●約700万年前~約12000年の世界
人類の誕生
ホモ=サピエンスが氷期を生き抜き,南北アメリカ大陸を除く世界各地に広がる。

時代のまとめ
◆最古の人類の化石はアフリカ大陸西部で発見されている
サルと人類との境界線は曖昧だ
 現在,地球上を覆っている現生人類(ホモ=サピエンス)は,哺乳類のうち霊長目(れいちょうもく;サル目)の中のヒト属(ホモ属)の一つに分類される動物です。
 より細かく分類していくと,「
ヒト上科(テナガザル科,ヒト科を含む) →「ヒト科(オランウータン亜科,ヒト亜科) →「ヒト亜科(ゴリラ族,ヒト族) →「ヒト族(チンパンジー亜族,ヒト亜族)の中のヒト亜族(サヘラントロプス属,アウストラロピテクス属,ヒト属(ホモ属))という具合になります。

 かつては,われわれ現生人類とチンパンジーは遺伝的に遠い関係にあると考えられていましたが,DNAの解析を進めていくと,どうやらわれわれ
人類チンパンジーは遺伝情報的には1%しか違いがなく,同じ「ヒト族」に属するということがわかってきました。
 つまり,われわれにいたる進化の過程をたどっていくと,どこかの時点でチンパンジーとの“共通の祖先”にさかのぼることができ,さらにさかのぼるとゴリラとの“共通祖先”にたどりつく可能性があるということです。
 チンパンジーからいきなりわれわれ
現生人類が枝分かれしたわけではなく,チンパンジーと現生人類をつなぐ,すでに絶滅してしまった我々とは異なる種に属する人類(化石人類)が存在していたのだと考えられています。

 しかし,19世紀以前には,われわれ人類が出現する以前の地球に関する情報は,ほとんど知られていませんでした。例えば,17世紀の英国国教会アイルランド大主教〈アッシャー〉らの『聖書』をもとにした推定により,天地創造は紀元前4004年との知識が“常識”となっていました。つまり地球ができてから現代のわれわれまで,約6000年しか経っていないということになります。1878年にイグアノドンの化石がイギリスで発見されて研究が進展するまでは,大型爬虫類(
恐竜)が,約2億3000万年前から約6500万年前の間に地球に存在していたことも知られていませんでした。
 地球外からの
隕石の衝突地球寒冷化を原因とする恐竜の絶滅後,代わって新生代には哺乳類が地球各地に拡散し繁栄しました。やがて霊長類が出現し,この中に属するヒト上科とオナガザル上科がおそらく2500万年前後に分岐し,それが「ヒト族(チンパンジー亜族,ヒト亜族)につながるのです。
 では,われわれの属するヒト亜族と,チンパンジー亜族は,いつ,どのように分岐したのでしょうか。両者をつなぐ“ミッシング=リンク”
(失われた鎖の環。欠けた部分に想定される化石生物のこと)は,かつてイギリスの生物学者〈ダーウィン(18091882) 【セH12カントとのひっかけ】【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦)】によって「アフリカから見つかるはずだ」と予測されていました。
 そんな中,20世紀後半から世界各地で化石人類の化石が見つかるようになり,20世紀前半には〈ダーウィン〉の予言どおりアフリカ南部から東部で,のちのホモ属につながる「最も古い人類」が発見されていきました。

 ホモ属につながると考えられる
アウストラロピテクス属に属するという人類種(しゅ)は,1924年に南アフリカで初発見され(アウストラロピテクス=アフリカヌス,300万~250万年前)1959年にタンザニアのオルドヴァイにおけるジンジャントロプス(270万~120万年前)の発見で一躍世界中に注目されます(注)
(注)ジンジャントロプスは,アウストラロピテクス属ではなくパラントロプス属の種とする研究者もいます)なお,1974年には発掘作業中のビートルズの楽曲にちなみ”ルーシー”として知られるアウストラロピテクス=アファレンシス(380万~300万年前)の保存状態の良い化石がエチオピアで見つかっています(現在のエチオピア南西部のオモ川下流域は,さまざまな時代の人類化石の出土する重要地域となっています(◆世界文化遺産「オモ川下流域」,1980))。

 アウストラロピテクス属は約400万~約200万年前の南・東アフリカの森林に生息し,伝統的には「猿人【セH4ホモ=サピエンスではない】に分類されます。彼らは木から降り直立二足歩行をしており,自由になった両手を使って石器を製作・使用していました。南アフリカではじめに発見され,東アフリカ一帯の広い範囲で化石が発見されてきたため,“人類のゆりかご”は東アフリカだったと考えられてきました。

 しかし,20世紀終わりから新発見が相次ぎ,従来の定説は塗り替えられつつあります。

 まず,人類種の出現年代がどんどんさかのぼっていきました。1994年には日本の〈諏訪元〉(すわげん,19541994年にエチオピアで440万年前の化石とされる
ラミダス猿人(アルディピテクス=ラミダス)を発見しました。しかも,生息していたのは想定されていたような草原地帯ではなく森林地帯であった可能性があり,定説を覆しました。また,2001年にはエチオピアでアルディピクス=ガダバ(580万~520万年前),ケニアでオロリン=ツゲネンシス(600万~580万年前)の化石が報告されています。
 そしてさらに2002年には,西アフリカの
チャドで,約700万年前のサヘラントロプス属という種がフランスの研究チームにより報告され,トゥーマイ猿人と名付けられました。サヘラントロプス属は,チンパンジーからヒト科に分かれた直後の種,つまり最古のヒト科ではないかとされるようになりました。彼らは直立二足歩行をしていたと考えられるものの,半分は地上,半分は木の上で生活(半樹上生活)していたとみられます。
 チンパンジーからの分岐に迫る化石が発見されるにつれ,「縮小した犬歯」の特徴は確認されるものの,”直立”二足歩行をしていたとは言い切れないような例も見つかるようになっています。また,どのように分類するべきかを巡っては決着がついていないものも少なくありません。どこからが人類でどこまでが人類でないかという判定は,研究者によっても様々です。


◆猿人は絶滅,原人もユーラシア大陸に進出したが絶滅した
猿人と原人は,繰り返される氷期の中で絶滅した
 現在わかっている中でもっとも古いホモ属(ヒト属)は,ホモ=ハビリス(240万年前~ 140万年前)で,東アフリカのタンザニアで見つかりました。伝統的に,彼らは「猿人」と「原人」の中間に分類されています。この頃から約1万年前までの間を「旧石器時代」と区分します【立教文H28この時期にはヤギ・ヒツジの飼育は始まっていない】。旧石器というのは文字通り「古い石器」ということで,主に打製石器が道具として作られ,使われた時期にあたります。石器時代を,「旧→中→新」の3つに区分するのは,18世紀前半に提案された伝統的区分です。

 アウストラロピテクス属や,そこから分岐したホモ属は,石を加工して
石器という道具を製作していました(最古の石器の時期には定説はありません)。打ち割って作られた石器のことを打製石器といい,打製石器が主に見られる時代を旧石器時代といいます。はじめは石の一部を打ち欠いてつくった単純な礫石器(れきせっき) 【セH4「石を内欠いただけでの簡単な打製石器」を猿人が使用していたと推定されるか問う】が主流でしたが,のちに“切る”“削る”“掘る”作業のために,石を打ち欠いて形を整えた石斧(ハンド=アックス)が製作されるようになりました。
 旧石器時代は,厳しい気候変動を経験した時期でもあります。地質学者の研究により,地球上には今まで何度も
氷期という寒冷期があったことを突き止めています。旧石器時代には氷期は2度ありました。

 170万年~7万年前には,
北京原人【セH4狩猟・採集生活を送っていたか問う】【追H21火を使用していたとされるか問う】ジャワ原人【セH11:土器を使用していたか問う】の名で有名な,ホモ=エレクトゥスが登場しました。彼らは昔は「ピテカントロプス=エレクトス」として,ホモ属とは別種の「原人【セH4時期(約50万年前)。アジア・アフリカ・ヨーロッパにわたる広い地域で生活していたか問う】と分類されてきましたが,現在ではホモ属の一種であるとされています
 ジャワ原人の化石は,オランダの植民地時代の19世紀末に,オランダ人の軍医〈デュボワ〉(18581940)が発見したものです(◆世界文化遺産「人類化石出土のサンギラン遺跡」,1986。ジャワ島の中部にあります)。
 北京原人の化石は,日中戦争の混乱の中で行方不明となっており,現在ではレプリカのみが残されています。

 彼らは猿人よりも身体や脳容積がひと回り大きく,ホモ属として初めてアフリカの外に移動を開始し(原人の“
出エジプト),ユーラシア大陸の広範囲に移動・居住しました。
 人類最初の“エネルギー革命”ともいえる,
火の使用【セH4北京原人が知っていたか問う】【追H21 北京原人かどうか問う】【立教文H28旧石器時代かどうか問う】が確認されているのは,彼らの段階からです。人類は火を手にしたことにより,消化しやすいように食べ物を調理することができるようになり(料理の誕生),暖をとったり動物を追い払ったりすることもできるようになりました。
 彼らの喉や口の構造から,
言語【立教文H28旧石器時代のことか問う】によるコミュニケーションも可能だったのではないかと考えられています。


◆アフリカからユーラシア大陸にわたった原人は,のちにネアンデルタール人に進化した
ネアンデルタール人は,我々と同時期に存在した
 ホモ=エレクトゥスの一部はアフリカに残留し,さらなる進化を遂げます。
 60万年前に
ホモ=ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルク人)。彼らはヨーロッパのドイツで発見されているように,一部はアフリカを出て,ヨーロッパに到達しました。
 
 20万年前に一旦温暖な気候に向かった地球は,一転して195000年前~123000年前頃まで
氷期を迎えます。寒さのゆるむ間氷期(かんぴょうき)をはさんで,約7万年前に最期の氷期,すなわち最終氷期がホモ属を襲いました。
 この時期には,北アメリカでは北緯40度近くまで,ヨーロッパでは北緯50度近くまでが
氷床(ひょうしょう)に覆われていたことがわかっています。また,森林があった地域は荒れ地か草地になり,沙漠が拡大しました。
 この寒冷化の原因として,約7万年前に大噴火したインドネシアのスマトラ島にある
トバ火山の噴煙を挙げる学説もあります。この説によると,地球の平均気温が5度近く下がってホモ=エレクトゥスは完全に滅び,ネアンデルタール人とホモ=サピエンスが生き残ったのだとされます。

 そんな気候の大激変期をユーラシア大陸で生き抜いたが,
ネアンデルタール人【セH17ラスコーとのひっかけ,セH199000年前ではない】【セH4時期(旧石器時代後期)】です。ヨーロッパに到達したホモ=ハイデルベルゲンシスが,ヨーロッパで進化しネアンデルタール人につながったのではないかと考えられています。
 彼らは伝統的に「
旧人【セH4磨製石器を使用して狩猟していない】と呼ばれるヒト属の一種で,約40万年前に出現しましたが,後からユーラシア大陸に進出したホモ=サピエンス(20万年前に出現)に圧倒されて,約4万年前に絶滅しました。死者の埋葬【立教文H28記】の風習があったことが確認されています。

 ネアンデルタール人は,DNA鑑定の結果,現在のわれわれ「ホモ=サピエンス(ヒト)」とは別の種(
ホモ=ネアンデルターレンシス)なのですが,共通点もあります【セH4現在の人類とほぼ同じ形質の新人であったか問う】
 アフリカに残ったホモ=ハイデルベルゲンシスから進化したと考えられています。最近では,ホモ=サピエンスの中に彼らのDNAが混ざっていることも明らかになっており,両者の間で交流があったのではないかともいわれています。

◆人類(新人,ホモ=サピエンス)20万年前にアフリカで生まれ,世界中に広がった
ホモ=サピエンスは,アフリカで生まれた
 アフリカに残留したホモ=ハイデルベルゲンシスから,ホモ=サピエンス【セH4「猿人」ではない】が進化しました。ホモ=サピエンスとは,つまり私たちの種に当たります。
 つまり,一昔前に考えられていたように「旧人から新人に進化した」わけではありません。むしろ,旧人のネアンデルタールと,新人のホモ=サピエンスが同時に存在していた時期があったことになります。ネアンデルタール人がなぜ滅んだのか詳しいことはわかっていませんが,ホモ=サピエンスのほうが集団での狩猟技術に長けていただけではなく,ホモ=サピエンスとネアンデルタール人との抗争があったのはないかという研究者もいます。
  「ホモ=サピエンス」とは「知恵ある人」という意味で,18世紀に「学名」を提案したスウェーデン人の博物学者
リンネ【東京H9[3]】【セH16ジェンナーではない,セH29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない】が名付けました。
 我々の細胞内にあるミトコンドリアDNAの解析を調べた結果,ホモ=サピエンスは,数回にわたってアフリカを出て,全世界に広がっていったことがわかっています。現在,各地域に分かれている民族のDNAを解析すると,どの時期にアフリカを出た集団なのかがある程度つかめるようになっています。Y染色体ハプログループという部分に注目すると,アフリカを出た
ホモ=サピエンスは,イランのあたりで南ルート北ルート西ルートに分かれ,それぞれオーストラロイドモンゴロイドコーカソイドの特徴を持つようになり,アフリカを出なかった者はネグロイドの特徴を持つようになったのではないかと考えられています。つまり,現在のわれわれの全員の祖先は,アフリカにいたということです(単一起源説アウト=オブ=アフリカ説)。われわれのDNAに共通に受け継がれているミトコンドリアDNAを分析すると,われわれの母方をたどっていくと,約2012万年前にアフリカにいた共通の女性(“ミトコンドリア=イブ”)にたどり着くのではないかという説も出されています。



◆ホモ=サピエンスは南北アメリカを除く四大陸に拡散する
アフリカ→ユーラシア→オセアニアに移動する

◆北ルート
ホモ=サピエンスは高緯度地域にも適応していく
 ホモ=サピエンスは約10万年前に初めてアフリカ大陸を出たと考えられています。
 約10万年~9万年前にアフリカを出た人類は,地中海や西アジアに広がりました。
北ルートをとったホモ=サピエンスのうち,フランスで発見されたクロマニョン人【セH4旧人ではない】が知られています。

 その後,6万年前までに
北ルートをとったホモ=サピエンスは,中央ユーラシア,東アジア,東南アジアに進出します。中国の北京で発見された周口店上洞人,沖縄県で発見された港川人の化石がその例です。

 先述の通り,ホモ=サピエンスがユーラシア大陸に到達したころ,そこにはすでに
ネアンデルタール人【セH4時期(旧石器時代後期)】の姿がありました。しかし彼らは“食料確保”の面でホモ=サピエンスに劣っていたため,生存競争に負け,前4万年頃までには絶滅してしまうのです。

 ホモ=サピエンスはすでにこのころ,動物の毛皮を
衣服として用いていました。普通に巻いているだけではずり落ちてしまいますから,動物の骨からを発明して,繊維を使って縫ったのです。この“衣服革命”により,素っ裸のネアンデルタール人は圧倒されていきます。

 なお,もともと高緯度地域というのは日射量が少なく,太陽光線を受けて体内で生成されるビタミンD(骨の生成に必要)が足りなくなり,病気になってしまうおそれがありました。たまたま肌の色が薄く(つまりメラニン色素が少なく)生まれた人のほうが,効率よくビタミンDをつくることができ,骨の病気にかからずに済んだのでしょう。こうして北ルートをとった人々の肌は,アフリカに残った人々よりも薄い色が主流なっていきました。環境に適応して,外見的特徴が変わっていったのです。

 ホモ=サピエンスはまた,
投げ槍を発明し,マンモスのような大型動物を大量に狩猟することに成功。さらにイヌの家畜化により,獣を追い込む方式の狩りが可能になりました。また,仲間でコミュニケーションをとり,協力をする能力にも優れていました。一方,待ち伏せや,手に持った斧による攻撃で獲物を仕留めていたネアンデルタール人は劣勢になっていきます。ホモ=サピエンスはさらにその骨で住居を作るなどし,寒さをしのぎました。


◆南ルート
ホモ=サピエンスは陸続きのオーストラリアに達する
 
南ルートをとったホモ=サピエンスがオセアニアに到達した,約6万年前から約5万年前の期間は,地球上の気温が一時的に上昇した時期にあたります。
 オセアニアとは,ポリネシアとメラネシア,それにミクロネシアという3つの地域から構成されます。
 ニュージーランドとハワイ諸島・イースター島を三角形で結んだ範囲の
ポリネシア。ニューギニアからニュージーランド北部までの赤道以南の地域であるメラネシア。フィリピンの東にあるグアムやサイパンなど,だいたい赤道以北の島々が分布するミクロネシア

 南ルートで移動して
オーストラロイドという人種に分類される人々は,当時陸続きだったニューギニア島からオーストラリア大陸,タスマニア島にかけて移住したとみられます。今よりも海面は80メートルも低かった時期ですが,ジャワ島の東側からニューギニア島までは,丸木船で島を点々とホップして海を渡る必要がありました。丸木船は,はじめはアウトリガーカヌーという船体の片方の横に浮きをつけて安定させたものが,遠洋航海には船体を横に2つ連結させた双胴船(ダブルカヌー)いう大きな船が用いられました。アフリカから拡散した人類は,ここで初めて海を渡る大規模な移動をおこなったのです。オーストラリア西南部の内陸にある遺跡からは,エミューの卵とともに貝殻が発掘されています。

 かつて,ニューギニア島とオーストラリアは一体化して,「
サフル大陸」という大陸を形成していました。 ボルネオ島やジャワ島などは,ユーラシア大陸と合体していました(スンダ陸棚)。ニューギニア島とオーストラリアもくっついています(サフル大陸)。スンダ陸棚とサフル大陸の間には100キロメートルの海域があったため,現在でもサルはスンダ側にはいますがサフル側にはいませんし,カンガルーなどの有袋類はサフル側にはいますがスンダ側にはいません。
 しかし人類は,約3万5000年前頃までには,この海域を
で移住することに成功したのです。
 その後の海面上昇によって前8000年~前6000年頃にニューギニアと切り離されると,オーストラリア大陸にいた人類は外界から取り残され,その後長期にわたって狩猟採集文化を維持しました。
 一方,ニューギニア島では前7000年~前5000年頃にタロイモやサトウキビの農耕をおこなっていた形跡も残されています。

 しかし,人類の移動は
ソロモン諸島(ニューギニア島のさらに東に位置する島々)で一旦ストップします。これより東にいくと島がまばらになり,航海が困難になったためです。ここまでを「ニアーオセアニア」,ソロモン諸島よりも東を「リモートオセアニア」と呼ぶことがあります。


◆東ルートをとった人類は,寒冷地域にも進出する
ホモ=サピエンスは寒冷地域にも適応していく
 そのうち,東ルートをとったモンゴロイド人種は,ユーラシア大陸東部に広がっていきました。
 日本の沖縄県では前16,000年前の新人である
港川人が発見されています。日本列島では縄文人が縄文文化を発達させていました。港川人と縄文人との関係はわかっていませんが,南方の東南アジアとの関係性も指摘されています。

 この地域の人々が次に向かったのは,寒冷な地域です。3万5000年前までにはロシア,2万年前までにはシベリアに到達しています。

 ところで,3万年前頃に地球は,再び寒冷で乾燥した気候に逆戻りしています。
 このとき,沙漠が拡大し,森林が減少しました。2万1000年前から1万7000年前の間がピークだったとみられ,人類は一番寒い時期に寒さに立ち向かっていたのです。

(注)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001,p.14




●約700万年前~前12000年のオセアニア

 アメリカ大陸からオセアニアに目を移しましょう。
 南半球には
オーストラリア大陸があります。ここに人類がわたったのは約6万年前のことです。

 最終氷期には東南アジア方面から陸橋(りくきょう)がつながっていましたが,完全に陸続きではなかったため移動には
も用いられたとみられます。

 南部のウィランドラ湖地域(約20000年前に干上がった湖の跡地)からは,新人の遺跡やアボリジナル(アボリジニー)の祖先の岩絵が見つかっています(◆世界複合遺産「ウィランドラ湖地域」,1981)。
 オーストラリア北部は,熱帯からサバナまで多様な自然環境がみられる地域。ここでは,まるでレントゲンで透視したかのように骨格や内臓を浮き出したに動物・人間の岩絵(
X線画法と呼ばれます)が見つかっています(◆世界複合遺産「カカドゥ国立公園」,198119871992範囲拡大,2011範囲変更))。

 この時期に人類は,
ニューギニア島からソロモン諸島にまで移動しています。
 
ニュージーランドや,南太平洋・東太平洋にあたるポリネシアの大部分には,まだ人類は到達していません。




●約700万年前~前12000年のアジア


 東アジアには,現在の北京郊外の周口店に新人段階の周口店上洞人(しゅうこうてんじょうどうじん)の化石が発見されています。ここからさらに北に進んでベーリング今日を越えていく集団もいました。また,朝鮮半島を経由して前4万年前には現在の日本列島にも移住する集団が現れます。
 南アジアには前6万年頃に最初の移住があったとみられます。
 これらの地域では海産物が重視され,海岸付近や河口付近に住む場合が多く見られました。

 西アジアには10万年前に最古の埋葬跡がみられます(イスラエルのカフゼー洞窟)。また,イスラエルのナトフ谷では
自生する穀物の集中管理・貯蔵が行われていました。まだ農業とはいえませんが,やがてこの地で史上初の農業がはじまりを告げます。前12000()には石臼(いしうす)の使用が西アジアで始まっています。
()ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.15





700万年前~前12000年のアフリカ


 アフリカ人は現生人類の揺籃(ようらん)の地です。
 アフリカ南部に移動した集団は,12万年前頃から集落を残し,前42000年にはライオン洞窟で体に塗りつける赤い顔料(赭土)が出土,アポロⅡ遺跡にはアフリカ最古の岩絵(26000年前
())を残しています。
 なお,この頃のサハラ地方は比較的雨の多い気候であり,チャド湖も現在の数十倍の面積でした(
大チャド湖)
()ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.14



700万年前~前12000年のヨーロッパ


 人類は前35000年ころまでにヨーロッパに移動していますが,このころはまだ氷床が大部分を覆っている状態。もともとネアンデルタール人が居住していましたが,現生人類に圧倒され,イベリア半島で前27000年に最後のネアンデルタール人が絶滅しました()
()ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.14



○特集 ホモ=サピエンスは,どんな動物か


 このように,ネアンデルタール人を駆逐して,全世界の環境に広がったホモ=サピエンスは,発達した大脳新皮質をコンピューターのように駆使し,感覚・運動・知覚・感情・記憶・思考などのさまざまな情報を処理する能力に長けていました。もちろん,ネアンデルタール人にも言語はありましたが,複数の情報をもとにアタマの中で考えたことを,仲間で共有する能力は,ホモ=サピエンスに軍配が上がります。この飛躍的な情報処理能力の発達を“認知革命”ともいい,今後ホモ=サピエンスがさまざまな分野で活躍していく前提条件ともいえます。

 動物であれば,
情報が世代を超えて受け継がれることはありません。
 しかし,人類は情報を言葉で伝えたり共有したりすることで,次の世代に伝えることができます。
 どうすれば寒さがしのげるか。服を縫うには何が必要か。家を立てるには,狩りをするにはどうすればよいか。これらはみな,当時の人類が積み重ねていった情報の結晶といえます。

 さらに人類は,目には見えない抽象的なイメージを,
や言葉でストーリー(物語)に発展させたり,踊り絵画彫刻などの形に残し,他の人と共有したりすることができるようになっていました。

 狩猟採集を通して自然の恵みと猛威を直接うけていた人類が,自分自身や自然に対してどのような思いを抱いていたのかは定かではありませんが,4万年前頃からオーストラリアでみられる
アボリジナル(アボリジニ)【セH27の洞穴壁画に登場する神話のような絵,3万年以上前のフランスのショーヴェ洞穴壁画,2万年前頃から描かれたフランスのラスコー洞穴壁画【セH5図版「ウマの像」。「フランスで発見された」とある】【セH17や,1万8000年前頃から描かれたスペインのアルタミラ(アルタミーラ) 【セH5ラスコーとのひっかけ】【セH17ラスコーとのひっかけ】【追H20】【立命館H30記】洞穴壁画では,人類と動物【追H20「動物の絵が見られる」か問う】との間の生き生きとした交流が描かれています。ショーヴェ洞窟にはふさふさの毛をもつサイの仲間であるケサイ,ラスコー壁画には牛の祖先の野生種オーロックスの姿が描かれています。南ヨーロッパが現在よりも寒冷であったことが推測できます(◆世界文化遺産「ヴェゼール渓谷の先史的景観と装飾洞窟群」,1979(注))。
(注)ラスコーは現在は立入禁止となっていますが,精巧に復元された近くのラスコーⅡが一般公開されています。

 手を壁に当て,絵の具を口からブッと吹きつけて残した手形(ロックアート)も,世界各地でみられます(◆世界文化遺産「ピントゥラス川のクエバ==ラス=マノス」,1999。現在のアルゼンチン南部のパタゴニア地方に残る800以上の手形)。

 2万5000年前頃からユーラシア大陸では,現在のオーストリアのヴィレンドルフ
【立教文H28アルタミラ,グリマルディ,ネアンデルタールではない】などで「ヴィーナス」と呼ばれる女性の裸像が多く見つかっており,こちらは土地の神(地母神)への信仰と関係があるのではないかという見方もあります。「死」という限界が今よりも格段にリアルだった当時の人類にとって,豊かな恵みと厳しい脅威を与える「自然」に対する信仰は,自然に生まれていったのでしょう。また,「人はなぜ生まれたのか?死んだらどうなるのか?」という問いも,世界各地の人類によって,だんだんと独自に説明されるようになっていきました。

 このように人類は,目には見えない“不思議な力”やこの世界の成り立ちを仲間で共有し,共通の活動や儀式をおこなうことで,自分たちが
生まれてきた意味死んでいく意味を納得しようとしたわけです。こうした人類特有の世界観やそれに基づく行為を「宗教」といいます()
 当時のホモ=サピエンスは,現代のわれわれよりも「自分が自然の中の一員なのだ」という思いを切実に感じていたはずです。例えば,ある動物を一族の守護神として大切にする
トーテミズム。「自分たちの仲間の祖先はライオンで,ライオンをまつることで自分たちにもパワーが宿る」と考えるわけです。また,聖霊(アニマ)が自然界の動植物や無生物に宿っていると考えるアニミズム。これらは想像上の世界であるわけなのですが,“目には見えない”世界について語り,共有することによって,互いに仲間意識を強めていくことができたのです。
()「世界には日常の体験によっては証明不可能な秩序が存在し,人間は神あるいは法則という象徴を媒介としてこれを理解し,その秩序を根拠として人間の生活の目標とそれを取り巻く状況の意味と価値が普遍的,永続的に説明できるという信念の体系」(『日本大百科事典』「宗教の項」)
 また,「…宗教の世界の概念は,生活がなされ,演技がなされ,何かが体現される世界である。それは,いつも神に祈る,肉体から遊離した精神だけの世界ではない。……より全体的な見通しに立てば,宗教的な人々は,膨大な行動様式の多様性の中に聖なるものを表現する演技者である。宗教の世界は,教義の歴史や宗教哲学の中にだけ体現されているのではなく,祭りや記念祭,通過儀礼,暦,修行の諸形態,家内の聖なるもの,塑像や絵画,特別の衣服や象徴的な事物,病気治療と祈禱の技術,聖歌と宗教音楽,そして無数の各地の家族や国民の習慣など,あらゆる行動や状況の中に体現されている。」 (阿部美哉『比較宗教学』(大法輪閣,2014)pp.49-50)
 かつて人間は,食料の源を強く意識せねばならない環境下にありました。そこでは,人間と自然はいわば渾然一体に近い関係にありました。熊が山から贈られてくるという考えから,熊の神に祈念する狩猟民もいます。その過程で,人類は自然の背後にあって,様々な恵みと災いを贈与する存在に対して,さまざまな考えと行動を生み出してきました。
 自然は,恵みを与えてくれるだけでなく,同時に畏怖(いふ)を抱く対象でもありました。人間はある時期から,あらゆる自然現象の背後に,なんらかの行為主体を認識するようになったと考えられます。「自然界の激変は目にみえる世界の向こう側に何か得体のしれない力のあることを感じさせる。さらにまた,生命ある人間の死,とりわけ慣れ親しんだ身近な霊魂は目に見える世界の向こう側に今もいきつづけるという思いがしてならないのだ》(本村凌二『多神教と一神教―古代地中海世界の宗教ドラマ』岩波新書,2005年,p.25)。自然に対する崇拝や,供犠(きょうぎ)のような儀式も,行き過ぎた自然破壊に一定の歯止めをかける行為であったことを評価する説もあります(中村生雄他編『狩猟と供犠の文化誌 (叢書・文化学の越境)』森話社,2007年,p.179)。そして,こうした宗教的な営みの中で,しばしば王権は,人間の世界(ミクロコスモス)と自然の世界(マクロコスモス)を媒介する存在として,歴史を通じて様々な形の神聖性を帯びることも少なくありませんでした。
 宗教的な実践神聖な対象に対する「行為が定式化されて,非日常的な神聖な行為として宗教儀礼,祭礼」の形がとられることがあります(『日本大百科事典』)。儀礼(反復される形式的行動)は,国家をはじめとする権力とも結びついてきました。ビザンツ帝国の皇帝が,コンスタンティノープル総主教によって戴冠される際に人民からあがる叫びや歓呼も様式化されたものであったことが分かっています(尚樹啓太郎『ビザンツ帝国の政治制度 (東海大学文学部叢書)』東海大学出版会,2005年,pp.11-12)
 「形式的行動は視覚化されるために,儀礼は,抽象的な権力を目に見えるかたちに換え,知識の共有(という観念)を人々に可能にする(「人々がその事を知っている」ということを皆が知っているということを可能にする。これは人々の対立を緩和させる)。》(p.206)(中略)…「国家は儀礼と通して表現される。それ以外に国家を全的に表現する手段はない」(青木保『儀礼の象徴性』東京・岩波書店,1984),「儀礼の執行を通して国家が作り出される」(山下晋司『儀礼の政治学―インドネシア・トラジャの動態的民族誌』東京・弘文堂,1997)という考えがある。人々は,儀礼行為を通じて,支配されているという感覚をもつことなく,権力の生成に自ら参加する。あるいは,人が主体的に動いているようにみえて,実は権力の枠組によって動かされる状況を,儀礼行為は比較的容易につくることができる。…(中略)…儀礼は,伝統的・恒常的である,という観念を創り上げることで,実際におきている変化を正統化/正当化する文化装置ともいえる。」(妹尾達彦「前近代中国王都論」中央大学人文科学研究所研究叢書『アジア史における社会と国家』中央大学出版部,2005年,pp.206-207)
 われわれが歴史上の宗教について理解するには,歴史上の人びとが,何に対して権威を感じていたのかということを推し量りつつ,彼らがいかなる儀礼的な行為を社会の中で共有し,現実的に利益を感じていたのかということに注目することが必要です。

 そのような“理想”や“願い”を実現するため,自然に手を加えたり形を変えたりする方法を
技術といいます。人間は,知能を働かせて,自然に対して積極的にイメージ通りに手を加え,特定の技術に関する情報を,世代を越えて受け継ぐことができる存在となったのです。そうすれば,石器を作るにも,いちいちゼロから考えずに済みますし,情報が人伝いに拡大するに従い,世代を経るに従って技術がだんだん進歩していくというわけです。

 しかし,一方で人間はライオンに比べ圧倒的にか弱い存在です。時間は有限であること,自分自身に限界があることを理解したホモ=サピエンスは,ときにそれに逆らいながらも,どうしたら豊かな人生を送ることができるのか“理想”を描き,それを仲間と共有する中で地域ごとに特色のある
文化が生み出されていきました。
 文化は,その土地土地の自然や気候と密接な関わりがあるといわれています。一年中常夏の地域と,四季の移ろいのある地域とでは,人々の共有する感性に違いが出てくるわけです。「自分がどういう人間なのか」「どんなふうに生活するべきなのか」を気づかせ,影響を与えるような自然環境のことを,哲学者〈和辻哲郎〉(18891960)は「
風土」と呼びました。
 ホモ=サピエンスは初め,多くの動物と同じように
狩猟・採集を中心とする生活を送っていました。自然にあるものを獲り交換・分配・消費する仕組みを獲得経済と呼びます。
 しかし,地球が温暖化に向かうと,やがて世界の多くの地域で植物の栽培,さらに家畜の飼育が始まりました。自然に積極的に働きかけ,自然を作り変えることで価値ある物を生み出す営みを
生産経済といいます。
 ただし獲得経済にせよ生産経済にせよ,資源には必ず限りがあります。これらをどのように分配していくかということが問題となります。
 限りあるもの(目に見える物や,目に見えない労働力も含む)を人々の間で交換したり,取り合ったりすることを
交易といいます。交易がうまくいかないと,飢え戦争(略奪)に発展することもあります()

()「交易」という言葉を広い意味でとらえると,次のように考えることもできます。「人間は自然と関係するとき,肉体を動かすだけではなく,呪術・宗教・「理論的」表象のなかで観念的に交流し交通しながら,その観念的表象に合わせて自然から材料を切り取り(「略奪」「搾取」とも言えるが),切り取られた材料を,一つの空間から他方の空間に移動させるし,特定の時間から他の時間へと移動させながら,一方では材料を観念のなかで加工し,他方では物質的・身体的な行動のなかで変形する。人間が生産し労働することも,十全なる権利をもって,交易とみなすことができる。」今村仁司『交易する人間(ホモ・コムニカンス)――贈与と交換の人間学』講談社選書メチエ,2000年,p.54

 人間はライオンのような鋭いきばや爪もない弱い存在ですが,道具を用いれば他人の命も奪うことも可能です。たしかに,暴力を使えば短期的には相手集団もいうことを聞くかもしれません。しかし戦いは“敵”と“味方”を生み出し,次の世代にも爪あとを残すかもしれません。長い目でみると,お互いが納得のいく仕組みをつくったほうが,お互いにとっても合理的な場合は少なくありません。ホモ=サピエンスは長い歴史の中で,より多くの人々が納得できるような様々な“しくみ”(制度)を考え出していきます。世界史は,ホモ=サピエンスによるその試行錯誤の歴史でもあります。「もうこれ以上はよくならない」「今のままで問題ない」と立ち止まるのではなく,われわれの先祖の“しくじり”に接することで,未来を考える。それが,世界史を学ぶ意義の一つです()
()世界史を学習すると,人間は競争がすべてで弱肉強食から生き残った者が勝つのだという“社会闘争”的な印象を抱きがちです。たしかに,そのような局面もあったかもしれませんが,人間は平和によりよく生きていくために,よりよい社会制度を産み出そうとしてきたのです。さもなくば,戦いに明け暮れる戦争だらけの歴史観に陥り,「昔の人は好戦的で愚かだったのだ」「民衆はいつでも支配者と闘争し“普遍的価値”を勝ち取ってきたのだ」という白か黒かの評価を与えかねません(小川幸司『世界史との対話――70時間の歴史批評()』地歴社,2012年,p.4)。事態はもっと動態的で,多層的なのです。