1979年~現在の世界
世界の一体化⑥:帝国の再編Ⅱ

ソ連型の社会主義が失敗に終わり,アメリカ中心の市場経済が全世界規模に拡大する。アジア,アフリカでも経済成長を遂げる国家が台頭し多極化に向かうが,各国で市場経済や異文化への反発も表面化する。

時代のまとめ
(1) ソ連を中心とする社会主義圏でも市場経済が導入され,「各国内の不平等」と「グローバルな不平等」が拡大している
 地球レベルでの自由貿易がさらに進展した結果,先進国の企業も,厳しい競争にさらされることになり,経済格差が広がりました。また,重厚長大産業(鉄鋼・造船・金属)から軽薄短小産業(マイクロエレクトロニクス)へと産業の主力が変化する中で,企業の多くが国内よりも人件費の安い国外に生産拠点を移した結果,先進国内部の雇用が失われる現象(産業の空洞化)も問題になってきています。
 
多国籍企業の世界展開や労働力の国際的な移動も活発化し,先進国内では不景気や雇用不安やそれがもたらす経済格差(「各国内の不平等」(注1))を,移民労働者や外国文化の流入の責任とする排外的なナショナリズムも目立っています。特に,単純な構図を表すキャッチフレーズを多用し国内の問題を外国人のせいにすることで票を集めようとする,ポピュリズム的な政治家・政党が支持を集める国・地域もみられます。

 同時に,「グローバルな不平等」
(注1)も問題化しています。従来は「南北問題」の「南」側の発展途上国としてひとくくりにされていた国々の中から,技術革新によって新興国へとのし上がる国も出てきたのです。これにより,1990年代以降,新興国の中間層の所得が増えるとともに,それと連動して先進国の下位中間層の所得が低下し,先進国の富裕層がの所得が著しく上昇したと論じる研究者もいます(注2)

 1970年代以降に経済成長を達成したアジアの
NIEs【セA H30】(ニーズ,新興工業経済地域。韓国,台湾【セA H30】,香港,シンガポール) 【セH9[11]は,輸出向けの製造業で頭角を表し,それにASEAN(東南アジア諸国連合)の諸国や,市場経済を導入した中華人民共和国も追随しています。
 代表的な新興国は2008年の世界経済危機に際して
G20(ジー・トゥエンティ)を開催し,経済問題について協議するなど,国際的な存在感を増しています(注3)。従来のように欧米と日本だけで世界経済を協議することが有効ではなくなっていることの現れです。
 
BRICs諸国【セA H30ベネズエラは含まない】(ブリックス。ブラジル,ロシア,インド,中国,南アフリカ。南アフリカは加えない場合もある)の共通点は,領土が広大で資源が豊富,人口も多いことが挙げられます。このように,従来は「低開発」であった発展途上国が,21世紀初頭になると経済発展に成功するようになったのです。しかし,以前として「南側」の国々の中でも南南問題といわれる経済格差が問題となっています。
 他方で,熱帯地域に多く分布する後発開発途上国や低所得国(LDCs,1人あたり国民純所得が825米ドル(2014年)以下の国)や,低中所得国(LMICs,826~3255米ドル),高中所得国(UMICs,3256~10065米ドル)なども依然として多く,世界の富の偏りは21世紀に入りますます拡大しているという議論があります。年間所得
3000ドルを下回る最底辺層 (BOP層(Base of the Economic Pyramid),ビーオーピー)は,世界に40億人いるとされています。工業化の進展や農業生産性の向上などの面でアジアに遅れをとっているサハラ以南のアフリカ諸国(サブサハラ=アフリカ)には,2000年代以降は政治の安定,資源価格の高騰,民間消費の拡大を背景に経済成長への兆しがあります。

 発展途上国の多くは先進国(アメリカ合衆国)の主導する
IMF(国際通貨基金)や世界銀行の融資を受けて国内の開発を進めた結果,1980年代には中央アメリカや南アメリカ諸国で累積債務問題が深刻化し,借款を返済できない状況に陥ってしまいました。IMFは金融支援をするにあたり,発展途上国の財政政策や金融政策にまで首をつっこむ構造調整政策をとるようになりましたが,市場開放を進めた結果,伝統的な産業の破壊や貧富の差の拡大といった問題を生み出し,批判も浴びています。

 また,先進国では少子高齢化が進み,国家による社会保障制度の存続が危ぶまれています。一方,新興国や発展途上国では若年人口が急増し(
ユースバルジ),そのことが社会を不安定化させる要因になっているとの指摘もあります(4)
()脇村孝平「「南北問題」再考経済格差のグローバル・ヒストリー」『経済学雑誌』118pp.2747(http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/04516281-118-3-4-27.pdf)
(注2)ブランコ・ミラノヴィッチ,立木勝訳『大不平等――エレファントカーブが予測する未来』みすず書房,2017年。
(注3)20か国は,アメリカ合衆国,イギリス,フランス,ドイツ,日本,イタリア,カナダの7か国にEUの1地域を合わせたG7に,ロシアを加えたG8(ロシアは2014年からはG8の資格が停止されています)に加え,
中華人民共和国インドブラジルアルゼンチンメキシコ南アフリカオーストラリア大韓民国インドネシアサウジアラビアトルコで構成されています。
 すでに1999年から20か国・地域の財務大臣・中央銀行総裁会議が開かれていましたが,2008年からは20か国・地域首脳会合(G20首脳会合)もあわせて開かれるようになったのです
(注4)世界銀行 ‘Youth Bulge: A Demographic Dividend or a Demographic Bomb in Developing Countries?’
http://blogs.worldbank.org/developmenttalk/youth-bulge-a-demographic-dividend-or-a-demographic-bomb-in-developing-countries2012

 一方で政治家や金融資本家など一部の富裕層が1970年代から自国の税負担を逃れて莫大な資産を租税回避地(タックス=ヘイヴン税負担を低く設定している地域・国)に移動させる傾向もみられます。タックス=ヘイヴンの一つであるパナマの法律事務所が関わった顧客データ(パナマ文書)が2016年にインターネット上に公開され国際的な批判を呼び,一部の政治家は辞任を余儀なくされました。
 急速な経済のグローバル化に対して,地産地消(ちさんちしょう)などを訴える
反グローバリズム(ローカリズム)の運動を起こす人々も,先進国を中心に現れるようになっています。また,タイ王国における〈タクシン〉派と反〈タクシン〉派の争いのように(),多国籍企業の誘致や外資の導入による開発の是非が,発展途上国における政治の争点となる事態も増えています。
()末廣昭『タイ―中進国の模索』岩波書店,2009年。


(2) 気候変動を初めとする地球環境問題が国際政治を左右するようになった
 また,グローバル化によって地球上のあらゆる地域で経済活動が発展するようになると,国境を越える地球環境問題が喫緊の問題として認識されるようになりました。
 1970年代に,地球を取り巻き紫外線を吸収する役割を持つ
オゾン層が,冷蔵庫の冷媒や電子部品の洗浄剤に使われていたCFC(クロロフルオロカーボン)や,消火剤のハロンにより破壊されるメカニズムが明らかになっていました。紫外線の増加にともなう健康被害や,生態系への悪影響を防ぐため,1985年にはオゾン層の保護のためのウィーン条約,1987年にはオゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書が締結されました。
 化石燃料の排出物に含まれる有害物質が雨となって降り注ぐ
酸性雨についても,1979年には長距離越境大気汚染条約(ECE条約)が締結され,各地で観測と対策が続けられています。
 環境問題に関する国際連合の会議としては,1982年に国連環境計画管理理事会特別会合(ナイロビ会議)が開催されました。また,ブラジルのリオデジャネイロで
1992年6月に開催された,地球サミット(国連環境開発会議) 【セH17時期(1990年代初めかを問う)では,現在の世代だけではなく未来の世代のことも考えようという「持続可能な発展」という理念が主張され,各国首脳も参加する大規模な国際会議となりました。地球サミットでは,環境と開発に関するリオ宣言が採択され,気候変動枠組条約,生物多様性条約,森林原則声明と,リオ宣言に基づく持続可能な開発を実施するための自主的行動計画である「アジェンダ21」が採択されました。
 リオ会議で採択された気候変動枠組条約に基づき,毎年気候変動枠組条約の締結国会議が開催されるようになり,その第3会会議(COP3,コップスリー,1997年)において,地球温暖化の原因物質とされる温室効果ガス
(二酸化炭素など)の削減目標を明記した京都議定書【セH29試行 時期(1932年ではない)】【中央文H27記】が採択されました。
 京都議定書の定める期限が切れてしまったので,
2016年にはその後継となるパリ協定が発効しました。ちなみに,1人あたり排出量が世界トップであるにもかかわらず,2017年にアメリカ合衆国はパリ協定を離脱しています。
 また,
人口爆発や気候変動の進展により,水資源の確保をめぐる争い(“水戦争”)や食糧問題も深刻化すると予想されています。ただ,世界全体の食糧が不足しているというわけではなく,発展途上国の食糧が大量に先進国の畜産業向けの飼料として輸出され,発展途上国の人々に十分に分配されないといった,構造的な問題が背景にあるのです()
(注)ジャン=ジグレール(勝俣誠監訳,たかおまゆみ訳)『世界の半分が飢えるのはなぜ? ―ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』合同出版,2003年。


(2) 文化のグローバリズムが進む一方で,マイノリティの文化や先住民文化が再評価され,世界各地の政府や非政府組織によりグローバル化を推進する動きだけでなく,対抗する動きも起こされている
 経済のグローバル化の進展に伴い文化のグローバル化も進みました。また,情報通信技術の発達により,誰でも手軽に文化を発信したり,共通の分野に関心のある人々がつながったりすることができるようになったことで,日本発の漫画やアニメなどのサブカルチャーが注目されるようになりました。
 また,情報通信技術の発達により,多様な価値観が人々の目に直接ふれるようになったことで,マイノリティ集団(民族的なマイノリティやジェンダー=マイノリティ)や障害者の権利も注目されるようになっています。その一方で,伝統的な文化と,新しい価値観との間でどのように折り合いを付ければよいかということも,多くの地域で問題になっています。
 マイノリティ
(少数派)集団の中には,国境を超えて文化や宗教といった自分たちのアイデンティティを守ろうという動きも見られるようになり,国際連合や各国政府によって先住民の権利が保障される動きもみられるようになります。

 一方で,20世紀末から21世紀初頭にかけての世界では,従来のような「国民国家」を中心とする国際体制が少しずつ変化し,中華人民共和国やロシア連邦といった国内に多くの民族をかかえる広大な国家が台頭するようになっています。
 特に冷戦後には各地で大国の利害や経済的利権のからむ民族紛争が多発し,その多くが国境を超える複雑な原因を抱え,難民や国内避難民の数も増加しています
(2015年に史上最多の6000万人に)。また,奴隷は19世紀を通じて廃止されたものの,今なお奴隷制と実態の変わらない人身(じんしん)売買(ばいばい)【早政H30が行われている事例は,世界各地に残されています。
 このような問題に対し,国連は,人々の人間としての生活が保障されるべきであるという「人間の安全保障(ヒューマン=セキュリティ)」という考えを打ち出すようになりました。国連や国家に代わって,非政府組織(NGO) 【早政H30】 によって,市民が直接的に世界レベルの問題解決に貢献しようとすることも可能になってきました。国際赤十字(1917,1944,1963(国際赤十字赤新月社連盟として)にノーベル平和賞を受賞)国境なき医師団(MSF,1999年にノーベル平和賞を受賞)による紛争地域における医療活動や,地雷禁止国際キャンペーン(1992に設立,1997にノーベル平和賞を受賞),核兵器廃絶国債キャンペーン(2007設立。2017ノーベル平和賞を受賞)も注目されています。2010年代後半にはインターネットを介した資金集めの手段としてクラウド=ファウンディングも盛んになります。また,国連のUNESCOは1997年以降,世界記憶遺産(世界の記憶) 【東京H29[3]問題文】というプロジェクトを始め,人類が長期に渡り記憶して後世に伝える価値があるとされる記録物が選ばれるようになっていきました(清の科挙合格者掲示,ハリウッド映画,『アンネの日記』【セH6史料で使用】インド洋大津波(2004)など)。


(4) 科学技術の高度な発達とともに,「リスク社会」の危険性が意識され始めた
舞台はサイバー空間,ミクロの世界,宇宙空間へ
 20世紀後半以降の科学技術の革新を,コンピュータ
【東京H16[3]「新しい出版の形態を可能とした技術」の名称を答える】や原子力技術,特にコンピュータやICT技術,インターネットや再生可能エネルギー技術に注目して,「第n次産業革命(工業化)」(n≧3)と呼ぶことがあります。2016年にスイスで開催された第46回世界経済フォーラム(いわゆるダボス会議)では,第三次産業革命(工業化)をインターネットとICT技術の普及,第四次産業革命(工業化)を「極端な自動化,コネクティビティによる産業革新」として議論が展開されました。
 ダボス会議のいう「第三次産業革命(工業化)」にあたる
情報通信革命は1980年代以降急速に伸展し,大量の情報を瞬時に処理するソフトウェアや端末の開発が進んでいきました。複数のコンピュータ(電子計算機)のネットワークをTCP/IPという通信の方式によってつなぐインターネットが実現しました。1991年には〈ティム・バーナーズ=リー〉(1955~)らによりワールド=ワイド=ウェブ(WWW)が開発され,複数のテキスト同士をリンクする仕組みも整備されていきました。これにより,1990年代にかけて民間における利用も進み,現実的な空間における取引だけでなくサイバー空間上で瞬時に取引をすることもできるようになりました。国際間の取引の信用を高めるため,1988年にはバーゼルの国際決済銀行が民間銀行の自己資本比率に関するルール(BIS(ビス)規制)を定め,金融に関するルールの標準化が進みます。
 2001年にはGoogleが創業し「世界中の情報を整理し,世界中の人々がアクセスできて使えるようにすること」を使命に掲げます。
GPS(全球測位システム)の民間への普及も進んでいます。

 情報通信革命の成果をさらに進展させ,コンピューター上の仮想空間をつくる
VR(ヴァーチャル=リアリティ)や,現実世界の機械とネットワークをリンクさせることで効率的な仕組みを生み出すIoT(アイ=オー=ティー),さらに人類の認知・学習能力を備えたコンピューター=プログラム(AI人工知能)の開発などが2010年代以降いっそう加速しています。すでに特化型の人工知能は,大量のデータ(ビッグデータ)を分析させ,意味のある情報を取り出しながら(データマイニング),個別の領域について自己学習をすることが可能になりつつあります。
 新技術を
ロボット分野()における技術革新と組み合わせることで,人間の身体器官や感覚器官を拡張させることで,障害者や高齢者の身体能力の回復や改善ができるのではないかとも期待されています。また,ナノテクノロジー(原子や分子の規模で物質をコントロールするための技術)と組み合わせることで,微小な医療用ロボットを体内に送り込むことで手術を実施しようとする試みも研究されています。
(注)ロボットとは人間と同じ振る舞いをする機械のこと。1999年には日本のSONY社がペット型ロボット,2002年にはiRobot社が掃除ロボットのルンバ,2015年にはソフトバンク社がPepperを開発しました。

 生物学の分野では1992年にアメリカ合衆国で癌の遺伝子治療が実施され,1996年にはイギリスでクローン羊ドリーが誕生しました。グローバル化は学問の国際的な研究にも影響し,
2003年に人間のDNAの解読を目指したヒトゲノム計画が完了し,2007年に日本の〈山中伸弥〉(1962)が皮膚から人工多能性幹(iPS)細胞を生成するなど,遺伝子工学も急速に発展しています。2010年以降はゲノムそのものを操作し,特定のDNA塩基配列に関係する遺伝子を取り替えるなどのゲノム編集の研究も進んでいます。2010年にはアメリカ合衆国の研究者が,人工的に合成したゲノムから完全なバクテリアを作り出すことに成功しています(1)
 物理学では,物質の最小単位クォークの性質や作用に関する研究が進み,スイスのCERN (セルン,欧州原子核研究機構) 研究所が2008年9月に世界最大の粒子加速器「大型ハドロン衝突型加速器」の稼働を開始しています。

 その一方で,情報工学の分野では,ネットワーク上の著作権の問題や,個人情報の保護などの問題も浮上しているほか,社会全体がコンピューターのシステムに依存することで,システムが
サイバー攻撃を受けた場合,社会全体の機能が停止してしまうのではないかという危険性も指摘されています。また,従来のような特定の分野に限定された特化型人工知能の導入が進むと,従来の産業構造が転換していくのではないかとか,あらゆる分野について認知処理が可能な汎用型人工知能が開発された場合,人類に対して計り知れない影響が与えられるのではないかといった議論も出ています。
 遺伝子工学の分野では,研究の進展によって病気や寿命の問題が解決される可能性が出てきており,「人間とは何か」「生命とは何か」といった根本的な倫理
(生命倫理)を再確認する必要性が叫ばれています。
 このように,科学技術や経済・社会制度が高度に複雑化したことで,政治家や一般市民が専門家の知見を検証することは困難となる一方,“近代化の副産物”としての予測不可能な
リスクが人類社会を覆うようになっています(注2)。
(1)http://science.sciencemag.org/content/329/5987/52
(
2)ドイツの社会学者〈ウルリッヒ=ベック〉は,このような社会を「リスク社会」(危険社会)と表現しました。

(5) 人類には多くの未解決問題が残されている
 2000年にニューヨークで開催された国連ミレニアム・サミットで採択された国連ミレニアム宣言で挙げられた2015年までに達成すべき課題(1. 極度の貧困と飢餓の撲滅,2. 普遍的初等教育の達成,3. ジェンダーの平等の推進と女性の地位向上,4.幼児死亡率の削減,5. 妊産婦の健康の改善,6. HIV/エイズ,マラリアその他疾病の蔓延防止,7. 環境の持続可能性の確保,8. 開発のためのグローバル・パートナーシップの推進)には改善されたものもありますが,課題は残りました。

 そこで,
2015年の国連サミットでは,持続可能な開発のための2030アジェンダが採択され,2016年には17項目の持続可能な開発目標(SDGs)が発効しました。具体的には,1. 貧困の撲滅,2. 飢餓撲滅,食料安全保障,3. 健康・福祉,4. 万人への質の高い教育,生涯学習,5. ジェンダー平等,6. 水・衛生の利用可能性,7. エネルギーへのアクセス,8. 包摂的で持続可能な経済成長,雇用,9. 強靭なインフラ,工業化・イノベーション,10. 国内と国家間の不平等の是正,11. 持続可能な都市,12. 持続可能な消費と生産,13. 気候変動への対処,14. 海洋と海洋資源の保全・持続可能な利用,15. 陸域生態系,森林管理,沙漠化への対処,生物多様性,16. 平和で包摂的な社会の促進,17. 実施手段の強化と持続可能な開発のためのグローバル・パートナーシップの活性化です。
 このリストに挙げられた項目は,まさにホモ=サピエンス(人類)が人種・民族・国民を越えて共同作業をしなければ解決できない問題ばかりといえます。





1979年~現在のアメリカ

1979年~現在のアメリカ  北アメリカ
1979年~現在のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
 1982年にカナダ法が改正されてカナダ憲法が成立しました。
 1980年と1992年には,フランス系住民の多いケベック州で分離を問う住民投票が行われましたが,否決されています(
ケベック州分離独立運動)。
 1999年には先住民(インディアン;ファースト=ネイションズ)や北方のイヌイットの自治権が承認されました。
 カナダは世界各地から積極的に移民を受け入れ,多文化社会化が進行しています。

1979年~現在のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
197781年〈カーター〉政権
人権外交
 1977年に就任した民主党【セH9共和党ではない】の〈カーター大統領【セH9は,「人権外交」を掲げて,エジプトとイスラエルとの間にキャンプ=デーヴィッド合意を締結させるなど,中東和平に深く関わりました。また,1977年には新パナマ運河条約(トリホス=カーター条約)をパナマの〈トリホス〉最高司令官と結び,1979年に主権をパナマに返還しました(完全撤退は1999(⇒1979~現在の中央アメリカ パナマ))。また,1979年には中華人民共和国と国交を樹立(同時に,中華民国(台湾)とは国交を断絶)しています。在任中にイラン革命が起き,イランのアメリカ大使館人質事件(1979~80)の解決に奔走するなど外交に力を入れた大統領でした(映画「アルゴ」イラン アメリカ大使館人質事件での実話を基にアメリカ大使館側の視点で描かれています)
 なお,米ソの核兵器を削減するための
SALT2(ソルト=ツー,第一次戦略兵器制限交渉)をおこない,条約に調印しました。しかし,上院が批准を拒否したために,発効はされませんでした。

19811989年〈レーガン〉政権
強いアメリカ
 1981年に就任した〈レーガン大統領(任1981~1989)【セH4アイルランド系カトリック教徒ではない】は,「強いアメリカ【セH27イギリスのブレアではない】を掲げてソ連との対決姿勢を強めていきます。インフレ率は1980年に約14%に達し,1982年の失業率も約10%のピークに達していました(1)
 膨れ上がった「
双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)を解消させるために,「新自由主義」的な政策“レーガノミクス”をとりました。結果としてインフレ率は1990年には約6%まで低下,1990年に失業率は5%台にまで落ち込みます。ただ,この間に実質収入にほとんど変化はなく,貧困世帯数は増加し所得格差は拡大していきました(1)
 1980年代には,コンピュータ分野での技術革新が花開き,ソ連との経済や技術の格差がますます拡大していきました。〈スティーブ=ジョブズ〉(19552011)が創業したアップルが,マッキントッシュというパーソナル=コンピューターを初めて発売したのは,1984年のことです。
(注1) クルーグマン『クルーグマン教授の経済入門』日本経済新聞社,2003,p.18。

19891993年〈ブッシュ〉(父)政権
1993
2001年〈クリントン〉政権
冷戦の終結
 1989年に就任した共和党の〈G.H.W.ブッシュ〉(ブッシュ)大統領(任1989~1993) 【追H30オスロ合意ではない,クリントンとのひっかけ】は,1989年12月2~3日に地中海のマルタ島で行われたマルタ会談において,ソ連の〈ゴルバチョフ〉書記長とともに史上初めて共同で記者会見をおこない,事実上の冷戦の終結を宣言しました。
 1992年にアメリカ,カナダ,メキシコは北米自由貿易協定(NAFTA,ナフタ) 【セH23キューバは加盟していない】【セH25】が結ばれ,1994年に発効しました。発効時の大統領は民主党〈クリントン〉(任1993~2001)です。
 〈クリントン〉をめぐっては,セクシャル=ハラスメントの訴訟と不倫を発端とするスキャンダルが弾劾訴追(1998年)に発展し,1999年に無罪の評決がおりています。


20012009年〈ブッシュ〉(子)政権
9.11
 民主党政権は,2001年に政権を共和党の〈G.W.ブッシュ〉大統領(200109,2代前の大統領の息子) 【慶文H30記】に譲りました。
 大統領選で〈ブッシュ〉の対立候補であった民主党の〈アル=ゴア〉(1948)は人為的な気候変動防止に向けた活動を推進し,その後2007年に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)とともにノーベル平和賞を受賞しています。それに対し2001年3月には京都議定書からの離脱,7月にはCTBT(包括的核実験禁止条約)からの離脱が宣言され,政権は単独行動主義(ユニラテラリズム)と国際的な批判を受けていました。
 そんな中,2001年9月11日,ニューヨークの世界貿易センタービル(ワールドトレードセンター)と首都ワシントンD.C.近くにある国防総省(ペンタゴン)のビル(ヴァージニア州)に,ジェット旅客機が乗客を乗せたまま突っ込み,多数の死傷者を出しました(アメリカ同時多発テロ事件) 【慶文H30記】

 〈ブッシュ〉大統領は,〈ビン=ラーディン〉を指導者とするアル=カーイダ【慶文H30記】という暴力的なイスラーム組織の犯行と判断し,アフガニスタン政府に〈ビン=ラーディン〉を引き渡すよう求めました。しかし,当時のアフガニスタンのターリバーン政権は,それを拒否したため,200110月7日にアメリカやイギリスを中心とする多国籍軍が,アフガニスタンとの戦争を開始しました(アメリカ合衆国のアフガニスタン侵攻)。ターリバーン政権は,同年3月にバーミヤン渓谷の磨崖仏や洞窟内の壁画(「バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群」,2003。危機遺産)を破壊する過激な行為を映像で撮影し世界に配信したことで注目を集めていました。1113日には首都カーブルは制圧され,ターリバーン政権は崩壊しました。その後,アフガニスタンには新政権ができましたが,不安定な情勢は続いています。

 
2001年には米国愛国者法が制定され,テロ行為に関係があると疑われる人物に対する政府による情報収集が認められました。政府による情報収集に不適切な行為があることをアメリカ国家安全保障局 (NSA)とアメリカ中央情報局(CIA)の元局員〈スノーデン〉(1983)が暴露し,2013年以降はロシアに一時的に亡命。アメリカ側は引き渡しを求めていますがロシアは応じず,対立が続いています。

 〈ブッシュ〉大統領は,2003年3月にイラクに対して開戦しました。イラクの〈フセイン〉大統領が「大量破壊兵器」を持ち,暴力的なイスラーム組織を支援しているのではないか。もしそうなら,アメリカが攻撃されるおそれがあるため「自衛権」を発動できる――ブッシュ政権はそのように考えたのです。これに対しては,フランスの反対もあり,国連安保理がアメリカの軍事行動に反対したものの,4月にはフセイン政権は崩壊しました。その後のイラクの占領政策は失敗し,「大量破壊兵器」の存在も謎のままに終わります。
 なお,アフガニスタンやイラクで拘束した人物は,キューバのグアンタナモ海軍基地内にある収容キャンプ(2002年設立)に送られ,収容者に対する拷問が行われているという情報が2004年に明るみに出て物議をかもしました。

 そんな中,2008年9月の世界同時不況(リーマン=ショック)がアメリカを震源地として世界中に瞬く間に広がりました。金融資産を嫌って,2011年には価格が1トロイオンス=1923.7ドルという最高値を記録しています。

20092017〈オバマ〉政権
Yes We Can
 大統領選挙で敗北した〈ブッシュ〉大統領に代わり,2009年に新たに大統領に就任したのが〈オバマ(20092017)です。〈オバマ〉はケニア人の父と白人のアメリカ人との間にハワイで生まるという経歴を持ち,注目を集めました。就任後には金融危機への対策として自動車産業や金融機関を救済し,富裕層を公的資金で救済にすることには反発(オキュパイ=ウォール=ストリート運動(ウォール街を占拠せよ運動))も起きました。
 
2009年にチェコのプラハ【セA H30ワルシャワ(ポーランド)ではない】で「核兵器のない世界」を目指す演説を行い,その活動に対してノーベル平和賞が贈られましたが,2011年までアフガニスタンとの戦争は継続するなど世界規模の「対テロ戦争」の遂行は継続されています。
 アフガニスタン撤退後の中東では,イラクやシリアの領域内で「イスラーム国」を称する武装勢力が支配圏を拡大させ,「アラブの春」後も混乱していたリビアでは2012年にアメリカ領事館が襲撃されました。医療保険制度改革(
オバマケア)や金融機関への救済のために財政支出をすることに反発したティーパーティー運動(1773年のボストン茶会事件からとられた名前です)を生み,政権に対する批判も高まっていきました。2016年には現職のアメリカ合衆国大統領として始めて,被爆地である広島を訪れています。

2017年~現在〈トランプ〉政権
Make America Great Again
 
2017年に大統領に就任した共和党の〈トランプ(1946~,在任2017)は,インターネット上のSNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス)を利用した過激な発言で自身の話題を集め,メキシコや中東諸国からの移民制限や,イェルサレムのイスラエル首都としての承認など,国際諸国の協力よりもアメリカ合衆国の国益を優先させるアメリカ第一主義(アメリカ=ファースト)を掲げ,孤立主義的な傾向を強めています。他方で,2016年の大統領選挙期間中にロシア連邦による〈トランプ〉派に有利となるようなサイバー攻撃やSNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス)における世論誘導などの干渉があったのではないかという疑惑(ロシア疑惑,ロシアンゲート)も強まっています。
 2018年にはイラン核合意から離脱,アメリカのイスラエル大使館の西イェルサレムへの移転,北朝鮮の指導者〈金正恩〉やロシアの〈プーチン〉大統領と直接会談,大規模な保護関税の実施などを実行し,国論を二分しています。



1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
1979年~現在の中央アメリカ  ①メキシコ
一党体制の間に積み上がった財政危機を新自由主義的な政策で解決しようとする政府に対し,反政府運動も起きた
 メキシコは
制度革命党の一党支配の下,アメリカ合衆国との関係を維持しつつ,第三世界とも連携した独自の外交を進めており,ニカラグア内戦を戦うサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を全面的に支持します。しかし,深刻化した対外債務が1982年に明らかになるとメキシコ経済は危機的な状況に陥り,制度革命党の〈マドリ〉大統領の下で国際通貨基金(IMF)による政策への介入を認め,新自由主義的な政策で財政改革を進めました。そのしわ寄せは国民生活に及んだものの,1992年の選挙でギリギリ勝った〈サリーナス〉の下でも新自由主義は続行されていきます。その代表例が,1992年に締結されたアメリカ合衆国・カナダとの北米自由貿易協定(NAFTA) 【セH23キューバは加盟していない,H25】です(1994年に発効)。
 これに対しサパティスタ民族解放軍(メキシコ革命の農民指導者〈
サパタ〉(1879~1919)【セH10スペインお呼びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】が由来です)というゲリラ組織は「アメリカから安価なトウモロコシが流入すれば,メキシコ最南部チアパス州(マヤ人が多い)の貧しい農民の暮らしは破壊される」と,締結したメキシコに対して宣戦布告。サパティスタはまもなく鎮圧され,対話路線に転換しています。
 1994年には制度革命党の〈セディージョ〉が大統領に就任しますが,1994年に通貨危機が勃発。1997年にはチアパス州のインディオ住民に対する虐殺も起きています。

一党体制が終結した後も,貧困・移民・麻薬問題が課題となっている
 2000年の選挙で国民行動党(PAN)の〈ケサーダ〉が大統領に終結し,70年余りの一党独裁体制がようやく幕を閉じました。しかし,チアパス州のゲリラ組織との和平交渉は難航し,国内の貧困問題も大きな課題として残されたまま。職を求め,メキシコからのアメリカ合衆国への合法・非合法の労働力の移動が増えると,アメリカ国内ではヒスパニック系(スペイン語を話す人々)を制限しようとする動きも起き,2017年に就任した実業家出身の〈トランプ大統領(2017)はメキシコとの国境の壁建設を命じるなど,移民を制限する政策をとりました。〈トランプ〉大統領はSNSを通した過激な発言で注目を集め,その政策は自国第一主義ともいわれます。
 2006年に大統領に就任した国民行動党の〈カルデロン〉(任2006~12)政権以降は,アメリカ輸出向けの麻薬組織を撲滅するための “
麻薬戦争”が深刻化しています。


1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ

 
アメリカ合衆国にとって中央アメリカ諸国が社会主義化することは,どうにかして避けたい事態でした。④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,②グアテマラ,⑦コスタリカの5か国は1961年には中米共同市場が発足させて地域の経済協力を進め,アメリカ合衆国の資本が投下されて工業化が推進されていきました。
 しかし,その過程で中央アメリカの経済の中心を占めるようになったエルサルバドルと,隣国ホンジュラスとの対立が生まれます。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。
 そんな中,1970年にホンジュラスで農地改革が行われ,ホンジュラスからエルサルバドル移民が国外退去させられるのと同時期に,FIFAワールドカップの北中米カリブ予選が開催され,ホンジュラスでの対エルサルバドル戦で観客が暴徒化し死傷者が発生し,戦争へとエスカレートしました(
サッカー戦争)。
 サッカー戦争は約100時間で終わりましたが,戦後のエルサルバドルはホンジュラスからの移民の大量退去の影響から失業者にあふれ,大土地所有者への反発から左派の活動も活発化しました。1972年の大統領選挙に反対する左派ゲリラの活動が高まると,軍部と右派が結びついて全国で暴力的な行為がはびこり,1980年に国民の精神的な中心だった〈ロメロ〉大司教が暗殺されると,エルサルバドルは本格的な内戦に突入します(
エルサルバドル内戦,1980~1992)。アメリカ合衆国の〈レーガン〉政権はエルサルバドルが社会主義化することを恐れて政府側を支援しました。

 1979年にニカラグア革命が起き,サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)が,〈ソモサ〉による親米独裁政権を打倒しました。しかし,アメリカ合衆国はイランと裏取引して得た資金を流用してまで,反政府の民兵コントラを軍事支援し,サンディニスタ政権に対抗させます(この事実は1986年に発覚しイラン=コントラ事件としてスキャンダルとなりました)。サンディニスタ政権はエルサルバドル内戦にも関与し,エルサルバドルの反政府ゲリラを支援するなど,中央アメリカにおける内戦は国境を超える規模に発展していったのです。

 
1990年のニカラグア選挙においては,アメリカ合衆国の支援する〈チャモロ〉が勝ち,サンディニスタの〈オルテガ〉大統領は敗北しました。しかし,反米の声は21世紀以降高まり,〈オルテガ〉(任1985902007~)は2006年に再選を果たしています。
 一方エルサルバドルでは,1992年に国際連合による和平が実現して,PKO(国連平和維持活動「国際連合エルサルバドル監視団」)が派遣されることで,エルサルバドル内戦は終結しました。1994年に総選挙が行われると,反政府ゲリラであったFMLNは第2党となり,政府側であった国民協和同盟の〈カルデロン〉(199499)が大統領に就任し,アメリカと友好関係を結ぶ政策をとっています(2001年に通貨に米ドルを採用)。しかし,2009年にはFMLNの〈フネス〉が大統領に就任して政権交代を実現しました。
 
グアテマラでは1960年から続いていた典型的な米ソの代理戦争であるグアテマラ内戦1996年に終結しました。この間,軍事政権による人権侵害を実名で国際社会に告発した,マヤ系のインディオ女性〈リゴベルタ=メンチュウ〉は1992年にノーベル平和賞を受賞しています。



1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
 パナマの〈トリホス〉将軍の軍事政権(任1968~1981)は,アメリカ合衆国の〈カーター大統領〉(任1977~81)との新運河条約(1977)に基づき,1979年に運河地帯の主権を回復させました。1981年に〈トリホス〉が死去すると,〈ノリエガ〉(1934~2017)が最高司令官として実権を握りました。彼が,南アメリカのコロンビア(⇒1979~現在の南アメリカ コロンビア)からアメリカ合衆国に麻薬を密輸するルートに関与していたことから,アメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は1989年にパナマに軍事侵攻し,〈ノリエガ〉を逮捕しました(パナマ侵攻)。その後1999年にアメリカ合衆国は旧運河地帯から完全に撤退しています。
 2016年には,パナマもその一つであるタックス=ヘイヴンでの企業設立を手がける法律事務所(モサック=フォンセカ)から,世界各地の現旧指導者(イギリスの〈キェメロン〉首相も),富裕層,多国籍企業の役員を含む内部文書が流出しました。タックス=ヘイヴンへの資金の移動をめぐり,各国ではこの「パナマ文書」が問題化し,アイスランドの〈グンロイグソン〉首相(任2013~16)のように辞任に追い込まれた例も出ました。


1979年~現在のアメリカ  中央アメリカ 現③ベリーズ
 
ベリーズは1981年にイギリスから独立し,イギリスの〈エリザベス2世〉を王とする立憲君主国となりました。首都はベルモパン。



1979年~現在のアメリカ  カリブ海
カリブ海諸国・地域…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆イギリスからの独立が続く中,アメリカ合衆国からの介入も続く
 1979年に,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島がイギリスから独立(いずれもイギリス連邦に加盟)
 1981年には⑧
アンティグア=バーブーダがイギリスから独立(イギリス連邦に加盟)2017年にハリケーン・イルマにより国土が壊滅的な被害を受けています。
 1983年には⑦
セントクリストファー=ネイビスがイギリスから独立しています(イギリス連邦に加盟)
 いずれもかつてはサトウキビのプランテーションに依存していたためアフリカ系の民族が多く分布し,経済的には海外からの援助や観光に依存しています。

 カリブ海の諸国・地域に対するアメリカ合衆国の介入は,この時期に入っても続きます。
 ⑮
グレナダでは1974年の独立後にクーデタでソ連・キューバの支援を受けた左派政権が樹立イされていましたが,その後起きた政変を機に1983年にアメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領が軍事侵攻(グレナダ【東京H28[1]指定語句】侵攻)し,親米政権を樹立しました(これを受け1984年のロサンゼルス五輪にはソ連ほか東側諸国がボイコットしています)

 1994年にはカリブ海諸国の地域協力機構としてカリブ諸国連合(ACS)が結成されました。加盟国は⑧アンティグア・バーブーダ,②ジャマイカ,③バハマ,⑭バルバドス,①キューバ,⑩ドミニカ国,⑤ドミニカ共和国,⑮グレナダ,⑦セントクリストファー・ネーヴィス,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑯トリニダード・トバゴ,④ハイチ。以上のカリブ海諸国のほか,中央アメリカのメキシコ,ベリーズ,コスタリカ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,パナマ,グアテマラと,南アメリカのコロンビア,ガイアナ,スリナム,ベネズエラから構成されています。

 アメリカ合衆国は1992年に①キューバへの経済制裁を強化しました。困ったキューバ政府は経済開放政策へと転換。2008年には〈フィデル=カストロ〉(19262016)が引退すると,弟の〈ラウル=カストロ〉(1931)が国家元首・首相に就任しました。2015年には54年ぶりに,アメリカ合衆国との国交が回復されました(キューバの雪解け)。また,アメリカ合衆国へのメキシコや中央アメリカ,カリブ海諸国(ドミニカ共和国が多い)からの移民も増加しています。⑤プエルトリコは自治領(コモンウェルス)という位置付けで,アメリカ合衆国の州に昇格しようとするグループも国内に存在します。



1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマは,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握っていましたが,1992年以降は自由国民運動,2002年には進歩自由党,2007年に自由国民運動,2012年に自由国民運動が政権を獲得するなど,選挙による政権交代が続いています。
 なお,イギリスと間の土地租借条約(1940)によって,アメリカ合衆国はグランド・バハマ島,エルセーラ島及びサン・サルバドール島に海軍基地を保有しています
(注)
(注)「バハマ概況」在ジャマイカ日本国大使館(http://www.jamaica.emb-japan.go.jp/files/000253957.pdf)。



1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
 ハイチ(ハイティ)は1986年に独裁的な〈デュバリエ〉政権(任1971~86)が反乱により倒れた後,政情不安定になっていました。1990年に国際連合の選挙監視団の下で実施された選挙により1991年に〈アリスティド〉(任1991,93~94,94~96,2001~2004)が大統領に就任しましたが,年の軍事クーデタにより〈アリスティド〉大統領はアメリカ合衆国に亡命。1993年にアメリカ合衆国は国連のミッションの一員としてハイチの内政に介入しましたが,軍事政権が退陣を拒否したため,1994年の安保理決議に基づきアメリカ軍を主力とする多国籍軍がハイチに侵攻し,〈アリスティド〉政権に戻りました。
 しかし,2010年にマグニチュード7.0の巨大地震があり,死者30万人という空前の規模の犠牲者を出すと,国連や各国による復興支援活動が実施されました


1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 アメリカ領ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。
 
イギリス領ヴァージン諸島は,1967年に自治を獲得。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。
 観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げています。

 
イギリス領アンギラ島は,1976年に自治権が付与され,1980年にセントクリストファー=ネイビスから分離されました。議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 セントクリストファー=ネイビスは1983年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立しています。



1979年~現在のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっており,1958年に旗揚げされたマルティニーク進歩党が「自治」をスローガンに,同島に影響力を持ち続けています。
 〈エメ=セゼール〉は2008年に死去。
 世界同時不況(2008年)の影響を受け,2009年には島の経済に影響力を及ぼすフランス系と,それに比較して経済的に貧しい黒人系のルーツを持つ人々との対立も背景に,大規模なゼネ=ストが勃発しています。



1979年~現在のアメリカ  南アメリカ

南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

1979年~現在の南アメリカ  ①ブラジル

 ブラジルでは1964年から軍事政権による支配が続いており,外資の導入による経済発展が実を結んでいました。しかし,第一次石油危機後には成長率がにぶり,インフレが進行していました。先進国に対する債務も積み上がり(累積対外債務の問題),国内における貧富の差の拡大も問題でした。また,軍事政権の成立以降アマゾンの乱開発がエスカレートし,熱帯雨林の大規模な伐採や沙漠化が進行していました。
 1980年代後半には民主化の機運が高まり,1985年には21年ぶりに文民大統領が就任しました(
民政移管)。周辺諸国との関係の改善も図られ,1986年にはアルゼンチンとウルグアイとの間に共同市場を設けることが取り決められました。1989年9月にはアマゾン川流域の諸国(ベネスエラ,コロンビア,エクアドル,ブラジル,ボリビア,ガイアナ,スリナム)によってアマゾン条約が締結され,乱開発を抑制するための施策が決められました。
 ブラジルでは,軍事政権がたおれ民主化が進んだものの,当面は軍事政権時代の外国に対する積み上がった債務(
累積債務)と激化するインフレーションの収束に追われ,社会政策が追いつかずに大都市にはストリート=チルドレンがあふれ,不良住宅街(スラム)が広がるなど,貧富の差は拡大していきました。
 
1989年にはブラジルの〈コーロル〉大統領(199092)が新自由主義的な政策をとりました。1991年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイとの間に,将来的な関税の撤廃や自由化を進める南米共同市場(MERCOSUR,メルコスール)条約が締結されています。しかしインフレーションは進行し,経済成長率もマイナスを記録するなどし,1992年には辞任。
 代わって
92年に〈フランコ〉(199295)が大統領に就きましたが,ハイパー=インフレは押さえられず,貧富の差も社会問題化しました。
 
94年に就任した〈カルドーゾ〉大統領(19952003)も“ブラジル全土のために働く”をキャッチコピーとして新自由主義的な政策をとり,1995年にはアルゼンチン,ウルグアイ,パラグアイと南米南部共同市場(メルコスール)が結成されました。しかし,199899年にアジア通貨危機の影響を受けて,ブラジル通貨危機が起き,経済が混乱。こうした動きに対し,2002年に最貧困層出身の〈ルーラ〉(2003~2011)が大統領になると,“皆のための国”というキャッチコピーの下,社会民主主義的な政策をとりながら経済成長を達成し2007年からは2期目を務め,2000年代前半には新興国BRICs(注1)の一員として認められるようになりました。
 2011年にはブラジル初でブルガリア系移民の2世の女性大統領〈ルセフ〉(任2011~)が就任し,“豊かな国と貧困のない国”が掲げられました
(注2)。2014年にはサッカーW杯(ワールド=カップ),2016年にはリオ=デ=ジャネイロ五輪の開催地となり,2022年には建国200年を控えています。
(注1)BRICsとはアメリカ合衆国の証券会社ゴールドマン=サックスが2003年に発表したレポートによる新興国をまとめた造語で,当初はブラジル,ロシア,インド,中華人民共和国を指しました。
(注2)堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012,p.19。


1979年~現在の南アメリカ  ②パラグアイ
 パラグアイでは1954年以降,ブラジルの支援を受けた軍事政権の長期支配がつづいました。コロラド党の〈ストロエスネル〉(任1954~1989)は反共産主義・親アメリカ合衆国の政策をとり存続しますが,冷戦が崩壊するとアメリカ合衆国からも民主化の圧力を受け,クーデタにより失脚しました。
 暫定的な軍事政権を経て,1993年に文民の大統領が就任しましたが,その後も軍の影響力は依然として残り,クーデタ未遂など不安定な政権が続いています。
 2008年には中道左派の〈ルゴ〉(任2008~12)率いる野党連合「変革のための愛国同盟」が,貧困層向けの政策を掲げ,61年ぶりに政権交代を実現させました。しかし2012年に〈ルゴ〉大統領は弾劾され,副大統領が大統領に昇格。その後,2013年の選挙でコロラド党の〈カルテス〉(任2013~)が勝利し,外資を導入した経済発展と貧困層向けの政策を推進しています。

1979年~現在の南アメリカ  ③ウルグアイ
 ウルグアイは左派ゲリラの鎮圧作戦で軍部の影響力が高まり,1973年のクーデタで軍事政権となっていました。軍事政権では新自由主義的な経済政策がとられましたが,強権的な支配に対する国民の不満は高まり,1985年に民政に移管されました。
 ウルグアイは1995年に発足する南米南部共同市場に加盟し,アルゼンチン,プラジル,パラグアイとともに域内の関税撤廃や域外共通関税を目指すことになりました。2005年にはウルグアイ初の左派政権が誕生し,現在に至ります。元左派ゲリラの〈ホセ=ムヒカ〉(201015)は,“世界で最も貧しい大統領”として知られています。

1979年~現在の南アメリカ  ④アルゼンチン
 アルゼンチンでは1976年~83年の間,親米の軍事政権が実権を握ります。
 陸軍,海軍,空軍の総司令官は軍事評議会を形成し,〈ビデラ〉陸軍総司令官(任1976~81)が大統領に就任しました。〈ビデラ〉は左派勢力を弾圧し,官僚主導で市場経済を重視した工業化を進めました。しかし,外国製品との競争によって国内産業が打撃を受け,インフレが進み失業率も上昇,累積債務も増大する状況になると〈ビデラ〉は1981年に退陣し,〈ガルチェリ〉陸軍総司令官(任1981~82)が後を継ぎました。
 軍事政権は高まる国民の不満を国外に“ガス抜き”させようと,
1982年にイギリスが1833年以来占領していたマルビナス(英語名はフォークランド)諸島を占領。アルゼンチン人の愛国心を利用して,難局を乗り切ろうとしました。こうしてイギリス【セH27ポルトガルではない】との間に始まったのがフォークランド(マルビナス)紛争【東京H28[1]指定語句】【セH27】です(日本はConflictを英訳して紛争ということが多いですが,国家間の戦争です)。しかし軍部の誤算はイギリスの〈サッチャー〉政権が大量の軍を投入し,本気でこれを奪回しようとしたことでした。2ヶ月足らずでアルゼンチン側の敗北に終わり,戦後には国民の不満も高まり〈ガルティエリ〉は辞任。後任の〈ビニョーネ〉は1983年に民政移管に向けた大統領選を実施すると,ペロニスタ党を押さえて急進党〈アルフォンシン〉(任1983~89)が過半数の支持で当選しました。
 〈アルフォンシン〉政権は軍事政権時代の指導者に対する弾劾
(〈ビデラ〉元大統領を終身刑としました)や,1985年に民政移管していたブラジルとの経済統合に向けた話し合いなどに尽力し,累積債務とハイパー=インフレという“後始末”に追われますが,新自由主義的な経済政策が失敗して退陣。アルゼンチンの政権としては初めて,任期満了前に平和的に次の政権に交替しました。次の〈メネム〉大統領はハイパー=インフレの収束に追われ,電力・ガス・鉄道などの民営化に踏み切り,通貨改革によって物価の安定化に成功しました(1989年に4923%だった消費者物価は,1991年には84%にまで低下)。さらに南米南部共同市場(メルコスール)の設立に向けた動きや,核不拡散条約への加入(1995年)も行ったほか,アメリカ合衆国を中心とする外資を積極的に導入していきます。
 しかし2001年の金融危機をきっかけに暴動も発生し,2003年には〈キルチネル〉大統領(任2003~2007)が通貨のペソ切り下げによって経済成長を実現しました。2007年にはその夫人〈フェルナンデス〉が大統領に就任しました。

1979年~現在の南アメリカ  ⑤チリ
チリでは左派政権が軍事クーデタで倒され軍事政権が続いたが,近年は政権交代が安定化している
 チリでは,1969年に社会党と共産党が中心となって人民連合が形成されました。人民連合は,チリが帝国主義的な外国の勢力によって従属させられているとし,社会主義国家の建設を主張。アジェンデ(アイェンデ,1908~1973) 【東京H24[3]】【セH17時期(1960年代ではない)・地域,セH22】【追H9フィリピン,インド,中国ではない】【セA H30】が選挙で指導者に選ばれ,1970年に大統領に就任しました。ただちに主要産業や銀行の国有化や,徹底した農地改革を進めていきました。特に1971年にはアメリカ合衆国系の山が国有化されます。
 しかし,社会主義的な政策はアメリカ合衆国ににらまれることとなり,CIA(中央情報局)の支援する軍人〈
ピノチェト〉が1973年にクーデタ【セH22】を起こし,9月11日に〈アジェンデ〉大統領は銃殺されました。2001年の同時多発テロの9.11とは別に,この出来事を“ラテンアメリカの9.11”ということがあります。
 〈ピノチェト〉はただちに国会と政党活動を禁止し,人民連合を解散させました。代わって新自由主義的な経済学者〈フリードマン〉の学説を教科書通り実行にうつし,国が経済に関わって調整するのではなく,全面的に市場(しじょう)メカニズムを信頼する経済政策をとりました。直後には経済成長に貢献し“チリの奇跡”とうたわれましたが,国内の製造業が破壊されるとともに外国に対する債務が累積していきます。
 一方で〈ピノチェト〉軍事政権に対し民主化を求める運動も活発化し,
1988年に国民投票で不信任の決議が多数となると,1989年に民政に移管するために大統領選挙が行われ,キリスト教民主党の〈エイルウィン〉大統領(任1990~94)が就任し,次の〈フレイ〉政権(任1994~2000)とともに新自由主義的な経済政策を続けました。しかし,2000年には社会党政権への揺り戻しが起き(〈ラゴス〉政権(任2000~06)),次の〈バチェレ〉(任2006~10)は中道左派の「民主主義のための政党」(コンセルタシオン)に支持され,チリ初の女性大統領として女性の権利拡大や社会保障改革を進めるとともに,経済成長を維持しました。2010年には中道右派の〈ピニェラ〉(任2010~14)政権,2014年には中道左派の〈バチェレ〉(任2014~18)が再選,2018年に〈ピニェラ〉(任2018~)が返り咲くなど,政権交代が続いています。

1979年~現在の南アメリカ  ⑥ボリビア
先住民出身の大統領が生まれ,反米政策をとる
 ボリビアでは1982年に軍政から民政に戻り,左派の政権が続きましたが,経済危機の根本的な解決には至りましせんでした。1993年にはMNRの〈ロサーダ〉政権(任1993~97)となり,親アメリカの新自由主義政策がとられました。しかし先住民による支持は得られず,国内の天然ガスをめぐる問題で辞任。〈バンセル〉(任1971~78,1997~2001)もアメリカの支援を受けて,かつて自身が増産を奨励したコカの栽培をやめさせる作戦が農民による抵抗運動を招き,水道会社の民営化をめぐる問題も合わさって辞任しました。その後も短命な政権が続いた後,先住民の指導者であった〈モラレス〉(任2006~)がボリビア初の先住民の大統領に就任,長期政権を実現させました。〈モラレス〉は反米,反自由主義,反グローバリゼーションの立場をとり,天然資源の国有化が宣言されました。

1979年~現在の南アメリカ  ⑦ペルー
 
ペルーでは親米の〈モラレス〉政権(任1975~80)が成立しました。しかし国際収支が悪化して国家財政がIMFの管理下に置かれる中,民政への復帰が目指されるようになっていきました。1980年に民政に移管されましたが経済的な危機は続き,農村のゲリラ(山岳部の学生組織を母体とするセンデーロ=ルミノソ)による活動も活発化していきました。1985年には左派のアプラ(APRA)としては初の大統領〈ガルシア〉(任1985~1990)が就任しましたが,インフレは進まずゲリラ活動の拡大を押さえることもできず社会不安は高まっていきます。
 そんな中,都市の貧困層を中心に支持を集めた日系の〈
アルベルト=フジモリ〉(任1990~1995)が綺羅星のごとく現れ,軍部の支持を受けて強権を発動し,1992年には憲法を停止,議会を解散し,インフレを収束させるとともにゲリラ活動(センデーロ=ルミノソとトゥパク=アマル革命運動)を掃討することに成功。1995年には再選を果たしました。しかし1996年に在ペルー日本大使公邸で人質事件が発生し,実行したトゥパク=アマル革命運動のメンバーを全員殺害することで解決しました。しかし二期目の〈フジモリ〉には強権が目立つようになり,2000年に三選したものの2001年に辞意を表明し失脚しました。

1979年~現在の南アメリカ  ⑧エクアドル
 1979年に民政移管が実現したエクアドルでは,不安定な政権が続きました。2006年には〈コレア〉大統領(任2007~2017)が反米主義を掲げて国民の幅広い任期を得て,ベネスエラの〈チャベス〉政権とも友好関係を結びました。2008年にはコロンビア軍が,国内の左派ゲリラであるFARCの掃討のために,エクアドル国境を越えたことから,コロンビア・エクアドルの関係悪化し,ベネズエラもコロンビアを批判。緊張が走りましたが,米州機構が仲介して戦争には発展しませんでした。2017年からは〈モレノ〉(任2017~)が大統領を務めています。

1979年~現在の南アメリカ  ⑨コロンビア
 1964年から始まった左派ゲリラと政府とのコロンビア内戦は,2017年まで続き,コロンビアの社会・経済を停滞させる大きな原因となります。
 有力な左派ゲリラとして,
コロンビア革命軍(FARC)(2017年からは合法的な政党となっています)や4月19日運動(M-19)があげられます。
 政府は左派ゲリラの活動に対して戒厳令をしいて,疑いのある人物を次々と捕まえていきました。劣勢に立たされた4月19日運動は1985年に最高裁を占拠して,大統領に直接交渉を訴えましたが,政府は最高裁長官や人質を含む首謀者を殺害しています。この事件のウラにはコロンビアの麻薬カルテルのドン〈パブロ=エスコバル〉(1949~1993)が関与していたとされます。政府はアメリカ合衆国の協力の下,1989年に〈エスコバル〉のカルテルに対する全面戦争を展開しますが,麻薬取締りの強化をうたった大統領候補が暗殺された後,1990年には〈ガビリア〉大統領(任1990~94)が挙国一致内閣を成立させました。
 その後も,麻薬カルテルと国内の左派ゲリラの活動は続き,2002年に大統領となった〈ウリベ〉(任2002~2010)は左派ゲリラの鎮圧を強化します。しかし次の〈サントス〉大統領(任2014~)はFARCとの交渉を始め,2016年に和平合意に達し同年のノーベル平和賞を受賞しました。


1979年~現在の南アメリカ  ⑩ベネスエラ
 1974年に民主行動党の〈ペレス〉政権(位1974~79,89~93)が成立していたベネスエラでは,石油危機後の原油価格の高騰により,石油輸出に依存した経済体制をつくりあげていきました。その一方で1980年代に入ると原油価格は低迷し,輸出に依存するあまり工業化が遅れ,累積債務は積み上がり貧富の差も広がる中,1989年に暴動が起き,クーデタ未遂事件も起きると再任していた〈ペレス〉は辞任しました。後任のキリスト教民主党出身の〈カルデラ〉は大統領に再任しますが,その後1999年に〈チャベス〉が大統領に就任すると,貧困層向けの政策で任期を博しました。〈チャベス〉(19992013)は新自由主義やアメリカ中心のグローバル化への反発をハッキリと掲げ,アメリカ合衆国の〈ジョージ=W=ブッシュ〉政権(任2001~2009)のとった単独行動主義(ユニラテラリズム)に異を唱えました。同年には国名を「ベネズエラ=ボリバル共和国」に改称,独立の父〈シモン=ボリバル〉からとったものです。しかし2013年に〈チャベス〉が死去すると,〈マドゥーロ〉大統領が後を継ぎますが,2015年に野党の右派連合が総選挙で勝利するなど,政権運営が苦しくなる中,野党は大統領の罷免を問う国民投票を実施しようとしました。しかし,その運営に不正がみつかると,投票は延期され,2017年には反政府デモが活発化する中,〈マドゥーロ〉大統領は新憲法制定を目指し制憲議会の選挙を実施するなど,国論が大きく割れています。





1979年~現在のオセアニア

1979年~現在のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 ポリネシアの最東端の①
イースター島(ポリネシア語ではラパ=ヌイ)は,1888年以来チリ領です。モアイ像が世界文化遺産となっており観光客でにぎわいますが,近年では住民による自治を求める運動もあります。1995年にはモアイ像などのラパ=ヌイ文化が,「ラパ=ヌイ国立公園」としてユネスコの世界文化遺産に登録されました。
 2007年の改憲ではフェルナンデス諸島とともに,チリの「特別地域」に指定されています。

 ①
ピトケアン諸島はイギリスの海外領土で,18世紀末にイギリス海軍の船舶(バウンティ号)で艦長に対する反乱を起こした人々の子孫がピトケアン島に暮らしています。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
 西経120~150度付近の広範囲に広がる島々()は,②フランス領ポリネシアとして,フランスの海外領邦として自治権が認められています。このうちトゥアモトゥ諸島のムルロア環礁などでは,1996年までフランスによる核実験が実施され,国際的な非難を浴びています。
(注)ソシエテ諸島(タヒチ島など),オーストラル諸島(トゥブアイ諸島など),トゥアモトゥ諸島(ムルロア環礁など),ガンビエ諸島,マルキーズ(マルケサス)諸島により構成されています。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 ③
クック諸島は,1888年以降イギリスに,1901年以降はニュージーランドにより支配を受けていました。1946年には立法評議会が設けられ,1964年にニュージーランド国会によって憲法が制定されると,翌1965年に自治権を獲得し,ニュージーランドとの自由連合を形成しました。自由連合というのは,防衛と一部の外交をニュージーランドに担当してもらう国家関係のことです。しかし,1973年にはクック諸島がニュージーランドの合意を得ずに独立する権利が認められ,2001年にはクック諸島は「自由連合」の関係を終わらせて,独立国家「クック諸島」となりました。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 ④
ニウエは,クック諸島の一部として1901年以降ニュージーランドにより支配を受けていました。しかし,1960年にはニウエ議会が設けられ,1974年には自治権を獲得し,ニュージーランドと自由連合の関係を結びました。イギリスの〈エリザベス〉女王を元首とする立憲君主制をとっています。
 クック諸島もニウエも国土が狭く,ニュージーランドへの出稼ぎ労働者も多く,援助や海外からの送金により経済を成り立たせようとしています。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 ⑤
ニュージーランドは,イギリスとの経済関係を維持し福祉国家を建設しますが,1973年にイギリスがECに加盟したことで,ニュージーランドからイギリスへの農産物輸出は不振となりました。
 1984年に労働党の〈
ロンギ〉(任1984~89)が首相に就任すると,新自由主義的な政策(国営企業の民営化)や大胆な規制緩和を行い,成果を挙げました。1987年にはニュージーランド非核地域・軍縮・軍備管理法を制定しています。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 ⑥トンガの
トンガ王国は,1970年にイギリスの保護国から独立し,イギリス連邦に加盟しました。〈トゥポウ4世〉(位1965~2006)の長期にわたる在位を経て,〈トゥポウ5世〉(位2006~2012),〈トゥポウ6世〉(位2012~)に引き継がれています。国王が強い権力を持つ国政に対し,2000年代には反政府運動も起き,2006年には史上初の平民代表の首相が就任しています。
 なお,1987年以来,日本の援助によりカボチャ栽培が始まり,現在では日本を主要輸出先として盛んに栽培されています
(注)
(注)国立民族学博物館 森本利恵「「コラム」:日本かぼちゃのトンガ流通 誰の口に入る?トンガ産カボチャの行方」http://www.minpaku.ac.jp/research/education/university/student/project/gourmet/column/morimoto



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑦サモア,アメリカ領サモア
 ⑦サモアの西部は1945年に国際連合の信託統治領となっていましたが,1965年に西サモアとして独立。1970年にイギリス連邦に加盟しました。1997年には
サモア独立国と改名しています。ニュージーランドと友好関係を結び,軍事を委託しています。一方,サモア独立国の南東はアメリカ領サモアで,1967年には自治政府ができていますが,正式な自治法は制定されていません。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 ⑧ニュージーランド領トケラウは1948年以降ニュージーランド領となっています。ニュージーランドとの自由連合を結ぶ動きもあります。



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 ⑨
ツバルは,1892年にギルバート=エリス諸島としてイギリスの保護領になり,1915年には植民地となっていました。
 しかし,1975年にギルバート諸島(のちの
キリバス共和国の一部)と分離し,ツバルと改称し,1978年に独立しました。イギリスの〈エリザベス2世〉を元首とする立憲君主制であり,島には総督が派遣されています。ツバルを構成する8つの主な島々には首長がおり,そのうちのフォンガファレ島に政府などの首都機能が集まっています。資源に乏しいため,財源の多くは海外からの援助,ツバルの経済水域での入漁料と外国漁船への出稼ぎ船員からの海外送金に依存しています。2000年には国連に加盟し,地球温暖化にともなう海面上昇の恐れを争点に,国際社会に二酸化炭素排出削減などを訴える積極的な外交活動をしています。1998年からは日本のNGOツバルオーバービューがツバルでの支援活動を行っています



1979年~現在のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国 ハワイ
 ⑩ハワイは,1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアー客が増加し,リゾート開発が進む一方でハワイの伝統文化の変容が加速していきました。



1979年~現在のオセアニア  オーストラリア
白豪主義から,多文化主義のオーストラリアへ
 オーストラリアは先住民や白人ではない人々に対する差別的な政策(白豪主義)を転換し,1970年代以降はアジア系の移民や世界各地の難民を受け入れ,多文化主義(マルチ=カルチュラリズム)の国づくりを推進していきました。

 オーストラリアでは1983年から1996年まで労働党政権が続きました。
 1973年にはシドニーに特徴的なデザインで知られるオペラハウスが完成しています(◆世界文化遺産「シドニーのオペラハウス」,2007。デンマーク人〈ヨーン=ウツソン〉(1918~2008)の作品)。
 
1993年は「世界先住民の年」とされ,オーストラリアでは先住民アボリジナルの権利回復が推進されていきます。

 その後,自由党の〈ハワード〉政権(任1996~2004)は親米政策をとり,新自由主義的な経済政策をとりました。その後,2007年~2013年までは労働党政権に戻り,〈ラッド〉首相(任2007~10,13)は2008年に先住民の児童(いわゆる“盗まれた世代”)を強制収容所に送ったかつての政策(1869~1969)について謝罪する演説を公式に行っています。
2013年からは自由党が政権を担当しています。



1979年~現在のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア

1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現①フィジー

 1970年にイギリスから独立した①
フィジーでは,メラネシア系のフィジー人が過半数を占めますが,1879年にサトウキビのプランテーションにおける導入が始まったインド系の移民の子孫も4割弱の人口を占めており,両者の政治的な対立が生じました。
 1987年にインド系の閣僚が半数を占める連立政権ができると,軍によるクーデタが起きてイギリス連邦から離脱し,フィジー共和国となりました。
 しかし1998年にはイギリス連邦に再加盟し国名をフィジー
諸島共和国に変更。インド系とフィジー系の国民の融和が試みられ,1999年にはインド系の首相が就任しました。しかし2000年にフィジー系の武装グループが国会を占拠し非常事態宣言が出され,暫定政府を経て2001年の占拠でフィジー系の〈ガラセ〉(暫定首相任2000~2001,首相任2001~2006)が首相に就任しました。
 〈ガラセ〉はフィジー系とインド系の対立を和らげようとしましたが,2006年には国会占拠事件をめぐり強硬派でフィジー系の〈バイニマラマ〉軍司令官(首相任2007~)が無血クーデタを起こし,2007年に暫定政権を樹立し,総選挙を実施しないまま実権を握り続けました。2009年にイギリス連邦の資格停止,2011年に国名はフィジー共和国に戻されています。
 その後,2012年に〈バイニマラマ〉は態度を軟化させ,2013年には新憲法を公布しました。2014年の総選挙ではフィジーファースト(第一)党を率いる〈バイニマラマ〉首相が再任されましたが,閣僚にはインド系や混血の政治家も参加するようになっています。



1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現②フランス領ニューカレドニア
 
ニューカレドニア1998年のフランスとの協定で自治を行った後,独立を問う国民投票が行われることになりました。



1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 バヌアツは,英仏共同統治領ニューヘブリディーズ諸島として,イギリスとフランスの共同統治下であったため,イギリス系(派;英語話者)住民とフランス系(派;フランス語話者)住民の対立が長く続いていました。
 結局,1980年にイギリス連邦内の共和国として独立することに。
 首相に就任したのはメラネシア社会主義を掲げる〈ウォルター=リニ〉(任19801991)でした。彼はソ連の支援を受け,西側諸国の対立していたリビアとも国交を築き,核実験への反対,ニューカレドニア独立運動の支持など,独自色を強めます。しかし1991年にソ連の権威の失墜を背景に,解任されました。
 主力産業は観光とコプラの生産で,国家財政は海外援助に依存しています。2015年にはサイクロン・パムにより大きな被害を受けています。



1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 1976年に自治を獲得していたソロモン諸島は,1978年にイギリス連邦内の立憲君主国として独立しました。元首はイギリス国王です。
 1997年の総選挙実施後,1998年にはガダルカナル島の民族グループがと隣の島であるマライタ島民族グループとの抗争が激化。しかし,ソロモン諸島には軍隊がありません(
軍隊を有さない国家)。
 2000年の和平締結後,国際選挙監視団の下で総選挙がおこなわれましたが,秩序回復が困難となったため,オーストラリアとニュージーランドが太平洋諸島フォーラム(PIF)加盟国の警察・軍隊をソロモン地域支援ミッション(RAMSI)として派遣。2006年の総選挙後も政情は混乱し,短命な政権が続いています。



1979年~現在のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア

 1975年にパプアニューギニア
独立国として独立。イギリス連邦内の立憲君主国であり,元首はイギリス国王です。

 1980年代にはパプアニューギニア北東にある
ブーゲンビル島で分離独立運動が勃発。この島にある銅山の利権をオーストラリアが保有していることを背景としています。1988年以来,ブーゲンビル革命軍の武装闘争が続きますが,1998年にはオーストラリアとニュージーランドが仲介して,政府と停戦合意。ブーゲンビル島では自治が認められており,独立に向けた住民投票も計画されています。

 また,ニューギニア島西半の「西パプア」がインドネシア領となっていることも,長年の火種となっていましたが,パプアニューギニアは経済的な国益を優先し,ASEAN(東南アジア諸国連合)への加盟を目指しています。
 近年は,インドネシアの歓心を買うため,西パプアの独立を支持しない方針をとるようにもなっています。東南アジアとオセアニアの“狭間”に立つパプアニューギニアは,太平洋諸島フォーラム(PIF)でも強い発言力を持っています。





1979年~現在のオセアニア ミクロネシア
小国島嶼国の協力関係がすすむ
ミクロネシア
…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 ②
キリバスはギルバート諸島やフェニックス諸島など,広い範囲にわたる島々により構成された島国です。1892年より,南方のエリス諸島(のちのツバル)とともにギルバート諸島がイギリスの保護領となり,1916年からはオーシャン島とともにギルバート=エリス諸島植民地となり,次第に周辺の島々が編入されていきました。1971年に自治が認められ,1978年にはエリス諸島がツバルとして分離独立,翌年にはギルバート諸島を中心に1979年にはイギリス連邦内のキリバス共和国として独立しました。
 ③
ナウルは,1947年以降イギリス,オーストラリア,ニュージーランドによる信託統治領となっていましたが,1968年にイギリス連邦の中の共和国として独立。鳥の糞が降り積もることにより形成されたリン鉱石の採掘により,高い生活水準を誇っていました。しかし1990年代になりリン鉱石の採掘量は激減し失業率がきわめて高い状態となっており,現在は国家財政の多くを海外からの援助に依存しています。

 アメリカ合衆国が信託統治していたミクロネシアの地域は,
1986年に①マーシャル諸島と④ミクロネシア連邦として独立しました。ただし,この2カ国は対等な関係を結びながら,外交や国防をアメリカ軍が担うという「自由連合」の形式をとっています(1960年に国際連合の総会で決議された「植民地独立付与宣言」に基づく国家間の関係です)
 ⑤パラオでは1981年に憲法が発布され,自治政府が成立しました。自治政府はアメリカ合衆国との間に自由連合の関係を結ぶ方針を進め,1993年の住民投票で承認され,1994年にアメリカ合衆国から独立しました。
 ⑦北マリアナ諸島には,サイパン島,ティニアン島などが含まれ,1947年からアメリカ合衆国の信託統治領となっていました。その後1970年代に自治権を獲得し,アメリカ合衆国の市民権を持つ「コモンウェルス」の一つとなっていました。1978年には憲法が制定されています。





1979年~現在の中央ユーラシア

中央ユーラシアの自立と再編がすすむ
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区

「上海協力機構」により中国の影響も強まる
 ソ連から離脱した中央アジア諸国は政情は不安定であり,ロシアの影響力の低さを懸念した中華人民共和国は,上海協力機構により影響を及ぼそうとしています。中華人民共和国にとって中央アジアは天然資源の供給地としても重要です。
 前身の「上海ファイブ」は
中華人民共和国ロシアカザフスタンキルギスタジキスタン。これらを原加盟国として,2001年にウズベキスタン,2017年にはインドとパキスタンが加盟しています。

1979年~現在の中央アジア 現①キルギス
 
キルギスはキルギス・ソビエト社会主義共和国として,ソ連を構成していました。しかし,ソ連末期の1990年に〈アカーエフ〉が大統領(19902005)に就任し,同年12月には「キルギスタン共和国」と改称し,翌年1991年8月末には独立を宣言します。199112月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。

 しかし次第に〈アカーエフ〉の強権に対するに批判が強まり,2005年に反政府運動にともない辞任しました(いわゆる“
チューリップ革命)。国内にはウズベク人が少数派として居住しており,多数派のキルギス人との衝突も起きています。


1979年~現在の中央アジア 現②タジキスタン
 タジク=ソヴィエト社会主義共和国は1990年8月にソ連に対して主権を宣言し,翌1991年8月末に「タジキスタン共和国」に国名を変更し9月に独立を宣言しました。199112月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。

 しかし,政府にとどまった共産党と野党のイスラーム政党との間でタジキスタン内戦となり,多数の犠牲者と難民を生み出しました。1994年からは国際連合タジキスタン監視団(UNMOT)が派遣され,1997年に国際連合が介入して停戦が合意されました。内戦中に選出された〈ラフモン〉(1994)による強権的な政権が続いています。

 2015年には内務省特殊部隊の元司令官〈ハリモフ〉が,イスラーム国への参加を表明するなど,暴力的なイスラーム主義への接近も懸念されています。


1979年~現在の中央アジア 現③ウズベキスタン
 ウズベク=ソビエト社会主義共和国では,1990年3月に〈カリーモフ〉が大統領に就任し,同年6月に主権が宣言され,翌1991年8月末に「ウズベキスタン共和国」として独立が宣言されました。199112月にソ連が崩壊すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しています。〈カリーモフ〉(19912016)2016年に亡くなると,〈ミルジヨーエフ〉大統領が後任に選出されています。
 暴力的なうイスラーム組織,イスラム運動ウズベキスタン(IMU)が,イスラーム国との連携を表明しています。


1979年~現在の中央アジア 現④トルクメニスタン
 トルクメン=ソビエト社会主義共和国は,1990年8月に主権を宣言し,10月に〈ニヤゾフ〉(19902006)が大統領に選出されました。

 199112月にソ連が崩壊すると,トルクメニスタンは新たに創設された
独立国家共同体(CIS)に加盟したものの,1995年に「永世中立国」となり,2005年には準加盟国に移行しています。〈ニヤゾフ〉が2006年に死去すると,〈ベルディムハメドフ〉(2006)がその強権的な支配を引継いでいます。


1979年~現在の中央アジア 現⑤カザフスタン
 
カザフ=ソビエト社会主義共和国の第一書記であった〈ナザルバエフ〉は,1990年4月に大統領に就任,199110月に主権を宣言し,12月にカザフスタン共和国として独立を宣言しました。

 当初はウクライナ,ベラルーシ,ロシアの間でソ連解体後の構想が進められていましたが,カザフスタンはこれを批判し,199112月にアルマ=アタでバルト三国を除くすべてのソ連加盟国を集め,ソ連の解体と独立国家共同体(CIS)の創設を決めました(
アルマ=アタ宣言)。こうして,199112月末にソ連が解体すると,独立国家共同体(CIS)に加盟しました。

 その後〈ナザルバエフ〉大統領(共和国大統領 任1991)の長期政権が続いています。



1979年~現在の中央アジア ⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 新疆ウイグル自治区には中華人民共和国からの漢人の植民がすすんでいます。これに対し,かつてこの地を実効支配していた東トルキスタン亡命政府がアメリカ合衆国に,これとは別に世界ウイグル会議がドイツを拠点に独立運動を起こしています。
 また,東トルキスタン=イスラム運動(ETIM)の活動も活発化し,暴力的なイスラームの国際テロ組織アル=カーイダやイスラーム国との連携も表明されています。
 2009年には自治区の主都ウルムチでウイグル人への不当な扱いを批判する騒乱が起きますが,多くの死傷者を出し鎮圧されました(
2009年ウイグル騒乱)。





1979年~現在のアジア

1979年~現在のアジア  東南アジア・東アジア
◆社会主義国でも市場経済が導入され,「開発独裁」により経済成長を果たす国・地域も現れる

 
中華人民共和国は,1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,党主席の〈華国鋒〉(かこくほう,19212008) 【慶商A H30記】プロレタリア文化大革命(196676)を収束させます。「四つの現代化(農業・工業・国防・科学技術)を重視。
 しかし,1981年6月に中国共産党は,〈毛沢東〉を「功績第一,誤り第二」として,プロレタリア文化大革命の間違いを認めました。こうして〈毛沢東〉派の〈華国鋒〉は降格され,代わって〈
鄧小平(とうしょうへい,トンシャオピン,190497) 【東京H28[1]指定語句】 が実権を握ります。
 しかし〈鄧小平〉は自分が全面に出てくることはしません。党主席は〈胡耀邦〉に与え,自分は党中央軍事委員会主席に就任しました。“キングメーカー”と呼ばれるゆえんです。

 〈毛沢東〉が理想主義とすると,彼はとても現実主義的な人物。
 「市場経済的な要素を含めれば,みんなやる気が出る。やる気が出れば,国家の富は増える。そうすれば,国全体がうるおって,貧しい人にも良い影響を与える」と唱えます(
先富論)。
 
1980年代から改革開放【早法H23[5]指定語句】政策をおしすすめました。ついに中国も,市場経済を部分的に導入することになったのです。人民公社を解体し【追H9天安門事件により解体されたわけではない】,農家請負制(生産責任制度)を導入して「余った分」は自由に市場で売れるようにして,農民のやる気を高めました。国営だった企業にも,同じように自由に工夫できる権限を与えました。また,経済特区には外資系企業を誘致しました。彼自身は1989年以降は公式に表舞台の役職にはつかず実働部隊を指名したため,“キングメーカー”の異名も持ちます。彼に可愛がられて後継に指名されたのが“第三世代”の〈江沢民(こうたくみん)〉(1926~)(後任として党中央軍事委員会主席に就任します),“第四世代”〈胡錦濤(こきんとう)〉(1942~)(共産主義青年団に属し1992年に鄧小平に後継に指名される)です。
 日本は
197374年の第一次石油危機の影響を受け「低成長」といわれる時代に入りました。資源が高騰した分,省エネルギー技術を発展させるなど,新たな技術革新も続けられました。
 日本企業が,韓国台湾シンガポール【セH14】香港などに海外進出を初めていったのもこのころで,これらの地域は新興工業経済地域(NIEs,(アジア)ニーズ【セH14】)と呼ばれました。

 1985年にプラザ合意によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
 そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といった
アジアNIEsの資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
 この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN…といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,「
雁行(がんこう)的発展」ということがあります。

 ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方
(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制は開発独裁といい,各国で様々な方式がとられていきました。

 冷戦終結の影響は,東アジア・東南アジアにも波及しました。
 すでに
1989年には,アジア太平洋経済協力(APEC,エイペック) 【セH18ASEANから改組されていない,セH25オーストラリアが加盟していることを問う,セH29試行 白豪主義撤廃はAPEC開催の影響ではない】がはじまっていました。東南アジアでは東南アジア諸国連合(ASEAN)が中心になって地域経済の統合がすすめられました。2005年に第一回東アジア首脳会議が開かれ,2015年にはASEAN経済共同体(AEC)が成立しました。
 アメリカ合衆国は,中国との対決の必要性から,環太平洋経済連携協定(TPP)を推進し,太平洋をとりかこむ地域で,経済を自由化させようとしています。
 これに対し中華人民共和国はユーラシア大陸全域をスケールとした新たな経済圏の建設を唱え,2014年には
アジアインフラ投資銀行(AIIB)を設立するとともに,特に発展途上国や新興国の政府との政治・経済関係を密にしています。中国政府は,自国の政治・経済体制を守るため,他国に対し「これだけは譲ることはできない」という利益のことを「核心的利益」と呼び,その実現のために中央アジアへの影響力の拡大や南シナ海を含む太平洋やインド洋への海洋進出を進めています。アジアインフラ投資銀行には多くの新興国が参加し,ヨーロッパからもドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどが参加していますが,日本とアメリカ合衆国は参加を見送っています。

 経済が自由化されて,商品や資本が自由に国境を超えるようになっていけば,真っ先に影響を受けるのは伝統的な産業です。新しい文化がよそから入ってきたり,従来の共同体が環境破壊や資本の論理でつぶされていく事態も起こります。
グローバル化を前に「どのような国づくりを進めるべきか」という議論は,東アジア・東南アジア各地でますます大きな政治上の争点となっていくのです。
 なお,2003年には重症急性呼吸器症候群(SARS,サーズ)という感染症が,中国を出発点としてヴェトナム,シンガポール,台湾など東アジア・東南アジア各地に拡大し,各国政府は国境を越えた連携の必要性を痛感しました。その後も,鳥インフルエンザや新型インフルエンザなどの感染症の国境を越えた拡大事例は続いています。



1979年~現在のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)

1979年~現在のアジア  東アジア 現①日本
 アメリカ合衆国との同盟関係を維持する国内外の政策を続け,外資の導入も進んだ
 
〈大平〉首相の急死後の総選挙で,自民党は圧倒的多数を確保し,〈鈴木善幸〉内閣(すずきぜんこう,任1980~82)となります。1982年には〈中曽根康弘〉(なかそねやすひろ,任1982~87)が“戦後政治の総決算”を唱えて首相に就任しました。
 アメリカ合衆国は,1973年の第一次オイル=ショックや1979年のイラン革命による第二次オイル=ショック,1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などを受け,石油の安定供給やソ連対策のためには,中東の安定が不可欠と考え,米軍の配置立て直しに移ります。そのために重視されていったのが,日本との同盟関係です。1981年に〈鈴木善幸〉首相は日米関係を「同盟関係」と表現。1983年に〈中曽根康弘〉(なかそねやすひろ,任1982~87)首相は「運命共同体」と呼びました。また,1970年代末より,在日米軍に対する支出「思いやり予算」は年々増加し,日米共同作戦計画の立案も進みました。
 〈中曽根〉首相は,国の支出を減らして「小さい政府」を目指し,民間の経済活動を活性化させようとする新自由主義的な政策を進めていきました。例えば,医療負担の引き上げや,国鉄・電電公社・専売公社などの民営化です。オイル=ショック後の低成長に対応して,終身雇用制度と年功序列制度も揺らぎ,パート労働者が増え,1985年には労働者派遣法が成立し,派遣労働者が増加していきました。
 オイル=ショック後に,産油国ではない発展途上国では債務が拡大したため,日本からの輸入額が減少しました。代わりの輸出先としてEC(ヨーロッパ共同体)やアメリカ合衆国への自動車や電化製品の輸出量が増えるとともに,貿易摩擦問題が起こりました。アメリカ合衆国は次第に閉鎖的な日本市場への批判を強めていき,日米構造協議(1989~90),日米包括経済協議(1993),年次改革要望書(1994~2008)などで政府に対する市場開放を要求するようになっていきました。
 そんな中,1989年にはベルリンの壁が崩壊し,1991年にソ連邦が解体され,米ソの冷戦は終結しました。
 冷戦が終結すると,アメリカ合衆国がその圧倒的な軍事力により国際政治を支配する体制となりました。1991年に始まる湾岸戦争【セH26時期】では,日本は多国籍軍に130億ドルを支援しました。政府は戦後,海上自衛隊の掃海艇をペルシア湾に派遣しようとしましたが,実現はしませんでした。
 アメリカ合衆国は,日本の自衛隊の海外派遣を求め,1992年に成立したPKO(国連平和維持活動)協力法に基づく派遣がとられました。その最初の例が,1992年のカンボジアPKOでした。1998年には〈橋本龍太郎〉首相(はしもとりゅうたろう,任1996~98)が「日米安全保障共同宣言」で日米同盟の範囲を「地球的規模」に広げると表現しました。
 冷戦期には,ソ連への対抗が最重要戦略でしたが,中近東(北アフリカ~西アジア)~南アジア~東南アジア~台湾~朝鮮半島を結ぶ「不安定な弧」と命名されたラインが,アメリカ合衆国の防衛線として重要視されるようになったことが原因です。こうした経緯から,1999年に周辺事態法が成立し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件を受け,〈小泉純一郎〉内閣は特別措置法により海上自衛隊をインド洋に派遣し後方支援しました。また,2003年には特別措置法により,イラク戦争後の復興支援活動のため,陸上自衛隊がイラクに派遣され,市民に対する給水活動等に従事しました。また,米軍の機動力を向上させるため,各地で日本の自衛隊と米在日軍の両司令部の統合や,基地の移転が予定されています。また,自衛隊を米軍とともに戦闘に参加できるようにするには,憲法9条の改正が必要であり,アメリカ合衆国にとっての課題ともなっています。
 
 冷戦終結にともない,55年体制が崩壊し,政党の大規模な再編が起きました。しかし,〈細川護熙〉内閣(ほそかわもりひろ)で内紛が起きると,自民党は1994年に日本社会党〈村山富市〉(むらやまとみいち)との連立政権(1994~96)を組んで延命しました。
 1995年には都市直下型地震であった
阪神淡路大震災への対応が影響して〈村山〉内閣は退陣。同年には,インド思想の影響を受けた宗教教団オウム真理教(1984成立1987改称)によるテロリズム(地下鉄サリン事件)が発生するなど,世相に暗い影が立ち込めます。
 代わって1996年に成立した〈
橋本龍太郎〉内閣(はしもとりゅうたろう,1996~98)は,1998年に消費税を5%に増税し,平成不況が長期化する一因をもたらします。同時に〈橋本〉首相は「金融ビッグバン」を進め,銀行・証券・信託・保険の業務を,持ち株会社により統合することが可能になりました(金融システム改革法)

 その後の自民党は支持率が低迷しますが,公明党等との連立政権を組んで議席を確保します。
2001年に就任した〈小泉純一郎〉首相(こいずみじゅんいちろう,任2001~06)は,郵政民営化などの新自由主義的な政策をとり,自民党支持者を増加させました。〈橋本〉内閣の「金融ビッグバン」も〈小泉〉内閣の「郵政民営化」も,アメリカ合衆国の金融資本による,日本に対する市場開放要求が背景にあります。

 2009年には「55年体制」以降はじめての本格的な政権交代が成り,民主党政権
(2009~12,〈鳩山由紀夫〉政権(民主・社民(~2010.5)・国民新連立,任2009~2010),〈菅直人〉政権(民主・国民新連立,任2010~2011),〈野田佳彦〉政権(民主・国民新連立,任2011~2012))が政権を担当しました。〈鳩山〉首相は普天間基地の県外移設の公約を撤回して退陣し,次の〈菅直人〉首相のときには2011年3月の東日本大震災やそれにともなう東京電力福島第一原発事故を経て,同年9月に〈野田〉首相が後任となりましたが,基本政策でゆきづまり国民の支持を失います。
 そんな中,2012年の総選挙では,自由民主党の〈
安倍晋三〉(あべしんぞう,任2006~2007,2012~)が圧勝して首相に就任し,公明党との連立政権を組み長期政権を実現しています。〈安倍〉首相は,「戦後レジーム」の転換をめざして改憲路線をすすめるとともに,2013年2月に金融緩和・財政出動・成長戦略を“3本の矢”とする「アベノミクス」を経済政策として打ち出しました。同年3月には環太平洋経済連携協定(TPP)への参加を表明,11月に国家安全保障会議(NSC)設置法・12月に特定秘密保護法を成立させています。
 2014年4月には消費税を8%に引き上げ,原発の再稼働を方針とするエネルギー基本計画を閣議決定。同年7月には集団的自衛権の行使の容認を閣議決定。11月には2015年10月の消費税の10%引き上げ先送りを理由として衆議院を解散し,翌12月に首相に再任しました。2016年6月には18歳選挙権を認める法改正,9月には集団的自衛権の行使を容認する安保法を成立させています。12月に慰安婦問題をめぐる日韓合意が成立。2016年5月には伊勢志摩サミットが開催され,アメリカ合衆国の〈オバマ〉大統領が現職のアメリカ合衆国大統領としては初めて被爆地の広島を訪問しました。12月にはロシアの〈プーチン〉大統領が訪日し日露首脳会談を行い,同月にはハワイの真珠湾を〈オバマ〉大統領とともに訪問しました。2017年6月には,前年8月に生前退位の意向を表明していた〈今上天皇〉(1933~,位1989~)について,一代限りの生前退位を認める特例法を成立。同月には改正組織犯罪処罰法(テロ等準備罪法)を成立させています。



1979年~現在のアジア  東アジア 現②台湾
 台湾では1987年に1949年から続いていた戒厳令(かいげんれい)が解除され,本省人(ほんしょうじん,台湾出身者)としてはじめて〈李登輝(リートンフイ,りとうき,在任19882000)が台湾の総統【早国H30国民党の総裁ではない(出題ミス)】に就任し,民主化をすすめました【セH29
 
2000年には民進党の〈陳水扁(チェンショイピエン,ちんすいへん,在任20002008)が総統となり,1947年から続いていた国民党政権にピリオドが打たれました。中華人民共和国からの「独立」論が強まりましたが,2008年に中立的な立場をとった国民党の〈馬英九〉(マーインチウ,ばえいきゅう,2008~2016)が総統に当選すると弱まりました。〈馬〉は「三不(サンプー)」(台湾と中国を統一させない,台湾を独立させない,武力を行使しない)をスローガンに掲げています。2016年には民主進歩党の〈蔡英文〉(ツァイ=インウェン,さい えいぶん,2016~)が選出され政権が交替しましたが,彼女も台湾の独立は主張せず中立的な立場に立っています。



1979年~現在の東アジア  ③中華人民共和国
 1989年に東欧革命に触発されて起きた民主化デモは,軍隊によって鎮圧されました((第2次)天安門事件) 【セH22】【追H9これにより人民公社が解体されたわけではない】【セA H30平壌ではない】【立教文H28記】【※センター試験では出題されていないことはないが頻度低い。政治的配慮か?】
 
1992年に〈鄧小平〉は「南巡講話」を発表し,市場経済を社会主義に利用することを正式に決定しました。これを社会主義市場経済といいます。これ以降,中国は外資系企業を誘致して,低賃金で安価な製品(雑貨や衣料品。のち電化製品や自動車)を輸出するようになりました。
 〈鄧小平〉の没(1997)後は,〈江沢民(こうたくみん,チャン=ツォミン)(19932003)がさらなる経済発展をすすめていき,かつてイギリスが19世紀にうたわれた「世界の工場」と称されるようになりました。1997年には香港がイギリスに返還され,1999年にはマカオがポルトガル【セH26に返還され,一国二制度(香港とマカオだけは,資本主義が認められるという制度) 【セA H30】が継続されました。南部の臨海地方を中心とした発展に偏っていたため,2000年代に入ると「西部大開発」が進められました。内陸部と沿岸部の格差は拡大し,貧富の差は社会問題となっています。2001年には,1995年にGATT(ガット)を継承していた世界貿易機関(WTO)への加盟も実現しました。また,中国共産党の改革にも熱心で,2002年には従来禁じられていた「資本家(私営企業家)」の入党が認められました。〈江沢民〉は2003年に国家主席に選ばれています。2003年には神舟5号が打ち上げられ,〈楊利偉〉中佐(1965~)による有人宇宙飛行に成功させています。

 そこで2003年に国家主席に就任した〈胡錦濤(こきんとう,フー=チンタオ)(201313)は格差の是正につとめ,2008年の北京オリンピック,2010年の上海万国博覧会を成功させ,新興国BRICsの一員としても認められるようになりました。しかし,民主化は進展せず,国内にはチベット自治区におけるチベット人(2008年チベット騒乱)と新疆ウイグル自治区におけるウイグル人民族問題(2009年ウイグル騒乱)や,民主化運動の指導者の弾圧などの問題も抱えています。

 2013年に国家主席に就任した〈習近平(しゅうきんぺい,シー=ジンピン,在任2012)は“第三世代”の〈江沢民(こうたくみん)〉(1926~)(後任として党中央軍事委員会主席に就任します),“第四世代”〈胡錦濤(こきんとう)〉(1942~)(共産主義青年団に属し1992年に鄧小平に後継に指名される)とは異なり,“キングメーカー”である〈鄧小平〉の息がかかっているわけではありません。
 都市と農村との格差などの社会問題や,大気汚染などの環境問題を解決しながら,さらなる経済発展と国際的影響力の向上に努めています。ユーラシア大陸全体を一つの貿易圏としてまとめようとする「
一帯一路」構想を2014年に打ち出しました。また,軍備を増強し,南シナ海への海上進出を進めた結果,周辺諸国との間で地下資源の採掘や漁業をめぐる対立が起きています。宇宙開発にも積極的で,2013年12月には嫦娥(じょうが)3号の月面着陸を成功させています。



1979年~現在の東アジア ④モンゴル
 モンゴル人民共和国はソ連の衛星国家として一党独裁の社会主義体制を採っていましたが,ソ連でのペレストロイカ(改革)の影響を受け,民主化要求が高まりました。1991年にソ連が崩壊すると,1992年に新憲法が採択され複数政党の自由選挙がおこなわれるようになり,社会主義に代わって市場経済も導入されました【東京H19[3]記述(ソ連崩壊後の変化)】
 1992年には国号が「モンゴル国」に改められ,社会主義体制下では否定されていたモンゴル人の文化や歴史(〈チンギス=ハーン〉など)の見直しがすすむ一方,経済成長が続いています。



1979年~現在の東アジア  朝鮮半島(⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国)
 韓国では〈
朴正熙(パク=チョンヒ,在任196379) 【セH26時期,H29民主化は推進していない】が1960年代に「漢江(ハンガン)の奇跡」という経済成長を成し遂げ。この時期ではインドネシアの〈スハルト(19681998) 【セH10インドネシア国民党の創設者ではない,スカルノとのひっかけ】,シンガポールの〈リー=クアン=ユー(195990),マレーシアの〈マハティール(19812003)やフィリピン【追H20タイではない】の〈マルコス(19651986) 【セH10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない】【追H20】が代表例です。先進国から企業や資本を導入して,輸出向けの製品を生産することで工業化が目指されました。
 一方,朝鮮民主主義人民共和国では,〈金日成〉による独裁政治が維持されていました。

 しかし1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。しかし混乱の中で〈
全斗煥〉(チョン=ドゥファン;ぜんどかん) 【東京H27[3]】が軍の実権を握り,1980年2月に起きた学生ら10万人による民主化運動を武力で鎮圧し,約200人もの犠牲を出しました(光州事件【東京H28[1]指定語句】)。首謀者として〈金大中〉に死刑が求刑されましたが,執行はされませんでした。
 〈全斗煥〉は1980年9月に大統領に就任し,強権政治が続きました。彼の在任中には経済成長が実現して国際収支が改善し,1983年に大韓航空機撃墜事件(ルートを外れたサハリン上空で,ソ連の戦闘機に大韓航空機(民間機)が撃墜された事件)や,1983年のビルマにおける〈全斗煥〉暗殺未遂事件などが起きています。
 経済成長の進展とともに富裕市民(「中産層」)からの民主化の要求も生まれ,〈全斗煥〉と長年行動を共にしてきた〈
盧泰愚〉大統領(=テウ)によって1987年に民主化が宣言されました。同年12月の新憲法下で行われた大統領選挙で,〈盧泰愚〉が野党の〈金泳三〉〈金大中〉らに勝利し,建国以来初めての選挙による政権交代が実現しました。〈盧泰愚〉が勝利し1988年にはソウル=オリンピックが開催され,1990年にソ連,1991年に北朝鮮(初の南北首脳会談とはなりませんでしたが,国連への南北同時加盟),1992年に中華人民共和国との国交を回復させるなどの成果を挙げたものの,野党が多数を占める国会で〈全斗煥〉や〈盧泰愚〉に対する不正追及の姿勢をみせると〈全斗煥〉は1988年に政治の舞台から引退し,政局が混迷する中で1992年に〈金泳三〉(キムヨンサム)が大統領に当選し,翌1993年に就任しました。32年ぶりの文民出身の大統領でした。彼は光州事件を民主化運動として再評価し,1995年には〈全斗煥〉と〈盧泰愚〉を逮捕しています。1996年にはOECD(経済協力開発機構)に加盟し国民所得も上昇しましたが,1997年には財閥の倒産を発端とした経済危機が発生し,1997年末からは通貨危機が始まっていました。
 政党数が増加して政界再編が進む中,1997年に〈
金大中(キム=デジュン,きんだいちゅう,在任19982003)が当選し,1998年に就任します。
 タイのバーツ安に始まる
アジア通貨危機のあおりも受けウォン安が進行し,韓国政府はIMF(国際通貨基金)に支援融資を要請。550億ドルの融資と引き換えにIMFによる厳しい韓国経済構造に対する介入が始まりました。〈金大中〉は禁止されていた日本大衆文化を解禁し,2002年の日韓共催ワールドカップも決定しました。また,北朝鮮に対しては,2000年に北朝鮮の〈金正日(キム=ジョンイル,最高指導者在任1994) 【セA H30金日成ではない】と会談(2000年の第一回南北首脳会談)し,南北融和の「太陽政策(〈イソップ〉(アイソポス,生没年不詳)の「北風と太陽」にちなむ)をとりました。〈金大中〉は2000年にノーベル平和賞を受賞しています。
 2003年には〈盧武鉉〉(ノムヒョン)が大統領に就任,2008年には〈李明博〉(イミョンバク)が大統領に就任しています。

 北朝鮮では,1980年に〈金日成〉の息子〈金正日〉(キムジョンイル)が,朝鮮労働党の党中央委員会政治局常務委員,書記局書記,軍事委員会の委員に選出されました。これにより,事実上〈金日成〉の権力が息子に委譲される見込みとなりました。彼は「世襲」というよりは,厳しい権力闘争を勝ち抜いていった側面が強く
(),父の「主体思想」を体系化させたり,平壌に巨大な建築物を建設することで,自己の権威を高めようとしました。
 1980年代以降は,ソ連,東欧,韓国や中華人民共和国との関係を持ち,資本を導入したり貿易を増加させたりすることで,経済の停滞を解決しようとしました。
 1990年代初めにかけてソ連や東欧の社会主義国が崩壊すると,〈マルクス〉=〈レーニン〉主義の看板を外し,朝鮮独自の社会主義と充実した
国防によって,体制を維持していこうとしました。自由貿易地帯を設けたり法整備を進めたりする現実的な動きもみられましたが,北朝鮮に核兵器の開発疑惑が持ち上がるとアメリカ合衆国はIAEA(国際原子力機関)による査察受け入れを要求しまし,当初は受け入れを了承しました(1992~93年)が,1993年にNPT(核拡散防止条約)からの脱退を宣言。国連安全保障理事会も北朝鮮に対する査察を決議しましたが,1994年にはIAEAからも脱退。しかし同年,米朝基本合意によりアメリカ合衆国による原子炉管理の枠組みが定まり,問題は解決できたかのようにみえました。
 1994年7月,〈金日成〉が死去すると,3年間の喪を経て1998年に〈
金正日〉(キムジョンイル)は労働党総書記に就任し,国防委員会委員長に再任され,事実上父の権力を“世襲”することが明らかとなりました。農業政策の失敗などにより食糧問題が悪化する中,頼みの綱であった社会主義諸国が崩壊してしまい石油の輸入も止まってしまう危機的な状況に陥り,中国や韓国への「脱北者」(だっぽくしゃ)が増加していきました。1998年には弾道ミサイル「テポドン」の発射実験が行われています。
 2000年に韓国の〈金大中〉が北朝鮮を訪問し「
南北共同宣言」が発表され,韓国との間には一時融和ムードが広がりました。2002年には日本の〈小泉純一郎〉首相が北朝鮮を訪れ〈金正日〉と会談し,〈金正日〉は北朝鮮による日本人拉致への関与を認め,5人の被害者・家族が日本に帰国しました(〈小泉〉首相は2004年に再訪朝しています)。
 2003年には核開発疑惑が再燃し,2003年以降,北朝鮮・韓国・アメリカ合衆国・ロシア連邦・中華人民共和国・日本の
六カ国協議が開催され計画の全面的放棄を要求しました。しかし2005年には核保有を宣言し,その後も弾道ミサイル実験・核実験を繰り返し,“瀬戸際外交”を繰り返しています。「テロとの戦い」を推進するアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,イランとイラクとともに2002年に北朝鮮を「悪の枢軸;axis of evil」と名指ししました。
 〈金正日〉の息子〈
金正恩(キム=ジョンウン,在任2011)が,2011年に朝鮮労働党の一党独裁を継承し最高指導者となり,2006年に北朝鮮が地下核実験を実施。中国を議長国とする六カ国協議(米中露日韓北が参加)が開かれましたが,北朝鮮の態度はますます強硬化していきました。
 しかし,2017年に韓国で北朝鮮に宥和的な〈文在寅〉(ムン=ジェイン1953~,任2017~)大統領が就任,2018年の韓国におけるピョンチャン(平昌)冬季オリンピックを契機として,北朝鮮と韓国の接近が進み,2000年・2007年に続く第三回の南北首脳会談が実現され,年内の朝鮮戦争(1950~53,1953年以降「休戦」状態が続いていました)の終結を視野に入れる
板門店宣言が発表されました。今後は,韓国・北朝鮮に中華人民共和国,アメリカ合衆国を交えた協議が行われていく見込みですが,先行きは不透明です。
(注)平井久志『北朝鮮の指導体制と後継――金正日から金正恩へ』岩波書店,2011年。




1979年~現在のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
東南アジアでは「雁行的」発展がすすむ
 「雁行的」発展
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1985年にプラザ合意によって,ドル安・円高(日本は輸出不利,アメリカは輸出有利となった)となった日本企業は,製品を国内でつくって輸出するよりも,海外でつくって輸入したり別の国に売ったりしたほうがよいということで,アジア各地に生産拠点を移していくことになりました。日本から輸出できない代わりにアジア各地でつくったものを,迂回させてアメリカ合衆国に輸出する方式がとられたのです。
 そんなわけで,すでに新興工業経済地域として発展していた,香港,台湾,シンガポール,韓国といった
アジアNIEsの資本とともに,日本の資本が東南アジアのタイやマレーシアなどのASEAN諸国に流れ,それがもとで経済成長が加速していくことになりました。
 この過程で,ASEANでは低価格の消費財が生産されるようになると,従来は低級品を生産していたアジアNIEsでも,付加価値の高い高級財が生産されるようになっていきます。こんなふうに,まずは日本,それを追いかけるようにアジアNIE,さらにASEAN…といったように,渡り鳥の雁(かり)がV字に列をなすように東アジア・東南アジア地域(経済的には一括して「東アジア」といわれることも多いです)が発展していく様子を,「
雁行(がんこう)的発展」ということがあります。

 ただ,経済を短期間で急速に成長させようとすると,どうしても中央集権的な権力が必要になります。外資を呼び込むにしても商法や民法といった法制度の整備や,統一的な経済政策をたてることも必要です。「輸出を主導して経済成長を実現させるためには,ある程度強いやり方
(=民主化をおさえたやり方)で国内をまとめることも必要だ」とするこのような政治体制は開発独裁といい,各国で様々な方式がとられていきました。

 しかし,
1980年代末からは,経済発展とともに高等教育を受けた中産層も増加し,政権党以外に複数政党制を認めたり,政権交代を前提とした制度改革を進めようとする民主化運動が盛んとなりました。1967年にインドネシア,マレーシア,シンガポール【セH14】,タイ【慶文H30記 東南アジア大陸部の三国のうち,原加盟国を答える】,フィリピン【セH25カンボジアは原加盟国ではない】により結成されていた東南アジア諸国連合(ASEAN,アセアン) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】【セH18APECに改組されていない】は,東南アジア地域の経済統合を目指すようになります。

 しかし,1997年にはタイを中心にアジア通貨危機【慶文H30記】が発生し,タイのバーツをはじめ各地の通貨の価値が下落しました。これをきっかけにASEAN(東南アジア諸国連合)に日・中・韓が協力するようになり,1997年夏以降,毎年開催されています。また,2005年からはASEAN10カ国に日・中・韓国,オーストラリア,ニュージーランド,インド,米国,ロシアを加えた東アジア首脳会議も開かれています。
 2004年にはスマトラ島沖のインド洋を震源とする大地震により,インド洋沿岸を大津波が襲い,約22万人の死者を出しました(自然災害 
スマトラ沖大津波2002年のSARS(重症急性呼吸器症候群)の東アジア・東南アジアでの大流行(医療 SARSと合わせ,地域間の連携の必要性が再確認されるようになっています。

1979年~現在の東南アジア  ①ヴェトナム
 ヴェトナム戦争を経て1976年に南北が統一し,南北の統一選挙により社会主義国が成立しました。最高指導者〈レ=ズアン〉(ヴェトナム共産党中央委員会書記長 任1976~86)率いるヴェトナム社会主義共和国は,建国直後の1978年にはカンボジア【追H21ビルマ(ミャンマー)ではない】との戦争を始め(~1989年に撤退),1979年にはカンボジアを支援していた中華人民共和国との間に中越戦争【追H21】が勃発し,勝利しました。その後も,1988年には南シナ海の南沙諸島をめぐり再度戦争が起こっています。
 1986年に〈レ=ズアン〉が死去し,後継の最高指導者〈チュオン=チン〉(1907~1988)市場経済を一部容認する
ドイ=モイ(刷新) 【東京H24[1]指定語句,H30[3]】【追H20ミャンマーではない】【慶文H30記】という政策が導入されるようになりました。対外的にも軟化し,1991年には中華人民共和国,1993年にはフランス,1995年にはアメリカ合衆国と国交を回復させています。1995年にはASEANに加盟し,海外からの投資を呼び込むことで経済発展を進めています。

1979年~現在の東南アジア  ②フィリピン
 フィリピンでは,民主化運動の指導者〈ベニグノ=アキノ〉がマニラ空港で暗殺されたことをきっかけに,妻の〈コラソン=アキノ〉により,1986年ピープル=パワー(エドゥサ)革命が起こされました。〈アキノ〉は国防軍の支持も得て〈マルコス【追H20タイではない】に代わって大統領に当選し,アメリカ海軍のフィリピン撤退や,非核憲法の制定を実施しました。
 1991年にルソン島の
ピナトゥボ山が大噴火を起こし,成層圏にまで到達した噴煙の影響で地球全体の平均気温が約0.4℃低下しました。1993年の冷夏にともなう日本の米不足は,この記録的噴火が背景にあるとされます
 フィリピン国内の経済格差は大きく,海外出稼ぎ労働者による送金が国家収入を支えている側面があります。またイスラーム教徒の多い南部
ミンダナオ島における,暴力的なイスラーム組織 (モロ国民解放戦線など)の分離独立運動も依然として続きましたが,和平交渉に進展はみられます。しかし,1990年代以降成長したアブ=サヤフという組織は,国際テロ組織(イスラーム国)との関連も指摘され,2017年には軍事衝突も発生しました。2016年に就任した〈ドゥテルテ〉大統領(任2016~)は国内の麻薬撲滅を積極的に推進しています。

1979年~現在の東南アジア ③ブルネイ
 ブルネイは,ブルネイ=ダルサラーム国【慶商A H30記 ASEAN原加盟国の次に加盟した国を答える(細かい)】として1984年にイギリスより独立しました。立憲君主制ではあるものの,国王は絶対的な権力を維持しています。石油と天然ガスの輸出がもたらす潤沢な収入により,国民は高い社会福祉の水準にあります。

1979年~現在の東南アジア  ④東ティモール
 東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ
(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました(東ティモール内戦)。
 インドネシアとの紛争が続いていた東ティモールでは,1999年の住民投票の結果,2002年に東ティモール【セH18時期(20世紀後半ではない)【追H30時期】がインドネシア【セH18オランダではない】から独立しました。

1979年~現在の東南アジア  ⑤インドネシア
 インドネシアは1968年以降,軍人出身の〈スハルト〉大統領(正式大統領任19681998) 【セH10スカルノとのひっかけ,インドネシア国民党の創設者ではない】による親米政策と,外資の導入による強権的な国内開発をすすめていきました。しかし,1997年にタイを発端するアジア通貨危機の影響を受け,1998年にジャカルタで暴動が発生すると〈スハルト〉は退陣に追い込まれました。
 後任には副大統領〈ハビビ〉(19981999)が就任し,民主化を推進していきました。総選挙の結果,国民覚醒党の〈ワヒド〉(19992001)が大統領となりました。その後,闘争民主党の〈メガワティ〉大統領(20012004),民主党の〈ユドヨノ〉大統領(20042014),闘争民主党の〈ジョコ=ウィドド〉(2014)と続きます。

1979年~現在の東南アジア  ⑥シンガポール
 シンガポールは小国ながら,〈リー=クアン=ユー(19232015,首相任19631990)による権威主義的な体制下で,金融・情報産業・中継貿易の拠点として経済成長を果たし,新興工業経済地域(NIE)の一つに数えられるようになりました。

1979年~現在の東南アジア  ⑦マレーシア
 1981年に就任した〈マハティール〉首相(19812003,2018)は,マレー人優遇政策(ブミプトラ政策)を推進する一方,日本の経済発展を見習おうとするルックイースト政策を掲げ,長期政権を実現しました。その後〈ナジブ〉政権(20092018)は外資を呼び込みクアラルンプールをイスラーム世界の金融センターにする計画を推進しましたが,2015年に不正資金をめぐるスキャンダルが発覚すると反政府運動が活発化。2018年の選挙で野党連合が勝利し,高齢の〈マハティール〉首相が再任しました。

1979年~現在の東南アジア  ⑧カンボジア

 
カンボジアでは依然として不安定な情勢が続いていました。1979年にヴェトナムが,カンボジアの〈ポル=ポト〉政権【追H20ラオスではない】を打倒すると,〈ポル=ポト〉政権を支援していた中国が報復と称してヴェトナムを攻撃しました(中越戦争) 【セH24年代を問う】
 1991年にはASEAN諸国が主導しカンボジア和平協定が結ばれ,1993年に立憲君主制のカンボジア王国が成立しました。

1979年~現在の東南アジア  ⑨ラオス
 ラオスでは1975年に社会主義国のラオス人民民主共和国が成立し,マルクス=レーニン主義に基づくラオス人民革命党の一党独裁制がとられています。初代最高指導者は〈カイソーン・ポムウィハーン〉国家主席(任1975~1991)です。
 しかし,1986年には1986年,新経済政策がとられ自由化が始まり,関係の悪化していた中華人民共和国と隣国のタイとも関係を改善。1997年にはASEANに加盟しました。1997年のアジア経済危機の影響を受けたものの,順調に経済成長を果たしていますが,以前として農業人口が7割占めており,工業化は遅れ消費財はタイからの輸入に依存しています。



1979年~現在の東南アジア  ⑩タイ
 タイはチャクリ朝による立憲君主制が続き,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国寄りの外交政策をとってきました。〈プレーム〉(首相任1980~88)軍事政権の下,1980年代後半から外資を導入した積極的な工業化を進めていきます。
 1991年に軍事クーデタが起き1992年に総選挙が行われました。国軍の最高司令官〈スチンダー〉が選出されると,民主化を求める市民勢力との間で流血ざたとなりましたが(暗黒の5月事件),〈プミポン〉(ラーマ9世)が仲介することで解決に至りました。

 1997年には投機的な資金の影響を受けてタイの通貨バーツの暴落し,周辺諸国に通貨危機・経済危機が広まりました(
アジア通貨危機)。

 2001年に実業家出身の〈
タクシン〉(任2001~2006)が首相に就任すると,外資を積極的に導入し,国内向けには社会保険制度改革や公共事業を推進して支持を集めました。
 しかし,強権的な手法や汚職疑惑が保守派の反発を生み,2006年の選挙は不正が疑われ,反〈タクシン〉派の動きが活発化しました。憲法裁判所により選挙が違憲とされると,2006年9月に陸軍によるクーデタが発生。軍政の後,2007年に〈タクシン〉派の首相(ソムチャーイ,任2008)に民政復帰しましたが,黄色いシャツがトレードマークの反〈タクシン〉派の人民民主連合(PAD)が主要施設を占拠して反政府運動を起こし,内政は混乱。
 2008年に憲法裁判所の介入(司法クーデタ)で政権与党が崩壊すると,最大野党である民主党の〈アピシット〉政権(任2008~2011)が成立しましたが,今度は赤いシャツがトレードマークの反独裁民主戦線(UDD)が「民主的ではない〈アピシット〉政権を倒し,〈タクシン〉派を復活させよう」と主張し反政府運動を開始します。このUDDによるデモは2010年に入って過激化し,2011年に総選挙が行われると〈タクシン〉派のタイ貢献党が大勝する結果となり,〈タクシン〉の妹である〈インラック〉が首相(任2011~2014)に就任しました。〈インラック〉政権は内政の安定に務めましたが,2013年に〈タクシン〉の恩赦(おんしゃ)を目指すようになると,再び反政府デモが活発化。これを受け2014年に選挙が開かれましたが,憲法裁判所により無効と,〈インラック〉首相の職権乱用を認める判決を出したため〈インラック〉首相は失職しました。
 同年に〈プラユット〉陸軍司令官(首相任2014~)がクーデタを起こし,軍事政権が成立しました。現在は民政移管の準備が進められており,2016年には国民投票を受けて2017年に新憲法が発布されています。
 なお,2016年には長期にわたり君臨していた〈ラーマ9世〉(プーミポン,位1946~2016)が死去し,〈ラーマ10世〉(ワチラーロンコーン,位2016~)が即位しています。


1979年~現在の東南アジア  現⑪ミャンマー
  ミャンマーでは,社会主義的な政策をとっていた軍事政権が1989年に国名をミャンマーに変更【慶文H30改称前の国名を問う】。そんな中,民主化要求が高まったため自由選挙を認め,1990年の総選挙で全国民主連盟が80%の議席を獲得しました。

 しかし,政権交代を拒否し,国民民主連盟の書記長〈
アウン=サン=スー=チー【慶文H30記】を断続的に自宅軟禁状態に起きました(1991年にノーベル平和賞を受賞)。
 彼女の父は独立の指導者〈
アウン=サン〉であり,国民の支持も高く,非暴力民主化運動が実り,2010年に軟禁から解かれ,2016年に〈ティンチョー〉大統領のもとで外相・大統領府相・国家顧問に就任しました(事実上の〈アウン=サン=スー=チー〉政権)。2017年には,国内の「ロヒンギャ族」の武装勢力の掃討が,無差別の虐殺を招き国内避難民・難民を発生させていることから,国際的な批判が高まっています。ロヒンギャ族は,バングラデシュとの国境地帯に分布する,「ベンガルを出自とする人々」とされ,過激な上座仏教徒による迫害も受けています。




1979年~現在のアジア  南アジア
南アジア
…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1979年~現在の南アジア ①ブータン
 1907年以降,ブータンはワンチュク朝ブータン王国により統一されていました。1972年に王位を継いだ〈ジグミ=シンゲ=ワンチュク〉(位1972~2006)は国王の権限を弱める改革を実施しましたが,1989年以降,チベット系の文化・言語を優遇する政策をとり,ネパール系住民の反政府運動や難民(ブータン難民)を生み出しました。王は2006年に譲位し,〈ジグミ=ケサル=ナムギャル(ナムゲル)=ワンチュク〉(位2006~)が継いでいます。〈ナムギャル〉の下で2008年には初の憲法が公布され,立憲君主国となりました。



1979年~現在の南アジア ②バングラデシュ
 1971年にパキスタンから分離独立したベンガル人を主体とするバングラデシュ人民共和国では,アワミ連盟の〈ラフマン〉が首相(大統領任1971~72,75,首相任1972~75)に就任し国づくりを進めましたが,チッタゴンの先住民との内戦(1992年に停戦,1997年和平協定)が勃発して1975年にクーデタ〈ラフマン〉は暗殺されました。その後は軍事政権が続きますが民主化運動により1991年の総選挙でアワミ連盟を破ったバングラデシュ人民党の〈ジア〉(任1991~96,2001~2006)がバングラデシュで初の女性として首相に就任,1996年にはやはり女性でアワミ連盟の〈ハシナ〉(任1996~2001,2009~)が首相に就任しました。2006年には一時軍部が暫定政権を樹立しましたが,2008年の選挙で民政に移管されています。経済の水準は低く,貧困層向けの小口の金融(マイクロファイナンス)機関をおこなうグラミン銀行(2006年に創設者〈ムハマド=ユヌス〉(1940~)とともにノーベル平和賞を受賞)などの民間組織が,行政を補完している側面があります。


1979年~現在の南アジア ③スリランカ
 スリランカでは,少数派でヒンドゥー教徒の多いタミル系住民と,多数派で上座部仏教徒の多いシンハラ系住民との間に政治的な対立が生まれていました。
 タミル系の暴力的な組織
タミル=イーラム解放のトラ (LTTE) が1983年から武装闘争を始めるとスリランカ内戦に発展しました。

 内戦はスリランカの枠を超え,インドにも波及します。
 南インドにタミル人を抱えるインドが,スリランカ情勢に干渉したからです。

 1987年にはインドから平和維持軍が派遣されましたが,1990年には撤退。
 タミル人のLTTE側との和平交渉にあたっていた〈プレマダーサ〉大統領(任1989~1993)は1993年に爆弾テロで殺害され,紛争は泥沼化します。
 1995年には停戦協定が結ばれましたが,同年にLTTEが破棄すると内戦は再開。
 その後,再度の停戦と再開を経て,
2009年に政府軍が勝利する形で内戦は終結をみました。

 スリランカの財政は対外債務に多くを依存していますが,その多くを占めるのが中華人民共和国です。中国によるユーラシア南縁部への進出(“真珠の首飾り”戦略と呼ばれます)を進めており,スリランカ政府は2017年には南部の港を中国の国有企業に貸し出しており,軍事利用を警戒するインドとの対立も起きています。



1979年~現在の南アジア  ④モルディブ
 インド洋の島国である
モルディブは1965年にスルターン国として独立していましたが,1968年に共和制となり〈ナシル〉大統領(任1968~78)が就任,1978年には〈ガユーム〉(任1978~2008)が就任して一党制の長期政権を実現しました。この間にモルディブはサンゴ礁の美しい景色を生かして観光を経済資源とすることに成功しています。
 しかし〈ガユーム〉大統領の強権に対して民主化運動が起き,2008年には民主的な新憲法がつくられましたが,同年の選挙でモルディブ民主党の〈ナシード〉(任2008~12)に敗れ,交替しました。しかし与野党の対立が続き,2012年に〈ナシード〉が辞任し,副大統領の〈ワヒード〉(任2012~2013)が大統領に就任します。
 そんな中で行われた2013年の大統領選挙では,復権をねらう元大統領で,モルディブ進歩党を創設していた〈ヤミーン〉(任2013~)が選出され,連立与党が成立しました。

 
モルディブの経済は観光業と水産業に依存しており,地球温暖化による海面上昇で国土の水没の危機があると,国際社会に訴えています。〈ヤミーン〉大統領は現代版シルクロード「一帯一路」構想を進める中華人民共和国との結びつきを強め,中国資本の導入に積極的。しかし中華人民共和国に対する債務は積み上がって経済的な従属が進み,港湾を中国の国有企業に貸し出しています。
 そんな中2018年に最高裁が野党政治家の釈放・復職を要求すると,〈ヤミーン〉は非常事態を宣言して,野党寄りの〈ガユーム〉元大統領を拘束しました。それに対し,〈ヤミーン〉の異母兄(いぼけい)でイギリスに亡命中の〈ナシード〉元大統領はインド軍に支援を要請する事態となっています。



1979年~現在の南アジア  ⑤インド
 インドでは,〈ラジーブ=ガンディー〉の後,〈ナラシンハ=ラオ〉首相が後を継ぎました。〈ラオ〉政権は,アメリカとの関係を改善し,東南アジアや東アジアとの関係も改善させました。1991年からは新経済政策がとられ,〈ネルー〉以来の計画経済が終わり,産業部門の市場経済化が始まりました。1990年代を通してITソフトウェア産業が飛躍し,「新中間層」が生まれました。しかし,依然として貧困問題や低い識字率の問題は残されています。
 非同盟の立場をとりつつも計画経済をとってきたインドは,19
80年代からは「緑の革命」という農産物の生産量をあげる品種改良や技術革新を進めました。効率重視の方策は農村部では貧富の差という“影”も落としていますが,その後の工業化の進展に寄与することになりました。
 1977年の選挙で,インド国民会議派から政権交替を果たした人民党(ジャナタ党)の〈デーサーイー〉首相(1977~79)は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。
 しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では〈インディラ=ガンディー〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々がインド人民党(BJP) 【早商H30[4]論述 国民会議派に対抗する政治勢力を答える】を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになります。このように,インドの人々が,宗教や宗派にもとづいてまとまろうとしていく考えをコミュナリズムといいます。BJPの母体でもある民族奉仕団(RSS)が,初等教育や女性の人権などの運動により,民衆レベルで支持を伸ばしていたのです。指導層はバラモン出身者が多く,イスラーム教徒への対抗意識から,ヒンドゥー=ナショナリズムを推進しています。1992年には『ラーマーヤナ』の主人公ラーマの生誕地であるアヨーディヤーのイスラーム教のモスクを破壊する運動が起き,暴動事件が起きました。

 1980年に〈インディラ=ガンディー〉は再選されましたが,アムリットサルにあるシク教寺院を攻撃したことから,1984年にシク教徒により暗殺されてしまいます。後を継いだ息子の〈ラジーヴ・ガンディー〉(1944~1991,任1984~89)は,スリランカ内戦に介入し,インド平和維持軍を派遣しました。スリランカからタミル人が難民として移動してきたことに対応し,アメリカや中国が内戦に介入する前に内戦を収めようとしたのです。しかしその後,スリランカ情勢は泥沼化して1990年に撤退。さらに,スキャンダルで支持を失い,辞職後にはスリランカのタミル人の暴力的な組織 (LTTE(タミル・イーラム解放のトラ))に暗殺されました(辞職後の1991年のことです)

 インド人民党は1998年に政権を掌握。〈ヴァージーペーイー〉首相(バジパイ,任1996,1998~2004)の下,パキスタンを牽制するために核実験を実施(1998年インドの核実験)。ICT(情報通信技術)産業を育成し,アメリカ合衆国にも接近して経済の自由化を推進。こうしてインドは,2000年代前半には新興国(BRICs【セA H30】)の一員に数えられるようになりました【早商H30[4]論述(1990年代のインドの政治・経済の状況)】
 その後,
2004年に国民会議派の〈マンモハン=シン〉首相(200414)に政権交代しました。初のシク教徒の首相です。
 2014年には再びインド人民党の〈モディ〉首相(任2014~)に交替しています。

 インドは今なお多くの貧困層を抱え,その背景には根強いカースト制度の影響力があります。インドの人口の
15%を占めるといわれるダリットは,かつて不可触賤民といわれ,カースト制度の底辺に属する人々です。彼らの地位向上運動も盛んになっています。



1979年~現在の南アジア ⑥パキスタン
 
パキスタンでは,クーデタにより政権を掌握した陸軍参謀長〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。しかし,国際的な批判も高まり,〈ブットー〉(1928~79,大統領在任71~73,首相在任73~77)の娘〈ベーナジール=ブットー〉(1953~2007,首相在任1988~90,93~96)がのちに,1989年に首相となりました。90年の総選挙でイスラーム民主連合の〈ジャトーイー〉政権(任1990),さらにパキスタン=ムスリム連盟の〈シャリーフ〉政権(任1990~93)に移行しました。1991年には「シャリーア施行法」が制定され,コーランやスンナの規定が最高法規とされました。同時期のインドではヒンドゥー=ナショナリズムが高揚していましたから,表と裏の関係にあるといえます。

 1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると,アメリカはアフガニスタンのイスラーム教徒の義勇軍を支援しました。そのとき提供された武器や資金は,1989年にソ連が撤退した後にターリバーン政権がアフガニスタンに誕生したり国際テロ組織アル=カーイダが生まれていく遠因となりました。
 1998年にインドの核実験に対抗して,パキスタンも核実験を実施し【セH24H26ともに時期】【追H20(19世紀以降のイスラーム諸国について適当なものを選ぶ)】,緊張が高まりました。翌年には北部のカシミールで武力衝突(カルギル紛争)も起こっています。1999年に〈ムシャラフ〉陸軍参謀長(首相在任1999~2002,大統領在任2001~2008)がクーデタで権力を掌握し,1990年以降の民政の時代が終わりました。アメリカ同時多発テロ事件とアフガニスタン侵攻が起きると,〈ムシャラフ〉はアフガニスタンのターリバーン政権ではなく,アメリカ合衆国に接近しました。国内のイスラーム原理主義的な勢力からの批判も高まり,2008年に辞任しました。

 なお,中華人民共和国は2013年にパキスタンのグワーダル港の管理権を獲得し,港湾を開発しています。それに対しインド政府は中華人民共和国による軍事進出を警戒しています(
中華人民共和国の海洋進出)。

 〈マララ=ユスフザイ〉(1997~)は,パキスタン北部の女子学校に通学していた際,パキスタンにおける武装勢力ターリバーン運動が女子教育を妨害しようとしたことに対し,2009年に匿名でイギリス国営放送に批判メッセージを送り,のち実名を公表して講演活動を行いました。それに対し2012年(15歳のとき)にターリバーン運動から銃撃を受け負傷しましたが一命をとりとめ,2014年度のノーベル平和賞を17歳で受賞しています。



1979年~現在の南アジア  ⑦ネパール
 
ネパールは立憲君主制をとるネパール王国(ゴルカ朝)により統治され,パンチャーヤト制という制度により国王に強大な権力が与えられていました。
 しかし,1979年に民主化を求めるデモが起きて反政府運動に発展すると,〈ビレンドラ〉国王(位1972~2001)は1980年に憲法を改正しました。1990年には民主化運動が起き,ようやくパンチャーヤト制の廃止が宣言され,国民主権が認められました。1991年には複数政党制の下で総選挙が実施され,ネパール会議派の〈コイララ〉(任1991~94,98~99,2000~2001,2006~2008,2008)が首相に就任しました。
 しかし,王制そのものを廃止しようとする勢力であるネパール共産党毛沢東派(
マオイスト)派が1996年に内戦を起こすと,ネパール各地で治安が悪化。方針をめぐる対立から王宮で〈ビレンドラ〉国王が王太子(父の死後,数日で死去)により殺害されたとされ,弟〈ギャネンドラ〉(位2001~2008)が国王に即位するという事態が起きます(この事件には不審な点も多い)
 
ネパール内戦は多くの犠牲を出した後,2006年に包括的和平合意が成立しました。2007年に暫定憲法が公布され,国際連合によるミッション(UNMIN,2007~2011)が派遣され,2008年に実施された選挙により成立した制憲議会で王制の廃止と連邦民主共和制への以降が決定されました。
 しかし憲法は制定されないまま,2015年に首都カトマンズ周辺がネパール大地震(マグニチュード7.8)の被害を受け,同年には復興を視野にいれ新憲法が公布されました。この地震では,ネパール最古の仏教寺院スワヤンブナートなど多くの世界遺産の建築物が被害を受けています。





1979年~現在のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

 
1979年代以降,西洋化への反動や,アメリカ合衆国の中東政策への反発から,伝統的なイスラームを基盤とした生活・文化・政治を復活させようとするイスラーム復興運動が盛んとなりました。その影響は政治の世界だけにはとどまらず,日常生活の中にイスラームの習慣や伝統を復活させようとする運動も起きました。例えば,エジプトのムスリム同胞団70年代以降,医療・教育・相互扶助といった社会奉仕活動を積極的に行い,人々の支持を拡大させていきました。ムスリム同胞団の理論的な支柱となった〈クトゥブ〉(1906~1966)は社会の正義はイスラーム法が施行されている地域でのみ実現されると主張しましたが,彼の思想はのちに〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉(1957~2011)といったテロリズムを重視する暴力的なグループに影響を与えることになります。

 1979年には
イラン【追H21イラクではない】イラン=イスラーム革命が起き,シーア派指導者〈ホメイニ【セH4】の下でパフレヴィー朝が打倒されました。1980年~1988年にはアメリカ合衆国の支援を受けたイラクの〈フセイン〉政権との間にイラン=イラク戦争が勃発。

 1990年8月2日に〈フセイン〉大統領は隣国クウェート
【追H9】に侵攻し,同8日に併合を宣言。国際連合安全保障理事会は決議第660号により,イラクに撤退を勧告。イラクが従わなかったため,第661号による経済制裁【追H9】を加えます。それでも従わなかったため,決議第665号で加盟国海軍による禁輸執行措置(海上阻止行動)もとられ,さらには11月29日,安保理決議第678により,国連加盟国に「国際の平和と安全を回復するため必要なあらゆる手段」をとる権限を与えます。こうして,アメリカ軍を主体とする多国籍軍(湾岸多国籍軍)は,1991年1月17日に攻撃を開

始。戦闘は2月28日に終わり,4月に正式に停戦します。
 国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1998年にはミサイル攻撃がアメリカとイギリスによって実行に移されました。

 その後,2001年にアメリカ同時多発テロ事件が起きると,容疑者とされた〈
ウサーマ=ビン=ラーディン〉を匿っているとしてアフガニスタン【セA H30地図上の位置,イラクとのひっかけ】に侵攻し,ターリバーン政権を打倒しました。2003年には「大量破壊兵器」を保有しているとしてイラク【セA H30地図上の位置と政権を問う】戦争を開始しましたが,アフガニスタンと同様に戦後の占領政策に失敗し,のちに撤退を迫られました。

 アメリカのイラクに対する一方的な介入は,各地イスラーム組織の反米思想にますます火をつけ,それらがもともと存在していた暴力的なグループの受け皿となるきっかけをつくりました。しかし,そのような動きはイスラーム教徒全体からみるときわめて少数であるにもかかわらず,「イスラーム」を「テロリスト」と結びつけたり,「イスラーム文明と非イスラーム文明との戦い(「
文明の衝突」)」ととらえる言説が無数に生み出され,世界各地で大国による暴力や不寛容を正当化させていきます。
 例えば,中華人民共和国やロシアでは国内の反体制派に対する鎮圧を「
対テロ戦争」の一環と位置づけ,イスラエルでは「テロリスト」の活動を防ぐためパレスチナへの軍事侵攻や”安全フェンス“の建設による入植地の拡大が実行されていきました。イラク戦争にも正当な開戦理由といえるものはなく,「対テロ戦争」の名目でCIA(アメリカ中央情報局)が主導して開戦に持ち込まれたのだということが,のちに明らかになっています。
 これらの過程で,アル=カーイダのメンバーや関連団体を自称する実行犯により,インドネシア・バリ(2002),スペイン・マドリード(2004),イギリス・ロンドン(2007),パキスタン・イスラマバード(2008),インド・ムンバイ(旧ボンベイ)(2008)の都市を狙ったテロリズムが起こされました。

 2008年に世界同時不況が起きると,21世紀初頭の原油価格が上昇を受け波に乗っていた産油国の成長に,陰りが見え出します。
 
アラブ首長国連邦ドバイには,828mの超高層ビル(ブルジュ=ハリーファ)が2010年に完成しました(隣接する商業施設の一つに「イブン=バットゥータ」というショッピングモールがあります)。
 しかし,前年の
2009年に政府系企業が借金返済を先延ばしにする発表をしたことで,ドバイ政府に対する信用が低下し,先進国が「本当にドバイに資金を貸しても大丈夫なのだろうか?」と考え,世界の建設企業の株式などが急落する事件が起きています(ドバイ=ショック)。

 2010年末以降,「アラブの春」といわれる民主化運動が,チュニジアにはじまり,エジプトやリビアに広がりました。長期独裁をしていた指導者は倒れましたが国内の混乱は長期化し,混乱収拾のために国民の権利を制限する権威主義,あくまで暴力により思想を実現させようとするテロリズム(ジハード主義),政治的・経済的権利をめぐって国外の支援を受けて宗派ごとに争う宗派主義の波が広がっています。
 シリアでは2011年に民主化デモをアサド政権(2000)が武力で鎮圧し,周辺諸国の介入や,国境を超える暴力的なイスラームのテロ組織による干渉を招きました。〈アサド〉政権はシーア派の一派であるアラウィ派で,多数を占めるスンナ派の国民は経済的な不満を抱いていました。民主化を求める組織は「自由シリア軍」を形成しましたが,シリアの政府軍はロシアイランによる支援を受け,反政府勢力はトルコの支援を受け,主要な都市の多くが戦場となりました。2013年にはシリア政府が化学兵器を使用した疑惑が持ち上がり,シリアは安保理の決議を受けて査察を受け入れました。

 一方,イラク戦争後にイラクの領内では,アメリカ合衆国の駐イラク米軍司令官で元CIA長官の〈ペトレイアス〉の主導により,〈ビン=ラディン〉の後継者〈ザワーヒリー〉(1951~)が指揮するとされるアル=カーイダに対抗する自警団的な組織(覚醒評議会)が設立されていました。そこで,イラクでの主導権を失ったアル=カーイダは拠点を隣国のシリアに移します。
 
2014年には,〈アブー=バクル=バグダーディー〉を指導者が自らをカリフと宣言し,イスラーム過激派組織「イスラーム国(IS(アイエス);ISIL(アイシル))の成立(建国)を宣言しました。イスラーム国は,アル=カーイダから分離して支配領域を広げていき,シリアでジハード主義を掲げる反政府組織「ヌスラ戦線」も,当初は「イスラーム国」に加わりました()
 「イスラーム国」は湾岸戦争,イラク戦争以来のアメリカ合衆国に対する過激な思想を受け継ぎ,グローバル=ジハード(世界規模で非イスラーム世界に対して暴力闘争を目指す考え)を掲げ,インターネットを通して全世界に活動内容を配信。それに触発された人々の中には
2015年のフランスにおけるパリ同時多発テロを初め,ベルギー,ドイツ,イギリス,スペインなど先進国の都市の住民を無差別に狙ったテロリズムを起こす者も現れています。これらの実行犯は「イスラーム国」本体からの組織的な指示を受けたというよりは,個人的に過激化し“一匹狼”(ローンウルフ)として犯行に至った者が少なくないとみられています。
(注)アブドルバーリ=アトラーン『イスラーム国』集英社,2015,p.113。

 こうしてシリアでの内戦は,〈アサド〉政権と反政府派(自由シリア軍,クルド人勢力など)に関係国・勢力が介入するという構図にとどまらず,イスラーム国が全世界のイスラーム過激派に訴えかける形で拡大していったのです。2014年にイスラーム国はシリアのラッカ県を制圧。残虐な手法をインターネットを通じた映像で公開し,支持者をひきつけていきました。
 これに対してロシアは2015年9月にシリアに軍事介入し,2016年にはシリア政府軍が各地で攻勢を強めましたが,同年にはトルコもシリアの反政府派(自由シリア軍)と連携し,イスラーム国やクルド人勢力に対する軍事介入を行っています。2017年4月にはシリア政府が再度化学兵器を使用した疑惑が起こり,アメリカ合衆国の〈トランプ〉政権はシリアをミサイル攻撃しました。同年10月にはイスラーム国の拠点ラッカが陥落し,イスラーム国は事実上崩壊しています。2018年1月には再度トルコがクルド人勢力に対して攻撃。同年2月以降は,シリア政府軍とそれを支援するロシアの化学兵器使用の疑惑をめぐり,イギリス・フランス・アメリカ合衆国がダマスクス東部の東グータに対してミサイル攻撃をしました。

 以上の過程で,イスラーム教徒が少数派の地域では,過激な
ジハード主義(テロリズムによる直接行動を正当化する思想・動き)が,イスラーム主義(欧米の近代化の思想・体制に対し,イスラームの思想・体制を見直そうとする思想・動き)やイスラーム教徒全体と十把ひとからげにされ,イスラーム教徒に対するヘイトスピーチやヘイトクライムを生んでいます。



1979年~現在の西アジア  ①アフガニスタン

 
アフガニスタン王国は国内に複雑な民族分布を抱えた国家でした。1973年にクーデタにより王政が廃止され,王族の〈ダーウード〉がアフガニスタン共和国の大統領に就任。
 彼はイスラームにのっとった国づくりをすすめようとする勢力(イスラーム主義)と,ソ連の支援を受けて社会主義国をつくろうとする勢力(アフガニスタン人民民主党パルチャム派)の両派を弾圧したので,三つ巴(どもえ)の形成に発展。
 1978年に〈ダーウード〉は暗殺され,1978年に社会主義政権が樹立され,アフガニスタン
民主共和国となります。首相に就任したのは,アフガニスタン人民民主党パルチャム派と対立する,ハルク派でパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合タラク部族ブラン氏族出身)〈タラキー〉(1917~1979)です。パルチャム派は急進派,ハルク派は穏健派です。
 しかし,1979年にはパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合ハルティ部族出身)〈アミーン〉(1929~1979)により〈タラキー〉は逮捕され,〈アミーン〉がで政権を獲得。しかし,それに対しイスラーム主義者が国外でジハードを宣言して結成した
ムジャーヒディーンが対抗し,事態は泥沼化します。

 アフガニスタンの混乱は,隣国イランの革命(
イラン=イスラーム革命)とも連動していました。
 これをみたソ連の〈ブレジネフ〉は,アフガニスタンにイスラーム教「原理主義者」を抑え込むことのできる強力な親ソ連政権が必要だと考え,1979年12月24日に軍事的に進出して,同27日に〈アミーン〉を暗殺。代わりにパシュトゥーン人(ギルザイ部族連合モッラヘル部族)〈カールマル〉(1929~1996)に政権を樹立させたのです。
 
 これを,ソ連のアフガン侵攻(
アフガニスタン侵攻)といい,アメリカ合衆国をはじめとする西側諸国との関係は一気に冷却。「新冷戦」と呼ばれる状況となりました。
 このときアメリカ合衆国は反ソ連勢力ならなりふり構わず支援し,ムジャーヒディーンやハザーラ人に軍事援助をしています。

 その後,1987年に〈ナジーブッラー〉が大統領(任1987~1992)に就任。1989年にソ連はアフガニスタンを撤退。今度は,国内の政権争い(アフガニスタン内戦)が始まると,ムジャーヒディーンは1992年にアフガニスタン
=イスラム国を建て,タジク人を中心とするイスラム協会の〈ラッバーニー〉が大統領となります(任1992~2001)。

 しかし,そこへパキスタン北西部から進出したのが,
パシュトゥーン人主体のターリバーンという勢力。1996年にはカーブルを占領し,ターリバーンに対抗する勢力(「北部同盟」)との間で深刻な内戦に発展しました。
 北部同盟には,
タジク人のイスラム協会,ハザーラ人のイスラム統一党,ウズベク人のイスラム民族運動などが合流。複雑な民族構成ゆえの内戦でもありました。
 
 ターリバーン政権下では厳格なイスラーム法に基づく支配が行われ,2001年にはかつて〈玄奘〉も旅行記に記録した
バーミヤンの石仏(世界文化遺産)を,「偶像」であるとして爆破されています。
 同年9月11日にアメリカ合衆国で同時多発テロが勃発。その首謀者とされる〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉をかくまっているとして,アフガニスタンのターリバーン政権はアメリカ合衆国の攻撃を受けます。アメリカ合衆国をはじめとする
有志連合軍は,国内の北部同盟とともにアフガニスタンに軍事侵攻(2001年アフガニスタン侵攻)。同年11月にカーブルが陥落し,代わって〈カルザイ〉(1957~)に暫定政府(暫定行政機構議長)を樹立させました。〈カルザイ〉は,ドゥッラーニー部族連合ポーパルザイ部族カルザイ氏族出身で,2004年以降,アフガニスタン=イスラム共和国の正式な大統領も勤めます(任2004~2014)。

 しかし,政府ポストの民族構成をめぐるバランスは難しく,アメリカ合衆国軍の駐留が継続する中でも,テロなどの治安の悪化に歯止めがかからず,ターリバーンとの和平交渉も難航しています。なお,アフガニスタンでは日本人医師〈中村(てつ)〉(1946~)がペシャワール会を設立し,医療活動や用水路建設に従事し,2018年にアフガニスタンから国家勲章を授与されています。



1979年~現代の西アジア  ②イラン
 1979年にイラン【追H21イラクではない】=イスラーム革命が起き,ウラマーの〈ホメイニ(190289) 【セH4石油国有化をしていない】が指導者となって,イラン=イスラーム共和国が建国されました。イランは2005年に対外強硬派の〈アフマディネジャド〉(任2005~2013)が大統領に当選します。以前から疑惑が持ち上がっていた核開発や「核の闇市場」との関係について,2004年のパリにおけるイギリス,フランス,ドイツとの合意により核開発が停止されていました。ところが,〈アフマディネジャド〉はこれを2005年に再開させ,ウラン濃縮活動を行いました(天然のウランには核分裂を起こさない性質のものも含まれているため,濃度を高めて核燃料として使用可能なものとする必要があります)。これに対しイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国,ロシア連邦,中華人民共和国の6か国が動き,2006年には国連安保理がウラン濃縮と再処理活動をやめるように決議をしました。しかし,それでも停止しなかったため,2007年・2008年に安全保障理事会は制裁決議を採択。しかし2009年以降もウラン濃縮活動を停止することはなく,アメリカ合衆国とEUを中心とした経済制裁が課されるとともに,解決に向けた動きが進められていきます。
 そんな中,2013年には穏健派でシーア派のウラマーである〈ロウハニ〉(任2013~)に交替し,2015年7月には経済制裁の解除を見返りに核開発を制限する合意(
イラン核合意)がアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ドイツ・中華人民共和国・ロシア連邦・EU,イランとの間にウィーンで成立しました。しかし,核合意の内容を「甘い」とみるイスラエルは合意に反発し,推進した〈オバマ〉大統領との関係は悪化。
 イランは,2016年1月にはサウジアラビアとの国交を断絶しました。2015年に始まった
イエメン内戦で,イランが反政府側のフーシ派を支援していることも背景にあります。
 2017年1月にアメリカ合衆国に〈トランプ〉大統領の就任後も,イランはミサイル発射実験を実施し,アメリカ合衆国は5月に再選された〈ロウハニ〉大統領を非難。2018年5月には「イラン核合意」には欠陥があるとして〈トランプ〉大統領は合意からの離脱を発表しました。その直後にはイランは,支援を続けるシリア
(アラウィー派の〈アサド〉政権を支援しています)の領内からイスラエルの占領するゴラン高原をミサイルで攻撃しました。



1979年~現在の西アジア  ③イラク
 イランの隣国のイラクは,1980年にシーア派による革命の影響がおよぶことを恐れて,国境地帯を攻撃しました。バックにはペルシア湾岸諸国(湾岸協力理事会GCC)の支援がありました。イランのパフレヴィー朝のように,革命によって王政が倒されることをおそれ,イラクを支援してイランの革命の打倒をめざしたのです。これをイラン=イラク戦争といいます。
 イラクの山岳部の油田地帯に居住する少数民族クルド人は,イランと提携して〈フセイン〉政権に抵抗しました。しかし,1988年に停戦すると,〈フセイン〉政権はクルド人に対して化学兵器を使用して弾圧しました。

 
1990年にイラクの〈フセイン〉大統領(19372006) はクウェートを侵攻しました。198088年のイラン=イラク戦争により財政が悪化し,隣国クウェート国の油田を獲得しようとしたものです。クウェート国はもともと遊牧民が定住していた地域に,1756年に成立した王朝が1914年にイギリスの保護国となり,1961年に独立。その当時からイラクとの国境紛争が続いていました。イラクのクウェート侵攻に対してアメリカ合衆国を中心とする多国籍軍が介入し,1991年に湾岸戦争【セH14冷戦終結前ではない,セH26時期】が起きました。
 アメリカやイギリスは,イラク国内の
クルド人とシーア派住民に抵抗を呼びかけ,内戦が勃発しましたが,結局〈フセイン〉政権により鎮圧されました。抵抗に失敗したクルド人は,100万人以上の難民となってトルコやイランを目指したため,〈緒方貞子〉(任19912000)国連難民高等弁務官が,同事務所(UNHCR)の活動を指揮して,救援活動にあたりました。国連安保理はクルド人の保護を決議し,アメリカとイギリスが中心となってクルド人の帰国を助けています。
 イラク北部にあるクルド人の分布地域には油田が多く立地し,アメリカ合衆国はクルド人を支援することで石油の利権をねらったと考えられています。実際に「クルド人保護」のためにイラク北部には飛行禁止区域が設定され,南部のシーア派住民が多い地域も同様に飛行禁止区域に設定されました。
 湾岸戦争後も,国連によるイラクに対する経済制裁は戦後も続き,大量破壊兵器や軍事施設をつくっていないか調べるための査察受け入れをめぐり,1993年にはアメリカ,フランス,イギリス,1998年にはアメリカとイギリスにより,ミサイル攻撃が実行に移されています。
 アメリカを中心とするイラクへの執拗な攻撃は,中東全体のアメリカに対する印象を悪化させることとなっていきました。
つまり,アメリカ合衆国を,イスラーム教徒の世界に進出する“敵”とみなす言説が発展していくことになるのです。
 
1989年にソ連がアフガニスタンから撤退すると,ソ連と戦った義勇軍(ムジャーヒディーン)は故郷に帰国していきました。その中の一人がサウジアラビアの富豪〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉です。彼は,アメリカ合衆国が中心となってイラクを攻撃した湾岸戦争をイスラーム世界に対する攻撃ととらえ,イスラーム世界を守るために世界各地を拠点とした「ジハード」を実行するべきだとする思想を形成し,国際テロ組織アル=カーイダを立ち上げました。
 2001年にアメリカ合衆国本土で同時多発テロを引き起こされると,アメリカ合衆国はその首謀者を〈ウサーマ=ビン=ラーディン〉と特定し,彼をかくまうアフガニスタンのターリバーン政権
【セA H30フセイン政権ではない】に武力侵攻して政権を崩壊させました。

 アメリカ合衆国はその後さらに2003年には,イラクが“大量破壊兵器を保有していると主張してイラク戦争を開始しました。2003年末に拘束された〈フセイン〉大統領【セA H30ターリバーン政権ではない】は,イラク高等法廷(「バグダード裁判」と言うことも)で死刑判決が下され,2006年に処刑されました。


1979年~現在のアジア  西アジア 現④クウェート
 1961年にイギリスから独立していたクウェートでは,首長サバーハ家による支配が続いています。
 1990年には隣国イラクの〈フセイン〉政権が軍事的に侵攻し,一時イラクに併合されましたが,1991年の
湾岸戦争によって独立が保たれました。



1979年~現在のアジア  西アジア 現⑤バーレーン

 シーア派が多数を占めるバーレーンは1971年に「バーレーン国」としてイギリスから独立していました。首長はスンナ派であったことからシーア派国民による民主化要求も高まり,2002年に絶対君主制から立憲君主制に移行し,バーレーン王
となります。初代国王は〈アール=ハリーファ〉(首長任1999~,国王任2002~)です。
 2011年にはさらなる民主化要求が強まり反政府デモが起きますが,鎮圧されて死傷者を生みました。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑥カタール
 カタールはサーニー家の〈ハリーファ〉が父の外遊中に首長に就任(任1972~1995)。
 1981年には湾岸協力会議(GCC)に加盟。
 1995年にはサーニー家の〈ハマド〉が,父〈ハリーファ〉の外遊中に首長に就任(任1995~2013)。首都ドーハの開発に着手し,衛星テレビ局
アルジャジーラの設立にも関わります。
 2013年に父の譲位により,〈タミーム〉首長が就任(任2013~)。

 2017年にはサウジアラビアやアラブ首長国連邦など中東諸国がカタールとの国交断絶を発表しました(
中東諸国のカタールとの断交)。背景には,イランとサウジアラビアとの対立構図があるとみられています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑦アラブ首長国連邦(UAE
 アラブ首長国連邦
では,アブダビ首長国の〈ザーイド〉(任1971~2004)まで長期に渡り政権を維持し,経済開発路線をとりました。
 後継のアブダビ首長〈ハリーファ〉はアラブ首長国連邦の大統領に就任(任2004~)。2010年に完成した超高層ビル「ブルジュ=ハリーファ」にも,彼の名が付けられています。
 将来をにらみ,石油依存からの脱却をどう進めるかが焦点となっています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑧ オマーン
 
オマーンは国王が首相・外相・財務相・国防相を兼ねる絶対君主制国家で,現国王は〈カブース〉(位1970~)です。
 1981年に国家諮問評議会がつくられ,1991年に諮問議会に移行(選挙制)。1997年に設置された勅撰の国家評議会とともに二院制を形成しています。
 2011年の
アラブの春の影響を受け,国王は国家基本法を改正し,諮問議会・国家評議会に立法権と監査権が与えられました。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 
イエメンでは1967年にイギリス領南アラビア保護領が,南イエメン人民共和国(南イエメン)として独立。
 北に1962年に成立していた
イエメン=アラブ共和国(北イエメン)との間に,冷戦構造も背景とする南北対立が続きました。
 1991年に
イエメン共和国として南北統一が成り,北イエメンの〈サーレハ〉(任1990~2012)が大統領に就任。しかし,1994年に南イエメンが一時再独立するなど,支配は安定しません(1994年イエメン内戦)。

 2011年の「
アラブの春」の影響を受け,2012年に〈サーレハ〉大統領が退陣。〈ハーディー〉副大統領が暫定大統領に昇格しますが,2015年にシーア派の暴力的な組織フーシがクーデタを起こし,〈ハーディー〉暫定大統領はアデンに逃れた後,サウジアラビアのリヤドに亡命。フーシ派の政権をイランが支持し,サウジアラビア 対 イランの対立構図がイエメンに持ち込まれる形となりました。イエメンでは深刻な食糧危機・感染症の蔓延が広がる中,アメリカ合衆国もイエメンに対し小型無人機(ドローン)による攻撃をおこなっています。
 2017年6月には,フーシ派を支援するとされたカタールを,〈ハーディー〉暫定大統領がサウジアラビアなど湾岸諸国とともに断交(
2017年カタール危機)。サウジアラビアは,フーシ派を支援しているとしてイランを非難します。
 なお,フーシ派側に立っていた前大統領〈サーレハ〉は,2017年にフーシ派により暗殺されています。〈サーレハ〉がサウジアラビアとの関係を回復させようとしたことが理由とみられます。
 この一連の内戦の過程で,世界文化遺産に指定されたサナア旧市街の美しい街並みは,2015年以降「危機遺産」に指定されています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
 アラビア半島サウジアラビア王国ではサウード家による支配が続いていました。
 国王は〈ハーリド〉(位1975~1982)から〈ファハド〉(位1982~2005)替わりますが,いずれも初代国王〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)の息子にあたります。
 各国王は各部族の長として君臨していて,閣僚ポストは各部族に分配されバランスをとる分権的な体制が構築されていました。

 ※初代〈アブドゥル=アジーズ〉(位1932~1953)→②〈サウード〉(位1953~1964)→③〈ファイサル〉(位1964~1975)→④〈ハーリド〉(位1975~1982)→⑤〈ファハド〉(位1982~2005)→⑥〈アブドゥッラー〉(位2005~2015)→⑦〈サルマン〉(位2015~)

 1979年のイラン=イスラーム革命にあたり,シーア派の〈ホメイニ〉はサウード家のサウジアラビア
(スンナ派に属する厳格なワッハーブ派です)を名指しで批判。1979年にメッカで反体制派のイスラーム過激派によるモスクの占拠事件が起きると,サウジアラビアは暴力的なイスラーム主義者に資金を援助し,アフガニスタンに「ムジャーヒディーン」として送り込みはじめました。ちょうど197912月から,ソ連がアフガニスタンに侵攻。イスラーム諸国からの集まった義勇軍との戦いへと拡大し,「無神論」的なソ連に対する「ジハード」に発展していきました。

 〈ファハド〉国王は,2聖都(メッカ〔マッカ〕とメディナ〔マディーナ〕)の守護者を自任して,イスラーム世界における盟主を意識しますが,その一方で,1990~1991年の湾岸戦争のときにはアメリカ合衆国に国内の基地を提供して多国籍軍に参加。そのことがイスラーム主義者やシーア派のイランなどの中東諸国からの批判を集めることにもなりました。

 次の〈アブドゥッラー〉国王(位2005~2015)は,諮問評議会の議員に女性を任命するなど女性の社会進出・教育に積極的で,中東諸国との連携も大切にする外交を展開します。2002年にはイスラエルとの紛争終結・和平合意・関係正常化に向けたアラブ連盟の「
アラブ和平イニシアティブ」の採択において,指導的な役割を演じました。
 石油資源を武器に,イランに敵対しつつ湾岸諸国と協調し,欧米と接近する穏健的な外交政策は,第3国王〈ファイサル〉の息子〈サウード〉によって推進されていましたが,2014年に健康上の理由で引退すると,サウジアラビアの外交政策は強硬路線へと舵(かじ)が切られます。

 2015年に即位した〈サルマン〉(任2015~)は,2016年に脱石油の経済改革を推進する「
サウジビジョン2030」を発表。それと並行して「汚職撲滅」を口実に,自身と〈ムハンマド皇太子〉(1985~)への権力を集中させています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑪ヨルダン
 ヨルダン=ハシミテ王国はパレスチナ難民を受け入れつつも,イスラエルと友好関係を結ぶ政策をとり,1994年にはイスラエルを国家承認しています。

 こうした態度をめぐっては,近隣のアラブ諸国やイスラーム主義組織からは批判の声もありますが,2011年の「アラブの春」騒乱のときにも,比較的小規模な抵抗運動の発生にとどまりました。

 シリア内戦の勃発以降は,
シリア難民の流入が相次ぎ,北部には最大のシリア難民キャンプであるザアタリ難民キャンプがあります。



1979年~現在のアジア  西アジア 現⑫イスラエル
 イスラエルは1979年にエジプト=イスラエル平和条約で,エジプトから国家承認されるとともに,シナイ半島をエジプトに返還しました。
  一方,エジプトの
ムスリム同胞団はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指すハマースを創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一つガザ地区で投石やストライキなどによる抵抗運動(インティファーダ)が勃発しました。
 この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉
【セA H30】の設立していた穏健なファタハを中心とするパレスチナ解放機構(PLO) 【セA H30】を選びます。ヨルダン川西岸地区ガザ地区に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉【追H30G.W.ブッシュではない】が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意(オスロ合意【追H30】)に至り,PLOを基にパレスチナ自治政府が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)

 しかし,20019月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
 
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これが
中東和平のロードマップです。
 ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年には
パレスチナ国家を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
 これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの〈
アッバス〉首相が合意し,国連も200311月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
 しかし,20061月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに「
分離壁(”安全フェンス“)を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
 アメリカ合衆国の〈
オバマ〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した〈トランプ〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出しています。同年には,国内で「ユダヤ人」が唯一の自決権を持つとする「ユダヤ国家法」が成立し,国内の左派やパレスチナ人との対立を生んでいます(注)
(注)ユダヤ国家法。BBCニュース,2018.7.19
https://www.bbc.com/news/world-middle-east-44881554)。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑬パレスチナ,⑭レバノン
 パレスチナではイスラエルによる占領が続き,入植者も拡大していました。1979年にエジプトがイスラエルと和平条約を結ぶと,エジプト大統領〈サーダート〉(19181981)は暗殺されていまいます。暗殺を実行したのはジハード団という過激派です。
 1982年にイスラエルが北方の⑭
レバノンを侵攻(19821984)すると,レバノンではシリアとイランの支援によりヒズブッラー(ヒズボラ;神の党)が創設され,イスラエルの軍事進出に対抗しました。「自爆テロ」の手法を初めて用いたのはヒズブッラーです。

パレスチナ
 一方,エジプトのムスリム同胞団はパレスチナを平和的に支援していましたが,ムスリム同胞団のパレスチナ支部として1987年に武装闘争を目指すハマースを創設しました。同年1987年にはパレスチナの入植地の一つガザ地区で投石やストライキなどによる抵抗運動(インティファーダ)が勃発しました。
 この動きに対し,アメリカ合衆国はパレスチナの代表として,ハマースではなく,〈アラファト〉
【セA H30】の設立していた穏健なファタハを中心とするパレスチナ解放機構(PLO) 【セA H30】を選びます。ヨルダン川西岸地区ガザ地区に「パレスチナ国家」を建設する道筋を示し,ノルウェーやアメリカ合衆国大統領〈クリントン〉【追H30G.W.ブッシュではない】が仲介となり1993年にパレスチナ人による暫定自治を認める合意(オスロ合意【追H30】)に至り,PLOを基にパレスチナ自治政府が成立しました。しかし,パレスチナ内部では,「イスラエルからの完全解放」を求める過激派ハマースの動きが活発化していきます(2000年には第二次インティファーダが勃発)

 しかし,20019月にアメリカ合衆国で同時多発テロ事件が起きると,イスラエルの〈シャロン〉首相はパレスチナの過激派を「テロリスト」として非難し,静観する〈アラファト〉議長を批判。2002年3月にパレスチナに侵攻しました。
 
これを受けて2002年6月にアメリカ合衆国の〈ブッシュ〉大統領は,「イスラエルとパレスチナという二つの国家の平和的共存」を訴え,ロシアとヨーロッパ連合(EU)と国連とともに2003年4月に新たな和平プロセスを示しました。これが
中東和平のロードマップです。
 ロードマップでは,段階的にイスラエル軍を撤退させるとともに,パレスチナの過激派の活動をやめさせ,イスラエルの入植もやめさせるものでした。その上で,2003年には
パレスチナ国家を暫定的に樹立し,最終的に2005年までにパレスチナ国家の正式成立をめざすものです。
 これについて2003年6月に〈ブッシュ〉大統領が仲介し,イスラエルの〈シャロン〉首相とパレスチナの〈
アッバス〉首相が合意し,国連も200311月にイスラエルとパレスチナに対しロードマップを守る義務を課す決議をしました。〈アラファト〉の死後に〈アッバス〉は2005年1月に大統領に就任し,2005年9月にはイスラエル軍がガザから撤退します。
 しかし,20061月にパレスチナで総選挙がおこなわれハマス(イスラエルに対して強硬的な政治組織)が圧倒的勝利。それに対してイスラエル側も「自衛」の名目で,入植地域を拡大するとともに「
分離壁(”安全フェンス“)を建設。イスラエルによるガザ侵攻や空爆も続き,対立が深刻化しています。
 アメリカ合衆国の〈
オバマ〉政権は,中東和平に関して成果をあげられずに退任。続いて,2017年に就任した〈トランプ〉大統領は,イスラエルの首都がイェルサレムであると宣言し,翌2018年には西イェルサレムにアメリカ大使館を移動させました。これに対しイスラエル軍はパレスチナのガザ地区で起きた民衆デモに対し発砲して死傷者を出すなど,混乱が広がりました。


レバノン
 レバノンは1975年以降,激しい内戦を経験します(レバノン内戦19751990)。
 レバノン国内にはシーア派の暴力的なイスラム主義組織
ヒズボラが台頭し,これをイラン=イスラーム共和国(1979年建国)が支援。
 イランの後押しを受けたヒズボラが
イスラエルへの敵対姿勢を示すと,1982年にイスラエルがレバノンに侵攻(レバノン侵攻)。ベイルートを拠点としていたPLOを国外に追放し,レバノン南部に2000年まで駐留します。

 混乱収拾のため,アメリカ合衆国やフランス,イギリスの多国籍軍も参加しましたが,隣国シリア(シーア派の一派アラウィー派の〈アサド〉政権)の支援もあり,多国籍軍は撤退。
 1990年に
シリアがレバノンを占領する形で,内戦は終結しました。
 
 レバノンではスンナ派の〈ハリーリー〉首相(任19921998,20002004)の下で,シリア勢力を排除しつつ,レバノンの統一と復興が目指されました。
 しかし,2004年に〈ハリーリー〉は爆弾テロで殺害。
 「この黒幕はシリアなのではないか?」と,レバノンの民衆が反政府運動を実施(
杉の革命(国旗のデザインであるレバノン杉から))し,反シリア派の政権となりました。

 しかし,シリアに友好的なシーア派のイスラーム主義組織ヒズボラが,2006年7月にイスラエルを攻撃(
ヒズボラのイスラエル攻撃)。これに対しイスラエルはレバノンに侵攻(2006年レバノン侵攻)。その後,活発化したヒズボラの関与するとみられるテロが増加し,治安は一気に悪化。2009年には〈ハリーリー〉の子が首相に就任(任20092011,2016~)しましたが,ヒズボラやシリアの国政への干渉をめぐる混乱は続いています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 南部にギリシアの支援する政権(キプロス共和国)がクーデタにより樹立されていたキプロス島では,北部のトルコ系住民が反発。キプロス紛争(19741975)が勃発しました。
 1975年に停戦したものの,1983年にトルコの支援の下,ニコシアを首都とする「
北キプロス=トルコ共和国」が成立。この北キプロスを承認しているのはトルコ共和国のみであり,事実上「未承認国家」となっています。
 2004年には南部のキプロス共和国がEUに加盟(
キプロスのEU加盟)。2008年には検問所が撤廃され南北の往来が自由化。しかし20133月には金融危機(キプロス=ショック)が勃発するなど経済は不安定で,南北の統合も実現していません。

 なお,キプロス島南部にはイギリスが
アクロティリデケリアの基地を海外領土として領有しています。



1979年~現在のアジア  西アジア 現⑰トルコ
 1980年に軍による「9.12クーデタ」が起きますが,1983年に民政に移管。
 この時期にはイスラーム主義を掲げる政党が支持を伸ばしていきます。
 1999年にはEU加盟候補国に決定。2002年には公正発展党(AKP)が政権を獲得し,〈エルドアン〉(首相任20032014,大統領任2014~)が2000年代初め以降,国政を指導しています。
 国内のクルド人問題の解決は難航し,シリアやイラクのクルド人勢力に対する越境攻撃も行っています。
 2016年7月には軍によるクーデタが起きるも鎮圧され,市民にも死傷者が出ました(
2016年トルコにおけるクーデタ未遂)。非常事態宣言が発表され,クーデタに関与した軍人などへの大規模な粛清が実施されます。トルコ政府はクーデタの黒幕に,アメリカ合衆国に亡命中の宗教指導者〈ギュレン〉(1941~)の名を挙げています。非常事態宣言は2018年7月に解除されますが,〈エルドアン〉による体制の強化が本格化しています。
 そんな中,アメリカ合衆国がトルコ製品に対する関税引上げを発表したことがきっかけで,トルコの通貨リラの対ドル相場が急落。市民生活にも影響が出ています。


1979年~現在のアジア  西アジア 現⑱グルジア→ジョージア
グルジアは”ソ連離れ“をすすめ,「ジョージア」と改称する
 グルジア=ソビエト社会主義共和国はソ連崩壊とともにグルジア共和国として独立し,独立国家共同体(CIS)への加盟を,他のソ連構成国が足並みをそろえるなか,ただ一カ国だけ拒否します。
 グルジアでは,「グルジア人」(主要民族は
カルトヴェリ人とされました)としての民族意識が強調されていきました。

 1992年に初代大統領〈ガムサフルディア〉に代わり,かつてソ連外相も務めた〈シェワルナゼ〉が大統領に就任すると,一時的にロシアとの関係を修復し,1993年にはCISに復帰しています。しかし,のちに〈シェワルナゼ〉は同じく反ロシアの姿勢を示すアゼルバイジャンのパイプラインを誘致し,1997年にはウクライナとモルドヴァも加えて,西ヨーロッパ諸国への接近と”ロシア離れ“を加速させました。
 しかしロシア連邦はグルジアの自立の動きを食い止めようと,グルジアから事実上の独立を遂げている「
アブハジア共和国」「南オセチア共和国」を公然と支援。これらの国家は国際的に独立が広く承認されていない未承認国家であり,ロシアの後ろ盾を武器にグルジアと対立します。

 グルジアでは2003年に〈シェワルナゼ〉政権が民衆の抗議デモを受け退陣。これをバラ革命といいます。ロシアの制裁により電力供給がままならなかったグルジアの反政府勢力を支援していたのは,アメリカ合衆国です。2004年に大統領に就任した〈サアカシュヴィリ〉(任2004~07,2008~13)はアメリカ合衆国の支援を受けNATOへの加盟にも積極的。アメリカ合衆国によるミサイル配備が現実的となると,2004年にはグルジアが
南オセチア共和国(ロシアが支援)に軍事進出する自体にエスカレートします。ロシアは,国際的にはグルジアの一部であるはずの南オセチアの住民を,”ロシア国民“として扱う処置を粛々とすすめていました。2008年にはグルジアと南オセチア紛争の戦争に,ロシアも介入。ロシアによるグルジアへの軍事侵攻で緊張は一気に高まります(ロシアのグルジア侵攻)。
 その後の政権はロシアとの緊張緩和をすすめる一方,NATOへの加盟にも積極的であり,「コーカサスの十字路」に位置するジョージアは,ロシア連邦とアメリカ合衆国の戦略的な駆け引きの中心となっています。
 なお,”ロシア離れ“の一環として,日本における国名の呼び方を,「グルジア」から,英語的な「ジョージア」に改めるよう,日本政府にはたらきかけ,2015年以降は「ジョージア」が日本における正式な呼称となっています。


オセット人
 ソ連時代のグルジアでは,国内の少数民族
オセット人の自治が認められていましたが,1990年にグルジアにより自治州が廃止。これに反対したオセット人が第一次南オセチア紛争を戦いますが,グルジア領にとどまりました。
 この状況に対し,グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うロシア連邦はオセット人の独立運動を支援し,2008年にはグルジアとの第二次
南オセチア紛争へとつながります。なぜ「南」オセチアという名称かというと,オセット人の分布が,「南」のグルジアと「北」のロシア連邦側に分断されてしまっていたからです。
 承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上「
未承認国家」となっています。


アブハジア人
 グルジアがソ連から独立すると,国内のアブハジア人の自治共和国を廃止。その直後に
アブハジア人がグルジアから独立しようとする運動が起きます。
 その後,2008年グルジア軍が南オセチアを攻撃したことで2008年に南オセチア紛争(上記)が勃発。
 グルジアを通過する黒海パイプラインの利権を狙うソ連は,アブハジア人の独立運動を支援し,アブハジア共和国の建国を承認しました。承認する国はロシア連邦を含む4か国のみで,事実上「
未承認国家」となっています。



1979年~現在のアジア  西アジア 現⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 ソ連から独立した
アルメニアアゼルバイジャンの間では,アゼルバイジャン内のアルメニア人多数派地域(ナゴルノカラバフ自治州)をめぐり,ナゴルノ=カラバフ紛争も起きています。
 1991年に
アルメニア人住民を中心にナゴルノ=カラバフ共和国がアゼルバイジャンからの独立を宣言したことを発端するものです。1994年にはロシアが調停することで停戦され,2017年にはアルツァフ共和国と改称しました。しかし承認しているのは,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジア共和国と南オセチア共和国(⇒1979~現在のグルジア〔ジョージア〕),さらにモルドバからの独立を宣言する沿ドニエストル共和国のみであり,事実上の「未承認国家」となっています。





1979年~現在のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ(→南アジア),イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の周辺国は,1995年に環インド洋地域協力連合(2003年以降は環インド洋連合に改称)を設立し,加盟国間の貿易と投資の活性化を図っています。加盟国は,インド,南アフリカ,オーストラリア,モーリシャス,ケニア,シンガポール,オマーン,インドネシア,マレーシア,スリランカ,マダガスカル,モザンビーク,タンザニア,イエメン,イラン,アラブ首長国連邦,タイ,バングラデシュ,セイシェル,コモロ,ソマリアです
(注1

 インド洋では,1965年に
モルディブ共和国がイギリスから独立しています(⇒1979年~現在の南アジア)
 1814年からイギリス領となっていた
モーリシャス(マダガスカル島の東にあります)は,1968年に〈エリザベス2世〉を元首とするイギリス連邦王国モーリシャスとして独立していました。しかし1992年には共和制に移行しています(モーリシャス共和国)。
 マダガスカル島の東に位置する
レユニオン島は,フランスの領土です。
 モザンビークの北部沖に位置する
コモロ諸島はフランスの保護領でしたが,1975年にコモロ国として独立していました。独立後の政情は不安定で,1992年に複数政党制が導入されましたが,しばしば島ごとの自治を訴える政党と中央集権を目指す政党が対立しています。コモロ諸島の東部にあるマヨット島はフランスが依然として領有しています。
 
セーシェルは1976年にセーシェル共和国としてイギリスから独立しますが,1977年にセーシェル人民統一党を設立し独立運動を指導した〈ルネ〉(任1977~2004)がクーデタを起こし,反米で社会主義的な一党独裁政権を樹立しました。〈ルネ〉は観光業・水産業を振興して経済を成長させた一方,国内では強権的な支配が行われていました。1991年には複数政党制に移行し,1993年には新憲法が制定されますが,その後も〈ルネ〉は2004年まで大統領を務めました。〈ルネ〉の辞任後,後任は〈ミッシェル〉(任2004~2016)で,〈ミッシェル〉は任期満了前に〈フォール〉大統領(任2016~)に引継いでいます。

 かつては「帝国」支配の要としてインド洋の島々を勢力下に置いていた
イギリスですが,このように次第にインド洋の島々をから手を引いていったわけです。しかし,影響力を全く手放したわけではありません。イギリスは,インド洋の島々を,独立前のモーリシャスから分離し1965年からイギリス領インド洋地域として領有しています。このうちチャゴス諸島の中心であるディエゴガルシア島は,1960年代の交渉の末,アメリカ合衆国軍に貸し出されています(2)。1991年の湾岸戦争のときには多国籍軍によるイラク攻撃の基地として使用されたほか,2003年の海上自衛隊による米海軍艦艇への補給活動もディエゴガルシア島周辺で実施されました(⇒1979年~現在の西アジア イラク,東アジア 日本)
 また,
フランスは上記のレユニオン島,マヨット島のほか,インド洋南部にアムステルダム島,クロゼ諸島,ケルゲレン諸島をフランス領南方=南極地域として領有しています。

 マダガスカルでは民主化要求が高まり,1992年に国民投票によって憲法改正が承認され,国名が「マダガスカル共和国」に変更されます。1993年には〈ザフィ〉(任1993~1996)が大統領に就任し,〈ラツィラカ〉大統領(任1979~1993)の長期政権が崩壊しました。

 しかし,1997年に〈ラツィラカ〉大統領が再選(任1993~2002)。後任には実業家の〈ラヴァルマナナ〉(任2002~2009)の選挙結果を認めず,国内は混乱します。
 〈ラヴァルマナナ〉政権に対する批判を強めた,野党で首都アンタナナリボ市長の〈ラジョエリナ〉の所属するテレビ局が封鎖されたことに端を発し,反政府デモが多発。
 この混乱には〈ラヴァルマナナ〉大統領が韓国の民間企業に,農地を含む大規模な土地を無償で貸与する協定を結んだことが背景にありました。

 〈ラジョエリナ〉は軍の支持を得てクーデタを起こし,大統領(任2009~2014)に就任しました。2014年には平和的に〈ラジャオナリマンピアニナ〉政権に交替しています。

(注1)外務省,https://www.mofa.go.jp/mofaj/s_sa/sea2/id/page3_002025.html
(注2)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。







1979年~現在のアフリカ

 1970年代以降,アフリカでは“保健革命”が起き,人口が急激に増加しました(人口爆発)。その結果,食糧不足にともなう飢餓が問題化しました。過耕作や過放牧にともない,荒れ地が広がったり,砂丘が移動または拡大したりするようになった地域も少なくありません。

 アフリカでは,民族どうしが争い合っている面ばかりが注目されることが多いですが,その背景にある大国同士の利権争いや15世紀~19世紀の
黒人奴隷貿易や,19世紀末の「アフリカ分割」のといった歴史的事情も含めて理解することが必要です。

 なお,2010年代に入ると,マリ,ソマリア,ナイジェリアなどで,イスラームを掲げる暴力的な組織と民族運動が結びついたテロが発生するようになっています。

 
2011年にはアフリカ人女性として初めて〈ワンガリ=マータイ(19402011)が「持続可能な開発,民主主義と平和への貢献」によってノーベル平和賞を受賞しました。彼女は1991年に「指導者は不公平な政治経済システムこそが環境悪化と持続性のない開発モデルを促進していることをまるで理解していないようだ」と述べています。

 
2000年代に入ると,アフリカの「10億人市場」に注目する先進国・新興国企業が急増しています。全世界の年間所得が3000ドル以下の人々に向けた低所得者向けに,消費財市場を売り込もうとする,「BOPビジネス(ボトム=オブ=ピラミッド=ビジネス,経済的ピラミッドの底辺)」が盛んになっているからです。
 なお,2002年には
OAU(アフリカ統一機構【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係は関係ない】【追H20時期(1950年代か問う)】)が発展改組されて,EUを参考にしてアフリカ連合(AU)が生まれました【セH24AUがOAUに発展したわけではない】。55の国・地域が加盟する世界最大級の地域機関です()
(注)構成国は,アルジェリア,アンゴラ,ウガンダ,エジプト,エチオピア,エリトリア,ガーナ,カーボヴェルデ,ガボン,カメルーン,ガンビア,ギニア,ギニアビサウ,ケニア,コートジボワール,コモロ,コンゴ共和国,コンゴ民主共和国,サントメ=プリンシペ,ザンビア,シエラレオネ,ジブチ,ジンバブエ,スーダン,スワジランド,セーシェル,赤道ギニア,セネガル,ソマリア,タンザニア,チャド,中央アフリカ,チュニジア,トーゴ,ナイジェリアナミビア,ニジェール,ブルキナファソ,ブルンジ,ベナン,ボツワナ,マダガスカル,マラウイ,マリ,南アフリカ,南スーダン,モザンビーク,モーリシャス,モーリタニア,モロッコ,リビア,リベリア,ルワンダ,レソト,西サハラです。



1979年~現在のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

1979年~現在のアフリカ  東アフリカ ①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア

エリトリア,エチオピア
 1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア,リビアを支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけていきました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,”赤い鎌”ともいわれます)。ソ連はもともとエリトリアやソマリアを支配していましたが,外交政策を転換してエチオピアの〈メンギスツ〉政権に肩入れするようになっていきます。
 1985年にソ連で〈ゴルバチョフ〉が書記長に就任しペレストロイカが始まると,
エチオピアでも自由化を求める声が高まっていきます。1988年には〈メンギスツ〉大統領を打倒するため,ティグレ人とアフハラ人とオロモ人の組織を大同団結させたエチオピア人民革命民主政権(EPRDF)が組織され,1991年5月にこれを打倒し,〈メレス〉書記長が就任しました。新国家では各民族の権利保護がうたわれ,1993年にはエリトリアの独立を問う住民投票の結果,エリトリアはエチオピアから分離独立しました。

 エチオピアでは,暫定政府の下で新憲法が制定・公布され,1995年にはエチオピア連邦民主共和国となりました。
 1995年にオロモ人出身者が大統領に就任すると,
ティグレ人の〈メレス〉(任1995~2012)が首相に就任。エチオピア最大の民族集団のオロモ人の中からは,ティグレ人が政治・経済を牛耳っていることに反発が生まれていきます。

 1998年にはエリトリアとの国境紛争が起きますが,2000年にアフリカ統一機構 (OAU) の介入で停戦します。そのアフリカ統一機構は2002年に
アフリカ連合(AU)に発展し,本部はアディスアベバに置かれました。

 エチオピアとエリトリアは,国境をめぐり1998年から軍事的な衝突が続いていましたが,2000年に和平合意。その後,2003年には国際仲裁裁判所が帰属を争っていた地域をエリトリア領としたことで,両国間は対立していましたが,2018年に就任した
オロモ人の〈アビー〉首相(任2018~)により,同年に両国の国交は正常化されています。

ソマリア
 一方,
ソマリアでは〈バーレ〉大統領(任1969~1991)がソマリアの有力氏族の一つによる「統一ソマリ会議」いう反政府勢力によって1991年1月に追放されました。

しかし,5月には旧イギリス領であった北部が
ソマリランド共和国として独立宣言(国家承認を全く受けておらず,事実上「未承認国家」)。

 しかも「統一ソマリ会議」も分裂し,暫定大統領〈モハメド〉は〈アイディード〉将軍により首都を追放され,“三つどもえ”の構図となりました。

 〈モハメド〉が国連PKOの派遣を要請すると,アメリカ合衆国を主力とする多国籍軍(第一次国際連合ソマリア活動)が1992年に派遣され,1993年には〈ガーリ〉国連事務総長(任1992~96)の推進した「平和強制部隊」による介入(第二次国際連合ソマリア活動)が大きな犠牲を払って失敗に終わり,1995年にはPKO部隊は撤退。ソマリアはますます混迷を極めていくことになります
(映画「ブラックホーク・ダウン」は第二次国際連合ソマリア活動をアメリカ合衆国側の視点から描いたものです)

 1998年には北部プントランドの氏族も「プントランド共和国」として,自治政府の樹立を宣言。2000年代に入ると,
ジブチで和平会議が開催されて〈ハッサン〉が暫定大統領(任2000~2004)となりました。しかし,国内にはこれを認めない氏族(〈アイディード〉派やソマリランド)が残り,無政府状態の地域の沿岸では海賊が沿岸を航行するタンカーや商船を襲撃する事態が激化しました。2009年にはアメリカ商船が襲撃されています(映画「キャプテン・フィリップス」(2013米)はアメリカ商船側からこの「マースク・アラバマ号」の襲撃事件を描いたものです)。また,2002年に南の隣国ケニアでテロが起きると,ソマリアのイスラーム過激派組織が首謀したのではないかという疑いも生まれました。
 そんな中,首都モガディシュが危険な状態であったためにケニアのナイロビで開催された和平会議で,〈ハッサン〉の後任にプントランド共和国の大統領〈ユスフ〉(任2004~2008)が就任し,ソマリランドを除くソマリアの有力勢力によって暫定連邦政府が樹立されました。しかし,ケニアで成立した暫定政府にはソマリアを統治するだけの実力がなく,2006年には
イスラム法廷会議(1994年成立)が首都であるモガディシュを占領。イスラム法廷会議の勢力拡大を恐れたエチオピアは,ソマリアに軍事進出し,イスラム法廷会議をイスラーム過激派のアル=カーイダの関連組織とするアメリカ合衆国も,エチオピアの動きを支持しました。2007年にはイスラム法廷会議は掃討され,エチオピアは2009年にソマリアを撤退しました。
 2009年には元イスラム法廷会議議長の〈シェイク=シャリフ=シェイク=アフマド〉(任2009~12)が大統領に就任し,国内の諸勢力の融和に努めましたが。しかしイスラム法廷会議のメンバー内部の急進派は,イスラーム過激派の
アル=シャバブに合流し,反政府活動やテロ活動(2013年にケニアのショッピングモールを襲撃,2015年にはケニアの大学を襲撃)を行っています。アル=シャバブは2008年以降ソマリア南部での支配領域を拡大し,2011年以降はケニアとソマリア暫定連邦政府が共同でアル=シャバブと戦いました。ソマリア暫定連邦政府は2012年にソマリア連邦共和国となり,〈ハッサン=シェイク=モハマド〉(任2012~17)が大統領に選出され,国際的にも認められました。後任は2017年から〈モハメド=アブドゥライ=モハメド〉(任2017~)が務め,アル=シャバブの鎮圧をおこなっています。

ジブチ
 紅海の出口に位置するジブチは,アフリカ大陸とユーラシア大陸を結ぶ交通の要衝です。
 ジブチ(旧称「アファル=イッサ」(1967~1977))は,1977年にフランスから独立を果たしますが,ソマリ系のイッサ人とエチオピア系のアファル人の対立が1991年に内戦に発展(
ジブチ内戦)。イッサ人の〈グレド〉大統領(任1977~1999)は強権的な手法で長期政権を維持します。
 後任の〈ゲレ〉大統領(任1999~)の下で内戦は2001年に終結。
 隣国のエリトリアとの間に国境紛争を抱えています。
 なお,2010年代以降,一帯一路構想を打ち出す中華人民共和国がジブチへの経済的・軍事的な進出を強めています
(注)
)’ Djibouti risks dependence on Chinese largesse,The Economist,2018.7 (https://www.economist.com/middle-east-and-africa/2018/07/19/djibouti-risks-dependence-on-chinese-largesse)

 なお2011年には東アフリカを記録的な旱魃が襲いソマリアケニアエチオピアでは大きな被害が出ています。



1979年~現在のアフリカ  東アフリカ ⑤ケニア
 1978年にキクユ人で“独立の父”〈
ケニヤッタ〉(1893~1978)が亡くなると,第二代大統領に副大統領〈モイ〉(1924~)が昇格しました。彼は野党に対する圧力を強め,キクユ人を排除して自らの出身であるカレンジン人を優遇し,アメリカ合衆国を初めとする西側諸国と軍部に接近しました。1982年以降,ケニア=アフリカ民族同盟(KANU)による一党国家の体制となっていましたが,1992年には複数政党制選挙が復活されました。しかし野党が分裂したため,〈モイ〉はこの選挙と1997年の選挙で再選しました。
 2002年にはKANUから離脱したグループと野党が結集(ナショナル=レインボー=コアリション,NARC)して,〈
キバキ〉(任2002~)が第三代大統領に当選し,政府の腐敗を一掃する政策を実施します。しかし,2007年の大統領選挙では〈キバキ〉の再選に不正があったとする野党の主張が暴動に発展し,野党オレンジ民主運動(ODM)率いるルオ人の〈オディンガ〉派との抗争に発展しました(ケニア危機,2007年選挙後暴力)。この中で,初代大統領〈ケニヤッタ〉の出自であるキクユ人をねらう農村部の焼き討ちや,キクユ人青年組織を名乗る団体による非キクユ人に対する報復も首都ナイロビや一部の地域で行われました()
 〈アナン〉前国連事務総長とタンザニア連合共和国の〈キクウェテ〉大統領(任2005~15アフリカ連合議長を兼任)の調停により,〈オディンガ〉を新たに設置した首相職に就けることで〈キバキ〉大統領との和平が成立し,与党の国家統一党(PNU)と,オレンジ民主運動(ODM)の連立政権が樹立されました。
(注)津田みわ「「2007年選挙後暴力」後のケニア―暫定憲法枠組みの成立と課題」『アフリカレポートNo.50』2010年,p.10。
 2010年代に入ると,無政府状態に陥った隣国ソマリアから過激派がケニア国内でテロ活動を行うようになり,イスラーム過激派組織のアル=シャバブの掃討作戦もおこなわれています
(⇒1979~現在の東アフリカ エチオピア,ソマリア,ジブチ,エリトリア)



1979年~現在のアフリカ  東アフリカ ⑥タンザニア
 1978年にウガンダの〈アミン〉大統領がタンザニアを攻撃したため,
ウガンダ=タンザニア戦争(1978~79)が始まり,ウガンダの首都カンパラはタンザニアに占領され,〈アミン〉のタンザニアは敗北しました。
 1970年代には建国期に多数建設されたウジャマー村における農業の失敗が報告されるようになり,1980年代以降には〈
ニエレレ〉大統領(任1964~1985)に対する批判も強まりました。
 1985年に〈ニエレレ〉大統領が退任すると,与党タンザニア革命党でザンジバル出身の〈
ムウィニ〉(任1985~1995)が大統領に就任し,〈ニエレレ〉によるウジャマー社会主義の見直しを図り,複数政党制も導入しました。次の〈ムカパ〉大統領(任1995~2005)もタンザニア革命党から出て,外資を導入して経済成長に努めましたが,任期中の1998年には首都ダルエスサラームにあったアメリカ合衆国大使館爆破事件が起き,国際テロ組織アル=カーイダの犯行とされました。2005年には与党タンザニア革命党の〈キクウェテ〉(任2005~2015)が当選し,2008~2009年にはアフリカ連合の議長も務めて,隣国ケニアで起きた2007年選挙後の暴動の調停に当たりました。2015年にはタンザニア革命党の〈マグフリ〉(任2015~)が就任し,汚職撲滅などの政策をすすめています。



1979年~現在のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 
ブルンジでは1976年以降,クーデタで政権を握った軍人〈バガザ〉(大統領任1976~1987)による独裁体制がしかれ,ツチ人が優遇されました。しかし,1987年のクーデタで軍人〈ブヨヤ〉が政権を奪い,大統領に就任(任1987~1993)すると,フツ人も内閣に参加させるなど,ツチ人・フツ人の融和に努めます。しかし,1993年の選挙でフツ人の〈ンダダイエ〉が大統領に当選し,フツ人主体の国づくりを進めようとすると,同年にツチ人の過激派によって暗殺され,ブルンジは内戦状態に陥ります。これをみた〈ブヨヤ〉は1996年にクーデタで政権を握り,フツ人の〈ンティバントゥンガニャ〉大統領(任1994~96)に代わって暫定大統領(暫定1996~98,正式98~2003)に就任しました。混乱は継続しましたが,2000年にはタンザニアのアルーシャでの和平協定にこぎつけ,フツ人勢力と妥協する形で暫定政府が2001年に発足し,規定通り2003年にはフツ人の〈ンダイゼイエ〉(任2003~2005)が大統領となりました。2005年には内戦終結後初の民主的な選挙でフツ人の〈ンクルンジザ〉(任2005~)が当選しています。

 
ルワンダでは軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしいていました。〈ハビャリマナ〉政権は次第にツチ人に対する抑圧を強め,1990年~1993年にはツチ人主体のルワンダ愛国戦線 (RPF) と政府軍との間に内戦が始まりました(ルワンダ内戦)。〈ハビャリマナ〉はフツ人主体の民兵インテラハムウェを組織し,軍事支援をしていました。
 1993年にいったん和平協定が結ばれましたが,1994年に〈ハビャリマナ〉が乗った飛行機がミサイルによる攻撃を受け,隣国のブルンジの〈ヌタリャミラ〉大統領とともに墜落死すると,
1990年から94年にかけて,ルワンダツチ人フツ人の対立が激化し,ツチ人が虐殺される事態に発展しました(ルワンダ内戦【セH30年代を問う】)(映画「ホテルルワンダ」(英・伊・南ア2004)にはフツ人の軍指導者〈ビジムング〉も登場します)。しかし,その後に民族間の融和につとめ,2000年代に入ると安定し,経済発展にも成功しました。


1979年~現在のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ①モザンビーク
 アフリカ南東部の
モザンビークでは,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をとる南アフリカやローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続いていました(モザンビーク内戦)。1989年に社会主義政権が崩壊し,1994年に国連モザンビーク活動が監視下の総選挙でFRELIMOが勝利し,政権を獲得しました。低開発が続いており,高いHIVAIDS・乳児死亡率や低い識字率の克服が課題とされています。



1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ④南アフリカ共和国
 
南アフリカでは1948年以降,黒人(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)やアジア人(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は“名誉白人”扱いをされていました),カラード(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され,白人(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
 1980年代に入ってアパルトヘイトへの反対運動が活発化し,南アフリカ政府は国際的な経済制裁を受けるようになりました。これを受け〈ボータ〉政権は1985年に雑婚禁止法,背徳法,分離施設法を廃止,1986年にパス法を廃止しますが,根本的な改革には至りません。
 しかし,1989年に就任した〈
デクラーク【セH17エンクルマではない】【追H30エンクルマではない】政権はアパルトヘイトの廃止に向け動き出し,まず1990年にアフリカ民族会議(ANC) 【追H30民族解放戦線ではない】や南アフリカ共産党を合法化し,〈マンデラ〉【東京H25[3]】を釈放します。
 さらに1991年に
アパルトヘイト【東京H7[3]】の廃止を宣言し,人種登録法・原住民土地法・集団地域法を廃止しました【セH29試行 白豪主義の撤廃はアパルトヘイト撤廃による影響ではない】。かつて反政府運動を行っていた〈マンデラ〉と〈デクラーク〉大統領は1993年にノーベル平和賞を受賞(受賞演説において運動家〈スティーヴ=ビコ〉の名が挙げられています(19531979のアフリカ 南アフリカ))1994年には黒人でアフリカ民族会議の〈マンデラ(199499) 【東京H25[3]】が大統領に就いています。
 しかし,改革は決して平坦なものではなく,人種間の不平等を解消する政策も行き詰まり,アフリカ民族会議の〈ムベキ〉大統領(任1999~2008)下でも黒人の高い失業率や,エイズの高い感染率はつづいています。しかし経済成長は順調で,2000年代前半にはBRICsの一つに挙げられるほどになりました。2008年には汚職疑惑を受け,副大統領の〈ズマ〉(2009~2018)が大統領に就任。しかし2018年には汚職疑惑で起訴され辞任しました。


1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ⑤ナミビア
 南アフリカの事実上の支配下にあった
ナミビアは,1988年に南アフリカにより独立に向けた動きがようやく認められました。1989年から国連の監視下で独立準備が始まり,同年の総選挙で南西アフリカ人民機構(SWAPO)が過半数を獲得し,1990年に独立しました。ナミビアはイギリス連邦に加盟しています。


1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ⑥ザンビア
 ザンビア共和国は1964年の独立以来,一党制を維持してきました。1970年代後半より銅の国際価格が低迷し,銅輸出に依存する経済は打撃を受けます。1990年に複数政党制に移行しました。経済的にはアフリカ大陸では高いレベルにあります。
 新たに与党となった複数政党制民主主義運動の〈チルバ〉大統領(任1991~2001)は外資を導入した自由化を進めましたが,汚職が発覚するとクーデタ未遂も起きて内政は混乱します。後継には副大統領の〈ムワナワサ〉(任2002~2008)が就任。2006年大統領選挙でも,銅産業に関わる中国人労働者・企業の排斥を唱える野党〈サタ〉候補を破りますが,2期目の途中で病死しました。
 その後,2011年には愛国戦線の〈サタ〉(任2011~14)が大統領に就任しますが,在任中に死去。その後は,〈サタ〉政権の閣僚であった〈ルング〉(任2015~)が大統領に就任しています。



1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ⑦マラウィ
 マラウィ共和国では,西側諸国との友好関係を背景に,〈バンダ〉による一党独裁制による長期政権が続いていました。しかし,1992年に政権への批判が暴動に発展し,1993年に複数政党制への移行を問う国民投票がおこなわれ,可決。1994年の選挙で南部中心の統一民主戦線(UDF)の〈ムルジ〉(任1994~1999,マラウィでは少数派のイスラーム教徒)が勝利して,第二代大統領に就任しました。しかし放漫な財政はなくなっていません(200年にベンツを39台購入
())。〈ムルジ〉は二期を務めて退任,後継は第三代〈ムタリカ〉(任2004~2012)となります。2001年にマラウィを記録的な飢饉が襲い,2005年にも干魃による被害を受けます。この時,被害を目の当たりにした少年〈ウィリアム=カムクワンバ〉(1987~)は,手作りで風力発電の機器を発明したことで世界的に知られています。
 〈ムタリカ〉は新党DPP(民主進歩党)を結成し汚職追放を唱えますが,2010年に女性副大統領の〈バンダ〉と対立,〈バンダ〉は新党である人民党を設立し,〈ムタリカ〉死去のため大統領に昇格しました(任2012~2014)。2014年からは民主進歩党の〈ムタリカ〉政権となっています。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.68



1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ⑧ジンバブエ
 
1965年に独立したローデシアは少数の白人による政権が続き,同じくアパルトヘイト政策を進めていた南アフリカとともに“反共産主義”を掲げて西側(資本主義)諸国と良好な関係を維持しました。1980年に〈ムガベ〉が首相(19802017)に就任し,ジンバブエ共和国と改名しました。白人が所有する土地を接収することで農地改革をしようとしましたがなかなか実行されず,経済も混乱して2000年以降はインフレ率200万%超(2008年)という未曾有のハイパー=インフレが発生しました。後継をめぐる対立を背景に,〈ムガベ〉(1924~)は2017年に国防軍のクーデタを受けて退任し,〈ムナンガグワ〉第一副大統領が大統領に昇格しています。



1979年~現在のアフリカ  南アフリカ ⑨ボツワナ
 初代大統領〈カーマ〉(位1966~80)は近隣の南アフリカやローデシア(現ジンバブエ)とは異なり人種差別に反対する政策をとりながら,南アフリカ資本を導入しつつ国内のダイヤモンド鉱山を開発し,収益をインフラや教育などに振り向けることで経済成長の実現に成功しました。政治的には複数政党制をとり,議会制民主主義を維持しました。
 1980年には南部アフリカ開発調整会議(のちのSADCC(南部アフリカ開発共同体,1992~))を立ち上げ,南アフリカからの経済的な自立を目指し,本部をボツワナの首都ハボローネに置きました。〈カーマ〉の死後も平和的な政権委譲が続き,経済成長も続いています。


1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現チャド
 チャドは北部のイスラーム住民による反政府運動が,北部のウラン鉱山(
アオゾウ地帯)をねらうリビアの介入と結びつき,内戦がリビアとチャドの戦闘に発展していました。1975年に初代大統領が暗殺され,軍事政権が成立しましたが,反政府勢力を含めた暫定政権が1979年に立てられると,南北の和平が進みます。元・反政府勢力であった〈ハブレ〉(任1982~90)の下で,1981年にリビアはチャドから撤退し,大統領に就任して権力を強めました。その後も北部をめぐるリビアとの戦闘は続きましたが,フランスが日本のトヨタ製の自動車をチャド側に援助した,いわゆる「トヨタ戦争」によりリビアとの休戦がなり,1988年にはリビアとの国交を回復させました。
 反〈ハブレ〉派の〈デビ〉(大統領任1990~)は,リビアの支援を受けてスーダンで反政府組織「愛国救済運動」を立ち上げ,1990年には〈ハブレ〉を追放して自ら大統領に就任しました。
 2000年代に入ると,隣国スーダン西部で
ダルフール紛争が激化すると,難民が大量に流入し,両国の関係は悪化。2005~2010年には,スーダンの支援する反政府勢力との内戦が起きますが,フランスの支持を得ている〈デビ〉大統領は政権を維持しています。



1979年~現在のアフリカ 中央アフリカ 現中央アフリカ
 1979年にクーデタが起きて中央アフリカ帝国は崩壊し,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。しかし1981年のクーデタで〈ダッコ〉は国外に亡命。軍人〈コリンバ〉政権(任1981~1993)は1993年の選挙で落選し,〈パタセ〉(任1993~2003)が大統領に就任しますが内戦となり,1998年には国連の介入を受けています。
 ところが,2003年には,隣国チャドの〈デビ〉大統領の支援を受けた〈ボジゼ〉(任2003~13)がクーデタで大統領に就任します。しかし,2012年に反政府勢力の攻勢により〈ボジゼ〉は国外脱出,イスラーム教徒としては中央アフリカ共和国で初となる〈ジョトディア〉大統領(任2013~14)による軍事政権となりました。しかし首都ではイスラーム教徒とキリスト教徒の対立が高まる中,混乱収拾のためにキリスト教徒で,中央アフリカ共和国で初の女性元首となる〈パンザ〉(任2014~2016)が大統領に就任。フランス主体のPKO部隊派遣による治安維持を進めました。次の〈トゥアデラ〉大統領(任2016~)も,反政府勢力の武装解除を進めています。



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ コンゴ民主共和国(現在)
 中央アフリカの③
ザイール(1971年にコンゴ民主共和国から改名。改名の経緯については⇒1953~1979の中央アフリカを参照)では,クーデタで一党独裁体制を確立した〈モブツ〉(1930~1997)が中華人民共和国との提携を進め,中華人民共和国との関係の悪化していたソ連や,ソ連と提携していたリビアと敵対する政策をとりました。
 1996年に〈モブツ〉の体調が悪化すると,隣国で起きていた
ルワンダ内戦の影響がザイールにも及びます。ルワンダ内戦に敗れコンゴに逃げ込んだフツ人を掃討するため,ルワンダのツチ人の政権がザイール国内(東部に古くから分布)のツチ人を「バニャムレンゲ」として組織して反乱を起こさせ,首都キンシャサに向かわせたのです。反乱を指揮した〈カビラ〉は第3代大統領(任1997~2001)に就任し国名をコンゴ民主共和国に戻しましたが,「バニャムレンゲ」を排除する政策をとったことからツチ人が政権を握る国家(ルワンダ,ウガンダ)から批判が高まり,コンゴの豊富な天然資源の利権もめぐる周辺諸国や先進国の思惑も重なって第二次コンゴ内戦(1998~2003)が勃発しました。その間,〈カビラ〉大統領は2001年に暗殺されています。



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現アンゴラ
 1975年の独立後から続いていた
アンゴラ内戦は,豊富な鉱産資源をねらうアフリカ諸国やアメリカ,中国,ソ連,キューバ,南アフリカなどを巻き込む熾烈な代理戦争と化していました。1991年にようやく和平合意が成り,1992年の総選挙でMPLA(旧東側諸国が支持)が勝利しましたが,ダイヤモンド商社デ=ビアス社と結びついた反政府勢力UNITA(かつてアメリカ合衆国や南アフリカから支援を受けて成長していました)の〈ザヴィンビ〉が内戦を再開。MPLA政府は民間軍事会社と契約をしてUNITAの掃討作戦を展開し,1994年にルサカ合意で停戦となりました。しかし,かつて旧ソ連やキューバの支援を受けていたMPLA政府が有利になることを嫌ったアメリカ政府は国連の介入を主張して国連平和維持活動(PKO)が開始されました。しかし結果として内戦は長期化することになります。
 この間,ダイヤモンド鉱山を握ったUNITAから流れた“
紛争ダイヤモンド”の多くが,デ=ビアス社から世界各地の市場に流れました。2002年に〈ザヴィンビ〉が亡くなると休戦し,ここに41年間の内戦が終結します。また,UNITAを掃討した民間軍事会社(PMC)は,かつての南アフリカ共和国の国防軍の元兵士や武器を利用して構成されたもので,のちに西アフリカのシエラレオネ内戦(1991~2002)でも投入されました(⇒1979~現在の西アフリカ)。このような戦争に従事する民間企業の存在は,国際社会でも問題視されるようになっています。



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現コンゴ共和国
 独立後のコンゴ共和国は,マルクス=レーニン主義(共産主義)を採用して1969年に「コンゴ人民共和国」と改名していました。しかし,クーデタが起き軍事政権が成立すると,権力闘争の末に〈サスヌゲソ〉が大統領に就任(1979~92)しました。〈サスヌゲソ〉は西側諸国に接近する政策をとり,1991年には社会主義路線を改め「コンゴ人民共和国」を「コンゴ共和国」に改名。しかし,1992年の選挙で野党〈リスバ〉(大統領任1992~97)に敗れると,〈リスバ〉派と〈サスヌゲソ〉派との間の内戦に発展します。
 第一次内戦は1995年に和平合意によっていったん終結しましたが,1997年に再開され〈サスヌゲソ〉派が勝利。1997年に大統領に就任し,現在に至ります。



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現ガボン
 ガボンでは初代大統領〈ムバ〉(任1961~67)を継いだ〈オンディンバ〉(任1967~2009)が2009年まで長期政権を維持しました。後任には,息子の〈オンディンバ〉が就任しています。


1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現サントメ=プリンシペ
 
1975年にポルトガルから独立したサントメ=プリンシペでは,初代大統領〈コスタ〉(任1975~1991)の下で,社会主義国に接近した国づくりを進めます。しかし経済が行き詰まると,西側諸国に接近し,1990年には国民投票により複数政党制に移行し,1991年に野党が勝利して一党独裁体制は終わりました。〈トロボアダ〉大統領(任1991~2001)は1995年のクーデタで一時打倒されましたが,実業家の〈メネセズ〉が後任(任2001~2011)となりました。その後〈コスタ〉が再任(任2011~16)し,2016年の選挙で〈カルバリョ〉(任2016~)が当選しました(〈コスタ〉側の不正選挙が疑われましたが,決選投票で〈カルバリョ〉が当選し,平和的に権限が委譲されました)



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現赤道ギニア
 赤道ギニア
の大統領〈ンゲマ〉は1979年のクーデタで処刑され,甥の〈ンゲマ〉が大統領に就任して軍事政権を始めましたが,不安定な情勢が続きます。1991年には複数政党制を定める憲法が定められましたが,1993年の選挙では与党が勝利し,野党に対する弾圧は続きました。しかし〈ンゲマ〉(任1979~)は依然として政権を維持し続けています。1992年にはビオコ島で原油の採掘が始まって産油国となり,2017年には石油輸出国機構(OPEC)(注)に加盟していますが,国民の所得格差はきわめて高い水準となっています。
(注)OPEC加盟国は,イラク,イラン,クウェート,サウジアラビア,ベネスエラの原加盟国(1960)に加え,カタール(1961),リビア(1962),アラブ首長国連邦(1967),アルジェリア(1969),ナイジェリア(1971),アンゴラ(2007),エクアドル(2007,以前1973~93に加盟),ガボン(2016,以前1975~95に加盟),赤道ギニア(2017)。インドネシアは1962加盟・2008脱退,2016加盟・脱退。



1979年~現在のアフリカ  中央アフリカ 現カメルーン
 〈アヒジョ〉大統領(任1960~82)は一党支配制を築き上げましたが,1982年に辞任。後任の〈ビヤ〉大統領(任1982~)の政権が続いています。カメルーンは従来は農産物の輸出に依存していましたが,1970年代後半からは原油の採掘も始まり,経済を支えるようになっています。



1979年~現在の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
 2014年にギニア,リベリア,シエラレオネでエボラ出血熱の大流行(パンデミック)が起き,世界保健機関(WHO)の発表では合わせて約1万人が死亡する事態に発展しました。ギニア南東部に端を発したとされ,医療インフラが乏しいことや,葬儀の風習(注)なども関係し,爆発的な感染拡大をみました。
(注)加藤康幸「1)エボラ出血熱:西アフリカにおける過去最大の流行」『日本内科学会雑誌』106(3),p.405~408, 2017。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ①ニジェール
 ①ニジェールでは1974年のクーデタ以降〈クンチェ〉陸軍参謀長による軍事政権(197487まで実権)が続いていましが,1987年に彼が亡くなると〈セブ〉(19871989まで実権,大統領任19891993)が民主的な新憲法に基づき大統領に就任しました。しかし,国内にはトゥアレグ人が中央政府の政治・経済の独占に対し反発を強め,1995年に和平が合意されるまで反政府運動が続きました。1990年に複数政党制が導入され,1993年に野党連合が勝利し,大統領には野党の〈ウスマン〉(199396)が当選しました。しかし軍のクーデタ(1996)と民政移管(1996),再度のクーデタ(1999)が繰り返され,野党勢力の〈ママドゥ〉大統領が就任(19992010)し民政移管が成りました。しかし政情は不安定であり,2000年代初めのサバクトビバッタの大発生と食糧危機が深刻化すると,2010年には再度軍のクーデタが起き,憲法が停止されました。2011年に左派の〈イスフ〉大統領(2011)が選出されています。



1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現②ナイジェリア
 
ナイジェリアでは断続的に軍政が続いていましたが,1999年に民政移管が行われました。しかし,軍に影響力を及ぼしてきた北部の勢力は民政移管された政府との対立を深め,南部のニジェール川下流域でも反政府組織が支持を集めるようになりました。
 ニジェール川下流の三角州地帯での油田開発は,国庫に富をもたらしている反面,環境破壊の悪化や国民への再配分の失敗などから,政府に対する住民の不満が高まっているのです。
 イスラーム過激派組織である
ボコ=ハラムも,過激な反政府勢力の受け皿の一つとなり,国際テロ組織のアル=カーイダやイスラーム国との関連を示唆しながらナイジェリア北部での影響力を増しています。特にボコ=ハラムは西洋式の教育の弊害を指摘し,キリスト教の集落や女子教育施設(2014に発生。に2016年以降,一部の生徒が解放されています)を襲撃するなどの凶行におよんでいます。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現③ベナン,④トーゴ
 ③ベナン(英語名はベニン)は,1960年の独立当初の「ダホメー(ダオメー)共和国」から1975年にベナン人民共和国と改称し,中華人民共和国に接近して社会主義国家を建設しようとしました。しかし,1990年には国際情勢に合わせてベナン共和国に戻し,複数政党制が導入されました。
 
トーゴではクーデタ後の軍事政権から,1979年に民政移管されましたが,1991年にクーデタが再発します。1993年に複数政党制の下で,かつて1967年にクーデタを起こした〈エヤデマ〉が大統領(19352005,任19672005)に選出され,野党の抵抗を受けながらも長期に渡り影響力を残し続けます。後継には息子の〈エヤデマ〉(2005,2005)が就任し,事実上の世襲となっています。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  現⑤ガーナ
 ⑤ガーナは,輸出の大部分をチョコレートの原料であるカカオに依存していましたが,工業化計画に失敗して財政が悪化し,その資金確保のためにカカオの政府買上げ価格を低く設定したことで,生産が停滞してしまいます。コートジボワールは,価格政策に成功し,カカオの生産量・輸出量はガーナを抜きました。
 2010年代以降,沿岸で油田が発見されたことを受け,高い経済成長率を記録しています。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑥コートジボワール
 ⑥コートジボワールでは〈ボワニ〉大統領(19601993)の下で長期にわたる政権が維持され,経済発展が実現されました。彼の死去にともない〈ベディエ〉(19931999)が後任となりますが,1999年に軍がクーデタを起こし元参謀長〈ゲイ〉が大統領(19992000)が就任。強権的な支配に対して反政府運動が起き野党の〈バグボ〉(20002011)が大統領に就任しました。
 しかし,2003年に軍を主体とする反政府組織が反乱を起こすとコートジボワール内戦に発展。停戦が合意されましたが,2010年の大統領選挙をきっかけに,〈ワタラ〉大統領(2010)も大統領就任を宣言する二重政府状態となり,再度内戦に突入。〈バグボ〉派は〈ワタラ〉がブルキナファソ生まれなので「“純粋”なコートジボワール人ではない」から「大統領になる資格がない」と主張したのです。この内戦は2011年まで続きました。



1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑦リベリア,⑧シエラレオネ
 ⑦リベリアでは1980年に先住民出身の軍人によるクーデタが起き,主導したクラン人出身の〈ドウ〉(198690)が,アメリカ系黒人の政権を倒して,大統領に就任しました。彼は反対派の他民族(ギオ人やマノ人など)を掃討しつつ実権を握ったため,反政府組織「リベリア国民愛国戦線(NPFL)」との内戦がはじまりました。愛国戦線のリーダーは,ギオ人とアメリカ系黒人の子として生まれた〈チャールズ=テーラー〉(1948~,大統領任19972003)です。彼は,ギオ人やマノ人とともに,〈ドウ〉のクラン人政権と戦い,結局1990年に〈ドウ〉大統領は処刑されました。
 この
第一次リベリア内戦には,隣国の⑧シエラレオネの反政府組織〈サンコー〉の指導する統一革命戦線(RUF,アールユーエフ)も提携し,ガーナやナイジェリアなどの西アフリカ諸国の多国籍部隊も介入したため,もはやリベリア一国の問題ではなくなります。内戦には多くの少年兵が用いられ,戦争終結後にも深い心の傷を残すことになります。シエラレオネのRUF政権からリベリアに密輸されたダイヤモンドは,「リベリア産」として国際市場に出回り,見返りとして自動小銃AK-47(カラシニコフ,子どもでも扱えるほどの操作性・携帯性・耐久性を備え,史上最悪の発明品,大量殺戮兵器ともいわれます。1947年にソ連の〈カラシニコフ〉により発明され,20世紀後半に世界各地に出回り,特にゲリラ戦で用いられました)に代表される武器がシエラレオネの反政府勢力に供与され,少年兵の手に渡りました。こうしたダイヤモンドは”血のダイヤモンド(ブラッドダイヤモンド)と呼ばれ,アメリカ合衆国はのちにリベリア産ダイヤモンドの禁輸措置をとっています。
 1997年に〈テーラー〉が大統領に就任しましたが,彼の頭を支配していたのは,シエラレオネ東部のリベリア国境付近にあるダイヤモンドの利権と,国庫の私物化でした。反政府勢力が再び2003年に首都を攻撃し,
第二次リベリア内戦が勃発しました。反政府軍をアメリカ合衆国が支援する形で,国際連合安全保障理事会によりリベリア行動党の暫定政権が建てられました(〈テーラー〉はナイジェリアに国の資金を持ち逃げして亡命)2005年におこなわれた選挙では,国連開発計画(UNEP)のアフリカ局長を務めた〈サーリーフ(1938~,200620182011年にノーベル平和賞を受賞しました)が,アフリカ大陸では初めた選挙によって大統領となった女性となりました。彼女の下で〈テーラー〉元大統領がオランダの国際刑事裁判所シエラレオネ国際戦犯法廷で裁かれ,2012年に有罪判決が出されています。
 なお,2018年の選挙では元・国民的サッカー選手〈ウェア〉(2018)が後を継いでいます。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑨ギニア,⑩ギニアビサウ
 ⑨ギニアはボーキサイトやダイヤモンドを初めとする鉱産資源の輸出が主要産業で,経済発展は遅れています。
 1979年に独立の父〈
セク=トゥーレ(19581979)が亡くなると,軍人〈コンテ〉(19842008)は無血クーデタを実施し後任となり,長期政権を維持しました。2008年に政権をクーデタで奪った軍人〈カマラ〉(20082009)2009年に部下による銃撃を受けて退任し,暫定政権に移行しましたが,2010年にはギニア史上初の民主的な選挙で〈コンデ〉が当選しました。
 ⑩
ギニアビサウは,1974年にポルトガルから独立すると,沖合のカーボベルデ(やはりポルトガルから独立)との独立を計画しましたが,かないませんでした。長らく軍事政権が続きましたが,1991年に複数政党制に移行し,1994年の大統領選挙で〈ヴィエイラ〉(198084,8499)が大統領に就任しました。しかし,1998年以降は反政府派との間に内戦が勃発し,〈ヴィエイラ〉は辞任。その後も軍の影響力は残され混乱しますが,2005年の〈ヴィエイラ〉(200509)が帰国して大統領に再任します。しかし,その後も首脳への攻撃やクーデタが多発し,以前として不安定な情勢となっています。



1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑪セネガル,⑫ガンビア
 ⑪セネガルでは親西欧(フランス)路線をとっていた建国の父〈サンゴール(196080)から,第2代〈ディウフ〉(19802000)に平和的に政権が移行しました。1982年には,領土がセネガルに取り囲まれた形になっている旧イギリス植民地の⑫ガンビアとの国家連合(セネガンビア国家連合)が実現しましたが,言語問題などの関係悪化にともない1989年に解消されました。〈ディウフ〉以降も,〈ワッド〉(200012),〈サル〉(2012)と,安定的な政権交代が続いています。



1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑬モーリタニア
 ⑬モーリタニアは1975年に西サハラの領有を主張し,アルジェリアの支援するポリサリオ戦線(モロッコ南部の西サハラ独立派)と戦いますが,軍部がクーデタを起こし〈ダッダ〉大統領(196078)は失脚しました。1979年にはポリサリオ戦線と和平を結び,手を引いています。
 1984年にはクーデタで軍事政権となりますが,政権をとった〈タヤ〉大統領(19842005)の長期政権が続きます。2005年にクーデタで〈タヤ〉政権は倒れた後も,クーデタが続く不安定な情勢です。



1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑭マリ
 ⑭マリ共和国の独立にともない,トゥアレグ人がニジェールやアルジェリアなどの国民国家に分断されてしまったため,統一をのぞむ運動が断続的に起きていました。
 1968年に成立した軍事政権は1979年に民政移管されましたが,再度クーデタが起きています。1992年の大統領選挙で軍政は終わりますが,トゥアレグ人の独立運動は続き,2011年の
リビア内戦の結果,リビアの保有していた兵器・兵員がサハラ地域に拡散したことから,地域が一気に不安定化し,2012年以降はマリ北部で遊牧生活を送るトゥアレグ人による反乱が起きました。同年には軍事クーデタも起きる中,北部の3州が独立宣言を発表し,アル=カーイダ系イスラーム過激派のアンサル=ディーンがトゥンブクトゥにあるジンガレイベル=モスクなどが破壊されました。この事態を受け,フランスは軍事介入を実施しています。


1979年~現在のアフリカ  西アフリカ  ⑮ブルキナファソ
 ⑮ブルキナファソ(当時の濃く見えはオート=ボルタ共和国)では軍事政権が続いていましたが,1983年に〈サンカラ〉(任1983~87)が大統領に就任すると,社会主義国家の建設を目指し,種々の改革をしました。彼は国名を「ブルキナ=ファソ」(清廉潔白な人々の国)に変更し,国民の人気を博しました。しかし1987年のクーデタで〈コンパオレ〉が実権を握ると,社会主義路線を修正し,1992年には複数政党制による選挙で大統領(任1987~2014)に選出され,長期政権を実現しました。しかし,2014年に反政府運動が盛り上がるとクーデタにより政権は倒れ,〈コンパオレ〉は辞任し国内に逃れます。同年には元外務大臣による暫定政府が樹立されますが,この動きに反対する勢力による攻撃を克服し,2015年には〈カボレ〉大統領(任2015~)が選出され,内戦の危機は回避されています。



1979年~現在のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

1979年~現在のアフリカ  北アフリカ  ①エジプト
 エジプト=アラブ共和国では,〈ナーセル〉大統領の後任〈サーダート〉(任1970~81)がイスラエル寄りの政策をおこない,1979年にイスラエル国交正常化を行いました。それに対し急進的なイスラーム組織であるジハード団は1981年に〈サーダート〉を暗殺しました。

 代わって就任した〈ムバーラク〉(任1981~2011)は強権的な手法で長期独裁政権を維持し,“ファラオ”の異名を持ちました。1982年にシナイ半島がイスラエルから返還され,西側諸国と接近しつつ東側諸国,アラブ諸国との関係改善にも取り組むと,1990年には除名されていた
アラブ連盟に復帰しました。
 しかし湾岸戦争が起きるとエジプトはアメリカ合衆国を主体とする多国籍軍に参加し,イラクを攻撃し,2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降はイスラーム過激派に対する弾圧にも協力しました。〈ムバラク〉政権下では外資が積極的に導入され,国内総生産が上昇して中間層が育っていました。一方で,国民の権利や福祉は軽視され〈ムバラク〉大統領の周りにはコネによる人事がはびこり,国民による不満は高まっていました。貧困率は1990年の21%から1995年には44%に,2003/04年度の失業率は9.85%で,優秀な大卒者でもコネがなければ就職できないという雇用慣行から,人口の増加する15~25歳の若年層の失業者は3人に1人
(注)
(注)山口直彦『エジプト近現代史―ムハンマド=アリ朝成立から現在までの200年』明石書店,2006,p.339。

 こうした若年人口の相対的増加(ユース=バルジ)と閉塞感が広まりを見せる中,2010年12月に
チュニジアで始まったジャスミン革命と呼ばれることになる反政府運動が起きました。
 これに刺激を受け,エジプトでも政権に批判的な国民たちが
SNS(ソーシャル=ネットワーキング=サービス,特にアメリカ合衆国の〈ザッカーバーグ〉(1984~)の立ち上げたFacebook)を駆使して大規模な政治的集会を催すと,〈ムバーラク〉は2月に辞任を余儀なくされました。

 その後,エジプト共和国初の民主的な選挙が行われ,穏健なイスラーム主義を掲げる
ムスリム同胞団の〈ムルシー〉(任2012~13)が大統領に就任。
 〈ムルシー〉大統領は国民投票でイスラーム色の強い憲法を採択しましたが,イスラーム主義的な政策は世俗派からの反発を生み,反政府デモが頻発して政権運営が困難になると,2013年7月には軍部の〈シーシー〉国防大臣(1954~)らによるクーデタが起き,〈ムルシー〉は失脚されました(2013年エジプト=クーデタ)。憲法は停止されて,軍による暫定政権が発足してムスリム同胞団を含む反体制派を弾圧。2014年に〈シーシー〉は大統領に選出されました(任2014~)。



1979年~現在のアフリカ  北アフリカ  ②スーダン,③南スーダン
スーダン内戦が,ダルフール紛争に発展
 スーダン(1956~スーダン共和国,1969~スーダン民主共和国,1985~スーダン共和国)では1983年にイスラーム教の世俗法であるシャリーアを全国に適用することが決まり,イスラーム教徒ではない住民(伝統的な宗教やキリスト教)の多い南部の黒人による抵抗が強まり,第二次スーダン内戦が勃発しました。
 南部の黒人系のディンカ人は,ソ連や隣国エチオピアの支援を受けた〈ガラン〉大佐率いるスーダン人民解放運動(SPLM) に加わり,反政府運動を起こしました。
 一方,北部の政権内部では1985年にクーデタが起き〈ヌメイリ〉が,国防大臣の〈アル=ダハブ〉により打倒され,スーダン
人民共和国からスーダン共和国に国名が戻されました。その後選挙により政権を握ったのは,ウンマ党首〈マハディ〉でしたが,1989年には〈バシール〉大佐が無血クーデタで政権を獲得して強権を発動し,1993年には自ら大統領に就任しました。前後して1991年には隣国エチオピアで社会主義政権が崩壊し〈メレス〉政権が成立したため,スーダン南部のSPLMは重要な支援元を失うことになりました(のち,ウガンダが支援国になっていきます)。

 南北の第二次スーダン内戦は,〈バシール〉が態度を軟化させ,2005年に包括的な和平合意が結ばれました。こうして〈バシール〉を大統領とし,SPLAの〈ガラン〉を第一副大統領とした暫定政府が成立しました。
 しかし,この成立直後に〈ガラン〉の乗ったヘリコプターが墜落し,死去。さらにこうした南北和平の裏で今度はスーダン西部の
ダルフール地方で,北部に多いアラブ系に対し,非アラブ系の住民(遊牧民のザガワ人や,定住民のフール人)との対立が激しくなっていました(ダルフール紛争)。〈バシール〉大統領はこのうちアラブ系を軍事支援し,アラブ系の民兵組織(「ジャンジャウィード」と呼ばれました)を組織・利用して,非アラブ系の住民の集落を焼き払ったり虐殺したりいった民族浄化(ジェノサイド)を行っていたことが国際社会に明るみになっていきます。ダルフール地方の住民はチャドに難民として流入し,同じくザガワ人であったチャドの〈デビ〉大統領とスーダンとの関係も悪化しました。2006年にダルフール和平合意(DPA)が成立するも人道危機は止まらず(死者約30万人,難民・国内避難民約200万人),政府側をソ連・中国,反政府側をアメリカ合衆国が援助する代理戦争の構図が生まれました。2009年に国際刑事裁判所(ICC)が〈バシール〉大統領に逮捕状を出し,人道に対する犯罪と戦争犯罪の容疑をかけています。2013年にはスーダン政府とダルフールの反政府勢力との間に停戦が合意されましたが,紛争は続いています。

 なお,南北関係について2005年に包括的な和平合意が締結されてから6年がたち,2011年7月に住民投票が行われ,アメリカ合衆国による支援も背景として,同年同月に南部スーダンは
南スーダンとして分離独立しました。しかし,南北の国境付近の油田地帯アビエイをめぐる対立は深刻で,独立直後の2012年に国境紛争,2013年のクーデタ未遂以降は内戦状態となり,2016年には首都ジュバでも戦闘が行われる状況にまで発展しました。


1979年~現在のアフリカ  北アフリカ  ④モロッコ,⑤西サハラ
サハラ沙漠の“砂の壁” マグリブ地方の代理戦争
 モロッコではアラウィー朝モロッコ王国による立憲君主制が続いています。
 モロッコ王国は1975年にモーリタニアとともに西サハラを分割して併合し,1979年にモーリタニアが西サハラを放棄すると,これをも併合し,アルジェリアの支援する西サハラの勢力(ポリサリオ戦線)との戦争となりました。1991年に停戦が実現しましたが,以前として西サハラの領有問題には決着がついていません(
西サハラ問題)。ポリサリオ戦線に対してイランが支援をしているとされ,モロッコとイランは対立関係にあります。
 1989年にアラブ=マグレブ連合条約が調印し,北アフリカのマグレブ地域の5か国,(モーリタニア,モロッコ,アルジェリア,チュニジア,リビア)の地域的なまとまりの強化が目指されています。
 1999年には〈ムハンマド6世〉(1999)が即位しました。

 スペイン撤退後のモロッコ南部が1976年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されたことに対し,アルジェリアの支援する独立勢力ポリサリオ戦線がモーリタニアと戦う西サハラ紛争が起きました。モーリタニアが1979年にモロッコ南部の領有をあきらめ,ポリサリオ戦線によるサハラ=アラブ民主共和国を承認すると,それに対しモロッコが抗議します(19842017年までアフリカ統一機構(OAU2002年以降はアフリカ連合;AU)を脱退)。国連事務総長による和平案が1991年にモロッコとポリサリオ宣言によって受け入れられて住民投票が実施されることになり,国連西サハラ住民投票監視団 (MINURSO)が派遣されましたが,未だに選挙は実施されていません。なお,ポリサリオ戦線はサハラ沙漠に総延長約2000kmの“砂の壁”を建設し,実効支配している領域を主張しています。


1979年~現在のアフリカ  北アフリカ  ⑥アルジェリア
 アルジェリアでは1965年以降,反フランス独立闘争の中心となったアルジェリア民族解放戦線(FLN) 【追H30アフリカ民族会議ではない】のメンバーであった〈ブーメディエン〉(19651979)が,社会主義的な独裁体制をしいていました。しかし,1979年に亡くなると〈ベンジェディード〉が後任となりましたが,自由化や仕事・食糧を求める運動が多発して社会不安は収まらず,1989年には憲法が改正されて複数政党制が導入されました。政府に失望する国民の中には,イスラーム主義を支持する者も増えていきます。
 厳格なイスラームの規範に従おうとするイスラム救国戦線(FIS)が国民の間に支持を広げると,軍部はクーデタを起こし,軍事政権を樹立。FISを弾圧した政府のトップは暗殺され,FISは1992年に武装イスラーム集団(GIS)に発展して,テロ行為を繰り返しました。
 そんな中,1999年に軍部の支援を受けたFLNの〈ブーテフリカ〉大統領(1999)が,アルジェリア独立後初めての文民として選出され,混乱をおさめます。
 非常事態宣言は20102011年の「アラブの春」をきっかけに解除されましたが,隣国リビアの政権が崩壊すると,リビアの兵力や大量の武器がサハラ沙漠一帯に拡散し,マリ共和国からのトゥアレグ人の独立組織の活動が活発化する結果を招きました。マリ北部で2012年で内戦が起きると,旧宗主国のフランス軍が派兵しましたが,これを「異教徒の進出」とみるイスラーム過激派の活動を刺激し,2013年には
アルジェリア人質事件が発生しています。



1979年~現在のアフリカ  北アフリカ ⑦チュニジア
 チュニジアでは一党独裁体制がしかれていましたが,1980年代に入ると経済がふるわず,〈ベン=アリー(19872011)が〈ブルギーバ〉(195787)大統領を解任する形で,大統領に就任しました。彼は複数政党制を導入し経済の再建に取り組みましたが,事実上一党体制は維持されました。しかし,2010年末に反政府運動が過激化し,〈ベン=アリー〉政権は崩壊しました(ジャスミン革命)。この政変はアラブ地域に影響を与え,メディアによって「アラブの春」と命名される動きの火種となりました。
 「アラブの春」後の情勢が不安定化する周辺諸国と比べると,チュニジアの情勢は穏やかに進み,“アラブの春の優等生”とも呼ばれます。イスラーム主義(イスラーム主義政党の「ナフダ」単独では過半数を担うことができませんでした)と世俗主義の勢力との協力関係の下で暫定政権を経て,2014年にイスラーム色を含まない憲法が制定されました。同年の選挙では,〈ベン=アリー〉前大統領に近い〈セブシー〉(2014)率いる「チュニジアの呼びかけ」がナフダを押さえて勝利し,2015年には民主化が完了しました。しかし国内ではイスラーム過激派の活動もみられ,世俗主義の指導者が暗殺される事態が発生しますが,労働組合のチュニジア労働総同盟(UGTT)などがイスラーム・世俗の両派の間をとりもったことで,危機は回避されました(UGTTなどの4グループは2015年にノーベル平和賞を受賞しています)
 エジプト同様チュニジアでも,いったんはイスラーム主義の政党が台頭したものの,その後は世俗主義の政党や旧来の支配層が復権する状況がみられます。

1979年~現代のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビアでは〈カッザーフィー(カダフィ,任19692011)“大佐”率いるリビア=アラブ共和国が,1970年代に外国資本の石油企業を国有化して輸出産業で利益を上げていました。その思想はイスラーム教・アラブ民族主義・社会主義をあわせた「ジャマーヒリーヤ」と呼ばれるもので,その普及に合わせて1977年には国号を社会主義リビア=アラブ=ジャマーヒリーヤ国,1986年には大リビア=アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国と改称しています。前後して1979年には形式的に公職を退き,それ以降は「革命指導者」として隠然たる力を残しました。
 1978年に従来は非同盟中立政策をとっていたエジプトが,アメリカ合衆国・イスラエルに接近すると,ソ連はこれに危機感を抱きます。そこで,ソ連はアフガニスタンからシリア,南イエメン,エチオピア,
リビアを支援し,ソ連側の外交政策をとるように働きかけました(これらの国家を結ぶラインがソ連旗にみえる「鎌」の図案に似ているため,”赤い鎌”ともいわれます)1979年にリビアの隣国エジプトがイスラエルとの友好条約(エジプト=イスラエル平和条約)を結ぶと,関係が悪化。欧米諸国との関係も悪化し,アメリカ合衆国の〈レーガン〉大統領はリビアを空爆する強硬手段に出ました。
 2001年のアメリカ同時多発テロ事件以降は,アメリカ合衆国との関係を修復させ,核兵器の放棄を宣言して査察を受け入れた結果,2006年にはアメリカ合衆国との国交を回復させました。2009年~2010年にはアフリカ連合(AU)の議長を務めています。
 
 しかし,2010年末に隣国チュニジアでジャスミン革命が起きると,2011年2月にリビアでも反政府デモが起きると,政府軍は王党派と結びついた反〈カッザーフィー〉派を空爆しました。しかし,反政府軍によって首都が陥落し,リビア全土で内戦が勃発しました(第一次
リビア内戦)。安保理は〈カッザーフィー〉が人道に対する罪を犯している容疑を国際刑事裁判所に申し入れ,その結果〈カッザーフィー〉は国際手配されることになり,同年10月には反政府勢力やNATOの攻撃の中で殺害されています(殺害当時の状況には,不明な点も多い)。その後,リビア国民評議会による暫定政権(201112)を経て,2012年に国民議会が成立しました。
 しかし,民主的なプロセスを経て成立した国民議会がイスラーム主義を掲げていたことから,このリビア西部の
トリポリ政府をリビアの政府と認めない勢力・国家も多く,世俗主義を掲げるリビア東部のトブルク政府や,イスラーム国の関与しているといわれるリビア中部のシルトの勢力などが割拠する状況が続き,2014年以降は内戦が継続しています(第二次リビア内戦)
 リビアの内戦により政府の保有していた武器や兵員がサハラ地域一帯に拡散することとなり,2012年以降,特に南み位置する
マリ北部における反政府勢力の活動を刺激しています。




1979年~現在のヨーロッパ

 1979年以降の西ヨーロッパでは,従来の福祉国家的な政策をやめて,競争原理を重視する「新自由主義」をとる政権が現れました。
 1981年にはEC(ヨーロッパ共同体)にギリシア
【早政H30】,1986年にスペイン【早政H30】,ポルトガル【早政H30】が加盟し,加盟国が南ヨーロッパにも広がりました。
 
1991年12月末にソ連が崩壊し,東ヨーロッパが自由主義経済圏に転換すると,相互の取引も始まっていきました。冷戦中の1975年にヨーロッパの安全保障のためにヘルシンキで開催されたCSCE(全欧安全保障協力会議)は,1995年には常設のOSCE(欧州安全保障協力機構)に発展し,地域の安全保障機構に発展しています(本部はウィーンに置かれました)。
 1992年には
マーストリヒト条約【東京H22[1]指定語句「マーストリヒト」】が調印され,1993年にはヨーロッパ連合(EU)が成立しています。

 冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や少数言語を話す人の権利を向上させようとする運動も活発化します。
 オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いていた
ベルギー王国は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しています。

 ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨のユーロ【セH26ドル,ポンド,マルクではない】を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。21世紀に入ると,EUは徐々にその市場を東側に拡大していくようになりました(EUの東方拡大)。新たに加盟したのは,かつて共産主義圏に属していたバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア),ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリーや,地中海上のマルタとキプロスです。
 
2007年にはルーマニア,ブルガリアが加盟。2013年にはクロアチアが加盟するなど,拡大は続きますが,ウクライナは加盟の賛否を巡り国内に深刻な対立を生むことになりました。
 同時にアメリカ合衆国の主導するNATOの拡大も進み,1982年にスペイン,1999年にチェコ,ハンガリー,ポーランド,2004年にエストニア,ラトビア,リトアニア,スロバキア,スロヴェニア,ルーマニア,ブルガリア,2009年にアルバニア,クロアチア,2017年にはモンテネグロが加盟しました。なお1966年の〈ド=ゴール〉大統領のときにNATO
軍事機構を脱退していたフランスは,親米の〈サルコジ〉大統領のもと,2009年に復帰しています。

 EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,
2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したものがリスボン条約です。2007年に調印され,2009年に発効しました。

 そんな中,ヨーロッパもアメリカ発の世界同時不況(リーマン=ショック)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
 イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとする
東ヨーロッパからの出稼ぎ移民が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど,欧州懐疑主義(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。2014年にはスコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,保守党の〈メイ〉首相(2016~)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(Brexit)とメディアにより表現されています。〈メイ〉首相はEU脱退に向けた手続きを進めています。
 また,
2015年には,シリア内戦を逃れた難民100万人以上が,ヨーロッパに押し寄せ(欧州難民危機),その対応策を巡っても温度差が生じています。増える移民の対応策をめぐって,排外的な政党が議席をのばしたり,特定の文化を禁止する国も出ています。2005年にはデンマークで「ムハンマド風刺画事件」が起き,世界各地で抗議行動が起きました。2009年にスイスでは住民投票で,ミナレットの付いているモスクの建設が禁止されています。

1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現①ソ連/ロシア
 ①ソ連では〈ブレジネフ〉第一書記(のち書記長)(196482) 【慶商A H30記】のもとで急増した軍事費や政策の失敗により経済の低迷が続き,1979年6月には軍事費削減のため,第二次戦略兵器制限交渉(SALT,ソルトツー)を締結しました。しかし,同年1224日にアフガニスタンに侵攻【セH29フルシチョフのときではない】すると,アメリカ合衆国の議会は批准を拒否し(結局,発効はしませんでした),「新冷戦」と呼ばれる事態に発展しました。
 ソ連で侵攻を批判した物理学者の〈サハロフ〉(
水爆の父)は,〈ブレジネフ〉によって流刑となっています。1980年のモスクワ=オリンピックは,日本も含めソ連に反対する西側各国がボイコットする事態となりました【セH29試行 題材】
 1979年の中華人民共和国とヴェトナム社会主義共和国との
中越戦争【追H21「ヴェトナムがビルマ(ミャンマー)に侵攻したため」起きたか問う】と合わせ,“社会主義国どうしは戦争をしない”“社会主義国は平和な体制である”というイメージをくつがえすことにもなりました。
 しかし,増大する軍事費は財政を圧迫し社会不安が高まると,
1985年には〈ゴルバチョフ〉が書記長に就任し,「ペレストロイカ(改革) 【東京H28[3]】【セH10世界恐慌への対策ではない】を打ち立て難局を乗り切ろうとしました。1986年には反体制派〈サハロフ〉の流刑も解除します。

 しかし,1986年に起きた⑥
ウクライナチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故【セH17時期,セH26が明るみに出ると,ウクライナだけでなくベラルーシ南部にも被害が及びました。政府はこの事実を当初国民に隠したため,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まりました。1989年にはバルト三国のエストニアラトビアリトアニアが,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ「人間の鎖」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。
 ヨーロッパの社会主義圏でも,共産党以外の政党も含めた自由選挙を求める動きが高まると〈ゴルバチョフ〉は新たな国際体制を樹立する必要性に迫られ,198912月にはアメリカ合衆国の〈ブッシュ()〉とソ連の〈ゴルバチョフ〉が地中海のマルタ島【セH25モスクワではない】で会談し,冷戦が終結が宣言されました(マルタ会談) 【セH14時期(湾岸戦争の終結後ではない)】【追H9
 〈ゴルバチョフ〉は1990年にソ連の大統領に就任し【セH25スターリンではない】,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。

 
1990年にはバルト三国(エストニアラトビアリトアニア) 【セH16フィンランドではない】がソ連からの独立を宣言すると,〈ゴルバチョフ〉は武力を投入して放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしました(1991年の血の日曜日事件)。
 〈ゴルバチョフ〉を批判していたグループは,主に2つありました。今まで通りの社会主義路線を進めようとする「保守派」と,もっと市場経済を本格的に導入するべきだとする「改革派」です。
 〈ゴルバチョフ〉は1991年7月には,第一次戦略兵器削減条約(START(スタート・ワン)。RはReduction(リダクション=削減)のRです)をアメリカ合衆国の〈ブッシュ()〉大統領と結ぶことにも成功しました。また,同年7月にはワルシャワ条約機構(WTO,1955発足)も解散されました【セH14時期(1950年代~60年代ではない)】

 しかし8月,「改革派」の〈
エリツィン(199199) 【セA H30】がロシア共和国の大統領に選ばれます。
 これに対して
「保守派」【セA H30エリツィンは保守派ではない】がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること) 【追H9この失敗後ソ連は消滅したか問う】を起こしました。このとき〈ゴルバチョフ〉が軟禁されましたが,国民はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を支持することはありませんでした。この直後,②エストニア,③ラトビア,④リトアニアバルト三国は正式にソ連からの離脱が認められました(バルト三国の独立)。なお,このとき〈ゴルバチョフ〉を救出した〈エリツィン〉はテレビ放送を通じて,そのたくみな弁舌により国民からの人気を博すようになっていきます。
 8月に〈ゴルバチョフ〉はソ連共産党の中央委員会
(最高意思決定機関です)を解散し,12月にはソ連から全ての共和国が離脱してソ連共産党を解散しました(ソ連の消滅【セH26時期】【追H9)。
 もともとソ連だった領土は,ロシア連邦が引き継ぎ,ソ連の構成国はバルト三国を除いてCIS(独立国家共同体)に参加し,協力関係が維持されましたが,しだいに形式化していきました。
 1992年からは物価や生産・流通が自由化されてインフレが起き,国民生活は打撃を受けました。その中で新興富裕層が台頭しました。2000年には〈プーチン(200008,12)が「強いロシア【慶文H30問題文】の再建を目指して大統領に就任し,資源を輸出して高い成長率を確保し,BRICs(ブリックス)の一つに数えられるまでになりました。彼はソ連時代にKGB(国家保安委員会)の職員で,強権的な手法で長期政権を維持しています。
 
2008年の世界金融危機を受けてヨーロッパを不況の波が襲いました。とりわけ南ヨーロッパへの影響が大きく,2010年にギリシア危機が起きてユーロの価値は下落しました。
 2014年には,
ウクライナの政府がEUとNATOへの加盟を目指すことを表明すると,ロシアの〈プーチン〉大統領はこれを阻止するために,クリミア半島【慶文H30】ウクライナ東部のロシア系住民による分離運動を支援し,クリミア半島を住民投票の形をとって事実上独立させ,ロシアに併合しました【慶文H30「分離運動を支持し,「強いロシア」の復活を首長するロシア大統領は誰か】。これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含むG20(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。

1979年~現在のヨーロッパ  ①ソ連/ロシア  カフカス地方
チェチェン

 黒海とカスピ海に挟まれた
カフカス地方にあるチェチェンは,ロシア革命後にロシア共和国に編入されましたが,第二次世界大戦時にドイツにより占領。戦後にドイツに協力したとして住民は強制移住させられましたが,1957年に名誉回復され,チェチェン=イングーシ自治共和国として復活していました。1991年の時点で,チェチェンとイングーシを分離することは認められていましたが,ソ連崩壊後にチェチェンがロシア連邦から離脱する動きを見せたことから1994年に〈エリツィン〉大統領(199199)が軍事介入し,第一次チェチェン紛争が始まりました【セH29時期】96年に停戦合意し,翌97年に撤退しましたが,99年に暴力的なグループがモスクワで爆弾テロを起こしたことで第二次チェチェン紛争となりました。2000年にロシア軍はチェチェンから撤退しましたが,2002年にモスクワ劇場占拠事件が起きるなど,暴力的グループによる抵抗運動は続いています。ロシアがチェチェンの独立を認めないのは,カスピ海の石油を黒海の積出港に運ぶパイプラインが通っていることや,他の少数民族の独立運動を刺激するのを恐れているからです。


1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
 エストニア
=ソビエト社会主義共和国,ラトビア=ソビエト社会主義共和国,リトアニア=ソビエト社会主義共和国では,1986年に起きた⑥ウクライナチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故【セH17時期,セH26が明るみに出ると,〈ゴルバチョフ〉政権に対する批判が高まりました。

 1986年にはラトビアで,ソ連による水力発電所建設に対する反対運動が起き,1987年に環境保全同志会が設立。その後も独立を目指す運動が盛り上がっていきます。
 1988年にリトアニアで「サユディス」という政治組織が結成され,独立に向けて動き出します。

 1989年8月23日にはバルト三国の
エストニアラトビアリトアニアが,国境を超え南北600kmにわたり参加者が手をつなぐ「人間の鎖」デモがおこなわれ,ソ連からの独立を訴えるようになっていました。8月23日は,バルト三国がソ連の支配下となるきっかけとなった,独ソ不可侵条約の秘密協定(モロトフ=リッベントロップ協定)が締結された日にあたります。
 この運動は「バルトの道」と呼ばれ,独立への機運を高めました。 

 ソ連の〈ゴルバチョフ〉は1990年にソ連の大統領に就任し【セH25スターリンではない】,複数政党制が認められました(1990年のノーベル平和賞を受賞)。しかし,市場経済をいきなり導入したことで,ソ連の人々の生活が苦しくなり,批判も出てきました。〈ゴルバチョフ〉は冷戦を終結に持ち込んだものの,国内の体制を確立することに失敗していくのです。

 ラトビアでは1990年3月の自由選挙で独立派が勝利し,1990年5月に新政府がラトビア共和国の成立と1922年憲法の復活を採択。
 リトアニアでも1990年3月の自由選挙で独立派のサユディスが勝利し,独立を宣言します。
 
1990年5月にはバルト三国(エストニアラトビアリトアニア) 【セH16フィンランドではない】の首脳が会談し,事実上ソ連からの独立を宣言しました。

 この一連の動きに対しソ連の維持をねらう〈ゴルバチョフ〉は武力を投入。
 ラトビアで1991年1月にソ連軍が新政府を打倒しようとしましたが,失敗します(「1991年の血の日曜日事件」)
 エストニアでは,1991年8月に首都タリンの放送局を占拠するなど,鎮圧しようとしましたが失敗します。
 リトアニアでは,1991年1月にソ連軍が投入され,首都ヴィリニュスの放送塔や国会議事堂などで流血沙汰となりました(「血の日曜日」)。

 ソ連で起きた8月クーデタを受けて,ソ連政府の権威は失墜。
 1991年8月にアメリカ合衆国が
バルト三国の独立を承認すると,同月にソ連もこれを認めざるをえなくなり,国際連合にも加盟します。

 ロシア連邦は19931994年にかけてバルト三国から軍を撤退させました。バルト三国は2004年にEUとNATOに加盟して西ヨーロッパに接近。その結果,この3か国の領空警備は2004年3月以来NATO加盟国が順次担当している状態です。
 一方,ソ連離脱後にバルト三国が共通して抱える問題として,領内に残るでロシア系住民との関係があります。

エストニア 
 その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。
 歴史的にバルト海を取り囲む北ヨーロッパとのつながりの深いエストニアは,1992年にバルト海諸国理事会に加盟しています。
 エストニアはIT技術先進国であり,“電子国家”とも評されます。2007年には議会選挙として世界初の
インターネットを利用した電子投票が行われています。

ラトビア
 ラトビアは1992年にバルト海諸国理事会に加盟。
 2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟しました。
 その後は西ヨーロッパとの連携を目指し,2004年に北大西洋条約機構(NATO)と欧州連合(EU)に加盟します。

 

脚注
 


1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑤ベラルーシ
ベラルーシは強権的な支配体制に

 1986年にウクライナ北部でチェルノブイリ原子力発電所事故が発生すると,ベラルーシは南東部で大きな被害を受けました。
 1990年7月に独立を宣言し,1991年8月末に独立承認されました。しかしロシアにとって黒海にのぞむウクライナを失うのは大きな打撃です。そこで同年12月に,すでに,ソ連の構成国の一つにであるロシアの大統領となっていた〈エリツィン〉(大統領任1991年7月~1999)が,ウクライナとベラルーシとの間に会議を開き,ベラルーシにおいて
独立国家共同体(CIS)の創設に関するベロヴェーシ合意が宣言されました。独立国家共同体というのは,これからはソ連を構成していた国家が,ヨーロッパ共同体(EC)を参考に,対等な主権国家同士の関係を形成しましょうという組織です。そんな大事なことをスラヴ系の3国だけで決めるのは「おかしい」という声もあがり,カザフスタンのアルマ=アタでバルト三国以外の全構成国が集まって,アルマ=アタ宣言を発表しました。〈ゴルバチョフ〉はこの動きに反発し続けたものの,1225日にソ連大統領を辞任し,翌26日にソ連は消滅,独立国家共同体(CIS)が創設されることになりました。

 なお,1991年9月には国名を
白ロシア=ソヴィエト社会主義共和国からベラルーシ共和国としています。
 1994年に憲法が制定され〈ルカシェンコ〉が当選しましたが,彼は1996年に新憲法を制定して権限を強化し,2015年に五選されるまでの長期政権を築いています。
 1999年にはベラルーシとロシア連邦を統合することを目指す協定が〈エリツィン〉大統領との間で締結されましたが,〈プーチン〉政権以降は関係が悪化し,その後の〈メドベージェフ〉政権,〈プーチン〉政権でも統合の動きは下火となっています。



1979年~現在のヨーロッパ 東ヨーロッパ ⑤ウクライナ
ロシアはウクライナ東部に南下する
 ウクライナでは独立後から,ロシア人の多い東部と少ない西部との間で,国づくりをめぐる対立が起きていました。東部のロシア人の政治勢力を支援しているのは,当然ながらロシア連邦です。西部の住民はヨーロッパ連合への加盟を希望し,東西の対立が高まる中,2004年に大統領選挙が行われました。与党の〈ヤヌコーヴィチ〉首相はロシアの支援を受け,投票結果で勝利が宣言されましたが,野党〈ユシチェンコ〉派がこれに疑義を唱えると,イメージカラーのオレンジ色を掲げた“
オレンジ革命”と呼ばれる反政府運動が盛り上がり,最高裁判所によって再選挙が実施されました。再選挙で〈ユシチェンコ〉(52%)が〈ヤヌコーヴィチ〉(44%)に勝利し,大統領(任2005~2010)に就任しました。2010年の選挙で,元〈ユシチェンコ〉派の〈ティモシェンコ〉が出馬しましたが,〈ヤヌコーヴィチ〉(任2010~14)が勝利し大統領に就任しました。
 すでにウクライナは〈ユシチェンコ〉政権の下で欧州連合(EU)との間に政治・貿易協定(ウクライナ=EU協定)を仮調印していました。しかし〈ヤヌコーヴィチ〉がこの正式署名を拒否すると,野党が大規模な反政府運動を起こしました。混乱を収拾することができず〈ヤヌコーヴィチ〉は2014年2月にロシアに亡命しました。調印拒否にはロシアの圧力があったものとみられます。
 ウクライナでは暫定政府が樹立されましたが,この動きに対しロシアは同年3月に
クリミア半島(自治共和国,セヴァストポリ特別市)での住民投票を経て,これを併合。
 これにともない,ロシアはG8(ジーエイト,主要国首脳会議)への参加を停止されましたが,新興国を含む
G20(ジー=トゥウェンティ,主要20か国・地域)には参加を継続させています。
 さらに,同年4月には親ロシア派のデモ隊がドネツク州の議会を占領し,ドネツク人民共和国の建国を宣言しました。同様に東部のルガンスク自治州でも建国が宣言されました。この2州ではウクライナ政府の支配が及ばなくなっています。2014年7月には,マレーシア航空の民間旅客機がウクライナ東部で墜落しており,親ロシア派による撃墜によるものとの調査結果も出ています。



1979年~現在のヨーロッパ  東ヨーロッパ 現⑦モルドバ
 
ドニエストル川下流域に位置するモルダビア=ソビエト社会主義共和国は,1991年にソ連から離脱。
 同年,
ルーマニア人の住民によりモルドバ共和国が成立しますが,ドニエストル川東岸のロシア人の多く住む地域は「沿ドニエストル共和国」として主権が及ばない地域となっています。沿ドニエストル共和国は,グルジア〔ジョージア〕からの独立を宣言するアブハジアと南オセチア,アゼルバイジャンからの独立を宣言するアルツァフ〔旧称はナゴルノ=カラバフ〕の3つの未承認国家からのみ承認を受けており,事実上「未承認国家」となっています。



1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

1979年~現在のヨーロッパ  バルカン半島 ①ルーマニア
 ルーマニア社会主義共和国では,〈チャウシェスク〉大統領夫妻(夫1918~89,妻1916~89)が,ソ連から距離を置き西側諸国に接近する独自路線をとることで,長年独裁政権を維持してきました。しかし1980年代に入ると対外債務が積み上がり国民の生活水準も下がる中,〈チャウシェスク〉らの支配層の豪遊ぶり(首都ブカレストには宮殿“国民の館”が建築されていました)に批判が集まり,1989年にルーマニア革命【セH15ユーゴスラヴィアの一部ではない,セH21ユーゴスラヴィアではない,H24・H29ポーランドではない(ともに同じひっかけ)】が起こると,公開処刑されました。新たな国名は「ルーマニア」になります。
 市場経済への復帰後には混乱もみられましたが,2000年以降には安価な労働力が注目され海外からの投資が増加して経済成長を遂げ,2004年には
NATOに加盟,2007年にはEUに加盟しました。



1979年~現在のバルカン半島 ②ブルガリア
 ブルガリア人民共和国では1989年に共産党による一党独裁体制が終わり,1991年に民主的な憲法が定められました。ブルガリア共和国は,2004年にはNATOに加盟,2007年にはEUに加盟しました。



1979年~現在のバルカン半島 ④ギリシャ
ギリシャはEC加盟も,財政危機でEU離脱危機に
 ヨーロッパ共同体にとって,「ヨーロッパ文明“発祥”の地」であるギリシャは,いかに経済的に立ち遅れていようともヨーロッパ統合の象徴として必要な存在として考えられていました()
 1974年に民政に復帰したギリシャでは,ヨーロッパ共同体(EC)の加盟を目指して経済政策への国家の介入を強めた,新民主主義党(ND)の〈カラマンリス〉(共和国首相任197480大統領任1980859095)は最低賃金の改定,公務員基本給の増額などを実施。EC加盟に反対する野党の全ギリシャ社会主義運動(PASOK)の〈パパンドレウ〉を押さえ,ギリシャは1981年に
ヨーロッパ共同体(EC)への加盟を果たします。
 しかし,1981年の総選挙で〈パパンドレウ〉のPASOKが“変革”を訴えて勝利をおさめると,“ギリシャ人のためのギリシャ”を掲げ,社会保障や補助金を充実させるとともに,公務員職や国営企業の職を国民に提供することで,幅広い大衆の支持を集めました。こうした政府の支出はECからの資金によってまかなわれ,次第に財政が赤字化し,市場競争力も低下していきました。1990年~1993年には新民主主義党(ND)政権となりますが,EU成立前にはPASOK政権(19932004)となりあす。1996年に〈パパンドレウ〉の死後,後任となった〈シミティス〉首相(19962004)の下で国家財政が再建され,財政赤字は2000年にGDPの1%にまでおさえられました(この数字は後に粉飾であったことが明らかになります)。こうして2001年にはユーロが導入されました。

 2004年に新民主主義党(ND)政権となり,〈カラマンリス〉(1956~,〈カラマンリス〉(190798)の甥)が首相となりました。同年,アテネ=オリンピックが開催されています(第一回近代オリンピックは1896年にアテネで開催されました)

 その後,2009年に政権に就いたPASOKの〈ヨルゴス=パパンドレウ〉首相は,2010年に,前の政権である新民主主義党(ND)がギリシャの財政赤字を実際よりも過小に報告していたことを明らかにしました。これが元となりギリシャ国債の格付けは急落,ギリシャに多額の資金を貸し付けていたドイツやフランスにも影響が及ぶと,欧州ソブリン危機(いわゆる「
ユーロ危機)へと発展しました。〈パパンドレウ〉のPASOK政権はEU・IMF・ヨーロッパ中央銀行に支援(第一次支援プログラム)を要請しましたが,これには公務員給与の引き下げなどの緊縮政策が伴ったため,ギリシャ全土でデモやストライキが発生。2011年にヨーロッパ連合理事会で追加支援(第二次支援プログラム)が発表されると,〈パパンドレウ〉は突如,国民投票の実施を表明。これに対して内外の反発が強まると〈パパンドレウ〉は退陣し,20112012年に〈パパディモス〉を首相とするPASOK,ND,国民正統派運動による連立政権が成立しました。〈パパディモス〉政権は2012年に追加支援を合意しましたが,同年の総選挙の結果,緊縮に発展する野党の支持が拡大したため連立が崩壊し,同年の再選挙の結果,NDの〈サマラス〉首相によるND,PASOK,民主左派(2013)の連立政権(20122015)となります。
 しかし,2015年の総選挙で反緊縮を掲げる急進左派連合(SYRIZA,スィリザ)が第一党となり,反緊縮を主張する「独立ギリシャ人」党(ANEL)との連立政権になり,SYRIZAの〈ツィプラス〉(1974~,任2015)が首相に就任しました。〈ツィプラス〉政権は当初はEUによる追加支援を拒否し,ユーロ圏離脱の可能性
(いわゆる“グレグジット”,Greece+Exitをあわせた造語)も高まりましたが,2015年の国民投票後に公約に反して第3次支援プログラムの受け入れを妥協し,内閣総辞職となりました。しかし,同年の総選挙で再びSYIRIZAとANELの連立政権(ツィプラス首相)となり,緊縮策とシリア難民対策に追われています。
()村田奈々子『物語 近現代ギリシャの歴史 - 独立戦争からユーロ危機まで』中央公論新社,2012年,p.264



1979年~現在の③マケドニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
ユーゴは解体時に民族紛争が勃発する
 “七つの国境,六つの共和国,五つの民族,四つの言語,三つの宗教,二つの文字,一つの国家”を持つといわれた
ユーゴスラヴィア連邦では,枢軸国との武装闘争を率いた独立の父〈チトー〉(ティトー,1892~1980) 【セH12内戦によって退陣したわけではない】が死去すると求心力を失い,連邦の結束が揺らいでいました。
 
1991年6月に⑪スロヴェニア【セH15セルビアではない】が10日間の戦争(十日間戦争)で独立。1991年6月には⑩クロアチア【セH15セルビアではない】が独立宣言し,クロアチア内戦が勃発,1995年まで続きますが独立を達成しました。1991年9月には③マケドニアもマケドニア共和国として独立を宣言します。マケドニアは国際連合加盟をめぐり「マケドニア」という国名がギリシャによる反発を生み,「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という国名での登録となりました(「マケドニア」の名称は,かつて〈フィリッポス2世〉(前382~前336)とその子〈アレクサンドロス3世(大王)〉(前356~前323)のマケドニア王国による支配の歴史を思い起こさせ,ギリシャ政府が「マケドニアがギリシャ内の領土を主張するのではないか」と恐れたのです)

 そんな中,
1992年3月に⑧ボスニア=ヘルツェゴヴィナが独立宣言【セH27青年トルコ革命のときではない】を出すと,複雑な民族構成が原因で内戦が深刻化し,従来は共存していたイスラーム教徒とクロアチア人とセルビア人たちの対立が政治的に生み出され,三つ巴(どもえ)の構図となりました(ボスニア内戦,1992年4月~1995年12月)。

 対立構図が生まれる過程でマス=メディアを通した広告の果たした役割が大きいことが指摘されており,国際社会においてセルビア=悪玉という構図が支持された背景にはアメリカ合衆国の企業の関与があったといわれます
()。元・サッカー日本代表監督でドイツ系の〈オシム〉(1941~)は1992年のセルビアの侵攻以前に国外に移動していますが,妻子はサライェヴォに残すことになり,1994年に再会するまで別離を余儀なくされます。1995年7月にはスレブレニカでセルビア人が8000人のムスリムを虐殺。同年12月にはアメリカ合衆国の仲介でデイトン合意(和平合意)が結ばれました。
 独立後には,民族紛争中に崩落したネレトヴァ川のイスラーム教徒地区とクロアチア人地区を結ぶ橋が修復され,2005年に「モスタル旧市街の石橋と周辺」として世界文化遺産(負の遺産)」に登録され“和解の象徴”となっています。

 アルバニア系住民の多い⑥
コソヴォは1991年に独立宣言を出しますが,セルビアは独立を認めずコソヴォ紛争に発展しました。1999年にはNATO軍【追H30】が国連安全保障理事会の決議のないままセルビアを空爆【追H30】する事態となり,ユーゴスラヴィア側に立つロシア・中華人民共和国との対立を生みました。コソヴォ共和国は2008年に独立宣言しましたが,ロシア・中国などは承認せず,セルビアの一部とみなしています。

 なお,2001年にマケドニアでは,コソヴォ紛争の影響を受けて国内北部のアルバニア系住民が蜂起する
マケドニア紛争が起きています。
()高木徹『戦争広告代理店』講談社,2005




1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
共産党の一党独裁が崩れ市場経済が導入される
 
1989年には,①ポーランド,②・③チェコスロヴァキア,④ハンガリーでも民主化運動が激化し,共産党の独裁体制が崩壊していきます。

1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
 ①
ポーランドでは〈ワレサ〉(ヴァウェンサ,1943~2016,任1990~95)(注)【セH22コシューシコではない】を中心とする自主管理労組「連帯」(ソリダルノスチ) 【セA H30ルーマニアではない】が組織されましたが,1981年に解散させられていました【セH24時期(社会主義体制下)。しかし,彼は1983年にノーベル平和賞を受賞し,当時のローマ教皇〈ヨハネ=パウロ2世〉(ポーランド出身です)が公然と〈ワレサ〉の「連帯」を支持する中,1986年には復活し,1989年6月に議会選挙で勝利したことで,共産党ではない政権に移行しました。これらの国では複数政党制と議会制民主主義が導入されて,市場経済に移行しました。
()ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。「w」のつづりは「ヴ」になるので,〈Wałęsa〉の場合,「ワレサ」よりも「ヴァウェサ」のほうがポーランドに近い発音になります。


1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ②・③チェコスロヴァキア/現②チェコ,③スロヴァキア
 ②・③チェコスロヴァキアでは,共産党独裁体制が無血で倒されたことから,ビロード革命とよばれます。〈ゴルバチョフ〉は,かつてのハンガリー事件(1956)やプラハの春(1968年のように,東欧革命に武力介入することはありませんでした。
 なおチェコスロヴァキアは1993年に
チェコ共和国とスロヴァキア共和国に分離独立し,こちらもスムーズな展開であったことから“ビロード離婚”といわれます。



1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現④スイス
 
1815年のウィーン議定書以来永世中立主義をとっていたスイスですが,2002年に国民投票の結果,国際連合に加盟しました。しかし,EU(ヨーロッパ連合)には加盟していません。



1979年~現在のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑤オーストリア
 1955年以降永世中立国となっている⑤オーストリアは,1995年にはEUに加盟しています。



1979年~現在のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 東・西ドイツ/現⑦ドイツ
 ⑦東
ドイツの国家元首は1960年以降「国家評議会議長」でした。ドイツ社会主義統一党の一党制で,ソ連の“衛星国家”となっていました。しかし,1976年に国家評議会議長(首相)に就任した,ドイツ社会主義統一党書記長(任1971~89)の〈ホーネッカー〉(任1976~89)は,当初は西側諸国との緊張緩和に努めますが,次第にシュタージという秘密警察による国内の取締を強化させていきます。国際社会の変化に対する対応が迫られる一方で,東ドイツ経済は停滞を続け,1987年には西ドイツを訪問し〈コール〉首相と会談しています。しかし,経済政策の自由化には踏み切ることはなく中央集権的な政策を取り続け,1980年にポーランドの政権が自由選挙で大敗して崩壊すると,東ドイツ国民は隣国チェコスロバキアからハンガリーへ脱出(汎ヨーロッパ=ピクニック)。すでにハンガリーでは自由化に向けた改革を進めていましたので,逃げてきた東ドイツ国民をオーストリア経由で西ドイツに出国させていきました。
 このような事態に陥っても〈ホーネッカー〉は強硬な社会主義路線を変えることがなく,そんな中で〈ゴルバチョフ〉が10月7日に東ドイツに訪問し〈ホーネッカー〉を批判,その後副議長〈クレンツ〉らは〈ホーネッカー〉批判をすすめ,10月18日に〈クレンツ〉が国家評議会議長(首相)に就任しました。〈クレンツ〉は体制維持に奔走しますが,ベルリン地区委員会の第一書記をつとめていた〈クレンツ〉派の〈シャボフスキー〉がベルリンの壁の開放を誤って発表すると,壁に押し寄せた群衆を止めることはもはや不可能となり,
11月9日に本当に「ベルリンの壁」が開放【追H30時期:ソ連解体後ではない】されてしまったのです。〈クレンツ〉は12月に退陣し,小勢力であったドイツ自由民主党の〈ゲルラッハ〉が国家評議会議長に就任。彼の下で1990年に史上初めて自由選挙がおこなわれ,新憲法が制定されました。
 しかし,同年
10月には西ドイツのコール首相(19821998)のもとで,西ドイツが東ドイツを吸収する形で東西ドイツ再統一が実現されました【セH16時期1970年代ではない】(映画「グッバイ,レーニン!」(ドイツ2003)は東西ドイツ統一をはさんで,東ベルリンで社会主義体制が崩壊を目の当たりにした家族を描いています)。初代大統領は西ドイツ首相のキリスト教民主同盟(CDU)の〈ヴァイツゼッカー〉(任1984~1994)です。この再統一ドイツの大統領は形式的なもので,実権は連邦首相のキリスト教民主同盟の〈コール〉(任1982~1998)が握っています。〈コール〉による長期政権は,1998年に〈シュレーダー〉(任1998~2005)に継がれました。2005年からは初の女性首相にキリスト教民主同盟の〈メルケル〉(任2005~)が就任しています。



1979年~現在のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
ここではイベリア半島を除き,イタリアを含めた国々を西ヨーロッパに区分しています。

1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現①イタリア
 
イタリア共和国では南北の経済格差や犯罪組織(マフィア)の暗躍などを乗り越え,経済成長を実現させていきました。1990年代に入るとEU(ヨーロッパ連合)の発足を受けてグローバル化の波に覆われる中,統一通貨ユーロに参加するために民営化や金融制度改革を実施し,財政赤字を縮小させました(1999年にGDP比約2%)。特に,実業家出身の〈ベルルスコーニ〉首相(1994~95,2001~06,08~11)がフォルツァ=イタリア(FI,1994~2009)を率いて新自由主義的な政策をおこないましたが,国内では新自由主義に反対し中道左派連合「オリーブの木」を結成していた〈プローディ〉首相が政権を獲得しました。その後2001年に〈ベルルスコーニ〉率いる中道右派連合「自由の家」政権に戻った後,〈ベルルスコーニ〉の汚職や買春スキャンダルとともに,ギリシャ危機(⇒1979~現在のヨーロッパ バルカン半島 ギリシャ)の影響からイタリアを含む南ヨーロッパ諸国(メディアや金融機関によりポルトガル,イタリア,ギリシャ,スペインをあわせてPIGS(ピッグス)と呼ばれました。アイルランドを含めPIIGSと呼ぶこともあります)経済に対する信用が低下する中で退陣を迫られました。後継の〈モンティ〉挙国一致内閣(任2011~13)は緊縮政策を進めましたが,反緊縮派の〈ベルルスコーニ〉派の人民の自由や,新勢力の「五つ星運動」が台頭するなど政党再編がすすみます。
 以降,民主党の〈レッタ〉(任2013~14),〈レンツィ〉(任2014~16),〈ジェンティローニ〉(任2016~)の短命内閣が続く中,「五つ星運動」は着実に支持を伸ばし,2018年には既成政党に反対する「五つ星運動」の〈ディマイオ〉党首(1986~)が,移民に反対する政党「同盟」の〈サルビーニ〉書記長(1973~)と連立に向けた交渉に合意し,減税や貧困層向け政策がとられる見込みとなりました。


1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現②サンマリノ
 サンマリノ共和国
は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,キリスト教民主党と社会党中心の左派勢力が連立する政権が続いていましたが,2000年以降は政界再編が進んでいます。


1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現③ヴァチカン市国
教皇は他宗派との融和を図る方針を推進している
 ヴァチカン市国
は周囲をイタリアに囲まれた主権国家で,ローマ教皇(いわゆるローマ法王)が三権を掌握する体制をとっています。

 ポーランド出身の〈
ヨハネ=パウロ2〉(位1978~2005)は,1980年代~1990年初めの東ヨーロッパ諸国での民主化運動に影響力を及ぼしました。異なる宗教や宗派との和解にも努め,2000年には,十字軍を含む過去2000年のローマ=カトリック教会による行いを謝罪するミサをおこなっています。

 次代のドイツ出身の〈ベネディクト16世〉(位2005~13)は,ローマ教皇として初めてイギリスの〈
エリザベス女王〉と会談しています。1534年の首長令以来,イギリスでは国教会が成立していましたから,歴史的な和解の始まりといえます。
 また,彼は教皇として史上初めて,みずからの意志で退位しています。

 2013年には,史上初の南アメリカ大陸出身の教皇〈フランシスコ〉(位2013~)が即位しています。


1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現④マルタ

 マルタ共和国
では1971年から1987年まで労働党政権が続きましたが,国民党政権は西側諸国への友好関係を重視する政策に転換し,1989年にはアメリカ合衆国とソ連が冷戦の終結を表明したマルタ会談の開催地となりました。

 その後,国民党政権の下で2003年にはEU(ヨーロッパ連合)に加盟します。2013年には労働党政権に交替しています。

 2017年には,労働党〈ムスカット〉首相(任2013~)の「
パナマ文書」への関与について調査報道を行っていた女性記者が爆弾で殺害され,報道の自由が脅かされているのではないかと波紋を呼んでいます。


1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑤モナコ
 
モナコ公国は周囲をフランスに囲まれた小国で,立憲君主制をとっています。フランス=モナコ保護友好条約によりフランスの保護下に置かれ,外交関係は制限されていました。観光業(カジノとF1が有名)や化学工業を中心に経済発展を遂げ,1993年には国際連合に加盟,2005年に〈レーニエ3世〉公(位1949~2005)が亡くなり,〈アルベール2世〉(任2005~)が後を継ぎました。

 同年にはフランス=モナコ友好協力条約が締結され,外交面での制限が緩和。軍事的には領土の防衛をフランスが担当していますが,2005年の条約によりフランス軍の出動にはモナコの要請・同意を要することになっています。EUには加盟していませんが,ユーロを導入しています。



1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
 アンドラ公国
は,フランスとスペインの国境地帯に位置する小国で,歴史的な経緯を背景に,フランス大統領()とスペインのウルヘル司教を共同の元首とする主権国家です。1993年に新憲法が承認されたことでアンドラ公国は主権国家として国際的に承認され,同年には国際連合に加盟しました。
(注)かつては司教からアンドラの領地を与えられていたフォア伯爵が領主でしたが,フォア伯爵がブルボン朝〈アンリ4世〉として即位して以来,フランス共和国に引き継がれていったのです。



1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ ⑦フランス
 フランス共和国(第五共和制) 【東京H30[3]】では,中道右派の〈ジスカール=デスタン〉(任1974~1981)が石油危機後の経済危機への対処に尽力します。アフリカでは,中央アフリカ帝国を建国した皇帝〈ボカサ1世〉(位1977~79)を承認しましたが,1979年に追放されフランスに亡命した〈ボカサ1世〉による贈賄が発覚すると〈ジスカール=デスタン〉への批判が高まりました(⇒1979~現在のアフリカ 中央アフリカ)
 1981年の選挙で勝利したフランス社会党の〈
ミッテラン〉大統領(任1981~1995)は,有給休暇(ヴァカンス)制度の拡大や法定労働時間の縮小,死刑制度の廃止などの改革をおこない,長期政権を実現させました。1984年まではフランス共産党との連立内閣を組んでいました。〈ミッテラン〉は欧州統合にも積極的で,1985年に加盟国間の国境での審査をなくすシェンゲン協定に署名,1986年に単一欧州議定書を採択(1987年発効),1992年にはマーストリヒト条約を採択・署名(1993年発効)し,EU(ヨーロッパ連合)を発足させます。しかし,1986~1988年はUDRの〈シラク〉が,1993~1995年にはUDRの〈バラデュール〉が首相を務めたことから,大統領と首相の支持政党が異なり政権運営が困難な状態(コアビタシオン)となっています。
 1995年には共和国連合(RPR)の〈
シラク〉(任1995~2002)が大統領に選出されました。彼は包括的核実験禁止条約 (CTBT)を締結する前に,太平洋のフランス領ポリネシアのムルロア環礁で核実験を実施しています(⇒1979~現在のオセアニア ポリネシア)。1997~2002年にはフランス社会党の〈ジョスパン〉が首相を務めコアビタシオンとなっています。1999年には,性別を問わず事実婚をしているカップルに結婚に準じた扱いをする制度PACS(連帯市民協約)が導入されています。

 2002年に〈シラク〉(任2002~2007)は,国民運動連合(UMP)を率いて大統領に再任しました(このとき,移民排斥やEUからの脱退を唱えた国民戦線の〈ル=ペン〉(1928~)を破っています)。2003年の
イラク戦争に際しては,ドイツとともに派兵を拒否しました。欧州統合に積極的な政策を推進しましたが,移民の増加にともないフランス国内には統合の進展に反対する世論も台頭していきました。
 2004年にはフランス的な政教分離(非宗教性(
ライシテ)といいます)の立場から,公立学校で女子生徒がスカーフを着用することを禁止する法律を制定()。この宗教的標章法(宗教シンボル禁止法)【東京H24[1]指定語句「注」が付いている】は,大きな議論を呼びました。2005年にはパリ郊外で北アフリカ出身の移民が警察に追われて亡くなったことをきっかけに,貧困地区の若年層を中心に暴動に発展。〈シラク〉は引退を表明しました。
 2007年に後任に選出されたのは,国民運動連合(UMP)の〈
サルコジ〉(任2007~2012)です。2011年,公共の場で顔を覆うものを身につけることを禁止する法律(ブルカ禁止法)が制定され,イスラーム教徒の女性の着用するヒジャーブに対する規制として波紋を呼びました。2011年にはギリシャへの財政支援をドイツの〈メルケル〉首相とともに主導しますが,緊縮財政が国内で批判を呼び,2012年の選挙ではフランス社会党の〈オランド〉(任2012~2017)が勝利しました。〈オランド〉政権下では,2015年1月にシャルリ=エブド事件,同年11月にパリ同時テロ事件が発生し,国家非常事態を宣言。アメリカ合衆国やロシアとともに「イスラーム国」に対する軍事作戦に参加しました。

 〈オランド〉は再選を目指さず,2017年には〈オランド〉政権の経済相を務めた〈
マクロン〉(任2017~)が,既成の政党の枠を超えた“革新”を目指すとして共和国前進(EM,当初は「前進!」)を立ち上げて大統領に就任。新自由主義な政策を進めています。〈マクロン〉は西アフリカのマリ共和国の支援にも積極的で,EU(ヨーロッパ連合)におけるドイツとの連携も進めています。なお,〈ル=ペン〉(1968~,父(1928~)も政治家)は,大統領選では決選投票で〈マクロン〉に破れたものの,〈ル=ペン〉のイスラーム教徒に敵対的な発言はしばしば波紋を呼んでいます。
(注)伊東俊彦「フランスの公立学校における「スカーフ事件」について」『東京大学大学院人文社会系研究科・文学部哲学研究室応用倫理・哲学論集 (3)』 2006年,pp88-101。



1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
「鉄の女」〈サッチャー〉が新自由主義的政策進める
 イギリスでは“鉄の女”の異名をもつ保守党【セH8の〈サッチャー〉首相(任1979~1990) 【セH8時期(1970年代末から)】【※意外と頻度低い】が,大規模な規制緩和をともなう新自由主義的な改革をおこないました。
 〈チャールズ〉王太子と〈ダイアナ〉との結婚式が行われたのは,彼女の任期中の1981年のことです。〈サッチャー〉はアルゼンチンとの
フォークランド紛争(1982~84年) 【東京H28[1]指定語句】を通して愛国心を高めるとともに,1980年から90年にかけて石油・石炭・ガス・電気・航空・通信・水道・鉄鋼・自動車の国営企業を民営化していきました。これに対しては炭鉱でのストライキも起きています。
 また「ビッグバン」と称して金融に関する規制を大幅に撤廃し,海外からの投資を活性化させようとしました。こうした政策によりイギリスにはヤッピーと呼ばれる都市部で専門職に従事する若者が出現。1988年には教育改革を行い,イギリスの威信を高める歴史教育など全国的なカリキュラムをつくり,共通学力テストも導入しました。

 
1991年にソ連が崩壊し,東ヨーロッパが自由主義経済圏になると,相互の取引も始まっていきました。イギリスの〈サッチャー〉首相は,EC(ヨーロッパ共同体)が各国の主権に対して口出しができるようになることを恐れ,通貨統合にも反対でした。その一方,1992年にマーストリヒト条約が調印され,1993年11月にEC12か国によってヨーロッパ連合(EU) が成立しました。
 イギリスでは〈サッチャー〉首相を継いだ保守党の〈メイジャー〉(任1990~1997年)首相が,通貨統合に加わらない条件で,EU(ヨーロッパ連合)への加盟に踏み切りました。


労働党〈ブレア〉首相が「第三の道」政策をとる
 イギリスでは保守党の〈メイジャー〉首相に代わり,労働党でスコットランド人の〈
ブレア〉首相(任1997~2007)が政権を獲得しました。彼はブレーンに社会学者の〈ギデンズ〉を登用し,グローバル化の波に対して市場主義でも社会民主主義でもない「第三の道」に基づく政策を実行していきました。

 〈ブレア〉は多文化主義も推進し,1998年には北アイルランド問題の和平に関する
ベルファスト合意を実現させました。和平プロセスに尽力した北アイルランドの政治家〈ジョン=ヒューム〉(1937~)と〈トリンブル〉(1944~)は同年のノーベル平和賞を受賞しています。

 しかし,アメリカ合衆国との同盟関係を重視した結果,イラク戦争への参戦は国際的な批判も浴び,2007年に労働党〈ブラウン〉(任2007~2010)首相に引き継ぎました。しかし2008年に世界金融危機のあおりを食らい,2010年には保守党の〈キャメロン〉政権(任2010~2016)に交替しました。

 ヨーロッパ連合(EU)は,2002年に共通通貨のユーロ【セH26ドル,ポンド,マルクではない】を導入しましたが,イギリスは通過のポンドを維持しています。

 EUが経済的な統合をさらに政治的な統合へとレベルアップさせようと,
2004年にはヨーロッパ憲法条約(EU新憲法)が調印され,政治的な統合をも目指しましたが,2005年にフランスとオランダが批准を拒否。「『憲法』が定められてしまうと,EU全体の都合で,国家の主権が制限されてしまう」というのが理由です。EUの旗や歌まで定められていたこのヨーロッパ憲法条約を再検討したものがリスボン条約です。2007年に調印され,2009年に発効しました。


EU離脱問題 (Brexit) が波紋を呼んでいる
 そんな中,ヨーロッパもアメリカ発の世界同時不況(リーマン=ショック)のあおりを受けるとともに,ギリシアやイタリアの財政危機によって,ユーロの信用が低下。財政支援をするかいなかを巡り,加盟国間で対立が起きています。
 イギリスでは不況の影響で貧困層(アンダークラス)の就労支援が急務となりますが,2004年に相次いで加盟したポーランドを始めとする
東ヨーロッパからの出稼ぎ移民が増加し,貧困層の外国人労働者に対する不満が高まっていきました。彼らの不満を吸収し,EU(ヨーロッパ連合)からの脱退を主張するイギリス独立党が,2014年に欧州議会選挙で第一党となるなど,欧州懐疑主義(EUに対する疑問を唱える主張)が目立つようになっていきました。2014年にはスコットランドで独立の賛否を問う住民投票が行われ,賛成55%・反対44%で否決されています。2016年にはイギリスでEUからの脱退を問う国民投票が行われ,僅差で脱退派が上回ると〈キャメロン〉首相は辞任し,保守党の〈メイ〉首相(2016~)に交替しました。イギリスのEUからの脱退は,イギリス(Britain)+脱退(Exit)をあわせてブリグジット(Brexit)とメディアにより表現されています。〈メイ〉首相はEU脱退に向けた手続きを進めています。



1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑩ベルギー
 冷戦後のヨーロッパでは,各地で少数民族や言語をめぐる対立が活発化していきました。
 オランダ語系のフラマン語を使用する北部と,フランス語系のワロン語を使用する南部とで長年対立の続いていた
ベルギー王国は,1993年の憲法改正で,地域と言語の両方を考慮した地域区分による連邦制を採用しました。2016年3月には首都ブリュッセルで連続テロ事件が発生し,イスラーム国との関連があるとされています。


1979年~現在のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑪オランダ
 オランダ王国は立憲君主制をとっており,1980年に〈ユリアナ〉女王(位1948~80)が譲位し,〈ベアトリクス〉女王(位1980~2013)が即位しています。1973年の第一次石油危機後には不況に見舞われます(いわゆる“オランダ病”)が,労使が協力関係をとってワークシェアリングを普及させ,1990年代には失業率が低下し経済成長を果たしました。ライン川の河口に位置するロッテルダム港(ユーロポート)は,ヨーロッパ最大の港に発展し,国際貿易の中心の一つとなっています。
 オランダはNATO参加国として,アメリカ合衆国との関係を重視してきました。また,ヨーロッパ連合の発足を定めた
マーストリヒト条約の調印地でもあります。しかし,EUと距離を置く世論も台頭し,2005年の欧州憲法条約をめぐる国民投票は,フランスに続いて否決の選択をしています。
 2000年代以降は,イスラーム教徒の移民に対する排斥を掲げる極右政党である自由党(2006年創立)が議席を伸ばし,2010年には自由民主国民党の〈ルッテ〉(任2010~)に閣外協力を果たし,2011年にはイスラーム教徒の女性が身につけるブルカを禁止する法案を成立させています。




1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島 現①スペイン
 スペインでは独裁者〈フランコ〉(1892~1975)が1975年に死去すると,同年に
ブルボン朝の〈フアン=カルロス1世〉(位1975~2014)が復位し,スペイン王国が復活していました。
 1986年には
EC(ヨーロッパ共同体)に加盟【早政H30】し,1992年にはバルセロナでオリンピックを開催しています。2014年には国王が生前退位し〈フェリペ6世〉(位2014~)が即位しました。

 スペインでは歴史的に独自の文化・言語を持つバスク地方,カタルーニャ地方の自治・独立運動が盛んで,バスク地方を拠点とする暴力的な「
バスク祖国と自由」(ETA)の反政府テロが1959年以降続いていましたが,2011年には休戦し,現在は武装解除されています。

 一方,カタルーニャ州では2015年の州議会選挙で独立派が過半数の議席を獲得し,独立の手続きを開始しました。この動きは憲法裁判所により違憲とされたものの,2017年には独立を問う州民投票の結果,独立賛成派が9割以上を獲得したため州議会は独立を宣言(
カタルーニャ州の独立宣言)。これに対して政府は州議会を解散しましたが,同年末の州議会でも独立派が議席の過半数を占め,政府との対立は続いています。

 なお,バルセロナのサグラダ=ファミリア大聖堂は2026年の完成を目指して建設がすすめられています。主任彫刻家は日本の〈外尾悦郎〉(そとおえつろう,1956~)です



1979年~現在のヨーロッパ  イベリア半島 現②ポルトガル
 独立後の経済危機に苦しんだ②
ポルトガル共和国は,1976年にEC(ヨーロッパ共同体)への加盟申請をおこない,1985年に加盟条約に調印(発効は1986年)しました【早政H30】。ポルトガルは援助金を獲得し,従来の“お得意様”であったイギリスに代わって大陸諸国(フランス,ドイツ,スペイン)との貿易が盛んとなりました。
 社会党の〈ソアレス〉大統領は1986年に再選,1991年に再々選され,1987年・1991年には社会民主党が勝利して〈シルヴァ〉首相が就任しました。

 1992年にはマーストリヒト条約を批准しEU(ヨーロッパ連合)に加盟することになりましたが,ポルトガルの経済は経済自由化の波にさらされ,停滞します。

1996年には,ポルトガルと旧植民地のアンゴラ,モザンビーク,カボ=ヴェルデ,サン=トメ=プリンシペ,ギニアビサウ,ブラジルにより「ポルトガル語諸国共同体」が創設されました(2002年に東ティモール。2014年に赤道ギニアが加盟)。和和平プロセスが続いていた東南アジアの
東ティモールで1999年に住民投票がおこなわれ,2002年に独立しました。和平に尽力した〈ベロ〉司教(1948~)と第二代大統領〈ラモス〉(任2007~15)は1996年にノーベル平和賞を受賞しています。



1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 この時期の北ヨーロッパは石油危機後の経済の立て直しを図り,「
福祉国家」路線が再検討されるとともに,環境問題への関心も高まり環境政党が躍進しました。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻に始まるいわゆる“新冷戦”の影響を受け,NATO(北大西洋条約機構)はスカンディナヴィア半島周辺への対ソ連の新型中距離ミサイルの配備を進められていきました。
 先にEC(ヨーロッパ共同体)に加盟していたデンマークに加え,冷戦後にはフィンランド,スウェーデンはEU(ヨーロッパ連合)に加盟し,北欧にも欧州統合の波が広がりましたが,ノルウェーは国民投票で否決しアイスランドは加盟せず,地域差が生まれました。

 また,冷戦崩壊時に北欧諸国がバルト三国(エストニア,ラトビア,リトアニア)の独立を支援した際,1990年に
環バルト海協力という枠組みが生まれ,1992年には環バルト海諸国評議会(CBSS)が成立し,スウェーデン,デンマーク,ノルウェー,フィンランド,アイスランド,エストニア,ラトビア,リトアニア,ドイツ,ポーランド,ロシア,欧州連合が参加する地域協力機構となっています。

 ノルウェー,スウェーデン,フィンランドにまたがり分布する
サーミ人の権利を保護する取り組みも第二次世界大戦後以降活発化していき,ノルウェーでは1987年にサーミ議会の設置が法律で制定,1988年にサーミ人の保護が憲法条文で義務付け,1990年にサーミ語が地域公用語に制定されました。フィンランドでは1991年にサーミ語を地域公用語とするサーミ言語法,1995年には憲法にサーミ人保護条項を付加しサーミ議会の設置法が制定されています。スウェーデンでは1992年にサーミ議会を設置する法律が制定され,1999年にはサーミ語を公用語の一つとし,2009年には言語法が成立しサーミ語が保護・促進する責任のある少数言語の一つに指定されました()
(注)北海道大学大学院教育学研究院教育社会学研究室「ノルウェーとスェーデンのサーミの現状」『調査と社会理論』研究報告書29,2013,p.83(http://www.cais.hokudai.ac.jp/wp-content/uploads/2013/05/NorwaySweden_saami2013.pdf。(#映画 「サーミの血」2016,スウェーデン

1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 
フィンランドは,1991年の総選挙で保守中道連立政権が発足。同年末のソ連崩壊にともない,結びつきの強かったソ連との貿易が激減し,失業率は20%にも達しました。1994年には旧ソ連との関係を西向きに転換し,EU(ヨーロッパ連合)に国民投票の結果,1995年に加盟しています。1995年には社会民主党から大統領が出て,総選挙でも社会民主党が躍進して連立政権が成立しました。社会民主党の〈アハティサーリ〉大統領(任1994~2000)は,退任後に国連の特使としてコソヴォ問題(⇒1979~現在のヨーロッパ  バルカン半島)やインドネシア・スマトラ島のアチェ地方の和平合意(⇒1979~現在の東南アジア インドネシア)に向けて尽力したことが評価され,2008年のノーベル平和賞を受賞しています。



1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 
デンマークでは,1975年以降社会民主党を中心とした連立政権が発足し,経済の立て直しを図りましたが,1982年に保守党の首相(1894年以来初)を中心とする保守中道連立政権が発足。公共支出の削減に取り組むとともに,EC加盟国との競争に耐えうる競争力を国内産業につけさせるための政策を実行しました。
 1973年に加盟していたEC(ヨーロッパ共同体)が域内統一市場を創設する動きをすすめると,デンマークでは国民的議論が起きましたが,域内市場への参加が国民投票で過半数の賛成を得,1987年に欧州単一議定書が発効しました。しかし,デンマークでは欧州統合への抵抗も根強く,その後1992年のマーストリヒト条約は調印後の国民投票で批准が僅差で拒否されると,ECでデンマークの資格が再検討され,1993年の再度の国民投票で批准が承認され,1993年にECはEU(欧州連合)に発展しました。



1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 アイスランドでは,漁業資源を保護するための経済水域の設定をめぐり,1973年以降イギリスとの対立が深まりました。1974年には国連の国際海洋法会議で200カイリ経済水域の設定が提唱されると,アイスランドは1975年に経済水域の拡大を宣言し,イギリスがアイスランドのトロール船創業に対し軍艦を出動させる事態に発展しました(タラ戦争)。タラ戦争は1976年に終結し,アイスランドは漁業資源をイギリスから守りました。



1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島
 
グリーンランドはデンマークの「一地方」とされていましたが,1973年にデンマークEC(ヨーロッパ共同体)に加盟すると自治の要求が高まり,1979年の住民投票で自治政府が成立しました。1982年の住民投票で離脱派が上回ると1984年に自治議会は離脱を可決し,翌1985年にはグリーンランドはECから有利な条件で離脱しました。同年にはグリーンランドの地名がデンマーク語からイヌイット語(グリーンランドは,カラーリット=ヌナート)に変更されるなど,イヌイット友愛党による独立に向けた運動は続けられています。

 
フェロー諸島はデンマーク領です。国家元首はデンマーク国王ですが,行政には自治が認められています。独立運動も起こっています。



1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 
ノルウェーはビートルズの「ノルウェーの森」(「森」の原義は「家具」であるようです)で知られるように,林業や漁業,海運,鉄鉱石などの鉱業とその関連産業が主要な産業でした。
 しかし,1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。
 ただ,その後の1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済も打撃を受けています。

 1970年後半以降は保守党が躍進していきました。1981年に労働党が敗北し保守党内閣が成立しました。1985年以降は急進右派の進歩党が台頭し,1989年の総選挙で第三党になっています。1990年には保守連立内閣が分裂し,労働党政権の下で1994年のEU加盟を問う国民投票は否決され,ノルウェーのEU加盟とはなりませんでした。
 1993年には,ノルウェー首相が中東問題を仲介し,パレスチナの自治を認める
オスロ合意が成立しています。その後も世界各地の紛争の和平プロセスに関与し,独自の位置を占めるようになっています(注)。
(注)「ノルウェーの中東関与」,放送大学,http://www.takahashi-seminar.jp/books/20100921.html


1979年~現在のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑥スウェーデン
 スウェーデンでは,社会主義政党ではない政党による連立政権が続き,その中で原子力発電所の設置は大きな争点となりました(1988年の国会決議では2010年までに全原子炉の廃炉を決定しましたが,その後政策が転換されました)。1982年には社会民主党が政権に復帰しましたが,86年に〈パルメ〉首相が暗殺され〈カールソン〉副首相があとを継ぎ,88年には〈カールソン〉が政権を維持しました。しかし1990年代の不況はスウェーデンを直撃し,EUに加盟する機運が高まりました。1991年の総選挙で社会民主党が敗北し,保守中道連立政権となりましたが,1992年には通貨危機が起き,社会民主党政権が復活しました。〈カールソン〉首相の下,1994年にはEU(ヨーロッパ連合)に国民投票の結果,1995年に加盟しました。




●1979年~現在の南極

南極は「どこの国でもない」ことになっている
 
1959年締結の南極条約により,締結国間の平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められています。しかし,これ以前の主張された各国の領有権が,完全に否定されたわけではありません。

                                                         以上