●1815年~1848年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展③ (沿海部への重心移動),南北アメリカ:
独立①

産業革命の波が欧米に波及し,各地で自由主義と保守主義の対立が勃発する。依然としてアジアの経済は盛ん。交通革命により,帆船は蒸気船に,馬・ラクダは鉄道に交替する。

◆ユーラシア大陸・アフリカ大陸
・政権の中心が,ユーラシアの遊牧民エリアから,沿岸地帯に移る。
・ヨーロッパ勢力が海の道に参入し,各地に拠点を設ける。

◆南北アメリカ大陸
南北アメリカ大陸では,ヨーロッパからの植民者の独立が進む。

時代のまとめ
(1)
イギリスの産業(インダストリアル)革命」(蒸気力による機械工業化)(注1)がヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国に伝わり,「国際分業」が進展していく。
(2)
一方,東アジアを中心に労働集約・資本節約的な「勤勉(インダストリアス)革命」が進行しており,アジアの域内貿易は盛んであった。
(3)
「交通革命」により,地球のネットワークの規模が広がり,新・旧大陸の交流も活発化する。


 ヨーロッパでは保守主義に対する自由主義急進主義の運動が活発化する。北アメリカではアメリカ合衆国がインディアン諸民族と対決しながら(インディアン戦争),経済的な自立を進めた。南アメリカではヨーロッパ向けの一次産品の輸出を支配する大土地所有者の支配が残り,ヨーロッパの資本への従属が進んだ。
 西アジアでは,
オスマン帝国の領域内の反政府運動に西ヨーロッパ諸国が結びつき東方問題が深刻化した。イギリスの東インド会社の商業活動が廃止されると,東インド会社による南アジア・東南アジアの統治が本格化していく。清は朝貢貿易をゆるやかなものにしようとしたが,イギリスとのアヘン戦争に敗北し,開港と不平等条約の締結を余儀なくされた。この情報を受けた日本では,近海に現れていたロシア,イギリス,アメリカ等の外国船に対する対応を軟化(なんか)させるとともに,海防のために西洋技術の導入を急いだ。他方,の弱体化を背景に,インド洋・南シナ海・東シナ海の海域世界では民間商人のネットワークが活性化し,アジア域内交易が盛んになっていきます。

解説
 ヨーロッパでは自由主義的な運動への反動から,君主国による主権国家体制への揺り戻し(ウィーン体制)が形成されましたが,フランスを“震源地”とする革命(1830年の七月革命1848年の二月革命)の影響により崩壊に向かいます。
 
北アメリカでは,特にアメリカ合衆国がヨーロッパからの政治的・経済的な自立が進みましたが,先住民のインディアン諸民族の抵抗は続きました。
 
南アメリカはスペイン植民地からの独立運動が成功し,アルゼンチン,チリ,ボリビア,ペルーなどの共和国が独立を達成しました。しかし,独立後にも大陸生まれの白人層(クリオーリョ)は勢力を持ち,イギリスを始めとする対外資本と結び付いて現地の政治・経済を握る体制がつくられていきました。南アメリカ諸国はスペインから独立したものの,今度はイギリスに対する経済的な従属を強めていったのです。
 
アジアではヨーロッパ諸国による領域支配が進められ従属が進んでいきましたが,現地の政権や住民による抵抗運動も起きました。イギリスは清をアヘン戦争(184042)で開国させ不平等条約を締結させるなど,武力で自由貿易を押し付けようと試みました。しかし,清の弱体化を背景に,アジアの地域間の交易ネットワークはより一層活性化に向かうことになります。「アヘン戦争の衝撃によって,東アジアの政治・経済体制が何から何まで変動した」(ウェスタン=インパクトといいます)というのは言い過ぎで,欧米の進出を受けながらも,アジアの海域世界では各地の商人ネットワークが張り巡らされていった点は重要です(注)
 アヘン戦争の情報を受けた日本では,1825年の無二念打払令(むにねんうちはらいれい)(異国船打払令)1842年に
薪水(しんすい)給与令(きゅうよれい)(ゆる)められ,西洋技術を導入した大砲鋳造などで海防の強化を急ぎました。
 
アフリカでも各国による内陸部の探検がはじまり,沿岸部だけではなく内陸部の領域支配に向かっていくと,現地の政権や住民による抵抗運動が起きています。1830年にはフランスがアルジェリアに進出しています。
 
オセアニアではオーストラリアやニュージーランドへのイギリスの進出が本格化し,世界経済に結び付けられていきました。
(注)濱下武志『香港―アジアのネットワーク都市』筑摩書房,1996。濱下武志『朝貢システムと近代アジア』岩波書店,2013



●1815年~1848年のアメリカ

1815年~1848年のアメリカ  北アメリカ
モンロー主義の下,太平洋方面に領土を拡大する
1815年~1848年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国
 
イギリスからの独立を勝ち取ったアメリカ合衆国は,人口の増加にともない領土を拡大する必要から,先住民のインディアン諸民族の地域への進出を本格化させていきました。スペイン植民地だったフロリダでは,スペインと組んだセミノール人との間第一次セミノール戦争(181718)が勃発します。司令官は,〈モンロー〉大統領(181725)に命じられた〈ジャクソン【東京H19[3]】(のちの大統領(182937)) 【追H21】です。敗れたセミノール人はその後も,さらに2度のセミノール戦争(183542第二次,185558第三次)を戦うことになります。アメリカの関わった戦争としては,最も長期間にわたるものでした。

 こうした内政問題もあり,建国の父・初代大統領〈
ワシントン(178997) 【セA H30】は,アメリカは内向きの国であるべきだ,と考えていました。新大陸に位置するアメリカは,アメリカ大陸の防衛に専念するべきであり,旧大陸のヨーロッパと関わるべきではないという考え方です。
 旧大陸には貴族制度や封建制度がありますが,アメリカには貴族も封建制度もありません。まったく新しい価値観によって生まれたアメリカが,ヨーロッパの国際政治にかかわることによって,予期せぬもめごとに巻き込まれることを恐れたということでもあります。

 この“内向き”政策を「孤立主義」といい,1812年に始まったアメリカ=イギリス(米英)戦争の勝利の後,アメリカの基本的な外交方針になっていきます。

 内向きなアメリカにとっての一番の心配事は,インディアン諸民族の抵抗です。また,中米・南米の多くが,スペインやポルトガルの植民地であったことも悩みのタネでした。しかし,ヨーロッパにナポレオン旋風が巻き起こり,スペインやポルトガルがナポレオンに屈すると,植民地だった地域が次々に独立を開始しました。

 それに対してヨーロッパで,ウィーン体制を推進していた〈メッテルニヒ〉は,独立を阻止する動きをみせたため,1823年に〈モンロー〉大統領(181725)が「今後ヨーロッパ【セH19アジアではない】は,アメリカ大陸【セH19アフリカ大陸ではない】に植民したり,政治に首を突っ込んだりしないでほしい」と,議会に送る教書のなかで述べました(モンロー宣言(教書) 【東京H10[1]指定語句】【セH19,セH23時期】)。そうすれば,かわりにヨーロッパ諸国の争いにも介入しないわけなので,大規模な軍隊を維持しておく必要もなくなります。

 1818年には,イギリスとの協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。
 また,
1819年にはスペイン王国【セH3メキシコではない】からフロリダ半島周辺【セH3】【明文H30記】を買収しています。

 米英戦争後,インディアン諸民族はますます劣勢になっていきました。1830年には〈ジャクソン〉大統領(182937) 【追H21】が,インディアン強制移住法【東京H25[3]】【追H21,H30】【上智法(法律)他H30】に署名し,先住民をミシシッピ川以西【セH29試行】に置いたインディアン準州(現在のオクラホマ州)の保留地に移住させ,白人社会に同化させようとする政策が実施されていきました。〈ジャクソン〉は,白人男子普通選挙を実現させ【セH25ホームステッド法とは関係ない】【追H21女性ではない】,その政策は“ジャクソニアン=デモクラシー”と讃えらるた一方で,181314年には,インディアンのクリーク人181718年にはフロリダのインディアンセミノール人に対する戦争を指揮したように,インディアンに対しては超強硬派でした。1838年~39年に,1300キロメートルもの道を移住させられた12000人中8000人以上のチェロキー人犠牲者となり,そのルートは「涙の旅路」として記憶されています。
 また,さらなる進出にともない,大平原北部のスー人コマンチ人シャイアン人といった狩猟生活を行う民族は,馬を利用するようになっており,騎馬によってアメリカ合衆国の人々(アメリカ人)の進出に激しく抵抗するようになっていきました。彼らは,夏至の頃に大自然の力を回復させるためにおこなうサン=ダンスという儀式を行うことで有名です。
 また,南西部の
アパッチ人も沙漠などでしばしばアメリカ人を襲撃しました。

 1845年には,すでにメキシコからの分離を勝ち取り独立していたテキサス共和国を,アメリカ合衆国が併合する形で,テキサス【セH3イギリスからの購入ではない】【セH24米墨戦争の結果ではない,セH25時期】【追H20米英戦争の結果ではない】が併合されました。
 
1846年には,米英戦争の後イギリスとアメリカが共同で領有していたオレゴンが,オレゴン協定によって北緯49度線を境にカナダとアメリカ合衆国に分けられることになり,現在のワシントン,オレゴン,アイダホが成立しました。
 さらに,
1848【セH10時期(191世紀半ばか)に現在のカリフォルニア【セH3スペインと戦ったのではない】,ネヴァダ,ユタ,アリゾナ周辺をメキシコから買収します【セH6 「19世紀初頭にアメリカ合衆国を代表する貿易港に発展した」わけではない】
 カリフォルニア
【セH10が州に昇格したのは,金が見つかり(ゴールド=ラッシュ【東京H14[1]指定語句】) 【セH5 16世紀以降に大量の金が東アジアに流れ込んでいない,セH10時期(19世紀半ばか) 【セH22アメリカ「西部」かどうかを問う】【セA H30グラフ(ゴールド=ラッシュの時期を問う)】人口が激増した【セH10からです。多くの人は時すでに遅しで金を採掘できずじまい,49年に到着した人々は「もう遅いよ」ということで“フォーティーナイナーズ”とあだ名されました。
 同じ頃,ミシシッピ川流域では淡水真珠が発見され,パール=ラッシュが勃発。ティファニー社がさまざまなブローチを生産し,第二次世界大戦後にプラスチック製ボタンが隆盛となるまで栄えます
(注)
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013p.122

 この時期のアメリカ合衆国では〈エドガー=アラン=ポー〉が「アッシャー家の崩壊」(1839),「モルグ街の殺人」(1841),「黄金虫」(1843)を著し“推理小説の父”とされています。科学的な知見を小説に織り込む試みは,のちフランスの〈ジューヌ=ヴェルヌ〉(1828~1905)にも影響を与えました。

 カナダでは,イギリスからの移民が増加し,カナダにおけるイギリス系住民が増えていきました。また,1846年にイギリスで輸入穀物に関税をかける穀物法が撤廃された【セH24穀物法は「輸入穀物の関税を撤廃していた」わけではない】ことで,モントリオールで木材や小麦を輸出していた商人は打撃を受けます。





1815年~1848年の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
◆中央アメリカ,カリブ海,南アメリカのスペイン・ポルトガル植民地生まれの白人(クリオーリョ)が,本国からの独立運動を成功させた【共通一次 平1:クリオーリョが「独立運動に反対した」わけではない】
 スペインやポルトガルの植民地であった「ラテン=アメリカ」ではスペイン,ポルトガルからの独立運動がいよいよ本格化します。アメリカ合衆国と同じように,
植民地生まれの白人(クリオーリョ【東京H10[1]指定語句】)が主導し,この時期に9つの共和国と1つの帝国(ブラジル帝国)が成立しました。
 いずれの国でも
自由主義が重視されたものの,イギリスの強い影響下に置かれます。産業革命(工業化)が軌道に乗っていたイギリスは,自由に製品を売ることができる相手として,中央・南アメリカの新興国家を選んだわけです。
 同時に,これら諸国は工業製品の原料や農産物,畜産物の仕入先にもなりました。独立を支援
【共通一次 平1:反対して干渉したわけではない】したのはイギリスのトーリー党(〈リヴァプール伯爵〉(任1812~27)内閣の自由主義派〈カニング外相(外相任1807~09,22~27,首相任27)です【セH18ジョゼフ=チェンバレンではない】。〈カニング〉は,市場拡大をねらって,ラテン=アメリカのスペイン植民地の独立運動を援助しました(〈カニング〉外交)【セH5




1815年~1848年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…現在の①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

1815
年~1848年のアメリカ  中央アメリカ  現①メキシコ
メキシコではメスティーソとインディオの独立運動を,クリオーリョが鎮圧し,地主寡頭制の下で輸出向け作物の増産が図られた
◆メキシコは1821年に独立する
 さて,メキシコ(スペイン語ではメヒコ)でも〈イダルゴ〉神父(17531811)が農民中心の独立運動を起こしました。1810年の「ドロレスの叫び」演説で独立を訴えますが,クリオーリョを運動に巻き込むことができず1811年に処刑されました。でも結局クリオーリョが反乱を起こして,1821年に独立を達成しました。

 メキシコは182123年に共和政をとり,1822年には中央アメリカのコスタリカ,ニカラグア,ホンジュラス,エルサルバドル,グアテマラとともに中央アメリカ連邦を形成しています。1823年~24年に帝政となるも,1824年には共和政に戻ります(1864)。首都はメキシコシティで〈サンタ=アナ〉(17941876)が独裁権を握りました。

 1845年にアメリカ合衆国はメキシコからテキサスを獲得。この直後にアメリカ合衆国では,自国の領土を拡大していくのは”マニフェスト=ディスティニー 【東京H19[3]】(明らかな運命,明白なる天命)だという論調が展開されました。1846年~48年にアメリカ=メキシコ戦争(米墨戦争) 【セH2アメリカ独立戦争ではない】が起こり,メキシコはカリフォルニアとニュー=メキシコ【明文H30記】をアメリカ合衆国に奪われ,領土は従来の3分の1となりました。



1815年~1848年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
 現在のグアテマラエルサルバドルホンジュラスニカラグアコスタリカはグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
 しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化し,1821年にグアテマラ総督領は独立しました。同年にメキシコに建国されたメキシコ帝国に一時併合されますが,1823年にアメリカ合衆国をモデルとした
中央アメリカ連合として独立しました(182325は三頭政治,182529に〈ファゴアガ〉大統領が就任)。しかし,エルサルバドルとグアテマラの間の内戦により1839年に崩壊し,グアテマラ(1839~大統領制),エル=サルバドル(1841~大統領制),ホンジュラス(1839~大統領制),ニカラグァ(1838~大統領制),コスタ=リカ(1825~国家元首制)に分裂しました()
 
イギリスの武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東部ベリーズには,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となっていました。しかし,スペインから独立した隣接するグアテマラ(182439は中央アメリカ連合州)との国境をめぐる紛争は続きました。
()中央アメリカ連合と,各国の年号は参照 増田義郎「世界史のなかのラテン・アメリカ」増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ メキシコ・中央アメリカ・カリブ海』山川出版社,1999pp.76-86




1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島



1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはイギリス領です。


1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現⑪マルティニーク島
 
フランスはマルティニーク島で黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションを続行し,大儲けしていました。1848年に二月革命により成立した第二共和政が,奴隷制を廃止するまで続きます。



1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ
1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル
◆ブラジルではクリオーリョの支持を受け,平和裏に「ブラジル帝国」が成立する
 ポルトガル
【セH22スペインではない】王室は,〈ナポレオン〉戦争中に摂政〈ジョアン〉を中心にブラジルのリオ=デ=ジャネイロに遷都していました。自由貿易のパートナーとしてイギリスの経済圏に組み込まれていったポルトガル王室支配下のブラジルでは,摂政であった〈ジョアン〉が〈ジョアン6世〉(温厚王,位1816~26)として即位。しかし,植民地生まれのポルトガル人(クリオーリョ)は,イギリスと協力関係を結ぶイベリア半島から渡ってきた半島人との間には亀裂が生まれるようになっていきました。イギリスは奴隷制廃止の方針をとっていましたが,クリオーリョたちはプランテーションに多数の奴隷を使っていたからです。
 1820年にポルトガルでは立憲君主制を実現させようとする革命が起きると,1821年にようやく〈ジョアン6世〉はポルトガルに帰還することになります。このとき,皇太子〈ドン=ペドロ〉はブラジルにとどまりましたが,ポルトガル本国側がブラジルを“植民地”に降格させようとしていることが発覚すると,ブラジル生まれのポルトガル人(
クリオーリョ)たちは〈ドン=ペドロ〉をかついで独立を宣言。こうして〈ペドロ1世〉を“皇帝”(位1822~31)とするブラジル帝国が成立しました。ポルトガル本国はこれを1825年に承認し,帝政はこの後1899年まで続きます。
 ほとんど平和裏に独立を達成したブラジルの例は,ラテン=アメリカでも珍しいものです。帝政は,ポルトガルの王室出身者を担ぎ上げたクリオーリョにより支えられており,プランテーションの所有者による支配が継続していくことになったわけです。国内には多種多様な民族・人種が混在し,ブラジルとしてのまとまりを維持することはカンタンではありませんでした。2010年現在のブラジルの人種構成は,
白人47.7,白人と黒人の混血(ムラート)43.1黒人7.6,アジア系1.1%,先住民0.4%となっています(注 The World Fact Book,Central Intelligence Agencyによる)
 1824年には中央集権的な憲法が成立し,地方では中央政府に対する反乱も起きました。特に以前からスペインとの間で領土問題が起きていた南部ではアルゼンチンの支援を受けて独立が宣言され,1828年にイギリスが調停する形で
ウルグアイ東方共和国が建国されました。
 1831年に支配に対するクリオーリョの抵抗が強まると〈ペドロ1世〉は,たった5歳の〈ペドロ2世〉に譲位してポルトガルに帰国。以降は摂政による統治(1831~40年)となりました。この間,ブラジル各地で政府に対する反乱が多発します
(1824年・1837年に北東部で反乱,1835~40年にアマゾン川流域で反乱,1835~45年に南部で反乱,1839年に北部で反乱,1842年に南部の内陸ミナス=ジェライスで自由派による反乱)。摂政制という不安定な政治体制の下,国内ではブラジル国内に連邦制をしいて共和政を実現させようとするグループ,憲法を制定し皇帝による支配を実現させようとするグループ,〈ペドロ1世〉にポルトガルからもう一度来てもらい絶対主義的な支配を復活させようとするグループなどに分かれ,ブラジルという国の方向性をめぐる争いが続きましたが,結局は〈ペドロ2世〉が1841年から親政することで決着がつきます。
 〈ペドロ2世〉(位1831~89,親政は1841~89)は国内のさまざまな勢力をまとめようと尽力し,自由党と保守党のバランスを重視して,まず1844~48年の間は自由党に政権を担当させました。また,経済的には
コーヒー産業を発展させ鉄道を敷設させ,ポルトガルからは多くの移民を受け入れました。数百万人の移民はブラジルに“ヨーロッパの風”を吹き込ませることとなり,自由主義的な制度やヨーロッパの近代的な文化の定着もすすんでいきました。一方で,奴隷制への取締りを強化したイギリスとの対立も生まれます。


1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ ③ウルグアイ,④アルゼンチン
 アルゼンチンでは,スペインからの自治・独立を求める動きが,アメリカ大陸生まれの白人(クリオーリョ)を中心に盛り上がっていました。しかし,ヨーロッパ文化が根付いたブエノスアイレスと,内陸のガウチョ(牧畜民)らの世界との間には歴然とした違いがあり,両者をまとめて「ひとつの国家」として自治・独立を達成しようとするには,大きな課題が待ち受けていました。さらに,独立国家の体制をどうするかをめぐり,「インカ皇帝を復活させるべき」「共和政にするべき」「スペイン王を迎えるべき(これは独立運動家の〈サン=マルティン〉が主張しました)」など,さまざまな意見がありました。
 そんな中,1816年に南アメリカ連合州(
リオ===プラタ連合州)の独立宣言が先住民の言語であるケチュア語とスペイン語で発表され,インカ皇帝の復活が決められました。
 しかし,この独立を主導したブエノスアイレスのクリオーリョたちは,内陸部からに畜産物を輸出し,ヨーロッパから工業製品を輸出する自由貿易を推進したため,「それでは輸入品により内陸部の手工業が壊滅し,安い価格で畜産物(皮革製品,塩漬けした加工肉)が買い叩かれるだけだ」と内陸部の諸都市はブエノスアイレス主導の国づくりに真っ向から対立します。
 内陸部の諸州は自由貿易に対して保護貿易を主張し,大土地所有者の持っていた権利を守ろうとしました。そのためには少数の大土地所有者たちが少数で政権をまわすほうが,都合がよかったわけです。

 南アメリカ連合州(リオ===プラタ連合州)内部での争いが続く中,スペインからの独立を守るため,周囲の諸地域をスペインから解放するための戦いが続けられました。1817年にはチリへの遠征が独立運動家〈
サン=マルティン〉により試みられ,チリとともにペルーをスペインから解放します。

 その一方で,地方諸州の攻撃により,ブエノスアイレス主導の南アメリカ連合州(リオ===プラタ連合州)1820年に崩壊。
 しかし,地方諸州とブエノスアイレスの対立が決定的となる中,ラ=プラタ川の向こう側にあるバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイに相当)を取り替えそうという機運がが盛り上がり,1825年には独立(1822)間もない
ブラジルとの戦争(ブラジル戦争)となりました。
 ブラジルに対してともに戦う中で連邦は「アルヘンティーナ」と改称。しかし1828年にイギリスが介入する形で,バンダ=オリエンタルは「
ウルグアイ東方共和国」として独立することになりました。

 ラ=プラタ川の向こう側の領域を「ウルグアイ」として独立する形で失ったアルゼンチンでは,ブエノスアイレス主導の国家建設に反対する連邦派の〈ロサス〉が1829年に主導権を握り,1832年に全アルゼンチンを統一しました。
 〈ロサス〉時代には,ブラジルとの間に位置するウルグアイとパラグアイをめぐる領土紛争が激化し,この地への進出をねらうイギリスとフランスも敵に回すことになりました。しかし,1833年にはマルビナス(英語名は
フォークランド)諸島がイギリスに占領されています(のち,1980年代にこの島をめぐってイギリスとの戦争が起きました⇒1979~現在の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ>アルゼンチン)



1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ ⑤チリ
◆チリでは安定した中央集権的な政府の下で,イギリスとの経済的な関係が強まった
 独立を勝ち取った
チリでは,独立運動に関わった〈オイヒンス〉の独裁政権(1819~23)に続き,自由主義派と保守派との対立が続きました。しかし1830年に保守派が勝利し,1833年に憲法が発布。カトリックを保護して〈ポルターレス〉(1793~1837)の下で中央集権的な安定した体制が1860年まで続きました(ポルターレス体制と呼ばれます)。
 この間,イギリスとの関係を強め,工業製品を輸入し一次産品が輸出されました。チリの支配層はこうしたイギリスとの貿易の利益にあずかることになります。
 1836年にはペルー=ボリビア連合に宣戦布告し,1839年にペルー=ボリビア連合を崩壊させました。


1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ ⑥ボリビア,⑦ペルー
◆〈ボリバル〉と〈サン=
マルティン〉を中心に独立戦争が遂行された
 さて,その頃,アルゼンチンでも独立運動が勃発。その知らせを聞いて,急きょ留学中のスペインからふるさとに舞い戻ったのが,同じくクリオーリョの軍人〈サン=マルティン(17781850)です。スペインに残っていれば出世間違いなしのはずであった彼は,「ラテンアメリカ統一」という夢をかかげて,動き出します。彼の計画は,アルゼンチンを拠点にし,チリペルーを解放したのち,ペルーの高地地方(現在のボリビア)を解放するというもの。
 チリとペルーを解放後,なかなかボリビアを攻めることができず困った〈サン
=マルティン〉は,北部で活躍していた〈シモン=ボリバル〉と会談し,「俺を部下にしてくれ!」と頼み込んだそうです。しかしながら,ボリバルは共和主義,サン=マルティンは君主主義だったためにお互いの考えには溝があったのも事実。提携構想は流れてしまいました。
 〈サン=マルティン〉が落とせなかったペルーの高地地方(アルト=ペルー)の解放を託された〈ボリバル〉は,1825年にスペイン軍を破り,独立と南アメリカからのスペイン軍の撤退を勝ち取りました。この地は〈ボリバル〉の名前にちなんで,ボリビアと名付けられました。
 ボリビアの初代大統領には〈シモン=ボリバル〉がむかえられました。この地を近代化させるため,スペイン系の支配層やカトリック教会の持っていた特権を取り上げる改革が行われました。
 やがて,彼の部下たちの間に意見の対立が生じ始めるなか,〈ボリバル〉は後任に副官であった〈スクレ〉(終身大統領任1826~28)を据え,教会財産の没収などの中央集権化が推進されました。このように,
今後の中央アメリカ~南アメリカの政治の基本軸は,スペイン支配時代の遺産(カトリック教会や大土地所有制)を温存する保守派と,それを解体してヨーロッパやアメリカ合衆国といった先進国との自由な貿易を認めようとする自由主義派という2つの勢力の力関係によって動いていくことになります。自由な貿易を認めれば農地や鉱山を持つ大土地所有者は潤いますが,他方で輸入品によって伝統的な手工業や農業が破壊される恐れもあり,これにスペイン系のクリオーリョから先住民に至るまで複雑な民族構成がからんで,さまざまな利害が交錯することとなったわけです。

 
ボリビアでもパン=アメリカ主義を唱える〈ボリバル〉に対する反対派が台頭し,ペルーでは〈マル〉(任1827~29)と〈ガマーラ〉(任1829~33)が,〈ボリビア〉による大コロンビアへの併合をやめさせようとボリビアに軍事的に進出。これによりボリビアの〈スクレ〉大統領(任1826~28)は辞任し,ペルーでも地方に有力者が台頭して混乱の時代となりました。
 そんな中,ボリビアの〈サンタ=クルス〉(任1829~39)がペルーに軍事的に進出し,ペルーとボリビアを合わせました(
ペルー=ボリビア連合)。彼はインカの王族を祖先にもつ母と,スペイン系の父の子として生まれました。
 しかし,〈ポルターレス〉率いる隣国
チリとの対立が強まり,1836年にはチリからの宣戦布告を受け戦争が始まり,1839年にペルー=ボリビア連合は崩壊。〈サンタ=クルス〉はヨーロッパに亡命しました。

 その後,
ペルーでは〈ガマーラ〉大統領(1839~41)の下で,ボリビアを再び併合しようと図りましたが,彼は1841年に戦士。翌年,和平が結ばれました。戦後のペルーでは混乱が続きましたが,混乱を収拾した〈カスティーヤ〉(1797~1867)が大統領となり,中央集権と近代化を推進しました。

 一方の
ボリビアでは,ペルーの軍事的な進出により混乱し,独裁政権が成立することになります。



1815年~1848年のアメリカ  南アメリカ ⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
◆ベネズエラ,コロンビア,エクアドルは大コロンビアとして独立したが,のち分裂した
 ベネズエラではすでにクリオーリョの〈ミランダ(17501816)が,ベネスエラ解放運動をおこしていました。彼はスペイン軍に入隊し,アメリカ独立戦争にも参戦,さらにフランス革命にも参加しているという強者です。その彼がベネスエラでスペイン人を追放し,革命政府を樹立していること耳にし,〈シモン=ボリバル(17831830)は運動に参加しました。彼は指導者としてコロンビアをまず独立させ,ベネスエラとあわせて大コロンビア(グラン=コロンビア)共和国としました。これを拡大させていけば,いつかは「パン=アメリカ主義(アメリカは一つにまとまるべきだという考え)が実現できるというわけです。彼の名は,現在のベネスエラの正式名称「ベネスエラ=ボリバル共和国」にも使われています【セH22ボリバルはキューバを独立させていない】

◆〈ボリバル〉のパン=アメリカ主義に対する抵抗から,大コロンビア共和国が解体。ペルーは混乱するボリビアに進出して連合を形成した
 こうして個々の地域を解放していった〈ボリバル〉は,やがて「旧スペイン植民地を一つにまとめる構想」を抱くようになります。これを
パン=アメリカ主義を提唱といい,アメリカ合衆国に接近して1826年にパナマ会議を開催しました。彼は手始めに第コロンビア共和国にペルー,ボリビアを合体させようと考えていたようですが,実現には程遠く,1830年には大コロンビア共和国がベネスエラコロンビアエクアドルに分解し,失意のうちに引退しました。

 なお,『種の起源』で進化論を論じた〈
ダーウィン〉(1809~1882)は,1831年から海軍のビーグル号に乗って大西洋,太平洋(1835年にガラパゴス諸島,ニュージーランド,1836年にオーストラリアのシドニー)各地を訪れ,進化論の着想を得ました。

◆大コロンビアは分裂し,自由主義派と保守派の対立を経て,少数の有力者による支配が強まる

 1819年に成立した大コロンビア(グラン=コロンビア)共和国は,独立後に内紛が生じて〈ボリバル〉のリーダーシップが低下すると,1829年にベネスエラ,1830年にエクアドルが分離独立しました。残された部分は1831年にヌエバ=グラナダとなり,最終的に解体しました。
 カリブ海沿岸の
ベネスエラでは初代の〈パエス〉大統領(任1831~35)が,中央集権的な〈ボリーバル〉派のやり方に対して地方の独立を重視する政策をとり,教会特権が廃止され,コーヒーやカカオの輸出で経済的には恵まれた出だしとなりました。しかし,独裁化する〈パエス〉のやり方に対し,自由党が結成され抵抗を強めます。1847年には〈モナガス〉将軍が大統領に就任(任1847~51)し,奴隷制を廃止し自由主義政策をとりました。自由主義的な政策をとる〈モナガス〉兄弟による専制的な政権が,この後1858年まで続くことになります。
 パナマを含む
コロンビアはヌエバ=グラナダ共和国として〈サンタンデル〉(位1833~37)大統領の下で再出発を果たし,工業化を進めていきました。
 赤道直下の
エクアドルでは保守派の〈フローレス〉(任1830~35)の下でカトリックが保護されましたが,のち自由主義派の政権(任1835~39)に代わった後,また〈フローレス〉(任1839~45)となり専制化していきます。これに対して1845年に反〈フローレス〉の革命が起き,保守派への揺れ戻しが起きました。のち自由主義派と保守派の内紛や,周辺諸国との戦争により,エクアドルは内外をめぐって動揺します。





1815年~1848年のオセアニア

1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ


1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島

 この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
タヒチ王国がフランスに保護国化される

 1803年にポマレ朝をひらいた〈ポマレ2世〉(位1803~1821)は,イギリスの支援の下,着々と近代化を推進。

 次の〈ポマレ3世〉(位1821~1827)はなんと1歳で王位を継ぎ,6歳で亡くなります。そりゃ目を付けられますよね。1826年にはアメリカ合衆国との通商条約が締結されています。日本よりも30年近く早い締結です(1858年日米修好通商条約)。
 後を継いだのは親戚の〈ポマレ4世〉(位1827~1877)という女性。彼女の長い在位の中で,イギリスやフランスの「布教」名目の進出が本格化していきます。
 フランスは女王不在時に摂政との間に保護国化を認める条約を締結。保護国化への抵抗が,周辺の島々も巻き込んだフランスとの戦争に発展(1843~1847,
フランス=タヒチ戦争)。1847年にフランスが勝利。しかしイギリスからの外交的圧力や,女王〈ポマレ4世〉の絶大な人気を背景に,すぐさま併合することはありませんでした(注)
(注)春日直樹『オセアニア・オリエンタリズム』世界思想社,1999,p.75~p.76。




1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現ニュージーランド
 この頃,ニュージーランドにヨーロッパから商人や宣教師が訪れるようになっています。1822年にウェズリー派が訪れ,その後カトリックも布教されました。マオリ【セ試行「ニュージーランドの先住民」】の中にはイギリスを訪れる者も現れ,ニュージーランドのアイランズ湾周辺のンガプヒ族の大首長〈ホンギ=ヒカ〉は宣教師とともにイギリスで〈ジョージ4世〉に謁見しています。彼は帰国時の1821年に銃が与えられ,それがもとで他部族との戦争に発展,〈ホンギ=ヒカ〉による領土拡張の野望は1828年まで続きました。

 1831年にはフランスの軍艦がニュージーランドに訪れると,イギリスの宣教師・商人とともに現地の首長らは「イギリスに助けを求めよう」という合意をしました。この提案が国王に伝わると1833年に駐在事務官〈バズビー〉がニュージーランドにやって来て,「ニュージーランドの独立を,イギリス国王に認めてもらえば安全は確保される。独立宣言に署名してほしい」と首長らに訴えます。1835年,こうして首長34人の署名により,ニュージーランド部族連合国が成立したのです。もちろんこれには,ニュージーランドを自国の支配下に置きたいイギリスの思惑が絡んでいました。

 一方,イギリス商人もニュージーランドを新たな資源獲得地として注目しており,1838年にはニュージーランド会社が設立され,ニュージーランドの北島と南島にまたがる広大な土地が買収されました。会社の手引きにより,ニュージーランドへの移民も続々と到着していきます。

 この動きをイギリス政府は憂慮。〈ホブソン〉代理総督が派遣され,1840年にマオリの主張たちを集め,アイランズ湾のワイタンギで条約を結びました。これにより,マオリの主張はすべての権利をイギリス国王(王冠)に全面的に譲渡されることが合意されました。その内容がわかっていれば,マオリの首長たちも反対できたはずですが,条約内の「主権」という言葉の翻訳が,マオリ人にはわからない造語によって表現されたため,その解釈をめぐるギャップが生まれることになります。ともかく,この
ワイタンギ条約によってニュージーランド全土がオーストラリアのニュー=サウス=ウェールズ植民地から分離して独立した植民地となり,〈ホブソン〉は初代総督に任命されることとなったのです。




1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 
1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。 



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。



1815年~1848年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
 この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家〈キャプテン=クック(172879)でした。
 
1778年にハワイに到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(クック〉は住民との争いの中で命を落としています)(注)
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(https://www.britannica.com/topic/sandwich)。

 〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは〈
カメハメハ1世(大王)(1736?/58?1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して,白檀(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。

 ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。




1815年~1848年のオーストラリア
 オーストラリアへのイギリス人の入植は,当時は流刑(るけい,犯罪者を島流しにすること)制度によるものでしたが,19世紀前半を通して,次第に囚人の人口に占める割合は減っていきました。

 
ニューサウスウェールズ(南東部)への植民が急速に進行し,囚人ではない人々の人口がほとんどを占めるようになりました。1850年にはオーストラリア初の大学であるシドニー大学が設立され,鉄道も敷設されていきました(1855年にニューサウスウェールズ初の鉄道が敷設)。1851年には,ニューサウスウェールズ州とビクトリア州で金鉱が見つかり,ゴールドラッシュが起きました(オーストラリアのゴールドラッシュ) 【追H20時期(19世紀か)】。移民の増加により【追H20】人口が急激に増加したシドニーでは,急速に工業化が進んでいきます。
 
1863年にはタスマニア島【セH26ドイツ領ではない】で先住民が絶滅しました。冷凍船の発明にともない,オーストリアやニュージーランドからは食肉の輸出も始まっています。





1815年~1848年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア

1760
年~1815年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種である白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触しています。


1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 
1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン=マーシャル〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。



1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。



1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。


1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1815年~1848年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 この地域は
スペインの支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島のチャモロ人はグアムに移住させられたとみられます。
 




●1815年~1848年の中央ユーラシア

中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
1815年~1848年の中央ユーラシア  タリム盆地
(新疆(しんきょう))
 
184042年のアヘン戦争により疲弊した清は,新疆やコーカンドの商人に対する課税を強化したため,イスラーム教徒(回民と呼ばれました)による反乱が起こるようになっていきます。

1815年~1848年の中央ユーラシア タリム盆地~アム川・シル川流域

 新疆を通して清との交易をおこない力を増していたウズベク人の一派の
コーカンドのハーン1830年に,タリム盆地の西部の都市カシュガルを占領します。コーカンドの進入に対して,清は有効な対応を打てず,一説には新疆における有利な条件を清に約束させたといいます(1835年)。
 しかしこのへんから,ロシア帝国によるトルキスタンへの進出が加速します。1839年にロシアはヒヴァ=ハーン国に遠征したのは序の口。中央ユーラシアの覇権をめぐる,ロシアとイギリスの「グレートゲーム」といわれる争いに勝利するには,トルキスタンは絶対に確保しなくてはならない場所とされたのです。

1815
年~1848年の中央ユーラシア  現カザフスタン
 16世紀末からウラル山脈を越えてシベリアに進出したモスクワ大公国,のちのロシア帝国は,1820年代に入るとカスピ海〜アラル海〜バルハシ湖の北部に広がるカザフ草原のハーンたちを直接支配下に置くようになり,セミパラチンスク州などの州に分割されました。カザフ人たちは,タリム盆地で勢力を拡大していた,ウズベク人の一派のコーカンドのハーンを警戒していたのです。こうして,カザフ草原にロシア帝国の支配が及ぶことになると,遊牧民が従来のルートで遊牧することができなくなることもありました。また,このころには,タタール人によりイスラーム教の布教が進み,従来の伝統宗教からの改宗が進んだり,スラヴ人の農民が移住してきたりしました。そうなると,カザフ人のなかには不満も出てくるようになり,カザフ語の普及などを通し,カザフ人としての意識がだんだんと形作られるようになっていきました。





1815年~1848年のアジア


1815年~1848年のアジア  東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾(),③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

1760
年~1815年のアジア  東北アジア
◆女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出したロシアが対峙

 西方から拡大した
ロシア帝国が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約セH5時期(17世紀末か)】,1727年にはキャフタ条約【セH8】を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める()()という制度も定められていました。

◆ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
ロシアが沿海州への進出を狙いつつある
 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営む
ツングース人ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人も支配下に入っています。



○1815年~1848年の東アジア
◆イギリスとの「アヘン戦争」に敗北し,ヨーロッパ諸国との通商が始まった
 
イギリスによるアヘンの密貿易は,清の深刻な社会問題を引き起こしました。とはいえ,アヘンは危険な薬物ですし,密貿易も問題です。はじめは東インド会社が担当していましたが,イギリス国内で資本家が参政権を獲得(1830年の七月革命の影響を受けた,1832年の第一回選挙法改正)してからは,資本家寄りの自由主義的な政策がつよまり,「東インド会社にアジア貿易を独占させるのはずるい」という意見が出ました。そこで,1833年には東インド会社の対中国貿易独占権廃止(1834年に実施)となり,それ以降はジャーディン・マセソン商会がアヘン密輸を担当するようになりました。イギリスは,民間の商人を「カントリー=トレーダー」として,貿易許可を与えていたのです。

 中国にはアヘン中毒者が激増。これを見かねた第8代〈道光帝(182050)は,湖広総督でアヘン禁止派だった〈林則徐(りんそくじょ,17851850)を欽差大臣に任命します。〈林則徐〉は広州のアヘンを廃棄処分とし【セH10:イギリス向けアヘン輸出を厳禁したわけではない】,このニュースが半年後にイギリスに伝わると(この時期の情報伝達速度を物語っています)(),これを口実にイギリス政府はアヘン戦争(18401842) 【セ試行】 【東京H14[1]指定語句】を起こしました

 イギリス国内では反対意見もありましたが,開戦。蒸気船の威力にジャンク船がかなうわけがなく,清は敗北し,1842年に南京条約【セ試行 北京条約ではない】【セH6香港をイギリスに割譲した】【東京H8[1]指定語句】【追H30天津条約ではない】を締結します。このときに中国がイギリスに割譲したのが,香港(ホンコン)です【セH10アヘン戦争後に「租借地」となったわけではない(「割譲された」が正しい)】。また,自由貿易の障害とされた公行(コホン) 【セH10】を廃止,賠償金の支払い,さらに広州・厦門(かもん,アモイ)・福州(ふくしゅう)・寧波(ねいは,ニンポー【早政H30】)・上海(シャンハイ)5港を開港しました【セH18天津は含まれていない(天津は長江河口ではない)【追H30】

 南京条約に入れそびれた様々な取り決めは,1843年の五港(五口)通商章程虎門寨(こもんさい)追加条約で定められました【Hセ10「南京条約などにより,開港や領事裁判権をイギリスに認めた」か問う。「など」の中に翌年の2つの取り決めが含まれるから適当というわけですが,「など」という表現は微妙です】。また,清【セH23中華民国ではない】1844年にはアメリカ【追H21】望厦(ぼうか)条約【セH23】【追H21】,フランスと黄埔(こうほ)条約【セH24イギリスではない】を結んでいます。これらを締結した女真(女直)人の〈耆英〉は,のちに自殺に追い込まれています。

◆「海関」の置かれていた上海が,列強に租借され,東アジアの交易拠点に急上昇する
上海の租界は,交易の拠点・革命勢力の拠点に
 現在の上海の夜景スポットとして名高い「外灘(ワイタン)」地区には,1845年の清による上海(しゃんはい)租地(そち)(しょう)(てい)の公布以降に建てられたイギリスの建築物が多数残された上海バンドという地区があります。五港通商章程で治外法権(外国人が悪いことをしても,中国の司法権で裁くことができない)が定められ,アメリカ・フランスとも同様の内容の条約が結ばれたため,外国人向けの特別地区が設けられました。清の土地の一部をレンタルするという形式で与えられたこの地区を「租界【東京H11[3]】といいます。「イギリスが,上海の一部エリアを清から租借した」というふうにいいます。上海には欧米資本の金融機関が多数建てられたほか,百貨店,映画館などのヨーロッパ文化が盛んに持ち込まれていきました(この当時の雰囲気は,〈スピルバーグ〉監督による『太陽の帝国』(1987)で描かれています)
 しかし,南京条約の締結後も,イギリスの期待どおりには工業製品の中国向け輸出は増えませんでした【セH5直後から中国がイギリス綿製品の市場となったわけではない,セH10期待どおりに増えたわけではない】

 上海の租界には,中国各地から移住者が移り住み,出身地別に街区に勢力圏がつくられていきました。このうち,〈黄金(こうきん)(えい)〉(1868~1953)・〈()(げつ)(しょう)〉(1888~1951)・〈張嘯(ちょうしょう)(りん)〉(1877~1940)らギャングを頭目とする
青幇(チンパン)は,大運河をとりしきる業者として麻薬取引・賭場経営などで巨富を上げ,闇組織ネットワークを形成し,清朝打倒の革命運動に対する支援もおこないます。洪門という組織も同様の地下組織で,“滅満興漢”をスローガンに18世紀中頃に福建に起こり華中・華南で組織され,対外的には天地会(てんちかい)(三合会)と呼ばれました(他にも,華中の()老会(ろうかい)など,雑多な組織が多く含まれ「紅幇(ホンパン)」とも総称されます)。欧米との貿易に関与した中国人商人のことを買弁(ばいべん)【東京H11[3]】といいます。
()木畑洋一「グローバル・ヒストリーと帝国,帝国主義」水島司編『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.96



1815年~1848年の東アジア  ①日本
◆アメリカやイギリスの進出が活発化,日本は海防を強化していった
捕鯨ブームと中国市場進出を受け,欧米船が接近
 この時期の欧米では,クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのできるマッコウクジラが,ビジネスのターゲットとなります。
 灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通商“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されていました
(注)
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。

 1816年イギリスは琉球王国に通商してほしいとお願いしますが失敗。しかし,1818年にはイギリスの海軍将校〈ゴルドン〉が通商目的で浦賀に入港,1822年にはイギリスの捕鯨船が浦賀に補給を求め入港
(),1824年にはイギリス船が常陸に上陸し水戸藩が尋問後に釈放(大津浜事件,水戸学の〈藤田幽谷〉(1774~1826)はこれを批判します),同年には薩摩の宝島(たからじま)に上陸したイギリス船が島民との間に交戦しています(宝島事件)。大津浜では村民がカタコトの英語でコミュニケーションをとっていたことから,すでに洋上で頻繁に接触していたことを物語ります(注)
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.197。
 また,北方では1821年に松前奉行(まつまえぶぎょう。初め蝦夷奉行(1802),のち箱館奉行,さらに松前奉行と改称)が廃止され蝦夷地が松前藩に返還されていましたが,1824年にはイギリス船が東蝦夷地に来航。

 一連のイギリス船の活動を受け,
1825年に幕府は,接近する船が捕鯨船であることや国際情勢を踏まえた上で,異国船(無二念)打払令を出し,沿岸のロシア,イギリス,アメリカ船を発見したら「有無に及ばず一図に打ち払」う(上陸したら逮捕か射殺する)ことを命じました。

 なお,1823年にはドイツ人医師〈
シーボルト〉(1796~1866)が来日し,長崎のオランダ商館の医師として着任。1824年には塾をひらいて〈高野長英〉(1804~1850),〈伊東玄朴〉(いとうげんぼく,1800~1871)らに西洋医学を講じます。しかし出国時に日本地図(幕府天文方の〈高橋景保〉(たかはしかげやす,1784~1829)に贈られた〈伊能忠敬〉の日本・蝦夷の地図)を持ち出そうとしたため,〈シーボルト〉は国外追放,門下も処罰されました(〈高橋景保〉は獄死)。1828年に帰国しています。

 しかし
1837年に今度はアメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に接近し,現在の愛知県の漂流民3名(〈音吉〉,〈岩吉〉,〈久吉〉)と熊本県の漂流民4名の計7名を返すから通商をしてほしいと要求しました。しかし,沿岸から砲撃されて鹿児島に移動後,薩摩藩兵が砲撃しマカオに至りました。

 〈高野長英〉は『夢物語』の中で鎖国政策を批判し,幕府の目付〈鳥居耀蔵〉(とりいようぞう,?~1874)により蛮社の獄(1839,ばんしゃのごく)という思想弾圧を受け,同じく尚歯会(しょうしかい)に属する『慎機論』(1837,未完成)の〈渡辺崋山〉(わたなべかざん,1793~1841)とともに投獄されました(〈渡辺〉は自殺,〈高野〉は脱獄したが江戸で見つかり自殺)。
 そんな中,アヘン戦争
(184042)で清が敗北した情報が知れ渡ると,いよいよ危機感が高まり,1841年に老中〈水野忠邦(みずのただくに)(17941851)は将軍〈徳川家慶〉(いえよし,位183753)のもとで天保(てんぽう)の改革をおこないます。1841年に〈高島秋帆〉が幕府に西洋式の砲術技術に関するアドバイスをし,その教えを受けた〈江川英龍〉(えがわひでたつ;江川太郎左衛門,1801~55)も研究を重ねています。1842年に薪水(しんすい)給与令(きゅうよれい)が出され,従来のような外国船に対する強硬策を転換させました。国内では,農村を復興させ物価騰貴をおさえる目的で,株仲間を解散させましたが,のちに撤回。幕府権力の衰えには歯止めがかかりません。その一方で諸藩は独自に改革を進めており,専売制や藩営工業によって発展した薩摩(さつま)肥前(ひぜん)土佐(とさ)は力を蓄え,「雄藩」(ゆうはん)と呼ばれるようになります。

 なお,1844年に中国との間に望厦条約を結んだアメリカ合衆国は,太平洋を横断する航路の開拓に前向きとなっていました
(注)。1846年には今度はアメリカ合衆国の海軍士官〈ビッドル〉(1783~1848)が浦賀に来航して通商を要求,幕府はこれを拒否しています。

()「異国船の渡来と浦賀」横須賀市, https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2490/tokubetuten/16.html
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.207。のち,〈ペリー〉と同時期に,航路開拓の調査のため,北太平洋測量艦隊が派遣されています。当時は捕鯨資源が減少していたこともあり,アメリカ合衆国の漁場は20世紀初めには北極海にまで到達するようになっていきます。



1815年~1848年のアジア  東アジア 現①日本 小笠原諸島
 小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。
 しかし,1830年には,ハワイから白人5人,ポリネシア人25人が入植し,「ボニン・アイランズ」(Bonin-Islands)と呼ばれます。



1815年~1848年のアジア  東アジア 現①日本 南西諸島

◆琉球王国に対する通商が要求され,幕府はこれを黙認し西欧との通商が始まった
琉球王国の「開国」を,江戸幕府は黙認する
 外国船の来航は止まらず,1844年にはフランス船アルクメーヌ号が琉球王国の那覇港に入港。通商を要求しています。アヘン戦争の際に強硬策をとったために清がひどい目にあったことを知っていた薩摩藩の担当者は柔軟な対応をとりました。1844年にはイギリスも琉球王国に通商を要求しており,薩摩藩は幕府の許可を得てフランスとイギリスの間の通商を許可しています。





1815年~1848年のアジア  東南アジア
東南アジア
…現在の①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー


 
イギリス植民地

植民地行政官の〈ラッフルズ(17811826)は,1819年にジョホール王からシンガポール【セ試行 オランダの拠点として建設されたのではない】【セH16時期】を割譲させ領有した上で,1824年マラッカ海峡よりも東側をイギリス,西側をオランダとする英蘭(ロンドン)協約をオランダ王国【セH13フランスではない】と結びました。歴史上,こんなところに境界線が引かれたことは一度もなかったわけですが,この取り決めが,のちのマレーシアとインドネシアの国境線のもとになったのです【セH13】
 1826年には,ペナン【東京H19[3]】マラッカ【東京H19[3]】シンガポール【東京H19[3]】海峡植民地【東京H14[1]指定語句】【追H30スペインの植民地ではない】として,関税を課さない自由貿易港にしました。これにより,中国や東南アジアの船は,バタヴィアではなく,海峡植民地に来航するようになり,交易が活発化しました。イギリスの自由貿易政策による,オランダつぶしですね。特に,マラッカ海峡の南端に位置したシンガポールは,貿易の中心地として,ペナンをしのぐようになり,1845年にはシンガポールの総人口の過半数は中国人になりました。また,インド人も労働者として移住してくるようになりました。こうしてシンガポールには,多くの人種が混ざり合う,多彩な社会が形成されてったのです。
 マレー半島では,スズ【慶商A H30記】鉱山の開発も進みました。1810年にイギリスで缶詰が発明され,ヨーロッパでのスズの需要が高まったことが背景にあります。中国人やインド人の労働者が,スズ鉱山で働きました。中国人の増加を背景にし,ムラユ人諸国の内紛は,マレー半島全域に広がっていくことになります。天然ゴム【慶商A H30記】のプランテーションの導入も始まりました【セH17コーヒーではない】
 ビルマでは,1752年にコンバウン朝(17521885)がおこっていましたが,イギリス東インド会社がインドの植民地化を加速するのをみて,コンバウン王はベンガル東部の割譲を要求しました。イギリス側はそれを拒否したため,1822年にビルマ軍がインドに進入,アッサムなどを占領しました。1824年から第一次イギリス=ビルマ戦争【東京H23[3]3次まで続くか問う】が始まりました。1826年の停戦条約で,コンバウン朝【セH3タウングー朝ではない】のビルマは最南部の地域(アラーカーン,テナーセリウム)をイギリスに奪われました。 


 フランス植民地   フランスは,宣教師〈ピニョー〉が〈阮福暎〉を援助し阮朝越南国の建国を助けたこともあり,この地方への影響力を維持しようとしました。
 阮朝の皇帝は,はじめはフランスのキリスト教布教に対して寛容でしたが,早くも19世紀前半にはキリスト教布教への取締りを始めます。
 1844
年にフランスは,アヘン戦争(184042)後の清と個別に結んだ黄埔条約を中国進出の足がかりとしようとすると,ヴェトナムの戦略的な重要性が高まり,本格的な植民地化に向け,動きが進んでいくことになります。

スペイン植民地   
1815年に,スペインによるマニラとメキシコ間のガレオン貿易(アカプルコ貿易)は終了しました。1834年には,フィリピンのマニラが開港されると,王立フィリピン会社は財政難で解散しました。外国船がフィリピンに入港し,中国人の移民も増えます。1850年代後半からフィリピンは急速に世界経済に組み込まれていくことになります。

オランダ植民地
   
 ジャワ島などのオランダ植民地は,ナポレオン戦争語の
1816年にイギリスからオランダに返還されました。困窮状態にあった植民地行政府は,住民たちを直接働かせる政策をとりました。徴税請負人として中国人が活動するようにもなってきました。そのため,従来は,住民とオランダの間で権力を与えられていた首長や王の立場が弱まり,182530年のマタラム王家による反乱(ジャワ戦争)につながりました。反乱の指導者は,中部ジャワはジョクジャカルタのスルターン〈ディポヌゴロ(1785?1855)です。同時期に,スマトラ島西部でも反オランダのパドリ戦争(182138)が起き,植民地政庁は大赤字。
 そんな中,1830年にオランダからベルギーが独立すると,本国の財政も悪化。「住民を働かせて税金をとる政策」よりも,現地人支配層の協力を得て「住民に強制的にヨーロッパ諸国で売れる商品作物を生産させる政策」をとったほうが効率がよいと,総督〈ファン=デン=ボス〉は提案しました。現地の支配層をおさえこむよりは,温存させたまま,取れるものをむしりとるという作戦です。商品作物には,【セH13】サトウキビ【セH13】コーヒー【セH13米ではない,セH25】が選ばれました。この「政庁栽培(一般に強制栽培制度と呼びます【東京H22[1]指定語句】【セH2マラッカで実施されていない,セH7時期を問う】【セH13ポルトガルではない,セH25,セH29試行 時期(1566~1661の期間ではない)】)」によって莫大な収益を得たオランダは,産業革命(工業化)をすすめていきます。強制栽培制度は一番長いもので20世紀初めまで続けられ,スマトラ島やスラウェシ島でも行われました。
 これにより,従来は開発されていなかった地域も開発の対象となり,ジャワ島の人口は急増しました
(他地域からの移民流入による社会的な増加も含みます)。モンスーン地帯なので雨が多く,多くの人口を養うことのできる稲作(熱帯地方は土壌が農業向きではないので土地を改良する必要があります)がおこなわれているため,人口の増加に食糧生産も追いつくことができたわけです。開発されたプランテーションの多くは宗主国や,宗主国側についた有力者が吸い取り,強制栽培制度が終了した後も不公平な経済構造は残されていきましたが,19世紀における高い人口増加率と食糧増産は,その後の経済発展に貢献することとなります。




1815年~1848年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1815年~1848年のアジア  南アジア 現③スリランカ

 ウィーン議定書により,イギリスはセイロン島をオランダから獲得。
 
真珠(注)の産地を手に入れたことになります。従事したのはタミル人やマレー人,セイロン島に住むアラブ人などの下級労働者(クーリー;苦力)です。
 同時期にイギリスはペルシア湾沿岸地域も押さえていきますから,真珠の産地を2つも確保したことになります。
(注)真珠採りと作業工程についてはこちらを参照。山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.109。


1815年~1848年のアジア  南アジア 現⑤インド
 この時期にイギリス東インド会社は,インド貿易独占権を失い,植民地インドの統治機関となっていきます。
 イギリスの民間貿易事業者(カントリー=トレーダー)は東南アジアや中国方面との交易にいそしみ,このうち中国の清へのアヘンの密輸が問題視され,1840~1842年には
アヘン戦争が勃発しました。
 イギリスでは,一般庶民に至るまで茶の消費が拡大し,その新たな供給地として目を付けられたのが,インド東北部の
アッサムでした(1823年に発見)。1839年にはアッサム会社がつくられ,茶樹栽培と製茶事業がスタートします。19世紀後半以降,国際市場における,中国茶とインド茶や日本茶との戦いが幕を開けることになります(注)
(注)角山栄『茶の世界史―緑茶の文化と紅茶の社会 改版』中公新書,(1980)2017,p.128。

 また,この時期にはイギリス東インド会社によるインドの諸政権の鎮圧が進んでいきます。
 
1817年~18年の第三次マラーター戦争【セH11 時期:1880年代】で,マラーター同盟を滅ぼしました。
 一方,1801年に,〈ランジート=シング〉(17801839)が,シク教の諸勢力を結集して,イギリスに対抗して独立を守ろうと,パンジャーブ地方【セH8】シク王国【セH8】を建国していました。
 彼は,イギリスと相互に領土を保障し,1819年にはカシミールをバーラクザイ朝アフガニスタンの〈ドースト=ムハンマド〉(17931863,在位182663)から奪っています。しかし,〈ランジート=シング〉の死後に分裂したシク王国に対し,イギリス東インド会社は,1845年に攻撃し,パンジャーブ地方のラーホールを占領してしまいます(第一次シク戦争) 。さらに,1848年に再度攻撃し,1849年に滅ぼしました(第二次シク戦争)【セH25時期】【セH28】

 最期の抵抗勢力であるシク王国が滅び,イギリスのインド征服は完成しましたが,服属した無数の国は藩王国として統治されることになりました。これは「被保護国」のようなもので,外交権をイギリスが保護している状態です。イギリスが植民地を手放した1947年の時点で,藩王国は約560もありました。これらの藩王国に跡継ぎがいなくなった場合にどうするか,1840年代になると「取りつぶし」も含めた基準が設けられていきます。
 また,鉄道敷設や農地開発のために奥地まで植民地の支配の手が及ぶと,森などを遊動し狩猟採集生活を送っていた山地民の人々の生活の糧が奪われ,次第に追い詰められていくようになります。これが“犯罪部族”とされる「ダコイト」です
(注)
(注)竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010p.240241

 こうした一連の急速な社会の混乱が,のちに
インド大反乱(1857年~58) 【東京H20[1]指定語句】【セH8,H10 時期:1850~60年代ではない】という抵抗運動の背景となっていくのです。

 なお,夫が亡くなると妻も道連れになって殉死するというサティー(寡婦殉死)の慣行は,1829年にベンガル総督によって廃止されますが,その後も完全にはなくなっていません
(注)
(注)竹中千春『盗賊のインド史 帝国・国家・無法者(アウトロー)』有志舎,2010p.242



1815年~1848年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 ネパール盆地を中心に領土拡大・中央集権化を進めていたネパール王国は,1814年に植民地インドを防衛しようとしたイギリス東インド会社との戦争(グルカ戦争)が起き,敗北。1816年の条約で国土の3分の1を失い,イギリスの保護国となりましたが,王政は存続しました。
 19世紀中頃以降,宰相を務めたラナ家に実権を奪われていきました。勇猛な部隊を持つことで知られるネパール人は,イギリスの傭兵(
グルカ兵)として世界中の戦争の精鋭部隊として活躍しました。このこともあり,ネパールでは実質的に自治が認められていました。
 ネパールの東の
シッキムは東インド会社に保護国化されました。紅茶で有名なダージリン1835年にシッキムから割譲されます。





1815年~1848年のアジア  西アジア
①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン

◆衰退するオスマン帝国をめぐり,ヨーロッパ諸国の進出が強まる
 オスマン帝国は,1774年にはロシアの〈エカチェリーナ2世〉とキュチュク=カイナルジ条約〔クチュク=カイナルジャ条約〕を締結し,ロシアのクリミア半島への進出を認め,さらにオスマン帝国内部のギリシア正教との保護権を認めさせられました。ロシアはこのとき,ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の商船の自由航行権を獲得し,さらに黒海で軍艦を建造する権利も獲得したことで,今後の南下にはずみをつけます。
 もう,いつロシアが軍艦を建造して,イスタンブールに攻め込もうとしてもおかしくはない。さすがに,この悲惨な状況をみて,皇帝(スルターン)も改革に踏み切ります。

〈セリム3世〉(位17891807
〈マフムート2世〉(位18081839
〈アブデュルメジト1世〉(位18391861
 
スルターン〈セリム3世〉(17891807)は西欧式軍隊を導入して,時代遅れのイェニチェリ軍団のかわりに育成させようとしましたが,イェニチェリが反乱をおこし,次の皇帝によって殺されます。
 
スルターン〈マフムート2世〉(180839)は,1826年にイェニチェリ軍団を解散に追い込みますが,ギリシャが独立戦争に勝利し,オスマン帝国【セH12ロシアではない】から独立してしまいました(ギリシャ独立戦争セH3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)【セH12時期(19世紀前半か問う)】)。


◆イギリスはアラビア半島沿岸部の首長国を保護下に置いていった
 アラビア半島はイギリスが影響下に置こうとしたインドへの道(インドルート)に当たるため,オスマン帝国とイギリスとの間で海岸部をめぐり抗争が勃発しました。もともとペルシア湾はアラブ系諸勢力の海賊集団がうようよ活動していたことから「海賊海岸」と呼ばれていました。イギリスは安全な航行を求め,アラビア半島の遊牧民諸集団の首長に接近し,武力をちらつかせながら1820年にペルシア湾岸(1971年にアラブ首長国連邦として独立することになるトルーシャル=オマーン)と休戦して保護下に置き,1835年にオマーンとも休戦しました。

 イラク
地方ではマムルークの州総督(1749年以降実権を握っていました)の下で,イランのカージャール朝と敵対しつつ,オスマン帝国によるタンジマート(近代化政策) 【東京H11[3]その結果を説明する(記述)】が実施されました。マムルークの州総督は1831年に解任され,オスマン帝国の中央集権的な支配下に置かれます。1834年には北部のクルド人の支配者も追放されています。


◆明治維新よりも早期に近代化改革を実施するも失敗し,英仏による経済的な従属に向かう

 ヨーロッパの
自由主義民族主義はオスマン帝国の支配下にも伝わり,オスマン帝国領内のさまざまな宗教・言語集団が自分たちのことを「民族」と自覚するようになり,支配が不安定なものになっていました。そこにつけこんで,オスマン帝国が支配していた地域をヨーロッパ列強が勢力圏に入れようとし始めます。このような「オスマン帝国の衰退に乗じてヨーロッパ列強が進出したことで,オスマン帝国領に起きた国際紛争のこと」を東方問題(イースタン=クェスチョン)というのです。現在,中東で混乱している地域の多くは,旧オスマン帝国領であり,その多くに中東以外の大国の思惑がからんでいることを考えると,「東方問題は21世紀初頭にあっても,まだ続いている」ともいえます。
 
オスマン帝国は,1922年に滅亡することになりますが,欧米列強はあの手この手を使って,衰えゆくオスマン帝国の領土内に自国の勢力圏を増やそうとしていきました。

◆エジプト太守が自立を求めた第一次エジプト=トルコ戦争(183133)に列強が介入する
 エジプトで太守としての地位が認められていた〈ムハンマド=アリー〉(17691849) 【東京H14[3]】は,シリアの行政権を要求したためにオスマン帝国と戦争になりました。これを第一次エジプト=トルコ戦争【セH3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う)】といいます。
 それだけなら,エジプト
vsオスマン帝国の構図にすぎないのですが,ここでロシアはオスマン帝国を支援します。
 ある国がある国を「助ける」ということには,かならず裏があります。ロシアは,これまでさんざん争ってきたオスマン帝国を援助することにより,お返しを求めようとしたのです。これではロシアが南下してしまいます。あわてたイギリス,フランス,オーストリアがエジプト側について,オスマン帝国に干渉しました。両者はキュタヒヤ条約を結んで和解し,〈ムハンマド=アリー〉は,要求通りエジプトとシリアの一代限りの支配権を得ました。なお,1836年に〈ムハンマド=アリー〉はフランスに古代エジプトのオベリスクをプレゼントしています。今でもパリのコンコルド広場に建っています。

 ところが,オスマン帝国とロシアの間に
1833年に,ウンキャル=スケレッシ条約が結ばれます。オスマン帝国は支援をしてくれたロシアに対して,ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の独占通行権を与えたのです。イギリス,フランス,オーストリアは,当然この動きを警戒します。
 
1838年にはイギリスとオスマン帝国の間に通商条約が締結され,オスマン帝国は関税自主権を喪失しました。これによりオスマン帝国の産業は破壊されていきます。



第二次エジプト=トルコ戦争(18391840)にも列強が介入した
 しかし戦後になって〈ムハンマド=アリー〉は,「一代限りでは満足できない。世襲権が欲しい」と主張。再度オスマン帝国と開戦しました。
 エジプトは,初めはフランスの支援を受けていたので強気だったのです。
 
 しかし,「今度エジプトが勝ってしまうと,オスマン帝国が一気に崩壊してしまう。助けたフランスの地位も高くなる。さらに,そのすきにロシアが南下してしまうかもしれない。オスマン帝国を助けているの国がロシアだけだと,助けた代わりとしてロシアはオスマン帝国から領土を獲得して一気に南下してしまうかのうせいがある」と恐れたイギリス,オーストリアも,こぞってオスマン帝国側を支援しました。

 1840年にロンドン【東京H14[3]】で会議【セH18時期】が開かれ,〈ムハンマド=アリー〉【セH19アブデュル=メジト1世ではない】にはエジプトとスーダンの世襲権を与えますが,シリアは放棄させます。すべての当事者国が集まって正々堂々と会議をしたわけなので,第一次のときのようにオスマン帝国とロシアとの間で個別の取り決めはなされませんでした。ウンキャル=スケレッシ条約は,ある意味,全体会議が終わった後で,2人だけが残り,大切なことを決めてしまったようなものでした。ロンドン条約(締結国が英・露・普・墺(イギリス・ロシア・プロイセン・オーストリア)であったことからロンドン四国条約ともいいます。1841年にはフランスも締結しています)では,ウンキャル=スケレッシ条約の内容は破棄されましたから,ロシアの南下政策は失敗です。さらに,〈ムハンマド=アリー〉を介してシリアに手をのばそうとしていたフランスの野望も撃沈です。
 このロンドン会議をとりきったのは,やり手のイギリス外相〈
パーマストン(外相在任18303435414651,首相在任55585965)です。183940年というと,アヘン戦争にむかって大忙しの時期。そんな中で,ロシアの南下とフランスのエジプト・スーダン・シリアへの勢力圏の拡大を同時にブロックした彼の外交は,「パーマストン外交」ともいわれる見事なものでした。

 一方,オスマン帝国は港湾施設や鉄道といった近代的なインフラをイギリスやフランスに借金し,その資本を導入することで建設しようとしました。しかし,この外債の導入が,のちに財政を逼迫(ひっぱく)させていくことになります。こうして,オスマン帝国は領土的には植民地とされることはありませんでしたが,イギリス,フランスに対し経済的に従属していくことになったのです。



1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑭シリア,⑮レバノン
 先にみたように,この時期の
シリアはエジプト総督〈ムハンマド=アリー〉の息子〈イブラーヒーム〉による占領を受けました。現在のレバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていましたが,支配者のエジプトはイスラーム教徒とキリスト教徒を協調させる政策をとったことが裏目に出て,レバノン山岳部は宗教の対立がみられるようになりました。
 マロン派キリスト教徒の領主(シハーブ家の〈バシール2世〉(位1789~1840))はドゥルーズ派イスラーム教徒の領主と対立し,エジプト側について権力を維持しようとしました。それに対してイギリスとフランスはマロン派を支援し,エジプトとドゥルーズ派と戦いました。1840年のエジプトの撤退と〈バシール2世〉の亡命後も両者の対立は続き,フランスがマロン派を支援するとイギリスはドゥルーズ派を支援しました。それに加えてロシアはレバノンの正教徒を保護しようとしたため,レバノンをめぐってイギリス,フランス,ロシアが干渉する構図となりました。1843年にはこうしたヨーロッパ諸国の介入を防ぐため,レバノン山岳部はオスマン帝国の直轄支配地域となりました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。



1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。



1815年~1848年のアジア  西アジア 現⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 南コーカサス(ザカフカース)をめぐるロシア帝国とガージャール朝ペルシアとの戦争は続きますが,1828年に
トルコマンチャーイ(トゥルクメンチャイ)条約【東京H26[1]指定語句】【追H21エカチェリーナ2世は結んでいない】によって完全にロシア領となりました。




1815年~1848年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

マダガスカル
 イギリスやフランスの進出という危機を前に,メリナ人を統一しメリナ王国の初代国王となった〈ラダマ1世〉(位1810~1828)は,イギリスに接近して軍事・教育・経済の西欧化を進めました。これには保守派の反発も大きく,マダガスカルの社会情勢は不安定なものになっていきます。



1815年~1848年のアフリカ

商業活動が発展し各地で新国家が建設されるが,民族間の抗争がヨーロッパの進出に利用される
1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

◆東アフリカではアラブ人の奴隷貿易が栄える
ザンジバルが,インド洋奴隷交易の中心となる
 東アフリカのスワヒリ地域では従来からの象牙に加えて奴隷交易が活発化。現在のタンザニアにあるザンジバル島は,奴隷交易の中心地にのし上がりました。1839年に送り出された奴隷は1年で4万人に達するといいます()1840年にアラビア半島東岸のオマーンが進出し,アラブ人によるインド洋奴隷交易が本格化します。
 奴隷は内陸のザンビア東部,マラウィ,モザンビークから奴隷が多数積み出されました。
()栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010p.44

1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 この時期には〈ムハンマド=アリー〉統治下のエジプトの進出が強まっています



1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。



1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 
エチオピア高原16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国は,この時期には比較的平和な時期を迎えています。
  



1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
東アフリカはオマーンの保護下に入っている
 東アフリカのインド洋沿岸には,アラビア半島北東部マスカットを拠点とするオマーン王国が〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)の下で進出し,アラブ人などによる奴隷交易が営まれていました。
 現・タンザニアを構成する
ザンジバル島には,1830年代にオマーンの王宮が建設されています(◆世界文化遺産「ザンジバル島のストーン・タウン」,2000)。



1815年~1848年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
象牙の乱獲からアフリカゾウの個体数が激減する
 
ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部の
ブガンダ王国は,象牙奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。
 19世紀には象牙の需要が高まり,インド洋岸の
ザンジバルなどからキャラバンも組まれるようになります。獲れば売れるので銃火器でアフリカゾウが乱獲され,個体数は激減していきます。







1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ

南アフリカ
…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

1815年~1848年の南アフリカ  現①モザンビーク
ポルトガルはザンベジ川流域に植民する
 ポルトガル王国は,南東部(インド洋側)のザンベジ川流域を中心に現在のモザンビークを植民地化していっています。奥地からは奴隷や金が積み出されています。



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
スワジランド王国の支配が確立する
 スワジランド王国の〈ソブーザ1世〉(位18151836)は,南方のズールー王国の拡大から独立を守っています。



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 レソト王国の〈モシュシュ1世〉(位18221870)は南方のズールー王国の拡大に直面し,ングニ人の進出も受けましたが,独立を守っています。


1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
ズールー王国が軍事拡大し民族間の抗争が起こる
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 このうちズールー王国は〈シャカ〉(位18171828)王のときに周辺に軍事的に急拡大していきました。

 ケープタウンに入植したヨーロッパ人(主にオランダ系。フランスのユグノーも含む)は支配領域を拡大し,中にはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていく者もいました
 
それに対しバントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,1779年以降,100年間にわたって戦争が勃発します(コーサ戦争)


◆ナポレオン戦争後,ケープ植民地がイギリス領となると,先住のボーア人は北上する
イギリス人がケープへ,ボーア人は北へトレック
 ナポレオン戦争中にイギリスが上陸していたオランダ領ケープ植民地は,ウィーン会議の結果,イギリスの領有となりました。
 先住のオランダの人々のうち,内陸に入った者たちは「
ボーア人」と呼ばれ,奴隷を使って農牧業を展開していました。フランス人やベルギー人の移民の末裔も含まれ,現在では一般的にアフリカーナーと呼ばれます(注1
 しかし,1833年にイギリスが世界中すべての植民地における奴隷制を廃止すると,ケープ植民地の東部に済んでいたボーア人の農民は生きるすべをなくすことになります(ボーア人の中には,ケープタウンにのこった富裕な人々(職人,商人,下級官吏,比較的富裕な農民)もいます)。貧しい農民のボーア人たちは,ウシと
マレー半島から連れてこられた奴隷を連れて北上を開始したのです。これをグレート=トレックといいます。
 移住の末に「トレック=ブール」と呼ばれたアフリカーナーは,1838年にナターリア共和国を建国するも,4年後にはイギリスの植民地となりました。その後,さらに北部の高地草原地帯に移動していきます
(注2

 このボーア人の移住に対し危機感を強めたのが,南アフリカ南東部で〈
シャカ〉王(位18161828)の下で拡大していたバントゥー諸語系のズールー王国です。ボーア人は戦闘に勝利し,さらに北上をすすめていきます。
(注)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 18991912』ミネルヴァ書房,2006p.24
(注2)前川一郎『イギリス帝国と南アフリカ―南アフリカ連邦の形成 18991912』ミネルヴァ書房,2006p.13




1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部には
ナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「
何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群の
ヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。

 1830年代にはイギリスと現・ドイツのキリスト教伝道協会がナミビアの地を訪れています。



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 この時期のマラウイには大きな政治的組織はありません。


1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
ロズウィ王国がポルトガルの新入を阻む
 ジンバブエの南部高原地帯にはロズウィ王国がポルトガル勢力を阻んでいました。
 この時期には南方のズールー王国が〈
シャカ〉王の下で強大化していましたが,そこから自立した将軍〈ムジリカジ〉が北方に移動して,ヌデベレ王国を建国。

 さらに同時期にはケープタウン方面からオランダ系の
アフリカーナー人〔ボーア人〕が北上しており,両者に押されたロズウィ王国は,ヌデベレ王国により占領されます。
 ヌデベレ王国の〈ムジリカジ〉はブラワヨを建設して拠点とし,軍事力を強めでアフリカーナー人に対抗しました。



1815年~1848年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系の
ツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系の
サン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 
ケープタウから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています




1815年~1848アフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ
現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による
奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 
アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国ルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流は
コンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。



1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年に
ポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。


1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,
ポルトガル領となっています。



1815年~1848年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化した
ボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の
奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。







1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ
…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

イスラーム改革運動を掲げた新国家が樹立される


1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,ナイジェリア,ベナン

ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流の
ベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の
③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人による
オヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。


◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起き
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立していました。ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えていたのです

 そんな中②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(17541817ジハード」(聖戦)を宣言王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 ニジェール川流域では,セグー王国マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)もソコト=フラニの改革の刺激を受けています(注)

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され
(注2,サハラ交易は活発化していきました。
(1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.167
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。

 海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,イギリス領黄金海岸〔ゴールド=コースト〕となっています
 現在の
④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,
ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 現在のリベリア共和国セH5 19世紀に奴隷貿易のための植民地となったのではない】【東京H7[3],H19[3]】のある地域では,1816年にアメリカ合衆国のアメリカ植民協会が,奴隷から解放された黒人をアフリカに返そうとする計画を建てました。1820年に黒人88名が西アフリカに移され,「リベリア共和国(英語ではライベリア)」の建設が始まりました。リベリアとは「自由な」という意味のラテン語からとられており,15世紀以降にヨーロッパの探検者によって「胡椒海岸」と名づけられた地域でした。
 1824年にはアメリカ合衆国の第5代大統領〈
モンロー(181725)の名にちなみ,首都はモンロヴィアと改称。当初から先住民との抗争が相次ぐ中,1847年にはアメリカ合衆国憲法を参考に独立を宣言しました。




1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。


1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます
 西端のセネガルはゴレ島を拠点に奴隷貿易の拠点として発展しますが,1848年のフランス第二共和政は奴隷貿易を廃止しました。
 フランスの交易拠点である
サン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織も次第に形成されていきました。1840年のフランスにおける政令により,サン=ルイには独自の議会設置が認められ,議会の長にはフランスから派遣される総督が任命され,議員はフランス人の居住者と現地人から形成されていました()
()小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.24



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在の
モーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
フラニ人がニジェール流域で自らの国家を樹立
 ニジェール川沿岸部のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国(セグー王国,17121861)を建国しています。

 このバンバラ人の王国に貢納を課されていた牧畜民フラニ人(フルベ人,自称はプール人)は,自立を求めイスラーム改革運動を掲げて「ジハード」(聖戦)を起こし,西方でソコト帝国を樹立していたトゥクルール人の聖職者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉の弟子となった〈セク=アマドゥ〉(位18181845)の指導下に,マシナ王国18181862)が建国されます(注)



1815年~1848年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,
モシ王国が栄えていました。





1815年~1848年の北アフリカ

北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
フランスがアルジェリアに出兵する

1815
年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現①エジプト
◆エジプト総督が自立を求めて第一次エジプト=トルコ戦争(183133)を起こすと列強が介入する
 〈ナポレオン〉による占領と撤退後の混乱の中,エジプトで「総督」に就任した〈ムハンマド=アリー〉(1769?1849)は,オスマン帝国からの自立を進めるとともに,商品作物の栽培と専売による収益を利用して西洋式軍隊(1822年に徴兵制を導入)や国営工場,ヨーロッパ的な教育施設や出版施設を設立し,中央集権的な「エジプト国民」の国家を建設していました。独自の財源を持ち,ヨーロッパ諸国からの借金に頼らなかった点が,同時期のオスマン帝国との違いですが,エジプトの農業はヨーロッパを中心とする世界経済への従属下に置かれていくことになります。
 さらに〈ムハンマド=アリー〉はシリアの行政権を要求します。1831年にシリアとアナトリア半島に進出して戦端が開かれるや,なんとオスマン帝国は今までさんざん戦ってきたロシアに助けを求めました。「ロシアが南下しては困る!」とイギリス,フランス,オーストリアは反対にエジプト側について,オスマン帝国に干渉しました。これが第一次エジプト=トルコ戦争です。
 結局,両者は1833年にキュタヒヤ条約により和平を結び,〈ムハンマド
=アリー〉は要求通りエジプトとシリアを割譲してもらいました,1836年に〈ムハンマド=アリー〉はフランスに古代エジプトのオベリスクをプレゼントしています。今でもパリのコンコルド広場に建っています。

 ところが,オスマン帝国とロシアの間に
1833年に,ウンキャル=スケレッシ条約が結ばれると,事態は急変します。この条約は,オスマン帝国が支援をしてくれたロシアに対して,ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡の独占通行権を与えるものでした。イギリス,フランス,オーストリアは,ロシアの南下を許すことになるとして,条約の成立に断固反対しました。
 なお,
1838年にはイギリスとオスマン帝国の間に通商条約が締結されています。これによりオスマン帝国は関税自主権を喪失し,外国製品の輸入によって在来の産業が破壊されていくことになりました。

第二次エジプト=トルコ戦争(18391840)にも列強が介入した
 しかし戦後になって〈ムハンマド=アリー〉は,「一代限りでは満足できない。世襲権が欲しい」と主張。再度オスマン帝国と開戦しました。
 エジプトは,初めはフランスの支援を受けていたので強気だったのです。
 しかし,「今度エジプトが勝ってしまうと,オスマン帝国が一気に崩壊してしまう。助けたフランスの地位も高くなる。さらに,そのすきにロシアが南下してしまうかもしれない。オスマン帝国を助けているの国がロシアだけだと,助けた代わりとしてロシアはオスマン帝国から領土を獲得して一気に南下してしまうかのうせいがある」と恐れたイギリス,オーストリアは,こぞってオスマン帝国側を支援しました。

 1840年にロンドンで会議【セH18時期】が開かれ,イギリス,ロシア,オーストリア,プロイセンとともにロンドン四カ国条約(1841年にはフランスも参加)を結びました。この中で,〈ムハンマド=アリー〉【セH19アブデュル=メジト1世ではない】にはエジプト総督世襲権が与えられましたが,スーダン以外の支配地は認められませんでした。エジプトには市場開放が求められ,ナイル川流域の農作物がヨーロッパを中心とする世界経済に一層巻き込まれていくことになりました。
 エジプトがロシアと個別に結んでいたウンキャル=スケレッシ条約は破棄され,ロシアの南下政策は失敗。さらに,〈ムハンマド=アリー〉を介してシリアに手をのばそうとしていたフランスの野望も撃沈です。
 このロンドン会議をとりきったのは,やり手のイギリス外相〈
パーマストン(外相在任18303435414651,首相在任55585965)です。183940年というと,アヘン戦争にむかって大忙しの時期。そんな中で,ロシアの南下とフランスのエジプト・スーダン・シリアへの勢力圏の拡大を同時にブロックした彼の外交は,「パーマストン外交」ともいわれる見事なものでした。
 

 一方,オスマン帝国は港湾施設や鉄道といった近代的なインフラをイギリスやフランスに借金し,その資本を導入することで建設しようとしました。しかし,この外債の導入が,のちに財政を逼迫(ひっぱく)させていくことになります。こうして,オスマン帝国は領土的には植民地とされることはありませんでしたが,イギリス,フランスに対し経済的に従属していくことになったのです。



1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現②スーダン,③南スーダン
 
現在のスーダン,南スーダンは〈ムハンマド=アリー〉のエジプトの支配下に入ります。
 南西部の
ダルフール=スルタン国は進出に抵抗します。



1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
 モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。


1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑥アルジェリア
フランス勢力を〈アブド=アルカーディル〉が抵抗
 アルジェリアの地中海沿岸は,アルジェの海賊の根城となっていました。交易のため地中海を航行する必要の合ったアメリカ合衆国は1815年にアルジェに遠征して,海賊行為をやめるよう協定を結びました。しかしそれでもアルジェの海賊活動はやまず,翌年にはオランダ・イギリス艦隊が攻撃したものの,それ以降も続きました。
 フランスではブルボン復古王朝の〈ルイ
18世〉を継いで,弟の〈シャルル10(182430)【セH23ルイ=フィリップとのひっかけ】が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。〈ポリニャック〉首相(182930)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすためにアルジェリアに出兵しました【セH5,セH12時期(1880年代ではない)】
 マルセイユ商人の支持を背景に,アルジェの海賊に対する報復をおこなうというのが名目でした。フランスの進出に対し,地方で名望のあったアラブ系部族〈
アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。彼は一時はアルジェリアの3分の2を占領し国家組織を形成しましたが,鎮圧されました()。アルジェリアは1834年にフランスに併合されました。
(注)マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。なお,〈アブド=アルカーディル〉の父はスーフィズムの教団であるカーディリー教団の指導者でした。



1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑦チュニジア
 チュニジアはオスマン帝国のチュニス州とされて間接統治されていましたが,1705年に騎兵隊長官〈フサイン〉が実権を握ってから,1957年まで続くフサイン朝が成立し,事実上オスマン帝国から自立していました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フランスがチュニジア国境付近まで迫ると,安全保障のためオスマン帝国に接近するようになります。チュニジアの支配者はオスマン帝国のタンジマートにならって近代化政策を実施していきました。



1815年~1848年のアフリカ  北アフリカ 現⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアでは,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました(カラマンリー朝)。しかしオスマン帝国が1835年にカラマンリー家を滅ぼし,リビアを支配下に置きました。





●1815
年~1848年のヨーロッパ

 フランス革命とナポレオン戦争のごたごたの後,ヨーロッパの王侯貴族が集まって,革命以前の秩序をとり戻すために会議をひらきました。主導権をとったのはオーストリアのウィーンです。
 ハプスブルク家のオーストリアは,フランス革命により,ブルボン家に嫁がせた〈マリ=アントワネット〉が処刑され,さらにナポレオン戦争でも大きな被害を受けるなど,さんざんな目にあっています。また,なんといっても1806年には,ハプスブルク家から,皇帝を代々出し続けていた神聖ローマ帝国が滅亡させられたということが大きい。ですから,会議で大きな声をあげることができたわけです。
 オーストリアは,1804年に〈ナポレオン〉が皇帝となったときに,同年オーストリア皇帝を名乗っていました。1806年に,神聖ローマ帝国内の領邦が,「もうオーストリアには頼れない。〈ナポレオン〉を皇帝として,彼に守ってもらおう」と考え,バイエルン【慶文H30記】を中心としてライン同盟【セH26【セH6年代,セH8】【早法H28[5]指定語句,論述(ナポレオン支配からドイツ帝国成立までの経緯を,オーストリアの役割に留意して述べる)】を結成したため,同年,神聖ローマ帝国は解体しました【セH14ナポレオンは神聖ローマ帝国を復活させていない】【セH8「ライン同盟結成によって最終的に解体した」か問う】。滅亡後も,オーストリアは「皇帝」を名乗り続け,もう一人の「皇帝」〈ナポレオン〉と戦い続け,最終的にナポレオンを退位させることに成功したわけです。

 「ナポレオン後のヨーロッパの秩序をどうするか」ということで開かれたのがウィーン会議【追H20】です。主導権を握ったのはオーストリアで外相(のち宰相)を務めた〈メッテルニヒ〉(1773~1859)【セH17時期(19世紀後半ではない)・工業化を推進していない】です。もともと神聖ローマ帝国というありがたい国家の皇帝をつとめていたオーストリアですから,会議の主導権を握ろうとするのも当然です。でも,やっかいなことに〈ナポレオン〉を倒すのに貢献した国は,ほかにもあります。

 例えば,ロシアはモスクワ遠征によって,〈ナポレオン〉没落のきっかけをつくりました。
諸国民戦争(1813)では,オーストリア,プロイセン,ロシアが活躍。さらにイギリスはワーテルローの戦いでとどめを刺しましたね。
 そして,最後にフランス革命最大の被害者であるブルボン家のフランス。フランスの外相〈タレーラン(17541838) 【共通一次 平1】は,「ブルボン家はわるくない。自由を叫んだり,王のいうことを聞かないやつらがわるいんだ! フランス革命の起きる前の状態に戻しましょう」という「正統主義【共通一次 平1】をスローガンにした巧みな外交で,各国の要求をうまく調整して国境線を確定させていきました。

 どれかの国の領土が広くなりすぎないように,バランスが重視されました。国が国から領土を得たとしたら,国は国から領土をもらう。そのかわりに,国はA国から領土をもらうというようにです。これのような国際秩序のつくり方を,「勢力均衡」といいます。しかし,こんなことやっていたら,当然ながらなかなか決まりません。動かないわりには,夜には舞踏会(ぶとうかい)ばかりやって,ぐるぐる回っている。この様子を,当時の参加者が「会議は踊る,されど進まず」と表現したわけです。

 しかし,時代は確実に変化しています。
 イギリスでは産業革命(工業化)が起き,商品をつくることで資本(元手となるお金)をふやしていこうとする,新しいタイプの商売人である産業資本家が,政治に参加するようになっていきます。〈ナポレオン〉は,安くて高品質のイギリス製品がフランスの産業を破壊しないように1806年にベルリン【東京H14[3]】大陸封鎖令【東京H14[3]】を発布しました。グローバリゼーション(お金や商品が国境を越え,地球全体に広がっていくこと)は,このときから大きな政治課題になっていたのです。
 しかし,ウィーン体制は,こうした「自由にビジネスがしたい!」という声を封じ込めようとしました。自由=よいもの,という考え方は,国内にいる自分の国をもたない民族たちの独立運動を刺激させてしまうのではないかと,各国の君主は恐れたからです。

 たとえば,ポーランド。ポーランド分割でオーストリア,プロイセン,ロシアによって国家が消滅した後,〈ナポレオン〉は1807年ポーランドに「ワルシャワ大公国(原語ではワルシャワ「公」国)」をつくって,独立をみとめました。一見ポーランドが独立国家をつくったようにみえますが,実は操り人形国家(傀儡(かいらい)国家)で,〈ナポレオン〉のいいなりでした。
 結局ウィーン会議によって,プロイセンは
1772年の第一回ポーランド分割のときの領土(ポズナン地方)をとりもどし,ロシアは3度のポーランド分割で得た地域をほぼすべて確保しました。ポーランド【東京H26[1]指定語句「ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について…述べるもの」】立憲王国が建国されますが,ロシア皇帝〈アレクサンドル1世〉が国王に即位するという傀儡(かいらい)国家です。
 南部の古都である
クラクフは,オーストリア・プロイセン・ロシアで分割されました。このときの分割を第四次ポーランド分割ともいいます。今後ポーランドでは「ポーランド人の国をつくろう」という運動が何度もわきあがりますが,なかなかうまくいきません。

 またナポレオン戦争中にスウェーデン領
フィンランドに侵攻していたロシアは,ウィーン会議において,ロシア皇帝がフィンランド大公を兼任する形となりました。こうして成立したフィンランド大公国では,スウェーデン語のほかに初めてフィンランド語も公用語として認められたこともあり,「フィンランド人意識」が次第に高まっていきました。1835年には民族叙事詩『カレワラ』が出版されています。

 このように,各国の思惑を調整したのが,イギリスです。イギリスはすでに産業革命(工業化)がはじまっていますから,インドとの連絡路が確保できればよいので,インド防衛のために現在のスリランカ(セイロン島)をオランダ【セH17,セH20フランスではない】から獲得し,さらにインドへの通商路の確保のために,地中海ではマルタ島をフランスから,さらに喜望峰周りのコースの中継地点としてケープ植民地をオランダ【セH21フランスではない】から獲得し,領有します。
 なお,インド洋西部の島々
モーリシャス(マダガスカルの東)は1814年にフランスから奪い獲得,同年にはマダガスカルの北にある島々セーシェルもフランスから奪い1815年に獲得しています。これらの島は,古くからアラブ人,インド系やマレー系の住民による中継貿易の中継地となっていた重要地点です。
 イギリスとしては,ロシアがポーランドの大部分を,プロイセンがザクセン地方・ラインラント・西ポンメルンを,オランダが南ネーデルラントを,オーストリアがロンバルディアとヴェネツィアを獲得するなど,当然乗り気ではなかったわけですが,「勢力均衡」を主張して会議を穏当にまとめた上で,世界各地の植民地をつなぐネットワークを構築していった。このときのイギリス外相は〈
カッスルレー(17691822)です。イギリスの圧倒的経済力を背景に,ナポレオン戦争後のヨーロッパには,比較的安定した情勢が訪れました(イギリスの平和,パクス=ブリタニカ【東京H8[1]指定語句】)。

 なお,スウェーデンはノルウェーを獲得【セH21独立は認められていない】,スイスは永世中立国として認められたほか,神聖ローマ帝国から脱退してつくられたライン同盟は廃止され,あらたにオーストリアを議長とするドイツ連邦(35の君主国と4つの自由都市で構成)が結成されました【セH6年代】【セH18時期】。連邦国家というよりは,同盟に近いもので,ドイツというまとまった国家ができたわけではなく,その中に多くの国(領邦)自由都市がある感じです。ですから各自由都市というのは,領邦と同等の権利を持っている都市のことで,神聖ローマ帝国の時代には帝国議会に,ドイツ連邦の時代には連邦議会に代表を派遣することができました。

 また大国が足並みをそろえて
ウィーン体制【東京H10[1]指定語句】【早法H28[5]指定語句】を守るため,革命をもたらす動きの武力制裁をおこなう四国同盟【セH19ペロポネソス同盟とのひっかけ】(1818年にフランスが加盟して五国同盟【セH19時期】となります)が結成されました。また,ロシアの〈アレクサンドル1世【共通一次 平1:メッテルニヒではない】【セH25ニコライ1世ではない】の提唱で,キリスト教の愛の精神でヨーロッパに平和をもたらそうとする神聖同盟【共通一次 平1】【セH5いギリスは加盟していない】【セH25】【追H20ローマ教皇は提唱していない】が結成されました。

 神聖同盟を結成したのは“北国のスフィンクス”の異名と美貌をもつ〈アレクサンドル1世(180125)です。彼はナポレオンのモスクワ遠征軍を追撃し,〈ルイ18世〉(181415,1524)の王政復古を支援した人物で,〈メッテルニヒ〉とともにウィーン体制を支えようとしました【共通一次 平1:自由主義者ではない】

 オランダは〈ナポレオン〉に占領され,彼の弟が王に即位し「オランダ王国」となっていました。オランダ東インド会社も18世紀末に解散しています【上智法(法律)他H30】
 その後,ウィーン会議(1814~1815)によって
オラニェ=ナッサウ家(代々ネーデルラント連邦共和国の総督を務めてきた名家)が復活し,憲法を制定してオランダ立憲王国が建設されました。このときオーストリアは,南ネーデルラントを手放してオランダ立憲王国のものとしました。
 しかし南ネーデルラントにはカトリック住民が多く,カルヴァン派が多数の北部による支配はやがて大きな反発を呼び,
1830年のフランス七月革命【セH12】【セH16】の影響を受け,南部はベルギー王国【セH19としてオランダ【セH16,セH19フランスではない】から独立することになりました。承認されたのは1839年のロンドン条約(オランダとの平和条約)で,ベルギーは永世中立国となることが定められました。
 しかしベルギー王国内部にも,北部にはオランダ語系(フラマン語)の住民が,南部にはフランス語に近い言葉(ワロン語)を話す住民の違いがありました。19世紀にはフランス語系のワロン語のみが公用語だったため,のちのちベルギー内部では言語戦争と呼ばれる対立を生むことになります。
 ベルギーではスペイン植民地だった17世紀初めから,新大陸原産のカカオから作られる
チョコレートを飲む習慣がありましたが,しだいに消費量が増え,1828年にはオランダのバンホーテン社がココアパウダーを製造する技術を開発すると,固形のチョコレートが作られるようになり,1838年以降さかんに作られるようになりました(ココアバターが混ぜられるようになるのはイギリスのフライ&サンズ社の製品(1847年発売)によります)。

 さて,このウィーン体制は,ヨーロッパに再度革命が起こらないように形成されたものでしたが,産業社会に変化しつつあった当時の情勢を止めることはできず,人々が自由を求める声を止めることはできなくなっていました。
 自由を求める思想は,かつてはフランス革命に影響もを与えた啓蒙思想でした。しかし,人間の理性を重視しすぎる啓蒙主義の考え方に対しては,反発も生まれるようになっていました。
 そこで,「人間の理性によって考え出された『カンペキ』には,どこか『人間味』がない。啓蒙主義は「人間の理性をフル回転すれば,理想の社会がつくれる」と主張したが,これからはもっと「感情や個性【セH15時期(18世紀末から19世紀前半ではない(それは古典主義)),セH29試行】を重視するべきじゃないだろうか」と考える人々が増えていきました。このような考え方に基づく芸術・文学を,ロマン主義【セH13写実主義ではない,セH15古典主義・自然主義ではない,セH29試行 古典主義・社会ダーウィニズム・印象派ではない】【追H21 19世紀の歴史学について,ロマン主義(やナショナリズムの高揚)の影響下に歴史研究が発達したか問う。正しい】といいます。
 例えば美術では,「民衆を導く自由の女神」【セH4図版(直接的に問うものではない)】【追H30図版 シャルル10世亡命と関連することを答える】で知られるフランスの画家〈ドラクロワ〉(17981863) 【追H20時期,H30】が有名です。人々の血が流れる革命の中に美しい女神が現れる構成からは,見せかけの調和ではなく,おどろおどろしさ【追H20「人間の醜さや苦悩」】の中に美を求める姿勢がみてとれます。文学では『=ミゼラブル【追H20『戦争と平和』ではない】で知られるフランスの国民的作家〈ユゴー〉(ユーゴー,180285) 【セH13リード文の下線部(解答には必要なし)】【追H20】,音楽ではポーランド出身の〈ショパン〉(181049)が代表格です(映画「レ=ミゼラブル」(2012英))


1815年ウィーン体制の発足直後

 
ドイツでは,イエナ大学などの学生組合(ブルシェンシャフト【セH4七月革命の影響ではない,セH10カルボナリとのひっかけ】【セH16農民政党ではない・地域】)が,ドイツの統一・自由を掲げて集会を開いて,現体制を批判しました。初めは黙ってみていたメッテルニヒでしたが,1819年にチェコのカールスバートにドイツ連邦の10政府の代表をあつめて,大学の教育内容の監視や出版物の検閲を決議しました。これをカールスバート決議といいます。さらにフランクフルトの連邦議会でその内容を採択しました。

スペイン  
 スペインでは,軍の将校の〈
リェゴ(リエーゴ,17851823)率いる舞台が1812年マドリードに入城しました。180814年のスペイン反乱のときに制定されたカディス憲法の復活を,国王〈フェルナンド7世〉(17841833)に要求し認めさせます。彼は憲法を復活させ(1812年自由主義憲法)自由主義的な政府を樹立しましたが,五国同盟がこれに介入しようとしました。しかし,自由主義色のつよくなっていたイギリスがこれに反対して足並みがそろわなくなっていたところに,ブルボン家のフランスがスペインに出兵し,自由主義政府を倒しました。〈リェーゴ〉はマドリードのセバダ広場で絞首刑となりました。

イタリア  
 分裂していたイタリアでは,秘密結社
カルボナリ(炭焼党) 【東京H21[3]】【セH10スパルタカス団,ブルシェンシャフト,フェビアン協会ではない】【セH19というグループが活動します。スパゲッティみたいな名前ですが,カルボナーラの語源はまぶされた黒コショウが炭のように見えることから。結成されたのは,ナポリタン,いや,ナポリです。当時のナポリはウィーン体制によってブルボン家となっていました。〈カルボナリ〉は1820年,スペインの自由主義的な動きに刺激されて活動を開始。カルボナリのメンバーだった若手将校が立ち上がって,ナポリに入城しました。「スペインで認められたカディス憲法を,ナポリでも認めてほしい」と主張したカルボナリの内部では,王を廃止するか存続させるかで内部対立が起き,結局翌年にオーストリアが干渉して,失敗に終わりました。

ロシア  
 ロシアでも,若手の将校が立ち上がりました。国を変えるには武力が必要ですから,いずれの国でも実力行使に出るのは軍,それもまだ地位も名誉もない若手将校が多い。やはり若い頃の感動や衝撃というのは,心にしみつくものです。かつてナポレオンと戦った若手将校が,負かしたとはいえ敵国フランスの先進的な考え方を知れば知るほどに,大きな影響を受けます。かつて〈エカチェリーナ2世〉が啓蒙主義者〈ヴォルテール〉から教えを受けたように,ロシアの貴族や軍人にとっての憧れの対象はフランスでした。「なぜロシアは遅れているのか?」という問いは,今後もロシアを縛りつづけることになりますが,このときの彼らはこう考えます。「ロシアが遅れているのは,皇帝が専制政治をしているからだ。それに農奴制がのこっているから,産業も発展しない」。

 しかし,ロシア人以外の民族も支配していたロシアが自由主義をとり,国民の声を聞き始めたら,きっと一気に分裂してしまうおそれもあった。そこで,皇帝は専制政治を崩しません。
 しかし,皇帝〈アレクサンドル1世〉が亡くなると【セH10ナロードニキにより暗殺されたわけではない】,改革派は12月に武装蜂起を起こしました。このグループは,デカブリスト(12月党) 【東京H21[3]】【セH3ナロードニキとのひっかけ,セH10ステンカ=ラージン乱,プガチョフの乱,ジャックリーの乱ではない】【追H20ウィーン体制下ではない】と呼ばれます。反乱の最中に皇帝に就任した〈ニコライ1世(182555)は,これを鎮圧し,首謀者は絞首刑に,関わったものをシベリアに流します。彼のあだ名は「ヨーロッパの憲兵」。ヨーロッパ諸国で革命運動が起きると,軍を出して干渉するようになります。
 なお,この時期にさまざまなジャンルで作品を残し,ピョートル大帝の像をたたえた詩『青銅の騎士』や『オネーギン』
【セH15ゴーリキーとのひっかけ】をはじめ,のちのロシア文学に大きな影響を与えた〈プーシキン〉(1799~1837)が活躍しています。


1820年~1830
 ラテンアメリカでスペインとポルトガルからの独立運動が起きるようになるのは,この時期です。〈メッテルニヒ〉はこれを押さえ込もうとしますが,アメリカとイギリスの後押しにより,ラテンアメリカ諸国は無事独立をすることができました。

オスマン帝国
 
オスマン帝国にも,自由主義・国民主義の考えが飛び火します。当時のオスマン帝国は,バルカン半島全域におよんでいましたが,その多くはスラヴ系の民族でした。
 
はじめに革命の火の手があがったのはギリシアです。古代ギリシア以来大変ご無沙汰しているギリシアですが,地中海の海上交通の要衝に位置することもあり,マケドニアの〈フィリッポス2世〉以降というもの,ローマ帝国,東ローマ帝国の支配を受け,最終的にオスマン帝国の支配下にはいりました。
 
「1民族1国家」という国民主義(ナショナリズム)の影響を受けたギリシア人は,かつてのギリシア人の勢力範囲(かつてギリシア人が植民市を建設した地域)に,オスマン帝国【セH12ロシアではない】から独立しギリシアという国家をつくろうという運動をおこし,1821年に武装蜂起を開始,1822年1月にギリシア独立宣言を発表1829年までつづくギリシア独立戦争セH3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う),H5【セH18,セH27時期】となりました。
 戦争中にオスマン帝国が,キオス島というところで
20,000(諸説あり)を虐殺したことを題材にとった作家〈ドラクロワ(17981863)は,これを「キオス島の虐殺」として展覧会に出品し,ある意味彼は戦場カメラマンとして,ギリシアの惨状をヨーロッパに伝えることになったのです。当時のヨーロッパでは,自国の文化の源流がギリシアにあるんじゃないかというロマン主義的な風潮が流行していましたし,何もわるいことをしていない一般市民がイスラーム教徒によって攻撃されていることに義憤を燃やした人々が,義勇兵としてギリシアに向かいました。
 『チャイルド=ハロルドの遍歴』『ドン=ジュアン』で知られるイギリスのロマン主義
【セH10写実主義ではない】の詩人バイロン(1788~1824) 【セH3ロビンソン=クルーソーの著者ではない,セH10【セH16イギリスのロマン主義かを問う,セH18トゥルゲーネフではない】もギリシア救援に向かった一人【セH18】。結局彼は熱病にかかってなくなっていますが,ギリシアの激戦地では,彼の慰霊碑に今でも花がたむけられています(〈バイロン〉と交流のあった女性作家に『フランケンシュタイン』(1818)で知られる〈シェリー〉(1797~1851)がいます)。
 
1827年,ナヴァリノの海戦(ペロポネソス半島の西南部)で,オスマン帝国・エジプトの連合軍を,イギリス・フランス・ロシアがギリシア側にたって撃破し,1829年にアドリアノープル条約でギリシアの自治を承認させました。結局,イギリス・フランス・ロシアは,ロンドン会議で,ギリシアの独立を正式に認めました。ここにはプロイセンとオーストリアは入っていません。

 イギリス【セH5・フランス【セH5・ロシア【セH5も,「ギリシアがかわいそうだから」助けたわけではなく,「助けておけば,独立した後で,いうことをきかせることができる」という思惑あってのことです。イギリス・フランスは地中海からインド洋に向かう通商路の中継地点を確保したいという思惑があり,ロシアにとっては南下の足がかりを得たいという思惑があったのです。


1830年 フランス七月革命
 ウィーン体制ではフランスにブルボン朝が復活し,〈ルイ18世〉が即位しました。〈ルイ16世〉の息子〈ルイ17世〉はフランス革命中にタンプル塔に閉じ込められ,わずか10歳で病死していました。過酷な虐待を受けていたといわれています。〈ルイ18世〉は,フランス革命が勃発すると,神聖ローマ帝国の選帝侯の一つであるトリール大司教のもとに亡命し,難を逃れていました。
 〈ルイ18【セH13ルイ16世ではない,セH14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】はフランス国王に即位すると,選挙権を全国民の0.3%に限定する制限選挙を実施します。一般民衆が政治に関わることに対するアレルギーがあるのですね。また,自分と同じように海外に亡命していた王侯貴族を暖かく迎え,革命前の絶対王政をふたたび復活させようとしました。

 〈ルイ18世〉の次代は,弟の〈シャルル10(182430) 【セH4】【セH23ルイ=フィリップとのひっかけ】【追H30】が国王に即位しました。彼は即位すると厳しい制限選挙をしき,絶対王政を復活させようとしたので,国内の自由主義者の反発を受けます。
 〈ポリニャック〉首相
(182930)の反動的な政策への批判も高まると,批判を逸らすためにアルジェリアに出兵しましたセH5】。マグレブ地方の住民の多くはアラブ系やベルベル系で,テュルク(トルコ)系は少数派でした。古くからマグレブ地方で商業活動に従事したユダヤ教徒のほか,キリスト教諸国のレコンキスタ(再征服運動,国土回復運動)でイベリア半島を追われたユダヤ教徒(1492年のスペインのユダヤ教徒追放令)やイスラーム教徒も移住していました。フランスの進出に対し,アラブ系の〈アブド=アルカーディル〉がアラブ系とベルベル系を率いて1832~1847年まで激しく抵抗しました。

 アルジェリア出兵後も民衆の不満はおさまらず
1830年にパリで革命が起き,倒されました(七月革命) 【セ試行 二月革命とのひっかけ】【セH12】【セH13時期(180285),セH23ルイ=フィリップが廃位されたわけではない】。新たに王に選ばれたのは,ブルボン家の遠い親戚にあたるオルレアン家の〈ルイ=フィリップ(183048) 【セH4】【セH23【立教文H28記】です。
 〈ルイ=フィリップ〉による王政を
七月王政といいます【セH12「共和政が実現するには至らなかった」か問う】【セH14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】【追H30ドラクロワの絵画の関連を問う】
 彼を持ち上げたのは銀行家たちでした。銀行の頭取
(とうどり)レベルの大金持ちだと思ってください。王権神授説をとらず,自分は「フランス国民の王」だとアピールし期待を集めたのですが,しだいに批判的な勢力が拡大していきました。

 
七月革命の影響は,ポーランド,ポーランドと同君連合を組んでいたリトアニアにも波及しました。当時の両国は,事実上ロシアの支配下にありました【共通一次 平1:ワルシャワ大公国ではなく,ポーランド立憲王国だった】。ロシア皇帝がポーランド王を兼ねる同君連合(ポーランド立憲王国【セH5国王はロシア皇帝が兼ねたか問う】)だったのです。
 ここで
1830年に十一月蜂起ともいわれるポーランド・リトアニアにおける反乱がおきます。しかし,ロシア皇帝兼ポーランド王〈ニコライ1世〉による鎮圧を受け,多くのポーランド人リトアニア人が祖国をあとにしました。当時ウィーンに滞在していたロマン派のポーランド人作曲家〈ショパン(1810?~1849)も,風当たりが強くなってフランスのパリに避難し,その地で反乱失敗の知らせを聞きます。翌31年に仕上げた『革命のエチュード(練習曲)』は,この悔しさと怒りに基づくものだとも言われています。この時代以降,多くのポーランド人やリトアニア人が,アメリカ合衆国にも移住しています(現在のアメリカ合衆国の人口の3%がポーランド系です)。
 
スペインではブルボン家の〈フェルナンド7世〉(位1808,1813~33)による反自由主義的な政治が続いていましたが,彼が死去すると王位継承問題に加えスペインに自由主義を導入するかしないかをめぐってカルリスタ戦争(1833~76)という三度の内乱が勃発しました。
 ドイツ連邦の中では,
ザクセンハノーファー立憲君主政が樹立されています。

1848年 フランス二月革命
 七月革命の結果できた体制は,参政権に財産による制限をもうけたため【セH4男子普通選挙制度ではない】,大資本家(銀行家)しか政治に参加できませんでした。しかし,産業革命【セH4フランスの産業革命の始まりの時期(19世紀「半ば」ではなく,「前半」が適当)】の進行にともない労働者の数は増加。〈プルードン〉(1809~1865)【追H9スパルタクス団ではない】のような無政府主義者(アナキスト)も主張をつよめます(『財産とはなにか』(1840))。
 政権に反対する集会(規制をかいくぐるため「改革宴会」と呼ばれました)が
二月革命【セH12普通選挙が実施されたか問う(実施された)】【セH16アイルランドは独立していない,セH21】(1848年革命【早法H28[5]指定語句】)へと発展します【セ試行 新たな課税に反対して起こったのではない】
 〈ルイ
=フィリップ〉はスイスに亡命し【セH29,共和派の自由主義者【セ試行】に加え,社会主義者の〈ルイ=ブラン【セ試行】【セH12】も入閣する第二共和政が成立しました【セH22年代を問う,H29。リュクサンブール委員会という,労働者の意見を聴くための組織も作られました。
 労働者が政権をとったというニュースは各国にも大きな影響をあたえましたが,多くは失敗しました。
 3月にはオーストリアの首都ウィーンでも暴動
【セ試行】が起き,〈メッテルニヒ〉は失脚【セH7】。ロンドンに亡命【セ試行 】【セH22年代を問う,H29,名実ともにウィーン体制は崩壊しました(三月革命【セH7】)。

 二月革命の影響はイギリスにも伝わり,第一回選挙法改正で選挙権を獲得できなかった労働者が,男子普通選挙を求める「人民憲章(ピープルズ=チャーター)【セH18エリザベス1世による発布ではない】を議会に提出しようとする運動(チャーティスト運動)が盛り上がりました【セH26責任内閣制とは関係ない】【セH8労働者階級の参政権獲得を訴えたものか問う】
 ポーランド南部はポーランド分割にいよりオーストリア領となっていましたが,1846年に自治権を持っていた南部の中心都市クラクフで,オーストリアに対する反乱が起きました(クラクフ蜂起)。しかし,反乱勢力のうち土地貴族(シュラフタ)と農民との歩調が合わず,失敗しました。


 
二月共和政【セH14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う),セH21】の成立したフランスでは〈ルイ=ブラン〉の学説を実践にうつした国立作業場【セH21】閉鎖に追い込まれるなどの失政により急速に支持を失い,四月選挙【セ試行】で敗退。労働者らは六月暴動を起こし社会不安が起きる中,11月には新しい憲法(三権分立)が制定されました。しかし,フランスを保守的な政治に戻すか,自由主義を推進するかをめぐり,政治は混乱し続けます。


 さて,産業革命(工業化)は1830年以降,次第にヨーロッパ諸国に広がっていきました。目まぐるしく社会が変動し,さまざまな社会問題が発生するようになります。その社会問題から目を背けずに客観的に観察して,汚い部分も含めてありのままに描くことで,人々に問題に気づかせることができるのではないかと考える作家も現れます。19世紀中頃から本格化する「写実主義【セH10ロマン主義,古典主義とのひっかけ】【セH13バルザックの文芸上の傾向を答える,H16ロマン=ロランではない】の文学者たちです。
 例えば,フランスの〈スタンダール〉(17831842) 【セH10古典主義者ではない】の『赤と黒』,フランスの〈バルザック〉(17991850)の『人間喜劇』【セH13象徴主義・ロマン主義・古典主義ではない】,フランスの〈フロベール〉の『ボヴァリー夫人』におけるブルジョワジーに対する批判が代表です。イギリスでは,国民的作家〈ディケンズ〉(181270) 【セH3ロビンソン=クルーソーの著者ではない】が『二都物語』や『クリスマス=キャロル』などで,民衆に寄り添った作品で人気を集めました。
 イギリスでも,自然や伝統の良さを描いたロマン主義の文学者が人気を集めます。湖水地方に移住して自然を描いた詩人〈ワーズワース〉(17701850),詩人・歴史小説で有名な〈スコット〉(17711832),ギリシア独立戦争に参加した〈バイロン〉(17881824)が有名です。




1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ(旧・西ドイツ,東ドイツ)
◆民族主義,国民主義の波が,中央ヨーロッパを席巻した
 いままでは民族A・民族B・民族Cがともに暮らしていた帝国内で,“民族A”が「国民A」としてまとまろうとすると,民族Bと民族Cは自分たちも「国民B」「国民C」だと主張し,「国民A」と争うことになる。そんな状況が中央ヨーロッパを席巻(せっけん)します。
 言語も宗教もバラバラな地域が多い中,いずれかの民族だけまとまろうとすれば,そのまとまりの中には,その「まとまり意識」に納得のいかない少数民族が,必ずといっていいほど存在します。これが,中央ヨーロッパの「国民国家」づくりの苦難でした

1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ①ポーランド
「諸民族の春」を先取りしたクラクフ蜂起
 1846年にポーランド南部のクラクフでシュラフタ(中小領主)による蜂起が起きました。オーストリアからの独立運動です。彼らはガリツィアの農民にも蜂起への参加を呼掛けましたが,農民にとってはオーストリアよりも領主の方が憎むべき的でしたから,農民たちが逆にシュラフタを攻撃して幕を閉じました(クラクフ蜂起ガリツィア暴動)
 ウィーン体制に挑戦する民族主義運動は,パリの二月革命に先立ち,ポーランドですでに勃発していたのです。

1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ④ハンガリー
◆ハンガリー語を中心とする民族運動がもりあがったが,クロアチア人の民族的自覚も高まる
「青年ハンガリー」が形成され,1848年革命へ
 
ハンガリーでも自由主義・民族主義を求める運動が盛んになりますが,「民族」としてまとまるにも,「ハンガリー人」としての基準はあいまいでした。
 そこでハンガリー語を「ハンガリー人」としての「まとまり意識」の中心に据えようとする動きが起こり,1836年・1844年にはハンガリー語を公用語とする法律ができます。しかし,ポーランドの反オーストリアのクラクフ蜂起が,農民蜂起によって失敗した知らせを聞いたハンガリーの民族主義者は,民族としての「まとまり」を強くするには,まず第一に農民の貧しさを解消することが必要と考えるに至ります。こうして,1848年にかけて「青年ハンガリー」が封建的な特権の廃止を求める活動を展開し,社会主義者も登場します
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 しかし,ハンガリーの領域には,ハンガリー語を話さないスロヴァキア人,クロアチア人,ルーマニア人もおり,ハンガリー人が民族的にまとまろうとすればするほど,彼らは彼らで民族的な自覚を高めていくことになりました。
(注)南塚信吾「1848年革命と民族問題―ハンガリー革命と西ヨーロッパ」『週刊朝日百科 世界の歴史107』,1990,p.B-676


1815年~1848年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ⑦ドイツ
工業化を達成するためナショナリズムが推進されるとともに,科学技術が発達した
 イギリスでは,英語を話す人々(イングランド人)が,ケルト系の言葉を話す人々(スコットランドやアイルランド)を領土に加え,「イギリス」を形成していきました。
 フランスでも,政府により「フランス」の統一が進みました。例えば,フランス南部のマルセイユの人々は,自分が「マルセイユの住民だ」という意識はあっても,「フランス国民である」という意識は,まだそこまで強くなかったのです。言葉だって,「プロヴァンス語」といって,どちらかというとイタリア語に近い言葉を話していました。19世紀後半以降「小学校」で正しいフランス語が教えられ,マルセイユ人も正しいフランス語を話すようになっていきましたが,今でも独特のアクセントは残っています。
 日本でいうと関西人が,小学校で標準語を習っても,日常生活ではその地の関西弁を話すというのに近い。でも,まがりなりにも「フランス」という国家のまとまりが,政府によって重視されていくと,人々の意識もだんだんと変わっていきました。
 
 人類が仲間意識を強める方法は,いつの時代でも同じ。を設定し,自分と敵との関係を説明するストーリーを共有することです。フランス人にとっては,まず陸続きにあるドイツ人。さらに,経済面で勝るイギリス人でした。
 しかし,ドイツ人たちは統一した国家を形成していません。
 かつて「神聖ローマ帝国」(9621806)という国がありました。ローマを名乗っている割に,実際には「ドイツ帝国」というべき国家です(領内にはチェック人やマジャール人など,異民族も多くいました)
 しかし,やがて諸侯の力のほうが強くなり,1356年には皇帝を有力な諸侯が選挙で選ぶ方式となり,さらに15世紀からはオーストリア出身のハプスブルク家が,皇帝位を世襲するようになっていきました。しかし,三十年戦争(161848)でハプスブルク家が敗北後に結ばれたヴェストファーレン(ウェストファリア)条約(1648)によって,「神聖ローマ帝国」というのは一応の秩序を保つためののようなものになってしまって,その中にある諸侯の領域が「国家」のように独立した主権をもつようになります。それらを領邦といいます。
 とどめを指したのは〈ナポレオン〉です。1806年に神聖ローマ帝国を解体【セH18】し,その中にあった領邦を連合させて,自分のいうことを聞かせるためにライン同盟をつくらせました。
 〈ナポレオン〉が去り,オーストリアの〈メッテルニヒ〉は1815年にドイツ連邦【セH18】を結成します。これは,領邦と都市による国家連合で,「神聖ローマ帝国」という時代遅れな名称にかわり(だってローマを支配しているわけではないですから…),「ドイツ連邦」として,ドイツ人に対する主導権を握ろうとしたものです。


 オーストリアにとってのライバルは,北東部のプロイセン王国でした。プロイセン王国は,〈ナポレオン〉の占領下における〈シュタイン(17571831)と〈ハルデンベルク(17501822)の改革によって,すでに農奴を解放していました【セH6 19世紀初頭のプロイセンで「農民解放」がおこなわれていたか問う】。さらにウィーン議定書で工業地帯であるラインラントを獲得したため,発展の途上にありました。
 1834()には,七月革命(1830)の影響【セ試行 】を受け,プロイセン【セH25オーストリアではない】【追H30オーストリアではない】中心にドイツ関税同盟【セ試行 】【セH6年代】【セH25】【追H30】が結成されました(従来から存在した関税同盟を拡大させたもの)。これにより,1835年にはドイツ初の鉄道が敷設され,鉄鋼を供給した〈クルップ〉(1812~1887,2代目)のクルップ社が巨万の富を得ました。クルップ社は軍需産業にも参入し,大砲の開発を進めていきました。
(注)条約成立は1833年,発効は1834年1月。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.123

 
ドイツ関税同盟を提唱した経済学者〈リスト(17891846) 【東京H11[3]】【セH18『海洋自由論』ではない,セH22国家による経済の保護に反対していない】はこんなふうに考えます。
「ドイツはまだ生まれたばかりの赤ちゃんだ。イギリスと対等には戦えない」
自由とは勝者のみが主張できるもの。歴史的に差が付いているのだから,ドイツにはイギリスからの輸入に対して,共通の関税をかけてブロックする必要がある。」
 イギリスの古典派経済学者
(1776年に『諸国民の富(国富論)(注1【追H9〈マルクス〉の著作ではない】【早政H30】を著したアダム=スミス(172390) 【セH12】【セH22】【追H9〈マルクス〉のひっかけ】(12や〈リカード(17721823) )は,イギリスの議会主導の重商主義制度(3)を批判【セH12重商主義を批判したかを問う】し,自由競争と自由貿易を主張する古典派経済学の理論をつくっていました【セH12アダム=スミスが古典派経済学の基礎を築いたか問う】【セH22自由貿易に反対していない】。〈リスト〉はそれに対抗する理論を打ち立てたのです。
(注1) 先に「国富論」と訳され,その名が通用していましたが,のちに経済学者〈大内兵衛〉(1888~1980)らの新訳により『諸国民の富』が広まりました。
(注2) 少し長いが,〈アダム=スミス〉の論をここに引いてみましょう。
 「長期間の徒弟修業はまったく不必要だ!(
徒弟とは,手工業の世界で親方の下に長期間働く使用人のこと)。柱時計や懐中時計をつくるのは普通の職業よりもたしかに技術はいる。しかし,長い教育課程が必要なほどの秘伝があるわけではない。…どんな青年に対してもつくり方をマスターするのに数週間以上はかからないだろうし,数日で済むかもしれない。 もちろん徒弟がみんな辞めてしまって,自由競争が導入されれば,親方は損するだろう。しかし,手工業製品がはるかに安く市場にもたらされれば,社会の利益にはなるだろう」(アダム=スミス,大内兵衛・松川七郎訳『諸国民の富』岩波書店,1959,p.340-341を意訳)
(注3) 絶対王政が主導する王室的重商主義に対し,議会的重商主義ともいいます。


 〈リスト〉は
ドイツ関税同盟【早政H30「関税」を答える】の成立に関与し,先進国からドイツへ安価な工業製品が大量に輸入されるのを防ごうとしました。
 「外国製品をブロックし,自国製品の生産者を守ろう」
 このような考えを
保護貿易主義といいます。反対語は,イギリスの推進する自由貿易主義【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】です。〈リスト〉の考え方は,20世紀になってから,ヨーロッパ経済共同体(EEC)に応用されていくことになります。
 なお,ドイツ関税同盟には
オーストリア【東京H11[3]】は加盟していません。

 おなじくイギリスの経済学者の批判をした思想家にの一人に,プロイセン出身のマルクス (181883) 【セH2,セH8「カール=マルクス」,セH10】【セH19【追H9『諸国民の富』を著していない】がいます。彼は「現在イギリスの推進している自由な競争に基づく経済のしくみは,資本家が労働者を搾取することで成り立っている。労働者が立ち上がって,この関係をなくせば,良い社会がつくれる」と主張します。彼は,これまでの人間の歴史が,物をどのように生産し,それによってどのような社会や思想が生まれ,矛盾が生じて変化してきたかによって形成されていったのだと考えました。これを史的唯物論(唯物史観) 【セH2】【追H21】【中央文H27記】といい,のちに大きな影響を与えることとなります。
 〈マルクス〉
【セH12カントではない】は友人の〈エンゲルス(182095) 【セH19とともに,1848(二月革命の前です)共産党宣言【セH12【セH19で世界中の労働者に向けて国際的に連帯して階級闘争(労働者が資本家をたおすこと)を呼びかけ【セH81867年には古典派経済学の誤りを正す目的で『資本論【セH10】【追H9『諸国民の富』ではない】の第1巻を刊行しました(第2巻は85年,第3巻は94)。〈エンゲルス〉は『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)というルポルタージュ(現地報告)で,産業革命(工業化)を達成したイギリスの労働者の悲惨な状況を克明に描いたことでも知られます。

 しかし,実際に1848年にプロイセンで起きた三月革命(リン暴動べる)【セ試行 】で,政府に参加したのは「自由主義者」,つまり,自由にビジネスがしたいと考える資本家たちでした。ただ,労働者たちの反発も強く,結果的には大土地所有者(ユンカー)らの保守的な勢力が復活し,革命の進行は止まってしまいます。
 
 フランクフルトでは184849年に,ドイツ統一に関する【セ試行】【セH29メッテルニヒはこれにより失脚したわけではない】国民会議(フランクフルト国民議会) 【セ試行】【セH7】【セH16オーストリア中心の統一を求めることで一致していない,セH22年代を問う,H24【セA H30大陸会議ではない】がひらかれ,自由主義者が集まって議論が交わされました。
 議論の中心は,まだ見ぬ“統一ドイツ”の範囲。
 複雑な言語・民族分布となっている中央ヨーロッパの広範囲に,ドイツ語を話す人々が住むものの,そこには複数の国家があり,「ドイツ人」としての意識にも様々なあり方がありました。

 「ドイツ統一というけれど,どこまでがドイツなんだ?」
 これが大問題だったのです。

 さらに,ベーメンにいるチェック人は統一ドイツに入れるか入れないかも問題となります。会議に参加するよう求められた,チェック人の独立運動の代表である〈
パラツキー(17981876)は,ドイツ統一に巻き込まれることを恐れ出席を拒否。独自にスラヴ人をまとめて独立させようとする運動を起こし,1848年6月にチェコのプラハでスラヴ人会議を開催しました。

 フランクフルト国民会議では,統一ドイツの政治のしくみも議論になりました。
 「新しいドイツでも,領内の王国や公国などは残そう(連邦制)。でも,それをまとめる皇帝はどうする?」
 「プロイセン国王に就任してもらおう。そして,暴走しないように憲法でしばればいい(立憲君主制)
 こうして,オーストリアを外し,プロイセンを中心として統一する考え方(小ドイツ主義【セH7大ドイツ主義ではない】)の考えのもと,以上の内容を盛り込んだ帝国憲法が制定されました(1849年3月)1849年に立憲君主制・連邦制を定める帝国憲法が制定されたのです。

 しかし,プロイセン国王は,「国民が皇帝を決めるなど,何事か!」と皇帝就任を拒否。国民の側からのドイツ統一は失敗に終わったのです。
 この混乱を逃れるためにドイツの自由主義者が向かった先はアメリカ合衆国。今でもイギリス系に次ぐ約15%の国民が,ドイツ系であると自己申告しています。ドイツのハンザ都市ハンブルクの名の付くハンバーグも,19世紀にドイツからの移民がアメリカに持ち込み,1830年頃にはアメリカでハンバーグステーキが作られるようになったといわれています(発祥の地はテキサスのアセンズ説とコネティカットのニューヘイヴン説がある)。また,1870年代にはフランクフルト=ソーセージをパンに挟むホット=ドッグが考案されています。

 また,ハンガリーでは〈コシュート〉(コッシュート180294)が,1849年にハンガリー独立宣言【セH12時期(19世紀前半か問う)。〈コシューシコ〉ではない】【セH19ハンガリーの1848年革命を指導していない】を発表しましたが,オーストリアの派遣したクロアチア総督兼軍司令官の〈イエラチチ〉(イエラチッチ180159)の部隊により鎮圧されました。クロアチア人にとってはいくらオーストリアから独立することができても,次はハンガリーに支配されてしまう危機感もありました。
 ハンガリー人の〈コシュート〉は「ハンガリー語を話す者がハンガリー人だ」と主張しましたが,ハンガリーには
クロアチア人ルーマニア人など,ハンガリー語を話すがハンガリー人という意識のない民族も多く分布していたのです。
 どこかの領域で,ある民族が独立を叫ぶと,別の民族の独立が犠牲になる…。複雑な歴史を持つ宗派・言語の集団が共存していた空間の中で,突然「民族」としてまとまろうとする運動が起きると,このような矛盾が各地で起きていくことになるわけです。




1815年~1848年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 オスマン帝国の支配領域にも,自由主義・国民主義の思想と無縁ではありませんでした。当時のオスマン帝国はバルカン半島全域におよんでいましたが,その多くはスラヴ系の民族でした。

1815年~1848年のヨーロッパ  バルカン半島 ④ギリシア
 
古代ギリシア以来大変ご無沙汰しているギリシアですが,地中海の海上交通の要衝に位置することもあり,マケドニアの〈フィリッポス2世〉以降というもの,ローマ帝国,東ローマ帝国の支配を受け,最終的にオスマン帝国の支配下となっていました。
 しかし,「1民族1国家」という国民主義(ナショナリズム)の影響を受けたギリシア人は,かつてのギリシア人の勢力範囲(古代にギリシア人が植民市を建設した地域)に,オスマン帝国【セH12ロシアではない】から独立しギリシアという国家をつくろうという運動をおこし,1821年に武装蜂起を開始,1822年1月にギリシア独立宣言を発表1829年までつづくギリシア独立戦争セH3時期を問う(ギリシア独立戦争,エジプト=トルコ戦争,オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア=ヘルツェゴビナの併合の順を問う),H5【セH18,セH27時期】となりました。
 戦争中にオスマン帝国が,キオス島というところで
20,000(諸説あり)を虐殺したことを題材にとった作家〈ドラクロワ(17981863)は,これを「キオス島の虐殺」として展覧会に出品し,ある意味彼は戦場カメラマンとして,ギリシアの惨状をヨーロッパに伝えることになったのです。当時のヨーロッパでは,自国の文化の源流がギリシアにあるんじゃないかというロマン主義的な風潮が流行していましたし,何もわるいことをしていない一般市民がイスラーム教徒によって攻撃されていることに義憤を燃やした人々が,義勇兵としてギリシアに向かいました。
 『チャイルド=ハロルドの遍歴』『ドン=ジュアン』で知られるイギリスのロマン主義
【セH10写実主義ではない】の詩人バイロン(1788~1824) 【セH3ロビンソン=クルーソーの著者ではない,セH10【セH16イギリスのロマン主義かを問う,セH18トゥルゲーネフではない】もギリシア救援に向かった一人【セH18】。結局彼は熱病にかかってなくなっていますが,ギリシアの激戦地では,彼の慰霊碑に今でも花がたむけられています(〈バイロン〉と交流のあった女性作家に『フランケンシュタイン』(1818)で知られる〈シェリー〉(1797~1851)がいます)。
 
1827年,ナヴァリノの海戦(ペロポネソス半島の西南部)で,オスマン帝国・エジプトの連合軍を,イギリス・フランス・ロシアがギリシア側にたって撃破し,1829年にアドリアノープル条約でギリシアの自治を承認させました。結局,イギリス・フランス・ロシアは,ロンドン会議で,ギリシアの独立を正式に認めました。ここにはプロイセンとオーストリアは入っていません。

 イギリス【セH5・フランス【セH5・ロシア【セH5も,「ギリシアがかわいそうだから」助けたわけではなく,「助けておけば,独立した後で,いうことをきかせることができる」という思惑あってのことです。イギリス・フランスは地中海からインド洋に向かう通商路の中継地点を確保したいという思惑があり,ロシアにとっては南下の足がかりを得たいという思惑があったのです。

 〈
ムハンマド=アリー〉が事実上オスマン帝国から自立していたエジプトはギリシア独立戦争の際に,オスマン帝国のSOSを受けて出兵。
 
クレタ島などを占領しました。
 東地中海の交易ルートの独占を目指した〈ムハンマド=アリー〉は,その“お礼”としてシリア総督の地位を要求。拒否されたことでオスマン帝国と開戦します(
第一次エジプト=トルコ戦争第一次エジプト事件)。勝利したエジプトはシリア総督の地位と,クレタ島の支配権を獲得しました。
 しかしエジプト勢力の拡大を危険視したイギリスなどヨーロッパ列強の反発を背景に,1839年~1840年に再度オスマン帝国と開戦(
第二次エジプト=トルコ戦争第二次エジプト事件)。エジプトはクレタ島やシリア総督の地位を失う代わりに,オスマン帝国の宗主権下でのエジプト総督の世襲が認められました。




1815年~1848年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル

 スペインでは〈フェルナンド7世〉が復位し,〈ナポレオン〉の占領下から独立戦争中にかけて盛んになった自由主義的な動きを弾圧し,フランス革命前の体制に戻そうとしました。
 しかし,カディスで開かれた議会の制定した自由主義的な
1812年憲法(カディス憲法)は,「スペイン王国による支配」を打ち破り自由な体制をつくろうとしていたアメリカ大陸の植民地生まれのスペイン系子孫に希望の光を与えました。
 こうして1810年代から1820年代にかけて,スペイン領・ポルトガル領の植民地で次々に独立運動が成功していくのです。
 北から順に独立したスペイン領植民地を見ていくと,以下のようになります。
 メキシコ(1821)
 中央アメリカ連邦共和国(1823)
 大コロンビア共和国(1819)
 ペルー(1821)
 ボリビア(1825)
 パラグアイ(1811)
 ウルグアイ(1828)
 アルゼンチン(1810)
【セH12時期(19世紀前半か問う)】
 チリ(1810)

 さて,これだけ広大な植民地が独立していったわけですから,スペインの政治・経済が打撃を受けないわけがありません。1820年には〈リエゴ〉がクーデタを宣言して各地で反乱が起き,国王は圧力に屈して1812年憲法(カディス憲法)を一時復活させました。自由主義的な〈リエゴ〉政権はすぐさま改革に乗り出しましたが,指導層の間に対立が起きる中,
ウィーン体制を守るためにフランスが軍事的に干渉し,〈リエゴ〉派を追放しました。その後,国王〈フェルナンド7世〉は絶対王政を復活させましたが,もはや自由主義派を無視することはできず,国王の死後には王位継承権をめぐる内乱が勃発します(〈フェルナンド7世〉は女子への王位継承を認め,自由主義を認める王妃との間に生まれた女子〈イサベル〉への継承を狙いましたが,自由主義に反対する勢力が王弟〈カルロス〉を推したのです。カルロス派のことを「カルリスタ」というので,この反乱をカルリスタ戦争といい,第一次カルリスタ戦争は183339,第二次は187276年に起きています)。この内乱ではバスク地方,ナバーラ,カタルーニャなどが〈カルロス〉派につき,主に中央部から南部にかけての自由主義派と対立しました。この内乱は,教会や貴族といった絶対王政を支持する勢力vs地主や資本家などの自由主義勢力という構図だけでなく,中央と地方との争いでもあったのです。結果的に両者は妥協して1837年に国民主権をうたった新たな憲法が制定されました。その後,フランスで起きた二月革命の影響は,スペインではカタルーニャの一部に地域にとどまります。





○1815年~1848年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ
…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

1815年~1848年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
 
〈ナポレオン〉が敗北した後のイギリスは,イギリスはウィーン体制に参加して,海外の領土を広げました。
 しかし,「大陸の揉め事に巻き込まれないために,大陸の決め事にはかかわらないほうがよい」という雰囲気が広がり,オーストリアの〈メッテルニヒ【共通一次 平1】の提唱した四国同盟からも,1822年以降は実質的に脱退。ロシアの〈アレクサンドル1世〉の提唱した神聖同盟【共通一次 平1】【追H20ローマ教皇は提唱していない】には「意味がない」と,そもそも加盟していません【共通一次 平1:メッテルニヒの提唱ではない】
 その背景には,イギリスでは18世紀後半以降産業革命(工業化)が起き,産業資本家の意見が政治に反映されるようになっていたからです。能力ではい上がった産業資本家たちにとって,〈メッテルニヒ〉がヨーロッパに打ち立てようとしたウィーン体制は,ビジネスにとって邪魔で保守的なものとしか移りませんでした。
 それに〈メッテルニヒ〉は,ラテンアメリカ(中央アメリカ,カリブ海,南アメリカ)の独立運動に対して「自由主義は革命につながる」として警戒し,弾圧をしようとしましたが,イギリスの産業資本家は「ラテンアメリカの植民地を支援し,独立してもらったほうが,機械で生産した綿布を売りつけるビジネスチャンスだ!」と考え,〈メッテルニヒ〉によるアメリカに対する干渉に反対しました。
 
 イギリス国内における自由化の流れは,政治的な分野と経済的な分野において進んでいきます。
 産業革命(工業化)後のイギリスでは,裕福になった産業資本家が「自分たちの意見も反映させてほしい」と,参政権を求める運動が起きました。伝統的な社会では個人の考えがおさえられることが普通だったわけですが,「これからの社会は社会で個人が自由に活躍できることだ」と主張したのです。しかし,個々人が自分の利益を求めてバラバラにふるまえば,問題も起きます。そこで,「社会全体の幸せを脅かすものだけは,規制するべきだ」と考えたわけです
  こうして〈ベンサム〉(17481832) 【セH2,セH12カントとのひっかけ】は,「社会全体の幸せ」とは何で,どうすればを測ることができ,実現できるかということについて研究しました。そして,それを実現するには「最大多数の最大幸福【セH2】の実現が大切で,だからこそ普通選挙制(誰でも投票できる制度)をすぐに導入して,代議制民主政治を完成させるべきだと考えたのです。彼のような思想を功利主義【セH2】といいます。

 しかし,実際には,すべての人に政治参加が認められていたわけではありません。1801年にイギリスが併合したアイルランド王国は,カトリック教徒が多数派でした。しかし,審査法の影響で公職につくことが認められていませんでした。アイルランド人〈オコンネル〉(1775~1847)の活動も実り,1828年に審査法が廃止され【セH9貴族身分が廃止されたわけではない】【セH19制定ではない】,翌年1829年にはカトリック教徒解放法でハッキリとカトリック教徒でも公職につけることが認められました【セH29スペインではない】


◆奴隷制度・穀物法・東インド会社の貿易特権が廃止される
イギリスでは,自由貿易主義が拡大する
 1832年のホイッグ党の〈グレイ〉伯爵内閣(任1830~32,彼のためにブレンドされたのが始まりといわれるのはアールグレイティー(グレイ伯爵=アールグレイ)です)のとき選挙法改正(第一回選挙法改正)で,産業資本家【追H30女性ではない】に参政権が与えられると,経済的な自由を認める制度の改革が加速しましたセH5 19世紀中葉のイギリスは,高い生産力を背景に,輸入抑制政策のもと輸出を伸ばしたわけではない(自由貿易政策がとられた)】
 1807年には奴隷貿易を禁止していましたが,1833年には奴隷制度廃止法が成立【東京H14[1]指定語句「植民地奴隷制の廃止」】1838年に全奴隷が解放されました。
 1846年には輸入穀物に関税をかける穀物法が〈コブデン〉(180465) 【セH12】【セH22】と〈ブライト〉(181189) 【セH12】【セH22】の反対運動【セH12支持する運動ではない】により廃止され【東京H19[1]指定語句「穀物法廃止」】【セH22,セH24穀物法は「輸入穀物の関税を撤廃していた」わけではない】1849年には自由貿易【早法H29[5]指定語句】の障害となっていた航海法廃止されました【早法H29[5]指定語句,論述(航海法廃止の理由を,当時の政治・経済の情勢に関連付けて述べる)】。また,東インド会社の貿易特権1833年に廃止されました【セH22インド帝国の成立後ではない】。1840年から1869年まで,中国の新茶をいち早くロンドンに届けるための競争が盛んになり,3本の帆をもつティークリッパー(クリップとは大急ぎで進むこと)という高速帆船が建造されました。現在のボジョレーヌーボーみたいなもんです。最後に建造されたカティ=サーク号は再建され,標準時子午線の通るグリニッジ市内に展示されています。

 その一方で,選挙権が与えられなかった労働者・女性などの人々は,
チャーティスト運動を起こし,二月革命の際に最高潮を迎えましたが,成果は得られませんでした。
 なお,1840年には,蒸気船による大西洋航路の定期便が就航されるようになっています。


◆産業社会の展開の影で,社会問題・労働問題が発生し,社会主義思想・社会政策も発達する
〈マルサス〉の罠,生活協同組合,工場法
 さて,産業化が進めば,人間の社会は物質的に豊かになっていきます。しかし,今までにはない様々なの社会問題も発生するようになりました。イギリスの〈
マルサス〉(17661834)は『人口論』で,社会問題は人口と食料の関係によって決まると主張し,社会の発展のためには一定の人口調整が必要だと主張しました。彼の考えは,人口爆発が起きた20世紀後半以降,再び注目されるようになっています。
 また,〈
オーウェン〉(1771~1851)【追H9】のように,労働者が資本家に搾取(さくしゅ)されないような工場を考案する人も現れました。彼のニュー=ラナーク工場やニュー=ハーモニー村の建設は失敗に終わりますが,「生活協同組合」のアイディアは先駆的でした。
 「みんなで出資して,みんなではたらいて,みんなで買うおう。そうすれば誰がつくっているのか生産者の顔も見れるし,資本家に搾取されて生活が苦しくなることもない」
 のち,イギリスのロッチデール先駆者協同組合(1844)に受け継がれ,現在の
生協の発祥となります。
 なお,1833年には,労働条件の改善のために
工場法【セH2時期(18世紀末にフランスで制定されたのではない),セH6人身保護法ではない】が制定されています。

1815年~1848年の低地地方
 低地地方は,1815年のウィーン議定書で南北をあわせてネーデルラント連合王国(オランダ王国)が建国されました。
 このとき,
ルクセンブルク大公国はドイツ連邦に加盟していますが,ネーデルラント連合王国との同君連合とされ,ネーデルラント連合王国の一部にとどまりました。

 しかし,北部による南部に対する言語・文化の強制から南北に亀裂が走り,1830年にフランスで
七月革命【追H21が起きると,同年に南部は国王〈ウィレム1世〉に対し独立を宣言しました。
 南部は1831年には,ウィーン議定書により
ドイツ連邦を構成していたザクセン=コーブルク=ゴータ家の〈レオポルド〉を初代国王〈レオポルド1世〉(位1831~65)として招いてベルギー王国が建国され【追H21七月革命の影響か問う】憲法も制定されました。〈レオポルド〉は,イギリスの〈ヴィクトリア女王〉の親戚でもあります。
 北部のネーデルラント連合王国(オランダ王国)にとって,南部にカトリック国ベルギー王国が出現したことは安全保障上の大問題でした。ベルギーがフランスと組む可能性も否定できないからです。
 そこで,オランダはベルギーに
永世中立国(どことも同盟関係を組まないことにした国)であることを宣言させることと引き換えに,1839年のロンドン条約でベルギーの独立【追H21を承認しました。このときにルクセンブルク大公国はネーデルラント連合王国から独立しました(ただしネーデルラントとの同君連合と,ドイツ連邦加盟は維持されます)。

 ベルギーはイギリスとフランスの間でうまくバランスをとろうとしており,事実ベルギー国王〈レオポルド1世〉は,〈ヴィクトリア女王〉の親戚であるとともに,フランス七月王政の王〈ルイ=フィリップ〉の娘と結婚しています。
 ベルギーにはイギリス・フランスからの資本が投下され
産業革命(工業化)が起きました。国内では石炭が産出され鉄鋼業も栄えます。





1815年~1848年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ
…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン

 ナポレオン戦争末期のごたごたの中で,スウェーデンはデンマークに侵攻して1814年1月にキール条約で力ずくで講和を認めさせました。これにより
ノルウェーはスウェーデンに割譲されることになり,デンマーク=ノルウェーの同君連合は幕を閉じました。ノルウェーは憲法を制定し独立宣言を発しますが孤立無援に陥り,結果としてスウェーデン王国との同君連合を認めました。
 なお,跡継ぎのいない〈カール13世〉(位1809~18)に対し,1810年に〈ナポレオン〉軍の将軍〈ベルナドット〉が後継の王として指名されていました。彼は1818年にスウェーデン王に即位し,これが現在まで続く
ベルナドッテ朝スウェーデン王国なのです(ちなみに〈ベルナドット〉の妻は,〈ナポレオン〉の元婚約者)。スウェーデンの歴史には,〈ナポレオン〉が色濃い影響を残しているのです。

 1814~1815年の
ウィーン会議【セH4七月革命後の会議ではない】では,こうした動きが既成事実として認められました。

 
デンマークは,ウィーン議定書により,ユラン(ドイツ語でユトランド半島)において,中部のスレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ)公爵領【セ試行 地図上の位置をホルシュタイン公爵領とともに問う】ホルステン(ドイツ語でホルシュタイン)公爵領【セ試行 地図上の位置をシュレスヴィヒ公爵領とともに問う】,さらにその南部のラウエンブルク公爵領との同君連合を形成していました。しかしホルシュタインとラウエンブルクの住民はドイツ語を話すドイツ人で,ドイツ連邦にも加盟していました。「一つの民族が一つの国民となり一つの国家をつくるべきだ」とするナショナリズム(国民主義)の論調が盛り上がる中,この南ユラン問題は次第に大きな問題となっていきました。「デンマークはスカンディナヴィアという地域の一員なのだから,その一部であるスレースヴィとホルステンはデンマークであるべきだ」という主張や,「シュレスヴィヒとホルシュタインはドイツの統一にとって必要不可欠だ」という主張の対立の中に,この地域は飲み込まれていくことになるのです。
 
アイスランドグリーンランドは,デンマークの領域のままです。


 スウェーデンに割譲されたノルウェーや,ロシアの従属下に置かれたフィンランドでは,支配されたことに対する反発から民族意識が高まり,国語や国民文化を形作っていく運動が盛んになっていきました。一方,スウェーデンではみずからをゲルマン諸民族の一派「ゴート人」であると見なし,それをスウェーデン人の誇りとする運動もみられます。
 デンマーク=ノルウェーは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がる
ヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。奴隷貿易は1807年に廃止されていましたが,奴隷制は1848年に廃止されました。インドの拠点も1845年にイギリスに売却されました(ニコバル諸島の支配は継続)。