●1870年~1920年の世界
世界の一体化
①:帝国の拡大Ⅰ

欧米諸国で国民国家の形成がすすみ,帝国主義的進出をはかるようになる。アフリカとオセアニアの分割が本格化し,列強(欧米の大国)は第一次世界大戦に突入。反戦運動からロシアで社会主義勢力が政権を実現するが,民族運動は各地で抑圧される。

時代のまとめ
(1) 大不況」と新産業の出現により巨大企業と金融資本が結びつき,帝国主義が推進される。アメリカ合衆国【セH4産業革命の始まりの時期】とドイツ【セH4産業革命の始まりの時期】を中心に第二次【追H20】産業革命(工業化) 【セH6】が起き,イギリスは「世界の工場」の座を降りた【セH6第二次産業革命の結果,イギリスが「世界の工場」になったわけではない】。代わって,イギリス帝国は保険・運輸・サービスなどによる収入を確保するとともに,インドからの「本国費」で輸入超過の赤字を穴埋めしていた。

(2)
一方,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える。1880年代以降,西ヨーロッパ諸国により徹底的に植民地支配を受けたアフリカ大陸でも,支配への抵抗運動が生まれている。

(3)
「世界分割」に乗り遅れたドイツは「再分割」を要求。紛争の国際的な解決をめざす動き
【早法H30[5]指定語句 論述(19世紀末~1920年までの代表的な動き・内容を述べる)】もあったが,第一次世界大戦【追H30グラフ読み取り:年号を問う】に向かうことになる。高度に発達した科学技術により新兵器が生み出され,未曾有の死傷者を出した。他方,ロシアでは社会主義革命(ロシア革命)が成功し,先進資本主義国との対立をもたらした。

解説
◆「大不況」と新産業の出現により巨大企業と銀行資本が結びつき,帝国主義が推進された

先進工業国で大不況後に金融資本の形成が進む
 1873年にはウィーンにおける株価暴落に始まる「大不況」セH5「1870年代に起こった恐慌」がトラストなどによる資本と企業の集中・独占を促したか問う】が始まり,1896年まで続く世界的な経済危機となりました。
 この不況の原因は複合的ですが,
70年代前半に,欧米各国で金本位制が採用され,従来は高かった銀の価値が暴落したこと。第二次産業革命【東京H9[3]】【追H20】により重化学工業がさかんになったことで,従来型の産業(繊維工業や農業)がふるわなくなったことなどが関係しています。
 新たな産業には,以前よりも多額の資本が必要となったため,資金調達のために産業は銀行資本との結びつきを深め,独占的な金融資本【セH5トラストなどによる資本の企業の集中・独占,セH6「独占資本」】を形成するようになっていきます。
 国内だけでは資源と人口に限りがありますから,欧米(のちに日本)の諸国は競って海外の領土支配に乗り出したり,
勢力圏を広げて鉄道や工場を建てる直接投資を進めたりしていきます。つくった物を単純に外国に運んで売るのではなく,生産設備を建設するなど資本を外国に投入することを「資本輸出【セH6】といいます。

 日本はヨーロッパ向けに生糸を生産していましたが,生糸価格が暴落すると日本で生糸生産に携わっていた豪農が没落するきっかけとなりました。フランス向け生糸を生産していた秩父の生産者は,1882年にリヨン製紙取引所での生糸価格が大暴落により打撃を受け,1884年の大規模な農民蜂起(
秩父(ちちぶ)事件)へと繋がります()
 不況を解決するため,1880年代以降になると,ヨーロッパやアメリカ(欧米)に台頭した「国民国家」群は,アフリカ,アジア,太平洋,カリブ海へと進出をし,植民地にしたり勢力圏に加えたりするようになっていきます(世界分割)。このように,産業化を背景にして対外進出を積極的に行う動きを帝国主義といいます【セH6「帝政」をとる帝国主義陣営と,「共和政」をとる反帝国主義陣営との間で対立が深まったわけではない。帝国主義諸国の国内で,軍部・特定政党による独裁化がすすみ議会政治が衰退したわけではない】

 世界史の中に,広大な領域を支配する「帝国」は数多く存在しましたが,この時期のように「国民国家」が競い合って国外に進出し,異なる人間集団をさまざまな形で支配下に置いていくようになるのは,この時期に特有の現象といえます。「国民国家」群は,国内の住民を「国民」として統合しながら,国外の植民地等の住民を本国の「国民」とは別の枠組みで支配することにより,本国と植民地の住民の間にはさまざまな「
帝国意識」が形成されていきました。

 1880年代以降は,特にアフリカに関心が集中します。
 通貨の価値を裏付けるものとして,重要性の高まっていた
(きん)を獲得するためです。
 中央ユーラシアでもイギリスとロシアが“
グレート=ゲーム”と呼ばれる勢力圏争いの火花を散らし,短期間で近代化を達成し大陸進出を狙う日本はイギリス側について日露戦争(1904~05)を戦うことになります。
()脇田修・大山喬平他編『日本史B 新訂版』実教出版,2017年,p.247

◆アメリカ合衆国とドイツを中心に第二次産業革命が起きた
石油と電気の時代がやってきた

 産業革命(工業化)を達成したイギリスを追いかけて,ヨーロッパ諸国やアメリカも追いつけ追い越せで産業革命(工業化)を成功させていきます。19世紀後半には,ドイツアメリカ合衆国が,イギリスを追い抜く勢いをみせ,科学技術の発達により動力が石炭・蒸気力から石油電力にシフトすると,重化学工業【追H20】を専門とするより大規模な企業が登場して急速に工業化をすすめるようになっていきました(第二次産業革命【東京H9[3]】【追H20】)。日本も「大不況」(1873~96)の際の銀価格の低下を追い風に輸出を増やし,松方デフレから回復,産業革命(工業化)へとつながっていきます(日本の産業革命(工業化))。
 
巨大企業の発展で中小企業がつぶれたり,都市の発達で農業に携わっていた人々が失業したりすると,仕事にあぶれた人たちはやむを得ず国を離れて,外国を目指しました。彼ら移民の向かった先として人気だったのはアメリカ合衆国。自由の国アメリカでアメリカン・ドリームをつかむことを夢見て,大西洋を横断した移民が初めに降り立つのはニューヨークのエリス島。近くには1886年にフランスから贈られた自由の女神像がたっています。19世紀後半から第一次世界大戦にかけ,ヨーロッパからアメリカ大陸にはじつに5000万人が移動したと計算されており(),特に多くの移民を受け入れたアメリカ合衆国における社会の多様性が高まりました。一方,巨大企業の経営陣は,大量の原料を輸入するために海外の植民地の獲得を政府に要望するようになっていきます。
 1890年代
【上智法(法律)他H30大陸横断鉄道開通から約20年後か問う】フロンティアが消滅したアメリカ合衆国は“太平洋側”への進出を積極化させ,カリブ海,オセアニアや東南アジア,東アジアへの進出を加速。海軍力の大幅な増強が叫ばれたのも,この時期です(大海軍論【上智法(法律)他H30】)。
 1914年には
大西洋【セA H30地中海】太平洋【セA H30紅海】を直結させるパナマ運河【追H9コロンビアが建設してアメリカ合衆国が占拠したわけではない,イギリスの資金による建設ではない,フランス人レセップスの建設ではない。アメリカ合衆国が運河地帯を租借して建設したか問う】を開通させ,次第に“太平洋国家”を目指すようになっていきます。
()木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.97

◆イギリス帝国による覇権が拡大する一方で,アジアの域内貿易は盛んで,植民地エリートの中から反植民地運動も芽生える
イギリスの覇権(ヘゲモニー)の下,アジア間交易が盛り上がる

 従来,「イギリスの産業革命の結果,インドを初めアジアの伝統的な工業は衰退した」という説明がなされることが少なくありませんでした。
 しかし,それでは19世紀後半に,アジア各地で工業化が進み,商人のネットワークが張り巡らされていた事実を説明することはできません
 ある時点で,ある要因により,“勝ち組”の欧米と,“負け組”のアジアが「
分岐」したという説明も,同様です。

 もちろん,19世紀後半のイギリスは,地球規模の影響力を行使することのできる唯一の国家でした。こういう国家のことを,覇権国家〔
ヘゲモニー国家〕といいます。

 
影響力には軍事力のようなハード面だけでなく,リンガ=フランカ〔国際公用語〕としての英語や,安全な海運,世界標準時,自由貿易のルール,決済手段としてのポンドといったソフト面も含みます。

 この時代を読み解くには,世界の覇権を握るイギリスが地球規模で提供したソフト,ハード両面の制度の下で,その恩恵にあずかりながら植民地インドや日本の実業家が,工業化を発展させていった事実を整理する必要があります。いたずらに,「帝国主義によってアジアの発展は遅れた」ということはできませんが,イギリスが自由貿易体制を世界各地の植民地内外に広めていった
からこそ,綿業を基軸とし,それを呼び水として消費財に拡大したアジアの工業化や,日本,清と香港,東南アジア,植民地インド一帯のアジア間交易は発展していったのだとも考えられます。

(注1)秋田茂「綿業が紡ぐ世界史」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』名古屋大学出版会,2013,p.262。


 イギリスは17世紀~20世紀末にかけて,①世界各地の
白人定住植民地(自治領;ドミニオン)…オーストラリア,カナダ,ニュージーランド,②非「ヨーロッパ」諸地域の植民地(英領インド,マラヤ,香港など)により構成されるイギリス帝国(いわゆる「大英帝国」)を形成していきました。特に19世紀後半~20世紀前半
【東京H8[1]19世紀中頃から20世紀50年代までの「パクス=ブリタニカ」の展開と衰退について述べる問題】のイギリスがつくりあげた国際秩序をパクス=ブリタニカ【東京H8[1]指定語句】といいます。

 この国際秩序を維持するためにイギリスは,コストのかかる官僚組織や軍事力を用いて各地の植民地を支配しながら,同時にさまざまな “しくみ” を構築していきました。
 ・自由貿易
【東京H8[1]指定語句】のルール(国際取引法などの国際法)
 ・物流ネットワーク(世界各地を結ぶ定期航路)
 ・国際経済制度(金と兌換(だかん)できるポンド(スターリング)を基軸通貨とする国際
金本位制の仕組み,ロンドンのシティを中心とする国際金融業)
 ・国際
郵便制度
 ・
国際標準時
 ・国際共通語(リンガ=フランカ)としての
英語
 ・通信ネットワーク(海底電信網や通信社によるニュース情報(1851年にロイター通信が設立されています))
 ・安全保障制度(
王立海軍インド軍(陸軍)を世界規模で配置し,スエズ運河ルート喜望峰周りルートを保護)
 世界各地の取引に使われたのはイギリスの
ポンド(スターリング)手形であり,19世紀末~20世紀初めには世界の経済をポンドが巡る多角的な決済機構が成立していました。この時期のイギリスは“世界の工場”というよりは“世界の銀行”であったといえます(この時期のイギリス経済を,歴史学者〈ケイン〉と〈ホプキンズ〉(1938~)は「ジェントルマン資本主義」と表現しています)
 イギリスは日本同様,島国であるため食糧を輸入したり工業製品の原料を輸入する必要があり,貿易赤字(輸入>輸出。つまり
輸入超過)にありましたが,鉄道敷設【東京H15[3]など海外投資による利子・配当金収入や保険金,船の運航費,それにインドから送られる本国費によって穴埋めしていくようになります。
 イギリスが「世界の工場」から「世界の銀行家」になっていく境目は1870年代の「大不況」以降のこと。マンチェスターの製造業を中心とする「モノの輸出」から,ロンドンの
シティの金融業者中心とする「カネ・サーヴィスの輸出」。この変容後のイギリスの経済構造を,〈P.ケインズ〉と〈A.G.ホプキンズ〉は,「ジェントルマン資本主義」と表現しました。
 陸軍の主体となったインド軍とともに,この時期のイギリスにとってのインドはまさに“生命線”だったのです。

 イギリスによる世界各地の国家・植民地同士を結ぶ貿易のもとでも,
アジアの地域内では盛んに貿易が行われていました。中国人,インド人,日本人の出稼ぎ労働者が各地で生産に携わり,各地の商人も工業化を進め,資本を蓄えていきました
 アジア間交易が盛んになればなるほど,「ゲームのルール」を整備しているイギリスは儲かります
 すなわち,交易の利便性を高めるために港湾・鉄道・電信網などのインフラ整備のために株式や債権を発行したり,商社の取引手数料・海運収入を得ることで,先のロンドンのシティの金融業者の元に利益が舞い降りていくシステムとなっているのです。

 この過程で,アジア内部には,商品作物・穀物の生産や天然資源の採掘に携わる地域と,金融に携わる地域,輸入代替工業(輸入品を自国で生産する工業)を盛んに進めていく地域といった違いがみられるようになります。宗主国が特定の集団を経済的に優遇したり,外部から労働者を連れてきたりしたことで,アジアの伝統的な社会にも変化がもたらされました。

 植民地を含めたアジア内部での綿業を中心とする交易(
アジア間交易)が活発に行われることで,日本だけでなく植民地統治下のインドや東南アジア各地,一部が欧米の勢力圏に置かれた清の商工業者が競って交易活動に従事し,アジア各地で民族資本家が成長していきました。宗主国と植民地住民の間に新たなエリート階層を形成し,植民地経営に協力する者だけでなく,民族独立運動を推進する主体も現れるようになりました(反植民地主義反帝国主義)。
 近代化による改革を説くグループと,「伝統に戻るべきだ」と考えるグループ,さらに両者をうまく折り合わせようとするグループなどが各地で活動をすすめます。

 ただ,いち早く近代化を推進していた日本はイギリスにとって格好のパートナーとして目をつけられることになります。例えば,日本は日清戦争(1894~95)の賠償金をポンドで受け取っていますが,これはそのままイングランド銀行の日本銀行の講座に外国為替基金として預託されたのです。この基金を金準備に,1897年に日本銀行は従来の銀本位制から金本位制に転換することができたわけです
()。これにより日本はイギリスのポンドを中心とする国際的な決済の仕組みの一員に加わり,イギリスにとっても金準備を維持するためには好都合でした。ポンドは金との兌換(だかん)が保証された通貨だったので,イギリスがしっかりと金を準備しておかなければ,ポンドの国際的な信用が下がってしまうからです。イギリスは金融面で日本との関係を緊密にする一方で,1902年には日本の軍事力によってロシア帝国の南下をおさえようと日英同盟を締結しています(1905,1911に改定・更新)。日露戦争の戦費調達にあたって,イギリスにおけるユダヤ系のマーチャント=バンカー等から多額の外債を発行し,イギリス製の軍艦や装甲巡洋艦を購入することができたのも,日本とイギリスの緊密な連携関係が背景にあったのです。
 第一次世界大戦後のパリ講和会議では,民族自決の適用はヨーロッパに限定されましたが,戦後に設立された国際連盟で,日本は常任理事国
【セH5ソ連とアメリカは常任理事国ではない】の地位を得ています。このときに事務次長の一人に選ばれたのが著書『武士道』で世界的に知られていた〈新渡戸(にとべ)稲造(いなぞう)〉(1862~1933,任1920~1926)です
()秋田茂「アジア国際秩序とイギリス帝国,ヘゲモニー」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008,p.107

 世界分割に乗り遅れたドイツは「再分割」を要求し,第一次世界大戦を誘引します。
 また,先進資本主義国の“最終形態”である帝国主義戦争に反対したロシアの社会主義者が,第一次世界大戦中に資本主義に代わる新たな体制を打ち立てる
ロシア革命を成功させたことは,世界各地の植民地に反対する運動や資本主義を批判する運動に大きな影響を与えました。第一次世界大戦後に開催されたパリ講和会議では,資本主義的な経済の立て直しと延命が目的とされ,社会主義の考え方と鋭く対立しました。


◆近代科学技術・思想がヨーロッパによる支配を支えたが,第一次世界大戦における大量殺戮を招いた
 植民地から輸入された原料で生産された製品が欧米の国民生活を向上させていくと,19世紀前半のように労働者vs資本家という戦いの構図がだんだん薄れていきます。生活レベルが上がり,労働者がだんだんと現状に満足していくようになったからです。資本家と戦うよりも,給料アップを目指して,資本家となあなあの関係を築いたほうがマシだと感じる労働者が増えたのです。
 国家は,国民の多数を占めるようになっていた労働者のご機嫌をとるために,「社会福祉」を重んじるようになっていきます。例えば,年金・保険制度の充実です。国や企業は,余暇を労働者に奨励し,週末になると海水浴やスポーツ,旅行などのレジャーが盛んになっていきます。労働者が,週末に酒や賭け事等いかがわしいことに手を出さないようにし,ちゃんとした遊びを提供したほうが治安も良くなりますから。
 こうして,だんだんと欧米各国の内部で,労働者も資本家も“みな一つの国民”という意識が強まっていったのもこの時期です。さらに通信社や新聞社の発達によって,メディアを通して世界各地の植民地の様子が伝えられるようになると,「野蛮」なアジア・アフリカ・太平洋・ラテンアメリカに比べて,欧米諸国はきわめて「文明」的である!という優越意識も同時に芽生えるようになっていきます。科学者の中には,うさんくさい証拠を並べ立てて,欧米の白色人種のほうが,黒人や黄色人種よりも生物学的に優秀だと主張するも現れました。特に,生物学者〈ダーウィン〉(180982) 【セH12カントとのひっかけ】【追H20時期(19世紀後半~第一次世界大戦)】進化論【追H20】(『種の起源』(1859))における適者生存(環境によりよく適応できた種が生き残る)の説が,人種間や人間社会の優劣にも都合よく適用されていきました(社会ダーウィニズムといいます【セH29試行 内ロマン主義ではない】)。また,発表当時は注目されませんでしたが,〈メンデル〉(1822~84)【セH17 時期】が現在のチェコで遺伝の法則【セH17相対性理論ではない】を発見しています。

 たしかに,ヨーロッパは,コミュニケーション手段や軍事力の分野において,ヨーロッパ以外の地域を圧倒していきました。1874年に万国郵便連合が結成されたことで,世界中どこでも郵便が送られるような制度が整えられていきました。また,1880年代に〈ハイラム=マキシム〉(18401916)により発明されたマキシム機関銃は,植民地支配に強力に貢献しました。電信技術の発達もめざましく,アメリカの〈ベル〉(18471922) 【セH11:モールスではない】【追H20コッホではない】1876年に電話機【セH11】を発明しました。さらにイタリアの〈マルコーニ〉(18741937) 【東京H15[1]指定語句】【セH11:ヘルムホルツではない,セH12】は1895年に無線電信機【セH11:ヘルムホルツではない,セH12時期を問う(19世紀後半)】を発明しています(1896年に電信装置を携えてロンドンに渡り,イギリスで特許を取得しました)()
 こうした科学技術の発達は第一次世界大戦で遺憾なく発揮され,未曾有(みぞう)の犠牲者をもたらすことになります。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123

 交通機関の発達としては,アメリカの〈
ライト兄弟〉(兄18671912,弟18711948)が初の動力飛行機【セH2時期(第一次世界大戦後ではない)】「フライヤー1号」(1903)を発明しました。一生涯で特許を1300もとったアメリカの〈エディソン〉(18471931) 【セH21自動車の大量生産方式ではない】は,蓄音機(フォノグラフ。ただし実用化に寄与したのはドイツ出身のアメリカ人〈ベルリナー〉(1851~1929)のレコード盤式蓄音機グラモフォン(1887)),電球,映画【追H30時期(19世紀初頭ではない)】を発明しています。「天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗からなる」は,小学校を中退して発明家となった彼の名言です。

 このような対外進出と同時に,ヨーロッパ各国は国内で起きている
労働者vs資本家の対立軸の代わりに「国民国家」の仲間意識を作り上げることによってまとめ上げようとしました。「みんな同じ国民なんだから」という理屈で,国内の少数派を押さえ込むことで,国内のさまざまな立場の人々を一枚岩にまとめあげようとしていったのです。
 帝国主義による植民地の取り合いをめぐる対立は,アジアやアフリカ,バルカン半島,中央ユーラシアで激しくなりましたが,この時期には従来は足を踏み入れることができなかった極地探検国家プロジェクトとして積極的に行われました。
 まずは,寒い地域への到達。アメリカ人の〈ピアリ〉はグリーンランドを探検し,3回目の挑戦で北極点に史上初めて到達しました(1909)。さらに,ノルウェーの〈アムンゼン〉(18721912)は,1911南極点に初めて到達しました。イギリス人の〈スコット〉(18681912)は,2度目の南極探検で南極点に到達しましたが,帰りに遭難死しました。
 北極も南極も過酷な環境です。しかし,北極点に立つと,ユーラシア大陸全域と北アメリカ大陸を,そして南極点に立つとアフリカ大陸・南アメリカ大陸や,インド洋や大西洋などを射程範囲に修めることができます。戦略的に重要視されたわけです。

 このように列強は急速に対外拡大を進めていたものの,19世紀末からは好景気がつづきヨーロッパやアメリカの中心地では大きな戦争は起こりませんでした。
 しかも,生活水準はどんどん上がり,国民は日進月歩で進展していく科学技術の恩恵を受け,都市の生活を謳歌するようなっていきました。都市の人々は,多くの人々の群れの中にあって,だんだんと自分の考えを主張するというよりは,他の人の動きを見ながら,自分の考えを決定していく傾向が見られるようになっていきます。経済が発展していくにつれ,可もなく不可もないそれなりの生活を送ることができる中間層20世紀にかけて生まれていきました。彼らは国家による社会福祉を受けながら,消費(買い物)を楽しむようにもなっていきます。このような社会を大衆社会といい,「総力戦【東京H18,H30[1]指定語句】」となる第一次世界大戦では社会主義の政党,労働組合も国家に協力する動きもみられました。

◆西ヨーロッパ・中央ヨーロッパを中心とする国際的な運動が盛り上がる
 この時期には,ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国を中心として,世界のさまざまな制度を標準化しようとする動きがみられました。例えば,世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議で本初子午線として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。
 1899年と1907年の2回にわたり,オランダのハーグ【セH5アムステルダム,パリ,ジュネーヴではない】万国平和会議【セH5】【早法H25[5]指定語句】が開かれ,戦争にかかわる国際法が多く定められました。また,戦争の被害者が増大するなか,スイスの実業家〈アンリ=デュナン〉(1828~1910)が1863年に国際赤十字【セH8を設立しました。彼はイタリア統一戦争時にソルフェリーノの戦いの激戦地で救援活動に当たり,国を越えた医療の協力関係の必要性を痛感したのです。第一回ノーベル平和賞を受賞しています。
 各地で盛んになっていたスポーツ競技の国際大会を設立しようとする動きも高まり,フランスの〈クーベルタン男爵〉(1863~1937)が,古代ギリシアで行われていたに古代オリンピックを復活させる形で
近代オリンピックを提唱し,1896年には第一回アテネ(アテーナイ) 【東京H14[3]】大会が開かれました。 帝国主義に反対しつつ,労働者の国際的な連帯を生み出そうとしたのが,1889年にパリで成立した第二インターナショナルです。ドイツ社会民主党(SPD,エスペーデー)を中心とし,第一インターナショナルとは異なり個人資格ではなく,イギリス労働党やフランス社会党などの1国1政党が中心となって,社会主義の運動を世界に広げようとしました。しかし,第一次世界大戦の開戦時には,「今は自分の国のために戦うべきだ」という世論が大きくなり,第二インターナショナルは分裂してしまいます【セH9 開戦直後,各国の社会主義政党は一斉に反戦運動を展開したわけではない】


1914年~1918年 第一次世界大戦
【セH29年代を問う】
 
この項では,第一次世界大戦にともなう世界的な動きを,まとめて扱っていきます。
 
オスマン帝国で1908年に青年トルコ革命がおきると,混乱に乗じてオーストリアは,ボスニア州とヘルツェゴヴィナ州(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)を併合しました。この2つの州にはスラヴ系の住民が多かったので,ロシアだけでなく南スラヴのリーダーを自任していたセルビアを中心に,オーストリアへの反発が高まりました。
 対抗したロシア【セH26フランスではない】1912年に,バルカン諸国をまとめ(バルカン同盟) 【セH25】,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いのセルビア,ドナウ川下流のブルガリア,アドリア海沿岸に近いモンテネグロ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,ギリシア(すでにオスマン帝国から独立済み)です。
 オスマン帝国が,イタリアとの戦争(イタリア=トルコ戦争191112)に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦(第一次バルカン戦争),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
 しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,ブルガリア vs 他の3か国の争いに発展してしまいます(第二次バルカン戦争)
 敗れた【セH13勝利していない】ブルガリア【セH13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】は,ロシアではなくオーストリアとドイツ側に接近するようになっていきました。
 そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合したボスニア=ヘルツェゴヴィナ(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これをサライェヴォ事件【セH15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】といいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです()
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。

 サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアはセルビアに対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいます)


()ドイツ=オーストリア vs セルビア

すると,セルビアはバルカン同盟に所属していますから,後ろ盾のロシアはセルビアを支援します。
()ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア
 そうすると,露仏同盟,英露協商が適用され,イギリスとフランスも参戦します。
()ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア=フランス=イギリス
さらに,イギリスの同盟国である日本も参戦します
(1902年日英同盟)

(
)ドイツ=オーストリア vs セルビア=ロシア=フランス=イギリス=日本
 また,オスマン帝国とブルガリアは,ドイツ=オーストリア側で参戦。

()同盟国(中央同盟国) :ドイツ,オーストリア【セH9ロシア側ではない】,ブルガリア【セH9】,オスマン帝国【セH9ロシア側ではない。同盟国側にスイス,イタリア,ベルギーはない】
  協商国(連合国)    :セルビア,ロシア,フランス,イギリス,日本

このように,いつのまにか複数の国家が,今まで結んでいた同盟や協商の関係を連鎖的に適用して次々に参戦していく事態になってしまいました。これが未曾有の被害をもたらす第一次世界大戦【セH7時期を問う】の始まりになろうとは,開戦当初は思いもよらないことでした。

 イギリスは1901年に〈ヴィクトリア女王〉が亡くなると,すでに同君連合が解消されていたドイツのハノーファー家を家名として名乗るのをやめて,夫〈アルバート〉のほうの出身家名をとって
サクス=コバーグ=ゴータ朝に変更されていました。この王朝の長男〈エドワード7世〉(位1901~10)ですが,〈ヴィクトリア〉の血統がとだえたわけではないので,ハノーヴァー朝と呼び続けることが普通です。ドイツとの親戚関係があること自体は仕方がないわけですが,第一次世界大戦中が勃発すると,「さすがに敵国であるドイツの領邦の名がついているのはマズい」ということになり,1917年に王宮があった地名をとってウィンザー家に家名を変更しています。それ以降のイギリスはウィンザー朝と呼ばれ,現在に至ります。 

 さて,ドイツはかねてから立案していた作戦どおり,「短期戦」で決着をつけようとしていました。短期間でフランスに進入するためにドイツをはじめとする同盟国【セH15】がとったのは,1839年以来永世中立国であったベルギーに進入【セH15】すること。一気に北フランスに入ろうとしたのです。しかし,フランスは1914年9月のマルヌの戦いでこれを防ぎ,ドイツ軍とフランス軍は地中に溝を掘って,相手の出方をうかがいながら一進一退を繰り返すことになりました。地上に出てしまうと,機関銃,戦車(タンク 【セH9】【セH271916年のソンムの戦いでイギリス軍により使用開始)などの攻撃を受ける恐れがありましたし,空から飛行機【セH2時期(動力飛行機は第一次世界大戦後に発明されたのではない),セH9】によって偵察【セH9】や爆撃(空爆)【セH9】を受ける可能性もあります。この溝(みぞ)のことを塹壕(ざんごう)といいます。
 雨がたまってビショビショになり感染症が蔓延し,冬は凍えるほど寒くなるという過酷な環境に対応するために,トレンチ
(塹壕)コートという軍服が考案されました。
 この塹壕に
毒ガス(化学兵器)【セH9】が投入されては一巻の終わりです。ドイツの化学者〈ハーバー〉(1868~1934)らによる開発の成果は,1915年にイーペルの戦いでのフランスに対する塩素ガスの攻撃で遺憾なく発揮されました。〈ハーバー〉は化学肥料などに使用される窒素化合物を生成するためのハーバー=ボッシュ法の開発の功績がみとめられ,1918年にノーベル賞を受賞していますが,“化学兵器の父”ともいわれます(20世紀末の日本でオウム真理教が長野県と東京都で一般市民に対して使用したサリンは,第二次世界大戦中にドイツが量産を計画した化学兵器です)塹壕(ざんごう)【セH9】で感染症に倒れる兵士を見たことがきっかけとなり,イギリスの生物学者〈フレミング〉(18811955)は,1920年代の研究中に重なった偶然により,抗生物質ペニシリンを発見することになります。
 これらの新兵器によって,従来の戦争とは比べ物にならないほど,死者数が膨れ上がりました。戦争の悲惨さは,ドイツの作家〈レマルク〉(18981970)の『西部戦線異状なし』にも描かれています。科学技術の発達によって,戦場における大量殺害が可能となってしまったのです。戦場から帰ってきた兵士には,塹壕で砲撃の爆音を聞き続けた恐怖から精神的な後遺症(シェル=ショック)といった精神疾患を患う者も多く,夢分析で知られる〈フロイト〉(1856~1939)による研究など精神医療が発展していきました。その後の第二次世界大戦にいたると,大量殺害の現場は,一般庶民の暮らす町にも及んでいくことになります。

 当初の「電撃戦」プランの狂ったドイツは,ロシアに対する東部戦線(フランスに対する戦線を西部戦線といいます)では,1914年8月にタンネンベルクの戦いでロシアを破ることに成功。この時の将軍〈ヒンデンブルク〉(18471934) 【東京H12[2]】は,のちにドイツの大統領となる人物です。ちなみにこの地では1410年にも「タンネンベルクの戦い」があって,ポーランドとリトアニア軍が,ドイツ騎士団に勝った戦いでした。この時は負け戦でしたが,「その雪辱をついにはらした!」ということで,その勝利はドイツで祝福されましたが,その後はロシアの冬将軍の到来もあり,東部戦線も膠着状態がつづきます。膠着状態になればなるほど,戦場に送る兵士や武器・弾薬・物資の補給が間に合わなくなっていくのは必至です。
 そこで各国は,「国内で働ける者には,男でも女でも全員働いてもらおう」という総力戦【東京H18[1]指定語句】体制がとられました。女性も武器工場で働いて,戦争遂行に貢献したことで,戦後には女性を含む参政権の拡大を図る国が増えました。
 また,「海外の植民地も本国のために協力をするべきだ」と物資の供給や徴兵を要求しました。しかし,植民地における民族運動の高まっている中で,下手に刺激をするのは危険と考えた西欧諸国は,「協力してくれれば,戦後に自治・独立を約束するよ」と飴をちらつかせて,協力を求めます。戦後にその約束をなかったことにしたり場当たり的な約束をしたりした結果,余計に民族運動が激しくなったり(インド自治・独立運動),新しい民族紛争が起きる原因を作ってしまった例もありました(パレスチナ問題がもっとも有名な例です)
 さて,戦争の推移にあたって,3つの重要なトピックがあります。

()イタリアが協商国側で参戦した

 イタリアは,三国同盟を結んでいたのでドイツ,オーストリア側に立って参戦するものと思われましたが,なんと協商国側で参戦しました。「未回収のイタリア」問題をめぐって,オーストリアと対立していたイタリアを,フランスが引き込んだのです。ロンドン秘密条約という密約によって成立しました。

(
)アメリカ合衆国がヨーロッパの戦争に参戦した
 また,ドイツ【セH9アメリカではない】【セH29イギリスではない】が「無制限潜水艦作戦【セH9】【セH18時期キール軍港の反乱後ではない】という,敵国に関連すると見られる船を民間船も含めて手当たりしだい警告なしで攻撃する作戦をとった(1915年のルシタニア号撃沈事件)ことが引き金となり,アメリカ合衆国が協商国(連合国)側【セH12】に立って参戦します。ヨーロッパ大陸の国際対立に関与しない代わりに,ヨーロッパによるアメリカ合衆国への関与を拒否する「モンロー主義」は幕を閉じ,代わりにアメリカ合衆国は“民主主義の兵器廠(へいきしょう,武器庫)だ!”という使命感が喧伝(けんでん)されていきました。
 アメリカ合衆国は,その経済力を武器に,イギリスやフランスに多額の貸付を行いました(戦債の発行)。戦後のアメリカ合衆国は,その借金の回収もあって,一層力を付けていくことになります。

()ロシア帝国が滅亡した
 さらに,協商国側で参戦していたロシアでは,国内での反戦デモが革命に発展し,最後の皇帝〈ニコライ2世〉が退位して,ロマノフ朝が滅びました(ロシア第二革命のうちの三月革命)
 しかし新政府は戦争継続の方針をとったため,社会主義者を中心とする反発が続き,11月には〈レーニン(18701924)と〈トロツキー〉(18791940)らが新政府を打倒し,1918年3月にはドイツと単独講和しました(十一月革命)
 つまり,ドイツが負けるまで,みんな(三国協商)で最後まで頑張ろう!と言っていたところ,ロシアが「いち抜けた」と言って,勝手にドイツと仲直りしてしまったということで,協商国側に大きな衝撃を与えました。
 〈レーニン〉らの政府は,戦後の世界についての構想を発表。これが「平和に関する布告」と「土地に関する布告」【セH23中国で出されていない】【同志社H30記】です。

 これに対抗してアメリカ合衆国の大統領〈ウィルソン〉
(191321)が発表したのが,「十四か条【東京H18[1]指定語句】【セH5いずれも実現しなかったわけではない】【セH30エカチェリーナ2世ではない】【早法H27[5]指定語句】という指針です。
 ドイツは,〈レーニン〉のロシア(ロシア革命政府)と講和を結んだことから「東部戦線」がなくなったので,フランスとの「西部戦線」に残りのパワーをつぎ込もうとしましたが,アメリカも加わった連合軍(協商国軍)に反撃を受け,ブルガリアオスマン帝国オーストリアドイツの順に降伏していきました。
 ドイツ帝国ではキール軍港で水兵が戦争続行に反対し蜂起したことがきっかけとなって【セH12】【セH24時期・イタリアではない,H29セH29試行 史料】革命が勃発し,最後の皇帝〈ヴィルヘルム2世〉はオランダに亡命,ドイツ帝国は共和国になりました。最終的に降伏したのは,このドイツの共和国政府です。

() 従来のヨーロッパ文明や価値観を疑う風潮が生まれた
 第一次世界大戦の“悪夢”を経験した若者たちの間には,希望に満ちあふれているように思えたヨーロッパの文明や科学技術に対し,“疑いの目”を向ける者も現れるようになりました。
 ヨーロッパの芸術家の中には旧来の価値観を否定しようとする運動(フランスの
ダダイスム)が生まれました。フランス生まれの〈デュシャン〉(1887~1968)は,ダダイスムとも交流を持ちながら,独創的な作品を製作。1917年に「泉」という既製品の便器にタイトルを付けただけの作品を発表。その後も“芸術”そのものを疑う活動を続け,現代美術に大きな影響を与えました。





●1870
年~1920年のアメリカ

1870年~1920年のアメリカ  北アメリカ
1870年~1920年の北アメリカ  現①アメリカ合衆国
19世紀末にアメリカ合衆国は世界第一位の工業国となる
アメリカ合衆国は世界一位の工業国に上り詰める
 1873年~1896年の世界的な経済危機(「大不況」)をきっかけに,中小企業を吸収した大企業が巨大化します。
 アメリカ初の
トラスト【上智法(法律)他H30内容を選択】である石油企業スタンダード・オイル社(1870設立)のロックフェラー財閥(〈ロックフェラー〉(1839~1937)ドイツに逃れたフランスのユグノー系移民),銀行家で多業種に進出したメロン財閥(〈メロン〉(1855~1937))黒色火薬・ダイナマイトを扱い,後にポリマーやナイロン【東京H9[3]】(20世紀前半に発明された合成繊維【セH2718世紀ではない】)・合成ゴムなどの化学製品も製造したデュポン財閥,銀行家で鉄鋼業USスチール(1901設立)も設立したモルガン財閥(〈J・P・モルガン〉(1837~1913) ()),ポーツマス条約後に南満洲鉄道への進出を要求した(失敗)鉄道王〈ハリマン〉(1848~1909)のハリマン財閥,カーネギー製鋼会社で成功したスコットランド遺民の〈カーネギー〉(1835~1919)【セH21リード文】カーネギー財閥など,名だたる富豪が輩出されました。富裕層は節税目的も兼ねて財団を設立し,文化施設や教育施設を創建するなど慈善活動(フィランスロピー)をおこないました。
(注)〈J・P・モルガン〉の甥は1901年の来日中に出会った京都の祇園の芸姑〈お雪〉(モルガンお雪,1881~1963)と1904に結婚。しかし排日移民法により帰化はゆるされず,夫の死後はフランスに移住,その後日本に帰国するも財産を差し押さえられるなど,波乱万丈の人生を追っています

 企業が巨大化するに従い書類仕事(デスクワーク)も膨大になっていき,
事務職企画営業職などのホワイトカラー【セH21リード文】と呼ばれる労働者も増えていきました(産業構造の転換【セH21リード文】)。企業の収益が増えるにつれて労働者の収入も増え,人口における中産層(ミドル=クラス)の厚みが増えていきました。同時に,いかに効率よく多くの社員を働かせるかというマネジメント(近代経営学)が注目されるようになっていきます(『マネジメント』で有名な〈ドラッカー〉(1909~2005)は1939年にナチスの迫害を逃れアメリカに移住することになります)。
 ヨーロッパに比べ由緒正しい「伝統」を持たないアメリカ合衆国では,なんでも「まずはやってみよう」という精神が強く,それが思想にも影響します。19世紀後半にはプラグマティズムという思想が発展し,何が真理かは「有用性」によって決まる,科学的な知識や道徳は「問題解決」のための「道具」だ,という論を展開。〈パース〉(1839~1914)や〈ジェームズ〉(1842~1910,主著『プラグマティズム』),〈ジョン=デューイ〉(1859~1952,主著『民主主義と教育』)が知られます。


◆「新移民」に対する迫害や規制がもうけられる
「新移民」が規制される
 連邦政府は自由放任主義(歩国は経済に関することは放っておいたほうがよいという考え)をとっていたため,しだいに労働者の問題が深刻化していきました。南・東ヨーロッパを中心とした移民【東京H11[3]北・西欧からは「ドイツ人」,南欧からは「イタリア人」が多い】を受け入れ,彼らを低賃金労働者として働かせたことも,都市にスラム(不良住宅地区)が発達する原因となります。ヨーロッパ諸国にとってのアメリカ大陸は,国内問題のはけ口だったのです。
 
 しかし,中国人を始めとするアジア系移民の増加により「アジア系移民が白人の仕事を奪う」という主張も生まれました。カリフォルニアのゴールド=ラッシュのときに大量の移民がアメリカに渡って以降,国内の騒乱(太平天国の乱)を避けて移住する者が増えていきました。1875年の移民法ではアジア系(ターゲットは中国・日本その他の東洋の国)からの女性移民を禁止しました。そうすれば同じ出身の移民同士で結婚ができなくなり,人口も増えないだろうと考えたのです。1882年には
クーリー(苦力)とよばれた労働者など中国人移民が一括禁止されました【東京H24[1]指定語句「アメリカ移民法改正(1882年)」】【上智法(法律)他H30アイルランド移民ではない】。彼らの上陸したニューヨークや,カリフォルニア州のサンフランシスコには,現在でも大規模なチャイナタウンがみられます。中国人移民は会館公所を設立し,同族や同郷どうしでまとまって暮らしていました。中国では同じ省(しょう)出身の中でも方言の違いから言葉が通じない場合もあるので,異国の地であっても出身地別のまとまりが重要になります。
 1885年には,ハワイ王国と日本の間で,日本人の契約移民をハワイのサトウキビのプランテーションに派遣できる取り決めがなされました。その後,ハワイ王国がアメリカ合衆国の領土になると,日本人はアメリカ西海岸に渡り,農業労働者になっていきました。1882年に禁止された中国移民の代わりに,日本人労働者が増えましたが,日露戦争で日本がロシアに勝つと,「黄色人種の拡大がヨーロッパ文明を危うくする」という根拠のない「
黄禍論」(こうかろん)も盛り上がっていたこともあり,白人労働者の“仕事を奪う”日本人移民を追い出そうとする運動が盛り上がりました。1907年に日米紳士協定が結ばれて,日本人の労働移民に対するパスポートの発給数が制限されることになりました。

 19世紀末は金融資本家と政治家がつるみ経済格差が広がったことから,その風潮は当時の小説家〈マーク=
トゥウェイン〉(1835~1910『トム=ソーヤーの冒険』で有名)により「金ぴか時代」とも揶揄(やゆ。からかうこと)されています。労働者の権利を求める運動も起こり,1886年にはユダヤ人〈サミュエル=ゴンパーズ〉(1850~1924)を会長として熟練労働者の労働組合であるアメリカ労働総同盟(AFL)【セH26時期。20世紀ではない】【上智法(法律)他H30 CIO,IWW,労働代表委員会ではない】が結成されました。中央部の大平原から,西部のロッキー山脈の東部のグレートプレーンズにかけては,広大な領土で気候に合わせたトウモロコシ,小麦,大豆などの栽培(適地適作)が行われ“世界の穀倉”となりました。
 開発がすすむにつれて環境破壊も問題となり,環境保護に対する意識も高まりました。1892年には世界最初の国立公園である
イエローストーン国立公園が設置されています。自然保護団体シエラ=クラブを中心として,カリフォルニア州のヨセミテ渓谷を含む一帯を国立公園にする運動が起こされています(1890年に設立されていたヨセミテ国立公園に1906年にヨセミテ渓谷などを統合)。

 そこで,20世紀初めにかけて「国は経済にもっと干渉して社会問題を調整するべきだ」という革新主義【上智法(法律)他H30】を打ち出して大統領となる者が現れました。政権にとってもっとも心配だったのは,労働者が放っておけば社会主義になびいてしまう可能性があったことです。ヨーロッパ諸国は,国内では国民を一致団結させ(国民国家),国外への植民地獲得を目指す(帝国主義)ことで国力を強めようとしていましたから,国内における労働者vs資本家の対立はなんとしても避けなければなりません。こうして,民間の経済活動は放っておけばなんとかなるという自由放任主義は転換され,連邦政府が企業の独占や鉄道料金などの分野にさまざまな規制をかけていくようになりました。

 また,この時代にスポーツの全国的な団体の整備が進んでいきました。酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のために,スポーツが重視されるようになっためです。また,国家も,軍事力増強のために“健康で力強くたくましい”男子を育てる手段として重視するようになっていきます。
 例えば,1891年には
バスケットボールがカナダ人体育教師〈ネイスミス〉(18611939)により考案されました。1895年にはバレーボールがアメリカ人〈モーガン〉(18701942)によりニューヨークで考案されます。また,1830年代頃にアメリカ合衆国北部で成立したといわれる野球は,1869年に世界初のプロ球団(シンシナティ=レッドストッキングス)が設立,1871年には世界初のプロ野球リーグが設立されました(1876年にナショナルリーグ(大リーグ(メジャーリーグベースボール)に引き継がれました)1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されていたテニスは,1881年に全米テニス協会が設立され全米オープンの元となる大会も開催され,ルールの統一が進みました。

 アメリカの帝国主義は,西部のフロンティアの消滅以降加速します。アメリカ合衆国は広大な面積を保有する大陸国家のようにみえますが,実際には西部と東部沿岸部に人口が集中し,中央部は人口があまり分布していません。沿岸部の安全保障を図るためには海への進出が必要だという,海軍の〈マハン〉(1840~1914。主著は『海上権力史論』(1890))の地政学(国家の力関係を,地理的な位置関係によって説明し,政治・軍事戦略に活かそうとする学問)的な主張により,海軍が増強されていくことになりました。


インディアンの抵抗が終結する
 中央部の
大平原では,アメリカ合衆国の入植者の乱獲によりバッファローが絶滅寸前となり,獲物の減った大平原のインディアンの人口も減少を続けます。
 1876年にゴールドラッシュが現在のノースダコタ州やサウスダコタ州で起きると(ダコタ=ゴールドラッシュ),この地に居住していた
スー人との間に戦争が起きました(ぶブラックヒルズ戦争(1766~77))。〈カスター〉中佐(1839~76)は,スー人,シャイアン人らがサン=ダンスの儀式をしているところを狙いましたが,ラコタ人の戦士〈クレイジー=ホース〉(1840?77?)の参加もあり失敗,部隊は全滅します(リトルビッグホーンの戦い)。1890年には,死者が復活し白人を追い出すとの信仰に基づくゴースト=ダンス(⇒1848~1870の北アメリカ)の儀式をとりおこなっていた無抵抗のスー人約300名ウンデッド=ニーで虐殺されると,大平原のインディアンの抵抗は終結しました。
 南西部でも,アパッチ人の戦士〈ジェロニモ〉(
18291909。「酋長」ではありません)などの抵抗がありましたが1886年に降伏しています。それ以降は,インディアン庶民像の組織的な抵抗はなくなりました。
 従来はインディアン諸民族は「保留地」に移動させられ,部族単位に土地が割り当てられていました。しかし,インディアンの保留地で金などの資源が新たに発見されると,1887年にインディアン一般土地割当法(
ドーズ法)が制定され,「土地はインディアン個人のもの」とされていきました。このときにインディアンの世帯に与えられたのはホームステッド法(1862) 【東京H7[3]】と同じ160エーカー。同時に,幼い頃からインディアンを親元から離し,インディアン寄宿学校で“アメリカ人として”教育していく政策(同化政策)も推進されました。
 最後の“生粋(きっすい)”のインディアンのひとりである,現カリフォルニア州のヤヒ人の〈イシ〉(1860?~1916)は,1860年代以降の虐殺(民族浄化;ジェノサイド)を生き延び,自らの文化や体験を研究者に提供したことで知られます
()
(注1)ジャレド・ダイアモンド,秋山勝訳『若い読者のための第三のチンパンジー』草思社文庫,2017,pp.293-295。

 この時期には,
黒人に対する差別に反対する運動もみられるようになりました。1910年には黒人の〈デュボイス〉(1868~1963)が中心となり全国黒人地位向上協会(NAACP)が設立されています。

 アメリカ合衆国は,南のカリブ海と西の太平洋の2方向に向けて拡大をすすめ,19世紀末には海軍を増強するべきだという主張が強まりました。もともとアメリカ合衆国は,常備軍を置かない伝統でしたが,海軍の規模は徐々に大きくなっていきました。カリブ海は「アメリカの裏庭」として強力に進出し,巨大な市場である中国に対してはヨーロッパ諸国や日本を牽制していきます。後者については,〈マッキンリー〉・〈セオドア=ローズヴェルト〉大統領ののもとで国務長官を務めた〈ジョン=ヘイ(18381905)は中国に対して門戸(もんこ)開放(かいほう)政策【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】【セH4乾隆帝とは無関係(乾隆帝は交易を広州に限った)】を提唱しています。国務長官というのは,副大統領に次ぎ,アメリカ合衆国の実質ナンバー3の役職です。

 〈マッキンリー〉大統領(18971901) 【セH26「棍棒外交」を推進していない】は共和党の人物。1898年に,キューバのハバナ港に停泊中のメイン号が爆破され,根拠がないまま新聞が「スペインによる陰謀だ」と世論をあおり,アメリカ=スペイン(米西)戦争に発展し,勝利しました。世論をあおったのは,新聞王〈ハースト〉(1863~1951)の新聞記事でした。
 スペインは,カリブ海の
プエルトリコ(アメリカが獲得) 【セH26ドイツ領ではない】【追H20スペイン領となったわけではない】キューバ(アメリカが保護国化)を失ったことで,1492年の〈コロン〉以来のカリブ海におけるスペイン支配は,ここでおしまいです。アメリカはキューバに対してプラット条項と呼ばれる「財政や外交にアメリカが口出しをする権利」を,憲法に明記させました。実質,保護国化です。なお,保護国というのは,外交権や行政権など,ほんらいはその国が持っているべき権力の一部を,外国によって奪われている国のことです。
 また,〈マッキンリー〉
【セH19セオドア=ローズヴェルトではない】のときにハワイ王国を併合しています。

 〈セオドア=ローズヴェルト(190109) セH5】【セH19ハワイを併合していない】も共和党の人物。「棍棒(ビッグスティック)外交【セH26マッキンリーではない】といって,武力をちらつかせて,中米諸国(グアテマラ,ベリーズ,エルサルバドル,ホンジュラス,ニカラグア,コスタリカ,パナマや,カリブ海の島々)に対する勢力圏を広げていきます。
 この帝国主義的
セH5反帝国主義的ではない】な方針を,カリブ海政策といいます。その目玉がパナマ運河の建設です。1903年にコロンビアから運河地帯を独立させて永久所有権を獲得し,次の民主党〈ウィルソン〉大統領のとき1914年に完成させています。また,太平洋の向こう側にある巨大な中国市場への進出を狙い,1905年7月に桂=タフト協定という外交上の覚書(おぼえがき)を交わして日本の朝鮮での指導権を認める代わりに自国のフィリピンの優越を認め合い,日露戦争の講話条約(1905年9月のポーツマス条約)の間を取り持ち,東アジアの情勢にも関わろうとしました。
 また,ドイツが1905年に
第一次モロッコ事件セH5】モロッコのスルターンを支援する動きを見せると,それを止めるために1906年にアルヘシラス国際会議を提唱するなど,ヨーロッパ列強の関係にも首をつっこみました。

 国内では,大企業の独占を批判し,1890年に制定されたシャーマン反トラスト法を適用し,ロックフェラー(18391937)のスタンダード石油を33社に分割する命令を出しています。ロックフェラーは1860年代に精油事業を開始し,1880年代までに全国の95%を独占する巨大企業に成長させていたのです。彼は解体を機に引退し,シカゴ大学などの研究機関の創立や慈善事業に努めました。アメリカの富豪にはこのようなノブリス・オブリージュ(豊かな者にはそれ相応の社会貢献をする義務があるという意味)の伝統があるものの,経済格差はひらきます。

 〈タフト〉大統領(190913)(共和党)のときには,中米諸国と中国の投資をさかんに行い「ドル外交」といわれました。

 〈ウィルソン〉大統領(191321)は民主党の大統領として,「新しい自由【慶文H30記】というスローガンを掲げて就任しました。これは共和党の革新主義と似通った考え方で,やはり国家が民間の経済を調整するべきだという主張です。海外への投資が増え,ますます巨大化していた銀行や企業の独占状態を制限するとともに(クレイトン反トラスト法),関税を引き下げ,鉄道労働者の8時間労働などで労働者を保護しました。彼の在任中には,禁酒を定める憲法が修正されています(禁酒法)
 外国に対しては,中米諸国やカリブ海への進出を引き続き進め,
ハイチ(ハイティ)ドミニカキューバに派兵し,メキシコ革命にも自国に有利になる側を支援するなどの干渉をしました。その口実として「アメリカの民主主義を世界に布教しようとしているんだ」と主張しました。これを「宣教師外交【慶文H30記】といいます。生まれたばかりの国家であるアメリカ合衆国は,「伝統」がない代わりに,時代を越えて正義とされるような「理念」を重視する傾向があります。今後もアメリカ合衆国の指導者は,「理念」を旗印に「敵」を設定し,国外に進出していくようになるのです。

 20世紀は“映像の世紀”と言われます。
映画技術【セH11:問題文で「19世紀末に発明された」と言及】を発明していた〈エディソン〉(1847~1931)は,1908年にトラストを設立して映画業界を支配下に置こうとしました。それに対し,中小の映画業者は西海岸に移住し,1911年にカリフォルニアのハリウッドに初の映画スタジオができました。移住してきた俳優や製作者には,ユダヤ系やイタリア系などの新移民が多かったのが特徴です。例えば,ユダヤ系ドイツ人の〈カール=レムリ〉(1867~1939)は,1912年に映画会社8社と合併し,ユニバーサル映画を設立しています。



○1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆中央アメリカ,カリブ海,南アメリカが天然資源の産地として,世界市場に包み込まれていった
冷凍船により南米の肉がヨーロッパ人のお腹へ
 
1870年代に冷凍船が発明されると,南アメリカのアルゼンチンなどで大規模な牧畜業が盛んになり,赤道を超えてヨーロッパに冷凍輸出されるようになりました。この冷凍食肉が,産業化のすすんでいたヨーロッパの人口増を支えたのです。
 ラテンアメリカからは,ほかにも世界市場のために小麦コーヒー【セH11アメリカが原産地ではない】砂糖綿天然ゴムのような農産物,硝石石油といった鉱産物が輸出されました。海鳥やアザラシの糞が長い年月を積もり積もった物(窒素化合物,リン酸塩を含む)で,有機肥料として用いられるグァノ(ケチュア語の「糞」に由来)もエクアドル,ペルー,チリの沿岸で産出されます。
 これらの採掘・生産は近代的な方式でなされたものではなく,独立直後から続く不公平な社会関係にもとづいていたため,世界市場との関係が深まれば深まるほど,少数の大土地所有者や大商人に富が偏って蓄積されていくという矛盾(むじゅん)がありました。
 しかも,同時に外国資本による進出が強まり,
1910年にはなんとアメリカ合衆国の資本家が,メキシコの全資産の実に90%(!)を支配するに至りました。こうした矛盾に対し,1910年に始まるメキシコ革命のように下層の民衆の抵抗運動や社会改革も起きるようになっていきます。

◆南アメリカにはヨーロッパからの移民が急増し,アメリカ合衆国による干渉も強まった
「母をたずねて三千里」はイタリア移民のお話
 この時期には国外からの移民も急増します。ヨーロッパ
(スペイン,ポルトガル,イタリア,さらに中欧・東欧)からブラジルやアルゼンチンへの流れが大多数で,さらに少数ですがアジア(中国,日本,インド)からの移民がいました。1871年からの40年間に,ブラジルには200万人,アルゼンチンにはじつに250万人のヨーロッパ人が移住してきたのです。日本で1970年代に放映されたアニメに『母をたずねて三千里』という作品がありますが,これはアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに出稼ぎ出たまま行方のわからない母を,1882年にイタリアのジェノヴァから少年マルコが探しに行く物語です。1908年には,日本から笠戸丸による第一回ブラジル移民が実施されています。

 ラテンアメリカには,ヨーロッパだけではなくアメリカによる経済的な進出も強まっていきました。1889年以降,パン=アメリカ会議【東京H10[1]指定語句】を定期開催し,ラテンアメリカを勢力圏に入れようとしていきます【セH25アメリカ合衆国の勢力拡大を牽制することが目的ではない】。モンロー主義(ヨーロッパはアメリカに首をつっこむな!という方針)は,だんだんと“ラテンアメリカに首をつっこむな!アメリカ合衆国の庭付きプールだ!”という主張に変化していったのです。
 アメリカは,
20世紀初めには,大西洋から直接太平洋に抜けるためのパナマ運河を建設するために,コロンビアからパナマ地方を独立させパナマ共和国とし,運河条約を締結してパナマ運河地域の恒久的な管理権を獲得します。運河は1914年に完成しました。





1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ
…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
◆一次産品の輸出に依存する経済により中央アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持したが,社会改革運動も起きた
 その中で,各国内では労働者階級が形成にされていくと,従来の保守主義(大土地所有者を中心とする伝統的な社会を守ろうとする考え),自由主義(ヨーロッパ諸国への一次産品を推進する考え)に代わり,労働者や中産層が社会の変革を叫ぶ声も挙がるようになっていきます。1880年以降はアメリカ合衆国の経済進出が加速。188990年にかけてアメリカ合衆国〈ブレーン〉がワシントンで第一回パン=アメリカ会議を開催しますが,経済的な統合には失敗しています。



1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
メキシコに対するフランスの進出は失敗し,20
世紀初頭にはメキシコ革命が起きた
 1877年にディアス〉大統領が大統領に就任し独裁政治(18771880,18841911)を展開。この間に外国資本の導入がすすみ,サトウキビ,タバコ,綿花,銀,銅,石油の輸出が進みました。欧米の資本を導入して近代化をすすめましたが,1910年に〈マデロ(18731913,大統領任191113)を中心に〈ディアス〉【セH29を打倒するメキシコ革命が引き起こされました
 しかし,例によって,社会改革をどこまですすめるかということをめぐり激しい対立が起き,一時農民運動の指導者である〈サパタ(1879?1919) 【セH29と〈ビリャ〉(18781923)1914年末に首都を占領する事態となりましたが,アメリカの〈ウィルソン〉大統領による軍事干渉もあって,1917年に民主的な憲法が制定されると,そこで落ち着きました。この憲法には,土地改革や労働者の権利などが定められています。〈サパタ〉はその後も貧農を中心として農民軍を指揮し,のちに反対派に暗殺されています。芸術家〈シケイロス(18961974)は,革命によってもたらされた新しい考え方と,スペイン人に植民地化される前のメキシコ独自の文化や歴史について,文字の読めない人々にわかりやすく伝えようと,メキシコ壁画運動を始めました。いまでも,メキシコ各地に原色の力強い巨大な壁画が残されています。



1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア
 輸出用作物のプランテーションが進んでいた中央アメリカでは,エルサルバドルを中心に中央アメリカの連邦を再建しようとする動きが強まります。1896年にはエルサルバドルホンジュラスニカラグアの3国で中央アメリカ大共和国(Greater Republic of Central America)を建国し,首都はホンジュラスに置かれましたが,1898年に崩壊しました。
 
エルサルバドルでは,1913年~23年にかけて〈メレンデス〉一族から大統領が輩出されることが多くなり,コーヒーのプランテーションが経済の中心となりました。



1870年~1920年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
パナマ運河建設を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立した
 コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下,
コーヒー輸出産業が盛んとなり,鉄道建設ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビア共和国となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
 そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国が
パナマ地峡を削ってパナマ運河を建設する計画を実行するため,1903年にパナマをコロンビアから分離独立させました。





1870年~1920年のアメリカ  カリブ海
カリブ海
…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

◆カリブ海地域ではイギリスによる支配が続く
 しかし,カリブ海地域では,いまだにイギリスによる植民地支配が続いており,しだいに反植民地主義の運動が始まります。イギリス領トリニダードのアフリカ系弁護士〈エリック=ウィリアムズ〉(1911~81)() 【セA H30リード文】は,1900年にロンドンでパン=アフリカ会議を開いて,人種差別に反対しました。
(注)〈ウィリアムズ〉はのちにカリブ海のトリニダード=トバゴ共和国初代首相となる人物でもあり,黒人奴隷交易で蓄積された資本がイギリス産業革命(工業化)を可能にしたという,いわゆる“ウィリアム=テーゼ”を論証した歴史学者でもあります。博士論文は『資本主義と奴隷制』【セA H30リード文】。彼の著作や関連資料は1999年にユネスコの『世界の記憶』(記憶遺産)に登録されています。



1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
 
キューバでは,1886年までアフリカ出身の奴隷を用いたサトウキビ=プランテーションと製糖業が行われていましたが,次第にアメリカ合衆国の投資家が砂糖産業に進出。砂糖企業が結集して設立されたアメリカン=シュガー=リファイニング社は,キューバのサトウキビ産業を支配するにいたりま。1898年の米西戦争でアメリカ合衆国が勝利し,パリ条約によりスペインはキューバに対するすべての主権を放棄し無期限の保護国化(第1条),カリブ海のプエルト=リコ島や西インド諸島,オセアニアにあるマリアナ(ラドロネス)諸島のグアム島(第2条),フィリピン諸島(第3条)をアメリカに譲りました。
 アメリカ合衆国軍は
1903年にキューバを撤退しましたが,独立後のキューバの憲法にはアメリカ合衆国はキューバ政府に対して口出し(「干渉する権利」(第3項))を認める「プラット条項」が組み込まれていました。
 アメリカ合衆国からキューバには,サトウキビを中心とするに産業に莫大な投資がなされており,これをみすみす手放すわけにはいかなかったのです。キューバのグアンアタナモ湾はアメリカ合衆国が租借し,現在もグアンアタナモ海軍基地として維持されています。



1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。



1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 プエルト=リコは米西戦争の結果,スペインからアメリカ合衆国の領域となりました。アメリカ合衆国向けの砂糖産業が発展し,1917年にはアメリカ合衆国の市民権が与えられています。



1870年~1920年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
フランス領
 マルティニーク島ではフランスの植民地として,サトウキビのプランテーションが行われていました。
 フランスが第三共和制になると,マルティニーク島の黒人にもフランスで認められている様々な権利が与えられるようになります。

 フランス人と同じように住民を扱うことで,不満をやわらげ,同じ仲間意識をもたせようとする政策を「
同化政策」といいます。同化政策の背景には,フランス人はカリブ海の人々よりも「進んでいる」という優越意識や,「カリブ海の人たちが遅れているのは“かわいそう”だ。われわれフランス人がなんとか手を差し伸べてやろう」という「文明化の使命」の意識があったのです。

 しかし,1902年にはプレー火山が大噴火し,島の中心部が崩壊し,3万人が亡くなる壊滅的な被害を受けます





1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ
…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
1870年~1920年の南アメリカ  ①ブラジル
 帝政が続いていたブラジルでは1888年に奴隷制が廃止されましたが,帝政を支えていた地主層の支持を失い,共和主義を支持する軍人によるクーデタによって1889年には共和政に移行。ブラジル連邦共和国(旧共和国;第一共和政,~1930年)となりました。国旗には独立時の空に浮かぶ星座が,フランスの社会学者〈コント(17981857)の「秩序と発展」という言葉とともにデザインされています。独立時の指導者の多くが,人類の進歩を信じる〈コント〉の実証主義にあこがれていたからです。2代にして最後の皇帝〈ペドロ2世〉(位1831~89)は最終的にイギリスの軍艦に乗ってヨーロッパに亡命しました。
 こうして共和政が始まったブラジルではさまざまな近代化政策が実行されていきますが,その内実は地主たちに権力の集中する寡頭制(オリガーキー)に過ぎませんでした
()。サントス港もこのころ建設されています。1891年の新憲法の下で帝政時代には中央集権的であった政治制度は,地方分権的な連邦共和政になり,ブラジル合衆国という国名になりました。直後に陸軍によるに政治への介入が強まりましたが,1894年に文民の大統領が就任します。1908年には日本人移民の第一弾が笠戸丸によってサン=パウロ州のサントスに上陸しています(⇒1870年~1920年の東アジア>日本)
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,中立政策がとられました。しかし,1917年にブラジルの商船がドイツの潜水艦によって撃沈されると,南アメリカは唯一の参戦国となりました。戦争が終わるとにヴェルサイユ会議に参加し,国際連盟にも加盟しています。
(注)堀坂浩太郎『ブラジル―飛躍の奇跡』岩波書店,2012年,p.15。



1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
 1864年に起きた三国同盟戦争は1870年にブラジル,アルゼンチン,ウルグアイ側の勝利で終結しました。敗北したパラグアイは国民の半数が亡くなる壊滅的な被害をこうむり,実質的にイギリスとアルゼンチンによる支配を受けることとなります。

 1862年に「アルゼンチン共和国」として国家が統一されたアルゼンチンでは,1880年にブエノスアイレスが首都となりました。その過程で内陸部のガウチョの文化を「遅れた(野蛮な)文化」とみなす見方が生まれ,牧畜民ガウチョへの弾圧が強まっていきます。
 また,この頃にパタゴニアでインディオたちと結んだフランス人が独立王国を建設したことから,アルゼンチン政府はパタゴニアの制圧作戦を開始。草原地帯(パンパ)の先住民(とくにマプーチェ人)に対する制圧が実行され,広大な領地は輸出作物や畜産物を生産するための土地として収奪されていきました。
 19世紀末には,イギリスの資本と
ヨーロッパ移民がアルゼンチンに流入していき,イギリスを初めとするヨーロッパ諸国から巨額の貸付が行われました。冷凍船が発明されたことでアルゼンチンの牛肉が新鮮さを保ったままヨーロッパの食卓にのぼることが可能となったため,アルゼンチンの経済的な地位はぐんと上がりました。イギリスにとってみれば余った資本をアルゼンチンに投下すれば漏れなくもうかったわけで,鉄道敷設やヨーロッパ風の建築もブームとなりました。
 ヨーロッパ移民やインディオの制圧作戦を背景に,アルゼンチンは「
南米のパリ」とうたわれるほどの白人国家となっていきます。
 アルゼンチンは,第一次世界大戦においては中立政策をとりました。



1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
チリはグァノ(肥料の原料)をめぐってボリビアと争い,敗北したボリビアは内陸国家となった
 
チリでは(1860年代に世界生産の4割のシェアがあった)や小麦の輸出で栄え,鉄道などのインフラが整備されていきました。教会の特権をめぐる自由党と保守党との対立ののち,1861~91年には自由主義派の政権となりました。
 1879年にはペルー,ボリビアと
硝石をめぐって太平洋戦争(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです。
 1886年には〈バルマセーダ〉政権(1886~91)が成立し,ヨーロッパにならった近代化を進めるとともに,硝石産業を国有化してチリの企業に払い下げました。払い下げへの反発から支持を失った〈バルマセーダ〉は自殺しますが,彼の政策は国外勢力に対抗してチリの産業の自立を図ったものとして重要です。
 彼の死後は大統領の権限が弱まり,硝石や銅の輸出業者が議会を通じて支配層を形成していきます。
硝石ビジネスがイケイケドンドンとなるなか,やがてチリ政府の歳入のほとんどが硝石に依存するようになっていきます()。1890年以降は労働者による社会運動も高まりをみせるようになります。

 一方,1880年代に南部の
マプーチェ人とも戦ってこれを制圧し,領域を南にも拡大させていきました。“お得意様”だったイギリス帝国が自前で硝石を獲得する先を探した結果,目をつけた先はオセアニアの小島ナウル島でした(⇒1870~1920のオセアニア ミクロネシア。1888年にドイツ領。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました)
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.352



1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア,⑦ペルー
ボリビアでは錫,ペルーではグァノや硝石の輸出経済が栄え,それを推進する政権が成立した

 政権が混乱した
ボリビアでも,1860年代以降に硝石・グァノの開発,1870年代に銀の採掘が進み,共有地を失った先住民らが鉱山や農場で働く日雇い労働者となっていきました。鉱山の利権を持つ者や農場主は独裁権を握った軍人指導者(カウディーリョ;カウディーヨ)()と結びついていました。
 ボリビアでは始め保守党の支配が1899年まで続きましたが,チリとの太平洋戦争に敗れると,新興の
(すず)鉱山主の支持を得た自由党が勢力を伸ばします。当時のヨーロッパでは缶詰や軽金属の合金の需要が高まっており,錫ブームが到来。1899年に自由党の〈パンド〉(任1899~1904)が成立し,錫輸出産業と結びついた支配層を形成していきました。自由党政権は1920年にクーデタで倒されるまで続きます。
()カウディーヨは,「地方または国の政治で勢力をもつボス」。増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999,用語解説p.99


 
ペルーでは,肥料となるグァノや硝石の採掘や,砂糖や綿花のプランテーションが盛んとなり,外国への一次産品の輸出でもうける経済構造ができあがっていきました。それにともない現れた新興の資本家(新興輸出業者や輸出用の農場主)らの支持により,1872年~76年に輸出経済を推進する文民党(シビリスタ)政権が成立しました。
 1879年にはペルー,ボリビアと
硝石をめぐって太平洋戦争(1941~45年の太平洋戦争とは別物。「硝石戦争」ともいいます)を戦い,勝利。1883年にペルーとチリ間に講和条約が結ばれ,チリはペルーから領土の割譲を受けました。また,1884年にボリビアとチリ間にも休戦が成り,チリは太平洋岸のアントファガスタを領有したことで,ボリビアは海への出口を失いました(アリカ港の使用は認められます)。こうして内陸国となったボリビアが,現在でもティティカカ〔チチカカ〕湖(湖面の標高3812メートル。大型船の航行できる湖としては世界最高地点にある)に海軍を保有しているのには,こういった事情があったのです。
 1884年には,都市の中産階層の支持を得た民主党(デモクラタ)も結成。1895~99年には太平洋戦争から続いていた軍人支配に代わって,文民の民主党〈ピエロラ〉政権が成立しました。このの政権の下で外国資本を積極的に招致して近代化を推進しました。しかし実際には政権を支持していたのは輸出産業でもうけていた勢力であり,外国資本に従属する構図はますます深まっていきました。
 20世紀に入ると,砂糖と綿花のプランテーションが拡大。民族運動や社会主義的な運動も起こるようになります。
 なお,1866~1869年には,ペルーの再征服をねらったスペインとの最後の戦争が起き,南アメリカ諸国が勝利し,これをもって南アメリカ諸国はスペインからの独立が確実なものとなります。



1870年~1920年のアメリカ  南アメリカ  現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
ベネスエラ,コロンビア,エクアドルでは自由主義的な専制政権が生まれ,保守派と抗争する
 かつて〈シモン=ボリーバル〉(1783~1830)
【セH10】により統一された大コロンビア共和国は,1830年にベネスエラヌエバ=グラナダ(現コロンビア),ベネスエラの3国に解体していました。いずれの国でも中央集権的な保守派と,自由貿易を推進する自由主義派との政治的対立が起きる中,天然資源の輸出に依存する少数の有力者による政権が台頭していました。
 このうちカリブ海沿岸の
ベネスエラでは,自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続きました。その後は連邦制をとる自由主義的な〈カストロ〉政権(任1858~59)が,保守派との対立を生み,1863年まで連邦(長期)戦争と呼ばれる内紛に発展。結局〈ファルコン〉政権(任1863~68)のときにベネスエラ連邦が成立し,1870~88年の間は自由主義的な〈ブランコ〉(任1870~77,79~84,86~88)の下,少数の有力者による長期政権が成立し,反教会的な自由貿易を推進する政策がとられました。この保守派政権は1888年にクーデタで崩壊,連邦議会により選出された〈パウル〉政権(任1888~90)は自由化を進め,改憲をめぐる内紛をおさめた〈クレスポ〉将軍が大統領に就任(任1892~94,94~98)すると,コーヒーの輸出が活況を呈し,1890年代には輸出の約80%を占めるほどとなり,陸上輸送のために外資を導入した鉄道建設も盛んとなりました。しかし,19世紀末からコーヒー価格が低迷すると1899~1903年に内乱が起こり,1899~1935年までの間,牧場労働者出身の〈カストロ〉と〈ゴメス〉(1908年にクーデタで実権を握ります)が独裁者となってベネスエラを専制支配する結果となりました。しかし,ベネスエラでは外債が積み上がり返せなくなった借金が問題となり,1902年にはイギリス,イタリア,ドイツが“借金取り”としてベネスエラを海上から攻撃する事態に発展。これに対しアメリカ合衆国の〈セオドア=ローズヴェルト〉大統領(任1901~09)は「カリブ海に警察権を及ぼすことができるのはアメリカ合衆国だけだ」と,ヨーロッパ諸国による南アメリカ攻撃を牽制(けんせい)しています。
 
 パナマを含む
コロンビアは,ヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。しかしヨーロッパの二月革命などの自由主義的な政治思想が伝わると,〈ロペス〉政権(任1849~53)が成立し,奴隷制の廃止やカトリック教会への対抗を含む自由主義的な政策がとられました。しかし地主,カトリック教会は土地を守るために自由党に反対しました。一方,イギリス製品により在来産業が破壊されることに反対した手工業者の政治勢力は,クーデタによって〈ロペス〉の後任の〈オバンド〉(任1853~54)政権を倒し,保守的な〈メロ〉政権(任1854~55)を樹立しました。自由派・保守派がともに〈メロ〉政権を倒すと,1857年に連邦制をとるグラナダ連邦となり,1863年には国名をコロンビア合州国としました。こうして,かつての大コロンビア共和国の構成国の中で,コロンビアはもっとも地方分権が進み自由主義的な国家となったのです。

 
エクアドルでは,19世紀末まで保守派の政権が続いていました。海岸部のグァヤキルは,輸出の拠点として急成長しており,グァヤキルを中心とする自由党は首都キト(キート)の保守派政権を攻撃して,商人〈アルファーロ〉が大統領に就任(1896~1901,06~11)し,自由主義的な政策をとりました。カカオ輸出が好調で鉄道建設ブームも起き,のちに主要な産業となる石油開発も始まりました。〈アルファーロ〉は反教会政策を初めとし,イギリスやアメリカ合衆国の資本を導入して自由主義的な政策を展開しました。彼は1912年に暗殺されていますが,自由党政権は外資導入・輸出産業推進の政策を1925年まで積極化させていくことになります。


◆パナマ運河を計画するアメリカ合衆国の圧力により,コロンビアからパナマが分離独立する
 コロンビアでは,1880年代には自由主義派の中の穏健派と,保守派の〈ヌニェス〉(任1880~82,84~86,87~88,92~94)による強権的な長期政権の下,
コーヒー輸出産業が盛んとなり,鉄道建設ブームも起きました。経済成長を背景に,中央集権的な政府が必要との意見が強まり,1886年にはコロンビア共和国となりました。〈ヌニェス〉のやり方に対しては自由主義派の中の急進派による反発もあり,1899年~1902年の間に大規模な内戦に発展。
 そんな中,カリブ海から太平洋に進出する思惑を持っていたアメリカ合衆国が
パナマ地峡を削ってパナマ運河を建設する計画を実行するため,1903年にパナマをコロンビアから分離独立させました。





●1870
年~1920年のオセアニア

◆イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ・オーストラリアなどによる植民地化がすすむ
「オセアニア分割」が本格化
1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア

◆ポリネシアは英仏のほか,19世紀末にアメリカ合衆国が食い込むように進出する
ミッドウェー,ハワイ,パルミラ,東サモアは米領に
ポリネシア…①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア チリ領イースター島
 現①チリ領土
イースター島の島民のほとんどは1877年にペルー人により奴隷として連行されますが,最終的に1888年に島はチリ領となります。島民はハンガロアという地区に押し込められ,チリ政府はイギリスの羊毛会社に島の土地を売却し,4万頭の羊が飼育される大牧場となるのです()



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア ②ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ
 
②ピトケアン諸島はすでに1829年にイギリス領。
 
②フランス領ポリネシアは,すでにタヒチ島(1842) 【セA H30フランス領か問う】マルキーズ諸島(1842),トゥアモトゥ諸島(1858)がフランス領。この頃フランスのポスト印象派〈ゴーギャン〉(ゴーガン,1848~1903)は二度に渡りフランス領ポリネシアにわたり,タヒチ島やマルキーズ諸島を訪れ,現地で亡くなっています。
 なお,フランス領ポリネシアの北西に位置するフェニックス諸島(イギリス),ライン諸島北端のクリスマス〔キリティマティ〕島(イギリス)は,ともにイギリス領となっています(現・キリバス)。クリスマス島の北のパルミラ島(1897)はアメリカ領です。

 ③クック諸島
のラロトンガ王国は1888年にイギリスの保護国となり,1901年にニュージーランドの属領となりました。
 
④ニウエでは1876年に現地の国王が支配権を握りますが,1900年にイギリスが保護国化,1901年にニュージーランドの属領となります。



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア ⑤ニュージーランド
 1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉がマオリの王に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘(土地戦争)をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます。1881年にはマオリ王は政府との和解交渉を受け入れています。
 なお,1870年頃からイギリスの資金を導入した鉄道・道路のインフラ整備が政府により進められ,電信線も敷設されました。しかし,中央政府が近代化を進めようとすると,今までの地方分権的な制度とのバッティングが起きるようになり,1876年に地方分権的な制度は廃止されました。
 開発が急速にすすみ,1870年代初期には国民一人当たりの所得は世界トップレベルとなっていました。しかし,1870年代後半には羊毛価格の下落,金の生産の減少,オーストラリアの銀行の破産が続き,不況の時代を迎えます。
 そんな中,ニュージーランドの経済を救ったのは冷凍船の登場です。羊毛輸出に依存していた畜産業は,1880年代以降はヨーロッパ向けのラム肉輸出に舵をきることとなったのです。1895年~1907年は好景気に戻っていきます。
 政治的には1879年には普通選挙法が制定されました。1891年以降は,小農と都市労働者を基盤とする自由党による政党内閣が成立し,1912年にかけて自由主義的な政策をとっていきます。政府の政策により大土地所有者の手から土地が手放され,農民に分配されていきました。
 しかし自由党の政策に不満を感じる農民は「改革党」を支持するようになっていきます。

 また,産業の進展にともない労働者向けの制度の整備もすすみ,社会保障制度も充実していきました。なお,1893年には女性選挙権も認められています。世界的にみてもかなり早い時期の承認となりますが,女性の被選挙権が認められるのは1919年で,実際に女性議員が選ばれるのは1933年のこととなります
(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.190~193)

 1895年には,増加していた中国人移民をターゲットとし,受け入れを制限する法律案が提出されましたが,イギリス本国はこれを認めなかったため実現はしませんでした(日本をパートナーとして重視していたイギリスの意向とみられます)。その後
移民制限は,言語能力をみるテストにより実施され,徐々に中国人に対する締め出しが進んでいきます。
 1899年にイギリスは南アフリカ戦争を開始しましたが,ニュージーランドはこれに兵を送っています(マオリ兵の派遣は見送られました)。20世紀に入ると14~20歳の全男子による国防義勇軍が結成されています。その後,第一次世界大戦が1914年にはじまると,マオリたちの中には「自分たちもイギリスのために戦って株を上げることで,ニュージーランドの中での地位を高めよう」と考える人々も現れます。ヨーロッパ式の教育を受けたエリートからなる青年マオリ党です。ニュージーランド軍は,ドイツ領であった西サモアのアピアに戦わずして上陸。その後はさらにアンザック(ニュージーランドとオーストラリアの連合軍)が,オスマン帝国との戦いで多くの犠牲者を出しています(2721人が戦死)
(参考 山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.196~198)
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。

 
ニュージーランドでは,1840年にイギリス【セH29試行】が内容や締結方法に問題点を含むワイタンギ条約マオリ【セ試行 絶滅していない】【セH29試行】と結び,それに対する先住民のマオリ【セH21オーストラリアの先住民ではない】の抵抗を鎮圧して植民地化されました。イギリスは19世紀後半に,エリス諸島(現在のツバル),ギルバート諸島(現在のキリバス)フィジー,ニューギニア島南東部,ソロモン諸島などを領有しています。フィジーはサトウキビのプランテーションで栄えます。1879年にはフィジーにインド人移民【明文H30記フィジーに限らず,19世紀半ば以降のインド人出稼ぎ労働者の急増に関する問い】が導入されるなど,アジア系移民がオセアニア地域に流入していきました。

 白人の入植者は1852年には自治が認められ,1893年には世界最初の女性参政権を認めています。
ニュージーランドは1907年に大英帝国内の自治領として認められました。
 
1800年には20万人いたニュージーランドのマオリ人【セH21オーストラリアの先住民ではない】は,1900年には4万5000人までに減少しています【セ試行 絶滅していない】。のちオーストラリアは1901年,ニュージーランドは1907年に自治領に昇格しますが,イギリスとの結びつきは強固なままです。今でも両国の国旗にはイギリスの旗(ユニオン=ジャック)があしらわれています。

 イギリスのオセアニアにおける支配圏の拡大に対抗し,同じ頃フランスは
タヒチ島とライアテア島を保護領にしています。この2島を含むソサエティ諸島(フランス語ではソシエテ諸島)は,1880年にフランスの植民地となりました。

 
ハワイには,1885年に第一回の日本移民(日系ハワイ移民)が上陸しました。19世紀後半になるとアメリカ合衆国の進出が激しくなり,1893年にはアメリカ合衆国は海軍を派遣し,最後の女王〈リリウオカラニ(189193)を幽閉し,現地でサトウキビ・プランテーションをおこなっていたアメリカ人農園主らの支持で傀儡(かいらい)政権であるハワイ共和国を建国。女王は1893年に退位させられました。さらに〈マッキンリー〉大統領は,1898年にハワイ共和国をアメリカに併合します【追H9大陸横断鉄道開通とペリー日本来航との順序】【セH21スペイン領だったわけではない】1900年には,サモアの東部をドイツと分け合う形で手に入れます。ハワイ共和国の大統領をいとこにもっていたアメリカ人〈ドール〉は,1901年にハワイアン・パイナップル社を設立しパイナップルの缶詰を製造し,“パイナップル王”と称されました(「Dole」のシールのバナナで有名な,現在のドール=フード=カンパニー)。



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア独立国
 ⑦サモア諸島(現アメリカ領サモア(東サモア)とサモア(西サモア))には,サモア王国がありました。しかし,1889年にサモア王国,アメリカ,ドイツ,イギリスの中立共同管理地域となりました。1899年には,ドイツ領西サモアアメリカ領東サモアに分割されています。



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現
⑧ニュージーランド領トケラウ
 ⑧トケラウは1889年にイギリスの保護国となり,1916年にはギルバート=エリス諸島に組み込まれました。



1870年~1920年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 ⑨ツバルは,1892年にエリス諸島と命名され,北部のミクロネシアに属するギルバート諸島(現在のキリバス)とともに,ギルバートおよびエリス諸島として支配されることになりました。イギリスの保護領です。


1870年~1920年のオセアニア  オーストラリア
 オーストラリア大陸に初めて探検したヨーロッパ人は,オランダ人の〈タスマン【セH29スタンリーとのひっかけ】(1603?1659以前?1661以前?)の一団でした。しかし〈クック〉(17281779)の航海後,18世紀後半にイギリスが領有し,初めは罪人を島流しにする場所として使われていました。しかし,だんだんと自分から移り住む者も増え,19世紀中期にゴールド=ラッシュセH5 16世紀以降の東アジアに金が流入していない】が起きると,600部族に分かれていた先住民のアボリジナル(アボリジニ)【セH27を迫害しながら,発展がすすんでいきました。18世紀に30万人いた人口は,1901年の国勢調査では約6万と,5分の1以下に激減してしまいます。

 1860年代から真珠を生み出すシロチョウガイ採取が,北岸のアラフラ海で盛んとなりました。しかし,アボリジニーは泳ぐことに慣れていなかったため,フィリピン人,マレー人やオセアニアの人々が潜水夫として従事しました。
 1883年になると日本人が採用され,和歌山県,愛媛県,広島県,沖縄県から漁夫が出稼ぎに向かいました。拠点は,ケープヨーク半島とニューギニア島の間にあるトレス海峡に浮かぶ
木曜島と,オーストラリア北東岸のブルーム。1900年代初めには日本人町も建設されるようになっています(注1

 1901年には
オーストラリア連邦(ニューサウスウェールズ,西オーストラリア,南オーストラリア,ヴィクトリア,クイーンズランド,タスマニアの6州)として,大英帝国内の自治領として認められました。
 1903年の移民法で有色人種の入国が禁止されましたが,日本人は真珠採りのために木曜島・ブルームに限って滞在が許可されます(注2
(注1)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.125
(注2)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.126

 ニュージーランドとオーストラリアからは,第一次大戦が始まるとイギリス軍の指揮下で合同軍(ANZAC(アンザック)軍団)が編成され,戦地に派遣されました。特に,対オスマン帝国戦では,ダーダネルス海峡を突破してマルマラ海に進入してコンスタンティノープルを占領する作戦に参加しました。
 この
ガリポリの戦いでは,オスマン帝国の指揮をドイツの将軍がとり,〈ケマル=パシャ(1881?1938,のちのトルコ共和国の建国者)も参加し,最終的にイギリスとアンザックが多数の犠牲者を出して敗北。彼らはソンムの戦いなどの激戦に投入され,さらなる犠牲者を生みました。上陸作戦の開始日である4月25日は,アンザック=デーとしてオーストラリア,ニュージンランドなどの国民の祝日となっています。




1870年~1920年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
 
①フィジー諸島は1874年にイギリスの植民地となります。1879~1916年の間にサトウキビのプランテーションの働き手としてインドからのヒンドゥー教徒やイスラーム教徒の移民が導入されました。これにともない,先住のポリネシア人に加え,インド人の人口が急増することとなります。
 
②フランス領のニューカレドニア(ヌーヴェルカレドニ)は,すでに1853年にフランス領【セH20イギリス領ではない】となっています。
 現在
③バヌアツのあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスの共同統治となっています。
 
④ソロモン諸島は1899年にイギリス領となりました。
 ⑤パプアニューギニアの東半の南部は,1884年にイギリス領となっています。
 それに食い込む形でオセアニア分割に新規参入したのはドイツです。ドイツは⑤パプアニューギニア東半の北部を領有するとともに,1884年にビスマルク諸島(もちろん〈ビスマルク〉首相に由来)を獲得しています。
 一方,東南アジアに
オランダ領東インドを経営するオランダは,すでに1828年にはニューギニア島の西半分を併合していますから,ニューギニア島はオランダ,ドイツ,イギリスによって三分割される形となったわけです。


1870年~1920年のオセアニア ミクロネシア
◆米西戦争敗北によりスペイン領からアメリカ・ドイツ領に転換,大戦後には日本が委任統治へ
スペインからアメリカ・ドイツへ,ドイツから日本へ
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

 ドイツは国内統一に出遅れたため,太平洋への進出も出遅れます。
 
19世紀後半になって太平洋のうちメラネシア西部と,ミクロネシアの諸島を領有していきました。1885年には①マーシャル諸島を獲得。なお,マーシャル諸島北東のミッドウェー諸島(1867),北方のウェーク島(1889)はすでにアメリカ合衆国の領土となっていました。

 ドイツ
【追H9日本,アメリカ,イギリスではない】は,米西戦争(1898)でアメリカに負けたスペインから,1899年に④北マリアナ諸島(グアムを除いたマリアナ諸島)と,カロリン諸島【追H9】(現④ミクロネシア連邦),⑤パラオ諸島を売却され,獲得しています。
 スペインは
⑥グアムをアメリカ合衆国に割譲しています。

 
③ナウルは1888年にドイツ領となり,20世紀に入って化学肥料の原料となるリン鉱石の採掘が始まります。1914年にイギリスが支配下に置き,1920年からイギリス・オーストラリア・ニュージーランド委任統治領となり,リン採掘権はイギリスにありました。採掘には中国人労働者が用いられていました。小島の森林は伐採され,採鉱により環境破壊が進みました()
 
②キリバスのうち,1900年にはイギリス資本のパシフィック=アイランズ社が,近隣の現キリバス共和国のオーシャン島のリン鉱山を購入しています。

 やがてオセアニアのドイツ植民地は,ドイツが
第一次世界大戦(1914~1918)で敗れると,国際連合の委任統治領に代わります。
 ミクロネシアは日本の,ドイツ領ニューギニアはオーストラリアの
委任統治領となりました。日本はついに“南の島”への進出を始めるのです。
 ミクロネシアの
⑤パラオには日本の南洋庁が置かれ,日本による統治が始まりました。パラオには,現在でも日本語が公用語とされている州があるほどです。

(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.354。





●1870年~1920年の中央ユーラシア

中国・ロシアによる中央ユーラシア分割が完了
1870年~1920年の中央ユーラシア  モンゴル
 モンゴル高原では,1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,「清の皇帝が倒されたのだから,モンゴル人と清との関係はなくなった」とみなし,外モンゴル【セH19】のハルハ地方のチベット仏教の僧侶によって独立が宣言され【セH19辛亥革命のときかを問う】,政権が建てられました。彼らは皇帝(ボグド=ハーン)として,チベット仏教でブッダの生まれ変わりとされる活仏〈ジェブツンダムバ=ホトクト8世〉(チベット人です)を選び,清の支配下にあったモンゴル人を統一しようとしました。彼らは,〈孫文〉を中心とする中華民国によって,支配が引き継がれることを恐れたのです。そこで,清に対抗するために軍事的な支援を求めた相手が,ロシア帝国でした。

 これを警戒したのは,当時日露戦争に勝利し,大陸への進出を見据えていた日本です。「ボグド=ハーン政権がロシアの支援を受けてしまえば,ロシアの事実上の南下につながってしまう」と考えた日本は,ロシア側と調整。日露戦争で負けたロシアも争いは望まず,ひとまず内モンゴル(モンゴル高原南部)を,ロシアと日本とで勢力圏に分けることにしました。さらに,ロシアも中華民国も,〈ボグド=ハーン〉政権に介入したので,一気に関係は複雑化。1915年のキャフタ協定で一応その存在は中国とロシアによって認められましたが,中国の宗主権下の外モンゴルのボグド=ハーン政権の領域は外モンゴルのみとされ,内モンゴルは除外されてしまいました(自治の対象外となった内モンゴル)。

 しかし,1917年にロシア帝国が崩壊すると急展開をむかえます。ロシアが倒されたので,日本は「革命の阻止」を口実に勢力を北に拡大させていきます。〈ボグド=ハーン〉政権の領域には,日本と中華民国による進出のおそれがありました。
 そんな中,シベリアのバイカル湖周辺のモンゴル人(ブリヤート=モンゴル人)が,モンゴル人の自治を守り独立をめざすための運動を起こすようになりました。1920年には中国を排除しようとするモンゴル人民党が結成され,これを革命ソヴィエト政権が支援したのです。モンゴルにとってソヴィエトは助け船であったわけです【セH11「長く国境を接するソ連からの政治的影響を,中国本土からの影響よりも強く受けていた」のはモンゴルであって,チベットではない】

1870年~1920年の中央ユーラシア  チベット
 チベットは,インドの植民地化を進め,ロシアの南下を阻止しようとしていたイギリスにとって,戦略的に重要な場所にありました。清はチベットに対する宗主権を主張していましたが,チベットは独立を主張。イギリスはロシアが勢力を及ぼすのを避けるため,チベットの独立を認めることで言いなりにした上で,清にもチベットに対する宗主権を認める “二枚舌外交”を展開します。
 1903~1904年にはチベットを攻撃しラサに入城した上で1904年ラサ条約を結びチベットが独立状態にあることを示しました。
 一方,1907年の英露協商では,清がチベットの宗主権を持っていることを承認したのです。
 
1911年に辛亥革命が起きてその清が倒されると,〈ダライラマ13〉を中心に独立運動が始まりますが,1913年には,イギリスと中華民国とチベットの3者間でシムラ会議が開かれ “中国の宗主権のもとで自治が認められる”という曖昧な取り決めがありましたが,国境線に関して不満の中国は代表を行きあげ,条約はイギリス・チベット間のみの締結となり中国側は調印を拒否。チベットの地位をめぐる国際的な合意は得られぬまま持ち越しということになりました。
 なお,黄檗宗の僧〈河口慧海〉(かわぐちえかい,1866~1945)は,日本人として初めて1901年にチベットのラサを訪れ,翌年まで1年余り滞在し,『西藏旅行記』(1904)を出版しています
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()河口慧海「チベット旅行記」青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html)


1870年~1920年の中央ユーラシア  トルキスタン
トルキスタンはイギリスとロシアによるグレート=ゲームの争奪地となった
 
アラル海からタリム盆地にかけての地方には,ウズベク人が建国した,ブハラ=ハン国,ヒヴァ=ハン国,コーカンド=ハン国【追H20】の3つのハン国を建国しました。ハン国ということは,チンギス=カンの正統な末裔による国だということです。
 これらの国は,ロシアがイラン・インド方面に南下する際の通り道となりますから,順次ロシアに併合されてしました。その後,ソ連時代にもロシア人の支配を受け続けましたが,1991年にソ連が崩壊すると,現在は完全な主権をもったウズベクの国(ウズベキスタン)が成立することになります。

 中央ユーラシアには,かつてティムール帝国を崩壊させたウズベク人【慶文H29】が,チンギス=カンと〈ムハンマド〉の末裔たるハーンを担いで,3つの国家を形成していました。ヒヴァ=ハーン国,ブハラ=ハーン国,コーカンド=ハーン国【追H20】です。ロシアの南下はこの地域にも及びます(#漫画 〈森薫〉の漫画『乙嫁語り』はこの時期(クリミア戦争後)の中央アジアを舞台としています)。その南にはインドがありますから,ロシアの南下を嫌うイギリスとの間にグレート=ゲームと呼ばれる,中央ユーラシアを舞台にした列強の領土争いに発展しました。機をうかがっていたロシアは,清の領内のイリ地方【東京H26[1]指定語句】でイスラーム教徒の反乱がおこり,ロシアがそれに乗じて軍事占領しました(1881イリ事件)。そのため,清とロシアとの国境紛争がおきましたが,条約が結ばれ,国境が確定されました(1881イリ事件)。この中で,イリ地方の一部は清に返還されたものの,イリ地方の西部はロシアに割譲され,ロシアはあわせて賠償金と通商上の利権を獲得しました。

 疲弊した清に対し,
新疆(しんきょう)のイスラーム教徒は各地で反乱を起こしていました。
 そのうちタリム盆地西部の反乱軍は,コーカンドのハーン国に応援を頼むと,軍人〈ヤークーブ=ベグ〉が1865年にカシュガルに派遣されました。彼は次々に反乱勢力を鎮圧し,1870年に天山山脈以南のタリム盆地を征服しました。〈ヤークーブ=ベグ〉は,西方のオスマン帝国による援助を取り付け,フランス式の軍事訓練を行いました。イギリスもロシアも,〈ヤークーブ〉と関係を結んでおけば,あとから植民地化ができるかもしれないと考え,通商条約を結びました。
 このように,この時期の新疆は,事実上コーカンドの〈ヤークーブ=ベク〉により,もぎ取られていた状態だったのです。
 この混乱をみたロシア軍は,新疆への進入をはかろうとし,1871年にイリ地方を占領しました。反乱により,誰が支配者なのかわからなくなっているどさくさに紛れての進出です。
 「これはまずい」と,1875年に新疆に〈ヤークーブ〉を倒しに〈左宗棠〉率いる軍が派遣され,各地で撃破していき,1877年に〈ヤークーブ〉が亡くなると,新疆国家は崩壊しました。
 この間,ロシアはイリ地方周辺を占領下におさめていましたが,1881年のイリ条約【追H21時期(19世紀後半か問う)】で占領地は清に返還されました。
 戦後,清は新疆への統治を強めるとともに,漢語を押し付けるなどの政策をとりました。その結果,新疆の地域では清への反感が高まっていきました。また,ロシアは占領地を失ったものの,ロシアの領土に編入されていたタタール人やウズベク人が,新疆に商売をするようになると,「パン=イスラーム主義」の情報なども伝わって来るようになります。ロシアと清との貿易で力をつけた商業資本家たちは,自分の子どもをロシアやオスマン帝国に留学させるようになっていきました。ロシアは,1873年にヒヴァを占領し,ヒヴァ=ハーン国を保護国化【セH15・H18・H30しました。軍人〈ヤークーブ〉を派遣していたコーカンド=ハーン国も,1876年にロシアの攻撃や,領内のクルグズ人の反乱により滅び,ロシアの支配下に置かれました【京都H19[2]】【セH15・セH18【追H20時期(19世紀以降),併合したのはソヴィエト連邦ではない】。ロシア軍の軍政に対する反発も起こり,1898年にはフェルガナのアンディジャンで,ロシア軍に対するイスラーム教徒の反乱が起きています。
 
1911年に辛亥革命が起きて清が倒されると,新疆でも1912年に独立運動が起きてウルムチに政権が建てられましたが,漢人の〈楊増新〉により事実上「独立政権」が樹立されて住民による運動はおさえられ,清の政策を引き継ぐ体制が続きました。この漢人政権は,中華民国政府との関係も維持していました。

 なお,敦煌の莫高窟の秘密のスペースに隠されていた大量の仏典(敦煌文献)が1900年に発見されたのを聞きつけ,イギリスの探検家〈スタイン〉(1862~1943)が,1906年からの第二回探検(第一回は1900年)の成果として持ち帰っています。フランスの〈ペリオ〉(1878~1945)も遅れて敦煌に入り,文献の一部を持ち帰っています。なお,同時期に日本の浄土真宗本願寺派の僧〈大谷光瑞〉(おおたにこうずい)も,3度に渡る探検をしています(1902~04,1908~09,1910~14)。





●1870年~1920年のアジア

1870年~1920年の東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

1870
年~1920年の東北アジア
◆日清戦争,日露戦争,ロシア革命を経て,沿海州は革命勢力の支配地域となった
清が滅び,沿海州は赤軍の支配地域となる
 女真(女直,ジュルチン)を支配層とする清は,日清戦争(1894~1895)を経て19世紀後半に弱体化し,1912年に滅びました。
 その間,女真の根拠地の
満洲(まんしゅう)朝鮮半島をめぐって,南下をすすめるロシア帝国と日本との間に日露戦争(1904~1905)【東京H14[1]指定語句】【明文H30記】が勃発。その後,ロシア帝国が第二次ロシア革命で滅びると,沿海州は革命勢力と資本主義諸国との間の戦場となりました。このとき最後まで満洲に軍隊を進駐(シベリア出兵)させた日本は,最終的に1922年に撤退。沿海州は革命勢力である白軍の支配地域となりました。
 
 日本は清の最後の皇帝〈
溥儀(ふぎ)〉(1906~1967)と接触し,満洲への進出をめざす日本政府と,再びみずからの国家を樹立したい女真人の思惑が交錯していくことになります。

◆沿海州~ベーリング海峡までの地域は,赤軍の支配地域となる
沿海州~ベーリング海も赤軍の支配地域となる
 イェニセイ川からレナ川周辺でトナカイ遊牧を営む
ツングース人ヤクート人,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人は,ロシア帝国に代わって,革命勢力である白軍の支配下に入ります。


1870年~1920年のアジア  東アジア
 
アロー戦争(1856~60)や太平天国の乱(1851~62)の鎮圧を通して欧米の軍事力の威力を思い知った清の指導者は,女真(女直)人ではなく漢人官僚を中心に,清の産業・軍事技術の近代化を目指す洋務運動【セH10立憲君主政を求める運動ではない】を始めました。〈(かん)(ぽう)(186175)はこれを推進しましたが,実験を握っていたのは母親の〈西太后(皇帝であり父である咸豊帝の皇后) 【セH29試行 則天武后ではない】【明文H30記】です。〈同治帝〉が19歳の若さで亡くなるまで,政治の実権を握っていました。
 

 〈西太后〉は,漢人官僚〈李鴻章(18231901) 【東京H29[3]】の軍事力を頼って,洋務運動を支持・推進しました。しかし,依然として欧米との不平等条約は改定されず【セH11 当時(1871年前後)に不平等条約が改定され欧米諸国との対等な外交関係が樹立されていたか問う】,“同治の中興(ちゅうこう) 【セH11 当時(1871年前後)の中国の近代化政策として,「同治中興」という安定期があったかを問う】といわれた〈同治帝(18751908)の治世には,次々に洋務運動の失敗が明るみに出ます。一般に同治中興【セH6時期(太平天国後の「開元の治」ではない),セH8時期(義和団事件の後ではない)】は,時期は即位翌年1862年の洋務運動の開始から,同治年間が終わるとき(1874)までを指します()
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123

(1) 18841885年 清仏戦争【セH10 時期:1850~60年代ではない】でフランス(第三共和政)に敗北し,ヴェトナムの(しゅう)主権(しゅけん)を喪失。
(2)
 18941895年 日清戦争で日本(大日本帝国)に敗北し,朝鮮の宗主権を喪失。

 1392年以来続いていた朝鮮王朝では,18111812年に大規模な農民反乱が起こりました。中央支配層の両班(ヤンバン)の権力闘争や腐敗に対する批判が,重税に苦しむ農民反乱と結びついたのです。指導者の〈洪景来(ホンギョンネ,こうけいらい,17801812)は一時現在の北朝鮮北部を制圧しましたが,王朝軍に殺され反乱も鎮圧されてしまいました。〈崔済愚(チェジェウ,さいせいぐ,182464)は1860年,「キリスト教に代表される西洋の思想の次には,東洋の思想の時代がやってくる」と主張し,「東学【セH6】【セA H30】を旗印に儒教・仏教・道教【セH6キリスト教と民間信仰・儒教を結びつけたわけではない】【セA H30ゾロアスター教の影響は受けていない】を融合して,ヨーロッパ批判だけでなく儒教道徳を押し付ける朝鮮王朝批判を展開しましたが,弾圧されます。

 そのころ朝鮮王朝【セH10:1870年代の朝鮮の宗主国が清か問う】26代の王は〈高宗(〈李太王〉,在位18631907)でしたが,実権は〈大院君(たいいんくん,182098)がにぎっていました。〈大院君〉はアメリカやフランスの来航に対しあくまで攘夷を主張しました【セH13フランスは朝鮮を開国させていない】【セH3「李氏朝鮮」は鎖国攘夷政策をとったが,清の宗主権を否定し,清がこれを認めることはなかった。また,開化政策をとり鎖国攘夷派により失脚もさせられていない】
 しかし,〈大院君〉の息子である〈高宗〉の后の〈
閔妃(ミンビ,びんひ,185195)一派が〈大院君〉を失脚させ,1873年に〈閔妃〉一族が政治に介入します。これを閔妃政権といい,日本から軍事顧問を招いて軍事力の西洋化をすすめました。
 しかし,日本【セH10イギリスではない】【セH13フランスではない】1875年に江華島事件【東京H20[1]指定語句】を起こし,翌1876年に日本側の全権日本側全権〈黒田清隆〉(くろだきよたか,1840~1900),〈井上馨〉(いのうえかおる,1836~1915)と朝鮮側全権〈申〉(しんけん,1810~1884)らとの間に日朝修好条規【セA H30日清修好条規ではない,アメリカ合衆国が開国させていない】が結ばれ,朝鮮を開国させました【セH13時期(19世紀後半)】。軍艦で威圧する砲艦外交によって,日本がかつてアメリカ合衆国の〈ペリー〉から受けたのと同じようなことがなされたわけです。

 日朝修好条規では,
朝鮮は自主の邦とされたものの,日本の領事裁判権を認める(第10款「日本國人民朝鮮國指定ノ各口ニ在留中若シ罪科ヲ犯シ朝鮮國人民ニ交渉スル事件ハ總テ日本國官員ノ審斷ニ歸スヘシ」)などです。また,すでに日本公館のあった釜山(プサン)以外の2港の開港と通商も求められ(第4・5款),結局,元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)が開港されました。付属第7款では,開港場での日本の貨幣の使用も可能となりました。朝鮮側には同様の条項がないので,日朝修好条規は不平等条約といえます。
 
 こうして従来の中国の皇帝を中心とする従来の
冊封体制(さくほうたいせい)を切り崩し,ヨーロッパ式の外交のルールにのっとり,日本側に有利な日朝の政治・通商関係をつくろうとしたのです。
 「どうしてそんな条約を日本と結んだんだ!」と〈閔妃〉一族に対する不満が,軍隊の反乱として現れました。「〈大院君〉にもう一度政治の舞台に戻ってもらおう」と担ぎ出し,〈閔妃〉一族や日本人が殺されました(1882壬午軍乱)
 これに対し,「宗主権を持っているのだから出兵をするのは当たり前」という清と,「〈閔妃〉一族や日本人保護のため軍隊を派遣するのは当たり前」という日本が同時に朝鮮に出兵する事態に。結局〈閔妃〉一族を助けたのは清で,このとき〈大院君〉は清によって捕まえられました。助けられた〈閔妃〉一族は,その後清と結びつくようになります。
 こうして,「日本と結びつくのは危ない。やはり清を頼りにして,保護してもらうべきだ」と考える〈閔妃〉政権に対し,「日本のように朝鮮を近代化するべきだ。そのために日本と協力しよう【追H20敵対したわけではない】」という開化派(独立党) 【追H20】の対立が始まります。
 開化派の〈
金玉均(185194) 【セH3日朝修好条規に対し反日クーデタを起こしていない,大院君は開化政策をとろうとしていない】や〈朴泳孝〉(18611939)らが首都の漢城で,〈閔妃〉政権を一時的に崩壊させるクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)が起きました。1884年の甲申政変です。結局これも清が鎮圧して,失敗に終わります。

 ただ,朝鮮半島で何かが起きるたび,日本と清の軍隊が場当たり的に派遣され,「戦争一歩手前」の事態に発展していては,毎回冷や汗モノです。

 そこで,1885年の天津条約では「いったん日本の清も朝鮮から撤退して,今後出兵するときには,必ず事前に通告するようにしましょう」という内容が取り決められました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆朝鮮をめぐり日清戦争が起き,日本が勝った
【セH29試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】
 東学
【セH29試行 時期(当時の朝鮮はまだ日韓協約を締結していない),セH29試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】はヨーロッパや日本の進出に抵抗し(「斥洋倭」(ちくようわ)がスローガン),朝鮮王朝をも批判する教義により,広範囲に支持者を増やしていました。
 閔妃政権は東学に弾圧を加えますが,1894年2月に朝鮮半島東南部の全羅道で,地方幹部の〈全琫準〉(チョンボンジュン;ぜんほうじゅん)
【東京H21[3]】【セH12蒋介石ではない】率いる(みん)(ペン)((こう)()農民戦争【セH3「東学党」は太平天国とは関係ない,セH10 時期:1850~60年代ではない,セH12】)が,地方政庁の収奪や,日本勢力や閔妃政権に対して勃発しました。
 農民軍が政府軍を倒して拡大していくと,自力で鎮圧するのは無理とみた閔妃政権は清の〈
袁世凱〉(えんせいがい) 【東京H27[3]】に派兵を求めました。それに対抗し,日本政府も公使館と現地の日本人を保護するという名目で出兵しました。
 当時の農民軍は,東南部の全州で政府軍に包囲されており,清と日本が出兵したことを聞くと,6月10日には農民軍と政府軍との間で「
全州和約」が結ばれ,農民軍は撤退しました。
 和約が成ったので閔妃政権は日本と清に撤退を求めましたが,日本政府は清に反乱の鎮圧と朝鮮の内政改革を提案しました。この時点ですでに日本は仁川,漢城を占領していました。日本軍は武力を背景に政府軍を武装解除し,〈大院君〉を支持して閔妃政権を倒しました。
 さらに日本の艦隊は清の北洋艦隊を攻撃(豊島(プンド)沖の開戦し,
1894日清戦争が勃発しました。日本は朝鮮政府(開化派政権)・地方官庁に圧力をかけつつ,平壌の戦い,黄海海戦に勝利しましたが,民衆の間には日本に対する抵抗運動も置きていました。〈全琫準〉率いる朝鮮半島東南部の全羅道の農民軍は,日本と結んだ政権(開化派政権)と日本に対する蜂起を10月に再び起こしましたが,1895年1月には鎮圧されました。日本は清と戦いつつ,朝鮮半島で農民軍とも戦い,朝鮮政府に対する日本の圧力を高めていったわけです。
 1895年4月に下関条約【セH13日露戦争・第一次大戦・日中戦争による獲得ではない,セH15】【追H20これに対し五四運動は起きていない】が締結され,日清戦争は終わりました。この中で朝鮮が清から独立していること【セH15地図(朝鮮の位置を問う)】,日本への賠償金の支払い,遼東半島台湾セH5】【セH13】・澎湖(ほうこ)諸島【セH19日露戦争による獲得ではない】の日本への割譲が決まりました。こうして清は朝鮮に対する宗主権を失いました。
 日本は莫大な賠償金
(2万両(テール))を元手に,産業革命(工業化)をいよいよ本格化させていきます。また,清における鉱山の採掘権・鉄道の敷設権も獲得しました。
 閔妃政権はこれを機に,日本ではなくロシアに接近することで,日本の進出を押し止めようとしていきます。これをみた日本公使〈三浦梧楼〉(みうらごろう)は1895年10月に〈大院君〉を支援し,王宮の京福宮で〈閔妃〉を殺害しました(
(びん)()事件,乙未(いつみ)事変)。これにより,日本の支援を受けていた開化派政権に対する朝鮮人の支持は低下し,親ロシア派の官僚がロシア兵の支援を受け〈高宗〉をロシア公使館に移し(露館播遷),クーデタを起こして開化派政権を倒しました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆清は欧米・日本の経済的な従属下に置かれていき,知識人の間に危機感が生まれた 
 「日本に倒せるなら,(しん)なんてちょろい」とばかりに,ロシア,フランス,ドイツ,イギリスが清の利権や日本を狙い始めます。1895年には日本の進出を南下の障害とみたロシアは,フランス【セH3ナポレオン3世の時代ではない】とドイツ【セH2イギリスではない】を誘って
遼東半島を清に返還させます
(三国干渉) 【セH2】【セH17イギリスは参加していない・時期】
 清に恩を売ったロシアは,
1896ウラジヴォストーク【東京H15[3]に向けた東清鉄道の敷設権【セH6清の国営事業として建設されたのではない】【立教文H28記「東清」】を獲得し,1898年には旅順【東京H26[1]指定語句】【セH20時期】大連【セH20時期】などの遼東半島南部を租借します。

 その頃,ロシアは朝鮮に親ロシア派の政権を樹立させることに成功していました。1897年8月には清からの独立をハッキリと示すために,国号を「大韓」(テハン,だいかん)と改め,〈高宗〉は皇帝に即位しました(
大韓帝国【京都H19[2]】【追H9朱子学と書院の栄えた時代ではない,H30大韓国ではない】)。その後,朝鮮の利権をめぐって日本とロシアは譲歩をしながらも,次第に対立を深めていきました。

 中国では,その後立て続けに欧米・日本によって勢力圏が事実上決められていきました。

1898年にドイツ【立教文H28記】は山東半島南東部に膠州湾(ジャオジョウワン,こうしゅうわん)【セH14フランスではない,セH15時期(19世紀末),セH25】を租借
1898年にイギリスは,山東半島の東部に威海衛(いかいえい)【セH25時期】と九龍半島の新界を租借。長江流域【セ試行 時期(19世紀末までにか)】も勢力圏に加えます。
1899年フランスは広州湾(グワンジョウワン,こうしゅうわん)を租借していきました
・日本は,
1895年に獲得していた台湾の対岸にある福建【セH15イギリスの勢力圏ではない・地図】を勢力圏に入れていきます。

 「
勢力圏」というのは,他国の進出をブロックすることができる地域のことをいいます。「中国分割」というのは,中国の清の主権を奪う「植民地化」ではなく,そこに鉄道を敷設したり鉱山を採掘したり,工場を建設したりする利権を,ヨーロッパ諸国が獲得していったことを意味します。

 ヨーロッパ諸国が中国に勢力圏を広げていくことに不快感を示したのはアメリカ合衆国です。事実上この「中国分割(中国の領土が租借されたり勢力圏に組み込まれたりしていったこと)」に乗り遅れたアメリカの〈マッキンリー〉大統領は,国務長官(外務大臣のこと)である〈ジョン=ヘイ【セH25】(18381905)の作成した門戸(もんこ)開放宣言(通牒(つうちょう)) 【セH2英仏がアメリカを誘って発したわけではない】【セH23時期,セH26】に同意。1899年にイギリス,ドイツ,ロシア,日本,イタリア,フランスの外交官に発送されました。「中国に「勢力範囲」を設定するのはいいんだけど,自由に通商ができる場所は欲しい。それに,通商は「機会均等」となるようにしてほしい」とお願いしたのが初めの2原則(門戸開放機会均等の原則)。さらに1900年に義和団事件【セH8時期(同治中興の前ではない)】が起きると,出兵した連合軍に対して「清の領土及び行政の保全」(領土保全の原則)と通商の機会均等を要請しています。

 中国の人々にとって「中国分割」の事態はとりわけ深刻に受け止められました。ヨーロッパで流行してした社会進化論の影響もあり,「このままでは優れた人種であるヨーロッパによって中国が滅んでしまう」という言説もみられました。特に,外国に留学した漢人エリートたちの中には「同じアジア人である日本の明治維新に見習おう」という動きが生まれ,
変法運動(へんぽううんどう)へとつながっていきました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆日本の明治維新を見本とする改革 (変法運動) が起きたが,保守派により中止された
 
1888年に編成された清の北洋艦隊は,日清戦争の黄海海戦・威海衛海戦で壊滅。生みの親である〈李鴻章(18231901) 【東京H29[3]】,山口県の下関で条約を結んだ張本人でもあり,洋務運動の成果である北洋艦隊が壊滅したことで,彼の権威は失墜しました。
 ただ,彼はそれでも〈西大后〉に可愛がられ,政治の舞台からは完全に退くことはありません。彼は「日本の次に脅威になるのはロシアだ。そのためには,ロシアと仲良くしておいて,日本の進出に対抗したほうがよい」との考えから,
1896年には満洲におけるロシアの権益(東清鉄道の敷設権)をみとめる内容の露清密約が結ばれました。これが後の1898年の旅順・大連の租借につながります。

 時の皇帝は第11代〈光緒帝(こうしょてい,位18751908) 【共通一次 平1:清朝の最後の皇帝ではない。満州事変の原因・結果に関連しない】【セH11清朝の最後の皇帝ではない】です。とりわけ日清戦争での敗北にショックを受けた清の漢人官僚のなかに,「洋務運動のように形だけ西洋技術をとりいれても無駄だ。もっと根本的に政治制度をつくりかえよう。そのときにモデルにするのは日本の明治維新だ」というグループが台頭してきました。〈康有為(こうゆうい,18581927)や〈梁啓超(りょうけいちょう18731929) 【セH11:胡適とのひっかけ】【追H21孫文とのひっかけ】・〈譚嗣同〉(たんしどう,186598)らの公羊学派(くようがくは)による変法運動(変法自強運動)【セH9ヴェルサイユ条約に反対したものではない】です。公羊学派というのは『春秋』を革命の書として,「儒教はもともと社会を変えようという考えだったじゃないか。社会改革を積極的に行おう」という儒教のグループです。〈康有為〉は1888年に北京で〈光緒帝〉に改革の必要性を書面で訴えましたが,保守派は相手にせず,日清戦争を迎えます。敗戦後に〈康有為〉の弟子〈梁啓超〉【追H21】が1895年に強学会を建てると,〈康有為〉とともに出版活動を活発におこない,湖南省など一部の地方の官僚の中は,公羊学派の説を取り入れた改革をおこなう者も現れました。
 この動きをみた〈光緒帝〉は〈康有為〉を取り立て,伝統的な制度を廃止し,近代的な学校(京師大学堂(けいしだいがくどう))の建設や科挙の改革を通して
立憲君主制をめざす変法が始まりました。これを,()(じゅつ)変法(へんぽう)といいます。しかし,〈李鴻章〉の跡継ぎである〈袁世凱(えんせいがい)【東京H27[3]】に支援された〈西太后〉【セH8らの保守派にはばまれて,〈光緒帝〉は幽閉され,〈康有為〉・〈梁啓超〉【追H21】は日本に亡命しするという結果に終わりました(戊戌の政変【セH8)。こうして“改革”が失敗すると,危機感を持った知識人・学生の間には“革命”が選択肢に急浮上することになります。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆欧米・日本の進出に対する民衆反乱である義和団事件が鎮圧され,清はさらなる従属下に置かれた
 
列強の進出が進むなか,1858年の天津条約で認められた「キリスト教布教の自由と宣教師の保護」にもとづいて欧米各国の宣教師が各地でキリスト教を布教していました。それに対抗する民衆運動を,仇教運動(きゅうきょううんどう,教案) 【追H20太平天国は無関係】【立教文H28記】といいます。
 もちろん,キリスト教だけではなく,欧米によって伝統的な社会経済が壊されたことへの不満も大きいものでした。欧米の資本が導入されて,鉄道や蒸気船,電信が採用されるようになると,従来の車夫(人力車の運転手),船頭(せんどう)や飛脚が失業するようになります。また,鉄道の敷設が,伝統的な寺院や墓地を破壊することもありました
【セH10「キリスト教会や鉄道を破壊した」か問う】。地方の官僚たちにはこの仇教運動を黙認する者も多かったのですが,都の北京にほど近い山東省の巡撫(じゅんぶ,長官のこと)に対し,「中国に滞在している公使館員を守るため,山東省で急拡大している義和団の動きを止めてほしい」とヨーロッパ諸国が要請するようになります。 

 
義和団【セH8時期(同治中興の前ではない)】【セH19】とは,反清・反欧米の集団で「扶清滅洋」(ふしんめつよう) 【セH8李鴻章ののスローガンではない,セH10太平天国のスローガンではない】【セH19】をスローガンにかかげ,ヨーロッパ諸国の進出に抵抗するために武術した白蓮教(びゃくれんきょう)の一派でした。ヨーロッパ諸国の圧力を受けて清朝は巡撫は罷免し,代わりに〈袁世凱〉が就任すると,義和団は北京へと移動するようになりました。ドイツが勢力圏とした山東半島で武装蜂起すると,そのまま北京に迫る勢いを見せました。
 〈西太后〉は,はじめは義和団側について「義和団なら,ヨーロッパ諸国を追い出してくれるかもしれない」とばかり思い,ヨーロッパ諸国の軍を攻撃しドイツ公使が殺害,さらに列強に宣戦します。こうして,北京の公使館地区を包囲した義和団に対し,日露英仏米独伊墺の8か国連合軍【セH8西太后はこれを破っていない,セH10西太后が派遣を要請したわけではない】【セH19ポルトガル軍は参加していない】公使館員を守るために共同出兵しました(ほかにオランダも) 【セH20時期】。しかし,多くの地方長官は清の宣戦布告に従うことなく,治安の維持に務めて連合軍との戦いを避けました。あわてた清は,遅ればせながら義和団の鎮圧にまわりましたが,反乱の責任をとって1901年に清は連合国と北京議定書(辛丑和約(しんちゅうわやく)) 【京都H19[2]】【セH8【追H21を結びました。この中では,外国軍隊の北京公使館区域(および北京と海港の間)駐兵権【セH19上海ではない】【追H21「外国軍の北京中流」】や莫大な賠償金(4億5000万両の39年払い)などが決められ,中国の半植民地化は決定的なものとなりました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆イギリスとの中央ユーラシアの取り合いが太平洋沿岸にまで広がり,日露戦争の引き金となる
 東アジアには朝鮮や中国東北地方(満洲)をねらう日本とロシアの対立という構図が生まれていました。
 
義和団事件(19001901)の勃発時,アメリカはアメリカ=フィリピン(米比)戦争でフィリピンの植民地化をすすめ,イギリスは南アフリカ〔ブール〕戦争で南アフリカの植民地化をすすめていました。ですから,中国に派兵する余裕があまりありません。
 義和団事件が終わってもなかなか中国東北地方〔満洲〕から撤退しようとしないロシア
【追H20「アメリカ合衆国の東アジア進出に対抗して」ではない】を警戒したイギリスは,1902年1月に日英同盟【セH5 1920年代ではない,セH9,セH12】【追H20】【中央文H27記】を結ぶことで,日本の軍事力によってロシアの南下を阻止する戦略に出ました。
 日英同盟は,ロシアを仮想敵国
(将来日本かイギリスがロシアと戦争したら,共同して戦うぞという国)とする同盟で,従来光栄ある孤立」を旗印に他国と同盟を結ぶことを極力避けていたイギリスがその政策を180度転換したわけです。イギリスの政治的な後ろ盾を得た日本は,日銀副総裁の〈高橋是清〉(たかはしこれきよ,1854~1936)がイギリスのユダヤ人資産家(ロスチャイルド家)とロンドンで会談して戦争に向けた資金の提供も受け,万全の体制をとっていきます。

 日本とロシアの思惑に挟まれた
大韓帝国(1897年に改称)は皇帝権を強化し,列強の進出を打破しようとしました。民衆の間にも抵抗運動が起きています。

 しかし,
1904年に日本は日本陸軍は海軍の護衛を受けながら朝鮮の仁山に上陸し,翌日にかけて旅順港の攻撃と仁川沖海戦をもって日露戦争【セH2イギリス・フランスがともに日本を支援したか問う,セH12時期(軍事費が1904~05年に多いことを読み取る)】が始まりました。中立をとっていた韓国の漢城は日本に占領され,日韓議定書の調印を迫られました。
 ロシアはこのまま援助を受けずに単独でたたかうことを避け,応援が来るまでなんとか旅順港を死守しようとしました。その後日本陸軍は陸からの旅順攻略を主張しましたが,海軍は「陸軍の援助などいらない」と主張し,対立。しかし,ロシアがバルト海の艦隊を日本海に向かわせていることがわかると,海軍は陸軍に旅順攻略を助けてもらう案を承知します。多大な犠牲を払い旅順の攻略には成功しましたが,ロシアのバルト海艦隊は日本に迫っています。そんな中,1905年3月には奉天会戦で陸上での決戦を制し,1905年5月には〈東郷平八郎(18471934)を司令官とする日本海軍が,バルチック艦隊を撃破することに成功しました(日本海海戦)
 その直前1905年1月には第一次ロシア革命が勃発していて(血の日曜日事件),戦争の終結が難しくなっていました。1905年6月には,黒海艦隊で戦艦ポチョムキン号の反乱も起きています。実はこうした「革命を起こさせて,ロシアを内側から崩壊させる」作戦も,陸軍のスパイである〈明石元二郎〉(18641919)により秘密裏に遂行されていたといわれています。

 とはいえ長期化する戦争が財政を圧迫していた日本は,アメリカ合衆国の後ろ盾を得て,有利な形で早期決着を図ろうとします。1905年7月には,〈桂太郎(かつらたろう)〉首相(兼臨時外相,任1901~06,08~11,12~13)とアメリカの特使〈タフト〉陸軍大臣の間に桂・タフト協定が結ばれ,アメリカにフィリピンでの支配権を認めるかわりに,日本の韓国(1897年から朝鮮王朝は,大と名前を変えています)での支配権を認めてもらうことに成功しました。

 そして,
1905年9月,アメリカ【セH10イギリスではない】大統領の〈セオドア=ローズヴェルト(愛称はテディ,任190109) 【追H21】による調停を受け,ポーツマス条約【セH10イギリスの調停ではない】【セH13下関条約ではない,セH16中国とアメリカが結んだわけではない】が結ばれて講和しました【追H21日清戦争の講和ではない】。〈ローズヴェルト〉は1906年にノーベル平和賞を受賞しています。
 日本の全権は〈小村寿太郎〉
(18551911),ロシア全権は〈ヴィッテ(祖先であるオランダ語読みはウィッテ,18491915) 【中央文H27記】です。条約において,日本の韓国に対する「指導,保護および監督」の権利が認められます。指導,保護,監督…拡大解釈が可能なように,あえてあいまいにな言葉にしているわけです。さらに,遼東半島南部を租借し,ロシアがもっていた利権(東清鉄道の支線であるハルビン~長春~大連~旅順間の南満洲鉄道【共通一次 平1:日露戦争の後「日本は南満州鉄道株式会社(満鉄)」を作っていたか問う】)を受け継ぐこと。南樺太(サハリン)【セH24樺太全島ではない】を日本に割譲すること。沿海州の漁業権を日本が獲得することなどが取り決められました。このときに日本の製紙会社は,樺太に進出し,針葉樹林からパルプ生産が可能となりました。また,漁業権獲得は,日本の水産企業をうるおしました。


 日露戦争での日本の勝利は,世界各地に大きなインパクトを与えました。
 まず,日本のロシアに対する勝利は,ヨーロッパ列強による支配下にあった民族を勇気づけました(
日露戦争の影響を受けた反帝国主義・民族主義運動)。
 例えば,トルコでは〈エンヴェル
=パシャ〉(18811922)らが1908年に青年トルコ革命を起こし,スルターンの〈アブデュルハミト2世(18761909)の専制政治を廃位します。「青年トルコ」とは「青年イタリア」などにならった,ヨーロッパ側の呼び名です。
 トルコ同様,ロシアの南下に苦しめられていたイランでも,19061911年に幅広い階層が参加したイラン立憲革命 【東京H14[1]指定語句】【セH10イギリスとトシアの干渉によって挫折したか問う】が起きましたがロシアの侵攻により鎮圧されました
 インドでは国民会議派カルカッタ大会が開かれ,イギリスのベンガル分割令に対抗します。
 ヴェトナムでは,〈ファン=ボイ=チャウ(18611940) 【セH10】らがドンズー(東遊)運動【セH10内容も】を,中国では〈孫文(18661925) 【セH6,セH12蒋介石ではない】【セH14維新会を指導していない・共産党を国民党から追放していない・白話運動の中心ではない】が東京で日本人のアジア主義者の〈宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922)の支援を受けて中国同盟会【東京H21[3]】【セH9重慶が結成地ではない,H10セH12】【明文H30記】を結成しています。

 また,ウィーン議定書でロシアの支配下におかれ,フィンランド語禁止のロシア化政策が強要されていたフィンランド大公国(君主はロシア皇帝)では,日露戦争中にロシア人の総督の暗殺事件が起きています。その後も自治・独立運動は続き,独立がかなうのは1917年のことになります。作曲家〈シベリウス〉(18651957)は「フィンランディア」1900年に作曲しましたが,独立運動を盛り上げるおそれがあるとして弾圧されています。そして,ロシア革命をきっかけとして1917年に独立宣言を出し,パリ講和会議でフィンランド共和国の独立が認められました【セH16ソ連の解体時ではない,セH25第二次大戦中ではない】

 さらに,日露戦争(1904~05)で日本が効果的に大砲や機関銃,巨大な火砲を備えた軍艦(
大艦巨砲)を使用したことは,第一次世界大戦(1914~18)以降における各国の戦法に影響を与えました。ドイツやイギリスも負けじと建艦競争を進め,“敵国よりもでかい軍艦を作らなければ勝てない!”という大艦巨砲主義へとつながっていきました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆日本は大韓帝国 (韓国) を植民地化した
 日露戦争で,日本の「指導,保護および監督」におかれるまでの朝鮮は,じわりじわりと日本による進出がすすんでいました。
1894年の日清戦争まで一旦もどってみましょう。
 1895年に清が日清戦争で敗北すると,〈閔妃〉政権は「清はもう頼れない。ロシアに鞍替えして,日本に対抗しよう」としました。
 これに対し,日本側は
1895年になんと〈閔妃〉を殺害してしまいます。
 この事態に,朝鮮は「朝鮮はどこの国のものでもない。もはや中国の朝貢国でもないし,日本にも従わない」ということを示すため,国王の〈高宗〉は皇帝を宣言し,1897年に大韓帝国と改称(通称は「韓国」。現在の「大韓民国」とは区別してください)します。つまり,この時期の東アジアには,ヴェトナムの阮朝,清,大日本帝国,大韓帝国と皇帝を名乗る国がいくつも立ち並んでいたことになり,それほど清の威厳が失墜していたということがわかります。

 大韓帝国ではこの時期に近代化に向けた改革がなされました
(18971907年,光武改革)が,日本の進出は止まりませんでした。1904年1月に中立宣言をしていた韓国の仁川に対し2月8日に日本は派兵し,翌9日に仁川沖海戦・旅順港攻撃を実施しました。日本は漢城を占領し,大韓帝国政府に日韓議定書に調印させ,日本は韓国内の軍事行動の自由や「便宜」を与えること,内政干渉の権利などを認めさせました。朝鮮半島北部でロシア軍と日本軍は対峙し,1904年5月末には,第一次日韓協約【セH24時期(19世紀末ではない)で,韓国に日本人財政とアメリカ人外交顧問などを派遣し,内政への支配を強めました。これにより1904年11月には政府から貨幣発行権を奪い,1905年には韓国警察や電信・郵便・電話も監督下に置きました。
 大韓民国では日本の軍事的進出に対する抵抗運動も起きましたが,〈宋秉畯〉(ソンビョンジュン;そうへいしゅん)の一進会のように日本との協力を説く組織もありました。

 1905年4月に日本は韓国を保護国化する方針を閣議決定し,アメリカ合衆国との桂=タフト協定(7月),イギリスとの第二回日英同盟(8月)により,ロシアとのポーツマス条約(9月)列強の承認を得て外堀を埋めていきました。
 日露戦争後
1905年11月には,〈伊藤博文〉特派大使による〈高宗〉と,外部大臣〈朴斉純〉(パクチェスン)や〈李完用〉(イワニョン)ら各大臣への圧力の結果,第二次日韓協約(乙巳(いっし)保護条約)が締結され,韓国の外交権を日本が掌握しました。独立国家にとって「どこの国とどう付き合うか」ということは重要な主権の一つです。それが失われたということですから,これをもって保護国化です。「保護」というと「守っている」イメージがあるかもしれませんが,国家を保護するとは“主権の一部をコントロールする”=“言いなりにする”という意味があります。これにより漢城には1906年に統監(とうかん,初代統監は〈伊藤博文〉)がおかれ,韓国政府は統監におうかがいを立てなければ,他国と条約を結ぶことができなくなりました。
 この事態に対する反対運動が日本憲兵隊により鎮圧される中,大韓帝国
【セH27清ではない】の皇帝〈高宗(李太王,在位18631907)は,1907年にオランダのハーグでアメリカ合衆国〈ジョン=ヘイ〉国務長官の提唱で開かれていた第二回万国平和会議【セH27(第一回はロシア皇帝〈ニコライ2世〉の提唱で1899年に開催)に密かに代表者を派遣。全世界に大韓帝国の窮状を訴えようとしたのです()。しかし,大韓帝国の外交権は日本に握られており,列強は〈高宗〉のいうことに耳を傾けることはなく,結局〈高宗〉は退位させられ,息子である〈純宗〉(スジョン;じゅんそう)が即位となりました。彼は日本の傀儡です。
(注)第一回では,ハーグの常設仲裁裁判所設立につながった国際紛争平和的処理条約,「交戦国」「宣戦布告」「戦闘員」の定義や捕虜の取扱い,使用してはならない戦術について定めたハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約),「投射物および爆裂物の投下」「窒息性または有毒性のガスの撒布」「ダムダム弾」の使用を禁止する宣言などが定められました。

 反対運動が過激化する中で,1907年7月に〈伊藤博文〉統監と〈李完用〉首相は第三次日韓協約を締結。大韓帝国の内政権を日本の統監の指導下に起き,韓国警察・軍隊を解散しました。反日義兵運動という反日闘争【東京H12[2]】【セH10「日露戦争後,日本は朝鮮の反日運動を弾圧」したか問う】が高まるなか,日本政府は韓国への派遣軍を増派し弾圧をすすめました。
 また,愛国啓蒙運動をおさえようと,出版や教育の統制も行いました。
 1909年7月日本による韓国の併合が閣議決定されます。そんな中,10月には満洲のハルビン駅で〈安重根〉(アンジュングン)が,初代統監〈伊藤博文〉
【セH16朝鮮総督府の総督ではない】を暗殺しました。1910年8月には韓国併合に関する条約【セH10時期(日露戦争後か問う)が公布され,韓国は植民地化されました【セH16明治維新後に初めて獲得した海外領土ではない】。統監に代わって,ソウルには総督が置かれました(朝鮮総督府)。総督には武官が任命されました。
 日本は
土地調査事業(1910~18)によって土地所有権を確定し,税金を確実にとるしくみを作り,財政基盤を整備しました【セH16併合と同時に創氏改名は実施されていない】。また,米や綿花の強制栽培とともにダムや灌漑施設などのインフラを整備することで,日本への食糧の供給を増やしていきました。日本は始め武断政治【セH24羈縻政策ではない】により民族運動を厳しく取り締まりました。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆清による政治改革は中途半端なまま,民族資本家が欧米から利権を取り戻す運動が始まる
清の対応に,「今さら感」がただよう
 さて,義和団事件によって多額の賠償金を支払うこととなり,なおかつ首都に外国軍が駐留するという最悪の事態となった〈光緒帝〉(こうしょ;こうしょてい,位1875~1908)の清。これだけの目にあって,ようやく改革へと動き出します。これを光緒新政【明文H30記】といいますが,実権は〈西太后〉【セA H30上海クーデタを起こしていない】に依然として握られていました。
 
六部(りくぶ)が廃止されて行政機構が整理されるとともに,1905年に科挙が廃止されました【セH9[22]洋務運動期ではない】【セH23中華民国ではない】【追H20】【セA H30】。また,1904年以降近代的な学校(新式学堂)が設立され,留学生の目的地として日本が選ばれると,「社会」をはじめとする多くの日本人の作った熟語が中国語に導入されるようになりました。中国の伝統社会を批判した小説家の〈魯迅〉(ろじん,1881~1936) 【セH6】【追H20魯迅の著書は『水滸伝』ではない】が現在の東北大学の医学部に留学していたように,この時期の留学生が,後に清を打倒する革命運動への参加や中華民国・中華人民共和国のリーダーになっていくことになります。日本の明治憲法を参考にした憲法大綱(たいこう)を発表し,9年以内の国会開設も公約(のちに1913年開設が約束されましたが実現せず)しましたが,「立憲君主国家」は外見だけで,女真(女直)族の皇帝や皇族・官僚が支配を続ける点では,実質的に大きな変化がありませんでした。
 また,ドイツから顧問を招いて,西洋式軍隊である新軍が設立されました。しかし,のちに清が滅ぶ辛亥革命の発端になったのは,この新軍の武装蜂起であったことは皮肉です。新軍のうちの「北洋軍」を指揮していたのが,〈袁世凱(えんせいがい)です。

 これらの改革には莫大な費用がかかりましたが,その費用は地方に押し付けられることが多く,増税にあった農民の不満も高まりました。実際に新式の学校に通うことができたのは,一部の地方エリートにすぎなかったのです。こうして,中央の政府と地方のエリート,さらに農民との対立も深まっていきました。

 1908年,
〈西太后〉によって幽閉されていた〈光緒帝〉が死去すると,〈西太后〉は翌日死去しました。2人のあまりに死期が接近しているので,毒殺説すらあります。
 代わって,2歳
10ヶ月の〈溥儀(宣統帝)が即位しました。第12代にしてラストエンペラー(最後の皇帝)です(映画「ラスト・エンペラー」(1987中伊英)は溥儀の即位からプロレタリア文化大革命までの中国現代史を描いています)
 1
911年に,最高機関である軍機処が廃止され,責任内閣制となりますが,満洲人貴族の影響力の強い内閣(親貴内閣(しんきないかく)といって閣僚13人中8人が満洲人(うち5人が皇族))であったため,「これでは何も変わっていないじゃないか!早くしないと本格的に植民地化されてしまう!」と,にわかに改革派の動きが激しくなっていきました。

 もともとは医者であった〈
孫文(孫中山,1866~1925),広東省の客家(ハッカ)出身です。客家とは,中国の南部の山間部に分布する漢民族の一派で,客家語を話し,客家文化を受け継ぎます。商業に従事することが多く,台湾や東南アジア各地にも移住し,独自のネットワークを持っているところが,しばしばユダヤ人と比べられます。
 〈孫文〉は,ハワイにいた兄を頼り現地で進学・卒業し,帰国して香港の大学で医学を学び,マカオで医師として開業。
 清に批判的な華僑
【セH6】の支持を受け,革命運動を拡大していきます。

 〈孫文〉
【セH4陳独秀ではない】は,1894年にハワイ【セH6】興中会【セH4陳独秀が設立していない,セH6国民党ではない】【セH14】【追H21袁世凱が弾圧したわけではない】を結成します。
 しかし,出だしは不調で,翌年1895年に香港で拡大開祖されました
(注1)。また,日本人の中には「ヨーロッパの進出に対抗するためにアジアを一つにまとめよう」という考えを持つものも多く,「そのためには弱体化した清を倒そう」と考える孫文を助ける者もいました(のちに首相になる犬養毅は家を提供した)。〈孫文〉は中国で2回挙兵しますが,いずれも失敗。
 彼
【セH12蒋介石ではない】はのちにアメリカとヨーロッパを旅しながら「排満興漢(はいまんこうかん)」(2)を唱え革命資金を集め,1905年には日本に戻り,日本のアジア主義者宮崎滔天〉(みやざきとうてん,1871~1922)の協力で,3つの組織(孫文〉の興中会+〈黄興〉・〈宋教仁〉の華興会+〈章炳麟〉・〈蔡元培〉の光復会)を合わせて中国同盟会【セH12】を設立しました。東京での結成には,日露戦争での日本の勝利が強く影響しています。機関紙は『民法』(1905創刊)で〈章炳麟(しょうへいりん)〉(1869~1936)編集長が清を批判する論を展開しました。
 このときの〈孫文〉
【追H20】は「三民主義【東京H8[1]指定語句】【セH13】【追H20】を基本理念として固め,具体的に四大綱領(駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権)規定しました。三民主義は,民族【セH13】の独立・民権【セH13】の伸長・民生【セH13】の安定を指します。
(注1)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123
(注2)天児慧『中華人民共和国史 新版』岩波書店,2013年,p.3

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆辛亥革命が起こり中華民国(共和政)が建てられたが,実権を握った軍人〈袁世凱〉が集権化をすすめた
 清朝は,莫大な賠償金を支払うために自国にある鉄道や鉱山を列強に借金のカタ(担保)として与え,お金を借りようとしていました。借金を返すために,自分の家を担保にして,さらにお金を借りるようなものです。
 しかし,担保に入れようとした鉄道は,中国人の資本家
(民族資本家)や海外の留学生・革命家・企業家たちがお金を出し合って,列強に奪われていたものを回収している最中でした(利権回収運動【東京H14[1]指定語句】)。清が1911年に幹線鉄道国有化【セH6】【東京H20[3]】を図り,四国借款団(英・米・独・仏)からお金を借りようとすると,()(せん)暴動が起きました【セH6,セH11「清朝の滅亡によって」起きたわけではない】【セH18・H30。清は新軍に鎮圧を要請しましたが,その新軍には海外留学組も含まれており革命思想をもった若い兵士も少なくありません。
 新軍第八師団の工兵大隊が
19111010日に()(しょう)蜂起(ほうき)を起こし【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【セH6,セH11「清朝の滅亡によって」起きたわけではない】【セH22地図】,たった一日で武漢地区は革命軍に占領されます。そして,各地の省は次々に独立宣言【セH6】を発表していきます。まさに中国分裂です。

 当時,〈孫文〉はアメリカにいましたが,
1225日に上海に帰国すると,〈孫文〉は革命派のリーダーとしてまつりあげられ,翌191211日,孫文【東京H14[1]指定語句】【セH11】は当時は臨時約法という暫定憲法をもとに臨時大総統【セH6,セH11】に任命され,中国史上最初の共和国である中華民国【セH6】南京(なんきん)【セH6北京ではない,セH11】【セH23,H30北京ではない】を首都として成立しました。
 ただし,北京にはまだ清が存続していることに注意です。清は新軍の一つである北洋軍の指導者である〈袁世凱〉に革命の鎮圧を図りますが,〈孫文〉は〈袁世凱〉に「清を裏切って,中華民国に協力してくれたら,臨時大総統のポストをあげよう」とウラ取引きをしていましたから,〈袁世凱〉
【セH16】1912年に逆に最後(ラスト)(エン)皇帝(ペラー)(せん)(とう)(てい)((あい)新覚(しんかく)()溥儀(ふぎ))【セH6,セH11光緒帝ではない】【セH16】を退位に追い込み,清は滅亡します【セA H30グラフ問題(年代を問う)】。こうして,〈袁世凱〉【追H21梁啓超ではない】は第2代臨時大総統となり【セH30,北京に遷都します。

 この一連の過程を「
辛亥(しんがい)革命【セ試行】【セH6中国で史上最初の共和国を出現させたか問う】といい,多くの華僑【セ試行】が清を倒す運動を支援しました。

 さて,国会議員の選挙が
1913年に実施されると,半分近くが〈孫文〉の国民党(中国同盟会から発展) の議席となりました。しかし,国民党の総理(指導者)の〈宋教仁〉を暗殺されたことに対して第二革命が勃発します。〈袁世凱〉は議会を解散し正式な大総統に就任し【セH11「袁世凱は,国民党の反対で,最後まで正式な大総統になれなかった」わけではない】,臨時約法を否定し「新約法」によって自らの権限を強化しました。1914年に〈孫文〉は東京に亡命して中華革命党という秘密結社をつくりました。

 そんな中
1915年には〈袁世凱〉が,日本【追H21ロシアではない】の大隈重信内閣との間に二十一カ条要求を取り交わし,日本のバックアップも得ます。
 さらに皇帝宣言(帝政復活宣言
【追H21】)をしたため,第三革命が勃発。1916年には即位しましたが,反発が激しくなったため取り消し,まもなく病死しました。後継者は,武昌蜂起(ぶしょうほうき)を指導した〈黎元洪〉(れいげんこう,1866~1928)ですが,実際には彼は傀儡(かいらい,操り人形のような人物ということ)で,各地に並びたつ軍閥による分裂状態となってしまいます。
 そのうちの安徽派(あんきは)の〈
段祺瑞(だんきずい,18651936北洋軍時代からの〈袁世凱〉の側近です)はしばしば日本の支援を取り付けようとして,首相寺内正毅(てらうちまさたけ)が送ってきた実業家であり政治家(西原亀三〉)からお金を借りています(総額14500万円の西原借款)
 〈黎元(れいげん)(こう)〉は
1917年に安徽(あんき)派の〈段祺瑞(だんきずい)〉を罷免。これに起こった〈段〉は,軍人の〈張勲〉(1854~1923)に北京に乗り込ませ,12日間だけラストエンペラー〈溥儀〉を復位させています。〈黎元洪〉は辞任を余儀なくされ,今度は直隷派(ちょくれいは)の〈馮国璋〉(ふうこくしょう,1859~1919)が大総統に就き,〈段祺瑞〉は国務総理と陸軍総長として実権を握りました。〈段祺瑞〉は,ドイツに対して宣戦し,第一次世界大戦に参戦しました。日本のご機嫌をとることで,先ほどの西原借款を実現させるためです。このように,軍閥(ぐんばつ)政権はたがいに争いながら,外国勢力との後ろ盾を得つつ,国家のためにというよりは「自分の軍閥が生き残るためにはどうするか」という行動を取り続けていきました【セH5第一次世界大戦時に,「利権の拡大をめざす日本やそれと提携する軍閥に対する批判が強まった」か問う】
 この間に日本の進出も進み,
1917年には石井=ランシング協定で,日本がアメリカの門戸開放政策(中国はどの国にとっても開かれている国であるべきだという考え)を認める代わりに,アメリカが満洲と内モンゴル東部における日本の特殊権益を認めています。〈石井菊次郎〉は外務官僚出身で〈大隈〉内閣の外相(任1915~16)を務めた人物で,協定には特命全権大使として調印しました。〈ランシング〉(任1915~20,辞任理由は国際連盟規約をめぐる〈ウィルソン〉大統領との対立でした)は当時のアメリカの国務長官です。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆西洋の科学の刺激を受け新文化運動が始まり,列強の進出に反対する大衆運動も起きた
 「中国がここまで衰えたのは,中国人の「考え方」そのものに問題があったためではないか? 儒教のテキストにとらわれて,自由な考え方ができなかったのが問題ではないか?」
 そんな問題意識が知識人の間に共有されていくにつれ,第一次世界大戦中から従来の儒教文化を批判
【セH11:儒教に基づく民族主義を高揚させたわけではない】する新文化運動【セH24】が始まっていきました。拠点となったのは北京大学【明文H30記】です。

 「儒教の影響を強く受けた伝統的な文章の書き方をやめて,話したり頭の中で考えたりしたとおりに,文章を書こう」【共通一次 平1:漢字の略字化運動ではない】という運動(白話運動;文学革命) 【共通一次 平1:時期を問う(辛亥革命後か) 【セH6文化大革命ではない,セH11】【セH24胡適(「こせき」と読みますが,慣用的に「こてき」とも読まれます,18911962) 【セH11梁啓超ではない】 【セH14孫文ではない】【セA H30杜甫ではない】により提唱されます。
 彼はアメリカのコロンビア大学で,プラグマティズムの教育者〈
デューイ〉の門下で学んだ人物で(⇒1870~1920の北アメリカ アメリカ合衆国),運動の開始は1915年とすることが普通です。1916年から北京大学の学長に就任し,白話運動を推進します。白話運動というのは,話し言葉と書き言葉を一致させようという言文一致運動のこと。中国では伝統的に儒教の経典の文章が良い文章とされてきましたが,これでは読みにくく,書き方にしばられて自由な発想ができない。そこで「話し言葉で書くべきだ」という運動を始めたわけです。こうした意見は,1917年に雑誌『新青年』2巻5号の「文学改良芻議(すうぎ)」において発表されました(文学革命の出発点をこの時点にとる考え方もあります())。
(注)『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.124

 〈陳独秀(ちんどくしゅう)【セH4興中会を建てていない,セH11】は雑誌『新青年【東京H16[3]【セH11】を創刊し【セH11:時期を問う(日露戦争中ではない)】,旧来の儒教の道徳や,目下軍閥が支配している情勢を批判します。〈李大釗(りたいしょう)は,マルクス主義を中国に紹介し,このときに彼の働く図書館で学んだのが〈毛沢東〉だったのです。作家〈魯迅【セH11:新青年についての問い】【追H20】は,かつて日本に留学し医学を目指しますが,中国に戻って1918年に『狂人日記【セH11:新青年についての問い】【追H20『水滸伝』は彼の作品ではない】1921年に『阿Q正伝』を著します。どちらも儒教や体制をたくみに批判する内容でした。

 さて,1919年1月から始まったパリ講和会議により締結されたヴェルサイユ条約【追H20下関条約ではない】によれば,ドイツ【セH25フランスではない】の支配圏だった山東省【セH7】を日本の勢力下に置くものとされ,二十一条要求は撤廃されないままとなりました【セH5イギリスとフランスにより撤回されていない】
 交渉に当たった政治家がやり玉に上げられ,労働者によるストライキにまで発展してしまったため,最終的に
628日に調印を拒否し【セH19時期,セH25調印していない】,逮捕した北京大学【セH25上海ではない】の学生を釈放することで決着します。これを五・四運動【共通一次 平1:五・三〇運動とのひっかけ】【セH25,セH30年代が問われた】【追H20下関条約に対する運動ではない】【立命館H30記】といいます。
 〈孫文〉は五・四運動を見て,「民衆の力が,政治を動かした。これからの中国は,ようやく民衆が主人公になって,政治を変えていく時代になっていくはずだ」と感動し,秘密結社であった
中華革命党を組み替えて,1919年に中国国民党とします。
 しかし,結局北京政府は,国際的な孤立を避けるため,ヴェルサイユ条約に調印しました。山東省の問題は棚上げにされたままです。

1870年~1920年のアジア  東アジア
◆朝鮮における「民族自決」の理念を掲げた反帝国主義運動は鎮圧された
 朝鮮人の間でも,1918年1月にアメリカ合衆国〈ウィルソン〉大統領が
十四カ条【セH5いずれも実現しなかったわけではない】【東京H18[1]指定語句】【早法H25[5],H26[5]指定語句】でうたった「民族自決【早法H27[5]指定語句,論述(20世紀前半までの世界にどのように波及したか述べる)】の原則に刺激され,内外で独立に向けた運動が活発化しました。上海の組織はパリ講和会議に代表を派遣して独立を請願し〈金奎植〉(キムギュシク;きんけいしょく,1881~1950)が独立請願を起草,アメリカ合衆国の朝鮮人組織は〈李承晩〉(イスンマン;りしょうばん,後の大韓民国の初代大統領。上海【東京H12[2]】に亡命政権を樹立)を代表に立てました(アメリカ合衆国政府により出国は拒否されます)。東京の留学生も1919年2月に独立宣言を発表しています。〈金奎植〉はパリに派遣されましたが,朝鮮を代表する資格は与えられませんでした。

 朝鮮では1919年1月に〈高宗〉が亡くなると日本人による毒殺説がささやかれ,3月3日の葬儀に先立ちソウルの鐘路(チョンノ)パゴダ公園で独立運動家が集まり「独立宣言書」が読み上げられ,「独立万歳」が叫ばれました。参加していたのは東学から改称された天道教,キリスト教,仏教を代表するに運動家33名前。起草したのは〈崔南善〉(チェナムソン;さいなんぜん,1890~1957)でした。
 全国に広がるストライキやデモに対して朝鮮総督府は武力での鎮圧でのぞみ,同年6月には歩兵6個大隊が増派され,言論・集会の規制も強化されました。これを,
三・一独立運動【セH16時期】【セH7】【早法H27[5]指定語句】といいます。
 これまでにない大規模な反乱に対し朝鮮総督府は,従来の強硬な姿勢を転換し,朝鮮人を日本文化に“同化”させることで,支配に対する不満をやわらげる方針をとります。〈斎藤実〉(さいとうまこと,位1919~27)総督の下,“内鮮融和”(日本と朝鮮の融和)が説かれ,1922年の改正教育令では内鮮共学として日本語学習の時間が増やされ,1926年には京城帝国大学が設置されました。
 また,言論・出版・集会・結社の規制がゆるめられ,社会運動も活発化。1925年に朝鮮共産党が結成されていましたが,こちらは弾圧されています。
 この時期に三井系,日窒系などの日本企業が盛んに朝鮮に進出しています。また,
シベリア出兵の際に米騒動が勃発したことを教訓とし,日本は1920年代に朝鮮の米作を品種改良・土地改良により奨励して米不足に備えようとしました。この産米増殖計画は,のちに世界恐慌の影響を受けるまで続けられ,生産高の約4割が日本向け輸出に振り向けられました(台湾でも同様の政策を行っています)。農業生産性が上昇し一部の地主が恩恵を受けた反面,貧しい農民の中には日本(1930年に29万8000人)や満洲(1930年に60万人)に出稼ぎに行く者もいました。日本における朝鮮人労働者の組織化も進んでいった一方,1923年の関東大震災では混乱の中で朝鮮人の殺害事件も起きています。

 中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動として
五・四運動が起きました。中国代表団は最終的に,結局調印を拒否しています【セH26調印していない】




1870年~1920年のアジア  東アジア ①日本
日本は,欧米の制度・文化を導入して近代化と中央集権化を図り,植民地化をまぬがれた
 
1867年,王政復古のクーデタにより,維新政府は徳川幕府を滅ぼしました。しかし,統一軍隊の結成などをめぐり諸藩の対立は深まり,政府に批判的な〈西郷(さいごう)隆盛(たかもり)〉は軍事力を薩摩藩に引き上げる始末。
 
1871年に,新政府の首脳は,薩摩藩・長州藩・土佐藩の兵力を御親兵として上京させ,廃藩置県を断行しました。これにより,全国民を戸籍により一元的に支配する体制を作り上げました。一刻も早く不平等条約を改正し,欧米と対等な近代国家を建設するために,〈岩倉具視〉を団長とする岩倉使節団【セA H30】がアメリカ合衆国とヨーロッパに向けて出発しました。「文明開化」がスローガンとなりました。中央集権国家を建設するために,インフラや法制度・教育制度が急ピッチで整えられていきました。
 欧米への留学生も増加し,1871年には〈津田梅子〉がアメリカ合衆国への留学に旅立っています
【セH11リード文 1900年には女子英学塾を創設】

 そんな中で
1871年,宮古島の船が琉球王国に貢納に向かった帰りに漂流し,台湾に漂着し,そこで原住民に殺害されるという宮古島島民遭難事件【セH10「琉球人の殺害事件」】が起きました。新政府が清に厳重抗議すると,清は「化外の地」(支配が及ばない地域)のことだからしょうがない,との回答。そこで日本は1874年に犯罪捜査などを理由に,台湾に出兵(警察ではなく軍)することを決定しました(台湾出兵) 【セH10】【セH24時期(19世紀末)

 その間,新政府内部では,朝鮮半島に進出するかいなかをめぐる征韓論で,対立が起きました。征韓論は封じ込まれましたが,石油などの資源の乏しい日本では,海外への領土拡大による発展を目指そうとする動きは今後も出ていきます。
 1873年に〈西郷隆盛〉〈板垣退助〉〈江藤新平〉が一斉に下野。残った〈岩倉具視〉と〈大久保利通〉による政権は1873年に内務省の整備,1875年に千島樺太交換条約で国境問題を解決,同年には横浜からイギリス・フランス軍が撤退,1876年に日朝修好条規【セH3これに対し金玉均は反日クーデタを起こしていない】で朝鮮王朝に不平等条約を認めさせました。

 北方では,1875年にロシアの首都サンクトペテルブルクで樺太・千島交換条約が締結され,樺太の南半分はロシアに譲り,千島列島の全ては日本領となりました【セH20時期】

 琉球王国をどうするかについては,台湾出兵以降,話し合いが続けられていました。廃藩置県(はいはんちけん)で沖縄県【セH10】【追H20日清戦争の結果ではない】が設置されたことを,清はまだ認めていなかったことです。清はアメリカ前大統領の〈グラント〉(186977182285)に調停を求めたことから,日本の〈伊藤博文〉が日清交渉を始めます。日本側は宮古・八重山を中国へ引きわたす代わりに,清が日本に欧米並みの通商権を与えるという「分島・増約案」を提案し,清はこれに同意したものの,1881年の調印直前になり〈李鴻章〉(18231901)の意向で棚上げされ(分島問題),日清戦争にいたるまで曖昧な状態が続きました。
 1876年には,小笠原諸島をイギリス・アメリカに日本領土であることを認めさせています。
 しかし1876年から地租改正反対一揆が起こり,これと連動して熊本・秋月・萩で氏族の反乱が起きました。1877年には薩摩半島の氏族が〈西郷隆盛〉の指導で反乱(西南戦争)を起こしましたが,鎮圧されます。



◆日本はアジアの地域内貿易の繁栄や,日清戦争の賠償金に支えられ産業革命(工業化)を達成する
 この時期,イギリスの女性探検家・作家〈イザベラ=バード〉(1831~1904)は,1878年に東京から北海道にかけての地域を旅行しました。その著書『日本奥地紀行』は,当時の習俗を生々しく書き残しています。
 明治維新以前に諸藩で試みられていた産業技術の近代化が,政府の主導で大規模に行われていきました(
殖産興業)。欧米から「お雇い外国人」という学者・技術者が,国費で招かれました。以前から綿糸生産はおこなわれていましたが,輸入綿糸の増加に対抗して明治政府は1878年に,本場イギリスのマンチェスターからミュール紡績機を購入し官営工場を設立し,続々と民間に払い下げていきました。
 とくに大阪(明治維新以降,大「坂」ではなく大「阪」と表記されるようになります)では,ヨーロッパの技術を取り入れた紡績業がさかんになっていました。1882年には,〈渋沢栄一〉(しぶさわえいいち,1840~1931)により,日本最初の蒸気力紡績会社である
大阪紡績会社(現在の東洋紡)が設立されています。こうして大坂は“東洋のマンチェスター”とうたわれるようになりました。
 原料と製品の輸出入が盛んになるにつれ,海運業も発達していきます。1870年に〈岩崎彌太郎〉(いわさきやたろう)が九十九商会(後の三菱商会)を建て,当時の東アジアの海運を握っていた米国のPM社(パシフィック=メール=スティームシップ=カンパニー)に対抗し,1875年に日本~上海の定期便を就航。PM社の撤退後にも,イギリスのP&O社(ペニンスラー&オリエンタル=スティームナヴィゲーション=カンパニー)などが,インドのボンベイと日本を結ぶ航路を牛耳っていました。
 郵便汽船三菱会社は,1885年に国内のライバル共同運輸会社と合併し,
日本郵船会社に発展。 1893年には,ボンベイから綿糸の原料の綿花を輸入するため,神戸とインドのボンベイを結ぶ航路を開通させています。インドで綿花を取り扱う民族資本であるタタ商会が,「日本が定期航路に参入してくれたほうがイギリスによる独占が崩れ,運賃が安くなる」とし,日本を支援したのです。
 イギリスにとっても,インドの綿花が売れてくれたほうがインドが貿易黒字となり,インド政庁からイギリスに送金される
本国費(ほんごくひ)もアップするのでウハウハです。こうして,インドと日本で製造された綿糸は,中国市場をめぐって競争を繰り広げることになっていきます。
 イギリスの経済的進出によっても,
アジア地域内の貿易構造は崩壊したわけではなかったのです。植民地化された地域を含め,東アジア,東南アジア,南アジアの各地が,相互に依存し合いながら貿易関係を維持しました。インド人商人,中国人商人,大阪商人らが,香港・シンガポール・大坂・神戸などを拠点にさまざまな物資を取引します。

 対外的には,日本は朝鮮をめぐり清と日清戦争(189495)を戦って,勝利を収めました。1895年4月の日清講和条約(下関条約) 【追H21ポーツマス条約ではない】で,日本は台湾,遼東半島,澎湖(ほうこ)諸島を割譲されます。しかし,直後にドイツ,フランス,ロシアが遼東半島を清に返還するように要求(三国干渉)。その影響もあり,台湾の島民は同年5月に台湾民主国の樹立を宣言しましたが,南方を防衛していた〈(りゅう)永福(えいふく)【セH30の逃亡により終結しました。1896年に台湾総督府が設置されました。なお,同年にはイギリスに留学中の博物学者〈南方熊楠〉(みなかたくまぐす,1867~1941)が,ロンドンに亡命中の〈孫文〉(孫逸仙(そんいっせん),1866~1925)と交流しています。〈南方〉は翌1898年に大英博物館で受けた人種差別をきっかけに暴力事件を起こし,1900年に帰国しました。
 沖縄では
1898年に徴兵令が導入され,方言を使うことをやめさせたり,日本式の姓名に変更させたりしました。北海道では,1896年に徴兵令が導入され,1898年に北海道旧土人保護法により,アイヌ人を日本人に同化させるための政策が始まりました。 

 19世紀末にヨーロッパ列強による「中国分割」が始まる中,日清戦争の賠償金や遼東半島を返した際の代償金を元手に,極東に進出するロシアに対して軍事力が増強され,
1897年には金本位制(きんほんいせい)に移行しました。
 
義和団事件が起きると日本はイギリスから出兵するよう要請を受け,義和団を鎮圧するための連合軍に参加しました。イギリスは当時ボーア戦争のために余力がなく,アメリカもフィリピンの独立戦争鎮圧(米比(べいひ)戦争)のために忙しかったのです。1901年の北京議定書により,日本は賠償金を手に入れ,北清駐屯軍(ちゅうとんぐん)を配置しました。


◆日本は大陸への進出を積極化させ,第一次世界大戦後にはオセアニアにも進出した
 ロシアの太平洋側への進出(南下) 【追H20アメリカ合衆国の東アジア進出ではない】に対し,イギリスにとっての日本の地理的な重要性が高まり,1902年には日英同盟【追H20】が結ばれました。南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは,日本にロシアの南下に対し対抗させようとしたのです。軍部は第一次〈桂太郎〉内閣に迫り,1904年御前会議(ごぜんかいぎ)で開戦が決定され,日本艦隊は仁川(じんせん,インチョン)にあったロシア軍艦を攻撃し,宣戦布告しました。日露戦争の結果,1905ポーツマス条約が締結されました。内容は以下のようなものです。
・日本は
韓国に対する指導・監督権【セH19】を獲得
・日本は,旅順・大連ならびに付近の租借(そしゃく)権を獲得
・日本は,長春~旅順の間の鉄道・付属炭坑を獲得
・日本は,
カラフト(樺太)南部を獲得(もともとは樺太・千島交換条約でロシア領となっていました)
・日本は,ロシア沿海の漁業権を獲得

 一方,日本は
1910年にかけて,韓国(大韓帝国)の内政に干渉し,1910年の韓国併合条約を承認させて植民地化しました。同年に朝鮮総督府が置かれました。

 こうして日本は,一気に帝国主義化を進めていきます。イギリスは韓国の保護権を認める代わりに,日英同盟の範囲をインド帝国にまで拡大しました(1905年の改正日英同盟)。これは,イギリスによるインドの植民地化を,日本も認めていたということです。アメリカも同様に,フィリピン支配を認める代わりに,韓国に対する優越権を認めてもらいます(1905年の=タフト協定)。また,フランスのインドシナ支配を認め,中国の勢力圏を相互に認め合いました(1907年の日仏協約)。これを機に,ドンズー(東遊)運動【明文H30記】で留学中の独立運動家は国外追放の憂き目にあいます。
 時同じくして,ドイツを包囲する必要に迫られたイギリス・フランスが接近し
1904年に英仏協商を結びます。1907年には英露協商が結ばれ,チベット(中国の宗主権を認めました)・アフガニスタン(イギリスの勢力圏としました)・カージャール朝(イギリスとロシアの勢力圏を決めました(⇒1870~1920の西アジア))にかけての勢力圏が設定されました。こうして構築された英仏露の三国協商に加え,アメリカが満洲市場に参入するのに対抗するために,ロシアに接近し,1907年に第一次日露協約が結ばれました。両国は,1912年の第三次日露協約までに,満洲と外蒙古の勢力範囲を確定させていきました。しかし,それと同時に1907年には〈明治天皇〉に承認を受けた帝国国防方針で,陸軍はロシアを,海軍はアメリカを仮想敵国として軍拡が行われることになりました。海軍と陸軍は,互いに対抗しながら,より多くの予算を獲得するために対抗していくことになります。


◆第一次世界大戦が勃発すると,日本は中国・山東半島とドイツ領の南洋諸島を占領した
日本の対外拡大を,大戦後にアメリカが警戒する
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,日本はアジア・アフリカの市場に綿糸を,アメリカには生糸を輸出し,軍需物資もさかんに輸出しました。また,日英同盟【セH9「日英同盟にもとづいて参戦し」】【セH27を理由に1914年8月にドイツに戦線し,ドイツの租借していた山東半島【セH9,セH12】青島(チンタオ) 【セH9】を占領しました。また,日本は,ドイツの領有していた赤道以北のマーシャル諸島【セH20フランスの領有ではない,セH26などドイツ領南洋諸島【セH18時期キール軍港での水兵反乱の後ではない・セH24も占領しました。イギリスの要請で日本軍艦が地中海の船団の護衛にもあたっています。

 日本が南洋諸島に進出すれば,アメリカ領であるグアムやフィリピンと本土との間にジャマが入ることになります。それに加え,南洋諸島に生息する
アホウドリなどの海鳥からは,ヨーロッパ向け輸出用の婦人帽の羽飾り・剥製,それにリンや窒素がとれる糞(グァノ)がとれたことも,日米の摩擦を生む原因となっていきます

 ヨーロッパが戦場になっているすきに,日本
【追H21ロシアではない】の第二次〈大隈重信〉内閣は1915年に〈袁世凱〉【追H21】に対して二十一カ条の要求【追H21】を承認させました。大戦中には日本各地にドイツ人捕虜の収容所が建設され,一部では徳島で〈ベートーヴェン〉の交響曲第九番が日本で初めて演奏されたように一般市民との交流も行われました【セH27リード文】
 戦後の
ヴェルサイユ条約により,日本【セH5】は山東半島と南洋諸島【セH5】の権益をドイツから継承しました。

 
1919年には,アメリカ合衆国の〈ウィルソン大統領〉のうたった民族自決に刺激された朝鮮での三・一独立運動【セH16時期】を弾圧し,中華民国でもヴェルサイユ条約調印拒否運動である五・四運動が起きました。中国代表団は結局調印を拒否しました【セH26調印していない】

 なお,第二次ロシア革命の勃発を受け,日本はアメリカ,イギリス,フランス,イタリア,カナダ,中華民国とともに,
シベリア出兵し,日本は,石油産地である北樺太(南樺太は日露戦争で獲得していました)や沿海州は占領しました。ロシア帝国が滅ぼされたことで,北東アジアに支配圏を広げるチャンスと考えたのです。しかし,ソヴィエト=ロシア(のちソ連)がロシア帝国の領土をほとんど受け継いだため,ロシア革命の残党(白軍【慶文H30】)とソヴィエト軍(赤軍)を巻き込んだ戦闘が続きました(シベリア出兵,1918~22)。これにより軍事物資となった米を買い占める商人が現れたため,全国各地で米騒動が起こりました。1920年には沿海州のアムール川河口のニコライエフスク(尼港(にこう))に駐屯していた日本人や現地住民が,ソヴィエト側についた集団により虐殺される事件も起きています(尼港(にこう)事件)。





1870年~1920年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆西欧は原料供給地・市場として植民地の支配を強化し,インフラへの投資も盛んになった
現地エリート層が成長し,民族運動の母体となる
アジア間交易が盛んになり,英領シンガポールは中核に

 
1876年,イギリス人の〈ウィックハム〉〔ウィッカム〕がブラジルから天然ゴムの種の密輸に成功し,東南アジアでゴムノキの栽培が始まりました(注)
 
1888年にスコットランド人〈ダンロップ〉が空気入りタイヤを発明したことで,需要が一気に増加し,自動車の普及がそれに拍車をかけました。ゴムにかぎらず,この時期の東南アジアでは,輸出用の一次産品の生産が急増しました。例えば石油分野の開発も進み,イギリス資本のシェル(貝殻マークで有名)とオランダ資本のロイヤル=ダッチが,アメリカ資本のスタンダード=オイルに対抗するために合併し,1907年にロイヤル=ダッチ=シェル社となり,ほぼ独占状態となります。
 19世紀後半には,ヨーロッパとアジアや,東南アジアの主要都市を結ぶ蒸気船の定期航路,それに各地に鉄道電信電話設備,学校教育制度も整備されるようになります。
 また,植民地当局の人口調査により,民族・人種の分布が調べ上げられ,それを元に一部の民族・人種が優遇され,彼らの中から
植民地エリート層が形成されていきます。彼らの中からはイギリス,オランダ,スペインといった宗主国の高等教育機関に,子どもを留学させる者も登場するようになり,西欧的な思想に影響されて民族意識を高め,植民地からの独立運動に加わる者も現れるようになっていきます【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】
(注)チャールズ・マンはこの行為を「バイオパイラシー」と呼んでいます。バイオパラシーとは,「生物資源の盗賊行為。主に先進国が途上国の豊かな生物資源や遺伝資源,古くから伝わる薬草などの伝統知識を利用し,医薬品や食品開発を通じて利益を独占する行為を指す。」(デジタル大辞泉)。世界の一体化が加速するに従い,世界の植生の人為的な変化も大きくなっていきます

1870年~1920年の東南アジア  ①ヴェトナム
 ヴェトナムでは,フランスによる植民地化がさらに続き,1883年と1884年の両年に結ばれたユエ条約【慶文H30記】ヴェトナムを保護国化しました。

 それに対し,ヴェトナム人と宗主国中国の反発が起き,
1884年に清仏戦争(188485) 【セH3フランスはこのとき阮朝を倒してラオスを獲得したわけではない,セH10 時期:1850~60年代ではない】が始まります。

 しかし,フランス海軍は清の海軍を各地で撃破し,
1885年にフランス公使〈パトノートル〉との間で天津条約【慶商A H30記】が結ばれました。
 こうして
阮朝ヴェトナムは,カンボジアとともにフランスの保護国(フランス領インドシナ【セH3】)となったほか,フランスは中国南西部の通商特権・鉄道敷設権を獲得しました。
 のちに
ラオス【セH3清仏戦争のときに獲得したのではない】も,フランス領インドシナに併合されています。
 フランスは,メコン川下流域の米を国際市場に輸出し,中南部では天然ゴムのプランテーションも展開されました。
サイゴンには,ホテルやオペラ座,官公庁といったフランス風の建物が建てられました。植民地にみられる,こうした宗主国っぽい様式のことを,コロニアル様式といいます。

 フランスの植民地化が進んだフランスでは,民族的な自覚も高まり〈ファン=ボイ=チャウ【セH10】【セH14孫文ではない】【追H20】維新会【セH10】【セH14】を結成して,明治維新を達成した日本を模範にしよう日本に留学生を送る【追H20】東遊(ドンズー)運動【明文H30記】が起こりました。「遊」というのは「遊ぶ」という意味ではなく,「学ぶ」という意味。彼は〈犬養毅〉などのアジア主義者(アジア人がまとまってヨーロッパ勢力を追いだそうという思想を持つ人々)の協力も得てヴェトナム人を日本に留学させたのです。しかし1907年に日仏協約が結ばれると,日本にいた留学生は日本政府に取締りを受け,下火になってしまいました
 一方,ヴェトナムでは〈ファン=チュー=チン〉が,ヴェトナム語をローマ字で表記する「国語(クォック=グー)」の普及や,近代的な思想・技術の教育を行う運動(維新運動)を指導しました。1907年にはハノイに東京義塾(トンキンギアトゥック)をひらいてヴェトナムの発展のために尽くしました。
 しかし,その後もフランスによるヴェトナム民族運動への弾圧は続き,表現の自由は守られませんでした。また,第一次世界大戦では,ヴェトナムも5万の兵をヨーロッパに送り,不満も高まりました。
 1912年には〈ファン=ボイ=チャウ〉らによりヴェトナム光復会
【東京H21[3]】という秘密結社がつくられ,反フランスの共和政国家の建設をめざす運動を展開しますが,20年代半ばには消滅することになります。



1870年~1920年の東南アジア  ②フィリピン
 スペイン【セH11:宗主国を問う】が支配していたフィリピンでは,1880年の有産階級の息子を中心に,スペイン留学がブームになりました。異国の地で,フィリピン人としての意識を強めた留学生たちは,故郷フィリピンの改革運動を推進していくようになります。
 サトウキビのプランテーション業者の子として生まれた〈ホセ=リサール〉(1861~1896)【セH27】1887年『ノリ==タンヘレ(私に触るな)』という小説で,スペインの大土地所有者として君臨していた修道会を批判し,フィリピン人に衝撃を与えました。「修道会による大土地所有は当たり前」「スペイン人による支配はどうにもならない」と感じていたフィリピン人に,社会改革を目指す意識が芽生えるようになったのです。
 身の危険をかえりみず〈リサール〉は1892年帰国すると,フィリピン民族同盟が結成。しかしその4日後に,反逆罪でフィリピン南部のミンダナオ島に流刑になってしまいました。ともかく,その後に続く民族運動の基盤は,こうして〈リサール〉によって準備されたのです。
 〈リサール〉の逮捕により,民族運動組織は秘密結社カティプーナン【慶商A H30記】に発展。徐々に会員を増やしたカティプーナンでしたが,1896年に存在が明るみに出ると,3万の会員は義勇軍を組織し,フィリピン革命の火の手が上がりました。いくつかの州ではスペインから解放されましたが,スペインからの援軍により1896年に〈リサール〉は処刑され,都市の急進主義者に支持を持つ創立者〈ボニファシオ〉(1763~1838)と,大土地所有者のグループに属する会員〈アギナルド〉(1869~1964) 【セA H30】【セH2マラッカの人物ではない,セH10スペイン及びアメリカに対する独立運動の指導者ではない,シモン=ボリバルとのひっかけ】との間に主導権争いが勃発。〈アギナルド〉の命令で1897年に〈ボニファシオ〉は銃殺されました。
 1897年に革命政府はスペインと和平を結び,〈アギナルド〉は香港に亡命しましたが,その後も戦闘は継続していました。なんと,そこに介入してきたのがアメリカ合衆国です。アメリカは1898年にスペインとの戦争(米西戦争【追H9米西戦争の結果,フィリピンがアメリカ合衆国に領有されたか問う】)を開始し,フィリピンでは〈アギナルド〉側を支援。
 〈
アギナルド【上智法(法律)H30は同年に革命政府の首都ブラカン州マロロス町に議会を設置し,1899年には憲法を制定。フィリピン共和国(マロロス共和国) 【上智法(法律)H30が建てて,大統領に就任しました。しかし,すでにアメリカはスペインとのパリ条約(1898)により,フィリピンの領有権を獲得していたのです。

 こうして,1899年にアメリカはフィリピン共和国との戦闘を開始し, (18991902年,米比戦争),激しいゲリラ戦ののち結局フィリピンはアメリカの植民地となってしまいました。アメリカにとってフィリピンは,ロシアの南下に対応するための基地としても外すことができなかったのです。

 アメリカの支配下では,しだいに自治が認められたものの,アメリカ合衆国との自由貿易体制が作られ,サトウキビとマニラ麻のモノカルチャー経済がさらに進みました。英語による教育が導入され,アメリカ文化が浸透し,アメリカ製品の格好の市場になっていきました。一方で,強い影響力を持っていたカトリック教会による宗教教育は,そのまま重視されました。

 一方で,キリスト教徒ではないイスラーム教徒「モロ」と区別され,植民地当局によって厄介者扱いされました。フィリピン南部のミンダナオ島や,ミンダナオ島から南西のボルネオ島に向かってスールー諸島はイスラーム教徒の多く分布する地域であり,彼らを「フィリピン人」としてまとめて支配しようとすれば,そりゃあ問題が起きるのはあたりまえです。キリスト教徒のフィリピン人などを支配者につけたことで新たな混乱も起き,反政府運動がしばしば起きました【大阪H30論述:植民地における民族・人種的分類に基づく人口調査が,東南アジアの植民地経営やのちの政治的動向に与えた影響を論じる。民族・人種分布の把握は分割統治に役立ち,植民地の社会を支配・被支配関係に分断させた。優遇され支配層に位置づけられた民族・人種からは,現地エリート層が形成され,植民地独立運動の指導者となる一方,独立後の民族・人種問題につながった】


1870年~1920年の東南アジア  ⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
シンガポールは「アジア間交易」のハブに発展へ
 この時期には,イギリス帝国の提供する国際公共財や,インドと日本の綿紡績業の発展を背景に,アジア各地を綿製品や消費財が結ぶ「アジア間交易」が活況を呈します。
 シンガポールはイギリスの直轄植民地であり,自由貿易港として「アジア間交易」のハブとして発展していきます。

 スマトラ島では,
1873年からアチェ王国とオランダとの戦争が始まりました。1903にオランダはスルターンを廃位しましたが,ウラマーの指導による戦闘は1912年まで続きました。パレンバンは1823年に,ジャンビ王国は1901年にスルターン制が廃止され,オランダの直接統治下に置かれました。20世紀初頭には,バリ島も支配下に置きます。こうして,1910年代には,インドネシアの原型にあたるオランダ領東インドが完成しました。
 植民地の完成に対し,住民の側からの抵抗運動も始まっていきました。「インドネシア」という呼び名も,この時期に「東インド」に対抗して掲げられたのです。すでに,19世紀末に中部ジャワでは農民〈サミン(?1914)が農民らを指導として,自給自足の理想の農民世界の樹立を訴え,植民地政庁に抵抗する運動が置きていました(サミン運動)。本格的な民族運動は,1908年のブディ=ウトモ (至高の徳という意味)が原点です。その後,1911年にジャワで結成されたサレカット=イスラム(イスラム同盟) 【セH6】 【セH14時期,セH30バングラデシュではない, セH29試行 バルフォア宣言・フサイン=マクマホン協定とは無関係】は,「イスラーム」による助け合いを説き,ジャワで急速に支持者を増やしました。当時は「インドネシア」を旗印にするよりも「イスラーム」を掲げたほうが,一致団結しやすかったのです。はじめはインドネシアの経済を牛耳っている華僑(中国系商人) 【セH17 ヨーロッパに植民地化された後,中国から移住し労働に従事する者が途絶えたというのは誤り】に対する運動でしたが,1912年に〈チョクロアミノト〉(18821935)が主導権を握ると急拡大し,しだいに反オランダ的な団体に変化していきました。
 こうした動きに対してオランダは,「倫理政策」といって「白人として,キリスト教徒として,われわれオランダ人の文明を,遅れた野蛮な東インドに与えるべきである」という政策をとるようになりました。住民の福祉や教育水準をアップさせることで,不満を封じ込めようとしたのです。西洋式の教育を受けたジャワの〈カルティニ(女性,18791904)は,ジャワ人としてのアイデンティティを持つことの大切さや,女性教育の重要性を主張しました。
 「私たちはよく,ジャワ人よりも心はオランダ人に近いと言われます。そういう批判は心を痛めます! 私たちは西洋の思想や感覚に影響されているかもしれませんが,私たちの血,私たちの血管の中を熱く流れているジャワの血は消すことが出来ません。」(1901年の手紙)
 彼らはやがて本格的な独立運動の指導者になっていくことになります
【セH11リード文に舟知恵・松田まゆみ訳『民族意識の母カルティニ』が使用】
 マレー半島では,イギリス【セH25フランスではない】は現地のムラユ人首長たちの協力を得つつ,効率的に支配をしようとしました。具体的には,イギリス海峡植民地の総督が,ペラ,スランゴール,パハンのスルターンと,ヌグリスンビランの6人の首長に国内の権限を保障する代わりに,イギリスの保護下に置くというものです。これをマレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)【セH21】といいます。首都はクアラルンプールです。The (Federated) Malay Statesの訳語ですので,マレー諸州のほうがよいかもしれません。ジョホールや北部の3地域(クダ,クランタン,トレンガヌ)のように,これに参加しなかった地域(非連合州)も,20世紀初めには実質的にイギリスの支配下に組み込まれました。こうして,海峡植民地(ペナン,マラッカ,シンガポール【セH2・セH11:1901年当時の宗主国を問う】)+マレー連合州(フェデレイティド=マレー=ステイツ)+非連合州を合わせて,イギリス領マラヤと呼びます。

 イギリスは
19世紀後半には,ボルネオ島にも支配圏を伸ばしました。
 ブルネイ王に支配権を与えられたイギリスの冒険家〈ブルック〉が,
1841年以降王朝を開いていたサラワクと,ブルネイ王国内のサバは北ボルネオ会社の支配下に入り,1888年にサバ,ブルネイ,サラワクは,すべてイギリス保護領になりました。


1870年~1920年の東南アジア  ⑧カンボジア
 カンボジア【セH11:1901年時点の宗主国を問う】はフランス【追H20アメリカではない】領インドシナの一部として,フランスによる植民地化を受けています。


1870年~1920年の東南アジア  ⑨ラオス
 ラオス【京都H19[2]】では,ラーンサーン王国の分裂後,いくつかの王国が並び立っていましたが。この複雑な状況がフランスによる植民地化に有利に働き,1899年にフランス【追H20ポルトガルではない】領インドシナに併合されました。国王の名目的な支配は残され,フランス植民地省の管轄下に置かれました。



1870年~1920年の東南アジア  ⑩タイ
 シャムでは〈ラーマ5世〉(チュラロンコン大王,位1868~1910) 【東京H27[3]】【慶商A H30記】が,近代化政策を進めました。インド側のイギリスと,インドシナ半島側のフランスに挟まれた緩衝地帯であったため【慶商A H30記述(独立維持の理由を「緩衝」という語句を用いて)】,国境付近の領土を英仏に割譲しながらも独立を守ることができました【追H20フランスの植民地ではない】
 王に謁見(えっけん)するときにひれ伏すなどの伝統的な儀礼や奴隷制を廃止し,外国人顧問を雇い西ヨーロッパの制度を参考にして鉄道・電信・郵便・司法・行政・教育などを刷新しました。
 国王がバンコクに創設した学校は1917年にはチュラーロンコーン大学に発展しています。



1870年~1920年の東南アジア  ⑪ミャンマー(ビルマ)
 コンバウン朝【セH3タウングー朝ではない】のビルマでは,1885年の第三次ビルマ戦争【京都H19[2]】【東京H23[3]ビルマ戦争が3次まであったか問う】【セH10「ビルマ戦争(1885年)で勝利したイギリスは不平等条約をビルマに強要した」か問う】【上智法(法律)他H30スマトラ島の王国ではない】で,イラワジ川上流部(上ビルマ)もイギリス【セH3】に併合され,コンバウン朝ビルマは滅亡し【セH3】【東京H23[3]「1947年まで存続した」わけではない】1886年にイギリス【セH11:1901年時点の宗主国を問う】インド帝国の1州として併合されました【セH17フランスに併合されたのではない】。国王夫妻はインドのボンベイに流され,そこで亡くなりました。




1870年~1920年のアジア  西アジア
西アジア
…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

1870年~1920年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国は英仏などの経済的支配下に置かれ,ドイツに接近して第一次大戦に敗れる
 
オスマン帝国のエジプト総督〈イスマーイール〉(186367186779までは「副王(ヘディーヴ)」の称号を得ました)は,〈ナポレオン3世〉時代のフランスとともにスエズ運河開削に出資しましたが,その莫大な建設費は通行税の徴収によってまかなえると考えられていました。しかし予想は大きく外れ,近代化にともなう港湾施設,工場などの建設をヨーロッパからの出資で行ったため負債が拡大。ついに1875年にはスエズ運河会社の株式はイギリスに売却されました。アメリカ合衆国の南北戦争(186165)以降上り調子だった綿花輸出量ものびなやみ,同年にはイギリス・フランスによって国家の財政が管理下におかれてしまいました。このピンチを救ったのが宰相の〈ミドハト=パシャ〉です。1876年にミドハト憲法【東京H11[3]タンジマート後の推移を記述する,H20[1]指定語句】【共通一次 平1:時系列(タンジマート,青年トルコ人革命との順)】【セH10日本の明治憲法を模範にしたわけではない(まだ明治憲法は制定されていない)【セH16時期(19世紀後半),セH29インドではない】を発布し,二院制・責任内閣制を規定しました。
これはアジア史上初の憲法だったのですが,〈アブデュル=ハミト2世【東京H15[3] 1883年に開業されたパリ発のオリエント急行の終着駅と,当時の元首を答える】【セH30【立教文H28記】が,露土戦争が起きたことを口実に,「戦争遂行のために指揮は自分がとるから宰相など必要ない」と,〈ミドハト=パシャ〉を辞めさせ,憲法を停止してしまいます。
 これに抗議したのが,
統一と進歩委員会(ヨーロッパ諸国では「青年イタリア」などにならって青年トルコ」と呼ばれました)というグループです。

 ヨーロッパ諸国の経済的な進出も強まります。1881年にはオスマン債務管理局が設立され,オスマン帝国の財政はイギリス,オランダ,フランス,ドイツ,イタリア,オーストリアとオスマン銀行による委員会に管理され,オスマン帝国は徴税の自由を失いました。借金を返済させるためにオスマン帝国の税金のとり方にまで干渉したのです
【セH12「(1871~79年前後の時期の)スエズ運河の建設やその株式の保有をめぐって,ドイツによる財務の管理を受けるようになった」か問う。管理したから「イギリスとフランス」だから「誤り」とのことだが,委員会にはドイツも参加していたので,この選択肢は正答となり,解答不能か】

 さて,アジアの一つである日本が,オスマン帝国と
共通の敵であるロシアに勝利(190506年日露戦争)した知らせに刺激を受け,オスマン帝国の統一と進歩委員会(青年トルコ)は,1908年に青年トルコ革命【共通一次 平1:タンジマート,ミドハト憲法との時系列を問う】を起こします。〈エンヴェル=パシャ〉を指導者としてミドハト憲法を復活し,立憲君主制となりました。
 日本が立憲君主制となったのは
1889年の大日本帝国憲法ですから,19年遅れをとったということになります【セH10ただし,ミドハト憲法は大日本帝国憲法にならって制定されたわけではない】
 〈エンヴェル=パシャ〉は三頭政治をとって政治の表舞台には現れず,オスマン帝国の官僚層はそのまま残されます。その間〈エンヴェル〉は1909年からドイツにベルリン駐在武官として赴任。熱烈なドイツ支持者となって帰国します

 ちなみに,このとき〈アブデュル
=ハミト2世〉は「ミドハト憲法を停止した」という悪行があるわけですから,議会で廃位が決議されました。皇帝(スルターン)が廃止されたわけではありませんが,彼の弟〈メフメト6世〉は,オスマン帝国最後の皇帝(スルターン)に,彼の従弟は最後のカリフとなりました。
 青年トルコは,「オスマン人」として多民族を支配しようとするオスマン帝国の指導者に反発し,「トルコ人」中心の近代的な国家をつくろうとしました。それに対して
アラブ人からは,アラブ民族主義に基づく運動が起こっていきます。各地にアラブ人の独立を目指す組織がつくられ,第一次世界大戦中にはイギリスがアラブ人に接近し,オスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をとりました。
 なお,青年トルコ革命の混乱の最中に,
ブルガリアがオスマン帝国【セH18オーストリア=ハンガリー二重帝国ではない】から独立しました【セH18,セH27

1870年~1920年のアジア  西アジア
◆オスマン帝国は中央アジアのテュルク系民族との提携をねらうも,失敗に終わる
エンヴェルのパン=テュルク主義,ケマルの西欧主義
 1911年に現在のリビアをめぐるトルコ=イタリア戦争に敗北し,1912年には第一次バルカン戦争でも敗北。負け続きのオスマン帝国に対し〈エンヴェル=パシャ〉は1913年にクーデタを起こし,独裁権力を掌握。同年にはオスマン帝国のスルタンの娘と婚約,1914年に結婚し,権威付けもバッチリです。
 しかし戦局は思うようにいかず,〈エンヴェル=パシャ〉は中央アジアのトルコ人との提携により,ロシアの挟み撃ちを狙うという
パン=テュルク主義にもとづく壮大なプランを計画。もともと「トルコ人だけでまとまろう」という考え方は,クリミア=タタール人〈ギョクアルプ〉(1851~1914)によって主張されていました()
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史』朝日新聞社,1991,p.B-709

 中央アジアでは1917年のロシア革命後には革命ロシアの進出が本格化。タタール人やアゼルバイジャン〔アゼリー〕人,ウズベク人,バシキール人などによる独立運動の動きは活発化しますが,どのようにまとまるか,どのように独立するかをめぐって,統一的にすすめることは困難でした。
 やがてテュルク人の民族運動も,ロシアの社会主義の影響を受けるようになり,〈スルタンガリエフ〉(1882~1940)をはじめとするタタール人の社会主義者が活躍しますが,民族主義的な要素と社会主義的な要素の両立も困難でした。のち〈エンヴェル〉(1881~1922)は,大戦中に成立したソ連に抵抗する運動に加わっていたところ,暗殺されています。
 
 一方,西ヨーロッパ的な教育の影響を強く受けていた〈ムスタファ=ケマル〉は,大戦中から
アンカラを中心に連合国への抵抗運動をスタートさせていました。
 彼は,「もうオスマン帝国のスルターンにはまかせられない。〈エンヴェル〉のいう「パン=テュルク主義」も非現実的だ。アナトリア半島のテュルク人だけで,西欧を見習って強い近代的国家を建設しよう」と呼びかけます。

 こうして〈ケマル〉は,ユーラシア大陸に広がるテュルク人の世界とは別個に,アナトリア半島だけで西欧的な近代国家を建設していくことになるのです。そのために解決すべき問題としては,①連合国との交渉を有利に進めること,②混乱に乗じてアナトリア半島に進出したギリシアを追い払うこと,そして,③オスマン帝国のスルターン(と同時にカリフ)の処遇を決めること,④イスラーム教と国家との関係を決めること,などがありました。

1870年~1920年のアジア  西アジア
◆英仏露によりオスマン帝国領の分割が協議され,大戦後に英仏による勢力圏が定められた
戦後イギリス・フランスは,オスマン帝国を分割した
 オスマン帝国は,第一次世界大戦(1914~1918)にドイツ側の同盟国で参加しますが,バルカン半島でもアラビア半島でも劣勢に立たされました。
 オスマン帝国領内には
アラブ人がいます。イギリスは,彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【セH12】
 アラビア半島にはいくつかの有力な権力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人
【東京H8[1]指定語句「アラブ」(第一次世界大戦前後における旧来の帝国の解体の経過とその後の状況について)勢力【セH29試行 オスマン帝国ではない】フサインでした。1915年のフサイン=マクマホン協定【東京H8[3]ユダヤ人の建国を認めていない】【セH3イギリスの関与を問う】【セH15サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌
16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定)17年にはイギリス【セH29試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言) 【セH3イギリスの関与を問う,セH9アラブ人に独立を認めたものではない】【セH15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),セH30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの三枚舌外交です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【セH16イブン=シーナーではない】【追H20イブン=ルシュドではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。

 第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,現在のレバノンとシリアは「シリア」としてフランス【セH3の委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。

 こうしてイギリスは,
トランスヨルダン【セH3「ヨルダン」としてフランス委任統治領から独立したのではない】【セH20イタリア領ではない】イラク【セH3イギリス委任統治領ではない】【セH14・H20ともにフランス領ではない】委任統治()することに成功したのです。
 しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な
分割統治ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【セH29試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(
ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
()国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。

 一方,フランス【セH16イギリスではない】シリア(現在のシリア+レバノンの領域)を委任統治領とし,パレスチナは国際管理としました。
ちなみに,ロシアでは,大戦中にロシア革命が起き,レーニンの革命政府は「平和に関する布告」で,領土を要求したり住民の意志に背くようなことはしたりしないとで表明し,この地域からは身を引きました。
 このように一方的な線引きがなされた結果,例えば「クルド人【東京H25[3]】は,トルコ・シリア・イラク・イラン等にまたがり分断され迫害を受けることになりました。「アルメニア人」の領域の多くも,サイクス=ピコ協定ではロシアの勢力圏に入っていましたが,結局トルコの支配下に置かれました。大戦中にはトルコ人によるアルメニア人虐殺が起きています。


1870年~1920年のアジア  西アジア ①アフガニスタン 
 アフガニスタン
は,インド防衛のためにイギリス【セH2フランスではない】が進出しました。ロシア対策ですね。183842年の第一次アフガン戦争【東京H26[1]指定語句「アフガニスタン」】でイギリスは敗北,18781880年の第二次ではイギリスが勝利して保護国化しましたが,1919年の第三次ではアフガニスタンは主権を回復し,独立国家となりました。



1870年~1920年のアジア  西アジア  ②イラン
 イランのカージャール朝
【セH15サファヴィー朝ではない,セH17清ではない】は,1828年には,ロシアとトルコマンチャーイ条約(イランなのにトルコなので注意) 【東京H26[1]指定語句】【セH17【追H21エカチェリーナ2世は結んでいない】が結ばれ,カスピ海と黒海のあいだを占めていたアルメニア【セH15ロシアが「領土」を獲得したかを問う】を失いました。これは,治外法権を失う不平等条約でした【セH10条約の名称は問わず】

 その後,イギリスやロシアが進出したことに反発する,シーア派の一派のバーブ教徒【セH19,H25ディオクレティアヌス帝とは関係ない,セH29試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係,セH30が反乱をおこします(18481850)が,カージャール朝に鎮圧されました【セH18,セH29試行 この時点でカージャール朝はイギリスの保護国になっていたわけではない。その後,1891年にはタバコ=ボイコット運動【東京H19[3]】【セH16地域・王朝】【法政法H28記】【※意外と頻度低い】がおきます。カージャール朝が,イギリスにタバコを独占する利権を与えたことに反発したのです。運動を指導したのは,国境を越えてイスラーム世界を一つにまとめようとする「パン=イスラーム主義【セH25】(「パン」は「1つ」という意味)を提唱した〈アフガーニー(183897) 【東京H19[3]】【セH25】【法政法H28記】です()。彼は「ヨーロッパに勝つにはイスラーム教徒がヨコにつながるべきだ!」と主張し,エジプトのウラービーの乱【セH6成功していない,セH12「アラービー=パシャ」時期】【セH18【セA H30時期】を初め,当時のイスラーム世界のほとんどすべての抵抗運動に影響を与えました。

 運動は失敗に終わりますが,イランでは日露戦争での日本の勝利に影響された
イラン立憲革命(1906~11) 【東京H14[1]指定語句】【セH10「イギリスとロシアの干渉によって挫折した」か問う】【セH16】が起きましたが,1907年には英露協商で南部はイギリス,北部はロシアの勢力圏としてロシアの介入が黙認され,1908年にはカージャール朝の国王はロシアの支援を求めて鎮圧しました。その後,タブリーズの市民の抵抗で1909年に立憲派が勢力を回復したものの,ロシア軍【セH16フランス軍ではない】により鎮圧されました。ロシアにとってはイランが王により支配されていたほうが,国民よって団結した国ができるよりも都合がよかったのです。
 〈アフガーニー〉の弟子に,〈
ムハンマド=アブドゥフ(ムハンマド=アブドゥ,18491905) 【上智法(法律)他H30】 がいます。彼はエジプトのウラービーの乱にも関わり,「西洋文明はイスラームとは矛盾しない」と考え,イスラーム法を柔軟に解釈しようと呼びかけました。彼の説は中央アジア,南アジア,東南アジアにまで広まり,イスラーム世界の各地の改革派ウラマーや民衆の一体感を高めました。しかし,ヨーロッパ文明の生み出した「近代的」な制度や思想にイスラームを近づける考え方には,反対を唱えるウラマーも少なくありませんでした。このようにイスラームに価値を置き,社会を改革したり革命を起こそうとする思想を広くイスラーム主義といいますが,その内部には「どのような社会を理想とするか」をめぐる改革派と対立派の対立があったのです。
(注)アラビア語やペルシア語には,地名のあとに「イー」という語尾を付けると○○出身者という意味になるのですが(ニスバといいます),〈アフガーニー〉もアフガニスタンで生まれたとされ,現在はアフガニスタンに墓がありますが,イスラーム世界を股にかける活躍をした人物です。



1870年~1920年のアジア  西アジア ③イラク
 イラクではオスマン帝国による中央集権化がすすみ,1887年には北部のモースル,中央部のバグダード,南部のバスラの3州が設置されました。イギリスはイラク地域を「インドへの道」として重要視し,バスラにはイギリスの港湾が建設され蒸気船航路も開通させました。

 第一次世界大戦中に,イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。

 オスマン帝国領内にはアラブ人がいます。彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【セH12】
 アラビア半島には複数の有力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人勢力
【セH29試行 オスマン帝国ではない】フサインでした。1915年のフサイン=マクマホン協定【セH15サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌
16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定)17年にはイギリス【セH29試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言) 【セH9アラブ人に独立を認めたものではない】【セH15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),セH30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの三枚舌外交です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【セH16イブン=シーナーではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。

 第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。
 こうして,
トランスヨルダン【セH20イタリア領ではない】イラク【セH14・H20ともにフランス領ではない】委任統治()することに成功したのです。しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な分割統治ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【セH29試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(
ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
()国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。



1870年~1920年のアジア  西アジア ⑤バーレーン,⑥カタール,⑨イエメン,⑩サウジアラビア
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の海賊集団がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,19世紀前半以降,武力をちらつかせながらペルシア湾岸(1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーン)を含むアラビア半島沿岸を保護下に置いていきました。例えば,1880年にバハレーン(バーレーン)1916にカタールが保護国となります。
 1899年にはワッハーブ派の第二次サウード朝(182389)が,対立部族のラシード家に敗れると,サウード家の指導者は
クウェイトのサバーハ家に保護を求めます。同年,クウェイトはオスマン帝国への対抗の必要からイギリスの保護下に入りました。これが現在につながるクウェイトの成立です。
 ラシード家に敗れた
サウード家の当主〈アブドゥルアズィーズ〉は1902年に,対立するラシード家からアラビア半島中央部のナジュド(ナジド)を奪回し,ハーシム家の当主〈フサイン〉からメッカを奪う動きをとっていきます。
 メッカ(マッカ)とメディナ(マディーナ)の両聖都を抱えることから,スンナ派イスラームの保護者を自任するオスマン帝国の支配下に置かれていました。しかし,オスマン帝国に対してアラビア半島の遊牧民の諸集団は,スンナ派の厳格な改革思想である
ワッハーブ派を旗印にまとまりをみせるようになりました。
 また,
鉄道の敷設や蒸気船航路の開通にともないメッカ巡礼者が増えると,各地のスーフィズムの教団も盛んにメッカを訪れるようになっていました。各地のスーフィズム教団はワッハーブ派の改革運動の影響を受け,神秘主義的な教義のうち〈ムハンマド〉のスンナ(慣行)にそぐわないものの見直しを図る動きがみられるようになり,メッカでイドリース教団が,そこから分かれてリビアでサヌーシー教団が設立されました。

 イエメン北部の山岳地帯にはシーア派の分派ザイド派を信仰する部族の支配地域でしたが,1892年にオスマン帝国の支配下に入りました。しかし,第一次世界大戦でオスマン帝国が崩壊すると1918年にイエメン王国は独立が認められました。
 一方イエメン南部の
アデン地域は1839年にイギリス東インド会社に占領されインド政庁の支配下に置かれ,周りの首長国も保護下に置かれていきました。

 第一次世界大戦中に,イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。

 オスマン帝国領内にはアラブ人がいます。彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【セH12】
 アラビア半島にはいくつかの有力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人勢力
【セH29試行 オスマン帝国ではない】フサインでした。1915年のフサイン=マクマホン協定【セH15サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌
16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定)17年にはイギリス【セH29試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言) 【セH9アラブ人に独立を認めたものではない】【セH15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),セH30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの三枚舌外交です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【セH16イブン=シーナーではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。



1870年~1920年のアジア  西アジア ⑪ヨルダン,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア
シリアで高まるアラブ意識,トルコ主義に対抗
 シリアでは,アラブ人としての民族意識を高めようとする「アラブの覚醒」運動が起きていましたが,〈アブデュル=ハミト2世〉はそれを危険視し,1887年にシリア地域をアレッポ州,ダマスクス(シャーム)州,ベイルート州と,レバノン県,イェルサレム県に分割し,中央集権的に支配しようとしました。それに対してシリア地域のキリスト教徒やイスラーム教徒の間でアラブ民族主義の動きが高まっていきました。例えば〈カワーキビー〉(1840~1902)は,たとえイスラーム教徒であってもアラブ人と非アラブ人を区別するべきだと主張し,オスマン帝国への対決を鮮明にしました。

ユダヤ人がポグロムを逃れてパレスチナに逃れる
 折から当時「国民国家」の建設が本格化していたヨーロッパ諸国では,国境を越えたつながりを持つユダヤ人に対する締め付けが強くなっていました。
 その上,1882~1883年にロシア帝国領内で
ポグロムという虐殺事件が各地で起こります。
 東ヨーロッパ方面から逃れたユダヤ人は,パレスチナへの移住を開始していました。
 1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されたからです。
 これが,のちの
パレスチナ問題の起源となっていきます。古くから続いている対立のようにみえるパレスチナ問題は,実はこの時代が生み出した問題なのです。


イギリスの三枚舌外交の結果,アラブ人の統合は阻止された
 第一次世界大戦中に,イギリスはオスマン帝国を内側から崩壊させる作戦をたてました。

 オスマン帝国領内にはアラブ人がいます。彼らに戦後の独立を約束することで「アラブの反乱」を起こさせようとしたのです【セH12】
 アラビア半島にはいくつかの有力者がいました。イギリスは誰を選んだかというと,メッカの太守を務めるアラブ人勢力
【セH29試行 オスマン帝国ではない】フサインでした。1915年のフサイン=マクマホン協定【セH15サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(サイクス=ピコ協定ではない)】で,アラブ国家の建設を認めました。彼の理解では,この“アラブ国家”の範囲は,シリア,イラク,パレスチナ,アラビア半島の広範囲にわたるものでした。
 しかし翌
16年には,ロシア帝国・フランスとイギリスとの間で,オスマン帝国領を分割する約束をしているし(サイクス=ピコ協定)17年にはイギリス【セH29試行 フランスではない】はユダヤ人にパレスチナでの建国を認めているから(バルフォア宣言)【セH15フサイン=マクマホン協定・サイクス=ピコ協定ではない,セH29試行 史料(イギリスとアメリカ合衆国が共同で発表した宣言ではない),セH30内容が問われた】,3つの互いに矛盾する内容の取り決めが,この3年に行われたことになります。これが世にいう,イギリスの三枚舌外交です。
 イギリスが選んだ〈フサイン〉という男は,あの〈ムハンマド〉を輩出したハーシム家出身です。軍人の〈ロレンス〉を派遣し,イギリスの軍事的支援により「アラブの反乱」が引き起こされました(「アラビアのロレンス」(1962イギリス)にはのちのイラク国王〈ファイサル〉も登場します)。1918年に〈ファイサル〉はダマスクスを占領し,アラブ民族主義者を集めてシリア王国の建国を宣言しました。

 それをみて,アラビア半島の中央部リヤドのサウード家の〈イブン=サウード〉(アブド=アルアジーズ,1880~1953,国王任1902~53)【セH16イブン=シーナーではない】は「〈フサイン〉はイギリスに利用されている。アラビア半島をまとめるのは,ワッハーブ派のサウード家だ」と,〈フサイン〉に対抗。彼は結局メッカを攻略しヒジャーズ=ネジド王国を建国します。

 第一次大戦後に開かれた1920年のサン=レモ会議では,レバノンとシリアはフランスの委任統治領,パレスチナ,トランスヨルダン(のちのヨルダン)とイラクはイギリスの委任統治領とすることが確定され,同年フランスはダマスクスに軍事進出して〈ファイサル〉のシリア王国を崩壊させました。
 こうして,
トランスヨルダン【セH20イタリア領ではない】イラク【セH14・H20ともにフランス領ではない】委任統治()することに成功したのです。しかも,アラブ人をハーシム家とサウード家に分裂させることによって,アラブ人が束になってかかってくるのを防ぐこともできました。典型的な分割統治ですね。こうして,イラクには1921年に〈ファイサル〉を王とするイラク王国(完全独立は1932年)【セH29試行 フサイン=マクマホン協定と最も関連が深い】,1923年には〈アブドゥッラー〉を王とするトランスヨルダン共和国(完全独立は1946年)が成立することになります。イギリスの本音は,地中海からペルシア湾に抜けるインド・ルートの確保にありました。
 両者ともに国境線には伝統的な由緒があるわけではなく,まったくの“人口国家”として誕生しました。例えばイラクはバグダードやバスラといった都市以外に,シリアやアラビア半島につながる遊牧民(
ベドウィン)の領域,南部のシーア派住民の領域,北部のクルド人【東京H25[3]】の領域も含んでいたのです。
()国際連盟の監督下で,住民の自治を認めた上で,独立できる状態になるまで助言と援助を与えるという制度です。


1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。
 
露土戦争(1877~1878)の結果結ばれたベルリン条約(1878)により,オスマン帝国はキプロスを失い,イギリスが統治権を獲得しました。インドへの航路の拠点とするためです。
 第一次世界大戦(1914~1918)が勃発すると,イギリスは
キプロスを併合しています。



1870年~1920年のアジア  西アジア 現⑲アルメニア
◆アルメニア人の民族的な自覚が高まる一方,「民族浄化」(ジェノサイド)を受ける
 
19世紀以降,アルメニアでは「自分たちはアルメニア人だ」という意識が高まりました。19世紀後半にはアルメニア人の資本家が成長し,コーカサス地方全体のうち商工業の70%,6つの銀行のうちの4銀行,不動産の半分を支配するにいたります(1)。また,19世紀半ば以降,アルメニアから欧米への出稼ぎも増加します。
 しかし,その中で「グルジア人」との対立も生まれていきました。従来は「別の民族」という明確な区分は存在していなかったのですが,次第に「グルジア人」や「アゼルバイジャン人」との違いが形作られていくこととなりました。
 アルメニアの都市カルスは,1877~78年の露土戦争後にロシア領となっていました。しかし,第一次世界大戦中にロシア革命が起きると,1918年3月にソ連がドイツと単独講和をした結果,カルスは(中央)同盟国のオスマン帝国に明け渡されることとなりました。これにより10万人以上のアルメニア人が難民となって避難することになります
(2)。こうした難民を含めたアルメニア人が,オスマン帝国軍による大量殺害の対象となりました。オスマン帝国によるアルメニア人虐殺は大戦前にも起きていましたが,大戦中の虐殺は特に大規模なものとなります(オスマン帝国によるアルメニア人虐殺(ジェノサイド))。

 大戦末期の1918年10月には連合国がオスマン帝国とムドロス協定を結びますが,それでもカルスからオスマン帝国軍が撤退することはありませんでした。1919年1月にはアルメニア支配を続けようと「南西コーカサス共和国」という国を樹立。
 1920年8月に連合国とオスマン帝国の間に
セーヴル条約が締結され,クルド人【東京H25[3]】とともにアルメニア人の民族自決がうたわれます。そんな中,オスマン帝国内部に,イスタンブルの政府に対立するアンカラ政府が樹立されており,このアンカラ政府が1920年にセーヴル条約の破棄を通告して,カルスのアルメニア人を追放し侵攻,多くの犠牲者を出しました。
(注1)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.76
(注2)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.87





1870年~1920年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 
マダガスカルメリナ王国の支配下にありました。1868年に〈ラナヴァルナ2世〉(位1868~1883)が即位,死後に従妹が〈ラナヴァルナ3世〉(位1883~1897)として即位します。
 しかし1890年に〈ラナヴァルナ3世〉はフランスに保護権を認め,1895年にはフランスにアンタナナリボが占領されました。1896年に
フランスはマダガスカルの植民地化を宣言。1897年に〈ラナヴァルナ3世〉はレユニオン島に流され,メリナ王国は滅びました。





●1870年~1920年のアフリカ

◆医療・交通機関の発達により,西ヨーロッパ諸国によるアフリカ中央部への進出が本格化した
医療と交通の進歩が,「暗黒大陸」の探検を可能に
 大航海時代以降,アフリカの沿岸部を中心にヨーロッパ人が進出を開始したため,港町についてはよく知られていました。しかし,コンゴ盆地を中心とする内陸部については謎もおおく暗黒大陸とまで呼ばれていました【セ試行 15世紀頃からアフリカ内陸部の探検がポルトガル人によっておこなわれていたわけではない】

 しかし,キニーネというマラリアの特効薬となる物質が発見された(1856)こともあり,アフリカ内陸部の謎に挑戦する探検家が現れるようになります。その代表が,イギリスの〈リヴィングストン(181373) 【東京H19[3]】【セH21】。彼はナイル川の水源をたどる旅に出て,失踪。イギリスのウェールズ出身でアメリカに渡っていたジャーナリスト〈スタンリー(18411904)が発見をし,世界的なスクープになりました。
 ヨーロッパの列強は,「アフリカにもまだまだ知られていない土地がある」ことを知り,一斉にアフリカの内陸部に進出を開始。
 1804年に〈トレヴィシック〉(1771~1833)により発明された
蒸気機関車も,アフリカ内陸部への物資輸入と資源輸出の格好の道具として利用されていきました。アフリカは台地上の地形をしているため,川をさかのぼったり運河を掘ったりすることでは内陸に進出しにくかったのです。


◆列強によるアフリカの植民地支配の利害調整のため,ベルリン会議が開かれ,「アフリカ分割」が本格化した
 
コンゴをめぐってヨーロッパ諸国が対立をしたため,諸国の均衡(バランス)を重視するビスマルクがベルリンに各国を呼び,188485ベルリン会議を開きました。
 会議では,アフリカの土地を自分の植民地として主張するには「実効支配」が必要だという原則が決められました。つまり,ただ単に「ここは自分の植民地だ!」というのではなく,軍による治安維持や住民・旅行者の安全を確保できて初めて,自国の植民地として主張できるということです。どこからどこまでが,どの国の植民地なのかハッキリさせるために,地図上に明確な国境線が引かれはじめます。沿岸を確保できていれば内陸も支配できるとされたので,植民地の境界線は海岸部から内陸に向けて直線に引かれました。現在のアフリカの国境線に直線(数理的国境)が多いのは,この境界線をもとにアフリカ諸国が独立をしていったためです。
 アフリカの植民地の取り合いは,基本的には
早いもの勝ちということにもなりました(先占の原則)


◆アフリカの植民地化をめぐり,先発のイギリス・フランスと,後発のドイツが鋭く対立した
 1880年以降,アフリカを南北に縦貫させようとするイギリスの縦断政策と,フランス・ポルトガル・ドイツなどの横断政策が激突するようになっていきました。

 実際ドイツ
【セH8地図(ドイツのアフリカにおける植民地の分布)】は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885ドイツ領東アフリカを建設します。現在のタンザニアです。ほかにも南西アフリカ(1885年。現在のナミビア)カメルーン【セH16イタリアの植民地ではない,セH22】,トーゴを植民地化していきます。南西アフリカの反乱と,ドイツ領東アフリカのマジ=マジ反乱(呪術的なグループを中心とした住民の反乱)に対しては,徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。

 とくに英仏を焦らせたのは,2度のモロッコ事件【セH18】です。1905年にドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉は,北アフリカのモロッコのタンジール港に上陸し,ここを勢力下におこうとしていたフランスに対抗して,モロッコのスルターンを支援しました。
 
1906年にアメリカ合衆国大統領〈セオドア=ローズヴェルト〉の介入によりアルヘシラス国際会議がひらかれ,フランスとイギリスは協調してドイツの要求をしりぞけます(第一次モロッコ事件セH5アラブ人とフランス人との間にアフリカ東部の奴隷貿易をめぐって起きたものではない】)。アメリカ合衆国が「ヨーロッパの政治には関わらない」とした1823年以降のモンロー主義を捨てていることがよくわかります。

 
1911年にもドイツはモロッコ【中央文H27記】のアガディール【中央文H27問題文】港に艦船を派遣していますが,中央アフリカのフランス領コンゴ(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります(第二次モロッコ事件)



◆後発のイタリアは紅海沿岸,インド洋沿岸を植民地化したが,エチオピアでは失敗した
 イタリアも,植民地の再配分を要求した国の一つです。アフリカの角の周辺への進出を狙ったイタリアは,紅海沿岸のエリトリア1885年に,次にインド洋沿岸ソマリランドに対し1887年に郡司的に進出して,その後領有しています
 さらに,エチオピア帝国の植民地化をめざしましたが,
1896年にアドワの戦いでイタリア【セH8イギリスではない】を撃退しています。この結果,エチオピア帝国は,リベリア共和国(アメリカ植民協会により,黒人奴隷をアフリカ大陸に戻そうという運動で1847年建国された【セH14植民地化されていない(オランダによる植民地でもない),セH21世紀を問う】)と並び,アフリカ大陸で植民地化されていない国家【セH29となりました。
 ちなみにイタリア【セH22ドイツではない】は,北アフリカのリビア(トリポリ地方とキレナイカ地方) 【セH22】をめぐり191112年にオスマン帝国と戦い(イタリア=トルコ戦争,伊土戦争),ここをリビアとして奪っています【追H30】。19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団【セH29試行 史料(解答には不要)】が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されました。

◆欧米の思想の影響を受け,ヨーロッパからの独立を訴えるアフリカ人も現れた
 すっかり植民地化されたアフリカでは,ヨーロッパに対する本格的な独立運動は起こりませんでしたが,アフリカで欧米の教育を受けた人々や,欧米生まれのアフリカ系の人々の中には,第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領が提案した「民族自決」というキャッチフレーズの影響もあり,欧米でアフリカ人の人権を守ろうとする運動を起こす人が現れます。
 ハーバード大学院に留学した,アメリカ系アフリカ人の〈デュ=ボイス〉(18681963)が,第一次世界大戦後のヴェルサイユ会議に出席して,アフリカ人の人権を訴えました。1919年にはパリでパン=アフリカ会議を主導し,奴隷の禁止や自治を訴えました。
 また,イギリス領西アフリカでは,1920年に西アフリカ国民会議が結成されて,人種差別に反対しました。
 1912年には,イギリス領内の自治領に昇格していた南アフリカ連邦【セH2519世紀ではない】で,アフリカ先住民民族会議が結成され,1923年にはアフリカ民族会議(ANC) 【追H30民族解放戦線ではない】と改称され,住民を広く巻き込んだ運動を展開しました。のちに,〈ネルソン=マンデラ〉が主導権を握ることになる組織です。なお,のちにインド独立運動の指導者となる〈ガンディー〉は,1893年~1915年の間,ケープ植民地(途中から南アフリカ連邦【早商H30[4]記】)で人種差別に反対する運動を起こしています。このときの経験が,のちの非暴力・不服従運動に生かされることとなります。

 しかし,こうした動きが本格的なアフリカ独立運動,人種差別撤廃運動に発展していくのには,第二次世界大戦の終結を待たねばなりません。

1870年~1920年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆ドイツ帝国はタンガニーカに進出し,住民の抵抗運動を鎮圧した

 ドイツ帝国【東京H19[3]ルワンダ,ブルンジ,タンザニアを植民地化した国を答える】は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885ドイツ領東アフリカを建設します。現在のタンザニアの本土部分です。
 ドイツ領東アフリカには,ヴィクトリア湖西岸にある,ツチ人の
ルワンダ王国ブルンジ王国も含まれています。
 現在のタンザニアの沿岸近くにある
ザンジバル島スルターン国は,1890年にヘルゴランド=ザンジバル条約により,イギリス帝国の保護領になりました。しかしその後1896年のイギリス=ザンジバル戦争によりイギリスの領土に組み込まれました。この戦争は一説には宣戦布告から38分で終了し,世界最短の戦争として知られています。

 ドイツ帝国は,ほかに南西アフリカ
(1885年。現在のナミビア)カメルーン【セH16イタリアの植民地ではない,セH22】,トーゴを植民地化していきました。しかし,南西アフリカでの反乱や,ドイツ領東アフリカのマジ=マジ反乱(呪術的なグループを中心とした住民の反乱。「マジ」とはスワヒリ語で水を意味します)に対しては,徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。


フランスはジブチを植民地化する
 フランスは,アフリカ大陸の東部,紅海沿岸の
ジブチを植民地化し,これを西アフリカと連絡させようと,アフリカ大陸を横断する政策をとりました(横断政策)が,イギリスの縦断政策を前にして敗れます。

イタリアはエリトリア,エチオピア,ソマリア南部に進出する
 
エリトリアは,1846年~1885年にかけてエジプトのムハンマド=アリー朝の支配を受けていました。1888年にスーダンでマフディーの乱が起きると,エジプト支配は後退します。
 前後してイタリアは1882年にエリトリアの領有を宣言し,1885年に占領しました。イタリアの進出に対してエチオピアとの戦争(
エリトリア戦争)になりましたが,1889年にウッチャリ条約が結ばれて割譲を許しました。
 その後エチオピアでは〈
メネリク2世〉(位1889~1913)が即位すると,フランスの支援も得てに1895年にイタリアに対してエリトリアに関するウッチャリ条約の破棄を通告し,第一次エチオピア戦争が始まりました。すでに近代的な軍隊を整備していたエチオピアは,1896年3月にアドワの戦いで勝利し,イタリアに勝利しました。このときにエチオピアは南東部のオガデン地方を含む領有が認められましたが,エリトリアとエチオピアの国境はあいまいなまま残されました(これが20世紀末のエチオピア=エリトリア国境紛争の遠因となります(⇒1979~現在のアフリカ))。
 しかし〈メネリク2世〉が病に倒れると後継者をめぐる内紛が起きました。後継となった〈イヤス5世〉(位1913~16)はイスラーム教徒の信仰が厚かったため,エチオピア正教会を信仰する国内の領主の抵抗を招きます。オスマン帝国側に立ち第一次世界大戦に中央同盟国として参戦しようとすると,領主らによる抵抗で廃位され,〈メネリク2世〉の娘の女帝〈ザウディトゥ〉に代わりました。しかし実権は摂政を務めた皇太子〈ラス=タファリ=マコンネン〉(1892~1975,のちの皇帝〈
ハイレ=セラシエ1世〉(位1930~1974))が握っていました。



1870年~1920年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 
現在のサントメ=プリンシペは16世紀以来,ポルトガルの植民地でした。
 現在の
赤道ギニアは,イギリスによる奴隷交易の拠点でしたが1843年に撤退すると,代わって1844年にスペインが農業プランテーション事業をおこなうためにビオコ島(植民地政庁はこちらに置かれます)を開発し,大陸側のリオムニの開発も進めていました。

コンゴ盆地にはベルギーが進出した

 諸国の争いの的となっていた広大な
コンゴ盆地には,〈スタンリー〉に探検を依頼して領有を狙っていたベルギー国王(レオポルド2世(18651909))が,私有地()コンゴ自由国を建てることになりました。同時に,コンゴ盆地を通るコンゴ川は,列強が自由に航行することができると定められました。ベルギーの国王の私有地ということにしておけば,列強間の取り合いにはなりません。コンゴはいわば「緩衝地帯(クッション)」ということにしておいて,列強間の直接的な対立を避けたのです。
 〈レオポルド2世〉はコンゴの人々を「文明化」することが目的だ!と本気で考えていましたが,実際に現地で起こっていたのは資源をめぐる住民に対する激しい搾取と暴力でした。「自由」国とは名ばかりで,住民は全然自由じゃないじゃないかという批判も受け,
1908年にベルギーによる直轄植民地となりました(ベルギー領コンゴ)

 ④アンゴラにおけるポルトガル植民地では,住民を酷使したダイヤモンド鉱山やコーヒー・綿花などのプランテーションが行われました。ポルトガルからのアンゴラ移民も増加していきます。

 さらにドイツ帝国は,ケニア(イギリスが1885年に植民地化)とローデシア(ケープ植民地の北)の間に位置するタンガニーカに食い込み,1885ドイツ領東アフリカを建設します。現在のタンザニアです。ほかにも南西アフリカ(1885年。現在のナミビア),⑨中央アフリカのカメルーン【セH16イタリアの植民地ではない,セH22】,西アフリカのトーゴを植民地化していきます。カメルーンはドイツにより農業(カカオ,アブラヤシなど)や象牙交易の拠点として利用されました。

 
1911年にもドイツはモロッコのアガディール港に艦船を派遣していますが,中央アフリカの⑤フランス領コンゴ(おおよそ現在のコンゴ共和国)の北部の支配を認められる代わりにモロッコへの支配圏は手放し,失敗に終わります(第二次モロッコ事件)
 第一次世界大戦後,旧ドイツ植民地はイギリスフランス委任統治領(事実上の勢力圏)になりました。

現在のコンゴ共和国,中央アフリカ共和国,ガボンは,フランス領赤道アフリカとなった
 ・
ガボン植民地                 →現・⑥ ガボン共和国
 ・
中央コンゴ植民地           →現・⑤ コンゴ共和国
 ・
ウバンギ=シャリ植民地  →現・② 中央アフリカ共和国

 これらの地域には19世紀末に順次フランスが進出し,1910年に
フランス領赤道アフリカとしてまとめてフランスに支配されました。首都は中央コンゴ植民地のブラザヴィルに置かれます。

 現在の⑥
ガボンは1885年にフランスにより占領され,フランス領赤道アフリカの一部となりました(1910年)。医師〈シュヴァイツァー〉(1875~1965)は,現ガボンのランバレネで医療活動に従事し,「生命への畏敬」という思想を膨らませていきました(のち1952年にノーベル平和賞を受賞)。

1870年~1920年の南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

1870年~1920年の南アフリカ
 現①モザンビーク
 1880年代以降「
アフリカ分割」が本格化すると,アフリカ大陸中央部(大西洋側)のアンゴラと,南東部(インド洋側)のモザンビークを東西に結ぼうとするポルトガルの横断政策は,イギリスによる縦断政策(南アフリカからエジプトの陸路・海路を結ぼうとする戦略です)と対立しました。

1870年~1920年の南アフリカ マダガスカル
 フランスは,インド洋の
マダガスカル島(1896年にメリナ王国を滅ぼしました)を植民地化しています【セH29ドイツの植民地ではない】

1870年~1920年の南アフリカ ④南アフリカ
 アフリカ南部では,18991902年にかけ南アフリカ戦争【セH4】【東京H22[1]指定語句】が起き,この地にいたブール人(入植したオランダ人の子孫) 【セH4】の国家(トランスヴァール共和国(1852~1902) 【セH4,H10【セH22】オレンジ自由国(1854~1902))がイギリス【セH10フランスではない】により滅ぼされ,イギリス領【セH8オランダ領ではない】のケープ植民地【セH22フランスではない】に併合されました。
 このとき,女性や子どもを含む一般のブール人たちは,
強制収容所に詰め込まれて多数が命を落としました。のちのドイツのユダヤ人等の強制収容所の原型ともいわれます。このときに医療活動に赴いたのは,すでに『シャーロック=ホームズ』シリーズで成功していた小説家・医師〈コナン=ドイル〉(1859~1930)でした。『帝国主義論』を著した経済学者〈ホブソン〉(1858~1940)は「この巨大な義性はただ少数のイギリス金融資本の利益のために費やされたのである」と語っています。

 イギリスがケープ植民地を狙ったのは,この地のケープタウン
(Cape Town)とエジプトのカイロ(Cairo)とインド帝国のカルカッタ(Calcutta)を結ぶ3C政策をとり,インド洋の周囲をとりかこもうとしていたためです。エジプトとケープタウンを南北に結ぶため,アフリカでは縦断政策ともいいます。

1870年~1920年の南アフリカ ⑤ナミビア
 ドイツ帝国は,1885年に南西アフリカ(現在のナミビア)を植民地化し,現地住民の反乱に対し徹底的な殺戮(さつりく。1904~07年の南西アフリカでの数万人規模の虐殺は,20世紀最初のジェノサイド(一つの民族をまるごと大量殺害すること)ともいわれています)をおこない鎮圧しました。


1870年~1920年の南アフリカ ⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ
 
ケープ植民地首相の〈セシル=ローズ〉は1889年にイギリス南アフリカ会社を設立し,1890年にはザンビア川流域の支配を進めていたロジ族の王〈レワニカ〉と協定を結んで,ザンベジ川一帯に支配権を拡大させます。
 同年1890年にはポルトガルに圧力をかけ,内陸部(現在のザンビア・ジンバブエ・マラウイ)のポルトガル軍を撤退させました。こうして大西洋とインド洋を結ぶ「バラ色計画」が失敗し,ポルトガル王は国内で批判にさらされ,1910年の革命で退位しました。モザンビークにはイギリスやフランスの資本が投下され,ポルトガルの影響力は低下していきました。

 現在の
マラウイは鉱産資源・プランテーション用の大土地にも恵まれず,周辺のザンビアやジンバブエと比べると,白人の入植はすすみませんでした(1)。イギリス中央アフリカ保護領(1891~1907)が設立され,1907年にはニヤサランド保護領となりました。ニヤサとはヤオ人の言葉で「湖」という意味で,この地域の人々の生活と密接な関係のあるマラウイ(タンガニーカ)湖からとられています。19世紀前半に活発化していたインド洋の黒人奴隷交易の奴隷供給先となっていたマラウイですが,19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきます(1895年に絞首刑とされたアラブ人の奴隷商人がマラウィ最後の例とされます(2)
 第一次世界大戦前には,スコットランドの宣教団の〈ブース〉がアフリカ人側に立った運動を起こします。影響を受けた〈カムワマ〉は,マラウイで初めて植民地化に反対する運動を起こします(注3)。
(1)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.58
(
2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.47
(
3)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.59


1870年~1920年の南アフリカ ボツワナ
 現在のボツワナは1895年にイギリスによりベチュアナランド保護領となりました。



1870年~1920年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

 
フランス【セH8地図(フランスのアフリカにおける植民地の分布)】は,北アフリカ方面からサハラ沙漠一帯に進出し,現在の⑭マリ共和国①ニジェール共和国⑪セネガル共和国⑮ブルキナファソに当たる地域に,植民地を拡大させていきました。
 ⑦リベリア共和国では先住民との抗争が続き,1915年にはアメリカ出身の黒人による中央政府に反発する先住民の反乱も起きています。アメリカ系黒人は先住民をプランテーションなどで酷使していたことが背景にあります。
 西アフリカ西端の
⑪セネガルの住民には1872年に市民権が与えられ,フランス本国と同等の立場となりました。しかしこれにはカラクリがあります。フランスは都市部の住民を「市民」として扱うことでセネガルの支配に利用し,都市以外の人には「原住民法」という法律が設けられ,フランスの市民とは別の枠組みに置いたのです。
 セネガル各地には現地人の王国がありましたが,順次フランスに滅ぼされていきました。1886年には沿岸部のカヨール(カジョール)王国の〈ラット=ジョール〉が殺害され,1890年にはセネガル南部も平定。1895年には「
フランス領西アフリカ」の総督部がセネガルのダカールに置かれました。
 フランスはセネガルにあった王国の保有していた奴隷を解放しましたが,こうした解放奴隷は“セネガル兵”や下級官吏として,他地域の政権の平定や支配に利用され,フランス的な教育を施すことで「同化」をすすめていきました。1854年に就任した総督〈フェデルブ〉により
落花生(らっかせい)の栽培が奨励されていましたが,フランス植民地政府は,落花生栽培を奨励したイスラーム教団をうまく利用していきます。民衆に広がるイスラーム教団の中には,〈ラット=ジョール〉王が師事していた宗教指導者の息子〈アーマド=バンバ〉のように多数の信者を率いる者もおり,フランス植民地政府は〈バンバ〉の教団がフランスに対する抵抗運動につながることを恐れ,1985年にガボンに流刑に処しています()
 セネガル人は屈強なことで知られ,フランスの世界各地での軍事行動に精鋭部隊として利用されていきます。『星の王子さま』で知られる作家〈サン=テグジュペリ〉(190044)は,ダカールと南フランスのトゥールーズを結ぶ路線のパイロットでした。
()小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.351902年に帰国が許可されると,〈バンバ〉の教団(ムリッド教団(ムリディーヤ))はフランスとの協力姿勢に転換し,フランス植民地政庁の推進する落花生栽培を奨励するようになりました。フランスにとっては教団を介して民衆を農作業に従事させることができるわけで,「間接統治」に近い形となりました。

 また,〈サモリ=トゥーレ〉(1830?~1900)が建設していたイスラーム教国サモリ帝国(1878~98)も,フランスに滅ぼされています。





1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
 アフリカ各地では,ヨーロッパ人の持ち込んだ近代的な武器を戦力とした抵抗運動が,各地で起きました。



1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ ①エジプト
◆「エジプト人のためのエジプト」を目指す初の民族運動は,武力鎮圧された
外債に苦しむエジプトはヨーロッパ諸国の管理下に
 
エジプトでは1869年【追H20時期(19世紀後半か問う)】スエズ運河【東京H15[1]指定語句】【追H20】が開通し,フランス政府とエジプト政府の出資したスエズ運河株式会社により設立・運営されていました。1860年代以降,綿花のモノカルチャー経済が進んでいましたが,南北戦争後にアメリカ合衆国で綿花生産が再開すると国際価格が急落し,財政建て直しのためにエジプト政府は1862年に外債を発行。借金が積み上がると1875年にエジプト政府はスエズ運河株をイギリス政府に売却。さらに1876年にエジプト財政が破綻すると,ヨーロッパ列強の国際管理下に置かれ,イギリス人とフランス人が閣僚となって財政管理をする事態となりました。
 そんな中,エジプトでは民族意識が高まり1879年にワタン(祖国)党が結成され,エジプト人将校で農民出身の〈アフマド=ウラービー〉(ウラービー=パシャ
【東京H19[3],H8[1]問題文「アラービー=パシャ」】)により「エジプト人のためのエジプト」をスローガンとしたウラービー運動【セH6成功していない,セH12「アラービー=パシャ」の「民族主義的な反乱」の時期】【セH16スルターン制を廃止していない・トルコではない,セH25時期】【セA H30「ウラービー(オラービー)の反乱」】が起きました。彼らは外国人の入閣している内閣を解散しエジプト人による議会を開設すること,憲法を制定してムハンマド=アリー朝の総督の権利を抑えるべきことを主張しました。
 しかし,借金が踏み倒されることを危惧した外国人の債権者たちは
ウラービー運動に反対し,イギリスの軍事介入により運動が鎮圧されると,1882年にイギリス【セH12イギリスかを問う。時期】はエジプトを事実上保護国にします(外交権を奪われた状態のことです) 【セH6成功していない】

 宗主権は名目上オスマン帝国が持っていましたが,実際に占領していたのはイギリスであり,さまざまな形でエジプト政府に影響を及ぼしました。指揮した〈
ウラービー(18411911) 【セH16】は,セイロン島(現在のスリランカ)に流刑になりました。この事件については日本でも同情を混じえて盛んに報道され,同志社大学の創立者である〈新島襄〉は1884年にスリランカを訪れ実際に〈ウラービー〉と会談しています。

 イギリス代表 兼 総領事〈クローマー卿〉は,1883~1907年の間にエジプトの事実上の支配者となり,エジプトを公式植民地としての支配ではなく“非公式”な方式でイギリスを中心とする世界経済に組み込んでいきました。この現実に対しエジプトでは反イギリスの民族主義運動がじわじわと復活し,〈ムスタファー=カーミル〉(1874~1908)らが「占領を革命で打破せよ!」と訴え活躍しました(1907年に国民党を結成)。

◆第一次世界大戦後のにワフド党による民族運動が盛り上がり,1922年の名目的な「独立」へ
ワフド党の運動が実るが,英の経済支配は続く
 しかし,第一次世界大戦が始まるとエジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離され,イギリスによって完全に保護国下されました。
 大戦後,〈サアド=ザグルール〉(1859~1927)はパリ講和会議にも代表団(ワフド)を送ろうとしてイギリスに阻止され,エジプトの独立は戦勝国に認められることはありませんでした。これが発端となり,〈サアド=ザグルール〉を指導者とする
ワフド党【東京H24[1]指定語句】【セH16時期(第一次世界大戦後に運動を展開したか問う),セH18時期,セH24ワッハーブ党とのひっかけ】【追H20地図問題(エジプトの位置問う(縮尺表示なし。「中東」ということは示されている))。ローザンヌ条約を締結した国ではない】が結成され,1919年にカイロで革命を起こしました。彼は1921年にセーシェルに流されましたが,ワフド党による独立運動は続けられ,イギリスは1922年にエジプトの「独立」を宣言し,1923年には憲法も公布されました。しかし,「独立」は名ばかりのものであり,それ以降もイギリスによる経済的支配は続き,スエズ運河地帯の駐留も続きました。エジプトの民族主義者の間ではイギリスからの「完全」独立が,次なるスローガンとなっていきました。



1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ スーダン
◆スーダンは,近代化を目指すエジプトの財政基盤となった
エジプトの発展の犠牲となったスーダンの不満爆発
 エジプトの南方,ナイル川上流のスーダンは,北部はアラブ系,南部は黒人系の人々が分布しており,地域的な一体性はありませんでした。
 しかし,近代国家づくりに邁進(まいしん)するエジプトがスーダン北部からの徴税やスーダン南部との交易を目的としてスーダンへの支配を強め,その際,スーダン地方の部族間の対立,スーフィー(イスラーム神秘主義)教団の間の対立がうまく利用されていったのです
()
 これに対する抵抗から,「スーダン人」としての民族意識が次第に形成されていくことになります。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,B-713。

 また,イギリスの支配層はインドへの道の重要地点である
スエズ運河の安全保障を図るため,ナイル川上流にあり綿花の栽培も可能なスーダンを押さえる必要性を主張していました。

 船大工の子〈
ムハンマド=アフマド【東京H19[3]】【セH8】は,1881年にウラービー運動が起きるとイギリス【セH18フランスではない】の進出への抵抗運動をはじめました。彼は自身を「救世主」(マフディー)と称して,イギリスセH5,セH8イタリアではない】に対するジハード(聖戦)とイスラーム国家の建設を訴えました(マフディー派の抵抗)【セH16地域・H18,セH29試行 地図(アルジェリアではない)セH29試行 ヨーロッパの政治思想の吸収・国民国家の建設・社会主義とは無関係】【セH5,セH8】。鎮圧作戦にはかつて太平天国の乱の常勝軍で活躍した〈ゴードン〉率いる軍が投入されましたが,1885年にゲリラ戦で敗れ戦死しています。その後イギリスの〈キッチナー〉将軍により1898年には鎮圧され,スーダンは1899年に征服されます。これ以降のスーダンはイギリスとエジプトの共同統治【セH12「ムハンマド=アリーの子孫が,オスマン帝国スルタンの宗主権の下で,スーダンと併せて統治していた」か問う】の下に置かれることとなりました(エジプト=スーダン)が,すでにエジプトの実質的な支配者はイギリスでしたから,スーダンも実質的にはイギリスの支配下に置かれたことになります

 なお,スーダンはフランスの横断政策
セH5】とイギリス【セH13スペインではない,セH18ドイツではない】の縦断政策セH5】が真っ向から衝突した場ともなりました。1898年にスーダンのファショダ村で戦闘に発展(ファショダ事件【東京H29[3]】セH5】【セH13時期(19世紀後半),セH14地図(ケープ植民地ではない)】)。
 しかし当時の両国にとってのより大きな敵は,アフリカにもしのびよるドイツの存在。そこで,戦っている場合ではない」とフランス側が譲り,戦争の危機は回避されました。

1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ モロッコ
 モロッコでは19世紀末からアラウィー朝の支配権が揺らぎ,1904年4月の英仏協商でフランスにモロッコの勢力圏が認められました。同じ年にはフランスとスペインがモロッコでの勢力圏を分け合っています。しかし1905年にドイツがモロッコのタンジールに進出し,1906年に国際会議でモロッコの独立,領土保全,門戸開放,機会均等が確認されました。しかし1911年にはドイツがアガディールに軍艦を派遣し,モロッコの反スペイン・反フランス運動を支援しようとしました。これに対してフランスはドイツに中央アフリカの今後の一部を与えることで妥協させ,モロッコ支配をあきらめさせました。フランスによる植民地化が進むと,1912年にアラウィー朝はフランスの保護国となりました。
 
スペイン【セH8地図(スペインのアフリカにおける植民地の分布)】もモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で「スペイン領モロッコ」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域)を形成していました。1920年にモロッコ北部では地方の名望家〈アブド=アルカリーム〉によるスペインからの解放戦争(リーフ戦争)が起き,リーフ共和国が建設されました。



1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ ⑥アルジェリア
 
アルジェリアでは〈ナポレオン3世〉が「同化政策」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めていましたが,現地支配層の反発を生み,普仏戦争で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きましたが(アルジェ=コミューン),1871年には鎮圧されました。普仏戦争後にはアルジェリア人もフランスへの大規模な反乱(ムクラーニーの乱)を起こしましたが,こちらも1871年に鎮圧されました。その後もアルジェリアのフランス人入植者(コロン)には本国と同等の権利が与えられましたが,アルジェリア人には同様の権利は保障されず1881年の原住民身分法で人権が厳しく制限されました。19世紀末にはコロンによる自治要求が高まり,フランスにとって対岸の「アルジェリアの自治・独立問題」は悩みのタネとなっていきました。



1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ ⑦チュニジア
 フランスの支配下に置かれ,
チュニジアは安全保障のためオスマン帝国に接近しました。しかし,フランスはベルリン会議の場でチュニジアを勢力圏とすることを列強に認めてもらった上で,1881年にチュニスにフランス軍を上陸させました。フサイン朝チュニジアは外交権と財政権をフランスに譲り渡し,1883年の協定でフランスの保護領になりました(チュニジアの保護国化【セH12時期(1880年代かを問う)】)。フサイン朝のベイの地位は保障されましたが名目的なものでした。



1870年~1920年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 
リビア西部のトリポニタニアは1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれていました。しかし地中海を挟んで対岸のイタリア【セH22ドイツではない】は,北アフリカのリビア(トリポリ地方とキレナイカ地方) 【セH22】への進出にを狙い191112年にオスマン帝国に突如宣戦し,リビアを植民地化しました(イタリア=トルコ戦争,伊土戦争)。19世紀前半にメッカで創設されたサヌーシー教団【セH29試行 史料(解答には不要)】が,植民地支配に対して抵抗運動を試みましたが,鎮圧されました。





1870年~1920年のヨーロッパ

世紀末のヨーロッパに,西欧思想の相対化の動き
 世紀末(文化史の文脈で「世紀末」(fin-de-siecle,ファン=ド=シエークル)というと19世紀末のことを指すことが多いです)のヨーロッパでは「デカダンス」(衰退を意味するフランス語です)の風潮が流れ,伝統的な道徳に反する新しい美的センスを訴える人々が現れるようになります。思想家の中にも,社会の急激な変化がもたらしたマイナスの側面に目を向ける人も出てきました。
 そんな思想家に,ドイツの〈ニーチェ〉(18441900)がいます。産業化や都市化の急速に進んだ社会において,ヨーロッパ人から生き生きとした活力が失われている原因を追究し,ヨーロッパの思想の持っていた悪い要素(キリスト教による道徳)を取り除き,発想を転換させることが必要だと主張しました。1882年に『権力への意志』,1885年に『ツァラトゥストラはこう言った』(ツァラトゥストラとは〈ゾロアスター〉のこと)を著しています。彼の思想には,ヨーロッパが〈プラトン〉以降積み上げてきた「哲学」自体をも突き崩すインパクトが秘められていました(反哲学)。

 また,〈マルクス〉主義のよって立つ唯物論に対抗し,ドイツを中心に「
新カント派」が影響力を持ちます。当時〈マルクス〉主義は「人間の思想・政治・社会・歴史は経済(人間と物との相互関係)によって決定されるのだから,“頭の中身”だけで理想の社会を語っても,現実の社会問題は解決されない。経済体制を変えるべきだ!」と,〈カント〉に連なる〈ヘーゲル〉らのドイツ観念論を批判していました。それに対して1870年~1920年には〈カント〉哲学の再評価が起き,マールブルク派の〈コーエン〉(1842~1918),〈ナトルプ〉(1854~1924)や,西南学派の〈ヴィンデルバント〉(1848~1915),〈リッケルト〉(1863~1963)が活動します。特に西南学派は,歴史というのは法則を打ち立てる(法則定立的な)自然科学とは違って「文化科学」と考えるべきで,一回限りの「個性記述」的な叙述を心がけるべきだと主張します。
 また同じく〈マルクス〉主義に対抗し,物質的な分析では精神の世界はわからないとフランスの〈ベルグソン〉(18591941)が主張し,『物質と記憶』(1896),『創造的進化』(1907),『道徳と宗教の二源泉』(1932)などを発表し,1928年にはノーベル文学賞を受賞しています。
 文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,イギリスの作家〈ワイルド〉(18541900)は,「芸術のための芸術」を提唱して『サロメ』などの作品を残しました。彼は耽美主義(たんびしゅぎ)に分類される芸術家です。
 文学に社会批判などの「メッセージ性」が付け加えられることへの反発から,フランスの詩人〈ボードレール〉(182167)で,『悪の華』(1857)が有名です。象徴主義【セH13バルザックは象徴主義ではない】というのは,「これ一体何を表しているんですか?」となってしまうような美術のことです。内容も「非道徳的」と考えられ,発禁処分になってしまいました。
 デカダンスを代表するフランスの小説家〈ユイスマンス〉(1848~1907)は,小説『さかしま』(1884)を発表しています。

◆ヨーロッパにドイツ・オーストリアの同盟と,フランス・イギリス・ロシアの同盟が形成される
孤高のイギリスが仏・露と接近し,ドイツと対決する
 
1870年~71年の普仏戦争(ふふつせんそう)により,プロイセン王国が中心となりドイツ帝国が成立すると,皇帝〈ヴィルヘルム1世〉に信任された【セH13対立していない】〈ビスマルク〉が中心となり,フランス共和国の反抗を防ぐとともに,フランスがロシア帝国と協力してドイツをはさみうちしないように,巧みな外交が展開されました。

 しかし,
1890年に〈ヴィルヘルム2世〉【セH13ビスマルクと対立したか問う】【追H20】【セA H30】により〈ビスマルク〉が辞職させられると,ドイツ【追H20】は「世界政策【セH29試行 時期(1846年の時期ではない)】【追H20】【セA H30】をとってイギリス【追H20】との建艦競争が激化していきます。
 1891年にロシアとフランスが露仏同盟()を結ぶと,ドイツにとっての最悪の構図である,西のフランス・東のロシアのはさみうちの状態に陥ってしまいました。ロシアはフランスの資本を頼りにして,19世紀後半から〈ウィッテ〉蔵相により,極東への進出のために急ピッチでモスクワとウラジヴォストーク【東京H15[3]を結ぶシベリア鉄道が建設されていきました【セH6時期(帝政ロシアの時代か問う)】【セH2420世紀前半からではない】
 【セH5 グラフ(1780年から1900年にかけての世界の工業生産額中に占める主要諸国の比率)をみて,ロシアを判別する。ほかにはアメリカ合衆国,フランス,イギリス】
(注)1891年に政治協定が成り,1892年以降軍事同盟としての取り決めがすすんでいき,1894年に最終的に決定されました。この間両者の同盟は秘密とされ,公表されたのは1895年のことです。『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.123

 さらに,イギリスがインド洋を取り囲む3C政策【セH2カルカッタがその一つか問う】【東京H8[1]指定語句】をとると,ドイツはオスマン帝国と提携してベルリンからイスタンブール(ビザンティウム)→バグダード方面に一気に抜けてペルシア湾に勢力圏を伸ばす3B政策を推進していきます。

 こうして英独関係が悪化するなか,ロシアが東アジアに進出するのは防ぎたいイギリスは,1902年に日英同盟【セH51920年代ではない】を結び,日露戦争では日本を支援しました。当時のイギリスは南アメリカ戦争で多忙な時期でもあり,(日本)の手も借りたい状況だったのです
 日露戦争に敗れたロシアは,東アジアへの進出からバルカン半島への南下へと重点を切り替えたため,その後はバルカン半島が,列強間の争奪の舞台となっていきました。バルカン半島にはスラヴ系の住民が多く,スラヴの名の下にこれらを一つにまとめようという「パン=スラヴ主義」を推進し,ドイツ人の勢力圏として一つにまとめようとする「パン=ゲルマン主義」と対立していくことになります。
 当時アフリカなどで,ドイツとの対立を深めていたフランスは,ロシアを共通の敵としてイギリスに接近,1901年に親フランス派のイギリス国王〈エドワード7世〉(位1901~10)が即位し1903年には両国の元首が相互に訪問して結びました(英仏協商)。この中で「イギリス政府はエジプトの政治的現状を変更する意図を有しないこと」「フランス政府はモロッコの政治的現状を変更する意図を有しないこと」(つまりエジプトはイギリスの勢力下,モロッコはフランスの勢力下であること)を相互に確認しています(横山信『西洋史料集成』平凡社)。イギリスとフランスが協力して世界の帝国支配を進め,ドイツを締め出すための取り決めだったということができます。

 さらにロシアも,バルカン半島においてドイツやオーストリアとの対立を深めていました。日本に対する三国干渉(1896)以来,ドイツはロシアに接近を図っていましたが,イギリスが1905年にロシアとの交渉を提案,日露戦争が終わると極東をめぐるイギリスとロシアの対立も薄れ,イギリスからロシアに対する資本輸出も進みました。

 1907年にドイツ
【追H30ロシアではない】が,カージャール朝からバグダード鉄道【東京H15[1]指定語句】【追H30】敷設権を獲得したことも,イギリスの危機感をつのらせ,同年1907年に英露協商が成立しました。結果的に,イギリス・フランス・ロシアの参加国が提携することとなり,三国協商と呼ばれる陣営ができました。
 それに対して,ドイツとオーストリア【セH16日本ではない】とイタリア【セH13フランスではない】三国同盟(1882年成立【セH24時期(19世紀末))という強い絆で結ばれていたといいたいところですが,実はイタリアは「未回収のイタリア」問題でオーストリアとの関係が悪化し,フランスに接近していきます。その後の第一次世界大戦でもイタリアは,フランスの三国協商側で参戦しています。





1870年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ()
()冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。
①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ

1870
年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ  ①ロシア
◆ロシアでは皇帝支配に反発する組織が設立され,第一次ロシア革命が起きた
日露戦争中の革命で国会開設も,改革は骨抜きに

 ロシア皇帝〈アレクサンドル2世【セH10アレクサンドル1世ではない】の時代,日本の岩倉使節団がペテルブルクを訪問し,このとき〈伊藤博文〉も彼に謁見しています
 しかし彼は
1881年に,社会改革をめざす暴力的な組織の一員により銃弾で暗殺されました。

 代わって〈アレクサンドル3世〉(位1881~1894)が即位。日本の〈伊藤博文〉は特命全権大使として彼の戴冠式に参加しています

 1882~1883年にはロシア帝国で大規模なユダヤ人虐殺(
ポグロム)が発生し,それから逃れたユダヤ人が西アジアのパレスチナへ移住を開始していました(⇒1870~1920の西アジア)。ヨーロッパ諸国からの移住も増え,1897年には世界シオニスト会議を開催した〈テオドール=ヘルツル〉の呼びかけでパレスチナへのユダヤ人入植が推進されていきます。のちのパレスチナ問題の起源です。

 ロシアは
1891年以降の露仏同盟締結以降,フランスからの援助を受け,産業資本主義が発達しようとしていました。
 そんな中1894年11月に即位したのが〈
ニコライ2世〉(位1894~1917) 【中央文H27記】。日清戦争の最中,26歳の若さでの即位です。彼は皇太子時代の1891年に日本を国賓(こくひん)として訪問。このとき5月に現在の滋賀県の大津で,警備中の巡査〈津田三蔵〉に切りつけられ傷を負う被害を受けました。これに対する当時のロシア皇帝〈アレクサンドル3世〉の対応は冷静で,明治天皇の謝罪を評価して関係修復に努めました。〈ニコライ2世〉も毎年その日になると,命が助かったことを神に感謝する礼拝をおこなっていたようで(『ニコライの日記』),日本に対する敵愾心(てきがいしん)をつよめていたわけではありません()。1899年には彼の提唱で,オランダのハーグで万国平和会議が開催されています。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-741

 都市部では短期間で工業が発達しましたが,外資系の企業の労働条件はひどく,
20世紀にはいると労働者の中にはストライキを起こすものも現れました。農村でも,地主の支配に反対する運動が頻発していました。

 
ロシア帝国の政治を批判する組織がいくつか成立したのは,そんな状況下においてです。
 
まず,1898年にロシア社会民主労働党【セH5】【慶文H30】(初めはロシア社会民主党)は現在のベラルーシにあるミンスク(当時はロシア帝国の領土)で結党に向けて動き出しましたが,直後に弾圧を受けます。
 のち1903年にブリュッセルで始まりロンドンで終わった党大会において,〈レーニン〉,〈マルトフ〉(1873~1923),〈プレハーノフ〉によって再組織されますが,党員の資格を広げるか狭めるかをめぐり〈レーニン〉と〈マルトフ〉&〈プレハーノフ〉の間で対立が起き,のちに2つのグループに分裂
【セH5時期(第一次世界大戦の勃発後ではない)】します。
・〈
レーニン(18701924) 【追H20メンシェヴィキを指導していない】を指導者とするボリシェヴィキ【セH5】【セH14のちの共産党かを問う】と,
・〈
プレハーノフ(18561918) 【セH6】を指導者とするメンシェヴィキ【セH5,セH6社会革命党ではない】【セH14のちの共産党ではない】【追H20レーニンは指導していない】です。
 のちにソ連を建設していくのは,ボリシェヴィキのほうです。

 ほかに,
社会革命党(エス=エル) 【セH6プレハーノフが指導者ではない】【セH14のちの共産党ではない】立憲民主党(カデット)【セH14のちの共産党ではない】がありました。

 
改革の必要性が叫ばれている中,1904年に日露戦争【明文H30記】が勃発します。不利な戦いの中で,1905年1月22日にペテルブルクで血の日曜日事件【セH10日露戦争中に起きたか問う】【セH19日露戦争のきっかけではない】【追H9】が起きます【セH29試行 図版と時期】。司祭の〈ガポン(18701906)が率いたペテルブルクの民衆が,皇帝〈ニコライ2世〉に貧しさを訴えようとしたのですが,宮殿の警備隊が発砲し,死傷者が出たのです。これをきっかけにソ連各地で,農民・労働者・少数派の民族が蜂起を起こします。
 モスクワでは労働者・農民・兵士がソヴィエト(評議会)を建設しました。この評議会は,やがて労働者・農民・兵士が主体の国ができたときに,国の「議会」に発展するものになると,イメージされていました。 さらには海軍が反乱を起こし,事態はいっそう深刻化します。
 自由主義者のグループも政治改革を求めるようになると,皇帝〈ニコライ2世〉は事態を収拾させるために十月宣言(勅令) 【セH6】【セH13農業改革ではない,セH30を発布し,国会(ドゥーマ) 【セH29ハンガリーではない】をダヴリダ宮殿に開設セH6,H10閉鎖されたわけではない】【追H9閉鎖されたわけではない】(),言論・集会の自由の承認を約束し,自由主義者の〈ウィッテ【中央文H27記】【※意外と頻度低い】を首相に任命します。
 「自由主義」というのは,皇帝の専制政治に批判的な考えのこと。ドゥーマは一党独裁ではなく,帝政の支持者以外にも複数の政党が当選して,議論を戦わせていました
()出題のヒント センター試験では,ドゥーマはロシア第一革命で「閉鎖」されがち。本当は「開設」。

 この一連の革命運動をロシア第一革命【追H9血の日曜日事件がきっかけか問う】といいます。ニコライ2世は国会を開設したものの,立法権は制限されており,肝心の議員を選ぶ選挙制度も平等ではなく,革命運動がある程度しずまると,〈ニコライ2世〉は専制政治を復活しようとしました。この頃の皇帝夫妻は僧侶〈ラスプーチン〉(1869~1916)に心酔していたといわれます。
 
1906年に首相となった〈ストルイピン(18621911) 【セH12「土地改革によって富農を育成しようとした」か問う】は,社会民主労働党や社会革命党を弾圧するとともに,専制政治を支持。農民が社会主義的な運動を支持しないように,農民たちを縛っていた農村共同体(ミール) 【追H21コルホーズ,ソフホーズではない】を解体して自分の土地をもたせ,独立自営農民を育成しようとしました【セH29レンテンマルクを発行した】。独立自営農民が育てば農業の生産性が上がり,輸出用の作物を増産することもできますし,農民が商品を買うほどができるほどの余裕も生まれます。余裕が生まれれば,農業をせずに工場で働く労働者の候補にもなりえます。
 しかし,長きにわたり領主の支配に服していた農民たちが,突然農村共同体を捨てて生活できるわけもなく,改革は不十分に終わりました。


◆二月革命
(ロシア暦では三月革命」)により臨時政府が樹立したが,戦争継続に反対する左派が別の政府を樹立し分裂した
臨時政府が成立も,戦争は継続,反対派が抵抗
 第一次世界大戦が開戦されてから,ロシア軍は連敗続きです。反戦機運
【セH9ヨーロッパの主要参戦国の中に「厭戦(えんせん)気分が広がり,革命に発展する国があった」か問う,ジョン=リードの『世界をゆるがした十日間』の抜粋をよみ,これが二月(三月)革命についてのものか判別する】が高まる中1917年3月に首都のペトログラード(「ペテルブルク」はドイツ語的な表現ということで,ロシア語的な表現に改められていました【追H30名称の変遷について】)で「パンと平和」を求めるデモやストライキがおこり,これに軍隊も参加。労働者と兵士もソヴィエトをつくり革命を推進すると,皇帝〈ニコライ2世〉はあっけなく退位しました(ニコライ2世の退位【セA H30】)。これが,ロマノフ朝【セA H30ブルボン朝ではない】の滅亡,ロシア帝国の滅亡です。この政権転覆のことを,ロシアでは三月革命といいます。ロシアでは,ローマ以来のユリウス暦【セH23が使われていました。

 一方,西ヨーロッパでは,
1582年にローマ教皇のグレゴリウス13がうるう年を修正するためにグレゴリウス暦【セH23を導入していました(プロテスタントの国々は18世紀までユリウス暦を使い続けます)。この結果,うるう年を修正していないロシアのユリウス暦(ロシア暦)のほうが,グレゴリウス暦(現在,日本でも用いられている「西暦)よりも13日おそくなってしまうので,「二月革命」と「三月革命」【セH9の2つの呼び方があるのです。

され,これまで専制政治を批判していたドゥーマ(国会)の議員たちは,臨時政府を樹立しました。政府の主体になったのは自由主義を唱える立憲民主党(カデット)などの議員です。社会革命党(エス=エル)も,この臨時政府を支持しました。
 しかし臨時政府は,国民が望む「戦争の停止」を実現させることなく,戦争を継続しました。国内では,労働者や兵士の議会であるソヴィエトは引き続き活動しており,臨時政府とは「別の政府」のような状態になっていました(二重権力状態)
 
弾圧を受けてスイスに亡命していたボリシェヴィキ【セH9[38]ケレンスキーの敵対勢力ということを理解しておく必要あり。H9年度[38]はセンター試験世界史B史上最難問といってよい()に属する〈レーニン〉は,1916年に『帝国主義論』で「帝国主義とは資本主義の独占段階である」と論じ,産業資本銀行資本の結合した金融資本が重要な役割を果たすようになること,そのような段階に移行した帝国主義諸国間に破滅的な世界戦争が起きるのは避けられないことなどを主張しました。彼は1917年4月に亡命先のスイス【同志社H30記】から「封印列車」で帰国すると,「当面する革命におけるプロレタリアートの任務」と題して演説をおこない,「すべての権力をソヴィエトへ」と呼びかける四月テーゼ【セH29を発表し,臨時政府への対抗を呼びかけました。

()(…前略)前線では平和に関する布告や土地に関する布告が大熱狂をまきおこしつつある。ケレンスキーは,ペトログラードの火事と流血事件,【  】による婦女子の虐殺,という物語を塹壕に氾濫させつつある。…(後略)」 空欄【  】に入る語句を,①ツァーリ政府②ボリシェヴィキ③臨時政府④立憲民主党から選ぶ問題。

 
7月にボリシェヴィキが反乱をおこすと(七月蜂起),臨時政府の首相リヴォフ公は辞任し,おなじく立憲民主党の〈ケレンスキー(18811970) 【セH9引用文中に現れる。ボリシェヴィキの敵対勢力ということを理解しておく必要がある】【同志社H30記】が臨時政府の首相【セH29になりました。しかし〈ケレンスキー〉もボリシェヴィキの勢力拡大に対して有効な手立てが打てないとみると,8月陸軍総司令官の〈コルニーロフ〉将軍(18701918)はボリシェヴィキの掃討【セH10このときボリシェヴィキは臨時政府を支持していない】のためペトログラードに向かいました。
 〈ケレンスキー〉は当初〈コルニーロフ〉を支援しますが,「もしかすると自分自身も倒されてしまうのではないか」と不安になり,〈コルニーロフ〉を解任してしまう。皮肉なことに,このことがボリシェヴィキの命を救ったことになり,9月にはボリシェヴィキの勢力が全国に拡大していきました。
 

◆戦争を継続し,集権化に失敗した臨時政府は,左派による十月革命(ロシア暦では十一月革命【セH19ドゥーマの開設の約束はしていない】)で打倒された
ボリシェヴィキが権力掌握し,大戦から離脱へ
 191711月7日,ボリシェヴィキの〈レーニン〉と〈トロツキー(18791940)は武装蜂起をおこし臨時政府を打倒し,権力を握ります。翌日には,全土にあったソヴィエトをまとめる全ロシア=ソヴィエト会議で新たな政権が樹立されました。戦争は依然として継続していましたが,そもそも大戦を初めたのは,今はなきロマノフ朝です。それを引き継いだ臨時政府が大戦を継続していたのですが,レーニンらはついに講和を宣言しました。

 これを十一月革命,ロシア暦では「
十月革命【セH6「二月革命」ではない】といいます。

 「平和に関する布告(191711月8日) 【東京H18[1]指定語句】【セH24フランスではない】【早法H27[5]指定語句】では,すべての敵国に対して無併合(領土を要求しない)・無償金(賠償金を請求しない)・民族自決の原則(民族が自らの意志に反して,他の民族に支配されない原則)を保障したことが重要です。大戦の原因となった帝国主義への批判でもありますね。この中では,オスマン帝国の跡地を分割しようとしたサイクス=ピコ協定【セH3イギリスの関与を問う】など,第一次世界大戦前後に交わされた秘密外交【早法H27[5]指定語句】が暴露されました。
 また,「土地に関する布告【セH23中国で出されていない,H29【同志社H30記】によって,「あらゆる地主的土地私有は無賠償で即時廃止される」とされ,地主の土地を無償で没収し,土地の私有権を廃止しました。これにより土地を没収された作曲家〈ストラヴィンスキー〉(18821971)は,その後フランス,さらにアメリカに移住し「火の鳥」「春の祭典」などの代表曲を生み出すことになります。

 こうして,ソヴィエト政権【セH18イギリスではない】はドイツと休戦し,1918年3月に現在のベラルーシに位置するブレスト=リトフスク【同志社H30記】で,ブレスト=リトフスク条約【セH9【セH13史料(ロカルノ条約の第1・2条)を読みロカルノ条約であると判断する,セH18時期】を結んで講和しました。ソヴィエト政権にとって不利な内容でしたが,当時のソ連にはおつきあいのできる国が他にありませんでしたから,虫の息であったドイツと組むことで,イギリスやフランスを牽制するとともに,ドイツに恩を売ろうとしたのです。嫌われ者同士仲良くといった感じです。


◆ボリシェヴィキは他の政党や反対派を武力で鎮圧し,一党独裁体制を樹立した
ボリシェヴィキによる一党独裁体制が形成
 十一月革命以降,ソヴィエト=ロシアの国内では
憲法制定会議が開催されていました。はじめはボリシェヴィキ以外の政党も参加していましたが,農民の支持を集めていた社会革命党(エス=エル)などの他党を武力で追放・禁止し,ボリシェヴィキを中心として社会主義をめざす体制に組み替えられました。ボリシェヴィキは共産党と名前を変え,首都もペトログラードからモスクワに移転しました【セH14時期(19世紀ではない)】

 
1918年にはボリシェヴィキ一党独裁体制となり,つぎつぎに社会主義的な政策が導入されました。〈ケレンスキー〉は1918年にフランスに亡命しています。

 なお,最後のロシア皇帝〈ニコライ2世〉の一族は,1917年3月の退位の後,8月にシベリアのトボリスクに流されていましたが,1918年7月16日に皇后と5人の子どもたちとともにエカテリンブルク銃殺されています。その遺体は,1989年に公表されるまで非公開とされ続けます。

()「社会主義」と「共産主義」について
 ここでいう「社会主義」とは,〈レーニン〉の考え方では「共産主義」の前段階のことを指します。〈レーニン〉はドイツの〈マルクス〉の考え方を土台にして,自分の考え方を混ぜて発展させましたから,共産主義のことを〈マルクス〉=〈レーニン〉主義ともいいます。

 共産主義とは,財産を「共同所有(みんなのもの)」として,平等な社会をめざす考え方です。英語ではコミュニズムと言いますが,ラテン語の「コムーネ(共有)」を語源とします。しかし,平等な社会を実現させるためには,みんなで分け合うことができるだけの豊かな生産物が確保されている必要がありますね。
 そのためにマルクスは,まずは絶対君主を資本家(ブルジョワジー)が倒し,民主主義を実現させている必要があると考えました。民主主義といっても,参加できるのはブルジョワジーだけですので,ブルジョワ民主主義といいます。
 資本家は,封建的な地主や商人を倒しますが,しだいに労働者階級が成長し,資本家と敵対するようになります。さらに,資本家はビジネスのために世界各地に投資し,政治に参加して国家を動かし,市場や原料供給地を獲得するために植民地を獲得するようになっていく。〈レーニン〉は,これを「帝国主義」と呼び,世界大戦の原因でもあると考えました。

 ここに至って二段階目として,労働者(プロレタリアート)が,暴力革命によって資本家(ブルジョワジー)の支配する体制を倒す時がやってくるとされました。
 この過程において,本来であれば労働者階級(プロレタリアート)が主体となっていくのが理想ではありますが,民衆を指導する人はどうしても必要です。〈レーニン〉は,プロレタリアートの中から自分を含めた少数精鋭の指導者がその任務にあたるべきだと考えました。これをプロレタリアート独裁といいます。こうして,共産党が中心になって共産主義のための準備をしていきます。例えば,土地を地主から没収して農民に配ったり,企業・銀行を国家が管理したりといった施策です。
 しかし,平等な社会の実現には,生産力のアップが不可欠です。また,同時に生産にかかわる人々の間の矛盾(支配する人と支配される人との間の対立)を解消していく必要もあります。準備段階の間に生産力をアップさせつつ,資本家や地主のいない体制をつくりあげていく。こうして社会主義が完成すれば,次の段階の共産主義に移行できる,というのがシナリオです。高い生産力さえあれば,〈マルクス〉が「各人は能力に応じて働き,必要に応じて受け取る」と言ったような理想的な社会が登場するとされたわけです。そのためには発想の大転換が必要となりますから,思想や教育がたいへん重視されるようになっていきます。

◆〈レーニン〉の政府は戦時共産主義という厳しい政策をとり,対ソ干渉戦争を戦った
革命を守るため,戦時共産主義による厳しい統治
 〈レーニン〉は社会主義を世界中の他の地域でも実現させようと考えていました。「ヨーロッパにはすでに資本家階級が生産力をアップさせ,労働者階級の人口も増えているのだから,いつどこで革命が起きてもおかしくない」と考えたわけです。考えてみると,ロシアはヨーロッパの中でも「遅れた」部類。資本家による革命(市民革命)が不十分なまま,労働者階級による革命が遂行されたようなものです。不利な条件で革命を起こしたソヴィエト=ロシアにとって,革命を成功させた模範事例が必要とされました。
 1919年3月,モスクワで世界革命を推進する第三インターナショナル(コミンテルン) 【セH10】【セH19第二インターではない,セH25第二次大戦中ではない】【セA H30コメコンとのひっかけ】【中央文H27記】が創設されました。しかし,敗戦国ハンガリー,ドイツでは,支援もむなしく革命は失敗。アジアでの支援も中国やモンゴル以外は失敗に終わりました。

 さらに追い打ちをかけるように,資本主義諸国や旧ロマノフ朝,それにボリシェヴィキによって追放された政党が,反革命の勢力を形成し,ソヴィエト=ロシアを苦しめます。とくに資本主義諸国(第一次世界大戦の連合国)は,191822年,対ソ干渉戦争【セH15,セH24に乗り出し,シベリアなどに軍を派遣して革命を崩壊させようとします。特にフランスにとっては,露仏同盟以来さんざん投資をしてきた企業が国有化されてしまうという危機感がありました。日本も,これを北東アジアに支配権を広げる良い機会ととらえ,北樺太沿海州を占領しました(シベリア出兵【セH24)。

 ソヴィエト政府【セA H30】【追H30】赤軍【セA H30】(赤色は共産党のシンボルカラーです)を組織し,非常委員会(チェカ) 【セH14 1936年憲法による設立ではない】【追H30】が国内の反革命運動を取り締まりました。また,農村からは穀物を強制徴発して都市や兵士に配給する戦時共産主義がとられました。過酷な徴発により,数百万人の餓死者が出るなど深刻な状況に陥り,1921年頃には共産党独裁への反抗の動きも出ていきました。

 そこで〈レーニン〉は,対ソ干渉戦争が落ち着くと,いったん企業の国有化を緩め,農民に余った生産物を自由に市場で販売することを認めて,大企業・銀行・貿易を除いて中小企業が私的に営業することも許可しました。これを新経済政策(NEP,ネップ) 【東京H11[3]内容を問う】【セH6「資本主義的な経営の復活を一時認めた」か問う(ネップという語句は示さず),セH10時期(1930年代ではない)といいます。
 「平等な社会の実現のためには,生産力アップが不可欠」というわけで,まずは経済の回復を優先させるため,「やる気」が出るように中小企業の営業を許可したり余った穀物を市場で販売するのを許可しました
【東京H11[3]記述(NEPの内容)】。多少の貧富の差には目をつむったわけです。しかし,従来考えられていたように農産物の強制徴発がなくなったわけではなく,農民の負担は過酷なものとなりました。



1870年~1920年のヨーロッパ  東ヨーロッパ ②エストニア,③ラトビア,④リトアニア
バルト三国がロシア帝国から独立する
 さて,ロシア革命に刺激されたバルト海東岸のエストニアラトビア【セH16】リトアニアでは,1918年2月にロシア帝国【セH16オスマン帝国ではない】からの独立宣言が発表されました。
 
バルト三国【東京H8[1]指定語句】の独立は,第一次世界大戦の戦勝国により認められ,北からエストニア共和国ラトビア共和国リトアニア共和国の独立が承認されました。





○1870年~1920年のヨーロッパ  
バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆バルカン半島はオスマン帝国から順次自立し,大戦後に新興国の独立ラッシュを迎えた
バルカンの民族主義に,帝国主義が干渉,大戦へ
 
187071年には,クリミア戦争の宿敵ナポレオン戦争が,普仏戦争で敗れています。勝ったプロイセンと,オーストリアとの間には,1873年に三帝同盟を結んでいます【セH19神聖ローマ帝国とビザンツ皇帝との間ではない】
 ロシアの今度の作戦は,オスマン帝国内にいるスラヴ系の諸民族の独立運動を助けるというものでした。⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ②ブルガリア⑧セルビア⑦モンテネグロなどの独立運動を支援することで,独立後に「助けてあげた代わりにいうことをききなさい」と迫ろうとしたのです。

 オスマン帝国は敗北し,1878年にサン=ステファノ条約【東京H29[3]】【早法H30[5]指定語句】【追H30これによりロシアの南下政策は阻止されていない】が結ばれました。

 ここでは
①ルーマニア【セH15ソ連から独立して成立したわけではない】【セA H30のちベルリン会議でも承認されたか問う】⑧セルビア⑦モンテネグロを独立させます。ルーマニアとセルビアはオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)と接していますから,同じく南下を狙っていたオーストリアvsロシアの構図が強まり,今後バルカン半島がヨーロッパの火薬庫 【セH4石油利権は関係ない】【セH29試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】と呼ばれるきっかけとなります。また,モンテネグロを獲得したことで,ロシアはここを利用してアドリア海に出ることが可能になりました。
 
②ブルガリア【セH13オスマン帝国最盛期の領域に含まれていたかを問う(含まれていた)】はこのときに領土を拡大させ,オスマン帝国内の自治という名目で,実際にはロシアの保護国となりました。
 これをみたイギリスも黙っていません。当時の首相は保守党の大物〈ディズレーリ(18041881)です。オーストリアもロシアに対して言いたいことはたくさんありますから,これではまとまらない。まとまらなければ,ヨーロッパのバランスが崩れてしまい,ロシアの南下も許してしまう。一番困るのは,三帝同盟(1873年にオーストリアとプロイセンと締結)内の仲間割れです。オーストリアがオスマン帝国を支援し,ロシアがバルカン半島の諸民族を独立させるのを阻止しようとすれば,オーストリアとロシアの仲が悪くなり,三帝同盟は崩壊してしまう。
 そこで登場したのが〈
ビスマルク【東京H20[1]指定語句】【早法H30[5]指定語句】です。プロイセン王国の首相ビスマルクは1871年にフランスとの戦争に勝利し,その勢いでドイツを一気に統一し,ドイツ帝国の皇帝〈ヴィルヘルム1世〉の即位を補佐しました。彼の基本政策は,フランスとロシアの勢力を抑え,ドイツがはさみうちになることを回避することです。
 もしこの問題に首をつっこんで,ロシアの南下を阻止してしまったら,ドイツはロシアとの関係を損ねることになってしまうわけですが,ロシアの南下を許してしまえば,大切な同盟国であるオーストリアとロシアとの関係も悪くなってしまいます
(1873三帝同盟)

 しかし,ドイツの指導者にも,南下の野望はある
。利害は複雑ではありましたが,〈ビスマルク〉は「誠実なる仲買人」と自称してベルリン会議【東京H26[1]指定語句「ベルリン会議(1878年)」】【セH18時期,早政H30史料】【中央文H27記】を開催し,ベルリン条約【セH6クリミア戦争の戦後に結ばれた条約ではない】【早法H30[5]指定語句】を結ばせます。つまり,「私はどの国の側につこうとしているわけではないですよ。
 ヨーロッパ全体の平和のことを考えているんですよ」とアピールしつつ,ロシアの南下を抑えるため,
イギリスキプロス島の行政権(統治権)【セH13オスマン帝国最盛期の領土に含まれるかを問う(含まれる),セH18時期,セH20地図】を与えて管理してもらい,オーストリアにはボスニア=ヘルツェゴヴィナの両州の行政権を与え【セH15ボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー帝国から独立していない】,オーストリアのご機嫌もとるという離れわざです。

 
⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナは,ボスニア(中世にボスニア王国(13771463)が栄えたドナウ川に注ぐボスナ川沿いの地域)と,山脈に区切られた反対側のヘルツェゴヴィナ(アドリア海に注ぐネレトヴァ川沿いの地域。ボスニア王国の支配下にあった)を合わせた地域名です。
 2地域には,長らくオスマン帝国の支配下に入っていたことから,ムスリムも分布しています。オーストリアが獲得した「行政権」とは
ベルリン条約によると「軍隊を駐留させ軍事力を維持する権利」を意味します。結果的にロシアとドイツの関係は悪化していきます。

 サン=ステファノ条約で認められた,
ルーマニア,セルビア,モンテネグロの独立【セH6「ルーマニア,モンテネグロなどの独立」(選択肢に「など」を用いるのは不適である)】は,ベルリン条約でも承認されましたが【セH6】,〈ビスマルク〉の調停するベルリン条約により,ロシアの南下政策は阻止される形となりました。

 1908年にはボスニア=ヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリー二重帝国に
併合されています【セH3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)】

◆対ロシアのバルカン同盟は,内紛によりヨーロッパの帝国主義諸国の争いに巻き込まれる
バルカン同盟vs
ロシアから,ドイツ側のブルガリアvsその他のロシア側へ
 オーストリアの南下に対抗したロシア【セH26フランスではない】1912年に,バルカン諸国をまとめ(バルカン同盟) セH5オーストリアに対抗してロシアの指導下に結成されたか問う,クリミア戦争に乗じてオスマン帝国と戦ったのではない】 【セH25】,オスマン帝国と戦って独立を勝ち取らせようとしました。みごと独立が成功すれば,ロシア「助けてあげたのだからいうことをきけ」と言えるわけです。

 バルカン同盟に参加したのは,ドナウ川沿いの
⑧セルビア,ドナウ川下流の②ブルガリア,アドリア海沿岸に近い⑦モンテネグロ(ボスニア・ヘルツェゴヴィナに接する)そして,④ギリシア(すでにオスマン帝国から独立済み)です。

 オスマン帝国が,イタリアとの戦争
(イタリア=トルコ戦争191112) セH5クリミア戦争ではない】 【追H30時期(年代)を問う】に追われていたすきを狙い,1912年に宣戦(第一次バルカン戦争),ロシアのバックアップしたバルカン同盟側が勝利します。
 しかし,せっかく獲得した領土をめぐって,②ブルガリア vs 他の3か国の争いに発展してしまいます(第二次バルカン戦争) 【追H30バルカン戦争で,トルコはイズミルを回復していない】
 敗れたセH5】【セH13勝利していない】②ブルガリアセH5】【セH13第一次大戦ではドイツ側に立って参戦したかを問う】は,ロシアの属する三国協商側ではなく,オーストリアとドイツの属する三国同盟側に接近するようになっていきましたセH5三国同盟側に接近したのではない】

◆緊張の高まるバルカン半島で,二発の銃弾が,バルカン半島をめぐる争奪戦の口実となった
勢力均衡による安全保障が,連鎖的に崩壊する
 そんな中1914年6月,オーストリアの皇帝位の継承者夫妻が,1908年に併合した⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ(のちのユーゴスラヴィアの一部)を訪問しにやって来ました。その際,「ボスニア=ヘルツェゴヴィナはセルビアに含めるべきだ。同じスラヴ系として,オーストリアが許せない」とするセルビア人の民族主義者が,公衆の面前でオーストリアの帝位継承予定者夫妻を2発の銃弾で暗殺してしまいました。これをサライェヴォ事件【セH15のちのユーゴスラヴィアで発生したかを問う】【中央文H27記】【※意外と頻度低い】いいます。この日はセルビアにとって重要な祝祭日である聖ヴィトゥスの日であるとともに,1389年にコソヴォの戦いでオスマン帝国に敗北した日でもあり,民族的に重要な日と考えられており,2人の訪問はセルビア民族主義者の愛国感情を逆撫(さかな)でする形となったのです()
(注)ちなみにグレゴリオ暦ではこの日は6月28日ですが,正教会はユリウス暦を使い続けていたのでズレが生じ,6月15日に当たります。
 サライェヴォ事件に対して,7月末,オーストリアは
⑧セルビアに対して宣戦布告しました。オーストリアをドイツも支援して参戦します(ドイツとオーストリアは三国同盟を結んでいました)

 こうしてイギリス,フランス,ロシアの
協商国(連合国)が,ドイツ,オーストリア,オスマン帝国の同盟国(中央同盟国)を挟む形の対立関係が戦争に発展し,世界各地のヨーロッパの植民地や勢力圏も含む第一次世界大戦へと発展していったのです。
 もちろん初めから“第一次世界大戦”という名称があったわけでもなく,これが未曾有の世界大戦となるとは,同時代の人には思いもよらないことでした。

 「サライェヴォ事件」は第一次世界大戦の“きっかけ”ではあるものの,直接的な原因ではありません。何が第一次世界大戦を引き起こしたのか。同時代から,さまざまな見解が発表されてきましたが,第一次世界大戦が“避けられないストーリー”ではなく,重要なことは必ずしも各国政府が大規模な戦争を計画的に望んでいたわけではなかったということです
()
 列強の金融資本が国家と結び付き発達するにつれて,オスマン帝国をめぐる経済的な対立が高まっていたことも要因の一つです。また,ナショナリズムの高まりにより,国際的な社会主義運動による反戦運動も実現には至りませんでした。サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の〈
ジャン=ジョレス〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。
()ウィリアム・マリガン,赤木完爾・今野茂充訳『第一次世界大戦への道:破局は避けられなかったのか』慶應義塾大学出版会,2017



1870年~1920年のヨーロッパ  バルカン半島 ④ギリシャ
 王政をとっていた④ギリシャは,ヨーロッパ諸国による介入を背景とした共和派と王政派との対立により混乱が続いていました。

 共和派で首相の〈
ヴェニゼロス(18641936)は協商国側での参戦を望んだものの,ギリシャ国王〈コンスタンティノス1世〉(1913172022)や軍は中立政策を主張し対立。大戦の影響が強まると〈ヴェニゼロス〉は協商国側に接近し,亡命した〈コンスタンティノス1世〉に代わり1917年に参戦し,戦勝国となりました。
 〈ヴェニゼロス〉はパリ講和会議で
大ギリシア主義(メガリ=イデア)の理念のもとアナトリア半島沿岸の割譲を要求しましたが叶(かな)わず,ギリシア=トルコ戦争(19191922)を始めましたが,選挙で敗北して1920年に退陣し,〈コンスタンティノス1世〉が復位しました。

 
この間,オスマン帝国の支配下にあったクレタ島では,ギリシア王国への編入を求める運動が起き,1888年にはオスマン帝国が出兵しました。それに対しギリシアの民族主義者は1896年にクレタ島を占領します。
 ヨーロッパ列強にとってクレタ島は東地中海の交易の重要地点。
 1898年にはオスマン帝国の下での自治権が付与され,「クレタ州」となり,ギリシャ国王〈ゲオルギオス1世〉の次男が総督を務めます。それ以降ギリシアの影響がさらに強まり,1913年の第一次バルカン戦争でギリシャ領となりました。






1870年~1920年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
1870年~1920年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ⑦ドイツ
 遅れをとっているドイツでは,〈ビスマルク〉【セH10】【早法H30[5]指定語句】宰相が主導して,ヨーロッパ列強の力のバランスをとりながら,鉄血政策”を掲げて軍事力を増強し,巧みな外交術でドイツを強国へと導いていきました。社会主義者鎮圧法【セH12のちに廃止されたかを問う(廃止されました)】【セH28ドイツ社会主義労働者党【セH10】を初めとする社会主義者の運動をおさえたり【セH19社会主義者を支援していない】,南部のカトリック教徒【セH24ユダヤ人ではない】の政党である中央党(ビスマルクの推進した政教分離に反対)と対立(文化闘争) 【セH9ビスマルクが,カトリック教徒と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う】しました。しかし,南部のローマ教会は,弾圧を受けても依然として多くの信仰を集め続けました。
 一方,彼は
社会保険法を制定することで,国民の福祉を高め,労働者の支持を取り付けようとしました。彼の政策は,よく“アメとムチ”と表現されます。

 しかし,1888年に〈ヴィルヘルム2世(18881918) 【セH17フリードリヒ2世とのひっかけ・オーストリア継承戦争を戦ってはいない】【中央文H27記】が〈ヴィルヘルム1世〉の後を継ぐと,ビスマルクが精緻に組み上げていった国際秩序がガタガタと崩れ去っていきます。〈ヴィルヘルム2世〉は,〈ビスマルク〉がロシアと締結していた再保障条約【セH14ナチスとは無関係,セH24の更新を拒み,さらに社会主義者鎮圧法に反対するなど,〈ビスマルク〉と対立し,1890年には彼を辞職させ,宰相は〈カプリヴィ〉(任1890~94)に代わりました。
 後を継いだ〈カプリヴィ〉宰相は,〈ヴィルヘルム2世〉の統治の下,ドイツ社会民主党との関係を修復させ(
社会主義者鎮圧法の廃止【セH9ビスマルクが社会主義者と対立・妥協を繰り返しながら巧みに国家を運営したか問う,セH12「社会主義者鎮圧法のために第一次世界大戦後まで社会主義政党が誕生しなかった」わけではない】),労働者の権利を向上させる政策をとって,国内をまとめようとしました。
 また,対外的には海軍を大拡張してイギリスに真正面から対抗する計画(「
世界政策【セH24ビスマルクの政策ではない】)を推進するとともに,イギリスとの関係改善にも取り組みました。1890年にはイギリスとの間で,ドイツが北海のヘルゴランド島,イギリスが現在のタンザニア沖のザンジバル島の支配を認め合う条約(ヘルゴランド=ザンジバル条約)が結ばれました。一方で,ドイツ領の南西アフリカ(現在のナミビア)から,ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)へのルートを確保するために,南西アフリカの領土を内陸部に細長く延長させて併合しました(現在のカプリヴィ回廊)。
 
1890年に社会主義者鎮圧法が廃止されると労働運動も盛り上がっていき,社会民主党(SPD,エスペーデー) 【セH12イギリスではない(イギリスは労働党)】【追H20】が議席をのばしました。SPDは1912年に帝国議会で第一党になっています。当初は「革命によって社会主義を実現しよう」とする方針でしたが,のちに〈ベルンシュタイン〉(1850~1932)のように「〈マルクス〉の考えにこだわらず,これに修正を加えよう。革命ではなく,議会の議席を増やすことを通して法による制度の改革をめざし,社会主義を実現させよう」とする修正主義(リヴィジョニズム) 【追H20】があらわれるようになります。


◆工業化を推進したドイツでは科学技術の研究が発達した
 19世紀末にかけ,ドイツの工業生産は右肩上がり。生活水準も上がり,今の体制をぶっ壊す革命よりも,今の体制を残したまま悪い部分をなおそうとする改革が望まれたのです。この時期に,ドイツ人の科学者たちは,さまざまな技術を編み出すとともに,学問でもドイツ人は目覚ましい業績をあげるようになっていきました。
 科学技術は植民地の支配にも遺憾(いかん)なく利用されました。蒸気機関車・電気機関車(電車)の発明により,植民地へのヒト・モノの輸送や内陸部・山岳部からの資源の積出しが容易になっていきました。また,ヨーロッパの科学の知識は,アジア人・アフリカ人・アメリカ大陸の先住民・オセアニア人が,ヨーロッパ人に劣るという前提のもとに組み上げられ,ヨーロッパ人の人種主義を支える役目も果たしていきます。

 1895年,X線【セH23ラジウムではない】を発見した〈レントゲン(18451923)に,〈ヴィルヘルム2世〉が祝電を送っています。生きた人間の骨を透かす技術は,一大センセーションを巻き起こしましたが,彼自身は注目を浴びるのを避けて断り,1901年の第一回ノーベル物理学賞受賞のスピーチも断っています。X線は,第一次世界大戦の戦傷者の治療に役立つことになります。
 生理学の分野ではすでにフランスの〈パストゥール〉(182295)が細菌学の基礎を築き,狂犬病の予防接種(1885)を開発していました。さらに,ドイツの〈コッホ〉(18431910) 【セH2ジェンナーではない】【追H20,ベル,ヘルムホルツ,モールスではない】が,結核菌(1882) 【セH2発見者を問う】コレラ菌(1883) 【セH2発見者を問う】 【追H20】を発見し,人類とこれらの細菌との長い戦いに終止符を打ちました。なお,1885年にドイツに留学し〈コッホ〉に師事したのが,ペスト菌を発見し,破傷風の治療法を開発した〈北里(きたさと)柴三郎(しばさぶろう)〉(1853~1931)です。このとき〈北里〉とともに〈コッホ〉の研究室に出向いたのは,同じく1885年からドイツ留学をしていた〈森鷗外(もりおうがい)〉(1862~1922)です。彼はドイツ留学をモチーフにのちに小説『舞姫』を著しています

 〈
ジーメンス〉(18161892),〈ファラデー〉の発明した電磁誘導を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年には電気機関車(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)。
 ドイツの〈ディーゼル〉(18581913)は,ガソリン機関に比べ熱効率の高いディーゼル機関を発明し,工場や交通機関に用いられるようになっていきました。
 また〈ベンツ〉(18441929)は1885年に初のガソリン自動車の3輪車を発明し,同年には〈ダイムラー〉が2輪車・翌年に4輪車を発明しました。こうして,20世紀の主役になっていく自動車【セH7年代を問う】は,イギリスなどに遅れて発達したドイツやアメリカ合衆国の主要産業となっていくのです。また,燃料としてガソリンが用いられたことから,石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年に原油の機械掘りが始まり,黒いゴールドラッシュの時代を迎えることになります。


1870年~1920年のイベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
1870年~1920年のヨーロッパ  イベリア半島 ①スペイン
 スペインでは1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年に第一共和政(187073)が樹立されていました。しかし1875年に〈アルフォンソ12世〉(187585)が復位すると,1890年代には保守党と自由党の平和的な政権交代が続き,ようやく政治は安定をみました。
 しかし,カリブ海の
キューバ1895年に独立を求める反乱が起きると,キューバの輸出全体の9割の砂糖を輸入していたアメリカ合衆国は独立運動に接近して「反スペイン」と「民主化」を求めるキャンペーンを実施。1898年にキューバに停泊していたアメリカの戦艦メイン号が爆発・沈没すると,それを「スペインの犯行」としたアメリカ合衆国はスペインに対する戦争を開始し,スペインの敗北に終わりました。これを米西戦争【追H21】といい,講和条約はパリ条約といいます。
 パリ条約の結果は以下の通りです。
 ・
グアム【セA H30】→無償でアメリカ合衆国に割譲
 ・
フィリピン→有償でアメリカ合衆国に割譲【追H9】【追H21】
 ・キューバ→独立(ただし,アメリカ合衆国の影響下に置かれることになります)

 この敗北をみて,スペインではバスクやカタルーニャにおける民族主義が高まり,王政と時の政権に対する批判も高まって,ますます分裂傾向が加速していきました。
 カタルーニャ地方では,19世紀末~20世紀初頭にかけてモデルニスムという新たな芸術・建築を目指す運動が盛り上がり,民族運動とも結びつきました。バルセロナには〈
アントニ=ガウディ〉(18521926)が現れ,カサ=ミラ,グエル公園,グエル邸,サグラダ=ファミリア贖罪聖堂,カサ=ヴィセンス,カサ=バトリョ,コロニア=グエル聖堂など,自然をモチーフに斬新な曲線を主体とした建築物を残しました(◆世界文化遺産「アントニ=ガウディの作品群」,1984)。

 1886年に即位した〈アルフォンソ13世〉(18861931)の下で二大政党制が続き,1910年~20年代に工業化・都市化が進みました。第一次世界大戦で中立国となったことから輸出経済が好調となり,輸入品を自国で生産する動きも進みました。
 一方で,民族主義が共和主義や農民や労働者による社会主義とも結びついて,反体制的な動きが活発化するようになります。1917年のロシア革命の影響も少なくありません。




1870年~1920年のヨーロッパ  イベリア半島 ②ポルトガル
 1870年以降には,
ポルトガルからブラジルへの移民が急増。ヨーロッパの列強がアフリカ分割を開始すると,1886年に南アフリカ南部に植民地帝国を建設する構想「バラ色地図」を公表しました。これは進歩党内閣の外相〈ゴメス〉がドイツとフランスに根回しした上で,アフリカ南西部のアンゴラから現在のザンビアやジンバブエを通って南東部のモザンビークを横断する「ポルトガル領南アフリカ」の地図を作成したもので,この地図が「バラ色」で塗られていたため,その呼び名があります。しかし,イギリスの縦断政策と真っ向から対立するこの計画は,1890年にイギリスの圧力に屈して現在のジンバブエマラウイからポルトガル軍は撤退。これを推進していた国王の威信は低下します。1891年にはポルトにおいて共和主義者が初めて反乱を起こしています。
 反政府運動が盛り上がる中,1908年には国王〈カルロス〉(位1889~1908)が王太子とともに暗殺され,代わって〈マヌエル2世〉(1908~1910)が即位。しかし1910年に首都リスボンで共和派の軍人が反乱を起こすと国王は亡命し,〈ブラガ〉が臨時大統領となって
第一共和政が成立しました。1911年には憲法(1911年憲法)が制定され,〈アリアーガ〉が大統領に就任しました。王党派による抵抗が起きる中,1913年には民主党の〈コスタ〉内閣が成立。1914年から始まる第一次世界大戦に際しては,スペインはポルトガルとともに中立を宣言しましたが,王党派と共和派の間の抗争により不安定な情勢が続きました。





1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

1870
年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ①イタリア
 サルデーニャ王国が拡大する形で国家統一したイタリア王国【セH12時期(独立は19世紀後半か問う)】では,工業地帯の北部と農業地帯の南部との間の経済格差が大きな問題として残りました。1880年代にはガリバルディのシチリア占領にも参加した経験を持つ,南イタリアのナポリ出身〈クリスピ〉首相(18191901,在任8791,9396)が,中央集権化を図り,国内の社会主義運動を弾圧して統一を進めました。国内の団結を図るため,反フランス政策をってドイツとの三国同盟(1882結成)を強化。また,1890年にはアフリカ大陸の紅海に面するエリトリアを植民地化,さらにエチオピアに進出しました。
 しかし,エチオピア帝国
【東京H19[3]】は軍隊の近代化を進めており,1896年にはアドワの戦いイタリア【セH5 19世紀にイタリアの植民地になっていない,セH8イギリスではない】に大敗し撤退【セH16敗退したかを問う】,〈クリスピ〉も辞任しました。エチオピアは,リベリアと並びアフリカ大陸の中でも珍しく植民地化を免れた国の一つです。
 のち,1892年に就任した〈ジョリッティ〉首相の下,社会主義勢力から右翼に至るまでの国内のさまざまな勢力をたくみに操り,行政権を拡大させていきました。
 しかし,南部の経済的な遅れは後を引き,多数の国民がアメリカ合衆国へに移民として出国しました(
イタリア人移民)

 ローマ教皇領
は,近代化にともなう世俗化の進行に頭を悩ませていました。しかし,「変化する時代に合わせ,変えるべきところは変える必要があるのだ」とする主張も強まり,1891年に〈レオ13世〉(18771903)はレールム=ノヴァールムという回勅を発表。
 これにより,ローマ=カトリック教会は,近代的な価値との共存を模索していくようになります。






1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年にスエズ運河が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。
 第一次世界大戦中のマルタには多数の傷病兵が収容され,“地中海の看護師”と呼ばれました。しかし同時に,大戦中に起きたマルタ島民の反イギリス闘争で犠牲者が出たことは,現在でも国民の祝日(6月7日)として記念されています。




1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 
科学技術の発達が進み,社会は目まぐるしく変化していました。科学的な事実を小説に織り込み“SFの父”ともいわれる〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)の『海底二万里』(1869)や『八十日間世界一周』(1873)は広く読まれ,科学技術によりますます広がっていく人間の想像力を刺激しました。
 
フランスは普仏(プロイセン=フランス)戦争【セH19時の〈ナポレオン3世〉の退位で第二帝政は崩壊。パリでは労働者階級を主体とする民衆が政権を打ち立て,〈ビスマルク〉と講和した共和派の〈ティエール〉(1797~1877,第三共和政大統領在任1871~73)らの建てた臨時政府と対立しました。
 このパリの労働者政権(
パリ=コミューン【東京H28[3]】【セH3サン=シモンは経験していない,セH12フランス史上初の普通選挙を実施したか問う(フランス革命の国民公会の成立前と,1848年の二月革命後にすでに実施されています)】【セH13,セH26時期】【追H20】)は「あっさり講和するなど許せない」「パリの自由だけは守る」と決起しましたが,臨時政府により鎮圧されました。このとき八月十日事件の舞台となったテュイルリー宮殿は消失しています。

 その後のフランスでは,
()ナポレオン派のグループ,()ブルボン家を推すグループ,()オルレアン家を推すグループの3派が,今後のフランスの在り方をめぐって争っていました。しかし,最終的には共和政を推すグループが多数派を占め,1875年には第三共和政憲法が制定されました【セH16年号「1875年」を問う,セH19【セ試行 第三共和政は現在まで続いていない】

 急激な社会の変化を受けて,芸術界の中にも,新たな運動を起こす人々が現れます。フランスの美術界は,芸術アカデミーにいる大御所が指導権を握っていました。また,美術の主流は社会をありのままに描こうとうする写実主義で,心の内にあらわれる心象風景は軽視される風潮にありました。
 これに対抗したのが,のちに「
印象派【セH29試行 ロマン主義ではない】と呼ばれることになる〈マネ〉(183283),〈モネ〉(18401926),〈ルノワール〉(18411919) 【セH18自然主義(写実主義)ではない・『落ち穂(おちぼ)拾い』ではない】,〈ドガ(18341917),〈セザンヌ〉(18391906)らの活動でした。1874年に最初の展覧会が開かれ,反対派は彼らを悪口として印象派とあだ名しました。彼らの画風には,日本絵画の影響も見られます
 この頃活動していた作曲家の〈
ドビュッシー〉(18621918)も,東洋の音階をとりいれるなどして,従来の西洋音楽にはなかった音楽を作り上げており,美術家とひとくくりにして印象派音楽と呼ばれるようになりました。ちなみに彼の交響詩「海」の表紙には,〈葛飾北斎〉の浮世絵が刷られています
 1889年にパリ万博に日本美術が大規模に展示されたこともあり,「浮世絵」の画法が一層注目されました。大胆なタッチで知られるオランダ出身の〈ゴッホ〉(185390)は,絵画の中に浮世絵の作品を登場させていることで知られます。彼は〈ゴーガン〉(18481917)と共同生活を南フランスで送りますが,意見が合わず絶交。その後,精神不安定な中も作品はつくられつづけ,37歳でピストル自殺をするに至りました。2人は,「サント=ヴィクトワール山」の〈セザンヌ〉(18391906)と合わせて後期印象派(ポスト印象派)に分類される画家です。


 そんな中は,イギリスを筆頭にヨーロッパ諸国が産業革命(工業化)を背景としたアジア・アフリカ・太平洋への進出を加速させていました。国民が一丸となってまとまり,海外に植民地を獲得しようとする動きが強まっていたのです。例えばこの時期から20世紀までにフランスは,インドシナ(現在のヴェトナム,カンボジア,ラオス【京都H19[2]】),アフリカのマダガスカル【セH19ドイツではない,セH20地図】サハラ沙漠周辺の広大な領土,南太平洋のポリネシア(20世紀後半にフランスの核実験場となる)などを獲得していきます。

 しかし,共和政には反対意見も多く,先程の()()のグループが王政・帝政を復活させようとする動きも加速し,政治はなかなかまとまりません。
 混乱の中で,ユダヤ系軍人に対する冤罪(えんざい)事件(ドレフュス事件(1894)) 【セ試行 ブーランジェ事件とのひっかけ】【セH3ナポレオン3世により解決されていない,セH9時期(19世紀後半か)【セH23,H30【中央文H27記】や,陸軍関係者によるクーデタ未遂事件(ブーランジェ事件(188689) 【セ試行 ドレフュス大尉の判決に関する事件ではない】) 【追H20時期(第二帝政下ではない)】も起きています。ドレフュス事件に際しては,『居酒屋』『ナナ』で有名な自然主義【セH11】【追H20ロマン主義ではない】の作家のゾラ(1840~1902) 【東京H25[3]】セH11:ロマン主義ではない,セH12】が「余は弾劾す(私は弾劾する)」と,濡れ衣を着せられた〈ドレフュス〉を味方しました。〈ドレフュス〉は南アメリカのギアナに流されたのち1899年に再審が実現し,1906年には無罪となっています。
 なお
自然主義とは,“きれいごと”を描くロマン主義に反発し,社会のさまざまな問題を自然科学の知識にもとづいて【セH12「科学的観察を重んじる,ゾラなどの自然主義文学が台頭した」か問う。時期(19世紀後半か問う)】正確に記述し,社会をよくしていこうとする文学ジャンルのことです【セH15ロマン主義ではない】

 フランスが国としてまとまろうとすればするほど,ユダヤ人への迫害も強まり,ユダヤ人たちの中には「自分たちは“フランスのユダヤ人”ではなく,パレスチナを故郷とする“ユダヤ人”なんだ!」と考える人々も出てきました。フランスやイギリスが国民により構成されたまとまりのある国家を建設しているように,「ユダヤ人の国家」を建設するべきだという思想を
シオニズムといいます。ドレフュス事件の取材にもあたった新聞記者で1896年に『ユダヤ人国家』を著したハンガリーはブダペストの生まれの〈テオドール=ヘルツル〉(1860~1904)は,1897年にスイスのバーゼルで第一回シオニスト会議を開催しました。自分たちの国家をどこへ建設するべきか,議論が活発化していきました。背景には,当時ロシアを中心とする東ヨーロッパで起きていたユダヤ人迫害(ポグロム)に対する危機感もありました。

 さらに産業革命(工業化)の進行にともない労働者が増え,労働運動もヒートアップしていきます。フランスの労働運動の特色は,イギリスのように政党が中心となったのではなく,労働組合が直接行動によって革命を起こそうとした点にあります。全国レベルで労働者が働くことを拒否して,雇い主に改革を迫ることを,ゼネ=ストといいます。ゼネ=ストによって一気に社会に革命を起こそうとする運動を,サンディカリズムといいます。労働者の運動が鎮静化するのは,1905年にフランス社会党【追H20パリ=コミューンは組織していない】が成立してからのことです。

 1905年には,政治へのカトリックの介入を防ぐ,政教分離法が発布されました。ローマ=カトリックは国境を越える宗教なので,国民が一致団結するべきだとする国家(国民国家)にとって,ふさわしくないと考えられたのです。これ以降,フランスでは公共の場における宗教的な要素の禁止が厳しく守られてきましたが,20世紀後半にイスラーム教徒の人口が増えると,フランスの政教分離の在り方に問題が出てくることになります。イスラーム教は,生活の中に宗教的な要素が強く結びついているためです。
 このころの思想界では,〈ベルクソン〉(18591941)が『創造的進化』(1907)を著しています。また科学者としては,細菌の研究をした〈パストゥール〉(1822~1895)が有名です。彼により,細菌が病気の原因であることが突き止められ,その予防や殺菌法(牛乳などに用いられる低温殺菌法は,彼の名前をとって英語でpasteurize(パストゥーライズ)といいます)が確立されました。これにより,前700万年前から続く人類と細菌との戦いは,新たな局面を迎え,衛生環境の向上によって人類の寿命の高齢化と人口の激増(人口爆発)がもたらされることになります。
 また,放射能が1896年にフランスの〈ベクレル〉(1852~1908)によって発見され,1898年に〈
キュリー夫妻【セH8がラジウム【セH8を発見しています。

 さて,1914年にサライェヴォ事件が起きるとに,国際関係に緊張が走ります。
第二インターナショナルを中止とする国際的な社会主義運動による反戦運動も,ナショナリズムの高まりには対抗することができませんでした。
 サライェヴォ事件から約1か月,「平和」を叫んだフランス社会党の〈
ジャン=ジョレス〉(1859~1914)は1914年7月末に国家主義者による銃弾に倒れています。その翌日から,フランスは総動員体制に入っていくことになります。



1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
 1873年の大不況により,つぶれてしまった中小企業を大企業が飲み込み,企業は巨大化していきました。科学技術もさらに発達し,鉄鋼や化学製品などの重化学工業も発達していきます。科学小説(SF,エスエフ)という分野も,この時期のイギリス人〈ウェルズ〉(186646)が始めた分野です(『タイムマシン』(1895),『透明人間』(97),『宇宙戦争』(98))。また,医師業のかたわら小説を執筆した〈コナン=ドイル〉(1859~1930)も恐竜の登場する『失われた世界』(1915)というSF小説,推理小説『シャーロック=ホームズ』シリーズ(1887~1927)を残し,国民的な作家となりました。

 さらに,海外では圧倒的な海軍力によって,世界各地に自由な貿易を要求し,自国に有利な体制を作り上げようとしました。
 しかし,植民地があまりに広くなりすぎてしまったため,支配にかかるコストが高く付くようになってしまいました。そこで,重荷を降ろすように,植民地をランク付けして,植民地の人々に政治を任せられる部分は,任せるようになっていきました。例えば,白人植民者の多い地域,カナダはいち早く1867年に自治領(ドミニオン)のカナダ連邦【セH25イギリス連邦の一員ではない。まだイギリス連邦はない】になっています。ただ,カナダはフランス人が早くから入植した地域なので,今日に至るまで,東部に行けばいくほどフランス系住民が多いのが特徴です。1926年にカナダがイギリス連邦の一員として正式に独立した際には【セH2519世紀ではない】,イギリスの旗入りのデザインの国旗が使われていましたが,フランス系住民のことを考えて,1965年には,特産物のサトウカエデ(メイプルツリー)の葉がデザインされた国旗に変えられました。
 のちに,白人植民者の多いオーストラリア連邦(1901) 【セH14時期は第二次大戦後ではない,セH27時期】ニュージーランド(1907) 【追H30】南アフリカ連邦(1910)も,順次,自治領(ドミニオン)に昇格していきました。

 しかし,その他の地域では厳しい植民地支配が続きました。世界中に植民地を持つイギリスのロンドン近郊グリニッジを通る子午線(経線)が1884年の国際会議で本初子午線として定められ,この線を基準に各国・各植民地の標準時が決められていきました。ついに世界は“時間の一体化”の段階に進んでいくのです。

 植民地で,イギリス式の教育を受けたり留学した人々の中から,植民地支配に反対する動きが起こりました。例えば,カリブ海出身のアフリカ系である〈
ウィリアムズ〉は,1900年にはロンドンでパン=アフリカ会議を開きました。これには,カリブ海の出身者だけでなく,アフリカ人たちも参加し,人種差別や植民地支配に反対をしました。
 また,1912年には南アフリカ連邦でアフリカ民族会議(初めは南アフリカ先住民会議という名称~1913) 【追H30民族解放戦線ではない】がつくられています。南アフリカでは1913年に原住民土地法が制定されるなど,差別が強化されていました。

 さて,植民地の支配方式をめぐっては,イギリス国内で二大政党(自由党【早政H30】保守党【早政H30】)間の対立がありました。 
 1868 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1868~74 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1874~80 ★保守党〈ディズレーリ〉内閣→1880~85 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1885~86 ★保守党〈ソールズベリ侯爵〉内閣→ 1886 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣→1886~92 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣→1892~94 ☆自由党〈グラッドストン〉内閣 →1894~95 ☆自由党〈ローズベリ伯爵〉内閣 → 1895~1902 ★保守党〈ソールズベリ〉内閣 →1902~05 ★保守党〈バルフォア〉内閣→1905~08 ☆自由党〈キャンベル〉内閣 →1908~15 ☆自由党〈アスキス〉内閣 のように, ★→☆→★→☆…の政権交代が続きます。

 
自由党の〈グラッドストン〉(任1868~74,80~85,86,92~94)内閣【セH21マクドナルド内閣ではない】【早政H30】【明文H30記】【中央文H27記】【※センターでは意外と頻度低い】のときには,労働組合法【セH3労働党内閣のときではない】により労働組合が合法化されました。
 保守党【セA H30労働党ではない】の〈ディズレーリ〉首相(1868187480) 【セA H30】【早政H30】【※意外と頻度低い】 の時代の対外政策は,以下のようなものです。
 
(1)1875【追H20時期(19世紀前半ではない)】スエズ運河【セH14地図】【追H20】会社の株を買収し【セH14】。フランスの〈レセップス〉が必死に集めたフランス個人投資家と〈ムハンマド=アリー〉の出資金で1869年に開削したスエズ運河は,当時経営難に陥っており,当のフランスも普仏戦争後の莫大な賠償金とパリ=コミューンの成立による政情不安定な状況でした。エジプトがスエズ運河会社株を売りに出そうとしている裏情報は,ユダヤ人のロスチャイルド家経由で〈ディズレーリ〉の耳に届き,機敏な判断でロスチャイルド家からの融資により株式を購入して経営権を乗っ取ることに成功しました。そのとき〈ディズレーリ〉から女王に送られた手紙には「ただいままとまりました。運河は陛下(へいか)のものです」(You Have It, Madam)という言葉が。
 (2)1877年,インド帝国(英領インド) 【セH3】を成立。
 (3)ロシア=トルコ戦争に介入して,ロシアの南下を防ぎ,インド・ルートを保障。
 1880年代には,自由党の第二次グラッドストン(188085)内閣が,エジプトのウラービーの乱(188182) 【セH12「アラービー=パシャ」時期】 を鎮圧して支配下におきます。
 スーダンの
マフディー派の抵抗(18811899) セH5】の鎮圧のために,太平天国で活躍した〈ゴードン〉を派遣(のち戦死)したのも,アフリカの植民地分割に関するベルリン会議(18841885)が開かれたのも,〈グラッドストン〉のときです。

 1895年には〈ジョゼフ=チェンバレン(18361914) 【セH18カニングとのひっかけ,セH27アメリカ合衆国の人物ではない】【追H20労働党ではない】が,第三次〈ソールズベリー〉内閣の植民地大臣になると,ダイヤモンド鉱山業で莫大な財を成し1890年にケープ植民地首相となっていたアフリカのナポレオンともいわれた〈セシル=ローズ(18531902) 【東京H24[3]】【セH29試行 風刺画・時期(第二次大戦中ではない)】との連携を強めていくようになりました。彼の設立したデビアス社は「永遠の輝き」のキャッチフレーズでおなじみの,巨大ダイヤモンド企業です。〈セシル=ローズ〉は初めオランダ系のアフリカーナー(ボーア人)の地主と提携して先住民を抑える政策をとっていましたが,しだいにアフリカーナー(ボーア人)の建国した国家(ダイヤモンド鉱山が発見されていました)に対する欲求が強まっていきました。〈ローズ〉は「夜空に多くの星がある。私は惑星をも併合してみたい」とまで言っています()
(注)当時のイギリスの支配層には,アフリカ大陸のエジプトのカイロ(Cairo)と南アフリカのケープタウン(Capetown)を縦に結びつけ,さらにインド帝国のカルカッタ(Calcutta) 【セH2】と結び,インド洋を取り囲む形で支配下におさめる野望がありました。これを日本では3C政策【セH2】【セH13ドイツの政策ではない】と呼んでいます。〈セシル=ローズ〉語録 「われわれは原料がたやすく手に入る新しい土地を見つけなければならない。そして,同時に植民地の先住民から安い労働力を徴発しなければならない。しかも,植民地はわれわれの工場での余剰商品を投げ売りする場でもなければならない」参照 クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.358。

 1895年末には〈ローズ〉の設立した南アフリカ会社の〈ジェームソン〉率いる部隊がトランスヴァール共和国
【セH10に侵入しましたが,失敗しました(ジェームソン侵入事件)。これに対し1896年1月にドイツの〈ヴィルヘルム2世〉がトランスヴァール共和国に送った祝電が世間にバレたことで,イギリス世論の対ドイツ意識が悪化(クリューガー電報事件)。英独関係に亀裂が入りました。〈ローズ〉も同月に支持を失い辞任すると,イギリス【セH10フランスではない】本国(ほんごく())の〈ジョゼフ=チェンバレン〉植民相が積極的にケープ植民地に介入し,南アフリカ(ボーア)戦争【セH10戦争の名称は問われない,セH12時期(軍事費が1900~01年に多いことを読み取る)】が引き起こされました。
 (注)本国というのは,植民地を支配する国のことです。例えばアメリカ13植民地の本国は,イギリスでした。宗主国という言葉とほぼ同じです。
 

 これに対抗しようとしたドイツ帝国は,首都ベルリンからオスマン帝国のイスタンブール(旧名はビザンティウム)を通り,イラクのバグダードに向かってペルシア湾からのインド洋進出を狙っており(
3B政策【セH13 3C政策ではない】),英独関係は緊迫化していきました。「より大きな軍艦を作れば戦争に勝てる」と信じられ,1906年にケタ外れの大きさを誇るドレッドノート級戦艦が建造されると,建艦競争はさらに激化しました。

 この時代は〈ヴィクトリア女王(18371901) 【セH6】【中央文H27記】が君臨したことから「ヴィクトリア時代」とも呼ばれ,自由党と保守党が対立する二大政党政治が展開された時代でした。1899年にはロンドンの人口は600万を超える世界最大の都市となります。
 〈ヴィクトリア女王〉の家族は,従来の“スキャンダル”続きの王室とはうって変わり,“慈悲深い母親”“清純な妻”
【セH29試行 女性も家庭の外で働くことが望ましいという価値観ではない】,“イギリスの中産階級の家族の象徴【セH29試行 リード文の下線部・図版】というイメージが国民の間に広まりました【セH25リード文】
 彼女の家柄経由でドイツから持ち込まれた
クリスマスのシーズンにモミの木を飾る習慣は,この頃イギリスにも広まったのです。彼女は女性だったため,ハノーファー選帝侯を兼任することはありませんでしたが,子どもや孫たちはヨーロッパの王家に嫁いでいったため,“ヨーロッパの祖母”ともいわれ,ドイツ皇帝〈ヴィルヘルム2世〉も彼女の孫にあたります。また,〈ヴィクトリア女王〉の肖像は植民地の硬貨などのデザインにも用いられ,世界中の植民地をまとめる“帝国の母”でもありました【セH25リード文】
 1877年には
インド帝国【セH3,セH6】【セH19ムガル帝国ではない】の皇帝【セH3ムガル皇帝の子孫が皇帝になったのではない,セH6】【セH13】も兼ねていますが,現地を訪れることは一度もありませんでした。
 

◆工業製品に反発する運動や,環境を保護する運動が現れた
アール=
ヌーヴォーとナショナル=トラスト
 国内では,大企業の発展にともない,さまざまな運動が起きていました。
 どこもかしこも,工場で作られた無機質な日用品ばかり。それに対して1880年に〈ウィリアム=モリス〉(18341896)は,アーツ=アンド=クラフト運動を起こし,かつて中世の職人によってつくられていた製品の中の美を再評価し,自然をモチーフにしたデザインの壁紙,カーペット,織物などを提案しました。彼は近代デザインの父ともいわれます。この運動に,工場制機械工業で失った人間らしさを取り戻そうというメッセージを込めていたのです。
 のちに
1890年代~1910年にヨーロッパで流行したアール=ヌーヴォー(植物の文様が特徴です)という芸術運動にも,大きな影響を与えます(注)
(注)ベルギーのブリュッセルに建設された〈ヴィクトール=オルタ〉(1861~1947)による邸宅は,鉄やガラスの組み合わせにより植物的な曲線を可能にし,アール=ヌーヴォーに大きな影響を与えました(◆世界文化遺産「建築家ヴィクトール=オルタによるおもな邸宅(ブリュッセル)」)。

 また産業革命(工業化)以降進んでいった環境破壊に対し,環境保護の意識も高まっていきます。1895年にはロンドンのスラム問題に取り組んだ社会運動家の〈オクタヴィア=ヒル〉(1838~1912)らにより,土地や建物の環境や景観を保護するために買い上げて保存する運動(
ナショナル=トラスト運動)がスタートしました。

◆選挙法改正により選挙権が労働者に拡大され,労働者政党も結成された
選挙権が広がり,政党による穏健な運動が主流に
 労働者の権利の保護や,選挙法の改正【早法H29[5]指定語句「選挙法改正」】をめざす運動も盛んになっています。そこで,地主の支持を受けている保守党の〈ダービー〉内閣(1852,185859,186668)は,産業資本家の支持を受けている自由党に対抗し,増加する都市労働者からの票をゲットするために,1867年の第二回選挙法改正で,都市労働者【セH25農業労働者ではない】に選挙権を与えました。彼らは,1848年にもっとも盛り上がったチャーティスト運動の担い手であり,彼らの不満を封じ込めるねらいもありました【セH9自由党・保守党の対立で,選挙権の拡大が阻まれたわけではない】
 しかし,これに対抗した自由党の〈グラッドストン〉内閣は1884第三回選挙法改正で農業労働者【セH23】【セH25女性ではない】と鉱山労働者に選挙権を認めました。彼は,労働組合法で労働組合を合法化,アイルランド土地法で小作料を引き下げ,義務教育法(教育法【セH3ウォルポール首相ではない】)【セH21】で義務教育を無償化するなど,国民の支持を取り付けるさまざまな法を制定していきました。
 例えば,社会主義者〈ウェッブ()〉により,フェビアン協会【セH10カルボナリとのひっかけ】【セH30時期】という知識人中心の社会主義団体が結成されています。アイルランド出身の劇作家〈バーナード=ショー(18561950)や〈ウェッブ()(18581943)がメンバーです。議会を通して「福祉国家」をつくり,社会主義の実現をめざす穏健派です。
 また,労働組合も作られていましたが,労働者の政党がなかったため,1900年に労働代表委員会が組織され,1906年に労働党【セH5,セH12社会民主党ではない】に発展しました(労働党は結党を1900年としています)。こちらも議会を通じてゆっくりと社会主義を実現しようとする穏健派です【セH12「様々な社会政策の実現を目指した」か問う】
 1905年の自由党内閣は,「もはや労働者の動きを無視することはできない」と考え,労働党の協力を得ることにしました。1911年には国民保険法(疾病保険・失業保険を含む)が制定されるなど国民の社会保障が進みましたが,当時はドイツが海軍を拡張していた時期でもあり,予算確保の必要です。そこで,高額所得者への税率アップや相続税の税率アップによってまかなおうとしましたところ,案の定,保守党議員の多い上院が反対しました。これに対し1911年に〈アスキス〉内閣(190812)議会法【追H30】を成立させ,予算案&法案の可決について「下院>上院」【追H30上院優位ではない】の原則を確立することに成功しました。

 また,〈グラッドストン〉内閣のときからの懸案事項だったアイルランド自治法案【セH30【早政H30】は,ようやく1914年に法律として成立。しかし,イギリス人の入植者が多い北部アイルランド(イギリス国教会多数)は反対し,アイルランド独立(アイルランドはカトリック多数)と対立しました。アイルランド独立派はシン=フェイン党【セH4アイルランドの親英派による結成ではない。反英派である】を中心に独立運動を展開しますが,結局自治法は第一次世界大戦勃発を口実に延期されます。
 これに対し独立過激派が
1916年に武装蜂起(イースター蜂起)を起こすも,鎮圧されるという流れです。

 国民全員が何らかの形で動員される
総力戦【東京H18[1]指定語句】である第一次世界大戦が1914年に始まると,女性も軍需工場などでの人手として活躍することになり【セH9「軍需工場で女性が生産に従事する国もあった」か問う】【セH15第一次大戦中に欧米の参戦国で女性の職場進出が進んだ国もあるか問う】,1918年には第四次選挙法改正で21歳以上の男子と,30歳以上の女子にも参政権が与えられました【セH11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う,セH12 1918年に女性が参政権を獲得したか問う】


1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑩ベルギー
ベルギー王国では自由主義が発展し,アフリカの植民地支配がすすみ,国内では政教分離に対する保守派との対立が生まれた

 低地地方南部の
ベルギー王国では,1865年にはその子〈レオポルド2世〉(位1865~1909)が王位を継承しました。1876年に中央アフリカ協会を設立しアフリカへの植民地進出を本格化させ,〈スタンリー〉に中央アフリカを探検させています。
 ベルギー
【セA H30】国王〈レオポルド2世〉はコンゴ盆地一帯をコンゴ自由国(1885~1908) 【セH8地図上の位置】【セA H30ナイジェリアではない】【※意外と頻度低い】として,自身の私領として列強(れっきょう)に認めさせました。国家による領有ではなく「私領」(王個人の領土)というところがポイントです。しかし,天然ゴムの生産のために,抵抗する住民の手足を切り落とす厳しい処罰を与えていた事実が国際的批判を集めると,王の私領に対する風当たりは強くなりました。国王はベルギー政府から補償金を受け取る形で,私領コンゴ自由国を放棄。それ以降はベルギーによる直轄植民地(ベルギー領コンゴ)となります。
 コンゴからは
ダイヤモンドの原石が輸出され,アントウェルペンはダイヤモンドの研磨・加工産業の中心地となりました。ダイヤモンド産業に従事していたのは,この地に多く住むユダヤ人でした。

◆永世中立国宣言をしていたベルギーは,第一次世界大戦でドイツの侵攻を受けた
 〈アルベール1世〉(位1909~34)のときに第一次世界大戦が起こり,
永世中立国を宣言していたのにもかかわらず,ドイツ帝国による侵攻を受け,国土の大部分が占領されました。
 第一次世界大戦後には,ドイツの植民地だったアフリカの
ルワンダブルンジを,国際連盟の委任統治領として獲得しています(⇒1870~1920のアフリカ 東アフリカ)



1870年~1920年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆オランダでは自由主義による政教分離政策に対し,宗教勢力との対立が続いた
 オランダ
ルクセンブルクは国家連合を形成していました。ドイツの工業地帯における産業革命(工業化)の恩恵を受け,工業化が進展。自由主義的な思想が台頭するとともに,子どもたちに宗教教育をおこなうべきかいなかを巡る論争が続いていました。政教分離を進めようとする自由主義政権に対し,オランダ国内のカトリックとプロテスタント勢力(両者は拮抗(きっこう)していました)は反対。1857年にはすでに「学校教育法」で宗教教育の廃止が規定され,1878年の改正で宗教教育をほどこす学校を厳しくし,宗教教育なしの公立学校に国庫補助をすることになりました()。しかし,1888年に宗教勢力が政権を獲得すると政教分離の改革を否定し,1889年からは宗教教育をほどこす学校にも国庫補助がされるように新初等教育法が制定されました。
 一方,工業化の進展にともない
労働者階級の人口も増え,労働党が結成されています。政府も国力を高めるため,国内の問題を解決して国をまとめる必要に迫られ,1909年に義務兵役制,1913年に義務教育を導入し,1917年の憲法で公立学校と宗教系の学校の同権が定められました(現行のオランダ憲法の第23条)。また,参政権を要求する労働者の不満が爆発するのをおそれ,1917年には男子普通選挙権・比例代表制が議会で承認され,1919年には女性参政権と1日8時間労働制が制定されました【セH11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】
 第一次世界大戦(1914~1918)が起こると,1914年7月末には戦時体制をとりましたが,オランダは戦場にはなりませんでした。

◆ルクセンブルク大公国とオランダ王国の国家連合は,1890年に解消した
 ルクセンブルク
はドイツとの経済的な協力関係を強め,国内の鉄鉱石を周辺のザールやロレーヌの石炭と結びつけ,工業化が推進されてきました。1890年にネーデルラント連合王国(オランダ王国)国王 兼 ルクセンブルク大公が亡くなり娘がオランダ王位を継ぐと,女系の継承を認めていないルクセンブルクは,新たにドイツの領邦君主(ナッサウ=ヴァイルブルク家)の〈アドルフ〉を招いて大公としました。
 これをもってルクセンブルクとネーデルラントとの同君連合は幕を閉じます。
 第一次世界大戦が起きると,8月2日にドイツ軍はルクセンブルクにフランスへの「通過」のために侵攻しました。ルクセンブルクは中立を守りますが,大戦中には国のあり方をめぐり国論が割れます。王制に反対する共和派の暴動で〈マリー=アデライド〉大公が退位すると,1919年に妹の〈シャルロット〉が大公に即位(任1919~1964)。結局,大公による支配は維持されました。1918年にはドイツ関税同盟から脱退しています。

(注)見原礼子「公教育におけるムスリムの学びの条件――フランス・ベルギー・オランダの比較分析」,大芝亮・山内進(編著)『衝突と和解のヨーロッパ――ユーロ・グローバリズムの挑戦』ミネルヴァ書房,2007年,pp.253~286。



1870年~1920年の北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 スウェーデン,デンマーク,ノルウェーは,この時期に畜産・林業・水産・鉱業などを発展させていきました。 帝国主義時代にあって各地で国策による
探検が行われていましたが,ノルウェーの〈アムンセン〉(1872~1928)は1911年に人類史上初めて南極点に到達し,スウェーデンの〈ヘディーン〉(1865~1952)は中央アジアを探検し楼蘭の遺跡や,その付近にある枯渇したロプノール湖の調査からロプノールが「さまよえる湖」であることを発見しました。

 1912年に
スウェーデンデンマークノルウェーはヨーロッパで戦争が起きた場合には中立の立場をとり,もし中立をとらない場合は事前に通知をすることを互いに約束しました。
 1914年に第一次世界大戦が勃発すると,取り決めどおり三国は中立を宣言しました。しかしドイツはイギリスがバルト海に入って来れないように,デンマークの領海に機雷(きらい)を設置させてほしいと要求。占領も辞さないとの要求に屈したデンマークの〈クリスチャン10世〉(位1912~47)は,ドイツの要求をのみました。同じ要求はスウェーデンにも向けられ,スウェーデンも要求を飲みました。
 イギリスはこれら「中立」国を通して物資がドイツに運び込まれることを恐れ,取締りを強化しましたが,それが逆に1917年2月のドイツの
無制限潜水艦戦を招きます(ノルウェーの船舶の半分が失われました)。スウェーデンもノルウェーも物資不足が深刻化し,スウェーデンは船舶を協商国に貸す代わりに協商国から食糧を輸入します。

 大戦は
総力戦【東京H18[1]指定語句】となり女性の社会進出が積極化し,国民をまとめるために女性参政権が導入されていきました。1906年にはヨーロッパで初めて,完全な女性参政権がロシア従属下のフィンランド大公国で認められ,大戦中のノルウェーでは1913年に女性にも参政権が認められました。デンマークでは1915年に完全な女性参政権が,その下で自治が認められていたアイスランドでも同年に女性参政権が認められました。1919年にはスウェーデンで女性参政権が認められました(初の選挙は1921) 【セH11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】



1870年~1920年のヨーロッパ 北ヨーロッパ ①フィンランド
 フィンランドでは1899年にフィンランド労働党が結成されましたが,のちにロシア革命の影響も受けてのちに急進化していきます。「ロシア化」を進めるロシアに対する抵抗運動も発展し,1904年にはフィンランド積極的抵抗党が,ポーランド人とも連携したテロ行為により独立を目指しました。日本の外交官〈明石元二郎〉もこの組織の指導者〈コンラッド=シリアクス〉と接触していたことがわかっており,内側からのロシア帝国の崩壊を狙う工作をしていたとみられます(注)。1904年2月に日露戦争が勃発し,6月にはフィンランド総督が青年により暗殺され,日本との戦争に苦戦するロシアに対する抵抗の機運は高まりました。1905年10~11月にはフィンランドで「大ストライキ」が起き,独立要求が高揚,従来の身分制議会が再編され,女性参政権を認める一院制の国民議会が成立しました【セH11「第二次世界大戦以前に,ヨーロッパで,女性が選挙権を持っている国はなかった」か問う】。しかしその後は揺り戻しで,またロシアによる独立運動の抑圧が強まりました。
(注)石野裕子『物語 フィンランドの歴史』中公新書,2017年。

 一方,ロシアの支配下にあったフィンランド大公国は第一次世界大戦中は軍事基地として使用されました。1917年にロシアで二月革命がおきたのをきっかけに,社会民主党を中心に内閣が組織されます。社会民主党はロシアの革命勢力に接近したため,保守派はロシアの〈ケレンスキー〉の臨時政府と接近して社会民主党の勢力を削ぎ,ロシアの十月革命後の12月に保守派を中心とする〈スヴィンフッヴド〉を首班とする内閣が独立を宣言しました。ソヴィエト=ロシアは「民族自決」の原則を打ち出していましたから独立は承認されたものの,フィンランド国内の革命勢力との内戦は続き,結果的に〈スヴィンフッヴド〉政権により鎮圧されました。内戦終結後には,ソ連との間の東カレリアをめぐる国境問題が持ち上がりました。東カレリアは,北極海の一部(白海)に面する地域で,民族的にもフィンランドに近く,フィンランドの民族叙事詩『カレヴァラ(カレワラ)』のルーツがあるとされた地域だったため,フィンランド人の民族意識の高まりとともに領土問題に発展したのです。



1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ②デンマーク
 デンマークでは1864年のプロイセンに対する敗戦後は,対外進出よりも小さな国土を充実させる政策に転換し,イギリスへの輸出向けに荒れ地の開墾や畜産酪農の近代化に取り組みました。1882年には初の酪農協同組合ができ,全国に普及していきました。イギリスにとってデンマークは新鮮な乳製品・畜産物の”供給地”として欠かせない存在となっていったのです(1914年のデンマークの輸出向け農産物の6割がイギリス向けでした)。同時に,1890年代には工業化生産も拡大しました。

 なお,デンマークは,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がる
ヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。奴隷貿易は1807年に廃止されていました奴隷制は1848年に廃止されました。1917年の国民投票でアメリカ合衆国に売却され,アメリカ領ヴァージン諸島となりました。



1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ③アイスランド
 デンマーク支配下のアイスランドでは,諮問議会のアルシングを中心に自治・独立に向けた世論が高まりました。1871年にデンマーク議会はアイスランド憲法を制定しましたが,地方行政権の一部が認められたにとどまります。水産業の発展,教育機関の整備も進む中,北アメリカへの移民も増加しました。
 
アイスランドは大戦中にデンマークとの交通が途絶し,協商国を支援して繁栄しました。これによりかえって自立が加速し,国民投票の圧倒的賛成を受けて1918年にデンマークの国王との同君連合としてアイスランド王国が独立しました。国王にはデンマークの〈クリスチャン10世〉が1944年まで即位しました。


1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑤ノルウェー
 ノルウェーはこの時期,タラ・ニシン・クジラの漁業と食品加工業(缶詰・鯨油),林業と木材加工業(木材パルプは新聞用紙に利用されました),海運業で発展しました。
 ノルウェーの中南部には,窒素固定による
合成肥料製造の工場(ノシュク=ハイドロ社)が大規模な水力発電所(スウェルグフォス発電シュオ)とともに建設され,当時の世界の高い農業需要にこたえました(◆世界文化遺産「リューカン・ノトッデンの産業遺産」)。

 
ノルウェー【早政H30】はスウェーデンとの同君連合下に独自の政府と議会を持っていましたが,1905年にスウェーデンとの同君連合を解消して独立【早政H30】し,デンマーク王家の〈カール〉が〈ホーコン7世〉(位1905~57)として即位しました。



1870年~1920年のヨーロッパ  北ヨーロッパ ⑥スウェーデン
 
スウェーデンは,木材加工業と鉄鉱石の鉱業,さらにそれに促された機械工業で栄えました。
 フィンランドはロシアの支配下にありながら,ヘルシンキを中心とした鉄道網が敷設され,木材加工業や機械工業が発達していきました。

 工業化の進展とともに労働者階級が増え労働問題・社会問題も起こりました。この時期には北ヨーロッパからの南北アメリカ大陸への移民も増加しましたが,国内の生活に不満を持つ人々が外国に移住することで“ガス抜き”の役割
()を果たしたともいえます(スウェーデン人が最も多く1840~1914年に110万5000人が移民しました)。 南部には北アメリカに向けた無線局が建設され,スウェーデン系移民に祖国のニュースを伝える役目を果たしました(◆世界文化遺産「ヴァールベリのグリメトン無線局」,2004)。

 この時期のスウェーデンでは劇作家・小説家〈
ストリンドベリ〉(1849~1912)が自然主義小説・劇(『令嬢ジュリー』(1888))で活躍し,晩年には象徴的な作品も残しました。1871年にはデンマーク女性協会が設立されるなど女性運動も盛んで,ノルウェーの劇作家〈イプセン〉(1828~1906)は『人形の家』(1879)で「妻」「母」としての人生から「人間として」の人生を生きるため,夫と子を捨てて家を出ていく女性の姿を描きました。『子供の世紀』を著して児童教育に影響を与えたスウェーデンの〈エレン=ケイ〉(1849~1926)は女性運動でも活躍しました。なおスウェーデンには『叫び』で有名な画家〈ムンク〉(1863~1944)が,内面の不安を象徴的に表現した作品を制作しています。
 また,社会主義の思想も伝わり労働運動が起こされるようになり,1871年にデンマーク社会民主党(インターナショナルのデンマーク支部),1887年にノルウェー労働党,1889年にスウェーデン社会民主労働党(社会民主党),それぞれ勢力を拡大させていき,のちに
福祉国家の建設を推進していきました。いずれも革命による階級闘争というよりは,議会を通した社会民主主義路線をとりました。議会民主政治も発展し,ノルウェーは1884年に北ヨーロッパで始めて議院内閣制をはじめました。





1870年~1920年の南極

 1908年にイギリスが西経20度から西経80度の部分の領有を宣言します。
 各国が南極点への到達一番乗りを狙い,国家プロジェクトとして探検家を送り込む中,ノルウェーの〈
アムンセン〉(1872~1928)が1911年に人類史上初の南極点到達を成し遂げます。
 一方,1912年にイギリスの海軍軍人〈
スコット〉(1868~1912)も南極点に到達しましたが,帰り道に遭難して亡くなりました。

 なお,〈スコット〉が南極点に到達する一日前には〈
白瀬矗〉(しらせのぶ,1861~1946)が南極大陸に上陸。カラフト犬とともに西経156度周辺を「大和雪原(やまとゆきはら)」領有宣言しています