1920年~1929年の世界
世界の一体化②:帝国の拡大Ⅱ

第一次世界大戦後には集団安全保障体制にもとづく国際社会の形成がすすむが,世界各地に英仏が植民地を持つ体制は変わらず,社会主義とファシズムが台頭。アジア,アフリカの民族運動組織が形成され,反帝国主義運動が動き出す。

時代のまとめ

(1)
第一次大戦後のヨーロッパではヴェルサイユ体制【慶文H30記】,東アジア・太平洋ではワシントン体制が定められ,勢力圏の再編成(墺・露・独「帝国」の解体)と現状維持が国際社会で決められた。

(2)
第一次世界大戦後も,「民族自決」(Self-determination)の原則は【早法H27[5]指定語句 論述(20世紀前半までの世界にどのように波及したか述べる)】,アジア・アフリカの諸地域には適用されなかった

(3)
第一次大戦後の世界では,社会主義ファシズムが,資本主義体制のオルタナティヴ(代替の政治思想・運動)として注目され,互いに対抗しつつ勢力を伸ばしていく。


 第一次世界大戦後,ロシア帝国,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国【セH7パリ講和会議で決まる。帝国は存続していない】,ドイツ帝国,オスマン帝国が崩壊し,各地の民族が自分たちの固有の政治的なまとまりを求めるナショナリズム(国民主義)に基づき,領域内で支配的な民族によって形成された主権国家(国民国家)を単位として国際社会が形成される時代が本格的に到来しました。しかし,一般的に領域内には複数の民族が居住することは普通で,民族の定義も単純に割り切れるものではなく言語,宗教,歴史的な事情により揺れ動くものでした。領域内の民族構成を支配的な民族にとって都合のよいものとするため,大戦後には戦勝国と敗戦国との間で領土の交換とともに住民交換(強制的な住民移動)も行われるなど,従来は存在しなかった民族同士の対立が国際・国内政治の争点とされるようになっていきました。

 第一次大戦前には,欧米列強同士で軍拡競争秘密外交がエスカレートし第一次大戦を招いたことへの反省から,集団的安全保障体制である国際連盟【東京H18[1]指定語句】が成立しました。一方で,国際連盟は資本主義経済や帝国主義支配を継続させようとする旧態依然の体制でもあり,戦勝国の中には敗戦国の旧植民地を委任統治領として勢力圏に加えた国もありました。
 「戦間期(19181939)の前半(19181929)には,戦勝国により厳しい戦後処理を受けた敗戦国の力は押さえられましたが,後半(19291939)には「再分割」の要求が過激化し,第二次世界大戦につながっていきます。

 各民族に国民国家の形成を認める民族自決の原則は,欧米・日本の植民地統治下のアジア,アフリカには適用されなかったため,各地の現地エリート層(官僚や民族資本家,留学生)を中心に帝国主義に反対する民族運動が噴出し,ソ連(19221991)を中心とする社会主義(共産主義)思想と結びつく地域も増えていきました。この時期の社会主義(共産主義)は少なくとも外部から見ると資本主義に代わる社会制度・価値観としての魅力を十分に備えていたのです。

◆ヨーロッパではヴェルサイユ体制,東アジア・太平洋ではワシントン体制が定められ,勢力圏の再編成と現状維持が国際社会で決められる
 
第一次世界大戦末期,全世界をスペインかぜ(インフルエンザ)のパンデミック(世界的大流行)が襲いました。死者は5000万から1億ともいわれ,191820年にかけて猛威をふるいました。社会学者〈マックス=ヴェーバー〉(18641920)も,感染して亡くなっています。
 そんな中,1919年1月,第一次世界大戦の敗戦国ドイツの処理について話し合うために,フランスのパリで講和会議が開かれました。舞台は,かつてドイツ帝国成立の式典が行われたヴェルサイユ宮殿です(フランスに勝ったプロイセンは,ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝の戴冠式を行った)。フランスはかつての恨みを,同じ場所で晴らしたことになります。
 講和の内容の基本原則は,アメリカ合衆国の〈ウィルソン〉大統領【セH4セオドア=ルーズヴェルトではない】の「十四カ条」です。アメリカの資金力が勝利に貢献したことから,アメリカの発言権は強かったのです。

 〈ウィルソン〉大統領は,古いヨーロッパ流の国際政治を打ち破る,新しい時代の国際政治の仕組みを,アメリカ主導でつくっていこうとしました。その典型的なアイディアが「国際連盟(リーグ・オブ・ネイションズ)」です【東京H18[1]指定語句】【セH17問題文の下線部】。すべての国が加盟し,世界平和を乱す行為をした国を,その他の加盟国でおしおきすることができるというものです。この集団的安全保障という考え方は,すでに18世紀ドイツの哲学者〈カント(184497)が『永久平和のために』で提唱していました。
 帝国主義時代には「秘密外交」が当たり前のようにおこなわれていました。内緒で結ぶ条約(密約)がはびこれば,それだけ国家間の争いの種になります。これからは,重要なテーマはしっかりと「国際社会」の場でオープンに話し合うべきだとされたのです。
 このように,第一次世界大戦を引き起こした“古い”要素を検討し,それに代わる新しい価値観を提唱していきました。

 「各国が関税を高く設定したことで,経済的な争いが戦争に発展するのではないか,関税障壁を廃止していくべきだ」
 「諸国家間の軍事力のバランスを取ろうとして「他国が戦艦を増やしたから,自国も負けない分だけ増やそう」という調整を続けた結果,軍備拡大につながってしまったのではないか。軍備を縮小させていくべきだ」
 「大戦中にドイツがとった無制限潜水艦作戦は,自由な貿易に対するとんでもない障害だ。海はみんなのものという海洋の自由が,世界の経済の発展にとって重要だ」
 「植民地をイギリスやフランスが持ちすぎている。その取り合いや不公平から第一次世界大戦が始まった。植民地問題を公正に解決するべきだ」
 「オーストリア帝国,オスマン帝国,ロシア帝国が敗北した。古いヨーロッパの国家が滅んだ後,そこに住んでいる民族たちに,自分たちの国づくりについての権利を与えようじゃないか」

〈ウィルソン〉の提唱した「十四か条」には,こういったさまざまな新しい論点が盛り込まれていたのです。

 1919年6月,パリの郊外に〈ルイ14世〉(16431715)が建造した豪華なヴェルサイユ宮殿で,ドイツを含む関係各国はヴェルサイユ条約【セH4全同盟国に対する戦後処理を決定したものではない(ドイツに対する条約)】【早法H26[5]指定語句】を調印しました。ただし,アメリカ合衆国は調印したものの上院の反対で批准していません。ヴェルサイユ条約の第一章は国際連盟【東京H18[1]指定語句】【追H9コミンテルンではない】に関する規約なので,これに批准していないということは,国際連盟にも加盟できないということになります【セH17「設立時からアメリカ合衆国が加盟していた」は誤り】
 では,アメリカ合衆国はドイツと講和をしていないということでしょうか? 実は,次の共和党〈ハーディング〉大統領(192123)のときに,米独平和条約(1921)が結ばれています。
 中華民国は,会議には参加しましたが,山東半島を日本が占領している問題が解決されていなかったために,調印せずに帰っています。のちに1922年に中独平和条約を個別に結んでいます。

 なお,労働者の権利を国際的に保護していこうとする附属機関として1919年に国際労働機関(ILO,アイエルオー)【セH21も設立されています(のち1946年には国際連合の専門機関になりました)

 さてヴェルサイユ条約により,形成された安全保障体制のことを,ヴェルサイユ体制【慶文H30記】と呼びます。
 これにより,ドイツはすべての植民地を喪失【セH17ドイツ領の「一部」ではなく「全部」。時期も第二次世界大戦後ではない】【セH7一部を保持していない】。さらに,フランスは普仏戦争のときにドイツ帝国に取られたアルザス地方とロレーヌ地方を奪回しました。
 また,ドイツのフランスへの進入を防ぐため,ラインラントを非武装化し,ドイツの軍備も制限します【セH26(徴兵制廃止,陸軍10万人以下,異海軍の制限,新兵器(戦車・軍用機・潜水艦)の保有禁止)。さらに極めつけは巨額の賠償金【セH14時期(第二次大戦後ではない)の支払いです(1320億金マルク) 【セH5「フランスはドイツの復興を支援するため,ドイツに対する賠償請求権を放棄した」わけではない】

 敗戦国のオーストリア(サン=ジェルマン条約【セH13史料(ロカルノ条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する】),ハンガリー【セH7ブルガリアではない】(トリアノン条約【セH7),ブルガリア(ヌイイ条約),オスマン帝国(セーヴル条約)も,別個に講和条約が結ばれました。その結果,これらの国々の領土も縮小され,今まで支配されていた諸民族が独立国家を樹立しました。
 北から順に,フィンランド,エストニア,ラトビア【セH15ソ連の成立に加わったわけではない】,リトアニア,ポーランド,チェコスロヴァキア【セH15地図】,ハンガリー【セH15地図】,ユーゴスラヴィアです【セH15地図(第一次世界大戦前の各地域で最も多い民族を示した分布図(チェコ系,スロヴェニア系,ドイツ系,ハンガリー系住民の分布に注目する)),セH29試行 地図(第一次世界大戦後のヨーロッパ各国の国境線を選ぶ)
 これらの国々の独立を認めたのには,革命の起きたロシアから社会主義が入ってこないようにするための防波堤の役割もありました。なお,ドイツを本土とプロイセンとに分断するため,バルト海に通じるポーランド回廊【セH13時期(第二次大戦後ではない)が与えられています。

 少なくとも900万人(民間人を含む)が亡くなった第一次世界大戦は,人類史上もっとも多い死者数を出した戦争であり,それだけに各国は再び恐ろしい戦争が起きないように協調外交をとりました。
 192122年には,アメリカ合衆国の〈ハーディング〉大統領(192123)が,ワシントンにアメリカ,イギリス,フランス,日本などの9か国を集めてワシントン会議【セH18ロンドンではない,セH26を開きました。ここではワシントン海軍軍備制限条約【セH17ブリュッセル条約ではない】【上智法(法律)H30と,中国における主権尊重・領土保全を定めた九か国条約【セH25】【セH27時期】,さらに太平洋の現状維持を定めたアメリカ・イギリス・フランス・日本の四カ国条約【セH18が結ばれました。九カ国条約・四カ国条約は,ともに日本の中国大陸・太平洋への進出に釘を刺すものでした。このような,中国大陸・太平洋地域【上智法(法律)H30欧米ではない】における,アメリカ合衆国主導の安全保障体制をワシントン体制【上智法(法律)H30といいます。





1920年~1929年のアメリカ

1920年~1929年のアメリカ  北アメリカ
1920年~1929年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
アメリカ合衆国は,黄金の20年代を迎える
◆アメリカは工業・金融ともに経済大国となり,孤立主義(ヨーロッパから距離を置くべきだという考え)的な大衆社会が成立した
 アメリカ合衆国はかつて,ヨーロッパのイギリス,フランス,ドイツから巨額の資金を借りることで,産業を発展させた国でした。国際間の資金の貸し借り(「借款」(しゃっかん)といいます)をみたときに,借りている額>貸している額となる国を債務国といいます。アメリカは1914年の時点では35億ドルの債務国でした。
 それが一転,第一次世界大戦大戦中に協商国に大量の物資・戦債を与えたため,戦後には「貸している額>借りている額」となり,130億ドルの
債権国【セH4】【上智法(法律)他H30】となったのです。西ヨーロッパから借款の返済として多くの資金がロンドンから大西洋を越えてニューヨーク【セH4】ウォール街【セH14】に流れ込み,余った資金を国内外に貸し付ける金融ビジネスが発展していきます。

 しかし,伝統的にアメリカは,戦争後にはすぐに兵隊の動員を解除することが普通であり,アメリカ大陸の外の戦争に関与することを嫌う世論
(孤立主義)も根強かったため,連邦議会の上院の反対によって国際連盟に加盟することができませんでした(なんと上院の議員の2/3以上の賛成がなければ,他国との条約を批准(認めること)することができなかったのです。当時の上院は,中間選挙で負けたために〈ウィルソン〉大統領(191321) 【セH9の属する民主党【セH9共和党ではない】の議員だけで2/3の議席を確保することができていませんでした)
 国際連盟の提唱者である〈ウィルソン〉の出身国が,国際連盟に加盟することができないという事態です。

 国務長官〈ヒューズ〉(任1921~25,〈ハーディング〉,〈クーリッジ〉大統領時代)も,アメリカ合衆国は軍事力によって世界覇権を握るのではなく,債権国としての国力を利用して,民間の経済活動によって世界の安定を図るべきだと考えていました。
 大戦後のアメリカ合衆国は,保守的な雰囲気を反映し3代連続共和党の大統領が続きます
(〈ハーディング〉(192123),〈クーリッジ〉(192329),〈フーヴァー(192933)) 【共通一次 平1】【セH6モラトリアムを出したか問う】。「孤立主義」は根強かったものの,中国大陸や太平洋への進出の動きのみられた日本をおさえこむ必要性が意識されていました。上院の反対により国際連盟に加盟できなくなった以上,共和党政権はなんらかの形で“代替プラン”を国民に示す必要に迫られます。
 そこで提唱されたのが「軍縮」会議を開く形で,日英同盟を廃棄させ,中国の門戸開放(もんこかいほう)を実現させ,日本の軍事力をおさえる「新世界秩序」を建設するという作戦です。この国際会議を
ワシントン会議(1921年11~1922年2月)といい,〈ハーディング〉政権の国務長官〈ヒューズ〉が主催しました。

 また,イギリスやフランスには,戦債
(借金)の返済も強く迫り続けます。イギリスやフランスはドイツに対する賠償金を要求したため,特にドイツができるだけ早く復興して,賠償金を支払える能力に達することがアメリカ合衆国にとって重要となったのです。
 そこで,1923年にはシカゴの銀行家〈ドーズ〉(1865~1951)率いる委員会ができ,
ドーズ案(プラン) 【セH4】が翌1924年に採択されました(1925年のノーベル平和賞を受賞)。
 ・アメリカの銀行がドイツに250億ドルを融資する (ドイツの復興を助ける)
 ・ドイツから英仏への賠償金の金額・期間を緩和する (復興したドイツが英仏に賠償金を払う)
 ・第一次世界大戦の連合国は,アメリカに戦債を支払う (貸した資金がアメリカに返済される)
 こうした資金の流れは1929年に世界恐慌が勃発するまでは,ヨーロッパの再建とアメリカ合衆国への戦債の返済にある程度功を奏します。
 アメリカ合衆国のヨーロッパに対する介入はこの後も続けられ,1928年には
ケロッグ=ブリアン条約が提案され,当初は15か国の締結国間で対外紛争の解決する手段としての戦争が禁止されました(ただし強制力はありませんでした)。

 また,共和党政権時代には,アメリカ合衆国の市場を守るために
高関税政策がとられました。



◆“黄金の20年代”のアメリカ合衆国では大衆消費社会が成立したが,社会の保守化が進んだ
 この時期のアメリカは「黄金の20年代」「永遠の繁栄」とも言われ,アイルランド移民の子〈フォード(18631947) 【セH21】がベルトコンベヤ【東京H16[3]オートメーション,または流れ作業方式】自動車の大量生産方式【セH29試行 写真】を実現したのを代表として,自動車や家電製品【上智法(法律)他H30冷蔵庫や洗濯機】の労働者による大量生産・大量消費の時代が到来していました【セH29試行】
 フォード=システムの導入は,都市労働者に労働時間の短縮と賃金上昇がもたらしただけではなく,農村にも影響を与えています。農業用の
二輪駆動トラクター(フォードソン)の大量生産にも道をひらいたのです。内燃機関で駆動するトラクターは大戦中に,ドイツの潜水艦による海上攻撃で穀物不足・労働力不足に悩まされていたイギリスを救い,さらにソヴィエト政府も1919年にフォードソンと契約し,のちのソ連政府による農業集団化に一役買うこととなります(注)
(注)藤原辰史『トラクターの世界史』中公新書,2017,p.31,p.68。

 また,第一次世界大戦中に軍需工場などの職場の働き手
【セH11】として活躍した女性の参政権が承認されます(1920年の憲法修正19)【セH15第二次世界大戦後ではない,セH26時期】【追H21ジャクソン大統領のときではない】。家電製品の普及にともない,女性の社会進出もすすみました【セH11「1920年代になると,家電製品の普及が家事労働の軽減をもたらし,女性の社会進出の可能性を広げた」か問う】
 
ラジオ放送【上智法(法律)他H30 年代(1920年代)】を通した加熱するスキャンダラスな報道,喜劇王〈チャップリン〉(18891977)に代表されるハリウッドの映画【上智法(法律)他H30「トーキー」と呼ばれる有声映画を含む】,ホームラン王〈ベーブ=ルース〉(18951948)に代表される野球などのスポーツ,トランペット奏者〈ルイ=アームストロング〉(190071)やニューヨークのハーレム地区のナイトクラブ(コットンクラブ。南部の“綿花”地帯に由来する名前です)のデューク=エリントン楽団に代表される黒人のジャズ音楽【上智法(法律)他H30ロックなどの大衆音楽ではない】,〈ディズニー(19011966)によるアニメーション映画(ミッキーマウスを主人公とするモノクロのトーキー(音声入り)映画『蒸気船ウィリー』は1928年11月18日に初公開),コカ=コーラなど,「アメリカ的な文化」の多くがこの時代に生まれ,定着していきました。20世紀後半にかけてアメリカ経済の急拡大とともに全世界に広がり,アメリカ文化が世界各地で見られるようになっていくことになります。
 永遠の繁栄を背景にして,アメリカ人には自国を誇る強い意識もみられるようになり,アングロ=サクソン系(イギリスから渡ってきた人々)の白人でプロテスタントを信仰する人々(ホワイト=アングロ=サクソン=プロテスタント。頭文字をとってWASP(ワスプ)という)の価値観が,もっとも「アメリカらしい」とかんがえられるようになり,「WASPではない」人々がしばしば排斥の対象になりました。1920年には女性に参政権が与えられました【セH11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,セH12南北戦争の結果ではない】【上智法(法律)他H30実現しなかったわけではない】

 たとえば白人ではない=黒人への過激な排斥運動(代表的な運動には,クー=クラックス=クラン(KKK(ケーケーケー)) 【セA H30】【東京H21[3]】【上智法(法律)他H30】という組織による反黒人【上智法(法律)他H30カトリックやユダヤ教も含む。WASP的価値観が高まったため】運動があります)や,イタリア人の移民に対する冤罪事件(サッコ=ヴァンゼッティ事件【上智法(法律)他H30】)1924年に制定された東欧【上智法(法律)他H30】・南欧【上智法(法律)他H30】からの移民を制限し,日本を含むアジア諸国【上智法(法律)他H30】からの移民を全面禁止(廃止)する移民法(第一次世界大戦で戦勝国となった日本は,この法を“排日移民法”と呼び非難しました) 【追H30グラフ読み取り問題】【上智法(法律)他H30】などがあります。
 日本は,第一次世界大戦後のパリ講和会議で,人種差別撤廃を提案していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されています。

 また,酒類の製造・販売・運搬・輸出入(バーで飲むのはダメ。家飲みはOK)を禁じる
禁酒法【上智法(法律)他H30】もそのような雰囲気の中で制定されましたが,取締りは万全ではなく“ザル法”と呼ばれ,かえって密造・密輸業を営む地下組織(ギャング)の力が強まり,シカゴでは酒の密売で成長したギャングのボス〈アル=カポネ〉も絡むギャング同士の抗争が起きました(1929年の聖バレンタインデーの虐殺)。〈カポネ〉は1932年に脱税で逮捕されました。

 物質的な文明がアメリカ社会を覆う中,それに疑問を投げかけた人々もいました。第一次世界大戦の“悪夢”を経験した若者たちの間には,この時期のどんちゃん騒ぎに対して“疑いの目”を向ける者も少なくなかったのです。こうした1920年~1930年代の世代を“失われた世代(ロストジェネレーション)”と呼ぶことがあります。代表格は,その名の由来となった〈
ヘミングウェイ〉(1899~1961),〈フィッツジェラルド〉(1896~1940)がいます。〈フィッツジェラルド〉の『マイ=ロスト=シティ』では,黄金の20年代の状況が冷静に描かれています。
 第一次世界大戦後,旧来の価値観を否定しようとする運動は芸術家にもみられました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も“芸術”そのものを疑う活動を続け,
現代美術に大きな影響を与えました。

 1928年の選挙では共和党の〈
フーヴァー【共通一次 平1】【セH6】が民主党候補に圧勝しました。彼は鉱山技師から億万長者になった“アメリカン=ドリーム”を象徴する人物であり,圧倒的な人気を誇ったまま大統領に就任しました(任1929~1933)。アメリカ合衆国は世界史において初めて,貧困に対する勝利を得ることができると彼が演説した1年後,1929年10月24日に,株価の大暴落(「暗黒の木曜日」)が発生することになるのです。





1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆アメリカ合衆国の経済的進出に対し,労働運動やナショナリズムも高まった
 第一次世界大戦中,中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの地域は戦場にはならず,軍需物資を供給する場所として,好景気を迎えました。アメリカ合衆国の共和党政権は,海兵隊をカリブ海の
キューバドミニカ,中央アメリカのニカラグアから撤退させています。
 しかし,アメリカ合衆国の中南米への経済進出は止まらず,労働運動やナショナリズムが高まります。大戦中にアメリカ合衆国の中南米への影響力が強まりましたが,労働者による社会主義的な運動や,自国の資源を守ろうとするナショナリズムの動きも高まります。ソ連の第三次インターナショナルの影響から,1928年にはラテン=アメリカ労働組合(CSLA)が成立しています。
 同じく1928年年開かれた第六回パン=アメリカ会議では,パン=アメリカ連合が国連の常置委員会の一機構に位置づけられることになり,各国に連絡機関としてパン=アメリカ委員会が設置されました。また,急速な経済のグローバル化に対応し,各国の
国際私法のズレを統一させるためブスタマンテ法典が制定されました。
 1928年のケロッグ=ブリアン協定(パリ不戦条約)には,ラテン=アメリカからも翌年の発効までの間にキューバ,ドミニカ共和国,グアテマラ,ニカラグア,パナマ,ペルーが署名しています。
 しかし,
1929年の世界恐慌を受けて輸出量が激減し,各国経済は打撃を受けることになります。


1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
1920年~1929年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
 1917年に憲法が制定されたメキシコでは,制定に関わった〈カランサ〉大統領(任1917~1920)と〈オブレゴン〉将軍の対立が起き,将軍のクーデタで〈カランサ〉は退陣,1代おいて,〈オブレゴン〉(任1920~24)が大統領に就任しました。
 1917年の憲法では教会よりも国家の権限が強く,〈カリェス〉大統領(任1924~28)の反カトリック政策に反発し,内戦状態となりました。1928年には〈オブレゴン〉が再選されますが,カトリック支持者により暗殺されています。〈カリェス〉は退任してからも,メキシコの政界に力を及ぼし続けます。
 このような内紛の背景には,メキシコの資源を巡るアメリカ合衆国の進出もありました。メキシコでは1918年に石油・鉱山の国有化が宣言されていましたが,アメリカ合衆国の圧力もあり1921年には終息。しかし,1927年に再び国有化が宣言されると,アメリカ合衆国は再びこれに干渉しています。





1920年~1929年のアメリカ  カリブ海
カリブ海
…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島



1920年~1929年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。


1920年~1929年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島ではフランスによる白人優位の社会が続き,サトウキビ・プランテーションが主力産業となっています。
 


1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・1920年~1929年の南アメリカ  ①ブラジル
 
ブラジルは,1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策をとりました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカは唯一の参戦国となりました。戦争が終わるとにヴェルサイユ会議(パリ講和会議,1919年1~6月)に参加し,国際連盟にも加盟しましたが,常任理事国入りが拒否されると脱退を選びました。
 第一次世界対戦中にはヨーロッパへの輸出が増加し,輸入を代替する工業も発展しました。都市化が進むに連れて労働者の運動が活発化するようになります。ブラジルの経済を特に支えていたのは
コーヒーで,農園は内陸部にも広がっていきました。
 経済的な発展によってブラジルの市場が統一されていくと,“ブラジル人意識”(ナショナリズム)もしだいに高まっていきました。ブラジルは“ヨーロッパ”なのか? それとも“ラテン=アメリカ”? “ブラジル”?。白人? 黒人? インディオ? ――こうした議論はやがて,ブラジルは“さまざまな人種が混ざりあった国だ”という認識へと発展していきます
(ブラジルは,しばしば「オス=ブラジスos brasis」という複数形によってその多様性が表現されてきました())
 他方で,1924年以降,経済的に台頭していた
サン=パウロ(20世紀初頭にはブラジルのコーヒー生産の70%を占めていました)やミナス=ジェライス州の出身者が中央政府を牛耳っていたことに地方の諸州が反乱を起こし,鎮圧されています。こうした地方の不満を吸い上げていくのが,のちの〈ヴァルガス〉(1883~54,大統領人1834~45,50~54農牧業が中心のリオ=グランデ=ド=スル出身)だったのです。
(注)堀坂浩太郎『ブラジル―跳躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.19。



1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
 第一次世界大戦後のアルゼンチンでは,急進党を中心に石油の国有化や労働者の保護政策がとられました。ヨーロッパからの移民の流入もとまらず,アルゼンチンの音楽「タンゴ」がヨーロッパやアメリカ合衆国でブームとなっています。



1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
 
チリはヨーロッパに大量の硝石(しょうせき)を輸出していましたが,第一次世界大戦後には合成窒素肥料が登場したことから需要が減少します。左派寄りの政策をとった〈アレサンドリ〉(任1920~24年)は保守派の抵抗にあって軍人に政権を譲りましたが,改革派の軍人〈イバーニェス〉がクーデタを起こして実権を握り,復帰した〈アレサンドリ〉が再度に辞任すると1927年に大統領に就任(任1927~31)。大規模な公共事業を行いつつ,労働運動を弾圧する政策をとりました。
 そんな中,アメリカ合衆国の資本が,世界最大の露天掘り銅山のチュキカマタをはじめとするチリの銅山に本格的に進出していきます。


1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
 
ペルーでは,1919年に就任した〈レギーア〉大統領は,1920年憲法によって数々の社会改革を実行しました。
 自由党政権の続いていた
ボリビアでは1920年にクーデタが起き,1920~30年代には農場経営者や都市中間層の支持を受けた共和党政権となります。
 
チリは,第一次世界大戦後に輸出の花形であった硝石の国際価格が下落し,打撃を受けました。



1920年~1929年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
 
エクアドルでは経済の“頼みの綱”であったカカオの国際価格が下落し,ゼネストが宣言されると,金融資本家に支持された自由党成建は労働者の運動を押さえ込もうとしました。これに対し,1925年に,労働者や中間層に支持された青年将校によるクーデタが起き,〈アヨラ〉政権(任1925~31)労働者を保護する改革が行われました。
 
コロンビアではアメリカ合衆国との関係を改善し,外資を導入した近代化が進みます。1921年にパナマの割譲に関する賠償金や借款がアメリカ合衆国から導入され,インフラ建設が進みますが,外国に対する債務は積み上がっていきました。
 
ベネスエラでは独裁者〈ゴメス〉(任1908~14,22~29,31~35)による支配が続いています。彼はアメリカ合衆国との関係を改善し,1914年にマラカイボ湖で発見された油田を外資(ロイヤルダッチ=シェル,スタンダード=オイル,ガルフ石油)を導入して採掘し,ベネスエラは世界最大の“石油輸出”国となりました。1930年にはベネスエラの輸出総額の83.2%を石油輸出が占めるという状況です()
(注)増田義郎編『新版世界各国史26 ラテン・アメリカ史Ⅱ』山川出版社,2000年,p.308。





1920年~1929年のオセアニア

1920年~1929年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア
…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ領ハワイ



1920年~1929年のオーストラリア



1920年~1929年のオセアニア  メラネシア
メラネシア
…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア



1920年~1929年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア
…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
 ③ナウルは1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました()
 
②キリバスのうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入し,採掘が進められています。
クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,pp.354-355。





1920年~1929年の中央ユーラシア

◆ソ連の建設期には反帝国主義が強く打ち出され,資本主義国との対立が深まった。旧ロシア帝国支配下の民族は比較的尊重された
ソ連により中央アジア5国の国境が区切られる

中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区

 
192212月にシベリアから日本が撤退すると,同年1230日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。

 
1922年5月に〈レーニン〉が病に倒れると,党内人事を握っていた〈スターリン(グルジア出身,18791953)です。めきめきと頭角を現します。〈レーニン〉の没後には,同じく後継者候補であった〈トロツキー〉を政敵として追放し,〈ブハーリン〉(1888~1938)の協力も得て共産党の実権を握りました。
 1928年には,重工業に重点を置き【セH17,社会主義国家の建設をめざす第一次五カ年計画【セH17時期】が実行されました。集団農場(コルホーズ) 【セH13ラティフンディアとのひっかけ】【追H21国営農場,ミールではない】や国営農場(ソフホーズ,ソヴィエト農場) 【追H21集団農場,ミールではない】の建設がすすめられました。コルホーズのほうは主に開拓地に建設されました。集団化したほうが効率がいいし,社会主義を建設するのに必要だという触れ込みでしたが,実際には効率よく穀物を政府に集めるための方法でした。収穫の有る無しにかかわらず,社会主義建設に必要なノルマが重視されたため,ウクライナをはじめとする地域で多数の餓死者を出すことになります。
 この時期のソ連は帝国主義諸国と敵対し,
コミンテルンの支部としてつくられた各国の共産党を通じて,共産主義運動を世界的に推進していました。議会を通じた社会改革をめざす社会民主主義の政党のことを「資本家にすり寄り,ファシズムと手を結ぶ勢力」として敵視する社会ファシズム論が主流でした()
(注)のち世界恐慌後にヒトラーが政権をとると,資本主義国や社会民主主義勢力との提携に転換します。

1920年~1922年の中央アジア  ⑥新疆
 
新疆では漢人の〈楊増新〉による統治が続いていましたが,1928年に部下の〈金樹仁〉により暗殺・継承されましたが,イスラーム教徒による反乱が各地で起きると,1930年代初めまで混乱します【セH11「新疆は,1921年に独立」したわけではない】





1920年~1929年のアジア

1920年~1929年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア
…①日本,②台湾(),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

1920年~1929年の東北アジア
◆日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州はソ連の支配地域となった
満洲をめぐり,ソ連・日本が対峙する
 沿海州はソ連の支配地域に入ります。
 日本は清の最後の皇帝〈
溥儀(ふぎ)(19061967)と接触し,満洲への進出をめざす日本政府と,再びみずからの国家を樹立したい女真人の思惑が交錯していくことになります。

◆沿海州~ベーリング海峡までの地域は,ソ連の支配地域となる
沿海州~ベーリング海はソ連の支配下に置かれた
 イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営むツングース人ヤクート人,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人は,ソ連の支配下に置かれ行政区分に組み込まれています。



1920年~1929年のアジア  東アジア
1920年~1929年のアジア  東アジア ①日本
 
第一次世界大戦の勝利により,日本はようやく欧米と肩を並べ“一等国”になったのだというムードが広がりました。第一次世界大戦後のパリ講和会議では,人種差別撤廃を提案していましたが,アメリカ合衆国の上院などの反対によって否決されました。
 第一次世界大戦後に,〈吉野作造〉
(18781933)や〈美濃部達吉〉(みのべたつきち,18731948)の影響下に,大正デモクラシーという運動が起きました。労働者の運動も盛んになり,1921年には日本労働総同盟が設立されました。農民運動も盛んになり,小作争議が増えるなか,1922年に〈賀川豊彦〉(18881960)らによって日本農民組合が作られました。部落差別撤廃運動や,女性解放運動も連動します。1920年に〈市川房枝〉(18931981),〈平塚らいてう〉(18861971)が新婦人協会を設立,1922年には全国水平社が設立されました。

 社会主義の動きも活発化し,1920年に社会主義者を集めて日本社会主義同盟が作られましたが,治安警察法で結社が禁じられました。1922年には,非合法でありながら〈堺利彦〉(さかいとしひこ,18711933),〈山川均〉(やまかわひとし,18801958)により,マルクス=レーニン主義に立つ日本共産党が設立されました。

 第一次世界大戦後は,アメリカ合衆国は軍縮の提案をワシントンで行いました。日本,イギリス,フランス,イタリア,中国,オランダ,ポルトガル,ベルギーが招致(しょうち)され,1921年~22年に,ワシントン海軍軍縮条約【セH4】で日・米・英・仏・伊の主力艦【セH4アメリカとイギリスの主力艦保有を同比率としたか問う】【セH13補助艦ではない】のトン数の制限が決められました。
 また,太平洋地域の日・米・英・仏の勢力圏の現状維持
(四カ国条約),そして全参加国による中国の主権の尊重,門戸開放・機会均等の原則の確認(九カ国条約)も締結されました。
 四カ国条約の結果,日英同盟は
1923年に終了しました。九カ国条約では,日本の満洲とモンゴルにける勢力圏が暗黙のうちに認められる形となっていました。また,山東半島の返還について日中で競技され,1922年に山東半島から撤退しました。海軍軍縮条約にともない,海軍と陸軍で大規模な軍縮がおこなわれました。

 1923年,関東大震災が関東一帯を襲い,日本経済に暗雲が立ち込めます。このときに政府の発行した「震災手形」が原因で,1927年には金融恐慌が起きました。〈田中義一〉内閣は,緊急勅令によって収束させましたが,中小の企業が倒れ,三井・三菱・住友・第一・安田といった巨大財閥の経済界支配が加速しました。1925年には普通選挙法とセットで治安維持法が制定され,無産階級が政治の舞台に進出することは押さえられるなど,言論と社会運動はおさえられました【セH29。一方,ロシア革命以降,北樺太やシベリアに出兵していた日本は,1925年に撤兵しソ連と国交を結んでいます。

 〈田中義一〉内閣は同時に中国への進出を図り,1927年には北伐【セH12】中の〈蒋介石【セH12】軍と交戦しましたが,失敗。〈蒋介石〉がそのまま満洲に迫ると,これをなんとか阻止しようとしますが,〈田中義一〉内閣は手を打てません。そこで関東軍高級参謀〈河本大作〉大佐(18821955)は,〈田中〉内閣とは別のプランを建てます。〈蒋介石〉に敗れて奉天に逃げてきた満洲軍閥〈張作霖(ちょうさくりん)【立命館H30記】の乗っていた列車を爆破して,殺害したのです。〈河本大作〉は,これにより満洲軍閥たちを混乱させ,関東軍を出動させようとしましたが,〈張作霖〉の息子〈張学良〉は1929年に〈蒋介石〉の国民政府側につき,満洲全土に国民政府の旗(青天白日旗)を掲げさせました。同年,日本は山東からも撤兵し,ようやく国民政府を承認したのでした。〈張作霖〉爆殺事件に対して〈昭和天皇〉(19011989,在位19261989)から叱責を受けた〈田中〉内閣は,1929年7月2日に総辞職しました。世界恐慌が,刻一刻と迫っていました。

 なお,1926年には〈高柳健次郎〉(1899~1990)が世界初のブラウン管による映像の伝送・受信実権を成功させています。“テレビの時代”は,すぐそこです。


1920年~1929年のアジア  東アジア ②台湾
 日本統治下の台湾では,1930年秋に先住民による蜂起(霧社(むしゃ)事件)が起きました。日本はこれを徹底的に鎮圧し,初の毒ガスも使用されました。
 
一方,日本の資本が投下され,工業化やインフラ整備が進んでいました。台湾南部の嘉南平野に当時としては世界最大の烏山頭ダムを建設した土木技師〈八田與一(はったよいち)〉(1886~1942)は,その功績が知られています



1920年~1929年のアジア  東アジア ③中国
◆〈孫文〉の死後,国民政府の〈蒋介石〉は「訓政」(国民党による強権政治)によって中央集権化を進める
 
そのころロシアでは,第一次世界大戦の末期である1917年に共産主義革命が起きて,ロマノフ朝が倒されていましたよね。孫文は,ロシアのソヴィエト政権から「中国も共産主義やってみない?」と誘いを受けます。社会主義革命を世界に広める機関であるコミンテルンの方針で,外務人民委員代理(外務次官)の〈カラハン〉(1889~1937)は1919年に「今までロシア帝国が条約により中国から得た利権をすべて放棄する」という宣言を,北京政府と〈孫文〉率いる広東政府に向けて発表。
 ソ連側にはパリ講和会議に不満を持つ中国の北京政府を抱き込むとともに,〈孫文〉を中国共産党との接近させる思惑(おもわく)があったのです。

 1921年には上海で,〈陳独秀〉(ちんどくしゅう,1879~1942),〈李大釗〉(りたいしょう,1889~1927),〈毛沢東〉(もうたくとう,1893~1976)らが
1921年,中国共産党をコミンテルンの支援のもとで結成しました【セH24時期(第一次大戦中ではない)
 〈孫文〉は「いまは立場の違いなど関係ない。軍閥を倒すことが先決だ。そのためには,新しくできたソヴィエトのロシアや,国内の共産党とも手を組むべきだ」と考えたのです。

 1923年に〈孫文〉は,ソ連の外交官(中国大使)の〈ヨッフェ〉(1883~1927)と話し合い(孫文=ヨッフェ会談),ソ連が中国の半植民地運動を支援する意思を確認し,中国国民党との提携を呼びかけます。〈孫文〉がソ連と提携することに対し〈蒋介石〉は黙っていたものの,〈孫文〉の死後,本音(反共産主義)が爆発することになります。
 「欧米・日本の帝国主義諸国と“仲良し”の北京政府と正面切って戦うためには,中国国民党の軍編成を改革する必要がある」ということで,コミンテルンの工作員〈
ボロディン〉(1884~1951)が,1923年に〈孫文〉の軍事顧問 兼 国民党最高顧問に就任しました。

 このような強力なソ連のバックアップのもと,
1924年には中国国民党一全大会が開催され,「中国共産党の党員は,党員資格を維持しながら,個人的に中国国民党に加盟することができる」ということになりました。この時期には中国共産党を中心に「連ソ・容共・扶助工農【セH19時期】【立命館H30記「扶助工農」を答える】を打ち出され,ソ連と連携して共産党を受け容れ,労働者・農民を助けることが推進されていきます(このいわゆる「三大政策」は〈孫文〉自身が述べたものではありません)。また,黄埔軍官学校を設立し,軍隊の育成を図りました。この校長に就任したのが〈蒋介石〉で,政治部主任が〈周恩来〉でした。このようにして,国民党と共産党が提携したことを,第一次国共合作といいます。

 1924年には日本の神戸でアジア主義者の〈頭山満〉(とうやまみつる)と会談し,日本との提携をも呼びかける「大アジア主義講演」をおこなっています。

◆北京の実権を握った軍閥〈馮玉祥〉は〈溥儀〉を追放,〈孫文〉が亡くなると〈蒋介石〉が台頭する〈孫文〉から,〈蒋介石〉へ
 北京では軍閥〈(ふう)(ぎょく)(しょう)〉がクーデタで実権を握り,紫禁城から〈溥儀〉を追放します(北京政変)。その受け皿となったのは日本です。天津の日本租界に逃げ込み,日本の保護下に置かれた〈溥儀〉は,その後日本に利用されることとなります。
 〈馮玉祥〉は〈孫文〉を北京に招き,革命勢力と軍閥同士の大同団結を模索しますが,周辺諸国の介入や軍閥同士の不和もあり,(まぼろし)に終わります。

 19253月,〈孫文〉は北京で亡くなります。遺言は「革命未だ成らず」。〈孫文〉の後継者として頭角を現したのは,ソ連・共産党嫌いの〈蒋介石(チャン=チェーシー)でした。

 かつて日本にも留学したことがあり,ここで当時革命運動をしようとしていた〈孫文〉の仲間で交遊を深めました。その後も常に〈孫文〉とともに行動し,革命運動を続け,〈孫文〉から絶大な信頼を得ます。1923年の孫文=ヨッフェ会談ソ連との提携が成ると,〈蒋介石〉はソ連で軍事学を学びました。帰国後の1924年に中国国民党第一回全国代表大会で,中国国民党と中国共産党が第一次国共合作を実現させると,革命軍をつくって中国北部を支配している軍閥を倒すための革命軍が組織され,軍人の養成のために黄埔軍官学校が設立されました。その校長に就任したのが〈蒋介石〉でした。

 1925年に〈孫文〉が亡くなると,その一番弟子として,北方の軍閥の討伐,つまり北伐【セH12】の遂行を目標に掲げて,〈孫文〉の握っていた権力を一手に集めていきました。〈蒋介石〉は,上海の証券取引所にも出入りして革命資金を集めたことがあるように,浙江省の資本家(浙江財閥)とも深い関係を持っていました【セH30中国共産党との関係はない】。ですから,平等な社会を実現させようとする共産党と折り合えるはずもなく,のちに〈蒋介石〉は共産党の弾圧にまわり,国共合作を解消させることになります。

◆〈孫文〉の死後,〈蒋介石〉主導で北伐【セH12誰が指導したか問う】が開始され,共産党と国民党が分離した
〈蒋介石〉により北伐が完成,共産党の討滅へ
 
上海【立命館H30記】の日本人が経営する工場で,中国人の労働者が日本や帝国主義に反対するデモを起こしました。翌月の3月の〈孫文〉が死去。その後も運動は続き,5月30日に,租界のイギリス人の警官がデモ隊に発砲したことで多数の死傷者が出てしまいます(五・三〇運動【東京H28[3]】【共通一次 平1:上海クーデタ,武昌蜂起,五四運動ではない。内容も問う】【セH16満洲事変に抗議したわけではない】【立命館H30記】)
 〈蒋介石〉は,孫文亡き後,黄埔軍官学校の卒業生を中心に国民革命軍を組織し,第一軍司令官(のち総司令)として,孫文が夢見ていた北伐(ほくばつ),つまり軍閥退治に乗り出します。
 
「北洋軍閥と帝国主義者が我々を包囲している!国民革命の精神を集め,孫文の遺志を完成しようではないか!」
 
1926広州【立命館H30記】を出発した〈蒋介石〉は,各地の軍閥を次々に倒していきました。地主の支配に苦しんでいた農民の多くも,〈蒋介石〉側についていき,各地に国民党の旗である「青天白日旗」が掲げられていきました。
 さて,国民党は長江の中流域にある武漢を占領することに成功しましたが,〈蒋介石〉らの右派(共産主義からは距離を置いているグループ。中国国民党が多かった)は別の場所(南昌)にいて,武漢には左派(共産主義を支持するグループ。中国共産党が多かった)が集まっていました。
 ソ連のコミンテルンの工作員〈ボロディン〉(18841951)は,「この際,蒋介石を倒してしまえばいいじゃないか」と,左派のグループを支援します。中国でも共産主義革命を起こさせるのが,コミンテルンの目的ですから。左派のリーダーとして,フランスに滞在していた〈汪兆銘〉を中国に呼び返しています。

 この様子をみていた〈蒋介石〉は,「武漢は共産党にのっとられた!」と思いはするものの,北伐はまだ終わっていないのだから,ここで仲間割れしては北部の軍閥政権を倒すことはできないと,ぐっとこらえます。「しかたがないとりあえず全体会合は武漢で開こう」と妥協をしますが,腹の中ではいつ共産党を追放してやろうかと,準備をはじめていました。1927年に武漢で開かれたこの会合では,共産党員が党や政府の重役につくことが決定し,「これでは国民党が共産党,そしてそのバックについているソ連に乗っ取られてしまう」と危機感を感じた〈蒋介石〉は,ついに行動に移します。
 1927年3月に,南京・上海をたてつづけに占領した国民革命軍は,4月12日に突如,共産党関係者を攻撃しました。そして,「上海の列強の皆さん。われわれ国民党はあなたがたを攻撃はしません。共産党のようにストライキもさせません」とアピールし,欧米諸国をバックにつけることにも成功。国民党から共産党員は追放され,第一次国共合作は解消されてしまいました。これを上海クーデタ(四・一二事件)【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【セH14孫文ではない】【セA H30】といいます。
 武漢政府に参加していた国民党の左派(国民党員なのだけれども,共産主義グループに共感している人たち。たとえば〈汪兆銘)は,〈蒋介石〉に降伏し,南京国民政府【追H20北京に国民政府は樹立していない】に吸収されました。
 中国共産党は,8月・9月に朱徳を中心に武装蜂起しますがいずれも失敗し(南昌蜂起・秋収蜂起),それ以降は国民党からの攻撃をおそれて,に入ります。人里離れた山ですので,自給自足の厳しい暮らしを送っていきます。ひとまずの拠点は湖南省の境に近い,江西省の井崗山(せいこうざん)です。

 〈蒋介石〉は共産党に弾圧を加え,「純・国民党」のメンバーによる北伐を再開したのですが,障害が発生しました。
 「〈蒋介石〉が中国を統一してしまったら,今まで北京の軍閥政府(段祺瑞)などと仲良く癒着していたおかげでもらっていた利権がなくなってしまうかもしれない。北伐【追H20】に対抗して自国の勢力圏を守るために出兵しよう」と,〈田中義一〉内閣が192728年に山東出兵【追H20】をおこなったのです。ちなみに,すでに1926年から元号は「昭和」。
 〈蒋介石〉は日本軍と正面で戦ったら元も子もないと,武力衝突の起きた済南(さいなん)事件【立命館H30記】で気づきます。日本軍を避けながら北京に向かった〈蒋介石〉は,当時北京を支配していた〈張作霖〉と戦って,1928年についに北京の軍閥政府を倒しました。

 〈張作霖〉は,満洲方面の奉天軍閥の首領です。「〈蒋介石〉に北京を奪われるなよ」と日本から期待をかけられていた〈張作霖〉は,〈蒋介石〉に敗れたので,すでに用無しです。満洲の奉天に帰る列車が爆破され,死亡しました。満洲を担当領域とする日本の関東軍【立命館H30記】の謀略です。父を消された子の〈張学良〉は「いつか日本にカタキを打つぞ」と,父の敵であった〈蒋介石〉と結び,北伐は終わりました。
 北伐の完成とともに中国国民党は軍政を終了させ,〈孫文〉のプランに従って民主主義を達成するまでの過渡期として
訓政(くんせい)の段階に移行が進められていきました。訓政というのは,中国の国民にいきなり民主主義を導入してもうまくいかないだろうから,まずは中国国民党が中心に政治をおこない,国民に民主主義を教え込んでいこうというやり方のことです。





1920年~1929年の東アジア  ④モンゴル
 モンゴル高原では,モンゴル人民党を中心にソ連共産党を助け舟として,独立を目指す動きが進んでいました。1921年のモンゴル人民党党大会で臨時政府が樹立されると,ソ連共産党の援助で中国勢力が排除され,モンゴル人民党の政権が独立しました。そのまま国家元首にとどまっていた〈ジェブツンダムバ=ホトクト〉(位1911~24)が亡くなると, 1924年にモンゴル人民共和国(モンゴル人民党は人民革命党【東京H12[2]】に改称)が成立し【東京H8[1]指定語句「モンゴル」】【セH15 1950年代初めの成立ではない,セH17時期(20世紀後半ではない),セH30時期】,活仏を君主としない社会主義国となったのです。ソ連は,外モンゴルに対する中華民国の宗主権を認めていたため,モンゴルはソ連の一部にはなりませんでした。モンゴルでは,王公やチベット仏教への弾圧が強まり,〈チョイバルサン【東京H12[2]】【慶商A H30記】による独裁化も進みました(モンゴルのスターリンともいわれます)。
 ただ,第二次世界大戦以前にモンゴル人民共和国を承認していたのはソ連のみで,中華民国も独立を認めていませんでした。




1920年~1929年のアジア  東南アジア
東南アジア
…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

1920年~1929年のアジア  東南アジア ①ヴェトナム

東南アジアでは社会主義思想が民族運動と結びつき,国民意識を形成する動きもみられた
 フランス支配下のヴェトナムでは,1930年に〈グエン=アイ=クオック〉(のちのホー==ミン) 【東京H28[3]】のもと,ヴェトナム共産党が組織されました。彼はフランスに渡ってフランス共産党に入党し,1924年にモスクワのコミンテルン第五回大会に参加した活動家です。すでに1924年にはヴェトナム青年革命同志会を広州で立ち上げていました。しかし,彼が渡航先の香港でイギリスに逮捕されると,運動は一旦下火になりました。



1920年~1929年のアジア  東南アジア ②フィリピン
 フィリピンでは,アメリカの共和党政権(192132)の政策により,独立は認められませんでした。フィリピン人の中にも「独立すれば砂糖をアメリカに輸出する特権がなくなってしまう」ことをおそれる大地主たちによる反対もあり,独立運動には一枚岩になりにくい構造がありました。


1920年~1929年のアジア  東南アジア ⑤インドネシア
 この時期も,オランダ領東インドではオランダからの独立運動が継続されました。自分たちは「東インド」ではなく「インドネシア」人なんだ。
 「ムラユ語」ではなく「インドネシア語」を話しているんだ。
 このような言い換えがされるようになったのも,この時期です。ただ,「インドネシア」の領域は,オランダによる植民地化によって定められたわけなので,「何がインドネシアなのか」「誰がインドネシアなのか」ということを意図的・意識的に作り出していく必要がありました。その意味でインドネシアにおける国民国家の建設は「想像(上)の共同体」づくりでもあったのです(Cf.〈ベネディクト=アンダーソン〉(1936~2015)『想像の共同体』(1983))。

 第一次世界大戦中にロシア革命が起きると,労働組合運動が発展して
1920年にアジア初の共産党として,インドネシア共産党が組織され,大衆の支持を集めますが,1920年代の蜂起に対する弾圧で,壊滅しました。一方,オランダからの留学帰りのエリート〈スカルノ(190170) 【セH10】【上智法(法律)H30は,1928年にインドネシア国民党【セH10スハルトとのひっかけ】を建設しました。彼は反オランダのためにはイスラーム教・マルクス主義(共産主義)・民族主義がまとまるべきだと訴え,1929年に植民地当局に逮捕されましたが,その後も民族運動を続けます。

 1928年には民族主義運動を起こしていたジャワ島・
ジャカルタの青年指導者たちによる2回目の会合で「青年の誓い」が宣言され,その中で『インドネシア語という統一言語を使用する』ことが定められました。このインドネシア語は,人口比率の上で一番話者の多かったジャワ語ではなく,島を越えた共通語(地域を越えて広く話される共通語のことをリンガ=フランカといいます)であったマレー語の一方言とすることが定められました。
 インドネシアは今後この「一祖国・一民族・一言語」の原則を理想とし,マレー半島も含めたかつてのマジャパヒト王国の領域の統一を夢見ていくことになります。しかし,そもそもジャワ島・スマトラ島・バリ島・カリマンタン島・スラウェシ島などの島しょ部の統一すら容易ではなく,今後の課題となっていきます。





1920年~1929年のアジア  南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1920年~1929年のアジア  南アジア 現③スリランカ,
 この時期のセイロン島イギリス領です。



1920年~1929年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン

◆第一次大戦後もインドの独立は達成されず,インドの独立運動が激化する

 インドは第一次世界大戦でイギリス【セH12ドイツではない】に協力したものの,戦後の自治の約束は守られませんでした。イギリスの発布したローラット法やアムリットサル事件に対し,〈ガンディー〉は,第一次非暴力・不服従運動(191922)を展開します。〈ガンディー〉の考え方はこうです。

 「この宇宙や人間の根源には,唯一絶対の真理がある。それを正しくとらえること(サティヤーグラハ)が必要だ。不正を正すためにはブラフマチャリヤー(自己浄化。物質的な欲望に惑わされないこと)と,アヒンサー(不殺生)を守るべきだ。」
「自分をコントロールし,すべての人間を愛する。そうすることで迫害を受けても,屈することなく受け止めよう。やがて相手は,自分のほうがまちがっていたのだと,気づくだろう。」
 〈ガンディー〉の運動で有名なのは,綿糸の手紡ぎ車(チャルカ)を回す運動です。イギリスの機械式綿布が流入して以来,ほこりをかぶっていた糸車をもう一度回し,インド人の手で綿布を織ろうと呼びかけたのです。
 また,ときを同じくして,第一次世界大戦で敗戦国となったオスマン帝国のカリフを守ろうという運動がインドのムスリムにも飛び火し,戦勝国のイギリスに対する抵抗運動が起こります。〈ガンディー〉は,イスラーム教徒のこのヒラーファト運動にも協力していましたから,一時的に全インド=ムスリム連盟も〈ガンディー〉に協力したのですが,農民が警官を殺害するに至ると,〈ガンディー〉は運動の停止を宣言。
 〈ガンディー〉はイスラーム教徒との提携も呼びかけましたが,〈
ガンディーの思想はヒンドゥー教の色彩も強かったことから,イスラーム教徒の中には「同じインド人であっても,宗教が違うのだから別々の民族として国家を建設するべきだ」という考えも強くなっていきました。近現代のインドで,宗教や宗派,カーストに基づき集団どうしがまとまり,他集団と対立していく動きをコミュナリズム(宗派主義)と呼ぶことがあり,現在でも依然としてみられる現象です。
 全インド=ムスリム連盟の〈ジンナー〉も,〈ガンディー〉の運動から距離をとるようになり,ここからしばらく反英運動は下火になってしまいます。

 1927年になり,ようやくインド統治法を改正するためにイギリスから憲政改革調査委員会(サイモン委員会)が組織されるのですが,委員に1人もインド人が含まれていなかったことから,反英運動が再燃。1928年にインドに上陸したときには「サイモン帰れ!」の大合唱。反対運動に加わっていたインド人がイギリス人警官に殺害される事件も起き,インド国民会議派や全インド=ムスリム連盟の中でも,どのように対応するべきか意見は割れてしまいます。
 そんな中,1929年に国民会議派のラホール大会が開催され,議長〈ネルー〉は「プールナ=スワラージ(完全独立)」を主張【セH15プールナ=スワラージに反対したわけではない】しますが,「まずは自治を目標にするべきだ」という勢力もいて,意見がまとまりません。





1920年~1929年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国崩壊後に各地に近代的な国家が成立するが
「民族」問題が生まれ欧米列強の経済的支配続く
西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ(),⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆オスマン帝国領のうち“肥沃な三日月地帯”が英仏の委任統治領となった後,独立に向かったが,英仏の影響力は残された
 パレスチナ(ヨルダン川の西部) 【セH5地図・イギリスの勢力圏】ヨルダン川の東部【セH5地図・イギリスの勢力圏】(パレスチナ側から見てヨルダン川の向こう側(trans-)ということで,トランスヨルダンと呼ばれました)シリア【セH5地図・フランスの勢力圏】イラク【セH5地図・イギリスの勢力圏】では,イギリスとフランスによって“むりやり”勢力圏が確定されたため,従来はこのような境界を越tえて分布していた民族や宗派がバラバラに分断され,互いに対立するようになっていきます。



1920年~1929年のアジア  西アジア 現①アフガニスタン
 アフガニスタン1919年にイギリスと第三次アフガン戦争【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】を戦った後に,完全独立しました。立憲君主制を樹立し,近代化につとめましたが,地理的に中央ユーラシアとインドの中間地点にあることから,今後も大国の思惑に左右され続けることになります。



1920年~1929年のアジア  西アジア 現②イラン
◆イラン高原ではパフレヴィー朝が成立し近代化を進めたが,イギリス・ロシアへの従属は続いた
パフレヴィー朝が,近代的な「イラン」を建設する

 イラン立憲革命が失敗に終わると,イラン北部は事実上ロシア軍の支配下に置かれ,イラン南部はイギリス軍が中立地帯近くにまで軍を進めていました。第一次世界大戦が始まると1914年にイラン政府は中立を宣言しましたが,イギリスとロシアへの対抗からイランの政権にはドイツへの接近を図ろうとする動きもありました。
 しかし,西隣のオスマン帝国がドイツ側(中央同盟側)で参戦したために,イランはイギリスとロシアがそれを押しとどめるための戦場となり,大きな被害をこうむりました。
 弱腰のテヘラン政府に対する抵抗運動が強まり,イラン人の国家の独立を主張するジャンギリーというグループの活動がギーラーン地方で活発化しました。
 そんな中,1919年8月に不平等なイラン=イギリス協定が結ばれ,イランはイギリスとロシアの緩衝地帯として設定されました。イランではソ連の支援を受けた労働者による共産党の活動とともに,イギリスに対する反対運動が各地で盛り上がっていきます。テヘラン政府は実権をなくし,地方ではアゼルバイジャン地方でテュルク系のアゼルバイジャン人の政権も樹立されました。
 このような混乱の中,強力な軍隊によりイラン国内をおさめようとする運動が高まり,テヘランで1921年にクーデタが起きました。この主力となったのが,〈
レザー=ハーン〉が指揮をとるガッザーク部隊であり,実権掌握後はイギリスとの協約の破棄やソ連への接近(ロシア側に有利な友好協定に調印)といった政策を打ち立てました。
 1925年にガージャール朝は国民議会によって廃止されることが決定され,〈レザー=ハーン〉は同年12月に〈
レザー=シャー=パフラヴィー(192541)として即位することになり,1926年には戴冠式をおこないました。こうしてできたのがパフレヴィー朝【セH7】【セH29試行 バルフォア宣言やフサイン=マクマホン協定とは無関係】H27京都[2]です。「シャー」という古代ペルシアの王の称号を用いたのは,古代のサーサーン朝のイメージを用いて「イラン人意識」を前面に押し出すことで,クルド人【東京H25[3]】やアゼルバイジャン人などの「非イラン人」を抑圧(よくあつ)し,「イラン人の国家」としてのまとまりを強めようとしたからです。『王の書』(シャー=ナーメ)がイランの国民的な詩人として扱われるようになったのも,この時期からです。月名も,アラビア語の月名からイランの太陽暦であるジャラーリー暦に由来するペルシア語の名称に改められました。
 従来はバラバラだった軍隊を統一し,義務徴兵制をしいて国軍を建設し,地方の反政府勢力を次々に鎮圧していきました。法・行政・司法の西欧化(近代化
【セH7】)も推進し,イスラームと国家を切り離そうとしました(政教分離)
 1928年には不平等条約を撤廃し近代化を推進していきましたが,国内の石油はイギリス企業に握られていました。



1920年~1929年のアジア  西アジア 現③イラク
 イラクは,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治下で1921年にイラク王国が成立しました(完全独立は1932)。ヨルダン川以西のトランスヨルダンには,1923年に委任統治下でトランスヨルダン王国が成立します(完全独立は1946)



1920
年~1929年のアジア  西アジア 現⑨イエメン
 イエメン北部は1918年にイエメン王国として独立しています。イエメン南部のアデン地方は,インド洋交易の基地として重要視され,1937年にイギリスの直轄植民地となりました。



1920
年~1929年のアジア  西アジア 現⑩サウジアラビア
アラビア半島ではサウード家がヒジャーズ地方を併合した

 ラシード家に敗れたサウード家の当主〈アブドゥルアズィーズ〉はアラブ遊牧民の戦力を利用し1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,1924年にハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪い,ヒジャーズ地方を併合しました。のちのサウジアラビア(1932年に改称) 【追H20イブン=ルシュドによる建設ではない】です。



1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑬パレスチナ
 パレスチナは,第一次世界大戦後にイギリスの委任統治領となり,大戦中の「バルフォア宣言【セH9アラブ人に独立をみとめたものではない】に基づき,シオニズム【東京H8[1]指定語句】(イェルサレムの”シオンの丘”の地にユダヤ人国家を建設しようとする運動)の影響を受けたユダヤ人の移民が増加しました。彼らはまずテルアヴィヴの港ヤッファに上陸し,乾燥地に灌漑(かんがい)を広げてオレンジの栽培などを行うようになりました。しかし,しだいにアラブ人との土地をめぐる争いも激化し,1928年~29年には,イェルサレムの嘆きの壁で祈りを強行したことでイスラーム教徒との間の武力衝突も起きています。
 こうして,オスマン帝国時代にはイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒が混在し共存していたパレスチナに,新たな民族対立が生まれました。
 ・新たに移住してきたユダヤ人→「
ユダヤ人
 ・もともとパレスチナに住んでいたイスラーム教徒,キリスト教徒,ユダヤ教徒→「
パレスチナ人」(アラブ人)
 という区別です。
 こうして現在も未解決であるパレスチナ問題が発生したわけです。


1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島は第一次世界大戦中に,イギリス領として併合されていました。



1920年~1929年のアジア  西アジア 現⑰トルコ
◆オスマン帝国が崩壊し,トルコは政教分離の原則によりヨーロッパ的な近代国家を建設した
 〈ムスタファ=ケマル【セH16ウラービーではない】【セA H30初代大統領か問う】【上智法(法律)H30(1881?~1938)は現在のギリシア出身で,軍人になるため士官学校に進んでいた頃から,〈アブデュル=ハミト2世〉の専制政治に不満をいだいていました。その後はイスタンブルの陸軍大学に進み,西欧風の教育を受けフランス語にも堪能でした。
 オスマン帝国が第一次世界大戦でドイツ側にたって参戦すると,〈ムスタファ=ケマル〉はニュージーランドやオーストラリア軍も参加したアナトリア半島上陸作戦を食い止め,名声を高めます
(ガリポリの戦い)
 しかし大戦でドイツ側が大敗北すると,オスマン帝国は英仏と講和の話し合いを初めます。「青年トルコ」政府は崩壊,〈エンヴェル=パシャ〉はモスクワに亡命してしまいました。ギリシアも,かつて「イオニア植民市」の分布していたアナトリア半島のエーゲ海沿岸のイズミル(スミルナ)を占領してしまう。
 最後の皇帝(スルターン)メフメト6世〉は,ほとんど英仏の言いなり状態で,1920年には領土の削減・治外法権の承認・軍備縮小を盛り込んだセーヴル条約【セH13ローザンヌ条約,パリ条約ではない】を結ばされてしまいます。
 この条約では,トルコ南東部のフランス
【セH20】の委任統治領シリア【セH20】,イギリス【セH20フランスではない】の委任統治領イラク【セH20】との国境付近にクルド人【東京H25[3]】の「クルディスタン」を建国するための地域が盛り込まれていました【セH13問題文(解答には必要なし)】。のちにこの案はローザンヌ条約(1923)【セH13セーヴル条約ではない】が結ばれたことで,セーヴル条約とともに“幻”となり,以後クルド人の独立問題に尾を引いていきます。
 オスマン帝国の帝国議員は「このままでは英仏に占領され,帝国領がバラバラにされるかもしれない」と危機感を抱きます。英仏は皇帝にプレッシャーをかけ,英仏に抗議をしようとしている帝国議会を解散させ,イスタンブールを占領してしまいました。そこで議員たちは,アンカラに逃げ,ムスタファ=ケマルの力を頼るようになっていきました。ケマルは,アンカラでトルコ大国民議会を開き,支持を得ます。オスマン帝国のスルターンは,「オスマン帝国が多少バラバラに分割されて,英仏に占領されてもかまわない。自分のスルターンの位だけは守っておきたい」と考え弱腰だったのに対し,トルコ大国民議会は「あくまで英仏を追い出すべきだ。これは祖国解放戦争だ!」と主張。議長に就任した〈ケマル〉は内閣を組織し,戦争を指揮するために独裁体制をしきます。
 1922年,アンカラの政府は,アナトリア半島沿岸都市イズミルを占領していたギリシア王国軍を撃退し(ギリシア=トルコ戦争,希土(きと)戦争),連合国と休戦協定を結びました(イズミルのあるエーゲ海沿岸にはギリシア語を話す住民がいました)。つまり,オスマン帝国がなしえなかったことを,〈ケマル〉の軍は成功させることができたわけで,一気に〈ケマル〉は救国の英雄となりました。
 1922年にトルコ大国民議会は,カリフであると同時にスルターンであった〈メフメト6世〉の地位のうち,ルターンの地位の廃止を決議【セH3,セH12時期(第一次大戦「後」かを問う)セH16エジプトのウラービーによる廃止ではない】し,スルターン(皇帝)を失ったオスマン帝国は滅亡しました【セH3】。カリフとしての〈メフメト6世〉(191822)の地位は保障されましたが,彼は国外に亡命。カリフの地位は〈アブデュルメジト2世〉に受け継がれましたが,アンカラ【セH25】に首都を置いた〈ケマル〉の新政権はイスラーム教とは無関係の「世俗共和政」を打ち立てる方針でした。
 この一連の政治変動を
トルコ革命といいます【法政法H28記】

 1923年7月には連合国とも
ローザンヌ条約【追H20】を結び,セーヴル条約で縮小された領域を奪回することに成功しました。ローザンヌ条約の下で,1923年10月ににトルコ共和国【東京H22[3]】が建国され(初代大統領は〈ケマル〉)1924年にはカリフ制を廃止しました【追H20地図問題(トルコ共和国の領域),第一次世界大戦後ローザンヌ条約を締結したか問う】
 この条約では,セーヴル条約で設定されていた
クルド人【東京H25[3]】の「クルディスタン」建設がなかったこととされ,クルド人の居住地域はトルコ共和国,シリア,イラク,パフレヴィー朝ペルシア(イラン)などに分かれました。これがその後も続くクルド人独立問題の本格的な始まりです。

 さらに〈ケマル〉は,自分が党首である共和人民党の一党独裁体制【セH7スルタン制の下ではない】を確立し,圧倒的な権力のもとで,さまざまな近代化【セH7】政策を実現させていきます。例えば,1925年からは女性解放の諸政策(頭をおおうチャドルの廃止,一夫一婦制,女性参政権)1928年には文字改革(1928)でアラビア文字【セH6,セH8 アラビア文字の図版から選ぶ。契丹文字ではない】を廃止しラテン文字【セH6,セH8 ラテン文字の図版から選ぶ(Yeni Düşünceの記事の転用とみられる)。キリル文字ではない】のアルファベットを採用(文字革命【セH6】)。右から左に向かって書くアラビア文字から,左から右に向かって書くラテン文字への変更は,まさに革命的な変化です。たとえば,トルコは「Türkiye(テュルキイェ)」と表記されることになりました。
 他にも,カレンダーもイスラーム暦からグレゴリウス暦へ切り替えるなど,トルコはヨーロッパ文明への旋回を始めます。

 このような業績から,1934年には,議会がケマルに対し「アタテュルク(トルコの父)」を与えました。
 上からの改革により近代化がすすめられていった点は日本によく似ていますが,伝統的なイスラーム教徒からの反発や,テュルク(トルコ)人を優先する政策に対するクルド人【東京H25[3]】などの少数民族の対立といった課題は残されることになります。



1920年~1929年のアジア 西アジア ⑰ジョージア(グルジア),⑱アルメニア,⑲アゼルバイジャン
 アルメニア人は黒海とカスピ海の間にある,カフカズ(英語ではコーカサス)山脈(5642メートルのエリブルース山が最高地点です)の南に分布する民族です。古代のアルメニア王国は,かつてローマ帝国やササン(サーサーン)朝の支配を受けましたが,民族的な伝統(アルメニア語,アルメニア正教)を守り続けています。オスマン帝国,イランのカージャール朝,1828年のトルコマンチャーイ条約【東京H26[1]指定語句】以降はロシア帝国の支配を受けますが,第一次世界大戦のときに英仏に支援されて独立運動を起こしました。
 第一次世界大戦後のセーヴル条約では,クルド人とともにアルメニア人の民族自決がうたわれていました。しかし,1920年には「アンカラ政府はセーヴル条約を無効とする」として,アルメニア人をカルスから追放し,のち占領しました。逃げ遅れた市民6000人が虐殺されています(
アルメニア人虐殺)。アルメニアの首都イェレヴァンの政府ではソ連に接近する動きもあり,トルコ共和国としてはアルメニアにソ連が南下することを恐れたという事情があります。
 アメリカ合衆国のでアルメニア人組織はこの動きに抗議しましたが,アメリカ合衆国政府は「イラク北部の石油」をめぐる取引を重視するスタンダード石油の圧力もあり,トルコ共和国政府に対してアルメニア独立を働きかけることはしませんでした。
 アルメニアでは結局ソ連の支援を得て,アルメニア人を主体とするボリシェヴィキ軍がアルメニア=ソヴィエト社会主義共和国を樹立しました。1921年には露土和親条約が締結され,カルスとアルダハンはトルコ,バトゥミはソ連の領土ととりきめられました。
 
(注)ローザンヌ条約では37~42条に「信仰上・人種上の権利を保障する対象となる少数民族」とのみ記載されるにとどまりました。


 192212月にシベリアから日本が撤退すると,同年1230日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。
 例えば,ポーランドとロシアの狭間に位置するベラルーシの,ベラルーシ=ソヴィエト社会主義共和国が,ロシア=ソヴィエト社会主義共和国と統合して,ソ連を形成したわけです。あくまで「自治国」という形式をとったわけですが,“ロシア帝国”の支配を受け継いだ面も大きく,実際にはロシア人のソヴィエト社会主義共和国が強い力を持っていたため反発もありました。
 ほかに,黒海沿岸のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国がソ連に加入しましたが,現在のジョージア(2015年までは「グルジア」)は猛反発し,最終的にアルメニアとアゼルバイジャンをあわせてザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国が形成されることで決着しました。2015年以降,ロシア語的な「グルジア」という国名から,「ジョージア」という英語名に変更したのにも,反ロシアの国柄があらわれているといえます。
 ソ連はほんらい,国家としてのまとまりよりも農民や労働者階級の団結を主張していましたから,民族主義(民族ごとに団結したり,国家を作ろうとしたりする考え)との相性はあまりよくありませんでした。しかし,民族主義を弾圧すると大変なことになるというのは,ポーランドの支配を通して思い知っていましたので,ソ連を構成するロシア人以外の地域では自治を認め,ロシア語以外の言語の使用も認められていました。1920年代には各共和国で「土着化」政策がとられ主要民族が重用されるなど,比較的緩やかな民族政策が採用されていました
()。1927年にはに反帝国主義民族独立支持同盟がコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導の下,ベルギーはブリュッセルで開催され,植民地支配下にあった37の地域代表が集まりました。この時期のソ連は,イギリスやフランスを中心とする帝国主義体制に反対する上で,中心的役割を果たそうとしていたのです。
(注)世界恐慌の後ヒトラーが政権を握ると,ソ連は資本主義国と接近し,民族政策も民族主義を押さえつける方向に転換していきます。





1920年~1929年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 
マダガスカルはフランスの植民地です。




1920年~1929年のアフリカ

 第一次世界大戦後,旧ドイツ植民地はイギリスフランス南アフリカの委任統治領(事実上の勢力圏)となりました。国際連盟では「民族自決」がうたわれたものの,アフリカの大部分は依然としてイギリスとフランスを中心とする植民地に覆われ,独立を達成している国家はエチオピア帝国(⇒1920~1929の東アフリカ)リベリア共和国(ただし先住民とアメリカ系黒人との対立が続いていました(⇒1920~1929の西アフリカ)),南アフリカ連邦(イギリス帝国の自治領(⇒1920~1929の南アフリカ))にとどまりました。



1920年~1929年の東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ ①エリトリア

 エリトリアは1885年以降,イタリアの植民地となっています。



1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ ③エチオピア

 〈メネリク2世〉の後継となった〈イヤス5世〉(位1913~16)はイスラーム教徒の信仰が厚かったため,エチオピア正教会を信仰する国内の領主の抵抗を招きます。オスマン帝国側に立ち第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しようとすると,領主らによる抵抗で廃位され,〈メネリク2世〉の娘の女帝〈ザウディトゥ〉(位1916~30)に代わりました。しかし実権は摂政を務めた皇太子〈ラス=タファリ=マコンネン〉(1892~1975,のちの皇帝〈
ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974))が握っていました。
 〈タファリ〉は,1924年にヨーロッパを公式に訪問し,国際連盟にも加盟し国際的な地位を上げることに成功します。



1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ ④ソマリア
 ソマリア北部は1886年にイギリスによりイギリス領ソマリランドとして植民地化されています。
 ソマリア南部は1908年にイタリアが
イタリア領ソマリランドとして植民地化しています。
 ソマリアには多数の氏族が割拠する状況で,統一した抵抗運動はみられませんでした。



1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ ⑤ケニア

 ケニアはイギリスの東アフリカ保護領となっていました。1920年代からはキクユ人による独立運動もみられるようになっていきます。



1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ ⑥タンザニア

 タンザニアの大陸部タンガニーカは,イギリスによる委任統治下にありました。
 ザンジバル島の
ザンジバル王国は,イギリスにより保護国化されていました。



1920年~1929年のアフリカ  東アフリカ 大湖地方
(⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ)
 ウガンダは1894年以降イギリスの保護領となっていました(ウガンダ保護領)。
 ドイツ領東アフリカの地域のうち,タンガニーカはイギリスの委任統治領として分離され,現在の
ルワンダブルンジの地域はベルギーの委任統治領となっていました(ルアンダ=ウルンディ,1924~1945)。
 ベルギーの統治下では,従来は区別の曖昧であった「フツ」と「ツチ」という住民グループを,「人種」的な概念を利用して明確に区分されます。多数派のフツ人は,ツチ人のルワンダ国王の支配下に置かれ,両者の間には従来みられなかったような対立意識が形作られていきました。





1920年~1929年のアフリカ  南アフリカ

南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

1920年~1929年の南アフリカ  ①モザンビーク

 モザンビークはポルトガル領として植民地支配されていました。

1920年~1929年の南アフリカ  ④南アフリカ,⑤ナミビア
 
南アフリカ連邦は1910年以降,イギリス帝国内部の自治領でした。
 1926年以降,イギリスでは南アフリカ連邦を,王冠への共通の忠誠の下で本国と対等の立場にしようという議論が高まっていきます。

 1920年代には原住民の反乱も起きていますが鎮圧され,白人支配層による黒人の抑圧は強まっていきました。

 第二次世界大戦中に占領していた
南西アフリカ(現在のナミビア)は,1921年に国際連盟によって南アフリカ連邦の委任統治領になりました。

1920年~1929年の南アフリカ  ⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 北ローデシア
(現在のザンビア)は1924年の保護領となり,1925年にはザンビア南部のカタンガで世界最大の銅山(カッパーベルト)が発見されると,外国資本が進出を本格化させていきました。
 
南ローデシア植民地(現在のジンバブエ)は,1923年に白人のみの住民投票で自治政府が成立しました。
 マラウイ湖(タンガニーカ湖)の西に面する
ニヤサランド保護領(マラウイ)は,イギリスの支配を受けていました。ただ,鉱産資源・プランテーション用の大土地にも恵まれず,周辺のザンビアやジンバブエと比べると,白人の入植はすすみませんでした(1)。第一次世界大戦前にスコットランドの宣教団の〈ブース〉の影響を受けた〈チレンブウェ〉は,マラウイで初めて植民地化に反対する運動を起こし,その肖像は現在のマラウイのすべての紙幣に刷られています(2)
(1)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.58
(注2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010,p.58

1920年~1929年の南アフリカ  ⑨ボツワナ

 ベチュアナランド保護領として,イギリスの統治下にありました。




1920年~1929年のアフリカ  中央アフリカ

中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとして支配された

 ・
ガボン植民地                 →現・⑥ガボン共和国
 ・
中央コンゴ植民地           →現・⑤コンゴ共和国
 ・
ウバンギ=シャリ植民地  →現・②中央アフリカ共和国
 ・
チャド植民地                  →現・①チャド共和国
 これらの地域は
フランス領赤道アフリカとしてフランスに支配されています。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれていました。

 現在のコンゴ民主共和国は,③
ベルギー領コンゴとして植民地化されています。
 現在の⑦
サントメ=プリンシペはポルトガルの植民地,⑧赤道ギニアはスペインの植民地です。
 現在の⑨
カメルーンは,ドイツ植民地を引継ぎ,1922年にフランス(約9割の面積)とイギリスの国際連盟の委任統治領となっていました。
 アンゴラではポルトガルが,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していました。



1920年~1929年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
 現在の①ニジェール共和国,③ベナン,⑥コートジボワール,⑪セネガル共和国,⑬モーリタニア,⑭マリ共和国,⑮ブルキナファソは,フランスの植民地支配を受けていました。

 ②
ナイジェリア,⑫ガンビアはイギリス領でした。
 黄金海岸(現在の⑤
ガーナ)はイギリス領(イギリス領ゴールドコースト)でした。ロックフェラー医学研究所の研究員であった〈野口英世〉(1876~1928)は1927年にガーナにわたり,当時は治療法のなかった(おう)熱病(ねつびょう)の研究に着手,みずからが罹患して亡くなりました(ワクチンの開発にはいたりませんでした)
 ⑧
シエラレオネはイギリス領でした。

 ④
トーゴは旧ドイツ領で,西部はイギリス,東部はフランスの委任統治領となりました。西部のイギリス側はイギリス領ゴールドコースト(現在のガーナ)に併合されています。

 ⑩
ギニアビサウはポルトガル領でした。

 ⑦リベリア共和国では依然としてアメリカ系黒人が中央政府を主導していました。アメリカ系黒人が,先住民を天然ゴムのプランテーションなどで酷使していたことが明るみに出ると,国際社会からの非難を浴びることになります。

 ⑪
セネガルの都市部の住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となっていました。「市民」として扱われた者はフランスへの留学の切符をつかむ者もあり,パリでの世界各地の黒人との出会いを通じて,黒人らしさを積極的に打ち出し西欧の文明に対抗する“ネグリチュード”という思想運動を発展させていくことになります。

1920年~1929年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
 イタリア領となっていた
リビアでは,神秘主義教団のサヌーシー教団がオスマン帝国とともに抵抗運動を続け,イタリアと戦いました。1920年に停戦したものの,1922年にローマ進軍で〈ムッソリーニ〉がイタリアの政権をとると再びサヌーシー教団との戦闘が始まります。教団指導者の〈ムハンマド・イドリース〉(1889~1983,のちのリビア独立時の国王)がエジプトに亡命した後も,教団の〈オマル=ムフタール〉(オマー=ムクターとも。1862~1931)は抵抗運動を続けました(#映画「沙漠のライオン」リビア・米1981では,サヌーシー教団が否定的に描かれています)。

 
アルジェリアはフランスの支配下に置かれています。フサイン朝のチュニジアは1881年の占領以後,フサイン朝のベイの地位が保障される形で保護領となっています。
 モロッコはフランスとスペインが進出していました。
フランス領モロッコではアラウィー朝が保護国となっていました。
 南部の
スペイン領モロッコは,地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域です。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されましたが,1926年に崩壊しました。その後もモロッコでは抵抗運動が起き続けます。
 スペインはモロッコ南部の沿岸地域を20世紀初めから「スペイン領西アフリカ」として植民地化しています。これはのちの
西サハラとなります。





1920年~1929年のヨーロッパ

1920年~1929年のヨーロッパ
◆科学技術の進歩が大戦を生んだことに対しヨーロッパを反省と無気力が支配したが,戦勝国と敗戦国との溝は残された
帝国が崩壊し,ソ連が成立する

 ホモ
=サピエンス史上未曾有の死傷者をもたらした第一次世界大戦。
 大戦により,広範囲を支配する「帝国」が崩壊しました。
 
オーストリア=ハンガリー二重帝国【セH7存続していない】からは,バルト三国,ポーランド,チェコスロヴァキア,ハンガリー,セルブ=クロアート=スロヴェーン王国が独立します。
 また,ドイツ帝国は内外の領域を失い
ドイツ革命により崩壊,同じく領域を失ったオスマン帝国も革命により崩壊しました。

 一方,ロシアでは大戦中に成功した革命により,帝国が滅亡。1922年にはロシア帝国の領域をほぼ継承するソヴィエト社会主義共和国連邦(
ソ連)が成立しました。
 社会主義に基づき,共産主義を目指す国家が誕生したことで,ヨーロッパにおける政治思想の対立軸が大きく変わります。

 すなわち,
国民国家の建設と資本主義体制の進展によって国民の統合を進めていったヨーロッパ諸国の中に,次の2つの勢力が加わったのです。
 ①大戦後の問題を,民族意識を国家主導で高めて国家統合をさらに進め,国外の領域を確保することによって解決しようとする勢力と,
 ②大戦後の問題を,社会主義的な改革・革命によって解決し,資本主義体制を否定することによって解決しようとする勢力です。
 ①はしばしば,自民族の優秀性を主張し,国民国家の中に「
国家(国民)の敵」を設定するやり方をとりました。
 また,②の運動の背景には,社会主義国家を維持させるため,その勢力圏を世界各地に広めようとした
ソ連の影響力がありました。

 さて,大戦で人々の命を奪ったのは,最新の
科学技術でした。
 世界を進歩させてくれると誰もが信じていた科学技術がもたらした悲劇に,戦後のヨーロッパの人々の中にはこう考える人も出てきます。
 「自分たちヨーロッパの文明に,何か問題があったのではないか」

 例えば,ドイツの〈
シュペングラー〉(18801936) 【東京H22[3]】による『西洋の没落【東京H22[3]問題文】が注目されます。従来の西洋哲学の前提を疑う動きも見られるようになり,〈フッサール〉(18591938)は現象学という手法を導入して「人間は,この世界を本当に正しく認識できるのか?」ということをとことん追究しました。
 また,「ヨーロッパの文明以外のアジアやアフリカにも見習うことができるのではないか」「ヨーロッパだけではなく,人類全体のことを考えよう(人道主義博愛主義)」と考える人も徐々にでてきます。例えば,第一次世界大戦以前からフランス領アフリカで医療・布教活動に従事した,〈シュヴァイツァー〉(18751965)は「生命への畏敬」(すべての命に対する愛)を訴えています。また,ヨーロッパ以外の地域の人類の文化が,どのように成り立っているのかを研究する文化人類学も盛んになり,ポーランド出身でイギリス人の〈マリノフスキ〉は,第一次世界大戦のさなか,ニューギニア島北東のトロブリアンド諸島で住民の生活の中に入って,彼らの文化をともに体験しながら記録(参与観察)しました()
 芸術家たちの中でも従来の“芸術”を疑う動きが活発化し,1924年の「
シュルレアリスム(超現実主義)宣言」以降,提唱者の〈アンドレ=ブルトン〉(1896~1966)や〈ダリ〉(1904~1989)らが,〈フロイト〉の精神分析の影響を受けつつ,夢の中にいるような幻想的な世界観を表現しようとしました。ドイツでも,不安や恐怖といった感情表現を全面に出した表現主義の運動が盛んになりました

 また,ヨーロッパが発達させてきた産業資本主義が,国家による戦争と結び付いたことも大きな問題として認識されました。従来の農耕地帯を支配した国家や,騎馬遊牧民の関係した大きな戦争は,徴税のために領土を広げることや,交易ルートを独占するが目的であったわけですが,この時代の戦争には,兵器を製造したり各地に利権を持っている大企業が国家と協力し,お金儲けを目指すという側面があったのです。特に戦後のアメリカ合衆国では産業資本主義経済がさらに発展し,自動車を所有する国民が増えるなど繁栄の時代(パクス=アメリカーナ)を迎え,アメリカ的な文化はヨーロッパにも影響を与えました。
(注)社会人類学者マリノフスキが,20世紀初めのトロブリアンド諸島で目撃したのは,自分や家族の食料を得るために功利的にふるまう人々ではなく,社会的な事業を分業し,指導者の下で特定の過程を経て,ある一つの目的のために働く人々の姿でした(ブロニスワフ・マリノフスキ,増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』講談社学術文庫,2010年)。



1920年~1929年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…(のちの①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ)
◆ソ連の建設期には反帝国主義が強く打ち出され,資本主義国との対立が深まる。旧ロシア帝国支配下の諸民族は比較的尊重された

 
192212月にシベリアから日本が撤退すると,同年1230日にソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立しました。これには,各民族が形成していたソヴィエト社会主義共和国を,ロシア人のソヴィエト社会主義共和国に自治国として参加させる形式がとられました。
 例えば,ポーランドとロシアの狭間に位置するベラルーシの,ベラルーシ=ソヴィエト社会主義共和国が,ロシア=ソヴィエト社会主義共和国と統合して,ソ連を形成したわけです。あくまで「自治国」という形式をとったわけですが,“ロシア帝国”の支配を受け継いだ面も大きく,実際にはロシア人のソヴィエト社会主義共和国が強い力を持っていたため反発もありました。
 ほかに,黒海沿岸のウクライナ=ソヴィエト社会主義共和国がソ連に加入しましたが,現在のジョージア(2015年までは「グルジア」)は猛反発し,最終的にアルメニアとアゼルバイジャンをあわせてザカフカース=ソヴィエト社会主義共和国が形成されることで決着しました。2015年以降,ロシア語的な「グルジア」という国名から,「ジョージア」という英語名に変更したのにも,反ロシアの国柄があらわれているといえます。
 ソ連はほんらい,国家としてのまとまりよりも農民や労働者階級の団結を主張していましたから,民族主義(民族ごとに団結したり,国家を作ろうとしたりする考え)との相性はあまりよくありませんでした。しかし,民族主義を弾圧すると大変なことになるというのは,ポーランドの支配を通して思い知っていましたので,ソ連を構成するロシア人以外の地域では自治を認め,ロシア語以外の言語の使用も認められていました。1920年代には各共和国で「土着化」政策がとられ主要民族が重用されるなど,比較的緩やかな民族政策が採用されていました
()。1927年にはに反帝国主義民族独立支持同盟がコミンテルン(共産主義インターナショナル)の指導の下,ベルギーはブリュッセルで開催され,植民地支配下にあった37の地域代表が集まりました。この時期のソ連は,イギリスやフランスを中心とする帝国主義体制に反対する上で,中心的役割を果たそうとしていたのです。
(注)世界恐慌の後ヒトラーが政権を握ると,ソ連は資本主義国と接近し,民族政策も民族主義を押さえつける方向に転換していきます。

 
1922年5月に〈レーニン〉が病に倒れると,党内人事を握っていた〈スターリン(グルジア出身,18791953) 【追H30】です。めきめきと頭角を現します。〈レーニン〉の没後には,同じく後継者候補であった〈トロツキー【東京H22[3]】を政敵として追放し,〈ブハーリン〉(1888~1938)の協力も得て共産党の実権を握りました。〈トロツキー〉は「世界中で革命を起こそう!」という世界革命論【東京H22[3]問題文】を唱えた一方,〈スターリン〉は「まずはソ連だけで十分だ」という一国社会主義論をを唱えるという違いがありました。

 
1928年には,重工業に重点を置き【セH17,社会主義国家の建設をめざす第一次五カ年計画【セH17時期】が実行されました。集団農場(コルホーズ) 【セH13ラティフンディアとのひっかけ】【追H21国営農場ではない,追H30】や国営農場(ソフホーズ,ソヴィエト農場) 【追H21集団農場ではない】の建設がすすめられました。コルホーズのほうは主に開拓地に建設されました。集団化したほうが効率がいいし,社会主義を建設するのに必要だという触れ込みでしたが,実際には効率よく穀物を政府に集めるための方法でした。収穫の有る無しにかかわらず,社会主義建設に必要なノルマが重視されたため,ウクライナをはじめとする地域で多数の餓死者を出すことになります。
 この時期のソ連は帝国主義諸国と敵対し,
コミンテルンの支部としてつくられた各国の共産党を通じて,共産主義運動を世界的に推進していました。議会を通じた社会改革をめざす社会民主主義の政党のことを「資本家にすり寄り,ファシズムと手を結ぶ勢力」として敵視する社会ファシズム論が主流でした()
(注)のち世界恐慌後にヒトラーが政権をとると,資本主義国や社会民主主義勢力との提携に転換します。




1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)

1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア
 ヴェルサイユ条約によって新たに誕生した
チェコスロバキア(オーストリア帝国から領土を獲得して独立)ポーランド【セH6時期(第一次世界大戦直後か)】(オーストリア帝国,ドイツ帝国・ロシア帝国から領土を獲得して独立)ルーマニア(オーストリア帝国,ロシア帝国から領土を獲得)は,地図の上では,ドイツの東に位置し,社会主義政権のソヴィエト=ロシア(のちのソヴィエト連邦)と接しています。
 フランスを初めとする当時の西ヨーロッパの国々は,ロシアで成功した社会主義の革命が,自分の国にも波及してくることを,現実問題として恐れていました。
しかも露仏同盟が消滅してしまったためにドイツを“挟み撃ち”にする戦略もとれなくなりました。そこでフランスは,ドイツの向こう側に位置する「チェコスロヴァキア,ポーランド,ルーマニアには,ドイツや社会主義の拡大を阻止するために頑張ってもらう必要がある」と考え,1920年代にこの3か国と小協商を結び,個別に同盟を結びました。しかし,これらの国は産業が未発達であり,経済が行き詰まると独裁者が現れ,国家の権力を強くして国民を支配しようとするようになります。

 ポーランドでは,革命の起きたロシア(ソヴィエト=ロシア。まだ「ソ連」ではありません)との戦争(ポーランド=ソヴィエト戦争)に勝って,独立時に人工的に設定されていた国境線(カーゾン線)より200kmも東に国境が移動されました。また,国境付近の土地をめぐり,クーデタで成立した〈スメトナ〉政権(任1919~20,26~40)のリトアニアとも争っています。
 しかし,その後も国内は混乱が続き,これを収拾したのは独立運動家の〈
ピウスツキ(18671935)でした。彼はロシア領のポーランド家系に生まれ,ポーランド独立運動に加わり,後のポーランド軍の基盤となる軍を編成していました。ポーランドの独立が承認された後,国内の政治が混乱するなか絶大な支持を集め,1926年にクーデタを起こして政権に就くと,独裁政治をおこない強力な権力をふるいました。ポーランド国内にはウクライナ人やユダヤ人が多く分布していましたが,〈ピウスツキ〉はポーランド人を中心とした多民族国家の建設を目指します。
 
チェコスロヴァキアでは,独立運動家だった〈マサリク〉(19201935)が初代大統領を務め,健康の悪化で右腕の〈ベネシュ〉(193538)に引き継ぎました。



1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ④ハンガリー
 
ハンガリーでは1919年に〈クン=ベーラ(18861939)を指導者とする革命がおこりましたが,社会主義的【セH27な政策が農民に受け入れられず,ルーマニアの介入もあってすぐに打倒され,王国に戻りました。しかし,軍部は1920年に国王不在のまま〈ホルティ〉(1868~1959)を摂政に選び,貴族〈ベトレン〉により国民の権利を制限する権威主義的な政治が行われ,大土地所有制が残りました。ハンガリーはオーストリアとともに第一次世界大戦の敗戦国の一員とされ,連合国との間に結ばれたトリアノン条約【セH17時期・第二次世界大戦後ではない】では,ハンガリーの領土は削減されセH5「大幅に拡大」していない】,ヴェルサイユ体制への反発も残りました。



1920年~1929年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ⑦ドイツ
 第一次世界大戦末期の
191811月3日に,キール軍港で水兵が反乱【セH18】を起こしたことが発端で,ドイツ革命が勃発します【セH18時期】11月7日にミュンヘンでも革命が起き,9日はベルリンでゼネストが起きて,軍隊も革命側に立って,社会民主党を中心に「共和国」の宣言を発表。ドイツ皇帝の〈ヴィルヘルム2世(18881918)がオランダに亡命してドイツ帝国は滅びました。

 社会民主党は1111日に協商国(連合国)側と休戦協定を結びました。
 しかし,「どの程度まで革命をすすめるか」をめぐって,スパルタクス団【セH10カルボナリとのひっかけ,セH12】【セH13時期(前1世紀),セH15】【追H9〈プルードン〉は無関係】の〈カール=リープクネヒト〉(18711919)や,ユダヤ人女性【セH15】ローザ=ルクセンブルク(18711919) 【セH12ドイツでスパルタクス団の指導者となったか問う】【セH15】が社会民主党中心の政権に対抗しようとし,同年12月にはドイツ共産党【セH5時期(第一次世界大戦の勃発後か問う)】を結成し,1919年1月に武装蜂起しましたが,鎮圧され組織は壊滅します。

 最終的にドイツの政権は,社会民主党が主導する穏健な左派が中心となり,1919年1月の選挙で「ドイツ国」が成立しました。ワイマールでの議会で憲法が採択されたので,ワイマール共和国(ドイツ語の発音ではヴァイマル共和国。正式名はドイツ国。) 【セH3「ワイマール共和国」】【セH14ドイツ連邦共和国,ドイツ帝国,北ドイツ連邦ではない】【立教文H28記】とも呼ばれます。初代大統領は社会民主党の〈エーベルト(18711925,在任191925) 【セH13国際連盟加盟時の大統領ではない】【追H9第二共和政臨時政府に参加していない】でした。ヴァイマル憲法【セH29には,史上初めて「社会権(国民が,国によって生きるための基本的な権利を保障されるべきであるという権利)の規定がみられ,民主的な内容でしたが,一つ大きな抜け穴がありました。
 「大統領の緊急命令発布権」です。万が一国家に緊急事態があれば,大統領は緊急命令を発布できるという内容です。これがのちに,ナチ党によって濫用(らんよう)されていきます。

 1922年4月にドイツ【セH5イタリアではない】【セH20フランスではない】は,社会主義国として同じく孤立していたロシア=ソヴィエト社会主義共和国(まだソ連を形成してはいない。ソ連を形成するのは,192212月末)と,ラパロ条約【共通一次 平1:時期を問う(独ソ不可侵条約~独ソ開戦までの間ではない)【セH5】【セH13史料(ロカルノ条約の第1・2条)をみてロカルノ条約ではないと判断する,セH20】【同志社H30記】を締結し,国交関係を樹立します。「仲間はずれ」にされた者どうしの提携は,英仏やアメリカを驚かせました。
 1923年に,賠償金の支払いが滞っていることを理由に,フランスとドイツの対立が強まり,フランスとベルギーがドイツの工業地帯ルールを占領し,再び緊張が走りました(ルール占領【セH10ドイツが1920年代に資本主義経済の合理化を図ろうとした理由を問う】【セH13ライン地方ではない,セH19時期,H30内容が問われた】)。右派の〈ポワンカレ〉内閣(192224)のときです。ロシア革命により露仏同盟が消滅し,ドイツを“挟み撃ち”にすることができなくなったフランスでは「ドイツが立ち直ることのないように,厳しい賠償を課すべきだ」という世論が高まっていたのです。

 ドイツはこのルール占領に対して「不服従運動」で抵抗しますが,それがかえってドイツ国内の工業生産高を低下させ,物価が驚くほど激しく値上がりするハイパー=インフレーション【セH3,H10ドイツが1920年代に資本主義経済を合理化させようとした理由として,「インフレーションから立ち直る必要があった」か問う】が発生してしまいます。これを乗り切ったのが〈シュトレーゼマン(18781929,在任1923)首相【セH3「ワイマール共和国」か問う】【セH14外相時代に国際連盟加盟を達成したかを問う】です。レンテンマルクという紙幣を発行して,激しいインフレを収束させるとともに,アメリカ合衆国の資本を受け容れ,賠償支払いの緩和にも成功しました【セH4アメリカ合衆国がドイツの賠償金支払い問題に関与したか問う】
 
1924年には,アメリカの銀行家〈ドーズ〉(18651951)を議長とする国際専門委員会がドーズ案【セH4,H10ドイツが1920年代に資本主義経済の合理化を図ろうとしたのは,ドーズ案を拒否したからではない】【セH13時期(第二次世界大戦後ではない)】を作成しドイツの窮状に答えます。この案はのち1929年8月()に調印されたヤング案【セH4】【セH13時期(第二次大戦後ではない)】でさらに緩和されていきます。同年に賠償金支払いのため,国際決済銀行(BIS;ビス)が設立されています。
()ドーズ案再検討の7か国会議は1929年2月11日から。司会者〈ヤング〉(ゼネラル・エレクトリック社の会長です)の名を冠して〈ヤング〉案が成立。1929年8月の第一回ハーグ会議で調印。ただし1930年の第二回ハーグ会議で若干修正され,正式発効にいたります。(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122


 しかし,この行為は国際社会により批判を受け,1924年には左派が連合政権を組み,穏健な左派(中道左派)政権ができました。
 
1925年に〈ブリアン〉外相【セH4】【追H9第二共和政臨時政府に参加していない】はドイツとの和解に努め,1925年にはロカルノ条約【セH9北大西洋の安全保障に関するものではない】【セH13史料(条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する】でドイツと他国との国境の現状維持・相互安全保障が約束され,1926年にドイツは国際連盟への加入に至ります【セH13エーベルトではない,セH17「設立時,ドイツは(国際連盟に)加盟していなかった」は正しい】

 〈
シュトレーゼマン〉(1878~1929)【セH13エーベルトではない】外相による協調外交の成果です。
 フランスがなぜこんなに安全保障にこだわったのかというと,対戦前にドイツを“挟み撃ち”していたフランスとロシア帝国との
露仏同盟が,第二次ロシア革命によって消え去ってしまったからです。イギリスとフランスが,ドイツからの攻撃に備える「対仏保障条約案」も1919年に調印されていましたが,アメリカ合衆国の参加が条件だったものの「孤立主義」政策によりアメリカはヴェルサイユ条約すら批准しなかったため,フランスの安全を保障する枠組みはつくられることなく終わってしまったのです。
 一方で,インフレが進み財政が悪化すると1926年にフランスの首相に再任した〈ポワンカレ〉は,1928年にフランの価値を5分の1に切り下げて乗り切ります。
 28年にはフランスのブリアン外相(18621932) 【セH4】【セH13】とアメリカ合衆国の〈ケロッグ〉国務長官(18561937)との間で,不戦条約【セH4ブリアンの提案か問う】【セH13ブリアン外相のときかを問う】が結ばれ,国際紛争の解決手段として戦争をしないことが約束されました(初め15カ国,のち63カ国)。ただ,この条約の解釈をめぐってはアメリカ合衆国【セH4アメリカ合衆国が調印しなかったわけではない】をはじめ各国で論争があり,のちのち“抜け穴”が問題となっていくことになります。

 この間,ドイツのハイパー=インフレを収束させた〈シュトレーゼマン〉首相(任1923)は,1929年まで外相(任1923~29)を務め,協調外交を進めました。ただ,同年アメリカのニューヨーク【セH26証券取引所での株価暴落にはじまる世界恐慌【セH26【セH7時期を問う】の影響がドイツにも及ぶと,復興半ばのドイツ経済は打撃を受け,やがて議会に対する批判がわきあがることになります。
 ドイツ国(ヴァイマル王国)時代のドイツでは,大量生産・大量消費社会を推進するアメリカ文化の受容が進みました。
 しかし,職人によって手作りで日用品が作られていた時代に代わり,工場で生産された製品は,どこか無機質です。「実用性と,デザイン美しさの両立ができないか」ということを追究したのが,〈グロピウス〉(
18831969)が1919年に創立したバウハウスという造形学校です(◆世界文化遺産「ヴァイマールとデッサウのバウハウス関連遺産」,1996)。
 バウハウスには表現主義の画家の〈カンディンスキー〉(
18661944)や〈クレー〉(18791940),鉄とガラスの建築を手掛けた建築家〈ミール=ファン=デル=ローエ〉(18861969)らが集い,現代建築や工業デザイン分野の先駆けとなりましたが,のちにナチ党により閉鎖に追い込まれています。




1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 この時期のバルカン半島では
土地改革が実行されたものの,その多くは不十分に終わりました。衛生条件が改善されたことから人口が増加しましたが,労働力の受け皿となる産業の発展が追いつかず,農村部における人口の過剰が問題となりました。大戦直後にはブルガリア,クロアチア,ルーマニアでは農民政党が活動しています。
 また,新興国家どうしの国境紛争や国境内の少数民族の問題も起きる中,大地主・資本家・軍部などの少数の支配層に支えられた権威主義的な体制が生まれていき,
国王独裁のもと共産党を非合法化するなどの政策がとられていきました。



1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現①ルーマニア
 すでに露仏戦争後に独立していた
ルーマニアは,第一次世界大戦に連合国側で参加し戦勝国となり,領土を拡大させていました。新たにハンガリーから獲得したトランシルヴァニアのハンガリー系やドイツ系住民の処遇をめぐり,ハンガリーやドイツとの対立も生まれました。複雑な民族・宗教・言語分布をもつバルカン半島において,上から一方的に国境線を変えることは,必ずしも国力アップにはつながらず,多くの問題を抱えるものでもあったのです。
 都市部にはフランス資本が流入し“バルカンの小パリ”ともいわれるフランス風の建築物が立ち並ぶ首都ブカレストと,貧しい農村部との格差が広がっていきました。1926年にはトランシルヴァニアの民族党と農民党が合同し,ブカレスト中心の政治への抵抗を強めていきます。モルドヴァ,ベッサラビア,ブコヴィナの都市部にはユダヤ教徒が経済活動をおこない,のちに反ユダヤ主義の標的となっていきました
()
(注)柴宜弘『新版世界各国史18 バルカン史』山川出版社,1998,p.264。



1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現②ブルガリア
 すでに1908年に独立していた
ブルガリアは第一次世界大戦で敗戦国となり,連合国とヌイイ条約を締結しました。これによりドナウ川河口の南ドブルジャ(ドブロジャ)→ルーマニア領,エーゲ海に面する港を含む西トラキア地方→ギリシア,西部国境地帯→ユーゴスラヴィアに割譲し,領土は縮小しました。
 農民同盟の指導者〈スタンボリースキ〉(任1919~23)政権が左派の支持を受け,農民への土地の再分配など多くの改革を行いましたが,23年に軍部と右派によるクーデタで殺害され,1924年には共産党が非合法化されました。相次ぐクーデタやテロにより,ブルガリアの内政は混乱状態のまま,世界恐慌の襲来を迎えることになります。



1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現④ギリシャ
 
ギリシアは,大戦後に大ギリシア主義の理念の下,領土拡大をねらい,オスマン帝国に進出しました(ギリシア=トルコ戦争(1919~22))。大戦後のオスマン帝国は無力で,ギリシア=トルコ戦争中の1920年にオスマン帝国の指揮官〈ムスタファ=ケマル〉(1881?~1938)はアンカラでトルコ大国民議会を樹立し,オスマン帝国の廃絶をねらいます。ソヴィエト=ロシアはトルコ側を,ギリシア側はイギリスが支援したため,代理戦争であったともいえます。
 敗北したギリシアでは,軍部の中で共和派と王政派の対立が激化し,1924年の国民投票の結果,ギリシアは
共和政となります。
 しかしその後も政体をめぐる混乱は続き,1928年には国民的人気を誇る共和派の〈
ヴェニゼロス〉(1864~1936)が首相に就任しましたが,王党派の抵抗も続きました。

 東地中海の交易の拠点である
クレタ島は,ギリシア=トルコ戦争の結果,イスラーム教徒の住民がトルコ共和国へ,トルコからはギリシア系住民が移住させられました(住民交換)。
 古来“文明の十字路”であったクレタ島の民族構成は,このとき大きく変わります。



1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現⑤アルバニア
 第一次バルカン戦争後に独立した
アルバニアは,アドリア海への出口に位置することから,対岸のイタリアや内陸のユーゴスラヴィア,隣接するギリシアなどに囲まれ,国内情勢は不安定でした。1925年に最終確定した国境線内部では,アルバニア系住民が9割以上を占めましたが,南北で経済や言語,宗教(7割がイスラーム教ですが,北部にローマ=カトリック,南部に正教会も)の違いがあり,統一は困難でした。かつてのセルビア王国領内のアルバニア人居住地(コソヴォ)をめぐっても,セルビアとの対立がありました。そんな中,名門出身で,ユーゴスラヴィアとの戦闘で名を挙げたイスラーム教徒の〈ゾグ〉は首相に就任(任1921~24)。ソヴィエトの支援を受けた正教会を中心とする反対派により,〈ゾグ〉は一時ユーゴスラヴィアに避難しましたが,のちユーゴスラヴィアや反ソヴィエト勢力による支援を受け武力で政権を奪い,1925年には大統領(任1925~28)に就任しました。〈ゾグ〉は提携を深めたイタリアに接近し,イタリア資本による近代化を目指しました。1926年には〈ムッソリーニ〉支配下のイタリアの保護国となっています。1928年からは〈ゾグ〉は王(ゾグ1世,位1928~39)に即位し,王政となりました(アルバニア王国(1928~46))。彼は一族を重用しつつ,アルバニア人意識を高める強権的な政治を行っていきます。



1920年~1929年のヨーロッパ  バルカン半島 現③マケドニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
 バルカン半島では南スラヴ系の民族が,1921年にセルビア王であった〈アレクサンダル1世〉(位1921~29)の下
セルビア人=クロアチア人=スロヴェニア人王国としてまとまり,1929年にユーゴスラヴィアと改称しました。初めの国名に見えるのはセルビア,クロアチア,スロヴェニアだけですが,実際には大戦前のモンテネグロ王国,ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,ダルマツィア,ヴォイヴォディナといった地方が含まれていました。
 主導権はセルビア人が握り,それに反発するクロアチアやスロヴェニアの地域政党との対立は初期の頃から起こっていました。セルビア人は,ボスニア=ヘルツェゴヴィナのイスラーム教徒を味方につける動きもみせています。1928年にはラテン文字とキリル文字のどちらを議会の議事録として採用するかをめぐり発砲事件も起きましたが,同年には〈アレクサンダル1世〉が
独裁を宣言しました。1929年以降は〈アレクサンダル1世〉はユーゴスラヴィアに改称し君臨しました(位1929~1934)。




1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ

1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現①イタリア
 イタリアは三国同盟の一員であったものの,第一次世界大戦では「未回収のイタリア」問題を巡り,フランスと密約を結び,協商国(連合国)側で参戦し,戦勝国となっていました。

 しかし,依然としてイタリア人住民の多い“未回収のイタリア”と呼ばれた地域を期待通り獲得できず,インフレもあって国民生活が不安定となり,政府への批判が強まっていきます。
 たとえば,アドリア海沿岸の
フィウメはイタリア人住民が多数派ですがクロアチア人も居住しており,新興国ユーゴスラヴィアとイタリアとの間でどちらの領土にするかが問題となり交渉が進んでいた中,愛国的な詩人〈ダヌンツィオ〉がの獲得を目指して私兵を率いて進軍し,緊張が走りました。結局1920年にイタリアとユーゴスラヴィアの間のラッパロ条約で,自由港となることが決まりました。

 そんな中,1920年には北タリアで社会党左派(のちのイタリア共産党)が,労働者を指導して工場を占拠させ,農村でも農民が地主を支配するなどの運動が巻き起こります。
 左派がこのような実力行使に打って出たため,右派つまり資本家・地主や軍部は,社会主義的な運動をおさえることのできる,より強力な指導者を求め,これがファシズム台頭の要因となっていきました【セH3

 〈ムッソリーニ(18831945) 【セH91919年にファシスト党【セH9を結成し,資本家・地主・軍部にアピールして,「イタリアに必要なのは議会制民主主義(話し合い)でもなければ,社会主義運動でもない」と訴え,強力な国家が国民をまとめあげることで,危機を打開できることを主張しました。個々の国民よりも国家のまとまりを優先させる,この考えを全体主義といいます。多くの国民の納得するような政策をじゃんじゃんおこない,多くの国民を動員するとともに,国家の危機を叫んで国民の自由と権利を制限するこの方式は,ファシズムともいわれます。
 国家の権力がどんどん大きくなっていくのは,イタリアに限ったことではなく,20世紀前半の各国の政府に共通の特徴でもありました。
 1922年に〈ムッソリーニ【セH3ローマ進軍【セH3【セH27ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世ではない】で政府に迫り,国王の支持を取り付けて首相に任命されます(19221943)
 さらに議会をファシスト党
【セH3の一党独裁として(ファシズム大評議会),政権を確立します【セH6世界恐慌に対処するために,ファシスト政権が成立したわけではない】

 その上で,海外にも進出。1924年にはイタリア半島の対岸の
アルバニアを保護国化【セH13】し,1926年には自由港だったフィウメを併合しています【セH13時期(第二次大戦後ではない)】1929年にはラテラノ(ラテラン)条約によって,イタリア統一以来国交断絶状態にあったローマ教皇庁と和解して,ローマにおける教皇庁周辺の一角をヴァチカン市国として独立を承認しました。
 〈ムッソリーニ〉を尊敬していたドイツの〈ヒトラー〉は,いかにも勇ましい制服や,右手をあげる敬礼など,さまざまな要素を吸収していきます。


1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。


1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
大戦後の英で選挙権拡大,「帝国」再編が議論に
 大戦中には総力戦体制がしかれ,女性を含め国民の大多数が国のために社会参加をしました。その結果,1918年には第四回選挙法改正(21歳以上男性,30歳以上の一部の女性) 【東京H30[1]指定語句】【セH8初めて女性が選挙権を獲得した改正を問う】【セH18 時期17世紀に女性は参政権を獲得していない】【追H30第一回ではない】に拡大されます。女性といっても全員ではないところがポイントで,財産資格も課せられていました。
 19
28年には第五回選挙法改正(21歳以上男女)に選挙権が拡大されます。
 ただ,選挙権を拡大すればするほど,さまざまな利害をもつ人々をまとめる必要が出てきます。政治は次第に「人気取り」(ポピュリズム)になってしまう恐れもあります。国民の支持がなければ,政策を実行することも難しくなります。できる限り単純なスローガンをたて,国民をまとめるのに有効なのは,「敵」を設定することです。また,国民の生活を保障する政策を打ち立てるのも効果があります。
 20世紀前半には国民に占める労働者の割合も増加し,労働党は保守党の次に高い人気を誇るようになります。1924年に労働党の〈マクドナルド(18661937)【セH23アイルランドの内閣ではない】【追H30チェンバレンではない】,勢力の衰えた自由党と組むことによって連立内閣を組織しました(第一次マクドナルド内閣(1924) 【セH5時期(第二次世界大戦後ではない),H12時期(初の労働党政権が第一次大戦「後」かを問う))が,怪文書スキャンダルによって総辞職【セH3労働組合法を制定していない】
 しかし,
1929年6月(192910月のニューヨーク株式市場の株価暴落よりも前です)には労働党が初めて第一党となって,第二次マクドナルド内閣(192931)となりました。

 大戦によって国力を消耗していたイギリスは,「世界中にある植民地を直接支配しつづけるのには無理がある。おろせる荷物はおろそう」という方針に転換するようになっていました。
 さらに世界恐慌【セH7時期を問う,セH10の影響もあり,1926年・30年のブリテン島・アイルランド帝国会議の話し合いによって,31年にウェストミンスター憲章が規定され,白人が支配している「自治領」(ドミニオン)に位置づけられた植民地にも,「イギリス連邦【セH10世界恐慌への対策としてイギリス連邦内のブロック経済政策がとられたか問う】【セH25時期】というグループの枠内で立法権・外交権を与えることにしました。これにより自治領は,イギリス国王に対する忠誠を交換条件として,イギリスとおおむね対等の立場を手に入れることとなります。
 こうしてイギリスは,本国と
植民地とのタテの関係を持つ従来の「帝国」構造に加え,王冠への忠誠の下で本国と対等な地位とされた自治領ドミニオン)とのヨコの関係を持つ「ブリティッシュ=コモンウェルス」(British Commonwealth of Nations) という2つの構造を持つこととなっていきます。

 大戦前にアイルランド自治法が成立していたにもかかわらず,戦争の勃発を理由に延期になっていたアイルランドでは,1922年にアイルランド自由国【セH4第一次世界大戦中ではない】が成立し,「自治領」扱いになりました【セH4 第一次世界大戦後も自治を認めなかったわけではない】
 「ブリティッシュ=コモンウェルス」という名称が公式に最初に使用されたのは,1921年のイギリス=アイルランド条約(英愛条約)が初めの例とされます
(注)
(注)細川道久「ウェストミンスター憲章と「変則的」ドミニオン」『鹿大史学』63号,p.9~25, 2016。

 ただし,アイルランド自由国からは,アイルランド島北部の
アルスター地方は除かれています。これが,現在のイギリスの正式名称「グレートブリテン(グレートブリテン島にあるイングランド,スコットランド,ウェールズの3国)および北部アイルランド連合王国」にも反映されています。
 アイルランドは,ウェストミンスター憲章を受け容れて,イギリス国王への忠誠と引き換えに,イギリスとおおむね対等の地位を手に入れたのですが,1937年には忠誠宣言を廃止し,国名をアイルランド語(ケルト系)で「エール」(エール共和国)【セH4北アイルランドが含まれていないことを問う】と改称して,イギリス連邦から事実上離脱しました。
 アイルランド北部のアルスター地方ではプロテスタント系の住民が多数派で,少数のカトリック系の住民が抑圧されていました(
北アイルランド問題)【セH12「北アイルランド問題は,北アイルランドのプロテスタント系住民に対する社会的抑圧に原因がある」わけではない。少数派のカトリック系住民に対する抑圧に原因がある】



1920年~1929年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑩ベルギー
 〈アルベール1世〉(位1909~34)の代に起きた第一次大戦で,ベルギー王国は永世中立国を宣言していたのにもかかわらずドイツ帝国による侵攻を受け,国土の大部分が占領されました。
 そのような事情もあり,戦後には賠償金支払いの滞りを理由に1923年にフランスとともに
ルール占領に踏み切り,いったん中立政策を捨てました。




1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島
…①スペイン,②ポルトガル
1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島 ①スペイン
 スペインでは,植民地だったモロッコでの独立運動に対する軍事行動の大失敗(1921)をきっかけに政権への批判が強まりました。加えてカタルーニャにおける独立運動も急進化すると,1923年に事態収拾のため〈プリモ==リベーラ〉将軍(18701930)が国王〈アルフォンソ13世〉や陸軍の支持を得てクーデタを起こし,内閣を倒して憲法を停止し,臨時的な措置として軍を中心とする独裁政権を樹立しました。なお,カタルーニャには戒厳令が布告されています。
 〈プリモ〉独裁政権の下では経済成長が達成されたものの,長期化する独裁に対しては反発も強まり,財政赤字に起因する通貨危機をきっかけとして1930年に辞任することになります。

1920年~1929年のヨーロッパ  イベリア半島 ②ポルトガル
 ポルトガルでは第一次世界大戦中に,共和政に対する王政の復活を目指す内戦が起き混乱していましたが,これを収めた軍部が政治への介入を強めていきました。財政赤字も拡大し労働者による社会運動も活発化すると,政権に対する中産階級の不満が高まっていきます。1925年にはリスボンでスペインの〈プリモ=デ=リベーラ〉(1870~1930)に刺激を受けた軍人による蜂起が起きましたが鎮圧。1926年にも軍人が革命を宣言し,その後も軍事政権の下で混乱が続きます。そんな中,政権に招かれた財政学の教授〈サラザール〉(1889~1970)が,財政赤字の解決に手腕を発揮し,台頭していくことになるのです。




1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①
フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
北ヨーロッパでは普通選挙制度をはじめとする政治改革が進んだが,小党が分立する不安定な状況が続いた
1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ①フィンランド
 
フィンランドでは,国内の保守派を中心とする内閣によりロシアからの独立が達成されました。



1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ②デンマーク
 
デンマークでは,かつてプロイセンとの戦争(1864プロイセン=デンマーク戦争)で奪われたスレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ)で1920年に国際監視委員会の下で住民投票が実施され,北部スレースヴィの約16万4000人がデンマークに“復帰”しました。南スレースヴィはドイツへの帰属を求めましたが,デンマーク系住民の多い都市(フレンスブルクなど)をめぐり内閣への批判が集まり,選挙の後に国王〈クリスチャン10世〉が総辞職を命令しました。国内では政府に批判的な左派や右派も台頭していました。



1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑤ノルウェー
 
ノルウェーは,大戦中に協商国に協力したことが認められ,スカンディナヴィア半島北方,グリーンランドの東方に位置するスピッツベルゲン(スヴァールバル)諸島を割譲され,1925年から支配しました。



1920年~1929年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑥スウェーデン
 
スウェーデンは,第一次世界大戦にとられた「中立」政策を見直す動きから,1920年に国際連盟に加盟して集団安全保障体制に参加しました。同年には,デンマーク,ノルウェー,フィンランドも国際連盟に参加しています。





●1920年~1929年の南極

 すでに1908年にイギリスが南極の一地域の領有権を主張していましたが,これに加えニュージーランド,フランスも領有権を主張します。