1945年~1953年の世界
世界の一体化④:帝国の動揺Ⅱ

大戦後は,英仏中心の帝国主義体制が動揺し,核保有国のアメリカ・ソ連が新たな国際秩序の主導権を争った。しかし,アジア,アフリカ諸国の脱植民地化の実現は,一部にとどまる。

時代のまとめ
(1) 英仏中心の植民地帝国が崩壊し,米ソ冷戦がはじまる
 
5,000万人とも8,000万人とも推定される死者数(1940年の世界人口は約23億人[国連経済社会局資料による])をもたらした第二次世界大戦の終結は,イギリスを初めとする西ヨーロッパ諸国による国際政治・経済の覇権の終わりと,アメリカ合衆国・ソ連の二大勢力を中心とした国際政治・経済体制の始まりでもありました。
 アメリカの「
封じ込め政策」(ソ連の社会主義勢力を世界各地で政治的・経済的に排除する政策)によって結び付けられたアジアを太平洋をまたぐ広大な貿易圏には,やがてアメリカの自由貿易体制に参入した敗戦国の日本(1952年までアメリカの主権下)が積極的に進出していくことになります。

(2) 世界各地で民族運動が始まるが,旧宗主国や米ソの介入を受ける
 世界各地の植民地では独立に向けた民族運動も始まっていきますが,アメリカ,ソ連の思惑もあり,両者が複数の独立勢力を支援しようとした地域では激しい内戦が勃発することになります。
 
 1948年には国際連合総会で「人類の良心を踏みにじった野蛮行為」が再度おこなわれることのないよう
世界人権宣言が決議され,「すべての人間は,生れながらにして自由であり,かつ,尊厳と権利とについて平等である。人間は,理性と良心とを授けられており,互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」ということが確認されました。また,1951年には難民の地位に関する条約(難民条約)が採択されています(ただし,1951年1月1日以降に発生した難民には適用されないという制約がありました⇒1953~1979の世界 1967年に難民の地位に関する議定書が締結され,制約は撤廃。条約(1951)と議定書(1967)を合わせて「難民条約」といいます)
 ただし,実際には帝国主義時代以来の植民地体制は依然として続いていましたし,
核兵器を保有するに至ったアメリカ【セH4最初に開発・使用したか問う】,イギリス,ソ連【セH4ソ連も製造したことを問う】が,積極的に各地の紛争の解決にかかわり,みずからの支配圏を拡大させようとしていきました。
 核兵器にはその圧倒的な破壊力から,核兵器の非保有国に対して戦争の開始をためらわせる力(
抑止力)があるとみなされ,実際に使用されることはありませんでした。核兵器は,人類の生存をも脅かすその圧倒的な威力ゆえ,“核は使わないことが前提”ともいわれます。しかし,核兵器による“恐怖の均衡”と呼ばれる状況の下,核保有国どうしの軍拡競争は熾烈(しれつ)化していきました。一方,原子力の“平和利用” 【セH4】も第二次世界大戦後【セH4時期】にはじまり,原子力発電所が建設されていきます。

 また,長期にわたる第二次大戦中には,科学者が核開発などの軍事技術のために総動員されました。
コンピュータ(電子計算機)の発明もその一つです。1946年には初の電子コンピュータのエニアック(ENIAC)がペンシルヴァニア大学の研究者によって開発されました。その後さらなる軽量化・小型化が目指されるとともに,半導体を使用した電子回路の部品の小型化が進んでいきます。電気の流れをコントロールするために用いられるトランジスターは1948年にアメリカで発明されています。


解説
 第二次世界大戦は,イギリスの指導者に不信感を抱いたソ連の指導者が,ドイツの指導者と結んだこと(独ソ不可侵条約)によってはじまりました。
 当初,アメリカ合衆国はヨーロッパでの戦いには関わろうとしませんでしたが,日本との戦争が始まると,日本の同盟国であるドイツやイタリアとも戦うことになり,ヨーロッパの戦争が,アジア・太平洋の戦争とつながることになります。しかし,のちに一転してソ連はドイツとの戦争を開始(独ソ戦)
 ソ連の指導者は,アメリカとイギリスに「ドイツを西側からも追い込んでほしい」と要請しましたが,米・英はなかなか応じようとしません。
 イギリスの首相〈チャーチル〉は,ドイツ占領下のギリシアやユーゴスラヴィアを,先にソ連に解放されてしまったら,これらの国は助けてくれたソ連のいうことを聞くようになるだろう。ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーも同じだ,とにらんでいました。
 一方,ソ連の指導者〈スターリン〉は,なかなか動こうとしないイギリスに対して,イギリスはやはりソ連をつぶそうとしているのではないか,ドイツとの戦いを長期化させ共倒れをねらっているのではないかと,疑念を抱くようになります。
 他方,日本との戦いに苦戦していたアメリカ合衆国の指導者層は,ソ連に日ソ中立条約を破棄させ,日本を背後から攻めてもらおうと考えるようになります。
 こうして米・英とソ連の利害は一致し,ついに米英はドイツを背後から攻撃するための作戦が着手されます。これが
ノルマンディー上陸作戦【セH6】です。戦争末期といえども,ドイツ軍はしぶとく抵抗をつづけたため,米英主体の連合軍は,この作戦に多くの人員を裂きました。

 この間,ソ連は着々と東ヨーロッパへの進出をすすめ,東ヨーロッパ諸国をつぎつぎに解放していきました。ポーランドハンガリーチェコスロバキアルーマニア【セH15ルーマニアはソ連から独立して成立したわけではない】ブルガリア,ユーゴスラヴィア,アルバニアに対するソ連の勢力圏への取り込みは,戦後しばらくの間は緩やかなものでした。多大な犠牲を払ったソ連は復興を第一目標とし,イギリスとアメリカとの協調関係を保とうとしたからです。
 これらの諸国では,共産党が他の政党と連立し,資本主義でも社会主義でもないいわゆる
人民民主主義的な連立政権が建てられました。しかし,ポーランド,ユーゴスラヴィア,アルバニアでは戦時中から共産党が実権を握っており,ブルガリアやルーマニアは当初は連立政権といえるにものでしたが急速に共産党が権力を掌握していきました。これらの国をソ連が勢力下におくことで,ドイツが万が一この先また進出行為を働いた場合,それをせき止めるための「防波堤」にすることができると,〈スターリン〉は考えたのです。

 
ポーランドにおけるソ連の支配固めは早くにすすんでいました。1944年に,ソ連が後押しするかたちで,ポーランドに親ソ政権(ソ連の協力する政権。のちの共産党政権。ルブリンに置かれた)が成立していました。しかしドイツ軍の支配地として残されていたワルシャワには1944年7~8月にソ連軍が侵攻し,それに合わせてポーランド人が立ち上がりました(ワルシャワ蜂起)。この蜂起を呼びかけたポーランド亡命政府(ロンドンにありました)を米・英が支援していたことから,ソ連はポーランド人への支援を停止,代わりにドイツに鎮圧させてしまいました。ワルシャワの伝統的町並みのほとんどが,このときに失われ,死者15万人以上を出しました(寄り道# 映画『戦場のピアニスト』(2002ポ・英・仏・独)は,この蜂起が舞台となっています)。
 米英が支援するロンドンのポーランド亡命政府がポーランド政府なのか,それとも,ソ連の支援するポーランド政府が本当の政府なのか。イギリスの指導者〈チャーチルと,ソ連の指導者〈スターリンとの間で火花が散らされました。
 そこで
ヤルタ会談において,アメリカ合衆国は総選挙の実施を提案。しかし,その後も対立は続いたため,1945年4月の国際連合憲章を採択するためのサンフランシスコ会議【セH4ジュネーヴ会議ではない】【セH17パリ会議ではない】には,ポーランドのみ代表を送れないことになりました。
 その後,ソ連はロンドンの亡命政府関係者を帰国後に逮捕し,ポーランドにはソ連の支援する政府のみが残りました。アメリカの〈トルーマン〉大統領は強く反発しますが,対立は決定的なものとなりました。ちなみにポーランドの国境は,オーデル=ナイセ線を新たに引いてポツダム宣言により従来よりも西側にずらされました。
 国際連合194510月に,本部をアメリカ合衆国のニューヨークに置き発足しました【セH17発足は日本の降伏前ではない】。アメリカ合衆国【セH4】,イギリス【セH4】,フランス【セH4】,ソ連【セH4】,中華民国H4カナダではない,H9中華人民共和国ではない】は五大国【セH4】として,安全保障理事会の常任理事国となり,拒否権を行使する権限を得ます。日本では「国際連合」と翻訳されたこの組織は,中国語では「連合国」つまりUnited Nationsを指します。ですから,連合軍の敵国であったドイツ,イタリア,日本などは引き続き「敵国」とされ,加盟することはできませんでした【セH9「第二次世界大戦の敗戦国も,国際連合に当初から加盟した」わけではない】

 ドイツアメリカ【セH14】イギリス【セH14】フランス【セH14オーストリアではない】ソ連【セH14】に分割占領【セH14時期(第二次大戦後),セH24されました。首都ベルリンも,西ベルリンはアメリカ,イギリス,フランスの管理下。東ベルリンはソ連の管理下に置かれました。まだ「ベルリンの壁」はありません。

 イタリアは〈バドリオ〉新政権が国民投票を実施し,王政が廃止され共和政になりました。占領軍は,アメリカ合衆国とイギリスが中心となっており,アメリカ合衆国寄りの外交が進められていきます。日本の占領政策でも,同様にアメリカ合衆国が主導権を握りました。
 以上の情勢をつぶさに観察していたのは,すでに首相の座をおりていたイギリスの〈
チャーチル【セH29試行】【追H30クレマンソーではない】です。彼は1946年3月,アメリカ合衆国のフルトン大学で行われた講演で,ソ連が東ヨーロッパから南ヨーロッパにかけて,勢力圏をしだいに拡大させている可能性があるが,中で何が起こっているのかはわからない。まるでヨーロッパには,バルト海からアドリア海にかけて南北方向に降ろされた鉄のカーテン【セH5】【セH29試行】【追H30】があるようだ,と指摘しました。
 ソ連の拡大を食い止めたかったものの,もはやイギリスにはその力はありません。同じ頃,ソ連の動きを分析した長文電報をモスクワから送っていた〈ジョージ=ケナン〉は,1947年にXという匿名を使って『フォーリン=アフェアーズ』という外交専門誌に「拡大しようとしているソ連を阻止する必要がある」と主張。これを信じた〈マーシャル〉国務長官(任1947~49)が〈ケナン〉を登用したことが,〈トルーマン大統領の「封じ込め政策」(containment policy,1947.3) 【セH29試行 発表したのはソ連ではない】の発表へとつながったのです。〈トルーマン〉は,「世界中でソ連の共産主義が拡大している。ただちに食い止める必要がある」と議会への特別教書演説で訴えました。このトルーマン=ドクトリン【セH7】【セH27】【※意外と頻度低い】は,従来の国際社会の対立軸を一変させるほどのインパクトを持っていました。

 つまり,従来は,

 アメリカ+イギリス+ソ連+中華民国+ドイツ占領下のフランス=「民主主義
ドイツ+イタリア+日本=「
ファシズム
  …という対立構図だったのが,
トルーマン=ドクトリン以降は,
アメリカ+イギリス+中華民国+フランス=「
自由で民主的な国
ソ連=「
不自由な独裁国家」…のように変化していったわけです。

1947年6月には,〈マーシャル〉国務長官がヨーロッパ諸国に経済援助をするマーシャル=プラン【東京H8[1]指定語句】【名古屋H30[4]指定語句】【セH14時期(第二次世界大戦後)】を,ハーバード大学卒業式演説の場を借りて発表しました。その頃のイギリスは47年8月にインドの植民地を放棄し,アメリカ合衆国の指導者も「もうイギリスを頼ることはできない」と感じるようになっていました。こうして,ソ連の対抗馬としての役割は,完全にアメリカ合衆国に移っていったのです。さっそくアメリカ合衆国は,ソ連の地中海への南下を防ぐため,ギリシア【セH13ユーゴスラヴィア,イギリス,ドイツ連邦共和国ではない】トルコ【セH13オーストリア,フランスではない】の親米勢力に経済援助を実施しました。

 アメリカは,イギリスが世界にある自国植民地との貿易から他国を排除していること(
ブロック経済)を批判し,世界中で自由な貿易ができる仕組みをつくろうとしていました。新たな自由貿易体制においては,ドルが基軸通貨(キー=カレンシー)とされ,お金が足りない国にはアメリカ合衆国が中心となって出資するIMF(アイエムエフ,国際通貨基金)【セH18ECの専門機関ではない】や,IBRD(アイビーアールディー,国際復興開発銀行)が貸し出す機関をつくり,アメリカ合衆国が世界で投資をしやすい仕組みを整えました。また,GATT(ガット,関税と貿易に関する一般協定)【セH22】が1947年に署名され,世界各国が輸入品に対し個別にかけている関税を,国際会議によって減らし,自由貿易【セH22H26ともに保護貿易ではない】を推進していくことが定められました。


◆アメリカにとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まる
 同時にアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー(アラムコ)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
 西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上「
中東」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「石油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。


1947年以降,米ソ両陣営の対立が深まる
 アメリカの動きに対抗し,
1947年9月,ソ連はコミンフォルム(共産党情報局) 【セH15第二次大戦中ではない】【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない】を,ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ユーゴスラヴィア,ルーマニア,ブルガリアを加盟国として組織しました。これらの国家は,地球にとっての月のように,ソ連にとっての衛星国になっていきました。逆にソ連のいうことを聞かなかった国は,ソ連に解放してもらわず,自力でナチスを追い出すことに成功した国,すなわちユーゴスラヴィアとアルバニアです。
 
ユーゴスラヴィアはソ連との対立がもとで,翌1948年にコミンフォルムから除名され【セH13時期(第二次大戦後かを問う)セH21地図上の位置も問う】,〈チトー〉大統領(18921980,在任195380) 【セH12】が自主路線を進めていきました。

 さて,年が明けた1948年2月。アメリカ側に激震が走ります。
 チェコスロヴァキアの共産党がソ連軍に支援をうけクーデタを起こしたのです。大戦中から亡命政府を樹立し活動していた〈ベネシュ〉大統領は失脚し,共産党だけの政権が樹立されました(チェコスロヴァキア=クーデタ) 【名古屋H30[4]指定語句「チェコスロヴァキア」】
 チェコスロヴァキアの政変
【セH5】を受け,「ソ連が西に攻めてくる」ことに危機感を持った西ヨーロッパ諸国は,48年3月に西欧同盟(WEU)を結成(ブリュッセル条約【セH5】【セH17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】)。英・仏に,ベネルクス三国(ベルギーオランダルクセンブルク)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。

 さらに48年6月には,東ベルリンを管理していたソ連が,が共同管理していた西ベルリン【セH26ソ連の管理地区の地図上の位置】でポツダム宣言に反して通貨改革が実施されたことに対抗し陸上交通路を封鎖,ベルリン危機(ベルリン封鎖【名古屋H30[4]指定語句】) 【セH9年代を問う】【セH16アメリカによる封鎖ではない】が勃発しました。東ベルリンでソ連が社会主義的な政策を強めていたことに,西側諸国が懸念を示した結果です。

 “第三次世界大戦”の開戦が懸念されましたが,米・英・仏が市民のために決死の食糧・物資空輸作戦を続けた結果,ソ連は封鎖を1年で解きました。しかし,もはやベルリンをめぐる両者の対立は決定的なものとなり,19
49年1月にはソ連【セH25アメリカではない】コメコン(COMECON,経済相互援助会議。コメコンは西側諸国における通称) 【セH10時期(1950年代か問う),ブリュッセル条約により結成されたわけではない】【名古屋H30[4]指定語句】【セA H30コミンテルンではない】で,東ヨーロッパ諸国との経済的連携を強化するようになっていきます。原加盟国はソ連,ブルガリア,チェコスロバキア,ハンガリー,ポーランド,ルーマニアです。直後にアルバニアが加盟(1962年に事実上脱退),さらに東ドイツ(1950),モンゴル(1962),キューバ(1972),ヴェトナム(1978)が加盟しました。ユーゴスラヴィアは準加盟国です。
 
 49年4月には西欧同盟の加盟国に加え,アメリカ合衆国,イタリア,カナダなどを構成国とするNATO(北大西洋条約機構) 【セH9ロカルノ条約ではない】【名古屋H30[4]指定語句】【※意外と頻度低い】 が結成されます。西欧同盟も,「ソ連の進出を防ぐには,ヨーロッパだけでは無理だ。アメリカを引き込めば,核兵器の脅しも使える」と考えたのです。NATOの原加盟国は,ベルギー,オランダ,ルクセンブルク,イギリス,フランス,イタリア(ここまでECSEの原加盟国),ポルトガル,デンマーク,ノルウェー,アイスランド,カナダ,アメリカ合衆国です。
 19
49年5月には,英米仏の占領していたドイツ西部はドイツ連邦共和国【セH14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の成立を宣言し,ボンを首都としました。

 しかし49年8月,ソ連は核兵器(原爆)ついに保有してしまいます。1949【セH27】10月にはソ連の占領下のドイツ東部がドイツ民主共和国【セH14時期(第二次大戦後),セH27】を宣言し,ドイツは真っ二つに分かれることになりました。
 ヨーロッパにしのびよる第三次世界大戦の恐怖。二度の大戦で痛手を負ったヨーロッパが立ち直るためにはまとまるしかない。1950年にはフランス外相〈シューマン〉(1886~1963)がドイツとフランスの和解を訴え,1952年のフランス・イタリア・西ドイツ・ベネルクス三国による,石炭と鉄鋼の共同管理を目的とするヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC) 【東京H26[3]】【早政H30】 へと発展しました。1957年3月に調印され1958年1月に発足した()のヨーロッパ経済共同体(EEC) 【東京H17[1]指定語句】【セH9イギリス中心の経済統合ではない】へと発展します。また,同年には欧州原子力共同体(ユーラトム,EURATOM)【セH26EFTAではない】【早政H30】が結成され,将来石炭が枯渇してしまったときに備えて原子力エネルギーの開発を強力して行うことにしました。
(注)1年間の過渡期がおかれ正式発足は1959年1月とも。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124

 その間,1952年に
NATOにギリシア,トルコが加盟
 19
54年に西ヨーロッパ諸国は,西ドイツの再軍備を認め(パリ協定)西ドイツはNATOにも加盟しました。ドイツの軍事力が強化されるのを嫌っていたのは,もちろんソ連です。西ドイツの再軍備に対抗したソ連は1955年にワルシャワ条約に基づき,ワルシャワ条約機構 (WTO,ワトーと読みます。1991解消) 【セH9年代を問う】【セH24【セA H30中央条約機構ではない】を発足させ,ポーランド【セH24,チェコスロヴァキア,ハンガリー,ルーマニア,ブルガリア,アルバニア(1968年に脱退)に東ドイツを加えた軍事同盟をつくりました。
 こうして,ヨーロッパはアメリカ側とソ連側の2陣営にに分かれ,真っ二つに色分けされることになったのです。

 第二次世界大戦後には,どうして
ナチス(ファシズム)が生まれてしまったのかを問う知識人が現れ,ドイツの〈ハイデガー〉に師事しアメリカに亡命した女性〈ハンナ=アーレント〉(1906~75)は『人間の条件』を(映画「ハンナ=アーレント」はナチ=ドイツの戦犯とされた〈アイヒマン〉の裁判を傍聴し「イェルサレムのアイヒマン」を書き上げるまでの彼女を描いています),ドイツからアメリカに亡命したいわゆるフランクフルト学派の〈アドルノ〉(1903~69),〈ホルクハイマー〉(1895~1973)は『啓蒙の弁証法』を著しました。




1945年~1953年のアメリカ

1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ
1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
 トルーマン〉大統領(任19451953)の任期中に「冷戦」が激化。
 〈
アイゼンハワー〉大統領(任19531961)は初め「巻き返し政策」でソ連の影響力の削減に努める一方で,緊張緩和(「雪どけ」)も模索します。

1945年~1953年のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
 
1960年代からケベック州で,フランス系の住民によるケベック州独立運動が始まりました,1971年には議会で「多文化主義」宣言が出されます。


19451953年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 
ペルーとエクアドルを除く南アメリカでは,大衆の支持を得た政権が中間層,労働者などの支持を得て社会保障を充実させ,工業化を進める政策をとっています。
 しかし,工業化が進展しても国内市場の規模は小さく,国を超えた経済圏をつくる取り組みはすすみませんでした。
 依然として
天然資源が輸出産業の中心であり,工業に用いる原料・機械の輸入にもお金がかかるため貿易収支は悪化に向かい,インフレが問題となります。

 各国の政権は国内の中間層や労働者の票を稼ごうと,トップダウンで社会保障を充実させる政策をとり,それがますます財政赤字を深刻化させていくことになります。

 ラテンアメリカの大土地所有制【セH6植民地時代からの大土地所有制は廃止されなかった】は地主が輸出作物・鉱産資源を通じて外国の資本と結びついていたために,なかなか変わることがありませんでした。
 第二次世界大戦前には,イギリスが7億
4000万ポンドを投資していましたが,大戦後には2億7300万ポンド(1950)に激減し,代わってアメリカ合衆国が,投資総額が93億ドル(1955)に躍り出ました。アメリカ合衆国が現地の大地主と協力をして,ラテンアメリカ各地に工場を建設・農地や鉱山を開発し,現地人に安い給料で働かせて,利益の多くを吸い上げたわけです。

 アメリカ合衆国は〈トルーマン〉の提唱した「
封じ込め政策」の一環として,1948年4月にコロンビアのボゴタの米州会議で米州機構(OAS)【セH29の憲章が締結されて,1951年に発効されました。このボゴタ憲章とともに,米州相互援助条約(リオ条約)と米州条約(ボゴタ条約)が結ばれ,原加盟国はアメリカ合衆国と,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国25か国でした。「侵略された場合は共同行動を準備する」という米州機構を通じ,アメリカ合衆国は中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ地域にソ連の影響が及んで社会主義運動が起きないように圧力を強めていったのです。そして,たとえ手荒な政策をとる非民主的な政権であったとしても,国内の左派(ここでは「社会主義的な」という意味)勢力を押さえ込んでくれるならば,資金や軍備を提供してかわいがったわけです。



1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ
中南米諸国は“バナナ共和国”状態に
中央アメリカ
…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

1945年~1953年の中央アメリカ  ①メキシコ

◆あらゆる階層をとりこんだ制度的革命党による一党支配の下,経済成長が図られた
メキシコは,ポプリスモ政権が一党独裁
 
メキシコは1946年にメキシコ革命党(同年に制度的革命党(PRI)に再編)を率いた〈カマチョ〉大統領が,後任の〈アレマン〉を指名し大統領(任1946~1952)となります。メキシコの工業化のために,アメリカ合衆国と友好関係を築いて資本を導入し,鉄道やダムの敷設や輸出用作物農地の拡大,教育改革,観光産業の発展(アカプルコのビーチがセレブに人気となります)に取り組みました。初めて女性の参政権(地方参政権)が認められたのも〈アレマン〉政権のときのことです(メキシコの女性参政権)。
 事実上の一党独裁である制度的革命党は,右派から左派まであらゆる階層をとりこみ,党の組織には労働組合,農民組織なども編入されています。「
メキシコ革命で実現したことを制度化しよう」という理念のもと,さまざまな勢力を統合するために1929年につくられた政党です。職業や組合ごとに国民をまとめ,利益を配分する体制をコーポラティズムと呼んだりしますが,さまざまな階層の国民を取り込んだポピュリズム(スペイン語でポプリスモ,に人民主義)と表現することもあります。というわけで,アメリカ合衆国ともソ連とも等距離に対応するという自主外交が,メキシコの特徴となりました。


1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ
◆中米のグアテマラでは左派政権がアメリカ合衆国の介入によって倒された
アメリカが,グアテマラ左派政権を叩く
 グアテマラ
では1951年に選挙で選ばれた〈アルベンス=グスマン(195154)による左派政権が生まれ,大土地所有に反対する土地改革をおこないました。グアテマラをはじめとする,アメリカ企業のユナイテッド=フルーツ社が大規模な農園を展開しており,こうした中南米諸国は“バナナ共和国”といわれるほどでした。



1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現③ベリーズ

 イギリスの植民地ベリーズでは独立の動きも起きますが,進出をねらう隣国グアテマラとの対立も生じます。


1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル
エルサルバドルは政情不安が続く
 エルサルバドルでは軍人〈マルティネス〉(任大統領代行1931~34,大統領35~44)による独裁が終わり,政情は不安定なままでした。


1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑤ホンジュラス
 ホンジュラス
はニカラグアの〈ソモサ〉「王朝」やエルサルバドルとの国境紛争を抱え,政情は不安定なままです。


1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑥ニカラグア
ニカラグアは親米の〈ソモサ〉独裁体制に
 ニカラグアの政治・経済・軍事は,アメリカ合衆国のバックアップの下,〈ソモサ〉(在1937~1947,1951~1956)大統領が実質的に握られています。
 〈ソモサ〉自身も輸出作物の大農園主であり,ニカラグアの民衆が社会主義に染まるのを防ぐことができると,アメリカ合衆国からも期待を受けていたのです。

 かつてのアメリカ合衆国大統領〈フランクリン=ルーズヴェルト〉も,こう語ったといいます。
 「ソモサはクソ野郎だが,
我々の側のクソ野郎だ。」(注)

 ニカラグアは,やはり政情不安定であった隣国ホンジュラスとも交戦しています。

(注)《Somoza may be a son of a bitch, but he's our son of a bitch.》。Peter WinnAmericas: The Changing Face of Latin America and the Caribbean University of California Press; Third edition, 2006, p.517..


1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑦コスタリカ
コスタリカが常備軍を廃止,政治の安定化へ
 戦後おこなわれた大統領選の結果をめぐり内政は混乱。内戦(1948年)の末に1949年に政権をとった〈フィゲーレス〉は国政改革に乗り出し,政争の元となり親米派であった軍隊を問題視し,常備軍を廃止。1951年には国民解放党を結成しています。
 この間に,ニカラグアの〈ソモサ〉は旧政権派を支援し,国外からコスタリカに内政干渉・軍事進出をしますが失敗。
 内戦を終結させ政治を安定化させることに成功したコスタリカは,以後経済成長に向かいます。



1945年~1953年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
パナマ運河をめぐり,反米世論が高まっていく
 パナマ運河地帯は,第二次世界大戦中に親米政権によりアメリカ合衆国に貸し出されていました(1942年にパナマは連合国側で参戦しています)。
 戦後もパナマに駐留を続けたアメリカ合衆国は,運河地帯の貸出期間の延長を求めましたが,パナマ国民の反対もあって運河地帯の外からは撤退。
 その後は,反米の姿勢をとる〈アリアス〉が大統領に就任しますが,パナマ運河返還をのぞむ国民の声も大きく,政情は不安定化します。




1929年~1945年のアメリカ  カリブ海
カリブ海
…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島



1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領のままとなっています。


1945年~1953年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島出身でフランスに留学し,精力的な活動をしていた文学者〈エメ=セゼール〉(1913~2008)は,1945年にマルティニーク島のフォール=ド=フランス市長に選出されます(任1945~2001)。
 〈エメ=セゼール〉は,植民地の状態から独立するには,フランスの海外県としての独立を受け入れつつ,文化的にはフランスへの同化を拒む戦略をとるべきだとし,彼の1946年にマルティニーク島はフランスの
海外県となります。しかし,1950年には表現の自由を制限する法案が提出され,〈エメ=セゼール〉は『植民地主義論』を執筆することになります。






1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル

◆独裁政権は軍により打倒されたが,1950年に復活し,資源ナショナリズム的な政策をとった
 
ブラジルでは〈ヴァルガス〉大統領による長年の独裁に,第二次世界大戦後の軍のクーデタ(1945年10月)によって終止符が打たれました。
 後を継いだのは陸軍大臣の〈ドゥトラ〉(任1946~51)。
 彼の下で民主化政策が実行され,アメリカ合衆国との外交関係が築かれました。

 しかし,その後1950年の国民投票の結果,〈ヴァルガス〉が再度大統領に返り咲きます。
 〈
ヴァルガス〉(第二次 任1951~54)は以前の独裁色を弱め,左派に近い政策をとる選択をし,貧困層の支持を得たのです。
 1953年には
国営の石油公社を設立し外国資本を締め出しましたが,1954年にピストル自殺を遂げました。〈ヴァルガス〉本人は,「陰謀」と遺言しています。


1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ  ④アルゼンチン
 アルゼンチンでは,労働者の要求に寄り添うことで,軍事政権の中で最高実力者に躍り出た〈ペロン(1946557374)が国民投票によって大統領に選出され,労働者だけでなく資本家からも絶大な支持を得ながら,アメリカ合衆国に対抗する政策を進めていました。具体的には,外資系企業を国有化して民族資本を基盤とする工業化を目指し,農地改革は行わない穏健な内容でしたが,反対派への弾圧はきわめて厳しいものでした。彼の夫人〈エビータ〉も慈善活動に尽力し,国民の絶大な支持を得ていたことで知られます。
 しかし,1951年に再選された後にカトリック教会との対立を招いたことをきっかけに,支持が低下していきました。


1945年~1953年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー
◆ペルーでは軍部によるポピュリズム,チリでは新米政権が樹立されたが,ボリビアでは社会改革が実施された
 
チリでは1938年に,左派が一致団結して急進党の〈アギーレ〉大統領を中心とする人民戦線内閣が成立していましたが,アメリカ合衆国による切り崩しもあり1941年に崩壊していました。戦後,急進党,社会党,共産党をまとめた〈ビデラ〉連立政権(任1946~52)は一転して親米路線に転換し,ソ連との国交を断絶。1948年には共産党が非合法化されました。

 
ボリビアでは1951年に左派のMNRの候補が大統領選で勝利しましたが,軍部によりMNR(民族革命運動党)が非合法化されます。それに対してMNRが反乱を起こし〈パス〉が大統領に就任(任1952~56,60~64,64,85~89)。彼の下で,鉱山の国有化(有償),普通選挙法の施行,大土地所有者の土地を収用して農民に与える農地改革など,さまざまな社会改革が断行されました。

 ペルーではアプラ(アメリカ人民革命同盟)の支持を受けた国民民主戦線〈リベーロ〉(任1945~48)が大統領に就任しましたが,アプラ内の急進派による社会改革を求める動きが活発化すると,それを押さえようとする軍部が動き,〈オドリーア〉政権(任1948~56)が成立。輸出業で栄える資本家や産業資本家だけでなく都市の中間層や貧困層の支持をも得ながら,左派(アプラや共産党)を抑圧する政治(軍部ポピュリズム〔ポプリスモ〕)が展開されました。





1945年~1953年のオセアニア

オセアニアも「封じ込め」の舞台になる
 
1951年にオーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は,太平洋安全保障条約(ANZUS,アンザス,アンザス条約) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】を締結し,ソ連を筆頭とする東側諸国の拡大に備えます。冷戦の波は,オセアニアにまで及んだのです。
 オセアニアの島々の多くは植民地の地位に留まるか,国際連盟の委任統治領を引き継いだ国際連合の
信託統治領として統治され続けます。



1945年~1953年のオセアニア  ポリネシア

ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ

 ⑦
西サモアは,1945年にニュージーランドによる委任統治領から国際連合の信託統治領に切り替わっています。東サモアはアメリカ合衆国領のままです。(1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域→1899年ドイツ領西サモア・アメリカ領東サモアに分割→1919年西サモアはニュージーランドの委任統治→1945年に西サモアは国際連合の信託統治→1962年西サモア独立→1967年東サモアに自治政府→1997年西サモアがサモアに改称)。



1945年~1953年のオセアニア  オーストラリア
 1951年にオーストラリア (A) ,ニュージーランド (NZ) ,アメリカ (US) の3国は,太平洋安全保障条約(ANZUS,アンザス,アンザス条約) 【追H9アジア・オセアニア地域の協調関係や安全保障と関係あるか問う】を締結し,主権を回復した日本に対する戦争に備えました。


1945年~1953年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
1945年~1953年のオセアニア  メラネシア ⑤パプアニューギニア
 ニューギニア島の
北東部,ビスマルク〔ビスマーク〕諸島,④ソロモン諸島のうちブーゲンビル島は,オーストラリアの信託統治領となります。
 ニューギニア島の
南東部はオーストラリア領でしたが,1949年にニューギニア島の北東部も合わせて,パプアおよびニューギニア准州に再編。合わせて信託統治領とします。





1945年~1953年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 
①マーシャル諸島④ミクロネシア連邦⑤パラオ⑥北マリアナ諸島・グアムは,アメリカ合衆国直轄領(準州,1944~)のグアムを除き,アメリカ合衆国の信託統治領として1947年に統治下に入りました(太平洋信託統治領)。これらの地域はもともと旧ドイツ領を大日本帝国が国際連盟から委任統治をまかされていた南洋諸島でしたが,1944年にアメリカ合衆国が占領したため,その後も引き続きアメリカ合衆国の統治下となったのです。

 
③ナウルでは1947年にニュージーランド,オーストラリア,イギリスによる信託統治下に入りました。依然としてリンの採掘が盛んで,その輸出に過度に依存する経済構造が発展していきます。

 
③ナウル②キリバスのオーシャン島の住民は,日本が撤退した後に島に帰ることが許されますが,中国人労働者や白人との間には待遇の差別が残されました()。一方,オーシャン島の住民はフィジーのランビ島に移住されたままでした。
(注1)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.355-357






1945年~1953年の中央ユーラシア

中央ユーラシアの大部分はソ連,中国の支配下に
中央アジア
…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
19
45年~1953年の中央ユーラシア  現①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,
 1936年以来,現①キルギスはキルギス=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1929年以来,現②タジキスタンはタジク=ソヴィエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1924年以来,現③ウズベキスタンは,ウズベク=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1929年以来,現④トルクメニスタンはトルクメン=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。
 1936年以来,現⑤カザフスタンは,カザフ=ソビエト社会主義共和国として,ソ連の構成国となっています。



19
45年~1953年の中央ユーラシア  現⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区
新疆(東トルキスタン)の独立は実現せず
 独立が宣言されていた「東トルキスタン共和国」のある新疆は,ヤルタ会談の秘密協定により,中華民国政府による支配が認められました。1946年の中華民国との和平協定によって,「共和国」のメンバーはイリに戻り,自治を受け入れることになります。
 しかし,1949年に中華人民共和国の国共内戦の勝利が確定的になると,〈毛沢東〉は「共和国」のメンバーを北京に政治協商会議に誘います。直後,飛行機事故により首脳のほとんどが墜落死したとされ,生き残ったメンバーは中国共産党に従い,中華人民共和国の一部となる道を辿ります【セH11「新疆は…中華人民共和国に帰属しなかった」わけではない】



1945年~1953年の中央ユーラシア 現⑦中華人民共和国のチベット自治区
チベットは中華人民共和国の侵攻を受ける
 チベットの〈ダライ=ラマ〉政権が実効支配していたのは,ラサを中心とする中央チベットにとどまり,アムド地方は青海省や四川省,カム地方は四川省や雲南省にかけて中華民国の支配下にありました。
 1949年10月に中華人民共和国が成立すると,
1950年に人民解放軍がチベットに侵攻し,1951年にラサを占領。〈ダライ=ラマ14【東京H12[2]】は山脈を越えてインド国境付近に避難しました。

 しかし,
1951年の協議により中華人民共和国は〈ダライラマ〉の地位を認める代わりにチベット【セH11モンゴルではない】の外交権・軍事権を奪います。
 チベットのラサに一旦戻った〈ダライラマ〉は,中国勢力による一層の進出に直面することになります。



1945年~1953年の中央ユーラシア  現⑧モンゴル
内モンゴルと外モンゴルは完全に別々の道へ
 モンゴル人民共和国は,〈蒋介石〉の中華民国に正式な政府とみなされていはいませんでした。

 また,第二次世界大戦中に日本に協力して成立していた「蒙古聯合自治政府」は,1945年9月に「内モンゴル人民共和国」を樹立します。
 内モンゴルの人々は,モンゴル人民共和国に対して「内モンゴルと外モンゴル(モンゴル高原)の統一」を要求しますが,ソ連と中華民国が1945年8月14日に中ソ友好同盟条約を結んで接近し,中華民国がモンゴル人民共和国を承認すると,内モンゴルは孤立。1945年11月には,〈ウランフ〉(1906~1988)が中心となって中国共産党に接近し,これに吸収される形で消滅します。

 その後,1947年に内モンゴル自治政府が成立し,1949年10月に中華人民共和国が成立すると,12月には
内モンゴル自治区となります。自治区主席は〈ウランフ〉です。





1945年~1953年のアジア

1945年~1953年のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
※台湾と外交関係のある国は19カ国(ツバル,ソロモン諸島,マーシャル諸島共和国,パラオ共和国,キリバス共和国,ナウル共和国,バチカン,グアテマラ,エルサルバドル,パラグアイ,ホンジュラス,ハイチ,ベリーズ,セントビンセント,セントクリストファー=ネーヴィス,ニカラグア,セントルシア,スワジランド,ブルキナファソ)



1945年~1953年のアジア  東アジア ①日本
 1945年8月30日に,連合国軍最高司令官〈マッカーサー〉(1880~1964) 【セA H30時期】が来日し,9月2日に東京湾上のミズーリ号上で降伏文書が調印されました。
 署名したのは日本政府・天皇の代表である外相〈重光葵〉(しげみつまもる,1887~1957)と,大本営の代表である参謀総長〈梅津美治郎〉(うめづよしじろう,1882~1949)です。
 連合国の代表として〈マッカーサー〉が,さらにアメリカ,イギリス,中国,ソ連,フランス,オランダ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドも署名しました。
 降伏した相手は,
ポツダム宣言を発したアメリカ,イギリス,中華民国,ソ連です。

 この中で日本は,天皇と日本政府の主権を,連合国軍最高司令部のもとに置くことを約束しました。こうして,日本本土はアメリカ軍の間接占領下に置かれ,沖縄などの南西諸島は直接軍政下に置かれました。
 こうして始まった戦後改革では,1946農地改革法1947年には主権在民(国民主権)【セH29を定めた日本国憲法【東京H17[1]指定語句】【セH29の施行など,日本が戦前の軍国主義的な国家ではなくなるよう,様々な制度が作られました。
 また,戦争犯罪者に対して一審制の
極東軍事裁判(いわゆる東京裁判)【セH30時期】が実施され,連合国に「戦争犯罪人」として指定された日本指導者28人が,平和に対する罪(A級犯罪),人道に対する罪(C級犯罪),通常の戦争犯罪(B級犯罪)について裁かれました。平和に対する罪と人道に関する罪は大戦中に規定されていなかった犯罪であり,「ある行為を後から制定された罪で裁いてはならない」という法の不遡及(ふそきゅう)原則に反しているという批判もあります。なお,ナチス=ドイツの指導者に対するニュルンベルク裁判【セH4世界史上初めて戦争犯罪を裁く国際裁判であったか問う】【追H20地図問題】で適用されたC級犯罪は極東軍事裁判での適用はありませんでした。

 しかし,米ソ対立が始まり,1950年に朝鮮戦争が起きると,日本を後方支援のための国家にするため,再軍備に向けた占領政策が転換されました。同時に日本は,第一次世界大戦中の大戦景気と同じく「朝鮮特需」となり,経済復興の足がかりを得ました。
 1951年に,アメリカ合衆国のサンフランシスコで対日講和会議が開かれサンフランシスコ平和条約【セH17時期】が締結され,翌年の発効により日本は主権を回復しました【セH17。しかし,ソ連はこれに調印せず,中華人民共和国と台湾【東京H17[1]指定語句】政府は会議に参加しませんでした。1952年に日本は台湾政府と日華平和条約【早法H26[5]指定語句】を結んだため,中華人民共和国と敵対することになりました。また,ソ連との国交樹立も,先延ばしとなりました。

 沖縄は依然としてアメリカの統治下にあり,アメリカ合衆国政府の任命する行政主席・副主席による
琉球政府が発足しました。サンフランシスコ講和条約調印と同じ日,日米安全保障条約(1951発足【セH5非同盟主義ではない,H7,H9年代を問う】,1960改定)が結ばれていました。1953年以降沖縄の軍事基地が拡大され,島ぐるみ闘争が始まっていきます。


1945年~1953年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
 第二次世界大戦の最終局面において,ソ連は満洲千島列島南樺太を占領しました。
 1945年8月,
朝鮮総督府はソウルにまでソ連が南下することを恐れ,民族運動家に治安維持を任せる動きをみせていました。アメリカもソ連が朝鮮半島を全部占領してしまうことを恐れ,8月16日に「北緯38度線」をソ連とアメリカによる占領の分割線にしようと提案したようです。日本が植民地化していた朝鮮は,北緯38度線以北はソ連,以南はアメリカが占領し【セH30以北ではない】,8月中には北朝鮮と南朝鮮における日本軍の武装解除が完了,1945年中には当時の朝鮮半島にいた日本の民間人・軍人の「引き揚げ」がほぼ完了しました。
 一方,
〈蒋介石〉が出席していたカイロ会談では,朝鮮は「自由且独立ノモノタラシムル(自由で独立のものにさせる)」とされていました。朝鮮総督府から治安維持を任された朝鮮人の独立運動家は,8月15日に朝鮮建国準備委員会を設立。しかし,左派から右派までの寄せ集めの組織であったために一部が分裂したものの,委員会が主導して9月に朝鮮人民共和国の建国が宣言されました。当時アメリカ合衆国に滞在していた〈李承晩〉が主席に選ばれましたが,アメリカ合衆国もソ連もこの国家を承認せず,“幻”の統一国家となりました。

 
ソ連【追H9中国ではない】アメリカ合衆国【追H9】は北朝鮮と南朝鮮に,それぞれ支配を及ぼそうとしていました。1945年12月のモスクワ外相会議(米・英・ソ)において朝鮮の信託統治と,その後の朝鮮民主主義臨時政府の樹立のプランが検討されました。それに対し,中国の重慶で臨時政府を築いていた〈金九〉(キムグ)は信託統治に反対,朝鮮共産党も反対しました。
 しかし,冷戦の激化にともない,その後のアメリカ合衆国とソ連の話し合いは決裂が続き,南朝鮮におけるアメリカ軍政庁による共産党の弾圧も激しくなりました。インフレと食料不足により南朝鮮では大規模な民衆暴動が起きる中,〈李承晩〉はアメリカの軍政と共産主義に反対しつつ北朝鮮を除き南朝鮮だけの独立を主張しました。

 北朝鮮では,「満洲で抗日パルチザン部隊を指導した」という“伝説”により理想化された〈
金日成〉(キムイルソン,1912~1994) 【東京H17[1]指定語句】が,朝鮮共産党北部朝鮮分局(のち北朝鮮労働党)における頭角を現し,1946年に北朝鮮臨時人民委員会委員長に就任しました。彼は実際には中国共産党の東北人民軍幹部として戦っていたとされ,「「聖地白頭山(ペクトゥサン)で生まれた」とされる息子の〈金正日〉は,実際には父の軍事訓練時代に沿海州のハバロフスク近郊で生まれたといいます。“革命のために命を捧げて戦った”という伝説や,朝鮮人・女真人の発祥の地である“聖地”白頭山で生まれたという神話は,その後の〈金日成〉・〈金正日〉の指導体制における個人崇拝の中でつくられていったものです()
 人民委員会は小作農に土地を分け与えつつ,アメリカ合衆国の軍政下に置かれている南朝鮮の解放を目指していきます。1947年には北朝鮮人民会議と北朝鮮人民委員会が組織されると,北朝鮮には南朝鮮とは別個の政権が事実上成立しました。
 信託統治案に現実味がなくなると,1947年秋の国連総会で南北朝鮮で総選挙を実施するべきとの提案が可決されました。これを受け,アメリカ合衆国は南朝鮮単独で選挙を実施し,1948年8月15日に
大韓民国(韓国) 【セH7年代】の建国が宣言されました。憲法公布後に〈李承晩〉(イ=スンマン;りしょうばん,1875~1965)が大統領に選ばれました。南朝鮮だけの単独選挙に対し〈金九〉(キム=グ;きんきゅう,1876~1949)は,北朝鮮の〈金日成〉らと提携して統一朝鮮の樹立を目指しましたが挫折し,1949年に暗殺されました。

 
1948年2月には朝鮮人民軍が創設,9月ににソ連軍【セH16中国ではない】にバックアップされる形で〈金日成(キム=イルソン) 【セH27】朝鮮民主主義人民共和国【セH27】の建国を宣言しました。こうして朝鮮半島の北部にソ連の後押しを受けた社会主義国家が誕生したことに,アメリカの政権首脳は衝撃を受けます。1948~1949年までにソ連・アメリカ合衆国軍は朝鮮半島から撤退しましたが,ソ連・中華人民共和国の支援を受けた北朝鮮の軍事力が増強されていきました。
()徐大粛,古田博司訳『金日成と金正日―革命神話と主体思想 (現代アジアの肖像 6)』岩波書店,1996年。

 一方,中国では“共通の敵”である日本が敗れると,国民党と共産党との間に内戦がおこりました。一時的に成立した停戦が崩れると,国共内戦【セH7年代】【追H9国連は調停していない,米ソは厳正中立の立場をとっていたわけではない】となり,富裕層である財閥に支持されていた〈蒋介石〉(1887~1975)の国民党政権に対して,農村部の貧困層に支持されていた毛沢東〉(1893~1976)率いる中国共産党が攻勢を強めます。「お金持ちには貧乏人の気持ちがわからない!」「政治にカネが絡んでいる!」という批判も強まり,国民党政権の支持は下がっていきました。
 〈毛沢東〉は
「中国には中国の共産主義のやり方がある!農民と労働者は,手を組むことができるはずだ!」という新民主主義論を主張して,中国の農村部【追H9都市部ではない】を中心に「解放区」(共産党の支配地域)を増やしていきました。
 第二次世界大戦中から,連合国は中国で社会主義革命が起きないように,〈蒋介石〉の国民党政権を政府と認め,これを援助してきました。しかし,1949年に〈蒋介石〉は台湾島【追H9「国民党は台湾に脱出し,中華民国政府の維持を図った」か問う】【セA H30中国共産党ではない】に逃げ,〈毛沢東〉が北京を首都とする中華人民共和国を宣言【セH7年号】【セH14文化大革命によって成立したわけではない】。これにより,国連の五大国の一つでありながら,中華民国政府は中国本土を支配することができないという状況になってしまいます。

 〈毛沢東〉は国家主席,〈周恩来〉
【セH21】首相(正式には国務院総理)という役職です。
 内戦に敗れた〈蒋介石〉の国民党政権は,台湾に渡って,政権を維持します(
台湾)。【セH13「台湾に渡り,抗日戦を指揮した」わけではない】。清の宮殿である紫禁城(しきんじょう)にあった宝物や文化財は,〈蒋介石〉によって南京や四川に運び出されていましたが,国共内戦が始まると一部は台湾に移送されたため,現在では主に北京の故宮博物院と台湾・台北の国立故宮博物院に分かれて保管されています(台湾の国立故宮博物院には,周代の青銅器,南宋代の龍泉窯(りゅうせんよう)の青磁,明代にイスラーム諸国向けに輸出されたペルシア語入の染付(そめつけ,青花)の青花波斯文蓮花盤,清代では豚肉の煮込みそっくりの肉形石や,白菜そっくりのヒスイ製の翠玉白菜(すいぎょくはくさい)などが展示されています)

 成立後の中華人民共和国では,1950年に土地改革法【早法H23[5]指定語句】によって地主制を廃止。
 戦争中には日本と日ソ中立条約を結ぶなど敵対勢力であったソ連
【セH22アメリカ合衆国ではない】との間に,1950年,中ソ友好同盟相互援助条約(1950発足,1980解消) 【セH7】【早法H26[5]指定語句 論述(中国をめぐる外交関係の展開)】を結びます。
 相互援助条約とは敵国(“敵国”は日本とその同盟国と想定されていました)から進出を受けたら,相互に援助することを約束した条約のことです。
 このとき〈毛沢東〉は,モスクワのクレムリン(ソ連共産党の中枢があるロシア帝国時代の宮殿)の〈スターリン〉(1878~1953)に直々に会いに行っています。


 1949年の中華人民共和国の成立を見た朝鮮民主主義人民共和国の〈金日成(キム=イルソン,きんにっせい,1912~94,首相48~72・国家主席72~94,朝鮮人民軍最高司令官50~91,朝鮮労働党中央委員会委員長49~66・総書記66~94)は,この勢いで朝鮮半島の統一を目論(もくろ)みます。
 〈金日成〉の
朝鮮民主主義人民共和国は南の大韓民国に対し1950年6月25日に軍事進出し,ソウルを占領。瞬く間に朝鮮半島南部のプサン(釜山)に到達しました (195053朝鮮戦争【セH7年代,セH9「1年以内」に終結していない】)
 この自体に,連合国を中心とする集団的安全保障機関である国際連合の出番がやってきました。進出行為をした北朝鮮に対し,アメリカの〈トルーマン〉大統領は安全保障理事会の招集を要求し,武力制裁を提案。イギリスとフランスは1949年に成立していたNATO(ナトー,北大西洋条約機構)の加盟国でもありますし,中華民国の〈蒋介石〉政権も同じ連合国側の立場のアメリカの意見に同調しました。
 それに対しソ連は,安全保障理事会を「欠席」。五大国には拒否権がありますから,1か国でも反対すれば安全保障理事会の決議は成り立たないわけですが,ソ連は「欠席」したわけなので拒否権は発動していません。結局ソ連抜きで決議は可決され【セH17否決されていない】,アメリカ軍【追H21】を主体とする国連軍【セH9介入があったか問う】【追H21】が組織されました。国際連合憲章の7章には,「平和に対する脅威,平和の破壊及び進出行為に関する行動」という項目があって,本来は安全保障理事会が指揮をとることになっているのですが,ソ連が出席していない中での可決という例外事態がいきなり発生してしまったこともあり,アメリカ軍が指揮をとることになりました。

 当時,日本を占領していた在日アメリカ軍や,フィリピンとタイも派兵しました。アメリカ合衆国軍はまず7月1日に南部の釜山(プサン)をに上陸し,連合国軍最高司令官の〈マッカーサー〉率いる「国連軍」の派遣も7月7日に決まりました。しかし北朝鮮は8月18日に釜山を占領し,朝鮮半島のほぼ全域をおさえました。
 しかし,9月15日に「国連軍」は,ソウル(6月28日に北朝鮮が占領)に近い仁川
(じんせん,インチョン)への上陸作戦を成功させ,9月28日にソウルを奪回。朝鮮民主主義人民共和国は北へ北へと追い詰められます。無抵抗な市民が犠牲となったことを主題に,立体派の画家〈ピカソ〉は「朝鮮の虐殺」(1951)を描いています。
 すると,その先にあるのは中華人民共和国です。しかし,中華人民共和国【セH23中華民国ではない】は正式に参戦することはなく100万人もの「義勇軍」が派遣されました。
 結局〈スターリン〉の死(1953)をきっかけに,1953年7月に板門店(はんもんてん,パンムンジョム)朝鮮休戦協定が結ばれました。板門店は北緯38度上にありますが,南北の軍事境界線はほぼほぼ北緯38線上です。締結時のアメリカ合衆国大統領は〈アイゼンハウアー〉【共通一次 平1:フーヴァーとのひっかけ】【セH4アイルランド系カトリック教徒ではない】,ソ連は〈フルシチョフ〉第一書記です。1953年10月にはアメリカ合衆国が韓国との間に米韓相互防衛条約を結び,米韓同盟を発足させています。

 この間,大韓民国の〈李承晩〉は大統領に権限を集中させる新憲法を公布し,1952年に直接選挙により大統領に就任しました。1952年には「海洋主権宣言」を発表し,一方的に設定した李承晩ラインの内側の漁業管轄権を主張し,ラインを超えた日本漁船を拿捕(だほ)する強硬策に出ました。経済的には朝鮮戦争中に激しいインフレが起き,1950年に経済を安定させるために韓国銀行(朝鮮銀行から改称)の権限を強化し1952年にはデノミネーション(通貨単位の変更)も行っています。


1945年~1953年のアジア  東アジア 現④モンゴル
(⇒1945年~1953年の中央ユーラシアも参照)
 
戦後,中華民国は,内モンゴル【セH11外モンゴルではない】の自治を認めました【セH11ダライ=ラマの亡命問題は関係ない】
 しかし,同時にそれは,モンゴル人民共和国と内モンゴルの分裂状態を固定化することとなっていきます。

 外モンゴルの
モンゴル人民共和国に対するソ連の影響力は高まり,行政・外交・安全保障などさまざまな面で規制を受ける衛星国となっていきます【セH11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた時期があった」のはモンゴルであって,チベットではない】






1945年~1953年の東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

1945年~1953年のアジア  東南アジア 現①ヴェトナム,⑧カンボジア,⑨ラオス
インドシナは独立を求めてフランスと戦う
 フランス領の
インドシナは,現在のカンボジア,ラオス,ヴェトナムにより構成される植民地。
 オランダ領東インドとは異なり,歴史的にカンボジアとヴェトナムの対立意識も強く,一つの地域として独立することはありませんでした
(⇒800~1200のアジア 東南アジアを参照。チャム人とクメール人の抗争)

 
1945年8月16日〈ホー==ミン【上智法(法律)他H30】はヴェトナム民主共和国の建国宣言を行い,8月19日にハノイで一斉蜂起し〈バオ=ダイ〉は権力の座から引きずりおろされました(八月革命)。こうして9月2日に,ヴェトナム民主共和国が独立しました。
 しかし,南部では共産党による支配が,フランス軍により奪われ,1946年には南部ヴェトナムはフランス軍支配下に置かれることになります(フランス領コーチシナ)。ポツダム宣言によると,ヴェトナム北部は中国,南部はイギリスが駐留することになっていましたが,南部はなし崩し的にフランス支配に戻ってしまったのです(北部には46年まで中国が駐留)。ハノイにもフランス軍が進入するにいたって,〈ホー==ミン〉は全土で反フランス【追H9アメリカ合衆国ではない】戦争を呼びかけます。フランスは南部支配を既成事実にするため,1949年に阮朝最後の皇帝〈バオ=ダイ〉を元首に迎えてヴェトナムを樹立させ,これにコーチシナを加えました。
 フランスは,「封じ込め政策」を推進していたアメリカの軍事援助も受けますが,ヴェトナム民主共和国のゲリラ戦に苦しみ,膠着状態に陥ります。
 なお,すでに1945年にヴェトナム人がヴェトナム独立同盟会(ベトミン) 【東京H29[3]】に合流し解散していたインドシナ共産党は,1951年にヴェトナム労働党(1976~はヴェトナム共産党)として再建,同年カンボジアではクメール人民革命党(カンボジア共産党(クメール語ではカンプチアと発音))が結成。ラオスの地方委員会はのちにラオス人民革命党(1955)を建設しました。


1945年~1953年のアジア  東南アジア  ②フィリピン
 フィリピン諸島では,アメリカ合衆国が保留していた独立の約束を果たし,
46年にフィリピン共和国の独立を認めました。しかし,アメリカに有利な通商法やアメリカ軍基地の設置が認められ,アメリカに依存するモノカルチャー経済も続きました。国内の政策は親米反共で,ゲリラ戦によって各地で日本と戦ったフク団が弾圧されました。フク団はフィリピン共産党の支援を受けており,アメリカの情報機関CIAの援助を受けた〈マグサイサイ〉国防長官(のちに大統領)は,フク団の弾圧後に土地改革をすすめ,農民の支持を吸収していきました。しかし,土地を持たない農民もなお多く,社会不安は残り,徐々に反米ナショナリズムも強まっていきました。例えば英語のかわりに,タガログ語をベースにしたピリピノ(フィリピノ)語が国語とされ,その話者は増加していきました。
 1950年に朝鮮戦争が起きると,フィリピンもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,派兵しました。


 前途多難となったのは,インドシナ半島です。1945年9月に〈ホー==ミン〉がヴェトナム民主共和国を建設し,大統領に就任しましたが,フランスはこれをゆるさず,インドシナ戦争に発展しました(194654) セH5ヴェトナムの戦争相手国を問う】


1945年~1953年のアジア  東南アジア 現④東ティモール,⑤インドネシア
 オランダ【追H9フランスではない】は,1945年8月17日に〈スカルノ〉により独立宣言が読み上げられたインドネシアを認めず,軍を出動させました。このインドネシア独立戦争【セH10「独立宣言後,武力で独立を阻むオランダとインドネシア共和国軍との間で,戦争が始まった】ののち,49年にインドネシア連邦共和国(1950年に単一のインドネシア共和国となります)が成立しました。初代大統領は〈スカルノ〉【上智法(法律)H30 メガワティ,スカルノ,ユドヨノ,カルティニではない】です。

 こうして,もともとはマレー(ムラユ)人の分布していた東南アジアの島しょ部は,イギリス領だった地域はマレーシアとシンガポールに,ジャワ島【セH11:ジャワ島が現在のマレーシアの1州かどうか問う】やスマトラ島などオランダ領だった地域はインドネシアに分断されていくのです【セH6カリマンタン(ボルネオ)島全域がインドネシア領となったわけではない】

 独立したインドネシアの〈スカルノ〉は「
多様性の中の統一」を国是とし,広範囲にわたる島しょ部をまとめるために,イスラーム教徒や軍,共産党,中国系住民などの多様な主体を絶対的な権力により束ねていこうとしました。


1945年~1953年のアジア  東南アジア 現③ブルネイ,⑥マレーシア,⑦シンガポール
 また,イギリス領マラヤは日本軍の撤退後に1946年にマラヤ連合(Malayan Union)が成立しました。海峡植民地ペナン【東京H19[3]】マラッカ【東京H19[3]】シンガポール【東京H19[3]】はイギリスの英国王直轄地として分離されていました。イギリスは華僑に市民権を与えて協力関係を深めるつつ,ペナン,マラッカ,シンガポールを軍事拠点として維持し,マレー半島のムラユ人による諸スルターン国の権力を弱めようとしたのです。
 しかし,ムラユ人による反発が強まると,1948年にはペナン,マラッカを含めたイギリスの保護領
マラヤ連邦(Federation of Malaya)に移行して,華僑に対する市民権を認めずスルターンの権力を復活させましたが,独立は認められませんでした。シンガポールは依然として英国王直轄地のままでした。


1945年~1953年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
 
タイ王国(ラタナコーシン朝)では日本の撤退後もチャクリ朝の立憲王政が続いています。
 1950年に朝鮮戦争が起きると,タイもアメリカ合衆国の「封じ込め政策」の一環に加わり,朝鮮半島に派兵しています。



1945年~1953年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
 ビルマ
では,抗日運動に活躍したパサパラという組織により指導者に立てられていたビルマ人【セA H30ヴェトナムではない】の〈アウン=サン〉(1915~47) 【セA H30】が,イギリスにより交渉相手に選ばれ,イギリスは,ビルマ独立を認めました。しかし,〈アウン=サン〉は閣議中に部下に殺害され,タキン党出身の〈ウー=〉(任1948~58)が後継となり,1948年にイギリス連邦を離脱してビルマ連邦として独立を果たしました。

 しかし,アヘン栽培地帯である北部(
ゴールデン=トライアングル)は,大陸反攻をめざす〈蒋介石〉派の勢力,ビルマのシャン州の分離独立派(シャン州独立軍),カチン州の分離独立派,ビルマとタイの共産党ゲリラ,ビルマが支援する地方勢力の軍などがひしめく,とんでもない状況となっていました。〈ウー=〉首相の下,ビルマ国軍はこの地域の少数民族への攻撃を続けるとともに,上座仏教を保護し,仏教徒を信仰しない少数民族の反発を生みました。
 このビルマ国軍は,日本により近代的な軍事訓練を受けたタキン党の元・義勇軍が基になっており,少数民族・ビルマ共産党に対する軍事行動が続いたため,強大な軍事力を持つ軍は政治に口出しするようになっていきました。
 国軍はその過程で〈
=ウィン〉大将(1910~2002)により,ますますビルマ人色の強いものとなっていきます。




1945年~1953年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1945年~1953年のアジア  南アジア 現①ブータン
 ブータン王国は〈ジグミ=ワンチュク〉国王(位1926~1952)が統治しています。
 南部のインド帝国(1877~1947)がイギリスから独立したのにともない,1949年にインド=ブータン条約が締結され,インドとの関係を強化。北方から中華人民共和国が拡大するのに備える意図がありました。次代の〈ジグミ=ドルジ=ワンチュク〉(位1952~1972)は,1953年にブータン国民議会(the National Assembly of Bhutan)を設置するなど,ブータンの近代化に尽力していきます。


1945年~1953年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑥パキスタン
 イギリスは,第二次世界大戦前はインドに対して債権国だったのですが,戦後は一点して債務国に転落していました。1946年頃から宗教の違いをめぐる内戦に発展し,混乱をきわめていたため,一刻も早い幕引きを狙ったのです。最後の総督〈マウントバッテン〉(1900~79)は,「イスラーム教徒とヒンドゥー教の住民の分布によって,インドを分割すればいいじゃないか」と提案し,パンジャーブ地方とベンガル地方はそれに基づき分割されました。
 こうして,イスラーム教徒が多数派の地域は,1947年8月15日に,パキスタンとして独立しました。パキスタンからインド方面には,ヒンドゥー教徒やシク教徒が難民として退去して移住してきました。その過程で,略奪や武力衝突が起き,インド最北部のカシミールの帰属を巡って10月には印パ戦争に発展していくことになります。

 初代大統領は全インド=ムスリム連盟の指導者〈
ジンナー〉(任1947~1948)【上智法(法律)他H30】。パキスタンの公用語は,英語とウルドゥー語です。独立時点ではまだイギリス連邦(ドミニオン。世界各地にイギリスの勢力圏に残すため,旧植民地を寄せ集めたグループのことです)内の自治領に過ぎませんでした。しかし,独立の1年後に〈ジンナー〉は病死しました。ちなみにパキスタンという国名は,パンジャーブのP,北部に住むアフガーン人のA,カシミールのK,シンドのS,バローチスターンのTANといわれており,まさに人口的につくられたイスラーム教徒の国といってよいでしょう。パークは「(イスラーム教徒だけの)清浄な」という意味で,スタンはペルシア語で「~が多いところ」という接尾語です。



1945年~1953年のアジア  南アジア 現③セイロン(のちのスリランカ)
 イギリス【セH17フランスではない】の植民地だったセイロンは,1948年にイギリス【セH20ドイツではない】連邦内の自治領として独立しました。
 多数派で上座仏教を信仰する
シンハラ人を優遇する政策がとられ,1949年には主にヒンドゥー教徒であるタミル人が選挙権を失っています。



1945年~1953年のアジア  南アジア 現④モルディブ

 モルディブの世襲制の君主国は,1887年以来イギリスの保護国となっていました。



1945年~1953年のアジア  南アジア 現⑤インド
 インドは,1947年8月15日にインド帝国から,イスラーム教徒の多い【セH6地図(現在のイスラム教の分布地域を選ぶ)】パキスタンと分離する形で,独立しました。最後の総督は〈マウントバッテン〉で,イギリスの〈アトリー〉内閣のときの決定でした。
インド初代首相は〈ネルー〉です。インド帝国時代に残されていた560余りの藩王国は,インドとパキスタンに併合されました。イスラーム教の藩王国だったハイダラーバードは,インドが1958年に武力併合しましたが,カシミールの対応が問題となりました。藩王はヒンドゥー教徒だったのでインドが併合しようとしましたが,住民の4分の3がムスリムだったので,194710月から第一次インド=パキスタン戦争に発展しました。

 イスラーム教徒【セH12「イスラム教徒」の国として成立したかを問う】が多い地域がパキスタン【セH12】として新たに国境が設定されたため,パキスタンのヒンドゥー教徒はインドへ,インドのイスラーム教徒はパキスタンへ移住を開始します。この数百万の大移動の混乱のさなか,各地で衝突が起こり,難民を満載した列車(難民列車)が現れました。
 〈ガンディー〉は最期まで,イスラーム教徒とヒンドゥー教徒の融和を説きましたが,1948年暴力的なヒンドゥー教徒【セH11:「イスラム教の急進的信者」ではない】によって暗殺され,生涯を閉じました。「マハトマ」(偉大なる魂)と称せられ,国葬にされています。

 初代〈ネルー〉首相は,大混乱に陥った独立直後のインドをまとめるには「反英」でも「非暴力」でもなく,宗教にとらわれない「政教分離主義(セキュラリズム)」が必要だと考えました。また,1951年からは第一次五カ年計画を開始し,社会主義型の計画経済を進め,鉄鋼を中心とする重工業の発展を目指しましたが,農業や綿工業の近代化には着手が遅れ,地主制(ダミンダーリー)の廃止も州の担当とされ,進展しませんでした。1951年~52年には第一回総選挙が行われ,インド国民会議派が圧倒的多数で勝ちました。
 インドは中央政府の下に,言語を基礎にした14の州(当時)が置かれることになりました。例えば,南西部のケーララ州はマラヤーラム語,マドラス州(のちのタミル=ナードゥ州)はタミル語というようにです。
 
インド憲法1949年に成立(1950年発布)されました。起草委員会の議長が,不可触賤民出身の〈アンベードカル〉であることからもわかるように,独立後のインドでは不可触賤民が「指定カースト」と呼ばれ,地位の向上(留保措置(リザーベーション))が図られました。インドを共和国であると宣言し,イギリス連邦に属しながらも,イギリス国王への忠誠義務は負わないとされました。また,下院の多数が首相を選出し,形式上の元首として大統領を置く議院内閣制がとられ,普通選挙制の導入にともないインドは巨大な有権者を抱える民主主義国家となったのです。

 ただし,貧困の問題は深刻でした。1948年以降,インドのコルカタ(カルカッタ)で貧しい人々,ハンセン病患者,不治の病を抱えた人々(死を待つ人々),孤児への支援活動(1950年に「神の愛の宣教者会」を設立)をおこなったのが,旧ユーゴスラヴィア生まれのカトリック修道女〈マザー=テレサ〉(191097)です(1979年にノーベル平和賞を受賞)。


1945年~1953年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネパール王国のシャハ王家は,1846年以来,宰相を担当するラナ家の傀儡となっていました。
 しかし,1947年にはネパール国民会議派,1949年にはネパール共産党が結成され,1951年に〈トリブパン〉国王が亡命先のインドから帰国し,ラナ家を排除して王政に復帰しました(ネパールの王政復古)。




1945年~1953年のインド洋海域
インド洋海域
…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 戦後も
イギリスはインド洋を取り囲む香港からアラビア半島のアデン,東アフリカのモンバサに至る広大な地域を勢力下に置き続けます。

 
マダガスカルフランス第四共和政の植民地支配下にありました。

(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。




19451953年のアジア  西アジア
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(注),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
(注)パレスチナを国として承認している国連加盟国は136カ国。

◆パレスチナ問題が中東戦争に発展しイスラエルが建国された。
アメリカ合衆国にとって原油の採掘とソ連の南下を食い止める基地として「中東」の重要性が高まった
イスラエルが建国され,「中東」が紛争地帯に
石油資源と海上交易路をめぐり大国の思惑が絡む

 西アジアでは,イラン(1907),イラク(1927),バハレーン(1932),サウジアラビア(1938),クウェイト(1946)に大量の石油の埋蔵が確認されていました。
 大戦後のアメリカ合衆国は,1930年代から進めていたサウジアラビア王室〈サウード〉家と提携して設立した石油会社(1944年にアラビアン=アメリカン=オイル=カンパニー(
アラムコ)と改称)によって原油採掘を本格化させました。油田が豊かなソ連の南下に対抗し,安価な石油によって世界規模の軍事的な優位を確立させようとしたのです。
 西アジアから北アフリカにかけての旧オスマン帝国領や,パフレヴィー朝にかけての政権がアメリカ合衆国と良好な関係を築き情勢が安定していることが,石油の安定供給にとって最重要事項となりました。これらの地域は戦略上「
中東」(Middle East)と一括して呼ばれることが多くなっていきました。「中東」イコール「原油のとれるところ」という構図やイメージも,このへんから一般化します。

 この原油に目をつけたのが,アメリカ合衆国です。
 アメリカの介入の背景は,第二次世界大戦後のイギリスとフランスの
中東における影響力の低下と軌を一にしています

 
1945年には,すでに独立を達成していたサウジアラビア,イエメン,トランスヨルダン(1946年にイギリスから「ヨルダン」【セH3として独立),イラク,シリア(1946年にフランス【セH3イギリスの委任統治ではない】【セH16イギリスではない】から独立),レバノン,エジプトの諸国がアラブ連盟を設立し,共同歩調をとる準備をしています。

 それに先立つ第一次世界大戦の最中のこと。
 当時イギリスは
フサイン=マクマホン書簡【セH3イギリスが関与したことを問う】を通しアラブ人国家建設を約束していました。
 しかし,その2年後には
バルフォア宣言【セH3イギリスの関与を問う,セH9アラブ人の独立をみとめたものではない】を通しユダヤ人国家をパレスチナに建設することを,パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとするシオニストに対しても同時に約束していたのです。

 バルフォア宣言に基づき次々にユダヤ人が植民を進める中,国際連合は「アラブ人とユダヤ人の国家に分割したらどうか」というパレスチナ分割案【セH15】を採択しました。ナチス=ドイツにおけるユダヤ人迫害によって,国際世論もユダヤ人側に同情を寄せていました。
 パレスチナ分割案に対し,19
48年にシオニズム【東京H8[1]指定語句】(イェルサレムの“シオンの丘”の地にユダヤ人国家を建設するべきだという考え)の立場をとるユダヤ人たちがパレスチナに侵攻。同年イスラエル国の建国を宣言しました【セH3フランスの委任統治領から独立したのではない,セH6時期(第一次世界大戦後ではない)】【セH15第一次中東戦争のきっかけとなったことを問う,セH29試行 バルフォア宣言と関係がある】。これに対し周辺のアラブ諸国により構成されたアラブ連盟が反対を表明し【セH23承認していない】,パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が始まりました。
 結果はイスラエルの圧勝でアラブ側が敗北し,
100万人のパレスチナ難民【セH4【東京H17[1]指定語句】が発生しました【セH12「アラブ側が敗北し,多くの人々が難民となった」か問う】。その多くを受け入れ,現在でも国民の約半数をパレスティナ人が占めるのは,隣国のヨルダン=ハシミテ王国【セH4トルコ,イラン,アメリカ合衆国ではない】です。

 このような状況に対し,エジプトのナセル(191870,在任195670) 【東京H13[1]指定語句,H27[3]】【セH10初めて立憲運動が起きたわけではない】 【セH15イスラエルとの平和条約を結んでいない】【セH6は,すでに1953年にクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で王政を打倒(エジプト革命) 【セH6
 別々の国に分断されてしまったアラブ人諸国家に向けて,「アラブ人は一致してイスラエルやその支援勢力と戦うべきだ」と
アラブ民族主義を呼びかけました。

1945年~1953年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 バーラクザイ朝アフガニスタン王国は1933年以来〈ザーヒル=シャー〉(位1933~1973)の支配下にありました。
 王はスンナ派を保護し,国内のイスラーム勢力と歩調を合わせつつ,パシュトゥーン人中心の政治運営を進めていきました。そのことが,世俗的な国家を目指そうとする人々やパシュトゥーン人以外の民族の不満を高めることとなっていきます。



1945年~1953年のアジア  西アジア 現②イラン
 パフレヴィー朝イランでは,第二次世界大戦中に,クルド人の居住地域とテュルク系のアゼルバイジャン人の居住地域で独立運動が起き,それぞれアゼルバイジャン国民政府とコルデスターン共和国が樹立されましたが,戦後に崩壊しています。

 戦後のイランの政治は安定せず,1940年代末からはインフレも進行していきました。
 しかし,原油の生産が急発展し。
1951年に〈モサデグ〉(モサッデグ)首相(任51~52,52~53) 【セH4ホメイニとのひっかけ】【上智法(法律)他H30】石油国有化法により,イギリス系企業の石油会社を国有化【セH4】【上智法(法律)他H30】しました。しかし〈モサデク〉は間もなく1953年に失脚。これには,アメリカ合衆国の諜報機関であるCIA(アメリカ中央情報局)やイギリス政府の関与がありました。
 〈モサデグ〉の失脚後,国に接収されていたアングロ=イラニアン石油会社は復活し,翌年1954年にはブリティッシュ=ペトロリアムが設立されています。



1945年~1953年のアジア  西アジア 現③イラク
◆第一次中東戦争では,ハーシム家のヨルダン,ナセルのエジプト,因縁のサウジと協調できず
イラク王国でも,反英・アラブ民族主義の動き高まる
 イラク王国では大戦中に,イギリス側について枢軸国と戦おうとする勢力(英派)と,枢軸国についてイギリス支配から脱却しようとする勢力(英派,アラブ民族主義者など)が争い,1941年にはイギリスによって反英派が爆撃を受ける事態に発展していました(1941年に親英派がクーデタにより反英派によって引きずり降ろされたため)。

 イラクは枢軸国と連合国のまさに“狭間(はざま)”に立たされていたわけです。
 
 大戦後もイギリスの駐留は続く状態の中,イラク王国は1946年にアラブ連盟に参加し,1948年に建国宣言された
イスラエル国と対立。1948年には第一次中東戦争を戦い,敗れます。
 
 「同じアラブ人どうし,協力してイスラエルと戦おう!」

 こうしたアラブ民族主義の願いは,しかし,どうにもこうにも上手くいきません。

・かつてヒジャーズ王国のハーシム家〈フセイン〉を攻撃した
サウジアラビア王国とは因縁の仲。
・同じハーシム家の
ヨルダン=ハシミテ王国とは,親戚間のしがらみもありウマが合わず。
・ムハンマド=アリー朝を倒しエジプト共和国を樹立した〈
ナセル〉は,自身がアラブ民族主義の中心と考えている。

 こんな状況下で,アラブ人が一致団結するのは簡単ではありません。
 しかも,エジプトで革命が起きると,イラクでも王政に対する批判も生まれ,「イギリスから距離を置くべきだ」という声も上がるようになっていきました。



1945年~1953年のアジア  西アジア 現④クウェート
クウェートはイギリスの保護下に石油採掘が進む
 クウェートはサバーハ家の首長〈アフマド〉(位1921~1950)の支配の下,イギリスの保護国となっていました。
 次の〈アブドゥッラー3世〉(位1950~1965)の支配期には,かつて最大の産業であった真珠漁に代わる新たな産業として,イギリスとアメリカの石油会社の出資したクウェート石油による原油採掘がすすみ,1946年には圧倒的埋蔵量を誇るブルガン油田の採掘が開始されています。



1945年~1953年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はイギリスに併合され,第二次世界大戦中はイギリス海軍の要塞となっていました。



19451953年のアフリカ

 戦後の国際連合はアメリカ合衆国やソ連の主導の下,世界各地のイギリスやフランスを中心とする植民地の独立を勧告しました。従来の植民地経済でアメリカ製品を売り込みたいアメリカ合衆国と,イギリスやフランスに抵抗する住民たちに社会主義的な政権を樹立してほしいソ連の思惑(おもわく)が背景にあります。
 ただ植民地の独立は遅々として進まず,
1951年にイタリアセH5オランダではない】の植民地だったリビアが独立セH5】しているほかは,独立に向けた動きは本格化しませんでした。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ ①エリトリア

 
エリトリアではイタリアからの解放後にイギリスの軍政が続いていましたが,国際連合の決議を受けて,1952年にエチオピアと合わせて連邦制を成立されました。しかし,これに対するエリトリアの住民の反発は少なくなく,後に禍根を残すことになります。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ ③エチオピア
 1941年までイタリアに併合され,イギリスに解放された
エチオピアでは亡命先のロンドンから帰国した〈ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~19)が君臨していました。皇帝はみずからの神格化をすすめて民衆による熱狂的な支持(ラスタファリ運動といいます)も得るとともに,アメリカ合衆国に接近して資本を導入し,戦前よりも権力を強化します。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ ④ソマリア
 
ソマリアは1950年には独立までの準備の間,イタリアが国際連合の信託統治をすることになりました。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ ⑤ケニア
 イギリス領東アフリカ(現在の
ケニア)では,〈ケニヤッタ〉がケニア=アフリカ人同盟(KAU)の党首に就任しました。イギリスはこの地域の中でも土壌の豊かで気候の良い高地を重点的に占領しており,白人高地(ホワイト=ハイランド)と読んでいました。ここから追い出された住民の反発は当然ながら高まり,キクユ人を中心に土地を取り返そうとする運動が過激化していきました。このマウマウ反乱(1952~57年)に対し,イギリス植民地当局は非常事態宣言を出して対抗し,〈ケニヤッタ〉を中心人物とみなして逮捕し,ケニア=アフリカ人同盟も弾圧しました。抵抗運動は次第に東アフリカの独立を求める運動に発展していくことになります。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ ⑥タンザニア
 大陸部はイギリスによる国際連合 信託統治領タンガニーカとして,沿岸のザンジバル島のザンジバル王国はイギリスの保護国として支配されました。イギリスは,この2か所のほかウガンダとケニアを含め,共通通貨東アフリカ=シリングを導入しました。
 第二次世界大戦後にはタンガニーカ=アフリカ人協会(1929年に設立,のちのタンガニーカ=アフリカ人民族同盟(TANU))の活動が活発化していきました。この頃,のちに初代大統領となる〈
ニエレレ〉(1922~1999)はウガンダとスコットランドで学び,1952年に帰国して教師となっていました。

1945年~1953年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 1946年には国際連合が,ルワンダブルンディのベルギーによる信託統治を決定しました(従来は国際連盟の委任統治領でした)。



1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ ①モザンビーク
 1951年にはポルトガルの植民地モザンビークアンゴラが,ポルトガルの海外州となりました。ポルトガルは海外植民地を「海外州」と呼び替えることで,国際社会の批判を交わそうとしたのです。

1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ  マダガスカル
 1946年にマダガスカルで,革新民主運動党(MDRM)が結成され独立を目指し,1947~1948年にはフランス支配に反対する蜂起も起きています。

1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ  ④南アフリカ連邦,⑤ナミビア
 南アフリカ連邦【セA H30】では,少数の白人による「原住民(Native)」や,有色人種(Coloured)の隔離政策(アパルトヘイト【セH4インド人移民のカースト制度のことではない】【セA H30】【東京H7[3]】(Apartheid「人種隔離」)が,アフリカーナー(オランダ人入植者にルーツを持つ人々)の支持を受けた国民党によって本格的に導入されていきました。
 
ナミビアは南アフリカ連邦に委任統治が任されていましたが,第二次世界大戦が終わると国際連盟がなくなったので,南アフリカ連邦は委任統治をやめ,これを併合しました。国際連合は「ナミビアは今後は国際連合の信託統治にするべきだ」と勧告しましたが,南アフリカ連邦は従わず,占領を継続させました。

1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ ⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 北ローデシア(現在のザンビア)は1924年にイギリスの保護領に,南ローデシア(現在のジンバブエ)は,1923年に白人による住民投票でイギリスの自治植民地となっていました。
 ニヤサランド(現在のマラウイ)は,いずれもイギリスの保護領として支配されていましたが,ニヤサランド=アフリカ会議(1943結成)による独立運動も始まっていました。

1945年~1953年のアフリカ  南アフリカ ⑨ボツワナ
 ベチュアナランド保護領(現在のボツワナ)は,南アフリカ連邦のイギリス人によって支配されていました。


1945年~1953年の中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
                          ※ ○内の数字は以下の文中の記号に対応しています。

現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された

 ・
ガボン植民地                 →現・⑥ガボン共和国
 ・
中央コンゴ植民地           →現・⑤コンゴ共和国
 ・
ウバンギ=シャリ植民地  →現・②中央アフリカ共和国
 ・
チャド植民地                  →現・①チャド共和国
 これらの地域は
フランス領赤道アフリカとしてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。
 第二次世界大戦後にフランス本国で第四共和政が成立すると,フランス議会への代表派遣が認められるようになり,自治・独立に向けた運動も生まれていきます。

 現在のコンゴ民主共和国は,③
ベルギー領コンゴとして植民地化されています。
 現在の⑦
サントメ=プリンシペはポルトガルの植民地,⑧赤道ギニアはスペインの植民地です。
 現在の⑨
カメルーンは,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となり,1946年には新たに発足した国際連合の信託統治領となりました。
 アンゴラではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。



1945年~1953年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ           ※○の中の数字は下記文中の記号と対応しています

 現在の①
ニジェール共和国,③ベナン,⑥コートジボワール,⑪セネガル共和国,⑬モーリタニア,⑭マリ共和国,⑮ブルキナファソは,フランスの植民地支配を受けていました。
 
1948年にはセネガルで〈サンゴール〉がセネガル民主連合(BDS)を立ち上げました。1946年には現在のマリのバマコでアフリカ民主連合(RDA)が結成され,フランスからの独立運動を主導していきました。
 ⑨
ギニアでは1947年にギニア民主党(PDG,ギニア進歩党から改称)の書記長に〈セク=トゥーレ〉が就任し,独立運動を主導しました。

 ②
ナイジェリア,⑫ガンビアはイギリス領でした。
 黄金海岸(現在の⑤
ガーナ)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でしたが,有力者により統一ゴールド=コースト会議(UGCC)が開かれ,1949年には〈エンクルマ〉(ンクルマ) 【追H30デクラークではない】の指導する労働者の支持を受けた会議人民党(CPP)が成立し,1951年の議会選挙で勝利。〈エンクルマ〉は,1952年にゴールド=コーストの初代首相に就任しました。
 イギリス領であった⑧
シエラレオネでは1950年にシエラレオネ人民党(SLPP)が結成されています。

 ④
トーゴは旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。

 ⑩
ギニアビサウはポルトガル領でした。

 ⑦
リベリア共和国では,1944年に当選して以降,27年間にわたって大統領を務めたアメリカ系黒人の〈ダブマン〉(任1944~71)は外資を導入してリベリアの開発に努めます。1948年には便宜地籍船(べんぎちせきせん)制度を導入。アメリカ合衆国が中心となって資本が投下されていきました。



1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ①エジプト
 
エジプトではムハンマド=アリー朝の王国が続いていましたが,自由将校団が1952年に革命を起こして〈フアード2世〉(任1952~53)は退位し,エジプト共和国が成立しました(エジプト革命)。自由将校団の首班は〈ナギーブ〉(1901~1984)で1952年に首相,1953年に大統領に就任しました。

1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ②スーダン(③南スーダン)
 
スーダンは1956年までイギリスとエジプトの共同統治下にありましたが,ウンマ党による独立運動も始まっていました。

1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコではアラウィー朝の〈ムハンマド5世〉(192753)が独立運動を推進し,1953年にフランスにより廃位されました。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのちの西サハラとなります。

1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ⑥アルジェリア
 
アルジェリアはフランスの支配下に置かれています。

1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ⑦チュニジア
 フサイン朝の
チュニジアは1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。

1945年~1953年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビアはイギリスとフランスにより共同統治されていましたが,国連の決議により1951年にリビア連合王国としてイタリアから独立しました。連合王国を構成するのは,東部のキレナイカ首長国西部のトリポリタニア,南部のフェッザーンの3州です。独立運動に尽力したサヌーシー教団の指導者が〈イドリース1世〉として国王に即位しています。




1945年~1953年のヨーロッパ

1945年~1953年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
1945年~1953年の東ヨーロッパ  ①ロシア
(ソ連)
 ソ連の最高指導者は〈ヨシフ=スターリン〉。第二次世界大戦が終わると,東ヨーロッパに勢力圏を及ぼすことに成功し,アメリカ合衆国・イギリスを中心とする西側諸国との直接的な戦争のない対立(冷戦)を生みました。
 ただし,バルカン半島の
ユーゴスラビア【名古屋H30[4]指定語句】の〈チトー【追H21は,ソ連の影響力行使に反対しコミンフォルムを追放され,ソ連との国交も断絶しています。
 東方では,連合国軍が分割占領していた朝鮮半島の支配をどうするかという問題をめぐり,モスクワ三国外相会議の案(アメリカ・ソ連・イギリス・中国による信託統治)が,米ソ共同委員会が決裂したことによりパーになり,連合国の管理下で南北共同選挙をおこなう計画もかなわず,1948年に朝鮮半島北部のソ連占領地域で朝鮮民主主義人民共和国が成立しました。1949年に中国共産党の一党独裁制である中華人民共和国が成立すると,これと
中ソ友好同盟相互援助条約【早法H26[5]指定語句,論述(中国を巡る外交関係の展開)】を結び,東側陣営にとりこみました。〈毛沢東〉は当初は”向ソ一辺倒”を掲げ,ソ連の支援の下,ソ連型の国家建設を目指すことになります。
 1950年には朝鮮民主主義人民共和国が朝鮮半島統一を目指し大韓民国を軍事侵攻。〈スターリン〉は〈金日成〉に支援を要請されましたが,核保有国どうしの対決を避けて参戦はしませんでした。〈毛沢東〉も,建国間もない中華人民共和国が参戦するにあたり,アメリカ合衆国との直接対決を避けるため,人民解放軍の派遣ではなく義勇兵という形で軍を編成し,朝鮮民主主義人民共和国を支援しました。
 そんな中,〈
スターリン〉は1953年に死去します。



1945年~1953年の東ヨーロッパ  ②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国ではソ連による社会主義化が進んだ
 エストニアでは,1944年9月,ドイツ軍の撤退とソ連の再占領の間のほんのスキマに,「エストニア共和国」として独立国家が樹立されました。せっかく樹立された国を守るために抵抗した共和国軍の奮闘もむなしく,数日後にはソ連に再占領を受けました。
 というわけで,これ以降はエストニア=ソヴィエト社会主義共和国となっています。
 ラトビアは1940年以降ソ連領となり,ラトビア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となりました。1941~44年はドイツの占領下に入りますが,1944年のソ連に再び占領されています。
 リトアニアは1940年以降リトアニア=ソビエト社会主義共和国としてソ連の構成国となり,1941年~1944年までドイツの占領下を受けた後,ソ連に再び占領されました。



1945年~1953年の⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
 ベラルーシは第二次世界大戦中の1941年にドイツに占領され,1944年にソ連が奪還しました。ポーランド人は歴史的に,ベラルーシからウクライナにかけての広い地域に分布していましたが,第二次世界大戦後にポーランドとソ連の境が大きく西側に移動されると,ベラルーシの領土内にいたポーランド人は移動を余儀なくされています。「ベラルーシ人」が誰なのかという定義は,今なお明確とはえませんが,このときにベラルーシにとどまった人々やユダヤ人,または移住してきたロシア人が人口の多くを占めるようになっていきます。
 
ウクライナのウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国は,第二次世界大戦後もソ連の構成国の一つとして,”大ロシア”(ロシア)に対する”小ロシア”(ウクライナ)の地位にとどまりました。
 
モルドバは,もともとルーマニア人のモルダヴィア公国でしたが,オスマン帝国の支配に入った後,1812年にロシアに割譲。その後,第一次世界大戦後にルーマニア領になって,1940年に今度はソ連の領土に。こういう経緯から住民の多くはルーマニア語を話すのに,支配者がロシア人という構図が生まれます。



1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 ①ルーマニア
 第二次世界大戦で枢軸国側についたルーマニアでは,大戦末期に革命が起きて連合国側につきますが,大戦後にベッサラビア地方とブコヴィナ地方をソ連に奪われました。国王〈カロル2世〉は支持を失い,1947年には人民政府が樹立されて王政が廃止され,ルーマニア人民共和国が建てられました。

1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 ②ブルガリア
 第二次世界大戦で枢軸国側についていたブルガリアは,1944年にソ連による軍事侵攻を受けます。同年にクーデタが起き,ソ連側に立ちドイツと戦うことになります。大戦後は祖国統一政府が樹立され,国民投票で王政が廃止。ブルガリア人民共和国が建国され,ブルガリア共産党による一党独裁制となり,〈ディミトロフ〉が首相に就任されました。

1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 ④ギリシャ
1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 ⑤アルバニア
1945年~1953年のヨーロッパ バルカン半島 ③マケドニア・⑥コソヴォ・⑦モンテネグロ・⑧セルビア・⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・⑩クロアチア・⑪スロヴェニア
 〈チトー〉は1937年代末にユーゴ共産党の書記長に任命され,1941年からはパルチザン戦争の最高司令官として活躍しました
(注1)。 当初はソ連型の社会主義国を建設しようとしますが,パルチザンとしてドイツと戦う過程ですでににさまざまな社会改革がおこなわれていたユーゴスラヴィアでは,共和国間の国境紛争や民族問題をたくみに調整しながら,次第に「自主管理」を基本とする独自の社会主義をつくっていくことになります。
 まず1945年3月に〈チトー〉
【追H21首班の国民統一戦線ができましたが,事実上は共産党が実権を握る人民戦線であり,1945年11月の選挙で共産党の一党支配が確定しました。基幹産業の国有化が推進され土地改革もおこなわれました。
 1946年にユーゴ連邦人民共和国憲法が制定され,新たなユーゴの国のかたちが決まります。6つの共和国と,ハンガリー人の分布する
ヴォイヴォディナ自治州,アルバニア人の分布するコソヴォ=メトヒヤ自治区(この自治州・自治区はセルビア共和国に含まれます)により構成されるソ連をモデルにした連邦制をとり,連邦中央が強大な権限を持っていましたが,民族の自治は認められます。ヴォイヴォディナとコソヴォが設定されたのには,連邦内の最大の共和国であるセルビアの力を押さえようというユーゴ共産党指導部の思惑があったといいます(注2)
 ユーゴスラヴィアは当初はソ連や東ヨーロッパの国々と友好関係を築いていましたが,〈チトー〉は〈スターリン〉によるスラヴ人をまとめて支配下に置こうとする方針に反発し(〈スターリン〉にはユーゴとブルガリアをあわせて南スラヴ連邦を形成しようとする目論見がありました),1948年6月のコミンフォルム(共産党・労働者党情報局)の第二回会議でユーゴに対する批判が繰り広げられた結果,
ユーゴスラヴィアはコミンフォルムから除名されました【名古屋H30[4]指定語句「ユーゴスラヴィア」】
 除名されたユーゴスラヴィアはソ連・東ヨーロッパから切り離された結果,ソ連型の社会主義国づくりからの方向転換を図り,「中央からの司令によって各企業が生産する」のではなくて,「各企業が労働者評議会を設立し,自分たちで生産目標を立て自分たちで管理をする」方式をとりました。これを
自主管理とといいます(1950年に自主管理法が制定されています)。1953年1月には新たに分権的な憲法が制定され,中央集権的なソ連との違いは一段と鮮明になりました。
 外交的にはソ連側にもアメリカ合衆国側にもつかない「
非同盟政策」が目指され「積極的平和共存」を掲げ,冷戦真っ只中のヨーロッパにあって異彩を放ちます。
(注1)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.104。
(注2)柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』岩波書店,1996年,p.107。



1953年~1979のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 第二次世界大戦で重要な役割を演じたマルタでは,住民による自治・独立要求が高まっていました。



1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス

 1945年7月26日の総選挙で「福祉国家政策」を掲げた労働党が勝利し,〈
アトリー〉内閣【追H30】が発足しました。
 〈アトリー〉内閣は,労災法(1946)・国民保険法(1946)・国民保険基金の設立(1946)・国民扶助法(1947)・国民年金法(1948)を相次いで成立させ,国民保険サーヴィス法(1946)では医療費の無料化も実現します
【追H30「社会福祉制度の充実が進められた」か問う】
 また,イングランド銀行を国有化し,石炭・鉄道・運河・運輸・電気などの基幹産業・インフラに関わる
民間企業を相次いで国有化していきました。

 イギリスには戦地から若者が戻り,空前のベビーブームを迎え,ニュータウンが建設されていきました。1947年に金融危機が起きると,1948年にアメリカ合衆国による
マーシャル=プランを受け入れます。
 もはやイギリスには世界各地に広がる植民地帝国を維持する余裕はなく,1947年には
インド帝国をインド・パキスタンが分離独立する形で手放し,同年にはパレスチナの取り扱いを国際連合に委託。ギリシア,トルコに対する支援も停止しました。イギリス帝国の“店じまい”に代わって国際政治をとりまとめようとした資本主義国がアメリカ合衆国でした。

 1950年に労働党が僅差で勝利しましたが,朝鮮戦争への派兵で財政が逼迫すると批判が集まり,1951年の総選挙で〈
チャーチル〉の保守党政権への揺れ戻しが起きます。
 なお,1952年12月にはロンドンで石炭由来の大気汚染物質の影響で深刻なスモッグが発生し,1万人以上が亡くなっています。これを受け,大気汚染対策の重要性がようやく認識されるようになっていきます。


1945年~1953年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
 1948年3月に西欧同盟(WEU)を結成(ブリュッセル条約【セH10時期(1950年代か問う),コメコンが結成されたわけではない】【セH17海軍の軍備の制限に関する条約ではない】)。英・仏に,ベネルクス三国(ベルギーオランダルクセンブルク)を加えた同盟です。ベネルクス三国は,大戦中にドイツの進入をゆるし,被害をこうむってきた小国でした。
 ベルギーは二度の大戦でドイツの侵攻を受けた苦い経験から,1949年に永世中立国政策を放棄します。



1945年~1953年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…①ポルトガル,②スペイン
1945年~1953年のヨーロッパ  イベリア半島 ①ポルトガル
 ポルトガルでは〈サラザール〉(位1932~1968)による独裁体制が続いていました。ポルトガルは第二次世界大戦後は北大西洋条約機構(NATO,1949)に加盟し,反共産主義グループとして生き残りを図りました。


1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ①フィンランド
 
フィンランドは,連合国側に立ったソ連と「冬戦争」「継続戦争」(⇒1929~45の北ヨーロッパ)を戦ったため枢軸国に位置づけられ敗戦国となり,領土も失いました。戦後のフィンランドはソ連寄りの外交路線をとり,アメリカ合衆国によるソ連「封じ込め政策」の一環であるマーシャル=プランも参加を辞退しています。ソ連とは友好協力相互援助条約を締結し,同盟関係を結びました。

1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ②デンマーク
 ドイツの占領を受けたデンマークでは,戦後復興が進められ,アメリカ合衆国のマーシャル=プランの参加を受け入れています。

1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ③アイスランド
 アイスランドは1940年にイギリスによる占領を受け,1941年からはアメリカ軍が駐留しました。1944年に国民投票でデンマークから独立し,アイスランド共和国が成立。独立後も基地貸与を望んだアメリカを拒否しましたがキェプラヴィーク空港の使用は許可され,冷戦が激しくなるとともにアメリカ軍の駐留は継続されました(1951年からはアメリカ軍がアイスランド防衛隊として駐留(2006年まで))。アメリカのマーシャル=プランを受け入れ,1949年にはNATOに加盟し,その安全保障の下に入りました。アイスランドは北極海を挟みアメリカとソ連の間に位置するため,戦略的に重要視されたのです。

1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑤ノルウェー
 ドイツの占領を受けたノルウェーでは,戦後復興が進められました。ともにアメリカのマーシャル=プランの参加を受け入れています。ノルウェーでは労働党が議席を増やしています。

1945年~1953年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑥スウェーデン
 
スウェーデンは第二次世界大戦では名目上「中立」【セH4中立を維持したか問う。オーストラリア,中国,ポーランドは中立ではない】を保ち直接の戦場にはならなかったので,戦後の復興も早く,いち早く福祉国家の国づくりを進めることができました。アメリカのマーシャル=プランの参加を受け入れています。





●1945年~1953年の南極大陸

 南極大陸を巡っては,各国が領有権を主張する状況にあります。
 オーストラリアの主張する領土がもっとも広く,ほかに,南極探検をおこなっていたイギリス,,ニュージーランド,フランス,ノルウェーのほか,チリやアルゼンチンが主張します。なお,日本が領有を主張していた領土は,敗戦にともない放棄させられています

(参考)領有権を主張した国々
 1908年,イギリス 西経20度から西経80度
 1923年,ニュージーランド 西経150度から東経160度
 1924年,フランス 東経142度2分から東経136度11分→フランス領南方南極地域として
 1933年,オーストラリア 東経160度から142度2分,東経136度11分から東経44度38分
 1939年,ノルウェー 東経44度38分から西経20度
 1940年,チリ 西経53度から西経90度
 1942年,アルゼンチン 西経25度から西経74度