200年~紀元前後の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化②、南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-

 定住民・遊動民の交流を背景に、両者の活動地域間で統合された広域国家(古代帝国)が拡大していく。
 南北アメリカ大陸
の中央アメリカと南アメリカのアンデスに、新たな担い手により各地で政治的な統合がすすむ。


(1) ユーラシア
 定住民と遊動民の交流を背景に、より広域な国家(古代帝国)が形成されていく。

 中央ユーラシアでは西から
サルマタイ人アラン人大月(だいげっ)()烏孫(うそん)匈奴が、遊牧を営む諸民族を政治的に統合する。

 中央ユーラシア東部のモンゴル高原ではアルタイ諸語系の遊牧民が、東アジアの黄河・長江流域の諸侯と、内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ、交易関係を結んでいる。
 モンゴル高原を中心に遊牧民を政治的に統一した匈奴(きょうど)は、東アジアの黄河・長江流域の定住民による
前漢(前202~後8)と対立し、内陸乾燥地帯のオアシス都市をめぐり対立しつつ、交易関係を結ぶ。

 南アジアでは、
マウリヤ朝(前321?~前185?)が北インドからデカン高原にかけてを統一しているが、その後は中央ユーラシアの遊牧民の影響も受ける。

 ヨーロッパではオリエントに古代帝国が栄える中、イタリア半島の都市国家
ローマが成長し、交易をめぐりカルタゴを滅ぼし、〈アレクサンドロス〉の後継国家であるエジプトのプトレマイオス朝(前305~前30)と、セレウコス朝シリア(前312~前63)を滅ぼし、地中海を取り囲むローマ帝国(前27~1453)を樹立する。
 ローマ帝国は、遊牧民パルティア人がイラン高原を支配したアルサケス朝
パルティア(前247?~後224)と抗争する。

 ユーラシア大陸では東西交易が盛んとなり、陸路では
シルク=ロード絲綢之(しちゅうの)(みち);絹の道)が〈張騫(ちょうけん)〉(?~114)の鑿空の攻により平定されたとされる。
 また、海路では季節風(
モンスーン)を利用して沿岸を船で伝う交易技術が紀元前後に発見される。
 交易の結節点にあたるアフリカ大陸東部沿海部や、ユーラシア大陸沿海部には、農耕と交易による経済的資源を押さえた勢力による
港市国家が成立していくこととなる。


(2) アフリカ
 アフリカ北部では西から
ベルベル人リブ人が遊牧生活を送り、カルタゴやローマ帝国と共存・競合関係にある。
 エチオピア高原では、ペルシア湾との交易ルートを押さえた勢力が政治的統合を進め、
アクスム王国に発展する。
 農牧民エリアは、
バンツー系の移動とともに拡大している。
 

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカではメキシコ高原南部のサポテカ文化や、マヤ文明が成長する。
 南アメリカのアンデス地方中央部の沿岸地帯に、
モチェ文化ナスカ文化が成長する。


(4) オセアニア
 ラピタ人の移動は、サモア周辺で一旦止まっている。




200年~紀元前後のアメリカ


○前200年~紀元前後のアメリカ  北アメリカ
北アメリカ…現①カナダ ②アメリカ合衆国

 北アメリカの
北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシセイウチクジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在の
エスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカ一帯には、現在のインディアンにつながる
パレオ=インディアン(古インディアン)が、各地の気候に合わせて狩猟・採集生活を営んでいます。
 
北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。




○前200年~紀元前後のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

◆マヤ地域では都市の規模が拡大する

 中央アメリカの
マヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカル(1世紀頃~9世紀)やカラクムルといった都市が代表的です。
 紀元後250年までのマヤ文明は先古典期に分類されます
(注)

◆メキシコ南部のオアハカ盆地ではサポテカ人の都市文明が栄える
 オアハカ盆地のモンテ=アルバンを中心に、サポテカ人の都市文明が栄えます。
 前100~後200年のどこかで、中央アメリカ〔メソアメリカ〕地域の共通文化の一つである
球技場が建設されています。

◆メキシコ高原中央部ではティオティワカンに都市文明が形成される
 メキシコ高原中央部では、前150年頃からテスココ湖の東部の都市ティオティワカンに、オルメカ文明の影響を受けた都市が発達。
 50km南にあったクィクィルコは、前50年のシトレ火山の噴火により衰退に向かいます。

(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.23。
 
この時期のマヤ文明は、先古典期に区分され(前2000年~前250)、さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 
前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて、小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」




○前200年~紀元前後のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モンサラット島,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島


○前200年~紀元前後のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

◆アンデス地方では従来の神殿文化が再編されていく
 南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが、紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1
 社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は、あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。

 一つ目は、アンデス地方北部海岸の
モチェ(紀元前後~700年頃)です。
 モチェでは人々の階層化もみられ、労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で、神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。
クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や、金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 二つ目は、アンデス地方北部海岸の
ナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
 ナスカといえば「地上絵」ですが、当初から地上絵が描かれていたわけではなく、当初は
カワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。


 アマゾン川流域(アマゾニア)にも定住地ができていますが,階層化した社会が生まれますが徴税制度はなく,ユーラシア大陸における農牧民を支配する都市国家のようには発展していません(2)

 その他、南アメリカ南東部のサバナ地帯や草原地帯には,狩猟採集民が生活しています。

(注1)モチェとナスカについては、関雄二「アンデス文明概説」・島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化と史観文化の関係」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS2000p.179
(注2)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。





200年~紀元前後のオセアニア


 
2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
 彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。





200年~紀元前後の中央ユーラシア


 
南ロシアでは,スキタイ人の後に勢力を拡大した騎馬遊牧民サルマタイ人が活躍しています。
 また,前3世紀半ばセレウコス朝から自立したアルシャク(アルサケス)朝パルティアは,急拡大し,〈ミトラダテス2世〉(123~前87)のときには,メソポタミアからインダス川方面に至る大帝国となりました。ギリシア文化の影響を受けますが,やがて公用語としてアケメネス朝ペルシアと同じアラム語を使用するなど,ギリシア人とは違うのだという自覚が高まっていくことになります。地中海で急拡大していたローマとは,メソポタミアをめぐる対立を繰り返すことになります。

中央ユーラシア東部のモンゴル高原で,騎馬遊牧民として初期に勢力を持っていたのは,匈奴(ションヌー,きょうど) 【セH12匈奴に文字はない】【セH18唐・北宋の時代ではない,セH19時期】東胡(トンフー,とうこ)月氏(ユエシー,げっし) 【セH19時期】の3大勢力です。
 騎馬遊牧民のライフスタイルは,定住農牧民の中国人からみると,「利を逐(お)うこと鳥が集まるごとく,困窮すれば瓦がくだけ雲が散るごとくに分散する」(『漢書』「匈奴伝」)のように見え,機動性の高い騎馬戦術が恐れられたとともに,早くからヒト・モノ・情報の交流が始まっていました。

 初め,匈奴は東胡と月氏は匈奴を支配していたのですが,秦の〈始皇帝〉即位の直後である前209年に匈奴の王となった〈冒頓単于(ぼくとつぜんう))(?~前174,在位 前209~前174) 【京都H20[2]】 【セH16,セH30のときに強大化します。冒頓は,「バガトゥル」(勇士)の音訳と見られます。「単于」(ぜんう)【セH3ハン(汗)ではない,セH12(注を参照)】は「広くて大きい」という意味で,「天の子」と称して壮大な儀式を行い,天の神を最高神としてあがめる北アジアの遊牧民・狩猟民たちを納得させました。〈冒頓単于〉は,東の東胡を滅ぼし,西の月氏(げっし)【セH16】や北の丁零(ていれい)を撃退します。東胡はのちに,烏桓(うがん)鮮卑(せんぴ)となります【共通一次 平1:匈奴が文字を使用していたか問う。もちろん使用していない】
(注)2000年度本試験〔3〕問1 資料 「ある中国の史書は次のように記している(中略)。…彼らは家畜を置いながらあちこちに移動している。単于のもとに置かれた左右の賢王(けんおう)より以下,当戸(とうこ)までの地位にあるものは,それぞれ大は一万騎から小は数千騎に至る戦士を部下に持っていた。」これを読み,「文中の史書に記されている遊牧民集団について述べた文として正しいもの」を選ぶ問題。選択肢は,「①南方の宋と結んで遼を滅ぼした。②独自の文字を用いて記録を残した。③首都カラコルムを建設し,モンゴル高原全域を支配した。④黒海北方の草原地帯で栄えた騎馬文化の影響を受けた。」。

 月氏は,匈奴の〈老上単于〉(174~前160)に負けて,一部が西に移動し,前130年頃にアム川の上流部に移動した集団は,中国の文献(『史記』や『漢書』)では大月氏(だいげっし)と呼ばれるようになりました。ちなみに残ったほうは小月氏と呼ばれました。
 丁零は前3世紀頃から活動していたトルコ系の遊牧民です。

 このようにして,匈奴は,現在のモンゴル高原を中心とする広い範囲を勢力下におきました。他部族からは「皮布税」などを徴収していました。
 匈奴【セH13吐蕃ではない】の〈冒頓単于〉は,前215年に秦の将軍〈蒙恬(もうてん)(?~前210の発明者とされます【共通一次 平1:文字は「筆を用いて紙にかかれること」が秦代に普通になっていたか問う。「紙」はまだ一般的ではない】)30万の軍によってオルドス地方(黄河が北にぐるっと曲がっているところに当たります)からの撤退を余儀なくされました。しかしその後,秦がたったの15年間という短期間で滅亡したすきを狙い,中国への進入を再度こころみます。

 前200年,匈奴【セH4北アジアを支配していたか問う,セH7】【セH28突厥ではない40万の兵で中国の前漢に攻め込みました【セH3漢と激しく戦ったか問う】。このとき前漢【セH7】の皇帝となっていた〈劉邦(高祖【セH7】【セA H30煬帝とのひっかけ】)(247~前195,在位 前202~前195)は,32万の軍勢とともに白登山(はくとさん)で,〈冒頓単于〉に包囲されるという大ピンチに陥ります。武将が冒頓単于の皇后に賄賂をおくったことで,あやうく難を逃れましたが,多くの兵士が凍傷で指を失ったといわれます(白登山の戦い)。このことにより〈冒頓単于〉は後漢に対して優位な条件をつきつけ,毎年中国の物産を贈るように要求しました。漢から匈奴に対する税(貢ぎ物)ですね。単于(ぜんう)というのは,匈奴の王の称号です。単于の称号を初めて名乗ったのは,〈冒頓単于〉の父である〈頭曼単于(とうまんぜんう)〉(?~前209)でした。

 アム川の上流部を中心に発展したバクトリア王国は,前145年頃に北方から遊牧民が南下して,衰退・滅亡しました。この遊牧民グループの正体がいったい何なのか,月氏(大月氏)説や,スキタイ人説,サカ人説などさまざまですが,定説はまだありません。
 大月氏は,バクトリア地方を5つに分けて支配し,紀元前後~1世紀にそのうちのひとつクシャーン(貴霜)が北インドに領土を拡大しました(クシャーナ朝)
 
 タリム盆地のさらに南,チベット高原では,人々は高地でも活動できる家畜ヤクを放牧・遊牧したり,雪解け水がつくる扇状地などの限られた水場を利用して,灌漑農業をしたりしていました。厳しい環境の中で,人々は氏族にわかれて小規模で生活し,ボン教というシャーマニズムを信仰していました。

 なお,ユーラシア大陸の北東部の,北アメリカ大陸の
アラスカ(ここには,エスキモー系のユピック人やイヌイット系のイヌピアック人,アリューシャン列島にはアレウト人が居住しています)にほど近いチュコト半島やカムチャツカ半島には,古シベリア諸語を話すチュクチ人やカムチャツカ人が,寒冷地の気候に適応した狩猟・採集生活を送っていました。また,アムール川の河口から,北海道の北にある樺太島にはニヴフ人(かつてはギリヤーク人といわれていました)が分布しています。





●前200年~紀元前後のアジア


200年~紀元前後のアジア 東アジア・東北アジア
○前200年~紀元前後のアジア  東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。
 さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながる
ドーセット文化(前800~1000()/1300年)の担い手が生活しています。

(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88



◯前200年~紀元前後のアジア  東アジア
東アジア
…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現①日本
 
日本列島では中国・朝鮮からの移住者の影響で,水稲耕作と青銅器・鉄器の製作を特徴とする弥生文化(やよいぶんか)が栄えていました。
 中国の歴史書である『
漢書』には,「()れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以て来り献見すと云う」とあって,おおむね「当時の日本列島には100余りの小国(クニ)があって,楽浪郡に定期的に朝貢していた」という解釈がされます。
 農耕がはじまって富が蓄積されるようになり,支配層が各地に現れるようになっていたのです。また,朝鮮半島はユーラシア大陸の先進的な文明を受け入れる“窓口”でありましたから,特に西日本が当時の日本の中でも,より多くの情報やヒト・モノが大陸との間で交流される場所であったのです。

 北海道には水稲耕作は伝わらず
続縄文文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。
 南西諸島にも水稲耕作は伝わらず
貝塚文化と呼ばれる食料採集文化が栄えていました。



・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現③中華人民共和国

◆官僚が出身地や血縁に関係なく採用され,法制度の整備により広域支配が実現した

 秦が滅び,前
202年に〈劉邦〉(前202~前195)が楚の〈項羽〉(前232~前202)を倒して,前漢王朝(202~後8)を建てました。〈劉邦〉の死後の称号は〈高祖〉(位前206~前195)です【セH29。都は長安に置かれ,長安周辺の15郡では中央から官吏を地方に派遣して郡県制を実施するとともに,封建制も35郡で実施する郡国制【セH16州県制ではない】がとられました【セH29。秦のときに,郡県制による厳しい地方支配が失敗したことを,教訓にしたのです。
 税を徴収する対象となったのは,人口のほとんどを占める小規模な自営農民でした
()。農産物で納める田租(でんそ),銅銭で納める人頭税・財産税の算賦(さんぷ),ほかに労働力を提供する徭役・兵役,市場での取引に課す市租がありました。
()渡辺信一郎『中国古代社会論』青木書店,1986

 次の〈景帝(157~前141)は,土地を与え臣下にしていた諸侯【東京H29[1]指定語句】権力の力が強まることをおそれ,その支配権を削減しようとしました。前154年に,それに抵抗する呉楚七国の乱【セH4紅巾の乱とのひっかけ】【セH26黄巣の乱とのひっかけ】が起きますが,鎮圧後に実質的に郡県制に変更して中央集権体制を確立しました。彼のときには,〈高祖〉の功臣として高い位を与えられていた「劉邦集団」に属する特権階級(さまざまな出自の人々が含まれていました)が,新しい官僚層に取って代えられる動きもありました(注)
(注)福永善隆「前漢前半期,劉邦集団における人格的結合の形成」『鹿大史学』6465巻,p.11p.22,2018.3

 第7代(カウントの方法によっては第6代)の武帝(141~前87) 【セH15節度使を設置していない】【追H30魚鱗図冊とは無関係,洪武帝とのひっかけ】H27京都[2]は,中央集権国家づくりを強力にすすめていきます【セH19洛陽に遷都していない】
 まず年号(元号)をつくり,諸侯にも同じものを使わせました。また,青銅貨幣の五銖銭(ごしゅせん)が発行されました【セH22半両銭ではない,H29東周の時代ではない】
 また,全国をに分けてその長の刺史(しし)に,の太守・の県令・長を取り締まらせました。そして,地方長官に将来官僚として使えそうな人物を推薦させる制度(郷挙里選(きょうきょりせん)) 【セH4唐の官吏は「郷挙里選制」によって選ばれ地方豪族出身者が多かったか問う,セH11「各地方で有力者が集まって投票を行い,官吏を推薦する制度」ではない()を本格的に実施しました。科目には,人間性を見る孝廉(こうれん),学問を見る賢良や文学がもうけられました。
 また,五経博士という職に〈董仲舒(とうちゅうじょ,前176頃~前104) 【追H9司馬遷,班固,鄭玄ではない】を任命して教義を統一させ,彼の提案により儒教を国家の教学としました(それが〈董仲舒〉によるものだったのか,また儒教が国教といえる扱いとなったのは紀元前後ではないかという異論もあります) 【共通一次 平1】【セH13訓詁学を確立したわけではない】五経【セH14『論語』は含まれない】は,『春秋』,『礼記』,『詩経【セH14リード文の下線部・屈原の詩は収録されていない】【追H30魏晋南北朝時代ではない】,『書経【京都H21[2]】【セH14リード文の下線部】,『易経』から成ります。
 〈武帝〉は豪族の大土地所有をやめさせるため,限田策(げんでんさく)を提唱しましたが,実施はされませんでした。ちょうど同じ頃共和政ローマでは〈グラックス兄弟〉が似たようなことをしています。漢の経済的な基盤は,5~6人の小家族による農業経営から成っており,彼らを保護する必要性が認識されていたのです。
(注)郷挙里選は,「①前漢の武帝の時には,この制度で官吏が推薦された」「③これは,地方長官が推薦した者を,朝廷が官吏として任用する制度であった」「④この制度によって,地方で勢力を持つ豪族の子弟が官吏となった」が正しい選択肢。

 また〈武帝〉は積極的に領域の拡大を図り,西は
タリム盆地のオアシス諸都市,南は秦から独立して政権を築いていた南越国【追H20滅ぼしたのが武帝か問う(後漢の光武帝,呉の孫権,唐の太宗ではない)】を滅ぼしヴェトナム北部へ,東は朝鮮半島にあった衛氏朝鮮【セH13】【追H21後漢の光武帝が滅ぼしたのではない】(前2世紀に漢人〈衛満〉(えいまん)【セH30が建国していた)を滅ぼして,前108楽浪(らくろう)【セH13】・真蕃(しんばん)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)の朝鮮四郡を置きました【セH3武帝は,匈奴を倒し,その後これを分裂させたわけではない】
 しかし,〈武帝〉の死後まもなく,臨屯と真番は前82年,玄菟は前75年に,住民の抵抗もあり廃止されました。

 広い範囲のさまざまな民族を支配する仕組みが,こうして中国でも確立したわけです。文化を共有する彼らは「中国人」「漢民族」としての意識を高めるようになり,〈武帝〉の代には歴史書『史記【セH7時期(倭の五王が朝貢した時期ではない)】紀伝体(きでんたい,テーマ別の形式)【セH14編年体ではない】【追H21紀伝体か問う】【中央文H27記】により漢字で書かれ,〈司馬遷〉(しばせん,前135?~前93?) 【セH9後漢の歴史までは著していない】【追H9董仲舒のひっかけ】により編纂されました。伝説上の黄帝から前漢【セH9後漢までではない】の〈武帝〉に至るまでの歴代皇帝に関することは「本紀(ほんぎ)」に記されています【セH14始皇帝に関する事績が本紀に書かれているかを問う】
 漢字のメリットは,読み方は地域によって様々でも,特定の字に特定の意味があるため,意味さえわかればコミュニケーションがとれるという点にあります。
 なお,〈司馬遷〉が宦官となったきっかけは,匈奴との戦いで敗れて捕虜になった友人の将軍〈李陵〉(りりょう,?~前74)をかばったことが〈武帝〉の逆鱗(げきりん)に触れ,宮刑(きゅうけい,宦官にされる刑)を受けたためです。ドン底に落とされた〈司馬遷〉ならではの人間への観察眼が豊かな『史書』は,その後に中国の歴代王朝によって編纂された歴史書とは異なる魅力を放っています。『史記』は〈司馬遷〉による個人作品でしたが,のちに正史(せいし)の一つとされ正統化されていきます。


 〈武帝〉【セH18光武帝ではない】の時代には,世界史上重要な一歩を踏み出した人物が現れます。西域に派遣された張騫(ちょうけん,?~前114) 【京都H21[2]】 【セH4前漢の人物か問う,セH12張角ではない。大秦国に派遣されたのは甘英】【セH21H24です。
 彼の切り開いたルートにより,ユーラシア大陸の中心部を東西に陸路で結ぶ“
シルクロード”(絹の道)が開拓されました。以前から,より北方の“ステップ=ロード”(草原の道)による東西交流はありましたが,騎馬遊牧民の牛耳る世界であり,農牧民にとっては“死の領域”でありました。
 この新たなルート“シルクロード”を安全に行き来するには,モンゴル高原を拠点に北方の遊牧民たちを支配下に置いていた匈奴をなんとかしなければなりません。そこで〈張騫〉は,
大月氏【セH24時期】と結んで匈奴を“挟み撃ち”にすることで,東西交易路の支配を狙いました。大月氏との同盟はなりませんでしたが,匈奴に敗れて西に逃げた月氏を追い,その途中にあったオアシス都市を従えることで,安全に通過することのできる東西交易路を切り開きました。これ以降,タリム盆地のオアシス都市,天山山脈の北の烏孫(うそん)【セH20キルギスに滅ぼされていない】,さらに西の康居などをおさえるために西域都護(さいいきとご)【セH15節度使ではない】が置かれました。オアシス都市には,タリム盆地中央部の北にあり最盛期に10万人を越えた亀茲(きじ,クチャ)や,疏勒(そろく,カシュガル),沙車(ヤルカンド),于闐(うてん,コータン)などがありました。いずれも乾燥地帯であり,河川やオアシスも小規模だったので,必然的に小規模な都市国家となりました。
 さらに〈李広利(?~前90)大宛(だいえん,フェルガナ) 【セH3『史記』大宛列伝の抜粋をよみ,大宛が定住農耕民であることを読み取る】に派遣し,汗血馬(かんけつば)という名馬を手に入れようとしました。

 〈武帝〉【追H20】は越(ベト)人の南越王国【追H20】を滅ぼし,9郡を設置しました。その南端の日南郡は,現在のフエと考えられています。
 前109年には,〈武帝〉により(てん)王国が滅ぼされました。これにより,内陸と紅河を結ぶ交易ルートは漢の支配下に入りました。


 一方,軍事費が増えて国家財政は苦しくなると,〈桑弘洋〉(前152~前80)の提案で,【共通一次 平1】【セH18・鉄【共通一次 平1】・酒【共通一次 平1:ではない】【セH19,セH28砂糖ではないの専売が実施されました。
 また,中小農民の生活安定を図るべく,物価の調整と安定
【セH19】のために均輸法平準法【セH14時期(秦代ではない),セH24【追H21秦代ではない,H30殷ではない】H27京都[2]が行われました。均輸法は,価格が下がっている時期に物資を国家が買っておき,価格が高騰した時に市場に販売するもの。均輸法は,価格が下がった物資を国家が買い,物資の不足により価格が高騰する地域に輸送して販売するもの。国家権力が商人の流通活動に介入したことで,商人の商売は“あがったり”になりました(このような経済現象を現在でも「民業圧迫」といいます)。

 この政策は,漢の財政基盤である5~6人の小家族の農業経営を保護し,
商人や職人の活動を抑制したもので,功績を認められた〈桑弘洋〉は御史台(ぎょしだい)の長で,この時期に皇帝の側近としては従来の宰相(さいしょう)に代わりトップとみなされていた御史大夫(ぎょしたいふ)に任命されました。
 しかし,有力者に保護を求めた商人・職人や,国家が商業に関与することに対し儒学者からの反発も大きく,〈武帝〉の死後におこなわれた政策論争(塩鉄会議,前81)の結果,酒の専売は撤回されました。翌年〈桑弘洋〉は別件の政争によって処刑されています。官僚の〈桓寛〉は前60年代にこの議論を『塩鉄論』にまとめました。

 前1世紀後半には,次第に外戚(皇后の親族)宦官(かんがん,皇帝につかえる去勢された男子)が政治に介入してくるようになります【セH14秦代ではない】


・前200年~紀元前後のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮問題
 
朝鮮半島には,亡命漢人の〈衛満〉(えいまん)による衛氏朝鮮が,臨屯(イムドゥン;りんとん)や真番(チンバン;しんばん)を支配下に置き拡大していました。当初は前漢も黙認していましたが,〈武帝〉は衛氏朝鮮を滅ぼし,衛氏朝鮮のあった場所に楽浪郡(らくろうぐん) 【京都H20[2]】【セH7時期(前漢代か問う)】を置き,沃沮(オクチョ;よくそ)から高句麗にかけての地域には玄兎郡を置き,さらに臨屯郡,真番郡【セH15時期(前2世紀),セH29試行 光武帝による設置ではない】の四郡(合わせて楽浪四郡と呼びます)を設置し,直接支配を目指しました。
 しかし,
楽浪郡(らくろうぐん)以外は現地の首長が間接支配する形に変わっていき,前82年に臨屯郡,真番郡は廃止されました。

 北海道の北に広がる海を
オホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり;コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,勢力を拡大させていきました。






200年~紀元前後のアジア  東南アジア
 この時期になると,東南アジアとインド,さらに西のローマを結ぶ海のネットワーク(海の道海のシルクロード)の姿が,だんだんと見えてくるようになります。 
 前2世紀末には,ヴェトナム中部に日南郡が置かれ,中国だけでなく,インドからも使者が訪れるようになっていました。
 中国にとって,東南アジアは「富」の宝庫でした。象牙,スズ(青銅器の原料)それに香辛料(スパイス)や,不思議な香りのする香料,ウミガメの甲羅や真珠。いずれも貴重な産物です。独特の香りのする竜脳という香木は,儀式において使用される貴重なものですが,熱帯雨林が原産です。前2世紀には,現在の広州(南越【追H20かつてのこの地方は「瘴癘(しょうれい)の地」とされ,「人々から恐れられる土地であった。瘴癘とは,熱帯・亜熱帯に生息する蚊が媒介する,マラリアの一種と考えられる。明末以降,沼沢や山林の開発が進み,人間の生活圏から蚊の生息地が減少すると,「瘴癘の地」としてのイメージは薄らいだ」】の都でした)で,熱帯雨林でしかとれないはずの竜脳が見つかっています。 船乗りたちが,船を乗り継ぎながら,ヴェトナム中部の日南郡から,メコン川下流を通り,マレー半島を陸で渡って,インドに向かっていたのです。





200年~紀元前後のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール


 マウリヤ朝は,〈アショーカ王〉
(268~前232?) の死後に分裂しました。平和を愛するダルマの理念が重んじられて軍隊が弱体化したとか,仏教への寄進によって財政が破綻したとか,いくつも説がありますがハッキリとはわかりません。50年余りたって前180年頃に滅亡しました。次は,同じくパータリプトラに首都を置いたシュンガ朝(180頃~前68)にかわりましたが,西北インドはバクトリアのギリシア人が支配していました。前68頃にシュンガ朝はカーンヴァ朝にとってかわられ,前23年頃滅亡しました。
 北インドの農牧民にとっての脅威はカイバル峠の北側の中央ユーラシアの勢力です。セレウコス朝シリアから,前255年頃にギリシア人が自立し,バクトリア王国が建国されていました。このバクトリアがマウリヤ朝崩壊のすきをついてガンダーラに進入し,インド=グリーク(ギリシア)を建国しました。その王〈メナンドロス1世(342~前291)は,仏教の僧侶〈ナーガセーナ〉(前2世紀頃)と対談したといわれ,『ミリンダ王の問い』におさめられています。インド=ギリシア(グリーク)人は,円形の銀貨を発行し,ギリシアの神像がインドの文字(ブラーフミー文字など)とともに刻まれました。

 その後,前145年頃にアフガン系の遊牧民であるトハラ(大夏) 【セH18マウリヤ朝ではない】バクトリア王国を滅ぼすと,とり残されたガンダーラ地方のギリシア人の中には仏教に改宗する者も現れました。
 さらに,そこに中央ユーラシアから大月氏が南下してきます。大月氏は,前2世紀後半に匈奴【セH7月氏ではない】に敗れた月氏【セH19時期】【セH7匈奴ではない】が,西方のバクトリアに移動して大月氏と呼び名を変えたものです。その大月氏が配下にしていた5つの諸侯のうちの一つ貴霜(クシャーナ族)が独立し,勢力を増し,紀元後1世紀には北インドに進入することになります。
 また,中央ユーラシアのスキタイ系の民族であるシャカ族は,前2世紀末~前1世紀初めにかけて西インドに南下し(インド=スキタイ人),前1世紀半ばにインド北西部一帯を支配しました。
 
 なお,カリンガはマウリヤ朝の分裂後に独立し,前1世紀にジャイナ教を保護した〈カーラヴェーラ〉のもとで栄えました。ガンジス地域のギリシア人や,デカン高原のサータヴァーハナ朝,南のタミル人と戦い勝利したという碑文が残っています。

 南アジアの最初の王朝は,前1世紀に成立したサータヴァーハナ朝(前1世紀~3世紀) 【追H20時期(14世紀ではない)】です。南アジアとは,ヴィンディヤ山脈よりも南のデカン高原一帯のこと。バラモンによる文献では「アーンドラ」族と呼ばれているので,アーンドラ朝ということもあります。1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。
 インド南端に近い地域では,タミル人が紀元前後にタミル語によりラブストーリーや戦争についてうたった古典文学(シャンガム文学)をのこしています。それによると当時そこには,チョーラ(南東部に流れるカーヴェリー川流域)パーンディヤチェーラの王国があって,抗争していたようです。チェーラはおそらくケーララ(インド南東部)のことです。

 仏教は,前3世紀に〈アショーカ〉王によりインド北西部に伝えられ,中央ユーラシアの「西域(中国の漢人による呼び名)の都市国家は仏教を受け入れました。やがてインドや中央ユーラシア出身の僧侶が,中国に布教に訪れることになります。





200年~紀元前後の西アジア

西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 ローマは第二次ポエニ戦争(前218~前201) 【セH14時期(前4世紀ではない)】した直後に当たります。
 ローマは
第三次ポエニ戦争(前149~前146年)で,カルタゴを最終的に滅ぼしました【セH22】。同じ頃,前148年にはマケドニア戦争で,マケドニア属州としています。カルタゴとマケドニアの両方の地で活躍した〈スキピオ〉(小スキピオ,前185~前129)は,マケドニアで捕虜となった〈ポリュビオス〉(ポリビオス,前204?~前125?)【東京H22[3]】【同志社H30記】【※意外と頻度低い】を保護しました。〈ポリュビオス〉)はローマ史を書きながら政体の移り変わり(循環)について考えた『歴史』で知られます。
 新たに獲得した属州は公有地でしたが,貴族(パトリキ)や騎士(エイクテス)などの有力者はこれを占有し,奴隷にはたらかせて小麦や果樹を栽培して大儲けしました。彼らが占有した大所領のことをラティフンディアといいます。
 属州から
ブドウオリーブといった安価な産品がイタリア半島に流れ込むようになると【セH7】,広い土地を持たない中小農民【セH7「ローマ軍の主力をなしてきた人々」】は価格競争に負けて没落【セH7】【セH21】していきました。中小農民は,ローマの重装歩兵の主力【セH21】であったため,彼らが没落したことでローマ軍も弱体化していきます。都市には土地を失った者(無産市民)が流れ込み,彼らに穀物や娯楽を与える有力者が,力を付けていくようになります。また,ローマ周辺の公有地は借金の返済のために売られて私有地となり,土地を買い集めた富裕層(ふゆうそう)と中小農民との格差は開くばかりでした。

 そんな中,グラックス兄弟(兄ティベリウスは前162~前132,弟ガイウスは前153~前121)改革をしますが【セH2富裕な階層の利害を代表するわけではない】【セH14時期(前4世紀ではない)】,貴族と無産市民との対立は止まりません。兄は前133年に護民官(ごみんかん)に就任し,リキニウス=セクスティウス法を復活させ,貴族の所領を土地のない無産市民に分けるべきだと主張しました。農民が土地を持ち自作農になっていれば,兵隊として国防を担う余裕ができるはずだと考えたのです。しかし,元老院を軽視したことから,大土地所有者である元老院内の保守派により殺されてしまいました。
 兄の遺志を受け継いだ弟〈ガイウス〉も前
123年に護民官になりましたが,反対派に攻められて自殺しました。
 それ以降のローマは内乱の1世紀という混乱期に入ります。

 〈グラックス兄弟〉の改革が失敗した後,ローマの根本的な問題は解決されぬまま,大土地所有はエスカレートしていきました。しかし,そんなことでは中小農民は土地を失い,ローマ軍の兵士として活動できなくなってしまい,国防は手薄になってしまう。
 そこで,無産市民たちに給与・武器・食料を支給して軍隊とする有力者が現れるのです。この有力者,自分の財力で軍隊を編成するのですが,無産市民にとっては,自分たちに「兵隊」という仕事を与えてくれた有力者は恩人です。こうして,親分である有力者に,多くの無産市民が子分がつかえるようになると,やがて有力者どうしの争いが生まれ,ローマはますます混乱します。

 元老院の貴族と結んだ有力者グループを閥族派といい,民会の人々と結んだグループを平民派といいます。有力者は,貴族や貧民に武具を支給して味方につけ,自分のプライベートな武装集団(私兵【東京H29[1]指定語句】)を組織し,各地で起こる暴動を鎮圧しつつ,勢力を拡大させていきました。私兵には退役すると征服地が分け与えられ,ローマ市民権も与えられました。特に,前1世紀には,閥族派の〈スラ(138~前78) が,平民派の〈マリウス(157~前86)と権力をめぐり激しく衝突しました。

 前91~前88には「同盟市」に位置づけられた諸都市が
ローマ市民権【セH2】を求めて反乱を起こし(同盟市戦争【セH2ローマ市民権を要求して結束したか問う,セH7属州内諸都市ではない】【東京H29[1]指定語句】),前88~前64年には,東方のポントス王〈ミトリダテス6世〉による小アジアにおける反乱が勃発し,長期間にわたる戦争となりました。そんな中,前73年に剣奴の〈スパルタクス〉が反乱を起こし(前73~前71),イタリア半島を縦断してローマは大混乱に陥ります。反乱後は奴隷の待遇は改善に向かい,奴隷制をゆるめて小作人制が導入されるようになっていきます。

 これらの危機に対し,鎮圧しているのは有力者の子弟で,有効な手が打てない元老院は支持を失っていくのは当然です。
 それに対し,有力者がめざす目的は,ローマの政治の主導権を握ることでした。そのために邪魔な存在である元老院を抑える必要がある。そこで,閥族派のポンペイウス(106~前48) 【セH6元老院と同盟したスパルタクスを打倒していない,H9オクタヴ(ママ)ィアヌスとの共同統治ではない】が平民派の〈カエサル(100~前44) 【セH6,セH7】が,コンスルの経歴を持つ富豪で軍人の〈クラッスス(115~前53) 【セH6】を誘って,裏でローマの政治を動そうと団結しました(〈クラッスス〉はスパルタクスの乱を鎮圧した指揮官です)。
 この3者の提携関係をのちに,
第一回三頭政治【※意外と頻度低い】といいます。平民派の〈カエサル〉は財務官(クアエストル)や法務官(プラエトル)など,名だたる官職を経験したエリート軍人。前59年には執政官(コンスル)に上り詰めています。

 前58年に,〈カエサル〉(前100~前44) 【セH6元老院に接近していない】は,ガリア地方(現在のフランス) 【セH7ローマの全市民に市民権を与えていない,『ゲルマニア』を書いていない】【※意外と頻度低い】に遠征して,小麦がたくさんとれるこの地方を属州とする手柄をたてました。この地方に分布していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の様子は,事細かに『ガリア戦記【セH7『ゲルマニア』ではない】【※意外と頻度低い】に記されています。
 前53年にアルシャク(アルサケス)朝パルティア【セH6】との戦争への遠征中に〈クラッスス〉(前115~前53) 【セH6パルティアに遠征したのはポンペイウスではない】【※意外と頻度低い】は,メソポタミア方面のカルラエ(現在のトルコ南東部)で戦死し,第一回三頭政治が崩れます。絶妙なバランスを保っていた三人の三角形は崩れ,残された2人による1対1の対立になってしまいました。
 〈
ポンペイウス〉(前106~前48)【※意外と頻度低い】は〈カエサル〉がガリア遠征で手柄をたてたことを嫌い,元老院側に寝返り,〈カエサル〉を排除しようとしました。しかし,意を決してローマに戻ってきた〈カエサル〉は,元老院の勢力とともに〈ポンペイウス〉を撃退することに成功。このときの〈カエサル〉の決意は,「賽(さい)は投げられた」という名言が表しています。〈カエサル〉は元老院議員が属州を私物化し,ローマの伝統である「共和政」にすがるも中小農民の没落になんら方策を打たなかった旧来の支配層が,ローマの危機をもたらした“悪の根源”だと考えていたのです。
 〈ポンペイウス〉が前48年にエジプトで暗殺されると,〈カエサル〉に歯向かう者は誰もいなくなりました。前45年にはインペラートル(将軍)の称号が与えられ,自らを“神”と崇(あが)めさせるようになり,誕生した月もその名をとって〈ユリウス〉(英語のJulyの語源)と呼ばせました。暦の制定にあたってはエジプトの
太陽暦をローマに導入し,自ら名をとってユリウス暦【セH2太陽暦から発達したか問う】【セH23グレゴリオ暦とのひっかけ】とし,従来のメソポタミア由来の太陰太陽暦(たいいんたいようれき)に代えました。この暦はのちにローマ教会がうるう年を修正し,現在もつかわれているグレゴリウス暦となっています。日本で「西暦」といえばこの暦のことを指します。

 〈カエサル〉は元老院を軽視し,
独裁官(ディクタートル)として独裁政治をおこないましたが,ローマの伝統である共和政を支持する〈カッシウス〉(前87~前42)らのグループににらまれ,〈ポンペイウス〉像の前で前44年に暗殺されてしまいます。
 暗殺グループの一人の顔を見て,「〈ブルートゥス,お前もと言ったというセリフは,特にイギリスの劇作家〈シェイクスピア〉(15641616)の劇『ジュリウス=シーザー(ユリウス=カエサルの英語読み)』のセリフEt tū, Brūte? Then fall, Caesar!」(エト トゥー ブルーテ?)で有名です。〈ブルートゥス〉(85~前42)は〈カエサル〉に父親代わりとして育てられた人物であり,〈カエサル〉は「ブルートゥスまでが暗殺に加わっているというなら,もう仕方ない」と諦めたのです。


 さて,〈カエサル〉【セH15ポンペイウスではない】亡き後のローマでは,〈オクタウィアヌス(63~後14) 【セH17ローマ法大全を編纂していない】とカエサルの部下〈アントニウス(83~前30) 【セH4プトレマイオス朝を滅ぼしていない,セH6レピドゥスではない】と,政治家の〈レピドゥス(90~前13) 【セH6アントニウスとのひっかけ】 【セH15クラッススではない】が,正式に「国家再建3人委員会」に任命され,政治を立て直そうとしました。国家はいま緊急事態であるとして,共和政を維持しようとするグループを弾圧し,国家権力を強めようとしたのです。
 〈オクタウィアヌス〉の父〈ガイウス〉は,そこまで名門の家柄ではありませんでしたが,母が〈カエサル〉の姪(めい)でした。つまり,〈カエサル〉は〈オクタウィアヌス〉にとって大伯父(おおおじ)にあたります。早くから〈カエサル〉に才能を見出され,相続人に指名されたのでした。〈オクタウィアヌス〉はイタリア半島以西,〈アントニウス〉は東方の属州,〈レピドゥス〉は北アフリカを担当としましたが,その後すぐに内乱となり,反旗をひるがえした〈レピドゥス〉を失脚させた〈オクタウィアヌス〉と,〈アントニウス〉との一騎打ちになりました。当時,〈オクタウィアヌス〉を擁護し,〈アントニウス〉を「独裁者になるおそれがある」と批判したのは,雄弁家として名高い〈キケロ(106~前43) 【セH17ローマ建国史は著していない】【法政法H28記】です。

 一方,〈アントニウス【セH4オクタウィアヌスとのひっかけ,セH6レピドゥスではない】【セH29は,プトレマイオス朝エジプト女王クレオパトラ7世(69~前30) 【セH4,セH6「エジプトの女王」,セH12アレクサンドリアを建設していない】【立教文H28記】と関係を深め【セH15「協力関係」にあったかを問う】,ローマの属州を与えてしまいますが,結局前31年にアクティウムの海戦【東京H13[1]指定語句】【セH17カイロネイアの戦いとのひっかけ,セH29で〈オクタウィアヌス〉に敗れました【セH29勝っていない】。アクティウムというのは,エジプト沖ではなくて,ギリシアのペロポネソス半島沖です。
 〈アントニウス〉は〈クレオパトラ〉とともにここに海軍を集結させていたのですが,緒戦で「負けた」と判断した〈クレオパトラ〉が戦線を離脱し,〈アントニウス〉も慌ててそれを追いかけると,取り残された海軍は〈オクタウィアヌス〉軍によって全滅してしまいました。アレクサンドリアに逃げた〈アントニウス〉には,
女を追いかけて逃げたという悪評の立つ中,〈クレオパトラ〉が死んだという話を聞き,前30年に自殺を図ります。最期は,実は死んでいなかった〈クレオパトラ〉の腕の中で迎えたと言われています。その〈クレオパトラ〉も,前30年にコブラの毒で自殺しました。こうして,プトレマイオス朝エジプトは滅び【セH4,〈オクタウィアヌス〉による地中海統一が成し遂げられたのです。地中海はローマの内海となり,“我らが海(マーレ=ノストルム)”と讃えられました。

 〈アレクサンドロス大王〉の後継者の建てた国は,これで全てなくなったので,東方遠征以来の「
ヘレニズム時代」の終わりとして区分することもできます(ヘレニズム時代とは,19世紀のドイツ人歴史学者〈ドロイゼン〉(1808~84)の用語です)。

 エジプトからローマに凱旋した〈オクタウィアヌス〉は,軍隊の指揮権を元老院に返したのですが,前27年に元老院がアウグストゥス(尊厳者) 【セH3,セH6】という称号を彼に与え,属州の支配を任せました。アウグストゥスの称号はつまり,死後は神として礼拝される存在になるということです。
 彼は軍隊の指揮権(
インペラートル)も手に入れ,さらにコンスル・護民官・最高神官の役職も手に入れます。一見独裁者のようですが,〈オクタウィアヌス〉は「君主のようにふるまえば,〈カエサル〉のように共和政を重んじるグループに目をつけられ,暗殺されるかもしれない。形の上では,自分は「市民のうちの一人」ということにしておこう」と考えていました。
 しかも,大土地所有をする名だたる有力者の集まる元老院を敵に回すのは,現実的ではありません。そこで,
アウグストゥス(亡くなったら“神”になる神聖な存在)が,あくまで元老院と協調して広大なローマの領土を支配する元首政(プリンキパトゥス) 【セH3ドミナートゥスではない】という体制が成立したのです【セH9「名目的には元老院などの共和政の伝統を尊重するものだった」か問う】【セH29試行 ローマ皇帝(アウグストゥスからネロまで)の系図】

 ただ,ローマの地方支配はゆるやかで,行政の大部分は自治の与えられた地方の
都市に任せられていました。ローマは中国と比較しても役人が少なく,公共建築や土木請負や徴税請負などは民間に請け負われていました。ケルト人の定住都市に軍団を駐屯(ちゅうとん)させることでロンディニウム(現在のイギリス・ロンドン) 【セH2ローマの都市か問う】【セH16ギリシア人の植民市ではない】,コローニア=アグリッピナ(現ドイツ・ケルン),ウィンドボナ(現オーストリア・ウィーン) 【セH2ローマの都市か問う】【セH16ギリシア人の植民市ではない】ルテティア(現フランス・パリ【東京H14[3]】) 【セH2ローマが建設した都市か問う】【セH16ギリシア人の植民市ではない】など,現在にまで残る都市が建設されました。



・前200年~紀元前後のアジア  西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ
 ユダヤ人はバビロン捕囚から解放されてパレスチナに帰ってからも,アケメネス〔アカイメネス〕朝,さらに〈アレクサンドロス大王〉の支配を受けました。
 続いて〈アレクサンドロス〉の後継者による
セレウコス朝シリアの支配下に入りました。セレウコス朝の〈アンティオコス4世〉はユダヤ教を禁止し,イェルサレムのヤハウェ神殿にギリシア神話の主神のゼウス像を建てるというギリシア化政策を強行。
 これに対し,前
166年にハスモン家の〈ユダス=マカバイオス〉(?~前161)による反乱(マカベア戦争)が起きて,前140年頃にはハスモン朝として独立を果たしました。

 しかし,第一回三頭政治のメンバーの一人だった〈ポンペイウス〉(前106~前48)が,前64年にセレウコス朝を破り,前63年にハスモン朝を支配下に置きました。

 こうしてパレスチナにまで勢力範囲を広げた共和政ローマは,直接パレスチナを支配せず,ユダヤ人の〈
ヘロデ大王(73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ大王〉の厳しい支配の中で,ユダヤ人の中からは様々な意見が生まれます。そのような中で,〈イエス〉(前6?4?~後30) 【セH12キリスト教の始祖かを問う】【セH19時期】がベツレヘムで誕生したのです。
 〈イエス〉の生誕地とされる場所には
聖誕教会が建設されています(◆世界文化遺産「イエス生誕の地:ベツレヘムの聖誕教会と巡礼路」、2012(危機遺産))。


・前200年~紀元前後のアジア  西アジア ⑱アルメニア
 アルメニア
高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)セレウコス朝シリアの支配下にありましたが,前189年にセレウコス朝がローマ軍に敗れたことをきっかけに,アルメニア人の〈アルタシェス1世〉(位前189~前160)が独立し,ローマの支援を受けてアナトリア半島の付け根からカスピ海の南東にかけてアルメニア王国(アルタシェス朝)を建てました。その後,ローマとパルティアの狭間に置かれながらも,交易の拠点として栄えました。〈ティグラン2世〉(位前95~前56)のときが最大領域です。しかし〈ティグラン2世〉はローマ軍の進出に苦しみ,次代の王はパルティア王の進出を受けます。アルメニア王国はローマとパルティアの間の“クッション”(緩衝)的な存在となり,紀元後6年には滅亡しました()
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.33-35,38-39。





200年~紀元前後のアフリカ


 地図を見ると,地中海とインド洋の間には陸地があり,一番狭くなっている部分をスエズ地峡といいます。首の皮一枚でユーラシア大陸とアフリカ大陸がつながっている格好です。
 スエズ地峡を超えると,アラビア半島の南側に紅海があって,そこを南東に通り抜ければ,インド洋(アラビア海)に出ることができます。ナイル川から紅海アケメネス〔アカイメネス〕朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉の建設した運河が存在したといわれていますが,クレオパトラの時代にはすでに泥に埋まってしまっていたようです。




○前200年~紀元前後のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

 紅海は,地中海とインド洋を結ぶ重要な「水路」です。前
120年頃,エチオピア高原の北部アクスム【東京H14[3]】を都としてアクスム王国が建てられました【東京H14[3]「ローマの勢力が後退した機をとらえて,紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国」の首都を答える】【セH24ザンベジ川の南ではない】
 アラビア半島のアフロ
=アジア語族セム語派の(アフロ=アジア語族)による国家といわれ,のちにキリスト教を受け入れました。エチオピア正教会はカルケドン公会議で異端とされた単性論ではありませんが,451年のカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないので非カルケドン派ともいわれます。21世紀の今でもキリスト教が多くの国民に信仰されています。おそらく,ローマ帝国との関係を良くするための政策だったのでしょう。
 エチオピア高原コーヒーの原産地【セH11アメリカ大陸は原産地ではない】でもあり,カッファ地方がその語源。伝説では〈カルディ〉というヤギ飼いが,ヤギの食べている赤い実を口に含んだところカフェインの刺激に驚き,人づてに実を入手した修道士が栽培を初め,実を煎じて飲むようになったということです。紅海から積み出され,アラビア半島南部のモカ(ムハー)からアラビア商人によって運ばれたため,その名はイエメン高地で栽培される品種「モカコーヒー」という名前に残っています。

 アクスム王国は文字も持ち,貨幣を鋳造し,巨大な石柱群(ステッレ)は世界遺産になっています。近くには,『旧約聖書』にも登場する,南アラビアの〈シバの女王〉の浴槽とされる物も見ることができます。伝説上の人物なのですが,イスラエル(ヘブライ)王国の王〈ソロモン(961?~前922?)を訪れ,金や宝石,乳香や白檀(香料)を贈ったとされています。エチオピアでは,この2人の子が,アクスム王国の初代の王〈メネリク1世〉となったという言い伝えがあります。インディ=ジョーンズの映画で有名になった「失われたアーク(モーセの十戒の記された石版が収められているといわれる)」は,この〈メネリク〉が獲得し,その力で王になったと言われているんですよ。現在もエチオピアのシオンのマリア教会の礼拝堂で保管されているといわれ,1年に1度だけティムカットというお祭りのときに,一般公開されます。
 さて,このアクスム王国はインドとも交易をしていました。地中海~エジプト~紅海~インド洋を結ぶ海の道の交易ルートの重要な拠点だったのです。アクスム王国はアラビア半島の南端のイエメンも支配し,黄金・奴隷や,アフリカの動物の象牙・サイの角・カバの革などを輸出して栄えました。





○前200年~紀元前後のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ
…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ



○前200年~紀元前後のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ
…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン



○前200年~紀元前後のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ
…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ



○前200年~紀元前後のアフリカ  北アフリカ
 エジプトは〈アレクサンドロス大王〉の死後,プトレマイオス朝エジプト(306~前30)により支配されていました。
 プトレマイオス朝は伝統的なファラオとしてエジプトの信仰を保護しつつ,〈アレクサンドロス〉の後継者として支配の正統化を図るため,ギリシア文化やムセイオンにおける学術研究を奨励するとともに,港湾を整備しファロスの灯台などの巨大建築物を造営しました。

 一時,フェニキア人の
カルタゴと結んで共和政ローマと対立しましたが,カルタゴが第三回ポエニ戦争で滅ぶと,共和政ローマによる進出の危険にさらされました。
 そこで,女性のファラオ〈
クレオパトラ7世〉(位 前69~前30)は共和政ローマの政治家〈カエサル〉,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となりました。





200年~紀元前後のヨーロッパ


200年~紀元前後の中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ
…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 
前8世紀頃以降,「ケルト人」と後に総称されることになる民族により,鉄器文化である=テーヌ文化が生み出されました。彼らケルト人は,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えたケルト人の戦士が支配階級でした。しかし前58年~前51年のガリア戦争で,共和政ローマの政治家・軍人〈カエサル(100~前44)により全ガリア【セA H30ルーマニアとは無関係】地域がローマによって征服され,属州となりました。

 バルト海東岸には,バルト語派の
バルト人が定住していましたが,前1世紀頃からフィン=ウゴル語(現在のフィンランド語やハンガリー語がこれに属する)のリーヴ人が,フィンランドの南(フィンランド湾の南)のエストニアに移動してきました。この地はリヴォニアといわれるようになります。
イベリア半島は第二次ポエニ戦争(208~前201)中に
共和政ローマの属州【東京H11[1]指定語句(イベリア半島史について)(ヒスパニア属州)となり,ローマは次第に半島内陸部にも進出していきました。イベリア半島西部のルシタニア人,中央部のケルティベリア人が倒され,前133年にはイベリア半島支配が確立されました。イベリア半島からは穀物・鉱産物が大量に輸出され穀物価格が下落したことが,共和政ローマの中小農民の生活に打撃を与え「内乱の1世紀」をもたらしたとみられます。その後は〈カエサル〉や〈アウグストゥス〉による支配を受けます。〈アウグストゥス〉の時には,イベリア半島北部のカンタブリア人との戦争が起きています。
 このときイベリア半島北部の
バスク人(インド=ヨーロッパ語族ではない,系統不明の言語)はローマ側につき,自治がゆるされていました。この時期以降,バスク人を除くイベリア半島の住民は,ローマ文化の影響を強く受けていくことになります。


200年~紀元前後のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島
…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆バルカン半島東部ではトラキア人が活動した
 前
300年頃から約2世紀はケルト人の支配を受けた後,首長〈ブレビスタ〉(前111?~前44?)が一時期ドナウ川河口のゲタイ人とトラキア人を合わせた王国を建てましたが,前44年頃に王は暗殺され,トラキア人国家は分裂。そんな中ローマ帝国の〈オクタウィアヌス〉が前28年にドナウ川の右岸(南側)を征服し,紀元後46年には属州トラキアとなりました。ちなみに,前73年にローマに対し奴隷反乱を起こした剣奴の〈スパルタクス〉(?~前71)は,トラキア人だったといわれます。


◆バルカン半島西部ではイリュリア人がアドリア海の交易に従事した

 
バルカン半島西部のイリュリア人は,またアドリア海沿岸で交易活動に従事しイリュリア王国を築いていましたが,バルカン半島と東地中海への進出をねらう共和政ローマに目を付けられ,前229~前168年にかけて戦われたイリュリア戦争の結果,共和政ローマに制圧されました。
 イリュリア王国の南半は共和政ローマの保護領になり,その周辺も含め前32年から前27年頃にかけてイリュリクム属州に編入されました。


◆バルカン半島北部ではゲタイ人・ダキア人がローマの進出を受けた
 現在のセルビアとブルガリアの地域には,ドナウ川下流のゲタイ人を撃退した後に,
属州モエシアを置きました。
 さらに共和政ローマは前33年に,ドナウ川流域に属州パンノニアを置きました。


◆バルカン半島南部のマケドニアはローマに敗れた
マケドニア王国はローマに敗れて,前
148年に属州マケドニアが置かれました。