●1848年~1870年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展④ (沿海部への重心移動),南北アメリカ:独立


産業化を進める欧米諸国で自由主義・保守主義・社会主義の対立が起きるが,生活水準の向上にともない国民国家の形成がすすみ,帝国主義に向かう。アジアでは東アジアへの市場開放要求が強まり,南アジア・東南アジアも植民地化がすすむ。

時代のまとめ
(1)
「産業革命」の進展により成長した産業資本家労働者階級が対立したが,自由主義を唱える前者が国家権力とも結び付き成長していった。
(2)
「産業革命」の進展とともに
国民国家が形成されたが,国家建設をめざす民族の運動(ナショナリズム)の多くは実現しなかった。
【大阪H30論述:人口調査(センサス)の手法が確立されていったのが,1848年革命以降であることを踏まえ,欧米各国で人口調査が確立されていった背景を,国民国家の形成と関連づけて述べる問題。産業社会の成立と国民国家の成立を背景に,納税・徴兵制・初等教育の確立のため個人の掌握,国民意識・国語統一のため母語・民族意識の調査が必要になった旨を述べる】

解説
 アメリカ合衆国では南北戦争を経て産業革命(工業化)を達成。中央アメリカ・南アメリカではイギリスの資本に対する従属が進む。
 東南アジアでは,ヴェトナムがフランスの進出を受け,マレー半島から島しょ部にかけてはイギリスとオランダが進出,ビルマはイギリスが進出している。中国ではアロー戦争の敗北により新たな開港・不平等条約の締結を迫られる。南アジアのインドではイギリス支配に対する
インド大反乱【東京H20[1]指定語句】【セH8】が鎮圧され,ムガル帝国が滅亡した。西アジアではオスマン帝国領内の東方問題が激化し,ロシア帝国の南下を阻止するヨーロッパ諸国がイギリスを中心に介入し,ヨーロッパ諸国間に軍事同盟が締結されていく。
 アフリカの探検も進展し,イギリスは南アフリカのケープ植民地で先住のオランダ系
ボーア〔アフリカーンス〕を圧迫する。
 西ヨーロッパを中心に
国民国家への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与えた。イタリアは統一運動により1861年に建国(イタリア王国),ドイツでもプロイセンを中心に統一運動が進み,末期にフランスとの戦争後にドイツ帝国を建国する。

◆西ヨーロッパを中心に国民国家への統合が進み,非ヨーロッパ世界の秩序にも影響を与える
西欧を中心に,国民国家への統合が進む
 この時期は,15世紀半ば以降に世界の各地域に形成されていた広域的な政治的秩序が,ヨーロッパで形成されていった「国民国家(内部の住民を,まとまった「国民」に統合していくことにより成り立たせる主権国家)によってバラバラに再編されていく時期といえます。
 ヨーロッパでは,すでに
産業革命(工業化)を達成していたイギリスに続き,フランス,ベルギー,オランダといった西ヨーロッパの諸国で工業化が進展していきました。イギリスは自由貿易のルールを世界各地に要求して物流ネットワークを拡大させていき,多くの地域が西ヨーロッパを頂点として経済的な“役割”を分担しているような形に編入されていきました(垂直的な分業体制といいます)
 アメリカ合衆国の歴史社会学者の〈ウォーラーステイン〉(1930)は,この様子を,西欧を中心とする「世界 = 経済」(world-economy)が,旧来のユーラシア大陸の「世界 = 帝国」(world-empire)
包み込んでいく過程ととらえ,しだいに現在につながる「近代世界システム」(the modern world-system)が形成していったのだと1970年代に主張し,強い影響力を持ちました。

 しかし,19世紀末にかけて「ヨーロッパ」が主導することで地球全体にグローバルな物流ネットワークが広がっていくのはたしかですが,非「ヨーロッパ」地域であるアジア,アフリカ,アメリカ,オセアニアが受け身の立場で
包み込まれていったわけではありません。
 「
国民国家」に再編されつつあったヨーロッパ諸国は,15世紀半ば以降に世界各地に生まれていた秩序に影響を与え,それに対し非「ヨーロッパ」地域の国家や非政府組織はさまざまな対応を試みていくことになるのです。
 ある国家は,西ヨーロッパ諸国の「国民国家」の考え方を受け入れ「近代化」を果たし,またある国家は外圧に押されて政治的な干渉を受けることになります。この過程で,西ヨーロッパの国民国家は,ヨーロッパの外部に支配を拡大させ,やがて「
帝国」を形成していくことになるのです。

 非「ヨーロッパ」地域の諸国家は西ヨーロッパ諸国から借款(しゃっかん)を受けたり,資源供給・市場開放したりすることで経済的に従属していきます
()が,特に東アジア・東南アジアでは工業化に成功した日本や華僑(中国系住民)やインドの商人を中心に,アジアの域内貿易を次第に活性化させていきました。
()例えば,イギリスが南アメリカのアルゼンチンの農牧業の産品・加工品の輸出を通して,経済的な影響力を強めていたことを,「イギリスはアルゼンチンを植民地として取り込んだ(公式帝国(formal empire)に取り込んだ)のではなく,経済的な勢力圏に取り込んだ(非公式帝国(informal empire)に取り込んだ)と説明する研究者もいます。

 ヨーロッパ内の地域では1848年~49年の自由主義・民族主義的な運動が起き,多くが成果を挙げられなかったものの,さまざまな民族を支配する帝国に対する揺さぶりが始まっていきました。
 また,資本主義に対抗する思想として多様な社会思想が芽生えましたが,なかでも
社会主義を推し進めて最終的には階級や国家を消滅させようと考えた〈マルクス〉(18181883)共産主義が注目されました。
 この時期に南北戦争(“内戦”,186165)を経験したアメリカ合衆国は南北戦争を経て国家と市場の統一が進み,急速な経済成長を遂げました。西部開拓が進み太平洋側にも進出をしたことで,北アメリカ大陸の東西沿岸に広がる広大な国家に発展していくことになります。
 ヨーロッパやアメリカ合衆国では,自然科学の研究成果が次々に技術に応用され,その多くが植民地支配に利用されていきました。社会科学の知識もヨーロッパ(特に西ヨーロッパ)が優れているという思想に利用され,非ヨーロッパの国・地域が劣っているという思想も形成されていきます(本文の
社会ダーウィニズムを参照)
 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカの諸国では,スペインに代わってイギリスに対する経済的な従属が進んでいきました。国内では,しばしば社会的に上層に位置する白人系(アメリカ大陸生まれの白人系住民。
クリオーリョ)が権威主義的な支配体制を確立し,自由主義派により国外の資本と結びついた一次産品の輸出が目指されますが,それに反対する保守主義派との対立も深まっていきます。
 アジア諸国はヨーロッパによる従属が強まり,イギリス・フランス・オランダ・ロシアを中心に植民地・勢力圏が広げられていきました。その一方で,南アジアのインドや,東南アジアの植民地を含めたアジアの地域内交易は,急速な近代化に向かっていた日本(
日本の近代化)の積極的な参入もあり,ますます活況を呈していくこととなります。
 中央ユーラシアではロシアの東方進出と南下に対し,海上覇権を握るイギリスが対立をはじめ,内陸部の遊牧民の政権の多くがロシアの従属下に入っていきました。この対立を中央ユーラシアをめぐるイギリスとロシアの“
グレート=ゲーム”ともいいます。
 オセアニアではオーストラリアとニュージーランドがイギリスによって国際経済に結び付けられ,島しょ部に対するヨーロッパ諸国の進出も本格化していきます。
 アフリカではヨーロッパ諸国による中央部の探検が本格化し,内陸部の領域支配が強まると,各地の政権や住民による抵抗運動が起きています。





●1848年~1870年のアメリカ

1848年~1870年のアメリカ 北アメリカ
1848年~1870年のアメリカ  北アメリカ ①アメリカ合衆国

1 アメリカ合衆国の金と石油が,世界に大きな影響を与えた
アメリカで金と石油が見つかり,西部拡大が加速
 金と石油。この時期にアメリカ合衆国で発見されたこの2つの鉱産物が,世界に大きな影響を与えることになります。
 まずは金(きん)。
 
1848年には,カリフォルニア州で金鉱山が発見され,多くの人が一攫千金をもとめて押し寄せるゴールド=ラッシュが起きました。噂を聞いて集まった人々が着いた頃には,すでに取り分はほとんどなく,“あと(1849年)からやってきた奴ら”ということで,彼らは“フォーティーナイナーズ”とからかわれました。
 この頃,日本の漁師〈
ジョン萬次郎〉(中濱萬次郎,なかはままんじろう,1827~1898)は,出漁中に遭難して伊豆諸島の鳥島(とりしま)に漂着し,1841年にアメリカ合衆国の捕鯨船に救出され,船長の保護の下,マサチューセッツ州で英語で多くの学問を修めました。彼は帰国資金を得るために1850年にカリフォルニア州にわたり,ゴールド=ラッシュの恩恵を受けています(1851年にハワイ経由で帰国)
 現在の
カリフォルニア,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺は,メキシコから買収され,アメリカ合衆国の領土となっています。

 次は,
石油。1859年に〈ドレーク〉大佐(1819~1880)という人物が,ペンシルヴァニア州のタイタスビルで油田を採掘しました。初めはエンジンのような動力向けの使用ではなく,ランプに使用するものでしたが,19世紀末に自動車のエンジンが発明されると,“石油の世紀”といわれる20世紀の幕開けとなります。
 西部への進出は,
インディアン戦争も激化させました。1862年にはナバホ人が沙漠に強制移住させられ,1868年に故郷に帰ることを許されますが,すでに住み着いていたホピ人との間の争いが始まります。1864年には,コロラド州で無抵抗のシャイアン人らが襲撃される,サンドクリークの虐殺が起きています。

2 アメリカ合衆国は太平洋に進出し,琉球王国と日本を開国させる
アメリカは捕鯨と市場獲得のため,太平洋を超える
 新たにカリフォルニアを獲得したアメリカ合衆国。
 北東アメリカにいるロシア帝国
(アラスカにいます)の進出に対抗してラッコなどの毛皮交易を支配下に置きつつ,中国市場をにらんで,北太平洋蒸気船航路の実現が構想されました(注)
 そのため,太平洋に展開する
海軍の建設が急がれました。
 蒸気船による艦隊の司令官となったのが,〈
マシュー=ペリー(17941858)。希望峰まわりでマラッカ海峡を通って琉球王国に通商を要求しつつ,1853年,54年の江戸時代末期の日本に「開国」を要求しにやって来ます。アメリカが日本を必要としたのには「捕鯨の基地を獲得するため」「中国との蒸気船航路の石炭補給地を確保するため」といった動機がありました
 しかし,それと同時にアメリカが西に拡大すればするほど不安要因となったのは,ロシア帝国がアラスカを領有していたことです。モンロー宣言には,ロシアが北アメリカ太平洋側に南下することへの牽制(けんせい)という意味合いもあったのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.186。

 1854年に
日米和親条約【セA H30時期】,1858年に日米修好通商条約【東京H20[1]指定語句】が締結されました。日米修好通商条約を締結した駐日公使〈ハリス〉は,1850年に南鳥島での漂流中にアメリカ船に救助されアメリカ国民となっていた〈ジョゼフ=ヒコ〉(浜田彦蔵,1837~97)を神奈川領事館の通訳として採用しています

3 西漸運動によりインディアン諸民族の居住地を奪い,ヨーロッパ諸国からの移民を受け入れた
西部のインディアンを追放し,新移民を受け入れる
 アメリカは西へ西へと領土を広げていきました
(西漸運動といい,その最前線をフロンティアといいます)が,先住民のインディアン諸民族の居住地を奪いながらの拡大で,インディアンは指定された保留地に移動を余儀なくされたのでした。
 白人の圧倒的な支配を目の当たりにしたインディアン諸民族は,救いを信仰に求めました。1869年には西部のパイユート人の予言者が「ゴースト=ダンスを踊れば,死者がこの世に戻り,白人を追い出してインディアンの社会が復活される」と説き,インディアン諸民族の間で大流行します。


 内向きなアメリカは,ヨーロッパからの移民の受け入れをストップしたわけではありません。初期の移民は,イギリスやドイツからの移民(旧移民)が多かったのですが,だんだんとイタリアなどの南欧,東欧,ロシアからの移民(新移民) 【追H20時期(19世紀前半ではない。19世紀後半である)】が増えていきました。 旧移民はプロテスタント(新教徒)が多かったのに対し,新移民は,南欧はカトリック,東欧・ロシアは正教会やユダヤ教徒が多く,アメリカは多様な宗教とルーツをもつ人々の集まりになっていったわけです。やがて,カトリックであるアイルランド系の人々も1840年代のジャガイモ飢饉【東京H7[3],H19[1]指定語句「アイルランド」】【セH29試行】(大飢饉;アイルランド語でアン=ゴルタ=モー(An Gorta Mór);英語でThe Great Famine)をきっかけに拡大します。原因は,ジャガイモの伝染病(アメリカ起源のジャガイモ疫病)の流行です(注)
(注)伊藤章治『ジャガイモの世界史―歴史を動かした「貧者のパン」』中公新書,2008,p.61。感染が爆発的に広まった一因として,収量の多い品種に偏って栽培されていたため遺伝的多様性が低かったことが挙げられています(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.158)。

 代わりに穀物
(パン)をイギリスから輸入しようとしたのですが,1815年に地主【追H30産業資本家ではない】を保護するためにセH5自由貿易主義に則り輸入を促進するためのものではない】制定されていた穀物法【セH2時期(18世紀末の制定ではない),セH5】のせいで価格が高くなっており,手に入れることができなかったのです。その上,賃料が払われないとの理由で,地主から土地を奪われる者も多く,事態は余計に悪化。イギリス政府(保守党の〈ピール〉首相(任1834~35,1841~46))も,アイルランドに対して根本的な対策を講じようとはしませんでした。
 アイルランド人のうち
20(80万人から100万人)が餓死・病死し,200万人が島外に移住したとみられます。その子孫の一人が,ケネディ家です。パトリックは事業に成功して下院議員となり,その子〈ジョゼフ〉は〈フランクリン=ローズヴェルト〉に実業家として資金提供,そのまた息子は大統領にのぼり詰めます(ジョン==ケネディ(196163))(『タイタニック』(1997)には〈モネ〉(18401926)の絵を所有する主人公のジャックとローズが,二等船室のアイルランド人たちと踊り騒ぐシーンが出てきます。なお豪華客船タイタニックは1912年に沈没しました)
 こうした,多くの移民を受け入れるとともに,民主化もすすんでいきます。〈ジャクソン大統領(182937)は男子普通選挙を導入。ヨーロッパと比べると,驚くべき早さでの実現です。

4 アメリカ合衆国独自の文学,音楽,思想が発達した
「アメリカ」文化が成長する
 長い伝統を持たないアメリカ合衆国でも,しだいに独自の文化が生み出されるようになっていきます。

 音楽ではアイルランド移民系の〈フォスター〉(182664)が,アメリカ南部をテーマに黒人ゴスペル風のヒット曲「おおスザンナ」(1848)「スワニー河」(1851)などの親しみやすい歌を書きました。当時は,白人が顔を黒塗りにするミントレル=ショーという見世物が人気で,黒人の文化を取り入れて,新しい芸術をつくろうという動きがあったのです。
 また,文学では〈ホーソン〉(180464)は『緋文字』(ひもじ),〈ホイットマン〉(181992)の『草の葉』が作られました。〈ソロー〉(1817~62)は『森の生活』野中で,物質文明と距離を置き,自然と調和した暮らしの魅力を伝え,エコロジー思想自然保護運動の先駆となりました。手付かずの大自然の残されていたアメリカならではの気づきでしょう。


5 経済制度・奴隷制をめぐる南北対立【共通一次 平1】が,南北戦争に発展した
南北戦争を経て,西部を含む国民統一に向かう
 さて,アメリカ合衆国の本格的な工業化は,南北戦争【東京H10[1]指定語句,H20[3]【早法H30[5]論述(南部・北部の状況)】という内戦により,北部の白人(アメリカ大陸生まれの白人(クリオーリョ))が主導する形で達成されることになりました。
 南北戦争の背景には,北部と南部の政治・経済状況の違いがありました。
 
部の諸州は,産業革命【早法H30[5]指定語句】を達成したイギリスの技術を導入し,工業中心の経済となっていました。部は18世紀末以降,綿花プランテーション【東京H20[1]指定語句】【追H9 19世紀前半の南部で綿花が主要な輸出品であったか問う】【セH27】【上智法(法律)他H30】が経済の中心で,北部にとっては自由な労働者が,南部にとっては奴隷【セH14】【早法H30[5]指定語句「奴隷制」】が欠かせませんでした。
 北部の工場主たちは「奴隷を働かせるよりも,働きたい人を自由に募集して雇ったほうが,コストがかからない」と考えていましたし,南部が奴隷制をとっているせいで南部の黒人を労働力として使えないことに,不満をもっていたのです。また,イギリスに工業化で遅れをとっている北部にとっては輸入品に関税をかけたいところ(
保護貿易) 【セH3・セH12南部は「保護貿易」を主張していない】【上智法(法律)他H30】。しかし南部にとっては,綿花のお得意様であるヨーロッパ諸国と自由な貿易関係を維持したいだけでなく,イギリス製の安くて質の良い鉄鋼や綿織物がほしい(自由貿易【東京H10[1]指定語句「自由貿易主義」】【セH3・セH12南部は「保護貿易」を主張していない】【セH14】【早法H30[5]指定語句】)。
 統一的な保護貿易を行うために,北部は連邦政府の力を強くする
連邦主義【セH3】【早法H30[5]指定語句】をとりますが,南部はそれをきらって州の自治【上智法(法律)他H30】を大幅にみとめる州権主義【セH3】をとります。
 北部と南部の諸州には,ざっとみてもこれだけの対立点があり,北部は共和党
【セH3】支持者,南部は民主党【セH3】支持が優勢となっていったのです。

 さて,アメリカ合衆国の西部では,人口が増え新しい州を設置する際に,その州で奴隷制を認める奴隷州【東京H25[1]指定語句】【上智法(法律)他H30】とする,認めない自由州とするかを決めることになっていました。
 だからこそ北部と南部の州は,競うように西部開拓をすすめていったのです。なぜそれが大問題になるのか?
 それはアメリカ合衆国の連邦政府のうち,上院は各州から2名ずつが均等に議員に選出されることになっていたからです。奴隷を認める奴隷州と,禁ずる自由州の数が同じなら,アメリカ合衆国としての意見は拮抗
(きっこう)して結論が出ぬまま終わるわけですが,どちらかが増えてしまうと大問題なわけです(映画「それでも夜は明ける」(2013米英)には1841年にワシントンD.C.で誘拐され南部で売られた自由身分の黒人の実話を基にしています)
 奴隷制度廃止運動も活発化し,南部から北部やカナダに奴隷を移送する組織「地下鉄道(地下鉄組織)(Underground Railroad,本当に地下に道があったわけではありません)が奴隷の解放に寄与しました(これを支援した黒人女性〈ハリエット=タブマン〉(1820?1913)は出エジプトの〈モーセ〉とも呼ばれ,2020年に黒人女性初のアメリカ合衆国紙幣(20USD)の顔となる見込みです)1859年には白人の運動家〈ジョン=ブラウン〉(18001859)がヴァージニア州で反乱を起こし,同年に処刑されています。

 かくして,運命の時がやってきます。
 1860年の大統領選挙では民主党の候補が分裂した影響で,奴隷制に否定的な【セH12奴隷制擁護を唱えていない】共和党【セH9から立候補した〈リンカン(186165) 【セH9共和党か問う】【セA H30初代大統領ではない】が当選したのです。彼は,翌年3月の就任演説で「南部諸州に直接的にも間接的に干渉するつもりはない」と訴えました。しかしそのかいもなく,彼の当選に反対する南部11【セH12カリフォルニア州は南部の側についていない(カリフォルニア州は自由州)】【上智法(法律)他H30「南部諸州」】はアメリカから離脱して1861年,アメリカ連合国(南部連合(Confederate States of America)) 【上智法(法律)他H30】【※意外と頻度低い】をリッチモンド【セH14北部の首都ではない】【上智法(法律)他H30】に建て,やり直し選挙の結果〈ジェファーソン=デイヴィス(186165)が当選しました。
 〈リンカン〉は丸太小屋に生まれ,ほとんど正式の教育を受けることはありませんでした。イリノイ州で雑貨屋を経営したり,郵便局長をしたりしながら法律を学び,弁護士を開業した苦労人です。1856年に共和党に入って,1858年には上院議員選挙で落選をしましたが,民主党のダグラスとの討論会で有名となり,1860年の大統領戦争に当選しました。選挙キャンペーン中に,少女からの「ヒゲを生やした方がかっこいい」という手紙をきっかけにあごひげを蓄えるようになった逸話が有名です。
 奴隷制廃止運動の機運をつくりあげたといわれるベストセラー『アンクル=トムの小屋』(1851~52) 【セH8コモン=センスではない】【セH26】の著者,〈ストウ(1811~96) 【セH8コモン=センスではない,H12「ストウ夫人(ハリエット=ビーチャー=ストウ)が奴隷制廃止ロンギに大きな影響を与えた」か問う】【セH26ヘミングウェーではない】は,南北戦争中に〈リンカン〉のもとを訪れています。リンカンは歓迎して,社会を大きく動かした夫人をたたえたといいます。この本は南部のほとんどの州で禁書となっています(注)
(注)亀井俊介『アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで』昭和堂,2006,p.100。

 北部の〈リンカン〉大統領は,
1862年にはホームステッド法【東京H7[3]】【セH3】【セH18西部開拓が進展したかを問う・H23,セH26男子普通選挙とは関係ない】【上智法(法律)他H30】により,開拓した農民に無償で土地にを与えることを定め,西部の人々の北軍【上智法(法律)他H30】への支持を取り付けます。約800メートル四方(160エーカー)の土地を開拓し,そこに5年続けて住めば与えられるというもの。碁盤(ごばん)の目のように土地割りがされた名残が,今でもアメリカ合衆国の中西部に残されています(タウンシップ制といいます)()
(注)なお,1861年にはカンザス,アイオワ,ネブラスカでジャガイモのち上部分を葉脈と茎を残して食べ尽くすコロラドハムシ(北アメリカ原産)という甲虫が猛威をふるっていました。1870年には中西部に広がり,のち大西洋岸に拡大します(1877年にドイツでも確認)。この駆除には,ヒ素と銅の化合物パリスグリーンが用いられましたが,この農薬自体も人体に有害であったことに加え,1912年以降は耐性を持つ昆虫も出現するようになります(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160)。


 さらに,イギリスが南部を支援する可能性が浮上したことから,〈リンカン〉
【セH26ラ=ファイエットではない】1863年には奴隷解放宣言【セH12南北戦争中にリンカンが出したか問う】【セH26,セH29試行 奴隷解放宣言の結果,南北戦争がはじまったわけではない】【上智法(法律)他H30大統領就任に際して発したわけではない】を発表し,南部の奴隷(黒人だけでなく混血の人々も含む)は解放されました。しかし,じつは北部にも奴隷州がありましたが,そこでは解放はされませんでした。〈リンカン〉も実際には奴隷解放論者ではなく,「奴隷制はいけない」という人道的な理由を持ち出すことで,イギリスやフランスが南部を支持しにくくするためのものだったと考えられます。もともとの理由は「保護貿易vs自由貿易」「奴隷制廃止vs賛成」という経済的な理由だったんですけどね。

6 戦後,北軍は南部を占領し制度を改革するが,撤退後は南部で黒人差別が再強化される
戦後も,黒人差別はなくならず
 1863年に〈リンカン〉大統領がペンシルヴェニア州の
ゲティスバーグ(北軍が敗退した激戦地【セH14】)で行った戦死者を追悼する演説は,アメリカ国民に今なお語り継がれる名文句「Government of the people, by the  people, for the people(人民の人民による人民のための政府)」を残しています。
 南北戦争での死者数は約62万人。
 第一次世界大戦のアメリカ人の死者は11.2万人。
 第二次世界大戦のアメリカ人の死者は32.2万人。
 なんと,二度の大戦を合計するよりも多くのアメリカ人が,亡くなっているのです。
 戦争は結果的に北部の勝利で終わり,アメリカ合衆国分裂の危機は回避されました。しかし,これだけ多くの国民が亡くなったからこそ,新しい国家はどうあるべきかを訴える必要性があったからこそ,〈リンカン〉は『戦うことにより,自由の精神をはぐくみ,自由の心情にささげられたこの国家(=アメリカ合衆国)が,あるいは,このようなあらゆる国家が,長く存続することは可能なのかどうかを試しているわけである』と訴え,『これらの戦死者の死を決して無駄にしないために,この国に神の下で自由の新しい誕生を迎えさせるために,そして,人民の人民による人民のための政治を地上から決して絶滅させないために』
(),この土地を守り抜こうと訴えたのです。
 こうした使命感を抱く北部は,敗れた南部を1877年まで占領することになるのです。
(注)「ゲティスバーグ演説 (1863年)」,アメリカンセンターJAPAN https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2390/

 なお,〈リンカン〉が
1863年に出されていた奴隷解放宣言によって,黒人(混血の人々も含む)は奴隷ではなくなりました。南部が北部に復帰する前の1865年には,憲法修正第13条が批准され,憲法においても奴隷制が廃止されました(このときまで北部には2州だけ奴隷制を認めていた州がありました) 【セH9共和党・民主党の議会討論を通じて廃止されたわけではない】1868年には憲法修正第14条で市民権,1870年に第15条で選挙権も与えられています【セH12「南北戦争の結果,アメリカでは,黒人とともに女性も選挙権を獲得した」わけではない】

 しかし,1883年に連邦最高裁が「各州には憲法修正第14条よりも強い権限がある」という判決を出して以降,南部の諸州は白人と黒人を分離する州法(いわゆるジム=クロウ法) 【上智法(法律)他H30】を制定していったため,バス,鉄道,学校,食堂などの公共交通・公共施設で黒人・白人を隔離したり,選挙権【上智法(法律)他H30被選挙権だけではない】・被選挙権が制限され,黒人差別はその後も根強く残りました【共通一次 平1「黒人への差別や迫害は根強く残った」か問う】
 土地を獲得した黒人は少なく,獲得できたとしても小区画に分けられ,農具・住居・種子が貸し出されるものの,収穫の半分程度を地主に納める
【上智法(法律)他H30】分益小作人(シェア=クロッパー【上智法(法律)他H30】【※意外と頻度低い】)として貧しい生活を強いられます【セH3「自立的な生活が営めるようになった」わけではない】
 負けた側の南部も,北部に対する反感はなくなったわけではなく,現在でもミシシッピ州やフロリダ州の旗を見ると,アメリカ連合国の旗のデザインが組み込まれていることからもわかります。


 こうして,南北戦争後のアメリカ合衆国では,南部と北部の白人どうしが和解をし,黒人を排除しつつ国内市場が統一されていきました。産業革命(工業化)が進展し,19世紀末にはイギリスやドイツを抜く世界最大の工業国となりました。
 自動車の発明【セH7年代を問う】で石油への需要が高まり,アメリカ合衆国では1859年に原油の機械掘りが始まり,黒いゴールドラッシュの時代を迎えます。
 1867年にはアラスカをロシアから買収【セH29カナダが買収したのではない】し,ロシア帝国による北部からの脅威はなくなりました。
 
1869年に敷設された大陸横断鉄道【セH3,セH6年代(南北戦争後か問う)】【東京H7[3],H15[3]地図から1869年開業の路線を選ぶ】【追H9時期。ペリー日本来航,ハワイ併合との順序】【上智法(法律)他H30※】は,東部の工業と西部の資源を結びつけ,アメリカ合衆国の経済的統一に大いに貢献しました【セH3】。それにともない,巨大企業(複数の企業が合わさったトラストセH5】や,連合したカルテル)も形成されていくこととなります。
 大陸横断鉄道にの建設には,中国から「輸出」された肉体労働者
(苦力,クーリー【東京H25[1]指定語句「年季労働者(クーリー)」】)や,アイルランド人の移民【東京H25[1]指定語句「白人下層労働者」】が携わりました。
 すでに選挙権を獲得していた男子の労働者の間には,巨大企業の独占に反対する動きが起き,反トラスト法の制定につながっていきました。
※ニューオーリンズとロサンゼルスを結ぶ区間が開通したわけではない。東からアイルランド系移民(正しい),西からは中国系のクーリー(苦力)(正しい)が労働力となり,建設が進み,ユタ州プロモントリーで結ばれた(正しい)。



1848年~1870年のアメリカ  北アメリカ 現②カナダ
東西の英仏住民対立を経て,カナダ自治領が成立
 1841年に西部のイギリス系住民主体のアッパー=カナダ〔上カナダ〕と,東部のフランス系住民主体のロワー=カナダ〔下カナダ〕が統合することで,
連合カナダが成立していましたが,民族対立が悩みのタネでした。まず首府を,旧アッパー=カナダの西カナダに置くか,旧ロワー=カナダの東カナダにするのかをめぐっても紛糾。ケベック,トロントなどを転々とします。
 さらに,イギリス系,
 1848年にカナダ連合法が改定され,英語だけでなく
フランス語も公用語として規定されました。同年には責任政府も成立しています。

 また,アメリカ合衆国との関係にも苦慮します。連合カナダの実業家の中には,アメリカ合衆国との自由な貿易を望む声もあり,1854年米加互恵通商条約が締結。
 その後,1857年にはブリティッシュ=コロンビアのフレイザー川の金鉱(前年に発見)でゴールド=ラッシュが起こり,1858年にはニュー=ファンドランドとイギリス間に初の大西洋海底ケーブルが完成しています
 1861年にアメリカ合衆国で
南北戦争が勃発すると,「中立」の立場をとったイギリスに対する北部の敵視が強まり,連合カナダとアメリカ合衆国との関係は悪化。アメリカ合衆国の中には「カナダ併合論」も高まります。
 
 アメリカ合衆国の拡大の危機が高まる中,イギリスは植民地を守るために重い腰を上げ,連合カナダだけではなく沿岸のニューブランズウィック,プリンスエドワード島,ノヴァスコシアを含めた連邦結成が検討され始めます。
 しかし,ノヴァスコシア,ニューブランズウィック,プリンスエドワード島の3植民地は,従来ほとんどカナダとの結びつきがなく,アメリカ合衆国との関係のほうが緊密でした。しかし,1866年に米加互恵通商条約がアメリカ合衆国によって廃止されたことを受け,3植民地も連合カナダに接近。

 1865年にプリンスエドワード島で行われたシャーロットタウン会議で3植民地だけの同盟案を棚上げし,1866年のケベック会議でニューファンドランドを含む5植民地政府代表が
ケベック決議を採択。
 これは,イギリス系住民の多い西カナダを
オンタリオ州,フランス系住民の多い東カナダをケベック州とし,この2州が中心となって,沿岸の3植民地や人口希薄地帯の西部を取り込む中央集権色の強いものでした。
 当然,沿岸3植民地ではケベック決議に反対。そこで,1865年に連邦推進派の〈マクドナルド〉(のちの初代首相)はイギリスに政治的圧力をかけるよう要請。本土から遠いプリンスエドワード島とニューファンドランドを除く,連合カナダ+ノヴァスコシア+ニューブランズウィックによる連邦結成が本格化。1867年に,イギリス領北アメリカ法(ブリティッシュ=ノース=アメリカ=アクト)が成立・発効しました。
 カナダ側は「カナダ王国」という国名を希望しましたが,イギリス外相は拒否。
 あくまで“植民地”としてカナダを死守したいイギリス政府は,「自治領」(ドミニオン)という語句を旧約聖書の『詩篇』からひねり出し,
カナダ自治領と命名し,同年成立しました。
 カナダ連邦が成立したのと同年に,アメリカはロシアから
アラスカを購入しています。

 つまり,北アメリカ北部の植民地をまとめ上げた「
カナダ」は,第一に,連合カナダで既得権益を持つ指導者が,アメリカ合衆国からの圧力を受ける中で,独立を守ろうとして成立したものです。そして,第二には,イギリスがカナダを植民地として手放したくないがために成立させたという側面があります。
 当時の総人口350万人。そのうち,イギリス系は60%,フランス系はケベック州を中心に3分の1。先住民は3万人です。
 1868年にイギリス議会でルパーツランド法が制定され,1870年には
ハドソン湾会社から購入したルパーツランド(ハドソン湾沿岸の広大な地域)と北西領が,ノースウェスト準州としてカナダ自治領に編入されます。
(参考)木村和男編『新版世界各国史23 カナダ史』山川出版社,1999,p.163~p.183。





1848年~1870年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
19世紀中頃よりイギリス,フランス,ドイツ,アメリカ合衆国の経済的な進出が進み,南アメリカはヨーロッパに農産物・鉱産物を輸出し製品を購入する市場になっていく
一次産品の輸出に依存する経済により南アメリカでは中産層が拡大せず,植民地時代からの支配者であるクリオーリョが大土地所有制度を維持する
中米は,ヨーロッパの原料供給地・市場となる

 多くの独立後のラテンアメリカ諸国では,一部の大地主などの有力者が強権的な支配体制を築きました。
 彼らは国内の天然資源をイギリスなどに輸出することで利益を得ており,
自由主義を推進します。一握りの有力者が中米の政治の支配権を握っていくのです(自由主義寡頭制支配)。



1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑪マルティニーク島
 
フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションを続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立した第二共和政が,奴隷制を廃止するまで続きます。




1848年~1870年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
◆独立したメキシコはアメリカ合衆国に領土を割譲され,インディオ出身の自由主義者が土地改革を行うが,フランスの介入を受ける
領土縮小したメキシコは,フランスの進出を受ける
◆メキシコは,米墨戦争でカリフォルニアなど広大な領土を失う

 メキシコは,1845年にテキサスを失うと,アメリカ合衆国との戦争(アメリカ=メキシコ戦争,米墨戦争184648) 【セH23時期】【上智法(法律)他H30「メキシコとの戦争」】が勃発しました。
 テキサスは,すでにメキシコから分離・独立して「テキサス共和国」
【上智法(法律)他H30】となっており,その政府がアメリカ合衆国に併合を要請【上智法(法律)他H30】したことで,アメリカが併合を宣言したという経緯があります。

 しかし,アメリカ合衆国に敗れ,
カリフォルニア【セH22】【上智法(法律)他H30フロリダは含まれない】など領土の大半を失ったメキシコ【上智法(法律)他H30メキシコ政府は,1830年代にアメリカ系住民のテキサスへの移住を推奨していたわけではない】

◆インディオの〈フアレス〉が大統領に就任するが,英・西・仏が干渉する
 インディオ出身の〈フアレス〉が大統領に就任し,1857年に憲法を制定しました。彼は自由主義的な考えを持ち,大土地所有者に財産が集中する状況を批判にします。当時の南アメリカで大土地を持っている代表格は,キリスト教の教会です。そこで1857年憲法では教会の財産にメスを入れ,土地改革を実施しました。
 しかし,これがもとで内紛が勃発し,そこへ1861年にイギリス・スペイン・フランスが介入。

18611867年 フランス干渉戦争(メキシコ出兵)
 1864年にはフランスがオーストリアのハプスブルク家出身の〈マクシミリアン〉を連れてきて,メキシコ帝国を建国します。当時のフランスは皇帝〈ナポレオン3世〉の時代。フランスの市場拡大をねらった行為でした。しかし住民の抵抗や国際的批判を受け,〈マクシミリアン〉は処刑され,1867年には共和制に戻っています(メキシコ出兵) 【追H9 19世紀末のメキシコは世界最大の石油の生産国であったわけではない】
 この間,メキシコの大統領の座にとどまり続けたのは〈フアレス〉(任18581872)です。

〈フアレス〉政権が復活する
 フランス勢力を追い払った〈フアレス〉は,軍部の影響力を薄めるために軍縮を進めるとともに,メキシコの近代化をはかっていきます。



1848年~1870年の  中央アメリカ ②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
中央アメリカでは統一の動きは見られず
 中央アメリカは中央アメリカ連邦共和国(182439)が崩壊すると,グアテマラエルサルバドルニカラグアホンジュラスコスタリカの間には抗争が続きます。
 そんな中,アメリカ合衆国の〈ウィリアム=ウォーカー〉(182460)は,中央アメリカの抗争に介入することで,国家を領有して利益を得ようと画策しました。保守派との争いが続いていたニカラグアの自由党は〈ウォーカー〉を傭兵として招き,間もなく大統領に就任して実権を掌握。ニカラグアに太平洋と大西洋を結ぶ運河を建設し,カリブ海の中心として発展させることを夢見ます。
 この〈ウォーカー〉(185657)のニカラグアは,コスタリカを中心とする他の中央アメリカ諸国により崩壊しました。
 その後の中央アメリカにも統一の兆(きざ)しはなく,輸出用のプランテーションが発展していきました。

 グアテマラのお隣の
ベリーズにはイギリスが植民を進めており,1862年にはジャマイカ総督下にイギリス王冠植民地である英領ホンジュラスを樹立しています(その後,1884年に単独の植民地となります)





1848年~1870年のアメリカ  カリブ海
カリブ海
…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

1848
年~1870年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ
スペイン領
 1804年に革命が起きて独立したハイチに代わり,世界最大のサトウキビ生産国となっていたスペイン植民地のキューバ
 タバコ生産も盛んとなり,次第にスペインからの独立運動も活発化していきます。
 そんな中,1853年に〈
ホセ=マルティ〉(18531895)が誕生。のちの独立運動家であり,作家です。
 1868年にスペインからの独立運動がはじまると,彼はすぐに身を投じ,翌年には投獄されています。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
イギリス領
 イギリスの植民地として多数の黒人奴隷が導入されていたジャマイカ
 1807年に奴隷貿易が禁止,1833年に奴隷制が廃止されると,今度はインドやアフリカからの年季奉公人(期限付きの契約の労働者)がジャマイカに移動して来るようになります。

 一方,解放された黒人奴隷には依然として十分な参政権が与えられず,経済的自立からは程遠い状況でした。
 1868年には〈ポール=ボーグル〉(18221865)という聖職者が,黒人の参政権を求めて暴動を起こす事態に発展。総督は徹底的にこれを鎮圧しましたが,その内容をめぐって,イギリスでは議論もわき起こります。
 結局,しっかりとしたイギリス本国による支配を望むジャマイカの農場主の声が反映され,1866年にジャマイカはイギリスの
直轄植民地となりました。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
イギリス領
 バハマはイギリスの植民地支配を受けていますが,アメリカ合衆国にほど近いこともあり,両国の間で交易を巡るトラブルも起きます(1840年のエルモッサ事件と1841年のクリオール事件)。
 アメリカでの南北戦争(18611865)中は,バハマは南軍の拠点として発展。
 しかし,バハマの社会は少数の白人,混血の人々と,大多数の黒人との間に大きな亀裂があり,統一に向けた支障となっていきます。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
独立
 1804年に独立を果たしていたイスパニョーラ島西半のハイチですが,複数の政権が樹立され混乱に陥っていました。
 このうち,〈ボワイエ〉(?1850)が,スペイン系の大農園主によってイスパニョーラ島の東半に建国されていた政権(のちのドミニカ共和国)を倒して併合し,18221844年まで島を統一しました。

 この〈ボワイエ〉の独裁に対し,内外で抵抗する動き(1844年に
ドミニカ共和国がハイチから独立)も起きますが,この混乱を〈フォースタン〉が収拾し,1849年に自ら皇帝〈フォースタン1世〉に即位してハイチ帝国を建国。結局,1859年に倒れます。
 共和政に戻ったハイチは,産業も未熟でフランスへの賠償金支払いにも苦しみ,不安定な政治も続きました。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑤ドミニカ共和国
ハイチ領→スペイン領→独立
 イスパニョーラ島の東半には,西半のハイチによる支配が及んでいましたが,1844年に支配を脱し,1845ドミニカ共和国として独立します。
 のちに保守派の大統領がスペインへの併合を求め,スペインによる植民地となりますが,独立戦争の結果1865年に再び独立を果たします。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現
⑤アメリカ領プエルトリコ
スペイン領
 スペインの植民地となっていたプエルトリコ島では,サトウキビのプランテーションは発達せず,黒人奴隷はあまり使用されませんでした。次第にスペインからの独立運動も起きるようになっていきます。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 小アンティル諸島の最北端,プエルトリコ島の東方に位置するヴァージン諸島

デンマーク領
 そのうち西側に位置する現在のアメリカ領ヴァージン諸島は,当時はデンマーク領。黒人奴隷を導入したプランテーションが行われていました。

イギリス領
 東側に位置する,現在のイギリス領ヴァージン諸島でも,黒人奴隷を導入したプランテーションが行われています。

イギリス領
 その南に位置するのがアンギラ島。イギリスの植民地支配下に,南方のセントクリストファー=ネイビスによる管理下に置かれています。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
イギリス領

 セントクリストファー島ネイビス島は,イギリスの植民地支配下にあります。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
イギリス領
 アンティグア島はイギリスの植民地。バーブーダ島はイギリスの貴族(コドリントン家)の私領でしたが,のちイギリスに併合されます。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
イギリス領
 モンサラット〔モントセラト〕島は,イギリスの植民地。

フランス領
 グアドループ島は,フランスの植民地です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現
⑩ドミニカ国
イギリス領

 現・ドミニカ国はイギリスの植民地です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
フランス領
 マルティニーク島はフランスの植民地です。
 1848年の二月革命により成立した
第二共和政では黒人奴隷の廃止が決められました。しかし,その後実施が延期されたことから,たまりかねた黒人奴隷による反乱が発生します。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
イギリス領
 セントルシアはイギリスの植民地です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
イギリス領

 セントビンセントおよびグレナディーン諸島はイギリスの植民地です。


1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
イギリス領
 バルバドスはイギリス領です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
イギリス領
 グレナダは,イギリス領です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
イギリス領
 トリニダード島トバゴ島は,ともにイギリス領です。



1848年~1870年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
オランダ領
 ベネズエラの西部沖に浮かぶ島々。
 西の
ボネール島はオランダ領。黒人奴隷が導入され,塩の生産が行われていました。
 中央の
キュラソー島もオランダ領。黒人奴隷が導入されています。
 東の
アルバ島もオランダ領です。





1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ
…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

1848
年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
ゴムとコーヒーに湧くブラジル
 
ブラジルでは,〈ペドロ2世〉は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力していました。コーヒー産業が発展し,食肉,製糖,木綿工場なども設立されていきました。
 また,天然ゴムの栽培・出荷も右肩上がり。1856年から1896年にかけて輸出量は10倍に増え,アマゾン川加工のベレンは天然ゴムのおかげで金融センターに成長していきました(注)。
(注)ゴムによる繁栄は,1876年にイギリスの産業スパイが禁を破って天然ゴムを国外に持ち出すまで続きます。1897年には早速イギリスの植民地のセイロン島とマレーシアでも栽培が開始されます。チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.160。

 その労働力として導入された数百万人の
移民はブラジルに“ヨーロッパの風”を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。

 一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。
 奴隷制を温存していた北アメリカのアメリカ合衆国でも,
南北戦争(1861~65)中に1863年には奴隷解放宣言が〈リンカン〉大統領(位1861~65)によって発表されました。南北戦争が終わってみると,南北アメリカで奴隷制をやっているのはブラジルの他にキューバくらい。
 次第に奴隷制に対する反対運動も盛り上がっていきました。
 これにもっとも大きな影響を与えたのはフランスの実証主義者〈
コント〉(1798~1857)です。
 〈コント〉は人類の社会が「秩序と進歩」に向かって段階的に発展していくはずだと信じ,経験に即して社会をバージョンアップしていこうと訴えました。
 現在のブラジル国旗のデザインをよくみると,〈コント〉の“合言葉”である「
秩序と進歩」という言葉が記されているのがわかります。

 1850年以降,フランスのイエズス会によるアマゾニアの住民への布教活動が活発化しています。



1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
 アルゼンチンは,ヨーロッパ文化が根付き,ヨーロッパへの畜産物の輸出によって経済を回そうとするブエノスアイレスの人々と,内陸のガウチョ(牧畜民)との間で,どのような形でスペインから独立するべきかをめぐり,方向性の対立が続いていましたが,1829年以降は連邦派の〈ロサス〉が強権的な支配を全土に及ぼしていました。
 〈ロサス〉はウルグアイとパラグアイへの軍事的な進出をめぐり,隣国のブラジルやイギリス・フランスと争います。しかし,1852年にブラジル・ウルグアイと手を組んだ反〈ロサス〉勢力が〈ロサス〉を破り,〈ロサス〉時代は終わりを告げました。
 1853年には自由主義者により憲法が制定され,これ以降のアルゼンチンでは「自由主義」を主導する政権によって近代化(西欧化)が進みます。そこで,まっさきに試みられたのは,アルゼンチンへのヨーロッパからの移民の奨励です。しかし,中央集権化を望むブエノスアイレスと,連邦主義を望む地方諸州とのギャップはなおも大きく,一時ブエノスアイレスはアルゼンチン連合から離脱してしまいました。しかし,1862年に両者が妥協する形で「アルゼンチン共和国」として国家統一が達成され,ヨーロッパ移民の受け入れ奨励がいよいよ本格化します。
 一方,自由貿易が進めば進むほど内陸の伝統的な産業は破壊されていき,次第にアルゼンチンは「畜産品や穀物のヨーロッパへの供給地」に成り下がり,「ヨーロッパ製品を買うだけの市場(マーケット)」としての地位に固定化されていきました。これが,アルゼンチンにおける工業化が遅れた原因です。
 また,南アメリカ内部の国家間の戦争も起き,1864年には独裁者〈ロペス〉率いるパラグアイが軍事的に拡大しようとしたのに対して,アルゼンチン・ウルグアイ・ブラジルが対抗しました(三国同盟戦争)。



1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
◆ペルーではグアノの輸出経済が発展し,近代化が目指された
火薬と化学肥料の素になるグアノ輸出がブームに
 ペルーでは〈カスティーヤ〉(1797~1867,任1845~51,55~62)大統領の下で近代化と中央集権化が目指され,海軍を充実し南アメリカ初の鉄道も1851年に建設されました。

 1840年代以降,イギリスに向けて
グアノという海鳥の糞に由来する肥料がさかんに輸出され,1860年代にはチリの国家歳入の75%を占めるに至ります(1840~80年をグアノ時代ともいいます)。このように,単一の品目のみに依存する国家の経済のことをモノカルチャー経済といいます。

 また,1860年代にペルー南部のアカタマ沙漠で火薬の原料となる
硝石が発見され,こちらの輸出も盛んとなりました。
 これらの産業には中国人労働力も導入されました
(注)

(注)ペルーに向かった中国人出稼ぎ・移民の下層労働者(苦力;
クーリー)の多くはは,リマの東200kmに位置するチンチャ諸島のグアノ採掘にあたりました(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017p.154)。
 グアノの糞を出してくださる海鳥たちは,ペルー沖で豊富にとれるアンチョビー(カタクチイワシ)をエサに集まってきます。ペルーの沖合には寒流が赤道方面に向かって北に流れており(
フンボルト海流),このときに深海付近の栄養たっぷりのプランクトンを海面付近にまでわき上げてくれるため,魚がたくさん集まるのです。深層から上昇する海水の流れのことを「湧昇流」(ゆうしょうりゅう)と呼びます。



1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
◆自由主義的な専制政権が生まれ,保守派との抗争が起こった
 かつて〈シモン=ボリーバル〉(1783~1830)により統一された大コロンビア共和国は,1830年に
ベネスエラヌエバ=グラナダ(現コロンビア),ベネスエラの3国に解体していました。いずれの国でも中央集権的な保守派と,自由貿易を推進する自由主義派との政治的対立が起きる中,天然資源の輸出に依存する少数の有力者による政権が台頭していくことになります。
 このうちカリブ海沿岸の
ベネスエラでは,専制政治をとった初代大統領に対抗し,1847年には〈モナガス〉将軍が大統領に就任(任1847~51)し,奴隷制を廃止し自由主義政策をとりました。自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続くことになります。
 パナマを含む
コロンビアはヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。しかしヨーロッパの二月革命などの自由主義的な政治思想が伝わると,〈ロペス〉政権(任1849~53)が成立し,奴隷制の廃止やカトリック教会への対抗を含む自由主義的な政策がとられました。
 
エクアドルでは,専制政治をとっていた〈フローレス〉政権に対する革命が起き,保守派への揺れ戻しが起きました。その後,自由主義派との内紛だけでなく周辺国との国境紛争も起き,エクアドルは内外ともに混乱。しかし次第にカカオの輸出産業が栄えると,グァヤキルを拠点とする集団が台頭しました。それに対し再び保守派への揺れ戻し(1861~65,67~75)が起き,カトリック教会が強力に保護される時代が続き,自由主義派は押さえ込まれました。



1848年~1870年のアメリカ  南アメリカ 現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
 ギアナ高地の北部に位置し,カリブ海に面するギアナ地方

イギリス領のガイアナ

 西に位置する現・ガイアナはイギリス領。サトウキビのプランテーションの労働力として,インド人の年季奉公人が導入されました。現在もインド人の比率が高くなっている原因です。
 主都はジョージタウン。〈ジョージ3世〉からとられています。

オランダ領のスリナム
 中央の現・スリナムはオランダ領。プランテーションの労働力として,インド人インドネシア人(同じくオランダ領)の年季奉公人が導入されました。

フランス領のギアナ
 東にはフランス領ギアナがあります。1850年代末に金鉱がみつかり,人口が急増していきます。





●1848年~1870年のオセアニア

1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
◆太平洋の島々にイギリス,フランス,アメリカが捕鯨の基地・グアノ採掘を求めて進出する
欧米は,ポリネシアにクジラとグアノを求める
 工業化・都市化がすすむにつれ,増えゆく人口を支えるための食糧が自国だけではまかないきれなくなった,欧米の先進工業国。
 そこで目を付けたのが,
化学肥料の原料となる硝石の素(海鳥の糞(グアノ))。これで生産性をアップさせ,収穫量の限界を突破することに成功(注1
 グアノからは
火薬の原料も抽出できるから,一石二鳥です。

 グアノを重視したアメリカ合衆国は1856年にグアノ島法を制定。アメリカ国民がグアノのある島に到達したらアメリカが領有できることとなり,1903年までに66の島と環礁が領有されました。しかし,多くは放棄され,うち9島がアメリカ領となりました
(注2
(注1)人口の増加の勢いに,食糧増産の勢いは追いつけないので,人口は必ずどこかで行き詰まるとする「マルサスの罠(わな)」の考えが破られたわけです。これ以前の農業は,地面を一生懸命ガリガリ耕して,丹念に植物を育てる営み。それが化学肥料の登場により,種をどさっとまいて,そこに「栄養分を畑にどさっとまく行為」が,新しい時代の農業になっていきます(チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017p.154)。
(注2)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017p.154

1848
年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,②イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア
フランスの支配圏が拡大する

 ①イースター島(ラパ=ヌイ島)ではペルー人による島民の奴隷狩りが深刻化しています。
 
②イギリス領ピトケアン諸島1829年にイギリス領と宣言。島民は1789年のイギリス船バウンティ号の反乱を起こした船員の子孫です。
 
②フランス領ポリネシアは,すでにマルキーズ諸島(1842)がフランスに領有され,1858年にはトゥアモトゥ諸島もフランス領となります。

 タヒチ島18431847年のタヒチ=フランス戦争の結果,フランスの保護国となっています。
 イギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはなかったフランス。その背景には,1848年には二月革命が起きて,七月王政が倒れるという国内情勢もありました。
 



1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島,④ニウエ
 ③クック諸島には1858年にラロトンガ王国が成立しています。④ニウエは現地の首長により統治されています。



1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
NZは独立した英植民地になるが,マオリの抵抗も

 ニュージーランドは1840年のワイタンギ条約によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されていました。ニュージーランド会社は1858年には解散。広大な土地は移住者の手に渡り,自作農が増加。階級社会が支配的なイギリスと違い,ニュージーランドには比較的平等な白人により構成される社会が発展していくことになります。

 ニュージーランドには,当初は北島・南島とスチュアート島の3つの州がありました。しかしスチュアート島は北島に編入され,1852年には州は6箇所に分かれることになり,各州の大幅な自治が認められることとなりました(この地方分権的な制度は1876年まで続きます)。
 各州の上には全体議会がもうけられましたが,マオリの議席は1867年までは0でした(1867年に4議席が割り当てられるにとどまります)。最初の全体議会は1854年に開催されています。

 その間,マオリはヨーロッパから持ち込まれた感染症により人口が激減し
【セ試行 絶滅していない】,1840年に8万人と推定される人口は,1891年には4万2000人にまで落ち込みます。また,ワイタンギ条約では「マオリが売りたいといったときのみ土地を購入でき,国王に先に購入する権利がある」という内容が規定されていたにもかかわらず,彼らの土地はたくみに買い占められ,イギリス人の手にわたることになっていきました。それと同時に,マオリらは自らの土地を守る運動を開始。1858年にはワイカトの諸部族の合意によって,〈テフェロフェロ〉がマオリの王に選出され〈ポタタウ〉王を名乗ります。イギリス国王に対抗するために,自分たちの王を推戴したわけです。マオリの諸部族とイギリス本国・ニュージーランド政府の連合軍との戦闘をよく戦い抜きますが,多くの犠牲者を生んでいます

 また1865年には「
先住民土地法」が制定され,土地がマオリの個人所有ということになり,国王の土地先買権が廃止されました(先住民土地法廷も設置)。共同体による所有から個人所有に切り替えさせることによって,マオリの土地を購入しやすくしたのです。

 この時期には,オーストラリアから
牧羊も導入され,1850年代に50万頭であった羊は,1870年には300万頭に膨れ上がります。羊毛生産のほか林業も盛んで,金鉱も1840年代に発見されています(最盛期は1866年頃)。金鉱の労働者として流れ込んだのは中国人でした。
(参考)山本真鳥『世界各国史 オセアニア史』山川出版社,2000,pp.178~190


1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
イギリス人の支援で,トンガが統一され王国に
 現⑥トンガ諸島では国王による統一が,ヨーロッパからの商人・宣教師の来航の影響で混乱に向かいます。キリスト教のメソジスト派と結んだ〈タウファアフ=トゥポウ〉(18451893)は,イギリス人から武器の供給を受けて全トンガを1852年に武力を用いて統一します。



1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 現⑦サモアには捕鯨(ほげい)の基地としてアメリカ合衆国,ドイツ,イギリスが進出しています。



1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 現⑧トケラウ18世紀後半にイギリスによってすでに発見されていました。



1848年~1870年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 現⑨ツバルはサンゴ礁島で資源に乏しく “うま味”に欠けるため,本格的な欧米勢力の進出は遅れます。


1848年~1870年のオセアニア  オーストラリア
オーストラリアでゴールド=ラッシュが起き人口急増
 オーストラリアでは,イギリスによる
ニューサウスウェールズ(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が設立され,鉄道も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり,ゴールドラッシュが起きました(オーストラリアのゴールドラッシュ)。人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
 
1863年にはタスマニア島【セH26ドイツ領ではない】で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。



1848年~1870年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
ニューカレドニアはフランス領になる
 ②ニューカレドニア(ヌーヴェルカレドニ島)は,白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地として注目され,1853年にフランス領となっています。
 しかし先住民族はヨーロッパ人の持ち込んだ感染症にかかって人口を減らし,抵抗も起きるようになりました。のちには,住民が奴隷として連れ去られ,フィジーやオーストラリア北部のプランテーションに従事させられる「ブラックバーディング」という
奴隷交易も横行します(南太平洋の奴隷交易(注)
(注)Ben Doherty, 'Full truth': descendants of Australia's ‘blackbirded’ islanders want pioneer, The Guardian, Aug 24, 2017(https://www.theguardian.com/australia-news/2017/aug/24/full-truth-needs-to-be-told-descendants-of-blackbirded-south-sea-islanders-want-memorials-amended



1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 バヌアツのあるニューヘブリディーズ諸島は,イギリスとフランスとの間の争奪の的となっています。



1848年~1870年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 ソロモン諸島にはイギリスが進出をすすめています。



1848年~1870年のオセアニア メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 パプアニューギニアの
半の部にはイギリスが進出をすすめています。

 パプアニューギニアの
半の部にはドイツが進出をすすめています。
 パプアニューギニアの
西半には,オランダが進出をすすめています。
 住民たちにとっては,いきなり来たヨーロッパ人に対し「???」という状況でしょう。



1848年~1870年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム





1848年~1870年の中央ユーラシア

中国・ロシアによる中央ユーラシア分割が本格化

◆ロシアの東進・南下とそれに対するイギリスとの抗争の舞台となり,抵抗運動としてパン
=イスラーム主義がうまれた
 蒸気船(1807年発明)の発達により,交易ルートとしての中央ユーラシアの重要性はますます薄れていきました。ユーラシア大陸東端に港湾拠点を建設したいロシアは東方進出をすすめ,それに対して海上覇権を握るイギリスが対抗する,いわゆる「グレート=ゲーム」が本格化していきました。
 
相次ぐヨーロッパ列強との戦争により疲弊した清は,新疆やコーカンドの商人に対する課税を強化したため,イスラーム教徒(回民と呼ばれました)による反乱が起こるようになっていきます。 
 
1862年には,大規模な回民反乱がタリム盆地のクチャやヤルカンドを拠点として起こり,1864年には新疆全土に広がりました。反乱の指導者は,現地に浸透していたスーフィー(イスラーム教の神秘主義教団)が中心で,清へのジハードと,住民へのイスラーム法の遵守を首長しました。

1848年~1870年の中央ユーラシア  アム川・シル川流域
◆イギリスへの対抗,綿花を求める産業界の要請から186070年代にトルキスタン進出が進む
トルキスタンへのロシアの南下が進む
 
同時にロシアも,1853年〜56年のクリミア戦争が終わると,カザフ草原からトルキスタンに向けての進出を加速していきます。この進出の背景には,綿花を求める産業界の要請もありました()
 ロシア
【セH18清ではない】1865年にはタシュケントを占領して,トルキスタン総督府を設置し軍政を開始。1868年にはサマルカンドを占領してブハラ=ハーン国を保護国化【セH15H18しました。
 この混乱の中,タリム盆地西部の反乱軍は,コーカンドのハーン国に応援を頼むと,軍人〈ヤークーブ=ベグ〉が1865年にカシュガルに派遣されました。彼は次々に反乱勢力を鎮圧し,1870年に天山山脈以南のタリム盆地を征服しました。
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史112』朝日新聞社,1991,p.B-709。現在でもウズベキスタンやタジキスタンが綿花の生産上位国となっています。過剰な生産を求めアラル海から取水する灌漑をすすめたことが,のちのアラル海の面積減少につながっていきます(1959年に利用開始したカラクーム運河)。





1848年~1870年のアジア

1848年~1870年のアジア  東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

1848年~1870年のアジア  東北アジア
◆ロシア連邦が沿海州に南下し,太平洋進出のための海軍基地を建設する
ロシアはウラジヴォストークを建設,太平洋へ進出

 ロシアは清がアロー戦争(1856~1860)に忙殺されているタイミングをねらい,1860年に
北京条約【早法H30[5]指定語句】を締結して清から沿海州【東京H26[1]指定語句】を獲得します。ここに建設されたウラジヴォストークは,ロシアの太平洋進出の足がかりとなっていきます。このことは,日本にとって安全保障上の喫緊の脅威と認識されました

◆ロシアは北アメリカのアラスカをアメリカ合衆国に売却した
ロシアは沿海州~ベーリング海まで支配下に置く

 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営む
ツングース人ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人も支配下に入っています。
 ベーリング海対岸のアラスカは1867年にアメリカ合衆国に売却したため,ロシアとアメリカ合衆国との境界線は今日にいたるまで,ベーリング海の西側に確定することになりました。




1848年~1870年のアジア  東アジア
1848年~1870年のアジア  東アジア ①日本

 1848年に北アメリカのカリフォルニアで金鉱が発見されるや(ゴールドラッシュ)(#日本 〈ジョン萬次郎〉については⇒18481870の北アメリカ アメリカ合衆国を参照),またたく間にフロンティア【セH3】【共通一次 平1】が太平洋に到達しました。これを「フロンティアが消滅した」【セH3】と表現します。
 アメリカ合衆国は中国との貿易中継地や
捕鯨(ほげい。元乗組員〈メルヴィル〉(1819~91)の小説『白鯨』(1851)が有名です)基地として日本を重視し,1853年にアメリカ東インド艦隊の司令長官〈ペリー【追H9時期。大陸横断鉄道開通,ハワイ併合との順序】に〈フィルモア〉大統領の国書を持たせて派遣し,老中〈阿部正弘〉はこれを仕方なく受け取りました。1854年に再来日した〈ペリー〉は,日米和親条約を締結【セH13時期(19せいき 後半)・フランスとの条約ではない】。ここでは,通商は許可されませんでしたが,下田・函館の開港,漂流民救助,下田に領事を置くこと,片務的最恵国待遇(ほかの国ともっといい条件で条約を結んだら,自動的にアメリカ合衆国にも同じ内容を適用)などを定めました。
 こうして,日本の「鎖国」体制は幕を閉じたのです。
 同じ年には,イギリスと日英和親条約,ロシアの使節〈プチャーチン〉と日露和親条約,オランダとは日蘭和親条約が締結されました。
 イギリスが日本に接近しなかったのは,すでに184042年のアヘン戦争で中国を得ていたからでしょう。〈ペリー〉が日本に来航した際には,イギリスはロシアとのクリミア戦争(185356)に力を割いていました。しかし,極東で敵国ロシアと戦うためには,日本との補給も必要になると考え,英国東インド中国艦隊司令〈スターリング〉(17911865)が締結しました。イギリスに対しては,函館と長崎が開港されました。
 さらにアメリカ合衆国は1858年に日米修好通商条約案として,神奈川(実際には横浜1859開港後に下田を閉鎖)・長崎(1859)・新潟(1860)・兵庫(実際には神戸1863)・江戸(1862)・大阪(1863)などの開港場の新たな設定と,完全な自由貿易,アメリカ人の居留地を置くこと,治外法権(日本で罪を犯したアメリカ人を日本人が裁くことができない),協定関税(日本が自分で関税を決めることができない)などを要求しました。
 困った幕府の老中首座〈堀田正睦〉は,〈天皇〉に許しを得ようと相談しましたが,天皇はこの条約を拒否。相手方の事情をよく知る将軍家は「これではまずい」と感じ,譜代大名筆頭の彦根藩主〈
井伊直弼〉を大老に就任させ,交渉に当たらせました。アメリカ合衆国は,「イギリスとフランスが来る前に,アメリカと条約を結んでおいたほうがよい」と説き,結局〈天皇〉のゆるし(勅許)のないままに条約が承認されました。その直後,イギリス,ロシア,オランダ,フランスの艦隊がやって来て,同じ内容の条約を締結することになったのです(安政の五カ国条約)。〈井伊直弼〉は勅許なしの承認を批判する勢力を粛清し,安政の大獄を実施しました。
 1860年には〈勝海舟(かつかいしゅう)〉艦長がオランダ製の
(かん)臨丸(りんまる)に乗って,アメリカ合衆国のポーハタン号とともに日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカ合衆国に旅立っています。この咸臨丸には,近代化による日本の自立の必要性を説いた〈福沢(ふくざわ)()(きち)〉(1835~1901)も同乗しています。

◆アメリカの進出は一旦小康状態となるが,条約勅許問題は地方下級武士による倒幕に発展する
南北戦争で米の進出は止まり,日本は倒幕運動へ
 アメリカ合衆国で1861に南北戦争(1861~1865)が勃発すると,アメリカ合衆国の日本への積極進出は一時的にやみます。戦後も西部と南部の開発が優先され,海運業は衰退。1869年のスエズ運河の開通にともない,ヨーロッパとアジアを結ぶ航路はイギリスに軍配が上がることとなります(アメリカはフロンティアの「消滅」する1890年代以降,起死回生を図っていきます)。

 欧米諸国との条約の締結に対して盛り上がっていったのは,武士階級による
攘夷(じょうい)運動です。
 
1860年には〈井伊直弼〉(いいなおすけ)が桜田門外の変で暗殺されると,跡を継いだ〈安藤信正〉は,〈孝明天皇〉の妹〈和宮〉を将軍〈徳川家茂〉と結婚させて,失墜した幕府の権威を公家の力によって盛り返そうとしました。
 しかし,ロシア海軍が対馬を占拠し,
1862年に坂下門外の変で〈安藤〉は負傷。そんな中,薩摩藩主の実父〈島津久光〉は勅命を受けて,〈一橋慶喜〉を将軍の後見職につけ,朝廷と提携する形で文久の改革を行いました。
 また〈吉田松陰〉の門下である長州藩の〈久坂玄瑞〉と〈高杉晋作〉らは,武力により外国船を打払うことで,日本の軍事力を西洋化するべきと主張します。彼らは民衆だけでなく朝廷の支持を受け,
1862年に朝廷の圧力によって幕府は〈孝明天皇〉に攘夷を約束します。

 長州藩はこの日以降,下関海峡を通行する外国船への砲撃を始めました。しかし,将軍と天皇を頂点とする公武合体をつくりあげたかった〈孝明天皇〉は,
1863年に会津藩と薩摩藩の軍事力によって,攘夷派の長州藩とそれに協力する公家を京都から追放(八月十八日の政変)
 これに対し,イギリスは,1862年のブリテン島・アイルランド人殺傷事件(生麦事件)を口実に薩摩藩を報復砲撃(薩英戦争)します。また,1864年には長州藩に対して,イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四か国連合艦隊が下関の砲台を全て破壊しました(四国連合艦隊下関砲撃事件)
 これにより「攘夷なんて不可能だ」と身にしみて実感した両藩は,これ以降互いに接近を開始します。

 
1865年には,イギリス・フランス・オランダの三国艦隊(アメリカの代表も参加していた)が大阪湾に進入し,攘夷派の長州藩を攻めに大坂に来ていた〈徳川家茂〉に対して,「天皇に条約を勅許(ちょっきょ)させろ」と要求。勅許というのは,天皇が許可を出すことです。
 この一連の動きを見て,ようやく〈孝明天皇〉は条約を勅許し,
1866年に(かい)(ぜい)約書(やくしょ)により外国商品の輸入関税立は5%という定率に設定されました。
 こうして,日本は植民地化こそまぬがれたものの,不公平な形で,欧米の主導する資本主義システムに組み込まれることになったわけです。これを受け,欧米諸国に対し一刻も早くフェアトレードを求めるため,ヨーロッパに認められる形に国家を近代的に整備し,外交交渉をすすめて行く道を選ぶべきだと考える勢力が台頭していくことになります。

 1866年1月に京都で薩長(さっちょう)同盟(どうめい)が結ばれ,薩摩藩の〈西郷(さいごう)隆盛(たかもり)〉,長州藩の〈木戸(きど)(たか)(よし)〉が両藩の代表者となりました。同年7月に〈徳川家(とくがわいえ)(もち)〉が大阪城で病死し〈徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)〉が後を継ぎ,天皇家でも12月に〈孝明天皇〉が死去して〈明治天皇〉が後を継ぎました。
 〈徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)〉は当初は幕府勢力を温存させようという思惑から
186710月に京都の二条(にじょう)(じょう)を舞台に大政(たいせい)奉還(ほうかん)を実行しましたが,「それでは強力な国家は建設できない」とみた倒幕(とうばく)派は,12月に〈岩倉(いわくら)(とも)()〉ら倒幕勢力がうごいて王政(おうせい)復古(ふっこ)のクーデタを敢行し,江戸幕府を滅ぼしました。
 それを認めない幕府軍と,新政府軍とあいだに内戦(戊辰(ぼしん)戦争(せんそう))が起こりますが,
1869年の箱館(はこだて)戦争で幕を閉じ,維新(いしん)政府による新国家の建設が始まりました。この政治変動をまとめて明治(めいじ)維新(いしん)(御一新)といいます。



1848年~1870年のアジア  東アジア ③中国
◆アロー戦争の敗北により,列強と新たな不平等条約が結ばれた
 イギリスは一連の条約によって貿易高が上がると思っていたのですが,実際にはそうでもなかったため,条約の改定を虎視眈々と狙っていました。そんなとき,アロー号事件が起きました。広州で,怪しい船が発見され,ただちに清の官憲がチェックをおこなったところ,乗組員は「イギリス船籍」を名乗ります。しかし,確認が取れなかったため,中国人の船員12名を拘束し,うち3人を海賊の容疑で逮捕しました。
 当時,広州に派遣されていたイギリスの領事は〈パークス〉(182885)です。彼は4歳で母を,5歳で父を亡くし,姉を頼って13歳で清のマカオに渡り,中国語を学びなが外交官のもとで働く道を選んだ苦労人。アヘン戦争の調印にも立ち会い,若干15歳でイギリス領事館で働くようになったのが1843年のことです。
 〈パークス〉はアロー号事件のさいに,清の官憲によってイギリス国旗が引きずり下ろされたことに注目し,「これはイギリスに対する侮辱である」と厳重抗議しました。実際には,アロー号のイギリス船籍としての有効期限は事件当時には切れていたので,法的な問題点はなかったとみられます。

 本国の議会で開戦案が否決されると,〈パーマストン〉首相は議会を解散。新たに招集された議会の承認を得るだけでなく,当時海外進出に積極的であった〈ナポレオン3世〉のフランス【追H21ポルトガルではない】を誘い込みます。
 こうして起きたのが第二次アヘン戦争ともいわれる
アロー戦争【セH2参戦国を問う,H10アロー戦争を契機に太平天国との戦争を始めたわけではない,セH12時期(1880年代かを問う)】です。
 ちなみにフランス
【セH3】の参戦の口実は,広西省におけるフランス人宣教師殺害事件【セH3】でした。

 英仏連合軍の攻撃により広州が占領され,
1858年には一旦天津条約【セH3】【追H30上海など5港の開港は認めていない】【京都H19[2]条約締結地「天津」を答える】【明文H30記】が結ばれることになりましたが,批准書の交換の寸前に清軍が外交使節を砲撃したことで,戦争が再開。結果的に清が破れ,1860年に北京条約が結ばれました【セ試行 アヘン戦争の講和条約ではない】【セH3南京条約ではない,セH10太平天国との間に結ばれたわけではない,セH12キリスト教布教の自由を認めたか問う】【セH29時期】
 北京条約の内容は,以下のような項目です。
・アヘン貿易の公認
・ヨーロッパ諸国の主権国家体制であった外国公使を外国に駐在させるという仕組みの導入
(北京に駐在) 【セ試行 】
キリスト教布教の自由(布教の名目で内地まで旅行できるようになります) 【京都H19[2]「内地旅行」を答える】【セH12キリスト教布教の自由を認めたわけではない】【セH21認めたのはネルチンスク条約ではない】【明文H30問題文】
・開港場の追加
(沿岸の天津だけでなく
・南京などの長江沿岸の内陸の河港
(かわみなと)にも拡大)

 また,イギリスは香港北部の
九龍(きゅうりゅう,クーロン)半島南部【立教文H28記】を割譲してもらい,香港植民地を拡大します。また,従来のような朝貢【京都H19[2]】による外交関係を見直し,ヨーロッパ諸国と対等に外交をするための役所として,総理各国事務衙門(総理衙門(じむがもん))が設立されました【京都H19[2]】【東京H20[1]指定語句】【セH24】

 アロー戦争のどさくさに紛れて,ロシアも極東に南下しています。〈ニコライ1世〉が設置したシベリア総督に就いていた〈ムラヴィヨフ(18451900) 【セH24世紀を問う】は,まず,1858年にアイグン条約【セH3北京条約とのひっかけ】【セH29明代ではない】を締結し,アムール川【セH18以北の領土を獲得し,念願のアムール川河口にまで進出することに成功。さらに,日本海に面する沿海州【東京H26[1]指定語句】は,中国との共同管理地に設定しました。 さらに,1860年の北京条約【セH3アイグン条約ではない】ではその沿海州【セH3アムール川以北の地ではない】も獲得しました【セH15地図(沿海州の位置を問う),セH17内容を問う】
 沿海州を獲得したということは,次は朝鮮半島や日本への進出にリーチをかけたということになります。沿海州から北海道まで,最短ルートで300kmです。もし朝鮮半島の南部の釜山まで南下をしたとしたら,直線距離で対馬まで約65kmです。英仏間のドーバー海峡の30kmの2倍ではありますが,日本にとっては安全保障上,きわめて問題です,しかも当時の日本は近代国家の建設途中。ムラヴィヨフは沿海州の南端に「東方を征服する」という意味のウラジヴォストーク(ヴラディ=ヴォストーク) 【セH14時期(19世紀)】という軍港を建設しました。イスタンブールの金角湾によく似て,奥まで細く陥入した入り江があることから,天然の良港であり,冬でも凍らない不凍港(ふとうこう)でもあります。今後のロシアの極東進出の拠点となりました。

 アヘン戦争の後,中国の民衆の生活は悲惨で,各地で捻軍(ねんぐん)などの集団による農民反乱が起きました。その動きとも連動しながら,〈洪秀全【追H20】の立ち上げた上帝会(拝上帝会) 【セH12「白蓮教から派生した宗教結社」ではない】というキリスト教【セH12白蓮教ではない】的な宗教結社による反乱が起きました。スローガンは「滅満興漢」(めつまんこうかん)【セH10義和団事件のスローガン「扶清滅洋」とのひっかけ】をスローガンに掲げ,満洲人の支配に抵抗します【追H20キリスト教などの西洋的な建物・文化を破壊する仇教運動ではない】
 広西省金田村
(きんでんそん)ではじまった蜂起はまたたく間に広まり,南京を占領し,太平天国【セH3東学党,義和団,白蓮教徒ではない】の首都天京(てんけい) 【京都H19[2]現在の地名「南京」を答える】【セH9拠点は成都ではない】【セA H30華北ではない】と名付けました。
 理想社会の実現のため,女真(女直)人の風習をとりやめ
(辮髪を廃止したため長髪賊 【セH3】と呼ばれました) 【セH11「長髪の禁止」をしたわけではない】,女性の足の発育をさまだげ自由を奪う纏足(てんそく)を禁止【セH11】,当時はびこっていたアヘンの禁止,さらに(てん)朝田(ちょうでん)()制度(せいど)(男女区別なく,年齢に応じた平等な土地の分配【セH11「土地の均分」がされたか問う】を主張しましたが未実施に終わります)などが掲げられました。男女平等【セH11】も掲げられましたが,指導者は男性ばかりでした。

 あまりに大規模なスケールとなった太平天国の乱(1851~62) 【セH3,H9【セH29試行 年代(グラフ問題)】を清の正規軍(緑営,八旗)は鎮圧することができず,地方の郷紳による郷勇が活躍しました。
 有名なものは,以下の2つ。
・湖南省の
曾国藩(そうこくはん,181172) 【セH6】H27京都[2] 【明文H30記】による湘軍(しょうぐん)
安徽省の李鴻章(りこうしょう,18231901) 【セH8扶清滅洋を掲げていない】【東京H29[3]】 による淮軍(わいぐん)です。
 「清にはもはや太平天国を鎮圧する余裕などない」。
 そう感じた列強は,租借地の
上海での自国民の安全をはかるため,アメリカの〈ウォード(183162)が西洋式軍隊である常勝軍【セH10外国人が指揮するか問う】【セH19インド大反乱とは関係ない,H30を結成し,太平天国と戦います。
 兵士は中国人傭兵が主体で,常勝軍は
Ever Victorious Armyの漢訳です。上海防衛戦を戦いましたが1862年に〈ウォード〉は戦死しています。このとき中国にいた長州藩士の〈高杉晋作〉は,西洋の軍事力を目の当たりにし,のちに奇兵隊を結成することになります。
 〈ウォード〉の戦死後はイギリスの〈
ゴードン(183385) 【セH30が指揮しましたが,彼はのちにスーダンのマフディー派セH5】との戦いで殉死しています。
 太平天国は指導者内部の争いもあり,鎮圧されましたが,清における政治的な混乱は長期化します。

◆漢人官僚が西洋の技術を導入する洋務運動を起こしたが,政治制度の近代化は遅れた
 アヘン戦争のさなか,公羊学(くようがく)者の〈魏源(ぎげん,17941856)は『海国図志』(1843年初版)をあらわし,いかに中国の技術がヨーロッパに立ち遅れているかを訴えました。
 彼は,アヘン戦争開戦のきっかけとなったアヘン没収・廃棄を支持した欽差大臣〈
林則徐(りんそくじょ,17851850)の友人で,〈林則徐〉は〈魏源〉に外国情報に関する資料を提供したこともあります。魏源は「西洋人の進んだ技術を用いて,西洋人を制するのだ」と訴え,女真(女直)人支配に焦りを感じる漢人官僚たちに改革の必要性を感じさせました。
 漢人官僚というのは太平天国の乱を鎮圧して台頭した
【セH11 当時(1871年前後)の中国の近代政策を,太平天国の鎮圧を機に台頭した漢人官僚が推進したか問う】〈李鴻章〉【東京H29[3]】,〈曽国藩〉,〈左宗棠〉(さそうとう,181285),〈張之洞〉(ちょうしどう,18371909) 【東京H27[3]】らのことです。17歳,28歳,27歳,3歳 アヘン戦争勃発時の4人の年齢をみると(張之洞〉は,アロー号事件のときに18),1つ世代が下にあたる〈張之洞〉をのぞき,清の技術がヨーロッパに圧倒される様子を,まざまざと目撃しているわけです。彼らは「西洋の軍事技術を積極的に導入して,国を強くしよう」(中体西用【立教文H28記】)考えのもと,洋務運動【セH6時期(太平天国後の「開元の治」ではない),H9[22]このときに科挙を廃止したわけではない,セH11 当時(1871年前後)の中国の近代化政策として「欧米諸国から近代的な産業技術を導入することを図った」かどうか問う】をおこないました。
 彼ら漢人官僚は,故郷では(きょう)(ゆう)という私兵も保有する実力者でした。軍事を含む政務の最高機関であった
軍機処【セH15,セH24はすでに力を失い,軍事力をもつ集団が政治に介入しはじめるようになっていました。こうした勢力は,のちに中央政府のコントロールのおよばない軍閥に発展していくことになります。



1848年~1870年のアジア  東アジア ⑤・⑥朝鮮半島
 1862年には壬戌民乱が起き,南部一帯の民衆が抵抗しました。1863年に国王〈哲宗〉(チョルジョン,位1849~63)がなくなるとつぎの国王には,〈高宗〉(ゴジョン,位1863~97)が就任しました。当時権力をふるっていた安東金氏を抑えようと,遠い家柄から選ばれた国王でした。その父が〈興宣君〉で,〈大院君〉と呼ばれることになりました。まだ国王は幼かったため,〈大院君〉(興宣大院君,こうせんいいんくん;フンソンデウォングン,1820~1898)が摂政として国政の実権を握ることとなりました。
 19世紀には,全州李氏の次に,安東金氏が高位を占めるようになっており,〈大院君〉は安東金氏の勢力を弱めるために官制改革を断交。また,王権を強化するために,地方にあった両班層の教育機関である書院を廃止し,さらに両班から新税を徴収しました。





1848年~1870年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
ヨーロッパ諸国による植民地支配が本格化したが,タイは柔軟な外交によりそれを回避した


1848年~1870年のアジア  東南アジア ①ヴェトナム,⑧カンボジア
 
ヴェトナムは,1802年以来,阮朝(げんちょう)越南国(えつなんこく)が統一をしていました。しかし,1844年にフランスは,アヘン戦争(184042)後の清と個別に結んだ黄埔条約を中国進出の足がかりとしようとすると,ヴェトナムの戦略的な重要性が高まっていきます。
 「何か攻める理由がないか」と考えていたフランスは,ヴェトナムで捕らえられていたフランス人宣教師の解放を口実に進出を開始。ときの皇帝〈ナポレオン3世〉が,1858年に阮朝と開戦しました。

 
1862年にサイゴン条約が締結され,メコン川下流のコーチシナ東部の割譲,メコン川の自由な通行,3港の開港,賠償金の支払いが取り決められました。この露骨な進出に対し,割譲された領土の返還交渉がパリでおこなわれたものの,1867年にはコーチシナ西部も武力併合し,メコン川下流の三角州地帯はすべてフランスの植民地となってしまったのです。
 その間,1863年にはカンボジアがフランス【セA H30イギリスではない】によって保護国化されました。

 こうしたフランスの進入を受け,1867年に中国の太平天国にも参加していた客家(ハッカ)出身の軍人〈
劉永福〉(りゅうえいふく,1838~1917)【セH13】ヴェトナムの阮朝の下で,1867年に農民主体の私兵(黒旗軍【セH13】)を率いてフランス軍と戦う準備を整えていきました。



1848年~1870年のアジア  東南アジア ②フィリピン
 フィリピンでは
1850年代後半から,本格的に輸出向けの商品作物生産が始まっていきました。砂糖(サトウキビからつくります)マニラ麻(ロープの材料,アバカともいう) 【慶商A H30記】タバコが輸出品の85%を占めました。特にアメリカとイギリス向けの輸出が多く,イギリスからの輸入が多くを占めていました。こうして大土地所有のアシエンダ制が拡大していきます。



1848年~1870年のアジア  東南アジア ⑩タイ
 
シャムラタナコーシン朝では,啓蒙君主と呼ばれる〈ラーマ4世(モンクット)〉(位185168) 【上智法(法律)他H30 チュラロンコンではない】は,得意の英語を駆使して,各国に直接親書を送りました。その相手は,〈ヴィクトリア女王〉,〈ナポレオン3世〉,〈リンカン大統領〉。

 また,1854年には中国への朝貢を停止し,シャムが独立国であることを列強にアピール。さらに1855年に香港総督〈バウリング〉との間に修好通商条約(バウリング〔ボウリング〕条約) 【慶文H30記】を締結しました。これにアメリカとフランスも続き,3国は治外法権と通商・居住権を獲得します。彼はまた,欧米の科学技術を遺憾なく導入し,宣教師の妻を家庭教師にして子どもたちに英語教育をほどこしました。この話は,「王様と私」というミュージカル(のちに映画化)となりましたが,西洋からの上から目線が問題視され,現在タイで観ることは難しい状態です。
 このように〈ラーマ4世〉は,すぐれた国際感覚によって,列強による植民地化を東南アジア諸国で唯一まぬがれたのです【セH3イギリスにより「マライ連邦」に編入されていない】【セH13東南アジアで唯一植民地支配を免れたかを問う】【追H20フランスの植民地ではない】
 その息子
ラーマ5世(チュラロンコン)〉【東京H27[3]】【セA H30】【上智法(法律)他H30ラーマ4世とのひっかけ】のときに,さらに進んだ近代化政策が展開されることとなります。
 国内では,19世紀後半に王の弟で仏教の僧侶の〈ワチラヤーン〉
【セA H30リード文】が中心となって,経典学習のシステムが整備されるとともに,「サンガ法」と呼ばれる国家によって規定される仏教教団の枠組みが作られました。
 最高位の僧である法王を頂点とし,行政制度に連動する命令系統を備えた教団組織は,現在のタイ仏教教団の原型となるものでした
【セA H30ここまでリード文】



1848年~1870年のアジア  東南アジア ⑪ビルマ
 コンバウン朝
【セH3タウングー朝ではない】のビルマは,第一次ビルマ戦争(182224)で,すでに最南部をイギリスに割譲していました。その後も,イギリス東インド会社のインドの植民地化が激化し,インド周辺部の守りを固めるために,ビルマへのさらなる拡大が求められました。1852第二次ビルマ戦争【東京H23[3]3次まで続くか問う】では,イラワジ川下流の下ビルマ(ペグーなど)が占領され,1853年に併合されました。




1848年~1870年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
1848年~1870年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 この時期のセイロン島イギリス領です。



1848年~1870年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆南北戦争後に綿花供給地としての重要性が高まり,英はインドに経済的依存を強めていった

 東インド会社は,圧倒的多数のインド人を支配するために,インド人の兵を雇っていました。インド人傭兵のことをシパーヒー【東京H29[3]】といいます。インド人がなぜ支配者のイギリスの兵隊として働くのかと思うかもしれませんが,彼らにとっては生計を立てる大切な手段だったのです。とくに,1856年に取り潰されたアワド藩王国の兵士の多くが,シパーヒーとして再雇用されました。物価が急激に上がっているにもかかわらず,給与が上がらなかったことも,シパーヒーの不満の要因でした。
 そんな中,イギリスの配備した新式銃を操作する際に,豚と牛の脂(あぶら)の塗られた火薬包み(カートリッジ)の紙を口で噛み切らなければならないことが判明。意図的に塗られたものかどうか,真偽は謎のままです。新式銃の使用を拒否したシパーヒー85名の投獄がきっかけとなり,シパーヒーは蜂起しました(シパーヒーの反乱) 【京都H19[2]】【東京H28[3]】 【セH3「インド人傭兵」,セH11時期:1880年代か問う】【セH19・H29,セH29図版と時期】
 その後,全インドのあらゆる階層【セH3】に反乱が拡大(インド大反乱【セH8】)。マラーター同盟の王族の娘として生まれ,嫁いだ先の小国ジャーンシー藩王国がイギリスに併合されたため,反乱に加わり果敢に戦った女性〈ラクシュミー=バーイー(?1858)インドのジャンヌ=ダルクとして知られています。
 ムガル帝国の皇帝は「このまま反乱軍がイギリス東インド会社をやっつけてくれないか」と期待していましたが,結局イギリス東インド会社に鎮圧され,最期の皇帝〈バハードゥル=シャー2世〉(183758)はビルマに流され,ムガル帝国は滅亡しました。

 この反乱の責任をとる形で東インド会社は解散【セH8改編・強化されたわけではない】【※意外と頻度低い】となり,準備期間をおいて,1858年のインド統治改善法により,イギリスの直接統治が始まりました【セH3】【セH16 時期(18世紀後半には始まっていない)】
 直轄地以外の地域では,ほとんどの王国が
藩王国として存続がゆるされました【セH8藩王国のほとんどが滅ぼされたわけではない】
 植民地官僚のうち,高級官僚
(キャリア組)は,インド高等文官試験という難関試験を突破した者のみに開かれたコースでした。1853年からはロンドンで開かれ,インド人の合格者はわずかで,ほとんどオックスフォード大学,ケンブリッジ大学の卒業生に限られていました。やがて,インド国民会議派はそれを批判します。
 この大反乱の鎮圧を受け,これ以降はインドの民族運動は武力を用いるものは主流ではなくなっていきます。

◆イギリスは「本国費」をインドから収奪したが,綿織物産業の発展により民族資本家が成長した

 アメリカ合衆国で南北戦争が起きると,イギリスは綿花の輸入先としてインドに目をつけ,茶とともにインドを原料の供給地としてますます利用していくようになりました。
 インドでは1860年以降綿花栽培が拡大するとともに,綿織物産業も発展。1868年にボンベイで綿貿易会社を設立し,綿紡績業で財を成した〈ジャムシェトジー=タタ〉(1839~1904)を初めとするインド人の資本家(
民族資本家)が成長し,イギリスやインド政庁とも強力しつつ現地エリート層を形成していきました。

 例えば,北東部の山間部の
アッサムやダージリンの茶(中国のチャノキよりも紅茶向き),ベンガル地方では繊維のジュート,デカン高原では綿花が有名ですね。セイロン島(現在のスリランカ)でも茶が栽培され,『午後の紅茶』の茶の原産地でもあります。茶のプランテーションのために,イギリス人は北部にインドの南部に暮らしていたドラヴィダ系のタミル人を働き手として移住させました。タミル人はヒンドゥー教徒ですが,スリランカには伝統的に上座仏教を信じるドラヴィダ系とインド=アーリア系が歴史的に混成したシンハラ人(英語名のシンハリーズから慣用的にシンハリ人ともいいます)がいましたから,両者の対立はのちに深刻化していきます。
 生産された綿花と茶は,内陸部まで敷設された鉄道によって港湾に積み出され,各地に輸出されました。こうして生み出された貿易黒字が
「本国費」(ほんごくひ)してイギリスに送られ,圧倒的に貿易赤字であったイギリスの貿易収支を補う役目を果たしたのです。当時,イギリスが黒字を出していたのは保険事業や海運事業などのサービス部門に限られていました。「本国費」を使うことでイギリスから派遣された官僚の給与・年金を支払うことができ,またインドへの投資に対する配当金,インドにおける傭兵の雇用などの軍事費にあてることができたわけです。まさにインドからの“富の流出”。イギリスが最後の最後までインドにこだわった理由はそこにあります。

 なお,同じ頃イギリスの勢力下に置かれたペルシア湾で
採取された真珠が,イギリスの植民地ボンベイに輸送されています。ボンベイは真珠取引の中心地となっていきました(注)
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.118



1848年~1870年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
  ネパール盆地を中心に領土拡大・中央集権化を進めていたネパール王国の王家は,19世紀中頃以降,宰相を務めたラナ家に実権を奪われていきました。1854~56年には,チベットと領土をめぐる戦争を起こしています。
 勇猛な部隊を持つことで知られるネパール人は,イギリスの傭兵(
グルカ兵)として世界中の戦争の精鋭部隊として活躍しました。このこともあり,ネパールでは実質的に自治が認められていました。
 なお,イギリスは,
1864年にはシッキム(ネパールの東)の東にあるブータンと戦争を起こしましたが,翌年和平条約が結ばれ,ベンガルに接する地域が割譲されました。




1848年~1870年のアジア  西アジア

1848年~1870年のアジア  西アジア ①アフガニスタン
バーラクザイ朝(18261973年)
〈ドースト=ムハンマド〉(位18261863

 ドゥッラーニー部族連合のバーラクザイ部族から君主を出すバーラクザイ朝(初めはハーンが称号,1835年以降はアミール)が,アフガニスタンを支配しています(1835年以降はアフガニスタン首長〔アミール〕国といいます)。初代君主は〈ドースト=ムハンマド〉です。

 イギリスはインド周辺を防御し,ロシアの南下を防ぐため,バーラクザイ朝の対抗部族に接近し,アフガン戦争を起こします(
第一次アフガン戦争18381842))。
 〈ドースト〉はのちイギリスに接近し,南部のカンダハールや西部のヘラートに領域を拡大させていきました。
 次の〈シール・アリー・ハーン〉(位1863186618681879)のときには,ロシアやイギリスの介入が激しくなり,しだいに国内は分裂していきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア ②イラン

カージャール朝はロシアとイギリスの狭間で苦しむ
 イラン高原は,カージャール朝の支配下にあります。
 〈モハンマド=シャー〉(位18341848)は,西欧化を推進し,ロシアやイギリスの進出に立ち向かおうとしました。
 しかし,〈モハンマド=シャー〉が亡くなると,シーア派の一派で,政府に批判的な
バーブ教徒の反乱により,社会は混乱。
 次の〈ナーセロッディーン=シャー〉(位18481896)は,ロシアの支援を受けつつ,〈サイイド=アリー=ムハンマド〉を指導者とするバーブ教徒の乱を鎮圧します。
 〈シャー〉は軍政・官制の西欧化を推進していた大宰相〈アミール=キャビール〉(18071852)を解任。イギリスとの条約で東部のヘラートを奪われ,不平等な条項を認めるなど,しだいにイギリスに対して従属的になっていきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア ③イラク

 現在のイラク地域は,オスマン帝国領です。



1848年~1870年のアジア  西アジア ④クウェート
イギリス東インド会社と提携し,交易で栄える
 
イラク南部に位置するクウェートは,ペルシア湾に面する重要ポイント。
 1752年以来,首長のサバーハ家の支配下にありましたが,アラビア半島中央部からのサウード家の勢力の進出や,オスマン帝国の進出を退けるため,サバーハ家はイギリス東インド会社と提携していました。
 この時期は〈ジャービル1世〉(位1814~1859)の支配下でイギリス東インド会社と提携してペルシア湾の交易活動に従事。現在のアラブ首長国連邦周辺の勢力(“海賊”)との抗争も,1853年の和平により終わりました。次の〈サバーハ2世〉(位1859~1866)の時代にかけ,ペルシア湾の通商路は一段と安全なものとなっていきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア 現⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦
 ペルシア湾岸の諸勢力の抗争は,イギリス海軍の下で1835年以降,停戦状態となっていました。
 しかし,1860年代にバーレーンとカタールの部族間の関係が悪化。バーレーンは,アブダビの勢力と連合してカタールを攻撃。
 こうして起きた1867~1868年のカタール=バーレーン戦争(カタール独立戦争)により,バーレーンのハリーファ家は,カタールによる支配を退けることに成功。カタールのサーニー家が独立していることは,イギリスとの条約により認められます。

 ペルシア湾はアコヤガイやクロチョウガイなどが分布する世界最大の真珠の産地でもあり,イギリスはその中心であるバーレーンを確保し,交易で巨利をあげていきます。採取された真珠はイギリスの植民地ボンベイに運ばれ,取引の中心地となっていきました(注)
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.118



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑧オマーン
◆イギリスはアラビア半島沿岸部の首長国を保護下に置いていく
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。

 もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の“海賊”集団(イギリス側から見た呼び名です)がうようよ活動していたことから「
海賊海岸」と呼ばれていました。ペルシア湾岸地帯の勢力が,イギリスにとってはジャマな“海賊”にみえたわけです。
 イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,武力をちらつかせながらペルシア湾岸
(1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーン) オマーンを保護下におさめていきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑨イエメン
イエメン北部:イギリス領
 すでにイギリスは1839年にイエメンの南部を占領し,アデン周辺を植民地化していました。紅海への入り口にあたるアデン湾は,イギリスがインドに向かう航路を確保する上で,超重要ポイントだったのです。1869年には保護領とします。

イエメン南部:オスマン帝国領
 一方,北イエメンはオスマン帝国の支配下に置かれています。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑩サウジアラビア
 アラビア半島の現・サウジアラビアの地域では,部族や周辺国家の支配権をめぐる対立の舞台となっています。
 まず,
サウード家がワッハーブ派の教団と提携したワッハーブ王国(18241891)が1824年に復興(第二次ワッハーブ王国)。アラビア半島のリヤドを中心に,ペルシア湾にかけての地域を支配します。
 一方,リヤドの西方のナジド地方のラシード家も有力で,ジャバル=シャンマル王国(18361921)は第二次ワッハーブ王国を圧迫し,実権を奪っていきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑪ヨルダン
 現在のヨルダンの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑫イスラエル,⑬パレスチナ
 現在のイスラエルパレスチナの地域はオスマン帝国の支配下にあります。
 イェルサレムの聖地管理権を巡ってフランスがロシアと対立したことが,
クリミア戦争18531856年)のきっかけとなっています。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑭レバノン

 現在のレバノンの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。
 オスマン帝国領であったシリアのうちレバノン山岳部には,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が有力氏族の下で分布し,宗派対立が激化していました。1840年にエジプトがシリアから撤退すると,フランスがマロン派を支援するとイギリスはドゥルーズ派を支援しました。それに加えてロシアはレバノンの正教徒を保護しようとしたため,レバノンをめぐってイギリス,フランス,ロシアが干渉する構図となりました。1843年にはこうしたヨーロッパ諸国の介入を防ぐため,レバノン山岳部はオスマン帝国の直轄支配地域となっていました(北部はマロン派,南部はドゥルーズ派の行政官が任命されます)。しかし,住民と領主層との争いに宗教的な対立が重なると両者の紛争は激化し,問題をおさめようとオスマン帝国,イギリス,フランス,ロシア,オーストリア,プロイセンはキリスト教徒の覆いレバノン山岳部をシリアから切り離して,治安維持を図りました。「宗教・宗派の違い」が,ヨーロッパ諸国の進出に利用されたわけです。
 それに危機感を抱いたキリスト教徒の知識人たちは,「自分たちは“アラブ人”なのだから,宗教・宗派の違いをあおるヨーロッパ諸国の策略にはまってはいけない」と主張し,
アラブ民族主義的な運動を盛り上げていきました。この動きは一部のイスラーム教徒にも広がり,「アラブの覚醒(かくせい)」というムーブメントに発展していきます。ただ,イスラーム教徒には〈アフガーニー〉(1839~97) 【法政法H28記】の唱えたパン=イスラーム主義(汎イスラーム主義)の影響が強く,キリスト教徒とイスラーム教徒が手を結ぶような機会は限られていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑮シリア

 現在のシリアの地域は,オスマン帝国の支配下にあります。
 オスマン帝国領であったシリア内陸部では,徴税請負で力を付けた地域エリートであるアーヤーン(名望家層)が,イェニチェリやウラマーの力をバックに付けて都市を支配していました。エジプトの占領後,シリア内陸部にヨーロッパ諸国を中心とする資本主義経済の波が押し寄せ,社会の変化によって都市暴動も起きました。
 社会不安の中で「宗教・宗派の違い」が持ち出され,キリスト教徒が殺害される例もみられました。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑯トルコ
◆西欧化の過程で西欧諸国からの借金が積み上がり,国家財政は破綻に向かう
クリミア戦争で英仏の援助を受けるも,依存強まる
〈アブデュル=メジト1世〉(位18391861

 
1839年に,国政の西欧化に向けた改革をはじめたのが〈アブデュル=メジト1世(183961) 【セH18ムハンマド=アリーとのひっかけ】です。
 彼はギュルハネ
(バラ園)勅令を発布し,「オスマン帝国のなかにいる人はみな平等だ。ムスリムも非ムスリムも関係なく,法のもとにある」ということをうたい,三権と軍事・財政の改革(タンジマート)【共通一次 平1:時期を問う(青年トルコ人革命とミドハト(ミトハト)憲法)との時系列】をこころみます。

 しかし,
クリミア戦争【東京H20[1]指定語句】【セH29試行 エカチェリーナ2世による戦争ではない】が起きたために,戦争の資金調達のために外国に借金をしたことが,すべての誤りでした。
 クリミア半島には敗北し,さらにその後,借りた金を返せなくなってしまうのです。


 フランスの立場からすると,せっかく〈ムハンマド
=アリー〉を可愛がっていたのにもかかわらず,イギリスに邪魔されてしまったわけです。しかし,フランスがオスマン帝国内に領土を要求するための口実はほかにもありました。
 イェルサレムの聖地管理権【セH6クリミア戦争のきっかけを問う】です。聖地イェルサレムには,世界中の巡礼者が集まってきますが,フランスは16世紀以来,オスマン帝国内のイェルサレムのキリスト教地区の管理権をにぎっていました。
 フランス革命のときに,革命政権は第一身分であるカトリックを迫害しましたから,一時聖地のことを管理しているどころではなくなっていました。ジャコバン派の時代には管理権を放棄。それをロシアが獲得したのです。〈ナポレオン〉がエジプト遠征をしたときに,ロシアはオスマン帝国側を支援ため,オスマン帝国にその謝礼として要求したのです(1808)

 ロシアは東方正教会の信者を保護しようとしますが,その後フランスで〈ナポレオン3世〉が皇帝に就任すると,「イェルサレムの聖地管理権はもともと,オスマン帝国からもらっていた権利だ。カトリック教徒の保護のために,イェルサレムを取り戻す」と主張。管理権を奪い取ってしまった。当時のオスマン帝国は
タンジマートの最中。近代化のために,フランスから学ぶべきことも多く,要求をのんだのです。

 そこで,ロシアの〈ニコライ1世【共通一次 平1:オーストリア帝国内の民族運動を支援していない】【セH25アレクサンドル2世ではない】が「オスマン帝国の東方正教会の信者があぶない」ということで,戦争がはじまりました。フランス=ロシア戦争といってもいいこの戦争なのですが,ロシアがイェルサレムの管理権を狙っているというのが「南下」の口実であることは見え見えですので,イギリスもオスマン帝国側について参戦しました。さらに,フランスとの領土問題でもめていたサルデーニャ王国【セ試行 】も,フランスのご機嫌をとるためにオスマン帝国側について参戦します。
 激戦地がクリミア半島にあったロシアのセヴァストーポリ要塞であったことから,
クリミア戦争【セ試行 】【東京H20,H26[1]指定語句】といいます。野戦病院で傷病兵に対して科学的なアプローチで献身的な看護にあたったのが,イギリスの医療制度改革者ナイティンゲール(18201910) 【東京H30[1]指定語句】【セH8 です。彼は,「看護学の祖」「クリミアの天使」と呼ばれます。このときの惨状を目の当たりにしたロシアの文豪〈トルストイ(181775) 【セH9第一次世界大戦を題材に歴史小説を書いたか問う(クリミア戦争の誤り)には,「非暴力主義」という考え方を発展させるきっかけとなりました。

 クリミア戦争は,1856年のパリ条約で終結し,黒海の中立化(黒海はどこの国のものでもない)とドナウ川の航行の自由(ドナウ川はロシアのものだけではない)が定められて,ロシアの南下にまたストップがかかりました。また,オスマン帝国からモルダヴィア=ワラキア連合王国が独立承認されて,のちのルーマニアのもとになっていきます(1861年にルーマニア公国に改称,完全独立は露土戦争後のベルリン条約で承認される1878年,1881年にルーマニア王国になります【セH14第一次世界大戦後に誕生したわけではない,セH15ソ連から独立して成立したわけではない】)

◆オスマン帝国はヨーロッパ諸国への経済的な従属を強め,抵抗運動としてパン=イスラーム主義が生まれる
借金まみれのオスマン帝国,欧米の介入を受ける

 現在のトルコの地域は,首都をイスタンブルに置くオスマン帝国の支配下にあります。

 
オスマン帝国は,イギリスやフランスに対する経済的な従属を深めていきました。港湾・鉄道などの近代的なインフラや軍事施設や軍隊の整備のため,イギリスやフランスから莫大な資金を借り受けるようになります。
 この返済によってオスマン帝国の財政はますます厳しくなっていきます。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑰ジョージア(グルジア)
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南西に位置するジョージア〔グルジア〕の地域は,19世紀前半以降,ロシア帝国の支配下にありました。カフカス山脈の南側のことを「ザカフカース」といいます。

 ロシア帝国は,1816年~1861年,カフカス山脈の北部の諸勢力(
チェルケス人チェチェン人など)との戦争を続けており,グルジア人の中にはロシア側に立ち,これら山岳民族と戦う者もいました。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑱アルメニア
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南に位置するアルメニアの地域は,19世紀前半のトルコマンチャーイ条約(1828年)以降のロシア帝国の支配地域と,オスマン帝国の支配地域に分断されていました。
 しかし,1848年の二月革命に端を発する政治思想の影響を受け,アルメニア人は次第に「アルメニア人」としての民族的な意識を高めていくようになります。
 つまり,逆にいえば,それ以前には現在のような「アゼルバイジャン人」「アルメニア人」「グルジア人」の間にハッキリとした違区分は存在しなかったということです

 特にオスマン帝国支配下のアルメニア人の中には,タンジマートの影響で法的に平等な権利を手に入れ,西ヨーロッパに留学するエリートも現れました。
 当時のオスマン帝国内部には「タンジマートでは真の近代国家は建設できない。イスラームに根ざしつつ,議会制民主主義と自由主義を実現させるべきだ」と考える「
新オスマン人」(のちの「青年トルコ」とは別の組織)という秘密結社が支持をひろげていました。アルメニア人の中にも新オスマン人に刺激を受け,改革や民族運動の担い手となる者も現れていきます。

 なお,小規模であるものの,アメリカ合衆国にわたり,コミュニティを形成した
アルメニア人もいます(アメリカ合衆国への移民が急増するのは1890年代以降のこと)。



1848年~1870年のアジア  西アジア ⑲アゼルバイジャン
 カフカス〔コーカサス〕山脈の南東,カスピ海西岸に位置する現・アゼルバイジャンの地域,19世紀前半のトルコマンチャーイ条約(1828年)以降のロシア帝国の支配地域と,オスマン帝国の支配地域に分断されていました。





1848年~1870年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

マダガスカル
 イギリスやフランスの進出という危機を前に,近代化を推進したメリナ王国の初代〈ラダマ1世〉(位1810~1828)に代わって即位した,〈ラナヴァルナ1世〉(位1828~1861)率いる保守派が対立。次の〈ラダマ2世〉(位1861~1863)は近代化を目指すも暗殺され,その妃〈ラスヘリナ〉(位1863~1868)が即位するなど,国王の支配はぐらぐらです。
 



1848年~1870年のアフリカ

1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ


1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア

 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 この時期には〈ムハンマド=アリー〉統治下のエジプトの進出が強まっています



1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。



1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
◆エチオピアはヨーロッパ諸国の侵入に備え,中央集権化を目指す
エチオピアは西欧化・中央集権化をすすめる
 エチオピアでは〈テオドロス2世(185568)が中央集権化を推進し,ヨーロッパの技術を導入して軍備を強化していきました。
 しかし,1868年にイギリスの軍事的進出と敗北を受けて,自殺しました。スエズ運河の完成(1869)を目前に,イギリスは紅海の入り口にあたるエチオピアへの進出を狙っていたのです。


  



1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
◆ザンジバルを拠点に,オマーンのアラブ人によりインド洋黒人奴隷交易が活発化する
オマーンのアラブ人による黒人奴隷交易が活発に
 スワヒリ地域では,現タンザニアのザンジバルを拠点に,アラビア半島のオマーンのアラブ人が中心となって,奴隷交易が活発化していました。奴隷はマラウィ,モザンビーク,ザンビア東部から積み出され,現地社会に大きな爪痕(つめあと)を残します。奴隷交易は,大西洋を舞台とする西アフリカ~アメリカ大陸~ヨーロッパのものだけではないのです。




1848年~1870年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
象牙の乱獲からアフリカゾウの個体数が激減する
 
ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部の
ブガンダ王国は,象牙奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。
 19世紀には象牙の需要が高まり,インド洋岸の
ザンジバルなどからキャラバンも組まれるようになります。獲れば売れるので銃火器でアフリカゾウが乱獲され,個体数は激減していきます。






1848年~1870年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

1848
年~1870年のアフリカ  南アフリカ 現①モザンビーク
 中央アフリカのギニア湾岸に位置するアンゴラと南東アフリカのモザンビークを植民地化していたポルトガル王国は,内陸部に進出すれば,大西洋からインド洋に喜望峰をまわらずに陸路で到達できるため,19世紀前半に探検隊を派遣し調査を本格化させていきました。
 イギリスにより派遣されたスコットランド人の探検家・宣教師〈
リヴィングストン【東京H19[3]】【追H30太平洋探検ではない】は,1855()に世界三大瀑布のひとつである巨大な滝を発見し,当時の〈ヴィクトリア女王〉の名から「ヴィクトリア(フォールズ)」と命名しています。彼は当初,インド洋からザンベジ川を貨物船でさかのぼれば,この滝に到達できると考えていましたが,高低差があるため1858()には航行が不可能であることが判明しました。
()栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.51


1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現②スワジランド
 スワジランド王国は〈ムスワティ2世〉(位18401868)が支配し,ケープタウン方面から移動してきたヨーロッパ系のアフリカーナーと対抗しつつ,領域を拡大させています。


1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位18221870)が独立を維持しています。


1848年~1870年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 先住のオランダ系【セ試行 オランダ人の子孫か問う】の人々は「ボーア人【セ試行】と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地のボーア人は生きるすべをなくすことに…。
 そこでボーア人たちは,ウシを連れて北上を開始したのです。これを
グレート=トレックといいます。
 しかし,このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で拡大していたバントゥー諸語系の
ズールー王国です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
 こうしてボーア人
【セH4】が建設したのが,トランスヴァール共和国(1852)() 【セH4】【東京H7[3]】と,オレンジ自由国(1854) 【セH4】だったのです。しかし,ここでダイヤモンドと(きん)【東京H7[3]】の鉱山が発見されるや,イギリスによる手が差し伸べられていくことになるのです。

(注)正式名称は「南アフリカ共和国。The South Africa Republic。」前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 18991912』ミネルヴァ書房,2006p.25



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部には
ナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「
何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群の
ヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。

 1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。




1848
年~1870年の南アフリカ  現⑥ザンビア,⑦マラウィ
 このころ,現ザンビア東部やマラウィは,アラブ人による奴隷交易の奴隷供給先となっており,マラウイ湖畔の支配者や,チェワ人の首長が,住民をつかまえて商人に売り渡していました。

 この時期のザンビアにははロジ人の国家などがありますが,内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。

 モザンビークとタンザニアの国境付近からマラウイ湖に1840年ころに移動したヤオ人は,アラブ人から武器を入手し,住民を襲ってアラブ人に売却していました(1)。南アフリカのズールー人の王国から逃げたンゴニ諸族の一派も,19世紀前半にマラウィ湖南部に北上し,住民に対する攻撃をしています(1)
 イギリスにより派遣されたスコットランド人の探検家・宣教師〈
リヴィングストン【東京H19[3]】は,ヴィクトリア滝の発見後,ザンベジ川の支流シーレ川をさかのぼり,マラウイ湖に至りました。1861年にマラウイ湖畔のコタコタというところで奴隷交易に関わる指導者と,奴隷交易をやめるよう交渉しています(2)。奴隷交易は19世紀後半にキリスト教の宣教による効果もあり,次第に下火となっていきました。
(2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.46
(
2)栗田和明『マラウイを知るための45章』明石書店,2010p.45Z



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系の
ツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系の
サン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 
ケープタウから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています






1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ
…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 
アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国ルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流は
コンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。



1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年に
ポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。
 
 19世紀後半にポルトガルによる奴隷貿易は廃止されましたが,奴隷制が継続していた
ブラジル向けに奴隷輸出は続いていました(ブラジルでは1888年に廃止)


1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 
現在の赤道ギニアはイギリスの奴隷交易の拠点となっていましたが,1843年イギリスが撤退すると代わってスペインが農業プランテーションのために植民を進め,1844年以降,ギニア湾に浮かぶビオコ島での開発を進めていきました。1850年代に入ると大陸側のリオムニへの植民も進めていきます。



1848年~1870年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化した
ボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の
奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。




1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される

1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,ナイジェリア,ベナン

ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流の
ベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の
③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人による
オヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。


◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起き
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです

 そんな中②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(17541817ジハード」(聖戦)を宣言王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 ニジェール川流域では,セグー王国マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています(注)

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され
(注2,サハラ交易は活発化していきました。
(1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.167
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。

 海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,イギリス領黄金海岸〔ゴールド=コースト〕となっています
 現在の
④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,
ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 1847年にアメリカ合衆国のアメリカ植民協会によって建国が支援されたリベリア共和国セH5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】【東京H7[3],H19[3]】では,初代大統領に〈ロバーツ〉(184856)が就任しました。しかし,政権をとったアメリカ系黒人(アメリカ合衆国の解放奴隷をルーツとする人々)は,先住の諸民族を支配する構図となり,先住民の抵抗も強まっていきます。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。


1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます
 西アフリカ西端の⑪セネガルでは,1840年に交易拠点のサン=ルイに議会が設置され,フランスから派遣される総督が議長を務め,現地人とフランス人居住者から議員が選出されました。1848年にフランスで二月共和制が始まると,サン=ルイやゴレ島の住民は「コミューン」としてフランス本国の自治体と同等の権利を要求するようになりました。
()小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.19



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在の
モーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
 ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国(セグー王国,17121861)を建国しています。

 このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜民フラニ人(フルベ人,自称はプール人)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方でソコト帝国を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位18181845)の指導下に,マシナ王国18181862)が建国されます(注)



1848年~1870年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,
モシ王国が栄えていました。




1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト

◆アメリカ合衆国の南北戦争(18611865)勃発を受け,エジプトが綿花栽培地として注目される
綿花の産地となったエジプトにスエズ運河ができる
 ムハンマド=アリー朝のエジプトは,1840年のロンドン四カ国条約でエジプト総督の世襲権を獲得したもののスーダン以外の支配地域は放棄し,市場開放が求められました。エジプトには1838年にオスマン帝国がイギリスと結んだ不平等な通商条約が適用されましたが,ナイル川流域の農作物の生産力はきわめて豊かであり,アメリカ合衆国で南北戦争(1861~65)が勃発すると,価格の高騰する綿花供給の代替地として大注目されました。綿花輸送のために南フランスのマルセイユと地中海沿いのアレクサンドリア,さらにスエズとインドのボンベイの間に蒸気船航路がつくられ,カイロとアレクサンドリア,カイロとスエズの間に鉄道が開通しました。さらに1869年には地中海と紅海・インド洋を結ぶスエズ運河が,エジプト政府とフランス政府が大株主となったスエズ運河株式会社により設立・運営されました(イギリス政府は運河株を購入しませんでした)。

 インド支配を進めていたイギリスが地中海と紅海~インド洋を直結させる鉄道を計画していたのに対し,〈ナポレオン3世〉支配下のフランスでは
スエズ運河の建設がフランスの〈レセップス〉の外交交渉によって実現。話に応じた当時のエジプト「総督」〈サイード=パシャ〉(位1854~1863)は,エジプトの農民を無償徴用して多数の人命が失われ,財政も悪化しました。〈レセップス〉は〈サイード〉の家庭教師を務めたことがあり,〈ナポレオン3世〉の妻〈ウジェニー〉とも親しくしていました。この“コネ”により〈レセップス〉は1858年に設立したスエズ運河会社を通してフランス・エジプトから資金を調達することに成功。運河は1869年に完成し,オープンセレモニーではイタリアの〈ヴェルディ〉作曲の「アイーダ」が演奏されています。完成後まもなく,日本の岩倉使節団【セA H30】がスエズ運河を通っています。〈久米邦(くめくに)(たけ)〉が『米欧回覧実記』(1839~1931)に記録を残しています


1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ
 モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。19世紀後半にイギリス(1856),スペイン(1860~61),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を結ぶと,ヨーロッパ諸国に従属していくようになりました。
 スペインはモロッコへの軍事的進出をおこない,1859~60年の戦争で「
スペイン領モロッコ」(地中海沿岸のセウタからメリーリャと,現在のモロッコ南部の「西サハラ」にわたる領域)を形成しました。



1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
 アルジェリア【セH8】ではフランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族〈アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しましたが鎮圧されました()。1848年にはアルジェリアにフランス本国と同じ「県」が置かれ,フランス【セH8】人入植者(コロン)によって支配されました。コロンによって農場や工場が建設され近代化が進む一方で,当初は住民は従来の現地支配層により管理されました。

 〈ナポレオン3世〉は「
同化政策」(アルジェリア人をフランス人と同等に扱い,フランス文化に溶け込ませる政策)をとり,アルジェリア人にフランス国籍を認めましたが,現地支配層はそれに反発し,普仏戦争で〈ナポレオン3世〉が敗北するとアルジェリアに共和政を打ち立てる運動が起きました(アルジェ=コミューン)。



1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアのフサイン朝は,オスマン帝国のタンジマートにならって近代化をすすめ,1861年には憲法を公布しました(1864年に停止)。しかし急速な近代化は財政を圧迫し,ヨーロッパ諸国から借金をしたために1869年に破産してイギリス・フランス・イタリアによる財政管理状態に陥りました。



1848年~1870年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアは,1835年以降オスマン帝国の支配下に置かれました。





1848年~1870年のヨーロッパ

1848年~1870年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
東ヨーロッパ
()…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
()冷戦中に「東ヨーロッパ」といえば,ソ連を中心とする東側諸国を指しました。ここでは以下の現在の国々を範囲に含めます。バルカン半島と,中央ヨーロッパは別の項目を立てています。

 クリミア戦争のさなかの1855年,ロシア皇帝〈ニコライ1(182555)はインフルエンザで亡くなります。代わって即位したのが〈アレクサンドル【セH9【セH14ニコライ1世ではない】です。彼は「ロシアが負けたのは,フランスやイギリスに比べて遅れているからだ」と自覚し,貴族の反対を押し切って1861年には農奴解放令セH6農民への土地の無償分与ではない,H9【セH13時期(クリミア戦争の敗北後),セH14時期(19世紀)】を発布します。

 こういう内容です。
 まず,農民に貴族
(領主)の土地を有償【セH6無償ではない】で分け与え,自由な身分としました。
 しかし,「有償」といっても,農民がポンと土地代を支払えるわけがありません。そこで,土地を得たい農民は従来からある
ミールを改編した農村共同体に入って,みんなで協力して支払う制度にしました。「農奴解放」といっても,自由になった農民が自由の土地を手にするのは難しかったのです。結局ロシアでは,19世紀後半になっても,都市労働者は全人口の5%にとどまりました。知識人(インテリゲンツィア)【追H9】の中には,1860~70年代に,〈チェルヌイシェフスキー〉らを中心に,農村共同体に直接入り込み農民を教育することで,西ヨーロッパとは異なる形で平等な社会を作ろうとする運動が起きました。
 農村共同体(ミール)【セH6】を基盤とし「人民の中へ(
=ナロード)」【セH10「1870年代に多くの青年・学生が農村に入り,革命を宣伝しようとした」ものか問う,時期を問う(フランス資本の導入(露仏同盟締結)以降ではない)】をスローガンにした彼らはナロードニキ【追H9】といわれました【セH3デカブリストではない,セH6,セH12「農村共同体(ミール)を基盤にして社会を改革しようとした」か問う】【セH22 時期1848年ではない】

 しかし,理想を追い求めるあまり,挫折した者は急激に社会を変えようと
テロリズムに走る派閥(人民の意志(1879年結成)皇帝〈アレクサンドル2世〉【セH10アレクサンドル1世ではない】を暗殺しました)も現れるようになります。
 農奴が領主の支配を離れると,地方自治をする必要が出てきたため,1864年には地方自治機関の
ゼムストヴォを設置しました。また,1870年には都市法も制定し,都市の自治組織も整備しました。

 このような改革姿勢に対し,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と期待を持ったのは,バルト海から黒海まで広い範囲を支配していたポーランド=リトアニア連合王国の領域内にいた,ポーランド人リトアニア人ベラルーシ人(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人),ウクライナ人(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちです。
 1861年にロシアで発布された農奴解放令がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは
1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました(一月蜂起,ポーランド反乱) 【セH6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】【セH16時期・フランスからの独立ではない,セH22 19世紀後半に独立を回復していない】

 ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉
【セH6】は自由主義的な姿勢を弱めることに。
 ポーランドとリトアニアでは徹底的に
ロシア化政策(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
 このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア
=スクウォドフスカ〉(マリー=キュリー【東京H30[1]指定語句(マリー)】【セH17 X線の発見ではない,セH23レントゲンではない】,キュリー夫人,18671934) 【セH8は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質のラジウム【セH8ポロニウムを発見し(1898) 【セH17X線ではない】 ,ノーベル賞を受賞しました。

 リトアニアの北方の
ラトビアも,18世紀以降ロシア【セH16オスマン帝国の支配下ではない】の支配下に置かれていましたが,ロシア化政策が強まるにつれ,19世紀後半からはラトビア語文学も作られるようになり,「ラトビア人意識」が高まっていきました。しかし,中世にドイツ騎士団が支配していた影響から,ドイツ系の住民(バルト=ドイツ人)も多く,国民的としての統一はスムーズにはいきませんでした。

 その後皇帝〈アレクサンドル2世〉は,父〈ニコライ1世〉が果たせなかった南下にリベンジを賭けるようになっていきます。
 ロシアでは,西欧諸国と比べた発展の
遅れに対して目を背けず,汚い部分も含めてありのままに描くことで,人々に問題に気づかせることができるのではないかと考える「写実主義」に分類される作家が現れていました。
 早くには〈トゥルゲーネフ〉(181833) 【セH18バイロンとのひっかけ】の『猟人日記』(農奴制を批判)・『父と子』(主人公の思想はニヒリズム)。その後,〈ゴーゴリ〉(180952)の『検察官』『死せる魂』,〈ゴーリキー〉(1868~1936)の『どん底』【セH15『オネーギン』ではない】,〈ドストエフスキー〉(182181) 【追H20ユーゴーとのひっかけ】の『カラマーゾフの兄弟』(注),『罪と罰』,〈トルストイ〉(18281910) 【追H20ユーゴーとのひっかけ】の『戦争と平和【追H20ユーゴーの作品ではない】,〈チェーホフ〉(18601904)の『桜の園』が代表です。
)青空文庫『カラマーゾフの兄弟』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000363/card42286.html





1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ ※これらは現在の中央ヨーロッパにある国家の名称ですから,この時期に同じ領域の国家があったわけではありません。本文に示した番号(上記①~⑦に対応)は,おおむね現在の国家が位置する領域を指して用いていますが,完全に一致するわけではありません。

1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
 ポーランド王国では,ロシア帝国が君主を兼ねる政体が続いていました。
 〈アレクサンドル2世〉(位1855~1881)がクリミア戦争後に近代化に向けて自由化政策をとると,「〈アレクサンドル2世〉は自由を認めてくれる皇帝なのかもしれない」と支配下にあった諸民族の期待を生みました。
 かつてバルト海から黒海まで広い範囲を支配していた
ポーランド=リトアニア連合王国の領域内にいた,ポーランド人リトアニア人ベラルーシ人(リトアニア大公国の領域内にいたスラヴ人),ウクライナ人(だいたいポーランド王国の領域内にいたスラヴ人)たちもそうです。
 1861年にロシアで発布された
農奴解放令がポーランドでは未実施だったこともあり,ポーランドでは1863年にロシア帝国からの完全独立を求める反乱を起きましたが,ロシアにより鎮圧されてしまいました(一月蜂起,ポーランド反乱) 【セH6「汎スラヴ主義の強い影響下で起こった」わけではない】【セH16時期・フランスからの独立ではない,セH22 19世紀後半に独立を回復していない】

 ポーランド=リトアニアの反乱をきっかけに,〈アレクサンドル2世〉
【セH6】は自由主義的な姿勢を弱めることに。
 ポーランドとリトアニアでは徹底的に
ロシア化政策(ポーランド語,リトアニア語,ルテニア語(現在のベラルーシ語のもと)による教育の禁止)がすすめられ,さまざまな面でポーランド人の文化が抑え込まれていきました。
 このとき迫害を受けた父母を持つ〈マリア
=スクウォドフスカ〉(マリー=キュリー【東京H30[1]指定語句(マリー)】【セH17 X線の発見ではない,セH23レントゲンではない】,キュリー夫人,18671934) 【セH8は,故郷を離れフランスのパリで学び,フランス人の夫とともに放射性物質のラジウム【セH8ポロニウムを発見し(1898) 【セH17X線ではない】 ,ノーベル賞を受賞しました。






1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー(当時はクロアチアとスロヴェニアを含みます),⑤オーストリア

◆都市改造された帝都ウィーンは,中央ヨーロッパう随一の国際色豊かな都市として発展へ

オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立する
 ハプスブルク家のオーストリアは,1866年に普墺戦争で敗北すると支配下に置いていたハンガリー人による自治要求をおさえることが困難となり,1867年に西部のハンガリーを除外した領域(()ハプスブルク家世襲領と,()ボヘミア・モラヴィア・シレジア・ガリツィア・ブコヴィナ・アドリア海沿岸)と,東部のハンガリーの同君連合として再編成されました。

 この“妥協”のことをドイツ語で
アウグスライヒ(妥協),ハンガリー語でキエジェゼーシュ(妥協)と呼び,成立した国家はオーストリア=ハンガリー【東京H8[1]指定語句】二重帝国と呼ばれます。
 オーストリア皇帝として即位していた〈
フランツ=ヨーゼフ1世(18481916)が,1867年にハンガリー国王に即位し,帝国の初代皇帝にも即位することで成立しました。
 皇帝・王は,ウィーンの旧市街を囲っていた城壁を取り除き,リンクシュトラーセという環状道路を建設。近代的な施設を建設し,都市改造に取り組みました(◆世界文化遺産「ウィーンの歴史地区」,2001)。

 両国共通の皇帝の下には外相・陸相・蔵相には共通大臣が置かれ,西部のオーストリア
(多様な領域を含むため,各地に配慮して1915年までは「オーストリア」とは呼ばれませんでした)と東部のハンガリーの各首相をあわせて共通閣議が設けられました。分担金はオーストリア70%,ハンガリー30%の比率。
 なお,東部のハンガリーには
クロアチア=スラヴォニア(現在のクロアチアとスロヴェニア)が含まれ,この地域でのクロアチアの地方公用語としての使用や,部分的な自治が認められていました。



1848年~1870年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現⑦ドイツ
 この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,〈ビスマルク(181598) 【早法H28[5]指定語句】です。1862年にプロイセンの首相に就任(186290)し,1864年にデンマーク戦争ホルシュタイン州とシュレスヴィヒ州を獲得【セH30。さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に勝って【セH13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家(北ドイツ連邦【セH14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国としました。

 北ドイツ連邦に加盟していなかったのは,
バイエルン【慶文H30記】をはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
 「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
 南ドイツ諸邦は悩みます。

 そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に,
ホーエンツォレルン家(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
 すでにアメリカの〈
モース(モールス)(17911872) 【セH11【追H20コッホではない】が,点と線の組合せによるモールス電信(1838年頃まで) 【東京H15[1]指定語句「モールス信号」】という有線電信【セH11:電話機ではない】を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。

 〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。
 事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました(
普仏戦争【セH27勝利していない】アルザス地方とロレーヌ地方【セH12時期(1880年代ではない)【セH24ウィーン体制の結果ではない】も,プロイセンにより占領されました。

 プロイセン国王〈
ヴィルヘルム1世(プロイセン王在位186188)は,1871年にフランスのヴェルサイユ宮殿で,南ドイツ諸邦を含むドイツ帝国(18711918) 【セH14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の初代皇帝(187188)に即位しました【セH18
 このとき宮殿を戴冠式に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。
 ドイツ帝国は外見的立憲政治といわれ,一見憲法にもとづき議会による政治が行われているように見えますが,実態は皇帝に責任を負う
宰相が立法権を管理することができ,議会は形だけの組織に過ぎませんでした。議会には連邦参議院と,下院の帝国議会【セH19があり,帝国議会の提出した法案を連邦参議院が批准(ひじゅん)する仕組みになっています。帝国議会の議員は男子普通選挙【セH19で選ばれますが,連邦参議院の議員は22の君主国と3自由市の代表で構成されていました。
 アルザス地方とロレーヌ地方は,ドイツ帝国の領土となりました。ロレーヌ地方に住んでいたルクセンブルク生まれの〈
シューマン(18861963)はドイツ国民となり,のちにフランスの政治家(外務大臣)となりドイツ・フランスの和解を呼びかけ,“欧州連合の父”される人物です。

 のちに,〈ビスマルク〉は語っています。
「統一ドイツが出来上がるためには,その前に普仏戦争が起こらねばならない事は分かっていた」
 外側に敵を作ることで,一気に国民の統一を図ろうとしたわけです。

 また,ロマン主義
【追H21やナショナリズム【追H21の高揚の影響下に,内側でも「ドイツ人【追H21フランスではない】らしさとは何か?」というテーマが,様々な分野で検討されました。
 歴史学では〈
ランケ(17951886) 【追H21が「それは本来いかにあったか」をスローガンに,厳密な史料批判に基づく近代的な歴史学研究法を始めました【セH28時期】。〈ランケ〉の弟子の〈ルートヴィヒ=リース〉(18611928)は,明治時代の帝国大学のお雇い外国人となり,初の「史学科」を開いています。また,ドイツの〈ドロイゼン(180884)は「ヘレニズム」という歴史的な概念を提案しました。〈サヴィニー(17791861)は,その民族にはその民族の歴史に基づいた法があるべきだという歴史法学を主張し,ローマ法を中心とする従来の法学の伝統に対抗しました。
 文学では〈
グリム兄弟(兄ヤーコプ17851863,弟ヴィルヘルム17861859)が〈サヴィニー〉の影響からドイツ各地の昔話の収集を始め『グリム童話集』としてまとめ,ドイツ語の言語学的な研究も行い『グリム=ドイツ語大辞典』を編纂しました(完成は死後の1960)。彼らは言語や昔話の中に,ドイツ人の民族らしさがこめられていると考えたのです。
 音楽界ではザクセン王国生まれの〈
シューマン(181056)が,多くのピアノ曲・歌曲・交響曲を残し,ロマン派の代表とされます。作曲家の〈ヴァーグナー(18131883) 【セH16オランダのロマン主義ではない・セH18は,ロマン派の歌劇(オペラ)を楽劇(がくげき)【セH18に高め,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の物語にテーマをとった「ニーベルンクの指輪」で有名です。
 また,科学分野での発達も進み,〈
マイヤー(181478) 【セH17ファラデーではない】と〈ヘルムホルツ(182194) 【セH11:無線通信を発明していない】【セH17ファラデーではない】【追H20コッホではない】エネルギー保存の法則【セH17をそれぞれ発見(1842)・体系化(47)しました。また,〈リービヒ(180373)有機化学を体系化し,化学合成や農薬開発に貢献しました。
 またドイツの〈
ジーメンス(181692)は,発電機(1867)を発明しました。のちに,イギリスの〈ファラデー(17911867)【セH17の発明した電磁誘導現象【セH17エネルギー保存の法則ではない】を利用して,電磁力の力で動力を得ることに成功し,1879年には電気機関車(1879)も発明しています(営業運転は2年後から)



1848年~1870年のヨーロッパ  バルカン半島

バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 すでにギリシャは独立していましたが,その他多くの地域はいまだにオスマン帝国の領域下にあります。
 しかしオスマン帝国の力が弱まるのに従って,ヨーロッパ勢力がその支配地域に付け込み,互いに争う「
東方問題」がバルカン半島を揺さぶっていました。

 現・ギリシャの
クレタ島はオスマン帝国の支配下にありましたが,1866年にオスマン帝国支配に対する反乱が起こりますが鎮圧されます。



1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島

1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島 ①スペイン
◆スペインでは国民統合が進まず,経済的にも外国資本への従属が進んだ

スペインでは外国資本への従属がすすむ
 スペインでは〈イサベル2世〉(183368)の即位を巡って起きた第一次カルリスタ戦争(183330)中に,1837年に国民主権をうたった新たな憲法が制定されていました。しかし,スペインにおける国民的な意識の形成は進まず,さまざまな地域言語が残りスペイン語も普及しませんでした。19世紀末にはカタルーニャ(カタルーニャ語を話します)やバスク(バスク語を話します)における民族主義が活発になっていくことになります。

 1850年代末から60年代初めにかけて自由主義派の連合政権ができ,セウタをめぐるモロッコとの戦争(185960),フランス・イギリスとともに行動した
メキシコ出兵(186162)1844年にハイチ(ハイティ)から独立していたサント=ドミンゴの併合(186165)など,対外的な進出も積極的におこないました。
 一方,1851年にはローマ教皇庁との間の宗教協約(コンコルダート)によりスペインの国教であることが確認されて,教育や聖職者への俸給など国家と教会との関係は一段と深まっていきました。国教がしっかりと定まっていれば国家の統一が保たれるようにも思えますが,「正しい教え」をめぐって国内の対立を引き起こすマイナス要因でもありました。

 1850年代~60年代にかけて鉄道の敷設がブームとなり,外国資本を導入してさまざまなインフラが整備されていきました。それと引き換えに国内の鉱山などの採掘権が譲渡され,先進の列強諸国への従属も強まっていきます。
 1868年,〈イサベル2世〉の下の穏健派の政権が革命により倒れ,続いて即位した新国王も退位して1870年に
第一共和政(187073)が樹立されました。



1848年~1870年のヨーロッパ  イベリア半島 ②ポルトガル
ポルトガルはイギリスへの経済的従属がすすむ
 ポルトガルでは,刷新党と歴史党によるイギリス流の二大政党制が定着しました。1851年に成立した刷新党の〈サルダーニャ〉内閣は,外資を導入して交通・通信などのインフラ整備に取り組み,1856年には初の鉄道が開通されました。工業化のスピードは非常に遅く,イギリスを中心とする外国資本への従属が進んでいきました。




1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ
…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ①イタリア
 
イタリア半島は,ウィーン議定書の取り決めにより,複数のに国家に分裂した状態となっていました。
 北西には,
サルデーニャ王国【セH16地図(サルデーニャ島の位置)
 北東には,ロンバルディア=ヴェネト王国(オーストリア皇帝が王位を兼ねています)
 中央部には,ローマ教会の
教皇国家
 南部には,ブルボン家の
両シチリア王国
 ほかにも大小の国々がありました。

 イタリアでも統一を求めたり,自由をもとめたりする運動が起きていましたが,七月革命(1830)・二月革命(1848)に刺激されて起こった,
カルボナリ青年イタリア【共通一次 平1】などの「下からの統一」運動は組織内の内紛もあり失敗してしまいます。
 例えば1849年には教皇国家において共和派の運動が盛り上がると1848年に教皇〈ピウス9世〉はナポリに亡命し,1849年に共和派主導の男子普通選挙により成立した議会で
ローマ共和国【共通一次 平1】【セH10の建国が宣言されました。かつて青年イタリア【共通一次 平1】【セH16を率いていたマッツィーニ【共通一次 平1】【セH7ガリバルディではない,セH10ガリバルディ,人民戦線政府を樹立した人,アメリカ独立戦争の義勇兵ではない】【セH16(18051872)は,革命の“広告塔”として招かれ,執政官に就任しましたが,同年フランス軍【セH10に鎮圧されました。

 共和主義的な運動がことごとく失敗していく一方で,「
(支配者)からの統一」を目指す動きはなかなか活発化しませんでした。
 期せずして“イタリア統一”を担っていくことになったのは,オーストリアから領土を奪って北イタリア地域に拡大しようとした,イタリア半島の付け根に当たる北西部と
サルデーニャ【セH20地図】を領土とするサルデーニャ王国でした(当初からイタリア半島統一をねらっていたわけではありません)
 道のりは順風満帆なものではありませんでした。
 オーストリアを追い出し
ロンバルディアヴェネツィアを獲得しようとした国王〈カルロ=アルベルト〉(183149)は,オーストリアと戦って大敗を喫しています。
 立て直しをはかったのが,
サルデーニャ王国の自由主義者〈カヴール(181061) 【セH9ドイツではない。ビスマルクとのひっかけ】です。彼は1852年に首相に就任し,「イタリアも,イギリスやフランスにならって,自由主義を認め,産業化をすすめる必要がある。だが,そのためには,フランスとオーストリアを同時に“敵”に回すことはできない。フランスの協力が必要だ」と考えました。
 〈カヴール〉は,フランスの〈ナポレオン3世〉に
ニース【東京H30[3]サヴォワを割譲すると約束(1858年,プロンビエールの密約)し,フランスとともにオーストリアと開戦。これが1859年に始まるイタリア統一戦争【共通一次 平1】【セH15スペイン王位の継承問題とは無関係】です。サルデーニャ王国は,オーストリアからロンバルディアを併合しますが,そのとき〈ナポレオン3世〉はハッとします。
「このままサルデーニャ王国が南下すれば,教皇国家が飲み込まれてしまう。そうしたら,国内のカトリック勢力の支持を失ってしまうのでは…」と考えた〈ナポレオン3世〉は,突如オーストリアと休戦してしまいます(ヴィラフランカの休戦)。あとちょっとのところで,統一計画は頓挫してしまったのです。

 しかし,この頃から統一に向けた動きが広がっていきました。北部から中部にかけての小国では,反乱によって新たな政府が樹立。さらに,〈
ガリバルディ(180782) 【セH7 1848年にローマを占領していない。マッツィーニとのひっかけ】【セA H30】【法政法H28記】【※意外と頻度低い】は義勇軍(赤シャツ隊【セA H30)を組織して,1860年に両シチリアを獲得。これらの地域では住民投票によって,サルデーニャ王国への併合が決まります。
 外国人(北部ではオーストリア人,南部ではフランス人)による支配よりも,サルデーニャ王国を選んだわけです。
 こうしてサルデーニャ国王の〈
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(186178) 【セH12時期(19世紀後半か問う)。国王は〈ヴィルヘルム1世〉ではない】【セH27ローマ進軍は組織していない】が国王となって1861年にイタリア王国が成立しました。ですから,イタリアに王国とは”サルデーニャ王国”の拡大ともいえます。
 イタリア統一期に活躍した作曲家に,〈
ヴェルディ(18131901)がいます。もともとは,ミラノのスカラ座で活躍したオペラ歌手でしたが,従来の劇を改革し,スケールの大きなオペラを作り上げました。代表作は古代エジプトを部隊にした「アイーダ」で,スエズ運河開通記念のカイロ大歌劇場開場式のために作曲されたオペラですが…現在はサッカー日本代表の応援歌です。また「バビロン捕囚」をテーマにした「ナブッコ」の挿入歌,「行けわが想いよ黄金の翼に乗って」は,イタリアの“第二の国歌”のような扱いとなっています(バビロンから故郷イェルサレムを想う ヘブライ人の哀怨を歌う)

 その後,1866年の普墺戦争(ふおうせんそう)の際にオーストリアから
ヴェネツィアを獲得し,187071年の普仏戦争(ふふつせんそう)の際にはローマ教皇国家【セH16トリエステではない】を占領し,領域を広げました。
 しかし,イタリア語を話す人々がすべてイタリア王国の領域内に居住していたとは限りません。イタリア王国の外のイタリア語話者の多い地区は“
未回収のイタリア 【セH24サルデーニャ島は含まれない】と呼ばれ,南チロル【セH24地図上の位置を問う】トリエステ【セH16普仏戦争のときに併合していない】イストリア半島の併合が王国の今後の目標となりました。

 また,統一戦争時の混乱から,多くの
イタリア移民がアメリカ合衆国に渡っていきました。特に工業化の遅れた南部出身者が多く,19世紀前半までにアメリカに移り住んだ移民(旧移民,the old immigrant)と区別し,東欧系の移民とともに「新移民(the new immigrant) 【追H20時期(19世紀前半ではない)と呼ばれることがあります。



1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現④マルタ
 イギリスに併合されていたマルタ島は,その商業的・軍事的な重要地点として活用されていました。1869年にスエズ運河が開通すると,ジブラルタル海峡とエジプトの中間地点に位置するマルタ島の重要性は,さらに高まりました。


1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 「自由な競争が認められ,成功した人は,従来のように身分ではなく,才能や財産によって評価される」そんなしくみが,イギリスの社会を変えつつありました。政治家にのぼりつめた成功者は,自由な社会をつくるために新たな法律をつくり,ビジネスチャンスを求めて,国の力で海外に市場や支配地を求めるようになっていきます。イギリス製品を“自由”に売り込み,その原料や,農業をやらなくなった分だけ必要になった農産物の輸入を“自由”におこなう(自由貿易)を,武力を用いて他国(インドのムガル朝や,中国の清)に求めていく手法を,自由貿易帝国主義と呼ぶ研究者もいます。

 この時代に国を股にかけて活動したのが,ユダヤ人の
ロスチャイルド家です。すでに18世紀後半にドイツのフランクフルトで〈マイアー・アムシェル・ロートシルト〉(17441812)が,貴族への貸付を行うユダヤ人銀行家(宮廷ユダヤ人)として成功してました。彼の5人の息子は,フランクフルト・ウィーン・ロンドン・ナポリ・パリに支店を開業。1842年からはドイツの鉄道建設事業に投資をし,巨利を得ます。ロンドンとパリのロスチャイルド家は,のちに日露戦争のときに日本に巨額の貸付けを行ったことで知られます。ロスチャイルド家のような大銀行資本が,政府と結びついていく時代の到来です。

 安くて質の良いイギリス製品が,黙ってみていればドバドバと流入してくる現状に,プロイセンはさすがに焦りを感じていました。1851年にはロンドンで
第一回万国博覧会(万国産業製作品大博覧会【東京H20[1]指定語句】【セH25,セH29試行 1932年ではない】【追H30が開かれ,入場者600万人以上という大成功を収めます。このとき,プロイセンもクルップ社の巨大な大砲を展示し,“軍国主義”的なイメージを来場者に与えることになりました。
 会場には,鉄骨とガラスを使った大規模な
水晶宮(クリスタル=パレス) 【追H30という建築物が登場し,国内外の人々を驚かせました。鉄を用いた建築技術や,照明技術の発達により,19世紀後半には大規模な建築物が次々と作られることになっていきます。

 これに焦ったフランスの自由主義者(産業資本家)は,ナポレオンの甥(おい。ナポレオンの息子(〈ナポレオン2世〉)には,妻子がいなかったため,甥が選ばれたのです)である〈
ルイ=ナポレオン【セH7を支持し,1852年には〈ナポレオン3世(185270)として第二帝政を開始します(一度目は〈ナポレオン1世H14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)

 二月共和政となった
フランスでは,臨時政府が〈ルイ=ブラン(18111882) 【セH12【追H9の学説を実践にうつし,国立作業場(こくりつさぎょうじょう,Atelier national)を設置しました【セH12。しかし,国立作業場の実態は“自転車操業”状態であり,閉鎖に追い込まれました。こうした失政により急速に支持を失い,四月選挙で敗退。労働者らは六月暴動(六月蜂起)【セH7 1848年にルイ=ナポレオンが鎮圧したわけではない】を起こし社会不安が起きる中,11月には新しい憲法(三権分立)が制定されました。新憲法の下で立法議会の選挙が行われると,保守的な旧・王党派の秩序党が勝利。秩序党は労働者や農民の権利を縮小するため,1850年に国民の選挙権を制限する方針を示しました。
 そこに現れたのがナポレオンの甥〈
ルイ=ボナパルト(18081873) 【セH13時期(180285)です。彼は「男子普通選挙を守る!」とアピールし,圧倒的支持のもと1851年にクーデタを成功させ立法議会を解散し,人民投票でも圧倒的な賛成を受けました。さらに,1年後の1852年には帝政復活を人民投票で実現し,なんと皇帝に即位しました(第二帝政)。これが〈ナポレオン3世(185270)です。彼は,国内の多様な集団の利害を,一見民主的な手続きをとりつつ,〈ナポレオン〉の甥という権威のもとで巧みにコントロールする政治手法(いわゆる“ボナパルティズム”)を用いました。フランスの国際的・経済的な発展を望んでいた多くの国民によって,彼の体制は支持されました。
 当時の資本家や政治家の注目を集めていたのは〈
サン=シモン(17601825)【追H9ラッダイト運動を指導していない】の考え方()。彼は言います。
 「豊かになれば貧しさは消滅し,貧富の差もなくなる。政府は積極的に産業の振興につとめるべきだ」
 〈ナポレオン3世〉は「産業者」が政府に参加して経済を成長させるべきだ」と考える経済学者らをブレーンにつけ,経済改革を断行しました。例えば,
スエズ運河【東京H15[1]指定語句】【セH14地図】建設(1869年開通【セH18時期,H29時期】)を主導した〈レセップス(180594) 【追H9 パナマ運河を建設していない】も〈ナポレオン3世〉のブレーンとなったサン=シモン主義者の一人です。
 鉄道網を整備したり,金融機関をつくって企業に投資する資金を確保したりなどして,1830年代に始まっていた
産業革命(工業化)いよいよ本格化させ1860年代には完了させました(フランスの産業革命(工業化)の進行は比較的ゆっくりとしたペースです)。当時に社会福祉を充実させる政策もとっていきます。
()同時期の社会思想家に,『愛の新世界』を著した〈フーリエ(17721837)【追H9二月革命後のフランス臨時政府に参加していない】がいます。彼は『四運動の理論』(1808)において,社会にも自然科学のように運動の法則があると主張し,理想的協同体(ファランジュ)の建設をめざしましたが,同時代に評価はかんばしくありませんでした。

 1860年になると,〈ナポレオン3世〉はいっそう自由主義的な政策をとるようになっていきました(自由帝政ともいわれます)。やはりサン=シモン主義者の経済学者・政治家の〈シュヴァリエ〉(180679)は,「すでにフランスは自由貿易をするための体力が整った。保護貿易はやめ,自由貿易のほうが国にとってメリットが大きい」と考え,自由貿易を推進する英仏通商条約を結びました。
 一方,この頃,画家の〈
クールベ(181977)は「石割り」で,民衆の生活の苦しさを描いています。このように社会問題をありのままに表現しようとする美術は,「写実主義」と分類することが多いです。ほかに,七月王政に対する風刺版画で有名な〈ドーミエ(180879)が知られます。
 しかし,産業革命(工業化)により都市化が進むに従い,伝統的な農村の風景にこそ”忘れてしまった人間らしさ”があるのではないかと考える人々も現れます。代表的な
自然主義の画家に,バルビゾン村の貧農の農作業を描いた「落ち穂拾い」〈ミレー(181475) 【セH18ルノワールではない】や,風景画を描いた〈コロー(17961875)がいます。

 一方〈ナポレオン3世〉は,18531856
【京都H19[2]年号】クリミア戦争【京都H19[2]】【東京H20,H26[1]指定語句】【追H9【早法H30[5]指定語句】で,イギリス【追H9サルデーニャとともにロシア【セH27ロシア側ではない】【追H9の〈ニコライ1世〉(18681918,位18941917)と戦い,圧倒的な覇権を誇っていたイギリスにすり寄り,ロシアの南下を防ごうとしました(ロシアの皇帝は途中から〈アレクサンドル2世〉【セH25クリミア戦争を始めたのはニコライ1世】)
 また,1859年の
イタリア統一戦争185660の清(しん)とのアロー戦争【セH12時期(1880年代かを問う)1862年のインドシナ出兵などなど,海外進出を加速させていきます。186167年には,南北戦争(186165)中のアメリカ合衆国のスキをついて,メキシコへの市場進出をねらいメキシコ出兵【セH6ヴィルヘルム1世によるものではない】【セH13時期(19世紀後半),セH19時期】もしています(これは最終的には失敗して撤退)
 1867年にはパリで万国博覧会がひらかれました。これには日本(江戸幕府と薩摩藩と佐賀藩)が初めて出展し,“
ジャポニスム(日本趣味)が流行するきっかけとなり,フランスの美術界(とくに後の印象派)に影響を与えます。なおこのとき派遣された〈徳川昭武〉(徳川慶喜の弟,18531910)は,フランス滞在中に大政奉還の知らせを知りますが,そのままパリでの留学を続け,1868年に帰国しています

 この時期に隣国フランスの急成長に対し危機感を高めていたのが,〈
ビスマルク(181598) 【セH9【早法H28[5]指定語句】です。1862年にプロイセンの首相に就任(186290)し,1864年にデンマーク戦争ホルシュタイン州とシュレスヴィヒ州を獲得【セH30。さらに1866年にプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に勝って【セH13敗れていない・統一ドイツへのオーストリア編入を断念したわけではない】,マイン川よりも北の諸領邦・都市の連合国家(北ドイツ連邦【セH14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】)をつくります。オーストリアは,領内のマジャール人の不満を押さえ込むことができなくなり,1867年にハンガリーに自治権を与え,オーストリア=ハンガリー(二重)帝国としました。

 北ドイツ連邦に加盟していなかったのは,
バイエルンをはじめとする南ドイツの諸邦です。これらの国家はカトリックであり,ルター派が多数の北部とは異質でした。しかし,南ドイツ諸邦とっての悩みは,隣国フランスの脅威です。
 「フランスとの戦争になったら,北ドイツ連邦を頼るしかないのではないか」
 南ドイツ諸邦は悩みます。

 そんな中,1868年空位になっていたスペイン王位に,
ホーエンツォレルン家(プロイセン国王の血筋です)をつける案が浮上。フランスは「そうなると,プロイセンの王家に,東西を挟まれることになる。反対だ!」と主張。結局スペイン王には〈ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世〉の次男が就任しましたが,疑心暗鬼のフランスはその後もプロイセンと交渉を続けます。交渉の場は,ドイツの温泉地エムス。保養中の〈ヴィルヘルム1世〉と「直接交渉させてほしい」というフランス大使を,皇帝は拒否しました。
 すでにアメリカの〈
モース(モールス)(17911872) 【追H20コッホではない】が,点と線の組合せによるモールス電信(1838年頃まで)という有線電信を実用化させていました。エムスでの交渉結果はすぐに電報で〈ビスマルク〉に送られます。受け取った〈ビスマルク〉は,「〈ヴィルヘルム1世〉が,フランス大使を追い返した」というところにポイントをしぼり,メディアに情報を流しました。それを聞いたフランス国民は「なんて失礼な国王だ!」と戦争賛成に世論が傾き,それに押されて〈ナポレオン3世〉も開戦を決意しました。

 〈ビスマルク〉はフランスをけしかけるために電報を利用し,「フランスが攻めてくるから,一緒に戦おう」と南ドイツ諸邦の支持を得ようとしたのでした。事前に周到な準備を重ねていた〈ビスマルク〉にとって,欲しかったのは「フランスのほうから攻めてくる」という状況だったのです。〈ビスマルク〉の画策していたとおり,7月19日にフランス議会が参戦を決議し,プロイセンに宣戦布告。〈ナポレオン3世〉は用意不足を自覚しつつ進軍し,プロイセンは「電撃戦」によって迎えました。結果的に〈ナポレオン3世〉も捕虜となりました(
普仏戦争【セH27勝利していない】アルザス地方とロレーヌ地方【セH24ウィーン体制の結果ではない】も,プロイセンにより占領されました。

 プロイセン国王〈
ヴィルヘルム1世(プロイセン王在位186188) 【セH6メキシコ出兵をおこなっていない】は,1871年にフランスのヴェルサイユ宮殿で,南ドイツ諸邦を含むドイツ帝国(18711918) 【セH14ドイツ(ヴァイマル)国とのひっかけ】の初代皇帝(187188)に即位しました【セH6国民投票によるものではない】【セH18。このとき宮殿を戴冠式に使用したことは屈辱的な行為として,フランス国民の記憶に刻まれることになります。



1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
 産業革命(工業化)の結果,19世紀後半には大半の人が都市に住むようになり,ロンドンの人口は膨れ上がっていきました。都市労働者の通勤が増加したことで,馬車の利用が増え,1858年には(馬糞による)大悪臭といわれる公害が発生。18324865年にはコレラも発生しました。そこで,生物学の発展で感染症の発生を防ぐ公衆衛生の必要性が知られるようになると,下水道や上水道の整備が急ピッチに進み,1863年には世界最初の地下鉄(ロンドン=アンダーグラウンド,チューブ)が運行,1891年までに下水道が整備されていくことになりました。しかし,石炭の煤(すす)が原因のスモッグの問題はながらく解決されませんでした。
 ただ,「地下鉄」といっても,その経路は地表すれすれの浅い路線に限られ,動力も蒸気力でした。しかし,動力に電気が用いられた地下鉄道
【東京H15[3]が開発されると,1890年にはテムズ川底を横切る路線も開業します(パリは1900年,ベルリンは1902年,ニューヨークは1904)

イギリスでは1856年に〈ベッセマー〉(181398)が,安価に鋼を大量生産できるベッセマー法を完成させました。今後,はさまざまな巨大建造物(工場・高層ビル・鉄道・自動車・蒸気船),さらにもちろん軍事技術に応用されていくことになります。
 また,世界初の実用的
海底ケーブル1850年にイギリスのドーバーとフランスのカレーの間にしかれました(翌年開局)大西洋横断ケーブル1858年に開通(直後に停止,1865年に復活)。これらの有線通信は,イギリスが世界中を植民地支配するにあたっても,大変便利な科学技術となりました。
 
 そんな中,〈
ベンサム〉の主張していた功利主義を発展させたのが,イギリスの〈J.S.ミル(ジョン=ステュアート=ミル,18201903) 【慶文H29です。彼は〈ダーウィン〉の進化論や,〈イエス〉の隣人愛の思想の影響を受けながら,人間は良心を持っているのだから外部から強制されなくても自然と社会全体の幸福を高めていくことができる存在だと主張しました。主著は『自由論(1859),『功利主義論』(1861)で,1865年には下院議員に当選し,選挙法改正運動でも活躍しました。
 しかし,実際には資本主義社会はさまざまな問題も生み出していたのですが,功利主義の思想家〈
スペンサー(18201903)は,人類の社会はどんどん良くなっていくものだから(社会進化論),必ず解決できるはずだと論じました。このように,ノリにのっているイギリスの思想では,ある意味”楽観的な”思想が主流だったのです。

 産業革命(工業化)が進行し,農村部の人々が都市部に移動すると,もともと農村で行われていたスポーツが都市の中流・上流階級にも伝わるようになりました。交通革命によって遠距離移動がカンタンになると,中・上流階級の通うパブリックスクール大学同士の交流試合も増えていきます。ただ,そうした伝統的なスポーツはちょっと暴力的で,お祭り騒ぎからケンカ騒ぎに発展してしまうこともしばしばだったことから,“お行儀よく紳士的に”競技を行うためにルールの策定が必要になりました。例えば,1863年にロンドンでフットボール・アソシエーションが設立され,今日のサッカーが生まれました。また,テニス1873年に軍人〈ウィングフィールド〉が考案し,1877年に第一回ウィンブルドン選手権が開催されました。
 こうしてスポーツは,統一の規格への標準化が進んで,フェアプレーの精神が強調されていくようになるとともに,酒や遊びに気を取られるのではなく,マジメでちゃんとした青少年育成のための手段と考えられるようになっていきます。また,国家も,軍事力増強のために“健康で力強くたくましい”男子を育てる手段として重視するようになっていきます。



1848年~1870年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
 1839年に独立が正式に認められた低地地方南部のベルギーはイギリスとフランスの間でうまくバランスをとろうとし,事実ベルギー国王〈レオポルド1世〉は,〈ヴィクトリア女王〉の親戚であるとともに,フランス七月王政の王〈ルイ=フィリップ〉の娘と結婚しています。
 独立後のベルギーにはイギリス・フランスからの資本が投下され
産業革命(工業化)が起きました。国内では石炭が産出され鉄鋼業も栄えます。1850年にはベルギー国立銀行も設立されました。
 1865年にはその子〈
レオポルド2世(18651909)が王位を継承しました。
 
ルクセンブルクでは国内に鉄鉱石が発見され,1834年に発足したドイツ関税同盟の一員として工業化を進めていきました。

 なお,1860年には日本の〈
勝海舟(かつかいしゅう)〉艦長が(かん)臨丸(りんまる)に乗って,アメリカ合衆国のポーハタン号とともに日米修好通商条約の批准書を交換するためにアメリカ合衆国に旅立っています。この咸臨丸はオランダ製です





1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現①フィンランド
 大公をロシア皇帝が兼ねるフィンランド大公国では,従来のスウェーデン語(フィンランド貴族はスウェーデン語を話していました)でもなくロシア語でもない,フィンランド語による独自の文化を守ろうという運動が起きています。それに対し,スウェーデンやデンマークではスカンディナヴィアの一体性を説くスカンディナヴィア主義も唱えられ,フィンランド人の民族意識は東(=ロシア)と西(=フランスを初めとする西欧),またはスカンディナヴィアという共通項とフィンランドという独自性をめぐって揺れ動いていました。
 またフィンランドの南部にはスウェーデン語を母語とするスウェーデン系フィンランド人も居住していましたが,1809年にフィンランド大公国が建設されると,これを建設したロシアは彼らを「フィンランド人」として統治に組み込みました(例えば,のちにキャラクター「ムーミン」を生み出した絵本作家の〈トーベ=ヤンソン〉(19142001)も,スウェーデン系フィンランド人です
【セH30地理B)

 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とする
クリミア戦争(185356) 【東京H20,H26[1]指定語句】が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(185581)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。


1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現②デンマーク
 1846年にイギリスが穀物法を廃止したことを受け,デンマーク王国はイギリス向けの農産物輸出を本格化させていきました。1864年にはプロイセンとの戦争でスレースヴィとホルステン(ドイツ語ではシュレスヴィヒとホルシュタイン)を失うことになるものの,教育機会にも恵まれた自作農らによる積極的な荒れ地の開墾と畜産・酪農の発展が進められ,協同組合を設立して輸出を増やしました。デンマークで生産されたベーコンやバターは,“イギリス人の朝食”にとって欠かせないものとなりました()
()百瀬宏・熊野聰・村井誠人『世界各国史21北欧史』山川出版社,1998p.247

1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現③アイスランド
 デンマークの支配におかれていたアイスランドはイギリスへの接近を図り,漁業や食品加工業によって国力を高めつつ,1843年に復活した諮問議会のアルシングを中心に,デンマークからの独立志向を強めていきました。
 デンマークは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に植民地を建設していました,1850年にイギリスに売却されました。
 また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がる
ヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄え,奴隷貿易は1807年に廃止されていましたが,奴隷制は1848年に廃止されました。インド東南のベンガル湾上に浮かぶニコバル諸島は1868年にイギリスに売却されました。

 フランスの二月革命を震源としてヨーロッパ全域に自由主義と民族主義を求める動きが広がりましたが,ユトランド半島の
南ユラン問題(スレースヴィ(シュレスヴィヒ)とホルステン(ホルシュタイン)の帰属をめぐる対立)を抱えるデンマーク以外では情勢は比較的落ち着いていました。
 デンマークでは,〈クリスチャン8世〉(183948)に代わった〈フレデリク7世〉(184863)がスレースヴィ=ホルステン公国の併合を表明すると,184852年に第一次スレースヴィ=ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)戦争が勃発。両者は成果を得ないまま,ロンドンで講和しました。

 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とする
クリミア戦争(185356)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。

 その後,1863年にデンマーク王国はホルステン(ホルシュタイン)をデンマークから切り離し,スレースヴィ(シュレスヴィヒ)はデンマークに残すという方針に憲法を改正。それに反発したプロイセンの〈ビスマルク〉首相は王位継承規定が先のロンドンでの講和の規程に反していると主張し,オーストリアを誘って開戦し,
第二次スレースヴィ=ホルステン(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン)戦争(いわゆるデンマーク戦争)が始まりました。〈ビスマルク〉は,スレースヴィユトランド半島の付け根を獲得することで,北海とバルト海を結ぶ運河を建設したかったのです。降伏したデンマークは,ホルシュタインをオーストリアの管理下,シュレスヴィヒとキール港をプロイセンの管理下に置き,ラウエンブルクをプロイセンに買収させました。しかしオーストリアのホルシュタイン管理をめぐる対立からプロイセンはオーストリアと対立,1866年の普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)に発展しました。
 その後のデンマーク人にとって,デンマーク人の住むスレースヴィ(シュレスヴィヒ)北部の返還が,政治的な宿願となりつつ,先述のように内政と国力の充実が優先されるようになっていきます。このへんの話は宗教家〈内村鑑三〉(うちむらかんぞう,18611930)によって感銘をそのままに『デンマルク国の話』で語られています
()
(注)内村鑑三『デンマルク国の話』青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000034/card233.html以下,青空文庫より引用「デンマークは1864年,ドイツ,オーストリアに迫られて開戦に追い込まれる。敗戦によって国土の最良の部分を失ったこの国は,困窮の極みに達する。そのヨーロッパ北部の小国が後に,乳製品の産によって,国民一人あたりの換算で世界でももっとも豊かな国の一つとなった。荒れ地を沃野に変えて国を蘇らせたのは,天然と神に深く信頼し,潅漑と植林の技術をもって樹を植える事に取り組んだ人の営為だった。」


1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑤ノルウェー
 ノルウェー王国1814年以降スウェーデン王国との「同君連合」をとっていましたが,それも名ばかりで,外交権はスウェーデンが持ち,スウェーデン優位の体制となっていました。

1848年~1870年のヨーロッパ  北ヨーロッパ 現⑥スウェーデン
 大陸で,ロシアとオスマン帝国に対するイギリス・フランスを中心とするクリミア戦争(185356)が勃発すると,北ヨーロッパのバルト海に戦場が波及するのを恐れ,スウェーデンとデンマークは中立を宣言しています。クリミア戦争後にロシア皇帝〈アレクサンドル2世〉(185581)は自由化を進め,フィンランドでは議会・地方自治・教育・金融制度といった近代化改革が進行し,フィンランド語の地位向上も約束されました。