●400年~600年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合をこえる交流②、南北アメリカ:政治的統合をこえる交流①

 古代末期の民族大移動を受けて、ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では、新たな広域国家の形成に向かう。
 
アメリカでは中央アメリカと南アメリカのアンデス地方に、政治的統合をこえる交流が広がる。

時代のまとめ
(1) ユーラシア大陸
 ユーラシア大陸の各地で遊牧民が大移動し,定住農牧民を支配下に置いていた古代帝国が崩壊し,遊牧民・農牧民の文化の融合が進むのがこの時代。
 次第に、遊牧民が農耕民の支配層と融合・提携し、「
農牧複合国家」(中央ユーラシア型国家)が建設されていく。

・東アジア
 (たく)(ばつ)部の鮮卑(せんぴ)が華北を統一,漢人支配層と融合した北朝が,南朝と対立する

 ()(しん)南北朝(なんぼくちょう)時代(じだい)が続く中国では,華北で騎馬遊牧民の鮮卑(拓跋部)が,漢人支配層と融合して北朝(ほくちょう)を樹立。長江流域の南朝と対立するが,6世紀末に北朝の北周の支配層が(ずい)王朝を建て,中国全土を支配する。

・南アジア
 エフタルの進出を受け,インドのグプタ朝は崩壊,イランのサーサーン朝は撃退

 西アジア・南アジアでは中央アジアからの騎馬遊牧民エフタル(匈奴系とみられる)【セH8グプタ朝ではない】の進出を,イラン高原のペルシア人によるサーサーン朝【セH8ソグド人ではない】が,モンゴル高原のテュルク系の騎馬遊牧民突厥(とっけつ)【セH8】とともに撃退。
 南アジアでは,北インドを統一していた
グプタ朝マガダ国は,エフタルの進出を受け崩壊した。デカン高原以南には,西海岸にヴァーカータカ朝(3世紀後半~6世紀前半)やカダンバ朝(3世紀後半~13世紀),チェーラ朝,東海岸にパーンディヤ朝など,ドラヴィダ語族系の諸王朝が栄えます。

・ヨーロッパ
 フン人の進出を受け,ローマ帝国西方はフランク,ゴート,東方はビザンツ帝国

 ユーラシア大陸西部のローマ帝国西方の領内では,東方からの騎馬遊牧民フン人(匈奴系という説あり)の進出を受け,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が国家建設をゆるされ,キリスト教とローマ文化を受け入れていく。特にフランク人(フランク王国)ゴート人(西ゴート王国,東ゴート王国),ブルグンド人(ブルグンド王国),ヴァンダル人(ヴァンダル王国)が,先住のラテン人の情報を取り入れて台頭していく。
 一方,重心を東方にうつしていたローマ帝国では「古代帝国」が温存され,コンスタンティノープルを中心とする皇帝が,陸海の交易路をおさえて繁栄を続ける(
ビザンツ帝国)


 この時期には、陸海で新たな交易ルートがひらかれ,各地でパワーバランスが変わる。
 特に西アジアにおけるビザンツ帝国とサーサーン朝の対立を受け,アラビア半島の紅海沿岸(
ヒジャーズ地方)の都市を経由する隊商交易が活発化。エチオピア高原を拠点とするアクスム王国と交易ルートをめぐる対立が起きる。交易の安全を図るため,アラブの遊牧民の統一を目指す運動が起きることとなる。
 東南アジアでは,マレー半島横断ルートに代わり
マラッカ海峡を通行するルートが盛んとなり,従来のインドシナ半島南部のクメール人の扶南(内陸のメコン川流域に,クメール人の新勢力である真臘が扶南から自立する)や,チャム人のチャンパーに代わり,スマトラ島・ジャワ島やマレー半島南部にオーストロネシア語族系マレー人の政治的統合が進む。


(2) アフリカ
 アフリカ大陸北部では,北方のサハラ沙漠と西アフリカのニジェール川流域の間のラクダによる塩金貿易が盛んとなり,ニジェール川流域の政治的な統合がはじまる。
 アフリカでは,中央アフリカ(現・カメルーン)を発祥とする
バントゥー諸語系の大移動が大詰めを迎え,南アフリカにまで到達。先住のコイコイ系の牧畜民が南端に追いやられ,共存・競合関係を結ぶ。さらにサン系の狩猟採集民は南東端に圧迫される。


(3) 南北アメリカ
 北アメリカ大陸のバスケットメーカー文化,中央アメリカのティオティワカンサポテカマヤ,南アメリカ北西沿岸部にナスカモチェが栄える。
 アンデス山脈北部やアマゾン川河口部や中流域では,小規模な政治的な統合がみられるが,強大な権力には発展していない。


(4) オセアニア
 ポリネシア人600年頃までにマルサケス島(現・フランス領ポリネシア)への移動をすすめ,さらに北方のハワイ諸島(700年頃),ラパ=ヌイ島(イースター島,700年頃,諸説あり)への進出をすすめていく。





●400年~600年のアメリカ


400年~600年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの
北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシセイウチクジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在の
エスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。


 北アメリカでは、現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が、各地の気候に合わせ、狩猟・採集・漁撈・農耕により生活を営んでいます。

 
北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
 北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,大規模なマウンドという埋葬塚が建設されています。
 北アメリカの南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシ(アメリカ大陸原産【セH11】)の灌漑農耕が行われていました。



400年~600年のアメリカ  中央アメリカ
ティオティワカンが衰え、マヤの都市国家群が繁栄
◆マヤ地方の都市国家群が栄える

 この時期の中央アメリカ
(現在のユカタン半島とグアテマラ東部・南部)では,マヤ文明が「古典期」(注)を迎えています。
 都市国家、
コパンカラクムルティカル(◆世界複合遺産「ティカル国立公園」、1979)が発展しました。

コパン
 コパンは低地マヤ南東部に位置する都市国家です。
 
コパン(426年~9世紀前半?)(◆世界文化遺産「コパンのマヤ遺跡」、1980)は5~9世紀に栄え、「祭壇Q」という祭壇の遺跡には歴代の王の肖像画が彫られています。コパンにはオルメカの文化的影響が色濃く残されています。

ティカル
 ティカルは低地マヤ南方の中央部に位置する都市国家です。
 現在の
グアテマラにあったティカル(前4世紀~後9世紀後半?)は,湿地と熱帯雨林の中央部に位置し,乾季に対応するために,雨水が巨大な貯水池ネットワークに集められました。絶頂期には,8~12万人の人口をかかえることになります。

パレンケ
 パレンケは低地マヤ南西部に位置する都市国家です。
 431年に〈クック=バラム1世〉(「ケツァル鳥・ジャガー」という意味)によって建国されました。
 7世紀の王〈パカル1世〉
(615683)の墓は,1952年に階段型ピラミッドの中から見つかり、従来は神殿であると考えられていた「碑文の神殿」が王墓とみられることがわかっています(1949年に発見、世界文化遺産「パレンケの古代都市と国立公園」、1987)。
 現在のパレンケに残る神殿は〈パカル1世〉の治世以降に建てられたものです。
 顔をべったり覆っていた豪華な
ヒスイの仮面や装身具は,彼らの技術力の高さや,交易範囲の広さを物語っています。

カラコル
 カラコルは低地マヤ南方の中央部に位置する都市国家です。
 カラコル(6世紀中頃~7世紀後半)は、当初はティカルに従属していましたが、反乱を起こして戦争となりました。562年の「星の戦争(金星戦争)」で勝利し、やはり低地マヤ南方の中央部に位置する強国
カラクムルの傘下に入って成長します。

(注)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.23。


◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地にサポテカ人の都市文明が栄える
 トウモロコシの農耕地帯であった
メキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えました(サポテカ文明,前500~後750)。


メキシコ高原中央部のティオティワカン文化が衰退する
 
メキシコ高原の中央部では,大都市のテオティワカンを中心にテオティワカン文化(前100~後600)が栄えますが、550年~750年の間に人口が激減し,衰退しました。
 衰退の原因としては支配層の内部抗争、外部から異民族の進入や気候変動などが考えられています。
 なお、ティオティワカンの南東のチョルーラ(紀元後1世紀~)は独立を維持しています。


400年~600年のアメリカ  カリブ海


400年~600年のアメリカ  南アメリカ

◆アンデス地方沿岸部ではナスカ、モチェが栄える
モチェで政治統合が進展、ナスカに地上絵が出現
モチェ

 アンデス地方北部海岸の
モチェ(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ、人々の階層化が深まり、労働や租税の徴収があったとみられます。
 おそらく6世紀頃、ペルー北部の沿海地域の約600kmの範囲に覇権を確立します。

 信仰は多神教的で、神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。
クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や、金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

 しかし、干ばつとエルニーニョの影響でモチェ南部の政権が衰え、中心は北方の政権(パンパ=グランデが中心)に移ります。パンパ=グランデは550600年に建設された都市です
(注)
(注)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化と史観文化の関係」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS2000p.179


ナスカ
 アンデス地方北部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
 南部沿岸のモチェほどには統合されておらず、王墓なども存在しません。
 当初は
カワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは、300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると、儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。

 こうして有名な「
ナスカの地上絵」がつくられ始めるわけです。
 
 地上「絵」といっても実際には「線」が多く、ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると、下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが、少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ、サル、クモ、鳥などがあって、天体と連動する説が支持されたこともありますが、現在では儀礼的な回廊とか、雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼、すなわち「雨乞い」です
(注2

(1)島田泉「ペルー北海岸における先スペイン文化の興亡―モチェ文化と史観文化の関係」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS2000p.179
(注2)関雄二「アンデス文明概説」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS、2000、p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに、地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。


◆アンデス地方中央部の高地、ティティカカ湖周辺にティワナク文化が形成される
ティワナクが山地と沿岸部の生態系を合わせ発展

ティワナク

 また,アンデス地方中央部の高地では,現在のボリビア側のティティカカ〔チチカカ〕湖の近くに紀元前から
12世紀頃までティワナク文化が栄えまています(8世~12世紀が最盛期)
 範囲は、現在のボリビアを中心に、チリ北部、ペルー南部にかけての地域です。

 ティワナクは標高
3200mの高地に立地し、ティティカカ湖畔でジャガイモなどの集約農耕をおこなっていました。
 一方でティワナクは太平洋岸の谷間にも飛び地を持ち、こちらでは
トウモロコシが栽培されます。
また、ラクダ科の家畜(
リャマ)により現在のチリの方まで隊商交易をおこなっていたこともわかっています。
 ティワナクは、高度によって変わる多彩な生態系を効率よく利用し繁栄していたのです。


ワリ
 500年頃から、現在のペルー南部からチリ北部にかけての高地では,ワリ文化を生み出した
ワリ文化が栄えます (6~11世紀が最盛期)
 範囲は、ペルーの南部から北部・中部にかけてです。
 ワリは以前、ティワナクと混同されていたこともありますが、別個の文明です。
 織物技術が高くいことで知られ、ワリの都市は、高い壁に囲まれた広い空間が、多機能を持つ小さな空間に区分され、広場を取り囲む形になっています。ワリの都市構造はアンデス各地に影響を与えますが、軍事的拡大によるものかは不明です
(注)
(注)関雄二「アンデス文明概説」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS、2000、p.178。


◆アマゾン川流域でも定住集落が栄える
 
アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でした。しかし,すでに前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が用いられていたとみられます。





●400600年のオセアニア


 
ポリネシア人は,410年~1270年にかけてイースター島に到達したと考えられています。なお,ポリネシア人はそのまま東に進み,南アメリカ大陸に到達していた可能性があります。クック諸島のマンガイア島では,紀元後1000年にサツマイモを食べていた証拠も見つかっています。〈コロン〉がアメリカ大陸に到達する以前に,サツマイモは,マルケサス島イースター島・ハワイ島・ニュージーランドのポリネシア地方に,太平洋航海者によって広がっていたのです。南アメリカ大陸の人々が逆にオセアニアに進出したという人類学者〈ヘイエルダール〉(1914~2002)の説は,今日では否定されています(ちなみにヘイエルダールはペルーから8000km離れた南太平洋まで,いかだで到達する実験を成功させています)。





●400年~600年の中央ユーラシア

民族大移動がつづく
モンゴル高原の騎馬遊牧民は,国際商業民族のソグド人と協力して交易ルートを支配する
騎馬遊牧民は,商業民族ソグド人と提携
 中央ユーラシア東部のモンゴル高原では,鮮卑(せんぴ)の拓跋部(たくばつぶ)から自立した柔然(じゅうぜん)【京都H20[2]】の勢力が強まりました。柔然は東胡(とうこ)の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代〈社崙〉(しゃろん)の率いる柔然(じゅうぜん)を討伐し,柔然はモンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐。天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配して,君主は「可汗」(かがん)の称号を名乗りました。のちの「ハン(カン)」や「ハーン(カーン)」といった遊牧民の君主の称号の起源です。しばしば中国に進入し,農民を略奪して北方で農耕に従事させることもありました。

 542年に高車は滅びましたが,その頃から同じくテュルク系の鉄勒(てつろく)突厥(とっけつ) 【セH7柔然に滅ぼされたのではない,セH9モンゴル系の柔然を滅ぼしたか問う】【セH19時期】が中国の史書に登場します。カスピ海北岸からモンゴル高原北部に至るまで,テュルク系の民族はユーラシアの草原地帯に広く分布していました。突厥はもともと鉄勒に属していた一派(阿史那(あしな)氏)が建てた国家とされ,阿史那氏はシャーマンだったのではないかという説もあります。シャーマンとは,儀礼によって天の神(テングリと呼ばれました)や自然界の聖霊とコミュニケーションをとることができ,予言や治療ができた人たちのことです【セH9建国以来イスラム教を国教としたわけではない】
 中国で北朝が西魏と東魏に分かれて争っていた頃に,突厥はイラン系でアム川上流域のソグディアナ地方出身
【セH12地図(ソグド人の出身地域を問う) ティグリス川・ユーフラテス川の下流域,コーカサス地方,モンゴル高原(バイカル湖の南西)から選択する】【追H30パルミラではない】ソグド人【追H30】【セH4,セH8】【京都H19[2]】【東京H20[3],H30[3]】【大阪H30論述:ソグド人の遊牧民地帯における政治・宗教・文化面での貢献】を仲介役として,絹馬(けんば)貿易(中国に馬を売り,絹を得る貿易)に従事していました。ソグド人は各地にコロニー(植民市)を建設し,遊牧民や定住農牧民の国家に接近して外交【大阪H30論述】面で活躍。また,西アジアのゾロアスター教やマニ教などの諸宗教を東方に伝える【大阪H30論述】とともに,アラム文字【大阪H30論述】を持ち込んで,突厥文字やウイグル文字(ユーラシアの遊牧民の文字【大阪H30論述】)の成立に影響を与えました。

 
580年頃,突厥【セH20鮮卑ではない】は隋の攻撃によってアルタイ山脈あたりで東西に分離【セH9 6世紀に分裂したか問う】し,630年には東突厥【セH18匈奴ではない】は唐により滅んでしまいます。

◆エフタルの遊牧帝国は,ササン朝と突厥によって挟み撃ちにあい滅亡
当時、5世紀半ばから,カスピ海北岸にまで勢力を広げていたイラン系またはテュルク系の遊牧連合エフタル【セH7中国には勢力を伸ばしていない】【セH23,H30大月氏ではない】が、ササン(サーサーン)を圧迫していました。ササン朝は突厥と連携してエフタル挟み撃ちにし、558年に滅ぼしました【セH21・セH23H24H27時期】

 アム川とシル川に挟まれたソグディアナ地方では,オアシス都市に拠点を持つソグド人【東京H20[3],H30[3]】が,活発に交易に従事しました。広域の支配を目指した遊牧民や農牧民の国家は,彼らの識字能力や情報能力を高く評価し,活動を保護しました。彼らはオアシスに植民して都市を築き,農業も行っています。ソグド人はもともとゾロアスター教を侵攻していましたが,マニ教も伝わり,6世紀末にはソグディアナの中心都市サマルカンドに教団がありました。

◆フン人がドナウ川を渡ったことが,ローマ帝国にゲルマン語派の人々が進入するきっかけに
 中央ユーラシア西部では,フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます) 【セH4匈奴ではない】の王〈ブレダ〉(390?~445?)と〈アッティラ〉(406?~453) 【セ試行 オドアケルではない】 【セH4匈奴の建国者ではない】【セH27時期】の兄弟が434年に東ローマ皇帝に貢納を倍増するように要求しました。兄が死に単独の王となった〈アッティラ〉は,東ゴート人を用いて,バルト海からカスピ海にわたるアッティラ帝国を築き上げました。すでに分裂していたローマ帝国のうち,西ローマ帝国に進入し,451年に西ローマ帝国・西ゴート王国と,カタラウヌム(近年「マウリアクム」ではないかとされています)の戦いを交えています。この戦いで西ゴート王〈テオドリック〉は戦死し,フン人は一旦,ドナウ川中流のハンガリーに退却しました。翌年452年にイタリア半島に進入しましたが,ローマ教皇〈レオ1世〉の説得で,またハンガリーに退却。その翌年に〈アッティラ〉が亡くなると,アッティラ帝国は崩壊し,残った人々はのちにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々,ブルガール人(テュルク(トルコ)系)やアヴァール人(モンゴル系もしくはトルコ(テュルク)系)に吸収されていきました。なお,フン人の正体が「匈奴(北匈奴)」ではないかという説には,真偽の決着がついていません。





●400年~600年のアジア


400年~600年のアジア  東アジア・東北アジア
400年~600年の東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が分布しています。この時期には西方の騎馬遊牧民の契丹(きったん)(キタイ)や柔然(じゅうぜん)の圧迫を受けるようにもなっています。
 ツングース語系の
高句(こうく)()(紀元前後~668)の勢力は朝鮮半島では百済や新羅によりブロックされ,西方の中国の北朝との間に摩擦を生んでいます。

 さらに北部には,
古シベリア諸語系の民族が居住します。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88




◯400年~600年のアジア  東アジア
東アジア
…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国



400年~600年の日本
◆ヤマト政権は王権の正統性をアピールするため,南朝に使いを送った

高句麗に対する対抗のため,讃珍済興武が動いた
※済=〈允恭天皇〉,興=〈安康天皇〉,武=〈雄略天皇〉,

 大和地方中心の
ヤマト政権は,地方の首長らを支配し大王(おおきみ)と称し,鉄資源を求め朝鮮半島南部にも進出しました。大王は農耕儀礼を重視し,春には祈年祭,秋には新嘗祭をとりおこない,巨石・巨木・山などの自然を神体をしてまつりました。山自体が神体として祀られている大神神社は,その一例です。禊(みそぎ)・祓(はらえ)といった風習や,鹿の骨をあぶって現れた裂け目によって占う太占(ふとまに)の法や,熱湯を用いて神意を占う盟神探湯(くかたち)などの呪術が,政治・社会において用いられました。

 5世紀を通じて〈讃〉,〈珍〉,〈済〉,〈興〉,〈武〉(さん・ちん・せい・こう・ぶ,
倭の五王【セH7時期】)が,中国の南朝の宋(420~479)に朝貢したことが中国の歴史書に記されています。彼らは朝鮮王朝に南下していた高句麗への対抗上,中国に冊封されることで国内の権威を高めようとしたのです
 〈武〉は「ワカタケル大王」(のちの雄略天皇)のこととされ,彼の名が現在の埼玉と熊本の古墳の遺物に刻まれていたことから,ヤマト政権の権力が関東に及んでいたと考えられます。〈武〉は,「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓
国諸軍事安東大将軍倭国王(しじせつととくわしらぎみまなからしんかんぼかんりっこくしょぐんじあんとうだいしょうぐんわこくおう)」の称号が欲しいとの皇帝に頼むのですが,すでに百済が冊封体制の中に入っていたので,「六国諸軍事安東大将軍」が与えられました。
 しかし,当初の期待とは裏腹に,中国では南朝よりも北朝のほうが有力になっていきました。そこで,479年に宋が滅亡して以来は,中国に対する朝貢は行わず,日本列島の支配に重点にを移すようになっていきます。


 3世紀後半から西日本に大規模な墳墓である
前方後円墳がみられるようになり,4世紀後半~5世紀末に関東・瀬戸内・南九州で巨大化し,副葬品に武具がみられるようになりました。5世紀末には朝鮮半島の影響で横穴式石室が増え,有力農民のものとみられる群集墳も現れました。6世紀末からは古墳に代わり寺社建築が盛んに造られるようになっていきます。
 6世紀には大陸の混乱を背景にして中国や朝鮮の人々(
渡来人(とらいじん))が日本に移住し,仏教・儒教・律令制度【セH18時期】といった大陸の文化を伝えました。仏教の伝来には552年と538年がありますが,538年説が有力とされています。弥生土器系の土師器(はじき)に代わって5世紀からは朝鮮の土器の影響を受けた須恵器(すえき)が用いられるようにもなりました。

 6世紀初めに九州の筑紫の国造(くにのみやつこ)〈磐井〉(?~528)が,新羅と同盟して反乱を起こし,ヤマト政権に鎮圧されています(
(いわ)()の乱)。

◆天皇家と蘇我氏の内紛を,〈厩戸皇子〉が中国文化の導入と集権化によって解決に導く
聖徳太子(574622)とムハンマド(570?632)は同時代
 587年に大臣(おおおみ)だった〈蘇我馬子〉(そがのうまこ,?~626)が,ライバルで大連(おおむらじ)の〈物部守屋〉(もののべのもりや,?~587)を暗殺。さらに592年には第31代〈崇峻天皇〉(すしゅんてんのう,位587~592)を暗殺して実権を握りました。

 〈崇峻天皇〉の先代は,〈欽明天皇〉と〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)の子である第
31代〈(よう)(めい)天皇〉。
 暗殺された第
32代〈()(しゅん)天皇(てんのう)〉は〈欽明天皇〉と〈小姉(おあね)(ぎみ)〉(=蘇我氏)の子でした。
 〈小姉君〉系の〈崇峻天皇〉は,〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)系の〈炊屋(かしきや)(ひめ)〉にとってジャマ存在に映ったのでしょう。そこで,〈堅塩媛(きたしひめ)〉は弟の〈蘇我馬子(そがのうまこ)〉と図って,〈崇峻天皇〉を暗殺したのだという説もあります。

 このような泥沼の状態にあって,その調整役として白羽の矢が立ったのが,〈厩戸皇子〉(うまやとのみこ;
聖徳太子)でした。彼は,〈欽明天皇〉と〈堅塩媛(きたしひめ)〉(=蘇我氏)の子である第31代〈(よう)(めい)天皇〉と,〈小姉(おあね)(ぎみ)〉(=蘇我氏)と〈欽明天皇〉の子〈(あな)穂部(ほべ)皇女〉の間に生まれ,蘇我氏の両方の系統を帯びていたのです。
 〈厩戸皇子〉は,〈馬子〉と〈崇峻天皇〉の甥にあたり,新たに即位した女性の〈
推古天皇〉(すいこてんのう,位592~628)を摂政(せっしょう)として助け,大陸の先進文化を導入しながら混乱を収拾するための改革を断行しました。
 すでに中国は隋により統一されて中央集権化がすすんでおり,政権の強化は急務でした。しかし,600年に派遣した使いはおそらく不成功に終わっています。中国の『「隋書」倭国伝』に記載があるものの『日本書紀』には
600年の遣隋使の記載が見られないのです。遣隋使派遣のためには身分位階をきちんと整え,皇帝に示さなければ,一人前の外交主体として“相手にされない”ことがわかった〈厩戸皇子〉は,603年に冠位十二階を整えていくこととなります。



400年~600年のアジア  東アジア 現③中華人民共和国
◆北魏では鮮卑が漢人と協力・同化し,定住農牧民民を支配する
五胡十六国時代北魏の統一  北魏の東西分裂  隋
 北魏は,五胡【セH21・H29】の一つである鮮卑人の王朝ですが,皇帝主導の急激な漢化政策に対する反発もありました。かつての首都の近くの防備に当たっていた軍団(六鎮)が,523年に反乱にを起こすと,北魏は無政府状態に陥り,534年に〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉(位532~534)を殺害しました。
 同年,反乱を起こした〈高歓〉(496~547)が実権を握り,〈孝静帝〉(こうせいてい,孝武帝のいとこの子,位534~550)を擁立して
534年に東魏を建国しましたが,これに対抗して〈宇文泰〉(うぶんたい, 505~556)が〈文帝〉(孝武帝のいとこ)を擁立し,長安を首都として535西魏を建国()。こうして北魏は東西に分裂したのです。

図式 〈宇文泰〉が北魏の〈孝武帝〉を暗殺。
    〈宇文泰〉は〈文帝〉を擁立→【西魏】
    それに対して,
   〈高歓〉が反乱し〈孝静帝〉を擁立→【東魏】
(注)535年をもって北魏の分裂の年とする。『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120

 さらに,
550年に東魏は北斉(550577) 【京都H20[2]】に,西魏は北周(556581)にそれぞれ取って代わられました。
 このように華北は,五胡十六国 
 北魏が統一  東魏・西魏  北斉・北周 というように移り変わっていきます。これらはすべて鮮卑系の王朝ですが,このうちの北周の外戚だった〈楊堅【セH16】は,北周の皇帝から禅譲をうけ,581年に【セH16】を建国することになります。


◆華南では,長江下流域に移動した漢人が,先住民族と協力して江南開発・海上交易をすすめます
王朝の変遷東晋  宋  斉  梁  陳 
 建康を首都とする東晋は,420年に武将の〈劉裕〉(りゅうゆう)により倒され,が建国されました(960年に始まる宋と区別するため劉宋という場合もあります)。その後短期間のうちに(せい。北魏討伐で活躍した寒門(階級の低い一族)出身の軍人〈蕭道成〉(しょうどうせい,在位479~82)が〈高帝〉として即位)(りょう。軍人〈蕭衍〉(しょうえん)が〈武帝〉として建康を占領して即位)のように建っては滅び,建っては滅びました。華北を支配していた遊牧民たちの勢力が強く,常に臨戦態勢であることが求められたため,華北を奪回しようとする将軍の力が強まり,作戦に成功した将軍が皇帝に即位することが多かったためです。

 
の時代は比較的平穏な時代であり,〈武帝〉の皇太子〈昭明太子〉(しょうめいたいし)【セH22】【※意外と聞かれない】が四六駢儷体で書かれた作品を集めた『文選』(もんぜん)【セH22斉民要術ではない】【中央文H27記】を代表として文化が栄えました。九品中正(九品中正法) 【セH3】は南朝でも続けられましたが,貴族たちは華北時代の家柄にしがみつこうとし,高いランクが付けられた家柄から高級官僚が決められる仕組みは,依然として残りました。こうして,江南にもともといた豪族や軍人,華北から移住してきた華北出身の貴族の家柄に比べ,低い地位に置かれていたのです。
 最終的に,南朝最後の王朝である
は,四川や長江北部は北朝の西魏に獲得されてしまうほど,弱体化していました。

 陳は,
589年に北朝の【セH6北周ではない】に滅ぼされ,こうして中国は統一され,南北朝時代は幕を閉じます。

 なお,ここで,この時代の中国の時代区分についてまとめておきましょう。
 
三国時代は,魏の建国から蜀の滅亡まで(220263)。長くとれば,西晋による呉の滅亡まで(220280)
 
五胡十六国時代は,匈奴による華北での「漢(前趙)」の建国から北魏の統一まで(304439)をさします。
 
南北朝時代【セH19五代十国時代ではない】というときは,北魏の建国から隋の統一まで(439589)をさします。
 魏晋南北朝時代というときは,魏・西晋から隋の統一まで(220589)をさし,これがもっとも長い時代区分のとり方です。
 六朝(りくちょう)時代という呼び方もあります。これは,現在の南京に首都を置いた6つの王朝の時代をまとめたものです。すなわち,呉(建業)→東晋(以降は建康)→陳の時代です。「ろく」ではなく「りく」であるのは,この頃の漢字の読み方(呉音といいます)に即して読む習わしになっているからです。この時代は,日本に漢字が大量に伝わった時期でもあります。多くは仏教の経典として日本に伝わりましたから,お経の漢字の読み方に,ちょっと変わったものが多いのはそのためです。例えば,お経の「きょう」は,「経済」の「けい」とは違います。唐の時代になると,首都周辺で話されている言葉が「漢音」として日本に伝わっていきます。現在の漢字の音読みの多くは,漢音の影響を受けたものなのです。例として,「一万(呉音)と万国(漢音)」「無理(呉音)と無事(漢音)」「大工(呉音)と工場(漢音)」「建立(呉音)と建設(漢音)」などなど。


 このように三国時代から隋の成立までの中国は,争いの絶えない時代でした。しかし,逆に言えば,「この考え方が正しく,その考え方は禁止!」というように思想を統制することのできる強力な国家がなくなったため,さまざまな文化が栄える時代でもありました。

 古くから根付いていた民間信仰が,神仙思想(仙人や不老不死をめざす考え方) 【セH2】や道家の考え方が体系化されていきました。寇謙之(こうけんし,363448) 【京都H20[2]】【セH2北魏の人であることを問う】【セH22唐代ではない】【中央文H27記】北魏の〈太武帝【セH12道教を禁止したわけではない】に接近して保護を受け,道教の教団(新天師道) 【セH19時期】をつくっています(のちに宋代に正一教と呼ばれるようになり,現在に至ります) 【セH2中国仏教が道教の体系化に大きな影響を与えたことを問う】

 政治的に不安定な時代であったことを反映し,政治に関する直接的な発言は避けつつ,老荘思想などについて議論を交わしつつ遠まわしに語り合う「
清談(せいだん)」というスタイルが流行しました。
 〈
阮籍(げんせき,210263)に代表される,竹林の七賢【セH17時期(春秋戦国時代ではない)が有名。阮籍は魏の時代の政治家でしたが,汚職まみれの政治が嫌になって,酒を飲んで政治の世界から一線を置く道を選びました。古代ギリシアの〈ディオゲネス〉(412~前324)のようです。金と陰謀で汚れた人間がやってくると,彼らは白い目でにらんだという言い伝えから,「白眼視」という言葉が生まれます。一見哲学的な議論の形式をとることで,当時の政治を批判する意図もあったようです。

◆大乗仏教の“大翻訳運動”がはじまった
サンスクリット文字から,漢字への翻訳がすすむ

 道教に対して,インドから伝来した大乗(だいじょう)仏教【セH4中央アジアを経て中国に伝わったか問う】は,4世紀後半から栄えはじめます。インドの言葉ではわからないので,仏図澄(ぶっとちょう,?~348) 【セH18・H24時期】鳩摩羅什(くまらじゅう,344413) 【京都H20[2]】 【セH4前漢の人物ではない,セH12時期(鳩摩羅什は隋王朝に招かれたわけではない)】【追H30五胡十六国時代ではない】 が布教や仏典の漢訳【セH12鳩摩羅什が訳経事業に従事したか問う】で活躍しました。
 インドの〈ナーガールジュナ〉
(150頃~250)の『中論』を漢訳したのは〈鳩摩羅什〉です。石窟寺院も多数作られました。
 北魏の時代につくられた,平城近郊の
雲崗(うんこう。インドのグプタ朝(320~550)美術の影響を受けています) 【中央文H27記】洛陽近郊の竜門【セH22地図・後漢代ではない】が重要です。竜門の石窟寺院は,〈孝文帝〉の漢化政策の影響もあり,中国風の衣装をまとっていいます。ただ,それでも仏教は中国人にとっては”外国思想”ですから,理解するのが難いものでした。そこで,老荘思想道教などの中国の考え方を混ぜた格義仏教の形で信仰されることも多かったのです。
 しかし,仏教に対する政策は支配者によって様々でした。例えば,北魏の5人の皇帝は,雲崗石窟の仏像を自分たちの姿に似せて作らせました。「皇帝=仏」ということを,人々に知らしめそうとしたのです。南朝で
を建てた軍人出身の〈武帝〉(〈蕭衍〉(しょうえん))は,仏教を厚く信仰したことで知られます。一方,北魏の〈太帝〉(位423~452) 【セH12】や北周の〈帝〉(位560~578)は,仏教を厳しく弾圧しました(唐の〈宗〉(位840~846)),後周の〈世〉(位954~959)の迫害と合わせ中国の仏教界では”三の法難”と呼びならわされています)。


◆南朝では,漢人による貴族文化が開花する
“中原”の漢人の文化が,次代に発展・継承される
 政治の世界から一歩引く風潮は,詩文の世界にも見られます。憧れだった都は荒れ果て,豊かさがうわべだけのものだったことに気づいた人々は,時間のたっても変わらない素朴な「自然」の姿に,一度きりの人生の理想を求めたのです。例えば,東晋の〈陶潜(とうせん,陶淵明(とうえんめい)365?427) 【セH3長恨歌の作者ではない】【京都H20[2]】。なお,このように2つの呼び方があるのは,中国人が,人の名前を軽々しく呼ぶことを嫌がったためで,陶潜の場合,「潜」は名であり,これをむき出しにするのは失礼と考え,代わりに「淵明」という通り名で呼んだことによります。前者を諱(いみな),後者を字(あざな)といいます。〈陶潜〉は官僚の職を辞して辞,故郷の田園生活に戻る決断をします。他に同じく,山水詩で有名な東晋の〈謝霊運(しゃれいうん,385433)がいます。彼は,霧につつまれた,うら寂しく深い山や険しい谷を眺めながら「官僚としての生活を送るなかで,若い頃の自分ではなくなってしまった」と嘆く,そんな詩を読みました。陶潜と謝霊運をあわせて「陶謝」ともいいます。

 南朝に移動した門閥貴族(高い家柄の貴族)たちの間には,自分たちにしかわからないような絶妙で繊細な文化を尊ぶことで,庶民との違いを見せつけようとする文化が発展しました。
 例えば,美しい文章の書き方として,四六駢儷体がもてはやされます。梁の時代の〈昭明太子(501531)による『文選(もんぜん)が有名です。
 また,『女史箴図』(じょししんず) 【立教文H28記】という女性のマナー書の挿絵を書いた〈顧愷之(こがいし,344?405?) 【セH15王羲之とのひっかけ,セH22顧炎武とのひっかけ】や〈王羲之(おうぎし,307?365?) 【セH15「女史箴図」の作者ではない,セH17唐代ではない,セH22】が,それぞれ絵と書をきわめます。彼の子〈王献之〉(344388)も書画で有名です。
 中国では「書」と「画」がセットで価値を持っていた点に特色があります。
 また,南朝の宋の時代には〈范曄〉(はんよう,398445)により正史の『後漢書』が紀伝体で編纂されました。



400年~600年のアジア  東アジア 現⑤・⑥朝鮮半島
 朝鮮半島西南部の馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,6世紀には百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【追H9朱子学と書院は栄えていない】【セH29試行 時期(奴国の時代に百済はない)】として統一が進みます。
 また,朝鮮半島東南部の
辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,新羅(シルラ,しんら,しらぎ)として6世紀には統一されていきました。

 朝鮮半島北部では
高句麗が勢力を拡大させ,〈広開土王〉(クヮンゲトワン;こうかいどおう;好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに東南部の百済や,南部の任那(イムナ,みまな)や安羅,日本列島の倭の勢力と戦いました。
 次の〈長寿王〉(チャンス;ちょうじゅ,位413?~491)の代の427年には,現在の北朝鮮の首都である
平壌に遷都し,南部への支配を本格化させました。彼は中国の北朝の北魏と南朝の宋の両方に朝貢し,新羅と百済との対立に備えます。百済は475年に高句麗によって一時滅亡しましたが,首都を熊津(ゆうしん;ウンジン)に移して再興されました。
 新羅は5世紀中頃まで高句麗に従っていましたが,5世紀後半には対立を始めます。500年に新羅は王号を名乗るように成り,〈法興王〉(位514~540)の下で王権が強化されました。百済とも提携しながら高句麗に対抗していきます。

 高句麗の南進に備え,南部の加耶地域の安羅や金官と協力し,日本列島の
にも接近してきました。この時期の倭に贈られた七支刀(しちしとう)は,百済の倭への接近を示しているとみられます。(日本)のヤマト政権は,彼らの持っていた高い技術力や先進的な文化を歓迎し,渡来人(とらいじん)として受け入れました。こうして日本にも漢字仏教儒教律令制度【セH18】が伝えられることになったのです。例えば〈王仁〉(わに,生没年不詳)が『論語』や『千字文』などの儒教のテキストを伝え,513年には五経博士を派遣しました。522年には職人〈司馬(しば)(たつ)()〉(生没年不詳)が日本に移住し,その孫〈鞍作(くらつくりの)(とり)〉(止利仏師,生没年不詳)は後に法隆寺金堂の本尊釈迦三尊像で知られる仏像製作者となります


◆新羅が南部に進出すると,百済は倭のヤマト政権と結んで対抗した
 その後,百済と新羅は南進し,ともに鉄資源の豊かな南部の
加耶地域に進出します。522年に新羅は加耶諸国のうち5世紀後半に台頭していた大加耶(高霊(コリョン))と同盟し,532年には金官国(金海(キメ))を滅ぼしました。
 このとき,金官国(かつての狗邪(こうや;クヤ)国)は,密接に交流をしていた倭の
ヤマト政権に救援を求めました。ヤマト政権は加耶地域の鉄資源を押さえようと,527年に〈近江毛野〉(おうみのけぬ,?~530)に朝鮮半島南部に進軍させようとしましたが,九州の豪族で筑紫国造であった〈磐井〉(いわい)が528年にそれを阻止しました(磐井の乱)。〈磐井〉を初めとする九州の豪族は新羅とのつながりが深く,百済とのつながりの深いヤマト政権との交易ルートをめぐる対立があったとみられます。
 541年と544年には百済が主導し,倭も参加する形で加耶の復興会議が開かれましたが,562年に加耶地域は新羅の支配下となりました。これをもって朝鮮半島は
高句麗,新羅,百済の三国時代となります。実力の認められた新羅は中国の北朝(北斉)と南朝(陳)に冊封されると,高句麗や百済も対抗して中国への朝貢を実施。581年に中国にが成立すると,高句麗・百済・新羅の三国が朝貢しました。




400年~600年のアジア  東南アジア
 5世紀頃に,季節風(モンスーン)を利用した航海が確立して,中国やインド洋方面との貿易がますます活発化していきました。従来のようにマラッカ半島を陸路で横断するのではなく,マラッカ海峡の重要性も高まっていきました。

 北ヴェトナムでは漢人に対する反乱が相次ぎましたが,隋は590年に鎮圧し,支配のための都を現在のハノイに移しました。ハノイは,中国と東南アジアを結ぶ河川の集まる,重要な地点に位置しています。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えています。5~6世紀頃から,サンスクリット語の碑文が見つかるようになり,中国側の史料によるとインド風の宮廷・ヒンドゥー教の僧侶などの特徴を備えるようになっていたようです。研究者はこのことを,東南アジアの「インド化」といいます。インドの文化を取り入れることで,権威を高めようとしたのです。東南アジアでは「バラモン教」「仏教」「ヒンドゥー教」などをハッキリと区別して受け入れていったわけではなく,「インドの文化」としてざっくり受け入れ,地元の文化とも積極的にミックスしていく傾向があることにも注意しましょう。日本で,神道(しんとう)と仏教,儒教,道教が共存してきたこととも似ています。

 メコン川下流域の扶南は,6世紀前半で中国に朝貢使節を覇権しなくなりました。マラッカ海峡を通るルートが東西ルートのメインになり,シュリーヴィジャヤ王国などの勢力に圧倒されたためと見られます。


 中国の東晋時代に,長安から西域を経由して陸路【セH12「西域経由」か問う】でインドのグプタ朝に渡った僧〈法顕(ほっけん,337422) 【セH12】は,「海の道【セH12帰路は海路か問う】を通って中国に帰ってきます。帰路は412年に200人以上のインド商船で出航し,セイロン島(現スリランカ)を経由して,耶婆提(やばてい)で5ヶ月風待ちしたあと,別の商船で中国に帰ったと記録しています。耶婆提とは,マレー半島かスマトラ島のどこかの地点を指すとみられます。
 盛んとなった交易を背景にして,東南アジア各地には,交易ルートを支配する権力が成立するようになります。例えば,マラッカ半島の付け根,マラッカ海峡,スマトラ島南部,ジャワ島などの交易国家が,中国に朝貢していました。
 それと同時に,インドの影響を強く受けた交易国家も登場します。これを「インド化」といいます。ジャワ島西部のボゴールや,カリマンタン島東部のクタイなどでは,サンスクリット語の碑文が発見されています。王はバラモンをたくさん周りにはべらせ,インド的な行政制度や服装,法が導入されました。支配者は,発展レベルが高いと考えられたインドの文化をたくみに導入することで,国内外の人々にその支配の正しさ(正統性)を納得させようとしたのです。

 イラワジ川流域では,ピュー人の国が栄えていたことが,中国の史料から明らかになっています(朱江と呼ばれていました)。6世紀後半~7世紀初めには,東のチャオプラヤー川にまで勢力を広げ,クメール人セH5チャム人ではない,ヴェトナム中部ではない】のカンボジア(中国名は真臘【セH5,セH11:時期を問う(6~15世紀かどうか)・地域を問う(マレーシアではない)】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】)と争っていたといいます。




400年~600年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
600年~800年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には、シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています(5世紀に都は一時的にシーギリヤ(◆世界文化遺産「古都シーギリヤ」、1982。シーギリヤロックで有名)に移っています)。



600年~800年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ、⑤インド、⑥パキスタン
◆北インドではグプタ朝が衰え,エフタルの攻撃で崩壊,南インドでは地方国家が交易で栄えます

 5世紀に入ると中央ユーラシアの遊牧民エフタル(フーナ)が,グプタ朝【セH29ムガル帝国ではない】に進入するようになりました。
 5世紀末の進入により,グプタ朝はインド西部を失い,同じ頃から諸侯や地方長官の独立が始まりました。
 こうして,6世紀半ばまでにはグプタ朝は多くの領土を失い
(),7世紀【共通一次 平1:当時(7世紀)のインドでサンスクリット語が使用されていたか問う(パスパ文字,アラム文字,インダス文字ではない)後半に残存勢力が盛り返したものの,8世紀に入ると消滅しました。
 グプタ朝亡き後,西インドにはマイトラカ朝,北インドにはマウカリ朝,プシュヤブーティ朝,東インドにはベンガルなどが並び立ちました。このうち,プシュヤブーティ朝から,7世紀初めに〈ハルシャ【セH20・H27】が出て,ヴァルダナ朝【セH20玄奘が訪問したか問う,セH19時期(アンコール=ワット建設と同時期ではない)・】を開き,北インド【セH27,H30南インドではない】を統一することになります。
 インド南部では,6世紀からパッラヴァ朝が,首都カーンチープラム(現在のチェンナイ付近)を中心に栄えます。仏教やジャイナ教寺院が多数建立されましたが,6世紀以降,北インドの影響によりヒンドゥー化が進みました。
(注)520年にエフタルの攻撃を受けて分裂崩壊とするのは,『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120





400年~600年のアジア 西アジア

◆キリスト教の「異端」とされたネストリウス派や単性説が広まる
 
431年には現在のトルコ共和国の西部にあるエフェソスでエフェソス公会議が開かれ,イエスには神の部分と人の部分があるが,それらは完全に別物として存在しているとするネストリウス派が異端とされました。「マリア」の扱いについては,異端のネストリウス派が,マリア=人としてのイエスの母という立場をとったのに対して,マリア=「神の母」説が正統とされました。のちにイラン高原のササン(サーサーン)朝を通過し,唐代【セH29漢代ではない】の中国で(けい)(きょう)【京都H20[2]】【セH21拝火教ではない】【追H30】として大流行します。
 なお、エフェソスは歴史の長い都市で、ヘレニズム時代やローマ時代の遺跡(図書館やローマ劇場、アルテミス神殿)が残されています。5世紀からは、ここで余生を送ったとされる
聖母マリアの家が巡礼地の一つとなっていました(◆世界文化遺産「エフェソス」、2015)。


 さらに451年のカルケドン公会議では「イエスは完全に神である」という単性論【早政H30】が異端とされ,こちらは現在ではシリアやエジプトに残っています。とくに,エチオピア正教会やエジプトにあるコプト教会は単性論とみなされることはありますが,実際には別物です(どちらもカルケドン公会議で正統となった説を受け入れていないため,非カルケドン派ともいわれます)。エチオピアのキリスト教には,ユダヤ教の影響もみられます。


◆インド洋の海上交易をめぐり,東ローマ帝国とサーサーン朝が対立する

 アラビア半島には,アフロ=アジア語族のセム語派の
アラブ人が生活しています。沙漠が大部分を占めることから,周辺の国家による支配は難しく,オアシスの周りで農業をおこなったり,遊牧をしたりする集団がいくつもの共同体を形成していました。商業を行う集団も少なくなり,地中海沿岸のシリア方面と,紅海やインド洋を結ぶ中継貿易で栄えた部族もいました。沙漠という過酷な環境下で,アラブ系遊牧民(ベドウィン)の諸部族は多神教を中心とする宗教によって連帯し,共存するとともに争い合っていました。のちにイスラーム教の聖地となるメッカでは,泉(ザムザムの泉)やカーバ神殿【追H20ヒンドゥー教との信仰の中心ではない】【セA H30メッカで「カーバ神殿が造られた」か問う】が遊牧民の信仰を集め,5世紀中頃には遊牧民のクライシュ族が支配下に置きました。
 アラビア半島にはユダヤ人やキリスト教徒も分布していました。

 5世紀後半には,中央ユーラシアから遊牧民
エフタル【セH8グプタ朝ではない】が進出し,ササン(サーサーン)朝【セH8ソグド人ではない】は危機的状況となりました。しかし,〈ホスロー1世(531579) セH5ヒッタイトの王ではない】が,モンゴル高原のトルコ系遊牧民の突厥(とっけつ,とっくつ) 【セH8】と同盟して挟み撃ちにしました。彼は,ビザンツ帝国の〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565)とも領土争いをしています。孫の〈ホスロー2世〉(位590~628)もローマ帝国と争っています。両者ともにエジプトやシリア方面をねらっていました。“アケメネス朝の跡継ぎ”を自任するサーサーン朝にとって,かつての領土の回復には,王の威信(プライド)がかかっていたのです。〈ホスロー2世〉は614年にシリア・パレスチナ,619年にエジプトを占領。
 ササン
(サーサーン)朝は工芸技術にも優れ,日本の法隆寺の獅子狩文錦(ししかりもんきん)正倉院の漆胡瓶(しっこへい)にはその影響がみとめられます。

◆大国の抗争を避け,主要な東西交易ルートがアラビア半島を南に迂回(うかい)するように
 サーサーン朝の面目躍如もつかの間。ビザンツ帝国も黙ってはいません。
 6世紀以降になり,コンスタンティノープルを首都とする
東ローマ帝国と,イラン高原を支配するササン(サーサーン)との間の戦争が多発。イラン高原から地中海を抜ける陸上の交易ルートや,ペルシア湾を通るルートは危険そのものとなります。
 そこで,イランから
アラビア海に南下しそこからアラビア半島を迂回して,地中海に抜ける海の交易ルートを通る商人が急増。サーサーン(ササン)朝もアラビア半島南部のイエメンに支配圏を広げていこうとしました。紅海を通るルートよりも,いったんジッダで荷揚げをしてラクダに積み替え,内陸部のメッカやメディナを拠点としてシリアへの隊商(キャラバン)交易()をするルートが頻繁に使われるようになり,アラビア半島の紅海側の都市には,各地から商人が集まるようになります。

 6世紀後半,のちにイスラームを広めることになる〈
ムハンマド〉(メッカH27京都[2]生まれ)の曽祖父〈ハーシム〉が遠隔地交易に従事し,シリアからイエメンにかけてのアラビア半島各地の遊牧民の部族と安全保障の取り決めを交わしていました。
(注)中東=イスラーム世界のキャラバンの安全保障は,個々の隊とキャラバンの通過路に遊牧地をもつ部族集団・地方勢力との個別の関係,イスラーム諸国家の商業政策に左右された。原則としてキャラバンの安全は自己責任で,遊牧部族から護衛を雇うか,あらかじめ通貨料を払って略奪を防ぐことも行われていました。 尾形勇他編『歴史学事典【第1巻 交換と消費】(弘文堂,1994年)』,p.169

 〈ムハンマド〉の誕生した6世紀末には,ハーシム家はクライシュ族の内紛に巻き込まれ,〈ムハンマド〉の父〈アブドゥッラーフ〉は彼の誕生時にはすでに他界していました。6歳で母〈アーミナ〉も他界し,8歳のときには祖父も亡くしています。そこで〈ムハンマド〉は父方の伯父(おじ)に育てられ,若くしてシリア方面への隊商交易に従事し,そこでキリスト教の思想にも触れています。


400年~600年のアジア  西アジア ⑱アルメニア
 アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉によりテマ=アルメニアコンという軍管区に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。





400年~600年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島、モルディブ、イギリス領インド洋地域、フランス領南方南極地域、マダガスカル、レユニオン、モーリシャス、フランス領マヨット、コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。




400年~600年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島、モルディブ、イギリス領インド洋地域、フランス領南方南極地域、マダガスカル、レユニオン、モーリシャス、フランス領マヨット、コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。





●400年~600年のアフリカ


400年~600年のアフリカ  東アフリカ
東アフリカ…現在の①エリトリア,②ジブチ,③エチオピア,④ソマリア,⑤ケニア,⑥タンザニア,⑦ブルンジ,⑧ルワンダ,⑨ウガンダ
 東アフリカのインド洋沿岸には,東南アジア方面からオーストロネシア系のマライ人が船で航海してきました。このときに,米,ココヤシ,バナナ,サトウキビ
【セH11原産地はニューギニア周辺と考えられ,その後前6000年頃にインドに伝わりました】,イモが伝わったのです。彼らは10世紀にマダガスカルアウトリガー=カヌーを用いて移動していくことになります。


400年~600年のアフリカ  中央アフリカ
中央アフリカ…現在の①チャド,②中央アフリカ,③コンゴ民主共和国,④アンゴラ,⑤コンゴ共和国,⑥ガボン,⑦サントメ=プリンシペ,⑧赤道ギニア,⑨カメルーン
◆バントゥー系が中央アフリカ・南アフリカにも拡散し,南端にコイコイ系の牧畜民が追いやられ,サン系の狩猟採集民は南東端に圧迫される
バントゥー系が,バナナの力で熱帯多雨林に拡大

 5世紀頃,
バントゥー語系の人々の住むコンゴ盆地に,東南アジア原産のバナナが流入しました。日本で食べられている果実用のバナナとは違い,料理用バナナであるプランテンバナナはヤムイモに比べ,湿潤な熱帯雨林気候でも育ちやすく()土地生産性も高いため,人口が増大しました。
 発生した余剰生産物は,狩猟採集民や漁労民との交易にも用いられましたが,しだいに農牧民の社会の規模が拡大し,
15世紀以降にコンゴ王国などの国家が出現することになりました。このようなバナナの流入によるコンゴ盆地の社会の変化を,バナナ革命と呼ぶ研究者もいます。
()市川光雄「人類の生活環境としてのアフリカ熱帯雨林 歴史生態学的視点から」『文化人類学』7442010p.566584https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/74/4/74_KJ00006252825/_pdf/-char/ja



400年~600年のアフリカ  西アフリカ
西アフリカ…現在の①ニジェール,②ナイジェリア,③ベナン,④トーゴ,⑤ガーナ,⑥コートジボワール,⑦リベリア,⑧シエラレオネ,⑨ギニア,⑩ギニアビサウ,⑪セネガル,⑫ガンビア,⑬モーリタニア,⑭マリ,⑮ブルキナファソ
 
北アフリカ西部のマグリブ地方(現在のモーリタニアモロッコアルジェリアチュニジアリビア)の内陸部には,5世紀~世紀初めにベルベル人の諸王国がありました。
 北アフリカでは,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派ヴァンダル人【東京H23[3],H30[3]】H27名古屋[2]がジブラルタル海峡を越えてイベリア半島方面からアフリカ大陸に進出し,現在のチュニジアにあるカルタゴを占領して429年にヴァンダル王国【立命館H30記】を樹立しました。カルタゴから穀物を輸入していたローマ市民は打撃を受けました。
 ヴァンダル王国は〈ユスティニアヌス〉帝の治世の
ビザンツ王国に滅ぼされ,647年まで支配下に置いていました。



400年~600年のアフリカ  北アフリカ
北アフリカ…現在の①エジプト,②スーダン,③南スーダン,④モロッコ,⑤西サハラ,⑥アルジェリア,⑦チュニジア,⑧リビア

 北アフリカ沿岸部一帯は,ローマ帝国の属州として支配下に置かれました。
 エジプトでは〈イエス〉の死後,キリスト教が〈マルコ〉により伝道されたとされ,その後「コプト正教会(
コプト教)」として普及しています。コプト教は451年のカルケドン公会議の結果を承認しなかったため,非カルケドン派に分類される教会です。





●400
年~600年のヨーロッパ


◆ローマ文化を受け入れたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,ローマ帝国時代の制度を利用して国家を建設する
 ローマ帝国は,各地に進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対してなすすべもなく,ローマ帝国と同盟を結んだ軍団として認めて定住させることで混乱を収拾し,帝国の防衛を担当させようとしました。
 彼らの族長はローマ帝国の軍司令官となり,従来の属州各地の行政機構のトップに君臨し,ローマに属していた土地の一部を仲間に分け与えていきました。ローマはもともと,地方行政を各地の都市にまかせていたので,トップがインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の族長へと代わっただけです。
 インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は,各地で現地のローマ人の有力者との関係を築き,ローマ教会のアタナシウス(ニカイア)派に改宗したり,ローマ法の影響を受けた法典を作成したりする国家も現れました。一般的に,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々は定住地で農耕をしながら軍役にたずさわり,民政はローマ人の官僚頼みでした。支配下のローマ人の生活は,ローマ支配下とさほど変わらず,ローマ時代と変わらず各地の行政機構に納税をしていました。

 4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくった
フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,408年・409年・422年にバルカン半島に進出しました。5世紀前半に〈アッティラ王〉を中心として,今日のハンガリー平原であるパンノニアを中心にして帝国を建設しました。

 東ゴート王国もバルカン半島のドナウ川以北に進出しましたが,488年に〈テオドリック〉(位474~526)がイタリアに進出し,のち493年にイタリア北部で
東ゴート王国(493~555)を再建します。
 空白地帯となったドナウ川以北には今度はテュルク系の騎馬遊牧民
ブルガール人が進出し,東ローマ帝国(ビザンツ帝国)を圧迫していくことになります。
 また,騎馬遊牧民アヴァール人が黒海北岸から493年にバルカン半島に移動し,ドナウ下流域からハンガリー盆地にも進出して
アヴァール=カガン(可汗)を建国しました。可汗の称号を使用したことから,モンゴル高原を中心とする騎馬遊牧民柔然(じゅうぜん)(⇒柔然:400~600中央ユーラシア)の一派ではないかともいわれます。アヴァールは東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス1世〉(位527~565)に対して558年に使節を派遣し同盟を結びましたが,ササン朝とも組んでビザンツ帝国を圧迫し続けました。しかし,のち内紛で衰退していきます。

 インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派
ヴァンダル人H27名古屋[2]やスエヴィ人は409年にライン川を越え,ガリアを通ってヒスパニア(イベリア半島)に進入。ヴァンダル人の一部とスエヴィ人は北西部(ガラエキア(ガリシア))に軍団として定住しました。また,別のヴァンダル人の一派は南部に定住しました。
 困った西ローマ皇帝の〈ホノリウス〉は,
410年にローマに進入して占領していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派西ゴート人と同盟を結び,ヴァンダル人を攻撃させました。西ゴート人はすでに415年にイベリア半島で建国していた西ゴート王国H30地域を問う】の建国を,418年に認められます()
 押し出される形となった
ヴァンダル人はジブラルタル海峡を越え,〈ガイセリック〉王(389?~477)のもと,北アフリカ【セH14】カルタゴ近くにヴァンダル王国を建設し,ローマ市民の生命線である穀物の供給をストップさせてしまいます。これにより,ローマはますます衰退していきます。
 ヴァンダル人にカルタゴ(ヒッポ)が包囲される中,神学者アウグスティヌス(354430) 【セH3】【追H9,追H21】 は息を引き取りました。のちにローマ教会が「正しい」(正統)とする説を生み出した神学者ということで,「(ラテン)教父」(きょうふ)とも呼ばれます。主著は『神の国【セH3】【追H9,追H21】で,青年時代にマニ教を信仰していたことを『告白』に綴(つづ)っています。
 半島北西部に残ったスエヴィ人はスエヴィ王国を建国しました(585年に西ゴート王国に併合されました)。
(注)年号は参照『世界史年表・地図』吉川弘文館2014,p.120。しかし厳密に言えば,トロサ〔トゥールーズ〕の王国(トロサ王国)であり,507年まで続きます。その後,イベリア半島拠点の西ゴート王国は507~711年の期間,存続します。


 西ゴート王国は建国当初は南ガリアのトロサ(現在のトゥールーズ)を首都としていましたが5世紀後半にはヒスパニアにまたがる強国となりました。5世紀後半にはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家初の法典にであるゲルマン法(エウリック法典)がラテン語で成分化され,6世紀初めにはローマ系の住民向けにローマ法(アラリック法典)が制定されています。400万~600万人のローマ系住民を,20万人前後の西ゴート人が治めるのですから,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の法だけで支配することはできなかったわけです。
 西ゴート王国の支配者層は,ローマ教会の教父〈(セビーリャの)
イシドールス〉(560?~636)が633年に第4回トレード公会議を主導し,587年にキリスト教アリウス派からアタナシウス(ニカイア)派に集団改宗しています。〈イシドールス〉は当時非常に大きな影響力を持っていた人物で,古代ギリシアの思想を学びTOマップ(世界の中心はイェルサレム,その周りにある3大陸は,3つの河川・海洋で区切られ,いちばん周りは大きな海が取り囲んでいるという世界観)として知られる世界地図を作成し,『ゴート人・ヴァンダル人・スエヴィ人の歴史』という民族移動から625年までの年代記も残しています(彼のもたらした学芸の発達を「イシドールス=ルネサンス」ということもあります)
 のちに『偽イシドールス』として知られる偽書は,ローマ帝国の〈コンスタンティヌス〉大帝が西ローマ帝国の領土をローマ=カトリック教会に寄進したという書状(
コンスタンティヌスの寄進状)が記され,ローマ=カトリック教会が皇帝権力よりも上に位置することを示す文書として利用されたものです。内容に意図的な誤りを含み,イシドールスとも関係がないものですが,中世の時期にヨーロッパでは大きな影響を持っていました。


◆フン人は西ゴートとフランクの戦力により,パンノニアに撤退する
 4世紀末にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動のきっかけをつくった
フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされます)は,5世紀前半に〈アッティラ王〉を中心として,今日のハンガリー平原であるパンノニアを中心にして帝国を建設しました。西ローマ帝国には,すでに単独でフン人に対抗する力がありませんでした。そこで,同盟関係にあった西ゴート王国フランク王国の力を借りて,フン人とカタラウヌムの戦いで対戦し,〈アッティラ〉を撃退することに成功します。カタラウヌムは現在のパリの南東,シャンパーニュの付近とみられます。
 〈アッティラ〉は一度パンノニア(ハンガリー平原)に退却後,翌年イタリアに進入を試みます。しかし,ローマ教皇〈レオ1世(440461)に説得されてローマ進入を断念したと伝えられています。〈アッティラ〉はその後急死すると,帝国はあっけなく崩壊しました。

 ブルグント人【セH14】はガリア【セH14北イタリアではない】の南部にブルグント王国を,フランク人はガリアの北部【セH8黒海北岸から西進したわけではない】【セH14イベリア半島ではない】フランク王国を建国しました。ブルグントはフランク王国に滅ぼされてしまいますが,ブルグントの名前は,南東フランスのブルゴーニュという名前に今も残っています。
 フランク人は建国者
クローヴィス(位481~511) 【セ試行】【セH7】【セH19時期,H29試行 ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠は受けていない,H30】【セH29試行 レコンキスタとは無関係】のもとで強大化し,507年には西ゴート王国と争いガリア南部の大部分を奪います。〈クローヴィス〉は西ゴート王国の上手(うわて)をねらい,支配下に置いていたローマ人(ラテン人【東京H6[3]】) 【セH7】との同盟関係を強化するため,ローマ教会が正統な教義と認めていたアタナシウス 〔ニカイア〕 派に496年に改宗【セH7アリウス派ではない】【セH19時期,セH23ネストリウス派ではない,セH29試行 王妃に改宗を拒否されていない他(史料読解),図版(クローヴィスの洗礼を描いた図を選ぶ)】し,フランク人の支配層も集団改宗しました。一方,西ゴート王国はアリウス派を維持し,儀式もゴート語でおこない続けました。



 6世紀になると,ローマの南東の山地
モンテ=カッシーノ【追H30】で〈ベネディクトゥス【追H30グレゴリウス1世ではない】【慶文H30記】により修道院が開かれます。イエスの時代の生活をモデルとし,自給自足を基本とする信仰生活をおくるための団体です。モットーは「祈り,かつ働け」。
 教皇〈
グレゴリウス1世〉(位590~604) 【追H30モンテ=カッシーノを創立していない】も,〈イエス〉などの聖画像(イコン)や聖歌(現在にも伝わるグレゴリオ聖歌の発案者です)を効果的に用いて,文字を読むことができない西ゴート人やアングロ=サクソン人への布教を成功させていきます。




400年~600年のヨーロッパ  東・中央・北ヨーロッパ,バルカン半島
東ヨーロッパ
…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ
…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア

◆西ローマ帝国の皇帝が滅び,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派はイタリア半島でも建国
 4世紀末以降のローマ帝国は,〈テオドシウス〉大帝を最後に1人で全土を統一できた者はついに現れず,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制が固定化されていました。このことを後世の人々は,ローマ帝国の東西分裂と呼んでいますH29ユスティニアヌス帝の死後ではない】その後,ローマの東半の正帝は,唯一のローマ皇帝として西半の奪回に努めるようになっていくのです。

 ローマの西半は
インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入などの影響から急速に衰退し,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の傭兵隊長〈オドアケル〉(433~493) 【セ試行 フン族の王アッティラではない】【セH29は,西ローマの正帝〈ロムルス=アウグストゥルス〉(475~476)【セH29フランク国王ではない】を退位させ,西ローマ帝国を滅ぼしました。すでに皇帝には権力がほとんどない状態でありました。この事件を,後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼びます。
 オドアケル〉は,西ローマ帝国の証を東ローマ皇帝に譲りましたが,東ローマ皇帝の代理としてイタリアを支配することが認められました。
 東ローマの正帝も当初はそれを追認しますが,のちに東ゴート王国の〈テオドリック〉大王に〈オドアケル〉を倒させます。その手柄が認められた〈
テオドリック〉大王(位471~526)は,北東イタリア【セH14シチリアではない】ラヴェンナを都として東ゴート王国を建国することが許され,「イタリア王」(位493~526)を称します。「イタリア王」という称号は,その後もローマの西方領土の支配者によって伝統的に使用されていきました。ラヴェンナは,ポー川の河口近くに位置する豊かな土地であり,東ゴート王国はローマ文化を受け入れながら発展していきました。ビザンツ様式【セH10サン=ヴィターレ大聖堂【セH10,ピサ大聖堂,サンタ=マリア大聖堂,サン=ピエトロ大聖堂とのひっかけ】がラヴェンナに建設されるのもこの頃です。

 しかし,東ゴート王国ヴァンダル王国H30は,かつてのローマ帝国の広大な領土の回復をねらう東ローマ帝国の〈ユスティニアヌス帝〉によって滅ぼされることになります。
 東ローマ帝国はつかの間,イタリア半島を支配しますが,そこに進出していった民族がランゴバルド人【セH6】です。
 彼らはイタリア半島に進入して,568年に東ゴート王国を倒しイタリア半島の付け根,北東部にラヴェンナを都として
ランゴバルド王国【セH27】を建てます。
 ほかのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の国家と同じく
アリウス派を信じていたので,ローマ教会と対立します。彼らはローマ文化を受け入れず,自らの文化を維持し続けました。
 北イタリアの
ミラノ周辺を「ロンバルディア」といいますが,これは彼らの民族名からうまれた名前です。
 これらのインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々国家のうち,もっとも移動距離が短く,肥沃な地域を獲得したのが,フランク王国です。この王国はのちのフランス,イタリア,ドイツの元となる重要な国家となっていきます。


◆ゲルマン語派の大移動の影響が“無傷”の東ローマ帝国は,ローマ帝国復活を目指すも失敗
 ちなみに,東側のローマは後世の歴史家によって
ビザンツ(ビザンティン,ビザンチン)帝国と呼ばれるようになっていきました。首都がコンスタンティノープル,つまりもともとギリシア植民市のビザンティオン【東京H14[3]位置を問う】にあったことが由来です。
 当初は,かつてのローマ帝国の西半の領域やキリスト教会に対する支配を目指しましたが,住民の多くはギリシア語を話していましたし,6世紀前半の
ローマ法大全【セH17オクタウィアヌスは編纂していない,セH25】【セH8西ローマ帝国ではない】もギリシア語で発布されました。7世紀以降はギリシア語【東京H10[3]】が公用語となり【セH13時期(「東西教会が最終的に分離した後」ではない),セH15・H27ともにラテン語ではない】正教会を保護して発展していきました。コンスタンティノープルは,第四回十字軍のときにヴェネツィア共和国【セH12フィレンツェではない】に占領されたこともありましたが,1453年にオスマン帝国に攻撃されるまで,帝国の重要な拠点として名を馳せました。

 西ローマ帝国は,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の大移動の影響をもろに受けましたが,東ローマ帝国はほとんど影響を受けずに済んだこともあり順調に発展していきます。

 東ローマ帝国の皇帝は,
コンスタンティノープルのキリスト教教会(正教会)を保護し,そのトップである総主教(そうしゅきょう)がとりしきる儀式で皇帝の冠を与えられました総主教に皇帝を任命する権利があるわけではありませんが,政治に介入する場合もありました。皇帝はキリスト教の儀式(奉神礼(ほうしんれい)。ローマ教会では典礼(てんれい,ミサ))をとりおこなうことはできず,正教会の中では総主教の次に偉い地位にありました。
 なお
正教会(Orthdox=正しく(オルソス)+神を賛美する(ドクサ))という名称は,5世紀のカルケドン公会議を認めず離脱した「異端」の教会に対して用いられたもので,東方正教会(Eastern Orthodox Church)とも呼ばれます。離脱したグループはアルメニア使徒教会(アルメニア正教会),コプト正教会,エチオピア正教会を形成していきますが,東方諸教会(Oriental Orthodox Church)と総称されることがあります。ただ,名称の使用は統一されているとは限りません。
 16世紀以降は聖書にギリシア語が使用されていることから
ギリシア正教ともいわれます。ただギリシアの正教会はギリシア正教(またはギリシア正教)といわれるので注意が必要です。日本の正教会は,キリストのギリシア語読みということで,日本ハリストス正教会と称しています。
 教義としては,381年の公会議で採択されたニカイア=コンスタンティノポリス(ニケア=コンスタンティノープル)信条を基本とし,ローマ教皇の首位権や煉獄(れんごく)・生神女(聖母マリア)の無原罪懐胎(御宿り)を認めません。聖職者の妻帯が認められ,イコン(聖像画)が重視されています。
 正教会はローマ教会と同じく監督制をとっています。監督制とは,管轄する地域においてビショップ(
主教。ローマ教会では「司教」)が教会をまとめ,下位のプリースト(preast,司祭),デコン(daecon輔祭(ローマ教会では助祭))を指導する制度です。管轄地域は国ごとに設置され組織も国別につくられますが,コンスタンティノープル総主教が事実上すべての管轄地域に対する首座とされています。ほかに,五本山と呼ばれたアレキサンドリア,アンティオキア,イェルサレムの教会ノトップも特別な地位とみなされ,この3つとロシア,セルビア,ルーマニア,ブルガリア,グルジア(ジョージア)のトップは総主教,その下にギリシアなどの大主教,ポーランドや日本などの府主教というランクの違いがあります。

 コンスタンティノープルを無敵の都とした防壁は〈テオドシウス2世〉(位408~450)により建設されました。彼はテオドシウス法典の編纂を始めさせ,
エフェソス公会議【セH25ニケア(ニカイア)公会議,コンスタンツ公会議,トリエント公会議ではない】を招集してネストリウス派を異端【セH19ワッハーブ派のひっかけ】【セH25】としました。

◆「東西ローマの統一」という時代錯誤の〈ユスティニアヌス大帝〉は,一代限りで終わった
 
527年に即位した〈ユスティニアヌス大帝〉(位527~565) 【セH21西ローマ皇帝ではない】は,ローマ帝国を復活させようとして,増税をしたために,国民の反乱を招き,532年には「ニカ!(勝利を!)」と叫びながら暴動を起こす事態(ニカの乱)となったのですが,この時,サーカスの踊り子出身の皇后〈テオドラ〉(位527~548)が威勢よく励ましたお陰で,ユスティニアヌスは鎮圧に成功したと伝えられます。
 このころ,旧・西ローマ帝国の領内にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の国家が多数建てられていたのですが,東ローマはインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入の被害が少なく,地中海や黒海・バルト海,またはさらに東の内陸ユーラシアやインド洋を結ぶ交易の中心地として経済が栄え,
ノミスマ【早政H30】という金貨が発行されました。ラテン語ではソリドゥス硬貨と呼ばれ,ドルマーク($)の由来となっています。
 ユスティニアヌスはその後,
534年に北アフリカのヴァンダル王国【セH21】【法政法H28記】555年にイタリア半島の東ゴート王国を次々と滅ぼします【セH21イタリア半島の領土を失っていない】。戦闘で活躍したのは名将〈ベリサリウス〉(500?565?~565)です。
 
554年には西ゴート王国にも遠征しています。こうして,かつてのローマ帝国の最大版図に近い範囲に領土を広げることに成功しました。また彼はコンスタンティノープルに,ビザンツ様式のハギア=ソフィア大聖堂【京都H20[2]】【セH13レオン3世の命ではない,セH19ウィーンではない,H21】を再建しています。
 〈ユスティニアヌス〉西方に領土を拡大しようとしている間,531年に即位したササン(サーサーン)【セH13コンスタンティノープルを占領したことはない】の最盛期の王〈ホスロー1世〉(位531~579)【セH30も西方に進出。両者は戦争の結果,〈ホスロー1世〉がアンティオキアで東ローマ帝国に勝利しメソポタミアを死守しています。


◆ユスティニアヌス大帝はローマ文化・キリスト教を重視,ギリシアの学術はペルシアに中心を移す
 文化的には,529年にアカデメイアを閉鎖。プラトンにより建てられた学術機関ですが,西方支配のためにはキリスト教の教会ネットワークを頼る必要があり,教会に敵対的なアカデメイアを閉鎖することで提携をねらったのです。ここで研究していた学者はサーサーン朝のジュンディー=シャープール学院に避難。古代ギリシア・ローマの情報はペルシアで保存されることになりました。
 また,法学者〈
トリボニアヌス〉に,従来のローマ法の集大成をつくるよう命じ,『ローマ法大全【セH21・H30が編纂され,534年に皇帝はこれをギリシア語で発布しました。特に,元首政(プリンキパトゥス) 時代の学説がまとめられた『学説彙纂(ディゲスタ)』が重要で,法律のはじめに「総則」を置き,そのあとで具体的にしていくスタイルは,現在の日本の民法を含む各国の法律に影響を与えています。
 経済的には,中国の独占していた
養蚕(ようさん)技術【東京H26[3]】が伝わり,絹織物産業が盛んになりました【セH27


◆インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に続きスラヴ人が,森林地帯から移動を始める
 
なお,また,のちに東ヨーロッパのポーランド人や,南ヨーロッパのセルビア人に分かれていくスラヴ人の祖先は,もともと現在のウクライナの西からベラルーシの南にかけて分布していたとみられています。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の移動が始まった時期には,ポーランドの南部(ヴィスワ川の上流)に移動するスラヴ人の集団もありました。6世紀以降,さらに西に進んでいった集団が西スラヴ人です。
 バルカン半島に進出していったのが
南スラヴ人(スロヴェニア人クロアチア人セルビア人を形成)です。


400年~600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ
400年~600年のヨーロッパ  西ヨーロッパ 現⑧アイルランド,⑨イギリス
 ローマ帝国は5世紀初めにはブリテン島のブリトン人に対する支配を終えましたが,ローマ教会のガリア司教などによるキリスト教の布教が進行しました。
 さらにインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の進出がはじまると,
ブリトン人【東京H6[3]またはケルト人】の地という意味の「ブリタニア」という呼称は,しだいに大陸からインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派アングロ=サクソン人の移住が進むと,「アングロの地」という意味である「イングランド」へと変わっていきました。
 中世の
騎士道物語や年代記(『カンブリア年代記』『ブリトン人の歴史』など)にみられる「アーサー王」伝説は,アングロ=サクソン人と戦ったブリトン人の伝説的な指導者をモチーフにしていると考えられています(俗にいうように大陸の「ケルト文化」との関連はないといわれています)。アングロ=サクソン人【セH14】は,今後 600年頃から9世紀までに7つの王国(七王国ヘプターキー) 【セH14・H30を建国していくことになります。
 
アイルランドでも先住のスコット人に,〈パトリック〉(387~461)によってキリスト教が伝わり,修道生活を重んじるキリスト教文化が発展していきました。アイルランドの人々はケルト語派に属する言語を使用しており”島のケルト”と呼ばれることもありますが,ヨーロッパの大陸に分布していた”ケルト人”と総称される人々との文化的つながりは,今日では否定されるようになっています。