1760年~1815年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展② (沿海部への重心移動),南北アメリカ:欧米の植民地化③
 イギリスで産業革命が起きるが,依然としてアジアの経済は盛ん。各地で自由主義と保守主義の対立が起き,大西洋周辺部では政治変動が起こる(環大西洋革命)。


時代のまとめ
(1) イギリスで史上初の「産業(インダストリアル)革命」(蒸気力による機械工業化)(注1)が起き,資本集約・労働節約的な経済が発展,生物圏に対する人間の支配力が高まっていく。
(2)
一方,東アジアを中心に労働集約・資本節約的な「勤勉(インダストリアス)革命」が進行しており,高い生産性と急増する人口ゆえGDP総額はヨーロッパより高く,アジアの域内貿易は盛んであった。
(3)
「交通革命」により,地球のネットワークの規模が広がり,交流も活発化する。


 産業革命(工業化)の起きた
イギリスでは都市人口比率が高まり,自由主義保守主義の対立が生まれ,社会問題も起きる。啓蒙思想が大西洋を取り囲む地域の政治的な変動(環大西洋革命)に影響を与え,北アメリカではアメリカ合衆国が建国された。アジアの地域間交易は盛んだが,イギリスの産業革命(工業化)に匹敵するような技術革新は起こらなかった。1755年のリスボン地震でポルトガルの都リスボンは打撃を受け,1763年のパリ条約でフランスが北アメリカ植民地から撤退すると,非ヨーロッパに おける商業の主導権はイギリスに移っていきました。イギリスによるオセアニアの探検が進み,オーストラリア大陸への植民が始まっている。
 中国では人口が2億人を突破(1763年)。労働集約的な産業が盛んで,アジアの地域間交易も盛んにおこなわれている。

◆イギリスで産業革命(工業化)が起こり,生物圏に対する人間の支配力がつよまっていった
 
この時期にイギリス人は機械を用いて製品の大量生産を可能にする技術革新(イノベーション)を起こし,それが蒸気力を動力するための蒸気機関【東京H9[3]】の開発と,それを生産技術に応用する技術が生まれました(動力革命)。これを,産業革命(工業化)(Industrial Revolution) セH5これにより,親方と職人との対立が起こったわけではない】といい,人類にとって約1万年前に始まった農耕・牧畜の開始(農業革命)に匹敵(ひってき)するインパクトを生むこととなります。
 蒸気機関の燃料には
石炭が用いられ,豊富な埋蔵量を誇るイギリスには有利な展開となりました。3億年前の石炭紀(注2)に地球上に繁茂していたシダ植物が受けた太陽エネルギーが,朽ち果てて泥沼の下に埋まって黒くなった石炭の中に蓄積されており,それを燃やすことにより3億年の時空を超えて太陽エネルギーが動力エネルギーとして解放されることになったのです。
 
従来,動力として用いられていたのは小作人,奴隷,家畜などの人間や動物でした。しかし,産業革命(工業化)によって,それらとは比べ物にならないほどの強力なエネルギーが農業・工業などのあらゆる分野で使用されると,食料の増産や資源の獲得が人口の増加分に追いつき,人口がどんどん上昇していくこととなりました(注3)
 また,化石燃料が燃焼することで
大気中の二酸化炭素濃度の上昇も始まりました。この時期に人類の活動により絶滅したといわれる動物には,ジュゴン科のステラーカイギュウ(北太平洋に生息,1768?),ニュージーランドの巨鳥ジャイアントモア(1770?),ウシ科のブルーバック(1800)などがいます。人類は,地球の生態系や大気圏の化学組成にも大きな影響を及ぼす(支配できる)唯一の動物となったわけで,イギリス産業革命(工業化)以降の地質学的な区分を「完新世」の後に継ぐ「アントロポシーン(人世代)」とする意見も出ています。

(注1)「産業革命」という考え方は20世紀後半になると「工業化」という言葉に置き換えられ,「後進国」が見習うべき模範として意識てきに目標とすべき変化とみなされるようになっていきました。『世界各国史 イギリス史』山川出版社,1998,p.246
(注1)約3億5500万年前~約2億9000万年前までの期間で,海だった地層からはサンゴやウミユリなど,陸だった地層にはリンボクやシダ植物の大森林の化石がみられます。
(注2)これを経済学者〈
マルサス〉(1760~1834)は,「産業革命(工業化)の前だったら,人口がある程度まで増えると,土地には限りがあるのでどこかで食料の増産が追いつかなくなる。飢饉・疫病・戦争などで死亡率が上がるか,そもそもの出生率を意図的に下げることで調整するしかない(これを「マルサスの罠」といいます)。だから,貧困をなくすには,道徳的に人口の増加を抑えるべきだ」,こんなふうに主張しました。でも,産業革命(工業化)によって生産性が向上すると,人口の増加に食料の増産の増産が追いつくようになる。つまり,「マルサスの罠」を突破できる。さらに生活水準が上がるから,死亡率が下がって人口が増えていく」。だから実際には人口はどんどん増えていったのです。


◆交通革命により,地球のネットワークの規模が広がり,交流も活発化していく
 蒸気力による技術革命(産業革命(工業化))は鉄道・蒸気船に応用され,長距離の移動時間が格段に短縮,運搬量が増加されていきます(交通革命)。このことは,世界の様々な地域に住む人々・細菌を含む動植物の相互交流を加速させていくことにもつながりました。輸送が容易になることは,世界各地の情報伝達のスピードや量を向上させ,「新たなアイディア」が加速度的に広まっていく要因にもなります。

◆都市人口比率が高まり,自由主義・保守主義の対立が生まれ,社会問題も起きた
 
1760年当時人類のほとんどは農村に住んでいました。しかし,産業革命(工業化)の起きたイギリスでは19世紀にかけてしだいに都市人口比率が上昇し,ここに産業社会が出現しました。産業社会においては自由競争が認められ,実力しだいでいくらでも富を築くことが可能な社会となります。それは新たな技術(イノベ)革新(ーション)へのモチベーションを生み出すこととなり,「進歩」することは“良いこと”とされる世の中になっていきます。しかし「豊か」になっていく都市内部では「貧しさ」を初めとするさまざまな社会問題が起こり,どのような「社会」をつくるべきかをめぐり社会主義のような革新的な思想が生まれていきます。また,「進歩」によって失われる伝統社会を守ろうとする保守主義と,「進歩」をめざす自由主義との対立もみられるようになりました。

◆啓蒙思想が,大西洋を取り囲む地域の政治的な変動に影響を与えた
 
一方,この頃1783年6月~12月にアイスランドでキ山(レイキャビークの東に位置する標高818メートルの火山)が,日本では浅間山(長野県と群馬県の県境にある2568メートルの火山)が大噴火しました。これらの噴煙は,世界各地に異常気象や天候不順をもたらし,同時代の世界各地の社会不安に少なからぬ影響を与えたと考えられています
 同時期には大西洋を挟んだヨーロッパと南北アメリカで,合理的ではない伝統的権威に対抗し人民主権や平等を求める啓蒙思想の影響を受けた体制の変革を求める運動が多発しました。これを
環大西洋革命(かんたいせいようかくめい)と総称することがあります。

 南北アメリカにおける革命の担い手は,ヨーロッパから移住した植民者やその子孫(
クリオーリョ【セA H30】)でした。北アメリカでは,人間の理性によって自然の秩序を合理的に発見しようとするヨーロッパの啓蒙思想(けいもうしそう,Enlightenment)の影響を受けたイギリス系植民者による独立運動で13植民地が独立し急速な経済成長を遂げる一方,先住民は独立運動には加わらず,ヨーロッパ人に対する抵抗運動が続きました。
 南アメリカでは北アメリカと異なり,ヨーロッパの植民者との混血が進んでおり,社会構成は複雑でした。大陸の啓蒙思想や体制変化の影響を受け,ヨーロッパのスペイン・ポルトガル系植民者による独立要求が次第に高まりましたが,本格化していくのは1820年代以降のことです。
 カリブ海のハイチ(ハイティ)では黒人奴隷の反乱が成功し独立しましたが,その他の地域の先住民の抵抗は失敗に終わります。

 さらにヨーロッパでは啓蒙思想に加えアメリカ合衆国の独立にも影響を受け,フランスでは急速な体制変化が起き王政が倒れ,
共和政が成立。イギリス,プロイセン,オーストリア,ロシアをはじめとするヨーロッパの君主国家との戦争に発展します。戦争を指揮した〈ナポレオン〉が皇帝に即位し,産業革命(工業化)を進めるイギリスに対抗し,フランスにおける多様な利害を調整してヨーロッパ諸国の多くを従属させますが敗戦。戦後は王政が復活し,君主国による主権国家体制への揺り戻しが起こりました。

◆アジアの地域間の交易ネットワークは健在
  依然としてアジアの地域間交易は盛んなままでしたが,18世紀末以降は生産性の面で西ヨーロッパ諸国との差が生まれていくようになります。
 西アフリカから中部~南アフリカを中心とするアフリカ大陸の諸地域では,ヨーロッパ諸国による
大西洋奴隷交易が続けられていましたが,フランス革命中の第一共和政は1794年に奴隷廃止を決議(のち〈ナポレオン〉が復活し,1848年に奴隷制は再廃止),1807年にはいよいよイギリス帝国内の奴隷交易が廃止されます(奴隷制そのものは1833年に廃止)

◆オセアニアの探検が進み,オーストラリア大陸への植民が始まる
 オセアニアの探検が活発化し,ヨーロッパ諸国がアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアへの海上進出を進める大航海時代()は最終局面を迎えます。
 
1788年にはオーストラリアへの植民が始まり,先住民アボリジナル(アボリジニ)は持ち込まれた伝染病で人口が減少し始め,土地も奪われていきました
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。
 実際には,15世紀の朝鮮王朝で,アフリカ大陸南端も含めたアフリカ全土やヨーロッパまでも描かれた「混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)」が描かれているように,「喜望峰の発見」などというのは「
ヨーロッパによる発見」に過ぎないのです。
 一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。





●17601815年のアメリカ

1760年~1815年のアメリカ  アメリカ合衆国
北アメリカ
…①カナダ ②アメリカ合衆国

1760年~1815年のアメリカ  北アメリカ 現①カナダ
◆ケベック法の成立により,イギリス植民地でありながらフランス人の権利が認められる
イギリスの植民地だが,フランス系の影響力強い
 七年戦争後の
パリ条約【セH2地図(1763年パリ条約による北米植民地のフランス,イギリス,スペインの勢力分布を問う)】により,イギリスはヌーヴェル=フランス(のちのカナダ【セH22デンマークではない】)を手に入れ,ケベック市(◆世界文化遺産「ケベック旧市街の歴史地区」,1985)を中心にイギリス領ケベック植民地が建設されました。
 フランスはこれにより,ニューファンドランド南端にあるサンピエール島とミクロン島と一部の漁業権を除き,北米植民地を失うことになります。

 しかし,ケベック植民地の住民はフランス系のカトリック教徒です。
 イギリスは彼らの信仰の自由や財産を保障し,イギリス文化を積極的に押し付けることはしませんでした。

 1763年に〈ジョージ3世〉は国王布告により,アレゲーニー山脈とミシシッピ川に挟まれた土地を,インディアン領として留保しました。オタワ人の〈ポンティアック〉率いるインディアン同盟軍による抵抗運動が激化し,西部への移民を停止することで,ケベック植民地にイギリス系住民が移住することを奨励したのです。

 また,
1774年にはケベック法がイギリスで可決され,フランス系住民に領主制やカトリック教会の徴税権を認め,カトリック教徒が立法評議会の議員になることが認められました。イギリスの植民地でありながら,フランス民法やフランス語の使用も許されたのです
 また,ケベック植民地の領土を,五大湖の南のミシシッピ川近くにまで拡大させましたが,逆にインディアンたちは領土を失うことになりました。


 1774年に第一回大陸会議【セH12】【セA H30ドイツ統一を話し合っていない】はケベック植民地にも革命への参加を呼びかけましたが,拒否。大陸軍は翌年モントリオールを占領しました。結局1783年のパリ条約で,イギリスはアメリカ合衆国に,ケベック法で拡大されていた領土や,五大湖の中心線以南をアメリカに割譲することになりました。
 アメリカ独立革命後には,革命軍に反対し国王派についたイギリス系住民10万人近くが,多数ケベック植民地やノヴァスコシアに亡命していきました。イギリス政府は,ケベック植民地での英仏系住民の衝突が生じないように,1791年のカナダ法で,アッパー=カナダ(upper)とロワー=カナダ(lower)の東西にわけられます。こうして「カナダ」という名称が,はじめてこの地域の名称になるわけです。



1760年~1815年のアメリカ  北アメリカ ②アメリカ合衆国
 
さて,1763年に七年戦争(植民地ではフレンチ=インディアン戦争)が終結し,イギリスはフランスから北アメリカの全領土を獲得しました。また,このときイギリス国王〈ジョージ3世〉は,インディアンとの戦争を防ぎ治安を安定化させるとともに,13植民地人に対してはアパラチア山脈の西側にこれ以上移住したり土地を購入することを禁止しました(1763年宣言)。13植民地の人々の中では,王によるこの宣言に対する不満が高まっていきます。

 1763年のパリ条約
以後,フランスでは財政状況が悪化し,財政問題を解決する必要に迫られることになりました

 さて,七年”(フレンチ=インディアン戦争は8年)も戦争をしていたイギリス本国(植民地に対して,イギリスのことを「本国」(ほんごく)と言います)財政的にへとへとです
 ニューイングランド植民地に対する規制としては,1733年の糖蜜法がありましたが,フレンチ=インディアン戦争以降は,今まで
の”有益なる怠慢”政策 (“適当にやってたほうが有益”という意味。植民地のゆる〜い支配)を本格的に見直し,野放しにしていた13植民地に対する課税を強化する政策に転換されていきました【共通一次 平1:「七年戦争の戦費支出に苦しんだ本国が,戦費の一部負担を植民地人に求めたものであった」か問う】【セH3ウォルポールはこの政策に関与していない】【追H9 1763年のパリ条約の影響で課税強化をねらったか問う】
 例えば,
砂糖法(1764)印紙法(65) 【共通一次 平1】,ガラス・ペンキ・紙・茶に関税をかけるタウンゼンド法(67)茶法(73) 【共通一次 平1】【セH21】です。要するに,なんでもかんでも,とれるものからじゃんじゃん税をとったわけです。とくに印紙法は,出版物も税金のターゲットになったことが問題になりました。出版物に対する徴税は,「自由に意見を発表する権利」を奪うものと考えられたからです。
 印紙法【共通一次 平1】に対する反対運動は,「代表くして課税なし【共通一次 平1:トマス=ペインの主張ではない】【セH28】をスローガンに盛り上がりって撤廃されました【共通一次 平1:撤廃されなかったわけではない】。一方,東インド会社を通してのみ茶を取引できるとした茶法【共通一次 平1:「東インド会社の貿易特権を廃止する代わりに,植民地に高率の茶税を課すものではない」】【セH21】に対する反対運動【セH21茶法の廃止に対する反対ではない】1773年「ボストンティーパーティー(ボストン茶会事件)【セH18時期(17世紀ではない)】に発展します。「自由の息子たち」を名乗る植民地人グループがボストンのコーヒーハウスで策略を練り,ボストン【セH14フィラデルフィアとのひっかけ】でインディアンに扮して東インド会社の商船4隻から積荷の紅茶を海に投げ込み,ボストン湾を紅茶の海にしました。イギリス植民地の公務員給与の財源とするため,中国産の茶を免税して直接13植民地で売ることができるようにした法で,東インド会社を優遇する内容が13植民地の商人を怒らせたのです。

 
それに対してイギリスはボストン港を封鎖【セH6綿花貿易をめぐる対立から閉鎖されたわけではない】しましたが,同じような運動は各地でも起き,紅茶を飲まない運動も広まりました(この頃からアメリカはコーヒー派になっていくのです)。ジョージア以外の13植民地は,ペンシルベニア植民地のフィラデルフィアにて第一回大陸会議【セH12】をひらき,イギリスを非難しました【セH12「大陸会議を組織して本国の圧政に対抗した」か問う】植民地が集まって会議を開いたのは,前代未聞のことでした。
 一方で,1773年には,ヴァージニア植民地でアメリカ植民地とインディアンのショーニー人との戦いも起きており(ダンモア伯の戦争),イギリスからの独立戦争を戦うためには,西部のインディアンと同時に戦うだけの体力も必要です。イギリスはインディアンの諸民族を支援し,アメリカ植民地を“挟み撃ち”にする作戦をとっていきます。

 
不穏な空気が続く中,1775年,レキシントンコンコードでのイギリス軍とマサチューセッツ植民地の民兵の武力衝突をきっかけに,第二回大陸会議(全植民地が参加)は独立の方針をとり,植民地軍が組織されました。最高司令官はのちの初代大統領〈ワシントン(173299) 【セH19ジェファソンではない】【追H20リード文「文民統制の原則を重んじ,アメリカ軍総司令官の職を辞する姿を描いた」絵画(解答には不要)】【セA H30リンカンではない】です。各州からは兵が集められ,一つの軍としてイギリス,そしてイギリス側についたインディアン諸民族と戦うことになったのです。
 こうして,
アメリカ独立戦争(第一次アメリカ=イギリス戦争) 【セH6市民革命ととらえてアメリカ独立革命とも呼ばれるか問う,セH10マッツィーニは関係ない】【セH23】【上智法(法律)他H30年代】と,インディアン戦争が始まりました。イロクォワ人によるイロクォワ連邦はイギリス側に立ち,壊滅的な被害を受けました。

 当初は開戦に否定的だった人々も,〈トマス=ペイン〉(1737~1809)【セH19が1月に出版した『コモン=センス』(常識) 【共通一次 平1「その中で「代表なくして課税なし」と主張」していない】【セH19というパンフレットがベストセラーになると,イギリスからの独立がCommon Sense と考えるようになっていきました。
 
1776年7月4日は,ジェファソン(17431826) 【セH9共和党の候補ではない(当時は共和党はまだない)【セH19ワシントンとのひっかけ】【追H21起草者の一人か問う】らが13植民地の連合による「アメリカ独立宣言【セH8フランス革命の影響は受けていない(フランス革命のほうが後に起こった)】を起草します。
人々の基本的人権を保障しない政府は倒しても大丈夫!」とする当時としては過激な革命権(抵抗権) 【セH12「革命権がうたわれている」か問う】や,幸福を追求する権利の保障が盛り込まれました。ただ,彼自身はヴァージニア植民地のプランテーション地主の生まれで,ありあまる土地と150人の奴隷を所有していたわけですが
 さて,イギリスから独立するとはいうものの,もともとあった植民地には,それぞれ個別の歴史と仲間意識がありました。個々の植民地は,それぞれ別々の事情で建てられた自治政府がありますから,独立したら別々のState(ステート),つまり」になればいいじゃないかという意見もあったのです。
 なお,アメリカ独立戦争にはポーランドの〈コシューシコ〉やフランスの貴族〈ラ=ファイエット〉も義勇兵として参加しています【セH10マッツィーニは参加していない】
 それでも,まず倒すべき敵はイギリスです。作家・発明家・科学者・政治家・外交官と,さまざまな顔をもつ〈フランクリン(17061790)の活躍もあって,フランス【セH2「アメリカ独立戦争」に際してイギリスの敵として参戦したか問う,セH12「フランスもイギリス側に立って参戦した」わけではない】・スペイン・オランダを味方に引き込むことに成功。このときの戦費がフランス財政を苦しめ,のちのフランス革命の遠因(えんいん)となったとみることもできます【共通一次 平1】ちなみに〈フランクリン〉は174647年の凧揚げによる実験で,雷は電気現象であることを証明しています(なお,彼に憧れたイタリアの〈ヴォルタ〉(17451827)は電池を発明することになります)
 ヨークタウン【セH14フィラデルフィアとのひっかけ】の戦いでの植民地軍の勝利【セH19イギリスは勝利していない】が決定打となり,1783年のパリ条約で和平を結んで,「各」植民地の独立が認められました。独立した13植民地の連合体には,ミシシッピ川以東のルイジアナ【セH18以西ではない】が割譲されました。インディアン諸民族の意向は無視され,彼らの土地の多くはアメリカ合衆国に割譲されました(インディアンにとってのパリ条約)。

 さて,独立が承認されたとはいえ,インディアンにとっては寝耳に水です。これ以降,イギリス勢力を追い出したアメリカ植民地人は,インディアンとの戦争をさらに激化させていくことになります。例えば,チェロキー人とのチカマウガ戦争(1776~94)は,パリ条約締結後も続きました。

 また,イギリスから「独立」したのは,あくまでも「各」植民地です。じゃあ今度は
,その個々の独立した元・植民地どうしがまとまるのか,それともバラバラに独立するのか。くっつくとしても,どの程度まとまるべきか。
 
そのような議論の末,一つの結論が1777連合規約採択(1781年に各国で批准)により出ていました。これによると,が主権を持ち,13の各が集まった連合会議(旧・大陸会議)で,外交や軍事についての政策を話し合うというものでした。
 しかし,戦争が終わってみると,結局戦争にかかった費用を各邦でどう分担するかとか,まったく違う経済の仕組みや貿易をしている北部と南部とで,貿易政策を一致させるのか,それとも別々の政策をとるのかなどなど,解決すべき問題は次から次へと出てきました
 各邦で話し合った上で,連合会議でもう一度話し合うにしても,立場の異なる
13「国」が話し合っても平行線をたどってしまう。でも,それではまた今度万が一イギリスが攻めてきたときなどの緊急事態に対処できない

 そこで1787年にフィラデルフィア【セH14ボストン,ニューヨーク,ヨークタウンではない】で憲法制定会議【セH14】が行われ,13の国が代表を出し合って連邦議会を設置し立法する,大統領を選出して連邦政府を置く,連邦裁判所を置く,さらにこれらを憲法に規定しコントロールする,といった連邦主義【セH18】が採用されたのです。また,同年1787年には北西部条例が決議され,北西部の土地(五大湖の南,オハイオ川の北と西,ミシシッピ川の東に囲まれた地域)に新しく州を設定する形で入植することが認められました。ただし,ここでは奴隷制は禁止とされ,その後もしばらく奴隷制OKの国とNGの国の境界とされ続けます。これに対抗したインディアン諸部族は,〈ワシントン〉将軍らにより鎮圧され,1795年にはこの地域のインディアン諸民族はアメリカ合衆国に併合されました。
 
 
このように政治制度が決まる一方で,連邦政府に力が強くなりすぎてしまったら,イギリスの“国王”と変わらないじゃないかという意見も,当然出てきます。そこで,各国の政府を残し(州政府),軍も残しました(州軍)。州軍は,ふだんは州知事の指揮下にありますが,アメリカ合衆国が緊急事態となったときには,連邦政府から動員されることになっています。さらに,連邦政府の権力が大きくなりすぎないように,議会・裁判所によるコントロールとバランスがきくような仕組みをとりました(三権分立) 【セH18・H19・H29。三権分立は,フランスの哲学者〈モンテスキュー〉(1689~1755) 【セH19が『法の精神【セH19で主張していた考え方でした。

 こうして成立したのが,アメリカ合衆国なのです。ユナイテッド=ステーツという言葉は直訳すれば,国家の連合”(ステーツ=国家)という意味です。「合衆国」という翻訳では,そのしくみがいまひとつよく伝わりませんが,すでに広まってしまったので,どうしようもありません。

 (くに)の主権は,連邦政府を置くことによって制限されるようになったので,日本語では従来のを「州」と読んで表現しました。アメリカ合衆国憲法【セH18】には,のちに憲法修正が付け加えられ(修正第1条~10条まではイングランドの「権利の章典」(1689)【共通一次 平1】にちなみ「権利の章典」という),国民の基本的人権がことこまかに明記されました。そのうち「武装する権利」は,銃社会アメリカにとって現在でも争点になる権利の一つです。
 
 連邦政府の権力をどうするべきかという問題をめぐっては,強くするべきだというグループ
(連邦派(フェデラリスト))と,各州の権力を維持するべきだというグループ(反連邦派。アンチ=フェデラリスト)との間の対立が生まれました。商工業者を中心とする北部と,奴隷による綿花プランテーションセH5綿花やタバコ】【セH25】を中心とする南部とでは,経済的なしくみも大きく異なっていました。なお,南部では1793年に〈ホイットニー【上智法(法律)他H30アークライトとのひっかけ】綿()り機【上智法(法律)他H30 水力紡績機ではない】を発明し,効率よく綿花の種をとる技術を編み出し,綿花がさかんに産業革命(工業化)期のイギリスに輸出されていきました。
 連邦派をひきいるのはワシントンの副官を務めた〈ハミルトン(1755?1804)で,『ザ・フェデラリスト』を執筆して護憲を主張しました。反連邦派は〈ジェファーソン〉が率いました。その後,前者がアメリカ=ホイッグ党から,さらに共和党へ,後者が民主党へ発展することで,現在にまで続く二大政党を形作っていくことになります。
 また,1790年の帰化法では,5年間アメリカ合衆国に住めば,移民に国籍を与えると定められました。「移民の国」アメリカ合衆国の幕開けです。

 1811年に,ショーニー人の〈テカムセ〉がアメリカに宣戦しました。アメリカ合衆国の人々は,ショーニー人をイギリスが支持していると考え,イギリス海軍が1812年にアメリカ合衆国船がフランスと貿易するのを制限しようとすると,同年〈マディソン〉大統領(任180917)はイギリスに宣戦布告し,米英戦争【東京H10[1]指定語句】となりました。1814年に膠着状態のまま終わりましたが,1818年の協定で,北緯49度線をアメリカ合衆国とカナダとの境界にすることになりました。
 この
米英戦争(181214)は,第二次独立戦争ともいわれ,このときにイギリスの工業製品の輸入がとまったことで,輸入品の国産化による産業革命(工業化)が始まったわけです。民間の起業家が,イギリスの織物機械の国家機密を記憶し,アメリカ合衆国に持ち帰り,初の織物工場を建設したのです。産業スパイの走りですね。ほかにも鉄鋼業の発展も始まりました。
 こうして「アメリカはイギリスとは違う」という意識や愛国心も高まり,「星条旗よ永遠なれ」という国歌もこのときの戦いが元になっています。アメリカには,ヨーロッパのように伝統的な要素がないぶん,新しいことにも果敢にチャレンジしていこうという気風がありました。紅茶=イギリスの圧政というイメージもあり,紅茶の習慣は薄れていき,輸入された
コーヒーがアメリカ人の国民飲料として定着していくことになります(スターバックス1号店は1971年にアメリカ西海岸シアトル開業)。

 米英戦争はまた,インディアン諸民族にとっては,イギリスと同盟して,アメリカ植民地人を追い出す“最後のチャンス”でした。
 独立当初は元・
13植民地と,ミシシッピ川より東のルイジアナだけを領域としたアメリカ合衆国は,第3代〈ジェファーソン〉大統領(任1801~09)の政策でインディアンからの土地の取得をすすめていき,1803年には〈ナポレオン〉率いる統領政府(まだ皇帝ではない)のフランス【セH3】からミシシッピ川以西のルイジアナ【セH3】【※意外と頻度低い】を破格の1500万ドルで購入しました。しかし,この地にはアメリカン=バッファローを生活の糧(かて)としていたインディアン諸民族が暮らしています。ショーニー人の〈テカムセ〉らの抵抗は,1811年に鎮圧されました。〈テカムセ〉は南東部のマスコギ語族のチョクトー人やクリーク人(クリーク戦争(1813~14)で敗北),イロクォワ語族のチェロキー人にもアメリカ合衆国への抵抗を呼びかけ,イギリスと同盟して米英戦争を戦いましたが,イギリスの敗北により,インディアンらは今後イギリスをアテにすることができなくなってしまったのです。
 
スペインは,1760年代後半からメキシコを北上して,カリフォルニアに支配権を拡大していきます。この地でのラッコの漁(毛皮がとれます)に関心を示すようになっていきました。
 なお,フランスの〈ナポレオン〉はスペインから
ミシシッピ川以西のルイジアナをフランスに返還させた後,財政的な理由でアメリカ合衆国に売却しました。その河口のニューオーリンズ港には,1804年にハイチ(ハイティ)革命が成功すると,旧支配層(フランス人や黒人との混血の人々)が移住し,フランス文化やハイチ(ハイティ)の黒人の文化などが融合し,独特の文化が栄えました。




1760年~1815年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 ラテンアメリカ(主にスペイン,ポルトガルの植民地となったアメリカ大陸の地域)では,スペインのブルボン(ボルボン)朝による植民地行政の改革に対して,植民地社会からの不満が高まっていました。直接の矛先(ほこさき)となったのは,イベリア半島生まれの白人(ペニンスラール,「イベリア半島(ペニンスラ)生まれの人々」という意味)です。しかし,先住諸民族(インディオ)による反乱は成功せず,抵抗運動の主役は植民地生まれの白人(クリオーリョ;クリオーヨ)に移っていきました。
 ラテンアメリカの社会は,①ペニンスラール(イベリア半島人)→②クリオーリョ(新大陸出身の白人)→③
メスティソ(先住民と白人の混血) 【東京H12[2]】→④ムラート(白人と黒人の混血) 【東京H12[2]】サンボ(インディオと黒人の混血),解放されて自由な身分になった黒人→⑤奴隷(黒人,ユダヤ人,イスラム教徒)やインディオのように,ピラミッド型に序列化されていきました。



1760年~1815年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
 現在の
グアテマラエルサルバドルホンジュラスニカラグアコスタリカはグアテマラ総督領としてスペインによる植民地下にありました。
 しかし〈ナポレオン〉により本国スペインが占領されると,クリオーリョ(アメリカ大陸生まれの白人)を中心に独立を求める動きが活発化していきました。
 
イギリスの武装船団の進出の進んでいたユカタン半島のカリブ海に面する南東部ベリーズには,1763年以降イギリスの植民が進み,1798年には事実上イギリスの植民地となりました。





1760年~1815年のアメリカ  カリブ海
カリブ海
…①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島

1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
◆カリブ海に浮かぶハイチではアフリカ系の奴隷による革命が成功し,共和国が建国された
ハイチでは,解放奴隷が共和国を建国する
 1789年に勃発したフランス革命でうたわれた平等思想に勇気づけられ,植民地だったハイチ(ハイティ) 【追H9地図上の位置を問う。キューバ,メキシコ,ベネズエラではない】では1791年に黒人奴隷の反乱が勃発しました。
 
ハイチ(ハイティ)はフランスの植民地として,アフリカから黒人奴隷を輸入して,サトウキビのプランテーションがおこなわれていました。当時の名前は「サン=ドマング」です。西アフリカのダホメー王国から連行された奴隷の一人から生まれた〈トゥサン=ルヴェルテュール(17431803) 【セH27アルジェリアではない】は,農園主に読み書きを習い,フランスの最先端の自由主義の思想に感銘をうけます。やがて,フランス革命が勃発すると,刺激をうけたトゥサンは,奴隷解放運動をおこしました。フランス革命のうち最も革新的であったジャコバン派に接近し,国民公会に奴隷制廃止を宣言させました。しかしテルミドールのクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で〈ロベスピエール〉が失脚すると〈ナポレオン〉の時代になります。〈ナポレオン〉は,ハイチ(ハイティ)は植民地として「使える」が,〈トゥサン〉は「邪魔な存在」であると判断し軍隊を派遣,逮捕されてフランスの刑務所で亡くなります。
 彼の部下だった〈デサリーヌ〉(180406)は,1804年に〈ナポレオン〉軍を排除して,史上初の黒人共和国であるハイチ(ハイティ)共和国が独立【東京H7[3],H25[1]指定語句「ハイチ独立」】しました。国名の「ハイチ(ハイティ)」は先住民の言葉です。黒人奴隷の子である〈デサリーヌ〉は,黒人国家ハイチ(ハイティ)に奴隷制が復活しないよう,島に残ったフランス人を処刑するなど,皇帝〈ジャック1世〉として独裁をふるい,反乱を鎮圧する最中の1806年に暗殺されてしまいました。



1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
 バハマはアメリカ独立戦争の間,1782年~1783年の間にスペインに占領されますが,1783年の講和条約であるヴェルサイユ条約でイギリス領となります。
 このときに奴隷は解放されます。


1760年~1815年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島で黒人奴隷を使った
サトウキビのプランテーションは,フランスに莫大な富をもたらしていました。
 七年戦争(1756~1763)中にはイギリスに一時占領されますが,パリ条約(1763)によりマルティニーク島は確保します。その代わり,西インド諸島では⑩
ドミニカ,⑮グレナダ,⑬セントビンセントおよびグレナディーン諸島,⑯トバゴ島はイギリスに返還しています。
 その後も,1780年のアメリカ独立戦争では,1780年にマルティニーク島の海戦がおこなわれています。

 フランス革命の影響を受け,1791年にマルティニークの黒人が解放を求めて反乱を起こします。しかし,王党派のプランテーション大地主はこれを武力で鎮圧。
 フランスが共和制に代わると,大地主はイギリス側に立ち,1794~1802年の間イギリス軍がマルティニーク島を占領することとなりました。

 1802年にアミアンの和約に基づきイギリスは撤退。

 その後〈ナポレオン〉はサン=ドマング(現ハイチ)で黒人奴隷反乱を起こしていた〈トゥサン=ルーヴェルテュール〉を逮捕し,共和制フランスの
国民公会が1793年に決議していた奴隷制の廃止にもかかわらず,ハイチの独立を妨害します。
 しかしその後ハイチの独立は1804年に成功。
 それでも〈ナポレオン〉はマルティニークにおける奴隷制を継続させます。

 マルティニークのサトウキビプランテーションはフランスの金づるですし,何より〈ナポレオン〉の最初の妻〈
ジョゼフィーヌ〉(1763~1814)はマルティニーク島のプランテーション大地主(貴族階級)の娘だったのです。





1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
南アメリカでは,独立に向けた動きも起きる

 南アメリカでは,ナポレオン戦争によるスペインやポルトガル本国からの支配がゆるむと,現地のクリオーリョを中心に独立を求める動きが活発化していきます。
 なお,アメリカ大陸各地に見られるように,南アメリカでも,解放奴隷(
マルーン)が先住民と結んで森林・山岳地帯に共同体を建設する動きがありました。共同体は,ブラジルでは「キロンボ」といわれます。

 この時期のスペイン領南アメリカを探査(1799~1804)した地理学者にプロイセン出身の〈フンボルト〉(1769~1859)がいます。彼はペルー沿岸の寒流を発見したことから,フンボルト海流と呼ばれ,沿岸地帯のペンギンはフンボルトペンギンと呼ばれています。彼の兄はプロイセン王国の外交官でもあった言語学者〈フンボルト〉(1767~1835)です。

1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ ①ブラジル

◆〈ナポレオン〉戦争中,ポルトガルの王室はブラジルに避難する
ポルトガル王室がブラジルに避難する
 18世紀半ばにの輸出がピークに達していたブラジルでは,1763年にリオ==ジャネイロが首都となり,副王が置かれました。金やダイヤモンドの産出されるミナスの外港であるリオを押さえることで,王室が交易の利益を独占しようとしたのです。しかし1760年以降,金の生産は激減。ポルトガル当局による金の上納制度に反対した現地の知識人の中には,アメリカ独立革命やフランス革命の影響を受けて独立を志す者も現れます。しかし当局は独立の陰謀を未然に鎮圧し,実行に移されることはありませんでした。

 〈ナポレオン〉がスペインを占領しポルトガルへの進出を狙うと
(⇒1760年~1815年のヨーロッパ>イベリア半島),ポルトガルの王室は大挙してブラジルに避難しました。ポルトガルはイギリスの支持を受け,〈ナポレオン〉の大陸封鎖令に抵抗したため目をつけられたのです。1815年にはリオ==ジャネイロがポルトガル=ブラジル帝国の首都に定められました。
 なお,ブラジル側のポルトガルと現アルゼンチン側のスペインは,ラ=プラタ川以東をめぐって争っていましたが,18世紀後半には大体の植民地の境が画定していきました(ただし,紛争は独立まで続きます)。

 また,アマゾン川流域部〔
アマゾニア〕の大部分には支配は及んでいません。



1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現④アルゼンチン
現アルゼンチンではクリオーリョが自治を求める
 18世紀後半,スペイン本国での改革の影響により,1776年にアルゼンチンはペルー副王領からリオ===プラタ副王領(首都はブエノスアイレス)に分離されました。この頃から,自由貿易によりパンパで放牧された牛や馬からつくられた製品をヨーロッパに輸出してもうけたいグループと,それに反対する内陸諸都市との間の対立も生まれます。それとともにアルゼンチンの社会では,イベリア半島出身者(ペニンスラール)が,アメリカ大陸出身のクリオーリョよりも高い地位にあり,クリオーリョたちの不満も高まってきます。
 そんな中,ヨーロッパにナポレオン戦争が起きてスペイン本国が占領されると,そのすきにイギリスは1806年,ブエノスアイレスに軍事的に進出しました。

 しかし,イギリスの進出をクリオーリョ(アルゼンチンで生まれた白人)の編成した民兵が阻止することに成功すると,植民地としての地位から脱して「自治」を求める動きに発展します。

 しかし,ヨーロッパ文化が根付いたブエノスアイレスと,内陸のガウチョ(牧畜民)らの世界との間には歴然とした違いがあり,両者をまとめて「ひとつの国家」として自治・独立を達成しようとするには,大きな課題が待ち受けていました。



1760年~1815年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
◆先住諸民族(インディオ)による反乱は成功しなかった
ペルーの先住民ケチュア人の反乱は鎮圧される
 ペルー
では,1780年にクスコの首長でメスティソの〈コンドルカンキ(1742?1781)が反乱を起こしました。スペイン出身者の支配者による先住民ケチュア人やメスティソ(白人と先住民の混血)の住民への過酷な強制労働をやめさせるように要望したものの無視されたことがきっかけです。

 かつてクスコで処刑されたインカ帝国(タワンティン=スーユ)の王〈トゥパク=アマル〉の血を引く彼は,インカ帝国の復興を志して「
トゥパク=アマル」を名乗り抵抗したのです。貧農の支持を得て反乱は全国に及び,あとちょっとでリマやクスコを陥落させるところまでいったのですが,スペイン軍に鎮圧され,〈トゥパク=アマル〉は1781年にかつての〈トゥパク=アマル〉と同じように処刑されました。

 この〈トゥパク=アマル〉の反乱の影響は他の地域にも及び,アンデス地方では原住民10万人の反乱に発展。これを鎮圧したスペイン当局は支配をゆるめるとともに,インカ帝国風の文化に結びつくおそれのある先住民の文化への弾圧を強めていきました。






●1760
年~1815年のオセアニア

◆オセアニアの島嶼国が,ヨーロッパ人と本格的な接触を開始する
18
世紀後半はヨーロッパ人の太平洋探検の時代

 列強による太平洋の植民地化は,アジアやアフリカに比べると時期は早くありません。その理由の一つは,資源の乏しさです。魅力的な産品といえば,サンゴやベッコウなどの海産物や,ナマコ白檀(香料)くらいでした。


イギリスによるオーストラリアへの入植がはじまる
 
ヨーロッパでは,南方大陸(テラ=アウストラリス)」が太平洋の南部にあるのだという考えは,いまだにまことしやかに信じられていました。大陸が北にかたよっているので,重さを調節するためには南に大陸がなければいけないと考えられたのです。
 1770年に現在の
チリ領イースター島は,名目的にスペインに併合されましたが,資源も少なく本格的な植民地支配には至っていません()。1774年には後述のイギリスの〈クック〉が訪れています。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7。

 
一方,18世紀後半からは,イギリスフランスによる太平洋探検が本格化します。フランス人の〈ブーゲンヴィル〉(17291811)は,1768年にタヒチに滞在しヨーロッパに紹介した著作は,「南太平洋には地上の楽園がある」というイメージを人々に与えました。
 特に太平洋を広範囲にわたり探検したのは,イギリス人の〈キャプテン=クック(17281779) 【セH21世紀を問う】です。史上初の科学的調査を目的とする探検で,イギリス王立協会の会員も同行させました。176879年までにハワイで殺害されるまで,3回にわたり航海を行いました。一度目は,ニュージーランド探検では北島と南島を分ける「クック海峡」を発見。二度目はオーストラリア南東部。3度目は,ベーリング海峡やアラスカ沿岸を航海し,北西航路(太平洋と大西洋を結ぶ航路)が存在しないということを突き止めましたが,ハワイで息を引き取りました。
 クックの航海でもカバーできなかった地域については,178588年にかけてフランスの〈ラ=ペルーズ〉(17411788?)などが航海をしています。ヨーロッパ人の太平洋進出と並行して,キリスト教の布教も進んでいきました。


◆北太平洋沿岸のラッコの毛皮交易や捕鯨ブームにともない,イギリス,アメリカ,ロシアが進出
ラッコの毛皮や捕鯨をめぐり,北太平洋が交易ブームに
 大航海時代
()を,ヨーロッパ諸国によるアジア・アフリカ・南北アメリカ・オセアニアへの海上進出の時代とみなせば,この時代のイギリスによるオセアニアの探検をもって大航海時代が完了したとみることができるでしょう。
 ロシアによるベーリング海周辺への進出により,北太平洋周辺の
毛皮交易にうま味があることが明らかになると,ヨーロッパ諸国はこぞってこれに参加するようになっていきます。
 その過程で,南太平洋周辺の島嶼国の探検も進み,
オーストラリアでは植民もスタートします。
(注)「大航海時代」は日本の研究者による呼称。英語ではThe Age of Discovery(発見の時代)とか,The Age of Exploration(探検の時代)といいます。「発見」という呼び名はヨーロッパ人の視線からみれば,確かに適切な呼び名です。一般的に15世紀初めから17世紀半ばにかけてポルトガル・スペインに始まるアフリカ大陸ギニア湾岸・インド洋沿岸からアジアにかけてのヨーロッパ諸国の海上進出の時代を指し,広くとれば18世紀後半のイギリスによる太平洋探検までの時期を指します。





1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア
…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
 この時期のイースター島の住民は,寄港したフランスやロシアと接触しています。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
タヒチでイギリス人の支援で西欧化した王朝始まる
 1789年,イギリス海軍の徴用船であるバウンティ号で反乱が起こり,反乱メンバーはピトケアン諸島に身を寄せました。1818年の時点でメンバーのうち1人が生き残っていたことが確認されています。

 
タヒチでは,ヨーロッパ人の宣教師(注)から布教活動を承認する見返りに火器(マスケット銃)の支援を受けた首長〈ポマレ1世〉(位17431803)が武力統一に成功。このヨーロッパ人たちはバウンティ号の反乱1789)を起こしたイギリス人のメンバーでした。〈ポマレ1世〉は1803年に死去。
 彼の〈ポマレ2世〉は他の首長の抵抗を受けて一旦タヒチ島から避難しますが,キリスト教に改宗してイギリス人の支援を受けタヒチを奪回。〈ポマレ2世〉(位18031821)として即位し,ここに
ポマレ朝が始められました(注)。フランスの〈ナポレオン〉の在位と,だいたい同じくらいの時期ですね。彼の下で,伝統文化が改革され,島の西欧化が推進されます。
 タヒチというとのちにフランスの画家〈ゴーガン〉(ゴーギャン)がユートピアのような島の暮らしを描いたように,のどかなイメージが先行しがちですが,この時代にはヨーロッパ勢力の進出がいよいよポリネシアにまで及んでいったわけです。

(注)ロンドン伝道教会。
(注)池田節雄 『タヒチ』 彩流社,2005。なお,タヒチでは支配階級層のことを「アリイ」と呼びます(矢野將編 『オセアニアを知る事典』 平凡社,1990)。




1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
ニュージーランドのマオリが商人と宣教師と出会う
 この時期のニュージーランドにも遅れて”大航海時代”の波が押し寄せます。まずは探検家が訪れ,その後は海獣(アザラシ,オットセイ)やクジラ,亜麻・木材を仕入れに来た商人がやってきました。
 同じころ,キリスト教の宣教師もやってきます。1814年には英国国教会の牧師〈マースデン〉がクリスマスの礼拝をおこなっています
()
()山本真鳥編『世界各国史 オセアニア史』2000p.169



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 イギリスの探検家〈クック〉が1773年・1773年にトンガの島々に来航。島民の対応が「友好的」であったとされることから,フレンドリー諸島と呼ばれるようになります。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 
1787年にフランスの探検家〈ラ=ペルーズ〉(1741~1788?)がアメリカ領サモアに寄港したとき,島では内戦が起こっていたといいます。 



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1765年にトケラウを発見したときには,住民の存在は記録されていません。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 イギリスの〈バイロン〉(1723~1786)が1764年に通過しています。



1760年~1815年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
探検家〈クック〉が来訪した頃ハワイで王朝が統一
 この時期にオセアニア全域を探査したのが,イギリス人の探検家〈キャプテン=クック(172879)でした。
 
1778年にハワイに到達し,航海のスポンサーである〈サンドウィッチ伯爵〉の名をとってサンドウィッチ諸島と命名します(クック〉は住民との争いの中で命を落としています)(注)
(注)「パンに具をはさむサンドウィッチの語源は,この〈サンドウィッチ伯爵〉」ということになっていますが,真偽は不明。Britannica はこの説をとっています(https://www.britannica.com/topic/sandwich)。

 〈クック〉が訪れたころのハワイでは,島ごとに王がいて争いが絶えない状況でした。そんな中,ハワイ島を中心にして全諸島の覇権を握ったのは〈
カメハメハ1世(大王)(1736?/58?1819)です。各島に知事を置き,貿易を管理して,白檀(びゃくだん)という香料貿易を振興しました。

 ハワイ諸島には高い山と,豊かな川があるために,灌漑農耕に向いており,タロイモの栽培や豚の飼育,魚の養殖により,高い生産性を誇っていました。そのため,人口密度が高くなると,余った資源を自分のものにして働かなくなった人々が高い階級を独占し,首長や王が人々や資源を管理する国家が生まれていたのです。




1760年~1815年のオセアニア  オーストラリア
◆オーストラリアのアボリジナル〔アボリジニ〕が,イギリス人と接触する
オーストラリアが流刑地として植民の対象となる
 オーストラリアでは,長らく外の地域世界とほとんど接触をもたなかったアボリジナル(アボリジ)   【セ試行「オーストリアの先住民」】【セH21マオリではない,セH27が,ついにヨーロッパとの接触を開始することになります。イギリス1788年にオーストラリアへの植民をはじめると,アボリジナルは持ち込まれた伝染病で人口が減りはじめ【セ試行 絶滅していない】,土地も奪われていきました。イギリスの初期の植民は,犯罪者を島流しにする「流刑(るけい)制度」によるもので,のちに政府が渡航費を援助する補助移民に変わりました。

 アジアからは移民を受け付けなかったため,白人の比率の高い植民地が形成されていきます。〈ジェームズ=クック〉が1770年にニューサウスウェールズと名付け,1788年に初の流刑植民地となったポートジャクソンは,のちの
シドニーです。囚人収容施設はタスマニア島などにも建設され,負の遺産として世界文化遺産に登録されています(◆世界文化遺産「オーストラリアの囚人収容所遺跡群」,2010)。





1760年~1815年のオセアニア  メラネシア
メラネシア
…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 1774年にイギリスに〈クック〉が来航。
 その後のフィジーには
香木の一種である白檀(ビャクダン;サンダルウッド)とナマコの採集を目的とした商人が盛んに来航します。特に1804年にフィジー第二の島バヌアレブで,ビャクダンが見つかったことがヨーロッパ諸国の商人の進出を加速させます(“ビャクダン=ラッシュ”)。
 商人らはフィジーの民族グループに接近して銃火器を提供し,そのことが島の内戦の元となっていきます。
 



1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 イギリス人〈クック〉は1774年,沖合からニューカレドニアの様子を眺め,その山がちな様子が「スコットランド(カレドニア)」のようだということで,ニューカレドニアと命名しました。
 その後ニューカレドニアの諸民族は,香木の一種である
白檀(ビャクダン;サンダルウッド)の交易場所や捕鯨基地を求めてやってきたヨーロッパ人と接触することになります。


1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 
1768年にフランスの航海士〈ブーゲンビル〉(1729~1811),1774年にイギリスの〈クック〉が訪れています。〈クック〉は「ニュー=ヘブリティーズ諸島」と命名しました。



1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 
この時期にソロモン諸島の諸民族は,ヨーロッパ人の来航対して抵抗します。



1760年~1815年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 ヨーロッパ人の来航は沿岸にとどまり,内陸部についてはまだよく知られていませんでした。





1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア
…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム

1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 
1778年にイギリスの〈サミュエル=ウォリス〉がロンゲラップ環礁とロンゲリック環礁(ビキニ環礁の近くです)を,タヒチからテニアン島への航行中に発見。1788年にはイギリス海軍の〈トマス=ギルバート〉と〈ジョン=マーシャル〉の下で測量がなされます。その後はロシアも来航しています。



1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。



1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。


1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1760年~1815年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 この地域は
スペインの支配下にあります。1740年に,北マリアナ諸島のチャモロ人はグアムに移住させられたとみられます。
 





●1760年~1815年の中央ユーラシア

中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がすすむ
1760年の~1815年のタリム盆地(新疆(しんきょう))~アム川・シル川流域
 清の国力が揺らぐと,間接統治を受けていた新疆の社会も不安定になっていきました。

 コーカンド(シル川上流,パミール高原の西)のウズベク人の一派が,清との交易で力をつけ,17世紀中頃から勢力を増してハーン家を称するようになりました(コーカンド=ハーン国)。1809年にはシル川上流のタシュケント,1814年にはトルキスタンを占領し,北のカザフ草原を圧迫するまでになります。
 こうして,19世紀初頭のトルキスタンには,ヒヴァ,ブハラ,コーカンドの3ハーン国が並び立つことになったのです(ブハラでは18世紀末からイスラーム色が強まりアミールを名乗るようになるので,ブハラ=アミール国のほうが正確です)。彼らは農業生産を拡大し,ウズベク人の定住化も進みました。3ハーン国は,イスラーム教の中心であるオスマン帝国との関係を重視します。



1760年~1815年の黒海北岸
 ロシア帝国の進出地域の,モンゴル系やテュルク系の「
タタール人」の中からは,1773年のプガチョフの乱【セH13,セH22ピョートル大帝代ではない,セH29試行 リード文】のような抵抗の動きも出てきました。〈エカチェリーナ2世〉(位176296)は,〈プガチョフの乱〉のようなタタール人による反乱が拡大することをおそれ,また,オスマン帝国に配慮して,イスラーム教徒に対する支配を緩めました。この時期にタタール人は,ユーラシア大陸のカザフ草原を東西に結ぶ交易活動を発展させていき,中には巨富を築く大商人も現れるようになっていきます。同時にタタール人は,ブハラを中心とするイスラーム復興運動を盛り上げていくことになります。
 その一方で,オスマン帝国と戦い,オスマン帝国の保護下にあったクリミア半島のクリミア=ハーン国を併合しています。





●1760
年~1815年のアジア

1760年~1815年のアジア 東アジア・東北アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国 +ロシア連邦の東部

1760
年~1815年のアジア  東北アジア
◆女真の清と,西方から拡大したロシアが対峙し,互市では非公式な交易もおこなわれていた
女真の清と,東方進出するロシアが対峙

 西方から拡大した
ロシア帝国が,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約セH5時期(17世紀末)】,1727年にはキャフタ条約【セH8】を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める()()という制度も定められました。
◆ロシアの進出を受け,トナカイ遊牧民と狩猟採集民が支配下に入る
北極圏ではトナカイ遊牧地域が東方に拡大へ
 西方からロシア帝国が東進し,トナカイ遊牧を営む
ツングース人ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人の居住地域も圧迫されていきます。



1760年~1815年のアジア  東アジア ①日本
◆北太平洋の毛皮交易をめぐる欧米の抗争が,日本近海にも及ぶ
欧米の船が捕鯨やラッコ交易のため沖合に現れる
 まず国内の動向から見てみましょう。
 
1760年に第10代〈徳川家治〉(任1760~1786)が即位しました。1772年に老中となった〈田沼意次〉(1719~1788)は,金を貨幣として使っていた江戸と,銀の上方(かみがた,大坂・京都)の通貨圏を統合しようと,南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)を導入しました。また,貿易奨励策をとり,中国の高級食材向けに,いりこ(なまこを煮たあとで干したもの)や干しアワビ,フカヒレを俵物として輸出しました。
 松前藩は1773年に,国後島のアイヌとの交易を始めています。1774年には,ウルップ島でアイヌとロシア人の交易が始まっていたため,幕府は対ロシア対策の必要性を現実的に考えるようになっていたのです。〈工藤平助〉(くどうへいすけ,1734~1801)は『赤蝦夷風説考』(あかえぞふうせつこう)において蝦夷調査の必要性を〈田沼〉に示し,1783年に〈最上徳内〉(もがみとくない1754~1836)が国後島(くなしりとう)・択捉島(えとろふとう)・ウルップ(得撫)島のロシア人を探査しています。

 そんな中,1783年に浅間山(あさまやま)の大噴火が甚大な被害を与えました。成層圏まで吹き上がった噴煙により悪天候が続き,1789年に至るまで冷害が続き,天明の大飢饉が勃発します。商品作物の普及に伴い,農民の中には富農と貧農への分解がすすんでいたことも,飢饉が大規模化した一因です。三都,商人資本は和紙や織物の問屋姓家内工業を進め,それに従った手工業者は賃労働者になっていきました。また,米価の高騰を受けて1787年に天明の打ちこわしが起きました。
 前年に解任された老中〈田沼意次〉に代わり,老中首座〈(まつ)平定(だいらさだ)(のぶ)〉が,農村の復興による幕府の財政再建,治安回復,ロシアの南下対策といった政策を実施しました(寛政の改革)

 そんな中,ロシアの日本への接近はいよいよ現実的なものとなります。
 1791年(寛政3)に,現在の和歌山県串本町に,
アメリカ合衆国の商船レディ=ワシントン号とグレイス号が来航。紀伊藩の役人が対応する前に,すでに姿を消していました。
 さらに,福岡県,山口県,島根県に正体不明の外国船(
イギリスの商船アルゴノート号)が現れたことを受け,幕府は異国船取扱令(いこくせんとりあつかいれい)を発令し,警戒を強めます(注1
 実は,当時のイギリスとアメリカ合衆国は,北太平洋沿岸のラッコの毛皮を,中国の清朝に輸出するために抗争をしていたのです
(注2
 事の発端はロシアの〈ベーリング〉による探検(第一次1725~1730,第二次1733~1743)。ロシアは北太平洋沿岸のラッコ毛皮を,ロシアとの
キャフタにおける内陸交易で清朝に流していたのです
(注1)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.187。
(注2)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.188。

◆北太平洋を舞台に,欧米諸国による太平洋探検と,交易をめぐる抗争が本格化する
18世紀の「太平洋探検」を受け,日本は「鎖国」を認識
 そもそも太平洋岸一帯を勢力圏としていたのは
スペインでした。
 
トルデシリャス条約が根拠です。
 しかし,18世紀後半にイギリスの〈クック〉による太平洋探検が実施されると,もはや太平洋はスペイン一国の勢力圏ではなくなり,アメリカやイギリス船の航行が活発化します
(⇒1760~1815のオセアニア)

 さらに
1792【セH10】,使節〈ラクスマン〉(1766~1806) 【セH10】【セH24【追H21時期(18世紀後半か問う),H30】が〈大黒屋光太夫〉(だいこくやこうだゆう,1751~1828)を連れ立って,通商を要求するため【セH10】に根室(ねむろ)に来航しました。しかし,幕府はロシアとの通商を拒否し,長崎入港を許可しました。これ以降,沿岸防備策を進めます。すでにロシアは択捉島に上陸し,アイヌとの毛皮交易をおこない,ロシア正教を布教していました。
 これに対し幕府は
1798年に〈最上徳内〉(もがみとくない1754~1836),〈近藤重蔵〉(こんどうじゅうぞう,1771~1829)らに択捉島に上陸させ,「大日本恵登呂府」(だいにほんえとろふ)の標柱を建てさせます。さらに,1799年には東蝦夷地を直轄地として,入植を開始します。1802年に蝦夷奉行(のち箱館奉行)を置きました。

 一方,
1804年にロシアの使節〈レザノフ〉(1764~1807)は長崎に来航し,日本に通商を要求します。幕府が通商を拒否したことから,1806年にロシア海軍は樺太を襲撃,1807年に択捉島(えとろふとう),礼文島(れぶんとう),利尻島(りしりとう)を襲撃しました。これによる,北方の緊張はこれまでになく高まります。
 こうしたロシア船の出現も,北太平洋方面の
毛皮を中国市場へと売り込もうとする欧米諸国の競争が背景にありました
 相次ぐ外国船の接近は,江戸幕府に対し「鎖国」という自己意識を形成させていくこととなりました。蘭学者〈
志筑忠雄〉(しづきただお,1760~1806)が,〈ケンペル〉の『日本誌』を和訳して「鎖国論」と題したのは1801年のことです。江戸幕府は,17世紀以来,ずっと「日本は鎖国している」という外交方針をとっていたわけではないのです
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193~194。

◆フランスのナポレオン戦争の影響が及び,長崎でイギリス船がオランダ船を拿捕する
19世紀には毛皮交易に代わり捕鯨がブームに
 
1808年にイギリス軍艦フェートン号が長崎に進入し,オランダ船を拿捕しようとしました(フェートン号事件)。しかし,すでに長崎港にオランダ船はいなかったのため,食料と薪(たきぎ)が与えられると港から出ていきました。ナポレオン戦争で,オランダは〈ナポレオン〉に服属したため,イギリスはオランダ船を拿捕(だほ)しようとしたのです。ヨーロッパの戦争が,直接日本に影響したこの事件は,幕府に衝撃を与えました

 この頃日本近海には
アメリカ合衆国の船舶も,姿を見せるようになっています。19世紀に入ると毛皮のターゲットとなった海獣や陸上の哺乳類の生息数が乱獲により減少。捕鯨がブームになっていくのです。
 クジラの中でも上質な油(鯨油)をとることのできる
マッコウクジラがターゲットになりました。灯りのための燃料や,機械にさす潤滑油として欧米でヒット商品となっていたのです。すでにイギリスの捕鯨船は,アメリカの独立戦争開始後には南太平洋で捕鯨をしており,独立戦争後にはアメリカ東海岸を拠点とするアメリカ合衆国の捕鯨船も活発化。1791年には南アメリカ大陸南端のホーン岬経由で太平洋に至ります。さらに北進,西進し,突き当たったのが日本近海の通称“ジャパン=グラウンド”。クジラの格好の漁場として注目されます(注)
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.196。

◆高い識字率と印刷術を背景に,文学や絵画が民衆の人気を博する
浮世絵は19世紀後半に「印象派」に影響を与える
 なお,1765年に〈鈴木春信〉(すずきはるのぶ,1724~1770)により浮世絵(はじめ錦絵と呼ばれました)が作られ始め,1781年~1801年頃に〈喜多川歌麿〉(1753?~1806,きたがわうたまる(ろ))や〈東洲斎写楽〉(とうし(じ)ゅうさいしゃらく,生没年不詳)の美人画・役者画が,版画による大量生産によって安価となり,大人気となりました。〈葛飾北斎〉(1760~1849)や〈歌川広重〉(うたがわひろしげ,1797~1858)は風景画を通して地方の魅力を全国に伝え,伊勢参宮や富士山参詣を目的とした旅が人びとの間で流行しました。この時期の絵画の題材や構図は,フランスで活躍した〈ゴッホ〉(1853~1890)や〈モネ〉(1840~1926)らの作風にも多大な影響を与えています。
 文化期
(180418)に,出版物は貸本屋によって広く流通し,旅に出られない庶民は〈十返舎一九〉(じっぺんしゃいっく,1765~1831)の滑稽本『東海道中膝栗毛』(19世紀初め)を読み,想像をふくらませていたのです

 伝統的な儒学に対する批判は,〈本居宣長〉(もとおりのりなが,1730~1801)
国学(こくがく)や蘭学(らんがく)に代表される洋学によってなされました。とくに後者では医学などの実学が重んじられ,〈前野良沢〉(まえのりょうたく,1723~1803)〈杉田玄白〉(すぎたげんぱく,1733~1817)らは1774年に『解体新書』を刊行しました。また,沿岸防備の必要性から正確な地図測量が求められ,1802年からの測量によって〈伊能忠敬〉(いのうただたか,1745~1818)が「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず;伊能図(いのうず))を完成させました。1811年には蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)により洋書の翻訳と洋楽の研究が推進されました(蛮書和解御用は後の東京大学へと発展する組織です)。



1760年~1815年のアジア  東アジア ①日本 小笠原諸島
 小笠原諸島は1675年に江戸幕府が調査船を送り,日本領とする碑を設置。「ブニンジマ」(無人島)と呼ばれていました。


1760年~1815年のアジア  東アジア ③中国
 18世紀には中国の人口が3億人に達しますセH5増大した人口の大部分は都市の賃労働者となっていない】
 土地不足
解消のために山地でアメリカ大陸原産【セH11】サツマイモ【東京H23[3]】トウモロコシ【東京H19[1]指定語句,東京H23[3]】【セH5,セH8時期(マルコ=ポーロの死後),H11】の導入が推進されたからです【セH29試行 時期(グラフ問題)】
 人口が増えたことで農業に従事する労働力も増え,商品作物(タバコ,藍など
)の生産も増えていきました。
 その一方で,開発の行き過ぎによって土砂災害や洪水深刻化
 社会不安の高まるなか,〈
嘉慶帝(17961820)の治世にあたる1796年には白蓮教徒(びゃくれんきょうと)の乱(17961804) 【東京H21[3]】【セH12時期18世紀末か問う】【セH27,H30隋の時ではない】が引き起こされ,1813年に北京や山東で「反清復明」をスローガンにして起きた天理教徒の乱とともに,清に打撃を与えました【セH12「清朝の財政を圧迫した」か問う】
 天理教も白蓮教の一派といわれ,複数の教派が〈林清〉(りんせい,?~1813)や〈李文成〉らによって統一されて反乱を起こしましたが,事前に計画が発覚して失敗に終わっています。

 さて,18世紀後半には1783年6月~12月にアイスランドで大噴火した火山のキ山(レイキャビークの東に位置する標高818メートルの火山)と,日本で大噴火した浅間山(長野県と群馬県の県境にある2568メートルの火山)の噴煙は,世界各地に異常気象や天候不順をもたらしていたことがわかっています
 
最大版図(はんと)を実現した清の〈乾隆帝〉の在位は17351795年。末期になると世界各地の火山噴火にともなう天候不順により,社会不安が高まっていきました。
 
清では地方の行政はある程度,地方の有力者にまかせられていましたが,しだいに,【セH23から成長した,科挙に合格することにより得られる肩書を持つ地方のエリート層(郷紳(きょうしん))は,清に対し強気の姿勢をみせるようになります。彼ら郷紳はみずから義勇兵(郷勇)を組織して,これらの反乱を鎮圧してくれる存在でもありましたから,清も彼らに対して頭が上がらなくなっていったわけです()
(注)「天下は皇帝一人で到底治めきれるものではなく,国家権力が人民生活の隅々まで介入しようとすることは,かえって社会の安寧を疎外し国力を弱体化する,といった議論は,当時の知識人の間で耳慣れたものであり,特に明末清初には「封建」体制を高く評価するこのような反専制論が高揚した」といいます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)pp.57-58)
 実際,皇帝が権力をもつことができるのは,郷紳たちが無力であるわけではありません。郷紳たちもそれぞれに権力をもっています。皇帝は,統治理念に基づき皇帝として期待される儀礼行為や権威を遂行することによって初めて,郷紳たちの権力を束ねることができます。そのような拮抗関係と協力関係の束によって,皇帝による広域支配は成り立っているともいえます(岸本美緒「明清時代の郷紳」板垣雄三他編『シリーズ世界史への問い7 権威と権力』(岩波書店,1990年)p.62)。



 そんな中,産業革命(工業化)の始まっていたイギリスが,広州の一港に貿易を限定していた清に揺さぶりをかけ始めます。
 清は東アジア各地の国家と政治的な関わりを積極的には持たないようにし,経済は「互市」(ごし)という管理貿易の拠点に限定する政策をとっていました。東アジアでは,唐代以降の冊封体制(さくほうたいせい)が国際関係の基本で,中国が「上」,周辺諸国を形式上「臣下」に置くことで,実際には周辺諸国を支配しているわけではありませんが,中国を中心とする「
華夷秩序」の下で国際秩序を維持していたのです。全体の貿易額に比べると微々たるものですが,依然として朝貢貿易【立命館H30記】も行われていました。
 
マカートニー(17371806) 【京都H22[2]】【セ試行 時期(18世紀末か問う)】【セH21】【慶文H30記】1792年に中国への最初の使節として〈乾隆帝〉(けんりゅうてい,位1735~96)に挨拶しましたが,主権国家同士の対等な関係を築こうとするイギリスの外交観とのギャップは大きく,交渉は失敗しました(1793) 【セ試行】【セH21成功していない】
 続くイギリス
【セH15】の〈アマースト(17731857) 【セH15】は〈嘉慶帝(かけいてい,位1796~1820)に謁見する前段階で,三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼という儀式のしきたりを拒否しました。清にとって外交とは「異民族が皇帝に対して朝貢するもの」,イギリスにとって外交とは「対等な主権国家が交渉するもの」。外交に対する認識の違いから,交渉は難航します

 そうこうしているうちに,午後の紅茶需要で,18世紀以降
セH5】,茶セH5】や陶磁器を買いまくっていたイギリスの貿易赤字は,どんどんかさんでいきました
 
かといって資源の乏しい小国イギリスには,中国人が買ってくれるような商品を大量に調達する余裕はありません

 片側の国ばかりが儲かる,この「
片貿易の構造をなんとかするために利用されたのが,インドです。
 インドで
アヘン【セH2,セH5】を栽培させ中国に密輸し,アヘンの代金として【東京H9[3]】を得ることで,イギリスが中国に支払った銀の穴埋めをしようとしたのです【セH2】【セH16中国産のアヘンをインドに輸入していない】この貿易は東インド会社の貿易特権が廃止されると【セH22インド帝国成立後ではない】,承認を受けた民間の貿易商人や現地商人にも委託されるようになっていきました。この貿易構造を三角貿易【東京H9[3]「銀の輸出を減らすため,オランダやイギリスの商人が組織した貿易」は何か問う】といいます。
 なお,この頃1810年に香港を拠点としていた大海賊〈張保〉(?~1822)は清の前に降伏。中央ユーラシアで馬を乗りこなす遊牧民の時代が終わろうとするなか,海でもジャンク船を乗りこなす海賊の時代が終わろうとしていたのです
(#映画『パイレーツ・オブ・カリビアン/ワールド・エンド』アメリカ,2007 の中国海賊のモデルといわれます)



1760年~1815年の東アジア  ⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮では1776年に〈正祖〉(位17761800)が即位し,中興の名君と讃えられますが,権力を独占し,王のかわいがる両班の官僚や外戚などばかりが優遇される「勢道政治」(せいどうせいじ)は彼の支配以降強まります。
 
18世紀以来,地方の伝統的な両班層が没落し,庶子などの新興勢力が台頭するなど,民乱(民衆の反乱)も多発。奴婢制解体され,商品経済も地方に及ぶようになっていました。
 また,
1794年には,朝鮮にカトリック (朝鮮では天主教といいます) が伝来し,両班層の中にも,カトリックの洗礼を受ける者も現れます。プロテスタント (基督教といいます) の伝来は,19世紀末期のことです。
 1811年には,〈洪景来〉(こうけいらい,ホンギョンネ?1811)の乱が起きました。〈洪景来〉は平安道出身で科挙を受験して合格しましたが,平安道の一族は官僚採用において差別を受けていたため,これに抵抗して大規模な民乱を起こしたのです。反乱には,商人,農民,不平を持つ両班など,さまざまな階層が加わり,大規模化しました。





1760年~1815年のアジア  東南アジア
東南アジア…①ベトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

◆大陸部ではビルマ,タイ,ヴェトナムで王朝の支配圏が確立。中国人の流入も続いている

 1623年以降,東南アジアからインドに関心を移していたイギリスが,東南アジア貿易にカムバックしていきます。18世紀後半から,イギリス東インド会社が中国の茶の輸入量を激増させると,中国との取引のためにが必要になりました。そこで,インドから綿花やアヘン,東南アジアからはコショウ,スズ,ツバメの巣,ナマコなどを中国に輸出して,銀の獲得に務めました。イギリス東インド会社が直接おこなったわけではなく,貿易の許可を与えた民間商人やインド人に,業務を任せました。
 中国と東南アジアの取引が増えると,東南アジアに移住する中国人も増えました。彼らを南洋華僑といい,潮州(広州の東)や福建など中国南部出身者が多くを占めています。
 彼らは東南アジア各地の三角州(デルタ)や熱帯雨林を開拓し,輸出向けにサトウキビ・米などの商品作物の栽培や鉱山開発を進めていきました。こうして,現地の人々の結びつきとは別に,華僑のネットワークが東南アジア各地に張り巡らされていくようになります。

1760年~1815年の東南アジア  ①ヴェトナム
 ヴェトナムでは,黎朝に皇帝は存続していましたが,政治的に紅河(ホンハ;ソンコイ川) 流域の鄭氏の大越と,阮氏の広南の対立が続いていました。しかし,広南の内部で争いが起きる中,1773年に中部の西山(タイソン)出身の〈阮文岳〉(げんぶんがく,?1793)ら3兄弟が反乱を起こし,〈阮文岳〉が王を称して1788年に西山朝(1788~1802) 【慶文H30記】を建国し,広南を滅ぼしました。「阮」というのはヴェトナムではよくある姓で,広南の阮氏とのつながりはありません。この反乱を西山(たいそん)(阮氏)の反乱【セH20時期,セH30といいます。
 のちに末の弟の〈阮文恵〉(位1788~92)が皇帝を称して兄から自立し,北部の黎朝と清をも撃退して南北を統一しました。

 この混乱の中,広南の阮氏の一族〈阮福暎(グエン=フック=アイン)〉(17621820) 【セH18 1415世紀ではない】【追H21は,フランスの探検隊を頼って立て直しを図ります。フランス人宣教師〈ピニョー〉を通してフランスに救援を要請すると,〈ルイ16世〉は軍艦4隻・1200人の歩兵の支援を約束。そのかわり,フランスに貿易特権を与え,同盟を結ぶという条件でした。しかし,その直後に革命が勃発すると,実現はされませんでしたが,以後フランスはヴェトナムに積極的に介入していくことになります。
 〈阮福暎〉は1783年に一旦シャムに移動し,できたばかりのラタナコーシン朝の〈ラーマ1世〉にかくまわれます。彼はここで華人(東南アジアに移り住んだ中国人)の支援も得ます。ちょうどその頃,西山阮氏はハノイを占領し,鄭氏を滅ぼしていました。しかし阮3兄弟は支配権をめぐり争い,3兄弟のうちの〈阮文恵〉がフエで皇帝に即位して〈乾隆帝〉に謁見,紅河から北緯17度付近のフエまでを支配する西山阮氏の安南国が認められました。
 そこに先ほどの〈阮福暎〉が攻めこみ,1802年にハノイを陥落させ,西山阮氏の安南国は滅びました。彼はフエで即位(位180220)し,越南国【追H21として清【追H21から冊封を受けました。越南,つまりヴェトナムという国号の由来はここにあります。ただし,彼は国内向けには皇帝を称しました。
 こうして歴史上はじめてヴェトナムが政治的に統一されたわけです。


1760年~1815年の東南アジア  ②フィリピン
 フィリピンでは,住民のカトリック化【セH6アメリカ合衆国の統治下で伝えられたものではない】【東京H25[3]】が進み,18世紀末以降は教会や修道会が中心となって大土地所有(アシエンダ)制が進みました。フィリピンのスペイン総督は1767年以降,中国人商人が植民地から追放され,植民地支配を固めようとしました。1781年にはタバコの強制栽培・専売がルソン島に導入されています。



1760年~1815年の現在の④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア
◆フランス革命・ナポレオン戦争中,イギリスが島しょ部のオランダ領を占領した

 1777年に西部ジャワの反乱を鎮圧したオランダは,ジャワ全土の支配権を確立しました。各地の民族間の対立を利用して「分割統治」を進めた結果,各地の社会に新たな対立を生みました。各地の首長には資源をオランダにおさめる義務を課し,住民は苦しみました。

 一方,マラッカ海峡地方では,ジョホール王国が衰えをみせる中,イギリスが1786年にペナンを占領しました。さらに,オランダがナポレオン戦争中に占領されると,オランダの総督は「戦争終結までオランダ植民地の統治をイギリスに任せる」と命じました。
 そこでイギリスは
1796年に喜望峰とセイロン,1795年にムラカ(マラッカ) 【セH13時期(16・17世紀ではない)】【上智法(法律)他H30イギリスがポルトガルから奪ったわけではない】,1796年にジャワなどほぼ全てのオランダ領を支配下に押さえました。

 ペナンにある商館の書記だったイギリスの〈
ラッフルズ(17811826)は,1811年()にジャワを一時占領・統治し,現地社会を混乱させます。ナポレオン戦争が終わると,オランダにはネーデルラント(オランダ王国)が成立し,ナポレオン追放後のロンドン条約でオランダの旧植民地の多くを返還することが決められ,1816年にイギリスは植民地を全部返還しました()。しかし,植民地行政は困窮状態にあり,各地の支配者による反乱の危機も迫っていました。
()『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014p.123



1760年~1815年の東南アジア  ⑧カンボジア
 18世紀半ば,東西からヴェトナムとシャムの干渉を受けていたカンボジアでは,ヴェトナムとシャムの了承により〈アン=ドゥオン〉(位184759)が即位しました。しかし,実質的にカンボジアはメコン川下流のヴェトナムと上流のシャムに分割されており。メコン川下流がヴェトナムのものとなったため,カンボジアは内陸国になってしまったわけです。そこで,ワラをもすがる気持ちですがったのが,フランスでした。〈アン=ドゥオン〉王が亡くなると,長男の〈ノロドム〉(位18601904)はフランスの保護国化(1863)を受け入れることになります。



1760年~1815年の東南アジア  ⑩タイ
 特に,潮州人はタイ人(シャム人)との関係を深めます。チャオプラヤー川流域のシャム(現在のタイ)では,アユタヤ朝(13511767)がビルマのコンバウン朝により滅ぼされていました。
 その後,アユタヤ朝で県知事を務めていた潮州人〈タークシン〉
(173482,在位176782)が短命のトンブリー朝(176782)を建てました。このときに多くの潮州人が,シャムに移住しています。
 しかし,〈タークシン〉は晩年に精神が不安定になったため,アユタヤ王家と中国人の血を引く〈
ラーマ1世(17351809,在位17821809)が,〈タークシン〉を処刑して,チャクリ朝(ラタナコーシン朝1782~現在) 【共通一次 平1:時期を問う】【セH6イスラーム教が広く信仰されたか問う】【セH26時期】【慶文H30記】を始め,首都をバンコクに置きました。これが現在まで続く王朝です。王名の〈ラーマ〉は,古代インドの叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公からとられており,タイがインド文化の影響を受けていることがここからもよくわかります。〈ラーマ1世〉は『ラーマーヤナ』を下地にした民族叙事詩『ラーマキエン』の編纂を〈タークシン〉から引き継ぎ,1797年に宮廷詩人に命じ,完成させました(1973[吉川])。バンコクには王宮や,その敷地内ワット=プラケオ(エメラルド寺院)などの豪華な建造物が建てられました。
 王室は中国系でしたが,だからこそ支配の正統性をタイ人の伝統に求めました。実際には古来シャムではモン人やクメール人など様々な民族が活動していたわけですが,「シャムは,スコータイ朝→アユタヤ朝→チャクリ朝という単純な王朝交代によって,古くからずっとタイ人によって支配されてきたのだ」という
タイ人中心の歴史観が形成されていったのです。





1760年~1815年のアジア  南アジア
南アジア
…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
1760年~1815年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 1658年~1796年までセイロン島はオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕領でした。
 しかし,オランダ本国が〈ナポレオン〉により占領されると,そのスキにイギリスが占領。1802年の
アミアンの和約でイギリスの領有が認められます。

 島の中央部から東部にかけては
キャンディ王国(1469~1815)の支配下にありましたが,1815年にイギリスにより滅亡します。



1760年~1815年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
◆ムガル帝国の権威が低下し地方国家が栄えたが,イギリス東インドの領土支配が本格化する
 
ムガル帝国の内部では,ヒンドゥー【セA H30キリスト教ではない】教徒のマラーター同盟【セA H30】シク教国【セH8地域(パンジャーブ地方)を問う】の勢力が増し,アフガニスタンではドゥッラーニー朝が一時北インドに南下するなど,政治的な分断が進み,ムガル帝国の権威は衰えていました。
 一方,イギリスがフランスとのインドをめぐる競争に勝利し,インドの本格的な植民地化へと転換していくのもこの時期です
セH5 18世紀後半のムガル帝国について,国内の市場は分断されていなかったことを,史料から読み取る問題】
 1747年に〈ナーディル=シャー〉(16881747,在位173647)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(17471818,18391842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝はシク教徒の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。

 1757年のプラッシーの戦い【セH10 時期:1850~60年代ではない】により,フランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル州の長官と,東インド会社書記の〈クライヴ(17251774)の率いるイギリス東インド会社が決戦し,イギリス側が勝利しました。1763年にパリ条約が結ばれ,イギリスは,ベンガルにおいてもフランスに対して優位となりました。

 1765年には,ムガル皇帝がイギリス東インド会社に,オリッサを含むベンガル州とビハール州の徴税財政権(ディーワーニー)を与えました。ディーワーニーというのは,税金をとって,それだけではなく,そのお金を軍事費や行政費として支出することのできる権利なのです。つまり,これによりイギリス東インド会社は,単なる貿易会社ではなくなって,インドという植民地を支配するお役所としての役割を得ることになっていくのです。でも,いきなり支配なんてできませんから,はじめは現地のインド人の支配層に代理で税をとらせていました。
 しかし,1771年にイギリス東インド会社は,代理制度をやめて,直接税をとろうと決議します。1772年に〈ヘースティングズ(17321818)がベンガル管区の知事になって,徴税制度と司法制度を整備しました。
 1773年,イギリス本国はイギリス東インド会社をコントロール下に置こうとして,「ノースの規制法」(一連のインド統治法の一つ)を制定。ベンガル知事を総督に格上げし,マドラスとボンベイ管区の各知事も,ベンガル総督の指揮下に組み込まれました。1774年の初代ベンガル総督も〈ヘースティングズ〉です。1793年にはベンガル管区にザミンダーリー制【セH23ライヤットワーリー制とのひっかけ,セH27植民地インドで導入されたか問う】が導入されました。
 ザミンダーリー制とはザミーンダールに徴税を担当させる制度。ザミンダールとは土地所有者
(ペルシア語)のことで,彼らに毎年定額の地租を納入させようとしたのです。これにより,インドの農村社会は,劇的な変化を迫られることになりました。
 南部でも農民に土地を所有させて
ライヤットワーリー制が実施されました【セH23領主層を地税納入の責任者としたわけではない,H28エジプトではない【早商H30[4]記】

 こうした近代的な租税制度によって,「この土地は誰のもの」ということが明確化されていきました。つまり,「みんなでつかう土地」とか「あいまいな土地」がなくなってしまうわけです。 もともとインドの農村では,職業集団(ジャーティ)に編成されていたカースト制度のもとで,洗濯屋・鍛冶屋・牛飼い・葬儀屋など,生活していくのにかかせない職業が,その村に必ず存在しました。洗濯屋は一日中洗濯をする代わりに,農民から収穫物が支給されます。助け合いを基本とする当時の農民にとっては必要不可欠な社会制度でもあったのです。
 しかし,イギリスの導入した,「すべての土地には所有者がいて,所有者が税を払う義務を持つ」という近代的な徴税制度のもとでは,洗濯屋も土地を持ちますから,税を払わなければなりません。当然このことが,彼らの生活を大変なものにしていったのです。このように,カースト制度はイギリスによる植民地支配によって,より一層厳しい身分制度になっていったのではないかという見方ができます。

 イギリス本国で,自由貿易へ要求が高まると,1813年の特許状法により,中国を除くアジアの貿易が自由化され,東インド会社の貿易独占権が廃止【上智法(法律)他H30オランダ東インドではない】されました。インドの伝統的な綿織物産業は,イギリス製の綿布の流入によって破壊されていきます【セH16「インドを自国の綿製品の市場とした」かを問う】。1810年にはインドとイギリスの綿織物の輸出入量が逆転し,イギリス産の機械式綿織物がインド市場を席巻(せっけん)するようになりました。
 また,インドに対してキリスト教の布教も自由化され,インド社会に影響を与えることになりました。例えばバラモンの家系に生まれながら,キリスト教にも学び「諸宗教の根本となる神は同じだ」と考え,にヒンドゥー教を改革した〈
ラーム=モーハン=ローイ(17721833)です。ヒンドゥー教には「夫が亡くなったら,妻も一緒に殉死する(生きたまま火葬)」という風習がありますが,「あまりに残酷だ。ヒンドゥー教も変わらなければならない」と考え,このサティー(寡婦殉死)という風習の廃止運動をおこないました。

 イギリス【セH2】東インド会社は,マラーター同盟に対して,第一次マラーター戦争(1775年~1782),第二次マラーター戦争(1803年~1805)を起こしています。
 また,南部のマイソール王国に対しては,第一次(1767年~1769),第二次(1780年~1784),第三次(1789年または1790年~1792),第四次マイソール戦争(1798年~1799)を起こし,滅ぼしました【追H30マイソール戦争に勝利したのはムガル帝国ではなく,イギリス(東インド会社)】
 マイソール王国の〈ティプ
=スルターン〉は,オスマン帝国やフランスに使者を送り同盟・支援を求めたり,フランスにならって軍隊の近代化を図ったりしましたが,当時のオスマン帝国はロシアの南下に対抗してイギリスに接近し,さらにフランスでは革命(フランス革命)が起こっていたために,手を差し伸べることはできなかったのです。

 また,ネパールでは1769年からゴルカ朝が勢力を増し,イギリス東インド会社のベンガル管区と境を接するようになったため,1814年から戦争となりました。山岳地帯での戦闘を経て,1816年のサガウリ条約で,西端のガルワール地方をイギリス東インド会社に割譲しました。ネパールの東のシッキムは,東インド会社に保護国化されました。
 
紅茶の産地として有名なダージリン1835年にシッキムから割譲された高原地帯。うだるような暑さと感染症の多さが問題である低地部の都市のイギリス植民地官僚は,避暑地(ひしょち)としてダージリンを利用し栄えました。



1760年~1815年のアジア  南アジア 現⑦ネパール
 1769年にゴルカ王国(15591768)の〈プリトゥビ=ナラヤン=シャハ〉(17681775)がマッラ朝の勢力を滅ぼし,ゴルカ朝ネパール王国としてネパール(カトマンズ)盆地を周辺地域を含めて再統一し,中央集権化を進めました。ネパールは東部のブータンから西部のカシミールにかけての領土拡大を狙っていたのです。
 しかしチベット地方の領土をめぐり17881789年に
と戦争となり,敗北後は冊封体制に組み込まれ朝貢が義務付けられました。1809年にはシク教徒とパンジャーブ地方をめぐり戦争。さらに1814年には,植民地インドを防衛しようとしたイギリス東インド会社との戦争(グルカ戦争)が起き,敗北しました。





1760年~1815年のアジア  西アジア

西アジア…①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
ヨーロッパ諸国の進出に対し,各地で近代化による改革や,復古による改革の運動が起きる

1760年~1815年のアジア  西アジア ①アフガニスタン
 1747年に〈ナーディル=シャー〉(16881747,在位173647)が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(17471818,18391842)を始めました。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯に進入しています。ムガル帝国は,北からはアフガニスタンのドゥッラーニー朝,南はマラーター同盟に挟み撃ちされる情勢となったのです。1761年には,マラーター同盟がドゥッラーニー朝に敗れますが,ドゥッラーニー朝はシク教徒の勢力にも阻まれ,アフガニスタンに引き上げました。


○1760年~1815年のアジア  西アジア ②イラン
 1796年から1925年まで,首都をテヘランに置くカージャール朝【セH30が,イラン高原を支配していました。しかしイランは,南下しようとするロシアと,インド周辺を固めようとするイギリスのダブルパンチにあい,苦労することになります。



1760年~1815年のアジア  西アジア ⑤・⑥・⑦・⑧・⑨・⑩アラビア半島
 このワッハーブ王国というのは,アラビア半島【セH24エジプトではない】サウード家が,イスラーム教の復興運動をとなえていた〈イブン=アブデュル=ワッハーブ〉と結んで建国した,ワッハーブ派【セH6スーフィズムとのひっかけ】【セH19十二イマーム派,ネストリウス派,長老派ではない,セH24ワフド党ではない,H30H27京都[2]の王国です。
 当時のアラビア半島の遊牧民たちの中には,もはやイスラームを信仰していない者も多くおりました。〈ワッハーブ〉は「ヨーロッパが進出し,われわれが弱くなったのは,〈ムハンマド〉時代の教えを守らなくなったからだ」と主張したのです。後ろ盾として選んだのが,アラビア半島北部の有力者
サウード家でした。
 サウード家は,
1744年からエジプトの〈ムハンマド=アリー〉【セH12】に滅ぼされる1818年まで,アラビア半島北部のリヤド郊外のディルイーヤを都として第一次サウード(ワッハーブ)王国)を建国しました。シーア派の聖地であるカルバラー(1802)を奪い(),1803~05年には,メッカ(マッカ)とメディナ(マディーナ)を陥落させています。このときのシーア派住民との対立が,現在まで続くサウジアラビアとイランの対立の遠因となっています(最近でも,2016年以来,イラン・サウジは国交を断絶しています)。
 メッカ・メディナを占領されたことにショックを受けたオスマン帝国は,もはや自前の常備軍で鎮圧することはできず,エジプト総督〈ムハンマド=アリー〉に鎮圧を命じるしかありませんでした。1812年~18年の戦闘でメッカ,メディナを奪回し,第一次サウード王国は滅亡します。打倒した〈ムハンマド=アリー〉の株は上がりました。
(注)シーア派では聖者の崇拝が盛んで,メッカへの巡礼(ハッジ)とは別に“お参り”することが認められていましたがワッハーブ派にとってはこれが〈ムハンマド〉の教えからの逸脱とみえたのです
 その後,18231889年まで都をリヤドに移し,第二次サウード(ワッハーブ)王国が建国されますが,ライバルのラシード家に奪われて,また崩壊しました。



1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑭レバノン,⑮シリア
 現在の
レバノン山岳部では,独特の信仰を持つマロン派(注1)のキリスト教徒や,ドゥルーズ派(注2)のイスラーム教徒が,有力氏族の指導者の保護下で栄えていました。
(注1)4~5世紀に修道士〈マールーン〉により始められ,12世紀にカトリック教会の首位権を認めたキリスト教の一派です。独自の典礼を用いることから,東方典礼カトリック教会に属する「マロン典礼カトリック教会」とも呼ばれます。
(注2)エジプトのファーティマ朝のカリフ〈ハーキム〉(位996~1021)を死後に神聖視し,彼を「シーア派指導者(イマーム)がお“隠れ”になった」「救世主としてやがて復活する」と考えるシーア派の一派です。



1760年~1815年のアジア  西アジア 現⑯キプロス
 キプロス島はオスマン帝国の領土の支配下にありますが,東地中海の拠点としての重要性が高まり,ヨーロッパ列強が目をつけるようになっています。



1760年~1815年の西アジア  ⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
 黒海からカスピ海にかけて東西に伸びるコーカサス山脈。この南をロシア語で「ザ=カフカージェ」(コーカサスの向こう)と呼びます。
 1784年にヴラジ=カフカスが建設され,南下するロシアに対して
チェチェン人,イングーシ人,オセット人,チェルケス人といった山岳民族との対立が起こります。
 1801年には東グルジアにあった王国(カルトリ=カヘティア王国)(注)がロシアに併合され,ガージャール朝ペルシアとの間に領土をめぐる戦争も起きます。1813年のギュリスタン条約で,南コーカサス(ザカフカース)はガージャール朝からロシア帝国の領有となりました。
(注)中島偉晴・メラニア・バグダサリアヤン編著『アルメニアを知るための65章』明石書店,2009年,p.68





1760年~1815年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
 イギリスはインド洋の島々に目をつけ,1810年に
イギリス領モーリシャスとしてディエゴガルシア島を含む島々を領有しています(現在のイギリス領インド洋地域)。

マダガスカル
 マダガスカルでは,〈アンドゥリアナムプイニメリナ〉(位 18世紀末~1910)がメリナ人を統一し,島の西部を支配していたサカラバ人など,中央高原にあった他民族の小国家を打倒し,島の統一を進めていきます。彼の子がマダガスカルの初代国王〈ラダマ1世〉(位1810~1828)です。

(注)木畑洋一「ディエゴガルシア―インド洋における脱植民地化と英米の覇権交代」『学術の動向』12(3), 2007年,pp.16-23。





●1760年~1815年のアフリカ

東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 一方,オスマン帝国の勢力は後退し,対岸のアラビア半島のジッダの影響力が強まっています。



1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチ周辺では,奴隷交易が営まれています。



1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
 
エチオピア高原16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国は,この時期には比較的平和な時期を迎えています。
  
 
オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。



1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
東アフリカはオマーンの保護下に入る
 東アフリカのインド洋沿岸には,アラビア半島北東部マスカットを拠点とするオマーン王国が〈サイイド=サイード〉(位1806~1856)の下で進出し,アラブ人などによる奴隷交易が営まれていました。



1760年~1815年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。
 ヴィクトリア湖北西部(アルバート湖畔)にはブニョロ王国が栄えています。
 ヴィクトリア湖西部の
ブガンダ王国は,象牙奴隷交易で栄えてブニョロ王国から自立しています。




1760年~1815アフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ


1760年~1815年の南アフリカ  現①モザンビーク
ポルトガルはザンベジ川流域に植民する
 ポルトガル王国は,南東部(インド洋側)のザンベジ川流域を中心に現在のモザンビークを植民地化していっています。奥地からは奴隷や金が積み出されています。



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
スワジランド王国の支配が確立する
 バントゥー系のングニ人の一派スワジ人は,〈ングワネ3世〉(位17451780)の下,この時期にポンゴラ川流域でスワジランド王国を確立します。次の〈ジコゼ〉(位17801815)のときに支配機構が整備されます。



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 バントゥー系のソト人は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすんでいます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
 先住の
サン人は居住地を追われていきました。


1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 このうちズールー王国では,のちに軍事的に急拡大することになる〈シャカ〉(1787?1828)が1787年頃に誕生しています。

 内陸の高地にはバントゥー語系の
ソト人や,同じくバントゥー語系のツワナ人などがいて,国家を形成しています。
 もともと居住していた狩猟採集民の
コイコイ人は,南西部に居住しています。

 ケープタウンに入植したヨーロッパ人(主にオランダ系。フランスのユグノーも含む)は支配領域を拡大し,中にはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていく者もいました
 
それに対しバントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,1779年以降,100年間にわたって戦争が勃発します(コーサ戦争)



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部には
ナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「
何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群の
ヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 この時期のマラウイには大きな政治的組織はありません。


1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
ロズウィ王国がポルトガルの新入を阻む
 金の交易で栄えたムタパ王国1760年頃に崩壊。ポルトガル人が内陸部に進出する一方で,ジンバブエの南部高原地帯にはロズウィ王国がポルトガル勢力を阻んでいますグレート=ジンバブエの遺産を引き継ぎ,石壁建築がつくられています。



1760年~1815年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系の
ツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系の
サン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 
ケープタウから北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになっています




1760年~1815アフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ
現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による
奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 
アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化し,西方のハウサ諸王国と交易の利を争っています。



1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 コンゴ盆地にはルンダ王国ルバ王国が栄えます。
 ギニア湾沿岸のコンゴ川下流は
コンゴ王国が支配し,南方のポルトガル領アンゴラと対抗しています。ポルトガル,イギリス,フランスなどのヨーロッパ諸国は,アンゴラのルアンダ港を初めとするギニア湾沿岸から奴隷を積み出しています。



1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
ギニア湾の小島は環境破壊ではげ山に
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年に
ポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となり,火山灰土壌を生かしたサトウキビのプランテーションが大々的に行われました。しかし過剰な開発は資源を枯渇させ,生産量は18世紀にかけて激減。17世紀前半には一時オランダ勢力に占領され,イギリスやフランス勢力の攻撃も受けるようになります。
 サントメ=プリンシペは,代わって奴隷交易の積み出し拠点として用いられるようになっていきます。


1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,
ポルトガル領となっています。



1760年~1815年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化した
ボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の
奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。




1760年~1815の西アフリカ
西アフリカ
①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,ナイジェリア,ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流の
ベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の
③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人による
オヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。

ハウサ諸王国

 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,
ハウサ人の諸王国が多数林立しています。
 ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。



◆イスラーム教をよりどころに,従来の王国に対する抵抗運動が起き
フラニ人による西アフリカの国家再編が起きる
 この時期には,牧畜民フラニ人(プール人)とトゥクルール人が立ち上がり,イスラーム教改革運動を支持して新国家を立ち上げます。

 この背景には,従来これらの牧畜民,周辺国家から重税を課されるなど支配されていたこと(注1
 
ギニア湾岸では,引き続きアシャンティ王国【東京H9[3]】ダホメー王国ベニン王国オヨ王国などが,ヨーロッパ諸国に奴隷を供給するために「人狩り」を行っていたことに反感が高まったことが挙げられます。
 
 そんな中,②ナイジェリア北部のハウサ人の地域では,トゥクルール人のイスラーム神学者〈ウスマン=ダン=フォディオ〉(17541817ジハード」(聖戦)を宣言王に即位して,周辺のハウサ諸王国を次々に併合していきました。これをフラニ戦争(1804~1808)といい,建てられた国はソコトを都としたのでソコト帝国(ソコト=フラニ)といいます。

 また,ニジェール川流域には,セグー王国マシナ王国がありましたが,この地のフラニ人(フルベ人,自称はプール人)も,東方のソコト帝国の成立に刺激を受けています(注)

 これにより,広範囲がイスラームの支配者で統治されたことで,牧畜民と農耕民の双方に利益が還流され
(注2,サハラ交易は活発化していきました。
(1)ジェレミー・ブラック,牧人舎訳『世界史アトラス』集英社,2001p.167
(注2)現在の同地域n牧畜民・農耕民の物・サービスの移動を通した相互関係は,嶋田義仁『牧畜イスラーム国家の人類学―サヴァンナの富と権力と救済』世界思想社,1995,p.256,263図表を参照。
(注3)この時期のフラニ人(プール人)の聖戦に題材をとった小説に,マリのフラニ人作家〈アマドゥ=ハンパテバー〉(1900?1991)の『アフリカのいのち―大地と人間の記憶/あるプール人の自叙伝』新評論,2002という好著があります。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
 現在の
④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール
 ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
 コートジボワール北部,
ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国などが栄えています。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑦リベリア
 
ヨーロッパ人によって「胡椒海岸」と命名されていた現在のリベリアには,1662年にはイギリスの交易所が設けられています。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑧シエラレオネ
 
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑨ギニア
 現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。
 この地の牧畜民フラニ人(自称はプール人)は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げていきます



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
 
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。


1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑪セネガル,ガンビア
 セネガルにはフランスの植民がすすんでいます



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑬モーリタニア
 現在の
モーリタニアにはヨーロッパ諸国の植民は進んでいません。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑭マリ
 ニジェール川沿岸部
のセグーでは,ニジェール=コンゴ語族メンデ系のバンバラ人がバンバラ王国17121861)を建国しています。



1760年~1815年のアフリカ  西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
 ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,
モシ王国が栄えていました。




1760年~1815アフリカ  北アフリカ
北アフリカ
①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

1760年~1815アフリカ  北アフリカ ①エジプト
 
エジプトには,フランス革命後に〈ナポレオン〉(17691821)が進出し,イギリスと支配権を争い,エジプトの多方面の勢力を巻き込む争乱が勃発します。
 そんな中で台頭した〈
ムハンマド=アリー〉(1769?1849)はオスマン帝国の総督を名乗り,その地位を追認され,半ば自立して各地への拡大を開始します。
 〈ナポレオン〉と〈ムハンマド=アリー〉,この2人はほぼ同い年なんですね。
 順にみていきましょう。

 エジプトが,オスマン帝国からの支配に入ったのは1517年のマムルーク朝滅亡のときです。それ以来,エジプトにはオスマン帝国の総督(パシャ)がおかれていました。ですからエジプトの支配者はイスタンブルから派遣される総督ということになっているのですが,実際に権力を握っていたのはエジプトに定着して徴税請負人として富を築いたマムルークたちでした。

 一方,ナイル川流域のエジプトの住民は比較的まとまりが強く,外からやってきたマムルークたちに対する不満は高まっていました。

 そんな中,
1798年に〈ナポレオン〉率いるフランス軍が進出し,「ピラミッドの戦い」に勝利してナイル川下流を支配下に置きました。しかしイギリスの〈ネルソン〉率いる海軍にアブー=キール湾の戦いで敗北し,エジプトの有力者による抵抗も起きます。
 そんな中で〈ナポレオン〉はイスラーム教を保護し,マムルークに対抗する姿勢をアピールし,ウラマーや現地のイスラーム教団指導者と関係を結びました。しかし,占領に対する民衆蜂起が起きると〈ナポレオン〉は武力で応え支持を失い,1799年8月にフランス本国に逃れました。〈ナポレオン〉亡き後,イギリス軍はフランス軍に勝利し,1802年アミアンの和約でイギリス軍はエジプトから撤退。オスマン帝国の任命した総督はもはや有名無実という権力の“空白”状態の中,フランス軍との戦いで頭角をあらわしたオスマン帝国のアルバニア非正規軍の副隊長であった〈
ムハンマド=アリー(1769?1849) 【セH12】【セA H30チュニジアではない】【東京H13[1]指定語句】でした。
 彼は,オスマン帝国,マムルーク勢力,イギリス軍が各地で活動する中,これらの間にたくみに入り込むことによって実権を得ることに成功し,カイロの住民やウラマー層の支持を得る形で,オスマン帝国の任命した総督を差し置き「総督」への就任を宣言。もはやオスマン帝国はこれに逆らえず,総督位が追認されました。これ以降のエジプトでは〈ムハンマド=アリー〉の一族が総督位を世襲し,事実上オスマン帝国から自立することになったため,
ムハンマド=アリー朝(ヨーロッパ列強から世襲権が承認されたのは1840年のロンドン条約)とも呼ばれます。
 彼は農地を国有化し徴税請負制を廃止し,
ナイル川の洪水に頼らない灌漑農耕を導入して商品作物を栽培し,専売制度を実施しました。これらの収益によって西洋式軍隊(1822年に徴兵制を導入)や国営工場を設立し,中央集権的な国家を建設していきました。



1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ スーダン,南スーダン
 スーダン南西部のダルフール地方では,フル人の指導者がチャド湖周辺の
ボルヌ帝国の支配を脱し,16世紀末にイスラーム教国のダルフール=スルタン国を建国し,エジプト方面への奴隷交易で栄えています。17世紀前半にはさらにその西のチャド東部を拠点にワダイ=スルタン国が建国されています。
 スーダン南部ではフンジ人の
センナール王国(フンジ=スルタン国)が栄えています。
 
 ナイル川上流部の現・
南スーダン周辺には,ナイル=サハラ語族ナイロート系の農牧民のシルック人(ナイル=サハラ語族)が多数の小王国の連合を形成しています。ほかに,同じくナイロート系のディンカ人や,ヌエル人などの農牧民が社会を形成しています。




1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ ④モロッコ,⑤西サハラ
 
モロッコでは,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現していました(アラウィー朝)。ヨーロッパ諸国の進出が活発化すると,〈スライマーン〉(位1792~1822)は鎖国政策をとり対応しました。

1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ ⑥アルジェリア
 北アフリカ西部のマグレブ地方の
アルジェリアは,オスマン帝国アルジェ州として間接統治されていました。

1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ ⑦チュニジア
 
チュニジアはオスマン帝国のチュニス州とされて間接統治されていましたが,1705年に騎兵隊長官〈フサイン〉が実権を握ってから,1957年まで続くフサイン朝が成立し,事実上オスマン帝国から自立していました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。

1760年~1815年のアフリカ  北アフリカ ⑧リビア
 リビア西部のトリポニタニアでは,テュルク系の〈カラマンリー〉の一族が1722年から1835年までスルターンによりパシャに任命され,実権を握りました(カラマンリー朝)。カラマンリー朝は地中海の海賊活動やユダヤ人・キリスト教徒の交易活動を保護して繁栄する一方,サハラ沙漠の横断交易ルートも握りました。19世紀初頭には地中海に進出したアメリカ合衆国の船舶の航行を妨害する事件が起きています。





●1760年~1815年のヨーロッパ

○1760年~1815年のヨーロッパ  東ヨーロッパ
○東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
◆ロシアでは皇帝の権力が強まり,オスマン帝国から黒海北岸を奪い,三度にわたりポーランドを分割する
 ①ロシア
では,18世紀後半にはモスクワを都とするロシア帝国エカチェリーナ2世(176296) 【セH29試行 マリア=テレジアではない】【セH7シベリア進出を始めたわけではない】【追H21ステンカ=ラージンの乱を鎮圧していない】【慶文H30】が,夫〈ピョートル3世〉が無能だったことに失望して,側近や軍の協力を得てクーデタを起こして皇帝になりました。 1773年~1775年には農奴解放を求めるプガチョフの乱【セH10デカブリストではない】【追H21ステンカ=ラージンの乱ではない】が起きると,国内支配を強化。農奴を保有する地主貴族を保護する一方で,マニュファクチュア(工場制手工業)を推進しました。
 対外的には1774年には
クチュク=カイナルジ条約を結び黒海北岸を獲得し,セヴァストーポリに軍港を建設します。1783年にはクリミア半島【慶文H30】に位置するモンゴル系のクリム=ハーン国セH5マジャール人の国ではない】をオスマン帝国から独立させています。その後,オスマン帝国とヤッシー条約を結び,ドニエストル川をそのまま国境とし,クリム=ハーン国を併合しました【京都H22[2]】【セH30セH29試行 クリミア戦争を戦ったわけではない】
 〈エカチェリーナ2世〉
【セH24は,西は北海道の根室に〈ラクスマン(17661803?) 【セH24 を来航させています【セH28ピョートル大帝のときではない。〈ラクスマン〉とともに帰国したのは1782年に伊勢を出てカムチャツカ半島に流れ着いた船乗り〈大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう,17511828)でした。〈光太夫〉は1791年にはペテルブルクで〈エカチェリーナ2世(大帝)〉に謁見しています。
 なお,〈エカチェリーナ2世〉は,ベルリンの画商〈ゴツコフスキー〉から絵画コレクションを購入して離宮に収蔵しました。これが,世界三大博物館ともいわれる
エルミタージュ博物館です(注)
(注)『週刊朝日百科 世界の歴史118』朝日新聞社,1991,p.C-743

◆工業化を進めるロシアは北アメリカのアラスカに進出し,日本への通商も要求した
 国政の近代化は進まなかったが,フランスの〈ナポレオン〉の東進を防ぐ

〈レザノフ〉は中国市場を見据え日本に通商を要求
 ロシアは1799年には北アメリカのアラスカの支配を開始。西ヨーロッパでフランスの混乱が続く中,1801年には改革に意欲的な〈
アレクサンドル1世〉(位1801~25)が即位し,工業化を推進します。
 1804年には〈
レザノフ〉を日本の長崎に派遣し,通商を要求しましたが,これは失敗。すでに1799年に設立されていた毛皮事業に携わるで露米会社の設立に携わった〈レザノフ〉(注)は,北太平洋沿岸の毛皮交易ブームに乗り遅れまいとしたのです。
(注)後藤敦史「18~19世紀の北太平洋と日本の開国」,桃木至朗・秋田茂『グローバルヒストリーと帝国』大阪大学出版会,2013,p.193。

 皇帝は
自由主義的な改革を急ぎ,西ヨーロッパに追いつくために様々な改革が実行されていきます。中央の官制が改革され,陸軍・海軍・外務・内務・大蔵・文部・司法・商務の省庁と大臣が設けられました。農奴制の解放には到りませんでしたが,1803年の勅令では条件付きで領主貴族の所有する農奴を有償で解放させました。これに対しては保守派(いままでの制度を維持しようとするグループ)の反発も少なくなく,皇帝にまかされた〈スペランスキー〉は憲法を制定し,国会(ドゥーマ)を開設して三権分立を確立し,立憲君主制の国づくりを進めようとしますが,1812年には国政から追放されています。

 ロシアはアラスカ方面から北アメリカ大陸にも進出を続けており,北アメリカ北西部の海岸の先住民
トリンギット人との間で,1804年に大きな戦争がありました(シトカの戦い)。彼らは“贈り物合戦”(ポトラッチ)の風習やトーテムポールで知られ,クジラなどの漁労や採集を営んでいた民族です()
 また,
七年戦争(1756~63)では当初は中立を守っていましたが,イギリスが中立国の船まで攻撃(拿捕(だほ))する方針をとったため,デンマークとともに武装中立を提唱し,イギリスとの戦争に発展しました。
 その後アメリカ独立戦争でも,1778年にスウェーデンが中立国の船を保護するように訴えたのに乗っかり,1778年に
武装中立同盟を提唱しました【セH16ロシアはイギリスに宣戦布告していない,セH19イギリスは参加していない】。「戦争の当事者国じゃないのに,海を自由に通行してアメリカとの貿易ができないのはおかしい!」と国際的な圧力をかけ,イギリスを間接的に追い詰める役目を果たしました。
(注)ポトラッチとは,北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持ちます。相手よりも多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのです。詳しくは下記を参照。
「〔ポトラッチは〕北アメリカ北西部沿岸に居住するインディアン諸族にみられる儀礼の総称で,莫大な食物や財の贈与が行われ,時にはその破壊を伴うという特徴を持つ。…多くの贈り物をすることは,贈り主の社会的威信を高めることになったのである。…しかし,贈り物を貰いっぱなしでいることは,貰った側の社会的威信が下がることを意味する。そこで,贈り物を受け取った者は,今度は自分が儀礼の主催者となる機会に以前贈り物をくれた人物を招待し,貰ったものと同等あるいはそれ以上のお返しの贈り物をすることで自らの面子を保とうとした。ところが,最初の贈り主は,自分が贈った以上に相手から贈られると自らの面子がつぶれることになる。このようにして,お互い相手より多くの贈り物をしようと,交換のパートナーの間では,贈り物合戦が際限なく続いていき,次第に贈り物の額や量がエスカレートしていく結果となった。

贈り物としては,食料やこの地方で貴重な財であった毛皮や毛布が利用されたが,最終的には銅製のプレートが贈与の対象となった。このプレートはそれ自体実用的な価値はないが,固有の名前をもち,その由緒が知られているもので,プレートを受け取るためには多量の毛布が必要なためその価値はきわめて高かった。そして,こうした贈与の競争が極端な形になると,相手に贈与するのではなく,相手からのお返しはいらないとばかりに,わざと相手の目の前で,これらの貴重な財を燃やしたり海に投げ捨てるなどの破壊行為が行われた。」(尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】』弘文堂,1994年,pp.744-745)


 その後ロシアは,フランスの皇帝に即位した〈ナポレオン〉に対する
1805年にイギリスを中心とする第三次第仏大同盟によって,オーストリアやイギリスとともにフランスを包囲しようとしました。
 〈ナポレオン〉はイギリスに上陸することはできませんでしたが
(1805トラファルガーの海戦で敗れる【東京H29[3]】【セH29),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【セH22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【セH22】1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。
 ロシアはこのとき
フィンランドの支配権を〈ナポレオン〉に確認し,1808年にフィンランドに侵攻し,1809年にはスウェーデンからフィンランドを奪うことに成功しました。こうして生まれたのが,フィンランド大公国(1809~1917)です。フィンランドの名前がついているものの,君主はロシアの〈アレクサンドル1世〉という傀儡国家でした。

 〈ナポレオン〉との戦争を戦いながら,領土の拡大もすすめ,1812年には現在のルーマニアとの国境付近の
ベッサラビアをオスマン帝国から獲得。1814年にはイラン方面のカスピ海西部を獲得しています。1812年に開始された〈ナポレオン〉のモスクワ遠征を防ぎ,1813年からは諸国民戦争で〈ナポレオン〉に勝利し,退位に追い込みました。1814年にはじまるフランス戦後処理のためのウィーン会議には外務省の〈ネッセルローデ〉(1780~1862)が全権として出席しています。



1760年~1815年のヨーロッパ  東ヨーロッパ ③ラトビア,④リトアニア
 1772年,1793,1795年
【慶文H30】の3度にわたるロシア,オーストリア(第二回は不参加),プロイセン【共通一次 平1:オスマン帝国は参加していない】によるポーランド分割【共通一次 平1】により,ポーランド王国は滅亡しました。
 このとき,ポーランドと同君連合を組んでいた
リトアニア大公国の領土の大半もロシアにより占領されてしまいました。
 リトアニアの北方の
ラトビアも,ロシアの支配下に置かれます。





1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ
…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ 現①ポーランド
ポーランドは3度わたって,ロシア,プロイセン,オーストリア
【共通一次 平1:オスマン帝国ではない】により分割され消滅した
 
ポーランドでは,ロシアが,ロシア貴族の元愛人を〈スタニスワフ2世〉(位1764~95)として王に就任させ,1772年にプロイセンとオーストリアとともに第一回ポーランド分割を実行します【セH13ポーランド分割によりヤゲウォ朝が滅んだわけではない,セH29試行 以後ポーランド分割にエカチェリーナ2世が参加したかを問う】。分割されてからようやく事の重大性に気づいた国王は,1791年に王権を世襲制にして立憲君主国を成立をさせました。しかしロシアの〈エカチェリーナ2世〉【セH18ミハイル=ロマノフではない】はこれを武力鎮圧し,1793年に第二回ポーランド分割を実行。1794年に抵抗したポーランド人〈コシチュシュコ〉(コシューシコ)(1746~1817) 【セH12コッシュートとのひっかけ。時期(19世紀前半ではない)】【セH13グスタフ=アドルフではない,セH18,セH22「連帯」の指導者ではない】も敗れました。彼はアメリカ独立戦争にも義勇軍として参加し,〈ワシントン〉の副官として戦った人物です。ちなみに第二回には,フランス革命にハプスブルク家の〈マリ=アントワネット〉が巻き込まれたことから,オーストリアは参加していません。1795年【慶文H30】には,再びプロイセン,オーストリアとともに第三回ポーランド分割を実施し,ポーランドは滅亡しました。

 
オーストリアでは,プロイセンとの間に1756年から七年戦争が勃発し,1763年にフベルトゥスブルク条約で和平が結ばれました。オーストリアはシレジアを失う代わりに〈マリア=テレジア〉の帝位世襲は認められました。
 戦後1765年に〈
ヨーゼフ2世〉が〈マリア=テレジア〉との共同統治者となりましたが,実質的には〈マリア〉が実権を握り続けました。プロイセンの喪失を受けて宰相〈カウニッツ〉はオーストリアが遅れていることを痛感し,強権を発動して行政改革を断行するとともに農奴の待遇の改善など上からの改革(啓蒙絶対主義)を行いました。

 例えば,1770年代には
ボヘミア(ベーメン)で農民が蜂起すると,1781年には農奴廃止令が発布されました。1772年の第一次ポーランド分割では,ポーランド南部のガリツィアを領有しています。1781年には寛容令が発布され,ユダヤ教やプロテスタントの信仰も尊重され,彼らの力が政治・経済の世界で活用されるようになっていきました。一方,ローマ=カトリック教会・修道院の国家への従属が進み,教会・修道院の財産は国家財産とされていきました。
 しかしこれら〈ヨーゼフ2世〉時代のの改革(
ヨーゼフ改革)は“上から”のものに過ぎず,特権諸身分との対立も招きました。
 また,各地でドイツ語化政策をおこなったことが,
ハンガリー人貴族との対立も招きました。ボヘミアでは〈フス〉派は寛容令の対象とならず,反発も残りました。オーストリアはオーストリア継承戦争・七年戦争でシレジアを喪失しましたが,その代わりにボヘミアが新たな工業地帯として発展していくことになります。



1760年~1815年のヨーロッパ  中央ヨーロッパ ⑦ドイツ
 さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年には第三次第仏大同盟によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805トラファルガーの海戦で敗れる【東京H29[3]】【セ試行 時期】【セH29),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【セH22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【セH22】1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。

 〈ナポレオン〉統治下のプロイセンでは,シュタイン(首相任1807~08) 【セH9オーストリアではない,セH12「ドイツ国民に告ぐ」の講演をしていない】【セH23】農民解放【セH13時期(三十年戦争のときではない),セH23】【セH6】,都市の自治を推進しました。〈ナポレオン〉の圧力で〈シュタイン〉が辞任すると,今度は〈ハルデンベルク〉(外相任1804~06,宰相任1810~22) 【セH9オーストリアではない】【セH23が営業の自由,ユダヤ人解放,農民の封建的義務の廃止(ただし有償)といった近代化政策が実行に移されました。フランス支配を通して,否応(いやおう)なしに,新しい思想の影響を受け,また危機意識が生まれたのです。
 この改革により土地を獲得して農奴ではなくなった農民は,代償として領主に土地の3分の1~2分の1や村の共同地を取られ,細々とした農地で生活が成り立つわけもなく,領主のもとで働く労働者(農業労働者)となりました。こうして,かつて農奴を用いてグーツヘルシャフト(農場領主制)
(⇒1200年~1500年の東ヨーロッパ)を経営していたユンカー(領主層)は農業労働者による経営を始め,また新たに土地を購入してユンカーになる資本家も現れました(いわゆる“ユンカー経営”)。結局本質的には何も変わっていないという結果です。
 それでも,このようにフランスを見本に改革をすすめていけば,いつかドイツでも産業革命(工業化)が起きる。そうすれば,従来の身分制度が崩れ,今よりももっと自由な市民による社会が生まれるだろうという期待が持たれていました。しかし,誰でも自由に取引きができる市民社会がもしやって来たら,その分,新たな争いごとが増えるおそれもあります。そんな新しい時代に求められる道徳について構想したのが,東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクで活動した〈カント〉(17241804)です【セH12マルクス・ダーウィン・ベンサムではない】【セH13ソクラテス,孔子,釈迦ではない】。彼は,(大陸)合理論【セH12】の〈デカルト〉のように「法則は理性(アタマ)だけで導き出すことができる」とも,(イギリス)経験論【セH12】の〈ロック〉のように「人は経験を通じてのみ世界を認識することができる」ともせず,その両者の折衷(せっちゅう)案を考え,ドイツ観念論【セH12】と呼ばれる学派の祖となります。これまでの哲学者は,この世の中にある物が,人間の心の中の像にスクリーンのように映ることで,“物がある!”と認識できるのだと考えていましたが,〈カント〉はそれをひっくり返して(コペルニクス的転回といいます),人間のほうが認識の枠組みをフル活用して対象を捉えようとしているんじゃないか,と考えたのです。そして,人間はたしかに,感性(時間や空間を認識)や悟性(量・質・関係・様相(状態)を認識)を組み合わせて,この世で起きている現象について認識することはできる。つまり,人間が“認識できた!”と思っているものは,所詮人間の認識枠組みによって再構成されたものに過ぎないわけで,本当にその物自体を認識できているわけではないんだと考えたのです。人間の理性には,認識できる領域とできない領域がある。そのように吟味することを批判と呼び,彼は『純粋理性批判』(1781),『実践理性批判』(1788),『判断力批判』(1790)を発表しました【セH13「人間の認識能力に根本的な反省を加え,批判哲学を確立した」かを問う】
 〈カント〉はまた,激化する国家同士の戦争をみて,現在の国際連合の元になるアイディアを『
永遠平和のために』で打ち立てています。
 〈カント〉の影響を受けたドイツ人の〈フィヒテ〉(17621814) 【セH12〈シュタイン〉ではない】は,〈ナポレオン〉占領下のベルリンで,「ドイツ国民に告ぐ【セH12時期(19世紀前半か問う)】という連続講演を行い,自信をなくしている人々に「〈ナポレオン〉によってドイツ人は“統一”を失ってしまった。ドイツ統一のために立ち上がろう。自分たちはドイツ人なんだ!」という意識を盛り上げました。実際には,「ドイツ」という国が“統一”されていたことは一度もなかったわけなのですが。
 また,ドイツ人の哲学者〈シェリング〉(17751854)は,イェーナ大学に〈ヘーゲル〉(17701831) を講師として招いた人物です。のちに〈ヘーゲル〉は,自由に活躍できるようになった個人が,どうやったら理想の社会をつくりあげていくことができるのかということを,突き詰めて考えました。彼は,世の中は何かが生まれると,それに対立するものによって否定され,ぶつかりあうことでより高い段階に発展する。それを繰り返していくと,やがて社会は発展していく。この世界には,人類の社会を発展させる見えない力(絶対精神)が存在していて,人類は「自由」を最終ゴールとして進歩していくのだ,と考えました。彼は世界史とは『自由の意識が前進していく過程』と断言しています。
 人類の歴史は「絶対精神」に導かれ「自由」を目指して進歩していくそんな〈ヘーゲル〉の考えに影響を受けながらも,「ヘーゲルの考える「絶対精神」は,抽象的でよくわからない。人間の社会を動かす力を,もっと客観的に考えることはできないか」と考えたのが〈フォイエルバッハ〉(18041872)です。「人間主義的な唯物論」と説明されることが多いです
 彼の考え方を受け継いだのが〈マルクス〉(1818~83) 【セH2】で,人間の社会や政治・思想は経済的な関係(生産関係)が変化することによって進歩していくと考えました。そして,その最終段階では,共産主義にもとづく理想の社会が出現すると予想したのです。共産主義の社会とは,階級の存在しない社会のことです。『歌の本【セH15,セH18『若きウェルテルの悩み』『ファウスト』ではない】【立命館H30記】を著したロマン主義の詩人〈ハイネ〉(1797~1856) 【セH10ロマン主義かどうかを問う】【セH15時期と地域(19世紀前半のドイツ),セH18ゲーテではない】は,〈マルクス〉との交流も持っていました。彼は1830年代~50年代にかけて盛んになったドイツの若手の詩人中心の「青年ドイツ派」(若きドイツ)という運動にも参加。文学によって政治に参加し,絶対主義国家に対し抵抗し,自由を求めました。

 一方,〈マルクス〉
【セH19フーリエではない】は国を越えて社会主義運動を起こそうとして1864年にロンドン【東京H26[3]】【セH27国際労働者協会(第一インターナショナル) 【東京H26[3]】【セH3時期(19世紀後半か),セH8,セH12 時期(19世紀後半か問う)】【セH14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたわけではない,セH19H27を設立し,個人の革命家や様々な団体を集めました。しかし,アナーキスト(政府をこの世からなくすことで理想の社会をつくろうとした人々)の〈バクーニン〉(1814~76)らとの内部対立や,パリ=コミューン【東京H28[3]】を支援したことから各国で弾圧を受けて崩壊しました。国際的な社会主義運動は,ドイツの社会民主党の主導する1889年の第二インターナショナル【セH14第一次大戦「直前」に国際労働運動を指導していたかを問う,セH19ソ連の設立ではない】【追H9コミンテルンではない,国共合作を支援していない】に受け継がれました。

 文学の世界では,はじめはギリシア・ローマの文学を受け継いだ格調高い古典主義【セH13バルザックは古典主義ではない】がブームでしたが,〈シラー〉(17591805)や〈ゲーテ〉(17491832) 【セH10【セH19ハイネとのひっかけ】【法政法H28記】はおおよそ1767年~1785年までの間に疾風怒濤運動(シュトゥルム=ウント=ドランク)という運動で,「理性よりも感情のほうが大事だ!」と訴え,〈シラー〉は『群盗』『ヴァレンシュタイン』,〈ゲーテ〉【セH29シラーではない】は『若きウェルテルの悩み』【セH18】ファウスト【セH18,H29を著しました(この2人は文学史のカテゴリーでは古典主義【セH10自然主義ではない】に分類されることもあります)。
 また代表作に『青い花』がある〈ノヴァーリス〉(17721801)も,ロマン主義に分類される作品を多数残しています。



1760年~1815年のヨーロッパ  バルカン半島
バルカン半島
…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

 
バルカン半島の大部分はオスマン帝国の支配下にありますが,ヨーロッパ諸国の啓蒙思想や民族主義思想の影響を受け,自分たちの民族や宗教の意識が次第に高まっていきます。




1760年~1815年のイベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
◆七年戦争の敗戦後,スペインでは啓蒙主義的な改革がおこなわれた

 〈カルロス3世〉(位1735~59)の代に参戦した
七年戦争(1756~63)では,スペインは新大陸への進出を強めていたイギリスを“共通の敵”とするフランス側に立ち,イギリスに対抗しようとしました。
 しかし,戦争の結果フランス,スペイン,イギリスの間で締結された
パリ条約では,
 ①フランス→イギリス:北アメリカの
カナダと,北アメリカにあるミシシッピ川以東のルイジアナ【追H20スペインにわたったわけではない】
 ②
スペイン→イギリス:北アメリカのフロリダ
 ③フランス→
スペイン:北アメリカにあるミシシッピ川以西のルイジアナ【追H9スペインはルイジアナを失ったわけではない】
 ④フランス→イギリス:フランスに占領されていた
ミノルカ島(メノルカ島)
 ⑤フランス→イギリス:アフリカ大陸のセネガル
 ⑥フランス→イギリス:カリブ海のトバゴ
 ①~⑥のような領土の変更が取り決められました【追H9フランスは中米で覇権を確立していない,オランダは南アフリカに植民地を獲得していない】

 イギリスに対して新大陸の
フロリダ【明文H30記】を割譲することになったスペインの支配層の中には,「イギリスに対抗するためには,古臭い制度を廃して社会改革や政治的・経済的な近代化を進め,国内をまとめるべきだ」という意見が出てくるようになります。
 1766年にマドリードで起きた食糧暴動をきっかけに本格的な改革(
ブルボン改革(スペイン語の読みで「ボルボン改革」))が始まり,暴動の陰謀を企んだという罪を着せられたイエズス会が国外追放され財産を没収されました。イエズス会はローマ教皇庁の影響力を強く受けており,中央集権的な社会改革を進めようとした支配層にとって邪魔な存在となっていたのです。

 植民地にも,ブルボン(ボルボン)改革の波が及びます。従来は大西洋における貿易はセビーリャ港(1717年以降はカディス)が独占していましたが,イギリスなどによる密貿易や海賊行為を完全に押さえることができず苦慮していました。そこで1765年以降,スペインとアメリカ大陸との自由貿易が順次許可されていきました。これにより大西洋を取り巻く貿易額は格段に拡大していきます。
 また,アメリカの植民地は「海外諸県」という呼び名に変えられ,植民地の支配方式も変更されました。
ペルー副王領から,すでに1717年にヌエバ=グラナダ副王領が分割されており,1776年にはリオ===プラタ副王領が新しく設けられました。中央集権的な改革への反発と,啓蒙思想の広がりを背景として,クリオーリョ(植民地生まれのスペイン系の人々)やによる反乱も起きています。また,1781年には先住民が植民地を支配するスペイン人官僚やクリオーリョに対して大反乱(トゥパク=アマルの反乱)も起きています。
 さらに,1783年に北アメリカの13植民地がイギリスから独立したことは,スペインと新大陸の植民地に甚大な影響を与えました。

◆スペインはフランス革命と〈ナポレオン〉による占領を経て,自由主義的な動きが高まった
 そんな中,〈カルロス4世〉(位1788~1808)が父の座を継ぐと,翌年1789年に隣国フランスでは
フランス革命が勃発。啓蒙主義的なブルボン(ボルボン)改革を進めていたスペインでは,革命を防ぐために政策が一転して保守化していきます。〈カルロス4世〉が政治的な能力に欠けていたため,王妃やその寵愛を受けていた宰相〈ゴドイ〉が実質的に実権を握る時代となりました(1789~98,1800~1808)。〈ゴドイ〉は「上からの近代化」を急速に進め,さまざまな改革を実行しつつ,〈ルイ16世〉を保護しようとしましたが,1793年に〈ルイ16世〉が処刑されるとフランスの国民公会とスペイン王国は戦争を開始。このとき,カタルーニャ地方の民衆のうち自由主義的な人々はフランス側について,スペインに挑みました。
 しかし,のちに〈ナポレオン〉の時代には,1805年にイギリスとスペインの連合艦隊が
トラファルガーの海戦【東京H29[3]】で敗れると,スペインは劣勢に立たされます。〈ナポレオン〉はイギリスの同盟国であったポルトガルを押さえるためにスペインの〈ゴドイ〉に対して軍隊の通過権を要請し,これを受けたがためにスペインは〈ナポレオン〉による軍事的な進出を受けることになりました。反〈ゴドイ〉派は〈フェルナンド7世〉(位1808,1814~33)を新国王に立てたものの,〈ナポレオン〉により廃位され,代わって6月に彼のジョゼフ〉を〈ホセ1世〉(位1808~13)として即位させ,ボナパルト朝を樹立しました。これに先立つこと1ヶ月前の5月3日には,蜂起を起こしたマドリード住民の銃殺刑がとりおこなわれ,〈カルロス4世〉の宮廷画家であった〈ゴヤ〉(1746~1828)【セH4】が「5月2日の蜂起」,「5月3日の処刑」【セH4図版 ナポレオン軍の侵入に対する蜂起か問う。諸国民戦争・スペイン継承戦争・三十年戦争に関する絵画ではない】(スペインのプラド美術館所蔵)と題した絵画を発表しています。

 ボナパルト朝の樹立直後からスペイン各地で様々な独立運動が起きていました。1810年にはカディスで議会が開かれ,国民主権の原則が確認されました。この議会にはアメリカ大陸の代表も参加しており,こうした自由主義的な動きはアメリカ大陸のスペイン植民地の独立運動にも影響を与えることになります。なお,カディス議会では,自由主義的な
1812年憲法(カディス憲法)が制定されました。

 このスペイン独立戦争に対して〈
ナポレオン〉は大規模な陸軍を動員しますが,1811年以降は小さな部隊が敵の戦力を撹乱させる「ゲリラ戦」(ゲリラは,「ゲラ」(スペイン語で“戦争”)に縮小語尾がついたもの)により悩まされるようになり,ロシア遠征のためにスペインの兵力が削減されるとイギリスの支援するスペイン軍が反撃する形となり,1813年には〈ホセ〉が退位。1814年には国境付近のカタルーニャから撤退しました。
 しかし,元国王の〈フェルナンド7世〉は自由主義者を弾圧して復位し,1810年に招集されたカディス議会で制定されていた自由主義的なカディス憲法(
1812年憲法)を無効とし,復位しました。「フランス革命の影響をなくし,革命前の体制(アンシャン=レジーム)」に戻すための政策が実行され,それに対する自由主義者たちの反発は日増しに高まっていきました。





1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
西ヨーロッパ
…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク

1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現①イタリア
 イタリアは,複数の国家が割拠する状態でした。
 このうち,北西部では
サルデーニャ王国が台頭します。
 
 しかし,フランス革命後の1796年に〈
ナポレオン〉がイタリアに進出。

 当時,オーストリアに服属していたミラノのほか,教皇領の北部の諸小国は〈ナポレオン〉を,オーストリアの支配からの“解放者”として支持。
 これに対してオーストリアは,ヴェネツィア共和国の協力によりイタリアに進出。ヴェネツィアは,1797年のカンポ=フォルミオの和約で,オーストリア領として譲渡されています(のち,1805年にフランスの支配する「イタリア王国」に譲渡)。

 〈ナポレオン〉は1797年に北イタリア地域を,
チザルピーナ共和国として一括支配。
 翌年にはローマも占領しました。
 1802年にはチザルピーナ共和国をイタリア共和国(首都はミラノ,大統領はナポレオン)に再編し,1805年にはイタリア王国(首都はミラノ,国王はナポレオン)とします。

 南部の
ブルボン朝ナポリ王国は,1806年に〈ナポレオン〉に占領され,初めナポレオンの兄〈ジョゼフ〉がナポリ王(位1806~1808)に,のち〈ジョゼフ〉がスペイン王となると義弟〈ミュラ〉(位1808~1815)が継いでいます。


1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現②サンマリノ
 1631年に教皇により独立が認められていたサンマリノは,このときから共和国でした。
 〈ナポレオン〉時代にも,〈アントニオ=オノフリ〉(1759~1825)の外交努力により,独立を維持しています。



1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現③ヴァチカン市国
 教皇〈クレメンス13世〉(任1758~1769)は,当時のヨーロッパの諸王国でイエズス会を排斥する動きが高まっていことに対し,1765年の回勅でイエズス会を擁護しています。
 次の教皇〈クレメンス14世〉(任1769~1774)は,諸王国における反イエズス会の動きにあらがうことはできず,1773年に
イエズス会を解散させました。
 教皇〈ピウス6世〉(任1775~1799)のときには
フランス革命が勃発。フランス軍によりローマが占領される中,1799年に死去。

 教皇〈ピウス7世〉(任1800~1823)は,1801年にフランスの〈ナポレオン〉との間に
コンコルダートを成立させ,1804年には戴冠式にも出席。〈ナポレオン〉が自らの権威を利用する姿にショックを覚えます。
 のち〈ナポレオン〉は教皇領を奪ったため,教皇は彼を破門。教皇は〈ナポレオン〉により1814年まで幽閉されました。



1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ  現④マルタ
 地中海の中央部の要衝に浮かぶマルタ島は,1798年に〈ナポレオン〉がエジプト遠征の際に占領。マルタ騎士団はロシア皇帝〈パーヴェル1世〉(位1796~1801)に保護を求めました(彼は騎士団の総長となっています)。
 〈ナポレオン〉の権力が衰えると,1814年のパリ条約でマルタはイギリスに併合されました。イギリスにとってマルタ島は,インドへの道(インド=ルート)の上に位置する商業的・軍事的な重要地点だったのです。


1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑤モナコ
 グリマルディ家のモナコ公はフランス王国の臣下の地位にありましたが,独立は保っていました。
 しかし,フランス革命中にはフランス共和国により占領を受けます。


1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑥アンドラ
 アンドラのウルヘル司教は,フランス国王とともに共同大公の地位にありました。
 しかし,1793年の〈ルイ16世〉の処刑により,フランス国王=アンドラ大公が不在に。アンドラとフランス共和国との関係は断絶されましたが,のち〈ナポレオン〉が関係を修復。共同大公の制度が復活します。


1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑦フランス
 引き続き啓蒙思想が,フランスの伝統的な政治や社会に対する批判を強めていました。拠点となったところには,貴族や市民の社交の場であるサロン【セH12】や,カフェ(コーヒーハウス)【セH12】があります(パリのカフェ=プロコーブが有名)。啓蒙思想家〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【セH12『経済表』を著していない】は,仲間と議論を交わしながら,新大陸産のココア入りコーヒーを1日40杯飲んだと言われています。

 〈ジャン=ジャック・
ルソー〉(1712~1778) 【セH8啓蒙思想が,フランス革命に影響を与えたかを問う】【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う】は,啓蒙思想家に分類されますが,どちらかというとパリのカフェやサロンとは距離を置き,音楽や恋愛小説執筆に没頭した自由人でした。
 彼の著作である『
社会契約論』(1762)【セH2ロックの著書ではない】【追H9『リヴァイアサン』ではない】は,当時から注目されていた論文ではありませんが,後世に与えた影響は計り知れません。
 これは,“王のいない政治”がどうやったら実現可能かプランを示したものです。彼は,「そもそも社会は,人々が「どういう社会をつくっていきたいのか」という思いにもとづいて社会契約を結んだ上で,作られるべきだ」と考えます(社会契約説
【追H20スコラ哲学(スコラ学)の主張ではない】)。ただ,「社会を作るからといって,メンバーの自由や個々の利益は奪いたくない。でも,国としてのまとまりは必要だ。だから,メンバーは “みんなの共通の利益” を代表する“一般意志”のもとでまとまるべきだ」と主張したのです。彼は,この「一般意志」がどういったものか,丁寧に説明を試みます。
 また,彼は,人為的な要素を排した自由教育にも興味を持ち,新たな時代に対応した教育論『
エミール』も著しました。のちに,ドイツ人哲学者〈カント〉(1724~1804)が,日課も忘れて読みふけることになる書物です。〈ルソー〉はほかに『人間不平等起源論』【セH2「人間の不平等は私有財産を是認する社会体制から生じたとした」ことを問う】【追H21】も著しています。
 〈ルソー〉は1778年に亡くなりましたが,彼の思想は行き続けます。
 「
フランス革命【東京H12[1]指定語句】の勃発は,もはや時間の問題でした。

 
ギリスの産業革命(工業化)が急ピッチで進むなか,一刻も早く自国の技術革新を達成して生産性を高め,より多くの商品をより安く生産する仕組みをつくらなければ,経済的にも政治的にも支配されてしまうかもしれない他国は警戒感を強めていました。
 しかし,古い体制(フランスではアンシャン=レジーム(旧体制)といいます)においては,国民は身分や職業ごとに分かれ,バラバラの状態でした。国王がトップにいて,その次に聖職者(第一身分),次に貴族(第二身分)がおり,平民(第三身分)が続きます。みなそれぞれの身分・家系・職業・教会のことを考えていて,これではまとまるはずがありません。
 しかし,時代は産業化の時代です。第三身分の資本家(市民,フランス語でブルジョワジー)を中心に,自由な競争によって技術革新を起こして産業革命(工業化)を実現させなければ,フランスの市場はやがてイギリスの製品に飲み込まれてしまう危険性がありました。
 また海外でもフランスは劣勢に追い込まれていました。1757年にインドで
プラッシーの戦い【セH10 時期:1850~60年代ではない】に敗北すると,ポンディシェリシャンデルナゴルも軍事的な拠点ではなくなります。〈ルイ14世〉のときに再建されていたフランス東インド会社も壊滅的な被害を受けました(会社は,自由貿易を求める声から1769年に活動を停止しましたが,王室の財政悪化から財務総監の〈カロンヌ〉が1785年に再建しています(その後1795年に廃止))。

 自由な考えを持つ資本家たちは厳しい競争を勝ち抜いた努力の成果
(=財産)を社会的に認められることなく,フランス社会は依然として国王・聖職者・貴族を中心とした体制が続いていました。もちろん,聖職者や貴族の中にも,同様の危機感を抱いていた人々もいます。

 「これからの時代は,家柄や身分によって人生が決まる時代ではない。それではイギリスとの競争に負けてしまう。これからの時代は,人々が自由に競争をしてその能力を活かし,結果として手にした財産の多さによって,権利が与えられるようにするべきだ」と,自由主義者はこのように主張します。
 ここでいう「
自由」というのは,「空を自由に飛びまわりたい」という言葉のように,のんびりとしたイメージではありません。「自由にやってもいいが結果は自分で責任をとりなさい」ということです。弱い立場にある貧しい人々(都市の下層民や農村の農奴)にとっては,自由主義は厳しい考え方なのです。
 一方,富裕ではない人々が求めた理想は,「自由」ではなく,「
平等」でした。従来,都市で商工業を営んでいた手工業者にとっても,互いに生産量や価格・営業時間の協定を結びながら助け合う「ギルド【セH21自由競争を保障する組織ではない】という組織にとっても,自由に競争することは価格競争により倒れる親方が出るおそれもあり,受け入れがたい考え方でした。
 産業化の競争の時代にあっては,フランスは一つの国として団結しイギリスに対抗する必要がありました。その中で,フランス人の団結心を強めることが主張され,同胞(兄弟,仲間)に対する愛(友愛)が大切だという価値観が生まれていきます。

 「自由」を主張すれば,「平等」がかないません。「平等」を主張すれば,その「友愛」の精神がフランス人だけなのか,フランス人以外の者も含むのかという問題とぶつかります。「友愛」を主張すれば,「自由」な競争の生む格差に対処できません。当時のフランスは,相互に矛盾し合うこの3つのキーワードをさまざまな人々がいろんな形で主張していく激動の時代にありました。

 ただし,フランスはイギリスに全く遅れをとっていたわけではありません。例えば,学問の分野では,注目すべき業績を起こした人々が多くいます。
 例えば,〈ラプラース〉(17491827)が星雲が凝縮することで太陽系ができたのだという説(星雲説)を提唱し,確率論の研究も行い,フランスのニュートンとも言われました。 化学の分野では〈ラヴォアジェ〉(ラヴォワジエ,174394) 【セH2ボイルとのひっかけ】【追H9,追H20】が質量不変の法則【セH2ボイルの法則ではない】【追H9血液循環原理の発見ではない】【セH16種痘法ではない】【追H20万有引力の法則ではない】を提唱しましたが,徴税請負人という立場が批判されフランス革命の中,ギロチンで処刑されてしまうことになります。


 王室の状況に目を移しましょう。
 七年戦争では,イギリスがオランダとプロイセンと組み,フランスはオーストリア・ロシアと組みました。後者のチームが敗北。フランスは植民地の多くを喪失し,財政再建が必要となりました。〈ルイ16(177492)は,先進的な重農主義(自由放任主義【追H21自由放任主義を批判してはいない】)の経済学者〈テュルゴー(172781) 【追H21】,次に〈ネッケル〉(1732~1804)を財務総監(ネッケルは外国人のため財務長官)として,ギルドの廃止(のちフランス革命の間に廃止されることになります【セH28】)や,国内関税(フランス国内の商品の移動にかかる関税)の廃止(こちらもフランス革命により廃止)について考えさせました。
 要するに,既得権益をぶっ壊して,自由な経済の仕組みをつくらなければ,イギリスに負けてしまうという危機感があったのです。このように〈ルイ16世〉は,学者の意見をとりいれつつ経済の立て直しを図っていたわけなので,〈エカチェリーナ2世〉のように
啓蒙専制君主の一人に数えてもよいのではないかという意見もあるんですよ(“アホなルイ16世がフランス革命で倒された”というのは,ちょっと単純すぎる説明です)
 アメリカ独立戦争の支援でさらに歳出を増やしたフランスですが,〈ネッケル〉らの改革もなかなか進まなかったため,国王は臨時で組織した〈カロンヌ〉らの名士会に意見を求め,「第一身分と第二身分も含む全身分から上地上納金をとるべきだ」という意見がまとまりました。
 「それはおかしい」と,第一身分・第二身分
【共通一次 平1:免税特権を持っていたか問う】が反応します。彼らの拠点である高等法院は,〈カロンヌ〉をやめさせて名士会も解散。代わりに〈ルイ13世〉以降ずーっとひらかれていなかった【共通一次 平1】三部会【セH12「封建的特権の廃止を決定した」か問う】【セH16ルイ16世による召集】を開催したほうがよいのではないかということになりました。国王ははじめ第一身分・第二身分の意見に反対しますが,三部会を開く方向で妥協する方向をとり,〈ネッケル〉を財務総監にもう一度就任させ,改革を続行させようとしました。
 
1789年5月に招集されましたが,新税をとりたてられたくない両身分に対し,市民の属する第三身分は採決方法について異議を申し立て,三部会とは別に「国民議会【共通一次 平1:バスティーユ牢獄事件の結果,成立したわけではない】を創設しました。このときの第三身分は,都市の銀行家・産業資本家・地主を中心とする大ブルジョワジーや,医師・教員・弁護士・記者といった専門職を営む小ブルジョワジーが中心でした。資本家の中には,1786年にイギリスと結ばれた自由貿易を認める条約(英仏通商条約【セH2】)で,イギリスから安価な繊維製品が流入し打撃を受けた者もおり,経済的に苦しい状況なのに「第一身分と第二身分は何もしてくれない」と考える第三身分も少なくありませんでした【セH2イギリスからアンカな繊維製品がフランスに流入し,フランス工業が打撃を受けたことを問う】

 彼らは
球戯場(テニスコート)の誓い【セH27ネーデルラントではない】憲法の制定まで国民議会を解散しないことを誓いました。この頃,〈シェイエス〉という聖職者のパンフレット『第三身分とは何か』【追H21】は第三身分を支持する内容であり,広く読まれました。
 国王による憲法なき絶対王政を終わらせ,古くさい中世の身分制社会を廃止し,その能力に応じて自由に社会的に上昇可能な社会をつくることを目指したのです。国民議会は,7月9日以降は「
憲法制定国民議会」【慶文H30記】と呼ばれます。

 そんな中,7月11日,国王は反対派に押されて,改革をめざしていた財務長官の〈ネッケル(17321804)を罷免しました。第三身分出身の〈ネッケル〉が首にされたことに絶望したパリの民衆は,7月14日にバスティーユ監獄【セA H30ヴェルダンにはない】を襲撃しました【共通一次 平1:国民議会の成立より前ではない】【セH29試行 図版と時期】100年後の1889年には第二インターナショナルが結成され,200年後の1989年には東欧革命天安門事件【セA H30】が起こるなど,後世にもフランス革命【セH6産業革命も同時に進行しているわけではない】がはじまった“特別な年”として記憶されることになります。

 「パリの市民が国王に抵抗した」という知らせは,封建的なしくみの残るフランス全土に広がり,人々の心の中には「悪いのは国王,第一身分,第三身分だ」という構図が生まれます。そして,1785年の旱ばつや1788年の天候不順などの不作と食料価格の高騰に苦しんでいた農村で,農民たちが一種の群集心理(パニック状態)に陥り領主の館を襲う「大恐怖」という反乱があちこちで起こりました。急速に悪化する治安に対して,国民議会は有償ではありますが「封建的特権の廃止【セH9無償で廃止されたわけではない】を宣言し(8月4日) 【セH12三部会が「封建的特権の廃止を決定した」か問う】,領主の人格的な支配を否定しました。ただ,領主が地代をとる権利は,まだ容認されていました。

 さらに8月26日には,アメリカ独立戦争にも参加した自由主義貴族の〈=ファイエット【共通一次 平1:アメリカ独立戦争に参加したか問う】【セH26リンカンではない】【追H30ナポレオンではない】の起草した「(フランス)人権宣言」(人と市民の権利宣言,英語ではThe Declaration of the Rights of the Man and of the Citizen【東京H30[1]指定語句】【セH14】【慶文H29】が国民議会【セH14】で採択され,封建的な身分制度を真っ向から否定しました【セH14】
 しかし,前年の不作から食料高騰に苦しむ
女性を中心とするパリの市民は,1789年10月5日に武装してヴェルサイユ宮殿まで行進しスイス人傭兵を殺害して宮殿を襲撃,国王らをパリに連行しました(ヴェルサイユ行進)。〈ルイ16世〉がパリに戻れば食料も一緒に戻ってくると信じられたので,国王は“パン屋の主人”とあだ名されました。

 第一身分の聖職者に対しては,
1789年11月に聖職者の〈タレーラン〉(1754~1838,のちにウィーン体制時代に外相として活躍する人物です)の主張により教会財産の国有化が決議され(実施は90),1790年7月には聖職者民事基本法(聖職に関する民事基本法;僧侶民事基本法)によって聖職者を公務員化し,カトリック教会はフランスの管理下に置きました。僧侶は「精神的な軍人」なのだから,国家に仕える身であるべきだという理屈です。しかしのちにローマ教皇やフランスの聖職者の多くがこれにNOを突きつけ,基本法に従う宣誓派と抵抗する忌避派が対立しました。

 没収された教会財産を担保として債権の「アシニア」が発行されました(のちに紙幣として流通し,乱発により価値が著しく下落することになります)。
 聖職者は財産も
十分の一税をとる権利も失ってしまったため,公務員になりさがったわけです。これに反対する教皇(当時は〈ピウス6世〉(位1775~99))派の聖職者は,ドイツのトリーア選帝侯を拠点とした貴族とともに反革命勢力を形成していきました。
 また,国民議会は
ギルドを廃止【セH2コルベールのときではない】【セH22】し自由な経済を実現させようとしました。
 さらに,国王の権力をコントロールすることを目指して,
1791年に三権分立を定めた立憲君主政をフランスの政治制度とし,制限選挙制【セH14】による議会が制度化されました (1791年憲法) 【セH14】。「人権宣言」はその前文となっています。「人権宣言」の「人権」の中に「女性」の権利が含まれていないということを批判し「女の人権宣言【東京H30[1]指定語句(女性史)】」を執筆した女性に,〈グージュ(174893)がいます。
 フランス革命の担い手は,上の階級から下の階級へのだんだん下がっていきます。
 上の階級は「自由」を主張しましたが,下の階級は「平等」を主張します。
 中世の身分制度を崩して「平等」を主張するには,かなり過激な社会の改変が必要となりますから,一筋縄にはいきません。上の階層は,すでに手にした土地や資本を手放さまいと必死になりますから。

 1791年憲法をもとに,同年10月1日に立法議会と呼ばれる議会が招集されました。この憲法は,そもそも制限選挙が規定されていたので,一定の財産をもつ者でなければ,議員になることができませんでした。
 第一身分・第二身分を中心とした「上」の身分の人々を中心とした,フイヤン派(フイヤン=クラブ,1791年パリのフイヤン修道院に本部を置いていたグループで,ジャコバン=クラブの中の右派である〈ラ=ファイエット〉(1757~1834)や〈シエイエス〉(1748~1836)の1789年クラブと,貴族特権の廃止と議会制の立憲主主義を主張した〈バルナーブ〉らの三頭派が合わさって成立しました)は「もう憲法をつくって,自由な社会を話し合いでつくる準備が整ったのだから,革命はこれでおしまいにして,国王を中心としたフランスを維持しようじゃないか」と主張しました。彼らは立法議会の中の右翼(議会正面から見て右側を陣取っていたことから,このように呼ばれます)を占めます。
 しかし,フイヤン派よりも「下」の身分に属し,資本家も含むジロンド派は,「革命はまだおしまいじゃない。今の選挙制度では財産資格が厳しく,民主的ではない。もっと民主化を図るべきだ!」と主張し,次第に保守的なフイヤン派を圧倒していくようになりました。
 さらにジロンド派は「せっかく王を縛る憲法を制定したのに,外国がそれをじゃましようとしている。国王の妻の実家のあるオーストリアを早めににつぶしておくべきだ」と,オーストリアとの開戦を主張し,1792年4月にジロンド派が多数を占める立法議会【セH19国民議会ではない】オーストリアに宣戦布告をしました。
 フランス国内のジロンド派に対抗する王党派などの勢力も「ジロンド派主導の戦争はどうせ負ける。負けてくれれば革命は終わる」と考え,戦争に賛同しました。

 しかし,この戦争では,かつてオーストリア継承戦争と七年戦争では犬猿の仲であったプロイセン王国が,オーストリア大公国とタッグを組んだため(どちらも君主国なので,フランスの革命に対抗したのです),フランスは苦戦します。
 プロイセンとオーストリアとの戦争がうまくいかない理由,をジロンド派は次のように考えました。

 「国王の軍隊の中に,裏切り者がいるに違いない。作戦計画を漏らしているのだ。フイヤン派は,国外の革命を阻止するために,国外のオーストリアによって革命を代わりにつぶしてもらおうとしているのではないか

 こうして訪れた17928月10。パリの民衆により構成された国民衛兵やフランス各地の義勇軍がテュイルリー宮殿を襲撃し,衛兵を務めていたスイス人傭兵や貴族が多数殺害され,立憲君主派フイヤン派は壊滅しました。国王の一家は拘束されてタンプル宮に閉じ込められました。立法議会により王権の停止が宣言されます。
 折しも同年9月20日,フランス軍はプロイセン・神聖ローマ帝国との戦闘に勝ちました。外国との革命戦争始まって以来の勝利でした。このときプロイセン川に従軍していた〈
ゲーテ〉(1749~1832)は「ここから,そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」という言葉を残しています。傭兵を雇って戦う国王や皇帝の時代はもう終わった。これからの時代は,国民が団結した強力な国家(国民国家(ネイション=ステート;nation state【セH16リード文の下線部】)の時代になるのだと直感したのでしょう。その翌日9月21日,初勝利の歓声があがる中,新憲法制定のために男子普通選挙制【セH4七月革命後の実施ではない,セH12 パリ=コミューンが初の普通選挙の実施例ではない】で選出された議員により国民公会が召集され,王権の停止が決定されました【セH25国民議会ではない】。この政体をフランス政治史では1度目の国王不在の時期ということで第一共和政とよびます。
 国民公会は翌年1793年1月には〈ルイ16の処刑を決議し,セーヌ川沿いのコンコルド広場で執行されました【セH19総裁政府の時ではない】

 国民公会は,国内では「上」の階層の属するライバル政党をおさえ,同時に国外では革命を阻止しようとするオーストリア,プロイセン,スペインやイギリス(全部,君主の国)と戦争する必要にせまられていました。とくに〈ルイ16世〉の処刑は,周辺の君主国に衝撃をあたえ,イギリスの若手の首相ピット(17591806) 【セH3ウォルポールとのひっかけ】【セH18アメリカ合衆国ではない】1793年,第一次対仏大同盟【セH3ウォルポールではない】【セH18,セH26第一次世界大戦後ではない】をヨーロッパ諸国と組みました。

 ただ,ここでまた,「どこまで革命をすすめるか」という問題が浮かび上がります。ジロンド派は,フイヤン派よりも「下」の階級ではありましたが,資本家も多く属しており,さらに「下」の都市の民衆は山岳派(ジャコバン派)という,さらに急進的な革命を主張するグループを形成しました。
 ジャコバン派は急速に台頭し,やがてジロンド派を追放します【セH10打倒したのは〈バブーフ〉ではない】。中心となったのは〈ロベスピエール(175894)です。彼は,幼くして両親を失い,コレージュ卒業後,ルイ大王学院の奨学生となった苦労人です。ラテン語の優秀生として,ルイ16世の前で献辞を読んだこともありました。卒業後は故郷で弁護士を開業し,のち政治の世界に足を踏み入れました。民衆思いの彼は,しだいに過激化し,「危機に対処するためには,国家に強力な権力を与えることが必要」と考えるようになりました。そこで,公安委員会を中心に,領主制度が無償廃止されたり(封建的諸特権の無償【セH2時期(ジャコバン派支配のとき)】廃止【セH2これにより農民が保守化し「ナポレオンを支持する勢力の一つになった」か問う】),最高価格が定められたりしました(最高価格令)。
 また,1793年には国王の所蔵品に亡命した貴族やローマ=カトリックの没収財産を加えたコレクションを,
ルーブル美術館として公開しました。美術館は国民主権のシンボルだったのです。

 しかし,国内の急激な改革は,「上」の階級の人々を不安にさせ,
裏切り者を探すために,反対勢力と目された人々は容赦なくギロチン(断頭台)に送られました(恐怖政治(テロル)) 【追H21恐怖政治の終わった後,ジャコバン派が独裁体制を樹立したわけではない】。伝統を根絶し,合理的な社会の建設を目指した彼らは,週を7日とするキリスト教のグレゴリオ暦をやめて週を十進法に合わせて10日とする革命暦を導入したり【セH14総裁政府の下で制定されたわけではない,セH19国民公会の時かを問う】,キリスト教に代わり理性を崇拝する人工的な宗教を創設してノートルダム大聖堂で祭典を開きました(理性の祭典,1793年11月の祭典がピーク)()。また,革命戦争の遂行のために30万人募兵令を発布し,徴兵制による国民皆兵を目指しました。
()〈ルソー〉の構想した「市民宗教」の思想の影響を受けています。なお,大聖堂の内部には〈フランクリン〉,〈ヴォルテール〉,〈ルソー〉,〈モンテスキュー〉の像が立てられていました。

 平等な社会をつくろうとしたのに,人々の自由を奪ってしまう矛盾を招いたロベスピエールは,1794年にテルミドール9日のクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)で銃弾を浴び,失脚しました。
 〈ロベスピエール〉のいなくなった国民公会は,ジャコバン派よりも「上」の階級に主導権が戻ります。1795年憲法【セH14】が国民公会で制定され,独裁者が出ないように5人の「総裁」を置いた政府,「総裁政府」が成立しました。資本家の財産を守るために所有権が尊重され,「下」の階層が政治に参加してまた社会が混乱しないように制限選挙【セH14】がとられました。

 フランス革命の流れを単純に図式化すると,以下のようになります。
 第一段階は,国王派vsフイヤン派
 聖職者・貴族が,自分たちの免税特権を守るために,国王の課税に対して反抗します。
 ↓
 第二段階は,フイヤン派vsジロンド派
 都市の市民(ブルジョワジー)が,聖職者・貴族の身分による社会のしくみに対して,自由を叫んで反抗します。
 ↓

 第三段階では,ジロンド派vsジャコバン派
 ブルジョワジーの自由主義に対して,より下層の民衆が平等を求めて抵抗します。

 総裁政府の成立後も,混乱はまだ続きます。革命はまだおしまいではないと考える山岳派の残党や,革命を完全にリセットさせようとする王党派が,各地で衝突しています。王党派は,国民公会の末期にカトリック教会への弾圧や徴兵制に反対したヴァンデ地方の農民反乱(ヴァンデ反乱,1793~96)を支援し,総裁政府と激しく対立しました。
 また,平等な社会を求める
バブーフ【東京H21[3]】【セH2反乱は成功していない,H10内容「総裁政府の下での革命の後退を阻止するための企てであった」か問う(ナポレオンの独裁を打倒しようとしたわけではない)も反乱を計画しますが,未然に発覚して処刑されています。

 しかも同時に,依然として周辺諸国との戦争も続いている危機的状況です。

そこにさっそうと現れるのが,コルシカ島【セH16地図 シチリア島ではない(ナポレオン1世の出生地かを問う),セH20地図(のちの流刑先ではない)】生まれの青年将校〈ナポレオン=ボナパルト(17691821) 【東京H27[3]】【追H30】 です。まず国内では1793年末にトゥーロンで王党派の反乱を鎮圧し,リヨンでも反乱を押さえます。次にイタリアに遠征し,フランス包囲を狙っていたオーストリアを撃破して講和条約を結び,第一回第仏大同盟を終結させました(イタリア戦役,1796~97)。
 さらに,イギリスの産業化をじゃまするため,イギリスがインドに向かうルート
(インド=ルート)を遮断しようとして,オスマン帝国【セH16サファヴィー朝ではない】領であったエジプト遠征【セ試行 ナポレオン3世は実施していない】【セH18時期】。これがきっかけで第二回対仏大同盟(179899)がイギリス主導で結成され,アブキール湾の海戦で破れました。このとき,〈ナポレオン〉【東京H13[1]指定語句 エジプト史の論述】軍はアレクサンドリア近郊のロゼッタ(現ラシード)で,黒い玄武岩を発見。このロゼッタ=ストーン(石) 【東京H10[3]】【セH4楔形文字解読の契機ではない,セH9図版】【セH13ナポレオン3世の遠征時ではない,セH15】に刻まれた謎の文字(神聖文字【共通一次 平1】)を解読したのが,フランス【共通一次 平1】の天才的な言語学者〈シャンポリオン(17901832) 【共通一次 平1】【中央文H27記】【※意外と頻度低い】です。
 彼は,謎の2種類の文字(神聖文字
【セH9ペルシア文字ではない】と神官文字【セH9アラム文字ではない】)の下に,ギリシア文字【セH9フェニキア文字ではない】【セH15】が刻まれていたことをヒントに,「ギリシア文字もアルファベットが,2種類の記号と対応しているに違いない」と考えました。
 そして,その内容が,ヘレニズム時代のプトレマイオス朝
【セH9セレウコス朝やアンティゴノス朝ではない】【追H30マヤ文明ではない】エジプトの〈プトレマイオス5世〉が13歳で王位継承することを認めたものであると突き止めたのでした。
 従来から古代エジプトに関する史料は,前3世紀頃のエジプトの神官〈マネトン〉(生没年不詳)の王の名前の記録が知られていました。しかし,「キリスト教の歴史がエジプトよりも古いのだ」と主張するキリスト教の教父らにより,正確な理解に至ることはありませんでした。
 しかし,神聖文字の解読により従来の常識が崩されたことは,キリスト教徒の歴史観(世界の誕生から最後の審判までを
6千年とする,「普遍史(ふへんし)」(〈エウセビオス〉(263?~339)が有名)といいます)をも覆す結果をもたらすこととなります。そりゃ,エジプトの歴史のほうが,実際には長いですからね。
 〈ナポレオン〉の遠征も呼び水となり,ヨーロッパでは“古代のロマン”をかき立てるエジプト趣味が広まりました。しかし,その多くがロマン主義的なイメージに飾られたもので,事実に照らした理解とはほど遠いものであったのが実態です。


 さて,イギリスに敗戦した〈ナポレオン〉ですが,179911月9日(革命暦8年ブリュメール(霜月)18),パリに舞い戻ってクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)を起こし,財政が悪化し人気が低迷していた総裁政府【セH19立法議会ではない】と議会(五百人会と元老院)を打倒しました。こうして,自分を含む3人の「統領」が政治をおこなう「統領政府【セH14これ以降の政体の変遷を問う】を発足させました(1799年に新憲法を発足させました)
 このクーデタを
ブリュメール18日のクーデタ【セA H30イタリアではない】といいます【※以外と頻度低い】

 〈ナポレオン〉の支配の特色は,軍事力によって国民の「安全」を確保した上で
(1801年のオーストリアとの講和,1802年のブリテン島・アイルランドとの講話(アミアンの和約【※意外と頻度低い】),フランスのあらゆる階層をひきつける八方美人のような政策にありました。
 例えば,1800年の
フランス銀行【追H30 ルイ14世の施策ではない】の設立は,資本家の支持を受けます。
 また,1801年にローマ教皇〈ピウス7世〉(180023)政教条約(コンコルダート)を結んだことは,国内の聖職者にとっても朗報でした。1790年に聖職者民事基本法によって聖職者は公務員となり,ローマ教会はフランスの管理下に置かれたほか,フランス革命中にはグレゴリオ暦を革命暦に改めるなどの,非カトリック的な政策がめじろおしで,フランスとローマ教皇は断絶状態だったのです。こうして,敬虔な信徒である農民たちも,〈ナポレオン〉の支持者となっていきました。
 周辺諸国との戦争状態にピリオドを打ち,世の中を安定させたことも,自由に移動して商品を取引する産業資本家が彼を支持する要因になりました。
 〈ナポレオン〉の急成長ぶりをみたイギリスの首相〈ピット〉は,「1798年にアイルランドで独立をめざす反乱が起きた。カトリック教徒の多いアイルランドは,同じカトリックのフランスと組んでいるに違いない。アイルランドとフランスとの関係を断つ必要がある!」と,1801年にアイルランドを併合。こうして,すでにスコットランドとイングランドが同君連合を組むことで成立していた「大ブリテン王国」(イギリス)は,アイルランドと合併し,大ブリテン及びアイルランド連合王国(the United Kingdom)ができました。イギリスの国旗であるユニオン=ジャックは,もともとイングランドの赤十字(背景は白),スコットランドのナナメ白十字(背景は青)が重ねられていましたが,ここにアイルランドの赤いナナメ十字(背景は白)が加わることになります。

 一方の〈ナポレオン〉は,1802年の憲法で終身統領となり,1804年には「所有権の不可侵」「法の下の平等」「家族の尊重」などを定めた民法典【セH3「ナポレオン法典」。ナポレオン3世によるものではない】を発布。時代の大きな流れをくみとり,従来の身分に基づく社会のしくみから,各人の能力にもとづいて自由に経済活動ができ,社会的に評価されるような新たな社会を組み上げようとしました。ただし,女性の権利は制限され,一家を代表する男性が家父長として強い権利を持つ内容でした。
 このフランス民法典で定められたルールは,到来する資本主義社会に対応するための内容でした。契約とはどうすれば成立するのか,所有権はどうやって確定され保護されるのか,こういったことをしっかりと定め,資本主義という「ゲーム」の「ルール」を定めたわけです。これにより,資本家たちが安心して企業を起こす前提条件が整います
 なお,この頃〈ナポレオン〉の懸賞に応募した〈アペール〉(1749~1841)が1804年に
瓶詰を発明し,軍隊の糧食として活用されるようになっています。

 そして,同年1804年に満を持して皇帝に即位【セH14時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)】しました。このとき,彼はローマ教皇から冠を取って,それを自分で自分の頭の上に乗せています。その光景は,ギリシア・ローマの文化の影響を受けて調和を重んじた古典主義【セH29試行】の宮廷画家〈ダヴィド〉に,ローマ帝国時代を彷彿とさせるような表現で描かせました。彼は,ナポレオンのアルプス越えの絵も描いています。

 皇帝即位の知らせを聞いて失望したといわれるのが,作曲家の〈ベートーヴェン〉(17701827)です。平民の彼は,彼にフランス革命の精神である平等を期待していたのですが,それは誤解だったということがわかると,〈ナポレオン〉に捧げるつもりだった交響曲の譜面の表紙を破いたのだと伝えられます。彼の時代にはすでに鍵盤楽器ピアノが普通に使われるようになっていて,「エリーゼのために」といったピアノ曲が作曲されるようになりました。ピアノの普及とともに,象牙の需要が高まりました。20世紀にかけて,推定3万頭のアフリカゾウが殺されたといいます。
 なお,オーストリアの〈シューベルト〉(17971828)は,ナポレオン戦争期のウィーンで小学校教師・ピアノ教師として,多数の歌曲や交響曲を書いた庶民派の作曲家です。"歌曲の王"と称されロマン派に分類されます。

 さて,〈ナポレオン〉の皇帝即位をイギリスは非常に警戒し,1805年には第三次第仏大同盟によって,オーストリアやロシアとともにフランスを包囲しようとしました。〈ナポレオン〉はイギリスを打倒できませんでしたが(1805トラファルガーの海戦で敗れる【セH29),同じ1805年にアウステルリッツでロシア【セH22】の〈アレクサンドル1世〉とオーストリア〈フランツ1世〉の連合軍に勝利し【セH22】1807年にはロシアとプロイセンとティルジット条約で講和しました。敗れたプロイセンやロシアの支配する領域には,フランスの支配が及ぶ「傀儡国家(かいらいこっか。バックにフランスがついており,操り人形(傀儡)のように動かされている国家)」を成立させます。

 〈ナポレオン〉は,伝統的な身分制度にかわって,能力主義的な近代市民社会の精神をヨーロッパ各地に広める役割を果たしました。しかし,一方で新たな考え方に 感化された進出先の民族にとっては,〈ナポレオン〉自身が伝統的な支配を振りかざす“古い存在”に映り,「他の民族に支配されたくない!」という民族主義(ナショナリズム【東京H18[1]指定語句】)的な考えを主張するようになっていきました。
 例えば,スペインでは,1808年に〈ナポレオン〉の兄が王に就任すると大規模な反乱(
スペイン反乱180814)【セH23時期】が勃発し,ゲリラ戦によってフランスを苦しめました。このときスペイン人がフランス軍に銃殺されようとしているシーンを描いたのは宮廷画家であった〈ゴヤ(17461828)です(作品名は『マドリード,180853日』)

 〈ナポレオン〉【セH28ナポレオン3世ではない】はユーラシア大陸【セH21アメリカ合衆国ではない】へのイギリスの製品をブロックしようとして,1806年にベルリン【東京H14[3]】大陸封鎖令【東京H14[3]】を発布しましたが,農業国のプロイセン,オーストリア,ロシアにとってはいい迷惑です。サトウキビの輸入がストップしたために,寒冷地でもよく育つ甜菜(てんさい)(ビート)というカブから砂糖をとる方法が広がります(現在でも甜菜生産量の一位はロシア)。
 封鎖を破ってイギリスと取引をしたロシアに対して〈ナポレオン〉は
1812年に遠征に踏み切りました(ロシア遠征)。しかし,ロシア軍が住民を疎開させて火を放ったモスクワに引き込まれたフランス軍は,極寒のために退却をせまられます。

『不可能だと貴官より報告されても,その言葉はフランス語ではない』とは,1813年に補給品を断られたときの〈ナポレオン〉の手紙です。“余に不可能の文字はない”で有名なセリフですが,実際には大ピンチのときの言葉のようです。

 パリに帰ってこれたフランス軍は,当初の
60万からたったの5000人となりました(モスクワ遠征)。〈ナポレオン〉が弱っているところを,オーストリア,ロシア,プロイセン連合が反撃し,1813ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い) 【セH16年号「1813」を問う】でフランスを破り,1814年にパリは陥落しました。

 ナポレオンは,一度地中海のエルバ島【セH20地図(コルシカ島ではない)】に流されますが脱出し,1815年3月20日に復位します。しかし,6月18ワーテルローの戦いで敗北し,同22日にあっけなく退位しました。このナポレオンが再起をかけた期間を,百日天下といいます。
 後継者に指名されていた〈ナポレオン2世(ジョセフ)〉が,形式的にフランス皇帝を継ぎますが,7月8日に,〈ルイ16世〉の弟〈ルイ18(181415,1524)がフランス王に即位し,ブルボン朝【セH23ヴァロワ朝ではない】復古王政時期(統領政府以降の政体の変遷を問う)がはじまりました。エルバ島に流されたナポレオンは,1815年に支持者にともなってパリに再入城して権力の座にしがみつきますが(百日天下),ワーテルローの戦いでイギリスとプロイセンに敗れて退位し,大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に流されました。死因についてのフランスの公式見解はヒ素による中毒死です。壁紙に塗られた美しい緑色のヒ素由来の顔料に,カビがついたことでガスが発生したのではないかという説もあります。
 なお,ナポレオンの子〈ジョセフ〉(7月7日まで皇帝でした)には妻子がなく,母がハプスブルク家の〈マリ=ルイーズ〉であったことから,ハプスブルク家に引き取られ,オーストリアで亡くなりました。したがって,今後もしも〈ナポレオン〉の跡を継ぐことができる人物がいるとすると,それは甥(おい)の〈ルイ=ナポレオン〉(のちのナポレオン3世) 【セH3,セH7】ということになりました。〈ナポレオン〉はフランス人に「夢」を見させてくれたということで,退位後も「〈ナポレオン〉はすごかった」というナポレオン神話が語り継がれ,支持者は根強く残っていくのです。





1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
 1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑨イギリス スコットランド

 1782年までには,スコットランドの氏族たちの伝統であるバグパイプキルト衣装が禁止され,特に〈ジョージ3世〉(位17601820)以降は,イングランドへの同化が求められていきます。
 スコットランドの中でもイングランド側に近いローランドでは,イングランド文化の影響が強く,重商主義を批判した〈アダム=スミス〉(17231790)や,哲学者〈ヒューム〉(17111776)などのスコットランド啓蒙と呼ばれる新進気鋭の思想が育まれたほか,蒸気機関を改良した〈ワット〉(17361819)のように国内外のビジネスに挑戦する者もいました。



 1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ ⑧アイルランド,⑨イギリス
◆イギリスで産業革命が起きた
産業革命はインド綿織物の輸入代替からはじまった

 
イギリス産業革命(工業化) 【東京H25,H30[1]指定語句】【セH14最初に産業革命(工業化)が起こったのはドイツではない】とは,産業に遅れをとったイギリスが,先進国のアジアの国々に追いつこうとして起こった技術革新(イノベーション)と,それにともなう社会の激変のことをいいます。
 18世紀の世界における産業の先進地域は,アジアでした。とくに日本や清を含む東アジアはヨーロッパに比べると平和で安定しており,人々が儒教の倫理にのっとって汗水たらしてせっせと働くことで経済的にも高い生産性を誇っていました(これを産業革命(工業化)(インダストリア=レヴォリューション)とかけて勤勉革命(インダストリア=レヴォリューション)とよぶ研究者もいます)。
 中国からは
陶磁器,インドからはさわり心地のよいカラフルな綿織物セH5】【京都H19[2]】【東京H16[1]指定語句】(キャラコ【上智法(法律)他H30】)がイギリスに輸入されました。キャラコは下着,ドレス,寝具,テーブルクロスなどに利用され大人気となりますが,イギリスの毛織物業者の反対で輸入禁止になって以降,アフリカに転売されて奴隷と交換されました[角山198420]。イギリスは奴隷貿易で巨利を稼ぎますが,それでも全体としてはアジアに対してイギリス側は貿易赤字となり,支払い用の銀がイギリスから流出しました。

 そこで,インドから輸入された綿織物を買うと赤字になるんだったら,「自国でつくってしまえ」という発想が生まれました。「買うのがいやだから,自分でつくる」。これを「輸入代替」といいます。

◆工業化の背景には,奴隷交易・農業革命・プトロ工業化・合理的な思想の普及などがある
資本の蓄積や農業革命が,技術革新につながる
 綿織物を輸入代替するためには,まず綿が必要です。綿は棉花という植物からとれるのですが,イギリスは
1713年にスペイン継承戦争後のユトレヒト条約や,七年戦争後のパリ条約で植民地を拡大させており,北アメリカといった棉花の原料供給地を確保することができました。さらに,事業をおこす上で必要となる資本としては,スペイン継承戦争後にスペインから手にした奴隷貿易独占権(アシエント)により,大西洋の黒人奴隷貿易で稼いだ利益を元手とすることができました(資本とは,お金を生み出すための元手のことです。例えばお金は,誰かに貸して利子をとれば増やせますから,お金=資本です。土地も,誰かに貸したり,そこで営業したりすればお金になりますから,土地=資本です。さらに働き手も,働かせることで利益を生みますから,労働力=資本です)1688年の名誉革命以降,国王が国民の所有権を侵害することが正式に規制されたため,自由に物を売り買いする権利も,認められるようになっていました。

 1618世紀のヨーロッパ諸国は戦争が相次ぎ,富国強兵のために軍事技術の改良や産業発展が急がれ,新たな技術の開発と導入のために“合理的に考える”風潮が広がっていました。せっかく新技術を生み出しても,社会の変化するスピードが遅ければ,発明しようという気も弱まります。変革を求める社会の雰囲気が,貪欲(どんよく)技術革新(イノベーション)へとつながったのです。
 なお,貿易や産業をつうじて利益を生み出すためには,それを買ってくれる人が不可欠です。大航海時代以降,さまざまな物産がヨーロッパに流入され,「必要最小限の物」を買い求めるだけではなく,「いらなくても生きていけるけれど,欲しいから買う」「なくても困らないが,あるとステータスになる」といったお金による消費行動をとる人々が次第に増えていました。農業を中心とする時代から,商業を中心とする時代への転換が起こっていたわけです。
 そのためには,必要最小限の食べ物が,十分に供給されている必要があります。それを可能にする最新鋭の農法が開発されていました。中世の時代の三圃制にかわる,四圃制ともいうべきノーフォーク農法です。耕作地を4分割して,マメ科植物の栽培を含む4つのローテーションで回転させることで,地力を飛躍的に向上させることに成功させました。

 イギリスでは,領主が農奴に働かせる効率の悪いやりかたから,独立自営農民(ヨーマン)が自分で耕地を持ち経営する方式への転換が,早くに進んでいました。しかしまだまだ地主は多く,議会に進出して地方でも力を及ぼすジェントリ【セH3商業資本家・借地農・産業資本家ではない。地主層であることを問う】が活躍していました。
 しかし,農業によって利益を得ようとする者は,地主から土地を借りて,新農法を利用した市場向けに穀物を生産しようとしていきました。生産性を高めるためには,小さい土地をぽつぽつ持っているよりは,広大な土地を一気に経営したほうがよいため,
第二次囲い込み(エンクロージャー) 【セH15】【セH2 18世紀末には,農民の所有地の多くが大地主の手中にあったか問う】がはじまりました。囲い込みはスコットランド北部のハイランド地方でも激しく行われ,食肉(ラム肉)や羊毛用の羊の飼育も盛んに行われました。これを“ハイランド=クリアランス(放逐)”といいます。
 ハイランドの
ケルト系の人々は氏族ごとに独特な模様(タータン=チェック)を持っていましたが,18世紀前半にはイングランドによって氏族が解体され,伝統的なバグパイプや服装(ハイランド=ドレス)やケルト系のゲール語の使用が禁じられました。スコットランドの力が弱まり,ロマン主義が流行して古代に憧れを持つヨーロッパ人が増えると,ハイランドの伝統文化は急に注目されるようになり,タータン=チェックはいかにもスコットランドっぽいファッションとして流行するようになっていきました。スコットランドのうちイングランドに近い低地(スコットランド低地,ロー=ランド)は,早くから積極的にイングランドに協力し,貴族・資本家・学者などを生みました。古典派経済学【セH12】(注)アダム=スミス(1723~90) 【セH2重商主義ではない,セH12「重商主義を批判して古典派経済学の基礎を築いた」か問う】【追H21『経済表』は著していない】や哲学者の〈ヒューム〉(1711~76),スコットランド民謡を集めた国民的詩人〈バーンズ〉(1759~96)(蛍の光の作詞者),蒸気機関を発明する〈ワット〉(1736~1819) 【セH4】【セH14】はスコットランド人です。
(注)古典派経済学というのは,売る人と買う人に完全に同じ情報が与えられているものとして,需要と供給の関係を論じた経済学のことです。このような市場(完全競争市場)が存在するとすれば,そこでは需要と供給の関係が,自然に均衡価格に定まるのだと説明されました。

 囲い込みを推進していた人々は議会にも進出していたため,非合法的におこなわれた第一次囲い込みとは異なり,第二次囲い込み【セH15】穀物増産のため,議会の立法という形をとって合法的に推進されました。こうして穀物の増産が可能となり,商業を中心とした社会への転換の前提が整います。また,土地を奪われた農民の中にはやがて労働力として都市で雇用される者もいました【セH15】が,農村における人手は今まで通り重要で,19世紀に入るまでは都市人口よりも農村人口のほうが依然として高い水準にありました。

 従来のように規模が小さく競争を禁じた
ギルドとは違って,機械を使って創意工夫を発揮した工業を行うにはそれなりに資金を集める必要も出てきます。すでに18世紀末のイギリスにはイングランド銀行が設立され国内市場が整備されており,他人から資金を集める制度も活発でした。産業革命(工業化)の始まる以前にも,資本を持っている人が道具や原料を調達し,農村部のヒマな農民に前貸しして製品を回収する問屋制家内工業【セH7 16世紀ドイツで発展していない】が行われていましたが,やがて工場に人々を労働者として集め,そこに置いてある道具を用いて分業で生産させる手法が一般化していきました(工場制手工業(マニュファクチュア)。やがて工場制機械工業に発展します)()。また,カルヴァン派などの非国教徒審査法により公職に就くことができなかったため,商工業に従事するようになっていったことも,産業革命(工業化)の開始要因の一つに挙げられます。
()工場制機械工業が爆発的に進展する産業革命(工業化)の前段階にみられる,繊維製品を中心とする農村工業の発展を「プロト工業」といい,「産業革命(工業化)が突然起こったわけではなく,その前提となる条件があったとすれば,それは何だったのか?」という議論が流行した1970年代に,盛んに研究された概念です。

◆綿工業分野の技術革新が,蒸気機関を生む
蒸気機関が発明される

 このような動きを背景にして,イギリスでは綿工業【セH2,セH4「木綿工業」】の分野で以下のような技術革新がすすみました。

(
)布を大量に織る(織布という)ための発明(1733飛び杼(とびひ)ジョン=ケイ(170464)による発明【セH27紡績機ではない,H29コークス製鉄法ではない】
(
)棉花から大量に糸を紡ぐ(紡績という)ための発明 
 1764年頃の多軸(ジェニー)紡績機。〈ハーグリーヴズ(?1778) 【セH29蒸気船ではない】による発明。
 1769年の水力紡績機。〈アークライト〉(173292) 【上智法(法律)他H30ホイットニーではない】による発明(◆世界文化遺産「ダーヴェント峡谷の工場群」,2001。イギリス中部のダーヴェント川に沿って初めて水力紡績機を導入した工場や,労働者の住宅などが建設され「工業都市」のモデルとなった地区です)

 1779年のミュール紡績機。〈クロンプトン〉(17531827) 【セH14ワット,ニューコメン,フルトン,スティーヴンソンとのひっかけ】による発明。

(
)人力,水力にかわる新たな動力の発明(1769年,蒸気機関の改良【セH4】。スコットランドのワット(17361819) 【セH4蒸気機関の改良か問う】【セH14クロンプトン,ニューコメン,スティーヴンソン,フルトンではない】による。すでに〈ニューコメン〉【セH14ワット,クロンプトン,フルトン,スティーヴンソンではない】によって炭鉱からの水の排出に使用されていた蒸気機関に改良を加えました。

(
)紡績部門の生産性が高まったため,布を織る部門の生産性が追いつかず,一時に手織り工が増える傾向もみられました()蒸気機関を織機に応用した発明(1785年,力織機の発明。〈カートライト〉(17431823)による。
 綿織物の生産工程が機械化されたことで,イギリスは同時代の世界でもっとも効率よく大量の綿織物を生産できる技術を手に入れたことになります。
(注)川北稔編『世界各国史 イギリス史』山川出版社,1998,p.246


◆イギリスは石炭の埋蔵量が豊富だったことも,工業化にとって強みとなった

燃料は木炭から石炭へ,石炭からコークスへ
 蒸気機関の燃料である石炭と,機械の材料である鉄鉱石に関して,イギリスが自国で産出できたという点も強みでした。燃料としてもともと使われていたのは木炭でしたが,森林伐採が進み資源が枯渇するという問題に直面していました((現在のイギリスの,木の生えていないなだらかな丘の続くのどかな田園風景は,多くが森林破壊の爪痕(つめあと)なのです)
 しかし,鉄鉱石から鉄をつくるのに石炭を用いると,化学変化の関係から(もろ)い鉄ができてしまうことが難点でした。そこで,〈
ダービー(16771717) 【セH29ジョン=ケイではない】は,石炭を加工してコークスという燃料にして用いたことで,その後は木炭から石炭へと燃料がシフトしていきます。
 なお,この技術は中国では宋の時代にすでに開発されています
 石炭は地下水を含む地層から産出されることが多く,排水の必要があったことから,蒸気機関による排水ポンプの発明を促しました(〈
ニューコメン〉(1664~1729)による)。

 機械があれば綿織物がつくれるようになると,中世以来の手工業者の熟練労働力は不要になっていきました(1810年代にはランカシャー地方で,ラッダイト(機械打ち壊し)運動【セH4労働者によって起こされたか問う,セH12「職人・労働者が,機械を改良して旧来の生産組織を守ろうとした運動」ではない】【セH21,H30時期,H29試行 時期(1566~1661の期間ではない)】が起きています。「仕事がなくなったのは機械のせいだ!」と,機械製の織物機を破壊したのです。それに対し,1769年と1812年には“機械を打ち壊したら死刑”という法が制定されています。
 かつては,徒弟(とてい)の身分から身を立て,親方(おやかた)のもとで厳しい修行を受け,何年も何十年もかけてようやく一人前になれるという伝統的なシステムがありました。それが,機械の置いてある工場で経験ゼロから誰でも働ける時代が到来したわけです。今までのように親方に入門して人格的な支配を受けることもなく,給料をもらったら「バイバイ」することもできます。
 ただし工場の
労働者の待遇は良いものとはいえず,たいてい利益(利潤といいます)のほとんどは工場の経営者である産業資本家のところに集まるようになっています。産業資本家も,新たに得た利潤をギャンブルでパァ~っと使うのではなく,合理的に次の投資先を考えさらに利潤を増やそうとしていきました。
 産業資本家からすれば,汗水垂らし,才能を発揮して稼ぎ出した利潤です。
 彼らは,次第にこう考えるようになっていきました。
 「こんなに頑張っているのに,なぜ議会は自分たちの経営にマイナスとなる法律ばかりつくるのだろう。家柄ではなく才能,大土地所有ではなく築き上げた財産,宗教や伝統ではなく合理性
これからの新しい時代に合った,新しい法律をつくりたいのに…。産業資本家には選挙権がないのは不公平じゃないか?」と。
 こうして,産業資本家による
参政権の要求が始まっていくのです。
 
 一方,産業資本家が利益を追い求めるあまり労働者の権利を無視しまうこともしばしばでした。そうした
暴走を食い止めるための法律は,当初は整備されていなかったのです。
 きわめて“ブラック”な環境に置かれた労働者は,急激に都市化したためにトイレ
(下水)も井戸(飲料水,洗濯等の生活用水)も整備されていない不衛生な家屋街(スラム)での生活を余儀なくされました。女性【セH11「産業革命によって,単純労働が減少したため,女性は工場労働から排除された」か問う】だろうが,子どもだろうが,安価な労働力として危険な作業に長時間従事させることもしばしばでした(女性や子どもを含めた低賃金労働セH5】【セH15時期(産業革命(工業化)期)】)。

 感染症や伝染病の流行により,乳児死亡率も高く,さまざまな
社会問題が発生しました。この時期のイギリスでは,医師ジェンナー(17491823) 【セH2結核菌・コレラ菌は発見していない】【セH16ラヴォアジエではない】が,1796年に実験によって種痘法(しゅとうほう)を開発し予防接種(よぼうせっしゅ)の原型を生み出したように,医療技術も徐々に進歩していくことになります。

◆交通革命の進展で,地球上の時間距離が縮まり,世界の一体化が急展開する
蒸気機関車・船の登場が,物流の流れを刺激する
 さて,蒸気機関は交通機関にも応用され,人類史上いちどにもっとも多くの物資・旅客を運ぶことのできる乗り物が,陸では蒸気機関車,海では蒸気船【セH29として登場しました。

 
蒸気機関車は,〈スティーヴンソン(17811848) 【セH4】により1830【セH6 1830年以降ヨーロッパに広まったか問う】に,大西洋奴隷貿易で発展してきた港町リヴァプール【東京H25[1]指定語句】綿(めん)工業【セH22】【上智法(法律)他H30】の発達したマンチェスター【東京H9,H15[3]【セH2ロンドンではない】【セH22】の間で実用化されました【セH22時期(19世紀前半)を問う】

 アメリカ合衆国やインドから運ばれた綿花を,リヴァプールからマンチェスターに運び,マンチェスターで加工した綿織物をリヴァプールに運ぶのに用いられました。外輪式の蒸気船
【東京H14[1]指定語句「汽船」】は〈フルトン(17651815) 【東京H15[3]【セH14ワット,ニューコメン,スティーヴンソン,クロンプトンではない,セH29ハーグリーヴズではない】1807年に建造したクラーモント号が実用的なものでは最初です。1819年にはやはり外輪式の蒸気船であるサヴァンナ号【東京H15[3]が,初めて大西洋を横断しています。これにより,遠距離間を短時間で結ぶことが可能となった結果,ますます世界は一体化していくことになります。

 エジプトや北アメリカ,ブラジル,インドで棉花を収穫する労働者,その棉花を積む奴隷をアフリカから北アメリカに運搬する労働者。金やダイヤモンドを,南アフリカのケープ植民地から掘り起こす労働者,イギリス人の消費する小麦を育てるニュージーランドやアメリカ合衆国,アルゼンチンの労働者。

 まるで世界中のイギリスの植民地の人々が,イギリスという工場の労働者になっていくような状況が生まれます。イギリスにとっては,直接彼らを雇っているわけではありませんので,人件費はとても安く上がる。しかも,北アメリカで棉花を積んでいるのは黒人奴隷です。1790年には約70万人だったアメリカ合衆国の奴隷は,1860年には約400万人に膨れ上がっていきます。

 イギリスの産業資本家は,できるだけ安く大量に原料を輸入しようとしますが,立場の弱い植民地は,イギリスの要求を飲むしかありません。イギリスは「自由貿易」を主張して,世界各地から製品の原材料を安価で大量に輸入し,製品をこれらの植民地で販売します。世界中から原料を集めて,製品を世界中に売りさばいていくイギリスは,まるで「世界の工場」のようなポジションとなっていく中,イギリスは世界各地に「市場(製品の買い手がいるところ)」を求めるようになっていきます。

 イギリス製品のほうが安価に販売されるため,世界各地にあった伝統工業がだんだんと衰退していくことにもなりました。こうして,多くの国や地域は,イギリスのために天然資源を輸出して,稼いだ資金でイギリス製品を買う「経済的従属」を余儀なくされていきました。インドであれば棉花を輸出することで,南アフリカであればダイヤモンドを輸出することで,その国の経済を成り立たせようとするようになっていく。つまりイギリスという取引先の都合に合わせて,自国の産業を「棉花だけ」「ダイヤモンドだけ」にしていくわけです。これを経済の「モノカルチャー化【セH17 マレー半島を例にして出題。カピチュレーションではない】といいます。
 それを防ぐには,イギリスにならって産業革命(工業化)を達成し,イギリスの供給する製品を自前化するしか道はありません。こうして,イギリスに追いつけ追い越せの産業革命(工業化)競争がスタートしていきます。
 
19世紀前半(1830年以降)にはフランスオランダベルギーで産業革命(工業化)が開始され,19世紀後半にはドイツ(プロイセンが中心)アメリカ(北部が中心)がイギリスを追い越すまでに成長します。ロシアは,フランスと露仏同盟(1891(注1))を締結した後,日本は189495年の日清戦争後に産業革命(工業化)を開始します。

◆「世界の工場」イギリスの製品が,何でもかんでも世界各地の産業を圧倒していくわけではない
英の綿織物はアジア市場を開拓できず
 こうして世界が,産業革命(工業化)の達成した地域,達成しようとしている地域,達成できず達成した地域に従属している地域へと色分けされていき,今後の世界のあり方を大きく変えていきました。その意味で,産業革命(工業化)のことを「大分岐」(グレート=ディヴァージェンス,the great divergence)とよぶ研究者もいます(注2)

 ただ,いくらイギリスで工業化が起こったとしても,輸出品に魅力がなければ,売れません。実際に,イギリスが機械で製造した
繊維の綿花は,手の糸であり,インドや東アジアで主流の繊維綿花の糸・手の布に取って代わることはできませんでした。ですから,従来考えられていたように「イギリスの産業革命によって,インドの綿工業は壊滅した」というわけではなく,実際には19世紀後半にかけてインドや日本の綿工業は高度に発達し,互いに競合することになるのです


◆生活革命による貿易赤字を補填するための輸入代替から,産業は始まった
イギリスは,輸入国から輸出国に転じる
 一方,産業革命の進展するイギリスでは実質成長率は年に1%に満たない水準であり,「産業革命などなかった」という説が提起されたこともあります。しかし,イギリスで起こった経済の変動は18世紀末にとつぜん起こったものではなく,長い目でみると大航海時代(ヨーロッパの発見,アフリカ・アジアとの直接貿易の開始)以降だんだん準備されていったものと考えることができます。
 アジア,アフリカでは世界中の人が欲しがる商品(
世界商品)を産出し,その生産地や物流をめぐって覇権国家(ポルトガル,オランダ,フランス,イギリスなど)がしのぎを削って争いました。ヨーロッパの人々は新しい商品に目を輝かせ,生活や消費のスタイルを次々に変えていきました(生活革命)。
 その中で,奴隷交易で資本をため込み,海外進出を支えるための金融市場や財政基盤をいち早く獲得したイギリスの企業家が,諸国に先立って輸入品を自国で大量につくってしまおうと起こしたムーブメントが
産業革命ということになります。
 それに対し1789年から起きたフランス革命は,イギリス中心の自由貿易体制に対する“反動”だったとみることもできます。ただ,イギリスの側ではフランス革命に対して懐疑(かいぎ)的な意見が根強く,たとえば〈エドマンド=バーク〉(1729~1797)は『フランス革命の省察』(1790)を著し,革命の本質を冷静にとらえていました。

 さて,19世紀に入るとイギリスではキリスト教徒による奴隷廃止運動が盛んになり,
1807年に奴隷貿易が廃止されました【セH17「ヨーロッパ諸国の中には19世紀に奴隷貿易を禁止する動きがあった」かどうかを問う,セH29試行奴隷【早政H30】そのものを売買するビジネスには,もはや旨味がなくなっていたのです。廃止に尽力したのはイギリスの博愛主義者〈ウィルバーフォース〉(1759~1833)【早政H30史料】です。
 1789年には,現在のナイジェリアから連行された黒人奴隷〈イクイアーノ〉による自伝『アフリカ人,イクイアーノの生涯の興味深い物語』が出版されるなど,「黒人奴隷貿易は悪いことだ」という認識が生まれていました。しかし,今度は黒人奴隷の代わりに
インド人移民中国人移民が,労働力として売り買いされていくことになっていきました【セH29試行 地図資料と議論】。なお,19世紀に入ると,東アフリカではアラブ人を中心とする商人が,現タンザニアのザンジバルを拠点に奴隷の積み出しを本格化させていくこととなります。
(注1)1891年に政治協定が成り,1892年以降軍事同盟としての取り決めがすすんでいき,1894年に最終的に決定されました。この間両者の同盟は秘密とされ,公表されたのは1895年のことです。『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.123
(注2)K・ポメランツ,川北稔訳『大分岐―中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年。




1760年~1815年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
現オランダ
 低地地方のうち北部は
ネーデルラント連邦共和国として独立していました。

現ベルギー

 南部は
南ネーデルラントとして,スペイン継承戦争後はオーストリア=ハプスブルク家の支配下にありました。
 フランス革命が起きると,1790年に南ネーデルラントで革命が起き,ブリュッセルを首都とするベルギー
連合国(United Belgium States)が成立。これを認めないオーストリア=ハプスブルク家〈レオポルド2世〉により,同年末に滅びます。

 その後,フランスのジロンド派内閣による宣戦を受け,プロイセンとオーストリアはフランス王国と戦争状態に入りました。フランス軍は南ネーデルラントのオーストリア軍と戦い,南ネーデルラントを占領。総裁政府のときに南ネーデルラントはフランスに併合され,1797年のカンポ=フォルミオの和約により,南ネーデルラントは
フランス領となりました。フランス支配は,〈ナポレオン〉の敗北まで続きます。

現ルクセンブルク
 スペイン継承戦争により,ルクセンブルクは
オーストリア=ハプスブルク家の領土となっていました。
 しかし,フランス革命中に南ネーデルラントとともにフランスに占領され,1795年に
フランス領となりました。フランス支配は,〈ナポレオン〉の敗北まで続きます。





1760年~1815年のヨーロッパ  北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 デンマーク=ノルウェーとスウェーデンは,1775年に始まるアメリカ独立戦争では,イギリスが他国船に対する攻撃を初めたことから,スウェーデンが1778年に中立船の保護を主張。その後,ロシアの〈エカチェリーナ2世〉は1780年に武装中立同盟を提唱し,スウェーデンとデンマーク=ノルウェーが受け入れました。のちにプロイセン,オーストリア,ポルトガルも参加し1783年まで続きました。これは後の戦時における中立政策の走りです。
 1788年にスウェーデンの〈グスタヴ3世〉(位1771~92)はフランス寄りの姿勢を重視し,フィンランドやバルト海支配を目論むロシアとの間に戦争を開始しました。しかし戦果は良くなく,フランス革命に対する対応が急務となったために1790年にロシアと講和。〈グスタヴ3世〉は臣下の〈ファッシェン〉(フランス語ではフェルゼン,1755~1810)をフランスに差し向け,〈ルイ16世〉救援を図りますが,1791年6月の
ヴァレンヌ逃亡事件は未遂に終わり,1792年には〈グスタヴ3世〉が貴族に暗殺されました。〈グスタヴ3世〉の差し向けた〈フェルゼン〉は,〈ルイ16世〉の王妃〈マリ=アントワネット〉の愛人といわれる人物です。

 〈グスタヴ3世〉を継いだ〈グスタヴ4世〉(位1792~1809)は,デンマーク=ノルウェーとの関係を中立同盟により改善させました。英仏の海上での抗争が激化し,イギリスが中立国の船の航行に干渉し出すと,1800年にはデンマーク,スウェーデン,ロシア,プロイセンとともに第二回の武装中立同盟を結んでいます。大陸でのナポレオンの影響が,北ヨーロッパにも及んだのです。スウェーデンの〈グスタヴ4世〉は革命フランスに敵対し,〈ナポレオン〉に対してイギリスとロシア,オーストリアとともに
第三回対仏大同盟に参加しました。しかし,大陸でプロイセン,オーストリア,ロシアが〈ナポレオン〉と講和し「ナポレオン帝国」が築かれるとスウェーデンは大陸から撤退しました。こうしてロシアは〈ナポレオン〉とヨーロッパの東西を分け合う形となりました。

 1808年にはロシアは
フィンランド全土を占領し,ロシア皇帝を大公と,これを補佐する総督によるフィンランド大公国の設立を宣言しました。

 一方デンマークはイギリスとの同盟関係を結ぶことに失敗し,1807年にフランスに占領されます。フランス軍がスウェーデン南部に上陸するのは,時間の問題でした。
 そんな中,〈グスタヴ4世〉が軍人・官僚によるクーデタで倒れ,臨時政府が樹立。憲法が制定され前王の叔父の〈カール13世〉(位1809~18)が即位し,各国と講和しました。
 ナポレオン戦争末期のごたごたの中で,スウェーデンはデンマークに侵攻して1814年1月にキール条約で力ずくで講和を認めさせました。なお,〈カール13世〉には跡継ぎがいなかったため,1810年には〈ナポレオン〉軍の〈ベルナドット〉が後継の王に指名され,のちに実現しています。

 この結果,
ノルウェーはスウェーデンに割譲されることになり,デンマーク=ノルウェーの同君連合は幕を閉じました。
 ノルウェーは憲法を制定し独立宣言を発しますが孤立無援に陥り,結果としてスウェーデン王国との同君連合を認めました。
 デンマークはアイスランド,グリーンランド,スレースヴィ(ドイツ語でシュレスヴィヒ),ホルステン(ドイツ語でホルシュタイン)はデンマークの領域にとどまっています。1814~1815年のウィーン会議では,この動きが既成事実として認められることになります。

 スウェーデンに割譲されたノルウェーや,ロシアの従属下に置かれたフィンランドでは,支配されたことに対する反発から民族意識が高まり,国語や国民文化を形作っていく運動が盛んになっていきました。一方,スウェーデンではみずからをゲルマン諸民族の一派「ゴート人」であると見なし,それをスウェーデン人の誇りとする運動もみられます。

 なお,デンマーク=ノルウェー(デンマーク)は17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がる
ヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。デンマークの奴隷貿易は1807年まで続き,その後も奴隷制は1848年まで続きました。