ユーラシア大陸では、中央ユーラシアの遊牧民の影響を受け、定住農牧民との交流が発展。乾燥草原の遊牧民も、乾燥地帯の大河流域の定住民も、国家の支配地域を拡大させる。
南北アメリカ大陸では、中央アメリカと南アメリカのアンデスに神殿をともなう都市群が栄える。
時代のまとめ
(1) ユーラシア
騎馬遊牧民の活動が、ユーラシア大陸各地の定住民エリアに影響を与える。
東アジアでは、周王朝に服属する呉の〈夫差〉(位495~前475)らの諸侯が各地で経済開発を進める。
南アジアではガンジス川流域に、〈アジャータシャトル〉(位494~462?)のマガダ国などの諸国が経済開発を進める。
西アジアではペルシア人のアケメネス朝が、広域を統一する。最盛期の〈ダレイオス1世〉(位前522~前486)は、北方の遊牧民スキタイに敗北している。
ヨーロッパでは、地中海沿岸にカルタゴ(前9世紀後半~前146)やギリシア人の諸都市が交易活動で栄える。
社会の変動に合わせ、東アジアに諸子百家、南アジアに〈マハーヴィーラ〉(前6世紀頃~前5世紀後半)や〈ガウタマ=シッダールタ〉(前6世紀頃?)、西アジアに〈ゾロアスター〉(前10世紀説もある)、ギリシアに〈ピタゴラス〉(前582~前496)など、様々な新思想が生まれます。
(2) アフリカ
アフリカのナイル川流域にはエジプト新王国(前1558?~前1154?)が栄える。
アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは、狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。
バンツー系の人々は中央アフリカ、東アフリカ方面に移動を始めている。
(3) 南北アメリカ
中央アメリカのオルメカ文化の諸都市が放棄され、代わってメキシコ高原南部のサポテカ文化が成長する。
南アメリカのアンデス地方中央部では高地のチャビン文化のほかに、沿岸部の定住集落も盛んになる。
(4) オセアニア
ラピタ人の移動は、サモア周辺で一旦止まっている。
○前600年~前400年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカ…現在の①カナダ ②アメリカ合衆国
北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカの北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
○前600年~前400年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆メキシコ湾岸のオルメカ文化は衰退に向かう
オルメカ文化が衰え、都市が放棄される
オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)は衰退に向かいます。
大都市ラ=ベンタ は前400年には放棄されました。
◆マヤ地域では小規模な祭祀センターや都市次第に成長する
この時期のマヤ文明は先古典期(前1000年~前250年)に区分されます(注)。
(注)この時期のマヤ文明は、先古典期に区分され(前2000年~前250)、さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて、小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」(注)
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.23。
◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では、神殿が建設され始める
オアハカ盆地に神殿が建設され、軍事的に拡大へ
一方,トウモロコシの農耕地帯であったメキシコ高原では,前500年~前300年頃にメキシコ南部のオアハカ盆地で大規模な神殿が作られるようになりました。
オアハカ盆地の中央にある標高400mの山頂にはおそらく砦が建設され、征服活動を表したレリーフがあり、ティオティワカンとも外交していたとみられます。また、中央アメリカ〔メソアメリカ〕最古とみられる、260日暦と365日暦のシステムを整えた暦法を残しています(注)。
担い手はサポテカ人で,中心都市はモンテ=アルバンです。このサポテカ文明は,紀元後750年まで続きます。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社、2010、p.42。
◆メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えている
メキシコ中央高原には農耕を基盤とする集落が栄えています。
○前600年~前400年のアメリカ カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モンサラット島,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○前600年~前400年のアメリカ 南アメリカ
南アメリカ…現在の①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
◆アンデス地方には各地に農耕を基盤とする文明が栄え、神殿が築かれる
山地にチャビン文化、南海岸にパラカス文化
南アメリカのアンデス地方中央部の山地にあるチャビン=デ=ワンタルでは,前1000年頃からチャビン文化が栄え,前300年頃に衰えるまで続きました。
アンデス地方の南海岸にはパラカス文化(前4~前2世紀)が栄えます。以前は独立した文化と考えられていましたが、土器のスタイルの違いのみで、担い手はのちのナスカ文化と同じ集団です(注)。
(注)関雄二「アンデス文明概説」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS、2000、p.10。
◆アマゾン川流域には定住地が栄える
アマゾン川流域(アマゾニア)でも、狩猟採集のほかに農耕が導入され、定住集落もできるようになっています (注)。
(注)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,pp.240-241。
前2500年頃,台湾から南下を始めたモンゴロイド系の人々(ラピタ人)の移動は,前750年頃にはサモアにまで到達しました。彼らの拡大は,一旦ストップしますが,南太平洋の島の気候に適応し,現在ポリネシア人として知られる民族の文化を生み出していくようになります。
彼らは,メラネシア地域にあるニューギニア島の北岸から,ポリネシア地域にかけてラピタ土器を残しました。一番古いものは,紀元前1350年~前750年の期間にビスマルク諸島で製作されたものです。
○前600年~前400年の中央ユーラシア 西部
中央ユーラシアには,草原を舞台にした騎馬遊牧民による同じような特徴をもつ文化が広範囲にわたり広がっていました。その証拠に,前5~前4世紀には,中央ユーラシア東部のアルタイ地方で,ギリシア美術のデザインや,中国の絹織物や青銅器の鏡も出土しています。
なんといっても最大の勢力を誇っていたのは黒海北岸のスキタイ人です。アケメネス朝の遠征軍を破り、その軍事力を轟(とどろ)かせました。
サウロマタイ人(前7~前4世紀)は、西部カザフ、ウラル南部、ヴォルガ下流、北カフカス、ドン川下流地方で活動した、スキタイに似るイラン系の騎馬遊牧民。女性の社会的地位が高く、ギリシアの〈ヘロドトス〉はスキタイ人と「アマゾン」が結婚して生まれたとされます。
○前600年~前400年の中央ユーラシア 中央部
中央ユーラシアのど真ん中に位置するタリム盆地は,雨がほとんど降らない乾燥地域ですが,北を東西に走る天山山脈や,西部のパミール高原からの雪解け水に恵まれて,地下水や湧き水を利用した都市が,古くから生まれていました。このような定住地のことをオアシス,都市に発展したものをオアシス都市といいます。しかし,せっかく山ろくの地表に水が湧き出ても,ほっとくと高温と乾燥ですぐに蒸発してしまいます。そこで,山ろくから地下水路をオアシスに向けて伸ばして,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ(カレーズ)) 【セH5中央アジアのオアシス都市では「小規模な灌漑農業が行われていた」か問う】が作られるようになっていきました。上空から見ると,穴がいくつもぼこぼこ開いているように見えるのが特徴です。
○前600年~前400年のアジア 東アジア 現③中華人民共和国
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
前632~前506年にわたって,周王の権威の下で,晋が「覇者」として君臨していました。前589年に晋は斉を破り,前575年に楚を破りました。晋は,長江下流域の呉に前584年に楚と戦わせるなどして勢力削減を図り,前562年には楚から鄭を奪い返し,中原への進出を断念しました。
呉からの攻撃が相次いだため,楚は前546年に晋と和平を結んでいます。晋を霸者とすることで,中原諸国は楚を仮想敵国として同盟(会盟)を組んだり争ったりということを繰り返しました。
しかし,晋が楚との関係を改善させたことに対し,中原諸国の中には晋の言うことを聞かなくなる国も現れはじめます。前506年には晋が中原の蔡に救援を頼まれたときに,蔡を見捨てて楚を攻撃しなかったことがきっかけになって「覇者」としての君臨は終わり,中原諸国は次々と晋の言うことを聞かなくなっていきました。
前496年には,呉が越と戦い,呉王〈闔閭〉(こうりょ)は戦死しました。〈闔閭〉の遺言は「必ずカタキをとれ」。息子の呉王〈夫差〉(ふさ,在位前495~前473)は,「三年以内に」と答え,“薪の上で寝る(臥す)”ことで,父を失った屈辱を忘れまいとしました。そして迎えた前494年,越王〈句践〉(こうせん,前496~前465)を破り,“親父のカタキ”をとったのです。しかし,今度は〈句践〉が“胆(きも)を嘗(な)める”ことで屈辱を忘れずに国力増強に挑み,その結果,越は前473に呉を滅ぼしました。これらを合わせて「臥薪嘗胆」という故事成語ができました。リベンジのために何が何でも耐えるぞ!という意味です。前468年には『春秋左氏伝』(左伝)の記述が終わっています。
そんな中,この時期の中原諸国では,身分に応じた家臣とは別に,能力に応じた人材をとりたてる動きが加速しました。特に有名なのは〈孔子〉(前552?551?~前479)ですね【セH13ソクラテス,釈迦,孔子ではない】。
晋では趙【セH15山東半島が拠点ではない】・魏・韓の三晋が,周から事実上独立を図るようになります。
前447年,楚の〈恵王〉(前488~前429?)が,蔡を滅ぼして領土に加えたのち,宋の進出も狙いました。これに対して兼愛(家族を超えた博愛主義)【セH15】・非攻【セH17法に基づく統治ではない】を唱えた〈墨子〉【追H9孟子とのひっかけ】【セH17法家ではない】(前480?~前390?)の武装集団(墨家(ぼっか)【セH15】【慶文H30記】)が阻止しています。
前404年に趙・魏・韓の三晋が,周王〈威烈王〉(前425~前402)の命で斉を破り,前403年に諸侯と任命されました。この時点で,東周を前半の春秋時代が終わり,ここから戦国時代【セH19五代十国時代とのひっかけ】とすることが一般的です(宋の時代の『資治通鑑』(1084年完成)など)。なお,「戦国」は,漢の〈劉向〉(りゅうきょう,前77~前6)の『戦国策』が語源です。
・前600年~前400年のアジア 東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
殷が周に滅ぼされると,殷の最後の王〈紂王〉(ちゅうおう)の親戚であったとされる〈箕子〉(きし)が,周に従うことを拒否し朝鮮半島に移住して「箕子朝鮮」を建国したと,中国の歴史書(『史記』や『漢書』)が伝えていますが,実在は定かではありません。
○前600年~前400年の東南アジア
北ヴェトナムには,前1000年紀の中頃に,紅河(ホン川)流域に文郎国(ヴァンラン)という伝説上の国があったといいますが,定かではありません。ただ,この地域では水稲農耕が発展し,金属器も生産され,人口密度が高くなり,社会が複雑化していきました。インドや中国からの文化の流入も始まっていました。
○前600年~前400年の南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・前600~前400年のアジア 南アジア 現③スリランカ
スリランカ中央部には、シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。初代国王は〈ウィジャヤ〉(位 前543~前505)とされ、インド北部から移住した勢力とみられます。
・前600年~前400年のアジア 南アジア 現②バングラデシュ、⑤インド、パキスタン
前600年に後期ヴェーダ時代が終わり,この頃からアーリヤ人の中心地はガンジス川中・下流域に移りました。北インドのガンダーラから,デカン高原北部のアシュマカまで,16の国家に分裂して覇を競う時代となります。これらを十六大国と呼びます。ガンジス川流域にあったコーサラ国とマガダ国には,強力な王が官僚と軍隊に支えられる王国が形成されていました。コーサラ国はマガダ国に滅ぼされます。
マガダ国の都はラージャグリハで,王は部族にとらわれず実力本位で人材を登用し,官僚・軍隊を強化しました。〈ブッダ〉を保護した〈ビンビサーラ〉王(前550~前491)が有名です。
バラモン教に対する批判【追H30擁護していない】として生まれた新たな思想の一つが,ジャイナ教【セH10クシャーナ朝の保護で新たに広まった宗教ではない】【追H30バラモンとヴェーダの権威を擁護していない】です。
開いたのは〈ヴァルダマーナ〉(前549~前477?)という男です。彼はマガダ国で生まれた王子で,若いうちに結婚して子どもをもうけましたが,30歳で親と生き別れました。
彼は両親の死も含め,人間にとって逃れられない苦しみをどう乗り越えていけばよいか考えるようになります。自分の財産をすべて捨て13ヶ月間瞑想した結果,苦しみの根源が「所有」にあると悟りました。バラモンのようにきれいな衣服をまとい裕福で物にあふれていても,そこからまた新たな苦しみが生まれる。彼は,都市国家間の戦争も激しさを増し,多くの人が命を落としていく時代を生き,新しい時代をよりよく生きる生き方を人々に説いたのです。
ジャイナ教が批判した考え方に「輪廻転生」(りんねてんしょう)があります。バラモン教は「輪廻転生」の考え方を持っています。簡単に言えば「生まれ変わり」です。せっかくいい人生を送ることができたと思っても,その生き方次第で,来世ではミミズになったりネズミ,あるいは奴隷になったりしてしまうかもしれないという世界観です。
ただ,この考え方に縛られると,現在の自分は,まるで永遠に続く来世のために頑張っているということになりますから,これはかなり辛い。永遠のグルグルから抜け出すことを解脱(げだつ)というのですが,このためにはバラモンに莫大なお布施(ふせ)を支払ったりする必要があるとされました。
「そんなことする必要はないじゃないか」と考えたのが,〈ヴァルダマーナ〉という人物です。マハーヴィーラ(偉大な英雄)と呼ばれる彼は,12年間修行をした末にジナ(=勝利者)になったと讃えられています。彼は徹底した不殺生(ふせっせい,アヒンサー,生き物を殺さないこと)を首長し菜食も奨励しました。現在の信徒数は約3,000万人です。
ヴァルダマーナと同じ頃,バラモン教という当時の“常識”から目覚めた人物がいます。目覚めた人という意味の〈ブッダ〉です。目覚めることを,“悟りを開く”といいます。悟りを開く前は〈ガウタマ=シッダールタ〉(前566~前486頃または前464~前384頃) 【セH12仏教の「開祖」ではない】【セH13ソクラテス・釈迦・カントではない,セH15仏教の開祖かを問う,セH19時期】という名のクシャトリヤ階級でした。人間は永遠に輪廻転生するということが当たり前だったインドで,「輪廻転生の苦しみから逃れる方法」について悟った人物です。
彼は〈ヴァルダマーナ〉と同様,王子としてシャールキヤ族に生まれました。シャールキヤを漢訳すると釈迦(しゃか)になります。「ムニ」という偉い人を敬う呼び方をつけて,「釈迦牟尼」とも言います。
シャールキヤ族は,マガダ国のライバルであるコーサラ国の部族の一つでした。十六大国時代ですから,まさに戦国時代。故郷のカピラヴァストゥという町(インド側は「インドにあった」と主張し,ネパール側は「ネパールだ」と主張しています)で,母〈マーヤー〉(摩耶)と王から生まれた〈ガウタマ〉ですが,出生7日後に母は死んでしまいました。結局〈マーヤー〉の妹によって育てられ,宮殿で可愛がられて育ち,やがて16歳で結婚し,子どもをもうけます。
しかし,バラモン教の考え方に疑問を持っていた彼は,夜中に王宮を抜け出し,修行の旅に出ます。29歳のことでした。彼はいくつかの師匠につきましたが,「これじゃない」と思い,結局森に入って35歳までの6年間,体を痛めつける苦しい修行に励みます。しかし,「こんな厳しい修行をしても,意味はない」とようやく気づく。
断食をやめて川にたどりつくと,村の娘の〈スジャータ〉からお米を牛乳で似たおかゆをもらう。これで元気が出た〈ガウタマ〉は,近くの木の下で瞑想をはじめたのです。
途中で悪魔が邪魔をしようとしたのですが,これを退散することに成功し,その後座って瞑想しつづけた〈ガウタマ〉は,「なぜ人間は苦しむのか」「苦しみから逃れる道はなにか」という問いに対する答えを見つけます。つまり,ブッダ(目覚めた人)になったのです。
「でもこの教えをみんなに教える必要はないだろう」と思っていたブッダに対して,「教えたほうがいいよ」とアドバイスしたのは,ヒンドゥー教のブラフマー(梵天)なんですね。そこで,現在はヒンドゥー教の聖地としてのほうが有名なヴァラナシの近くのサールナートで,〈ブッダ〉は初めて自分の考えをお披露目しました。その相手は,かつて森の中で苦行に励んだ5人の仲間だったのです。たちまち信者は1000人を越え,その名声をきいたマガダ国の〈ビンビサーラ王〉(位前546~前494?)も弟子となり,土地や建物を寄進(注)したといわれています。
(注)宗教的な権威が,資源や土地に関する権限の調整や再分配を行う例は,歴史上に多くみられます。「自力救済」が支配的な前近代社会にあって,民間の経済活動や財産は,権力者によって侵害されることはよくありました。そこで,寺院や境界に財産を寄託したり,権力者の腐敗を防ぐために市場の管理を寺院が担ったりこともふつうに見られました。それら財産や経済活動の管理の主体として,寺院の果たした役割は大きかったのです。医療活動や福祉活動を通して住民の人心をとらえることもありました。
十六国時代にはすでに,王がバラモンに村や土地を施与する慣行が始まっていました(「村の施与とはその村から徴収される諸税の享受権を与えることであり,土地の施与とは開拓可能な未耕地などを免税の特権とともに与えることを意味する」 辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,pp.54-55)。仏教教団にとっても寄進は重要でした。「ブッダに帰依する者はバラモンから不可触民にいたるあらゆる階層からでたが,教団を物質的に支えたのは,主として都市の住民,とりわけ王侯と商人であった。マガダ国の都ラージャグリハにあった竹林精舎も,コーサラ国の都シュラーヴァスティーにあった祇園精舎も,彼らの寄進したものである。」(辛島昇編『南アジア史』(山川出版社,2004年,p.62)。
順調のように見えた〈ブッダ〉を襲ったのは,故郷シャールキヤの滅亡でした。ブッダのことを慕っていたコーサラ国王〈プラセーナジット〉が,留守中にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)にあってしまい,新たに王位についた〈ヴィルーダカ〉がカピラヴァストゥを攻め滅ぼしてしまったのです。結局〈ヴィルーダカ〉も,勝利に酔いしれている最中に雷が落ちて死んでしまうのですが。
故郷を失った〈ブッダ〉は,それでも布教をつづけましたが,とある村で出されたキノコが原因で,亡くなってしまいます。〈ブッダ〉も「人」であることには変わりはなかったのですが,亡くなるといっても〈ブッダ〉は悟っているわけですから,輪廻転生の心配のない安らかな眠りです。
〈ブッダ〉の死後,弟子たちは,2つのものを分け合いました。
まずは〈ブッダ〉の遺骨。仏舎利ともいうこの遺骨を,ストゥーパという塔に納めてまつりました。実は,仏像がつくられるようになるのは,〈アレクサンドロス大王〉(前356~前323)の東方遠征がきっかけです。〈アレクサンドロス大王〉が連れてきたギリシア人が,彫刻の制作技術を伝えたのです。それが現在ののアフガニスタンにあるガンダーラ地方です。アフガニスタンは,カイバル峠でインダス川上流部とつながっている地域です。アフガニスタンには,ギリシア人の国バクトリア王国(前255~前145頃) 【セH8ソグド人ではない】【※意外と頻度低い】が前255年にたてられていて,ギリシア人が植民してます。ギリシア系住民が,ガンダーラ様式の仏像【セH4図版(純インド的な様式ではない)】をつくる以前は,人々は,〈ブッダ〉の遺骨を崇拝していたのです。〈ブッダ〉は正しい「考え方」を追究することで,生きる苦しみから逃れる道を探したわけですが,やっぱり「物」をありがたがるほうが,わかりやすいですからね。この時期の,アフガン方面から北インドにかけての美術をガンダーラ美術【セH8】【セA H30ビザンツ文化の影響ではない】【※意外と頻度低い】ともいいます。
そして,二つ目は〈ブッダ〉の残した教えと法と決まりです。
〈ブッダ〉の語った言葉は,のちにいろいろ解釈されていき,数百年たつと,どれが本当に〈ブッダ〉の語ったことなのかわからなくなってしまった。そこで,何度かその教えをまとめる作業がおこなわれました。これを結集(ブッダ)といいます。
仏教のお経を聞いていると「にょーぜーがーもん」というフレーズがよく出てきます。これは,「如是我聞」,かくのごとく我聞けり。「わたしはこう聞いた」という意味です。お経というのは弟子たちが,「俺はこう聞いた」「いや,私はこう聞いた」という聞伝えなんですね。お経といいましたが,もう一つ重要なのは律(教団の規則)です。
〈ブッダ〉の死から100年経った頃の仏教を部派仏教(アビダルマ仏教)といいます。
第二回仏典結集が開かれたときに部派仏教の教団は,「もうすこし規則(律)をゆるくしよう」というグループと「規則は絶対だ」というグループに分かれていました(根本分裂)。前者を大衆部,後者を上座部といいます。この
人間が集まってつくられた組織というのは,時が経てば何かしらを争点として,「変えよう」というグループと「このままでいよう」というグループに分かれるものです。前者を革新派,後者を保守派といいます。ブッダの死後300年たつと,グループはさらに20部派にまで分かれていたといいます。
このうち有力だったのは,インド北西部の上座部に分類される説一切有部(せついっさいうぶ)で,この世界を成り立たせているダルマ(法=ブッダの教え)は諸行無常(すべてのものは移り変わっていく法則)に反し,過去・現在・未来に渡って“存在”すると主張しました。
しかし,説一切有部が仏教の理論研究を重視している姿は,南インドの大衆部(だいしゅぶ)には“修行している本人のみが救われる” 狭い営みに映りました。大衆部は説一切有部のことを「小乗仏教」と批判しています(大衆部(だいしゅぶ)にはその後の大乗仏教につながったという説と,つながりを否定する説があります)。
個人の修行を重視するスリランカ(セイロン島)の上座部は,のちに東南アジアに伝わりました。中国・朝鮮・日本に伝わった北伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】と違い,南から伝わったので南伝仏教【追H9地図:伝播経路を問う】といい,上座仏教(テーラワーダ)【セH6「上座部仏教」,菩薩信仰が中心思想ではない】と呼ばれます。上座仏教は,部派仏教時代の上座部とは厳密にはイコールではないので,以前呼ばれていたように“上座部仏教”(じょうざぶぶっきょう)とは呼ばれなくなってきています。
〈ヴァルダマーナ〉や〈ガウタマ=シッダールタ〉の活動した前6世紀頃には,中国でも新しい思想家たち(諸子百家)が現れます。ギリシアで〈ピュタゴラス〉(前570?~前495?) が現れるのも前6世紀のこと。イランで〈ゾロアスター〉(生没年不詳)がゾロアスター教を開くのも一説にはこの頃といわれます(前1000年頃という説もある)。同時多発的に,世界各地で新たな考え方が開花したことに注目し,19~20世紀のドイツの実存主義の哲学者〈ヤスパース〉(1883~1969)は前6世紀を「枢軸の時代」と名付けました。
●前600年~前400年の西アジア
アッシリア帝国が滅んだ後,オリエントは四国分立時代になります。
イラン高原ではメディア王国が拡大し,前590年にはアルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)でかつて強盛をほこったウラルトゥの王国を併合しています(注)。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.32。
その後,オリエントを再統一することになるのは,イラン高原南西部のパールス(現在のペルシア語ではファールスと発音します)地方の人々でした。パールスというのは「馬に乗る者」という意味があるように,名馬の産地として知られていました。
現在のイラン中央部に位置するイラン高原は年降水量が200mm程度の乾燥帯に分類され,夏場は高温になるために,農業のために灌漑施設が必須です。地表に水が湧き出ても蒸発してしまうため,地下を流れる水を組み上げる井戸(カナート(ガナート)やカーレーズ)の整備をめぐって,人々をまとめる権力者が登場します。また,南部には険しいザグロス山脈という山脈が,メソポタミア方面からペルシア湾と並行に,イランの南の縁を横切るようにのびています。
それに比べ,イラン高原の北部のほうにある,世界最大のカスピ海の南岸地方は,エルブールズ山脈によって,イラン高原と区切られています。カスピ海から吹く風が山脈にぶつかって雨が降るため,農業もさかんです。
パールス地方においてすぐれた騎馬戦法を発展させたアケメネス家が強大化し,アケメネス朝【京都H22[2]】【セH17ハンムラビ王は無関係】を建国しました。
建国者は〈キュロス2世〉(位前559~前530) 【追H21出エジプトの指導者ではない】で,メディア王国とリディア王国を征服し,さらに前539年にはバビロンに入城。さらに前538年には“バビロン捕囚”をうけていたユダヤ人を解放しました。〈キュロス2世〉は,北方のスキタイ人(ペルシア語の史料では「サカ人」)も討伐しています。
王位を継承したのは長男〈カンビュセス2世〉(?~前522)で,前525年にエジプトを征服し,第26王朝を滅ぼして,なんと自身がファラオに即位しています。しかし,彼はペルシアに帰る途中,病死あるいは暗殺されました。
これをチャンスとみた,アケメネス家の〈ダレイオス〉は,ペルシアの有力貴族に支持されて,王の弟を暗殺し,キュロスの家系から王位を奪います。
こうして王位についた第3代〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世,位522~前486) 【セH6】【セH27アルシャク(アルサケス)朝パルティアの王ではない】【追H30】は,黒海沿岸から北インド(インダス川上流部)にかけて遠征し,エーゲ海の東部やエジプトを含む広大な領土を支配することに成功します。
アム川上流部のバクトリアや,その西のマルギアナも支配下に置いています。
彼により建設されたザグロス山脈(イラン高原南部をペルシア湾と並行に走る山脈)の中央の新都ペルセポリス【セH17ギリシアではない,セH27コロッセウムはない】にあるレリーフ(浮き彫り)には,インド人が牛を連れている姿や,バクトリア人がフタコブラクダを連れている様子も刻まれています。楔形文字を使用した碑文も各地に残っています。スーサ王宮建設碑文(ペルシア語・エラム語・アッカド語)や,即位宣言が,ゾロアスター教の善神アフラ=マズダから王位を与えられるレリーフとともに刻まれているビーストゥーン(ベヒストゥーン)碑文が知られています【セH15楔形文字は碑文にも刻まれた例があるかを問う】。
広大な領土から,効率よく情報や税金を集めるために,公用語としてアラム語・アラム文字が使用されました。また,アラム語の影響を受けてソグド文字が,イラン系のソグド語の表記に用いられるようにもなりました【セH6ダレイオス1世は,シルク=ロードを通して東西交易に力を注ぎ,中国へ使節を送ったわけではない】。
広大な領土を支配するために,帝国を行政区に分割して,土地の広さや実態に応じて,金または銀を納めさせました。従来は,各地の民族が王に対して献上品(贈り物)を不定期に貢納するのが普通でしたが,これを定期的な物の徴収に改め,しかも各地区ごとに額を設定したことは革新的でした。広大な領域を州に区画し,納税額を設定して徴税する方法は,今後周辺の世界にも受け継がれていきました。
ペルシア人の王族・貴族はサトラップ(サトラプ,太守) 【追H30】【※意外と頻度低い】に選ばれ,各行政区を軍事的に間接支配させました。サトラップは徴税の責任者でもありますが,不正をはたらく心配もあるため,「王の目」「王の耳」【※意外と頻度低い】という監察官が不正防止のために派遣されます。こうした統治方法は,のちのローマ帝国にも受け継がれていきました。
〈ダレイオス1世〉は,税をおさめ,兵を出すなどの言うことを聞いている限り,基本的には征服地にペルシア語【セH5インド=ヨーロッパ語族か問う】・ゾロアスター教やペルシア人の法を押し付けることはありませんでしたし,征服地の支配者も,サトラップの言うことを聞いている限りは,その身分は保障されました。“アケメネス朝は支配地域に対して寛容だった”と,よく説明されますが,ようするにそのほうが,支配にかかるコストがかからないわけです。
ただ,これだけ広い地域を支配するには,「情報」や「物資」の伝達が不可欠です。例えば,地方で反乱が起きたときには,その情報をいちはやくつかみ,兵や食糧を迅速に輸送する必要があります。
そこで,首都スーサ【東京H20[3]】から小アジアのサルディスまで「王の道」【セH4地図(王の道のルートと,道を整備した国の名称(アケメネス朝ペルシア)を答える),セH6シルク=ロードではない】が整備されました。ギリシアの歴史家〈ヘロドトス〉(前484?~前425?) は,全行程約2400kmで,所要日数は90日だったと伝えていますが,通常は3ヶ月かかったと考えられています【セH4『歴史』の史料が転用される。「「王の道」と呼ばれるその街道には,王の宿駅や立派な旅宿が随所にある。リディアとフリギアの区間は94パラサンゲス半(注*約520km)の距離だが,宿駅は20にのぼる。その先ハリス川の地点には関所と,それを守る衛所とがある。宿駅の総数は111。サルデスから都スサまでの間にこれだけの数の宿泊所があったことになる。」】。
アケメネス朝では,前1000年頃に創始されたゾロアスター教が信仰されていました。〈ダレイオス1世〉は,ペルセポリスという都を建設しましたが,新年祭の儀式をとり行う場であったと考えられています。〈アレクサンドロス大王〉(位 前336~前323)に破壊され,現在は廃墟となっています。
なお,アルメニア高地(ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯)は,アケメネス朝ペルシアの支配下に置かれています。
○前600年~前400年のアフリカ 東アフリカ
東アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。
○前600年~前400年のアフリカ 南アフリカ
南アフリカではコイサン人が狩猟採集生活を送っています。
○前600年~前400年のアフリカ 西アフリカ
◆西アフリカで鉄器の製造が始まる
この時代にも,現在のカメルーン周辺を現住地とするバントゥー系の住民の中央アフリカ方面への大移動が続いています。
ニジェール川下流域の現在のナイジェリア北部では,前500年頃~前200年頃に鉄器が製作された後が残されています。前500年以前にも鉄器利用の証拠があり,メロエ遺跡よりも年代が古いほか,製法も異なるため,西アフリカで鉄器文化が独自に発展したのではないかという説も提唱されています。
○前600年~前400年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリカの熱帯雨林地帯では,ピグミー系の人々が狩猟採集生活を送っています。
○前600年~前400年の北アフリカ
◆サイス朝(前664~前525)…第26王朝
エジプトでは,ナイル川河口のサイスを拠点に第26王朝(前664~前525)が,ギリシアとの交易で栄えていました。
◆末期王朝(前525~前332)…第27王朝~第31王朝
しかし,前525年にイラン高原でおこったアケメネス朝の〈カンビュセス2世〉(位前530~前522)がエジプトに進出し,支配下に置かれました。エジプトには総督であるサトラップが派遣され,アケメネス朝の属州(サトラペイア)となりました。このペルシア支配下の王朝を第27王朝(前525~前404)といいます。
これ以降,第31王朝まで短命な政権が続き,最終的に〈アレクサンドロス大王〉による征服で滅びるまでの期間を「末期王朝時代」といいます。
○前600年~前400年のヨーロッパ 中央・東・西・北ヨーロッパとイベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆ケルト人の鉄器文化が発達した
しかし,前8世紀頃からヨーロッパにも鉄器が伝わっておりケルト人による文化は前450年頃から従来のハルシュタット文化からラ=テーヌ文化へと移行していきました。彼らは,イギリスや地中海沿岸とも交易を行っていたことがわかっており,鉄製武器を備えた支配階級の戦士が各地に遠征しました。
北ヨーロッパにも鉄器が伝わるのはやや遅く,前500年頃のことです。
イベリア半島には,ケルト人が先住のイベリア人と混血したケルティベリア人が分布していましたが,前7世紀にはバルカン半島南部のギリシア人が移住するようになり,前6世紀にはイベリア半島東北部に植民市エンポリオンが建設され,イベリア半島内陸部との交易も行っていました。
一方,アッシリア帝国の崩壊後に勢力を伸ばしたフェニキア人の植民市カルタゴ(現在のチュニジアにあります)も地中海沿岸各地に植民市を建設。前540年にはイベリア半島とアフリカ大陸を分かつジブラルタル海峡を占領し,エンポリオンを除くギリシア人をイベリア半島から駆逐しました。イベリア半島の住民はカルタゴにより傭兵として採用され,鉱山の開発も進められました。
・前600~前400年のヨーロッパ 西ヨーロッパ ①イタリア半島
◆イタリア半島ではギリシア人やフェニキア人が海上交易で栄える
イタリア半島北部にはエトルリア人が,南部ではギリシア人の植民地(マグナ=グラエキア(大ギリシア))が分布していました。シチリア島にも,シラクサ(シュラクサイ)というギリシア人の植民市があり,アテネ(アテーナイ)の進出に対しペロポネソス戦争(前431~前404)ではスパルタ側について戦っています。シラクサでは前405年に僭主〈ディオニュシオス1世〉(前405~前367)が即位し,僭主政治を行い交易で栄え,カルタゴと対立しました。〈ディオニュシオス1世〉は〈太宰治〉『走れメロス』に登場する暴君のモデルとなった人物です。
イタリア半島中部のラテン人の都市国家ローマは,初めエトルリア人の王に支配されていましたが,前509年に追放し共和政が始まりました。当初は政治は貴族(ノビレス)が独占していましたが,平民(プレブス)が重装歩兵部隊の主力として活躍するようになると,護民官(トリブーヌス=プレービス)と平民会の設置を要求しました。前494年と前449年の聖山事件(せいざんじけん)という平民の反乱により護民官・平民会ともに設置されました。護民官は神聖な役職とされ,「ウェトー(Vetō,私は拒否する)」と言うことで,人々のために元老院がくだした決定をくつがえすことができました。ただし独裁官(ディクタートル)の決定は例外です。さらに,前450年頃には,十二表法【セH17時期(前5世紀かを問う)】【セH8慣習法を成文化したローマ最古の法か問う】が公開されて,貴族が口伝えで受け継いできた法の独占が破られていきました。
○前600年~前400年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆バルカン半島の諸民族は西方からのケルト人,黒海北岸からスキタイ人などの遊牧民と対抗した
バルカン半島東部のトラキア人
バルカン半島の東部では,前6世紀初め頃から,トラキア人が国家を形成します。代表的なのはオドリュサイ王国で,前5世紀諸島に国家の基礎を確立し専制君主制をとって黒海北岸のスキタイ人とも外交関係を結んでいました。
バルカン半島西部のイリュリア人
バルカン半島西部のイリュリア人は,進出したケルト人に服属しました。ケルト人はバルカン半島を横断して黒海北岸まで到達しています。
バルカン半島北部のダキア人,ゲタイ人
バルカン半島北部にも黒海北岸のスキタイ人の圧力が強まり,ドナウ川中流域の左岸(北部)にはダキア人やゲタイ人が対抗しました。活動範囲は,現在のブルガリア北部とルーマニアにかけての地域にあたり,ギリシアの〈ヘロドトス〉や〈ストラボン〉によれば,バルカン半島東部のトラキア人のうちの北方のグループが東西に分かれて生まれたとされます。ギリシアの〈トゥキディデス〉(前460?~前395?) の歴史書によると,ゲタイ人はスキタイ人と同じく騎馬射手の軍隊を持っていました[芝1998:36]。アケメネス朝ペルシアの〈ダレイオス1世〉(⇒前600~前400の西アジア)は,前573年にスキタイ遠征を実施した際にゲタイを攻撃しました。その後〈アレクサンドロス〉大王の攻撃も受けました。
◆アケメネス朝は,保護下にあったフェニキア人とともにギリシア人の植民市を奪おうとし失敗した
〈ダレイオス1世〉(ダーラヤワウ1世,前522~前486)率いるペルシア人のアケメネス朝(古代ペルシア語ではハカーマニシュ,当時のギリシア語ではアカイメネス)は,保護下に置いていたフェニキア人の商業圏を広げるため,エーゲ海への進出をめざして小アジアを東に進出してきました。アケメネス朝はフェニキア人の海軍力を利用し,地中海交易を支配下に入れようとしたのです。
ミレトス【東京H14[3]】を中心とするイオニア植民市はペルシア人の進出に対して反乱を起こし,それを救援するためにアテネ(アテーナイ)とエレトリアが立ち上がり,(ギリシア=)ペルシア戦争(前500~前449)が勃発しました。この戦争の詳細については,〈ヘロドトス〉(前484?~前425?)が『歴史(ヒストリアイ)』に記録していることからわかっています。『歴史』には同時代のギリシア以外の広い地域の様子についても記されていて,東は遊牧騎馬民族のスキタイ人についてまで説明されています。
前492年の〈ダレイオス1世〉による第一回ギリシア遠征は失敗。同じく〈ダレイオス1世〉による第二回遠征は前490年のマラトンの戦い【セH17カイロネイアの戦いとのひっかけ】でアテネ(アテーナイ)【セH29スパルタではない】の重装歩兵軍が,スパルタ軍の到着する前にペルシアを破りました。
勝利に酔っていたアテネ(アテーナイ)市民をよそに,「やがてペルシアはもう一度やってくる。今度は海戦になるはずだ」と予測した〈テミストクレス〉(前528?前527?~前462?前460?)が,海軍の増強を主張。その財源はラウレイオン銀山で採掘された銀を使うと,堂々たる演説を行うと,前483年の民会で決議され,200隻の軍艦建造が決まりました。
〈テミストクレス〉の予言通り,ペルシア軍はまた襲来。
北方ではスパルタが陸路で攻めてきた〈クセルクセス1世〉(位前485~前465)率いるペルシア軍に,テルモピュライ(テルモピレー)で敗北。この戦闘に加わっていたのは,約1000人のギリシア軍(うち300人が〈レオニダス〉将軍率いるスパルタ軍)でした(映画「300(スリーハンドレッド)」(2006) 山と海に挟まれた狭い街道に誘い込む作戦が失敗した様子が描かれていますが,ペルシア人側が野蛮な姿に描かれていることに,イラン政府は抗議しています。ペルシア戦争は近世以降のヨーロッパにおいて,“文明的なヨーロッパ側のギリシアの民主政が,野蛮なアジアのペルシア皇帝に勝ったのだ”というストーリーとして理解されてきた経緯があります)」)。
この第三回遠征では,前480年のサラミスの海戦【セH17カイロネイアの戦いとのひっかけ】【追H30ギリシア軍は敗北していない】でペルシア軍を破りました。ちなみに,第二回までは〈ダレイオス1世〉が指導していましたが,第三回は〈クセルクセス1世〉によるものです。
当時のギリシア人には,デルフォイにあるアポロン【セH7主神ではない】の神殿で神託をうかがい,重要事項を決めるしきたりがありました。
〈テミストクレス〉がデルフォイで占った結果,神が出したお告げは「木の柵を頼れ」でした。彼はこれを,建造した艦隊のことだと判断し,巧みな戦略で2倍の艦隊数を誇るペルシア海軍をサラミス海峡に誘い込み,壊滅的打撃を与えることに成功したのです。
ギリシア人はポリスの違いに関係なく,オリンポス12神【セH25】【追H20一神教ではない】への信仰が盛んでした。主神ゼウス【セH7アポロンではない】をはじめ,オリエントの神々とは違い,人間の姿をしていて【セH25】人間臭いところがあるのが特徴です。いくつかのポリスが隣保同盟を組んで,神々を一緒にまつることもありましたが,デルフォイ【セH29試行】とオリンピアだけは,すべてのギリシア人にとっての聖地でした【セH29試行 アメン=ラー神信仰ではない,バラモンは無関係】。オリンピア【セH27アテネ(アテーナイ)ではない】では定期的にポリス対抗の競技大会が開かれ(古代オリンピック) 【セH27,セH29試行 コロッセウムでは開催されていない】,〈ピンダロス〉(前518~前438)が祝勝歌をつくっています。別々のポリスであっても同じギリシア人(ヘレネス)意識を持っていた彼らは,ギリシア語を話さない異民族をバルバロイ(よくわからない言葉を話す者) 【セH10「手工業に従事する人々」ではない】と呼び,自分たちよりも遅れた存在と見なしていました。
◆エーゲ海沿岸では,「この世界」や「物体」「自分自身」が “ある” ということは一体どういうことか,考える人々が現れた
なお,小アジア西岸のイオニア地方では自然哲学者の研究がさかんとなり,万物の根源(アルケー)を追究する人々が現れました。万物の根源は「水」とした〈タレス〉の弟子で万物の根源を「無限なもの」とした〈アナクシマンドロス〉(前610?~前546?),その弟子で「空気」とした〈アナクシメネス〉(前585?~前528?)がいます。また,〈アナクサゴラス〉(前500?~前428?)は太陽を「燃える石」と説いて不敬罪で告訴されました。
万物が,たったひとつの要素から構成されているのか(一元論),それとも複数の要素から構成されているのかということは(多元論),長い間議論の的でした。〈ピュタゴラス〉(ピタゴラス,前570?~前495?) 【セH10】【法政法H28記】【※意外と頻度低い】はエーゲ海のサモス島【セH10シチリア島のシラクサ出身ではない】出身でしたが,南イタリアに逃れて万物の根源とされた「数」を崇める教団(ピュタゴラス学派(教団))を形成しました。
また,万物が永遠不変の変わらないものがあるとする説と,そうではなくあらゆるものは移り変わっていくとみる説も対立していました。後者は,〈ヘラクレイトス〉(生没年不詳)【※意外と頻度低い】が有名です。彼は,万物の根源は「火」で「世界は常に移り変わりながらも調和を維持している」と説明しました。
一方,〈エンペドクレス〉(前495?~前435?)は万物は「火・空気・水・土」の4元素から成り立ち,それがくっついたり離れたりすることで,さまざまな物質が生まれるのだと考えました。それに対して,〈デモクリトス〉(前460?~前370?) 【セH2天文学者プトレマイオスではない,セH10シチリア島(シラクサ)出身の自然科学者ではない】【※意外と頻度低い】は,4元素説を否定し,万物の根源は「原子」(アトム)によって成り立っていると考えました。
◆ペルシア戦争(前499~前449)後も,ペルシアはスパルタと結んでアテネ(アテーナイ)と対立した
ペルシア戦争後も,ペルシアはポリス間の政治に介入して,軍資金を提供することでコントロール下に置こうとしました。
そこでアテネ(アテーナイ)は自らを中心にして周りのポリスを従え,交易ネットワークも支配下に置いて(注),ペルシアに対する共同防衛のためデロス同盟を結成しました。同盟国から集められた資金をしまう金庫はエーゲ海の入り口にあたるデロス島に置かれましたが,のちにアテネ(アテーナイ)はこの資金を流用していきます。例えば,前447年から「黄金比」の比率で有名な,ドーリア式(装飾のない列柱を持つ様式) 【東京H24[3]】のパルテノン神殿【セA H30アテネで作られたか問う】が建設され,建築監督を務めた彫刻家〈フェイディアス〉(前465?~前425?)は,象牙と黄金で作られたアテナ女神像を,かつてはパルテノン神殿の横にあるイオニア式(柱の上部に水の渦巻きを著した列柱を持つ様式)のエレクテイオン神殿に安置しました。
また,ペルシアとの海戦で,武具の買えない貧しい平民(無産市民)らは,三段櫂船(さんだんかいせん。3段に座席のある漕ぎ手がオールを動かし,最大時速20kmで敵船に突っ込み,沈没させることができました【セH6図版(ジャンク船,カラベル船,蒸気船と見分ける)】【セH22ジャンク船・ダウ船・亀甲船ではない,セH29】)の漕ぎ手として活躍しました。このことから,戦後には彼らも含めたすべての成年男性市民が民会に参加することができ【セH29】,多数決で直接ポリスの政治に参加することが認められました(直接民主政)。役人はくじ引きで決められ,裁判はくじ引きで選ばれた陪審員(手当が支給されました)が民衆裁判所で判決をくだしました。
ただし,女性や奴隷,アテネ(アテーナイ)国内の外国人には参政権はありませんでした。また,将軍〈ペリクレス〉【追H21】と協力してクーデタをおこし,貴族から政権を奪った民主派の政治家〈エフィアルテス〉(?~前461)により,前462年には貴族の合議機関として残されていたアレオパゴス会議から政治の実権のほとんどを奪っています。実質上の最高職となった将軍職(ストラテゴス)は,くじ引きではなく民会における選挙で選出されました。任期1年,10人が選出され,再任は可能です【セH12「ペリクレス時代のアテネでは神官団の政治的権限が民会以上に強かった」わけではない】。こうしてアテネの成年男子による民主政は「完成」しました【追H21】。
(注)「交易ネットワークを支配下に置く」とは,どういうことか,下記の史料(抜粋)を参照。
「取るに足らないことから言うとすれば,まず第一にアテナイ人は海上支配のおかげで様々な人々と交わり,各種の贅沢を見出した。……かりにあるポリスに船舶用木材が豊富にあるとしても,海の支配者の同意なしにそれをどこへ持ち込むことができるであろうか。またもしあるポリスが,鉄や銅や亜麻を豊富に産するとしても,海の支配者の同意なくしては一体どこへ売り込むことができようか。しかし,これらの品々はまさしく船には必須の品々である。あるところからは亜麻を,そしてまたあるところからは蜜蝋を,という風に集めねばならない。そのうえ,敵国への輸出は禁じてある。これを破れば海を利用させない。…[Pseudo Xenophon, Athenaion Politeia
2, 7~12]」。この中の「海の支配者」とはアテネ(アテナイ)のことです。
古山正人ほか編訳『西洋古代史料集』東京大学出版会,1987年,pp.61-62
バルカン半島南西部のペロポネソス半島(ラコニア地方)のスパルタ【セH27アテネではない】では,このような制度をつくったのは,伝説上の王〈リュクルゴス〉(前390?~前324) 【セH27】【中央文H27記】といわれ,前6世紀中頃までに成立したとみられます。王がいましたが,民会で話し合う前に,長老と一緒に起案された事項を先に協議する必要がありました。つまり,王は軍隊の指揮をとる将軍ではあったものの,実質的には長老や貴族の了解が必要であったということです。
こうして,スパルタは,圧倒的多数を占める奴隷の反乱をおさえつつ,ギリシア最強の陸軍国となったわけです。しかし,ペルシア戦争では戦闘に破れ,戦後アテネ(アテーナイ)がデロス同盟【セH19ペロポネソス同盟とのひっかけ】で勢力を伸ばしたのに対抗して,スパルタを盟主とするペロポネソス同盟【セH19デロス同盟,コリントス同盟,四国同盟ではない】を結成しました。
ペルシア戦争当時,そもそもギリシアの全ポリスが団結してペルシアに立ち向かったわけではありません。“自由”なギリシアの正義が,“専制”のペルシアに勝ったのだ!というふうにアテネ(アテーナイ)の〈ペリクレス〉将軍(前495?~前429)は演説しましたが,それはあくまでアテネ(アテーナイ)側の視点にすぎません。そもそも〈ペリクレス〉は前451年に法により,アテネ(アテーナイ)の市民権が与えられる条件を,「両親ともに市民である18歳以上の男性」に限定していました。彼はパルテノン神殿の造営を企画し,アテナ女神像やパルテノン神殿のフリーズ(欄間(らんま))の彫刻で知られる彫刻家〈フェイディアス〉(前5世紀)が監督しました。アテナ女神像には象牙や黄金が用いられています。これらにはデロス同盟でおさめられた同盟国からの資金が流用されました。
◆アケメネス朝はスパルタを支援しアテネ(アテーナイ)側に勝利,戦後のアテネは衰退する
前431年にアテネ(アテーナイ)を盟主とするデロス同盟vsスパルタ盟主のペロポネソス同盟の間で,ペロポネソス戦争が勃発(前431~前404) 【立教文H28記】【※意外と出題されない語句】。アテネ側をバルカン半島のトラキア人が支援。対するスパルタ側を,アケメネス朝ペルシアやシラクサ(アテネ(アテーナイ)と交易で対立していたシチリア島の植民地)が支援しました。
アテネ(アテーナイ)は,市内に立てこもる作戦をとりましたが,疫病で〈ペリクレス〉将軍を亡くし,スパルタに破れます。ペロポネソス戦争【共通一次 平1:ペルシア戦争ではない】については,ペルシア戦争の叙述(『歴史』【追H20『ゲルマニア』ではない】)でしられる〈ヘロドトス〉と並ぶ歴史家〈トゥキディデス〉(前455以前~前400?) 【東京H22[3]】【共通一次 平1】【セH26リウィウスではない】【追H20】【同志社H30記】による客観的な記録(『歴史』)が知られています。
ペロポネソス戦争の前後,アテネ(アテーナイ)では【セH10この時期のポリスについて(「①ポリス市民間の貧富の差が拡大した,②土地を失うポリス市民が現れた,③ポリスの間に傭兵の使用が広まった,④ポリス市民としての意識や結束が強まった」か問う。④が誤り)】,〈クレオン〉(?~前422)のように,人々をいたずらに煽(あお)り立てる煽動政治家(デマゴーグ)が現れるようになります。
(注)このことを,かつては「衆愚政」と呼び,民主政の失敗パターンとして理解されていました。しかし,とりたてて「衆愚政」という理解をすることは,現在では少なくなっています。橋場弦『民主主義の源流
古代アテネの実験』講談社,2016)。
戦争が激しくなると,ギリシア文化は古典期(前5~前4世紀)と呼ばれる時期に入ります。ペロポネソス戦争という戦時下にありながらも,悲劇や喜劇はさかんに上映されました。かつてペルシア戦争期に,戦闘に参加してアテネ(アテーナイ)の華々しい活躍を目撃した〈アイスキュロス〉(前525~前456)は,『アガメムノン』を含むオレステイア3部作など雄大な悲劇を多数残しました。しかし,アテネ(アテーナイ)の没落期を生きた〈ソフォクレス〉(前496?~前406)は,『オイディプス』王など,運命に縛られた人間の絶望を描き,多くの人が戦場に散っていく世相にマッチして人気を得ました。また,〈エウリピデス〉(前485?~前406)は,『メデイア』など,悲劇を日常的で身近な人間ドラマに仕立て上げる新たな手法を導入し,人気を博しました。喜劇作家としては『雲』『女の平和』【立教文H28記】で知られる〈アリストファネス〉【共通一次 平1】がいます【共通一次 平1:主著は『イリアス』ではない】。
口先だけの弁論術が重視され,「人間は万物の尺度である」【追H9ソクラテスの主張ではない】と主張した〈プロタゴラス〉(前480頃~前410頃) 【セ試行イオニアの自然科学者ではない】 【追H9ソクラテスではない,セH17ソクラテスとのひっかけ】のようなソフィスト(話し方の家庭教師) 【セH13,セH17問題文の下線部】という職業が人気を得ました。立場によって簡単に意見を変える【セH13ソフィストたちは「絶対的な真理の存在」は主張していない】ソフィストの相対主義的な考え方(絶対的な答えなんてないという考え方)を批判した哲学者が〈ソクラテス〉(前469~前399) 【追H9「徳は知である」と主張したか問う】【セH17ストア派ではない】です。彼は,「ソフィストの連中は,自分が“何も知らない”ということを“知らない”(無知の知)【セH17人間は万物の尺度である,ではない】」「この世の中には絶対的な正義というものがあるはずだ。それにしたがって生きるべきだ(知徳合一)【セH13孔子・釈迦・カントではない】」と主張しました。自分の活動を「知恵を愛すること(フィロソフィア)」と説明したことが,フィロソフィー(英語の「哲学」)の語源となっています。〈ソクラテス〉は市民をまどわせた罪で,ポリスの法に従って毒をあおって亡くなりまってしまいました。〈ソクラテス〉の言行は,弟子の〈プラトン〉(前429?~前347)が著作に残しています。また,『ギリシア史』を書いた〈クセノフォン〉(前430?~前354?)は,ソクラテスが生きていた頃について『ソクラテスの思い出』に記しています。
前415年にアテネ(アテーナイ)は〈アルキビアデス〉(前450?~前404)の発案のシチリア遠征に失敗。スパルタは東方のアケメネス朝ペルシアと結んで,アテネ(アテーナイ)を挟み撃ちにしようとしました。アテネ(アテーナイ)は前404年に降伏。貴族により民主政は崩壊しましたが新政権は民衆の支持を得られず,前403年には民主政が復活しました。
なお,ギリシア人の海外植民市のうち,黒海北岸のクリミア半島周辺には,前438年にボスポロス王国が建てられました(前438~後376)。騎馬遊牧民のスキタイ人と交易をし,バルト海の産物も届けられていました。