1650年~1760年の世界
ユーラシア・アフリカ:欧米の発展① (沿海部への重心移動),南北アメリカ:欧米の植民地化②

 中央ユーラシアの遊牧民の軍事力は火器の普及により劣勢に向かう。各地の広域国家は集権化を目指し海上交易に従事する。


時代のまとめ
(1)
「小氷期」という寒冷化の時期にあたり,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられる。

(2)
各地で開発による環境負荷が大きくなるが,イギリスでは労働節約的・資本集約的な技術(イノベ)革新(ーション)が進み,限界突破に向かう。
 アメリカ大陸はスペインが広大な植民地を維持しているが(ポルトガルはブラジルを支配),カリブ海の島々にはオランダ,イギリス,フランスが進出をすすめている。 中国のは中央アジアへの進出を進め,チベット,タリム盆地のウイグルとジュンガル盆地のモンゴル人(新疆)を制圧して間接統治を実現した。一方,キリスト教の布教を禁止し,末期には外国貿易を広州一港に限定し,海禁を維持しようとした。
 中国南部の住民は東南アジアに移住し
南洋(なんよう)華僑(かきょう)となり,「鎖国」政策前には日本人の日本(にほん)(まち)と競って,インド洋~南シナ海・東シナ海の交易に従事した。
 オスマン帝国では
第二次ウィーン包囲が失敗しバルカン半島の領土を失う。イランのサファヴィー朝も〈アッバース1世〉の最盛期の後は衰退。南アジアのムガル帝国でも分裂に向かい,イギリスとフランスの沿岸部への進出がすすんだ。
 1755年にマグニチュード8.5~9.0と推定される
リスボン大地震が起きるとポルトガルは打撃を受け,ヨーロッパの海外交易の覇権はオランダ,イギリス,フランスに移る。イギリスはオランダとの英蘭戦争【セ試行 時期】【早法H24[5]指定語句 論述(17世紀の英蘭の友好・敵対関係)】で北アメリカのニュー=アムステルダムを獲得し,ニューヨーク【東京H22[1]指定語句】を建設。フランスとの第二次英仏百年戦争では,フランスをプラッシーの戦い(1757)で破り,インドにおける覇権を確立している。

 イングランド(イギリス)王国フランス王国が海外進出を推進して覇権を争った(第二次英仏百年戦争)。プロイセンオーストリアロシアも中央集権化をすすめている。

解説
 各地域では,国家による統合が進んでいきます。現在,各国家・地域で「伝統文化」とされるものには,この時代に国家が統合される過程で形成されたものが少なくありません。1450年頃~1640年頃(長い16世紀」と呼ぶことがあります) には,ユーラシア大陸の各地域に「帝国」を中心とする秩序が生まれ,活発な交易関係が形成されていました。
 しかし,「長い16世紀」の後半にあたるこの時期は,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられ,政権の崩壊や社会不安が各地で起こるようになっています。1645年~1715年にかけて太陽活動が低下し地球の寒冷化が進んだことも原因の一つと考えられていますが,18世紀末にかけて人口の増加に資源の調達重要が追いつかなくなっていたことも原因に挙げられます。このうち化石燃料の石炭と広大なアメリカ大陸,それに世界規模の海運ネットワークを確保していた西ヨーロッパ諸国は,18世紀末以降になると急速な経済発展を遂げていくことになります(この転換点を歴史学者〈ポメランツ〉(1958)は「大分岐(the great divergence)と呼んでいます)

 ヨーロッパ内部では「長い16世紀」の前半に神聖ローマ帝国の〈カール5世〉の目指した「帝国」づくりは実現しませんでしたが,キリスト教を保護する複数の王朝が併存する関係は維持されていました。しかし,王朝ごとに領域国家の形成がすすみ,キリスト教の「宗派」を巡る対立も生じると国家同士の戦争が相次ぐようになりました。そこで諸国は,
主権国家体制によって勢力均衡をめざす仕組みを形成し,安全保障を図るようになっていきます。この時期のヨーロッパ諸国は伝統的に「近世(きんせい;初期近代)と区分される時期(15世紀末~18世紀末)の終わりにあたり,ルネサンス科学革命宗教改革絶対王政を通して,のちの「近代」(後期近代,18世紀末~20世紀初め)に通じる過渡期に位置づけられます。

 南北アメリカ大陸では,ヨーロッパによる政治的・経済的な従属が引き続き進みます。一方,南北アメリカに植民したヨーロッパ系住民は,大西洋をはさんでヨーロッパの啓蒙思想の影響も受け,次第に政治的な独立を目指すようになっていきました。南北アメリカ大陸の先住民による抵抗も試みられますが,ヨーロッパ系住民との混血も進み,南北アメリカ大陸の社会構成は地域によって多様化・複雑化していきます。

 一方,アジアでは東南アジアの港市国家を中心に海上交易が隆盛し,ユーラシア大陸の農耕定住民の地帯で大砲・銃砲を駆使した大規模な軍事力を編成した国家による統合が進んでいました。ヨーロッパ諸国は初めアジアで交易拠点のみの支配にとどまりましたが,次第に内陸部も含めた領土支配に向かっていきます。それでも,少なくとも18世紀末までは,西ヨーロッパと中国との間には市場経済や産業革命(工業化)につながる工業の発展,それに生活水準の面で大きな違いはなかったとみられます
()
 他方,ロシアのシベリアの進出や清のモンゴルやタリム盆地への進出により,中央ユーラシアの騎馬遊牧民の勢力は急速に衰退していきました。アフリカ大陸では
大西洋奴隷交易の影響を受ける地域も生まれています。
(注)経済学者の〈ポメランツ〉(1958~)は,市場経済や工業の発達,生活水準などの面で,西ヨーロッパと中国の江南地方には18世紀末まで大きな差はなかったと論じています(ポメランツ,川北稔監訳『大分岐(the great divergence)――中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年)。





●1650
年~1760年のアメリカ

1650年~1760年のアメリカ  北アメリカ
1650年~1760年のアメリカ  北アメリカ 現①アメリカ合衆国,②カナダ
◆北アメリカではフランス,イギリス,スペイン三国が勢力圏を争う
インディアン諸民族がヨーロッパ諸国に立ち向かう
 
北アメリカ大陸の東部沿岸地方には,16世紀末からイングランド(1707年以降は大ブリテン連合王国(イギリス))が進出し,ニューイングランド植民地を形成していました。
 1650年頃から,フランス人植民地(ヌーベルフランス)も,イロクォワ語族のインディアンによる襲撃を受けるようになり,フランス=イロクォワ戦争(いわゆるビーバー戦争)が始まりました。一方,白人の持ち込んだ感染症により,先住民の人口も減りつつありました。

 1675年にはイングランドの植民地ニューイングランドで,ワンパノアグ人の〈メタコメット〉との戦争が始まりましたが,ワンパノアグ人側が大敗しました(イングランド側は,フィリップ王戦争と呼びました)
 1711年からは南方のカロライナ植民地でもインディアンと白人入植者との戦争が始まります(171115のタスカローラ人との戦争)171517年のヤマシー戦争では,ヤマシー人やクリーク人が敗れましたが,クリーク人はスペイン植民地の
フロリダに逃れてセミノール人と合流し,19世紀前半に3度のセミノール戦争(181718183542185558)を戦うことになります。
 なお,フロリダのインディアンは,この地に逃れてきたアフリカ大陸出身の逃亡奴隷のコミュニティと提携し,「ブラック=セミノール」と呼ばれる集団に発展します。

 北アメリカでは,1730年代ころまでにスペインが持ち込んだが,メキシコから大平原地帯に伝わり,馬によるバッファロー狩りがおこなわれ,生息数が激減し始めます。また,インディアン諸民族の中には,馬を利用する民族も現れるようになっていきました。

 北アメリカ北東部では,ヨーロッパが毛皮交易を始めたことで,先住民同士の戦いが起きるようになっていました。フランスの援助するヒューロン人が,イギリスとの関係を持つイロクォワ語族との戦いにより敗退し,フランスは毛皮の交易相手として重要なパートナーを失いま

 
1701年にフランスと先住民はモントリオール条約で和議を結び,フランスはイロクォワ語族の同盟を「国家」とみなし,さらにイギリス・フランスと協力せず中立を守ることが定められました。
 しかし,1754年にイギリスは,フランスの植民地の攻撃を開始します。これが,フレンチ=インディアン戦争です
 
イロクォワ同盟はイギリス側にたち,アルゴンキン語族のモホーク人やミクマク人はフランス側に立って戦うことになりました。代理戦争です。
 また,フランス領ルイジアナでは,フランス側にチョクトー人が,イギリス側にチカソー人がついて,チカソー戦争(1720~60)が戦われていました。これも英仏によるミシシッピー川流域をめぐる代理戦争です。


 フランスはヌーヴェル=フランス1663年に直轄植民地とし,西インド会社に管轄させました。財務総監の〈コルベール〉は,毛皮や木材の供給先や,王立のマニュファクチュアで生産した製品の輸出先として,ヌーヴェル=フランスを重視していました1682年には〈=サール〉がミシシッピ川からメキシコ湾に到達し,流域を「ルイジアナ」と命名しています。18世紀には,ヌーヴェル=フランスの経済が活性化し,毛皮だけでなく,小麦,えんどう豆,からす麦や,木材,アザラシ油や魚類の輸出が増えました。この頃から,ヌーヴェル=フランスのフランス系住民の間には,「カナダ=フランス語」が広まり,自らを「カナディエン(カナダ人)」と呼ぶようにもなっています
 また,1718年にはフランス領ルイジアナのミシシッピ川河口に,ヌーヴェル=オルレアン(新しいオルレアン)を建設。のちの
ニューオーリンズ(英語読み)です。カリブ海方面からの物資輸入の基地として栄えました。

 
1713年にイギリスは,スペイン継承戦争(植民地ではアン女王戦争) 後のユトレヒト条約ニューファンドランド島ノヴァスコシア(アカディア)も獲得しましたが,北アメリカ大陸の大部分はフランスの植民地のまま残っていました【セH2地図(ユトレヒト条約による北米植民地の支配地域を問う)】
 イギリスの政府は,植民地を発展させるために,ある程度の自治を許しました。”がっつり支配するよりは,資源の輸入先や市場としてゆる〜くキープしておいたほうが楽”というわけです。この政策を”有益なる怠慢”ともいいます(なまけているほうがラク)。

 北東部ニューイングランドは,本国で迫害を受けたプロテスタントたちが,集まってタウンを形成し,住民集会(タウン=ミーティング)で直接民主主義によって自治をおこなうことが許されていましたまた,経済的には,工業(製鉄・造船)が発達し,小麦などの農業も行われていました。
 一方の南部では,西インド諸島から黒人奴隷を輸入し,大農園(プランテーション【東京H9[1]指定語句】)で藍(青い染料がとれる植物)・タバコなどを商品として生産していました。
 この北部と南部の経済構造の違い19世紀中頃に勃発する南北戦争という内戦の遠因になっていきます。
 なお,1728年に,デンマーク人〈ベーリング【セH16時期・イェルマークではない】が,ロシアの〈ピョートル大帝〉(位16821725)の命でベーリング海峡を発見し,1741年に北アメリカ大陸の北西部アラスカ【セH18時期(17世紀ではない)に到達し,領有していますロシアは,1492年の〈コロン〉のアメリカ発見に約250年遅れたものの,ついに北アメリカ大陸にまで到達してしまったわけです。ロシアは,アラスカ周辺ラッコの毛皮を,中国と交易して利益を上げました。〈ジェームズ=クック〉も北アメリカの太平洋沿岸を探検しており,イギリスもラッコ漁の利権をめぐり,スペインと争うことになりました。

 17世紀の終わり頃から,ニューイングランド地方の植民者たちは西インド諸島のフランス人から糖蜜(砂糖を製造するときにできる液)を輸入して,自分たちでラム酒をつくるようになっていました。西インド諸島のフランス人たちはニューイングランド製のラム酒を買い,それで西アフリカの奴隷を買い付ける“第二の大西洋三角貿易”を始めていました。イギリスは,イギリス資本のラム酒製造を守るため1733年に糖蜜法を制定して規制を始めますが,糖蜜の密輸は続けられました。




1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
 
オランダ,イギリス,フランスは17世紀に入るとカリブ海に植民地を建設するようになります。彼らがねらったのは,スペインの防備の手薄な,小アンティル諸島です。
 イギリスでは,1651年に航海法が〈クロムウェル〉(15991658)により制定され,オランダ船の出入りを規制するようになっていました。「金銀財宝を持ち込めば国は豊かになる」という重金主義の時代が幕を閉じ,「いかに輸出額を輸入額よりも増やすかが,国を豊かにする秘訣!」という重商主義の時代が幕を開けていくのです。
 〈クロムウェル〉は取引先としてアメリカ大陸を重視し,
1654年にカリブ海のジャマイカを占領しています。17世紀の本格的な砂糖ブームに乗って,イギリスは大西洋をまたにかけてアフリカ西【共通一次 平1「東岸ではない」といいたいようだが,奴隷の積み出しは必ずしも西岸からとは限らない(モザンビークも)から,微妙な選択肢である】セH5主な拠点が西アフリカ沿岸であることを問う】と南アメリカとを結ぶ三角貿易(大西洋三角交易) 【東京H25[1]指定語句】 【共通一次 平1】を発展させていきます。
 マニュファク
チュア(工場制手工業)で生産した商品をアフリカに持ち込んで奴隷を購入し,奴隷を中間航路でアメリカ大陸のスペインなどの植民地【セH13スペイン植民地で黒人奴隷が導入されたかを問う】に運んで売りさばき,カリブ海の島々のサトウキビ農園【共通一次 平1「農場などでの労働力として使役されることはなかった」わけではない】で奴隷を働かせ,生産した砂糖【セH4】を仕入れてヨーロッパで売る。奴隷を含むモノとカネの流れは,全体としてはこのようになっていました。イギリスはこの大西洋三角交易で蓄えた資本を元手として,1760年代から始まる産業革命(工業化)に突入していくことになるのです。





1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ

1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現①メキシコ
 メキシコは
スペインのヌエバ=エスパーニャ副王領として植民地支配されています。
 先住民には
レパルティミエント制による低賃金労働が強制され,人口が激減。1631年にレパルティミエント制は廃止されました。



1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
 現在の
グアテマラエルサルバドルベリーズニカラグアホンジュラスコスタリカにあたる領域は,グアテマラ総督領としてスペインの植民地支配を受けています。



1650年~1760年のアメリカ  中央アメリカ 現⑧パナマ
 17世紀末にはスコットランドが,パナマを植民地化する計画(ダリエン計画)を進めようとしました
 しかし,イングランド側はスコットランドによる海外貿易の振興を敵視し,資本を引き上げ。
 スコットランドの植民地建設に対し,イングランド王〈ウィリアム3世〉は援助を与えず,スペインからの攻撃を受けて1700年に計画は頓挫しました。直後,スコットランドは1707年にイングランドに併合されることになります。
(注)渡辺邦博「ダリエン計画について」『社会科学雑誌』第4巻,2012年3月






1650年~1760年のアメリカ  カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現①キューバ

 キューバでは
スペインの植民地支配下で,アフリカから移送した黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションが行われています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現②ジャマイカ
 ジャマイカはスペインが植民地支配をおこなっていましたが,1655年に〈クロムウェル〉率いる共和制(コモンウェルス)時代のイングランドが,ジャマイカに進出し,支配圏を獲得します。

 折しも1650年に
アイルランドを植民地化していた〈クロムウェル〉は,アイルランド人の年季奉公人をジャマイカに移送し,労働力とします。
 その後,スペインのジャマイカの奪回に向けた努力が続きますが,1692年の大地震でスペイン時代の都市は壊滅,イギリスは新都を再建します。

 サトウキビのプランテーションの労働力として,アフリカから連行されてきた黒人奴隷の中には,支配を逃れて山中に逃げ込み,コミュニティを形成する者も現れます。逃亡黒人奴隷のことを
マルーンといい,1731~1739年に第一次マルーン戦争が起きています。
 指導者の一人に,ガーナのアシャンティ出身の〈グラニー=ナニー〉(1686~1733)がいます。彼女は逃亡奴隷の都市を建設し,交易ルートや軍隊を整備して多数の奴隷を解放し,イギリス軍と戦いました(ジャマイカの紙幣にはグラニー=ナニーの肖像画が印刷されています)。
 1739年の停戦時にマルーンの共同体は自由と土地を獲得しています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現③バハマ
バハマはカリブの海賊(黒ひげ)の根城に
 1647年にイギリスが植民を開始。
 しかし,当時のカリブ海は航行する船舶を襲撃する海賊(いわゆる“
カリブの海賊”,パイレーツ・オブ・カリビアンですね)の根城でした。 
 それに対しイギリス国王〈ジョージ1世〉は,〈ロジャーズ〉(1679~1732)をバハマ総督に任命。1718年に通称「黒ひげ」(エドワード=サッチ,1680?~1718)をはじめとする海賊を相当します(#漫画 「ONE PIECE」の黒ひげ海賊団提督の由来です)。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現④ハイチ
ライスワイク条約でハイチはフランス領となる
 スペインはイスパニョーラ島の部(現⑤ドミニカ共和国)を拠点に,サトウキビのプランテーションを行っていました。
 他方,フランスはイスパニョーラ島
西部(現④ハイチ)は17世紀後半からフランスが植民をすすめていき,1697年のライスワイク条約でイスパニョーラ島の西1/3はフランス領(フランス領サン=ドマング)となります。
 フランスはここで黒人奴隷を移送して,サトウキビやコーヒーのプランテーションをおこない,巨富を稼ぎ出していきます。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑤ドミニカ共和国
 イスパニョーラ島は1697年の
ライスワイク条約によって,東側3分の2がスペイン領サント・ドミンゴとなります。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
 プエルトリコは
スペインの植民地として支配されています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
 現在のアメリカ領ヴァージン諸島は,17世紀以降デンマーク領となります。
 
現在のイギリス領ヴァージン諸島は,1672年にイギリス領となります。
 現在のイギリス領
アンギラ島は,同じくイギリス領アンティグア島の管理下に置かれています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
 セントクリストファー=ネイビスをめぐっては,17世紀後半にイギリスとフランスが抗争し,その結果1713年にイギリス領となることが確定しました。
 ネイビス島で,のちにアメリカ合衆国の財務長官を務める〈ハミルトン〉(17551804)が生まれています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
 アンティグア島はイギリスの植民地,バーブーダ島はイギリスの貴族の所領となっています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
 モントセラトはイギリスの〈クロムウェル〉時代に,植民地化されたアイルランド人が移送され,アフリカから連行された黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えます。

 グアドループは
フランスによる黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えますが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中にイギリス軍が占領しています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑩ドミニカ国
 ドミニカ国はフランスにより植民地化されています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
 マルティニーク島にはフランスの入植がすすみ,1658年に島のカリブ人が虐殺されると,アフリカから移送された奴隷にる
サトウキビのプランテーションが盛んとなりました。
 マルティニーク島のサトウキビはフランスに莫大な富をもたらします。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑫セントルシア
 セントルシアをめぐっては,イギリスとフランスが抗争を続けています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
 セントビンセントおよびグレナディーン諸島は,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の18世紀後半に
イギリスの植民地となっています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑭バルバドス
 バルバドスは
イギリスの植民地支配下で,アイルランド人の年季奉公人や黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれています。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑮グレナダ
 バルバドスは
フランスの植民地支配下で黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれていましたが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の1762年にイギリスが植民地化します。



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
 トリニダード島とトバゴ島にはヨーロッパ諸国の植民が試みられています。
 17世紀後半には,バルト=ドイツ人の
クールラント公国が短期の間,植民しています(⇒16501760のヨーロッパ 東ヨーロッパ)



1650年~1760年のアメリカ  カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
 オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島はオランダ領となっています。





1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ

1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現①ブラジル

◆ブラジルでは金鉱が発見され,ポルトガルの植民地の拠点は南部に移っていった
金とダイヤモンドに翻弄されるブラジル
 ブラジルでは1693年~95年にミナス=ジェライスで金鉱が発見され,18世紀初めにかけて大量の
(きん)がポルトガルに輸出されました。また1729年にはダイヤモンドが発見され,こちらも大量に輸出されます。従来は宝石といえば真珠でしたが,17世紀半ばよりインド産のダイヤモンドが王侯貴族の間に普及していました。ポルトガル商人は,ヨーロッパの宝石商の妨害にあいつつも,ブラジル産のダイヤモンドの売出しに邁進します(注)
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.104。

 こうして植民地の中心は,かつてサトウキビのプランテーションの発展した北東部から
リオ==ジャネイロに移り,都市化が進むにつれて農牧業も発展していきました。

 18世紀半ばにはブラジル側を支配するポルトガルと,現在のアルゼンチン側を支配するスペインとの間に,ラ=プラタ川以東の土地をめぐる領土問題が発生しました。
 イエズス会はこの地でグァラニー人と共同生活を送りながら,農業・畜産指導や教育を通してキリスト教化していましたが,この地域がポルトガルに割譲されるとグァラニー人はイエズス会とともに抵抗(
グァラニー戦争,1753~56)。
 しかし,スペインとポルトガルにより鎮圧されました(◆世界文化遺産「グアラニのイエズス会布教施設群」,1983(1984範囲拡大)。現在のブラジルとアルゼンチンにまたがります)。


◆アフリカ出身の逃亡奴隷と先住民の共同体がポルトガルに鎮圧される
逃亡奴隷(キロンボ)と先住民の奴隷共同体が敗北
 ブラジル北東部には,逃亡奴隷(キロンボ)に先住民が加わった共同体が複数存在していました。
 そのうちのキロンボ=ドス=パルマーレス(1605~1695)は,ポルトガルの攻撃により崩壊します。

(注)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.207。




1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現②パラグアイ
 
パラグアイではイエズス会グアラニー人に対する布教がすすみ,ヨーロッパ諸国でイエズス会に対する弾圧が強まると(注),イエズス会とグアラニー人らは協力してポルトガルやスペインと戦いました。
 17~18世紀にイエズス会の伝道の拠点として築かれた都市が各地に残されています。(◆世界文化遺産「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲの
イエズス会伝道所群」,1993)。

(注)イエズス会は絶対主義や啓蒙思想を批判したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html


1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現③ウルグアイ,④アルゼンチン
グアラニー人とイエズス会が,スペイン勢力と争う
 ラプラタ川の河口を中心とする
アルゼンチンには,16世紀初め以降,スペイン人がブエノスアイレスを中心に植民を進めていきました。しかし,ブラジル方面から進出してきたポルトガルが,ラプラタ川を挟んだ対岸に都市を建設。これを拠点にバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイとほぼ同じ領域)が成立しましたが,スペインとポルトガル両国により,帰属をめぐる衝突が続きました。

 18世紀後半にスペイン国王によりイエズス会の弾圧政策がとられると,アルゼンチンのイエズス会(一種の”独立王国”を築いていました)は先住民のグアラニー人と協力して,スペイン当局と戦いました。これを
グァラニー戦争といいます。



1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑤チリ
 現在のチリはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。
 南部では
マプチェ人〔アウラカノ〕の首長国が独立を保っており,スペインは1536年から断続的にアウラコ戦争(15361883)を戦っています。



1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑥ボリビア
 現在のボリビアはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。当時はアルト=ペルー(高地ペルー)と呼ばれていました。
 
ポトシ銀山の採掘も続いています。



1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑦ペルー
 現在のペルーはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。

 18世紀に入るとインカ王の末裔(まつえい)を名乗る指導者による反乱が多発し,スペインの植民地支配を揺るがすようになります。
 インカ王の末裔〈インカ=ガルシラーソ===ベーガ〉(15391616)の『インカ皇統記』によってかつてのインカ王の支配が,強大な権力と権威を持つ「インカ帝国」としてイメージされるようになり,スペイン支配を排除しようとする人々の支持を得るようになっていきます。

 1717年には,南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)が,
ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されています。



1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
 1717年に南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)は,ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されています。


1650年~1760年のアメリカ  南アメリカ 現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
 ヨーロッパでは,北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し,第二次英蘭戦争(16651667)が始まりました。
 1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻し
ネーデルラント継承戦争(166768,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク【東京H22[1]指定語句】)を含む北アメリカ北東岸のニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。
 また,このときにオランダが占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は,
オランダ領ギアナ(現在のスリナム)になりました





●1650年~1760年のオセアニア

オランダ人によるオセアニア探検がすすむ
 1642年の〈タスマン(1603?1659?)の航海記が1694年にロンドンで出版され,その後も太平洋探検の旅行記が多数書かれ,ヨーロッパの人々の想像力をかきたてました。なかでも〈ダンピア〉(16521715)の『新世界周航記』はベストセラーとなります
 1722年の復活祭(イースター)の日にオランダ人の提督〈ロッヘフェーン〉は,イースター島のモアイをヨーロッパ人として初めて確認・報告しました()。3000人ほどの島民は枯渇した資源をめぐり絶え間ない戦闘に明け暮れていたといいます。ポリネシア人はラパ=ニュイ島と呼んでいます。
 その後,ソサエティ諸島やサモア諸島などを回って,ジャワに到達しています。オランダはジャワ島にすでにバタヴィア市を建設し拠点としていました
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ

1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
イースター島がオランダに「発見」される
 1722年の復活祭〔
イースター〕の夜に,オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉がラパ=ヌイ島を発見し,これをイースター島と命名します。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
 
タヒチには複数の首長国があり,1750年には抗争が起きていました。
 ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現③クック諸島
 この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現④ニウエ
 この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑤ニュージーランド
 
ニュージーランドではマオリが居住しています。まだヨーロッパ人よる植民は始まっていません。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑥トンガ
 トンガでは12世紀以降王権が強化され,ニウエ,サモアやソロモン諸島,ニューカレドニアにかけての広範囲に勢力を及ぼします。17世紀には内戦が起こっています。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
 この時期のアメリカ領サモア,サモアについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。
 ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
 
 
1722年オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉が沖合からサモアを「確認」しています。



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
 この時期のトケラウについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。 



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑨ツバル
 この時期のツバルについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。 



1650年~1760年のオセアニア  ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
 ハワイには複数の首長国がありました。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。




1650年~1760年のオセアニア  オーストラリア
 この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
 
アボリジナル〔アボリジニ〕が,狩猟採集生活を営んでいます。



1650年~1760年のオセアニア  メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現①フィジー
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません。



1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
 
ニューカレドニアにまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。


1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現③バヌアツ
 
バヌアツにはヨーロッパ人の植民は始まっていません。



1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現④ソロモン諸島
 
ソロモン諸島の一部にまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。



1650年~1760年のオセアニア  メラネシア 現⑤パプアニューギニア
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません。





1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現①マーシャル諸島
 
スペイン領となりますが,植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現②キリバス
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現③ナウル
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。



1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
 ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
 コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。


1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現⑤パラオ
 ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。



1650年~1760年のオセアニア  ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
 スペインが太平洋横断交易をスタートさせてからというもの,北マリアナ諸島やグアムの住民(
チャモロ人)はスペインとの交易もおこなっていました。
 1668年以降,スペインの
イエズス会が訪れるようになり,伝統的な信仰を守るためチャモロ人はスペイン勢力と戦争を起こします。この際,チャモロ人の大多数が犠牲となりました。





●1650年~1760年の中央ユーラシア

中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がはじまる

中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル

1650年~1760年の中央ユーラシア  東部・中部
◆女真の清が中国・満洲・台湾を直轄地として領域拡大するも,西方からロシアの進出が本格化
拡大する女真の清と,東方進出するロシアが衝突

 ツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)が1616年に建国した金(
後金,アイシン)は,モンゴル人や漢人を服属させて1636年には(しん)と改称して1644年に明を滅ぼし,拠点を北京にうつしていました。
 〈康煕帝〉のときに南部の漢人勢力をほろぼし,台湾の海賊勢力を排除し,中国本土・台湾・満洲を直轄地として確立させました。その後〈雍正帝〉・〈乾隆帝〉にかけて外征をくりかえし,外モンゴル(モンゴル高原)・チベット・タリム盆地・ジュンガル盆地方面まで領域を拡大させていきました。
 一方,西方から
ロシア帝国が東にすすんでいき,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約,1727年にはキャフタ条約を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める()()という制度も定められました。


最後の遊牧帝国ジュンガルが清に滅ぼされる

 天山山脈南部の
タリム盆地では,モグーリスターン=ハーン国衰えを見せていました。

 1637年に,チベットの〈ダライ=ラマ5世〉と提携し,オイラトを統一した〈バートル=ホンタイジ〉は,ジュンガル盆地(アルタイ山脈の南,天山山脈の北に囲まれた盆地)を中心に,最後の遊牧帝国ともいわれるジュンガル帝国【セH13・H19】【追H21を発展させていきます。
 しかし,1745年にジュンガルで内部争いが起こると,そのすきをみた清の乾隆帝【追H9明を滅ぼしていない】【セH19,H29康熙帝ではない】【追H21ホンタイジではない】が,1755年にジュンガルを滅ぼしてしまいました【セH13ジュンガルを滅ぼしたのはロシアではない】

 清の皇帝は,満洲・モンゴル・漢人によってその皇帝位が承認されており,その上でさらにモンゴルの王侯から「ハーン」の称号を受けていました。
 ですから,「ハーンなのだから,もともとチャガタイ
=ハーン国であったタリム盆地を,清の領土に加えるのは当然だ」という論理が成り立ちます。

 東トルキスタンは
1759年に「新疆」(新たな土地) 【セH17ホンタイジ,順治帝,康煕帝のときではない】として清の領土となりました。
 ただ,実際には支配機関
イリ川流域に置かれただけで,タリム盆地のオアシス農耕地帯の支配は遊牧民有力者をベグに任命して統治を任せるなど,中国伝統の”間接支配”が基本です。ベグの下ではイスラーム教による支配が守られ,ワクフ(公共建築物の寄進)により灌漑水路やマドラサなどが整備されていきました。

1650年~1760年の中央ユーラシア  チベット
チベットの〈ダライ=ラマ〉政権は清に領土を割譲
 チベットではオイラト系のモンゴル人〈グーシ=ハーン〉(15821654)が,チベットの全土を占領して,その領土を〈ダライ=ラマ5世〉に献上しました。〈ダライ=ラマ〉も,チベットに宗教的な政権を築き上げようとしていましたから,両者の意志が一致した結果です(〈カール大帝〉と〈レオ3世〉の関係と似ていますね)。
 これにより〈ダライ=ラマ5世〉はチベットの支配が認められ,チベット高原のラサには1660年に壮大なポタラ宮殿【セH23トプカプ宮殿ではない,セH30【追H20設計はカスティリオーネではない】が完成しました。彼は自らを観世音菩薩の生まれ変わりとし,チベット仏教の主要5派(元の時代に保護されたサキャ派や,ツォンカパの立ち上げた紅帽派など)の上に君臨します

 しかし,
17世紀初頭に〈グーシ=ハーン〉一族で内紛が起きると,これに清の皇帝〈雍正帝(ようせいてい)が介入し,チベットを分割してその東部を割譲させました。これ以降,チベット政府の支配領域は,チベット高原南部(ツァン地方)のみになってしまったわけです




1650年~1760年の中央ユーラシア  西部
◆ユーラシア大陸西部
ではモンゴル系やテュルク系の「タタール人」が,ロシア人に抵抗する
ロシアはコサックを鎮圧し,カザフ草原にも進出へ
 また,
ロシア帝国は,征服地の最前線にコサック(ロシア語でカザーク)という農民に防衛を担当させていました。「夷を以て夷を制す」のやり方です。
 しかし,ロシアからの支援が手薄になると,
167071にコサック(カザーク)の首領ステパン=ラージンが反乱を起こしましたが鎮圧されます。

 ロシアにとって,奥深い針葉樹林を抜けると一面に広がる草原地帯は,征服すべき”広い世界”であるとともに,遊牧民が進入してくる”危険地帯”でもあります。中央ユーラシアの中央部に広がる広大なカザフ草原当時,ウズベクから分離したカザフ人がハーンのもとで遊牧生活をしていました。
 他方,カザフ人は当時,南方から
チベットと提携したジュンガルの攻撃を受けるようになっていました。1723年のジュンガルによる侵攻で打撃を受けると,カザフ人のハーンは泣く泣くロシア帝国に保護を求め,外交と交易関係が結ばれることになりました
 
ロシアは今後,草原地帯のカザフ人を支配下に入れつつ,さらなる南下を狙うことになります。


 アム川下流域のホラズムではヒヴァ=ハーン国が,中流域のブハラを中心にブハラ=ハーン国が成立していました。しかし18世紀前半にイラン高原のアフシャール朝〈ナーディル=シャー〉が進入するなど平和ではありませんでした
 ブハラでは,ジャーン朝のハーンが〈ムハンマド
=ラヒーム〉により滅ぼされ,1756年にマンギト朝が成立しています。マンギト朝は18世紀末からイスラーム色を強めていきます。





1650年~1760年の中央ユーラシア  北部
◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
シベリア地方にロシア帝国が進出する

 さらに北部には
古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。

 さらにこの時期になると西方から
ロシア帝国が東進し,ツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人の居住地域も圧迫されていきます。





1650年~1760年のアジア

1650年~1760年のアジア  東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国

1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本
◆日本は外国の入国管理と貿易を制限し国内の開発をすすめ,国民意識が発展する
「大開発の時代」が行き詰まり,幕府は改革を断行
 中国では,1644年に清が北京に入城し,明の勢力は中国南部の各地で抵抗を続けました(南明)。この知らせを受けて,江戸幕府の儒学者〈林鵞峰〉(はやしがほう,16181680)は「夷狄(いてき。野蛮な民族)である女真(女直)が漢民族の明を滅ぼして清を建てた。清は夷狄のつくった王朝だから,中華ではない。むしろ日本が中華にふさわしい!」という考えをふくらませます。水戸藩の〈徳川光圀(水戸光圀,みつくに,16281700)が『大日本史』の編纂を命じたのは1657年,幕府が『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)の編纂を命じたのは1662年のことです。このように,本来は中国側からは夷狄とみられていた日本が,逆に自らを東アジア秩序の中心とみる考えを「小中華思想(しょうちゅうかしそう)と呼ぶことがあります。

 一方,江戸幕府は政治的に外国との距離を置き,国内の秩序づくりに努めました。台湾を拠点にした反清勢力〈鄭成功(ていせいこう)は日本人を母に持っていたこともあり,江戸幕府に救援を求めましたが,幕府はこれを拒否しています。
 ただし中国との経済的な関係は維持する政策をとり,管理下に置かれていたものの長崎での貿易は引き続き認められました。

 江戸幕府は農業生産の充実を目指し,各地で大規模開発が行われました。「大開発の時代」です。例えば,利根川の流路を江戸湾から太平洋に変更する工事が1654年に完成し,各地で用水路が建設され新田が開発されていきました。村々は領主から年貢米の納入をうけおい,城下町の倉庫に米が収められました。米や商品は藩内外に輸送され,東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路,東北地方の日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路,大坂と江戸を結ぶ南海路といった海運が発達し,大名は城下町や上方市場で年貢米を換金し,幕府財政にあてました。全国市場の成立に従って,1669年に全国統一の枡として京枡(きょうます)を指定しました。

 1651年に,徳川幕府の第3代将軍〈徳川家光〉が亡くなりました。第4代目の〈家綱〉は11歳であったため老中〈松平信綱〉や叔父〈保科正之〉(ほしなまさゆき)が支配しました。
 同年に,牢人による幕府転覆未遂事件である慶安事件が発覚し,1657年に明暦の大火が江戸を襲いました。

 1662年に,清に抵抗していた明の諸王による南明(なんみん)政権が滅び,台湾の〈鄭成功〉が滅ぶと,1663年に〈康煕帝〉は琉球王国【セ試行 清軍によって征服されていない】に冊封使を派遣し,〈尚質〉を国王にしました。

 琉球王国は,薩摩藩に服属しつつ,明からも冊封を受ける両属となりました。〈家綱〉は,これらに対して不干渉政策をとり,平和を重視しました。1645年と46年に,〈鄭成功〉(ていせいこう,16241662)は日本に対する援軍を依頼しましたが,日本側は拒否。〈鄭成功〉の母親は平戸の〈田川七左衛門〉の娘で,父〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,16041661)は海商でした。


 1669年にはアイヌの〈シャクシャイン〉が和人に対して蜂起しました。アイヌの戦いは1671年に鎮圧され,北海道の渡島(おしま)半島南部に和人が居住して商場(あきないば)での交易権を与えられ,松前藩が支配しました。

 1680年に五代将軍〈徳川綱吉(とくがわつなよし,,位16801709)が将軍を継ぎました。彼は〈柳沢吉保〉(やなぎさわよしやす,16581714)の補佐のもと,専制政治を進めるとともに,「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を改定して武士の価値観を軍事ではなく忠孝礼儀にあるとし,生類憐れみの令(動物だけでなく弱者を保護することを命じたもの)と服忌令(忌引の日数と喪に服す期間を定めたもの)により戦国時代の武断的な価値観を転換させようとしました。〈林鳳岡(信篤)(はやしほうこう,16441732)を大学頭に任命し,湯島に聖堂を建設させ,儒教を重視しました。同時に,仏教と神道も保護しています。

 1690年には愛媛県に別子(べっし)銅山が発見され,〈住友(すみとも)〉家の成長を支えました。

 しかし〈綱吉〉政権の末期には,1703年の元禄大地震が関東を襲い,1707年には富士山で「宝永の大噴火」が起こりました
 そんな中,1709年に〈徳川家宣〉(とくがわいえのぶ,位170912)が将軍を継ぎ,大老格であった〈柳沢吉保〉をやめさせ「生類憐みの令」を廃止,政治改革に乗り出しますがその途中で死去し,1712年には〈徳川家継〉(とくがわいえつぐ,位171316)が将軍を継ぎました。この間,政権の中心にあったのは,側用人〈間部詮房〉(まなべあきふさ,16671720)と儒学者〈新井白石〉(あらいはくせき,16571725)です。彼は生類憐れみの令を廃止し,儒教色の強い民衆教化を行おうとしました。また,金銀流出を防ぐために,1715年に海舶互市新例(かいはくごししんれい)を出して,中国の清(しん)とヨーロッパのネーデルラント連邦共和国(オランダ)との貿易規模を縮小させました

 1700年頃には耕地の拡大は一段落し,今度は,農業技術や肥料による生産力の向上が目指されるようになっていきますそれに従い,商品作物や加工品の生産も,全国で盛んになります。その中で,従来は輸入に頼っていた生糸や砂糖を「輸入代替」する動きも起こりました。
 東京・大阪・京都の三都の問屋は販売の専業化に向かい,特に越後屋(三井)は薄利多売方式で巨利を上げました。経済活動の活発化を背景にして,町人や農民を主体とする元禄文化が発展しま。人形浄瑠璃で好評を博した劇作家〈近松門左衛門〉の『国性爺合戦(本当は「姓」ですが,フィクションであることを示すため「性」という字を当てました)は,あの〈鄭成功〉をモデルとしたものです。

 1716年に〈徳川吉宗(在職171645)は第8代将軍に就任しました。彼は積極的に新田開発を推進し,幕府財政建て直しのために上米の制を定めました。〈吉宗〉のとき,儒学者〈青木昆陽〉の尽力により,中国の農書を参考にして,薩摩藩経由で琉球王国から取り寄せたサツマイモを東京の小石川御薬園で栽培し,全国に普及させました。荒れた畑でもよく育つため,飢えを防ぐ作物として重宝されました。西洋の学術にも興味を示し,キリスト教以外の洋書の輸入を解禁し,長崎を中心に蘭学(らんがく)が栄えました。フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(15171585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,16931761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています(16501760の東アジア 日本)。また,1728年にはヴェトナムからゾウを輸入し,長崎から江戸まで街道を歩かせています。
 1751年に後を継いだ第9代〈徳川家重〉(在任174560)は政治力に欠ける人物であったといい,享保の改革以来の増税に反対する大規模な百姓一揆(郡上一揆(ぐじょういっき))も起こっています()
()近世の農民にとって,年貢や諸役を納めることが百姓としての彼らの職分を果たすことだったのですが,それには領主が,きちんと耕地や水利の改良や配分のような勧農を行い「百姓(ひゃくしょう)成立(なりたち)(再生産の保障)をすることが引き換えとなっていたのです。これを保障しないような過酷な年貢諸役の賦課や二重賦課をしようものなら,農民は反対の訴訟や一揆を起こす根拠となりました。この源流は,中世の百姓における年貢の減免要求にもみられました。 佐藤和彦編『租税』(日本史小百科)東京堂出版,1997年,p.96p.189



1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本  小笠原諸島
 1675年に江戸幕府は小笠原諸島に調査船を送り「此島大日本之内也」という碑文を設置。「無人島」(ブニンジマ)と名付け,その名の通り人は住まず,植民もなされませんでした。



1650年~1760年のアジア  東アジア 現①日本  南西諸島
 琉球王国は明から清への交替(明清交替)に際し,どちらの王朝に対しても文書書き換え等で対応できるように細心の注意を払いました。南明政権(福王政権(164445),唐王(164546),魯王(164654),桂王(164761))が清に滅ぼされていくと,17世紀中頃に明から授かった印綬(いんじゅ)を清に返還し,清の冊封を受けるに至りました。
 17世紀中頃には,摂政(セッシー)の〈羽地朝秀〉(はねじちょうしゅう,16171676)が琉球王国政府の改革に乗り出しました。日本文化との融和策を打ち出すことで古い習慣をなくそうとしまし,夫役の緩和と開墾の奨励により農村を復興させました。1650年に著された歴史書『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)には,日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)の考え方がみられます。




1650
年~1760年のアジア 東アジア 現②台湾
台湾に漢人が多数移住する
 台湾にはオーストロネシア語族系の先住民が分布していましたが,1624~1662年の間,オランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕が南部に拠点を設けます。
 これを〈鄭成功〉(ていせいこう)が駆逐し,1662~1683年の間,清に滅ぼされた明を支援しつつ台湾に政権を樹立します。
 1683年に清の〈康煕帝〉は台湾の鄭氏政権を滅ぼし,清の直轄支配が始まりました。

 直轄地といっても,清は台湾を「
化外の地」(けがいのち,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)と位置づけ,オーストロネシア語族の諸民族は「化外の」(けがいのたみ,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)とされました。
 とはいえ,この時期に中国から漢人が大量に移住し,のちに「本省人」(ほんしょうじん)といわれる民族グループを形成していきます。出身地としては福建省,広東省が多いです。





1650
年~1760年のアジア 東アジア 現③中国
◆清は集団ごとに様々な権威を利用し,広大な領土を直接・間接支配した
清は,北方草原地帯と南方農耕民地帯を合わせる
 
1661年にたった8歳で即位した〈康煕帝〉は,中国における支配制度を整えていきました。「少数の女真(女直)人が,多数は漢人をどう支配するか?」これが一番の大問題です。
 もちろん8歳で政治をとることができるわけはないので,政務は〈順治帝〉以来に〈ホンタイジ〉の后がとっています。この后は〈チンギス=ハン〉のボルジギン家の末裔です。

 軍事的にはモンゴル人に組織させた蒙古八旗や,女真(女直)人(満洲人と改称しています)に組織させた満洲八旗と同様に,漢人八旗【セH8漢人部隊が含まれなかったわけではない】【※意外と頻度低い】を整備しました。また,常備軍として緑営(りょくえい)【※意外と頻度低い】も組織しました。
 
また,科挙を実施し,行政には漢民族の官僚を中央や地方で積極的に用いました【セH15「明の官僚制度を廃止し中央の要職には漢民族を採用しなかった」わけではない】儒教のテキストを編纂させる巨大プロジェクトを実施し,儒教界にも影響を与えようとします。〈康熙(こうき)(てい)【京都H21[2]】【セH11満洲文字を定めていない】(注)は4万7035字を部首・画数別に収録した,中国史上最大の漢字辞典である『康煕字典』を編纂させました(1716年完成)。その後の〈雍正帝(ようせいてい)〉は,中国最大の1万巻を誇る中国文学全集『古今(ここん)図書(としょ)集成(しゅうせい)』(1725年完成)。
 さらに次の〈乾隆帝〉
【セH15永楽帝ではない】は7万9070巻の大文学全集『四庫全書【セH11:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う】【セH15】を,考証学者の〈戴震〉(たいしん)らに編纂させました(1746年に完成)。「四庫」というのは,経・史・子・集(けいしししゅう)という4つの分類に従って,古くから伝わる中国の漢籍を収めたことにちなみます。
 最大領域を実現した〈乾隆帝〉は『
五体清文鑑』(ごたいしんぶんかん) 【東京H12[2]何語の辞典であるか問う】という中国語・満洲語・チベット語【東京H12[2]】・ウイグル語【東京H12[2]】・モンゴル語【東京H12[2]】の5ヶ国語対照辞典を編纂させています。
 あわせて文字の獄(もんじのごく) 【東京H12[1]指定語句,H25[3]【セH13,セH15反清思想に対して寛大であったわけではない】【セH8】禁書【追H21清代か問う】【セH8】などの思想統制を実施します【セH29朱全忠が行ったわけではない】
 こんな状況下で下手に新しい意見を言うと弾圧の対象になってしまうおそれもあります。そこで,過去に書かれた経典の文章が,どういう経緯で書かれ,どのような解釈をすればいいのかを研究する
考証学【セH25】が儒学の主流になっていったのです。
 経書というのは別々に成立したものですから,相互に矛盾しているところがたくさんあるのは当たり前。そこに整合性を付けていく作業をしていったわけです。〈顧炎武〉(こえんぶ,1613~1682) 【セH13考証学を批判していない,セH15銭大昕の唱えた学説を発展させたわけではない,セH26時期】が考証学【セH25】の祖とされます。〈銭大昕〉(せんたいきん,1728~1804) 【セH15時期(顧炎武よりも後の人物)】は『二十二史考異』を著し,歴代の正史に注をつけました(正史は一般に「二十四史」とされますが,ここでは新唐書と旧唐書,新五代史と旧五代史がそれぞれ1つとしてカウントされています)
 一方,皇帝独裁批判をした〈王夫之(船山)〉(おうふうし,1619~1692)のように,「異民族」の王朝である清に対して抵抗する学者もいました。彼の作品の多くは清の政府により禁書にされ,日の目をみたのは19世紀後半の〈曾国藩〉(そうこくはん)によります。
 〈
戴震〉(たいしん,1724~1777)は,『孟子字義疏証』(もうしじぎそしょう)で儒教の概念について解説し,欲望を肯定した合理的で自由な思想を展開しています。また,地理・暦法・音声などの周辺の領域を駆使して考証学の手法を確立させました。〈段玉裁〉(だんぎょくさい,1735~1815)は〈戴震〉を師匠とし,音韻(おんいん)に注目するとともに,『説文解字注』(後漢の〈許慎〉(生没年不詳)による『説文解字』(100年頃に成立)の註釈⇒紀元前後~200年の中国)を著し,字の音や意味がどのように変遷していったのかを実例を挙げながら整理しました。
(注)1661年に〈順治帝〉がなくなり,子の〈康熙帝〉が即位。改元したのは翌年で1662年が康熙元年だから,即位と1年ずれる。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122


◆清は東シナ海一帯の〈鄭成功〉を鎮圧するが,華僑の東南アジアへの拡大がすすむ
「経済」の中心である南部の海上勢力を鎮圧する

 さて,〈康煕帝〉が即位したころは,まだ明の勢力も各地で抵抗を続けており,そのうちもっとも手強い勢力が,東シナ海一帯に海軍を保有していた〈鄭成功(162462)の一派でした。
 1661年にはオランダから台湾を奪い,台湾から中国大陸の反明勢力を支援しました。清の〈康煕帝(16611722)は〈鄭成功〉を孤立させるために海禁政策(遷界令)をとり,83年にこれを滅ぼしました。
 海禁政策は東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東)の中国人商人は,東南アジアに追われ移住をしていくようになります。
 彼らは
南洋華僑と呼ばれ,東南アジアを拠点に各地に出身者別に交易ネットワークを張り巡らせ,海域世界を牛耳ります。

 1673年には,漢人武将呉三桂【セH8李自成ではない,セH11清朝に協力したか問う】【セH18李自成ではない】たちに清に強力した褒美として与えていた中国南部【セH16満洲ではない】三藩をとりつぶそうとしたため反乱を起すと,〈康煕(こうき)(てい)【セH8乾隆帝ではない】大砲をドンドコ打ち徹底的に鎮圧しました(167381三藩の乱【セH14時期(ネルチンスク条約の頃かを問う,セH18】【セH8乾隆帝のときではない】【追H30中国東北部ではない】)。大砲技術は,ベルギー出身のイエズス会の宣教師で,欽天監(天文台の官庁)で天体観測をおこない,『坤輿全図』の作成でも知られる〈フェルビースト〉(南懐仁(なんかいじん),1623~88)【セH14イグナティウス=ロヨラではない】【追H30『幾何原本』は翻訳していない】から指導を受けたものです。
 これ以降は,漢人による大規模な抵抗運動はなくなりました。


 
しかし,北方ではロシア帝国の極東への進出が本格化していました。
 
1689年には黒竜江(アムール川)にまで進出したことから,一触即発の事態となりますが,「ロシアと戦うよりは和平を結んだほうがいい。オイラトの一派であるジュンガル部を倒すほうが今は重要だ」と考え,1689年にネルチンスク条約【セH13史料(第一条が出題)キャフタ・アイグン・ペキンではない】を結び,スタノヴォイ山脈を清露の国境線としました。清が対等な関係で外国と取り決めをしたのは,史上初のことです。

 ロシアとの和平を結んだ
〈康煕帝〉は安心し,みずから遠征して1697年ジュンガル部の〈ガルダン=ハーン〉を破り,外モンゴル(=モンゴル高原)を平定しました。

雍正帝(ようせいてい)はジュンガルとの提携を阻止するためチベットを併合し,軍機処(ぐんきしょ)をもうけた
雍正帝はチベット仏教圏(ジュンガル,チベット)に進出する
 負けた
ジュンガルは本拠地をタリム盆地にうつし,チベットの黄帽派【東京H12[2]】の教主〈ダライ=ラマ〉のちからを借りて勢力を盛り返そうとしました。
 
「チベットとジュンガルが組んだら面倒だ」と考えた次の〈雍正帝(ようせいてい,在位172335) 【京都H22[2]】は,チベット【京都H22[2]】分割して一部を併合し,勢力下に入れたのです(雍正帝のチベット分割)領土を増やした雍正帝【セH24康煕帝ではない】は,ロシア勢力との国境を決めるため,1727年にキャフタ条約【セH17サハリンを領有したわけではない,セH24南京条約ではない】で,バイカル湖の南方の国境も確定しました。同時にこのとき,ロシアの通商・外交・布教の権利を認めています
 
軍機処【セH17隋唐代ではない,セH24【セH8漢人が要職につけなかったわけではない】という機関を設置したのも〈雍正帝〉です。当初は,ジュンガル遠征の際につくられた臨時の機関でした。今まで設けられていた内閣にはすぐに言うことを聞かない勢力もおり,手続きが面倒で迅速な決定には向かなかったのです。満洲の皇族や貴族から構成される会議(議政王大臣会議)も面倒な存在です。高級官僚の半数を満洲人,もう半数を漢人とする満漢(偶数)併用制セH5モンゴル人と漢人が約半数ずつ高級官僚に任命されたわけではない,セH8漢人が要職につけなかったわけではない】をおこなっていたこともあり,中国語と満州語の翻訳も悩みのタネです。かといって,皇帝の意のままに政治をするとなると,皇帝の業務量はハンパではなくなります(官僚からの皇帝に向けて私信(奏摺(そうしゅう))の数は膨大で,皇帝はその一つ一つに朱書きで訂正や決済の処理をしていました)
 そこで,スムーズに政策を決定することができるよう,はじめは皇帝がツバをつけた数人の軍機大臣(漢人も任命されています)に軍事に関することを任せて処理させていたのですが,やがて一般の政治に関する事項も軍機処の担当になりました。軍機処は皇帝の意を受け,不正を防ぐための制度を遵守して迅速に政務をこなすようになり,それにともなって従来の
内閣や議政王大臣会議は形だけのものになっていきました。

◆〈乾隆帝〉のときにジュンガルを平定し,新疆を設置,最大領域を実現した
タリム盆地は「新疆」として間接支配下に置かれる
 〈雍正帝〉が亡くなると,遺言に従って次に〈乾隆帝(173596) 【セH17が即位しました。
 〈康煕帝〉→〈雍正帝〉→〈乾隆帝〉の時代は“三世の春”といって,清の統治が充実した時期にあたりますが,〈雍正帝〉は自分の亡き後,無能な者が跡を継がないように,生前から蝋による封印文書の中で跡継ぎを指名していたのです。

 〈乾隆帝〉は10回にわたってみずから遠征し(十全武功),みずからを十全老人と誇ります。
 彼は
オイラトの一派であるジュンガル【京都H22[2]】を平定し,東トルキスタンを「新疆(しんきょう,新しい領域)名付け,支配下に組み込みました。
 新疆も含め
広大な領域を勢力下に収めることとなった清は,その領域を直轄地藩部(はんぶ)と朝貢国の3つのレベルに分けます。
 モンゴル青海チベット【セH15,セH20明の藩部ではない】【セH8モンゴル,東トルキスタン,チベットではない】新疆は,藩部【セH20】【セH8】とされ理藩院【東京H21[1]指定語句】【セH13中書省ではない,セH15,セH17ホンタイジ・順治帝・康煕帝のときではない,セH24【セH6都護府とのひっかけ,セH8門下省ではない】が担当し,間接支配がされました。
 
中国本土と,満洲人のふるさとである東北部【セH16三藩は設置されていない】【セH8】,それに台湾直轄地です。この広大な領土に〈乾隆帝〉は莫大な経費をかけて巡幸(じゅんこう)しました。とくに江南への巡幸は6度おこなっています(六巡南下)。皇帝がやってくるのですから,料理も豪華でなければなりません。「象の鼻,毒蛇,麝香猫(じやこうねこ),つばめの巣,フカヒレ,銀耳(シロキクラゲ)などの高級材料や珍奇な材料をぜいたくに用い,2~3日にわたって食べる料理」()である満漢(まんかん)全席(ぜんせき)。ふるまったのは揚州で塩の商人がふるまったのが最初とされます。この材料として日本から俵物(たわらもの)(干し鮑やナマコ,フカヒレ)が盛んに輸出されました。いわば“巡幸特需”です
 東南アジア諸国の中には,清に
朝貢をおこなっていた国もあります。朝鮮や琉球王国は,定期的に朝貢使節を送っていました。
(注)『世界大百科事典』平凡社


◆戸籍から逃れる人が多かったため,税制を簡素化する改革をおこなった
税制は一条鞭法から,地丁銀制に転換される
 財政の規模が大きくなるにつれ
効率的な税制が求められ,18世紀には地丁銀制(ちていぎんせい) 【共通一次 平1:清代か問う】【セH7一条鞭法ではない】【セH16地税と丁税を別々に徴収するわけではない,セH23時期・時期】【追H30隋代ではない】が実施されるようになります。これは,従来別々にとっていた丁税(ていぜい,人頭税)土地税に組み込んで,土地の所有者【共通一次 平1:佃戸ではない】に対して徴税する【共通一次 平1】制度です。
 実質的に丁税はなくなったので,従来,丁税の対象としてカウントされるのがイヤで隠れていた人々が表面化するようになり,かえって安定的に地税を集めることが可能となりました
 納税は原則的に銀でされました
【共通一次 平1】。〈康煕帝〉の時代である1717年に広東省から始まり,〈雍正帝〉のときに全国に拡大されました。


 1741年の人口調査によれば,清の人口は1億1億4341万1559人。当然ながら遺漏はあるものの,よく補足したものです。

◆商工業が発展し,庶民文化が栄えた
庶民文化が盛ん,宮廷文化はヨーロッパの影響も
 清代は,商工業が発展し,庶民文化も栄えた時代です。
 科挙をめぐるドロドロの人間模様や儒者の破廉恥(はれんち)な有り様を描いた〈呉敬梓〉(ごけいし,1701~1754)の『儒林外史』(じゅりんがいし,174549) 【明文H30記】,〈曹雪芹〉(そうせっきん,1715?~1763?64?)の封建貴族への批判もこめられた中国史上最高とも歌われる恋愛小説『紅楼夢(こうろうむ,1791) 【セH15】,〈蒲松齢〉(ほしょうれい,1640~1715)の伝奇小説『聊斎志異(りょうさいしい,1766,成立は1779)が代表です。戯曲では〈洪昇〉(1645~1704)の『長生殿』(ちょうせいでん,唐の〈玄宗〉と〈楊貴妃〉の悲恋がモチーフ,1688),〈孔尚任〉(こうしょうじん,1648~1718)の『桃花扇』(とうかせん,1699)が人気を博しました。

 絵画の世界では,イエズス会の〈
カスティリオーネ(郎世寧,16881766) 【セH14『幾何原本』を著していない】【追H21】〈雍正帝〉と〈乾隆帝〉につかえ西洋美術の技法を伝え,円明園【セH8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H20ヴェルサイユ宮殿,サン=スーシ宮殿,ポタラ宮殿ではない】の設計にも携わっています【セH14ラファエロではない】
 
一方で,〈八大山人〉(はちだいさんじん,16261705)や〈石濤〉(せきとう,1641?1707?)南宗画(なんしゅうが)に自由な発想を持ち込み,数多くの個性的な山水画を残しました


◆イエズス会の宣教師が清の支配層にヨーロッパの科学技術を伝え,ヨーロッパに中国思想・制度・美術を伝えた
イエズス会の宣教師が,中国とヨーロッパをつなぐ
 一方で,ヨーロッパ人の来航も増えています。
 とくに
イエズス会【セH2プロテスタント系ではない】の宣教師は,科学技術を伝える者として清で重用され,ドイツ人の〈アダム=シャール(15911666) 【セH23元代ではない】1627年に北京へ,ベルギー人の〈フェルビースト(162388)1670年に北京へ入り,2人は天文観測の分野で活躍をしました。〈アダム=シャール〉は徐光啓(じょこうけい) 【セH2マテオ=リッチと協力したか問う】【セH23李時珍ではない】【法政法H28記】と協力して『崇禎暦書』(すうていれきしょ)【セH23】を発表,のち清になって1645年に時憲暦(じけんれき)と呼ばれ実用化されました。〈徐光啓〉は,明の〈万暦帝〉(ばんれきてい)の宮廷につかえた〈マテオ=リッチ〉(利瑪竇(りまとう)1552~1610)【セH14カスティリオーネではない,セH19ミュンツァーではない,セH21清ではない】【セH2,セH8元を訪問していない】【追H30フェルビーストではない】と名乗って活動し,ヘレニズム時代の〈エウクレイデス〉の研究書を『幾何原本』(きかげんぽん) 【セH2「ヨーロッパの数学」】【追H30】【※意外と頻度低い】として中国語訳しました。図形に関する数学を「幾何学」と呼ぶのは,これが元です。また『坤輿万国全図』(こんよばんこくぜんず)【セH13乾隆帝の命でつくられたわけではない,セH15皇輿全覧図とは異なる,セH19】という世界地図【セH14】も製作しました。
 フランス人の
ブーヴェ(16561730) 【セH2皇輿全覧図を作成したか問う】【セH21】1687年に〈ルイ14世〉に派遣された宣教師団の一員として寧波に来航し,88年に北京に入り,のち実測による中国地図皇輿全覧図(こうよぜんらんず)【セH15図版(アフリカ大陸・アメリカ大陸は含まない),セH21】【セH2ブーヴェの作成か問う,セH8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H30宋代ではない】を作成し『康熙帝伝』(1697)により中国の様子をフランスの〈ルイ14〉に伝えました。イタリア人の〈カスティリオーネ(16881766)1715年に北京入りし,暦・地図・画法を伝えました。

 〈マテオ=リッチ〉は,キリスト教の神がどんな存在かを中国人に説明するのは難しいと考え,ラテン語のデウス(神)を,中国人になじみの深い「天」という言葉を使い「天主」と訳しました。また,〈孔子の崇拝祖先の祭祀を認める【セH21否定していない】方策をとり,中国人の信仰に合わせる形で柔軟に布教しました。この方式をイエズス会の「適応主義」といいます()
 しかし,以前から中国で布教していた〈フランチェスコ〉派などの他の派の宣教師は,イエズス会の方式を問題視し,ローマ教皇に訴えたことから,教皇はイエズス会の布教法を否定する事態に発展。しかし,イエズス会から最新情報や技術を得ていた清にとってイエズス会の存在は捨てがたく,1706年に〈康煕帝〉は
イエズス会以外の宣教師の布教を禁止しました【セH15】。これを「典礼問題(布教の方法をめぐる問題) 【セA H30清ではない】【※意外と頻度低い】といいます。そこで〈雍正帝〉はキリスト教の布教を禁止して対抗しました。
 イエズス会士は中国の文化をヨーロッパに伝える役目も果たし,フランスの思想家の〈
ヴォルテール〉(1694~1778) 【セH2,セH12『経済表』を書いていない】や,『経済表』【セH12ヴォルテールが書いていない】の著者で経済学者の〈ケネー(16941774)は,中国の政治や思想を高く評価しています。
 17~18世紀のヨーロッパで広がった中国文化の受容を,
シノワズリー【東京H12[1]論述】【大阪H30論述】(フランス語で「中国趣味」という意味, chinoiserie)といい,ヴェルサイユ宮殿【追H20カスティリオーネの設計ではない】の庭園の中に,中国風の建物を持つ休憩用の小宮殿(トリアノン宮)は〈マリ=アントワネット〉に愛用されました(のちに第一次世界大戦の際に連合国とハンガリーとの講和条約の締結に,このうちのグラン=トリアノンが使用されました(⇒1920~1929のヨーロッパ))

◆「互市」が各地に置かれ,民間交易も盛んになっていく
海上交易は1757
年に広州で限定的に公認される
 台湾【セH8】の〈鄭成功(ていせいこう,162462) 【セH8】が清に降伏すると,海禁(かいきん)緩和され,1685年に税関(海関。かつての市舶司から改名)が設置されました。海関に管理させるという形で民間交易を認めたわけです。
 もちろん,皇帝による朝貢貿易も続いてはいますが,
「買いたい人がいるときに品物を手に入れたい!」「買ってくれる人がいるところに商品を持っていきたい!」と思うのは商人にとって当たり前。
 民間の
互市貿易(ごしぼうえき,貿易をしてもいい場所を決めて,ヨーロッパ人を含めた民間商人の取引を許可すること)のほうが普通になっていきました。

 ところが,ヨーロッパ
船の来航が増えると1757年に〈乾隆帝〉は来航を広州一港に限定【セH2泉州ではない,セH4「門戸開放」を進めたので,中国人の海外移住が促進されたのではない】【セH18・H27】,特権商人の組合(公行(こほん)) 【セH2,H10「(アヘン戦争前に)公行に欧米諸国との海上貿易の独占権を与えていた」か問う】【セH22,セH27広州の位置を問う】のみが外国貿易を管理できるものとしました【セH28,セH30泉州ではない】
 事実上,朝貢貿易以外の形の交易を認めたことになります

 しかし
その直後1760年代からイギリスで産業革命(工業化)が起きると,イギリスは19世紀にかけて自由な貿易を要求していくことになりますが,アジアの海域に張り巡らされた様々な民族の商人ネットワークが大きな壁として立ちはだかることになります
()吉澤誠一郎「思想のグローバル・ヒストリー」水島司『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.156





1650年~1760年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
朝鮮王朝は日本との国交を回復し,対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じた貿易が行われていました。江戸時代を通じて12回の「通信使【セH10が江戸に派遣され,日本と対等な外交関係を築きました(ただし江戸幕府にとっての通信使には,朝鮮を“従えている”というアピールの意味もありました)。
 同時に,朝鮮は清からの冊封(さくほう)を受けていましたが,自分たちのほうが女真(女直)人より“上”だという意識から「小中華思想」も根強いものがありました。貿易は日本との釜山での貿易と,清との朝貢貿易に限定されていました。
 科挙により官僚を出した家柄は「
両班」(ヤンバン)と呼ばれ,その高い社会的地位はしだいに世襲化されて身分のようになっていきました。
 17世紀初めに新大陸原産のトウガラシ
【追H20宋代の中国にはない】が朝鮮半島に伝来すると,保存食として以前から作られていた漬物に使用され,辛いキムチがつくられるようになりました。白菜をつかったキムチはペギュキムチといいます。農業の開発にともない商業も発展し,実学の普及も進みました。
 〈
英祖〉(位172476)のときに法典が整備され,均役法が制定されました。また,奴婢制の改革をし,両親のどちらかが良人であれば,その子も良人であるということになりました。奴婢は19世紀半ばにはほぼ消滅しました。パンソリという音楽劇が成立するのも,この頃です。





1650年~1760年のアジア  東南アジ
東南アジア
…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー

◆大陸部ではビルマが強大化し,カンボジア・ラオスが分裂により弱体化した
 
17世紀初め,東シナ海を中心とする海域世界に強力な海軍を保有していたのは,交易集団の首領〈鄭成功(ていせいこう)(162462) 【セH10【セA H30台湾が拠点か問う】【中央文H27記】の一派です。彼の勢力は,1661年にはオランダから台湾を奪い,台湾【セ試行 】【セH10琉球ではない】を拠点として中国大陸の反勢力(明(13681644)の王族の末裔の建てていた政権)を支援し,海域も含めたアジア地域を統一する政権を建てることを夢見ていました。
 しかし,清の
康煕(こうき)(てい)(16611722)【追H9六諭を発布していない】【セH17理藩院・新疆は無関係,セH29試行 即位の年代(グラフ問題)〈鄭成功〉(ていせいこう)を孤立させるために海禁政策(遷界令(せんかいれい))をとります。海岸近くの住民を強制退去とし,立ち入り禁止としたのです。そうすれば〈鄭成功〉は補給を大陸から得ることができなくなります。

 16
83年に〈鄭〉氏一族は滅び,台湾【セH15地図・時期(康煕帝の代)】は直轄地に加えられました【セH14台湾を初めて領有した中国王朝を問う(清),セH19時期】
 これ以降,台湾島ではオーストロネシア語族の先住民に加え,漢人の人口が増加していきます。

◆台湾島は直轄化され,海関のみでの交易が許可される
東シナ海沿岸の漢人が東南アジアに大移動する
 康煕帝は1684年に展界令を出して,遷界令を解除。広州((えつ)),漳州((びん)),寧波(),上海()4か所に海関という役所を設置して,ここでの貿易のみ許可します

 この「海禁」政策は,東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東) 【セ試行 山西省・安徽省出身ではない】中国人商人の東南アジアへの移住が始まりました
 はじめは海外の長期滞在を禁じていましたが,食糧を輸入する必要もあったため,のちに緩和。彼らは
南洋華僑(華人)と呼ばれ,東南アジア各地に会館【セH2唐代ではない】や公所【セH2唐代ではない,H7,H10同業組合の力を背景に都市の自治権を獲得していったわけではない】【セH16,セH21租界】という同郷者の助け合い(互助)組織【セH10【セH28】をつくり旅先でお金を貸し合ったり,ビジネスの情報交換などをおこなっていき,東南アジアで影響力を及ぼしていくことになります。
 メコン川下流域
ではミトやカントーなど中国人の商業都市も生まれ,中国出身者が衰えていたカンボジア王国の政治や,タイ人の国家アユタヤ朝に介入するようになりました。タイではその後,アユタヤ朝の滅亡後の1768年に,中国人(潮州出身)らの支援で〈ターク=シン〉が短期間ではありますがトンブリー朝を建国しています。





1650
年~1760年のアジア  東南アジア  現①ヴェトナム
ヴェトナムの黎朝の権威が衰え,南北に分裂する
 ヴェトナムでは,黎朝の皇帝はなんとか存続していましたが,政治的には南北に分裂していました。
 北のハノイを中心とする
紅河流域の鄭氏の大越と,中南部の阮氏の広南の対立です



1650年~1760年のアジア  東南アジア  現②フィリピン
スペイン領フィリピンに,多数の華僑が進出する
 フィリピンはスペインの植民地支配の下,海上交易の拠点として栄えます。
 中国人が多数移住し,現地のマレー系住民とも混血して支配階層を形づくっていきます(
フィリピンの華僑)。やがて中国系住民と在来住民との軋轢(あつれき)も生じ,17世紀前半には中国系住民の反乱が起きています。
 スペインによる住民のカトリック化も進んでいます。

 一方,フィリピン諸島南部はスペインの植民地支配に対して強く抵抗し,
ミンダナオ島やスル諸島のイスラーム教徒はスペインと戦闘を続けます。



1650年~1760年のアジア  東南アジア  現③ブルネイ
 ヨーロッパ諸国のブルネイへの関心は低く,植民はすすみませんでした。



1650年~1760年のアジア  東南アジア  現④東ティモール
 
ティモール島は,16世紀初め以来ポルトガルの植民地となり,ビャクダンの輸出などにより富が流出しました。
 その後,西方のインドネシア方面から
オランダの進出を受けることとなっていきます。


1650年~1760年のアジア  東南アジア  現⑤インドネシア
◆オランダは,島しょ部の交易拠点を拠点に領土支配に向かう
コショウはもう儲からんので,領土支配に切り替える
 1619年にジャワ島に拠点バタヴィアを置いていたオランダは,16世紀後半にスラウェシ島南部のマカッサル王国を崩壊させます
 この王国は,香辛料の産地マルク諸島との交易で栄えており,オランダはマルク諸島を支配権に収めるために,マカッサル人に敵対的なブギス人と組んで,滅ぼしたのです。
 オランダは
16世紀後半には,スラウェシ島北部やマルク諸島にも支配地域を拡大しています。
 
さらに,1623年のアンボイナ事件【明文H30記「モルッカ諸島の基地で起きた事件」】【早法H24[5]指定語句】を起こして,イングランド【明文H30記】東南アジアから撤退させました。

 
1670年代末までにオランダは島しょ部の支配権を確立しましたが,とき同じくしてヨーロッパ市場でコショウ価格が暴落しましています。さらに,オランダは1661年に,日本の生糸交易の拠点だった台湾を〈鄭成功〉に奪われました。日本も「鎖国」政策をとったため,交易ブームは収束していったのです

 
この頃から,オランダ東インド会社の軸は「貿易」から「領土支配」に変化していきます。
 コショウ貿易で
もうからなくなった分を,商品作物のプランテーションによって穴埋めしようとしたのです。現地から,綿糸,香辛料,ツバメの巣(中華の食材に使用する),真珠,藍(青い着色剤),硫黄(火薬の原料),食料や木材,を住民に割り当てて徴収させました。

 注意しなければいけないのは,この時点ではオランダは各地の拠点をおさえていただけで,海域も含めて完全に支配することはできておらず,18世紀以降の強力な植民地支配のような状態ではなかったということです。海域の支配が実現されるのは,19世紀後半の蒸気船(1807年に発明)の普及のことでした。


ジャワ島にコーヒー栽培が導入される
 のちに,1650年にオックスフォードでヨーロッパ初のコーヒーハウスが開業されて以降(52年にはロンドンで開業),ヨーロッパで人気が出始めていたコーヒーの栽培が17世紀末~18世紀初めに導入されると,主流になっていきました。
 コーヒーの生産量を増やすには,人手を増やすしかありません。オランダに栽培を強制されたジャワ西部の首長たちは,農民の食糧確保のために稲の水田開発に乗り出しました。以前は焼畑農業を営んでいたこの地の首長の権力
が,一転して強まっていくことになりました

 
各地で,オランダに対する反乱や抵抗も見られるようになる中,マタラム王国の内紛にオランダがが介入し,1755年には2つの勢力に分裂し,ほとんど無力になりました(マタラム王国の分裂)
 オランダは,
1752年に西部ジャワのバンテン王国も支配下に置き(属国),ちゃくちゃくと属国と直轄領地域を増やしていき,1758年頃にはジャワ島の大部分の植民地化を完了させています。

 スマトラ島の
アチェ王国,西部ジャワのバンテン王国,東部ジャワのマタラム王国といったイスラーム教国は,内紛やオランダの介入などにより,繁栄は衰退に向かいました。




1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑥シンガポール,⑦マレーシア

マラッカの支配圏がポルトガルからオランダへ移る
 ポルトガル領のマラッカは,1641年にオランダとジョホール王国が奪い,これによりオランダ領マラッカが成立しました。
 この地域におけるポルトガルの覇権に,終止符が打たれたわけです。



1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑧カンボジア
カンボジアの王家は分裂し,衰退する
 メコン川中流域のクメール人のカンボジア王国は,17世紀後半から東西に分裂していました。東の勢力はヴェトナム,西の勢力はシャムとそれぞれ提携する形となっています。


1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑨ラオス
ラオスの王家は18世紀に分裂して衰退に向かう
 メコン川上流,現在のラオスに位置するラーオ人(タイ人の一派)のラーンサーン王国は,〈スリニャウォンサー〉王(位163794)のもとで最盛期を迎えます。メコン川上流の中国やビルマ北部から,メコン川下流を結ぶ交易で潤いました。

 しかし,
18世紀初めに北方のルアンパバーンと,中部のウィエンチャンの王家に分裂。さらに,1713年には南方のチャンパーサックで王国を開いたため,3分裂状態となりました。



1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑩タイ
アユタヤは米輸出で栄えるがビルマの攻撃受ける

 チャオプラヤー川流域のアユタヤ朝【セ試行 16・17世紀のアジアについての問い。コンバウン朝ではない】支配下のシャム(現・タイ)は,18世紀初めから,主に中国向けの米輸出が始まり栄えます。

 
しかし1765年に始まる戦争で,1767年にビルマのコンバウン朝攻め込まれ滅ぼされました。アユタヤには,このときに破壊された首のない仏像が残されています。



1650年~1760年のアジア  東南アジア 現⑪ミャンマー
タウングー朝が滅ぼされコンバウン朝が成立する
 ミャンマーのイラワジ川流域では1752年にタウングー朝【慶文H30記】が下ビルマのモン人により滅ぼされ,ビルマ人によってコンバウン朝(アラウンパヤー朝,17521886) 【セ試行 タイではない】【セH6地域がビルマか,イスラーム教を国教としたか問う】 【慶文H30記】が新たにおこっています





1650年~1760年のアジア  南アジア              
南アジア
…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール

1500年~1650年のアジア  南アジア 現①ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
 ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めており,15世紀後半からは,指導者は世襲ではなく,「菩薩(ぼさつ)如来(にょらい)の生まれ変わり」とされた人物によって受け継がれていく制度(化身(けしん)ラマ;転生ラマ)が採用されるようになっていました。

 16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン=
ナムギャル〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。
 



1650年~1760年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ
 この時期のバングラデシュは,ムガル帝国の支配下にあります。



1650年~1760年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 セイロン島は,ポルトガルに代わって,1658年~1796年までオランダの植民地となります。



1650年~1760年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
 ムガル帝国では,病気にかかっていた第五代シャー=ジャハーンが,息子にアーグラ城の一室に閉じ込められていました。この息子が,第六代のアウラングゼーブ(16581707) 【共通一次 平1:最大版図(はんと)を実現したか問う】【セ試行 死後に分裂した皇帝は〈バーブル〉ではない】【セH8】【セH26】【追H30】H27京都[2]【セA H30ムガル帝国を】として即位。〈シャー=ジャハーン〉は,窓から見える愛妃の墓である白大理石のタージ=マハールを見つめ,計画倒れに終わった黒大理石の”ブラック=タージ”を夢見ながら,晩年を送ったといわれています(切ない話です)
 
〈アウラングゼーブ〉は厳格なスンナ派イスラーム教徒で,イスラーム法をインドにも厳しく適用しようとし,非ムスリムに対する人頭税を復活させました【セH26【セH8廃止ではない】【追H30廃止ではない】増税をねらったというよりは,スンナ派の支配者としてのアピールが目的であったといわれています。ヒンドゥー教徒は,本来ならば人頭税が免除される「啓典の民」(ユダヤ教,キリスト教)には含まれませんからね。
 しかし,〈アクバル〉によって廃止【共通一次 平1】されていたヒンドゥー教徒らの人頭税(ジズヤ)が復活されたことで,各地で反乱がおき,軍人に分け与える土地も不足し,財政は悪化。後継者争いも起きると,インドは分裂に向かっていきます【セ試行 バーブルのときではない】

 南インドのデカン高原には,バフマニー朝から分裂した5つのイスラーム教国のうち,2つの国が残っていました。そのうち武将の一族だった〈シヴァージー(生没年不詳,在位167480)は,1645年につかえていたイスラーム教国から独立しようとし,反乱を起こしました。〈アウラングゼーブ〉の軍は〈シヴァージー〉を逮捕し,アーグラ城に軟禁しましたが,〈シヴァージー〉は洗濯カゴに隠れてまんまと脱出したといわれています
 〈シヴァージー〉はインド東海岸にある現在のムンバイ周辺を支配地域とする
マラーター国王に即位しました。〈アウラングゼーブ〉は1707年,マラーター王国を倒すことができないまま亡くなっています。
 このデカン高原
【セH2パンジャーブではない】のマラーター王国は,周辺の諸国を諸侯とし,ゆるやかな政治連合マラーター同盟【セH21時期】【セH2パンジャーブ地方ではない,セH5ムガル帝国の没落の原因か問う,セH8北インドのマラータ族ではない】を形成し,インド各地に勢力を拡大していきます。1713年以降,同盟の宰相はバラモンによって世襲されるようになっていきました

 
1720年には,デカン高原で,ムガル帝国のデカン総督であった〈ニザーム=ウル=ムルク〉が帝国を裏切ってハイダラーバードのニザーム国として自立。ムガル帝国中央部のアワド州では,シーア派のアワド王国が建てられます。

 また,
1736年にイランのサファヴィー朝を滅ぼしたアフシャール朝(173696)の〈ナーディル=シャー(位173647)は,デリーを占領し,ムガル帝国の宮殿にあったルビー,エメラルド,ダイヤモンドを散りばめた「孔雀の玉座」をイランに持ち帰ってしまいました。
 同時期には,シク教徒【東京H29[3]】の勢力も強大化し,ムガル帝国に対して抵抗するようになります
 1747年に〈ナーディル=シャー〉が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(17471842)おこしています。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯にも進入を繰り返しています。

 このように,〈アウラングゼーブ〉死後のムガル帝国では内外で地方政権が生まれ,支配が揺るがされていきました。

◆ムガル帝国沿岸部に,ヨーロッパ諸国の交易拠点が建設されていく
インドにイギリス,フランスの拠点が新設される

 また,17世紀以降のムガル帝国は,ヨーロッパ諸国セH5スペイン海軍ではない】の進入も受けるようになっていきます。

 
1623年のアンボン(アンボイナ)事件をきっかけに,イギリスは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。

 
まず,1640年には東海岸のマドラス【セ試行 ポルトガルがアジア貿易の拠点としたのではない】にセント=ジョージ要塞を建設します。
 イングランドは,三王国戦争(ピューリタン革命)の真っ最中。〈クロムウェル〉の築いた共和政が王政復古で幕を閉じたのが1660年。国王に復位したステュアート家の〈チャールズ2世〉は,1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインドのボンベイ島を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの“生命線”になろうとは,思いもよらなかったわけです。なお,彼女はこのときにインドの喫茶の風習もイギリスに持ち込み,従来のアルコールに代わって,茶が広まっていくきっかけをつくりました(注)
 ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸に
ボンベイを建設(16501760の南アジア) さらに,1690年にカルカッタ【セH27地図上の位置】【セH8フランスの建設ではない】に商館を開設します。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017p.39

 これに対して,フランスは1673年に南インドの東海岸にポンディシェリ【東京H27[3]】【セH27・H30【セH2フランスの拠点はゴアではない,セH8イギリスの建設ではない】【追H20地図(インド亜大陸の東海岸か),ポルトガルが16世紀に居住権を得ていない,それはマカオ。17世紀にフランスが拠点を築いたか問う】を建設,1688年にはベンガル地方のシャンデルナゴル【セ試行】【セH16】フランス東インド会社【セH6他のヨーロッパ諸国に先んじての設立ではない】【セH16ルイ14世が創設したわけではない】の商館が設置されています。フランス東インド会社は,1604年に〈アンリ4世〉のときに創設されたもののまもなく経営不振となり,1664年に財務総監の〈コルベール〉により再建されていました【セH16】

 こうして,イギリスとフランスが,インドをめぐって争う構図が成立。
 1744年には,オーストリア継承戦争と連動した第一次カーナティック戦争,その後の第二次・第三次カーナティック戦争で,南西インドではイギリスが優勢になっていきます

 1749年には,ポルトガルにより1522年に拠点となっていたサン=トメをマドラスに併合。このサン=トメのタテ(しま)模様の木綿は,江戸時代(寛政年間)の日本にも伝わり「桟留(さんとめ)」と呼ばれ,「(いき)」な柄として人気を博していました。ほかに縦糸が絹,横糸が木綿でできた褐色・紫色の縞織物であるベンガラ(
ベンガルが語源),セイラス縞(セイロン縞が語源),茶宇縞(ちゃう,インド西海岸のチャウル地方が語源)などが,ポルトガルやオランダを通じて日本に持ち込まれました()
(注)神奈川世界史教材研究会「桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物」『高等学校 世界史のしおり』2003.9,帝国書院

 さらにヨーロッパの七年戦争【追H20】と連動した1757年のプラッシーの戦い【セH18時期:50~60年代ではない,セH11時期:1880年代か問う】【セH25】により,フランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル州の長官と,〈クライヴ〉の率いるイギリス東インド会社が決戦。結果,イギリス側が勝利しました。1763年にパリ条約が結ばれ,イギリスは,ベンガルにおいてもフランスに対して優位となりました。
 
こうして,次の時期にはイギリスによるインドの独占支配が進行していくのです。



1650年~1760年の南アジア  現⑦ネパール
 
ネワール人のマッラ朝は15世紀後半に2つに分裂していましたが,1619年にさらに分裂し,王家は3分されました。
 王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあった
ゴルカ王国(15591768)の力が強まっていきました。





1650年~1760年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。

1500年~1650年のインド洋海域 インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
 アンダマン諸島・ニコバル諸島は,現在のミャンマーから,インドネシアのスマトラ島にかけて数珠つなぎに伸びる島々です。
 アンダマン諸島の先住民(大アンダマン人,オンガン人(ジャラワ人など),センチネル人)は
オーストラロイドネグリト人種に分類され,小柄な身長と暗い色の肌が特徴です。先史時代に「北ルート」と「南ルート」をとった人類の子孫とみられています(⇒700万年~12000年の世界)
 外界との接触は少なく,狩猟・採集・漁撈生活を営んでいます。

1650年~1760年のインド洋海域  モルディブ
 モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年にはポルトガル王国が占領しています。
 代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国
(注)は,モルディブを保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ,事実上スペインから独立しています。

1650年~1760年のインド洋海域  
イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域
 ディエゴガルシア島を含むチャゴス諸島へのヨーロッパ諸国による植民は始まっていません。
 


1650年~1760年のインド洋地域  マダガスカル
 フランスの勢力は17世紀後半に駆逐されましたが,その後もフランスは支配を維持しようとします。

 一方,15世紀以来の奴隷交易の利益や牛の牧畜と稲作の支配を背景に,マダガスカル島の中央部の高原地帯には,17世紀初めにメリナ王国をはじめとする諸小王国が建ち並びんでいました。
 いずれもオーストラロイド語族の言葉を話すマラガシー人で,アラブ文化やマレー文化などのさまざまな文化の影響がみられます。
 マラガシー人の一派
サカラバ人は,奴隷交易で手に入れた武器を背景として,17世紀半ばにマダガスカル西部に支配圏を広げ,18世紀半ばにかけて王国を築きます。サカラバにあって,メリナになかったものはでした。


1650年~1760年のインド洋地域  レユニオン
 1507年にポルトガル人が発見したときには無人島でした。
 1640年にフランス人に領有されたブルボン島(現レユニオン島)は,1665年にフランス東インド会社が植民を始め,コーヒーやサトウキビの栽培を開始します。


1650年~1760年のインド洋地域  モーリシャス
 レユニオンの東方のマスカレン諸島にある現モーリシャスは,1505年に
ポルトガルが到達したときには無人島でした。1638年以降,ネーデルラント連邦共和国(オランダ。当時は事実上スペインから独立)の植民が始まりましたが,経営に失敗して1710年には撤退します。
 代わって1715年にフランスが植民し,奴隷を導入した
サトウキビのプランテーションがおこなわれます。


1650年~1760年のインド洋地域  フランス領マヨット,コモロ
 マヨットのヨーロッパ人による植民地化はすすんでいません。

 
ヤアーリバ朝オマーン(1624~1720)の君主〈スルターン・イブン・サイフ〉(1692~1711)が,東アフリカのポルトガル勢力を駆逐したことを背景に,コモロには,イスラーム教徒による複数の国家が建ち並んでいました。


1650年~1760年のインド洋海域  セーシェル
 セーシェルには1742年にフランスが植民を始め,1756年に領有を宣言します。





1650年~1760年のアフリカ

ヨーロッパ諸国は,アフリカ大陸の現地勢力と通商関係を結び,奴隷交易を発展させ
1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ
…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ

1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現①エリトリア
 現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
 一方,オスマン帝国の勢力が拡大し,アラビア半島方面との奴隷交易も盛んです



1650年~1760年のアフリカ  東アフリカ 現②ジブチ
 現在のジブチを拠点としていた
アダルの領域には,南方からクシ語派のオロモ人が進出しています。



1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現③エチオピア
エチオピア高原でオロモ人の勢力が強まる
 エチオピア高原16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国の皇帝〈スセニョス1世〉(位1606~1632)は,銃器を提供してくれるポルトガルに接近。皇帝はカトリックに改宗したことで内戦が起き,1632年に退位。
 その後,都はゴンダルにうつされ,比較的平和な時代が訪れます。

 オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度) の社会を築くグループがありました。



1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア

 東アフリカのインド洋沿岸には
スワヒリ語文化圏が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。

 1498年にはポルトガル王国の〈ヴァスコ==ガマ〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?1500?)に導かれインドのカリカットに到達しています。





1500年~1650年のアフリカ  東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。



1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ

 ポルトガル王国は,アフリカ大陸南西部(大西洋側)のアンゴラと,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地化していきます。

 ・1650年~1760年のアフリカ  南アメリカ 現①モザンビーク
 アフリカ東南部のバントゥー系ショナ人によるモノモタパ王国【セH9[24]地図上の位置を問う】では,ポルトガル人による介入が相次いでいました
 そんな中,
王国につかえていた牛の監督官〈チャンガミレ〉が1680年代に勢力を拡大して,ポルトガル商人を追放するとともにモノモタパ王国を圧倒し,高原南西部を支配しました。
 これ以降,この地域にはショナ人による小国が分裂するようになります。モノモタパ王国は存続こそしたものの,1694年~1709年の内戦で王が9代交代し,18世紀初め以降支配下にあった首長が独立を始め,19世紀末に事実上消滅することになります。
 チャンガミレ王国も,18世紀を通して衰退に向かっていきました。

1500年~1650年の南アフリカ  現①モザンビーク
◆ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
 ザンベジ川【セH29ニジェール川ではない】流域では,現在のモザンビーク周辺に,ムタパ(モノモタパ王国【セH9[24]地図上の位置を問う】【セH29)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
 1488年に喜望峰を発見したポルトガル王国の進出が続き,南東部(インド洋側)モザンビークを植民地にします。1505()にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります【セH3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】

 その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年
()にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
 そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さらに
ジンバブウェとの間にの取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。

 イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(15391606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です



1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ  現②スワジランド
 バントゥー系のングニ人の一派が,現在のモザンビークのマプト周辺から現在のスワジランドに移住したのは17世紀初め頃のことで,スワジ人のまとまりを形成していきました。18世紀前半に〈ドラミニ3世〉が現在につながるスワジランド王国の基礎を築いています。



1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現③レソト
 バントゥー系のソト人は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすみます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
 先住のサン人は居住地を追われていきました。


1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現④南アフリカ共和国
 現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
 内陸の高地にはバントゥー語系の
ソト人や,同じくバントゥー語系のツワナ人などがいて,国家を形成しています。
 もともと居住していた狩猟採集民の
コイコイ人は,南西部に居住しています。

 そんな中,1652年に
オランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕が,喜望峰の北方に植民都市ケープタウンを建設。この地域は温暖な地中海性気候で,果樹栽培や農耕が可能でした。
 1685年にフランスでナントの王令が廃止されると,カルヴァン派〔
ユグノー〕も植民に参加。
 彼らはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住の
コイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていきました。
 しかし,バントゥー系の
コーサ人が行く手を阻み,両者に対立も生まれるようになります。



1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑤ナミビア
 ナミビアの海岸部には
ナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
 先住のサン人の言語で「ナミブ」は「
何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
 
 そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群の
ヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。



1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑥ザンビア
 この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
 内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。



1650年~1760年のアフリカ  南アフリカ 現⑦マラウイ
 現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には15001700年頃の間マラヴィ王国が統治していました。沿岸部のポルトガルとの象牙の交易で栄え,〈マスラ王〉(16001650)が有名です。
()栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010p.42p.43


1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑧ジンバブエ
 ジンバブエでは,かつてグレート=ジンバブエの栄えた地(現在のジンバブエ南東部)から北350kmの地に,15世紀前半にムタパ王国が建国されました。


 一方,南西部の高原地帯のカミを中心に15世紀半ば以降
トルワ王国が金の採掘や牧畜で栄え,リンポポ川下流のモザンビーク方面でアラブ人やポルトガル人との交易も行っていました。
 17世紀後半にはバントゥー系の
ショナ人が台頭し,トルワ王国を打倒してロズウィ王国を建国しています。



1500年~1650年のアフリカ  南アフリカ 現⑨ボツワナ
 ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
 バントゥー系の
ツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
 先住のコイサン系の
サン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
 1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕のケープタウンへの植民が始まると,北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになります。





1650年~1760年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ
現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン

 この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による
奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
 
アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。


1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現①チャド
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。



1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現②中央アフリカ
 
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。



1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
 
ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの〈アフォンソ1世(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れながらコンゴ王国を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸からキャッサバというイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理用バナナに比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。

 コンゴ王国とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
 コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。

 コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民を
奴隷として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王に奴隷貿易への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合のサントメ島を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主にサトウキビのプランテーションで働かされました(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)
 他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
 こうして
1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。

 ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー系ルバ王国ルンダ王国が栄えました。
 東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では
80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。

 アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。



1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
 サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
 1470年に
ポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります。奴隷交易の拠点とともに,サトウキビのプランテーションが大々的に行われました。


1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
 現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
 15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。



1500年~1650年のアフリカ  中央アフリカ 現⑨カメルーン
 現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化した
ボルヌ帝国の影響を受けます。
 カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の
奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。




1650年~1760年の西アフリカ
西アフリカ
①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ

1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現①ニジェール,ナイジェリア,ベナン
ベニン王国
 ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流の
ベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。

ダホメー王国
 その西の現在の
③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。

オヨ王国
 17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人による
オヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。



ハウサ諸王国
 ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,
ハウサ人の諸王国が多数林立しています。
 ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。



1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
 ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
 現在の
④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。



1650年~1760年のアフリカ  西アフリカ 現⑥コートジボワール