエフスク(尼港(にこう))に駐屯していた日本人や現地住民が,ソヴィエト側についた集団により虐殺される事件も起きています(尼港(にこう)事件)。
(注)講和条約の締結後、1920年1月までに捕虜は母国へと出港しました。ドイツ館史料研究会編『「どこにいようと そこがドイツだ」―板東俘虜収容所入門(第4版)』鳴門市ドイツ館、2017年、p.121。



○1870年~1920年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

◆西欧は原料供給地・市場として植民地の支配を強化し,インフラへの投資も盛んになった
現地エリート層が成長し,民族運動の母体となる
アジア間交易が盛んになり,英領シンガポールは中核に
 1876年,イギリス人の〈ウィックハム〉〔ウィッカム〕がブラジルから天然ゴムの種の密輸に成功し,東南アジアでゴムノキの栽培が始まりました(注)。
 1888年にスコットランド人〈ダンロップ〉が空気入りタイヤを発明したことで,需要が一気に増加し,自動車の普及がそれに拍車をかけました。ゴムにかぎらず,この時期の東南アジアでは,輸出用の一次産品の生産が急増しました。例えば石油分野の開発も進み,イギリス資本のシェル(貝殻マークで有名)とオランダ資本のロイヤル=ダッチが,アメリカ資本のスタンダード=オイルに対抗するために合併し,1907年にロイヤル=ダッチ=シェル社となり,ほぼ独占状態となります。
 19世紀後半には,ヨーロッパとアジアや,東南アジアの主要都市を結ぶ蒸気船の定期航路,それに各地に鉄道,電信・電話設備,学校教育制度も整備されるようになります。
 また,植民地当局の人口調査により,民族・人種の分布が調べ上げられ,それを元に一部の民族・人種が優遇され,彼らの中から植民地エリート層が形成されていきます。彼らの中からはイギリス,オランダ,スペインといった宗主国の高等教育機関に,子どもを留学させる者も登場するようになり,西欧的な思想に影響されて民族意識を高め,植民地からの独立運動に加わる者も現れるようになっていきます【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】。
(注)〈チャールズ・マン〉はこの行為を「バイオパイラシー」と呼んでいます。バイオパラシーとは,「生物資源の盗賊行為。主に先進国が途上国の豊かな生物資源や遺伝資源,古くから伝わる薬草などの伝統知識を利用し,医薬品や食品開発を通じて利益を独占する行為を指す。」(デジタル大辞泉)。世界の一体化が加速するに従い,世界の植生の人為的な変化も大きくなっていきます。



・1870年~1920年の東南アジア  現①ヴェトナム
◆ヴェトナムの民族主義者は日本をモデルとした近代化を目指すが,日仏協約により挫折する
フランスの植民地化を受け,民族意識高まる
 ヴェトナムでは,フランスによる植民地化がさらに続き,1883年と1884年の両年に結ばれたユエ条約【慶文H30記】でヴェトナムを保護国化しました。

 それに対し,ヴェトナム人と宗主国中国の反発が起き,1884年に清仏戦争(1884~85) 【本試験H3フランスはこのとき阮朝を倒してラオスを獲得したわけではない,本試験H10 時期:1850~60年代ではない】が始まります。

 しかし,フランス海軍は清の海軍を各地で撃破し,1885年にフランス公使〈パトノートル〉との間で天津条約【慶商A H30記】が結ばれました。
 1880年代までに編成された広東水師・福建水師・北洋水師は当時のアジア最強の艦隊でしたが、このうち清仏戦争で福建水師は壊滅。しかし、全局においては互角であったといいます(注)。

 こうして阮朝ヴェトナムは,カンボジアとともにフランスの保護国(フランス領インドシナ【本試験H3】)となったほか,フランスは中国南西部の通商特権・鉄道敷設権を獲得しました。
 のちにラオス【本試験H3清仏戦争のときに獲得したのではない】も,フランス領インドシナに併合されています。
 フランスは,メコン川下流域の米を国際市場に輸出し,中南部では天然ゴムのプランテーションも展開されました。サイゴンには,ホテルやオペラ座,官公庁といったフランス風の建物が建てられました。植民地にみられる,こうした宗主国っぽい様式のことを,“コロニアル様式”といいます。

 フランスの植民地化が進んだフランスでは,民族的な自覚も高まり〈ファン=ボイ=チャウ〉(1867~1940)【本試験H10】【本試験H14孫文ではない】【追H20】が維新会【本試験H10】【本試験H14】を結成して,明治維新を達成した日本を模範にしよう日本に留学生を送る【追H20】東遊(ドンズー)運動【明文H30記】が起こりました。「遊」というのは「遊ぶ」という意味ではなく,「学ぶ」という意味。

 〈ファン=ボイ=チャウ〉の向かった横浜には,当時は清の戊戌(ぼじゅつ)の政変で国を追われていた〈梁啓超〉(りょうけいちょう)がいて,〈大隈重信〉(おおくましげのぶ)や〈犬養毅〉(いぬかいつよし)と引き合わせてもらいます。
 当時の日本では,アジア人がまとまってヨーロッパ勢力を追いだそうという思想を持つ人々(アジア主義者)の活動も盛んで,清に対する革命運動を目指していた中国人のために東京同文書院などの学校への留学を支援していました。〈ファン〉は日本滞在時に『ヴェトナム亡国史』を著しています。
 同じようにヴェトナム人も日本に留学させようという支援の輪が広がり,〈ファン=ボイ=チャウ〉はヴェトナムの青年に向けて日本留学を働きかけると,約200名のヴェトナム人青年が参加。軍事教練も含めた教育体制が整えられました。

 しかし1907年に日本とフランスとの間に日仏協約が結ばれると,事態は激変。フランスからの圧力を受け1908年に日本にいた留学生は日本政府に取締りを受け,下火になってしまいました。
 〈ファン=ボイ=チャウ〉やヴェトナム皇族〈クォン=デ〉(1882~1951)は,なんとか日本滞在を延長させようと模索。静岡県の現・袋井市浅羽の医師〈浅羽佐喜太郎〉(あさばさきたろう,1867~1910)の支援を得ますが,1909年に出国を余儀なくされました(注2)。

 その頃,ヴェトナムでは〈ファン=チュー=チン〉(1872~1926)が,ヴェトナム語をローマ字で表記する「国語(クォック=グー)」の普及や,近代的な思想・技術の教育を行う運動(維新運動)を指導しました。ヴェトナム語には声調がありますから,英語に補助的な記号を用いて発音を示します。たとえば,「ありがとう」という意味の「カムオンバン」は,「cảm ơn bạn」のように表記します。
 1907年にはハノイに東京義塾(トンキンギアトゥック)をひらいてヴェトナムの発展のために尽くしました。

 その後もフランスによるヴェトナム民族運動への弾圧は続き,表現の自由は守られませんでした。また,第一次世界大戦では,ヴェトナムも5万の兵をヨーロッパに送り,不満も高まりました。
 1912年には〈ファン=ボイ=チャウ〉らによりヴェトナム光復会【東京H21[3]】という秘密結社がつくられ,反フランスの共和政国家の建設をめざす運動を展開しますが,弾圧の末,20年代半ばには消滅することになります。

(注1)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.211。高橋孝助「中華帝国の近代化と再編」(歴史学研究会編 講座世界史3『民族と国家―自覚と抵抗』東京大学出版会、1995年)を引いて。
(注2) 浅羽佐喜太郎について,静岡県袋井市ウェブサイト,http://www.city.fukuroi.shizuoka.jp/kanko_bunka/bunka/ijin/1425447016973.html。




・1870年~1920年の東南アジア  現②フィリピン
フィリピン独立戦争は失敗し,アメリカ支配下に
 スペイン【本試験H11:宗主国を問う】が支配していたフィリピンでは,1880年の有産階級の息子を中心に,スペイン留学がブームになりました。異国の地でフィリピン人としての意識を強めた留学生たちは,故郷フィリピンの改革運動を推進していくようになります。

 サトウキビのプランテーション業者の子として生まれた〈ホセ=リサール〉(1861~1896)【本試験H27】は1887年『ノリ=メ=タンヘレ(私に触るな)』という小説で,スペインの大土地所有者として君臨していた修道会を批判し,フィリピン人に衝撃を与えました。「修道会による大土地所有は当たり前」「スペイン人による支配はどうにもならない」と感じていたフィリピン人に,社会改革を目指す意識が芽生えるようになったのです。

 身の危険をかえりみず〈リサール〉は1892年帰国すると,フィリピン民族同盟を結成。しかしその4日後に,反逆罪でフィリピン南部のミンダナオ島に流刑になってしまいました。ともかく,その後に続く民族運動の基盤は,こうして〈リサール〉によって準備されたのです。

 〈リサール〉の逮捕により,民族運動組織は秘密結社カティプーナン【慶商A H30記】に発展。徐々に会員を増やしたカティプーナンでしたが,1896年に存在が明るみに出ると,3万人の会員は義勇軍を組織し,フィリピン革命の火の手が上がりました。いくつかの州ではスペインから解放されましたが,スペインからの援軍により1896年に〈リサール〉は処刑され,都市の急進主義者に支持を持つ創立者〈ボニファシオ〉(1763~1838)と,大土地所有者のグループに属する会員〈アギナルド〉(1869~1964) 【セA H30】【本試験H2マラッカの人物ではない,本試験H10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】との間に主導権争いが勃発。〈アギナルド〉の命令で1897年に〈ボニファシオ〉は銃殺されました。

 1897年に革命政府はスペインと和平を結び,〈アギナルド〉は香港に亡命しましたが,その後も戦闘は継続していました。なんと,そこに介入してきたのがアメリカ合衆国です。アメリカは1898年にスペインとの戦争(米西戦争【追H9米西戦争の結果,フィリピンがアメリカ合衆国に領有されたか問う】)を開始し,フィリピンでは〈アギナルド〉側を支援。
 〈アギナルド〉【上智法(法律)他H30】は同年に革命政府の首都ブラカン州マロロス町に議会を設置し,1899年には憲法(マロロス憲法)を制定。フィリピン共和国(マロロス共和国;フィリピン第一共和国) 【上智法(法律)他H30】が建てて,初代大統領に就任。
 しかし,すでにアメリカはスペインとの戦争に勝利し、パリ条約(1898)によりフィリピンの領有権を獲得していたのです【H30共通テスト試行 「アメリカとスペインが戦争し、スペインが敗れたが、その後は今度はアメリカと「自由のために」戦わざるをえなくなったという」趣旨の文章中の空欄に「アメリカ合衆国」と「スペイン」を当てはめる問題(「フィリピン人」(フィリピンの志士の一人)が自国の境遇について話しているくだりであるから、ロシア・日本、スペイン・清国、日本・清国は当てはまらない(資料中の前半部に、清国に関する記述があるため、それに引きずられると誤答となってしまう))】。

 ここで〈アギナルド〉のフィリピン共和国と日本との関わりについてもでみておきましょう。
 〈アギナルド〉大統領は1898年に、腹心の〈ポンセ〉を日本に派遣。〈大隈重信〉(1838~1922)らの大物政治家らと親交を結びますが、〈青木周蔵〉外相(1844~1914)はアメリカ合衆国との関係の手前、深入りすることを懸念。しかし参謀総長〈川上操六〉(かわかみそうろく、1848~1899)を中心に、〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん、1871~1922)らアジア主義者は裏ルートでフィリピンの革命政府に軍事支援をしようとしました。しかし武器を積んだ船は、東シナ海で沈没(布引丸事件)。〈宮崎滔天〉らによるフィリピン独立支援の夢はついえました(〈宮崎滔天〉はこのことについて自著『三十三年之夢』に記しています【H30共通テスト試行 史料として出題される】)。 なお、その後も新体詩運動の先駆者〈山田美妙〉(やまだびみょう、1868~1910)が〈アギナルド〉の伝記を出版するなど、日本の知識人の中にはフィリピンに熱い視線を送るものも少なくありませんでした。

 1899年にアメリカはフィリピン共和国との戦闘を開始。1899~1902年にわたる米比戦争がはじまります。激しいゲリラ戦の中で、1901年に〈アギナルド〉は捕虜となり、フィリピンはアメリカの植民地に【H30共通テスト試行 「スペインが去ったらこんどはアメリカ合衆国のために「隷属を強いられんとは」「いずくんぞ知らん」(誰が予想できただろうか)」という文章から、「隷属を強いられん」の意味が「植民地として統治される」であることを類推する問題(不平等条約で関税自主権を失う、アパルトヘイトによって差別される、大国の委任統治領とされる―いずれも無関係)】。アメリカにとってフィリピンは,ロシアの南下に対応するための基地としても外すことができなかったのです。
 フィリピンの植民地としての地位は、1905年に桂タフト協定の中で日本政府との間にも確認されました。

 アメリカの支配下では,しだいに自治が認められたものの,アメリカ合衆国との自由貿易体制が作られ,サトウキビとマニラ麻のモノカルチャー経済がさらに進みました。英語による教育が導入され,アメリカ文化が浸透し,アメリカ製品の格好の市場になっていきました。一方で,強い影響力を持っていたカトリック教会による宗教教育は,そのまま重視されました。

 一方で,キリスト教徒ではないイスラーム教徒「モロ」と区別され,植民地当局によって厄介者扱いされました。フィリピン南部のミンダナオ島や,ミンダナオ島から南西のボルネオ島に向かってスールー諸島はイスラーム教徒の多く分布する地域であり,彼らを「フィリピン人」としてまとめて支配しようとすれば,そりゃあ問題が起きるのはあたりまえです。キリスト教徒のフィリピン人などを支配者につけたことで新たな混乱も起き,反政府運動がしばしば起きました【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】。




・1870年~1920年の東南アジア  現③ブルネイ
ブルネイ含むボルネオ北部はイギリスの保護下に

 ここでは,現在のブルネイを含むボルネオ島の北部周辺について見ていきましょう。

ブルネイ
 ブルネイはイスラーム教徒のスルタンが支配する王国でした (「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544)。


サラワクとサバ(現在のマレーシア)
 ブルネイ周辺のサラワクとサバには多様な民族が居住していました。
 たとえばサバの最大民族ドゥスン人は非ムスリム。ほかにムラト人も非ムスリムです。ほかに農業・商業・漁業に従事するバジャワ人などのマレー系の移民がいます(注1)。

 サラワクもサバもブルネイ王国が支配していましたが,14~16世紀に栄えた後,王国内の紛争にヨーロッパ勢力が介入して衰退。

 19世紀前半に住民の反乱が起きると,ブルネイ王国のスルタンは鎮圧をイギリスの探検家に依頼。その功績をたたえてイギリス人の〈ジェームズ=ブルック〉にサラワク地方のラージャ(藩王)に任命していました。“白人の支配するイスラーム教の立憲君主国”という特異な国家です。

 このサラワク王国ではこの時代にはその子〈チャールズ・ブルック〉 (位1867~1917) ,さらに第3代 〈ヴァイナー・ブルック〉(位1917~1946)に王位が継承されます。
 その間1888年にこのサラワク王国は,すでに1877~78年にブルネイとスールーのスルターンから北ボルネオ会社に割譲されていたサバ(「北ボルネオ」。ボルネオ島の北端周辺),さらにブルネイ王国と合わせ,イギリスの保護領〔イギリス領北ボルネオ〕となりました。ただし,その後もサバの統治は北ボルネオ会社に任されていました(注2)。

 現在では「サラワク」と「サバ」はともにマレーシアの一部となっていますが,もとを辿れば社会的にまったく異なる地域だったのです(注3)。

 サバでは1912年に立法審議会が設立されますが,参加できたのは北ボルネオ会社の幹部と,大農園を所有していた中国人に限定されたものでした(注4)。

(注1)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.5。
(注2)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.4。
(注3)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,p.1。
(注4)田村慶子「マレーシア連邦における国家統一―サバ,サラワクを中心として」『アジア研究』35(1), pp.1-44, 1988年10月,pp.4-5。



・1870年~1920年の東南アジア  現④東ティモール
東西ティモールの国境線が蘭・葡により決められる

 オランダとポルトガル間で東西に分けられていたティモール島について、1904年に新たにポルトガル=オランダ条約が結ばれ、国境が直線的に惹かれることとなりました。この国境線は第一次世界大戦前に確定し、今日のインドネシアと東ティモールとの国境線のベースとなります。




・1870年~1920年の東南アジア  現⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
シンガポールは「アジア間交易」のハブに発展へ
 この時期には,イギリス帝国の提供する国際公共財や,インドと日本の綿紡績業の発展を背景に,アジア各地を綿製品や消費財が結ぶ「アジア間交易」が活況を呈します。
 シンガポールはイギリスの直轄植民地であり,自由貿易港として「アジア間交易」のハブとして発展していきます。


 スマトラ島では,1873年からアチェ王国とオランダとの戦争が始まりました。1903にオランダはスルタンを廃位しましたが,ウラマーの指導による戦闘は1912年まで続きました。パレンバンは1823年に,ジャンビ王国は1901年にスルタン制が廃止され,オランダの直接統治下に置かれました。
 20世紀初頭にはバリ島も支配下に置かれ,1910年代には,インドネシアの原型にあたるオランダ領東インドが完成しました。

 植民地の完成に対し,住民の側からの抵抗運動も始まっていきました。「インドネシア」という呼び名も,この時期に「東インド」に対抗して掲げられたのです。すでに,19世紀末に中部ジャワでは農民〈サミン〉(?~1914)が農民らを指導として,自給自足の理想の農民世界の樹立を訴え,植民地政庁に抵抗する運動が置きていました(サミン運動)。本格的な民族運動は,1908年のブディ=ウトモ (至高の徳という意味)が原点です。その後,1911年にジャワで結成されたサレカット=イスラム(イスラム同盟) 【追H28イランではない】【本試験H6】 【本試験H14時期,本試験H30バングラデシュではない, H29共通テスト試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】は,「イスラーム」による助け合いを説き,ジャワで急速に支持者を増やしました。当時は「インドネシア」を旗印にするよりも「イスラーム」を掲げたほうが,一致団結しやすかったのです。はじめはインドネシアの経済を牛耳っている華僑(中国系商人) 【本試験H17 ヨーロッパに植民地化された後,中国から移住し労働に従事する者が途絶えたというのは誤り】に対する運動でしたが,1912年に〈チョクロアミノト〉(1882~1935)が主導権を握ると急拡大し,しだいに反オランダ的な団体に変化していきました。
 こうした動きに対してオランダは,「倫理政策」といって「白人として,キリスト教徒として,われわれオランダ人の文明を,遅れた“野蛮”な東インドに与えるべきである」という政策をとるようになりました。住民の福祉や教育水準をアップさせることで,不満を封じ込めようとしたのです。西洋式の教育を受けたジャワの〈カルティニ〉(女性,1879~1904)は,ジャワ人としてのアイデンティティを持つことの大切さや,女性教育の重要性を主張しました。
 「私たちはよく,ジャワ人よりも心はオランダ人に近いと言われます。そういう批判は心を痛めます! 私たちは西洋の思想や感覚に影響されているかもしれませんが,私たちの血,私たちの血管の中を熱く流れているジャワの血は消すことが出来ません。」(1901年の手紙)
 彼らはやがて本格的な独立運動の指導者になっていくことになります【本試験H11リード文に舟知恵・松田まゆみ訳『民族意識の母カルティニ』が使用】。


 一方、マレー半島では,ペナン・マラッカ・シンガポールの3拠点を統合した「海峡植民地」が、1867年以降イギリス【本試験H25フランスではない】の植民地省の直接統治下(「Crown colony」(王冠植民地)という地位)に置かれていました。植民地省の下に海峡植民地総督が置かれ、それを行政評議会と立法評議会が補佐する大勢です(注1)。なおこの時期のシンガポールではすでに中国人人口が最も多く、中国人移民の保護を目的にした中国人保護局が設立されています(注2)。民族別に居住区が指定されていた名残は、今日のシンガポールの街区に「チャイナ・タウン」「リトル・インディア」「マレー街」「ブギス街」といった民族名が付けられたところに見られます。要するに分割統治です(注3)。一方で、ヨーロッパ人の新居住地として内陸の果樹園地帯が開発され(現在のオーチャード通り)、さらにシンガポール島東部のカトン一帯に中国人居住地が開発され、1850年代に、シンガポール島南端を起点とする放射線状の幹線道路が建設されていきました。シンガポールの現在の街づくりの起点は、イギリス植民地時代にあったのです(注4)。経済発展の影では、日本(特に長崎の島原や熊本の天草を中心とする九州西部)からわたった日本女性が売春婦(からゆきさん)としてわたった例もありました。第一次世界大戦が終わると、シンガポール在住の日本人商社員などからの批判が出て、1920年に日本領事館が彼女たちの追放を決定しています(注5)。

 この時期になると、イギリス海峡植民地の総督はさらに一歩進んで、ペラ,スランゴール,パハンのスルタンと,ヌグリスンビランの6人のムラユ人首長に各国内の権限を保障する代わりに,イギリスの保護下に置くという体制を作り上げていきました。
 これをマレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)【本試験H21】といいます。首都はクアラルンプールです。The (Federated) Malay Statesの訳語ですので,マレー諸州のほうがよいかもしれません。ジョホール(注6)や北部の3地域(クダ,クランタン,トレンガヌ)のように,これに参加しなかった地域(非連合州)も,20世紀初めには実質的にイギリスの支配下に組み込まれました。
 こうして,海峡植民地(ペナン,マラッカ,シンガポール【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】)+マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+非連合州を合わせて,イギリス領マラヤと呼びます。

 イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばしました。
 ブルネイ王に支配権を与えられたイギリスの冒険家〈ブルック〉が1841年以降王朝を開いていたサラワクと,ブルネイ王国内のサバは北ボルネオ会社の支配下に入り,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。

(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.17。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.18。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.21。
(注4) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.22。
(注5) シンガポールの「からゆきさん」は1877年には14人、1903年には585人に達していました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.30。
(注6)1819年にイギリスはジョホール王からシンガポール島を獲得し、1824年に英蘭条約でマレー半島南部とスマトラ中部・リアウ諸島は分離されました。これが現在のマレーシアとインドネシアの国境線のベースです。ジョホール王はその後、上からの近代化をはかりながら政治的な独立を保ちますが、1909年にイギリス人の顧問官を受け入れ、政治の実権はイギリス人に渡すことになりました(現在は、連邦国家マレーシアを構成する州の一つです)。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ジョホール王国」の項目、岩波書店、2002年、p.503。




・1870年~1920年の東南アジア  現⑧カンボジア
 前の時代、カンボジア【本試験H11:1901年時点の宗主国を問う】国王〈ノロドム〉(1860~1904)は、シャムのチャクリ朝とヴェトナムの阮朝の干渉をブロックするために、フランス【追H20アメリカではない】に保護を求めていました。
 しかし、フランスの干渉はエスカレートしていき、1884年にフランスのコーチシナ知事が、国王の地位を名ばかりのものにする条約の改定をせまりました。
 拒否できなかった国王に対し反対運動も起きましたが、1884~1885年の阮朝をめぐる清仏戦争にフランスが勝利すると、1887年にはフランスの大統領によってフランス領インドシナが形成されます。
 フランス領インドシナは、主に①ヴェトナム北部のトンキンを保護領に、②ヴェトナム中部の阮朝を保護国にし、③ヴェトナム南部のコーチシナをフランスの直轄領としたもので、④カンボジア王国は保護国として一部に組み込まれてしまいました。

 フランスは後継の国王として、〈ノロドム〉の息子ではなく、フランスに協力的な〈シソワット1世〉(位1904~1927)をサポートします。




・1870年~1920年の東南アジア  現⑨ラオス
 ラオス【京都H19[2]】では,ラーンサーン王国の分裂後,北部にはルアンパバーン王国、南部にはチャンパーサック王国が並び立っていました。
 この複雑な状況がフランスによる植民地化に有利に働き,1899年にフランス【追H20ポルトガルではない】領インドシナに併合されました。
 国王の名目的な支配は残されましたが,フランス植民地省の管轄下に置かれています。



・1870年~1920年の東南アジア  現⑩タイ
 シャムでは〈ラーマ5世〉(チュラロンコン大王,位1868~1910) 【東京H27[3]】【慶商A H30記】が,近代化政策を進めました。インド側のイギリスと,インドシナ半島側のフランスに挟まれた緩衝地帯であったため【慶商A H30記述(独立維持の理由を「緩衝」という語句を用いて)】,国境付近の領土を英仏に割譲しながらも独立を守ることができました【追H20フランスの植民地ではない】。
 王に謁見(えっけん)するときにひれ伏すなどの伝統的な儀礼や奴隷制を廃止し,外国人顧問を雇い西ヨーロッパの制度を参考にして鉄道・電信・郵便・司法・行政・教育などを刷新しました。
 国王がバンコクに創設した学校は1917年にはチュラーロンコーン大学に発展しています。

・1870年~1920年の東南アジア  現⑪ミャンマー(ビルマ)
 コンバウン朝【本試験H3タウングー朝ではない】のビルマでは,1885年の第三次ビルマ戦争【京都H19[2]】【東京H23[3]ビルマ戦争が3次まであったか問う】【本試験H10「ビルマ戦争(1885年)で勝利したイギリスは不平等条約をビルマに強要した」か問う】【上智法(法律)他H30スマトラ島の王国ではない】で,イラワジ川上流部(上ビルマ)もイギリス【本試験H3】に併合され,コンバウン朝ビルマは滅亡し【本試験H3】【東京H23[3]「1947年まで存続した」わけではない】,1886年にイギリス【本試験H11:1901年時点の宗主国を問う】領インド帝国の1州として併合されました【本試験H17フランスに併合されたのではない】。国王夫妻はインドのボンベイに流され,そこで亡くなりました。




○1870年~1920年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

1870年~1920年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国は英仏などの経済的支配下に置かれ,ドイツに接近して第一次大戦に敗れる
オスマン帝国の英仏への経済的従属進む
 オスマン帝国のエジプト総督〈イスマーイール〉(位1863~67,1867~79までは「副王(ヘディーヴ)」の称号を得ました)は,〈ナポレオン3世〉時代のフランスとともにスエズ運河開削に出資しましたが,その莫大な建設費は通行税の徴収によってまかなえると考えられていました。しかし予想は大きく外れ,近代化にともなう港湾施設,工場などの建設をヨーロッパからの出資で行ったため負債が拡大。
 ついに1875年にはスエズ運河会社の株式はオスマン帝国【追H24「財政がほぼ破綻していたトルコ」】からイギリス【追H24】に売却されました。アメリカ合衆国の南北戦争(1861~65)以降上り調子だった綿花輸出量ものびなやみ,同年にはイギリス・フランスによって国家の財政が管理下におかれてしまいました。このピンチを救ったのが宰相の〈ミドハト=パシャ〉です。1876年にミドハト憲法【東京H11[3]タンジマート後の推移を記述する,H20[1]指定語句】【共通一次 平1:時系列(タンジマート,青年トルコ人革命との順)】【本試験H10日本の明治憲法を模範にしたわけではない(まだ明治憲法は制定されていない)】【本試験H16時期(19世紀後半),本試験H29インドではない】【追H18時期、H25アジア最初の憲法はイランの憲法ではない】を発布し,二院制・責任内閣制を規定しました。
これはアジア史上初の憲法だったのですが,〈アブデュル=ハミト2世〉【東京H15[3] 1883年に開業されたパリ発のオリエント急行の終着駅と,当時の元首を答える】【本試験H30】【立教文H28記】が,露土戦争が起きたことを口実に,「戦争遂行のために指揮は自分がとるから宰相など必要ない」と,〈ミドハト=パシャ〉を辞めさせ,憲法を停止してしまいます。
 これに抗議したのが,統一と進歩委員会(ヨーロッパ諸国では「青年イタリア」などにならって「青年トルコ」と呼ばれました)というグループです。

 ヨーロッパ諸国の経済的な進出も強まります。1881年にはオスマン債務管理局が設立され,オスマン帝国の財政はイギリス,オランダ,フランス,ドイツ,イタリア,オーストリアとオスマン銀行による委員会に管理され,オスマン帝国は徴税の自由を失いました。借金を返済させるためにオスマン帝国の税金のとり方にまで干渉したのです【本試験H12「(1871~79年前後の時期の)スエズ運河の建設やその株式の保有をめぐって,ドイツによる財務の管理を受けるようになった」か問う。管理したから「イギリスとフランス」だから「誤り」とのことだが,委員会にはドイツも参加していたので,この選択肢は正答となり,解答不能か】。

 さて,アジアの一つである日本が,オスマン帝国と“共通の敵”であるロシアに勝利(1905~06年日露戦争)した知らせに刺激を受け,オスマン帝国の統一と進歩委員会(青年トルコ)は,1908年に青年トルコ人革命【共通一次 平1:タンジマート,ミドハト憲法との時系列を問う】【早・法H31】を起こします。〈エンヴェル=パシャ〉(1881~1922)を指導者としてミドハト憲法を復活【早・法H31】し,立憲君主制となりました。
 日本が立憲君主制となったのは1889年の大日本帝国憲法ですから,19年遅れをとったということになります【本試験H10ただし,ミドハト憲法は大日本帝国憲法にならって制定されたわけではない】。
 〈エンヴェル=パシャ〉は三頭政治をとって政治の表舞台には現れず,オスマン帝国の官僚層はそのまま残されます。その間〈エンヴェル〉は1909年からドイツにベルリン駐在武官として赴任。熱烈なドイツ支持者となって帰国します。

 ちなみに,このとき〈アブデュル=ハミト2世〉は「ミドハト憲法を停止した」という悪行があるわけですから,議会で廃位【早・法H31】が決議されました。皇帝(スルターン)が廃止されたわけではありませんが,彼の弟〈メフメト6世〉は,オスマン帝国最後の皇帝(スルターン)に,彼の従弟は最後のカリフとなりました。
 青年トルコは,「オスマン人」として多民族を支配しようとするオスマン帝国の指導者に反発し,「トルコ人」中心の近代的な国家をつくろうとしました。それに対してアラブ人からは,アラブ民族主義に基づく運動が起こっていきます。各地にアラブ人の独立を目指す組織がつくられ,第一次世界大戦中にはイギリスがアラブ人に接近し,オスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をとりました。
 なお,青年トルコ革命の混乱の最中に,ブルガリアがオスマン帝国【本試験H18オーストリア=ハンガリー二重帝国ではない】から独立しました【本試験H18,本試験H27】。



1870年~1920年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国は中央アジアのテュルク系民族との提携をねらうも,失敗に終わる
エンヴェルのパン=テュルク主義,ケマルの西欧主義
 1911年に現在のリビアをめぐるトルコ=イタリア戦争に敗北し,1912年には第一次バルカン戦争でも敗北。負け続きのオスマン帝国に対し〈エンヴェル=パシャ〉は1913年にクーデタを起こし,独裁権力を掌握。同年にはオスマン帝国のスルターンの娘と婚約,1914年に結婚し,権威付けもバッチリです。
 しかし戦局は思うようにいかず,〈エンヴェル=パシャ〉は中央アジアのトルコ人との提携により,ロシアの挟み撃ちを狙うというパン=テュルク主義にもとづく壮大なプランを計画。もともと「トルコ人だけでまとまろう」という考え方は,クリミア=タタール人〈ギョクアルプ〉(1851~1914)によって主張されていたものです(注)。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史』朝日新聞社,1991,p.B-709

 中央アジアでは1917年のロシア革命後には革命ロシアの進出が本格化。タタール人やアゼルバイジャン〔アゼリー〕人,ウズベク人,バシキール人などによる独立運動の動きは活発化しますが,どのようにまとまるか,どのように独立するかをめぐって,統一的にすすめることは困難でした。
 やがてテュルク人の民族運動も,ロシアの社会主義の影響を受けるようになり,〈スルターンガリエフ〉(1882~1940)をはじめとするタタール人の社会主義者が活躍しますが,民族主義的な要素と社会主義的な要素の両立も困難でした。のち〈エンヴェル〉(1881~1922)は,大戦中に成立したソ連に抵抗する運動に加わっていたところ,暗殺されています。
 
 一方,西ヨーロッパ的な教育の影響を強く受けていた〈ムスタファ=ケマル〉は,大戦中からアンカラを中心に連合国への抵抗運動をスタートさせていました。
 彼は,「もうオスマン帝国のスルターンにはまかせられない。〈エンヴェル〉のいう「パン=テュルク主義」も非現実的だ。アナトリア半島のテュルク人だけで,西欧を見習って強い近代的国家を建設しよう」と呼びかけます。

 こうして〈ケマル〉は,ユーラシア大陸に広がるテュルク人の世界とは別個に,アナトリア半島だけで西欧的な近代国家を建設していくことになるのです。
 その実現のために解決すべき問題としては,①連合国との交渉を有利に進めること,②混乱に乗じてアナトリア半島に進出したギリシアを追い払うこと,そして,③オスマン帝国のスルターン(と同時にカリフ)の処遇を決めること,④イスラーム教と国家との関係を決めること,などがありました。



1870年~1920年のアジア  西アジア
◆今日みられるアラブ諸国家の枠組みは、第一次世界大戦の結果できあがった(注)
戦後イギリス・フランスは,オスマン帝国を分割した

オスマン帝国の第一次世界大戦への参戦
 オスマン帝国は,第一次世界大戦(1914~1918)において、1914年11月にドイツ側の同盟国側【本試験H31】で参加します。しかし、バルカン半島、コーカサス地方、アラビア半島のいずれにおいても劣勢に立たされることになります。

 オスマン帝国がもっとも憂慮していたことは,帝国領内で盛んになっていた民族運動が,敵である協商国(連合国)側と結び付くことでした。イギリスは,アラビア半島のアラブ人有力者たちに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【本試験H12】。当時のアラビア半島にはいくつかの有力者がいましたが,イギリスが選んだのは聖地メッカの太守を務めるアラブ人【東京H8[1]指定語句「アラブ」(第一次世界大戦前後における旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について)】勢力【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】の〈フサイン=イブン=アリー〉(1853~1931)でした。



イギリスの「三枚舌」外交
 1915年のフサイン=マクマホン協定【東京H8[3]ユダヤ人の建国を認めていない】【本試験H3イギリスの関与を問う】【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定),17年にはイギリス【H29共通テスト試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言) 【本試験H3イギリスの関与を問う,本試験H9アラブ人に独立を認めたものではない】【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの“三枚舌外交”です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【本試験H16イブン=シーナーではない】【追H20イブン=ルシュドではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。



オスマン帝国の解体と英仏の委任統治領
 第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,現在のレバノンとシリアは「シリア」【追H26】としてフランス【追H26】【本試験H3】の委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。

 こうしてイギリスは,トランスヨルダン【本試験H3「ヨルダン」としてフランス委任統治領から独立したのではない】【本試験H20イタリア領ではない】とイラク【本試験H3イギリス委任統治領ではない】【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】を委任統治(注)することに成功したのです。
 しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な“分割統治”ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
(注)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。

 一方,フランス【本試験H16イギリスではない】はシリア(現在のシリア+レバノンの領域)を委任統治領とし,パレスチナは国際管理としました。
ちなみに,ロシアでは,大戦中にロシア革命が起き,レーニンの革命政府は「平和に関する布告」で,領土を要求したり住民の意志に背くようなことはしたりしないとで表明し,この地域からは身を引きました。
 このように一方的な線引きがなされた結果,例えば「クルド人」【東京H25[3]】は,トルコ・シリア・イラク・イラン等にまたがり分断され迫害を受けることになりました。「アルメニア人」の領域の多くも,サイクス=ピコ協定ではロシアの勢力圏に入っていましたが,結局トルコの支配下に置かれました。大戦中にはトルコ人によるアルメニア人虐殺が起きています。

(注)エジプト社会経済史の長沢栄治(1953~)は、第一次世界大戦後に民族運動・民衆蜂起を鎮圧することで列強の支配を直接受けることとなった東アラブ地域で生まれた一群の領域国家を「アラブ諸国家システム」と呼んでいる。オスマン帝国という広域的なイスラーム帝国の秩序から切り離されて強められた「アラブ世界の統一」を求める動きと、英仏の委任統治によって押し付けられた分割支配という2方向の矛盾が、アラブ世界の構造を変化させてゆくこととなる。佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.452。



・1870年~1920年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン 
 アフガニスタンは,インド防衛のためにイギリス【本試験H2フランスではない】が進出しました。ロシア対策ですね。1838~42年の第一次アフガン戦争【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】でイギリスは敗北,1878~1880年の第二次ではイギリスが勝利して保護国化しましたが,1919年の第三次ではアフガニスタンは主権を回復し,独立国家となりました。


・1870年~1920年のアジア  西アジア  現②イラン
 イランのカージャール朝【本試験H15サファヴィー朝ではない,本試験H17清ではない】は,1828年には,ロシアとトルコマンチャーイ条約(イランなのに“トルコ”なので注意) 【東京H26[1]指定語句】【本試験H17】【追H21エカチェリーナ2世は結んでいない】が結ばれ,カスピ海と黒海のあいだを占めていたアルメニア【本試験H15ロシアが「領土」を獲得したかを問う】を失いました。これは,治外法権を失う不平等条約でした【本試験H10条約の名称は問わず】。
 その後,イギリスやロシアが進出したことに反発する,シーア派の一派のバーブ教徒【本試験H19,H25ディオクレティアヌス帝とは関係ない,H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係,本試験H30】が反乱をおこします(1848~1850年)が,カージャール朝に鎮圧されました【本試験H18,H29共通テスト試行 この時点でカージャール朝はイギリスの保護国になっていたわけではない】。その後,1891年にはタバコ=ボイコット運動【東京H19[3]】【追H27時期を問う】【本試験H16地域・王朝】【法政法H28記】がおきます。カージャール朝が,イギリスにタバコを独占する利権を与えたことに反発したのです。運動を指導したのは,国境を越えてイスラーム世界を一つにまとめようとする「パン=イスラーム主義」【本試験H25】(「パン」は「1つ」という意味)を提唱した〈アフガーニー〉(1838~97) 【東京H19[3]】【追H28「ムスリムの連帯を唱えた」か問う】【本試験H25】【法政法H28記】です(注)。彼は「ヨーロッパに勝つにはイスラーム教徒がヨコにつながるべきだ!」と主張し,エジプトのウラービーの乱【追H28立憲制を求めたか問う】【本試験H6成功していない,本試験H12「アラービー=パシャ」時期】【本試験H18】【セA H30時期】を初め,当時のイスラーム世界のほとんどすべての抵抗運動に影響を与えました。

 運動は失敗に終わりますが,イランでは日露戦争での日本の勝利に影響されたイラン立憲革命(1906~11) 【東京H14[1]指定語句】【本試験H10「イギリスとロシアの干渉によって挫折した」か問う】【本試験H16】が起きましたが,1907年には英露協商で南部はイギリス,北部はロシアの勢力圏としてロシアの介入が黙認され,1908年にはカージャール朝の国王はロシアの支援を求めて鎮圧しました。その後,タブリーズの市民の抵抗で1909年に立憲派が勢力を回復したものの,ロシア軍【本試験H16フランス軍ではない】により鎮圧されました。ロシアにとってはイランが王により支配されていたほうが,国民よって団結した国ができるよりも都合がよかったのです。
 〈アフガーニー〉の弟子に,〈ムハンマド=アブドゥフ〉(ムハンマド=アブドゥ,1849~1905) 【上智法(法律)他H30】 がいます。彼はエジプトのウラービーの乱にも関わり,「西洋文明はイスラームとは矛盾しない」と考え,イスラーム法を柔軟に解釈しようと呼びかけました。彼の説は中央アジア,南アジア,東南アジアにまで広まり,イスラーム世界の各地の改革派ウラマーや民衆の一体感を高めました。しかし,ヨーロッパ文明の生み出した「近代的」な制度や思想にイスラームを近づける考え方には,反対を唱えるウラマーも少なくありませんでした。このようにイスラームに価値を置き,社会を改革したり革命を起こそうとする思想を広くイスラーム主義といいますが,その内部には「どのような社会を理想とするか」をめぐる改革派と対立派の対立があったのです。
(注)アラビア語やペルシア語には,地名のあとに「イー」という語尾を付けると○○出身者という意味になるのですが(ニスバといいます),〈アフガーニー〉もアフガニスタンで生まれたとされ,現在はアフガニスタンに墓がありますが,イスラーム世界を股にかける活躍をした人物です。

・1870年~1920年のアジア  西アジア 現③イラク
 イラクではオスマン帝国による中央集権化がすすみ,1887年には北部のモースル,中央部のバグダード,南部のバスラの3州が設置されました。イギリスはイラク地域を「インドへの道」として重要視し,バスラにはイギリスの港湾が建設され蒸気船航路も開通させました。

 その後、1914年に第一次世界大戦が勃発すると、オスマン帝国は1914年11月に中央同盟国側に立ち参戦します。
 イギリスは、オスマン帝国の1914年11月の参戦直後に、イラクのバスラにインド兵の軍隊を送り一次占領します(⇒1870年~1920年のアジア 南アジア インド。インドは対戦への協力の見返りに戦後の自治を約束されていました)(注)。
しかしオスマン帝国は最終的に降伏。第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。
 こうして,トランスヨルダン【本試験H20イタリア領ではない】とイラク【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】を委任統治(注2)することに成功したのです。しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な“分割統治”ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。

 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えば「イラク」の領域はバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
(注1) 佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年,p.453。
(注2)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。

・1870年~1920年のアジア  西アジア 現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
オマーンが衰え,ペルシア湾諸勢力はイギリス保護下に
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の海賊集団がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。

 イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,19世紀前半以降,武力をちらつかせながらペルシア湾岸を含むアラビア半島沿岸を保護下に置いていきました。


◆現④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーンの保護国化
 19世紀前半にはオマーンが東アフリカのザンジバルにかけて海上帝国を築いていましたが,最盛期のスルターン〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)が1856年に亡くなると,現・タンザニアのザンジバルとアラビア半島のオマーンは分離されます。
 その後はイギリスの蒸気船を用いた海軍力に圧倒されていき,1891年にイギリスの保護国となりました。

 この中には,1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーンや, 1880年に保護下に置かれたバハレーン(バーレーン),1916年に保護下となったカタールが含まれます。

 1899年にはワッハーブ派の第二次サウード朝(1823~89)が,対立部族のラシード家に敗れると,サウード家の指導者はクウェートのサバーハ家に保護を求めます。同年,クウェートはオスマン帝国への対抗の必要からイギリスの保護下に入りました。これが現在につながるクウェートの成立です。

◆現⑩サウジアラビア中央部では,サウード家が台頭していく
サウード家の勢力が台頭する
 ラシード家に敗れたサウード家の当主〈アブドゥルアズィーズ〉は1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,ハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪う動きをとっていきます。

 メッカ(マッカ)とメディナ(マディーナ)の両聖都を抱えることから,スンナ派イスラームの保護者を自任するオスマン帝国の支配下に置かれていました。
 しかし,オスマン帝国に対してアラビア半島の遊牧民の諸集団は,スンナ派の厳格な改革思想であるワッハーブ派を旗印にまとまりをみせるようになりました。

 また,鉄道の敷設や蒸気船航路の開通にともないメッカ巡礼者が増えると,各地のスーフィズムの教団も盛んにメッカを訪れるようになっていました。各地のスーフィズム教団はワッハーブ派の改革運動の影響を受け,神秘主義的な教義のうち〈ムハンマド〉のスンナ(慣行)にそぐわないものの見直しを図る動きがみられるようになり,メッカでイドリース教団が,そこから分かれてリビアでサヌーシー教団が設立されました。


◆第一次世界大戦中,イギリスはオスマン帝国内でアラブの反乱を支援する
英は「アラブの反乱」を支援し戦後の勢力拡大狙う
 第一次世界大戦中に,イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。
 オスマン帝国領内にはアラブ人がいます。彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【本試験H12】。
 アラビア半島にはいくつかの有力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人勢力【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】〈フサイン〉でした。1915年のフサイン=マクマホン協定【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定),17年にはイギリス【H29共通テスト試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言) 【本試験H9アラブ人に独立を認めたものではない】【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの“三枚舌外交”です。

 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【本試験H16イブン=シーナーではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。


・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア

シリアで高まるアラブ意識,トルコ主義に対抗
 シリアでは,アラブ人としての民族意識を高めようとする「アラブの覚醒」運動が起きていましたが,〈アブデュル=ハミト2世〉はそれを危険視し,1887年にシリア地域をアレッポ州,ダマスクス(シャーム)州,ベイルート州と,レバノン県,イェルサレム県に分割し,中央集権的に支配しようとしました。それに対してシリア地域のキリスト教徒やイスラーム教徒の間でアラブ民族主義の動きが高まっていきました。例えば〈カワーキビー〉(1840~1902)は,たとえイスラーム教徒であってもアラブ人と非アラブ人を区別するべきだと主張し,オスマン帝国への対決を鮮明にしました。



ユダヤ人がポグロムを逃れてパレスチナに逃れる
 折から当時「国民国家」の建設が本格化していたヨーロッパ諸国では,国境を越えたつながりを持つユダヤ人に対する締め付けが強くなっていました。
 その上,1882~1883年にロシア帝国領内でポグロムという虐殺事件が各地で起こります。
 東ヨーロッパ方面から逃れたユダヤ人は,パレスチナへの移住を開始していました。
 1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されたからです。
 これが,のちのパレスチナ問題の起源となっていきます。古くから続いている対立のようにみえるパレスチナ問題は,実はこの時代が生み出した問題なのです。



◆オスマン帝国の「ジハード」宣言に対抗し、イギリスはアラブ人ムスリムの分断をはかった
イギリスの三枚舌外交の結果,アラブ統合は阻止
 第一次世界大戦開戦直後の1914年11月に、イギリスがインド兵をイラクに送りバスラを一次占領すると、1915年2月にシリアのオスマン軍はシナイ半島をこえてスエズ運河地帯を攻撃します。イギリスの最重要拠点をねらったのです(注1)。

 また、イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。オスマン帝国領内にいるアラブ人の有力者に戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【本試験H12】。これは開戦と同時にオスマン帝国がジハード(聖戦)を宣言して各地のムスリムを動員しようとしたことに対応したものです(注2)。
 ですからイギリスは〈ムハンマド〉の血筋を引く名門でメッカの太守についていた【H29共通テスト試行 オスマン帝国ではない】〈フサイン〉に目をつけたのです。
 すでに1914年10月にイギリスのエジプト高等弁務官〈キッチナー〉は〈フサイン〉に親書を送り、「オスマン帝国のジハードに反応しない」方針をとっていました(注3)。1915年7月以降は新たにエジプト高等弁務官に着任していた〈マクマホン〉と書簡(しょかん)を交わし、その中でアラブ国家の建設と引き換えに、イギリス側に立つ参戦の約束をとりつけます(フサイン=マクマホン協定【本試験H15サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】)。彼の理解では,この幻の“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした(注4)。

 しかし翌16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定),17年にはイギリス【H29共通テスト試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言)【本試験H15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,H29共通テスト試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),本試験H30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの“三枚舌外交”です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。

 しかしこの反乱は決して“受動的”な動きではありません。反乱の指導者は、19世紀末のアラブ文芸復興運動(ナフダ)が育てた、明確な民族意識をもつ新世代の指導者たちでした。すでにアラブの独立をめざす複数の秘密結社(イスタンブルのアラブ人によるカフターン会(1909)、パリのレバノン出身アラブ人による青年アラブ(1911)、イラク出身オスマン軍将校中心でイスタンブルで結成された聖約協会(1914))が活動していたのです。「アラブの反乱」とは、こうしたアラブ民族主義グループがアラブ最大の名家であるハーシム家の当主〈フサイン〉のもとに結集して展開された政治運動であったわけです(注5)。
 1918年に〈フサイン〉の三男〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それを見たアラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【本試験H16イブン=シーナーではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。



◆列強の分割ラインに沿った形で、歴史的な「シリア」は南北に分断された
北半はフランス、南半とイラクはイギリスの委任統治
 第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では、「歴史的なシリア」(歴史的に「シリア」と呼ばれた、現在のシリア・レバノン・ヨルダン・パレスティナ周辺の地域)とイラクが、大戦中に秘密裏に取り決められたサイクス=ピコ協定のラインに沿った形で分割されていきました。

 レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈フサイン〉の三男〈ファイサル〉の建てていたシリア王国を崩壊させます。

 こうして,トランスヨルダン【本試験H20イタリア領ではない】とイラク【本試験H14・H20ともにフランス領ではない】を委任統治(注6)することに成功したのです。
 しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が結束することも阻止。典型的な“分割統治”ですね。

 こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【H29共通テスト試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にあったのです。
 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
(注1)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.453。
(注2)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、pp.453-454。
(注3)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.454。
(注4)「アラブ領土」という表現に含まれるのは、マシュリク〔一般にエジプト以東のアラブ諸国を指します〕とアラビア半島からなる地域と考えられていました。佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.434。
(注5)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年、p.434。
(注6)国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。

・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。
 露土戦争(1877~1878)の結果結ばれたベルリン条約(1878)により,オスマン帝国はキプロスを失い,イギリスが統治権を獲得しました。インドへの航路の拠点とするためです。
 第一次世界大戦(1914~1918)が勃発すると,イギリスはキプロスを併合しています。


・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
◆ヨーロッパの1873年不況の影響を受け,オスマン帝国の経済は破綻し,ドイツに接近する
オスマン帝国は財政破綻,大戦に敗北し,国内に新政権が樹立される
 オスマン帝国は相次ぐ戦争と近代化のためにヨーロッパ諸国からの借款(しゃっかん)を重ねていました。経済は西欧諸国への輸出向け作物が頼みとなり,農作物のモノカルチャー化も進んでいました。
 そんな中,西ヨーロッパを震源地に「大不況」(1873年恐慌,1873~1896)が起きると,農産物の買い取り価格が下落。
 その煽りを受け1875年に国家財政が破綻,その後は過酷な財政管理を受けることとなります。

 「このままでは,西ヨーロッパ諸国からの本格的な進出を受けてしまう…」

 改革は“待ったなし”の状況となり,大宰相〈ミドハト=パシャ〉(1822~1884)はオスマン帝国憲法(いわゆるミドハト憲法)を発布。西ヨーロッパ風の近代国家であることを宣言し,オスマン帝国の臣民はイスラーム教徒であろうとなかろうと平等な「オスマン人」であることを規定しました【追H28 19世紀以降のオスマン帝国でムスリムと非ムスリムの法的平等が認められたか問う】。

 しかしこの状況下で1877年にロシア帝国が露土戦争を開始すると,スルターン〈アブデュルハミト2世〉(任1876~1909)はサン=ステファノ条約を結んでロシアと講和を余儀なくされます。サン=ステファノはイスタンブールの近郊の地点であり,ここで和平を結んで置かなければ首都占領のおそれすらありました。〈アブデュルハミト2世〉は非常事態を宣言し,「ミドハト憲法の規定する議会を設置するような余裕などない」と,憲法の施行を停止。スルターンによる専制体制を復活しました。
 1881年にはオスマン帝国のヨーロッパ諸国に対する債務管理のため,オスマン債務管理局が設立されて経済のコントロールが進む中,次第に民族資本も育っていきます。
 民族資本のサポートを受け,ミドハト憲法の復活を望む人々は1889年に「統一と進歩委員会」を設立し,立憲政治を実現させようとするいわゆる「青年トルコ人」運動をすすめていきました。
 
 1908年にはサロニカの「統一と進歩委員会」を支持する軍が武装蜂起して,ミドハト憲法の復活に成功。1913年には〈エンヴェル=パシャ〉(1881~1922)を中心に政権を獲得します。 
 1911年には伊土戦争でトリポリ,キレナイカがイタリアに奪われ,バルカン半島へのロシアの南下が強まる中,〈エンヴェル=パシャ〉を中心とする「統一と進歩委員会」政権はドイツへの接近を画策。



◆第一次世界大戦に参戦したオスマン帝国は敗戦し、戦後は領土を英仏に分割される
ジハード宣言するも、イギリスがアラブ反乱を煽動
 そして、1914年に始まる第一次世界大戦では中央同盟国(同盟国)側について参戦。オスマン帝国は開戦とともにで「ジハード」(聖戦)を宣言し、各地のムスリムの動員を画策しました。イギリスはそれに対抗する形で、宗教的権威を持っていたメッカのアミールである〈フサイン〉に「アラブの反乱」を興させたのです(注)。
 結果的にオスマン帝国は1918年10月30日に降伏します。

 連合国によるオスマン帝国の「分割」の危機が高まる中,将軍〈ケマル=パシャ〉が1920年4月,独自にアンカラで新政府(トルコ大国民議会)を樹立し,セーヴル条約を結んで連合国の進駐をゆるすイスタンブルのスルターン〈メフメト6世〉と別行動を取り始めます。

 なお,大戦中にはオスマン帝国軍によるアルメニア虐殺が起きています(⇒1870~1920のアジア 西アジア アルメニア)。

(注)佐藤次高編『新版世界各国史8 西アジア史Ⅰ』山川出版社、2002年,pp.453-454。

・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア)
 19世紀後半,グルジアにはロシア帝国の資本が流れ込んで産業が発展していき,グルジア人の多くは不満を募らせています。土地改革はすすまず,多くの都市が地主の所有です。
 “ロシア化”政策に対する反動から,「自分たちはグルジア人なのだ」という民族主義や社会主義の運動も盛んになっていきます。
 この頃,のちのソ連共産党書記長となる〈ヨシフ=スターリン〉(1878~1953)がグルジアで誕生しています。彼の本名は「ジュガシヴィリ」。スターリンとは“鋼鉄の人”という意味のペンネームです。社会主義運動に携わるようになりますが,グルジアではメンシェヴィキが主流であったため,のちにボリシェヴィキへと離れます。

 日露戦争(1904~1905)中には,労働者や農民が中心となって反政府運動が起こります。支配者であったロシアが日本に敗北したのですから好機です。
 蜂起は鎮圧されたものの,グルジアにおける民族主義的な運動はますます高まっていきました。

 続いて第一次世界大戦(1914~1918)では,オスマン帝国の〈エンヴェル=パシャ〉の軍の進出を受けます。これをロシア帝国がなんとか押しとどめますが,1917年にロシア第二革命(三月革命)が勃発すると,グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは革命勢力の統治下に置かれることになりました。
 このときグルジアでは,念願のグルジア正教会の独立が認められています。

 さらにロシア第二革命(十一月革命)でロシア帝国が滅亡すると,1918年3月にロシアの革命勢力と中央同盟国〔同盟国〕との間にブレスト=リトフスク条約が結ばれます。
 その結果,グルジアには南からオスマン帝国軍が北上し,混乱をきわめる中,グルジアが主導して1918年4月にザカフカース民主連邦共和国が建国宣言されます。

 それでもオスマン帝国の進出は止まりません。ザカフカース民主連邦共和国の中でも,イスラーム教徒の多いアゼルバイジャン地方はオスマン帝国側に接近したため,1918年5月にグルジアはドイツに接近してグルジア民主共和国の建国を宣言。
 アルメニアとアゼルバイジャンは,オスマン帝国に接近してそれぞれ独立を確保したため,グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは結局3つのエリアに分かれる形となりました。

 これら3エリアの位置するザカフカース地方をめぐっては,カスピ海沿岸のアゼルバイジャンの石油利権(当時,世界最大の採掘量を誇っていました)をねらう大国の思惑が渦巻いていたのです。成立したばかりのロシアのボリシェヴィキ政権も,アゼルバイジャンのバクー油田だけは,なんとしてでもおさえておきたいポイントでした。

 グルジアでは1919年から土地改革が行われ,農民に土地が分与されました。議会の多数派はメンシェヴィキであり,ボリシェヴィキによるソヴィエト=ロシア政権と距離をとり,独立維持のために奔走します。しかし,当時のグルジアはイギリスの占領を受け,隣国アルメニアとの国境紛争も抱えていました。
 そんな中,アゼルバイジャンとアルメニアは最終的に1920年にソヴィエト=ロシア政権の支配下に置かれていくと,グルジアは追い詰められる形となり,ソヴィエト=ロシアによる支配は不可避の状態となっていました(注)。
(注)1920年にアゼルバイジャン=ソヴィエト社会主義共和国,アルメニア=ソヴィエト社会主義共和国が成立。1921年にグルジア=ソヴィエト社会主義共和国が成立します。



・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑲アルメニア
◆アルメニア人の民族的な自覚が高まる一方,「民族浄化」(ジェノサイド)を受ける
 19世紀以降,アルメニアでは「自分たちはアルメニア人だ」という意識が高まりました。19世紀後半にはアルメニア人の資本家が成長し,コーカサス地方全体のうち商工業の70%,6つの銀行のうちの4銀行,不動産の半分を支配するにいたります(注1)。また,19世紀半ば以降,アルメニアから欧米への出稼ぎも増加します。
 しかし,その中で「グルジア人」との対立も生まれていきました。従来は「別の民族」という明確な区分は存在していなかったのですが,次第に「グルジア人」や「アゼルバイジャン人」との違いが形作られていくこととなりました。
 アルメニアの都市カルスは,1877~78年の露土戦争後にロシア領となっていました。しかし,第一次世界大戦中にロシア革命が起きると,1918年3月にソ連がドイツと単独講和をした結果,カルスは(中央)同盟国のオスマン帝国に明け渡されることとなりました。これにより10万人以上のアルメニア人が難民となって避難することになります(注2)。こうした難民を含めたアルメニア人が,オスマン帝国軍による大量殺害の対象となりました。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺は大戦前にも起きていましたが,大戦中の虐殺は特に大規模なものとなります(オスマン帝国によるアルメニア人虐殺(ジェノサイド))。

 大戦末期の1918年10月には連合国がオスマン帝国とムドロス協定を結びますが,それでもカルスからオスマン帝国軍が撤退することはありませんでした。1919年1月にはアルメニア支配を続けようと「南西コーカサス共和国」という国を樹立。
 1920年8月に連合国とオスマン帝国の間にセーヴル条約が締結され,クルド人【東京H25[3]】とともにアルメニア人の民族自決がうたわれます。
 そんな中,オスマン帝国内部に,イスタンブルの政府に対立するアンカラ政府が樹立されており,このアンカラ政府が1920年にセーヴル条約の破棄を通告。カルスのアルメニア人を追放し侵攻して,多くの犠牲者を出しています。

 一方,ボリシェヴィキにおるソヴィエト=ロシア政権は1920年にアルメニアに進出して,この地にソヴィエト政権を樹立することに成功。アルメニア=ソヴィエト社会主義共和国が成立することになりました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.76
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.87

・1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑳アゼルバイジャン
バクー油田持つアゼルバイジャンの独立は困難に
 アゼルバイジャンのカスピ海沿岸のバクー油田は,当時世界最大の採掘量を誇っていました。
 「石油の時代」が到来すると,ロシアはバクー油田の利権に目をつけ進出しますが,それに対してアゼルバイジャン人〔アゼリー人〕の民族意識は高まっていきます。
 第一次世界大戦中(1914~1918)末期の1918年5月,アゼルバイジャン民主共和国が建国され,首都をバクーに置きますが,イギリスの干渉を招き,結果的に1920年にはソヴィエト=ロシアの進出によりアゼルバイジャン=ソヴィエト社会主義共和国が成立します。




●1870年~1920年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 マダガスカルはメリナ王国の支配下にありました。1868年に〈ラナヴァルナ2世〉(位1868~1883)が即位,死後に従妹が〈ラナヴァルナ3世〉(位1883~1897)として即位します。
 しかし1890年に〈ラナヴァルナ3世〉はフランスに保護権を認め,1895年にはフランスにアンタナナリボが占領されました。1896年にフランスはマダガスカルの植民地化を宣言。1897年に〈ラナヴァルナ3世〉はレユニオン島に流され,メリナ王国は滅びました。





●1870年~1920年のアフリカ
◆医療・交通機関の発達により,西ヨーロッパ諸国によるアフリカ中央部への進出が本格化した
医療と交通の進歩が,「暗黒大陸」の探検を可能に
 大航海時代以降,アフリカの沿岸部を中心にヨーロッパ人が進出を開始したため,港町についてはよく知られていました。しかし,コンゴ盆地を中心とする内陸部については謎もおおく“暗黒大陸”とまで呼ばれていました【セ試行 15世紀頃からアフリカ内陸部の探検がポルトガル人によっておこなわれていたわけではない】。

 しかし,キニーネというマラリアの特効薬となる物質が発見された(1856)こともあり,アフリカ内陸部の謎に挑戦する探検家が現れるようになります。その代表が,イギリスの〈リヴィングストン〉(1813~73) 【東京H19[3]】【本試験H21】。彼はナイル川の水源をたどる旅に出て,失踪。イギリスのウェールズ出身でアメリカに渡っていたジャーナリスト〈スタンリー〉(1841~1904)が発見をし,世界的なスクープになりました。
 ヨーロッパの列強は,「アフリカにもまだまだ知られていない土地がある」ことを知り,一斉にアフリカの内陸部に進出を開始。
 1804年に〈トレヴィシック〉(1771~1833)により発明された蒸気機関車も,アフリカ内陸部への物資輸入と資源輸出の格好の道具として利用されていきました。アフリカは台地上の地形をしているため,川をさかのぼったり運河を掘ったりすることでは内陸に進出しにくかったのです。


◆列強によるアフリカの植民地支配の利害調整のため,ベルリン会議が開かれ,「アフリカ分割」が本格化した
 コンゴをめぐってヨーロッパ諸国が対立をしたため,諸国の均衡(バランス)を重視するビスマルクがベルリンに各国を呼び,1884~85年ベルリン会議を開きました。
 会議では,アフリカの土地を自分の植民地として主張するには「実効支配」が必要だという原則が決められました。つまり,ただ単に「ここは自分の植民地だ!」というのではなく,軍による治安維持や住民・旅行者の安全を確保できて初めて,自国の植民地として主張できるということです。どこからどこまでが,どの国の植民地なのかハッキリさせるために,地図上に明確な国境線が引かれはじめます。沿岸を確保できていれば内陸も支配できるとされたので,植民地の境界線は海岸部から内陸に向けて直線に引かれました。現在のアフリカの国境線に直線(数理的国境)が多いのは,この境界線をもとにアフリカ諸国が独立をしていったためです。
 アフリカの植民地の取り合いは,基本的には“早いもの勝ち”ということにもなりました(先占の原則)。


◆アフリカの植民地化をめぐり,先発のイギリス・フランスと,後発のドイツが鋭く対立した
 1880年以降,アフリカを南北に縦貫させようとするイギリスの縦断政策と,フランス・ポルトガル・ドイツなどの横断政策が激突するようになっていきました。

 実際ドイツ【本試験H8地図(ドイツのアフリカにおける植民地の分布)】は,ケニア【追H18】(イギリスが1885年に植民地化) とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込むようにして,1885年ドイツ領東アフリカを建設します。これが現在のタンザニアです。

 ドイツはほかにも南西アフリカ(1885年。現在のナミビア),カメルーン【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22,本試験H31ドイツ領か問う】,トーゴを植民地化していきます。南西アフリカの反乱と,ドイツ領東アフリカのマジ=マジ反乱(呪術的なグループを中心とした住民の反乱)に対しては,徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。

 とくに英仏を焦らせたのは,2度のモロッコ事件【本試験H18】【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】です。1905年にドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉は,北アフリカのモロッコのタンジール港に上陸し,ここを勢力下におこうとしていたフランスに対抗して,モロッコのスルターンを支援しました。
 1906年にアメリカ合衆国大統領〈セオドア=ローズヴェルト〉の介入によりアルヘシラス国際会議がひらかれ,フランスとイギリスは協調してドイツの要求をしりぞけます(第一次モロッコ事件【本試験H5アラブ人とフランス人との間にアフリカ東部の奴隷貿易をめぐって起きたものではない】【追H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】)。アメリカ合衆国が「ヨーロッパの政治には関わらない」とした1823年以降のモンロー主義を捨てていることがよくわかります。

 1911年にもドイツはモロッコ【中央文H27記】のアガディール【中央文H27問題文】港に艦船を派遣していますが,中央アフリカのフランス領コンゴ(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります(第二次モロッコ事件)。



◆後発のイタリアは紅海沿岸,インド洋沿岸を植民地化したが,エチオピアでは失敗した
イタリアのエチオピア進出は失敗、リビアは獲得
 イタリアも,植民地の再配分を要求した国の一つです。 “アフリカの角”の周辺への進出を狙ったイタリアは,紅海沿岸のエリトリアを1885年に,次にインド洋沿岸ソマリランドに対し1887年に郡司的に進出して,その後領有しています。

 さらにエチオピア帝国の植民地化をめざしましたが,1896年にアドワの戦いでイタリア【本試験H8イギリスではない】を撃退しています。この結果,エチオピア帝国は,リベリア共和国(アメリカ植民協会により,黒人奴隷をアフリカ大陸に戻そうという運動で1847年建国された【本試験H14植民地化されていない(オランダによる植民地でもない),本試験H21世紀を問う】)と並び,アフリカ大陸で植民地化されていない国家【本試験H29】となりました【追H27 19世紀のエチオピアから、イギリスは綿花を輸入していない】。

 ちなみにイタリア【本試験H22ドイツではない】は,北アフリカのリビア(トリポリ地方とキレナイカ地方) 【本試験H22】をめぐり1911~12年にオスマン帝国と戦い(イタリア=トルコ戦争,伊土戦争),ここをリビアとして奪っています【追H17(リベリアではない)、H30】。

 19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団【H29共通テスト試行 史料(解答には不要)】が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されました。



◆欧米の思想の影響を受け,ヨーロッパからの独立を訴えるアフリカ人も現れた
アフリカ人の反植民地・反人種主義も起きる
 すっかり植民地化されたアフリカでは,ヨーロッパに対する本格的な独立運動は起こりませんでしたが,アフリカで欧米の教育を受けた人々や,欧米生まれのアフリカ系の人々の中には,第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領が提案した「民族自決」というキャッチフレーズの影響もあり,欧米でアフリカ人の人権を守ろうとする運動を起こす人が現れます。
 ハーバード大学院に留学した,アメリカ系アフリカ人の〈デュ=ボイス〉(1868~1963)が,第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議に出席して,アフリカ人の人権を訴えました。1919年にはパリでパン=アフリカ会議を主導し,奴隷の禁止や自治を訴えました。
 また,イギリス領西アフリカでは,1920年に西アフリカ国民会議が結成されて,人種差別に反対しました。
 1912年には,イギリス【追H17フランスではない】領内の自治領に昇格していた南アフリカ連邦【本試験H2519世紀ではない】で,アフリカ先住民民族会議が結成され,1923年にはアフリカ民族会議(ANC) 【追H30民族解放戦線ではない】と改称され,住民を広く巻き込んだ運動を展開しました。のちに,〈ネルソン=マンデラ〉が主導権を握ることになる組織です。

 なお,のちにインド独立運動の指導者となる〈ガンディー〉【早・法H31】は,1893年~1915年の間,ケープ植民地(途中から南アフリカ連邦【早商H30[4]記】) 【早・政経H31ケニアではない】で人種差別に反対する運動を起こしています。このときの経験が,のちの非暴力・不服従運動に生かされることとなります。

 しかし,こうした動きが本格的なアフリカ独立運動,人種差別撤廃運動に発展していくのには,第二次世界大戦の終結を待たねばなりません。



○1870年~1920年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆ドイツ帝国はタンガニーカに進出し,住民の抵抗運動を鎮圧した
 ドイツ帝国【東京H19[3]ルワンダ,ブルンジ,タンザニアを植民地化した国を答える】は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885年ドイツ領東アフリカを建設します。現在のタンザニアの本土部分です。
 ドイツ領東アフリカには,ヴィクトリア湖西岸にある,ツチ人のルワンダ王国とブルンジ王国も含まれています。
 現在のタンザニアの沿岸近くにあるザンジバル島のスルターン国は,1890年にヘルゴランド=ザンジバル条約により,イギリス帝国の保護領になりました。しかしその後1896年のイギリス=ザンジバル戦争によりイギリスの領土に組み込まれました。この戦争は一説には宣戦布告から38分で終了し,世界最短の戦争として知られています。

 ドイツ帝国は,ほかに南西アフリカ(1885年。現在のナミビア),カメルーン【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22】,トーゴを植民地化していきました。しかし,南西アフリカでの反乱や,ドイツ領東アフリカのマジ=マジ反乱(呪術的なグループを中心とした住民の反乱。「マジ」とはスワヒリ語で水を意味します)に対しては,徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。


フランスはジブチを植民地化する
 フランスは,アフリカ大陸の東部,紅海沿岸のジブチを植民地化し,これを西アフリカと連絡させようと,アフリカ大陸を横断する政策をとりました(横断政策)が,イギリスの縦断政策を前にして敗れます。

イタリアはエリトリア,エチオピア,ソマリア南部に進出する
 エリトリアは,1846年~1885年にかけてエジプトのムハンマド=アリー朝の支配を受けていました。1888年にスーダンでマフディーの乱が起きると,エジプト支配は後退します。
 前後してイタリアは1882年にエリトリアの領有を宣言し,1885年に占領しました。イタリアの進出に対してエチオピアとの戦争(エリトリア戦争)になりましたが,1889年にウッチャリ条約が結ばれて割譲を許しました。
 その後エチオピアでは〈メネリク2世〉(位1889~1913)が即位すると,フランスの支援も得てに1895年にイタリアに対してエリトリアに関するウッチャリ条約の破棄を通告し,第一次エチオピア戦争が始まりました。すでに近代的な軍隊を整備していたエチオピアは,1896年3月にアドワの戦いで勝利し,イタリアに勝利しました。このときにエチオピアは南東部のオガデン地方を含む領有が認められましたが,エリトリアとエチオピアの国境はあいまいなまま残されました(これが20世紀末のエチオピア=エリトリア国境紛争の遠因となります(⇒1979~現在のアフリカ))。
 しかし〈メネリク2世〉が病に倒れると後継者をめぐる内紛が起きました。後継となった〈イヤス5世〉(位1913~16)はイスラーム教徒の信仰が厚かったため,エチオピア正教会を信仰する国内の領主の抵抗を招きます。オスマン帝国側に立ち第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しようとすると,領主らによる抵抗で廃位され,〈メネリク2世〉の娘の女帝〈ザウディトゥ〉に代わりました。しかし実権は摂政を務めた皇太子〈ラス=タファリ=マコンネン〉(1892~1975,のちの皇帝〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974))が握っていました。



○1870年~1920年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 現在のサントメ=プリンシペは16世紀以来,ポルトガルの植民地でした。
 現在の赤道ギニアは,イギリスによる奴隷交易の拠点でしたが1843年に撤退すると,代わって1844年にスペインが農業プランテーション事業をおこなうためにビオコ島(植民地政庁はこちらに置かれます)を開発し,大陸側のリオムニの開発も進めていました。

コンゴ盆地にはベルギーが進出した
 諸国の争いの的となっていた広大なコンゴ盆地には,〈スタンリー〉に探検を依頼して領有を狙っていたベルギー国王(〈レオポルド2世〉(位1865~1909))が,私有地(!)のコンゴ自由国を建てることになりました。同時に,コンゴ盆地を通るコンゴ川は,列強が自由に航行することができると定められました。ベルギーの国王の“私有地”ということにしておけば,列強間の取り合いにはなりません。コンゴはいわば「緩衝地帯(クッション)」ということにしておいて,列強間の直接的な対立を避けたのです。
 〈レオポルド2世〉はコンゴの人々を「文明化」することが目的だ!と本気で考えていましたが,実際に現地で起こっていたのは資源をめぐる住民に対する激しい搾取と暴力でした。「自由」国とは名ばかりで,住民は全然自由じゃないじゃないかという批判も受け,1908年にベルギーによる直轄植民地となりました(③ベルギー領コンゴ)。

 ④アンゴラにおけるポルトガル植民地では,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。

 さらにドイツ帝国は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885年ドイツ領東アフリカを建設します。現在のタンザニアです。ほかにも南西アフリカ(1885年。現在のナミビア),⑨中央アフリカのカメルーン【本試験H16イタリアの植民地ではない,本試験H22】,西アフリカのトーゴを植民地化していきます。カメルーンはドイツにより農業(カカオ,アブラヤシなど)や象牙交易の拠点として利用されました。

 1911年にもドイツはモロッコのアガディール港に艦船を派遣していますが,中央アフリカの⑤フランス領コンゴ(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります(第二次モロッコ事件)。
 第一次世界大戦後,旧ドイツ植民地はイギリスとフランスの委任統治領(事実上の勢力圏)になりました。



現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとなった
 ・ガボン植民地 →現・⑥ ガボン共和国
 ・中央コンゴ植民地 →現・⑤ コンゴ共和国
 ・ウバンギ=シャリ植民地 →現・② 中央アフリカ共和国

 これらの地域には19世紀末に順次フランスが進出し,1910年にフランス領赤道アフリカとしてまとめてフランスに支配されました。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれます。

 現在の⑥ガボンは1885年にフランスにより占領され,フランス領赤道アフリカの一部となりました(1910年)。医師〈シュヴァイツァー〉(1875~1965)は,現ガボンのランバレネで医療活動に従事し,「生命への畏敬」という思想を膨らませていきました(のち1952年にノーベル平和賞を受賞)。




○1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 1880年代以降「アフリカ分割」が本格化すると,アフリカ大陸中央部(大西洋側)のアンゴラと,南東部(インド洋側)のモザンビークを東西に結ぼうとするポルトガルの横断政策は,イギリスによる縦断政策(南アフリカからエジプトの陸路・海路を結ぼうとする戦略です)と対立しました。

・1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ 現マダガスカル
 フランスは,インド洋のマダガスカル島(1896年にメリナ王国を滅ぼしました)を植民地化しています【本試験H29ドイツの植民地ではない】。

・1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ
 アフリカ南部では,1899~1902年にかけ南アフリカ戦争【本試験H4】【東京H22[1]指定語句】【追H17破ったのはオランダではない,H29】が起き,この地にいたアフリカーナー (入植したオランダ人の子孫(ブール人)) 【本試験H4】の国家(トランスヴァール共和国(1852~1902) 【本試験H4,本試験H10】【本試験H22】【追H27、H29南アフリカ戦争の結果イギリスに併合されたか問う(正しい)】とオレンジ自由国(1854~1902)) 【追H27】がイギリス【追H27オランダではない】【本試験H10フランスではない】により滅ぼされ,イギリス領【本試験H8オランダ領ではない】のケープ植民地【本試験H22フランスではない】に併合されました。
 このとき,女性や子どもを含む一般のアフリカーナー(ブール人)たちは,強制収容所に詰め込まれて多数が命を落としました。のちのドイツのユダヤ人等の強制収容所の原型ともいわれます。このときに医療活動に赴いたのは,すでに『シャーロック=ホームズ』シリーズで成功していた小説家・医師〈コナン=ドイル〉(1859~1930)でした。『帝国主義論』を著した経済学者〈ホブソン〉(1858~1940)は「この巨大な義性はただ少数のイギリス金融資本の利益のために費やされたのである」と語っています。

 イギリスがケープ植民地を狙ったのは,この地のケープタウン(Cape Town)とエジプトのカイロ(Cairo)とインド帝国のカルカッタ(Calcutta)を結ぶ3C政策【追H27アフリカでフランスがとったのではない】をとり,インド洋の周囲をとりかこもうとしていたためです。エジプトとケープタウンを南北に結ぶため,アフリカでは縦断政策ともいいます。

・1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ドイツ帝国は,1885年に南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地化し,現地住民の反乱に対し徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。


・1870年~1920年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 ケープ植民地首相の〈セシル=ローズ〉は1889年にイギリス南アフリカ会社を設立し,1890年にはザンビア川流域の支配を進めていたロジ族の王〈レワニカ〉と協定を結んで,ザンベジ川一帯に支配権を拡大させます。
 同年1890年にはポルトガルに圧力をかけ,内陸部(現在のザンビア・ジンバブエ・マラウイ)のポルトガル軍を撤退させました。こうして大西洋とインド洋を結ぶ「バラ色計画」が失敗し,ポルトガル王は国内で批判にさらされ,1910年の革命で退位しました。モザンビークにはイギリスやフランスの資本が投下され,ポルトガルの影響力は低下していきました。

 現在のマラウイは鉱産資源・プランテーション用の大土地にも恵まれず,周辺のザンビアやジンバブエと比べると,白人の入植はすすみませんでした(注1)。イギリス中央アフリカ保護領(1891~1907)が設立され,1907年にはニヤサランド保護領となりました。ニヤサとはヤオ人の言葉で「湖」という意味で,この地域の人々の生活と密接な関係のあるマラウイ(タンガニーカ)湖からとられています。19世紀前半に活発化していたインド洋の黒人奴隷交易の奴隷供給先となっていたマラウイですが,19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきます(1895年に絞首刑とされたアラブ人の奴隷商人がマラウィ最後の例とされます(注2)。
 第一次世界大戦前には,スコットランドの宣教団の〈ブース〉がアフリカ人側に立った運動を起こします。影響を受けた〈カムワマ〉は,マラウイで初めて植民地化に反対する運動を起こします(注3)。
(注1)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.58
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.47
(注3)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.59


・1870年~1920年の南アフリカ ボツワナ
 現在のボツワナは1895年にイギリスによりベチュアナランド保護領となりました。


○1870年~1920年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
 フランス【本試験H8地図(フランスのアフリカにおける植民地の分布)】は,北アフリカ方面からサハラ沙漠一帯に進出し,現在の⑭マリ共和国,①ニジェール共和国,⑪セネガル共和国,⑮ブルキナファソに当たる地域に,植民地を拡大させていきました。
 ⑦リベリア共和国では先住民との抗争が続き,1915年にはアメリカ出身の黒人による中央政府に反発する先住民の反乱も起きています。アメリカ系黒人は先住民をプランテーションなどで酷使していたことが背景にあります。
 西アフリカ西端の⑪セネガルの住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となりました。しかしこれにはカラクリがあります。フランスは都市部の住民を「市民」として扱うことでセネガルの支配に利用し,都市以外の人には「原住民法」という法律が設けられ,フランスの市民とは別の枠組みに置いたのです。
 セネガル各地には現地人の王国がありましたが,順次フランスに滅ぼされていきました。1886年には沿岸部のカヨール(カジョール)王国の〈ラット=ジョール〉が殺害され,1890年にはセネガル南部も平定。1895年には「フランス領西アフリカ」の総督部がセネガルのダカールに置かれました。
 フランスはセネガルにあった王国の保有していた奴隷を解放しましたが,こうした解放奴隷は“セネガル兵”や下級官吏として,他地域の政権の平定や支配に利用され,フランス的な教育を施すことで「同化」をすすめていきました。1854年に就任した総督〈フェデルブ〉により落花生(らっかせい)の栽培が奨励されていましたが,フランス植民地政府は,落花生栽培を奨励したイスラーム教団をうまく利用していきます。民衆に広がるイスラーム教団の中には,〈ラット=ジョール〉王が師事していた宗教指導者の息子〈アーマド=バンバ〉のように多数の信者を率いる者もおり,フランス植民地政府は〈バンバ〉の教団がフランスに対する抵抗運動につながることを恐れ,1985年にガボンに流刑に処しています(注)。
 セネガル人は屈強なことで知られ,フランスの世界各地での軍事行動に精鋭部隊として利用されていきます。『星の王子さま』で知られる作家〈サン=テグジュペリ〉(1900~44)は,ダカールと南フランスのトゥールーズを結ぶ路線のパイロットでした。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.35。1902年に帰国が許可されると,〈バンバ〉の教団(ムリッド教団(ムリディーヤ))はフランスとの協力姿勢に転換し,フランス植民地政庁の推進する落花生栽培を奨励するようになりました。フランスにとっては教団を介して民衆を農作業に従事させることができるわけで,「間接統治」に近い形となりました。

 また,〈サモリ=トゥーレ〉(1830?~1900)が建設していたイスラーム教国サモリ帝国(1878~98)も,フランスに滅ぼされています。




○1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
 アフリカ各地では,ヨーロッパ人の持ち込んだ近代的な武器を戦力とした抵抗運動が,各地で起きました。

・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
◆「エジプト人のためのエジプト」を目指す初の民族運動は,武力鎮圧された
外債に苦しむエジプトはヨーロッパ諸国の管理下に
 エジプトでは1869年【追H20時期(19世紀後半か問う)】にスエズ運河【東京H15[1]指定語句】【追H20】が開通し,フランス政府とエジプト政府の出資したスエズ運河株式会社により設立・運営されていました。1860年代以降,綿花のモノカルチャー経済が進んでいましたが,南北戦争後にアメリカ合衆国で綿花生産が再開されると国際価格が急落し,財政建て直しのためにエジプト政府は1862年に外債を発行。借金が積み上がると1875年にエジプト政府はスエズ運河株をイギリス政府に売却。さらに1876年にエジプト財政が破綻すると,ヨーロッパ列強の国際管理下に置かれ,イギリス人とフランス人が閣僚となって財政管理をする事態となりました。
 そんな中,エジプトでは民族意識が高まり1879年にワタン(祖国)党が結成され,エジプト人将校で農民出身の〈アフマド=ウラービー〉(ウラービー=パシャ【東京H19[3],H8[1]問題文「アラービー=パシャ」】)により「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたウラービー運動【追H28立憲制を求めたか問う】【本試験H6成功していない,本試験H12「アラービー=パシャ」の「民族主義的な反乱」の時期】【本試験H16スルターン制を廃止していない・トルコではない,本試験H25時期】【セA H30「ウラービー(オラービー)の反乱」】が起きました。彼らは外国人の入閣している内閣を解散しエジプト人による議会を開設すること,憲法を制定【追H28】してムハンマド=アリー朝の総督の権利を抑えるべきことを主張しました。
 しかし,借金が踏み倒されることを危惧した外国人の債権者たちはウラービー運動に反対し,イギリスの軍事介入により運動が鎮圧されると,1882年にイギリス【本試験H12イギリスかを問う。時期】はエジプトを事実上保護国にします(外交権を奪われた状態のことです) 【本試験H6成功していない】。

 宗主権は名目上オスマン帝国が持っていましたが,実際に占領していたのはイギリスであり,さまざまな形でエジプト政府に影響を及ぼしました。指揮した〈ウラービー〉(1841~1911) 【本試験H16】は,セイロン島(現在のスリランカ)に流刑になりました。この事件については日本でも同情を混じえて盛んに報道され,同志社大学の創立者である〈新島襄〉は1884年にスリランカを訪れ実際に〈ウラービー〉と会談しています。

 イギリス代表 兼 総領事〈クローマー卿〉は,1883~1907年の間にエジプトの事実上の支配者となり,エジプトを公式植民地としての支配ではなく“非公式”な方式でイギリスを中心とする世界経済に組み込んでいきました。この現実に対しエジプトでは反イギリスの民族主義運動がじわじわと復活し,〈ムスタファー=カーミル〉(1874~1908)らが「占領を革命で打破せよ!」と訴え活躍しました(1907年に国民党を結成)。

◆第一次世界大戦後のにワフド党による民族運動が盛り上がり,1922年の名目的な「独立」へ
ワフド党の運動が実るが,英の経済支配は続く
 しかし,第一次世界大戦が始まるとエジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離され,イギリスによって完全に保護国下されました。
 大戦後,〈サアド=ザグルール〉(1859~1927)はパリ講和会議にも代表団(ワフド)を送ろうとしてイギリスに阻止され,エジプトの独立は戦勝国に認められることはありませんでした。これが発端となり,〈サアド=ザグルール〉を指導者とするワフド党【東京H24[1]指定語句】【本試験H16時期(第一次世界大戦後に運動を展開したか問う),本試験H18時期,本試験H24ワッハーブ党とのひっかけ】【追H20地図問題(エジプトの位置問う(縮尺表示なし。「中東」ということは示されている))。ローザンヌ条約を締結した国ではない】が結成され,1919年にカイロで革命を起こしました。彼は1921年にセーシェルに流されましたが,ワフド党による独立運動は続けられ,イギリスは1922年にエジプトの「独立」を宣言し,1923年には憲法も公布されました。しかし,「独立」は名ばかりのものであり,それ以降もイギリスによる経済的支配は続き,スエズ運河地帯の駐留も続きました。エジプトの民族主義者の間ではイギリスからの「完全」独立が,次なるスローガンとなっていきました。


・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ スーダン
◆スーダンは,近代化を目指すエジプトの財政基盤となった
エジプトの発展の犠牲となったスーダンの不満爆発
 エジプトの南方,ナイル川上流のスーダンは,北部はアラブ系,南部は黒人系の人々が分布しており,地域的な一体性はありませんでした。
 しかし,近代国家づくりに邁進(まいしん)するエジプトがスーダン北部からの徴税やスーダン南部との交易を目的としてスーダンへの支配を強め,その際,スーダン地方の部族間の対立,スーフィー(イスラーム神秘主義)教団の間の対立がうまく利用されていったのです(注)。
 これに対する抵抗から,「スーダン人」としての民族意識が次第に形成されていくことになります。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,B-713。

 また,イギリスの支配層はインドへの道の重要地点であるスエズ運河の安全保障を図るため,ナイル川上流にあり綿花の栽培も可能なスーダンを押さえる必要性を主張していました。

 船大工の子〈ムハンマド=アフマド〉【東京H19[3]】【本試験H8】は,1881年にウラービー運動が起きるとイギリス【本試験H18フランスではない】の進出への抵抗運動をはじめました。彼は自身を「救世主」(マフディー)と称して,イギリス【本試験H5,本試験H8イタリアではない】に対するジハード(聖戦)とイスラーム国家の建設を訴えました(マフディー派の抵抗)【本試験H16地域・H18,H29共通テスト試行 地図(アルジェリアではない),H29共通テスト試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】【本試験H5,本試験H8】。鎮圧作戦にはかつて太平天国の乱の常勝軍で活躍した〈ゴードン〉率いる軍が投入されましたが,1885年にゲリラ戦で敗れ戦死しています。その後イギリスの〈キッチナー〉将軍により1898年には鎮圧され,スーダンは1899年に征服されます。これ以降のスーダンはイギリスとエジプトの共同統治【本試験H12「ムハンマド=アリーの子孫が,オスマン帝国スルターンの宗主権の下で,スーダンと併せて統治していた」か問う】の下に置かれることとなりました(エジプト=スーダン)が,すでにエジプトの実質的な支配者はイギリスでしたから,スーダンも実質的にはイギリスの支配下に置かれたことになります。

 なお,スーダンはフランスの横断政策【本試験H5】とイギリス【本試験H13スペインではない,本試験H18ドイツではない】の縦断政策【本試験H5】が真っ向から衝突した場ともなりました。1898年にスーダンのファショダ村で戦闘に発展(ファショダ事件【東京H29[3]】【本試験H5】【本試験H13時期(19世紀後半),本試験H14地図(ケープ植民地ではない)】【追H24】英仏のアフリカでの衝突事件か問う)。
 しかし当時の両国にとってのより大きな敵は,アフリカにもしのびよるドイツの存在。そこで,戦っている場合ではない」とフランス側が譲り,戦争の危機は回避されました。

・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ モロッコ
 モロッコでは19世紀末からアラウィー朝の支配権が揺らぎ,1904年4月の英仏協商でフランスにモロッコの勢力圏が認められました。同じ年にはフランスとスペインがモロッコでの勢力圏を分け合っています。しかし1905年にドイツがモロッコのタンジールに進出し,1906年に国際会議でモロッコの独立,領土保全,門戸開放,機会均等が確認されました。しかし1911年にはドイツがアガディールに軍艦を派遣し,モロッコの反スペイン・反フランス運動を支援しようとしました。これに対してフランスはドイツに中央アフリカの今後の一部を与えることで妥協させ,モロッコ支配をあきらめさせました。フランスによる植民地化が進むと,1912年にアラウィー朝はフランスの保護国となりました。
 スペイン【本試験H8地図(スペインのアフリカにおける植民地の分布)】もモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で「スペイン領モロッコ」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域)を形成していました。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されました。


・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 アルジェリアでは〈ナポレオン3世〉が「同化政策」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めていましたが,現地支配層の反発を生み,普仏戦争で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きましたが(アルジェ=コミューン),1871年には鎮圧されました。普仏戦争後にはアルジェリア人もフランスへの大規模な反乱(ムクラーニーの乱)を起こしましたが,こちらも1871年に鎮圧されました。その後もアルジェリアのフランス人入植者(コロン)には本国と同等の権利が与えられましたが,アルジェリア人には同様の権利は保障されず1881年の原住民身分法で人権が厳しく制限されました。19世紀末にはコロンによる自治要求が高まり,フランスにとって対岸の「アルジェリアの自治・独立問題」は悩みのタネとなっていきました。

・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 フランスの支配下に置かれ,チュニジアは安全保障のためオスマン帝国に接近しました。しかし,フランスはベルリン会議の場でチュニジアを勢力圏とすることを列強に認めてもらった上で,1881年にチュニスにフランス軍を上陸させました。フサイン朝チュニジアは外交権と財政権をフランスに譲り渡し,1883年の協定でフランスの保護領になりました(チュニジアの保護国化【本試験H12時期(1880年代かを問う)】)。フサイン朝のベイの地位は保障されましたが名目的なものでした。

・1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアは1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれていました。

 しかし地中海を挟んで対岸のイタリア【本試験H22ドイツではない】は,北アフリカのリビア(トリポリ地方とキレナイカ地方) 【本試験H22】への進出にを狙い1911~12年にオスマン帝国に突如宣戦し,リビアを植民地化しました(イタリア=トルコ戦争,伊土戦争)。

 19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団【H29共通テスト試行 史料(解答には不要)】が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されています。





●1870年~1920年のヨーロッパ
世紀末のヨーロッパに,西欧思想の相対化の動き
 世紀末(文化史の文脈で「世紀末」(fin-de-siecle,ファン=ド=シエークル)というと19世紀末のことを指すことが多いです)のヨーロッパでは「デカダンス」(衰退を意味するフランス語です)の風潮が流れ,伝統的な道徳に反する新しい美的センスを訴える人々が現れるようになります。思想家の中にも,社会の急激な変化がもたらしたマイナスの側面に目を向ける人も出てきました。
 そんな思想家に,ドイツの〈ニーチェ〉(1844~1900)がいます。産業化や都市化の急速に進んだ社会において,ヨーロッパ人から生き生きとした活力が失われている原因を追究し,ヨーロッパの思想の持っていた悪い要素(キリスト教による道徳)を取り除き,”発想を転換”させることが必要だと主張しました。1882年に『権力への意志』,1885年に『ツァラトゥストラはこう言った』(ツァラトゥストラとは〈ゾロアスター〉のこと)を著しています。彼の思想には,ヨーロッパが〈プラトン〉以降積み上げてきた「哲学」自体をも突き崩すインパクトが秘められていました(反哲学)。

 また,〈マルクス〉主義のよって立つ唯物論に対抗し,ドイツを中心に「新カント派」が影響力を持ちます。当時〈マルクス〉主義は「人間の思想・政治・社会・歴史は経済(人間と物との相互関係)によって決定されるのだから,“頭の中身”だけで理想の社会を語っても,現実の社会問題は解決されない。経済体制を変えるべきだ!」と,〈カント〉に連なる〈ヘーゲル〉らのドイツ観念論を批判していました。それに対して1870年~1920年には〈カント〉哲学の再評価が起き,マールブルク派の〈コーエン〉(1842~1918),〈ナトルプ〉(1854~1924)や,西南学派の〈ヴィンデルバント〉(1848~1915),〈リッケルト〉(1863~1963)が活動します。特に西南学派は,歴史というのは法則を打ち立てる(法則定立的な)自然科学とは違って「文化科学」と考えるべきで,一回限りの「個性記述」的な叙述を心がけるべきだと主張します。
 また同じく〈マルクス〉主義に対抗し,物質的な分析では精神の世界はわからないとフランスの〈ベルグソン〉(1859~1941)が主張し,『物質と記憶』(1896),『創造的進化』(1907),『道徳と宗教の二源泉』(1932)などを発表し,1928年にはノーベル文学賞を受賞しています。
 文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,イギリスの作家〈ワイルド〉(1854~1900)は,「芸術のための芸術」を提唱して『サロメ』などの作品を残しました。彼は耽美主義(たんびしゅぎ)に分類される芸術家です。
 文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,フランスの詩人〈ボードレール〉(1821~67)で,『悪の華』(1857)が有名です。象徴主義【本試験H13バルザックは象徴主義ではない】というのは,「これ…一体何を表しているんですか…?」となってしまうような美術のことです。内容も「非道徳的」と考えられ,発禁処分になってしまいました。
 デカダンスを代表するフランスの小説家〈ユイスマンス〉(1848~1907)は,小説『さかしま』(1884)を発表しています。

◆ヨーロッパにドイツ・オーストリアの同盟と,フランス・イギリス・ロシアの同盟が形成される
孤高のイギリスが仏・露と接近し,ドイツと対決する
 1870年~71年の普仏戦争(ふふつせんそう)により,プロイセン王国が中心となりドイツ帝国が成立すると,皇帝〈ヴィルヘルム1世〉に信任された【本試験H13対立していない】〈ビスマルク〉が中心となり,フランス共和国の反抗を防ぐとともに,フランスがロシア帝国と協力してドイツを“はさみうち”しないように,巧みな外交が展開されました。

 しかし,1890年に〈ヴィルヘルム2世〉【本試験H13ビスマルクと対立したか問う】【追H20】【セA H30】により〈ビスマルク〉が辞職させられると,ドイツ【追H20】は「世界政策」【H29共通テスト試行 時期(1846年の時期ではない)】【追H20】【セA H30】をとってイギリス【追H20】との建艦競争が激化していきます。
 1891年にロシアとフランスが露仏同盟(注)を結ぶと,ドイツにとっての最悪の構図である,西のフランス・東のロシアの“はさみうち”の状態に陥ってしまいました。ロシアはフランスの資本を頼りにして,19世紀後半から〈ウィッテ〉蔵相により,極東への進出のために急ピッチでモスクワとウラジヴォストーク【東京H15[3]】を結ぶシベリア鉄道が建設されていきました【本試験H6時期(帝政ロシアの時代か問う)】【本試験H2420世紀前半からではない】。
 【本試験H5 グラフ(1780年から1900年にかけての世界の工業生産額中に占める主要諸国の比率)をみて,ロシアを判別する。ほかにはアメリカ合衆国,フランス,イギリス】
(注)1891年に政治協定が成り,1892年以降軍事同盟としての取り決めがすすんでいき,1894年に最終的に決定されました。この間両者の同盟は秘密とされ,公表されたのは1895年のことです。『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.123

 さらに,イギリスがインド洋を取り囲む3C政策【本試験H2カルカッタがその一つか問う】【東京H8[1]指定語句】をとると,ドイツはオスマン帝国と提携してベルリンからイスタンブール(ビザンティウム)→バグダード方面に一気に抜けてペルシア湾に勢力圏を伸ばす3B政策を推進していきます。

 こうして英独関係が悪化するなか,ロシアが東アジアに進出するのは防ぎたいイギリスは,1902年に日英同盟【本試験H51920年代ではない】を結び,日露戦争では日本を支援しました。当時のイギリスは南アメリカ戦争で多忙な時期でもあり,“猫(日本)の手も借りたい”状況だったのです。
 日露戦争に敗れたロシアは,東アジアへの進出からバルカン半島への南下へと重点を切り替えたため,その後はバルカン半島が,列強間の争奪の舞台となっていきました。バルカン半島にはスラヴ系の住民が多く,スラヴの名の下にこれらを一つにまとめようという「パン=スラヴ主義」を推進し,ドイツ人の勢力圏として一つにまとめようとする「パン=ゲルマン主義」【追H19パン=スラヴ主義を唱えたのはロシア】と対立していくことになります。
 当時アフリカなどで,ドイツとの対立を深めていたフランスは,ロシアを“共通の敵”としてイギリスに接近,1901年に親フランス派のイギリス国王〈エドワード7世〉(位1901~10)が即位し1903年には両国の元首が相互に訪問して結びました(英仏協商)。この中で「イギリス政府はエジプトの政治的現状を変更する意図を有しないこと」「フランス政府はモロッコの政治的現状を変更する意図を有しないこと」(つまりエジプトはイギリスの勢力下,モロッコはフランスの勢力下であること)を相互に確認しています(横山信『西洋史料集成』平凡社)。イギリスとフランスが協力して世界の帝国支配を進め,ドイツを締め出すための取り決めだったということができます。

 さらにロシアも,バルカン半島においてドイツやオーストリアとの対立を深めていました。日本に対する三国干渉(1896)以来,ドイツはロシアに接近を図っていましたが,イギリスが1905年にロシアとの交渉を提案,日露戦争が終わると極東をめぐるイギリスとロシアの対立も薄れ,イギリスからロシアに対する資本輸出も進みました。

 1907年にドイツ【追H30ロシアではない】が,カージャール朝からバグダード鉄道【東京H15[1]指定語句】【追H18,H30】敷設権を獲得したことも,イギリスの危機感をつのらせ,同年1907年に英露協商が成立しました。結果的に,イギリス・フランス・ロシアの参加国が提携することとなり,三国協商と呼ばれる陣営ができました。
 それに対して,ドイツとオーストリア【本試験H16日本ではない】とイタリア【本試験H13フランスではない】は三国同盟(1882年成立【本試験H24時期(19世紀末)】)という強い絆で結ばれていた…といいたいところですが,実はイタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアとの関係が悪化し,フランスに接近していきます。その後の第一次世界大戦でもイタリアは,フランスの三国協商側で参戦しています。




○1870年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ(注)
(注)冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

・1870年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ  現①ロシア
◆ロシアでは皇帝支配に反発する組織が設立され,第一次ロシア革命が起きた
日露戦争中の革命で国会開設も,改革は骨抜きに
 ロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉【本試験H10アレクサンドル1世ではない】の時代,日本の岩倉使節団がペテルブルクを訪問し,このとき〈伊藤博文〉も彼に謁見しています。
 しかし彼は1881年に,社会改革をめざす暴力的な組織の一員により銃弾で暗殺されました。

 代わって〈アレクサンドル3世〉(位1881~1894)が即位。日本の〈伊藤博文〉は特命全権大使として彼の戴冠式に参加しています。

 1882~1883年にはロシア帝国で大規模なユダヤ人虐殺(ポグロム)が発生し,それから逃れたユダヤ人が西アジアのパレスチナへ移住を開始していました(⇒1870~1920の西アジア)。ヨーロッパ諸国からの移住も増え,1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されていきます。のちのパレスチナ問題の起源です。

 ロシアは1891年以降の露仏同盟締結以降,フランスからの援助を受け,産業資本主義が発達しようとしていました。
 そんな中1894年11月に即位したのが〈ニコライ2世〉(位1894~1917) 【中央文H27記】。日清戦争の最中,26歳の若さでの即位です。彼は皇太子時代の1891年に日本を国賓(こくひん)として訪問。このとき5月に現在の滋賀県の大津で,警備中の巡査〈津田三蔵〉に切りつけられ傷を負う被害を受けました。これに対する当時のロシア皇帝〈アレクサンドル3世〉の対応は冷静で,明治天皇の謝罪を評価して関係修復に努めました。〈ニコライ2世〉も毎年その日になると,命が助かったことを神に感謝する礼拝をおこなっていたようで(『ニコライの日記』),日本に対する敵愾心(てきがいしん)をつよめていたわけではありません(注)。1899年には彼の提唱で,オランダのハーグで万国平和会議が開催されています。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-741

 都市部では短期間で工業が発達しましたが,外資系の企業の労働条件はひどく,20世紀にはいると労働者の中にはストライキを起こすものも現れました。農村でも,地主の支配に反対する運動が頻発していました。

 ロシア帝国の政治を批判する組織がいくつか成立したのは,そんな状況下においてです。
 まず,1898年にロシア社会民主労働党【本試験H5】【慶文H30】(初めはロシア社会民主党)は現在のベラルーシにあるミンスク(当時はロシア帝国の領土)で結党に向けて動き出しましたが,直後に弾圧を受けます。
 のち1903年にブリュッセルで始まりロンドンで終わった党大会において,〈レーニン〉,〈マルトフ〉(1873~1923),〈プレハーノフ〉によって再組織されますが,党員の資格を広げるか狭めるかをめぐり〈レーニン〉と〈マルトフ〉&〈プレハーノフ〉の間で対立が起き,のちに2つのグループに分裂【本試験H5時期(第一次世界大戦の勃発後ではない)】します。
・〈レーニン〉(1870~1924) 【追H20メンシェヴィキを指導していない】を指導者とするボリシェヴィキ【本試験H5】【本試験H14のちの共産党かを問う】【追H19】と,
・〈プレハーノフ〉(1856~1918) 【本試験H6】を指導者とするメンシェヴィキ【本試験H5,本試験H6社会革命党ではない】【本試験H14のちの共産党ではない】【追H20レーニンは指導していない】です。
 のちにソ連を建設していくのは,ボリシェヴィキのほうです。

 ほかに,社会革命党(エス=エル) 【本試験H6プレハーノフが指導者ではない】【本試験H14のちの共産党ではない】や立憲民主党(カデット)【本試験H14のちの共産党ではない】がありました。

 改革の必要性が叫ばれている中,1904年に日露戦争【明文H30記】が勃発します。不利な戦いの中で,1905年1月22日にペテルブルクで血の日曜日事件【本試験H10日露戦争中に起きたか問う】【本試験H19日露戦争のきっかけではない】【追H9】が起きます【H29共通テスト試行 図版と時期】。司祭の〈ガポン〉(1870~1906)が率いたペテルブルクの民衆が,皇帝〈ニコライ2世〉に貧しさを訴えようとしたのですが,宮殿の警備隊が発砲し,死傷者が出たのです。これをきっかけにソ連各地で,農民・労働者・少数派の民族が蜂起を起こします。
 モスクワでは労働者・農民・兵士がソヴィエト(評議会)を建設しました。この評議会は,やがて労働者・農民・兵士が主体の国ができたときに,国の「議会」に発展するものになると,イメージされていました。 さらには海軍が反乱を起こし,事態はいっそう深刻化します。
 自由主義者のグループも政治改革を求めるようになると,皇帝〈ニコライ2世〉は事態を収拾させるために十月宣言(勅令) 【本試験H6】【本試験H13農業改革ではない,本試験H30】を発布し,国会(ドゥーマ) 【本試験H29ハンガリーではない】をダヴリダ宮殿に開設【本試験H6,本試験H10閉鎖されたわけではない】【追H9閉鎖されたわけではない】(注),言論・集会の自由の承認を約束し,自由主義者の〈ウィッテ〉【中央文H27記】を首相に任命します。
 「自由主義」というのは,皇帝の専制政治に批判的な考えのこと。ドゥーマは一党独裁ではなく,帝政の支持者以外にも複数の政党が当選して,議論を戦わせていました。
(注)出題のヒント センター試験では,ドゥーマはロシア第一革命で「閉鎖」されがち。本当は「開設」。

 この一連の革命運動をロシア第一革命【追H9血の日曜日事件がきっかけか問う】といいます。ニコライ2世は国会を開設したものの,立法権は制限されており,肝心の議員を選ぶ選挙制度も平等ではなく,革命運動がある程度しずまると,〈ニコライ2世〉は専制政治を復活しようとしました。この頃の皇帝夫妻は僧侶〈ラスプーチン〉(1869~1916)に心酔していたといわれます。
 1906年に首相となった〈ストルイピン〉(1862~1911) 【本試験H12「土地改革によって富農を育成しようとした」か問う】は,社会民主労働党や社会革命党を弾圧するとともに,専制政治を支持。農民が社会主義的な運動を支持しないように,農民たちを縛っていた農村共同体(ミール) 【追H21コルホーズ,ソフホーズではない】を解体して自分の土地をもたせ,独立自営農民を育成しようとしました【本試験H29レンテンマルクを発行した】。独立自営農民が育てば農業の生産性が上がり,輸出用の作物を増産することもできますし,農民が商品を買うほどができるほどの余裕も生まれます。余裕が生まれれば,農業をせずに工場で働く労働者の候補にもなりえます。
 しかし,長きにわたり領主の支配に服していた農民たちが,突然農村共同体を捨てて生活できるわけもなく,改革は不十分に終わりました。


◆二月革命(ロシア暦では「三月革命」)により臨時政府が樹立したが,戦争継続に反対する左派が別の政府を樹立し分裂した
臨時政府が成立も,戦争は継続,反対派が抵抗
 第一次世界大戦が開戦されてから,ロシア軍は連敗続きです。反戦機運【本試験H9ヨーロッパの主要参戦国の中に「厭戦(えんせん)気分が広がり,革命に発展する国があった」か問う,ジョン=リードの『世界をゆるがした十日間』の抜粋をよみ,これが二月(三月)革命についてのものか判別する】が高まる中1917年3月に首都のペトログラード(「ペテルブルク」はドイツ語的な表現ということで,ロシア語的な表現に改められていました【追H30名称の変遷について】)で「パンと平和」を求めるデモやストライキがおこり,これに軍隊も参加。労働者と兵士もソヴィエトをつくり革命を推進すると,皇帝〈ニコライ2世〉はあっけなく退位しました(ニコライ2世の退位【セA H30】)。これが,ロマノフ朝【セA H30ブルボン朝ではない】の滅亡,ロシア帝国の滅亡です。
 この政権転覆のことを,ロシアでは三月革命といいます。ロシアでは,ローマ以来のユリウス暦【本試験H23】が使われていました【追H26ロシアの暦は17世紀に廃止されていない】。

 一方,西ヨーロッパでは,1582年にローマ教皇のグレゴリウス13世がうるう年を修正するためにグレゴリウス暦【本試験H23】【追H17ユリウス暦を修正したことを問う】を導入していました(プロテスタントの国々は18世紀までユリウス暦を使い続けます)。
 その結果うるう年を修正していないロシアのユリウス暦(ロシア暦【追H26】)のほうが,グレゴリウス暦(現在,日本でも用いられている「西暦」)よりも13日おそくなってしまうので,「二月革命」と「三月革命」【本試験H9】の2つの呼び方があるのです。
され,これまで専制政治を批判していたドゥーマ(国会)の議員たちは,臨時政府を樹立しました。政府の主体になったのは自由主義を唱える立憲民主党(カデット)などの議員です。社会革命党(エス=エル)も,この臨時政府を支持しました。
 しかし臨時政府は,国民が望む「戦争の停止」を実現させることなく,戦争を継続しました。国内では,労働者や兵士の議会であるソヴィエトは引き続き活動しており,臨時政府とは「別の政府」のような状態になっていました(二重権力状態)。
 弾圧を受けてスイスに亡命していたボリシェヴィキ【本試験H9[38]ケレンスキーの敵対勢力ということを理解しておく必要あり。H9年度[38]はセンター試験世界史B史上最難問といってよい(※)】に属する〈レーニン〉は,1916年に『帝国主義論』で「帝国主義とは資本主義の独占段階である」と論じ,産業資本と銀行資本の結合した金融資本が重要な役割を果たすようになること,そのような段階に移行した帝国主義諸国間に破滅的な世界戦争が起きるのは避けられないことなどを主張しました。彼は1917年4月に亡命先のスイス【同志社H30記】から「封印列車」で帰国すると,「当面する革命におけるプロレタリアートの任務」と題して演説をおこない,「すべての権力をソヴィエトへ」と呼びかける四月テーゼ【本試験H29】を発表し,臨時政府への対抗を呼びかけました。

(※)「(…前略)前線では平和に関する布告や土地に関する布告が大熱狂をまきおこしつつある。ケレンスキーは,ペトログラードの火事と流血事件,【  】による婦女子の虐殺,という物語を塹壕に氾濫させつつある。…(後略)」 空欄【  】に入る語句を,①ツァーリ政府②ボリシェヴィキ③臨時政府④立憲民主党から選ぶ問題。

 7月にボリシェヴィキが反乱をおこすと(七月蜂起),臨時政府の首相リヴォフ公は辞任し,おなじく立憲民主党の〈ケレンスキー〉(1881~1970) 【追H26コッシュートとのひっかけ】【本試験H9引用文中に現れる。ボリシェヴィキの敵対勢力ということを理解しておく必要がある】【本試験H31】【同志社H30記】が臨時政府の首相【本試験H29,本試験H31「臨時政府を率いた」か問う】になりました。

 しかし〈ケレンスキー〉もボリシェヴィキの勢力拡大に対して有効な手立てが打てないとみると,8月陸軍総司令官の〈コルニーロフ〉将軍(1870~1918)はボリシェヴィキの掃討【本試験H10このときボリシェヴィキは臨時政府を支持していない】のためペトログラードに向かいました。
 〈ケレンスキー〉は当初〈コルニーロフ〉を支援しますが,「もしかすると自分自身も倒されてしまうのではないか…」と不安になり,〈コルニーロフ〉を解任してしまう。皮肉なことに,このことがボリシェヴィキの命を救ったことになり,9月にはボリシェヴィキの勢力が全国に拡大していきました。
 
◆戦争を継続し,集権化に失敗した臨時政府は,左派による十月革命(ロシア暦では十一月革命【本試験H19ドゥーマの開設の約束はしていない】)で打倒された
ボリシェヴィキが権力掌握し,大戦から離脱へ
 1917年11月7日,ボリシェヴィキの〈レーニン〉と〈トロツキー〉(1879~1940)は武装蜂起をおこし臨時政府を打倒し,権力を握ります。翌日には,全土にあったソヴィエトをまとめる全ロシア=ソヴィエト会議で新たな政権が樹立されました。戦争は依然として継続していましたが,そもそも大戦を初めたのは,今はなきロマノフ朝です。それを引き継いだ臨時政府が大戦を継続していたのですが,レーニンらはついに講和を宣言しました。

 これを十一月革命,ロシア暦では「十月革命」【本試験H6「二月革命」ではない】といいます。

 「平和に関する布告」(1917年11月8日) 【東京H18[1]指定語句】【本試験H24フランスではない】【早法H27[5]指定語句】では,すべての敵国に対して無併合(領土を要求しない)・無償金(賠償金を請求しない)・民族自決の原則(民族が自らの意志に反して,他の民族に支配されない原則)を保障したことが重要です。大戦の原因となった帝国主義への批判でもありますね。この中では,オスマン帝国の跡地を分割しようとしたサイクス=ピコ協定【本試験H3イギリスの関与を問う】など,第一次世界大戦前後に交わされた秘密外交【早法H27[5]指定語句】が暴露されました。
 また,「土地に関する布告」【本試験H23中国で出されていない,H29】【同志社H30記】によって,「あらゆる地主的土地私有は無賠償で即時廃止される」とされ,地主の土地を無償で没収し,土地の私有権を廃止しました。これにより土地を没収された作曲家〈ストラヴィンスキー〉(1882~1971)は,その後フランス,さらにアメリカに移住し「火の鳥」「春の祭典」などの代表曲を生み出すことになります。

 こうして,ソヴィエト政権【本試験H18イギリスではない】はドイツと休戦し,1918年3月に現在のベラルーシに位置するブレスト=リトフスク(現在のベラルーシ南西部の都市)【本試験H31リード文】【同志社H30記】で,ブレスト=リトフスク条約【本試験H9】【本試験H13史料(ロカルノ条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する,本試験H18時期】を結んで講和しました。ソヴィエト政権にとって不利な内容でしたが,当時のソ連にはおつきあいのできる国が他にありませんでしたから,虫の息であったドイツと組むことで,イギリスやフランスを牽制するとともに,ドイツに恩を売ろうとしたのです。“嫌われ者同士仲良く”といった感じです。


◆ボリシェヴィキは他の政党や反対派を武力で鎮圧し,一党独裁体制を樹立した
ボリシェヴィキによる一党独裁体制が形成
 十一月革命以降,ソヴィエト=ロシアの国内では憲法制定会議が開催されていました。はじめはボリシェヴィキ以外の政党も参加していましたが,農民の支持を集めていた社会革命党(エス=エル)などの他党を武力で追放・禁止し,ボリシェヴィキを中心として社会主義をめざす体制に組み替えられました。ボリシェヴィキは共産党と名前を変え,首都もペトログラードからモスクワに移転しました【本試験H14時期(19世紀ではない)】。

 1918年にはボリシェヴィキ一党独裁体制となり,つぎつぎに社会主義的な政策が導入されました。〈ケレンスキー〉は1918年にフランスに亡命しています。

 なお,最後のロシア皇帝〈ニコライ2世〉の一族は,1917年3月の退位の後,8月にシベリアのトボリスクに流されていましたが,1918年7月16日に皇后と5人の子どもたちとともにエカテリンブルク銃殺されています。その遺体は,1989年に公表されるまで非公開とされ続けます。

(注)「社会主義」と「共産主義」について
 ここでいう「社会主義」とは,〈レーニン〉の考え方では「共産主義」の前段階のことを指します。〈レーニン〉はドイツの〈マルクス〉の考え方を土台にして,自分の考え方を混ぜて発展させましたから,共産主義のことを〈マルクス〉=〈レーニン〉主義ともいいます。

 共産主義とは,財産を「共同所有(みんなのもの)」として,平等な社会をめざす考え方です。英語ではコミュニズムと言いますが,ラテン語の「コムーネ(共有)」を語源とします。しかし,平等な社会を実現させるためには,みんなで分け合うことができるだけの豊かな生産物が確保されている必要がありますね。
 そのためにマルクスは,まずは絶対君主を資本家(ブルジョワジー)が倒し,民主主義を実現させている必要があると考えました。民主主義といっても,参加できるのはブルジョワジーだけですので,ブルジョワ民主主義といいます。
 資本家は,「封建」的な地主や商人を倒しますが,しだいに労働者階級が成長し,資本家と敵対するようになります。さらに,資本家はビジネスのために世界各地に投資し,政治に参加して国家を動かし,市場や原料供給地を獲得するために植民地を獲得するようになっていく。〈レーニン〉は,これを「帝国主義」と呼び,世界大戦の原因でもあると考えました。

 ここに至って二段階目として,労働者(プロレタリアート)が,暴力革命によって資本家(ブルジョワジー)の支配する体制を倒す時がやってくるとされました。
 この過程において,本来であれば労働者階級(プロレタリアート)が主体となっていくのが理想ではありますが,民衆を指導する人はどうしても必要です。〈レーニン〉は,プロレタリアートの中から自分を含めた少数精鋭の指導者がその任務にあたるべきだと考えました。これをプロレタリアート独裁といいます。こうして,共産党が中心になって共産主義のための準備をしていきます。例えば,土地を地主から没収して農民に配ったり,企業・銀行を国家が管理したりといった施策です。
 しかし,平等な社会の実現には,生産力のアップが不可欠です。また,同時に生産にかかわる人々の間の矛盾(支配する人と支配される人との間の対立)を解消していく必要もあります。準備段階の間に生産力をアップさせつつ,資本家や地主のいない体制をつくりあげていく。こうして社会主義が完成すれば,次の段階の共産主義に移行できる,というのがシナリオです。高い生産力さえあれば,〈マルクス〉が「各人は能力に応じて働き,必要に応じて受け取る」と言ったような理想的な社会が登場するとされたわけです。そのためには発想の大転換が必要となりますから,思想や教育がたいへん重視されるようになっていきます。

◆〈レーニン〉の政府は戦時共産主義という厳しい政策をとり,対ソ干渉戦争を戦った
革命を守るため,戦時共産主義による厳しい統治
 〈レーニン〉は社会主義を世界中の他の地域でも実現させようと考えていました。「ヨーロッパにはすでに資本家階級が生産力をアップさせ,労働者階級の人口も増えているのだから,いつどこで革命が起きてもおかしくない」と考えたわけです。考えてみると,ロシアはヨーロッパの中でも「遅れた」部類。資本家による革命(市民革命)が不十分なまま,労働者階級による革命が遂行されたようなものです。不利な条件で革命を起こしたソヴィエト=ロシアにとって,革命を成功させた“模範事例”が必要とされました。
 1919年3月,モスクワで世界革命を推進する第三インターナショナル(コミンテルン) 【本試験H10】【本試験H19第二インターではない,本試験H25第二次大戦中ではない】【H30共通テスト試行 戊戌の変法やフィリピン革命の時期ではない】【セA H30コメコンとのひっかけ】【中央文H27記】が創設されました。しかし,敗戦国ハンガリー,ドイツでは,支援もむなしく革命は失敗。アジアでの支援も中国やモンゴル以外は失敗に終わりました【本試験H31レーニンは「一国社会主義」ではない】。

 さらに追い打ちをかけるように,資本主義諸国や旧ロマノフ朝,それにボリシェヴィキによって追放された政党が,反革命の勢力を形成し,ソヴィエト=ロシアを苦しめます。とくに資本主義諸国(第一次世界大戦の連合国)は,1918~22年,対ソ干渉戦争【本試験H15,本試験H24】に乗り出し,シベリアなどに軍を派遣して革命を崩壊させようとします。
 特にフランスにとっては,露仏同盟以来さんざん投資をしてきた企業が国有化されてしまうという危機感がありました。日本も,これを北東アジアに支配権を広げる良い機会ととらえ,北樺太や沿海州を占領しました(シベリア出兵【本試験H24】)(注)。

 ソヴィエト政府【セA H30】【追H30】は赤軍【セA H30】(赤色は共産党のシンボルカラーです)を組織し,非常委員会(チェカ) 【本試験H14 1936年憲法による設立ではない】【追H30】が国内の反革命運動を取り締まりました。また,農村からは穀物を強制徴発して都市や兵士に配給する戦時共産主義がとられました。過酷な徴発により,数百万人の餓死者が出るなど深刻な状況に陥り,1921年頃には共産党独裁への反抗の動きも出ていきました。

 そこで〈レーニン〉は,対ソ干渉戦争が落ち着くと,いったん企業の国有化を緩め,農民に余った生産物を自由に市場で販売することを認めて,大企業・銀行・貿易を除いて中小企業が私的に営業することも許可しました。これを新経済政策(NEP,ネップ) 【東京H11[3]内容を問う】【本試験H6「資本主義的な経営の復活を一時認めた」か問う(ネップという語句は示さず),本試験H10時期(1930年代ではない)】といいます。
 「平等な社会の実現のためには,生産力アップが不可欠」というわけで,まずは経済の回復を優先させるため,「やる気」が出るように中小企業の営業を許可したり余った穀物を市場で販売するのを許可しました【東京H11[3]記述(NEPの内容)】。多少の貧富の差には目をつむったわけです。しかし,従来考えられていたように農産物の強制徴発がなくなったわけではなく,農民の負担は過酷なものとなりました。

(注) なおこのとき、中央アジアから革命を逃れて来たイスラーム教徒のタタール人がシベリアに移住。日本政府がビザを発給し、神戸と東京に移住。東京では1938年に東京ジャーミイというモスクが建設されることになります【セ追H25リード文[3-B] 神戸モスクについても言及】。




・1870年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国がロシア帝国から独立する
 さて,ロシア革命に刺激されたバルト海東岸のエストニア,ラトビア【本試験H16】,リトアニアでは,1918年2月にロシア帝国【本試験H16オスマン帝国ではない】からの独立宣言が発表されました。
 バルト三国【東京H8[1]指定語句】の独立は,第一次世界大戦の戦勝国により認められ,北からエストニア共和国,ラトビア共和国,リトアニア共和国の独立が承認されました。




○1870年~1920年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆バルカン半島はオスマン帝国から順次自立し,大戦後に新興国の独立ラッシュを迎えた
バルカンの民族主義に,帝国主義が干渉,大戦へ
 1870~71年には,クリミア戦争の宿敵ナポレオン戦争が,普仏戦争で敗れています。勝ったプロイセンと,オーストリアとの間には,1873年に三帝同盟を結んでいます【本試験H19神聖ローマ帝国とビザンツ皇帝との間ではない】【追H18】。
 ロシアの今度の作戦は,オスマン帝国内にいるスラヴ系の諸民族の独立運動を助けるというものでした。⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,②ブルガリア,⑧セルビア,⑦モンテネグロなどの独立運動を支援することで,独立後に「助けてあげた代わりにいうことをききなさい」と迫ろうとしたのです。

 オスマン帝国は敗北し,1878年にサン=ステファノ条約【東京H29[3]】【早法H30[5]指定語句】【追H30これによりロシアの南下政策は阻止されていない】が結ばれました。

 ここでは①ルーマニア【本試験H15ソ連から独立して成立したわけではない】【セA H30のちベルリン会議でも承認されたか問う】,⑧セルビア,⑦モンテネグロを独立させます。ルーマニアとセルビアはオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)と接していますから,同じく南下を狙っていたオーストリアvsロシアの構図が強まり,今後バルカン半島が“ヨーロッパの火薬庫” 【本試験H4石油利権は関係ない】【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】と呼ばれるきっかけとなります。また,モンテネグロを獲得したことで,ロシアはここを利用してアドリア海に出ることが可能になりました。
 ②ブルガリア【本試験H13オスマン帝国最盛期の領域に含まれていたかを問う(含まれていた)】はこのときに領土を拡大させ,オスマン帝国内の自治という名目で,実際にはロシアの保護国となりました。
 これをみたイギリスも黙っていません。当時の首相は保守党の大物〈ディズレーリ〉(1804~1881)です。オーストリアもロシアに対して言いたいことはたくさんありますから,これではまとまらない。まとまらなければ,ヨーロッパのバランスが崩れてしまい,ロシアの南下も許してしまう。一番困るのは,三帝同盟(1873年にオーストリアとプロイセンと締結)内の仲間割れです。オーストリアがオスマン帝国を支援し,ロシアがバルカン半島の諸民族を独立させるのを阻止しようとすれば,オーストリアとロシアの仲が悪くなり,三帝同盟は崩壊してしまう。
 そこで登場したのが〈ビスマルク〉【東京H20[1]指定語句】【早法H30[5]指定語句】です。プロイセン王国の首相ビスマルクは1871年にフランスとの戦争に勝利し,その勢いでドイツを一気に統一し,ドイツ帝国の皇帝〈ヴィルヘルム1世〉の即位を補佐しました。彼の基本政策は,フランスとロシアの勢力を抑え,ドイツが“はさみうち”になることを回避することです。
 もしこの問題に首をつっこんで,ロシアの南下を阻止してしまったら,ドイツはロシアとの関係を損ねることになってしまうわけですが,ロシアの南下を許してしまえば,大切な同盟国であるオーストリアとロシアとの関係も悪くなってしまいます(1873年三帝同盟)。

 しかし,ドイツの指導者にも,南下の野望はある…。利害は複雑ではありましたが,〈ビスマルク〉は「誠実なる仲買人」と自称してベルリン会議【東京H26[1]指定語句「ベルリン会議(1878年)」】【本試験H18時期,早政H30史料】【中央文H27記】を開催し,ベルリン条約【本試験H6クリミア戦争の戦後に結ばれた条約ではない】【早法H30[5]指定語句】を結ばせます。つまり,「私はどの国の側につこうとしているわけではないですよ。ヨーロッパ全体の平和のことを考えているんですよ」とアピールしつつ、ヨーロッパ諸国のバランスをとろうとしたわけです。
 
 ヨーロッパ諸国のバランスを崩すおそれのある要因は、当時ロシアの南下でした。これを抑えるため,イギリスにキプロス島の行政権(統治権)【本試験H13オスマン帝国最盛期の領土に含まれるかを問う(含まれる),本試験H18時期,本試験H20地図】を与えて管理してもらい,オーストリアには⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナの両州の行政権を与え【本試験H15ボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー帝国から独立していない】,オーストリアのご機嫌もとるという離れわざです。

 ⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナは,ボスニア(中世にボスニア王国(1377~1463)が栄えたドナウ川に注ぐボスナ川沿いの地域)と,山脈に区切られた反対側のヘルツェゴヴィナ(アドリア海に注ぐネレトヴァ川沿いの地域。ボスニア王国の支配下にあった)を合わせた地域名です。
 2地域には,長らくオスマン帝国の支配下に入っていたことから,ムスリムも分布しています。オーストリアが獲得した「行政権」とはベルリン条約によると「軍隊を駐留させ軍事力を維持する権利」を意味します。結果的にロシアとドイツの関係は悪化していきます。

 サン=ステファノ条約で認められた,ルーマニア,セルビア,モンテネグロの独立【本試験H6「ルーマニア,モンテネグロなどの独立」(選択肢に「など」を用いるのは不適である)】は,ベルリン条約でも承認されましたが【本試験H6】,〈ビスマルク〉の調停するベルリン条約により,ロシアの南下政策は阻止される形となりました。

 1908年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー二重帝国に併合されています【本試験H3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)】。

◆対ロシアのバルカン同盟は,内紛によりヨーロッパの帝国主義諸国の争いに巻き込まれる
バルカン同盟vsロシアから,ドイツ側のブルガリアvsその他のロシア側へ
 オーストリアの南下に対抗したロシア【本試験H26フランスではない】は1912年に,バルカン諸国をまとめ(バルカン同盟) 【本試験H5オーストリアに対抗してロシアの指導下に結成されたか問う,クリミア戦争に乗じてオスマン帝国と戦ったのではない】 【本試験H25】,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。

 バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いの⑧セルビア,ドナウ川下流の②ブルガリア,アドリア海沿岸に近い⑦モンテネグロ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,④ギリシア(すでにオスマン帝国から独立済み)です。

 オスマン帝国が,イタリアとの戦争(イタリア=トルコ戦争,1911~12) 【本試験H5クリミア戦争ではない】 【追H30時期(年代)を問う】に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦(第一次バルカン戦争),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
 しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,②ブルガリア vs 他の3か国の争いに発展してしまいます(第二次バルカン戦争) 【追H30バルカン戦争で,トルコはイズミルを回復していない】。
 敗れた【本試験H5】【本試験H13勝利していない】②ブルガリア【本試験H5】【本試験H13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】は,ロシアの属する三国協商側ではなく,オーストリアとドイツの属する三国同盟側に接近するようになっていきました【本試験H5三国同盟側に接近したのではない】。

◆緊張の高まるバルカン半島で,二発の銃弾が,バルカン半島をめぐる争奪戦の口実となった
勢力均衡による安全保障が,連鎖的に崩壊する
 そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合した⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これをサライェヴォ事件【本試験H15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】と【中央文H27記】いいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです(注)。
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。
 サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアは⑧セルビアに対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいました)。

 こうしてイギリス,フランス,ロシアの協商国(連合国)が,ドイツ,オーストリア,オスマン帝国の同盟国(中央同盟国)を挟む形の対立関係が戦争に発展し,世界各地のヨーロッパの植民地や勢力圏も含む第一次世界大戦へと発展していったのです。
 もちろん初めから“第一次世界大戦”という名称があったわけでもなく,これが未曾有の世界大戦となるとは,同時代の人には思いもよらないことでした。

 「サライェヴォ事件」は第一次世界大戦の“きっかけ”ではあるものの,直接的な原因ではありません。何が第一次世界大戦を引き起こしたのか。同時代から,さまざまな見解が発表されてきましたが,第一次世界大戦が“避けられないストーリー”ではなく,重要なことは必ずしも各国政府が大規模な戦争を計画的に望んでいたわけではなかったということです(注)。
 列強の金融資本が国家と結び付き発達するにつれて,オスマン帝国をめぐる経済的な対立が高まっていたことも要因の一つです。また,ナショナリズムの高まりにより,国際的な社会主義運動による反戦運動も実現には至りませんでした。サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の〈ジャン=ジョレス〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。
(注)ウィリアム・マリガン,赤木完爾・今野茂充訳『第一次世界大戦への道:破局は避けられなかったのか』慶應義塾大学出版会,2017。

・1870年~1920年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシャ
 王政をとっていた④ギリシャは,ヨーロッパ諸国による介入を背景とした共和派と王政派との対立により混乱が続いていました。

 共和派で首相の〈ヴェニゼロス〉(1864~1936)は協商国側での参戦を望んだものの,ギリシャ国王〈コンスタンティノス1世〉(任1913~17,20~22)や軍は中立政策を主張し対立。大戦の影響が強まると〈ヴェニゼロス〉は協商国側に接近し,亡命した〈コンスタンティノス1世〉に代わり1917年に参戦し,戦勝国となりました。
 〈ヴェニゼロス〉はパリ講和会議で大ギリシア主義(メガリ=イデア)の理念のもとアナトリア半島沿岸の割譲を要求しましたが叶(かな)わず,ギリシア=トルコ戦争(1919~1922)を始めましたが,選挙で敗北して1920年に退陣し,〈コンスタンティノス1世〉が復位しました。

 この間,オスマン帝国の支配下にあったクレタ島では,ギリシア王国への編入を求める運動が起き,1888年にはオスマン帝国が出兵しました。それに対しギリシアの民族主義者は1896年にクレタ島を占領します。
 ヨーロッパ列強にとってクレタ島は東地中海の交易の重要地点。
 1898年にはオスマン帝国の下での自治権が付与され,「クレタ州」となり,ギリシャ国王〈ゲオルギオス1世〉の次男が総督を務めます。それ以降ギリシアの影響がさらに強まり,1913年の第一次バルカン戦争でギリシャ領となりました。




○1870年~1920年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
・1870年~1920年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
 遅れをとっているドイツでは,〈ビスマルク〉【本試験H10】【早法H30[5]指定語句】宰相が主導して,ヨーロッパ列強の力のバランスをとりながら,”鉄血政策”を掲げて軍事力を増強し,巧みな外交術でドイツを強国へと導いていきました。社会主義者鎮圧法【本試験H12のちに廃止されたかを問う(廃止されました)】【本試験H28】【追H25ヴィルヘルム2世が「制定」したか問う(廃止が正しい)】ドイツ社会主義労働者党【本試験H10】を初めとする社会主義者の運動をおさえたり【本試験H19社会主義者を支援していない】,南部のカトリック教徒【本試験H24ユダヤ人ではない】の政党である中央党(ビスマルクの推進した政教分離に反対)と対立(文化闘争) 【本試験H9ビスマルクが,カトリック教徒と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う】しました。しかし,南部のローマ教会は,弾圧を受けても依然として多くの信仰を集め続けました。
 一方,彼は社会保険法を制定することで,国民の福祉を高め,労働者の支持を取り付けようとしました。彼の政策は,よく“アメとムチ”と表現されます。

 しかし,1888年に〈ヴィルヘルム2世〉(位1888~1918) 【本試験H17フリードリヒ2世とのひっかけ・オーストリア継承戦争を戦ってはいない】【追H25】【中央文H27記】が〈ヴィルヘルム1世〉の後を継ぐと,ビスマルクが精緻に組み上げていった国際秩序がガタガタと崩れ去っていきます。〈ヴィルヘルム2世〉は,〈ビスマルク〉がロシアと締結していた再保障条約【本試験H14ナチスとは無関係,本試験H24】の更新を拒み,さらに社会主義者鎮圧法に反対【追H25制定していない】するなど,〈ビスマルク〉と対立し,1890年には彼を辞職させ,宰相は〈カプリヴィ〉(任1890~94)に代わりました。
 後を継いだ〈カプリヴィ〉宰相は,〈ヴィルヘルム2世〉の統治の下,ドイツ社会民主党との関係を修復させ(社会主義者鎮圧法の廃止【本試験H9ビスマルクが社会主義者と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う,本試験H12「社会主義者鎮圧法のために第一次世界大戦後まで社会主義政党が誕生しなかった」わけではない】),労働者の権利を向上させる政策をとって,国内をまとめようとしました。
 また,対外的には海軍を大拡張してイギリスに真正面から対抗する計画(「世界政策」【本試験H24ビスマルクの政策ではない】)を推進するとともに,イギリスとの関係改善にも取り組みました。1890年にはイギリスとの間で,ドイツが北海のヘルゴランド島,イギリスが現在のタンザニア沖のザンジバル島の支配を認め合う条約(ヘルゴランド=ザンジバル条約)が結ばれました。一方で,ドイツ領の南西アフリカ(現在のナミビア)から,ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)へのルートを確保するために,南西アフリカの領土を内陸部に細長く延長させて併合しました(現在のカプリヴィ回廊)。
 1890年に社会主義者鎮圧法が廃止されると労働運動も盛り上がっていき,社会民主党(SPD,エスペーデー) 【本試験H12イギリスではない(イギリスは労働党)】【追H20】が議席をのばしました。SPDは1912年に帝国議会で第一党になっています。当初は「“革命”によって社会主義を実現しよう」とする方針でしたが,のちに〈ベルンシュタイン〉(1850~1932)のように「〈マルクス〉の考えにこだわらず,これに修正を加えよう。革命ではなく,議会の議席を増やすことを通して法による制度の“改革”をめざし,社会主義を実現させよう」とする修正主義(リヴィジョニズム) 【追H20】があらわれるようになります。


◆工業化を推進したドイツでは科学技術の研究が発達した
 19世紀末にかけ,ドイツの工業生産は右肩上がり。生活水準も上がり,今の体制をぶっ壊す“革命”よりも,今の体制を残したまま悪い部分をなおそうとする“改革”が望まれたのです。この時期に,ドイツ人の科学者たちは,さまざまな技術を編み出すとともに,学問でもドイツ人は目覚ましい業績をあげるようになっていきました。
 科学技術は植民地の支配にも遺憾(いかん)なく利用されました。蒸気機関車・電気機関車(電車)の発明により,植民地へのヒト・モノの輸送や内陸部・山岳部からの資源の積出しが容易になっていきました。また,ヨーロッパの科学の知識は,アジア人・アフリカ人・アメリカ大陸の先住民・オセアニア人が,ヨーロッパ人に劣るという前提のもとに組み上げられ,ヨーロッパ人の人種主義を支える役目も果たしていきます。

 1895年,X線【本試験H23ラジウムではない】を発見した〈レントゲン〉(1845~1923)に,〈ヴィルヘルム2世〉が祝電を送っています。生きた人間の骨を透かす技術は,一大センセーションを巻き起こしましたが,彼自身は注目を浴びるのを避けて断り,1901年の第一回ノーベル物理学賞受賞のスピーチも断っています。X線は,第一次世界大戦の戦傷者の治療に役立つことになります。
 生理学の分野ではすでにフランスの〈パストゥール〉(1822~95)が細菌学の基礎を築き,狂犬病の予防接種(1885)を開発していました。さらに,ドイツの〈コッホ〉(1843~1910) 【本試験H2ジェンナーではない】【追H20,ベル,ヘルムホルツ,モールスではない,追試H29細菌学を発展させたか問う】が,結核菌(1882) 【本試験H2発見者を問う】,コレラ菌(1883) 【本試験H2発見者を問う】 【追H20】
を発見し,人類とこれらの細菌との長い戦いに終止符を打ちました。

 なお,1885年にドイツに留学し〈コッホ〉に師事したのが,ペスト菌を発見し,破傷風の治療法を開発した〈北里(きたさと)柴三郎(しばさぶろう)〉(1853~1931)です。このとき〈北里〉とともに〈コッホ〉の研究室に出向いたのは,同じく1885年からドイツ留学をしていた〈森鷗外(もりおうがい)〉(1862~1922)です。彼はドイツ留学をモチーフにのちに小説『舞姫』を著しています。

 〈ジーメンス〉(1816~1892),〈ファラデー〉の発明した電磁誘導を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年には電気機関車(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)。
 ドイツの〈ディーゼル〉(1858~1913)は,ガソリン機関に比べ熱効率の高いディーゼル機関を発明し,工場や交通機関に用いられるようになっていきました。
 また〈ベンツ〉(1844~1929)は1885年に初のガソリン自動車の3輪車を発明し,同年には〈ダイムラー〉が2輪車・翌年に4輪車を発明しました。こうして,20世紀の主役になっていく自動車【本試験H7年代を問う】は,イギリスなどに遅れて発達したドイツやアメリカ合衆国の主要産業となっていくのです。また,燃料としてガソリンが用いられたことから,石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年に原油の機械掘りが始まり,”黒いゴールドラッシュ”の時代を迎えることになります。


○1870年~1920年のイベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
・1870年~1920年のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
 スペインでは1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年に第一共和政(1870~73)が樹立されていました。しかし1875年に〈アルフォンソ12世〉(位1875~85)が復位すると,1890年代には保守党と自由党の平和的な政権交代が続き,ようやく政治は安定をみました。
 しかし,カリブ海のキューバで1895年に独立を求める反乱が起きると,キューバの輸出全体の9割の砂糖を輸入していたアメリカ合衆国は独立運動に接近して「反スペイン」と「民主化」を求めるキャンペーンを実施。1898年にキューバに停泊していたアメリカの戦艦メイン号が爆発・沈没すると,それを「スペインの犯行」としたアメリカ合衆国はスペインに対する戦争を開始し,スペインの敗北に終わりました。これを米西戦争【追H18スペインはテキサスを失ったわけではない,H21】といい,講和条約はパリ条約といいます。
 パリ条約の結果は以下の通りです。
 ・グアム【セA H30】→無償でアメリカ合衆国に割譲
 ・フィリピン→有償でアメリカ合衆国に割譲【追H9】【追H21】
 ・キューバ→独立(ただし,アメリカ合衆国の影響下に置かれることになります)

 この敗北をみて,スペインではバスクやカタルーニャにおける民族主義が高まり,王政と時の政権に対する批判も高まって,ますます分裂傾向が加速していきました。
 カタルーニャ地方では,19世紀末~20世紀初頭にかけてモデルニスムという新たな芸術・建築を目指す運動が盛り上がり,民族運動とも結びつきました。バルセロナには〈アントニ=ガウディ〉(1852~1926)が現れ,カサ=ミラ,グエル公園,グエル邸,サグラダ=ファミリア贖罪聖堂,カサ=ヴィセンス,カサ=バトリョ,コロニア=グエル聖堂など,自然をモチーフに斬新な曲線を主体とした建築物を残しました(◆世界文化遺産「アントニ=ガウディの作品群」,1984)。

 1886年に即位した〈アルフォンソ13世〉(位1886~1931)の下で二大政党制が続き,1910年~20年代に工業化・都市化が進みました。第一次世界大戦で中立国となったことから輸出経済が好調となり,輸入品を自国で生産する動きも進みました。
 一方で,民族主義が共和主義や農民や労働者による社会主義とも結びついて,反体制的な動きが活発化するようになります。1917年のロシア革命の影響も少なくありません。



・1870年~1920年のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
 1870年以降には,ポルトガルからブラジルへの移民が急増。ヨーロッパの列強がアフリカ分割を開始すると,1886年に南アフリカ南部に植民地帝国を建設する構想「バラ色地図」を公表しました。これは進歩党内閣の外相〈ゴメス〉がドイツとフランスに根回しした上で,アフリカ南西部のアンゴラから現在のザンビアやジンバブエを通って南東部のモザンビークを横断する「ポルトガル領南アフリカ」の地図を作成したもので,この地図が「バラ色」で塗られていたため,その呼び名があります。しかし,イギリスの縦断政策と真っ向から対立するこの計画は,1890年にイギリスの圧力に屈して現在のジンバブエとマラウイからポルトガル軍は撤退。これを推進していた国王の威信は低下します。1891年にはポルトにおいて共和主義者が初めて反乱を起こしています。
 反政府運動が盛り上がる中,1908年には国王〈カルロス〉(位1889~1908)が王太子とともに暗殺され,代わって〈マヌエル2世〉(1908~1910)が即位。しかし1910年に首都リスボンで共和派の軍人が反乱を起こすと国王は亡命し,〈ブラガ〉が臨時大統領となって第一共和政が成立しました。1911年には憲法(1911年憲法)が制定され,〈アリアーガ〉が大統領に就任しました。王党派による抵抗が起きる中,1913年には民主党の〈コスタ〉内閣が成立。1914年から始まる第一次世界大戦に際しては,スペインはポルトガルとともに中立を宣言しましたが,王党派と共和派の間の抗争により不安定な情勢が続きました。




○1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 サルデーニャ王国が拡大する形で国家統一したイタリア王国【本試験H12時期(独立は19世紀後半か問う)】では,工業地帯の北部と農業地帯の南部との間の経済格差が大きな問題として残りました。1880年代にはガリバルディのシチリア占領にも参加した経験を持つ,南イタリアのナポリ出身〈クリスピ〉首相(1819~1901,在任87~91,93~96)が,中央集権化を図り,国内の社会主義運動を弾圧して統一を進めました。国内の団結を図るため,反フランス政策をってドイツとの三国同盟(1882結成)を強化。また,1890年にはアフリカ大陸の紅海に面するエリトリアを植民地化,さらにエチオピアに進出しました。
 しかし,エチオピア帝国【東京H19[3]】は軍隊の近代化を進めており,1896年にはアドワの戦いでイタリア【本試験H5 19世紀にイタリアの植民地になっていない,本試験H8イギリスではない】に大敗し撤退【本試験H16敗退したかを問う】,〈クリスピ〉も辞任しました。エチオピアは,リベリアと並びアフリカ大陸の中でも珍しく植民地化を免れた国の一つです。
 のち,1892年に就任した〈ジョリッティ〉首相の下,社会主義勢力から右翼に至るまでの国内のさまざまな勢力をたくみに操り,行政権を拡大させていきました。
 しかし,南部の経済的な遅れは後を引き,多数の国民がアメリカ合衆国へに移民として出国しました(イタリア人移民)。

 ローマ教皇領は,近代化にともなう世俗化の進行に頭を悩ませていました。しかし,「変化する時代に合わせ,変えるべきところは変える必要があるのだ」とする主張も強まり,1891年に〈レオ13世〉(位1877~1903)はレールム=ノヴァールムという回勅を発表。
 これにより,ローマ=カトリック教会は,近代的な価値との共存を模索していくようになります。




・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年にスエズ運河が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。
 第一次世界大戦中のマルタには多数の傷病兵が収容され,“地中海の看護師”と呼ばれました。しかし同時に,大戦中に起きたマルタ島民の反イギリス闘争で犠牲者が出たことは,現在でも国民の祝日(6月7日)として記念されています。


・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 科学技術の発達が進み,社会は目まぐるしく変化していました。科学的な事実を小説に織り込み“SFの父”ともいわれる〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)の『海底二万里』(1869)や『八十日間世界一周』(1873)は広く読まれ,科学技術によりますます広がっていく人間の想像力を刺激しました。
 フランスは普仏(プロイセン=フランス)戦争【本試験H19】時の〈ナポレオン3世〉の退位で第二帝政は崩壊。パリでは労働者階級を主体とする民衆が政権を打ち立て,〈ビスマルク〉と講和した共和派の〈ティエール〉(1797~1877,第三共和政大統領在任1871~73)らの建てた臨時政府と対立しました。
 このパリの労働者政権(パリ=コミューン【東京H28[3]】【本試験H3サン=シモンは経験していない,本試験H12フランス史上初の普通選挙を実施したか問う(フランス革命の国民公会の成立前と,1848年の二月革命後にすでに実施されています)】【本試験H13,本試験H26時期】【追H20】)は「あっさり講和するなど許せない」「パリの自由だけは守る」と決起しましたが,臨時政府により鎮圧されました。このとき八月十日事件の舞台となったテュイルリー宮殿は消失しています。

 その後のフランスでは,(1)ナポレオン派のグループ,(2)ブルボン家を推すグループ,(3)オルレアン家を推すグループの3派が,今後のフランスの在り方をめぐって争っていました。しかし,最終的には共和政を推すグループが多数派を占め,1875年には第三共和政憲法が制定されました【本試験H16年号「1875年」を問う,本試験H19】【セ試行 第三共和政は現在まで続いていない】。



 急激な社会の変化を受けて,芸術界の中にも新たな運動を起こす人々が現れます。フランスの美術界は,芸術アカデミーにいる大御所が指導権を握っていました。また,美術の主流は社会をありのままに描こうとうする写実主義で,心の内にあらわれる心象風景は軽視される風潮にありました。
 これに対抗したのが,のちに「印象派」【H29共通テスト試行 ロマン主義ではない】【追H29ロマン主義とのひっかけ】と呼ばれることになる〈マネ〉(1832~83),〈モネ〉(1840~1926),〈ルノワール〉(1841~1919) 【本試験H18自然主義(写実主義)ではない・『落ち穂(おちぼ)拾い』ではない】【追H29ロマン主義の画家ドラクロワではない】,〈ドガ〉(1834~1917),〈セザンヌ〉(1839~1906)らの活動でした。1874年に最初の展覧会が開かれ,反対派は彼らを悪口として“印象派”とあだ名しました。彼らの画風には,日本絵画の影響も見られます。
 この頃活動していた作曲家の〈ドビュッシー〉(1862~1918)も,東洋の音階をとりいれるなどして,従来の西洋音楽にはなかった音楽を作り上げており,美術家とひとくくりにして印象派音楽と呼ばれるようになりました。ちなみに彼の交響詩「海」の表紙には,〈葛飾北斎〉の浮世絵が刷られています。
 印象派音楽の作曲家としてもうひとりバスク系の〈ラヴェル〉(1875~1937)の名前もあげておきましょう(代表曲はピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」(1899)・「水の戯れ」(1901)、管弦楽曲「スペイン狂詩曲」(1908初演)・バレエ音楽「ダフニスとクロエ」(1912初演)・「ボレロ」(1928))。

 1889年にパリ万博に日本美術が大規模に展示されたこともあり,「浮世絵」の画法が一層注目されました。大胆なタッチで知られるオランダ出身の〈ゴッホ〉(1853~90)は,絵画の中に浮世絵の作品を登場させていることで知られます。彼は〈ゴーガン〉(1848~1917)と共同生活を南フランスで送りますが,意見が合わず絶交。その後,精神不安定な中も作品はつくられつづけ,37歳でピストル自殺をするに至りました。2人は,「サント=ヴィクトワール山」の〈セザンヌ〉(1839~1906)と合わせて後期印象派(ポスト印象派(注))に分類される画家です。

(注)「後期」というのは「ポスト」の誤訳が定着してしまったもの。あえて訳すなら「印象派-後」派という感じ。


 そんな中は,イギリスを筆頭にヨーロッパ諸国が産業革命(工業化)を背景としたアジア・アフリカ・太平洋への進出を加速させていました。国民が一丸となってまとまり,海外に植民地を獲得しようとする動きが強まっていたのです。例えばこの時期から20世紀までにフランスは,インドシナ(現在のヴェトナム,カンボジア,ラオス【京都H19[2]】),アフリカのマダガスカル【本試験H19ドイツではない,本試験H20地図】,サハラ沙漠周辺の広大な領土,南太平洋のポリネシア(20世紀後半にフランスの核実験場となる)などを獲得していきます。

 しかし,共和政には反対意見も多く,先程の(1)~(3)のグループが王政・帝政を復活させようとする動きも加速し,政治はなかなかまとまりません。
 混乱の中で,ユダヤ系軍人に対する冤罪(えんざい)事件(ドレフュス事件(1894)) 【セ試行 ブーランジェ事件とのひっかけ】【本試験H3ナポレオン3世により解決されていない,本試験H9時期(19世紀後半か)】【本試験H23,H30】【中央文H27記】や,陸軍関係者によるクーデタ未遂事件(ブーランジェ事件(1886~89) 【セ試行 ドレフュス大尉の判決に関する事件ではない】) 【追H20時期(第二帝政下ではない)、H24英仏のアフリカでの衝突事件ではない】も起きています。ドレフュス事件に際しては,『居酒屋』『ナナ』で有名な自然主義【本試験H11】【追H20ロマン主義ではない】の作家の〈ゾラ〉(1840~1902) 【東京H25[3]】【本試験H11:ロマン主義ではない,本試験H12】が「余は弾劾す(私は弾劾する)」と,濡れ衣を着せられた〈ドレフュス〉を味方しました。〈ドレフュス〉は南アメリカのギアナに流されたのち1899年に再審が実現し,1906年には無罪となっています。
 なお自然主義とは,“きれいごと”を描くロマン主義に反発し,社会のさまざまな問題を自然科学の知識にもとづいて【本試験H12「科学的観察を重んじる,ゾラなどの自然主義文学が台頭した」か問う。時期(19世紀後半か問う)】正確に記述し,社会をよくしていこうとする文学ジャンルのことです【本試験H15ロマン主義ではない】。

 フランスが国としてまとまろうとすればするほど,ユダヤ人への迫害も強まり,ユダヤ人たちの中には「自分たちは“フランスのユダヤ人”ではなく,パレスチナを故郷とする“ユダヤ人”なんだ!」と考える人々も出てきました。フランスやイギリスが国民により構成されたまとまりのある国家を建設しているように,「ユダヤ人の国家」を建設するべきだという思想をシオニズムといいます。ドレフュス事件の取材にもあたった新聞記者で1896年に『ユダヤ人国家』を著したハンガリーはブダペストの生まれの〈テオドール=ヘルツル〉(1860~1904)は,1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催しました。自分たちの国家をどこへ建設するべきか,議論が活発化していきました。背景には,当時ロシアを中心とする東ヨーロッパで起きていたユダヤ人迫害(ポグロム)に対する危機感もありました。

 さらに産業革命(工業化)の進行にともない労働者が増え,労働運動もヒートアップしていきます。フランスの労働運動の特色は,イギリスのように政党が中心となったのではなく,労働組合が直接行動によって革命を起こそうとした点にあります。全国レベルで労働者が働くことを拒否して,雇い主に改革を迫ることを,ゼネ=ストといいます。ゼネ=ストによって一気に社会に革命を起こそうとする運動を,サンディカリズムといいます。労働者の運動が鎮静化するのは,1905年にフランス社会党【追H20パリ=コミューンは組織していない】が成立してからのことです。

 1905年には,政治へのカトリックの介入を防ぐ,政教分離法が発布されました。ローマ=カトリックは国境を越える宗教なので,国民が一致団結するべきだとする国家(国民国家)にとって,ふさわしくないと考えられたのです。これ以降,フランスでは公共の場における宗教的な要素の禁止が厳しく守られてきましたが,20世紀後半にイスラーム教徒の人口が増えると,フランスの政教分離の在り方に問題が出てくることになります。イスラーム教は,生活の中に宗教的な要素が強く結びついているためです。
 このころの思想界では,〈ベルクソン〉(1859~1941)が『創造的進化』(1907)を著しています。また科学者としては,細菌の研究をした〈パストゥール〉(1822~1895)が有名です。彼により,細菌が病気の原因であることが突き止められ,その予防や殺菌法(牛乳などに用いられる低温殺菌法は,彼の名前をとって英語でpasteurize(パストゥーライズ)といいます)が確立されました。これにより,前700万年前から続く人類と細菌との戦いは,新たな局面を迎え,衛生環境の向上によって人類の寿命の高齢化と人口の激増(人口爆発)がもたらされることになります。
 また,放射能が1896年にフランスの〈ベクレル〉(1852~1908)によって発見され,1898年に〈キュリー夫妻〉【本試験H8】がラジウム【本試験H8】を発見しています。

 さて,1914年にサライェヴォ事件が起きるとに,国際関係に緊張が走ります。第二インターナショナルを中止とする国際的な社会主義運動による反戦運動も,ナショナリズムの高まりには対抗することができませんでした。
 サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の〈ジャン=ジョレス〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。

・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
 1873年の大不況により,つぶれてしまった中小企業を大企業が飲み込み,企業は巨大化していきました。科学技術もさらに発達し,鉄鋼や化学製品などの重化学工業も発達していきます。科学小説(SF,エスエフ)という分野も,この時期のイギリス人〈ウェルズ〉(1866~46)が始めた分野です(『タイムマシン』(1895),『透明人間』(97),『宇宙戦争』(98))。また,医師業のかたわら小説を執筆した〈コナン=ドイル〉(1859~1930)も恐竜の登場する『失われた世界』(1915)というSF小説,推理小説『シャーロック=ホームズ』シリーズ(1887~1927)を残し,国民的な作家となりました。

 さらに,海外では圧倒的な海軍力によって,世界各地に自由な貿易を要求し,自国に有利な体制を作り上げようとしました。
 しかし,植民地があまりに広くなりすぎてしまったため,支配にかかるコストが高く付くようになってしまいました。そこで,“重荷を降ろす”ように,植民地をランク付けして,植民地の人々に政治を任せられる部分は,任せるようになっていきました。例えば,白人植民者の多い地域,カナダはいち早く1867年に自治領(ドミニオン)のカナダ連邦【本試験H25イギリス連邦の一員ではない。まだイギリス連邦はない】になっています。ただ,カナダはフランス人が早くから入植した地域なので,今日に至るまで,東部に行けばいくほどフランス系住民が多いのが特徴です。1926年にカナダがイギリス連邦の一員として正式に独立した際には【本試験H2519世紀ではない】,イギリスの旗入りのデザインの国旗が使われていましたが,フランス系住民のことを考えて,1965年には,特産物のサトウカエデ(メイプルツリー)の葉がデザインされた国旗に変えられました。
 のちに,白人植民者の多いオーストラリア連邦(1901) 【本試験H14時期は第二次大戦後ではない,本試験H27時期】,ニュージーランド(1907) 【追H30】,南アフリカ連邦(1910)も,順次,自治領(ドミニオン)に昇格していきました。

 しかし,その他の地域では厳しい植民地支配が続きました。世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議で本初子午線として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。ついに世界は“時間の一体化”の段階に進んでいくのです。

 植民地で,イギリス式の教育を受けたり留学した人々の中から,植民地支配に反対する動きが起こりました。例えば,カリブ海出身のアフリカ系である〈ウィリアムズ〉は,1900年にはロンドンでパン=アフリカ会議を開きました。これには,カリブ海の出身者だけでなく,アフリカ人たちも参加し,人種差別や植民地支配に反対をしました。
 また,1912年には南アフリカ連邦でアフリカ民族会議(初めは南アフリカ先住民会議という名称~1913年) 【追H30民族解放戦線ではない】がつくられています。南アフリカでは1913年に原住民土地法が制定されるなど,差別が強化されていました。

 さて,植民地の支配方式をめぐっては,イギリス国内で二大政党(自由党【早政H30】と保守党【早政H30】)間の対立がありました。 
 1868 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1868~74 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1874~80 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1880~85 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1885~86 ★保守党〈ソールズベリ侯爵〉内閣→ 1886 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1886~92 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣→1892~94 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣 →1894~95 ☆自由党〈ローズベリ伯爵〉内閣 → 1895~1902 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣 →1902~05 ★保守党〈バルフォア〉内閣→1905~08 ☆自由党〈キャンベル〉内閣 →1908~15 ☆自由党〈アスキス〉内閣 のように, ★→☆→★→☆…の政権交代が続きます。

 自由党の〈グラッドストン〉(任1868~74,80~85,86,92~94)内閣【本試験H21マクドナルド内閣ではない】【早政H30】【明文H30記】【中央文H27記】【※センターでは意外と頻度低い】のときには,労働組合法【本試験H3労働党内閣のときではない】【本試験H31時期を問う(17世紀)】により労働組合が合法化されました【本試験H31「組合の法的地位が認められた」か問う】。
 保守党【セA H30労働党ではない】の〈ディズレーリ〉首相(任1868,1874~80) 【セA H30】【早政H30】 の時代の対外政策は,以下のようなものです。
 (1)1875年【追H20時期(19世紀前半ではない)】にスエズ運河【本試験H14地図】【追H20】会社の株を買収し【本試験H14】。フランスの〈レセップス〉が必死に集めたフランス個人投資家と〈ムハンマド=アリー〉の出資金で1869年に開削したスエズ運河は,当時経営難に陥っており,当のフランスも普仏戦争後の莫大な賠償金とパリ=コミューンの成立による政情不安定な状況でした。エジプトがスエズ運河会社株を売りに出そうとしている裏情報は,ユダヤ人のロスチャイルド家経由で〈ディズレーリ〉の耳に届き,機敏な判断でロスチャイルド家からの融資により株式を購入して経営権を乗っ取ることに成功しました。そのとき〈ディズレーリ〉から女王に送られた手紙には「ただいままとまりました。運河は陛下(へいか)のものです」(You Have It, Madam)という言葉が。
 (2)1877年,インド帝国(英領インド) 【本試験H3】【追H18統計の読み取り】が成立。
 (3)ロシア=トルコ戦争に介入して,ロシアの南下を防ぎ,インド・ルートを保障。
 1880年代には,自由党の第二次グラッドストン(1880~85)内閣が,エジプトのウラービーの乱(1881~82) 【本試験H12「アラービー=パシャ」時期】 を鎮圧して支配下におきます。
 スーダンのマフディー派の抵抗(1881~1899) 【本試験H5】の鎮圧のために,太平天国で活躍した〈ゴードン〉を派遣(のち戦死)したのも,アフリカの植民地分割に関するベルリン会議(1884~1885) 【追H17】が開かれたのも〈グラッドストン〉のときです。

 1895年には〈ジョゼフ=チェンバレン〉(1836~1914) 【本試験H18カニングとのひっかけ,本試験H27アメリカ合衆国の人物ではない】【追H20労働党ではない】が,第三次〈ソールズベリー〉内閣の植民地大臣になると,ダイヤモンド鉱山業で莫大な財を成し1890年にケープ植民地首相となっていた“アフリカのナポレオン”ともいわれた〈セシル=ローズ〉(1853~1902) 【東京H24[3]】【H29共通テスト試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】との連携を強めていくようになりました。彼の設立したデビアス社は「永遠の輝き」のキャッチフレーズでおなじみの,巨大ダイヤモンド企業です。〈セシル=ローズ〉は初めオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)の地主と提携して先住民を抑える政策をとっていましたが,しだいにアフリカーナー(ボーア人)の建国した国家(ダイヤモンド鉱山が発見されていました)に対する欲求が強まっていきました。〈ローズ〉は「夜空に多くの星がある。私は惑星をも併合してみたい」とまで言っています(注)。
(注)当時のイギリスの支配層には,アフリカ大陸のエジプトのカイロ(Cairo)と南アフリカのケープタウン(Capetown)を縦に結びつけ,さらにインド帝国のカルカッタ(Calcutta) 【本試験H2】と結び,インド洋を取り囲む形で支配下におさめる野望がありました。これを日本では3C政策【本試験H2】【本試験H13ドイツの政策ではない】と呼んでいます。〈セシル=ローズ〉語録 「われわれは原料がたやすく手に入る新しい土地を見つけなければならない。そして,同時に植民地の先住民から安い労働力を徴発しなければならない。しかも,植民地はわれわれの工場での余剰商品を投げ売りする場でもなければならない」参照 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.358。

 1895年末には〈ローズ〉の設立した南アフリカ会社の〈ジェームソン〉率いる部隊がトランスヴァール共和国【本試験H10】に侵入しましたが,失敗しました(ジェームソン侵入事件)。これに対し1896年1月にドイツの〈ヴィルヘルム2世〉がトランスヴァール共和国に送った祝電が世間にバレたことで,イギリス世論の対ドイツ意識が悪化(クリューガー電報事件)。英独関係に亀裂が入りました。〈ローズ〉も同月に支持を失い辞任すると,イギリス【本試験H10フランスではない】本国(ほんごく(注))の〈ジョゼフ=チェンバレン〉植民相が積極的にケープ植民地に介入し,南アフリカ(ボーア)戦争【本試験H10戦争の名称は問われない,本試験H12時期(軍事費が1900~01年に多いことを読み取る)】が引き起こされました。
 (注)本国というのは,植民地を支配する国のことです。例えばアメリカ13植民地の本国は,イギリスでした。宗主国という言葉とほぼ同じです。
 

 これに対抗しようとしたドイツ帝国は,首都ベルリンからオスマン帝国のイスタンブール(旧名はビザンティウム)を通り,イラクのバグダードに向かってペルシア湾からのインド洋進出を狙っており(3B政策【本試験H13 3C政策ではない】),英独関係は緊迫化していきました。「より大きな軍艦を作れば戦争に勝てる」と信じられ,1906年にケタ外れの大きさを誇るドレッドノート級戦艦が建造されると,建艦競争はさらに激化しました。

 この時代は〈ヴィクトリア女王〉(位1837~1901) 【本試験H6】【早・政経H31即位年代】【中央文H27記】が君臨したことから「ヴィクトリア時代」とも呼ばれ,自由党と保守党が対立する二大政党政治が展開された時代でした。1899年にはロンドンの人口は600万を超える世界最大の都市となります。
 〈ヴィクトリア女王〉の家族は,従来の“スキャンダル”続きの王室とはうって変わり,“慈悲深い母親”“清純な妻” 【H29共通テスト試行 女性も家庭の外で働くことが望ましいという価値観ではない】,“イギリスの中産階級の家族の象徴” 【H29共通テスト試行 リード文の下線部・図版】というイメージが国民の間に広まりました【本試験H25リード文】。
 彼女の家柄経由でドイツから持ち込まれたクリスマスのシーズンにモミの木を飾る習慣は,この頃イギリスにも広まったのです。彼女は女性だったため,ハノーファー選帝侯を兼任することはありませんでしたが,子どもや孫たちはヨーロッパの王家に嫁いでいったため,“ヨーロッパの祖母”ともいわれ,ドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉も彼女の孫にあたります。また,〈ヴィクトリア女王〉の肖像は植民地の硬貨などのデザインにも用いられ,世界中の植民地をまとめる“帝国の母”でもありました【本試験H25リード文】。
 1877年にはインド帝国【本試験H3,本試験H6】【本試験H19ムガル帝国ではない】の皇帝【本試験H3ムガル皇帝の子孫が皇帝になったのではない,本試験H6】【本試験H13】も兼ねていますが,現地を訪れることは一度もありませんでした。
 

◆工業製品に反発する運動や,環境を保護する運動が現れた
アール=ヌーヴォーとナショナル=トラスト
 国内では,大企業の発展にともない,さまざまな運動が起きていました。
 どこもかしこも,工場で作られた無機質な日用品ばかり。それに対して1880年に〈ウィリアム=モリス〉(1834~1896)は,アーツ=アンド=クラフト運動を起こし,かつて中世の職人によってつくられていた製品の中の美を再評価し,自然をモチーフにしたデザインの壁紙,カーペット,織物などを提案しました。彼は“近代デザインの父”ともいわれます。この運動に,工場制機械工業で失った人間らしさを取り戻そうというメッセージを込めていたのです。
 のちに1890年代~1910年にヨーロッパで流行したアール=ヌーヴォー(植物の文様が特徴です)という芸術運動にも,大きな影響を与えます(注)。
(注)ベルギーのブリュッセルに建設された〈ヴィクトール=オルタ〉(1861~1947)による邸宅は,鉄やガラスの組み合わせにより植物的な曲線を可能にし,アール=ヌーヴォーに大きな影響を与えました(◆世界文化遺産「建築家ヴィクトール=オルタによるおもな邸宅(ブリュッセル)」)。

 また産業革命(工業化)以降進んでいった環境破壊に対し,環境保護の意識も高まっていきます。1895年にはロンドンのスラム問題に取り組んだ社会運動家の〈オクタヴィア=ヒル〉(1838~1912)らにより,土地や建物の環境や景観を保護するために買い上げて保存する運動(ナショナル=トラスト運動)がスタートしました。

◆選挙法改正により選挙権が労働者に拡大され,労働者政党も結成された
選挙権が広がり,政党による穏健な運動が主流に
 労働者の権利の保護や,選挙法の改正【早法H29[5]指定語句「選挙法改正」】をめざす運動も盛んになっています。そこで,地主の支持を受けている保守党の〈ダービー〉内閣(任1852,1858~59,1866~68)は,産業資本家の支持を受けている自由党に対抗し,増加する都市労働者からの票をゲットするために,1867年の第二回選挙法改正で,都市労働者【本試験H25農業労働者ではない】に選挙権を与えました。彼らは,1848年にもっとも盛り上がったチャーティスト運動の担い手であり,彼らの不満を封じ込めるねらいもありました【本試験H9自由党・保守党の対立で,選挙権の拡大が阻まれたわけではない】。
 しかし,これに対抗した自由党の〈グラッドストン〉内閣は1884年第三回選挙法改正で農業労働者【本試験H23】【本試験H25女性ではない】と鉱山労働者に選挙権を認めました。彼は,労働組合法で労働組合を合法化,アイルランド土地法で小作料を引き下げ,義務教育法(教育法【本試験H3ウォルポール首相ではない】)【本試験H21】で義務教育を無償化するなど,国民の支持を取り付けるさまざまな法を制定していきました。
 例えば,社会主義者〈ウェッブ(妻)〉により,フェビアン協会【本試験H10カルボナリとのひっかけ】【本試験H30時期】という知識人中心の社会主義団体が結成されています。アイルランド出身の劇作家〈バーナード=ショー〉(1856~1950)や〈ウェッブ(夫)〉(1858~1943)がメンバーです。議会を通して「福祉国家」をつくり,社会主義の実現をめざす穏健派です。
 また,労働組合も作られていましたが,労働者の政党がなかったため,1900年に労働代表委員会が組織され,1906年に労働党【本試験H5,本試験H12社会民主党ではない】に発展しました(労働党は結党を1900年としています)。こちらも議会を通じてゆっくりと社会主義を実現しようとする穏健派です【本試験H12「様々な社会政策の実現を目指した」か問う】。
 1905年の自由党内閣は,「もはや労働者の動きを無視することはできない」と考え,労働党の協力を得ることにしました。1911年には国民保険法(疾病保険・失業保険を含む)が制定されるなど国民の社会保障が進みましたが,当時はドイツが海軍を拡張していた時期でもあり,予算確保の必要です。そこで,高額所得者への税率アップや相続税の税率アップによってまかなおうとしましたところ,案の定,保守党議員の多い上院が反対しました。これに対し1911年に〈アスキス〉内閣(1908~12)は議会法【追H30】を成立させ,予算案&法案の可決について「下院>上院」【追H30上院優位ではない】の原則を確立することに成功しました。

 また,〈グラッドストン〉内閣のときからの懸案事項だったアイルランド自治法案【本試験H30】【早政H30】は,ようやく1914年に法律として成立。しかし,イギリス人の入植者が多い北部アイルランド(イギリス国教会多数)は反対し,アイルランド独立(アイルランドはカトリック多数)と対立しました。アイルランド独立派はシン=フェイン党【追H27ビルマではない】【本試験H4アイルランドの親英派による結成ではない。反英派である】を中心に独立運動を展開しますが,結局自治法は第一次世界大戦勃発を口実に延期されます。
 これに対し独立過激派が1916年に武装蜂起(イースター蜂起)を起こすも,鎮圧されるという流れです。

 国民全員が何らかの形で動員される総力戦【東京H18[1]指定語句】である第一次世界大戦が1914年に始まると,女性も軍需工場などでの人手として活躍することになり【本試験H9「軍需工場でが生産に従事する国もあった」か問う】【本試験H15第一次大戦中に欧米の参戦国で女性の職場進出が進んだ国もあるか問う】,1918年には第四次選挙法改正で21歳以上の男子と,30歳以上の女子にも参政権が与えられました【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,本試験H12 1918年に女性が参政権を獲得したか問う】【大阪H31 論述(古代ギリシアの民主政と比較しつつ、近現代の西欧の参政権の範囲の変遷について述べる)】。



・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
ベルギー王国では自由主義が発展し,アフリカの植民地支配がすすみ,国内では政教分離に対する保守派との対立が生まれた
 低地地方南部のベルギー王国では,1865年にはその子〈レオポルド2世〉(位1865~1909)が王位を継承しました。1876年に中央アフリカ協会を設立しアフリカへの植民地進出を本格化させ,〈スタンリー〉に中央アフリカを探検させています。
 ベルギー【セA H30】国王〈レオポルド2世〉はコンゴ盆地一帯をコンゴ自由国(1885~1908) 【本試験H8地図上の位置】【セA H30ナイジェリアではない】として,自身の私領として列強(れっきょう)に認めさせました。国家による領有ではなく「私領」(王個人の領土)というところがポイントです。しかし,天然ゴムの生産のために,抵抗する住民の手足を切り落とす厳しい処罰を与えていた事実が国際的批判を集めると,王の私領に対する風当たりは強くなりました。国王はベルギー政府から補償金を受け取る形で,私領コンゴ自由国を放棄。それ以降はベルギーによる直轄植民地(ベルギー領コンゴ)となります。
 コンゴからはダイヤモンドの原石が輸出され,アントウェルペンはダイヤモンドの研磨・加工産業の中心地となりました。ダイヤモンド産業に従事していたのは,この地に多く住むユダヤ人でした。

◆永世中立国宣言をしていたベルギーは,第一次世界大戦でドイツの侵攻を受けた
 〈アルベール1世〉(位1909~34)のときに第一次世界大戦が起こり,永世中立国を宣言していたのにもかかわらず,ドイツ帝国による侵攻を受け,国土の大部分が占領されました。
 第一次世界大戦後には,ドイツの植民地だったアフリカのルワンダとブルンジを,国際連盟の委任統治領として獲得しています(⇒1870~1920のアフリカ 東アフリカ)。




・1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

◆オランダでは自由主義による政教分離政策に対し,宗教勢力との対立が続いた
 オランダとルクセンブルクは国家連合を形成していました。ドイツの工業地帯における産業革命(工業化)の恩恵を受け,工業化が進展。自由主義的な思想が台頭するとともに,子どもたちに宗教教育をおこなうべきかいなかを巡る論争が続いていました。政教分離を進めようとする自由主義政権に対し,オランダ国内のカトリックとプロテスタント勢力(両者は拮抗(きっこう)していました)は反対。1857年にはすでに「学校教育法」で宗教教育の廃止が規定され,1878年の改正で宗教教育をほどこす学校を厳しくし,宗教教育なしの公立学校に国庫補助をすることになりました(注)。しかし,1888年に宗教勢力が政権を獲得すると政教分離の改革を否定し,1889年からは宗教教育をほどこす学校にも国庫補助がされるように新初等教育法が制定されました。
 一方,工業化の進展にともない労働者階級の人口も増え,労働党が結成されています。政府も国力を高めるため,国内の問題を解決して国をまとめる必要に迫られ,1909年に義務兵役制,1913年に義務教育を導入し,1917年の憲法で公立学校と宗教系の学校の同権が定められました(現行のオランダ憲法の第23条)。また,参政権を要求する労働者の不満が爆発するのをおそれ,1917年には男子普通選挙権・比例代表制が議会で承認され,1919年には女性参政権と1日8時間労働制が制定されました【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】。
 第一次世界大戦(1914~1918)が起こると,1914年7月末には戦時体制をとりましたが,オランダは戦場にはなりませんでした。



◆ルクセンブルク大公国とオランダ王国の国家連合は,1890年に解消した
 ルクセンブルクはドイツとの経済的な協力関係を強め,国内の鉄鉱石を周辺のザールやロレーヌの石炭と結びつけ,工業化が推進されてきました。1890年にネーデルラント連合王国(オランダ王国)国王 兼 ルクセンブルク大公が亡くなり娘がオランダ王位を継ぐと,女系の継承を認めていないルクセンブルクは,新たにドイツの領邦君主(ナッサウ=ヴァイルブルク家)の〈アドルフ〉を招いて大公としました。
 これをもってルクセンブルクとネーデルラントとの同君連合は幕を閉じます。
 第一次世界大戦が起きると,8月2日にドイツ軍はルクセンブルクにフランスへの「通過」のために侵攻しました。ルクセンブルクは中立を守りますが,大戦中には国のあり方をめぐり国論が割れます。王制に反対する共和派の暴動で〈マリー=アデライド〉大公が退位すると,1919年に妹の〈シャルロット〉が大公に即位(任1919~1964)。結局,大公による支配は維持されました。1918年にはドイツ関税同盟から脱退しています。

(注)見原礼子「公教育におけるムスリムの学びの条件――フランス・ベルギー・オランダの比較分析」,大芝亮・山内進(編著)『衝突と和解のヨーロッパ――ユーロ・グローバリズムの挑戦』ミネルヴァ書房,2007年,pp.253~286。

○1870年~1920年の北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 スウェーデン,デンマーク,ノルウェーは,この時期に畜産・林業・水産・鉱業などを発展させていきました。 帝国主義時代にあって各地で国策による探検が行われていましたが,ノルウェーの〈アムンセン〉(1872~1928)は1911年に人類史上初めて南極点に到達し,スウェーデンの〈ヘディーン〉(1865~1952)は中央アジアを探検し楼蘭の遺跡や,その付近にある枯渇したロプノール湖の調査からロプノールが「さまよえる湖」であることを発見しました。

 1912年にスウェーデン,デンマーク,ノルウェーはヨーロッパで戦争が起きた場合には中立の立場をとり,もし中立をとらない場合は事前に通知をすることを互いに約束しました。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,取り決めどおり三国は中立を宣言しました。しかしドイツはイギリスがバルト海に入って来れないように,デンマークの領海に機雷(きらい)を設置させてほしいと要求。占領も辞さないとの要求に屈したデンマークの〈クリスチャン10世〉(位1912~47)は,ドイツの要求をのみました。同じ要求はスウェーデンにも向けられ,スウェーデンも要求を飲みました。
 イギリスはこれら「中立」国を通して物資がドイツに運び込まれることを恐れ,取締りを強化しましたが,それが逆に1917年2月のドイツの無制限潜水艦戦を招きます(ノルウェーの船舶の半分が失われました)。スウェーデンもノルウェーも物資不足が深刻化し,スウェーデンは船舶を協商国に貸す代わりに協商国から食糧を輸入します。

 大戦は総力戦【東京H18[1]指定語句】となり女性の社会進出が積極化し,国民をまとめるために女性参政権が導入されていきました。1906年にはヨーロッパで初めて,完全な女性参政権がロシア従属下のフィンランド大公国で認められ,大戦中のノルウェーでは1913年に女性にも参政権が認められました。デンマークでは1915年に完全な女性参政権が,その下で自治が認められていたアイスランドでも同年に女性参政権が認められました。1919年にはスウェーデンで女性参政権が認められました(初の選挙は1921) 【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】。


・1870年~1920年のヨーロッパ 北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドでは1899年にフィンランド労働党が結成されましたが,のちにロシア革命の影響も受けてのちに急進化していきます。「ロシア化」を進めるロシアに対する抵抗運動も発展し,1904年にはフィンランド積極的抵抗党が,ポーランド人とも連携したテロ行為により独立を目指しました。日本の外交官〈明石元二郎〉もこの組織の指導者〈コンラッド=シリアクス〉と接触していたことがわかっており,内側からのロシア帝国の崩壊を狙う工作をしていたとみられます(注)。1904年2月に日露戦争が勃発し,6月にはフィンランド総督が青年により暗殺され,日本との戦争に苦戦するロシアに対する抵抗の機運は高まりました。1905年10~11月にはフィンランドで「大ストライキ」が起き,独立要求が高揚,従来の身分制議会が再編され,女性参政権を認める一院制の国民議会が成立しました【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】。しかしその後は揺り戻しで,またロシアによる独立運動の抑圧が強まりました。
(注)石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書,2017年。

 一方,ロシアの支配下にあったフィンランド大公国は第一次世界大戦中は軍事基地として使用されました。1917年にロシアで二月革命がおきたのをきっかけに,社会民主党を中心に内閣が組織されます。社会民主党はロシアの革命勢力に接近したため,保守派はロシアの〈ケレンスキー〉の臨時政府と接近して社会民主党の勢力を削ぎ,ロシアの十月革命後の12月に保守派を中心とする〈スヴィンフッヴド〉を首班とする内閣が独立を宣言しました。ソヴィエト=ロシアは「民族自決」の原則を打ち出していましたから独立は承認されたものの,フィンランド国内の革命勢力との内戦は続き,結果的に〈スヴィンフッヴド〉政権により鎮圧されました。内戦終結後には,ソ連との間の東カレリアをめぐる国境問題が持ち上がりました。東カレリアは,北極海の一部(白海)に面する地域で,民族的にもフィンランドに近く,フィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ(カレワラ)』のルーツがあるとされた地域だったため,フィンランド人の民族意識の高まりとともに領土問題に発展したのです。

・1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 デンマークでは1864年のプロイセンに対する敗戦後は,対外進出よりも小さな国土を充実させる政策に転換し,イギリスへの輸出向けに荒れ地の開墾や畜産・酪農の近代化に取り組みました。1882年には初の酪農協同組合ができ,全国に普及していきました。イギリスにとってデンマークは新鮮な乳製品・畜産物の”供給地”として欠かせない存在となっていったのです(1914年のデンマークの輸出向け農産物の6割がイギリス向けでした)。同時に,1890年代には工業化生産も拡大しました。

 なお,デンマークは,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。奴隷貿易は1807年に廃止されていました奴隷制は1848年に廃止されました。1917年の国民投票でアメリカ合衆国に売却され,アメリカ領ヴァージン諸島となりました。

・1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 デンマーク支配下のアイスランドでは,諮問議会のアルシングを中心に自治・独立に向けた世論が高まりました。1871年にデンマーク議会はアイスランド憲法を制定しましたが,地方行政権の一部が認められたにとどまります。水産業の発展,教育機関の整備も進む中,北アメリカへの移民も増加しました。
 アイスランドは大戦中にデンマークとの交通が途絶し,協商国を支援して繁栄しました。これによりかえって自立が加速し,国民投票の圧倒的賛成を受けて1918年にデンマークの国王との同君連合としてアイスランド王国が独立しました。国王にはデンマークの〈クリスチャン10世〉が1944年まで即位しました。 ・1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 ノルウェーはこの時期,タラ・ニシン・クジラの漁業と食品加工業(缶詰・鯨油),林業と木材加工業(木材パルプは新聞用紙に利用されました),海運業で発展しました。
 ノルウェーの中南部には,窒素固定による合成肥料製造の工場(ノシュク=ハイドロ社)が大規模な水力発電所(スウェルグフォス発電シュオ)とともに建設され,当時の世界の高い農業需要にこたえました(◆世界文化遺産「リューカン・ノトッデンの産業遺産」)。

 ノルウェー【早政H30】はスウェーデンとの同君連合下に独自の政府と議会を持っていましたが,1905年にスウェーデンとの同君連合を解消して独立【追H19】【早政H30】し,デンマーク王家の〈カール〉が〈ホーコン7世〉(位1905~57)として即位しました。




・1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 スウェーデンは,木材加工業と鉄鉱石の鉱業,さらにそれに促された機械工業で栄えました。
 フィンランドはロシアの支配下にありながら,ヘルシンキを中心とした鉄道網が敷設され,木材加工業や機械工業が発達していきました。

 工業化の進展とともに労働者階級が増え労働問題・社会問題も起こりました。この時期には北ヨーロッパからの南北アメリカ大陸への移民も増加しましたが,国内の生活に不満を持つ人々が外国に移住することで“ガス抜き”の役割(注)を果たしたともいえます(スウェーデン人が最も多く1840~1914年に110万5000人が移民しました)。 南部には北アメリカに向けた無線局が建設され,スウェーデン系移民に祖国のニュースを伝える役目を果たしました(◆世界文化遺産「ヴァールベリのグリメトン無線局」,2004)。

 この時期のスウェーデンでは劇作家・小説家〈ストリンドベリ〉(1849~1912)が自然主義小説・劇(『令嬢ジュリー』(1888))で活躍し,晩年には象徴的な作品も残しました。1871年にはデンマーク女性協会が設立されるなど女性運動も盛んで,ノルウェーの劇作家〈イプセン〉(1828~1906) 【追H19】は『人形の家』(1879)で「妻」「母」としての人生から「人間として」の人生を生きるため,夫と子を捨てて家を出ていく女性の姿を描きました。『子供の世紀』を著して児童教育に影響を与えたスウェーデンの〈エレン=ケイ〉(1849~1926)は女性運動でも活躍しました。なおスウェーデンには『叫び』で有名な画家〈ムンク〉(1863~1944)が,内面の不安を象徴的に表現した作品を制作しています。
 また,社会主義の思想も伝わり労働運動が起こされるようになり,1871年にデンマーク社会民主党(インターナショナルのデンマーク支部),1887年にノルウェー労働党,1889年にスウェーデン社会民主労働党(社会民主党),それぞれ勢力を拡大させていき,のちに福祉国家の建設を推進していきました。いずれも革命による階級闘争というよりは,議会を通した社会民主主義路線をとりました。議会民主政治も発展し,ノルウェーは1884年に北ヨーロッパで始めて議院内閣制をはじめました。





●1870年~1920年の南極
 1908年にイギリスが西経20度から西経80度の部分の領有を宣言します。
 各国が南極点への到達一番乗りを狙い,国家プロジェクトとして探検家を送り込む中,ノルウェーの〈アムンセン〉(1872~1928)が1911年に人類史上初の南極点到達を成し遂げます。
 一方,1912年にイギリスの海軍軍人〈スコット〉(1868~1912)も南極点に到達しましたが,帰り道に遭難して亡くなりました。

 なお,〈スコット〉が南極点に到達する一日前には〈白瀬矗〉(しらせのぶ,1861~1946)が南極大陸に上陸。カラフト犬とともに西経156度周辺を「大和雪原(やまとゆきはら)」領有宣言しています。

●1920年~1929年の世界
世界の一体化②:帝国の拡大Ⅱ
第一次世界大戦後には集団安全保障体制にもとづく国際社会の形成がすすむが,世界各地に英仏が植民地を持つ体制は変わらず,社会主義とファシズムが台頭。アジア,アフリカの民族運動組織が形成され,反帝国主義運動が動き出す。

この時代のポイント
(1) 第一次大戦後のヨーロッパではヴェルサイユ体制【慶文H30記】,東アジア・太平洋ではワシントン体制が定められ,勢力圏の再編成(墺・露・独「帝国」の解体)と現状維持が国際社会で決められた。

(2)第一次世界大戦後も,「民族自決」(Self-determination)の原則は【早法H27[5]指定語句 論述(20世紀前半までの世界にどのように波及したか述べる)】,アジア・アフリカの諸地域には適用されなかった

(3) 第一次大戦後の世界では,社会主義とファシズムが,資本主義体制のオルタナティヴ(代替の政治思想・運動)として注目され,互いに対抗しつつ勢力を伸ばしていく。


 第一次世界大戦後,ロシア帝国,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国【本試験H7パリ講和会議で決まる。帝国は存続していない】,ドイツ帝国,オスマン帝国が崩壊し,各地の民族が自分たちの固有の政治的なまとまりを求めるナショナリズム(国民主義)に基づき,領域内で支配的な民族によって形成された主権国家(国民国家)を単位として国際社会が形成される時代が本格的に到来しました。しかし,一般的に領域内には複数の民族が居住することは普通で,民族の定義も単純に割り切れるものではなく言語,宗教,歴史的な事情により揺れ動くものでした。領域内の民族構成を支配的な民族にとって都合のよいものとするため,大戦後には戦勝国と敗戦国との間で領土の交換とともに住民交換(強制的な住民移動)も行われるなど,従来は存在しなかった民族同士の対立が国際・国内政治の争点とされるようになっていきました。

 第一次大戦前には,欧米列強同士で軍拡競争や秘密外交がエスカレートし第一次大戦を招いたことへの反省から,集団的安全保障体制である国際連盟【東京H18[1]指定語句】が成立しました。一方で,国際連盟は資本主義経済や帝国主義支配を継続させようとする旧態依然の体制でもあり,戦勝国の中には敗戦国の旧植民地を委任統治領として勢力圏に加えた国もありました。
 「戦間期」(1918~1939)の前半(1918~1929)には,戦勝国により厳しい戦後処理を受けた敗戦国の力は押さえられましたが,後半(1929~1939)には「再分割」の要求が過激化し,第二次世界大戦につながっていきます。

 各民族に国民国家の形成を認める民族自決の原則は,欧米・日本の植民地統治下のアジア,アフリカには適用されなかったため,各地の現地エリート層(官僚や民族資本家,留学生)を中心に帝国主義に反対する民族運動が噴出し,ソ連(1922~1991)を中心とする社会主義(共産主義)思想と結びつく地域も増えていきました。この時期の社会主義(共産主義)は少なくとも外部から見ると資本主義に代わる社会制度・価値観としての魅力を十分に備えていたのです。

◆ヨーロッパではヴェルサイユ体制,東アジア・太平洋ではワシントン体制が定められ,勢力圏の再編成と現状維持が国際社会で決められる
 第一次世界大戦末期,全世界をスペインかぜ(インフルエンザ)のパンデミック(世界的大流行)が襲いました。死者は5000万から1億ともいわれ,1918~20年にかけて猛威をふるいました。社会学者〈マックス=ヴェーバー〉(1864~1920)も,感染して亡くなっています。
 そんな中,1919年1月,第一次世界大戦の敗戦国ドイツの処理について話し合うために,フランスのパリで講和会議が開かれました。舞台は,かつてドイツ帝国成立の式典が行われたヴェルサイユ宮殿です(フランスに勝ったプロイセンは,ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行った)。フランスはかつての恨みを,同じ場所で晴らしたことになります。
 講和の内容の基本原則は,アメリカ合衆国の〈ウィルソン〉大統領【本試験H4セオドア=ルーズヴェルトではない】の「十四カ条」です。アメリカの資金力が勝利に貢献したことから,アメリカの発言権は強かったのです。

 〈ウィルソン〉大統領は,古いヨーロッパ流の国際政治を打ち破る,新しい時代の国際政治の仕組みを,アメリカ主導でつくっていこうとしました。その典型的なアイディアが「国際連盟(リーグ・オブ・ネイションズ)」です【東京H18[1]指定語句】【本試験H17問題文の下線部】。すべての国が加盟し,世界平和を乱す行為をした国を,その他の加盟国で“おしおき”することができるというものです。この集団的安全保障という考え方は,すでに18世紀ドイツの哲学者〈カント〉(1844~97)が『永久平和のために』で提唱していました。
 帝国主義時代には「秘密外交」が当たり前のようにおこなわれていました。内緒で結ぶ条約(密約)がはびこれば,それだけ国家間の争いの種になります。これからは,重要なテーマはしっかりと「国際社会」の場でオープンに話し合うべきだとされたのです。
 このように,第一次世界大戦を引き起こした“古い”要素を検討し,それに代わる新しい価値観を提唱していきました。

 「各国が関税を高く設定したことで,経済的な争いが戦争に発展するのではないか,関税障壁を廃止していくべきだ」
 「諸国家間の軍事力のバランスを取ろうとして「他国が戦艦を増やしたから,自国も負けない分だけ増やそう」という調整を続けた結果,軍備拡大につながってしまったのではないか。軍備を縮小させていくべきだ」
 「大戦中にドイツがとった無制限潜水艦作戦は,自由な貿易に対するとんでもない障害だ。“海はみんなのもの”という海洋の自由が,世界の経済の発展にとって重要だ」
 「植民地をイギリスやフランスが持ちすぎている。その取り合いや不公平から第一次世界大戦が始まった。植民地問題を公正に解決するべきだ」
 「オーストリア帝国,オスマン帝国,ロシア帝国が敗北した。古いヨーロッパの国家が滅んだ後,そこに住んでいる民族たちに,自分たちの国づくりについての権利を与えようじゃないか」

〈ウィルソン〉の提唱した「十四か条」には,こういったさまざまな新しい論点が盛り込まれていたのです。

 1919年6月,パリの郊外に〈ルイ14世〉(任1643~1715)が建造した豪華なヴェルサイユ宮殿で,ドイツを含む関係各国はヴェルサイユ条約【本試験H4全同盟国に対する戦後処理を決定したものではない(ドイツに対する条約)】【早法H26[5]指定語句】を調印しました。ただし,アメリカ合衆国は調印したものの上院の反対で批准していません。
 ヴェルサイユ条約の第一章は国際連盟【東京H18[1]指定語句】【追H9コミンテルンではない】に関する規約なので,これに批准していないということは,国際連盟にも加盟できないということになります【本試験H17「設立時からアメリカ合衆国が加盟していた」は誤り】。
 では,アメリカ合衆国はドイツと講和をしていないということでしょうか? 実は,次の共和党〈ハーディング〉大統領(任1921~23)のときに,米独平和条約(1921年)が結ばれています。
 中華民国は,会議には参加しましたが,山東半島を日本が占領している問題が解決されていなかったために,調印せずに帰っています。のちに1922年に中独平和条約を個別に結んでいます。

 なお,労働者の権利を国際的に保護していこうとする附属機関として1919年に国際労働機関(ILO,アイエルオー)【本試験H21】も設立されています(のち1946年には国際連合の専門機関になりました)。

 さてヴェルサイユ条約により,形成された安全保障体制のことを,ヴェルサイユ体制【慶文H30記】と呼びます。
 これにより,ドイツはすべての植民地を喪失【本試験H17ドイツ領の「一部」ではなく「全部」。時期も第二次世界大戦後ではない】【本試験H7一部を保持していない】。ドイツの植民地だったところは、イギリスとフランスを中心に「委任統治領」【H30共通テスト試行 フィリピンは無関係】として暫定的に統治されることとなりました。
 さらに,フランスは普仏戦争のときにドイツ帝国に取られたアルザス地方とロレーヌ地方を奪回しました。
 また,ドイツのフランスへの進入を防ぐため,ラインラントを非武装化し,ドイツの軍備も制限します【本試験H26】(徴兵制廃止,陸軍10万人以下,異海軍の制限,新兵器(戦車・軍用機・潜水艦)の保有禁止)。さらに極めつけは巨額の賠償金【本試験H14時期(第二次大戦後ではない)】の支払いです(1320億金マルク) 【本試験H5「フランスはドイツの復興を支援するため,ドイツに対する賠償請求権を放棄した」わけではない】。

 敗戦国のオーストリア(サン=ジェルマン条約【本試験H13史料(ロカルノ条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する】【追H18】),ハンガリー【本試験H7ブルガリアではない】(トリアノン条約【本試験H7】),ブルガリア(ヌイイ条約),オスマン帝国(セーヴル条約)も,別個に講和条約が結ばれました。その結果,これらの国々の領土も縮小され,今まで支配されていた諸民族が独立国家を樹立しました(注)。

(注)サン=ジェルマン城は、フランスのパリの西方19 kmにある王宮。ヌイイは、パリの西方約7kmにある都市ヌイイ=シュル=セーヌ。セーヴルもパリ近郊の都市。トリアノンは、ヴェルサイユ宮殿のトリアノン離宮のうちのグラン=トリアノン宮殿(プチ=トリアノンではない)。



 北から順に,フィンランド,エストニア,ラトビア【本試験H15ソ連の成立に加わったわけではない】,リトアニア,ポーランド【追H17時期を問う(ロシア革命後かどうか問う(正しい))】,チェコスロヴァキア【本試験H15地図】【追H19】,ハンガリー【本試験H15地図】,ユーゴスラヴィアです【本試験H15地図(第一次世界大戦前の各地域で最も多い民族を示した分布図(チェコ系,スロヴェニア系,ドイツ系,ハンガリー系住民の分布に注目する)),H29共通テスト試行 地図(第一次世界大戦後のヨーロッパ各国の国境線を選ぶ)】。
 これらの国々の独立を認めたのには,革命の起きたロシアから社会主義が入ってこないようにするための“防波堤”の役割もありました。なお,ドイツを本土とプロイセンとに分断するため,バルト海に通じるポーランド回廊【本試験H13時期(第二次大戦後ではない)】が与えられています。

 少なくとも900万人(民間人を含む)が亡くなった第一次世界大戦は,人類史上もっとも多い死者数を出した戦争であり,それだけに各国は再び恐ろしい戦争が起きないように協調外交をとりました。
 1921~22年には,アメリカ合衆国の〈ハーディング〉大統領(任1921~23)が,ワシントンにアメリカ,イギリス,フランス,日本などの9か国を集めてワシントン会議【本試験H18ロンドンではない,本試験H26】を開きました。ここではワシントン海軍軍備制限条約【本試験H17ブリュッセル条約ではない】【上智法(法律)他H30】と,中国における主権尊重・領土保全を定めた九か国条約【本試験H25】【本試験H27時期】,さらに太平洋の現状維持を定めたアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約【本試験H18】が結ばれました。九カ国条約・四カ国条約は,ともに日本の中国大陸・太平洋への進出に“釘を刺す”ものでした。このような,中国大陸・太平洋地域【上智法(法律)他H30欧米ではない】における,アメリカ合衆国主導の安全保障体制をワシントン体制【上智法(法律)他H30】といいます。





●1920年~1929年のアメリカ
○1920年~1929年のアメリカ  北アメリカ

・1920年~1929年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
アメリカ合衆国は,黄金の20年代を迎える
◆アメリカは工業・金融ともに経済大国となり,孤立主義(ヨーロッパから距離を置くべきだという考え)的な大衆社会が成立した【追H17時期1920年代に経済的繁栄を迎えたことについて】

 アメリカ合衆国はかつて,ヨーロッパのイギリス,フランス,ドイツから巨額の資金を借りることで,産業を発展させた国でした。国際間の資金の貸し借り(「借款」(しゃっかん)といいます)をみたときに,借りている額>貸している額となる国を債務国といいます。アメリカは1914年の時点では35億ドルの債務国でした。
 それが一転,第一次世界大戦大戦中に協商国に大量の物資・戦債を与えたため,戦後には「貸している額>借りている額」となり,130億ドルの債権国【本試験H4】【本試験H31債務国ではない】【上智法(法律)他H30】となったのです。西ヨーロッパから借款の返済として多くの資金がロンドンから大西洋を越えてニューヨーク【本試験H4】のウォール街【本試験H14】に流れ込み,余った資金を国内外に貸し付ける金融ビジネスが発展していきます。

 しかし,伝統的にアメリカは,戦争後にはすぐに兵隊の動員を解除することが普通であり,アメリカ大陸の外の戦争に関与することを嫌う世論(孤立主義)も根強かったため,連邦議会の上院の反対によって国際連盟に加盟することができませんでした(なんと上院の議員の2/3以上の賛成がなければ,他国との条約を批准(認めること)することができなかったのです。当時の上院は,中間選挙で負けたために〈ウィルソン〉大統領(任1913~21) 【本試験H9】の属する民主党【本試験H9共和党ではない】の議員だけで2/3の議席を確保することができていませんでした)。
 国際連盟の提唱者である〈ウィルソン〉の出身国が,国際連盟に加盟することができないという事態です。

 国務長官〈ヒューズ〉(任1921~25,〈ハーディング〉,〈クーリッジ〉大統領時代)も,アメリカ合衆国は軍事力によって世界覇権を握るのではなく,債権国としての国力を利用して,民間の経済活動によって世界の安定を図るべきだと考えていました。
 大戦後のアメリカ合衆国は,保守的な雰囲気を反映し3代連続共和党の大統領が続きます(〈ハーディング〉(任1921~23),〈クーリッジ〉(任1923~29),〈フーヴァー〉(任1929~33)) 【共通一次 平1】【本試験H6モラトリアムを出したか問う】【追H24世界恐慌対策としてドイツの賠償金支払いなどの1年間停止を宣言したか問う】。
 「孤立主義」は根強かったものの,中国大陸や太平洋への進出の動きのみられた日本をおさえこむ必要性が意識されていました。上院の反対により国際連盟に加盟できなくなった以上,共和党政権はなんらかの形で“代替プラン”を国民に示す必要に迫られます。
 そこで提唱されたのが「軍縮」会議を開く形で,日英同盟を廃棄させ,中国の門戸開放(もんこかいほう)を実現させ,日本の軍事力をおさえる「新世界秩序」を建設するという作戦です。この国際会議をワシントン会議(1921年11~1922年2月)といい,〈ハーディング〉政権の国務長官〈ヒューズ〉が主催しました。

 また,イギリスやフランスには,戦債(借金)の返済も強く迫り続けます。イギリスやフランスはドイツに対する賠償金を要求したため,特にドイツができるだけ早く復興して,賠償金を支払える能力に達することがアメリカ合衆国にとって重要となったのです。
 そこで,1923年にはシカゴの銀行家〈ドーズ〉(1865~1951)率いる委員会ができ,ドーズ案(プラン) 【本試験H4】が翌1924年に採択されました(1925年のノーベル平和賞を受賞)。
 ・アメリカの銀行がドイツに250億ドルを融資する (ドイツの復興を助ける)
 ・ドイツから英仏への賠償金の金額・期間を緩和する (復興したドイツが英仏に賠償金を払う)
 ・第一次世界大戦の連合国は,アメリカに戦債を支払う (貸した資金がアメリカに返済される)
 こうした資金の流れは1929年に世界恐慌が勃発するまでは,ヨーロッパの再建とアメリカ合衆国への戦債の返済にある程度功を奏します。
 アメリカ合衆国のヨーロッパに対する介入はこの後も続けられ,1928年にはケロッグ=ブリアン条約【追H29「不戦条約(ブリアン=ケロッグ条約)」。時期を問う(第二次世界大戦後ではない)】が提案され,当初は15か国の締結国間で対外紛争の解決する手段としての戦争が禁止されました(ただし強制力はありませんでした)。

 また,共和党政権時代には,アメリカ合衆国の市場を守るために高関税政策がとられました。



◆“黄金の20年代”のアメリカ合衆国では大衆消費社会が成立したが,社会の保守化が進んだ
経済的繁栄の裏で、農業不況が起きていた
 この時期のアメリカは「黄金の20年代」「永遠の繁栄」とも言われ,アイルランド移民の子〈フォード〉(1863~1947) 【本試験H21】【追H24】がベルトコンベヤ【東京H16[3]オートメーション,または流れ作業方式】の自動車の大量生産方式【H29共通テスト試行 写真】【追H24 時期18・19世紀ではない】を実現したのを代表として,自動車や家電製品【上智法(法律)他H30冷蔵庫や洗濯機】の労働者による大量生産・大量消費の時代が到来していました【H29共通テスト試行】。

 フォード=システムの導入は,都市労働者に労働時間の短縮と賃金上昇がもたらしただけではなく,農村にも影響を与えています。農業用の二輪駆動トラクター(フォードソン)の大量生産にも道をひらいたのです。内燃機関で駆動するトラクターは大戦中に,ドイツの潜水艦による海上攻撃で穀物不足・労働力不足に悩まされていたイギリスを救い,さらにソヴィエト政府も1919年にフォードソンと契約し,のちのソ連政府による農業集団化に一役買うこととなります(注)。
 一方、そのような技術革新と生産量の増加は農産物の過剰(つくりすぎ)をもたらし、1920年代には農業不況が農村を荒廃させていきました【追H17「工業と農業が共に好況を迎えた」のではない】。
(注)藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書,2017,p.31,p.68。



 第一次世界大戦中に軍需工場などの職場の働き手【本試験H11】として活躍した女性の参政権が承認されます(1920年の憲法修正19条)【本試験H15第二次世界大戦後ではない,本試験H26時期】【追H21ジャクソン大統領のときではない】。家電製品の普及にともない,女性の社会進出もすすみました【本試験H11「1920年代になると,家電製品の普及が家事労働の軽減をもたらし,女性の社会進出の可能性を広げた」か問う】。

 ラジオ放送【追H27普及の時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】【上智法(法律)他H30 年代(1920年代)】を通した加熱するスキャンダラスな報道,喜劇王〈チャップリン〉(1889~1977)に代表されるハリウッドの映画【追H24 19世紀前半にアメリカで大衆娯楽となったのではない、H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】【上智法(法律)他H30「トーキー」と呼ばれる有声映画を含む】,ホームラン王〈ベーブ=ルース〉(1895~1948)に代表される野球などのスポーツ,トランペット奏者〈ルイ=アームストロング〉(1900~71)やニューヨークのハーレム地区のナイトクラブ(コットンクラブ。南部の“綿花”地帯に由来する名前です)のデューク=エリントン楽団に代表される黒人のジャズ音楽【追H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う】【上智法(法律)他H30ロックなどの大衆音楽ではない】(注)、〈ディズニー〉(1901~1966)によるアニメーション映画(ミッキーマウスを主人公とするモノクロのトーキー(音声入り)映画『蒸気船ウィリー』は1928年11月18日に初公開),コカ=コーラなど,「アメリカ的な文化」の多くがこの時代に生まれ,定着していきました。20世紀後半にかけてアメリカ経済の急拡大とともに全世界に広がり,アメリカ文化が世界各地で見られるようになっていくことになります。

 “永遠の繁栄”を背景にして,アメリカ人には自国を誇る強い意識もみられるようになり,アングロ=サクソン系(イギリスから渡ってきた人々)の白人でプロテスタントを信仰する人々(ホワイト=アングロ=サクソン=プロテスタント。頭文字をとってWASP(ワスプ)という)の価値観が,もっとも「アメリカらしい」とかんがえられるようになり,「WASPではない」人々がしばしば排斥の対象になりました。1920年には女性に参政権が与えられました【本試験H11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,本試験H12南北戦争の結果ではない】【上智法(法律)他H30実現しなかったわけではない】。

 たとえば白人ではない=黒人への過激な排斥運動(代表的な運動には,クー=クラックス=クラン(KKK(ケーケーケー)) 【セA H30】【東京H21[3]】【上智法(法律)他H30】という組織による反黒人【上智法(法律)他H30カトリックやユダヤ教も含む。WASP的価値観が高まったため】運動があります)や,イタリア人の移民に対する冤罪事件(サッコ=ヴァンゼッティ事件【上智法(法律)他H30】),1924年に制定された東欧【上智法(法律)他H30】・南欧【上智法(法律)他H30】からの移民を制限し,日本を含むアジア諸国【上智法(法律)他H30】からの移民を全面禁止(廃止)する移民法(第一次世界大戦で戦勝国となった日本は,この法を“排日移民法”と呼び非難しました) 【追H30グラフ読み取り問題】【H30共通テスト試行 1920年代に「アジア系の移民を禁止する移民法」が制定されたか問う(特定の居住地に強制移住させる(南アフリカのアパルトヘイト)ではない)】【上智法(法律)他H30】などがあります。
 日本は,第一次世界大戦後のパリ講和会議で,人種差別撤廃を提案していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されています。

 また,酒類の製造・販売・運搬・輸出入(バーで飲むのはダメ。家飲みはOK)を禁じる禁酒法【上智法(法律)他H30】もそのような雰囲気の中で制定されましたが,取締りは万全ではなく“ザル法”と呼ばれ,かえって密造・密輸業を営む地下組織(ギャング)の力が強まり,シカゴでは酒の密売で成長したギャングのボス〈アル=カポネ〉も絡むギャング同士の抗争が起きました(1929年の聖バレンタインデーの虐殺)。〈カポネ〉は1932年に脱税で逮捕されました。

 物質的な文明がアメリカ社会を覆う中,それに疑問を投げかけた人々もいました。第一次世界大戦の“悪夢”を経験した若者たちの間には,この時期のどんちゃん騒ぎに対して“疑いの目”を向ける者も少なくなかったのです。こうした1920年~1930年代の世代を“失われた世代(ロストジェネレーション)”と呼ぶことがあります。代表格は,その名の由来となった〈ヘミングウェイ〉(1899~1961),〈フィッツジェラルド〉(1896~1940)がいます。〈フィッツジェラルド〉の『マイ=ロスト=シティ』では,黄金の20年代の状況が冷静に描かれています。
 第一次世界大戦後,旧来の価値観を否定しようとする運動は芸術家にもみられました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も“芸術”そのものを疑う活動を続け,現代美術に大きな影響を与えました。

 1928年の選挙では共和党の〈フーヴァー〉【共通一次 平1】【本試験H6】【追H24世界恐慌対策としてドイツの賠償金支払いなどを1年間停止したか問う】が民主党候補に圧勝しました。彼は鉱山技師から億万長者になった“アメリカン=ドリーム”を象徴する人物であり,圧倒的な人気を誇ったまま大統領に就任しました(任1929~1933)。アメリカ合衆国は世界史において初めて,貧困に対する勝利を得ることができると彼が演説した1年後,1929年10月24日に,株価の大暴落(「暗黒の木曜日」)が発生することになるのです。

(注) ジャズについて補足。ジャズがアメリカ合衆国南部で生まれたのは確かだが、源流をたどるのはむずかしい。西洋楽器(ヨーロッパ音楽)とアフリカ系アメリカ人の音楽がミックスされて生まれたというのが一般的な理解です。発祥の地とされるニューオーリンズで、オリジナルディキシーランドジャズバンドという白人のバンドが1916年に結成されており、この独特なスタイルが1920年代に発展していきました。




○1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆アメリカ合衆国の経済的進出に対し,労働運動やナショナリズムも高まった

 第一次世界大戦中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの地域は戦場にはならず,軍需物資を供給する場所として,好景気を迎えました。アメリカ合衆国の共和党政権は,海兵隊をカリブ海のキューバとドミニカ,中央アメリカのニカラグアから撤退させています。

 しかし,アメリカ合衆国の中南米への経済進出は止まらず,労働運動やナショナリズムが高まります。大戦中にアメリカ合衆国の中南米への影響力が強まりましたが,労働者による社会主義的な運動や,自国の資源を守ろうとするナショナリズムの動きも高まります。ソ連の第三次インターナショナルの影響から,1928年にはラテン=アメリカ労働組合(CSLA)が成立しています。

 同じく1928年年開かれた第六回パン=アメリカ会議では,パン=アメリカ連合が国連の常置委員会の一機構に位置づけられることになり,各国に連絡機関としてパン=アメリカ委員会が設置されました。また,急速な経済のグローバル化に対応し,各国の国際私法のズレを統一させるためブスタマンテ法典が制定されました。
 1928年のケロッグ=ブリアン協定(パリ不戦条約)には,ラテン=アメリカからも翌年の発効までの間にキューバ,ドミニカ共和国,グアテマラ,ニカラグア,パナマ,ペルーが署名しています。
 しかし,1929年の世界恐慌を受けて輸出量が激減し,各国経済は打撃を受けることになります。



○1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

・1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ

 1917年に憲法が制定されたメキシコでは,制定に関わった〈カランサ〉大統領(任1917~1920)と〈オブレゴン〉将軍の対立が起き,将軍のクーデタで〈カランサ〉は退陣,1代おいて,〈オブレゴン〉(任1920~24)が大統領に就任しました。
 1917年の憲法では教会よりも国家の権限が強く,〈カリェス〉大統領(任1924~28)の反カトリック政策に反発し,内戦状態となりました。1928年には〈オブレゴン〉が再選されますが,カトリック支持者により暗殺されています。〈カリェス〉は退任してからも,メキシコの政界に力を及ぼし続けます。

 このような内紛の背景には,メキシコの資源を巡るアメリカ合衆国の進出もありました。メキシコでは1918年に石油・鉱山の国有化が宣言されていましたが,アメリカ合衆国の圧力もあり1921年には終息。しかし,1927年に再び国有化が宣言されると,アメリカ合衆国は再びこれに干渉しています。




○1920年~1929年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島


・1920年~1929年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。 ・1920年~1929年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島ではフランスによる白人優位の社会が続き,サトウキビ・プランテーションが主力産業となっています。
 
○1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・1920年~1929年の南アメリカ  現①ブラジル

 ブラジルは,1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策をとりました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカは唯一の参戦国となりました。戦争が終わるとにヴェルサイユ会議(パリ講和会議,1919年1~6月)に参加し,国際連盟にも加盟しましたが,常任理事国入りが拒否されると脱退を選びました。

 第一次世界対戦中にはヨーロッパへの輸出が増加し,輸入を代替する工業も発展しました。都市化が進むに連れて労働者の運動が活発化するようになります。ブラジルの経済を特に支えていたのはコーヒーで,農園は内陸部にも広がっていきました。

 また、第一次世界大戦が終わると、途絶えていたヨーロッパから移民が再開され、日本人移民への助成は再停止。しかし、当時人口が急増していた日本政府は、アメリカ合衆国とペルーが移民を停止したためにブラジル移民への助成をスタートさせ、すでに発足していた海外興行株式会社(1917年に政府が移民会社を統合して設立。略称K.K.K.K.)がブラジル移民を独占する形で、1926年以降に移民が再び増加。これが第二期の日本のブラジル移民です(注1)。

 移民たちは既存のプランテーションではなく、独自に入植地(ブラジルの日系社会では「植民地」と呼ばれました)を開拓し、イタリア人、ポルトガル人、スペイン人、ドイツ人とともに日本人にも小土地所有者や工業事業所の経営者が増えていきました(注2)。

 経済的な発展によってブラジルの市場が統一されていくと,“ブラジル人意識”(ナショナリズム)もしだいに高まっていきました。ブラジルは“ヨーロッパ”なのか? それとも“ラテン=アメリカ”? “ブラジル”?。白人? 黒人? インディオ? ――こうした議論はやがて,ブラジルは“さまざまな人種が混ざりあった国だ”という認識へと発展していきます(ブラジルは,しばしば「オス=ブラジスos brasis」という複数形によってその多様性が表現されてきました(注3))。

 他方で,1924年以降,経済的に台頭していたサン=パウロ州(20世紀初頭にはブラジルのコーヒー生産の70%を占めていました)やミナス=ジェライス州の出身者が中央政府を牛耳っていたことへの反感も、もちろんありました。
 地方の諸州では宗教的な大規模反乱も起きていますが、すべて鎮圧されています。
 また、都市部は近代化が進み、中間層・実業家といった新しい階層が生まれつつありました。

 こうした地方の不満や、新しい都市部の中間層・実業家らの声をも拾い上げていくことになるのが,のちの〈ヴァルガス〉(1883~54,大統領人1834~45,50~54農牧業が中心のリオ=グランデ=ド=スル出身)だったのです。

(注1) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.378。
(注2) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.379。
(注3) 堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.19。




・1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
 第一次世界大戦後のアルゼンチンでは,急進党を中心に石油の国有化や労働者の保護政策がとられました。ヨーロッパからの移民の流入もとまらず,アルゼンチンの音楽「タンゴ」がヨーロッパやアメリカ合衆国でブームとなっています。




・1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
 チリはヨーロッパに大量の硝石(しょうせき)を輸出していましたが,第一次世界大戦後には合成窒素肥料が登場したことから需要が減少します。左派寄りの政策をとった〈アレサンドリ〉(任1920~24年)は保守派の抵抗にあって軍人に政権を譲りましたが,改革派の軍人〈イバーニェス〉がクーデタを起こして実権を握り,復帰した〈アレサンドリ〉が再度に辞任すると1927年に大統領に就任(任1927~31)。大規模な公共事業を行いつつ,労働運動を弾圧する政策をとりました。

 そんな中,アメリカ合衆国の資本が,世界最大の露天掘り銅山のチュキカマタをはじめとするチリの銅山に本格的に進出していきます。



・1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
 ペルーでは,1919年に就任した〈レギーア〉大統領は,1920年憲法によって数々の社会改革を実行しました。
 自由党政権の続いていたボリビアでは1920年にクーデタが起き,1920~30年代には農場経営者や都市中間層の支持を受けた共和党政権となります。
 チリは,第一次世界大戦後に輸出の花形であった硝石の国際価格が下落し,打撃を受けました。




○1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ

 エクアドルでは経済の“頼みの綱”であったカカオの国際価格が下落し,ゼネストが宣言されると,金融資本家に支持された自由党成建は労働者の運動を押さえ込もうとしました。これに対し,1925年に,労働者や中間層に支持された青年将校によるクーデタが起き,〈アヨラ〉政権(任1925~31)労働者を保護する改革が行われました。

 コロンビアではアメリカ合衆国との関係を改善し,外資を導入した近代化が進みます。1921年にパナマの割譲に関する賠償金や借款がアメリカ合衆国から導入され,インフラ建設が進みますが,外国に対する債務は積み上がっていきました。

 ベネズエラでは独裁者〈ゴメス〉(任1908~14,22~29,31~35)による支配が続いています。彼はアメリカ合衆国との関係を改善し,1914年にマラカイボ湖で発見された油田を外資(ロイヤルダッチ=シェル,スタンダード=オイル,ガルフ石油)を導入して採掘し,ベネズエラは世界最大の“石油輸出”国となりました。1930年にはベネズエラの輸出総額の83.2%を石油輸出が占めるという状況です(注)。
(注)増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史Ⅱ』山川出版社,2000年,p.308。





●1920年~1929年のオセアニア
○1920年~1929年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ

○1920年~1929年のオーストラリア




○1920年~1929年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア




○1920年~1929年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…現①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

 ②キリバスのうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入し,採掘が進められています。
 ③ナウルは1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました(注)。

クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.354-355。





●1920年~1929年の中央ユーラシア
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
◆ソ連の建設期には反帝国主義が強く打ち出され,資本主義国との対立が深まった。旧ロシア帝国支配下の民族は比較的尊重された
ソ連により中央アジア5国の国境が区切られる
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区

 1922年12月にシベリアから日本が撤退すると,同年12月30日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。

 1922年5月に〈レーニン〉が病に倒れると,党内人事を握っていた〈スターリン〉(グルジア出身,1879~1953)です。めきめきと頭角を現します。〈レーニン〉の没後には,同じく後継者候補であった〈トロツキー〉を政敵として追放し,〈ブハーリン〉(1888~1938)の協力も得て共産党の実権を握りました。
 1928年には,重工業に重点を置き【本試験H17】,社会主義国家の建設をめざす第一次五カ年計画【本試験H17時期】が実行されました。集団農場(コルホーズ) 【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】【追H21国営農場,ミールではない】や国営農場(ソフホーズ,ソヴィエト農場) 【追H21集団農場,ミールではない】の建設がすすめられました。コルホーズのほうは主に開拓地に建設されました。集団化したほうが効率がいいし,社会主義を建設するのに必要だという触れ込みでしたが,実際には効率よく穀物を政府に集めるための方法でした。収穫の有る無しにかかわらず,社会主義建設に必要なノルマが重視されたため,ウクライナをはじめとする地域で多数の餓死者を出すことになります。
 この時期のソ連は帝国主義諸国と敵対し,コミンテルンの支部としてつくられた各国の共産党を通じて,共産主義運動を世界的に推進していました。議会を通じた社会改革をめざす社会民主主義の政党のことを「資本家にすり寄り,ファシズムと手を結ぶ勢力」として敵視する社会ファシズム論が主流でした(注)。
(注)のち世界恐慌後にヒトラーが政権をとると,資本主義国や社会民主主義勢力との提携に転換します。


・1920年~1929年の中央アジア  現⑥新疆
 新疆では漢人の〈楊増新〉による統治が続いていましたが,1928年に部下の〈金樹仁〉により暗殺・継承されましたが,イスラーム教徒による反乱が各地で起きると,1930年代初めまで混乱します【本試験H11「新疆は,1921年に独立」したわけではない】。




・1920年~1929年の中央アジア  北極海周辺
 新疆では




●1920年~1929年のアジア
○1920年~1929年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

○1920年~1929年の東北アジア
◆日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州はソ連の支配地域となった
満洲をめぐり,ソ連・日本が対峙する
 沿海州はソ連の支配地域に入ります。
 日本は清の最後の皇帝〈溥儀(ふぎ)〉(1906~1967)と接触し,満洲への進出をめざす日本政府と,再びみずからの国家を樹立したい女真人の思惑が交錯していくことになります。



◆沿海州~ベーリング海峡までの地域は,ソ連の支配地域となる
沿海州~ベーリング海はソ連の支配下に置かれた
 イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営むツングース人,ヤクート人,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人は,ソ連の支配下に置かれ行政区分に組み込まれています。




○1920年~1929年のアジア  東アジア
・1920年~1929年のアジア  東アジア 現①日本
大戦と震災の衝撃が、日本社会を動かした

 第一次世界大戦の勝利により,日本はようやく欧米と肩を並べ“一等国”になったのだというムードが広がりました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では,人種差別撤廃を提案していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されました。
 第一次世界大戦後に,〈吉野作造〉(1878~1933)や〈美濃部達吉〉(みのべたつきち,1873~1948)の影響下に,大正デモクラシーという運動が起きました。労働者の運動も盛んになり,1921年には日本労働総同盟が設立されました。農民運動も盛んになり,小作争議が増えるなか,1922年に〈賀川豊彦〉(1888~1960)らによって日本農民組合が作られました。部落差別撤廃運動や,女性解放運動も連動します。1920年に〈市川房枝〉(1893~1981),〈平塚らいてう〉(1886~1971)が新婦人協会を設立,1922年には全国水平社が設立されました。

 社会主義の動きも活発化し,1920年に社会主義者を集めて日本社会主義同盟が作られましたが,治安警察法で結社が禁じられました。1922年には,非合法でありながら〈堺利彦〉(さかいとしひこ,1871~1933),〈山川均〉(やまかわひとし,1880~1958)により,マルクス=レーニン主義に立つ日本共産党が設立されました。

 第一次世界大戦後は,アメリカ合衆国は軍縮の提案をワシントンで行いました。日本,イギリス,フランス,イタリア,中国,オランダ,ポルトガル,ベルギーが招致(しょうち)され,1921年~22年に,ワシントン海軍軍縮条約【本試験H4】で日・米・英・仏・伊の主力艦【本試験H4アメリカとイギリスの主力艦保有を同比率としたか問う】【本試験H13補助艦ではない】のトン数の制限が決められました。
 また,太平洋地域の日・米・英・仏の勢力圏の現状維持(四カ国条約),そして全参加国による中国の主権の尊重,門戸開放・機会均等の原則の確認(九カ国条約)も締結されました。
 四カ国条約の結果,日英同盟は1923年に終了しました。九カ国条約では,日本の満洲とモンゴルにける勢力圏が暗黙のうちに認められる形となっていました。また,山東半島の返還について日中で競技され,1922年に山東半島から撤退しました。海軍軍縮条約にともない,海軍と陸軍で大規模な軍縮がおこなわれました。

 1923年,関東大震災が関東一帯を襲い,日本経済に暗雲が立ち込めます。このときに政府の発行した「震災手形」が原因で,1927年には金融恐慌が起きました。〈田中義一〉内閣は,緊急勅令によって収束させましたが,中小の企業が倒れ,三井・三菱・住友・第一・安田といった巨大財閥の経済界支配が加速しました。1925年には普通選挙法とセットで治安維持法が制定され,無産階級が政治の舞台に進出することは押さえられるなど,言論と社会運動はおさえられました【本試験H29】。一方,ロシア革命以降,北樺太やシベリアに出兵していた日本は,1925年に撤兵しソ連と国交を結んでいます。

 〈田中義一〉内閣は同時に中国への進出を図り,1927年には北伐【本試験H12】中の〈蒋介石〉【本試験H12】軍と交戦しましたが,失敗。〈蒋介石〉がそのまま満洲に迫ると,これをなんとか阻止しようとしますが,〈田中義一〉内閣は手を打てません。そこで関東軍高級参謀〈河本大作〉大佐(1882~1955)は,〈田中〉内閣とは別のプランを建てます。〈蒋介石〉に敗れて奉天に逃げてきた満洲軍閥〈張作霖(ちょうさくりん)〉【立命館H30記】の乗っていた列車を爆破して,殺害したのです。〈河本大作〉は,これにより満洲軍閥たちを混乱させ,関東軍を出動させようとしましたが,〈張作霖〉の息子〈張学良〉【早・法H31】は1929年に〈蒋介石〉の国民政府側につき,満洲全土に国民政府の旗(青天白日旗)を掲げさせました。

 同年,日本は山東からも撤兵し,ようやく国民政府を承認したのでした。〈張作霖〉爆殺事件に対して〈昭和天皇〉(1901~1989,在位1926~1989)から叱責を受けた〈田中〉内閣は,1929年7月2日に総辞職しました。世界恐慌が,刻一刻と迫っていました。

 なお,1926年には〈高柳健次郎〉(1899~1990)が世界初のブラウン管による映像の伝送・受信実権を成功させています。“テレビの時代”は,すぐそこです。



○1920年~1929年のアジア  東アジア 現②台湾
日本の開発が進む影で、先住民の弾圧も起きる
 日本統治下の台湾では,1930年秋に先住民による蜂起(霧社(むしゃ)事件)が起きました。日本はこれを徹底的に鎮圧し,初の毒ガスも使用されました。
 一方,日本の資本が投下され,工業化やインフラ整備が進んでいました。台湾南部の嘉南平野に当時としては世界最大の烏山頭ダムを建設した土木技師〈八田與一(はったよいち)〉(1886~1942)は,その功績が知られています。




○1920年~1929年のアジア  東アジア 現③中国
◆〈孫文〉の死後,国民政府の〈蒋介石〉は「訓政」によって中央集権化を進める
蒋介石が国民党による独裁をすすめていく
 そのころロシアでは,第一次世界大戦の末期である1917年に共産主義革命が起きて,ロマノフ朝が倒されていましたよね。孫文は,ロシアのソヴィエト政権から「中国も共産主義やってみない?」と誘いを受けます。社会主義革命を世界に広める機関であるコミンテルンの方針で,外務人民委員代理(外務次官)の〈カラハン〉(1889~1937)は1919年に「今までロシア帝国が条約により中国から得た利権をすべて放棄する」という宣言を,北京政府と〈孫文〉率いる広東政府に向けて発表。
 ソ連側にはパリ講和会議に不満を持つ中国の北京政府を抱き込むとともに,〈孫文〉を中国共産党との接近させる思惑(おもわく)があったのです。

 1921年には上海で,〈陳独秀〉(ちんどくしゅう,1879~1942),〈李大釗〉(りたいしょう,1889~1927),〈毛沢東〉(もうたくとう,1893~1976)らが1921年,中国共産党をコミンテルンの支援のもとで結成しました【本試験H24時期(第一次大戦中ではない)】。
 〈孫文〉は「いまは立場の違いなど関係ない。軍閥を倒すことが先決だ。そのためには,新しくできたソヴィエトのロシアや,国内の共産党とも手を組むべきだ」と考えたのです。
 1923年に〈孫文〉は,ソ連の外交官(中国大使)の〈ヨッフェ〉(1883~1927)と話し合い(孫文=ヨッフェ会談),ソ連が中国の半植民地運動を支援する意思を確認し,中国国民党との提携を呼びかけます。〈孫文〉がソ連と提携することに対し〈蒋介石〉は黙っていたものの,〈孫文〉の死後,本音(反共産主義)が爆発することになります。
 「欧米・日本の帝国主義諸国と“仲良し”の北京政府と正面切って戦うためには,中国国民党の軍編成を改革する必要がある」ということで,コミンテルンの工作員〈ボロディン〉(1884~1951)が,1923年に〈孫文〉の軍事顧問 兼 国民党最高顧問に就任しました。

 このような強力なソ連のバックアップのもと,1924年には中国国民党一全大会が開催され,「中国共産党の党員は,党員資格を維持しながら,個人的に中国国民党に加盟することができる」ということになりました。この時期には中国共産党を中心に「連ソ・容共・扶助工農」【本試験H19時期】【立命館H30記「扶助工農」を答える】を打ち出され,ソ連と連携して共産党を受け容れ,労働者・農民を助けることが推進されていきます(このいわゆる「三大政策」は〈孫文〉自身が述べたものではありません)。また,黄埔軍官学校を設立し,軍隊の育成を図りました。この校長に就任したのが〈蒋介石〉で,政治部主任が〈周恩来〉でした。このようにして,国民党と共産党が提携したことを,第一次国共合作といいます。

 1924年には日本の神戸でアジア主義者の〈頭山満〉(とうやまみつる)と会談し,日本との提携をも呼びかける「大アジア主義講演」をおこなっています。

◆北京の実権を握った軍閥〈馮玉祥〉は〈溥儀〉を追放,〈孫文〉が亡くなると〈蒋介石〉が台頭する〈孫文〉から,〈蒋介石〉へ
 北京では軍閥〈馮(ふう)玉(ぎょく)祥(しょう)〉がクーデタで実権を握り,紫禁城から〈溥儀〉を追放します(北京政変)。その受け皿となったのは日本です。天津の日本租界に逃げ込み,日本の保護下に置かれた〈溥儀〉は,その後日本に利用されることとなります。
 〈馮玉祥〉は〈孫文〉を北京に招き,革命勢力と軍閥同士の大同団結を模索しますが,周辺諸国の介入や軍閥同士の不和もあり,幻(まぼろし)に終わります。

 1925年3月,〈孫文〉は北京で亡くなります。遺言は「革命未だ成らず」。〈孫文〉の後継者として頭角を現したのは,ソ連・共産党嫌いの〈蒋介石〉(チャン=チェーシー)でした。

 かつて日本にも留学したことがあり,ここで当時革命運動をしようとしていた〈孫文〉の仲間で交遊を深めました。その後も常に〈孫文〉とともに行動し,革命運動を続け,〈孫文〉から絶大な信頼を得ます。1923年の孫文=ヨッフェ会談でソ連との提携が成ると,〈蒋介石〉はソ連で軍事学を学びました。帰国後の1924年に中国国民党第一回全国代表大会で,中国国民党と中国共産党が第一次国共合作を実現させると,革命軍をつくって中国北部を支配している軍閥を倒すための革命軍が組織され,軍人の養成のために黄埔軍官学校が設立されました。その校長に就任したのが〈蒋介石〉でした。

 1925年に〈孫文〉が亡くなると,その一番弟子として,北方の軍閥の討伐,つまり北伐【本試験H12】の遂行を目標に掲げて,〈孫文〉の握っていた権力を一手に集めていきました。〈蒋介石〉は,上海の証券取引所にも出入りして革命資金を集めたことがあるように,浙江省の資本家(浙江財閥)とも深い関係を持っていました【本試験H30中国共産党との関係はない】。ですから,平等な社会を実現させようとする共産党と折り合えるはずもなく,のちに〈蒋介石〉は共産党の弾圧にまわり,国共合作を解消させることになります。

◆〈孫文〉の死後,〈蒋介石〉主導で北伐【本試験H12誰が指導したか問う】が開始され,共産党と国民党が分離した
〈蒋介石〉により北伐が完成,共産党の討滅へ
 上海【立命館H30記】の日本人が経営する工場で,中国人の労働者が日本や帝国主義に反対するデモを起こしました。翌月の3月の〈孫文〉が死去。その後も運動は続き,5月30日に,租界のイギリス人の警官がデモ隊に発砲したことで多数の死傷者が出てしまいます(五・三〇運動【東京H28[3]】【共通一次 平1:上海クーデタ,武昌蜂起,五四運動ではない。内容も問う】【本試験H16満洲事変に抗議したわけではない】【立命館H30記】)。
 〈蒋介石〉は,孫文亡き後,黄埔軍官学校の卒業生を中心に国民革命軍を組織し,第一軍司令官(のち総司令)として,孫文が夢見ていた北伐(ほくばつ),つまり“軍閥退治”に乗り出します。
 
「北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している!国民革命の精神を集め,孫文の遺志を完成しようではないか!」
 1926年広州【立命館H30記】を出発した〈蒋介石〉は,各地の軍閥を次々に倒していきました。地主の支配に苦しんでいた農民の多くも,〈蒋介石〉側についていき,各地に国民党の旗である「青天白日旗」が掲げられていきました。
 さて,国民党は長江の中流域にある武漢を占領することに成功しましたが,〈蒋介石〉らの右派(共産主義からは距離を置いているグループ。中国国民党が多かった)は別の場所(南昌)にいて,武漢には左派(共産主義を支持するグループ。中国共産党が多かった)が集まっていました。
 ソ連のコミンテルンの工作員〈ボロディン〉(1884~1951)は,「この際,蒋介石を倒してしまえばいいじゃないか」と,左派のグループを支援します。中国でも共産主義革命を起こさせるのが,コミンテルンの目的ですから。左派のリーダーとして,フランスに滞在していた〈汪兆銘〉を中国に呼び返しています。

 この様子をみていた〈蒋介石〉は,「武漢は共産党にのっとられた!」と思いはするものの,北伐はまだ終わっていないのだから,ここで仲間割れしては北部の軍閥政権を倒すことはできないと,ぐっとこらえます。「しかたがない…とりあえず全体会合は武漢で開こう」と妥協をしますが,腹の中ではいつ共産党を追放してやろうかと,準備をはじめていました。1927年に武漢で開かれたこの会合では,共産党員が党や政府の重役につくことが決定し,「これでは国民党が共産党,そしてそのバックについているソ連に乗っ取られてしまう」と危機感を感じた〈蒋介石〉は,ついに行動に移します。
 1927年3月に,南京・上海をたてつづけに占領した国民革命軍は,4月12日に突如,共産党関係者を攻撃しました。そして,「上海の列強の皆さん。われわれ国民党はあなたがたを攻撃はしません。共産党のようにストライキもさせません」とアピールし,欧米諸国をバックにつけることにも成功。国民党によって共産党員【追H28】は弾圧され,第一次国共合作は解消されてしまいました。
これを上海クーデタ(四・一二事件) 【追H28時期を問う】【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【本試験H14孫文ではない】【セA H30】【早・法H31】といいます。
 武漢政府に参加していた国民党の左派(国民党員なのだけれども,共産主義グループに共感している人たち。たとえば〈汪兆銘〉)は,〈蒋介石〉に降伏し,南京国民政府【追H20北京に国民政府は樹立していない、H25時期が20世紀前半か問う】【早・政経H31上海クーデタにより樹立されたこと、浙江財閥の支援があったことを問う】に吸収されました。
 中国共産党は,8月・9月に朱徳を中心に武装蜂起しますがいずれも失敗し(南昌蜂起・秋収蜂起),それ以降は国民党からの攻撃をおそれて,“山”に入ります。人里離れた山ですので,自給自足の厳しい暮らしを送っていきます。ひとまずの拠点は湖南省の境に近い,江西省の井崗山(せいこうざん)です。


 〈蒋介石〉は共産党に弾圧を加え,「純・国民党」のメンバーによる北伐を再開したのですが,障害が発生しました。
 「〈蒋介石〉が中国を統一してしまったら,今まで北京の軍閥政府(段祺瑞)などと仲良く癒着していたおかげでもらっていた利権がなくなってしまうかもしれない…。北伐【追H20】に対抗して自国の勢力圏を守るために出兵しよう」と,〈田中義一〉内閣が1927~28年に山東出兵【追H20】をおこなったのです。ちなみに,すでに1926年から元号は「昭和」。
 〈蒋介石〉は日本軍と正面で戦ったら元も子もないと,武力衝突の起きた済南(さいなん)事件【立命館H30記】で気づきます。日本軍を避けながら北京に向かった〈蒋介石〉は,当時北京を支配していた〈張作霖〉と戦って,1928年についに北京の軍閥政府を倒しました。

 〈張作霖〉は,満洲方面の奉天軍閥の首領です。「〈蒋介石〉に北京を奪われるなよ」と日本から期待をかけられていた〈張作霖〉は,〈蒋介石〉に敗れたので,すでに用無しです。満洲の奉天に帰る列車が爆破され,死亡しました。満洲を担当領域とする日本の関東軍【立命館H30記】の謀略です。父を消された子の〈張学良〉は「いつか日本にカタキを打つぞ」と,父の敵であった〈蒋介石〉と結び,北伐は終わりました。
 北伐の完成とともに中国国民党は軍政を終了させ,〈孫文〉のプランに従って民主主義を達成するまでの過渡期として訓政(くんせい)の段階に移行が進められていきました。訓政というのは,中国の国民にいきなり民主主義を導入してもうまくいかないだろうから,まずは中国国民党が中心に政治をおこない,国民に民主主義を教え込んでいこうというやり方のことです。




・1920年~1929年の東アジア  現④モンゴル
 モンゴル高原では,モンゴル人民党を中心にソ連共産党を”助け舟”として,独立を目指す動きが進んでいました。1921年のモンゴル人民党党大会で臨時政府が樹立されると,ソ連共産党の援助で中国勢力が排除され,モンゴル人民党の政権が独立しました。そのまま国家元首にとどまっていた〈ジェブツンダムバ=ホトクト〉(位1911~24)が亡くなると, 1924年にモンゴル人民共和国(モンゴル人民党は人民革命党【東京H12[2]】に改称)が成立し【東京H8[1]指定語句「モンゴル」】【本試験H15 1950年代初めの成立ではない,本試験H17時期(20世紀後半ではない),本試験H30時期】,活仏を君主としない社会主義国となったのです。ソ連は,外モンゴルに対する中華民国の宗主権を認めていたため,モンゴルはソ連の一部にはなりませんでした。モンゴルでは,王公やチベット仏教への弾圧が強まり,〈チョイバルサン〉【東京H12[2]】【慶商A H30記】による独裁化も進みました(”モンゴルのスターリン”ともいわれます)。
 ただ,第二次世界大戦以前にモンゴル人民共和国を承認していたのはソ連のみで,中華民国も独立を認めていませんでした。



○1920年~1929年のアジア  東南アジア
◆東南アジアでは社会主義思想が民族運動と結びつき,国民意識を形成する動きもみられた

東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム
 フランス支配下のヴェトナムでは,1930年に〈グエン=アイ=クオック〉(のちのホー=チ=ミン) 【東京H28[3]】【追H25東遊運動を進めていない(ファン=ボイ=チャウとのひっかけ)】のもと,ヴェトナム共産党が組織されました。彼はフランスに渡ってフランス共産党に入党し,1924年にモスクワのコミンテルン第五回大会に参加した活動家です。すでに1924年にはヴェトナム青年革命同志会を広州で立ち上げていました。しかし,彼が渡航先の香港でイギリスに逮捕されると,運動は一旦下火になりました。




・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
 フィリピンでは,アメリカの共和党政権(1921~32)の政策により,独立は認められませんでした。フィリピン人の中にも「独立すれば砂糖をアメリカに輸出する特権がなくなってしまう」ことをおそれる大地主たちによる反対もあり,独立運動には“一枚岩”になりにくい構造がありました。




・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ
 ブルネイでは〈ムハンマド=ジャマルル=アマル2世〉(位1906~1924)と、〈アマド=タジュディン〉(位1924~1950)にスルタンとしてイギリスの保護下で支配しています。
 〈ムハンマド=ジャマルル=アマル2世〉のときにイスラーム法が公式に導入されました。




・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現④東ティモール
 東ティモールはポルトガルの植民地となっています。
 同じ島の西部(西ティモール)はオランダの植民地です。



・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール、⑦マレーシア
 すでに(1)海峡植民地(ペナン,マラッカ,シンガポール【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】)+(2)マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+(3)非連合州を合わせて,イギリス領マラヤが形成されていました。
 また、イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばし,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。

 マレー半島では、気候の適した天然ゴム【慶商A H30記】のプランテーションや世界最大の埋蔵量を持つスズの生産がさかんで【本試験H17コーヒーではない】、マレー半島で生産された資源はシンガポールで輸出され、鉱山会社、ゴム会社、貿易会社、銀行、保険会社がシンガポールに置かれ、マレー半島のイギリス植民地との経済的結び付きが強まっていきました。
 1924年にシンガポールとマレー半島を直接結ぶ橋(コーズウェイ)ができると、政治的な中心地としてのクアラルンプールに対し、シンガポールはいわば経済的な中心地となります(注1)。
 シンガポールの住民の半数以上が中国人で、民族・言語・宗教によって分節された「モザイク社会」が形成されていきました。中国人は出身地ごとに強固な集団を維持するのが普通でしたが、マレー人と結婚するなどしてマレー人の風習を受け入れた中国人は「プラカナン」(男性はババ、女性はニョニャ)と呼ばれるようになります(注2)。
 シンガポールの経済発展の影では、日本(特に長崎の島原や熊本の天草を中心とする九州西部)からわたった日本女性が売春婦(からゆきさん)として渡った例もありました。第一次世界大戦が終わると、シンガポール在住の日本人商社員などからの批判が出て、1920年に日本領事館が彼女たちの追放を決定しています(注3)。

(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.23。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.36。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.30-31。


・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア
 この時期も,オランダ領東インドではオランダからの独立運動が継続されました。自分たちは「東インド」ではなく「インドネシア」人なんだ。
 「ムラユ語」ではなく「インドネシア語」を話しているんだ。
 このような言い換えがされるようになったのも,この時期です。ただ,「インドネシア」の領域は,オランダによる植民地化によって定められたわけなので,「何がインドネシアなのか」「誰がインドネシアなのか」ということを意図的・意識的に作り出していく必要がありました。その意味でインドネシアにおける国民国家の建設は「想像(上)の共同体」づくりでもあったのです(Cf.〈ベネディクト=アンダーソン〉(1936~2015)『想像の共同体』(1983))。

 第一次世界大戦中にロシア革命が起きると,労働組合運動が発展して1920年にアジア初の共産党として,インドネシア共産党が組織され,大衆の支持を集めますが,1920年代の蜂起に対する弾圧で,壊滅しました。一方,オランダからの留学帰りのエリート〈スカルノ〉(1901~70) 【本試験H10】【追H24】【上智法(法律)他H30】は,1928年にインドネシア国民党【本試験H10スハルトとのひっかけ】【追H24】を建設しました。彼は反オランダのためにはイスラーム教・マルクス主義(共産主義)・民族主義がまとまるべきだと訴え,1929年に植民地当局に逮捕されましたが,その後も民族運動を続けます。

 1928年には民族主義運動を起こしていたジャワ島・ジャカルタの青年指導者たちによる2回目の会合で「青年の誓い」が宣言され,その中で『インドネシア語という統一言語を使用する』ことが定められました。このインドネシア語は,人口比率の上で一番話者の多かったジャワ語ではなく,島を越えた共通語(地域を越えて広く話される共通語のことをリンガ=フランカといいます)であったマレー語の一方言とすることが定められました。
 インドネシアは今後この「一祖国・一民族・一言語」の原則を理想とし,マレー半島も含めたかつてのマジャパヒト王国の領域の統一を夢見ていくことになります。しかし,そもそもジャワ島・スマトラ島・バリ島・カリマンタン島・スラウェシ島などの島しょ部の統一すら容易ではなく,今後の課題となっていきます。



・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
 カンボジア王国はフランス領インドシナの一部に編入され、保護国となっていました。
 国王〈シソワット1世〉(位1904~1927)はフランスによる支配に協力的でしたが、王には名目的な存在で、実権はフランス人総督が握っていたのです。
 1927年に息子〈シソワット=モニヴォン〉(位1927~1941)が即位しました。




・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑨ラオス
 ラオス北部のルアンパバーン王国と、ラオス南部のチャンパーサック王国は、それぞれフランス領インドシナの一部に編入され、保護国となっていました。



・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
 この時期のタイを支配していたのはチャクリ朝(シャム王国)です。
 1925年に〈ラーマ7世〉(プラチャーティポック、位1925~1935)が即位しました。
 しかし、専制君主制に対する批判も出るようになり、立憲君主制をめざす人民党が1927年に結成されています。



・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
 この時期のビルマはイギリス領インドの1州となっています。



・1920年~1929年のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア
 この時期も,オランダ領東



○1920年~1929年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1920年~1929年のアジア  南アジア 現③スリランカ,
 この時期のセイロン島はイギリス領です。

・1920年~1929年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆第一次大戦後もインドの独立は達成されず,インドの独立運動が激化する
 インドは第一次世界大戦でイギリス【本試験H12ドイツではない】に協力したものの,戦後の自治の約束は守られませんでした。イギリスの発布したローラット法【追H27第二次世界大戦後ではない】【早・政経H31 年代】やアムリットサル事件【早・政経H31 年代】に対し,〈ガンディー〉は,第一次非暴力・不服従運動(1919~22)を展開します。〈ガンディー〉の考え方はこうです。

 「この宇宙や人間の根源には,唯一絶対の真理がある。それを正しくとらえること(サティヤーグラハ)が必要だ。不正を正すためにはブラフマチャリヤー(自己浄化。物質的な欲望に惑わされないこと)と,アヒンサー(不殺生)を守るべきだ。」
「自分をコントロールし,すべての人間を愛する。そうすることで迫害を受けても,屈することなく受け止めよう。やがて相手は,自分のほうがまちがっていたのだと,気づくだろう。」
 〈ガンディー〉の運動で有名なのは,綿糸の手紡ぎ車(チャルカ)を回す運動です。イギリスの機械式綿布が流入して以来,ほこりをかぶっていた糸車をもう一度回し,インド人の手で綿布を織ろうと呼びかけたのです。
 また,ときを同じくして,第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国のカリフを守ろうという運動がインドのムスリムにも飛び火し,戦勝国のイギリスに対する抵抗運動が起こります。〈ガンディー〉は,イスラーム教徒のこのヒラーファト運動にも協力していましたから,一時的に全インド=ムスリム連盟も〈ガンディー〉に協力したのですが,農民が警官を殺害するに至ると,〈ガンディー〉は運動の停止を宣言。
 〈ガンディー〉はイスラーム教徒との提携も呼びかけましたが,〈ガンディー〉の思想はヒンドゥー教の色彩も強かったことから,イスラーム教徒の中には「同じインド人であっても,宗教が違うのだから別々の民族として国家を建設するべきだ」という考えも強くなっていきました。近現代のインドで,宗教や宗派,カーストに基づき集団どうしがまとまり,他集団と対立していく動きをコミュナリズム(宗派主義)と呼ぶことがあり,現在でも依然としてみられる現象です。
 全インド=ムスリム連盟【追H24】の〈ジンナー〉【追H24ネルーではない】も,〈ガンディー〉の運動から距離をとるようになり,ここからしばらく反英運動は下火になってしまいます。

 1927年になり,ようやくインド統治法を改正するためにイギリスから憲政改革調査委員会(サイモン委員会)が組織されるのですが,委員に1人もインド人が含まれていなかったことから,反英運動が再燃。1928年にインドに上陸したときには「サイモン帰れ!」の大合唱。反対運動に加わっていたインド人がイギリス人警官に殺害される事件も起き,インド国民会議派や全インド=ムスリム連盟の中でも,どのように対応するべきか意見は割れてしまいます。
 そんな中,1929年に国民会議派のラホール大会が開催され,議長〈ネルー〉【追H24全インド=ムスリム連盟を指導していない】は「プールナ=スワラージ(完全独立)」を主張【本試験H15プールナ=スワラージに反対したわけではない】【追H24時期(ガンディー暗殺、ベンガル分割令との時系列)】しますが,「まずは自治を目標にするべきだ」という勢力もいて,意見がまとまりません。




○1920年~1929年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国崩壊後に各地に近代的な国家が成立するが
「民族」問題が生まれ欧米列強の経済的支配続く
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆オスマン帝国領のうち“肥沃な三日月地帯”が英仏の委任統治領となった後,独立に向かったが,英仏の影響力は残された
 パレスチナ(ヨルダン川の西部) 【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】,ヨルダン川の東部【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】(パレスチナ側から見てヨルダン川の向こう側(trans-)ということで,トランスヨルダンと呼ばれました),シリア【本試験H5地図・フランスの勢力圏】,イラク【本試験H5地図・イギリスの勢力圏】では,イギリスとフランスによって“むりやり”勢力圏が確定されたため,従来はこのような境界を越tえて分布していた民族や宗派がバラバラに分断され,互いに対立するようになっていきます。

・1920年~1929年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 アフガニスタンは1919年にイギリスと第三次アフガン戦争【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】を戦った後に,完全独立しました。立憲君主制を樹立し,近代化につとめましたが,地理的に中央ユーラシアとインドの中間地点にあることから,今後も大国の思惑に左右され続けることになります。

・1920年~1929年のアジア  西アジア 現②イラン
◆イラン高原ではパフレヴィー朝が成立し近代化を進めたが,イギリス・ロシアへの従属は続いた
パフレヴィー朝が,近代的な「イラン」を建設する
 イラン立憲革命が失敗に終わると,イラン北部は事実上ロシア軍の支配下に置かれ,イラン南部はイギリス軍が中立地帯近くにまで軍を進めていました。第一次世界大戦が始まると1914年にイラン政府は中立を宣言しましたが,イギリスとロシアへの対抗からイランの政権にはドイツへの接近を図ろうとする動きもありました。
 しかし,西隣のオスマン帝国がドイツ側(中央同盟側)で参戦したために,イランはイギリスとロシアがそれを押しとどめるための戦場となり,大きな被害をこうむりました。
 弱腰のテヘラン政府に対する抵抗運動が強まり,イラン人の国家の独立を主張するジャンギリーというグループの活動がギーラーン地方で活発化しました。
 そんな中,1919年8月に不平等なイラン=イギリス協定が結ばれ,イランはイギリスとロシアの緩衝地帯として設定されました。イランではソ連の支援を受けた労働者による共産党の活動とともに,イギリスに対する反対運動が各地で盛り上がっていきます。テヘラン政府は実権をなくし,地方ではアゼルバイジャン地方でテュルク系のアゼルバイジャン人の政権も樹立されました。
 このような混乱の中,強力な軍隊によりイラン国内をおさめようとする運動が高まり,テヘランで1921年にクーデタが起きました。この主力となったのが,〈レザー=ハーン〉が指揮をとるガッザーク部隊であり,実権掌握後はイギリスとの協約の破棄やソ連への接近(ロシア側に有利な友好協定に調印)といった政策を打ち立てました。
 1925年にガージャール朝は国民議会によって廃止されることが決定され,〈レザー=ハーン〉は同年12月に〈レザー=シャー=パフラヴィー〉(位1925~41)として即位することになり,1926年には戴冠式をおこないました。こうしてできたのがパフレヴィー朝【本試験H7】【H29共通テスト試行 バルフォア宣言やフサイン=マクマホン協定とは無関係】【H27京都[2]】です。「シャー」という古代ペルシアの王の称号を用いたのは,古代のサーサーン朝のイメージを用いて「イラン人意識」を前面に押し出すことで,クルド人【東京H25[3]】やアゼルバイジャン人などの「非イラン人」を抑圧(よくあつ)し,「イラン人の国家」としてのまとまりを強めようとしたからです。『王の書』(シャー=ナーメ)がイランの国民的な詩人として扱われるようになったのも,この時期からです。月名も,アラビア語の月名からイランの太陽暦であるジャラーリー暦に由来するペルシア語の名称に改められました。
 従来はバラバラだった軍隊を統一し,義務徴兵制をしいて国軍を建設し,地方の反政府勢力を次々に鎮圧していきました。法・行政・司法の西欧化(近代化【本試験H7】)も推進し,イスラームと国家を切り離そうとしました(政教分離)。
 1928年には不平等条約を撤廃し近代化を推進していきましたが,国内の石油はイギリス企業に握られていました。

○1920年~1929年のアジア  西アジア 現③イラク
 イラクは,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下で1921年にイラク王国が成立しました(完全独立は1932年)。ヨルダン川以西のトランスヨルダンには,1923年に委任統治下でトランスヨルダン王国が成立します(完全独立は1946年)。

○1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 イエメン北部は1918年にイエメン王国として独立しています。イエメン南部のアデン地方は,インド洋交易の基地として重要視され,1937年にイギリスの直轄植民地となりました。

○1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
アラビア半島ではサウード家がヒジャーズ地方を併合した
 ラシード家に敗れたサウード家の当主〈アブドゥルアズィーズ〉はアラブ遊牧民の戦力を利用し1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,1924年にハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪い,ヒジャーズ地方を併合しました。のちのサウジアラビア(1932年に改称) 【追H20イブン=ルシュドによる建設ではない】です。

○1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑬パレスチナ
 パレスチナは,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となり,大戦中の「バルフォア宣言」【本試験H9アラブ人に独立をみとめたものではない】に基づき,シオニズム【東京H8[1]指定語句】(イェルサレムの”シオンの丘”の地にユダヤ人国家を建設しようとする運動)の影響を受けたユダヤ人の移民が増加しました。彼らはまずテルアヴィヴの港ヤッファに上陸し,乾燥地に灌漑(かんがい)を広げてオレンジの栽培などを行うようになりました。しかし,しだいにアラブ人との土地をめぐる争いも激化し,1928年~29年には,イェルサレムの嘆きの壁で祈りを強行したことでイスラーム教徒との間の武力衝突も起きています。
 こうして,オスマン帝国時代にはイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒が混在し共存していたパレスチナに,新たな民族対立が生まれました。
 ・新たに移住してきたユダヤ人→「ユダヤ人」
 ・もともとパレスチナに住んでいたイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒→「パレスチナ人」(アラブ人)
 という区別です。
 こうして現在も未解決であるパレスチナ問題が発生したわけです。
・1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島は第一次世界大戦中に,イギリス領として併合されていました。

○1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
◆オスマン帝国が崩壊し,トルコは政教分離の原則によりヨーロッパ的な近代国家を建設した
 〈ムスタファ=ケマル〉【本試験H16ウラービーではない】【追H29】【セA H30初代大統領か問う】【上智法(法律)他H30】(1881?~1938)は現在のギリシア出身で,軍人になるため士官学校に進んでいた頃から,〈アブデュル=ハミト2世〉の専制政治に不満をいだいていました。その後はイスタンブルの陸軍大学に進み,西欧風の教育を受けフランス語にも堪能でした。
 オスマン帝国が第一次世界大戦でドイツ側にたって参戦すると,〈ムスタファ=ケマル〉はニュージーランドやオーストラリア軍も参加したアナトリア半島上陸作戦を食い止め,名声を高めます(ガリポリの戦い)。
 しかし大戦でドイツ側が大敗北すると,オスマン帝国は英仏と講和の話し合いを初めます。「青年トルコ」政府は崩壊,〈エンヴェル=パシャ〉はモスクワに亡命してしまいました。ギリシアも,かつて「イオニア植民市」の分布していたアナトリア半島のエーゲ海沿岸のイズミル(スミルナ)を占領してしまう。
 最後の皇帝(スルターン)〈メフメト6世〉は,ほとんど英仏の言いなり状態で,1920年には領土の削減・治外法権の承認・軍備縮小を盛り込んだセーヴル条約【本試験H13ローザンヌ条約,パリ条約ではない】を結ばされてしまいます。
 この条約では,トルコ南東部のフランス【本試験H20】の委任統治領シリア【本試験H20】,イギリス【本試験H20フランスではない】の委任統治領イラク【本試験H20】との国境付近にクルド人【東京H25[3]】の「クルディスタン」を建国するための地域が盛り込まれていました【本試験H13問題文(解答には必要なし)】。のちにこの案はローザンヌ条約(1923) 【追H26ロカルノ条約とのひっかけ】【本試験H13セーヴル条約ではない】が結ばれたことで,セーヴル条約とともに“幻”となり,以後クルド人の独立問題に尾を引いていきます。
 オスマン帝国の帝国議員は「このままでは英仏に占領され,帝国領がバラバラにされるかもしれない」と危機感を抱きます。英仏は皇帝にプレッシャーをかけ,英仏に抗議をしようとしている帝国議会を解散させ,イスタンブールを占領してしまいました。そこで議員たちは,アンカラに逃げ,ムスタファ=ケマルの力を頼るようになっていきました。ケマルは,アンカラでトルコ大国民議会を開き,支持を得ます。オスマン帝国のスルターンは,「オスマン帝国が多少バラバラに分割されて,英仏に占領されてもかまわない。自分のスルターンの位だけは守っておきたい」と考え弱腰だったのに対し,トルコ大国民議会は「あくまで英仏を追い出すべきだ。これは祖国解放戦争だ!」と主張。議長に就任した〈ケマル〉は内閣を組織し,戦争を指揮するために独裁体制をしきます。
 1922年,アンカラの政府は,アナトリア半島沿岸都市イズミルを占領していたギリシア王国軍を撃退し(ギリシア=トルコ戦争,希土(きと)戦争),連合国と休戦協定を結びました(イズミルのあるエーゲ海沿岸にはギリシア語を話す住民がいました)。つまり,オスマン帝国がなしえなかったことを,〈ケマル〉の軍は成功させることができたわけで,一気に〈ケマル〉は救国の英雄となりました。
 1922年にトルコ大国民議会は,カリフであると同時にスルターンであった〈メフメト6世〉の地位のうち,スルターンの地位の廃止を決議【本試験H3,本試験H12時期(第一次大戦「後」かを問う)本試験H16エジプトのウラービーによる廃止ではない】し,スルターン(皇帝)を失ったオスマン帝国は滅亡しました【本試験H3】【追H25時期が「第一次世界大戦を経て」か問う】。カリフとしての〈メフメト6世〉(位1918~22)の地位は保障されましたが,彼は国外に亡命。カリフの地位は〈アブデュルメジト2世〉に受け継がれましたが,アンカラ【本試験H25】に首都を置いた〈ケマル〉の新政権はイスラーム教とは無関係の「世俗共和政」を打ち立てる方針でした。
 この一連の政治変動をトルコ革命といいます【法政法H28記】。

 1923年7月には連合国ともローザンヌ条約【追H20】を結び,セーヴル条約で縮小された領域を奪回することに成功しました。ローザンヌ条約の下で,1923年10月ににトルコ共和国【追H29】【東京H22[3]】が建国され(初代大統領は〈ムスタファ=ケマル〉【追H29】),1924年にはカリフ制を廃止しました【追H20地図問題(トルコ共和国の領域),第一次世界大戦後ローザンヌ条約を締結したか問う】。
 この条約では,セーヴル条約で設定されていたクルド人【東京H25[3]】の「クルディスタン」建設がなかったこととされ,クルド人の居住地域はトルコ共和国,シリア,イラク,パフレヴィー朝ペルシア(イラン)などに分かれました。これがその後も続くクルド人独立問題の本格的な始まりです。

 さらに〈ケマル〉は,自分が党首である共和人民党の一党独裁体制【本試験H7スルターン制の下ではない】を確立し,圧倒的な権力のもとで,さまざまな近代化【本試験H7】政策を実現させていきます。例えば,1925年からは女性解放の諸政策(頭をおおうチャドルの廃止,一夫一婦制,女性参政権),1928年には文字改革(1928)でアラビア文字【本試験H6,本試験H8 アラビア文字の図版から選ぶ。契丹文字ではない】を廃止しラテン文字【本試験H6,本試験H8 ラテン文字の図版から選ぶ(Yeni Düşünceの記事の転用とみられる)。キリル文字ではない】のアルファベットを採用(文字革命【本試験H6】)。右から左に向かって書くアラビア文字から,左から右に向かって書くラテン文字への変更は,まさに革命的な変化です。たとえば,トルコは「Türkiye(テュルキイェ)」と表記されることになりました。
 他にも,カレンダーもイスラーム暦からグレゴリウス暦へ切り替えるなど,トルコはヨーロッパ文明への旋回を始めます。

 このような業績から,1934年には,議会がケマルに対し「アタテュルク(トルコの父)」を与えました。
 上からの改革により近代化がすすめられていった点は日本によく似ていますが,伝統的なイスラーム教徒からの反発や,テュルク(トルコ)人を優先する政策に対するクルド人【東京H25[3]】などの少数民族の対立といった課題は残されることになります。

○1920年~1929年のアジア 西アジア 現⑰ジョージア(グルジア),⑱アルメニア,⑲アゼルバイジャン
 アルメニア人は黒海とカスピ海の間にある,カフカズ(英語ではコーカサス)山脈(5642メートルのエリブルース山が最高地点です)の南に分布する民族です。古代のアルメニア王国は,かつてローマ帝国やササン(サーサーン)朝の支配を受けましたが,民族的な伝統(アルメニア語,アルメニア正教)を守り続けています。オスマン帝国,イランのカージャール朝,1828年のトルコマンチャーイ条約【東京H26[1]指定語句】以降はロシア帝国の支配を受けますが,第一次世界大戦のときに英仏に支援されて独立運動を起こしました。
 第一次世界大戦後のセーヴル条約では,クルド人とともにアルメニア人の民族自決がうたわれていました。しかし,1920年には「アンカラ政府はセーヴル条約を無効とする」として,アルメニア人をカルスから追放し,のち占領しました。逃げ遅れた市民6000人が虐殺されています(アルメニア人虐殺)。アルメニアの首都イェレヴァンの政府ではソ連に接近する動きもあり,トルコ共和国としてはアルメニアにソ連が南下することを恐れたという事情があります。
 アメリカ合衆国のでアルメニア人組織はこの動きに抗議しましたが,アメリカ合衆国政府は「イラク北部の石油」をめぐる取引を重視するスタンダード石油の圧力もあり,トルコ共和国政府に対してアルメニア独立を働きかけることはしませんでした。
 アルメニアでは結局ソ連の支援を得て,アルメニア人を主体とするボリシェヴィキ軍がアルメニア=ソヴィエト社会主義共和国を樹立しました。1921年には露土和親条約が締結され,カルスとアルダハンはトルコ,バトゥミはソ連の領土ととりきめられました。
(注)ローザンヌ条約では37~42条に「信仰上・人種上の権利を保障する対象となる少数民族」とのみ記載されるにとどまりました。


 1922年12月にシベリアから日本が撤退すると,同年12月30日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。
 例えば,ポーランドとロシアの狭間に位置するベラルーシの,ベラルーシ=ソヴィエト社会主義共和国が,ロシア=ソヴィエト社会主義共和国と統合して,ソ連を形成したわけです。あくまで「自治国」という形式をとったわけですが,“ロシア帝国”の支配を受け継いだ面も大きく,実際にはロシア人のソヴィエト社会主義共和国が強い力を持っていたため反発もありました。
 ほかに,黒海沿岸のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国がソ連に加入しましたが,現在のジョージア(2015年までは「グルジア」)は猛反発し,最終的にアルメニアとアゼルバイジャンをあわせてザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国が形成されることで決着しました。2015年以降,ロシア語的な「グルジア」という国名から,「ジョージア」という英語名に変更したのにも,反ロシアの国柄があらわれているといえます。
 ソ連はほんらい,国家としてのまとまりよりも農民や労働者階級の団結を主張していましたから,民族主義(民族ごとに団結したり,国家を作ろうとしたりする考え)との相性はあまりよくありませんでした。しかし,民族主義を弾圧すると大変なことになるというのは,ポーランドの支配を通して思い知っていましたので,ソ連を構成するロシア人以外の地域では自治を認め,ロシア語以外の言語の使用も認められていました。1920年代には各共和国で「土着化」政策がとられ主要民族が重用されるなど,比較的緩やかな民族政策が採用されていました(注)。1927年にはに反帝国主義民族独立支持同盟がコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導の下,ベルギーはブリュッセルで開催され,植民地支配下にあった37の地域代表が集まりました。この時期のソ連は,イギリスやフランスを中心とする帝国主義体制に反対する上で,中心的役割を果たそうとしていたのです。

(注)世界恐慌後に〈ヒトラー〉がドイツで政権を握ると,ソ連は資本主義国と接近し,民族政策も民族主義を押さえつける方向に転換していきます。




●1920年~1929年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ


・1920年~1929年のインド洋海域  マダガスカル
 マダガスカルはフランスの植民地です。




●1920年~1929年のアフリカ
 第一次世界大戦後,旧ドイツ植民地はイギリスとフランス,南アフリカの委任統治領(事実上の勢力圏)となりました。国際連盟では「民族自決」がうたわれたものの,アフリカの大部分は依然としてイギリスとフランスを中心とする植民地に覆われ,独立を達成している国家はエチオピア帝国(⇒1920~1929の東アフリカ),リベリア共和国(ただし先住民とアメリカ系黒人との対立が続いていました(⇒1920~1929の西アフリカ)),南アフリカ連邦(イギリス帝国の自治領(⇒1920~1929の南アフリカ))にとどまりました。

○1920年~1929年の東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
イタリア領
 エリトリアは1885年以降,イタリアの植民地となっています。

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
フランス領
 現・ジブチは,1896年以来にフランス領ソマリとして植民地化されています。


・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
独立を維持
 〈メネリク2世〉の後継となった〈イヤス5世〉(位1913~16)はイスラーム教徒の信仰が厚かったため,エチオピア正教会を信仰する国内の領主の抵抗を招きます。オスマン帝国側に立ち第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しようとすると,領主らによる抵抗で廃位され,〈メネリク2世〉の娘の女帝〈ザウディトゥ〉(位1916~30)に代わりました。しかし実権は摂政を務めた皇太子〈ラス=タファリ=マコンネン〉(1892~1975,のちの皇帝〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974))が握っていました。
 〈タファリ〉は,1924年にヨーロッパを公式に訪問し,国際連盟にも加盟し国際的な地位を上げることに成功します。

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア
 ソマリア北部は1886年にイギリスによりイギリス領ソマリランドとして植民地化されています。
 ソマリア南部は1908年にイタリアがイタリア領ソマリランドとして植民地化しています。
 ソマリアには多数の氏族が割拠する状況で,統一した抵抗運動はみられませんでした。

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現⑤ケニア
 ケニアはイギリスの東アフリカ保護領となっていました。1920年代からはキクユ人による独立運動もみられるようになっていきます。

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 現⑥タンザニア
 タンザニアの大陸部タンガニーカは,イギリスによる委任統治下にありました。
 ザンジバル島のザンジバル王国は,イギリスにより保護国化されていました。

・1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
ウガンダ…イギリス領
 ウガンダは1894年以降イギリスの保護領となっていました(ウガンダ保護領)。

ルワンダ,ブルンジ…ベルギー領
 ドイツ領東アフリカの地域のうち,タンガニーカはイギリスの委任統治領として分離され,現在のルワンダとブルンジの地域はベルギーの委任統治領となっていました(ルアンダ=ウルンディ,1924~1945)。

 ベルギーの統治下では,従来は区別の曖昧であった「フツ」と「ツチ」という住民グループを,「人種」的な概念を利用して明確に区分されます。多数派のフツ人は,ツチ人のルワンダ国王の支配下に置かれ,両者の間には従来みられなかったような対立意識が形作られていきました。




○1920年~1929年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1920年~1929年の南アフリカ  現①モザンビーク
ポルトガル領
 モザンビークはポルトガル領として植民地支配されていました。

・1920年~1929年の南アフリカ  現②スワジランド
 スワジランド王国では〈ソブーザ2世〉(位1899~1982)が,1921年に摂政から権限を移譲され,国王として親政をスタート。
 イギリス高等弁務官領の保護下にあったものの,〈ソブーザ2世〉は土地の返還をイギリスに対して求めています。
 


・1920年~1929年の南アフリカ  現③レソト
 レソト王国はイギリスの保護国となっています。


・1920年~1929年の南アフリカ  現④南アフリカ
イギリス帝国の自治領
 南アフリカ連邦は1910年以降,イギリス帝国内部の自治領でした。
 1926年以降,イギリスでは南アフリカ連邦を,王冠への共通の忠誠の下で本国と対等の立場にしようという議論が高まっていきます。

 1920年代には原住民の反乱も起きていますが鎮圧され,白人支配層による黒人の抑圧は強まっていきました。

・1920年~1929年の南アフリカ  現⑤ナミビア

 第二次世界大戦中に占領していた南西アフリカ(現在のナミビア)は,1921年に国際連盟によって南アフリカ連邦の委任統治領になっています。 ・1920年~1929年の南アフリカ  現⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ

 北ローデシア(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領となり,1925年にはザンビア南部のカタンガで世界最大の銅山(カッパーベルト)が発見されると,外国資本が進出を本格化させていきました。

 南ローデシア植民地(現在のジンバブエ)は,1923年に白人のみの住民投票で自治政府が成立しました。

 マラウイ湖(タンガニーカ湖)の西に面するニヤサランド保護領(マラウイ)は,イギリスの支配を受けていました。ただ,鉱産資源・プランテーション用の大土地にも恵まれず,周辺のザンビアやジンバブエと比べると,白人の入植はすすみませんでした(注1)。第一次世界大戦前にスコットランドの宣教団の〈ブース〉の影響を受けた〈チレンブウェ〉は,マラウイで初めて植民地化に反対する運動を起こし,その肖像は現在のマラウイのすべての紙幣に刷られています(注2)。
(注1)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.58
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.58

・1920年~1929年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ベチュアナランド保護領として,イギリスの統治下にありました。

○1920年~1929年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
 ・ガボン植民地 →現・⑥ガボン共和国
 ・中央コンゴ植民地 →現・⑤コンゴ共和国
 ・ウバンギ=シャリ植民地 →現・②中央アフリカ共和国
 ・チャド植民地 →現・①チャド共和国
 これらの地域はフランス領赤道アフリカとしてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。

 現在のコンゴ民主共和国は,③ベルギー領コンゴとして植民地化されています。
 現在の⑦サントメ=プリンシペはポルトガルの植民地,⑧赤道ギニアはスペインの植民地です。
 現在の⑨カメルーンは,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となっていました。
 現在の④アンゴラではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。




○1920年~1929年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 現在の①ニジェール共和国,③ベナン,⑥コートジボワール,⑪セネガル共和国,⑬モーリタニア,⑭マリ共和国,⑮ブルキナファソは,フランスの植民地支配を受けていました。

 現在の②ナイジェリア,⑫ガンビアはイギリス領です。

 黄金海岸(現在の⑤ガーナ)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でした。ロックフェラー医学研究所の研究員であった〈野口英世〉(1876~1928)は1927年にガーナにわたり,当時は治療法のなかった黄(おう)熱病(ねつびょう)の研究に着手,みずからが罹患して亡くなりました(ワクチンの開発にはいたりませんでした)。

 現⑧シエラレオネはイギリス領でした。

 現④トーゴは旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。

 現⑩ギニアビサウはポルトガル領でした。

 現⑦リベリア共和国では依然としてアメリカ系黒人が中央政府を主導しています。アメリカ系黒人が,先住民を天然ゴムのプランテーションなどで酷使していたことが明るみに出ると,国際社会からの非難を浴びることになります。

 現⑪セネガルの都市部の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となっていました。「市民」として扱われた者はフランスへの留学の切符をつかむ者もあり,パリでの世界各地の黒人との出会いを通じて,黒人らしさを積極的に打ち出し西欧の文明に対抗する“ネグリチュード”という思想運動を発展させていくことになります。




○1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 第一次世界大戦(1914~1918)中は,イギリス側に立ちオスマン帝国と戦っていたエジプト。
 戦後の1922年に,エジプト王国が成立しましたが,イギリスの影響は残されました。

・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
 スーダンはイギリスとエジプト(1922年以降はエジプト王国)の共同統治下に置かれています。
 スーダンにおける民族運動が活発すると,北部と南部を分断する統治が実行にうつされました。


・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコはフランスとスペインが進出していました。フランス領モロッコではアラウィー朝が保護国となっていました。
 南部のスペイン領モロッコは,地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域です。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されましたが,1926年に崩壊しました。その後もモロッコでは抵抗運動が起き続けます。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのちの西サハラとなります。


・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 アルジェリアはフランスの支配下に置かれています。

・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 フサイン朝のチュニジアは1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。


・1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 イタリア領となっていたリビアでは,神秘主義教団のサヌーシー教団がオスマン帝国とともに抵抗運動を続け,イタリアと戦いました。1920年に停戦したものの,1922年にローマ進軍で〈ムッソリーニ〉がイタリアの政権をとると再びサヌーシー教団との戦闘が始まります。教団指導者の〈ムハンマド・イドリース〉(1889~1983,のちのリビア独立時の国王)がエジプトに亡命した後も,教団の〈オマル=ムフタール〉(オマー=ムクターとも。1862~1931)は抵抗運動を続けました(#映画「沙漠のライオン」リビア・米1981では,サヌーシー教団が否定的に描かれています)。





●1920年~1929年のヨーロッパ

◆第一次大戦後のヨーロッパには,「ヨーロッパ文明」への懐疑と,敗戦国の混乱が生まれる
露・墺・独・オスマン帝国が崩れ,南・東・中央ヨーロッパの新興国に加え,ソ連が成立する
 ホモ=サピエンス史上,未曾有の死傷者をもたらした第一次世界大戦。
 その終結とともに,広範囲を支配していた「帝国」が崩壊しました。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国【本試験H7存続していない】からは,バルト三国,ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリー,セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が独立します。
 また,ドイツ帝国は内外の領域を失いドイツ革命により崩壊,同じく領域を失ったオスマン帝国も革命により崩壊しました。

 一方,ロシアでは大戦中に成功した革命により,帝国が滅亡。1922年にはロシア帝国の領域をほぼ継承するソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。
 社会主義に基づき,共産主義を目指す国家が誕生したことで,ヨーロッパにおける政治思想の対立軸が大きく変わります。

 すなわち,国民国家の建設と資本主義体制の進展によって国民の統合を進めていったヨーロッパ諸国の中に,次の2つの勢力が加わったのです。

 ①大戦後の問題を,民族意識を国家主導で高めて国家統合をさらに進め,国外の領域を確保することによって解決しようとする勢力と,
 ②大戦後の問題を,社会主義的な改革・革命によって解決し,資本主義体制を否定することによって解決しようとする勢力です。

 ①はしばしば,自民族の優秀性を主張し,国民国家の中に「国家(国民)の敵」を設定するやり方をとりました。
 また,②の運動の背景には,社会主義国家を維持させるため,その勢力圏を世界各地に広めようとしたソ連の影響力がありました。

 さて,大戦で人々の命を奪ったのは,最新の科学技術でした。
 世界を進歩させてくれると誰もが信じていた科学技術がもたらした悲劇に,戦後のヨーロッパの人々の中にはこう考える人も出てきます。
 「自分たちヨーロッパの文明に,何か問題があったのではないか」

 例えば,ドイツの〈シュペングラー〉(1880~1936) 【東京H22[3]】による『西洋の没落』【東京H22[3]問題文】が注目されます。従来の西洋哲学の前提を疑う動きも見られるようになり,〈フッサール〉(1859~1938)は現象学という手法を導入して「人間は,この世界を本当に正しく認識できるのか?」ということをとことん追究しました。
 また,「ヨーロッパの文明以外のアジアやアフリカにも見習うことができるのではないか」「ヨーロッパだけではなく,人類全体のことを考えよう(人道主義,博愛主義)」と考える人も徐々にでてきます。例えば,第一次世界大戦以前からフランス領アフリカで医療・布教活動に従事した,〈シュヴァイツァー〉(1875~1965)は「生命への畏敬」(すべての命に対する愛)を訴えています。また,ヨーロッパ以外の地域の人類の文化が,どのように成り立っているのかを研究する文化人類学も盛んになり,ポーランド出身でイギリス人の〈マリノフスキ〉は,第一次世界大戦のさなか,ニューギニア島北東のトロブリアンド諸島で住民の生活の中に入って,彼らの文化をともに体験しながら記録(参与観察)しました(注)。
 芸術家たちの中でも従来の“芸術”を疑う動きが活発化し,1924年の「シュルレアリスム(超現実主義)宣言」以降,提唱者の〈アンドレ=ブルトン〉(1896~1966)や〈ダリ〉(1904~1989)らが,〈フロイト〉の精神分析の影響を受けつつ,夢の中にいるような幻想的な世界観を表現しようとしました。ドイツでも,不安や恐怖といった感情表現を全面に出した表現主義の運動が盛んになりました

 また,ヨーロッパが発達させてきた産業資本主義が,国家による戦争と結び付いたことも大きな問題として認識されました。従来の農耕地帯を支配した国家や,騎馬遊牧民の関係した大きな戦争は,徴税のために領土を広げることや,交易ルートを独占するが目的であったわけですが,この時代の戦争には,兵器を製造したり各地に利権を持っている大企業が国家と協力し,お金儲けを目指すという側面があったのです。特に戦後のアメリカ合衆国では産業資本主義経済がさらに発展し,自動車を所有する国民が増えるなど繁栄の時代(パクス=アメリカーナ)を迎え,アメリカ的な文化はヨーロッパにも影響を与えました。
(注)社会人類学者マリノフスキが,20世紀初めのトロブリアンド諸島で目撃したのは,自分や家族の食料を得るために功利的にふるまう人々ではなく,社会的な事業を分業し,指導者の下で特定の過程を経て,ある一つの目的のために働く人々の姿でした(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』講談社学術文庫,2010年)。




○1920年~1929年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

◆ソ連の建設期には反帝国主義が強く打ち出され,資本主義国との対立が深まる。旧ロシア帝国支配下の諸民族は比較的尊重された
 1922年12月にシベリアから日本が撤退すると,同年12月30日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。
 例えば,ポーランドとロシアの狭間に位置するベラルーシの,ベラルーシ=ソヴィエト社会主義共和国が,ロシア=ソヴィエト社会主義共和国と統合して,ソ連を形成したわけです。あくまで「自治国」という形式をとったわけですが,“ロシア帝国”の支配を受け継いだ面も大きく,実際にはロシア人のソヴィエト社会主義共和国が強い力を持っていたため反発もありました。
 ほかに,黒海沿岸のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国がソ連に加入しましたが,現在のジョージア(2015年までは「グルジア」)は猛反発し,最終的にアルメニアとアゼルバイジャンをあわせてザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国が形成されることで決着しました。2015年以降,ロシア語的な「グルジア」という国名から,「ジョージア」という英語名に変更したのにも,反ロシアの国柄があらわれているといえます。
 ソ連はほんらい,国家としてのまとまりよりも農民や労働者階級の団結を主張していましたから,民族主義(民族ごとに団結したり,国家を作ろうとしたりする考え)との相性はあまりよくありませんでした。しかし,民族主義を弾圧すると大変なことになるというのは,ポーランドの支配を通して思い知っていましたので,ソ連を構成するロシア人以外の地域では自治を認め,ロシア語以外の言語の使用も認められていました。1920年代には各共和国で「土着化」政策がとられ主要民族が重用されるなど,比較的緩やかな民族政策が採用されていました(注)。1927年にはに反帝国主義民族独立支持同盟がコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導の下,ベルギーはブリュッセルで開催され,植民地支配下にあった37の地域代表が集まりました。この時期のソ連は,イギリスやフランスを中心とする帝国主義体制に反対する上で,中心的役割を果たそうとしていたのです。
(注)世界恐慌の後ヒトラーが政権を握ると,ソ連は資本主義国と接近し,民族政策も民族主義を押さえつける方向に転換していきます。

 1922年5月に〈レーニン〉が病に倒れると,党内人事を握っていた〈スターリン〉(グルジア出身,1879~1953) 【追H30】です。めきめきと頭角を現します。〈レーニン〉の没後には,同じく後継者候補であった〈トロツキー〉【追H18】【東京H22[3]】を政敵として追放し,〈ブハーリン〉(1888~1938)の協力も得て共産党の実権を握りました。〈トロツキー〉は「世界中で革命を起こそう!」という世界革命論【東京H22[3]問題文】を唱えた一方,〈スターリン〉は「まずはソ連だけで十分だ」という一国社会主義論をを唱えるという違いがありました。

 1928年には,重工業に重点を置き【本試験H17】,社会主義国家の建設をめざす第一次五カ年計画【本試験H17時期】が実行されました。集団農場(コルホーズ) 【本試験H13ラティフンディアとのひっかけ】【追H21国営農場ではない,追H30】や国営農場(ソフホーズ,ソヴィエト農場) 【追H21集団農場ではない】の建設がすすめられました。コルホーズのほうは主に開拓地に建設されました。集団化したほうが効率がいいし,社会主義を建設するのに必要だという触れ込みでしたが,実際には効率よく穀物を政府に集めるための方法でした。収穫の有る無しにかかわらず,社会主義建設に必要なノルマが重視されたため,ウクライナをはじめとする地域で多数の餓死者を出すことになります。
 この時期のソ連は帝国主義諸国と敵対し,コミンテルンの支部としてつくられた各国の共産党を通じて,共産主義運動を世界的に推進していました。議会を通じた社会改革をめざす社会民主主義の政党のことを「資本家にすり寄り,ファシズムと手を結ぶ勢力」として敵視する社会ファシズム論が主流でした(注)。
(注)のち世界恐慌後にヒトラーが政権をとると,資本主義国や社会民主主義勢力との提携に転換します。



○1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)

・1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア
 ヴェルサイユ条約によって新たに誕生したチェコスロバキア(オーストリア帝国から領土を獲得して独立),ポーランド【本試験H6時期(第一次世界大戦直後か)】(オーストリア帝国,ドイツ帝国・ロシア帝国から領土を獲得して独立),ルーマニア(オーストリア帝国,ロシア帝国から領土を獲得)は,地図の上では,ドイツの東に位置し,社会主義政権のソヴィエト=ロシア(のちのソヴィエト連邦)と接しています。
 フランスを初めとする当時の西ヨーロッパの国々は,ロシアで成功した社会主義の革命が,自分の国にも波及してくることを,現実問題として恐れていました。しかも露仏同盟が消滅してしまったためにドイツを“挟み撃ち”にする戦略もとれなくなりました。そこでフランスは,ドイツの向こう側に位置する「チェコスロヴァキア,ポーランド,ルーマニアには,ドイツや社会主義の拡大を阻止するために頑張ってもらう必要がある」と考え,1920年代にこの3か国と小協商を結び,個別に同盟を結びました。しかし,これらの国は産業が未発達であり,経済が行き詰まると独裁者が現れ,国家の権力を強くして国民を支配しようとするようになります。

 ポーランドでは,革命の起きたロシア(ソヴィエト=ロシア。まだ「ソ連」ではありません)との戦争(ポーランド=ソヴィエト戦争)に勝って,独立時に人工的に設定されていた国境線(カーゾン線)より200kmも東に国境が移動されました。また,国境付近の土地をめぐり,クーデタで成立した〈スメトナ〉政権(任1919~20,26~40)のリトアニアとも争っています。
 しかし,その後も国内は混乱が続き,これを収拾したのは独立運動家の〈ピウスツキ〉(1867~1935) 【本試験H31時期(冷戦期ではない)・ポーランドの人か問う】でした。彼はロシア領のポーランド家系に生まれ,ポーランド独立運動に加わり,後のポーランド軍の基盤となる軍を編成していました。ポーランドの独立が承認された後,国内の政治が混乱するなか絶大な支持を集め,1926年にクーデタを起こして政権に就くと,独裁政治をおこない強力な権力をふるいました。ポーランド国内にはウクライナ人やユダヤ人が多く分布していましたが,〈ピウスツキ〉はポーランド人を中心とした多民族国家の建設を目指します。
 チェコスロヴァキアでは,独立運動家だった〈マサリク〉(任1920~1935)が初代大統領を務め,健康の悪化で右腕の〈ベネシュ〉(任1935~38)に引き継ぎました。


・1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④ハンガリー
ハンガリーで社会主義革命が失敗し,権威主義体制へ
 ハンガリーでは1919年に〈クン=ベーラ〉(1886~1939)を指導者とする革命がおこりましたが,社会主義的【本試験H27】な政策が農民に受け入れられず,ルーマニアの介入もあってすぐに打倒され,王国に戻りました。
 しかし,軍部は1920年に国王不在のまま〈ホルティ〉(1868~1959)を摂政に選び,貴族〈ベトレン〉により国民の権利を制限する権威主義的な政治が行われ,大土地所有制が残りました。

 ハンガリーはオーストリアとともに第一次世界大戦の敗戦国の一員とされ,連合国との間に結ばれたトリアノン条約【本試験H17時期・第二次世界大戦後ではない】では,ハンガリーの領土は削減され【本試験H5「大幅に拡大」していない】,ヴェルサイユ体制への反発も残りました。



・1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑤オーストリア
オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し,新興国家が誕生
 第一次世界大戦に中央同盟国〔同盟国〕として参戦したオーストリア=ハンガリー二重帝国は,1918年に降伏。
 1918年に社会民主党が中心となって,臨時政府が成立し,新しい国づくりがスタートしました。
 とはいえ,かつてのオーストリア=ハンガリー帝国の重心はハンガリーをはじめとする東方にあり,「オーストリア」単独で国家を運営していくことには困難が予想され,ドイツと一緒になろうという意見も少なからずありました。
 しかし,1919年のドイツと連合国との講和条約ヴェルサイユ条約で,ドイツとオーストリアが一緒になることは禁止され,さらにオーストリアと連合国との講和条約サン=ジェルマン条約により,正式にオーストリア=ハンガリー帝国の領域がバラバラに解体されました。
 この中で,ドナウ川を国際河川にすることも定められています。



・1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑥スイス
中立国スイスは国際連盟の本部となる
 スイスは第一次世界大戦に参戦せず中立を守っています。
 ヨーロッパ各地から政治的な亡命者を受け入れており,その中の一人がロシアの〈レーニン〉(1870~1924)です。
 1920年に成立した国際連盟の本部はジュネーヴに置かれ,住民投票の結果,スイスは1946年まで国際連盟に加入しています。


・1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
 第一次世界大戦末期の1918年11月3日に,キール軍港で水兵が反乱【本試験H18】を起こしたことが発端で,ドイツ革命が勃発します【本試験H18時期】。11月7日にミュンヘンでも革命が起き,9日はベルリンでゼネストが起きて,軍隊も革命側に立って,社会民主党を中心に「共和国」の宣言を発表。ドイツ皇帝の〈ヴィルヘルム2世〉(位1888~1918)がオランダに亡命してドイツ帝国は滅びました。

 社会民主党は11月11日に協商国(連合国)側と休戦協定を結びました。
 しかし,「どの程度まで革命をすすめるか」をめぐって,スパルタクス団【本試験H10カルボナリとのひっかけ,本試験H12】【本試験H13時期(前1世紀),本試験H15】【追H9〈プルードン〉は無関係】の〈カール=リープクネヒト〉(1871~1919)や,ユダヤ人女性【本試験H15】〈ローザ=ルクセンブルク〉(1871~1919) 【本試験H12ドイツでスパルタクス団の指導者となったか問う】【本試験H15】が社会民主党中心の政権に対抗しようとし,同年12月にはドイツ共産党【本試験H5時期(第一次世界大戦の勃発後か問う)】を結成し,1919年1月に武装蜂起しましたが,鎮圧され組織は壊滅します。

 最終的にドイツの政権は,社会民主党が主導する穏健な左派が中心となり,1919年1月の選挙で「ドイツ国」が成立しました。ワイマールでの議会で憲法が採択されたので,ワイマール共和国(ドイツ語の発音ではヴァイマル共和国。正式名はドイツ国。) 【本試験H3「ワイマール共和国」】【本試験H14ドイツ連邦共和国,ドイツ帝国,北ドイツ連邦ではない】【立教文H28記】とも呼ばれます。初代大統領は社会民主党の〈エーベルト〉(1871~1925,在任1919~25) 【本試験H13国際連盟加盟時の大統領ではない】【追H9第二共和政臨時政府に参加していない,H29ブラントとのひっかけ】でした。ヴァイマル憲法【本試験H29】には,史上初めて「社会権」(国民が,国によって生きるための基本的な権利を保障されるべきであるという権利)の規定がみられ,民主的な内容でしたが,一つ大きな抜け穴がありました。
 「大統領の緊急命令発布権」です。万が一国家に緊急事態があれば,大統領は緊急命令を発布できるという内容です。これがのちに,ナチ党によって濫用(らんよう)されていきます。

 1922年4月にドイツ【本試験H5イタリアではない】【本試験H20フランスではない】は,社会主義国として同じく孤立していたロシア=ソヴィエト社会主義共和国(まだソ連を形成してはいない。ソ連を形成するのは,1922年12月末)と,ラパロ条約【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約~独ソ開戦までの間ではない)】【本試験H5】【本試験H13史料(ロカルノ条約の第1・2条)をみてロカルノ条約ではないと判断する,本試験H20】【同志社H30記】を締結し,国交関係を樹立します。「仲間はずれ」にされた者どうしの提携は,英仏やアメリカを驚かせました。
 1923年に,賠償金の支払いが滞っていることを理由に,フランスとドイツの対立が強まり,フランスとベルギーがドイツの工業地帯ルールを占領し,再び緊張が走りました(ルール占領【本試験H10ドイツが1920年代に資本主義経済の合理化を図ろうとした理由を問う】【本試験H13ライン地方ではない,本試験H19時期,H30内容が問われた】)。右派の〈ポワンカレ〉内閣(任1922~24年)のときです。ロシア革命により露仏同盟が消滅し,ドイツを“挟み撃ち”にすることができなくなったフランスでは「ドイツが立ち直ることのないように,厳しい賠償を課すべきだ」という世論が高まっていたのです。

 ドイツはこのルール占領に対して「不服従運動」で抵抗しますが,それがかえってドイツ国内の工業生産高を低下させ,物価が驚くほど激しく値上がりするハイパー=インフレーション【本試験H3,本試験H10ドイツが1920年代に資本主義経済を合理化させようとした理由として,「インフレーションから立ち直る必要があった」か問う】が発生してしまいます。これを乗り切ったのが〈シュトレーゼマン〉(1878~1929,在任1923)首相【本試験H3「ワイマール共和国」か問う】【本試験H14外相時代に国際連盟加盟を達成したかを問う】です。レンテンマルクという紙幣を発行して,激しいインフレを収束させるとともに,アメリカ合衆国の資本を受け容れ,賠償支払いの緩和にも成功しました【本試験H4アメリカ合衆国がドイツの賠償金支払い問題に関与したか問う】。
 1924年には,アメリカの銀行家〈ドーズ〉(1865~1951)を議長とする国際専門委員会がドーズ案【追H26】【本試験H4,本試験H10ドイツが1920年代に資本主義経済の合理化を図ろうとしたのは,ドーズ案を拒否したからではない】【本試験H13時期(第二次世界大戦後ではない)】を作成しドイツ【追H26ロシアではない】の窮状に答え、賠償の条件が緩められます。この案はのち1929年8月(注)に調印されたヤング案【本試験H4】【本試験H13時期(第二次大戦後ではない)】でさらに緩和されていきます。同年に賠償金支払いのため,国際決済銀行(BIS;ビス)が設立されています。
(注)ドーズ案再検討の7か国会議は1929年2月11日から。司会者〈ヤング〉(ゼネラル・エレクトリック社の会長です)の名を冠して〈ヤング〉案が成立。1929年8月の第一回ハーグ会議で調印。ただし1930年の第二回ハーグ会議で若干修正され,正式発効にいたります。(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122


 しかし,この行為は国際社会により批判を受け,1924年には左派が連合政権を組み,穏健な左派(中道左派)政権ができました。
 1925年に〈ブリアン〉外相【本試験H4】【追H9第二共和政臨時政府に参加していない】はドイツとの和解に努め,1925年にはロカルノ条約【追H26ローザンヌ条約ではない】【本試験H9北大西洋の安全保障に関するものではない】【本試験H13史料(条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する】でドイツと他国との国境の現状維持・相互安全保障が約束され,1926年にドイツは国際連盟への加入に至ります【本試験H13エーベルトではない,本試験H17「設立時,ドイツは(国際連盟に)加盟していなかった」は正しい】。

 〈シュトレーゼマン〉(1878~1929)【本試験H13エーベルトではない】外相による協調外交の成果です。
 フランスがなぜこんなに安全保障にこだわったのかというと,対戦前にドイツを“挟み撃ち”していたフランスとロシア帝国との露仏同盟が,第二次ロシア革命によって消え去ってしまったからです。イギリスとフランスが,ドイツからの攻撃に備える「対仏保障条約案」も1919年に調印されていましたが,アメリカ合衆国の参加が条件だったものの「孤立主義」政策によりアメリカはヴェルサイユ条約すら批准しなかったため,フランスの安全を保障する枠組みはつくられることなく終わってしまったのです。
 一方で,インフレが進み財政が悪化すると1926年にフランスの首相に再任した〈ポワンカレ〉は,1928年にフランの価値を5分の1に切り下げて乗り切ります。
 28年にはフランスの〈ブリアン〉外相(1862~1932) 【本試験H4】【本試験H13】とアメリカ合衆国の〈ケロッグ〉国務長官(1856~1937)との間で,不戦条約【本試験H4ブリアンの提案か問う】【本試験H13ブリアン外相のときかを問う】が結ばれ,国際紛争の解決手段として戦争をしないことが約束されました(初め15カ国,のち63カ国)。ただ,この条約の解釈をめぐってはアメリカ合衆国【本試験H4アメリカ合衆国が調印しなかったわけではない】をはじめ各国で論争があり,のちのち“抜け穴”が問題となっていくことになります。

 この間,ドイツのハイパー=インフレを収束させた〈シュトレーゼマン〉首相(任1923)は,1929年まで外相(任1923~29)を務め,協調外交を進めました。ただ,同年アメリカのニューヨーク【本試験H26】の証券取引所での株価暴落にはじまる世界恐慌【本試験H26】【本試験H7時期を問う】【追H18】の影響がドイツにも及ぶと,復興半ばのドイツ経済は打撃を受け,やがて議会に対する批判がわきあがることになります。
 ドイツ国(ヴァイマル王国)時代のドイツでは,大量生産・大量消費社会を推進するアメリカ文化の受容が進みました。
 しかし,職人によって手作りで日用品が作られていた時代に代わり,工場で生産された製品は,どこか無機質です。「実用性と,デザイン美しさの両立ができないか」ということを追究したのが,〈グロピウス〉(1883~1969)が1919年に創立したバウハウスという造形学校です(◆世界文化遺産「ヴァイマールとデッサウのバウハウス関連遺産」,1996)。
 バウハウスには表現主義の画家の〈カンディンスキー〉(1866~1944)や〈クレー〉(1879~1940),鉄とガラスの建築を手掛けた建築家〈ミール=ファン=デル=ローエ〉(1886~1969)らが集い,現代建築や工業デザイン分野の先駆けとなりましたが,のちにナチ党により閉鎖に追い込まれています。



○1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 この時期のバルカン半島では土地改革が実行されたものの,その多くは不十分に終わりました。衛生条件が改善されたことから人口が増加しましたが,労働力の受け皿となる産業の発展が追いつかず,農村部における人口の過剰が問題となりました。大戦直後にはブルガリア,クロアチア,ルーマニアでは農民政党が活動しています。
 また,新興国家どうしの国境紛争や国境内の少数民族の問題も起きる中,大地主・資本家・軍部などの少数の支配層に支えられた権威主義的な体制が生まれていき,国王独裁のもと共産党を非合法化するなどの政策がとられていきました。

・1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現①ルーマニア
 すでに露仏戦争後に独立していたルーマニアは,第一次世界大戦に連合国側で参加し戦勝国となり,領土を拡大させていました。新たにハンガリーから獲得したトランシルヴァニアのハンガリー系やドイツ系住民の処遇をめぐり,ハンガリーやドイツとの対立も生まれました。複雑な民族・宗教・言語分布をもつバルカン半島において,上から一方的に国境線を変えることは,必ずしも国力アップにはつながらず,多くの問題を抱えるものでもあったのです。
 都市部にはフランス資本が流入し“バルカンの小パリ”ともいわれるフランス風の建築物が立ち並ぶ首都ブカレストと,貧しい農村部との格差が広がっていきました。1926年にはトランシルヴァニアの民族党と農民党が合同し,ブカレスト中心の政治への抵抗を強めていきます。モルドヴァ,ベッサラビア,ブコヴィナの都市部にはユダヤ教徒が経済活動をおこない,のちに反ユダヤ主義の標的となっていきました(注)。
(注)柴宜弘『新版世界各国史18 バルカン史』山川出版社,1998,p.264。


・1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア
 すでに1908年に独立していたブルガリアは第一次世界大戦で敗戦国となり,連合国とヌイイ条約を締結しました。これによりドナウ川河口の南ドブルジャ(ドブロジャ)→ルーマニア領,エーゲ海に面する港を含む西トラキア地方→ギリシア,西部国境地帯→ユーゴスラヴィアに割譲し,領土は縮小しました。
 農民同盟の指導者〈スタンボリースキ〉(任1919~23)政権が左派の支持を受け,農民への土地の再分配など多くの改革を行いましたが,23年に軍部と右派によるクーデタで殺害され,1924年には共産党が非合法化されました。相次ぐクーデタやテロにより,ブルガリアの内政は混乱状態のまま,世界恐慌の襲来を迎えることになります。


・1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシャ
 ギリシアは,大戦後に大ギリシア主義の理念の下,領土拡大をねらい,オスマン帝国に進出しました(ギリシア=トルコ戦争(1919~22))。大戦後のオスマン帝国は無力で,ギリシア=トルコ戦争中の1920年にオスマン帝国の指揮官〈ムスタファ=ケマル〉(1881?~1938)はアンカラでトルコ大国民議会を樹立し,オスマン帝国の廃絶をねらいます。ソヴィエト=ロシアはトルコ側を,ギリシア側はイギリスが支援したため,代理戦争であったともいえます。
 敗北したギリシアでは,軍部の中で共和派と王政派の対立が激化し,1924年の国民投票の結果,ギリシアは共和政となります。
 しかしその後も政体をめぐる混乱は続き,1928年には国民的人気を誇る共和派の〈ヴェニゼロス〉(1864~1936)が首相に就任しましたが,王党派の抵抗も続きました。

 東地中海の交易の拠点であるクレタ島は,ギリシア=トルコ戦争の結果,イスラーム教徒の住民がトルコ共和国へ,トルコからはギリシア系住民が移住させられました(住民交換)。
 古来“文明の十字路”であったクレタ島の民族構成は,このとき大きく変わります。


・1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑤アルバニア
 第一次バルカン戦争後に独立したアルバニアは,アドリア海への出口に位置することから,対岸のイタリアや内陸のユーゴスラヴィア,隣接するギリシアなどに囲まれ,国内情勢は不安定でした。1925年に最終確定した国境線内部では,アルバニア系住民が9割以上を占めましたが,南北で経済や言語,宗教(7割がイスラーム教ですが,北部にローマ=カトリック,南部に正教会も)の違いがあり,統一は困難でした。かつてのセルビア王国領内のアルバニア人居住地(コソヴォ)をめぐっても,セルビアとの対立がありました。そんな中,名門出身で,ユーゴスラヴィアとの戦闘で名を挙げたイスラーム教徒の〈ゾグ〉は首相に就任(任1921~24)。ソヴィエトの支援を受けた正教会を中心とする反対派により,〈ゾグ〉は一時ユーゴスラヴィアに避難しましたが,のちユーゴスラヴィアや反ソヴィエト勢力による支援を受け武力で政権を奪い,1925年には大統領(任1925~28)に就任しました。〈ゾグ〉は提携を深めたイタリアに接近し,イタリア資本による近代化を目指しました。1926年には〈ムッソリーニ〉支配下のイタリアの保護国となっています。1928年からは〈ゾグ〉は王(ゾグ1世,位1928~39)に即位し,王政となりました(アルバニア王国(1928~46))。彼は一族を重用しつつ,アルバニア人意識を高める強権的な政治を行っていきます。

・1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現③マケドニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
 バルカン半島では南スラヴ系の民族が,1921年にセルビア王であった〈アレクサンダル1世〉(位1921~29)の下セルビア人=クロアチア人=スロヴェニア人王国としてまとまり,1929年にユーゴスラヴィアと改称しました。初めの国名に見えるのはセルビア,クロアチア,スロヴェニアだけですが,実際には大戦前のモンテネグロ王国,ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,ダルマツィア,ヴォイヴォディナといった地方が含まれていました。
 主導権はセルビア人が握り,それに反発するクロアチアやスロヴェニアの地域政党との対立は初期の頃から起こっていました。セルビア人は,ボスニア=ヘルツェゴヴィナのイスラーム教徒を味方につける動きもみせています。1928年にはラテン文字とキリル文字のどちらを議会の議事録として採用するかをめぐり発砲事件も起きましたが,同年には〈アレクサンダル1世〉が独裁を宣言しました。1929年以降は〈アレクサンダル1世〉はユーゴスラヴィアに改称し君臨しました(位1929~1934)。




○1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ

・1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 イタリアは三国同盟の一員であったものの,第一次世界大戦では「未回収のイタリア」問題を巡り,フランスと密約を結び,協商国(連合国)側で参戦し,戦勝国となっていました。

 しかし,依然として “未回収のイタリア”は期待通り獲得できず,インフレもあって国民生活が不安定となり,政府への批判が強まっていきます。

 たとえば,アドリア海沿岸のフィウメはイタリア人住民が多数派ですがクロアチア人も居住しており,新興国ユーゴスラヴィアとイタリアとの間でどちらの領土にするかが問題となり交渉が進んでいた中,愛国的な詩人〈ダヌンツィオ〉がの獲得を目指して私兵を率いて進軍し,緊張が走りました。結局1920年にイタリアとユーゴスラヴィアの間のラッパロ条約で,自由港となることが決まりました。

 そんな中,1920年には北タリアで社会党左派(のちのイタリア共産党)が,労働者を指導して工場を占拠させ,農村でも農民が地主を支配するなどの運動が巻き起こります。
 左派がこのような実力行使に打って出たため,右派つまり資本家・地主や軍部は,社会主義的な運動をおさえることのできる,より強力な指導者を求め,これがファシズム台頭の要因となっていきました【本試験H3】。

 〈ムッソリーニ〉(1883~1945) 【本試験H9】は1919年にファシスト党【本試験H9】を結成し,資本家・地主・軍部にアピールして,「イタリアに必要なのは議会制民主主義(話し合い)でもなければ,社会主義運動でもない」と訴え,強力な国家が国民をまとめあげることで,危機を打開できることを主張しました。個々の国民よりも国家のまとまりを優先させる,この考えを全体主義といいます。多くの国民の納得するような政策をじゃんじゃんおこない,多くの国民を動員するとともに,国家の危機を叫んで国民の自由と権利を制限するこの方式は,ファシズムともいわれます。
 国家の権力がどんどん大きくなっていくのは,イタリアに限ったことではなく,20世紀前半の各国の政府に共通の特徴でもありました。
 1922年に〈ムッソリーニ〉【本試験H3】はローマ進軍【本試験H3】【本試験H27ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世ではない】で政府に迫り,国王の支持を取り付けて首相に任命されます(任1922~1943年) 【追H18国王を退位させたわけではない】。
 さらに議会をファシスト党【本試験H3】の一党独裁として(ファシズム大評議会),政権を確立します【本試験H6世界恐慌に対処するために,ファシスト政権が成立したわけではない】。

その上で,海外にも進出。1924年にはイタリア半島の対岸のアルバニアを保護国化【本試験H13】し,1926年には自由港だったフィウメを併合しています【本試験H13時期(第二次大戦後ではない)】。1929年にはラテラノ(ラテラン)条約【追H26】によって,イタリア統一以来国交断絶状態にあったローマ教皇庁と和解して,ローマにおける教皇庁周辺の一角をヴァチカン市国【追H26ブルガリアではない、H28「ヴァティカン市国」】として独立を承認しました【追H28 20世紀に認めたか問う】。
 〈ムッソリーニ〉を尊敬していたドイツの〈ヒトラー〉は,いかにも勇ましい制服や,右手をあげる敬礼など,さまざまな要素を吸収していきます。




・1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。



・1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
大戦後の英で選挙権拡大,「帝国」再編が議論に
 大戦中には総力戦体制がしかれ,女性を含め国民の大多数が国のために社会参加をしました。その結果,1918年には第四回選挙法改正(21歳以上男性,30歳以上の一部の女性) 【東京H30[1]指定語句】【本試験H8初めて女性が選挙権を獲得した改正を問う】【本試験H18 時期17世紀に女性は参政権を獲得していない】【追H30第一回ではない】に拡大されます。女性といっても全員ではないところがポイントで,財産資格も課せられていました。
 1928年には第五回選挙法改正(21歳以上男女)に選挙権が拡大されます。
 ただ,選挙権を拡大すればするほど,さまざまな利害をもつ人々をまとめる必要が出てきます。政治は次第に「人気取り」(ポピュリズム)になってしまう恐れもあります。国民の支持がなければ,政策を実行することも難しくなります。できる限り単純なスローガンをたて,国民をまとめるのに有効なのは,「敵」を設定することです。また,国民の生活を保障する政策を打ち立てるのも効果があります。
 20世紀前半には国民に占める労働者の割合も増加し,労働党は保守党の次に高い人気を誇るようになります。1924年に労働党の〈マクドナルド〉(1866~1937)は【本試験H23アイルランドの内閣ではない】【追H30チェンバレンではない】,勢力の衰えた自由党と組むことによって連立内閣を組織しました(第一次マクドナルド内閣(任1924) 【本試験H5時期(第二次世界大戦後ではない),H12時期(初の労働党政権が第一次大戦「後」かを問う)】)が,怪文書スキャンダルによって総辞職【本試験H3労働組合法を制定していない】。
 しかし,1929年6月(1929年10月のニューヨーク株式市場の株価暴落よりも前です)には労働党が初めて第一党となって,第二次マクドナルド内閣(任1929~31)となりました。

 大戦によって国力を消耗していたイギリスは,「世界中にある植民地を直接支配しつづけるのには無理がある。おろせる“荷物”はおろそう」という方針に転換するようになっていました。
 さらに世界恐慌【本試験H7時期を問う,本試験H10】の影響もあり,1926年・30年のブリテン島・アイルランド帝国会議の話し合いによって,31年にウェストミンスター憲章【追H26】が規定され,白人が支配している「自治領」(ドミニオン)に位置づけられた植民地にも,「イギリス連邦」【本試験H10世界恐慌への対策としてイギリス連邦内のブロック経済政策がとられたか問う】【本試験H25時期】【H30共通テスト試行 カナダは「イギリス連邦の成立まで、イギリスに従属する植民地であった」わけではない】というグループの枠内で立法権・外交権を与えることにしました。これにより自治領は,イギリス国王に対する忠誠を交換条件として,イギリスとおおむね対等の立場【追H26】を手に入れることとなります。

 こうしてイギリスは,本国と植民地とのタテの関係を持つ従来の「帝国」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされた自治領(ドミニオン)とのヨコの関係を持つ「ブリティッシュ=コモンウェルス」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。

 大戦前にアイルランド自治法が成立していたにもかかわらず,戦争の勃発を理由に延期になっていたアイルランドでは,1922年にアイルランド自由国【本試験H4第一次世界大戦中ではない】が成立し,「自治領」扱いになりました【本試験H4 第一次世界大戦後も自治を認めなかったわけではない】。
 「ブリティッシュ=コモンウェルス」という名称が公式に最初に使用されたのは,1921年のイギリス=アイルランド条約(英愛条約)が初めの例とされます(注)。
(注)細川道久「ウェストミンスター憲章と「変則的」ドミニオン」『鹿大史学』63号,p.9~25, 2016。

 ただし,アイルランド自由国からは,アイルランド島北部のアルスター地方は除かれています。これが,現在のイギリスの正式名称「グレートブリテン(グレートブリテン島にあるイングランド,スコットランド,ウェールズの3国)および“北部アイルランド”連合王国」にも反映されています。
 アイルランドは,ウェストミンスター憲章を受け容れて,イギリス国王への忠誠と引き換えに,イギリスとおおむね対等の地位を手に入れたのですが,1937年には忠誠宣言を廃止し,国名をアイルランド語(ケルト系)で「エール」(エール共和国)【本試験H4北アイルランドが含まれていないことを問う】と改称して,イギリス連邦から事実上離脱しました。
 アイルランド北部のアルスター地方ではプロテスタント系の住民が多数派で,少数のカトリック系の住民が抑圧されていました(北アイルランド問題)【本試験H12「北アイルランド問題は,北アイルランドのプロテスタント系住民に対する社会的抑圧に原因がある」わけではない。少数派のカトリック系住民に対する抑圧に原因がある】。

・1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
 〈アルベール1世〉(位1909~34)の代に起きた第一次大戦で,ベルギー王国は永世中立国を宣言していたのにもかかわらずドイツ帝国による侵攻を受け,国土の大部分が占領されました。
 そのような事情もあり,戦後には賠償金支払いの滞りを理由に1923年にフランスとともにルール占領に踏み切り,いったん中立政策を捨てました。



○1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
・1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
 スペインでは,植民地だったモロッコでの独立運動に対する軍事行動の大失敗(1921年)をきっかけに政権への批判が強まりました。加えてカタルーニャにおける独立運動も急進化すると,1923年に事態収拾のため〈プリモ=デ=リベーラ〉将軍(1870~1930)が国王〈アルフォンソ13世〉や陸軍の支持を得てクーデタを起こし,内閣を倒して憲法を停止し,臨時的な措置として軍を中心とする独裁政権を樹立しました。なお,カタルーニャには戒厳令が布告されています。
 〈プリモ〉独裁政権の下では経済成長が達成されたものの,長期化する独裁に対しては反発も強まり,財政赤字に起因する通貨危機をきっかけとして1930年に辞任することになります。

・1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
 ポルトガルでは第一次世界大戦中に,共和政に対する王政の復活を目指す内戦が起き混乱していましたが,これを収めた軍部が政治への介入を強めていきました。財政赤字も拡大し労働者による社会運動も活発化すると,政権に対する中産階級の不満が高まっていきます。1925年にはリスボンでスペインの〈プリモ=デ=リベーラ〉(1870~1930)に刺激を受けた軍人による蜂起が起きましたが鎮圧。1926年にも軍人が革命を宣言し,その後も軍事政権の下で混乱が続きます。そんな中,政権に招かれた財政学の教授〈サラザール〉(1889~1970)が,財政赤字の解決に手腕を発揮し,台頭していくことになるのです。




○1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
北ヨーロッパでは普通選挙制度をはじめとする政治改革が進んだが,小党が分立する不安定な状況が続いた
・1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドでは,国内の保守派を中心とする内閣によりロシアからの独立が達成されました。

・1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 デンマークでは,かつてプロイセンとの戦争(1864プロイセン=デンマーク戦争)で奪われたスレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ)で1920年に国際監視委員会の下で住民投票が実施され,北部スレースヴィの約16万4000人がデンマークに“復帰”しました。南スレースヴィはドイツへの帰属を求めましたが,デンマーク系住民の多い都市(フレンスブルクなど)をめぐり内閣への批判が集まり,選挙の後に国王〈クリスチャン10世〉が総辞職を命令しました。国内では政府に批判的な左派や右派も台頭していました。

・1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 ノルウェーは,大戦中に協商国に協力したことが認められ,スカンディナヴィア半島北方,グリーンランドの東方に位置するスピッツベルゲン(スヴァールバル)諸島を割譲され,1925年から支配しました。

・1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 スウェーデンは,第一次世界大戦にとられた「中立」政策を見直す動きから,1920年に国際連盟に加盟して集団安全保障体制に参加しました。同年には,デンマーク,ノルウェー,フィンランドも国際連盟に参加しています。





●1920年~1929年の南極
 すでに1908年にイギリスが南極の一地域の領有権を主張していましたが,これに加えニュージーランド,フランスも領有権を主張します。




●1929年~1945年の世界
世界の一体化③:帝国の動揺Ⅰ
世界恐慌をきっかけに,英仏中心の帝国主義体制への反発がヨーロッパの戦争に発展。社会主義勢力と対立しつつファシズムが台頭し,日本を中心とするアジア・オセアニアの戦争と結びつき,第二次世界大戦となる。アジア,アフリカの民族運動組織が成長し,大戦後の独立運動の母体となる。

この時代のポイント
(1) 世界恐慌によりブロック経済化が進む
 1929年にアメリカ合衆国で起きた株価の暴落をきっかけとして,ソ連をのぞく世界各地に不況が連鎖しました(世界恐慌)。世界各地に植民地を持つ西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国は,自国の通貨や貿易を保護することで恐慌を乗り切ろうとした。

(2) 社会主義勢力とファシズム勢力の動きが活発化し,両者の提携により第二次大戦が勃発する
 資本主義経済圏の外部にあったソ連は,世界恐慌の影響を免れた。一方,特に第一次世界大戦で多額の賠償金を課せられたドイツ国(いわゆる「ワイマール共和国」)の国内情勢は厳しく,日本,イタリアの政府とともに世界経済の再編と植民地の再分割を求めるようになり,ヴェルサイユ体制・ワシントン体制の破棄を強硬した。
 ヨーロッパにおける戦争は,ドイツとソ連によるポーランドへの軍事進出に始まる。

(3) アジアでは恐慌後も域内貿易が盛んだが,各地で民衆の抵抗が相次ぐ
 不況の打破をめざす日本の大陸進出は,第二次大戦と結び付く
 世界恐慌の影響を受け,インドの塩の行進,仏領インドシナのゲティン=ソヴィエト,フィリピンのサクダル蜂起,英領ビルマのサヤーサンなど,民衆の抵抗が相次ぐ。
 一方,アジア諸国の域内貿易は好調で,東アジアの域内貿易は増加している。日本の帝国内にあった台湾では1920年代以降,朝鮮では1930年代以降に日本から資本財を導入することによって工業化が進んでいく。

 また,不況の煽りをうけた日本政府は大陸への軍事進出を目指し,アジアにおける戦争が勃発。のちにオセアニアへと拡大していくことになる(アジア=太平洋戦争)。日本,ドイツ,イタリアが軍事同盟を結んでいたことから,関係各国が次々に参戦し,史上最大規模の参戦国・地域をともなう第二次世界大戦となる。

(4) 第二次世界大戦は「ファシズム」(全体主義)対「民主主義」(自由主義)の対立の構図となり,米ソは英仏中心の植民地体制を切り崩し,戦後の国際政治・経済を主導しようと企図する
 第二次大戦は,当初中立を保っていたアメリカ合衆国がソ連と提携して参戦することで,構図が大きく変わる。アメリカ合衆国,イギリス,ソ連の指導者は「自由」と「民主主義」を守るため,全体主義をとる枢軸国(ドイツ,イタリア,日本)と戦っているのだと,戦争目的を思想によって表現したのである。
 しかし,いずれの国家でも「総動員体制」がとられ「国民文化」が絶対視されていった。人的資源確保のために社会保障制度を拡充していく反面,国家の権力が増大していった点も共通している。

 アメリカ合衆国やソ連の指導者には,西ヨーロッパ諸国を国際政治・経済・社会の表舞台から退場させようという思惑もあり,第二次世界大戦後に多くの植民地を解放させ(脱植民地化),自国の勢力圏に加えようという考えがあった。



(5) 第二次大戦中には民族運動が盛り上がるが,即時の独立は実現されなかった
 第二次世界大戦中には世界各地の植民地で,独立を見据えた民族運動が本格化する。しかし,枢軸国やアメリカ合衆国やソ連が独立運動を利用して植民地の利権を確保しようとするケースも多く,第二次世界大戦後の独立後にも多くの課題を残す。
 こうして第二次世界大戦末期には,アメリカ合衆国(1945年に核保有),イギリス,ソ連の意見対立も表面化し,イギリスが劣勢となる形でアメリカ合衆国 対 ソ連の「冷戦」を迎えることになる。




◆第一次大戦の戦後処理への批判から,ソ連・ドイツが主導し第二次世界大戦が勃発する
ドイツとソ連は,独ソ不可侵条約の秘密協定によってポーランドを分割占領。ソ連は北方のフィンランドと戦争を開始し,レニングラードよりも北の国境地帯(カレリア)をフィンランドから奪いました(第一次ソ連=フィンランド戦争(冬戦争),1939~40)。このことが原因で,ソ連は1934年に加盟していた国際連盟を除名されます。のちに第二次ソ連=フィンランド戦争(継続戦争)も起き,やむなく“敵の敵は味方”の論理でドイツを頼って,ともにソ連と戦いました。これが原因でフィンランドは第二次世界大戦の敗戦国となります。

 1939年にソ連は,バルト三国(エストニア,ラトビア【本試験H29】,リトアニア)も占領しました。しかしのちに独ソ戦が始まると,1941~44年に今度はドイツがバルト三国に侵攻し,占領下に置きました。ドイツ占領下のリトアニア(在カウナス日本領事館)で,ポーランドから逃れてきたユダヤ人に対し,外務省の訓令に逆らって出国ビザを発給したのが“日本のシンドラー”〈杉原千畝〉(すぎはらちうね,1900~86)です。しかし,エストニア,ラトビア,リトアニアは1944年からはソ連によって再占領されることになります。ソ連の占領によって,中世以来この地に分布していたドイツ系住民(バルト=ドイツ人)は,西方に追放されていきました(ドイツ人追放【本試験H5出題トピック】)。

 ドイツは,第一次世界大戦のときには,西のフランス,東のロシアとの二正面作戦を強いられました。しかし,今回はソ連とは独ソ不可侵条約を結んでいますから安心です。

 1940年,ドイツはデンマーク,ノルウェー,さらにオランダ,ベルギー(第一次世界大戦に続きまたもや!)【本試験H15】に侵攻しました。オランダとベルギーは中立国であったにもかかわらずです。スウェーデンは中立を保っています【本試験H21ドイツに占領されていない】。
 そんな中,イタリアは,ドイツ側に立って参戦しました。

 同年6月にはパリを陥落させ,フランスは降伏。ヒトラーはこのとき,敵国フランス人といえども敬愛していた〈ナポレオン〉を,パリ市内のアンヴァリッドの地下墓地に埋葬しました。
 パリが陥落すると,日本はフランス領インドシナに進駐しました。

 ドイツは,西北部を占領し,南部に親ドイツ派の〈ペタン〉将軍(1856~1951) 【東京H12[2]】【本試験H30〈ブルム〉とのひっかけ】を首班とするヴィシー政府【東京H12[2]】【本試験H3親ナチスか問う。ヴィシー政府は第四共和政ではない】【本試験H13イギリスに亡命していない,本試験H26アヴィニョンではない】をたてて,統治させました。フランスの〈ド=ゴール〉将軍(1890~1970) 【本試験H6】【本試験H26ペタンではない】は,ロンドン【本試験H6ヴィシーではない】で自由フランス政府【本試験H6】【追H30ドラクロワとの関連を問う】という亡命政権を樹立し,ラジオでフランス国民にレジスタンス(抵抗運動)を呼びかけました。臨時政府には『人間の条件』で知られる小説家の〈アンドレ=マルロー〉(1901~76)が入閣。レジスタンスの呼びかけには,アナール派という歴史学派の始祖である〈マルク=ブロック〉が参加しています。

 1940年にイギリスの首相は〈チャーチル〉(任1940~45,51~55) 【東京H22[3]】に代わっていました。フランスとイギリスは,ドーバー海峡をのぞむダンケルクに追い詰められて撤退(ダンケルク大撤退)を余儀なくされました。〈チャーチル〉は国民を励ましつつ,ドイツによる空爆に耐え,上陸を阻止しました(#映画「ダンケルク」英米仏蘭2017)。

 ドイツはこの頃,各地に強制収容所と絶滅施設を建設し,ユダヤ人,ソ連人,シンティやロマ(ヨーロッパでは両者を総称しジプシーと呼ばれます)やドイツ人の政治犯,障害者などを移送しました。「ユダヤ人」の大虐殺といわれますが,ほかの人々も優生思想(ドイツ人にとって“劣った”形質をもつとされた人々は,生まれるべきではないという思想)に基づいて大量に殺害されていった点は重要です。この政策決定は,1942年のヴァンゼー会議でなされたことがわかっています。
 強制収容所【立命館H30記】は,ナチスが政策に掲げていたユダヤ人民族抹殺(“最終的解決”)のために使用され,最大のものはポーランド【共通一次 平1:ソ連・チェコスロヴァキア・ハンガリーではない】【本試験H6オランダではない】南部のオシフィエンチム(ドイツ名はアウシュヴィッツ)にあります【東京H17[1]指定語句】【共通一次 平1】【本試験H4ピカソのゲルニカの題材ではない,本試験H6】【本試験H23第一次大戦中ではない,H31】(世界文化遺産(負の遺産)「アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所(1940~1945),1979」)。
 多数のユダヤ人を含む迫害された人々の大量虐殺のことを一般にホロコースト【本試験H31】【東京H23[3]】(またはショアー)といいます(注1)。ポーランド【東京H12[2]】は最も多くのユダヤ人が虐殺された地でした。

 また,ドイツのファシズム政策への反対や,反ユダヤ主義の迫害から,多くのユダヤ人がナチスの支配地域から亡命していきました【セ試行】。 ドイツの小説家〈トマス=マン〉(1875~1955) 【立命館H30記】や,一般相対性理論(1916) 【本試験H17】で知られる物理学者〈アインシュタイン〉【東京H7[3]】【セ17メンデルとのひっかけ,本試験H30亡命について問われた】【追H25メンデルではない】,超現実派の画家〈シャガール〉(1887~1985),『悲しき熱帯』で知られる構造主義的文化人類学者の〈クロード・レヴィ=ストロース〉,近代経営学を確立し『マネジメント』で有名な社会生態学者の〈ドラッカー〉(1909~2005)といった人々が,アメリカ合衆国に逃れました。しかし,文化人の中には哲学者〈ハイデガー〉(1889~1976)のように,ナチスを支持した者もいました。
 なお,1939年にポーランド南部のクラクフの工場で闇商売をしていたナチ党員の〈シンドラー〉(1908~74)は,ポーランドのゲットーのユダヤ人を労働者として働かせ,ドイツ軍向けの“軍需工場”操業をしていました。彼はのちのち,自分の資産をなげうって取引きをし強制収容所に送られてしまったユダヤ人の労働者たちを,救うことになります(1993年にユダヤ系アメリカ人〈スティーヴン=スピルバーグ〉(1946~)によりユダヤ系のユニバーサル=ピクチャーズから映画化)。

 40年9月には,日独伊三国同盟が締結され,ドイツとイタリアがヨーロッパ起こしている戦争と,日本が中国方面で起こしている戦争がリンクした瞬間です。
 アメリカの〈フランクリン=ローズヴェルト〉(位1933~45)大統領は41年1月に「四つの自由」を発表。
 「言論及び表現の自由,信教の自由,欠乏からの自由,軍事的進出の恐怖からの自由」の大切さを訴えます。これまで中立法によって,世界の情勢に首を突っ込んでこなかったアメリカですが,3月には武器貸与法【本試験H30】を成立させて,イギリスや,ソ連(6月以降)に大量の武器を提供しはじめました。つまり第二次大戦後期のアメリカ合衆国はソ連の同盟国だったのです。

 ヒトラーは,バルカン半島にも進出し,41年春までにハンガリー,ルーマニア,ブルガリアを枢軸国に参加させ,ユーゴスラヴィアとギリシアを占領しました。これに対し,スラヴ系の国々をドイツが確保したことに反発したソ連は,41年4月に日ソ中立条約を結びます【本試験H24時期(第二次大戦前)】【追H17朝鮮戦争が起こると結ばれたわけではない】。日本とは39年にモンゴルでノモンハン事件という交戦があり,日本軍が壊滅的敗北をしましたが,ソ連としては今後のドイツとの戦闘に備え,日本方面の兵力を減らす意図があったのです。日本としても,東南アジアに資源を求め進出するためには,北方の兵力を減らす必要がありました。こうして7月に,フランス領インドシナ南部に進駐。これに対してアメリカは,アメリカにある日本の資産凍結,日本への石油輸出の全面禁止【本試験H4太平洋戦争の「きっかけの一つ」か問う】の措置をとります。
 すでに4月から,日本とアメリカとの交鈔は始まっていました。〈近衛文麿〉(このえふみまろ、1891~1945)首相は,中国からの撤退(満洲を除く),三国同盟離脱,フランス領インドシナからの撤退といった譲歩プランを用意して,ローズヴェルトとの会談を申し込んでいたのですが,アメリカは拒否をしました。一方、同年9月には御前会議で、アメリカ合衆国・イギリス・オランダとの戦争に備える「帝国国策遂行要領」が決定(注2)。
 進展のみられないまま11月26日に,アメリカの要求を全面的に受け入れさせる「ハル=ノート」が,国務長官〈ハル〉(1871~1955)から渡され,日米交渉は行き詰まります。

 12月8日未明(日本時間)に,日本はイギリスの植民地マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)の北端コタバルに上陸し(マレー作戦),ハワイのパール=ハーバー(真珠湾) 【本試験H27】に奇襲攻撃し,戦艦ウェスト=ヴァージニアなどを破壊します(ハワイ時間は12月7日)。これは,イギリスからの独立戦争・米英戦争以降,アメリカ本土が直接外国に攻撃された数少ない例であり,アメリカ国民に衝撃を与えました。日米交渉打ち切りの通告が,奇襲の後に手渡されたことは,事実上の宣戦布告とみなされ,アメリカの世論を沸騰させました。真珠湾攻撃によって,アメリカにおける孤立主義的な考えがようやくおさまり,世論が一致して戦争に向かうようになったことも事実です。
 アメリカも日本に同日宣戦布告し,太平洋戦争【東京H22[1]指定語句】がはじまりました。三国軍事同盟が適用され,ドイツとイタリアもアメリカに宣戦布告し,アメリカはドイツとも戦うことになりました。

 41年8月,〈ローズヴェルト〉はイギリス首相〈チャーチル〉と大西洋上で会談し,今後の方向性についてイギリスの同意を取り付けます。

 アメリカ政府には,第一次世界大戦のときに,アメリカ大統領〈ウィルソン〉大統領が戦後の主導権をとれず,委任統治領や賠償金問題などについて英仏の意見が尊重された苦い経験があります。 そこで今回はあらかじめアメリカ政府の意向が通るように,「大西洋憲章」【東京H17[1]指定語句】【本試験H9「平和機構の設立方針」が示されていたか問うが消去法で解答可】【本試験H17国際連盟は大西洋憲章にもとづいて設立されていない】【追H20発表したのはトルーマン大統領ではない】という形で,戦後の主導権をアメリカ政府が握ることができるような内容を盛り込んだのです。
 例えば,民族自決や自由に貿易をする権利といった内容は,世界中に植民地をもちブロック経済によって自由貿易をシャットアウトしているイギリス政府に対する牽制(けんせい)球だったのです。

(注1)ホロコーストは「犠牲の丸焼き」という意味ですが、「神聖で至高の動機にたいする全面的な献身」というニュアンスや反ユダヤ主義的な色合いのある言葉であることから、ユダヤ人の中には代わって「ショアー」(壊滅、破局という意)という言葉を用いることがあります(ジョルジョ=アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人』月曜社、2001年、p.37)。
(注2) 鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.303。



◆イギリス・ソ連(寝返り)・アメリカ(参戦)を中心とする連合国が形成され,戦後秩序をめぐる対立が起きた
 1941年6月,ドイツとソ連の同盟が崩れ,ついに独ソ戦が始まります。
 ドイツは一時モスクワに迫りましたが,押し返され,41年末からはソ連が優勢となっていきます。
 1941年12月のマレー作戦,真珠湾攻撃以降,日本軍は東南アジア各地に進出し,ヨーロッパの植民地からの住民の解放と「大東亜共栄圏」の建設を訴えましたが,支持は得られず,抗日運動が勃発するようになりました。
 42年6月に日本は,ミッドウェー海戦【本試験H14】の空母戦でアメリカに敗北【本試験H21日本は勝利していない,H29アメリカは敗北していない】。43年2月にガダルカナル島(オーストリア北東部のソロモン諸島南部の島)。太平洋の島々をホップしながら日本の勢力を押し返し,44年にフィリピンに上陸。グアム島やサイパン島などを拠点にして日本への本土空爆も激しくなっていきます。
 43年初め,ソ連軍がスターリングラードの戦い【本試験H4】【本試験H30】【追H25】【立命館H30記】で,ドイツを撃破します【本試験H4ドイツは勝利していない】。都市に住む住民の多くが犠牲となった,史上まれに見る悲惨な戦闘でもありました。

 43年7月,連合国軍はシチリア島【本試験H16地図(連合軍が上陸したかを問う)】に上陸し〈ムッソリーニ〉は失脚,新政府の〈バドリオ〉政権【本試験H30スペインではない】は9月に連合国に無条件降伏します。〈ムッソリーニ〉はドイツに救出され北部で存続を図りますが,45年4月に市民による抵抗(パルチザン)により処刑されました。46年には王政が国民投票によって廃止され(賛成54%という僅差!),イタリアは共和国となりました。

 連合国の主要国は,43年11月にカイロ会談(アメリカ・イギリス・中華民国【本試験H13中国の代表も参加したかを問う】) 【本試験H13ソ連のスターリンは参加していない,本試験H29】で対日処理方針を決め,台湾などの日本領の返還が決定されました【本試験H13】。
 さらに同月,テヘラン会談(アメリカ・イギリス・ソ連) 【本試験H4「第二戦線」の協議はヤルタ会談ではない】で,ドイツへの作戦について決定。ソ連は,さっさとドイツを倒すために,米・英に北フランス上陸作戦【本試験H4】をしてもらいたかったのですが,なかなか実行に移されぬまま。特にイギリス〈チャーチル〉は,ソ連がドイツとの戦いで消耗すれば,ソ連が東ヨーロッパやドイツを解放することができず,米・英が東ヨーロッパやドイツを勢力圏に加えることができると考えていたのです。
 結局,米・英が西からドイツを攻撃する「第二戦線」【本試験H4】が実現するのは,1944年6月【本試験H6年代】のこと。ノルマンディー上陸作戦【本試験H6北アフリカ,ダンケルク,シチリアではない】,いわゆる“史上最大の作戦”です。
 激戦の末,8月に連合軍によりパリは解放されました。

 1944年9月にドイツはV2ロケットを戦闘に使用しますが,時すでに遅し,本格的な“ロケットの時代”は第二次世界大戦後に到来することとなります。
 1944年11月には,〈フランクリン=ローズヴェルト〉が前例のない4回連続大統領当選(4選)を果たしています。
 第二次世界大戦には,インディアンも兵士として貢献し,インディアン国民会議団が結成され,権利向上に向けて動き出しています。


 45年2月,ヤルタ会談(アメリカ,イギリス,ソ連)が行われ,ドイツ降伏語の処理について話し合われました(注)。
 懸案事項となっていたのは「東ヨーロッパやドイツをどちらの勢力圏に加えるか」。
 これについては秘密協定が存在したことがわかっています。その取り決めが冷戦期にヨーロッパを二分した「鉄のカーテン」の元になっていきますので,冷戦は“ヤルタから始まった”とみることもできます。
 さらにこの会談には,日ソ中立条約を結んでいたはずのソ連が,それを破って日本に参戦するという秘密協定も含まれていました(ソ連の対日参戦)。

ヤルタ会談後には,2月13~15日にドレスデン大空襲で2万人前後(またはそれ以上)の一般市民がなくなりました。日本の首都東京への空襲も激化し,3月10日のいわゆる東京大空襲では10万人前後の一般市民が亡くなり】東京の建築物の4分の1が焼け落ちました。
 45年4月12日,〈フランクリン=ローズヴェルト〉は勝利を目前に,脳卒中で死去します【本試験H14時期(そのためポツダム会談には参加していません)】。後任は副大統領の〈トルーマン〉(任1945~53) 【東京H24[3]】です。
 45年4月末,ソ連はベルリンを包囲。地下壕でひそかに指揮をとっていた〈ヒトラー〉は自殺し,5月7日にドイツは無条件降伏しました(「ヒトラー 〜最期の12日間〜」(2004独伊墺)!刺激の強いシーンあり)。
 45年6月,アメリカは沖縄を占領し,日本空襲の拠点としました。沖縄では過酷な地上戦により,日本軍だけでなく住民の多くが殺害されました。
 45年7月,ポツダム会談(アメリカ,イギリス,ソ連)で,対日処理方針が定められます。イギリスの首相は初め〈チャーチル〉,途中から労働党の〈アトリー〉に変わっています。このときアメリカの大統領は副大統領から昇格した〈トルーマン〉【本試験H14フランクリン=ローズヴェルトではない】に代わっています。日本【本試験H13ドイツは含まれない】に無条件降伏を求めるポツダム宣言【本試験H13ドイツに対しては降伏を求めていない,本試験H27冷戦終結時ではない】が発表されますが,日本政府は黙殺したため,8月6日に広島(1945年12月末時点で約14万人が犠牲),9日に長崎(1950年7月時点で約7万人が犠牲)に新兵器である原子爆弾を投下しました。8月8日にはソ連がヤルタ会談の秘密協定どおり,日ソ中立条約を無視して参戦。
 この事態に日本政府は14日にポツダム宣言を受諾し,15日に国民に発表しました。





●1929年~1945年のアメリカ
○1929年~1945年のアメリカ  北アメリカ
・1929年~1945年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆世界恐慌により資本主義国家は管理通貨制度に移行し,「大きな政府」化する
アメリカ合衆国が「世界恐慌」の震源地となる
 1929年の10月24日,アメリカ合衆国のニューヨーク【本試験H9ロンドンではない】のウォール街にあるニューヨーク株式市場で株価が暴落し(暗黒の木曜日),突如として“永遠の繁栄”は終わりを告げました。世界恐慌のはじまりです【本試験H7時期を問う,本試験H9】【H29共通テスト試行 時期(1932年ロサンゼルス五輪の出場国数が少ない理由と考えられる)】【追H18フーヴァー大統領のときか問う】。よく取り上げられるウォール街の写真は翌日25の金曜日に撮られたもので,週明けの28~29日はさらなる暴落が待っていました。
 都市では銀行が閉鎖・倒産し,失業が拡大しました。農村でも農産物価格の下落で,農民の生活は窮乏しました。農業不況には,大平原一帯を襲った大砂嵐(ダスト=ボウル)も影響を与えました(映画「インターステラー」2014米のモチーフとして使用されています)。そんな中,大企業によって土地を奪われ移住を迫られた農民の厳しい暮らしが〈スタインベック〉(1902~68)の『怒りの葡萄(ぶどう)』に描かれています。

 アメリカには世界の資本が集まっていたため,アメリカの金融機関が倒れると,関連取引をしていた全世界の金融機関にも影響が及んでいきました。なお1929年3月に着工していたニューヨークの当時世界一の高さを誇るエンパイア=ステート=ビルディングは,1931年に完成したものの,空き部屋ばかりという状況でした(1972年まで世界最高)。
 不況の波はドイツや英仏も広がり,ドイツの賠償金支払いや英仏の戦債支払いが滞りそうになると,〈フーヴァー〉大統領(任1929~33) 【共通一次 平1:ウィルソン,トルーマン,アイゼンハウアーとのひっかけ】【本試験H6】【追H24ドイツの賠償金支払いなどを1年間停止したか問う】は1931年にこれらを1年間猶予する宣言を出しました(フーヴァー=モラトリアム【本試験H6】【本試験H13第二次大戦後ではない】【追H19】)。各国は対応に追われ,1932年に開かれたジュネーヴ軍縮会議も大した進展もなく終わってしまいます。
 1920年代の共和党政権以降,高関税政策がとられていましたが,特に〈フーヴァー〉政権下で制定された1930年のスムート=ホーリー関税法は,平均関税率が38~42%と効率なもので,世界恐慌によって滞った各国間の貿易の規模を,より縮小させる結果を生みました。〈フーヴァー〉は1932年になると大企業への支援,金融機関に対する緊急貸出をおこなうなど,従来の自由放任政策を大きく転換。しかし効果は薄く,各地に出現した家なし失業者の居住区は“フーヴァー村”,新聞紙は“フーヴァー毛布(ブランケット)”,お金の入っていないポケットが裏返しに飛び出た様子を“フーヴァー旗(フラッグ)”,穴が開いた靴先を覆うダンボールは“フーヴァーダンボール(カードボード)”,ガソリンが買えずに馬に繋がれた自動車は“フーヴァー自動車”とあだ名されました。

 植民地を世界各地に持っていた英仏は,自分の植民地内では他国【共通一次 平1:自国との通商に高い関税をかけたわけではない】に対して高い関税をかけることで経済活動をブロックし,植民地との経済連携を強めて自国の経済を立ち直らせることができましたが(ブロック経済【共通一次 平1:イギリスにおける具体例を問う】【本試験H5 17世紀後半から19世紀前半にかけてインド市場を「ブロック経済政策」によって支配したわけではない】),植民地が十分になかったドイツ,イタリア,日本は対応に苦慮し,やがて国家が圧倒的な権力をもちいて国民をまとめあげ(全体主義。イタリアのファシスト党の思想・運動であった「ファシズム」も,同じような意味で使われることがあります),武力で国外に植民地を求める動きに発展していきます。1931年9月の柳(りゅう)条(じょう)湖(こ)事件以降,日本の関東軍が満洲一帯に進出を開始したことは,〈フーヴァー〉政権に衝撃を与え,〈スティムソン〉国務長官(任1929~33)はスティムソン=ドクトリンを発表し,満洲国の独立を否定しました。

 〈フーヴァー〉の対策が批判される中おこなわれた1932年【本試験H14時期(在任中に世界恐慌は始まっていない)】の選挙では民主党【本試験H14共和党ではない】に追い風が吹き,〈フランクリン=ローズヴェルト〉(1882~1945,在任1933~45) 【本試験H5,本試験H9時期(1930年代か)】【追H19】が当選。3月に着任しました(当時までは大統領の着任は3月,現在は1月です)。1921年にポリオという感染症に罹(かか)ったために半身が不随(ふずい)になりましたが,政治家としての資質あふれる人物でした。大統領候補の指名受諾演説で初めて新規まき直し(ニューディール) 【本試験H5,本試験H9時期(1930年代か)】【追H19】【上智法(法律)他H30革新主義とのひっかけ】と銘打った政策を発表し,実行にうつします。

 ニューディール政策【追H17ニューフロンティア政策ではない】では,恐慌の原因がアメリカ国内にあるとされ,政府が強力な権力を発揮して,国民生活や経済活動に介入して国難を乗り切ろうとしました。この政策には,コロンビア大学の〈モーリー〉(1886~1975)らの影響が大きく,従来の自由放任的な姿勢を改めました(注1)。

 これ以降のアメリカ合衆国では,政府が積極的に経済に介入するようになっていきます。このような政府を「大きな政府」といいます。国民の不安を取り除くため〈ローズヴェルト〉は当時普及が進んでいた新メディアであるラジオ放送を使い,直接国民に語りかけました。これを炉辺談話(ろへんだんわ)といい,のちのちまで合計27回実施されました。
 まず,3月にすべての銀行を閉鎖し,緊急銀行救済法により安全と認められた銀行から営業を再開させました。同時に,州政府や失業者の対策も進められていきます。
 工業製品の生産に関して,企業同士が協議して価格を決める(カルテル)を容認し,行き過ぎた価格競争に歯止めをかけるなどの施策を盛り込んだ,全国産業復興法(NIRA) 【東京H26[3]】【追H9大統領を問う、H17ニューフロンティア政策ではない、H19】が制定され,全国復興局が設置されました。従来は企業の集中を防ぐためカルテルには規制がかけられていましたが,「今は非常事態なので,反トラスト法の適用からは除外する」という内容です。また,全国産業復興法の中で,労働者の団結権,団体交渉権が認められ,労働時間や最低賃金の保証も定められました。これにより民主党支持の労働者は増加していきます。金融業界に対しては,連邦証券法(1933)や証券取引法(1934)によって監督を強化しました。
 農業分野では,生産の調整と,暴落していた農産物価格の引き上げを図ったのが,農業調整法(AAA,トリプルエー) です【東京H26[3]】【本試験H21引き下げではない】【追H9大統領を問う、H19,H25】。「つくり過ぎ」によって農産物価格が低下していた面があったため,作付面積を減らすことと引き換えに,農民に直接補助金を与えたのです。西部の農村地帯は,日照りと強風により大量の砂が長期間にわたり吹き飛んだ(ダスト=ボウル)ことで,世界恐慌後も深刻な被害が続きました。
 また,テネシー川渓谷開発公社(TVA)) 【本試験H10時期(1930年代か問う)】 【本試験H29時期,H31「テネシー川流域開発公社」により雇用の拡大が図られたか問う】を設立し,国が率先して民間電力会社よりも安い水力発電可能な多目的ダムを建設することで,電力の価格にも介入します。

 こうした政策の結果,アメリカ合衆国の経済は1934年には早くも回復。しかし,産業界は政府の介入に対して「やりすぎだ」「もう十分だ」という声もあがるようになります。労働者からも「お金持ちから自分たちに金をよこせ」と再分配を求めるようになります。反〈ローズヴェルト〉勢力の活動も活発化し,連邦最高裁判所もNIRAとAAAに対してそれぞれ1935年,1936年に違憲判決を下しています。
 これに対して〈ローズヴェルト〉は失業者や労働者の本格的な救済を開始。労働者に労働組合の設立(団結権【本試験H26】)と団体交渉権を認めた1935年のワグナー法【本試験H10ドイツの賠償支払の一年間延期を認めるものではない】【本試験H14・H21・H26】【追H9大統領を問う、H19】(全国労働関係法案)を支持し,1935年には非熟練労働者による労働組合である産業別組織会議(CIO)が成立しました。同年には社会保障法に署名し,連邦政府による老齢年金制度を含む,社会保障制度が整備されました。

(注1) イギリスの経済学者〈ケインズ〉(1883~1946)による『雇用・利子及び貨幣の一般理論』が出版されたのは1936年のことでした。彼は政府が公共事業などでお金を積極的に使うことによって人々の持っているお金を増やし,景気を回復させることができると説きました。しかし、しばしば誤解されますが、ニューディール政策では〈ケインズ〉の主張するような「政府の支出により有効需要を生み出す」形の財政政策が導入されたわけではありません。
 〈ケインズ〉に対して古典派経済学に立った経済学者〈ピグー〉(1877~1959)は『厚生経済学』(1920)を著し,「正の外部効果(市場を介さずに良い影響を与えること)に対しては補助金を交付し,負の外部効果(市場を介さずに悪い影響を与えること)に対しては課税するべき」と主張しました。この課税を「ピグー税」といいます。





・1929年~1945年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆世界恐慌後のアメリカ合衆国は,やがて自由貿易政策に転換していく
英などのブロック経済に対し関税引下げを推進
 〈ローズヴェルト〉は当初,アメリカの経済は世界経済と切り離せば良くなると考えていたのですが,〈ハル〉国務長官はブロック経済化がすすむ世界経済の真っ只中で,「関税の引き下げ」による自由貿易の推進を提案。互恵通商協定法(ごけいつうしょうきょうていほう)を制定し,大統領の権限によって関税を引き下げることを可能としました。

 ラテンアメリカ諸国に対しても〈フーヴァー〉政権のときのように内政への軍事的な介入はせず,キューバに対してはプラット条項を廃止します。しかし,経済的には砂糖産業などにおいてアメリカ合衆国への従属は続きました【共通一次 平1「経済的には,合衆国に従属していた」か問う】。

 1936年には,パナマの運河地帯の主権はパナマにあることが認められました。また,ソ連を承認するなど(1933) 【本試験H15時期(1930年代)】善隣外交【東京H11[3]】【本試験H14,本試験H26カストロではない】【追H21トルーマン大統領ではない】(Good Neighbor Policy)を推進しました。これはかつての〈セオドア=ローズヴェルト〉の「棍棒外交」のように武力によって他国の政治に干渉するのではなく,自由な貿易を拡大させることによって利益を得ようとする政策への転換でもあります。
 他国に内政干渉ばかりしていると,戦争に巻き込まれる恐れも高まります。当時のアメリカ国民の間には,またもや孤立主義的なムードが高まっていました(注)。

 そんな中1935年に議会は中立法を制定して,国外で起きている戦争の当事者国にアメリカ船籍の船舶が交戦国に武器を輸出しました。1936年には交戦国に借款することを禁止,1937年にはスペイン内戦(1936~39)を念頭に置いて「内戦」している国にも中立法を適用します。
 なお,米西戦争で獲得していたフィリピンに対しても,タイディングス=マクダフィー法によって自治を認め10年後に独立させることを約束しましたが,日本の占領によって延期されました。

(注) 1930年代に、〈イライジャ=ムハンマド〉の布教活動で、北部都市にイスラーム教徒人口が拡大。1930年に、デトロイトの黒人ゲットーで「アッラーの教え」を説き始めた〈ファード〉(1877?~?)も支持を集め、集会所は「テンプル=オブ=イスラーム」と呼ばれた。やがて、アメリカ合衆国の黒人ムスリム最大の組織「ネーション=オブ=イスラーム」に発展する。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。




・1929年~1945年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆〈ローズヴェルト〉大統領は大統領権限を強化し,中立政策を転換して参戦に踏み切った
大統領派の「リベラル」は大きな政府を推進する
 〈ローズヴェルト〉による急進的な政策には批判も高まりましたが,1936年の大統領選挙では民主党の圧勝と大統領の再選に終わりました。この勝利には,従来の支持層である西部の中小農民,南部・大都市の移民に加え,労働者,低所得者,北部の黒人,中間層にわたる広範な連合(「ニューディール連合」)による新たな支持が背景にあります。二期目の〈ローズヴェルト〉も低所得者に対して,最低賃金・労働時間の規制,小作農に対する自作農化の推進といった「社会民主主義的」ともいえる政策をすすめていきました。こうした〈ローズヴェルト〉政権の政治・経済思想は「リベラリズム」と呼ばれ,大きな政府を目指すニューディールをすすめる〈ローズヴェルト〉派は「リベラル」と呼ばれるようになっていきました(これは20世紀後半以降の日本における「リベラル」の意味合いとは異なるものです)。
 国際政治の緊迫していた1930年代後半には,共和党と民主党保守派(反黒人派)の連合した反ニューディール派の勢力も議席をのばし,1938年の中間選挙では民主党が勝利したものの議席を減らしました。1939年には大統領補佐官が設置され大統領権限を強化しましたが,国民健康保険を含む福祉国家の建設は成功に至りませんでした。



 1937年7年の盧溝橋事件【共通一次 平1:満州事変の原因ではない】以降,日本は中国への軍事的進出を強めます。アメリカ合衆国の国民の孤立主義(アメリカ国外のことには関与しないという考え)的な風潮は強く,〈ローズヴェルト〉は日本に対する非難をしたものの,国内世論を気にしてしばらく静観するほかありませんでした。
 しかし,日本は1938年11月に大東亜共栄圏を発表し,1939年には日米通商航海条約の破棄を通告,1940年9月にはフランス領インドシナ北部への進駐,1941年7月に南部に進駐しました。それに対してアメリカ合衆国は,国内にある日本資産を凍結し,日本に向けた石油の輸出を全面的に禁止しました【セA H30 時期(日本への石油禁輸が実施された時期)】。

 それに前後して1941年4月からは〈ハル〉国務長官が,日本との交渉(日米交渉)を進めていました。アメリカ合衆国は日本の中国,南部仏印からの撤退,三国同盟からの離脱を要求し,1941年11月26日にいかなる妥協も許さないにいわゆる〈ハル=ノート〉が手渡されるに至って,12月1日に日本はアメリカ合衆国との開戦を決定しました。開戦に至る道筋には日米ともに紆余曲折(うよきょくせつ)があり,双方の政権担当者が当初から開戦を支持していたわけではありませんでした。

 さらに時を同じくしてヨーロッパでも,1939年【追H21イタリアではない】にドイツがポーランドに侵攻すると,みるみるうちにフランスが降伏。日本とドイツ,イタリアが日独伊三国軍事同盟で結びつくと,アジアの戦争がヨーロッパの戦争と結合することになりました。
 ここへきて1939年11月に中立法を改正し,イギリスを支援するために交戦国に武器を輸出できることになりました。1940年の大統領選挙で史上初の三選を果たした〈ローズヴェルト〉は,1941年1月に「四つの自由」(言論および表現の自由,信教の自由,欠乏からの自由,軍事的侵略の恐怖からの自由) 【追H9〈ローズヴェルト〉が主張したものか問う】を主張し,ドイツのファシズム(全体主義)に対抗し,アメリカ合衆国がイギリスを守るための「民主主義の兵器廠(へいきしょう)」になることを主張し,1941年3月には連合国への武器貸与・譲渡を可能とする武器貸与法【東京H27[3]】を成立させました。これにより,ドイツとの戦争を開始し連合国側に加わっていたソ連に対する軍事支援が可能となりました。1941年8月の大西洋憲章(けんしょう)【東京H17[1]指定語句】【追H20】では,イギリスとともに戦後の世界の構想を発表し,のちの国際連合の創設も見据えます。



・1929年~1945年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
◆真珠湾攻撃を契機にアジア・太平洋とヨーロッパにおける戦争に関与し,戦後の世界構想へ大戦に参加し,英仏の植民地帝国の解体をめざす
 1941年【慶文H30年号】12月8日(アメリカ合衆国の時間では7日),ハワイの真珠湾攻撃がおこなわれて2400人超が犠牲となりました。〈ローズヴェルト〉は真珠湾攻撃の実施された12月7日を「不名誉として記憶されることになる日(a date which will live in infamy)」と演説して対日開戦の機運を盛り上げ,議会の承認を得て(共和党で平和主義者の〈ジャネット=ランキン〉(1880~1973)ただ1人のみ反対),12月9日にアメリカ合衆国が日本に宣戦布告しました。日独伊三国軍事同盟に基づいて,12月11日にはドイツ・イタリアもアメリカ合衆国に宣戦布告。
 こうしてアメリカ合衆国はアジア・太平洋における戦争(アジア太平洋戦争;太平洋戦争【東京H22[1]指定語句】;大東亜戦争(「大東亜戦争」は,1941年12月12日に日本の情報局が「今次の対米英戦は支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶ」)と発表し公式の名称となりました)とヨーロッパにおける戦争の両方に関わることとなったのです。すでに1940年9月に史上初の徴兵法が成立しており,志願兵を含めると戦時中に約1635万人が徴兵されました。国民の士気を盛り上げるためにハリウッドの映画監督も協力し,「カサブランカ」(映画1942年米)などがつくられました(フランスのヴィシー政権を批判するシーン等があります)。
 戦時中にアメリカ合衆国にいた日系人に対する弾圧も強まり,1942年2月以降に内陸の沙漠地帯などに強制移住させられました。日系アメリカ人の芸術家〈イサム=ノグチ〉(1904~1988)もこのとき志願して拘留されています。
 総力戦体制が強まるなか,黒人組織は積極的に戦争に協力し,それによって国内における地位向上を目指そうとしました。また,軍需工場では女性も活躍し,女性の志願兵も25万人にのぼりました。

 〈ルーズヴェルト〉には,イギリスやソ連を中心とする連合国に加わることで世界の経済秩序を「自由な通商」を可能にする体制に「つくり変えよう」とする意図がありました。そのためには,イギリスやフランスが築き上げてきた帝国主義的な植民地体制(植民地帝国)を解体していく必要があります。イギリスに対しては戦争支援の見返りに,戦後にアメリカの商品に対するイギリス帝国の広大な市場を開放することを求めていたのでした。

 1942年1月に連合国26か国はワシントンD.C.で連合国共同宣言を発表。ファシズム諸国に対する戦争目的を明確化しました。これには〈蒋介石〉も参加しています。

 イギリスのポンド(£)に代わって,アメリカ合衆国のドル($)を世界の自由な通商における基軸通貨(キー=カレンシー)とするべく,1944年7月にブレトン=ウッズ会議【本試験H10】で国際復興開発銀行(IBRD,アイビーアールディー,のちの世界銀行(ワールド=バンク)) 【東京H11[3]】【本試験H10時期(1944年のブレトン=ウッズ会議で設立されたか問う)】と国際通貨基金(IMF,アイエムエフ) 【東京H11[3]】の設立が決定されました。
 戦争の早期終結のために〈ローズヴェルト〉はヨーロッパへの北からの上陸作戦(第二戦線【本試験H4第二戦線の協議はヤルタ会談で話し合われていない】)に意欲的でしたが,イギリスがソ連の勢力を警戒したことから第二戦線の構築は見送られ,実現することになったのは1944年6月になってからでした。

 世界の秩序を完全に「作り変える」ためには,ファシズム(全体主義)側であるドイツ,イタリア,日本を徹底的に叩きのめす必要があるという主張も出てきます。そこで1942年以降には極秘で莫大な資金が投入されて研究開発が進められた,1945年に「原爆」という形で実を結ぶことになります。
 戦時下のアメリカ合衆国では連邦政府の支出が跳ね上がり(1939年は89億ドル→1945年は952億ドル),戦時生産局を中心に大企業が中心になって軍事物資が大量生産され,軍部・政府・産業界のつながりが強化されました(やがて「軍産複合体」(Military-industrial complex,MIC)と呼ばれ,強い政治的な力を持つに至ります)。

 1944年8月にはアメリカ,イギリス,ソ連,中華民国の代表がワシントン郊外にあるダンバートン=オークスで会議【本試験H31オタワ連邦会議ではない】を開き,国際連合(UN,the United Nations) 【早法27[5]指定語句】の設立が構想されました。戦後世界の主導権を握る国をどうするかをめぐっては議論がありましたが,結局は大国が主導する制度となり,1945年6月には国際連合憲章が採択されます。ニューヨークに置かれた本部ビルには,小アジアのハットゥシャから出土したアマルナ文書の粘土板のレプリカが飾られています。アマルナ文書は,エジプト新王国とヒッタイト王国との間に前1286年頃に締結された史上初(史上最古)の国際条約です。

 議論の進む中でアメリカ・イギリスは,ソ連に対するポーランド問題やドイツの戦後問題をめぐる対立は残されており,1945年2月のヤルタ会談【本試験H4】ではポーランドで戦後に自由選挙が実施されるという形で一応はまとまりました【本試験H4「第二戦線」の形成は協議されていない】。
 しかし,すでに会議中に衰弱していた〈ローズヴェルト〉は4月12日に心臓病で死去。副大統領の〈トルーマン〉(任1945~53) 【東京H24[3]】【共通一次 平1:フーヴァーとのひっかけ】【追H21】が職務を交替しました。
 前後して1945年3月26日には日本に対する沖縄戦(~6月28日)が始まり,ミクロネシアのマリアナ群島から飛び立ったB-29による本土攻撃も前年1944年10月から激しさを増しました。ヨーロッパでは1945年に5月8日にドイツが降伏し,7月にはポツダム会談が開かれ,日本に降伏をすすめるポツダム宣言が発表されました。〈トルーマン〉は戦後の日本に対する優位を不動のものとするため,8月6日に人類史上初めて原子爆弾を実戦において,それも一般市民の生活する大都市・広島に対して使用しました。8月8日には,ヤルタ会談での決定に基づき,ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に参戦。8月9日は原子爆弾を長崎市に投下。8月10日には日本の御前会議(ごぜんかいぎ)において,国体護持(天皇中心の体制を守ること)を条件にポツダム宣言の受諾を決定し,8月14日に受諾しました。8月15日にラジオ放送(玉音放送,ぎょくおんほうそう)を通して国民にその事実を伝えましたが,指揮系統の混乱からポツダム宣言受諾の知らせが伝わらない戦地では,依然として戦闘が続けられていました。



○1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆世界恐慌後も強権的な政権が支持を集めるが,社会改革に向けた運動も起こる
経済をたてなおす一方,アメリカの介入が強まる
 世界恐慌の影響を受け輸出額の激減した諸国では,国際収支の悪化(輸出額<輸入額となり赤字になること)を防ぐため,従来はヨーロッパやアメリカから輸入していた製品を,自分の国でつくろうとする努力が見られるようになります。これを輸入代替工業といいます。中央・南アメリカの諸国は,第二次世界大戦では戦火を免れたことと,ヨーロッパ諸国が戦場となったことで輸入がとどこおったためです。

 とはいえ,世界恐慌の影響から失業者も発生し,ストライキや革命をめざす動きもみられるようになると,外国の資本と結びついた大土地所有者や大商人は,強い権力で国内の運動を押さえ込むことのできる指導者を求めるようになります。中央アメリカから南アメリカにかけての,こうした強権的な実力者のことをカウディーヨ(カウディージョ)といいます。彼らは,国内の中間層や労働者の票を集めるために,社会保障を充実させる政策(社会政策)をとり,それがますます財政赤字を深刻化させていくことになります。
 工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みもうまくはいきませんでした。依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,アメリカ合衆国に対する負債も増加し,インフレが問題となります。

 外資の導入に対しては,“自国の資源は自民族が守る”という「資源ナショナリズム」の思想も起こり,メキシコでは土地改革や鉄道・石油の国有化が図られていきます。

 一方,1930年代半ばにヨーロッパ情勢の雲行きが怪しくなってくると,1936年〈フランクリン=ルーズベルト〉大統領は平和のための特別パン=アメリカ会議の開催を要請。“何か”が起きた場合は,アメリカ州諸国の間が結束して,紛争の平和的な解決を共同で目指そうという条約の草案が採択されました。第二次世界大戦開戦直前の1938年の第8回パン=アメリカ会議(開催地はリマ)では,アメリカ合衆国が中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ諸国に対して「自分の側について戦ってくれること」を確認し,リマ宣言が採択されました。

 日本軍の攻撃が始まると,1941年にはパナマ,コスタリカ,ドミニカ共和国,エルサルバドル,ハイチ,ホンジュラス,ニカラグア,グアテマラ,キューバ。1942年にはメキシコ,ブラジル。1943年にはボリビア,コロンビア。1944年にペルー。1945年にエクアドル,パラグァイ,ウルグァイ,ベネズエラ,アルゼンチン,チリ。以上の諸国が連合国側に立って参戦しました。



○1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

・1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
◆〈カルデナス〉の国有化政策で民族資本が成長,クリオーリョやメスティーソの資本家が育つ
メキシコで石油・鉄道の国有化などが実行される
 メキシコでは1934年に〈カルデナス〉大統領(任1895~1970)が就任すると,「資源ナショナリズム」(自国の資源は自民族のもの!とする考え)な動きが活発化し,土地改革や石油・鉄道の国有化が推進され,1939年には石油の国有化が宣言されています。
 自主的な外交を推し進めた〈カルデナス〉は,ソ連からの〈トロツキー〉(1879~1940)の亡命を受け入れています(1940年に暗殺)。メキシコ滞在中に〈トロツキー〉は第四インターナショナルを立ち上げています。

 しかし〈カルデナス〉が1940年に引退し,中道(ちゅうどう。左派=改革派でも右派=保守派でもないということ)のメキシコ革命党〈カマチョ〉(任1940~46)の下で,〈カルデナス〉政権がすすめていった急激な改革をゆるめ,対米関係も改善し,1941年には連合国側に立っての参戦を決定しました。彼は社会改革をおこないながら,メキシコの工業化に尽力していきます。この過程で,大土地所有者の下で働く先住民は貧しさを強いられます。

・1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ
米の支援する〈ウビコ〉軍事政権が君臨する
 1931年にアメリカ合衆国の支援により〈ホルヘ=ウビコ〉(任1931~1944)が大統領に就任。中央アメリカ史上もっとも強権的な政治がしかれます。
 “中米のナポレオン”との異名も持つ〈ウビコ〉はアメリカ合衆国のユナイテッド=フルーツ社と癒着(ゆちゃく)し,果物やコーヒーの輸出向け農園では厳しい労働条件が放置されて貧富の差が開きます。
 そんな中1944年にグアテマラで革命が起き,1944~1945年の軍事政権の後,自由選挙によって〈アレバロ〉が大統領に就任。ここからの諸改革は“グアテマラの春”とも呼ばれます。

・1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ 現③ベリーズ
 イギリス領であったベリーズ。
 マホガニー(高級家具用の木材)の輸出に依存していたベリーズは世界恐慌の痛手に加え,1931年には過去最悪級のハリケーンに襲われます。マホガニー農園ではデモも起き,1941年には労働組合が合法化。

・1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル
コーヒー頼みのエルサルバドルで,左右の対立が激化
 エルサルバドルでは,世界恐慌の影響からコーヒー価格が暴落して混乱が広がると,政権に抵抗する共産党が活発化しました。そんな中,軍人〈マルティネス〉(大統領代行任1931~34,大統領任35~44)が後任に指名され,共産党を徹底的に弾圧し,多数の農民を虐殺しました。

 1932年に日本が満洲国の建国を宣言すると,エルサルバドルは日本の次に承認しています(実質,世界で初めて満洲国を承認した国(⇒1929~1945の日本))。ただ,第二次世界大戦では連合国側について戦いました。
 〈マルティネス〉は1944年に起きた労働争議を受けて辞任します。

・1929年~1945年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル
⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ





○1929年~1945年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島


・1929年~11945年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。
・1929年~1945年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島ではフランスによる白人優位の社会が続き,サトウキビ・プランテーションが主力産業となっています。
 第二次世界大戦中には,フランス第三共和政がナチス=ドイツによって倒れると,ヴィシー政府の支配下となります。
 しかし,末期にレジスタンスの成果が実り,自由フランスの側に立ち枢軸国勢力を追い出します。




○1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ

・1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆世界恐慌によるコーヒー価格の暴落から,地主支配に異議を唱えた〈ヴァルガス〉が開発を優先する独裁体制をしいた
反地主の〈ヴァルガス〉が強権的に開発を進める
 ブラジルでは,コーヒーを中心とする順調な経済を背景にして中央政府を牛耳っていたサン=パウロ州やミナス=ジェライス州に対する,地方諸州の不満が高まっていました。

 1929年の世界恐慌の影響で,コーヒーの国際価格が暴落。これをチャンスと見たのが,地方の牧場生まれで,リオ=グランデ=ド=スル州知事出身の〈ヴァルガス〉(1883~1954,任1930~45,51~54)です。彼は大統領選挙に出馬するも落選し,その不正を訴えて政治に不満を持っていた軍部とつるんで蜂起を起こし,臨時大統領に就任されました。これを1930年のヴァルガス革命といいます。
 彼を支持していたのは都市の中間層や労働者であり,サン=パウロやミナス=ジェライスといった一部の大都市ではなく,“ブラジル国民”全体のことを考えようというナショナリズムによって,支持を集めました。
 日系ブラジル人たちも、こうした国民化政策の影響を強く受け、1940年代を通じて徐々にブラジル人としての自覚を持つようになっていきました(注)。
 サン=パウロ出身の農園主・銀行家を蔵相に,ミナス出身者を閣僚に採用するというバランス感覚も忘れませんでした(サン=パウロで1932年に反乱が起きていますが,失敗に終わります)。1934年には新憲法が制定され,〈ヴァルガス〉は正式な大統領に就任し,強力な権力を手にします。彼の政権では革命に功績のあった青年将校が多数採用され,その後も大きな影響力が残されました。

 1930年代なかばには,1922年に結成されていたブラジル共産党への弾圧も強め,ソ連による人民戦線の呼びかけに応じた左派勢力を一掃するため,36年に共産党を解散しています。1937年には新憲法が制定されて,完全な独裁体制(エスタード=ノーヴォ;新国家)がしかれました。彼は,ナショナリズムを高めて国民を統合させようとし,サン=パウロ州立大学(1934),ブラジル大学(1938)。が設立されましたコーヒー経済に頼るだけではなくブラジルの工業化を推進しようとし,鉄道や発電所などのインフラの整備も進めました。また,北部のアマゾン川流域(アマゾニア)の開発計画も進めていきます。
 ヨーロッパで第二次世界大戦(1939~45)が勃発すると,〈ヴァルガス〉は連合国側で参戦しました。しかし,独裁に対する批判は高まり,戦後の1945年10月に軍のクーデタにより追放されます。
(注1) シッコ・アレンカール他、東明彦他訳『世界の教科書シリーズ7 ブラジルの歴史―ブラジル高校歴史教科書』明石書店、2003年、p.382。



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・1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
◆ボリビアとのチャコ戦争に勝利し、北西部の国境を確定する
ボリビアとの戦争に勝ち、北西部の領土が確定へ

 この時期のパラグアイは、チャコ地方北部の領有をめぐり、ボリビアとの間の戦争に勝利(1932~35年/38年のチャコ戦争)。北西部の国境が確定しました。




・1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ 現⑤アルゼンチン
◆アルゼンチン【東京H11[3]】では労働者の支持を集めて〈ペロン〉が最高実力者となっていく
〈ペロン〉が経済的自立を目指し工業化を推進する
 急進党の政権の左派寄りの政策に対し,大土地所有者を中心とする保守派は警戒感を強め,1930年に軍部はクーデタを起こしました。大土地所有者としては牛肉をイギリスに大量に輸出したいわけなので,軍部は「スターリング=ブロック」によって保護貿易を進めていたイギリスに接近していきます。しかし,その見返りにアルゼンチンではイギリス資本への従属【東京H11[3]イギリスとの協力関係を強めたラテンアメリカの国名を答える】がさらに進み,アルゼンチン国民の間に民族意識が芽生えていくこととなります。
 第二次世界大戦が始まると,保守派の〈オルティス〉大統領(任1938~42)は連合国側について参戦することを主張しましたが,「中立」政策をとるグループとの対立が生まれます。結局,「中立」派の〈カスティージョ〉が大統領に就任(任1942~43)しましたが,青年将校の間で不満が高まり,枢軸国側に接近しようとする秘密結社(統一将校団)が結成されました。

 この結社のメンバーであった〈ペロン〉(1895~1974)が労働者の支持を取り付けて急速に個人的な支持を集め,トントン拍子で最高実力者に躍り出ていきました。これを警戒した軍部は1945年に〈ペロン〉をとらえましたが,逆に労働者を中心とする大衆による〈ペロン〉支持を訴える運動(ペロニズム)が盛り上がっていきます。
 〈ペロン〉が目指した政策は,「社会正義」(労働者の保護),「経済的自由」(外資を追い出して鉱山・農場・企業を国有化し,資源の輸出ではなく製品の輸出による工業化を果たす),「政治的主権」(アメリカ合衆国・ソ連のいずれにも追従しない)の3つです。



・1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
銅の輸出額が激減したチリで左右対立が激化する
 1929年の世界恐慌の影響を受け,チリの銅の輸出額は激減し,軍人〈イバーニェス〉政権(任1927~31)は崩壊しました。その後,大統領代理が続くと,社会主義勢力と軍部によるクーデタが起きて社会主義共和国が成立しましたが,1932年に自由党の〈アレサンドリ〉政権(任1932~38)が復活します。

 1938年には,左派が一致団結して急進党の〈アギーレ〉大統領を中心とする人民戦線内閣が成立していましたが,アメリカ合衆国による切り崩しもあり1941年に崩壊していました。



・1929年~1945年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
◆ペルーやボリビアは,アメリカ合衆国の経済的な進出の影響を受けた
錫のポリビア,グァノのペルーも左右対立が激化
 1929年の世界恐慌の影響を受け,ボリビアの主要輸出産品であった錫の価格が暴落。共和党政権は〈シレス〉(任1926~30)から右派の〈サラマンカ〉政権(任1931~34)に代わり,パラグアイとの国境地帯(石油が掘れると考えられていました)をめぐるチャコ戦争(1932~38)に敗北(注)。

 チャコ戦争における惨めな敗北は、白人支配層に対する中間層による批判を呼び、混血層の軍人や知識人の中には変革を目指す動きも生まれます。政権は民族主義的な軍人が「軍事社会主義」を掲げて実権を握るようになり,1920年代に石油開発が委ねられていたアメリカ合衆国のスタンダード石油が国有化されました(1937年)。スタンダード石油がチャコ戦争の原因と考えられたからです。
 これはラテンアメリカにおける資源の国有化としては早い例です。錫輸出で得られた外貨を鉱山銀行を通して政府管理下に起き、労働省を創設して労働組合を保護。
 1939年に成立した政権は一時親米路線をとりましたが,それに対抗して国家社会主義を推進する知識人一派が1941年に国民革命運動(MNR)を結成(鉱山銀行を管理した〈パス=エステンソロ〉や〈ゲバラ=アルセ〉らの知識人が結成しました)。 1943年には軍の急進派(「祖国の大義」)によるクーデタで誕生した〈ビリャロエル〉政権に参加し,労働立法を強化し土地改革を制作に掲げ農民にも支持を広げながら、枢軸国寄りの姿勢をみせました(注)。


(注)〈ビリャロエル〉政権に〈パス〉は経済相として参加。1945年には「全国インディオ会議」をひらき、ポンゲアヘ(封建的な賦役制度)の廃止とアシエンダ制度の改革に踏み込む政令も出されました。1946年に保守層によって大衆暴動で〈ビリャロエル〉は殺害されますが、この運動はのちのポピュリスト運動の基盤を養うことになります(真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.135)。



 ペルーでは世界恐慌の影響で,輸出に依存していた経済が打撃を受けました。輸出業で栄えていた資本家は軍部に接近し,民衆を基盤とするアプラ(APRA;アメリカ人民革命同盟,反米・反帝国主義を掲げるラテン=アメリカの民族主義運動組織)との対立が深まっていきました。アプラは1931年の大統領選挙で敗れたものの,大衆を基盤とした左派政党として軍部と対立していきます。
 1934年にはのちにペルーの大統領となる〈アルベルト=フジモリ〉(1938~,任1990~2000)の両親がペルーにわたっています。
 1939年の選挙で資本家の支持を受けた〈プラード〉(任1939~45)が勝利して「善隣外交」をとっていたアメリカ合衆国と接近し,アプラとも協調関係を築きました。

(注)田島久歳・武田和久編著『パラグアイを知るための50章』明石書店、2011年、p.30。





●1929年~1945年のオセアニア
◆オセアニア西部にも第二次世界大戦(日本の進出)の被害が及ぶ
オセアニアも,アジア・太平洋戦争の戦場に
 日本(大日本帝国)は1941年以降,戦線をオセアニアにも拡大。1943(昭和18)年9月末の御前会議で,「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域ヲ千島,小笠原,内南洋(中西部)及西部「ニューギニア」「スンダ」「ビルマ」ヲ含ム圏域トス」とされたためです。この範囲は絶対国防圏と呼ばれました。
 しかし,進出先のオセアニアの防衛や航路などの確保は進まず,戦争末期にはアメリカ合衆国による激しい進出を受け,ミクロネシアのマリアナ諸島を失ったことによりB-29による本土爆撃が可能となりました。
 この過程で多数の兵士・民間人が犠牲となりましたが,オセアニアの住民(グアムのチャモロ人など)も戦闘に巻き込まれたことは見落とされがちです(注)。
(注)戦後は観光地となった北マリアナ諸島のグアム。この地の慰霊の対象は戦後しばらくは日本・連合国の兵士であり,すぐさまチャモロ人を含む慰霊は営まれませんでした。渡辺尚志編『アーカイブズの現在・未来・可能性を考える』法政大学出版局,2016。



○1929年~1945年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ

 ⑦西サモアは,国際連盟のニュージーランド委任統治領。東サモアはアメリカ合衆国領です。
 (1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年ニュージーランドの委任統治→1945年西サモアは国際連合信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモア自治政府→1997年西サモアはサモアに改称)。

 ニュージーランド自治領(Dominion of New Zealand)は,1931年のウェストミンスター憲章により,イギリス王冠への忠誠の下,イギリス本国とおおむね対等の立場を手に入れました。
 こうしてイギリスは,本国と植民地とのタテの関係を持つ従来の「帝国」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされた自治領(ドミニオン)とのヨコの関係を持つ「ブリティッシュ=コモンウェルス」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。

○1929年~1945年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリア連邦(Commonwealth of Australia)は,1931年のウェストミンスター憲章において,イギリス本国と王冠への忠誠の下で対等な自治領(ドミニオン)として認められました。オーストラリアは,ブリティッシュ=コモンウェルスのメンバーとして,イギリス本国とおおむね対等な立場を手に入れたのです。
 こうしてイギリスは,本国と植民地とのタテの関係を持つ従来の「帝国」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされた自治領(ドミニオン)とのヨコの関係を持つ「ブリティッシュ=コモンウェルス」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。

 なお,オーストラリア北部海域では,日本人潜水夫による真珠採取が続けられています(注)。
(注)「アラフラ海から珊瑚かいへ (1〜3)」,大阪朝日新聞 1942.3.16-1942.3.18 (昭和17), http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00504024&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00504024。

○1929年~1945年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
○1929年~1945年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

 ③ナウルは1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていましたが,アジア・太平洋戦争の開始にともない,日本が現②キリバスのオーシャン島とともに占領下に置くと中国人労働者やヨーロッパ人は非難し,島民もカロリン諸島に強制移住されました(注)。
 ②キリバスのうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入し,採掘が進められています。

 1931年にオーストラリア航路の航海士〈丹下福太郎〉がパラオで真珠貝の漁業を開始。これによりパラオのシロチョウガイが真珠採取の拠点となり,三井物産神戸支店が貝ボタンの原料とするためアメリカ合衆国に輸出します。日本の南洋庁はパラオの真珠採取を奨励しますが,オーストラリアはこの動きを問題視し,周辺海域の日本船を拿捕しています(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.126~p.127。





●1929年~1945年の中央ユーラシア
中央ユーラシアの大部分はソ連,中国の支配下に
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル

◯1929年~1945年の中央ユーラシア  現①~⑤中央アジア
 カザフ草原から西トルキスタンにかけての地域は,ウズベク,カザフ,トルクメン,タジク,キルギスの各社会主義共和国として,ソ連の構成国となっていました。1940年代に入ると,ソ連の〈スターリン〉は「自然改造計画」を唱え,大規模な綿花のモノカルチャー栽培のために,アラル海の水を利用した灌漑を始めた。1950年代に,アム川の中流域にカラクーム運河が建設されると,1960年代以降,トルキスタンの“オアシス”だったアラル海の面積はどんどん縮小していくことになりました。

◯1929年~1945年の中央ユーラシア  現⑥新疆
 新疆(東トルキスタン)では,1931年にハミで,軍閥〈金樹仁〉による回土帰流(東トルキスタンの小王国の領土を取り上げる政策)に対する反乱が起き,全土に拡大しました。ホータンでも反乱がおき,カシュガルで「東トルキスタン・イスラム共和国」の独立宣言が発布されました。しかし,中国国民党政府やソ連,新疆の漢人軍閥による干渉を受け,1934年には崩壊してしまいました。

 その後1944年に新疆省主席が国民党政府から解任されると,別の漢人有力者が任命されました。それを機に,カザフ人の遊牧民がソ連・モンゴルの支援を受け「アルタイ民族革命臨時政府」を樹立。さらに同年,イリでソ連が支援する反乱が起き「東トルキスタン共和国」の独立が宣言されました。のちに,カザフ人らの諸民族も合流したので,「東トルキスタン共和国」に代わり,イリ地区・タルバガタイ地区・アルタイ地区の三区革命と呼ばれるようになりました。しかし喜びもつかの間,1945年のヤルタ協定の秘密協定で,中華民国政府による新疆の支配権がソ連に認められていたのです【本試験H11「新疆は…第二次世界大戦後国連に加盟する」わけではない】。

・1929年~1945年の中央ユーラシア  現⑦チベット
 チベットでは,1933年に〈ダライ=ラマ13世〉が死去し,若年の〈ダライ=ラマ14世〉【東京H12[2]】が即位しました。

 チベットが国際的にどういう地位にあるのか,イギリスや中華民国はあいまいなまま放置。そのためチベットの国際的な位置もあいまいなままです。

 なお,「セブン=イヤーズ=イン=チベット」(1997米)は,第二次世界大戦中のチベットを訪問したドイツ人登山家の手記を基にした映画で,若き日の〈ダライ=ラマ14世〉が登場します。当時のチベットの様子を彷彿(ほうふつ)とさせる映画です。


・1929年~1945年の中央ユーラシア  現⑧モンゴル
 〈蒋介石〉の中華民国の支配下におかれた内モンゴルでは,自治要求が高まっていました。
 一方,1931年に満洲事変が起きると,日本の満洲,内モンゴルへの進出が始まります。日本は,内モンゴルで中華民国政府に対して自治を求めていた勢力を支援し,1937年に蒙古連盟自治政府を建てました。
 これはもちろん,内モンゴルに傀儡政権(支配者が,別の国によって”操り人形”のようにコントロールされている国)を建て,中華民国から切り離すための作戦です(1939年には蒙古連合自治政府に発展)。

 日本の動きに対して,ソ連はモンゴルを支援します。「満洲国」とモンゴル人民共和国の国境地帯はあいまいなままでしたが,1939年にハルハ川周辺で武力衝突が起き,ノモンハン事件(春ハルハ川戦争)が勃発したのです。日本は壊滅的な被害を受けて敗北し,この後は「南進」に向かうことになります。

 なお,〈チンギス=ハーン〉をまつる施設(チンギス=ハーン陵)は,黄河が湾曲している部分のオルドス地方と,内モンゴル東部のウランホトにあります。このうち後者の施設は1944年に満洲国の支配下にあった内モンゴル東部の人々の要望を受け,日本側が彼らを取り込むために建設を承認したものです【セA H30リード文】。


・1929年~1945年の中央ユーラシア  北極海周辺
ソ連により,北極海航路が開通する
 北極海では,ソ連が氷を砕いてすすむことのできる船(砕氷船)の開発をすすめ,1933年に蒸気船の試験船がベーリング海に達し(ただし沈没しています),1935年に航路が実用化されています。
 




●1929年~1945年のアジア
◯1929年~1945年のアジア  東アジア・東北アジア
◆日本は満洲から中国本土に侵攻し日中戦争を起こすが,国内勢力の提携,連合国による国民党の支援により敗北する
〈蒋介石〉の安内攘外(あんないじょうがい)は,西安事件で国共合作へ

 この時期に,日本は中国本土に軍事侵攻します。
 初期の頃は中国側は〈蒋介石〉の中華民国政府が中国共産党討伐を優先し,日本との軍事的衝突を避ける政策(安内攘外の政策)がとられました。
 1934年に中国共産党の討伐に勝利すると(注),1910年代から関係良好であったドイツとの関係を深め,軍事顧問団を受け入れています。日本の姿勢にも,1937年の日中戦争の起点とされる盧(ろ)溝(こう)橋(きょう)事件に至るまで和平論と強硬論があって,一筋縄ではありませんでした。
(注)和田春樹他編『岩波講座 東アジア近現代通史 第5巻 新秩序の模索――1930年代』岩波書店,2011,p.26。

 その経緯を順にみていきましょう。

 1929年7月,〈浜口雄幸〉(はまぐちおさち)内閣(1929~31)が成立しました。
 〈幣原喜重郎〉(しではらきじゅうろう,1872~1951)外相は,1930年にイギリスとアメリカの主導するロンドン海軍軍縮会議【本試験H13ワシントンではない】で締結された条約【本試験H17ブリュッセル条約とのひっかけ】に参加し,「補助艦」【本試験H13】(駆逐艦,重巡洋艦・軽巡洋艦)の保有数に制限をかけることを承認しました【本試験H18四か国条約は結ばれていない】。
 比率は,潜水艦の比率は米英日=10:10:10,駆逐艦の比率は10:10:7でした。しかし,重巡洋艦(軽巡洋艦は( )内)の比率が,10:8.1(13.4):6.02であったことに対して海軍軍令部や野党からの批判が起こりました。「相手に対して発揮する破壊力は,保有する軍事力の2乗になる」というランチェスターの法則をもとに,10:7なら100:49でなんとかなりそうだが,10:6では100:36になり大違いだと主張したのです。
 〈浜口雄幸〉は同年東京駅で狙撃され,翌31年に死去しました。しかし,1930年3月に世界恐慌が日本に波及し,日本全土の小作農・労働者の生活を直撃しました。都市部の中間層(中小の商工業者)も,農村の中間層(自作農)は「こんなに地方は深刻な状況になっているのに,財閥や政党政治は何もしてくれない」と,政府に対して批判的になっていきます。
 
 このころ,〈蒋介石〉の国民政府によって統一された中国では,資本主義的な取引は認められています。1931年には,満洲鉄道と並行した鉄道を新たに敷設する計画が,国民党中央委員の〈張学良〉(1901~2001)らによって作られています。広い中国の「国語」を統一しようという動きも,文学革命の〈胡適〉(1891~1962)以来進められ,1932年には『国音常音字彙』により,北京語を基にした現在の中国の標準語「普通話(プートンホア)」や台湾の「国語」の原型ができています。
 1935年にはイギリス【東京H11[3]】とアメリカ【東京H11[3]】の支援の下,「法(ほう)幣(へい)」【追H29清ではない】【東京H11[3]】という通貨への統合も実現しました(幣制改革(注))。
 また、清朝末期に結ばれた列強との不平等条約の改正も進められていきました(国権回復運動)【早・政経H31「南京国民政府は諸外国との条約改正を進めたが、関税自主権は回復できなかった」じは誤り】。
(注)和田春樹他編『岩波講座 東アジア近現代通史 第5巻 新秩序の模索――1930年代』岩波書店,2011,p.26。

 日本には「日本の不況(当時の日本は不況続きで,農村は飢饉などが多発し悲惨な状況でした)を解決するには,満洲や外蒙古(満蒙)に進出するしかなく,そのためには〈蒋介石〉の政権と戦うしかない」と考える人たちが出てきていました。

 その一派が起こしたのが「柳条湖事件」(1931年,実行犯は関東軍)で,それ以降日本軍は満洲一帯を軍事的に占領し,「満洲国」の建国を宣言しましたが,国際社会による承認は得られませんでした(1931~1933年満洲事変) 【本試験H17国際連盟は満洲国を承認していない】。国際連盟が真相究明のため派遣したリットン調査団の報告に対し,日本は1933年に国際連盟を脱退することで答えました。
 さらに,満洲近くの河北省を,〈蒋介石〉に支配下から切り離す「華北分離工作」をすすめていきました。〈蒋介石〉は,当時は共産党を退治するのに手一杯で,日本と戦争をする体力はありませんでした。1933年に塘沽停戦協定(タンクー,とうこ)が結ばれたので,普通はこの段階を日中戦争には含めません。この協定により中国軍は長城より南に撤退し,日本も満洲国に退くことで,日中の間には非武装地帯が設定されることになり,東北地方の三省と熱河省の占領が事実上認められた形になりました。しかし,日本側の中国への圧迫は続き,河北省に1935年には冀東(きとう)防共自治政府という傀儡政権(かいらいせいけん)を樹立させています(~1938年)。
 
 〈蒋介石〉が日本の進出に対して宥和的な政策をとったのは,当時の中国国民党が各地に拠点を築いていた中国共産党と戦うためでした。

 “安内攘外(あんないじょうがい)”
 ―まずは国内の安全をはかり,その上で外から来る日本をブロックする。〈蒋介石〉のプランです。

 国内の国民党政権を守るために共産党を攻撃することを,囲剿(いそう)といいます。
 中国共産党は,〈毛沢東〉【本試験H12蒋介石ではない】【本試験H21周恩来ではない】を主席とする1931年【共通一次 平1:年代】に中華ソヴィエト臨時政府【共通一次 平1:時期が1930年代か問う】【本試験H12】を瑞金(ずいきん) 【共通一次 平1:時期が1930年代か問う】【本試験H29重慶ではない】に樹立していましたが,山奥での自給自足にも限界があり,100万人以上の国民党の軍隊が投入されると,共産党の軍隊(紅軍(こうぐん,1927年成立))はついに持たなくなりました。
 そこで共産党は瑞金の政府を捨て,1934~1936年にかけて国民党軍と戦いつつ中国西部のけわしい山間部を通って大雪山脈(最高峰は7556m)を抜け,黄河上流の延安(えんあん) 【本試験H27長安ではない】にかけて1万2500kmの決死の移動をおこないました。これを長征 (ちょうせい。西遷;大西遷都とも【本試験H12時期(「日中間の全面戦争」の開始に伴って実施されたわけではない)】【追H18地図(地動経路)、H20 時期(1950年代ではない)】)といいます。初め8万人超いた兵力は,延安到着時に数千人になっていました。また,この移動の途中におこなわれた遵義会議では,誰が共産党のリーダーになるかをめぐって話し合われ,〈周恩来〉が批判のやり玉にあげられ,〈毛沢東〉を支持。紅軍の建設者・指導者である〈朱徳〉も〈毛沢東〉を支持したため,以後は〈毛〉が実権を握ります。
 1935年【共通一次 平1:年代】には中国共産党【本試験H12提唱したのは中国共産党か問う】の〈毛沢東〉【本試験H12孫文ではない】が「共産党も国民党も協力して日本と戦おうじゃないか!」(抗日民族統一戦線【本試験H12袁世凱による仲介ではない】)という文書を,国民党向けに発表しました(八・一宣言) 【共通一次 平1:内容を問う】【本試験H12満州事変のきっかけではない】【本試験H29国民党が出したわけではない】。
 さて,共産党の延安到着後の1936年【共通一次 平1】,〈蒋介石〉は延安に移った共産党を攻撃するよう,〈張学良〉に期待をかけており,西安(かつての長安【本試験H27】)に軍の視察に入ったところ,逆に国民党【共通一次 平1:共産党ではない】の〈張学良〉と〈楊虎城〉によって〈蒋介石〉は監禁【共通一次 平1】されてしまいます。「いつまでも共産党と仲間割れをしている場合ではない。本当の敵は中国だ」と蒋介石を説得したのです。これを西安事件といいます【共通一次 平1】【本試験H22地図(西安の位置)】【追H19】。説得に応じた〈蒋介石〉は,共産党との協力に転じました。

 この間,日本は「華北分離工作」(中国北部一帯を日本軍の勢力下に置く作戦)を進めていました。
 1937年の7月7日,いよいよ北京郊外の盧溝橋で日本と国民党軍との軍事衝突が起き(盧溝橋事件【本試験H12】),日本と中華民国との本格的な戦闘に突入していきます(注)。
 両国はこの時点では宣戦布告していませんが,事実上この時点から全面戦争に発展していきますので,一般に1937年が日中戦争の開始年とされます。

 盧溝橋事件をきっかけに,中国側では本格的に第二次国共合作の組織構築が進んでいきました【共通一次 平1】。共産党の軍隊(紅軍)は,八路軍(華北中心),新四軍(華南中心)として,国民政府の指揮下に組み込まれました。
 日本軍は次々に都市を占領していきました。1937年には南京を陥落し(南京攻略戦) 【本試験H18】,南京事件(南京虐殺) 【本試験H4ピカソのゲルニカの題材ではない】を起こしています。南京国民政府は首都を漢口(かんこう) 【本試験H9上海ではない】に移し,日本軍がそこを攻撃すると,さらに重慶(じゅうけい)【本試験H9上海ではない】に移して抵抗を続けました【共通一次 平1:国民政府の所在地に関する問題(1920年代から30年代に一度も国民政府の所在地とならなかった都市を選ぶもの。選択肢は①重慶,②広州(広東),③南京,④北京】【本試験H9中国同盟会結成地ではない,本試験H12】【本試験H18成都ではない,本試験H27長安ではない】。

 この間,日本の〈近衛文麿〉首相は,「日本の東亜新秩序(東アジアから欧米勢力を追い出した後で,日本が中心になって建設するとされた新しい秩序)建設に協力するならば,和平について話しあおうじゃないか」(第二次近衛声明)と呼びかけました。すると,上海クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)のときに〈蒋介石〉に降参し,日本との和平を主張していた〈汪兆銘〉(おうちょうめい)【追H19】は日本に接近します。こうしてできたのが1940年の南京国民政府です【本試験H22地図】。実際には日本の傀儡政権(対日協力政権)【本試験H29】に過ぎません。
 なお,日本軍は,ドイツのゲルニカ爆撃【本試験H4】【本試験H31】(ピカソがこれをテーマに絵を描いたことで有名)に続く航空機による大規模な都市の爆撃を,重慶に対して行っています(重慶爆撃)。

 日本が植民地化していた朝鮮では、戦況が緊迫化するにつれ、朝鮮総督府は創氏改名【追H24】や神社参拝強制【追H24】などの皇民化政策【追H24文化政治ではない】を展開しました。

 中国の国民政府はアメリカ・イギリスの援助も受けながら耐え忍び,〈蒋介石〉は1943年に,第二次世界大戦後の東アジアの勢力について決めるカイロ会談に出席しました。〈汪兆銘〉政権は1944年に崩壊します。
 日本は1942年のミッドウェー開戦での敗北を機に,次々とアジア・太平洋地域の拠点を失っていきました。1945年にアメリカ合衆国により広島・長崎に原子爆弾が投下【本試験H4ピカソの絵画の題材ではない】されると,「黙殺」していた連合国のポツダム宣言をようやく受諾し,無条件降伏しました。

◯1929年~1945年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

◆日本は“大東亜共栄圏”建設をうたって東南アジアに侵攻したが,軍政に対する抵抗を生み,敗戦とともに撤退する
 なお,「東南アジア」という名称は,第二次世界大戦のときに,連合国により1943年に現在のスリランカのコロンボに設置された「東南アジア司令部(コマンド)」が語源です。今では当たり前になった地域のまとまりですが,この言葉の歴史は浅いのです。略称であるSEACは,当時のアメリカ軍の間では「Save England’s Asian Coloinies(アジアのイギリス植民地を救え!)」という意味じゃないかという冗談もあったそうです(注)。
(注)木畑洋一『20世紀の歴史』岩波新書2014,p.160



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・1929年~1945年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム,⑧カンボジア,⑨ラオス
日本に占領されるが、独立運動も活発化する
 フランス統治下のインドシナでは,1930年~1931年に,ハノイ南方のゲアン省・ハティン省で,〈ホー=チ=ミン〉【東京H28[3]】【本試験H10陳独秀ではない】が結成したインドシナ共産党(1930年結成時はヴェトナム共産党という名称ですが,直後に改称) 【本試験H10】【本試験H26結成時期】にも支援を受けた農民や労働者が地主,雇用主,さらにはフランスに操られていた阮朝に対し,大規模な蜂起を起こしました。これをインドシナ共産党はゲティン=ソヴィエトと呼びます。
 これは,さらに,世界恐慌により米の価格が下落し深刻な影響を与えました。1935年にソ連のコミンテルン第七回大会が,人民戦線(共産党だけでなく,社会民主主義者も含めてファシズムと立ち向かおうという運動)を決議すると,フランスで〈ブルム〉【本試験H30】【追H21ド=ゴールではない】による人民戦線政府【追H21】が成立しました。これを受け,インドシナでも民主統一戦線が立ち上げられ,社会主義運動・反帝国主義運動が盛り上がりました。しかし,1938年に〈ブルム〉内閣が崩壊。フランス共産党は禁止され,1939年にインドシナ総督は,これらの運動に関わった者を一斉検挙しました。そんな中で,日本は1940年のパリ陥落の後,「仏印進駐」を開始します。これがきっかけとなって,連合国は日本の資産を凍結する制裁を課したことで,一気に1941年12月の日米開戦につながっていきました。日本政府やマスメディアは,この状況を“ABCD包囲網(ライン)”(Aはアメリカ,Bはイギリス,Cは中華民国,Dはオランダ(ダッチ))と呼び,国民の危機感をあおりました。

 太平洋戦争中,日本南方軍の総司令部はサイゴンに置かれました。しばらくフランス(ヴィシー政権)の植民地組織はそのまま残されましたが,1945年3月に日本はフランス軍から主権を奪い,フランスに保護国化されていた阮朝皇帝〈バオ=ダイ〉【追H24】は独立を宣言しました。もちろん,これは日本による傀儡政権です。
 日本軍は,ラオスでも同様のことをしています(〈シーサワーンウォン〉王(位1904~59)をルアンパバーン王として即位させました)。

 一方,〈ホー=チ=ミン〉【東京H28[3]】はインドシナ共産党(1930年に結成【本試験H26時期】)は,同じく彼により1941年に正式に設立されていたヴェトナム独立同盟会(ベトミン) 【追H18】【東京H29[3]】に合流し,中心に北部山岳地帯で独立に向けた活動を行い,1944年12月には〈ヴォー=グエン=ザップ〉による人民軍が組織されました。
 ヴェトナムを占領していた日本【慶商A H30記】がポツダム宣言を受諾すると,1945年8月16日〈ホー=チ=ミン〉はヴェトナム民主共和国の建国宣言を行い,8月19日にハノイで一斉蜂起し〈バオ=ダイ〉【追H24】は権力の座から引きずりおろされました(八月革命)。こうして9月2日に,ヴェトナム民主共和国が独立しました【本試験H14時期(アメリカ軍の撤退後ではない)】【追H24バオ=ダイが独立宣言したのではない】。

 しかし,南部では共産党による支配が,フランス軍により奪われ,1946年には南部ヴェトナムはフランス軍支配下に置かれることになります(フランス領コーチシナ)。
 そして,1946~1954年の間,フランスは植民地を維持するためインドシナ戦争を起こします(第一次ヴェトナム戦争ともいいます)。

 ラオスでは,日本軍に支援された〈シーサワンウォン〉王(位1904~59)が,日本降伏後もフランスの保護下に置かれると宣言したため,独立運動家(「自由ラオス」という組織をつくっていました)たちは中部のウィエンチャンで1945年9月に「ラオス」の統一を宣言し,臨時政府を樹立。しかし,フランス軍がインドシナを植民地として“キープ”しようと軍事行動を起こしたため,臨時政府はタイのバンコクに逃げました。





・1929年~1945年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
独立が約束されるが、日本の占領を受けた
 フィリピンでは,世界恐慌の影響で,不況にあえぐアメリカの農家がフィリピンから関税なしで砂糖やココナツ製品が輸入されるのを防ぐため,フィリピンを植民地から切り離す(=独立させる)運動を起こしました。1933年に就任した〈フランクリン=ローズヴェルト〉大統領のとき,1935年にタイディングズ=マクダフィー法が制定され,10年の移行期間ののちの1946年のフィリピン共和国の独立が認められました。その代わり,フィリピンからアメリカに輸出する製品には関税がかかることになるという内容でした。独立準備政府(コモンウェルス政府)が発足されたものの,アメリカに対する経済的な依存は続き,前途多難な状況でした。

 アメリカの植民地だったフィリピンは,日米戦争による被害をもろに受けることになりました。
 1942年1月2日に日本軍は、フィリピンのマニラに進軍。2月にシンガポール、3月にビルマのラングーンを占領し、5月には米軍司令官〈マッカーサー〉の拠点であったフィリピンのコレヒドール要塞を陥落させます(注)。

 1942年に日本の支配に抵抗する抗日人民軍(フク団,フクバラハップ)が結成され,ゲリラ部隊によって各地を解放しようとしました【本試験H16第二次大戦中に抗日運動が起きたかを問う】。
 一方,アメリカ軍は1944年10月にレイテ島に上陸し,敗れた日本は制空権・制海権を喪失。1945年2月にマニラは再占領されました。このときの戦闘でアメリカの砲火や日本軍による攻撃で,一般市民に10万人ともいわれる犠牲が出ています。各地を解放したフク団は,共産主義勢力の拡大を恐れたアメリカの〈マッカーサー〉(1880~1964)により武装解除され,その後も弾圧対象となり,戦後には内戦に発展します。

(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.304。






・1929年~1945年のアジア  東南アジア 現④東ティモール
第二次世界大戦では日本に一時占領される
 東ティモールを植民地支配していたポルトガルは、第二次世界大戦中は「中立」政策をとっていました。
 オランダ、オーストラリアの軍が保護占領しますが、ティモール島の戦いにより日本に占領されます。
 しかし日本の敗戦するとオーストラリア軍が占領し、さらにポルトガルによる支配が復活しました。




・1929年~1945年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ、⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
マレー半島上陸により太平洋戦争が始まる

  現在のマレーシアやシンガポールを中心とする地域では、(1)海峡植民地(ペナン,マラッカ,シンガポール【本試験H2・本試験H11:1901年当時の宗主国を問う】)+(2)マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+(3)非連合州を合わせて,イギリス領マラヤが形成されていました。
 また、イギリスは19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばし,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。
 シンガポールは、マレー半島地域の一次産品生産と結びつき、アジア貿易をと拠点となる貿易港・金融中心地に発展。その担い手となっていたのは華僑(かきょう)の起業家と、労働力となったクーリー(主に中国人ですが、インド人やマレー〔ムラユ〕人もいました)です(注)。
(注1)たとえば現在も巨大な規模を維持する、ゴム関連企業グループを創設したリー=コンチェン一族がいます。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.28。



 現在のインドネシアではオランダからの独立運動が継続されていましたが,そんな中,日本軍の侵攻を迎えることになります。

 1941年12月8日午前2時15分,日本軍はマレー半島コタバルに上陸。これは,真珠湾攻撃の1時間5分前です。12月10日には、イギリス海軍の軍艦プリンス=オブ=ウェールズとレパルスを撃沈させ制海権を奪い、マレー半島の東西沿岸を南下。
 1月31日にジョホールバルの王宮に陣を構え、2月8日にシンガポールを占領【本試験H14,本試験H25時期】,2月15日にイギリス軍は無条件降伏しました。さらに3月にはジャワ島を占領します
 これ以降の日本占領期をシンガポールではその期間から「三年八ヶ月」(注)と呼びます。
 シンガポールは昭南島と名前を改められ、昭南特別市政庁として日本の軍政の中心地となりました。この地域には華僑が多数居住していたため,ムラユ〔マレー〕人とインド人を優遇しました。
 中国人住民は攻撃の対象となり、1942年2~3月には多数の華僑に対する虐殺事件が起きたほか、日本軍に対する強制的な献金が要求されました(注2)。
 日本は中国人だけでなく、イギリス人と英語を話す中国人(クイーンズ=チャイニーズとして区別されました)は「アジア人」ではないとして排除し、ムラユ〔マレー〕人とインド人を優遇したのです。しかし後者からもやがて反日運動が起きるようになります(注3)。

 日本の目的は,石油,ゴム,スズ,ボーキサイトなどの資源の獲得であり,長期化している満洲や中国との戦いを解決するために必要と考えられました。これらの地域では1942年から軍政がしかれ,天皇を礼拝する政策,日本語による精神教育など,日本への文化的な強制を含む政策がとられました。
 しかし、この苦難を通じて、シンガポールの一部住民の中に「外部の民族による支配」に対する疑問と「シンガポール人意識」が芽生えていくことにもなります。

(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.42。
(注2) 日本側の証言によれば5000~6000人ほど。虐殺を追及した側は4~5万人が殺害されたと主張しました。のち、1962年にシンガポール東海岸一帯が整地された際に、大量の白骨が出現。これは中国人粛清の犠牲者のものでいたが、イギリスが1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)で日本に対する賠償を請求する権利を放棄していたので、シンガポールの華人が賠償金を請求する権利は形式的にはありませんでした。しかし長年にわたる交渉の末、日本が占領時に中国人に課した「強制献金」の額5000万シンガポールドル(約60億円)を、無償・有償協力金をして支払うことで1967年に決着。同年には華人系住民により慰霊碑が建てられました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.46-47,53。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.55。


・1929年~1945年のアジア  東南アジア  現⑩タイ
シャム(タイ)は立憲君主制に移行し,日本に協力
 シャムでは,チャクリ朝の絶対王政がしかれていましたが,1929年の世界恐慌のあおりを受け,輸出品の主力である米の価格が下落。
 官僚のリストラなどによる対応が国王・王族に対する批判を集め,1932年の人民党の〈プリーディー〉(1900~1983)や〈ピブーン〉(1897~1964)らによる政変(タイ立憲革命,1932年クーデタ)が起きました。〈プリーディー〉らは憲法を起草し,国王〈ラーマ7世〉に署名を迫ります。これによりシャムは,立憲君主政に移行しました。
 しかし,〈プリーディー〉がソ連の国家運営に影響を受けた政策を実行に移そうとすると,人民党政権内部での内部分裂が起き,穏健派であった〈マノーパコーン〉首相(1884~1948)は1933年に議会を停止。〈プリーディー〉はフランスに亡命しました。

 しかしその後,同年に〈プリーディー〉は新政権により呼び戻されます。
 〈ラーマ7世〉(位1925~1935)はイギリスに身を寄せ,1934年に退位を宣言。新政権を認めないという意志のあらわれでした。
 当時9歳の〈ラーマ8世〉(位1935~1946)も国外に滞在する,事実上国王が国内にいない状況となります。1931~1933年の満洲事変に際しては,1933年2月にリットン調査団報告関連の決議を棄権。

 1941年に太平洋戦争が勃発すると,タイは日本の軍事進出に協力。12月に日タイ攻守同盟を締結しました(注)。
 1942年に〈ピブーン〉首相はイギリスとアメリカ合衆国への宣戦を余儀なくされました(〈ラーマ8世〉はスイスに留学していたため,国王が直接宣戦布告したわけではありません)。1943年11月に王族の〈ワンワイタヤコーン〉外相(1891~1976)は,東京で開催された大東亜会議に参加。共同で大東亜共同宣言を発表し,欧米の帝国主義からアジアを解放することを戦争の大義とします。
 これに対し,〈ピブーン〉に批判的な〈プリーディー〉は抗日運動を組織します。

 戦局の悪化とともに,1944年に〈ピブーン〉首相は辞任。
 〈ラーマ8世〉は1945年12月にタイに帰国。〈プリーディー〉は政治的な影響力を復活させます。

(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.304。




・1929年~1945年のアジア  東南アジア  現⑪ミャンマー
 ビルマは,英領インド帝国の1州として1886年に併合されていましたが【本試験H21】,1937年に自治領に昇格しました。イギリスは,ビルマ支配のために,多くの民族どうしを対立させる戦略をとりました。「分割統治」ですね。
 例えば,従来は別々の言葉を話していたカレン人に対してキリスト教を布教することで一体感を高め,「自分たちは,仏教徒のビルマ人とは違うんだ」という意識をつくらせました。また,従来には共存していたモン人やアラカン人に対するマイナスイメージも,植民地統治下でつくられていったものです。
 ビルマは米の輸出国として,重要な戦略的意味を持っていました。その労働力として,インド移民が導入されることになりました。特に,インドにほど近いアラカン地域では,インド東部のベンガルからの移民が増え,先にいた仏教徒の多いアラカン人との対立が起こるようになりました。これがのちに「ロヒンギャ問題」につながっていきます(ただし「ロヒンギャ」と呼ばれている全ての人が,この時期のベンガルからの移民とは限りません)。
 イギリス支配下のビルマでは,1930年に「我らのビルマ協会(タキン党)」【東京H21[3]】【慶文H30記】が〈タキン=バ=タウン〉によって結成され,社会主義を受け入れながら,反帝国主義の独立運動が進められました。彼らは国名として「ビルマ(バマー)」【慶文H30記 1989年にはミャンマーと国名が改められたが,改称前の名称は何かという問い】を使うことを決め,ビルマ(バマー)人という呼び名で自分たちを呼びました。「バマー」とは「ミャンマー」の話し言葉で,少数民族も含めた「バマー」の統一が意図されていましたが,結局はビルマ人が中心になった独立運動が進められていくことになります。
 太平洋戦争が始まる直前の1940年6月,日本の陸軍大佐〈鈴木敬司〉は,は独立運動家〈アウン=サン〉を中国で拉致し,「独立を支援するがどうか?」と東京で説得しました。のちに陸軍と海軍のトップの了承を得て,1941年には「南機関」というビルマの独立支援機関を設立するに至りました。日本はビルマから極秘にタキン党員を中国に脱出させ,軍事訓練を受けさせ,〈アウン=サン〉を含むこの“30人の志士”がビルマ独立義勇軍として1942年に日本軍とともにビルマに侵攻しました。
 しかし,日本はイギリスの植民地軍を追い払うや,1943年まで軍政をしき,同年8月1日に形ばかりの“独立”を認めました。大東亜共栄圏の中での独立に過ぎず,日本軍の駐留は続き,傀儡政権に過ぎません。ここに〈アウン=サン〉による,秘密裏の抗日運動が始まりました。1944年に「反ファシスト人民自由連盟(AFPEL)」(ビルマ語ではパサパラ)が結成され,45年に一斉に蜂起しました。

 日本軍による軍政下では,経済が統制され,戦局の悪化にともない食料や物資の生産・流通が滞るようになっていきました。ビルマへの補給のためにタイ=ビルマ鉄道(泰緬(たいめん)鉄道)が建設され,連合軍の捕虜(イギリス,アメリカ,オランダ,オーストラリアの各軍人)やマラヤを中心とする労働者(労務者(ロームシャ)と呼ばれました。タイを除き東南アジア各地から18万人ともいわれる人々が雇用されました)の多くが犠牲となりました(映画「戦場にかける橋」(1957英米)の舞台となっています)。
 日本軍は,インド人のイギリスからの独立運動を助け,英領インド帝国の内側から植民地を解放させようと,インド人投降兵を中心にインド国民軍を組織し,1943年に元インド国民会議派議長〈チャンドラ=ボース〉を支援して自由インド仮政府を結成させました。しかし〈ネルー〉,〈ガンディー〉は日本軍への協力に反対。1944年にビルマからインドへの直接侵攻を図ったインパール作戦は大失敗し,連合国軍兵士や日本軍兵士とともにインド国民軍も犠牲となりました。






◯1929年~1945年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・1929年~1945年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 イギリス領のセイロン島をめぐり,第二次世界大戦中に日本とイギリスとの間に海戦が勃発(1942年4月,セイロン沖海戦)。日本が勝利しています。

・1929年~1945年のアジア  南アジア 現⑤インド
◆大戦後の独立が決定されるが,各地で宗教・宗派による分断が深刻化していく
 イギリスによる独立運動の押さえ込みと分断工作が続く中,一見インドの独立とは関係のなさそうな「塩」を持ち出して,独立運動の分裂を食い止めようとしたのが〈ガンディー〉です。
 “塩は人間にとって不可欠なもの。それを専売制にし,インド人が自由に塩をつくる権利を奪っているイギリスに反対しよう” と国内外の報道陣を呼び,海まで塩税に反対するデモ行進を企画したのです。
 〈ガンディー〉【追H27】により「塩の行進」【東京H26[3]】【H29共通テスト試行 ジャガイモではない】【追H27】【早・政経H31 年代】【早商H30[4]記】を実施された翌年の1931年(注)にロンドンで円卓会議【本試験H16時期(1920年代ではない)】が開かれると,〈ジンナー〉は出席を求められますが,その内容に幻滅し,ロンドンでそのまま働くことを決意しました。しかし,インドのムスリムたちからの期待もあって,1934年にインドに帰国すると,本格的に「インドのイスラーム教徒は,インドとは別の「民族」として,別の国をつくるべきだ」という考えを唱えはじめます。
(注)第一回は国民会議派不参加のまま1930年11月1~1931年1月に開催。1931年9~12月に第二回,1932年11~12月に第三回。「円卓会議の時期は何か」と問う場合,1930~32年までの開きがあることに注意。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122

 1935年には「1935年インド統治法(新インド統治法)」【本試験H11「新インド統治法(1935年)という表記。インドを自治領としたか問う】【本試験H14独立を約束していない,本試験H16 独立を認めていない】【早・政経H31 年代】が制定され,地方の州の自治は認められましたが,相変わらずインドはイギリス人の総督と植民地政庁による支配が続きました。いくら州の自治が認められても,総督により州知事をやめさせることもできるわけです。自治といっても南アフリカやオーストリアのように,現地の人々による代表が統治機構に加われる「自治領」とは程遠いものでした(注)。このとき制定された478条の憲法は,長ったらしいだけで制限事項が満載でした。
(注)南アフリカやオーストラリアは白人の人口が多い植民地だったため,外交権をのぞく広範な自治が認められたのです。

 第二次世界大戦中のインドは,連合国から見れば戦略的に重要な位置にあったわけですが,国民会議派の〈ネルー〉や〈ガンディー〉は,独立を認めてくれなければ協力をしないという構えでした。
 そんな中,イギリスのインド政庁は,全インド=ムスリム連盟に接近していくようになります。1940年に全インド=ムスリム連盟は,「パキスタン決議」を発表し,ムスリムが多い地域をインドと分離させるべきだと,初めて公的に宣言しました。イギリス側は,全インド=ムスリム連盟側につくことで,インド国民会議派に圧力をかけ,戦争への協力を引き出そうとしていたのです。

 1941年に日本とアメリカ・イギリス・オランダが戦争を開始すると,日本軍は1942年にはビルマに向かい,インド国境への進入をもくろみました。日本は,投降したインド兵らをインド国民軍という義勇軍に仕立て上げ,国民会議派の〈チャンドラ=ボース〉に指導させていました。
 この情報を得たアメリカ合衆国の〈フランクリン=ローズヴェルト〉は介入し,イギリスは使節を派遣し,戦後の自治を約束しました。しかし〈ネルー〉は,「イギリスのせいでこんなことになったのだ。ただちにインドから出て行け」と,「インドから出て行け(クイット=インディア)」運動が始まりました。しかし,〈ガンディー〉〈ネルー〉は逮捕され,国民会議派は非合法化され,運動は分解しました。
 日本のインド進入作戦(インパール作戦)は1944年に失敗し,「インドから出て行け」運動も収束しました。 ・1929年~1945年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネパール王国は,1923年イギリスとの条約により独立国として承認されました。



●1929年~1945年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 イギリスはインドをはじめとするアジアへの航路を確保するためインド洋の島々に目をつけ,1810年にイギリス領モーリシャスとしてディエゴガルシア島を含む島々を領有してました。その後はインド軍の小部隊が駐屯していましたが,1942年には撤退しています。

 フランスの植民地マダガスカルは,第二次世界大戦中に本国フランスがドイツに占領(1940)されると,ナチ党のドイツの傀儡政権であるヴィシー政権(ヴィシー=フランス)をフランスとして承認。
 枢軸国に接近したマダガスカルに,大日本帝国が近づくことを恐れたイギリスや南アフリカ連邦は,1942年5~11月にマダガスカルの戦いで,ヴィシー=フランスと大日本帝国と戦い,マダガスカルを死守します。インド洋の航路をめぐる戦いです。

(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。




○1929年~1945年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

◆パレスチナを除き委任統治領では自治・独立が認められたが,石油資源や戦略拠点をめぐる欧米諸国の介入は続く
  テヘランを首都として1925年に成立していたパフレヴィー朝ペルシアでは,1935年に国号が「②イラン」に改められました。イランとはペルシア語で「アーリヤ人の国」を意味し,「アーリヤ」の語源は“高貴な”という意味です。「ペルシア」とはヨーロッパ人による外からの呼び名であり,自称に戻そうとしたのです。こうしてイランの民族意識を高め,ヨーロッパ諸国の進出に対抗しようとしたわけです。
 1920年代以降,工業化に重点が置かれ,多数の政府系工場や鉄道が建設・敷設されていった一方,農業分野の近代化は遅れました。

 アングロ=イラニアン石油会社(AIOC)により国内の石油を握るイギリスと,南下政策を進めるソ連による干渉は依然として続き,皇帝〈レザー=シャー〉(1925~1941)は,アメリカ合衆国への接近が失敗すると,ドイツのナチス政権と提携することを決断。第二次世界大戦が勃発しても,表向きは中立を保っていました。
 1941年6月に独ソ戦が始まりソ連がイギリス側の連合国に加入すると,アメリカ合衆国はソ連も含めた援助を本気で検討するようになります。
 この時点でアメリカ合衆国の〈ルーズヴェルト〉大統領【本試験H4】は中立国であるにもかかわらず,イギリスの〈チャーチル〉首相【本試験H4】と話し合い発表された8月9日~12日に大西洋憲章【本試験H4チャーチルとルーズヴェルトによる宣言か問う】【追H20】において,“アメリカとイギリスは領土を広げようとしているんじゃなくて,世界の自由と平和を守ろうとしているんだ”と戦争目的をアピール。
 その上,ソ連へのインド洋から武器・物資を提供するため,8月25日にイギリス・ソ連によるイラン進駐が始まりました。

 すでにアメリカ合衆国は武器貸与法(1941.3)によってイギリス,ソ連などの連合国への武器・物資の提供が可能となっており,中立国とは言い難い状態です。アメリカは,イラン=ルート(いわゆる「ペルシア回廊」)を通してソ連を支援するとともにペルシア湾岸の油田を押さえることで,ドイツを“挟み撃ち”にしようとしたのです。

 1941年9月〈レザー=シャー〉はイギリスとソ連の圧力に屈して息子に譲位し,南アフリカに亡命。イギリス軍とソ連軍がテヘランを占領する中,〈モハンマド=レザー=シャー〉(1941~1979)が第2代シャー(皇帝)に即位しました。
 イランは1943年9月に連合国に加わりドイツに宣戦布告,11月にはテヘラン会談でアメリカの〈フランクリン=ルーズベルト〉大統領,イギリスの〈チャーチル〉首相,ソ連の〈スターリン〉書記長の“ビッグスリー”が初めて同席し,イランの独立を確認しました。しかし大戦が終わっても,国内の石油利権はしぶとく狙われ続けます。

 イギリスの委任統治領となっていた③イラクは,1932年に〈ファイサル1世〉(かつてのヒジャーズ王国の〈フセイン〉の3男)が即位し,イラク王国として完全独立を果たしました【本試験H19第二次世界大戦後ではない】。
 一方,現⑪ヨルダンのトランスヨルダンは,1946年までイギリスの委任統治が続きました。

 フランスの委任統治領となっていた⑮シリアでは1936年に自治権が承認されましたが,委任統治は1946年まで続きます。
 一方,同じくフランスの委任統治領となっていた⑭レバノンは1941年に独立宣言を出し,1943年にレバノン共和国として完全独立しました。

 アラビア半島では,1924年にハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪っていたイブン=サウード家の〈アブドゥルアズィーズ〉が,ヒジャーズ地方を併合。1932年には国名を「サウード家のアラビア」を意味するサウジアラビアに改称します【本試験H16時期(第二次世界大戦後ではない)・地域】【H27京都[2]】。

 イエメン北部は1918年にイエメン王国として独立しています。イエメン南部のアデン地方は,インド洋交易の基地として重要視され,1937年にイギリスの直轄植民地となっていました。
 ⑬パレスチナには,ユダヤ人の入植が続いており,1929年の「嘆きの壁事件」など,先住のパレスチナ人(イスラーム教徒だけとは限らず,キリスト教徒・ユダヤ教徒もいる)との衝突が発生するようになっています【東京H12[2]受け入れ制限の理由を説明する問題】。1939年にイギリスは,パレスチナに受け入れるユダヤ人の数を制限しました。




・1929年~1945年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はイギリスに併合され,第二次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となっています。




・1929年~1945年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
共和人民党による一党独裁体制つづく
 トルコでは〈ケマル=アタテュルク〉(1881~1938)が中心となり、世俗的な国家がつくられていきました。その6原則は、共和制、トルコ国民国家(トルコ人の国づくり)、人民主権、国家主導経済、政教分離、社会改革です(この世界観をケマリズムと呼び、1937年の憲法改正・共和人民党綱領に盛り込まれました)(注1)。

 1920年代には反帝国主義・民族解放運動的な性格を持っていた国づくりは、1930年代になるとトルコ言語・文化純化運動と国家主義の強化に向かいます。

 実際に建国後の23年間は共和人民党の一党独裁体制。〈アタテュルク〉による「複数政党制はトルコにとってはまだ早い」という判断からでした。
 個人崇拝はあったものの、〈スターリン〉のような血の粛清はなく、〈ヒトラー〉や〈ムッソリーニ〉のように終身独裁者にはなりませんでした(注2)。

 なお、1935年にはアヤ=ソフィア(元、ハギア=ソフィア)が世俗の博物館にされています。

 〈アタテュルク〉は1938年に死去。
 その後軍部と官僚は、第二次世界大戦中も国家主導の体制を支持し続けました。

(注1) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ケマリズム」の項目、岩波書店、2002年、p.357。
(注2) 山内昌之は、この〈アタテュルク〉のあり方を「トルコを最短距離で西欧型の議会制民主主義にたどりつかせる権威主義支配の特異な実験」と表現しています。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「ケマリズム」の項目、岩波書店、2002年、p.357。




・1929年~1945年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 なお,第二次世界大戦中には,クルド人の居住地域とテュルク系の居住地域で独立運動が起き,それぞれアゼルバイジャン国民政府とコルデスターン共和国が樹立されましたが,戦後に崩壊しています。
 カフカース山脈の南の3国は,ザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国としてまとめてソ連の構成国となっていました。
 この時期のアルメニアでは合成ゴムなどの化学工業,繊維工業が発展し,都市化が進展しました。
 コルホーズ(集団農場)も徐々に拡大され,1930年初めには全世帯数の30%にのぼりました。しかし,社会主義化に対する反発もおき,1936~38年には反対派を「人民の敵」とみなして追放・処刑する「大粛清」のターゲットとなります。
 1936年にはザカフカース社会主義共和国連邦は解体され,もとの⑰ジョージア(グルジア) =ソヴィエト社会主義共和国,⑱アルメニア=ソヴィエト社会主義共和国,⑲アゼルバイジャン社会主義共和国に戻されています。






●1929年~1945年のアフリカ
○1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
イタリア領
 エリトリアは1885年以降,イタリアの植民地となっていました。しかし第二次世界大戦中,1941年にイギリスにより解放され,軍政下に置かれます。


・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
フランス領
 ジブチは1896年以降,「フランス領ソマリ」としたフランスの植民地となっていました。


・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
独立を維持→イタリア領
 エチオピアでは〈タファリ〉が摂政として女帝を補佐する形で実権を掌握し,1930年に〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~74)として皇帝に即位し,以後長期間にわたりエチオピア帝国に君臨しました。1931年には大日本帝国憲法(1889年)をモデルとしたエチオピア史上初の憲法を制定しました。
 しかし,1935年にはファシスト党政権〈ムッソリーニ〉【追H27】率いるイタリア王国が再度エチオピアに軍事的に進出(第二次エチオピア戦争) 【共通一次 平1:時期を問う(日独伊防共協定の締結・ドイツの国際連盟脱退との順番)】【追H27】【H30共通テスト試行 移動方向を問う(ヨーロッパから北アフリカへの移動か問う)】。毒ガスを使用したイタリア軍を前に〈ハイレ=セラシエ1世〉はイギリスのロンドンに亡命し,1936年に首都アディスアベバも陥落しました。こうして1941年までの間,エチオピアはイタリア領となりましたが,1941年にイギリス軍により解放されると,〈ハイレ=セラシエ1世〉は帰国を果たしました。


・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア
イギリス領
 ソマリア北部は1886年にイギリスによりイギリス領ソマリランドとして植民地化されています。

イタリア領
 ソマリア南部は1908年にイタリアがイタリア領ソマリランドとして植民地化しました。
 第二次世界大戦中にはイタリアがソマリランドの全域を一時占領しましたが,イギリスにより再占領されました。

 ソマリアには多数の氏族が割拠する状況で,統一した抵抗運動はみられませんでした。

・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現⑤ケニア
イギリス領
 ケニアはイギリスの植民地(イギリス領東アフリカ)となっていましたが,キクユ人を中心に独立に向けた動きも始まります。1942年には,のちの初代大統領〈ケニヤッタ〉(1897?~1978)のケニア=アフリカ同盟の母体となる組織が成立しました。
 〈ケニヤッタ〉はモスクワとロンドンに学び,第二次世界大戦中にはイギリスで生活していました。カリブ海のトリニダード=トバゴ出身の〈ジョージ=パドモア〉(1902~59)の影響を受け,パン=アフリカ主義の思想を固め,1945年10月にはイギリスのマンチェスターで第五回パン=アフリカ会議を開催しています。
・1929年~1945年のアフリカ  東アフリカ 現⑥タンザニア
イギリス領
 タンザニアの大陸部タンガニーカは,イギリスによる委任統治下にありました。
 ザンジバル島のザンジバル王国は,イギリスにより保護国化されていました。
・1929年~1945年のアフリカ 東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
イギリス領
 ウガンダは1894年以降イギリスの保護領となっていました(ウガンダ保護領)。

ベルギー領
 ドイツ領東アフリカの地域のうち,タンガニーカはイギリスの委任統治領として分離され,現在のルワンダとブルンジの地域はベルギーの委任統治領となっていました(ルアンダ=ウルンディ,1924~1945)。
 ベルギーの統治下では,従来は区別の曖昧であった「フツ」と「ツチ」という住民グループを,「人種」的な概念を利用して明確に区分されます。多数派のフツ人は,ツチ人のルワンダ国王の支配下に置かれ,両者の間には従来みられなかったような対立意識が形作られていきました。



○1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
ポルトガル領
 モザンビークは1942年にポルトガルの直轄地となります。


・1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ 現②スワジランド
イギリス領
 スワジ王国は,1902年以降イギリス高等弁務官領となっています。


・1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
イギリス領
 ソト人の王国は,1868年以降イギリスの保護領(1871~1884は植民地。イギリス領バストランド)となっています。


・1929年~1945年のアフリカ 現④南アフリカ,⑤ナミビア
南アフリカ連邦はイギリスの自治領(ドミニオン)
 世界恐慌後の1931年にウェストミンスター憲章が採択されました。これは1926年と1930年のイギリス帝国会議における決議を定めた法律で,世界各地にある白人が支配するイギリス帝国の植民地の地位を,イギリス国王への忠誠と引き換えにイギリスとおおむね対等な主体とするものでした。これにより「自治領」には,従来のようにイギリスの法がそのまま適用されるのではなく,独自の立法権や外交権を持つことができるようになりました。

 こうしてイギリスは,本国と植民地とのタテの関係を持つ従来の「帝国」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされた自治領(ドミニオン)とのヨコの関係を持つ「ブリティッシュ=コモンウェルス」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。

 こうして,南アフリカ連邦もイギリスとは別個の主権国家として認められるようになり,第二次世界大戦でも連合国として参戦しています。

ナミビアは南アフリカ連邦による委任統治
 ナミビアでは,南アフリカ連邦による委任統治が続けられています。


・1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
イギリス領
 現ザンビア→北ローデシア,現シンバブエ→南ローデシア,現マラウイ→ニヤサランド

 北ローデシア(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領に,南ローデシア(現在のジンバブエ)は,1923年に白人による住民投票でイギリスの自治植民地となっていました。
 ニヤサランド(現在のマラウイ)は,いずれもイギリスの保護領として支配されていました。
 北ローデシアは銅の採掘で経済が発展します。

 のちにマラウイの初代大統領になる〈バンダ〉は,1938年にスコットランドのエジンバラで診療所を開業し,彼のロンドンの家には後のケニア初代大統領〈ケニヤッタ〉も訪れていました。1943年にはマラウィでニヤサランド=アフリカ会議(NAC)が結成され,独立運動が目指されます。

・1929年~1945年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
イギリス領
 この時期には,ボツワナのバントゥー語系民族のツワナ人の意見をまとめる機関が設けられました。第二次世界大戦にはツワナ人の多くも海外で兵として戦い,その中で民族意識が高まっていきました。




○1929年~1945年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

◆現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
 ・ガボン植民地 →現・⑥ガボン共和国
 ・中央コンゴ植民地 →現・⑤コンゴ共和国
 ・ウバンギ=シャリ植民地 →現・②中央アフリカ共和国
 ・チャド植民地 →現・①チャド共和国
 これらの地域はフランス領赤道アフリカとしてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。

 現在のコンゴ民主共和国は,③ベルギー領コンゴとして植民地化されています。
 現在の⑦サントメ=プリンシペはポルトガルの植民地,⑧赤道ギニアはスペインの植民地です。
 現在の⑨カメルーンは,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となっていました。
 ④アンゴラではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加しています。


○1929年~1945年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ           ※○の中の数字は下記文中の記号と対応しています

 現在の①ニジェール共和国,③ベナン,⑥コートジボワール,⑪セネガル共和国,⑬モーリタニア,⑭マリ共和国,⑮ブルキナファソは,フランスの植民地支配を受けていました。

 ②ナイジェリア,⑫ガンビアはイギリス領でした。
 黄金海岸(現在の⑤ガーナ)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でした。
 ⑧シエラレオネはイギリス領でした。

 ④トーゴは旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。

 ⑩ギニアビサウはポルトガル領でした。

 アメリカ合衆国の黒人保護グループの支援により独立していた⑦リベリア共和国では,依然としてアメリカ系黒人が中央政府を主導していました。アメリカ系黒人が,先住民を天然ゴムのプランテーションなどで酷使していたことが明るみに出ると,国際社会はこれを非難,国際連盟の調査を受けて大統領は辞任しました。
 第二次世界大戦で連合国側に立ったリベリアでは,1944年に当選して以降,アメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)が27年間にわたって大統領を務めます。彼は,アメリカ系黒人と先住の諸民族間の融和に努め,外資を導入してリベリアの開発を推進していきました。

 ⑪セネガルの都市部の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となっていました。「市民」として扱われた者はフランスへの留学の切符をつかむ者もあり,パリでの世界各地の黒人との出会いを通じて,黒人らしさを積極的に打ち出し西欧の文明に対抗する“ネグリチュード”という思想運動を発展させていくことになります。この中にはカリブ海のマルティニーク島出身の〈エメ=セゼール〉(1913~2008『帰郷ノート 植民地主義論』(1939)の中で初めて“ネグリチュード”という言葉を編み出します)と交流し,1960年に独立するセネガル共和国の初代大統領となる〈サンゴール〉(1906~2001)の姿もありました。




○1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
名目的な独立
 エジプトは1922年にエジプト王国が成立し,1823年に憲法が制定されてイギリスから名目的に独立していました。1936年にはイギリスと同盟条約を締結しています。
 第二次世界大戦中には1940年にイタリアによる攻撃を受けます。イギリスの〈モントゴメリー〉(1887~1976)率いる連合軍が1942年のエル=アラメインの戦いで,ドイツの〈ロンメル〉率いる枢軸国軍に勝利しました。エジプトは1945年3月に,サウジアラビア,シリア,イラク,ヨルダン,レバノン,北イエメンとともにアラブ連盟を結成しています【追H21時期は冷戦終結後ではない】。

・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
イギリス・エジプト領
 スーダンは,エジプトとイギリスの共同統治下にありました。

・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
フランス・スペイン領
 モロッコ王国はフランスの保護領となっていましたが,独立運動も起きるようになります。国内にはスペインの維持する領域も残されていました。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのちの西サハラとなります。


・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
フランス領
 アルジェリアはフランスの支配下に置かれています。


・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 フサイン朝のチュニジアは1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。

・1929年~1945年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビアはイタリアによる植民地支配を受けていましたが,南部のフェザーンと東部のキレナイカではサヌーシー教団の指導者〈オマール=ムフタール〉(1858~1931)による抵抗運動が起きていました(1931年に処刑)。また西部のトリポリタニアでもベルベル人による抵抗運動が起きました。
 イタリアはこれらを鎮圧しますが,第二次世界大戦ではリビアは連合国のイギリスとの間の激戦地となりました。イタリアの降伏後,リビアはイギリスとフランスが共同で統治しました。




●1929年~1945年のヨーロッパ
◆世界恐慌の影響がヨーロッパに広がると社会主義とファシズムの政党が台頭した
社会主義とファシズムの政党が台頭する
 世界恐慌の影響を受けたヨーロッパでは,社会主義とファシズムの政党が台頭します。

 ドイツへの世界恐慌の影響は,アメリカ合衆国に次いで深刻で,1932年の失業者は30%超(600万人!)であり,これはアメリカの最悪の失業率25%を超えています。この事態に,ヴァイマル憲法で定められた大統領緊急令により,少数派による内閣が組織され,政治に国民の多数派の声が通らなくなっていきます。

 「この一大事に,社会民主党や従来の保守的な政党は何もしてくれない」という思いを抱く国民が増え,共産党と,〈ヒトラー〉【立命館H30記】を指導者とするナチ党(国民社会主義ドイツ労働者党【立命館H30記】【慶文H30記】) 【本試験H14ソ連と再保障条約は結んでいない】(注)の支持率が上がっていきました。ナチ党は1932年の総選挙で第一党となり,共産党をおそれる人々の支持を得て,1933年1月に内閣を組織します。さらに,2月には国会議事堂放火事件【立命館H30記】を共産党【立命館H30記】の陰謀として弾圧を開始,3月には全権委任法【東京H12[2]】【追H9〈ローズヴェルト〉大統領の制定ではない】【追H21「ナチスの一党独裁」の結果「全権委任法」が成立したわけではない。逆】【立命館H30記】によって政府に立法権を与えました。政府が立法権を得るということは,三権分立の否定です。
 こうして,一党独裁【立命館H30記】体制を形成し,34年に〈ヒンデンブルク〉大統領【東京H12[2]】【本試験H14】(1847~1934)が亡くなると大統領を兼務し,総統(そうとう,フューラー)【本試験H14】という名の国家元首となりました。

 こうした日本・イタリア・ドイツの行為に対して,アメリカ合衆国は中立法(交戦国への武器輸出・借款の禁止)が制定されていたために,有効な対策をとることができないでいました。

(注)ナチスの訳語は、かつて定着していた「国家社会主義ドイツ労働者党」から「国民社会主義ドイツ労働者党」という正確なものに変わってきています。神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.232。



●1929年~1945年のヨーロッパ
◆〈ヒトラー〉は人種・民族・文化の「画一化」を進める一方,非政治的な手段で労働者の支持を得た
 〈ヒトラー〉の思想は強い人種主義に基づいており,その実現のためには暴力的な手段も辞さないものでした。 “優秀”な「ドイツ人種」以外の「人種」(ユダヤ人やロマ(ジプシー))(注),さらに「ドイツ人種」の中でも“劣等”である障害者(身体障害者や知的障害者)を迫害し,各地につくられた強制収容所送りにしました。1933年3月には初の強制収容所がミュンヘン郊外のダハウ(ダッハウ)に作られました。同年4月にはユダヤ人から官職を奪い,1935年にはニュルンベルク法によりユダヤ人から市民権を剥奪し,ドイツ人との結婚を禁止しました。1938年11月にはユダヤ商店や寺院(シナゴーグ)の大規模な破壊運動も起きています(この事件は散らばったガラスの破片のイメージから“水晶の夜”と呼ばれています)。
 〈ヒトラー〉政権は,ドイツ表現主義の絵画・映画・音楽や抽象絵画,黒人音楽(ジャズ),女性の社会進出,同性愛といったヴァイマル共和国時代に流行ったものを「ドイツ的ではない」「ユダヤ的」なものとレッテル貼りし,悪影響を除去して「正常化」させようとしていきました。
(注)ロマは北インドをルーツとする民族で,伝統的に移住生活を行ってきました(ヨーロッパでは「ジプシー」と偏見をもって総称されることが多いですが,その中には多数の民族が含まれています)。現在のヨーロッパでもロマの権利が十分に保障されている状況とはいえず,彼らに対する迫害の事実には明るみに出ていない部分が数多く残されています。

 反対意見を抹殺するために,秘密警察(ゲシュタポ)【本試験H6イタリアの秘密警察ではない】【立命館H30記】,親衛隊(SS),突撃隊(SA)が組織され,政府の大衆宣伝によって国民の文化が徹底的にコントロールされました。当初は国民を大会やパレードに動員することが試みられましたが,次第に国民の意識が政治から遠ざかると,娯楽や余暇の提供や生活水準の向上によって支持を取り付けるようになっていきました。
 例えば,戦車も通れる速度無制限の自動車専用道路アウトバーン【東京H20[3]】【本試験H14,H29共通テスト試行 アメリカ合衆国の道路ではない】など四カ年計画による大規模な公共事業【本試験H14】によって,失業率を下げようとし,1937年頃には完全雇用をほぼ達成しました。また,レクリエーション施設の建設や社会保障も充実させていきます。自動車や海外旅行,観劇やスポーツ(テニス,スキー)などは資本家階級のものというイメージが強かったのですが,ナチスは労働者階級にも歓喜力行団(喜びを通じて力を。ドイツ労働戦線の部局)を通して労働者にこうした余暇・娯楽を提供することに努めました。 しかし,ドイツ内部でも抵抗の動きはあり,例えばドイツのプロテスタント教会は,〈バルト〉(1886~1968)が中心となり,ナチスに反対する告白教会を設立しています。
(注)山本秀行『ナチズムの時代』山川出版社,1998年,pp.52-62。




●1929年~1945年のヨーロッパ
◆ソ連は社会民主主義政党にも反ファシズムの連帯を呼びかけ,ドイツを封じ込めようとするも失敗
 ヨーロッパ諸国が世界恐慌の影響を受けていたころ,〈スターリン〉独裁化のソ連では第二次五カ年計画(1933~37)【本試験H14時期(1936年憲法制定後の開始ではない),本試験H29時期】が実行に移されていました【本試験H9グラフ読み取り(ソ連・ドイツ・イギリス・アメリカの工業生産額の合計に占める各国の比率の推移をみて,ソ連が世界恐慌の影響を受けていないこと等をもとに判別する)】。はじめは日用品などの軽工業の発展が目指されましたが,ヨーロッパでファシズムが台頭すると,軍事部門の比重が高まります。そんな中1935年,ソ連のコミンテルンは「社会民主主義とも協力してファシズム【本試験H14ワシントン体制ではない】を倒そう!」という人民戦線戦術を各国の共産党や,共産党以外の左派勢力【本試験H14労働組合ではない】に訴えはじめました。

 共産主義は,〈レーニン〉や〈スターリン〉の考えでは,革命によってまず社会主義を実現し,そしてその先に待っている階級のない理想社会(共産主義)を実現しようとする考えや運動です。
 一方,社会民主主義は,議会を通して合法的に社会主義を実現しようとする考えや運動のことです。
 両方とも「社会主義」と呼ばれることもありますし,資本主義諸国はソ連の体制を指して「共産主義」と呼んだので,使う人によって対象範囲が変わることもあるので注意が必要です。

 共産主義と社会民主主義の間には考え方に溝がありました。共産主義にとって社会民主主義は,資本家とつるむ“弱腰”で“優柔不断”なやつらに映ったのです。

 しかし,世界恐慌以降ファシズムがヨーロッパで拡大している以上,「そうした違いにこだわっているヒマはない」「左派の勢力がみんなで結集すれば,ファシズムに立ち向かえるのだから,各国で反ファシズム統一戦線をつくるべきだ」と呼びかけるに至ったわけです。

 ヨーロッパでこの呼びかけに応じた事例が2例あります。

  フランスでは社会党の〈ブルム〉【本試験H5,本試験H10マッツィーニとのひっかけ】を首相として,左派の政党が結集した人民戦線内閣【本試験H5,本試験H10】が誕生。しかし1年で崩壊します。




●1929年~1945年のヨーロッパ
◆スペインではファシズム諸国とソ連の支援を受けた2勢力による代理戦争(スペイン内戦)が勃発
 問題なのはスペインです。
 人民戦線政府が発足したものの,大地主や教会や軍部といった保守的な勢力は軍人の〈フランコ〉将軍(1892~1975) 【共通一次 平1:人民戦線を指導したわけではない】を頼りにモロッコで反乱を起こしたのです。両者の戦闘(スペイン内戦【追H25時期を問う】)はスペイン全土に波及し,無関係なドイツとイタリアがフランコ将軍を支持したため,内戦は泥沼化。〈ロバート=キャパ〉(1913~54)といった報道カメラマンも現地の様子を克明に記録し,世界に配信しました。


 そんな中,ドイツがスペイン北部バスク人地域(ビスカヤ県)におある小さな町ゲルニカ【本試験H4】【本試験H14フランスではない,H31第二次世界大戦終結前か問う(正しい)】を空襲して多くの犠牲者を出しました。新兵器の“実験”だったといわれていますが、バスクの自治の象徴とみなされていた「ゲルニカの楢(なら)の木」は爆撃によって焼かれることなく残っています。
 キュビスム(立体派)の画家〈ピカソ〉(1881~1973) 【本試験H4,本試験H11】【本試験H14】は「ゲルニカ」【本試験H4,本試験H11】【本試験H14】という絵に,反戦のメッセージを込めました。〈フランコ〉【追H21】の支援を機に接近したドイツ【追H21】とイタリア【追H21】は,1936年10月にベルリン【本試験H13ミュンヘンではない】=ローマ枢軸という協力関係を形成しています。


 スペイン内戦には,国際的な義勇軍【共通一次 平1】【本試験H26】とソ連が,ファシズムに反対し【共通一次 平1】人民戦線側に立って参戦します。国際義勇軍には,ノーベル文学賞をとったアメリカの小説家〈ヘミングウェー〉(1899~1961) 【本試験H26『アンクル=トムの小屋』の作者ではない】や〈アンドレ=マルロー〉も参加しました。これに対し,イギリスとフランス【本試験H26】は介入することなく静観(不干渉政策【共通一次 平1:積極的に人民戦線を支援したわけではない】【本試験H23ドイツとイタリアではない,H26】【追H18】)。
 アメリカ合衆国【共通一次 平1:中立の立場をとったのは「ソ連」ではない】も,孤立主義的な世論を背景に中立法(交戦国への武器輸出・借款の禁止)が制定されていたので,スペイン内戦に対して有効な対策はとれませんでした。

 結局1939年に保守派の〈フランコ〉が勝ち【本試験H23時期,H30人民戦線政府は勝利していない】,なんと1975年まで独裁政治が続きます。なお,スペイン内戦6か月前に,超現実派(シュルレアリスム)のスペイン人画家〈ダリ〉(1904~1989)が「内乱の予感」(茹でた隠元豆のある柔らかい構造)を描きました。ポルトガルも同様に,33年から独裁政治が始まりました。
 スペインは,第二次世界大戦には中立国という立場を取りましたが,実際には枢軸国側を支援していました。ポルトガルも中立を維持しました【本試験H27ソ連に占領されていない】。


●1929年~1945年のヨーロッパ
◆ドイツ,イタリア,日本を中心にイギリス,フランスを中心とする帝国世界が暴力的に否定されていった
 1935年前後から,ドイツによるヴェルサイユ体制の破壊と,日本によるワシントン体制の破壊が進行していきます。
 まず日本の関東軍が,1931年に奉天(ほうてん)【立命館H30記】近くの柳条湖【立教文H28記】(りゅうじょうこ,かつては「柳条溝(こう)」と記載されていたこともあります)で鉄道を爆破し,それを中国軍のしわざとして“自衛”のために戦闘行動をはじめました(柳条湖事件)【共通一次 平1:盧溝橋事件とのひっかけ】。日本は中国東北部を占領し,日本政府はそれを黙認。さらに32年に清朝最後の皇帝である〈溥儀(ふぎ)〉【セA H30】を執政(しっせい)【立教文H28記】【セA H30】とする満洲国(1932~1945)【本試験H12時期(「日中間の全面戦争」以前かを問う)】を中国から独立させ,34年には溥儀を皇帝に据えました。この一連の軍事行動を満洲事変【本試験H16これに対して五・三〇運動は起きていない】といいます。この時,日本も中華民国も宣戦布告は行いませんでした。中国は国際連盟【セA H30国際連合ではない】に提訴したので,32年にリットン調査団【セA H30】が派遣されましたが,同年日本は上海でも中国人と交戦(上海事変【追H28時期を問う】)します。33年に国際連盟が満洲国を承認しない決議をしたことに対し,日本は国際連盟を脱退。34年にはワシントン海軍軍縮条約を破棄し,ワシントン体制は崩壊しました【本試験H11「内モンゴルの東部は,中華人民共和国に帰属する以前に,日本の作った満州国(ママ)の支配を受けた時期があった」か問う】。

 イタリアの〈ムッソリーニ〉政権は,1935年にエチオピア帝国【東京H19[3]】に進出し翌年に36年に併合しました【本試験H14,本試験H18ドイツではない,本試験H22】。エチオピアは住民の抵抗を抑え込むために無差別爆撃を実施し,毒ガスも使用するなど暴力的な手段がとられました。
 これに対し,国際連盟は経済封鎖しましたが,英仏は併合を承認してしまいます。37年に国際連盟を脱退したイタリアは,同年,日本とドイツと日独伊防共協定【共通一次 平1:イタリアのエチオピア侵略,ドイツの国際連盟脱退との時系列】【本試験H4時期(第二次世界大戦勃発に先立って締結されたか問う)】を締結します(すでに日本とドイツは1936年に日独防共協定【追H21日独防共協定の締結後に国際連盟を脱退したわけではない。その逆】を結んでいました)。
 「防共」(共産主義,つまりソ連の拡大を防ぐ)という名目にしておけば,英仏やアメリカといった資本主義国も,文句は言うまいという作戦です。これにより,日独伊の三国枢軸が完成したわけです。

 33年に首相に就任していたヒトラーは,同年国際連盟を脱退します【共通一次 平1:イタリアのエチオピア侵略,防共協定の締結との時系列を問う】【本試験H9時期(1930年代)】【本試験H13時期(1930年代)】【追H18】。35年にザールを住民投票【本試験H13時期(1930年代)】によって併合したことは,ヴェルサイユ条約にのっとった行為でしたが,35年3月には条約に違反して再軍備【本試験H3】【立命館H30記】を宣言し,徴兵制を復活【セA H30ナチ党が復活したか問う】しました。

 また,イギリス,フランス,イタリアの3か国は,35年4月イタリアの保養地ストレーザに集まり,ドイツの再軍備を抗議する声明を発表しました。この3カ国の連携をストレーザ戦線といいます。
 ドイツと接するフランスも警戒を強め,35年5月,有効期限5年の仏ソ相互援助条約を結び,ドイツの拡大を阻止しようとします。ちなみにこの前年の34年9月には,フランスの外交努力もあり,ソ連の国際連盟加入が実現していました。
 しかし,こうしたドイツ包囲網は,長くは続きませんでした。
 35年6月にイギリスは,なんとドイツの再軍備を承認してしまうのです。なぜか。資本主義国イギリスにとって,社会主義国ソ連が西へと拡大してくるほうが,ヒトラーのドイツよりも警戒すべきことだったのです。ドイツが軍備を増強して,ソ連に立ち向かう力をつけていてくれたほうが良いと考えたイギリス政府は,35年6月に英独海軍協定【追H21】によって,ドイツにイギリスの35%の海軍の保有を認めたのです。
 ドイツはさらに,フランスがソ連と仏ソ相互援助条約を結んだのは,ヨーロッパの平和を確保しようとするロカルノ条約の精神にそむくものだとして,36年3月にロカルノ条約【追H26ローザンヌ条約ではない】を破棄し,非武装地帯とされたラインラントに軍を進駐させてしまいます【追H26ローザンヌ条約を破棄したのではない】【本試験H13時期(1930年代)】【立命館H30記】。こうしてヴェルサイユ体制は有名無実のものとなったのです。



●1929年~1945年のヨーロッパ
◆資本主義国との協調関係をとっていたソ連はドイツとの提携に方針転換し,ヨーロッパにおける戦争が始まる
社会主義のソ連と,ファシズムのドイツが提携する
 ヨーロッパ情勢が緊迫化するなか,1936年にソ連の憲法(いわゆる「スターリン憲法」)【本試験H14】を制定していた〈スターリン〉は,1937年から38年にかけて〈ブハーリン〉ら反対派に対する大粛清(大テロル) 【本試験H10〈フルシチョフ〉の指揮下ではない。時期は1930年代なので正しい】を始めました【本試験H14「大規模な粛清をおこなった」かを問う】。反対派を大量に逮捕し,ソ連における非ロシア人を始めとする157万人が枢軸国のスパイの罪状などで逮捕され,68万人が銃殺されたといいます。強制収容所では,シベリア地域の労働力として働かされました。

 1938年にはドイツは同じドイツ人の国家で,ヴェルサイユ条約で合併が禁止されていたオーストリアを併合します【本試験H6イタリアは占領していない】【本試験H27ソ連による併合ではない】。このときウィーンのドイツ系市民の多くはドイツ軍の進攻をたいまつ行列で歓迎。その様子に刺激され、のちにノーベル文学賞を受けるユダヤ系〈エリアス=カネッティ〉(1905~1994)が『群衆と権力』を著しました(注)。

 つづいて,チェコスロヴァキア【セA H30ルーマニアではない】の西部ズデーテン地方(ドイツ人が多く居住) 【東京H19[3]】【共通一次 平1】【本試験H5】【本試験H13ポーランドの地方ではない【追H17ポーランドではない、追H18】を割譲要求します。チェコスロヴァキアは拒否しますが,宥和(ゆうわ)政策【共通一次 平1】をとるイギリスは「ここを与えておけば満足するだろう」「ドイツによって,ソ連を封じ込めよう」との考えから,フランス・イタリア・ドイツ【共通一次 平1:チェコスロヴァキアとソ連が参加できなかったか問う】の首脳とミュンヘン会談【共通一次 平1】【本試験H27】【追H17ポーランド問題ではない】にのぞみ,ズデーテン地方の割譲を承認します。ミュンヘン協定締結後に,チェコスロヴァキアの〈ベネシュ〉大統領(任1935~38)は辞任し,ロンドンに亡命しました。

 この会議に呼ばれなかった【共通一次 平1】ソ連の〈スターリン〉は,「自分が呼ばれなかったのは,やはり英仏がドイツに力をつけさせて,ソ連を攻撃させようとしているに違いない」とみて,英仏への不信をつのらせていくことになります。

 ドイツの拡大は止まらず,39年3月にチェコを占領(ベーメン地方,メーレン地方は保護領)し,スロヴァキアを保護国としました(チェコスロヴァキア解体【共通一次 平1】【本試験H27】)。このときにスロヴァキアはスロヴァキア共和国(独立スロヴァキア,1939~1945)とされチェコと分離されましたが,大戦後にはドイツの“傀儡国家”とみなされ,敗戦国として処理されることはありませんでした(存在しなかったことになりました)。
 一方チェコは消滅したので,パリ(のちロンドン)に〈ベネシュ〉を中心にチェコスロヴァキア亡命政府が樹立されました。〈ベネシュ〉(チェコスロヴァキア外相1918~35,首相21~22,大統領35~38,45~48)はソ連により解放されたスロバキア(1944年解放)とチェコ(1945年解放)に舞い戻り,亡命政府の帰国を宣言しましたが,次第にソ連の肝いりの共産党に押されていくことになります。

 また,39年3月にはリトアニアのメーメル(ドイツ人が多かった)を併合し,ポーランドに対してダンツィヒ港【本試験H13ドイツはポーランドに割譲していない】【追H20地図問題】と,東プロイセンへの陸上交通路を要求します。ヴェルサイユ条約では,独立したポーランドに,海への出口(ポーランド回廊)が確保されていて,それによりドイツは東プロイセンへが飛び地となっていました(回廊列車は運行されていました)。ポーランド攻撃に備え,ドイツとイタリアは1939年8月に独伊軍事同盟を結び,ベルリン=ローマ枢軸(1936)を発展させました。

 すでにソ連の英仏に対する不信は高まっており,ドイツとの外交的接触を模索。それが第二次世界大戦の始まる直前に結ばれた1939年8月の独ソ不可侵条約につながります【本試験H20第二次大戦後ではない,H29共通テスト試行 風刺画(「(ドイツとソ連の)ハネムーンはいつまで続くのか」)・時期】【立命館H30記】。なんと,ファシズムと共産主義が提携してしまうという,予想だにしていなかった展開です。

 慌てたイギリスとフランスは,ポーランドと相互援助条約を締結しますが,9月1日にドイツ,保護国化していたスロヴァキア,それにソ連はポーランドに侵攻【共通一次 平1:時期(独ソ不可侵条約から独ソ開戦までの間に起きたか)】【本試験H22ポーランドがドイツに侵攻したわけではない】。
 そして,9月3日に英仏がドイツに宣戦し,すでにアジアで進行していた戦争に並行してヨーロッパでも戦争が始まりました【本試験H4イギリス,フランス,ソ連は,大戦が勃発するとすぐに同盟関係を結んだわけではない】。
 9月3日には,イギリス国王〈ジョージ6世〉(位1936~52)が言語療法士とともに吃音(きつおん)症を乗り越えて国民を奮い立たせるスピーチを行ったことで知られます(映画「英国王のスピーチ」イギリス2010【追H30リード文で紹介,主要登場人物〈ライオネル=ローグ〉はオーストラリアのアイルランド系移民の三世とのこと】)。

 当初はドイツと英仏との間に大きな戦闘はなく(それゆえ“奇妙な戦争”と呼ばれました),アジアの戦争とヨーロッパの戦争は直接結びついてはいませんでした。1940年4月以降,ドイツは本格的な戦闘を開始し,ヨーロッパの広い範囲がドイツ支配下となりました。1940年6月にはパリが陥落して北部はドイツの占領下となり,フランス南部には親ドイツの傀儡政権(ヴィシー政府【東京H12[2]】)が樹立されました。〈ヒトラー〉の快進撃をみたイタリアは1940年6月に参戦。9月には日独伊三国同盟が締結されましたが,この時点でもアジアの戦争とヨーロッパの戦争の結びつきははっきりとはしていません。

 重要な転換点は,1941年6月に独ソ戦の開始です【本試験H4「日本は独ソ戦が始まると,シベリアに攻め込んだ」のではない(日ソ中立条約を想起する)】。
 ドイツがバルカン半島に軍事進出【本試験H6】したことも,ソ連との亀裂をうみました。
 日本は〈ヒトラー〉のソ連方面への征服欲を過小評価しており,1941年4月には日ソ中立条約【追H20 時期(1950年代ではない)】を締結していました。
 しかしドイツがソ連との戦闘を開始すると1941年7月に関東軍特種演習と称してソ連との戦争の準備を始めました。結局ソ連との戦争は回避する方向に方針が動き,1941年のマレー半島上陸・真珠湾攻撃をもってアメリカ合衆国との戦争が開始されました。今まで正式に連合国に属さないままで支援をしていたアメリカ合衆国は,いよいよアジアのみならず太平洋における戦争に参入し,同時にヨーロッパにおける戦争にも加わることになりました。こうして名実ともに地球規模の「第二次世界大戦」の構図が完成されたのです。

(注)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.301。




●1929年~1945年のヨーロッパ
◆「ファシズム諸国」も「反ファシズム諸国」も国内外で暴力的な手段を無制限に発達させていく
海の戦争から,空の戦争へ
 1941年の大西洋憲章【東京H17[1]指定語句】【本試験H9「平和機構の設立方針」が示されていたか問うが,消去法で解答可】【追H20】では,ドイツ・イタリア・日本などとの戦いは「世界征服をのぞんでいるに野蛮で残酷な力との共通の戦い」と意味付けられ,ファシズム諸国に対する反ファシズム諸国の戦争という色彩が共有されていきました。
 しかし,両者ともに1870年以降の世界に形成されていった帝国による世界各地の諸民族の支配を明確に否定することはなく,むしろ帝国が建設される中でエスカレートしていった暴力的な手段が,さらにむき出しになっていきます。
 例えば,参戦国の使用した戦略爆撃や毒ガス,さらにはアメリカ合衆国の投下した原子爆弾といった無差別大量殺りくを可能とする兵器。ドイツにおけるに絶滅収容所を筆頭に,各地に設けられた捕虜収容所における壮絶な実態などです。
 「ファシズム諸国」の指導者はこうした暴力的な手段に訴えて,イギリスやフランスを中心に組み上げられた世界規模の植民地体制を再編しようと考えていました。日本は大東亜共同宣言によって「大東亜共栄圏」(注)の建設が目指され,独立指導者らによる理念の上での賛同は得られましたが,少なくとも日本占領下における実態としては南方占領地行政実施要領にあるように民族主義を抑圧し資源の獲得が重視され,戦況が悪化するにつれて住民の抵抗を生みました。ドイツにおける「人種主義」も極めて強いもので,“劣等”民族とされたユダヤ人やスラヴ人,ロマ(ジプシー)の捕虜や一般市民は容赦なく殺害されていきました。一方,「反ファシズム諸国」においてる
も,ソ連が1940年4~5月にポーランド将校15000人を大量虐殺した事実も明らかになっていますし(カティンの森事件),原子爆弾の投下により日本の広島・長崎の住民が無差別に虐殺されました。
(注)アジアとの連帯(大アジア主義)により“ヨーロッパ中心の世界史”を転換しようとする試みには,明治時代以降様々な潮流がありました。当時の日本の思想家の中にも,京都学派の哲学者〈西谷啓治〉(1900~1990)のように,近代ヨーロッパ文化を克服し,新たな世界史を切り開く道筋を立てようとする動きがありました(1942年の「近代の超克」シンポジウム)。

 なお,独ソ不可侵条約の秘密議定書には,ナチス・ドイツがリトアニア,ラトビア,エストニアのバルト三国とフィンランドをソ連の支配下と認める文言が入っていました。1940年にはソ連の圧力により,北からエストニア=ソヴィエト社会主義共和国【本試験H22】,ラトビア=ソヴィエト社会主義共和国,リトアニア=ソヴィエト社会主義共和国が成立し,ソ連の構成国となりました。事実上のバルト三国の併合です【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か)】【本試験H5第二次世界大戦勃発後にポーランドに併合されたわけではない】【本試験H15ソ連の結成に加わったわけではない,本試験H20・H24】。





○1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島
【本試験H5 第二次世界大戦前におけるバルカン半島の宗教分布をみて,カトリック,プロテスタント,ギリシア正教,イスラム教の分布を判別する】
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現①ルーマニア
 バルカン半島東北部のルーマニアでは〈カロル2世〉(位1930~40)の下で,権威主義的な支配を進めました。それに対し,ファシズムの思想を持つ「鉄騎団」という組織が支持を集めますが,1938年に鉄騎団を含む全政党が禁止され,指導者も殺害されました。
 〈カロル2世〉は枢軸国側に接近しましたが,これによりルーマニアはベッサラビアとブコヴィナをソ連に,ハンガリーにトランシルヴァニアの北部を,ブルガリアに南ドブロジャ(ドブルジャ)を割譲することになります。〈カロル〉への批判は強まり,彼に代わった〈ミハイ1世〉(位1927~30,1940~47)の下で軍人の〈アントネスク〉首相が日独伊三国同盟に加盟し,国民投票により「国家指導者」に就任して独裁を行いました。こうしてルーマニアは枢軸国【本試験H6】となります。
 彼の治世では,ルーマニア国内のロマ(いわゆるジプシー)やユダヤ教徒が,強制収容所に送られ殺害されています。
 大戦末期には〈ミハイ1世〉がクーデタを起こして連合国側に立つことを宣言しましたが,最終的にソ連の占領を受けることになりました。

・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア
 バルカン半島南東部のブルガリアでは,左派や支配下にあったマケドニア人組織によるテロが起き,不安定な情勢が続いていました。そんな中,軍部では危機を解決するために権威主義的な政府を樹立しようと1934年にクーデタを起こし,軍人の〈ゲオルギエフ〉政権(在任34~35,44~46)の成立を国王〈ボリス3世〉(位1918~43)に認めさせました。

 しかし翌1935年に国王は〈ゲオルギエフ〉を追放し国王独裁をしき,ドイツやイタリアに接近。
 第二次世界大戦に際しては枢軸国側【本試験H6】で参戦し,ギリシャ王国とユーゴスラヴィア王国の一部を支配しました。
 しかし1944年にソ連の攻撃を受けて降伏し,敗戦国となります。

 この間1943年には国王は幼少の〈シメオン2世〉(位1943~46)に交替しています。



・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現③マケドニア
 現在のマケドニアにあたる地域は、1910年代の2度のバルカン戦争によって、ギリシャ王国、ブルガリア王国、セルビアに分割され、第一次世界大戦後にセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1929年よりユーゴスラビア王国)の一部となっています。


・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシア
 バルカン半島南部のギリシアでは,1935年に国王〈ゲオルギオス2世〉(位1922~24,35~47)が復位し,翌36年には陸軍大臣の〈メタクサス〉(位1936~41)を首相に任命し,独裁を承認しました。〈メタクサス〉は国王の権威を背景にファシズム的な政策を実施します。第二次世界大戦の開戦当初は中立の立場をとりましたが,1940年に〈ムッソリーニ〉のイタリアが提携を求めると,親英派の〈ゲオルギオス2世〉とともに拒否したため,イタリアの宣戦布告を受けました。

 連合国側に立ったギリシアは1941年にドイツによる侵攻を受け,国王や首相はクレタ島に避難しました。その後クレタ島も戦場となった(1941年5~6月のクレタ島の戦い)ので,さらに政府はエジプトのカイロに避難することになります。

 しかし,共産党系のパルチザンや共和派,王党派の抵抗運動によって1944年後半には枢軸国の勢力が押し出されました。

 しかし,次なる問題は大戦後のギリシアの政権をどの勢力が担うか,という問題です。
 共産党系の組織が政権を握れば,事実上ソ連の南下に等しいとみなしたイギリス首相〈チャーチル〉はいわゆる「パーセンテージ協定」により,バルカン半島へのロシアの南下阻止に乗り出します。1944年10月にはイギリス首相〈チャーチル〉からソ連の〈スターリン〉に向けて送られた,「(ソ連は)ルーマニアの90%を支配,我々(イギリス)はギリシャを90%支配。ユーゴスラビアは半々でどうか?」という書簡における手書きの取り決めのことです。こうして戦後のギリシャにおける共産党勢力の締め出しが始まっていくのです。



・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑤アルバニア
 バルカン戦争西南部のアルバニアでは1928年以降〈ゾグ1世〉による強権的な王政が続いていました。彼はイタリアの影響力を薄めようとしましたが,〈ムッソリーニ〉は1939年にアルバニアに軍隊を進めてティラナを陥落させ,〈ゾグ〉はギリシアに亡命して復活をうかがいます。イタリア王〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ〉(イタリア国王位1900~46,アルバニア王位39~43)が国王を兼任することになりました。




・1929年~1945年のヨーロッパ  バルカン半島 現③マケドニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 バルカン半島中央部セルビア人=クロアチア人=スロヴェニア人王国では,国王〈アレクサンダル1世〉が政治の混乱を解決するために,憲法停止・議会解散・政党禁止・国王独裁に転換し,地域間の対立をなくすため州を機械的に設定・再編し「ユーゴスラヴィア人」意識を高め中央集権的な国家とするため,「ユーゴスラヴィア王国」と改称しました。これには当然反発も生まれ,1931年には新憲法を発布し二院制の議会も設置されました。しかし世界恐慌のあおりも受け,経済は混乱。国王独裁に対抗する勢力としては農民党のほか,1932年にクロアチア独立を目指して設立されたウスタシャという組織が有力でした。1934年に〈アレクサンダル1世〉は外遊中に暗殺され,幼年の息子〈ペータル2世〉(位1934~45)が継ぎ1941年まで摂政が補佐する体制となりました。第二次世界大戦が始まると〈ペータル2世〉はイギリスの支援を背景にドイツ・イタリア・日本の枢軸国との同盟に反対し,1941年に枢軸国との同盟を主張する摂政を追放し親政を開始。それに続きドイツは1941年4月からユーゴスラヴィアへの侵攻を開始しユーゴスラヴィアを分割して,クロアチア人の傀儡政権(クロアチア独立国。ウスタシャが中心)を建てました(傀儡政権とみなされたため,戦後は敗戦国として処理はされませんでした)。
 ユーゴスラヴィア【追H21スイスではない】では,セルビア人中心の解放をめざすチェトニクや,〈ヨシップ=ブロズ〉(ティトー,1892~1980) 【追H21、H28】を中心とする社会主義的な革命パルチザン【追H21、H28】が抵抗運動を進め,枢軸国を押し出すことに成功しましたが,この中でチェトニクによるイスラーム教徒やクロアチア人に対する虐殺事件も起きています。
 ユーゴスラヴィアの一部であるモンテネグロは,イタリアとドイツの侵攻を受けイタリアの支配下となり,イタリア王〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ〉(位1941~43)がモンテネグロ王を兼ねました。パルチザンによる抵抗により1944年には枢軸軍が撤退し,ユーゴスラヴィアに復帰しました。




○1929年~1945年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在①スペイン,②ポルトガル

・1929年~1945年のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
 スペインでは,独裁政権を樹立していた〈プリモ=デ=リベーラ〉が1930年に辞任し,後任の〈ベレンゲール〉将軍が王政を維持しようとしましたが,共和政を推す民衆のデモに押されて国王〈アルフォンソ13世〉は退位し,第二共和政が樹立されました。

 しかし,新政権は貧困層を重視し,左派の運動も急進化。カトリック教会との関係も悪化して政治が混乱するなか,経済界や保守的な勢力は王政やカトリック支持にまわり始めます。1933年には〈プリモ=デ=リベーラ〉の息子がファシスト政党のファランヘ党を立ち上げています(翌34年に国民サンディカリスト攻撃会議と合同し,左派に対抗。のちに〈フランコ〉将軍が党首となり政権をとります)。

 そんな中,1931年~33年に首相を努めた〈アサーニャ〉(1880~1940)は,1936年に人民戦線が勝利すると大統領に就任します。それに対抗した〈フランコ〉将軍(1892~1975)との間に,1936~39年の間,スペイン内戦【共通一次 平1】が勃発。〈フランコ〉将軍はスペイン領であったモロッコでクーデタを起こし,のちに政府首班・最高司令官に就任しました。

 第二共和政は地方分権的な政策を取っていたこともあり、カタルーニャとバスク地方は、人民戦線の共和国側に立って戦います。
 バスク地方はバスク民族主義党の下、1936年に自治政府を樹立していました。しかし、1937年4月に小都市ゲルニカが〈フランコ〉を支援したドイツによる空爆を受け、中心都市のビルバオも6月に〈フランコ〉に占領されました。その後、自治政府は亡命政府を樹立し、国外に拠点を移すことになります(のち1959年にバスク民族主義党から分離した急進派が「バスク祖国と自由」(ETA)です)。

 彼は内戦の終結後に実権を握り,1937年にはファランヘ党以外の政党が禁止されて全体主義的な独裁政権を樹立しました。〈フランコ〉はドイツの〈ヒトラー〉と提携して枢軸側に立ちますが,第二次世界大戦では中立を守りましたが,枢軸国寄りの姿勢は戦後,国際社会の批判を浴びることになります。



・1929年~1945年のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
 ポルトガルでは軍事政権が樹立され混乱していましたが,政権に招かれた財政学教授の〈サラザール〉(1889~1970)が財政政策で成功を収めて台頭し,1932年に首相に就任しました。1933年には強力な行政権を規定する憲法が公布され,権威主義的な「エスタード=ノヴォ」(新体制)が発足しました。この体制ではイタリアのファシズムの影響を受けつつも,これとは距離を置き,労働者が雇用者と協調する組合主義(コルポラティヴィズム)が採用されました。これは,教会や農業を含む国内の様々な組合が,名目的に立法府に参加する仕組みです。〈サラザール〉は1936年には外相・陸海軍相も兼任し,独裁体制を確立。
 しかし,1936年にスペインで内戦が勃発すると,〈サラザール〉は〈フランコ〉を支持します(1938年に〈フランコ〉の政府を承認,1939年に相互不可侵条約を締結)。第二次世界大戦にあたっては,ポルトガルとスペインはそろって中立を宣言しますが,当初は枢軸国,のちに連合国に接近することで独立を保ちました。




○1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 イタリア国王の信任を得て実権を握っていた独裁者〈ムッソリーニ〉(1883~1945)は、ドイツと同盟を結び第二次世界大戦を戦います。
 当初「英仏」vs「独伊」の戦争であった対戦は、フランスの占領(1940.6.22)と独ソ戦(1941.6.22)日米開戦(1941.12.8)を経て「米英ソ」(連合国)vs「日独伊」(枢軸国)という構図に変化していました。
 イタリアの〈ムッソリーニ〉は、「スラブ人の壊滅」と「ドイツ人の生存圏の獲得」を思想的なこだわりとしていた〈ヒトラー〉の独ソ戦に協力して派兵しますが、スターリングラードの攻防戦(1941.6.28~1943.2.2)での壊滅的な被害を受け、イタリア軍は撤退。
 同時期には北アフリカ戦線でもドイツ・イタリア両軍はイギリス(とオーストラリア・ニュージーランド・インド帝国・南アフリカ連邦)にエジプトのエル=アラメインの戦い(第一次1942.7、第二次.10~11)で決定的な敗北を喫していました。1942年11月にはアメリカ合衆国の加わった連合軍がモロッコとアルジェリアに上陸(トーチ作戦)、さらに国内都市の空爆も激しくなり、国民の間の厭戦気分(えんせんきぶん)も強まります。さらに連合国はシチリア島に上陸(1943.7.10~8.17)。
 それでも〈ムッソリーニ〉は単独講和を含めた休戦を決断しなかったため、戦争責任を追及されることを恐れた国王(サヴォイア家)や軍部「休戦派」によるクーデタ計画も持ち上がっていました。苦境を認識していた〈ムッソリーニ〉は、最高諮問機関のファシズム大評議会に参加し、そこで採択された「首相退任要求決議」(グランディ決議)を受け入れます。これを受け〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世〉は7月25日〈ムッソリーニ〉を首相から解任し、逮捕。〈ムッソリーニ〉が首班として指名した元・陸軍元帥の〈バドリオ〉(1871~1956)に身柄を引き渡しました。
 しかし、〈バドリオ〉と連合国との休戦交渉はまとまらず、9月8日に連合国軍はイタリア政府の休戦とイタリア軍の無条件降伏を公表してイタリア南部に上陸。
 国民の間には、〈ムッソリーニ〉に反対し王政の廃止と共和政を掲げるグループの動き(パルチザン)も活発化。
 イタリアが戦線から離脱するのではないかと恐れたドイツの〈ヒトラー〉は、〈ムッソリーニ〉の救出計画を指示します。1943年9月に救出された〈ムッソリーニ〉は、9月18日に共和ファシスト党を立ち上げドイツの後ろ盾の下で王政を廃止した「イタリア社会共和国」としてローマ以北のイタリア半島を拠点に延命を図りました。事実上のイタリア内戦(1943~1945年)です。
 最終的に〈ムッソリーニ〉は1945年にパルチザンによって愛人〈クララ=ペタッチ〉とともに逮捕され,直後の裁判の結果、銃殺されました。




・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現②サンマリノ
 この頃のサンマリノはサンマリノ=ファシスト党(PFS)が統治し、イタリアのファシスト党との友好関係を保っていました。
 一方で、第二次世界大戦には参戦せず中立政策をとります。
 〈ムッソリーニ〉の逮捕後にサンマリノ=ファシスト党は解散しますが、連合国の攻撃を受けるなど混乱が続きます。



・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現③ヴァチカン市国
 1929年2月に教皇〈ピウス11世〉(位1929~1939)の全権代理〈ガスパッリ〉枢機卿は、イタリア王国の〈ムッソリーニ〉と間に「ヴァチカン市国」の独立を認める3つの条約(ラテラノ〔ラテラン〕条約)を結びました。
 教皇庁にとっては、広大な教皇領の返還をあきらめることを意味していましたが、イタリアがローマ教皇庁の独立を認めないという状況(「ヴァチカンの囚人」)は、これで解消されます。

 ローマ教皇庁は〈ムッソリーニ〉のファシスト党には批判的な姿勢をとっていましたが、ドイツのカトリック政党であるドイツ中央党の党首〈パーペン〉(1879~1969)が、1933年のナチ党の政権獲得時において副首相となったとき、〈ピウス11世〉はその反共産主義に共感してナチ党を承認するコンコルダート(政教条約)を結んでいます。しかし、その後のナチ党はカトリック教徒の弾圧を強めていきます。
 ナチ党とのコンコルダート(ライヒスコンコルダートといいます)の締結を主導したのは、枢機卿時代の次代教皇〈ピウス12世〉(位1939~1958)でした。〈ピウス12世〉は第二次世界大戦中にあって中立を保ったことには、戦後になって批判もあります。




・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 この頃の,マルタ島はイギリス帝国の一部です。
 マルタ島はイタリア半島とアフリカ大陸の間に位置し,第二次世界大戦においてはイタリアやドイツと北アフリカとの連絡を断つ上で重要な役割を演じます。
 マルタ島にはイギリスの地中海艦隊が置かれ,そのためイタリアやドイツの空襲も受けました。マルタは1940~42年の第二次マルタ攻囲戦を耐え,結果的にイギリスは地中海の制海権を守り抜くことができました(艦隊本部は空襲を避け,1937年にエジプトのアレクサンドリアに移転しています)。



・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑤モナコ
 この次代のモナコ公は〈ルイ2世〉(位1922~1949)です。
 モナコを文化都市にするために尽力し、1929年には第一回モナコ=グランプリ(自動車レース)が開催されています。

 第二次世界大戦中は中立を保ちますが、国民の多くはイタリア系であったため、1943年にイタリア軍がモナコを占領するとファシスト政権が成立します。

 しかしイタリアで〈ムッソリーニ〉政権が倒れると、代わってナチ=ドイツの国防軍に占領されました。


・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
 アンドラはスペイン内戦(1936~1939年)において中立を維持。
 第二次世界大戦(1939~1945年)においても中立を維持します。


・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 人民戦線結成の呼びかけに対しフランスでは1935年には5月にソ連と仏ソ相互援助条約が結ばれドイツの東西からの“挟み撃ち”が企図され,1935年7月に社会党,急進社会党,共産党によって人民戦線が結成されました。
 1936年には選挙で人民戦線が勝利し,社会党の〈ブルム〉首相(1872~1950)を中心とする人民戦線内閣【本試験H3成立の背景に,ナチスの政権成立への衝撃があるか問う】が成立しました。人民戦線とは,ソ連が「世界中の反ファシズム勢力が結集して,ファシズムに対抗しよう!」と結成を呼びかけた組織です。右翼組織を解散させるなどの政策を実施しましたが,その後にスペイン内戦への対応をめぐる分裂で,1938年には解体されました。

 作家たちも立ち上がりました。〈ベートーヴェン〉をモデルにしたといわれる『ジャン=クリストフ』(1904~12)を著したフランスの〈ロマン=ロラン〉(1866~1944) 【本試験H16ドイツの古典主義ではない】,『ブッデンブローク家の人々』(1901)・『魔の山』(1924)で知られるドイツの〈トーマス=マン〉(1875~1955) 【本試験H16フランスの写実主義ではない】,『車輪の下』(1906)で知られるドイツの〈ヘルマン=ヘッセ〉(1877~1962)らは,作品を通して,いずれもヨーロッパ文明の問題点を描き出し,ファシズムに反対しました。


 1930年には,北ヨーロッパのデンマーク,スウェーデン,ノルウェーに,ベネルクス三国(ベルギー,オランダ,ルクセンブルク)を合わせたオスロ=グループ(のち1932年にフィンランドも準加盟)が,世界恐慌に対して小国どうし政治面・経済面で連携するために結成されました。

・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
◆〈マクドナルド〉挙国一致内閣は緊縮財政とブロック経済政策により,恐慌を切り抜けようとした
金本位制を停止し,ポンド=ブロックを形成する
 イギリスでは第二次〈マクドナルド〉内閣が組織されましたが,失業保険の削減問題をめぐり労働党と対立しました【本試験H21労働組合を合法化したのは1871年の労働組合法】。そこで〈マクドナルド〉は保守党にバックアップされて挙国一致内閣【共通一次 平1】【本試験H9時期1930年代か】【本試験H29】を組織しました。このように,国内の諸政党が一丸となって「国家のために」危機にあたる状況は,各国で見られるようになっていきます。1931年には,金本位制を停止しました【本試験H22復帰ではない,H29】。

 1932年にカナダのオタワでひらかれた連邦会議【共通一次 平1】【本試験H6自由貿易体制の堅持を確立していない】【本試験H31「イギリス連邦経済会議(オタワ連邦会議)」。ダンバートン=オークス会議とのひっかけ】では,イギリス連邦以外に高い関税を課す保護貿易的なスターリング=ブロック(ポンド=ブロック) 【共通一次 平1】【本試験H5時期(17世紀後半~19世紀前半)の海外貿易とは無関係】【本試験H31経済ブロックの形成を推進したか問う】が成立しました。ブロック経済【共通一次 平1】の典型例です。
 その後,1935年には保守党の内閣が成立し,ドイツに頑張ってもらうことによって,ソ連の西ヨーロッパへの進出を食い止めようという期待から,ドイツの対外進出に対して“甘い”政策をとるようになります。この宥和(ゆうわ)政策が,のちにナチ党のヒトラーの対外進出を招いたと,よく批判されます。

◆フランスもブロック経済政策をすすめる一方,ソ連の人民戦線の影響も受けることに
 フランスも世界恐慌への対応策として,イギリスと同様にフラン=ブロック【追H27 1930年代であることを問う】【本試験H22】を形成するようになりました。第一次世界大戦の記憶も新しかった当時,不況の最中(さなか),ドイツで〈ヒトラー〉ら極右勢力が成長するのに危機感を感じる人々は左翼勢力の結集を模索していました。
 そんな中,ソ連では1935年のコミンテルン第七回大会で「人民戦線」の結成が呼びかけられます。もともとソ連は1920年代には議会を通じた社会改革をめざす社会民主主義の政党のことを「資本家にすり寄り,ファシズムと手を結ぶ勢力」として敵視する社会ファシズム論が主流で,社会改革を目指そうとする左翼勢力の中でも比較的穏健な社会民主主義の政党とは距離をとっていました。しかし,急激なファシズム勢力の成長を前に,「ファシズムに反対する勢力は“この指とまれ”」という戦略へと転換されたわけです(注)。
(注)なおソ連は1934年に国際連盟に加盟し,「反ファシズム」の名目で資本主義諸国への接近も始めています(ソ連の国際連盟への加盟)。しかしこの時期以降のソ連はかつてのロシア帝国のように領域内の民族運動を抑圧し対外膨張を進める帝国主義的な野心を強めていくようになっていきます。

 イギリスでは〈ジョージ5世〉の時代に,〈マクドナルド〉(位1929~1935)が世界恐慌に対する対処を実施。次に〈ボールドウィン〉(位1935~1937)が首相となります。
 国王が〈ジョージ6世〉に代わると,〈ネヴィル=チェンバレン〉(位1937~1940)首相【東京H19[3]】【共通一次 平1:チャーチルではない】【追H30労働党内閣ではない】が宥和(ゆうわ)政策【東京H8[1]指定語句】によりナチスの台頭とソ連の不信を招き,第二次世界大戦を〈チャーチル〉(1940~1945) 【東京H22[3]】が終戦直前まで指揮しました。〈チャーチル〉は『第二次世界大戦回顧録』【東京H22[3]問題文】を著し,のちにノーベル文学賞を受賞しています。

 1940年7月~1941年5月の間,ロンドンを含むイギリスへの空爆が起こります(バトル=オブ=ブリテン)。その被害は,のちのドイツのドレスデン空爆や東京大空襲に比べると軽微です。

 国民の動員が進むとイギリスは中央集権化も進み,従来のように自助努力や慈善活動などを中心とした福祉から,国民から統一的な福祉政策への転換を求める声が高まっていきました。そこで労働党の影響を受けた自由党の〈ベヴァレッジ〉が「すべての人を対象にした」「均一給付・均一拠出」を基本とする「社会保障のナショナル=ミニマム」を掲げた「ベヴァレッジ報告」を提言。
 これに対し保守党は非現実的であるとして反対しますが,1945年に第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終了すると戦時連立内閣は役目を終え,〈チャーチル〉首相による暫定内閣が発足しました。しかし,福祉国家政策に反対した保守党は7月26日の選挙で労働党に敗れ,労働党の〈アトリー〉(1945~1951)政権が発足しました。こうして,大戦を耐え抜いた〈チャーチル〉内閣は退陣することになったのです。



・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
 〈アルベール1世〉(位1909~34)が趣味の登山で遭難死すると,次の〈レオポルド3世〉(位1934~51)のとき,ロカルノ条約(1925)やフランスとの軍事協定(1920)を破棄し,ベルギーは永世中立国を再び宣言しました(1936)。ほどなくしてベルギーはまたしてもドイツの侵攻を受け,〈レオポルド3世〉は政府の意向に反してドイツに降伏しました。




・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑪オランダ
 第二次世界大戦では中立を宣言したものの、第一次世界大戦と同様にドイツによって1940年5月に突如占領されました。イギリスの女王〈ウィルヘルミナ〉(位1890~1948)はロンドンに亡命政府を樹立します。
 1941年の日米開戦にあたっては日本に宣戦を布告しましたが、オランダ領東インドは日本軍によって占領されました。
 ドイツの降伏後、女王はオランダに帰還します。


・1929年~1945年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑫ルクセンブルク
 ルクセンブルクは非武装中立でしたが、1940年5月にドイツ軍が攻撃を開始したため〈シャルロット〉大公(位1919~1964)と政府はスペイン・ポルトガル経由でカナダに亡命します。
 大戦中にルクセンブルクはドイツ併合の危機にさらされますが、亡命政府の支援を受けたレジスタンス運動も活発化し、1944年9月にはアメリカ合衆国軍によって解放されました。
 大戦中に同じく亡命政府を建てていたベルギーとオランダとの結びつきが強まったことは、のちにこの3国(ベネルクス3国)の政治・経済的な同盟の締結へとつながります。


○1929年~1945年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…現①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン


 1930年代前半のスウェーデン,ノルウェー,デンマークは,1929年にアメリカ合衆国で始まった世界恐慌の影響を受け,高い失業率(スウェーデン30%,ノルウェー・デンマーク40%)を記録しました。農民たちによる運動は,都市の労働運動と対抗する形で盛り上がりました。
 1930年代後半になると経済は回復をみせ,スウェーデン,ノルウェー,デンマークでは社会民主主義をとる政権(デンマークとスウェーデンは社会民主党,ノルウェーは労働党と農民党の連立)の下で福祉国家路線がとられていきました。保守派が政権を握っていたフィンランドでも1937年に社会民主党が政権に参加し福祉国家路線をとりました。
 
 1930年代に入りヨーロッパ情勢が不穏な動きをみせる中,イギリスやフランスがドイツやイタリアに対して宥和政策をとっていたことに対し,北欧では「国際連盟に加盟していても,安全保障は得られないのではないか」という見方も出てきます。スウェーデン,ノルウェー,デンマーク,フィンランドは四カ国で協力して中立の立場をとろうとしましたが,当時のソ連はドイツによる攻撃を北ヨーロッパ諸国とイギリス,フランスとの集団安全保障による協力で防ごうとしており,「中立」などソ連にとっては寝言(ねごと)に過ぎませんでした。
 特にソ連がもっとも死守したかったのはフィンランドです。もしドイツ軍にバルト海からフィンランドに上陸されたら,大変なことになるからです。

 デンマーク【本試験H6】とノルウェー【本試験H6】は1940年にドイツ【本試験H6ソ連ではない】の侵攻を受けましたが,レジスタンス活動の結果ドイツ軍は押し出されました。
 スウェーデンは「中立国」【本試験H4「中立を維持した」か問うものだが,実態は下記の通り微妙である(他の選択肢にあるように,中国,ポーランド,オーストラリアは中立国ではない)】の立場をとっていましたが,フィンランド=ソ連間に「冬戦争」(1939~40) 【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か問う)】が始まると,スウェーデンは「非交戦国」であると宣言して,スウェーデン人が義勇軍がフィンランド側に参戦するなど援助をしました。
 1939年には挙国一致内閣が組織されます。ほかにもスウェーデンはドイツ占領下のノルウェーやデンマークに対する援助や,ドイツからフィンランドへのドイツ武装師団の通過を認めるなど,事実上枢軸国への支援をおこなっていました。しかし1942年冬以降,ドイツの戦況が悪化すると,連合国側の指示に従うようになります。スウェーデンは枢軸国と連合国の狭間にあって,現実的なバランス感覚を発揮していたのです。

 第二次世界大戦の序盤にドイツとソ連は,独ソ不可侵条約の秘密協定によってポーランドを分割占領しました。ソ連は北方のフィンランドと戦争を開始し【共通一次 平1:時期(独ソ不可侵条約の締結から独ソ開戦までの間か問う)】,レニングラードよりも北の国境地帯(カレリア)をフィンランドから奪いました(第一次ソ連=フィンランド戦争(冬戦争),1939~40)。これが原因で,ソ連は1934年に加盟していた国際連盟を除名されます。
 1941年6月に独ソ戦が始まると,フィンランドは「冬戦争」で失った領土を回復するために第二次ソ連=フィンランド戦争(「継続戦争」)を起こしました。 “敵の敵は味方”の論理でドイツを頼り,ともにソ連と戦ったことが原因でフィンランドは第二次世界大戦の敗戦国となります。フィンランドは枢軸国の一員としてでなく,「あくまで「冬戦争」の延長戦をたたかっているんだ」という認識からフィンランドでは「継続」戦争と呼ばれます。

 アイスランドは,1918年以降デンマークとの同君連合を形成していました。世界恐慌の影響で国内の失業や倒産は深刻化し,政権も短期間の交替が続きました。
 1940年4月にドイツが本国デンマークとノルウェーを占領すると,イギリスは5月にアイスランドに事前通知した上でを占領。さらに1941年にはアメリカ軍が代わりに駐留を開始し,かえって経済が活性化しました。本国デンマークが占領されているすきに,1944年の国民投票で97%の賛成多数で連合の解消が宣言され,アイスランド共和国が成立しました。北極海を挟みアメリカとソ連の間に位置するアイスランドは,その後もアメリカによって戦略的に重要視されていくことになります。




●1929年~1945年の南極
 この時期には,南極大陸をめぐってイギリス,ニュージーランド,フランスが対立しています。

●1945年~1953年の世界
世界の一体化④:帝国の動揺Ⅱ
大戦後は,英仏中心の帝国主義体制が動揺し,核保有国のアメリカ・ソ連が新たな国際秩序の主導権を争った。しかし,アジア,アフリカ諸国の脱植民地化の実現は,一部にとどまる。

この時代のポイント
(1) 英仏中心の植民地帝国が崩壊し,米ソ冷戦がはじまる
 5,000万人とも8,000万人とも推定される死者数(1940年の世界人口は約23億人[国連経済社会局資料による])をもたらした第二次世界大戦の終結は,イギリスを初めとする西ヨーロッパ諸国による国際政治・経済の覇権の終わりと,アメリカ合衆国・ソ連の二大勢力を中心とした国際政治・経済体制の始まりでもありました。
 アメリカの「封じ込め政策」(ソ連の社会主義勢力を世界各地で政治的・経済的に排除する政策)によって結び付けられたアジアを太平洋をまたぐ広大な貿易圏には,やがてアメリカの自由貿易体制に参入した敗戦国の日本(1952年までアメリカの主権下)が積極的に進出していくことになります。

(2) 世界各地で民族運動が始まるが,旧宗主国や米ソの介入を受ける
 世界各地の植民地では独立に向けた民族運動も始まっていきますが,アメリカ,ソ連の思惑もあり,両者が複数の独立勢力を支援しようとした地域では激しい内戦が勃発することになります。
 
 1948年には国際連合総会で「人類の良心を踏みにじった野蛮行為」が再度おこなわれることのないよう世界人権宣言【追H24時期を問う(日本の国際連合加盟とサンフランシスコ会議との時系列)】が決議され,「すべての人間は,生れながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」ということが確認されました。また,1951年には難民の地位に関する条約(難民条約)が採択されています(ただし,1951年1月1日以降に発生した難民には適用されないという制約がありました⇒1953~1979の世界 1967年に難民の地位に関する議定書が締結され,制約は撤廃。条約(1951)と議定書(1967)を合わせて「難民条約」といいます)。
 ただし,実際には帝国主義時代以来の植民地体制は依然として続いていましたし,核兵器を保有するに至ったアメリカ【本試験H4最初に開発・使用したか問う】,イギリス,ソ連【本試験H4ソ連も製造したことを問う】が,積極的に各地の紛争の解決にかかわり,みずからの支配圏を拡大させようとしていきました。
 核兵器にはその圧倒的な破壊力から,核兵器の非保有国に対して戦争の開始をためらわせる力(抑止力)があるとみなされ,実際に使用されることはありませんでした。核兵器は,人類の生存をも脅かすその圧倒的な威力ゆえ,“核は使わないことが前提”ともいわれます。しかし,核兵器による“恐怖の均衡”と呼ばれる状況の下,核保有国どうしの軍拡競争は熾烈(しれつ)化していきました。一方,原子力の“平和利用” 【本試験H4】も第二次世界大戦後【本試験H4時期】にはじまり,原子力発電所が建設されていきます。

 また,長期にわたる第二次大戦中には,科学者が核開発などの軍事技術のために総動員されました。コンピュータ(電子計算機)の発明もその一つです。1946年には初の電子コンピュータのエニアック(ENIAC)がペンシルヴァニア大学の研究者によって開発されました。その後さらなる軽量化・小型化が目指されるとともに,半導体を使用した電子回路の部品の小型化が進んでいきます。電気の流れをコントロールするために用いられるトランジスターは1948年にアメリカで発明されています。


解説
 第二次世界大戦は,イギリスの指導者に不信感を抱いたソ連の指導者〈スターリン〉が,ドイツの指導者と結んだこと(独ソ不可侵条約【追H18レーニンのときではない】)によってはじまりました。
 当初,アメリカ合衆国はヨーロッパでの戦いには関わろうとしませんでしたが,日本との戦争が始まると,日本の同盟国であるドイツやイタリアとも戦うことになり,ヨーロッパの戦争が,アジア・太平洋の戦争とつながることになります。しかし,のちに一転してソ連はドイツとの戦争を開始(独ソ戦)。
 ソ連の指導者は,アメリカとイギリスに「ドイツを西側からも追い込んでほしい」と要請しましたが,米・英はなかなか応じようとしません。
 イギリスの首相〈チャーチル〉は,ドイツ占領下のギリシアやユーゴスラヴィアを,先にソ連に解放されてしまったら,これらの国は助けてくれたソ連のいうことを聞くようになるだろう。ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーも同じだ,とにらんでいました。
 一方,ソ連の指導者〈スターリン〉は,なかなか動こうとしないイギリスに対して,イギリスはやはりソ連をつぶそうとしているのではないか,ドイツとの戦いを長期化させ共倒れをねらっているのではないかと,疑念を抱くようになります。
 他方,日本との戦いに苦戦していたアメリカ合衆国の指導者層は,ソ連に日ソ中立条約を破棄させ,日本を背後から攻めてもらおうと考えるようになります。
 こうして米・英とソ連の利害は一致し,ついに米英はドイツを背後から攻撃するための作戦が着手されます。これがノルマンディー上陸作戦【本試験H6】です。戦争末期といえども,ドイツ軍はしぶとく抵抗をつづけたため,米英主体の連合軍は,この作戦に多くの人員を裂きました。

 この間,ソ連は着々と東ヨーロッパへの進出をすすめ,東ヨーロッパ諸国をつぎつぎに解放していきました。ポーランド,ハンガリー,チェコスロバキア,ルーマニア【本試験H15ルーマニアはソ連から独立して成立したわけではない】,ブルガリア,ユーゴスラヴィア,アルバニアに対するソ連の勢力圏への取り込みは,戦後しばらくの間は緩やかなものでした。多大な犠牲を払ったソ連は復興を第一目標とし,イギリスとアメリカとの協調関係を保とうとしたからです。
 これらの諸国では,共産党が他の政党と連立し,資本主義でも社会主義でもないいわゆる人民民主主義的な連立政権が建てられました。しかし,ポーランド,ユーゴスラヴィア,アルバニアでは戦時中から共産党が実権を握っており,ブルガリアやルーマニアは当初は連立政権といえるにものでしたが急速に共産党が権力を掌握していきました。これらの国をソ連が勢力下におくことで,ドイツが万が一この先また進出行為を働いた場合,それをせき止めるための「防波堤」にすることができると,〈スターリン〉は考えたのです。

 ポーランドにおけるソ連の支配固めは早くにすすんでいました。1944年に,ソ連が後押しするかたちで,ポーランドに親ソ政権(ソ連の協力する政権。のちの共産党政権。ルブリンに置かれた)が成立していました。しかしドイツ軍の支配地として残されていたワルシャワには1944年7~8月にソ連軍が侵攻し,それに合わせてポーランド人が立ち上がりました(ワルシャワ蜂起)。この蜂起を呼びかけたポーランド亡命政府(ロンドンにありました)を米・英が支援していたことから,ソ連はポーランド人への支援を停止,代わりにドイツに鎮圧させてしまいました。ワルシャワの伝統的町並みのほとんどが,このときに失われ,死者15万人以上を出しました(寄り道# 映画『戦場のピアニスト』(2002ポ・英・仏・独)は,この蜂起が舞台となっています)。
 米英が支援するロンドンのポーランド亡命政府がポーランド政府なのか,それとも,ソ連の支援するポーランド政府が本当の政府なのか。イギリスの指導者〈チャーチル〉と,ソ連の指導者〈スターリン〉との間で火花が散らされました。
 そこでヤルタ会談において,アメリカ合衆国は総選挙の実施を提案。しかし,その後も対立は続いたため,1945年4月の国際連合憲章を採択するためのサンフランシスコ会議【本試験H4ジュネーヴ会議ではない】【本試験H17パリ会議ではない】【追H24時期を問う(日本の国際連合加盟、世界人権宣言との時系列)】には,ポーランドのみ代表を送れないことになりました。
 その後,ソ連はロンドンの亡命政府関係者を帰国後に逮捕し,ポーランドにはソ連の支援する政府のみが残りました。アメリカの〈トルーマン〉大統領は強く反発しますが,対立は決定的なものとなりました。ちなみにポーランドの国境は,オーデル=ナイセ線を新たに引いてポツダム宣言により従来よりも西側にずらされました。
 国際連合は1945年10月に,本部をアメリカ合衆国のニューヨークに置き発足しました【本試験H17発足は日本の降伏前ではない】。アメリカ合衆国【本試験H4】,イギリス【本試験H4】,フランス【本試験H4】,ソ連【本試験H4】,中華民国【H4カナダではない,本試験H9中華人民共和国ではない】は五大国【本試験H4】として,安全保障理事会の常任理事国となり,拒否権を行使する権限を得ます。日本では「国際連合」と翻訳されたこの組織は,中国語では「連合国」つまりUnited Nationsを指します。ですから,連合軍の敵国であったドイツ,イタリア,日本などは引き続き「敵国」とされ,加盟することはできませんでした【本試験H9「第二次世界大戦の敗戦国も,国際連合に当初から加盟した」わけではない】。

 ドイツはアメリカ【本試験H14】,イギリス【本試験H14】,フランス【本試験H14オーストリアではない】,ソ連【本試験H14】に分割占領【本試験H14時期(第二次大戦後),本試験H24】されました。首都ベルリンも,西ベルリンはアメリカ,イギリス,フランスの管理下。東ベルリンはソ連の管理下に置かれました。まだ「ベルリンの壁」はありません。

 イタリアは〈バドリオ〉新政権が国民投票を実施し,王政が廃止され共和政になりました。占領軍は,アメリカ合衆国とイギリスが中心となっており,アメリカ合衆国寄りの外交が進められていきます。日本の占領政策でも,同様にアメリカ合衆国が主導権を握りました。
 以上の情勢をつぶさに観察していたのは,すでに首相の座をおりていたイギリスの〈チャーチル〉【H29共通テスト試行】【追H30クレマンソーではない】です。彼は1946年3月,アメリカ合衆国のフルトン大学で行われた講演で,ソ連が東ヨーロッパから南ヨーロッパにかけて,勢力圏をしだいに拡大させている可能性があるが,中で何が起こっているのかはわからない。まるでヨーロッパには,バルト海からアドリア海にかけて南北方向に降ろされた「鉄のカーテン」【本試験H5】【H29共通テスト試行】【追H30】があるようだ,と指摘しました。
 ソ連の拡大を食い止めたかったものの,もはやイギリスにはその力はありません。同じ頃,ソ連の動きを分析した長文電報をモスクワから送っていた〈ジョージ=ケナン〉は,1947年にXという匿名を使って『フォーリン=アフェアーズ』という外交専門誌に「拡大しようとしているソ連を阻止する必要がある」と主張。これを信じた〈マーシャル〉国務長官(任1947~49)が〈ケナン〉を登用したことが,〈トルーマン〉大統領の「封じ込め政策」(containment policy,1947.3) 【H29共通テスト試行 発表したのはソ連ではない】の発表へとつながったのです。〈トルーマン〉は,「世界中でソ連の共産主義が拡大している。ただちに食い止める必要がある」と議会への特別教書演説で訴えました。このトルーマン=ドクトリン【本試験H7】【本試験H27,H31時期(第二次世界大戦終結前ではない)】【追H18】は,従来の国際社会の対立軸を一変させるほどのインパクトを持っていました。

 つまり,従来は,
 アメリカ+イギリス+ソ連+中華民国+ドイツ占領下のフランス=「民主主義」
ドイツ+イタリア+日本=「ファシズム」
  …という対立構図だったのが,トルーマン=ドクトリン以降は,
アメリカ+イギリス+中華民国+フランス=「自由で民主的な国」
ソ連=「不自由な独裁国家」…のように変化していったわけです。
1947年6月には,〈マーシャル〉国務長官がヨーロッパ諸国に経済援助をするマーシャル=プラン【東京H8[1]指定語句】【名古屋H30[4]指定語句】【本試験H14時期(第二次世界大戦後)】【追H18】を,ハーバード大学卒業式演説の場を借りて発表しました。
 その頃のイギリスは47年8月にインドの植民地を放棄し,アメリカ合衆国の指導者も「もうイギリスを頼ることはできない」と感じるようになっていました。

 こうして,ソ連の“対抗馬”としての役割は,完全にアメリカ合衆国に移っていったのです。さっそくアメリカ合衆国は,ソ連の地中海への南下を防ぐため,ギリシア【本試験H13ユーゴスラヴィア,イギリス,ドイツ連邦共和国ではない】とトルコ【本試験H13オーストリア,フランスではない】の親米勢力に経済援助を実施しました。



 アメリカは,イギリスが世界にある自国植民地との貿易から他国を排除していること(ブロック経済)を批判し,世界中で自由な貿易ができる仕組みをつくろうとしていました。新たな自由貿易体制においては,ドルが基軸通貨(キー=カレンシー)とされ,お金が足りない国にはアメリカ合衆国が中心となって出資するIMF(アイエムエフ,国際通貨基金) 【追H27 時期が1940年代に設立されたことを問う】【本試験H18ECの専門機関ではない】や,IBRD(アイビーアールディー,国際復興開発銀行)が貸し出す機関をつくり,アメリカ合衆国が世界で投資をしやすい仕組みを整えました。また,GATT(ガット,関税と貿易に関する一般協定)【本試験H22】が1947年に署名され,世界各国が輸入品に対し個別にかけている関税を,国際会議によって減らし,自由貿易【本試験H22・H26ともに保護貿易ではない】を推進していくことが定められました。


◆アメリカにとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まる
 同時にアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー(アラムコ)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
 西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上「中東」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「石油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。




◆1947年以降,米ソ両陣営の対立が深まる
ヨーロッパが東西に分断されていく
 アメリカの動きに対抗し,1947年9月,ソ連はコミンフォルム(共産党情報局) 【本試験H15第二次大戦中ではない】【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない】を,ポーランド【追H17永世中立国になっていない】,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,ルーマニア,ブルガリアを加盟国として組織しました。
 これらの国家は,地球にとっての月のように,ソ連にとっての“衛星国”になっていきました。逆にソ連のいうことを聞かなかった国は,ソ連に解放してもらわず,自力でナチスを追い出すことに成功した国,すなわちユーゴスラヴィアとアルバニアです。
 ユーゴスラヴィア【追H28】はソ連との対立がもとで,翌1948年にコミンフォルムから除名され【追H28第二インターナショナルからの除名ではない】【本試験H13時期(第二次大戦後かを問う),本試験H21地図上の位置も問う】,大戦中にパルチザン【追H28】といわれる抵抗運動を率いた〈チトー〉大統領(1892~1980,在任1953~80) 【追H19,H28「ティトー」】【本試験H12】が自主路線を進めていきました。

 さて,年が明けた1948年2月。アメリカ側に激震が走ります。
 チェコスロヴァキアの共産党がソ連軍に支援をうけクーデタを起こしたのです。大戦中から亡命政府を樹立し活動していた〈ベネシュ〉大統領は失脚し,共産党だけの政権が樹立されました(チェコスロヴァキア=クーデタ) 【名古屋H30[4]指定語句「チェコスロヴァキア」】。
 チェコスロヴァキアの政変【本試験H5】を受け,「ソ連が西に攻めてくる」ことに危機感を持った西ヨーロッパ諸国は,48年3月に西欧同盟(WEU)を結成(ブリュッセル条約【本試験H5】【本試験H17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】)。英・仏に,ベネルクス三国(ベルギー,オランダ,ルクセンブルク)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。

 さらに48年6月には,東ベルリンを管理していたソ連【追H17封鎖したのはアメリカ合衆国ではない】が,米・英・仏が共同管理していた西ベルリン【本試験H26ソ連の管理地区の地図上の位置】でポツダム宣言に反して通貨改革が実施されたことに対抗して陸上交通路を封鎖,ベルリン危機(ベルリン封鎖【名古屋H30[4]指定語句】) 【本試験H9年代を問う】【本試験H16アメリカによる封鎖ではない】【追H17】が勃発しました。東ベルリンでソ連が社会主義的な政策を強めていたことに,西側諸国が懸念を示した結果です。

 “第三次世界大戦”の開戦が懸念されましたが,米・英・仏が市民のために決死の食糧・物資空輸作戦を続けた結果,ソ連は封鎖を1年で解きました。しかし,もはやベルリンをめぐる両者の対立は決定的なものとなり,1949年1月にはソ連【本試験H25アメリカではない】がコメコン(COMECON,経済相互援助会議。コメコンは西側諸国における通称) 【本試験H10時期(1950年代か問う),ブリュッセル条約により結成されたわけではない】【名古屋H30[4]指定語句】【セA H30コミンテルンではない】で,東ヨーロッパ諸国との経済的連携を強化するようになっていきます。原加盟国はソ連,ブルガリア,チェコスロバキア,ハンガリー,ポーランド,ルーマニアです。直後にアルバニアが加盟(1962年に事実上脱退),さらに東ドイツ(1950),モンゴル(1962),キューバ(1972),ヴェトナム(1978)が加盟しました。ユーゴスラヴィアは準加盟国です。
 
 49年4月には西欧同盟の加盟国に加え,アメリカ合衆国,イタリア,カナダなどを構成国とするNATO(北大西洋条約機構) 【本試験H9ロカルノ条約ではない】【名古屋H30[4]指定語句】 が結成されます。西欧同盟も,「ソ連の進出を防ぐには,ヨーロッパだけでは無理だ。アメリカを引き込めば,核兵器の脅しも使える」と考えたのです。NATOの原加盟国は,ベルギー,オランダ,ルクセンブルク,イギリス,フランス,イタリア(ここまでECSEの原加盟国),ポルトガル,デンマーク,ノルウェー,アイスランド,カナダ,アメリカ合衆国です。
 1949年5月には,英米仏の占領していたドイツ西部はドイツ連邦共和国【本試験H14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の成立を宣言し,ボンを首都としました。

 しかし49年8月,ソ連は核兵器(原爆)をついに保有してしまいます。1949年【本試験H27】10月にはソ連の占領下のドイツ東部がドイツ民主共和国【本試験H14時期(第二次大戦後),本試験H27】を宣言し,ドイツは真っ二つに分かれることになりました。
 ヨーロッパにしのびよる“第三次世界大戦”の恐怖。二度の大戦で痛手を負ったヨーロッパが立ち直るためには“まとまる”しかない。1950年にはフランス外相〈シューマン〉(1886~1963)がドイツとフランスの和解を訴え,1952年のフランス・イタリア・西ドイツ・ベネルクス三国による,石炭と鉄鋼の共同管理を目的とするヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) 【本試験H31EFTAに発展していない】【東京H26[3]】【早政H30】 へと発展しました。1957年3月に調印され1958年1月に発足した(注)のヨーロッパ経済共同体(EEC) 【東京H17[1]指定語句】【本試験H9イギリス中心の経済統合ではない】へと発展します。また,同年には欧州原子力共同体(ユーラトム,EURATOM)【本試験H26EFTAではない】【早政H30】が結成され,将来石炭が枯渇してしまったときに備えて原子力エネルギーの開発を強力して行うことにしました。
(注)1年間の過渡期がおかれ正式発足は1959年1月とも。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124

 その間,1952年にNATOにギリシア,トルコが加盟。
 1954年に西ヨーロッパ諸国は,西ドイツの再軍備を認め(パリ協定),西ドイツはNATOにも加盟しました。ドイツの軍事力が強化されるのを嫌っていたのは,もちろんソ連です。西ドイツの再軍備に対抗したソ連は1955年にワルシャワ条約に基づき,ワルシャワ条約機構 (WTO,ワトーと読みます。1991解消) 【本試験H9年代を問う】【本試験H24】【セA H30中央条約機構ではない】を発足させ,ポーランド【本試験H24】,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア(1968年に脱退)に東ドイツを加えた軍事同盟をつくりました【追H18独自路線をとったユーゴスラヴィアは加入していない】。
 こうして,ヨーロッパはアメリカ側とソ連側の2陣営にに分かれ,真っ二つに色分けされることになったのです。

 第二次世界大戦後には,どうしてナチス(ファシズム)が生まれてしまったのかを問う知識人が現れ,ドイツの〈ハイデガー〉に師事しアメリカに亡命した女性〈ハンナ=アーレント〉(1906~75)は『人間の条件』を(映画「ハンナ=アーレント」はナチ=ドイツの戦犯とされた〈アイヒマン〉の裁判を傍聴し「イェルサレムのアイヒマン」を書き上げるまでの彼女を描いています),ドイツからアメリカに亡命したいわゆるフランクフルト学派の〈アドルノ〉(1903~69),〈ホルクハイマー〉(1895~1973)は『啓蒙の弁証法』を著しました。




●1945年~1953年のアメリカ
○1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ
・1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
ソ連との対立深まり「封じ込め」政策がスタートする
 〈トルーマン〉大統領(任1945~1953)の任期中に「冷戦」が激化しました。

 国務長官〈バーンズ〉(任1945~1947)は、従来のドイツの戦後政策(工業化を阻止するモーゲンソー=プラン)を見直して、工業化させる方針(『ドイツ政策の見直し』1946年9月)へと転換しました。しかし原爆の使用も辞さない強硬な姿勢が嫌われ、〈トルーマン〉大統領に罷免されます。

 1947年1月に就任した〈マーシャル〉国務長官(任1947~1949)は、6月にハーバード大学で講演しヨーロッパ復興計画である「マーシャル=プラン」【東京H8[1]指定語句】【名古屋H30[4]指定語句】【本試験H14時期(第二次世界大戦後)】【追H18】を発表しました。
 「アメリカの援助によって、ヨーロッパがソ連の“子分”となることを防ごう」というものです。
 このプランの実行をもって、のち1953年にノーベル平和賞を受賞しています。

 1948年の大統領選挙では「フェアディール政策」を掲げ、ニューディール政策を受け継ぐ姿勢をハッキリと示しました。この中で1947年に制定された労働組合を規制するタフト=ハートリー法の撤廃を訴えますが、これには失敗しています。

 しかし、1949年に中国における国共内戦が終結して中華人民共和国が建国されると、中国政策に対しては上院議員〈マッカーシー〉(任1947~1957)からの批判が強まり、大規模な反共産主義運動である「赤狩り」が始まりました。この運動を彼の名をとって「マッカーシズム」ともいいます。

 1950年には、朝鮮民主主義人民共和国(1948年建国)が大韓民国(1948年建国)に軍事侵攻し、朝鮮戦争が始まりました。
 〈マーシャル〉は国防長官(任1950~1951)に就任しますが、1951年に辞任しました。
 国務長官〈アチソン〉(任1949~1953)は、連合国軍最高司令官〈マッカーサー〉(任1945~1951)が原爆の使用や中華人民共和国への戦線の拡大を主張したのに対し、〈トルーマン〉大統領とともに反対にまわり、〈マッカーサー〉は1951年4月に解任されました。後任の連合国軍最高司令官は〈リッジウェイ〉です。

 朝鮮戦争中の1951年9月8日にはサンフランシスコ講和条約が署名され、1952年4月28日に発効、連合国軍による日本の占領が終結しました。しかし、旧・日米安全保障条約により、アメリカ合衆国軍は「在日米軍」として駐留を続けます。

 さて、中華人民共和国の建国やインドシナ戦争の苦戦、朝鮮戦争の状況から、〈トルーマン〉大統領への批判が強まると、民主党の〈トルーマン〉は大統領選挙への不出馬を決定。
 1952年の選挙で当選したのは共和党の〈アイゼンハワー〉大統領(愛称はアイク、任1953~1961)でした【本試験H26協調外交を推進していない,ドイツ人ではない】。
 〈アイゼンハワー〉大統領は、国務長官〈ダレス〉(任1953~1959)の下「巻き返し政策」でソ連の影響力の削減に努めます。一方、1953年3月にソ連の〈スターリン〉が死去すると緊張緩和(「雪どけ」)に向かうことになります。
 



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・1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
カナダは西側諸国の一員として「封じ込め」に協力
 〈マッケンジー=キング〉(任1921~26、26~30、35~48)首相(カナダ自由党)の下で、第二次世界大戦の戦勝国となったカナダ。
 国際連合の原加盟国となったほか、1949年には北大西洋条約機構(NATO)の原加盟国にもなります。

 1950年の朝鮮戦争にも派兵しています。

 1952年には初のカナダ生まれの総督〈ヴィンセント=マッシー〉(任1952~59)が就任しています。




○1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層・労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとります。
 しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みはすすみませんでした。
 依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレが問題となります。
 各国の政権は国内の中間層や労働者の票を稼ごうと,トップダウンで社会保障を充実させる政策をとり,それがますます財政赤字を深刻化させていくことになるのです。

 ラテンアメリカの大土地所有制【本試験H6植民地時代からの大土地所有制は廃止されなかった】は地主が輸出作物・鉱産資源を通じて外国の資本と結びついていたために,なかなか変わることがありませんでした。
 第二次世界大戦前には,イギリスが7億4000万ポンドを投資していましたが,大戦後には2億7300万ポンド(1950年)に激減し,代わってアメリカ合衆国が,投資総額が93億ドル(1955年)に躍り出ました。アメリカ合衆国が現地の大地主と協力をして,ラテンアメリカ各地に工場を建設・農地や鉱山を開発し現地人に安い給料で働かせて,利益の多くを吸い上げたわけです。

 アメリカ合衆国は〈トルーマン〉の提唱した「封じ込め政策」の一環として,1948年4月にコロンビアのボゴタの米州会議で米州機構(OAS)【本試験H29】【追H18】の憲章が締結されて,1951年に発効されました。このボゴタ憲章とともに,米州相互援助条約(リオ条約)と米州条約(ボゴタ条約)が結ばれ,原加盟国はアメリカ合衆国と,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国25か国でした。「侵略された場合は共同行動を準備する」という米州機構を通じ,アメリカ合衆国は中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ地域にソ連の影響が及んで社会主義運動が起きないように圧力を強めていったのです。そして,たとえ手荒な政策をとる非民主的な政権であったとしても,国内の左派(ここでは「社会主義的な」という意味)勢力を押さえ込んでくれるならば,資金や軍備を提供してかわいがったわけです。



○1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ

中南米諸国は“バナナ共和国”状態に
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ


・1945年~1953年の中央アメリカ  現①メキシコ
◆あらゆる階層をとりこんだ制度的革命党による一党支配の下,経済成長が図られた
メキシコは,ポプリスモ政権が一党独裁
 メキシコは1946年にメキシコ革命党(同年に制度的革命党(PRI)に再編)を率いた〈カマチョ〉大統領が,後任の〈アレマン〉を指名し大統領(任1946~1952)となります。メキシコの工業化のために,アメリカ合衆国と友好関係を築いて資本を導入し,鉄道やダムの敷設や輸出用作物農地の拡大,教育改革,観光産業の発展(アカプルコのビーチがセレブに人気となります)に取り組みました。初めて女性の参政権(地方参政権)が認められたのも〈アレマン〉政権のときのことです(メキシコの女性参政権)。
 事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。「メキシコ革命で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語でポプリスモ,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。


・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ
◆中米のグアテマラでは左派政権がアメリカ合衆国の介入によって倒された
アメリカが,グアテマラ左派政権を叩く
 グアテマラでは1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス=グスマン〉(任1951~54)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は“バナナ共和国”といわれるほどでした。

・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現③ベリーズ
 イギリスの植民地ベリーズでは独立の動きも起きますが,進出をねらう隣国グアテマラとの対立も生じます。
・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル
エルサルバドルは政情不安が続く
 エルサルバドルでは軍人〈マルティネス〉(任大統領代行1931~34,大統領35~44)による独裁が終わり,政情は不安定なままでした。

・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑤ホンジュラス
 ホンジュラスはニカラグアの〈ソモサ〉「王朝」やエルサルバドルとの国境紛争を抱え,政情は不安定なままです。
・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑥ニカラグア
ニカラグアは親米の〈ソモサ〉独裁体制に
 ニカラグアの政治・経済・軍事は,アメリカ合衆国のバックアップの下,〈ソモサ〉(在1937~1947,1951~1956)大統領が実質的に握られています。
 〈ソモサ〉自身も輸出作物の大農園主であり,ニカラグアの民衆が社会主義に染まるのを防ぐことができると,アメリカ合衆国からも期待を受けていたのです。

 かつてのアメリカ合衆国大統領〈フランクリン=ルーズヴェルト〉も,こう語ったといいます。
 「ソモサはクソ野郎だが,我々の側のクソ野郎だ。」(注)

 ニカラグアは,やはり政情不安定であった隣国ホンジュラスとも交戦しています。

(注)《Somoza may be a son of a bitch, but he's our son of a bitch.》。Peter Winn”Americas: The Changing Face of Latin America and the Caribbean” University of California Press; Third edition, 2006, p.517.. ・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑦コスタリカ
コスタリカが常備軍を廃止,政治の安定化へ
 戦後おこなわれた大統領選の結果をめぐり内政は混乱。内戦(1948年)の末に1949年に政権をとった〈フィゲーレス〉は国政改革に乗り出し,政争の元となり親米派であった軍隊を問題視し,常備軍を廃止。1951年には国民解放党を結成しています。
 この間に,ニカラグアの〈ソモサ〉は旧政権派を支援し,国外からコスタリカに内政干渉・軍事進出をしますが失敗。
 内戦を終結させ政治を安定化させることに成功したコスタリカは,以後経済成長に向かいます。
・1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
パナマ運河をめぐり,反米世論が高まっていく
 パナマ運河地帯は,第二次世界大戦中に親米政権によりアメリカ合衆国に貸し出されていました(1942年にパナマは連合国側で参戦しています)。
 戦後もパナマに駐留を続けたアメリカ合衆国は,運河地帯の貸出期間の延長を求めましたが,パナマ国民の反対もあって運河地帯の外からは撤退。
 その後は,反米の姿勢をとる〈アリアス〉が大統領に就任しますが,パナマ運河返還をのぞむ国民の声も大きく,政情は不安定化します。



○1929年~1945年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島


・1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領のままとなっています。

・1945年~1953年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島出身でフランスに留学し,精力的な活動をしていた文学者〈エメ=セゼール〉(1913~2008)は,1945年にマルティニーク島のフォール=ド=フランス市長に選出されます(任1945~2001)。
 〈エメ=セゼール〉は,植民地の状態から独立するには,フランスの海外県としての独立を受け入れつつ,文化的にはフランスへの同化を拒む戦略をとるべきだとし,彼の1946年にマルティニーク島はフランスの海外県となります。しかし,1950年には表現の自由を制限する法案が提出され,〈エメ=セゼール〉は『植民地主義論』を執筆することになります。





○1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ



・1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆独裁政権は軍により打倒されたが,1950年に復活し,資源ナショナリズム的な政策をとった
ブラジルは資源ナショナリズムをすすめる
 ブラジルでは〈ヴァルガス〉大統領による長年の独裁に,第二次世界大戦後の軍のクーデタ(1945年10月)によって終止符が打たれました。
 後を継いだのは陸軍大臣の〈ドゥトラ〉(任1946~51)。
 彼の下で民主化政策が実行され,アメリカ合衆国との外交関係が築かれました。

 しかし,その後1950年の国民投票の結果,〈ヴァルガス〉が再度大統領に返り咲きます。
 〈ヴァルガス〉(第二次 任1951~54)は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。
 1953年には国営の石油公社を設立し外国資本を締め出しましたが,1954年にピストル自殺を遂げました。〈ヴァルガス〉本人は,「陰謀」と遺言しています。



・1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ  現④アルゼンチン
 アルゼンチンでは,労働者の要求に寄り添うことで,軍事政権の中で最高実力者に躍り出た〈ペロン〉(任1946~55,73~74)が国民投票によって大統領に選出され,労働者だけでなく資本家からも絶大な支持を得ながら,アメリカ合衆国に対抗する政策を進めていました。具体的には,外資系企業を国有化して民族資本を基盤とする工業化を目指し,農地改革は行わない穏健な内容でしたが,反対派への弾圧はきわめて厳しいものでした。彼の夫人〈エビータ〉も慈善活動に尽力し,国民の絶大な支持を得ていたことで知られます。
 しかし,1951年に再選された後にカトリック教会との対立を招いたことをきっかけに,支持が低下していきました。



・1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー
◆ペルーでは軍部によるポピュリズム,チリでは新米政権が樹立されたが,ボリビアでは社会改革が実施された
 チリでは1938年に,左派が一致団結して急進党の〈アギーレ〉大統領を中心とする人民戦線内閣が成立していましたが,アメリカ合衆国による切り崩しもあり1941年に崩壊していました。戦後,急進党,社会党,共産党をまとめた〈ビデラ〉連立政権(任1946~52)は一転して親米路線に転換し,ソ連との国交を断絶。1948年には共産党が非合法化されました。

 ボリビアでは1951年に左派のMNR(国民革命運動)の候補〈パス=エステンソロ〉が大統領選で勝利しましたが,保守層の抵抗により軍部に政権が引き渡されると、軍部によりMNR(民族革命運動党)が非合法化されます。
 それに対してMNR(国民革命運動)は、鉱山労働者と一部の国家警察の合流を得て反乱に成功。
 亡命先から帰国した〈パス〉が大統領に就任(任1952~56,60~64,64,85~89)しました。


 彼の下で,三大財閥の鉱山の国有化(有償。鉱業公社(COMIBOL)設立),普通選挙法の施行,大土地所有者の土地を収用して農民に与える農地改革、インディオに対する差別的な法律の撤廃など,さまざまな社会改革が断行されました(注)。

(注)「インディオ」という呼称は禁止され、「カンペシーノ」(農民)と改められ自作農となりましたが、階層的な社会構造は依然として残りました。真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、pp.137-138。



 ペルーではアプラ(アメリカ人民革命同盟)の支持を受けた国民民主戦線〈リベーロ〉(任1945~48)が大統領に就任しましたが,アプラ内の急進派による社会改革を求める動きが活発化すると,それを押さえようとする軍部が動き,〈オドリーア〉政権(任1948~56)が成立。輸出業で栄える資本家や産業資本家だけでなく都市の中間層や貧困層の支持をも得ながら,左派(アプラや共産党)を抑圧する政治(軍部ポピュリズム〔ポプリスモ〕)が展開されました。






●1945年~1953年のオセアニア
オセアニアも「封じ込め」の舞台になる
 サンフランシスコ講和条約に先立つ1951年9月1日、オーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は,太平洋安全保障条約(ANZUS,アンザス,アンザス条約) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】に署名しました。
 ソ連を筆頭とする東側諸国の拡大に備えたほか、アメリカ合衆国が9月8日に日米安全保障条約を締結するため、日本の再・軍国主義化を恐れるオーストラリア、ニュージーランドを“説得”させる必要があったのです。
 冷戦の波は,オセアニアにまで及んだのです。
 オセアニアの島々の多くは植民地の地位に留まるか,国際連盟の委任統治領を引き継いだ国際連合の信託統治領として統治され続けます。




○1945年~1953年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ

 ⑦西サモアは,1945年にニュージーランドによる委任統治領から国際連合の信託統治領に切り替わっています。東サモアはアメリカ合衆国領のままです。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。

○1945年~1953年のオセアニア  オーストラリア
 1951年にオーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は,太平洋安全保障条約(ANZUS,アンザス,アンザス条約) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】を締結し,主権を回復した日本に対する戦争に備えました。



○1945年~1953年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1945年~1953年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 ニューギニア島の北東部,ビスマルク〔ビスマーク〕諸島,④ソロモン諸島のうちブーゲンビル島は,オーストラリアの信託統治領となります。
 ニューギニア島の南東部はオーストラリア領でしたが,1949年にニューギニア島の北東部も合わせて,パプアおよびニューギニア准州に再編。合わせて信託統治領とします。




○1945年~1953年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 現①マーシャル諸島,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥北マリアナ諸島・グアムは,アメリカ合衆国直轄領(準州,1944~)のグアムを除き,アメリカ合衆国の信託統治領として1947年に統治下に入りました(太平洋信託統治領)。これらの地域はもともと旧ドイツ領を大日本帝国が国際連盟から委任統治をまかされていた南洋諸島でしたが,1944年にアメリカ合衆国が占領したため,その後も引き続きアメリカ合衆国の統治下となったのです。

 ③ナウルでは1947年にニュージーランド,オーストラリア,イギリスによる信託統治下に入りました。依然としてリンの採掘が盛んで,その輸出に過度に依存する経済構造が発展していきます。

 ③ナウルと②キリバスのオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されました(注)。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままでした。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357






●1945年~1953年の中央ユーラシア
中央ユーラシアの大部分はソ連,中国の支配下に
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
・1945年~1953年の中央ユーラシア  現①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,
 1936年以来,現①キルギスはキルギス=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1929年以来,現②タジキスタンはタジク=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1924年以来,現③ウズベキスタンは,ウズベク=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1929年以来,現④トルクメニスタンはトルクメン=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1936年以来,現⑤カザフスタンは,カザフ=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。

・1945年~1953年の中央ユーラシア  現⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
新疆(東トルキスタン)の独立は実現せず
 独立が宣言されていた「東トルキスタン共和国」のある新疆は,ヤルタ会談の秘密協定により,中華民国政府による支配が認められました。1946年の中華民国との和平協定によって,「共和国」のメンバーはイリに戻り,自治を受け入れることになります。
 しかし,1949年に中華人民共和国の国共内戦の勝利が確定的になると,〈毛沢東〉は「共和国」のメンバーを北京に政治協商会議に誘います。直後,飛行機事故により首脳のほとんどが墜落死したとされ,生き残ったメンバーは中国共産党に従い,中華人民共和国の一部となる道を辿ります【本試験H11「新疆は…中華人民共和国に帰属しなかった」わけではない】。

・1945年~1953年の中央ユーラシア 現⑦中華人民共和国のチベット自治区
チベットは中華人民共和国の侵攻を受ける
 チベットの〈ダライ=ラマ〉政権が実効支配していたのは,ラサを中心とする中央チベットにとどまり,アムド地方は青海省や四川省,カム地方は四川省や雲南省にかけて中華民国の支配下にありました。
 1949年10月に中華人民共和国が成立すると,1950年に人民解放軍がチベットに侵攻し,1951年にラサを占領。〈ダライ=ラマ14世〉【東京H12[2]】は山脈を越えてインド国境付近に避難しました。

 しかし,1951年の協議により中華人民共和国は〈ダライラマ〉の地位を認める代わりにチベット【本試験H11モンゴルではない】の外交権・軍事権を奪います。
 チベットのラサに一旦戻った〈ダライラマ〉は,中国勢力による一層の進出に直面することになります。

・1945年~1953年の中央ユーラシア  現⑧モンゴル
内モンゴルと外モンゴルは完全に別々の道へ
 モンゴル人民共和国は,〈蒋介石〉の中華民国に正式な政府とみなされていはいませんでした。

 また,第二次世界大戦中に日本に協力して成立していた「蒙古聯合自治政府」は,1945年9月に「内モンゴル人民共和国」を樹立します。
 内モンゴルの人々は,モンゴル人民共和国に対して「内モンゴルと外モンゴル(モンゴル高原)の統一」を要求しますが,ソ連と中華民国が1945年8月14日に中ソ友好同盟条約を結んで接近し,中華民国がモンゴル人民共和国を承認すると,内モンゴルは孤立。1945年11月には,〈ウランフ〉(1906~1988)が中心となって中国共産党に接近し,これに吸収される形で消滅します。

 その後,1947年に内モンゴル自治政府が成立し,1949年10月に中華人民共和国が成立すると,12月には内モンゴル自治区となります。自治区主席は〈ウランフ〉です。



○1945年~1953年の中央ユーラシア  北極海周辺
北極海を挟んで向き合う米ソが対立する
 第二次世界大戦が終わると,北極海は米ソ冷戦に巻き込まれていきます(詳細は⇒1953~1979の中央ユーラシア 北極海周辺へ)



●1945年~1953年のアジア
○1945年~1953年のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)

・1945年~1953年のアジア  東アジア 現①日本
 1945年8月30日に,連合国軍最高司令官〈マッカーサー〉(1880~1964) 【セA H30時期】が来日し,9月2日に東京湾上のミズーリ号上で降伏文書が調印されました。
 署名したのは日本政府・天皇の代表である外相〈重光葵〉(しげみつまもる,1887~1957)と,大本営の代表である参謀総長〈梅津美治郎〉(うめづよしじろう,1882~1949)です。
 連合国の代表として〈マッカーサー〉が,さらにアメリカ,イギリス,中国,ソ連,フランス,オランダ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドも署名しました。
 降伏した相手は,ポツダム宣言を発したアメリカ,イギリス,中華民国,ソ連です。

 この中で日本は,天皇と日本政府の主権を,連合国軍最高司令部のもとに置くことを約束しました。こうして,日本本土はアメリカ軍の間接占領下に置かれ,沖縄などの南西諸島は直接軍政下に置かれました。
 こうして始まった戦後改革では,1946年農地改革法,1947年には主権在民(国民主権)【本試験H29】を定めた日本国憲法【東京H17[1]指定語句】【本試験H29】の施行など,日本が戦前の軍国主義的な国家ではなくなるよう,様々な制度が作られました。
 また,戦争犯罪者に対して一審制の極東軍事裁判(いわゆる“東京裁判”)【本試験H30時期】が実施され,連合国に「戦争犯罪人」として指定された日本指導者28人が,平和に対する罪(A級犯罪),人道に対する罪(C級犯罪),通常の戦争犯罪(B級犯罪)について裁かれました。平和に対する罪と人道に関する罪は大戦中に規定されていなかった犯罪であり,「ある行為を後から制定された罪で裁いてはならない」という法の不遡及(ふそきゅう)原則に反しているという批判もあります。なお,ナチス=ドイツの指導者に対するニュルンベルク裁判【本試験H4世界史上初めて戦争犯罪を裁く国際裁判であったか問う】【本試験H31ハンブルクとのひっかけ】【追H20地図問題】で適用されたC級犯罪は極東軍事裁判での適用はありませんでした。

 しかし,米ソ対立が始まり,1950年に朝鮮戦争が起きると,日本を後方支援のための国家にするため,再軍備に向けた占領政策が転換されました。同時に日本は,第一次世界大戦中の大戦景気と同じく「朝鮮特需」となり,経済復興の足がかりを得ました。
 1951年に,アメリカ合衆国のサンフランシスコで対日講和会議が開かれサンフランシスコ平和条約【本試験H17時期】が締結され,翌年の発効により日本は主権を回復しました【本試験H17】。しかし,ソ連はこれに調印せず,中華人民共和国と台湾【東京H17[1]指定語句】政府は会議に参加しませんでした。1952年に日本は台湾政府と日華平和条約【早法H26[5]指定語句】を結んだため,中華人民共和国と敵対することになりました。また,ソ連との国交樹立も,先延ばしとなりました。

 沖縄は依然としてアメリカの統治下にあり,アメリカ合衆国政府の任命する行政主席・副主席による琉球政府が発足しました。サンフランシスコ講和条約調印と同じ日,日米安全保障条約(1951発足【本試験H5非同盟主義ではない,本試験H7,本試験H9年代を問う】,1960改定)が結ばれていました。1953年以降沖縄の軍事基地が拡大され,島ぐるみ闘争が始まっていきます。

・1945年~1953年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
 第二次世界大戦の最終局面において,ソ連は満洲・千島列島・南樺太を占領しました。
 1945年8月,朝鮮総督府はソウルにまでソ連が南下することを恐れ,民族運動家に治安維持を任せる動きをみせていました。アメリカもソ連が朝鮮半島を全部占領してしまうことを恐れ,8月16日に「北緯38度線」をソ連とアメリカによる占領の分割線にしようと提案したようです。日本が植民地化していた朝鮮は,北緯38度線以北はソ連,以南はアメリカが占領し【本試験H30以北ではない】,8月中には北朝鮮と南朝鮮における日本軍の武装解除が完了,1945年中には当時の朝鮮半島にいた日本の民間人・軍人の「引き揚げ」がほぼ完了しました。
 一方,〈蒋介石〉が出席していたカイロ会談では,朝鮮は「自由且独立ノモノタラシムル(自由で独立のものにさせる)」とされていました。朝鮮総督府から治安維持を任された朝鮮人の独立運動家は,8月15日に朝鮮建国準備委員会を設立。しかし,左派から右派までの寄せ集めの組織であったために一部が分裂したものの,委員会が主導して9月に朝鮮人民共和国の建国が宣言されました。当時アメリカ合衆国に滞在していた〈李承晩〉が主席に選ばれましたが,アメリカ合衆国もソ連もこの国家を承認せず,“幻”の統一国家となりました。

 ソ連【追H9中国ではない】とアメリカ合衆国【追H9】は北朝鮮と南朝鮮に,それぞれ支配を及ぼそうとしていました。1945年12月のモスクワ外相会議(米・英・ソ)において朝鮮の信託統治と,その後の朝鮮民主主義臨時政府の樹立のプランが検討されました。それに対し,中国の重慶で臨時政府を築いていた〈金九〉(キムグ)は信託統治に反対,朝鮮共産党も反対しました。
 しかし,冷戦の激化にともない,その後のアメリカ合衆国とソ連の話し合いは決裂が続き,南朝鮮におけるアメリカ軍政庁による共産党の弾圧も激しくなりました。インフレと食料不足により南朝鮮では大規模な民衆暴動が起きる中,〈李承晩〉はアメリカの軍政と共産主義に反対しつつ北朝鮮を除き南朝鮮だけの独立を主張しました。

 北朝鮮では,「満洲で抗日パルチザン部隊を指導した」という“伝説”により理想化された〈金日成〉(キムイルソン,1912~1994) 【東京H17[1]指定語句】が,朝鮮共産党北部朝鮮分局(のち北朝鮮労働党)における頭角を現し,1946年に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任しました。彼は実際には中国共産党の東北人民軍幹部として戦っていたとされ,「「聖地白頭山(ペクトゥサン)で生まれた」とされる息子の〈金正日〉は,実際には父の軍事訓練時代に沿海州のハバロフスク近郊で生まれたといいます。“革命のために命を捧げて戦った”という伝説や,朝鮮人・女真人の発祥の地である“聖地”白頭山で生まれたという神話は,その後の〈金日成〉・〈金正日〉の指導体制における個人崇拝の中でつくられていったものです(注)。
 人民委員会は小作農に土地を分け与えつつ,アメリカ合衆国の軍政下に置かれている南朝鮮の解放を目指していきます。1947年には北朝鮮人民会議と北朝鮮人民委員会が組織されると,北朝鮮には南朝鮮とは別個の政権が事実上成立しました。
 信託統治案に現実味がなくなると,1947年秋の国連総会で南北朝鮮で総選挙を実施するべきとの提案が可決されました。これを受け,アメリカ合衆国は南朝鮮単独で選挙を実施し,1948年8月15日に大韓民国(韓国) 【本試験H7年代】の建国が宣言されました。憲法公布後に〈李承晩〉(イ=スンマン;りしょうばん,1875~1965) 【本試験H31日韓基本条約を結んでいない】が大統領に選ばれました。南朝鮮だけの単独選挙に対し〈金九〉(キム=グ;きんきゅう,1876~1949)は,北朝鮮の〈金日成〉らと提携して統一朝鮮の樹立を目指しましたが挫折し,1949年に暗殺されました。

 1948年2月には朝鮮人民軍が創設,9月ににソ連軍【本試験H16中国ではない】にバックアップされる形で〈金日成〉(キム=イルソン) 【本試験H27】が朝鮮民主主義人民共和国【本試験H27】の建国を宣言しました。こうして朝鮮半島の北部にソ連の後押しを受けた社会主義国家が誕生したことに,アメリカの政権首脳は衝撃を受けます。1948~1949年までにソ連・アメリカ合衆国軍は朝鮮半島から撤退しましたが,ソ連・中華人民共和国の支援を受けた北朝鮮の軍事力が増強されていきました。
(注)徐大粛,古田博司訳『金日成と金正日―革命神話と主体思想 (現代アジアの肖像 6)』岩波書店,1996年。

 一方,中国では“共通の敵”である日本が敗れると,国民党と共産党との間に内戦がおこりました。一時的に成立した停戦が崩れると,国共内戦【本試験H7年代】【追H9国連は調停していない,米ソは厳正中立の立場をとっていたわけではない】となり,富裕層である財閥に支持されていた〈蒋介石〉(1887~1975)の国民党政権に対して,農村部の貧困層に支持されていた〈毛沢東〉(1893~1976)率いる中国共産党が攻勢を強めます。「お金持ちには貧乏人の気持ちがわからない!」「政治にカネが絡んでいる!」という批判も強まり,国民党政権の支持は下がっていきました。
 〈毛沢東〉は 「中国には中国の共産主義のやり方がある!農民と労働者は,手を組むことができるはずだ!」という新民主主義論を主張して,中国の農村部【追H9都市部ではない】を中心に「解放区」(共産党の支配地域)を増やしていきました。
 第二次世界大戦中から,連合国は中国で社会主義革命が起きないように,〈蒋介石〉の国民党政権を政府と認め,これを援助してきました。しかし,1949年に〈蒋介石〉は台湾島【追H9「国民党は台湾に脱出し,中華民国政府の維持を図った」か問う】【セA H30中国共産党ではない】に逃げ,〈毛沢東〉が北京を首都とする中華人民共和国を宣言【本試験H7年号】【本試験H14文化大革命によって成立したわけではない】【追H19】。これにより,国連の五大国の一つでありながら,中華民国政府は中国本土を支配することができないという状況になってしまいます。

 〈毛沢東〉は国家主席,〈周恩来〉【本試験H21】【追H24中華民国の臨時大総統ではない】が首相(正式には国務院総理)という役職です。
 内戦に敗れた〈蒋介石〉の国民党政権は,台湾に渡って,政権を維持します(台湾)。【本試験H13「台湾に渡り,抗日戦を指揮した」わけではない】。清の宮殿である紫禁城(しきんじょう)にあった宝物や文化財は,〈蒋介石〉によって南京や四川に運び出されていましたが,国共内戦が始まると一部は台湾に移送されたため,現在では主に北京の故宮博物院と台湾・台北の国立故宮博物院に分かれて保管されています(台湾の国立故宮博物院には,周代の青銅器,南宋代の龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁,明代にイスラーム諸国向けに輸出されたペルシア語入の染付(そめつけ,青花)の青花波斯文蓮花盤,清代では豚肉の煮込みそっくりの肉形石や,白菜そっくりのヒスイ製の翠玉白菜(すいぎょくはくさい)などが展示されています) 【追H29北京と台湾に2つの故宮博物院があることに関するリード文】。

 成立後の中華人民共和国では,1950年に土地改革法【早法H23[5]指定語句】によって地主制を廃止。
 戦争中には日本と日ソ中立条約を結ぶなど敵対勢力であったソ連【本試験H22アメリカ合衆国ではない】との間に,1950年,中ソ友好同盟相互援助条約(1950発足,1980解消) 【本試験H7】【早法H26[5]指定語句 論述(中国をめぐる外交関係の展開)】を結びます。
 相互援助条約とは敵国(“敵国”は日本とその同盟国と想定されていました)から進出を受けたら,相互に援助することを約束した条約のことです。
 このとき〈毛沢東〉は,モスクワのクレムリン(ソ連共産党の中枢があるロシア帝国時代の宮殿)の〈スターリン〉(1878~1953)に直々に会いに行っています。

 1949年の中華人民共和国の成立を見た朝鮮民主主義人民共和国の〈金日成〉(キム=イルソン,きんにっせい,1912~94,首相48~72・国家主席72~94,朝鮮人民軍最高司令官50~91,朝鮮労働党中央委員会委員長49~66・総書記66~94)は,この勢いで朝鮮半島の統一を目論(もくろ)みます。
 〈金日成〉の朝鮮民主主義人民共和国は南の大韓民国に対し1950年6月25日に軍事進出し,ソウルを占領。瞬く間に朝鮮半島南部のプサン(釜山)に到達しました (1950~53,朝鮮戦争【本試験H7年代,本試験H9「1年以内」に終結していない】)。
 この自体に,連合国を中心とする集団的安全保障機関である国際連合の出番がやってきました。進出行為をした北朝鮮に対し,アメリカの〈トルーマン〉大統領は安全保障理事会の招集を要求し,武力制裁を提案。イギリスとフランスは1949年に成立していたNATO(ナトー,北大西洋条約機構)の加盟国でもありますし,中華民国の〈蒋介石〉政権も同じ連合国側の立場のアメリカの意見に同調しました。
 それに対しソ連は,安全保障理事会を「欠席」。五大国には拒否権がありますから,1か国でも反対すれば安全保障理事会の決議は成り立たないわけですが,ソ連は「欠席」したわけなので拒否権は発動できません。
 結局ソ連抜きで決議は可決され【本試験H17否決されていない】,アメリカ軍【追H21】を主体とする国連軍【本試験H9介入があったか問う】【追H21】が組織されました。国際連合憲章の7章には,「平和に対する脅威,平和の破壊及び進出行為に関する行動」という項目があって,本来は安全保障理事会が指揮をとることになっているのですが,ソ連が出席していない中での可決という例外事態がいきなり発生してしまったこともあり,アメリカ軍が指揮をとることになりました。

 当時,日本を占領していた在日アメリカ軍や,フィリピンとタイも派兵しました。アメリカ合衆国軍はまず7月1日に南部の釜山(プサン)をに上陸し,連合国軍最高司令官の〈マッカーサー〉率いる「国連軍」の派遣も7月7日に決まりました。しかし北朝鮮は8月18日に釜山を占領し,朝鮮半島のほぼ全域をおさえました。
 しかし,9月15日に「国連軍」は,ソウル(6月28日に北朝鮮が占領)に近い仁川(じんせん,インチョン)への上陸作戦を成功させ,9月28日にソウルを奪回。朝鮮民主主義人民共和国は北へ北へと追い詰められます。無抵抗な市民が犠牲となったことを主題に,立体派の画家〈ピカソ〉は「朝鮮の虐殺」(1951)を描いています。
 すると,その先にあるのは中華人民共和国です。しかし,中華人民共和国【本試験H23中華民国ではない】は正式に参戦することはなく100万人もの「義勇軍」が派遣されました。
 結局〈スターリン〉の死(1953年)をきっかけに,1953年7月に板門店(はんもんてん,パンムンジョム)で朝鮮休戦協定が結ばれました。板門店は北緯38度上にありますが,南北の軍事境界線は“ほぼほぼ”北緯38度線上です。締結時のアメリカ合衆国大統領は〈アイゼンハウアー〉【共通一次 平1:フーヴァーとのひっかけ】【本試験H4アイルランド系カトリック教徒ではない】,ソ連は〈フルシチョフ〉第一書記です。1953年10月にはアメリカ合衆国が韓国との間に米韓相互防衛条約を結び,米韓同盟を発足させています。

 この間,大韓民国の〈李承晩〉は大統領に権限を集中させる新憲法を公布し,1952年に直接選挙により大統領に就任しました。1952年には「海洋主権宣言」を発表し,一方的に設定した李承晩ラインの内側の漁業管轄権を主張し,ラインを超えた日本漁船を拿捕(だほ)する強硬策に出ました。経済的には朝鮮戦争中に激しいインフレが起き,1950年に経済を安定させるために韓国銀行(朝鮮銀行から改称)の権限を強化し1952年にはデノミネーション(通貨単位の変更)も行っています。
・1945年~1953年のアジア  東アジア 現④モンゴル
(⇒1945年~1953年の中央ユーラシアも参照)
 戦後,中華民国は,内モンゴル【本試験H11外モンゴルではない】の自治を認めました【本試験H11ダライ=ラマの亡命問題は関係ない】。
 しかし,同時にそれは,モンゴル人民共和国と内モンゴルの分裂状態を固定化することとなっていきます。

 外モンゴルのモンゴル人民共和国に対するソ連の影響力は高まり,行政・外交・安全保障などさまざまな面で規制を受ける”衛星国”となっていきます【本試験H11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた時期があった」のはモンゴルであって,チベットではない】。




○1945年~1953年の東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム,⑧カンボジア,⑨ラオス
インドシナは独立を求めてフランスと戦う
 フランス領のインドシナは,現在のカンボジア,ラオス,ヴェトナムにより構成される植民地。
 オランダ領東インドとは異なり,歴史的にカンボジアとヴェトナムの対立意識も強く,一つの地域として独立することはありませんでした(⇒800~1200のアジア 東南アジアを参照。チャム人とクメール人の抗争)。

 1945年8月16日〈ホー=チ=ミン〉【上智法(法律)他H30】はヴェトナム民主共和国の建国宣言を行い,8月19日にハノイで一斉蜂起し〈バオ=ダイ〉は権力の座から引きずりおろされました(八月革命)。こうして9月2日に,ヴェトナム民主共和国が独立しました。
 しかし,南部では共産党による支配が,フランス軍により奪われ,1946年には南部ヴェトナムはフランス軍支配下に置かれることになります(フランス領コーチシナ)。ポツダム宣言によると,ヴェトナム北部は中国,南部はイギリスが駐留することになっていましたが,南部はなし崩し的にフランス支配に戻ってしまったのです(北部には46年まで中国が駐留)。ハノイにもフランス軍が進入するにいたって,〈ホー=チ=ミン〉は全土で反フランス【追H9アメリカ合衆国ではない】戦争を呼びかけます。フランスは南部支配を既成事実にするため,1949年に阮朝最後の皇帝〈バオ=ダイ〉【追H29シハヌークではない】を元首に迎えてヴェトナム国【追H29】を樹立させ,これにコーチシナを加えました。

 フランスは,「封じ込め政策」を推進していたアメリカの軍事援助も受けますが,ヴェトナム民主共和国のゲリラ戦に苦しみ,膠着状態に陥ります。
 なお,すでに1945年にヴェトナム人がヴェトナム独立同盟会(ベトミン) 【東京H29[3]】に合流し解散していたインドシナ共産党は,1951年にヴェトナム労働党(1976~はヴェトナム共産党)として再建,同年カンボジアではクメール人民革命党(カンボジア共産党(クメール語ではカンプチアと発音))が結成。ラオスの地方委員会はのちにラオス人民革命党(1955)を建設しました。

・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現②フィリピン
 フィリピン諸島では,アメリカ合衆国が保留していた独立の約束を果たし,46年にフィリピン共和国の独立を認めました。しかし,アメリカに有利な通商法やアメリカ軍基地の設置が認められ,アメリカに依存するモノカルチャー経済も続きました。国内の政策は親米反共で,ゲリラ戦によって各地で日本と戦ったフク団が弾圧されました。フク団はフィリピン共産党の支援を受けており,アメリカの情報機関CIAの援助を受けた〈マグサイサイ〉国防長官(のちに大統領)は,フク団の弾圧後に土地改革をすすめ,農民の支持を吸収していきました。しかし,土地を持たない農民もなお多く,社会不安は残り,徐々に反米ナショナリズムも強まっていきました。例えば英語のかわりに,タガログ語をベースにしたピリピノ(フィリピノ)語が国語とされ,その話者は増加していきました。
 1950年に朝鮮戦争が起きると,フィリピンもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,派兵しました。

 前途多難となったのは,インドシナ半島です。1945年9月に〈ホー=チ=ミン〉がヴェトナム民主共和国を建設し,大統領に就任しましたが,フランスはこれをゆるさず,インドシナ戦争に発展しました(1946~54) 【本試験H5ヴェトナムの戦争相手国を問う】。
・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現④東ティモール,⑤インドネシア

 オランダ【追H9フランスではない】は,1945年8月17日に〈スカルノ〉により独立宣言が読み上げられたインドネシアを認めず,軍を出動させました。このインドネシア独立戦争【本試験H10「独立宣言後,武力で独立を阻むオランダとインドネシア共和国軍との間で,戦争が始まった】ののち,49年にインドネシア連邦共和国(1950年に単一のインドネシア共和国となります)が成立しました。初代大統領は〈スカルノ〉【上智法(法律)他H30 メガワティ,スカルノ,ユドヨノ,カルティニではない】です。

 こうして,もともとはマレー(ムラユ)人の分布していた東南アジアの島しょ部は,イギリス領だった地域はマレーシアとシンガポールに,ジャワ島【本試験H11:ジャワ島が現在のマレーシアの1州かどうか問う】やスマトラ島などオランダ領だった地域はインドネシアに分断されていくのです【本試験H6カリマンタン(ボルネオ)島全域がインドネシア領となったわけではない】。

 独立したインドネシアの〈スカルノ〉【H30共通テスト試行 どちらかというと「国民の政治的な権利を抑圧しながら、国家主導の経済開発を目指した」とはいえない。〈ナセル〉(エジプトの戦後指導者)ではない】は建国五原則(「パンチャシラ」。唯一神への信仰、インドネシア民族主義、国際主義・人道主義、全員一致の原則、社会の福利)【H30共通テスト試行 解答には不要】を基本とし、「多様性の中の統一」【H30共通テスト試行 解答には不要】を国是とし,広範囲にわたる島しょ部をまとめるために,イスラーム教徒や軍,共産党,中国系住民などの多様な主体を絶対的な権力により束ねていこうとしました【H30共通テスト試行 1950年に制定された「パンチャシラ=ガルーダ」と呼ばれる国章が題材として取り入れられる】。






・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ,⑥マレーシア,⑦シンガポール
 また,イギリス領マラヤは日本軍の撤退後に1946年にマラヤ連合(Malayan Union)が成立しました。それまでマレー半島本土の大部分はマレー連合州、ペナン・マラッカ・シンガポールは海峡植民地として別個の植民地単位であったわけですが、イギリスはこのときペナン、マラッカをマレー半島本土に合体させてマラヤ連合としたのです(注1)。
 こうしてシンガポールを単独の直轄植民地としたことには、イギリスは華僑に市民権を与えて協力関係を深めつつシンガポールを軍事・経済拠点として維持したことがありました。
 しかし,植民地体制を今後も維持するのは現実的ではありませんし、マラヤ連合の体制はマレー半島のスルタンたちの権力を弱め、華人をのさばらせるとして反発も強まります。

 なお「華人」といっても一枚岩ではなく、やがて独立の父となる〈リー=クアン=ユー〉(華人四世)のように英語のエリート教育を受けた集団や、華語教育を受けた集団。中国との結びつきを重視する集団や、シンガポールへのナショナリズムを持つ集団。シンガポールに社会主義国家を建設しようとした集団(マラヤ共産党、1948年6月にイギリス人を追放するための武装蜂起をして失敗)など、多様な集団がいました。


 さて、イギリスのマラヤ連合をつくる動きにムラユ〔マレー〕人による反発が強まると,イギリスは1948年にはペナン,マラッカを含めたイギリスの保護領マラヤ連邦(Federation of Malaya)に移行します。
 マラヤ連邦では、華僑に対する市民権は一転して認められず、ムラユ〔マレー〕人のスルタンの権力が強化されました。
 しかしマラヤ連邦にはシンガポールは含められず、依然として英国王直轄地として別に統治され続けました。1948年には立法評議会がつくられ、制限選挙で議員の一部を選ぶことになりました(注3)。
(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.60。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.61-64。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.60。


・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
 タイ王国(ラタナコーシン朝)では日本の撤退後もチャクリ朝の立憲王政が続いています。
 1950年に朝鮮戦争が起きると,タイもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,朝鮮半島に派兵しています。


・1945年~1953年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
 ビルマでは,抗日運動に活躍したパサパラという組織により指導者に立てられていたビルマ人【セA H30ヴェトナムではない】の〈アウン=サン〉(1915~47) 【セA H30】が,イギリスにより交渉相手に選ばれ,イギリスは,ビルマ独立を認めました。しかし,〈アウン=サン〉は閣議中に部下に殺害され,タキン党出身の〈ウー=ヌ〉(任1948~58)が後継となり,1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立を果たしました。

 しかし,アヘン栽培地帯である北部(ゴールデン=トライアングル)は,大陸反攻をめざす〈蒋介石〉派の勢力,ビルマのシャン州の分離独立派(シャン州独立軍),カチン州の分離独立派,ビルマとタイの共産党ゲリラ,ビルマが支援する地方勢力の軍などがひしめく,とんでもない状況となっていました。〈ウー=ヌ〉首相の下,ビルマ国軍はこの地域の少数民族への攻撃を続けるとともに,上座仏教を保護し,仏教徒を信仰しない少数民族の反発を生みました。
 このビルマ国軍は,日本により近代的な軍事訓練を受けたタキン党の元・義勇軍が基になっており,少数民族・ビルマ共産党に対する軍事行動が続いたため,強大な軍事力を持つ軍は政治に口出しするようになっていきました。
 国軍はその過程で〈ネ=ウィン〉大将(1910~2002)により,ますますビルマ人色の強いものとなっていきます。



○1945年~1953年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1945年~1953年のアジア  南アジア 現①ブータン
 ブータン王国は〈ジグミ=ワンチュク〉国王(位1926~1952)が統治しています。
 南部のインド帝国(1877~1947)がイギリスから独立したのにともない,1949年にインド=ブータン条約が締結され,インドとの関係を強化。北方から中華人民共和国が拡大するのに備える意図がありました。次代の〈ジグミ=ドルジ=ワンチュク〉(位1952~1972)は,1953年にブータン国民議会(the National Assembly of Bhutan)を設置するなど,ブータンの近代化に尽力していきます。

・1945年~1953年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑥パキスタン
 イギリスは,第二次世界大戦前はインドに対して債権国だったのですが,戦後は一点して債務国に転落していました。1946年頃から宗教の違いをめぐる内戦に発展し,混乱をきわめていたため,一刻も早い幕引きを狙ったのです。最後の総督〈マウントバッテン〉(1900~79)は,「イスラーム教徒とヒンドゥー教の住民の分布によって,インドを分割すればいいじゃないか」と提案し,パンジャーブ地方とベンガル地方はそれに基づき分割されました。
 こうして,イスラーム教徒が多数派の地域は,1947年8月15日に,パキスタンとして独立しました。パキスタンからインド方面には,ヒンドゥー教徒やシク教徒が難民として退去して移住してきました。その過程で,略奪や武力衝突が起き,インド最北部のカシミールの帰属を巡って10月には印パ戦争に発展していくことになります。

 初代大統領は全インド=ムスリム連盟【追H24】の指導者〈ジンナー〉(任1947~1948) 【追H24】【上智法(法律)他H30】。パキスタンの公用語は,英語とウルドゥー語です。独立時点ではまだイギリス連邦(ドミニオン。世界各地にイギリスの勢力圏に残すため,旧植民地を寄せ集めたグループのことです)内の自治領に過ぎませんでした。しかし,独立の1年後に〈ジンナー〉は病死しました。ちなみにパキスタンという国名は,パンジャーブのP,北部に住むアフガーン人のA,カシミールのK,シンドのS,バローチスターンのTANといわれており,まさに人口的につくられたイスラーム教徒の国といってよいでしょう。パークは「(イスラーム教徒だけの)清浄な」という意味で,スタンはペルシア語で「~が多いところ」という接尾語です。
・1945年~1953年のアジア  南アジア 現③セイロン(のちのスリランカ)
 イギリス【本試験H17フランスではない】の植民地だったセイロンは,1948年にイギリス【本試験H20ドイツではない】連邦内の自治領として独立しました。
 多数派で上座仏教を信仰するシンハラ人を優遇する政策がとられ,1949年には主にヒンドゥー教徒であるタミル人が選挙権を失っています。


・1945年~1953年のアジア  南アジア 現④モルディブ
 モルディブは世襲制の君主国が支配していましたが,1887年以来イギリスの保護国となっています。しかし,1953年に君主制が廃止され共和国となります。


・1945年~1953年のアジア  南アジア 現⑤インド
 インドは,1947年8月15日にインド帝国から,イスラーム教徒の多い【本試験H6地図(現在のイスラム教の分布地域を選ぶ)】パキスタンと分離する形で,独立しました。最後の総督は〈マウントバッテン〉で,イギリスの〈アトリー〉内閣のときの決定でした。
インド初代首相は〈ネルー〉です。インド帝国時代に残されていた560余りの藩王国は,インドとパキスタンに併合されました。イスラーム教の藩王国だったハイダラーバードは,インドが1958年に武力併合しましたが,カシミールの対応が問題となりました。藩王はヒンドゥー教徒だったのでインドが併合しようとしましたが,住民の4分の3がムスリムだったので,1947年10月から第一次インド=パキスタン戦争に発展しました。

 イスラーム教徒【本試験H12「イスラム教徒」の国として成立したかを問う】が多い地域がパキスタン【本試験H12】として新たに国境が設定されたため,パキスタンのヒンドゥー教徒はインドへ,インドのイスラーム教徒はパキスタンへ移住を開始します。この数百万の大移動の混乱のさなか,各地で衝突が起こり,難民を満載した列車(難民列車)が現れました。

 こうした中でも〈ガンディー〉は最期までイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和を説き続けます。しかし、1948年に暴力的なヒンドゥー教徒【本試験H11:「イスラム教の急進的信者」ではない】【追H24時期(プールナ=スワラージの決議、ベンガル分割令との時系列)】によって暗殺され,生涯を閉じました。「マハトマ」(偉大なる魂)と称せられ,国葬にされています。

 初代〈ネルー〉首相は,大混乱に陥った独立直後のインドをまとめるには「反英」でも「非暴力」でもなく,宗教にとらわれない「政教分離主義(セキュラリズム)」が必要だと考えました。また,1951年からは第一次五カ年計画を開始し,社会主義型の計画経済を進め,鉄鋼を中心とする重工業の発展を目指しましたが,農業や綿工業の近代化には着手が遅れ,地主制(ダミンダーリー)の廃止も州の担当とされ,進展しませんでした。1951年~52年には第一回総選挙が行われ,インド国民会議派が圧倒的多数で勝ちました。
 インドは中央政府の下に,言語を基礎にした14の州(当時)が置かれることになりました。例えば,南西部のケーララ州はマラヤーラム語,マドラス州(のちのタミル=ナードゥ州)はタミル語というようにです。
インド憲法は1949年に成立(1950年発布)されました。起草委員会の議長が,不可触賤民出身の〈アンベードカル〉であることからもわかるように,独立後のインドでは不可触賤民が「指定カースト」と呼ばれ,地位の向上(留保措置(リザーベーション))が図られました。インドを共和国であると宣言し,イギリス連邦に属しながらも,イギリス国王への忠誠義務は負わないとされました。また,下院の多数が首相を選出し,形式上の元首として大統領を置く議院内閣制がとられ,普通選挙制の導入にともないインドは巨大な有権者を抱える民主主義国家となったのです。

 ただし,貧困の問題は深刻でした。1948年以降,インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人々,ハンセン病患者,不治の病を抱えた人々(“死を待つ人々”),孤児への支援活動(1950年に「神の愛の宣教者会」を設立)をおこなったのが,旧ユーゴスラヴィア生まれのカトリック修道女〈マザー=テレサ〉(1910~97)です(1979年にノーベル平和賞を受賞)。

・1945年~1953年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネパール王国のシャハ王家は,1846年以来,宰相を担当するラナ家の傀儡となっていました。
 しかし,1947年にはネパール国民会議派,1949年にはネパール共産党が結成され,1951年に〈トリブパン〉国王が亡命先のインドから帰国し,ラナ家を排除して王政に復帰しました(ネパールの王政復古)。





●1945年~1953年のインド洋海域
インド洋海域…①インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,②モルディブ,③イギリス領インド洋地域,④フランス領南方南極地域,⑤マダガスカル,⑥レユニオン,⑦モーリシャス,⑧フランス領マヨット,⑨コモロ

◆戦後もイギリスはインド洋を取り囲む香港からアラビア半島のアデン,東アフリカのモンバサに至る広大な地域を勢力下に置き続けた
イギリス・フランスによるインド洋の覇権は続く

・1945年~1953年のインド洋海域 現①インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
 ニコバル諸島とアンダマン諸島は大戦中に日本軍が占領し,自由インド仮政府国家主席であった〈チャンドラ=ボース〉により名目的に領有されました。
 インドから囚人が送られる流刑地として機能していました。

 しかし日本が撤退すると,代わって,イギリス領インド帝国が領有します。

 その後アンダマン諸島とニコバル諸島は,1950年にともにインドの連邦直轄領となりました。



・1945年~1953年のインド洋海域 現②モルディブ
 モルディブは世襲制の君主国が支配していましたが,1887年以来イギリスの保護国となっています。しかし,1953年に君主制が廃止され共和国となります。



・1945年~1953年のインド洋海域 現③イギリス領インド洋地域
 現在の「イギリス領インド洋地域」(チャゴス諸島など)はイギリスの植民地でした。モーリシャスとあわせて支配されています。


・1945年~1953年のインド洋海域 現④フランス領南方南極地域
 現在の「フランス領南方南極地域」はフランスの植民地でした。


・1945年~1953年のインド洋海域 現⑤マダガスカル
 マダガスカルはフランス第四共和政の植民地支配下にありました。


・1945年~1953年のインド洋海域 現⑥レユニオン
 レユニオンは1946年にフランスの海外県となっています。製糖産業がさかんです。


・1945年~1953年のインド洋海域 現⑦モーリシャス
 モーリシャスは,現在の「イギリス領インド洋地域」(チャゴス諸島など)とあわせて支配されています。


・1945年~1953年のインド洋海域 現⑧フランス領マヨット
 マヨットは1946年にフランスの自治領になりました。


・1945年~1953年のインド洋海域 現⑨コモロ
 コモロはフランス領のままです。

(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。





○1945年~1953年のアジア  西アジア

西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。


◆パレスチナ問題が中東戦争に発展しイスラエルが建国。アメリカ合衆国にとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まる
イスラエルが建国され,「中東」が紛争地帯に
石油資源と海上交易路をめぐり大国の思惑が絡む
 西アジアでは,イラン(1907),イラク(1927),バハレーン(1932),サウジアラビア(1938),クウェイト(1946)に大量の石油の埋蔵が確認されていました。
 大戦後のアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー(アラムコ)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
 西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上「中東」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「原油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。

 この原油に目をつけたのが,アメリカ合衆国です。
 アメリカの介入の背景は,第二次世界大戦後のイギリスとフランスの中東における影響力の低下と軌を一にしています。

 1945年には,すでに独立を達成していたサウジアラビア,イエメン,トランスヨルダン(1946年にイギリスから「ヨルダン」【本試験H3】として独立),イラク,シリア(1946年にフランス【本試験H3イギリスの委任統治ではない】【本試験H16イギリスではない】から独立),レバノン,エジプトの諸国がアラブ連盟を設立し,共同歩調をとる準備をしています。

 それに先立つ第一次世界大戦の最中のこと。
 当時イギリスはフサイン=マクマホン書簡【本試験H3イギリスが関与したことを問う】を通しアラブ人国家建設を約束していました。
 しかし,その2年後にはバルフォア宣言【本試験H3イギリスの関与を問う,本試験H9アラブ人の独立をみとめたものではない】を通しユダヤ人国家をパレスチナに建設することを,パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとするシオニストに対しても同時に約束していたのです。

 バルフォア宣言に基づき次々にユダヤ人が植民を進める中,国際連合は「アラブ人とユダヤ人の国家に分割したらどうか」というパレスチナ分割案【本試験H15】を採択しました。ナチス=ドイツにおけるユダヤ人迫害によって,国際世論もユダヤ人側に同情を寄せていました。
 パレスチナ分割案に対し,1948年にシオニズム【東京H8[1]指定語句】(イェルサレムの“シオンの丘”の地にユダヤ人国家を建設するべきだという考え)の立場をとるユダヤ人たちがパレスチナに侵攻。同年イスラエル国の建国を宣言しました【本試験H3フランスの委任統治領から独立したのではない,本試験H6時期(第一次世界大戦後ではない)】【本試験H15第一次中東戦争のきっかけとなったことを問う,H29共通テスト試行 バルフォア宣言と関係がある】。これに対し周辺のアラブ諸国により構成されたアラブ連盟が反対を表明し【本試験H23承認していない】,パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が始まりました。
 結果はイスラエルの圧勝でアラブ側が敗北し,100万人のパレスチナ難民【本試験H4】【東京H17[1]指定語句】が発生しました【本試験H12「アラブ側が敗北し,多くの人々が難民となった」か問う】。その多くを受け入れ,現在でも国民の約半数をパレスティナ人が占めるのは,隣国のヨルダン=ハシミテ王国【本試験H4トルコ,イラン,アメリカ合衆国ではない】です。

 このような状況に対し,エジプトの〈ナセル〉(1918~70,在任1956~70) 【東京H13[1]指定語句,H27[3]】【本試験H10初めて立憲運動が起きたわけではない】 【本試験H15イスラエルとの平和条約を結んでいない】【H30共通テスト試行 スカルノとのひっかけ。インドネシアの指導者ではない】【本試験H6】【追H17時期が第一次中東戦争後か問う(正しい)】は,すでに1953年にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で王政を打倒(エジプト革命) 【本試験H6】。
 別々の国に分断されてしまったアラブ人諸国家に向けて,「アラブ人は一致してイスラエルやその支援勢力と戦うべきだ」とアラブ民族主義を呼びかけました。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 バーラクザイ朝アフガニスタン王国は1933年以来〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下にありました。
 王はスンナ派を保護し,国内のイスラーム勢力と歩調を合わせつつ,パシュトゥーン人中心の政治運営を進めていきました。そのことが,世俗的な国家を目指そうとする人々やパシュトゥーン人以外の民族の不満を高めることとなっていきます。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現②イラン
 パフレヴィー朝イランでは,第二次世界大戦中に,クルド人の居住地域とテュルク系のアゼルバイジャン人の居住地域で独立運動が起き,それぞれアゼルバイジャン国民政府とコルデスターン共和国が樹立されましたが,戦後に崩壊しています。

 戦後のイランの政治は安定せず,1940年代末からはインフレも進行していきました。
 しかし,原油の生産が急発展し。1951年に〈モサデグ〉(モサッデグ)首相(任51~52,52~53) 【本試験H4ホメイニとのひっかけ】【上智法(法律)他H30】が石油国有化法により,イギリス系企業の石油会社を国有化【本試験H4】【上智法(法律)他H30】しました。しかし〈モサデク〉は間もなく1953年に失脚。これには,アメリカ合衆国の諜報機関であるCIA(アメリカ中央情報局)やイギリス政府の関与がありました。
 〈モサデグ〉の失脚後,国に接収されていたアングロ=イラニアン石油会社は復活し,翌年1954年にはブリティッシュ=ペトロリアムが設立されています。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現③イラク
◆第一次中東戦争では,ハーシム家のヨルダン,ナセルのエジプト,因縁のサウジと協調できず
イラク王国でも,反英・アラブ民族主義の動き高まる
 イラク王国では大戦中に,イギリス側について枢軸国と戦おうとする勢力(親英派)と,枢軸国についてイギリス支配から脱却しようとする勢力(反英派,アラブ民族主義者など)が争い,1941年にはイギリスによって反英派が爆撃を受ける事態に発展していました(1941年に親英派がクーデタにより反英派によって引きずり降ろされたため)。

 イラクは枢軸国と連合国のまさに“狭間(はざま)”に立たされていたわけです。
 
 大戦後もイギリスの駐留は続く状態の中,イラク王国は1946年にアラブ連盟に参加し,1948年に建国宣言されたイスラエル国と対立。1948年には第一次中東戦争を戦い,敗れます。
 
 「同じアラブ人どうし,協力してイスラエルと戦おう!」

 こうしたアラブ民族主義の願いは,しかし,どうにもこうにも上手くいきません。

・かつてヒジャーズ王国のハーシム家〈フセイン〉を攻撃したサウジアラビア王国とは因縁の仲。
・同じハーシム家のヨルダン=ハシミテ王国とは,親戚間のしがらみもありウマが合わず。
・ムハンマド=アリー朝を倒しエジプト共和国を樹立した〈ナセル〉は,自身がアラブ民族主義の中心と考えている。

 こんな状況下で,アラブ人が一致団結するのは簡単ではありません。
 しかも,エジプトで革命が起きると,イラクでも王政に対する批判も生まれ,「イギリスから距離を置くべきだ」という声も上がるようになっていきました。


・1945年~1953年のアジア  西アジア 現④クウェート
クウェートはイギリスの保護下に石油採掘が進む
 クウェートはサバーハ家の首長〈アフマド〉(位1921~1950)の支配の下,イギリスの保護国となっていました。
 次の〈アブドゥッラー3世〉(位1950~1965)の支配期には,かつて最大の産業であった真珠漁に代わる新たな産業として,イギリスとアメリカの石油会社の出資したクウェート石油による原油採掘がすすみ,1946年には圧倒的埋蔵量を誇るブルガン油田の採掘が開始されています。

・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑤バーレーン

 この時期のバーレーンはイギリスの保護国のままです。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑥カタール

 この時期のカタールはイギリスの保護国のままです。首長の〈アリー・ビン・アブドゥッラー・アール=サーニー〉(位1949~60)は石油輸出に目を付け,これを振興させる政策をとり,空港・水道などのインフラを整備していき近代化をすすめます。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑦アラブ首長国連邦

 現在のアラブ首長国連邦は,イギリス政府の保護下にありました。石油開発はまだ本格化していません。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑧オマーン

 この時代のオマーンはイギリスの保護下に置かれていました。
 主な国家は2つあり,海岸のマスカットのオマーン=スルターン国(当時のスルターンは〈サイード=ビン=タイムール〉(位1932~70))と,内陸のニズワを首都に置くオマーン=イマーム国が対立している状況です。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑨イエメン

 北イエメンはオスマン帝国領でしたが,第一次世界大戦後に,イエメン王国として独立。隣接するサウジアラビアとの領土をめぐる戦争(1834年,サウジ=イエメン戦争)も起きていました。
 イエメン王国の王にはシーア派の一派であるザイード派のイマームが就いています。

 南イエメンはイギリスの保護領でした。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア

 サウジアラビアの国王〈アブドゥルアズィーズ〉(位1932~1953)は,豊かな石油資源を背景にアメリカ合衆国とイギリスと良好な関係を維持していました。
 大戦後の1946年以降は石油開発が再開し,影響力を強めます。

 しかし,国王は1953年に崩御すると,多数の息子たちどうしに国家のポストを与え,バランスをとろうとします。
 同年,長男〈サウード〉(位1953~1964)が即位しました。




・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン

 イギリスの委任統治領であったトランスヨルダン王国は,第二次世界大戦が終わると後の1946年に独立します。
 1949年には,王家の「ハーシム」という名にちなみ国名を「ヨルダン=ハシミテ王国」と改めました。

 1949年にイスラエルが建国され,パレスチナ戦争〔第一次中東戦争〕が起きると,ヨルダンはパレスチナのアラブ人の難民を多数受け入れるとともに,1950年にはヨルダン川の西岸地区(イェルサレムを含む)を併合しました。




・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ

 パレスチナには大戦中からヨーロッパや北アフリカのユダヤ人が移住していましたが,この時代になると先住のアラブ人との間に争いが起きるようになっていました。
 国際連合による解決は失敗し,1948年にイスラエルの建国が宣言されると,同年から周辺のアラブ人の諸国との戦争となりました(パレスチナ戦争;第一次中東戦争)。
 しかし戦争はイスラエルの勝利に終わります。




・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑭レバノン

 すでに大戦中にフランスの委任統治が終了し独立していたレバノンは,

は第二次世界大戦中の1941年6月8日に,本土がドイツ軍の占領下にあり,亡命政府となった自由フランスの統治下にあったシリア,レバノンの独立宣言とともに終了した。1941年9月27日にシリアが,同年11月26日にレバノンが独立を布告した。連合国として自由フランスを支援していたイギリスは独立布告後すぐに独立を承認し,ドイツ軍の侵攻に備えて1942年初期に軍人を両国の公使に派遣し両国を支援した。
第二次世界大戦後のレバノンは金融や観光などの分野で国際市場に進出して経済を急成長させ,ベイルートは中東のパリと評されるほど中東及び地中海有数の国際的リゾート地として,数多くのホテルが立ち並ぶなど大いにぎわっていた。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑮シリア

 1946年にフランスから独立していたシリア共和国は,当初から国内のアラウィー派のイスラーム教徒による反乱が起きるなど,政情は不安定でした。
 1948年の第一次中東戦争にもパレスチナ側に立ち参戦しましたが,1949年には軍事クーデターが勃発。その背後にはアメリカ合衆国の諜報機関(CIA)の関与があったといわれています。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑯キプロス

 キプロス島はイギリスに併合され,第二次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となっていました。


・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑰トルコ

 この時期のトルコは建国以来の伝統であった「中立」政策を転換し,アメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一翼を担います。
 〈メンデレス〉首相(任1950~60)は初の自由選挙で当選し,1952年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟しました。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア)

 グルジアは,グルジア=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっています。
 グルジアはソ連の指導者〈スターリン〉の出身地。彼の右腕であった〈ベリヤ〉(1899~1953)も同じくグルジア人です。
 第二次世界大戦中に,この地の多くの少数民族は強制的な移住の対象となり,大戦後にも影響を残します。また,グルジア人によるソ連に抵抗する運動も起きています。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑲アルメニア

 アルメニアは,アルメニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっていました。
 この時期のアルメニアは,アメリカ合衆国側の陣営についたトルコ共和国との対立を深めます。



・1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑳アゼルバイジャン

 アゼルバイジャンは,アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国としてソ連を構成する1つの国となっていました。





●1945年~1953年のアフリカ

アフリカの独立は進まなかった

 戦後の国際連合はアメリカ合衆国やソ連の主導の下,世界各地のイギリスやフランスを中心とする植民地の独立を勧告しました。従来の植民地経済でアメリカ製品を売り込みたいアメリカ合衆国と,イギリスやフランスに抵抗する住民たちに社会主義的な政権を樹立してほしいソ連の思惑(おもわく)が背景にあります。
 ただ植民地の独立は遅々として進まず,1951年にイタリア【本試験H5オランダではない】の植民地だったリビアが独立【追H27第二次世界大戦後か問う】【本試験H5】しているほかは,独立に向けた動きは本格化しませんでした。



○1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 エリトリアではイタリアからの解放後にイギリスの軍政が続いていましたが,国際連合の決議を受けて,1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,後に禍根を残すことになります。


・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 1941年までイタリアに併合され,イギリスに解放されたエチオピアでは亡命先のロンドンから帰国した〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~19)が君臨していました。皇帝はみずからの神格化をすすめて民衆による熱狂的な支持(ラスタファリ運動といいます)も得るとともに,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,戦前よりも権力を強化します。


・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア
 ソマリアは1950年には独立までの準備の間,イタリアが国際連合の信託統治をすることになりました。


・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 現⑤ケニア
 イギリス領東アフリカ(現在のケニア)では,〈ケニヤッタ〉がケニア=アフリカ人同盟(KAU)の党首に就任しました。イギリスはこの地域の中でも土壌の豊かで気候の良い高地を重点的に占領しており,白人高地(ホワイト=ハイランド)と読んでいました。ここから追い出された住民の反発は当然ながら高まり,キクユ人を中心に土地を取り返そうとする運動が過激化していきました。このマウマウ反乱(1952~57年)に対し,イギリス植民地当局は非常事態宣言を出して対抗し,〈ケニヤッタ〉を中心人物とみなして逮捕し,ケニア=アフリカ人同盟も弾圧しました。抵抗運動は次第に東アフリカの独立を求める運動に発展していくことになります。


・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 現⑥タンザニア
 大陸部はイギリスによる国際連合 信託統治領タンガニーカとして,沿岸のザンジバル島のザンジバル王国はイギリスの保護国として支配されました。イギリスは,この2か所のほかウガンダとケニアを含め,共通通貨東アフリカ=シリングを導入しました。
 第二次世界大戦後にはタンガニーカ=アフリカ人協会(1929年に設立,のちのタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU))の活動が活発化していきました。この頃,のちに初代大統領となる〈ニエレレ〉(1922~1999)はウガンダとスコットランドで学び,1952年に帰国して教師となっていました。

・1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 1946年には国際連合が,ルワンダ,ブルンディのベルギーによる信託統治を決定しました(従来は国際連盟の委任統治領でした)。

○1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ,⑩マダガスカル

・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 1951年にはポルトガルの植民地モザンビークとアンゴラが,ポルトガルの海外州となりました。ポルトガルは海外植民地を「海外州」と呼び替えることで,国際社会の批判を交わそうとしたのです。


・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ 現②スワジランド
 スワジランドではイギリスの支配が続いています。


・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソトではイギリスの支配が続いています。


・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ  現④南アフリカ連邦,⑤ナミビア
 南アフリカ連邦【セA H30】では,少数の白人による「原住民(Native)」や,有色人種(Coloured)の隔離政策(アパルトヘイト【本試験H4インド人移民のカースト制度のことではない】【セA H30】【東京H7[3]】【H30共通テスト試行「特定の居住地に強制移住させる」のは、1920年代アメリカ合衆国の移民法ではない】(Apartheid「人種隔離」)が,アフリカーナー(オランダ人入植者にルーツを持つ人々)の支持を受けた国民党によって本格的に導入されていきました。
 ナミビアは南アフリカ連邦に委任統治が任されていましたが,第二次世界大戦が終わると国際連盟がなくなったので,南アフリカ連邦は委任統治をやめ,これを併合しました。国際連合は「ナミビアは今後は国際連合の信託統治にするべきだ」と勧告しましたが,南アフリカ連邦は従わず,占領を継続させました。

・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 北ローデシア(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領に,南ローデシア(現在のジンバブエ)は,1923年に白人による住民投票でイギリスの自治植民地となっていました。
 ニヤサランド(現在のマラウイ)は,いずれもイギリスの保護領として支配されていましたが,ニヤサランド=アフリカ会議(1943結成)による独立運動も始まっていました。


・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ベチュアナランド保護領(現在のボツワナ)は,南アフリカ連邦のイギリス人によって支配されていました。


・1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ  現⑩マダガスカル
 1946年にマダガスカルで,革新民主運動党(MDRM)が結成され独立を目指し,1947~1948年にはフランス支配に反対する蜂起も起きています。




○1945年~1953年の中央アフリカ

中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン



現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された
中央アフリカは仏・ベルギー・ポルトガルが支配続ける

 ・ガボン植民地 →現・⑥ガボン共和国
 ・中央コンゴ植民地 →現・⑤コンゴ共和国
 ・ウバンギ=シャリ植民地 →現・②中央アフリカ共和国
 ・チャド植民地 →現・①チャド共和国
 これらの地域はフランス領赤道アフリカとしてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。
 第二次世界大戦後にフランス本国で第四共和政が成立すると,フランス議会への代表派遣が認められるようになり,自治・独立に向けた運動も生まれていきます。

 現在のコンゴ民主共和国は,③ベルギー領コンゴとして植民地化されています。
 現在の⑦サントメ=プリンシペはポルトガルの植民地,⑧赤道ギニアはスペインの植民地です。
 現在の⑨カメルーンは,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となり,1946年には新たに発足した国際連合の信託統治領となりました。
 ④アンゴラではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。



○1945年~1953年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ


西アフリカの独立は進まず

 この時期,現在の①ニジェール共和国,③ベナン,⑥コートジボワール,⑪セネガル共和国,⑬モーリタニア,⑭マリ共和国,⑮ブルキナファソは,フランスの植民地支配を受けていました。
 1948年にはセネガルで〈サンゴール〉(1906~2001)がセネガル民主連合(BDS)を立ち上げました。1946年には現在のマリのバマコでアフリカ民主連合(RDA)が結成され,フランスからの独立運動を主導していきました。

 ⑨ギニアでは1947年にギニア民主党(PDG,ギニア進歩党から改称)の書記長に〈セク=トゥーレ〉が就任し,独立運動を主導しました。

 ②ナイジェリア,⑫ガンビアはイギリス領でした。
 黄金海岸(現在の⑤ガーナ)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でしたが,有力者により統一ゴールド=コースト会議(UGCC)が開かれ,1949年にはアカン人の鍛冶屋の家に生まれた(注)〈エンクルマ〉(ンクルマ,1909~72) 【追H30デクラークではない】の指導する労働者の支持を受けた会議人民党(CPP)が成立し,1951年の議会選挙で勝利。〈エンクルマ〉は1952年にゴールド=コーストの初代首相に就任しました。
 イギリス領であった⑧シエラレオネでは1950年にシエラレオネ人民党(SLPP)が結成されています。

 ④トーゴは旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。

 ⑩ギニアビサウはポルトガル領でした。

 ⑦リベリア共和国では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。
 1948年には便宜地籍船(べんぎちせきせん)制度を導入。アメリカ合衆国が中心となって資本が投下されていきました。
 ほかの植民地と違い,植民地化の影響を受けていないように見えますが,内部にはアメリカ系黒人と先住の諸民族との間の対立関係があり,のちのち大きな亀裂をもたらすことになります。


(注) 「エンクルマ」の項目,西川正雄『角川世界史辞典』角川書店,2001年。


○1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 エジプトではムハンマド=アリー朝の王国が続いていましたが,自由将校団が1952年に革命を起こして〈フアード2世〉(任1952~53)は退位し,エジプト共和国が成立しました(エジプト革命)。自由将校団の首班は〈ナギーブ〉(1901~1984)で1952年に首相,1953年に大統領に就任しました。

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン(③南スーダン)
 スーダンは1956年までイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党による独立運動も始まっていました。

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉(位1927~53)が独立運動を推進し,1953年にフランスにより廃位されました。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのちの西サハラとなります。

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 アルジェリアはフランスの支配下に置かれています。

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 フサイン朝のチュニジアは1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領の扱いとなっています。

・1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビアはイギリスとフランスにより共同統治されていましたが,国連の決議により1951年にリビア連合王国【追H27第二次世界大戦後か問う】としてイタリアから独立しました。連合王国を構成するのは,東部のキレナイカ首長国西部のトリポリタニア,南部のフェッザーンの3州です。
 独立運動に尽力し,1916~1923年にイタリアの保護下で名目上のアミール(首長)を務めていたサヌーシー教団の指導者(第4代シャイフ)が,新たに〈イドリース1世〉(位1951~69)として国王に即位しています(注)。


(注)「ムハンマド=イドリース」の項目,西川正雄『角川世界史辞典』角川書店,2001年。




●1945年~1953年のヨーロッパ
○1945年~1953年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
・1945年~1953年の東ヨーロッパ  現①ロシア(ソ連)
 ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
 ただし,バルカン半島のユーゴスラビア【名古屋H30[4]指定語句】の〈チトー〉【追H21】は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
 東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これと中ソ友好同盟相互援助条約【早法H26[5]指定語句,論述(中国を巡る外交関係の展開)】を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は”向ソ一辺倒”を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
 1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。
 そんな中,〈スターリン〉は1953年に死去します。


・1945年~1953年の東ヨーロッパ  現②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
 エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
 というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
 ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
 リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。


・1945年~1953年の⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
 ベラルーシは第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
 ウクライナのウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,”大ロシア”(ロシア)に対する”小ロシア”(ウクライナ)の地位にとどまりました。
 モルドバは,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。



○1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

・1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 現①ルーマニア
 第二次世界大戦で枢軸国側についたルーマニアでは,大戦末期に革命が起きて連合国側につきますが,大戦後にベッサラビア地方とブコヴィナ地方をソ連に奪われました。国王〈カロル2世〉は支持を失い,1947年には人民政府が樹立されて王政が廃止され,ルーマニア人民共和国が建てられました。

・1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 現②ブルガリア
 第二次世界大戦で枢軸国側についていたブルガリアは,1944年にソ連による軍事侵攻を受けます。同年にクーデタが起き,ソ連側に立ちドイツと戦うことになります。大戦後は祖国統一政府が樹立され,国民投票で王政が廃止。ブルガリア人民共和国が建国され,ブルガリア共産党による一党独裁制となり,〈ディミトロフ〉が首相に就任されました。

・1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 現④ギリシャ
・1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 現⑤アルバニア
・1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 現③マケドニア・⑥コソヴォ・⑦モンテネグロ・⑧セルビア・⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・⑩クロアチア・⑪スロヴェニア
 〈チトー〉は1937年代末にユーゴ共産党の書記長に任命され,1941年からはパルチザン戦争の最高司令官として活躍しました(注1)。 当初はソ連型の社会主義国を建設しようとしますが,パルチザンとしてドイツと戦う過程ですでににさまざまな社会改革がおこなわれていたユーゴスラヴィアでは,共和国間の国境紛争や民族問題をたくみに調整しながら,次第に「自主管理」を基本とする独自の社会主義をつくっていくことになります。
 まず1945年3月に〈チトー〉【追H21】首班の国民統一戦線ができましたが,事実上は共産党が実権を握る人民戦線であり,1945年11月の選挙で共産党の一党支配が確定しました。基幹産業の国有化が推進され土地改革もおこなわれました。
 1946年にユーゴ連邦人民共和国憲法が制定され,新たなユーゴの国のかたちが決まります。6つの共和国と,ハンガリー人の分布するヴォイヴォディナ自治州,アルバニア人の分布するコソヴォ=メトヒヤ自治区(この自治州・自治区はセルビア共和国に含まれます)により構成されるソ連をモデルにした連邦制をとり,連邦中央が強大な権限を持っていましたが,民族の自治は認められます。ヴォイヴォディナとコソヴォが設定されたのには,連邦内の最大の共和国であるセルビアの力を押さえようというユーゴ共産党指導部の思惑があったといいます(注2)。
 ユーゴスラヴィアは当初はソ連や東ヨーロッパの国々と友好関係を築いていましたが,〈チトー〉は〈スターリン〉によるスラヴ人をまとめて支配下に置こうとする方針に反発し(〈スターリン〉にはユーゴとブルガリアをあわせて南スラヴ連邦を形成しようとする目論見がありました),1948年6月のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の第二回会議でユーゴに対する批判が繰り広げられた結果,ユーゴスラヴィアはコミンフォルムから除名されました【名古屋H30[4]指定語句「ユーゴスラヴィア」】。
 除名されたユーゴスラヴィアはソ連・東ヨーロッパから切り離された結果,ソ連型の社会主義国づくりからの方向転換を図り,「中央からの司令によって各企業が生産する」のではなくて,「各企業が労働者評議会を設立し,自分たちで生産目標を立て自分たちで管理をする」方式をとりました。これを自主管理とといいます(1950年に自主管理法が制定されています)。1953年1月には新たに分権的な憲法が制定され,中央集権的なソ連との違いは一段と鮮明になりました。
 外交的にはソ連側にもアメリカ合衆国側にもつかない「非同盟政策」が目指され「積極的平和共存」を掲げ,冷戦真っ只中のヨーロッパにあって異彩を放ちます。
(注1)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.104。
(注2)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.107。






○1929年~1945年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)


・1929~1945年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑥スイス
スイスも第二次大戦の戦火を免れなかった
 「永世中立国」スイスでは、さまざまな国際諜報や外交・通商を行っていました(1920年に国民投票で国際連盟に加入しています)。
 第二次世界大戦が始まるとドイツの侵攻に備えスイスでは武装中立・非常体制がとられ、〈アンリ・ギザン〉(1874~1960)将軍の下、多くの民兵が動員されました。
 連合国は、スイスがドイツ側に与することを阻止するため、チューリヒやバーゼルを空爆しました。
 中立を掲げていたものの、多くのユダヤ人を難民として受け入れています。
 一方で、スイス銀行はナチスによるマネー=ロンダリングが行われていたこともわかっています。 





○1953年~1979のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

・1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 第二次世界大戦で重要な役割を演じたマルタでは,住民による自治・独立要求が高まっていました。


・1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
 1945年7月26日の総選挙で「福祉国家政策」を掲げた労働党が勝利し,〈アトリー〉内閣【追H30】が発足しました。
 〈アトリー〉内閣は,労災法(1946)・国民保険法(1946)・国民保険基金の設立(1946)・国民扶助法(1947)・国民年金法(1948)を相次いで成立させ,国民保険サーヴィス法(1946)では医療費の無料化も実現します【追H30「社会福祉制度の充実が進められた」か問う】。
 また,イングランド銀行を国有化し,石炭・鉄道・運河・運輸・電気などの基幹産業・インフラに関わる民間企業を相次いで国有化していきました。

 イギリスには戦地から若者が戻り,空前のベビーブームを迎え,ニュータウンが建設されていきました。1947年に金融危機が起きると,1948年にアメリカ合衆国によるマーシャル=プランを受け入れます。

 もはやイギリスには世界各地に広がる植民地帝国を維持する余裕は残されていません。
 1947年にはインド帝国をインド・パキスタンに分離させて独立する形で手放し【追H27東インド会社から独立したわけではない】,同年にはパレスチナの取り扱いを国際連合に委託。ギリシア,トルコに対する支援も停止しました。イギリス帝国の“店じまい”に代わって国際政治をとりまとめようとした資本主義国がアメリカ合衆国でした。


 1950年に労働党が僅差で勝利しましたが,朝鮮戦争への派兵で財政が逼迫すると批判が集まり,1951年の総選挙で〈チャーチル〉の保守党政権への揺り戻しが起きます。
 なお,1952年12月にはロンドンで石炭由来の大気汚染物質の影響で深刻なスモッグが発生し,1万人以上が亡くなっています。これを受け,大気汚染対策の重要性がようやく認識されるようになっていきます。


・1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
 1948年3月に西欧同盟(WEU)を結成(ブリュッセル条約【本試験H10時期(1950年代か問う),コメコンが結成されたわけではない】【本試験H17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】)。英・仏に,ベネルクス三国(ベルギー,オランダ,ルクセンブルク)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。
 ベルギーは二度の大戦でドイツの侵攻を受けた苦い経験から,1949年に永世中立国政策を放棄します。


○1945年~1953年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現①ポルトガル,②スペイン
・1945年~1953年のヨーロッパ  イベリア半島 現①ポルトガル
 ポルトガルでは〈サラザール〉(位1932~1968)による独裁体制が続いていました。ポルトガルは第二次世界大戦後は北大西洋条約機構(NATO,1949)に加盟し,反共産主義グループとして生き残りを図りました。

○1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
・1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドは,連合国側に立ったソ連と「冬戦争」「継続戦争」(⇒1929~45の北ヨーロッパ)を戦ったため枢軸国に位置づけられ敗戦国となり,領土も失いました。戦後のフィンランドはソ連寄りの外交路線をとり,アメリカ合衆国によるソ連「封じ込め政策」の一環であるマーシャル=プランも参加を辞退しています。ソ連とは友好協力相互援助条約を締結し,同盟関係を結びました。

・1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 ドイツの占領を受けたデンマークでは,戦後復興が進められ,アメリカ合衆国のマーシャル=プランの参加を受け入れています。

・1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 アイスランドは1940年にイギリスによる占領を受け,1941年からはアメリカ軍が駐留しました。1944年に国民投票でデンマークから独立し,アイスランド共和国が成立。独立後も基地貸与を望んだアメリカを拒否しましたがキェプラヴィーク空港の使用は許可され,冷戦が激しくなるとともにアメリカ軍の駐留は継続されました(1951年からはアメリカ軍がアイスランド防衛隊として駐留(2006年まで))。アメリカのマーシャル=プランを受け入れ,1949年にはNATOに加盟し,その安全保障の下に入りました。アイスランドは北極海を挟みアメリカとソ連の間に位置するため,戦略的に重要視されたのです。

・1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 ドイツの占領を受けたノルウェーでは,戦後復興が進められました。ともにアメリカのマーシャル=プランの参加を受け入れています。ノルウェーでは労働党が議席を増やしています。

・1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 スウェーデンは第二次世界大戦では名目上「中立」【本試験H4中立を維持したか問う。オーストラリア,中国,ポーランドは中立ではない】を保ち直接の戦場にはならなかったので,戦後の復興も早く,いち早く福祉国家の国づくりを進めることができました。アメリカのマーシャル=プランの参加を受け入れています。





●1945年~1953年の南極大陸
 南極大陸を巡っては,各国が領有権を主張する状況にあります。
 オーストラリアの主張する領土がもっとも広く,ほかに,南極探検をおこなっていたイギリス,,ニュージーランド,フランス,ノルウェーのほか,チリやアルゼンチンが主張します。なお,日本が領有を主張していた領土は,敗戦にともない放棄させられています。

(参考)領有権を主張した国々
 1908年,イギリス 西経20度から西経80度
 1923年,ニュージーランド 西経150度から東経160度
 1924年,フランス 東経142度2分から東経136度11分→フランス領南方南極地域として
 1933年,オーストラリア 東経160度から142度2分,東経136度11分から東経44度38分
 1939年,ノルウェー 東経44度38分から西経20度
 1940年,チリ 西経53度から西経90度
 1942年,アルゼンチン 西経25度から西経74度


●1953年~1979年の世界
世界の一体化⑤:帝国の再編Ⅰ
英仏中心の帝国主義体制が崩壊し,核保有国のアメリカ・ソ連が「冷戦」を通して新たな国際秩序の主導権を争った。アジア,アフリカ諸国の多くが脱植民地化を実現するが,欧米主体の世界経済構造からの脱却が課題となる。

この時代のポイント
(1) 「冷戦」構造が再編され,多極化が進む
1953年の〈スターリン〉の死と,それに続く「スターリン批判」により,社会主義圏に組み込まれていた東ヨーロッパではソ連に対する自由化を求める動きが起こり,中華人民共和国との中ソ対立【早法H26[5]指定語句「中ソ論争」】に発展しました。社会主義諸国が分裂する中,ヴェトナム戦争の失敗にともないアメリカ合衆国が中華人民共和国と国交を回復し,国際関係はますます複雑化しました。
 また,第二次世界大戦で戦場となったヨーロッパのフランス,西ドイツの経済成長とヨーロッパ統合の推進,日本の高度経済成長の達成など多極化が進みます。
 1973年の石油危機とヴェトナム戦争の失敗以降,アメリカ合衆国の経済的な覇権は揺らぎます。そして,ブレトン=ウッズ会議(1944)により決定され導入された,アメリカ合衆国の発行するドルを国際的な基軸通貨とする固定相場制【本試験H10下線部】は,変動相場制に移行していったので。


(2) 独立した発展途上国では,輸入代替工業化と「緑の革命」が推進される

第三勢力(「ソ連側にもアメリカ側にも付かないよ」という勢力)が形成されるが,大国が介入する
 また,アジア,アフリカを中心に脱植民地化が進み,アメリカやソ連の影響を拒む「第三勢力」(第三世界)の形成を目指す運動も起こりました。
 しかし,独立勢力や新政権・反政府勢力をアメリカ,ソ連,中華人民共和国などの大国が支援することも多く,経済的利権をめぐる大国や周辺国による代理戦争に発展する例も多くみられました。

輸入代替工業化を強引に進めるため,「開発独裁」が広がる
 アメリカ合衆国を中心とする資本主義経済圏に取り込まれた地域では,しばしば民主化を抑え込む中央集権的な政府の下で,「輸入代替工業化」(国外から製品を輸入する代わりに自前で生産すること)による経済成長が目指されました。これを開発独裁といいます。先に産業革命(工業化)を達成した国々は西欧・アメリカ合衆国・日本といった温帯地域(北)に多く,遅れをとった国々が熱帯地域(南)に多いことから,地球レベルの経済的格差から生じるさまざまな問題が「南北問題」【本試験H9米ソの政治・経済体制の違いのことではない】と呼ばれることになります。これは1959年のイギリスのロイズ銀行会長が講演においてこれからは南の世界への開発援助が重要だと提言したことが始まりといわれます。
 南北問題が意識される中,アメリカ合衆国の経済学者〈ロストウ〉(1916~2003)は『経済成長の諸段階』(1960)を著し,「貧しい国が成長するためには,伝統的社会→離陸(テイクオフ)のための先行条件→離陸→成熟への前進→高度大衆消費社会」(経済発展段階説)の道のりをたどるのだと論じ,アメリカ合衆国による世界各国への援助政策にも大きな影響を与えました。1961年には「国連開発の10年」宣言が出され,1964年に国連貿易開発会議(UNCTAD,アンクタッド)が開催されて同年の総会決議により常設機関となりました。鉱産資源や農産物といった一次産品の生産国は,それらを「買ってくれる」先進国に対して,「買ってもらう」側の下の位置になりがちです。しかし,「買ってくれる」先進国の需要に合わせて商品価格が決まるということは,一次産品に依存する国々にとっては一国の経済に影響を与える大問題です。そこで,発展途上国の生産国が中心となって,一次産品の価格をとりきめるためのグループ(資源カルテル)が次々に結成されていきました。石油に関するOPECが有名ですが,バナナのUPEB,天然ゴムのANRPC,南洋材のSEALPA,銅のCIPECなどがあります。
 一方で,ソ連の側もアメリカ合衆国に負けじと援助をちらつかせ,独立後の国々に社会主義的な国家運営をするように迫ります。

 ただ,東アジア・東南アジア地域では,第二次世界大戦前から地域内の市場が形成されていた点も見逃せません。
 第二次大戦後には,敗戦国の日本がアメリカの自由貿易体制に参入したことから,日本を中心とする自由貿易圏が形成されていくことになります。
 高度経済成長を遂げた日本から資本がアジアの地域にも投下されることで,日本に続いて経済成長を達成するアジア諸国・諸地域(アジアNIEs【東京H28[1]指定語句】【セA H30】)も現れるようになっていきます。
 一方,事実上たった一つの政党が政府と人事権を握るシステムを形成してきたソ連や中華人民共和国では,理想化された社会主義政策が失敗し,1970年代末に中華人民共和国では市場主義の部分的な導入に踏み切ることになります。

「緑の革命」が推進され農業生産性が高まるが,負の側面ももたらす
 アジアの発展途上国の中には,工業化の進展のためには農業生産性を高めることが不可欠との立場から「緑の革命」(green revolution)という品種改良や技術革新を導入する国も現れます。
 ①品種改良(注) 
 ②化学肥料の使用 
 ③化学農薬
 これらを通して近代的な農業が目指されましたが,一方で伝統的な共同体が崩れ貧富の差が広まったり,生態系に合わせた持続可能な農業ができなくなったり,または,過剰な開発や大量の取水によって土地が荒れて砂漠化したりするケースも出てきます。
 化学肥料についても,先進国の企業が生産するわけですので,工業製品=肥料製造をする先進国と,それを買わざるをえない発展途上国の上下関係は固定化されてしまいます。
(注)1960年代後半に,フィリピンの国際イネ研究所(IRRI)が 「IR8」 という多収穫品種を開発します。単位面積当りの収量を飛躍的に向上させ,「奇跡の米」とうたわれました。


(3) アメリカ文化が世界中に広がり科学技術が高度化,環境問題が認識され始める
 この時期は,アメリカ合衆国の文化(アメリカ文化)が,特に西側諸国を中心に世界中に広がった時代でもあります。マクドナルド(1940年創業),コカ=コーラ(1892年設立)に象徴される大量生産・大量消費社会は,とどまることなく発展を続けました。1863年に生産が可能になったアルミニウムは,缶ジュースの缶として大量生産されるようになりました。アルミニウムは,現代建築の家屋・アパートの窓枠や,自動車・航空機にも使用されるようになり,20世紀は「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」に続く“アルミニウム時代”ともいえるかもしれません(“プラスチック(石油)時代”といっても良いかもしれませんが)。音楽の世界では〈エルヴィス=プレスリー〉(1935~77)やビートルズらによるロックというジャンルが生まれ,ビートルズの元メンバーだった〈ジョン=レノン〉(1940~80)や〈ボブ=ディラン〉(1941~)のように,反戦運動など政治を風刺する音楽を制作する者も現れました。また,工業製品のデザイン技術が発達し,大量生産的で無味乾燥なデザインを風刺した〈アンディー=ウォーホル〉(1928~87)のポップアート(トマト缶のパッケージや女優〈マリリン=モンロー〉を素材としました)や,芸術本来の原始的な力強さを復活させようとした〈岡本太郎〉(1911~96)の芸術作品が注目されました。

 1945年~1953年に開発が進んでいたコンピュータ(電子計算機)を,離れた場所どうしで交信させる技術が開発されていくのもこの時期です。1960年代末にはARPANET(アーパネット)というコンピュータ間のパケット通信がアメリカで実用化されましたが,複数のネットワークどうしの通信(インターネット【追H27時期が1920年代のアメリカの大衆文化か問う(誤り)】)は,まだ開発の途上にありました。
 また,1953年のアメリカ合衆国の〈ワトソン〉(1928~)とイギリスの〈クリック〉(1916~2004)がDNAのらせん構造を明らかにして以来,生物学の研究が急激に進んでいきます。

 一方で,この時期には公害問題や地球レベルの環境問題が,人間の経済活動によって引き起こされることがようやく認識されるようになっていきます。
 例えば,石炭や石油が無限に存在するものではなく,やがて枯渇するおそれがあるという説も提唱されるようになり,1972年にはローマクラブ(1970年発足)というシンクタンク(研究機関)が『成長の限界』を発表し,資源が有限であることを世界に警告しています。
 また,19世紀末以降,農業生産を爆発的に高めた化学肥料や農薬についても生態系(エコシステム)に対する悪影響が指摘されるようになります。特に,農薬として使用されていたDDTの危険性(注)を指摘したアメリカの生物学者〈レイチェル=カーソン〉(1907~1964)の『沈黙の春』(1962)は大きな影響を与えました。
 また,国際社会は国際連合(本部はアメリカ合衆国のニューヨークにあります)を中心として,さまざまな人権を保障するための活動を続けています。すべての人類が平等に持っているべき基本的な人権が守られなかったから,2度の大戦が起きてしまったのだという反省に基づくものです。
 1975年には国際連合の提唱によりメキシコで第一回国際女性会議【立教文H28記】が開催され,1979年には女性差別撤廃条約【東京H30[1]指定語句】が成立し,女性の人権を向上させようとする運動が盛んになっていきます。




●1953年~1979年のアメリカ
○1953年~1979年のアメリカ  北アメリカ
・1953年~1979年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
〈アイゼンハワー〉はソ連に“巻き返せず”
 1953年1月に共和党の〈アイゼンハワー〉(1890~1969,在任1953~61)が,大統領に就任しました。ノルマンディ上陸作戦を指揮した人物です。そして,3月5日に〈スターリン〉が死去します。〈アイゼンハワー〉は「ドミノ理論」(ある国で社会主義革命が起きると“ドミノ倒し”のように周辺国につぎつぎに波及していくという理論)の信奉者であり,「巻き返し」(Rollback)政策をかかげて,同盟国を経済的・軍事的に支援しました。57年にはアイゼンハワー=ドクトリンを出し,核兵器の力を頼りにソ連の影響力が中東に及ぶことを阻止しようとしました【本試験H26協調外交を推進していない,ドイツ人ではない】。
 しかし,1959年1月にはカリブ海のキューバで〈カストロ〉らによる革命が起き親米政権が倒され,3月にはソ連のルナ2号が月面に着陸。アメリカ合衆国政府は危機感を強め,〈フルシチョフ〉は訪米してキャンプ=デーヴィッドで〈アイゼンハワー〉と会談しました(キャンプ=デーヴィッド会談)。また,この間,ヨーロッパにおける経済統合もすすみ,イギリスも1960年に北欧諸国とともにEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合) 【本試験H31 ECSCを基にしていない】を形成します。1960年2月にはフランスの〈ド=ゴール〉政権の下で核実験に成功。1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」(1人当りの実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたということ)とうたったように,日本の経済成長もすすんでいます。
 アフリカ諸国でも1960年に独立ラッシュ(アフリカの年)を迎え,1960年9月にはOPEC(石油輸出国機構)が成立するなど,第三諸国の影響力も上昇していました。“雪どけ”には,〈スターリン〉の死だけはなく,アメリカ合衆国の“劣勢”も影響していたのです。


◆国際経済が多極化する中,〈ケネディ〉は開発援助により資本主義圏をまとめようとしたが暗殺
多極化する世界,破局手前のキューバ危機
 15年前の第二次世界大戦終了時には思いもよらなかった構図となっていた国際社会。
 そんな中,テレビ中継による大統領候補同士の公開討論で,“頼もしさ”や“新しさ”をアピールしたことで支持率を上げたのは,民主党から出馬した若手の〈ケネディ〉(1917~63,在任1961~63) 【追H19】。若手と言っても,アイルランド移民としてアメリカに渡り財を成した〈ケネディ〉家は名門中の名門です。
 彼は「ニューフロンティア」政策【追H17ニューディール政策ではない】を旗印に,史上最年少,そして史上初めてのアイルランド系【本試験H4】カトリック教徒【本試験H4】として大統領に就任しました【本試験H7ヴェトナム反戦運動の支持を受けて当選したわけではない】。

 〈ケネディ〉政権は,発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと考え,「進歩のための同盟」(アライアンス=フォー=プログレス)を掲げました。
 例えば,1961年にはOECD(オーイーシーディー、経済協力開発機構)が立ち上げられ,先進国による発展途上国の援助により,独立した旧植民地がソ連側のいうことをきかないよう,つなぎとめようとしました。
 これはかつてのマーシャル=プラン受け入れ機関であるOEEC(ヨーロッパ経済協力開発機構)にアメリカ合衆国とカナダが加わったもの。本部はパリに置かれ,“先進国クラブ”ともいわれます。

 しかし,62年にはソ連のミサイル基地が,合衆国と目と鼻の先にあるキューバに設置されていることが判明します。ソ連に対して撤去を要求しましたが,核戦争一歩手前の緊迫した状況となりました。しかし,ソ連はミサイルを譲歩したため,事なきをえました。これをキューバ危機【本試験H31時期を問う(チェルノブイリ原発事故・日中平和友好条約との前後関係)】【H30共通テスト試行 (「キューバ危機」という語句は使われず)「ソ連のミサイル基地が建設され、アメリカ合衆国との間で緊張が高まった」のはインドネシアではない】【追H17】といいます。
 冷や汗をかいた両国は,首脳間にホットライン(直通電話)を引きました。さらに,1963年にはアメリカ,ソ連,イギリスの間に部分的核実験禁止条約が結ばれました。



黒人やインディアンの運動が盛り上がる
 〈ケネディ〉は国内における人権問題にも,積極的に解決しようとしました。バスや公共施設の利用,学校入学や就職,参政権などにおいて,南部で強く残されていた黒人を差別する制度や法律を廃止するための運動(公民権運動(市民権運動)) 【追H28】【H29共通テスト試行】【早政H30】が,〈マーティン=ルーサー=キング〉(キング牧師,1929~68) 【追H28公民権運動を主導したか問う】【本試験H9「非暴力による人種差別撤廃の運動」を行ったか問う】【H29共通テスト試行】【セA H30】【慶商A H30記】を中心にすすめられました。インドの〈ガンディー〉の非暴力主義の影響を受け,1963年8月には首都ワシントンDC【セA H30】でワシントン大行進というデモをおこない,白人のハリウッド俳優〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)を含む20万人以上の先頭に立ち,《I have a dream》(わたしには夢がある【セA H30】)で知られる演説を行いました。1964年にはノーベル平和賞を受賞しています(なお,マーティン=ルーサーとは〈マルティン=ルター〉(1483~1546)のことですが,彼自身はルター派ではなく南部バプテスト連盟です)。

 また,黒人たちの運動(ブラック=パワー運動)に刺激され,インディアンの権利回復運動(レッド=パワー運動)も盛り上がり,1961年には全米インディアン若者会議が結成され,「インディアン人権宣言」が起草されています。のち1968年には全米最大の組織となったアメリカ=インディアン運動(AIM)が結成され,運動は過激化していきました。

 〈ケネディ〉は1963年に暗殺されました。容疑者とされた人物〈オズワルド〉が逮捕直後に暗殺されるなど不可解な点も多く,様々な憶測を生みました(映画「JFK」(1991米))。1964年に,副大統領から昇格した〈ジョンソン〉(1908~73,在任1963~69) 【本試験H10時期(1930年代ではない)】 のもとで公民権法が制定されました。〈ジョンソン〉は「偉大な社会」(グレート=ソサイエティ) 【上智法(法律)他H30革新主義とのひっかけ】をスローガンにし,国内の経済格差をなくそうとして社会福祉を充実させました。このことが後に,莫大な財政赤字へとつながっていくのでした。

 なお,〈キング牧師〉は68年にテネシー州のダラスで暗殺されてしまいました(ケネディ大統領の暗殺【追H19時期】)。白人のキリスト教徒との協力関係を築いた〈キング牧師〉とは一線を画した方針で黒人差別反対運動を行った人物に,ブラック=ムスリム(黒人イスラーム教徒)の指導者〈マルコムX〉(1925~65) がいます。
 彼はアフロ=アメリカン統一組織(ネーション=オブ=イスラーム)を設立しましたが,反対派に射殺されました(映画「マルコムX」(1992米))(注)。
 なお,1968年のメキシコシティ=オリンピックでは,メダルを受けたアフリカ系アメリカ人選手らが,表彰状で黒い手袋で拳をあげるポーズをとり,差別に抗議しています(ブラックパワー=サリュート)【H29共通テスト試行 題材】。

(注) 大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52。



ヴェトナム戦争は“泥沼”化していく
 アメリカの赤字が積み上がっていったもう一つの理由は,インドシナ半島【本試験H17バルカン半島ではない】におけるヴェトナム戦争の開始です【東京H7[3]】【本試験H23時期】。その口火を切ったのは,〈ケネディ〉大統領(任1961~63)です。
 彼は南ヴェトナムに“軍事顧問団”を送り込みましたが,実はこれはアメリカ陸軍特殊部隊群というゲリラ戦を得意とする組織に属する人たちでした。実戦が始まったのは〈ジョンソン〉大統領(任1963~69) 【本試験H14ケネディではない】のときです。アメリカ合衆国【追H27フランスではない】政府は、トンキン湾事件を口実に65年から北ヴェトナムを空爆しました(北爆【本試験H10時期(1950年代か問う),本試験H12「アメリカによる空爆を免れた」わけではない】【本試験H14時期】【追H17ケネディ大統領のときではない】)。
 当時の南ヴェトナムでは,アメリカ合衆国の支援する〈ゴー=ディン=ジエム〉政権(任1955~63)が独裁体制をしき資本主義体制を守っていましたが,共産党の指導で1960年に組織されたベトコン(南ヴェトナム解放民族戦線,NLF) 【追H27タイと連携していない、H28】 【慶文H30記】が,北ヴェトナム〔ヴェトナム民主共和国【追H27】〕の支援を受けて反政府のために抵抗運動・一斉蜂起を開始。
 ベトコンと北ヴェトナムは68年1月のテト攻勢により勢力を強め,北ヴェトナムを甘く見ていたアメリカ軍を圧倒し,ヴェトナム戦争は泥沼化していきました。1968年3月にはアメリカ陸軍の歩兵師団が南ヴェトナムのソンミ村で無抵抗の農民504人を虐殺しました(ソンミ村虐殺事件)。現場の悲惨な写真が戦場ジャーナリストにより公表され,反戦の機運に影響を与えました。

 財政悪化に苦しむアメリカでは,68年に共和党の〈ニクソン〉(1913~94,在任1969~74) 【本試験H4アイルランド系カトリック教徒ではない】【本試験H18】が大統領に就任しました(映画「ニクソン」(米1995))。国内では,若者世代を中心としたヴェトナム反戦運動【本試験H7ケネディは反戦運動の支持を受けたのではない】が盛り上がり,その動きは1969年のウッドストック=ロックフェスティバルという野外フェスで最高潮に達しました。〈ニクソン〉大統領はヴェトナム戦争の長期化にともなう財政赤字を背景に,1970年に「同盟国に対する防衛費を減らし,防衛費は同盟国によって負担してもらう」というニクソン=ドクトリン【早法H26[5]指定語句】を発表します。



人類が月面に到達する
 前後しますが,戦後推進されていたアメリカ合衆国による宇宙開発計画は,1966年にソ連がルナ9号を月面着陸させたことに対する危機感もあり,1969年7月にソ連に先駆けた人類初の月面着陸に実を結びました【本試験H14ソ連が初めてではない】。

 なお、1968年にはアポロ8号が宇宙から初めて「地球の出(で)」を撮影した写真が公開され、人々に衝撃を与えました

 そしてアポロ11号【追H28ソ連ではない】の搭載した月面着陸船イーグルによって,〈アームストロング〉船長(1930~2012)と〈オルドリン〉大佐(1930~)が月面に着陸【追H28】。宇宙服を着用して歩行することに成功しました。



アメリカ合衆国は北京政府の国連代表権を承認へ
 そんな〈ニクソン〉大統領の補佐官〈キッシンジャー〉(1923~)は,ニクソンにこのようなアドバイスをしました。
 ヴェトナムから撤退するなら,同じ社会主義国である中華人民共和国と関係を改善させておいたほうがいい。国連の代表権を与えれば,中華人民共和国は納得してくれるだろう。さらに,ソ連とも交渉して核兵器を減らしていく。ソ連も財政的に厳しいのはわれわれと同じだ。こうして中国とソ連との関係を改善させておけば,北ヴェトナムへの支援が弱まる。北ヴェトナムをさらに追い詰めるために,ホーチミン=ルートと呼ばれるラオスやカンボジア方面の補給路を攻撃しておいたほうがいい。そして,すべての後始末は南ヴェトナムに任せよう。

 まず,1971年1月の世界選手権大会(名古屋)に中国は参加。さらに2月に中国はアメリカ合衆国の卓球チームを北京に招待(ピンポン外交)。続く,同年10月に中華人民共和国は国連代表権を獲得【本試験H24時期】します。この措置は中華人民共和国と友好であったアルバニアの提案なので,「アルバニア決議」ともいわれます。1972年2月に〈ニクソン〉は中華人民共和国をアメリカ合衆国大統領として初めて訪問(ニクソンの訪中(ニクソン=ショック)【本試験H26時期・本試験H27時期】)。メディアは,コートを着込んで北京郊外の万里の長城を歩く大統領夫妻を映し出します。

 一方,1972年に米ソ【追H29】は第一次戦略兵器制限交渉(SALTⅠ,ソルト=ワン) 【追H29「戦略兵器削減交渉」(SALT)の時期は「両大戦間期」ではない】【本試験H4「米ソ間」の「戦略兵器制限交渉(SALT)」が東西間の緊張緩和とともに始められたか問う】に調印し,同年に発効させています。

 国際政治が一気に動く中,1973年にパリ〔ヴェトナム〕和平協定【追H20】で北ヴェトナムと南ヴェトナムの停戦と,アメリカの撤退【追H20】【セA H30ソ連ではない】が決められました。「アメリカはヴェトナムから手を引く。今後はヴェトナム人で解決してくれ」ということです。〈キッシンジャー〉は1973年にベトナム戦争の和平交渉が評価されてノーベル平和賞を受賞していますが…。
 1975年に北ヴェトナム【追H28】とベトコン【追H28】が南ヴェトナムの首都サイゴン【追H28「陥落」させたことを問う】を占領,1976年に南北が統一されてヴェトナム社会主義共和国【セA H30「ソ連」の撤退後の成立ではない】が成立【追H17ヴェトナム戦争の結果成立したか問う(正しい)、H19時期】。最終的にヴェトナムは社会主義国化したのです。

 アメリカ合衆国の〈ニクソン〉大統領は,経済的にも大きな方針転換を迫られます。1971年に,金とドルの交換停止【本試験H10】を発表(ドル=ショック) 【追H27時期を問う(1970年代か)】【本試験H10ヴェトナム戦争を一つの契機とするか問う】 【本試験H18】したのです。国際的な為替はのちに,変動相場制に移行することになり,金と交換可能なドルを基軸通貨とする国際経済体制は崩壊しました【本試験H14時期(ニクソン政権下)】。
 そんな中,1972年の大統領選挙で,共和党陣営が民主党本部のあったウォーターゲート=ビルを盗聴していた疑惑への関与が高まり,〈ニクソン〉大統領【追H24】は1974年8月に任期半ばで辞任【追H24】する前代未聞の事態に。これをウォーターゲート事件【追H24】といいます。

 後を継いだのは副大統領の〈フォード〉です。

 なお,1973年の第一回石油危機に対しては,1974年に〈キッシンジャー〉国務長官の提案で,IEA(国際エネルギー機関)をOECD(経済協力開発機構)の附属機関として設置しています。




・1953年~1979年のアメリカ  北アメリカ 現①カナダ
 カナダでは、1969年に公用語法が制定され、英語とフランス語を公用語とする二言語政策を採用することになりました【H30共通テスト試行 題材となる(ヨーロッパ人による入植以降の北アメリカ大陸の歴史を反映したものであり、近年では外国からの移民の増加に伴って、英語・フランス語以外の言語を第一言語とする人々が増加の傾向にあることが、2011年国勢調査で申告された第一言語(母語)の比率統計とともに紹介された)】。




○1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ

 ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていました。
 しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みもうまくはいきませんでした。依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレや貧困層の増加が問題となっていきました。
 キューバ革命に刺激されたグループが各地で活動を開始し,カトリック教会からも貧困撲滅に向けた「解放の神学」(植民地などで差別を受けている民族の解放の考え方として,キリスト教の福音を読み直そうとする思想。1960年代以降台頭していきました)を提唱する者も現れます。

 ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていましたが,ペルーとエクアドルでも1960~1970年代に軍事政権により同様の政策がとられるようになります。

 1950年代末以降,ペルーの沿岸都市とアマゾン流域を舞台とする『緑の家』で知られるペルーの〈バルガス=ヨサ(リョサ)〉(1936~,2010年にノーベル文学賞を受賞)や,『百年の孤独』で知られるコロンビアの〈ガルシア=マルケス〉(1928~,1982年にノーベル文学賞を受賞)など,ラテン=アメリカ独自の“マジック=リアリズム”と称される文学者が注目を集めるようになりました。

○1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆アメリカとソ連との“雪解け”の影響から,反米運動が盛り上がる
 1960年には,メキシコ,コスタリカ,ホンジュラス,ニカラグア,パナマの5か国より自由貿易や経済統合をめざす協力組織として中米共同市場(CACM)が形成されています。同年には,アメリカ依存の経済構造からの自立をめざすラテン=アメリカ自由貿易連合(LAFTA)がモンテビデオ条約により形成され,中央アメリカからはメキシコが原加盟国となりました(他一方,はアルゼンチン,ブラジル,チリ,メキシコ,パラグアイ,ペルー,ウルグァイ)。
 1959年のキューバ革命【追H20】,1961年のキューバの社会主義宣言をきっかけに,反米の機運が高まり,1961年にはメキシコでラテン=アメリカ平和会議が開催されています。
 1964年には反米の運動が起き,アメリカ兵によりパナマ人が殺害されました(1月9日はパナマで「Martyrs' Day」として記念されています)。アメリカ合衆国はパナマ運河地帯を占領。1965年にはパナマはアメリカとの運河条約を破棄しました。1967年のラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる「トラテロルコ条約」)がメキシコで調印されたのも,このような機運によるものです。



・1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
一党支配の下で,文民支配が実現し,経済成長を果たした
 事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。「メキシコ革命で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語でポプリスモ,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。
 キューバ革命で核兵器使用が現実味を帯びる中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ各地で反米運動が高まる中,1967年にはラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる「トラテロルコ条約」)がメキシコで調印され,ラテン=アメリカに非核地帯が設定されました。トラテロルコというのはメキシコ外務省の所在地の地名です(メキシコ外交官〈ロブレス〉(1911~1991)はのちに1982年のノーベル平和賞を受賞しています)。
 なお,1968年にはラテンアメリカ初の開催となるメキシコシティ五輪を実現させています。




・1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ
 グアテマラでは1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス=グスマン〉(任1951~54)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は“バナナ共和国”といわれるほどでした。しかし,〈アルベンス=グスマン〉による土地改革の手が外資系企業にまで伸びると,1954年,アメリカは中央情報局(CIA)の力で,アメリカの言うことを聞く親米政権(親米(しんべい)とはアメリカ合衆国の支援・協力関係にあること)を樹立させました。〈アルベンス=グスマン〉はメキシコに逃亡し,農園はユナイテッド・フルーツ社に返還されました。こののちグアテマラでは,1991年まで軍事独裁政権が続くことになります。




・1953年~1979年のアメリカ 中央アメリカ 現④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
 エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,グアテマラ,コスタリカの5か国は1961年には中米共同市場が発足させ,地域の経済協力を進めようとしました。しかし,工業化の面でエルサルバドルはその中心を占めるようになっていき,ホンジュラスとの対立が生まれました。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。




○1953年~1979年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆カリブ海地域ではイギリスからの独立が進むが,アメリカ合衆国の介入も続く
英領カリブ海植民地の「西インド連邦」構想は失敗
 1959年にキューバで革命が成功し,1961年に社会主義化を宣言。1962年にキューバ危機【追H17】に発展します。
 その後,カリブ海地域のイギリス植民地では,1958~1962年に「西インド連邦」という形で島々がセットになって独立しようとする政体がつくられました。しかし加盟国間の対立もあって瓦解し,その後は主にイギリス連邦の一員という形での独立ラッシュが続きます。

 1962年には②ジャマイカ,⑯トリニダード=トバゴがイギリスから独立。
 1966年に⑭バルバドスがイギリスから独立。
 1973年に③バハマがイギリスから独立。(1964年に自治権獲得)
 1974年に⑮グレナダがイギリスから独立。
 いずれもイギリス連邦の一員の立憲君主国です。



・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
キューバ革命が成功し,社会主義化する
◆キューバでは,アメリカ合衆国の資本と結びついた大土地所有制を崩す革命が成功した
 グアテマラでは,1954年にアメリカ合衆国の企業の土地を国有化した〈グスマン〉政権が倒されていました。「自分の国の資源は,自分の国のものだ」という考え方を「資源ナショナリズム」といいます。その考え方が否定されたわけです。これにショックを覚えたのが,アルゼンチン人の〈ゲバラ〉(1928~67) 【セA H30】です(映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004アルゼンチン等)は日記を基に青年時代のアメリカ南米旅行を描いています。「チェ(28歳の革命,39歳 別れの手紙)」(2008米仏西)の二部作は革命を挟んだゲバラの伝記映画です)。
 グアテマラ新政権により命を狙われたためメキシコに亡命。そこで〈カストロ〉(任1959~2008) 【本試験H26アメリカ合衆国の人物ではない】と出会います。実は〈カストロ〉はサトウキビ農園主の息子。彼は大学時代から政治活動に参加し,1950年から弁護士として貧しい人々のために活動していました。

 「ラテンアメリカから,アメリカ合衆国の資本をとりのぞき,キューバ人の国をつくるには,武力闘争しかない」
――二人はそれを実行にうつし,1959年に少数精鋭でキューバに乗り込み,〈バティスタ〉親米政権(任1940~44,52~59)を倒します(キューバ革命【追H20 時期(1950年代か問う)】)。

 さっそくアメリカ系の企業を国有化すると,1961年にアメリカがキューバからの砂糖の輸入を停止し,打撃を与えようとしました。そこで,同年,キューバは社会主義国家宣言をし【本試験H15】,ソ連側のグループにつくことを表明しました。




◆キューバのミサイル基地をめぐり米ソが鋭く対立する
「キューバ危機」に全世界が固唾をのむ
 1962年,キューバにソ連がミサイル基地を配備していることが発覚しました【本試験H24時期】。アイルランド系アメリカ人により創立されたロッキード社のU-2偵察機(上空25000mをスパイ飛行できる)からの空中写真が決め手でした。ミサイルに核兵器を詰めば,アメリカ本土が射程範囲に入ることになり,激震が走りました。「全面核戦争」の危機の勃発です。しかし,アメリカ合衆国の〈ケネディ〉はミサイル基地の撤去を要求,海上封鎖を行いました。空軍はキューバの攻撃を主張しましたが,〈ケネディ〉の冷静な判断と,ソ連のフルシチョフがこれを受け入れたことで,衝突は回避されました。この“13日間”を「キューバ危機」【追H17】【本試験H9年代を問う】といいます。

 第三次世界大戦が起こる危機に見舞われたことで,冷や汗をかいた米ソの指導部は,63年にホワイト=ハウスとクレムリンの米ソ首脳の間にすばやいコミュニケーションが図れるようにホット=ラインという直通通信線を設置しました(1967年の第三次中東戦争のとき,初めて使用されたといわれます)。また,63年には部分的核実験禁止条約(PTBT)【本試験H5中国は加わっていないことを問う,本試験H7】に米・英【慶商A H30記】・ソが署名しました。地下を除く【本試験H7地下は禁止されていない】核実験を禁止したことから,これに調印すれば地下での実験も難しい狭い国では核実験が困難になったため,ある程度の効果はありました。しかし,大国は依然として核実験を継続していますし,フランスと中国はこれに署名せず,やがて核兵器を保有することになります。



・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 イギリス領ジャマイカは,ケイマン諸島とタークス=カイコス諸島とともにイギリスの植民地「ジャマイカ」を構成していました。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立を達成します(ケイマン諸島と,タークス=カイコス諸島は除く)。

 ジャマイカはアルミニウムの原料であるボーキサイトの原産地です。しかし,国際価格は「アルコア」など欧米の多国籍企業のグループが支配していました。
 それに対し左派の〈マンリー〉首相は資源カルテルであるボーキサイト生産国機構(IBA)を結成し,対抗しました。




・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現②バハマ
 現③バハマは,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握ります。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現④ドミニカ共和国
左派政権の樹立を阻止するためアメリカ軍が介入
 現⑤ドミニカ共和国では軍人の〈トルヒーヨ〉大統領による強力な独裁政権(任1930~38,42~52)が続いていましたが,

 彼が1961年に暗殺されると,1963年に大統領選挙によって左派政権が成立しました。左派政権は新憲法を定めて土地改革に着手すると,軍部がクーデタで阻止し,政情は不安定化。

 しかしそれに対し,新憲法の復活を掲げた陸軍によるクーデタが再び起こり,内戦が勃発しました。 
 アメリカ合衆国の〈ジョンソン〉大統領は「反共」を掲げてドミニカに侵攻します(ドミニカ侵攻)。




・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 独立運動が激化していたプエルトリコは,すでに1952年にアメリカのコモンウェルスとされ,内政の自治権が与えられていました。
 コモンウェルスというのは,内政自治が認められるものの,アメリカ合衆国憲法と連邦法が適用され,元首はアメリカ合衆国大統領,主権はアメリカ合衆国にあるという地位です。
 そんな状況下で,プエルトリコ人がアメリカ合衆国の下院を襲撃する事件も起きています。

 アメリカ合衆国では「進歩のための同盟」という政策がとられ,発展途上国を工業化させることで不満を封じ込める作戦をとっていきます。
 プエルトリコ内では,自治の拡大を目指すグループと現状維持グループとの間の対立も生じます。



・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 アメリカ領ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。

 ◇イギリス領ヴァージン諸島は,英領リーワード諸島の一つでした。
 1960年に単独の植民地となり,1967年に自治を獲得します。
 1958年~1962年にカリブ海のイギリス植民地により結成された西インド連邦には加盟していません。
 議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げていきます。


 ◇イギリス領アンギラ島は,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★その後,1958年~1962年に西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年にセントクリストファー島とネイビス島と合わせ,「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラ島住民はこれに反対し,アンギラ共和国として独立宣言。これをイギリスが鎮圧し,失敗します。
 その後,1976年に自治権が付与されますが,イギリス領のままにとどまっています。




・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 ◇セントクリストファー=ネイビスは,英領リーワード諸島の一つでした。
 
 ★1958年~1962年に西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後,1967年に「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラがこの措置に抵抗したため,イギリスが派兵して鎮圧する事態に発展します。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
 ★1958年~1962年に西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年に自治権を獲得。特にアンティグア島で独立の機運が高まります。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト
 ◇イギリス領モントセラトは,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 モンサラットは,議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つとなります。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
 ◇ドミニカは,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年に自治を獲得し,1978年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立します。
・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっていました。
 スターリン批判後,1956年のハンガリー事件に対してフランス共産党が静観したことを批判し,〈エメ=セゼール〉は同年にフランス共産党を脱退。
 1958年にはみずからマルティニーク進歩党を立ち上げ,自治をスローガンに掲げて強い影響力を持ち続けています。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 ◆セントルシアは,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後1967年に自治領となり,1979年に独立を達成します。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 ◆セントビンセント及びグレナディーン諸島は,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 ◆バルバドスは,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 1961年には自治を獲得しています。
 一方で,周辺のカリブ海諸国も合わせた独立が企図され,
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後,1962年に自治を再獲得,1966年に独立を達成しています。
・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 ◆グレナダは,,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 ◆トリニダード=トバゴは,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★それが,1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。
 しかし,1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立。その後,1962年にトリニダード=トバゴとして分離独立しました。
 1976年に共和制に移行しています。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 1954年にベネズエラ沖のアルバ島,ボネール島,キュラソー島と,そのはるか北方に位置するリーワード諸島の3島を合わせ,「オランダ領アンティル」が形成されます。





○1953年~1979年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

・1953年~1979年の南アメリカ  現①ブラジル
ブラジルでは左派寄りのポピュリズム政権が続くが,1964年以降は軍政に転換した
 1950年の国民投票の結果,〈ヴァルガス〉が再度大統領に選ばれました。〈ヴァルガス〉は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。1953年には国営の石油公社を設立し,外国資本を締め出しました。しかし,〈ヴァルガス〉本人が「陰謀」と遺言する事件をきっかけに,1954年にピストル自殺を遂げました。
 彼の死後も1964年までは,トップダウンで社会保障制度や労働立法によって貧困層の支持を取り付けるという,左派寄りのポピュリズム的な政権(幅広い大衆の支持を受けた政権)が続きます。ナショナリズムを打ち出し,外国勢力を“敵”とみなす政治手法は,大衆に対する受けが良いのです。

 1957年には新大統領の下で,建築家〈ニーマイヤー〉(1907~2012)や〈ルシオ=コスタ〉(1902~1998)のプランの下,新首都ブラジリアの建設が始まり,1960年には遷都されました。上空からみると飛行機型になるのが特徴です。このブラジリアを中心として,各地に交通インフラも整備されていきます(◆世界文化遺産「ブラジリア」,1987)。
 この年には〈アントニオ猪木〉(1943~)が家族でサンパウロに移住し,コーヒー園で生計を立てはじめています(1960年に〈力道山〉(1924~63)に見出されて帰国しデビュー)。後継の大統領の下で順調な経済成長が実現していきましたが,1960年代に入ると経済成長率は頭打ちとなり,農地改革を石油産業の国有化を含む抜本的な改革が模索されるようになります。これに対し,アメリカ合衆国の支持を受けた軍部がクーデタを起こし,1964年に軍事政権を樹立しました。軍事政権の下では左派の運動が弾圧され,外国資本を誘致することでの経済開発が推進されていくことになります。これに対し,弾圧を受けた共産党は各地でゲリラ活動を引き起こしました。
 しかし,軍事政権の下では「ブラジルにの奇蹟」ともいわれる年率平均10%の高度経済成長が実現。1973年の石油危機まで好況は続きました。
 石油危機後は成長率がにぶり,インフレが進行。その一方で,1970年代後半には,アマゾン横断道路が完成,また,ブラジルからベネズエラへの縦断道路も完成しています。また,バイオエタノール燃料の開発,大西洋沿岸部の海洋油田の開発,中央高原のサバンナ(セラード)における農業などもこの時期に着手され,NICs(新興工業国群,のちのNIEs;ニーズ;新興工業経済群)にもリストアップされるようになります。1974年には日本の〈田中角栄〉首相がブラジルを訪問するなど,日本との結びつきを強化し始めるのも,この頃のことです。

・1953年~1979年の南アメリカ  現④アルゼンチン
アルゼンチンでは外資を導入する軍部と,民族資本を推進する〈ペロン〉派の対立が続いた
 民族資本による工業化を図ろうとした〈ペロン〉政権(任1946~55,73~74)は軍事政権によりクーデタで打倒され,1955年外資を導入することで工業化を果たす路線に転換されました。しかし,政権が不安定化すると1966年に軍部は再度クーデタを起こし〈オンガニーア〉将軍が大統領に就任し,労働運動を押さえながら国家主導の工業化を目指しました。しかし,農民,労働者や学生による抵抗運動が激化すると1970年に退陣。後継も軍人が継ぎましたが,国民の間に〈ペロン〉派を推す動きが強まり,1973年に〈ペロン〉派(ペロニスタ党)政権が復活しました。
 しかしこの政権は左派のゲリラに甘く,急進的な政策を実行したために,ペロニスタ党内部でも意見が割れ,結局1973年に〈ペロン〉本人が大統領に“返り咲き”を果たしました。しかし彼は1974年に病死し,後を継いだ〈イサベル〉夫人は政治的な失敗を重ね,再び軍事政権に逆戻りすることとなりました。

・1953年~1979年の南アメリカ  現⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー

ペルー,チリは「進歩のための同盟」を受け入れ,ボリビアでも左派の影響力は弾圧されていった
 チリでは,アメリカ合衆国の提唱した「進歩のための同盟」が〈フレイ〉政権(任1964~70)の下で実行されました。〈フレイ〉はキリスト教民主党を率い,「銅山のチリ化」(銅山を外国資本からチリ資本にすること)が「自由の中の革命」というスローガンの下で,ゆるやかに進められていきました。アメリカの資本が導入されて工業化が進められましたが,農地改革は不十分なまま残されました。


ボリビアで軍政が始まり、国家主導の改革続く
 ボリビアでは〈パス〉政権により社会改革(「ボリビア革命」ともいわれます)が行われていました。
 経済政策の失敗からインフレが発生すると、〈シレス=スアソ〉(任1956~60)がアメリカとIMFの支援のもとで経済を安定化させようとします。それに労組や農民層が講義すると、2期目の〈パス〉政権(任1960~64)がアメリカの支援で軍を再建。
 アメリカはボリビアが共産主義になびかないように、集中的に援助することで、アメリカ陣営につなぎとめようとしたのです。この姿勢は〈ケネディ〉大統領による「進歩のための同盟」にも引き継がれ、援助慣れの元凶となっています(注1)。

 しかし、第3次〈パス〉政権が成立すると、革命運動は完全に分裂。〈パス〉はみずから再建した軍によるクーデタで失脚し、1964~1982年にわたる軍政が始まりました(注2)。
 軍事政権の首班であった〈バリエントス〉(1919~1969,軍事政権64,大統領任1964~65,2人大統領制任65~66)はインカ帝国の公用語であったケチュア語が話せたことから,広範な農民層の支持を受け,ボリビアの大統領に上り詰めました。
 そんな中,キューバ革命を成功させていた〈チェ=ゲバラ〉(1928~67) 【セA H30】が,革命を南アメリカに拡大させようとして1966年に拠点をボリビア東部サンタクルスに移し,ボリビア民族解放軍(ELN)を組織し,武装蜂起を計画します。しかしながら農民層の支持は得られず(注3)、1967年にアメリカ合衆国の後押しを受けた〈バリエントス〉政権により武装解除され,〈ゲバラ〉も銃殺されました。
 〈バリエントス〉が1969年に航空機事故で亡くなると,後任の〈オバンド〉大統領(任1969~70)は左派のMNRに対する弾圧を弱める姿勢をみせましたが,内紛で辞任。

 その後軍人の〈トレス〉大統領(任1970~71)のときにソ連に接近しましたが,1971年に〈ウーゴ=バンセル〉大佐のクーデタにより差は政権は崩壊し,〈バンセル〉政権(任1971~78)の下で労働運動は抑えられ外国資本の導入によって経済を浮揚させる政策がとられました。
 しかしそれにより累積債務が拡大し,政治的にも1974年以降の〈バンセル〉政権による労働運動の弾圧への抵抗も強まると,アメリカ合衆国の〈カーター〉大統領【本試験H9共和党ではない】が“人権外交”と称してボリビアに民主化を要求しました。
 しかし,その後もクーデタが頻発して短命の軍部政権が続き,経済も頭打ちとなっていきます。

(注1)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。
(注2)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。
(注3)真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.139。


 ペルーでは,〈プラード〉政権(任1956~62)の下で左派のアプラ(APRA)が合法化されていました。反米・反帝国主義を掲げるアプラを,輸出業を中心とする資本家の支持を受けた〈プラード〉政権が合法化したのは,〈プラード〉政権側が,「非合法化しないこと」を交換条件としてアプラを丸め込んだからです。この政権下では土地改革などの社会改革は進まず,農民による闘争も起きていました。また,アプラと〈プラード〉派の間に対立が起きると,1956年に軍部が介入し,憲法と議会が停止されて軍事評議会が立ち上げられました。軍事政権は農地改革を実施し,農民に農地を有償で再分配しました。
 1963年には都市中間層や新興資本家の支持を置けた人民行動党(AP)の〈ベラウンデ〉(任1963~68,80~85)が「進歩のための同盟」(注1)を掲げていたアメリカ合衆国と協力関係を築きながら,ペルーの近代化に向けた取り組みを推進していきました。しかし,アメリカ系の石油会社との交渉をめぐるスキャンダルがきっかけで,1968年に軍部がクーデタを起こし,1968年にアメリカ合衆国に亡命しました。
 軍部の〈アルバラード〉政権は反米主義を打ち出し,外国資本に支配されていた基幹産業の国有化や農地改革が断交されました。中華人民共和国(1971),ソ連(1972),キューバ(1972)と国交を回復させるなど,社会主義圏への接近を加速させます。〈アルバラード〉政権は「従属理論」の影響を受けていました(注2)。しかし,石油危機にともなう世界不況や政府の汚職が明らかになる中,軍部による無血クーデタが起き,親米の〈モラレス〉政権(任1975~80)が成立しました。しかし国際収支が悪化して国家財政がIMFの管理下に置かれる中,民政への復帰が目指されるようになっていきました。
(注1)ラテン=アメリカ諸国の近代化が遅れたままだと,共産主義の勢力が広がる恐れがあるとみたアメリカ合衆国は,各国の保守派と手を結び社会改革や工業化などをするように義務付け,資本をジャブジャブと注いていきました。同時に,左派ゲリラを鎮圧させるための軍部への援助もおこなわれました。ラテン=アメリカ〈ケネディ〉大統領が提唱し,1961年に米州機構の経済社会理事会で「ラテンアメリカ経済社会の発展のための10か年計画」として採択した憲章に基づきます。
(注2)後進国の発展が遅れているのは,先進国の発展のために後進国が「従属」する構造があるからだ,とする経済理論です。後進国が発展するためには,その構造そのものを変える必要があると主張されました。代表的な論者にドイツの〈フランク〉(1929~2005),エジプトの〈アミン〉(1931~),ブラジル大統領にもなった〈カルドーゾ〉(1931~)らがいます。




●1953年~1979年のオセアニア
 オセアニアの独立は,アジアやアフリカよりも時期が遅れます。サンゴ礁によってできた島も多く,農業を含めた産業が貧弱で,人口も少ない。せっかく独立しても,よその国に出稼ぎに行って得たお金を本国に送金する場合が多く,海外援助によって得た資金を,人口の割に高い比率を占める官僚が国の政治や経済を動かしている国が少なくありません。このような経済を,移民(migrationのMI),送金(remittanceのR),援助(aidのA),官僚制(bureaucracyのB)の頭文字をとってMIRAB経済ともいいます。
 そんな中,独立への動きもすすみますが,独立してもコプラ(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの。圧搾するとコプラ油がとれ,マーガリンや石鹸の原料になります)産業が脆弱なため,ニュージーランドやオーストラリアへの移民・出稼ぎによって生計を立てる国も少なくありません。


○1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 ①イースター島は1888年以降チリ領。ピトケアン諸島はイギリス領です。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
 1949年にフランス海外領土となっていたフランス領ポリネシアは,1957年に自治権を獲得しています。他方,ムルロア環礁はフランスの核実験場として使用され,深刻な汚染をもたらしています。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 1901年以降,クック諸島はニュージーランドの属領となっていました。1946年には立法評議会が設立され,自治政府の設立が準備され,1964年にはニュージーランド国会によって憲法が承認され,1965年に内政自治権を獲得。ニュージーランドとの自由連合となりました。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 1901年以降,ニュージーランドの属領として,ニウエはクック諸島の一部を構成していました。
 1974年以降はニュージーランドとの自由連合を結ぶ国となります。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 ニュージーランドの経済は,イギリス市場向けの酪農・畜産物の輸出が活況を呈し,生活水準も世界トップクラスに上昇しました。
 しかし,ターニング・ポイントは1973年のイギリスのEC加盟でした。
 イギリス史上を失い,石油危機の影響を受け,ニュージーランド経済は悪化していきます。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 トンガは1958年にイギリスとの条約によって自治が認められ,1965年に即位した〈トゥポウ4世〉のとき1970年にイギリス連邦内で独立しました。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 アメリカ合衆国はサモア(東サモア)をアメリカ合衆国に編入しようとしましたが,首長の反対により頓挫。1967年からは憲法が制定され自治をおこなっていますが,アメリカ合衆国が自治法を制定していないため「国際連合非自治地域リスト」に記載されています。
 一方,西サモアはニュージーランドによる国際連合信託統治領となっていましたが,1962年に独立。1970年にはイギリス連邦に加盟しています。

(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年ニュージーランドの委任統治→1945年西サモアは国際連合信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモア自治政府→1997年西サモアはサモアに改称)。




・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ島
 トケラウ島は,1948年以来,ニュージーランド領となっています。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 現在のツバルは,北部のギルバート諸島(現在のキリバス)とともに,ギルバート=エリス諸島としてイギリスに植民地支配を受けていました。
 しかし,ギルバート諸島の住民はミクロネシア系であり,ポリネシア系のツバルは1974年の国民投票でギルバート諸島の分離を決定。
 1978年にイギリス連邦の一員として独立を果たします。
 とはいえ,産業基盤の脆弱なツバルのサンゴ礁の島々では,総督府が置かれた首都フナフティ環礁のフォンガファレ島を含め,漁業を主体とする伝統的な生活が維持されます。



・1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ領ハワイ
1950年代の市民権運動(公民権運動)を通じて1959年にアメリカ合衆国の50番目の州に昇格しており,リゾート地としての開発が進み観光業が主要な産業となっているほか,アメリカ合衆国の太平洋軍の基地が置かれています。ホノルルに大規模なアラモアナ=ショッピングセンターが開店したのも1959年のことです。
 1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアーによる観光客が増加する一方で,ハワイの先住民の文化は観光客のイメージに合わせる形で変容・衰退していきました。1978年にハワイ州政府はハワイ人問題事務局を設置し,ハワイのポリネシア系先住民の伝統文化や言語(ハワイ語)の保護や振興にあたっています。1978年にはハワイ語が州の公式言語となっています。




○1953年~1979年のオーストラリア
 オーストラリアでは,アボリジナル(アボリジニ)や【本試験H27】アジア系移民に対する差別的な政策(白豪主義【H29共通テスト試行 資料と議論】)が推進されてきましたが,1967年の国民投票でアボリジナル(アボリジニ)にも国民としての権利が与えられることになりました。




○1953年~1979年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア




○1953年~1979年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム


 1968年にはイギリスからナウルが独立。
 1975年にパプアニューギニアがオーストラリアから独立。
 1976年に,ギルバート=エリス諸島が,ミクロネシア系のキリバスとポリネシア系のツバルに分離し,それぞれ79年と78年に独立しました。1978年にイギリスからソロモン諸島が独立しました。


 ③ナウルと②キリバスのオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されていました。島民による権利獲得運動は1968年の独立,1970年のリン鉱石採掘事業の管理権獲得に実ります。ナウルの島民の生活水準は高く,鉱山の採掘権料と利益のおかげで,ほとんど働かずして西洋風の生活を享受するようになりました(注)。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままとなっています。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357





●1953年~1979年の中央ユーラシア
中央ユーラシア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区

○1953年~1979年の中央ユーラシア  現⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 新疆は,中華人民共和国のもと,1955年に新疆ウイグル自治区となりました。文化大革命のときには,古くさい習俗を打ち壊そうというスローガンのもとで,モスク破壊やコーラン焼却など,イスラーム教徒への迫害が起き,深刻な亀裂をもたらしました。


○1953年~1979年の中央ユーラシア  北極海周辺
北極海を挟んで向き合う米ソが対立する
 この時期の北極海も,米ソ冷戦と無縁ではありませんでした。
 北極点からみるとアメリカ合衆国とソ連は,北極海を挟んで隣り合う位置にあるからです。

 北極海周辺には西側と東側諸国の軍事基地が建設されていき,その範囲は氷島(北極海に浮かぶ氷でできた島)の上にまで及びます。
 西側諸国の飛行機はソ連の領空を飛ぶことができないため,航空機は北極圏を飛ぶ航路が主流でした。
 また海では氷を砕いて進むことのできる船(砕氷船)の開発がすすみ,1958年にはアメリカ合衆国の世界最初の原子力潜水艦であるノーチラス号が,太平洋から北極点を通過し,グリーンランドに抜けることに成功しました。このとき「ノーチラス,北90度」という電信をおくったことで知られます。
 




●1953年~1979年のアジア
○1953年~1979年のアジア  東北アジア・東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)

◆「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた
スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
 1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46)が死去しました。

 これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ」【本試験H10時期(1950年代か問う)】ムードとなり【本試験H14このときWTOは解体されていない】,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗【本試験H27勝利していない】をみたことをきっかけに,ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定【本試験H16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】【追H30】)が結ばれました。

 ヴェトナムは北緯17度線【追H30】が南北の境界となり,南部にはヴェトナム共和国が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63,在任1955~63)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー=チ=ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
 このジュネーヴ国際会議では,前年に独立していたラオスとカンボジアが,独立国として承認されています。 さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月にジュネーヴ四巨頭会談がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が,ポツダム会談以来初めて一堂に会し,平和共存路線【本試験H14】を共有しました。

 〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは〈フルシチョフ〉(1894~1971,在任1953~64)です。
 就任直後の8月には,物理学者〈サハロフ〉(1921~89)の技術で,水素爆弾実験を行っています。
 56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指しでスターリン批判をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました【H29共通テスト試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。

 この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信され,中華人民共和国にも影響を与えました。
 中国共産党は,個人崇拝を批判した内容が,中国で“〈毛沢東〉批判”につながることを恐れます。また,ソ連がアメリカ合衆国と平和共存路線を打ち出したことも,中華人民共和国にとって寝耳に水の話でした。
 〈毛沢東〉は,1956年に「漢字簡化方案」を制定し,漢字を簡略化することで,農民識字率をあげようとするなど,社会主義国家の実現に向け改革を進めていました。〈蒋介石〉のうつった台湾では実施されなかったため,台湾の漢字(繁體字(はんたいじ))と中華人民共和国の漢字(簡体字) 【共通一次 平1:白話運動とは関係ない】は,現在にいたるまで別々になっています。

 〈毛沢東〉は1956年に百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)を打ち出し「共産党に対する批判をなんでもしていいよ!」と意見を求めておきながら,1957年に反右派闘争により批判をした“反体制派”を一斉追放。
 その上で〈毛沢東〉【追H27】は1958年に第二次五カ年計画【早法H23[5]指定語句】の一環として「大躍進」政策【追H9失敗し,ソ連から多額の経済援助を受けたわけではない、H27毛沢東時代であることを問う】を打ち出して,社会主義国家の建設を急ぎました。彼は,農業・工業を生産する職場を基礎に,役所・学校・兵隊をワンセットにした人民公社を,中国全土に設立していきました【本試験H17時期(20世紀前半ではない)・毛沢東が建設したことを問う】【追H9時期を問う】。農業を集団化させると同時に,工業生産も確保しようしようとしたこの政策は大失敗に終わり,毛沢東の威信は低下します。
 ソ連との対立も深まり(中ソ対立(論争)【本試験H23文化大革命以後に始まっていない】【早法H30[5]指定語句】),60年にはソ連の技術者が中国から引き上げられてしまいました【追H9時期を問う,積極的な対外開放政策がとられたわけではない】。

 キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局62年に撤去されました。ソ連“水爆の父”〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年にはアメリカ【東京H29[3]】・イギリス【東京H29[3]】【慶商A H30記】・ソ連【東京H29[3]】の間で部分的核実験禁止条約(PTBT) 【東京H29[3]】が締結されましたが,これをみた中国は「ソ連はアメリカ合衆国のいいなりだ」とますますソ連への批判を強めます。ソ連は,中国を“極左冒険主義”(さすがに過激で非現実的)だと名指しで批判すると,互いを公開で批判する事態に発展してしまいました。
 64年に中華人民共和国は核実験を断行,核保有国になります。69年には,アムール川の支流で,1860年の北京条約【本試験H10】以降中ソの国境となっているウスリー川に浮かぶ珍宝島(ダマンスキー島) での武力衝突(中ソ国境紛争【本試験H26時期】)へとエスカレートしていきます。

 1966年からは「大躍進」の失敗後に政治の最前線から退いていた〈毛沢東〉が自分の権力を取り戻そうと【本試験H22これで失脚したわけではない】,紅衛兵【本試験H23文化大革命に対抗する組織ではない】を用いて反対派を失脚させる運動を起こしました。これをプロレタリア文化大革命【本試験H6魯迅は無関係(文学革命とのひっかけ)】【本試験H14文化大革命により中華人民共和国が成立したわけではない,本試験H24新文化運動とのひっかけ】【追H9時期を問う(1950年代ではない),大躍進政策とのひっかけ】といいます(1966~76)(「さらば,わが愛/覇王別姫」(1993香港・中国)に文化大革命の様子が描かれています)。
 「社会主義化がうまくいかないのは,この国にまだ“資本主義的”な考え方をするやつらがいるからだ」と考えたのです。しかし,頭の中で何を考えているかなどわかりませんから,「あいつは資本主義的なやつだ!」と証拠をでっち上げて集団で攻撃すれば,すぐに追い落とせます。“走資派(実権派)”(資本主義へと走る奴) 【本試験H23】と名指しされた〈劉少奇(りゅうしょうき)〉【本試験H23】【早法H23[5]指定語句】【慶商A H30記】は失脚し,〈毛沢東〉夫人を中心とする「四人組」という女性たちが実権を握りました。自由に何かを発言したりものを書いたりすると,揚げ足をとられて攻撃されるおそれもあり,文化は全く停滞します。特に,儒教的な価値観や,チベット人やウイグル人といった少数民族の文化が攻撃の対象となり,『駱駝祥子(らくだのシャンツ)』を著した〈老舎〉(1889~1966)も迫害されました。

 これにより中国全土は大混乱に陥りましたが,この間に「アルバニア決議」により中華人民共和国は国連代表権を獲得し,1972年にアメリカ合衆国大統領と会談し国交が正常化(上海コミュニケ)。アメリカ合衆国の方針転換を追って,同年には日本の〈田中角栄〉首相との日中共同声明が発表されています。
 国際政治が激しく変動する中,〈毛沢東〉の後継者と目されていた〈林彪(りんぴょう)〉はクーデタを計画しましたが未然に発覚(そもそもそんな計画はしていないという説もあり),ソ連行きの飛行機がモンゴルに墜落して,謎の死を遂げました。
 その後1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,「四人組」が逮捕され,プロレタリア文化大革命は大きな爪痕(つめあと)を中国に残しつつ幕を閉じました。
 その後の中華人民共和国は,社会主義国家でありながら経済の「自由化」を模索していくこととなります。

○1953年~1979年のアジア  東アジア 現①日本

日本はアメリカ合衆国との同盟の下で,中東からの安価な原油を基盤に,製造業中心の高度経済成長を達成した

 1952年に主権を回復した日本は,米ソの冷戦構造の中で,アメリカ側の体制に組み込まれていきました。50年代には,終戦直後の戦後改革によりいったん民主的になった制度を,もう一度国家権力を強化した制度に戻そうとする動き「逆コース」が見られました。また,1954年のマーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)のビキニ環礁(◆世界文化遺産「ビキニ環礁―核実験場となった海」,2010)におけるアメリカ合衆国の水爆実験【本試験H17時期(80年代ではない),H29共通テスト試行時期(1932年ではない)】の被害を受けた第五福竜丸事件により,反核運動が盛り上がりました。ビキニ環礁では計23回の核実験のために住民の強制退去が行われ,現在でも居住できない島もあります。水素爆弾「ブラボー」によりできた直径2kmのブラボー=クレーターも残されています。

 1955年に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催され,同年には哲学者〈ラッセル〉(1872~1970)と科学者〈アインシュタイン〉(1879~1955,署名後,約1週間後に死去) 【東京H7[3]】が核の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言が発表されました。1957年にはカナダで科学者【本試験H23】〈湯川秀樹〉(1907~81),〈朝永振一郎〉(1906~79),〈ボルン〉(1882~1970)らによりパグウォッシュ会議が開かれ核兵器廃絶を訴えました【本試験H4第三世界の指導者による開催ではない,本試験H7】【本試験H23】。この会長を務めたイギリスの物理学者〈ロートブラット〉(1908~2005)は1995年にパグウォッシュ会議とともにノーベル平和賞を受賞しています。

 〈鳩山一郎〉内閣(1954~56)は,〈吉田茂〉内閣(1948~54)が日本国憲法を改正せずに,アメリカに追従して再軍備路線をとったことを批判し,憲法を改正してソ連と中華人民共和国とも接近するべきだと主張しました。
 経済界を支配する大企業も,当時勢力を増していた革新勢力である社会党(左派・右派に分かれていた)などの拡大をおそれ,保守勢力である日本民主党と自由党の合同を提案するようになります。1955年2月総選挙では,革新勢力が1/3以上の議席を獲得していたのです。憲法を改正するためには2/3以上の議席が必要です。
 1955年10月,左右の社会党が統一して日本社会党ができました。
 それに対抗して,1955年11月〈岸信介〉が日本民主党と自由党を合わせ,自由民主党を立ち上げました。
 結局,1956年7月の参院選でも革新勢力が1/3以上の議席を獲得したため,憲法改正にはいたらず,この状況は以降も続きました。1955年に始まった,憲法を改正できそうで改正できない絶妙な保守勢力と革新勢力のバランスを「55年体制」と呼ぶようになりました。
 1956年10月にはソ連の〈フルシチョフ〉との日ソ共同宣言【本試験H24時期(国際連合加盟前)】によって,日本はソ連との戦争を終結させました。これにより,12月に日本は国際連合に加盟【本試験H24】【追H24時期を問う(世界人権宣言、サンフランシスコ会議との時系列)】することができました。

 1957年に〈岸信介〉内閣(きしのぶすけ,在任1957~60)が成立します。彼は「保守本流」という派閥に属し,経済発展を優先し,アメリカに安全保障を“肩代わり”してもらうべきことを主張しました。弟は〈佐藤栄作〉(さとうえいさく,後の首相),孫は〈安倍晋三〉(あべしんぞう,こちらも後の首相)です。
 1960年に日米安全保障条約の改定を達成すると,〈岸信介〉内閣(きしのぶすけ,1957~60)は総辞職し,〈池田勇人〉内閣(いけだはやと,在任1960~64)に代わりました。高度経済成長の時代を迎えていた日本は,60年代始めに自由貿易の国際的な取り決めに従うようになり,1964年には東京オリンピックを開催しました。ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿の前で採火された聖火は,アメリカの施政下にあった沖縄も,島民の複雑な思いを背景としつつ通過しています。日の丸の掲揚が制限されていましたが,アメリカ合衆国はこのときの掲揚を黙認します(注)。

 1965年には大韓民国の〈朴正煕〉政権【本試験H31李承晩ではない】と日韓基本条約【本試験H31】【追H24植民地化する条約ではない】を結び,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの援助資金と引き換えに,戦前の被害に関する賠償請求権を放棄しました。これにより大韓民国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には新興工業経済地域の一つに数えられるようになります。また,韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣しました。
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.124

 1965年からは沖縄からヴェトナム戦争に出撃する爆撃機が出るようになり,沖縄返還運動が盛んになっていきます。アメリカ合衆国でヴェトナム反戦運動が盛んになるのと軌を一にして、日本でも「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(1966~ベトナムに平和を!市民連合、べ平連)が1965年に〈小田実〉(おだまこと、1932~2007)を代表として発足し、左派を中心に広範な層の支持を得ました。
 「島ぐるみ闘争」や「沖縄県祖国復帰協議会」(1960年)など沖縄の住民の活動が盛んとなっていた沖縄に関しては1969年にアメリカ合衆国〈ニクソン〉大統領(任1969~74)と〈佐藤栄作〉首相(さとうえいさく,在任1964~72)が共同声明で1972年の返還を約束。そんな中、1970年12月には米兵の事故がきっかけで「コザ事件」(コザ暴動)が起きると、日本政府も返還に対してさらに積極的になっていきます。こうして1971年の沖縄返還協定で,1972年【セA H30年代(日中国交正常化と同年か)】に日本に返還されました(沖縄返還)。その際、有事の際の核持ち込みに関する合意や、軍用地の原状回復補償費を日本側が肩代わりする内容の「密約」が結ばれたという指摘があります(外務省の内部調査チームおよび有識者委員会による調査・検証作業(2009~2010年)によると前者は「密約」とはいえず、後者は「広義の密約」とされました)。

 一方、その頃アメリカ合衆国はソ連との対立を背景に、中華人民共和国に接近する政策へと転換しようとしていました。
 1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領〈ニクソン〉が大統領として初めて訪中し、〈毛沢東〉主席・〈周恩来〉総理と会談。これを受け〈田中角栄〉首相(任1972~74)は「独自外交」を進め、同年【セA H30年代】9月25日に「日中共同声明」(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)に署名し、日中国交正常化【セA H30年代】を達成しました【本試験H22日中平和友好条約により日中国交正常化されたわけではない】。


◆史料 「日中共同声明」
前文 (前略…)日中両国は、一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう。
 日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。また、日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。
 日中両国間には社会制度の相違があるにもかかわらず、両国は、平和友好関係を樹立すべきであり、また、樹立することが可能である。両国間の国交を正常化し、相互に善隣友好関係を発展させることは、両国国民の利益に合致するところであり、また、アジアにおける緊張緩和と世界の平和に貢献するものである。

一 日本国と中華人民共和国との間のこれまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する。
二 日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する。
三 中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する。(筆者注:ポツダム宣言第八項「カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」)
四 日本国政府及び中華人民共和国政府は、千九百七十二年九月二十九日から外交関係を樹立することを決定した。両政府は、国際法及び国際慣行に従い、それぞれの首都における他方の大使館の設置及びその任務遂行のために必要なすべての措置をとり、また、できるだけすみやかに大使を交換することを決定した。
五 中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。
六 日本国政府及び中華人民共和国政府は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に両国間の恒久的な平和友好関係を確立することに合意する。
 両政府は、右の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、日本国及び中国が、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し、武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。
七 日中両国間の国交正常化は、第三国に対するものではない。両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対する。
八 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の平和友好関係を強固にし、発展させるため、平和友好条約の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。
九 日本国政府及び中華人民共和国政府は、両国間の関係を一層発展させ、人的往来を拡大するため、必要に応じ、また、既存の民間取決めをも考慮しつつ、貿易、海運、航空、漁業等の事項に関する協定の締結を目的として、交渉を行うことに合意した。以上


 その後上野動物園に贈られたのが「カンカン」(♂,~1980)と「ランラン」(♀,~1979)です。

 1965年に名神高速道路,69年東名高速道路が開通し,自動車の普及(モータリゼーション)が進みました。都市部の過密化,地方の過疎化も次第に進行していきました。
 また,高度経済成長の裏で、各地の工業都市や鉱山周辺で深刻な公害がようやく社会問題として問題化されるようになります。
 1956年には熊本県の水俣市でチッソ水俣工場から排出されたメチル水銀に起因する「水俣病」が公式発見され、物議を醸しました。富山県の神通川流域で、三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山の製錬に伴う未処理廃水に起因するイタイイタイ病は、少なくとも1920年代には表面化されていたものです。
 こうした状況を受け、1970年に公害対策基本法(のち1993年に廃止され環境基本法に発展・継承されました)が制定され,71年には環境庁が発足しました。のち2013年に熊本で署名された国際的に水銀を規制する条約は,「水俣条約」と名付けられています。

 しかし,1973年のオイル=ショック以降,先進国は世界的に不況の波に襲われます。
 第四次中東戦争(1974年)にあたっては〈田中角栄〉政権はアラブ諸国に接近するなど「独自外交」を進めましたが、国内的には狂乱物価(インフレ)が進行。
 1974年に参議院選挙に敗北した自民党の〈田中角栄〉首相(任1972~74)は退陣しました(のち76年にロッキード事件で逮捕)。


 〈三木武夫〉内閣(みきたけお,1974~76),1978年に日中平和友好条約【本試験H22これで国交正常化したわけではない】【本試験H26時期】を締結した〈福田赳夫〉内閣(ふくだたけお,在任1976~78),〈大平正芳〉内閣(おおひらまさよし,1978~80)はいずれも短命に終わっています。

 この頃,従来の国民の福祉を充実させようとする「福祉国家」政策は,各国で再検討されるようになっていました。「国の支出をできるだけ減らし,自由な競争を促進して,民間の活力を高めることで国を発展させていこう」という新自由主義的な政策をとる国家が増えていきます。




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・1953年~1979年の東アジア  現②台湾

 台湾は1954年、アメリカ合衆国と相互防衛条約を調印し、自由主義陣営に身を置いて大陸の中華人民共和国と対峙します。

 その後、1955年には中国対立の浙江省・大陳列島の領有権を喪失。国共内戦の停戦の取り決めは結ばれないまま、台湾国民政府が実効支配する地域は、台湾を中心とする地域(「中華民国自由地区」)に限定されることとなりました(台湾本島、台湾本島の付属島嶼、澎湖諸島、中国大陸沿岸の馬祖列島・烏坵島・金門島、南シナ海の東沙諸島、南沙諸島の太平島・中洲島)。

 しかし、中国大陸を実効支配しているのは中華人民共和国政府ですから、こうして互いの正当性を否定する「2つの中国政府」が存在する状態が生まれることとなったわけです。
 台湾海峡をめぐる緊張はその後も続き、1958年には中華人民共和国との交戦も起きています(金門砲戦)。

 さらに、1970年代の国際情勢の急変の影響を受け、台湾をめぐる情勢は大きな転換点を迎えました。1971年の国際連合総会で、アルバニアが提案した中華人民共和国に「中国」の代表権を与えようという案(アルバニア決議、「国府追放、北京招請」案)が可決されると、台湾の国民政府がが「中国」の代表権を失ってしまったのです。

 台湾はこうして国連から脱退。1972年には日本が中華人民共和国との間に国交を樹立したため、日本政府と台湾国民政府は断交に至ります。

 同年に行政院長に就任していた〈蒋介石〉総統の息子である〈蒋経国〉(しょうけいこく、1910~1988、中華民国総統任1978~88)は、1973年に大規模なインフラ開発計画「十大建設」をスタート【一橋H31 蒋経国『わが父を語る』の一部が使用され、論述(台湾と中華人民共和国の関係と1949年に至る変遷)】。

 「台湾の危機をのりこえ、大陸を取り返す(大陸反攻)ためには、重工業主体の工業化のためのインフラを建設する必要がある」との認識からでした(これがのちに台湾がアジアNIEsに数えられる基盤となります)。

 1975年に〈蒋介石〉が亡くなると、取り急ぎ〈厳家淦〉副総統が総統に格上げされましたが、中国国民党主席に就任していた息子〈蒋経国〉が1978年に総統に就任。
 台湾の国際的な地位向上に努めます。




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・1953年~1979年の東アジア  現③中華人民共和国

 建国間もない中国は,〈毛沢東〉を中心に社会主義の確立を急ぎます。
 1953年に,国が主導して経済を発展させるための第一次五カ年計画(~1957) 【追H27 四つの現代化により始まったのではない】を立案。
 1954年には中華人民共和国憲法が制定されました。

 朝鮮戦争の終了と「雪解け」の影響を受け,1956年には「百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほう・ひゃっかそうめい)」と呼ばれる自由化政策がとられますが,翌年からは「自由化」を唱えた勢力が政治の表舞台から追放されます(反右派闘争(1956~57))。

 1958年からは「大躍進」【追H24韓国ではない、H27】をかかげた第二次五カ年計画が始まり,農村の集団化が急ピッチで進められていきます。農民たちは「人民公社」【追H27】という政治=経済=社会単位に組み込まれ,収穫物のノルマが課されるとともに,鉄鋼の生産までが割り当てられました。
 当然農民に鉄鋼を生産させるなど無理な話であり,自然災害も重なってこの政策は大失敗。
 〈毛沢東〉は1959年に国家主席の座を〈劉少奇〉(りゅうしょうき;リウ=シャオチー)に譲ります。

 そんな中,チベット動乱と呼ばれる事件が起こります。
 すでに1951年の「チベット平和解放に関する17条協議」においてチベットは中国に対して,外交権・軍事権を失うことを認めるかわりに,〈ダライ=ラマ14世〉(位1940~)による支配を承認されていました。もはやチベットにとってはギリギリ綱渡りの状態です。
 そこに中華人民共和国にとって,チベットの伝統的な制度は「革命に反する古くさい文化」に映るわけです。社会主義的な考え方を植え付けようとする動きに,チベット人の反乱が勃発すると,1959年に〈ダライ=ラマ14世〉はインドに脱出し,亡命政権を樹立しました【本試験H30亡命先はアメリカではない】。これ以降,彼はインドのダラムサラに逃れているわけです。チベット難民も発生し,インド側になだれ込みました。こうしてチベットは軍事的に中華人民共和国の領土とされたのです【本試験H2020世紀に反中国運動があったかを問う】。


 さて,1959年に国家主席に就任した〈劉少奇〉は調整政策を行い,大躍進政策によって荒廃した農村を救おうとしました。
 折しも1956年にソ連で「スターリン批判」が起きると,中華人民共和国との関係が悪化しており,1959年6月(注)には中ソ国防用新技術協定が破棄され,のちにソ連の技術者が中国から引き上げられていました。1969年にはソ連との国境付近の珍宝島〔ダマンスキー島〕での武力衝突に発展(ダマンスキー島事件)。
 一方,1962年にはインドとの国境紛争も起こっています。


 こうした対外関係の緊張を背景に,1964年には初の原爆実験に成功。
 そんな中,政治の表舞台に返り咲こうとする〈毛沢東〉による運動が始まります。
 〈毛沢東〉は自らの思想(毛沢東思想)を掲げ,「資本主義的な支配者(=〈劉少奇〉や〈鄧小平〉(とうしょうへい;トンシャオピン))を追い出し,労働者と農民の文化を復活させよう!」と,青少年を中心とする大衆を動員しました。これをプロレタリア文化大革命といい,1976年まで続きました。

 プロレタリア文化大革命の間,〈毛沢東〉とその妻を中心とするグループ(四人組)が政治の実権をにぎり,反対勢力は容赦なく追放されました。
 そんな中で文化が発展するわけがなく,少数民族たちも自らの文化を捨てるよう要求されるなどの憂き目を見ます。

 ただ,〈毛沢東〉はすべての実権をにぎっていたわけではなく,首相の座は〈周恩来〉にありました。〈周恩来〉はアメリカ合衆国とソ連との関係悪化を読み取り,逆にアメリカ合衆国と関係を改善することでソ連に対抗しようとして,アメリカ合衆国大統領補佐官〈キッシンジャー〉に接近。1971年には国際連合の代表権を獲得し,1972年2月には〈ニクソン〉大統領が中国を訪問し1972年9月にはそれに続いて日本と中華人民共和国との国交が正常化されました。
 また,1975年には新憲法が採択され,〈周恩来〉は「まだまだ中国は遅れている」として「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術) 【追H27 これにより第一次五カ年計画が始まっていない】を打ち出します。

 一方,〈毛沢東〉が後継者とみなしていた軍の実力者〈林彪〉(りんぴょう)が航空機の墜落事故で亡くなり,1976年1月に〈周恩来〉,9月に〈毛沢東〉が相次いでなくなります。
 〈周恩来〉が亡くなったときには,天安門広場で自由化を求める人々の騒擾事件がありましたが鎮圧され,同年10月に〈毛沢東〉夫人の〈江青〉(こうせい;チャンチン)ら「四人組」が逮捕され,約10年にわたったプロレタリア文化大革命はようやく幕を閉じました。

 新たに共産党主席となった〈華国鋒〉(共産党主席 任1976~81,首相任1976~80)(注)は,1978年12月に,すでに〈周恩来〉によって提起されていた「四つの現代化」を強調。彼は必ずしも,〈毛沢東〉・〈周恩来〉や,プロレタリア文化大革命を批判することはありませんでした。
 1978年には日本の〈福田赳夫〉首相との間に日中平和友好条約【本試験H31時期を問う(チェルノブイリ原発事故・キューバ危機との時期並び替え)】が結ばれています。

 しかし,役職には就かなかったものの,強力な実権をにぎりつつあった〈鄧小平〉(とうしょうへい)が,しだいに中国に部分的に「資本主義」の要素を導入しようと動いていくことになります。

(注)『タペストリー16訂版』,2018,帝国書院,p.295。



・1953年~1979年の東アジア  現④モンゴル
 モンゴルはソ連との関係を維持し,ソ連と中華人民共和国との「中ソ対立」(中ソ論争【早法H26[5]指定語句】)が起きても,モンゴルはソ連側にまわりました。1962年にはアジア唯一のCOMECON(コメコン) 加盟国となり,ソ連圏との結びつきは強化されました。


・1953年~1979年の東アジア  現⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
◆情勢が安定した韓国は軍事政権の下,日本からの資本・技術移転が進み発展を始めた
朝鮮戦争の結果、朝鮮戦争の南北分断は固定化
 1950年の朝鮮戦争【本試験H10時期(1950年代か問う),休戦後まで日本の独立が遅れたわけではない】において,中華人民共和国が100万人の義勇軍を南下させたため,1951年1月にソウルが北朝鮮に再占領されました。「国連軍」司令官〈マッカーサー〉は中華人民共和国に対する核兵器の使用を提案しますが,〈トルーマン〉大統領によって拒否され【本試験H12核兵器は使用されていない】1951年4月に解任。その後は〈リッジウェイ〉司令官の下,北緯38度線を挟んで一進一退を繰り返し,休戦を公約とした〈アイゼンハワー〉政権の発足と〈スターリン〉の死去をきっかけに1953年7月27日に北緯38度線の南にある板門店(パンムンジョム;はんもんてん)で休戦協定が調印されました。朝鮮戦争の死者数は,民間人を含めると200万人にのぼるといわれており,南北朝鮮の間で生き別れとなった“離散家族”を生みました。



・1953年~1979年の東アジア  現⑤朝鮮民主主義人民共和国
◆北朝鮮は自力で社会主義化を図ろうとしたが経済は停滞し,国民の動員が強められた
「千里馬」の自主路線をとるが経済が停滞していく
 朝鮮戦争の過程で,ソ連をバックに付けた〈金日成〉首相に権力が集中し,権力の奪い合いの結果,1958年には国内における主導権をほぼ確立しました【追H17朝鮮戦争の結果、朝鮮民主主義人民共和国が建国されたのではない】。

 すでに企業・鉱山・銀行などは国有化され,1953年からは農業の集団化が進められていき,社会主義家が進められました。計画経済の下で,ソ連・中華人民共和国の援助を受けながら重工業化が進められました。1953年に〈スターリン〉が死去し1956年にスターリン批判が明るみに出ると,中華人民共和国とソ連の外交関係が悪化。間に挟まれる形の北朝鮮は,どちらかに接近するともう片方に睨(にら)まれてしまう困難の中,両者とバランスをとりながら独自の社会主義路線をつくろうとし,1956年からは「千里馬(チョルリマ)運動」が始められ,生産力の向上が推進されました。
 この過程で,北朝鮮の経済は朝鮮労働党の指導者による直々の「現地指導」に基づき,国民が農業・工業分野の生産に関わるトップダウンの管理方法が確立されていきます。しかし,外国からの資本や資源(特に石油)を導入せずに自力で計画経済による工業化・社会主義化を図る取り組みは,早くも1960年代後半には行き詰まりを見せ,〈金日成〉は国民の動員を「主体(チュチェ)思想」というイデオロギーによって一層強めていきました。お隣の韓国は日本やアメリカにすり寄ることで工業化を果たしているが,北朝鮮は違う。北朝鮮は〈マルクス〉=〈レーニン〉の思想を北朝鮮に創造的に適用した〈金日成〉の「偉大な思想」により自力で発展することが可能だ,といった考えです。「主体思想」は〈金日成〉に対する個人崇拝を生み,アメリカ合衆国と韓国に対する強硬姿勢をもたらしました(1972年には憲法が改正され,主体思想が明記され,〈金日成〉は国家主席に就任しました)。1970年代に入って一時的に韓国との関係が改善しましたが,1973年の金大中事件をきっかけに強硬姿勢に逆戻りしました。
 1967年頃から〈金日成〉の息子〈金正日〉(キムジョンイル)の存在感が増し,〈金日成〉に代わって主体思想を正確に理解し,国民を指導する立場を自任するようになっていきました。1969年には朝鮮中央テレビが開局し,主体思想の普及に貢献しました。しかし1970年代後半には計画経済に遅れが目立つようになり,韓国との格差は決定的となっています。なお,1970年代から1980年代にかけて,韓国に対する工作に利用するために日本人を北朝鮮に組織的に拉致していたことが明らかになっています(2002年の日朝首脳会談で〈金正日〉が関与を認めました)。

・1953年~1979年の東アジア  現⑥大韓民国
 朝鮮戦争からの復興のために,アメリカ合衆国は大規模な援助を実施しましたが,援助物資は一部企業グループに横流しされ財閥が形成されていきました。軽工業を中心として輸入品を自国で生産する動きもにぶく,工業化は進展しませんでした。
 一方,1950年代末にかけて〈李承晩〉大統領による強権政治への批判が強まり,1960年の大統領選挙での不正が引き金となり市民や学生によるデモが拡大。4月26日に議会とアメリカ合衆国が圧力をかけると,〈李承晩〉は4月27日に大統領を辞任し,5月にアメリカ合衆国に亡命しました。これを四月革命といいます。
 議院内閣制を定めた新憲法の下,野党であった民主党〈張勉〉内閣が発足し,国政の安定化に努めるとともに,北朝鮮との融和も主張しました(国連の監視の下,韓国憲法により南北統一選挙の実施を公約)。
 しかし,北朝鮮との融和策は軍部の不評を買い,経済の悪化にも歯止めがかからず,1961年にはついに軍部の若手将校によるほぼ無血のクーデタが起きました(5.16クーデタ)。最高指揮官は〈朴正煕〉(パクチョンヒ) 【追H21クーデタによって政権を獲得したか問う】少将らで,軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)を組織して非常戒厳令を発令し,〈張勉〉は辞任し,〈尹潽善〉(ユンボソン;いんふぜん)大統領は残留しました。同年7月には〈朴正熙〉が国家再建最高会議議長に就任しました。1961年には反政府の動きを弾圧するために諜報機関である中央情報部(KCIA)が創設され,1962年には大統領にも就任しました。

 これに対し〈ケネディ〉大統領は,国内をコントロールできない政権よりは,強権により国内の資本主義的な発展をすすめることのできる政権のほうがマシであると判断し,〈朴正熙〉政権を支持しました。発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと見なしたのです。開発優先の強権的な政治体制のことを「開発独裁」ということがあります(注)。
(注)曺喜昖は,〈朴正熙〉がとった反共・開発動員体制の背景は,植民地化を経験した多くの地域に普遍的にみられる政治体制であるとみています。それは,いまだ社会の「近代化」を達成できない政府が,「近代化」という正常な状態を口実に,国民を強制的に動員ないしは自発的に参加させて社会を再組織するものでしたが,開発の犠牲となった人々の抵抗が,〈朴正熙〉に対抗する政治運動を生むこととなるのです。曺喜昖, 李泳釆・監訳,牧野波・訳『朴正煕 動員された近代化: 韓国,開発動員体制の二重性』彩流社,2013,p.120,122~123。


 北朝鮮の〈金日成〉も〈朴正熙〉軍事政権の成立に対抗し,6月にソ連を訪問してソ連=北朝鮮友好強力相互援助条約を,7月には中華人民共和国との間に中朝友好協力相互援助条約を締結しました。これらは実質的には韓国に対する軍事同盟でした。

 〈朴正煕〉大統領は〈李承晩〉時代の財閥への弾圧を強め,外国の資本を導入した輸入代替工業,さらには輸出志向型の工業化を進める政策をとろうとしました。しかし,アメリカ合衆国からの援助が減らされており,代わりにすでに高度経済成長を果たしていた日本から資本を導入するためには,日本との国交樹立が不可欠でした。日本側も輸出先として韓国市場を求めていました。
 そこで,1965年に日韓基本条約【追H24植民地化する条約ではない】が締結され,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの無償経済協力・政府借款・商業借款と引き換えに,戦前の被害に関する請求権を放棄しました。この中で,在日韓国人の永住権も承認されています。
 日本との国交回復により,大韓民国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には新興工業経済地域の一つに数えられるようになります。韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣し,「ヴェトナム特需」も経済成長を支えました。1970年からは日本企業から技術と借款を導入し,浦項(ポハン)に総合製鉄所が建設されました。
 1970年代には北朝鮮との和平交渉や南北交流の拡大に向けた動きが活発化しました。しかし,1971年に大統領候補であった〈金大中〉(キムデジュン;きんだいちゅう)が東京でKCIAに拉致されたことに北朝鮮が抗議し,関係は冷却。同年には〈朴正熙〉大統領が非常事態宣言を発表し,1972年には非常戒厳令を公布。大統領の権限をさらに拡大して反対勢力を押さえ込み,南北の平和統一のために新憲法を制定しようとしました(十月維新)。同年に大統領に就任した〈朴正熙〉は「維新体制」のもとで輸出志向型の重化学工業化を一層推進していきました。1975年に現代(ヒュンダイ)自動車が初の国産車を製造し,三星(サムソン),ラッキー金星(クムソン,現在のLG),大宇(デウ)といった新興財閥が生まれました。首都ソウルへの人口一極集中も加速し,都市と農村の所得格差が拡大すると,1970年からセマウル(新しい村)運動が始められ,農業生産の近代化に向けた取り組みが行われていきます。
 〈朴正熙〉政権の強権政治に対する批判も強まり,〈金泳三〉(キムヨンサム)を総裁とする新民党の反政府運動も活発化しました。1974年には〈朴正熙〉夫人が暗殺され,1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。





○1953年~1979年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

独立後の東南アジアは冷戦の影響を受け,「第三世界」を建設しようとする運動が起きるが、米ソの勢力争いから内戦に発展する地域も

・1953年~1979年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム
大国の介入を受け続けるインドシナの悲劇

1946~1954年 インドシナ戦争
 フランス領インドシナでは,ヴェトナム国を建てて勢力圏を維持しようとするフランスと,北部の〈ホー=チ=ミン〉の勢力との間で,泥沼の戦いが繰り広げられていました。しかし,1954年ディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍1万6000は降伏すると風向きが変わり,国際社会が介入する形で,決着が図られます。
 1954年4月,ジュネーヴにアメリカ・イギリス・フランス・中華民国・ソ連が集まり協議した結果,ヴェトナムの独立が定められました。北緯17度線を停戦ラインとし,56年に国際社会の監視下のもとで選挙を行って,南北統一をしようということになりました。こうしてインドシナ戦争は終結したのですが,今度ヴェトナムに介入することになったのはアメリカ合衆国です。

1960年代~1973年 ヴェトナム戦争
 ヴェトナムの社会主義国化を阻止するために,アメリカは南部の政権を支援し,北部の〈ホー=チ=ミン〉と対立。〈ジョンソン〉大統領【本試験H10時期(1930年代ではない)】は1965年に,北部のヴェトナム民主共和国の空爆を開始し,ヴェトナム戦争(第二次インドシナ戦争ともいいます)が始まりました【本試験H5ヴェトナム人の戦争相手国を問う(以前は対フランスであったことも)】。
 最新鋭の武器を投入したアメリカ合衆国に対し,〈ホー=チ=ミン〉はジャングルに地下トンネルを掘り,南部の抵抗勢力を支援するなど,あの手この手でゲリラ戦を敢行。
 アメリカ軍は熱帯のゲリラ戦に苦しみ,戦況は泥沼化しました。現在ではクチというところで,実際に当時の地下トンネルに入ってみる体験もできます。
 国内的にも批判が高まり,戦費も増大していたこともあって,〈ニクソン大統領〉は1973年に撤退を決め,「あとはヴェトナム人にまかせよう(ヴェトナム戦争のヴェトナム化政策)」としました。

1978年~現在 ヴェトナム社会主義共和国
 1975年にサイゴンは〈ホー=チ=ミン〉のヴェトナム民主共和国が陥落し,1978年にヴェトナム社会主義共和国が成立しました【追H17ヴェトナム戦争の結果成立したか問う】。
 南北統一は〈ホー=チ=ミン〉(ただしホー=チ=ミンはすでに亡くなっています)のほうに軍配が上がったのです。

 フランスとアメリカとの一連のヴェトナム戦争によりヴェトナム全土は荒廃し,アメリカ合衆国の使用した化学兵器(ダイオキシン類を主成分とする“枯葉剤”)によって,現在に至るまで重い後遺症を残したり,形態異状児を産んだ住民も多数出ています。また戦難を逃れて船で海上に脱出した人々(ボート=ピープル)が東シナ海や南シナ海を通り,日本にも到達しました。

 中華人民共和国はカンボジア【追H20ラオスではない】で〈毛沢東〉を信奉する〈ポル=ポト〉(1928~1998) 【追H20、H26ポーランドではない】を支援し,ソ連の支援を受けるヴェトナム社会主義共和国を“挟み撃ち”しようとしていました。
 〈ポル=ポト〉は「カンボジアでは全員が思想を改造し,農業に従事することで原始共産制による“みんな平等”の理想社会をつくることができる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。

 1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し親ヴェトナム政権を樹立しましたが,国際的批判にさらされヴェトナム社会主義共和国は,〈ポル=ポト〉派を支援していた中華人民共和国との間に1979年に中越戦争が勃発します。社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
 アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てていきます。これがカンボジアの悲劇です。





・1953~1979年のアジア  東南アジア 現②フィリピン

 フィリピンは1953年に、抗日組織であるフクバラハップを掃討する上で軍功のあった〈ラモン=マグサイサイ〉(任1953~1957)が大統領に就任しました。
 フクバラハップは共産主義的な性格を持っていたので、アメリカ合衆国に警戒されたのです。
 〈マグサイサイ〉大統領は農地改革を実施しますが、内容的には不徹底に終わり、大土地所有制は広い範囲で残されました。
 外交的にはアメリカ合衆国の「封じ込め」に協力し、1954年には東南アジア集団防衛条約(SEATO)を締結しました。
 
 〈マグサイサイ〉大統領が事故死すると、次は副大統領・外務大臣を兼任していた〈ガルシア〉大統領(任1957~1961)が就任しました。彼は共産主義への対決姿勢を引き継ぎ、1961年にタイ、マラヤ連邦、フィリピンの3か国が原加盟国となってバンコク宣言を発表し、自由主義の東南アジア諸国を合わせた東南アジア連合(ASA)を設立させました。
 これはのち(1968年)に東南アジア諸国連合へと発展していくこととなります。

 1961年の選挙で副大統領の〈マカパガル〉大統領(任1961~65)が当選しますが、1965年には〈フェルディナンド=マルコス〉に敗北。
 〈マルコス〉大統領(任1965~1986)が就任し、1986年まで長期に渡って政権を維持しました。
 〈マルコス〉は強い指導力をふるって工業化を推進し、アメリカ合衆国や日本などと提携する姿勢を打ち出しました。
 ベトナム戦争にはアメリカ合衆国側に立って派兵し、国内では南部ルソン島のモロ人(イスラーム教徒)の討伐を強化します。
 このような強権に対して1970年に学生運動が置きますが、1972年には戒厳令を布告。フィリピン共産党の軍事組織である「新人民軍」に対しても弾圧でのぞみました。
 こうした手法は「開発独裁」と呼ばれることもあり、実際に経済は成長していきました。

 一方、大統領夫人である〈イメルダ〉は特命全権大使として外交に深く介入し、1970年代には中華人民共和国・ソ連との国交を樹立させています。また国内的にはスラムの美化やインフラ整備などを行いますが、その豪奢な暮らしぶり(特に靴のコレクション)は有名で1972年には暴漢に襲撃されるなど反感も買っていました。
 
 なお、1974年にはフィリピンのルバング島山中に潜伏していた元日本兵〈小野田寛郎〉(おのだひろお、1922~2014)が武装解除され、日本に帰国しています。





・1953~1979年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ

 イギリスの保護下にあったブルネイは、この時期マレーシアとの合併構想から離脱しています(マレーシアは、マラヤ、シンガポール、サバ、サラワクの4地域によって1963年に成立)。





・1953~1979年のアジア  東南アジア 現④東ティモール
ポルトガルの植民地から、インドネシアの占領へ
 東ティモールはポルトガルの植民地でしたが、1974年にカーネーション革命がポルトガルで起き独裁政権が崩壊。東ティモール独立革命戦線FRETILIN(フレティリン、当時はティモール社会民主協会(ASDT)という名称)が即時の独立を要求しました。
 しかし、ポルトガルとの関係維持をめざすグループと、インドネシアへの併合をめざすグループの三つ巴となり、1975年にはインドネシア軍が西ティモールから東ティモールに侵攻を始めます。

 それに対し、翌日フレティリンは首都のディリで「東ティモール民主共和国」の独立を宣言。しかしインドネシアの〈スハルト〉政権は東ティモールを制圧し、国連安全保障理事会からも即時撤退の決議を受けます。1976年にはインドネシアが東ティモールを併合宣言。
 その後も抵抗は続きますが、東ティモールの住民の多数が命を落としました。





・1953~1979年のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア
スカルノが失脚し、スハルト親米政権に転換する
 インドネシアでは経済が停滞し,議会制民主主義体制がゆきづまると,1950年代末より〈スカルノ〉大統領が「指導される民主主義」を提唱しました。これは「インドネシアにはインドネシアのやりかたがある。西洋流の多数決による選挙ではなく,独立のリーダー〈スカルノ〉を中心に国をまとめるべきだ」という主張です。〈スカルノ〉は民族主義,宗教(イスラーム教),共産主義の政党が,一致団結してまとまるべきだという「ナサコム(NASAKOM。3つの単語の頭文字をとった造語)」体制を提唱しました。
 しかし,1963年にマレーシア連邦が形成されると,〈スカルノ〉はこれを国内政治に利用します。 北ボルネオのサラワクやサバが,マレーシアに加入したことを「イギリスの陰謀」と非難し、実力でノマレーシア粉砕を目指す政策(コンフロンタシ)を打ち出し、実際にサバ、サラワク、マレー半島部に攻撃部隊を上陸させ、1963年に国交を断絶しています(のち回復)(注)。マレーシアという敵を外側につくることで,国内をまとめようとしたわけです。アメリカ合衆国も,〈スカルノ〉を,国内の共産主義者を操ることのできる実力者として見ていたふしがあります。


 しかし,インドネシアの内側では,国営企業を牛耳る「軍」や大地主の多い「イスラーム」に対して,「共産党」が対立するようになっていました。そして迎えた1965年の9月30日(正確には10月1日未明)。“「将軍評議会」による〈スカルノ〉に対するクーデタを防ぐ”という名目のもと,共産党との関連があったとされる大統領親衛隊長〈ウントゥン〉中佐が権力を掌握しようとしましたが,陸軍の〈スハルト〉将軍(1921~2008)により鎮圧されました。「反乱」を鎮圧した〈スハルト〉は,逆に権力を掌握し,「共産党の陰謀」であると発表。この後,「共産党員狩り」が起き66年までに45~50万人が殺され,共産党は壊滅しました【本試験H14】。1966年に〈スハルト〉は〈スカルノ〉から正式に権力を移譲され,1968年に〈スハルト〉は大統領に就任し【本試験H26時期】,反共・親米の「新体制」を打ち立てます。「国父」〈スカルノ〉は軟禁状態に置かれ,第3夫人の〈デヴィ=スカルノ〉はフランスに亡命,〈スカルノ〉は1970年に死去しました。この一連の騒乱を「九・三〇事件」【本試験H10これをきっかけにスカルノが失脚したか問う】【本試験H30時期(1965年)・共産党が壊滅したかを問う,本試験H29中国ではない】【追H20共産党がこれをきっかけに弾圧されたか問う】といい,インドネシアに暗い影を落としています。しかし,その発端となった“クーデタ”の首謀者がいったい誰だったのか,いまでもはっきりとはわかっていません。インドネシアで共産主義勢力が伸長するのを恐れた,アメリカの情報機関CIAが〈スハルト〉をエージェントとして実行させたと考える説すらあります。九・三〇事件後には各地で自警団などによる隣人の虐殺も発生したとみられ,インドネシアでこの事件について語るのは現在でも“タブー”となっています(当時「共産党員狩り」に関わった被害者・加害者を取材した異色ドキュメンタリー映画に,「アクト・オブ・キリング」(英・デンマーク・ノルウェー,2012)があります)。

 ヴェトナム戦争が終わるとインドネシアとタイからは米軍が撤退し,それを受けてASEANは“中立化”を宣言しました。1976年には東南アジア友好協力条約(TAC)が締結され,紛争の平和的な解決が約束されると,先進国の投資や援助が急増することになります。
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.79。




・1953~1979年のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール、⑦マレーシア

 すでにイギリスは、マレー半島の海峡植民地(ペナン、マラッカ)とマレー連合州であった地域をマラヤ連邦に改めていました。シンガポールは直轄植民地として、マラヤ連邦には加えられていません。
 マレー半島のマレー〔ムラユ〕人のスルタンの権限が強化されたのに対し中国系住民の多いシンガポールでは、マレー〔ムラユ〕人やイギリス人に対する反発が強まります。
 なお「中国系住民」といっても一枚岩ではなく、やがて独立の父となる〈リー=クアン=ユー〉(1923~2015、華人四世)のように英語のエリート教育を受けた集団や、華語教育を受けた集団。中国との結びつきを重視する集団や、シンガポールへのナショナリズムを持つ集団。シンガポールに社会主義国家を建設しようとした集団(マラヤ共産党、1948年6月にイギリス人を追放するための武装蜂起をして失敗)など、多様な集団がいました。
 おもに英語教育集団はイギリス的国家、華語教育集団(共産系)は中国的国家を志向しますが、両者は〈リー=クアン=ユー〉の仲介によって人民行動党として結集(1954年に結党)。大衆の基盤を持たぬ英語教育集団と、政治的な弾圧をかいくぐろうとした華語教育集団―この政治的なイデオロギーがまったく違う両者の利害が一致した結果です(注)。
 1955年には自治政府が導入され、初の立法議会選挙がおこなわれます
(注)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.66-67。



 一方1957年には、マラヤ連邦【本試験H18,H29共通テスト試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】としてイギリス連邦の一員として独立し,ムラユ〔マレー〕人やスルタンの権利が強化されます。政治的には王族の〈ラーマン〉首相(1903~1990,任1957~1970)率いるムラユ〔マレー〕人社会、華人社会、インド人社会の3つの社会が連携した連合党政権でした(注1)。
 1959年にシンガポールは英連邦内の自治州となり、外交・国防を除く完全なない政治治験が付与され、普通選挙権も導入されます(注2)。この都市の選挙で人民行動党が、華人住民の支持を受けて圧勝。政権内では〈リー=クアン=ユー〉(李光耀)をはじめとする英語教育集団が握りましたが、共産主義グループとの対立は、マレー半島のマラヤ連邦と合併すべきかをめぐる議論を通じて1961年に表面化します。マレー半島の社会・経済的な結びつきを重視し大半の住民はマレーシアの一州としての独立を希望し人民行動党もそれを支持。それに対し共産主義グループは、反共産主義をとるマレーシアとの合併に反対します。
 しかし国民投票の結果マレー半島との合併が支持され、マラヤ連邦にシンガポール,ボルネオ島のサラワク・北ボルネオ(サバ)が加わる形でイギリスから独立することになりました。これがマレーシアとです【本試験H11ジャワ島はマレーシアの1州ではない】【追H20マレーシアの旧宗主国はイギリスか問う】。合併前のシンガポールでは、人民行動党による共産主義グループの弾圧が実施されました(注3)。

 なお、北ボルネオのサラワクやサバが,マレーシアに加入するかいなかをめぐっては,フィリピンやインドネシアが対立し,63年にともに国交を断絶しています(のち回復)。

 しかし,当初からマレーシアの参加に抵抗のあったシンガポールでは,ムラユ人を優遇政策に反発がおこり,インドネシアによる攻撃やテロも発生。そんな中、マレーシアとの経済・政治的軋轢(あつれき)が深まると、1965年8月9日にマレーシア連邦の〈ラーマン〉首相がシンガポールの「追放」を国民に宣言。こうしてシンガポール州政府を率いる〈リー=クアン=ユー〉(李光耀)はシンガポール【追H28 20世紀後半の独立か問う】【本試験H5】【本試験H14,本試験H18 14・15世紀ではない,H31インドネシアからの独立ではない】がマレーシア連邦【本試験H5】【本試験H14・H18ともにマラヤ連邦ではない】から分離独立せざるを得なくなりました。東京23区ほどの面積、人口は189万人という小国はただちに国連に加盟。独立後の〈リー=クアン=ユー〉(李光耀、1923~2015) 【上智法(法律)他H30】【慶商A H30記】が開発独裁(経済発展のために民主化をおさえる体制)を主導していくことになります(注4)。具体的には、人民行動党が一党支配体制を確立し、共産主義グループを支えていた華人労働者(労働組合を解散し政府主導の全国労働組合評議会を創設)・華語学校生(学生運動)・華人企業家(企業家団体)・華字新聞(マスメディア)を徹底管理していきました(注5)。またヨーロッパの小国スイスやイスラエルにならった国防体制をしき、1967年にはナショナル=サービスという国民徴兵制を導入しました(注6)。

 こうしてマレーシアは経済的な結びつきの強かったシンガポールを失い,マレー半島の11州と,ボルネオ島のサバ州とサラワク州の連邦制をとる立憲君主国家となり,国家元首の国王は,マレー半島の9つの州(11州のうちペナンとムラカ(マラッカ)を除く)から5年ごとに互選されることになりました。イスラーム教が国教となり,ムラユ語が国語とされました。

(注1) マラヤ連邦独立の際には、マレー人の特別な地位の承認、マレー語の国語化のほか、イスラームの国教化とスルタン制の存続に成功した。それは彼が、マレー半島のクダーの王子だからである。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年、p.52「アブドゥル・ラーマン」の項。なお、「スルターン」はスンナ派の政治権力者、君主に与えられた称号ですが、「スルタン」(長母音ではない)は東南アジアの島々がイスラーム化するプロセスで、在地の君主が王権の正統性を強めるために名乗ったものです。大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「スルタン」の項目、岩波書店、2002年、p.544。
(注2)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.69。
(注3)1963年の州議会選挙では人民行動党が51議席中37議席を獲得。しかし共産主義グループも13議席(得票率33%)と高い支持を獲得していました。これには共産主義グループが中国文化を中国語方言で語ったことが、英語教育集団の主導する人民行動党に比べ大衆の共感を買ったことが背景にありました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.76-77。
(注4)こうして、イギリスの支配したインドが、民族の対立を背景にパキスタンとインドに分離したように、マレーシア・シンガポールも2国家に分かれて独立することになりました。なお独立前の1962年にシンガポール東海岸一帯が整地された際、大量の白骨が出現。これは中国人粛清の犠牲者のものでいたが、イギリスが1951年の対日講和条約(サンフランシスコ条約)で日本に対する賠償を請求する権利を放棄していたので、シンガポールの華人が賠償金を請求する権利は形式的にはありませんでした。しかし長年にわたる交渉の末、日本が占領時に中国人に課した「強制献金」の額5000万シンガポールドル(約60億円)を、無償・有償協力金をして支払うことで1967年に決着。同年には華人系住民により慰霊碑が建てられました。岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、pp.46-47,53。
(注5)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.91。
(注6)岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.109。



・1953~1979年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア

 1954年にインドシナ戦争休戦のためのジュネーヴ会議が開催され,カンボジアの独立の尊重,ヴェトミン軍のカンボジアからの撤退が決まりました。
 カンボジアでは1955年に選挙が開かれることも決まりますが,カンボジアにはヴェトミン側に立って戦った兵士も多く帰還し,パリ帰りの急進派が議席を獲得する形勢となりました。
 そんな中,〈シアヌーク〉国王は1955年に王位を父に譲ると,人民社会主義共同体(サンクム)を結成。挙国一致体制をとり,サンクム以外の政党を禁じました。父に王位を譲ったのは,憲法の制約から自らを外すためです(注)。
 〈シハヌーク〉【追H29ベトナム国を建てていない】は絶大な人気を盾に全議席を獲得。1957年に左派の民主党を解散させ,抵抗組織は地下活動に転じます。これが,のちの〈ポル=ポト〉を準備するのです。
(注)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.24~p.25。



 〈シハヌーク〉翼賛体制は1960年代末まで続きます。国内では左派を弾圧しつつ,「中立」を称しながらアメリカ合衆国との対立を深め,中華人民共和国にも接近しバランスをとろうとしました。

 一方,この頃1951年に結成されていたクメール人民革命党の党員の多くは,教員として活動していました。その中で,パリ留学組の〈イエン=サリ〉,〈ポル=ポト〉が台頭。1960年にはカンプチア労働党と改称。しかし,その後は中華人民共和国との接近を強め,1966年頃には党名をカンプチア共産党(クメール=ルージュ)と改称します。

 そんな中,1970年3月,〈シハヌーク〉国家元首がフランス休暇旅行の帰りにソ連を訪れていたとき,アメリカ合衆国のCIAとの結びつきを得た〈ロン=ノル〉首相がクーデタを敢行。それに対して〈シハヌーク〉は中華人民共和国の〈周恩来〉の支援を受けて〈ロン=ノル〉打倒を宣言。カンボジア民族統一戦線が結成されます。
 〈ロン=ノル〉首相は共和国を宣言して大統領に就任しますが,ヴェトナム系住民への虐殺事件も起き,〈ロン=ノル〉自身も1971年に脳卒中となり倒れ,政権はガタガタ(注1)。〈ニクソン〉大統領は1970年に南ヴェトナム政府軍とアメリカ合衆国軍をカンボジアに投入されるも,カンボジア民衆の反感は高まる一方。〈ロン=ノル〉政権も劣勢に追い込まれ,国内にはクメール=ルージュとヴェトナム共産党軍による「解放区」が拡大していきました。〈シハヌーク〉もごきげんです。

 しかし,1972年頃からクメール=ルージュと,ヴェトナム共産党や〈シハヌーク〉派との間に対立がみえはじめます。1973年のパリ和平協定調印により,ヴェトナム共産党もカンボジアからの撤退を開始。1975年に〈ロン=ノル〉政府軍は完全に降伏し,内戦は終結しました。
 
 プノンペンに入城してきたのは,〈ポル=ポト〉(1928~1998) 【追H20】率いるクメール=ルージュでした。彼は〈毛沢東〉思想の影響を受け,民主カンプチアを建国。すぐさま都市住民400万人(注2)の即時強制退去が始まります。

 「国民全員が農業に従事することで原始共産制による“みんな平等”の理想社会がつくれる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。〈ポル=ポト〉の政策は,伝統的な上座仏教を否定し(民主カンプチア新憲法20条),教育を否定し国民全員が肉体労働に従事(憲法前文),「新文化」を礼賛し植民地主義・帝国主義に汚染された旧文化を否定(第3条),国際援助を拒否(第21条)するものでした。徹底的な「自立」にこだわる路線は,植民地時代のカンボジアの置かれた状態に対する,極端な形の“裏返し”でもありました。

 餓死・栄養失調,病死を考慮し,粛清・処刑・虐殺の犠牲者を見積もっても,総数は150~200万人にのぼるといわれています。なお,1975年の総人口は789万人でした(注3)。首都プノンペンのツールスレンの高校の校舎は尋問・拷問・虐殺の舞台となり,現在では「大量虐殺犯罪博物館」として公開されています。
 〈ポル=ポト〉派の政権時代,〈シハヌーク〉はプノンペンに軟禁されていました。

 1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し〈ヘン=サムリン〉議長による親ヴェトナム政権を樹立しました。〈シハヌーク〉一家らは中国・北京に脱出,〈ポル=ポト〉は北西部に逃れてジャングルの奥に身を潜めました。ヴェトナムのカンボジア進出に対し,中華人民共和国とタイは〈ポル=ポト〉を支援。
 カンボジア民衆にとっては「ようやく〈ポル=ポト〉政権が終わった…」という安堵が大きかったのですが,中華人民共和国による外交もあって,カンボジアに進出したヴェトナム社会主義共和国は国際的批判にさらされます。翌年には,中華人民共和国との間に1979年に中越戦争が勃発します。この社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
 アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てます。これがカンボジアの悲劇です。
(注1,2)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.38~p.39,p.68,p.154。




・1953~1979年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー

 ビルマでは,タキン党出身の〈ウー=ヌ〉(1948~56,57~58,60~62)が,暗殺された〈アウンサン〉を引き継ぎ,イギリス連邦を離脱しビルマ連邦として独立を達成していました。彼は上座部仏教を中心とした国づくりを進めていきました。
 しかし,多民族国家であるビルマ連邦は,北部のアヘン栽培地帯(ゴールデン=トライアングル)に独立を目指す,漢人系のコーカン人,モン=クメール系のワ人やタイ系のシャン人などが分布しており,ここに初め中国国民党の残党やビルマ共産党が麻薬ビジネスで拠点を築き,ビルマ連邦政府と対立を深めていました。また,イギリス統治の影響を受けキリスト教徒の多かった南部のカレン人なども独立運動を起こします。
 
 〈ウー=ヌ〉は,1954年にコロンボ会議【早商H30[4]記】に参加し,翌1955年にアジア=アフリカ会議にも参加するなど,米ソから距離をとって「第三世界」を建設しようと試みました。しかし,国内の独立勢力との戦いの過程で国軍の発言権が増していき,タキン党出身の〈ネ=ウィン〉大将が1958年に内戦を収める形で首相に就任しましたが。
 混乱が収拾すると,1960年の総選挙で〈ネ=ウィン〉は一旦〈ウー=ヌ〉(1907~1995)に譲りましたが,今度は1962年に〈ネ=ウィン〉クーデタを起こして,革命評議会議長として大統領(任1962~81)兼首相となり,長期間にわたる軍事独裁政権が始まることになります。彼はビルマ社会主義計画党を立ち上げ,米ソと距離を置いて上座仏教の要素もミックスした“ビルマ流”の社会主義国家を建設しようとしながら,北部の少数民族や麻薬地帯に拠点を置く反政府勢力の掃討も続けられました。
 1974年には新憲法を制定しビルマ連邦社会主義共和国を樹立しましたが,一党独裁体制や粛清,“鎖国”体制によって社会・経済が停滞していきました。




○1953年~1979年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1953年~1979年のアジア  南アジア 現①ブータン
 1964年には海外技術協力事業団の一員として〈西岡京治〉(1933~1992)がブータンに渡り,農業指導をはじめました。ブータン“農業の父”といわれます。



・1953年~1979年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 セイロン島のセイロンでは,1956年にスリランカ自由党の〈バンラダナイケ〉首相がタミル人を排斥する政策(シンハラ=オンリー政策)をとり,上座仏教を保護し,シンハラ語を公用語に制定。これがのちのシンハラ人とタミル人の民族紛争の火種となります。彼はのちに暗殺されました。

 1972年には第4首相〈バンラダナイケ〉の妻〈バンダラナイケ〉が第7代首相に就任。彼女も仏教を保護し,セイロンを共和制に移行させ,国名はスリランカ共和国としました。
 そんな中,タミル人の分離独立派のうち暴力的な一派が,タミル人の建国を目指し活動を開始。
これがのちにタミル=イーラム解放の虎(LTTE)に発展します。

 1977年以降は経済の自由化がすすめられる一方,1978年には大統領制をとる「スリランカ民主社会主義共和国」と国名が改称されました。




・1953年~1979年のアジア  南アジア 現④モルディブ
 モルディブは1887年以来イギリスの保護国となっていましたが,1953年に君主制が廃止されてモルディブ共和国となりました。しかし,その直後に君主制に逆戻り。1965年にスールタンを元首とするモルディブ=スールタン国として独立しました。
 しかし,1968年には国民投票で再び共和国となっています。初代は〈ナシル〉(任1968~1978)大統領です。その後1978年に〈ガユーム〉が第2代大統領となっています。
 なお,この時期のモルディブはイギリス連邦には加盟していません(加盟は1982年。脱退は2016年)。



・1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑤インド
 インドでは,国民会議派の〈ネルー〉政権(任1947~64)が続き,1954年にはフランス領であったポンディシェリー(タミル語でプドゥッチェーリ) 【東京H27[3]】とシャンデルナゴル(1952年に行政権を返還,ベンガル語でチョンドンノゴル)を,1961年にはポルトガル領であったゴアを併合しました。
 1962年には,世界がキューバ危機に注目する中,中国との間に中印国境紛争【本試験H15時期(ネルーの首相在任中かを問う)】【追H17中ソではない】が勃発しています。チベットから〈ダライ=ラマ14世〉がインド【東京H12[2]】に亡命してきたことで,中国とインドの関係も悪化。中国は,インドと対立したパキスタンを支援するようになり,中国との関係の悪化していたソ連はインドを支援するようになりました。インドは1974年に核兵器を保有するに至ったのは,この紛争がきっかけです。中国はカシミールの東部のアクサイチンを現在にいたるまで実効支配しています。
 しかし,1964年に〈ネルー〉が病気で亡くなり,後継者となった〈シャーストリー〉首相(任1964~66)は1966年に急死し,〈ネルー〉【本試験H8】の娘の〈インディラ=ガンディー〉【本試験H15問題文(直接は問われていない)】【本試験H8父がインド首相か問う。父はパキスタン大統領ではない,夫はセイロン(スリランカ)首相・バングラデシュ大統領ではない】があとを継ぎました。彼女は旱魃(かんばつ)による食糧危機をなんとか乗り切りつつ,1965年からは第二次印=パ戦争が始まり,67年の選挙も惨敗,財政的にも政治的にも苦境となります。
 彼女は「緑の革命」という農業部門の近代化により,農業生産の生産性を向上させ食料の安定供給を実現し,工業化の進展につなげようとしました。銀行を国有化するなどの社会主義的な政策をとり,国民の下層に訴える大衆主義(ポピュリズム)で,1971年の下院選挙では国民会議派の勢力を盛り返しました。71年のバングラデシュの独立【追H20独立はビルマからではなく,パキスタンから】をめぐる第三次印=パ戦争にも勝利しました。彼女は,1971年に米中接近に対抗し,米ソ平和友好協力条約を結んでいます。
 しかし,石油危機の影響もあって経済は停滞したままでしたが,〈インディラ〉は非常事態宣言を発令して強権政治を行い,野党指導者らを投獄。こうした手法に批判が集まり,1977年の選挙で人民党(ジャナター党)に政権が交代しました。こうしてインドにおけるインド国民軍派の一党優位政党制は幕を閉じたのです。
 人民党の〈デサーイー〉首相は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では〈インディラ〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々がインド人民党(BJP;バラティア=ジャナタ党) を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになります。





・1953年~1979年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑥パキスタン
 インドから分離したパキスタンは政教分離を原則としたものの,新たな国づくりのために「イスラーム教徒であること」が国民の条件,国の根本とされるようになっていきました。1956年に制定された憲法で,国名はパキスタン=イスラム共和国とされました。
 1958年には軍人〈アユーブ=ハーン(カーン)〉(首相在任1958,大統領在任1958~69)がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で独裁をしき,68年まで続きました。アメリカとの結びつきが強く(1972年にイギリス連邦を脱退),ソ連との結びつきの強いインドとの対立も背景にありました。インドと対立している中国とは友好関係を結んでいます。
 インドとは,1947~48年,1965年,1971年の3度にわたり印パ戦争を起こしています。1度目の戦争は,北部のカシミール地方の領有権をめぐる争いです(カシミール紛争【東京H24[1]指定語句】)。カシミール地方はインド帝国時代,ヒンドゥー教徒の藩王が治めていましたが,住民の多くはイスラーム教徒だったため,パキスタンとインドのどちらに帰属すべきか,いざこざが起きたのです。
 3度目の戦争では,ベンガル人の多い西部のパキスタン(パキスタンはイスラーム教徒の多い地区で構成されていたため,ベンガルの東部も「東パキスタン」として,飛び地としてパキスタンの一員でした)の独立をインドが支援。1971年にバングラデシュとしてパキスタン【本試験H16】【追H20ビルマ(ミャンマー)ではない】から独立しました【本試験H16時期(1970年代)】。
 その後1977年には〈ブットー〉大統領が,〈ジアウル=ハック〉陸軍参謀長によるクーデタ後に処刑され,〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。この間,パキスタンでは刑法にイスラーム教の厳格な規範が導入されるなど,イスラーム的な政策がとられました。〈ブット〉の娘〈ベーナジール=ブット〉はのちに,1989年首相となります。


・1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑥モルディブ
 モルディブは1887年以降,イギリスの保護国で,君主制がとられていました。
 しかし1953年に共和政に移行し〈アミン〉が大統領に就任。しかし,1年足らずで崩壊し,王政復古。そのまま1965年にスルターンを君主とするモルディブ=スルターン国として独立しました。
 その後,1968年に,国民投票で共和制に移行しています(モルディブ共和国)。イギリス連邦には加盟していません。





・1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 1951年に宰相を独占していたラナ家を排除し,立憲君主政となっていたネパール。
 1953年にニュージーランド出身の〈ヒラリー〉(1919~2008)とチベット人シェルパの〈テンジン〉(1914~1986)が,人類初のチョモランマ(エベレスト山)の登頂を果たします。
 1955年に〈マヘンドラ〉(位1955~1972)が国王に即位。1959年の総選挙でネパール国民会議派が政権をとると,1960年に国王は議会を解散。1962年の新憲法で政党が禁止され,国王に権力を集中させる「パンチャーヤト制」をはじめます。国王はヒンドゥー教を保護し,チベット仏教徒の不満も高まりました。
 1972年には〈ビレンドラ〉(位1972~2001)が国王に即位。国民の声をとりいれ,父の創始した「パンチャーヤト制」を改革する方針をとっていきます。静岡県熱海市にある早咲きのヒマラヤザクラは,親日家である〈ビレンドラ〉が記念贈呈したものです。






●1953年~1979年のインド洋海域
◆インド洋は依然としてイギリスとフランスの勢力下にあるが,イギリスがスエズ以東からの撤退を決めると,アメリカ合衆国の進出も強まる

インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 イギリスに保護国化されていたモルディブではスルターンを元首として独立し,1968年に国民投票によってモルディブ共和国となりました。1978年には初代〈ナシル〉大統領(任1968~78)から〈ガユーム〉大統領(任1978~2008)に交替し,長期政権を維持することになります。



 モーリシャスは1814年からイギリス領となっていましたが,1968年に独立を果たしました。しかし,独立にあたっては,以下のような複雑な経緯を経験しています。
 一方,1962年に中印国境紛争が起きると,アメリカ合衆国政府はインド洋の防衛をイギリスに任せるのではなく,アメリカみずから社会主義勢力から守ろうとする姿勢を強めるようになります。アメリカは1963年には第七艦隊の一部をインド洋に派遣し,イギリス・アメリカ間の交渉の末,1966年にディエゴガルシア島はアメリカ合衆国に貸与されることになりました。モーリシャスの独立への準備も進んでいたので,イギリス政府はディエゴガルシア島のみをアメリカ合衆国に貸与するために,協定を結んでディエゴガルシア島を含むインド洋の島々をモーリシャスから分離させ,「インド洋英領」として自国領土とする周到さをみせています(代償金がモーリシャスに支払われました)。こうしてイギリスはアメリカ合衆国の力を借りることでインド洋での軍事的な支配を継続させようとし,アメリカ合衆国はイギリスの力を残しつつインド洋への軍事的な進出を図ろうとしたわけです。さらにイギリスは1971年にディエゴガルシア島の住民を,モーリシャス(一部はセーシェル)に強制移住させました(注)。
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。



 フランスの植民地支配下にあったマダガスカルは,1958年にフランス共同体内での自治が承認。1959年に初代大統領〈ツィラナナ〉(任1959~1972)が選出され,1960年の「アフリカの年」に「マダガスカル共和国」として独立を達成しました。
 しかし,フランスの影響力は政治・経済・文化的に残されたままで,〈ツィラナナ〉に対する批判が1972年に暴動に発展。〈ツィラナナ〉は権限を軍に移譲し,社会主義政策がとられましたが,政情は不安定なまま。

 1975年に元軍人の〈ラツィラカ〉が大統領に就任し,長期政権を実現。国名もマダガスカル共和国からマダガスカル民主共和国に変更され,外国資本を国有化して社会主義政策を実行し,東側諸国と友好関係を樹立しました。



 マダガスカル島の東に位置するレユニオン島は,フランスの領土です。
 モザンビークの北部沖に位置するコモロ諸島はフランスの保護領です。3億8000万年間存在している古代の魚「シーラカンス」が現存することでも有名ですね(1938年に発見)。
 セーシェルはイギリス領です。

 フランスは,レオユオン島のほか,インド洋の南部にアムステルダム島,クロゼ初頭,ケルゲレン諸島をフランス領南方=難局地域として領有しています。 
○1953年~1979年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

 ソ連の最高指導者〈スターリン〉書記長(任1922~1953)が亡くなって“雪解け” 【本試験H10時期(1950年代か問う)】ムードの高まる中,1954年4月26日にスイスのジュネーヴでインドシナ戦争の和平交渉が始まりました。
  旧宗主国が主導して和平交渉を進める中,「それじゃあ第二次世界大戦前と全然変わっていないじゃないか」と,インド,スリランカ,インドネシア,パキスタン,ビルマが立ち上がりました。4月28日~5月2日に,1954年に中華人民共和国の〈周恩来〉首相【本試験H15毛沢東ではない】が,インドの〈ネルー〉首相(任1947~64)に働きかける形でスリランカのコロンボで5か国首脳が会談し(コロンボ会議【早商H30[4]記】),平和五原則【本試験H9】【本試験H17時期(1970年代ではない)】【追H20】【早商H30[4]記】を発表したのです。
 1)領土と主権の相互尊重(僕たちの領土に首突っ込まないでね)
 2)相互不可侵(勝手に攻め込んだりしないでね。僕たちもしないから)
 3)内政不干渉【追H20】(僕たちの政治に首突っ込まないでね)
 4)平等互恵(どちらかだけが得をするしくみはやめましょう)
 5)平和共存(武力を行使することなく,平和でいきましょう)
 【追H20自由貿易,民族自決,集団安全保障は含まれない】
 要するに,19世紀以降,欧米がさんざんやってきた所業を,真っ向から批判したわけです。「ここは,アメリカ合衆国の勢力圏でも,ソ連の勢力圏でもないぞ!」と。アメリカ・ソ連のどちらの陣営にもつかなかった国を,そのどちらにも属しない,つまり第一でも第二でもないという意味で「第三世界」(サード=ワールド)と呼びます。5か国は,インドシナ戦争の早期停止や,仏領インドシナからのヴェトナム,カンボジア,ラオスの完全な独立を主張しました。
 5月には,3月から起きていたディエンビエンフーの戦い【東京H24[1]指定語句「ディエンビエンフー」】でフランス軍が大敗。ジュネーヴ休戦協定は7月21日に締結されインドシナ戦争は停戦,フランスは仏領インドシナから撤退しました。ヴェトナム,カンボジア,ラオスの独立は認められましたが,ヴェトナムは南北に分離することとなり,1956年7月に自由選挙が実施され統一されることが定められました。
 しかし,フランスの撤退を機に東南アジアに社会主義化が広まることを恐れた西側諸国は,1954年9月にアメリカ合衆国,イギリス,フランス,オーストラリア,ニュージーランド,パキスタン,フィリピン,タイが東南アジア条約機構(SEATO,シアトー(英語ではシートー) 【本試験H7】【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】,1954~77解消)という反共産主義の軍事同盟が結成されました。

 こうして1955年にはアジア・アフリカの独立国が,インドネシアのバンドンで,反植民地主義のために一致団結するためのアジア=アフリカ会議(バンドン会議) 【本試験H7非同盟諸国首脳会議ではない】【本試験H25第二次大戦中ではない,H29共通テスト試行 オーストラリアの主催ではない】【追H19】を開きました。中国の周恩来,インドのネルー,さらにエジプトのナセル大統領も参加しています。日本も含めて29か国の参加国で,平和五原則をベースとした平和十原則(世界平和と協力の促進に関する共同宣言)を宣言しました。アジア,アフリカ諸国は「みんなでまとまれば怖くない」という形で,大国に対抗しようとしたわけです。

 なかでもエジプトはムハンマド=アリー朝の〈ファールーク1世〉(位1936~52)が支配していましたが,その親英的な姿勢には,批判が集まるようになっていました。そんな中,自由将校団という政治グループを結成した〈ナセル〉(1918~70)が,第一次中東戦争で活躍して人気となっていた〈ナギブ〉(1901~84)を自由将校団の団長に推し,〈ナセル〉とともに1953年に王政を倒すことに成功しました(エジプト革命)。〈ナギブ〉は初代首相・初代大統領を兼任しますが,〈ナセル〉は〈ナギブ〉を“独裁”と批判してクーデタを起こし,首相,次いで大統領に就任しました。
 〈ナセル〉は,ナイル川上流にアスワン=ハイ=ダム【本試験H29時期】を建設する計画をすすめます。イギリスとフランスは,エジプトを支配下にとどめようと資金援助を画策しますが〈ナセル〉はそれを拒否。代わりにソ連を頼ったのです。
 さらに1956年にはイギリスの駐留していたスエズ運河を国有化【東京H8[1]指定語句】。それに対して英仏がイスラエルも交えてエジプトを攻撃しました(第二次中東戦争)。当初から反対していたアメリカが介入する形で停戦し【本試験H15アメリカはイギリス・フランスに反対し,パレスチナに侵攻はしていない】,エジプトはスエズ運河の国有化【東京H24[1]指定語句】に成功したのです。
 名声の高まったナセルは「アラブ人を一つにまとめよう!」と声をあげますが,なかなかそういうわけにはいきません。「封じ込め政策」の一環としてアメリカ合衆国は1955年にバグダード条約機構(中東条約機構,METO(メトー))を結成しました【本試験H30ソ連は参加していない】。参加国は,西からトルコ,イラク,イラン,パキスタンです。中東にソ連の影響力がおよぶことを防ごうとしたものですが,1959年にイラクで革命が起き(イラク革命),ソ連寄りの政策となると,イラク抜きの中央条約機構(CENTO(セントー) 【セA H30ワルシャワ条約機構とのひっかけ】,1959~1979イラン=イスラーム革命により解消)に縮小してしまいました。ソ連寄りの政権は,イラク,シリア,エジプトで,アラブ人の国々は,こうして米ソ冷戦の構図に巻き込まれていったのです。

 イラクでも1958年に王政が廃止され(イラク革命),〈カーシム〉(1914~63,在任1958~63)により独裁体制がしかれました。その後63年に〈カーシム〉は追放・処刑され,社会主義的な政策をとるバアス党による新政府ができましたが,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が続き不安定でした。
 イランでは,アメリカの資本がからんでいる石油会社と癒着した国王〈パフラヴィー2世〉(位1941~79)が,父の退位後に即位し,独裁体制をとるようになりました。
 また,イギリスの保護下にあった地域が70年代初めにかけ次々と独立していきます。1961年には世界第2位の油田を持つクウェートが,67年に南イエメンが,そして71年にカタール,バーレーン,そしてアラブ首長国連邦【本試験H14時期(1970年代)】が独立しました。
 こうして中東は,石油の利権を通してアメリカ側につくサウジアラビア,イラン。そして,どちらかというとソ連側につくエジプト,シリア,イラクに分裂していきます。

 さて,イスラエルの問題はどうなったでしょうか。1967年にエジプトはイスラエル軍に奇襲され【本試験H15】,これに対するエジプト,シリア,ヨルダンが敗北しました(第三次中東戦争【本試験H14第四次中東戦争ではない】)。このときのイスラエル【追H21ヨルダンではない】の占領地は,シナイ半島【本試験H26第一次中東戦争ではない】,ヨルダン川西岸地区,ガザ地区,ゴラン高原【本試験H14第四次中東戦争ではない】【追H21第3次中東戦争のときに,「ヨルダン」が占領したわけではない】です【本試験H15地図(このときの占領地域の位置がわからないと解答できない)】。

 併合されたヨルダン川西岸地区には,東イェルサレムも含まれます。「嘆きの壁」「岩のドーム」「聖墳墓教会」を含む東イェルサレムは1950年にヨルダン領になっていたところですが,イスラエルの占領下に置かれることになったのです。「嘆きの壁」の前のマガーリバ地区に住んでいた約650人のアラブ人の住居135戸は破壊され,広場がつくられました(注)。
 国連は決議を出し,イスラエルに占領地を返すように呼びかけ,アラブ人にはイスラエルの生存圏を認めるように求めました(国連安保理決議242号)。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,p.B-732。

 その後もパレスチナ人の急進派は,武力によるパレスチナの解放とパレスチナ国家の建設を目指し,パレスチナ解放機構(PLO) 【東京H7[3]】【本試験H15】【セA H30】【追H17第三次中東戦争アラブ諸国の敗北をきっかけに作られたのではない】を中心としたゲリラ作戦を展開していきました(1964年に設立)。

 議長となったのは〈アラファト〉(任1969~2004) 【本試験H2519世紀のパン=イスラーム主義者ではない】【追H18】【セA H30】です。
 1993年にはパレスチナ暫定自治協定(いわゆる「オスロ協定」)【本試験H15】がアメリカ合衆国〈クリントン〉大統領の仲介の下,ワシントンD.C.でパレスチナの〈アラファト〉とイスラエルの〈ラビン〉首相との間で締結されました。これによりパレスチナ自治政府が成立し,エジプトのシナイ半島に近いガザ地区と,ヨルダン川西岸地区のイェリコでの先行自治が認められました(イスラエルの〈ラビン〉と〈シモン=ペレス〉,パレスチナの〈アラファート〉は1994年にノーベル平和賞を受賞しました)。
 パレスチナ自治政府は2012年に国際連合に国家として承認されましたが,日本やアメリカ合衆国は承認していません。この解放活動に加わった者の中には,主に18世紀以降のヨーロッパ人が東洋の姿を題材にした文学作品や学術研究のウラには,ヨーロッパ人=優れている=文明的で,東洋人=劣っている=野蛮という固定観念が前提にあったのだということを『オリエンタリズム』(1978)で暴いた〈エドワード=サイード〉(1935~2003)という思想家がいます。

 パレスチナの解放に現実味がなくなるにつれて,アラブ諸国は「先進国の発展の基盤となっている石油価格を利用することで,先進国が応援しているイスラエルを揺さぶることができるのではないか」と考えるようになりました。1968年にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC,オアペック)が設立され,先述のとおり,1971年までにはイギリスがアラビア半島に持っていた保護国も独立しました。
 第三次中東戦争で失った領土を取り返そうと,エジプト【追H17シリアではない】の〈サーダート(サダト)〉大統領(任1970~81) 【追H17】 【上智法(法律)他H30】は1973年にシリアと共同して,パレスチナ人の権利を取り戻すために,イスラエルを攻撃しました(第四次中東戦争)【追H27 時期は1970年代ではない】。

 このときOAPECは,アラブ諸国側に立たない国家に対して石油輸出を制限【本試験H9値下げ・過剰供給によるものではない】する「石油戦略」【本試験H4サウジアラビアなどのアラブ産油国はイスラエルを支援していない】【本試験H15第三次中東戦争のときではない】【慶商A H30記述(内容短文説明)】を実施したため石油価格が高騰しました。これを第一次石油危機(オイル=ショック)といいます。
 第四次中東戦争の結果,占領地はパレスチナ側に返還されることはありませんでしたが,1974年にPLOは国際連合のオブザーバーとして認められました(会議の議決権は持たないが,参加することができる資格)。また,従来は欧米先進国が世界の石油の生産量や価格に,巨大石油会社(石油メジャー)を通じて影響力を及ぼしていましたが,発展途上国を中心とするOPEC(石油輸出国機構)が,石油の生産量・価格に対する発言権を高めることにもつながりました。
 1974年には国連資源特別総会が開かれ,新国際経済秩序(NIEO,ニエオ)の樹立に関する宣言が採択されました。この中で,先進国の多国籍企業の活動が制限されるべきこと,途上国の資源が安く買い叩かれることがないように特恵関税制度を設けて公平な貿易(フェア=トレード)がなされるべきこと,途上国の資源は途上国に主権があることなどが確認されました。
 石油危機後の一連の経済的な変化にともない,日本を含む欧米では経済成長にブレーキがかかりました。そして,「福祉国家」や「大きな政府」と呼ばれる「社会福祉のために多くの予算をかける」路線から,「新自由主義」と呼ばれる「政府の予算や規制を減らし,民間企業の活動を活発化させようとする」路線に転換するきっかけにもなりました。
 エジプト【追H17シリアではない】の〈サーダート(サダト)〉大統領(エジプト大統領在任1971~81) 【本試験H15ナセルではない】【追H17、H21】【上智法(法律)他H30】は,1978年にはアメリカ合衆国の〈カーター〉大統領【本試験H9】の仲介でキャンプ=デーヴィッド合意を結び,1979年にイスラエルとの平和条約(エジプト=イスラエル平和条約) 【本試験H15ナセルのときではない】【追H17、H21(名称は問わない)】を成立させ,シナイ半島【東京H28[1]指定語句】を取り戻しました【追H21】(エジプトの〈サダト〉とイスラエルの〈ベギン〉首相は1978年のノーベル平和賞を受賞,〈カーター〉大統領は退任後の2002年にノーベル平和賞を受賞)。
 しかし事実上パレスチナ問題をうやむやにしたまま,イスラエルと和平を結んだエジプトに対して,アラブ世界からは当然ながら批判が相次ぎます。結局、〈サーダート(サダト)〉大統領は1981年に暗殺されてしまいました。

 こうして,アメリカ合衆国の後押しによるエジプトの離脱によって,パレスチナ問題をめぐるアラブ世界は,“一枚岩”ではなくなるのです。




・1953年~1979年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 アフガニスタンの君主は従来のアミールから,1926年に「シャー」に変更しており,これ以降はアフガニスタン王国と呼ばれています。〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下の1953年,ソ連に近い,国王のいとこ〈ダーウード〉が首相に就任すると,イスラーム教徒の指導者や国民の間で反発が強まりました。〈ダーウード〉はソ連の支援を受けて軍隊を近代化させようとしていたのです。〈ダーウード〉はウラマーの会議を弾圧すると,イスラームを学ぶマドラサの学生の反発も高まります。
 そんな中1973年にクーデタを起こし,〈ザーヒル=シャー〉を追放して,共和制を樹立。アフガニスタン共和国の大統領に就任しました(大統領任1977~78)。〈ダーウード〉はイスラーム主義者や反対派を弾圧しましたが,1978年に軍によるクーデタが起きて殺害されます。
 代わって〈タラキー〉(1917~1979)が,新たにアフガニスタン民主共和国の1978年に革命評議会議長・首相・大統領(任1978~79)に就任し,ソ連に接近して急激な社会主義化をすすめます。しかし1979年に副首相の〈アミーン〉との内部抗争が勃発すると,〈タラキー〉は〈アミーン〉により追放され,〈アミーン〉が革命評議会議長(任1978~1979)に就任しました。
 しかし〈アミーン〉政権に敵対的なソ連は,アフガニスタンに軍事侵攻(ソ連のアフガニスタン侵攻)し,代わりに〈カールマル〉(位1929~96)を支援して革命評議会議長に就け,実権を握ることになります。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現②イラン
 1953年に民族主義者の〈モサッデグ〉首相は,アメリカ合衆国の諜報機関CIAの介入により逮捕され,〈モハンマド=レザー=シャー=パフラヴィー〉(位1941~79)が新首相を任命しました。シャー(国王)はこの“恩返し”にアメリカ合衆国を初めとする西側諸国に国内の石油利権を潤沢に供与。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
 1961年になるとシャー(国王)は国内の経済・社会の急速な西欧化・近代化を初め(“白色革命”と呼ばれました),農地改革とともに外資を呼び込んで石油採掘を推進しました。1973年の第四次中東戦争ではアメリカ合衆国側に立ち,石油戦略(イスラエルと親イスラエル諸国に対する石油の禁輸)は行わず,原油高の恩恵を受けました。
 しかし,こうした近代化による発展の恩恵は貧困層には伝わらず,1978年になるとイスラーム教のウラマーの指導する反政府運動が活発化。1979年1月にシャー(国王)がイランを去り,代わって絶大な支持を受けたイスラーム教指導者〈アーヤトッラー=ホメイニー〉(1902~1989)が2月に亡命先のフランスから帰国し,イラン=イスラーム共和国【東京H28[1]指定語句】の最高指導者となりました。これをイラン=イスラーム革命といいます。




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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現③イラク,④クウェート
 イラク王国は西側諸国に接近し,1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。しかし,西アジアの中で〈ナーセル〉大統領率いるエジプトが1958年にシリアとともにアラブ連合共和国を結成して地域の覇権を確立しようとすると,同年にはおなじハーシム家の王家のヨルダンとともにアラブ連邦を組織しました。
 しかし1958年には自由将校団がクーデタを起こして王制が倒れ,〈カーシム〉が首相に就任しました(イラク共和国)。〈カーシム〉はエジプトに対抗し,ソ連に接近。石油企業を国有化し,1960年には欧米の石油資本(石油メジャー)に反発するイラン,クウェート,アウジアラビア,ベネズエラの5か国がバグダードに集まって石油輸出国機構(OPEC)を組織しています。そんな中,イギリスの保護領となっていたクウェートにイラク共和国が影響を及ぼそうとすると,イギリスはクウェートを支援して1961年に独立させています(クウェートの独立)。クウェートではサバーハ首長家による支配が続いていましたが,1962年に憲法が制定され,首長・国民議会・内閣による立憲君主制となりました。
 しかし1963年には,反エジプト派の〈カーシム〉政権に対し,エジプトに接近するバアス党によるクーデタが起こり,〈カーシム〉政権は倒れ,バアス党政権となりました。しかし同年には再度バアス党に反対するクーデタが起き,エジプトの〈ナーセル〉と友好関係を結ぶ政権に代わります。
 その後,1968年には再度バアス党政権となり,1972年にはソ連と友好条約を締結しています。1973年の第四次中東戦争に際しては,他のOPEC諸国とともにイスラエルと親イスラエル諸国に対する“石油戦略”をとったことから第一次石油危機が勃発しました。
 なお,1961~70年,1974~75年の2度に渡り,イランの支援する北部のクルド人(クルド民主党)を率いる〈バルザーニー〉(1903~1979)との間に,自治の是非を巡る戦争が勃発しました。クルド人の分布するイラク北部は産油地帯であり,イラク政府にとっては支配下に置きたい場所でした。この戦いのイラク側の司令官〈サッダーム=フセイン〉(任1937~2006) 【東京H28[1]指定語句】の影響力が増し,1979年に大統領に就任し実権を掌握することとなります。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦
 1968年にイギリスはスエズ以東から軍事撤退することを表明。
 イギリスの保護下にあったバーレーン王国はハリーファ家による立憲君主制の国家として1971年にイギリスから独立しました。
 イギリスの保護下にあったカタール国は,1971年にイギリスから独立しました。
 同じくイギリスの保護下にあったペルシア湾岸の首長国群(トルーシャル=オマーン)は,アブダビ首長国とドバイ首長国が主導し,1971年にシャールジャ首長国,アジュマーン首長国,ウンム=アル=カイワイン首長国,フジャイラ首長国が連合してアラブ首長国(UAE)を結成。1972年にはラアス=アル=ハイマ首長国も加盟しました。当初はバーレーン王国とカタール国との連合も模索されましたが実現はしませんでした。


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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑧オマーン
 オマーン国(スルターン国)はイギリスの保護下にありましたが,1970年に皇太子によるクーデタで父王が追放され,1971年に独立しました。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 イエメンの北部にはオスマン帝国の崩壊に合わせイマームによる王国が独立していましたが,1962年に軍が革命を起こして共和制となり,イエメン=アラブ共和国(北イエメン)が建国されました。
 1839年にイギリスの保護領となっていたイエメンの南部では,1962年に南アラビア連邦が成立し,1967年には南イエメン人民共和国としてイギリスの支配から脱します。1969年に社会主義政権となり,1970年にイエメン民主人民共和国(南イエメン)に名称を変更。
 冷戦構造に巻き込まれ,ソ連側の支援する南イエメンと,西側諸国の支援する北イエメンとの間に,たびたび抗争が起きました。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
 サウジアラビア王国では1953年に初代国王〈アブドゥルアズィーズ=イブン=サウード〉(位1932~1953)が亡くなり,初代国王の息子の〈サウード=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1953~64)が継ぎました。
 1964年には,やはり初代国王の息子〈ファイサル=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1964~75)が後を継ぎます。1973年にはOPECとともに“石油戦略”をとり,第一次石油危機を発生させました。
 1975年に先代の王が暗殺されると,おなじく初代国王の息子〈ハーリド=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1975~1982)が就任しています。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア
 ヨルダン=ハシミテ王国では暗殺されたハーシム家の〈アブドゥッラー1世〉(位1946~51)が,東イェルサレムへの進出を図って,暴力的なパレスチナ人によって暗殺されると,短期間の〈タラール1世〉(位1951~52)を経て,その子の〈フセイン1世〉(位1952~1999)が後を継ぎました。
 ヨルダンは西側諸国との関係を深めますが,1967年の第三次中東戦争ではヨルダン川西岸地区をイスラエルに占領されたため,多数のパレスチナ難民がヨルダン側に流入していました。
 当初はヨルダン政府もヨルダン川西岸地区を取り返す強硬策をとろうとしていましたが,後に現実主義的な路線をとるようになり,あくまで強硬路線を続けようとしたPLO(とくにPLO内部の暴力的なPFLP)と対立。PFLPが1970年に同時ハイジャック事件を起こすと,ヨルダン政府は本部を首都アンマンに置いていたPLOに対して攻撃を仕掛けます(「黒い九月」(ブラックセプテンバー))。結局,エジプトの〈ナーセル〉大統領の仲介の下,PLOは本部をレバノンに移動させることとなりました。このときシリアはPLOを支援しヨルダンに侵攻していますが,のちに空軍軍人〈ハーフィズ=アル=アサド〉(大統領任1971~2000)がクーデタを起こして政権を樹立しています。
 また,この事件の報復としてPLFPのメンバーは1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン五輪の際,イスラエル選手団を殺害する事件を起こしています(ミュンヘンオリンピック事件)。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロスは1960年にイギリス連邦内の共和国として独立。
 1963年以降,沿岸のトルコとギリシア間の領土争いを背景として,島に住むギリシア系住民とトルコ系住民との間で紛争が勃発(キプロス紛争)。
 1974年に,ギリシアの軍事政権が介入してに南部に親ギリシア政権が樹立(キプロス=クーデタ)。トルコ系住民の多い北部をトルコが支援し,南部の親ギリシア政権とのにらみ合いが続きます。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
 トルコ共和国は西側諸国に接近し,1952年にNATOに加盟。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
 1960年には軍がクーデタ(5月27日クーデタ)を起こし,1961年には民政に移管。1971年には再び軍がクーデタを起こし政権が交替。1974年にはキプロスに軍事的に進出しています。



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・1953年~1979年のアジア  西アジア 現⑰ジョージア(グルジア),⑱アルメニア,⑲アゼルバイジャン
 グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは,1922年にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を樹立してソ連の構成国となり,さらに1936年のスターリン憲法によりグルジア=ソビエト社会主義共和国,アルメニア=ソビエト社会主義共和国,アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国に分離して,それぞれソ連の構成国となっていました。

 しかし1953年の〈スターリン〉の死去にともない,ソ連の強権的な政策に対する批判が高まっていきました。労働者らを指導し,階級と国家のない社会を建設しようという当初のソ連の理念は,〈スターリン〉の独裁によりすっかり揺らいでいました。ロシアを中心とするソヴィエト連邦の権力は,ソ連共産党の少数の指導者の決定によってトップダウンで処理され,アルメニアの人々の意見は届かきません。アルメニアは独立した共和国というよりは「自治共和国」となっていたのです。
  1956年2月に共産党第20回大会が開催されると,アルメニア出身の〈ミコヤン〉副首相がスターリン批判をし,それに〈フルシチョフ〉も続きました。〈フルシチョフ〉は「帝国主義が存在する限り,戦争は不可避」とした〈スターリン〉の思想を転換し「帝国主義との共存」を打ち立てます(平和共存)(注1)。
 この動きは抑圧されていたアルメニアにも広がり,1967年には初めて1915年ジェノサイド犠牲者碑の建設がゆるされました。「アルメニア人」としての意識を表現することが,ようやく認められたのです(注2)。いままでは胸に記憶を秘めていたアルメニア人ジェノサイドによる元難民や遺族による運動も盛んになりますが,1973年にはアメリカ合衆国のトルコ総領事・副領事が暗殺される事態も起きています(注3)。 

 1956年にはジョージア(グルジア)のトビリシで民衆によるデモが起き,軍により弾圧されています。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.105
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106
(注3)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106






●1953年~1979年のアフリカ
 サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすでにリビアが独立をしていましたが,56年にはスーダンとモロッコとチュニジアが独立しました。
 アルジェリアが独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました(アルジェリア独立戦争【東京H24[1]指定語句】)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉が第五共和政【東京H30[3]】【本試験H19時期】を成立させて,62年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込みました【本試験H19】【H30共通テスト試行 移動方向を問う(ド=ゴールはアルジェリアを植民地化していない)】。

 サハラ以南のアフリカでは,1957年にンクルマ(エンクルマ,1909~72。在任1960~66) 【本試験H17アパルトヘイトと無関係,本試験H21】がガーナをイギリスからの独立に導きました。1958年にはギニア【本試験H5】が独立しています【本試験H5ベルギーからの独立ではない】。
 17カ国が独立を達成した1960年【本試験H24 1970年ではない】は「アフリカの年」と呼ばれました。これら独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立しました【本試験H7軍事同盟ではない】【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】【追H20時期(1950年代ではない)】。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず,第三勢力として活動していくことになりました。
 しかし,60年かコンゴ動乱が起きるなど,天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたず,帝国主義時代に民族分布を無視して勝手にひかれた国境線が経済的な争いと結びつき,民族紛争も相次ぎました。
 「世界経済というゲームのルールは,北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは,最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから,いくらがんばっても南側(アジア,アフリカ,ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」
 このような主張を,従属理論といいます。この考え方は,70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~)による「世界システム論」に発展していきました。北側(中核)が中心になって,南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれた。このしくみにおいては,北側は経済発展するが,南側は低開発の状態にとどまるというものです。特にアフリカは,植民地時代のモノカルチャー制度が残り,環境が破壊され,産業も未発達のまま。さらにさかのぼれば,大西洋の奴隷貿易によって,労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも,傷跡として残っていると考えられます。
 こうした構造を是正するため,国連が動きました。1963年に南側諸国が主導して国連貿易開発会議(UNCTAD,アンクタッド) 【追H27 時期は1970年代ではない】【本試験H17時期(20世紀後半かを問う)】が設立。南北格差を生んでいる,不平等な国際分業体制を改めるための組織です。
 1975年には,ポルトガル【本試験H5スペインではない】で独裁政権が終わったことから,モザンビーク【本試験H19時期を問う】,アンゴラ【本試験H5スペイン領ではない】【本試験H21】,サントメ=プリンシペ,ギニアビサウがポルトガル【本試験H21スペインではない】から独立しました【本試験H21年代を問う】。

 アフリカでは,「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために,民族紛争が起きている」という説明がよくされます。しかし,複数の民族が分布しているからといって,その国で常に紛争が起きているわけではありません。紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ,政権による政策決定の誤り,冷戦対立の構図,資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など,さまざまな要因があることに注意しなければなりません。

 なお,エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際,水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり,UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で世界遺産条約【名古屋H31世界遺産条約履行のための作業指針における登録要件が論述の題材となった】が締結され,1978年には初めての世界遺産【慶文H30記】の認定が行われました。
 人類誕生の地アフリカで,人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の “共有財産”として守っていこうという動きが,始まったのです。






○1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 エリトリアは,国連決議に基づき1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,アムハラ語の押し付けなどエチオピア中心の政策に対して,アラブ諸国の支援を受けたイスラム教徒を中心にエリトリア解放戦線 (ELF)が結成されて,自治を求める運動を展開するようになりました。しかし1962年にエチオピアはエリトリアを併合すると反政府運動は激しさを増し,紅海に面するエリトリアでの影響力行使をねらって,周辺諸国や大国が介入し,多数の反政府組織がつくられ混乱を深めていきました。

・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 エチオピアでは,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,絶対的な体制を確立していた〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974)は,民衆の熱狂的な支持(ラスタファリ運動)を背景に自らの神格化を進めていきました。カッファ地方(coffeeの語源です)でのコーヒーのプランテーションはアメリカ合衆国の資本を導入して開発が進み,イエメンのモカから大量のコーヒー豆が積み出されました。しかし,工業化の利益を受けることができたのはアディスアベバに限られ,さまざまな民族が分布するエチオピアではソ連の支援を受けた反体制派が次第に育っていきます。

 なお,東京オリンピック(1964)で活躍した陸上競技選手〈アベベ〉(1932~1973)はローマ大会に続いて2回連続で優勝したエチオピアの代表選手として知られています。

 石油危機の影響から物価が上昇し,1972年の旱魃(かんばつ),1973年の飢饉への対応も遅れ,国民の不満は高まります(そんな中,皇帝がペットのライオンに肉を与える写真が公開され,革命の火種となりました)。そして最終的に1974年にはエチオピア革命が起きて皇帝は退位し,マルクス主義に立つ社会主義国となりました。熾烈な権力闘争の末,実権を握ったのは〈メンギスツ〉少佐(1937~)で,エチオピア人民民主共和国となりました。〈メンギスツ〉は1979年には民政移管にともない大統領に就任します。
 新国家は「エチオピア人」の統合を推進し,アムハラ語やエチオピア正教の強制を行ったため,エチオピア北部からエリトリアにかけて分布するティグレ人の抵抗を生みました。
 また,エチオピアの東南部のオガデン地方でも,反政府運動が激しさを増すようになります。この地域にはイスラーム教徒であるソマリ系の諸民族やオロモ人が分布していました。

・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア
 ソマリアでは,イギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリアが1960年に独立を達成して,与党のソマリ青年同盟を中心に両者は「ソマリア共和国」に発展していました。ソマリア共和国は,「エチオピアにいるソマリ人もソマリアに含めるべきだ」(大ソマリア主義)と主張し,オガデンの住民を救おうと呼びかけるようになります。しかしソマリアには多数の氏族が並び立ち,民主主義的な政治を行おうにも到底まとまることが難しい状況でした。
 そんな中,〈バーレ〉(1919~1995)少将が1969年にクーデタによりソマリア共和国で軍事政権を建てると,従来の氏族主義を改めて社会主義化を図り,「ソマリア民主共和国」と国名を変更。しかし,急激な近代化と中央集権化は旧来の氏族勢力やイスラーム教勢力の抵抗を生みました。
 一方,〈バーレ〉は1977~79年にエチオピアとの間にオガデン戦争(最終的な停戦合意は1988年)を起こします。ソマリ人の住むオガデン地方を大ソマリア主義に基づき併合しようとしたのですが,エチオピア側にはソ連がつき,ソマリア側にアメリカ合衆国が立つ「代理戦争」に発展。敗北を喫した〈バーレ〉の権威は低下し,ソ連に対抗してアメリカ合衆国だけでなく,中華人民共和国やアラブ諸国との結びつきを強めていきました。この頃受けた多額の軍事支援は,〈バーレ〉政権の崩壊後に,ソマリア各地の氏族勢力の手に拡散されることになり,長期に渡る混乱の元となります。

・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 現⑤ケニア
 ケニアでは反植民地運動であるマウマウ反乱が起き,首謀者の一人として初代大統領となる〈ケニヤッタ〉も逮捕されています。鎮圧が続く一方で,次第にイギリス側の態度も和らぎ,1957年には史上初の議会の直接選挙が実施されます。1963年にはキクユ人の〈ケニヤッタ〉を初代首相としてイギリスから独立,1963年にケニア共和国の初代大統領に就任し,イギリス連邦に加盟しました。
 西側諸国との関係を深めた〈ケニヤッタ〉の政策に対し,左派でルオ人の〈オディンガ〉はケニア人民同盟(KPU)を結成して,キクユ人主体の政権に抵抗します。しかし,政権は野党を非合法化し一党制の国家が形成されていきました。1978年に〈ケニヤッタ〉が亡くなると,〈モイ〉副大統領が大統領に昇格します。

・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 現⑥タンザニア
 ダンザニアでは,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)が中心となり独立運動が活発化し,1961年にアフリカ大陸側のタンガニーカの独立が認められました。
 1963年には沿岸のザンジバル島にあるザンジバル王国も主権を回復し,独立が認められました。
 しかし,ザンジバル王国で翌1964年に革命が起きると,ザンジバル人民共和国が建国。アラブ人が排除されました。
 ザンジバルの合併の申し入れに対し,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)の〈ニエレレ〉が応じ,タンガニーカとザンジバル人民共和国が連合する形で,1964年にタンガニーカ=ザンジバル連合共和国が建国され,同年には「タンザニア連合共和国」と国名を改めました。タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)はタンザニア革命党(CCM)に改組されました。
 〈ニエレレ〉はパン=アフリカ主義(汎アフリカ主義)とアフリカ社会主義(ウジャマー社会主義)を掲げて,植民地主義や人種主義との対立を訴え,“国家の父”“先生”とうたわれました。南部のモザンビークでは反政府組織のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援,ナミビアでも南西アフリカ人民機構(SWAPO)を支援しました。
 彼は農村部にウジャマー村を建設して農業の集団化を進め,中華人民共和国の支援でタンザン鉄道を敷設しました。また,隣国のケニアが英語を公用語としたのとは対照的に,スワヒリ語の教育に力を入れました。しかし,1970年代に入ると急速な社会主義化には失敗がみられるようになっていきます。
 1978年には,1971年以来関係の悪化していた隣国ウガンダの〈アミン〉大統領の攻撃を受けましたが,1979年にウガンダの首都を陥落させています(タンザニア=ウガンダ戦争)。

・1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 ウガンダは1962年にイギリスからイギリス連邦の一員として独立しました。1963年には共和政となり,かつてのブガンダ王国の〈ムテサ2世〉が形式的な大統領に就任しました。しかし,1966年にはウガンダ人民会議の〈オボテ〉首相が大統領を追放し,自ら終身大統領に就任して社会主義国家の建設に向かいました。これに対し1971年に軍人〈アミン〉(1925~2003,任1971~79)がアメリカ合衆国を初めとする西側諸国の支持を受けクーデタで政権を奪い,反対勢力に対する厳しい処分で知られる恐怖政治をおこないました。〈アミン〉は政権末期の1978年にタンザニアを攻撃しましたが失敗し,権威を失っていきます。

 ベルギーによりブルンジとともに植民地支配を受けていたルワンダ王国では,1959年に国王が亡くなると,これを暗殺とみたツチ人の抗議が高まり,多数派でありながら被支配層であったフツ人の抵抗も強まりました。1961年にベルギー側はクーデタを支援し,国民投票を実施して国王を廃位し,共和政に移行させました。
 ブルンジと分離して1962年に独立すると,フツ人の〈カイバンダ〉が初代大統領(任1962~73)に就任しました。〈カイバンダ〉政権はツチ人を排除しながら,フツ人中心に経済成長に向けた政策を推進しました。しかし,軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしきます。

 ブルンジ王国は,国王でツチ人の〈ムワンブツァ4世〉(1915~66)の下で1962年にベルギーから独立しました。王は立憲君主制を導入しましたが,多数はのフツ人との政治的なバランスをとることは容易ではなく,不安定な情勢が続きました。1966年にはフツ人による反乱が起き,〈ムワンブツァ4世〉は国外に逃亡しています。
 息子が王位を継ぎましたが,ツチ人の軍人〈ミコンベロ〉がクーデタを起こして共和政を始め,大統領に就任(任1966~76)しました。〈ミコンベロ〉政権はフツ人を弾圧し,1972年のフツ人の反乱が失敗するとフツ人に対する虐殺を実施。しかし1976年には同じツチ人〈バガザ〉大佐のクーデタにより失脚し,〈バガザ〉による独裁体制がしかれることになります。






○1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 モザンビークでは1964年にソ連・中国・キューバなどの社会主義国の後援を受けて反政府組織(モザンビーク解放戦線(FRELIMO))が結成されました。FRELIMOは,南アフリカなどの支援を受ける宗主国ポルトガル【本試験H31イタリアではない】に対する武装闘争を続け,1974年にいわゆるカーネーション革命によりポルトガルの王政が倒れると,1975年にFRELIMO主導で独立しました。

 しかし,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をとる南アフリカやローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続きます(モザンビーク内戦)。

・1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ連邦/共和国
 南アフリカ連邦は,1961年から南アフリカ共和国となりました。
 南アフリカでは1948年以降,黒人(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)やアジア人(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は“名誉白人”扱いをされていました),カラード(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され,白人(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
 アパルトヘイト諸法に対する反対運動は1962年にアフリカ民族会議【追H30民族解放戦線ではない】の〈マンデラ〉【東京H25[3]】の逮捕・拘禁以後は一時鎮静化しますが,〈スティーヴ=ビコ〉の活動により再び活発化。1968年に学生組織を立ち上げた〈ビコ〉は黒人意識(black consciousness)運動を唱え,強い影響力を持ちますが,1976年にアフリカーンス語【本試験H24リード文】の強制に反発した黒人学生のデモに対する武力鎮圧で700名の死者が出る大惨事となり(ソウェト蜂起)【本試験H24リード文】,〈ビコ〉は1977年に拘束中の暴行で死去しました(死因の真相を明らかにしない政府の虚偽を新聞記者〈ドナルド=ウッズ〉(1933~2001)が暴く過程が映画「遠い夜明け」(1987英)に描かれています)。


・1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 また,南アフリカ連邦の北にある南ローデシア(現在のジンバブエ)では,戦後に白人の移民が増加し,白人主導で産業が盛んになっていました。さらに北の北ローデシア(現在のザンビア)では銅の採掘が盛んで,東のニヤサランド(現在のマラウイ)からの労働者が急増していました。
 1953年にこれらの3地域を合体させたローデシア=ニヤサランド連邦が白人主導で建設されました。要するに,これによってマラウィは南ローデシアの白人政権によって間接的に支配されることとなったのです。それに対し各地で非白人による抵抗運動が勃発,1963年に連邦は解体されます。
 マラウィで独立運動をすすめていたニャサランド=アフリカ会議の後進組織MCP(マラウィ議会党)が1961年の総選挙で大勝。これを受け1964年にニャサランドはマラウィとして独立することとなりました(注1)。
 しかし,独立後の〈バンダ〉大統領はしだいに独裁政治に走り,反〈バンダ〉派勢力を抑えて一党制を宣言し,1971年に終身大統領となりました。この強権政治を可能にした背景には,マラウィが社会主義陣営に属するモザンビーク(FRELIMO政権)の隣に位置しながら,資本主義陣営の西側諸国と友好関係を結んでいたことがあります。マラウィは西側諸国から潤沢な支援を受け続けたものの,その富は国民の大多数には還元されることはありませんでした(注2)。

 同年1964年には,北ローデシアはザンビアとして独立します。

 一方,南ローデシアでも黒人の権利回復をともなう独立が予定されていましたが,1965年に植民地政府の首相〈イアン=スミス〉(任1964~79)がイギリスから派遣された総督を追放し,ローデシア共和国の独立を宣言します。こうして,白人による人種差別が実施され続けたのです。
(注1)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.61
(注2)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.67


・1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ベチュアナランド保護領(のちのボツワナ)では,1962年につくられた〈セレツェ=カーマ〉率いるベチュアナランド民主党(BDP)が総選挙で勝利し,1966年にボツワナ共和国として独立しました。

 〈カーマ〉は南アフリカ共和国のような人種隔離政策(アパルトヘイト政策)をとることなく,南アフリカ資本を導入しつつ国内のダイヤモンド鉱山を開発し,収益をインフラや教育などに振り向けることで経済成長の実現に成功しました。
 政治的には複数政党制をとり,議会制民主主義を維持しています。





○1953年~1979年の中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
※ ○内の数字は以下の文中の記号に対応しています。

「アフリカの年」で多数独立するも破綻国家が多数

 1960年には多数のアフリカ植民地が一斉に独立したため,“アフリカの年”と呼ばれます。

 ギニア湾岸の⑨カメルーンでは,国際連合が信託統治となっていたフランス領の地域が独立しました。さらに翌年には,イギリス領カメルーンとなっていた南部とも合併しました。

 また,フランス領赤道アフリカを構成していた以下の4地域は,以下のように独立しました。
 ・ガボン植民地 →⑥ガボン共和国として独立(1960年)。

 ・中央コンゴ植民地 →⑤コンゴ共和国として独立(1960年)。1969年に「コンゴ人民共和国」と改称して,マルクス=レーニン主義(共産主義)の国づくりを進めますが,1977年に軍部のクーデタで打倒されました。
  ※〈ルムンバ〉(1925~61)の指導で1960年にベルギーから独立したコンゴ共和国とは別もの。

 ・ウバンギ=シャリ植民地 →②中央アフリカ共和国として独立(1960年)。1965年にクーデタが起こり,〈ボカサ〉中佐(大統領任1966~76)による独裁政権となり,1976年には〈ボカサ1世〉(任1977~79,あだ名は“アフリカの〈ナポレオン〉”)として,なんと「帝政」がしかれました(中央アフリカ帝国)。しかしあまりの強権支配に,国民とフランスの支持を失うと,1979年にクーデタが起き,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。

 ・チャド植民地 →①チャド共和国として独立(1960年)。フランスの支援を受けた〈トンバルバイ〉政権に対し,北部のウランの利権を背景にイスラーム系住民が反政府運動を開始し,チャド内戦(1965~79)に発展します。しかし1975年のクーデタで〈トンバルバイ〉大統領(任1960~75)が暗殺されると,軍事政権は,反政府運動を支援していたリビアとの戦闘を開始します。




◆ベルギーから独立したコンゴ共和国では,鉱産資源をめぐり米ソの代理戦争の舞台となる

 しかし,ベルギー王国の植民地から1960年に独立した③コンゴ共和国では一気に情勢が不安定化します(注)。
 独立にあたりベルギー政府は資源豊富な南部カタンガ州を手放すまいとカタンガ国独立を支援したため,国際連合が国連軍を投入して介入したのです。しかし,ソ連はコンゴ共和国の初代首相〈ルムンバ〉(1925~61)を支援,アメリカ合衆国は〈カサブブ〉大統領を支援したために内部は混乱。
 アメリカ合衆国に支援された国軍参謀総長〈モブツ〉(1930~97)がクーデタを起こして〈ルムンバ〉を逮捕し,1961年に処刑。〈モブツ〉が実権を握る中,和平交渉に向かったスウェーデン人の国連事務総長〈ハマーショルド〉(任1953~61)の飛行機が墜落し死去。ビルマ人の第3代事務総長〈ウ=タント〉(任1961~71)も一連のコンゴ動乱への解決に奔走しましたが,1965年の〈モブツ〉が再度クーデタを起こして大統領(任1965~1997)に就任し,憲法停止・議会解散の上,一党独裁体制を確立しました。
 〈モブツ〉は初め反共産主義を掲げて西側(資本主義)諸国の支持を得て,財政支援やIMFなどからの莫大な融資を受けましたが,その多くが〈モブツ〉個人によって使われたといわれています。
(注)ベルギー領コンゴは独立後,コンゴ共和国(1960)→コンゴ民主共和国(1964)→ザイール共和国(1971,〈モブツ〉政権下)→コンゴ民主共和国(1997,〈カビラ〉政権下)のように国名が頻繁に変更されています。現在の英語名は「Democratic Republic of the Congo」なので,フランスから独立したコンゴ共和国と区別して,DRコンゴと呼ばれることもありますし,旧名「ザイール」が用いられることもあります。




◆アンゴラでは独立後も,米ソや周辺諸国が鉱産資源の利権に介入し,長期の内戦が続いた
 「アフリカの年」に独立を達成できなかったポルトガル植民地の④アンゴラでは,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。1954年にはコンゴ川河口を北部の飛び地区域カビンダで油田が見つかり,石油採掘も本格化していきました。
 それに対しアンゴラ植民地内には,反植民地主義を掲げた複数の組織ができました。
 しかしながら,アメリカ(FNLA(アンゴラ民族解放戦線)を支援)と,ソ連・中国・キューバなど(MPLA(アンゴラ解放人民運動)を支援)が別々の組織への支援を実施。
 
 1974年にポルトガルでカーネーション革命が起きて長期独裁政権が終わり,1975年には独立が達成されました。しかし,それとともに,2002年まで続く熾烈(しれつ)なアンゴラ内戦が勃発しました。「内戦」といっても,その実態は,アンゴラ国内の利権をめぐるアフリカ大陸内の国家間の関係や,大国間の代理戦争でした。
 ギニア湾に浮かぶ島国である⑦サントメ=プリンシペも1975年にポルトガルから独立しています。初代の〈コスタ〉大統領(任1975~1991)は一党体制による社会主義化を推進していきました。

 スペイン植民地であった⑧赤道ギニアは,1959年にスペイン領ギニア,1963年に赤道ギニアと改称されて,スペインの自治州となりました。1968年に赤道ギニア共和国として独立を達成すると,〈ンゲマ〉(任1968~79)大統領の下でソ連に接近した社会主義化がすすめられていきました。






○1953年~1979年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ           
 希望の光に燃えてヨーロッパ諸国から独立した多くの国では,“独立の父”が亡くなると(あるいは在任中に)早かれ遅かれクーデタが起き,軍事政権が樹立されていきました。
 ⑤ガーナでは1957年に〈ンクルマ〉(エンクルマ,1909~72,在任1960~66) 【本試験H17アパルトヘイトと無関係,本試験H21】がイギリスからの独立を実現させました。
 1958年には⑨ギニア共和国がイギリスから独立しています。

 1960年には同時多発的にアフリカ植民地が独立したことから“アフリカの年”と呼ばれています。
 ②ナイジェリアは連邦制をとってイギリスから独立しました(ナイジェリア連邦共和国)。
 ③ダオメー(英語ではダホメ。フランス語ではh音を発音しないのでダオメーとなります)がダオメー共和国としてフランスから独立します(のち1975年にベナン人民共和国と改称,1990年にベナン共和国)。
 ギニア湾岸では,④トーゴ共和国がフランスから独立します。
 「象牙海岸」と呼ばれていた地域は,⑥コートジボワール共和国としてフランスから独立します。当初は,コートジボワールの訳である「象牙(ぞうげ)海岸」が各国語で呼ばれていました(英語ではアイボリー=コースト,日本語では象牙海岸)が,植民地時代の歴史を嫌う共和国政府から使用をやめるよう通達があり,現在では意訳せずにそのまま「コートジボワール」と呼ばれます。
 ①ニジェール共和国がフランスから独立します。
 ニジェール川沿岸の周辺では,マリ連邦として現在のセネガルとマリがフランスから独立します。しかし直後に⑪セネガル共和国が分離独立し,⑭マリ共和国として再独立。セネガルは〈サンゴール〉(1960~80)により親仏路線がとられ,長期政権が実現しました。
 オートボルタ共和国ががフランスから独立,直後に「清廉潔白な人の国」という意味を持つ⑮ブルキナファソと改称しています。
 ⑬モーリタニア=イスラム共和国は,フランスから独立しました。

 17カ国が独立を達成した1960年【本試験H241970年ではない】は「アフリカの年」と呼ばれました。これら独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立しました【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】【追H20時期(1950年代ではない)】。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず,第三勢力として活動していくことになりました。
 なお,1961年には⑧シエラレオネ,1965年には⑫ガンビアがイギリスから独立しています。
 また,19世紀前半に独立していた⑦リベリア共和国では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。先住の諸民族(クペレ人,クル人,ギオ人,マノ人,クラン人,イスラム教徒のマンディゴ人など)の地位を向上させるなど,国内の安定化に尽力しましたが,1971年に病死すると〈トルバート〉大統領が後任となりました。〈トルバート〉はソ連に接近し,アメリカ合衆国と距離を置く政策をとります。

◆ポルトガルで長期独裁政権が倒れると,1970年代半ばに植民地が独立した
 1975年には,ポルトガルでいわゆる“カーネーション革命”が起き独裁政権が崩壊したことを受け,ポルトガルの植民地帝国は世界各地で崩壊しました。アフリカでは,モザンビーク【本試験H19時期を問う】,アンゴラ【本試験H21】,サントメ=プリンシペ,⑩ギニアビサウが,相次いでポルトガル【本試験H21スペインではない】から独立しています【本試験H21年代を問う】。






○1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
マグリブ諸国(モロッコ,チュニジア,アルジェリア),スーダンが独立を果たした
 サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすでにリビアが独立をしていましたが,56年にはスーダンとモロッコとチュニジアが独立しました。

・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 エジプトは1952年の革命で実権を握った〈ナーセル〉(ナセル,大統領任1956~70)以降,農業の近代化や工業化を推進するとともに,1956年にスエズ運河の国有化を宣言し,イギリスとフランス,イスラエルに対する外交的な勝利を引き出しました。この第二次中東戦争でイスラエルを撤退させたことから,〈ナーセル〉は“アラブ世界のリーダー”を自任するようになり,1958年にはシリア共和国とともにアラブ連合共和国を形成しますが,1961年には崩壊。崩壊して「連合共和国」を名乗り続けましたが,1971年にはエジプト=アラブ共和国に戻しています。

・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン(③南スーダン)
 スーダンはイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党を中心に独立運動が展開されていました。しかし独立運動は北部のアラブ人イスラーム教徒が主導していたため,南部の諸民族(伝統的な宗教やキリスト教を信仰していました)による抵抗が起き,1955~72年の間,第一次スーダン内戦が勃発しました。1956年にスーダンはスーダン共和国としてエジプト・イギリスから独立を達成。最初の総選挙ではイスラーム教系のウンマ党が勝利して〈カリル〉党首が首相に就任しましたが,南北の内戦を初めとする国内問題の危機を前に,1958年に〈アブード〉参謀総長によるクーデタで軍事政権(1958~1964年)が成立しました。彼は灌漑計画による綿花輸出を推進しましたが,しかしイスラム化を進めたため南部との対立は激化し,1964年に辞任しました。〈アブード〉の退陣後1965年には国民統一党とウンマ党の連立内閣が発足しましたが,1969年には再度〈ヌメイリ〉大佐による軍事クーデタで軍事政権が成立し革命評議会を中心とするスーダン民主共和国を成立させました。1971年以降は大統領に選出され,南部に自治権を与えて内戦を終わらせることに成功しました。しかし1975年に南北の境界付近のアビエイというところで油田が発見されると,これが南北の新たな火種となっていきます。

・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉がフランスに一時廃位されていましたが,1955年に復位,1956年に独立を果たします。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化していました。しかし,スペインは1958年以降に領域をモロッコに返還。1975年には撤退しました。
 スペイン撤退後のモロッコ南部は,翌年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されましたが,これに異議をとなえるアルジェリアはモロッコ南部の独立勢力ポリサリオ戦線を支援し,亡命政権サハラ=アラブ民主共和国がアルジェリアで成立しました。
 モーリタニアはポリサリオ戦線の抵抗に苦しみ,併合した地域を1979年に放棄しています。

・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 一方,アルジェリアが独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました(アルジェリア独立戦争)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉が第五共和政【東京H30[3]】【本試験H19時期】を成立させて,62年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込みました【本試験H19】【H30共通テスト試行 移動方向(ド=ゴールはアルジェリアを独立させていない)】。



・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアはフランスの保護領の下でフサイン朝のベイが名目的な支配権を保っており,チュニジア王国として独立したものの1957年に制憲議会により王政は廃止され,共和制が樹立されました。



・1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビアは1951年にリビア連合王国として独立していましたが,1969年に〈カッザーフィー〉(カダフィ,任1969~2011)“大佐”によるクーデタが起き,リビア=アラブ共和国となりました。彼は特異な社会主義思想(⇒1979~現在の北アフリカ リビア)を持ち,1970年代に外国資本の石油企業を国有化し,輸出産業による経済成長を図ります。






●1953年~1979年のヨーロッパ
◆「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた
スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46)が死去しました。

 これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ」【本試験H10時期(1950年代か問う)】ムードとなり【本試験H14このときWTOは解体されていない】,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗【本試験H27勝利していない】をみたことをきっかけに,ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定【本試験H16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】【追H30】)が結ばれました。

 ヴェトナムは北緯17度線【追H30】が南北の境界となり,南部にはヴェトナム共和国が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63,在任1955~63)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー=チ=ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
 このジュネーヴ国際会議では,前年に独立していたラオスとカンボジアが,独立国として承認されています。

 1955年5月オーストリアの分割統治をやめ,中立国とする条約が米英仏ソの間で調印され,10月には連合軍が撤退しました。オーストリアでもドイツと同じく“ファシズム”や“ナチス”に関連した思想や,今後のドイツとの合併も厳しく禁止されました。中立国ですので,現在に至るまでオーストリアはNATOに加盟していません。

 さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月にジュネーヴ四巨頭会談がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が,ポツダム会談以来初めて一堂に会し,平和共存路線【本試験H14】を打ち出しました。

 〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは〈フルシチョフ〉(1894~1971,在任1953~64)です。
 就任直後の8月には,物理学者〈サハロフ〉(1921~89)の技術で,水素爆弾実験を行っています。
 56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指しでスターリン批判をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました【H29共通テスト試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。
 この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信されることになります。当然,〈スターリン〉に忠実に従っていた東ヨーロッパ諸国は,これにショックを受けました。
 1953年6月には,東ドイツの東ベルリンで労働者による暴動が起きましたが,ソ連軍が出動して鎮圧されました(東ベルリンが暴動)。
 1956年6月にポーランドでは,ポズナン(ポズナニ)【本試験H14ハンガリーではない,H31ポーランドか問う・スターリン批判がきっかけか問う】で労働者による自由を求める暴動が起きましたが,ポーランド政府の〈ゴムウカ〉(1905~82)はこれを独力で鎮圧しました(ポズナン(ボズナニ)暴動) 。
 1956年10月23日には,ハンガリーで暴動が起き,スターリンに反対していた〈ナジ=イムレ〉(1895~1958,在任1953~55,56) 【追H17ポーランドではない】 が政権をにぎりました。おりしも10月29日から第二次中東戦争がはじまっていました。エジプトの〈ナセル〉大統領にしてみれば,世界中の目がハンガリーに向かっているすきを狙ったのです。11月に〈ナジ〉首相は,共産党以外の政党も認めること,ハンガリーを中立化させること,WTOから脱退することなどを宣言したため,ソ連はハンガリー人民共和国政府を支援し軍事介入に踏み切りました(鎮圧したのは,ワルシャワ条約機構軍ではありません)。
 国際連合の安全保障理事会はソ連をハンガリーから撤退するべきという決議を出しましたが,ソ連の拒否権により否決。ソ連との関係をこじらせたくない〈アイゼンハワー〉大統領は,国際連合総会によるハンガリーの独立を守るための監視団の派遣にも消極的で,結果的に見放された〈ナジ〉首相は,2年後に処刑され,約2000人が処刑され,ソ連に友好的な首相に交替されました。このときに20万人のハンガリー人が亡命したといわれています(ハンガリー事件) 【本試験H22・H24ともに時期】。

 しかし,当時の軍事技術はアメリカ合衆国よりもソ連のほうが先を行っていました。1958年にはICBMを保有し,史上初の人工衛星スプートニク1号の発射に成功,さらに人工衛星に犬を乗せて地球の周りを回らせました。1959年に〈フルシチョフ〉はアメリカを訪問し,人工衛星の模型を〈アイゼンハワー〉大統領にプレゼントする余裕ぶりです。1961年には〈ガガーリン〉(1934~68)による人類初の有人宇宙飛行にも成功しています(1963年には初の女性〈テレシコワ〉(1937~)による有人宇宙飛行に成功)。
 〈フルシチョフ〉は,同年1961年には〈ケネディ〉とのウィーン会談で,西ベルリンからの米・英・仏の撤兵を要求し,国内の党大会でも再度スターリン批判を行いました。彼は,〈スターリン〉による個人崇拝や独裁を批判しただけで,社会主義や,さらに高いレベルの目標である共産主義の建設を批判していたわけではありません。〈スターリン〉に影響される前の,純粋な“本当”のマルクス主義を取り戻そうとしていたのです。 
 1961年10月には史上最大の水素爆弾の核爆発実験が,北極海に浮かぶノヴァヤゼムリャ島でおこなわれました。8月にはベルリンの壁の建設【本試験H14ソ連との関係を断ったわけではない、H24】【追H17ソ連が建設したのではない、H19時期、H27時期を問う】が始まっており,〈ケネディ〉大統領はイギリスの〈マクミラン〉首相とともに大気圏内での核実験停止と停止協定への同意を求めていた矢先のことでした。この50メガトン(第二次大戦で使われた火薬の送料のおよそ10倍)もの水爆は世界に衝撃を与えます(注)。
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.58

 1962年には,革命が起きたキューバにソ連【追H17】がミサイル基地を建設【追H17】したことが元で「キューバ危機」【追H17】が起きるなど,「雪どけ」ムードは後退していきました。

 キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局62年に撤去されました。ソ連“水爆の父”〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年にはアメリカ【東京H29[3]】・イギリス【東京H29[3]】【慶商A H30記】・ソ連【東京H29[3]】の間で部分的核実験禁止条約(PTBT) 【東京H29[3]】が締結されました。

 ハンガリー事件の後も,ソ連からの東ヨーロッパ諸国の離脱への動きは止まりませんでした。
 61年にはアルバニアがソ連と断交し,62年にコメコンから脱退,68年にはWTOからも脱退しています。
 一連の混乱を招いた〈フルシチョフ〉は,農業政策でも失敗を重ね,1964年に最高指導部から辞任の要求が出され,やむなく職を辞しました。ソ連の支配層は,再び〈スターリン〉のような人物が登場することを恐れ,一人の人物が第一書記と首相(ソビエト連邦閣僚会議議長)を兼務しないようにしました。こうして〈ブレジネフ〉 (1906~82,在任1964~82) 【本試験H30時期】が第一書記,〈コスイギン〉(1904~80,在位1964~80)が首相に,〈ポドゴールヌイ〉(1903~83,在位1965~77)が最高会議幹部会議長を担当するトロイカ体制(三頭政治)が始まりました。

 それでも,東ヨーロッパでの反ソ連の動きは止まらず,1968年にチェコスロヴァキアで〈ドプチェク〉(1921~1992,在任1968~69) 【東京H25[3]】【本試験H30ブルガリアではない】が「人間の顔をした社会主義」を訴え,自由化をすすめる改革を行い「プラハの春」【追H21ハンガリーではない】【早政H30論述(ソ連の対応と主張を説明する)】と呼ばれました。しかし,〈ブレジネフ〉【本試験H20ゴルバチョフではない】はソ連軍が中心となったワルシャワ条約機構(WTO)軍を投入し,軍事介入して鎮圧しました【本試験H14,H29共通テスト試行 ソ連は支持していない】。「外国であってもソ連グループの一員なのだから,人の国であろうがおかまいなし。」この考えをブレジネフ=ドクトリン(制限主権論) 【早政H30】といいます。このときソ連,ポーランド,ブルガリア,東ドイツ,ハンガリーが鎮圧に協力しました。
 思想の統制はいまだ厳しく,作家〈ソルジェニーツィン〉(1918~2008)は,ソビエト連邦時代の強制収容所をテーマとした『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』でノーベル平和賞を受賞(1970)しましたが,1974年にソ連を追放されました(1994年に帰国)。

 東ドイツ【東京H17[1]指定語句】では,1949年~61年の間にじつに250万人もの東ドイツ市民が,西ドイツに逃げ込んでいました。西ドイツの経済的な繁栄が背景にあります。そこで,東ドイツ政府【本試験H24】は,西ベルリンに通じる交通路を壁により阻止する政策をとり1961年8月中旬の夜間に,コンクリート製の有刺鉄線・監視塔付きの壁(ベルリンの壁) 【本試験H14ソ連との関係を断ったわけではない、H24】【追H17ソ連が建設したのではない、H19時期、H27時期を問う】を建設しました。その後,さらに電流の流れるフェンスも加わり,西ベルリンを囲い込む壁が完成してきました。

 1970年代にはドイツの〈ブラント〉政権【追H29】が主導して東西の緊張緩和に努めました(東方外交)。1975年には,不測の事態に備えてヨーロッパの安全保障を図ろうと,フィンランドの首都ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe,CSCE)にソ連も含めたヨーロッパ33か国(アルバニアは参加しませんでした),アメリカ合衆国,カナダの計35ヵ国の首脳が集まり,ヘルシンキ宣言が合意されています(ただし,CSCEには紛争を解決するための実行力はありません)。

 1973年に第一次石油危機が起こると,フランスの〈ジスカール=デスタン〉大統領が主導して第一回第1回先進国首脳会議が開催されました。同時にヨーロッパの経済統合も進展し,1973年にはイギリス【セA H30年代を問う】,デンマーク,アイルランドが加盟しています(拡大EC)。


○1945年~1953年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
 東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
・1953年~1979年の①ロシア(ソ連)
 ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
 ただし,バルカン半島のユーゴスラビアの〈チトー〉【追H21】は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
 東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これと中ソ友好同盟相互援助条約を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は”向ソ一辺倒”を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
 1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。〈スターリン〉は1953年に死去します。

・1953年~1979年の東ヨーロッパ  現②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
 エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
 というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
 ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
 リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。

・1945年~1953年の⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
 ベラルーシは第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
 ウクライナのウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,”大ロシア”(ロシア)に対する”小ロシア”(ウクライナ)の地位にとどまりました。
 モルドバは,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。

○1953年~1979年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

・1953年~19579年のヨーロッパ バルカン半島 現③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
 1948年にコミンフォルムを除名され,ソ連やソ連と事実上一体化した東ヨーロッパの社会主義諸国とのつながりを失ったユーゴスラヴィアでは,「自主管理」という独自の社会主義による国づくりをすすめていました。また,外交的には「非同盟政策」をとり,「積極的平和共存」を掲げてソ連側(東側)にもアメリカ合衆国側(西側)にもつかない方針で,冷戦下のヨーロッパにあって異彩を放っていました。
 1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉が死去。ともなってソ連は“(冷戦の)雪解け” 【本試験H10時期(1950年代か問う)】といわれる緊張緩和に舵(かじ)をきり,ソ連との国交が正常化されました。また1955年にはソ連の最高指導者〈フルシチョフ〉第一書記がブルガーニン首相とともにユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを訪れ,独立,主権,平等,内政不干渉をうたったベオグラード宣言を発表。翌年には今度はユーゴスラヴィアの〈チトー〉【追H21】大統領がモスクワを訪れています。
 同時に「非同盟政策」も続け,インド,ビルマ連邦,エジプトを訪問し,1956年にはインドの〈ネルー〉とエジプトの〈ナーセル〉と会談。1961年にはユーゴスラビアの首都ベオグラード【追H20サンフランシスコ,コロンボ,ロンドンではない、H28ユーゴスラビアか問う】で第一回非同盟諸国首脳会議【追H28「主要先進国」首脳会議(サミット)ではない】【本試験H7アジア・アフリカ会議とは別,本試験H9】を開催しています。
 国内では1963年に憲法を新しくして,ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に国名を変更。国名には“社会主義”と銘打ったわけですが,経済的には市場社会主義をとることが規定され,市場原理を導入する柔軟さを持っていました。しかしこの動きに批判的な“チトーの右腕”〈ランコビッチ〉(副首相兼内相任1946~53,副大統領任1963~66)を〈チトー〉が解任すると,コソヴォのアルバニア人やボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国のイスラーム教徒(1971年からは「ムスリム人」という区分が導入されるようになります)が民族運動を起こしました。特にクロアチア共和国のクロアチア人は1970年~71年に自治を求める運動を活発化させ(“クロアチアの春”),なんとか収拾させています。(注)。
 1974年に新たな憲法が制定され,いっそうの分権化を図るとともにユーゴスラヴィアの統合を強調します。ユーゴスラヴィアは〈チトー〉によって成り立っていたものとよくいわれるように,1974年には終身大統領に選出され,〈チトー〉その人が統合と民族間の調整の中心に位置づけられいきました(しかしこの〈チトー〉は1980年に死去することになります)。
(注)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,pp.123-124。




○1953年~1979年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
ここではイベリア半島を除き,イタリアを含めた国々を西ヨーロッパに区分しています。

◆スエズ運河の喪失以降イギリスの優位は崩れ,脱植民地化と欧州統合への参加に向かった
 イギリスのかつて誇っていた国際経済における影響力は,この時期急速に低下していきました。60~70年代のイギリスの経済・社会の停滞を“イギリス病”とも呼ぶことがあいります。世界に冠たる植民地帝国という“過去の栄光”が,もはや足かせになりはじめていたのです。
 1951年に労働党から政権を取り返した保守党の〈チャーチル〉首相は,後任を〈イーデン〉首相に引き継ぎました。1953年には女王〈エリザベス2世〉(位1953~)の戴冠式が執り行われています。
 〈イーデン〉政権の時に,1956年にエジプトの〈ナセル〉大統領がスエズ運河の国有化【東京H8[1]指定語句】を断行すると,フランス,イスラエルとともに派兵し第二次中東戦争となりました。スエズ運河はイギリス・フランスの合弁企業が管理しており,管理権は両国の政府がもっていました。アメリカ合衆国の〈アイゼンハワー〉大統領はこれに対し伸長な姿勢をみせ,国務長官〈ダレス〉も交渉による解決を目指します。アメリカ合衆国が賛成してくれるとの読みが外れたイギリスとフランスは,アメリカ合衆国とソ連の圧力に屈し国連安全保障理事会で「平和のための結集決議」が採択され,国連緊急総会が招集されました。その中で,イギリス・フランス・イスラエルは即時停戦を求める総会決議を受け,イギリス・フランス,のちにイスラエルが停戦しました。停戦後には,カナダの〈ピアソン〉外務大臣の提唱でエジプトに平和維持活動(PKO)が派遣されています。
 こうして国際的な権威を失ったイギリスの〈イーデン〉首相は敗戦の責任に加え,内政の失敗や健康の不調も重なり辞任し,1957年には〈マクミラン〉蔵相が首相(任1957~1963)を引き継ぎました。

 イギリス帝国の崩壊は止まらず,1957年にはガーナが独立,“アフリカの年”といわれる1960年にはナイジェリアが独立しました。1960年には南アフリカ連邦で国民投票が行われ,イギリス女王に対する忠誠を誓うことをやめ,共和国に移行することが決められました。
 南アフリカ共和国は,かつてのイギリスの植民地や自治領であった国の加盟するゆるやかな国家連合である「イギリス連邦」(コモンウェルス)に加盟し続けることを希望しましたが,アパルトヘイトという人種隔離政策を実施していることが他国の批判を浴び,1961年に脱退しました。

 イギリスは,ヨーロッパ統合の動きに対抗するべく,1960年にオーストリア,スウェーデン,スイス,デンマーク,ノルウェー,ポルトガルとともにヨーロッパ自由貿易連合(EFTA,エフタ) 【本試験H10時期(1944年にブレトン=ウッズ会議で決められたわけではない)】 【本試験H26EURATOMではない】を結成しました。しかし,加盟国が域外からの商品に共通関税をかける仕組みをとると,オーストラリアとかカナダなどのイギリス連邦からの輸入量が多いイギリスには不利となります。そこで,共通関税をかけなかったことから,EFTA加盟国間の貿易はなかなか活発化しませんでした。1961年にはEEC(イーイーシー,ヨーロッパ経済共同体)への加盟を申請しましたが,フランスの〈ド=ゴール〉大統領が反対したため頓挫しています。
 そんな中でも輝いていたのが,リヴァプール出身のロックバンド,ビートルズです。かつて奴隷貿易で栄えたリヴァプール出身の四人組は,アイルランド音楽や黒人音楽など様々な音楽を吸収し,「イエスタデイ」(1965)などでクラシックの弦楽四重奏を導入するなど革新的なサウンドで世界中の若者をロックのとりこにし,65年には〈エリザベス女王〉から勲章も与えられました。彼ら自身はどちらかといえば下層の中産階級出身でしたが,メディアはこぞって「労働者階級」の英雄として取り上げました(注)。60年代後半には「ミニスカート」が一世を風靡し,女性モデル・俳優の〈ツィッギー〉(1949~)が活躍しました。
(注)長谷川貴彦『イギリス現代史』岩波書店,2017,p.76。

 しかし“イギリス病”は止まりません。戦後復興を果たした西ドイツや日本の追い上げに対抗し,1967年に輸出を増やすためにポンドの価値を下げるなどの策を講じるものの(ポンド切り下げ),海外への軍隊の駐留が予算を逼迫させるようになっていました。第二次中東戦争の後も,スエズ運河地帯に駐留していたイギリスは,〈ウィルソン〉首相(任1964~70,74~76)のときに1968~1971年にかけてスエズから撤兵しました。
 1971年までにはシンガポールとマレーシア連邦からも,撤兵させています。また,アフリカ南部のローデシアでは,黒人差別撤廃に反対する現地の白人政権によって1965年に独立が宣言されました(1979年まで実効支配が続きました)。
 イギリス国内では旧植民地にルーツを持つ人々の比率も高まっており,1976年には人種関係法が定められ人種,肌の色,出身国,民族等に基づく差別を禁じています。
 
ヨーロッパの経済統合組織であるEECは,1967年にヨーロッパ共同体(EC) 【追H27時期を問う】 【本試験H18】へと発展していました。1967年の加盟申請はフランスの〈ド=ゴール〉大統領の反対を受け頓挫しますが,保守党の〈ヒース〉首相(任1970~74)は接近をこころみ,1973年にデンマークとアイルランドとともに加盟に成功しました(拡大EC)。しかし,折からの第一次石油危機により経済成長率はマイナスになり,1974年からは〈ウィルソン〉労働党政権となりました。しかし1976年に突如辞任すると,〈キャラハン〉政権(任1976~79)が発足。IMF(国際通貨基金)からの借款を受け,経済の立て直しを図ります。

 イギリスを構成する諸国でも分離傾向が進み,スコットランドではスコットランド国民党(SNP),ウェールズではウェールズ国民党が地方議会で労働党を追い抜いています。
 プロテスタント系住民の多い北アイルランドでも,イギリスとの連合を維持しようとするユニオニスト(宗教的にはプロテスタント)と,アイルランド系のカトリック教徒との間の対立が激化。アイルランド独立運動に関与していたアイルランドの武装組織IRA(アイルランド共和軍)から,暴力的なIRA暫定派が分離して武装路線を強め,1972年にはアイルランドのロンドンデリーで「血の日曜日事件」を起こしています。


◆西ドイツやフランスの高度経済成長と欧州経済圏の形成により,アメリカの地位は低下していった(多極化)
 フランスでは,アルジェリア問題を発端として駐留軍が反乱するなど大混乱を招いた第四共和政(1946年10月成立) 【本試験H3】に対し,〈ド=ゴール〉(任1959(注)~69) 【本試験H3ヴィシー政府ではない】【東京H27[3]】が政権について,大統領権限を強化した新憲法によって第五共和政【東京H30[3]】を成立させました。
 〈ド=ゴール〉は,アメリカとソ連のどちらの側にもつかない独自外交をすすめました。例えば,60年にアルジェリア南部のサハラ沙漠で核実験,62年にアルジェリア独立を承認【H30共通テスト試行 移動方向(ド=ゴールはアルジェリアを植民地化していない)】,64年に中華人民共和国を承認,66年にNATOの軍事機構からの脱退を通告しています。66年には,アルジェリアで核実験ができなくなったので,太平洋のフランス領ポリネシア(タヒチの近く)にあるムルロア環礁での核実験を実施しました。
 “ヨーロッパ人のヨーロッパ”を提唱し,1962年には西ドイツ復興の立役者(たてやくしゃ)〈アデナウアー〉首相(任1949~1963)と会談し,両国の提携を確認しました。このフランス=ドイツの提携を,パリ=ボン枢軸ということがあり,1963年のエリゼ条約により両国の会合は定例化されました。ともに協力してアメリカ合衆国,ソ連の経済圏に政治・経済・軍事的に対抗しようとするものです。
 しかし,〈ド=ゴール〉の“ヨーロッパ”の地図の中に,イギリスはありません。1963年にイギリスがEECへの加盟を申請したものの,〈ド=ゴール〉の反対により幻に終わります。イギリスがヨーロッパにすり寄っている時点で,かつての「大英帝国」の覇権が失われていることがよくわかります。
(注)彼が大統領に選出されて第五共和政が発足したのは1958年10月。彼が大統領に就任したのは1959年。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122



 〈ド=ゴール〉はこのように強力な改革を推し進めていきましたが,68年に「大学の自治が脅かされている」として,学生や労働者がゼネストを実施しました(五月革命)。この年は,アメリカや日本において,さらに中華人民共和国のプロレタリア文化大革命の紅衛兵【本試験H23】など,学生運動が世界規模で盛んとなった年です。『存在と無』『嘔吐』を著した実存主義【追H28】哲学者〈サルトル〉(1905~80) 【追H28】は,若者たちに社会参加を呼びかけて影響を与えています。事実婚の相手〈ボーヴォワール〉(1908~86)は,フェミニズム(女性主義) 【東京H30[1]指定語句】 の立場から女性の権利向上を目指した思想家です。結果として〈ド=ゴール〉は1969年に退陣しています。

 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では,ナチスの指導者が1945~46年にニュルンベルク国際軍事裁判【本試験H4】【本試験H14時期(第二次大戦後)】【追H20】で連合国【本試験H14】によって裁かれました【本試験H24,本試験H26時期】。ニュルンベルク【追H20地図問題】はかつてナチスの党大会の開催された地であり,戦争犯罪人を裁く史上初の国際裁判でした。

 ベルリン封鎖(1948~49) 【追H17】後に「西ドイツ」として独立した時から,キリスト教民主同盟の〈アデナウアー〉(任1949~63) 【本試験H14ドイツ民主共和国ではない,本試験H26コールではない,H30東ドイツではない】【名古屋H30[4]指定語句】は長期政権を維持していきます。
 日本の高度経済成長と同様に,アメリカ合衆国との関係を重視することで,経済復興を成し遂げました。しかし,69年にはソ連との関係を重視する社会民主党の〈ブラント〉(1913~92,在任1969~74) 【本試験H26】【追H29エーベルトとのひっかけ】が首相に就任し,「東方外交」【本試験H26】という“東(社会主義国)”との関係改善を推進しました。
 ポーランドを直接訪問し,ワルシャワにあったユダヤ人地区(ゲットー)でナチス=ドイツによる犯罪を謝罪しています【追H29エーベルトではない】(〈ブラント〉は1971年にノーベル平和賞を受賞)。このことが実って1973年には東ドイツと国際連合に同時加盟しています。
 1970年代にみられた,このような東西の緊張緩和の動きをデタントといいます【本試験H16この時期に東西ドイツは統一されていない】。

 ヨーロッパ諸国は,70年代に入ってから財政赤字&インフレのダブルパンチを受けたアメリカ合衆国の失速と,1973~74年の石油危機(オイル=ショック)の影響を受け,60年代から続いていた好景気は終わりを迎えました。60年代には,EECを中心とする西ヨーロッパと,日本が経済成長を遂げ,第三勢力も台頭したことで,ソ連対アメリカの二極から,多極化の時代に入っていったのです。
 1973~74年の第一次石油危機への対応から,75年には第一回先進国首脳会議(サミット) 【追H17時期は1970年代ではない,H27時期は1970年代か、H28 非同盟諸国首脳会議とのひっかけ】 【本試験H31第二次世界大戦終結前ではない】が開かれ,翌年からも定例化しました。先進国は今まで,安い石油価格のおかげで高い経済成長を保つことができたわけです。その前提が崩れると,日本とアメリカ合衆国との間の貿易摩擦の問題など,先進国間の経済問題も起きてくるようになります。


・1953年~1979年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 第二次世界大戦に重要な役割を演じたイギリス領マルタ島は,1964年にマルタ国としてとしてイギリス連邦内の自治国となりました。
 1971年にマルタ労働党の〈ドム=ミントフ〉(1916~)が総選挙に勝利すると,1976年にはマルタ共和国としてのイギリス連邦内での独立を宣言しました。




○1953年~1979年のイベリア半島

・1953年~1979年のイベリア半島 現①ポルトガル
 ポルトガルでは1968年に〈サラザール〉(1889~1970,任1932~1968)による独裁体制が続いていました。しかし,国内外で反政府運動が勃発。特に植民地では現地の独立運動に共鳴した若手将校が〈サラザール〉政権を批判するようになります。国際社会からの批判も高まりますが,ポルトガルはなんとしてでも植民地の死守を図り,運動の鎮圧に取り組みました。戦争費用を捻出するため,外資を導入した工業化を推進するとともに,植民地の天然資源の開発がすすみました。工業化の進展により農業が衰退し,従来のブラジルに代わりフランスなどのヨーロッパへの移民が急増しました。
 そんな中,〈サラザール〉が高齢のため引退すると,大学教授〈カエターノ〉が首相に就任しました。植民地における反ポルトガルの戦争が長期化し,軍事費が財政を圧迫する中,陸軍の若手将校による反政府運動が盛り上がり,1974年4月にリスボンを占領,〈カエターノ〉は辞任しました。新体制(救国軍事評議会)の議長に選出された〈スピノラ〉は独裁体制を支えていた制度を廃止し,釈放された政治犯がカーネーションとともに群衆に迎えられたことから,この政変を「カーネーション革命」とも呼びます。
 臨時大統領〈スピノラ〉は挙国一致内閣をつくりましたが,クーデタを指導した軍(国軍運動)との間に内紛が起き,〈スピノラ〉の指名した〈カルロス〉内閣は総辞職し,国軍運動の〈ゴンザルヴェス〉を首相とする内閣が成立しました。〈スピノラ〉大統領は,この新内閣が共産主義の影響を受けることを恐れ抵抗を試みましたが,同年に辞任。新大統領の〈ゴメス〉参謀長は,1975年に「革命評議会」を中心に基幹産業の国有化と農地改革を実行しました。

 若手将校の中には,植民地における独立運動の精神に感銘を受ける者も多く,早速ポルトガルの植民地帝国の“店じまい”にとりかかります。
 西アフリカのギニア=ビサウ(1974),南東アフリカのモザンビーク(1974),西アフリカのサン=トメ=プリンシペ(1974),カボ=ヴェルデ(1974),南西アフリカのアンゴラ(1975)に,それぞれ独立協定が結ばれ,ポルトガルのアフリカにおける植民地はなくなりました。
 東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました(東ティモール内戦)。
 中国南部のマカオに対しては,1976年に自治を認めています。

 ポルトガル政府の施策に対し,1975年の政権議会選挙では共産党に接近した国軍運動への反発が高まり,政府の実権は社会党などの穏健派や右派に移っていきました。1976年に民政移管となり〈エアネス〉将軍が大統領に進出され社会党の〈ソアレス〉が首相に任命されます。しかし,基幹産業の国有化と農地改革の失敗から経済は停滞し,植民地の喪失と石油危機後の不況も経済危機に追い打ちをかけました。そんな中,1976年に〈ソアレス〉内閣はEC(ヨーロッパ共同体)に加盟申請しました。ECからの援助金をあてにしたのです。



・1953年~1979年のイベリア半島 現②スペイン
 スペインでは〈フランコ〉による独裁が続いていました。
 1959年に、弾圧を受けていたバスク人のバスク民族主義党から、バスク祖国と自由(ETA)が分離し、1973年には〈ブランコ〉首相を殺害するなどテロリズムを展開します。
 1975年にフランコが死去すると、ブルボン家の〈フアン=カルロス1世〉(位1975~2014)が即位し、ブルボン朝が復活。民主化のプロセスが始動しました。





○1953年~1979年の北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆外交的には北欧均衡をとり,内政的には福祉政策を充実した
ノルディック=バランスをとり,福祉国家の充実へ
 冷戦期の北ヨーロッパ諸国は,対外的には「北欧均衡」(ノルディック=バランス)と呼ばれる東西の力関係を考慮して各国が異なる安全保障政策をとることで地域の安定を図りました。
 そんな中,北ヨーロッパ諸国は1953年に北欧会議を開催し,地域協力の動きも生まれました(フィンランドはソ連を考慮して不参加。1955年に参加)。

 1950年代の北ヨーロッパ諸国は,国内的には国有企業と私的企業が併存する混合経済体制の下,1950年代後半には輸出向けの工業発展(製紙・パルプ・用材,スウェーデンの鉄鋼,ノルウェーの海運,デンマークの畜産)が急速に伸びました。国民の経済的な平等を図るために課税や再分配を調整する福祉政策が充実し,1960年代に黄金期を迎えました。国民の生活水準は向上し,かつてヨーロッパの辺境であった北ヨーロッパの経済的な水準は他地域を凌(しの)ぐレベルとなりました。
 しかし,1970年代に世界的な不況の影響を受け,その体制にほころびがみえはじめます。

・1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドは1973年に社会民主党を中心とする中道左派連立政権が不況の解消に取り組みますが,1987年には保守政党の国民連合党が躍進して社会民主党との連立政権が成立しました(首相は国民連合党)。

・1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 デンマークではマーシャル=プランの受け入れで復興が推進されました。1953年に新憲法が発布されて,参政権の引き下げやオンブズマン制度が導入されました。またグリーンランドに「本国並み」の地位が与えられ,国会に2議席の代表を送ることができるようになりました。1957年の社会民主党を中心とした連立政権はEFTAに加盟し,国民年金など福祉国家政策も推進しました。1970年代に失業率が上昇し,福祉国家を推進してきた社会民主党が議席を失い,福祉国家に反対する進歩党が第二党に躍進しました。1975年に社会民主党を中心とした連立政権が発足し経済の立て直しに努めました。

・1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 アイスランドは西側諸国の軍事機構NATOの拠点として,アメリカ軍の駐留を受けました。1958年に漁業専管水域を4カイリから12カイリに拡大したことでイギリス海軍が出動する事態に発展しました(第一次タラ戦争,1958~61)。

・1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 一方,ノルウェーでは1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。しかし1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済は打撃を受けました。1970年後半以降は保守党が躍進していきました。

・1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 スウェーデンでは,1932年からほぼ一貫して社会民主党が政権の座にあり,福祉国家路線が進められました。しかし,1970年代にはその支持率が下がり,1976年の総選挙での敗北を受け,大戦後の〈エランデル〉長期政権(任1946~69)を引き継いでいた〈パルメ〉首相(任1969~76)が下野しました。その後は社会主義政党ではない政党による連立政権が続きます。




●1953年~1979年の南極
 南極大陸をめぐっては,相変わらず各国が領有権を主張する状況です。
 しかし冷戦の激化にともない,核実験場としての利用や放射性物質の廃棄などが懸念されるようになると,南極の扱いについて国際的な取り決めが必要とされるようになっていきました。

 そこで,1959年に南極条約が,アメリカ合衆国,フランス,ベルギー,イギリス,ノルウェー,ソビエト連邦,アルゼンチン,チリ,ニュージーランド,オーストラリア,南アフリカ,日本(日本は1951年のサンフランシスコ条約で南極大陸の領有を放棄していますが,南極条約には加わっています)により採択され,平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められました。

 とはいえ,アルゼンチンが領有主張する南極大陸の基地(ただし基地はイギリス領にあります)では,1978年に史上初めて南極大陸でアルゼンチン人の男児が出生。「赤ちゃんが生まれたのだから,南極大陸の領有が主張できる!」というのでしょうか…。


●1979年~現在の世界
世界の一体化⑥:帝国の再編Ⅱ
ソ連型の社会主義が失敗に終わり,アメリカ中心の市場経済が全世界規模に拡大する。アジア,アフリカでも経済成長を遂げる国家が台頭し多極化に向かうが,各国で市場経済や異文化への反発も表面化する。

この時代のポイント
(1) ソ連を中心とする社会主義圏でも市場経済が導入され,「各国内の不平等」と「グローバルな不平等」が拡大している
 地球レベルでの自由貿易がさらに進展した結果,先進国の企業も,厳しい競争にさらされることになり,経済格差が広がりました。また,重厚長大産業(鉄鋼・造船・金属)から軽薄短小産業(マイクロエレクトロニクス)へと産業の主力が変化する中で,企業の多くが国内よりも人件費の安い国外に生産拠点を移した結果,先進国内部の雇用が失われる現象(産業の空洞化)も問題になってきています。
 多国籍企業の世界展開や労働力の国際的な移動も活発化し,先進国内では不景気や雇用不安やそれがもたらす経済格差(「各国内の不平等」(注1))を,移民労働者や外国文化の流入の責任とする排外的なナショナリズムも目立っています。特に,単純な構図を表すキャッチフレーズを多用し国内の問題を外国人のせいにすることで票を集めようとする,ポピュリズム的な政治家・政党が支持を集める国・地域もみられます。

 同時に,「グローバルな不平等」(注1)も問題化しています。従来は「南北問題」の「南」側の発展途上国としてひとくくりにされていた国々の中から,技術革新によって新興国へとのし上がる国も出てきたのです。これにより,1990年代以降,新興国の中間層の所得が増えるとともに,それと連動して先進国の下位中間層の所得が低下し,先進国の富裕層がの所得が著しく上昇したと論じる研究者もいます(注2)。

 1970年代以降に経済成長を達成したアジアのNIEs【セA H30】(ニーズ,新興工業経済地域【追H25】。韓国,台湾【セA H30】,香港,シンガポール【追H25】) 【本試験H9[11]】は,輸出向けの製造業で頭角を表し,それにASEAN(東南アジア諸国連合)の諸国や,市場経済を導入した中華人民共和国も追随しています。
 代表的な新興国は2008年の世界経済危機に際してG20(ジー・トゥエンティ)を開催し,経済問題について協議するなど,国際的な存在感を増しています(注3)。従来のように欧米と日本だけで世界経済を協議することが有効ではなくなっていることの現れです。
 BRICs諸国【セA H30ベネズエラは含まない】(ブリックス。ブラジル,ロシア,インド,中国,南アフリカ。南アフリカは加えない場合もある)の共通点は,領土が広大で資源が豊富,人口も多いことが挙げられます。このように,従来は「低開発」であった発展途上国が,21世紀初頭になると経済発展に成功するようになったのです。しかし,以前として「南側」の国々の中でも南南問題といわれる経済格差が問題となっています。
 他方で,熱帯地域に多く分布する後発開発途上国や低所得国(LDCs,1人あたり国民純所得が825米ドル(2014年)以下の国)や,低中所得国(LMICs,826~3255米ドル),高中所得国(UMICs,3256~10065米ドル)なども依然として多く,世界の富の偏りは21世紀に入りますます拡大しているという議論があります。年間所得3000米ドルを下回る最底辺層 (BOP層(Base of the Economic Pyramid),ビーオーピー)は,世界に40億人いるとされています。工業化の進展や農業生産性の向上などの面でアジアに遅れをとっているサハラ以南のアフリカ諸国(サブサハラ=アフリカ)には,2000年代以降は政治の安定,資源価格の高騰,民間消費の拡大を背景に経済成長への兆しがあります。

 発展途上国の多くは先進国(アメリカ合衆国)の主導するIMF(国際通貨基金)や世界銀行の融資を受けて国内の開発を進めた結果,1980年代には中央アメリカや南アメリカ諸国で累積債務問題が深刻化し,借款を返済できない状況に陥ってしまいました。IMFは金融支援をするにあたり,発展途上国の財政政策や金融政策にまで首をつっこむ構造調整政策をとるようになりましたが,市場開放を進めた結果,伝統的な産業の破壊や貧富の差の拡大といった問題を生み出し,批判も浴びています。

 また,先進国では少子高齢化が進み,国家による社会保障制度の存続が危ぶまれています。一方,新興国や発展途上国では若年人口が急増し(ユースバルジ),そのことが社会を不安定化させる要因になっているとの指摘もあります(注4)。
(注1)脇村孝平「「南北問題」再考-経済格差のグローバル・ヒストリー」『経済学雑誌』118巻3・4号,pp.27~47(http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/04516281-118-3-4-27.pdf)。
(注2)ブランコ・ミラノヴィッチ,立木勝訳『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』みすず書房,2017年。
(注3)20か国は,アメリカ合衆国,イギリス,フランス,ドイツ,日本,イタリア,カナダの7か国にEUの1地域を合わせたG7に,ロシアを加えたG8(ロシアは2014年からはG8の資格が停止されています)に加え,中華人民共和国,インド,ブラジル,アルゼンチン,メキシコ,南アフリカ,オーストラリア,大韓民国,インドネシア,サウジアラビア,トルコで構成されています。
 すでに1999年から20か国・地域の財務大臣・中央銀行総裁会議が開かれていましたが,2008年からは20か国・地域首脳会合(G20首脳会合)もあわせて開かれるようになったのです
(注4)世界銀行 ‘Youth Bulge: A Demographic Dividend or a Demographic Bomb in Developing Countries?’ http://blogs.worldbank.org/developmenttalk/youth-bulge-a-demographic-dividend-or-a-demographic-bomb-in-developing-countries,2012




 一方で,政治家や金融資本家など一部の富裕層が,1970年代から自国の税負担を逃れて莫大な資産を租税回避地(タックス=ヘイヴン,税負担を低く設定している地域・国)に移動させる傾向もみられます。タックス=ヘイヴンの一つであるパナマの法律事務所が関わった顧客データ(パナマ文書)が2016年にインターネット上に公開され国際的な批判を呼び,一部の政治家は辞任を余儀なくされました。
 急速な経済のグローバル化に対して,地産地消(ちさんちしょう)などを訴える反グローバリズム(ローカリズム)の運動を起こす人々も,先進国を中心に現れるようになっています。また,タイ王国における〈タクシン〉派と反〈タクシン〉派の争いのように(注),多国籍企業の誘致や外資の導入による開発の是非が,発展途上国における政治の争点となる事態も増えています。
(注)末廣昭『タイ―中進国の模索』岩波書店,2009年。


(2) 気候変動を初めとする地球環境問題が国際政治を左右するようになった
 また,グローバル化によって地球上のあらゆる地域で経済活動が発展するようになると,国境を越える地球環境問題が喫緊の問題として認識されるようになりました。
 1970年代に,地球を取り巻き紫外線を吸収する役割を持つオゾン層が,冷蔵庫の冷媒や電子部品の洗浄剤に使われていたCFC(クロロフルオロカーボン)や,消火剤のハロンにより破壊されるメカニズムが明らかになっていました。紫外線の増加にともなう健康被害や,生態系への悪影響を防ぐため,1985年にはオゾン層の保護のためのウィーン条約,1987年にはオゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書が締結されました。
 化石燃料の排出物に含まれる有害物質が雨となって降り注ぐ酸性雨についても,1979年には長距離越境大気汚染条約(ECE条約)が締結され,各地で観測と対策が続けられています。
 環境問題に関する国際連合の会議としては,1982年に国連環境計画管理理事会特別会合(ナイロビ会議)が開催されました。また,ブラジルのリオデジャネイロで1992年6月に開催された,地球サミット(国連環境開発会議) 【本試験H17時期(1990年代初めかを問う)】では,現在の世代だけではなく未来の世代のことも考えようという「持続可能な発展」という理念が主張され,各国首脳も参加する大規模な国際会議となりました。地球サミットでは,環境と開発に関するリオ宣言が採択され,気候変動枠組条約,生物多様性条約,森林原則声明と,リオ宣言に基づく持続可能な開発を実施するための自主的行動計画である「アジェンダ21」が採択されました。
 リオ会議で採択された気候変動枠組条約に基づき,毎年気候変動枠組条約の締結国会議が開催されるようになり,その第3会会議(COP3,コップスリー,1997年)において,地球温暖化の原因物質とされる温室効果ガス(二酸化炭素など)の削減目標を明記した京都議定書【H29共通テスト試行 時期(1932年ではない)】【中央文H27記】が採択されました。
 京都議定書の定める期限が切れてしまったので,2016年にはその後継となるパリ協定が発効しました。ちなみに,1人あたり排出量が世界トップであるにもかかわらず,2017年にアメリカ合衆国はパリ協定を離脱しています。
 また,人口爆発や気候変動の進展により,水資源の確保をめぐる争い(“水戦争”)や食糧問題も深刻化すると予想されています。ただ,世界全体の食糧が不足しているというわけではなく,発展途上国の食糧が大量に先進国の畜産業向けの飼料として輸出され,発展途上国の人々に十分に分配されないといった,構造的な問題が背景にあるのです(注)。
(注)ジャン=ジグレール(勝俣誠監訳,たかおまゆみ訳)『世界の半分が飢えるのはなぜ? ―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』合同出版,2003年。


(2) 文化のグローバリズムが進む一方で,マイノリティの文化や先住民文化が再評価され,世界各地の政府や非政府組織によりグローバル化を推進する動きだけでなく,対抗する動きも起こされている
 経済のグローバル化の進展に伴い文化のグローバル化も進みました。また,情報通信技術の発達により,誰でも手軽に文化を発信したり,共通の分野に関心のある人々がつながったりすることができるようになったことで,日本発の漫画やアニメなどのサブカルチャーが注目されるようになりました。
 また,情報通信技術の発達により,多様な価値観が人々の目に直接ふれるようになったことで,マイノリティ集団(民族的なマイノリティやジェンダー=マイノリティ)や障害者の権利も注目されるようになっています。その一方で,伝統的な文化と,新しい価値観との間でどのように折り合いを付ければよいかということも,多くの地域で問題になっています。
 マイノリティ(少数派)集団の中には,国境を超えて文化や宗教といった自分たちのアイデンティティを守ろうという動きも見られるようになり,国際連合や各国政府によって先住民の権利が保障される動きもみられるようになります(注)。

 一方で,20世紀末から21世紀初頭にかけての世界では,従来のような「国民国家」を中心とする国際体制が少しずつ変化し,中華人民共和国やロシア連邦といった国内に多くの民族をかかえる広大な国家が台頭するようになっています。
 特に冷戦後には各地で大国の利害や経済的利権のからむ民族紛争が多発し,その多くが国境を超える複雑な原因を抱え,難民や国内避難民の数も増加しています(2015年に史上最多の6000万人に)。また,奴隷は19世紀を通じて廃止されたものの,今なお奴隷制と実態の変わらない人身(じんしん)売買(ばいばい)【早政H30】が行われている事例は,世界各地に残されています。
 このような問題に対し,国連は,人々の人間としての生活が保障されるべきであるという「人間の安全保障(ヒューマン=セキュリティ)」という考えを打ち出すようになりました。国連や国家に代わって,非政府組織(NGO) 【早政H30】 によって,市民が直接的に世界レベルの問題解決に貢献しようとすることも可能になってきました。国際赤十字(1917,1944,1963(国際赤十字赤新月社連盟として)にノーベル平和賞を受賞)や国境なき医師団(MSF,1999年にノーベル平和賞を受賞)による紛争地域における医療活動や,地雷禁止国際キャンペーン(1992に設立,1997にノーベル平和賞を受賞),核兵器廃絶国債キャンペーン(2007設立。2017ノーベル平和賞を受賞)も注目されています。2010年代後半にはインターネットを介した資金集めの手段としてクラウド=ファウンディングも盛んになります。また,国連のUNESCOは1997年以降,世界記憶遺産(世界の記憶) 【東京H29[3]問題文】というプロジェクトを始め,人類が長期に渡り記憶して後世に伝える価値があるとされる記録物が選ばれるようになっていきました(清の科挙合格者掲示,ハリウッド映画,『アンネの日記』【本試験H6史料で使用】やインド洋大津波(2004)など)。

(注)たとえば1989年には、国際労働機関が「先住民条約」として知られる第169号条約を採択しています。土地を、単なる私的所有の対象としてではなく生存領域としてみなすという内容です(真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.94。)。




(4) 科学技術の高度な発達とともに,「リスク社会」の危険性が意識され始めた
舞台はサイバー空間,ミクロの世界,宇宙空間へ
 20世紀後半以降の科学技術の革新を,コンピュータ【東京H16[3]「新しい出版の形態を可能とした技術」の名称を答える】や原子力技術,特にコンピュータやICT技術,インターネットや再生可能エネルギー技術に注目して,「第n次産業革命(工業化)」(n≧3)と呼ぶことがあります。2016年にスイスで開催された第46回世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)では,第三次産業革命(工業化)をインターネットとICT技術の普及,第四次産業革命(工業化)を「極端な自動化,コネクティビティによる産業革新」として議論が展開されました。
 ダボス会議のいう「第三次産業革命(工業化)」にあたる情報通信革命は1980年代以降急速に伸展し,大量の情報を瞬時に処理するソフトウェアや端末の開発が進んでいきました。複数のコンピュータ(電子計算機)のネットワークをTCP/IPという通信の方式によってつなぐインターネットが実現しました。1991年には〈ティム・バーナーズ=リー〉(1955~)らによりワールド=ワイド=ウェブ(WWW)が開発され,複数のテキスト同士をリンクする仕組みも整備されていきました。これにより,1990年代にかけて民間における利用も進み,現実的な空間における取引だけでなくサイバー空間上で瞬時に取引をすることもできるようになりました。国際間の取引の信用を高めるため,1988年にはバーゼルの国際決済銀行が民間銀行の自己資本比率に関するルール(BIS(ビス)規制)を定め,金融に関するルールの標準化が進みます。
 2001年にはGoogleが創業し「世界中の情報を整理し,世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を使命に掲げます。GPS(全球測位システム)の民間への普及も進んでいます。

 情報通信革命の成果をさらに進展させ,コンピューター上の仮想空間をつくるVR(ヴァーチャル=リアリティ)や,現実世界の機械とネットワークをリンクさせることで効率的な仕組みを生み出すIoT(アイ=オー=ティー),さらに人類の認知・学習能力を備えたコンピューター=プログラム(AI,人工知能)の開発などが2010年代以降いっそう加速しています。すでに特化型の人工知能は,大量のデータ(ビッグデータ)を分析させ,意味のある情報を取り出しながら(データマイニング),個別の領域について自己学習をすることが可能になりつつあります。
 新技術をロボット分野(注)における技術革新と組み合わせることで,人間の身体器官や感覚器官を拡張させることで,障害者や高齢者の身体能力の回復や改善ができるのではないかとも期待されています。また,ナノテクノロジー(原子や分子の規模で物質をコントロールするための技術)と組み合わせることで,微小な医療用ロボットを体内に送り込むことで手術を実施しようとする試みも研究されています。
(注)ロボットとは人間と同じ振る舞いをする機械のこと。



 生物学の分野では1992年にアメリカ合衆国で癌の遺伝子治療が実施され,1996年にはイギリスでクローン羊ドリーが誕生しました。グローバル化は学問の国際的な研究にも影響し,2003年に人間のDNAの解読を目指したヒトゲノム計画が完了し,2007年に日本の〈山中伸弥〉(1962~)が皮膚から人工多能性幹(iPS)細胞を生成するなど,遺伝子工学も急速に発展しています。2010年以降はゲノムそのものを操作し,特定のDNA塩基配列に関係する遺伝子を取り替えるなどのゲノム編集の研究も進んでいます。2010年にはアメリカ合衆国の研究者が,人工的に合成したゲノムから完全なバクテリアを作り出すことに成功しています(注1)。

 物理学の分野では,物質の最小単位クォークの性質や作用に関する研究が進み,スイスのCERN (セルン,欧州原子核研究機構) 研究所が2008年9月に世界最大の粒子加速器「大型ハドロン衝突型加速器」の稼働を開始しています。

 その一方で,情報工学の分野では,ネットワーク上の著作権の問題や,個人情報の保護などの問題も浮上。監視技術の高度化により、かつて〈ジョージ=オーウェル〉(1903~1950)が小説『1984年』で想像したような国家による国民の統制もSFではになくなりつつあります。
 また、社会全体がコンピューターのシステムに依存することで,システムがサイバー攻撃を受けた場合,社会全体の機能が停止してしまうのではないかという危険性も指摘されています。
 従来のような特定の分野に限定された特化型人工知能の導入が進むと,従来の産業構造が転換していくのではないかとか,あらゆる分野について認知処理が可能な汎用型人工知能が開発された場合,人類に対して計り知れない影響が与えられるのではないかといった議論も〈レイ=カーツワイル〉(1942~)らにより提起されています(シンギュラリティ(技術的特異点))。

 遺伝子工学の分野では,研究の進展によって病気や寿命の問題が解決される可能性が出てきており,「人間とは何か」「生命とは何か」といった根本的な倫理(生命倫理)を再確認する必要性が叫ばれています。

 このように,科学技術や経済・社会制度が高度に複雑化したことで,政治家や一般市民が専門家の知見を検証することは困難となる一方,“近代化の副産物”としての予測不可能なリスクが人類社会を覆うようになっています(注2)。
(注1)http://science.sciencemag.org/content/329/5987/52
(注2)ドイツの社会学者〈ウルリッヒ=ベック〉は,このような社会を「リスク社会」(危険社会)と表現しました。




(5) 人類には多くの未解決問題が残されている
 2000年にニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットで採択された国連ミレニアム宣言で挙げられた2015年までに達成すべき課題(1. 極度の貧困と飢餓の撲滅,2. 普遍的初等教育の達成,3. ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上,4.幼児死亡率の削減,5. 妊産婦の健康の改善,6. HIV/エイズ,マラリアその他疾病の蔓延防止,7. 環境の持続可能性の確保,8. 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進)には改善されたものもありますが,課題は残りました。

 そこで,2015年の国連サミットでは,持続可能な開発のための2030アジェンダが採択され,2016年には17項目の持続可能な開発目標(SDGs)が発効しました。具体的には,1. 貧困の撲滅,2. 飢餓撲滅,食料安全保障,3. 健康・福祉,4. 万人への質の高い教育,生涯学習,5. ジェンダー平等,6. 水・衛生の利用可能性,7. エネルギーへのアクセス,8. 包摂的で持続可能な経済成長,雇用,9. 強靭なインフラ,工業化・イノベーション,10. 国内と国家間の不平等の是正,11. 持続可能な都市,12. 持続可能な消費と生産,13. 気候変動への対処,14. 海洋と海洋資源の保全・持続可能な利用,15. 陸域生態系,森林管理,沙漠化への対処,生物多様性,16. 平和で包摂的な社会の促進,17. 実施手段の強化と持続可能な開発のためのグローバル・パートナーシップの活性化です。
 このリストに挙げられた項目は,まさにホモ=サピエンス(人類)が人種・民族・国民を越えて共同作業をしなければ解決できない問題ばかりといえます。





●1979年~現在のアメリカ
◯1979年~現在のアメリカ  北アメリカ
・1979年~現在のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
 1982年にカナダ法が改正されてカナダ憲法が成立しました。
 1980年と1992年には,フランス系住民の多いケベック州で分離を問う住民投票が行われましたが,否決されています(ケベック州分離独立運動)。
 1999年には先住民(インディアン;ファースト=ネイションズ)や北方のイヌイットの自治権が承認されました。
 カナダは世界各地から積極的に移民を受け入れ,多文化社会化が進行しています。




・1979年~現在のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
1977~81年〈カーター〉政権
人権外交
 1977年に就任した民主党【本試験H9共和党ではない】の〈カーター〉大統領【本試験H9】は,「人権外交」を掲げて,エジプトとイスラエルとの間にキャンプ=デーヴィッド合意を締結させるなど,中東和平に深く関わりました。また,1977年には新パナマ運河条約(トリホス=カーター条約)をパナマの〈トリホス〉最高司令官と結び,1979年に主権をパナマに返還しました(完全撤退は1999年(⇒1979~現在の中央アメリカ パナマ))。また,1979年には中華人民共和国と国交を樹立(同時に,中華民国(台湾)とは国交を断絶)しています。在任中にイラン革命が起き,イランのアメリカ大使館人質事件(1979~80)の解決に奔走するなど外交に力を入れた大統領でした(映画「アルゴ」イラン アメリカ大使館人質事件での実話を基にアメリカ大使館側の視点で描かれています)。
 なお,米ソの核兵器を削減するためのSALT2(ソルト=ツー,第一次戦略兵器制限交渉)をおこない,条約に調印しました。しかし,上院が批准を拒否したために,発効はされませんでした。



1981~1989年〈レーガン〉政権
強いアメリカ
 1981年に就任した〈レーガン〉大統領(任1981~1989)【本試験H4アイルランド系カトリック教徒ではない】(注1)は,「強いアメリカ」【本試験H27イギリスのブレアではない】を掲げてソ連との対決姿勢を強めていきます。インフレ率は1980年に約14%に達し,1982年の失業率も約10%のピークに達していました(注2)。
 膨れ上がった「双子の赤字」(財政赤字と貿易赤字)を解消させるために,「新自由主義」的な政策“レーガノミクス”をとりました。結果としてインフレ率は1990年には約6%まで低下,1990年に失業率は5%台にまで落ち込みます。ただ,この間に実質収入にほとんど変化はなく,貧困世帯数は増加し所得格差は拡大していきました(注2)。
 1980年代には,コンピュータ分野での技術革新が花開き,ソ連との経済や技術の格差がますます拡大していきました。〈スティーブ=ジョブズ〉(1955~2011)が創業したアップルが,マッキントッシュというパーソナル=コンピューターを初めて発売したのは,1984年のことです。
(注1) ただし〈レーガン〉の父方はアイルランド系です(山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.93)。
(注2) クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』日本経済新聞社,2003,p.18。




1989~1993年〈ブッシュ〉(父)政権
1993~2001年〈クリントン〉政権
冷戦の終結
 1989年に就任した共和党の〈G.H.W.ブッシュ〉(ブッシュ父)大統領(任1989~1993) 【追H30オスロ合意ではない,クリントンとのひっかけ】は,1989年12月2~3日に地中海のマルタ島で行われたマルタ会談において,ソ連の〈ゴルバチョフ〉書記長とともに史上初めて共同で記者会見をおこない,事実上の冷戦の終結を宣言しました。
 1992年にアメリカ,カナダ,メキシコは北米自由貿易協定(NAFTA,ナフタ) 【本試験H23キューバは加盟していない】【本試験H25】が結ばれ,1994年に発効しました。発効時の大統領は民主党〈クリントン〉(任1993~2001)です。
 〈クリントン〉をめぐっては,セクシャル=ハラスメントの訴訟と不倫を発端とするスキャンダルが弾劾訴追(1998年)に発展し,1999年に無罪の評決がおりています。



2001~2009年〈ブッシュ〉(子)政権
9.11(ナイン・イレブン)
 民主党政権は,2001年に政権を共和党の〈G.W.ブッシュ〉大統領(任2001~09,2代前の大統領の息子) 【慶文H30記】に譲りました。
 大統領選で〈ブッシュ〉の対立候補であった民主党の〈アル=ゴア〉(1948~)は人為的な気候変動防止に向けた活動を推進し,その後2007年に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とともにノーベル平和賞を受賞しています。それに対し2001年3月には京都議定書からの離脱,7月にはCTBT(包括的核実験禁止条約)からの離脱が宣言され,政権は単独行動主義(ユニラテラリズム)と国際的な批判を受けていました。
 そんな中,2001年9月11日,ニューヨークの世界貿易センタービル(ワールドトレードセンター)と首都ワシントンD.C.近くにある国防総省(ペンタゴン)のビル(ヴァージニア州)に,ジェット旅客機が乗客を乗せたまま突っ込み,多数の死傷者を出しました(アメリカ同時多発テロ事件) 【慶文H30記】。

 〈ブッシュ〉大統領は,9月20日に次のように演説します。

 「Our war on terror begins with Al Qaeda, but it does not end there. It will not end until every terrorist group of global reach has been found, stopped and defeated.」(訳してみましょう)

 大統領は今回のテロリズムを、〈ビン=ラーディン〉を指導者とするアル=カーイダ【慶文H30記】という暴力的なイスラーム組織の犯行と判断し,アフガニスタン政府に〈ビン=ラーディン〉を引き渡すよう求めます。

 しかし,当時のアフガニスタンのターリバーン政権は,それを拒否。

 2001年10月7日にアメリカやイギリスを中心とする多国籍軍が,アフガニスタンとの戦争を開始しました(アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻)。

 ターリバーン政権は,同年3月にバーミヤン渓谷の磨崖仏や洞窟内の壁画(「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」,2003。危機遺産)を破壊する過激な行為を映像で撮影し世界に配信したことで注目を集めていました。11月13日には首都カーブルは制圧され,ターリバーン政権は崩壊しました。その後,アフガニスタンには新政権ができましたが,不安定な情勢は続いています。

 2001年には米国愛国者法が制定され,テロ行為に関係があると疑われる人物に対する政府による情報収集が認められました。政府による情報収集に不適切な行為があることをアメリカ国家安全保障局 (NSA)とアメリカ中央情報局(CIA)の元局員〈スノーデン〉(1983~)が暴露し,2013年以降はロシアに一時的に亡命。アメリカ側は引き渡しを求めていますがロシアは応じず,対立が続いています。

 〈ブッシュ〉大統領は,2003年3月にイラクに対して開戦しました(イラク戦争【追H29】)。イラクの〈フセイン〉大統領【追H29】が「大量破壊兵器」を持ち,暴力的なイスラーム組織を支援しているのではないか。もしそうなら,アメリカが攻撃されるおそれがあるため「自衛権」を発動できる――ブッシュ政権はそのように考えたのです。これに対しては,フランスの反対もあり,国連安保理がアメリカの軍事行動に反対したものの,4月にはフセイン政権は崩壊しました【追H29】。その後のイラクの占領政策は失敗し,「大量破壊兵器」の存在も謎のままに終わります。
 なお,アフガニスタンやイラクで拘束した人物は,キューバのグアンタナモ海軍基地内にある収容キャンプ(2002年設立)に送られ,収容者に対する拷問が行われているという情報が2004年に明るみに出て物議をかもしました。
 そんな中,2008年9月の世界同時不況(リーマン=ショック)がアメリカを震源地として世界中に瞬く間に広がりました。金融資産を嫌って,2011年には金価格が1トロイオンス=1923.7ドルという最高値を記録しています。

2009~2017〈オバマ〉政権
Yes We Can
 大統領選挙で敗北した〈ブッシュ〉大統領に代わり,2009年に新たに大統領に就任したのが〈オバマ〉(任2009~2017)です。〈オバマ〉はケニア人の父と白人のアメリカ人との間にハワイで生まるという経歴を持ち,注目を集めました。就任後には金融危機への対策として自動車産業や金融機関を救済し,富裕層を公的資金で救済にすることには反発(オキュパイ=ウォール=ストリート運動(ウォール街を占拠せよ運動))も起きました。
 2009年にチェコのプラハ【セA H30ワルシャワ(ポーランド)ではない】で「核兵器のない世界」を目指す演説を行い,その活動に対してノーベル平和賞が贈られましたが,2011年までアフガニスタンとの戦争は継続するなど世界規模の「対テロ戦争」の遂行は継続されています。
 アフガニスタン撤退後の中東では,イラクやシリアの領域内で「イスラーム国」を称する武装勢力が支配圏を拡大させ,「アラブの春」後も混乱していたリビアでは2012年にアメリカ領事館が襲撃されました。医療保険制度改革(オバマケア)や金融機関への救済のために財政支出をすることに反発したティーパーティー運動(1773年のボストン茶会事件からとられた名前です)を生み,政権に対する批判も高まっていきました。2016年には現職のアメリカ合衆国大統領として始めて,被爆地である広島を訪れています。



2017年~現在〈トランプ〉政権
Make America Great Again
 2017年に大統領に就任した共和党の〈トランプ〉(1946~,在任2017~)は,インターネット上のSNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス)を利用した過激な発言で自身の話題を集め,メキシコや中東諸国からの移民制限や,イェルサレムのイスラエル首都としての承認など,国際諸国の協力よりもアメリカ合衆国の国益を優先させるアメリカ第一主義(アメリカ=ファースト)を掲げ,孤立主義的な傾向を強めています。
 他方で,2016年の大統領選挙期間中にロシア連邦による〈トランプ〉派に有利となるようなサイバー攻撃やSNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス)における世論誘導などの干渉があったのではないかという疑惑(ロシア疑惑,ロシアンゲート)も露見しました。

 2018年にはイラン核合意から離脱,アメリカのイスラエル大使館の西イェルサレムへの移転,北朝鮮の指導者〈金正恩〉やロシアの〈プーチン〉大統領と直接会談,大規模な保護関税の実施などを実行しました。
 同年、7月には中国から輸入される818品目に対し340億ドル規模の追加関税措置を発表。これ以降、両者の報復措置はエスカレートしていきました。この背景には、次世代の情報通信技術の世界的企画(5G(ファイブジー))をめぐる主導権争いがあり(アメリカは華為(ファーウェイ)を名指しで攻撃(注))、2019年に入っても報復関税の掛け合いが続いています。

(注) 副会長兼CFOの〈孟晩舟〉(もうばんしゅう、1972~)が、アメリカが経済制裁を科しているイランに違法輸出した疑いで2018年7年に逮捕されています。





◯1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

・1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
◆一党体制の間に積み上がった財政危機を、政府は新自由主義的な政策での解決目指す
制度革命党の一党体制に反発が起きる
 メキシコは制度革命党の一党支配の下,アメリカ合衆国との関係を維持しつつ,第三世界とも連携した独自の外交を進めており,ニカラグア内戦を戦うサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を全面的に支持します。

 しかし,深刻化した対外債務が1982年に明らかになるとメキシコ経済は危機的な状況に陥り,制度革命党の〈マドリ〉大統領(任1982~1988)の下で国際通貨基金(IMF)による政策への介入を認め,新自由主義的な政策で財政改革を進めました。

 そのしわ寄せは国民生活に及んだものの,1992年の選挙でギリギリ勝った〈サリーナス〉(任1988~1994)の下でも新自由主義は続行されていきます。その代表例が,1992年に締結されたアメリカ合衆国・カナダとの北米自由貿易協定(NAFTA) 【本試験H23キューバは加盟していない,H25】です(1994年に発効)。

 これに対しサパティスタ民族解放軍(メキシコ革命の農民指導者〈サパタ〉(1879~1919)【本試験H10スペインお呼びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】が由来です)というゲリラ組織は「アメリカから安価なトウモロコシが流入すれば,メキシコ最南部チアパス州(マヤ人が多い)の貧しい農民の暮らしは破壊される」と,締結したメキシコに対して宣戦布告。サパティスタはまもなく鎮圧され,対話路線に転換しています。

 1994年には制度革命党の〈セディージョ〉(任1994~2000)が大統領に就任しますが,1994年に通貨危機が勃発。1997年にはチアパス州のインディオ住民に対する虐殺も起きています。




一党体制が終結も,貧困・移民・麻薬問題が課題
 2000年の選挙で国民行動党(PAN)の〈ケサーダ〉(任2000~2006)が大統領に終結し,70年余りの一党独裁体制がようやく幕を閉じました。1910年の〈マデロ〉大統領以来、初めて野党から選出された大統領でした。

 しかし,チアパス州のゲリラ組織との和平交渉は難航し,国内の貧困問題も大きな課題として残されたまま。職を求め,メキシコからのアメリカ合衆国への合法・非合法の労働力の移動が増えると,アメリカ国内ではヒスパニック系(スペイン語を話す人々)を制限しようとする動きが起きます。
 2017年に就任した実業家出身の〈トランプ〉大統領(任2017~)はメキシコとの国境の壁建設を命じるなど,移民を制限する政策をとりました。〈トランプ〉大統領はSNSを通した過激な発言で注目を集め,その政策は自国第一主義ともいわれます。

 2006年に大統領に就任した国民行動党の〈カルデロン〉(任2006~12)政権以降は,アメリカ輸出向けの麻薬組織を撲滅するための “麻薬戦争”が深刻化しています。





・1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ

 アメリカ合衆国にとって中央アメリカ諸国が社会主義化することは,どうにかして避けたい事態でした。④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,②グアテマラ,⑦コスタリカの5か国は1961年には中米共同市場が発足させて地域の経済協力を進め,アメリカ合衆国の資本が投下されて工業化が推進されていきました。
 しかし,その過程で中央アメリカの経済の中心を占めるようになったエルサルバドルと,隣国ホンジュラスとの対立が生まれます。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。
 そんな中,1970年にホンジュラスで農地改革が行われ,ホンジュラスからエルサルバドル移民が国外退去させられるのと同時期に,FIFAワールドカップの北中米カリブ予選が開催され,ホンジュラスでの対エルサルバドル戦で観客が暴徒化し死傷者が発生し,戦争へとエスカレートしました(サッカー戦争)。
 サッカー戦争は約100時間で終わりましたが,戦後のエルサルバドルはホンジュラスからの移民の大量退去の影響から失業者にあふれ,大土地所有者への反発から左派の活動も活発化しました。1972年の大統領選挙に反対する左派ゲリラの活動が高まると,軍部と右派が結びついて全国で暴力的な行為がはびこり,1980年に国民の精神的な中心だった〈ロメロ〉大司教が暗殺されると,エルサルバドルは本格的な内戦に突入します(エルサルバドル内戦,1980~1992)。アメリカ合衆国の〈レーガン〉政権はエルサルバドルが社会主義化することを恐れて政府側を支援しました。

 1979年にニカラグア革命が起き,サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が,〈ソモサ〉による親米独裁政権を打倒しました。しかし,アメリカ合衆国はイランと裏取引して得た資金を流用してまで,反政府の民兵コントラを軍事支援し,サンディニスタ政権に対抗させます(この事実は1986年に発覚しイラン=コントラ事件としてスキャンダルとなりました)。サンディニスタ政権はエルサルバドル内戦にも関与し,エルサルバドルの反政府ゲリラを支援するなど,中央アメリカにおける内戦は国境を超える規模に発展していったのです。

 1990年のニカラグア選挙においては,アメリカ合衆国の支援する〈チャモロ〉が勝ち,サンディニスタの〈オルテガ〉大統領は敗北しました。しかし,反米の声は21世紀以降高まり,〈オルテガ〉(任1985~90,2007~)は2006年に再選を果たしています。
 一方エルサルバドルでは,1992年に国際連合による和平が実現して,PKO(国連平和維持活動「国際連合エルサルバドル監視団」)が派遣されることで,エルサルバドル内戦は終結しました。1994年に総選挙が行われると,反政府ゲリラであったFMLNは第2党となり,政府側であった国民協和同盟の〈カルデロン〉(任1994~99)が大統領に就任し,アメリカと友好関係を結ぶ政策をとっています(2001年に通貨に米ドルを採用)。しかし,2009年にはFMLNの〈フネス〉が大統領に就任して政権交代を実現しました。
 グアテマラでは1960年から続いていた典型的な米ソの代理戦争であるグアテマラ内戦が1996年に終結しました。この間,軍事政権による人権侵害を実名で国際社会に告発した,マヤ系のインディオ女性〈リゴベルタ=メンチュウ〉は1992年にノーベル平和賞を受賞しています。




・1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
 パナマの〈トリホス〉将軍の軍事政権(任1968~1981)は,アメリカ合衆国の〈カーター大統領〉(任1977~81)との新運河条約(1977)に基づき,1979年に運河地帯の主権を回復させました。1981年に〈トリホス〉が死去すると,〈ノリエガ〉(1934~2017)が最高司令官として実権を握りました。彼が,南アメリカのコロンビア(⇒1979~現在の南アメリカ コロンビア)からアメリカ合衆国に麻薬を密輸するルートに関与していたことから,アメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は1989年にパナマに軍事侵攻し,〈ノリエガ〉を逮捕しました(パナマ侵攻)。その後1999年にアメリカ合衆国は旧運河地帯から完全に撤退しています。
 2016年には,パナマもその一つであるタックス=ヘイヴンでの企業設立を手がける法律事務所(モサック=フォンセカ)から,世界各地の現旧指導者(イギリスの〈キェメロン〉首相も),富裕層,多国籍企業の役員を含む内部文書が流出しました。タックス=ヘイヴンへの資金の移動をめぐり,各国ではこの「パナマ文書」が問題化し,アイスランドの〈グンロイグソン〉首相(任2013~16)のように辞任に追い込まれた例も出ました。

・1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現③ベリーズ
 ベリーズは1981年にイギリスから独立し,イギリスの〈エリザベス2世〉を王とする立憲君主国となりました。首都はベルモパン。



○1979年~現在のアメリカ  カリブ海
カリブ海諸国・地域…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆イギリスからの独立が続く中,アメリカ合衆国からの介入も続く
 1979年に,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島がイギリスから独立(いずれもイギリス連邦に加盟)。
 1981年には⑧アンティグア=バーブーダがイギリスから独立(イギリス連邦に加盟)。2017年にハリケーン・イルマにより国土が壊滅的な被害を受けています。
 1983年には⑦セントクリストファー=ネイビスがイギリスから独立しています(イギリス連邦に加盟)。
 いずれもかつてはサトウキビのプランテーションに依存していたためアフリカ系の民族が多く分布し,経済的には海外からの援助や観光に依存しています。

 カリブ海の諸国・地域に対するアメリカ合衆国の介入は,この時期に入っても続きます。
 ⑮グレナダでは1974年の独立後にクーデタでソ連・キューバの支援を受けた左派政権が樹立イされていましたが,その後起きた政変を機に1983年にアメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領が軍事侵攻(グレナダ【東京H28[1]指定語句】侵攻)し,親米政権を樹立しました(これを受け1984年のロサンゼルス五輪にはソ連ほか東側諸国がボイコットしています)。

 1994年にはカリブ海諸国の地域協力機構としてカリブ諸国連合(ACS)が結成されました。加盟国は⑧アンティグア・バーブーダ,②ジャマイカ,③バハマ,⑭バルバドス,①キューバ,⑩ドミニカ国,⑤ドミニカ共和国,⑮グレナダ,⑦セントクリストファー・ネーヴィス,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑯トリニダード・トバゴ,④ハイチ。以上のカリブ海諸国のほか,中央アメリカのメキシコ,ベリーズ,コスタリカ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,パナマ,グアテマラと,南アメリカのコロンビア,ガイアナ,スリナム,ベネズエラから構成されています。

 アメリカ合衆国は1992年に①キューバへの経済制裁を強化しました。困ったキューバ政府は経済開放政策へと転換。2008年には〈フィデル=カストロ〉(1926~2016)が引退すると,弟の〈ラウル=カストロ〉(1931~)が国家元首・首相に就任しました。2015年には54年ぶりに,アメリカ合衆国との国交が回復されました(キューバの雪解け)。また,アメリカ合衆国へのメキシコや中央アメリカ,カリブ海諸国(ドミニカ共和国が多い)からの移民も増加しています。⑤プエルトリコは自治領(コモンウェルス)という位置付けで,アメリカ合衆国の州に昇格しようとするグループも国内に存在します。

・1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマは,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握っていましたが,1992年以降は自由国民運動,2002年には進歩自由党,2007年に自由国民運動,2012年に自由国民運動が政権を獲得するなど,選挙による政権交代が続いています。
 なお,イギリスと間の土地租借条約(1940)によって,アメリカ合衆国はグランド・バハマ島,エルセーラ島及びサン・サルバドール島に海軍基地を保有しています(注)。
(注)「バハマ概況」在ジャマイカ日本国大使館(http://www.jamaica.emb-japan.go.jp/files/000253957.pdf)。

・1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
 ハイチ(ハイティ)は1986年に独裁的な〈デュバリエ〉政権(任1971~86)が反乱により倒れた後,政情不安定になっていました。1990年に国際連合の選挙監視団の下で実施された選挙により1991年に〈アリスティド〉(任1991,93~94,94~96,2001~2004)が大統領に就任しましたが,同年の軍事クーデタにより〈アリスティド〉大統領はアメリカ合衆国に亡命。1993年にアメリカ合衆国は国連のミッションの一員としてハイチの内政に介入しましたが,軍事政権が退陣を拒否したため,1994年の安保理決議に基づきアメリカ軍を主力とする多国籍軍がハイチに侵攻し,〈アリスティド〉政権に戻りました。
 しかし,2010年にマグニチュード7.0の巨大地震があり,死者30万人という空前の規模の犠牲者を出すと,国連や各国による復興支援活動が実施されました。
・1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 アメリカ領ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。
 イギリス領ヴァージン諸島は,1967年に自治を獲得。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。
 観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げています。

 イギリス領アンギラ島は,1976年に自治権が付与され,1980年にセントクリストファー=ネイビスから分離されました。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。

・1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 セントクリストファー=ネイビスは1983年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立しています。


・1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっており,1958年に旗揚げされたマルティニーク進歩党が「自治」をスローガンに,同島に影響力を持ち続けています。
 〈エメ=セゼール〉は2008年に死去。
 世界同時不況(2008年)の影響を受け,2009年には島の経済に影響力を及ぼすフランス系と,それに比較して経済的に貧しい黒人系のルーツを持つ人々との対立も背景に,大規模なゼネ=ストが勃発しています。




○1979年~現在のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネズエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

・1979年~現在の南アメリカ  現①ブラジル
 ブラジルでは1964年から軍事政権による支配が続いており,外資の導入による経済発展が実を結んでいました。しかし,第一次石油危機後には成長率がにぶり,インフレが進行していました。先進国に対する債務も積み上がり(累積対外債務の問題),国内における貧富の差の拡大も問題でした。また,軍事政権の成立以降アマゾンの乱開発がエスカレートし,熱帯雨林の大規模な伐採や沙漠化が進行していました。
 1980年代後半には民主化の機運が高まり,1985年には21年ぶりに文民大統領が就任しました(民政移管)。周辺諸国との関係の改善も図られ,1986年にはアルゼンチンとウルグアイとの間に共同市場を設けることが取り決められました。1989年9月にはアマゾン川流域の諸国(ベネズエラ,コロンビア,エクアドル,ブラジル,ボリビア,ガイアナ,スリナム)によってアマゾン条約が締結され,乱開発を抑制するための施策が決められました。
 ブラジルでは,軍事政権がたおれ民主化が進んだものの,当面は軍事政権時代の外国に対する積み上がった債務(累積債務)と激化するインフレーションの収束に追われ,社会政策が追いつかずに大都市にはストリート=チルドレンがあふれ,不良住宅街(スラム)が広がるなど,貧富の差は拡大していきました。
 1989年にはブラジルの〈コーロル〉大統領(任1990~92)が新自由主義的な政策をとりました。1991年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイとの間に,将来的な関税の撤廃や自由化を進める南米共同市場(MERCOSUR,メルコスール)条約が締結されています。しかしインフレーションは進行し,経済成長率もマイナスを記録するなどし,1992年には辞任。
 代わって92年に〈フランコ〉(任1992~95)が大統領に就きましたが,ハイパー=インフレは押さえられず,貧富の差も社会問題化しました。
 94年に就任した〈カルドーゾ〉大統領(任1995~2003)も“ブラジル全土のために働く”をキャッチコピーとして新自由主義的な政策をとり,1995年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイと南米南部共同市場(メルコスール)が結成されました。しかし,1998~99年にアジア通貨危機の影響を受けて,ブラジル通貨危機が起き,経済が混乱。こうした動きに対し,2002年に最貧困層出身の〈ルーラ〉(任2003~2011)が大統領になると,“皆のための国”というキャッチコピーの下,社会民主主義的な政策をとりながら経済成長を達成し2007年からは2期目を務め,2000年代前半には新興国BRICs(注1)の一員として認められるようになりました。
 2011年にはブラジル初でブルガリア系移民の2世の女性大統領〈ルセフ〉(任2011~)が就任し,“豊かな国と貧困のない国”が掲げられました(注2)。2014年にはサッカーW杯(ワールド=カップ),2016年にはリオ=デ=ジャネイロ五輪の開催地となり,2022年には建国200年を控えています。
(注1)BRICsとはアメリカ合衆国の証券会社ゴールドマン=サックスが2003年に発表したレポートによる新興国をまとめた造語で,当初はブラジル,ロシア,インド,中華人民共和国を指しました。
(注2)堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012,p.19。
・1979年~現在の南アメリカ  現②パラグアイ
 パラグアイでは1954年以降,ブラジルの支援を受けた軍事政権の長期支配がつづいました。コロラド党の〈ストロエスネル〉(任1954~1989)は反共産主義・親アメリカ合衆国の政策をとり存続しますが,冷戦が崩壊するとアメリカ合衆国からも民主化の圧力を受け,クーデタにより失脚しました。
 暫定的な軍事政権を経て,1993年に文民の大統領が就任しましたが,その後も軍の影響力は依然として残り,クーデタ未遂など不安定な政権が続いています。
 2008年には中道左派の〈ルゴ〉(任2008~12)率いる野党連合「変革のための愛国同盟」が,貧困層向けの政策を掲げ,61年ぶりに政権交代を実現させました。しかし2012年に〈ルゴ〉大統領は弾劾され,副大統領が大統領に昇格。その後,2013年の選挙でコロラド党の〈カルテス〉(任2013~)が勝利し,外資を導入した経済発展と貧困層向けの政策を推進しています。

・1979年~現在の南アメリカ  現③ウルグアイ
 ウルグアイは左派ゲリラの鎮圧作戦で軍部の影響力が高まり,1973年のクーデタで軍事政権となっていました。軍事政権では新自由主義的な経済政策がとられましたが,強権的な支配に対する国民の不満は高まり,1985年に民政に移管されました。
 ウルグアイは1995年に発足する南米南部共同市場に加盟し,アルゼンチン,プラジル,パラグアイとともに域内の関税撤廃や域外共通関税を目指すことになりました。2005年にはウルグアイ初の左派政権が誕生し,現在に至ります。元左派ゲリラの〈ホセ=ムヒカ〉(任2010~15)は,“世界で最も貧しい大統領”として知られています。


・1979年~現在の南アメリカ  現④アルゼンチン
 アルゼンチンでは1976年~83年の間,親米の軍事政権が実権を握ります。
 陸軍,海軍,空軍の総司令官は軍事評議会を形成し,〈ビデラ〉陸軍総司令官(任1976~81)が大統領に就任しました。〈ビデラ〉は左派勢力を弾圧し,官僚主導で市場経済を重視した工業化を進めました。しかし,外国製品との競争によって国内産業が打撃を受け,インフレが進み失業率も上昇,累積債務も増大する状況になると〈ビデラ〉は1981年に退陣し,〈ガルチェリ〉陸軍総司令官(任1981~82)が後を継ぎました。
 アルゼンチン【本試験H31ブラジルではない】の軍事政権は高まる国民の不満を国外に“ガス抜き”させようと,1982年にイギリスが1833年以来占領していたマルビナス(英語名はフォークランド)諸島【本試験H31】を占領。アルゼンチン人の愛国心を利用して,難局を乗り切ろうとしました。こうしてイギリス【本試験H27ポルトガルではない,本試験H31】【追H17】との間に始まったのがフォークランド(マルビナス)紛争【東京H28[1]指定語句】【本試験H27】【追H17時期は1980年代か問う。アルゼンチンとイギリスの間で起きたか問う】です(日本はConflictを英訳して紛争ということが多いですが,国家間の戦争です)。しかし軍部の誤算はイギリスの〈サッチャー〉政権が大量の軍を投入し,本気でこれを奪回しようとしたことでした。2ヶ月足らずでアルゼンチン側の敗北に終わり,戦後には国民の不満も高まり〈ガルティエリ〉は辞任。後任の〈ビニョーネ〉は1983年に民政移管に向けた大統領選を実施すると,ペロニスタ党を押さえて急進党〈アルフォンシン〉(任1983~89)が過半数の支持で当選しました。
 〈アルフォンシン〉政権は軍事政権時代の指導者に対する弾劾(〈ビデラ〉元大統領を終身刑としました)や,1985年に民政移管していたブラジルとの経済統合に向けた話し合いなどに尽力し,累積債務とハイパー=インフレという“後始末”に追われますが,新自由主義的な経済政策が失敗して退陣。アルゼンチンの政権としては初めて,任期満了前に平和的に次の政権に交替しました。次の〈メネム〉大統領はハイパー=インフレの収束に追われ,電力・ガス・鉄道などの民営化に踏み切り,通貨改革によって物価の安定化に成功しました(1989年に4923%だった消費者物価は,1991年には84%にまで低下)。さらに南米南部共同市場(メルコスール)の設立に向けた動きや,核不拡散条約への加入(1995年)も行ったほか,アメリカ合衆国を中心とする外資を積極的に導入していきます。
 しかし2001年の金融危機をきっかけに暴動も発生し,2003年には〈キルチネル〉大統領(任2003~2007)が通貨のペソ切り下げによって経済成長を実現しました。2007年にはその夫人〈フェルナンデス〉が大統領に就任しました。



・1979年~現在の南アメリカ  現⑤チリ
チリでは左派政権が軍事クーデタで倒され軍事政権が続いたが,近年は政権交代が安定化している
 チリでは,1969年に社会党と共産党が中心となって人民連合が形成されました。人民連合は,チリが帝国主義的な外国の勢力によって従属させられているとし,社会主義国家の建設を主張。〈アジェンデ〉(アイェンデ,1908~1973) 【東京H24[3]】【本試験H17時期(1960年代ではない)・地域,本試験H22】【追H9フィリピン,インド,中国ではない】【セA H30】が選挙で指導者に選ばれ,1970年に大統領に就任しました。ただちに主要産業や銀行の国有化や,徹底した農地改革を進めていきました。特に1971年にはアメリカ合衆国系の銅山が国有化されます。
 しかし,社会主義的な政策はアメリカ合衆国ににらまれることとなり,CIA(中央情報局)の支援する軍人〈ピノチェト〉が1973年にクーデタ【本試験H22】を起こし,9月11日に〈アジェンデ〉大統領は銃殺されました。2001年の同時多発テロの9.11とは別に,この出来事を“ラテンアメリカの9.11”ということがあります。
 〈ピノチェト〉はただちに国会と政党活動を禁止し,人民連合を解散させました。代わって新自由主義的な経済学者〈フリードマン〉の学説を教科書通り実行にうつし,国が経済に関わって調整するのではなく,全面的に市場(しじょう)メカニズムを信頼する経済政策をとりました。直後には経済成長に貢献し“チリの奇跡”とうたわれましたが,国内の製造業が破壊されるとともに外国に対する債務が累積していきます。
 一方で〈ピノチェト〉軍事政権に対し民主化を求める運動も活発化し,1988年に国民投票で不信任の決議が多数となると,1989年に民政に移管するために大統領選挙が行われ,キリスト教民主党の〈エイルウィン〉大統領(任1990~94)が就任し,次の〈フレイ〉政権(任1994~2000)とともに新自由主義的な経済政策を続けました。しかし,2000年には社会党政権への揺り戻しが起き(〈ラゴス〉政権(任2000~06)),次の〈バチェレ〉(任2006~10)は中道左派の「民主主義のための政党」(コンセルタシオン)に支持され,チリ初の女性大統領として女性の権利拡大や社会保障改革を進めるとともに,経済成長を維持しました。2010年には中道右派の〈ピニェラ〉(任2010~14)政権,2014年には中道左派の〈バチェレ〉(任2014~18)が再選,2018年に〈ピニェラ〉(任2018~)が返り咲くなど,政権交代が続いています。



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・1979年~現在の南アメリカ  現⑥ボリビア
先住民出身の大統領が生まれ,反米政策をとる

 ボリビアでは1982年に軍政から民政に戻り,左派の労働組合などを支持勢力として政権となります。しかし、経済政策に対する労働組合からの反発が大きく、経済危機の根本的な解決には至りません。
 通貨乱発の結果、1984年8月~1985年8月までの1年間に2万6000%というハイパーインフレーションが勃発。〈シレス〉大統領は、1984年にカトリック教会の呼びかけに答え、任期を1年短縮して危機を収拾。経済の混乱の元凶とみられた労働組合への国民の反発を背景に、1985年に御年74歳の国民革命運動(MNR)の〈パス=エステンソロ〉が約20年ぶりに大統領に就任。新経済政策を発表し、労働組合への保護をやめ、徹底的な市場改革を断交しました(注1)。
 諸政党が協調する形で、国家主導で保護してきた「錫の時代」は終わりを迎えたわけです(「協定による民主主義」とも呼ばれます(注2))。

 1993年にはMNRの〈ロサーダ〉政権(任1993~97)となり,親アメリカの新自由主義政策がとられました。アメリカ育ちの企業家です。しかし先住民による支持は得られず,国内の天然ガスをめぐる問題で辞任します。
 〈バンセル〉(任1971~78,1997~2001)もアメリカの支援を受けて,かつて自身が増産を奨励したコカの栽培をやめさせる作戦が農民による抵抗運動を招き,水道会社の民営化をめぐる問題(「水戦争」(注3))も合わさって辞任しました。

 その後も短命な政権が続いた後,先住民の指導者であった〈モラレス〉(任2006~)がボリビア初の先住民の大統領に就任,長期政権を実現させました。アメリカ合衆国による厳しいコカ撲滅策が栽培農民を刺激したことなどに背景があります(注4)。〈モラレス〉は反米,反自由主義,反グローバリゼーションの立場をとり,天然資源の国有化が宣言されました。

 2001年の国勢調査によると、「どの先住民族に属すると考えられるか」(15歳以上が対象)で、ケチュアが30.71%、アイマラが25.23%、低地先住民のグアラニーが1.55%、同じくチキタノが2.22%、同じくモヘニョが0.85%、その他が1.49%で、合わせると先住民比率(少なくとも統計上の自己意識の上では)は62.03%となります(注5)。
 都市部への人口移動が進む中、都市と農村部との格差も依然として大きな課題となっています。

(注1) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.142。
(注2) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.143。
(注3) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.148。
(注4) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.149。
(注5) 真鍋周三編著『ボリビアを知るための68章』明石書店、2006年、p.84。



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・1979年~現在の南アメリカ  現⑦ペルー
 ペルーでは親米の〈モラレス〉政権(任1975~80)が成立しました。しかし国際収支が悪化して国家財政がIMFの管理下に置かれる中,民政への復帰が目指されるようになっていきました。1980年に民政に移管されましたが経済的な危機は続き,農村のゲリラ(山岳部の学生組織を母体とするセンデーロ=ルミノソ)による活動も活発化していきました。1985年には左派のアプラ(APRA)としては初の大統領〈ガルシア〉(任1985~1990)が就任しましたが,インフレは進まずゲリラ活動の拡大を押さえることもできず社会不安は高まっていきます。
 そんな中,都市の貧困層を中心に支持を集めた日系の〈アルベルト=フジモリ〉(任1990~1995)が綺羅星のごとく現れ,軍部の支持を受けて強権を発動し,1992年には憲法を停止,議会を解散し,インフレを収束させるとともにゲリラ活動(センデーロ=ルミノソとトゥパク=アマル革命運動)を掃討することに成功。1995年には再選を果たしました。しかし1996年に在ペルー日本大使公邸で人質事件が発生し,実行したトゥパク=アマル革命運動のメンバーを全員殺害することで解決しました。しかし二期目の〈フジモリ〉には強権が目立つようになり,2000年に三選したものの2001年に辞意を表明し失脚しました。

・1979年~現在の南アメリカ  現⑧エクアドル
 1979年に民政移管が実現したエクアドルでは,不安定な政権が続きました。2006年には〈コレア〉大統領(任2007~2017)が反米主義を掲げて国民の幅広い任期を得て,ベネズエラの〈チャベス〉政権とも友好関係を結びました。2008年にはコロンビア軍が,国内の左派ゲリラであるFARCの掃討のために,エクアドル国境を越えたことから,コロンビア・エクアドルの関係悪化し,ベネズエラもコロンビアを批判。緊張が走りましたが,米州機構が仲介して戦争には発展しませんでした。2017年からは〈モレノ〉(任2017~)が大統領を務めています。

・1979年~現在の南アメリカ  現⑨コロンビア
 1964年から始まった左派ゲリラと政府とのコロンビア内戦は,2017年まで続き,コロンビアの社会・経済を停滞させる大きな原因となります。
 有力な左派ゲリラとして,コロンビア革命軍(FARC)(2017年からは合法的な政党となっています)や4月19日運動(M-19)があげられます。
 政府は左派ゲリラの活動に対して戒厳令をしいて,疑いのある人物を次々と捕まえていきました。劣勢に立たされた4月19日運動は1985年に最高裁を占拠して,大統領に直接交渉を訴えましたが,政府は最高裁長官や人質を含む首謀者を殺害しています。この事件のウラにはコロンビアの麻薬カルテルのドン〈パブロ=エスコバル〉(1949~1993)が関与していたとされます。政府はアメリカ合衆国の協力の下,1989年に〈エスコバル〉のカルテルに対する全面戦争を展開しますが,麻薬取締りの強化をうたった大統領候補が暗殺された後,1990年には〈ガビリア〉大統領(任1990~94)が挙国一致内閣を成立させました。
 その後も,麻薬カルテルと国内の左派ゲリラの活動は続き,2002年に大統領となった〈ウリベ〉(任2002~2010)は左派ゲリラの鎮圧を強化します。しかし次の〈サントス〉大統領(任2014~)はFARCとの交渉を始め,2016年に和平合意に達し同年のノーベル平和賞を受賞しました。


・1979年~現在の南アメリカ  現⑩ベネズエラ
 1974年に民主行動党の〈ペレス〉政権(位1974~79,89~93)が成立していたベネズエラでは,石油危機後の原油価格の高騰により,石油輸出に依存した経済体制をつくりあげていきました。その一方で1980年代に入ると原油価格は低迷し,輸出に依存するあまり工業化が遅れ,累積債務は積み上がり貧富の差も広がる中,1989年に暴動が起き,クーデタ未遂事件も起きると再任していた〈ペレス〉は辞任しました。後任のキリスト教民主党出身の〈カルデラ〉は大統領に再任しますが,その後1999年に〈チャベス〉が大統領に就任すると,貧困層向けの政策で任期を博しました。〈チャベス〉(任1999~2013)は新自由主義やアメリカ中心のグローバル化への反発をハッキリと掲げ,アメリカ合衆国の〈ジョージ=W=ブッシュ〉政権(任2001~2009)のとった単独行動主義(ユニラテラリズム)に異を唱えました。同年には国名を「ベネズエラ=ボリバル共和国」に改称,独立の父〈シモン=ボリバル〉からとったものです。しかし2013年に〈チャベス〉が死去すると,〈マドゥーロ〉大統領が後を継ぎますが,2015年に野党の右派連合が総選挙で勝利するなど,政権運営が苦しくなる中,野党は大統領の罷免を問う国民投票を実施しようとしました。

 しかし国民投票の運営に不正がみつかると,投票は延期され,2017年には反政府デモが活発化する中,〈マドゥーロ〉大統領は新憲法制定を目指し制憲議会の選挙を実施するなど,国論が大きく割れています。
 これに屈せず〈マドゥーロ〉大統領は議会の機能停止を目指すなど権力をさらに強化させ,実質的に野党不在の選挙で2018年5月に大統領に再選。しかしインフレは止まらず,経済も混乱していきました。

 そんな中,2019年1月には首都でも反政府デモが起きて死者が発生するようになります。
 反米左派で軍部を掌握している〈マドゥーロ〉大統領に対し,国民議会議長であった〈グアイド〉が,大統領は「不在」のときに職務を「代行」することができるという憲法にのっとって暫定大統領に就任。
 〈マドゥーロ〉退陣をのぞむアメリカ合衆国〈トランプ〉大統領やNATO諸国に対し,〈マドゥーロ〉支持をトルコや中華人民共和国が訴えるなど,国際問題に発展しています。





●1979年~現在のオセアニア
○1979年~現在のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 ポリネシアの最東端の①イースター島(ポリネシア語ではラパ=ヌイ)は,1888年以来チリ領です。モアイ像が世界文化遺産となっており観光客でにぎわいますが,近年では住民による自治を求める運動もあります。1995年にはモアイ像などのラパ=ヌイ文化が,「ラパ=ヌイ国立公園」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
 2007年の改憲ではフェルナンデス諸島とともに,チリの「特別地域」に指定されています。

 ①ピトケアン諸島はイギリスの海外領土で,18世紀末にイギリス海軍の船舶(バウンティ号)で艦長に対する反乱を起こした人々の子孫がピトケアン島に暮らしています。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
 西経120~150度付近の広範囲に広がる島々(注)は,②フランス領ポリネシアとして,フランスの海外領邦として自治権が認められています。このうちトゥアモトゥ諸島のムルロア環礁などでは,1996年までフランスによる核実験が実施され,国際的な非難を浴びています。
(注)ソシエテ諸島(タヒチ島など),オーストラル諸島(トゥブアイ諸島など),トゥアモトゥ諸島(ムルロア環礁など),ガンビエ諸島,マルキーズ(マルケサス)諸島により構成されています。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 ③クック諸島は,1888年以降イギリスに,1901年以降はニュージーランドにより支配を受けていました。1946年には立法評議会が設けられ,1964年にニュージーランド国会によって憲法が制定されると,翌1965年に自治権を獲得し,ニュージーランドとの自由連合を形成しました。自由連合というのは,防衛と一部の外交をニュージーランドに担当してもらう国家関係のことです。しかし,1973年にはクック諸島がニュージーランドの合意を得ずに独立する権利が認められ,2001年にはクック諸島は「自由連合」の関係を終わらせて,独立国家「クック諸島」となりました。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 現④ニウエは,クック諸島の一部として1901年以降ニュージーランドにより支配を受けていました。しかし,1960年にはニウエ議会が設けられ,1974年には自治権を獲得し,ニュージーランドと自由連合の関係を結びました。イギリスの〈エリザベス〉女王を元首とする立憲君主制をとっています。
 クック諸島もニウエも国土が狭く,ニュージーランドへの出稼ぎ労働者も多く,援助や海外からの送金により経済を成り立たせようとしています。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 ⑤ニュージーランドは,イギリスとの経済関係を維持し福祉国家を建設しますが,1973年にイギリスがECに加盟したことで,ニュージーランドからイギリスへの農産物輸出は不振となりました。
 1984年に労働党の〈ロンギ〉(任1984~89)が首相に就任すると,新自由主義的な政策(国営企業の民営化)や大胆な規制緩和を行い,成果を挙げました。1987年にはニュージーランド非核地域・軍縮・軍備管理法を制定しています。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 ⑥トンガのトンガ王国は,1970年にイギリスの保護国から独立し,イギリス連邦に加盟しました。〈トゥポウ4世〉(位1965~2006)の長期にわたる在位を経て,〈トゥポウ5世〉(位2006~2012),〈トゥポウ6世〉(位2012~)に引き継がれています。国王が強い権力を持つ国政に対し,2000年代には反政府運動も起き,2006年には史上初の平民代表の首相が就任しています。
 なお,1987年以来,日本の援助によりカボチャ栽培が始まり,現在では日本を主要輸出先として盛んに栽培されています(注)。
(注)国立民族学博物館 森本利恵「「コラム」:日本かぼちゃのトンガ流通 誰の口に入る?トンガ産カボチャの行方」http://www.minpaku.ac.jp/research/education/university/student/project/gourmet/column/morimoto

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑦サモア,アメリカ領サモア
 ⑦サモアの西部は1945年に国際連合の信託統治領となっていましたが,1965年に西サモアとして独立。1970年にイギリス連邦に加盟しました。1997年にはサモア独立国と改名しています。ニュージーランドと友好関係を結び,軍事を委託しています。一方,サモア独立国の南東はアメリカ領サモアで,1967年には自治政府ができていますが,正式な自治法は制定されていません。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 ⑧ニュージーランド領トケラウは1948年以降ニュージーランド領となっています。ニュージーランドとの自由連合を結ぶ動きもあります。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 ⑨ツバルは,1892年にギルバート=エリス諸島としてイギリスの保護領になり,1915年には植民地となっていました。
 しかし,1975年にギルバート諸島(のちのキリバス共和国の一部)と分離し,ツバルと改称し,1978年に独立しました。イギリスの〈エリザベス2世〉を元首とする立憲君主制であり,島には総督が派遣されています。ツバルを構成する8つの主な島々には首長がおり,そのうちのフォンガファレ島に政府などの首都機能が集まっています。資源に乏しいため,財源の多くは海外からの援助,ツバルの経済水域での入漁料と外国漁船への出稼ぎ船員からの海外送金に依存しています。2000年には国連に加盟し,地球温暖化にともなう海面上昇の恐れを争点に,国際社会に二酸化炭素排出削減などを訴える積極的な外交活動をしています。1998年からは日本のNGOツバルオーバービューがツバルでの支援活動を行っています。

・1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国 ハワイ
 ⑩ハワイは,1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアー客が増加し,リゾート開発が進む一方でハワイの伝統文化の変容が加速していきました。

○1979年~現在のオセアニア  オーストラリア
白豪主義から,多文化主義のオーストラリアへ
 オーストラリアは先住民や白人ではない人々に対する差別的な政策(白豪主義)を転換し,1970年代以降はアジア系の移民や世界各地の難民を受け入れ,多文化主義(マルチ=カルチュラリズム)の国づくりを推進していきました。

 オーストラリアでは1983年から1996年まで労働党政権が続きました。
 1973年にはシドニーに特徴的なデザインで知られるオペラハウスが完成しています(◆世界文化遺産「シドニーのオペラハウス」,2007。デンマーク人〈ヨーン=ウツソン〉(1918~2008)の作品)。
 1993年は「世界先住民の年」とされ,オーストラリアでは先住民アボリジナルの権利回復が推進されていきます。

 その後,自由党の〈ハワード〉政権(任1996~2004)は親米政策をとり,新自由主義的な経済政策をとりました。その後,2007年~2013年までは労働党政権に戻り,〈ラッド〉首相(任2007~10,13)は2008年に先住民の児童(いわゆる“盗まれた世代”)を強制収容所に送ったかつての政策(1869~1969)について謝罪する演説を公式に行っています。2013年からは自由党が政権を担当しています。

○1979年~現在のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア

・1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 1970年にイギリスから独立した①フィジーでは,メラネシア系のフィジー人が過半数を占めますが,1879年にサトウキビのプランテーションにおける導入が始まったインド系の移民の子孫も4割弱の人口を占めており,両者の政治的な対立が生じました。
 1987年にインド系の閣僚が半数を占める連立政権ができると,軍によるクーデタが起きてイギリス連邦から離脱し,フィジー共和国となりました。
 しかし1998年にはイギリス連邦に再加盟し国名をフィジー諸島共和国に変更。インド系とフィジー系の国民の融和が試みられ,1999年にはインド系の首相が就任しました。しかし2000年にフィジー系の武装グループが国会を占拠し非常事態宣言が出され,暫定政府を経て2001年の占拠でフィジー系の〈ガラセ〉(暫定首相任2000~2001,首相任2001~2006)が首相に就任しました。
 〈ガラセ〉はフィジー系とインド系の対立を和らげようとしましたが,2006年には国会占拠事件をめぐり強硬派でフィジー系の〈バイニマラマ〉軍司令官(首相任2007~)が無血クーデタを起こし,2007年に暫定政権を樹立し,総選挙を実施しないまま実権を握り続けました。2009年にイギリス連邦の資格停止,2011年に国名はフィジー共和国に戻されています。
 その後,2012年に〈バイニマラマ〉は態度を軟化させ,2013年には新憲法を公布しました。2014年の総選挙ではフィジーファースト(第一)党を率いる〈バイニマラマ〉首相が再任されましたが,閣僚にはインド系や混血の政治家も参加するようになっています。

・1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現②フランス領ニューカレドニア
 ニューカレドニアは1998年のフランスとの協定で自治を行った後,独立を問う国民投票が行われることになりました。

・1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 バヌアツは,英仏共同統治領ニューヘブリディーズ諸島として,イギリスとフランスの共同統治下であったため,イギリス系(派;英語話者)住民とフランス系(派;フランス語話者)住民の対立が長く続いていました。
 結局,1980年にイギリス連邦内の共和国として独立することに。
 首相に就任したのはメラネシア社会主義を掲げる〈ウォルター=リニ〉(任1980~1991)でした。彼はソ連の支援を受け,西側諸国の対立していたリビアとも国交を築き,核実験への反対,ニューカレドニア独立運動の支持など,独自色を強めます。しかし1991年にソ連の権威の失墜を背景に,解任されました。
 主力産業は観光とコプラの生産で,国家財政は海外援助に依存しています。2015年にはサイクロン・パムにより大きな被害を受けています。

・1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 1976年に自治を獲得していたソロモン諸島は,1978年にイギリス連邦内の立憲君主国として独立しました。元首はイギリス国王です。
 1997年の総選挙実施後,1998年にはガダルカナル島の民族グループがと隣の島であるマライタ島民族グループとの抗争が激化。しかし,ソロモン諸島には軍隊がありません(軍隊を有さない国家)。
 2000年の和平締結後,国際選挙監視団の下で総選挙がおこなわれましたが,秩序回復が困難となったため,オーストラリアとニュージーランドが太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊をソロモン地域支援ミッション(RAMSI)として派遣。2006年の総選挙後も政情は混乱し,短命な政権が続いています。

・1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 1975年にパプアニューギニア独立国として独立。イギリス連邦内の立憲君主国であり,元首はイギリス国王です。

 1980年代にはパプアニューギニア北東にあるブーゲンビル島で分離独立運動が勃発。この島にある銅山の利権をオーストラリアが保有していることを背景としています。1988年以来,ブーゲンビル革命軍の武装闘争が続きますが,1998年にはオーストラリアとニュージーランドが仲介して,政府と停戦合意。ブーゲンビル島では自治が認められており,独立に向けた住民投票も計画されています。

 また,ニューギニア島西半の「西パプア」がインドネシア領となっていることも,長年の火種となっていましたが,パプアニューギニアは経済的な国益を優先し,ASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟を目指しています。
 近年は,インドネシアの歓心を買うため,西パプアの独立を支持しない方針をとるようにもなっています。東南アジアとオセアニアの“狭間”に立つパプアニューギニアは,太平洋諸島フォーラム(PIF)でも強い発言力を持っています。




○1979年~現在のオセアニア ミクロネシア
小国島嶼国の協力関係がすすむ
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

 ②キリバスはギルバート諸島やフェニックス諸島など,広い範囲にわたる島々により構成された島国です。1892年より,南方のエリス諸島(のちのツバル)とともにギルバート諸島がイギリスの保護領となり,1916年からはオーシャン島とともにギルバート=エリス諸島植民地となり,次第に周辺の島々が編入されていきました。1971年に自治が認められ,1978年にはエリス諸島がツバルとして分離独立,翌年にはギルバート諸島を中心に1979年にはイギリス連邦内のキリバス共和国として独立しました。
 ③ナウルは,1947年以降イギリス,オーストラリア,ニュージーランドによる信託統治領となっていましたが,1968年にイギリス連邦の中の共和国として独立。鳥の糞が降り積もることにより形成されたリン鉱石の採掘により,高い生活水準を誇っていました。しかし1990年代になりリン鉱石の採掘量は激減し失業率がきわめて高い状態となっており,現在は国家財政の多くを海外からの援助に依存しています。

 アメリカ合衆国が信託統治していたミクロネシアの地域は,1986年に①マーシャル諸島と④ミクロネシア連邦として独立しました。ただし,この2カ国は対等な関係を結びながら,外交や国防をアメリカ軍が担うという「自由連合」の形式をとっています(1960年に国際連合の総会で決議された「植民地独立付与宣言」に基づく国家間の関係です)。
 ⑤パラオでは1981年に憲法が発布され,自治政府が成立しました。自治政府はアメリカ合衆国との間に自由連合の関係を結ぶ方針を進め,1993年の住民投票で承認され,1994年にアメリカ合衆国から独立しました。
 ⑦北マリアナ諸島には,サイパン島,ティニアン島などが含まれ,1947年からアメリカ合衆国の信託統治領となっていました。その後1970年代に自治権を獲得し,アメリカ合衆国の市民権を持つ「コモンウェルス」の一つとなっていました。1978年には憲法が制定されています。




●1979年~現在の中央ユーラシア
中央ユーラシアの自立と再編がすすむ
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区

「上海協力機構」により中国の影響も強まる
 ソ連から離脱した中央アジア諸国は政情は不安定であり,ロシアの影響力の低さを懸念した中華人民共和国は,上海協力機構により影響を及ぼそうとしています。中華人民共和国にとって中央アジアは天然資源の供給地としても重要です。
 前身の「上海ファイブ」は中華人民共和国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン。これらを原加盟国として,2001年にウズベキスタン,2017年にはインドとパキスタンが加盟しています。

・1979年~現在の中央ユーラシア 現①キルギス
 キルギスはキルギス・ソビエト社会主義共和国として,ソ連を構成していました。しかし,ソ連末期の1990年に〈アカーエフ〉が大統領(任1990~2005)に就任し,同年12月には「キルギスタン共和国」と改称し,翌年1991年8月末には独立を宣言します。1991年12月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。

 しかし次第に〈アカーエフ〉の強権に対するに批判が強まり,2005年に反政府運動にともない辞任しました(いわゆる“チューリップ革命”)。国内にはウズベク人が少数派として居住しており,多数派のキルギス人との衝突も起きています。

・1979年~現在の中央ユーラシア 現②タジキスタン
 タジク=ソヴィエト社会主義共和国は1990年8月にソ連に対して主権を宣言し,翌1991年8月末に「タジキスタン共和国」に国名を変更し9月に独立を宣言しました。1991年12月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。

 しかし,政府にとどまった共産党と野党のイスラーム政党との間でタジキスタン内戦となり,多数の犠牲者と難民を生み出しました。1994年からは国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)が派遣され,1997年に国際連合が介入して停戦が合意されました。内戦中に選出された〈ラフモン〉(任1994~)による強権的な政権が続いています。

 2015年には内務省特殊部隊の元司令官〈ハリモフ〉が,イスラーム国への参加を表明するなど,暴力的なイスラーム主義への接近も懸念されています。


・1979年~現在の中央ユーラシア 現③ウズベキスタン
 ウズベク=ソビエト社会主義共和国では,1990年3月に〈カリーモフ〉が大統領に就任し,同年6月に主権が宣言され,翌1991年8月末に「ウズベキスタン共和国」として独立が宣言されました。1991年12月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。〈カリーモフ〉(任1991~2016)が2016年に亡くなると,〈ミルジヨーエフ〉大統領が後任に選出されています。
 暴力的なうイスラーム組織,イスラム運動ウズベキスタン(IMU)が,イスラーム国との連携を表明しています。



・1979年~現在の中央ユーラシア 現④トルクメニスタン
 トルクメン=ソビエト社会主義共和国は,1990年8月に主権を宣言し,10月に〈ニヤゾフ〉(任1990~2006)が大統領に選出されました。

 1991年12月にソ連が崩壊すると,トルクメニスタンは新たに創設された独立国家共同体(CIS)に加盟したものの,1995年に「永世中立国」となり,2005年には準加盟国に移行しています。〈ニヤゾフ〉が2006年に死去すると,〈ベルディムハメドフ〉(任2006~)がその強権的な支配を引継いでいます。


・1979年~現在の中央ユーラシア 現⑤カザフスタン
 カザフ=ソビエト社会主義共和国の第一書記であった〈ナザルバエフ〉は,1990年4月に大統領に就任,1991年10月に主権を宣言し,12月にカザフスタン共和国として独立を宣言しました。

 当初はウクライナ,ベラルーシ,ロシアの間でソ連解体後の構想が進められていましたが,カザフスタンはこれを批判し,1991年12月にアルマ=アタでバルト三国を除くすべてのソ連加盟国を集め,ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を決めました(アルマ=アタ宣言)。こうして,1991年12月末にソ連が解体すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しました。

 その後〈ナザルバエフ〉大統領(共和国大統領 任1991~)の長期政権が続いています。


・1979年~現在の中央ユーラシア 現⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 新疆ウイグル自治区には中華人民共和国からの漢人の植民がすすんでいます。これに対し,かつてこの地を実効支配していた東トルキスタン亡命政府がアメリカ合衆国に,これとは別に世界ウイグル会議がドイツを拠点に独立運動を起こしています。
 また,東トルキスタン=イスラム運動(ETIM)の活動も活発化し,暴力的なイスラームの国際テロ組織アル=カーイダやイスラーム国との連携も表明されています。
 2009年には自治区の主都ウルムチでウイグル人への不当な扱いを批判する騒乱が起きますが,多くの死傷者を出し鎮圧されました(2009年ウイグル騒乱)。

 なお,2018年には,中華人民共和国の新疆ウイグル自治区における強引な同化政策などの人権侵害が明るみに出ると,トルコが政府が中国を厳しく非難するなど国際問題化しています。報道によると,中国当局は新疆ウイグル自治区のウイグル人を強制的に収容所に入れたり,恣意的に逮捕されています。





●1979年~現在のアジア
○1979年~現在のアジア  東南アジア・東アジア
◆社会主義国でも市場経済が導入され,「開発独裁」により経済成長を果たす国・地域も現れる
市場経済の導入地域統合が進み、中国が大国化

 中華人民共和国は,1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,党主席の〈華国鋒〉(かこくほう,1921~2008) 【慶商A H30記】はプロレタリア文化大革命(1966~76)を収束させます。「四つの現代化」(農業・工業・国防・科学技術)を重視。
 しかし,1981年6月に中国共産党は,〈毛沢東〉を「功績第一,誤り第二」として,プロレタリア文化大革命の間違いを認めました。こうして〈毛沢東〉派の〈華国鋒〉は降格され,代わって〈鄧小平〉(とうしょうへい,トンシャオピン,1904~97) 【追H19、H27 1978年以降改革開放をすすめたのが誰か問う】【東京H28[1]指定語句】 が実権を握ります。
 しかし〈鄧小平〉は自分が全面に出てくることはしません。党主席は〈胡耀邦〉に与え,自分は党中央軍事委員会主席に就任しました。“キングメーカー”と呼ばれるゆえんです。

 〈毛沢東〉が理想主義とすると,彼はとても現実主義的な人物。
 「市場経済的な要素を含めれば,みんなやる気が出る。やる気が出れば,国家の富は増える。そうすれば,国全体がうるおって,貧しい人にも良い影響を与える」と唱えます(先富論)。
 1970年代末から改革開放【追H19「文化大革命の後」,H27】【早法H23[5]指定語句】政策をおしすすめました。ついに中国も,市場経済を部分的に導入することになったのです。人民公社を解体し【追H9天安門事件により解体されたわけではない】,農家請負制(生産責任制度)を導入して「余った分」は自由に市場で売れるようにして,農民のやる気を高めました。国営だった企業にも,同じように自由に工夫できる権限を与えました。また,経済特区には外資系企業を誘致しました。彼自身は1989年以降は公式に表舞台の役職にはつかず実働部隊を指名したため,“キングメーカー”の異名も持ちます。彼に可愛がられて後継に指名されたのが“第三世代”の〈江沢民(こうたくみん)〉(1926~)(後任として党中央軍事委員会主席に就任します),“第四世代”〈胡錦濤(こきんとう)〉(1942~)(共産主義青年団に属し1992年に鄧小平に後継に指名される)です。
 日本は1973~74年の第一次石油危機の影響を受け「低成長」といわれる時代に入りました。資源が高騰した分,省エネルギー技術を発展させるなど,新たな技術革新も続けられました。
 日本企業が,韓国,台湾,シンガポール【本試験H14】,香港などに海外進出を初めていったのもこのころで,これらの地域は新興工業経済地域(NIEs,(アジア)ニーズ【本試験H14】)と呼ばれました。

 1985年にプラザ合意によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
 そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といったアジアNIEsの資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
 この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN…といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,「雁行(がんこう)的発展」ということがあります。

 ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制は開発独裁といい,各国で様々な方式がとられていきました。

 冷戦終結の影響は,東アジア・東南アジアにも波及しました。
 すでに1989年には,アジア太平洋経済協力(APEC,エイペック) 【本試験H18ASEANから改組されていない,本試験H25オーストラリアが加盟していることを問う,H29共通テスト試行 白豪主義撤廃はAPEC開催の影響ではない】がはじまっていました。東南アジアでは東南アジア諸国連合(ASEAN)が中心になって地域経済の統合がすすめられました。2005年に第一回東アジア首脳会議が開かれ,2015年にはASEAN経済共同体(AEC)が成立しました。
 アメリカ合衆国は,中国との対決の必要性から,環太平洋経済連携協定(TPP)を推進し,太平洋をとりかこむ地域で,経済を自由化させようとしています。
 これに対し中華人民共和国はユーラシア大陸全域をスケールとした新たな経済圏の建設を唱え,2014年にはアジアインフラ投資銀行(AIIB)を設立するとともに,特に発展途上国や新興国の政府との政治・経済関係を密にしています。中国政府は,自国の政治・経済体制を守るため,他国に対し「これだけは譲ることはできない」という利益のことを「核心的利益」と呼び,その実現のために中央アジアへの影響力の拡大や南シナ海を含む太平洋やインド洋への海洋進出を進めています。アジアインフラ投資銀行には多くの新興国が参加し,ヨーロッパからもドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどが参加していますが,日本とアメリカ合衆国は参加を見送っています。

 経済が自由化されて,商品や資本が自由に国境を超えるようになっていけば,真っ先に影響を受けるのは伝統的な産業です。新しい文化がよそから入ってきたり,従来の共同体が環境破壊や資本の論理でつぶされていく事態も起こります。グローバル化を前に「どのような国づくりを進めるべきか」という議論は,東アジア・東南アジア各地でますます大きな政治上の争点となっていくのです。
 なお,2003年には重症急性呼吸器症候群(SARS,サーズ)という感染症が,中国を出発点としてヴェトナム,シンガポール,台湾など東アジア・東南アジア各地に拡大し,各国政府は国境を越えた連携の必要性を痛感しました。その後も,鳥インフルエンザや新型インフルエンザなどの感染症の国境を越えた拡大事例は続いています。



○1979年~現在のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)

・1979年~現在のアジア  東アジア 現①日本
◆アメリカ合衆国との同盟関係を維持する国内外の政策を続け,外資の導入も進んだ
アメリカ主導によるグローバル化の波に直面する
 〈大平〉首相の急死後の総選挙で,自民党は圧倒的多数を確保し,〈鈴木善幸〉内閣(すずきぜんこう,任1980~82)となります。1982年には〈中曽根康弘〉(なかそねやすひろ,任1982~87)が“戦後政治の総決算”を唱えて首相に就任しました。

 アメリカ合衆国は,1973年の第一次オイル=ショック【追H27時期が1970年代か問う】や1979年のイラン革命による第二次オイル=ショック【追H27時期は1970年代か問う】,1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などを受け,石油の安定供給やソ連対策のためには,中東の安定が不可欠と考え,米軍の配置立て直しに移ります。そのために重視されていったのが,日本との同盟関係です。1981年に〈鈴木善幸〉首相は日米関係を「同盟関係」と表現。1983年に〈中曽根康弘〉(なかそねやすひろ,任1982~87)首相は「運命共同体」と呼びました。また,1970年代末より,在日米軍に対する支出「思いやり予算」は年々増加し,日米共同作戦計画の立案も進みました。

 〈中曽根〉首相は,国の支出を減らして「小さい政府」を目指し,民間の経済活動を活性化させようとする新自由主義的な政策を進めていきました。例えば,医療負担の引き上げや,国鉄・電電公社・専売公社などの民営化です。オイル=ショック後の低成長に対応して,終身雇用制度と年功序列制度も揺らぎ,パート労働者が増え,1985年には労働者派遣法が成立し,派遣労働者が増加していきました。

 オイル=ショック後に産油国ではない発展途上国では債務が拡大したため,日本からの輸入額が減少しました。代わりの輸出先としてEC(ヨーロッパ共同体)やアメリカ合衆国への自動車や電化製品の輸出量が増えるとともに,貿易摩擦問題が起こりました。アメリカ合衆国は次第に閉鎖的な日本市場への批判を強めていき,日米構造協議(1989~90),日米包括経済協議(1993),年次改革要望書(1994~2008)などで政府に対する市場開放を要求するようになっていきました。
 そんな中,1989年にはベルリンの壁が崩壊し,1991年にソ連邦が解体され,米ソの冷戦は終結しました。
 冷戦が終結すると,アメリカ合衆国がその圧倒的な軍事力により国際政治を支配する体制となりました。1991年に始まる湾岸戦争【本試験H26時期】では,日本は多国籍軍に130億ドルを支援しました。政府は戦後,海上自衛隊の掃海艇をペルシア湾に派遣しようとしましたが,実現はしませんでした。
 アメリカ合衆国は,日本の自衛隊の海外派遣を求め,1992年に成立したPKO(国連平和維持活動)協力法に基づく派遣がとられました。その最初の例が,1992年のカンボジアPKOでした。1998年には〈橋本龍太郎〉首相(はしもとりゅうたろう,任1996~98)が「日米安全保障共同宣言」で日米同盟の範囲を「地球的規模」に広げると表現しました。
 冷戦期には,ソ連への対抗が最重要戦略でしたが,中近東(北アフリカ~西アジア)~南アジア~東南アジア~台湾~朝鮮半島を結ぶ「不安定な弧」と命名されたラインが,アメリカ合衆国の防衛線として重要視されるようになったことが原因です。こうした経緯から,1999年に周辺事態法が成立し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受け,〈小泉純一郎〉内閣は特別措置法により海上自衛隊をインド洋に派遣し後方支援しました。また,2003年には特別措置法により,イラク戦争後の復興支援活動のため,陸上自衛隊がイラクに派遣され,市民に対する給水活動等に従事しました。また,米軍の機動力を向上させるため,各地で日本の自衛隊と米在日軍の両司令部の統合や,基地の移転が予定されています。また,自衛隊を米軍とともに戦闘に参加できるようにするには,憲法9条の改正が必要であり,アメリカ合衆国にとっての課題ともなっています。
 
 冷戦終結にともない,55年体制が崩壊し,政党の大規模な再編が起きました。
 しかし,〈細川護熙〉内閣(ほそかわもりひろ)では方針対立が顕在化します。

 そこで自民党は1994年に日本社会党〈村山富市〉(むらやまとみいち)との連立政権(1994~96)を組むことで政権に返り咲きました。しかし1995年には都市直下型地震であった阪神淡路大震災への対応が影響して〈村山〉内閣は退陣します。
 同年には,インド思想の影響を受けた宗教教団オウム真理教(1984成立1987改称)によるテロリズム(地下鉄サリン事件)が発生するなど世相に暗い影が立ち込めます(教祖の〈麻原彰晃〉(1955~2018本名は 松本智津夫)を含む7人の死刑は2018年に執行)。

 代わって1996年に成立した〈橋本龍太郎〉内閣(はしもとりゅうたろう,1996~98)は,1998年に消費税を5%に増税し,平成不況が長期化する一因をもたらします。同時に〈橋本〉首相は「金融ビッグバン」を進め,銀行・証券・信託・保険の業務を,持ち株会社により統合することが可能になりました(金融システム改革法)。

 その後の自民党は支持率が低迷しますが,公明党等との連立政権を組んで議席を確保します。2001年に就任した〈小泉純一郎〉首相(こいずみじゅんいちろう,任2001~06)は,郵政民営化などの新自由主義的な政策をとり,自民党支持者を増加させました。〈橋本〉内閣の「金融ビッグバン」も〈小泉〉内閣の「郵政民営化」も,アメリカ合衆国の金融資本による,日本に対する市場開放要求が背景にあります。

 2009年には「55年体制」以降はじめての本格的な政権交代が成り,民主党政権(2009~12,〈鳩山由紀夫〉政権(民主・社民(~2010.5)・国民新連立,任2009~2010),〈菅直人〉政権(民主・国民新連立,任2010~2011),〈野田佳彦〉政権(民主・国民新連立,任2011~2012))が政権を担当しました。〈鳩山〉首相は普天間基地の県外移設の公約を撤回して退陣し,次の〈菅直人〉首相のときには2011年3月の東日本大震災やそれにともなう東京電力福島第一原発事故を経て,同年9月に〈野田〉首相が後任となりましたが,基本政策でゆきづまり国民の支持を失います。

 そんな中,2012年の総選挙では,自由民主党の〈安倍晋三〉(あべしんぞう,任2006~2007,2012~)が圧勝して首相に就任し,公明党との連立政権を組み長期政権を実現しています。〈安倍〉首相は,「戦後レジーム」の転換をめざして改憲路線をすすめるとともに,2013年2月に金融緩和・財政出動・成長戦略を“3本の矢”とする「アベノミクス」を経済政策として打ち出しました。同年3月には環太平洋経済連携協定(TPP)への参加を表明,11月に国家安全保障会議(NSC)設置法・12月に特定秘密保護法を成立させています。

 2014年4月には消費税を8%に引き上げ,原発の再稼働を方針とするエネルギー基本計画を閣議決定。同年7月には集団的自衛権の行使の容認を閣議決定。11月には2015年10月の消費税の10%引き上げ先送りを理由として衆議院を解散し,翌12月に首相に再任しました。2016年6月には18歳選挙権を認める法改正,9月には集団的自衛権の行使を容認する安保法を成立させています。12月に慰安婦問題をめぐる日韓合意が成立。2016年5月には伊勢志摩サミットが開催され,アメリカ合衆国の〈オバマ〉大統領が現職のアメリカ合衆国大統領としては初めて被爆地の広島を訪問しました。12月にはロシアの〈プーチン〉大統領が訪日し日露首脳会談を行い,同月にはハワイの真珠湾を〈オバマ〉大統領とともに訪問しました。2017年6月には,前年8月に生前退位の意向を表明していた〈今上天皇〉(1933~,位1989~2019)について,一代限りの生前退位を認める特例法を成立。同月には改正組織犯罪処罰法(テロ等準備罪法)を成立させています。
 2018年10月には第4次安倍内閣(改造)が発足。2019年5月1日には〈今上天皇〉(明仁、1933~,位1989~2019)が退位し上皇となり、新天皇(徳仁(なるひと)、1960~、位2019~)が即位しました(新元号は「令和」)。



・1979年~現在のアジア  東アジア 現②台湾
 台湾では1987年に1949年から続いていた戒厳令(かいげんれい)が解除され,本省人(ほんしょうじん,台湾出身者)としてはじめて〈李登輝〉(リートンフイ,りとうき,在任1988~2000)が台湾の総統【早国H30国民党の総裁ではない(出題ミス)】に就任し,民主化をすすめました【追H27時期を問う(1970年代か)】【本試験H29】。

 2000年には民進党の〈陳水扁〉(チェンショイピエン,ちんすいへん,在任2000~2008)が総統となり,1947年から続いていた国民党政権にピリオドが打たれました。中華人民共和国からの「独立」論が強まりましたが,2008年に中立的な立場をとった国民党の〈馬英九〉(マーインチウ,ばえいきゅう,2008~2016)が総統に当選すると弱まりました。〈馬〉は「三不(サンプー)」(台湾と中国を統一させない,台湾を独立させない,武力を行使しない)をスローガンに掲げています。2016年には民主進歩党の〈蔡英文〉(ツァイ=インウェン,さい えいぶん,2016~)が選出され政権が交替しましたが,彼女も台湾の独立は主張せず中立的な立場に立っています。

 2019年5月には、台湾の立法院が同性婚を合法化する法案を可決。可決されたのは〈蔡英文〉総統の政府案がで、アジアで初めての同性婚の合法化となります。


・1979年~現在のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
経済の自由化が進み、ユーラシア貿易圏を主導
 1989年に東欧革命に触発されて起きた民主化デモは,軍隊によって鎮圧されました((第2次)天安門事件) 【本試験H22】【追H9これにより人民公社が解体されたわけではない】【セA H30平壌ではない】【立教文H28記】。

 1992年に〈鄧小平〉は「南巡講話」を発表し,市場経済を社会主義に利用することを正式に決定しました。これを社会主義市場経済といいます。これ以降,中国は外資系企業を誘致して,低賃金で安価な製品(雑貨や衣料品。のち電化製品や自動車)を輸出するようになりました。

 〈鄧小平〉の没(1997年)後は,〈江沢民〉(こうたくみん,チャン=ツォミン)(任1993~2003)がさらなる経済発展をすすめていき,かつてイギリスが19世紀にうたわれた「世界の工場」と称されるようになりました。

 1997年には香港がイギリスに返還され,1999年にはマカオがポルトガル【本試験H26】に返還されました。
 しかし香港でもマカオでも一国二制度(香港とマカオだけは,資本主義が認められるという制度) 【セA H30】が継続されました。特別行政区では、現行の社会・経済制度,法律制度,生活方式および外国との経済文化関係を変えず,立法権,終審権,外事権,貨幣の発行権を有するという制度で、1990年のマカオ特別行政区基本法・香港特別行政区基本法で明文化されました。
 両者ともに特別行政区行政長官は400人からなる選挙委員会による投票選挙で選出され、中国中央人民政府によって任命されるため、香港市民・マカオ市民の民意は反映されません。
 香港の憲法にあたる基本法には、中国本土では制約されている言論・報道・出版の自由、集会やデモの自由、信仰の自由などが明記されているものの、中国政府による意向は強く、新型肺炎SARSが流行し、中国が経済支援を本格化した2003年には、50万人規模のデモが起き、「国家安全条例」案は撤回されました。
 しかし、親中派の多数を占める香港の立法会はその後も香港の“中国化”を進め、それに対して2012年には国民教育科の導入が中高校生らの反対で白紙になったほか、2014年には雨傘を持って街頭で民主化を求める「雨傘運動」が発生。2015年には共産党に批判的な書籍を販売する書店関係者が中国に拘束される事件も起きています。2018年には中国本土と香港を結ぶ高速鉄道が全面開通しました。
 そんな中、天安門事件30周年にあたる2019年、「逃亡犯条例」改正案の撤回をめぐって大規模デモが頻発。当初は平和的なデモでしたが、8月に入ると空港を占拠するまでに発展しています。


 中国本土の情勢に戻りましょう。
 「改革・開放」以後の経済発展は南部の臨海地方に偏り、内陸部との格差が広まっていきました。これを解決するため2000年代に入ると「西部大開発」が進められましたが、内陸部と沿岸部の格差は依然として社会問題となっています。
 2001年には,1995年にGATT(ガット)を継承していた世界貿易機関(WTO) 【追H27組織された時期を問う(1970年代ではない)】への加盟も実現しました。また,中国共産党の改革にも熱心で,2002年には従来禁じられていた「資本家(私営企業家)」の入党が認められました。〈江沢民〉は2003年に国家主席に選ばれています。2003年には神舟5号が打ち上げられ,〈楊利偉〉中佐(1965~)による有人宇宙飛行に成功させています。

 そこで2003年に国家主席に就任した〈胡錦濤〉(こきんとう,フー=チンタオ)(任2013~13)は格差の是正につとめ,2008年の北京オリンピック,2010年の上海万国博覧会を成功させ,新興国BRICsの一員としても認められるようになりました。
 しかし,国内の民主化は進展せず,国内にはチベット自治区におけるチベット人(2008年チベット騒乱)と新疆ウイグル自治区におけるウイグル人の民族問題(2009年ウイグル騒乱)や,民主化運動の指導者の弾圧などの問題も抱えています。
 また、国内的には都市と農村との格差などの社会問題、大気汚染などの環境問題が課題となりました。2004年には第16期4中全会で「和諧社会」(わかいしゃかい)が打ち出され、社会の矛盾を解決する取組みが重視されるようになります。

 2013年に国家主席に就任した〈習近平〉(しゅうきんぺい,シー=ジンピン,在任2012~)は“第三世代”の〈江沢民(こうたくみん)〉(1926~)(後任として党中央軍事委員会主席に就任します),“第四世代”〈胡錦濤(こきんとう)〉(1942~)(共産主義青年団に属し1992年に鄧小平に後継に指名される)とは異なり,“キングメーカー”である〈鄧小平〉の息がかかっているわけではありません。
 2012年の中国共産党第18回全国代表大会では「社会主義核心価値観」が打ち出され、調和のとれた発展が目指されたほか、2013年からは〈習近平〉「虎もハエも同時に叩(たた)く」反腐敗運動がはじまり、権力闘争の様相を呈しています(その中で、2012年には保守派の〈薄熙来〉(はくきらい、ポー=シーライ、1949~、中国共産党重慶市委員会書記 任2007~2012)が汚職スキャンダルによって失脚しています)。

 対外的には、ユーラシア大陸全体を一つの貿易圏としてまとめようとする「一帯一路」構想を2014年に打ち出しました。ユーラシア大陸南縁の諸国の港湾の利権を獲得したり、資金の貸付をしたりすることで、影響力をアップさせています。2019年7月には初のアフリカ横断鉄道(タンザニアのダルエスサラームと、アンゴラのロビトを結び、総距離は4千キロメートル超(注))が開通するなど、資金に乏しいアフリカ諸国の中には中国に対する債務に依存するところも出てきています。
 その一方で,軍備を増強し,南シナ海への海上進出を進めた結果,周辺諸国との間で地下資源の採掘や漁業をめぐる対立が起きています。宇宙開発にも積極的で,2013年12月には嫦娥(じょうが)3号の月面着陸を成功させています。
 2018年以降、アメリカ合衆国の〈トランプ〉大統領政権との間に、何度も追加の関税が実施されいわゆる「米中貿易戦争」も始まっています。
 国家的なIT産業の振興策もめざましく、1999年に浙江省で〈ジャック=マー〉(1964~、馬雲〔马云〕)の創業したアリババ・グループ(阿里巴巴集団)は電子商取引サイトだけでなく電子マネーサービスも展開し、世界的な世界最大の小売企業・流通企業に発展しています(中国本土では金盾工程と呼ばれるネット情報の検閲が行われており、Googleなどアメリカ合衆国のSNSプラットフォームが利用できません)。また、生体認証システム・監視システムも急激に発達しています。
(注)日本経済新聞「アフリカ横断鉄道が開通、中国支援で 4000キロ超」、2019年8月2日、https://www.nikkei.com/article/DGXMZO48110140S9A800C1000000/






・1979年~現在のアジア  東アジア 現④モンゴル
 モンゴル人民共和国はソ連の衛星国家として一党独裁の社会主義体制を採っていましたが,ソ連でのペレストロイカ(改革)の影響を受け,民主化要求が高まりました。1991年にソ連が崩壊すると,1992年に新憲法が採択され複数政党の自由選挙がおこなわれるようになり,社会主義に代わって市場経済も導入されました【東京H19[3]記述(ソ連崩壊後の変化)】。

 1992年には国号が「モンゴル国」に改められ,社会主義体制下では否定されていたモンゴル人の文化や歴史(〈チンギス=ハーン〉など)の見直しがすすむ一方,経済成長が続いています。




・1979年~現在のアジア  東アジア 現⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国

 韓国では〈朴正熙〉(パク=チョンヒ,在任1963~79) 【本試験H26時期,H29民主化は推進していない】が1960年代に「漢江(ハンガン)の奇跡」という経済成長を成し遂げ。この時期ではインドネシアの〈スハルト〉(任1968~1998) 【本試験H10インドネシア国民党の創設者ではない,スカルノとのひっかけ】,シンガポールの〈リー=クアン=ユー〉(李光耀、任1959~90),マレーシアの〈マハティール〉(任1981~2003)やフィリピン【追H20タイではない】の〈マルコス〉(任1965~1986) 【本試験H10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない】【追H20】が代表例です。先進国から企業や資本を導入して,輸出向けの製品を生産することで工業化が目指されました。
 一方,朝鮮民主主義人民共和国では,〈金日成〉による独裁政治が維持されていました。

 しかし1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。しかし混乱の中で〈全斗煥〉(チョン=ドゥファン;ぜんどかん) 【東京H27[3]】が軍の実権を握り,1980年2月に起きた学生ら10万人による民主化運動を武力で鎮圧し,約200人もの犠牲を出しました(光州事件【東京H28[1]指定語句】)。首謀者として〈金大中〉に死刑が求刑されましたが,執行はされませんでした。
 〈全斗煥〉は1980年9月に大統領に就任し,強権政治が続きました。彼の在任中には経済成長が実現して国際収支が改善し,1983年に大韓航空機撃墜事件(ルートを外れたサハリン上空で,ソ連の戦闘機に大韓航空機(民間機)が撃墜された事件)や,1983年のビルマにおける〈全斗煥〉暗殺未遂事件などが起きています。
 経済成長の進展とともに富裕市民(「中産層」)からの民主化の要求も生まれ,〈全斗煥〉と長年行動を共にしてきた〈盧泰愚〉大統領(ノ=テウ)によって1987年に民主化が宣言されました。同年12月の新憲法下で行われた大統領選挙で,〈盧泰愚〉が野党の〈金泳三〉〈金大中〉らに勝利し,建国以来初めての選挙による政権交代が実現しました。〈盧泰愚〉が勝利し1988年にはソウル=オリンピックが開催され,1990年にソ連,1991年に北朝鮮(初の南北首脳会談とはなりませんでしたが,国連への南北同時加盟),1992年に中華人民共和国との国交を回復させるなどの成果を挙げたものの,野党が多数を占める国会で〈全斗煥〉や〈盧泰愚〉に対する不正追及の姿勢をみせると〈全斗煥〉は1988年に政治の舞台から引退し,政局が混迷する中で1992年に〈金泳三〉(キムヨンサム)が大統領に当選し,翌1993年に就任しました。32年ぶりの文民出身の大統領でした。彼は光州事件を民主化運動として再評価し,1995年には〈全斗煥〉と〈盧泰愚〉を逮捕しています。1996年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟し国民所得も上昇しましたが,1997年には財閥の倒産を発端とした経済危機が発生し,1997年末からは通貨危機が始まっていました。
 政党数が増加して政界再編が進む中,1997年に〈金大中〉(キム=デジュン,きんだいちゅう,在任1998~2003)が当選し,1998年に就任します。

 タイのバーツ安に始まるアジア通貨危機のあおりも受けウォン安が進行し,韓国政府はIMF(国際通貨基金)に支援融資を要請。550億ドルの融資と引き換えにIMFによる厳しい韓国経済構造に対する介入が始まりました。〈金大中〉は禁止されていた日本大衆文化を解禁し,2002年の日韓共催ワールドカップも決定しました。また,北朝鮮に対しては,2000年に北朝鮮の〈金正日〉(キム=ジョンイル,最高指導者在任1994~) 【セA H30金日成ではない】と会談(2000年の第一回南北首脳会談)し,南北融和の「太陽政策」(〈イソップ〉(アイソポス,生没年不詳)の「北風と太陽」にちなむ)をとりました。〈金大中〉は2000年にノーベル平和賞を受賞しています。
 2003年には〈盧武鉉〉(ノムヒョン)が大統領に就任,2008年には〈李明博〉(イミョンバク)が大統領に就任しています。

 北朝鮮では,1980年に〈金日成〉の息子〈金正日〉(キムジョンイル)が,朝鮮労働党の党中央委員会政治局常務委員,書記局書記,軍事委員会の委員に選出されました。これにより,事実上〈金日成〉の権力が息子に委譲される見込みとなりました。彼は「世襲」というよりは,厳しい権力闘争を勝ち抜いていった側面が強く(注),父の「主体思想」を体系化させたり,平壌に巨大な建築物を建設したりすることで,自己の権威を高めようとしました。
 1980年代以降は,ソ連,東欧,韓国や中華人民共和国との関係を持ち,資本を導入したり貿易を増加させたりすることで,経済の停滞を解決しようとしました。
 1990年代初めにかけてソ連や東欧の社会主義国が崩壊すると,〈マルクス〉=〈レーニン〉主義の看板を外し,朝鮮独自の社会主義と充実した国防によって,体制を維持していこうとしました。自由貿易地帯を設けたり法整備を進めたりする現実的な動きもみられましたが,北朝鮮に核兵器の開発疑惑が持ち上がるとアメリカ合衆国はIAEA(国際原子力機関)による査察受け入れを要求しまし,当初は受け入れを了承しました(1992~93年)が,1993年にNPT(核拡散防止条約)からの脱退を宣言。国連安全保障理事会も北朝鮮に対する査察を決議しましたが,1994年にはIAEAからも脱退。しかし同年,米朝基本合意によりアメリカ合衆国による原子炉管理の枠組みが定まり,問題は解決できたかのようにみえました。
 1994年7月,〈金日成〉が死去すると,3年間の喪を経て1998年に〈金正日〉(キムジョンイル)は労働党総書記に就任し,国防委員会委員長に再任され,事実上父の権力を“世襲”することが明らかとなりました。農業政策の失敗などにより食糧問題が悪化する中,頼みの綱であった社会主義諸国が崩壊してしまい石油の輸入も止まってしまう危機的な状況に陥り,中国や韓国への「脱北者」(だっぽくしゃ)が増加していきました。1998年には弾道ミサイル「テポドン」の発射実験が行われています。

 2000年に韓国の〈金大中〉が北朝鮮を訪問し「南北共同宣言」が発表され,韓国との間には一時融和ムードが広がりました。2002年には日本の〈小泉純一郎〉首相が北朝鮮を訪れ〈金正日〉と会談し,〈金正日〉は北朝鮮による日本人拉致への関与を認め,5人の被害者・家族が日本に帰国しました(〈小泉〉首相は2004年に再訪朝しています)。
 2003年には核開発疑惑が再燃し,2003年以降,北朝鮮・韓国・アメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国・日本の六カ国協議が開催され計画の全面的放棄を要求しました。しかし2005年には核保有を宣言し,その後も弾道ミサイル実験・核実験を繰り返し,“瀬戸際外交”を繰り返しています。「テロとの戦い」を推進するアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,イランとイラクとともに2002年に北朝鮮を「悪の枢軸;axis of evil」と名指ししました。

 〈金正日〉の息子〈金正恩〉(キム=ジョンウン,在任2011~)が,2011年に朝鮮労働党の一党独裁を継承し最高指導者となり,2006年に北朝鮮が地下核実験を実施。中国を議長国とする六カ国協議(米中露日韓北が参加)が開かれましたが,北朝鮮の態度はますます強硬化していきました。



 一方、韓国では〈朴正熙〉の娘であるセヌリ党(元ハンナラ党、のち自由韓国党)〈朴槿恵〉(パク=クネ、任2013~2016)が初の女性大統領に当選。
 2015年12月の日韓外相会談で、日韓間の慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決が確認されました。この中で、「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。安倍内閣総理大臣は、日本国の内閣総理大臣として改めて、慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からおわびと反省の気持ちを表明する。」と日本政府の立場を明らかにした上で、「和解・癒やし財団」が日本からの拠出金をもとに設立。元慰安婦への支給がおこなわれました。
 しかし、2016年には収賄疑惑が持ち上がり、国会の大統領弾劾訴追により大統領権限停止。2017年には憲法裁判所の決定で弾劾され、退任後にはサムスン=グループからの巨額の収賄疑惑により逮捕されています。
 それとともに、日韓合意への批判が強まり、韓国人による「慰安婦像(少女像)」が国内外に建立されたことが問題化。

 退任した〈朴槿恵〉大統領に代わって、2017年に韓国で北朝鮮に宥和的な「共に民主党」の〈文在寅〉(ムン=ジェイン1953~,任2017~)大統領が就任すると、先の日韓合意の見直しが進められていきます。
 2018年の韓国におけるピョンチャン(平昌)冬季オリンピックを契機として,北朝鮮と韓国の接近が進み,2018年4月27日には2000年・2007年に続く第三回の南北首脳会談が実現され,年内の朝鮮戦争(1950~53,1953年以降「休戦」状態が続いていました)の終結を視野に入れる板門店宣言が発表表されました。
 この合意文書は「朝鮮半島の完全な非核化」を共通の目的にすることとされ,韓国,アメリカ合衆国,または中華人民共和国を交えた会談の開催を推進することが盛り込まれています。
 また,2018年5月にはアメリカの〈ポンペオ〉国務長官と会談。同月には,ロシアの〈ラブロフ〉外相と会談。さらに6月にはシンガポールを訪問し,シンガポール首相,続いてアメリカの〈トランプ〉大統領と史上初の米朝首脳会談を実施しました。さらに〈金正恩〉は中華人民共和国への接近も強めていますが,この間,日本との関係はほとんどありません。

 一方,韓国では,第二次世界大戦中に日本企業が募集・徴用した労働者に対する個人的な賠償をめぐる問題が政治問題化し,2018年10月に韓国の大法院が日本企業(新日本製鐵(現:新日鉄住金))に対して賠償を求める判決を出しました。
 2018年末には韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射したことが一層に関係を悪化させる中、2019年1月に日本政府は日韓請求権・経済協力協定に基づく2国間競技を韓国に要請しますが、〈文在寅〉(ムン=ジェイン,任2017~)首相は応じず。
 同5月には日本政府が協定に基づく仲裁委員会の設置を韓国に要請しますが、これにも応じず。
 同6月に日本政府は協定に基づく第三国選定の委員による仲裁委員会の設置を要請しましたが、これにも応じず。
 同7月には、日韓合意に基づく「和解・癒やし財団」が正式に解散されました。
 そんな中、2019年8月には軍事転用される恐れのある輸出品を規制する制度(キャッチオール規制)の優遇措置対象国(「ホワイト国」)から韓国を除外。それに対し、韓国も輸出管理の優遇措置対象国から日本を除外し、「日韓経済戦争」に発展。韓国国内では日本製品のボイコット運動も起きています。

(注)平井久志『北朝鮮の指導体制と後継――金正日から金正恩へ』岩波書店,2011年。

○1979年~現在のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
東南アジアでは「雁行的」発展がすすむ
↓図 「雁行的」発展
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 1985年にプラザ合意によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
 そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といったアジアNIEsの資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
 この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN…といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,「雁行(がんこう)的発展」ということがあります。

 ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制は開発独裁といい,各国で様々な方式がとられていきました。

 しかし,1980年代末からは,経済発展とともに高等教育を受けた中産層も増加し,政権党以外に複数政党制を認めたり,政権交代を前提とした制度改革を進めようとする民主化運動が盛んとなりました。1967年にインドネシア,マレーシア,シンガポール【本試験H14】,タイ【慶文H30記 東南アジア大陸部の三国のうち,原加盟国を答える】,フィリピン【本試験H25カンボジアは原加盟国ではない】により結成されていた東南アジア諸国連合(ASEAN,アセアン) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】【本試験H18APECに改組されていない】は,東南アジア地域の経済統合を目指すようになります。

 しかし,1997年にはタイを中心にアジア通貨危機【慶文H30記】が発生し,タイのバーツをはじめ各地の通貨の価値が下落しました。これをきっかけにASEAN(東南アジア諸国連合)に日・中・韓が協力するようになり,1997年夏以降,毎年開催されています。また,2005年からはASEAN10カ国に日・中・韓国,オーストラリア,ニュージーランド,インド,米国,ロシアを加えた東アジア首脳会議も開かれています。
 2004年にはスマトラ島沖のインド洋を震源とする大地震により,インド洋沿岸を大津波が襲い,約22万人の死者を出しました(自然災害 スマトラ沖大津波)。2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の東アジア・東南アジアでの大流行(医療 SARS)と合わせ,地域間の連携の必要性が再確認されるようになっています。




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム

 ヴェトナム戦争を経て1976年に南北が統一し,南北の統一選挙により社会主義国が成立しました。最高指導者〈レ=ズアン〉(ヴェトナム共産党中央委員会書記長 任1976~86)率いるヴェトナム社会主義共和国は,建国直後の1978年にはカンボジア【追H21ビルマ(ミャンマー)ではない】との戦争を始め(~1989年に撤退),1979年にはカンボジアを支援していた中華人民共和国との間に中越戦争【追H21】を引き起こし,勝利しました。
 その後も,1988年には南シナ海の南沙諸島をめぐり再度戦争が起こっています。

 1986年に〈レ=ズアン〉が死去し,後継の最高指導者〈チュオン=チン〉(1907~1988)市場経済を一部容認するドイ=モイ(刷新) 【東京H24[1]指定語句,H30[3]】【追H20ミャンマーではない,H24ヴェトナムか問う、H27マレーシア・ラオス・インドネシアではない】【慶文H30記】という政策が導入されるようになりました。対外的にも軟化し,1991年には中華人民共和国,1993年にはフランス,1995年にはアメリカ合衆国と国交を回復させています。
 1995年にはASEANに加盟し,海外からの投資を呼び込むことで急速に経済発展を進めています。



・1979年~現在のアジア  東南アジア 現②フィリピン
 フィリピンでは,民主化運動の指導者〈ベニグノ=アキノ〉(1932~1983)が追放先のアメリカから帰国した際、マニラ空港で暗殺されたことをきっかけに,妻の〈コラソン=アキノ〉〔コリー=アキノ〕(1933~2009、任1986~1992)により,1986年ピープル=パワー(エドゥサ)革命が起こされました。
 〈アキノ〉は国防軍の支持も得て〈マルコス〉【追H20タイではない】に代わって大統領に当選し,アメリカ海軍のフィリピン撤退や,非核憲法の制定を実施します。

 1991年にルソン島のピナトゥボ山が大噴火を起こし,成層圏にまで到達した噴煙の影響で地球全体の平均気温が約0.4℃低下しました。1993年の冷夏にともなう日本の米不足は,この記録的噴火が背景にあるとされます。

 フィリピン国内の経済格差は大きく,海外出稼ぎ労働者による送金が国家収入を支えている側面があります。

 またイスラーム教徒の多い南部ミンダナオ島における,暴力的なイスラーム組織 (モロ国民解放戦線など)の分離独立運動も依然として続きましたが,和平交渉に進展はみられます(2012年にミンダナオ和平に関する枠組み合意が署名され、2014年には包括和平合意文書が調印されました)(注)。

 しかし,1990年代以降成長したアブ=サヤフという組織は,国際テロ組織(イスラーム国)との関連も指摘され,2017年には軍事衝突も発生しました。

 2016年に就任した〈ドゥテルテ〉大統領(任2016~)は国内の麻薬撲滅を積極的に推進しています。
(注)「フィリピン・ミンダナオのバンサモロ政府設立へ 和平プロセスを支えて」、JICA、2018年7月27日、https://www.jica.go.jp/topics/2018/20180727_01.html。




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現③ブルネイ
 ブルネイは,ブルネイ=ダルサラーム国【慶商A H30記 ASEAN原加盟国の次に加盟した国を答える(細かい)】として1984年にイギリスより独立しました。立憲君主制ではあるものの,国王は絶対的な権力を維持しています。石油と天然ガスの輸出がもたらす潤沢な収入により,国民は高い社会福祉の水準にあります。


・1979年~現在のアジア  東南アジア 現④東ティモール
内戦が終わり、インドネシアの占領も終わる

 東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました(東ティモール内戦)。

 インドネシアとの紛争が続いていた東ティモールでは,1999年の住民投票の結果,2002年に東ティモール【本試験H18時期(20世紀後半ではない)】【追H30時期】がインドネシア【本試験H18オランダではない】から独立しました。




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現⑤インドネシア
インドネシアは親米政策と外資の導入すすめ発展
 インドネシアは1968年以降,軍人出身の〈スハルト〉大統領(正式大統領任1968~1998) 【本試験H10スカルノとのひっかけ,インドネシア国民党の創設者ではない】による親米政策と,外資の導入による強権的な国内開発をすすめていきました。しかし,1997年にタイを発端するアジア通貨危機の影響を受け,1998年にジャカルタで暴動が発生すると〈スハルト〉は退陣に追い込まれました。

 後任には副大統領〈ハビビ〉(任1998~1999)が就任し,民主化を推進していきました。総選挙の結果,国民覚醒党の〈ワヒド〉(任1999~2001)が大統領となりました。その後,闘争民主党の〈メガワティ〉大統領(任2001~2004),民主党の〈ユドヨノ〉大統領(任2004~2014),闘争民主党の〈ジョコ=ウィドド〉(任2014~)と続きます。
 初の非エリート・非軍人の出自をもつ〈ジョコ〉大統領は2014年のAPEC首脳会議で中国の〈習近平〉国家主席と会談し、中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)への参加を表明、「海洋国家構想」を掲げています。2009年に脱退していたOPECに2015年に再加入しますが、2016年には再停止されています。
 2019年5月には、大統領選挙で〈ジョコ=ウィトド〉(1961~、任2014~)が再選されましたが、その結果をめぐり首都ジャカルタでは元軍人で〈スハルト〉大統領に近かった〈プラボウォ=スビアント〉(1951~)派による反政府デモが勃発しました。
 2019年8月にはジャカルタからカリマンタン島への首都移転が表明されました(注)。

(注)カリマンタン島に首都移転=ジョコ大統領が表明-インドネシア、2019年8がち16日、https://www.jiji.com/jc/article?k=2019081600982&g=int




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール
シンガポールは政府主導の開発政策を徹底する
 シンガポールは小国ながら,〈リー=クアン=ユー〉(李光耀、1923~2015,首相任1963~1990)による権威主義的な体制下で,金融・情報産業・中継貿易の拠点として経済成長を果たし,新興工業経済地域(NIEs)の一つ、世界有数の金融センターに数えられるようになっています。その中では、経済開発のために徹底した能力主義に基づく教育制度とエリート養成が戦略的に重視されてきました。

 しかし冷戦が終わりに向かう1990年11月に〈リー〉は退任し、同月〈ゴー=チョクトン〉(吴作栋(呉作棟)、任1990~2004)が後継の首相に就任し、当初は「自由化」の路線をとりました。しかし〈リー〉は上級相に集団する形で影響力を残し、実質的には野党を抑圧する体制は続いたので、「ゴー率いるリー体制」ともいえます(注1)。実際にシンガポールでは他国でみられたような民主化運動は起きませんでした。

 また小国であるインドネシアは、岩崎育夫によれば(1)自助努力による国防体制、(2)マレーシアとインドネシアとの共存関係、(3)ASEANを活用した地域諸国との協調・信頼関係、(4)最後の安全パイとしてのアメリカ合衆国―という四段構えからなっています(注2)。
 反共産主義をとる周辺諸国との関係を重視する立場から、冷戦時代には中華人民共和国との関係には慎重で、ASEAN(東南アジア諸国連合)加盟国のインドネシアが1990年に中国との国交を樹立して、ようやく同年9月に国交を結びました。
 また、アメリカ軍がフィリピンから撤退すると、1992年にシンガポールはアメリカ軍が港湾を利用することを申し出、1998年にはアメリカの空母・戦艦のシンガポール海軍基地への寄港を認めました。アメリカ合衆国を国防の後ろ盾に利用しようとしたものです。

 2004年には〈ゴー〉の後継者として〈リー=クアン=ユー〉の長男〈リー=シェンロン〉(李显龙、1952~、任2004~)が首相に就任。人民行動党の一党独裁と、〈ゴー〉のとったアジア投資路線が継承されました。しかし、2011年総選挙で人民行動党が苦戦し、父〈リー=クアン=ユー〉はすべての政治・政府機関ポストから退任、その後2015年に亡くなりました。その後も〈リー=シェンロン〉首相は権威主義的な体制を維持し、「アジアだけでなく世界の自由主義国でも稀な超長期政権」が続いています(注3)。

(注1) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.156。
(注2) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.114。
(注3) 岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年、p.184,221。


・1979年~現在のアジア  東南アジア 現⑦マレーシア

 1981年に就任した〈マハティール〉首相(任1981~2003,2018~)は,マレー人優遇政策(ブミプトラ政策)を推進する一方,日本の経済発展を見習おうとするルックイースト政策を掲げ,長期政権を実現しました。その後〈ナジブ〉政権(任2009~2018)は外資を呼び込みクアラルンプールをイスラーム世界の金融センターにする計画を推進しましたが,2015年に不正資金をめぐるスキャンダルが発覚すると反政府運動が活発化。

 2018年の選挙で野党連合が勝利し,高齢(なんと90代!)の〈マハティール〉首相が再任しました。史上初の選挙による政権交代です。腐敗の一掃を掲げ〈ナジブ〉前首相を訴追し、消費税も廃止。中国の巨大経済圏構想である「一帯一路」(いったいいちろ)に関連する「マレーシア東海岸鉄道計画」の事業規模を縮小させることにも成功しました。




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
 カンボジアでは依然として不安定な情勢が続いています。

 1979年にヴェトナム軍がカンボジアに軍事進出し,〈ポル=ポト〉政権【追H20ラオスではない】を打倒すると,〈ポル=ポト〉政権を支援していた中国が報復としてヴェトナムを攻撃しました(中越戦争) 【本試験H24年代を問う】。

 その後,カンボジア内戦を経て1991年にはASEAN諸国が主導しカンボジア和平協定が結ばれ,1993年に立憲君主制のカンボジア王国が成立しました。
 国内には内戦時代の爪痕が残り,多くの地雷が埋められています(1999年に対人地雷禁止条約が発効)。
 1995年以来,〈フン=セン〉首相が政権を維持しており,2018年の総選挙でも再任が決まりました。




・1979年~現在のアジア  東南アジア 現⑨ラオス
 ラオスでは1975年に社会主義国のラオス人民民主共和国が成立し,マルクス=レーニン主義に基づくラオス人民革命党の一党独裁制がとられています。初代最高指導者は〈カイソーン・ポムウィハーン〉国家主席(任1975~1991)です。
 しかし,1986年には1986年,新経済政策がとられ自由化が始まり,関係の悪化していた中華人民共和国と隣国のタイとも関係を改善。1997年にはASEANに加盟しました。1997年のアジア経済危機の影響を受けたものの,順調に経済成長を果たしていますが,以前として農業人口が7割占めており,工業化は遅れ消費財はタイからの輸入に依存しています。




・1979年~現在のアジア  東南アジア  現⑩タイ
 タイはチャクリ朝による立憲君主制が続き,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国寄りの外交政策をとってきました。〈プレーム〉(首相任1980~88)軍事政権の下,1980年代後半から外資を導入した積極的な工業化を進めていきます。
 1991年に軍事クーデタが起き1992年に総選挙が行われました。国軍の最高司令官〈スチンダー〉が選出されると,民主化を求める市民勢力との間で流血ざたとなりましたが(暗黒の5月事件),〈プミポン〉(ラーマ9世)が仲介することで解決に至りました。

 1997年には投機的な資金の影響を受けてタイの通貨バーツの暴落し,周辺諸国に通貨危機・経済危機が広まりました(アジア通貨危機)。

 2001年に実業家出身の〈タクシン〉(任2001~2006)が首相に就任すると,外資を積極的に導入し,国内向けには社会保険制度改革や公共事業を推進して支持を集めました。
 しかし,強権的な手法や汚職疑惑が保守派の反発を生み,2006年の選挙は不正が疑われ,反〈タクシン〉派の動きが活発化しました。憲法裁判所により選挙が違憲とされると,2006年9月に陸軍によるクーデタが発生。軍政の後,2007年に〈タクシン〉派の首相(ソムチャーイ,任2008)に民政復帰しましたが,黄色いシャツがトレードマークの反〈タクシン〉派の人民民主連合(PAD)が主要施設を占拠して反政府運動を起こし,内政は混乱。
 2008年に憲法裁判所の介入(司法クーデタ)で政権与党が崩壊すると,最大野党である民主党の〈アピシット〉政権(任2008~2011)が成立しましたが,今度は赤いシャツがトレードマークの反独裁民主戦線(UDD)が「民主的ではない〈アピシット〉政権を倒し,〈タクシン〉派を復活させよう」と主張し反政府運動を開始します。このUDDによるデモは2010年に入って過激化し,2011年に総選挙が行われると〈タクシン〉派のタイ貢献党が大勝する結果となり,〈タクシン〉の妹である〈インラック〉が首相(任2011~2014)に就任しました。〈インラック〉政権は内政の安定に務めましたが,2013年に〈タクシン〉の恩赦(おんしゃ)を目指すようになると,再び反政府デモが活発化。これを受け2014年に選挙が開かれましたが,憲法裁判所により無効と,〈インラック〉首相の職権乱用を認める判決を出したため〈インラック〉首相は失職しました。
 同年に〈プラユット〉陸軍司令官(首相任2014~)がクーデタを起こし,軍事政権が成立しました。現在は民政移管の準備が進められており,2016年には国民投票を受けて2017年に新憲法が発布されています。
 なお,2016年には長期にわたり君臨していた〈ラーマ9世〉(プーミポン,位1946~2016)が死去し,〈ラーマ10世〉(ワチラーロンコーン,位2016~)が即位しています。




・1979年~現在の東南アジア  現⑪ミャンマー
  ミャンマーでは,社会主義的な政策をとっていた軍事政権が1989年に国名をミャンマーに変更【慶文H30改称前の国名を問う】。そんな中,民主化要求が高まったため自由選挙を認め,1990年の総選挙で全国民主連盟が80%の議席を獲得しました。

 しかし,政権交代を拒否し,国民民主連盟の書記長〈アウン=サン=スー=チー〉【慶文H30記】を断続的に自宅軟禁状態に起きました(1991年にノーベル平和賞を受賞)。
 彼女の父は独立の指導者〈アウン=サン〉であり,国民の支持も高く,非暴力民主化運動が実り,2010年に軟禁から解かれ,2016年に〈ティンチョー〉大統領のもとで外相・大統領府相・国家顧問に就任しました(事実上の〈アウン=サン=スー=チー〉政権)。2017年には,国内の「ロヒンギャ族」の武装勢力の掃討が,無差別の虐殺を招き国内避難民・難民を発生させていることから,国際的な批判が高まっています。ロヒンギャ族は,バングラデシュとの国境地帯に分布する,「ベンガルを出自とする人々」とされ,過激な上座仏教徒による迫害も受けています。




○1979年~現在のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

・1979年~現在のアジア  南アジア 現①ブータン
 1907年以降,ブータンはワンチュク朝ブータン王国により統一されていました。1972年に王位を継いだ〈ジグミ=シンゲ=ワンチュク〉(位1972~2006)は国王の権限を弱める改革を実施しましたが,1989年以降,チベット系の文化・言語を優遇する政策をとり,ネパール系住民の反政府運動や難民(ブータン難民)を生み出しました。王は2006年に譲位し,〈ジグミ=ケサル=ナムギャル(ナムゲル)=ワンチュク〉(位2006~)が継いでいます。〈ナムギャル〉の下で2008年には初の憲法が公布され,立憲君主国となりました。

・1979年~現在のアジア  南アジア 現②バングラデシュ
 1971年にパキスタンから分離独立したベンガル人を主体とするバングラデシュ人民共和国では,アワミ連盟の〈ラフマン〉が首相(大統領任1971~72,75,首相任1972~75)に就任し国づくりを進めましたが,チッタゴンの先住民との内戦(1992年に停戦,1997年和平協定)が勃発して1975年にクーデタ〈ラフマン〉は暗殺されました。その後は軍事政権が続きますが民主化運動により1991年の総選挙でアワミ連盟を破ったバングラデシュ人民党の〈ジア〉(任1991~96,2001~2006)がバングラデシュで初の女性として首相に就任,1996年にはやはり女性でアワミ連盟の〈ハシナ〉(任1996~2001,2009~)が首相に就任しました。2006年には一時軍部が暫定政権を樹立しましたが,2008年の選挙で民政に移管されています。経済の水準は低く,貧困層向けの小口の金融(マイクロファイナンス)機関をおこなうグラミン銀行(2006年に創設者〈ムハマド=ユヌス〉(1940~)とともにノーベル平和賞を受賞)などの民間組織が,行政を補完している側面があります。

・1979年~現在のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカでは,少数派でヒンドゥー教徒の多いタミル系住民と,多数派で上座部仏教徒の多いシンハラ系住民との間に政治的な対立が生まれていました。
 タミル系の暴力的な組織タミル=イーラム解放のトラ (LTTE) が1983年から武装闘争を始めるとスリランカ内戦に発展しました。

 内戦はスリランカの枠を超え,インドにも波及します。
 南インドにタミル人を抱えるインドが,スリランカ情勢に干渉したからです。

 1987年にはインドから平和維持軍が派遣されましたが,1990年には撤退。
 タミル人のLTTE側との和平交渉にあたっていた〈プレマダーサ〉大統領(任1989~1993)は1993年に爆弾テロで殺害され,紛争は泥沼化します。
 1995年には停戦協定が結ばれましたが,同年にLTTEが破棄すると内戦は再開。
 その後,再度の停戦と再開を経て,2009年に政府軍が勝利する形で内戦は終結をみました。

 スリランカの財政は対外債務に多くを依存していますが,その多くを占めるのが中華人民共和国です。中国によるユーラシア南縁部への進出(“真珠の首飾り”戦略と呼ばれます)を進めており,スリランカ政府は2017年には南部の港を中国の国有企業に貸し出しており,軍事利用を警戒するインドとの対立も起きています。


・1979年~現在のアジア  南アジア 現④モルディブ
 インド洋の島国であるモルディブは1965年にスルターン国として独立していましたが,1968年に共和制となり〈ナシル〉大統領(任1968~78)が就任,1978年には〈ガユーム〉(任1978~2008)が就任して一党制の長期政権を実現しました。この間にモルディブはサンゴ礁の美しい景色を生かして観光を経済資源とすることに成功しています。
 しかし〈ガユーム〉大統領の強権に対して民主化運動が起き,2008年には民主的な新憲法がつくられましたが,同年の選挙でモルディブ民主党の〈ナシード〉(任2008~12)に敗れ,交替しました。しかし与野党の対立が続き,2012年に〈ナシード〉が辞任し,副大統領の〈ワヒード〉(任2012~2013)が大統領に就任します。
 そんな中で行われた2013年の大統領選挙では,復権をねらう元大統領で,モルディブ進歩党を創設していた〈ヤミーン〉(任2013~)が選出され,連立与党が成立しました。
 モルディブの経済は観光業と水産業に依存しており,地球温暖化による海面上昇で国土の水没の危機があると,国際社会に訴えています。〈ヤミーン〉大統領は現代版シルクロード「一帯一路」構想を進める中華人民共和国との結びつきを強め,中国資本の導入に積極的。しかし中華人民共和国に対する債務は積み上がって経済的な従属が進み,港湾を中国の国有企業に貸し出しています。
 そんな中2018年に最高裁が野党政治家の釈放・復職を要求すると,〈ヤミーン〉は非常事態を宣言して,野党寄りの〈ガユーム〉元大統領を拘束しました。それに対し,〈ヤミーン〉の異母兄(いぼけい)でイギリスに亡命中の〈ナシード〉元大統領はインド軍に支援を要請する事態となっています。


・1979年~現在のアジア  南アジア 現⑤インド
21世紀に入り、「巨象」インドが経済的に台頭する
 インドでは、憲法が政治権力をある程度コントロールする機能を果たし、この時期には選挙による選挙交替も定着していきます(注1)。

 非同盟の立場をとりつつも計画経済をとってきたインドは,1980年代からは「緑の革命」という農産物の生産量をあげる品種改良や技術革新を進めました。効率重視の方策は農村部では貧富の差という“影”も落としていますが,その後の工業化の進展に寄与することになりました。
 1977年の選挙で,インド国民会議派から政権交替を果たした人民党(ジャナタ党)の〈デーサーイー〉首相(1977~79)は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。

 しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では〈インディラ=ガンディー〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々がインド人民党(BJP) 【早商H30[4]論述 国民会議派に対抗する政治勢力を答える】を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになります。このように,インドの人々が,宗教や宗派にもとづいてまとまろうとしていく考えをコミュナリズムといいます。BJPの母体でもある民族奉仕団(RSS)が,初等教育や女性の人権などの運動により,民衆レベルで支持を伸ばしていたのです。指導層はバラモン出身者が多く,イスラーム教徒への対抗意識から,ヒンドゥー=ナショナリズムを推進しています。1992年には『ラーマーヤナ』の主人公ラーマの生誕地であるアヨーディヤーのイスラーム教のモスクを破壊する運動が起き,暴動事件が起きました。

 1980年に〈インディラ=ガンディー〉は再選されましたが,アムリットサルにあるシク教寺院を攻撃したことから,1984年にシク教徒により暗殺されてしまいます。後を継いだ息子の〈ラジーヴ・ガンディー〉(1944~1991,任1984~89)は,スリランカ内戦に介入し,インド平和維持軍を派遣しました。スリランカからタミル人が難民として移動してきたことに対応し,アメリカや中国が内戦に介入する前に内戦を収めようとしたのです。しかしその後,スリランカ情勢は泥沼化して1990年に撤退。さらに,スキャンダルで支持を失い,辞職後にはスリランカのタミル人の暴力的な組織 (LTTE(タミル・イーラム解放のトラ))に暗殺されました(辞職後の1991年のことです)。

 インド人民党は1998年に政権を掌握。〈ヴァージーペーイー〉首相(バジパイ,任1996,1998~2004)の下,パキスタンを牽制するために核実験を実施(1998年インドの核実験)。ICT(情報通信技術)産業を育成し,アメリカ合衆国にも接近して経済の自由化を推進。こうして「巨象」(注2)インドは,2000年代前半には新興国(BRICs【セA H30】)の一員に数えられるようになりました【早商H30[4]論述(1990年代のインドの政治・経済の状況)】。
 その後,2004年に国民会議派の〈マンモハン=シン〉首相(任2004~14)に政権交代しました。初のシク教徒の首相です。
 2014年には再びインド人民党の〈モディ〉首相(任2014~)に交替しています。

 インドは今なお多くの貧困層を抱え,その背景には根強いカースト制度の影響力があります。インドの人口の15%を占めるといわれるダリットは,かつて不可触賤民といわれ,カースト制度の底辺に属する人々です。彼らの地位向上運動も盛んになっています。

(注1)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.368。
(注2)鈴木董『文字と組織の世界史―新しい「比較文明史」のスケッチ』山川出版社、2018年、p.370。




・1979年~現在の南アジア 現⑥パキスタン
 パキスタンでは,クーデタにより政権を掌握した陸軍参謀長〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。しかし,国際的な批判も高まり,〈ブットー〉(1928~79,大統領在任71~73,首相在任73~77)の娘〈ベーナジール=ブットー〉(1953~2007,首相在任1988~90,93~96)がのちに,1989年に首相となりました。90年の総選挙でイスラーム民主連合の〈ジャトーイー〉政権(任1990),さらにパキスタン=ムスリム連盟の〈シャリーフ〉政権(任1990~93)に移行しました。1991年には「シャリーア施行法」が制定され,コーランやスンナの規定が最高法規とされました。同時期のインドではヒンドゥー=ナショナリズムが高揚していましたから,表と裏の関係にあるといえます。

 1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると,アメリカはアフガニスタンのイスラーム教徒の義勇軍を支援しました。そのとき提供された武器や資金は,1989年にソ連が撤退した後にターリバーン政権がアフガニスタンに誕生したり国際テロ組織アル=カーイダが生まれていく遠因となりました。
 1998年にインドの核実験に対抗して,パキスタンも核実験を実施し【本試験H24・H26ともに時期】【追H20(19世紀以降のイスラーム諸国について適当なものを選ぶ)】,緊張が高まりました。翌年には北部のカシミールで武力衝突(カルギル紛争)も起こっています。1999年に〈ムシャラフ〉陸軍参謀長(首相在任1999~2002,大統領在任2001~2008)がクーデタで権力を掌握し,1990年以降の民政の時代が終わりました。アメリカ同時多発テロ事件とアフガニスタン侵攻が起きると,〈ムシャラフ〉はアフガニスタンのターリバーン政権ではなく,アメリカ合衆国に接近しました。国内のイスラーム原理主義的な勢力からの批判も高まり,2008年に辞任しました。

 なお,中華人民共和国は2013年にパキスタンのグワーダル港の管理権を獲得し,港湾を開発しています。それに対しインド政府は中華人民共和国による軍事進出を警戒しています(中華人民共和国の海洋進出)。

 〈マララ=ユスフザイ〉(1997~)は,パキスタン北部の女子学校に通学していた際,パキスタンにおける武装勢力ターリバーン運動が女子教育を妨害しようとしたことに対し,2009年に匿名でイギリス国営放送に批判メッセージを送り,のち実名を公表して講演活動を行いました。それに対し2012年(15歳のとき)にターリバーン運動から銃撃を受け負傷しましたが一命をとりとめ,2014年度のノーベル平和賞を17歳で受賞しています。

・1979年~現在の南アジア  現⑦ネパール
 ネパールは立憲君主制をとるネパール王国(ゴルカ朝)により統治され,パンチャーヤト制という制度により国王に強大な権力が与えられていました。
 しかし,1979年に民主化を求めるデモが起きて反政府運動に発展すると,〈ビレンドラ〉国王(位1972~2001)は1980年に憲法を改正しました。1990年には民主化運動が起き,ようやくパンチャーヤト制の廃止が宣言され,国民主権が認められました。1991年には複数政党制の下で総選挙が実施され,ネパール会議派の〈コイララ〉(任1991~94,98~99,2000~2001,2006~2008,2008)が首相に就任しました。
 しかし,王制そのものを廃止しようとする勢力であるネパール共産党毛沢東派(マオイスト)派が1996年に内戦を起こすと,ネパール各地で治安が悪化。方針をめぐる対立から王宮で〈ビレンドラ〉国王が王太子(父の死後,数日で死去)により殺害されたとされ,弟〈ギャネンドラ〉(位2001~2008)が国王に即位するという事態が起きます(この事件には不審な点も多い)。
 ネパール内戦は多くの犠牲を出した後,2006年に包括的和平合意が成立しました。2007年に暫定憲法が公布され,国際連合によるミッション(UNMIN,2007~2011)が派遣され,2008年に実施された選挙により成立した制憲議会で王制の廃止と連邦民主共和制への以降が決定されました。
 しかし憲法は制定されないまま,2015年に首都カトマンズ周辺がネパール大地震(マグニチュード7.8)の被害を受け,同年には復興を視野にいれ新憲法が公布されました。この地震では,ネパール最古の仏教寺院スワヤンブナートなど多くの世界遺産の建築物が被害を受けています。




○1979年~現在のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

 1979年代以降,西洋化への反動や,アメリカ合衆国の中東政策への反発から,伝統的なイスラームを基盤とした生活・文化・政治を復活させようとするイスラーム復興運動が盛んとなりました。その影響は政治の世界だけにはとどまらず,日常生活の中にイスラームの習慣や伝統を復活させようとする運動も起きました。
 例えば,1928年(一説には1929年)に設立されていた(注)エジプトのムスリム同胞団は70年代以降,医療・教育・相互扶助といった社会奉仕活動を積極的に行い,人々の支持を拡大させていきました。ムスリム同胞団の理論的な支柱となった〈クトゥブ〉(1906~1966)は社会の正義はイスラーム法が施行されている地域でのみ実現されると主張しましたが,彼の思想はのちに〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉(1957~2011)といったテロリズムを重視する暴力的なグループに影響を与えることになります。

 1979年にはイラン【追H21イラクではない】でイラン=イスラーム革命が起き,シーア派指導者〈ホメイニ〉【本試験H4】の下でパフレヴィー朝が打倒されました。1980年~1988年にはアメリカ合衆国の支援を受けたイラクの〈フセイン〉政権との間にイラン=イラク戦争が勃発。

 1990年8月2日に〈フセイン〉大統領は隣国クウェート【追H9】に侵攻し,同8日に併合を宣言。国際連合安全保障理事会は決議第660号により,イラクに撤退を勧告。イラクが従わなかったため,第661号による経済制裁【追H9】を加えます。それでも従わなかったため,決議第665号で加盟国海軍による禁輸執行措置(海上阻止行動)もとられ,さらには11月29日,安保理決議第678号により,国連加盟国に「国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段」をとる権限を与えます。こうして,アメリカ軍を主体とする多国籍軍(湾岸多国籍軍)は,1991年1月17日に攻撃を開
始。戦闘は2月28日に終わり,4月に正式に停戦します。
 国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1998年にはミサイル攻撃がアメリカとイギリスによって実行に移されました。

 その後,2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起きると,容疑者とされた〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉を匿っているとしてアフガニスタン【セA H30地図上の位置,イラクとのひっかけ】に侵攻し,ターリバーン政権を打倒しました。2003年には「大量破壊兵器」を保有しているとしてイラク【セA H30地図上の位置と政権を問う】戦争を開始しましたが,アフガニスタンと同様に戦後の占領政策に失敗し,のちに撤退を迫られました。

 アメリカのイラクに対する一方的な介入は,各地イスラーム組織の反米思想にますます火をつけ,それらがもともと存在していた暴力的なグループの受け皿となるきっかけをつくりました。しかし,そのような動きはイスラーム教徒全体からみるときわめて少数であるにもかかわらず,「イスラーム」を「テロリスト」と結びつけたり,「イスラーム文明と非イスラーム文明との戦い(「文明の衝突」)」ととらえる言説が無数に生み出され,世界各地で大国による暴力や不寛容を正当化させていきます。
 例えば,中華人民共和国やロシアでは国内の反体制派に対する鎮圧を「対テロ戦争」の一環と位置づけ,イスラエルでは「テロリスト」の活動を防ぐためパレスチナへの軍事侵攻や”安全フェンス“の建設による入植地の拡大が実行されていきました。イラク戦争にも正当な開戦理由といえるものはなく,「対テロ戦争」の名目でCIA(アメリカ中央情報局)が主導して開戦に持ち込まれたのだということが,のちに明らかになっています。
 これらの過程で,アル=カーイダのメンバーや関連団体を自称する実行犯により,インドネシア・バリ(2002),スペイン・マドリード(2004),イギリス・ロンドン(2007),パキスタン・イスラマバード(2008),インド・ムンバイ(旧ボンベイ)(2008)の都市を狙ったテロリズムが起こされました。

 2008年に世界同時不況が起きると,21世紀初頭の原油価格が上昇を受け波に乗っていた産油国の成長に,陰りが見え出します。
 アラブ首長国連邦のドバイには,828mの超高層ビル(ブルジュ=ハリーファ)が2010年に完成しました(隣接する商業施設の一つに「イブン=バットゥータ」というショッピングモールがあります)。
 しかし,前年の2009年に政府系企業が借金返済を先延ばしにする発表をしたことで,ドバイ政府に対する信用が低下し,先進国が「本当にドバイに資金を貸しても大丈夫なのだろうか?」と考え,世界の建設企業の株式などが急落する事件が起きています(ドバイ=ショック)。

 2010年末以降,「アラブの春」といわれる民主化運動が,チュニジアにはじまり,エジプトやリビアに広がりました。長期独裁をしていた指導者は倒れましたが国内の混乱は長期化し,混乱収拾のために国民の権利を制限する権威主義,あくまで暴力により思想を実現させようとするテロリズム(ジハード主義),政治的・経済的権利をめぐって国外の支援を受けて宗派ごとに争う宗派主義の波が広がっています。
 シリアでは2011年に民主化デモをアサド政権(任2000~)が武力で鎮圧し,周辺諸国の介入や,国境を超える暴力的なイスラームのテロ組織による干渉を招きました。〈アサド〉政権はシーア派の一派であるアラウィ派で,多数を占めるスンナ派の国民は経済的な不満を抱いていました。民主化を求める組織は「自由シリア軍」を形成しましたが,シリアの政府軍はロシアやイランによる支援を受け,反政府勢力はトルコの支援を受け,主要な都市の多くが戦場となりました。2013年にはシリア政府が化学兵器を使用した疑惑が持ち上がり,シリアは安保理の決議を受けて査察を受け入れました。

 一方,イラク戦争後にイラクの領内では,アメリカ合衆国の駐イラク米軍司令官で元CIA長官の〈ペトレイアス〉の主導により,〈ビン=ラディン〉の後継者〈ザワーヒリー〉(1951~)が指揮するとされるアル=カーイダに対抗する自警団的な組織(覚醒評議会)が設立されていました。そこで,イラクでの主導権を失ったアル=カーイダは拠点を隣国のシリアに移します。
 2014年には,〈アブー=バクル=バグダーディー〉を指導者が自らをカリフと宣言し,イスラーム過激派組織「イスラーム国」(IS(アイエス);ISIL(アイシル))の成立(建国)を宣言しました。イスラーム国は,アル=カーイダから分離して支配領域を広げていき,シリアでジハード主義を掲げる反政府組織「ヌスラ戦線」も,当初は「イスラーム国」に加わりました(注)。
 「イスラーム国」は湾岸戦争,イラク戦争以来のアメリカ合衆国に対する過激な思想を受け継ぎ,グローバル=ジハード(世界規模で非イスラーム世界に対して暴力闘争を目指す考え)を掲げ,インターネットを通して全世界に活動内容を配信。それに触発された人々の中には2015年のフランスにおけるパリ同時多発テロを初め,ベルギー,ドイツ,イギリス,スペインなど先進国の都市の住民を無差別に狙ったテロリズムを起こす者も現れています。これらの実行犯は「イスラーム国」本体からの組織的な指示を受けたというよりは,個人的に過激化し“一匹狼”(ローンウルフ)として犯行に至った者が少なくないとみられています。
(注)アブドルバーリ=アトラーン『イスラーム国』集英社,2015,p.113。

 こうしてシリアでの内戦は,〈アサド〉政権と反政府派(自由シリア軍,クルド人勢力など)に関係国・勢力が介入するという構図にとどまらず,イスラーム国が全世界のイスラーム過激派に訴えかける形で拡大していったのです。2014年にイスラーム国はシリアのラッカ県を制圧。残虐な手法をインターネットを通じた映像で公開し,支持者をひきつけていきました。
 これに対してロシアは2015年9月にシリアに軍事介入し,2016年にはシリア政府軍が各地で攻勢を強めましたが,同年にはトルコもシリアの反政府派(自由シリア軍)と連携し,イスラーム国やクルド人勢力に対する軍事介入を行っています。2017年4月にはシリア政府が再度化学兵器を使用した疑惑が起こり,アメリカ合衆国の〈トランプ〉政権はシリアをミサイル攻撃しました。同年10月にはイスラーム国の拠点ラッカが陥落し,イスラーム国は事実上崩壊しています。2018年1月には再度トルコがクルド人勢力に対して攻撃。同年2月以降は,シリア政府軍とそれを支援するロシアの化学兵器使用の疑惑をめぐり,イギリス・フランス・アメリカ合衆国がダマスクス東部の東グータに対してミサイル攻撃をしました。

 以上の過程で,イスラーム教徒が少数派の地域では,過激なジハード主義(テロリズムによる直接行動を正当化する思想・動き)が,イスラーム主義(欧米の近代化の思想・体制に対し,イスラームの思想・体制を見直そうとする思想・動き)やイスラーム教徒全体と十把ひとからげにされ,イスラーム教徒に対するヘイトスピーチやヘイトクライムを生んでいます。

(注)神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年、p.230。






・1979年~現在の西アジア  現①アフガニスタン
アフガンにソ連,続いてアメリカが軍事進出する
 アフガニスタン王国は国内に複雑な民族分布を抱えた国家でした。1973年にクーデタにより王政が廃止され,王族の〈ダーウード〉がアフガニスタン共和国の大統領に就任。
 彼はイスラームにのっとった国づくりをすすめようとする勢力(イスラーム主義)と,ソ連の支援を受けて社会主義国をつくろうとする勢力(アフガニスタン人民民主党パルチャム派)の両派を弾圧したので,三つ巴(どもえ)の形成に発展。
 1978年に〈ダーウード〉は暗殺され,1978年に社会主義政権が樹立され,アフガニスタン民主共和国となります。首相に就任したのは,アフガニスタン人民民主党パルチャム派と対立する,ハルク派でパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合タラク部族ブラン氏族出身)〈タラキー〉(1917~1979)です。パルチャム派は急進派,ハルク派は穏健派です。
 しかし,1979年にはパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合ハルティ部族出身)〈アミーン〉(1929~1979)により〈タラキー〉は逮捕され,〈アミーン〉がで政権を獲得。しかし,それに対しイスラーム主義者が国外でジハードを宣言して結成したムジャーヒディーンが対抗し,事態は泥沼化します。

 アフガニスタンの混乱は,隣国イランの革命(イラン=イスラーム革命)とも連動していました。
 これをみたソ連の〈ブレジネフ〉は,アフガニスタンにイスラーム教「原理主義者」を抑え込むことのできる強力な親ソ連政権が必要だと考え,1979年12月24日に軍事的に進出して,同27日に〈アミーン〉を暗殺。代わりにパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合モッラヘル部族)〈カールマル〉(1929~1996)に政権を樹立させたのです。
 
 これを,ソ連のアフガン侵攻(アフガニスタン侵攻【追H17時期は1960年代ではない】)といい,アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国との関係は一気に冷却。「新冷戦」と呼ばれる状況となりました。
 このときアメリカ合衆国は反ソ連勢力ならなりふり構わず支援し,ムジャーヒディーンやハザーラ人に軍事援助をしています。

 その後,1987年に〈ナジーブッラー〉が大統領(任1987~1992)に就任。1989年にソ連はアフガニスタンを撤退しました(ソ連のアフガニスタン撤兵)【追H17ブレジネフ政権下ではない】。

 今度は,国内の政権争い(アフガニスタン内戦)が始まると,ムジャーヒディーンは1992年にアフガニスタン=イスラム国を建て,タジク人を中心とするイスラム協会の〈ラッバーニー〉が大統領となります(任1992~2001)。

 しかし,そこへパキスタン北西部から進出したのが,パシュトゥーン人主体のターリバーンという勢力。1996年にはカーブルを占領し,ターリバーンに対抗する勢力(「北部同盟」)との間で深刻な内戦に発展しました。
 北部同盟には,タジク人のイスラム協会,ハザーラ人のイスラム統一党,ウズベク人のイスラム民族運動などが合流。複雑な民族構成ゆえの内戦でもありました。
 
 ターリバーン政権下では厳格なイスラーム法に基づく支配が行われ,2001年にはかつて〈玄奘〉も旅行記に記録したバーミヤンの石仏(世界文化遺産)を,「偶像」であるとして爆破されています。
 同年9月11日にアメリカ合衆国で同時多発テロが勃発。その首謀者とされる〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉をかくまっているとして,アフガニスタンのターリバーン政権はアメリカ合衆国の攻撃を受けます。アメリカ合衆国をはじめとする有志連合軍は,国内の北部同盟とともにアフガニスタンに軍事侵攻(2001年アフガニスタン侵攻)。同年11月にカーブルが陥落し,代わって〈カルザイ〉(1957~)に暫定政府(暫定行政機構議長)を樹立させました。〈カルザイ〉は,ドゥッラーニー部族連合ポーパルザイ部族カルザイ氏族出身で,2004年以降,アフガニスタン=イスラム共和国の正式な大統領も勤めます(任2004~2014)。

 しかし,政府ポストの民族構成をめぐるバランスは難しく,アメリカ合衆国軍の駐留が継続する中でも,テロなどの治安の悪化に歯止めがかからず,ターリバーンとの和平交渉も難航しています。なお,アフガニスタンでは日本人医師〈中村哲(てつ)〉(1946~)がペシャワール会を設立し,医療活動や用水路建設に従事し,2018年にアフガニスタンから国家勲章を授与されています。

・1979年~現代の西アジア  現②イラン
イラン革命後,イスラーム共和制を導入する
 1979年にイラン【追H21イラクではない】=イスラーム革命が起き,ウラマーの〈ホメイニ〉(1902~89) 【本試験H4石油国有化をしていない】が指導者となって,イラン=イスラーム共和国が建国されました。イランは2005年に対外強硬派の〈アフマディネジャド〉(任2005~2013)が大統領に当選します。以前から疑惑が持ち上がっていた核開発や「核の闇市場」との関係について,2004年のパリにおけるイギリス,フランス,ドイツとの合意により核開発が停止されていました。ところが,〈アフマディネジャド〉はこれを2005年に再開させ,ウラン濃縮活動を行いました(天然のウランには核分裂を起こさない性質のものも含まれているため,濃度を高めて核燃料として使用可能なものとする必要があります)。これに対しイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国,ロシア連邦,中華人民共和国の6か国が動き,2006年には国連安保理がウラン濃縮と再処理活動をやめるように決議をしました。しかし,それでも停止しなかったため,2007年・2008年に安全保障理事会は制裁決議を採択。しかし2009年以降もウラン濃縮活動を停止することはなく,アメリカ合衆国とEUを中心とした経済制裁が課されるとともに,解決に向けた動きが進められていきます。
 そんな中,2013年には穏健派でシーア派のウラマーである〈ロウハニ〉(任2013~)に交替し,2015年7月には経済制裁の解除を見返りに核開発を制限する合意(イラン核合意)がアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツ・中華人民共和国・ロシア連邦・EU,イランとの間にウィーンで成立しました。しかし,核合意の内容を「甘い」とみるイスラエルは合意に反発し,推進した〈オバマ〉大統領との関係は悪化。
 イランは,2016年1月にはサウジアラビアとの国交を断絶しました。2015年に始まったイエメン内戦で,イランが反政府側のフーシ派を支援していることも背景にあります。
 2017年1月にアメリカ合衆国に〈トランプ〉大統領の就任後も,イランはミサイル発射実験を実施し,アメリカ合衆国は5月に再選された〈ロウハニ〉大統領を非難。2018年5月には「イラン核合意」には欠陥があるとして〈トランプ〉大統領は合意からの離脱を発表しました。その直後にはイランは,支援を続けるシリア(アラウィー派の〈アサド〉政権を支援しています)の領内からイスラエルの占領するゴラン高原をミサイルで攻撃しました。


・1979年~現在のアジア  西アジア 現③イラク
 イランの隣国のイラクは,1980年にシーア派による革命の影響がおよぶことを恐れて,国境地帯を攻撃しました。バックにはペルシア湾岸諸国(湾岸協力理事会,GCC)の支援がありました。イランのパフレヴィー朝のように,革命によって王政が倒されることをおそれ,イラクを支援してイランの革命の打倒をめざしたのです。これをイラン=イラク戦争といいます。
 イラクの山岳部の油田地帯に居住する少数民族クルド人は,イランと提携して〈フセイン〉政権に抵抗しました。しかし,1988年に停戦すると,〈フセイン〉政権はクルド人に対して化学兵器を使用して弾圧しました。

 1990年にイラクの〈フセイン〉大統領(1937~2006) はクウェートを侵攻しました。1980~88年のイラン=イラク戦争により財政が悪化し,隣国クウェート国の油田を獲得しようとしたものです。クウェート国はもともと遊牧民が定住していた地域に,1756年に成立した王朝が1914年にイギリスの保護国となり,1961年に独立。その当時からイラクとの国境紛争が続いていました。イラクのクウェート侵攻に対してアメリカ合衆国を中心とする多国籍軍が介入し,1991年に湾岸戦争【本試験H14冷戦終結前ではない,本試験H26時期】が起きました。

 アメリカやイギリスは,イラク国内のクルド人とシーア派住民に抵抗を呼びかけ,内戦が勃発しましたが,結局〈フセイン〉政権により鎮圧されました。抵抗に失敗したクルド人は,100万人以上の難民となってトルコやイランを目指したため,〈緒方貞子〉(任1991~2000)国連難民高等弁務官が,同事務所(UNHCR)の活動を指揮して,救援活動にあたりました。国連安保理はクルド人の保護を決議し,アメリカとイギリスが中心となってクルド人の帰国を助けています。
 イラク北部にあるクルド人の分布地域には油田が多く立地し,アメリカ合衆国はクルド人を支援することで石油の利権をねらったと考えられています。実際に「クルド人保護」のためにイラク北部には飛行禁止区域が設定され,南部のシーア派住民が多い地域も同様に飛行禁止区域に設定されました。
 湾岸戦争後も,国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,大量破壊兵器や軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1993年にはアメリカ,フランス,イギリス,1998年にはアメリカとイギリスにより,ミサイル攻撃が実行に移されています。
 アメリカを中心とするイラクへの執拗な攻撃は,中東全体のアメリカに対する印象を悪化させることとなっていきました。つまり,アメリカ合衆国を,イスラーム教徒の世界に進出する“敵”とみなす言説が発展していくことになるのです。
 1989年にソ連がアフガニスタンから撤退すると,ソ連と戦った義勇軍(ムジャーヒディーン)は故郷に帰国していきました。その中の一人がサウジアラビアの富豪〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉です。彼は,アメリカ合衆国が中心となってイラクを攻撃した湾岸戦争をイスラーム世界に対する攻撃ととらえ,イスラーム世界を守るために世界各地を拠点とした「ジハード」を実行するべきだとする思想を形成し,国際テロ組織アル=カーイダを立ち上げました。
 2001年にアメリカ合衆国本土で同時多発テロを引き起こされると,アメリカ合衆国はその首謀者を〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉と特定し,彼をかくまうアフガニスタンのターリバーン政権【セA H30フセイン政権ではない】に武力侵攻して政権を崩壊させました。

 アメリカ合衆国はその後さらに2003年には,イラクが“大量破壊兵器を保有している”と主張してイラク戦争【追H29】を開始しました。イラクの政権は崩壊【追H29】し2003年末に拘束された〈フセイン〉大統領【追H29】【セA H30ターリバーン政権ではない】は,イラク高等法廷(「バグダード裁判」と言うことも)で死刑判決が下され,2006年に処刑されました。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現④クウェート
 1961年にイギリスから独立していたクウェートでは,首長サバーハ家による支配が続いています。
 1990年には隣国イラクの〈フセイン〉政権が軍事的に侵攻し,一時イラクに併合されましたが,1991年の湾岸戦争によって独立が保たれました。

・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑤バーレーン
 シーア派が多数を占めるバーレーンは1971年に「バーレーン国」としてイギリスから独立していました。首長はスンナ派であったことからシーア派国民による民主化要求も高まり,2002年に絶対君主制から立憲君主制に移行し,バーレーン王国となります。初代国王は〈アール=ハリーファ〉(首長任1999~,国王任2002~)です。
 2011年にはさらなる民主化要求が強まり反政府デモが起きますが,鎮圧されて死傷者を生みました。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑥カタール
 カタールはサーニー家の〈ハリーファ〉が父の外遊中に首長に就任(任1972~1995)。
 1981年には湾岸協力会議(GCC)に加盟。
 1995年にはサーニー家の〈ハマド〉が,父〈ハリーファ〉の外遊中に首長に就任(任1995~2013)。首都ドーハの開発に着手し,衛星テレビ局アルジャジーラの設立にも関わります。
 2013年に父の譲位により,〈タミーム〉首長が就任(任2013~)。

 2017年にはサウジアラビアやアラブ首長国連邦など中東諸国がカタールとの国交断絶を発表しました(中東諸国のカタールとの断交)。背景には,イランとサウジアラビアとの対立構図があるとみられています。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑦アラブ首長国連邦(UAE)
 アラブ首長国連邦では,アブダビ首長国の〈ザーイド〉(任1971~2004)まで長期に渡り政権を維持し,経済開発路線をとりました。
 後継のアブダビ首長〈ハリーファ〉はアラブ首長国連邦の大統領に就任(任2004~)。2010年に完成した超高層ビル「ブルジュ=ハリーファ」にも,彼の名が付けられています。
 将来をにらみ,石油依存からの脱却をどう進めるかが焦点となっています。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑧ オマーン
 オマーンは国王が首相・外相・財務相・国防相を兼ねる絶対君主制国家で,現国王は〈カブース〉(位1970~)です。
 1981年に国家諮問評議会がつくられ,1991年に諮問議会に移行(選挙制)。1997年に設置された勅撰の国家評議会とともに二院制を形成しています。
 2011年のアラブの春の影響を受け,国王は国家基本法を改正し,諮問議会・国家評議会に立法権と監査権が与えられました。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 イエメンでは1967年にイギリス領南アラビア保護領が,南イエメン人民共和国(南イエメン)として独立。
 北に1962年に成立していたイエメン=アラブ共和国(北イエメン)との間に,冷戦構造も背景とする南北対立が続きました。
 1991年にイエメン共和国として南北統一が成り,北イエメンの〈サーレハ〉(任1990~2012)が大統領に就任。しかし,1994年に南イエメンが一時再独立するなど,支配は安定しません(1994年イエメン内戦)。

 2011年の「アラブの春」の影響を受け,2012年に〈サーレハ〉大統領が退陣。〈ハーディー〉副大統領が暫定大統領に昇格しますが,2015年にシーア派の暴力的な組織フーシがクーデタを起こし,〈ハーディー〉暫定大統領はアデンに逃れた後,サウジアラビアのリヤドに亡命。フーシ派の政権をイランが支持し,サウジアラビア 対 イランの対立構図がイエメンに持ち込まれる形となりました。イエメンでは深刻な食糧危機・感染症の蔓延が広がる中,アメリカ合衆国もイエメンに対し小型無人機(ドローン)による攻撃をおこなっています。
 2017年6月には,フーシ派を支援するとされたカタールを,〈ハーディー〉暫定大統領がサウジアラビアなど湾岸諸国とともに断交(2017年カタール危機)。サウジアラビアは,フーシ派を支援しているとしてイランを非難します。
 なお,フーシ派側に立っていた前大統領〈サーレハ〉は,2017年にフーシ派により暗殺されています。〈サーレハ〉がサウジアラビアとの関係を回復させようとしたことが理由とみられます。
 この一連の内戦の過程で,世界文化遺産に指定されたサナア旧市街の美しい街並みは,2015年以降「危機遺産」に指定されています。

・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア

 アラビア半島のサウジアラビア王国ではサウード家による支配が続いていました。
 国王は〈ハーリド〉(位1975~1982)から〈ファハド〉(位1982~2005)替わりますが,いずれも初代国王〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)の息子にあたります。
 各国王は各部族の長として君臨していて,閣僚ポストは各部族に分配されバランスをとる分権的な体制が構築されていました。

 ※初代〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)→②〈サウード〉(位1953~1964)→③〈ファイサル〉(位1964~1975)→④〈ハーリド〉(位1975~1982)→⑤〈ファハド〉(位1982~2005)→⑥〈アブドゥッラー〉(位2005~2015)→⑦〈サルマン〉(位2015~)

 1979年のイラン=イスラーム革命にあたり,シーア派の〈ホメイニ〉はサウード家のサウジアラビア(スンナ派に属する厳格なワッハーブ派です)を名指しで批判。1979年にメッカで反体制派のイスラーム過激派によるモスクの占拠事件が起きると,サウジアラビアは暴力的なイスラーム主義者に資金を援助し,アフガニスタンに「ムジャーヒディーン」として送り込みはじめました。ちょうど1979年12月から,ソ連がアフガニスタンに侵攻。イスラーム諸国からの集まった義勇軍との戦いへと拡大し,「無神論」的なソ連に対する「ジハード」に発展していきました。

 〈ファハド〉国王は,2聖都(メッカ〔マッカ〕とメディナ〔マディーナ〕)の守護者を自任して,イスラーム世界における盟主を意識しますが,その一方で,1990~1991年の湾岸戦争のときにはアメリカ合衆国に国内の基地を提供して多国籍軍に参加。そのことがイスラーム主義者やシーア派のイランなどの中東諸国からの批判を集めることにもなりました。

 次の〈アブドゥッラー〉国王(位2005~2015)は,諮問評議会の議員に女性を任命するなど女性の社会進出・教育に積極的で,中東諸国との連携も大切にする外交を展開します。2002年にはイスラエルとの紛争終結・和平合意・関係正常化に向けたアラブ連盟の「アラブ和平イニシアティブ」の採択において,指導的な役割を演じました。
 石油資源を武器に,イランに敵対しつつ湾岸諸国と協調し,欧米と接近する穏健的な外交政策は,第3国王〈ファイサル〉の息子〈サウード〉によって推進されていましたが,2014年に健康上の理由で引退すると,サウジアラビアの外交政策は強硬路線へと舵(かじ)が切られます。

 2015年に即位した〈サルマン〉(任2015~)は,2016年に脱石油の経済改革を推進する「サウジビジョン2030」を発表。それと並行して「汚職撲滅」を口実に,自身と〈ムハンマド皇太子〉(1985~)への権力を集中させています。
 体制に反対する報道への弾圧も強まっており,2018年10月には,トルコのサウジアラビア領事館内に訪れた後,反体制的なジャーナリスト〈ジャマル=アフマド=カショギ〉(1958~2018)が行方不明となり,トルコ側は大使館内で殺害されたとみています。



・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン
 ヨルダン=ハシミテ王国はパレスチナ難民を受け入れつつも,イスラエルと友好関係を結ぶ政策をとり,1994年にはイスラエルを国家承認しています。

 こうした態度をめぐっては,近隣のアラブ諸国やイスラーム主義組織からは批判の声もありますが,2011年の「アラブの春」騒乱のときにも,比較的小規模な抵抗運動の発生にとどまりました。

 シリア内戦の勃発以降は,シリア難民の流入が相次ぎ,北部には最大のシリア難民キャンプであるザアタリ難民キャンプがあります。

・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑫イスラエル
 イスラエルは1979年にエジプト=イスラエル平和条約で,エジプトから国家承認されるとともに,シナイ半島をエジプトに返還しました。
  一方,エジプトのムスリム同胞団はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指すハマースを創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一つガザ地区で投石やストライキなどによる抵抗運動(インティファーダ)が勃発しました。
 この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉【セA H30】の設立していた穏健なファタハを中心とするパレスチナ解放機構(PLO) 【セA H30】を選びます。ヨルダン川西岸地区とガザ地区に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉【追H30G.W.ブッシュではない】が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意(オスロ合意【追H30】)に至り,PLOを基にパレスチナ自治政府が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)。

 しかし,2001年9月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これが中東和平のロードマップです。
 ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年にはパレスチナ国家を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
 これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの〈アッバス〉首相が合意し,国連も2003年11月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
 しかし,2006年1月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに「分離壁」(”安全フェンス“)を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
 アメリカ合衆国の〈オバマ〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した〈トランプ〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出しています。同年には,国内で「ユダヤ人」が唯一の自決権を持つとする「ユダヤ国家法」が成立し,国内の左派やパレスチナ人との対立を生んでいます(注)。
(注)ユダヤ国家法。BBCニュース,2018.7.19(https://www.bbc.com/news/world-middle-east-44881554)。

・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑬パレスチナ,⑭レバノン
 パレスチナではイスラエルによる占領が続き,入植者も拡大していました。1979年にエジプトがイスラエルと和平条約を結ぶと,エジプト大統領〈サーダート〉(1918~1981)は暗殺されていまいます。暗殺を実行したのはジハード団という過激派です。
 1982年にイスラエルが北方の⑭レバノンを侵攻(1982~1984)すると,レバノンではシリアとイランの支援によりヒズブッラー(ヒズボラ;神の党)が創設され,イスラエルの軍事進出に対抗しました。「自爆テロ」の手法を初めて用いたのはヒズブッラーです。

パレスチナ
 一方,エジプトのムスリム同胞団はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指すハマースを創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一つガザ地区で投石やストライキなどによる抵抗運動(インティファーダ)が勃発しました。
 この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉【セA H30】の設立していた穏健なファタハを中心とするパレスチナ解放機構(PLO) 【セA H30】を選びます。ヨルダン川西岸地区とガザ地区に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉【追H30G.W.ブッシュではない】が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意(オスロ合意【追H30】)に至り,PLOを基にパレスチナ自治政府が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)。

 しかし,2001年9月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これが中東和平のロードマップです。
 ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年にはパレスチナ国家を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
 これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの〈アッバス〉首相が合意し,国連も2003年11月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
 しかし,2006年1月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに「分離壁」(”安全フェンス“)を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
 アメリカ合衆国の〈オバマ〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した〈トランプ〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出すなど,混乱が広がりました。


レバノン
 レバノンは1975年以降,激しい内戦を経験します(レバノン内戦,1975~1990)。
 レバノン国内にはシーア派の暴力的なイスラム主義組織ヒズボラが台頭し,これをイラン=イスラーム共和国(1979年建国)が支援。
 イランの後押しを受けたヒズボラがイスラエルへの敵対姿勢を示すと,1982年にイスラエルがレバノンに侵攻(レバノン侵攻)。ベイルートを拠点としていたPLOを国外に追放し,レバノン南部に2000年まで駐留します。

 混乱収拾のため,アメリカ合衆国やフランス,イギリスの多国籍軍も参加しましたが,隣国シリア(シーア派の一派アラウィー派の〈アサド〉政権)の支援もあり,多国籍軍は撤退。
 1990年にシリアがレバノンを占領する形で,内戦は終結しました。
 
 レバノンではスンナ派の〈ハリーリー〉首相(任1992~1998,2000~2004)の下で,シリア勢力を排除しつつ,レバノンの統一と復興が目指されました。
 しかし,2004年に〈ハリーリー〉は爆弾テロで殺害。
 「この黒幕はシリアなのではないか?」と,レバノンの民衆が反政府運動を実施(杉の革命(国旗のデザインであるレバノン杉から))し,反シリア派の政権となりました。

 しかし,シリアに友好的なシーア派のイスラーム主義組織ヒズボラが,2006年7月にイスラエルを攻撃(ヒズボラのイスラエル攻撃)。これに対しイスラエルはレバノンに侵攻(2006年レバノン侵攻)。その後,活発化したヒズボラの関与するとみられるテロが増加し,治安は一気に悪化。2009年には〈ハリーリー〉の子が首相に就任(任2009~2011,2016~)しましたが,ヒズボラやシリアの国政への干渉をめぐる混乱は続いています。
・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 南部にギリシアの支援する政権(キプロス共和国)がクーデタにより樹立されていたキプロス島では,北部のトルコ系住民が反発。キプロス紛争(1974~1975)が勃発しました。
 1975年に停戦したものの,1983年にトルコの支援の下,ニコシアを首都とする「北キプロス=トルコ共和国」が成立。この北キプロスを承認しているのはトルコ共和国のみであり,事実上「未承認国家」となっています。
 2004年には南部のキプロス共和国がEUに加盟(キプロスのEU加盟)。2008年には検問所が撤廃され南北の往来が自由化。しかし2013年3月には金融危機(キプロス=ショック)が勃発するなど経済は不安定で,南北の統合も実現していません。

 なお,キプロス島南部にはイギリスがアクロティリとデケリアの基地を海外領土として領有しています。

・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑰トルコ
 1980年に軍による「9.12クーデタ」が起きますが,1983年に民政に移管。
 この時期にはイスラーム主義を掲げる政党が支持を伸ばしていきます。
 1999年にはEU加盟候補国に決定。2002年には公正発展党(AKP)が政権を獲得し,〈エルドアン〉(首相任2003~2014,大統領任2014~)が2000年代初め以降,国政を指導しています。
 国内のクルド人問題の解決は難航し,シリアやイラクのクルド人勢力に対する越境攻撃も行っています。
 2016年7月には軍によるクーデタが起きるも鎮圧され,市民にも死傷者が出ました(2016年トルコにおけるクーデタ未遂)。非常事態宣言が発表され,クーデタに関与した軍人などへの大規模な粛清が実施されます。トルコ政府はクーデタの黒幕に,アメリカ合衆国に亡命中の宗教指導者〈ギュレン〉(1941~)の名を挙げています。

 非常事態宣言は2018年7月に解除されますが,〈エルドアン〉による体制の強化が本格化しています。そんな中,アメリカ合衆国がトルコ製品に対する関税引上げを発表したことがきっかけで,トルコの通貨リラの対ドル相場が急落。市民生活にも影響が出ています。


・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑱グルジア→ジョージア
グルジアは”ソ連離れ“をすすめ,「ジョージア」と改称する
 グルジア=ソビエト社会主義共和国はソ連崩壊とともにグルジア共和国として独立し,独立国家共同体(CIS)への加盟を,他のソ連構成国が足並みをそろえるなか,ただ一カ国だけ拒否します。
 グルジアでは,「グルジア人」(主要民族はカルトヴェリ人とされました)としての民族意識が強調されていきました。

 1992年に初代大統領〈ガムサフルディア〉に代わり,かつてソ連外相も務めた〈シェワルナゼ〉が大統領に就任すると,一時的にロシアとの関係を修復し,1993年にはCISに復帰しています。しかし,のちに〈シェワルナゼ〉は同じく反ロシアの姿勢を示すアゼルバイジャンのパイプラインを誘致し,1997年にはウクライナとモルドヴァも加えて,西ヨーロッパ諸国への接近と”ロシア離れ“を加速させました。
 しかしロシア連邦はグルジアの自立の動きを食い止めようと,グルジアから事実上の独立を遂げている「アブハジア共和国」「南オセチア共和国」を公然と支援。これらの国家は国際的に独立が広く承認されていない未承認国家であり,ロシアの後ろ盾を武器にグルジアと対立します。

 グルジアでは2003年に〈シェワルナゼ〉政権が民衆の抗議デモを受け退陣。これをバラ革命といいます。ロシアの制裁により電力供給がままならなかったグルジアの反政府勢力を支援していたのは,アメリカ合衆国です。2004年に大統領に就任した〈サアカシュヴィリ〉(任2004~07,2008~13)はアメリカ合衆国の支援を受けNATOへの加盟にも積極的。アメリカ合衆国によるミサイル配備が現実的となると,2004年にはグルジアが南オセチア共和国(ロシアが支援)に軍事進出する自体にエスカレートします。ロシアは,国際的にはグルジアの一部であるはずの南オセチアの住民を,”ロシア国民“として扱う処置を粛々とすすめていました。2008年にはグルジアと南オセチア紛争の戦争に,ロシアも介入。ロシアによるグルジアへの軍事侵攻で緊張は一気に高まります(ロシアのグルジア侵攻)。
 その後の政権はロシアとの緊張緩和をすすめる一方,NATOへの加盟にも積極的であり,「コーカサスの十字路」に位置するジョージアは,ロシア連邦とアメリカ合衆国の戦略的な駆け引きの中心となっています。
 なお,”ロシア離れ“の一環として,日本における国名の呼び方を,「グルジア」から,英語的な「ジョージア」に改めるよう,日本政府にはたらきかけ,2015年以降は「ジョージア」が日本における正式な呼称となっています。


オセット人
 ソ連時代のグルジアでは,国内の少数民族オセット人の自治が認められていましたが,1990年にグルジアにより自治州が廃止。これに反対したオセット人が第一次南オセチア紛争を戦いますが,グルジア領にとどまりました。
 この状況に対し,グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うロシア連邦はオセット人の独立運動を支援し,2008年にはグルジアとの第二次南オセチア紛争へとつながります。なぜ「南」オセチアという名称かというと,オセット人の分布が,「南」のグルジアと「北」のロシア連邦側に分断されてしまっていたからです。
 承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上「未承認国家」となっています。


アブハジア人
 グルジアがソ連から独立すると,国内のアブハジア人の自治共和国を廃止。その直後にアブハジア人がグルジアから独立しようとする運動が起きます。
 その後,2008年グルジア軍が南オセチアを攻撃したことで2008年に南オセチア紛争(上記)が勃発。
 グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うソ連は,アブハジア人の独立運動を支援し,アブハジア共和国の建国を承認しました。承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上「未承認国家」となっています。


・1979年~現在のアジア  西アジア 現⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 ソ連から独立したアルメニアとアゼルバイジャンの間では,アゼルバイジャン内のアルメニア人多数派地域(ナゴルノカラバフ自治州)をめぐり,ナゴルノ=カラバフ紛争も起きています。
 1991年にアルメニア人住民を中心にナゴルノ=カラバフ共和国がアゼルバイジャンからの独立を宣言したことを発端するものです。1994年にはロシアが調停することで停戦され,2017年にはアルツァフ共和国と改称しました。しかし承認しているのは,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジア共和国と南オセチア共和国(⇒1979~現在のグルジア〔ジョージア〕),さらにモルドバからの独立を宣言する沿ドニエストル共和国のみであり,事実上の「未承認国家」となっています。




●1979年~現在のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ(→南アジア),イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の周辺国は,1995年に環インド洋地域協力連合(2003年以降は環インド洋連合に改称)を設立し,加盟国間の貿易と投資の活性化を図っています。加盟国は,インド,南アフリカ,オーストラリア,モーリシャス,ケニア,シンガポール,オマーン,インドネシア,マレーシア,スリランカ,マダガスカル,モザンビーク,タンザニア,イエメン,イラン,アラブ首長国連邦,タイ,バングラデシュ,セイシェル,コモロ,ソマリアです(注1)。

 インド洋では,1965年にモルディブ共和国がイギリスから独立しています(⇒1979年~現在の南アジア)。
 1814年からイギリス領となっていたモーリシャス(マダガスカル島の東にあります)は,1968年に〈エリザベス2世〉を元首とするイギリス連邦王国モーリシャスとして独立していました。しかし1992年には共和制に移行しています(モーリシャス共和国)。
 マダガスカル島の東に位置するレユニオン島は,フランスの領土です。
 モザンビークの北部沖に位置するコモロ諸島はフランスの保護領でしたが,1975年にコモロ国として独立していました。独立後の政情は不安定で,1992年に複数政党制が導入されましたが,しばしば島ごとの自治を訴える政党と中央集権を目指す政党が対立しています。コモロ諸島の東部にあるマヨット島はフランスが依然として領有しています。
 セーシェルは1976年にセーシェル共和国としてイギリスから独立しますが,1977年にセーシェル人民統一党を設立し独立運動を指導した〈ルネ〉(任1977~2004)がクーデタを起こし,反米で社会主義的な一党独裁政権を樹立しました。〈ルネ〉は観光業・水産業を振興して経済を成長させた一方,国内では強権的な支配が行われていました。1991年には複数政党制に移行し,1993年には新憲法が制定されますが,その後も〈ルネ〉は2004年まで大統領を務めました。〈ルネ〉の辞任後,後任は〈ミッシェル〉(任2004~2016)で,〈ミッシェル〉は任期満了前に〈フォール〉大統領(任2016~)に引継いでいます。

 かつては「帝国」支配の要としてインド洋の島々を勢力下に置いていたイギリスですが,このように次第にインド洋の島々をから手を引いていったわけです。しかし,影響力を全く手放したわけではありません。
 イギリスは,インド洋の島々を,独立前のモーリシャスから分離し1965年からイギリス領インド洋地域として領有しています。このうちチャゴス諸島の中心であるディエゴガルシア島は,1960年代の交渉の末,アメリカ合衆国軍に貸し出されています(注2)。1991年の湾岸戦争のときには多国籍軍によるイラク攻撃の基地として使用されたほか,2003年の海上自衛隊による米海軍艦艇への補給活動もディエゴガルシア島周辺で実施されました(⇒1979年~現在の西アジア イラク,東アジア 日本)。
 しかし、このように戦略的な要衝であったインド洋にも変化が訪れます。
 2019年5月には、同年2月の国際司法裁判所(ICJ)による勧告を受け、国連総会が英国に撤退を求める決議案を賛成多数で採択したのです。1965年に分離する形で独立したモーリシャスに、6カ月以内に返還するよう求めています(チャゴス諸島のモーリシャスへの返還)(注3)。

 また,フランスは上記のレユニオン島,マヨット島のほか,インド洋南部にアムステルダム島,クロゼ諸島,ケルゲレン諸島をフランス領南方=南極地域として領有しています。

 マダガスカルでは民主化要求が高まり,1992年に国民投票によって憲法改正が承認され,国名が「マダガスカル共和国」に変更されます。1993年には〈ザフィ〉(任1993~1996)が大統領に就任し,〈ラツィラカ〉大統領(任1979~1993)の長期政権が崩壊しました。

 しかし,1997年に〈ラツィラカ〉大統領が再選(任1993~2002)。後任には実業家の〈ラヴァルマナナ〉(任2002~2009)の選挙結果を認めず,国内は混乱します。
 〈ラヴァルマナナ〉政権に対する批判を強めた,野党で首都アンタナナリボ市長の〈ラジョエリナ〉の所属するテレビ局が封鎖されたことに端を発し,反政府デモが多発。
 この混乱の背景には〈ラヴァルマナナ〉大統領が韓国の民間企業に,農地を含む大規模な土地を無償で貸与する協定を結んだことがありました。

 〈ラジョエリナ〉は軍の支持を得てクーデタを起こし,大統領(任2009~2014)に就任しました。2014年には平和的に〈ラジャオナリマンピアニナ〉政権に交替しています。

(注1) 外務省,https://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sea2/id/page3_002025.html
(注2) 木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。
(注3) 「国連総会、英撤退を要求 インド洋のチャゴス諸島」、2019年5月24日、日本経済新聞ウェブ版。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO45207030U9A520C1000000/







●1979年~現在のアフリカ

 1970年代以降,アフリカでは“保健革命”が起き,人口が急激に増加しました(人口爆発)。その結果,食糧不足にともなう飢餓が問題化しました。過耕作や過放牧にともない,荒れ地が広がったり,砂丘が移動または拡大したりするようになった地域も少なくありません。

 アフリカでは,民族どうしが争い合っている面ばかりが注目されることが多いですが,その背景にある大国同士の利権争いや15世紀~19世紀の黒人奴隷貿易や,19世紀末の「アフリカ分割」のといった歴史的事情も含めて理解することが必要です。

 なお,2010年代に入ると,マリ,ソマリア,ナイジェリアなどで,イスラームを掲げる暴力的な組織と民族運動が結びついたテロが発生するようになっています。

 2011年にはアフリカ人女性として初めて〈ワンガリ=マータイ〉(1940~2011)が「持続可能な開発,民主主義と平和への貢献」によってノーベル平和賞を受賞しました。彼女は1991年に「指導者は不公平な政治経済システムこそが環境悪化と持続性のない開発モデルを促進していることをまるで理解していないようだ」と述べています。

 2000年代に入ると,アフリカの「10億人市場」に注目する先進国・新興国企業が急増しています。全世界の年間所得が3000ドル以下の人々に向けた低所得者向けに,消費財市場を売り込もうとする,「BOPビジネス(ボトム=オブ=ピラミッド=ビジネス,経済的ピラミッドの底辺)」が盛んになっているからです。
 なお,2002年にはOAU(アフリカ統一機構)【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係は関係ない,追H20時期(1950年代か問う)】 【本試験H31第二次世界大戦前ではない】が発展改組されて,EUを参考にしてアフリカ連合(AU)が生まれました【本試験H24AUがOAUに発展したわけではない】。55の国・地域が加盟する世界最大級の地域機関です(注)。
(注)構成国は,アルジェリア,アンゴラ,ウガンダ,エジプト,エチオピア,エリトリア,ガーナ,カーボヴェルデ,ガボン,カメルーン,ガンビア,ギニア,ギニアビサウ,ケニア,コートジボワール,コモロ,コンゴ共和国,コンゴ民主共和国,サントメ=プリンシペ,ザンビア,シエラレオネ,ジブチ,ジンバブエ,スーダン,スワジランド,セーシェル,赤道ギニア,セネガル,ソマリア,タンザニア,チャド,中央アフリカ,チュニジア,トーゴ,ナイジェリアナミビア,ニジェール,ブルキナファソ,ブルンジ,ベナン,ボツワナ,マダガスカル,マラウイ,マリ,南アフリカ,南スーダン,モザンビーク,モーリシャス,モーリタニア,モロッコ,リビア,リベリア,ルワンダ,レソト,
西サハラです。


○1979年~現在のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

・1979年~現在のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア
エリトリア,エチオピア
 1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア,リビアを支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけていきました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,”赤い鎌”ともいわれます)。ソ連はもともとエリトリアやソマリアを支配していましたが,外交政策を転換してエチオピアの〈メンギスツ〉政権に肩入れするようになっていきます。
 1985年にソ連で〈ゴルバチョフ〉が書記長に就任しペレストロイカが始まると,エチオピアでも自由化を求める声が高まっていきます。1988年には〈メンギスツ〉大統領を打倒するため,ティグレ人とアフハラ人とオロモ人の組織を大同団結させたエチオピア人民革命民主政権(EPRDF)が組織され,1991年5月にこれを打倒し,〈メレス〉書記長が就任しました。新国家では各民族の権利保護がうたわれ,1993年にはエリトリアの独立を問う住民投票の結果,エリトリアはエチオピアから分離独立しました。

 エチオピアでは,暫定政府の下で新憲法が制定・公布され,1995年にはエチオピア連邦民主共和国となりました。
 1995年にオロモ人出身者が大統領に就任すると,ティグレ人の〈メレス〉(任1995~2012)が首相に就任。エチオピア最大の民族集団のオロモ人の中からは,ティグレ人が政治・経済を牛耳っていることに反発が生まれていきます。

 1998年にはエリトリアとの国境紛争が起きますが,2000年にアフリカ統一機構 (OAU) の介入で停戦します。そのアフリカ統一機構は2002年にアフリカ連合(AU)に発展し,本部はアディスアベバに置かれました。

 エチオピアとエリトリアは,国境をめぐり1998年から軍事的な衝突が続いていましたが,2000年に和平合意。その後,2003年には国際仲裁裁判所が帰属を争っていた地域をエリトリア領としたことで,両国間は対立していましたが,2018年に就任したオロモ人の〈アビー〉首相(任2018~)により,同年に両国の国交は正常化されています。

ソマリア
 一方,ソマリアでは〈バーレ〉大統領(任1969~1991)がソマリアの有力氏族の一つによる「統一ソマリ会議」いう反政府勢力によって1991年1月に追放されました。

しかし,5月には旧イギリス領であった北部がソマリランド共和国として独立宣言(国家承認を全く受けておらず,事実上「未承認国家」)。

 しかも「統一ソマリ会議」も分裂し,暫定大統領〈モハメド〉は〈アイディード〉将軍により首都を追放され,“三つどもえ”の構図となりました。

 〈モハメド〉が国連PKOの派遣を要請すると,アメリカ合衆国を主力とする多国籍軍(第一次国際連合ソマリア活動)が1992年に派遣され,1993年には〈ガーリ〉国連事務総長(任1992~96)の推進した「平和強制部隊」による介入(第二次国際連合ソマリア活動)が大きな犠牲を払って失敗に終わり,1995年にはPKO部隊は撤退。ソマリアはますます混迷を極めていくことになります(映画「ブラックホーク・ダウン」は第二次国際連合ソマリア活動をアメリカ合衆国側の視点から描いたものです)。

 1998年には北部プントランドの氏族も「プントランド共和国」として,自治政府の樹立を宣言。2000年代に入ると,ジブチで和平会議が開催されて〈ハッサン〉が暫定大統領(任2000~2004)となりました。しかし,国内にはこれを認めない氏族(〈アイディード〉派やソマリランド)が残り,無政府状態の地域の沿岸では海賊が沿岸を航行するタンカーや商船を襲撃する事態が激化しました。2009年にはアメリカ商船が襲撃されています(映画「キャプテン・フィリップス」(2013米)はアメリカ商船側からこの「マースク・アラバマ号」の襲撃事件を描いたものです)。また,2002年に南の隣国ケニアでテロが起きると,ソマリアのイスラーム過激派組織が首謀したのではないかという疑いも生まれました。
 そんな中,首都モガディシュが危険な状態であったためにケニアのナイロビで開催された和平会議で,〈ハッサン〉の後任にプントランド共和国の大統領〈ユスフ〉(任2004~2008)が就任し,ソマリランドを除くソマリアの有力勢力によって暫定連邦政府が樹立されました。しかし,ケニアで成立した暫定政府にはソマリアを統治するだけの実力がなく,2006年にはイスラム法廷会議(1994年成立)が首都であるモガディシュを占領。イスラム法廷会議の勢力拡大を恐れたエチオピアは,ソマリアに軍事進出し,イスラム法廷会議をイスラーム過激派のアル=カーイダの関連組織とするアメリカ合衆国も,エチオピアの動きを支持しました。2007年にはイスラム法廷会議は掃討され,エチオピアは2009年にソマリアを撤退しました。
 2009年には元イスラム法廷会議議長の〈シェイク=シャリフ=シェイク=アフマド〉(任2009~12)が大統領に就任し,国内の諸勢力の融和に努めましたが。しかしイスラム法廷会議のメンバー内部の急進派は,イスラーム過激派のアル=シャバブに合流し,反政府活動やテロ活動(2013年にケニアのショッピングモールを襲撃,2015年にはケニアの大学を襲撃)を行っています。アル=シャバブは2008年以降ソマリア南部での支配領域を拡大し,2011年以降はケニアとソマリア暫定連邦政府が共同でアル=シャバブと戦いました。ソマリア暫定連邦政府は2012年にソマリア連邦共和国となり,〈ハッサン=シェイク=モハマド〉(任2012~17)が大統領に選出され,国際的にも認められました。後任は2017年から〈モハメド=アブドゥライ=モハメド〉(任2017~)が務め,アル=シャバブの鎮圧をおこなっています。

ジブチ
 紅海の出口に位置するジブチは,アフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ交通の要衝です。
 ジブチ(旧称「アファル=イッサ」(1967~1977))は,1977年にフランスから独立を果たしますが,ソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立が1991年に内戦に発展(ジブチ内戦)。イッサ人の〈グレド〉大統領(任1977~1999)は強権的な手法で長期政権を維持します。
 後任の〈ゲレ〉大統領(任1999~)の下で内戦は2001年に終結。
 隣国のエリトリアとの間に国境紛争を抱えています。
 なお,2010年代以降,一帯一路構想を打ち出す中華人民共和国がジブチへの経済的・軍事的な進出を強めています(注)。
(注)’ Djibouti risks dependence on Chinese largesse’,The Economist,2018.7 (https://www.economist.com/middle-east-and-africa/2018/07/19/djibouti-risks-dependence-on-chinese-largesse)

 なお,2011年には東アフリカを記録的な旱魃が襲い,ソマリア,ケニア,エチオピアでは大きな被害が出ています。
・1979年~現在のアフリカ  東アフリカ 現⑤ケニア
 1978年にキクユ人で“独立の父”〈ケニヤッタ〉(1893~1978)が亡くなると,第二代大統領に副大統領〈モイ〉(1924~)が昇格しました。彼は野党に対する圧力を強め,キクユ人を排除して自らの出身であるカレンジン人を優遇し,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国と軍部に接近しました。1982年以降,ケニア=アフリカ民族同盟(KANU)による一党国家の体制となっていましたが,1992年には複数政党制選挙が復活されました。しかし野党が分裂したため,〈モイ〉はこの選挙と1997年の選挙で再選しました。
 2002年にはKANUから離脱したグループと野党が結集(ナショナル=レインボー=コアリション,NARC)して,〈キバキ〉(任2002~)が第三代大統領に当選し,政府の腐敗を一掃する政策を実施します。しかし,2007年の大統領選挙では〈キバキ〉の再選に不正があったとする野党の主張が暴動に発展し,野党オレンジ民主運動(ODM)率いるルオ人の〈オディンガ〉派との抗争に発展しました(ケニア危機,2007年選挙後暴力)。この中で,初代大統領〈ケニヤッタ〉の出自であるキクユ人をねらう農村部の焼き討ちや,キクユ人青年組織を名乗る団体による非キクユ人に対する報復も首都ナイロビや一部の地域で行われました(注)。
 〈アナン〉前国連事務総長とタンザニア連合共和国の〈キクウェテ〉大統領(任2005~15アフリカ連合議長を兼任)の調停により,〈オディンガ〉を新たに設置した首相職に就けることで〈キバキ〉大統領との和平が成立し,与党の国家統一党(PNU)と,オレンジ民主運動(ODM)の連立政権が樹立されました。
(注)津田みわ「「2007年選挙後暴力」後のケニア―暫定憲法枠組みの成立と課題」『アフリカレポートNo.50』2010年,p.10。
 2010年代に入ると,無政府状態に陥った隣国ソマリアから過激派がケニア国内でテロ活動を行うようになり,イスラーム過激派組織のアル=シャバブの掃討作戦もおこなわれています(⇒1979~現在の東アフリカ エチオピア,ソマリア,ジブチ,エリトリア)。
・1979年~現在のアフリカ  東アフリカ 現⑥タンザニア
 1978年にウガンダの〈アミン〉大統領がタンザニアを攻撃したため,ウガンダ=タンザニア戦争(1978~79)が始まり,ウガンダの首都カンパラはタンザニアに占領され,〈アミン〉のタンザニアは敗北しました。
 1970年代には建国期に多数建設されたウジャマー村における農業の失敗が報告されるようになり,1980年代以降には〈ニエレレ〉大統領(任1964~1985)に対する批判も強まりました。
 1985年に〈ニエレレ〉大統領が退任すると,与党タンザニア革命党でザンジバル出身の〈ムウィニ〉(任1985~1995)が大統領に就任し,〈ニエレレ〉によるウジャマー社会主義の見直しを図り,複数政党制も導入しました。次の〈ムカパ〉大統領(任1995~2005)もタンザニア革命党から出て,外資を導入して経済成長に努めましたが,任期中の1998年には首都ダルエスサラームにあったアメリカ合衆国大使館爆破事件が起き,国際テロ組織アル=カーイダの犯行とされました。2005年には与党タンザニア革命党の〈キクウェテ〉(任2005~2015)が当選し,2008~2009年にはアフリカ連合の議長も務めて,隣国ケニアで起きた2007年選挙後の暴動の調停に当たりました。2015年にはタンザニア革命党の〈マグフリ〉(任2015~)が就任し,汚職撲滅などの政策をすすめています。 ・1979年~現在のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ブルンジでは1976年以降,クーデタで政権を握った軍人〈バガザ〉(大統領任1976~1987)による独裁体制がしかれ,ツチ人が優遇されました。しかし,1987年のクーデタで軍人〈ブヨヤ〉が政権を奪い,大統領に就任(任1987~1993)すると,フツ人も内閣に参加させるなど,ツチ人・フツ人の融和に努めます。しかし,1993年の選挙でフツ人の〈ンダダイエ〉が大統領に当選し,フツ人主体の国づくりを進めようとすると,同年にツチ人の過激派によって暗殺され,ブルンジは内戦状態に陥ります。これをみた〈ブヨヤ〉は1996年にクーデタで政権を握り,フツ人の〈ンティバントゥンガニャ〉大統領(任1994~96)に代わって暫定大統領(暫定1996~98,正式98~2003)に就任しました。混乱は継続しましたが,2000年にはタンザニアのアルーシャでの和平協定にこぎつけ,フツ人勢力と妥協する形で暫定政府が2001年に発足し,規定通り2003年にはフツ人の〈ンダイゼイエ〉(任2003~2005)が大統領となりました。2005年には内戦終結後初の民主的な選挙でフツ人の〈ンクルンジザ〉(任2005~)が当選しています。

 ルワンダでは軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしいていました。〈ハビャリマナ〉政権は次第にツチ人に対する抑圧を強め,1990年~1993年にはツチ人主体のルワンダ愛国戦線 (RPF) と政府軍との間に内戦が始まりました(ルワンダ内戦)。〈ハビャリマナ〉はフツ人主体の民兵インテラハムウェを組織し,軍事支援をしていました。
 1993年にいったん和平協定が結ばれましたが,1994年に〈ハビャリマナ〉が乗った飛行機がミサイルによる攻撃を受け,隣国のブルンジの〈ヌタリャミラ〉大統領とともに墜落死すると,1990年から94年にかけて,ルワンダでツチ人とフツ人の対立が激化し,ツチ人が虐殺される事態に発展しました(ルワンダ内戦【本試験H30年代を問う】)(映画「ホテルルワンダ」(英・伊・南ア2004)にはフツ人の軍指導者〈ビジムング〉も登場します)。しかし,その後に民族間の融和につとめ,2000年代に入ると安定し,経済発展にも成功しました。
○1979年~現在のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 アフリカ南東部のモザンビークでは,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をとる南アフリカやローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続いていました(モザンビーク内戦)。1989年に社会主義政権が崩壊し,1994年に国連モザンビーク活動が監視下の総選挙でFRELIMOが勝利し,政権を獲得しました。
 低開発が続いており,高いHIV/AIDS・乳児死亡率や低い識字率の克服が課題とされています。


・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現②スワジランド→エスティワニ
 スワジランドではイギリス連邦に加盟した形で,王政が続いています。
 「スワジランド」というのはイギリス領だったときの呼称だったため,「民族の呼び名」に戻そうということで,2018年4月19日に独立50周年を記念して〈ムスワティ3世〉(位1986~)によって「エスティワニ王国」という呼称に変更されました。

 国王は絶対的な権限を有しており,議会に実質的な立法権はありません。



・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソトではイギリス連邦に加盟した形で,セーイソ家による王政が続いています。
 立憲君主制のため王には実権がなく,南アフリカ共和国などの周辺諸国との関係をめぐって政治情勢は不安定です。

 例えば,独立後長期間にわたり与党の座にあったバソト国民党の〈レアブア=ジョナサン〉首相(任1965~1986)が南アフリカに反対する立場を強めると,南アフリカに支持された〈ジャスティン=レハンヤ〉によって政権は倒されました。
 さらに新たに樹立された〈レハンヤ〉政権は,〈モシュエシュエ2世〉(位1966~1990,1995~1996)と関係が悪化すると,国王をオランダ亡命に追いやり,代わってその王太子を〈レツィエ3世〉として即位させることに成功。

 しかし1991年には軍事評議会〈エリアス=ヤマエマ〉が,暫定的な行政のトップ(軍事評議会議長,任1991~1993)に就任。〈ヤマエマ〉は民主化を進めるとともに,〈レツィエ3世〉の求めに応じて全国王〈モショエショエ2世〉を帰国させ,1993年には総選挙を実施します。
 この選挙でバトソ会議党(独立後の野党第一党)の〈ヌツ=モヘレ〉(任1993~1994)が政権をとりますが,その後,前王の再即位を求める〈レツィエ〉と政府の関係が悪化。〈レツィエ〉がクーデタを起こすと,周辺国の介入もあって1995年に〈モシュエシュエ2世〉が復位(在1995~1996)。しかし翌年,国王が交通事故死すると,国王は〈レツィエ3世〉(位1997~)に戻ります。

 1998年に総選挙が行われると,レソト民主会議(LCD)が圧勝。選挙結果に不満な民衆により王宮が占拠され,クーデター未遂事件まで勃発。南部アフリカ開発共同体(SADC)の要請により,南アフリカ共和国とボツワナが軍を出して治安回復に向けた活動を翌年まで行いました。
 その後,2014年には軍部によるクーデターが起きるなど,政治的には不安定な情勢です。



・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
南アでアパルトヘイトが廃止されたが格差は残る
 南アフリカでは1948年以降,黒人(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)やアジア人(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は“名誉白人”扱いをされていました),カラード(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され,白人(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
 1980年代に入ってアパルトヘイトへの反対運動が活発化し,南アフリカ政府は国際的な経済制裁を受けるようになりました。これを受け〈ボータ〉政権は1985年に雑婚禁止法,背徳法,分離施設法を廃止,1986年にパス法を廃止しますが,根本的な改革には至りません。
 しかし,1989年に就任した〈デクラーク〉【本試験H17エンクルマではない】【追H30エンクルマではない】政権はアパルトヘイトの廃止に向け動き出し,まず1990年にアフリカ民族会議(ANC) 【追H30民族解放戦線ではない】や南アフリカ共産党を合法化し,〈マンデラ〉【追H19】【東京H25[3]】を釈放します。
 さらに1991年にアパルトヘイト【東京H7[3]】の廃止を宣言し,人種登録法・原住民土地法・集団地域法を廃止しました【H29共通テスト試行 白豪主義の撤廃はアパルトヘイト撤廃による影響ではない、H30共通テスト試行 フィリピンはアパルトヘイトは無関係】。かつて反政府運動を行っていた〈マンデラ〉と〈デクラーク〉大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞(受賞演説において運動家〈スティーヴ=ビコ〉の名が挙げられています(⇒1953~1979のアフリカ 南アフリカ))。1994年には黒人でアフリカ民族会議の〈マンデラ〉(任1994~99) 【東京H25[3]】が大統領に就いています。

 しかし,改革は決して平坦なものではなく,人種間の不平等を解消する政策も行き詰まり,アフリカ民族会議の〈ムベキ〉大統領(任1999~2008)下でも黒人の高い失業率や,エイズの高い感染率はつづいています。しかし経済成長は順調で,2000年代前半にはBRICsの一つに挙げられるほどになりました。2008年には汚職疑惑を受け,副大統領の〈ズマ〉(2009~2018)が大統領に就任。しかし2018年にはインド系財閥の絡む汚職疑惑で起訴され辞任しました。


・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 南アフリカの事実上の支配下にあったナミビアは,1988年に南アフリカにより独立に向けた動きがようやく認められました。1989年から国連の監視下で独立準備が始まり,同年の総選挙で南西アフリカ人民機構(SWAPO)が過半数を獲得し,1990年に独立しました。ナミビアはイギリス連邦に加盟しています。

・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 ザンビア共和国は1964年の独立以来,一党制を維持してきました。1970年代後半より銅の国際価格が低迷し,銅輸出に依存する経済は打撃を受けます。1990年に複数政党制に移行しました。経済的にはアフリカ大陸では高いレベルにあります。
 新たに与党となった複数政党制民主主義運動の〈チルバ〉大統領(任1991~2001)は外資を導入した自由化を進めましたが,汚職が発覚するとクーデタ未遂も起きて内政は混乱します。後継には副大統領の〈ムワナワサ〉(任2002~2008)が就任。2006年大統領選挙でも,銅産業に関わる中国人労働者・企業の排斥を唱える野党〈サタ〉候補を破りますが,2期目の途中で病死しました。
 その後,2011年には愛国戦線の〈サタ〉(任2011~14)が大統領に就任しますが,在任中に死去。その後は,〈サタ〉政権の閣僚であった〈ルング〉(任2015~)が大統領に就任しています。

・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウィ
 マラウィ共和国では,西側諸国との友好関係を背景に,〈バンダ〉による一党独裁制による長期政権が続いていました。しかし,1992年に政権への批判が暴動に発展し,1993年に複数政党制への移行を問う国民投票がおこなわれ,可決。1994年の選挙で南部中心の統一民主戦線(UDF)の〈ムルジ〉(任1994~1999,マラウィでは少数派のイスラーム教徒)が勝利して,第二代大統領に就任しました。しかし放漫な財政はなくなっていません(200年にベンツを39台購入(注))。〈ムルジ〉は二期を務めて退任,後継は第三代〈ムタリカ〉(任2004~2012)となります。2001年にマラウィを記録的な飢饉が襲い,2005年にも干魃による被害を受けます。この時,被害を目の当たりにした少年〈ウィリアム=カムクワンバ〉(1987~)は,手作りで風力発電の機器を発明したことで世界的に知られています。
 〈ムタリカ〉は新党DPP(民主進歩党)を結成し汚職追放を唱えますが,2010年に女性副大統領の〈バンダ〉と対立,〈バンダ〉は新党である人民党を設立し,〈ムタリカ〉死去のため大統領に昇格しました(任2012~2014)。2014年からは民主進歩党の〈ムタリカ〉政権となっています。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.68。



・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
 1965年に独立したローデシアは少数の白人による政権が続き,同じくアパルトヘイト政策を進めていた南アフリカとともに“反共産主義”を掲げて西側(資本主義)諸国と良好な関係を維持しました。1980年に〈ムガベ〉が首相(任1980~2017)に就任し,ジンバブエ共和国と改名しました。白人が所有する土地を接収することで農地改革をしようとしましたがなかなか実行されず,経済も混乱して2000年以降はインフレ率200万%超(2008年)という未曾有のハイパー=インフレが発生しました。後継をめぐる対立を背景に,〈ムガベ〉(1924~)は2017年に国防軍のクーデタを受けて退任し,〈ムナンガグワ〉第一副大統領が大統領に昇格しています。



・1979年~現在のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 初代大統領〈カーマ〉(位1966~80)は近隣の南アフリカやローデシア(現ジンバブエ)とは異なり人種差別に反対する政策をとりながら,南アフリカ資本を導入しつつ国内のダイヤモンド鉱山を開発し,収益をインフラや教育などに振り向けることで経済成長の実現に成功しました。政治的には複数政党制をとり,議会制民主主義を維持しました。
 1980年には南部アフリカ開発調整会議(のちのSADCC(南部アフリカ開発共同体,1992~))を立ち上げ,南アフリカからの経済的な自立を目指し,本部をボツワナの首都ハボローネに置きました。〈カーマ〉の死後も平和的な政権委譲が続き,経済成長も続いています。



○1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 チャドは北部のイスラーム住民による反政府運動が,北部のウラン鉱山(アオゾウ地帯)をねらうリビアの介入と結びつき,内戦がリビアとチャドの戦闘に発展していました。1975年に初代大統領が暗殺され,軍事政権が成立しましたが,反政府勢力を含めた暫定政権が1979年に立てられると,南北の和平が進みます。元・反政府勢力であった〈ハブレ〉(任1982~90)の下で,1981年にリビアはチャドから撤退し,大統領に就任して権力を強めました。その後も北部をめぐるリビアとの戦闘は続きましたが,フランスが日本のトヨタ製の自動車をチャド側に援助した,いわゆる「トヨタ戦争」によりリビアとの休戦がなり,1988年にはリビアとの国交を回復させました。
 反〈ハブレ〉派の〈デビ〉(大統領任1990~)は,リビアの支援を受けてスーダンで反政府組織「愛国救済運動」を立ち上げ,1990年には〈ハブレ〉を追放して自ら大統領に就任しました。
 2000年代に入ると,隣国スーダン西部でダルフール紛争が激化すると,難民が大量に流入し,両国の関係は悪化。2005~2010年には,スーダンの支援する反政府勢力との内戦が起きますが,フランスの支持を得ている〈デビ〉大統領は政権を維持しています。

・1979年~現在のアフリカ 中央アフリカ 現②中央アフリカ
 1979年にクーデタが起きて中央アフリカ帝国は崩壊し,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。しかし1981年のクーデタで〈ダッコ〉は国外に亡命。軍人〈コリンバ〉政権(任1981~1993)は1993年の選挙で落選し,〈パタセ〉(任1993~2003)が大統領に就任しますが内戦となり,1998年には国連の介入を受けています。
 ところが,2003年には,隣国チャドの〈デビ〉大統領の支援を受けた〈ボジゼ〉(任2003~13)がクーデタで大統領に就任します。しかし,2012年に反政府勢力の攻勢により〈ボジゼ〉は国外脱出,イスラーム教徒としては中央アフリカ共和国で初となる〈ジョトディア〉大統領(任2013~14)による軍事政権となりました。しかし首都ではイスラーム教徒とキリスト教徒の対立が高まる中,混乱収拾のためにキリスト教徒で,中央アフリカ共和国で初の女性元首となる〈パンザ〉(任2014~2016)が大統領に就任。フランス主体のPKO部隊派遣による治安維持を進めました。次の〈トゥアデラ〉大統領(任2016~)も,反政府勢力の武装解除を進めています。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国
 中央アフリカの③ザイール(1971年にコンゴ民主共和国から改名。改名の経緯については⇒1953~1979の中央アフリカを参照)では,クーデタで一党独裁体制を確立した〈モブツ〉(1930~1997)が中華人民共和国との提携を進め,中華人民共和国との関係の悪化していたソ連や,ソ連と提携していたリビアと敵対する政策をとりました。
 1996年に〈モブツ〉の体調が悪化すると,隣国で起きていたルワンダ内戦の影響がザイールにも及びます。ルワンダ内戦に敗れコンゴに逃げ込んだフツ人を掃討するため,ルワンダのツチ人の政権がザイール国内(東部に古くから分布)のツチ人を「バニャムレンゲ」として組織して反乱を起こさせ,首都キンシャサに向かわせたのです。反乱を指揮した〈カビラ〉は第3代大統領(任1997~2001)に就任し国名をコンゴ民主共和国に戻しましたが,「バニャムレンゲ」を排除する政策をとったことからツチ人が政権を握る国家(ルワンダ,ウガンダ)から批判が高まり,コンゴの豊富な天然資源の利権もめぐる周辺諸国や先進国の思惑も重なって第二次コンゴ内戦(1998~2003)が勃発しました。その間,〈カビラ〉大統領は2001年に暗殺されています。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現④アンゴラ
アンゴラは資源の利権を巡り外国の介入を受ける
 1975年の独立後から続いていたアンゴラ内戦は,豊富な鉱産資源をねらうアフリカ諸国やアメリカ,中国,ソ連,キューバ,南アフリカなどを巻き込む熾烈な代理戦争と化していました。1991年にようやく和平合意が成り,1992年の総選挙でMPLA(旧東側諸国が支持)が勝利しましたが,ダイヤモンド商社デ=ビアス社と結びついた反政府勢力UNITA(かつてアメリカ合衆国や南アフリカから支援を受けて成長していました)の〈ザヴィンビ〉が内戦を再開。MPLA政府は民間軍事会社と契約をしてUNITAの掃討作戦を展開し,1994年にルサカ合意で停戦となりました。しかし,かつて旧ソ連やキューバの支援を受けていたMPLA政府が有利になることを嫌ったアメリカ政府は国連の介入を主張して国連平和維持活動(PKO)が開始されました。しかし結果として内戦は長期化することになります。
 この間,ダイヤモンド鉱山を握ったUNITAから流れた“紛争ダイヤモンド”の多くが,デ=ビアス社から世界各地の市場に流れました。2002年に〈ザヴィンビ〉が亡くなると休戦し,ここに41年間の内戦が終結します。また,UNITAを掃討した民間軍事会社(PMC)は,かつての南アフリカ共和国の国防軍の元兵士や武器を利用して構成されたもので,のちに西アフリカのシエラレオネ内戦(1991~2002)でも投入されました(⇒1979~現在の西アフリカ)。このような戦争に従事する民間企業の存在は,国際社会でも問題視されるようになっています。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現⑤コンゴ共和国
 独立後のコンゴ共和国は,マルクス=レーニン主義(共産主義)を採用して1969年に「コンゴ人民共和国」と改名していました。しかし,クーデタが起き軍事政権が成立すると,権力闘争の末に〈サスヌゲソ〉が大統領に就任(1979~92)しました。〈サスヌゲソ〉は西側諸国に接近する政策をとり,1991年には社会主義路線を改め「コンゴ人民共和国」を「コンゴ共和国」に改名。しかし,1992年の選挙で野党〈リスバ〉(大統領任1992~97)に敗れると,〈リスバ〉派と〈サスヌゲソ〉派との間の内戦に発展します。
 第一次内戦は1995年に和平合意によっていったん終結しましたが,1997年に再開され〈サスヌゲソ〉派が勝利。1997年に大統領に就任し,現在に至ります。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現⑥ガボン
 ガボンでは初代大統領〈ムバ〉(任1961~67)を継いだ〈オンディンバ〉(任1967~2009)が2009年まで長期政権を維持しました。後任には,息子の〈オンディンバ〉が就任しています。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
 1975年にポルトガルから独立したサントメ=プリンシペでは,初代大統領〈コスタ〉(任1975~1991)の下で,社会主義国に接近した国づくりを進めます。しかし経済が行き詰まると,西側諸国に接近し,1990年には国民投票により複数政党制に移行し,1991年に野党が勝利して一党独裁体制は終わりました。〈トロボアダ〉大統領(任1991~2001)は1995年のクーデタで一時打倒されましたが,実業家の〈メネセズ〉が後任(任2001~2011)となりました。その後〈コスタ〉が再任(任2011~16)し,2016年の選挙で〈カルバリョ〉(任2016~)が当選しました(〈コスタ〉側の不正選挙が疑われましたが,決選投票で〈カルバリョ〉が当選し,平和的に権限が委譲されました)。
・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 赤道ギニアの大統領〈ンゲマ〉は1979年のクーデタで処刑され,甥の〈ンゲマ〉が大統領に就任して軍事政権を始めましたが,不安定な情勢が続きます。1991年には複数政党制を定める憲法が定められましたが,1993年の選挙では与党が勝利し,野党に対する弾圧は続きました。しかし〈ンゲマ〉(任1979~)は依然として政権を維持し続けています。1992年にはビオコ島で原油の採掘が始まって産油国となり,2017年には石油輸出国機構(OPEC)(注)に加盟していますが,国民の所得格差はきわめて高い水準となっています。
(注)OPEC加盟国は,イラク,イラン,クウェート,サウジアラビア,ベネズエラの原加盟国(1960)に加え,カタール(1961),リビア(1962),アラブ首長国連邦(1967),アルジェリア(1969),ナイジェリア(1971),アンゴラ(2007),エクアドル(2007,以前1973~93に加盟),ガボン(2016,以前1975~95に加盟),赤道ギニア(2017)。インドネシアは1962加盟・2008脱退,2016加盟・脱退。

・1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 〈アヒジョ〉大統領(任1960~82)は一党支配制を築き上げましたが,1982年に辞任。後任の〈ビヤ〉大統領(任1982~)の政権が続いています。カメルーンは従来は農産物の輸出に依存していましたが,1970年代後半からは原油の採掘も始まり,経済を支えるようになっています。



○1979年~現在の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
 2014年にギニア,リベリア,シエラレオネでエボラ出血熱の大流行(パンデミック)が起き,世界保健機関(WHO)の発表では合わせて約1万人が死亡する事態に発展しました。ギニア南東部に端を発したとされ,医療インフラが乏しいことや,葬儀の風習(注)なども関係し,爆発的な感染拡大をみました。
(注)加藤康幸「1)エボラ出血熱:西アフリカにおける過去最大の流行」『日本内科学会雑誌』106(3),p.405~408, 2017。


・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現①ニジェール
 ①ニジェールでは1974年のクーデタ以降〈クンチェ〉陸軍参謀長による軍事政権(1974~87まで実権)が続いていましが,1987年に彼が亡くなると〈セブ〉(1987~1989まで実権,大統領任1989~1993)が民主的な新憲法に基づき大統領に就任しました。しかし,国内にはトゥアレグ人が中央政府の政治・経済の独占に対し反発を強め,1995年に和平が合意されるまで反政府運動が続きました。1990年に複数政党制が導入され,1993年に野党連合が勝利し,大統領には野党の〈ウスマン〉(任1993~96)が当選しました。しかし軍のクーデタ(1996)と民政移管(1996),再度のクーデタ(1999)が繰り返され,野党勢力の〈ママドゥ〉大統領が就任(1999~2010)し民政移管が成りました。しかし政情は不安定であり,2000年代初めのサバクトビバッタの大発生と食糧危機が深刻化すると,2010年には再度軍のクーデタが起き,憲法が停止されました。

 2011年に左派の〈イスフ〉大統領(任2011~)が選出されています。


・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現②ナイジェリア
 ②ナイジェリアでは断続的に軍政が続いていましたが,1999年に民政移管が行われました。しかし,軍に影響力を及ぼしてきた北部の勢力は民政移管された政府との対立を深め,南部のニジェール川下流域でも反政府組織が支持を集めるようになりました。
 ニジェール川下流の三角州地帯での油田開発は,国庫に富をもたらしている反面,環境破壊の悪化や国民への再配分の失敗などから,政府に対する住民の不満が高まっているのです。
 イスラーム過激派組織であるボコ=ハラムも,過激な反政府勢力の受け皿の一つとなり,国際テロ組織のアル=カーイダやイスラーム国との関連を示唆しながらナイジェリア北部での影響力を増しています。特にボコ=ハラムは西洋式の教育の弊害を指摘し,キリスト教の集落や女子教育施設(2014に発生。に2016年以降,一部の生徒が解放されています)を襲撃するなどの凶行におよんでいます。
・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現③ベナン,④トーゴ
 ③ベナン(英語名はベニン)は,1960年の独立当初の「ダホメー(ダオメー)共和国」から1975年にベナン人民共和国と改称し,中華人民共和国に接近して社会主義国家を建設しようとしました。しかし,1990年には国際情勢に合わせてベナン共和国に戻し,複数政党制が導入されました。
 ④トーゴではクーデタ後の軍事政権から,1979年に民政移管されましたが,1991年にクーデタが再発します。1993年に複数政党制の下で,かつて1967年にクーデタを起こした〈エヤデマ〉が大統領(1935~2005,任1967~2005)に選出され,野党の抵抗を受けながらも長期に渡り影響力を残し続けます。後継には息子の〈エヤデマ〉(任2005,2005~)が就任し,事実上の世襲となっています。


・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑤ガーナ
 ⑤ガーナは,輸出の大部分をチョコレートの原料であるカカオに依存していましたが,工業化計画に失敗して財政が悪化し,その資金確保のためにカカオの政府買上げ価格を低く設定したことで,生産が停滞してしまいます。コートジボワールは,価格政策に成功し,カカオの生産量・輸出量はガーナを抜きました。
 2010年代以降,沿岸で油田が発見されたことを受け,高い経済成長率を記録しています。

・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑥コートジボワール
 ⑥コートジボワールでは〈ボワニ〉大統領(任1960~1993)の下で長期にわたる政権が維持され,経済発展が実現されました。彼の死去にともない〈ベディエ〉(任1993~1999)が後任となりますが,1999年に軍がクーデタを起こし元参謀長〈ゲイ〉が大統領(任1999~2000)が就任。強権的な支配に対して反政府運動が起き野党の〈バグボ〉(任2000~2011)が大統領に就任しました。
 しかし,2003年に軍を主体とする反政府組織が反乱を起こすとコートジボワール内戦に発展。停戦が合意されましたが,2010年の大統領選挙をきっかけに,〈ワタラ〉大統領(任2010~)も大統領就任を宣言する二重政府状態となり,再度内戦に突入。

 〈バグボ〉派は〈ワタラ〉がブルキナファソ生まれなので「“純粋”なコートジボワール人ではない」から「大統領になる資格がない」と主張したのです。この内戦は2011年まで続きました。
 2018年9月の中国・アフリカ協力フォーラムでは,〈ワタラ〉大統領は中華人民共和国の「一帯一路」構想に協力する覚書を取り交わしています(注)。
(注)「ワタラ大統領が習国家主席と会談,「一帯一路」協力の覚書
(コートジボワール,中国)」,https://www.jetro.go.jp/biznews/2018/09/df48cb92c937aafa.html

・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑦リベリア,⑧シエラレオネ
“血のダイヤモンド”が内戦を深刻化させる
 ⑦リベリアでは1980年に先住民出身の軍人によるクーデタが起き,主導したクラン人出身の〈ドウ〉(任1986~90)が,アメリカ系黒人の政権を倒して,大統領に就任しました。彼は反対派の他民族(ギオ人やマノ人など)を掃討しつつ実権を握ったため,反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」との内戦がはじまりました。愛国戦線のリーダーは,ギオ人とアメリカ系黒人の子として生まれた〈チャールズ=テーラー〉(1948~,大統領任1997~2003)です。彼は,ギオ人やマノ人とともに,〈ドウ〉のクラン人政権と戦い,結局1990年に〈ドウ〉大統領は処刑されました。
 この第一次リベリア内戦には,隣国の⑧シエラレオネの反政府組織〈サンコー〉の指導する統一革命戦線(RUF,アールユーエフ)も提携し,ガーナやナイジェリアなどの西アフリカ諸国の多国籍部隊も介入したため,もはやリベリア一国の問題ではなくなります。内戦には多くの少年兵が用いられ,戦争終結後にも深い心の傷を残すことになります。シエラレオネのRUF政権からリベリアに密輸されたダイヤモンドは,「リベリア産」として国際市場に出回り,見返りとして自動小銃AK-47(カラシニコフ,子どもでも扱えるほどの操作性・携帯性・耐久性を備え,史上最悪の発明品,大量殺戮兵器ともいわれます。1947年にソ連の〈カラシニコフ〉により発明され,20世紀後半に世界各地に出回り,特にゲリラ戦で用いられました)に代表される武器がシエラレオネの反政府勢力に供与され,少年兵の手に渡りました。こうしたダイヤモンドは”血のダイヤモンド”(ブラッドダイヤモンド)と呼ばれ,アメリカ合衆国はのちにリベリア産ダイヤモンドの禁輸措置をとっています。
 1997年に〈テーラー〉が大統領に就任しましたが,彼の頭を支配していたのは,シエラレオネ東部のリベリア国境付近にあるダイヤモンドの利権と,国庫の私物化でした。反政府勢力が再び2003年に首都を攻撃し,第二次リベリア内戦が勃発しました。反政府軍をアメリカ合衆国が支援する形で,国際連合安全保障理事会によりリベリア行動党の暫定政権が建てられました(〈テーラー〉はナイジェリアに国の資金を持ち逃げして亡命)。2005年におこなわれた選挙では,国連開発計画(UNEP)のアフリカ局長を務めた〈サーリーフ〉(1938~,2006~2018,2011年にノーベル平和賞を受賞しました)が,アフリカ大陸では初めた選挙によって大統領となった女性となりました。彼女の下で〈テーラー〉元大統領がオランダの国際刑事裁判所シエラレオネ国際戦犯法廷で裁かれ,2012年に有罪判決が出されています。
 なお,2018年の選挙では元・国民的サッカー選手〈ウェア〉(任2018~)が後を継いでいます。


・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑨ギニア,⑩ギニアビサウ
 ⑨ギニアはボーキサイトやダイヤモンドを初めとする鉱産資源の輸出が主要産業で,経済発展は遅れています。
 1979年に独立の父〈セク=トゥーレ〉(任1958~1979)が亡くなると,軍人〈コンテ〉(任1984~2008)は無血クーデタを実施し後任となり,長期政権を維持しました。2008年に政権をクーデタで奪った軍人〈カマラ〉(任2008~2009)は2009年に部下による銃撃を受けて退任し,暫定政権に移行しましたが,2010年にはギニア史上初の民主的な選挙で〈コンデ〉が当選しました。
 ⑩ギニアビサウは,1974年にポルトガルから独立すると,沖合のカーボベルデ(やはりポルトガルから独立)との独立を計画しましたが,かないませんでした。長らく軍事政権が続きましたが,1991年に複数政党制に移行し,1994年の大統領選挙で〈ヴィエイラ〉(任1980~84,84~99)が大統領に就任しました。しかし,1998年以降は反政府派との間に内戦が勃発し,〈ヴィエイラ〉は辞任。その後も軍の影響力は残され混乱しますが,2005年の〈ヴィエイラ〉(任2005~09)が帰国して大統領に再任します。しかし,その後も首脳への攻撃やクーデタが多発し,以前として不安定な情勢となっています。



・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑪セネガル,⑫ガンビア
 ⑪セネガルでは親西欧(フランス)路線をとっていた建国の父〈サンゴール〉(任1960~80)から,第2代〈ディウフ〉(任1980~2000)に平和的に政権が移行しました。1982年には,領土がセネガルに取り囲まれた形になっている旧イギリス植民地の⑫ガンビアとの国家連合(セネガンビア国家連合)が実現しましたが,言語問題などの関係悪化にともない1989年に解消されました。〈ディウフ〉以降も,〈ワッド〉(2000~12),〈サル〉(2012~)と,安定的な政権交代が続いています。

・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑬モーリタニア
 ⑬モーリタニアは1975年に西サハラの領有を主張し,アルジェリアの支援するポリサリオ戦線(モロッコ南部の西サハラ独立派)と戦いますが,軍部がクーデタを起こし〈ダッダ〉大統領(任1960~78)は失脚しました。1979年にはポリサリオ戦線と和平を結び,手を引いています。
 1984年にはクーデタで軍事政権となりますが,政権をとった〈タヤ〉大統領(任1984~2005)の長期政権が続きます。2005年にクーデタで〈タヤ〉政権は倒れた後も,クーデタが続く不安定な情勢です。

・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑭マリ
 ⑭マリ共和国の独立にともない,トゥアレグ人がニジェールやアルジェリアなどの国民国家に分断されてしまったため,統一をのぞむ運動が断続的に起きていました。
 1968年に成立した軍事政権は1979年に民政移管されましたが,再度クーデタが起きています。1992年の大統領選挙で軍政は終わりますが,トゥアレグ人の独立運動は続き,2011年のリビア内戦の結果,リビアの保有していた兵器・兵員がサハラ地域に拡散したことから,地域が一気に不安定化し,2012年以降はマリ北部で遊牧生活を送るトゥアレグ人による反乱が起きました。同年には軍事クーデタも起きる中,北部の3州が独立宣言を発表し,アル=カーイダ系イスラーム過激派のアンサル=ディーンがトンブクトゥにあるジンガレイベル=モスクなどが破壊されました。この事態を受け,フランスは軍事介入を実施しています。

・1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑮ブルキナファソ
 ⑮ブルキナファソ(当時の濃く見えはオート=ボルタ共和国)では軍事政権が続いていましたが,1983年に〈サンカラ〉(任1983~87)が大統領に就任すると,社会主義国家の建設を目指し,種々の改革をしました。彼は国名を「ブルキナ=ファソ」(清廉潔白な人々の国)に変更し,国民の人気を博しました。しかし1987年のクーデタで〈コンパオレ〉が実権を握ると,社会主義路線を修正し,1992年には複数政党制による選挙で大統領(任1987~2014)に選出され,長期政権を実現しました。しかし,2014年に反政府運動が盛り上がるとクーデタにより政権は倒れ,〈コンパオレ〉は辞任し国内に逃れます。同年には元外務大臣による暫定政府が樹立されますが,この動きに反対する勢力による攻撃を克服し,2015年には〈カボレ〉大統領(任2015~)が選出され,内戦の危機は回避されています。


○1979年~現在のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

・1979年~現在のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
 エジプト=アラブ共和国では,〈ナーセル〉大統領の後任〈サーダート〉(任1970~81)がイスラエル寄りの政策をおこない,1979年にイスラエル国交正常化を行いました。それに対し急進的なイスラーム組織であるジハード団は1981年に〈サーダート〉を暗殺しました。

 代わって就任した〈ムバーラク〉(任1981~2011)は強権的な手法で長期独裁政権を維持し,“ファラオ”の異名を持ちました。1982年にシナイ半島がイスラエルから返還され,西側諸国と接近しつつ東側諸国,アラブ諸国との関係改善にも取り組むと,1990年には除名されていたアラブ連盟に復帰しました。
 しかし湾岸戦争が起きるとエジプトはアメリカ合衆国を主体とする多国籍軍に参加し,イラクを攻撃し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降はイスラーム過激派に対する弾圧にも協力しました。〈ムバラク〉政権下では外資が積極的に導入され,国内総生産が上昇して中間層が育っていました。一方で,国民の権利や福祉は軽視され〈ムバラク〉大統領の周りにはコネによる人事がはびこり,国民による不満は高まっていました。貧困率は1990年の21%から1995年には44%に,2003/04年度の失業率は9.85%で,優秀な大卒者でもコネがなければ就職できないという雇用慣行から,人口の増加する15~25歳の若年層の失業者は3人に1人(注)。
(注)山口直彦『エジプト近現代史―ムハンマド=アリ朝成立から現在までの200年』明石書店,2006,p.339。

 こうした若年人口の相対的増加(ユース=バルジ)と閉塞感が広まりを見せる中,2010年12月にチュニジアで始まったジャスミン革命と呼ばれることになる反政府運動が起きました。
 これに刺激を受け,エジプトでも政権に批判的な国民たちがSNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス,特にアメリカ合衆国の〈ザッカーバーグ〉(1984~)の立ち上げたFacebook)を駆使して大規模な政治的集会を催すと,〈ムバーラク〉は2月に辞任を余儀なくされました。

 その後,エジプト共和国初の民主的な選挙が行われ,穏健なイスラーム主義を掲げるムスリム同胞団の〈ムルシー〉(任2012~13)が大統領に就任。
 〈ムルシー〉大統領は国民投票でイスラーム色の強い憲法を採択しましたが,イスラーム主義的な政策は世俗派からの反発を生み,反政府デモが頻発して政権運営が困難になると,2013年7月には軍部の〈シーシー〉国防大臣(1954~)らによるクーデタが起き,〈ムルシー〉は失脚されました(2013年エジプト=クーデタ)。憲法は停止されて,軍による暫定政権が発足してムスリム同胞団を含む反体制派を弾圧。
 2014年に〈シーシー〉は大統領 (任2014~) に選出されると,前大統領〈ムルシー〉派のムスリム同胞団は弾圧の対象となっています(2018年9月には前大統領派75名に死刑判決)。


・1979年~現在のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
スーダン内戦が,ダルフール紛争に発展
 スーダン(1956~スーダン共和国,1969~スーダン民主共和国,1985~スーダン共和国)では1983年にイスラーム教の世俗法であるシャリーアを全国に適用することが決まり,イスラーム教徒ではない住民(伝統的な宗教やキリスト教)の多い南部の黒人による抵抗が強まり,第二次スーダン内戦が勃発しました。
 南部の黒人系のディンカ人は,ソ連や隣国エチオピアの支援を受けた〈ガラン〉大佐率いるスーダン人民解放運動(SPLM) に加わり,反政府運動を起こしました。
 一方,北部の政権内部では1985年にクーデタが起き〈ヌメイリ〉が,国防大臣の〈アル=ダハブ〉により打倒され,スーダン人民共和国からスーダン共和国に国名が戻されました。その後選挙により政権を握ったのは,ウンマ党首〈マハディ〉でしたが,1989年には〈バシール〉大佐が無血クーデタで政権を獲得して強権を発動し,1993年には自ら大統領に就任しました。前後して1991年には隣国エチオピアで社会主義政権が崩壊し〈メレス〉政権が成立したため,スーダン南部のSPLMは重要な支援元を失うことになりました(のち,ウガンダが支援国になっていきます)。

 南北の第二次スーダン内戦は,〈バシール〉が態度を軟化させ,2005年に包括的な和平合意が結ばれました。こうして〈バシール〉を大統領とし,SPLAの〈ガラン〉を第一副大統領とした暫定政府が成立しました。
 しかし,この成立直後に〈ガラン〉の乗ったヘリコプターが墜落し,死去。さらにこうした南北和平の裏で今度はスーダン西部のダルフール地方で,北部に多いアラブ系に対し,非アラブ系の住民(遊牧民のザガワ人や,定住民のフール人)との対立が激しくなっていました(ダルフール紛争)。〈バシール〉大統領はこのうちアラブ系を軍事支援し,アラブ系の民兵組織(「ジャンジャウィード」と呼ばれました)を組織・利用して,非アラブ系の住民の集落を焼き払ったり虐殺したりいった民族浄化(ジェノサイド)を行っていたことが国際社会に明るみになっていきます。ダルフール地方の住民はチャドに難民として流入し,同じくザガワ人であったチャドの〈デビ〉大統領とスーダンとの関係も悪化しました。2006年にダルフール和平合意(DPA)が成立するも人道危機は止まらず(死者約30万人,難民・国内避難民約200万人),政府側をソ連・中国,反政府側をアメリカ合衆国が援助する代理戦争の構図が生まれました。
 2009年に国際刑事裁判所(ICC)が〈バシール〉大統領に逮捕状を出し,人道に対する犯罪と戦争犯罪の容疑をかけています。2013年にはスーダン政府とダルフールの反政府勢力との間に停戦が合意されましたが,紛争は続いています。

 なお,南北関係について2005年に包括的な和平合意が締結されてから6年がたち,2011年7月に住民投票が行われ,アメリカ合衆国による支援も背景として,同年同月に南部スーダンは南スーダンとして分離独立しました。しかし,南北の国境付近の油田地帯アビエイをめぐる対立は深刻で,独立直後の2012年に国境紛争,2013年のクーデタ未遂以降は内戦状態となり,2016年には首都ジュバでも戦闘が行われる状況にまで発展しました。 ・1979年~現在のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
サハラ沙漠の“砂の壁” マグリブ地方の代理戦争
 モロッコではアラウィー朝モロッコ王国による立憲君主制が続いています。
 モロッコ王国は1975年にモーリタニアとともに西サハラを分割して併合し,1979年にモーリタニアが西サハラを放棄すると,これをも併合し,アルジェリアの支援する西サハラの勢力(ポリサリオ戦線)との戦争となりました。1991年に停戦が実現しましたが,以前として西サハラの領有問題には決着がついていません(西サハラ問題)。ポリサリオ戦線に対してイランが支援をしているとされ,モロッコとイランは対立関係にあります。
 1989年にアラブ=マグレブ連合条約が調印し,北アフリカのマグレブ地域の5か国,(モーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア)の地域的なまとまりの強化が目指されています。
 1999年には〈ムハンマド6世〉(位1999~)が即位しました。

 スペイン撤退後のモロッコ南部が1976年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されたことに対し,アルジェリアの支援する独立勢力ポリサリオ戦線がモーリタニアと戦う西サハラ紛争が起きました。モーリタニアが1979年にモロッコ南部の領有をあきらめ,ポリサリオ戦線によるサハラ=アラブ民主共和国を承認すると,それに対しモロッコが抗議します(1984~2017年までアフリカ統一機構(OAU(2002年以降はアフリカ連合;AU)を脱退(注))。

 国連事務総長による和平案が1991年にモロッコとポリサリオ宣言によって受け入れられて住民投票が実施されることになり,国連西サハラ住民投票監視団 (MINURSO)が派遣されましたが,未だに選挙は実施されていません。なお,ポリサリオ戦線はサハラ沙漠に総延長約2000kmの“砂の壁”を建設し,実効支配している領域を主張しています。

(注)大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』「アフリカ統一機構」の項目、岩波書店、2002年、p.61。



・1979年~現在のアフリカ  北アフリカ  現⑥アルジェリア
 アルジェリアでは1965年以降,反フランス独立闘争の中心となったアルジェリア民族解放戦線(FLN) 【追H30アフリカ民族会議ではない】のメンバーであった〈ブーメディエン〉(任1965~1979)が,社会主義的な独裁体制をしいていました。しかし,1979年に亡くなると〈ベンジェディード〉が後任となりましたが,自由化や仕事・食糧を求める運動が多発して社会不安は収まらず,1989年には憲法が改正されて複数政党制が導入されました。政府に失望する国民の中には,イスラーム主義を支持する者も増えていきます。
 厳格なイスラームの規範に従おうとするイスラム救国戦線(FIS)が国民の間に支持を広げると,軍部はクーデタを起こし,軍事政権を樹立。FISを弾圧した政府のトップは暗殺され,FISは1992年に武装イスラーム集団(GIS)に発展して,テロ行為を繰り返しました。
 そんな中,1999年に軍部の支援を受けたFLNの〈ブーテフリカ〉大統領(任1999~)が,アルジェリア独立後初めての文民として選出され,混乱をおさめます。
 非常事態宣言は2010~2011年の「アラブの春」をきっかけに解除されましたが,隣国リビアの政権が崩壊すると,リビアの兵力や大量の武器がサハラ沙漠一帯に拡散し,マリ共和国からのトゥアレグ人の独立組織の活動が活発化する結果を招きました。マリ北部で2012年で内戦が起きると,旧宗主国のフランス軍が派兵しましたが,これを「異教徒の進出」とみるイスラーム過激派の活動を刺激し,2013年にはアルジェリア人質事件が発生しています。

・1979年~現在のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアでは一党独裁体制がしかれていましたが,1980年代に入ると経済がふるわず,〈ベン=アリー〉(任1987~2011)が〈ブルギーバ〉(任1957~87)大統領を解任する形で,大統領に就任しました。彼は複数政党制を導入し経済の再建に取り組みましたが,事実上一党体制は維持されました。しかし,2010年末に反政府運動が過激化し,〈ベン=アリー〉政権は崩壊しました(ジャスミン革命)。この政変はアラブ地域に影響を与え,メディアによって「アラブの春」と命名される動きの火種となりました。
 「アラブの春」後の情勢が不安定化する周辺諸国と比べると,チュニジアの情勢は穏やかに進み,“アラブの春の優等生”とも呼ばれます。イスラーム主義(イスラーム主義政党の「ナフダ」単独では過半数を担うことができませんでした)と世俗主義の勢力との協力関係の下で暫定政権を経て,2014年にイスラーム色を含まない憲法が制定されました。同年の選挙では,〈ベン=アリー〉前大統領に近い〈セブシー〉(任2014~)率いる「チュニジアの呼びかけ」がナフダを押さえて勝利し,2015年には民主化が完了しました。しかし国内ではイスラーム過激派の活動もみられ,世俗主義の指導者が暗殺される事態が発生しますが,労働組合のチュニジア労働総同盟(UGTT)などがイスラーム・世俗の両派の間をとりもったことで,危機は回避されました(UGTTなどの4グループは2015年にノーベル平和賞を受賞しています)。
 エジプト同様チュニジアでも,いったんはイスラーム主義の政党が台頭したものの,その後は世俗主義の政党や旧来の支配層が復権する状況がみられます。

・1979年~現代のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビアでは〈カッザーフィー〉(カダフィ,任1969~2011)“大佐”率いるリビア=アラブ共和国が,1970年代に外国資本の石油企業を国有化して輸出産業で利益を上げていました。その思想はイスラーム教・アラブ民族主義・社会主義をあわせた「ジャマーヒリーヤ」と呼ばれるもので,その普及に合わせて1977年には国号を社会主義リビア=アラブ=ジャマーヒリーヤ国,1986年には大リビア=アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と改称しています。前後して1979年には形式的に公職を退き,それ以降は「革命指導者」として隠然たる力を残しました。
 1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア,リビアを支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,”赤い鎌”ともいわれます)。1979年にリビアの隣国エジプトがイスラエルとの友好条約(エジプト=イスラエル平和条約)を結ぶと,関係が悪化。欧米諸国との関係も悪化し,アメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領はリビアを空爆する強硬手段に出ました。
 2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は,アメリカ合衆国との関係を修復させ,核兵器の放棄を宣言して査察を受け入れた結果,2006年にはアメリカ合衆国との国交を回復させました。2009年~2010年にはアフリカ連合(AU)の議長を務めています。
 
 しかし,2010年末に隣国チュニジアでジャスミン革命が起きると,2011年2月にリビアでも反政府デモが起きると,政府軍は王党派と結びついた反〈カッザーフィー〉派を空爆しました。しかし,反政府軍によって首都が陥落し,リビア全土で内戦が勃発しました(第一次リビア内戦)。安保理は〈カッザーフィー〉が人道に対する罪を犯している容疑を国際刑事裁判所に申し入れ,その結果〈カッザーフィー〉は国際手配されることになり,同年10月には反政府勢力やNATOの攻撃の中で殺害されています(殺害当時の状況には,不明な点も多い)。その後,リビア国民評議会による暫定政権(2011~12)を経て,2012年に国民議会が成立しました。
 しかし,民主的なプロセスを経て成立した国民議会がイスラーム主義を掲げていたことから,このリビア西部のトリポリ政府をリビアの政府と認めない勢力・国家も多く,世俗主義を掲げるリビア東部のトブルク政府や,イスラーム国の関与しているといわれるリビア中部のシルトの勢力などが割拠する状況が続き,2014年以降は内戦が継続しています(第二次リビア内戦)。
 リビアの内戦により政府の保有していた武器や兵員がサハラ地域一帯に拡散することとなり,2012年以降,特に南み位置するマリ北部における反政府勢力の活動を刺激しています。




●1979年~現在のヨーロッパ


 1979年以降の西ヨーロッパでは,従来の福祉国家的な政策から一転,国があれこれ手出しをするのではなく市場の競争原理を重視する「新自由主義」をとる政権が現れます。

 1981年にはEC(ヨーロッパ共同体)にギリシア【早政H30】,1986年にスペイン【早政H30】,ポルトガル【早政H30】が加盟し,加盟国が南ヨーロッパにも広がりました。
 1991年12月末にソ連が崩壊し,東ヨーロッパが自由主義経済圏に転換すると,相互の取引も始まっていきました。冷戦中の1975年にヨーロッパの安全保障のためにヘルシンキで開催されたCSCE(全欧安全保障協力会議)は,1995年には常設のOSCE(欧州安全保障協力機構)に発展し,地域の安全保障機構に発展しています(本部はウィーンに置かれました)。
 1992年にはマーストリヒト条約【東京H22[1]指定語句「マーストリヒト」】が調印され,1993年にはヨーロッパ連合(EU)が成立しています。

 冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や少数言語を話す人の権利を向上させようとする運動も活発化します。
 オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いていたベルギー王国は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しています。

 ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨のユーロ【本試験H26ドル,ポンド,マルクではない】を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。21世紀に入ると,EUは徐々にその市場を東側に拡大していくようになりました(EUの東方拡大)。新たに加盟したのは,かつて共産主義圏に属していたバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア),ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリーや,地中海上のマルタとキプロスです。
 2007年にはルーマニア,ブルガリアが加盟。2013年にはクロアチアが加盟するなど,拡大は続きますが,ウクライナは加盟の賛否を巡り国内に深刻な対立を生むことになりました。
 同時にアメリカ合衆国の主導するNATOの拡大も進み,1982年にスペイン,1999年にチェコ,ハンガリー,ポーランド,2004年にエストニア,ラトビア,リトアニア,スロバキア,スロヴェニア,ルーマニア,ブルガリア,2009年にアルバニア,クロアチア,2017年にはモンテネグロが加盟しました。なお1966年の〈ド=ゴール〉大統領のときにNATO軍事機構を脱退していたフランスは,親米の〈サルコジ〉大統領のもと,2009年に復帰しています。

 EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したものがリスボン条約です。2007年に調印され,2009年に発効しました。

 そんな中,ヨーロッパもアメリカ発の世界同時不況(リーマン=ショック)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
 イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとする東ヨーロッパからの出稼ぎ移民が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど,欧州懐疑主義(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。2014年にはスコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,保守党の〈メイ〉首相(2016~)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(Brexit)とメディアにより表現されています。〈メイ〉首相はEU脱退に向けた手続きを進めています。
 また,2015年には,シリア内戦を逃れた難民100万人以上が,ヨーロッパに押し寄せ(欧州難民危機),その対応策を巡っても温度差が生じています。増える移民の対応策をめぐって,排外的な政党が議席をのばしたり,特定の文化を禁止する国も出ています。2005年にはデンマークで「ムハンマド風刺画事件」が起き,世界各地で抗議行動が起きました。2009年にスイスでは住民投票で,ミナレットの付いているモスクの建設が禁止されています。




○1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。 現①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

・1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現①ソ連/ロシア
「社会主義の実験」(ソ連)は崩壊、一転自由化へ
 ①ソ連では〈ブレジネフ〉第一書記(のち書記長)(任1964~82) 【慶商A H30記】のもとで急増した軍事費や政策の失敗により経済の低迷が続き,1979年6月には軍事費削減のため,第二次戦略兵器制限交渉(SALTⅡ,ソルトツー)を締結しました。しかし,同年12月24日にアフガニスタンに侵攻【本試験H29フルシチョフのときではない】すると,アメリカ合衆国の議会は批准を拒否し(結局,発効はしませんでした),「新冷戦」と呼ばれる事態に発展しました。
 ソ連で侵攻を批判した物理学者の〈サハロフ〉(“水爆の父”)は,〈ブレジネフ〉によって流刑となっています。1980年のモスクワ=オリンピックは,日本も含めソ連に反対する西側各国がボイコットする事態となりました【H29共通テスト試行 題材】。

 1979年の中華人民共和国とヴェトナム社会主義共和国との中越戦争【追H21「ヴェトナムがビルマ(ミャンマー)に侵攻したため」起きたか問う】と合わせ,“社会主義国どうしは戦争をしない”“社会主義国は平和な体制である”というイメージをくつがえすことにもなりました。

 しかし,すでに〈ブレジネフ〉時代から経済は停滞。
 増大する軍事費が財政を圧迫し社会不安が高まると,自由化に対する要求も見られるようになっていました。
 そこで1985年には〈ゴルバチョフ〉が書記長に就任し,「ペレストロイカ」(改革) 【東京H28[3]】【本試験H10世界恐慌への対策ではない】を打ち立て難局を乗り切ろうとしました。1986年には反体制派〈サハロフ〉の流刑も解除します。

 しかし,1986年に起きた⑥ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故【本試験H17時期,本試験H26,本試験H31時期を問う】が明るみに出ると,ウクライナだけでなくベラルーシ南部にも被害が及びました。
 政府はこの事実を当初国民に隠したため,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まります。
 すでに「正確な情報と問題点の自由な論議」は求められるようになっていましたが,この事故によって一層情報公開が進展していくことになりました。情報公開を進展させる政策のことを「グラスノスチ」【追H26ポーランドではない】【本試験H31】といいます。以前は隠されていたような統計の数字や,事故,社会問題もちゃんと報じられるようになり,さまざまな「意見」が飛び交うようになっていきます(注)。

(注)『角川世界史辞典』「グラスノスチ」の項目。


 1989年にはバルト三国のエストニア,ラトビア,リトアニアが,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ「人間の鎖」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。
 ヨーロッパの社会主義圏でも,共産党以外の政党も含めた自由選挙を求める動きが高まると〈ゴルバチョフ〉は新たな国際体制を樹立する必要性に迫られます。

 1989年12月にはアメリカ合衆国の〈ブッシュ(父)〉とソ連の〈ゴルバチョフ〉が地中海のマルタ島【本試験H25モスクワではない】(正確にはマルタ島沖のソ連クルーズ客船マクシム・ゴーリキー内)で会談し,冷戦が終結が宣言されました(マルタ会談) 【本試験H14時期(湾岸戦争の終結後ではない)】【追H9】。

 〈ゴルバチョフ〉は1990年にソ連の大統領に就任し【本試験H25スターリンではない】,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。

 1990年にはバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア) 【本試験H16フィンランドではない】がソ連からの独立を宣言すると,〈ゴルバチョフ〉は武力を投入して放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしました(1991年の血の日曜日事件)。

 〈ゴルバチョフ〉を批判していたグループは,主に2つありました。今まで通りの社会主義路線を進めようとする「保守派」と,もっと市場経済を本格的に導入するべきだとする「改革派」です。
 〈ゴルバチョフ〉は1991年7月には,第一次戦略兵器削減条約(STARTⅠ(スタート・ワン)。RはReduction(リダクション=削減)のRです)をアメリカ合衆国の〈ブッシュ(父)〉大統領と結ぶことにも成功しました。また,同年7月にはワルシャワ条約機構(WTO,1955発足)も解散されました【本試験H14時期(1950年代~60年代ではない)】。

 しかし8月,「改革派」の〈エリツィン〉(任1991~99) 【セA H30】がロシア共和国の大統領に選ばれます。
 これに対して「保守派」【セA H30エリツィンは保守派ではない】がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること) 【追H9この失敗後ソ連は消滅したか問う】を起こしました。このとき〈ゴルバチョフ〉が軟禁されましたが,国民はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を支持することはありませんでした。この直後,②エストニア,③ラトビア,④リトアニアのバルト三国は正式にソ連からの離脱が認められました(バルト三国の独立)。なお,このとき〈ゴルバチョフ〉を救出した〈エリツィン〉はテレビ放送を通じて,そのたくみな弁舌により国民からの人気を博すようになっていきます。
 8月に〈ゴルバチョフ〉はソ連共産党の中央委員会(最高意思決定機関です)を解散し,12月にはソ連から全ての共和国が離脱してソ連共産党を解散しました(ソ連の消滅【本試験H26時期】【追H9】)。
 もともとソ連だった領土は,ロシア連邦が引き継ぎ,ソ連の構成国はバルト三国を除いてCIS(独立国家共同体)に参加し,協力関係が維持されましたが,しだいに形式化していきました。


 1992年からは物価や生産・流通が自由化されてインフレが起き,国民生活は打撃を受けました。その中で新興富裕層が台頭。2000年には〈プーチン〉(任2000~08,12~)が「強いロシア」【慶文H30問題文】の再建を目指して大統領に就任し,資源を輸出して高い成長率を確保し,BRICs(ブリックス)の一つに数えられるまでになりました。彼はソ連時代にKGB(国家保安委員会)の職員で,強権的な手法で長期政権を維持しています。

 2008年の世界金融危機を受けてヨーロッパを不況の波が襲いました。とりわけ南ヨーロッパへの影響が大きく,2010年にギリシア危機が起きてユーロの価値は下落しました。
 2014年には,ウクライナの政府がEUとNATOへの加盟を目指すことを表明すると,ロシアの〈プーチン〉大統領はこれを阻止するために,クリミア半島【慶文H30】やウクライナ東部のロシア系住民による分離運動を支援し,クリミア半島を住民投票の形をとって事実上独立させ,ロシアに併合しました【慶文H30「分離運動を支持し,「強いロシア」の復活を首長するロシア大統領は誰か】。これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含むG20(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。





・1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現①ソ連/ロシア  カフカス地方
チェチェン
 黒海とカスピ海に挟まれたカフカス地方にあるチェチェンは,ロシア革命後にロシア共和国に編入されましたが,第二次世界大戦時にドイツにより占領。戦後にドイツに協力したとして住民は強制移住させられましたが,1957年に名誉回復され,チェチェン=イングーシ自治共和国として復活していました。1991年の時点で,チェチェンとイングーシを分離することは認められていましたが,ソ連崩壊後にチェチェンがロシア連邦から離脱する動きを見せたことから1994年に〈エリツィン〉大統領(任1991~99)が軍事介入し,第一次チェチェン紛争が始まりました【追H27時期を問う(1970年代ではない)】【本試験H29時期】。96年に停戦合意し,翌97年に撤退しましたが,99年に暴力的なグループがモスクワで爆弾テロを起こしたことで第二次チェチェン紛争となりました。2000年にロシア軍はチェチェンから撤退しましたが,2002年にモスクワ劇場占拠事件が起きるなど,暴力的グループによる抵抗運動は続いています。ロシアがチェチェンの独立を認めないのは,カスピ海の石油を黒海の積出港に運ぶパイプラインが通っていることや,他の少数民族の独立運動を刺激するのを恐れているからです。

・1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
 エストニア=ソビエト社会主義共和国,ラトビア=ソビエト社会主義共和国,リトアニア=ソビエト社会主義共和国では,1986年に起きた⑥ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故【本試験H17時期,本試験H26】が明るみに出ると,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まりました。

 1986年にはラトビアで,ソ連による水力発電所建設に対する反対運動が起き,1987年に環境保全同志会が設立。その後も独立を目指す運動が盛り上がっていきます。
 1988年にリトアニアで「サユディス」という政治組織が結成され,独立に向けて動き出します。

 1989年8月23日にはバルト三国のエストニア,ラトビア,リトアニアが,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ「人間の鎖」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。8月23日は,バルト三国がソ連の支配下となるきっかけとなった,独ソ不可侵条約の秘密協定(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結された日にあたります。
 この運動は「バルトの道」と呼ばれ,独立への機運を高めました。 

 ソ連の〈ゴルバチョフ〉は1990年にソ連の大統領に就任し【本試験H25スターリンではない】,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。

 ラトビアでは1990年3月の自由選挙で独立派が勝利し,1990年5月に新政府がラトビア共和国の成立と1922年憲法の復活を採択。
 リトアニアでも1990年3月の自由選挙で独立派のサユディスが勝利し,独立を宣言します。
 1990年5月にはバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア) 【本試験H16フィンランドではない】の首脳が会談し,事実上ソ連からの独立を宣言しました。

 この一連の動きに対しソ連の維持をねらう〈ゴルバチョフ〉は武力を投入。
 ラトビアで1991年1月にソ連軍が新政府を打倒しようとしましたが,失敗します(「1991年の血の日曜日事件」)
 エストニアでは,1991年8月に首都タリンの放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしましたが失敗します。
 リトアニアでは,1991年1月にソ連軍が投入され,首都ヴィリニュスの放送塔や国会議事堂などで流血沙汰となりました(「血の日曜日」)。

 ソ連で起きた8月クーデタを受けて,ソ連政府の権威は失墜。
 1991年8月にアメリカ合衆国がバルト三国の独立を承認すると,同月にソ連もこれを認めざるをえなくなり,国際連合にも加盟します。

 ロシア連邦は1993~1994年にかけてバルト三国から軍を撤退させました。バルト三国は2004年にEUとNATOに加盟して西ヨーロッパに接近。その結果,この3か国の領空警備は2004年3月以来NATO加盟国が順次担当している状態です。
 一方,ソ連離脱後にバルト三国が共通して抱える問題として,領内に残るでロシア系住民との関係があります。

エストニア 
 その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。
 歴史的にバルト海を取り囲む北ヨーロッパとのつながりの深いエストニアは,1992年にバルト海諸国理事会に加盟しています。
 エストニアはIT技術先進国であり,“電子国家”とも評されます。2007年には議会選挙として世界初のインターネットを利用した電子投票が行われています。

ラトビア
 ラトビアは1992年にバルト海諸国理事会に加盟。
 2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟しました。
 その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。


 
・1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑤ベラルーシ
ベラルーシは強権的な支配体制に
 1986年にウクライナ北部でチェルノブイリ原子力発電所事故【本試験H31年代を問う】が発生すると,ベラルーシは南東部で大きな被害を受けました。
 1990年7月に独立を宣言し,1991年8月末に独立承認されました。しかしロシアにとって黒海にのぞむウクライナを失うのは大きな打撃です。そこで同年12月に,すでに,ソ連の構成国の一つにであるロシアの大統領となっていた〈エリツィン〉(大統領任1991年7月~1999)が,ウクライナとベラルーシとの間に会議を開き,ベラルーシにおいて独立国家共同体(CIS)の創設に関するベロヴェーシ合意が宣言されました。独立国家共同体というのは,これからはソ連を構成していた国家が,ヨーロッパ共同体(EC)を参考に,対等な主権国家同士の関係を形成しましょうという組織です。そんな大事なことをスラヴ系の3国だけで決めるのは「おかしい」という声もあがり,カザフスタンのアルマ=アタでバルト三国以外の全構成国が集まって,アルマ=アタ宣言を発表しました。〈ゴルバチョフ〉はこの動きに反発し続けたものの,12月25日にソ連大統領を辞任し,翌26日にソ連は消滅,独立国家共同体(CIS)が創設されることになりました。

 なお,1991年9月には国名を白ロシア=ソヴィエト社会主義共和国からベラルーシ共和国としています。
 1994年に憲法が制定され〈ルカシェンコ〉が当選しましたが,彼は1996年に新憲法を制定して権限を強化し,2015年に五選されるまでの長期政権を築いています。
 1999年にはベラルーシとロシア連邦を統合することを目指す協定が〈エリツィン〉大統領との間で締結されましたが,〈プーチン〉政権以降は関係が悪化し,その後の〈メドベージェフ〉政権,〈プーチン〉政権でも統合の動きは下火となっています。

・1979年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現⑥ウクライナ
ロシアはウクライナ東部に南下する

 1986年にチェルノブイリ原子力発電所事故が起こり、環境・健康ともに甚大な被害を受けたウクライナ。
 ウクライナ=ソビエト社会主義共和国は1991年8月24日にソ連から独立。
 ウクライナ共産党は解散され、ウクライナ共和国が成立しました。
 1996年に憲法が制定されると、国号はウクライナに改められます(注1)。

 しかしウクライナでは独立後から,ロシア人の多い東部と少ない西部との間で,国づくりをめぐる対立が起きていました。
 ロシアが東部のロシア人の政治勢力を支援する一方、西部の住民はヨーロッパ連合への加盟を希望し,東西の対立が高まる中,2004年に大統領選挙が行われました。
 
 与党の〈ヤヌコーヴィチ〉首相はロシアの支援を受け,投票結果で勝利が宣言されましたが,野党〈ユシチェンコ〉派がこれに疑義を唱えると,イメージカラーのオレンジ色を掲げた“オレンジ革命”と呼ばれる反政府運動が盛り上がり,最高裁判所によって再選挙が実施されました。再選挙で〈ユシチェンコ〉(52%)が〈ヤヌコーヴィチ〉(44%)に勝利し,大統領(任2005~2010)に就任しました。2010年の選挙で,元〈ユシチェンコ〉派の〈ティモシェンコ〉が出馬しましたが,〈ヤヌコーヴィチ〉(任2010~14)が勝利し大統領に就任しました。

 ロシアの干渉に対し、この時期には宗教的にも画期となる出来事が置きます。
 16世紀のウクライナでは、正教会の典礼を保ちながらローマ=カトリックに服従する形をとる「ユニエイト」(合同教会、ウクライナ東方典礼カトリック教会)が成立していました。成立後もオーストリアやロシア・ソ連による厳しい弾圧を受けてきた歴史があります。
 しかし2005年にその拠点が西ウクライナのリヴィウからキエフに移転し、ウクライナのナショナリズムのシンボルとして迎えられたのです。


 すでにウクライナは〈ユシチェンコ〉政権の下で欧州連合(EU)との間に政治・貿易協定(ウクライナ=EU協定)を仮調印していました。しかし〈ヤヌコーヴィチ〉がこの正式署名を拒否すると,野党が大規模な反政府運動を起こしました。混乱を収拾することができず〈ヤヌコーヴィチ〉は2014年2月にロシアに亡命しました。調印拒否にはロシアの圧力があったものとみられます。

 ウクライナでは暫定政府が樹立されましたが,この動きに対しロシアは同年3月にクリミア半島(自治共和国,セヴァストポリ特別市)での住民投票を経て,これを併合。
 これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含むG20(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。
 さらに,同年4月には親ロシア派のデモ隊がドネツク州の議会を占領し,ドネツク人民共和国の建国を宣言しました。同様に東部のルガンスク自治州でも建国が宣言されました。この2州ではウクライナ政府の支配が及ばなくなっています。2014年7月には,マレーシア航空の民間旅客機がウクライナ東部で墜落しており,親ロシア派による撃墜によるものとの調査結果も出ています。

(注1) 国号をつけた「the Ukraine」は、ウクライナの原義である「辺境地帯」に定冠詞を付けたニュアンスがあるためか、ウクライナ政府や民族主義者はこれを好まず、定冠詞のない「Ukraine」と表記するようになっています。黒川祐次『物語 ウクライナの歴史―ヨーロッパ最後の大国』中公新書、2002年、p.84.。




・1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑦モルドバ
 ドニエストル川下流域に位置するモルダビア=ソビエト社会主義共和国は,1991年にソ連から離脱。
 同年,ルーマニア人の住民によりモルドバ共和国が成立しますが,ドニエストル川東岸のロシア人の多く住む地域は「沿ドニエストル共和国」として主権が及ばない地域となっています。沿ドニエストル共和国は,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジアと南オセチア,アゼルバイジャンからの独立を宣言するアルツァフ〔旧称はナゴルノ=カラバフ〕の3つの未承認国家からのみ承認を受けており,事実上「未承認国家」となっています。


○1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

・1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島 現①ルーマニア
 ルーマニア社会主義共和国では,〈チャウシェスク〉大統領夫妻(夫1918~89,妻1916~89)が,ソ連から距離を置き西側諸国に接近する独自路線をとることで,長年独裁政権を維持してきました。しかし1980年代に入ると対外債務が積み上がり国民の生活水準も下がる中,〈チャウシェスク〉らの支配層の豪遊ぶり(首都ブカレストには宮殿“国民の館”が建築されていました)に批判が集まり,1989年にルーマニア革命【本試験H15ユーゴスラヴィアの一部ではない,本試験H21ユーゴスラヴィアではない,H24・H29ポーランドではない(ともに同じひっかけ)】が起こると,公開処刑されました。新たな国名は「ルーマニア」になります。
 市場経済への復帰後には混乱もみられましたが,2000年以降には安価な労働力が注目され海外からの投資が増加して経済成長を遂げ,2004年にはNATOに加盟,2007年にはEUに加盟しました。


・1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア
 ブルガリア人民共和国では1989年に共産党による一党独裁体制が終わり,1991年に民主的な憲法が定められました。ブルガリア共和国は,2004年にはNATOに加盟,2007年にはEUに加盟しました。




・1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシャ
ギリシャはEC加盟も,財政危機でEU離脱危機に
 ヨーロッパ共同体にとって,「ヨーロッパ文明“発祥”の地」であるギリシャは,いかに経済的に立ち遅れていようともヨーロッパ統合の象徴として必要な存在として考えられていました(注)。
 1974年に民政に復帰したギリシャでは,ヨーロッパ共同体(EC)の加盟を目指して経済政策への国家の介入を強めた,新民主主義党(ND)の〈カラマンリス〉(共和国首相任1974~80大統領任1980~85,90~95)は最低賃金の改定,公務員基本給の増額などを実施。EC加盟に反対する野党の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)の〈パパンドレウ〉(1952~)を押さえ,ギリシャは1981年にヨーロッパ共同体(EC)への加盟を果たします。
 しかし,1981年の総選挙で〈パパンドレウ〉のPASOKが“変革”を訴えて勝利をおさめると,“ギリシャ人のためのギリシャ”を掲げ,社会保障や補助金を充実させるとともに,公務員職や国営企業の職を国民に提供することで,幅広い大衆の支持を集めました。こうした政府の支出はECからの資金によってまかなわれ,次第に財政が赤字化し,市場競争力も低下していきました。1990年~1993年には新民主主義党(ND)政権となりますが,EU成立前にはPASOK政権(1993~2004)となりあす。1996年に〈パパンドレウ〉の死後,後任となった〈シミティス〉首相(任1996~2004)の下で国家財政が再建され,財政赤字は2000年にGDPの1%にまでおさえられました(この数字は後に粉飾であったことが明らかになります)。こうして2001年にはユーロが導入されました。

 2004年に新民主主義党(ND)政権となり,〈カラマンリス〉(1956~,〈カラマンリス〉(1907~98)の甥)が首相となりました。同年,アテネ=オリンピックが開催されています(第一回近代オリンピックは1896年にアテネで開催されました)。

 その後,2009年に政権に就いたPASOKの〈ヨルゴス=パパンドレウ〉首相は,2010年に,前の政権である新民主主義党(ND)がギリシャの財政赤字を実際よりも過小に報告していたことを明らかにしました。これが元となりギリシャ国債の格付けは急落,ギリシャに多額の資金を貸し付けていたドイツやフランスにも影響が及ぶと,欧州ソブリン危機(いわゆる「ユーロ危機」)へと発展しました。〈パパンドレウ〉のPASOK政権はEU・IMF・ヨーロッパ中央銀行に支援(第一次支援プログラム)を要請しましたが,これには公務員給与の引き下げなどの緊縮政策が伴ったため,ギリシャ全土でデモやストライキが発生。2011年にヨーロッパ連合理事会で追加支援(第二次支援プログラム)が発表されると,〈パパンドレウ〉は突如,国民投票の実施を表明。これに対して内外の反発が強まると〈パパンドレウ〉は退陣し,2011~2012年に〈パパディモス〉を首相とするPASOK,ND,国民正統派運動による連立政権が成立しました。〈パパディモス〉政権は2012年に追加支援を合意しましたが,同年の総選挙の結果,緊縮に発展する野党の支持が拡大したため連立が崩壊し,同年の再選挙の結果,NDの〈サマラス〉首相によるND,PASOK,民主左派(~2013)の連立政権(2012~2015)となります。
 しかし,2015年の総選挙で反緊縮を掲げる急進左派連合(SYRIZA,スィリザ)が第一党となり,反緊縮を主張する「独立ギリシャ人」党(ANEL)との連立政権になり,SYRIZAの〈ツィプラス〉(1974~,任2015~)が首相に就任しました。〈ツィプラス〉政権は当初はEUによる追加支援を拒否し,ユーロ圏離脱の可能性(いわゆる“グレグジット”,Greece+Exitをあわせた造語)も高まりましたが,2015年の国民投票後に公約に反して第3次支援プログラムの受け入れを妥協し,内閣総辞職となりました。しかし,同年の総選挙で再びSYIRIZAとANELの連立政権(ツィプラス首相)となり,緊縮策とシリア難民対策に追われています。
(注)村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで』中央公論新社,2012年,p.264。

・1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島 現③マケドニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
ユーゴスラヴィア解体時に,民族紛争が勃発する
 “七つの国境,六つの共和国,五つの民族,四つの言語,三つの宗教,二つの文字,一つの国家”を持つといわれたユーゴスラヴィア連邦では,枢軸国との武装闘争を率いた独立の父〈チトー〉(ティトー,1892~1980) 【本試験H12内戦によって退陣したわけではない】が死去すると求心力を失い,連邦の結束が揺らいでいきました【追H17ユーゴスラビア内戦は冷戦終結後に起きたか問う(正しい)、H19ユーゴスラヴィアは平和的に解体していない】。

 1991年6月に⑪スロヴェニア【本試験H15セルビアではない】が10日間の戦争(十日間戦争)で独立。1991年6月には⑩クロアチア【本試験H15セルビアではない】が独立宣言し,クロアチア内戦が勃発,1995年まで続きますが独立を達成しました。1991年9月には③マケドニアもマケドニア共和国として独立を宣言します。マケドニアは国際連合加盟をめぐり「マケドニア」という国名がギリシャによる反発を生み,「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という国名での登録となりました(「マケドニア」の名称は,かつて〈フィリッポス2世〉(前382~前336)とその子〈アレクサンドロス3世(大王)〉(前356~前323)のマケドニア王国による支配の歴史を思い起こさせ,ギリシャ政府が「マケドニアがギリシャ内の領土を主張するのではないか」と恐れたのです)。

 そんな中,1992年3月に⑧ボスニア=ヘルツェゴヴィナが独立宣言【本試験H27青年トルコ革命のときではない】を出すと,複雑な民族構成が原因で内戦が深刻化し,従来は共存していたイスラーム教徒とクロアチア人とセルビア人たちの対立が政治的に生み出され,三つ巴(どもえ)の構図となりました(ボスニア内戦,1992年4月~1995年12月)。

 対立構図が生まれる過程でマス=メディアを通した広告の果たした役割が大きいことが指摘されており,国際社会においてセルビア=悪玉という構図が支持された背景にはアメリカ合衆国の企業の関与があったといわれます(注)。元・サッカー日本代表監督でドイツ系の〈オシム〉(1941~)は1992年のセルビアの侵攻以前に国外に移動していますが,妻子はサライェヴォに残すことになり,1994年に再会するまで別離を余儀なくされます。1995年7月にはスレブレニカでセルビア人が8000人のムスリムを虐殺。同年12月にはアメリカ合衆国の仲介でデイトン合意(和平合意)が結ばれました。
 独立後には,民族紛争中に崩落したネレトヴァ川のイスラーム教徒地区とクロアチア人地区を結ぶ橋が修復され,2005年に「モスタル旧市街の石橋と周辺」として世界文化遺産(負の遺産)」に登録され“和解の象徴”となっています。

 アルバニア系住民の多い⑥コソヴォは1991年に独立宣言を出しますが,セルビアは独立を認めずコソヴォ紛争に発展しました。1999年にはNATO軍【追H30】が国連安全保障理事会の決議のないままセルビアを空爆【追H30】する事態となり,ユーゴスラヴィア側に立つロシア・中華人民共和国との対立を生みました。コソヴォ共和国は2008年に独立宣言しましたが,ロシア・中国などは承認せず,セルビアの一部とみなしています。

 なお,2001年にマケドニアでは,コソヴォ紛争の影響を受けて国内北部のアルバニア系住民が蜂起するマケドニア紛争が起きています。
(注)高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005。




○1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
共産党の一党独裁が崩れ市場経済が導入される
 1989年には,①ポーランド,②・③チェコスロヴァキア,④ハンガリーでも民主化運動が激化し,共産党の独裁体制が崩壊していきます。

・1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
 ①ポーランドでは〈ワレサ〉(ヴァウェンサ,1943~2016,任1990~95)(注)【本試験H22コシューシコではない】を中心とする自主管理労組「連帯」(ソリダルノスチ) 【追H26ポーランドか問う】 【セA H30ルーマニアではない】が組織されましたが,1981年に解散させられていました【本試験H24時期(社会主義体制下)】。しかし,彼は1983年にノーベル平和賞を受賞し,当時のローマ教皇〈ヨハネ=パウロ2世〉(ポーランド出身です)が公然と〈ワレサ〉の「連帯」を支持する中,1986年には復活し,1989年6月に議会選挙で勝利したことで,共産党ではない政権に移行しました。これらの国では複数政党制と議会制民主主義が導入されて,市場経済に移行しました。
(注)ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。「w」のつづりは「ヴ」になるので,〈Wałęsa〉の場合,「ワレサ」よりも「ヴァウェンサ」のほうがポーランドに近い発音になります。
・1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②・③チェコスロヴァキア/現②チェコ,③スロヴァキア
 ②・③チェコスロヴァキアでは,共産党独裁体制が無血で倒されたことから,ビロード革命とよばれます。〈ゴルバチョフ〉は,かつてのハンガリー事件(1956年)やプラハの春(1968年のように,東欧革命に武力介入することはありませんでした。
 なおチェコスロヴァキアは1993年にチェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立し,こちらもスムーズな展開であったことから“ビロード離婚”といわれます。

・1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④スイス
 1815年のウィーン議定書以来永世中立主義をとっていたスイスですが,2002年に国民投票の結果,国際連合に加盟しました。しかし,EU(ヨーロッパ連合)には加盟していません。


・1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑤オーストリア
 1955年以降永世中立国【追H18】となっている⑤オーストリアは,1995年にはEUに加盟しています。


・1979年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 東・西ドイツ/現⑦ドイツ
 ⑦東ドイツの国家元首は1960年以降「国家評議会議長」でした。ドイツ社会主義統一党の一党制で,ソ連の“衛星国家”となっていました。しかし,1976年に国家評議会議長(首相)に就任した,ドイツ社会主義統一党書記長(任1971~89)の〈ホーネッカー〉(任1976~89)は,当初は西側諸国との緊張緩和に努めますが,次第にシュタージという秘密警察による国内の取締を強化させていきます。国際社会の変化に対する対応が迫られる一方で,東ドイツ経済は停滞を続け,1987年には西ドイツを訪問し〈コール〉首相と会談しています。しかし,経済政策の自由化には踏み切ることはなく中央集権的な政策を取り続け,1980年にポーランドの政権が自由選挙で大敗して崩壊すると,東ドイツ国民は隣国チェコスロバキアからハンガリーへ脱出(汎ヨーロッパ=ピクニック)。すでにハンガリーでは自由化に向けた改革を進めていましたので,逃げてきた東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツに出国させていきました。

 このような事態に陥っても〈ホーネッカー〉は強硬な社会主義路線を変えることがなく,そんな中で〈ゴルバチョフ〉が10月7日に東ドイツに訪問し〈ホーネッカー〉を批判,その後副議長〈クレンツ〉らは〈ホーネッカー〉批判をすすめ,10月18日に〈クレンツ〉が国家評議会議長(首相)に就任しました。〈クレンツ〉は体制維持に奔走しますが,ベルリン地区委員会の第一書記をつとめていた〈クレンツ〉派の〈シャボフスキー〉がベルリンの壁の開放を誤って発表すると,壁に押し寄せた群衆を止めることはもはや不可能となり,11月9日に本当に「ベルリンの壁」が開放【追H30時期:ソ連解体後ではない】されてしまったのです。〈クレンツ〉は12月に退陣し,小勢力であったドイツ自由民主党の〈ゲルラッハ〉が国家評議会議長に就任。彼の下で1990年に史上初めて自由選挙がおこなわれ,新憲法が制定されました。

 しかし,同年10月には西ドイツのコール首相(任1982~1998)のもとで,西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツ再統一が実現されました【本試験H16時期1970年代ではない】(「東ドイツ」政府が崩壊したわけではないので注意しましょう。映画「グッバイ,レーニン!」(ドイツ2003)は東西ドイツ統一をはさんで,東ベルリンで社会主義体制が崩壊を目の当たりにした家族を描いています)。

 初代大統領は西ドイツ首相のキリスト教民主同盟(CDU)の〈ヴァイツゼッカー〉(任1984~1994)です。この再統一ドイツの大統領は形式的なもので,実権は連邦首相のキリスト教民主同盟の〈コール〉(任1982~1998)が握っています。〈コール〉による長期政権は,1998年に〈シュレーダー〉(任1998~2005)に継がれました。2005年からは初の女性首相にキリスト教民主同盟の〈メルケル〉(任2005~)が就任しています。



○1979年~現在のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
ここではイベリア半島を除き,イタリアを含めた国々を西ヨーロッパに区分しています。


・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア

 イタリア共和国では南北の経済格差や犯罪組織(マフィア)の暗躍などを乗り越え,経済成長を実現させていきました。1990年代に入るとEU(ヨーロッパ連合)の発足を受けてグローバル化の波に覆われる中,統一通貨ユーロに参加するために民営化や金融制度改革を実施し,財政赤字を縮小させました(1999年にGDP比約2%)。特に,実業家出身の〈ベルルスコーニ〉首相(1994~95,2001~06,08~11)がフォルツァ=イタリア(FI,1994~2009)を率いて新自由主義的な政策をおこないましたが,国内では新自由主義に反対し中道左派連合「オリーブの木」を結成していた〈プローディ〉首相が政権を獲得しました。その後2001年に〈ベルルスコーニ〉率いる中道右派連合「自由の家」政権に戻った後,〈ベルルスコーニ〉の汚職や買春スキャンダルとともに,ギリシャ危機(⇒1979~現在のヨーロッパ バルカン半島 ギリシャ)の影響からイタリアを含む南ヨーロッパ諸国(メディアや金融機関によりポルトガル,イタリア,ギリシャ,スペインをあわせてPIGS(ピッグス)と呼ばれました。アイルランドを含めPIIGSと呼ぶこともあります)経済に対する信用が低下する中で退陣を迫られました。後継の〈モンティ〉挙国一致内閣(任2011~13)は緊縮政策を進めましたが,反緊縮派の〈ベルルスコーニ〉派の人民の自由や,新勢力の「五つ星運動」が台頭するなど政党再編がすすみます。
 以降,民主党の〈レッタ〉(任2013~14),〈レンツィ〉(任2014~16),〈ジェンティローニ〉(任2016~)の短命内閣が続く中,「五つ星運動」は着実に支持を伸ばし,2018年には既成政党に反対する「五つ星運動」の〈ディマイオ〉党首(1986~)が,移民に反対する政党「同盟」の〈サルビーニ〉書記長(1973~)と連立に向けた交渉に合意し,減税や貧困層向け政策がとられる見込みとなりました。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現②サンマリノ
 サンマリノ共和国は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,キリスト教民主党と社会党中心の左派勢力が連立する政権が続いていましたが,2000年以降は政界再編が進んでいます。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現③ヴァチカン市国
教皇は他宗派との融和を図る方針を推進している
 ヴァチカン市国は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,ローマ教皇(いわゆるローマ法王)が三権を掌握する体制をとっています。

 ポーランド出身の〈ヨハネ=パウロ2世〉(位1978~2005)は,1980年代~1990年初めの東ヨーロッパ諸国での民主化運動に影響力を及ぼしました。異なる宗教や宗派との和解にも努め,2000年には,十字軍を含む過去2000年のローマ=カトリック教会による行いを謝罪するミサをおこなっています。

 次代のドイツ出身の〈ベネディクト16世〉(位2005~13)は,ローマ教皇として初めてイギリスの〈エリザベス女王〉と会談しています。1534年の首長令以来,イギリスでは国教会が成立していましたから,歴史的な和解の始まりといえます。
 また,彼は教皇として史上初めて,みずからの意志で退位しています。

 2013年には,史上初の南アメリカ大陸出身の教皇〈フランシスコ〉(位2013~)が即位しています。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現④マルタ

 マルタ共和国では1971年から1987年まで労働党政権が続きましたが,国民党政権は西側諸国への友好関係を重視する政策に転換し,1989年にはアメリカ合衆国とソ連が冷戦の終結を表明したマルタ会談の開催地となりました。

 その後,国民党政権の下で2003年にはEU(ヨーロッパ連合)に加盟します。2013年には労働党政権に交替しています。

 2017年には,労働党〈ムスカット〉首相(任2013~)の「パナマ文書」への関与について調査報道を行っていた女性記者が爆弾で殺害され,報道の自由が脅かされているのではないかと波紋を呼んでいます。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑤モナコ
 モナコ公国は周囲をフランスに囲まれた小国で,立憲君主制をとっています。フランス=モナコ保護友好条約によりフランスの保護下に置かれ,外交関係は制限されていました。観光業(カジノとF1が有名)や化学工業を中心に経済発展を遂げ,1993年には国際連合に加盟,2005年に〈レーニエ3世〉公(位1949~2005)が亡くなり,〈アルベール2世〉(任2005~)が後を継ぎました。

 同年にはフランス=モナコ友好協力条約が締結され,外交面での制限が緩和。軍事的には領土の防衛をフランスが担当していますが,2005年の条約によりフランス軍の出動にはモナコの要請・同意を要することになっています。EUには加盟していませんが,ユーロを導入しています。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
 アンドラ公国は,フランスとスペインの国境地帯に位置する小国で,歴史的な経緯を背景に,フランス大統領(注)とスペインのウルヘル司教を共同の元首とする主権国家です。1993年に新憲法が承認されたことでアンドラ公国は主権国家として国際的に承認され,同年には国際連合に加盟しました。
(注)かつては司教からアンドラの領地を与えられていたフォア伯爵が領主でしたが,フォア伯爵がブルボン朝〈アンリ4世〉として即位して以来,フランス共和国に引き継がれていったのです。




・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑦フランス
 フランス共和国(第五共和制) 【東京H30[3]】では,中道右派の〈ジスカール=デスタン〉(任1974~1981)が石油危機後の経済危機への対処に尽力します。アフリカでは,中央アフリカ帝国を建国した皇帝〈ボカサ1世〉(位1977~79)を承認しましたが,1979年に追放されフランスに亡命した〈ボカサ1世〉による贈賄が発覚すると〈ジスカール=デスタン〉への批判が高まりました(⇒1979~現在のアフリカ 中央アフリカ)。
 1981年の選挙で勝利したフランス社会党の〈ミッテラン〉大統領(任1981~1995)は,有給休暇(ヴァカンス)制度の拡大や法定労働時間の縮小,死刑制度の廃止などの改革をおこない,長期政権を実現させました。1984年まではフランス共産党との連立内閣を組んでいました。〈ミッテラン〉は欧州統合にも積極的で,1985年に加盟国間の国境での審査をなくすシェンゲン協定に署名,1986年に単一欧州議定書を採択(1987年発効),1992年にはマーストリヒト条約を採択・署名(1993年発効)し,EU(ヨーロッパ連合)を発足させます。しかし,1986~1988年はUDRの〈シラク〉が,1993~1995年にはUDRの〈バラデュール〉が首相を務めたことから,大統領と首相の支持政党が異なり政権運営が困難な状態(コアビタシオン)となっています。
 1995年には共和国連合(RPR)の〈シラク〉(任1995~2002)が大統領に選出されました。彼は包括的核実験禁止条約 (CTBT)を締結する前に,太平洋のフランス領ポリネシアのムルロア環礁で核実験を実施しています(⇒1979~現在のオセアニア ポリネシア)。1997~2002年にはフランス社会党の〈ジョスパン〉が首相を務めコアビタシオンとなっています。1999年には,性別を問わず事実婚をしているカップルに結婚に準じた扱いをする制度PACS(連帯市民協約)が導入されています。

 2002年に〈シラク〉(任2002~2007)は,国民運動連合(UMP)を率いて大統領に再任しました(このとき,移民排斥やEUからの脱退を唱えた国民戦線の〈ル=ペン〉(1928~)を破っています)。2003年のイラク戦争に際しては,ドイツとともに派兵を拒否しました。欧州統合に積極的な政策を推進しましたが,移民の増加にともないフランス国内には統合の進展に反対する世論も台頭していきました。
 2004年にはフランス的な政教分離(非宗教性(ライシテ)といいます)の立場から,公立学校で女子生徒がスカーフを着用することを禁止する法律を制定(注)。この宗教的標章法(宗教シンボル禁止法)【東京H24[1]指定語句「注」が付いている】は,大きな議論を呼びました。2005年にはパリ郊外で北アフリカ出身の移民が警察に追われて亡くなったことをきっかけに,貧困地区の若年層を中心に暴動に発展。〈シラク〉は引退を表明しました。
 2007年に後任に選出されたのは,国民運動連合(UMP)の〈サルコジ〉(任2007~2012)です。2011年,公共の場で顔を覆うものを身につけることを禁止する法律(ブルカ禁止法)が制定され,イスラーム教徒の女性の着用するヒジャーブに対する規制として波紋を呼びました。2011年にはギリシャへの財政支援をドイツの〈メルケル〉首相とともに主導しますが,緊縮財政が国内で批判を呼び,2012年の選挙ではフランス社会党の〈オランド〉(任2012~2017)が勝利しました。〈オランド〉政権下では,2015年1月にシャルリ=エブド事件,同年11月にパリ同時テロ事件が発生し,国家非常事態を宣言。アメリカ合衆国やロシアとともに「イスラーム国」に対する軍事作戦に参加しました。

 〈オランド〉は再選を目指さず,2017年には〈オランド〉政権の経済相を務めた〈マクロン〉(任2017~)が,既成の政党の枠を超えた“革新”を目指すとして共和国前進(EM,当初は「前進!」)を立ち上げて大統領に就任。新自由主義な政策を進めています。〈マクロン〉は西アフリカのマリ共和国の支援にも積極的で,EU(ヨーロッパ連合)におけるドイツとの連携も進めています。なお,〈ル=ペン〉(1968~,父(1928~)も政治家)は,大統領選では決選投票で〈マクロン〉に破れたものの,〈ル=ペン〉のイスラーム教徒に敵対的な発言はしばしば波紋を呼んでいます。
(注)伊東俊彦「フランスの公立学校における「スカーフ事件」について」『東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室応用倫理・哲学論集 (3)』 2006年,pp88-101。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑧アイルランド
北アイルランド紛争が終結する
 この時期、〈ブレア〉政権が多文化主義も推進し,1998年には北アイルランド問題の和平に関するベルファスト合意を実現させました。和平プロセスに尽力した北アイルランドの政治家〈ジョン=ヒューム〉(1937~)と〈トリンブル〉(1944~)は同年のノーベル平和賞を受賞しています。
 アイルランド共和国では憲法でアイルランド語が第一公用語(英語が第二公用語)となっており、アイルランド語教育がおこなわれ、アイルランド語ができないと政界・官界入りができません。しかし、日常語としてアイルランド語を使用しているのは、大西洋岸の西部県(ゲール語使用地域;ゲールタハトと呼ばれます)の一部にすぎません(注)。

 欧州懐疑主義が高まる中、2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,内務長官を務めていた保守党の〈メイ〉首相(任2016~2019)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(Brexit)とメディアにより表現されています。
  しかし〈メイ〉首相は総選挙で過半数を失い、北アイルランドの民主統一党の閣外協力をあおぐ形に。2019年3月29日のEU離脱を目指し、2017年3月29日にリスボン条約の手続きを履行。EUとの離脱交渉が進められる中、2019年1月の下院で離脱協定案が大差で否決。修正案も3月に下院で大差で否決される展開になってしまいます。
 その背景には、協定案に盛り込まれていたバックストップ(英領北アイルランドとEU加盟国アイルランドの間に厳格な国境管理が導入されることを回避するための取り決め)に対する、離脱派議員の根強い反発がありました。バックストップがあると、EUの規則と関税に縛られ続ける恐れがあるというわけです。
 こうして2019年の3月と4月の2度にわたってEUに離脱日の延期を要請し、2019年4月のEU首脳会議では最長で10月31日までの離脱延期が認められました。
 しかし〈メイ〉首相は離脱協定の修正に失敗し閣内の支持を失って、党首を辞任。同7月に〈ボリス=ジョンソン〉(1964~、任2017~)が後任となり、離脱強硬派の内閣を発足させています。

(注) 山本正『図説 アイルランドの歴史』(ふくろうの本)、河出書房新社、2017年、p.94。





・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑨イギリス
「鉄の女」〈サッチャー〉が新自由主義的政策進める
 イギリスでは“鉄の女”の異名をもつ保守党【本試験H8】の〈サッチャー〉首相(任1979~1990) 【本試験H8時期(1970年代末から)】が,大規模な規制緩和をともなう新自由主義的な改革をおこないました。
 〈チャールズ〉王太子と〈ダイアナ〉(1961~1997)との結婚式が行われたのは,彼女の任期中の1981年のことです。〈サッチャー〉はアルゼンチンとのフォークランド紛争(1982~84年) 【東京H28[1]指定語句】を通して愛国心を高めるとともに,1980年から90年にかけて石油・石炭・ガス・電気・航空・通信・水道・鉄鋼・自動車の国営企業を民営化していきました。これに対しては炭鉱でのストライキも起きています。
 また「ビッグバン」と称して金融に関する規制を大幅に撤廃し,海外からの投資を活性化させようとしました。こうした政策によりイギリスにはヤッピーと呼ばれる都市部で専門職に従事する若者が出現。1988年には教育改革を行い,イギリスの威信を高める歴史教育など全国的なカリキュラムをつくり,共通学力テストも導入しました。

 1991年にソ連が崩壊し,東ヨーロッパが自由主義経済圏になると,相互の取引も始まっていきました。イギリスの〈サッチャー〉首相は,EC(ヨーロッパ共同体)が各国の主権に対して口出しができるようになることを恐れ,通貨統合にも反対でした。その一方,1992年にマーストリヒト条約が調印され,1993年11月にEC12か国によってヨーロッパ連合(EU) が成立しました。
 イギリスでは〈サッチャー〉首相を継いだ保守党の〈メイジャー〉(任1990~1997年)首相が,通貨統合に加わらない条件で,EU(ヨーロッパ連合)への加盟に踏み切りました。



労働党〈ブレア〉首相が「第三の道」政策をとる
 イギリスでは保守党の〈メイジャー〉首相に代わり,労働党でスコットランド人の〈ブレア〉首相(任1997~2007)が政権を獲得しました。彼はブレーンに社会学者の〈ギデンズ〉を登用し,グローバル化の波に対して市場主義でも社会民主主義でもない「第三の道」に基づく政策を実行していきました。

 〈ブレア〉は多文化主義も推進し,1998年には北アイルランド問題の和平に関するベルファスト合意を実現させました。和平プロセスに尽力した北アイルランドの政治家〈ジョン=ヒューム〉(1937~)と〈トリンブル〉(1944~)は同年のノーベル平和賞を受賞しています。

 しかし,アメリカ合衆国との同盟関係を重視した結果,イラク戦争への参戦は国際的な批判も浴び,2007年に労働党〈ブラウン〉(任2007~2010)首相に引き継ぎました。しかし2008年に世界金融危機のあおりを食らい,2010年には保守党の〈キャメロン〉政権(任2010~2016)に交替しました。

 ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨のユーロ【本試験H26ドル,ポンド,マルクではない】を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。

 EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したものがリスボン条約です。2007年に調印され,2009年に発効しました。


EU離脱問題 (Brexit) が波紋を呼んでいる
 そんな中,ヨーロッパもアメリカ発の世界同時不況(リーマン=ショック)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
 イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとする東ヨーロッパからの出稼ぎ移民が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど,欧州懐疑主義(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。

2014年にはスコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。

 欧州懐疑主義が高まる中、2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,内務長官を務めていた保守党の〈メイ〉首相(任2016~2019)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(Brexit)とメディアにより表現されています。
  しかし〈メイ〉首相は総選挙で過半数を失い、北アイルランドの民主統一党の閣外協力をあおぐ形に。2019年3月29日のEU離脱を目指し、2017年3月29日にリスボン条約の手続きを履行。EUとの離脱交渉が進められる中、2019年1月の下院で離脱協定案が大差で否決。修正案も3月に下院で大差で否決される展開になってしまいます。
 その背景には、協定案に盛り込まれていたバックストップ(英領北アイルランドとEU加盟国アイルランドの間に厳格な国境管理が導入されることを回避するための取り決め)に対する、離脱派議員の根強い反発がありました。バックストップがあると、EUの規則と関税に縛られ続ける恐れがあるというわけです。
 こうして2019年の3月と4月の2度にわたってEUに離脱日の延期を要請し、2019年4月のEU首脳会議では最長で10月31日までの離脱延期が認められました。
 しかし〈メイ〉首相は離脱協定の修正に失敗し閣内の支持を失って、党首を辞任。同7月に〈ボリス=ジョンソン〉(1964~、任2017~)が後任となり、離脱強硬派の内閣を発足させています。
 




・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
 冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や言語をめぐる対立が活発化していきました。
 オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いていたベルギー王国は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しました。2016年3月には首都ブリュッセルで連続テロ事件が発生し,イスラーム国との関連があるとされています。




・1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑪オランダ
 オランダ王国は立憲君主制をとっており,1980年に〈ユリアナ〉女王(位1948~80)が譲位し,〈ベアトリクス〉女王(位1980~2013)が即位しています。1973年の第一次石油危機後には不況に見舞われます(いわゆる“オランダ病”)が,労使が協力関係をとってワークシェアリングを普及させ,1990年代には失業率が低下し経済成長を果たしました。ライン川の河口に位置するロッテルダム港(ユーロポート)は,ヨーロッパ最大の港に発展し,国際貿易の中心の一つとなっています。
 オランダはNATO参加国として,アメリカ合衆国との関係を重視してきました。また,ヨーロッパ連合の発足を定めたマーストリヒト条約の調印地でもあります。しかし,EUと距離を置く世論も台頭し,2005年の欧州憲法条約をめぐる国民投票は,フランスに続いて否決の選択をしています。
 2000年代以降は,イスラーム教徒の移民に対する排斥を掲げる極右政党である自由党(2006年創立)が議席を伸ばし,2010年には自由民主国民党の〈ルッテ〉(任2010~)に閣外協力を果たし,2011年にはイスラーム教徒の女性が身につけるブルカを禁止する法案を成立させています。




○1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
・1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
 スペインでは独裁者〈フランコ〉(1892~1975)が1975年に死去すると,同年にブルボン朝の〈フアン=カルロス1世〉(位1975~2014)が復位し,スペイン王国が復活していました。

 1977年に民主化後、初の総選挙が実施されます。
 民主化のプロセスの中で、「スペインが真の民主主義国家となるまで」、〈ピカソ〉の以来によりアメリカ合衆国のMoMAに“亡命”させられていた「ゲルニカ」が1981年にプラド美術館に返還されました(返還先はバスク地方とはなりませんでした)(注)。
 

 1986年にはEC(ヨーロッパ共同体)に加盟【早政H30】し,1992年にはバルセロナでオリンピックを開催しています。2014年には国王が生前退位し〈フェリペ6世〉(位2014~)が即位しました。

 スペインでは歴史的に独自の文化・言語を持つバスク地方,カタルーニャ地方の自治・独立運動が盛んで,バスク地方を拠点とする暴力的な「バスク祖国と自由」(ETA)の反政府テロが1959年以降続いていましたが,2011年には休戦し,現在は武装解除されています。

 一方,カタルーニャ州では2015年の州議会選挙で独立派が過半数の議席を獲得し,独立の手続きを開始しました。この動きは憲法裁判所により違憲とされたものの,2017年には独立を問う州民投票の結果,独立賛成派が9割以上を獲得したため州議会は独立を宣言(カタルーニャ州の独立宣言)。これに対して政府は州議会を解散しましたが,同年末の州議会でも独立派が議席の過半数を占め,政府との対立は続いています。

 なお,バルセロナのサグラダ=ファミリア大聖堂は2026年の完成を目指して建設がすすめられています。主任彫刻家は日本の〈外尾悦郎〉(そとおえつろう,1956~)です。


(注)原田マハ『暗幕のゲルニカ』新潮社、2016年。「ゲルニカ」を題材とした小説。



・1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
 独立後の経済危機に苦しんだ②ポルトガル共和国は,1976年にEC(ヨーロッパ共同体)への加盟申請をおこない,1985年に加盟条約に調印(発効は1986年)しました【早政H30】。ポルトガルは援助金を獲得し,従来の“お得意様”であったイギリスに代わって大陸諸国(フランス,ドイツ,スペイン)との貿易が盛んとなりました。
 社会党の〈ソアレス〉大統領は1986年に再選,1991年に再々選され,1987年・1991年には社会民主党が勝利して〈シルヴァ〉首相が就任しました。

 1992年にはマーストリヒト条約を批准しEU(ヨーロッパ連合)に加盟することになりましたが,ポルトガルの経済は経済自由化の波にさらされ,停滞します。

1996年には,ポルトガルと旧植民地のアンゴラ,モザンビーク,カボ=ヴェルデ,サン=トメ=プリンシペ,ギニアビサウ,ブラジルにより「ポルトガル語諸国共同体」が創設されました(2002年に東ティモール。2014年に赤道ギニアが加盟)。和和平プロセスが続いていた東南アジアの東ティモールで1999年に住民投票がおこなわれ,2002年に独立しました。和平に尽力した〈ベロ〉司教(1948~)と第二代大統領〈ラモス〉(任2007~15)は1996年にノーベル平和賞を受賞しています。


○1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 この時期の北ヨーロッパは石油危機後の経済の立て直しを図り,「福祉国家」路線が再検討されるとともに,環境問題への関心も高まり環境政党が躍進しました。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に始まるいわゆる“新冷戦”の影響を受け,NATO(北大西洋条約機構)はスカンディナヴィア半島周辺への対ソ連の新型中距離ミサイルの配備を進められていきました。
 先にEC(ヨーロッパ共同体)に加盟していたデンマークに加え,冷戦後にはフィンランド,スウェーデンはEU(ヨーロッパ連合)に加盟し,北欧にも欧州統合の波が広がりましたが,ノルウェーは国民投票で否決しアイスランドは加盟せず,地域差が生まれました。

 また,冷戦崩壊時に北欧諸国がバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア)の独立を支援した際,1990年に環バルト海協力という枠組みが生まれ,1992年には環バルト海諸国評議会(CBSS)が成立し,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,フィンランド,アイスランド,エストニア,ラトビア,リトアニア,ドイツ,ポーランド,ロシア,欧州連合が参加する地域協力機構となっています。

 ノルウェー,スウェーデン,フィンランドにまたがり分布するサーミ人の権利を保護する取り組みも第二次世界大戦後以降活発化していき,ノルウェーでは1987年にサーミ議会の設置が法律で制定,1988年にサーミ人の保護が憲法条文で義務付け,1990年にサーミ語が地域公用語に制定されました。フィンランドでは1991年にサーミ語を地域公用語とするサーミ言語法,1995年には憲法にサーミ人保護条項を付加しサーミ議会の設置法が制定されています。スウェーデンでは1992年にサーミ議会を設置する法律が制定され,1999年にはサーミ語を公用語の一つとし,2009年には言語法が成立しサーミ語が保護・促進する責任のある少数言語の一つに指定されました(注)。
(注)北海道大学大学院教育学研究院教育社会学研究室「ノルウェーとスェーデンのサーミの現状」『調査と社会理論』研究報告書29,2013,p.83(http://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2013/05/NorwaySweden_saami2013.pdf。(#映画 「サーミの血」2016,スウェーデン)

・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 フィンランドは,1991年の総選挙で保守中道連立政権が発足。同年末のソ連崩壊にともない,結びつきの強かったソ連との貿易が激減し,失業率は20%にも達しました。1994年には旧ソ連との関係を西向きに転換し,EU(ヨーロッパ連合)に国民投票の結果,1995年に加盟しています。1995年には社会民主党から大統領が出て,総選挙でも社会民主党が躍進して連立政権が成立しました。社会民主党の〈アハティサーリ〉大統領(任1994~2000)は,退任後に国連の特使としてコソヴォ問題(⇒1979~現在のヨーロッパ  バルカン半島)やインドネシア・スマトラ島のアチェ地方の和平合意(⇒1979~現在の東南アジア インドネシア)に向けて尽力したことが評価され,2008年のノーベル平和賞を受賞しています。





・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 デンマークでは,1975年以降社会民主党を中心とした連立政権が発足し,経済の立て直しを図りましたが,1982年に保守党の首相(1894年以来初)を中心とする保守中道連立政権が発足。公共支出の削減に取り組むとともに,EC加盟国との競争に耐えうる競争力を国内産業につけさせるための政策を実行しました。
 1973年に加盟していたEC(ヨーロッパ共同体)が域内統一市場を創設する動きをすすめると,デンマークでは国民的議論が起きましたが,域内市場への参加が国民投票で過半数の賛成を得,1987年に欧州単一議定書が発効しました。しかし,デンマークでは欧州統合への抵抗も根強く,その後1992年のマーストリヒト条約は調印後の国民投票で批准が僅差で拒否されると,ECでデンマークの資格が再検討され,1993年の再度の国民投票で批准が承認され,1993年にECはEU(欧州連合)に発展しました。


・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 アイスランドでは,漁業資源を保護するための経済水域の設定をめぐり,1973年以降イギリスとの対立が深まりました。1974年には国連の国際海洋法会議で200カイリ経済水域の設定が提唱されると,アイスランドは1975年に経済水域の拡大を宣言し,イギリスがアイスランドのトロール船創業に対し軍艦を出動させる事態に発展しました(タラ戦争)。タラ戦争は1976年に終結し,アイスランドは漁業資源をイギリスから守りました。





・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島
 グリーンランドはデンマークの「一地方」とされていましたが,1973年にデンマークEC(ヨーロッパ共同体)に加盟すると自治の要求が高まり,1979年の住民投票で自治政府が成立しました。1982年の住民投票で離脱派が上回ると1984年に自治議会は離脱を可決し,翌1985年にはグリーンランドはECから有利な条件で離脱しました。同年にはグリーンランドの地名がデンマーク語からイヌイット語(グリーンランドは,カラーリット=ヌナート)に変更されるなど,イヌイット友愛党による独立に向けた運動は続けられています。

 フェロー諸島はデンマーク領です。国家元首はデンマーク国王ですが,行政には自治が認められています。独立運動も起こっています。



・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー

 ノルウェーはビートルズの「ノルウェーの森」(「森」の原義は「家具」であるようです)で知られるように,林業や漁業,海運,鉄鉱石などの鉱業とその関連産業が主要な産業でした。
 しかし,1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。
 ただ,その後の1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済も打撃を受けています。

 1970年後半以降は保守党が躍進していきました。1981年に労働党が敗北し保守党内閣が成立しました。1985年以降は急進右派の進歩党が台頭し,1989年の総選挙で第三党になります。

 1990年には保守連立内閣が分裂し,労働党政権の下で1994年のEU加盟を問う国民投票は否決され,EU加盟には至りませんでした。
 1993年には,ノルウェー首相が中東問題を仲介し,パレスチナの自治を認めるオスロ合意が成立しています。その後も世界各地の紛争の和平プロセスに関与し,独自の位置を占めるようになっています(注)。
(注)「ノルウェーの中東関与」,放送大学,http://www.takahashi-seminar.jp/books/20100921.html




・1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
スウェーデンでは反移民の政党が躍進している
 スウェーデンでは,社会主義政党ではない政党による連立政権が続き,その中で原子力発電所の設置は大きな争点となりました(1988年の国会決議では2010年までに全原子炉の廃炉を決定しましたが,その後政策が転換されました)。1982年には社会民主党が政権に復帰しましたが,86年に〈パルメ〉首相が暗殺され〈カールソン〉副首相があとを継ぎ,88年には〈カールソン〉が政権を維持しました。しかし1990年代の不況はスウェーデンを直撃し,EUに加盟する機運が高まりました。

 1991年の総選挙で社会民主党が敗北し,保守中道連立政権となりましたが,1992年には通貨危機が起き,社会民主党政権が復活しました。

 1992年にはバルト海諸国理事会の本部がストックホルムに置かれています。
 〈カールソン〉首相の下,1994年にはEU(ヨーロッパ連合)に国民投票の結果,1995年に加盟しています。
 社会民主党はスウェーデン型の福祉国家づくりのため改革を続けますが,2006年には中道右派連合に敗れます。その後,2014年に社会民主党が政権を回復しますが,2018年には移民受け入れに反対する右派のスウェーデン民主党が議席を伸ばしています(第三党)。




●1979年~現在の南極
南極は「どこの国でもない」ことになっている
 1959年締結の南極条約により,締結国間の平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められています。しかし,これ以前の主張された各国の領有権が,完全に否定されたわけではありません。 
●現在~未来の世界
 現在進行中です。

                                                         

●参考文献

書籍
・『世界各国史 全28巻』山川出版社
 現在の国境をベースにして編成した網羅的・総合的な「各国史」。本書において様々なところで参考にさせていただいた。
・『世界の歴史 全30巻』中央公論新社
・『シリーズ世界史への問い 全10巻』岩波書店
・『岩波講座 世界歴史 全29巻』新版 岩波書店
 旧版とともに、各時代・地域の研究における関心を知るには最適である。
・『世界史史料 全12巻』岩波書店
 一次史料や信頼のおける訳文を歴史学研究会の編集委員が収集した、日本の歴史学における「史料集」の決定版。現在入手しづらい巻もあるが、手元に置いて損はない。
・『世界歴史大系』シリーズ,山川出版社
・『物語○○の歴史』シリーズ 中公新書,中央公論新社。
 2010年代以降も刊行が続いている。歴史学者によるものとは限らないが、平易なものが多く初学者向きである。
・木村靖二他編『詳説世界史研究』山川出版社,2017
・『興亡の世界史』シリーズ、講談社、2006~2010。
 比較的新しい視点から世界史の流れをダイナミックに描いたシリーズ。執筆陣は歴史学者に限らない。網羅的ではないが、新たな視点の得られる内容が多い。
・全国歴史教育研究協議会『世界史用語集』(山川出版社)
 教科書の語句をカウントし、掲載数を収録したもの。世界史の出題における事実上の指針となっている。
・亀井高孝他『世界史年表・地図』吉川弘文館,2017
・『~を知るための…章 エリア・スタディーズ』各巻 明石書店
・『ニューステージ世界史詳覧』浜島書店
 色の使い方や図表のシンプルさではピカイチ。多くの受験生が使用している。内容的には問題のある箇所もあるが、版を重ねるごとに修正されつつある。
・『山川 詳説世界史図録 第2版』山川出版社,2017
 図版の使い方に個性があり、読み解き方が別に解説されているので勉強になる。
・『最新世界史図説 タペストリー 十六訂版』帝国書院,2018
 正確さと緻密さ、そして編集方針の一貫性という面で、現在最も優れた世界史資料集である。
・『新世紀図説 世界史のパサージュ』とうほう


他(邦書の近刊を中心に)
 世界史を学ぶには、さまざまな視点に立つにことが重要である。本書で参照したものをピックアップして以下に紹介する。

◆全般,グローバル・ヒストリー
W.H.マクニール『疾病と世界史』新潮社,1985 / 大江一道『新物語世界史への旅』山川出版社,2003 / 梅棹忠夫『文明の生態史観』中央公論社,1967 / 川勝平太『文明の海洋史観』中央公論社,1997 / 水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008 / カール・ポランニー『経済の文明史』筑摩書房,2003 / 神奈川県高等学校教科研究会社会科部会歴史分科会『世界史をどう教えるか―歴史学の進展と教科書』山川出版社、2008年 / ウィリアム・H・マクニール『世界史(上下)』中公文庫,2008 / 伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008 /川島真・貴志俊彦編『資料で読む世界の8月15日』山川出版社、2008 / 濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013 / ケネス・ポメランツ『大分岐』名古屋大学出版会,2015 / ユヴァル・ノア・ハラリ,柴田裕之『サピエンス全史 上・下』河出書房新社,2016 / 羽田正『グローバル・ヒストリーの可能性』山川出版社,2017 / 角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017 / 岡本隆司『世界史序説』筑摩書房,2018 / 秋田茂『大分岐を超えて:アジアから見た19世紀論再考』ミネルヴァ書房,2018パミラ・カイル・クロスリー『グローバル・ヒストリーとは何か』岩波書店,2012,川北稔『砂糖の世界史』岩波書店,1996 / 山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013 / 石弘之・石紀美子『鉄条網の歴史―自然・人間・戦争を変貌させた負の大発明』洋泉社、2013 / ティモシー・ブルック『フェルメールの帽子――作品から読み解くグローバル化の夜明け』岩波書店、2014 / ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017 / 山本紀夫『トウガラシの世界史』中公新書,2016 / 藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書,2017 / 桃木至朗他『市民のための世界史』 大阪大学出版会,2014 / 秋田茂『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房,2016 /川北稔『世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)』筑摩書房,2016 / チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017 / ウィリアム・H・マクニール,ジョン・R・マクニール,福岡洋一訳『世界史 I ── 人類の結びつきと相互作用の歴史』楽工社,2015 /妹尾達彦『グローバル・ヒストリー』中央大学出版部,2018 / 長谷川修一・小澤実『歴史学者と読む高校世界史: 教科書記述の舞台裏』勁草書房,2018 / 北村厚『教養のグローバル・ヒストリー:大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房,2018


◆思想・宗教
青木健『古代オリエントの宗教』講談社,2012 / 青木健『ゾロアスター教』講談社,2008 / 阿部美哉『比較宗教学』大法輪閣,2014 / 本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書,2005 / ロバート・ルイス・ウィルケン,大谷哲他訳『キリスト教一千年史(上・下)地域とテーマで読む』白水社,2016 / 市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』岩波新書,2019 /中田考・橋爪大三郎『クルアーンを読む』太田出版、2015


◆経済・人類・社会
フィオレンツォ・ファッキーニ,片山 一道訳『人類の起源』同朋社,1993 / 山本紀夫「植物の栽培化と農耕の誕生」『アメリカ大陸の自然誌3:新大陸文明の盛衰』岩波書店,1993 / マーシャル・サーリンズ,山内昶訳『石器時代の経済学』法政大学出版局,2012 / 山本紀夫『中央アンデス農耕文化論―とくに高地部を中心として―』人間文化研究機構国立民族学博物館,2014 / 金井雄一他編『世界経済の歴史―グローバル経済史入門』名古屋大学出版会,2010 / 中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌 (叢書・文化学の越境)』森話社,2007年 / 山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書,1994 / 伊藤亜人他編『現代の社会人類学3 国家と文明への過程』東京大学出版会,1987 / 嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995 / 鶴見良行『ナマコの眼』筑摩書房,1993 / 『講座 世界の先住民族―ファースト・ピープルズの現在)』明石書店,2005~2007 / 橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社,2001 / ジャン=ジグレール(勝俣誠監訳,たかおまゆみ訳)『世界の半分が飢えるのはなぜ? ―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』合同出版,2003



◆南北アメリカ大陸

大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話―作られた「アメリカ建国」』講談社,1998年 / 増田義郎,島田泉,ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS,2000 / 青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007 / 網野徹哉『インカとスペイン帝国の交錯』講談社,2008 / アーヴィング=ラウス,杉野目康子訳『タイノ人―コロンブスが出会ったカリブの民』法政大学出版局,2004 / 実松克義『驚異のアマゾン文明』講談社,2004 / 青山和夫『古代メソアメリカ文明――マヤ・テオティワカン・アステカ』講談社,2007 / 大貫良夫『古代アンデス 神殿から始まる文明』朝日新聞出版,2010 / 川島浩平・島田法子編 『地図でよむアメリカ―歴史と現在』雄山閣出版,1999(先住民の分布等) / 堀坂浩太郎『ブラジル―飛躍の奇跡』岩波書店,2012 /山本紀夫『中央アンデス農耕文化論―とくに高地部を中心として―』人間文化研究機構国立民族学博物館,2014 / 実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館,2016 /芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社,2010 / 綾部恒雄・富田虎男(『講座世界の先住民族 ファースト・ピープルズの現在 北米』明石書店,2005



◆オセアニア
春日直樹『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社,1999 / ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010年 / 矢野將編 『オセアニアを知る事典』 平凡社,1990



◆中央ユーラシア
大林太良『中央ユーラシアの世界』山川出版社, 1990/ 間野英二他編『内陸アジア』(地域からの世界史6)朝日出版社,1998 / 藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社,1999 /小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』平凡社,2005 / 岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』 講談社,2007 / 杉山正明『遊牧民から見た世界史 増補版』日本経済新聞社,2011 / 小松久男他編『中央ユーラシア史研究入門』山川出版社,2018 / クリストファー・ベックウィズ『ユーラシア帝国の興亡: 世界史4000年の震源地』筑摩書房,2017


▽東アジア
貝塚茂樹『中国の歴史 上』岩波書店,1964 / 山田慶児『授時暦の道―中国中世の科学と国家』みすず書房,1980 / 渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986 / 西嶋定生『中国古代国家と東アジア世界』東京大学出版会,1983 / 中村圭爾『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997 /阪倉篤秀『長城の中国史 中華VS.遊牧 六千キロの攻防』2004,講談社 / 柿沼陽平『中国古代の貨幣――お金をめぐる人びとと暮らし』吉川弘文館,2015 / 『概説中国史〈上〉古代―中世』『概説中国史〈下〉近世―近現代』昭和堂,2016 / 『シリーズ中国近現代史』岩波書店,2010~2017(近現代史) / 濱下武志『香港―アジアのネットワーク都市』筑摩書房,1996 / 濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013 / ルシオ=デ=ソウザ,岡美穂子『大航海時代の日本人奴隷』中央公論新社,2017 / 入間田宣夫・斉藤利男・小林真人編『北の内海世界―北奥羽・蝦夷ヶ島と地域諸集団』山川出版社,1999 / 村井章介『世界史のなかの戦国日本』筑摩書房,2012 /平川新 『戦国日本と大航海時代―秀吉・家康・政宗の外交戦略』 中央公論新社,2018/曺喜昖, 李泳釆・監訳,牧野波・訳『朴正煕 動員された近代化: 韓国,開発動員体制の二重性』彩流社,2013 / ドイツ館史料研究会編『「どこにいようと そこがドイツだ」―板東俘虜収容所入門(第4版)』鳴門市ドイツ館、2017年



▽東南アジア
桃木至朗『歴史世界としての東南アジア』山川出版社,1996 / 石澤良昭『アンコールからのメッセージ』山川出版社,2002 / 石澤良昭『アンコール・王たちの物語―碑文・発掘成果から読み解く』NHKブックス,2005 / 末廣昭『タイ―中進国の模索』岩波書店,2009 /岩崎育夫『物語 シンガポールの歴史』中公新書、2013年



▽南アジア
クシティ・モーハン・セーン『ヒンドゥー教』講談社,1999 /竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010



▽西アジア
後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房,2015 /加藤博『イスラム世界の経済史』NTT出版,2005 / アブドルバーリ=アトラーン『イスラーム国』集英社,2015 / 蔀勇造『物語 アラビアの歴史-知られざる3000年の興亡』中央公論新社,2018



◆アフリカ
古代オリエント学会編『古代オリエント事典』岩波書店,2004年 / 宮本正興他『新書アフリカ史』講談社,1997 / 福井勝義他『アフリカの民族と社会』中公文庫,2010 / 前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 1899~1912』ミネルヴァ書房,2006 / 山口直彦『エジプト近現代史―ムハンマド=アリ朝成立から現在までの200年』明石書店,2006



◆ヨーロッパ
北村暁夫『イタリア史10講』岩波書店、2019年 / 橋場弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』講談社,2016 / 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005 / 角谷英則『ヴァイキング時代』京都大学学術出版会,2006 / 樺山紘一『パリとアヴィニョン―西洋中世の知と政治』人文書院,1990 / リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002 / 菊池良生 『傭兵の二千年史』講談社,2002 / 高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005 / 玉木俊明『北方ヨーロッパの商業と経済―1550~1815年』知泉書館,2008 / 玉木俊明『海洋帝国興隆史 ヨーロッパ・海・近代世界システム』講談社,2014 / 玉木俊明『近代ヨーロッパの形成:商人と国家の近代世界システム 』創元社,2012 /南直人『〈食〉から読み解くドイツ近代史』ミネルヴァ書房,2015年 / ウィリアム・マリガン,赤木完爾・今野茂充訳『第一次世界大戦への道:破局は避けられなかったのか』慶應義塾大学出版会,2017 / 長谷川貴彦『イギリス現代史』岩波書店,2017 /高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005



検定教科書
・三浦徹ほか『新選世界史B』東京書籍,2017検定
・福井憲彦ほか『世界史B』東京書籍,2016検定
・松本宣郎・木畑洋一ほか『世界史B 新訂版』実教出版,2016検定
・川北稔ほか『新詳 世界史B』帝国書院,2016検定
・岸本美緒・羽田正・久保文明・南川高志ほか『新世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『高校世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『詳説世界史 改訂版 』山川出版社,2016検定
・加藤晴康ほか 『世界史A』東京書籍,2016検定
・平田雅博・飯島渉ほか『世界史A 新訂版』実教出版,2016検定
・木畑洋一ほか『新版世界史A 新訂版』実教出版,2016検定
・上田信・大久保桂子・設樂國廣・原田智仁・山口昭彦ほか『高等学校 世界史A 新訂版』清水書院,2016検定
・岡崎勝世ほか『明解 世界史A』帝国書院,2016検定
・木村靖二・岸本美緒・小松久男ほか『要説世界史 改訂版』山川出版社,2017検定
・近藤和彦・岸本美緒・中野 隆生・林佳世子ほか『現代の世界史 改訂版』山川出版社,2016検定
・近藤和彦・羽田正ほか『世界の歴史 改訂版』山川出版社,2016検定
・曽田三郎ほか『高等学校 改訂版 世界史A』第一学習社,2016検定




地図
・地図データは,「世界の地図・世界の国旗」(http://www.abysse.co.jp/world/link.html)を使用。

 上記参考文献のほかに,以下を参照。
・『最新世界史図説 タペストリー』帝国書院,2017
・『山川 詳説世界史図録 第2版』山川出版社,2016
・ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也(日本語版監修),松平俊久・松田俊介訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2013
・ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001




◆世界遺産
・世界遺産検定事務局『くわしく学ぶ世界遺産300<第2版>世界遺産検定2級公式テキスト』マイナビ出版,2017
・世界遺産検定事務局『すべてがわかる世界遺産大事典<上><下> 世界遺産検定1級公式テキスト』マイナビ出版,2016。(内容には誤記も多い)


その他,本文内に(注)を付して示した。

年号,在位年などは,西川正雄『角川世界史辞典』(角川書店,2001),ブリタニカ国際百科事典電子版を参照した。



 

 


 

◆ゼロからはじめる世界史のまとめ

初心者向け世界史のまとめ。目次の項目をクリックすると、note(https://note.mu/)の各ページにリンクします。

1 約700万年前~
2 前12000年~
3 前3500年~
4 前2000年~
5 前1200年~
6 前800年~
7 前600年~
8 前400年~
9 前200年~
10 紀元前後~
11 200年~
12 400年~
13 600年~
14 800年~
15 1200年~
16 1500年~
17 1650年~
18 1760年~
19 1815年~
20 1848年~
21 1870年~
22 1920年~
23 1929年~
24 1945年~
25 1953年~
26 1979年~

 


 

◆同時に学ぶ、世界史と地理

世界史と地理は、同時に学べば面白い!

 

1 約700万年前~
2 前12000年~
3 前3500年~
4 前2000年~
5 前1200年~
6 前800年~
7 前600年~
8 前400年~
9 前200年~
10 紀元前後~
11 200年~
12 400年~
13 600年~
14 800年~
15 1200年~
16 1500年~
17 1650年~
18 1760年~
19 1815年~
20 1848年~
21 1870年~
22 1920年~
23 1929年~
24 1945年~
25 1953年~
26 1979年~

 


 

 

◆世界史のなかの日本史のまとめ

日本史を世界史の流れの中に置き、グローバルな視野で学ぼう。

 

1 約700万年前~ 第1話 日本列島の誕生と日本列島人の到達

2 前12000年~ 第2話 温暖化と狩猟採集文化の安定

3 前3500年~ 第3話 狩猟採集による定住生活の安定

4 前2000年~ 第4話 気候の変動と狩猟採集定住生活の危機

5 前1200年~ 第5話 西日本における「稲作農耕社会」の衝撃

6 前800年~ 第6話  西日本への稲作の広がり

7 前600年~ 第7話 日本中央部への稲作文化の広がり①

8 前400年~ 第8話 日本中央部への稲作文化の広がり②

9 前200年~ 第9話 稲作社会の拡大と大規模集落の出現前夜

10 紀元前後~ 第10話 大規模環濠集落の出現と戦争の増加

11 200年~ 第11話 西日本の統合とユーラシア大陸との交流

12 400年~ 第12話 ユーラシア大陸の変動と、畿内の大王・氏族の拡大

13 600年~ 第13話 ユーラシア大陸の変動と天皇・畿内氏族の勢力拡大

14 800年~ 第14話  気候の温暖化と政権の分散

15 1200年~ 第15話 北東アジア・中国・朝鮮・アイヌ・琉球・日本の交易ネットワークの拡大

16 1500年~ 第16話 海上交易の活発化と日本の統一

17 1650年~ 第17話 統一政権の安定と全国市場の発展

18 1760年~ 第18話 ヨーロッパ船の出現と幕府の動揺

19 1815年~ 第19話 米英仏の接近と海防への関心の高まり

20 1848年~ 第20話 欧米の国民統合と武家政権の崩壊

21 1870年~ 第21話 国民国家の建設と欧米諸国との対抗
(1) 1870年~ 新政府の成立と欧米諸国へのキャッチアップ
(2) 1880年~ 立憲君主制の整備と中国に対する勝利
(3) 1895年~ 工業化の進展とロシアの南下の阻止
(4) 1910年~ 世界大戦とイギリス・アメリカとの対立 

22 1920年~ 大戦と革命の衝撃と国内情勢の転換

23 1929年~ 総力戦体制と人類史上最悪の大戦

24 1945年~ 帝国の解体とアメリカによる占領・独立

25 1953年~ 冷戦下の戦後体制・高度経済成長と国際関係の複雑化

26 1979年~ 技術革新とグローバル化・多極化の進展

 



SDGs 世界史

世界史を学び、未来を描こう。

 

SDGs(エスディージーズ)とは―

「世界のあらゆる人々のかかえる問題を解決するために、国連で採択された目標」のことです。
 言い換えれば「2018年になっても、人類が解決することができていない問題」を、2030年までにどの程度まで解決するべきか定めた目標です。

 人間がこうした問題にどのように向き合ってきたか、世界史を通して考えてみましょう。

 下の○囲みの数字はSDGsの目標を示しています。 

1 約700万年前~  人類の誕生と世界のこれから  
 ⑯ 人間の社会は「暴力」から逃れられないのだろうか?
 ⑤ 男女の分業はいつの時代から生まれたのだろうか?
 ⑬ 初期の人類は、気候の変動にどのように対応したのだろうか?
 ⑩ 人種の区別はいつから始まったのだろうか?


2 前12000年~ 農業・牧畜の開始と世界のこれから
 ② 人間は「飢え」にどうやって立ち向かったのだろうか?
 ⑪ 農業と牧畜は人間の社会をどう変えたか?
 ⑥ 人間はどうやって食料を増産してきたのだろうか?


3 前3500年~ 都市の誕生と世界のこれから
 ② この時代に生まれた都市は、なぜ「長続き」しなかったのだろうか?
 ⑩ どうして都市の中には格差が生まれるのか?
 ④ 人類はなんのために文字を使うようになったのだろうか?(お金)


4 前2000年~ 遊牧民の大移動と戦争の大規模化
 ⑬ 遊牧民はなぜ移動した?
 ⑯ この時代の人々は「平和」な社会を築くことができているだろうか?
 ⑮ アフリカのサバンナでも、農業はできるのか?


5 前1200年~  初期の都市文明の衰退と生態の多様化
 ⑬ この時代の人間は気候の変化にどう対応した?
 ⑩ 身分の区別はいつ始まったのだろうか?
 ⑩・⑰ 人はなぜ移動するのだろうか?
 ⑪ ヨーロッパの文明は、アフリカ・アジアより「優れた」文明だった?


6 前800年~ 王国の発展と金属貨幣の登場
 ⑯ 各地で王による支配がすすんでいったのはなぜだろうか?
 ⑰ 金属のお金は、人間の「物との関わり」をどう変えたのだろうか? 


7 前600年~ 国家の広域化と思想の普遍化
 ④ 広範囲の人間集団が「まとまる」ために編み出された新思想とは?
 ⑨ 巨大化した国では、情報伝達のためにどんな工夫がされたのか?


8 前400年~ さらに巨大化する国家と"情報"の蓄積
 ⑧ 「人間らしい」働き方とは?
 ⑰ 人間はどうやって知識を共有してきたのだろうか?


9 前200年~ 平等を求める闘いと交流圏の拡大
 ⑩ 人々はどのようにして「平等」な社会を目指したのだろうか?
 ⑯ 人間は戦争について、どんなふうに考えてきたのだろうか?
 ⑨ 遠距離を結ぶネットワークはどのように発展していったのだろうか?


10 紀元前後~ 世界観の広がりと気候変動への対応
 ⑩ 当時の人々は、どのような世界観を持っていたのだろう?
 ① 人間はこの時代の気候変動にどのように対応したのだろうか?


11 200年~ 民族の大移動と環境への負荷
 ① 人々は何を求めて移動したのだろうか?
 ⑮ 農地の開発は社会や環境にどのような影響を与えたのだろうか?


12 400年~ 災害リスクと人類のこれから 
 ⑪ 人間は自然災害にどう対応してきたのだろうか?


13 600年~ 多様な文化を結ぶ普遍的な思想の形成
 ⑯ 民族を超えた人々を結びつける、どのような思想が共有されたのか?
 ⑮ 持続可能な開発は実現できたのだろうか?


14 800年~ 開発の拡大と研究開発の発展
 ② 人間は自然をどのように開発していったのだろうか?
 ⑧ 人間は発明した技術をどのように応用させていったのだろうか?

15 1200年~ モンゴルによる陸海の交流の活性化と疫病の大流行
 ⑯ モンゴル人は世界にどのような影響を与えたのだろうか?
 ③ 人間は疫病の流行に対し、どう立ち向かってきたのだろうか?

16 1500年~ ヨーロッパ諸国の3大洋への進出とそのインパクト
 ⑩ ヨーロッパ諸国の海外進出は、
 アメリカ大陸の社会にどのような影響を与えたか?
 ⑨ ヨーロッパ諸国が進出しても、
 「アジアの繁栄」はなぜ続いたか?
 ② ヨーロッパ諸国の海外進出によって、世界各地の人々の食生活はどのように変化したのか?
 ⑮ 「ヨーロッパ諸国の海外進出」は、アフリカの人々や生態系にどんな影響を与えたか? 

17 1650年~ ヨーロッパ諸国の拡大と各地の開発の進展
 ⑨ 【1】植民地から独立した国は、
 どのような道を歩むことになったか?
 ⑭ 【2】人類は「海の資源」とどのように関わってきたか?
 ⑯ 【3】定住民の支配地域の拡大によって、移動生活を送る人たちはどのような変化を受けたか?
 ⑯ 【4】この時代の人類はどのように平和と安全を守ろうとしてきたか?(アジア編)
 ⑯ 【5】この時代の人類はどのように平和と安全を守ろうとしてきたのか?(ヨーロッパ編) 

 


18 1760年~ 新動力の発明と大分岐
 ⑦ 人類はどのようにして大量のエネルギーを得るようになっていったのだろうか? 


19 1815年~ 工業化された世界と、工業化されていない世界
 ⑪ 【1】工業化した社会の人々の暮らしは、どのよう変化したか?
 ⑧ 【2】国外に「移動した人たち」は、幸せな生活を送ることができたのだろうか?
 ⑩ 【3】工業化したヨーロッパ諸国の進出を受けた地域は、どのような影響を受けたのだろうか?

 


20 1848年~ グローバルなものとローカルなもの

すべて⑩
〈1〉世界経済の覇権を握ったイギリスに、「できたこと」と「できなかったこと」
〈2〉「なんでもあり」の取引が、世界各地を結んだ
〈3〉早い者勝ちの「ゲームのルール」
〈4〉どこの誰だか知らない人を、結びつける商品
〈5〉グローバルなものに飲み込まれていく、ローカルなものたち
〈6〉工業化されたヨーロッパに「国民の国」ができていく
〈7〉人口の増えた都市で生まれた「新しい社会」

21 1870年~ 暴力の連鎖と平和構築の失敗
 ⑯ 【1】平和をなぜヨーロッパ諸国は破局的な戦争に突き進んでしまったのだろうか?
 ⑯ 【2】この時代の人類は、どのような「暴力」を経験したのだろうか?
 ⑭・⑮ 【3】この時代の人類は、自然にどのような影響を与えたのだろうか?


22 1920年~ 「総力戦」時代と人類社会の激変
 ⑯ 【1】「難民」問題が生まれた
 ⑧ 【2】女性の社会進出がすすんだ
 ⑤ 【3】人身売買に対する規制がはじまった
 ③ 【4】国が人口をコントロールする傾向が強まった
 ⑦ 【5】電気の普及率があがり、石油消費量が増えた
 ⑥ 【6】労働者の権利を守る動きがすすんだ
 ⑫ 【7】たくさんつくって、たくさん捨てる社会がはじまった
 ⑧ 【8】けっきょく植民地は独立できなかった


23 1929年~ 暴力のグローバル化と解釈をめぐる闘い

ビルマからの手紙
 ⑰ 【1】どうして戦争を防ぐことができなかったのだろうか?
    「戦争」か、「戦争未満」か?
 ② 【2】欧米・日本では国による福祉が充実していった
 ⑰   国以外のグループや個人の持つ可能性

 

24 1945年~ 植民地からの独立と人権意識の高まり
 ⑩ 【1】植民地からの独立は、新たな問題を生んだ
 ⑯ 【2】人権の価値が認められるようになった


25 1953年~ 冷戦の展開と、経済・社会・環境のアンバランスな関係
 ① 【1】貧困はつづく
 ⑩ 【2】人や国の不平等はつづく
 ② 【3】飢餓はつづく
 3-1. 先進国では農業の近代化がすすむ
 3-2. 途上国は、先進国への輸出向け作物栽培に偏る
 3-3. 社会主義国では非効率な農業政策がつづく
 ③ 【4】感染症との闘いはつづく
 ④ 【5】教育格差はつづく
 ⑨ 【6】産業化はつづく
 ⑫ 【7】開発と汚染はつづく
 ⑯ 【8】正しい情報をめぐる格闘はつづく


26 1979年~現在の世界 

 目標① 貧困をなくそう
 【1】貧困をなくそう
 【2】戦乱が貧しさをつくる?
 【3】「豊かさ」の中にある「貧しさ」?

 目標② 飢餓をゼロに
 【1】飢餓の世界史をふりかえる
 【2】食料は十分だが、飢えはつづく

 目標③ すべての人に健康と福祉を
 [前編]
 【1】世界史の中の”健康・福祉”をふりかえる
   ◆狩猟採集時代は意外と健康だった!?
   ◆寄生虫との共生関係
   ◆農耕生活の代償
   ◆都市が感染症の巣窟に
   ◆感染症の大流行へ
   ◆アメリカ大陸への感染症の進出
   ◆全世界にひろまる感染症

 [後編]
  【2】1979年~現在の”健康・福祉”
   ◆のびる平均寿命
   ◆パンデミックの脅威はつづく
   ◆肥満が栄養失調を生む?
   ◆産油国の肥満問題
   ◆環境と肥満のかかわり
   ◆先進国の健康問題
   ◆障害者の権利の保障がすすむ

 目標④ 質の高い教育
  「教育」って何だろう?
  「教育」の場はさまざま
  産業革命以降、教育が激変する
  元・植民地も「学校教育」を導入する
  複雑化する世界、多様化する教育
  質の高い学習のために

 目標⑤ ジェンダー平等を実現しよう
  「ジェンダー」(gender)
  「女性」化する貧困
  国際的な取り組みが本格化する
  イスラーム教は女性に厳しい?
  アフリカ「女性」の光と影
  冷戦の終結と人身売買
  アジアの移民の女性化
  「誰も置き去りにしない」

 目標⑥ 安全なトイレと水を世界中に
  【1】「見える」水問題
  【2】「見えない」水問題

 目標⑦ エネルギーをみんなに そしてクリーンに
  人力から蒸気力へ
  電力の時代へ
  広がる原子力発電
  途上国のエネルギーの行方

 目標⑧ 働きがいも経済成長も
 【1】経済を発展させるには?
 【2】変えたい人たちと、変えたくない人たち
 【3】資源の呪い
 【4】悪い政府と良い政府
 【5】正義が侵略に変わるとき
 【6】奴隷、苦力、移民労働者
 【7】働くチャンスをひろげる

 

 

 

◆その他

 世界史のまとめマップ

 1 前12000年~紀元後800年

 2 800年~1650年

 「ガイダンス 世界史のまとめかた

 1 時間の区切りかた

 2 環境のとらえかた

 3 地域の区切りかた

 

 

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