中央ユーラシアの遊牧民の軍事力は火器の普及により劣勢に向かう。各地の広域国家は集権化を目指し海上交易に従事する。
時代のまとめ
(1) 「小氷期」という寒冷化の時期にあたり,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられる。
(2) 各地で開発による環境負荷が大きくなるが,イギリスでは労働節約的・資本集約的な技術革新が進み,限界突破に向かう。
アメリカ大陸はスペインが広大な植民地を維持しているが(ポルトガルはブラジルを支配),カリブ海の島々にはオランダ,イギリス,フランスが進出をすすめている。 中国の清は中央アジアへの進出を進め,チベット,タリム盆地のウイグルとジュンガル盆地のモンゴル人(新疆)を制圧して間接統治を実現した。一方,キリスト教の布教を禁止し,末期には外国貿易を広州一港に限定し,海禁を維持しようとした。
中国南部の住民は東南アジアに移住し南洋華僑となり,「鎖国」政策前には日本人の日本町と競って,インド洋~南シナ海・東シナ海の交易に従事した。
オスマン帝国では第二次ウィーン包囲が失敗しバルカン半島の領土を失う。イランのサファヴィー朝も〈アッバース1世〉の最盛期の後は衰退。南アジアのムガル帝国でも分裂に向かい,イギリスとフランスの沿岸部への進出がすすんだ。
1755年にマグニチュード8.5~9.0と推定されるリスボン大地震が起きるとポルトガルは打撃を受け,ヨーロッパの海外交易の覇権はオランダ,イギリス,フランスに移る。イギリスはオランダとの英蘭戦争【セ試行 時期】【早法H24[5]指定語句 論述(17世紀の英蘭の友好・敵対関係)】で北アメリカのニュー=アムステルダムを獲得し,ニューヨーク【東京H22[1]指定語句】を建設。フランスとの第二次英仏百年戦争では,フランスをプラッシーの戦い(1757)で破り,インドにおける覇権を確立している。
イングランド(イギリス)王国とフランス王国が海外進出を推進して覇権を争った(第二次英仏百年戦争)。プロイセンとオーストリア,ロシアも中央集権化をすすめている。
解説
各地域では,国家による統合が進んでいきます。現在,各国家・地域で「伝統文化」とされるものには,この時代に国家が統合される過程で形成されたものが少なくありません。1450年頃~1640年頃(「長い16世紀」と呼ぶことがあります) には,ユーラシア大陸の各地域に「帝国」を中心とする秩序が生まれ,活発な交易関係が形成されていました。
しかし,「長い16世紀」の後半にあたるこの時期は,世界各地で政治的・経済的な停滞がみられ,政権の崩壊や社会不安が各地で起こるようになっています。1645年~1715年にかけて太陽活動が低下し地球の寒冷化が進んだことも原因の一つと考えられていますが,18世紀末にかけて人口の増加に資源の調達重要が追いつかなくなっていたことも原因に挙げられます。このうち化石燃料の石炭と広大なアメリカ大陸,それに世界規模の海運ネットワークを確保していた西ヨーロッパ諸国は,18世紀末以降になると急速な経済発展を遂げていくことになります(この転換点を歴史学者〈ポメランツ〉(1958~)は「大分岐」(the great divergence)と呼んでいます)。
ヨーロッパ内部では「長い16世紀」の前半に神聖ローマ帝国の〈カール5世〉の目指した「帝国」づくりは実現しませんでしたが,キリスト教を保護する複数の王朝が併存する関係は維持されていました。しかし,王朝ごとに領域国家の形成がすすみ,キリスト教の「宗派」を巡る対立も生じると国家同士の戦争が相次ぐようになりました。そこで諸国は,主権国家体制によって勢力均衡をめざす仕組みを形成し,安全保障を図るようになっていきます。この時期のヨーロッパ諸国は伝統的に「近世」(きんせい;初期近代)と区分される時期(15世紀末~18世紀末)の終わりにあたり,ルネサンス,科学革命,宗教改革,絶対王政を通して,のちの「近代」(後期近代,18世紀末~20世紀初め)に通じる過渡期に位置づけられます。
南北アメリカ大陸では,ヨーロッパによる政治的・経済的な従属が引き続き進みます。一方,南北アメリカに植民したヨーロッパ系住民は,大西洋をはさんでヨーロッパの啓蒙思想の影響も受け,次第に政治的な独立を目指すようになっていきました。南北アメリカ大陸の先住民による抵抗も試みられますが,ヨーロッパ系住民との混血も進み,南北アメリカ大陸の社会構成は地域によって多様化・複雑化していきます。
一方,アジアでは東南アジアの港市国家を中心に海上交易が隆盛し,ユーラシア大陸の農耕定住民の地帯で大砲・銃砲を駆使した大規模な軍事力を編成した国家による統合が進んでいました。ヨーロッパ諸国は初めアジアで交易拠点のみの支配にとどまりましたが,次第に内陸部も含めた領土支配に向かっていきます。それでも,少なくとも18世紀末までは,西ヨーロッパと中国との間には市場経済や産業革命(工業化)につながる工業の発展,それに生活水準の面で大きな違いはなかったとみられます(注)。
他方,ロシアのシベリアの進出や清のモンゴルやタリム盆地への進出により,中央ユーラシアの騎馬遊牧民の勢力は急速に衰退していきました。アフリカ大陸では大西洋奴隷交易の影響を受ける地域も生まれています。
(注)経済学者の〈ポメランツ〉(1958~)は,市場経済や工業の発達,生活水準などの面で,西ヨーロッパと中国の江南地方には18世紀末まで大きな差はなかったと論じています(ポメランツ,川北稔監訳『大分岐(the
great divergence)――中国,ヨーロッパ,そして近代世界経済の形成』名古屋大学出版会,2015年)。
○1650年~1760年のアメリカ 北アメリカ
・1650年~1760年のアメリカ 北アメリカ 現①アメリカ合衆国,②カナダ
◆北アメリカではフランス,イギリス,スペイン三国が勢力圏を争う
インディアン諸民族がヨーロッパ諸国に立ち向かう
北アメリカ大陸の東部沿岸地方には,16世紀末からイングランド(1707年以降は大ブリテン連合王国(イギリス))が進出し,ニューイングランド植民地を形成していました。
1650年頃から,フランス人植民地(ヌーベルフランス)も,イロクォワ語族のインディアンによる襲撃を受けるようになり,フランス=イロクォワ戦争(いわゆるビーバー戦争)が始まりました。一方,白人の持ち込んだ感染症により,先住民の人口も減りつつありました。
1675年にはイングランドの植民地ニューイングランドで,ワンパノアグ人の〈メタコメット〉との戦争が始まりましたが,ワンパノアグ人側が大敗しました(イングランド側は,フィリップ王戦争と呼びました)。
1711年からは南方のカロライナ植民地でもインディアンと白人入植者との戦争が始まります(1711~15のタスカローラ人との戦争)。1715~17年のヤマシー戦争では,ヤマシー人やクリーク人が敗れましたが,クリーク人はスペイン植民地のフロリダに逃れてセミノール人と合流し,19世紀前半に3度のセミノール戦争(1817~18,1835~42,1855~58)を戦うことになります。
なお,フロリダのインディアンは,この地に逃れてきたアフリカ大陸出身の逃亡奴隷のコミュニティと提携し,「ブラック=セミノール」と呼ばれる集団に発展します。
北アメリカでは,1730年代ころまでにスペインが持ち込んだ馬が,メキシコから大平原地帯に伝わり,馬によるバッファロー狩りがおこなわれ,生息数が激減し始めます。また,インディアン諸民族の中には,馬を利用する民族も現れるようになっていきました。
北アメリカ北東部では,ヨーロッパが毛皮交易を始めたことで,先住民同士の戦いが起きるようになっていました。フランスの援助するヒューロン人が,イギリスとの関係を持つイロクォワ語族との戦いにより敗退し,フランスは毛皮の交易相手として重要なパートナーを失います。
1701年にフランスと先住民はモントリオール条約で和議を結び,フランスはイロクォワ語族の同盟を「国家」とみなし,さらにイギリス・フランスと協力せず中立を守ることが定められました。
しかし,1754年にイギリスは,フランスの植民地の攻撃を開始します。これが,フレンチ=インディアン戦争です。
イロクォワ同盟はイギリス側にたち,アルゴンキン語族のモホーク人やミクマク人はフランス側に立って戦うことになりました。代理戦争です。
また,フランス領ルイジアナでは,フランス側にチョクトー人が,イギリス側にチカソー人がついて,チカソー戦争(1720~60)が戦われていました。これも英仏によるミシシッピー川流域をめぐる代理戦争です。
フランスはヌーヴェル=フランスを1663年に直轄植民地とし,西インド会社に管轄させました。財務総監の〈コルベール〉は,毛皮や木材の供給先や,王立のマニュファクチュアで生産した製品の輸出先として,ヌーヴェル=フランスを重視していました。1682年には〈ラ=サール〉がミシシッピ川からメキシコ湾に到達し,流域を「ルイジアナ」と命名しています。18世紀には,ヌーヴェル=フランスの経済が活性化し,毛皮だけでなく,小麦,えんどう豆,からす麦や,木材,アザラシ油や魚類の輸出が増えました。この頃から,ヌーヴェル=フランスのフランス系住民の間には,「カナダ=フランス語」が広まり,自らを「カナディエン(カナダ人)」と呼ぶようにもなっています。
また,1718年にはフランス領ルイジアナのミシシッピ川河口に,ヌーヴェル=オルレアン(新しいオルレアン)を建設。のちのニューオーリンズ(英語読み)です。カリブ海方面からの物資輸入の基地として栄えました。
1713年にイギリスは,スペイン継承戦争(植民地ではアン女王戦争) 後のユトレヒト条約でニューファンドランド島とノヴァスコシア(アカディア)も獲得しましたが,北アメリカ大陸の大部分はフランスの植民地のまま残っていました【セH2地図(ユトレヒト条約による北米植民地の支配地域を問う)】。
イギリスの政府は,植民地を発展させるために,ある程度の自治を許しました。”がっつり支配するよりは,資源の輸入先や市場としてゆる〜くキープしておいたほうが楽”というわけです。この政策を”有益なる怠慢”ともいいます(なまけているほうがラク)。
北東部ニューイングランドでは,本国で迫害を受けたプロテスタントたちが,集まってタウンを形成し,住民集会(タウン=ミーティング)で直接民主主義によって自治をおこなうことが許されていました。また,経済的には,工業(製鉄・造船)が発達し,小麦などの農業も行われていました。
一方の南部では,西インド諸島から黒人奴隷を輸入し,大農園(プランテーション【東京H9[1]指定語句】)で藍(青い染料がとれる植物)・タバコなどを商品として生産していました。
この北部と南部の経済構造の違いは,19世紀中頃に勃発する南北戦争という内戦の遠因になっていきます。
なお,1728年に,デンマーク人〈ベーリング〉【セH16時期・イェルマークではない】が,ロシアの〈ピョートル大帝〉(位1682〜1725)の命でベーリング海峡を発見し,1741年に北アメリカ大陸の北西部アラスカ【セH18時期(17世紀ではない)】に到達し,領有しています。ロシアは,1492年の〈コロン〉のアメリカ発見に約250年遅れたものの,ついに北アメリカ大陸にまで到達してしまったわけです。ロシアは,アラスカ周辺のラッコの毛皮を,中国と交易して利益を上げました。〈ジェームズ=クック〉も北アメリカの太平洋沿岸を探検しており,イギリスもラッコ漁の利権をめぐり,スペインと争うことになりました。
17世紀の終わり頃から,ニューイングランド地方の植民者たちは西インド諸島のフランス人から糖蜜(砂糖を製造するときにできる液)を輸入して,自分たちでラム酒をつくるようになっていました。西インド諸島のフランス人たちはニューイングランド製のラム酒を買い,それで西アフリカの奴隷を買い付ける“第二の大西洋三角貿易”を始めていました。イギリスは,イギリス資本のラム酒製造を守るため1733年に糖蜜法を制定して規制を始めますが,糖蜜の密輸は続けられました。
○1650年~1760年のアメリカ 中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ
オランダ,イギリス,フランスは17世紀に入るとカリブ海に植民地を建設するようになります。彼らがねらったのは,スペインの防備の手薄な,小アンティル諸島です。
イギリスでは,1651年に航海法が〈クロムウェル〉(1599~1658)により制定され,オランダ船の出入りを規制するようになっていました。「金銀財宝を持ち込めば国は豊かになる」という重金主義の時代が幕を閉じ,「いかに輸出額を輸入額よりも増やすかが,国を豊かにする秘訣!」という重商主義の時代が幕を開けていくのです。
〈クロムウェル〉は取引先としてアメリカ大陸を重視し,1654年にカリブ海のジャマイカを占領しています。17世紀の本格的な砂糖ブームに乗って,イギリスは大西洋をまたにかけてアフリカ西岸【共通一次 平1「東岸ではない」といいたいようだが,奴隷の積み出しは必ずしも西岸からとは限らない(モザンビークも)から,微妙な選択肢である】【セH5主な拠点が西アフリカ沿岸であることを問う】と南アメリカとを結ぶ三角貿易(大西洋三角交易)
【東京H25[1]指定語句】 【共通一次 平1】を発展させていきます。
マニュファクチュア(工場制手工業)で生産した商品をアフリカに持ち込んで奴隷を購入し,奴隷を中間航路でアメリカ大陸のスペインなどの植民地【セH13スペイン植民地で黒人奴隷が導入されたかを問う】に運んで売りさばき,カリブ海の島々のサトウキビ農園【共通一次 平1「農場などでの労働力として使役されることはなかった」わけではない】で奴隷を働かせ,生産した砂糖【セH4】を仕入れてヨーロッパで売る。奴隷を含むモノとカネの流れは,全体としてはこのようになっていました。イギリスはこの大西洋三角交易で蓄えた資本を元手として,1760年代から始まる産業革命(工業化)に突入していくことになるのです。
○1650年~1760年のアメリカ 中央アメリカ
中央アメリカ…①メキシコ,②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ,⑧パナマ
・1650年~1760年のアメリカ 中央アメリカ 現①メキシコ
メキシコはスペインのヌエバ=エスパーニャ副王領として植民地支配されています。
先住民にはレパルティミエント制による低賃金労働が強制され,人口が激減。1631年にレパルティミエント制は廃止されました。
・1650年~1760年のアメリカ 中央アメリカ 現②グアテマラ,③ベリーズ,④エルサルバドル,⑤ホンジュラス,⑥ニカラグア,⑦コスタリカ
現在のグアテマラ,エルサルバドル,ベリーズ,ニカラグア,ホンジュラス,コスタリカにあたる領域は,グアテマラ総督領としてスペインの植民地支配を受けています。
・1650年~1760年のアメリカ 中央アメリカ 現⑧パナマ
17世紀末にはスコットランドが,パナマを植民地化する計画(ダリエン計画)を進めようとしました
しかし,イングランド側はスコットランドによる海外貿易の振興を敵視し,資本を引き上げ。
スコットランドの植民地建設に対し,イングランド王〈ウィリアム3世〉は援助を与えず,スペインからの攻撃を受けて1700年に計画は頓挫しました。直後,スコットランドは1707年にイングランドに併合されることになります。
(注)渡辺邦博「ダリエン計画について」『社会科学雑誌』第4巻,2012年3月
○1650年~1760年のアメリカ カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現①キューバ
キューバではスペインの植民地支配下で,アフリカから移送した黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションが行われています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現②ジャマイカ
ジャマイカはスペインが植民地支配をおこなっていましたが,1655年に〈クロムウェル〉率いる共和制(コモンウェルス)時代のイングランドが,ジャマイカに進出し,支配圏を獲得します。
折しも1650年にアイルランドを植民地化していた〈クロムウェル〉は,アイルランド人の年季奉公人をジャマイカに移送し,労働力とします。
その後,スペインのジャマイカの奪回に向けた努力が続きますが,1692年の大地震でスペイン時代の都市は壊滅,イギリスは新都を再建します。
サトウキビのプランテーションの労働力として,アフリカから連行されてきた黒人奴隷の中には,支配を逃れて山中に逃げ込み,コミュニティを形成する者も現れます。逃亡黒人奴隷のことをマルーンといい,1731~1739年に第一次マルーン戦争が起きています。
指導者の一人に,ガーナのアシャンティ出身の〈グラニー=ナニー〉(1686~1733)がいます。彼女は逃亡奴隷の都市を建設し,交易ルートや軍隊を整備して多数の奴隷を解放し,イギリス軍と戦いました(ジャマイカの紙幣にはグラニー=ナニーの肖像画が印刷されています)。
1739年の停戦時にマルーンの共同体は自由と土地を獲得しています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現③バハマ
バハマはカリブの海賊(黒ひげ)の根城に
1647年にイギリスが植民を開始。
しかし,当時のカリブ海は航行する船舶を襲撃する海賊(いわゆる“カリブの海賊”,パイレーツ・オブ・カリビアンですね)の根城でした。
それに対しイギリス国王〈ジョージ1世〉は,〈ロジャーズ〉(1679~1732)をバハマ総督に任命。1718年に通称「黒ひげ」(エドワード=サッチ,1680?~1718)をはじめとする海賊を相当します(#漫画 「ONE
PIECE」の黒ひげ海賊団提督の由来です)。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現④ハイチ
ライスワイク条約でハイチはフランス領となる
スペインはイスパニョーラ島の東部(現⑤ドミニカ共和国)を拠点に,サトウキビのプランテーションを行っていました。
他方,フランスはイスパニョーラ島西部(現④ハイチ)は17世紀後半からフランスが植民をすすめていき,1697年のライスワイク条約でイスパニョーラ島の西1/3はフランス領(フランス領サン=ドマング)となります。
フランスはここで黒人奴隷を移送して,サトウキビやコーヒーのプランテーションをおこない,巨富を稼ぎ出していきます。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑤ドミニカ共和国
イスパニョーラ島は1697年のライスワイク条約によって,東側3分の2がスペイン領サント・ドミンゴとなります。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑤アメリカ領プエルトリコ
プエルトリコはスペインの植民地として支配されています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島
現在のアメリカ領ヴァージン諸島は,17世紀以降デンマーク領となります。
現在のイギリス領ヴァージン諸島は,1672年にイギリス領となります。
現在のイギリス領アンギラ島は,同じくイギリス領アンティグア島の管理下に置かれています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑦セントクリストファー=ネイビス
セントクリストファー=ネイビスをめぐっては,17世紀後半にイギリスとフランスが抗争し,その結果1713年にイギリス領となることが確定しました。
ネイビス島で,のちにアメリカ合衆国の財務長官を務める〈ハミルトン〉(1755~1804)が生まれています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑧アンティグア=バーブーダ
アンティグア島はイギリスの植民地,バーブーダ島はイギリスの貴族の所領となっています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑨イギリス領モントセラト,フランス領グアドループ島
モントセラトはイギリスの〈クロムウェル〉時代に,植民地化されたアイルランド人が移送され,アフリカから連行された黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えます。
グアドループはフランスによる黒人奴隷を用いたサトウキビのプランテーションで栄えますが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中にイギリス軍が占領しています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑩ドミニカ国
ドミニカ国はフランスにより植民地化されています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑪フランス領マルティニーク島
マルティニーク島にはフランスの入植がすすみ,1658年に島のカリブ人が虐殺されると,アフリカから移送された奴隷にるサトウキビのプランテーションが盛んとなりました。
マルティニーク島のサトウキビはフランスに莫大な富をもたらします。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑫セントルシア
セントルシアをめぐっては,イギリスとフランスが抗争を続けています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島
セントビンセントおよびグレナディーン諸島は,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の18世紀後半にイギリスの植民地となっています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑭バルバドス
バルバドスはイギリスの植民地支配下で,アイルランド人の年季奉公人や黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれています。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑮グレナダ
バルバドスはフランスの植民地支配下で黒人奴隷によるサトウキビのプランテーションがおこなわれていましたが,七年戦争〔フレンチ=インディアン戦争〕中の1762年にイギリスが植民地化します。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑯トリニダード=トバゴ
トリニダード島とトバゴ島にはヨーロッパ諸国の植民が試みられています。
17世紀後半には,バルト=ドイツ人のクールラント公国が短期の間,植民しています(⇒1650~1760のヨーロッパ 東ヨーロッパ)。
・1650年~1760年のアメリカ カリブ海 現⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島はオランダ領となっています。
○1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ
南アメリカ…①ブラジル,②パラグアイ,③ウルグアイ,④アルゼンチン,⑤チリ,⑥ボリビア,⑦ペルー,⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ,⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現①ブラジル
◆ブラジルでは金鉱が発見され,ポルトガルの植民地の拠点は南部に移っていった
金とダイヤモンドに翻弄されるブラジル
ブラジルでは1693年~95年にミナス=ジェライスで金鉱が発見され,18世紀初めにかけて大量の金(きん)がポルトガルに輸出されました。また1729年にはダイヤモンドが発見され,こちらも大量に輸出されます。従来は宝石といえば真珠でしたが,17世紀半ばよりインド産のダイヤモンドが王侯貴族の間に普及していました。ポルトガル商人は,ヨーロッパの宝石商の妨害にあいつつも,ブラジル産のダイヤモンドの売出しに邁進します(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.104。
こうして植民地の中心は,かつてサトウキビのプランテーションの発展した北東部からリオ=デ=ジャネイロに移り,都市化が進むにつれて農牧業も発展していきました。
18世紀半ばにはブラジル側を支配するポルトガルと,現在のアルゼンチン側を支配するスペインとの間に,ラ=プラタ川以東の土地をめぐる領土問題が発生しました。
イエズス会はこの地でグァラニー人と共同生活を送りながら,農業・畜産指導や教育を通してキリスト教化していましたが,この地域がポルトガルに割譲されるとグァラニー人はイエズス会とともに抵抗(グァラニー戦争,1753~56)。
しかし,スペインとポルトガルにより鎮圧されました(◆世界文化遺産「グアラニのイエズス会布教施設群」,1983(1984範囲拡大)。現在のブラジルとアルゼンチンにまたがります)。
◆アフリカ出身の逃亡奴隷と先住民の共同体がポルトガルに鎮圧される
逃亡奴隷(キロンボ)と先住民の奴隷共同体が敗北
ブラジル北東部には,逃亡奴隷(キロンボ)に先住民が加わった共同体が複数存在していました。
そのうちのキロンボ=ドス=パルマーレス(1605~1695)は,ポルトガルの攻撃により崩壊します。
(注)チャールズ・マン,鳥見真生訳『1493〔入門世界史〕』あすなろ書房,2017,p.207。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現②パラグアイ
パラグアイではイエズス会のグアラニー人に対する布教がすすみ,ヨーロッパ諸国でイエズス会に対する弾圧が強まると(注),イエズス会とグアラニー人らは協力してポルトガルやスペインと戦いました。
17~18世紀にイエズス会の伝道の拠点として築かれた都市が各地に残されています。(◆世界文化遺産「ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会伝道所群」,1993)。
(注)イエズス会は絶対主義や啓蒙思想を批判したため,ヨーロッパ各地の王家により敵視されるようになり,この流れに抗することができなくなったローマ教皇〈クレメンス14世〉は1773年に「教会の平和のために,親しい者でさえ犠牲にしなくてはならない」との書簡をもってイエズス会の解散を命じます。(上智大学「絶対主義に対抗 イエズス会の解散」,https://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit7.html)
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現③ウルグアイ,④アルゼンチン
グアラニー人とイエズス会が,スペイン勢力と争う
ラプラタ川の河口を中心とするアルゼンチンには,16世紀初め以降,スペイン人がブエノスアイレスを中心に植民を進めていきました。しかし,ブラジル方面から進出してきたポルトガルが,ラプラタ川を挟んだ対岸に都市を建設。これを拠点にバンダ=オリエンタル(現在のウルグアイとほぼ同じ領域)が成立しましたが,スペインとポルトガル両国により,帰属をめぐる衝突が続きました。
18世紀後半にスペイン国王によりイエズス会の弾圧政策がとられると,アルゼンチンのイエズス会(一種の”独立王国”を築いていました)は先住民のグアラニー人と協力して,スペイン当局と戦いました。これをグァラニー戦争といいます。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現⑤チリ
現在のチリはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。
南部ではマプチェ人〔アウラカノ〕の首長国が独立を保っており,スペインは1536年から断続的にアウラコ戦争(1536~1883)を戦っています。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現⑥ボリビア
現在のボリビアはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。当時はアルト=ペルー(高地ペルー)と呼ばれていました。
ポトシ銀山の採掘も続いています。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現⑦ペルー
現在のペルーはスペインによる植民地支配下にあります(ペルー副王領)。
18世紀に入るとインカ王の末裔(まつえい)を名乗る指導者による反乱が多発し,スペインの植民地支配を揺るがすようになります。
インカ王の末裔〈インカ=ガルシラーソ=デ=ラ=ベーガ〉(1539~1616)の『インカ皇統記』によってかつてのインカ王の支配が,強大な権力と権威を持つ「インカ帝国」としてイメージされるようになり,スペイン支配を排除しようとする人々の支持を得るようになっていきます。
1717年には,南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)が,ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されています。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現⑧エクアドル,⑨コロンビア,⑩ベネスエラ
1717年に南アメリカの北部(パナマ,コロンビア,ベネズエラなど)は,ヌエバ=グラナダ副王領としてペルー副王領から分離されています。
・1650年~1760年のアメリカ 南アメリカ 現⑪ガイアナ,スリナム,フランス領ギアナ
ヨーロッパでは,北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し,第二次英蘭戦争(1665~1667)が始まりました。
1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻しネーデルラント継承戦争(1667~68,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク【東京H22[1]指定語句】)を含む北アメリカ北東岸のニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。
また,このときにオランダが占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は,オランダ領ギアナ(現在のスリナム)になりました。
オランダ人によるオセアニア探検がすすむ
1642年の〈タスマン〉(1603?~1659?)の航海記が1694年にロンドンで出版され,その後も太平洋探検の旅行記が多数書かれ,ヨーロッパの人々の想像力をかきたてました。なかでも〈ダンピア〉(1652~1715)の『新世界周航記』はベストセラーとなります。
1722年の復活祭(イースター)の日に,オランダ人の提督〈ロッヘフェーン〉は,イースター島のモアイをヨーロッパ人として初めて確認・報告しました(注)。3000人ほどの島民は枯渇した資源をめぐり絶え間ない戦闘に明け暮れていたといいます。ポリネシア人はラパ=ニュイ島と呼んでいます。
その後,ソサエティ諸島やサモア諸島などを回って,ジャワ島に到達しています。オランダはジャワ島にすでにバタヴィア市を建設し拠点としていました。
(注)クライブ=ポンティング,石弘之訳『緑の世界史(上)』朝日新聞社,1994,p.7
○1650年~1760年のオセアニア ポリネシア
ポリネシア…①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島,②フランス領ポリネシア,③クック諸島,④ニウエ,⑤ニュージーランド,⑥トンガ,⑦アメリカ領サモア,サモア,⑧ニュージーランド領トケラウ,⑨ツバル,⑩アメリカ合衆国のハワイ
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現①チリ領イースター島,イギリス領ピトケアン諸島
イースター島がオランダに「発見」される
1722年の復活祭〔イースター〕の夜に,オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉がラパ=ヌイ島を発見し,これをイースター島と命名します。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現②フランス領ポリネシア
タヒチには複数の首長国があり,1750年には抗争が起きていました。
ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現③クック諸島
この時期のクック諸島について詳しいことはわかっていません。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現④ニウエ
この時期のニウエについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑤ニュージーランド
ニュージーランドではマオリが居住しています。まだヨーロッパ人よる植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑥トンガ
トンガでは12世紀以降王権が強化され,ニウエ,サモアやソロモン諸島,ニューカレドニアにかけての広範囲に勢力を及ぼします。17世紀には内戦が起こっています。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑦アメリカ領サモア,サモア
この時期のアメリカ領サモア,サモアについて詳しいことはわかっていませんが,トンガの王権の勢力が及んでいました。
ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
1722年オランダ海軍提督〈ロッヘフェーン〉が沖合からサモアを「確認」しています。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑧ニュージーランド領トケラウ
この時期のトケラウについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑨ツバル
この時期のツバルについて詳しいことはわかっていません。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
・1650年~1760年のオセアニア ポリネシア 現⑩アメリカ合衆国のハワイ
ハワイには複数の首長国がありました。ヨーロッパ人はまだ島に到達していません。
○1650年~1760年のオセアニア オーストラリア
この時期のオーストラリアについては文字史料が乏しく,詳細はわかりません。
アボリジナル〔アボリジニ〕が,狩猟採集生活を営んでいます。
○1650年~1760年のオセアニア メラネシア
メラネシア…①フィジー,②フランス領のニューカレドニア,③バヌアツ,④ソロモン諸島,⑤パプアニューギニア
・1650年~1760年のオセアニア メラネシア 現①フィジー
ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア メラネシア 現②フランス領のニューカレドニア
ニューカレドニアにまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア メラネシア 現③バヌアツ
バヌアツにはヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア メラネシア 現④ソロモン諸島
ソロモン諸島の一部にまでトンガの王権が及んでいました。ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
・1650年~1760年のオセアニア メラネシア 現⑤パプアニューギニア
ヨーロッパ人の植民は始まっていません。
○1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア
ミクロネシア…①マーシャル諸島,②キリバス,③ナウル,④ミクロネシア連邦,⑤パラオ,⑥アメリカ合衆国領の北マリアナ諸島・グアム
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現①マーシャル諸島
スペイン領となりますが,植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現②キリバス
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現③ナウル
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現④ミクロネシア連邦
ヨーロッパ人の植民は始まっていませんが,来航が増えていきました。
コスラエ島には王国が栄えており,王宮や王墓,住居の跡(レラ遺跡)が残されています。
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現⑤パラオ
ヨーロッパ人の植民は始まっていません,来航が増えていきました。
・1650年~1760年のオセアニア ミクロネシア 現⑥アメリカ合衆国の北マリアナ諸島・グアム
スペインが太平洋横断交易をスタートさせてからというもの,北マリアナ諸島やグアムの住民(チャモロ人)はスペインとの交易もおこなっていました。
1668年以降,スペインのイエズス会が訪れるようになり,伝統的な信仰を守るためチャモロ人はスペイン勢力と戦争を起こします。この際,チャモロ人の大多数が犠牲となりました。
中国・ロシアによる中央ユーラシア分割がはじまる
中央アジア…①キルギス,②タジキスタン,③ウズベキスタン,④トルクメニスタン,⑤カザフスタン,⑥中華人民共和国の新疆ウイグル自治区+⑦チベット,⑧モンゴル
○1650年~1760年の中央ユーラシア 東部・中部
◆女真の清が中国・満洲・台湾を直轄地として領域拡大するも,西方からロシアの進出が本格化
拡大する女真の清と,東方進出するロシアが衝突
ツングース諸語系の女真(女直,ジュルチン)が1616年に建国した金(後金,アイシン)は,モンゴル人や漢人を服属させて1636年には清と改称して1644年に明を滅ぼし,拠点を北京にうつしていました。
〈康煕帝〉のときに南部の漢人勢力をほろぼし,台湾の海賊勢力を排除し,中国本土・台湾・満洲を直轄地として確立させました。その後〈雍正帝〉・〈乾隆帝〉にかけて外征をくりかえし,外モンゴル(モンゴル高原)・チベット・タリム盆地・ジュンガル盆地方面まで領域を拡大させていきました。
一方,西方からロシア帝国が東にすすんでいき,あっという間にベーリング海にまで到達。1689年には中国との間にネルチンスク条約,1727年にはキャフタ条約を締結し,取り急ぎ国境を取り決めて,指定された地点における自由な交易を認める互市という制度も定められました。
最後の遊牧帝国ジュンガルが清に滅ぼされる
天山山脈南部のタリム盆地では,モグーリスターン=ハーン国が衰えを見せていました。
1637年に,チベットの〈ダライ=ラマ5世〉と提携し,オイラトを統一した〈バートル=ホンタイジ〉は,ジュンガル盆地(アルタイ山脈の南,天山山脈の北に囲まれた盆地)を中心に,”最後の遊牧帝国”ともいわれるジュンガル帝国【セH13・H19】【追H21】を発展させていきます。
しかし,1745年にジュンガルで内部争いが起こると,そのすきをみた清の〈乾隆帝〉【追H9明を滅ぼしていない】【セH19,H29康熙帝ではない】【追H21ホンタイジではない】が,1755年にジュンガルを滅ぼしてしまいました【セH13ジュンガルを滅ぼしたのはロシアではない】。
清の皇帝は,満洲・モンゴル・漢人によってその皇帝位が承認されており,その上でさらにモンゴルの王侯から「ハーン」の称号を受けていました。
ですから,「ハーンなのだから,もともとチャガタイ=ハーン国であったタリム盆地を,清の領土に加えるのは当然だ」という論理が成り立ちます。
東トルキスタンは1759年に「新疆」(新たな土地) 【セH17ホンタイジ,順治帝,康煕帝のときではない】として清の領土となりました。
ただ,実際には支配機関がイリ川流域に置かれただけで,タリム盆地のオアシス農耕地帯の支配は遊牧民有力者をベグに任命して統治を任せるなど,中国伝統の”間接支配”が基本です。ベグの下ではイスラーム教による支配が守られ,ワクフ(公共建築物の寄進)により灌漑水路やマドラサなどが整備されていきました。
・1650年~1760年の中央ユーラシア チベット
チベットの〈ダライ=ラマ〉政権は清に領土を割譲
チベットではオイラト系のモンゴル人〈グーシ=ハーン〉(1582~1654)が,チベットの全土を占領して,その領土を〈ダライ=ラマ5世〉に献上しました。〈ダライ=ラマ〉も,チベットに宗教的な政権を築き上げようとしていましたから,両者の意志が一致した結果です(〈カール大帝〉と〈レオ3世〉の関係と似ていますね)。
これにより〈ダライ=ラマ5世〉にはチベットの支配が認められ,チベット高原のラサには1660年に壮大なポタラ宮殿【セH23トプカプ宮殿ではない,セH30】【追H20設計はカスティリオーネではない】が完成しました。彼は自らを観世音菩薩の生まれ変わりとし,チベット仏教の主要5派(元の時代に保護されたサキャ派や,ツォンカパの立ち上げた紅帽派など)の上に君臨します。
しかし,17世紀初頭に〈グーシ=ハーン〉一族で内紛が起きると,これに清の皇帝〈雍正帝〉(ようせいてい)が介入し,チベットを分割してその東部を割譲させました。これ以降,チベット政府の支配領域は,チベット高原南部(ツァン地方)のみになってしまったわけです。
○1650年~1760年の中央ユーラシア 西部
◆ユーラシア大陸西部ではモンゴル系やテュルク系の「タタール人」が,ロシア人に抵抗する
ロシアはコサックを鎮圧し,カザフ草原にも進出へ
また,ロシア帝国は,征服地の最前線にコサック(ロシア語でカザーク)という農民に防衛を担当させていました。「夷を以て夷を制す」のやり方です。
しかし,ロシアからの支援が手薄になると, 1670〜71年にコサック(カザーク)の首領〈ステパン=ラージン〉が反乱を起こしましたが鎮圧されます。
ロシアにとって,奥深い針葉樹林を抜けると一面に広がる草原地帯は,征服すべき”広い世界”であるとともに,遊牧民が進入してくる”危険地帯”でもあります。中央ユーラシアの中央部に広がる広大なカザフ草原では当時,ウズベク人から分離したカザフ人がハーンのもとで遊牧生活をしていました。
他方,カザフ人は当時,南方からチベット人と提携したジュンガル人の攻撃を受けるようになっていました。1723年のジュンガルによる侵攻で打撃を受けると,カザフ人のハーンは泣く泣くロシア帝国に保護を求め,外交と交易関係が結ばれることになりました。
ロシアは今後,草原地帯のカザフ人を支配下に入れつつ,さらなる南下を狙うことになります。
アム川下流域のホラズムではヒヴァ=ハーン国が,中流域のブハラを中心にブハラ=ハーン国が成立していました。しかし,18世紀前半にイラン高原のアフシャール朝の〈ナーディル=シャー〉が進入するなど平和ではありませんでした。
ブハラでは,ジャーン朝のハーンが〈ムハンマド=ラヒーム〉により滅ぼされ,1756年にマンギト朝が成立しています。マンギト朝は,18世紀末からイスラーム色を強めていきます。
○1650年~1760年の中央ユーラシア 北部
◆ツングース人とヤクート人によるトナカイ遊牧地域が東方に拡大する
シベリア地方にロシア帝国が進出する
さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布し,狩猟採集生活を送っていました。しかし,イェニセイ川やレナ川方面のツングース諸語系(北部ツングース語群)の人々や,テュルク諸語系のヤクート人(サハと自称,現在のロシア連邦サハ共和国の主要民族)が東方に移動し,トナカイの遊牧地域を拡大させていきます。圧迫される形で古シベリア語系の民族の分布は,ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島方面に縮小していきました。
さらにこの時期になると西方からロシア帝国が東進し,ツングース人,ヤクート人はおろか,ベーリング海峡周辺の古シベリア諸語系のチュクチ人や,カムチャツカ半島方面のコリャーク人の居住地域も圧迫されていきます。
○1650年~1760年のアジア 東アジア
東アジア・東北アジア…①日本,②台湾,③中国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本
◆日本は外国の入国管理と貿易を制限し国内の開発をすすめ,国民意識が発展する
「大開発の時代」が行き詰まり,幕府は改革を断行
中国では,1644年に清が北京に入城し,明の勢力は中国南部の各地で抵抗を続けました(南明)。この知らせを受けて,江戸幕府の儒学者〈林鵞峰〉(はやしがほう,1618~1680)は「夷狄(いてき。野蛮な民族)である女真(女直)が漢民族の明を滅ぼして清を建てた。清は夷狄のつくった王朝だから,中華ではない。むしろ日本が中華にふさわしい!」という考えをふくらませます。水戸藩の〈徳川光圀〉(水戸光圀,みつくに,1628~1700)が『大日本史』の編纂を命じたのは1657年,幕府が『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)の編纂を命じたのは1662年のことです。このように,本来は中国側からは夷狄とみられていた日本が,逆に自らを東アジア秩序の中心とみる考えを「小中華思想」(しょうちゅうかしそう)と呼ぶことがあります。
一方,江戸幕府は政治的に外国との距離を置き,国内の秩序づくりに努めました。台湾を拠点にした反清勢力〈鄭成功〉(ていせいこう)は日本人を母に持っていたこともあり,江戸幕府に救援を求めましたが,幕府はこれを拒否しています。
ただし中国との経済的な関係は維持する政策をとり,管理下に置かれていたものの長崎での貿易は引き続き認められました。
江戸幕府は農業生産の充実を目指し,各地で大規模開発が行われました。「大開発の時代」です。例えば,利根川の流路を江戸湾から太平洋に変更する工事が1654年に完成し,各地で用水路が建設され新田が開発されていきました。村々は領主から年貢米の納入をうけおい,城下町の倉庫に米が収められました。米や商品は藩内外に輸送され,東北地方と江戸を結ぶ東廻り航路,東北地方の日本海沿岸と江戸・大坂を結ぶ西廻り航路,大坂と江戸を結ぶ南海路といった海運が発達し,大名は城下町や上方市場で年貢米を換金し,幕府財政にあてました。全国市場の成立に従って,1669年に全国統一の枡として京枡(きょうます)を指定しました。
1651年に,徳川幕府の第3代将軍〈徳川家光〉が亡くなりました。第4代目の〈家綱〉は11歳であったため老中〈松平信綱〉や叔父〈保科正之〉(ほしなまさゆき)が支配しました。
同年に,牢人による幕府転覆未遂事件である慶安事件が発覚し,1657年に明暦の大火が江戸を襲いました。
1662年に,清に抵抗していた明の諸王による南明(なんみん)政権が滅び,台湾の〈鄭成功〉が滅ぶと,1663年に〈康煕帝〉は琉球王国【セ試行 清軍によって征服されていない】に冊封使を派遣し,〈尚質〉を国王にしました。
琉球王国は,薩摩藩に服属しつつ,明からも冊封を受ける両属となりました。〈家綱〉は,これらに対して不干渉政策をとり,平和を重視しました。1645年と46年に,〈鄭成功〉(ていせいこう,1624~1662)は日本に対する援軍を依頼しましたが,日本側は拒否。〈鄭成功〉の母親は平戸の〈田川七左衛門〉の娘で,父〈鄭芝龍〉(ていしりゅう,1604~1661)は海商でした。
1669年にはアイヌの〈シャクシャイン〉が和人に対して蜂起しました。アイヌの戦いは1671年に鎮圧され,北海道の渡島(おしま)半島南部に和人が居住して商場(あきないば)での交易権を与えられ,松前藩が支配しました。
1680年に五代将軍〈徳川綱吉〉(とくがわつなよし,,位1680~1709)が将軍を継ぎました。彼は〈柳沢吉保〉(やなぎさわよしやす,1658~1714)の補佐のもと,専制政治を進めるとともに,「武家諸法度」(ぶけしょはっと)を改定して武士の価値観を軍事ではなく忠孝礼儀にあるとし,生類憐れみの令(動物だけでなく弱者を保護することを命じたもの)と服忌令(忌引の日数と喪に服す期間を定めたもの)により戦国時代の武断的な価値観を転換させようとしました。〈林鳳岡(信篤)〉(はやしほうこう,1644~1732)を大学頭に任命し,湯島に聖堂を建設させ,儒教を重視しました。同時に,仏教と神道も保護しています。
1690年には愛媛県に別子銅山が発見され,〈住友〉家の成長を支えました。
しかし〈綱吉〉政権の末期には,1703年の元禄大地震が関東を襲い,1707年には富士山で「宝永の大噴火」が起こりました。
そんな中,1709年に〈徳川家宣〉(とくがわいえのぶ,位1709~12)が将軍を継ぎ,大老格であった〈柳沢吉保〉をやめさせ「生類憐みの令」を廃止,政治改革に乗り出しますがその途中で死去し,1712年には〈徳川家継〉(とくがわいえつぐ,位1713~16)が将軍を継ぎました。この間,政権の中心にあったのは,側用人〈間部詮房〉(まなべあきふさ,1667~1720)と儒学者〈新井白石〉(あらいはくせき,1657~1725)です。彼は生類憐れみの令を廃止し,儒教色の強い民衆教化を行おうとしました。また,金銀流出を防ぐために,1715年に海舶互市新例(かいはくごししんれい)を出して,中国の清(しん)とヨーロッパのネーデルラント連邦共和国(オランダ)との貿易規模を縮小させました。
1700年頃には耕地の拡大は一段落し,今度は,農業技術や肥料による生産力の向上が目指されるようになっていきます。それに従い,商品作物や加工品の生産も,全国で盛んになります。その中で,従来は輸入に頼っていた生糸や砂糖を「輸入代替」する動きも起こりました。
東京・大阪・京都の三都の問屋は販売の専業化に向かい,特に越後屋(三井)は薄利多売方式で巨利を上げました。経済活動の活発化を背景にして,町人や農民を主体とする元禄文化が発展します。人形浄瑠璃で好評を博した劇作家〈近松門左衛門〉の『国性爺合戦』(本当は「姓」ですが,フィクションであることを示すため「性」という字を当てました)は,あの〈鄭成功〉をモデルとしたものです。
1716年に〈徳川吉宗〉(在職1716~45)は第8代将軍に就任しました。彼は積極的に新田開発を推進し,幕府財政建て直しのために上米の制を定めました。〈吉宗〉のとき,儒学者〈青木昆陽〉の尽力により,中国の農書を参考にして,薩摩藩経由で琉球王国から取り寄せたサツマイモを東京の小石川御薬園で栽培し,全国に普及させました。荒れた畑でもよく育つため,飢えを防ぐ作物として重宝されました。西洋の学術にも興味を示し,キリスト教以外の洋書の輸入を解禁し,長崎を中心に蘭学(らんがく)が栄えました。フランドル地方の医師〈ドドエンス〉(1517~1585)は『植物生態学』を著し,のちに江戸時代の蘭学者〈野呂元丈〉(のろげんじょう,1693~1761)著『阿蘭陀本草和解』にも影響を与えています(⇒1650~1760の東アジア 日本)。また,1728年にはヴェトナムからゾウを輸入し,長崎から江戸まで街道を歩かせています。
1751年に後を継いだ第9代〈徳川家重〉(在任1745~60)は政治力に欠ける人物であったといい,享保の改革以来の増税に反対する大規模な百姓一揆(郡上一揆(ぐじょういっき))も起こっています(注)。
(注)近世の農民にとって,年貢や諸役を納めることが百姓としての彼らの職分を果たすことだったのですが,それには領主が,きちんと耕地や水利の改良や配分のような勧農を行い「百姓(ひゃくしょう)成立(なりたち)」(再生産の保障)をすることが引き換えとなっていたのです。これを保障しないような過酷な年貢諸役の賦課や二重賦課をしようものなら,農民は反対の訴訟や一揆を起こす根拠となりました。この源流は,中世の百姓における年貢の減免要求にもみられました。 佐藤和彦編『租税』(日本史小百科)東京堂出版,1997年,p.96,p.189
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本 小笠原諸島
1675年に江戸幕府は小笠原諸島に調査船を送り「此島大日本之内也」という碑文を設置。「無人島」(ブニンジマ)と名付け,その名の通り人は住まず,植民もなされませんでした。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現①日本 南西諸島
琉球王国は明から清への交替(明清交替)に際し,どちらの王朝に対しても文書書き換え等で対応できるように細心の注意を払いました。南明政権(福王政権(1644~45),唐王(1645~46),魯王(1646~54),桂王(1647~61))が清に滅ぼされていくと,17世紀中頃に明から授かった印綬(いんじゅ)を清に返還し,清の冊封を受けるに至りました。
17世紀中頃には,摂政(セッシー)の〈羽地朝秀〉(はねじちょうしゅう,1617~1676)が琉球王国政府の改革に乗り出しました。日本文化との融和策を打ち出すことで古い習慣をなくそうとしまし,夫役の緩和と開墾の奨励により農村を復興させました。1650年に著された歴史書『中山世鑑』(ちゅうざんせいかん)には,日琉同祖論(にちりゅうどうそろん)の考え方がみられます。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現②台湾
台湾に漢人が多数移住する
台湾にはオーストロネシア語族系の先住民が分布していましたが,1624~1662年の間,オランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕が南部に拠点を設けます。
これを〈鄭成功〉(ていせいこう)が駆逐し,1662~1683年の間,清に滅ぼされた明を支援しつつ台湾に政権を樹立します。
1683年に清の〈康煕帝〉は台湾の鄭氏政権を滅ぼし,清の直轄支配が始まりました。
直轄地といっても,清は台湾を「化外の地」(けがいのち,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)と位置づけ,オーストロネシア語族の諸民族は「化外の民」(けがいのたみ,中華文明=皇帝の権威の及ばない地域)とされました。
とはいえ,この時期に中国から漢人が大量に移住し,のちに「本省人」(ほんしょうじん)といわれる民族グループを形成していきます。出身地としては福建省,広東省が多いです。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現③中国
◆清は集団ごとに様々な権威を利用し,広大な領土を直接・間接支配した
清は,北方草原地帯と南方農耕民地帯を合わせる
1661年にたった8歳で即位した〈康煕帝〉は,中国における支配制度を整えていきました。「少数の女真(女直)人が,多数は漢人をどう支配するか?」これが一番の大問題です。
もちろん8歳で政治をとることができるわけはないので,政務は〈順治帝〉以来に〈ホンタイジ〉の后がとっています。この后は〈チンギス=ハン〉のボルジギン家の末裔です。
軍事的にはモンゴル人に組織させた蒙古八旗や,女真(女直)人(満洲人と改称しています)に組織させた満洲八旗と同様に,漢人八旗【セH8漢人部隊が含まれなかったわけではない】【※意外と頻度低い】を整備しました。また,常備軍として緑営(りょくえい)【※意外と頻度低い】も組織しました。
また,科挙を実施し,行政には漢民族の官僚を中央や地方で積極的に用いました【セH15「明の官僚制度を廃止し中央の要職には漢民族を採用しなかった」わけではない】。儒教のテキストを編纂させる巨大プロジェクトを実施し,儒教界にも影響を与えようとします。〈康熙帝〉【京都H21[2]】【セH11満洲文字を定めていない】(注)は4万7035字を部首・画数別に収録した,中国史上最大の漢字辞典である『康煕字典』を編纂させました(1716年完成)。その後の〈雍正帝〉は,中国最大の1万巻を誇る中国文学全集『古今図書集成』(1725年完成)。
さらに次の〈乾隆帝〉【セH15永楽帝ではない】は7万9070巻の大文学全集『四庫全書』【セH11:表紙の図をみて「清代に,皇帝が学者を動員して,古今の書籍を編纂させたもの」か問う】【セH15】を,考証学者の〈戴震〉(たいしん)らに編纂させました(1746年に完成)。「四庫」というのは,経・史・子・集(けいしししゅう)という4つの分類に従って,古くから伝わる中国の漢籍を収めたことにちなみます。
最大領域を実現した〈乾隆帝〉は『五体清文鑑』(ごたいしんぶんかん) 【東京H12[2]何語の辞典であるか問う】という中国語・満洲語・チベット語【東京H12[2]】・ウイグル語【東京H12[2]】・モンゴル語【東京H12[2]】の5ヶ国語対照辞典を編纂させています。
あわせて,文字の獄(もんじのごく) 【東京H12[1]指定語句,H25[3]】【セH13,セH15反清思想に対して寛大であったわけではない】【セH8】や禁書【追H21清代か問う】【セH8】などの思想統制を実施します【セH29朱全忠が行ったわけではない】。
こんな状況下で下手に新しい意見を言うと弾圧の対象になってしまうおそれもあります。そこで,過去に書かれた経典の文章が,どういう経緯で書かれ,どのような解釈をすればいいのかを研究する考証学【セH25】が儒学の主流になっていったのです。
経書というのは別々に成立したものですから,相互に矛盾しているところがたくさんあるのは当たり前。そこに整合性を付けていく作業をしていったわけです。〈顧炎武〉(こえんぶ,1613~1682) 【セH13考証学を批判していない,セH15銭大昕の唱えた学説を発展させたわけではない,セH26時期】が考証学【セH25】の祖とされます。〈銭大昕〉(せんたいきん,1728~1804) 【セH15時期(顧炎武よりも後の人物)】は『二十二史考異』を著し,歴代の正史に注をつけました(正史は一般に「二十四史」とされますが,ここでは新唐書と旧唐書,新五代史と旧五代史がそれぞれ1つとしてカウントされています)。
一方,皇帝独裁批判をした〈王夫之(船山)〉(おうふうし,1619~1692)のように,「異民族」の王朝である清に対して抵抗する学者もいました。彼の作品の多くは清の政府により禁書にされ,日の目をみたのは19世紀後半の〈曾国藩〉(そうこくはん)によります。
〈戴震〉(たいしん,1724~1777)は,『孟子字義疏証』(もうしじぎそしょう)で儒教の概念について解説し,欲望を肯定した合理的で自由な思想を展開しています。また,地理・暦法・音声などの周辺の領域を駆使して考証学の手法を確立させました。〈段玉裁〉(だんぎょくさい,1735~1815)は〈戴震〉を師匠とし,音韻(おんいん)に注目するとともに,『説文解字注』(後漢の〈許慎〉(生没年不詳)による『説文解字』(100年頃に成立)の註釈⇒紀元前後~200年の中国)を著し,字の音や意味がどのように変遷していったのかを実例を挙げながら整理しました。
(注)1661年に〈順治帝〉がなくなり,子の〈康熙帝〉が即位。改元したのは翌年で1662年が康熙元年だから,即位と1年ずれる。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122
◆清は東シナ海一帯の〈鄭成功〉を鎮圧するが,華僑の東南アジアへの拡大がすすむ
「経済」の中心である南部の海上勢力を鎮圧する
さて,〈康煕帝〉が即位したころは,まだ明の勢力も各地で抵抗を続けており,そのうちもっとも手強い勢力が,東シナ海一帯に海軍を保有していた〈鄭成功〉(1624~62)の一派でした。
1661年にはオランダから台湾を奪い,台湾から中国大陸の反明勢力を支援しました。清の〈康煕帝〉(位1661~1722)は〈鄭成功〉を孤立させるために海禁政策(遷界令)をとり,83年にこれを滅ぼしました。
海禁政策は東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東)の中国人商人は,東南アジアに追われ移住をしていくようになります。
彼らは南洋華僑と呼ばれ,東南アジアを拠点に各地に出身者別に交易ネットワークを張り巡らせ,海域世界を牛耳ります。
1673年には,漢人武将〈呉三桂〉【セH8李自成ではない,セH11清朝に協力したか問う】【セH18李自成ではない】たちに清に強力した褒美として与えていた中国南部【セH16満洲ではない】の三藩をとりつぶそうとしたため反乱を起すと,〈康煕帝〉【セH8乾隆帝ではない】は大砲をドンドコ打ち徹底的に鎮圧しました(1673~81,三藩の乱【セH14時期(ネルチンスク条約の頃かを問う,セH18】【セH8乾隆帝のときではない】【追H30中国東北部ではない】)。大砲技術は,ベルギー出身のイエズス会の宣教師で,欽天監(天文台の官庁)で天体観測をおこない,『坤輿全図』の作成でも知られる〈フェルビースト〉(南懐仁(なんかいじん),1623~88)【セH14イグナティウス=ロヨラではない】【追H30『幾何原本』は翻訳していない】から指導を受けたものです。
これ以降は,漢人による大規模な抵抗運動はなくなりました。
しかし,北方ではロシア帝国の極東への進出が本格化していました。
1689年には黒竜江(アムール川)にまで進出したことから,一触即発の事態となりますが,「ロシアと戦うよりは和平を結んだほうがいい。オイラトの一派であるジュンガル部を倒すほうが今は重要だ」と考え,1689年にネルチンスク条約【セH13史料(第一条が出題)キャフタ・アイグン・ペキンではない】を結び,スタノヴォイ山脈を清露の国境線としました。清が対等な関係で外国と取り決めをしたのは,史上初のことです。
ロシアとの和平を結んだ〈康煕帝〉は安心し,みずから遠征して1697年ジュンガル部の〈ガルダン=ハーン〉を破り,外モンゴル(=モンゴル高原)を平定しました。
◆雍正帝はジュンガルとの提携を阻止するためチベットを併合し,軍機処をもうけた
雍正帝はチベット仏教圏(ジュンガル,チベット)に進出する
負けたジュンガルは本拠地をタリム盆地にうつし,チベットの黄帽派【東京H12[2]】の教主〈ダライ=ラマ〉のちからを借りて勢力を盛り返そうとしました。
「チベットとジュンガルが組んだら面倒だ」と考えた次の〈雍正帝〉(ようせいてい,在位1723~35) 【京都H22[2]】は,チベット【京都H22[2]】を分割して一部を併合し,勢力下に入れたのです(雍正帝のチベット分割)。領土を増やした〈雍正帝〉【セH24康煕帝ではない】は,ロシア勢力との国境を決めるため,1727年にキャフタ条約【セH17サハリンを領有したわけではない,セH24南京条約ではない】で,バイカル湖の南方の国境も確定しました。同時にこのとき,ロシア人の通商・外交・布教の権利を認めています。
軍機処【セH17隋唐代ではない,セH24】【セH8漢人が要職につけなかったわけではない】という機関を設置したのも〈雍正帝〉です。当初は,ジュンガル遠征の際につくられた臨時の機関でした。今まで設けられていた内閣にはすぐに言うことを聞かない勢力もおり,手続きが面倒で迅速な決定には向かなかったのです。満洲の皇族や貴族から構成される会議(議政王大臣会議)も面倒な存在です。高級官僚の半数を満洲人,もう半数を漢人とする満漢(偶数)併用制【セH5モンゴル人と漢人が約半数ずつ高級官僚に任命されたわけではない,セH8漢人が要職につけなかったわけではない】をおこなっていたこともあり,中国語と満州語の翻訳も悩みのタネです。かといって,皇帝の意のままに政治をするとなると,皇帝の業務量はハンパではなくなります(官僚からの皇帝に向けて私信(奏摺(そうしゅう))の数は膨大で,皇帝はその一つ一つに朱書きで訂正や決済の処理をしていました)。
そこで,スムーズに政策を決定することができるよう,はじめは皇帝がツバをつけた数人の軍機大臣(漢人も任命されています)に軍事に関することを任せて処理させていたのですが,やがて一般の政治に関する事項も軍機処の担当になりました。軍機処は皇帝の意を受け,不正を防ぐための制度を遵守して迅速に政務をこなすようになり,それにともなって従来の内閣や議政王大臣会議は形だけのものになっていきました。
◆〈乾隆帝〉のときにジュンガルを平定し,新疆を設置,最大領域を実現した
タリム盆地は「新疆」として間接支配下に置かれる
〈雍正帝〉が亡くなると,遺言に従って次に〈乾隆帝〉(位1735~96) 【セH17】が即位しました。
〈康煕帝〉→〈雍正帝〉→〈乾隆帝〉の時代は“三世の春”といって,清の統治が充実した時期にあたりますが,〈雍正帝〉は自分の亡き後,無能な者が跡を継がないように,生前から蝋による封印文書の中で跡継ぎを指名していたのです。
〈乾隆帝〉は10回にわたってみずから遠征し(十全武功),みずからを十全老人と誇ります。
彼はオイラトの一派であるジュンガル【京都H22[2]】を平定し,東トルキスタンを「新疆」(しんきょう,新しい領域)と名付け,支配下に組み込みました。
新疆も含め広大な領域を勢力下に収めることとなった清は,その領域を直轄地と藩部(はんぶ)と朝貢国の3つのレベルに分けます。
モンゴル,青海,チベット【セH15,セH20明の藩部ではない】【セH8モンゴル,東トルキスタン,チベットではない】,新疆は,藩部【セH20】【セH8】とされ,理藩院【東京H21[1]指定語句】【セH13中書省ではない,セH15,セH17ホンタイジ・順治帝・康煕帝のときではない,セH24】【セH6都護府とのひっかけ,セH8門下省ではない】が担当し,間接支配がされました。
中国本土と,満洲人のふるさとである東北部【セH16三藩は設置されていない】【セH8】,それに台湾は「直轄地」です。この広大な領土に〈乾隆帝〉は莫大な経費をかけて巡幸しました。とくに江南への巡幸は6度おこなっています(六巡南下)。皇帝がやってくるのですから,料理も豪華でなければなりません。「象の鼻,毒蛇,麝香猫(じやこうねこ),つばめの巣,フカヒレ,銀耳(シロキクラゲ)などの高級材料や珍奇な材料をぜいたくに用い,2~3日にわたって食べる料理」(注)である満漢全席。ふるまったのは揚州で塩の商人がふるまったのが最初とされます。この材料として日本から俵物(干し鮑やナマコ,フカヒレ)が盛んに輸出されました。いわば“巡幸特需”です。
東南アジア諸国の中には,清に朝貢をおこなっていた国もあります。朝鮮や琉球王国は,定期的に朝貢使節を送っていました。
(注)『世界大百科事典』平凡社
◆戸籍から逃れる人が多かったため,税制を簡素化する改革をおこなった
税制は一条鞭法から,地丁銀制に転換される
財政の規模が大きくなるにつれ効率的な税制が求められ,18世紀には地丁銀制(ちていぎんせい) 【共通一次 平1:清代か問う】【セH7一条鞭法ではない】【セH16地税と丁税を別々に徴収するわけではない,セH23時期・時期】【追H30隋代ではない】が実施されるようになります。これは,従来別々にとっていた丁税(ていぜい,人頭税)を土地税に組み込んで,土地の所有者【共通一次 平1:佃戸ではない】に対して徴税する【共通一次 平1】制度です。
実質的に丁税はなくなったので,従来,丁税の対象としてカウントされるのがイヤで隠れていた人々が表面化するようになり,かえって安定的に地税を集めることが可能となりました。
納税は原則的に銀でされました【共通一次 平1】。〈康煕帝〉の時代である1717年に広東省から始まり,〈雍正帝〉のときに全国に拡大されました。
1741年の人口調査によれば,清の人口は1億1億4341万1559人。当然ながら遺漏はあるものの,よく補足したものです。
◆商工業が発展し,庶民文化が栄えた
庶民文化が盛ん,宮廷文化はヨーロッパの影響も
清代は,商工業が発展し,庶民文化も栄えた時代です。
科挙をめぐるドロドロの人間模様や儒者の破廉恥な有り様を描いた〈呉敬梓〉(ごけいし,1701~1754)の『儒林外史』(じゅりんがいし,1745~49) 【明文H30記】,〈曹雪芹〉(そうせっきん,1715?~1763?64?)の封建貴族への批判もこめられた中国史上最高とも歌われる恋愛小説『紅楼夢』(こうろうむ,1791) 【セH15】,〈蒲松齢〉(ほしょうれい,1640~1715)の伝奇小説『聊斎志異』(りょうさいしい,1766,成立は1779頃)が代表です。戯曲では〈洪昇〉(1645~1704)の『長生殿』(ちょうせいでん,唐の〈玄宗〉と〈楊貴妃〉の悲恋がモチーフ,1688),〈孔尚任〉(こうしょうじん,1648~1718)の『桃花扇』(とうかせん,1699)が人気を博しました。
絵画の世界では,イエズス会の〈カスティリオーネ〉(郎世寧,1688〜1766) 【セH14『幾何原本』を著していない】【追H21】が〈雍正帝〉と〈乾隆帝〉につかえ西洋美術の技法を伝え,円明園【セH8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H20ヴェルサイユ宮殿,サン=スーシ宮殿,ポタラ宮殿ではない】の設計にも携わっています【セH14ラファエロではない】。
一方で,〈八大山人〉(はちだいさんじん,1626〜1705)や〈石濤〉(せきとう,1641?〜1707?)が南宗画(なんしゅうが)に自由な発想を持ち込み,数多くの個性的な山水画を残しました。
◆イエズス会の宣教師が清の支配層にヨーロッパの科学技術を伝え,ヨーロッパに中国思想・制度・美術を伝えた
イエズス会の宣教師が,中国とヨーロッパをつなぐ
一方で,ヨーロッパ人の来航も増えています。
とくにイエズス会【セH2プロテスタント系ではない】の宣教師は,科学技術を伝える者として清で重用され,ドイツ人の〈アダム=シャール〉(1591~1666) 【セH23元代ではない】は1627年に北京へ,ベルギー人の〈フェルビースト〉(1623~88)は1670年に北京へ入り,2人は天文観測の分野で活躍をしました。〈アダム=シャール〉は〈徐光啓〉(じょこうけい) 【セH2マテオ=リッチと協力したか問う】【セH23李時珍ではない】【法政法H28記】と協力して『崇禎暦書』(すうていれきしょ)【セH23】を発表,のち清になって1645年に時憲暦(じけんれき)と呼ばれ実用化されました。〈徐光啓〉は,明の〈万暦帝〉(ばんれきてい)の宮廷につかえた〈マテオ=リッチ〉(利瑪竇(りまとう)1552~1610)【セH14カスティリオーネではない,セH19ミュンツァーではない,セH21清ではない】【セH2,セH8元を訪問していない】【追H30フェルビーストではない】と名乗って活動し,ヘレニズム時代の〈エウクレイデス〉の研究書を『幾何原本』(きかげんぽん) 【セH2「ヨーロッパの数学」】【追H30】【※意外と頻度低い】として中国語訳しました。図形に関する数学を「幾何学」と呼ぶのは,これが元です。また『坤輿万国全図』(こんよばんこくぜんず)【セH13乾隆帝の命でつくられたわけではない,セH15皇輿全覧図とは異なる,セH19】という世界地図【セH14】も製作しました。
フランス人の〈ブーヴェ〉(1656~1730) 【セH2皇輿全覧図を作成したか問う】【セH21】は1687年に〈ルイ14世〉に派遣された宣教師団の一員として寧波に来航し,88年に北京に入り,のち実測による中国地図「皇輿全覧図」(こうよぜんらんず)【セH15図版(アフリカ大陸・アメリカ大陸は含まない),セH21】【セH2ブーヴェの作成か問う,セH8時期(マルコ=ポーロの死後)】【追H30宋代ではない】を作成し『康熙帝伝』(1697)により中国の様子をフランスの〈ルイ14世〉に伝えました。イタリア人の〈カスティリオーネ〉(1688~1766)は1715年に北京入りし,暦・地図・画法を伝えました。
〈マテオ=リッチ〉は,キリスト教の神がどんな存在かを中国人に説明するのは難しいと考え,ラテン語のデウス(神)を,中国人になじみの深い「天」という言葉を使い「天主」と訳しました。また,〈孔子〉の崇拝や祖先の祭祀を認める【セH21否定していない】方策をとり,中国人の信仰に合わせる形で柔軟に布教しました。この方式をイエズス会の「適応主義」といいます(注)。
しかし,以前から中国で布教していた〈フランチェスコ〉派などの他の派の宣教師は,イエズス会の方式を問題視し,ローマ教皇に訴えたことから,教皇はイエズス会の布教法を否定する事態に発展。しかし,イエズス会から最新情報や技術を得ていた清にとってイエズス会の存在は捨てがたく,1706年に〈康煕帝〉はイエズス会以外の宣教師の布教を禁止しました【セH15】。これを「典礼問題」(布教の方法をめぐる問題) 【セA H30清ではない】【※意外と頻度低い】といいます。そこで〈雍正帝〉はキリスト教の布教を禁止して対抗しました。
イエズス会士は中国の文化をヨーロッパに伝える役目も果たし,フランスの思想家の〈ヴォルテール〉(1694~1778) 【セH2,セH12『経済表』を書いていない】や,『経済表』【セH12ヴォルテールが書いていない】の著者で経済学者の〈ケネー〉(1694~1774)は,中国の政治や思想を高く評価しています。
17~18世紀のヨーロッパで広がった中国文化の受容を,シノワズリー【東京H12[1]論述】【大阪H30論述】(フランス語で「中国趣味」という意味, chinoiserie)といい,ヴェルサイユ宮殿【追H20カスティリオーネの設計ではない】の庭園の中に,中国風の建物を持つ休憩用の小宮殿(トリアノン宮)は〈マリ=アントワネット〉に愛用されました(のちに第一次世界大戦の際に連合国とハンガリーとの講和条約の締結に,このうちのグラン=トリアノンが使用されました(⇒1920~1929のヨーロッパ))。
◆「互市」が各地に置かれ,民間交易も盛んになっていく
海上交易は1757年に広州で限定的に公認される
台湾【セH8】の〈鄭成功〉(ていせいこう,1624~62) 【セH8】が清に降伏すると,海禁は緩和され,1685年に税関(海関。かつての市舶司から改名)が設置されました。海関に管理させるという形で民間交易を認めたわけです。
もちろん,皇帝による朝貢貿易も続いてはいますが,「買いたい人がいるときに品物を手に入れたい!」「買ってくれる人がいるところに商品を持っていきたい!」と思うのは商人にとって当たり前。
民間の「互市貿易」(ごしぼうえき,貿易をしてもいい場所を決めて,ヨーロッパ人を含めた民間商人の取引を許可すること)のほうが普通になっていきました。
ところが,ヨーロッパ船の来航が増えると,1757年に〈乾隆帝〉は来航を広州一港に限定し【セH2泉州ではない,セH4「門戸開放」を進めたので,中国人の海外移住が促進されたのではない】【セH18・H27】,特権商人の組合(公行(こほん)) 【セH2,セH10「(アヘン戦争前に)公行に欧米諸国との海上貿易の独占権を与えていた」か問う】【セH22,セH27広州の位置を問う】のみが外国貿易を管理できるものとしました【セH28,セH30泉州ではない】。
事実上,朝貢貿易以外の形の交易を認めたことになります。
しかし,その直後1760年代からイギリスで産業革命(工業化)が起きると,イギリスは19世紀にかけて”自由”な貿易を要求していくことになりますが,アジアの海域に張り巡らされた様々な民族の商人ネットワークが大きな壁として立ちはだかることになります。
(注)吉澤誠一郎「思想のグローバル・ヒストリー」水島司『グローバル・ヒストリーの挑戦』山川出版社,2008年,p.156。
・1650年~1760年のアジア 東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
朝鮮王朝は日本との国交を回復し,対馬(つしま)の宗氏(そうし)を通じた貿易が行われていました。江戸時代を通じて12回の「通信使」【セH10】が江戸に派遣され,日本と対等な外交関係を築きました(ただし江戸幕府にとっての通信使には,朝鮮を“従えている”というアピールの意味もありました)。
同時に,朝鮮は清からの冊封(さくほう)を受けていましたが,自分たちのほうが女真(女直)人より“上”だという意識から「小中華思想」も根強いものがありました。貿易は日本との釜山での貿易と,清との朝貢貿易に限定されていました。
科挙により官僚を出した家柄は「両班」(ヤンバン)と呼ばれ,その高い社会的地位はしだいに世襲化されて身分のようになっていきました。
17世紀初めに新大陸原産のトウガラシ【追H20宋代の中国にはない】が朝鮮半島に伝来すると,保存食として以前から作られていた漬物に使用され,辛いキムチがつくられるようになりました。白菜をつかったキムチはペギュキムチといいます。農業の開発にともない商業も発展し,実学の普及も進みました。
〈英祖〉(位1724〜76)のときに法典が整備され,均役法が制定されました。また,奴婢制の改革をし,両親のどちらかが良人であれば,その子も良人であるということになりました。奴婢は19世紀半ばにはほぼ消滅しました。パンソリという音楽劇が成立するのも,この頃です。
○1650年~1760年のアジア 東南アジア
東南アジア…①ヴェトナム,②フィリピン,③ブルネイ,④東ティモール,⑤インドネシア,⑥シンガポール,⑦マレーシア,⑧カンボジア,⑨ラオス,⑩タイ,⑪ミャンマー
◆大陸部ではビルマが強大化し,カンボジア・ラオスが分裂により弱体化した
17世紀初め,東シナ海を中心とする海域世界に強力な海軍を保有していたのは,交易集団の首領〈鄭成功〉(1624~62) 【セH10】【セA H30台湾が拠点か問う】【中央文H27記】の一派です。彼の勢力は,1661年にはオランダから台湾島を奪い,台湾【セ試行 】【セH10琉球ではない】を拠点として中国大陸の反清勢力(明(1368〜1644)の王族の末裔の建てていた政権)を支援し,海域も含めたアジア地域を統一する政権を建てることを夢見ていました。
しかし,清の〈康煕帝〉(位1661~1722)は【追H9六諭を発布していない】【セH17理藩院・新疆は無関係,セH29試行 即位の年代(グラフ問題)】,〈鄭成功〉(ていせいこう)を孤立させるために海禁政策(遷界令)をとります。海岸近くの住民を強制退去とし,立ち入り禁止としたのです。そうすれば〈鄭成功〉は補給を大陸から得ることができなくなります。
1683年に〈鄭〉氏一族は滅び,台湾島【セH15地図・時期(康煕帝の代)】は直轄地に加えられました【セH14台湾を初めて領有した中国王朝を問う(清),セH19時期】。
これ以降,台湾島ではオーストロネシア語族の先住民に加え,漢人の人口が増加していきます。
◆台湾島は直轄化され,海関のみでの交易が許可される
東シナ海沿岸の漢人が東南アジアに大移動する
康煕帝は1684年に展界令を出して,遷界令を解除。広州(粤),漳州(閩),寧波(浙),上海(江)の4か所に海関という役所を設置して,ここでの貿易のみ許可します。
この「海禁」政策は,東南アジアの交易ブームにも暗い影を落とし,中国南部沿岸(福建・潮州・広東) 【セ試行 山西省・安徽省出身ではない】の中国人商人の東南アジアへの移住が始まりました。
はじめは海外の長期滞在を禁じていましたが,食糧を輸入する必要もあったため,のちに緩和。彼らは南洋華僑(華人)と呼ばれ,東南アジア各地に会館【セH2唐代ではない】や公所【セH2唐代ではない,セH7,セH10同業組合の力を背景に都市の自治権を獲得していったわけではない】【セH16,セH21租界】という同郷者の助け合い(互助)組織【セH10】【セH28】をつくり旅先でお金を貸し合ったり,ビジネスの情報交換などをおこなっていき,東南アジアで影響力を及ぼしていくことになります。
メコン川下流域ではミトやカントーなど中国人の商業都市も生まれ,中国出身者が衰えていたカンボジア王国の政治や,タイ人の国家アユタヤ朝に介入するようになりました。タイではその後,アユタヤ朝の滅亡後の1768年に,中国人(潮州出身)らの支援で〈ターク=シン〉が短期間ではありますがトンブリー朝を建国しています。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現①ヴェトナム
ヴェトナムの黎朝の権威が衰え,南北に分裂する
ヴェトナムでは,黎朝の皇帝はなんとか存続していましたが,政治的には南北に分裂していました。
北のハノイを中心とする紅河流域の鄭氏の大越と,中南部の阮氏の広南の対立です。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現②フィリピン
スペイン領フィリピンに,多数の華僑が進出する
フィリピンはスペインの植民地支配の下,海上交易の拠点として栄えます。
中国人が多数移住し,現地のマレー系住民とも混血して支配階層を形づくっていきます(フィリピンの華僑)。やがて中国系住民と在来住民との軋轢(あつれき)も生じ,17世紀前半には中国系住民の反乱が起きています。
スペインによる住民のカトリック化も進んでいます。
一方,フィリピン諸島南部はスペインの植民地支配に対して強く抵抗し,ミンダナオ島やスル諸島のイスラーム教徒はスペインと戦闘を続けます。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現③ブルネイ
ヨーロッパ諸国のブルネイへの関心は低く,植民はすすみませんでした。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現④東ティモール
ティモール島は,16世紀初め以来ポルトガルの植民地となり,ビャクダンの輸出などにより富が流出しました。
その後,西方のインドネシア方面からオランダの進出を受けることとなっていきます。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑤インドネシア
◆オランダは,島しょ部の交易拠点を拠点に領土支配に向かう
コショウはもう儲からんので,領土支配に切り替える
1619年にジャワ島に拠点バタヴィアを置いていたオランダは,16世紀後半にスラウェシ島南部のマカッサル王国を崩壊させます。
この王国は,香辛料の産地マルク諸島との交易で栄えており,オランダはマルク諸島を支配権に収めるために,マカッサル人に敵対的なブギス人と組んで,滅ぼしたのです。
オランダは16世紀後半には,スラウェシ島北部やマルク諸島にも支配地域を拡大しています。
さらに,1623年のアンボイナ事件【明文H30記「モルッカ諸島の基地で起きた事件」】【早法H24[5]指定語句】を起こして,イングランド【明文H30記】を東南アジアから撤退させました。
1670年代末までにオランダは島しょ部の支配権を確立しましたが,とき同じくしてヨーロッパ市場でコショウ価格が暴落しましています。さらに,オランダは1661年に,日本の生糸交易の拠点だった台湾を〈鄭成功〉に奪われました。日本も「鎖国」政策をとったため,交易ブームは収束していったのです。
この頃から,オランダ東インド会社の軸は「貿易」から「領土支配」に変化していきます。
コショウ貿易でもうからなくなった分を,商品作物のプランテーションによって穴埋めしようとしたのです。現地から,綿糸,香辛料,ツバメの巣(中華の食材に使用する),真珠,藍(青い着色剤),硫黄(火薬の原料),食料や木材,を住民に割り当てて徴収させました。
注意しなければいけないのは,この時点ではオランダは各地の拠点をおさえていただけで,海域も含めて完全に支配することはできておらず,18世紀以降の強力な植民地支配のような状態ではなかったということです。海域の支配が実現されるのは,19世紀後半の蒸気船(1807年に発明)の普及のことでした。
ジャワ島にコーヒー栽培が導入される
のちに,1650年にオックスフォードでヨーロッパ初のコーヒーハウスが開業されて以降(52年にはロンドンで開業),ヨーロッパで人気が出始めていたコーヒーの栽培が17世紀末~18世紀初めに導入されると,主流になっていきました。
コーヒーの生産量を増やすには,人手を増やすしかありません。オランダに栽培を強制されたジャワ西部の首長たちは,農民の食糧確保のために稲の水田開発に乗り出しました。以前は焼畑農業を営んでいたこの地の首長の権力が,一転して強まっていくことになりました。
各地で,オランダに対する反乱や抵抗も見られるようになる中,マタラム王国の内紛にオランダがが介入し,1755年には2つの勢力に分裂し,ほとんど無力になりました(マタラム王国の分裂)。
オランダは,1752年に西部ジャワのバンテン王国も支配下に置き(属国),ちゃくちゃくと属国と直轄領地域を増やしていき,1758年頃にはジャワ島の大部分の植民地化を完了させています。
スマトラ島のアチェ王国,西部ジャワのバンテン王国,東部ジャワのマタラム王国といったイスラーム教国は,内紛やオランダの介入などにより,繁栄は衰退に向かいました。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑥シンガポール,⑦マレーシア
マラッカの支配圏がポルトガルからオランダへ移る
ポルトガル領のマラッカは,1641年にオランダとジョホール王国が奪い,これによりオランダ領マラッカが成立しました。
この地域におけるポルトガルの覇権に,終止符が打たれたわけです。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑧カンボジア
カンボジアの王家は分裂し,衰退する
メコン川中流域のクメール人のカンボジア王国は,17世紀後半から東西に分裂していました。東の勢力はヴェトナム,西の勢力はシャムとそれぞれ提携する形となっています。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑨ラオス
ラオスの王家は18世紀に分裂して衰退に向かう
メコン川上流,現在のラオスに位置するラーオ人(タイ人の一派)のラーンサーン王国は,〈スリニャウォンサー〉王(位1637~94)のもとで最盛期を迎えます。メコン川上流の中国やビルマ北部から,メコン川下流を結ぶ交易で潤いました。
しかし,18世紀初めに北方のルアンパバーンと,中部のウィエンチャンの王家に分裂。さらに,1713年には南方のチャンパーサックで王国を開いたため,3分裂状態となりました。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑩タイ
アユタヤは米輸出で栄えるがビルマの攻撃受ける
チャオプラヤー川流域のアユタヤ朝【セ試行 16・17世紀のアジアについての問い。コンバウン朝ではない】支配下のシャム(現・タイ)は,18世紀初めから,主に中国向けの米輸出が始まり栄えます。
しかし1765年に始まる戦争で,1767年にビルマのコンバウン朝に攻め込まれ滅ぼされました。アユタヤには,このときに破壊された首のない仏像が残されています。
・1650年~1760年のアジア 東南アジア 現⑪ミャンマー
タウングー朝が滅ぼされコンバウン朝が成立する
ミャンマーのイラワジ川流域では,1752年にタウングー朝【慶文H30記】が下ビルマのモン人により滅ぼされ,ビルマ人によってコンバウン朝(アラウンパヤー朝,1752~1886) 【セ試行 タイではない】【セH6地域がビルマか,イスラーム教を国教としたか問う】 【慶文H30記】が新たにおこっています。
○1650年~1760年のアジア 南アジア
南アジア…①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・1500年~1650年のアジア 南アジア 現①ブータン
現在のブータンの原型が生まれる
ブータンでは,チベット仏教の一派カギュ派(ドゥクパ=カギュ派)の宗教指導者が政治的な統合を進めており,15世紀後半からは,指導者は世襲ではなく,「菩薩や如来の生まれ変わり」とされた人物によって受け継がれていく制度(化身ラマ;転生ラマ)が採用されるようになっていました。
16世紀末に次の指導者をめぐって内紛が起き,敗れた〈ガワン=ナムギャル〉(1594~1651)はブータン西部に逃れて政権を建て,チベットとは別個の「ブータン」意識を育てて中央集権化をすすめました。これが,現在のブータンのおこりです。
・1650年~1760年のアジア 南アジア 現②バングラデシュ
この時期のバングラデシュは,ムガル帝国の支配下にあります。
・1650年~1760年のアジア 南アジア 現③スリランカ
セイロン島は,ポルトガルに代わって,1658年~1796年までオランダの植民地となります。
・1650年~1760年のアジア 南アジア 現②バングラデシュ,⑤インド,⑥パキスタン
ムガル帝国では,病気にかかっていた第五代〈シャー=ジャハーン〉が,息子にアーグラ城の一室に閉じ込められていました。この息子が,第六代の〈アウラングゼーブ〉(位1658~1707) 【共通一次 平1:最大版図を実現したか問う】【セ試行 死後に分裂した皇帝は〈バーブル〉ではない】【セH8】【セH26】【追H30】【H27京都[2]】【セA H30ムガル帝国を】として即位。〈シャー=ジャハーン〉は,窓から見える愛妃の墓である白大理石のタージ=マハールを見つめ,計画倒れに終わった黒大理石の”ブラック=タージ”を夢見ながら,晩年を送ったといわれています(切ない話です)。
〈アウラングゼーブ〉は厳格なスンナ派イスラーム教徒で,イスラーム法をインドにも厳しく適用しようとし,非ムスリムに対する人頭税を復活させました【セH26】【セH8廃止ではない】【追H30廃止ではない】。増税をねらったというよりは,スンナ派の支配者としてのアピールが目的であったといわれています。ヒンドゥー教徒は,本来ならば人頭税が免除される「啓典の民」(ユダヤ教,キリスト教)には含まれませんからね。
しかし,〈アクバル〉によって廃止【共通一次 平1】されていたヒンドゥー教徒らの人頭税(ジズヤ)が復活されたことで,各地で反乱がおき,軍人に分け与える土地も不足し,財政は悪化。後継者争いも起きると,インドは分裂に向かっていきます【セ試行 バーブルのときではない】。
南インドのデカン高原には,バフマニー朝から分裂した5つのイスラーム教国のうち,2つの国が残っていました。そのうち武将の一族だった〈シヴァージー〉(生没年不詳,在位1674〜80)は,1645年につかえていたイスラーム教国から独立しようとし,反乱を起こしました。〈アウラングゼーブ〉の軍は〈シヴァージー〉を逮捕し,アーグラ城に軟禁しましたが,〈シヴァージー〉は洗濯カゴに隠れてまんまと脱出したといわれています。
〈シヴァージー〉はインド東海岸にある現在のムンバイ周辺を支配地域とするマラーター国王に即位しました。〈アウラングゼーブ〉は1707年,マラーター王国を倒すことができないまま亡くなっています。
このデカン高原【セH2パンジャーブではない】のマラーター王国は,周辺の諸国を諸侯とし,ゆるやかな政治連合マラーター同盟【セH21時期】【セH2パンジャーブ地方ではない,セH5ムガル帝国の没落の原因か問う,セH8北インドのマラータ族ではない】を形成し,インド各地に勢力を拡大していきます。1713年以降,同盟の宰相は,バラモンによって世襲されるようになっていきました。
1720年には,デカン高原で,ムガル帝国のデカン総督であった〈ニザーム=ウル=ムルク〉が帝国を裏切ってハイダラーバードのニザーム国として自立。ムガル帝国中央部のアワド州では,シーア派のアワド王国が建てられます。
また,1736年にイランのサファヴィー朝を滅ぼしたアフシャール朝(1736~96)の〈ナーディル=シャー〉(位1736〜47)は,デリーを占領し,ムガル帝国の宮殿にあったルビー,エメラルド,ダイヤモンドを散りばめた「孔雀の玉座」をイランに持ち帰ってしまいました。
同時期には,シク教徒【東京H29[3]】の勢力も強大化し,ムガル帝国に対して抵抗するようになります。
1747年に〈ナーディル=シャー〉が暗殺されると,〈アフマドシャー=ドゥッラーニー〉がアフガニスタンのカンダハールを占領しで,ドゥッラーニー朝(1747~1842)をおこしています。ドゥッラーニー朝は,インドに進入し,1758年にはデリーを占領し,北インド一帯にも進入を繰り返しています。
このように,〈アウラングゼーブ〉死後のムガル帝国では,内外で地方政権が生まれ,支配が揺るがされていきました。
◆ムガル帝国沿岸部に,ヨーロッパ諸国の交易拠点が建設されていく
インドにイギリス,フランスの拠点が新設される
また,17世紀以降のムガル帝国は,ヨーロッパ諸国【セH5スペイン海軍ではない】の進入も受けるようになっていきます。
1623年のアンボン(アンボイナ)事件をきっかけに,イギリスは東南アジア交易をあきらめ,その矛先をインドに転換しました。
まず,1640年には東海岸のマドラス【セ試行 ポルトガルがアジア貿易の拠点としたのではない】にセント=ジョージ要塞を建設します。
イングランドは,三王国戦争(ピューリタン革命)の真っ最中。〈クロムウェル〉の築いた共和政が王政復古で幕を閉じたのが1660年。国王に復位したステュアート家の〈チャールズ2世〉は,1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインドのボンベイ島を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの“生命線”になろうとは,思いもよらなかったわけです。なお,彼女はこのときにインドの喫茶の風習もイギリスに持ち込み,従来のアルコールに代わって,茶が広まっていくきっかけをつくりました(注)。
ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸にボンベイを建設(⇒1650~1760の南アジア)。 さらに,1690年にカルカッタ【セH27地図上の位置】【セH8フランスの建設ではない】に商館を開設します。
(注)角山栄『茶の世界史』中公新書,(1980)2017,p.39。
これに対して,フランスは1673年に南インドの東海岸にポンディシェリ【東京H27[3]】【セH27・H30】【セH2フランスの拠点はゴアではない,セH8イギリスの建設ではない】【追H20地図(インド亜大陸の東海岸か),ポルトガルが16世紀に居住権を得ていない,それはマカオ。17世紀にフランスが拠点を築いたか問う】を建設,1688年にはベンガル地方のシャンデルナゴル【セ試行】【セH16】にフランス東インド会社【セH6他のヨーロッパ諸国に先んじての設立ではない】【セH16ルイ14世が創設したわけではない】の商館が設置されています。フランス東インド会社は,1604年に〈アンリ4世〉のときに創設されたもののまもなく経営不振となり,1664年に財務総監の〈コルベール〉により再建されていました【セH16】。
こうして,イギリスとフランスが,インドをめぐって争う構図が成立。
1744年には,オーストリア継承戦争と連動した第一次カーナティック戦争,その後の第二次・第三次カーナティック戦争で,南西インドではイギリスが優勢になっていきます。
1749年には,ポルトガルにより1522年に拠点となっていたサン=トメをマドラスに併合。このサン=トメのタテ縞模様の木綿は,江戸時代(寛政年間)の日本にも伝わり「桟留(さんとめ)」と呼ばれ,「粋」な柄として人気を博していました。ほかに縦糸が絹,横糸が木綿でできた褐色・紫色の縞織物であるベンガラ(ベンガルが語源),セイラス縞(セイロン縞が語源),茶宇縞(ちゃう,インド西海岸のチャウル地方が語源)などが,ポルトガルやオランダを通じて日本に持ち込まれました(注)。
(注)神奈川世界史教材研究会「桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物」『高等学校 世界史のしおり』2003.9,帝国書院
さらに,ヨーロッパの七年戦争【追H20】と連動した1757年のプラッシーの戦い【セH18時期:50~60年代ではない,セH11時期:1880年代か問う】【セH25】により,フランス東インド会社軍の支援を受けたベンガル州の長官と,〈クライヴ〉の率いるイギリス東インド会社が決戦。結果,イギリス側が勝利しました。1763年にパリ条約が結ばれ,イギリスは,ベンガルにおいてもフランスに対して優位となりました。
こうして,次の時期にはイギリスによるインドの独占支配が進行していくのです。
・1650年~1760年の南アジア 現⑦ネパール
ネワール人のマッラ朝は15世紀後半に2つに分裂していましたが,1619年にさらに分裂し,王家は3分されました。
王家の分裂は外部勢力の干渉を許し,ネパール(カトマンズ)盆地の外にあったゴルカ王国(1559~1768)の力が強まっていきました。
●1650年~1760年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島,モルディブ,イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域,マダガスカル,レユニオン,モーリシャス,フランス領マヨット,コモロ
インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。
・1500年~1650年のインド洋海域 インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島
アンダマン諸島・ニコバル諸島は,現在のミャンマーから,インドネシアのスマトラ島にかけて数珠つなぎに伸びる島々です。
アンダマン諸島の先住民(大アンダマン人,オンガン人(ジャラワ人など),センチネル人)はオーストラロイドのネグリト人種に分類され,小柄な身長と暗い色の肌が特徴です。先史時代に「北ルート」と「南ルート」をとった人類の子孫とみられています(⇒700万年~12000年の世界)。
外界との接触は少なく,狩猟・採集・漁撈生活を営んでいます。
・1650年~1760年のインド洋海域 モルディブ
モルディブはインド洋交易の要衝で,1558年~1573年にはポルトガル王国が占領しています。
代わって1645年に,ネーデルラント連邦共和国(注)は,モルディブを保護国化にしています(1796年まで)。
(注)オランダ,事実上スペインから独立しています。
・1650年~1760年のインド洋海域 イギリス領インド洋地域,フランス領南方南極地域
ディエゴガルシア島を含むチャゴス諸島へのヨーロッパ諸国による植民は始まっていません。
・1650年~1760年のインド洋地域 マダガスカル
フランスの勢力は17世紀後半に駆逐されましたが,その後もフランスは支配を維持しようとします。
一方,15世紀以来の奴隷交易の利益や牛の牧畜と稲作の支配を背景に,マダガスカル島の中央部の高原地帯には,17世紀初めにメリナ王国をはじめとする諸小王国が建ち並びんでいました。
いずれもオーストラロイド語族の言葉を話すマラガシー人で,アラブ文化やマレー文化などのさまざまな文化の影響がみられます。
マラガシー人の一派サカラバ人は,奴隷交易で手に入れた武器を背景として,17世紀半ばにマダガスカル西部に支配圏を広げ,18世紀半ばにかけて王国を築きます。サカラバにあって,メリナになかったものは銃でした。
・1650年~1760年のインド洋地域 レユニオン
1507年にポルトガル人が発見したときには無人島でした。
1640年にフランス人に領有されたブルボン島(現レユニオン島)は,1665年にフランス東インド会社が植民を始め,コーヒーやサトウキビの栽培を開始します。
・1650年~1760年のインド洋地域 モーリシャス
レユニオンの東方のマスカレン諸島にある現モーリシャスは,1505年にポルトガルが到達したときには無人島でした。1638年以降,ネーデルラント連邦共和国(オランダ。当時は事実上スペインから独立)の植民が始まりましたが,経営に失敗して1710年には撤退します。
代わって1715年にフランスが植民し,奴隷を導入したサトウキビのプランテーションがおこなわれます。
・1650年~1760年のインド洋地域 フランス領マヨット,コモロ
マヨットのヨーロッパ人による植民地化はすすんでいません。
ヤアーリバ朝オマーン(1624~1720)の君主〈スルターン・イブン・サイフ〉(1692~1711)が,東アフリカのポルトガル勢力を駆逐したことを背景に,コモロには,イスラーム教徒による複数の国家が建ち並んでいました。
・1650年~1760年のインド洋海域 セーシェル
セーシェルには1742年にフランスが植民を始め,1756年に領有を宣言します。
◆ヨーロッパ諸国は,アフリカ大陸の現地勢力と通商関係を結び,奴隷交易を発展させる
○1650年~1760年のアフリカ 東アフリカ
東アフリカ…①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
・1650年~1760年のアフリカ 東アフリカ 現①エリトリア
現在のエリトリアの地域には,14世紀にティグレ人などがミドゥリ=バリ(15世紀~1879)という国家を建設しています。
一方,オスマン帝国の勢力が拡大し,アラビア半島方面との奴隷交易も盛んです
・1650年~1760年のアフリカ 東アフリカ 現②ジブチ
現在のジブチを拠点としていたアダルの領域には,南方からクシ語派のオロモ人が進出しています。
・1500年~1650年のアフリカ 東アフリカ 現③エチオピア
エチオピア高原でオロモ人の勢力が強まる
エチオピア高原に16世紀以降,東クシュ系の半農半牧のオロモ人が進入し,打撃を受けていたエチオピア帝国の皇帝〈スセニョス1世〉(位1606~1632)は,銃器を提供してくれるポルトガルに接近。皇帝はカトリックに改宗したことで内戦が起き,1632年に退位。
その後,都はゴンダルにうつされ,比較的平和な時代が訪れます。
オロモ人の中にはイスラーム教を採用し,傭兵としてエチオピアの内戦に参加するグループや,イスラーム教やキリスト教に基づかない,無頭制 (特定の首長をもたない制度)
の社会を築くグループがありました。
・1500年~1650年のアフリカ 東アフリカ 現④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア
東アフリカのインド洋沿岸にはスワヒリ語文化圏が成立し,アラブ人やペルシア人商人,インド商人との交易が港市国家で活発に行われていました。
1498年にはポルトガル王国の〈ヴァスコ=ダ=ガマ〉がマリンディを訪れ,航海士・地理学者〈イブン=マージド〉(1421?~1500?)に導かれインドのカリカットに到達しています。
・1500年~1650年のアフリカ 東アフリカ 現⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
ヴィクトリア湖周辺では,農耕を中心とするバントゥー系住民と,牧畜を中心とするナイロート系住民が提携し,政治的な統合が生まれています。
○1650年~1760年のアフリカ 南アフリカ
南アフリカ…①モザンビーク,②スワジランド,③レソト,④南アフリカ共和国,⑤ナミビア,⑥ザンビア,⑦マラウイ,⑧ジンバブエ,⑨ボツワナ
ポルトガル王国は,アフリカ大陸南西部(大西洋側)のアンゴラと,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地化していきます。
・1650年~1760年のアフリカ 南アメリカ 現①モザンビーク
アフリカ東南部のバントゥー系ショナ人によるモノモタパ王国【セH9[24]地図上の位置を問う】では,ポルトガル人による介入が相次いでいました。
そんな中,王国につかえていた牛の監督官〈チャンガミレ〉が1680年代に勢力を拡大して,ポルトガル商人を追放するとともにモノモタパ王国を圧倒し,高原南西部を支配しました。
これ以降,この地域にはショナ人による小国が分裂するようになります。モノモタパ王国は存続こそしたものの,1694年~1709年の内戦で王が9代交代し,18世紀初め以降は支配下にあった首長が独立を始め,19世紀末に事実上消滅することになります。
チャンガミレ王国も,18世紀を通して衰退に向かっていきました。
・1500年~1650年の南アフリカ 現①モザンビーク
◆ザンベジ川周辺のムタパ王国は金・象牙交易で栄えた
アラブ人とポルトガル人が,東アフリカ奥地へ
ザンベジ川【セH29ニジェール川ではない】流域では,現在のモザンビーク周辺に,ムタパ(モノモタパ王国【セH9[24]地図上の位置を問う】【セH29】)が,金と象牙,ビーズと布の遠隔地交易で栄えていました。
1488年に喜望峰を発見したポルトガル王国の進出が続き,南東部(インド洋側)のモザンビークを植民地にします。1505年(注)にはモザンビーク中部のソファラに来ていたポルトガルは,16世紀後半にイスラーム商人の勢力を駆逐し,交易の主導権を握ります【セH3大航海時代以前,ムスリム商人は,香辛料交易で活躍していたか問う】。
その後もムタパ国の王位継承に介入を続け,1596年(注)にはザンベジ川に沿ってザンベジ=バレー一帯を支配します。
そこからマラヴィ王国との間に象牙の取引,さらにジンバブウェとの間に金の取引をしていたのです。すでにマラウィ〔タンガニーカ〕湖は,のちに19世紀に〈リヴィングストン〉が到達する前に知られており,アラブ人の商人も奥地に交易に訪れていました。
イエズス会の宣教師〈ヴァリニャーノ〉(1539~1606)が〈織田信長〉に1581年に謁見した際,珍しがった〈信長〉により引き取られた召使いの〈ヤスケ〉(弥助,生没年不詳)という人物は,このうちポルトガル領東アフリカ(現モザンビーク)と考えられています。彼の消息は,本能寺の変(1582)以降は不明です。
・1500年~1650年のアフリカ 南アフリカ 現②スワジランド
バントゥー系のングニ人の一派が,現在のモザンビークのマプト周辺から現在のスワジランドに移住したのは17世紀初め頃のことで,スワジ人のまとまりを形成していきました。18世紀前半に〈ドラミニ3世〉が現在につながるスワジランド王国の基礎を築いています。
・1500年~1650年のアフリカ 南アフリカ 現③レソト
バントゥー系のソト人は北方から現在のレソトに移動し,政治的な統合がすすみます。彼らはバントゥー語群のソト語(セソト)を話し,彼ら自身は「バソト」と名乗っていました。
先住のサン人は居住地を追われていきました。
・1500年~1650年のアフリカ 南アフリカ 現④南アフリカ共和国
現在の南アフリカには,バントゥー系の農耕民が南端付近まで進出し,バントゥー語群のングニ人(そのうちのコーサ人)に,ナタール地方にはバントゥー系のングニ人(そのうちのズールー人)が分布していて,国家を形成しています。
内陸の高地にはバントゥー語系のソト人や,同じくバントゥー語系のツワナ人などがいて,国家を形成しています。
もともと居住していた狩猟採集民のコイコイ人は,南西部に居住しています。
そんな中,1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕が,喜望峰の北方に植民都市ケープタウンを建設。この地域は温暖な地中海性気候で,果樹栽培や農耕が可能でした。
1685年にフランスでナントの王令が廃止されると,カルヴァン派〔ユグノー〕も植民に参加。
彼らはケープタウン北方の牧草地に武装して進出し,先住のコイコイ人を駆逐して,牧畜エリアを広げていきました。
しかし,バントゥー系のコーサ人が行く手を阻み,両者に対立も生まれるようになります。
・1650年~1760年のアフリカ 南アフリカ 現⑤ナミビア
ナミビアの海岸部にはナミブ砂漠が広がる不毛の大地。
先住のサン人の言語で「ナミブ」は「何もない」という意味です(襟裳岬と同じ扱い…)。
そんなナミビアにもバントゥー系の人々の居住地域が広がり,バントゥー語群のヘレロ人も17~18世紀にかけて現在のナミビアに移住し,牧畜生活をしています。ナミビア北東部のアンゴラとの国境付近のヘレロ人の一派は〈ヨシダナギ〉(1986~)の撮影で知られるヒンバです。
・1650年~1760年のアフリカ 南アフリカ 現⑥ザンビア
この時期のザンビアには,北部にルンダ王国,北東部にはベンバ人の国家,東部にはチェワ人(現在のマラウイの多数派民族)の国家,西部にはロジ人の国家が分布しています。
内陸に位置するザンビアにアラブ人やポルトガル人が訪れたのは,沿岸部に比べて遅い時期にあたります。
・1650年~1760年のアフリカ 南アフリカ 現⑦マラウイ
現在のマラウイ南部,モザンビーク中部,ザンビア東部には1500~1700年頃の間マラヴィ王国が統治していました。沿岸部のポルトガルとの象牙の交易で栄え,〈マスラ王〉(位1600~1650)が有名です。
(注)栗田和明『マラウィを知るための45章 第2版』明石書店,2010,p.42~p.43
・1500年~1650年のアフリカ 南アフリカ 現⑧ジンバブエ
ジンバブエでは,かつてグレート=ジンバブエの栄えた地(現在のジンバブエ南東部)から北350kmの地に,15世紀前半にムタパ王国が建国されました。
一方,南西部の高原地帯のカミを中心に15世紀半ば以降トルワ王国が金の採掘や牧畜で栄え,リンポポ川下流のモザンビーク方面でアラブ人やポルトガル人との交易も行っていました。
17世紀後半にはバントゥー系のショナ人が台頭し,トルワ王国を打倒してロズウィ王国を建国しています。
・1500年~1650年のアフリカ 南アフリカ 現⑨ボツワナ
ボツワナの大部分は砂漠(カラハリ砂漠)や乾燥草原で,農耕に適さず牧畜や狩猟採集が行われていました。
バントゥー系のツワナ人は農耕のほかに牧畜も営み,ボツワナ各地に首長制の社会を広げています。
先住のコイサン系のサン人も,バントゥー系の諸民族と交流を持っています。
1652年にオランダ〔ネーデルラント連邦共和国〕のケープタウンへの植民が始まると,北上するヨーロッパ系住民との接触も起こるようになります。
○1650年~1760年のアフリカ 中央アフリカ
中央アフリカ…現①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
この時期になっても,コンゴ盆地のザイール川上流域に広がる熱帯雨林の世界は,“闇の世界”として,ヨーロッパ人にはほとんど知られずにいました。ザイール川の上流とナイル川の上流部は「つながっているのではないか?」という説もあったほどです。イスラーム商人の流入や,ヨーロッパ人による奴隷貿易に刺激された奴隷狩りなどの外部の影響を受けながらも,バントゥー系の小さな民族集団が,焼畑農耕を営みながら住み分けていました。
アンゴラにはポルトガルの植民が進んでいましたが,17世紀中頃には新たに進出したオランダとの間で抗争も起きています。17世紀後半にはコンゴ王国の王権はあって無いような状態となり,コンゴ盆地には諸王国が分立していました。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現①チャド
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現②中央アフリカ
ボルヌ王国(14世紀末~1893)が強大化しています。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン
ザイール川流域のコンゴ盆地では,ポルトガル留学帰りの〈アフォンソ1世〉(〈ムベンバ〉)が,ヨーロッパの文化を取り入れながらコンゴ王国を支配しました。コンゴ王国では官僚機構が発達していましたが,各州の統治は地方の首長に任せられていました。この時期には,アメリカ大陸からキャッサバというイモの一種が伝わった時期でもあります。日本ではタピオカという加工品で食べられることがほとんどですが,蒸すとボリューム感があり,栄養も満点です。従来の料理用バナナに比べても,土地生産性が高いので,熱帯雨林の焼畑耕作の主力になっていきました。
コンゴ王国とポルトガルとの交易も盛んになり,ポルトガルからは銃・火薬などの武器や衣服などの日用品,銅や鉛などが伝わり,コンゴ王国からは木材,魚のくん製や象牙が運ばれました。
コンゴ王国や,それに服属する諸国など内陸の諸勢力が強力だったため,ポルトガルの支配は内陸にまでは及ばず,沿岸部の交易所での取引が中心となりました。
コンゴ王は,財源を得るためにポルトガル人に住民を奴隷として販売することを認めていましたが,奴隷商人による奴隷狩りは日増しにエスカレート。コンゴ王は,ポルトガル王に奴隷貿易への規制を求める手紙を送ったものの無視され,ローマ教皇にも中止を求めましたが,対策が打たれることはありませんでした。沖合のサントメ島を中心にポルトガル人が内陸の勢力と提携して実施した奴隷貿易は激化していき,1570年以降は奴隷の導入が王室によって奨励されるようになっていきました。導入された黒人奴隷は,主にサトウキビのプランテーションで働かされました(⇒1500~1650の中央アメリカ・カリブ海・南アメリカ)。
他のヨーロッパ諸国も奴隷貿易に参入し,奴隷の商品価値が高まっていくと,「奴隷を売り飛ばせばもうかる」と考えたコンゴ盆地の諸民族は,ヨーロッパから輸入した火器を用いて奴隷狩りを進めるとともに,コンゴ王国に対抗して支配地域を拡大させようとします。
こうして1600年代にはコンゴ王国とポルトガル王国との対等な関係は崩れ,コンゴ王国は急速に衰退していくことになり,奴隷交易にはオランダ,フランス,イギリスも参入していきました。
ザイール川の上流域のサバンナは,中央アフリカを横断する交易路の中心部を占める重要な地域です。ここでは鉄・銅・塩などの遠隔地交易を背景に,バントゥー系ルバ王国とルンダ王国が栄えました。
東アフリカ方面からはイスラーム教も伝わり,イスラーム商人も奴隷貿易に従事していました。現在,コンゴ盆地の大部分を占めるコンゴ民主共和国では80%をキリスト教が,10%をイスラーム教が占めています。
アンゴラには1500年に〈バルトロメウ=ディアス〉の孫〈ノヴァイス〉(1510?~1589)が植民を開始し,ルアンダを建設しました。ここから積み出された黒人奴隷は,ブラジルに運搬されました。1590年以降はポルトガルによる直轄支配が始まりましたが,しだいにオランダが進出するようになります。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現⑦サントメ=プリンシペ
サントメ=プリンシペは,現在のガボンの沖合に浮かぶ火山島です。
1470年にポルトガル人が初上陸して以来,1522年にポルトガルの植民地となります。奴隷交易の拠点とともに,サトウキビのプランテーションが大々的に行われました。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現⑧赤道ギニア
現在の赤道ギニアは,沖合のビオコ島と本土部分とで構成されています。
15世紀の後半にはポルトガル人〈フェルナンド=ポー〉(15世紀)がビオコ島に到達し,ポルトガル領となっています。
・1500年~1650年のアフリカ 中央アフリカ 現⑨カメルーン
現在のカメルーンの地域は,この時期に強大化したボルヌ帝国の影響を受けます。
カメルーンの人々はポルトガルと接触し,ギニア湾沿岸の奴隷交易のために内陸の住民や象牙(ぞうげ)などが積み出されていきました。
○1650年~1760年の西アフリカ
西アフリカ…①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン
ベニン王国
ニジェール川下流域(現在のナイジェリア南部)では,下流のベニン王国(1170~1897)が15世紀以降ヨーロッパ諸国との奴隷貿易で栄えます。デフォルメされた人物の彫像に代表されるベニン美術は,20世紀の美術家〈ピカソ〉(1881~1973)らの立体派に影響を与えています。
ダホメー王国
その西の現在の③ベナンの地域にフォン人のダホメー王国(18世紀初~19世紀末)があり,東にいたヨルバ人のオヨ王国と対立し,奴隷貿易により栄えます。
オヨ王国
17世紀には,ベニン王国の西(現在のナイジェリア南東部)でヨルバ人によるオヨ王国(1400~1905)が勢力を拡大させました。もともとサハラ沙漠の横断交易で力をつけ,奴隷貿易に参入して急成長しました。1728年には,ベニン王国の西にあったダホメー王国を従えています。
ハウサ諸王国
ニジェールからナイジェリアにかけての熱帯草原〔サバンナ〕地帯には,ハウサ人の諸王国が多数林立しています。
ハウサ王国はチャド湖を中心とするボルヌ帝国と,西方のニジェール川流域のソンガイ帝国の間にあって,交易の利を握って栄えています。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現④トーゴ,⑤ガーナ
ギニア湾沿岸には,現在の⑤ガーナを中心にアシャンティ王国(1670~1902) 【東京H9[3]】が奴隷貿易によって栄えました。アシャンティ人の王は「黄金の玉座」を代々受け継ぎ,人々により神聖視されていました。海岸地帯は「黄金海岸」と呼ばれ,1482年にポルトガルに建設されたエルミナ要塞は,奴隷貿易の中心地となりました。1637年にオランダ東インド会社が継承し,のちにイギリスが継承しています。
現在の④トーゴは,アシャンティ王国やダホメー王国の影響下にありました。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑥コートジボワール
ヨーロッパ人によって「象牙海岸」と命名されていた現在のコートジボワール。
コートジボワール北部,ブルキナファソからマリにかけてニジェール=コンゴ語族マンデ系のコング王国。コートジボワール東部にニジェール=コンゴ語族アカン系のアブロン王国(Gyaman)などが栄えています。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑦リベリア
ヨーロッパ人によって「胡椒海岸」と命名されていた現在のリベリア。1662年にはイギリスの交易所が設けられています。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑧シエラレオネ
シエラレオネにはイギリスの交易所が沿岸に設けられ,奴隷交易がおこなわれていました。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑨ギニア
現在のギニア中西部の高原には熱帯雨林と熱帯草原〔サバンナ〕が広がりフータ=ジャロンと呼ばれます。この地の牧畜民フラニ人は,1725年にフータ=ジャロン王国を建国し,イスラーム教を統合の旗印として周辺地域に支配エリアを広げています。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑩ギニアビサウ
現在のギニアビサウにはポルトガルが「ビサウ」を建設し,植民をすすめています。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑪セネガル,⑫ガンビア
セネガルでは,ウォロフ人のジョロフ王国がソンガイ帝国との交易で栄えていました。しかし,次第にポルトガル,オランダ,イギリス,フランスなどとの金や奴隷の交易も本格化していきます。17世紀後半にはフランスの勢力が強まり,16世紀中頃にはセネガルの王国は分裂します。1659年にフランスはサン=ルイという交易所を建設し,1677年にはアフリカ最西端のカップ=ヴェール岬(ポルトガル語ではカーボ=ヴェルデ岬)近くのゴレ島をオランダから奪い,内陸から運ばれてくる奴隷の集荷・発送の拠点となっていきました。ヨーロッパ諸国はここに鉄,織物,武器を持ち込み,金や奴隷,アラビアゴムと交換しました(注1)。ゴレ島は“負の遺産”として世界文化遺産として登録(1978)されています。フランス人の入植がすすむとともに,セネガルの住民との混血もすすみます。サン=ルイの商館長にはフランスから派遣された人物が任命されましたが,1758年には現地人の混血者とヨーロッパ出身者によるサン=ルイ市会ができており,自治組織もつくられていきました。
(注)小林了編著『セネガルとカーボベルデを知るための60章』明石書店,2010年,p.22。読み物として「黒人奴隷クンタの20年間」を参照(http://kunta.nomaki.jp/)。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑬モーリタニア
現在のモーリタニアでは,1644~1674年の戦争でアラブ系の遊牧民がベルベル系の遊牧民の連合(サンハージャ)を打倒して以来,アラブ化がすすんでいます。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑭マリ
ニジェール川沿岸部はサハラ砂漠を越える金と岩塩の交易の拠点でした。モロッコ方面からサアド朝が進出し支配していましたが,17世紀に入ると支配は弱まります。
・1650年~1760年のアフリカ 西アフリカ 現⑮ブルキナファソ
ニジェール川湾曲部の南方に位置する現在のブルキナファソには,モシ王国が栄えていました。
○1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ
北アフリカ…①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ 現①エジプト
エジプトにはオスマン帝国の総督が置かれ,インド洋交易により貨幣経済が栄えました。カイロ市内にはキリスト教徒(コプト教会,ギリシア正教会,アルメニア教会),ユダヤ教徒とスンナ派のイスラーム教徒が街区ごとにゆるやかに分かれ共存していました。
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ ②スーダン,③南スーダン
スーダン南西部のダルフール地方では,フル人の指導者がチャド湖周辺のボルヌ帝国の支配を脱し,16世紀末にイスラーム教国のダルフール=スルタン国を建国し,エジプト方面への奴隷交易で栄えています。17世紀前半にはさらにその西のチャド東部を拠点にワダイ=スルタン国が建国されています。
スーダン南部ではフンジ人のセンナール王国(フンジ=スルタン国)が栄えています。
ナイル川上流部の現・南スーダン周辺には,ナイル=サハラ語族ナイロート系の農牧民のシルック人(ナイル=サハラ語族)が多数の小王国の連合を形成しています。ほかに,同じくナイロート系のディンカ人や,ヌエル人などの農牧民が社会を形成しています。
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ 現④モロッコ,⑤西サハラ
モロッコは,アルジェリア・チュニジア・リビアと違ってオスマン帝国を防ぐことに成功し,〈ムハンマド〉の家系(シャリーフ)を称するサード朝(1511~1659)が有力となりました。サード朝はサハラ沙漠にも進出しましたが,17世紀初めに最盛期の〈マンスール〉が亡くなると地方の遊牧民や山岳部のベルベル人の自立が始まり,1659年に最後の王が暗殺され滅亡しました。各地に政権が林立する中,サハラ沙漠の交易ルートを握ったアラウィー家が17世紀後半に頭角を現しました(アラウィー朝)。
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ 現⑥アルジェリア
北アフリカ西部のマグレブ地方のアルジェリアは,オスマン帝国アルジェ州として間接統治されていました。
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ 現⑦チュニジア
チュニジアはチュニス州とされ,オスマン帝国が軍司令官(デイ)を派遣しましたが,次第にテュルク(トルコ)系の総督(ベイ)がデイをしのいで自立していきました。1611年にベイに任命された〈ムラード〉家が1702年にシパーヒー(騎兵)長官に暗殺されるまでベイ職を世襲し,パシャ(総督)の称号も与えられました。事実上の王朝建設であり,ムラード朝(1613~1705)と呼ばれます。
1705年には騎兵隊長官〈フサイン〉がアルジェの勢力を排除して実権を握り,1957年まで続くフサイン朝(1705~1957)を築きました(1956年にチュニジアは王国として独立,1957年に王政が廃止されて共和国となります)。フサイン朝はオスマン帝国の自立を進め,ヨーロッパ諸国とも独自に条約を締結するほどでした。
・1650年~1760年のアフリカ 北アフリカ 現⑧リビア
リビア西部のトリポニタニアは,1711年までスルターンに任命されたパシャにより統治されていました。しかし,地方を支配していたテュルク系の〈カラマンリー〉が実権を握り1722年にスルターンによりパシャに任命されて以降,1835年まで彼の一族がパシャの地位を占めました。支配権が一族に世襲されたためカラマンリー朝といいます。地中海の海賊活動やユダヤ人・キリスト教徒の交易活動を保護して繁栄しました。
◆悲惨な宗教戦争(三十年戦争)の結果,停滞するヨーロッパに「主権国家体制」が生まれた
軍事革命が,主権国家体制を生んだ
この時期のヨーロッパは「17世紀の(全般的)危機」ともいわれる停滞期にあたります。
ドイツの神聖ローマ帝国では,プロテスタントとローマ=カトリックとの対立がベーメンの民族運動とも結びつき,1618~48年には三十年戦争が起きました。戦場となったドイツは大きな被害を受け,神聖ローマ帝国内の諸領邦に国家としての主権が認められました。
これ以降,ヨーロッパ各国は互いの国家の主権を認め,外交官を交換し合って対等な関係で外交関係を築く体制(主権国家体制)を作り上げていくようになります。具体的には,三十年戦争後に締結されたウェストファリア条約(1648)で取り決められました。
現実問題,キリスト教世界が正教会,ローマ=カトリック,プロテスタント諸派に分裂し,それを取り仕切っていた神聖ローマ帝国の実権もなくなってしまった以上,普遍的な力で国家の枠組みを越えた全ヨーロッパをまとめ上げることは,もはや不可能となっていました。
一方で軍事革命により銃砲・大砲により戦争の犠牲者数のケタが跳ね上がり,悲惨さも増していました。三十年戦争による死者数は400万人(!) とも見積もられています。そりゃ,どうにかして“平和なヨーロッパ”を構築しなければという思いに至るのは当然です。
抜きん出た力を持つ国家が存在しない以上,ある程度まとまった領域を互いに定め,互いの主権(他国を自国の国内問題に口出しさせない権利)を認め,国際会議を開き戦争のルールも含めた国際条約をその都度つくってバランスをとっていくしかないと考えたわけです。対等な国家同士のバランスをとることで平和を維持しようとすることを勢力均衡といいます。皇帝に冊封(さくほう)されることで域内のバランスをとる東アジアの華夷秩序(かいちつじょ。中国と周辺国家の“上下関係”に基づく秩序)とは,根本的に異なるわけです。
もちろんこれらを決定できる権限は国民にはなく,国家は王家の“持ち物”とみなされました。したがって,主権国家体制のもとでヨーロッパの国王の中には,国内の諸勢力のバランスをとりつつ常備軍と官僚を整備し中央集権化をすすめる政権も現れます。これを絶対王政といいます。
○1650年~1760年のヨーロッパ 東ヨーロッパ
東ヨーロッパ…①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
・1650年~1760年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現①ロシア
ロシア国家が台頭し,バルト海とシベリアに領域を拡大した
ポーランド=リトアニア連合王国とスウェーデン王国に代わり東アジアで台頭していったのが,ロシアです。
その母体は,モスクワ大公国で,1480年にモンゴル(タタール)人の支配から自立すると,1453年に滅亡していたビザンツ帝国最後の姪と結婚した〈イヴァン3世〉(位1325~41)はツァーリ【セH18】を名乗り,ギリシア正教(東方正教会)の保護者としてローマ帝国の後継国を自任しました。のちにモスクワは「第3のローマ」と呼ばれるようになっていきます。
1533年に即位した〈イヴァン4世〉(雷帝,在位1533~84) 【セH10】は中央集権を推し進め, 1547年にはツァーリを称し,「全ロシアの君主」として戴冠式を行いました。東のシベリア【セH10】に領土を広げ,このツァーリによるロシアはヨーロッパの枠を越えた帝国へと発展していくことになります。
〈イヴァン4世〉の死後,ツァーリのロシアでは貴族の反乱が起こり動乱時代を迎えますが,1613年にロマノフ朝(1613~1917,第一次世界大戦中のロシア革命まで)が始まると,強力な農奴制と官僚制に基づくロシア型の絶対王政(ツァーリズム)が確立していきました。
しかし,1648年には支配していたウクライナでコサックが反乱を起こし,自治権を与えました。これをコサックによる「ヘーチマン国家」(1649~1786)といいます。これにロシアが接近して1653年に保護国化,ロシアは事実上黒海沿岸のウクライナを併合します。
1670年には,コサックの〈ステンカ=ラージン〉(1630~71) 【セH18ポーランドではない・時期】【追H21エカチェリーナ2世は鎮圧していない】の指導のもとで,南ロシアで反乱を起こしています。反乱鎮圧後には農奴制が強化されます。
◆ロシアの南下とともにオスマン帝国との戦争が続き,〈ピョートル大帝〉は黒海沿岸に進出した
内陸からバルト海へ,ツァーリから皇帝へ
その後〈フョードル3世〉(任1676~82)のときには,1676年~1681年にオスマン帝国とクリム=ハン国【京都H22[2]】との戦争(露土戦争)を起こします。露土戦争というと1877年~78年のものが最も有名ですが,それ以前にも断続的に何度も引き起こされているのです。
その後,ロマノフ朝が強国にのし上がるきっかけをつくったのが,1682年に即位した〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725) 【東京H7[3]】【セH22,セH26イヴァン4世ではない,セH28】です。同時代の西欧(オランダやイングランド)の最先端の政治・経済を学ぶために2度にわたり視察旅行(1697~98,1716~17)をおこない,大砲の鋳造や造船術を導入して,バルト海への進出のため海軍を創設しました。急速な工業化を進めるためマニュファクチュア(工場制手工業)を振興しましたが,そこでは農奴を強制労働させることが許可されています(農奴制マニュファクチュア)。また,領主貴族の長子相続制を定め,分割相続を禁止しました。これにより,長男は領主として農奴から人頭税を徴収できても,次男・三男は14階級に分けられた文武の官僚として働かなくてはならなくなります。なお,重税への抵抗から,1707~08年にはドン=コサックの反乱が起きています。
文化面では西ヨーロッパ風の服装や文化を採用し,ロシア人がたくわえていた“あごひげ”を禁止しました。またカレンダーとしてユリウス暦を採用するとともに,ギリシア正教会の総主教への支配を強化。教育改革をおこない,ロシア科学アカデミーがペテルブルクにひらかれ,1705年には東方への進出を見据えて日本語学校もつくらせています。
南方には,1695~96年にオスマン帝国と戦って黒海北岸のアゾフ海に進出。
西方では,スウェーデン王国と1700~21年の北方戦争【セH28】【追H21エカチェリーナ2世ではない,H30ルイ14世のときではない】(大北方戦争ともいいます)で戦い,〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725)【セH28】がスウェーデンの〈カール12世〉(在1697~1718)を破りました。
戦争中の1703年から,〈ピョートル大帝〉はバルト海沿岸に新都ペテルブルク【セH26モスクワではない】も建設しています。〈カール12世〉がポーランドで戦っている間のことです。
このペテルブルクは,バルト海への軍事的・経済的進出だけではなく,西ヨーロッパの文芸や科学技術を導入するための”西方への窓”となりました。
1721年には元老院を構成する支配層が〈ピョートル〉に「祖国の父,全ロシアのインペラートル(皇帝),偉大なるピョートル」の称号を贈ると,彼は一旦これを形式的に拒否し,その後受け入れました。ロシア国家の君主の称号は「全ロシアのツァーリにして大公」という称号から,「全ロシアのインペラートルにして専制君主」に変わったので,これをもってロシア帝国が成立したと考えるのが一般的です。
◆ロシアは清との国境を設定し,ベーリング海峡を発見,さらにカムチャツカ半島の漂流日本人を連行し日本語学校をつくった
バルト海から太平洋まで,ヨーロッパからアジアまで
東方はシベリアを通過してオホーツク海に到達し,清との間に国境画定の条約を結び通商を開始します。1689年に〈康煕帝〉との間に締結されたネルチンスク条約【京都H22[2]】【セH13史料,セH17イリ地方を清から割譲していない,セH21キリスト教布教の自由は認めていない,セH25】では,ロシアと清の国境が外興安嶺山脈と黒竜江の支流であるアルグン川と定められました。さらに〈ベーリング〉がベーリング海峡を発見しています。
また,1697年からは〈アトラソフ〉率いる軍がカムチャツカ半島にも南下をすすめ,アイヌ人や日本人の戦闘も置きます。これを憂慮した江戸幕府は1700年に松前藩に地図の作成を要請。しかし1706年にロシアはカムチャツカ半島を領有しました。
カムチャツカ半島を探検した〈アトラソフ〉は,現地に漂着していた日本人〈伝兵衛〉(でんべえ,1695年に大坂を出港し遭難)をロシアに連行し,日本語教師となりました。のちにも何人かの日本人が連行され,同様に日本語教師となっています。次の女帝〈アンナ〉(位1730~40)の時代には薩摩の出身者らによって,史上初のロシア語=日本語辞典(露日辞典)が編纂されています。
〈ピョートル〉大帝の治世が終わると,1727年には清の〈雍正帝〉とキャフタ条約【セH8】が締結され,シベリアや外モンゴル【セH8「モンゴル」】との国境がもうけられました。また,オーストリアと同盟関係を結び,オスマン帝国に対抗する政策がとられます。
・1650年~1760年のヨーロッパ 東ヨーロッパ 現④リトアニア
◆ポーランド=リトアニア連合王国は中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
ポーランド=リトアニア,ウクライナやバルト海を失う
ポーランド=リトアニア連合王国は,ヤゲウォ(ヤゲロー(注))朝【セH7イヴァン4世は無関係】【セH30】が断絶して1572年から選挙王政【セH30】となり,大土地を領有する貴族(シュラフタ)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。しかし,外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権も進みません。
しかし,1649年にウクライナのコサックが「ヘーチマン国家」を樹立し,1653年にロシアの保護下に入ると,事実上ウクライナの一部を喪失。
1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争(北方戦争)で領土を分割される寸前まで追い詰められています。
それでも〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年の第二次ウィーン包囲に出兵してオスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。しかし国内の集権化には失敗です。
1697年には〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況に。
北方戦争でスウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。
(注)ポーランド語の「Ł」の発音は「w」に近く,「ロー」よりも「ウォ」のほうが正しい発音に近いです。
○1650年~1760年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ
中央ヨーロッパ…①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
海外植民地なき中央ヨーロッパは,国外向け穀物生産で栄え,激しい覇権争いが繰り広げられる
・1650年~1760年のヨーロッパ 中央ヨーロッパ 現①ポーランド
ポーランド=リトアニア連合王国は中央集権化と近代化に失敗し,王位をめぐり周辺諸国の介入にあう
ポーランド=リトアニア連合王国は,ヤゲウォ朝【セH30】が断絶して1572年から選挙王政【セH30】となり,大土地を領有する貴族(シュラフタ)が政治の実権を握り王権を制限して,政治を牛耳っていました。しかし,外国勢力の干渉もあり,弱い王権のもとで中央集権も進みません。1655年~1660年には,スウェーデンとの戦争で領土を分割される寸前まで追い詰められています。
それでも〈ヤン3世〉(位1674~96)は1683年の第二次ウィーン包囲に出兵してオスマン帝国を撃退するなどの活躍をみせます。しかし国内の集権化には失敗。
1697年には〈アウグスト2世〉(位1697~1733)が即位。しかし,その地位はロシアやオーストリアの支持を受けたものであり,ポーランド=リトアニアの貴族たちから「なんであなたが王なんだ」という反応。1715年~19年に国内の貴族の抵抗が起き,次の王をめぐって,また周辺諸国が首を突っ込むという状況…。北方戦争でスウェーデンがロシアに敗北すると,戦後はロシアの影響力が強まる中,さらにフランスとオーストリアの板挟みになったポーランド=リトアニアは国力をさらに弱めていくことになります。
・1650年~1760年の中央ヨーロッパ 現④オーストリア,⑤ハンガリー
◆オスマン帝国の支配下にあったハンガリーは,オーストリアの直轄地となった
オーストリアはハンガリーを獲得し,「ドナウ帝国」に
16世紀以降バルカン半島に進出していたオスマン帝国では,イスタンブールのスルターンや大宰相の実権が低下し,イェニチェリの権力が強まっていました。
1679年にはペストが流行し,ウィーンで9万人が亡くなる惨事に。1681年には現在にのこるペスト記念塔が市内に建てられました(注)。
そんな中,1683年にオスマン帝国は第二次ウィーン包囲を決行。ウィーンの防衛軍は1万5000人(注)に過ぎませんでしたが,ポーランド=リトアニアの〈ヤン=ソビェスキ〉とロートリンゲン公〈カール〉率いる神聖ローマ皇帝軍により撃退されました。1686年にはハンガリーのブダを占領し,翌1687年にはトランシルヴァニアも占領,1699年にカルロヴィッツ条約【京都H19[2]】【追H20】を締結してオスマン帝国に支配されていたハンガリーを奪回しました【追H20オスマン帝国がオーストリアを領有したわけではない】。
(注)大江一道『新物語世界史への旅』山川出版社,2003,p.127
1718年にはオスマン帝国に対する戦争(1716~18)の結果,パッサロヴィツ条約が締結され,オーストリアの領土は最大となります。〈カール6世〉(1711~40)はプラグマティシェ=ザンクツィオンを発布してハプスブルク家の家領が一体であることを法制化し,1724年には帝国基本法として公布しました。一体とされたハプスブルク家の領土は,オーストリア世襲領+ボヘミア諸邦(ボヘミア王国,モラヴィア辺境伯領,シレジア公国)+旧ハンガリー王国領です。
なお,プラグマティシェ=ザンクツィオンでは,オーストリア世襲領とボヘミア諸邦では,女系の君主が世襲することが認められました。しかし,ハンガリーでは伝統的に女系の君主は認められていませんでした。そこでハンガリー貴族は抵抗運動を起こし,ハンガリーの国法や特権の維持を認めてもらう代わりに,女系の君主による世襲を承認しました。これによりハンガリーは事実上オーストリアから自立した地位を確立していくことになります。
女系の君主による世襲に対しては,1740年にバイエルン選帝侯がフランスとともに異議を唱え,それに乗じてプロイセン公〈フリードリヒ2世〉【セH8啓蒙専制君主であったか問う】もヨーロッパで最も繊維工業が発達していたシレジア公領を要求し,オーストリアとの間に戦争が起きました(オーストリア継承戦争)。
オーストリア家領を構成するハンガリーの支持が不可欠とみた〈マリア=テレジア〉は,まだ乳飲み子であった長男〈ヨーゼフ〉を抱っこしてハンガリーの議会で支援を訴えます。これに心を打たれたハンガリー貴族らは,〈マリア〉に対してハンガリーの国法を守り,ハンガリー貴族の特権を維持し,行政の自治を認めることを条件に,オーストリア側に立つことを約束しました。
また〈マリア〉はイギリスの支援を得ることにも成功します。
しかし,ボヘミアではフランスに支援される形で,ハプスブルク家に対するボヘミア貴族の反乱が起きたため,1743年に〈マリア〉はプラハでボヘミア王に即位し,ボヘミア支配を強めます。
1741年には1748年のアーヘンの和約で和平が結ばれ,シレジアは占領されたものの,オーストリアの〈マリア=テレジア〉の夫による神聖ローマ帝国皇帝即位が認められました。
しかしその後,オーストリアの前フランス大使であった〈カウニッツ〉が1753年にオーストリアの宰相に就任すると,長年の宿敵であったフランス【セH8】と同盟を結ぶ“外交革命”が実現。これにロシアの〈エリザベータ2世〉も加わり,プロイセン包囲網が成立しました。
この包囲網に対し,1756年にプロイセンはボヘミアを攻撃するためにザクセンに侵入し,七年戦争が勃発しました。プロイセンは初めは劣勢でしたが,1762年にロシア皇帝が親プロイセンの〈ピョートル3世〉(〈フリードリヒ2世〉の崇拝者でした)に代わると盛り返し,1763年にフベルトゥスブルク条約で和平が結ばれました。オーストリアはシレジアを失う代わりに〈マリア=テレジア〉の帝位世襲は認められました。
オーストリアは自国の“遅れ”を痛感し,強権を発動して上からの改革を実施していくことになります(啓蒙絶対主義)。
プロイセンは,三十年戦争後には,大選帝侯と称される〈フリードリヒ=ヴィルヘルム〉(位1640~88)が,ライバルだったポーランドとスウェーデンの間隙を縫って領土を拡大し,大土地を所有し農奴を持つ領主貴族(ユンカー) 【セH26イタリアではない】【セH8大規模な奴隷制,アフリカの黒人奴隷,自由な農業労働者の雇用とは無関係】を保護して,彼らを官僚や兵士に登用しました。
こうして,同時期のイングランドでは,議会の力が増していったのとは対照的に,プロイセンでは議会の力が,王に忠実なユンカーによっておさえられていくことになりました。他方で,国内の産業を発展させるために,ナントの王令が廃止【東京H7[3],H21[1]指定語句「ナントの王令廃止」】されたためにフランスから亡命したユグノーを受け入れています。
スペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側に立ったことにより,プロイセンには王号が与えられ,プロイセン王国となりました。ブランデンブルク選帝侯領は,プロイセン王国の一部となりました。
〈フリードリヒ=ヴィルヘルム1世〉(位1713~40,同名の大選帝侯とは別人) 【セH27】は軍事力を拡大させて絶対王政の基礎を築き,その後の〈フリードリヒ2世〉(大王,在位1740~86) 【追H9北方戦争は起こしていない】 【セH27ハプスブルク家ではない】が周辺国との戦争を本格的に開始しました。
〈フリードリヒ2世〉【セH17ヴィルヘルム2世ではない,セH25マリア=テレジアではない】は,オーストリアで大公を誰に継承するかという問題が起きた際に,オーストリア継承戦争【セH17】を始め,さらに七年戦争(1756~63)【セH22】ではイギリスと同盟し,最終的にシュレジエン【セH25】【追H20ウィーン議定書によるものではない】を獲得します。
イギリスはこのとき,植民地でもフランス【セH12ポルトガルではない】と戦っています(フレンチ=インディアン戦争【セH12フランスとスペイン,ポルトガルとイギリス,オランダとスペインの戦争ではない】)。相手方に強敵フランス,さらにはロシアが加わったため,七年戦争は厳しい戦いとなりましたが,ロシアが途中でプロイセン側に寝返ったため勝利にこぎつけました(ロシアがプロイセン側に突如まわったのは,戦争に介入した〈エリザヴェータ〉(女帝です,1709~62)から,途中でドイツ出身の〈ピョートル3世〉(位1762)に代替わりしたためです。彼はプロイセンの〈フリードリヒ2世(大王)〉(位1740~86)を敬愛していました。この〈ピョートル3世〉【セH29試行 リード文】の皇后が,後に女帝となる〈エカチェリーナ2世〉です。
ちなみに〈フリードリヒ2世〉【追H9サンスーシ宮殿を「建設した」か問う】は「啓蒙専制君主」といわれ,自由な政策をある程度導入して,国内をまとめようとしました。例えば,ベルリン郊外のポツダム【追H30マルセイユではない】にロココ様式【追H9】のサン=スーシ宮殿【東京H24[3]】【追H9フリードリヒ2世の建設か問う,H20設計はカスティリオーネではない,H30】【セH8】【セH27王はハプスブルク家ではない,H28ヴェルサイユ宮殿ではない】を建てて,フランスの思想家の〈ヴォルテール〉(1694~1778)や,バロック派最大の作曲家である〈バッハ〉(1685~1750)を招いており,彼自身も読書に燃え,フルートの演奏も披露しました。またユダヤ教徒などに対する宗教寛容令を発しています。彼は,自分のことを「国家第一の下僕」と称し,国民のためにさまざまな政策を導入しましたが,国民に無制限の権利を与えたわけではありません。イングランドやフランスが急成長している中で,遅れをとっているプロイセンが生き残るためには,国民をある程度満足させつつ(飴),強い権力で国をまとめること(鞭)が必要だと考えたのです。同じような方法を,当時のオーストリアやロシアもとっています。なお,荒れ地でもよく育つ作物として当時はまだ食用として普及していなかったジャガイモの栽培を奨励し,七年戦争後には捕虜(薬剤師の〈パルマンティエ〉)を通してフランスでも栽培されるようになりました【セH18リード文】。
オーストリア大公国は,ハプスブルク家が神聖ローマ帝国を兼任しており,神聖ローマ帝国の中心的存在でした。しかし三十年戦争後のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約で多くの領邦が主権を持つようになったので,神聖ローマ帝国の皇帝といってもオーストリアだけを支配する君主に過ぎなくなってしまいました。
それでもオーストリアは,1683年にオスマン帝国の第二次ウィーン包囲を撃退し,1699年にはカルロヴィッツ条約【京都H19[2]】を締結して,1526年にオスマン帝国に奪われていたハンガリー【セH13オスマン帝国最盛期の領土に含まれていたかを問う】を獲得しました。さらにはスペイン継承戦争後に,南ネーデルラントを獲得し,着々と領土を拡大させていきました。17世紀末からは,フランスのヴェルサイユ宮殿に対抗して,歴代皇帝がウィーン郊外にシェーンブルン宮殿を造営しました。
しかし,〈カール6世〉(神聖ローマ皇帝在位1711〜40)に男子の跡継ぎが生まれず,男系のみの王位継承を原則としていたオーストリアに危機を迎えていました。そこで,生前の〈カール6世〉は,女子でも相続できる規定を盛り込んだ国事詔書を発布し,女性の〈マリア=テレジア〉(位1740~80) 【セH29試行 エカチェリーナ2世とのひっかけ】【セH8】を即位させるという離れ業(はなれわざ)に踏み切ります。
しかし,「はやく断絶しろ〜」とばかりに,オーストリア大公の位を虎視眈々とねらっていた周辺の王侯貴族は,それに反発。プロイセンとオーストリアの戦争に発展し,敗れたオーストリアはシュレジエンを失ってしまいました(オーストリア継承戦争,1740〜48)。
シュレジエンを取られた女王〈マリア=テレジア〉は,「リベンジをするには宿敵フランス王家と同盟するしかない」と,政策を転換。当時のフランス王〈ルイ15世〉(位1715~74) 【セH16時期】は同盟に乗り気ではありませんでしたが,愛人の〈ポンパドール侯夫人〉(1721~64)が動かし,決意させたといいます。こうして,長年のフランス王家vsハプスブルク家の対立関係をくつがえす,この七年戦争【追H9オーストリア継承戦争ではない】におけるフランス王家【セH8】【セH25イギリスではない】とオーストリアのハプスブルク家の歴史的提携のことを「外交革命」【セH22】と呼びます。これからは,王家対王家が”意地を張って”争う時代ではなくなり,国際情勢の流れを見て,自分の国にとって有利か不利かで味方になったり敵になったりする時代になっていくのです。このとき”仲直り”の印に,ハプスブルク家からは,ブルボン家に〈マリ=アントワネット〉(1755~93)が嫁がされました【セH8】。彼女はのちのフランス革命で,夫〈ルイ16世〉とともに処刑される運命にあります(#漫画 言わずとしれた〈池田理代子〉の『ベルサイユのばら』があります。ただし「男装の麗人」〈オスカル〉と,〈オスカル〉を愛する平民〈アンドレ〉は架空の人物)。
外交革命によって,イギリス~オランダ~プロイセン vs フランス~オーストリア~ロシアという構図が生まれました。フランスはオーストリアを挟み撃ちにするために,従来はオーストリアの向こう側にあるポーランドと友好関係を結んでいましたが,「外交革命」以降は,ポーランドから遠ざかることとなり,これがのちのオーストリア・プロイセン・ロシアによるポーランド分割の遠因となりました。
〈マリア=テレジア〉の長男〈ヨーゼフ2世〉(位1765~90) 【セH8】【セH13,セH15,セH22プロイセンではない,H27】【追H30】は,〈マリア=テレジア〉と共同で,啓蒙思想【セH22】【セH8フランス革命に影響を与えたか問う】に基づいてオーストリアを統治しました(1765~80)。プロイセンの〈フリードリヒ2世〉と同様,1681年に宗教寛容令を発布し,ユダヤ教やプロテスタントの信仰を認めました。同時にローマ教会や修道院を閉鎖・解散したり,ドイツ語を公用語にするなどの中央集権化をすすめ,農奴解放【セH13,セH15】【追H30】もおこないますが,政策の多くは貴族の反対でくつがえされてしまいました。
彼はロシアとプロイセン【セH8フランスではない】とともに第一回(1772)ポーランド分割に参加し,さらには1778~79年にバイエルンの王位継承に介入し,それを止めようとしたプロイセン王国の〈フリードリヒ2世〉(位1740~86)と戦いました。実際に戦闘は多くはおこなわれず,食料調達のため“ジャガイモばかりを掘っていた”ということから“ジャガイモ戦争”という別名もあります。この時代には新大陸原産のジャガイモ栽培がヨーロッパに普及していたのです(〈フリードリヒ2世〉はジャガイモ栽培を奨励していました【セH18リード文】)。
また,この頃の首都ウィーンでは,作曲家〈モーツァルト〉(1756~91)が活動するなど,「音楽の都」として名を馳せるようになりました(映画「アマデウス」(1984米))。なお,ウィーン近郊のシェーンブルン宮殿は,〈マリア=テレジア〉のときに完成をみています。外観はバロック式,内装はロココ式となっています。
◆ドイツ人のハンザ同盟は衰退していった
1241年に結成されたドイツ人の都市同盟であるハンザ同盟は,15世紀以降,都市内部のツンフト闘争や領邦君主による編入,オランダ,イギリス,デンマーク,スウェーデンなどのバルト海への進出もあり,同盟自体の活動も衰退していきました。ハンザ会議は1699年を最後に開かれることがなくなり,最後までハンザ都市を称して活動したのはリューベック,エルベ川河畔のハンブルク【慶文H29「エルベ川河畔」と「ブラームスの生誕地」から答えさせる問題。前者から答えるしかないだろう】,ブレーメンのみとなりました。
なお,この時期のドイツでは,ライプツィヒに生まれ,マインツ選帝侯とハノーファー侯に仕えた〈ライプニッツ〉(1646~1716)【追H20植物分類学の基礎を築いていない】が微積分を考案し,単子論(モナド論)を説きました。彼は1700年にベルリン=アカデミーの初代会長となっています。
○1650年~1760年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
バルカン半島の大部分はオスマン帝国の支配下にあります。
ヴェネツィア共和国の支配していたクレタ島も,戦争の末1669年にオスマン帝国領となっています。
○1650年~1760年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半島…①スペイン王国,②ポルトガル王国
大航海時代に強盛を誇ったポルトガル王国ですが,この時期には以前の栄光はすっかり影をひそめていました。1640年にスペインから独立したものの,ブラジルでのサトウキビ生産が17世紀後半に砂糖価格の下落によって行き詰まると,今度は金鉱の開発に着手して乗り切ろうとしました。
しかしイングランドとの間に1703年,ポルトガルのワインを安くイングランドに輸出する代わりに,イングランドの綿織物を独占的に輸入することを定めたメシュエン条約という通商条約(注)が結ばれると,ポルトガルの織物工業は壊滅し,イギリスの綿織物購入のためにブラジルの金(きん)があてられ,大量のブラジル金がイングランドに流れ込むことになりました。この金が,イギリスの産業革命(工業化)の資本の元となっていくわけです。
(注)ポルトガルをオランダやオーストリア側に立たせ,フランスを包囲する意図のもとで結ばれました。
○1650年~1760年のヨーロッパ イベリア半島
イベリア半島…①スペイン,②ポルトガル
◆西ヨーロッパ諸国を巻き込んだスペイン継承戦争の結果,スペイン王国はブルボン朝となった
イベリア半島では17世紀に入るとハプスブルク家によるスペイン王国の支配が衰え,1640年には同君連合を形成していたポルトガル王国が離脱しました。かつて“太陽の沈まない帝国”と呼ばれたスペインも,ネーデルラント連邦共和国(いわゆるオランダ)やイングランド,フランスの追い上げを受け,国際的な覇権も失っていきました。
1665年に〈カルロス2世〉(位1665~1700)がわずか4歳で王位を次ぐと,初めは母后が摂政となりますが,フランスの〈ルイ14世〉による対外戦争が激しさを増し,治世は不安定でした。
オランダ戦争(1672~78)ではフランドル地方の諸都市とフランシュ=コンテ(11世紀以来は神聖ローマ帝国,14世紀にブルゴーニュ公国,15世紀後半にハプスブルク家の神聖ローマ帝国の領土となっていました)を失いました。プファルツ継承戦争(1688~97)の結果,1697年のライスワイク条約では領土の喪失はありませんでしたが,跡継ぎのいなかった〈カルロス2世〉が亡くなると,フランスの〈ルイ14世〉は自分の孫〈フィリップ〉を〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)としてスペイン国王に即位させようとしました。
しかし,周辺諸国は「フェリペ5世がスペイン王だけでなくフランス王を兼ねるつもりなのではないか」と不安視。イングランド王国とネーデルラント連邦共和国は,オーストリア大公国とともに大同盟を結成して〈フェリペ5世〉の即位に反対し,スペイン継承戦争(1701~14)となりました。〈フェリペ5世〉の即位に対しては,スペイン国内においてもアラゴン連合王国,バレンシア,カタルーニャ王国が反対し,対外戦争が終結した後もカタルーニャ王国軍は〈フェリペ〉に対して抵抗を続けました。
この戦争に関わったイングランドとフランスは,ヨーロッパでの戦争に連動する形で北アメリカ大陸で植民地を争奪する戦争(アン女王戦争,1702~1714)を起こしています【追H9スペイン継承戦争で,イギリスはフランスを支持していない】。1713年のユトレヒト条約,1714年のラシュタット条約で戦争は終結し,スペインをブルボン家が継承することは認められつつも,フランスとの合同は将来にわたって禁止され,以下の多くの領土をハプスブルク家のオーストリア大公国や,イングランド王国側に割譲しました。
・スペイン領ネーデルラント → オーストリア=ハプスブルク家
・ナポリ → オーストリア=ハプスブルク家
・シチリア島 → サヴォイア公国(19世紀のイタリア王国建設を主導することになる国家)
・ミラノ → オーストリア=ハプスブルク家
・サルデーニャ島 → オーストリア=ハプスブルク家
・ジブラルタル → イングランド王国
・メノルカ → イングランド王国
戦後のスペイン王国では,ブルボン家の〈フェリペ5世〉の下で,アラゴンやカタルーニャに対してもカタルーニャ中心の中央集権的な支配が適用されました。これにより,〈イサベル〉と〈フェルナンド〉の“カトリック両王”以来続いていた,地方の習慣や制度を残しつつ,複数の王国が連合する形の制度に終止符が打たれたのです。特に最後まで〈フェリペ〉に楯突いたカタルーニャに対する締め付けは強く,地方の特権の削減やカスティーリャ語の導入などの中央集権化が強まりました。こうして,のちのちまで続く中央と地方の対立が深まっていきます。
〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)とその次の〈フェルナンド6世〉(位1746~59)は,スペイン継承戦争で失った領土を回復しようと,常備軍の整備を進めていきました。ポーランド継承戦争(1733~35)とオーストリア継承戦争(1740~48)ではフランス側に立ち参戦し,〈カルロス3世〉(位1735~59)のときにはシチリアとナポリを回復することに成功しました。スペインにとって,イギリスが新大陸で覇権を握ることは最も避けたいことであり,イギリスを共通の敵とするフランスと組んだのでした(この間,私掠船や密貿易を繰り返していたイギリスとの間に,いわゆる「ジェンキンズの耳戦争」(1739~48)が起きています)。続く七年戦争(1756~63)も,やはりフランス側に立ってイギリスと戦っています。
○1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ
西ヨーロッパ…①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆17世紀後半から18世紀後半にかけ,フランスはイギリスとの植民地獲得戦争をたたかった
フランス王国では,1640年~52年に起きたカタルーニャの反乱に介入した〈ルイ13世〉(位1610~1643)は,1659年のピレネー条約でフランス・スペイン国境をピレネー山脈とし,以北のカタルーニャはフランス領となりました。また,1640年にはポルトガルでブラガンサ朝が独立しました。ポルトガルを支援したのは,スペインに対抗しようとしたフランスとイングランドです(独立の承認は1668年)。
フランスの〈ルイ14世〉(位1643~1715)はイギリスに対抗して重商主義【共通一次 平1:16世紀から18世紀にかけて,イギリス・フランスなど西ヨーロッパ諸国がとった経済政策を問う。選択肢は①重農主義,②自由貿易主義,③重商主義,④門戸開放政策】を推進して絶対王政を確立し,フランスの領土を拡大させるために各地で進出戦争を起こしました。
進出戦争は,世界商業の主導権をめぐるイングランド(イギリス)との争いに発展し,北アメリカ大陸・カリブ海やユーラシア大陸において植民地獲得戦争が今後100年以上にわたり続くことになります。これを第二次英仏百年戦争といいます(注)。オランダと同君連合となったイングランド(イギリス)によるファルツ王戦争(大同盟戦争,1688~1697)がその始めで,1815年に終結するナポレオン戦争まで続きます。
〈ルイ14世〉の進出戦争と英仏の植民地戦争が結びついた最後の例がスペイン継承戦争でした。スペインでハプスブルク家が1700年に断絶したのに目をつけた〈ルイ14世〉は,孫である〈フェリペ5世〉を王として送り込むことで,勢力範囲をスペインに広げようと考えたのです。
これを警戒したイングランド(1707年からはスコットランドと合同するので,大ブリテン連合王国(イギリス) 【セH27】となる)やオーストリア,オランダは,フランスとの間に戦端を開きました。これがスペイン継承戦争(1700~1714年)で,植民地における戦争はイングランド(イギリス)の王名をとってアン女王戦争といいます。
(注)ヨーロッパでオーストリア継承戦争が起きると,植民地ではジョージ王戦争が勃発。1742年には〈デュプレクス〉がインド総督となり,イギリスとの対決姿勢を強めます。
1744~48 第一次カーナティック戦争
1744~48 ジョージ王戦争
1748 ハイデラバード継承戦争
1750~54 第二次カーナティック戦争
1756~63 七年戦争
1757 プラッシーの戦い
1758~63 第三次カーナティック戦争
1763 パリ条約
1775~82 第一次マラーター戦争
1780~84 第二次マラーター戦争
1783 パリ条約
戦争は,イギリス側に軍配が上がりました。スペインは南ネーデルラント,南イタリアを喪失し,地中海から大西洋への出口として最重要地点であったジブラルタル【セH30スペインは獲得したのではなく喪失した】や,西地中海のメノルカ島(ミノルカ島)はイギリスに奪われました。イギリスは21世紀の現在においても,ジブラルタルを海外領土として保持しています。
また,イギリス【追H20フランスが獲得したわけではない】はフランスから北アメリカの植民地を獲得。北アメリカ北東部のアカディア(ノヴァスコシア)とニューファンドランド島【追H20】,北アメリカ北部のハドソン湾です。
さらに,イギリスやオランダは大西洋の制海権を獲得し,イギリスは奴隷貿易独占権(アシエント。アフリカ大陸の住民をアメリカ大陸まで船に乗せて運ぶ権利)を獲得します【追H9スペインは18世紀に奴隷貿易の最も重要な担い手ではなかった】。こうしてイギリスの南海会社は,1750年までに毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地に供給し,巨富を得ました。
これらを定めたユトレヒト条約【セH19金印勅書とのひっかけ】【追H20内容】では,ブルボン家がスペイン王国を継承することは認められましたが,スペインとフランスとの合同は禁止されました。
イギリスは奴隷貿易のもうけにより資本を蓄積していき,これがイギリスにおける産業革命(工業化)の元手の一つになっていくのです。港湾都市リヴァプールは,奴隷貿易の拠点として栄えました。当時の人気版画家〈ホガース〉(1697~1764)の描いた「放蕩一代記」という当時の上流階級を風刺(ふうし)した版画には,上流階級の家庭に黒人が召使いや“ペット”として登場します。彼は南海会社の株価の急騰と暴落(南海泡沫事件。史上初のバブルで,バブルの語源になりました)も,版画のテーマにしています。
・1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ ①イタリア
イタリアでは諸国による分裂状態が続いています。
ヴェネツィア共和国は,1669年に地中海交易の重要拠点クレタ島をオスマン帝国に奪われます。かつて“アドリア海の真珠”とうたわれたヴェネツィアも落ちぶれてしまったものです。
ローマ教皇庁は17世紀前半の〈ウルバヌス8世〉が〈ベルニーニ〉とタッグを組みローマの復興・美化をすすめ,領域も拡大させます。しかし,財政的には厳しい状況となり,衰退に向かいます。
フィレンツェは,1569年以降,メディチ家の〈コジモ〉によるトスカーナ大公国となっていました(〈コジモ1世〉(位1569~1574))。大公位のメディチ家による世襲は,第七代〈ジャン=ガストーネ〉(位1723~1737)をもって終わり,1737年には〈マリア=テレジア〉の夫で神聖ローマ帝国〈フランツ1世〉(皇帝位1745~1765)が〈フランチェスコ2世〉(位1737~1765)として大公位を兼ねます。
事実上,ハプスブルク家の一部となったフィレンツェですが,あくまでハプスブルク家領とは別の枠組みとして維持されることとなります。
・1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現④マルタ
マルタ島は,マルタ騎士団の拠点
マルタ島は地中海中央部の交通の要衝。
1530年以降,マルタ島はマルタ騎士団(旧・ヨハネ騎士団)の所領となっています。
しかし,アジア方面との交易が活発化するにつれ,東地中海への“入り口”に位置するマルタ島へのイギリスやフランスの関心は高まっていきました。
・1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑦フランス
◆主権国家体制の成立にともない絶対王政が確立し,商工業を発展させ貿易を振興したが,ギルドや領主は残された。イギリスとの植民地戦争には敗北した
ルイ14世は72年間の在位を誇る「太陽王」
フランスでは,貴族によるフロンドの乱が,1653年まで続きました。フランスの啓蒙主義の文筆家〈ヴォルテール〉(1694~1778)は『ルイ14世の時代』の中で,このときに17歳の〈ルイ14世〉(位1643~1715)が反乱を起こした貴族に向かって「朕は国家なり!(私は国家である)」といい放ったというふうに描いています。このセリフは1661年から親政をはじめた〈ルイ14世〉の王権神授説に基づく絶対王政を象徴するフレーズとなりました。
王権神授説の理論家は〈ボシュエ〉(1627~1704) 【追H21】で「フランス王国をローマ教皇から分離させ,フランス独自の教会をつくろう」と主張しました(ガリカニスム(国家教会主義))。要するに「フランスの教会にローマ教皇庁は口出しするな」というわけです。
また,「自然国教説」をとなえ,四方八方に領域拡大をねらいました。
すべて失敗に終わりますがネーデルラントと戦うとともに,1681年にはストラスブールを併合しています。
〈ルイ14世〉はまたの名を「太陽王」といい,パリ郊外に建設されたヴェルサイユ宮殿【セH12地域(ドイツではない)】【セH18】【追H20設計はカスティリオーネではない】で,自らギリシアの太陽神アポロンに扮してバレエを踊ったといいます。ヴェルサイユ宮殿はバロック様式【セH18ゴシック様式ではない,H28ロココ様式ではない】の傑作で,国内外の貴族・聖職者が集まる華やかな外交の舞台となり,フランス語はヨーロッパ各国の「外交の言葉」となりました。正しいフランス語の読み書きが『アカデミー辞典』によって確立するのは,〈ルイ13世〉の宰相〈リシュリュー〉(1585~1642)が1635年に勅許したアカデミー=フランセーズが規定を定めてからのことです。この頃には,〈ラシーヌ〉(1639~1699)や〈コルネイユ〉(1606~1684)の悲劇や,〈モリエール〉(1622~1673)の喜劇【セH19『百科全書』編纂はしていない,セH28】などギリシアやローマの演劇を発展させた古典主義の演劇も人気となりました。作家たちは国王の強力な権力の後ろ盾(だて)を得て,キリスト教による縛りから離れた自由な創作活動が保証されたわけです。なお,〈リシュリュー〉はのちに〈デュマ〉(大デュマ,1802~1870)の『三銃士』(1844)に“悪役”として登場します。
軍事革命を背景として,火砲を組み込んだ常備軍を整備した結果,フランスの陸軍はヨーロッパ最大の規模となりました。軍事的なバランスが崩れた結果,フランスを脅威とみなしたオランダは,名誉革命後のイングランドの王位を兼ねることで,ルイ14世に対抗しようとしました。
オランダへの対抗から,蔵相〈コルベール〉(1619~83)【セH28年代を問う】が王立のマニュファクチュア(工場制手工業)【セH13ラティフンディア・コルホーズ・イクターのひっかけ】を推進し,1604年に創建されたものの経営不振におちいっていた東インド会社を再建(1664。ただし実質的な貿易活動は1664からとなります【上智法(法律)他H30オランダではない】)するなど【セH16ルイ14世のときに「創設」されたわけではない,セH28】,輸出額>輸入額となるよう重商主義政策をおこないました。これをコルベール主義ともいいます。
北アメリカでは1682年にミシシッピ川流域を領有し,王の名にちなみ「ルイジアナ」と命名しました【セH16時期】。
また,西インドではプランテーションをすすめ,とくにファルツ継承戦争【セH15ルイ13世による戦争ではない】後のライスワイク条約(1697年)で獲得したハイチ(ハイティ)では,サトウキビ栽培で巨富を得ます。ハイチ(ハイティ)には黒人奴隷が労働力として移入され,のちに1804年に独立してからはサトウキビプランテーションの中心地はキューバに移りましたが,その影響は引きずられていきます。
そんなルイ14世が挫折を味わったのが,スペイン継承戦争【セH15イタリア統一戦争とは無関係】です。スペインでライバルのハプスブルク家が断絶しましたが,婚姻関係があったことから,ルイ14世の孫〈フェリペ5世〉(位1700~24,24~46)を王位につけ,スペインをブルボン家(スペイン語ではボルボン家)の支配領域にしようとしたのです。
もちろんそんなことが実現したら,スペイン=フランスのブルボン家の大帝国が出現してしまいますから,オランダ・イングランド(戦争中にスコットランドと合同して大ブリテン連合王国(イギリス)になりました)・オーストリアが阻止しようとして戦争になりました。結果,フェリペ5世のスペイン王即位は認められましたが,フランスとスペインの合同は永久に禁じられます。さらに,スペイン継承戦争の期間中,海外植民地においても戦争となり(アン女王戦争),スペインはイベリア半島南端近くのジブラルタルと西地中海に浮かぶミノルカ島(都市マオーはマヨネーズの語源ともいわれます)をイギリスに,フランスは北アメリカのハドソン湾,ニューファンドランド島,アカディアをイギリスに割譲しました。
ネーデルラント(オランダ)やイングランド(イギリス)が経済的に発展していくにつれ,フランスでも,時代の変化に対応した新しい思想が活発化していきます。その代表が,従来の伝統的なしきたりの中にある,合理的ではない部分を批判していった啓蒙思想(けいもうしそう) 【東京H12[1]指定語句】【セA H30時期(18世紀のヨーロッパか)】です。〈モンテスキュー〉(1689~1755) 【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う】は,『ペルシア人の手紙』(1721)の中で,2人のペルシア人の言葉を借りて,みんなが言いたくても言えなかったフランスの政治・社会の古臭さを批判し注目されました。彼は三権分立を主張した『法の精神』【追H9】も著しています。
無神論(“神なんていない”)者の〈ダランベール〉(1713~84) 【追H9】【セH19ルソーではない】や数学者・物理学者〈ディドロ〉(1717~83) 【セH12啓蒙思想家〈ディドロ〉が『百科全書』を編集したか問う】【セH19モリエールではない】【追H21『第三身分とは何か』の著者ではない】は,キリスト教の影響の色濃い従来の知識に変わり,合理的な価値観でこの世の全ての情報を編集し直そうと考え,その道の専門家らを執筆者として迎えた『百科全書』【東京H9[3]】【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う,セH12フランスか問う】編纂プロジェクトを立ち上げ,20年以上かけて完成させました(1751~1772) 【セH12「伝統的な学問や制度を批判し,新たな世界観を提示した」か問う】。
また,〈ケネー〉(1694~1774) 【追H9時期:「フランス革命の思想的基盤となった」時期に関するか問う,セH12ヴォルテールとのひっかけ】は国が栄えるには農業を重視するべきだ!と重農主義【共通一次 平1:重商主義とのひっかけ】【追H9】【セH16財務総監にはなっていない】を主張し,どのような取り組みをおこなえば富が増えていくかというプロセスを表した壮大な『経済表』【追H9,セH12ヴォルテールが著していない】【追H21アダム=スミスではない】を著しました。彼は大規模な経営を,政府からの押し付けではなく人々の自由な経済活動に任せる“レッセ=フェール”(自由放任)による生産性アップを目指しました。
これら啓蒙思想には,中国などの非ヨーロッパ世界の学問・制度も影響を与えていたことがわかっています。例えば〈ケネー〉の重農主義には,イエズス会の宣教師がヨーロッパに伝えた中国の農家(諸子百家の一つ)などの農本思想が影響を与えているといわれています。
しかし,〈ルイ14世〉【東京H7[3]】【早法H24[5]指定語句】は1685年にナントの王令を廃止【東京H7[3],H21[1]指定語句】。ユグノー(カルヴァン派)の人々には商工業者が多かったのですが,これにより彼らはアムステルダム【東京H7[3]オランダ】,ロンドン【東京H7[3]イギリス】,スイスなどへの移住を迫られます。フランスの商工業の発展がおくれることとなる理由の一つです。
・1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
1650年~1760年の現⑨イギリス スコットランド
三王国戦争の終結後,スコットランドはイギリスに
スコットランドの王家ステュアート家で,イングランドとスコットランドの国王を兼ねていた〈チャールズ1世〉は,1649年に処刑。
イングランド史上初の共和政の指導者となったのは〈クロムウェル〉(1628~74) 【共通一次 平1】【追H21】でした。
処刑された〈チャールズ1世〉の息子は1649年にいったんフランスに逃れますが,スコットランドが息子〈チャールズ〉をスコットランド王にするという宣言を出しました。たためスコットランドに再上陸,翌年スコットランド国王に即位しました。
しかし,1651年にウスターの戦いで〈クロムウェル〉軍に敗れ,フランスに再亡命。彼はのちに王政復古することになる〈チャールズ2世〉です。
その後アイルランドも征服した〈クロムウェル〉は,3つの王国にまたがる共和政(コモンウェルス)を成立させたことになります。
〈クロムウェル〉の死後まもなく,〈チャールズ2世〉が即位(王政復古)しますが,〈ジェームズ2世〉の亡命により,〈ジェームズ2世〉の長女〈メアリ〉(1662~94)とその夫〈ウィレム〉(オランダの統領でした,1650~1702)がオランダから招かれ,国王に就任します。
オランダは,当時軍事的に急拡大していたフランスを不安視し,イングランドと組んでフランスに対抗しようとしたわけです。
その後〈アン〉女王の治世,1707年にスコットランドのイングランドへの合同が議決され,スコットランド王国は大ブリテン王国(グレート=ブリテン王国)の一部となりました。これをスコットランド合同といいます。
当然これに反対する勢力もいます。〈ジェームズ2世〉の息子や孫の「イングランドとスコットランドの国王」としての即位を支持する勢力はジャコバイトと呼ばれ,抵抗運動を続けますが,1746年のカロデン=ムーアの戦いが最後の組織的戦闘となり,以降は下火となりました(注)。
(注)リチャード・キレーン,岩井淳他訳『図説 スコットランドの歴史』彩流社,2002,p.xxv,p.152~p.156。
1650年~1760年の現⑧アイルランド,⑨イギリス
◆三王国戦争を経てイングランド王国が有力となり立憲君主制を確立した
1650年にオックスフォードでヨーロッパ初のコーヒーハウス【東京H17[3]】が開業されました(52年にはロンドンで開業) 【セH18リード文】。コーヒーハウスでは,当時珍しかったコーヒーを飲むだけでなく科学者やジャーナリスト,投資家などの男性【セH18女性は集っていないし,女性は参政権を獲得していない・農民も集まっていない】が集まり,備えられた新聞【セH18】などのメディアを通して政治や社会について活発に語り合う場が形成されるようになっていました。このような公共の話題に関する人々の議論のことを「公論」と呼びます。コーヒーハウスはビジネスの話題が飛び交う場にもなり,海外情勢やお金になる話を求めて貿易業者も訪れました。海上保険を生み出したロイズも発足当初はコーヒーハウスでした。
時代は,三王国戦争(ピューリタン革命【追H21】)の真っ最中。〈チャールズ1世〉が処刑された後,イングランド史上初の共和政の指導者となったのは〈クロムウェル〉(1628~74) 【共通一次 平1】【追H21】でした。彼はジェントリ出身であることもあり,貧民の権利についてはあまり考えていません。ですから,さらに多くの人々に参政権を与えることを要求した水平派を弾圧しました。
また,処刑された〈チャールズ1世〉の息子は1649年にいったんフランスに逃れますが,スコットランドが息子〈チャールズ〉をスコットランド王にするという宣言を出しました。たためスコットランドに再上陸,翌年スコットランド国王に即位しました。しかし,1651年にウスターの戦いで〈クロムウェル〉軍に敗れ,フランスに再亡命しました。彼はのちに王政復古することになる〈チャールズ2世〉です。
アイルランド遠征(イギリス史上初の本格的なアイルランド進出です)によってカトリック勢力を鎮圧し,アイルランド【セH20地図・アイスランドではない】を事実上支配し,大規模な土地没収を行います。
こうして,〈クロムウェル〉は3つの王国にまたがる共和政(コモンウェルス)を成立させたことになります。
〈クロムウェル〉の時代の混乱状態を目の当たりにして,思想家の〈ホッブズ〉(1588~1679) 【セH14】【追H9ルソーとのひっかけ】は『リヴァイアサン』(1651年) 【追H9ルソーの著作ではない】【セH14『君主論』ではない】を執筆します。彼は言います「人々が安全・安心に暮らしていくためには,強力な政治権力によって守ってもらうことが必要だ」と。彼にとってはクロムウェルの政治は,政府が有って無いようなものに映ったのでした。〈クロムウェル〉は厳格なピューリタンでしたから,彼の時代には厳格なピューリタン文学が理想とされ,〈ミルトン〉(1608~74) 【追H9】の『失楽園』(1667) 【追H9『ハムレット』ではない】【セH22〈デフォー〉ではない,セH27】や〈バニヤン〉(1628~88)の『天路歴程』(1678,84)が著されました。
〈クロムウェル〉はまた,中継貿易【早法H29[5]指定語句】により海上貿易の覇権を握っていたオランダ【セH22】に対し,航海法(1651年) 【共通一次 平1】【セH22】を発布して対抗しました。その内容は,輸出入をイギリス船と,その相手国の船に限定し,オランダ船を締め出すことだったため【共通一次 平1:輸入品に高率の関税をかけたわけではない】,イングランド=オランダ戦争(英蘭戦争【早法H24[5]指定語句】)に発展【共通一次 平1】【セH11:オランダ東インド会社はこの敗北をきっかけに解散されたわけではない】。その後,3次にわたり戦争が断続的に続きます(最終的にオランダは敗北。イギリスに世界の物流をコントロールする支配権がうつります)。
彼は1653年に,最高職である終身の護国卿(ごこくきょう)に就任し,事実上の独裁体制をとったため人々の心が離れました。彼が死ぬと「王政のほうがましだ」ということで,1660年にフランスに亡命していた〈チャールズ1世〉の子の〈チャールズ2世〉(位1660~85) 【追H21名誉革命ではない】を国王として呼び戻しました(王政復古【追H21名誉革命によるものではない】)。
彼は1662年にポルトガルの王女と結婚していて,持参金としてインドのボンベイ島を獲得します。まさかこの島が,今後のイギリスの“生命線”になろうとは,思いもよらなかったわけです。ボンベイ島はイギリス東インド会社にわたり,1687年に島の対岸にボンベイを建設(⇒1650~1760の南アジア)。
さて,〈チャールズ2世〉は共和政以来続いていたオランダとの対決姿勢も強めます。
北アメリカのオランダ植民地ニューアムステルダムを占領し,第二次英蘭戦争(1665~1667)が始まりますが,1665年にはロンドンでペストが大流行し,1666年には約10万人が死亡したとされるロンドン大火が起きるなど社会不安が続いたため,和平交渉が始まりました。ロンドン大火の教訓から,火災保険が成立することになります(海上保険から発展)。
そんな中,フランスの〈ルイ14世〉が南ネーデルラントに侵攻しネーデルラント継承戦争(1667~68,アーヘンの和約で終結)を起こしたため,オランダはイングランドと同盟を組むこととし,1667年のブレダの和約で終結しました。このときオランダはニューアムステルダム(現在のニューヨーク)を含む北アメリカ北東岸のニューネーデルラント(現在のニューヨーク州)をイングランドに割譲しました。また,このときに占領した南アメリカ大陸北部のギアナ地方は,オランダ領ギアナ(現在のスリナム)になります。
しかし,〈チャールズ2世〉は実はドーヴァー密約(1670)により〈ルイ14世〉と水面下で同盟を結んでおり,フランス=オランダ戦争(仏蘭戦争,1672~78。ナイメーヘンの和約で終結)とリンクする形で,第三次英蘭戦争(1672~74)を起こしました。しかし,イングランド政府の中には,「オランダがフランスに飲み込まれてしまえば,イングランドの安全保障や経済も危うくなるのでは」との懸念も生まれたため,ウェストミンター条約により和議が結ばれ,ヨーク公の娘メアリーをオランダの〈ウィレム3世〉に嫁がせました。この〈メアリー〉はのちに〈ウィレム〉とともにイングランド女王となる〈メアリー2世〉(位1889~94)です。
こうして3度にわたる英蘭戦争は,イギリスの劣勢に終わりました【セH15イギリスは勝利していない】。
〈チャールズ2世〉は国内では王立学会(王立協会)を設立し,学芸を保護しました。気体の圧力の研究をした〈ボイル〉(1627~91)や,フックの法則や細胞説で知られる〈フック〉(1635~1703),陶器で有名な〈ウェッジウッド〉(1730~95)は,その会員です(〈ニュートン〉(1643~1727)は1703~1727年に会長を務めています)。
また,国教会を尊重し,議会も審査法(1673年) 【セH9】【セH30エリザベス1世の時ではない】【追H21】によってカトリックなどの非国教徒【追H21】が公職につけないようにしました【追H21公職就任が認められたわけではない】。また,不当な逮捕や拘禁を防ぐ人身保護法(1679) 【セH6「人身保護律」(ママ)は労働問題解決の法ではない】【セH25】も制定されました。
しかし国王の弟(〈ジェームズ〉)がカトリック教徒であることがわかると,議会は〈ジェームズ〉派(トーリ党と呼ばれるようになる王党派です)と反〈ジェームズ〉派(ホイッグ党と呼ばれるようになる議会を尊重する勢力です)に分裂しました。なお,カルヴァン派(ピューリタン)の多かったピューリタン革命前の議会と違い,議会の多数は国教徒でした(注)。
結局〈ジェームズ2世〉がイングランド・スコットランド・アイルランドの王に即位しました(スコットランドの王としては〈ジェームズ7世〉,位1685~1688)。彼はカトリックのフランス王〈ルイ14世〉と親しく,当初から疑念がありました。
実際にカトリックを公職に就任させたり議会を軽視したりしたため,議会は国王の先手を打ってジェームズの長女〈メアリ〉(1662~94)とその夫〈ウィレム〉(オランダの統領でした,1650~1702)をオランダから招いて,国王としました。オランダは,当時軍事的に急拡大していたフランスを不安視し,イングランドと組んでフランスに対抗しようとしたわけです。
◆〈ジェームズ2世〉は,長女〈メアリー〉とオランダ総督〈ウィレム〉により王位を追われた
“名誉革命”というクーデタで,王権の制限は確立
国王〈ジェームズ2世〉【慶文H30記】【上智法(法律)他H30チャールズ2世ではない】は国を追われ,平和裏に国王が交替しました。
1689年,夫妻は議会の要求を受けてそろって王に即位。
〈ウィリアム3世〉【慶文H30記】(位1689~1702) 【慶文H30記】とメアリ2世(位1689~94)です。
2人は,議会の承認なしに国王は勝手に税をとることはできない【共通一次 平1:「議会の承認を経ない課税の違法性が承認された」か問う】とする「権利の章典」【共通一次 平1】を制定しました(「権利の宣言」【慶文H30記】を成文化したもの)。
この一連の政権交替を名誉革命【追H21「王政復古ではない」】【立教文H28記】【早法H24[5]指定語句】【上智法(法律)他H30】といいます。革命というよりは「クーデタ」です。
また,プロテスタントの信仰を認めたことで,1685年にフランスの〈ルイ14世〉によるナントの王令の廃止【東京H21[1]指定語句】【早法H30[5]指定語句】により迫害を受けていたフランスのカルヴァン派(ユグノー)がイングランドに向かいました。カルヴァン派には商工業者が多かったので,イングランドの工業化にとっては大きなプラスとなります。
彼らを出迎えたジャーナリストに〈ダニエル=デフォー〉(1660~1731) 【追H9】【セH22】がいました。『ロビンソン=クルーソー』(1719, ロビンソン・クルーソーの生涯と奇しくも驚くべき冒険) 【追H9『ガリヴァー旅行記ではない』】【セH22『失楽園』ではない,セH27ミルトンではない】は無人島に流れ着いても前向きにゼロから何でも一人でのりこえていく主人公の小説【追H9「小説」】描き,当時商工業に従事していた市民の間で人気を博しました。
「権利の章典」【共通一次 平1】により,議会が立法や予算について国王大権よりも優越している(国王が議会の承認なしに課税できない) 【共通一次 平1:内容を問う】【セH25内容を問う,セH27】ことが確認されました。要するに,“議会がイングランドの最高権力者だ”ということです。こうして国王をコントロールすることができる体制が確立されました。国王のような統治権力をコントロールするための法を憲法といい,憲法によってコントロールされている王政を,立憲王政といいます。
この一連のクーデタを,思想家の〈ロック〉(1632~1704) は強く支持します。「国王の権力は人民が信託したことにより成り立っているのだから,国王が専制政治をおこなうなど,国民の信託にそむいた場合は,それを倒す権利(革命権または抵抗権)がある」と論じたのです。
当時のヨーロッパにおいてはかなり過激な思想といえますが,イングランドではもはや新聞・雑誌の論説などの公論(こうろん)を無視することができなくなっていたわけです。ただ,当時の有権者は成人男子のうちごく一部であり,その範囲が広げられるのは第一回選挙法改正(1832)を待たねばなりません。
またこの頃では,以前に引き続き実験観察に基づく自然科学が発達し,王立協会会長を〈ニュートン〉(1642~1727) 【追H9】【セH22デフォーではない】【追H20ラヴォワジエではない】が務めました。リンゴの落下を見て,ふと「どうして月は落ちてこないのか」と考え,それが糸口になって万有引力の法則【追H9】が発見されて,近代物理学【追H9】の基礎が打ち立てられます。主著は『プリンキピア』です。彼は自然を一定の法則にもとづき運動する機械のようにとらえていましたが,『プリンキピア』の末尾に『神は永遠にして無限,全能にして全知であります』と述べられているように,「神の秘密を解き明かすために,観察や数学を用いる」と考えていたようです。
こうして,従来はイングランドを同盟国としていた〈ルイ14世〉は後ろ盾を失い,最後の進出戦争であるプファルツ継承戦争(1688~1697)【セH15ルイ13世による戦争ではない】では,イングランド,神聖ローマ帝国,スペイン,ネーデルラント連邦共和国(オランダ),スウェーデンなどのヨーロッパ諸国が大同団結してフランスを包囲しました。これをアウクスブルク同盟(大同盟)といいます。〈ルイ14世〉はプファルツ選帝侯の継承という目的を達成することなく,1697年にライスワイク条約によって講和しました。この戦争は植民地においても争われ,特にイングランドとフランスの植民地をめぐる争い(ウィリアム王戦争)は,この先も約100年続く“第二次英仏百年戦争”の幕開けとなります。ライスワイク条約では,フランスはアルザス地方の都市ストラスブールと,カリブ海のサン=ドマング(現在のハイチ(ハイティ))を獲得しました。また,イングランドの名誉革命が国際的に承認されました。
一方,アイルランドやスコットランドでは,名誉革命後も残存するステュアート家の〈ジェームズ2世〉派の抵抗は続き,のちに〈ジェームズ2世〉の子をイングランド・スコットランド・アイルランド王“〈ジェームズ3世〉として担ぎ上げ,抵抗をつづけました(スコットランド王しては〈ジェームズ8世〉。老僭王と呼ばれました)”(自称位1701~1766)。ステュアート家側のグループをジャコバイトといい,スコットランドの北部高地ハイランドの血縁集団と協力し,反乱は1745年まで続きました。
◆イギリスは豊富な財政基盤により植民地戦争でもフランスを打倒し,資本の蓄積を進める
この時期のイングランドとオランダの経済的な結びつきも無視できません。イングランドはこの時期,多くの戦争に参加し海外交易を推進しており,お金不足に困っていました。そこに目をつけたスコットランドの商人〈パターソン〉(1658~1719)は,「120万ポンドの資金を集め,8%の利息をつけて国家に貸し付ける」計画を発表し,国王の許可を得て1694年にイングランド銀行という株式会社を設立し,120万ポンドまで銀行券を発行しました。このとき,オランダのアムステルダムの大商人の資金や,1685年のフランスでのナントの王令の廃止【東京H7[3],H12,H21[1]指定語句「勅令」】により亡命してきたユダヤ人の資金が,大量にイングランド銀行に集まりました。イングランドは戦争で勝って発展していく見込みがあり,投資すればリターンが返ってくるはずだと,投資家たちが信用したからです。イングランドは議会の商人を得て国債を発行し,イングランド銀行が国債を刷りました。国債はただの紙ですが,イングランド議会が将来利子をつけて返済することを保証したため,その変動を利用してもうけようとする投資家たちは国債をロンドンのシティ金融市場で取引しました。
しかし,せっかく投資してもイングランドに返済能力がなければ信用は生まれません。ですが,当時のイギリスには国民から税金を確実にとることのできる仕組みが確立されていました。一人あたりの税額はフランスの2倍近くあったといわれます。18世紀後半にかけ,土地税の割合は減り,商品やサービスにかけられる間接税が増えていき,18世紀末には所得税も導入されました。こうしたことから,海外の投資家たちは「イギリス政府には税金をとる能力があるから,国債(借金)を返済する能力がある」と考え,イギリスへの投資が増えていったのです。
イギリスが,人口も経済力も4倍だったフランスとの植民地戦争に勝利できたのは,財政基盤の確立により軍事費を増やすことができたからだと考える研究者もいます(このような国家は「財政軍事国家」と呼ばれます)。
1701年には,王位継承者プロテスタントに限る法律が制定され,〈アン女王〉(位1702~14)が即位しました。しかし跡継ぎがいなかったため,〈アン〉の死後,ドイツのハノーファー選帝侯を王として,ハノーヴァー朝となりました。オランダとの同君連合が解消され,今度はオランダと対抗しつつ,フランスの東部のハノーファー選帝侯と組むことでフランスを押さえようとしたのです。
〈アン女王〉のときには,スペイン継承戦争が起き,1707年にはスコットランドと合同し,大(グレート=)ブリテン連合王国が成立しました【セH27】。スコットランドとの合同以降は,イングランド主導で大ブリテン島全土が一つになったということで,大(グレート=)ブリテン連合王国という国名になりました。これ以降,この王国のことを「イギリス王国」と表現するのが普通です。
ハノーヴァー朝の〈ジョージ1世〉【追H30修道院を廃止していない】【※意外と頻度低い】はドイツ人で,英語が得意ではなかったため,実質的な政治は,議会の多数派の党が行いました。王は「君臨すれども統治せず」の原則です【セH29試行】。多数党の指導者が首相として内閣を組織し,国民の代表である議会に対して責任を負う形の支配方式を責任内閣制【早政H30】といい,ホイッグ党の〈ウォルポール〉首相【セH28・H30時期】のときに確立したといわれています(注)。
(注)時期については1721年に首相に再任したときが内閣制度の初めといわれます。彼が最初に首相になったのは1715年で1717年まで担当しています。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.122
18世紀中頃にかけ,イングランドは次々に海外領土を増やしていきました。世界各地の珍しい骨董品コレクションが,医師によりロンドンに集められ,1753年の博物館法で「大英博物館」(ブリティッシュ=ミュージアム)として引き継がれました(一般公開は1759年)。また,世界各地の珍しい植物がロンドンに集められ,王立植物園も設置(キュー王立植物園)されました。
植民地の拡大は,世界各地の生態系(動植物が複雑に絡み合ってつくりあげている世界)にも影響し,そのバランスが崩れることで生物多様性(地球上のさまざまな生き物の複雑なつながり)にも影響を及ぼすようになっていきます。
また,この時期には〈タウンゼンド子爵〉(1674~1738)らが,大陸の進んだ農業技術を導入し,生産量を増大することに成功しました(彼には“カブのタウンゼンド”のあだ名がついています)。カブとクローバーを,ノーフォークにある自分の領地で栽培し,従来の三圃制(さんぽせい)のようなローテーションに加えました(カブ→大麦→クローバー→小麦)。カブは冬の間の家畜のエサになりますし,クローバーは窒素固定細菌を持つので,植物の栄養となる窒素たっぷりの土をつくってれます。このノーフォーク農法により収穫が増え,もうかる農家が出ると「じゃあうちもやってみようか」と新技術が広がっていきます。土地は「自分たちが食べるものをつくるところ」というよりは,「利益を生むもの」(資本)ととらえられるようになっていました。こうしてイングランドの地主の中からは,封建社会の領主のような存在ではなく,儲け話に目がない資本家(農業資本家)が登場するようになっていったのです。
食料生産が安定化したことで,従来は頻繁に起きていた飢饉(ききん)が減りました。農業資本家たちは経営の効率化を高めていき,19世紀にかけてゆっくりとしたペースで農業ではなく産業に携わる人が増えていき,都市の人口増加にもつながっていきました。
こうした農業生産の変革を「(第二次)農業革命」【東京H19[1]指定語句】と呼ぶことがあります。
◆17世紀後半から18世紀後半にかけ,フランスはイギリスとの植民地獲得戦争をたたかった
フランス王国では,1640年~52年に起きたカタルーニャの反乱に介入した〈ルイ13世〉(位1610~1643)は,1659年のピレネー条約でフランス・スペイン国境をピレネー山脈とし,以北のカタルーニャはフランス領となりました。また,1640年にはポルトガルでブラガンサ朝が独立しました。ポルトガルを支援したのは,スペインに対抗しようとしたフランスとイングランドです(独立の承認は1668年)。
フランスの〈ルイ14世〉(位1643~1715)は重商主義を推進して絶対王政を確立し,フランスの領土を拡大させるために各地で進出戦争を起こしました。
進出戦争は,世界商業の主導権をめぐるイングランド(イギリス)との争いに発展し,北アメリカ大陸・カリブ海やユーラシア大陸において植民地獲得戦争が今後100年以上にわたり続くことになります。これを第二次英仏百年戦争といいます。オランダと同君連合となったイングランド(イギリス)によるファルツ王戦争(大同盟戦争,1688~1697)がその始めで,1815年に終結するナポレオン戦争まで続きます。
〈ルイ14世〉の進出戦争と英仏の植民地戦争が結びついた最後の例がスペイン継承戦争でした。スペインでハプスブルク家が1700年に断絶したのに目をつけた〈ルイ14世〉は,孫である〈フェリペ5世〉を王として送り込むことで,勢力範囲をスペインに広げようと考えたのです。
これを警戒したイングランド(1707年からはスコットランドと合同するので,大ブリテン連合王国(イギリス) 【セH27】となる)やオーストリア,オランダは,フランスとの間に戦端を開きました。これがスペイン継承戦争(1700~1714年)で,植民地における戦争はイングランド(イギリス)の王名をとってアン女王戦争といいます。
戦争は,イギリス側に軍配が上がりました。これによりスペインは南ネーデルラント,南イタリアを喪失し,地中海から大西洋への出口として最重要地点であったジブラルタル【セH30スペインは獲得したのではなく喪失した】や,西地中海のメノルカ島(ミノルカ島)はイギリスに奪われました。イギリスは21世紀の現在においても,ジブラルタルを海外領土として保持しています。
また,イギリスはフランスから北アメリカの植民地を獲得。北アメリカ北東部のアカディア(ノヴァスコシア)とニューファンドランド島,北アメリカ北部のハドソン湾です。
さらに,イギリスやオランダは大西洋の制海権を獲得し,イギリスは奴隷貿易独占権(アシエント。アフリカ大陸の住民をアメリカ大陸まで船に乗せて運ぶ権利)を獲得します。こうしてイギリスの南海会社は,1750年までに毎年4800人の黒人奴隷をスペイン領植民地に供給し,巨富を得ました。
これらを定めたユトレヒト条約【セH19金印勅書とのひっかけ】では,ブルボン家がスペイン王国を継承することは認められましたが,スペインとフランスとの合同は禁止されました。
イギリスは奴隷貿易のもうけにより資本を蓄積していき,これがイギリスにおける産業革命(工業化)の元手の一つになっていくのです。港湾都市リヴァプールは,奴隷貿易の拠点として栄えました。当時の人気版画家〈ホガース〉(1697~1764)の描いた「放蕩一代記」という当時の上流階級を風刺(ふうし)した版画には,上流階級の家庭に黒人が召使いや“ペット”として登場します。彼は南海会社の株価の急騰と暴落(南海泡沫事件。史上初のバブルで,バブルの語源になりました)も,版画のテーマにしています。
・1650年~1760年のヨーロッパ 西ヨーロッパ ⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆ネーデルラントはフランスの進出に対しイングランドと同盟,オランダ資本がイングランドに流れた
栄華(えいが)をきわめたネーデルラント(オランダ)にも,弱点はありました。フランスとドイツとの国境が低地で陸続きであったことと,大西洋に出るためにはイングランドとフランスに挟まれたドーヴァー海峡を通るしかなかったことです。
イングランドは,1652~54年,65~67年,72~74年の3度に渡りイングランド=オランダ戦争(英蘭戦争)をおこし,オランダの海上覇権に挑戦しました。フランスも〈ルイ14世〉が進出戦争を仕掛けてきました。統領である〈オラニェ公ウィレム〉の指導力で撃退しましたが,フランスに対抗する必要があったため,婚姻関係にあったイングランドで名誉革命が起きると,〈オラニェ公ウィレム3世〉(1650~1702)は〈ウィリアム3世〉としてイングランド王に即位しました(オラニェは英語でオレンジ)。
オランダはイングランドと同盟を組む代わりに,かつてのような自由な貿易は制限されることになったため,香料価格が低迷し,花形商品が綿織物や茶に変わったことも加わって,18世紀半ばには衰退に向かいます。
この時期のオランダは,物資だけではなく様々な情報の集まる場となったことから,学芸が非常に盛んになりました。
例えば,〈ホイヘンス〉(1629~95)が振り子時計を発明,土星の環の発見,光の波動説を提唱しました。
また,ヨーロッパ各地で,豪華で躍動感のあふれるバロック式の絵画が,各地の王権を反映して多く描かれ,フランドル出身の画家も活躍しました。フランドル派の〈ルーベンス〉(1577~1640)と,その工房出身で〈チャールズ1世〉の首席宮廷画家となった〈ファン=ダイク〉(1599~1641)。宮廷画家のスペイン人〈ベラスケス〉(1599~1660),スペイン人〈ムリーリョ〉(1617~82)が有名です。
一方で,スペインの支配下にとどまった低地地方南部(南ネーデルラント,現在のベルギー)は,スペイン継承戦争(1700~14)後にフランス〈ルイ14世〉と神聖ローマ帝国〈カール6世〉との間に結ばれたラシュタット条約で,ハプスブルク家オーストリア大公国の領土に編入されました。これには,フランス王国によるオランダ進出をオーストリアに食い止めさせる意図もありました。
○1650年~1760年のヨーロッパ 北ヨーロッパ
北ヨーロッパ…①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
サーミ人はスウェーデンとフィンランド,デンマークとノルウェー,ロシアの領域をまたぎ,遊牧生活を送り,文化を共有していました。17世紀以降にルター派の布教を通してキリスト教化が進みましたが,周辺国への土地の割譲と従属が進みました。
・1650年~1760年のヨーロッパ 北ヨーロッパ ②デンマーク,⑤ノルウェー
17~18世紀にかけデンマーク=ノルウェー(同君連合,1524~1814)とスウェーデン王国は,ともに海外進出をして植民地を獲得します。デンマーク=ノルウェーは17世紀前半に西アフリカに進出し1659年にギニア会社を設立,現在のガーナの黄金海岸に19世紀中頃まで植民地を建設していました。また,カリブ海では現在のハイチ(ハイティ)のあるイスパニョーラ島の東にあるプエルトリコ島のさらに東に広がるヴァージン諸島の西半を獲得し,アフリカから輸入した黒人奴隷を使ったサトウキビのプランテーションで栄えました。また,インド東南部などにも拠点を築いています。
スウェーデンもアフリカ大陸ギニア湾岸の黄金海岸や,北アメリカ大陸の大西洋岸,西インド諸島のサン=バルテルミー島(のち1878年にフランス領)にも一時植民地を持っていました(大西洋岸の植民地はオランダに奪われました)。1731年に設立され中国貿易を担当した東インド会社と1784年に設立されカリブ海を担当した西インド会社が,商業活動に従事しましたが,大きな成果はあげられませんでした。
グリーンランドは,ノルウェー系のヴァイキング〈赤毛のエリクソン〉(950?~1030?)に発見され【セH25】,それ以降イヌイット系(カラーリット人)の先住民と対立しながら植民を進めていきましたが,16世紀までには滅んでいました。この時期にはデンマークがかつての植民者との再開を願って再び探検をこころみましたが,すでにその跡はなく,代わりに先住民イヌイット人との接触が生まれました。デンマーク人の探検家〈エーイェゼ〉は植民地として開拓を進め,同時にキリスト教の布教をはじめイヌイット語辞書の出版(1750)や,『新約聖書』のイヌイット語訳(1766)を完成させました。
・1650年~1760年のヨーロッパ 北ヨーロッパ ⑥スウェーデン
スウェーデン王国は,中世以来デンマーク王国を盟主とするカルマル同盟(カルマル連合)【セH30】に従属していましたが,1523年に独立を達成し,三十年戦争ではドイツ沿岸部を獲得し,「バルト帝国」の建設を進めていきました。1655年~1660年には,ポーランド=リトアニア連合王国との戦争を起こし,ポーランドは領土を分割される寸前まで追い詰められています。
1700~21年の(大)北方戦争【追H9】【セH28】で〈ピョートル1世(大帝)〉(位1682~1725) 【追H9プロイセンのフリードリヒ大王ではない】【セH28】率いるロシアに破れると,軍事的には衰退していくことになりました。北方戦争では,スウェーデンの支配下だったフィンランドは一時ロシアに占領されましたが,1721年のニスタット条約でスウェーデンに返還されました。この時期のスウェーデンでは学芸が盛んで,〈リンネ〉(1707~78) 【東京H9[3]】【セH16ジェンナーではない,セH29メンデルではない】【追H20ライプニッツではない】は,ラテン語で属名→種名(種小名)の順に学名を付けていく植物分類学を『自然の体系』(シュステーマ=ナートゥーラエ)で確立し,スウェーデンのウップサーラ大学の学長も勤めています。