●前2000年~前1200年の世界
生態系をこえる交流①

 ユーラシア大陸では、前17世紀頃から中央ユーラシアの遊牧民の民族大移動が起き、乾燥地帯の大河流域の古代文明が影響を受ける。
 南北アメリカ大陸では、中央アメリカと南アメリカのアンデスに定住農耕民エリアが広がる。


時代のまとめ
(1) ユーラシア
 中央ユーラシアには遊牧を基本とする文化が拡大している。青銅器の普及によって騎馬遊牧民となり、軍事的なリーダーも現れる。定住農耕民エリアと相互に関係を結んでいる。

 東アジアから東南アジア、南アジアにかけての地域は、季節風(モンスーン)の影響を強く受けるため降雨に恵まれ、
イネなどの穀物や焼畑農耕が営まれている。
 西アジアや北アフリカのエジプトなどの乾燥地帯の大河の流域では、灌漑農業によって生産性が向上し、経済的な資源をコントロールしようとする勢力が、軍事組織・宗教組織を政治的にまとめ上げようとしている(
古代文明)。
 ヨーロッパには西アジアから青銅器や農耕・牧畜が伝わる。

(2) アフリカ
 アフリカ大陸ではサハラ砂漠で遊牧民が活動している。
 西アフリカでヤムイモの農耕が導入されているほかは、狩猟・採集・漁撈が生業の基本となっている。

(3) 南北アメリカ
 中央アメリカのメキシコ湾岸(オルメカ文化)やユカタン半島のマヤ地方(マヤ文明)、南アメリカのアンデス地方には、農耕を導入した定住集落が出現し、神殿の建設も始まる。

(4) オセアニア
 オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れる。熱帯の島々に適応した農耕・牧畜・漁撈を基本とするラピタ文化が、船によってメラネシア方面に拡大していく。




●前2000年~前1200年のアメリカ

○前2000年~前1200年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカ東部のミシシッピ川下流域には、この地に住む狩猟採集民により同心円状の巨大なに土塁(マウンド)が残されていますが、詳細はわかっていません。最大規模のものには、外径が1kmにおよぶポヴァティ=ポイントが知られています(◆世界文化遺産「ポヴァティ=ポイントの記念碑的土塁群」,2014)。



○前2000年~前1200年のアメリカ  中央アメリカ,カリブ海
 中央アメリカではカリブ海にせり出すユカタン半島(現在のグアテマラベリーズの周辺)マヤ地域【セH11地図:位置を問う】メキシコ高原中央部で,多数の人口を養うことのできる農耕を基盤とする都市文明が生まれます。
 トウモロコシ,豆,トウガラシ,カボチャを主食とし,農耕に関連する神話を持ち記念建造物と人身御供の儀式,交易ネットワーク,1年365日の正確な太陽暦と短期暦(1年260日),象形文字といった共通点を備えています。

◆メキシコ湾岸地方にオルメカ文化がおこる
オルメカ文化がおこる
 前
1600年頃から,メキシコ盆地(標高2000mの台地にある)で,火山灰の土を利用した農耕が行われ,やがて文明に発展していきます。

 前1400年頃にメキシコ南部のメキシコ湾岸地帯の人々は,オルメカ文化(前1500?前1400?~前400?前300?)を生み出しました。
 ネコ科の猛獣
ジャガーを信仰するオルメカ文化の影響は中央アメリカ全域に及び、同時期に南アメリカのアンデス地方中央部のチャビン=デ=ワンタルにもジャガーのモチーフが確認されることから、交易などによる関連性も指摘されています。

 オルメカ文化の諸都市には多くの階段型ピラミッドをはじめとする
公共建造物〔記念建造物〕が建てられ,玄武岩からドッシリとした巨大な人間の頭部像(巨石人頭像。大きいものは重さ18トンを超える!)が,おそらく前1400~前400年の間につくられました。

 都市
=ベンタには玉座や,豪華な副葬品をともなう墓が発見されています。これだけの物がつくられたということは強力な権力を持つ者がいたと思われますが,その社会統合がどれくらいのレベルであったのか詳しいことはまだわかっていません。正確な暦が制作され,絵文字や数字も使用されましたが、前300年には衰退します。


◆ユカタン半島の高地マヤ地域に文明がおこる
ユカタン半島にマヤ文明が形成される
 ユカタン半島の
マヤ地域【セH11地図:位置を問う】の高地(マヤ高地)では、前2000年には農耕の祭祀(さいし)をおこなう場が出現していました。
 マヤ地域は熱帯雨林から雨季と乾季のあるサバナ気候,高山気候にいたるまで多様性のある気候をもつ地域で,各地域の特産物が交易によって集まる都市が形成されていきました。

 マヤ地域にはユーラシア大陸のような大河はありませんが、特に
高地マヤ(現在のグアテマラのキチェー地方からメキシコのチアパス地方にかけて)の自然環境は沿岸よりもずっと豊かで、農耕により人口を増やした都市が交易ルートを掌握し、文明を発展していったとみられます。
 
 マヤ文明の担い手は、
マヤ語族の言語を話す人々(現在はキチェーやツォツィルなど約30の集団に分かれています)です。
 後代に記録されたものとはいえ、マヤ文明における思想をよく表しているとみられる神話に『
ポポル=ヴフ』があります(11世紀以降のキチェー人の王国で記録されたものです(注))。
 これによるとマヤの信仰は多神教で、水の中の支配者であるグクマッツ(ケツァルコアトルに通じる)やテペウが、天の心(フラカン。ハリケーンの語源といわれます)と話し合って、大地・動物を創造。しかし、泥で人間を作ったところ失敗。木で作り直したがこれも失敗し、洪水を起こしてリセット。洪水後も生き残ったのがサルになりました。さらに神々はトウモロコシで4人の人間をつくったところ、神と同等の能力を備えた完璧人間ができてしまったことから、目を曇らせて近くのもののみ見えるようにしました。これがキチェー人になったということです。
トウモロコシでつくったというところが、なんとも中央アメリカらしいですね。

 なお、この時期のマヤ文明は古期に区分されます(前8000年~前2000年)。マヤ文明にオルメカ文明の影響が及ぶようになるのは、少なくとも前1400年以降のことです
(注2
(注1)キリスト教の聖書の影響も指摘されています。篠原愛人監修『ラテンアメリカの歴史―史料から読み解く植民地時代』世界思想社、2005、p.8。芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社、2010も参照。
(注2)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.235~p.238。





○前2000年~前1200年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方
 沿岸部には、農耕・海産物の採集・漁撈を中心とした定住集落があって、神殿が建設されていました。
 しかし前1800年頃から、内陸の河川地域の神殿が放棄され、内陸の河川流域に集落が移動してきます。神殿のデザインには、ジャガー、ヘビ、猛禽類など、新たなシンボルが登場。異なる思想によって人々をまとめようとしたリーダー層の存在が考えられます。

 山地では、コトシュ宗教伝統が衰退し、別の大きな神殿が建てられ始めます
(注)
(注)関雄二「アンデス文明概説」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS2000p.175


アマゾン川流域
 アマゾン川流域(アマゾニア)には,カボチャ,サツマイモ,マニオックを移動しながら焼畑農耕する人々がいました。前2000年頃には,小さな農村がつくられるようになラマゾン川の流れに沿って,地域間の交易が盛んになっていきました()。交易された産物は,淡水魚やマニオックの根(キャッサバ)です。
(注)デヴィッド・クリスチャン,長沼毅監修『ビッグヒストリー われわれはどこから来て,どこへ行くのか――宇宙開闢から138億年の「人間」史』明石書店,2016年,p.240。





2000年~前1200年のオセアニア


 
オセアニアでは,オーストラリアやニューギニア島などで,人種的にはオーストラロイド系の人々による旧石器文化が栄えていました。オーストラリアでは狩猟・採集生活が続けられましたが,ニューギニアではタロイモやヤムイモの農耕をする人々も現れます。

2000年~前1200年のポリネシア

 しかし,前
1500年頃から東南アジアから新石器文化に属し,人種的にはモンゴロイド人種系,言語的にはオーストロネシア語族の人々が,オセアニア南西部に南下をはじめます。彼らはラピタ土器という幾何学的な模様のある丸みを帯びた薄手の土器をつくったため,彼らはラピタ人,彼らの文化をラピタ文化と呼びます。ラピタというのは,この土器の発掘されたニューカレドニア島の地名です。
 彼らはアウトリガーカヌー(船を安定させるための舷外浮材付きのカヌー)を製作し,天文学の知識を基に高い航海能力を生かし,人類として初めて船に乗って南太平洋への移動を開始しました。
 島から島へ数千キロも離れた距離を移動し,東南アジアを起源とするタロイモ(日本のサトイモのような芋),ヤムイモ(日本のヤムイモのような芋)の農耕や,ココヤシ,パンノキ,バナナなどの果樹の栽培,イヌ,ニワトリ,ブタの牧畜を行っていました。ヤシの樹皮を敷物や帆に使う布として加工したり,入れ墨をほどこしたりする文化も特徴的です。ディズニー映画の「モアナと伝説の海」に登場するキャラクターにも,ニワトリやブタがいますね。一見楽園のように見える南の島の生活は,実は過酷です。

 特にサンゴ礁によってできた島では土がやせていて農業が難しく,水の確保も大変です。一方,火山でできた島では,集約的な灌漑農業によって人口が増加し社会が階層化し,のちに
トンガハワイのように首長国や王国の成立する地域もありました。しかし島の面積には限りがありますから,ユーラシア大陸の農牧民を支配した国家のような強大な王権が生まれることはありませんでした。



2000年~前1200年のオセアニア  ミクロネシア
 
ミクロネシアには前1500年前後に,フィリピン周辺からマリアナ諸島に,インドネシア系の言語を話す集団が移動します。土器や,貝でできたアクセサリーが特徴です。根菜の農業と,ニワトリの飼育を行っていたとみられますが,詳しいことはまだわかっていません。ラッテという巨石建造物も見つかっています。


2000年~前1200年のオセアニア  メラネシア
 メラネシアでは,オーストロネシア語族から分かれた人々が,島々で旧石器文化(ラピタ文化)を持つオーストラロイドと混血して,ポリネシアとは違った文化が形成されました。資源の豊富な島と資源があまりない島との間では,「クラの交換」という儀式の形をとった交易を行っていた人々もいました()
()クラとは,トロブリアンド諸島における儀礼的な交換行為であり,マリノフスキ(18841942,ポーランド出身の文化人類学者)の研究が代表的です。クラとは,この島々をカヌーによって環状に結んで行われるメラネシア人の交易であり,時計の反対周りに白い貝の腕輪(ムワリ),時計回りに赤色の貝の首飾り(ソウラヴァ)儀礼的に贈答されます。これに合わせて必需品の交易も行われますが,義務や名誉の呪術的・伝統的な観念と複雑に結びついており,単純に経済的な交易・交換とみなすことはできません(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(講談社学術文庫,2010)




2000年~前1200年の中央ユーラシア

2000年紀(前2000~前1001)末にかけて、遊動する牧畜(遊牧)の文化は,黒海北岸の現・ウクライナから現・カザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)をつらぬいて、東方に広がっていく
遊牧文化の東方拡大
 前3000年紀から,アム川シル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕・牧畜を行う定住集落が見られました。
 しかし、前
2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する遊牧民(インド=ヨーロッパ語族)が新たに進出して来たため、衰退していきます。

 
が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には、クルガン(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られます(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳)、カタコムブナヤ(地下式墳穴)、スルブナヤ(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化、カラスク文化など)。
 この地域をユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の現住地であるとみる研究者もいます。

 2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で戦車青銅器が中国に伝わったとも考えられます。
 ユーラシア大陸の草原地帯は,幅
8000kmにわたる壮大なスケールをもっていますが,馬に乗る技術の発展により,東西を結びつけるの役割を果たすようになります。中央ユーラシアとれる翡翠(ヒスイ)という緑色の宝石は,中国では「玉(ぎょく)」と呼ばれて支配階級に珍重されるようになります。



○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  西部
 中央ユーラシアの遊牧民の一部はメソポタミア北部,シリア北部に南下し,前2000年紀前半にはミタンニ王国(16~前14世紀)を建国し最盛期にはアッシリア王国を支配下に置いています。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  中央部
インドへ
 また,別の一派は前3000年紀末までにイラン東部のマルギアナや,アム川上流のバクトリアに南下して,インダス川上流部の北インドに進入しました(インド=アーリア人,またはアーリア人)

イランへ
 そのまた別の一派は,イラン高原方面に南下しました(イラン=アーリア人,イラン語群の人々)。西アジアから,カスピ海,アム川・シル川流域にかけて,イラン語群の言語が広がることになります。
 こうしてみると,インド人とイラン人は,ざっくり言えば共通の祖先を持っているということになるわけです。


○前2000年~前1200年の中央ユーラシア  東部
 前
13~前12世紀頃からは,南シベリアやモンゴル高原で,新たな集団がカラスク文化という青銅器文化を生み出しました。彼らは山羊や馬,鹿を青銅器にデザインしています。中国の殷の終わりから西周の文化とも関係しているようです。





2000年~前1200年のアジア


○前2000年~前1200年のアジア 東アジア
・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現①日本
 日本列島の人々は,世界最古級の土器である
縄文土器を製作する縄文文化を生み出し,狩猟採集生活や漁労を中心とした生活を営んでいました。
 縄文土器には地域的特徴が大きく、各地域で特定の文化を共有するグループが生まれていたことを表しています。
 縄文土器を特徴とする縄文時代は、現在では以下の6つの時期に区分されるのが一般的です。
・草創期(前13000~前10000年)
・早期(前10000~前5000年)
・前期(前5000~前3500年)
・中期(前3500~前2500年)
・後期(前2500~前1300年)
・晩期(前1300~前800年)

 日本列島各地の特徴を持つ土器が
八丈島(はちじょうじま)からも見つかり、神津島(こうづしま)産の黒曜石(こくようせき)という特殊な石も本州各地で発見されていることから、日本列島全域をカバーする交易ネットワークがすでに縄文時代早期に形成され始め、前期~前後期にかけて拡大し、晩期の中頃には完成していたと考えられています(注)
(注)橋口尚武『黒潮の考古学 (ものが語る歴史シリーズ)』同成社、2001、p.92。



・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 現③中国
 2500年~前2000年には,気候が大きく変動し,温暖な気候から冷涼・乾燥な気候帯が拡大していました。そこで,前3000年~前2000年にかけ,人々は水を求めて大河の流域へ移動を開始しました。
 前2000年頃には,メソポタミア方面から小麦大麦が伝わって,栽培されるようになります。
 黄河は,上流地帯の黄土といわれる土を大量に運んで来るため,下流の川底はすぐに浅くなります。そこで黄河は頻繁に氾濫を起こします。「ドラゴンボール」に登場するような龍は,中国では聖なる生き物とされていますが,龍は氾濫する暴れ川を表しているんですね。龍のいうことを聞かせ,洪水を抑えることができた指導者こそ,その資格があるというわけです。

 従来の社会構造が崩れ,各地で政治権力が特定の上層階級に集まっていく動きが見られました。前2000年頃に黄河中流域で成立した二里頭文化は,竜山文化を受け継ぐものとされています。

 こうして前1900年頃におこったと考えられているのが,(か,シア) H27京都[2]という王朝です。考古学者は二里頭(洛陽の近く)の遺跡が首都だとしています。たしかに,特徴的な土器が中国のほぼ全土から出土していることからも,広い範囲に影響を及ぼしていたとは見られますが,日本の歴史学界では否定されています。日中の見解の違いは,一つには歴史学のアプローチの違いによるものです。中国では,発掘された遺跡とともに『詩経』などの記述を合わせて判断し(二重証拠法といいます),前1500年頃におきた王朝(王朝)は,この夏を滅ぼして発展した王朝だったのではないかと考えられています。
 中国古代の伝説上の王に,堯
(ぎょう)・舜(しゅん)・禹()がいますが,最後の禹は,黄河の水をおさめた人物であると言われ,彼が王位を譲ったことで,伝説上の王朝「()」が建国されたとされています。


◆商では神権政治がおこなわれ,象形文字の甲骨文字が発達する
 現時点で確定的な中国最古の王朝は,前1500年頃に登場した王朝((いん)王朝) 【セH3】です。商王朝は何度も遷都をおこなっていますが,は王〈盤庚(ばんこう)により前1300年頃に遷都されたとされる都のことで,遺跡としては河南省の安陽【東京H8[3]】の郊外にある小屯(しょうとん)でみつかった殷墟(いんきょ) 【東京H10[3]】といいます。殷墟からは甲骨文字や王族の墓が見つかっています(◆世界文化遺産「殷墟」2006)。

 王【セH6皇帝ではない】は神として君臨し,その地位は世襲され,多くの都市国家の貴族を従えることで成り立っていました。西方のタリム盆地方面のインド=ヨーロッパ語族から青銅器【共通一次 平1「周代に入ってはじめて作られるようになった」わけではない】を獲得し,戦車や武器に用いられました。
 城壁のある都市国家がみられるようになるのは,黄河の中・下流域です。まずは小規模な地区の統一がおこなわれ,それらが統合されて広域的な国家となっていきました。

 商(殷) 【セA H30】では,甲骨文字【東京H10[3]】【共通一次 平1:甲骨文字,満州文字,西夏文字との判別】【セH11インカ帝国のものではない】【セH21図版】【セA H30】という文字が使用されていました。占いの儀式に基づいて,王が多くの氏族集団(共通の祖先をもつと考えているグループのこと)(ゆう,都市国家) 【セH2】をまとめて支配していたと考えられます【セH21郷挙里選は行っていない】
 甲骨文字は,亀の腹甲
(ふっこう。背中の甲羅ではありません)や動物の肩甲骨などに穴を開け,質問をしてから火であぶって現れた割れ目を見て,王が吉凶を判断し,ミゾを彫ってその結果を表したもので,形によって事物を表現する象形(しょうけい)文字へと発達していきました。占いという意味の「卜」(ぼく)という言葉の当時の読み方「プク」は,あぶられた骨が割れる音を表しているといいます。
 

 宗教は,祖先の崇拝がおこなわれていました【セH23仏教は殷代にはない】。人の魂は死んでしまうとあの世に行きますが,子孫が祈れば,子孫のために良いことをもたらしてくれると考えられ,規模の大きい家族(拡大家族)は,共通の祖先を崇拝していました。一族で一番の長老が,儀式をとりおこなえばいいので,聖職者のような階級はみられなかってようです。

 すでに青銅器が使用され,商の支配階級はこれを独占していました。王宮のある殷墟では,王の墓とともにおびただしい数の殉死者が葬られており,その支配の強さがうかがえます。中国の西部に西方・北方の中央ユーラシア世界から戦車が伝わったことが,戦争を激化させるきっかけとなっていきました。
 商には東シナ海・南シナ海・インド洋から,貨幣としてもちいられた子安貝(タカラガイ)の貝殻などを運び込まれていました。タカラガイを求めて南西諸島の宮古島にも殷人がやってきて,そこから稲が“海上の道”北上して九州に伝わったのだと,民俗学者の〈柳田國男〉(やなぎたくにお,1875~1962)は考えましたが、柳田説は現在では否定されています

 中央ユーラシアとも盛んに交易をし,中国では特に価値の高いものとされた
ヒスイをはじめとする産物を手に入れていました(台湾の故宮博物院にあるヒスイでできた白菜(翠玉白菜(すいぎょくはくさい))が有名です)。




・前2000年~前1200年のアジア  東アジア 朝鮮半島
 朝鮮半島には新石器文化の担い手が居住し,櫛目(くしめ)(もん)土器が製作されています。





2000年~前1200年のアジア  東南アジア
 前2000年紀に,中国から稲作が伝わると,大陸部の山地に農牧民が生まれました。前1000年紀には,諸島部でも稲作が始まりました。熱帯雨林では焼畑による稲作が,ジャワ島の中・東部では火山の裾野に水を引き水稲栽培が行われました。
 前2000年紀末から,東南アジアの人々は金属器を使用した文化を生み出すようになります。特に,ヴェトナム北部では中国との関係が深く,青銅器の使用が増えていきます。のちのドンソン文化(前4世紀以降)の源流です。





2000年~前1200年のアジア  南アジア
 インダス文明は前2000年頃から衰退を始め,地域ごとに差はありますが,前1700年頃にはほぼ滅びました。
 その原因には,前2200年頃からの気候変動や,サラスヴァティー川の消滅,森林伐採や塩害などの環境破壊説,外民族進入説など諸説あります。メソポタミアやエジプトの文明と異なるのは,大規模な軍隊の存在がうかがえる遺物が見つかっていないことです。発掘が進んでいないということもありますが,メソポタミアやエジプトの文明に比べると,平和的な文明だったとみられています。

さて,インドへに進入するには,アフガニスタンの東部からカイバル峠を通ってヒンドゥークシュ山脈へ,東南部からボーラーン峠を通ってスライマン山脈に入る経路があります。
 中央ユーラシアの草原で遊牧をしていたインド=ヨーロッパ語族アーリア人は,インダス川上流のパンジャーブ地方【追H30】に前1500年に進入しました(インド=アーリア人【追H30「アーリヤ人」】)。彼らは先住のドラヴィダ人を征服しながら,農耕を取り入れつつ牧畜中心の生活を営みました。ガンダーリー,ケーカヤ,マドラ,プール,ヤドゥ,バラタなどの部族に分かれていました。彼らの言語は,現在のヒンディー語【セH24タミル語,アッカド語ではない】などにつながります。

 前1500年~前1000年を前期ヴェーダ時代といいます。なぜ「ヴェーダ時代」というかというと,バラモン(司祭階級) 【東京H6[3]】の聖典『リグ=ヴェーダ』【セH7「インド神話の古い形」が現れるか問う】が,この時代について知る唯一といっていい史料だからです。
 神々への賛歌
(リグ)が収められた聖典で,雷神インドラに関するものが全体の4分の1を占めます。賛歌の知識を持ち,祭祀をとりおこなったのはバラモン【セH9ウラマーとのひっかけ】と呼ばれる聖職者階級。この信仰を「バラモン教」と呼んでいます【追H9】。彼らにとって最も重要な財産が牛であったことは,戦争(カヴィシュティ)という単語「牛を欲すること」という意味からもわかります。二頭または四頭立ての戦車が使用され,青銅器を使用しました。自らを「高貴な者」(アーリヤ)と呼び,先住民のドラヴィダ系の人々を「黒い肌をした者」と呼びました。
 なお,前1000年頃に中央ユーラシアから西アジアに南下したアーリヤ人を「イラン人」と呼びます。




2000年~前1200年のアジア  西アジア
◆ペルシア湾岸を舞台にしたイラン高原のエラム人の活動がさかん
原エラム文明がラピスラズリの道をおさえ栄える
 メソポタミアで、前24世紀半ばに建国されたアッカド人の王朝が滅ぶと,西方のシリア方面からセム語派のアムル人,東方からはエラム人やグティ人が進出して混乱し,メソポタミア(ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた地域)の南部では,ウルクの王〈ウトゥヘガル〉につかえていた将軍〈ウルナンム〉がウル第三王朝(前2100~前2000)を始めました。
 これはシュメール人最後の王朝であり、地中海沿岸からイラン高原にかけての広範囲を支配しました。2代〈シュルギ〉王は,かつてアッカド人の使用した「四方世界の王」称号を使用して王の神格化を図り,官僚制度を整備し,度量衡や暦を統一するなどの政策を行っています。
 しかし,5代〈イッビシン〉王のときに東方のイラン高原の
エラム人による攻撃を受けると衰退し,ウル第三王朝で傭兵として採用されていた西方のアムル人がエラム人を追放してイシンとラルサに王朝を建国しました(イシン=ラルサ時代,前2003~前1763)。

 なお、エラム人によるイラン高原の
原エラム文明は、メソポタミアの都市文明との対抗のため、インダス文明に接近していました。アフガニスタンのラピスラズリの輸送ルート支配するため、メソポタミアではなくインダス川周辺の都市国家群と提携していたのです。
 エラム人はすでに前2500年よりペルシア湾岸の
オマーンに移住して、鉱山の開発に着手。これらの物資をメソポタミアに運び込んでいたのは、ペルシア湾岸の海洋民(ハリージーと呼ばれます)であったとみられます。前2000年にはバーレーンやクウェートにも拠点をもうけるにいたりました。

◆メソポタミアのシュメール人の都市国家群を、セム系アムル人がバビロン第一王朝として統一
バビロン第一王朝が都市国家群を統一する
 一方、メソポタミアでは,前18世紀中頃にセム語派のアムル人が,中流域の
バビロン(ユーフラテス川の中流域) 【京都H22[2]地名・地図上の位置】に都をおき,バビロン第一王朝(いわゆる「古バビロニア王国」(注))を建てました【セH16エジプトを含むオリエントは統一していない,セH28バビロンは「世界の半分」ではない(前1763~前1595)。シュメール人の都市国家群のあった地域よりも上流にあたる地域を拠点とします。
(注1)時代区分として「古バビロニア期」という言い方はありますが,この時期のバビロニアにおける王朝は他にも存在したので,近年は正確を期して「バビロニア王国」と呼ばない傾向となっています。

 前
18世紀頃には,ハンムラビ王〉【セH9[16]【セH17アケメネス朝ではない】【追H20アッバース朝ではない】が,「世界四方の王」と称し,メソポタミア全域を支配下に起きました。バビロニア地方には運河を建設して,交易を活発化させます。
 彼は広大な領域を支配するために,前
1776年頃にハンムラビ法典【セH9図版[16]アッカド人により滅ぼされた王国の法典ではない】【セH15各ヴァルナの義務が示されているわけではない】【追H30】を発布しました。ハンムラビ法典は楔形(くさびがた)文字【セH2今日世界で使用されている算用数字は「バビロニア王国」で考案されていない,セH9[16]で記され,刑法だけではなく,商法・民法といった商品の価格や取引の内容に対する規制も盛り込まれ,例えばビールの価格に対する規制もありました。現代の法律とは異なり,刑罰は身分によって異なります。第196条に「アヴィール(自由民)の目を損なった者はその目を損なう」とあるように“同害復讐法 【セH9[16]【追H30】の原則に立ちますが,その目的は一定のルールを設けることで果てしない復讐合戦に歯止めをかけようとしたことにあります。

 この法典は1902年に
スサでフランスの調査隊によって発見されたため,現在はフランス・パリのルーブル美術館(1793年開館)にあります。法典の上部にはバビロンの主神マルドゥクが〈ハンムラビ〉王に「都市と神殿を守れ」と任命するレリーフが彫られています。ちなみにマルドゥクは,天の神アヌと神々の王エンリルが,バビロンの支配権を授けた神ということになっています。

 メソポタミア北部ではアッシリアの〈シャムシアダド1世〉が強大化しており,〈ハンムラビ〉王は初め同盟関係を結んで様子を見ていましたが,アッシリア王の死後にアッシリアの首都アッシュルを攻撃しました。これ以降,アッシリア人の勢力は一時弱まります(この頃までのアッシリアを「古アッシリア」と呼ぶことがあります)。

◆バビロン第一王朝の滅亡後、海の国、カッシート、ミタンニ、アッシリア、ヒッタイトなどが台頭する
ヒッタイトがバビロンを占領し、「国際化」の時代に
 しかし〈ハンムラビ〉王の死後には,諸都市国家が自立に向かいます。
 前1700年頃からメソポタミア南部では、バビロン第一王朝から自立した
海国第一王朝といわれる王朝が海上交易で栄えていました(バビロン第二王朝ともいわれます)。
  それと並行してペルシア湾のエラム人主導による、その植民先であるオマーン(マガン国)や、バーレーン(ディルムン国)とメソポタミアやインダス川流域を結ぶ交易ネットワークは前18世紀に崩壊。

 しかし、メソポタミア南部には民族系統不明のカッシト(
カッシート)【セH6エトルリア人とのひっかけ】の進出が始まっていました。メソポタミアではシュメール人による反乱も起き,バビロン第一王朝の支配はバビロン周辺のみに縮小する中,新興勢力であるアナトリア半島のヒッタイト王国の〈ムルシリ1世〉(?~前1530?)がバビロンを占領。
 その後混乱の中でカッシートは(
カッシート)(前15世紀頃~前1155年;バビロン第王朝)()を建国し、前1475年には海国第一王朝を打倒しました。それ以降はペルシア湾岸へのカッシートの影響が強まっていくことになります。

 この混乱期にメソポタミア北部のアッシュル(
アッシリア)が成長。西方のアナトリア半島とメソポタミアとの間で商品(メソポタミアの織物や,地中海東部のキプロス島の銅)を取引をする中継貿易で栄えました。

 このように様々な主体が覇権を争う「国際化」と呼ばれる状況となっているこの時期(前16世紀のヒッタイトによるバビロン占領からアッシリアの台頭する前1000年頃まで)を「中期バビロニア時代」と区分します。
(注1)ギレルモ=アルガゼの「ウルク=ワールド=システム論」。後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ─知られざる海洋の古代文明』筑摩書房、2015、p.42~p.43。

◆ヒッタイト人が組織的に製鉄をおこなって強大化し,バビロン第一王朝を滅ぼした
馬の戦車と鉄の力で,ヒッタイトが強大化する
 古気候の研究によると、前3000年頃から地球は寒冷化に向かったとされます。

 寒冷化の影響を受け,ユーラシア大陸の内陸乾燥地帯(
中央ユーラシア)から、遊牧民が生き延びるためにいろんな方向に移動したことがわかっています。
 彼らのルーツの元をたどると、ある特定の言語Xに行き着くと推定されています。ヨーロッパからインドかけての幅広い範囲の言語が、この言語Xをルーツにもつ“言葉の家族”の一員であることが立証されているからです。この“言葉の家族”(語族)をインド=ヨーロッパ語族といいます
(注)

(注)18世紀の末,ヨーロッパの言語学者が,サンスクリット語とラテン語やギリシア語がの文法や単語が,偶然とはいえないほど似ていることを発見しました。たとえば「母」という単語は英語では「mother」だが,オランダ語では「moeder」,スペイン語では「madre」,ロシア語でが「mat」,ギリシア語では「mitera」,インドのヒンディー語なら「mam」というような共通点があります。ヨーロッパからインドまでの様々な言語の共通点を整理しながら昔にさかのぼっていくと,現在の中央ユーラシアに“先祖”となる言語Xがあったのではないかとの結論にいたりました。この祖先となる言語Xは現在は消滅していますが,“インド=ヨーロッパ祖語”と仮定されていますが詳しいことはいまだに推定の域を出ていません。

 前
2000年頃,インド=ヨーロッパ語族は西アジア方面に断続的な移動を開始。
 その一派が,現在のトルコ共和国(歴史的には「(しょう)アジア」【セ試行】といいます)のあたりに
ヒッタイト王国【セ試行,セH5セム語系ではない,海上交易に従事していない,宗教はのちに中国に入って景教と呼ばれていない】【東京H26[3]】という国家を建てたのです。ヒッタイト王国は組織的にセH5】を生産していたほか,シュメール人の用いていた重い四輪の戦車に代わり,軽い二輪戦車を馬にひかせて機動力を高めました(馬の戦車セH5】)。この二輪戦車には6本のスポークが付けられて,鉄製武器【セ試行】により武装されていました。

 製鉄技術は,近年の研究ではカフカース地方(黒海とカスピ海の間の山岳地帯)などで発達し,それが小アジアに伝わったのではないかという説も出ています。前
16世紀初めになるとヒッタイト人【セH29アッカド人ではない】ヒッタイト王国セH5ホスロー1世はヒッタイトの最盛期の王ではない】【東京H26[3]】【セH16王はファラオではない】鉄器の製造を組織的に行っていたことがわかっています。ヒッタイト王国ははじめアナトリア半島(小アジア)【セH27モンゴル高原ではない】を支配し,バビロン第一王朝を滅ぼし,のちにエジプトとも戦いました。
 現在のトルコ共和国中央部,ボアズカレ地方には,ヒッタイトの首都
ハットゥシャの遺跡が広範囲にわたり残されています。ヤズルカヤ神殿やスフィンクス門,地下道,貯蔵庫,王宮などの遺跡のほか,大城塞からは楔形文字を記した粘土板が2万点以上発見されています(◆世界文化遺産「ヒッタイトの首都ハットゥシャ」1986)。

 彼らは馬に二輪車を引かせる技術も改良しています。車輪の中心部
(ハブ(こしき())と言う部分)は鉄製で,中心部から外側にスポークが放射状に伸びる構造となっています。現在では当たり前の「車輪」の構造は,ヒッタイト人が改良したのです。また,ウマの調教文書(マニュアル)も発見されており,戦馬の訓練所もあったと考えられます。
 ヒッタイト王国の崩壊後も鉄器はオリエント全土に普及せず,しばらくは青銅器が使用されていたとみられます。

◆ティグリス川・ユーフラテス川の源流地帯には古代アルメニア人の国家ができていた
 ティグリス川とユーフラテス川の源流地帯には,アルメニア高地と呼ばれる周囲を高い山脈に囲まれた高原があります。
 黒海の南部のポントス山脈,小アジアとの間のアンチタウロス山脈,小アジアに抜けるタウロス山脈,黒海とカスピ海の間を横切るコーカサス山脈と小コーカサス山脈に囲まれたアルメニア高地には『旧約聖書』のノアの方舟(はこぶね)の流れ着いた場所といわれるアララト山(5165メートル)や,ヴァン湖という大きな湖があります。
 アルメニア高地の西部にはハヤサという小王国の連合体が成立し,前14世紀初めのヒッタイト王国の国王が攻撃し,服属させようとしていた記録があります。これがのちにアルメニアと呼ばれることになる人々とみられます
(注1)
 また,前1300年頃にはアルメニア高地の東部(ヴァン湖の周辺)に
ウラルトゥ(アッカド語でアララトという意味)などの小王国がありました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,pp.25-27。
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.30。



◆北メソポタミアのミタンニ,小アジアのヒッタイト,エジプトの新王国による国際関係が生まれた
 この頃のオリエントでは,メソポタミア北部にインド=ヨーロッパ語族とみられる
ミタンニ人の王国(住民の大部分はフルリ人?),アナトリア半島を拠点としたヒッタイト人の王国,エジプトには新王国が強大化し,国際関係が複雑化していきます。
 前15世紀にはヒッタイトと新王国が結び,ミタンニと新王国がシリアの支配権をめぐり対立。
 前14世紀にはヒッタイトと新王国がシリアの支配権をめぐり直接対立しました。のちにヒッタイトの〈ムワタリ〉王と,エジプト新王国の〈ラメセス2世〉との間には1286年にカデシュの戦いが起きています。ミタンニは新王国側につきましたが,ヒッタイトによって滅ぼされます。
 こうした国際関係の実態は,エジプトで出土した新王国時代の
アマルナ文書によって明らかになっています。
 ミタンニがヒッタイトにより滅ぼされると,ミタンニの支配下に置かれていた
アッシリア【セH2「バビロン捕囚」をおこなっていない】が強大化(これ以降,領土拡大期までの時期を「中期アッシリア時代」といいます)。
 前13世紀になると,ヒッタイトと新王国は
カデシュの戦い(1286)以降は和平に転じ,ともにアッシリアの強大化に対抗する動きをみせるようになりました。
(注)記録がアッカド(バビロニア)語で残されているためカッシト語の実態がわからないためです。当時のオリエントでは,楔形文字で記録されたアッカド(バビロニア)語が際語として使われていました。


◆シリア,パレスチナにはセム語派のアラム人,フェニキア人,ヘブライ人が現れる
 小アジアとエジプトを結ぶルートは,低地が少なく,地中海に面する地帯にあります。北をシリア,南をパレスチナといいます。
 パレスチナには,前1500年頃以降,カナン人が進出していました。しかし,前12世紀初めには「海の民()が小アジアのヒッタイトを滅ぼし,エジプトの新王国を衰えさせたことで,間のシリアとパレスチナは,権力の空白地帯となりました。
 シリアの内陸部では,アラム人セH5インド=ヨーロッパ語族ではない,H6】【東京H6[3]】ダマスクス【東京H6[3]】【セH6】を中心にして陸上【セH27海上ではない】の中継貿易で活躍しました。アラム語【セH15エジプトの死者の書には記されていない】は西アジアの国際通商語となりました。
(注)「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。


 ヘブライ人【セH2ティルスは彼らの都市ではない】は『旧約聖書』に登場する〈アブラハム〉をご先祖と考えていた人々で,紆余曲折を経て現代でもユダヤ人として文化を残す歴史ある民族です。ヘブライ人は他称で,自分たちのことはイスラエル人と呼んでいました。初め多神教でしたが,唯一神ヤハウェ【セH3ユダヤ教は多神教ではない】【セH30アフラ=マズダとのひっかけ】()と契約を結び,現在のパレスチナにあたる“約束の地”カナンが与えられ前1500年頃に移住したとされます。カナンは彼らの民族叙事詩・神の律法である『創世記』(『旧約聖書』の一部)に,「乳と蜜の流れる場所」と表現されています。沿岸部では前1500年頃からカナン人が活動していました。
 彼らの一部はエジプトに移住しましたが,前
13世紀に新王国のファラオが彼らを迫害すると,〈アブラハム〉の子孫である〈モーセ(預言者とされます) 【セH15・H30ともにイエスとのひっかけ】【追H21キュロス2世,ソロモン王ではない。ヘブライ人の国王かを問う】という人物がエジプト脱出を指導し,彼の死後にパレスチナに帰還しました。
 なお〈アブラハム〉の子孫には〈モーセ〉以外にもキリスト教で神の子とされる預言者〈
イエス〉や,イスラーム教をはじめた預言者〈ムハンマド〉も含まれます。ユダヤ教,キリスト教,イスラーム教を信仰する人々の中には,今でもイェルサレム郊外のヘブロンのアブラハムの墓にお参りする人もいて,この3宗教を合わせて“アブラハムの宗教”とも呼びます。
()YHWH。「ヤハウェ」と読むことになっていますが,定説はありません。そもそも神の名を妄りに読んだり書いたりしてはいけないのです。十戒のうちの一つ, (2) 主なる神の名をみだりに呼ばないこと,の項。



2000年~前1200年のアフリカ


2000年~前1200年のアフリカ  東アフリカ

東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 アフリカ大陸の東部に出っ張っている
アフリカの角には,標高4000m級のエチオピア高原があります。ナイル川は,上流部で二つの川が合流して北に注ぐのですが,エチオピア高原から雨をあつめて流れるのが青ナイルです。一方,南方の赤道近くのウガンダ方面から流れ込むのは「白ナイル」といいます。
 伝説では,前
1000年頃にアラビア半島の〈シバの女王〉が,パレスチナの〈ソロモン〉王を訪問したということですが,その息子〈メネリク1世〉(生没年不詳)がエチオピア高原にひらいたのが,エチオピアの王朝の始まりなのだという建国伝説が残されています。
 エチオピア高原は北側の紅海の交易ルートをおさえ,アラビア半島との交易に従事していたとみられます。そのため,
ユダヤ教の文化がこの地に伝播していたのです


2000年~前1200年のアフリカ  南アフリカ
 南アフリカ…現在の①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
 アフリカ大陸の南部では,
コイサン人が狩猟・採集生活を送っています。


2000年~前1200年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ
…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 
ニジェール川はサハラ沙漠の乾燥地帯を貫く外来河川(雨の降る地方から,雨の降らない地方に流れて来る川のこと)です。
 中流域の乾燥地帯のオアシスでは集落の遺跡が発見されており,前
2000年~1500年頃に雑穀が栽培されていた証拠が発見されています。雑穀は,アフリカの乾燥地帯で典型的に栽培されていたもので,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアで盛んです。

 前
2500年頃に始まるサハラ沙漠の乾燥化にともない,もともとサバナ気候だったところが沙漠や乾燥草原(ステップ)に変貌していく地域も出てくると,南縁のサヘルと呼ばれる地域に,人々が水場(オアシスや河川)を求めて南下していったとみられます。

 アフリカ大陸は「┓」のような形をしていますが,左下(南西)部分の海域のことをギニア湾といいます。
 ギニア湾沿岸には,熱帯雨林とよばれる熱帯の森林が生い茂るエリアや,雨季と乾季のあるサバナ気候のエリアが広がり,
ヤムイモを栽培する農牧民が分布しています。



2000年~前1200年のアフリカ  北アフリカ

◆第二中間期(前1650?~前1558?):第14王朝~前17王朝前期
 ヒクソスの政権となった時期(王位継承についての定説はありません)

◆新王国(1558?~前1154?):第17王朝後期~第20王朝
  …最大版図となる時期。〈ツタンカーメン〉はこの時期。
 
エジプトでは,中王国時代に傭兵として導入されていた北シリアから騎馬に優れた遊牧民(ヒクソスと呼ばれました)が次第に政治にも干渉し,第13王朝(前1782?~前1650?)・14王朝(前1725?~前1650?)には政権が混乱し,第15王朝(前1663?~ 前1555?)・16王朝(前17世紀~前16世紀)ではヒクソスが下エジプトを支配する状況に至っていました。上エジプトで,ヒクソスに対抗したエジプト人が政権を建てた第17王朝(前1663年?~前1570?)を合わせ,中王国滅亡後の時期を第二中間期と区分します。
()古代エジプト史の年代については,諸説あり。
 エジプトを支配していたヒクソスの王朝は,〈イアフメス1世〉(位前1550~前1525)により追放されました。
 彼を始祖とする
18王朝から第20王朝までを新王国と区分します。王朝の拠点はメンフィスとテーベの2箇所です。メンフィスはユーラシア大陸への進出基地として重要視されました。テーベはヌビアへの進出基地であるとともに,王家の出身地であり太陽神ラー【セH11インカ帝国で信仰されていない】と同一視されて信仰されたアメン神(テーベの都市神)の中心としてテーベも重視されました。テーベには多数の巨大記念建築物が建造され,王の権威を高め人々を動員させる役割を果たしました。

 〈トトメス1世〉のときに「王家の谷」に初の王墓が築かれ,シリアにも遠征しています。その娘〈
ハトシェプスト〉(前1479?~前1458?)は,次王となる〈トトメス3世〉が幼少であったため,ファラオと称して実権を握りました。

 〈
トトメス3世〉(前1479?~前1425?)のときには,スーダン南部のヌビアや紅海沿岸に進出したほか,シリアへの17回の遠征をおこなった記録もあり,最大領域を実現しています。
 そこでヌビア人は,紀元前900年頃,今までの都であるケルマよりも南 ((かみ)ヌビアといい,現在のスーダン北部に位置します)に移動し,ナパタ(第4急流のやや下流側)クシュ王国【セH9[24]地図上の位置を問う】を建てました。クシュ王国は,エジプトのヒクソスの王朝と友好関係を結び,テーベのエジプト人による17王朝を“挟み撃ち”にして対立します。

 しかし,次第にテーベのアメン=ラーをまつる神官団が政治への介入を始めると,これを嫌った〈
アメンホテプ4世(1349~前1333)() 【セH12】【セH27クレオパトラではない】【立教文H28記】は彼らの力を排除し,王自らを神格化させるために拠点をテーベとメンフィスのほぼ真ん中に位置するアケト=アテン(遺跡の名称はテル=エル=アマルナ) 【京都H22[2]地図上の位置】【セH27にうつし,唯一の太陽神アトン【中央文H27記】のみを信仰させる宗教改革を断行しました。アメン=ラーをはじめとする従来の多神教を廃止し,唯一の太陽神アテン〔アトン〕信の仰を強制。みずからをアクエンアテン(イクナートン(アクエンアテン),アトン神に有益な者)と称しましす(都のアケトアテンは,アテンの地平線という意味)。
 彼の時代には,従来の宗教的な縛りがなくなったため,写実的なアマルナ様式の美術(
アマルナ美術【京都H22[2]】【セH29クフ王の時ではない】【中央文H27記】)も栄えます。

 しかし,改革はたったの1代で失敗
【セH12アトン信仰は〈イクナートン〉の死後も長く信じられていない】。彼の子〈トゥトアンクアテン〉は〈トゥトアンクアメン〉(位前1333~前1324)()と改名し,都もメンフィスにうつされました。1922年イギリスの〈カーナヴォン卿〉に支援された考古学者〈ハワード=カーター〉が黄金のマスクを発見し,いわゆる“ツタンカーメン”として知られています。“発掘関係者が早死にした”とか“ツタンカーメン暗殺説”など,古代のミステリーとしてしばしば取り上げられるファラオでもあります。彼の死後,王朝は混乱に向かいました。

 なお,「〈アメンホテプ4世〉が人類初の一神教の創設者で,これがのちにユダヤ教に伝わっていった」というストーリーは,精神分析学者の〈フロイト〉(1856~1939)のものなどが有名ですが,確証はありません。


 第
19王朝の〈ラムセス2世(1279~前1212)() 【中央文H27記】はシリアのカデシュヒッタイト王国と戦いましたが,勝敗のつかぬまま,条約が結ばれました。このときヒッタイト王〈ハットゥシリス3世〉(1275~前1250)は,エジプトのファラオと,シリアの領有権について取り決め,「相互不可侵」を約束しています。さらに,ヒッタイト王は2人の娘を〈ラムセス2世〉に嫁がせることで,平和を確保しました。〈ラムセス2世〉はエジプト最南端のアスワンに4体の巨大な石像で有名なアブシンベル神殿の建設や,テーベ(テーバイ)北部のカルナック神殿のオベリスクなどを建立しています。アブシンベル神殿は,アスワンハイダムによる水没を防ぐために,1960年代に国連教育科学文化機関(ユネスコ,UNESCO) 【セH10 1944年のブレトン=ウッズ会議で設立が決められたわけではない】が移築させています。

 第20王朝の〈ラムセス3世〉(1186~前1154)のとき,地中海方面からヒッタイトも滅ぼしたとみられる「海の民」(シー=ピープル)の進出を受けました。彼はこれを撃退しますが,王朝はその後分裂して衰えていきます。「海の民」はサルディニア島,シチリア島を拠点とする人々やギリシアのアカイア人,イタリア半島のエトルリア人の混成集団ではないかと考えられています。

(注)エイダン・ドドソン、ディアン・ヒルトン、池田裕訳『全系図付エジプト歴代王朝史』東洋書林、2012。古代エジプトの年代については諸説あります。



 古代エジプトの文字はパピルス(水辺に生えるカミガヤツリという植物の一種) 【セH15】に書かれました。パピルスに適した書体として,前2800~前2600年頃,ヒエログリフ(神聖文字) 【東京H11[3]】【共通一次 平1】が考案されました。これを崩したのがヒエラティック(神官文字) 【東京H11[3]】,さらに崩したものがデモティック(民衆文字)です。ヒエログリフが解読されるのは,この文字が刻まれた碑文を,1824年に〈ナポレオン〉(17691821)の遠征隊が発見したときのことです。冥界の王オシリスの裁判【セH21・H24】に備え,死者を埋葬するときに棺に一緒に入れられた『死者の書【セH9[18]図版ファラオの遠征,太陽暦,新王国時代の王の婚礼を描いたものではない】【セH15】の多くは,ヒエログリフ【セH15アラム語ではない】でパピルス【セH15】に書かれています。
 文字の誕生によって,ヒトは「目にはみえない考え」を文字にすることができるようになり,文字を生み出している自分という存在に目を向け,さらに生み出された文字によって逆に自分自身の考えをも豊かにしていくようになっていきます。例えば,名言などの言葉によって励まされたり,自分の考えを整理したりということもできるようになっていきます。また,考え方を他のヒトと共有することで,結束を深めたり,先祖代々の知識を仲間とともに積み上げていったりといったこともできるようになっていくのです。ただし圧倒的多くの人々には文字を読む力(識字能力)はなく,専門の教育機関で書字・読字を学んだ書記に限られていました。
 また,エジプトでは
太陽暦【セA H30】が用いられています。





2000年~前1200年のヨーロッパ


○前2000年~前1200年の東・中央・西・北ヨーロッパ、イベリア半島
東ヨーロッパ
…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 
2600年~前1900年にかけ,ヨーローッパに初の青銅器文化(ビーカー文化)が生まれました。
 紀元前2000年頃には,インド=ヨーロッパ語族のバルト=スラヴ語派に属する,バルト語派の言語を話すバルト人が,バルト海東岸部に定住しています。現在のラトビア語リトアニア語がバルト語派にあたり,インド=ヨーロッパ語族の古い時代の特徴を残している言語で,スラヴ語派とも近い関係にあります。
 地理的に「辺境」(へんきょう)にあたる北ヨーロッパに青銅器文化がみられるようになるのは前1800年頃のことです。




○前1200年~前800年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島
…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
◆地中海北岸には交易で栄える小規模な都市国家が成立していく
 
古代には,地中海を中心に一つの文化圏が生まれました。沿岸部を中心に都市が生まれましたが,大きな川がないので平野にめぐまれず,気候も乾燥しておりブドウやオリーブなどの果樹栽培や山羊などの牧畜が主流です。ブドウからは早くからワインが作られ,オリーブからはオリーブ油が製造されていました(ワインは水で割って飲んでいたようです)。したがってオリエントのように治水に必要となる強力な権力は生まれませんでした。農耕・牧畜を営むためには降水量も少なく土地も狭いため、地中海に繰り出して沿岸のオリエントの穀倉地帯から必要な物資を得るのは生きるために必要なことでした。

◆青銅器段階のクレタ文明が栄えたが,火山の噴火や資源の枯渇により滅ぶ
クレタ島が東部地中海交易の中心地として栄える

 前3000年紀からエーゲ海周辺には青銅器文明(エーゲ文明)が栄えていましたが,前2000年頃からバルカン半島と小アジアの中間地点に位置するクレタ島【セH16地図】で,おそらくインド=ヨーロッパ語系ではない人々(民族系統不明)が,クレタ文明〔ミノア文明;ミノス文明〕を生み出しました【セH16ミケーネ文明を滅ぼして成立したわけではない】(クレタ文明を「エーゲ文明」の中に含めることもあります)。
 彼らは伝説的な王〈
ミノア〉王にちなんでミノア人と呼ばれ、オリエントやバルカン半島南部(ギリシア)を結ぶ中継交易の利をもとに各地の港を王が支配し,巨大で複雑な宮殿が各地に建設されました。
 このうち
クノッソスにある宮殿【セH20ヒッタイトの遺跡ではない】は王の住居で,広場にある貯蔵庫には各地から生産物が貢納されており,集められた生産物は再度各地に再分配されていました。線文字A(ミノア文字)などの絵文字【セH16文字がなかったわけではない】が使われていたということは,これらの出し入れが記録されていたのではないかと考えられます(ただし未解読です)。青銅器文明であり,鉄器はまだ使用されていません【セH16鉄器は未使用】

 遺跡がありますが城壁がないセH5堅固な城塞はない】ことから,王は宗教的な権威によって支配していたとみられ,のちのミケーネ文明に比べると平和な文明であったと考えられます。
 クノッソス宮殿の王宮の壁画
セH5】(フレスコ画)や陶器の絵セH5】には,明るいタッチでイルカセH5海の生物】の絵が描かれています。発掘したのはイギリスのエヴァンズ(18511941) セH5シュリーマンではない】【セH16クレタ文明を発掘した人物】で,後述の実業家〈シュリーマン〉セH5エヴァンズとのひっかけ】の発見に刺激されて1900年に王宮を発見しています。


◆アカイア人により,ギリシャに青銅器段階のミケーネ文明が形成された
 バルカン半島南部のギリシアも、中央ユーラシアからのインド=ヨーロッパ語族の民族移動の影響を受けます
 前
2000年頃に北方から移住してきたインド=ヨーロッパ語族の古代ギリシア人(アカイア人【セ試行ドーリア人ではない】)によって、前1600年以降にギリシア本土(注1)ミケーネ(ミュケナイ),ティリンスピュロスなどの都市国家が建設されました。これをケーネ〔ミュケナイ〕文明【セ試行,セH8文字はある】【※意外と頻度低い】といいます。
 開放的なクレタ文明とは対照的に堅牢な城壁付きの王宮もみられ,地中海をまたいだ西アジアや北アフリカのオリエントの専制国家の影響を受けているとみられます
(⇒新王国(前1567~1085?)/前2000~前1200北アフリカ)
 発掘したのは
19世紀ドイツの実業家〈シュリーマン(182290)です。前15世紀にクレタ島に進入して,これをを支配し,さらに小アジアのトロイア(トロヤ)にも勢力圏を広げました。クレタ文明の線文字Aをもとにして作られた,線文字B【セH8文字がなかったわけではない】(イギリスの建築家〈ヴェントリス(192256)が,第二次世界大戦時の暗号解読技術を駆使して解読しました)を用いていました。

 
1530年頃には,クレタ島の北にあるテラサントリーニ島で火山が大爆発しました
 この加算の噴火がによりクレタ文明は甚大な被害を受け、衰退に向かいました
(注2)。のちに古代文明が海底に沈んだとされる「アトランティス伝説」のモチーフになったともいわれます(のちに〈プラトン〉の著作がモチーフにしていますが、内容は史実に基づくものではありません)。

アカイア人の一派はイオニア人と呼ばれてアテネを建設することになる
エーゲ海沿岸でトロイア戦争が起きたと伝えられる
 なお,アカイア人の一部は
イオニア人と呼ばれるようになり,のちにアテネ(アテーナイ(注3))という都市国家を形成していきます。
 また,
アイオリス人【セ試行 スパルタを建設していない】もバルカン半島北部から南下し,紀元前2000年頃にはギリシア中部からエーゲ海のレスボス島,さらに小アジア(アナトリア半島)西部に植民していきました。のちにテーベ(テーバイ)という都市国家を形成していきます。
 のちに吟遊詩人〈
ホメロス〉(前8世紀末?) 【共通一次 平1:〈アリストファネス〉ではない】が叙事詩『イーリアス〔イリアス〕』【共通一次 平1】,『オデュッセイア』で伝えるトロイア戦争は,ミケーネが小アジアのトロイア(英語でトロイ)に対して起こした戦争がモチーフになっているといわれますが確かな証拠は今のところありません。一説には前1250年頃の戦争がモデルではないかともいわれています。物語に登場する「トロイアの木馬」は現在トロイア遺跡に復元されていて中にも入れます。

 前2000年紀には,バルカン半島から
トラキア人フリュギア人が小アジア(アナトリア半島)に移動します。
 トラキア人はアナトリア半島の
トロイア文化の担い手の一部ではないかともいわれています[芝1998:35]
(注1)ギリシア本土とは,エーゲ海の島々や小アジア(アナトリア半島)を除いた,バルカン半島南部のギリシア人の世界を指します。
(注2)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.20
(注3)古代ギリシア語では都市を複数形で呼ぶので,複数形の“アテーナイ”となります。現在の英語でもアテネはAthens(アス(θ)ィンズ)となり複数形です。