3500年~前2000年の世界
人類の生態の多様化②

 ユーラシア大陸・アフリカ大陸では、乾燥地帯で灌漑農業が始まり、定住集落が大規模化する(古代文明の成立)。乾燥草原地帯では、牧畜遊動民のエリアが拡大する。
 南北アメリカ大陸では、中央アメリカや南アメリカのアンデスで狩猟採集のほかに農耕・牧畜の導入も始まる。

時代のまとめ
(1) ユーラシア
 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では、農耕・牧畜が広い範囲に広まり、経済的な基盤となる。
 経済的資源をコントロールしようとした指導者が、軍事組織と信仰組織とも関係することで、地方では集落が都市に発展して政治的な統一がすすむ。

 内陸部の乾燥草原地帯では、馬を利用した牧畜文化が拡大する。中央ユーラシア西部にはヤムナヤ文化に次いでカタコンブナヤ文化、中部~東部にはアファナシェヴォ文化に次いでアンドロノヴォ文化が栄える。この時期の終わりまでに
青銅器を受け入れ、車輪も使用していた。
 

 一方、
大河の流域では都市国家群が栄える。
 例えば、前3150年?~前2584年?の間にエジプトでは初期王朝時代を迎え、
古王国(前2584?~前2117?)の時代には大規模な記念建造物(ピラミッド)が建設される。
 東アジアでは、黄河流域で
竜山文化(前3000年紀)という農耕を基盤とする文化が栄える。モンスーンの影響を受ける湿潤な長江流域にも農耕文化が栄える。
 南アジアでは、インド亜大陸の北西部のインダス川流域に
インダス文明(前2500年~前1700年)が栄える。交易ネットワークの中心として栄えた都市国家群であったとみられる。
 西アジアのメソポタミアでは、
ウルク期からアッカド帝国の時期にあたり、農耕を基盤とする都市国家群が栄える。

(2) 南北アメリカ
 南北アメリカ大陸では狩猟・採集・漁撈に加えて、中央アメリカや南アジアのアンデス地方で農耕・牧畜も導入される。
 



3500年~前2000年のアメリカ


○前3500年~前2000年の北アメリカ
 
北アメリカの北極圏周辺には,カリブー(トナカイ)を狩猟する人々が生活しています。


 北極圏よりも南の北アメリカ一帯には,
インディアンの諸民族が,各地の気候に合わせて生活をしていました。
 北アメリカ東部には狩猟・採集民,太平洋岸には狩猟・漁労・採集民,南西部の乾燥地帯には狩猟採集民が生活しています。
 前
3000年には,北アメリカの中部の大平原地帯の人々は,バイソン(バッファロー)の狩猟文化を生み出しています。バッファローの皮を使ったティーピーという円錐形のテント,同じく皮で作ったモカシン靴という履物,盾や日用品などが,バッファローの骨から作られていました。アルゴンキン人アサパスカン人スー人の3つの語族が分布しています。





○前3500年~前2000年の中央アメリカ,カリブ海
◆中央アメリカやカリブ海では狩猟・採集・漁撈による生活が営まれ、農耕・牧畜も導入される
中米では狩猟・採集・漁撈に加え農耕・牧畜も

 前3400年頃には栽培種のトウモロコシが、ようやく5~7cmにまで大きくなっています。でも30cm前後になる現在のトウモロコシに比べると、まだまだです。

 中央アメリカではメキシコ南西部の太平洋沿岸に、ハマグリなどの貝塚が残されています(チャントゥト文化)。太平洋岸に比べて、豊かな自然環境を持つ
マヤ地域の高地(高地マヤ)の人々は、こうした先行する文化の影響を受けつつ、前8000年~前2000年にかけて古期に区分される文化を生み出しています。





○前3500年~前2000年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方に神殿が建設されはじめる
 南アメリカ大陸の太平洋側には、南北に
アンデス山脈が走ります(最高峰はアコンカグア山の6961メートル)。
 海岸からほど近いところに大山脈があるために平地が少なく,熱帯雨林気候,乾季のある熱帯気候,乾燥気候など,さまざまな気候がおおむね
高度別に分布しているのも特徴です。

 アンデス地方中央部沿岸はすぐれた漁場を有し、海岸付近の人々は
カタクチイワシ(アンチョビー)などの漁労にも従事していました。ウミドリの糞であるグアノも、古くから人々に利用されていた痕跡もみつかっています(⇒18701920年の南アメリカ 19世紀後半にはペルーを中心に輸出向けの開発が進展することになります)。漁獲量は沿岸の海水温に左右されます。海水温が暖かくなるエル=ニーニョや冷たくなる=ニーニャ現象と呼ばれ、この付近にとどまらぬ地球規模の海流や気圧の変動メカニズムによるものとされています

 沿岸部を流れる海流は南極方面から北上する
寒流であるため、沿岸部には乾燥した偏西風が吹きつける影響で、沙漠気候となります。
 沿岸部の気候と高山部の気候にはズレがありますから、高山部で降った雨が川となって沙漠に恵みをもたらします。また、沿岸部や山の斜面に発生する霧(ロマスと呼ばれます)も、野生の動植物の繁殖を助けます。

 海産物は基本的に季節に左右されませんから、人々はまず沿岸に定住して、カニとか貝などの海産物を漁撈・採集しました。
 やがて、山地で開発されていた農耕技術を、平地の河川地域に適応しようとする人々がやってきて、生態をこえた密接なつながりが形成されていくことになります
(注1

ペルー沿岸
 こんなプロセスをたどって、前2500年頃以降、アンデス中央部の山地~沿岸部に公共建造物が出現します。
 
公共建造物は、なんらかの「正義」を表現することで、人々を巻き込んで動かそうとした勢力によって建てられるものですですから、公共建造物が出現したということは、ある程度、食べ物が安定して獲得・生産されるようになって、その備蓄・分配・生産をコントロールしようとする人々が出現していたことの現れともいえます
 現在のペルーの太平洋岸近くの
カラル=スペ(◆世界文化遺産「聖都カラル=スーペ」、2009)からは、前3000~前1800年頃までの都市遺跡が残されています。広場とともに基壇(ピラミッド)状の構造物があって、農産物だけではなく海産物も発見されています。すでに情報伝達手段である組紐(くみひも)キープがみつかっています。
 現在のペルーの北部山地の
コトシュでは「コトシュ宗教伝統」と呼ばれる神殿遺跡がみつかっています。ここでは神殿が建てられては壊され、また建てられては壊されるという「神殿更新」の形跡がみとめられています。同様の習慣は日本の伊勢神宮(三重県)で20年毎に営まれる「式年遷宮」(しきねんせんぐう)にもみられますね。立て直しのたびに労力や物資が必要になりますから、次第に神殿が大規模になるに従い、その刺激を受けて生産規模・集落規模も拡大していったとみられています。


アマゾン川流域
 南アメリカのアマゾン川流域(アマゾニア)の熱帯雨林地帯には,狩猟・採集民が分布しています。前2000年にはすでに小規模な農村がつくられていました(2)。主食はマニオク(キャッサバ)の根っこです。
 乾季をもつ熱帯(サバナ気候)や,現在のアルゼンチンに広がる乾燥地帯の草原でも,狩猟民が生活をしていました。

(注1)関雄二「アンデス文明概説」、 増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS2000p.175
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。





3500年~前2000年のオセアニア


オーストロネシア語族が台湾から東南アジアに向けて移動を開始し,ラピタ文化を生み出した
 前4000年頃に台湾から南に移動を開始したオーストロネシア語族の人々(人種的にはモンゴロイド人種)は,東南アジア方面に向けて前1500年頃までに島伝いに移動をしていきました。
 前3000年頃にフィリピンからインドネシア方面に東西二手に分かれて南下し,前2000年頃にさらに東西に分かれ,東に向かった集団はニューギニア島北岸からビスマルク諸島に進んでいきました。
 彼らは船の航行にすぐれ,犬・豚・鶏を家畜とし,漁労を営み
黒曜石(こくようせき)を扱い,ラピタ土器(幾何学的模様をもつ丸みを帯びた土器)を製作しました。これをラピタ文化といいます。





3500年~前2000年の中央ユーラシア

◆牧畜の文化は,ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)の方面に広がる
ユーラシアが牧畜エリアと農耕エリアに分かれる

 前
4000年頃には,人類ではじめてウクライナの乾燥草原(ステップ)地帯で馬が家畜化されていました。定住生活を営む集団が主で,農業と牧畜を組み合わせた生活もしていたようです。

 この生活様式は前3000年紀末に気候が寒冷化・乾燥化するに従い
(注)、ユーラシア、ウクライナからカザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)を通って東方に広がっていきました。
(注)植生については時代による変化もあることに注意が必要です。例えば黒海に注ぐドン川流域では7000年紀~3000年紀まで森林が広がっていましたが、前2200年~前2000年にかけて森林が交替し、乾燥草原となります(甲元眞之「気候変動と考古学」『文学部論叢』97,2008年、p.1~p.52(http://reposit.lib.kumamoto-u.ac.jp/bitstream/2298/7901/1/BR0097_001-052.pdf))

西のヤムナ文化、東のアファナシェヴォ文化
 まず、ウクライナからドン川とヴォルガ川流域に広がる中央ユーラシア西部をみてみましょう。
 前3600年頃~前2200年頃に、
竪穴墓(ヤームナヤ;ヤムナ)文化が、黒海北岸からカスピ海北岸にかけて栄えます。
 銅製品を製作する銅器時代(金石併用時代)にあたります。
 すでに車輪が製作されていて、牛車が使用されていました。文化的には


 一方、中央ユーラシア中部~東部のカザフ=ステップ方面の文化を
アファナシェヴォ文化といいます。前3500年頃から前2500年頃に栄えました。
 牧畜のほかに狩猟もおこなわれていて、銅器時代から青銅器時代にかけての文化にあたります。

 これらの文化は,先行する同地域の文化も含めて
クルガン(高い塚(墳丘)という意味)文化とも呼ばれ,ユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいますが、論争に決着はついていません。

 クルガン文化の担い手の一部は,前3000年紀にはバルカン半島に広がっていたとみられます。


◆気候の寒冷化・乾燥化にともない、青銅器を受け入れた遊牧文化が変化する
西のカタコンブナヤ文化、東のアンドロノヴォ文化
 前2600年頃から前2000年頃まで,黒海北岸では地下式墳穴(カタコンブナヤ)文化が発達し,前2000年頃には南シベリアから中央アジアのカザフ草原にかけ,青銅器文化であるアンドロノヴォ文化が発展します。
 この東西2つの文化圏では,馬の引くことのできるスポークを付けた車輪や,馬具が発見されています。アンドロノヴォ文化の担い手は,のちにユーラシア大陸西部~中部に拡散していった
インド=ヨーロッパ語族のうちインドイラン系の人々につながるのではないかという説もありますが、詳細は不明です。

 前2000年頃になると,アンドロノヴォ文化の特徴と似ている青銅器が,東アジアの草原地帯(モンゴル)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で戦車青銅器が中国に伝わったとも考えられています。

 アム川シル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕を行う,定住集落が見られました。しかし前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する民族(インド=ヨーロッパ語族)が南下を初め,衰退することになります。





3500年~前2000年のアジア


○前3500年~前2000年のアジア  東アジア
・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である
縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく、各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は、現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が
八丈島(はちじょうじま)からも見つかり、神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから、日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め、前期~前後期にかけて拡大していたと考えられています(注)
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社、2001、p.92。



・前3500年~前2000年のアジア  東アジア 現③中国
 前
3000年紀になると,黄河中・下流域を中心に,黒色磨研土器(黒陶【セH24唐三彩のひっかけ】)を特徴とする竜山文化(りゅうざん,ロンシャン)が栄えました。竜山というのは,1930年にはじめて遺跡の見つかった竜山鎮にちなみます。前5000年紀の仰韶文化に比べると,集落の内部の階層化が進む例が多く見られるようになります。日用品としては灰陶が用いられました。都市が出現するのもこの頃で,山東省の城子崖遺跡(じょうしがい)のように城壁で囲まれた集落が見つかっています。
 この頃になると土器づくりには,ロクロが使われるようになります。土をのせた台座をくるくる回しながら,指の微妙な加減によって形をつくっていくこの作業には,熟練のわざが必要です。山東省の丁公遺跡の陶器のかけらに,11個の符号が書かれているものが発見されていて,文字ではないかという説もあります。
 人々はから繊維をとって服にしていましたが,前2700年頃からカイコガの幼虫((かいこ))のサナギの繭を煮詰めて生糸にし,よりあわせて太くした絹糸から(シルク)を製作するようになっていたようです。

 前2500年~前2000年の気候変動を受け,社会の構造がだんだんと複雑化していきました。この時期の遺跡から武器や傷跡のある人骨,城壁や巨大な墓が見つかっており,政治権力が強大化していったとみられます。黄河の中・下流域の竜山文化は,やがて二里頭文化(にりとうぶんか)に発展していったのではとも考えられています。

 2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で戦車青銅器が中国に伝わったとも考えられます





3500年~前2000年のアジア 東南アジア
 前3000年頃から,大陸からモンゴロイド人種が台湾からフィリピン経由で東南アジアの島しょ部に移動したと考えられています。移動して,東南アジアは土器磨製石器を持つ,新石器文化に移行しました。彼らの語族(人類を言語により分類した集団のこと)は,オーストロネシア語族(マレー=ポリネシア語族ともいいます)です。彼らはおそらくイモバナナを食料としており,前2000年頃から,稲作水耕が始まります。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。




3500年~前2000年のアジア  南アジア
◆インダス文明は大河と権力が結びついた文明ではなく,交易ネットワークにより発展した都市群
インダス川流域に交易ネットワークが発達する
 前
2500年~前1700年の間に,インド亜大陸の北西部のインダス川流域では,インダス文明【追H9バラモン教の信仰,ヴァルナ制度はない】【セH17ヴァルナ制は発展していない】が発展します。

 インダス川流域は,沙漠や乾燥草原が分布する乾燥地帯。代表的な遺跡モエンジョ=ダーロの年降水量はなんと
100mm程度です(注1
 彼らは西方の西アジアの文明の影響を受けて
青銅器を製作しています。
 完全に残っている遺跡が少ないことと,文字が未解読であることから,詳細はわかっていませんが,現在南インドに分布する
タミル語【セH23ウルドゥー語ではない,セH24ヒンディー語,アッカド語ではない】などのドラヴィダ系の言語を話す人々(ドラヴィダ人) 【追H9アーリヤ人ではない】が担い手であったとみられます。

 従来は,インダス文明を,大河川の治水・灌漑の必要により発展したエジプト,メソポタミア,黄河の文明と同一視し「
四大文明」の一つに数えることが普通でした
 しかし,そもそも大規模な王宮や記念建築物が存在しない
(注2ことや,遺跡の地域差 (インダス川流域の上流部にある都市遺跡ハラッパー【セH2,H5ラスコーとのひっかけ】【セH30地図】と下流域のモエンジョ=ダーロ(モヘンジョ=ダロ) 【セH17,セH20ガンジス流域ではない】(注3(世界文化遺産、1980)が有名ですが,近年ではベンガル湾に臨むロータルやドーラビーラの遺跡も注目されています) が大きいことから,王権の発達する他の文明と同列に考えることは疑問視されています。

 未解読
【セH15,セH24解読されていない】インダス文字【セH15,セH21図版】は,おそらくドラヴィダ系の文字と見られ,神聖視されていたであろうコブ牛の像などとともに,四角形の印章に刻まれていました。コブ牛は前6000年頃の南インドで,アジアのオーロックス(牛の原種)が独自に家畜化されたものとみられます。
 インダス文字の印章は,数は少ないもののメソポタミアでも見つかっており,代わりにインドでもメソポタミアの印章や,丸型のペルシアの印象
(注4も見つかっていることから,域の世界との間に相互に活発な交易があったことが認められます。
 当時は,季節風
(モンスーン)【セH30を用いた貿易はまだ発達しておらず,沿岸を伝ってペルシア湾沿岸部の港町まで船で行き来していたとみられます。インダス文明の遺跡は,当時の海岸線(現在よりも2メートル海水面が高かった)に沿って分布しており,香辛料,綿織物,象牙,宝石が輸出され,かわりに鉱物や穀物が輸入されていたと推定されます(注5
 輸出品や生活物資は船や
牛車によりインド各地から遊牧民によって輸送されました(注6。インダス文字は域の異なる文化圏の人々のコミュニケーションとしても役立ったと考えられます。冬小麦が中心のインダス川周辺の人々は,モンスーンの降雨に恵まれ小麦の夏作が中心のガンジス川周辺の人々と,異なる生態を超えた交流を持っていたのです。
 南アジアは現在でも多様性がきわめて高い地域ですが,そのような共存の発祥が,インダスの交易ネットワークのあり方から浮かび上がります
(注7

 インダス文明は前2000年から衰退を始めます。
 古くに唱えられていた「アーリヤ人進出説」は,インダス文明を単一の王権と考えたことによる誤りです
・インダス川のほかに存在したもう一つの大河であるサラスヴァティー川が消滅した
・気候が変動した
・界面が変動しメソポタミアとの貿易が停止した
 このような自然の変化にインダス川周辺の大都市群が衰退した原因を求める説もありますが,「1つだけでは無理がある」
(注8と考えられています。有力なシナリオは,衰退にあたる時期にモンスーンの活動が強化され,インダス川周辺で洪水が多発。これに悩まされていた人々が,東部のガンジス川流域に移動したというものです(注9

 なお,インド南部からスリランカにかけて,皮膚の色の濃いオーストラロイド人種に属するとみられるヴェッドイドと呼ばれる人種も分布しています。彼らはユーラシア大陸から南ルートをとったホモ=サピエンスの子孫とみられ,オーストラリアのアボリジナル(アボリジニ) 【セH27と同型とみられます。
(注1)降水量,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.421。
(注2)記念建築物なし。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.412。
(注3 モエンジョ=ダーロは整然とした計画都市【追H9】で,日干しレンガが積まれた建造物には,下水の側溝が整備され,道路も舗装され,都市の中心には神殿があって,深さ2.5メートルの沐浴場【セH17】もあります。土器をつくるのにロクロが作られ,木綿の布を織って衣服にしていました。
 ここに「穀物倉」が存在したという〈ウィーラー〉の説(M.ウィーラー『インダス文明の流れ』創元社,1971)は,現在では否定されています。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.405。

(注4)丸型,長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413
(注5)2m,
長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.413
(注6)長田俊樹『インダス文明の謎: 古代文明神話を見直す』京都大学学術出版会、2003p.274
(注7)悪弊として指摘されるカースト制度にも,元来は,異なる生態を送る人々が「お互いを支えながら共存するための社会システム」という側面がありました。
長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.418,p.420
(注8
長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.410,p.421。
(注9)サラスヴァティー川は,インダス文明の時代には大河ではなかったとする説もあります。長田俊樹編『インダス―南アジア基層世界を探る』京都大学学術出版会,2013年,p.129,p.422。乾燥地帯で洪水が起こるのかと思われるかもしれませんが,201078月に現在のパキスタンを史上最悪のモンスーンに起因する洪水が襲い,1984年に死者を出しています(防災研究フォーラム「2010年7月末からのパキスタン洪水災害」,2011,http://whrm-kamoto.com/assets/files/Indus%20Flood%20in%20Pakistan%202010%20in%20Japanese.pdf)。



3500年~前2000年のアジア  西アジア
 
西アジアのメソポタミア地方(ペルシア湾に注ぐティグリス川ユーフラテス川に囲まれた低地)の下流域には,前5500年~前3500年の間に灌漑農耕を特色とする集落が出現しました。
 狩猟・採集から本格的に農耕・牧畜を中心とする生活様式に転換していくと,余剰生産物(食べずにとっておくことのできる収穫物)が残せる余裕も出ていきます。
 以前から、場所によっては狩猟・採集や初期的な農耕に頼りながら定住生活を営むことも可能だったわけですが、この時期のメソポタミア地方には,内部に農耕に従事しない階層を含む大規模化な定住集落(=
都市)も現れるようになっていきます()
 こうしていくつもの都市が出現し,支配層の組織が複雑化して
国家が成立していったのです。王号を表す粘土板に書かれた文字がみられることから,王権の存在が確認できます。このような国家は,広大な領域を支配する現代の国家とは異なり都市国家といいます。
(注)灌漑農耕の普及にともなう大規模な定住集落(=都市)の誕生に注目し,この現象を「都市革命」という研究者もいます。しかし、「定住農耕」→「都市=文明の誕生」という図式が、他地域にも当てはまるパターンというわけではありません。

4000年~前3100年 ウルク文化
 メソポタミアでは、ユーフラテス川
【京都H22[2]】下流域(注)の都市ウルクに代表されるウルク文化が、都市文明を生み出していました。担い手は民族系統不明のシュメール人【セH2ウルを建てたか問う・ゼロの観念や10進法を発達させたか問う,セH6】です。
(注)当時の海岸線は現在よりも内陸の方にありました。この地域の河川は、長い時間をかけて上流から土砂を運び、しだいに下流に土砂が積もっていくことで、海岸線が海の方に移動していったのです。これに限らず、過去の地形は現在と違うことも多いのだということを考慮する必要があります。

 都市には多数の人口が居住し、大河の灌漑と穀物管理を通じて指導者が現れ、その支配を正当化する
祭祀センター神殿)が人々の信仰の的となり、生活の支柱となります(3)
 豊富なモノが内外から祭祀センターにもたらされ、余るほど集まった食料を背景に、農作業に従事せずに様々な衣食住に関する道具をつくる
手工業者が、物質文化を支えました。
 交易ルートの支配や財産を守るために、防御施設((かべ))や
軍隊もつくられていきます。
 農耕民の富をめぐっては、周辺の乾燥草原地帯から遊動生活を送る牧畜民が侵入することもありましたが、遊牧民にとっては農耕民と持ちつ持たれつの関係を築くことも生きていくためには重要。畜産物や軍事力を農耕民に提供し、見返りに農耕民の食料・工芸品を得ることもおこなわれました。これを「交易」といいます。
製品が出土するのはこの時期からです。つまり、地域外の乾燥地帯から物品をはるばる運んでくることのできる牧畜民の存在や、輸送ルートが存在したことを物語っています(注4

 このように、都市の経済力や
物質文化(=文明)の刺激を受けつつ、異なる生態系にある人間集団が交易を通して密接に絡み合い、相互に影響し合うようになっていくわけです。

(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.80。
(注2)上掲,p.95。
(注3)祭祀センターの出現は、
都市文明の出現の前提条件というわけではありません。また同様に、定住農耕が都市文明の前提情景というわけでもありません。ここでは少なくとも、前4000年紀行のウルク文化の時期の経緯について述べているだけですから、これをもって「人類の世界史の法則」を打ち立てることなどできません。
(注4)後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房、2015、p.32。

 都市
ウルクは現在のバグダードの南240kmに位置し,王が都市の神をまつり政治と軍事の実権をにぎって人々を支配するしくみを編み出しましていました。
 「シュメールの都市支配者や王に課せられた義務は,外からの攻撃に対する防衛と,支配領域内の豊穣と平安を確たるものにすること」であり,王の正統性の源は,都市や神殿にかかわる人々の生命・財産の安全保障にありました
(1)。前3500年の人口は約1万人,前2000年の人口は8万人とも推定される当時世界最大の都市です。ジッグラト(聖塔) 【追H30メンフィスに建てられていない】【※意外と頻度低い】と呼ばれる巨大な神殿(祭祀センター)も建てられました。これは『旧約聖書』に現れるバベルの塔のモデルではないかともいわれています。
 神殿には都市の守り神
(守護神)呼び込まれ,神官によって収穫を祈る儀式や政治的な儀礼,交易(注2)が行われたと考えられています【セH12「シュメール人の都市国家では,神官が政治的にも大きな力を持っていた」かどうかを問う】
 ほかに,キシュや
ウル【セH2シュメール人の都市か問う】【セH16シュメール人が建設したか問う】という都市国家も,シュメール人によって建設されました。
 各都市国家は軍隊を本格的に整備し,槍を持った歩兵や四輪戦車が登場します。ただし,車輪はまだ鉄ではなく,ロバが引きずっていました。前
2500年頃につくられたウルのスタンダードというウルの王墓から出土したモザイク画には,当時のさまざまな階級が描かれています。都市は現代の都市とは異なり防御のために城壁(じょうへき)に囲まれ,城門や監視台には常に見張りが立てられていたようです。
(1)前田徹『メソポタミアの王・神・世界観――シュメールの王権観』山川出版社,2003年,p90
(注2)例えば,古代メソポタミアでは租税・貢納品・戦利品を集中させた王およびそれと結んだ集団に権力が集中し,遠隔地交易の発注者となっていきました。例えばアッカドのナラームスィーン[ナラムシン]〔B.C.2155?~B.C.2119?,アッカド王国の王〕は諸国の富を潤沢に集めたといいます。しかしその後のメソポタミアの歴史をみると,遠隔地交易を管理しようとする宮廷により委託受けた商人だけでなく,利益動機にもとづき私経済を回そうとする商人たちも登場するようになります。商人の中には収益を事実上の租税として神殿に納める者もいたようです(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,pp.38-39,pp.64-68)。「広汎な商業に資金を提供し,倉庫に大量の品物を貯え,宮廷付属の工場で輸入原料を加工させたり,あるいは輸出用の品物を作らせたりする――これに必要な資力と能力は,実に宮廷こそが手にしていた。こうして王室経済は次第に交換目当てに行なわれるようになった生産の中心であり,商品経済,貨幣経済はその市場圏内で強力に飛躍した。私的商人たちにとってもこの発展は有利であった。とくに宮廷と結んで,少なくとも取引の一部分を宮廷から委託されたときには,かれらも利益を得ることができた。…」。このような商人を王が管理下に置き,法典により社会秩序を築こうとしたのは,彼らが貸付業・高利貸し業に進出し,労働者と兵士としての価値がある小生産者たちを没落させてしまうことを恐れたからであった。(ホルスト=クレンゲル著,江上波夫他訳『古代オリエント商人の世界』山川出版社,1983年,p.238,pp110-111)。

 シュメール人
【共通一次 平1】【追H30】は,粘土板(ねんどばん)(クレイ=タブレット)【セH15】【セH8】楔形(くさびがた)文字(もじ)【東京H23[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満洲文字,西夏文字との写真判別】【共通一次 平1:創始がシュメール人か問う】【セH15】【セH8】【追H30】を記録しました。大きな川が上流から運んだ土砂が,粘土板の材料です。
 初めは絵文字
(象形文字)でしたが,のちに表音文字(音をあらわす)としても使われるようになりました。粘土板は乾燥するとカチンコチンになるおかげで,われわれは彼らの記録を読むことができるのです。彼らの信仰したさまざまな神の存在も,それら文字史料からわかりますが,記録のほとんどは神殿に蓄えられた収穫物や家畜の数です。記録は,専門家(書記(しょき))が行いました。
 楔形文字による記録方法は,メソポタミアを中心に西アジアに広まりました
【共通一次 平1:「ハム系(ママ)の諸民族に広まった」わけではない→出題当時は,「ハム系」=「エジプト人」と考えられていた】
 また,
六十進法【セH2 10進法ではない】で数値を記録し,1週間を7日とするなど,現代にも影響をのこしています。六十という数字が選ばれたのは,それが11個もの約数を持っているため,分割に便利だからでしょう。また,農耕に使用するために,また,19年に7回閏月(うるうづき)をおく太陰太陽暦 (月の満ち欠けによる1年354日の暦を,1年365日となるように修正したもの)が用いられていました。暦の作成のために天体の動きが研究されて,バビロン第一王朝の頃から始まる占星術(せんせいじゅつ。人間界の出来事を天体の運行により説明・予言する技術)へと発展しました【セH2また,シュメール人はゼロの観念を発見していない】
 ウルク期は文字史料の上では原文字期に位置づけられ、「古拙ウルク文字」に分類される楔形文字が用いられていました。
 文字が使われるようになったことで,人類は,その短い一生を越えて,その知恵や知識を口伝えよりも確かな形で後世にのこすことができるようになりました。また,先人の成功に学び,他人の失敗を教訓とすることができるようになり,何から何までゼロから考える必要がなくなりました。
 取引する品物が未開封であることを証明するために,円筒印章なるものが発明されました。開封部分に粘土を貼り付けて,そこに楔形文字や図の彫られた筒型のハンコをゴロゴロと転がします。乾燥気候のメソポタミアでは,すぐに乾いてカチコチになる。その商品を受取るべき人以外が開けると,バレてしまうというわけです。

 また、ウルクでは『ギルガメシュ叙事詩【セH30という物語が発見されています。第5代ウルク王とされる〈ギルガメシュ〉が,友人〈エンキドゥ〉とともに永遠の命を求める冒険ストーリーです。その中に語られる洪水と復興のエピソードは,のちの『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)のモチーフではないかとも考えられています。なお,叙事詩の中には現在のバーレーンが産地であった真珠(アコヤガイ)採りを思わせる部分が含まれています(注1。当時から真珠はシュメール人らの交易品の一つでした。
 ウルクのシュメール人の都市文明は「メソポタミア南部」という地域を越え、交易ネットワークを確立していたという説があります。
 ・イランのペルシア湾岸の
エラムに植民
 ・ティグリス、ユーフラテス川の上流を開発
 ・シリアやアナトリア半島(現在のトルコ共和国)に植民
 ・北メソポタミアや南西イランを拠点に、各地の物産の輸送ルートを確保
 このような順序でネットワークを形成していったのだというものです
(注2
(注1)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.48
(注4)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房、2015、p.32~p.33。

3100~前2800年 ジェムデト=ナスル期
 しかしウルクの交易ネットワークは前3100年に崩壊。
 前3100年からは別のシュメール人の担い手による装飾的な土器を特徴とするジェムデト=ナスル期となります。
 これと連動して、ウルクの交易ネットワークに組み込まれていたイラン高原の人々が、自分たち主導の物流を確保しようとしていきました。これを
原エラム文明といいます(注1
 彼らはアフガニスタンでとれる宝石
ラピスラズリを、イラン高原の沙漠や乾燥草原の都市を結んでメソポタミア東方のスーサ〔スサ〕にまで輸送し、ここで食糧や工芸品と交換しました。
 この物流の流れを、後藤健は次のように表現しています。

 「イラン高原の交易ネットワークを経てスーサに集められた物資を、適正価格で買い取ることは初期のメソポタミア文明にとってどうしても必要な活動だった。また、その対価であるメソポタミアの農産物を得ることは、世界有数の乾燥地が中心に位置するイラン高原にとっては、どうしても必要な活動だった。
 二つの隣接地は、自然環境の違いから、都合よく相互補完の関係にあり、資源の交換は両者にとって宿命であった。」
(注2

 後藤が「宿命」と表現したこの関係を打破しようと、原エラム文明は
インダス文明に接近。さらにペルシア湾岸のオマーンに移住して、鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは、ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。
(注1)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房、2015、p.42~p.43。
(注1)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房、2015、p.67。

2800~前2350年 初期王朝時代
 さらに担い手が代わって、彩文装飾土器が増えるシュメル初期王朝時代に入ります。

アッカド人の帝国
 前24世紀頃にはウルクの〈エンシャクシュアンナ〉王が都市国家キシュを滅ぼし,都市国家の枠を越えた称号である「国土の王」を名乗りました。また,初め都市国家ウンマを拠点としていた〈ルガルザゲシ〉王はウルクに拠点を移してシュメール人を統一しました。
 しかしそんな中,乾燥化の影響から,メソポタミアにはアラビア半島からアフロ=アジア語族セム語派の人々が移動してくるようになりました。シュメール人の都市国家は,前24世紀に〈サルゴン(2334~前2279) 【立教文H28記】を王とするアフロ=アジア語族セム語派セH5インド=ヨーロッパ語族ではない】【セH29インド=ヨーロッパ語系ではない】アッカド人【京都H22[2]】によって滅ぼされます。その支配領域は,メソポタミアからシリアに及びましたが,首都アッカドの位置はわかっていません。広範囲を支配した〈サルゴン〉は「全土の王」を名乗り,その後の第4代〈ナラムシン〉は現代のオマーンにまで遠征し,地中海(「上の海」)からペルシア湾(「下の海」)に至るまでの最大領域を実現し「四方世界の王」を称して,最高神エンリルの権威を利用し自らの神格化を図りました。交易も盛んで,南アジアのインダス文明(⇒前3500~前2000の南アジア)の産品(インダス文字の刻まれた印章)も発見されています。
 アッカド人の王朝は前
23年紀後半に滅亡しました。その原因は,23世紀中頃の大干ばつや塩害であるという説もあります。都市に定住するようになったヒトにとっての最大のネックは,不作による飢えです。同じところに長く住み続けるわけですから,食料が安定的に得られるうちは人口も増えますし,環境破壊も進行します。灌漑農業にもリスクはあって,土地に水を注ぎすぎると,地下水位が上昇してしまい,水が地下にしみこむ前に蒸発し,地中に塩分が残されてしまいます。これにより農業に影響が出る塩害がおきることもしばしばでした。前20世紀頃にかけ,シュメールの土地はますます農業に不適となり,衰退の一途を辿っていきます。

 アッカド人の王朝には,西方のシリア方面からセム語派の
アムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱しますが,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000) 【立教文H28記】を始めました。これはシュメール人最後の王朝で,地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行いました。
 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方の
エラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。





3500年~前2000年のアフリカ



○前3500年~前2000年のアフリカ  中央アフリカ
 現在のナイジェリア東部からカメルーンにかけての地域に,現在ではサハラ沙漠以南のアフリカに広範囲に分布するバントゥー語の起源となる言語を話す人々が分布していたとみられます。


○前3500年~前2000年のアフリカ  西アフリカ
 
4000年頃から前3000年頃のアフリカ大陸からユーラシア大陸の気候は,乾燥化が進みました。サハラ沙漠でも,前2500年頃からふたたび乾燥化がすすみ,人々は草原地帯からナイル川沿岸やチャド湖などに,南下していくようになりました。この気候変動によって,家畜や人類が感染すると「眠り病」という死に至る病原体を媒介するツェツェバエという蝿の生息範囲が変わったことも,サハラの人々の南下に関わっているとみられます。
 なお,地中海沿岸からサハラ沙漠を超えるルートは,紀元前後まではほとんど(ひら)かれていません。この期間には,水を採取するための地下水路
フォガラがサハラ沙漠に現れます。
 サハラ沙漠を流れるニジェール川下流の熱帯雨林地帯では,前3000~前2000年にかけてヤムイモ,アブラヤシ,コーヒー(【セH11】原産地はアメリカ大陸ではない),ヒョウタンなどの植物が栽培されるようになりました。サハラ沙漠の先住民はベルベル人で,現在は地中海沿岸のモーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア(いわゆるマグリブ諸国())に多く分布しています。
 山岳地帯にはベルベル系のトゥアレグ人が分布しています。

()この地方が「マグリブ」と呼ばれるようになるのは,アラブ人の大征服によってイスラーム教が広められて以降のことです。



3500年~前2000年のアフリカ  北アフリカ
ナイル川上流のヌビア
 
ナイル川をさかのぼっていくと,6か所の急流があり,そこを船で乗り越えて航行することができません。ナイル川の第2急流よりも上流地域をヌビアといいます。ヌブ(金)が取れる地ということで,のちにローマ人がそう呼んだのです。下流にエジプトに第1王朝(前3100?~前2890?)が成立していたころ,ネグロイド(黒色)人種ヌビア人により第3急流のすぐ南のケルマを都に王国が現れました(ケルマ王国)。エジプトが中王国時代(前2040?~前18世紀)に南下を始めると,ヌビアの勢力はいったん衰えました。

ナイル川下流のエジプト
 
ナイル川の第1急流(アスワン)よりも下流の地域のことをエジプトといいます。住民はアフロ=アジア語族の古代エジプト語を話していました(アフロ=アジア語族は,セム語派を含む語族です。古くは古代エジプトの言語は“ハム語派”に分類されていましたが,キリスト教の価値観の影響を受けた分類法で実態を反映したものと言えず,現在では用いられていません)
 「エジプトはナイルのたまもの【東京H13[1]指定語句「ナイル川」】という言葉があります(ギリシア人の歴史家〈ヘロドトス〉(前485?~前420?)によるもの) 【東京H22[3]】【共通一次 平1:トゥキディデスとのひっかけ(主著『ペルシア戦争史』を書いたのはトゥキディデス)】【慶文H30】【同志社H30記】定期的な氾濫が,上流から栄養分をたっぷり含む土(ナイル=シルト)を運んだことを表したものです。土は流域の窪地(くぼち,ベイスン)に溜まり,定期的に増減水してくれるため塩害も起きにくく,その窪地が耕作地に利用されました(ベイスン灌漑)()
 メソポタミアは塩害により衰えましたが,エジプトは1年に一度塩分をドバっと流してくれるので,その心配もありません。同時にナイル川を下っていけば,交易の盛んな地中海に出れますし,年中南向きの風が吹いているので,上流へとさかのぼるのも簡単です。ただし6箇所の急流ポイントでは,一度船を降りなければなりません。

 前3500年~前3150年は
ナカダ文化Ⅱ期、前3150年~前3000年はナカダ文化Ⅲ期にあたり、ナイル川流域の集落が大規模化していき、各地で政治的な統合に向かう時期にあたります。

(注)「農地を畦で囲み,犁でその地表面を撹拌しておく。洪水季になると,堤の一部を開き,ナイル川のシルト(泥土)を含んだ氾濫水を耕地に引き,湛水させた。…その後,畦を開き,隣の耕地に排水した。」 古代オリエント学会編『古代オリエント事典』(岩波書店,2004年,p.429「灌漑」,pp.423-429


3150?~前2584? 初期王朝時代(注)
(注)エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン、池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林、2012、p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。

 沿岸にいくつもの都市国家がうまれますが,
3500年以降、ナイル川上流の雨量が減少して乾燥化が進むと,限られた資源をめぐる争いが激化しました。

 一方,エジプトでは前
3100年~前3000年頃に,下エジプト(下流の三角州(デルタ)の地帯)と上エジプト(デルタから第一急流まで)にあった小規模な都市国家群(注1)を,上エジプトの王〈メネス(ナルメル?,前3125?~前3062?) (注2)が統一しました。

 上エジプトの政治勢力が,下エジプトに軍事的に進出して政治的に統一したとみられ,両者の境界付近にあるナイル川の下流の
メンフィス【追H30ジッグラトは築かれていない】【※意外と頻度低い】を都に定めたとされています。
 なお,彼の時代には象形文字
【共通一次 平1】であるヒエログリフ(神聖文字) 【東京H10[3],H23[3]】【共通一次 平1】が用いられました。ヒエログリフは碑文や墓などの岩石【共通一次 平1】に刻まれたほか,パピルス紙に記録されました【共通一次 平1:「主に碑文や墓に刻まれた」か問う。「あれ?パピルスでは?」と一瞬迷っちゃうかもしれない】。パピルス紙は,ナイル川の川辺に分布するパピルス草(カミガヤツリ)を薄く剥(は)いた繊維を縦横に並べて圧力をかけ,その上にさらに縦横に並べた繊維に圧力をかけることを繰り返して作った「紙」です。葦(あし)でできたペンを,煤(すす)とアラビアゴムを混ぜたインクに付けて記入しました。
(注1)この小規模な都市国家のことを,ギリシア人の歴史家は「ノモス」と呼びならわしました。
(
注2)前3世紀のプトレマイオス朝エジプトの神官〈マネトー〉の『エジプト史』では〈メネス〉が初代の王という記述があり,現在ではこの〈メネス〉が〈ナルメル〉と同一人物ではないかと考える説が有力です。


 エジプト【セH16ヒッタイトではない】では王はファラオとよばれ,自らを神として政治をおこない,ナイル川の治水を指導しつつ,住民に租税・労働を課して指導しました。洪水というと危険な災害というイメージがあるかもしれませんが,「洪水があるからこそ,小麦を栽培することができる。洪水が起きるのは,神である王がちゃんと支配をしてくれているからだ」。人々はそのように納得をしていたのです。とはいえ,多くの住民は生産物や労働によって税を納める不自由な農民でした。
 ナイル川の氾濫により破壊された耕地を復元するために,測地術(測量) 【セH2フェニキア人の考案ではない】が発達し,のちのピタゴラスの定理の元となる面積の公式は,すでに使われていました。また暦として正確な太陽暦【セH2ユリウス暦のもとになったか問う】が用いられていました。


 エジプトでは,長期間に渡っていくつもの王朝が成立と断絶を繰り返していきます。
 王の系譜の断片的な情報をもとに系図を推測し、比較的連続性のある王朝をいくつかセットにした区分が用いられています。

 
古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
  …ピラミッドが建設された時期はここ。

 第一中間期(?~2066?):第7王朝~第11王朝前期

 
中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
  …南部の勢力による政治的統合です。

 第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
  …ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

 
新王国(前1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。

 第三中間期(前1073?~前656):第21王朝~第25王朝
  …各地の君侯が自立する時期。

 サイス朝(前664~前525):第26王朝
  …下流のサイスを治めていた君侯が、進出してきたアッシリア側について政権を掌握。

 末期王朝(前525~前332):第27王朝~第31王朝
   …第27,31王朝はペルシア人の王朝。最後はアケメネス朝の〈ダレイオス3世〉の支配です。

 ヘレニズム時代(前332~前30):マケドニア王朝(〈アレクサンドロス〉)~プトレマイオス王朝(〈クレオパトラ7世〉まで)
 (注)エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン、池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林、2012、p.44による。古代エジプトの年代については諸説あります。


◆古王国(前2584?~前2117?):第3王朝~第6王朝
古王国はピラミッド時代
 
古王国【セH2都はテーベではない】は第3王朝から第6王朝の時期の政治勢力で,ナイル川下流のメンフィス【セH2テーベではない】を都としました。この時代は,巨大なピラミッド(王墓と考えられる)が建設された時期にあたります。

 第3王朝の初代ファラオ〈ジョセル〉(ネチェルイリケト;ネチェリケト)は,サッカーラに最古のピラミッド(階段ピラミッド)を建設させました。すでに王を神聖視する思想があったようです。テーベ北部のナイル川東岸には
カルナック神殿は第12王朝時代に創建されました。西岸にはネクロポリス(死者の都)と呼ばれる墓地遺跡群が残されています(◆世界文化遺産「古代都市テーベと墓地遺跡」1979)。

 その後,ピラミッドは一気に巨大化し,カイロ近郊のギザにある三大ピラミッド(〈クフ〉,〈カフラー〉,〈メンカウラー〉のピラミッド) 【セH20セレウコス朝の遺跡ではない】が生まれました。
 ・〈クフ〉王…第一ピラミッド 現在146.5m
 ・〈カフラー王〉…第二ピラミッド 現在144m
 ・〈メンカウラー王〉…第三ピラミッド 現在66.5m

 ピラミッドは,古代ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉の『歴史』などをもとに,王の墓であるといわれてきましたが,ピラミッド内部で王が再生するための施設なのではないかという説もあります。いずれにせよ,最大の〈
クフ〉王(前2589~前2566)のピラミッドは,なんと230万個(1個の平均は2.3トン!) の石灰岩が使用されておち,当時の技術を考えると,8万4000人の労働者を1年に80×20年間働かせるだけの権力が必要です。ピラミッドの建設は,ファラオの支配下にあった人々を,農作業の忙しくない時期(農閑期)に働かせる公共事業だったのではないかという説もあります。
 
スフィンクス像も,前2500年頃〈カフラー〉王によって建造が命じられたと伝えられます。

 〈クフ王〉のピラミッドの東西には,貴人の墓である多数のマスタバ墳(長方形)も見られます。古王国では
太陽神ラー【セH11インカ帝国で信仰されていない】【セH21時代を問う】への信仰もさかんで,オベリスクという塔には王の偉業が刻まれました。ヘリオポリスという都市には太陽をまつる神官がおり,太陽信仰の中心地でした。神殿には列柱が建てられ,のちに地中海のエーゲ海周辺のエーゲ文明ギリシア文明に取り入れられました。

 古王国は前2120年に滅びました。
 すると,従来の太陽神をまつる信仰にも変化が起こります。
 あの世(幽界)の王である
オシリス神をまつり,「人は死んだら“あの世”で復活できる」と考える新しい信仰の成立です。
 オシリス神はもともと農耕神で,ヌトという神とゲブという神の間に生まれたとされます。しかし,オシリス神は弟であるセト神に殺害されましたが,妹でありながら妻となったイシスがシリアに流れ着いた遺体を発見し,エジプトに持ち帰ったところ,セト神はイシスからその遺体をまた奪い,バラバラにした挙げ句エジプト中にばらまきます。これをイシスが拾い集め,布でぐるぐると巻いたところ(
ミイラの由来),オシリスは“あの世で”復活。それ以来,オシリス神は幽界(あの世)の王となったといいます。なお,オシリス神の子であるホルス神は,父のかたきを討ってセトを破ったそうです。

 この思想は,古王国の崩壊後,下エジプトと上エジプトの抗争により起こった社会の混乱を背景としているとみられます。結果的に上エジプトの
テーベ(ナイル中流域) 【セH2古王国の首都ではない】【セH30ニネヴェとのひっかけ】の勢力が上下エジプトを再統一し,新たに第11王朝を立ち上げました。次の第12王朝(前1991年?~前1782?)までを中王国の時期として区分します。都は後にファイユームに遷都しています。


◆中王国(前2066?~前1650?):第11王朝後期~第13王朝
 中王国は,パレスチナやヌビア
(ヌビアは金の産地です)にも進出するなど,古王国よりも広い領域を支配しました。シリアでもエジプトのファラオの名入りの品が発見されています。また,地中海はエーゲ海のクレタ文明〔ミノア文明〕とも交易をしています。
 中王国の時代には古代エジプト語(古典語)で文学も数多く記されました。『雄弁な農夫の物語』や『シヌへの物語』といった物語文学が代表的です。

 この時期には,北シリアからエジプト
【追H30】に,騎馬に優れた遊牧民(ヒクソス【追H30】【中央文H27記】【※意外と頻度低い】と呼ばれました)が傭兵が導入され,エジプト人女性と結婚して移住し,ファラオにつかえる者も現れます。
 ヒクソスは次第に政治にも干渉し,第13(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱し,第15(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至ります。

 上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。

(
)
古代エジプト史の年代については,諸説あり。



●前3500年~前2000年のヨーロッパ

 バルカン半島と小アジア(アナトリア半島)の間に位置するエーゲ海周辺では,オリエントの文明の影響を受けて青銅器文明が栄えました。これをエーゲ文明と総称します。
 
バルカン半島には,黒海北岸から沿岸部を通って中央ユーラシアの遊牧民(⇒クルガン文化:前3500~前2000中央ユーラシア)が進出しやすく,また西方のアルプス山脈以北の地域や東方の西アジアの小アジア(アナトリア半島)との交流も盛んでした。

 ユーラシア大陸西端で,北アフリカに突き出ているイベリア半島には,前3000年紀には民族系統不明のイベリア〔イベル〕人が生活していました。彼らの文化には,エジプト文明やクレタ文明〔ミノア文明〕の影響がみられます。

 前3300年頃には,ユーラシア大陸北西部のフィンランドで,櫛目文(くしめもん)土器をもちいる人々が現れます。櫛目文土器は,新石器時代のユーラシア大陸の広い範囲に分布する土器です。フィンランド南部にはウラル語族の言語を話すフィン人,北部にトナカイの遊牧生活を行う同じくウラル語族のサーミ人の祖先が分布していました。

 新石器時代に入るとヨーロッパ各地で巨石建造物が建造されるようになりました。数個の巨石の上に巨石を載せた
ドルメン(支石墓(しせきぼ)),巨石を直立させたメンヒル(モノリス),列状に巨石を並べたアリニュマン,輪の形に並べたストーン=サークル(ウェールズ語ではクロムレック)と呼ばれます。ストーン=サークルとして有名なのは,ロンドンの西200kmに残されたストーン=ヘンジです。前2500年~前2000年頃に建てられたと考えられています。夏至になると,中心の石と立石(メンヒル)を結んだ直線上に太陽が昇る構造になっています。夏至や冬至がわかることから,農業の広まりと関係しているとみられます(◆世界文化遺産「ストーンヘンジ、エイヴベリーの巨石遺跡と関連遺産群」19862008範囲変更)。