1953年~1979年の世界
世界の一体化⑤:帝国の再編Ⅰ

英仏中心の帝国主義体制が崩壊し,核保有国のアメリカ・ソ連が「冷戦」を通して新たな国際秩序の主導権を争った。アジア,アフリカ諸国の多くが脱植民地化を実現するが,欧米主体の世界経済構造からの脱却が課題となる。

時代のまとめ
(1)
「冷戦」構造が再編され,多極化が進む
1953年の〈スターリン〉の死と,それに続く「スターリン批判」により,社会主義圏に組み込まれていた東ヨーロッパではソ連に対する自由化を求める動きが起こり,中華人民共和国との中ソ対立【早法H26[5]指定語句「中ソ論争」】に発展しました。社会主義諸国が分裂する中,ヴェトナム戦争の失敗にともないアメリカ合衆国が中華人民共和国と国交を回復し,国際関係はますます複雑化しました。
 また,第二次世界大戦で戦場となったヨーロッパのフランス,西ドイツの経済成長とヨーロッパ統合の推進,日本の高度経済成長の達成など
多極化が進みます。
 1973年の石油危機とヴェトナム戦争の失敗以降,アメリカ合衆国の経済的な覇権は揺らぎます。そして,ブレトン=ウッズ会議(1944)により決定され導入された,アメリカ合衆国の発行するドルを国際的な基軸通貨とする
固定相場制【セH10下線部】は,変動相場制に移行していったので。


(2) 独立した発展途上国では,輸入代替工業化と「緑の革命」が推進される

第三勢力
(「ソ連側にもアメリカ側にも付かないよ」という勢力)が形成されるが,大国が介入する
 また,アジア,アフリカを中心に脱植民地化が進み,アメリカやソ連の影響を拒む「第三勢力(第三世界)の形成を目指す運動も起こりました。
 しかし,独立勢力や新政権・反政府勢力をアメリカ,ソ連,中華人民共和国などの大国が支援することも多く,経済的利権をめぐる大国や周辺国による
代理戦争に発展する例も多くみられました。

輸入代替工業化を強引に進めるため,「開発独裁」が広がる
 アメリカ合衆国を中心とする資本主義経済圏に取り込まれた地域では,しばしば民主化を抑え込む中央集権的な政府の下で,「輸入代替工業化」(国外から製品を輸入する代わりに自前で生産すること)による経済成長が目指されました。これを開発独裁といいます。先に産業革命(工業化)を達成した国々は西欧・アメリカ合衆国・日本といった温帯地域(北)に多く,遅れをとった国々が熱帯地域(南)に多いことから,地球レベルの経済的格差から生じるさまざまな問題が「南北問題【セH9米ソの政治・経済体制の違いのことではない】と呼ばれることになります。これは1959年のイギリスのロイズ銀行会長が講演においてこれからは南の世界への開発援助が重要だと提言したことが始まりといわれます。
 南北問題が意識される中,アメリカ合衆国の経済学者〈ロストウ〉(1916~2003)は『経済成長の諸段階』(1960)を著し,「貧しい国が成長するためには,伝統的社会→離陸(テイクオフ)のための先行条件→
離陸→成熟への前進→高度大衆消費社会」(経済発展段階説)の道のりをたどるのだと論じ,アメリカ合衆国による世界各国への援助政策にも大きな影響を与えました。1961年には「国連開発の10年」宣言が出され,1964年に国連貿易開発会議(UNCTAD,アンクタッド)が開催されて同年の総会決議により常設機関となりました。鉱産資源や農産物といった一次産品の生産国は,それらを「買ってくれる」先進国に対して,「買ってもらう」側の下の位置になりがちです。しかし,「買ってくれる」先進国の需要に合わせて商品価格が決まるということは,一次産品に依存する国々にとっては一国の経済に影響を与える大問題です。そこで,発展途上国の生産国が中心となって,一次産品の価格をとりきめるためのグループ(資源カルテル)が次々に結成されていきました。石油に関するOPECが有名ですが,バナナのUPEB,天然ゴムのANRPC,南洋材のSEALPA,銅のCIPECなどがあります。
 一方で,ソ連の側もアメリカ合衆国に負けじと援助をちらつかせ,独立後の国々に社会主義的な国家運営をするように迫ります。

 ただ,東アジア・東南アジア地域では,第二次世界大戦前から地域内の市場が形成されていた点も見逃せません。
 第二次大戦後には,敗戦国の日本がアメリカの自由貿易体制に参入したことから,日本を中心とする自由貿易圏が形成されていくことになります。
 高度経済成長を遂げた日本から資本がアジアの地域にも投下されることで,日本に続いて経済成長を達成するアジア諸国・諸地域(
アジアNIE【東京H28[1]指定語句】【セA H30】)も現れるようになっていきます。
 一方,事実上たった一つの政党が政府と人事権を握るシステムを形成してきたソ連や中華人民共和国では,理想化された社会主義政策が失敗し,1970年代末に中華人民共和国では市場主義の部分的な導入に踏み切ることになります。

「緑の革命」が推進され農業生産性が高まるが,負の側面ももたらす
 アジアの発展途上国の中には,工業化の進展のためには農業生産性を高めることが不可欠との立場から「
緑の革命」(green revolution)という品種改良や技術革新を導入する国も現れます。
 ①品種改良(注) 
 ②化学肥料の使用 
 ③化学農薬
 これらを通して近代的な農業が目指されましたが,一方で伝統的な共同体が崩れ貧富の差が広まったり,生態系に合わせた持続可能な農業ができなくなったり,または,過剰な開発や大量の取水によって土地が荒れて砂漠化したりするケースも出てきます。
 化学肥料についても,先進国の企業が生産するわけですので,工業製品=肥料製造をする先進国と,それを買わざるをえない発展途上国の上下関係は固定化されてしまいます。
(注)1960年代後半に,フィリピンの国際イネ研究所IRRI)が 「IR8」 という多収穫品種を開発します。単位面積当りの収量を飛躍的に向上させ,「奇跡の米」とうたわれました。


(3) アメリカ文化が世界中に広がり科学技術が高度化,環境問題が認識され始める
 この時期は,アメリカ合衆国の文化(アメリカ文化)が,特に西側諸国を中心に世界中に広がった時代でもあります。マクドナルド(1940年創業),コカ=コーラ(1892年設立)に象徴される大量生産・大量消費社会は,とどまることなく発展を続けました。1863年に生産が可能になったアルミニウムは,缶ジュースの缶として大量生産されるようになりました。アルミニウムは,現代建築の家屋・アパートの窓枠や,自動車・航空機にも使用されるようになり,20世紀は「石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」に続くアルミニウム時代ともいえるかもしれません(プラスチック(石油)時代といっても良いかもしれませんが)。音楽の世界では〈エルヴィス=プレスリー〉(1935~77)やビートルズらによるロックというジャンルが生まれ,ビートルズの元メンバーだった〈ジョン=レノン〉(1940~80)や〈ボブ=ディラン〉(1941~)のように,反戦運動など政治を風刺する音楽を制作する者も現れました。また,工業製品のデザイン技術が発達し,大量生産的で無味乾燥なデザインを風刺した〈アンディー=ウォーホル〉(1928~87)のポップアート(トマト缶のパッケージや女優〈マリリン=モンロー〉を素材としました)や,芸術本来の原始的な力強さを復活させようとした〈岡本太郎〉(1911~96)の芸術作品が注目されました。

 1945年~1953年に開発が進んでいたコンピュータ(電子計算機)を,離れた場所どうしで交信させる技術が開発されていくのもこの時期です。1960年代末にはARPANET(アーパネット)というコンピュータ間のパケット通信がアメリカで実用化されましたが,複数のネットワークどうしの通信(インターネット)は,まだ開発の途上にありました。
 また,1953年のアメリカ合衆国の〈ワトソン〉(1928~)とイギリスの〈クリック〉(1916~2004)が
DNAのらせん構造を明らかにして以来,生物学の研究が急激に進んでいきます。

 一方で,この時期には公害問題や地球レベルの環境問題が,人間の経済活動によって引き起こされることがようやく認識されるようになっていきます。
 例えば,石炭や石油が無限に存在するものではなく,やがて枯渇するおそれがあるという説も提唱されるようになり,1972年には
ローマクラブ(1970年発足)というシンクタンク(研究機関)が『成長の限界』を発表し,資源が有限であることを世界に警告しています。
 また,19世紀末以降,農業生産を爆発的に高めた
化学肥料農薬についても生態系(エコシステム)に対する悪影響が指摘されるようになります。特に,農薬として使用されていたDDTの危険性(注)を指摘したアメリカの生物学者〈レイチェル=カーソン〉(19071964)の『沈黙の春(1962)は大きな影響を与えました。
 また,国際社会は国際連合(本部はアメリカ合衆国のニューヨークにあります)を中心として,さまざまな人権を保障するための活動を続けています。すべての人類が平等に持っているべき基本的な人権が守られなかったから,2度の大戦が起きてしまったのだという反省に基づくものです。
 1975年には国際連合の提唱によりメキシコで第一回
国際女性会議【立教文H28記】が開催され,1979年には女性差別撤廃条約【東京H30[1]指定語句】が成立し,女性の人権を向上させようとする運動が盛んになっていきます。




19531979年のアメリカ

1953年~1979年のアメリカ  北アメリカ
1953年~1979年のアメリカ  北アメリカ ①アメリカ合衆国

〈アイゼンハワー〉はソ連に“巻き返せず”
 1953年1月に共和党の〈アイゼンハワー(18901969,在任195361)が,大統領に就任しました。ノルマンディ上陸作戦を指揮した人物です。そして,3月5日に〈スターリン〉が死去します。〈アイゼンハワー〉は「ドミノ理論」(ある国で社会主義革命が起きると“ドミノ倒し”のように周辺国につぎつぎに波及していくという理論)の信奉者であり,「巻き返し」(Rollback)政策をかかげて,同盟国を経済的・軍事的に支援しました。57年にはアイゼンハワー=ドクトリンを出し,核兵器の力を頼りにソ連の影響力が中東に及ぶことを阻止しようとしました【セH26協調外交を推進していない,ドイツ人ではない】
 しかし,1959年1月にはカリブ海のキューバで〈カストロ〉らによる革命が起き親米政権が倒され,3月にはソ連のルナ2号が月面に着陸。アメリカ合衆国政府は危機感を強め,〈フルシチョフ〉は訪米してキャンプ=デーヴィッドで〈アイゼンハワー〉と会談しました(
キャンプ=デーヴィッド会談)。また,この間,ヨーロッパにおける経済統合もすすみ,イギリスも1960年に北欧諸国とともにEFTA(ヨーロッパ自由貿易連合)を形成します。1960年2月にはフランスの〈ド=ゴール〉政権の下で核実験に成功。1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」(1人当りの実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超えたということ)とうたったように,日本の経済成長もすすんでいます
 アフリカ諸国でも1960年に独立ラッシュ(アフリカの年)を迎え,1960年9月にはOPEC(石油輸出国機構)が成立するなど,第三諸国の影響力も上昇していました。“雪どけ”には,〈スターリン〉の死だけはなく,アメリカ合衆国の“劣勢”も影響していたのです


◆国際経済が多極化する中,〈ケネディ〉は開発援助により資本主義圏をまとめようとしたが暗殺
多極化する世界,破局手前のキューバ危機
 15年前の第二次世界大戦終了時には思いもよらなかった構図となっていた国際社会。
 そんな中,テレビ中継による大統領候補同士の公開討論で,“頼もしさ”“新しさ”をアピールしたことで支持率を上げたのは,民主党から出馬した若手の〈
ケネディ(191763,在任196163)。若手と言っても,アイルランド移民としてアメリカに渡り,財を成した〈ケネディ〉家は名門です。
 彼は,「
ニューフロンティア」政策を旗印に,史上最年少,そして史上初めてのアイルランド系【セH4】カトリック教徒【セH4】として大統領に就任しました【セH7ヴェトナム反戦運動の支持を受けて当選したわけではない】

 〈ケネディ〉政権は,発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと考え,「
進歩のための同盟」を掲げました。
 例えば,1961年には
OECD(経済協力開発機構)が立ち上げられ,先進国による発展途上国の援助により,独立した旧植民地がソ連側のいうことをきかないよう,つなぎとめようとしました。これはかつてのマーシャル=プラン受け入れ機関であるOEEC(ヨーロッパ経済協力開発機構)にアメリカ合衆国とカナダが加わったもので,本部はパリに置かれ,“先進国クラブ”ともいわれます。

 しかし,
62年にはソ連のミサイル基地が,合衆国と目と鼻の先にあるキューバに設置されていることが判明します。ソ連に対して撤去を要求しましたが,核戦争一歩手前の緊迫した状況となりました。しかし,ソ連はミサイルを譲歩したため,事なきをえました。これをキューバ危機といいます。
 冷や汗をかいた両国は,首脳間にホットライン(直通電話)を引きました。さらに,1963年にはアメリカ,ソ連,イギリスの間に部分的核実験禁止条約が結ばれました。

黒人やインディアンの運動が盛り上がる
 〈ケネディ〉は国内における人権問題にも,積極的に解決しようとしました。バスや公共施設の利用,学校入学や就職,参政権などにおいて,南部で強く残されていた黒人を差別する制度や法律を廃止するための運動
(公民権運動(市民権運動)) 【セH29試行】【早政H30】が,〈マーティン=ルーサー=キング(キング牧師192968) 【セH9「非暴力による人種差別撤廃の運動」を行ったか問う】【セH29試行】【セA H30】【慶商A H30記】を中心にすすめられました。インドの〈ガンディー〉の非暴力主義の影響を受け,1963年8月には首都ワシントンDC【セA H30】ワシントン大行進というデモをおこない,白人のハリウッド俳優〈チャールトン=ヘストン〉(1923~2008)を含む20万人以上の先頭に立ち,《I have a dream》(わたしには夢がある【セA H30】)で知られる演説を行いました。1964年にはノーベル平和賞を受賞しています(なお,マーティン=ルーサーとは〈マルティン=ルター〉(1483~1546)のことですが,彼自身はルター派ではなく南部バプテスト連盟です)

 また,黒人たちの運動(
ブラック=パワー運動)に刺激され,インディアンの権利回復運動(レッド=パワー運動)も盛り上がり,1961年には全米インディアン若者会議が結成され,「インディアン人権宣言」が起草されています。のち1968年には全米最大の組織となったアメリカ=インディアン運動(AIM)が結成され,運動は過激化していきました。

 〈ケネディ〉は1963年に暗殺されました
。容疑者とされた人物〈オズワルド〉が逮捕直後に暗殺されるなど不可解な点も多く,様々な憶測を生みました(映画「JFK(1991))1964年に,副大統領から昇格した〈ジョンソン(190873,在任196369) 【セH10時期(1930年代ではない) のもとで公民権法が制定されました。〈ジョンソン〉は「偉大な社会」(グレート=ソサイエティ) 【上智法(法律)他H30革新主義とのひっかけ】をスローガンにし,国内の経済格差をなくそうとして社会福祉を充実させました。このことが後に,莫大な財政赤字へとつながっていくのでした。

 なお,〈キング牧師〉は
68年にテネシー州で暗殺されてしまいました。白人のキリスト教徒との協力関係を築いた〈キング牧師〉とは一線を画した方針で黒人差別反対運動を行った人物に,ブラック=ムスリム(黒人イスラーム教徒)の指導者〈マルコムX〉(192565) がいます。彼はアフロ=アメリカン統一組織を設立しましたが,反対派に射殺されました(映画「マルコムX」(1992米))。なお,1968年のメキシコシティ=オリンピックでは,メダルを受けたアフリカ系アメリカ人選手らが,表彰状で黒い手袋で拳をあげるポーズをとり,差別に抗議しています(ブラックパワー=サリュート)【セH29試行 題材】


ヴェトナム戦争は“泥沼”化していく
 アメリカの赤字が積み上がっていったもう一つの理由は,インドシナ半島
【セH17バルカン半島ではない】におけるヴェトナム戦争の開始です【東京H7[3]】【セH23時期】。その口火を切ったのは,〈ケネディ〉大統領(任1961~63)です。彼は南ヴェトナムに“軍事顧問団”を送り込みましたが,実はこれはアメリカ陸軍特殊部隊群というゲリラ戦を得意とする組織に属する人たちでした。実戦が始まったのは〈ジョンソン〉大統領(任1963~69) 【セH14ケネディではない】のときです。彼は,トンキン湾事件を口実に65年から北ヴェトナムを空爆しました(北爆【セH10時期(1950年代か問う)セH12「アメリカによる空爆を免れた」わけではない】【セH14時期】)
 当時の南ヴェトナムでは,アメリカの支援する〈ゴー=ディン
=ジエム〉政権(任1955~63)が独裁体制をしき資本主義体制を守っていましたが,共産党の指導で1960年に組織されたベトコン(南ヴェトナム解放民族戦線,NLF) 【慶文H30記】が,北ヴェトナムの支援を受けて反政府のために抵抗運動・一斉蜂起を開始。ベトコンと北ヴェトナムは68年1月のテト攻勢により勢力を強め,北ヴェトナムを甘く見ていたアメリカ軍を圧倒し,ヴェトナム戦争は泥沼化していきました。1968年3月にはアメリカ陸軍の歩兵師団が南ヴェトナムのソンミ村で無抵抗の農民504人を虐殺しました(ソンミ村虐殺事件)。現場の悲惨な写真が戦場ジャーナリストにより公表され,反戦の機運に影響を与えました。

 財政悪化に苦しむアメリカでは,68年に共和党の〈ニクソン(191394,在任196974) 【セH4アイルランド系カトリック教徒ではない】【セH18】が大統領に就任しました(映画「ニクソン」(米1995))。国内では,若者世代を中心としたヴェトナム反戦運動【セH7ケネディは反戦運動の支持を受けたのではない】が盛り上がり,その動きは1969年のウッドストック=ロックフェスティバルという野外フェスで最高潮に達しました。〈ニクソン〉大統領はヴェトナム戦争の長期化にともなう財政赤字を背景に,1970年に「同盟国に対する防衛費を減らし,防衛費は同盟国によって負担してもらう」というニクソン=ドクトリン【早法H26[5]指定語句】を発表します。

人類が月面に到達する
 前後しますが,
戦後推進されていたアメリカ合衆国による宇宙開発計画は,1966年にソ連がルナ9号を月面着陸させたことに対する危機感もあり,1969年7月にソ連に先駆けた人類初の月面着陸に実を結びました【セH14ソ連が初めてではない】。アポロ11号の搭載した月面着陸船イーグルによって,〈アームストロング〉船長(19302012)と〈オルドリン〉大佐(1930)が月面に降り立ち,宇宙服を着用して歩行しています。


アメリカ合衆国は北京政府の国連代表権を承認へ
 そんな〈ニクソン〉大統領の補佐官〈キッシンジャー(1923)は,ニクソンにこのようなアドバイスをしました。
 ヴェトナムから撤退するなら,同じ社会主義国である中華人民共和国と関係を改善させておいたほうがいい。国連の代表権を与えれば,中華人民共和国は納得してくれるだろう。さらに,ソ連とも交渉して核兵器を減らしていく。ソ連も財政的に厳しいのはわれわれと同じだ。こうして中国とソ連との関係を改善させておけば,北ヴェトナムへの支援が弱まる。北ヴェトナムをさらに追い詰めるために,ホーチミン
=ルートと呼ばれるラオスやカンボジア方面の補給路を攻撃しておいたほうがいい。そして,すべての後始末は南ヴェトナムに任せよう。

 まず,1971年1月の世界選手権大会(名古屋)に中国は参加。さらに2月に中国はアメリカ合衆国の卓球チームを北京に招待(ピンポン外交)。続く,同年10月に中華人民共和国は国連代表権を獲得【セH24時期】します。この措置は中華人民共和国と友好であったアルバニアの提案なので,「アルバニア決議」ともいわれます。1972年2月に〈ニクソン〉は中華人民共和国をアメリカ合衆国大統領として初めて訪問(ニクソンの訪中(ニクソン=ショック)【セH26時期・セH27時期】)。メディアは,コートを着込んで北京郊外の万里の長城を歩く大統領夫妻を映し出します。

 一方,19
72年に米ソは第一次戦略兵器制限交渉(SALT,ソルト=ワン) 【セH4「米ソ間」の「戦略兵器制限交渉(SALT)」が東西間の緊張緩和とともに始められたか問う】に調印し,同年に発効させています。

 国際政治が一気に動く中,1973年にパリ〔ヴェトナム〕和平協定【追H20】で北ヴェトナムと南ヴェトナムの停戦と,アメリカの撤退【追H20】【セA H30ソ連ではない】が決められました。「アメリカはヴェトナムから手を引く。今後はヴェトナム人で解決してくれ」ということです。〈キッシンジャー〉は1973年にベトナム戦争の和平交渉が評価されてノーベル平和賞を受賞していますが…。
 19
75年に北ヴェトナムとベトコンが南ヴェトナムの首都サイゴンを占領,1976年に南北が統一されてヴェトナム社会主義共和国【セA H30「ソ連」の撤退後の成立ではない】が成立。けっきょくヴェトナムは社会主義国化したのです。

 〈ニクソン〉大統領は,経済的にも大きな方針転換を迫られます。1971年に,金とドルの交換停止【セH10を発表(ドル=ショック) 【セH10ヴェトナム戦争を一つの契機とするか問う】 【セH18】したのです。国際的な為替はのちに,変動相場制に移行することになり,金と交換可能なドルを基軸通貨とする国際経済体制は崩壊しました【セH14時期(ニクソン政権下)】
 そんな中,1972年の大統領選挙で,共和党陣営が民主党本部のあったウォーターゲート=ビルを盗聴していた疑惑への関与が高まり,〈ニクソン〉大統領は1974年8月に任期半ばで辞任する前代未聞の事態に。これを
ウォーターゲート事件といいます。

 後を継いだのは副大統領の〈フォード〉です。

 なお,1973年の第一回石油危機に対しては,1974年に〈キッシンジャー〉国務長官の提案で,
IEA(国際エネルギー機関)をOECD(経済協力開発機構)の附属機関として設置しています。



19531979年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 
ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていました。
 しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みもうまくはいきませんでした。依然として天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレや貧困層の増加が問題となっていきました。
 キューバ革命に刺激されたグループが各地で活動を開始し,カトリック教会からも貧困撲滅に向けた「
解放の神学(植民地などで差別を受けている民族の解放の考え方として,キリスト教の福音を読み直そうとする思想。1960年代以降台頭していきました)を提唱する者も現れます。

 ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっていましたが,ペルーとエクアドルでも1960~1970年代に軍事政権により同様の政策がとられるようになります。

 1950年代末以降,ペルーの沿岸都市とアマゾン流域を舞台とする『緑の家』で知られるペルーの〈バルガス=ヨサ(リョサ)〉(1936~,2010年にノーベル文学賞を受賞)や,『百年の孤独』で知られるコロンビアの〈
ガルシア=マルケス〉(1928~,1982年にノーベル文学賞を受賞)など,ラテン=アメリカ独自の“マジック=リアリズム”と称される文学者が注目を集めるようになりました。


1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆アメリカとソ連との“雪解け”の影響から,反米運動が盛り上がる

 1960年には,メキシコ,コスタリカ,ホンジュラス,ニカラグア,パナマの5か国より自由貿易や経済統合をめざす協力組織として中米共同市場(CACM)が形成されています。同年には,アメリカ依存の経済構造からの自立をめざすラテン=アメリカ自由貿易連合(LAFTA)がモンテビデオ条約により形成され,中央アメリカからはメキシコが原加盟国となりました(他一方,はアルゼンチン,ブラジル,チリ,メキシコ,パラグアイ,ペルー,ウルグァイ)。
 1959年の
キューバ革命【追H20】,1961年のキューバの社会主義宣言をきっかけに,反米の機運が高まり,1961年にはメキシコでラテン=アメリカ平和会議が開催されています。
 1964年には反米の運動が起き,アメリカ兵によりパナマ人が殺害されました(1月9日はパナマで「Martyrs' Day」として記念されています)。アメリカ合衆国はパナマ運河地帯を占領。1965年にはパナマは
アメリカとの運河条約を破棄しました。1967年のラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる「トラテロルコ条約」)がメキシコで調印されたのも,このような機運によるものです。

1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
一党支配の下で,文民支配が実現し,経済成長を果たした

 事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。「
メキシコ革命で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語でポプリスモ,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。
 キューバ革命で核兵器使用が現実味を帯びる中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ各地で反米運動が高まる中,1967年にはラテン=アメリカ14か国による核兵器の禁止条約(いわゆる「
トラテロルコ条約」)がメキシコで調印され,ラテン=アメリカに非核地帯が設定されました。トラテロルコというのはメキシコ外務省の所在地の地名です(メキシコ外交官〈ロブレス〉(1911~1991)はのちに1982年のノーベル平和賞を受賞しています)。
 なお,1968年にはラテンアメリカ初の開催となる
メキシコシティ五輪を実現させています。



1953年~1979年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ
 グアテマラでは1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス=グスマン〉(195154)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は“バナナ共和国”といわれるほどでした。しかし,〈アルベンス=グスマン〉による土地改革の手が外資系企業にまで伸びると,1954年,アメリカは中央情報局(CIA)の力で,アメリカの言うことを聞く親米政権(親米(しんべい)とはアメリカ合衆国の支援・協力関係にあること)を樹立させました。〈アルベンス=グスマン〉はメキシコに逃亡し,農園はユナイテッド・フルーツ社に返還されました。こののちグアテマラでは,1991年まで軍事独裁政権が続くことになります。



1953年~1979年のアメリカ 中央アメリカ 現
エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
 エルサルバドル
ホンジュラスニカラグアグアテマラコスタリカの5か国は1961年には中米共同市場が発足させ,地域の経済協力を進めようとしました。しかし,工業化の面でエルサルバドルはその中心を占めるようになっていき,ホンジュラスとの対立が生まれました。また,エルサルバドルからの移民のホンジュラスへの流入も問題となっていました。




1953年~1979年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆カリブ海地域ではイギリスからの独立が進むが,アメリカ合衆国の介入も続く
英領カリブ海植民地の「西インド連邦」構想は失敗
 1959年にキューバで革命が成功し,1961年に社会主義化を宣言。1962年にキューバ危機に発展します。
 その後,カリブ海地域のイギリス植民地では,1958~1962年に「
西インド連邦」という形で島々がセットになって独立しようとする政体がつくられました。しかし加盟国間の対立もあって瓦解し,その後は主にイギリス連邦の一員という形での独立ラッシュが続きます。

 1962年には②
ジャマイカ,⑯トリニダード=トバゴがイギリスから独立。
 1966年に⑭
バルバドスがイギリスから独立。
 1973年に③
バハマがイギリスから独立。(1964年に自治権獲得)
 1974年に⑮
グレナダがイギリスから独立。
 いずれも
イギリス連邦の一員の立憲君主国です。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
キューバ革命が成功し,社会主義化する
◆キューバでは,アメリカ合衆国の資本と結びついた大土地所有制を崩す革命が成功した

 
グアテマラでは,1954年にアメリカ合衆国の企業の土地を国有化した〈グスマン〉政権が倒されていました。「自分の国の資源は,自分の国のものだ」という考え方を「資源ナショナリズム」といいます。その考え方が否定されたわけです。これにショックを覚えたのが,アルゼンチン人の〈ゲバラ(192867) 【セA H30】です(映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」(2004アルゼンチン等)は日記を基に青年時代のアメリカ南米旅行を描いています。「チェ(28歳の革命,39歳 別れの手紙)」(2008米仏西)の二部作は革命を挟んだゲバラの伝記映画です)。グアテマラ新政権により命を狙われたためメキシコに亡命。そこで〈カストロ(19592008) 【セH26アメリカ合衆国の人物ではない】と出会います。実は〈カストロ〉はサトウキビ農園主の息子。彼は大学時代から政治活動に参加し,1950年から弁護士として貧しい人々のために活動していました。

 「ラテンアメリカから,アメリカ合衆国の資本をとりのぞき,キューバ人の国をつくるには,武力闘争しかない」
――二人はそれを実行にうつし,
1959年に少数精鋭でキューバに乗り込み,〈バティスタ〉親米政権(1940445259)を倒します(キューバ革命【追H20 時期(1950年代か問う)】)。

 さっそくアメリカ系の企業を国有化すると,
1961年にアメリカがキューバからの砂糖の輸入を停止し,打撃を与えようとしました。そこで,同年,キューバは社会主義国家宣言をし【セH15】,ソ連側のグループにつくことを表明しました。


◆キューバのミサイル基地をめぐり米ソが鋭く対立する
「キューバ危機」に全世界が固唾をのむ
 
1962年,キューバにソ連がミサイル基地を配備していることが発覚しました【セH24時期】。アイルランド系アメリカ人により創立されたロッキード社U-2偵察機(上空25000mをスパイ飛行できる)からの空中写真が決め手でした。ミサイルに核兵器を詰めば,アメリカ本土が射程範囲に入ることになり,激震が走りました。「全面核戦争」の危機の勃発です。しかし,アメリカ合衆国の〈ケネディ〉はミサイル基地の撤去を要求,海上封鎖を行いました。空軍はキューバの攻撃を主張しましたが,〈ケネディ〉の冷静な判断と,ソ連のフルシチョフがこれを受け入れたことで,衝突は回避されました。この13日間を「キューバ危機【セH9年代を問う】といいます。

 第三次世界大戦が起こる危機に見舞われたことで,冷や汗をかいた米ソの指導部は,
63年にホワイト=ハウスとクレムリンの米ソ首脳の間にすばやいコミュニケーションが図れるようにホット=ラインという直通通信線を設置しました(1967年の第三次中東戦争のとき,初めて使用されたといわれます)。また,63年には部分的核実験禁止条約(PTBT【セH5中国は加わっていないことを問う,セH7】に米・英【慶商A H30記】・ソが署名しました。地下を除く【セH7地下は禁止されていない】核実験を禁止したことから,これに調印すれば地下での実験も難しい狭い国では核実験が困難になったため,ある程度の効果はありました。しかし,大国は依然として核実験を継続していますし,フランスと中国はこれに署名せず,やがて核兵器を保有することになります。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 イギリス領ジャマイカは,ケイマン諸島とタークス=カイコス諸島とともにイギリスの植民地「ジャマイカ」を構成していました。
 ★
1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立を達成します(ケイマン諸島と,タークス=カイコス諸島は除く)。

 ジャマイカはアルミニウムの原料である
ボーキサイトの原産地です。しかし,国際価格は「アルコア」など欧米の多国籍企業のグループが支配していました。
 それに対し左派の〈マンリー〉首相は資源カルテルであるボーキサイト生産国機構(IBA)を結成し,対抗しました。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現②バハマ
 現③
バハマは,1973年の独立から進歩自由党の〈リンデン=ピンドリング〉首相(任1973~1992)が長期に渡って政権を握ります。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現④ドミニカ共和国
左派政権の樹立を阻止するためアメリカ軍が介入
 現⑤ドミニカ共和国では軍人の〈トルヒーヨ〉大統領による強力な独裁政権(任1930~38,42~52)が続いていましたが,

 彼が1961年に暗殺されると,1963年に大統領選挙によって左派政権が成立しました。左派政権は新憲法を定めて土地改革に着手すると,軍部がクーデタで阻止し,政情は不安定化。

 しかしそれに対し,新憲法の復活を掲げた陸軍によるクーデタが再び起こり,内戦が勃発しました。 
 アメリカ合衆国の〈ジョンソン〉大統領は「反共」を掲げてドミニカに侵攻します(
ドミニカ侵攻)。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 独立運動が激化していたプエルトリコは,すでに1952年にアメリカのコモンウェルスとされ,内政の自治権が与えられていました。
 コモンウェルスというのは,内政自治が認められるものの,アメリカ合衆国憲法と連邦法が適用され,元首はアメリカ合衆国大統領,主権はアメリカ合衆国にあるという地位です。
 そんな状況下で,プエルトリコ人がアメリカ合衆国の下院を襲撃する事件も起きています。

 アメリカ合衆国では「
進歩のための同盟」という政策がとられ,発展途上国を工業化させることで不満を封じ込める作戦をとっていきます。
 プエルトリコ内では,自治の拡大を目指すグループと現状維持グループとの間の対立も生じます。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 アメリカ領ヴァージン諸島は,1954年の自治法によりアメリカ合衆国の自治的・未編入領域となっています。

 ◇
イギリス領ヴァージン諸島は,英領リーワード諸島の一つでした。
 1960年に単独の植民地となり,1967年に自治を獲得します。
 1958年~1962年にカリブ海のイギリス植民地により結成された西インド連邦には加盟していません。
 議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つです。観光業と租税回避地(タックス=ヘイヴン)として急成長を遂げていきます。


 ◇
イギリス領アンギラ島は,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★その後,1958年~1962年に
西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年にセントクリストファー島とネイビス島と合わせ,「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラ島住民はこれに反対し,アンギラ共和国として独立宣言。これをイギリスが鎮圧し,失敗します。
 その後,1976年に自治権が付与されますが,イギリス領のままにとどまっています。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 ◇セントクリストファー=ネイビスは,英領リーワード諸島の一つでした。
 
 ★1958年~1962年に
西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後,1967年に「セントクリストファー=ネイビス=アンギラ」という単位でイギリスの自治領となります。しかし,アンギラがこの措置に抵抗したため,イギリスが派兵して鎮圧する事態に発展します。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現
⑧アンティグア=バーブーダ
 ★1958年~1962年に西インド連邦を構成。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年に自治権を獲得。特にアンティグア島で独立の機運が高まります。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト
 ◇イギリス領モントセラトは,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 モンサラットは,議会の多数党の党首が,イギリス王の代理人(総督)により任命される形をとる,イギリスの海外領土の一つとなります。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国

 ◇ドミニカは,英領リーワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 1967年に自治を獲得し,1978年にイギリス連邦内の立憲君主制国家として独立します。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島は〈エメ=セゼール〉の主導下に,フランスの海外県となっていました。
 スターリン批判後,1956年のハンガリー事件に対してフランス共産党が静観したことを批判し,〈エメ=セゼール〉は同年にフランス共産党を脱退。
 1958年にはみずからマルティニーク進歩党を立ち上げ,自治をスローガンに掲げて強い影響力を持ち続けています。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 ◆セントルシアは,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後1967年に自治領となり,1979年に独立を達成します。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 ◆セントビンセント及びグレナディーン諸島は,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 ◆バルバドス
は,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 1961年には自治を獲得しています。
 一方で,周辺のカリブ海諸国も合わせた独立が企図され,
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。
 その後,1962年に自治を再獲得,1966年に独立を達成しています。


1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 ◆グレナダは,,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立の末に分離独立し,翌年には瓦解し,イギリスの直轄植民地に戻ります。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 ◆トリニダード=トバゴは,英領ウィンドワード諸島の一つでした。
 ★それが,1958年~1962年に西インド連邦の構成国となります。
 しかし,1961年にジャマイカとトリニダード=トバゴが対立。その後,1962年に
トリニダード=トバゴとして分離独立しました。
 1976年に共和制に移行しています。



1953年~1979年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 1954年にベネズエラ沖のアルバ島,ボネール島,キュラソー島と,そのはるか北方に位置するリーワード諸島の3島を合わせ,「オランダ領アンティル」が形成されます。





1953年~1979年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

1953年~1979年の南アメリカ  ①ブラジル

ブラジルでは左派寄りのポピュリズム政権が続くが,1964年以降は軍政に転換した
 1950年の国民投票の結果,〈
ヴァルガス〉が再度大統領に選ばれました。〈ヴァルガス〉は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。1953年には国営の石油公社を設立し,外国資本を締め出しました。しかし,〈ヴァルガス〉本人が「陰謀」と遺言する事件をきっかけに,1954年にピストル自殺を遂げました。
 彼の死後も1964年までは,トップダウンで社会保障制度や労働立法によって貧困層の支持を取り付けるという,左派寄りのポピュリズム的な政権(幅広い大衆の支持を受けた政権)が続きます。ナショナリズムを打ち出し,外国勢力を“敵”とみなす政治手法は,大衆に対する受けが良いのです。

 1957年には新大統領の下で,建築家〈ニーマイヤー〉(1907~2012)や〈ルシオ=コスタ〉(1902~1998)のプランの下,新首都
ブラジリアの建設が始まり,1960年には遷都されました。上空からみると飛行機型になるのが特徴です。このブラジリアを中心として,各地に交通インフラも整備されていきます(◆世界文化遺産「ブラジリア」,1987)。
 この年には〈アントニオ猪木〉(1943~)が家族でサンパウロに移住し,コーヒー園で生計を立てはじめています(1960年に〈力道山〉(1924~63)に見出されて帰国しデビュー)。後継の大統領の下で順調な経済成長が実現していきましたが,1960年代に入ると経済成長率は頭打ちとなり,
農地改革石油産業の国有化を含む抜本的な改革が模索されるようになります。これに対し,アメリカ合衆国の支持を受けた軍部がクーデタを起こし,1964年に軍事政権を樹立しました。軍事政権の下では左派の運動が弾圧され,外国資本を誘致することでの経済開発が推進されていくことになります。これに対し,弾圧を受けた共産党は各地でゲリラ活動を引き起こしました。
 しかし,軍事政権の下では「ブラジルにの奇蹟」ともいわれる年率平均10%の高度経済成長が実現。1973年の石油危機まで好況は続きました。
 石油危機後は成長率がにぶり,インフレが進行。その一方で,1970年代後半には,アマゾン横断道路が完成,また,ブラジルからベネスエラへの縦断道路も完成しています。また,バイオエタノール燃料の開発,大西洋沿岸部の海洋油田の開発,中央高原のサバンナ(セラード)における農業などもこの時期に着手され,
NIC(新興工業国群,のちのNIE;ニーズ;新興工業経済群)にもリストアップされるようになります。1974年には日本の〈田中角栄〉首相がブラジルを訪問するなど,日本との結びつきを強化し始めるのも,この頃のことです。



1953年~1979年の南アメリカ  ④アルゼンチン
アルゼンチンでは外資を導入する軍部と,民族資本を推進する〈ペロン〉派の対立が続いた
 民族資本による工業化を図ろうとした〈ペロン〉政権(任1946~55,73~74)は軍事政権によりクーデタで打倒され,1955年外資を導入することで工業化を果たす路線に転換されました。しかし,政権が不安定化すると1966年に軍部は再度クーデタを起こし〈オンガニーア〉将軍が大統領に就任し,労働運動を押さえながら国家主導の工業化を目指しました。しかし,農民,労働者や学生による抵抗運動が激化すると1970年に退陣。後継も軍人が継ぎましたが,国民の間に〈ペロン〉派を推す動きが強まり,1973年に〈ペロン〉派(ペロニスタ党)政権が復活しました。
 しかしこの政権は左派のゲリラに甘く,急進的な政策を実行したために,ペロニスタ党内部でも意見が割れ,結局1973年に〈
ペロン〉本人が大統領に“返り咲き”を果たしました。しかし彼は1974年に病死し,後を継いだ〈イサベル〉夫人は政治的な失敗を重ね,再び軍事政権に逆戻りすることとなりました。



1953年~1979年の南アメリカ  ⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー
ペルー,チリは「進歩のための同盟」を受け入れ,ボリビアでも左派の影響力は弾圧されていった

 
チリでは,アメリカ合衆国の提唱した「進歩のための同盟」が〈フレイ〉政権(任1964~70)の下で実行されました。〈フレイ〉はキリスト教民主党を率い,「銅山のチリ化」(銅山を外国資本からチリ資本にすること)が「自由の中の革命」というスローガンの下で,ゆるやかに進められていきました。アメリカの資本が導入されて工業化が進められましたが,農地改革は不十分なまま残されました。

 
ボリビアでは〈パス〉政権により社会改革(「ボリビア革命」ともいわれます)が行われていましたが,第3次〈パス〉政権のときに軍によるクーデタが起き,軍政が始まりました。軍事政権の首班であった〈バリエントス〉(1919~1969,軍事政権64,大統領任1964~65,2人大統領制任65~66)はインカ帝国の公用語であったケチュア語が話せたことから,広範な農民層の支持を受け,ボリビアの大統領に上り詰めました。そんな中,キューバ革命を成功させていた〈チェ=ゲバラ〉(1928~67) 【セA H30】が,革命を南アメリカに拡大させようとして1966年に拠点をボリビアに移し,ボリビア民族解放軍(ELN)を組織し,武装蜂起を計画します。しかしながら,1967年にアメリカ合衆国の後押しを受けた〈バリエントス〉政権により武装解除され,〈ゲバラ〉も銃殺されました。
 〈バリエントス〉が1969年に航空機事故で亡くなると,後任の〈オバンド〉大統領(任1969~70)は左派のMNRに対する弾圧を弱める姿勢をみせましたが,内紛で辞任。その後軍人の〈トレス〉大統領(任1970~71)のときにソ連に接近しましたが,1971年に〈バンセル〉大佐のクーデタにより差は政権は崩壊し,〈バンセル〉政権(任1971~78)の下で外国資本の導入によって好景気を迎えました。しかし,その間に累積債務が拡大し,政治的にも1974年以降の〈バンセル〉政権による労働運動の弾圧への抵抗も強まると,アメリカ合衆国の〈
カーター〉大統領【セH9共和党ではない】が“人権外交”と称してボリビアに民主化を要求しました。しかし,その後もクーデタが頻発して短命の軍部政権が続き,経済も頭打ちとなっていきます。

 ペルーでは,〈プラード〉政権(任1956~62)の下で左派のアプラ(APRA)が合法化されていました。反米・反帝国主義を掲げるアプラを,輸出業を中心とする資本家の支持を受けた〈プラード〉政権が合法化したのは,〈プラード〉政権側が,「非合法化しないこと」を交換条件としてアプラを丸め込んだからです。この政権下では土地改革などの社会改革は進まず,農民による闘争も起きていました。また,アプラと〈プラード〉派の間に対立が起きると,1956年に軍部が介入し,憲法と議会が停止されて軍事評議会が立ち上げられました。軍事政権は農地改革を実施し,農民に農地を有償で再分配しました。
 1963年には都市中間層や新興資本家の支持を置けた人民行動党(AP)の〈ベラウンデ〉(任1963~68,80~85)が「
進歩のための同盟(注1)を掲げていたアメリカ合衆国と協力関係を築きながら,ペルーの近代化に向けた取り組みを推進していきました。しかし,アメリカ系の石油会社との交渉をめぐるスキャンダルがきっかけで,1968年に軍部がクーデタを起こし,1968年にアメリカ合衆国に亡命しました。
 軍部の〈アルバラード〉政権は反米主義を打ち出し,外国資本に支配されていた基幹産業の国有化や農地改革が断交されました。中華人民共和国(1971),ソ連(1972),キューバ(1972)と国交を回復させるなど,社会主義圏への接近を加速させます。〈アルバラード〉政権は「従属理論」の影響を受けていました
(注2)。しかし,石油危機にともなう世界不況や政府の汚職が明らかになる中,軍部による無血クーデタが起き,親米の〈モラレス〉政権(任1975~80)が成立しました。しかし国際収支が悪化して国家財政がIMFの管理下に置かれる中,民政への復帰が目指されるようになっていきました。
(注1)ラテン=アメリカ諸国の近代化が遅れたままだと,共産主義の勢力が広がる恐れがあるとみたアメリカ合衆国は,各国の保守派と手を結び社会改革や工業化などをするように義務付け,資本をジャブジャブと注いていきました。同時に,左派ゲリラを鎮圧させるための軍部への援助もおこなわれました。ラテン=アメリカ〈ケネディ〉大統領が提唱し,1961年に米州機構の経済社会理事会で「ラテンアメリカ経済社会の発展のための10か年計画」として採択した憲章に基づきます。
(注2)後進国の発展が遅れているのは,先進国の発展のために後進国が「従属」する構造があるからだ,とする経済理論です。後進国が発展するためには,その構造そのものを変える必要があると主張されました。代表的な論者にドイツの〈フランク〉(1929~2005),エジプトの〈アミン〉(1931~),ブラジル大統領にもなった〈カルドーゾ〉(1931~)らがいます。




1953年~1979年のオセアニア

 オセアニアの独立は,アジアやアフリカよりも時期が遅れます。サンゴ礁によってできた島も多く,農業を含めた産業が貧弱で,人口も少ない。せっかく独立しても,よその国に出稼ぎに行って得たお金を本国に送金する場合が多く,海外援助によって得た資金を,人口の割に高い比率を占める官僚が国の政治や経済を動かしている国が少なくありません。このような経済を,移民(migrationMI),送金(remittanceR),援助(aidA),官僚制(bureaucracyB)の頭文字をとってMIRAB経済ともいいます。
 そんな中,独立への動きもすすみますが,独立してもコプラ
(ココヤシの果実の胚乳を乾燥させたもの。圧搾するとコプラ油がとれ,マーガリンや石鹸の原料になります)産業が脆弱なため,ニュージーランドやオーストラリアへの移民・出稼ぎによって生計を立てる国も少なくありません。


1953年~1979のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア
…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ
1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 ①イースター島は1888年以降チリ領。ピトケアン諸島はイギリス領です。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ②フランス領ポリネシア
 1949年にフランス海外領土となっていたフランス領ポリネシアは,1957年に自治権を獲得しています。他方,ムルロア環礁はフランスの核実験場として使用され,深刻な汚染をもたらしています。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ③クック諸島
 1901年以降,クック諸島はニュージーランドの属領となっていました。1946年には立法評議会が設立され,自治政府の設立が準備され,1964年にはニュージーランド国会によって憲法が承認され,1965年に内政自治権を獲得。ニュージーランドとの自由連合となりました。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ④ニウエ
 1901年以降,ニュージーランドの属領として,ニウエはクック諸島の一部を構成していました。
 1974年以降はニュージーランドとの自由連合を結ぶ国となります。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑤ニュージーランド

 ニュージーランドの経済は,イギリス市場向けの酪農・畜産物の輸出が活況を呈し,生活水準も世界トップクラスに上昇しました。
 しかし,ターニング・ポイントは1973年の
イギリスのEC加盟でした。
 イギリス史上を失い,石油危機の影響を受け,ニュージーランド経済は悪化していきます。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑥トンガ
 トンガは1958年にイギリスとの条約によって自治が認められ,1965年に即位した〈トゥポウ4世〉のとき1970年にイギリス連邦内で独立しました。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑦アメリカ領サモア,サモア
 アメリカ合衆国はサモア(東サモア)をアメリカ合衆国に編入しようとしましたが,首長の反対により頓挫。1967年からは憲法が制定され自治をおこなっていますが,アメリカ合衆国が自治法を制定していないため「国際連合非自治地域リスト」に記載されています。
 一方,西サモアはニュージーランドによる国際連合
信託統治領となっていましたが,1962年に独立。1970年にはイギリス連邦に加盟しています。

(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年ニュージーランドの委任統治→1945年西サモアは国際連合信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモア自治政府→1997年西サモアはサモアに改称)。


1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑧ニュージーランド領トケラウ島
 トケラウ島は,1948年以来,ニュージーランド領となっています。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑨ツバル
 現在のツバルは,北部のギルバート諸島(現在のキリバス)とともに,ギルバート=エリス諸島としてイギリスに植民地支配を受けていました。
 しかし,ギルバート諸島の住民はミクロネシア系であり,ポリネシア系のツバルは1974年の国民投票でギルバート諸島の分離を決定。
 1978年にイギリス連邦の一員として
独立を果たします。
 とはいえ,産業基盤の脆弱なツバルのサンゴ礁の島々では,総督府が置かれた首都フナフティ環礁のフォンガファレ島を含め,漁業を主体とする伝統的な生活が維持されます。

1953年~1979年のオセアニア  ポリネシア ⑩アメリカ領ハワイ
1950年代の市民権運動(公民権運動)を通じて1959年にアメリカ合衆国の50番目の州に昇格しており,リゾート地としての開発が進み観光業が主要な産業となっているほか,アメリカ合衆国の太平洋軍の基地が置かれています。ホノルルに大規模なアラモアナ=ショッピングセンターが開店したのも1959年のことです。
 1970年代以降,日本人のパッケージ・ツアーによる観光客が増加する一方で,ハワイの先住民の文化は観光客のイメージに合わせる形で変容・衰退していきました。1978年にハワイ州政府はハワイ人問題事務局を設置し,ハワイのポリネシア系先住民の伝統文化や言語(ハワイ語)の保護や振興にあたっています。1978年にはハワイ語が州の公式言語となっています。



1953年~1979のオーストラリア
 オーストラリアでは,アボリジナル(アボリジニ)や【セH27アジア系移民に対する差別的な政策(白豪主義【セH29試行 資料と議論】)が推進されてきましたが,1967年の国民投票でアボリジナル(アボリジニ)にも国民としての権利が与えられることになりました。



1953年~1979のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア



1953年~1979のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム


 
1968年にはイギリスからナウルが独立。
 1975年にパプアニューギニアがオーストラリアから独立。
 
1976年に,ギルバート=エリス諸島が,ミクロネシア系のキリバスとポリネシア系のツバルに分離し,それぞれ79年と78年に独立しました。1978年にイギリスからソロモン諸島が独立しました。

 
③ナウル②キリバスのオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されていました。島民による権利獲得運動は1968年の独立,1970年のリン鉱石採掘事業の管理権獲得に実ります。ナウルの島民の生活水準は高く,鉱山の採掘権料と利益のおかげで,ほとんど働かずして西洋風の生活を享受するようになりました()。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままとなっています。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357





1953年~1979年の中央ユーラシア

中央ユーラシア…①キルギス,②タジキスタン,ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
1953年~1979年の中央ユーラシア  ⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
 新疆は,中華人民共和国のもと,1955年に新疆ウイグル自治区となりました。文化大革命のときには,古くさい習俗を打ち壊そうというスローガンのもとで,モスク破壊やコーラン焼却など,イスラーム教徒への迫害が起き,深刻な亀裂をもたらしました。





1953年~1979年のアジア

1953年~1979年のアジア  東北アジア・東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)

◆「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた

スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
 1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46)が死去しました。

 これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ【セH10時期(1950年代か問う)ムードとなり【セH14このときWTOは解体されていない】,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗【セH27勝利していない】をみたことをきっかけに,ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定【セH16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】【追H30】)が結ばれました。

 ヴェトナムは北緯17度線【追H30】が南北の境界となり,南部にはヴェトナム共和国が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(190163,在任195563)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー==ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
 このジュネーヴ国際会議では,前年に独立していたラオスカンボジアが,独立国として承認されています。 さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月にジュネーヴ四巨頭会談がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が,ポツダム会談以来初めて一堂に会し,平和共存路線【セH14】を共有しました。

 〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは〈フルシチョフ(18941971,在任195364)です。
 就任直後の8月には,物理学者〈
サハロフ〉(192189)の技術で,水素爆弾実験を行っています。
 
56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指しでスターリン批判をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました【セH29試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。

 この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信され,中華人民共和国にも影響を与えました。
 中国共産党は,個人崇拝を批判した内容が,中国で“〈毛沢東〉批判”につながることを恐れます。また,ソ連がアメリカ合衆国と
平和共存路線を打ち出したことも,中華人民共和国にとって寝耳に水の話でした。
 〈毛沢東〉は,
1956年に「漢字簡化方案」を制定し,漢字を簡略化することで,農民識字率をあげようとするなど,社会主義国家の実現に向け改革を進めていました。〈蒋介石〉のうつった台湾では実施されなかったため,台湾の漢字(繁體字(はんたいじ))と中華人民共和国の漢字(簡体字) 【共通一次 平1:白話運動とは関係ない】は,現在にいたるまで別々になっています。

 〈毛沢東〉は1956年に百花斉放・百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)を打ち出し「共産党に対する批判をなんでもしていいよ!」と意見を求めておきながら,1957年に反右派闘争により批判をした“反体制派”を一斉追放。その上で,
58年に第二次五カ年計【早法H23[5]指定語句】の一環として「大躍進」政策【追H9失敗し,ソ連から多額の経済援助を受けたわけではない】を打ち出して,社会主義国家の建設を急ぎました。彼は,農業・工業を生産する職場を基礎に,役所・学校・兵隊をワンセットにした人民公社を,中国全土に設立していきました【セH17時期(20世紀前半ではない)・毛沢東が建設したことを問う】【追H9時期を問う】。農業を集団化させると同時に,工業生産も確保しようしようとしたこの政策は大失敗に終わり,毛沢東の威信は低下します。
 ソ連との対立も深まり
(中ソ対立(論争)【セH23文化大革命以後に始まっていない】【早法H30[5]指定語句】)60年にはソ連の技術者が中国から引き上げられてしまいました【追H9時期を問う,積極的な対外開放政策がとられたわけではない】

 キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局
62年に撤去されました。ソ連水爆の父〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年にはアメリカ【東京H29[3]】イギリス【東京H29[3]】【慶商A H30記】ソ連【東京H29[3]】の間で部分的核実験禁止条約(PTBT) 【東京H29[3]】が締結されましたが,これをみた中国は「ソ連はアメリカ合衆国のいいなりだ」とますますソ連への批判を強めます。ソ連は,中国を“極左冒険主義”(さすがに過激で非現実的)と名指しで批判すると,互いを公開で批判する事態に発展してしまいました。
 
64年に中華人民共和国は核実験を断行,核保有国になります。69年には,アムール川の支流で,1860年の北京条約【セH10】以降中ソの国境となっているウスリー川に浮かぶ珍宝島(ダマンスキー島) での武力衝突(中ソ国境紛争【セH26時期】)へとエスカレートしていきます。

 1966年からは「大躍進」の失敗後に政治の最前線から退いていた〈毛沢東〉が自分の権力を取り戻そうと【セH22これで失脚したわけではない】紅衛兵【セH23文化大革命に対抗する組織ではない】を用いて反対派を失脚させる運動を起こしました。これをプロレタリア文化大革命【セH6魯迅は無関係(文学革命とのひっかけ)】【セH14文化大革命により中華人民共和国が成立したわけではない,セH24新文化運動とのひっかけ】【追H9時期を問う(1950年代ではない),大躍進政策とのひっかけ】といいます(196676)(「さらば,わが愛/覇王別姫」(1993香港・中国)に文化大革命の様子が描かれています)
 「社会主義化がうまくいかないのは,この国にまだ
資本主義的な考え方をするやつらがいるからだ」と考えたのです。しかし,頭の中で何を考えているかなどわかりませんから,「あいつは資本主義的なやつだ!」と証拠をでっち上げて集団で攻撃すれば,すぐに追い落とせます。走資派(実権派)(資本主義へと走る奴) 【セH23】と名指しされた〈劉少奇(りゅうしょうき)【セH23】【早法H23[5]指定語句】【慶商A H30記】は失脚し,〈毛沢東〉夫人を中心とする「四人組」という女性たちが実権を握りました。自由に何かを発言したりものを書いたりすると,揚げ足をとられて攻撃されるおそれもあり,文化は全く停滞します。特に,儒教的な価値観や,チベット人やウイグル人といった少数民族の文化が攻撃の対象となり,『駱駝祥子(らくだのシャンツ)』を著した〈老舎〉(18891966)も迫害されました。

 これにより中国全土は大混乱に陥りましたが,この間に「アルバニア決議」により中華人民共和国は国連代表権を獲得し,1972年にアメリカ合衆国大統領と会談し国交が正常化(上海コミュニケ)。アメリカ合衆国の方針転換を追って,同年には日本の〈田中角栄〉首相との日中共同声明が発表されています
 国際政治が激しく変動する中,〈毛沢東〉の後継者と目されていた〈林彪(りんぴょう)〉はクーデタを計画しましたが未然に発覚(そもそもそんな計画はしていないという説もあり),ソ連行きの飛行機がモンゴルに墜落して,謎の死を遂げました。
 その後1976年に〈毛沢東〉が亡くなると,「四人組」が逮捕され,プロレタリア文化大革命は大きな爪痕(つめあと)を中国に残しつつ幕を閉じました。

 その後の中華人民共和国は,社会主義国家でありながら経済の「自由化」を模索していくこととなります。



1953年~1979年のアジア  東アジア ①日本
 日本はアメリカ合衆国との同盟の下で,中東からの安価な原油を基盤に,製造業中心の高度経済成長を達成した
 
1952年に主権を回復した日本は,米ソの冷戦構造の中で,アメリカ側の体制に組み込まれていきました。50年代には,終戦直後の戦後改革によりいったん民主的になった制度を,もう一度国家権力を強化した制度に戻そうとする動き「逆コース」が見られました。また,1954年のマーシャル諸島(現在のマーシャル諸島共和国)のビキニ環礁(◆世界文化遺産「ビキニ環礁―核実験場となった海」,2010)におけるアメリカ合衆国の水爆実験【セH17時期(80年代ではない),セH29試行時期(1932年ではない)の被害を受けた第五福竜丸事件により,反核運動が盛り上がりました。ビキニ環礁では計23回の核実験のために住民の強制退去が行われ,現在でも居住できない島もあります。水素爆弾「ブラボー」によりできた直径2kmのブラボー=クレーターも残されています。

 
1955年に第一回原水爆禁止世界大会が広島で開催され,同年には哲学者〈ラッセル〉(1872~1970)と科学者〈アインシュタイン〉(1879~1955,署名後,約1週間後に死去) 【東京H7[3]】が核の平和利用を訴えたラッセル=アインシュタイン宣言が発表されました。1957年にはカナダで科学者【セH23】〈湯川秀樹〉(1907~81),〈朝永振一郎〉(1906~79),〈ボルン〉(1882~1970)らによりパグウォッシュ会議が開かれ核兵器廃絶を訴えました【セH4第三世界の指導者による開催ではない,セH7】【セH23】。この会長を務めたイギリスの物理学者〈ロートブラット〉(1908~2005)は1995年にパグウォッシュ会議とともにノーベル平和賞を受賞しています。

 〈鳩山一郎〉内閣(1954~56)は,〈吉田茂〉内閣(1948~54)が日本国憲法を改正せずに,アメリカに追従して再軍備路線をとったことを批判し,憲法を改正してソ連と中華人民共和国とも接近するべきだと主張しました。
 経済界を支配する大企業も,当時勢力を増していた革新勢力である社会党(左派・右派に分かれていた)などの拡大をおそれ,保守勢力である日本民主党と自由党の合同を提案するようになります。1955年2月総選挙では,革新勢力が1/3以上の議席を獲得していたのです。憲法を改正するためには2/3以上の議席が必要です。
 195510月,左右の社会党が統一して日本社会党ができました。
 それに対抗して,195511月〈岸信介〉が日本民主党と自由党を合わせ,自由民主党を立ち上げました。
 結局,1956年7月の参院選でも革新勢力が1/3以上の議席を獲得したため,憲法改正にはいたらず,この状況は以降も続きました。1955年に始まった,憲法を改正できそうで改正できない絶妙な保守勢力と革新勢力のバランスを「55年体制」と呼ぶようになりました。
 
195610月にはソ連の〈フルシチョフ〉との日ソ共同宣言【セH24時期(国際連合加盟前)によって,日本はソ連との戦争を終結させました。これにより,12月に日本は国際連合に加盟【セH24することができました。

 1957年に〈岸信介〉内閣(きしのぶすけ,在任1957~60)が成立します。彼は「保守本流」という派閥に属し,経済発展を優先し,アメリカに安全保障を肩代わりしてもらうべきことを主張しました。弟は〈佐藤栄作〉(さとうえいさく,後の首相),孫は〈安倍晋三〉(あべしんぞう,こちらも後の首相)です。
 
1960年に日米安全保障条約の改定を達成すると,〈岸信介〉内閣(きしのぶすけ,1957~60)は総辞職し,〈池田勇人〉内閣(いけだはやと,在任1960~64)に代わりました。高度経済成長の時代を迎えていた日本は,60年代始めに自由貿易の国際的な取り決めに従うようになり,1964年には東京オリンピックを開催しました。ギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿の前で採火された聖火は,アメリカの施政下にあった沖縄も,島民の複雑な思いを背景としつつ通過しています。日の丸の掲揚が制限されていましたが,アメリカ合衆国はこのときの掲揚を黙認します()
 1965年には大韓民国の〈朴正煕〉政権と
日韓基本条約を結び,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの援助資金と引き換えに,戦前の被害に関する賠償請求権を放棄しました。これにより大韓民国は「漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には新興工業経済地域の一つに数えられるようになります。また,韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣しました。
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.124

 
1965年からは沖縄からヴェトナム戦争に出撃する爆撃機が出るようになり,沖縄返還運動が盛んになっていきます。沖縄は1969年にアメリカ合衆国〈ニクソン〉大統領(任1969~74)と〈佐藤栄作〉首相(さとうえいさく,在任1964~72)が共同声明で1972年の返還を約束し,71年の沖縄返還協定で,1972【セA H30年代(日中国交正常化と同年か)】に日本に返還されました(沖縄返還)。アメリカ合衆国による政策により,米中が接近し,1972【セA H30年代】に〈田中角栄〉首相(任1972~74)が日中共同声明【セH22日中平和友好条約ではない】日中国交正常化【セA H30年代】を達成しました【セH22日中平和友好条約により日中国交正常化されたわけではない】。このときに上野動物園に贈られたのが「カンカン」(♂,~1980)と「ランラン」(♀,~1979)です。

 1965年に名神高速道路,69年東名高速道路が開通し,自動車の普及(モータリゼーション)が進みました。都市部の過密化,地方の過疎化も次第に進行していきました。また,高度経済成長の裏で,水俣病(みなまたびょう。企業の化学工場から出された有機水銀に汚染された魚を食べた人々やその子どもに,中毒症状や重篤な神経障害が現れたもの)などの深刻な公害が発生し,1970年に公害対策基本法が制定され,71年には環境庁が発足しました。のち2013年に熊本で署名された国際的に水銀を規制する条約は,「水俣条約」と名付けられています。

 しかし,1973年のオイル=ショック以降,先進国は世界的に不況の波に襲われます。日本では狂乱物価(インフレ)となり,1974年に参議院選挙に敗北した自民党の〈田中角栄〉首相(任1972~74)は退陣しました(のち76年にロッキード事件で逮捕)。〈三木武夫〉内閣(みきたけお,1974~76),1978年に日中平和友好条約【セH22これで国交正常化したわけではない】【セH26時期】を締結した〈福田赳夫〉内閣(ふくだたけお,在任1976~78),〈大平正芳〉内閣(おおひらまさよし,1978~80)はいずれも短命に終わっています。
 この頃,従来の国民の福祉を充実させようとする「福祉国家」政策は,各国で再検討されるようになっていました。「国の支出をできるだけ減らし,自由な競争を促進して,民間の活力を高めることで国を発展させていこう」という新自由主義的な政策をとる国家が増えていきます。

1953年~1979年の東アジア  ③中華人民共和国
 1951年の「チベット平和解放に関する17条協議」においてチベットは中国に対して,外交権・軍事権を失うことを認めるかわりに,〈ダライ=ラマ14〉(位1940~)による支配を承認されていました。もはや,ギリギリ綱渡りの状態です。そこに中華人民共和国にとって,チベットの伝統的な制度は「革命に反する古くさい文化」に映るわけです。社会主義的な考え方を植え付けようとする動きに,チベット人の反乱が勃発すると,1959年に〈ダライ=ラマ14〉はインドに脱出し,亡命政権を樹立しました【セH30亡命先はアメリカではない】。これ以降,彼はインドのダラムサラに逃れているわけです。チベット難民も発生し,インド側になだれ込みました。こうしてチベットは軍事的に中華人民共和国の領土とされたのです【セH2020世紀に反中国運動があったかを問う】

1953年~1979年の東アジア  ④モンゴル
 モンゴルはソ連との関係を維持し,ソ連と中華人民共和国との「中ソ対立」(中ソ論争【早法H26[5]指定語句】)が起きても,モンゴルはソ連側にまわりました。1962年にはアジア唯一のCOMECON(コメコン) 加盟国となり,ソ連圏との結びつきは強化されました。

1953年~1979年の東アジア  ⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
◆情勢が安定した韓国は軍事政権の下,日本からの資本・技術移転が進み発展を始めた

 1950年の朝鮮戦争【セH10時期(1950年代か問う),休戦後まで日本の独立が遅れたわけではない】において,中華人民共和国が100万人の義勇軍を南下させたため,1951年1月にソウルが北朝鮮に再占領されました。「国連軍」司令官〈マッカーサー〉は中華人民共和国に対する核兵器の使用を提案しますが,〈トルーマン〉大統領によって拒否され【セH12核兵器は使用されていない】1951年4月に解任。その後は〈リッジウェイ〉司令官の下,北緯38度線を挟んで一進一退を繰り返し,休戦を公約とした〈アイゼンハワー〉政権の発足と〈スターリン〉の死去をきっかけに1953年7月27日に北緯38度線の南にある板門店(パンムンジョム;はんもんてん)で休戦協定が調印されました。朝鮮戦争の死者数は,民間人を含めると200万人にのぼるといわれており,南北朝鮮の間で生き別れとなった“離散家族”を生みました。

1953年~1979年の東アジア  ⑤朝鮮民主主義人民共和国
北朝鮮は自力で社会主義化を図ろうとしたが経済は停滞し,国民の動員が強められた
 朝鮮戦争の過程で,ソ連をバックに付けた〈金日成〉首相に権力が集中し,権力の奪い合いの結果,1958年には国内における主導権をほぼ確立しました。
 すでに企業・鉱山・銀行などは国有化され,1953年からは農業の集団化が進められていき,社会主義家が進められました。計画経済の下で,ソ連・中華人民共和国の援助を受けながら重工業化が進められました。1953年に〈スターリン〉が死去し1956年にスターリン批判が明るみに出ると,中華人民共和国とソ連の外交関係が悪化。間に挟まれる形の北朝鮮は,どちらかに接近するともう片方に睨(にら)まれてしまう困難の中,両者とバランスをとりながら独自の社会主義路線をつくろうとし,1956年からは「千里馬(
チョルリマ)運動」が始められ,生産力の向上が推進されました。
 この過程で,北朝鮮の経済は朝鮮労働党の指導者による直々の「現地指導」に基づき,国民が農業・工業分野の生産に関わるトップダウンの管理方法が確立されていきます。しかし,外国からの資本や資源(特に石油)を導入せずに自力で計画経済による工業化・社会主義化を図る取り組みは,早くも1960年代後半には行き詰まりを見せ,〈金日成〉は国民の動員を「主体(
チュチェ)思想」というイデオロギーによって一層強めていきました。お隣の韓国は日本やアメリカにすり寄ることで工業化を果たしているが,北朝鮮は違う。北朝鮮は〈マルクス〉=〈レーニン〉の思想を北朝鮮に創造的に適用した〈金日成〉の「偉大な思想」により自力で発展することが可能だ,といった考えです。「主体思想」は〈金日成〉に対する個人崇拝を生み,アメリカ合衆国と韓国に対する強硬姿勢をもたらしました(1972年には憲法が改正され,主体思想が明記され,〈金日成〉は国家主席に就任しました)。1970年代に入って一時的に韓国との関係が改善しましたが,1973年の金大中事件をきっかけに強硬姿勢に逆戻りしました。
 1967年頃から〈金日成〉の息子〈
金正日〉(キムジョンイル)の存在感が増し,〈金日成〉に代わって主体思想を正確に理解し,国民を指導する立場を自任するようになっていきました。1969年には朝鮮中央テレビが開局し,主体思想の普及に貢献しました。しかし1970年代後半には計画経済に遅れが目立つようになり,韓国との格差は決定的となっています。なお,1970年代から1980年代にかけて,韓国に対する工作に利用するために日本人を北朝鮮に組織的に拉致していたことが明らかになっています(2002年の日朝首脳会談で〈金正日〉が関与を認めました)

1953年~1979年の東アジア  ⑥大韓民国
 朝鮮戦争からの復興のために,アメリカ合衆国は大規模な援助を実施しましたが,援助物資は一部企業グループに横流しされ財閥が形成されていきました。軽工業を中心として輸入品を自国で生産する動きもにぶく,工業化は進展しませんでした。
 一方,1950年代末にかけて〈李承晩〉大統領による強権政治への批判が強まり,1960年の大統領選挙での不正が引き金となり市民や学生によるデモが拡大。4月26日に議会とアメリカ合衆国が圧力をかけると,〈李承晩〉は4月27日に大統領を辞任し,5月にアメリカ合衆国に亡命しました。これを
四月革命といいます。
 議院内閣制を定めた新憲法の下,野党であった民主党〈張勉〉内閣が発足し,国政の安定化に努めるとともに,北朝鮮との融和も主張しました(国連の監視の下,韓国憲法により南北統一選挙の実施を公約)。
 しかし,北朝鮮との融和策は軍部の不評を買い,経済の悪化にも歯止めがかからず,1961年にはついに軍部の若手将校によるほぼ無血のクーデタが起きました(5.16クーデタ)。最高指揮官は〈朴正煕〉(パクチョンヒ)
【追H21クーデタによって政権を獲得したか問う】少将らで,軍事革命委員会(のち国家再建最高会議)を組織して非常戒厳令を発令し,〈張勉〉は辞任し,〈尹潽善〉(ユンボソン;いんふぜん)大統領は残留しました。同年7月には〈朴正熙〉が国家再建最高会議議長に就任しました。1961年には反政府の動きを弾圧するために諜報機関である中央情報部(KCIA)が創設され,1962年には大統領にも就任しました。

 これに対し〈ケネディ〉大統領は,国内をコントロールできない政権よりは,強権により国内の資本主義的な発展をすすめることのできる政権のほうがマシであると判断し,〈朴正熙〉政権を支持しました。発展途上国の社会主義化を防ぐためには,〈アイゼンハワー〉政権のときのようにただ単に援助するのではダメで,その国の体制が経済をしっかり開発することができるよう後押しをすることが大切だと見なしたのです。開発優先の強権的な政治体制のことを「
開発独裁」ということがあります(注)
(注)曺喜昖は,〈朴正熙〉がとった反共・開発動員体制の背景は,植民地化を経験した多くの地域に普遍的にみられる政治体制であるとみています。それは,いまだ社会の「近代化」を達成できない政府が,「近代化」という正常な状態を口実に,国民を強制的に動員ないしは自発的に参加させて社会を再組織するものでしたが,開発の犠牲となった人々の抵抗が,〈朴正熙〉に対抗する政治運動を生むこととなるのです。曺喜昖, 李泳釆・監訳,牧野波・訳『朴正煕 動員された近代化: 韓国,開発動員体制の二重性』彩流社,2013,p.120,122~123。



 北朝鮮の〈金日成〉も〈朴正熙〉軍事政権の成立に対抗し,6月にソ連を訪問してソ連=北朝鮮友好強力相互援助条約を,7月には中華人民共和国との間に中朝友好協力相互援助条約を締結しました。これらは実質的には韓国に対する軍事同盟でした。

 〈朴正煕〉大統領は〈李承晩〉時代の財閥への弾圧を強め,外国の資本を導入した輸入代替工業,さらには輸出志向型の工業化を進める政策をとろうとしました。しかし,アメリカ合衆国からの援助が減らされており,代わりにすでに高度経済成長を果たしていた日本から資本を導入するためには,日本との国交樹立が不可欠でした。日本側も輸出先として韓国市場を求めていました。
 そこで,1965年に
日韓基本条約が締結され,日本は韓国を「朝鮮半島の唯一の合法政府」と認め,国交を正常化させました。大韓民国は,総額8億ドルの無償経済協力・政府借款・商業借款と引き換えに,戦前の被害に関する請求権を放棄しました。この中で,在日韓国人の永住権も承認されています。
 日本との国交回復により,大韓民国は「
漢江(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済成長を迎え,70年代には新興工業経済地域の一つに数えられるようになります。韓国は「反共産主義」を名目に,アメリカ合衆国の始めたヴェトナム戦争に兵士を多く派遣し,「ヴェトナム特需」も経済成長を支えました。1970年からは日本企業から技術と借款を導入し,浦項(ポハン)に総合製鉄所が建設されました。
 1970年代には北朝鮮との和平交渉や南北交流の拡大に向けた動きが活発化しました。しかし,1971年に大統領候補であった〈金大中〉(キムデジュン;きんだいちゅう)が東京でKCIAに拉致されたことに北朝鮮が抗議し,関係は冷却。同年には〈朴正熙〉大統領が非常事態宣言を発表し,1972年には非常戒厳令を公布。大統領の権限をさらに拡大して反対勢力を押さえ込み,南北の平和統一のために新憲法を制定しようとしました(
十月維新)。同年に大統領に就任した〈朴正熙〉は「維新体制」のもとで輸出志向型の重化学工業化を一層推進していきました。1975年に現代(ヒュンダイ)自動車が初の国産車を製造し,三星(サムソン),ラッキー金星(クムソン,現在のLG),大宇(デウ)といった新興財閥が生まれました。首都ソウルへの人口一極集中も加速し,都市と農村の所得格差が拡大すると,1970年からセマウル(新しい村)運動が始められ,農業生産の近代化に向けた取り組みが行われていきます。
 〈朴正熙〉政権の強権政治に対する批判も強まり,〈金泳三〉(キムヨンサム)を総裁とする新民党の反政府運動も活発化しました。1974年には〈朴正熙〉夫人が暗殺され,1979年には中央情報部長が会食中に〈朴正熙〉を射殺。実行犯を逮捕した〈崔圭夏〉(チェギュハ,さいけいか)首相が大統領を代行し,非常戒厳令を出しました。





1953年~1979年のアジア  東南アジア

東南アジア…ヴェトナム,フィリピン,ブルネイ,東ティモール,インドネシア,シンガポール,マレーシア,カンボジア,ラオス,タイ,ミャンマー
独立後の東南アジアは冷戦の影響を受け,「第三世界」を建設しようとする運動は米ソに切り崩され,米ソの勢力争いが起きた地域では内戦が起きた

1953年~1979年のアジア  東南アジア ①ヴェトナム

大国の介入を受け続けるカンボジアの悲劇
19461954年 インドシナ戦争
 フランス領インドシナでは,ヴェトナム国を建てて勢力圏を維持しようとするフランスと,北部の〈
ホー==ミン〉の勢力との間で,泥沼の戦いが繰り広げられていました。しかし,1954ディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍1万6000は降伏すると風向きが変わり,国際社会が介入する形で,決着が図られます。
 1954年4月,ジュネーヴにアメリカ・イギリス・フランス・中華民国・ソ連が集まり協議した結果,ヴェトナムの独立が定められました。北緯17度線を停戦ラインとし,56年に国際社会の監視下のもとで選挙を行って,南北統一をしようということになりました。こうしてインドシナ戦争は終結したのですが,今度ヴェトナムに介入することになったのはアメリカ合衆国です。

1960年代~1973年 ヴェトナム戦争
 ヴェトナムの社会主義国化を阻止するために,アメリカは南部の政権を支援し,北部の〈ホー==ミン〉と対立。〈ジョンソン〉大統領【セH10時期(1930年代ではない)1965年に,北部のヴェトナム民主共和国の空爆を開始し,ヴェトナム戦争(第二次インドシナ戦争ともいいます)が始まりましたセH5ヴェトナム人の戦争相手国を問う(以前は対フランスであったことも)】
 最新鋭の武器を投入したアメリカ合衆国に対し,〈ホー
==ミン〉はジャングルに地下トンネルを掘り,南部の抵抗勢力を支援するなど,あの手この手でゲリラ戦を敢行。
 アメリカ軍は熱帯のゲリラ戦に苦しみ,戦況は泥沼化しました。現在ではクチというところで,実際に当時の地下トンネルに入ってみる体験もできます。
 国内的にも批判が高まり,戦費も増大していたこともあって,〈ニクソン大統領〉は
1973年に撤退を決め,「あとはヴェトナム人にまかせよう(ヴェトナム戦争のヴェトナム化政策)」としました。

1978年~現在 ヴェトナム社会主義共和国
 
1975年にサイゴンは〈ホー==ミン〉のヴェトナム民主共和国が陥落し,1978年にヴェトナム社会主義共和国が成立しました。南北統一は〈ホー==ミン〉のほうに軍配が上がったのです。
 フランスとアメリカとの一連のヴェトナム戦争によりヴェトナム全土は荒廃し,アメリカ合衆国の使用した化学兵器(ダイオキシン類を主成分とする
枯葉剤)によって,現在に至るまで重い後遺症を残したり,形態異状児を産んだ住民も多数出ています。また戦難を逃れて船で海上に脱出した人々(ボート=ピープル)が東シナ海や南シナ海を通り,日本にも到達しました。

 中華人民共和国は
カンボジア【追H20ラオスではない】で〈毛沢東〉を信奉する〈ポル=ポト〉(1928~1998) 【追H20】を支援し,ソ連の支援を受けるヴェトナム社会主義共和国を“挟み撃ち”しようとしていました。
 〈ポル=ポト〉は「カンボジアでは全員が思想を改造し,農業に従事することで原始共産制による“みんな平等”の理想社会をつくることができる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。

 1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し親ヴェトナム政権を樹立しましたが,国際的批判にさらされヴェトナム社会主義共和国は,〈ポル=ポト〉派を支援していた中華人民共和国との間に1979年に中越戦争が勃発します。社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
 アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てていきます。これがカンボジアの悲劇です。




 東南アジア集団防衛条約(SEATO)を締結するフィリピン(米比相互防衛条約(1951)も締結しています)タイは,アメリカ合衆国に軍事基地を提供し連携を維持しました。

 ビルマでは,タキン党出身の〈ウー=〉(1948~56,57~58,60~62)が,暗殺された〈アウンサン〉を引き継ぎ,イギリス連邦を離脱しビルマ連邦として独立を達成していました。彼は上座部仏教を中心とした国づくりを進めていきました。
 しかし,多民族国家であるビルマ連邦は,北部のアヘン栽培地帯(
ゴールデン=トライアングル)に独立を目指す,漢人系のコーカン人,モン=クメール系のワ人やタイ系のシャン人などが分布しており,ここに初め中国国民党の残党やビルマ共産党が麻薬ビジネスで拠点を築き,ビルマ連邦政府と対立を深めていました。また,イギリス統治の影響を受けキリスト教徒の多かった南部のカレン人なども独立運動を起こします。
 
 〈ウー=ヌ〉は,1954年に
コロンボ会議【早商H30[4]記】に参加し,翌1955年にアジア=アフリカ会議にも参加するなど,米ソから距離をとって「第三世界」を建設しようと試みました。しかし,国内の独立勢力との戦いの過程で国軍の発言権が増していき,タキン党出身の〈=ウィン〉大将が1958年に内戦を収める形で首相に就任しましたが。
 混乱が収拾すると,
1960年の総選挙で〈ネ=ウィン〉は一旦〈ウー=ヌ〉(1907~1995)に譲りましたが,今度は1962年に〈ネ=ウィン〉クーデタを起こして,革命評議会議長として大統領(任1962~81)兼首相となり,長期間にわたる軍事独裁政権が始まることになります。彼はビルマ社会主義計画党を立ち上げ,米ソと距離を置いて上座仏教の要素もミックスした“ビルマ流”の社会主義国家を建設しようとしながら,北部の少数民族や麻薬地帯に拠点を置く反政府勢力の掃討も続けられました。
 1974年には新憲法を制定しビルマ連邦
社会主義共和国を樹立しましたが,一党独裁体制や粛清,“鎖国”体制によって社会・経済が停滞していきました。



 イギリス領マラヤは,1957年にシンガポール以外がまずマラヤ連邦【セH18,セH29試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】としてイギリス連邦の一員として独立し,ムラユ人やスルターンの権利が強化されました。
 それに対し,中国系住民の多い
シンガポールでは1959年に自治政府ができました。
 さらに
1963年に,マラヤ連邦にシンガポール,ボルネオ島のサラワク北ボルネオ(サバ)が加わり,マレーシアとなりました【セH11ジャワ島はマレーシアの1州ではない】【追H20マレーシアの旧宗主国はイギリスか問う】。北ボルネオのサラワクやサバが,マレーシアに加入するかいなかをめぐっては,フィリピンやインドネシアが対立し,63年にともに国交を断絶しましています(のち回復)

 しかし,当初からマレーシアの参加に抵抗のあったシンガポールでは,ムラユ人を優遇政策に反発がおこり,1965年にシンガポールセH5】【セH14,セH18 1415世紀ではない】マレーシア連邦セH5】【セH14H18ともにマラヤ連邦ではない】から分離独立し,〈リー=クアン=ユー〉(1923~2015) 【上智法(法律)他H30】【慶商A H30記】開発独裁(経済発展のために民主化をおさえる体制)を主導しました。
 こうしてマレーシアは,マレー半島の11州と,ボルネオ島のサバ州とサラワク州の連邦制をとる立憲君主国家となり,国家元首の国王は,マレー半島の9つの州(11州のうちペナンとムラカ(マラッカ)を除く)から5年ごとに互選されることになりました。イスラーム教が国教となり,ムラユ語が国語とされました。


 インドネシアでは経済が停滞し,議会制民主主義体制がゆきづまると,1950年代末より〈スカルノ〉大統領が「指導される民主主義」を提唱しました。これは「インドネシアにはインドネシアのやりかたがある。西洋流の多数決による選挙ではなく,独立のリーダー〈スカルノ〉を中心に国をまとめるべきだ」という主張です。〈スカルノ〉は民族主義,宗教(イスラーム教),共産主義の政党が,一致団結してまとまるべきだという「ナサコム(NASAKOM。3つの単語の頭文字をとった造語)」体制を提唱しました。
 しかし,1963年にマレーシア連邦が形成されると,〈スカルノ〉はこれを国内政治に利用します。マレーシアという敵を外側につくることで,国内をまとめようとしたのです。アメリカ合衆国も,〈スカルノ〉を,国内の共産主義者を操ることのできる実力者として見ていたふしがあります。
 しかし,インドネシアの内側では,国営企業を牛耳る「軍」や大地主の多い「イスラーム」に対して,「共産党」が対立するようになっていました。そして迎えた1965年の9月30(正確には10月1日未明)「将軍評議会」による〈スカルノ〉に対するクーデタを防ぐという名目のもと,共産党との関連があったとされる大統領親衛隊長〈ウントゥン〉中佐が権力を掌握しようとしましたが,陸軍の〈スハルト〉将軍(19212008)により鎮圧されました。「反乱」を鎮圧した〈スハルト〉は,逆に権力を掌握し,「共産党の陰謀」であると発表。この後,「共産党員狩り」が起き66年までに4550万人が殺され,共産党は壊滅しました【セH14】1966年に〈スハルト〉は〈スカルノ〉から正式に権力を移譲され,1968年に〈スハルト〉は大統領に就任し【セH26時期】,反共・親米の「新体制」を打ち立てます。「国父」〈スカルノ〉は軟禁状態に置かれ,第3夫人の〈デヴィ=スカルノ〉はフランスに亡命,〈スカルノ〉は1970年に死去しました。この一連の騒乱を九・三〇事件【セH10これをきっかけにスカルノが失脚したか問う】【セH30時期(1965年)・共産党が壊滅したかを問う,セH29中国ではない】【追H20共産党がこれをきっかけに弾圧されたか問う】といい,インドネシアに暗い影を落としています。しかし,その発端となったクーデタの首謀者がいったい誰だったのか,いまでもはっきりとはわかっていません。インドネシアで共産主義勢力が伸長するのを恐れた,アメリカの情報機関CIAが〈スハルト〉をエージェントとして実行させたと考える説すらあります。九・三〇事件後には各地で自警団などによる隣人の虐殺も発生したとみられ,インドネシアでこの事件について語るのは現在でも“タブー”となっています(当時「共産党員狩り」に関わった被害者・加害者を取材した異色ドキュメンタリー映画に,「アクト・オブ・キリング」(英・デンマーク・ノルウェー,2012)があります)。

 ヴェトナム戦争が終わるとインドネシアとタイからは米軍が撤退し,それを受けてASEANは“中立化”を宣言しました。
1976年には東南アジア友好協力条約(TAC)が締結され,紛争の平和的な解決が約束されると,先進国の投資や援助が急増することになります。



19531979年のアジア  東南アジア ⑪カンボジア
 1954年にインドシナ戦争休戦のためのジュネーヴ会議が開催され,カンボジアの独立の尊重,ヴェトミン軍のカンボジアからの撤退が決まりました。
 カンボジアでは1955年に選挙が開かれることも決まりますが,カンボジアにはヴェトミン側に立って戦った兵士も多く帰還し,パリ帰りの急進派が議席を獲得する形勢となりました。
 そんな中,〈シアヌーク〉国王は1955年に王位を父に譲ると,人民社会主義共同体(サンクム)を結成。挙国一致体制をとり,サンクム以外の政党を禁じました。父に王位を譲ったのは,憲法の制約から自らを外すためです
(注)
 〈シハヌーク〉は絶大な人気を盾に全議席を獲得。1957年に左派の民主党を解散させ,抵抗組織は地下活動に転じます。これが,のちの〈ポル=ポト〉を準備するのです。
(注)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.24~p.25。

 〈シハヌーク〉翼賛体制は1960年代末まで続きます。国内では左派を弾圧しつつ,「中立」を称しながらアメリカ合衆国との対立を深め,中華人民共和国にも接近しバランスをとろうとしました。

 一方,この頃1951年に結成されていた
クメール人民革命党の党員の多くは,教員として活動していました。その中で,パリ留学組の〈イエン=サリ〉,〈ポル=ポト〉が台頭。1960年にはカンプチア労働党と改称。しかし,その後は中華人民共和国との接近を強め,1966年頃には党名をカンプチア共産党クメール=ルージュ)と改称します。

 そんな中,1970年3月,〈シハヌーク〉国家元首がフランス休暇旅行の帰りにソ連を訪れていたとき,アメリカ合衆国のCIAとの結びつきを得た〈ロン=ノル〉首相がクーデタを敢行。それに対して〈シハヌーク〉は中華人民共和国の〈周恩来〉の支援を受けて〈ロン=ノル〉打倒を宣言。
カンボジア民族統一戦線が結成されます。
 〈ロン=ノル〉首相は共和国を宣言して大統領に就任しますが,ヴェトナム系住民への虐殺事件も起き,〈ロン=ノル〉自身も1971年に脳卒中となり倒れ,政権はガタガタ
(注1。〈ニクソン〉大統領は1970年に南ヴェトナム政府軍とアメリカ合衆国軍をカンボジアに投入されるも,カンボジア民衆の反感は高まる一方。〈ロン=ノル〉政権も劣勢に追い込まれ,国内にはクメール=ルージュヴェトナム共産党軍による「解放区」が拡大していきました。〈シハヌーク〉もごきげんです。

 しかし,1972年頃からクメール=ルージュと,ヴェトナム共産党や〈シハヌーク〉派との間に対立がみえはじめます。1973年のパリ和平協定調印により,ヴェトナム共産党もカンボジアからの撤退を開始。1975年に〈ロン=ノル〉政府軍は完全に降伏し,内戦は集結しました。
 
 プノンペンに入城してきたのは,〈
ポル=ポト〉(1928~1998) 【追H20】率いるクメール=ルージュでした。彼は〈毛沢東〉思想の影響を受け,民主カンプチアを建国。すぐさま都市住民400万人(注2の即時強制退去が始まります。

 「国民全員が農業に従事することで原始共産制による“みんな平等”の理想社会がつくれる」と宣伝し,都市民を農村に集団移住させ批判する知識人や抵抗勢力を大量殺害しました。〈ポル=ポト〉の政策は,伝統的な上座仏教を否定し(民主カンプチア新憲法20条),教育を否定し国民全員が肉体労働に従事(憲法前文),「新文化」を礼賛し
植民地主義帝国主義に汚染された旧文化を否定(第3条),国際援助を拒否(第21条)するものでした。徹底的な「自立」にこだわる路線は,植民地時代のカンボジアの置かれた状態に対する,極端な形の“裏返し”でもありました。

 餓死・栄養失調,病死を考慮し,粛清・処刑・虐殺の犠牲者を見積もっても,総数は150~200万人にのぼるといわれています。なお,1975年の総人口は789万人でした
(注3。首都プノンペンのツールスレンの高校の校舎は尋問・拷問・虐殺の舞台となり,現在では「大量虐殺犯罪博物館」として公開されています。
 〈ポル=ポト〉派の政権時代,〈シハヌーク〉はプノンペンに軟禁されていました。

 1978年にヴェトナムはカンボジアに侵攻し〈ヘン=サムリン〉議長による親ヴェトナム政権を樹立しました。〈シハヌーク〉一家らは中国・北京に脱出,〈ポル=ポト〉は北西部に逃れてジャングルの奥に身を潜めました。ヴェトナムのカンボジア進出に対し,中華人民共和国とタイは〈ポル=ポト〉を支援。
 カンボジア民衆にとっては「ようやく〈ポル=ポト〉政権が終わった…」という安堵が大きかったのですが,中華人民共和国による外交もあって,カンボジアに進出した
ヴェトナム社会主義共和国は国際的批判にさらされます。翌年には,中華人民共和国との間に1979年に中越戦争が勃発します。この社会主義国どうしの戦争は,世界に衝撃を与えました。
 アメリカ合衆国はカンボジアの反ヴェトナム勢力を支援したため,カンボジアは周辺国と大国による代理戦争の舞台に成り果てます。これがカンボジアの悲劇です。
(注1,2)山田寛『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』講談社,2004,p.38~p.39,p.68,p.154。





1953年~1979年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1953
年~1979年のアジア  南アジア 現①ブータン
 1964年には海外技術協力事業団の一員として〈西岡京治〉(19331992)がブータンに渡り,農業指導をはじめました。ブータン“農業の父”といわれます


1953年~1979年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 セイロン島のセイロンでは,1956年にスリランカ自由党の〈バンラダナイケ〉首相がタミル人を排斥する政策(
シンハラ=オンリー政策)をとり,上座仏教を保護し,シンハラ語を公用語に制定。これがのちのシンハラ人とタミル人の民族紛争の火種となります。彼はのちに暗殺されました。

 1972年には第4首相〈バンラダナイケ〉の妻〈バンダラナイケ〉が第7代首相に就任。彼女も仏教を保護し,セイロンを
共和制に移行させ,国名はスリランカ共和国としました。
 そんな中,タミル人の分離独立派のうち暴力的な一派が,タミル人の建国を目指し活動を開始。
これがのちに
タミル=イーラム解放の虎(LTTE)に発展します。

 1977年以降は経済の自由化がすすめられる一方,1978年には大統領制をとる「スリランカ
民主社会主義共和国」と国名が改称されました。



1953年~1979年のアジア  南アジア 現④モルディブ
 モルディブは1887年以来イギリスの保護国となっていましたが,1953年に君主制が廃止されてモルディブ共和国となりました。しかし,その直後に君主制に逆戻り。1965年にスールタンを元首とするモルディブ=スールタン国として独立しました。
 しかし,1968年には国民投票で再び
共和国となっています。初代は〈ナシル〉(任19681978)大統領です。その後1978年に〈ガユーム〉が第2代大統領となっています。
 なお,この時期のモルディブはイギリス連邦には加盟していません(加盟は1982年。脱退は2016年)。


1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑤インド
 インドでは,国民会議派の〈ネルー〉政権(任1947~64)が続き,1954年にはフランス領であったポンディシェリー(タミル語でプドゥッチェーリ) 【東京H27[3]】シャンデルナゴル(1952年に行政権を返還,ベンガル語でチョンドンノゴル)を,1961年にはポルトガル領であったゴアを併合しました。
 1962年には,世界がキューバ危機に注目する中,中国との間に
中印国境紛争【セH15時期(ネルーの首相在任中かを問う)】が勃発しています。チベットから〈ダライ=ラマ14世〉がインド【東京H12[2]】に亡命してきたことで,中国とインドの関係も悪化。中国は,インドと対立したパキスタンを支援するようになり,中国との関係の悪化していたソ連はインドを支援するようになりました。インドは1974年に核兵器を保有するに至ったのは,この紛争がきっかけです。中国はカシミールの東部のアクサイチンを現在にいたるまで実効支配しています。
 しかし,1964年に〈ネルー〉が病気で亡くなり,後継者となった〈シャーストリー〉首相(任1964~66)は1966年に急死し,〈ネルー〉【セH8の娘のインディラ=ガンディー【セH15問題文(直接は問われていない)】【セH8父がインド首相か問う。父はパキスタン大統領ではない,夫はセイロン(スリランカ)首相・バングラデシュ大統領ではない】があとを継ぎました。彼女は旱魃(かんばつ)による食糧危機をなんとか乗り切りつつ,1965年からは第二次印=パ戦争が始まり,67年の選挙も惨敗,財政的にも政治的にも苦境となります。
 彼女は「緑の革命」という農業部門の近代化により,農業生産の生産性を向上させ食料の安定供給を実現し,工業化の進展につなげようとしました。銀行を国有化するなどの社会主義的な政策をとり,国民の下層に訴える大衆主義(ポピュリズム)で,1971年の下院選挙では国民会議派の勢力を盛り返しました。71年のバングラデシュの独立【追H20独立はビルマからではなく,パキスタンから】をめぐる第三次印=パ戦争にも勝利しました。彼女は,1971年に米中接近に対抗し,米ソ平和友好協力条約を結んでいます。
 しかし,石油危機の影響もあって経済は停滞したままでしたが,〈インディラ〉は非常事態宣言を発令して強権政治を行い,野党指導者らを投獄。こうした手法に批判が集まり,1977年の選挙で人民党(ジャナター党)に政権が交代しました。こうしてインドにおけるインド国民軍派の一党優位政党制は幕を閉じたのです。
 人民党の〈デサーイー〉首相は,もともと国民会議派でしたが,さまざまな勢力を結集した野党の連合政権的な特徴を持っていました。そこで,1979年には民衆党を結成した〈チャラン=シング〉が離脱し,首相に就任しました。初のバラモン階級ではない首相です。しかし,第二次石油危機の影響で1ヶ月足らずで崩壊し,80年の選挙では〈インディラ〉が首相に返り咲きました。同年には,人民党から離脱した人々がインド人民党(BJP;バラティア=ジャナタ党) を結成し,「ヒンドゥー教がインドのシンボルである」というヒンドゥー=ナショナリズムの運動を発展させていくことになります。



1953年~1979年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑥パキスタン
 インドから分離したパキスタンは政教分離を原則としたものの,新たな国づくりのために「イスラーム教徒であること」が国民の条件,国の根本とされるようになっていきました。1956年に制定された憲法で,国名はパキスタン=イスラム共和国とされました。
 
1958年には軍人〈アユーブ=ハーン(カーン)〉(首相在任1958,大統領在任1958~69)がクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で独裁をしき,68年まで続きました。アメリカとの結びつきが強く(1972年にイギリス連邦を脱退),ソ連との結びつきの強いインドとの対立も背景にありました。インドと対立している中国とは友好関係を結んでいます。
 インドとは,
194748年,1965年,1971年の3度にわたり印パ戦争を起こしています。1度目の戦争は,北部のカシミール地方の領有権をめぐる争いです(カシミール紛争【東京H24[1]指定語句】)。カシミール地方はインド帝国時代,ヒンドゥー教徒の藩王が治めていましたが,住民の多くはイスラーム教徒だったため,パキスタンとインドのどちらに帰属すべきか,いざこざが起きたのです。
 3度目の戦争では,ベンガル人の多い西部のパキスタン(パキスタンはイスラーム教徒の多い地区で構成されていたため,ベンガルの東部も「東パキスタン」として,飛び地としてパキスタンの一員でした)の独立をインドが支援。1971年にバングラデシュとしてパキスタン【セH16】【追H20ビルマ(ミャンマー)ではない】から独立しました【セH16時期(1970年代)】
 その後
1977年には〈ブットー〉大統領が,〈ジアウル=ハック〉陸軍参謀長によるクーデタ後に処刑され,〈ハック〉による軍政が88年まで続きました。この間,パキスタンでは刑法にイスラーム教の厳格な規範が導入されるなど,イスラーム的な政策がとられました。〈ブット〉の娘〈ベーナジール=ブット〉はのちに,1989年首相となります。



1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑥モルディブ
 モルディブは1887年以降,イギリスの保護国で,君主制がとられていました。
 しかし1953年に共和政に移行し〈アミン〉が大統領に就任。しかし,1年足らずで崩壊し,王政復古。そのまま1965年にスルターンを君主とするモルディブ=
スルターン国として独立しました。
 その後,1968年に,国民投票で共和制に移行しています(モルディブ
共和国)。イギリス連邦には加盟していません。



1953年~1979年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 1951年に宰相を独占していたラナ家を排除し,立憲君主政となっていたネパール。
 1953年にニュージーランド出身の〈ヒラリー〉(1919~2008)とチベット人シェルパの〈テンジン〉(1914~1986)が,人類初のチョモランマ(エベレスト山)の登頂を果たします。
 1955年に〈
マヘンドラ〉(位1955~1972)が国王に即位。1959年の総選挙でネパール国民会議派が政権をとると,1960年に国王は議会を解散。1962年の新憲法で政党が禁止され,国王に権力を集中させる「パンチャーヤト制」をはじめます。国王はヒンドゥー教を保護し,チベット仏教徒の不満も高まりました。
 1972年には〈
ビレンドラ〉(位1972~2001)が国王に即位。国民の声をとりいれ,父の創始した「パンチャーヤト制」を改革する方針をとっていきます。静岡県熱海市にある早咲きのヒマラヤザクラは,親日家である〈ビレンドラ〉が記念贈呈したものです






1953年~1979年のインド洋海域
◆インド洋は依然としてイギリスとフランスの勢力下にあるが,イギリスがスエズ以東からの撤退を決めると,アメリカ合衆国の進出も強まる
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 イギリスに保護国化されていたモルディブではスルターンを元首として独立し,1968年に国民投票によってモルディブ共和国となりました。1978年には初代〈ナシル〉大統領(196878)から〈ガユーム〉大統領(19782008)に交替し,長期政権を維持することになります。

 
モーリシャス1814年からイギリス領となっていましたが,1968年に独立を果たしました。しかし,独立にあたっては,以下のような複雑な経緯を経験しています。
 一方,1962年に
中印国境紛争が起きると,アメリカ合衆国政府はインド洋の防衛をイギリスに任せるのではなく,アメリカみずから社会主義勢力から守ろうとする姿勢を強めるようになります。アメリカは1963年には第七艦隊の一部をインド洋に派遣し,イギリス・アメリカ間の交渉の末,1966年にディエゴガルシア島はアメリカ合衆国に貸与されることになりました。モーリシャスの独立への準備も進んでいたので,イギリス政府はディエゴガルシア島のみをアメリカ合衆国に貸与するために,協定を結んでディエゴガルシア島を含むインド洋の島々をモーリシャスから分離させ,「インド洋英領」として自国領土とする周到さをみせています(代償金がモーリシャスに支払われました)。こうしてイギリスはアメリカ合衆国の力を借りることでインド洋での軍事的な支配を継続させようとし,アメリカ合衆国はイギリスの力を残しつつインド洋への軍事的な進出を図ろうとしたわけです。さらにイギリスは1971年にディエゴガルシア島の住民を,モーリシャス(一部はセーシェル)に強制移住させました()
(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。


 フランスの植民地支配下にあったマダガスカルは,1958年にフランス共同体内での自治が承認。1959年に初代大統領〈ツィラナナ〉(任19591972)が選出され,1960年の「アフリカの年」に「マダガスカル共和国」として独立を達成しました。
 しかし,フランスの影響力は政治・経済・文化的に残されたままで,〈ツィラナナ〉に対する批判が1972年に暴動に発展。〈ツィラナナ〉は権限を軍に移譲し,社会主義政策がとられましたが,政情は不安定なまま。

 1975年に元軍人の〈ラツィラカ〉が大統領に就任し,長期政権を実現。国名もマダガスカル共和国からマダガスカル
民主共和国に変更され,外国資本を国有化して社会主義政策を実行し,東側諸国と友好関係を樹立しました。

 マダガスカル島の東に位置する
レユニオン島は,フランスの領土です。
 モザンビークの北部沖に位置する
コモロ諸島はフランスの保護領です。38000万年間存在している古代の魚「シーラカンス」が現存することでも有名ですね(1938年に発見)
 
セーシェルはイギリス領です。

 
フランスは,レオユオン島のほか,インド洋の南部にアムステルダム島,クロゼ初頭,ケルゲレン諸島をフランス領南方=難局地域として領有しています。




1953年~1979年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,イラン,イラク,クウェート,バーレーン,カタール,アラブ首長国連邦,オマーン,イエメン,サウジアラビア,ヨルダン,イスラエル,パレスチナ()レバノン,シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

 ソ連の最高指導者〈
スターリン〉書記長(任1922~1953)が亡くなって“雪解け 【セH10時期(1950年代か問う)ムードの高まる中,1954年4月26日にスイスのジュネーヴでインドシナ戦争の和平交渉が始まりました。
  旧宗主国が主導して和平交渉を進める中,「それじゃあ第二次世界大戦前と全然変わっていないじゃないか」と,インド,スリランカ,インドネシア,パキスタン,ビルマが立ち上がりました。4月28日~5月2日に,19
54年に中華人民共和国の〈周恩来〉首相【セH15毛沢東ではない】が,インドの〈ネルー〉首相(194764)に働きかける形でスリランカのコロンボで5か国首脳が会談し(コロンボ会議【早商H30[4]記】),平和五原則【セH9【セH17時期(1970年代ではない)】【追H20】【早商H30[4]記】を発表したのです。
 1)領土と主権の相互尊重(僕たちの領土に首突っ込まないでね)
 2)相互不可侵(勝手に攻め込んだりしないでね。僕たちもしないから)
 3)内政不干渉【追H20】(僕たちの政治に首突っ込まないでね)
 4)平等互恵(どちらかだけが得をするしくみはやめましょう)
 5)平和共存(武力を行使することなく,平和でいきましょう)
 【追H20自由貿易,民族自決,集団安全保障は含まれない】

 要するに,19世紀以降,欧米がさんざんやってきた所業を,真っ向から批判したわけです。「ここは,アメリカ合衆国の勢力圏でも,ソ連の勢力圏でもないぞ!」と。アメリカ・ソ連のどちらの陣営にもつかなかった国を,そのどちらにも属しない,つまり第一でも第二でもないという意味で「第三世界」(サード=ワールド)と呼びます。5か国は,インドシナ戦争の早期停止や,仏領インドシナからのヴェトナム,カンボジア,ラオスの完全な独立を主張しました。
 5月には,3月から起きていた
ディエンビエンフーの戦い【東京H24[1]指定語句「ディエンビエンフー」】でフランス軍が大敗。ジュネーヴ休戦協定は7月21日に締結されインドシナ戦争は停戦,フランスは仏領インドシナから撤退しました。ヴェトナム,カンボジア,ラオスの独立は認められましたが,ヴェトナムは南北に分離することとなり,1956年7月に自由選挙が実施され統一されることが定められました。
 しかし,フランスの撤退を機に東南アジアに社会主義化が広まることを恐れた西側諸国は,1954年9月にアメリカ合衆国,イギリス,フランス,オーストラリア,ニュージーランド,パキスタン,フィリピン,タイが
東南アジア条約機構(SEATO,シアトー(英語ではシートー) 【セH7】【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う,H30時期】,1954~77解消)という反共産主義の軍事同盟が結成されました。

 こうして1955年にはアジア・アフリカの独立国が,インドネシアのバンドンで,反植民地主義のために一致団結するためのアジア=アフリカ会議(バンドン会議) 【セH7非同盟諸国首脳会議ではない】【セH25第二次大戦中ではない,セH29試行 オーストラリアの主催ではない】を開きました。中国の周恩来,インドのネルー,さらにエジプトのナセル大統領も参加しています。日本も含めて29か国の参加国で,平和五原則をベースとした平和十原則(世界平和と協力の促進に関する共同宣言)を宣言しました。アジア,アフリカ諸国は「みんなでまとまれば怖くない」という形で,大国に対抗しようとしたわけです。

 なかでもエジプトはムハンマド=アリー朝の〈ファールーク1世〉(位1936~52)が支配していましたが,その親英的な姿勢には,批判が集まるようになっていました。そんな中,自由将校団という政治グループを結成した〈ナセル(191870)が,第一次中東戦争で活躍して人気となっていた〈ナギブ〉(190184)を自由将校団の団長に推し,〈ナセル〉とともに1953年に王政を倒すことに成功しました(エジプト革命)。〈ナギブ〉は初代首相・初代大統領を兼任しますが,〈ナセル〉は〈ナギブ〉を“独裁”と批判してクーデタを起こし,首相,次いで大統領に就任しました。
 〈ナセル〉は,ナイル川上流に
アスワン=ハイ=ダム【セH29時期】を建設する計画をすすめます。イギリスとフランスは,エジプトを支配下にとどめようと資金援助を画策しますが〈ナセル〉はそれを拒否。代わりにソ連を頼ったのです。
 さらに
1956年にはイギリスの駐留していたスエズ運河を国有化【東京H8[1]指定語句】。それに対して英仏がイスラエルも交えてエジプトを攻撃しました(第二次中東戦争)。当初から反対していたアメリカが介入する形で停戦し【セH15アメリカはイギリス・フランスに反対し,パレスチナに侵攻はしていない】,エジプトはスエズ運河の国有化【東京H24[1]指定語句】に成功したのです。
 名声の高まったナセルは「アラブ人を一つにまとめよう!」と声をあげますが,なかなかそういうわけにはいきません。「封じ込め政策」の一環としてアメリカ合衆国は1955年にバグダード条約機構(中東条約機構,METO(メトー))を結成しました【セH30ソ連は参加していない】。参加国は,西からトルコ,イラク,イラン,パキスタンです。中東にソ連の影響力がおよぶことを防ごうとしたものですが,1959年にイラクで革命が起き(イラク革命),ソ連寄りの政策となると,イラク抜きの中央条約機構(CENTO(セントー) 【セA H30ワルシャワ条約機構とのひっかけ】19591979イラン=イスラーム革命により解消)に縮小してしまいました。ソ連寄りの政権は,イラク,シリア,エジプトで,アラブ人の国々は,こうして米ソ冷戦の構図に巻き込まれていったのです。

 イラクでも1958年に王政が廃止され(イラク革命),〈カーシム〉(191463,在任195863)により独裁体制がしかれました。その後63年に〈カーシム〉は追放・処刑され,社会主義的な政策をとるバアス党による新政府ができましたが,クーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が続き不安定でした。
 イランでは,アメリカの資本がからんでいる石油会社と癒着した国王〈パフラヴィー2世(194179)が,父の退位後に即位し,独裁体制をとるようになりました。
 また,イギリスの保護下にあった地域が70年代初めにかけ次々と独立していきます。1961年には世界第2位の油田を持つクウェートが,67年に南イエメンが,そして71年にカタールバーレーン,そしてアラブ首長国連邦【セH14時期(1970年代)】が独立しました。
 こうして中東は,石油の利権を通してアメリカ側につくサウジアラビア,イラン。そして,どちらかというとソ連側につくエジプト,シリア,イラクに分裂していきます。

 さて,イスラエルの問題はどうなったでしょうか。1967年にエジプトはイスラエル軍に奇襲され【セH15】,これに対するエジプト,シリア,ヨルダンが敗北しました(第三次中東戦争【セH14第四次中東戦争ではない】)。このときのイスラエル【追H21ヨルダンではない】の占領地は,シナイ半島【セH26第一次中東戦争ではない】ヨルダン川西岸地区ガザ地区ゴラン高原【セH14第四次中東戦争ではない】【追H21第3次中東戦争のときに,「ヨルダン」が占領したわけではない】です【セH15地図(このときの占領地域の位置がわからないと解答できない)】
 併合されたヨルダン川西岸地区には,
東イェルサレムも含まれます。「嘆きの壁」「岩のドーム」「聖墳墓教会」を含む東イェルサレムは1950年にヨルダン領になっていたところですが,イスラエルの占領下に置かれることになったのです。「嘆きの壁」の前のマガーリバ地区に住んでいた約650人のアラブ人の住居135戸は破壊され,広場がつくられました()
 国連は決議を出し,イスラエルに占領地を返すように呼びかけ,アラブ人にはイスラエルの生存圏を認めるように求めました
(国連安保理決議242号)
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,p.B-732。

 その後もパレスチナ人の急進派は,武力によるパレスチナの解放とパレスチナ国家の建設を目指し,
パレスチナ解放機構(PLO) 【東京H7[3]】【セH15】【セA H30】を中心としたゲリラ作戦を展開していきました(1964年に設立)。議長となったのは〈アラファト(19692004) 【セH2519世紀のパン=イスラーム主義者ではない】【セA H30】です。
 
1993年にはパレスチナ暫定自治協定(いわゆる「オスロ協定」)【セH15】がアメリカ合衆国〈クリントン〉大統領の仲介の下,ワシントンD.C.でパレスチナの〈アラファト〉とイスラエルの〈ラビン〉首相との間で締結されました。これによりパレスチナ自治政府が成立し,エジプトのシナイ半島に近いガザ地区と,ヨルダン川西岸地区のイェリコでの先行自治が認められました(イスラエルの〈ラビン〉と〈シモン=ペレス〉,パレスチナの〈アラファート〉は1994年にノーベル平和賞を受賞しました)。
 パレスチナ自治政府は
2012年に国際連合に国家として承認されましたが,日本やアメリカ合衆国は承認していません。この解放活動に加わった者の中には,主に18世紀以降のヨーロッパ人が東洋の姿を題材にした文学作品や学術研究のウラには,ヨーロッパ人=優れている=文明的で,東洋人=劣っている=野蛮という固定観念が前提にあったのだということを『オリエンタリズム』(1978)で暴いた〈エドワード=サイード〉(19352003)という思想家がいます。

 パレスチナの解放に現実味がなくなるにつれて,アラブ諸国は「先進国の発展の基盤となっている石油価格を利用することで,先進国が応援しているイスラエルを揺さぶることができるのではないか」と考えるようになりました。1968年にはアラブ石油輸出国機構(OAPEC,オアペック)が設立され,先述のとおり,1971年までにはイギリスがアラビア半島に持っていた保護国も独立しました。
 第三次中東戦争で失った領土を取り返そうと,エジプトの〈サーダート(サダト)〉大統領(197081) 【上智法(法律)H301973年にシリアと共同して,パレスチナ人の権利を取り戻すために,イスラエルを攻撃しました。このときOAPECは,アラブ諸国側に立たない国家に対して石油輸出を制限【セH9値下げ・過剰供給によるものではない】する「石油戦略」【セH4サウジアラビアなどのアラブ産油国はイスラエルを支援していない】【セH15第三次中東戦争のときではない】【慶商A H30記述(内容短文説明)】を実施したため石油価格が高騰しました。これを第一次石油危機(オイル=ショック)といいます。
 第四次中東戦争の結果,占領地はパレスチナ側に返還されることはありませんでしたが,1974年にPLOは国際連合のオブザーバーとして認められました(会議の議決権は持たないが,参加することができる資格)。また,従来は欧米先進国が世界の石油の生産量や価格に,巨大石油会社(石油メジャー)を通じて影響力を及ぼしていましたが,発展途上国を中心とするOPEC(石油輸出国機構)が,石油の生産量・価格に対する発言権を高めることにもつながりました。
 1974年には国連資源特別総会が開かれ,新国際経済秩序(NIEO,ニエオ)の樹立に関する宣言が採択されました。この中で,先進国の多国籍企業の活動が制限されるべきこと,途上国の資源が安く買い叩かれることがないように特恵関税制度を設けて公平な貿易(フェア=トレード)がなされるべきこと,途上国の資源は途上国に主権があることなどが確認されました。
 石油危機後の一連の経済的な変化にともない,日本を含む欧米では経済成長にブレーキがかかりました。そして,「福祉国家」や「大きな政府」と呼ばれる「社会福祉のために多くの予算をかける」路線から,「新自由主義」と呼ばれる「政府の予算や規制を減らし,民間企業の活動を活発化させようとする」路線に転換するきっかけにもなりました。
 エジプトの〈サーダート(サダト)〉大統領(エジプト大統領在任1971~81) 【セH15ナセルではない】【追H21】【上智法(法律)H30は,1978年にはアメリカ合衆国の〈カーター〉大統領【セH9の仲介でキャンプ=デーヴィッド合意を結び,1979年にイスラエルとの平和条約(エジプト=イスラエル平和条約) 【セH15ナセルのときではない】【追H21(名称は問わない)】を成立させ,シナイ半島【東京H28[1]指定語句】を取り戻しました【追H21】(エジプトの〈サダト〉とイスラエルの〈ベギン〉首相は1978年のノーベル平和賞を受賞,〈カーター〉大統領は退任後の2002年にノーベル平和賞を受賞)。しかし事実上パレスチナ問題をうやむやにしたまま,イスラエルと和平を結んだエジプトに対して,アラブ世界からは当然ながら批判が相次ぎ,〈サーダート(サダト)〉大統領は1981年に暗殺されています。
 こうして,アメリカ合衆国の後押しによるエジプトの離脱によって,パレスチナ問題をめぐるアラブ世界は,一枚岩ではなくなるのです。

1953年~1979年の西アジア ①アフガニスタン
 アフガニスタンの君主は従来のアミールから,1926年に「シャー」に変更しており,これ以降はアフガニスタン王国と呼ばれています。〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下の1953年,ソ連に近い,国王のいとこ〈ダーウード〉が首相に就任すると,イスラーム教徒の指導者や国民の間で反発が強まりました。〈ダーウード〉はソ連の支援を受けて軍隊を近代化させようとしていたのです。〈ダーウード〉はウラマーの会議を弾圧すると,イスラームを学ぶマドラサの学生の反発も高まります。
 そんな中1973年にクーデタを起こし,〈ザーヒル=シャー〉を追放して,共和制を樹立。
アフガニスタン共和国の大統領に就任しました(大統領任1977~78)。〈ダーウード〉はイスラーム主義者や反対派を弾圧しましたが,1978年に軍によるクーデタが起きて殺害されます。
 代わって〈タラキー〉(1917~1979)が,新たにアフガニスタン
民主共和国の1978年に革命評議会議長・首相・大統領(任1978~79)に就任し,ソ連に接近して急激な社会主義化をすすめます。しかし1979年に副首相の〈アミーン〉との内部抗争が勃発すると,〈タラキー〉は〈アミーン〉により追放され,〈アミーン〉が革命評議会議長(任1978~1979)に就任しました。
 しかし〈アミーン〉政権に敵対的なソ連は,アフガニスタンに軍事侵攻(
ソ連のアフガニスタン侵攻)し,代わりに〈カールマル〉(位1929~96)を支援して革命評議会議長に就け,実権を握ることになります。


1953年~1979年の西アジア  ②イラン

 1953年に民族主義者の〈モサッデグ〉首相は,アメリカ合衆国の諜報機関CIAの介入により逮捕され,〈モハンマド=レザー=シャー=パフラヴィー〉(位1941~79)が新首相を任命しました。シャー(国王)はこの“恩返し”にアメリカ合衆国を初めとする西側諸国に国内の石油利権を潤沢に供与。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
 1961年になるとシャー(国王)は国内の経済・社会の急速な西欧化・近代化を初め(“
白色革命”と呼ばれました),農地改革とともに外資を呼び込んで石油採掘を推進しました。1973年の第四次中東戦争ではアメリカ合衆国側に立ち,石油戦略(イスラエルと親イスラエル諸国に対する石油の禁輸)は行わず,原油高の恩恵を受けました。
 しかし,こうした近代化による発展の恩恵は貧困層には伝わらず,1978年になるとイスラーム教のウラマーの指導する反政府運動が活発化。1979年1月にシャー(国王)がイランを去り,代わって絶大な支持を受けたイスラーム教指導者〈アーヤトッラー=
ホメイニー〉(1902~1989)が2月に亡命先のフランスから帰国し,イラン=イスラーム共和国【東京H28[1]指定語句】の最高指導者となりました。これをイラン=イスラーム革命といいます。

1953年~1979年の西アジア ③イラク,④クウェート

 イラク王国は西側諸国に接近し,1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。しかし,西アジアの中で〈ナーセル〉大統領率いるエジプトが1958年にシリアとともにアラブ連合共和国を結成して地域の覇権を確立しようとすると,同年にはおなじハーシム家の王家のヨルダンとともにアラブ連邦を組織しました。
 しかし1958年には自由将校団がクーデタを起こして王制が倒れ,〈カーシム〉が首相に就任しました(
イラク共和国)。〈カーシム〉はエジプトに対抗し,ソ連に接近。石油企業を国有化し,1960年には欧米の石油資本(石油メジャー)に反発するイラン,クウェート,アウジアラビア,ベネズエラの5か国がバグダードに集まって石油輸出国機構(OPEC)を組織しています。そんな中,イギリスの保護領となっていたクウェートにイラク共和国が影響を及ぼそうとすると,イギリスはクウェートを支援して1961年に独立させています(クウェートの独立)。クウェートではサバーハ首長家による支配が続いていましたが,1962年に憲法が制定され,首長・国民議会・内閣による立憲君主制となりました。
 しかし1963年には,反エジプト派の〈カーシム〉政権に対し,エジプトに接近する
バアス党によるクーデタが起こり,〈カーシム〉政権は倒れ,バアス党政権となりました。しかし同年には再度バアス党に反対するクーデタが起き,エジプトの〈ナーセル〉と友好関係を結ぶ政権に代わります。
 その後,1968年には再度バアス党政権となり,1972年にはソ連と友好条約を締結しています。1973年の第四次中東戦争に際しては,他のOPEC諸国とともにイスラエルと親イスラエル諸国に対する“石油戦略”をとったことから第一次石油危機が勃発しました。
 なお,1961~70年,1974~75年の2度に渡り,イランの支援する北部のクルド人(クルド民主党)を率いる〈バルザーニー〉(1903~1979)との間に,自治の是非を巡る戦争が勃発しました。クルド人の分布するイラク北部は産油地帯であり,イラク政府にとっては支配下に置きたい場所でした。この戦いのイラク側の司令官〈
サッダーム=フセイン〉(任1937~2006) 【東京H28[1]指定語句】の影響力が増し,1979年に大統領に就任し実権を掌握することとなります。

1953年~1979年の西アジア  ⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦
 
1968年にイギリスはスエズ以東から軍事撤退することを表明。
 
イギリスの保護下にあったバーレーン王国はハリーファ家による立憲君主制の国家として1971年にイギリスから独立しました。
 イギリスの保護下にあった
カタール国は,1971年にイギリスから独立しました。
 同じくイギリスの保護下にあったペルシア湾岸の首長国群(トルーシャル=オマーン)は,アブダビ首長国ドバイ首長国が主導し,1971年にシャールジャ首長国,アジュマーン首長国,ウンム=アル=カイワイン首長国,フジャイラ首長国が連合してアラブ首長国(UAE)を結成。1972年にはラアス=アル=ハイマ首長国も加盟しました。当初はバーレーン王国とカタール国との連合も模索されましたが実現はしませんでした。

1953年~1979年の西アジア  ⑧オマーン
 オマーン国(スルタン国)はイギリスの保護下にありましたが,1970年に皇太子によるクーデタで父王が追放され,1971年に独立しました。

1953年~1979年の西アジア  ⑨イエメン

 イエメンの北部にはオスマン帝国の崩壊に合わせイマームによる王国が独立していましたが,1962年に軍が革命を起こして共和制となり,イエメン=アラブ共和国(北イエメン)が建国されました。
 1839年にイギリスの保護領となっていたイエメンの南部では,1962年に南アラビア連邦が成立し,1967年には南イエメン人民共和国としてイギリスの支配から脱します。1969年に社会主義政権となり,1970年に
イエメン民主人民共和国(南イエメン)に名称を変更。
 冷戦構造に巻き込まれ,ソ連側の支援する南イエメンと,西側諸国の支援する北イエメンとの間に,たびたび抗争が起きました。

1953年~1979年の西アジア  ⑩サウジアラビア

 サウジアラビア王国では1953年に初代国王〈アブドゥルアズィーズ=イブン=サウード〉(位1932~1953)が亡くなり,初代国王の息子の〈サウード=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1953~64)が継ぎました。
 1964年には,やはり
初代国王の息子〈ファイサル=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1964~75)が後を継ぎます。1973年にはOPECとともに“石油戦略”をとり,第一次石油危機を発生させました。
 1975年に先代の王が暗殺されると,おなじく
初代国王の息子〈ハーリド=ビン=アブドゥルアズィーズ〉(位1975~1982)が就任しています。

1953年~1979年の西アジア  ⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア
 ヨルダン=ハシミテ王国では暗殺されたハーシム家の〈アブドゥッラー1世〉(位1946~51)が,東イェルサレムへの進出を図って,暴力的なパレスチナ人によって暗殺されると,短期間の〈タラール1世〉(位1951~52)を経て,その子の〈フセイン1世〉(位1952~1999)が後を継ぎました。
 ヨルダンは西側諸国との関係を深めますが,1967年の第三次中東戦争では
ヨルダン川西岸地区をイスラエルに占領されたため,多数のパレスチナ難民がヨルダン側に流入していました。
 当初はヨルダン政府もヨルダン川西岸地区を取り返す強硬策をとろうとしていましたが,後に現実主義的な路線をとるようになり,あくまで強硬路線を続けようとしたPLO(とくにPLO内部の暴力的なPFLP)と対立。PFLPが1970年に同時ハイジャック事件を起こすと,ヨルダン政府は本部を首都アンマンに置いていたPLOに対して攻撃を仕掛けます(「
黒い九月」(ブラックセプテンバー))。結局,エジプトの〈ナーセル〉大統領の仲介の下,PLOは本部をレバノンに移動させることとなりました。このときシリアはPLOを支援しヨルダンに侵攻していますが,のちに空軍軍人〈ハーフィズ=アル=アサド〉(大統領任1971~2000)がクーデタを起こして政権を樹立しています。
 また,この事件の報復としてPLFPのメンバーは1972年に西ドイツで開催されたミュンヘン五輪の際,イスラエル選手団を殺害する事件を起こしています(
ミュンヘンオリンピック事件)。

1953年~1979年の西アジア  ⑯キプロス
 キプロスは1960年にイギリス連邦内の共和国として独立。
 1963年以降,沿岸のトルコとギリシア間の領土争いを背景として,島に住むギリシア系住民とトルコ系住民との間で紛争が勃発(
キプロス紛争)。
 1974
に,ギリシアの軍事政権が介入してに南部に親ギリシア政権が樹立(キプロス=クーデタ)。トルコ系住民の多い北部をトルコが支援し,南部の親ギリシア政権とのにらみ合いが続きます。

1953年~1979年の西アジア  ⑰トルコ

 トルコ共和国は西側諸国に接近し,1952年にNATOに加盟。1955年にはイギリス,トルコ,パキスタン,イラクとともに中東条約機構(METO,メトー)に加盟し,アメリカ合衆国を中心とする反共の役割を担うようになります。
 1960年には軍がクーデタ(5月27日クーデタ)を起こし,1961年には民政に移管。1971年には再び軍がクーデタを起こし政権が交替。1974年には
キプロスに軍事的に進出しています。

1953年~1979年の西アジア  ⑰ジョージア
(グルジア),⑱アルメニア,⑲アゼルバイジャン
 グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンは,1922年にザカフカス社会主義連邦ソビエト共和国を樹立してソ連の構成国となり,さらに1936年のスターリン憲法によりグルジア=ソビエト社会主義共和国,アルメニア=ソビエト社会主義共和国,アゼルバイジャン=ソビエト社会主義共和国に分離して,それぞれソ連の構成国となっていました。

 しかし1953年の
〈スターリン〉の死去にともない,ソ連の強権的な政策に対する批判が高まっていきました。労働者らを指導し,階級と国家のない社会を建設しようという当初のソ連の理念は,〈スターリン〉の独裁によりすっかり揺らいでいました。ロシアを中心とするソヴィエト連邦の権力は,ソ連共産党の少数の指導者の決定によってトップダウンで処理され,アルメニアの人々の意見は届かきません。アルメニアは独立した共和国というよりは「自治共和国」となっていたのです。
  1956年2月に共産党第20回大会が開催されると,アルメニア出身の〈ミコヤン〉副首相がスターリン批判をし,それに〈フルシチョフ〉も続きました。〈フルシチョフ〉は「帝国主義が存在する限り,戦争は不可避」とした〈スターリン〉の思想を転換し「帝国主義との共存」を打ち立てます(平和共存)
(注1)
 この動きは抑圧されていたアルメニアにも広がり,1967年には初めて1915年ジェノサイド犠牲者碑の建設がゆるされました。「アルメニア人」としての意識を表現することが,ようやく認められたのです
(注2)。いままでは胸に記憶を秘めていたアルメニア人ジェノサイドによる元難民や遺族による運動も盛んになりますが,1973年にはアメリカ合衆国のトルコ総領事・副領事が暗殺される事態も起きています(注3)。 

 1956年にはジョージア(グルジア)のトビリシで民衆によるデモが起き,軍により弾圧されています。

(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.105
(
注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106
(
注3)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.106






1953年~1979年のアフリカ

 サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすでにリビアが独立をしていましたが,56年にはスーダンモロッコチュニジアが独立しました。
 アルジェリアが独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました(アルジェリア独立戦争【東京H24[1]指定語句】)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉が第五共和政【東京H30[3]】【セH19時期】を成立させて,62年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込みました【セH19
 サハラ以南のアフリカでは,1957年にンクルマ(エンクルマ,190972。在任196066) 【セH17アパルトヘイトと無関係,セH21】がガーナをイギリスからの独立に導きました。1958年にはギニアセH5】が独立していますセH5ベルギーからの独立ではない】
 
17カ国が独立を達成した1960【セH24 1970年ではない】は「アフリカの年」と呼ばれました。これら独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立しました【セH7軍事同盟ではない】【セH24AUがOAUに発展したわけではない】【追H20時期(1950年代ではない)】。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず,第三勢力として活動していくことになりました。
 しかし,
60年かコンゴ動乱が起きるなど,天然資源をめぐって先進国が介入する事例は後をたたず,帝国主義時代に民族分布を無視して勝手にひかれた国境線が経済的な争いと結びつき,民族紛争も相次ぎました。
 「世界経済というゲームのルールは,北側(欧米)がつくったものだ。このゲームは,最後には北側が有利となるようなルールになっている。だから,いくらがんばっても南側(アジア,アフリカ,ラテンアメリカ諸国)は豊かになれないのだ」
 このような主張を,
従属理論といいます。この考え方は,70年代末には歴史社会学者〈ウォーラーステイン〉(1930~)による「世界システム論」に発展していきました。北側(中核)が中心になって,南側(周辺)の国々との間に主従関係のような経済のしくみが生まれた。このしくみにおいては,北側は経済発展するが,南側は低開発の状態にとどまるというものです。特にアフリカは,植民地時代のモノカルチャー制度が残り,環境が破壊され,産業も未発達のまま。さらにさかのぼれば,大西洋の奴隷貿易によって,労働力がアメリカ大陸やヨーロッパに奪われたことも,傷跡として残っていると考えられます。
 こうした構造を是正するため,国連が動きました。1963年に南側諸国が主導して国連貿易開発会議(UNCTAD,アンクタッド) 【セH17時期(20世紀後半かを問う)】が設立。南北格差を生んでいる,不平等な国際分業体制を改めるための組織です。
 
1975年には,ポルトガルセH5スペインではない】で独裁政権が終わったことから,モザンビーク【セH19時期を問う】アンゴラセH5スペイン領ではない】【セH21】,サントメ=プリンシペ,ギニアビサウがポルトガル【セH21スペインではない】から独立しました【セH21年代を問う】

 アフリカでは,「植民地時代に民族の分布を無視した国境線が引かれたために,民族紛争が起きている」という説明がよくされます。しかし,複数の民族が分布しているからといって,その国で常に紛争が起きているわけではありません。紛争の背景には植民地統治に起因する教育水準の低さ,政権による政策決定の誤り,冷戦対立の構図,資源をめぐる大国の進出による民族同士の分断など,さまざまな要因があることに注意しなければなりません。

 なお,エジプトでアスワン=ハイ=ダムが建設された際,水没の危機にさらされた古代エジプトの遺跡を守る活動が呼び水となり,UNESCO(国際連合教育科学文化機関)の総会で世界遺産条約が締結され,1978年には初めての
世界遺産【慶文H30記】の認定が行われました。
 人類誕生の地アフリカで,人類や地球の生み出す普遍的な価値を地球人の “共有財産”として守っていこうという動きが,始まったのです。




1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
1953
年~1979年のアフリカ  東アフリカ ①エリトリア
 エリトリアは,国連決議に基づき1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,アムハラ語の押し付けなどエチオピア中心の政策に対して,アラブ諸国の支援を受けたイスラム教徒を中心にエリトリア解放戦線 (ELF)が結成されて,自治を求める運動を展開するようになりました。しかし1962年にエチオピアはエリトリアを併合すると反政府運動は激しさを増し,紅海に面するエリトリアでの影響力行使をねらって,周辺諸国や大国が介入し,多数の反政府組織がつくられ混乱を深めていきました。

1953
年~1979年のアフリカ  東アフリカ ③エチオピア
 エチオピアでは,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,絶対的な体制を確立していた〈ハイレ=セラシエ1世〉(19301974)は,民衆の熱狂的な支持(ラスタファリ運動)を背景に自らの神格化を進めていきました。カッファ地方(coffeeの語源です)でのコーヒーのプランテーションはアメリカ合衆国の資本を導入して開発が進み,イエメンのモカから大量のコーヒー豆が積み出されました。しかし,工業化の利益を受けることができたのはアディスアベバに限られ,さまざまな民族が分布するエチオピアではソ連の支援を受けた反体制派が次第に育っていきます。

 なお,東京オリンピック(1964)で活躍した陸上競技選手〈アベベ〉(19321973)はローマ大会に続いて2回連続で優勝したエチオピアの代表選手として知られています。

 石油危機の影響から物価が上昇し,1972年の旱魃(かんばつ)1973年の飢饉への対応も遅れ,国民の不満は高まります
(そんな中,皇帝がペットのライオンに肉を与える写真が公開され,革命の火種となりました)。そして最終的に1974年にはエチオピア革命が起きて皇帝は退位し,マルクス主義に立つ社会主義国となりました。熾烈な権力闘争の末,実権を握ったのは〈メンギスツ〉少佐(1937~)で,エチオピア人民民主共和国となりました。〈メンギスツ〉は1979年には民政移管にともない大統領に就任します。
 新国家は「エチオピア人」の統合を推進し,アムハラ語やエチオピア正教の強制を行ったため,エチオピア北部からエリトリアにかけて分布するティグレ人の抵抗を生みました。
 また,エチオピアの東南部の
オガデン地方でも,反政府運動が激しさを増すようになります。この地域にはイスラーム教徒であるソマリ系の諸民族やオロモ人が分布していました。

1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ ④ソマリア
 
ソマリアでは,イギリス領ソマリランドイタリア領ソマリアが1960年に独立を達成して,与党のソマリ青年同盟を中心に両者は「ソマリア共和国」に発展していました。ソマリア共和国は,「エチオピアにいるソマリ人もソマリアに含めるべきだ」(大ソマリア主義)と主張し,オガデンの住民を救おうと呼びかけるようになります。しかしソマリアには多数の氏族が並び立ち,民主主義的な政治を行おうにも到底まとまることが難しい状況でした。
 そんな中,〈バーレ〉(1919~1995)少将が1969年にクーデタによりソマリア共和国で軍事政権を建てると,従来の氏族主義を改めて社会主義化を図り,「ソマリア民主共和国」と国名を変更。しかし,急激な近代化と中央集権化は旧来の氏族勢力やイスラーム教勢力の抵抗を生みました。
 一方,〈バーレ〉は1977~79年にエチオピアとの間に
オガデン戦争(最終的な停戦合意は1988年)を起こします。ソマリ人の住むオガデン地方を大ソマリア主義に基づき併合しようとしたのですが,エチオピア側にはソ連がつき,ソマリア側にアメリカ合衆国が立つ「代理戦争」に発展。敗北を喫した〈バーレ〉の権威は低下し,ソ連に対抗してアメリカ合衆国だけでなく,中華人民共和国やアラブ諸国との結びつきを強めていきました。この頃受けた多額の軍事支援は,〈バーレ〉政権の崩壊後に,ソマリア各地の氏族勢力の手に拡散されることになり,長期に渡る混乱の元となります。

1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ ⑤ケニア
 ケニアでは反植民地運動である
マウマウ反乱が起き,首謀者の一人として初代大統領となる〈ケニヤッタ〉も逮捕されています。鎮圧が続く一方で,次第にイギリス側の態度も和らぎ,1957年には史上初の議会の直接選挙が実施されます。1963年にはキクユ人の〈ケニヤッタ〉を初代首相としてイギリスから独立,1963年にケニア共和国の初代大統領に就任し,イギリス連邦に加盟しました。
 西側諸国との関係を深めた〈ケニヤッタ〉の政策に対し,左派でルオ人の〈オディンガ〉はケニア人民同盟(KPU)を結成して,キクユ人主体の政権に抵抗します。しかし,政権は野党を非合法化し一党制の国家が形成されていきました。1978年に〈ケニヤッタ〉が亡くなると,〈モイ〉副大統領が大統領に昇格します。

1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ ⑥タンザニア
 ダンザニアでは,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)が中心となり独立運動が活発化し,1961年にアフリカ大陸側の
タンガニーカの独立が認められました。
 1963年には沿岸のザンジバル島にある
ザンジバル王国も主権を回復し,独立が認められました。
 しかし,ザンジバル王国で翌1964年に革命が起きると,
ザンジバル人民共和国が建国。アラブ人が排除されました。
 ザンジバルの合併の申し入れに対し,タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)の〈
ニエレレ〉が応じ,タンガニーカとザンジバル人民共和国が連合する形で,1964年にタンガニーカ=ザンジバル連合共和国が建国され,同年には「タンザニア連合共和国」と国名を改めました。タンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU)はタンザニア革命党(CCM)に改組されました。
 〈ニエレレ〉は
パン=アフリカ主義(汎アフリカ主義)とアフリカ社会主義(ウジャマー社会主義)を掲げて,植民地主義や人種主義との対立を訴え,“国家の父”“先生”とうたわれました。南部のモザンビークでは反政府組織のモザンビーク解放戦線(FRELIMO)を支援,ナミビアでも南西アフリカ人民機構(SWAPO)を支援しました。
 彼は農村部にウジャマー村を建設して農業の集団化を進め,中華人民共和国の支援でタンザン鉄道を敷設しました。また,隣国のケニアが英語を公用語としたのとは対照的に,スワヒリ語の教育に力を入れました。しかし,1970年代に入ると急速な社会主義化には失敗がみられるようになっていきます。
 1978年には,1971年以来関係の悪化していた隣国ウガンダの〈アミン〉大統領の攻撃を受けましたが,1979年にウガンダの首都を陥落させています(タンザニア=ウガンダ戦争)。

1953年~1979年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 
ウガンダは1962年にイギリスからイギリス連邦の一員として独立しました。1963年には共和政となり,かつてのブガンダ王国の〈ムテサ2世〉が形式的な大統領に就任しました。しかし,1966年にはウガンダ人民会議の〈オボテ〉首相が大統領を追放し,自ら終身大統領に就任して社会主義国家の建設に向かいました。これに対し1971年に軍人〈アミン〉(1925~2003,任1971~79)がアメリカ合衆国を初めとする西側諸国の支持を受けクーデタで政権を奪い,反対勢力に対する厳しい処分で知られる恐怖政治をおこないました。〈アミン〉は政権末期の1978年にタンザニアを攻撃しましたが失敗し,権威を失っていきます。

 ベルギーによりブルンジとともに植民地支配を受けていた
ルワンダ王国では,1959年に国王が亡くなると,これを暗殺とみたツチ人の抗議が高まり,多数派でありながら被支配層であったフツ人の抵抗も強まりました。1961年にベルギー側はクーデタを支援し,国民投票を実施して国王を廃位し,共和政に移行させました。
 ブルンジと分離して1962年に独立すると,フツ人の〈カイバンダ〉が初代大統領(任1962~73)に就任しました。〈カイバンダ〉政権はツチ人を排除しながら,フツ人中心に経済成長に向けた政策を推進しました。しかし,軍人〈ハビャリマナ〉(任1973~1994)がクーデタで大統領に就任して一党独裁体制をしきます。

 
ブルンジ王国は,国王でツチ人の〈ムワンブツァ4世〉(1915~66)の下で1962年にベルギーから独立しました。王は立憲君主制を導入しましたが,多数はのフツ人との政治的なバランスをとることは容易ではなく,不安定な情勢が続きました。1966年にはフツ人による反乱が起き,〈ムワンブツァ4世〉は国外に逃亡しています。
 息子が王位を継ぎましたが,ツチ人の軍人〈ミコンベロ〉がクーデタを起こして共和政を始め,大統領に就任(任1966~76)しました。〈ミコンベロ〉政権はフツ人を弾圧し,1972年のフツ人の反乱が失敗するとフツ人に対する虐殺を実施。しかし1976年には同じツチ人〈バガザ〉大佐のクーデタにより失脚し,〈バガザ〉による独裁体制がしかれることになります。



1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
1953
年~1979年のアフリカ  南アフリカ ①モザンビーク
 モザンビークでは1964年にソ連・中国・キューバなどの社会主義国の後援を受けて反政府組織(モザンビーク解放戦線(FRELIMO))が結成されました。FRELIMOは,南アフリカなどの支援を受ける宗主国ポルトガルに対する武装闘争を続け,1974年にいわゆるカーネーション革命によりポルトガルの王政が倒れると,1975年にFRELIMO主導で独立しました。
 しかし,一党制の社会主義政策をとったFRELIMO政府に対し,反共産主義をとる
南アフリカやローデシア(1980年に成立した白人国家)の支援する反政府勢力との内戦が続きます(モザンビーク内戦)

1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ ④南アフリカ連邦/共和国
 南アフリカ連邦
は,1961年から南アフリカ共和国となりました。
 
南アフリカでは1948年以降,黒人(ズールー人,ソト人,コーサ人,ンデベレ人,ツワナ人)やアジア人(インド系が主,ほかにマレー系。なお,日本人は“名誉白人”扱いをされていました),カラード(白人とサン人・コイコイ人との混血やアジア人との混血など)など有色人種に対する差別的な体制が法的に確立され,白人(イギリス系やオランダ系アフリカーナー)優位の社会が築き上げられていました。大多数の黒人は隔離された居住区で暮らすことを強いられ,アフリカーンス語の教育を強制され,白人の農場や企業の下,低賃金で働かざるをえませんでした。
 アパルトヘイト諸法に対する反対運動は1962年に
アフリカ民族会議【追H30民族解放戦線ではない】の〈マンデラ〉【東京H25[3]】の逮捕・拘禁以後は一時鎮静化しますが,〈スティーヴ=ビコ〉の活動により再び活発化。1968年に学生組織を立ち上げた〈ビコ〉は黒人意識(black consciousness)運動を唱え,強い影響力を持ちますが,1976年にアフリカーンス語【セH24リード文】の強制に反発した黒人学生のデモに対する武力鎮圧で700名の死者が出る大惨事となり(ソウェト蜂起)【セH24リード文】,〈ビコ〉は1977年に拘束中の暴行で死去しました(死因の真相を明らかにしない政府の虚偽を新聞記者〈ドナルド=ウッズ〉(1933~2001)が暴く過程が映画「遠い夜明け」(1987英)に描かれています)


1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ ⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 また,南アフリカ連邦の北にある南ローデシア(現在のジンバブエ)では,戦後に白人の移民が増加し,白人主導で産業が盛んになっていました。さらに北の北ローデシア(現在のザンビア)では銅の採掘が盛んで,東のニヤサランド(現在のマラウイ)からの労働者が急増していました。
 1953年にこれらの3地域を合体させた
ローデシア=ニヤサランド連邦が白人主導で建設されました。要するに,これによってマラウィは南ローデシアの白人政権によって間接的に支配されることとなったのです。それに対し各地で非白人による抵抗運動が勃発,1963年に連邦は解体されます。
 マラウィで独立運動をすすめていたニャサランド=アフリカ会議の後進組織MCP(マラウィ議会党)が1961年の総選挙で大勝。これを受け1964年にニャサランドは
マラウィとして独立することとなりました(1)
 しかし,独立後の〈
バンダ〉大統領はしだいに独裁政治に走り,反〈バンダ〉派勢力を抑えて一党制を宣言し,1971年に終身大統領となりました。この強権政治を可能にした背景には,マラウィが社会主義陣営に属するモザンビーク(FRELIMO政権)の隣に位置しながら,資本主義陣営の西側諸国と友好関係を結んでいたことがあります。マラウィは西側諸国から潤沢な支援を受け続けたものの,その富は国民の大多数には還元されることはありませんでした(2)

 同年1964年には,北ローデシアは
ザンビアとして独立します。

 一方,
南ローデシアでも黒人の権利回復をともなう独立が予定されていましたが,1965年に植民地政府の首相〈イアン=スミス〉(任1964~79)がイギリスから派遣された総督を追放し,ローデシア共和国の独立を宣言します。こうして,白人による人種差別が実施され続けたのです。
(注1)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.61
(注2)栗田和明『マラウィを知るための45章』明石書店,2010,p.67


1953年~1979年のアフリカ  南アフリカ ⑨ボツワナ
 ベチュアナランド保護領(のちのボツワナ)では,1962年につくられた〈セレツェ=カーマ〉率いるベチュアナランド民主党(BDP)が総選挙で勝利し,1966年にボツワナ共和国として独立しました。〈カーマ〉は南アフリカ共和国のような人種隔離政策をとることなく,南アフリカ資本を導入しつつ国内のダイヤモンド鉱山を開発し,収益をインフラや教育などに振り向けることで経済成長の実現に成功しました。政治的には複数政党制をとり,議会制民主主義を維持しています。




1953年~1979年の中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
                          ※ ○内の数字は以下の文中の記号に対応しています。
 1960年には多数のアフリカ植民地が一斉に独立したため,“
アフリカの年”と呼ばれます。
 ギニア湾岸の⑨
カメルーンでは,国際連合が信託統治となっていたフランス領の地域が独立しました。さらに翌年には,イギリス領カメルーンとなっていた南部とも合併しました。

 また,フランス領赤道アフリカを構成していた以下の4地域は,以下のように独立しました。
 ・ガボン植民地                 →⑥ガボン共和国として独立(1960年)。

 ・
中央コンゴ植民地           →⑤コンゴ共和国として独立(1960年)。1969年に「コンゴ人民共和国」と改称して,マルクス=レーニン主義(共産主義)の国づくりを進めますが,1977年に軍部のクーデタで打倒されました。
  ※〈ルムンバ〉(192561)の指導で1960年にベルギーから独立したコンゴ共和国とは別もの。

 ・
ウバンギ=シャリ植民地  →②中央アフリカ共和国として独立(1960年)。1965年にクーデタが起こり,〈ボカサ〉中佐(大統領任1966~76)による独裁政権となり,1976年には〈ボカサ1世〉(任1977~79,あだ名は“アフリカの〈ナポレオン〉”)として,なんと「帝政」がしかれました(中央アフリカ帝国)。しかしあまりの強権支配に,国民とフランスの支持を失うと,1979年にクーデタが起き,初代大統領〈ダッコ〉(任1960~66,1979~81)が大統領に再任しました。

 ・
チャド植民地                  →①チャド共和国として独立(1960年)。フランスの支援を受けた〈トンバルバイ〉政権に対し,北部のウランの利権を背景にイスラーム系住民が反政府運動を開始し,チャド内戦(1965~79)に発展します。しかし1975年のクーデタで〈トンバルバイ〉大統領(任1960~75)が暗殺されると,軍事政権は,反政府運動を支援していたリビアとの戦闘を開始します。


◆ベルギーから独立したコンゴ共和国では,鉱産資源をめぐり米ソの代理戦争の舞台となった
 しかし,ベルギー王国の植民地から1960年に独立した③コンゴ共和国では一気に情勢が不安定化します()
 独立にあたりベルギー政府は資源豊富な南部
カタンガ州を手放すまいとカタンガ国独立を支援したため,国際連合が国連軍を投入して介入したのです。しかし,ソ連はコンゴ共和国の初代首相〈ルムンバ(192561)を支援,アメリカ合衆国は〈カサブブ〉大統領を支援したために内部は混乱。
 アメリカ合衆国に支援された国軍参謀総長〈
モブツ(193097)がクーデタを起こして〈ルムンバ〉を逮捕し,1961年に処刑。〈モブツ〉が実権を握る中,和平交渉に向かったスウェーデン人の国連事務総長〈ハマーショルド〉(195361)の飛行機が墜落し死去。ビルマ人の第3代事務総長〈ウ=タント〉(196171)も一連のコンゴ動乱への解決に奔走しましたが,1965年の〈モブツ〉が再度クーデタを起こして大統領(19651997)に就任し,憲法停止・議会解散の上,一党独裁体制を確立しました。
 〈モブツ〉は初め反共産主義を掲げて西側(資本主義)諸国の支持を得て,財政支援やIMFなどからの莫大な融資を受けましたが,その多くが〈モブツ〉個人によって使われたといわれています。
()ベルギー領コンゴは独立後,コンゴ共和国(1960)→コンゴ民主共和国(1964)ザイール共和国(1971,〈モブツ〉政権下)→コンゴ民主共和国(1997,〈カビラ〉政権下)のように国名が頻繁に変更されています。現在の英語名は「Democratic Republic of the Congo」なので,フランスから独立したコンゴ共和国と区別して,DRコンゴと呼ばれることもありますし,旧名「ザイール」が用いられることもあります。


◆アンゴラでは独立後も,米ソや周辺諸国が鉱産資源の利権に介入し,長期の内戦が続いた
 「アフリカの年」に独立を達成できなかったポルトガル植民地の④アンゴラでは,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。1954年にはコンゴ川河口を北部の飛び地区域カビンダで油田が見つかり,石油採掘も本格化していきました。
 それに対しアンゴラ植民地内には,反植民地主義を掲げた複数の組織ができました。
 しかしながら,アメリカ(FNLA(アンゴラ民族解放戦線)を支援)と,ソ連・中国・キューバなど(MPLA(アンゴラ解放人民運動)を支援)が別々の組織への支援を実施。
 
 1974年にポルトガルでカーネーション革命が起きて長期独裁政権が終わり,1975年には独立が達成されました。しかし,それとともに,2002年まで続く熾烈(しれつ)
アンゴラ内戦が勃発しました。「内戦」といっても,その実態は,アンゴラ国内の利権をめぐるアフリカ大陸内の国家間の関係や,大国間の代理戦争でした。
 ギニア湾に浮かぶ島国である⑦
サントメ=プリンシペ1975年にポルトガルから独立しています。初代の〈コスタ〉大統領(19751991)は一党体制による社会主義化を推進していきました。

 スペイン植民地であった⑧
赤道ギニアは,1959年にスペイン領ギニア,1963年に赤道ギニアと改称されて,スペインの自治州となりました。1968年に赤道ギニア共和国として独立を達成すると,〈ンゲマ〉(196879)大統領の下でソ連に接近した社会主義化がすすめられていきました。



1953年~1979年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ           
 希望の光に燃えてヨーロッパ諸国から独立した多くの国では,“独立の父”が亡くなると(あるいは在任中に)早かれ遅かれクーデタが起き,軍事政権が樹立されていきました。
 
ガーナでは1957年に〈ンクルマ(エンクルマ,190972,在任196066) 【セH17アパルトヘイトと無関係,セH21】イギリスからの独立を実現させました。
 1958年には⑨
ギニア共和国がイギリスから独立しています。

 1960年には同時多発的にアフリカ植民地が独立したことから“
アフリカの年”と呼ばれています。
 ②
ナイジェリアは連邦制をとってイギリスから独立しました(ナイジェリア連邦共和国)。
 ③
ダオメー(英語ではダホメ。フランス語ではh音を発音しないのでダオメーとなります)がダオメー共和国としてフランスから独立します(のち1975年にベナン人民共和国と改称,1990年にベナン共和国)。
 ギニア湾岸では,④
トーゴ共和国がフランスから独立します。
 「象牙海岸」と呼ばれていた地域は,⑥
コートジボワール共和国としてフランスから独立します。当初は,コートジボワールの訳である「象牙(ぞうげ)海岸」が各国語で呼ばれていました(英語ではアイボリー=コースト,日本語では象牙海岸)が,植民地時代の歴史を嫌う共和国政府から使用をやめるよう通達があり,現在では意訳せずにそのまま「コートジボワール」と呼ばれます。
 ①
ニジェール共和国がフランスから独立します。
 ニジェール川沿岸の周辺では,
マリ連邦として現在のセネガルとマリがフランスから独立します。しかし直後に⑪セネガル共和国が分離独立し,⑭マリ共和国として再独立。セネガルは〈サンゴール〉(1960~80)により親仏路線がとられ,長期政権が実現しました。
 オートボルタ共和国ががフランスから独立,直後に「清廉潔白な人の国」という意味を持つ⑮
ブルキナファソと改称しています。
 ⑬
モーリタニア=イスラム共和国は,フランスから独立しました。

 
17カ国が独立を達成した1960【セH241970年ではない】は「アフリカの年」と呼ばれました。これら独立国は63年にアフリカ統一機構(OAU)を設立しました【セH24AUがOAUに発展したわけではない】【追H20時期(1950年代ではない)】。本部はエチオピアの首都アディスアベバです。OAU諸国の多くは,ソ連グループにもアメリカ合衆国グループにも属せず,第三勢力として活動していくことになりました。
 なお,1961年には⑧
シエラレオネ,1965年には⑫ガンビアがイギリスから独立しています。
 また,19世紀前半に独立していた⑦
リベリア共和国では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。先住の諸民族(クペレ人,クル人,ギオ人,マノ人,クラン人,イスラム教徒のマンディゴ人など)の地位を向上させるなど,国内の安定化に尽力しましたが,1971年に病死すると〈トルバート〉大統領が後任となりました。〈トルバート〉はソ連に接近し,アメリカ合衆国と距離を置く政策をとります。

◆ポルトガルで長期独裁政権が倒れると,1970年代半ばに植民地が独立した
 1975年には,ポルトガルでいわゆる“カーネーション革命”が起き独裁政権が崩壊したことを受け,ポルトガルの植民地帝国は世界各地で崩壊しました。アフリカでは,モザンビーク【セH19時期を問う】アンゴラ【セH21】サントメ=プリンシペ,⑩ギニアビサウが,相次いでポルトガル【セH21スペインではない】から独立しています【セH21年代を問う】




1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
マグリブ諸国(モロッコ,チュニジア,アルジェリア),スーダンが独立を果たした
 
サハラ以北の北アフリカでは,1951年にすでにリビアが独立をしていましたが,56年にはスーダンモロッコチュニジアが独立しました。

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ①エジプト
 エジプトは1952年の革命で実権を握った〈
ナーセル〉(ナセル,大統領任1956~70)以降,農業の近代化や工業化を推進するとともに,1956年にスエズ運河の国有化を宣言し,イギリスとフランス,イスラエルに対する外交的な勝利を引き出しました。この第二次中東戦争でイスラエルを撤退させたことから,〈ナーセル〉は“アラブ世界のリーダー”を自任するようになり,1958年にはシリア共和国とともにアラブ連合共和国を形成しますが,1961年には崩壊。崩壊して「連合共和国」を名乗り続けましたが,1971年にはエジプト=アラブ共和国に戻しています。

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ②スーダン(③南スーダン)
 
スーダンはイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党を中心に独立運動が展開されていました。しかし独立運動は北部のアラブ人イスラーム教徒が主導していたため,南部の諸民族(伝統的な宗教やキリスト教を信仰していました)による抵抗が起き,1955~72年の間,第一次スーダン内戦が勃発しました。1956年にスーダンはスーダン共和国としてエジプト・イギリスから独立を達成。最初の総選挙ではイスラーム教系のウンマ党が勝利して〈カリル〉党首が首相に就任しましたが,南北の内戦を初めとする国内問題の危機を前に,1958年に〈アブード〉参謀総長によるクーデタで軍事政権(1958~1964年)が成立しました。彼は灌漑計画による綿花輸出を推進しましたが,しかしイスラム化を進めたため南部との対立は激化し,1964年に辞任しました。〈アブード〉の退陣後1965年には国民統一党とウンマ党の連立内閣が発足しましたが,1969年には再度〈ヌメイリ〉大佐による軍事クーデタで軍事政権が成立し革命評議会を中心とするスーダン民主共和国を成立させました。1971年以降は大統領に選出され,南部に自治権を与えて内戦を終わらせることに成功しました。しかし1975年に南北の境界付近のアビエイというところで油田が発見されると,これが南北の新たな火種となっていきます。

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉がフランスに一時廃位されていましたが,1955年に復位,1956年に独立を果たします。
 スペインは
モロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化していました。しかし,スペインは1958年以降に領域をモロッコに返還。1975年には撤退しました。
 スペイン撤退後のモロッコ南部は,翌年にモーリタニアとモロッコによって分割・併合されましたが,これに異議をとなえるアルジェリアはモロッコ南部の独立勢力ポリサリオ戦線を支援し,亡命政権サハラ=アラブ民主共和国がアルジェリアで成立しました。
 モーリタニアはポリサリオ戦線の抵抗に苦しみ,併合した地域を1979年に放棄しています。

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ⑥アルジェリア
 一方,アルジェリアが独立するには,フランスと厳しい戦争を経る必要がありました(アルジェリア独立戦争)。泥沼化した戦争への対応からフランスでは第四共和政が吹っ飛び,フランス大統領〈ド=ゴール〉が第五共和政【東京H30[3]】【セH19時期】を成立させて,62年にエヴィアン協定を結びアルジェリアの独立達成に持ち込みました【セH19

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ⑦チュニジア

 
チュニジアはフランスの保護領の下でフサイン朝のベイが名目的な支配権を保っており,チュニジア王国として独立したものの1957年に制憲議会により王政は廃止され,共和制が樹立されました。

1953年~1979年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビアは1951年にリビア連合王国として独立していましたが,1969年に〈
カッザーフィー〉(カダフィ,任1969~2011)“大佐”によるクーデタが起き,リビア=アラブ共和国となりました。彼は特異な社会主義思想(⇒1979~現在の北アフリカ リビア)を持ち,1970年代に外国資本の石油企業を国有化し,輸出産業による経済成長を図ります。





19531979年のヨーロッパ

◆「スターリン批判」によりソ連圏で反ソ運動が起き,中国とは中ソ対立が起きた
スターリン批判で,東側陣営に亀裂が走る
1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉(共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46)が死去しました。

 これにより,冷戦は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ【セH10時期(1950年代か問う)ムードとなり【セH14このときWTOは解体されていない】,1946年から続いていたインドシナ戦争が,54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗【セH27勝利していない】をみたことをきっかけに,ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定【セH16これにより南北ヴェトナムは統一されていない】【追H30】)が結ばれました。

 ヴェトナムは北緯17度線【追H30】が南北の境界となり,南部にはヴェトナム共和国が成立し,アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(190163,在任195563)が大統領に即位しました。それに対し,〈ホー==ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は,ソ連と中国が支援したため,ヴェトナムは南北に引き裂かれることになりました。
 このジュネーヴ国際会議では,前年に独立していたラオスカンボジアが,独立国として承認されています。

 1955年5月オーストリアの分割統治をやめ,中立国とする条約が米英仏ソの間で調印され,10月には連合軍が撤退しました。オーストリアでもドイツと同じくファシズムナチスに関連した思想や,今後のドイツとの合併も厳しく禁止されました。中立国ですので,現在に至るまでオーストリアはNATOに加盟していません。

 さらに54年4月~7月に,ジュネーヴでの26か国の外相会議で,インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに,55年5月にジュネーヴ四巨頭会談がひらかれ,米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が,ポツダム会談以来初めて一堂に会し,平和共存路線【セH14】を打ち出しました。

 〈スターリン〉亡き後に権力をにぎったのは〈フルシチョフ(18941971,在任195364)です。
 就任直後の8月には,物理学者〈
サハロフ〉(192189)の技術で,水素爆弾実験を行っています。
 
56年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指しでスターリン批判をし,独裁や個人崇拝の実態を暴露しました【セH29試行 これにより東西関係が緊張したわけではない】。彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけですが,暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのです。
 この秘密報告は,アメリカ国務省の知るところとなり,翻訳されて世界中に配信されることになります。当然,〈スターリン〉に忠実に従っていた東ヨーロッパ諸国は,これにショックを受けました。
 1953年6月には,東ドイツの東ベルリンで労働者による暴動が起きましたが,ソ連軍が出動して鎮圧されました(東ベルリンが暴動)。

 1956年6月にポーランドでは,ポズナン(ポズナニ)【セH14ハンガリーではない】で労働者による自由を求める暴動が起きましたが,ポーランド政府の〈ゴムウカ〉(1905~82)はこれを独力で鎮圧しました(ポズナン(ボズナニ)暴動)
 19561023日には,ハンガリーで暴動が起き,スターリンに反対していた〈ナジ〉(18951958,在任19535556) が政権をにぎりました。おりしも1029日から第二次中東戦争がはじまっていました。エジプトの〈ナセル〉大統領にしてみれば,世界中の目がハンガリーに向かっているすきを狙ったのです。11月に〈ナジ〉首相は,共産党以外の政党も認めること,ハンガリーを中立化させること,WTOから脱退することなどを宣言したため,ソ連はハンガリー人民共和国政府を支援し軍事介入に踏み切りました(鎮圧したのは,ワルシャワ条約機構軍ではありません)。
 国際連合の安全保障理事会はソ連をハンガリーから撤退するべきという決議を出しましたが,
ソ連の拒否権により否決。ソ連との関係をこじらせたくない〈アイゼンハワー〉大統領は,国際連合総会によるハンガリーの独立を守るための監視団の派遣にも消極的で,結果的に見放された〈ナジ〉首相は,2年後に処刑され,約2000人が処刑され,ソ連に友好的な首相に交替されました。このときに20万人のハンガリー人が亡命したといわれています(ハンガリー事件) 【セH22・H24ともに時期】

 しかし,当時の軍事技術はアメリカ合衆国よりもソ連のほうが先を行っていました。1958年にはICBMを保有し,史上初の人工衛星スプートニク1号の発射に成功,さらに人工衛星に犬を乗せて地球の周りを回らせました。1959年に〈フルシチョフ〉はアメリカを訪問し,人工衛星の模型を〈アイゼンハワー〉大統領にプレゼントする余裕ぶりです。1961年には〈ガガーリン〉(1934~68)による人類初の有人宇宙飛行にも成功しています(1963年には初の女性〈テレシコワ〉(1937~)による有人宇宙飛行に成功)。
 〈フルシチョフ〉は,同年
1961年には〈ケネディ〉とのウィーン会談で,西ベルリンからの米・英・仏の撤兵を要求し,国内の党大会でも再度スターリン批判を行いました。彼は,〈スターリン〉による個人崇拝や独裁を批判しただけで,社会主義や,さらに高いレベルの目標である共産主義の建設を批判していたわけではありません。〈スターリン〉に影響される前の,純粋な“本当”のマルクス主義を取り戻そうとしていたのです。 
 1961年10月には史上最大の水素爆弾の核爆発実験が,北極海に浮かぶノヴァヤゼムリャ島でおこなわれました。8月にはベルリンの壁の建設が始まっており,〈ケネディ〉大統領はイギリスの〈マクミラン〉首相とともに大気圏内での核実験停止と停止協定への同意を求めていた矢先のことでした。この50メガトン(第二次大戦で使われた火薬の送料のおよそ10倍)もの水爆は世界に衝撃を与えます
()
(注)共同通信社『ザ=クロニクル戦後日本の70年 4 1960-64 熱気の中で』共同通信社,2014,p.58

 1962年には,革命が起きた
キューバにミサイル基地を建設したことが元で「キューバ危機」が起きるなど,「雪どけ」ムードは後退していきました。

 キューバに建設されたソ連のミサイル基地は,結局
62年に撤去されました。ソ連水爆の父〈サハロフ〉の働きかけもあり,63年にはアメリカ【東京H29[3]】イギリス【東京H29[3]】【慶商A H30記】ソ連【東京H29[3]】の間で部分的核実験禁止条約(PTBT) 【東京H29[3]】が締結されました。

 ハンガリー事件の後も,ソ連からの東ヨーロッパ諸国の離脱への動きは止まりませんでした。
 61年にはアルバニアがソ連と断交し,62年にコメコンから脱退,68年にはWTOからも脱退しています。
 一連の混乱を招いた〈フルシチョフ〉は,農業政策でも失敗を重ね,1964年に最高指導部から辞任の要求が出され,やむなく職を辞しました。ソ連の支配層は,再び〈スターリン〉のような人物が登場することを恐れ,一人の人物が
第一書記首相(ソビエト連邦閣僚会議議長)を兼務しないようにしました。こうして〈ブレジネフ (190682,在任196482) 【セH30時期】が第一書記,〈コスイギン〉(190480,在位196480)が首相に,〈ポドゴールヌイ〉(190383,在位196577)が最高会議幹部会議長を担当するトロイカ体制(三頭政治)が始まりました。

 それでも,東ヨーロッパでの反ソ連の動きは止まらず,1968
年にチェコスロヴァキアで〈ドプチェク(19211992,在任196869) 【東京H25[3]】【セH30ブルガリアではない】が「人間の顔をした社会主義」を訴え,自由化をすすめる改革を行い「プラハの春【追H21ハンガリーではない】【早政H30論述(ソ連の対応と主張を説明する)】と呼ばれました。しかし,〈ブレジネフ〉【セH20ゴルバチョフではない】はソ連軍が中心となったワルシャワ条約機構(WTO)軍を投入し,軍事介入して鎮圧しました【セH14,セH29試行 ソ連は支持していない】。「外国であってもソ連グループの一員なのだから,人の国であろうがおかまいなし。」この考えをブレジネフ=ドクトリン(制限主権論) 【早政H30】といいます。このときソ連,ポーランド,ブルガリア,東ドイツ,ハンガリーが鎮圧に協力しました。
 思想の統制はいまだ厳しく,作家〈ソルジェニーツィン〉(19182008)は,ソビエト連邦時代の強制収容所をテーマとした『収容所群島』や『イワン・デニーソヴィチの一日』でノーベル平和賞を受賞(1970)しましたが,1974年にソ連を追放されました(1994年に帰国)。

 東ドイツ【東京H17[1]指定語句】では,1949年~61年の間にじつに250万人もの東ドイツ市民が,西ドイツに逃げ込んでいました。西ドイツの経済的な繁栄が背景にあります。そこで,東ドイツ政府【セH24は,西ベルリンに通じる交通路を壁により阻止する政策をとり1961年8月中旬の夜間に,コンクリート製の有刺鉄線・監視塔付きの壁(ベルリンの壁) 【セH14ソ連との関係を断ったわけではない】を建設しました【セH24。その後,さらに電流の流れるフェンスも加わり,西ベルリンを囲い込む壁が完成してきました。

 1970年代にはドイツの〈ブラント〉政権が主導して東西の緊張緩和に努めました(
東方外交)。1975年には,不測の事態に備えてヨーロッパの安全保障を図ろうと,フィンランドの首都ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe,CSCE)にソ連も含めたヨーロッパ33か国(アルバニアは参加しませんでした),アメリカ合衆国,カナダの計35ヵ国の首脳が集まり,ヘルシンキ宣言が合意されています(ただし,CSCEには紛争を解決するための実行力はありません)。
 1973年に第一次石油危機が起こると,フランスの〈ジスカール=デスタン〉大統領が主導して
第一回第1回先進国首脳会議が開催されました。同時にヨーロッパの経済統合も進展し,1973年にはイギリス【セA H30年代を問う】,デンマーク,アイルランドが加盟しています(拡大EC)。


1945年~1953年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
 東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
1953年~1979年の①ロシア
(ソ連)
 ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
 ただし,バルカン半島のユーゴスラビアの〈チトー〉
【追H21は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
 東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これと中ソ友好同盟相互援助条約を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は”向ソ一辺倒”を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
 1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。〈スターリン〉は1953年に死去します。

1953年~1979年の東ヨーロッパ  ②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
 エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
 というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
 ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
 リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。

1945年~1953年の⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
 ベラルーシは第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
 
ウクライナのウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,”大ロシア”(ロシア)に対する”小ロシア”(ウクライナ)の地位にとどまりました。
 
モルドバは,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。


1953年~1979年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

1953年~19579年のヨーロッパ バルカン半島 ③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
 1948年にコミンフォルムを除名され,ソ連やソ連と事実上一体化した東ヨーロッパの社会主義諸国とのつながりを失ったユーゴスラヴィアでは,「自主管理」という独自の社会主義による国づくりをすすめていました。また,外交的には「非同盟政策」をとり,「積極的平和共存」を掲げてソ連側(東側)にもアメリカ合衆国側(西側)にもつかない方針で,冷戦下のヨーロッパにあって異彩を放っていました。
 1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉が死去。ともなってソ連は“(冷戦の)
雪解け 【セH10時期(1950年代か問う)といわれる緊張緩和に舵(かじ)をきり,ソ連との国交が正常化されました。また1955年にはソ連の最高指導者〈フルシチョフ〉第一書記がブルガーニン首相とともにユーゴスラヴィアの首都ベオグラードを訪れ,独立,主権,平等,内政不干渉をうたったベオグラード宣言を発表。翌年には今度はユーゴスラヴィアの〈チトー〉【追H21大統領がモスクワを訪れています。
 同時に「非同盟政策」も続け,インド,ビルマ連邦,エジプトを訪問し,1956年にはインドの〈ネルー〉とエジプトの〈ナーセル〉と会談。1961年には首都ベオグラード
【追H20サンフランシスコ,コロンボ,ロンドンではない】第一回非同盟諸国首脳会議【セH7アジア・アフリカ会議とは別,セH9を開催しましています。
 国内では1963年に憲法を新しくして,ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に国名を変更。国名には“社会主義”と銘打ったわけですが,経済的には市場社会主義をとることが規定され,市場原理を導入する柔軟さを持っていました。しかしこの動きに批判的な“チトーの右腕”〈ランコビッチ〉(副首相兼内相任1946~53,副大統領任1963~66)を〈チトー〉が解任すると,コソヴォのアルバニア人やボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国のイスラーム教徒
(1971年からは「ムスリム人」という区分が導入されるようになります)が民族運動を起こしました。特にクロアチア共和国のクロアチア人は1970年~71年に自治を求める運動を活発化させ(“クロアチアの春”),なんとか収拾させています。()
 1974年に新たな憲法が制定され,いっそうの分権化を図るとともにユーゴスラヴィアの統合を強調します。ユーゴスラヴィアは〈チトー〉によって成り立っていたものとよくいわれるように,1974年には終身大統領に選出され,〈チトー〉その人が統合と民族間の調整の中心に位置づけられいきました(しかしこの〈チトー〉は1980年に死去することになります)。
(注)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,pp.123-124。




1953年~1979年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ
ここではイベリア半島を除き,イタリアを含めた国々を西ヨーロッパに区分しています。

◆スエズ運河の喪失以降イギリスの優位は崩れ,脱植民地化と欧州統合への参加に向かった
 イギリスのかつて誇っていた国際経済における影響力は,この時期急速に低下していきました。6070年代のイギリスの経済・社会の停滞をイギリス病とも呼ぶことがあいります。世界に冠たる植民地帝国という“過去の栄光”が,もはや足かせになりはじめていたのです。
 1951年に労働党から政権を取り返した保守党の〈チャーチル〉首相は,後任を〈イーデン〉首相に引き継ぎました。1953年には女王〈
エリザベス2世〉(位1953~)の戴冠式が執り行われています。
 〈イーデン〉政権の時に,1956年にエジプトの〈ナセル〉大統領が
スエズ運河の国有化【東京H8[1]指定語句】を断行すると,フランス,イスラエルとともに派兵し第二次中東戦争となりました。スエズ運河はイギリス・フランスの合弁企業が管理しており,管理権は両国の政府がもっていました。アメリカ合衆国の〈アイゼンハワー〉大統領はこれに対し伸長な姿勢をみせ,国務長官〈ダレス〉も交渉による解決を目指します。アメリカ合衆国が賛成してくれるとの読みが外れたイギリスとフランスは,アメリカ合衆国とソ連の圧力に屈し国連安全保障理事会で「平和のための結集決議」が採択され,国連緊急総会が招集されました。その中で,イギリス・フランス・イスラエルは即時停戦を求める総会決議を受け,イギリス・フランス,のちにイスラエルが停戦しました。停戦後には,カナダの〈ピアソン〉外務大臣の提唱でエジプトに平和維持活動(PKO)が派遣されています。
 こうして国際的な権威を失ったイギリスの〈イーデン〉首相は敗戦の責任に加え,内政の失敗や健康の不調も重なり辞任し,1957年には〈マクミラン〉蔵相が首相(任1957~1963)を引き継ぎました。

 イギリス帝国の崩壊は止まらず,1957年にはガーナが独立,“アフリカの年”といわれる1960年にはナイジェリアが独立しました。1960年には南アフリカ連邦で国民投票が行われ,イギリス女王に対する忠誠を誓うことをやめ,共和国に移行することが決められました。
 南アフリカ共和国は,かつてのイギリスの植民地や自治領であった国の加盟するゆるやかな国家連合である「イギリス連邦」(
コモンウェルス)に加盟し続けることを希望しましたが,アパルトヘイトという人種隔離政策を実施していることが他国の批判を浴び,1961年に脱退しました。

 イギリスは,ヨーロッパ統合の動きに対抗するべく,
1960年にオーストリア,スウェーデン,スイス,デンマーク,ノルウェー,ポルトガルとともにヨーロッパ自由貿易連合(EFTA,エフタ) 【セH10時期(1944年にブレトン=ウッズ会議で決められたわけではない) 【セH26EURATOMではない】を結成しました。しかし,加盟国が域外からの商品に共通関税をかける仕組みをとると,オーストラリアとかカナダなどのイギリス連邦からの輸入量が多いイギリスには不利となります。そこで,共通関税をかけなかったことから,EFTA加盟国間の貿易はなかなか活発化しませんでした。1961年にはEEC(イーイーシー,ヨーロッパ経済共同体)への加盟を申請しましたが,フランスの〈ド=ゴール〉大統領が反対したため頓挫しています。
 そんな中でも輝いていたのが,リヴァプール出身のロックバンド,ビートルズです。かつて奴隷貿易で栄えたリヴァプール出身の四人組は,アイルランド音楽や黒人音楽など様々な音楽を吸収し,「イエスタデイ」(1965)などでクラシックの弦楽四重奏を導入するなど革新的なサウンドで世界中の若者をロックのとりこにし,65年には〈エリザベス女王〉から勲章も与えられました。彼ら自身はどちらかといえば下層の中産階級出身でしたが,メディアはこぞって「労働者階級」の英雄として取り上げました()。60年代後半には「ミニスカート」が一世を風靡し,女性モデル・俳優の〈ツィッギー〉(1949~)が活躍しました。
()長谷川貴彦『イギリス現代史』岩波書店,2017,p.76

 しかしイギリス病は止まりません。戦後復興を果たした西ドイツや日本の追い上げに対抗し,1967年に輸出を増やすためにポンドの価値を下げるなどの策を講じるものの(ポンド切り下げ),海外への軍隊の駐留が予算を逼迫させるようになっていました。第二次中東戦争の後も,スエズ運河地帯に駐留していたイギリスは,〈ウィルソン〉首相(任1964~70,74~76)のときに1968~1971年にかけてスエズから撤兵しました。
 
1971年までにはシンガポールとマレーシア連邦からも,撤兵させています。また,アフリカ南部のローデシアでは,黒人差別撤廃に反対する現地の白人政権によって1965年に独立が宣言されました(1979年まで実効支配が続きました)。
 イギリス国内では旧植民地にルーツを持つ人々の比率も高まっており,1976年には人種関係法が定められ人種,肌の色,出身国,民族等に基づく差別を禁じています。

 
 
ヨーロッパの経済統合組織であるEECは,1967年にヨーロッパ共同体(EC) 【セH18】へと発展していました。1967年の加盟申請はフランスの〈ド=ゴール〉大統領の反対を受け頓挫しますが,保守党の〈ヒース〉首相(任1970~74)は接近をこころみ,1973年にデンマークとアイルランドとともに加盟に成功しました(拡大EC)。しかし,折からの第一次石油危機により経済成長率はマイナスになり,1974年からは〈ウィルソン〉労働党政権となりました。しかし1976年に突如辞任すると,〈キャラハン〉政権(任1976~79)が発足。IMF(国際通貨基金)からの借款を受け,経済の立て直しを図ります。

 イギリスを構成する諸国でも分離傾向が進み,スコットランドではスコットランド国民党(SNP),ウェールズではウェールズ国民党が地方議会で労働党を追い抜いています。
 プロテスタント系住民の多い
北アイルランドでも,イギリスとの連合を維持しようとするユニオニスト(宗教的にはプロテスタント)と,アイルランド系のカトリック教徒との間の対立が激化。アイルランド独立運動に関与していたアイルランドの武装組織IRA(アイルランド共和軍)から,暴力的なIRA暫定派が分離して武装路線を強め,1972年にはアイルランドのロンドンデリーで「血の日曜日事件」を起こしています。


◆西ドイツやフランスの高度経済成長と欧州経済圏の形成により,アメリカの地位は低下していった(多極化)
  ランスでは,アルジェリア問題を発端として駐留軍が反乱するなど大混乱を招いた第共和政(1946年10月成立) 【セH3に対し,〈=ゴール(1959()69) 【セH3ヴィシー政府ではない】【東京H27[3]】が政権について,大統領権限を強化した新憲法によって第五共和政【東京H30[3]】を成立させました。
 〈ド=ゴール〉は,アメリカとソ連のどちらの側にもつかない独自外交をすすめました。例えば,60年にアルジェリア南部のサハラ沙漠で核実験,62年にアルジェリア独立を承認,64年に中華人民共和国を承認,66年にNATOの軍事機構からの脱退を通告しています。66年には,アルジェリアで核実験ができなくなったので,太平洋のフランス領ポリネシア(タヒチの近く)にあるムルロア環礁での核実験を実施しました。
 “ヨーロッパ人のヨーロッパ”を提唱し,1962年には西ドイツ復興の立役者(たてやくしゃ)
アデナウアー〉首相(任1949~1963)と会談し,両国の提携を確認しました。このフランス=ドイツの提携を,パリ=ボン枢軸ということがあり,1963年のエリゼ条約により両国の会合は定例化されました。ともに協力してアメリカ合衆国,ソ連の経済圏に政治・経済・軍事的に対抗しようとするものです。
 しかし,〈ド=ゴール〉の“ヨーロッパ”の地図の中に,イギリスはありません。1963年にイギリスがEECへの加盟を申請したものの,〈ド=ゴール〉の反対により幻に終わります。イギリスがヨーロッパにすり寄っている時点で,かつての「大英帝国」の覇権が失われていることがよくわかります
(注)彼が大統領に選出されて第五共和政が発足したのは1958年10月。彼が大統領に就任したのは1959年。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122

 〈ド=ゴール〉はこのように強力な改革を推し進めていきましたが,68年に「大学の自治が脅かされている」として,学生や労働者がゼネストを実施しました(五月革命)。この年は,アメリカや日本において,さらに中華人民共和国のプロレタリア文化大革命紅衛兵【セH23】など,学生運動が世界規模で盛んとなった年です。『存在と無』『嘔吐』を著した実存主義哲学者〈サルトル〉(1905~80)は,若者たちに社会参加を呼びかけて影響を与えています。事実婚の相手〈ボーヴォワール〉(1908~86)は,フェミニズム(女性主義) 【東京H30[1]指定語句】 の立場から女性の権利向上を目指した思想家です。結果として〈ド=ゴール〉は1969年に退陣しています。

 西ドイツ(ドイツ連邦共和国)では,ナチスの指導者が1945~46年にニュルンベルク国際軍事裁判【セH4】【セH14時期(第二次大戦後)】【追H20】で連合国【セH14】によって裁かれました【セH24,セH26時期】。ニュルンベルク【追H20地図問題】はかつてナチスの党大会の開催された地であり,戦争犯罪人を裁く史上初の国際裁判でした。

 
ベルリン封鎖(1948~49)後に「西ドイツ」として独立した時から,キリスト教民主同盟アデナウアー(194963) 【セH14ドイツ民主共和国ではない,セH26コールではない,H30東ドイツではない】【名古屋H30[4]指定語句】は長期政権を維持していきます。
 日本の高度経済成長と同様に,アメリカ合衆国との関係を重視することで,経済復興を成し遂げました。しかし,
69年にはソ連との関係を重視する社会民主党の〈ブラント(191392,在任196974) 【セH26が首相に就任し,「東方外交【セH26という(社会主義国)との関係改善を推進しました(〈ブラント〉は1971年にノーベル平和賞を受賞)。このことが実って1973年には東ドイツと国際連合に同時加盟しています。
 1970年代にみられた,このような東西の
緊張緩和の動きをデタントといいます【セH16この時期に東西ドイツは統一されていない】

 ヨーロッパ諸国は,70年代に入ってから財政赤字&インフレのダブルパンチを受けたアメリカ合衆国の失速と,197374年の石油危機(オイル=ショック)の影響を受け,60年代から続いていた好景気は終わりを迎えました。60年代には,EECを中心とする西ヨーロッパと,日本が経済成長を遂げ,第三勢力も台頭したことで,ソ連対アメリカの二極から,多極化の時代に入っていったのです。
 197374年の第一次石油危機への対応から,75年には先進国首脳会議(サミット)が開かれ,翌年からも定例化しました。先進国は今まで,安い石油価格のおかげで高い経済成長を保つことができたわけです。その前提が崩れると,日本とアメリカ合衆国との間の貿易摩擦の問題など,先進国間の経済問題も起きてくるようになります。



1953年~1979年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 第二次世界大戦に重要な役割を演じたイギリス領マルタ島は,1964年にマルタ国としてとしてイギリス連邦内の自治国となりました。
 1971年にマルタ労働党の〈ドム=ミントフ〉(1916~)が総選挙に勝利すると,1976年には
マルタ共和国としてのイギリス連邦内での独立を宣言しました。




1953年~1979年のイベリア半島
1953年~1979年のイベリア半島 ①ポルトガル
 ポルトガル
では1968年に〈サラザール〉(1889~1970,任1932~1968)による独裁体制が続いていました。しかし,国内外で反政府運動が勃発。特に植民地では現地の独立運動に共鳴した若手将校が〈サラザール〉政権を批判するようになります。国際社会からの批判も高まりますが,ポルトガルはなんとしてでも植民地の死守を図り,運動の鎮圧に取り組みました。戦争費用を捻出するため,外資を導入した工業化を推進するとともに,植民地の天然資源の開発がすすみました。工業化の進展により農業が衰退し,従来のブラジルに代わりフランスなどのヨーロッパへの移民が急増しました。
 そんな中,〈サラザール〉が高齢のため引退すると,大学教授〈カエターノ〉が首相に就任しました。植民地における反ポルトガルの戦争が長期化し,軍事費が財政を圧迫する中,陸軍の若手将校による反政府運動が盛り上がり,1974年4月にリスボンを占領,〈カエターノ〉は辞任しました。新体制(救国軍事評議会)の議長に選出された〈スピノラ〉は独裁体制を支えていた制度を廃止し,釈放された政治犯がカーネーションとともに群衆に迎えられたことから,この政変を「
カーネーション革命」とも呼びます。
 臨時大統領〈スピノラ〉は挙国一致内閣をつくりましたが,クーデタを指導した軍(国軍運動)との間に内紛が起き,〈スピノラ〉の指名した〈カルロス〉内閣は総辞職し,国軍運動の〈ゴンザルヴェス〉を首相とする内閣が成立しました。〈スピノラ〉大統領は,この新内閣が共産主義の影響を受けることを恐れ抵抗を試みましたが,同年に辞任。新大統領の〈ゴメス〉参謀長は,1975年に「革命評議会」を中心に基幹産業の国有化と農地改革を実行しました。

 若手将校の中には,植民地における独立運動の精神に感銘を受ける者も多く,早速ポルトガルの植民地帝国の“店じまい”にとりかかります。
 西アフリカの
ギニア=ビサウ(1974),南東アフリカのモザンビーク(1974),西アフリカのサン=トメ=プリンシペ(1974),カボ=ヴェルデ(1974),南西アフリカのアンゴラ(1975)に,それぞれ独立協定が結ばれ,ポルトガルのアフリカにおける植民地はなくなりました。
 東南アジアの東ティモールでは,独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ
(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」)が抗争し,1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し,翌年1976年に東ティモールの併合を宣言しました(東ティモール内戦)。
 中国南部の
マカオに対しては,1976年に自治を認めています。

 ポルトガル政府の施策に対し,1975年の政権議会選挙では共産党に接近した国軍運動への反発が高まり,政府の実権は社会党などの穏健派や右派に移っていきました。1976年に民政移管となり〈エアネス〉将軍が大統領に進出され社会党の〈ソアレス〉が首相に任命されます。しかし,基幹産業の国有化と農地改革の失敗から経済は停滞し,植民地の喪失と石油危機後の不況も経済危機に追い打ちをかけました。そんな中,1976年に〈ソアレス〉内閣はEC(ヨーロッパ共同体)に加盟申請しました。ECからの援助金をあてにしたのです。


1953年~1979年の北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆外交的には北欧均衡をとり,内政的には福祉政策を充実した
ノルディック=バランスをとり,福祉国家の充実へ
 冷戦期の北ヨーロッパ諸国は,対外的には「北欧均衡」(ノルディック=バランス)と呼ばれる東西の力関係を考慮して各国が異なる安全保障政策をとることで地域の安定を図りました。
 そんな中,北ヨーロッパ諸国は1953年に北欧会議を開催し,地域協力の動きも生まれました(フィンランドはソ連を考慮して不参加。1955年に参加)。

 1950年代の北ヨーロッパ諸国は,国内的には国有企業と私的企業が併存する混合経済体制の下,1950年代後半には輸出向けの工業発展
(製紙・パルプ・用材,スウェーデンの鉄鋼,ノルウェーの海運,デンマークの畜産)が急速に伸びました。国民の経済的な平等を図るために課税や再分配を調整する福祉政策が充実し,1960年代に黄金期を迎えました。国民の生活水準は向上し,かつてヨーロッパの辺境であった北ヨーロッパの経済的な水準は他地域を凌(しの)ぐレベルとなりました。
 しかし,1970年代に世界的な不況の影響を受け,その体制にほころびがみえはじめます。

1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 
フィンランドは1973年に社会民主党を中心とする中道左派連立政権が不況の解消に取り組みますが,1987年には保守政党の国民連合党が躍進して社会民主党との連立政権が成立しました(首相は国民連合党)。

1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 
デンマークではマーシャル=プランの受け入れで復興が推進されました。1953年に新憲法が発布されて,参政権の引き下げやオンブズマン制度が導入されました。またグリーンランドに「本国並み」の地位が与えられ,国会に2議席の代表を送ることができるようになりました。1957年の社会民主党を中心とした連立政権はEFTAに加盟し,国民年金など福祉国家政策も推進しました。1970年代に失業率が上昇し,福祉国家を推進してきた社会民主党が議席を失い,福祉国家に反対する進歩党が第二党に躍進しました。1975年に社会民主党を中心とした連立政権が発足し経済の立て直しに努めました。

1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 
アイスランドは西側諸国の軍事機構NATOの拠点として,アメリカ軍の駐留を受けました。1958年に漁業専管水域を4カイリから12カイリに拡大したことでイギリス海軍が出動する事態に発展しました(第一次タラ戦争,1958~61)。

1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 一方,
ノルウェーでは1969年に北海で巨大な油田(エコフィスク油田)が発見されたことが,石油危機にともなう経済低調の救世主となりました。しかし1980年代後半の石油国際価格の暴落にともない,ノルウェー経済は打撃を受けました。1970年後半以降は保守党が躍進していきました。

1953年~1979年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン

 
スウェーデンでは,1932年からほぼ一貫して社会民主党が政権の座にあり,福祉国家路線が進められました。しかし,1970年代にはその支持率が下がり,1976年の総選挙での敗北を受け,大戦後の〈エランデル〉長期政権(任1946~69)を引き継いでいた〈パルメ〉首相(任1969~76)が下野しました。その後は社会主義政党ではない政党による連立政権が続きます。




●1953年~1979年の南極

 南極大陸をめぐっては,相変わらず各国が領有権を主張する状況です。
 しかし冷戦の激化にともない,核実験場としての利用や放射性物質の廃棄などが懸念されるようになると,南極の扱いについて国際的な取り決めが必要とされるようになっていきました。

 そこで,1959年に
南極条約が,アメリカ合衆国,フランス,ベルギー,イギリス,ノルウェー,ソビエト連邦,アルゼンチン,チリ,ニュージーランド,オーストラリア,南アフリカ,日本(日本は1951年のサンフランシスコ条約で南極大陸の領有を放棄していますが,南極条約には加わっています)により採択され,平和的利用や科学的調査の自由と国際協力などが定められました。

 とはいえ,アルゼンチンが領有主張する南極大陸の基地(ただし基地はイギリス領にあります)では,1978年に史上初めて南極大陸でアルゼンチン人の男児が出生。「赤ちゃんが生まれたのだから,南極大陸の領有が主張できる!」というのでしょうか…。