●200年~400年の世界
ユーラシア・アフリカ:政治的統合の広域化④、南北アメリカ:各地の政治的統合Ⅰ-

 ユーラシア大陸やアフリカ大陸北部では、広域国家(古代帝国)が崩壊し、古代末期の民族大移動がはじまる。
 
南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスで、各地方の政治的統合がすすむ。


時代のまとめ
(1)
ユーラシア大陸

 ユーラシア大陸には,地中海周辺にローマ帝国,西アジアにパルティア,東アジアに後漢王朝(25220)が並び立っていた。

 しかし,騎馬遊牧民の移動を受け,ローマ帝国では
ゲルマン語派がローマ帝国領内に押し寄せ,各地での建国が認められる。

 東アジアでも後漢王朝が滅びると,南北に分かれて政治的な統合がすすむ。北部では騎馬遊牧民が複数の政権(
五胡十六国)を建て,漢人は南部の長江下流部(江南(こうなん))に移動して中国文化を維持する。やがて,騎馬遊牧民の鮮卑(せんぴ)のうち(たく)(ばつ)部が中国文化を受け入れて華北を統一し台頭していく。

 南アジアでは,ガンジス川流域の
グプタ朝のマガダ国(320550)が北インドを中心に諸地域を服属させる。

 西アジアのイラン高原では印欧語族パルティア人が,印欧語族ペルシア人の
サーサーン朝(224651)に滅ぼされる。



 ユーラシア大陸では東西を結ぶ陸海の交易ネットワークの繁栄は続く。
 東南アジアではモンスーン(季節風)を利用した交易の活発化にともない,大陸部にクメール人の
()(なん)がマレー半島横断ルートをおさえ栄え,チャム人のチャンパーも東アジアとの中継交易で栄えた。大陸部のピュー人,ビルマ人,タイ人,モン人の地域,島しょ部でも政治的な統合が進んでいる。
 地中海~紅海~インド洋を結ぶ交易ルートでは,エチオピアにセム系のアクスム王国が台頭,アラビア半島南端のセム系の
ヒムヤル王国,南アジア南端ドラヴィダ語族のチョーラ朝チェーラ朝パーンディヤ朝などが栄える。


(2) アフリカ
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。


(3)
 南北アメリカ大陸

 北アメリカ大陸南西部では,カボチャやトウモロコシ農耕と狩猟採集を営む古代プエブロ人(アサナジ)によるバスケット=メーカー文化が栄える。
 中央アメリカでは引き続き
ティオティワカン文明サポテカ文明マヤ文明に都市文明が栄える。
 南アメリカでは北西沿岸部の
モチェ文化ナスカ文化のほか,アンデス山地での政治的統合が進み,ティティカカ〔チチカカ〕湖周辺をティワナク〔ティアワナコ〕文明が統合する。


(4)
オセアニアではポリネシア人の大移動がすすむ
 オセアニアでは,ポリネシア人がオセアニア東部への移動を開始,マルケサス諸島(現・フランス領ポリネシア)からアウトリガー=カヌーの航海により計画的に移住を開始している。


解説
3・4世紀以降,ユーラシア大陸では草原世界の騎馬遊牧民の大移動が起き,ユーラシア大陸の農耕地帯を支配してきた古代帝国が次々に衰えていきます。地中海周辺のローマ帝国(395年分裂),西アジアのアルシャク(アルサケス)朝パルティア(228年滅亡),南アジアのクシャーナ朝(3世紀滅亡),東では漢王朝(220年滅亡)です。
 これらの古代帝国は,拡大期には戦争による領土拡大や征服地からの徴税が見込めましたが,やはりそのような手段による成長には限界があり,絶え間ない
戦争や東西交易によって各地に伝わった伝染病の影響もあり人口も減少します。ユーラシア大陸の陸路の交易ネットワーク(シルクロード)も一時的に衰退に向かいました。
 他方で,騎馬遊牧民が農耕低住民地帯の国家に進出すると,各地で文化の複合が起きました。
 アフリカ大陸では
ラクダの普及にともない遊牧民の活動が活発化し,サハラ横断交易も始まっています。

◆南北アメリカ大陸の文明は,ユーラシア大陸とは異なる歩みをたどる
 アフリカ大陸・ユーラシア大陸と直接の交流を持たなかった南北アメリカ大陸では,メキシコ高原でテオティワカン文明,中央アメリカでマヤ文明が栄えていました。




●200年~400年のアメリカ

200年~400年のアメリカ  北アメリカ
 北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシセイウチクジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
 現在の
エスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。

 北アメリカでは、現在のインディアンにつながるパレオ=インディアンが、各地の気候に合わせて狩猟・採集生活(地域によっては農耕を導入)を送っています。

 
北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。

 
北アメリカ東部のミシシッピー川流域では,ヒマワリ,アカザ,ニワトコなどを栽培し,狩猟採集をする人々が生活していました。この時期にはホープウェル文化が栄え,マウンドとよばれる大規模な埋葬塚((ふん)(きゅう)())が建設されています。

 北アメリカの
南西部では,アナサジ人(古代プエブロ)が,コロラド高原周辺で,プエブロ(集落)を築き,メキシコ方面から伝わったトウモロコシ(アメリカ大陸原産【セH11】)の灌漑農耕が行われていました。





200年~400年のアメリカ  中央アメリカ
ティオティワカン系の進出を受け,マヤ文明が最盛期を迎える

マヤ地域

 現在のメキシコ南部,グアテマラ,ベリーズ,ホンジュラスなどの中央アメリカでは,3世紀中頃から900年頃まで、「古典期」(250年頃~900年頃)の文明を生み出していました(注1
 「古典期」というのは、“ヨーロッパ文明の源流は前5~4世紀ギリシアの輝かしい
古典文明(Classical Greece)にあった。中央アメリカの文明の源流は、250年~900年あたりのマヤにあるのだろう” という“イメージ”から、ヨーロッパ人によって名付けられた名称に過ぎません。

 マヤ文明には広い地域を支配する中央集権的な国家はなく,
4550都市国家によって成り立っていました。担い手はマヤ語族の諸民族です。
 3世紀には象形文字
マヤ文字が記録されるようになり,獣皮や樹皮を漆喰に浸して折本にしたものや,石碑に記録されました。約850の象形文字には表音文字と表意文字が混ざっていて、書体も複雑な頭字体と簡略化した幾何体があることがわかっており、大部分が解読されています。
 マヤの社会では厳しい階級制がしかれ,支配層は幼少時に頭に木を挟んで頭が細長い形になるようにする風習がありました(トウモロコシみたい)。マヤで重視されていた鉱物は
ヒスイ。また,タバコの喫煙の習慣があり儀式などで用いられました。
 マヤ文明ではおそらく手足の指の数をもとにした二十進法が用いられ,ゼロ()を表す文字の最古の例として357年頃のものが確認されています。
 1は「・」、2は「・・」、3は「・・・」、4は「・・・・」、5は「──」、6は「  ・   」というように記し、9は「  ・・・・  」、10は「=」、11は「=の上に点(・)を1つ載せた形」、19は「≡の上に点(・)を4つ載せた形」。20になると位取りが替わります。

 マヤ低地南部の
ティカルカラクムルなどの大都市の王は,自らを神聖化し,神殿や墓として用いられたとみられる階段型ピラミッドを建設しました。また3世紀以降は長期暦(前3114年8月13日を起点とし、1日ずつ足していく暦)とともに刻まれた石碑が多くの残され、各都市の王朝の系譜などが明らかにされています。

ティカル
 現在のグアテマラに残る
ティカル(1世紀~)のピラミッドは公共広場に面して建設され,70メートルもの高さがあります。王名の刻まれた石碑が残されおり、最も古いものは292年にさかのぼります。
 その記録をたどると、
378年1月16日にティカルに〈シヤフ=カック〉(シヤッハ=ハック)(注2という人物が軍事的に進出。その息子〈ヤシュ=ヌーン=アイーン1世〉がティカルの王に379年9月12日に即位するに至ります。
 この王朝は以後200年にわたって繁栄することになりますが、この〈シヤフ=カック〉という個人が何者なのかをめぐっては諸説がありますが、彼を同時期に成長したティオティワカンの将軍とみる説もあります。彼がティカルを襲う前の378年1月8日、80km離れた都市
コパンにも来訪の記録があります。
 同時期のユカタン半島には、ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいたのは事実です。

(注1)古典期はさらに前期(250~600年)・中期(600~800年)・終末期(800~900年)の3期に区分されます。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.23。
(注2)シヤッハ=ハックは「火は生まれた」という意味。実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.251。


◆メキシコ高原ではティオティワカンの都市文明が栄える

ティオティワカン
 メキシコ高原北部テオティワカン(◆世界文化遺産「テオティワカンの古代都市」、1987)には、100年~250年にかけて階段型の太陽のピラミッド」が建設されます。
 太陽のピラミッドの地下にも洞窟があって、当時の人々の世界観を表しているとみられます(メソアメリカでは、おおむね天界13層、地下9層の世界観が共有されていました)。
 ティオティワカンは、
200年から550年頃までの最盛期には125000または20万人の大都市にまで成長し、中央アメリカ各地と交易をおこなっています。同時期のユカタン半島には、ティオティワカンの影響が南部の高地マヤ(カミナルフユ)や北部のペテン地域にも及んでいました。

チョルーラ
 ティオティワカン南部のチョルーラ(後1世紀~)は、独立を維持しています。

◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では、サポテカ人の都市文明が栄える
 トウモロコシ(アメリカ大陸原産
【セH11】)の農耕地帯であったメキシコ高原南部のオアハカ盆地では,サポテカ人が中心都市はモンテ=アルバンを中心として栄えています(サポテカ文明,前500~後750)。200年~700年が全盛期で、ティオティワカンとも外交関係がありました。







200年~400年のアメリカ  南アメリカ
アンデス地方で地域ごとの政治的統合がすすむ

◆アンデス地方沿岸部ではナスカ、モチェが栄える
モチェで政治統合が進展、ナスカに地上絵が出現
モチェ

 アンデス地方北部海岸の
モチェ(紀元前後~700年頃)では政治的な統合がすすみ、人々の階層化が深まり、労働や租税の徴収があったとみられます。
 信仰は多神教的で、神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。
クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や、金製の装飾品がみつかっています。
 経済基盤は灌漑農業と漁業です。

ナスカ
 アンデス地方北部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)も栄えます
 南部沿岸のモチェほどには統合されておらず、王墓なども存在しません。
 当初は
カワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったナスカでは、300年頃からカワチが巨大な墓地に代わると、儀礼の中心地はナスカ平原へと移ります。

 こうして有名な「
ナスカの地上絵」がつくられ始めるわけです。
 
 地上「絵」といっても実際には「線」が多く、ナスカ=ライン(Nazca Lines)といわれます。黒く酸化した地面の表層を削ると、下層の白い部分が露出。大規模なものもありますが、少しずつ削っていったとすればそこまで大きな労力はいらなかったと考えられます。デザインにはシャチ、サル、クモ、鳥などがあって、天体と連動する説が支持されたこともありますが、現在では儀礼的な回廊とか、雨をもたらす山との関係が指摘されています。農耕儀礼、すなわち「雨乞い」です
(注)

(注)関雄二「アンデス文明概説」、増田義郎、島田泉、ワルテル・アルバ監修『古代アンデス シパン王墓の奇跡 黄金王国モチェ発掘展』TBS、2000、p.177。坂井説は現在の同地域の農民が次のような気象に対する認識をもっていることを下敷きに、地上絵の描かれた目的を推測しています。「(1)ナスカ台地周辺で農耕に利用している水は,ペルー南部高地に降る雨に由来する.(2)ペルー南部高地に雨が降るのは,「海の霧」が海岸から山に移動して,「山の霧」とぶつかった結果である.(3)雨期にもかかわらずペルー南部高地に雨が降らないのは,「海の霧」が山に移動しなかったからである.(4)海水を壷に入れて,海岸から山地まで持っていけば,山に雨を降らせることができる.」 坂井正人「民族学と気候変化 : ペルー南部海岸ナスカ台地付近の事例より」『第四紀研究51(4)』, p.231~p.237, 2012年(https://ci.nii.ac.jp/naid/10030972865)。



◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている

 アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土でしたが,前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土を開発しています。





200年~400年のオセアニア


 オセアニア東部のサモアに到達していた
ラピタ人も,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつあります。






●200年~400年の中央ユーラシア

◆フン人は西方のローマ帝国領内へ、中国にも遊牧民の進出が相次ぐ
民族大移動が本格化する
中央ユーラシア西部
 
中央ユーラシア西部では,紀元後1世紀後半~2世紀にかけてカスピ海北岸で活動したアラン人は,350年頃に騎馬遊牧民フン人(テュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされる)の進入を受け,カフカス山脈に移動しました。現在のオセット人の祖先です。375年にはフン人は,黒海北岸のゲルマン系の東ゴート王国に進入し,敗れた東ゴートは西方に移動した。
 フン人は,アラン人と東ゴート人を雪だるま式に加えながら(注),黒海西岸の西ゴート人を攻撃し,難民と化した西ゴート人は,当時禁止されていたドナウ川の通過を,ローマ帝国〈ウァレンス〉に要求しました。フン人の猛威を知ったローマ皇帝は,西ゴートを国境警備隊として配置しようとしましたが,これに対してアラン,東ゴート,西ゴートが反乱を起こしました。378年〈ウァレンス〉帝は鎮圧に向かいましたが敗れ,西ゴートはドナウ川を渡って,ギリシアイタリアイベリア半島に移動し,王国を形成しました。5世紀には,フン人によるさらなる圧迫により,ヴァンダル人やスエヴィ人も移動を開始しました。フン人は,ササン(サーサーン)朝にも遠征しています。

(注)“ドミノ倒し”という表現は正確ではありません。フンはアランを破ると、アランは子分となってフンとともに連合して東ゴートに進出。今度はフン、アラン、東ゴートの連合軍が、西ゴートを攻撃するのです。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社、1999p.272
 なお、フン人が北匈奴を出身とするという説は定説ではありませんが、4~5世紀にはドナウ川からカスピ海にかけて、わりと均質的な文化が広がっていることから、フン人が短期間で多くの民族を巻き込んで西に移動していったこととの関連も考えられます。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社、1999p.274


中央ユーラシア東部
 中国の西晋【セH18前漢ではない】八王の乱(291306) 【セH14秦代ではない,セH18が起きると,匈奴(とその一派の羯(けつ))や鮮卑,チベット系の諸民族(氐・羌)が中国に進入して,中国風の王朝を建てました。この時代を中国史では五胡十六国時代(またはそれに先立つ三国時代と,後の南北朝時代と合わせ,三国五胡・南北朝時代とすることもあります)といいます【セH19五代十国時代とのひっかけ,H29時期】
 漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した
鮮卑【セH12北魏を建てた民族を問う】【セH28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。
 拓跋部
【追H21問題文】を率いる〈拓跋珪〉(たくばつけい)は,386年に北魏【セH12】【セH28】【追H21を建国します。北魏の首長は,すでに「可汗(かがん)」と呼ばれていおり,それに対抗して次にモンゴル高原に追いやられた柔然【セH7突厥を破っていない,セH12時期(漢の西域経営の進展により衰えたわけではない)】【セH16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,セH20世紀を問う】も,北魏に対抗するために「可汗」の称号を使うようになったとみられています。

 北匈奴がモンゴル高原から西方に移動すると,北方にいた高車(こうしゃ)(テュルク系の(てい)(れい)の一派)が南下し,また,拓跋部から自立した柔然の勢力が強まりました。柔然は東胡の末裔か,匈奴の別種といわれます。402年に北魏は初代可汗〈社崙〉(しゃろん,在位402~410)の率いる柔然を討伐し,柔然はモンゴル高原の高車を併合し,北匈奴の残党を討伐し,天山山脈東部に至るまでの広範囲を支配しました。
 柔然はしばしば中国に進入し,農民や家畜を略奪して農耕に従事させたとみられます。





200年~400年のアジア


200年~400年の東アジア・東北アジア
200年~400年の東北アジア
 中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が定住しています。紀元前後から台頭したツングース語系の高句麗(紀元前後~668)は,この時期に朝鮮半島に南下をすすめます。彼らが日本列島に進出して日本に武人政権を建てたとする〈江上波夫(えがみなみお)〉(1906~2002)の「騎馬民族征服王朝説」は,現在では主流ではありません
 さらに北部には
古シベリア諸語系の民族が分布。
 ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながる
ドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88



200年~400年の中国
◆後漢が滅ぶと,北方の遊牧騎馬民族が定住農牧民地帯に移動していった
騎馬遊牧民と定住農牧民が,対立・融合する
 秦以来の中国文明の中心地は,黄河流域の「中原(ちゅうげん)(華北平原)でした。しかし,後漢末の混乱により,北方の民族が南下すると,前漢・後漢の支配者層や住民の多くは,命を失うか南方に移住をしていきました。これにより,中国地域における黄河の重要性は低くなり,漢民族の文化を受け入れた北方の遊牧民の力も強まっていきました。また,大土地所有がさかんとなり,地方において農奴のように扱われる農業労働者(佃客(でんきゃく),衣食客(いしょくきゃく))や,武装集団(部曲(ぶきょく))を従えるようになった豪族が有力となっていきます。
 こうして,各地で自立した豪族や,中国に進出した遊牧民により,中国は分裂の時代に突入します。分裂しているということは,逆にいえば,中国(
漢民族)の文化を共有する人々が,黄河以外の地域にも現れるようになったということです。


 さて,順番にみていきましょう。
 後漢末の混乱の引き金となった
黄巾(こうきん)の乱184年に勃発。後漢の滅亡と,皇帝の位をゆずりうけた魏の建国は220年。その後,華北に本格的に北方の諸民族が進出するのは,4世紀初めのことです。311年に匈奴は,長安を占領しています((えい)()の乱)
 北方の諸民族は華北一体に16の国を建国(漢民族の建国した国家も一部含まれます)していき,漢民族の王朝は現在の南京【セH4(みん)の遷都先ではない】(当時は(けん)(こう)【追H30】H27京都[2])に逃れて東晋【追H30 東周ではない】を建てて王朝を存続させました。
 同時代のローマ帝国をみてみると,やはり同時期にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々進入が加速し,395年の東西ローマ帝国への分裂につながっています。

 
184年に勃発した黄巾の乱により,中国各地に私兵をひきいる軍事集団がはびこります。やがて華北で勢力をかためた〈曹操(そうそう)(155220)は,
 ・南方の軍事集団の長である,
()(せん)(長江上流域の盆地)の〈劉備(161223) 【東京H8[3]】と,
 ・江南
(長江下流域)の〈孫権(182252) H27京都[2] 【追H9前漢の後をうけた王朝を建てていない】 と対立する構図(いわゆる「天下三分の計」)ができあがっていきます。

 後漢末期の208年,長江中流域の赤壁(せきへき)で,天下分け目の戦いがおこなわれました。四川の〈劉備〉につかえた軍師〈諸葛亮〉(しょかつりょう,〈諸葛孔明〉(しょかつこうめい)は字(あざな)181234)のすすめで,〈劉備〉は〈孫権〉と同盟を組み,〈曹操〉との決戦に勝利しました。これを赤壁の戦いといいます。映画「レッド・クリフ」は,この戦いを題材にしています。
 〈曹操〉は後漢最後の皇帝〈献帝〉(位189~220)を迎え入れ,ライバルだった大土地所有者(豪族)の〈袁紹〉(えんしょう,?~202)が従えていた黄巾の乱の残党や少数民族の勢力も破っていきました。

 しかし,その後〈献帝〉に譲位をせまって皇帝に就任し,「
(220265)」という王朝を創始します。それを認めない〈劉備【東京H8[3]】【セH30は四川の成都【セH9【セH22洛陽ではない】【中央文H27記】を都にに(しょく,221年~263) 【セH9【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】を,〈孫権〉は長江下流域の建康(現在の南京) 【セA H30華北ではない】を都に(ご,222年~280) 【追H9】を建国したため,3分裂の構図が固定化されました。
 魏と蜀・呉との境界は,黄河と長江の間のラインで,チンリン(秦嶺)山脈とホワイ川(淮河(わいが))を結ぶ線にあたります。

 蜀は正式には「漢」という国号で,
蜀漢(しょっかん)とも呼ばれます。蜀は漢を受け継ぐ王朝であると主張したため,蜀には「炎興」(えんこう)のように,漢の守護色(五行説という思想で,漢に宿っているとされたパワーを持つ元素)である火を連想させる元号が使われました。この頃には学問の研究もおこなわれ,魏に仕えた〈劉徽〉(りゅうき,生没年不詳)は,古代の数学書『九章算術』に注釈を加え,円周率を3.1416と計算したほか,ギリシアの〈ピュタゴラス〉(前582~前496)の定理と全く同じ公式も現しています。また,渾天儀(こんてんぎ,天体観測器)や,候風地動儀(こうふうちどうぎ)という地震計も発明されています。

 このへんまでの流れは,蜀(しょく)の目線で元代以降にまとめられることになる『三国志演義』(さんごくしえんぎ) 【セH9[21]に詳しく,さまざまなゲームや映画,漫画となり,東アジアで人気があります。勝者の余裕と栄華よりも,敗者の奮闘と悲劇のほうが,民衆には受けるわけです(#映画「レッド・クリフ」(2008中国))。

◆魏の導入した九品官人法により門閥貴族が形成された
 の〈曹丕〉(文帝)(位220~226)は,豪族の力をおさえるために,中央から派遣された中正官【セH11】が,人物を評価し9段階にランク付けして官僚に登用する九品中正(九品官人法)の制度【セH8時期(7世紀ではない),H11呉ではない】【セH21呉ではない,セH26明代ではない】も整えられていきました。しかし,豪族の中には中正官に賄賂(わいろ)を送る家柄も現れ,最高ランクの9品が代々就く貴族や,その中でも特に優遇された家柄である門閥貴族【セH26明代ではない】【セH8が生まれるようになっていきます【セH11人物本位の評価が行われたわけではない,「豪族はこの制度により,官僚になる道を閉ざされたので,不満を持った」わけではない】。皇帝の官僚として仕えることには,貴族にとって自分の地位を示すという重要な意味がありました()。なお「貴族制」は中国では「士族制」「門閥制」と呼ばれることが普通です。
(注)中村圭爾「六朝貴族制と官僚制」『魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題』汲古書院,1997。

 〈文帝〉の次の〈明帝〉(位226~239)のときには,四川盆地の263年に破りました。しかし手柄を上げた魏の将軍〈司馬懿〉(しばい)の勢力が増し,クーデタを起こして実権を握りますが,皇帝位にはつかず,子孫の〈司馬炎〉(武帝)【セH16司馬睿ではない,セH30のときに帝位を迫り禅譲によって新たな王朝であるを建国しました。晋はのちに江南に遷都するので,この遷都前の晋を西晋,遷都後を東晋と区別します。この西晋がをほろぼしたことで,三国時代は統一されました。この頃には〈王叔和〉(おうしゅく「か」,生年不詳)が。麻酔術を含む『傷寒(雑病)』という中国最古の医学書を,後漢の医師・官僚の〈張仲景〉(150?219)の医書を参考に編集しています。

 しかし,すでに北方遊牧民の華北への移住も加速しており,「遊牧民が人口の半分になっているのはやばいのではないか。警備に遊牧民を使うのではなく,故郷に帰らせたほうがいいのではないか」と〈江統〉が『徒戎論』(しじゅうろん)で主張していたそんな矢先に,〈武帝〉(司馬炎)(位266~290)が亡くなり〈恵帝〉(位290~306)が即位すると,西晋の帝位をめぐる一族が争い (290306年,八王の乱) 【京都H20[2],H27[2]】【セH3この結果諸侯の力が弱体化し郡県制が強化されたわけではない】【セH14秦代ではない】が勃発。各王が兵力として招いた北方諸民族がここぞとばかりに華北に進入し,八王の乱が306年に終結した後も各地で反乱を起こすようになりました。

 西晋には,南匈奴の末裔〈劉淵〉(りゅうえん)が本格的に侵攻し,が建国されました。なぜ「漢」を名乗れるかというと,前漢のときに当時の匈奴の単于が漢の公主をめとっていたからです。311年に洛陽が陥落し〈懐帝〉が殺害し実質滅亡しますが,西晋の王族は313年に長安で〈愍帝〉(びんてい)が擁立され存続をねらいました。
 このとき,鮮卑の拓跋部は西晋
【京都H20[2]】を援助して匈奴とたたかい,拓跋部の首長は315年に(だい)の王に任ぜられています。しかし316年に長安が占領され〈愍帝〉が殺害されると,316年西晋は滅亡しました。
 大混乱の中,西晋の漢人たちは大挙して南に逃れました。江南にたどり着いた西晋の王族は,
建康【セH2】(呉の首都の建業と同じ地点,現在の南京)【セH22地図を首都として東晋を復興。〈愍帝〉が殺害されたことを聞くと,317年に〈司馬睿(元帝,しばえい,在位317~322) 【セH16司馬炎ではない】が皇帝に即位しました。ちなみに,睿(えい)という字は難しいですが,右側に「又」を付けると,日本の「比叡山(ひえいざん)」の「叡」になります。
 東晋には華北から多数の
漢人が逃げてきましたが【セH26時期】,彼らから税を取り立てようとすると「自分の戸籍は華北にあるから,払いたくない」と言われてしまいます。そこで,363年には「現住地を戸籍にしなさい」という土断法(どだんほう)を施行して,税収アップをはかりました。東晋以降,江南の開発がさらに進んでいきました【セH15時期】。有力豪族は農牧業・漁業・手工業を合わせた総合的な開発を進め,自給自足の経済圏もみられました。戦乱が中国を覆う中,山奥に隠れて悠々自適と自給自足を営む理想郷の姿は,詩人〈陶潜〉(とうせん)の『桃花源記』(とうかげんき)にもうたわれました。

 華北には,おもに5つに分類される諸民族が16の王朝をたてたため(一部漢民族の王朝も含む),異民族を示す「胡」(差別的な意味合いがあります)という字をつかって,五胡十六国(ごこじゅうろっこく) 【セH3】といいます。五胡【東京H6[3]】は,()匈奴【セH3五胡十六国の一つか問う】()(けつ,匈奴の別種)()鮮卑()(てい) 【東京H6[3]】()(きょう) 【東京H6[3]】()()はチベット系のことですが,5というのはキリがいい数字のために使われているだけで,実際には多様な民族が含まれていました。
 このようにして,華北は五胡十六国,華南は東晋という構図が生まれました。
 初めのうちは十六国の中にも,前燕(ぜんえん,現在の北京周辺に建国された鮮卑の国家)や前涼(ぜんりょう,長城よりも北にあった漢人により建国された国家)のように東晋に従う勢力もありました。しかし,氐により建国された前秦が前涼・前燕を滅ぼし,北魏の元になる国である鮮卑人の(だい)をも滅ぼしてしまいました。そのまま東晋の滅亡も狙いましたが,東晋の武将〈謝安〉(しゃあん,320~385)との決戦に破れて衰えました(383年,淝水(ひすい)の戦い)

 その後
東晋では,五斗米道の指導者による反乱を鎮圧した長江中流域の軍人が,402年に建康で皇帝に即位。それを鎮圧した下層階級出身軍人〈劉裕〉がこれを倒し,さらには十六国のうち山東半島の南燕(なんえん。鮮卑人の国),後秦(長江中流域で建国された羌の国)も滅ぼし,洛陽・長安も奪回しました。この輝かしい実績を背景とし〈劉裕〉はクーデタ(クーデタとは支配者の間で暴力的に政権が変わること)により東晋から皇帝を譲られる形で,420年にの王朝を創始しました(のちの時代の宋とは別の王朝です)

 386年には,鮮卑人【セA H30】のうち(つぶせ)(ばつ)【京都H20[2]】という集団の指導者〈拓跋(けい)〉は,「魏」を建国していましたが,398年に〈拓跋珪〉は山西省の平城(へいじょう) 【京都H20[2]】北魏【追H9前漢のあとを受けた王朝か問う】【セA H30元ではない】の初代皇帝〈道武帝〉(どうぶてい北魏皇帝在位398~409)となり,権力を強化していきます。さらに孫の〈太武帝〉(在423~452) 【セH12】がモンゴル高原の柔然【セH12時期(漢の西域経営に進展により衰えたわけではない)】【セH16モンゴル高原を支配した最初の騎馬遊牧民ではない,セH20世紀を問う】に対抗して支配領域を広げていき,439年に華北を統一【追H21「江南の併合」ではない】して五胡十六国の分裂状態を収拾しました【セH12「五胡十六国の分裂状態を収拾した」か問う】。南で建康を都としていたは,北魏に遠征しましたが,敗北します。〈太武帝〉は道教を保護して国教化し【セH12道教を禁止したわけではない】,仏教を弾圧しましたが,次の〈文成帝〉のときに雲崗(うんこう)の石窟寺院【追H20漢代ではない】の建設が始まりました。仏教を保護するようになったのは,仏教が階級や民族による差別を否定したため,漢民族ではない鮮卑人の支配を正当化するのに都合がよかったからとみられます。仏教の教義の編纂・教団の組織に対抗し,道教の教義の編纂・教団の組織も進んでいきました。

 次の〈献文帝〉のときには,〈文成帝〉の皇后(〈(ふう)(たい)(こう)【立教文H28問題文】)が実権を握りました。皇后は〈献文帝〉に迫り,我が子を即位させました。これが〈
(こう)文帝(ぶんてい)【追H9前漢のあとをうけた王朝を建てていない,H30唐代ではない】【※意外と頻度低い】です。
 〈孝文帝〉のとき,国家が保有する土地を農民に与えて耕作させ,徴税をさせるしくみ
(均田制)が実施されています【セH15農耕社会の統治に消極的ではない,セH16北斉代ではない,セH24漢代ではない,H29元で始まったわけではない】【セH8【追H21北魏で始まったか問う】。大土地所有者(豪族)が土地を失った農民を吸収して巨大化しているのを防ぐために実施したのです。しかし,土地は成年男子だけではなく,その妻や奴婢,耕牛にまで支給されたので,多くの奴婢・耕牛を有する大土地所有者に有利な内容でした【セH8支給対象は成年男子だけではない】
 〈献文帝〉が殺害され皇后も死ぬと,〈孝文帝〉は
洛陽に遷都して混乱を収めようとしました。文化面でも,鮮卑の服装や言語を禁止し,中国の文化を積極的に導入していきました(漢化政策) 【セH15漢民族の文化を排除していない】。鮮卑人は少数派だったため,南朝と張り合って政権を運営するには,北朝の有力な門閥貴族の協力が必要だったのです。たとえば,皇室の「拓跋」という姓も,「元」という中国風の一文字の姓に変えられました。このようにして,鮮卑の文化と従来の中原中心の王朝の文化が,互いに影響を及ぼし合いながら,中国文化が形成されていったのです。
 これらの政策には,保守的な鮮卑人の反発も多く,不満はのちのち
六鎮の乱となって爆発することになります。
 北魏の時代には〈酈道元〉(れきどうげん,
469527)が地理書の『水経注』(すいけいちゅう) 【京都H21[2]】を,〈賈思勰〉(かしきょう,不詳) 【セH22昭明太子ではない】が中国最古の農業書である『斉民要術』(せいみんようじゅつ【セH22】)を著すなど,学問も盛んでした。

漢民族を中心とする歴史の見方では,北方の異民族の建てた諸国ということでネガティブな印象が与えられがちですが,その後の隋(581~589),唐(618~907)といった王朝のルーツは五胡十六国の混乱に終止符を打ち,モンゴル高原を統一した
鮮卑【セH28】の拓跋部(たくばつぶ)でした。



200年~400年の朝鮮半島
 北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
 中国の東北部には前3世紀頃から
扶余(扶余;扶餘;プヨ;ふよ)人が活動しています。朝鮮半島の東部の(わい)人という説もありますが,定かではありません。
 前1世紀に鴨緑江の中流部の貊(ハク)人が
高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668) 【セA H30府兵制は実施されていない】を建国し,2世紀初めには勢力を拡大させていきました。高句麗は首長による連合をとり,住民は農耕に狩猟を加えた生活を営んでいました。建国の伝説によると,黄河の神(河伯)の娘が扶余(ふよ)の王に閉じ込められていたとき,日光に当たって卵を生み,そこから生まれた〈朱蒙〉(しゅもう,チュモン)が建国したといいます。〈朱蒙〉は扶余人から逃れる途中に魚や亀に助けられて川を渡り,高句麗を建国したということです。
 朝鮮半島の東北部には
沃沮(よくそ;東沃沮(とうよくそ))が活動し,高句麗が拡大すると対抗の必要から魏に接近しました。

 中国の後漢末の混乱に乗じて,遼東を支配していた〈公孫度〉(こうそんたく)が楽浪郡と玄兎郡に支配領域を伸ばし,204年に〈公孫康〉が楽浪郡の南部を分離させ
帯方郡(たいほうぐん)としました。当時は,朝鮮半島の東部の(わい)人の活動や,南部の人,日本列島のの活動が盛んで,南部でこれら異民族に対抗する必要があったのです。(わい)人は海獣や海産物の漁労のほか農耕にも従事し,オットセイやラッコを輸出していました。
 帯方郡は
の窓口となり栄えましたが,3世紀前半に中国のにより〈公孫〉氏が滅ぼされ,魏による直接支配がはじまりました。このような帯方郡における政変に対応する必要から,倭の邪馬台国の〈卑弥呼【セH7「倭の女王」】は「景初2年」(238または239年)6月に〈難升米〉(なしめ)を魏【セH7派遣先は建康ではない】に朝貢させています
 しかしその後,中央集権化を果たした高句麗が313年には楽浪郡を滅ぼし【セH21時期】,遼東半島にも進出し,当時分裂状態にあった華北の五胡政権(前燕)とも戦っています(高句麗はのちに朝鮮半島で最も早く,五胡十六国のひとつ前秦(ぜんしん)から仏教を受け入れました)。その後体制を立て直した高句麗では〈広開土王〉(クヮンゲト;こうかいど)王(位391~412)【セH9[13]】によりで朝鮮半島南部へ領土を急拡大させていきます。なお,372年には儒教の教育機関である太学が設立されたほか,道教も伝わっています。

 また,
朝鮮半島の南部には,韓人による小国家が形成されていました。3世紀には西南部の馬韓(マハン;ばかん)に50余り,東南部の辰韓(チナン;しんかん)に12余り,南部の弁韓(ビョナン;べんかん)に12余りの小国家があったといわれます。
 これらの小国家のうち,馬韓や弁韓(安邪(アニヤ)国,狗邪(クヤ)国など)は,共通の王を建てて連合を築いていました。狗邪国はおそらく「魏志」倭人伝にある狗邪韓国(くやかんこく,のちの
任那(イムナ;みまな)金官(クムグヮン;きんかん))を指します。魏が辰韓を攻撃するとこの連合は崩壊し,帯方郡に従属させられます。
 馬韓は,小国家の伯済(ペクチェ;くだら)による統一が進んでいき,のちの
百済(ペクチェ,ひゃくさい,くだら) 【セH29試行 時期(奴国の時代に百済はない)】につながっていきます。
 また,辰韓の地域では斯蘆(しろ)が台頭し,のちの
新羅(シルラ,しんら,しらぎ)に成長していきました。

 伯済は,北方で高句麗が急拡大する情勢をに警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈
広開土王〉(こうかいどおう;クヮンゲトワン;好太王(こうたいおう),在位391~412) 【セH29試行 時期(奴国の時代ではない)】のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し【セH21時期】朝鮮に進出したも撃退したということが,現在の中国東北部にある集安にある(こう)開土(かいど)(おう)()【セH9[13]4世紀末の東アジアの動向が記されているが,そこに現れる国はどれか(後漢,魏,隋,百済)。百済以外は4世紀末に存在しないので,百済が正解】という碑文に刻まれています。



200年~400年の日本
 2世紀後半の「()(こく)大乱(たいらん)()の後,西日本を中心とした小国の連合邪馬台国(やまたいこく)は,〈卑弥呼〉(ひみこ) 【セH24H27を中心として統一を進めていました【セH29試行 奴国の時代ではない】。邪馬台国の支配層はみずからの権威付けのために,中国の【セH24,セH27北魏ではない】に239年に朝貢使節を送り「親魏倭王」(しんぎわおう) 【セH27の称号をもらい,冊封(さくほう)を受けました。冊封されれば,その地域における支配が認められ,支援を受けたり交易をしたりすることもできるようになるからです。
 『三国志』の「魏書」東夷伝(いわゆる『魏志』倭人伝)によると,このときに銅鏡(青銅製でつくられた鏡。当時は光り輝いていた)が100枚も与えられたといいます。全国各地の
古墳(墓のこと)から三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が見つかっていて,このときに中国から与えられたものではないかという説にもあります。
 3世紀前半に中国の後漢王朝は滅び,魏・蜀・呉の並び立つ三国時代に突入していました。魏としては,〈卑弥呼〉と結ぶことで呉を”挟み撃ち”にしようとする意図があったようです。
 朝鮮半島南西部の百済は,朝鮮半島北部の
高句麗の急拡大を警戒し,4世紀後半から日本(倭)の勢力との提携を進めるようになっていました。高句麗は〈広開土王〉(こうかいどおう,好太王(こうたいおう),在位391~412)のときに最盛期を迎え,百済だけでなく新羅も圧迫し,朝鮮に進出したも撃退したということが,現在の中国東北部にある集安にある広開土王碑(こうかいどおう)という碑文に刻まれています。
 3世紀中頃から末にかけて,日本では
ヤマト政権が成立したと考えられています。
()中国の『三国志』の魏志倭人伝(『三国志』の「魏書」における「烏丸鮮卑東夷伝」倭人条)や,『後漢書』「東夷伝(東夷列伝)による。



200年~400年の東南アジア
 
3世紀になると,季節風(モンスーン)を利用した航海【セH30が普及するようになり,中国やインド方面との貿易はますます加速します。それにともない,港町の人口密度が高くなって都市(港市)が形成されるようになると,利害を調整する権力者が現れるようになっていきました。 その際,東南アジアではインドから伝わってきた文化や品物が,権力者の権威を示すもの(威信材)として利用されるようになっていきました。
 北ヴェトナムは,紅河の河口の三角州(デルタ)を中心に,港市(こうし,港町を中心に発展した都市のこと)が栄え,さまざまな特産物が輸入・輸出されました。
 中南部のヴェトナムでは,チャンパー【東京H30[3]】【共通一次 平1】が季節風交易で栄えました。

 イラワジ川流域のビルマは,西部・北部・東部の山岳地帯,上流域の上ビルマと下流域の下ビルマに分かれ,変化に富んだ地形をしています。季節風の影響から,最多で4000ミリの雨をもたらしますが,中央部は乾季の影響で灌漑による畑作,下流部では稲作が行われています。中国の史料によると,ここにはピューという民族が都市を築き,銀貨を発行して交易にも従事していたことがわかっています【セH22オケオは関係ない】。文字史料はわずかですが,3世紀の中国の文献では「驃国」として登場します。





200年~400年のアジア  南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
200年~400年のアジア  南アジア 現③スリランカ
 スリランカ中央部には、シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。



200年~400年のアジア  南アジア 現②バングラデシュ、⑤インド、パキスタン
 3世紀頃にインド南部の
サータヴァーハナ朝は衰退し,デカン高原北部ではヴァーカータカ朝(3世紀中頃~6世紀中頃)が栄えました。お得意先であったローマ帝国が,3世紀後半に航海の出口の支配権を失ってしまったためです。4~5世紀には,インド南端部のタミル人によるチェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝が衰退しました。
 インド北部では,3世紀末にガンジス川中流域のグプタ家が勢いづき,4世紀になると,北インドをグプタ朝(320550)が再統一します【セH20】【セH8エフタルとのひっかけ】。この地方独特の文化が洗練されていき,ヒンドゥー教が形をととのえてくるのもこの時代でした。
 「最高の
ヴィシュヌ信者」の称号を持つ王は,ヒンドゥー教を熱烈に信仰していました。ヴィシュヌ【セH7ヒンドゥー教えの主神の一つとなったか問う】は宇宙を創造し維持する神とされ,化身(けしん,アヴァターラ)としてさまざまな形をとり地上に現れ,人々を救うとされました。例えば,『ラーマーヤナ』のラーマも,ブッダもヴィシュヌの化身とされました。バラモン教が,インド各地の地元の神様を取り込んでいく過程で,ヴェーダの中の神々が変化していったものです。地方にもともと存在した様々なアーリヤ人由来ではない神々への信仰が,ヴィシュヌ【セH21マニ教の神ではない】のほかにブラフマーという神や破壊神シヴァ【セH24,H30という神に結び付けられていったものがヒンドゥー教です。グプタ朝にマヌ法典【セH12「支配者であるバラモンが最高の身分」か問う】【セH15,セH24,H28時期という,バラモンを頂点とする各ヴァルナ(種姓)の権利や義務がまとめられましたが,絶対的な聖典というよりは習わしにちかく,ヒンドゥー教には特定の教祖も経典もありません。日本における神道に似ていて,習慣や年中行事など様々な面で南アジアの人々の生活そのものに滲み込んでいます。現在のインドの人口の約8割がヒンドゥー教と言われています。仏教は,発祥の地でありながら,ヒンドゥー教に押され,現在では人口の1%を割っています。デカン高原のアジャンター石窟寺院【セH26時期】【追H20】エローラ石窟寺院グプタ様式の仏教【追H20】建築も,さかんに建造されるようになっています。仏像にも,インド独自の特徴が見られます【セH4ギリシア,ローマなどの西方系美術の影響は強く受けていない】
 
サンスクリット語【東京H10[3]】【共通一次 平1:7世紀のインドでサンスクリット文字が使用されていたか問う】による文学もつくられ,〈カーリダーサ〉は戯曲『シャクンタラー』をつくり,古代から伝わる叙事詩『マハーバーラタ【東京H10[3]】ラーマーヤナ』の編集もすすみました。ゼロ()が文字として表わされたのも,この時期のことです【セH2シュメール人により発達されたのではない】

 父〈ガトートカチャ〉を継いで即位したのは〈チャンドラグプタ(〈チャンドラグプタ1世〉,在位320335) 【セH20玄奘は訪問していない】で,かつてマウリヤ朝の首都であったパータリプトラは繁栄を取り戻しました。彼は由緒正しい出ではなかったようで,有力なクシャトリヤ階級から妻をめとることで,人々を納得させました。
 第2代〈サムドラグプタ〉(335頃~367)は,インド南端まで兵を進め,諸王を服属させたり,友好関係を築いたりしました。一方,ガンジス川流域の諸国は滅ぼされ,グプタ朝の領土となりました。広大な領土を直轄支配することはせず,間接統治をおこなったのです。
 第3代〈チャンドラグプタ2世(375頃~414) 【セH15北インド全域を支配したか問う,セH19アンコール=ワットは建てていない】が全盛期で,西インドのシャカという中央ユーラシアから南下したスキタイ系の民族(インド=スキタイ人)が建国していた王国を滅ぼし,その土地や海外交易で栄えていた港を支配下に収めました。彼の宮廷には詩人・劇作家〈カーリダーサ〉がつかえ『メーガドゥータ』やシャクンタラー【セH12ジャイナ教の聖典ではない】【セH26時期】を著しました。また,中国の東晋時代(東晋の僧ではない)の399年に長安から出発した法顕【セH5中央アジアのオアシスとしを経由したか問う,セH12】【セH27孔穎達ではない】というお坊さんは,王に謁見したと『仏国記【セH27】に記しています(414年に執筆)。彼は行きは西域を経由して陸路【セH12「西域経由」か問う】,帰りは海路【セH12海路かを問う】を利用し,412年に帰国。
(注)法顕に関する年号は『世界史年表・地図』吉川弘文館,2014,p.120




200年~400年のアジア  西アジア

◆教会の保護者となったローマ帝国によってキリスト教の正統教義が定められた
何が「キリスト教」なのか、ゆっくりと選別されていく()

 西アジアには有力なキリスト教会が,シリアのアンティオキアとパレスチナのイェルサレムにあります。
 この時代には,みずからを〈ゾロアスター〉・〈釈迦〉・〈イエス〉の預言者であるとする〈
マニ〉(マーニー=ハイイェー,216~276?)が,ペルシアの二元論的な信仰(善と悪の戦いの結果,悪の神によって生み出されたこの世界や我々人間の肉体は(けが)れているとする思想)や,〈パウロ〉の福音主義の影響を受け,マニ教を創始しています。
 東方の思想の影響はマニ教にとどまらず,グノーシス主義やミトラ教,エジプトのイシス信仰なども流行し,キリスト教会は『聖書』のストーリーが正統性を失うことに,危機感を覚えていました。

 
その一方でローマ帝国では,ユダヤ教徒と違い,皇帝の儀式に参加しようとしないキリスト教徒(1世紀以降,ユダヤ教の教団との違いが互いにハッキリとしていました)たちに対し,迫害する皇帝も現れます。
 しかし,迫害すればするほどに下層民を中心に信者は増えていき,〈
ディオクレティアヌス〉帝による「最後の大迫害」を経て,〈コンスタンティヌス〉大帝(324337)の時代に公認されます。彼自身も,キリスト教になった最初のローマ皇帝です。

 公認とは「信じてもいいよ」ということですが,キリスト教の信仰の内容には,先述のグノーシス主義の影響を受けたものなど,様々なバリエーションが存在したため,公認する以上,正統な教義を明確化する必要が出てきました。皇帝支配に都合の悪い説も,存在するかもしれません。
 そこで,ニケアに教会の指導者をあつめて,
325年にニケア(ニカイア)公会議を開かせたのです。ブッダの死後にひらかれた,仏典結集と似ています。このときに正統(正しい教義)とされたのは,アレクサンドリア教会の〈アタナシオス〉の主張したアタナシウス〔ニカイア〕派【セH29アリウス派ではない】三位一体(さんみいったい,トリニタス,トリニティ)です。

 一方,異端となったのは,イエスを人とする
アリウス派。こちらはライン川を北に越え,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に広がっていくことになります【セH29
()われわれが「キリスト教の歴史」を学ぶとき、もとから「キリスト教」が何であるかガッチリと定まっていて、〈イエス〉の教えがそのまま「キリスト教」であるかのようにとらえがちです。しかし、何が「キリスト教」で何が「キリスト教ではない」のかは、さまざまな主体によってゆっくりと定まっていくのです。「どれが聖典か議論されたわけではなくて、ゆっくり選別されていく、ゆるやかな作用が在ったのである」(ロバート・ルイス・ウィルケン、大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む()2016、白水社、p.75p.76。) つまり、「これが『新約聖書』を構成する文書だ」と、あらかじめハッキリと決まっていたわけではなく、「一連の書物が人気を得るにつれて」、『新約聖書』に収録されるべき文書がゆっくりと選定されていったのです。


◆ローマ帝国の支配機構を真似て,有力な教会によりキリスト教の支配機構がつくられていった
 ローマ帝国が東西に分裂すると,西ローマ帝国も東ローマ帝国も,それぞれの地域の有力な教会を管理しようとしました。当時,ローマコンスタンティノープルアンティオキアイェルサレムアレクサンドリア【セH12】五本山(五大教会)【セH12】に,教会組織を代表する大司教が置かれていました。
 特にローマとコンスタンティノープルには,東西ローマ帝国の都がおかれたわけですから,それぞれの教会が,自分の教会のほうが優位に立っていることを主張するようになったわけです。
 はじめはローマ教会が,イエスの最初の弟子でありリーダー的存在であった〈ペテロ(?64?)の墓があるから「ローマ司教が五本山の中で一番えらいのだ」と主張しました。

 遊牧民パルティア人によるアルシャク(アルサケス)朝パルティアを倒した【セH26アケメネス朝ではない,セH27】のが,農耕に従事するイラン人によるササン(サーサーン)です() 【追H9スルタンの称号を得ていない】【セH3時期(6世紀のイランか),セH4王の道を整備していない,セH8ソグド人ではない】。建国者は〈アルダシール1世〉(224241)で,アケメネス朝の復興をめざし,ローマ帝国と争いながら,ペルシア文化を発展させていきました。彼はゾロアスター教を国教とします【セH10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,セH12「ササン朝ペルシア」で国教とされたか問う】。インダス川方面【セH25ガンジス川ではない】まで進出し,北インドのクシャーナ朝を衰えさせました。
 ()「ササン(サーサーン)ペルシア」という呼称もありますが,実際にはペルシア(ファールス)は領域の一つに過ぎず,支配集団にはさまざまな出自を持つ者がいました。例えば後のセルジューク朝やインドのムガル朝で使われていた言語はペルシア語です。イランだからといって脊髄反射的に“ペルシア”と呼ぶのには,「イランには,かつてギリシア人と戦ったペルシア人の国がある」というヨーロッパからの単純な歴史観も背景にあります。また,かつては建国年は226年とされていましたが,王の名が打刻されたパルティア貨幣や史料の研究から現在では224年が有力となっています。

 それに対して3世紀の【セH251世紀ではない】〈マニ〉(216?~276?)による善悪二元論をとるマニ教H10クシャーナ朝の保護で新たに広まったか問う,セH12「アケメネス朝ペルシア」で生まれていない】【セH21ヴィシュヌは主神ではない】【セH25】は弾圧の対象となりました。その後,東は中央ユーラシアを通って中国に伝わったり,西は北アフリカやローマに伝わったりしていきました。北アメリカのカルタゴでは,のちにキリスト教の教父(きょうふ,初期の教会におけるキリスト教教義の理論家)【セH17ストア派ではない】として有名になるアウグスティヌス(354430) 【東京H22[3],H30[3]】【セH6時期(同時代の出来事を選ぶ)】【セH17ディオクレティアヌスではない】【追H21】が青年時代に影響を受け,そこからキリスト教に改心した話が『告白(録)【セH17】に記されています。
 ちなみに,ゾロアスター教も,中央ユーラシアを通って長安から長江下流域まで広がり,ローマやインドのボンベイ(現在のムンバイ)にまで拡大しました。現在でもインドでは,ムンバイを中心にゾロアスター教のグループが分布しています。中国ではマニ教は摩尼教,ゾロアスター教は祆教(けんきょう)と呼ばれ,唐代(618907)に流行しました。

 第2代のシャープール1世(241272) 【東京H29[3]】【セH3ハールーン=アッラシードとのひっかけ。アッバース朝最盛期の君主ではない,セH10時期を問う】【セH25】は,現在のトルコでローマ軍と戦い(エデッサの戦い),軍人皇帝時代のローマ皇帝〈ウァレリアヌス【セH25ネルウァではない】【早政H30】を捕虜にしました。領土はインダス川にも及びました。
 
 なお,イラン人は,ガラス・銀・毛織物・陶器などの工芸品の製作に優れ,ササン(サーサーン)朝で用いられた「獅子狩(ライオン狩り)」のデザインは,法隆寺に伝わる四騎獅子狩文錦(しきししかりもんきん(にしき))にも見られることから,ユーラシア大陸に広く用いられた図案であったことがわかります。正倉院の漆胡瓶(しこへい)・白瑠璃碗(しろるりわん)にも,サーサーン朝の美術の影響があります。

 東西ローマの分裂後も,小アジア,シリア,エジプトは東ローマ帝国の支配下に置かれていました。小アジア中央部の
カッパドキアは奇岩が分布していることで有名で,キリスト教徒の隠れ家として利用されていました。4世紀にはカッパドキア三教父と呼ばれる神学者が現れ,三位一体説の教義に影響を与えました。

 現在のシリア周辺には,3世紀後半に女王〈ゼノビア〉の統治下で
パルミラ【追H30ソグド人と無関係】【京都H22[2]】が繁栄し,東西交易で栄えました。遺跡はのちに世界文化遺産に登録されましたが,「イスラーム国」により破壊され「危機遺産」となっています。

200年~400年の西アジア  ⑱アルメニア
 アルメニアは4世紀にサーサーン朝ペルシアと東ローマ帝国との間に分割されていました。サーサーン朝側では自治が認められ,東ローマ帝国側では自治は認められず〈レオン3世〉によりテマ=アルメニアコンという軍管区(テマ)に設定され支配を受けました。東ローマはアルメニアの教会を分裂させようとしますが,サーサーン朝はアルメニア教会を保護しています。





200年~400年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島、モルディブ、イギリス領インド洋地域、フランス領南方南極地域、マダガスカル、レユニオン、モーリシャス、フランス領マヨット、コモロ

 インド洋の島々は,交易ルートの要衝として古くからアラブ商人やインド商人が往来していました。

 なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。



●200
年~400年のアフリカ


200年~400年のアフリカ  東アフリカ
 エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。



200年~400年のアフリカ  南・中央・西アフリカ
 アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
 サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)から
バントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。



200年~400年のアフリカ  北アフリカ
 エジプトのアレクサンドリアにはキリスト教の五本山の一つ,
アレクサンドリア教会が位置しています。





●200
年~400年のヨーロッパ


◆ローマ帝国ではバルカン半島のトラキア人やイリュリア人が台頭し,「軍人皇帝時代」となる
ローマ皇帝にバルカン半島人が即位,重心は東方へ
 ローマ帝国では皇帝〈
カラカラ帝(198217) 【セH3,セH7カエサルではない】が,妻・弟らを次々に殺害して実験を掌握。カラカラ浴場(カラカラ帝の大浴場)を建設し,だんだんと政治をおろそかにするようになりました。
 
212年には「世界中のすべての外人(帝国内の全自由民【セH3,セH7】)にローマ市民権を付与する」法(アントニヌス勅法)を発布しました。これにより,ローマ市限定の法として出発したローマ市民法と,万民法(帝国内の外国人や異民族との関係を規定していた法) 【セH8「しだいにその対象を拡大していった」か問う】との違いはなくなりました。彼は,アルシャク(アルサケス)朝パルティアやインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々に対して遠征軍を派遣しています。アルシャク(アルサケス)朝パルティアを攻めようとしたのは,〈アレクサンドロス大王〉(336~前323)への憧れからとみられます。

 〈カラカラ帝〉が帝国の全自由民に市民権を与えたのは税収を増やすための政策だったと考えられますが(),これにより辺境地帯の有力者が政治に積極的に介入するようになっていきました。
 たとえば,
235年に即位した〈マクシミヌス=トラクス帝(235238)は,トラキア人の羊飼い出身から皇帝に上り詰めた人物です。イタリアでの反乱鎮圧に向かう途中,部下の兵士に暗殺されて以降,284年までのあいだ,実に26人の皇帝がほとんど寿命をまっとうせずに短期間で交替していく軍人皇帝時代に突入します。各皇帝は,地方の軍団に支持されてまつり上げられる存在に過ぎませんでした。社会不安の中,キリスト教が帝国内に広まっていくのは,この時期のことです。なお,〈アウレリアヌス帝〉(270275)のときには,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入が激しくなったことから,271年にドナウ川北岸のダキアから撤退しました。
()古山正人他編『西洋古代史料集 第2版』東京大学出版会,2002p.218

 ローマは軍人皇帝時代にすっかり荒れ果て,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々やササン(サーサーン)朝の進入も激化していました。特に帝国の東部の安全を守るため,多数の軍団が東部に置かれて,皇帝も東部で政治や軍事の指揮をとっていくようになりました。地中海交易も,紀元前後に比べると衰えています

 また,帝国各地の
都市には一定以上の財産を持つ有力者をメンバーとする都市参事会が,徴税などの都市での行政にあたっていましたが,〈コンスタンティヌス〉帝が支配を強化し増税をおこなうと,没落して地方に逃げる有力者(上層市民)も出てくるようになりました。属州など帝国各地の大土地に支配を及ぼしていた元老院議員からも,各地で没落する者が出るようになっていました。


◆ディオクレティアヌス帝はローマ帝国を複数の皇帝で共同統治し,混乱をおさめようとする
現クロアチア生まれの皇帝が,帝国統治を改革へ

 そんな中,現在のクロアチアで生まれた〈
ディオクレティアヌス(284305)は,軍人として活躍後,小アジアのニコメディアで皇帝に即位しました。ですから彼も“軍人皇帝”です。ローマからニコメディアに遷都した理由は,「異民族の進入を防ぎ,広い帝国を安定して支配するためには,帝国の比重を東に移す必要がある」と考えたからです。
 しかし,東に首都を移してしまえば,今度は西側が手薄になっていきます。そこで彼自身は帝国の東方を担当し,ローマ帝国の西半は軍の同僚の〈マクシミアヌス〉
(286305)を共同皇帝としてを担当させることにしました。
 その後,西の〈マクシミアヌス〉と東の〈ディオクレティアヌス〉が,それぞれ東西の「正帝」
(アウグストゥスといいます)として,東西の「副帝」(カエサルといいます)を任命して,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々がライン川とドナウ川の防衛線を突破しないように担当させました。広い帝国を4人で統治するこの制度はテトラルキア(四分統治) といいます。

 〈ディオクレティアヌス〉は反乱を防止し,自身に権力を集めるため,まず属州を100程度に細分化しました。従来,属州は元老院議員などの有力者の拠点となっていましたが,その力を奪おうとしたのです。中央から属州総督を派遣して行政を担当させ,国境線の防衛は軍司令官に担当させました。軍事と行政の分担です。さらに官僚制を整備して,増税を図りました。そして,皇帝崇拝を導入し,それを認めないキリスト教徒を弾圧しました(最後の大迫害)。しかし,すでにキリスト教は官僚などの支配層にも広がっており,拡大を食い止めることは不可能でした。
 軍人皇帝の時代に起きていたインフレーションを抑えようと貨幣もつくりなおし,物価を抑えるために最高価格令も導入しましたが,これはあまり効果がありませんでした。

 このように,元老院の権威はほとんど失墜した状態で,事実上〈ディオクレティアヌス〉1人に権力が集まる仕組みができあがります。これを専制君主政(ドミナートゥス) 【セH3アウグストゥスのときではない,プリンケプスとのひっかけ】 といいます。


◆コンスタンティヌス帝は,帝国の統一にキリスト教を利用する
ローマはキリスト教会を,住民の把握に利用へ
 〈ディオクレティアヌス帝〉が自分から皇帝の位をしりぞくと,帝国は内乱状態になりましたが,
コンスタンティヌス帝(大帝,在位306337) Hセ10コンスタンティノープルに遷都したか問う】【セH29試行 史料読解(クローヴィスの洗礼に関する)】【セA H30アウグストゥスとのひっかけ】が東西に分けられていたローマ帝国を再統一し,テトラルキアを終わらせました。
 「ローマ帝国をまとめるためには,増えすぎたキリスト教徒たちを管理する教会を支配に利用するほうが,都合がいい」と考え,
313年にミラノ勅令【セH3】キリスト教を公認しました【セH3国教としたのではない】【セH18アリウス派を異端にしていない,セH27,セH29帝政を始めたのはアウグストゥス】【セA H30アウグストゥスではない】30年には,ビザンティウムをコンスタンティノポリス(コンスタンティノープル【Hセ10】【追H30 6世紀ではない】)と改称し,ここにも元老院を設置しました。国防目的に加え,キリスト教に反発する保守的なローマの元老院を嫌ったのだといわれます。ローマ【追H30アテネではない】市内にはコンスタンティヌスの凱旋門(がいせんもん)【セH17】【追H30】を建設し,18世紀ベルリンのブランデンブルク門【セH17直接は問われていない】や19世紀パリの凱旋門のモデルにもなっています。

 また,軍の強化と税収の確保のため,農民の移動を制限する勅令を出しました。土地を割り当てられ,収穫の一部を納める農民を小作人(こさくにん)といいますが,この頃の,移動の自由が認められていない小作人のことをコロヌスと呼びます。奴隷よりも待遇は良く家族は持てました。そのほうが,農民のやる気も出て収穫量も増えるし,支配がラクだと考えられたからです。このように,奴隷ではなくコロヌス(移動の自由のない小作人) 【追H20奴隷ではない】を使用した大土地経営のことをコロナートゥス(コロナトゥス) 【追H20】といいます(彼らの身分自体をコロナートゥスということもあります)【セH29共和政ローマの時代には始まっていない】。のちに中世ヨーロッパ(ローマ帝国滅亡後)では農奴と呼ばれることになります。

 キリスト教を公認するからには教義の統一が必要となったため,325年にニケア(ニカイア)公会議【セH18ミラノ勅令とのひっかけ,セH18コンスタンツ公会議とのひっかけ】【追H21時期を問う】で教義を統一させました。正統となったのはアレクサンドリア教会の指導者〈アタナシオス〉(298~373,ギリシア語読み。ラテン語読みではアタナシウス【東京H6[3]】)によるアタナシウス(ニカイア)三位一体(さんみいったい)説です。
 
 
アリウス派【追H21】H27名古屋[2]記述(内容を説明)】異端(いたん。正しい教義ではないとされた説)とされました。「異端」というのは多数はからのレッテルであり,自分のことを「異端」と主張する教派はもちろんありません。
 異端とされた
アリウス派【セH25ネストリウス派ではない】はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の世界に広がっていくことになります。このころのキリスト教会の指導者として『教会史』を著した〈エウセビオス〉(260?265?~339) 【東京H22[3]】【早政H30】がいます。〈エウセビオス〉はキリスト教の由緒正しさを主張するため,「キリスト教の説明する『聖書』に基づく歴史のほうが,エジプトの歴史よりも古いのだ」と,史料を操作して主張しています。このようにして確立されていったキリスト教会の歴史観を「普遍史」といいます。

 〈コンスタンティヌス〉帝が亡くなると,ローマ帝国は再び複数の皇帝による支配の時代に逆もどりしてしまいます。軍事力を補うため,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々を兵士(
傭兵)として雇い,各地に軍団が設置されていきました。
 また,帝国各地の都市は,〈コンスタンティヌス〉帝による重税に苦しみ,都市参事会や元老院の有力者の中には,没落して郊外に移住する者も現れるようになっていました。

 そんな中,〈
ユリアヌス帝(361363)は,ギリシアやローマの神々への信仰に戻そうとした皇帝です。ローマ帝国では,エジプトの神イシス【セH25リード文】や東方のミトラ教なども信仰されていました。ローマでは,古来から多神教【セH3】が支配的です。
 キリスト教の歴史では,異教を復活させようとしたことから,「背教者」と呼ばれますが,それでもキリスト教の拡大は止まりません。信者の増加には,200年頃から〈
ヒエロニムス〉(340?~420)らによりラテン語訳『聖書』(『ウルガタ』といいます)が刊行されるようになったことも影響しています。

◆テオドシウス帝の死後,ローマ帝国の全土を一人で支配できる皇帝はいなくなる
ローマ帝国の西方領土は衰え,東方は繁栄を保つ
 政治的にも帝国の支配者の間では内紛が続き,依然として複数の皇帝が東西ローマをテトラルキア(四分統治)により支配していました。そんな中,379年に即位した〈
テオドシウス1世(大帝,在位379395) は,ローマ帝国全土の統一になんとかこぎつけます。キリスト教徒は増え続け,各地の都市の行政を握る都市参事会においてもキリスト教の司教の発言力が高まっていました。「全土を効率よく支配するには,人々の心や活動に大きな影響を与えている教会組織を利用したほうがよい」と考えた〈テオドシウス帝〉は,381年にコンスタンティノープルで第1コンスタンティノポリス公会議を開催。アリウス派の異端問題に決着をつけるとともに,ニカイア=コンスタンティノポリス信条を採択しました。この信条は,ローマ教会,正教会を始め,多くのキリスト教派(教派(英:デノミネーション)とは同じキリスト教ではあるが異なる信仰スタイルを持つグループのこと)で「正しい」とされていますが,解釈は教派によってちょっと異なります。その字句の解釈をめぐり,ローマの教会とコンスタンティノープルの教会は,今後まったく“別物”の教派へと分かれていくことにもなりました。
 こうして,〈テオドシウス1世〉
【セH3コンスタンティヌスではない】392年にキリスト教をローマ帝国の国教と定めました

 彼は395年に死去すると,広大な領土を2人の息子(西→〈ホノリウス〉,東→〈アルカディウス〉)に分け与えました。ローマ帝国は四分統治(テトラルキア)の分割ラインで東西に分かれる状況への逆戻りです。
 しかし,その後〈コンスタンティヌス〉大帝や〈テオドシウス〉大帝のように,1人で全土を統一できた者はついに現れることはなく,ローマ帝国を複数の皇帝が分割統治する体制は固定化されてしまいました。
 このことを,後世の人々は,
ローマ帝国の東西分裂といいます【セH6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【セH29ユスティニアヌス帝の死後ではない】

 今後,ローマの
西方領土はインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の進入などの影響から急速に衰退し。ミラノ,のちラヴェンナに西ローマの正帝が置かれていましたが,実際には東方に重心がうつっていたローマ帝国(SPQRが正式名称。「ローマの元老院と人民」の略称です)の西方での統治機関に過ぎなくなっていました。皇帝というよりは“お代官”と言ったほうがよいかもしれません。
 そんな中,西ローマの正帝が
476年にインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の傭兵隊長〈オドアケル〉により殺害された後,西方領土に正帝が即位することはなくなってしまいました。これを,後世の人々は「西ローマ帝国の滅亡」と呼ぶのです。
 その後,
コンスタンティノープル【Hセ10】を首都とする東方領土の正帝(以後東ローマ帝国(またはビザンツ(ビザンティン)帝国【Hセ10】)といいます)は,唯一のローマ皇帝として西方領土の奪回に努めるようになっていきます (最終的に東半は1453年に滅亡します)

 ローマ帝国は,〈アレクサンドロス〉の大帝国の後継国家を飲み込んで拡大していきましたから,ローマ文化はヘレニズム文化の影響を強くうけました。共和政末期から帝政初期にかけては「古典時代」ともいって,さまざまな分野で特徴的な作品がうみだされました。特に散文と詩歌,歴史学にすぐれたものが多いです。また,哲学はヘレニズム文化の成果が受け継がれ,ストア学派が活躍しました。自然科学も,天動説【セH2,セH8地球の公転・自転説ではない,セH12地動説ではない】を体系化した〈プトレマイオス(100頃~170) 【セH15天動説を体系化したかを問う,プルタルコス・エウクレイデス・ピタゴラスではない】【セH2原子論・『博物誌』ではない・ムセイオンを創設していない,セH8】などが有名です。ギリシア人も多く活躍しました。
 ローマ帝国において,著しく発達していったのは建築・土木や法律の分野です。従来の様式を,より普遍的な様式に高める努力がなされ,ギリシアの柱頭の装飾様式を組み合わせたり,民族を越えた普遍法の制定が研究されたりします。




200年~400年のヨーロッパ  東・中央・北ヨーロッパ
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ
…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
 ドナウ川ライン川よりも北側の森林地帯には,狩猟や農耕・牧畜【セH7農耕を行わなかったわけではない】によって生活をしていたインド=ヨーロッパ語族のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々が生活,キヴィタスと呼ばれる部族国家を形成していました。
 キヴィタスには,
貴族平民奴隷の区別があり【セH7】,貴族中心ではありますが,成年男子全員【セH7女性は参加していない】が民会で重要な事柄を決めました。
 有力な貴族には,平民を保護する義務があり,そのかわりに配下に入れて兵士としました
(従士制)。彼らの様子については,〈カエサル〉の『ガリア戦記【セH15『ゲルマーニア』とのひっかけ】を,〈タキトゥス〉の『ゲルマニア(98)などから知ることができます。
 やがて,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も定住農耕をするようになると,人口が増加し,耕地が不足したために,ローマ帝国領内に進入するインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々も出てきました。ローマ帝政が終わりに近づくと,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々はドナウ川の下流域にまで活動区域を広げていました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の部族は,集団ごとにローマの傭兵団として各地に駐屯(ちゅうとん)するようになり,やがてローマ帝国を脅かすようになっていきました。





200年~400年のヨーロッパ  バルカン半島,西ヨーロッパ
バルカン半島
…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
◆ローマ帝国は,進入したインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々を軍団として認め,定住と国家建設を許可した
 バルカン半島のドナウ川北部のダキアは,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときに属州となっていましたが,インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々や黒海北岸からの騎馬遊牧民の進入が相次ぎ,軍人皇帝〈アウレリアヌス〉(位270~275)のときに手放すことが決まりました(271年撤退)。
 黒海北岸方面からバルカン半島には,黒海沿岸の低地を通ればカンタンに進出できます。黒海沿岸部の西には,
カルパティア山脈がドイツの中部にかけて弓なりに伸び,ここをつたってドナウ川中流域のパンノニア平原(現在のハンガリー)に至ることも可能です。

 212年に皇帝〈
カラカラ〉により全ローマ帝国自由人【早政H30】に市民権が与えられて以降,異民族の防衛の必要もありローマ帝国の重心は東方に移っていました。238年にはゴート人がドナウ川流域に進出。彼らはスカンディナヴィア南部を現住地とし,3世紀には黒海北岸に移動していたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の一派です。3世紀後半に歴代皇帝がゴート人と戦い,黒海に注ぐドニエプル川を境に東西に分裂して王国を建国していました(西ゴート王国東ゴート王国)。

 バルカン半島西部のイリュリア人のローマ化(イリュリア人らしさがなくなり,ローマ文化を受け入れること)も進み,ダルマツィア地方からは皇帝〈
ディオクレティアヌス〉(位284~305)が輩出され,帝国の危機を四分統治(テトラルキア,帝国の管区を東西に2分しそれぞれに正帝(アウグストゥス)副帝(カエサル)を置く制度)で救おうとしました。
 330年には皇帝〈
コンスタンティヌス〉(位306~337)が首都をビュザンティオンに置き,元老院議員以外の身分や職業を固定化して,中央集権化を強めました。

 しかしローマ皇帝の改革もむなしく,異民族のさらなる進出は国境地帯の情勢不安定をさらに悪化させていきます。黒海北岸からテュルク(トルコ)系ともモンゴル系ともされる
フン人【セH12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】【追H30】がバルカン半島方面【追H30ブリタニアではない】に移動。
 360年に
東ゴート人を征服し,逃れた東ゴートによりドミノ倒しのように征服された西ゴート人【セH12「フン族の西進により,西ゴート族が圧迫されて移動を開始した」か問う】H27名古屋[2]【※以外と頻度低い】ドナウ川下流地帯に迫って来ました。
 
東ゴート人に土地を奪われ住む所がなくなった西ゴート人は,ローマ帝国の守りを突破して南下することもできない状態。そんな中,西ゴート人はローマ皇帝〈ウァレンス〉と交渉し,兵士を提供するかわりにドナウ川以南で耕作する権利を獲得しました。ローマ帝国はライン川・ドナウ川の国境線(リーメス)地帯の防衛のため,異民族の進入を異民族の軍団によって制圧する作戦をとっていました(“夷を以て夷を制す”)。皇帝〈ウァレンス〉は,西ゴート人を軍団として受け入れるためバルカン半島東部のトラキアを用意します。
 しかし,当初は
10万とされていた人数を大きく上回る30万の西ゴート人が大挙して川を渡ろうとすると,キャパオーバーだったことが発覚しました。皇帝〈ウァレンス〉は一転して移住を阻止しようと西ゴート人への攻撃を決意。対する〈アラリック〉王に率いられた西ゴート人は食料不足で飢え死に寸前。決死の西ゴート人は378年にアドリアノープルの戦いでローマを破り,皇帝〈ウァレンス〉(364378)の命を奪いました。

 395年には〈テオドシウス1世〉がローマ帝国領を2人の息子に相続し,これ以降ローマ帝国が統合されることはありませんでした。このときの分割線はバルカン半島西部を南北に走り,現在のセルビアとボスニア=ヘルツェゴヴィナの国境線とほぼ一致します。また,現在のローマ=カトリック教会と正教会の勢力を分ける線でもあります。
 この分割線よりも東の地域は,今後は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)やスラヴ系諸民族との関係が深まっていくことになります。

 西ゴート人はさらに海岸線の低地をつたいながら,アテネ(アテーナイ)やスパルタを占領しつつイタリア半島に進入し,410年にローマに進入して占領。さらにかれらはイベリア半島に移動し,西ゴート王国【東京H11[1]指定語句】H30地域を問う】を建国します。なすすべのないローマ帝国は,混乱を防ぐために彼らを軍団として認め,ローマ帝国を防衛させようとしたのです。





200年~400年のヨーロッパ  イベリア半島
イベリア半島
…現在の①スペイン,②ポルトガル
◆ローマ帝国は,森林地帯からローマ帝国に移住してきたインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の軍事力を頼り,帝国内の建国を許した イベリア半島は属州ヒスパニアとされローマ帝国の支配下にありましたが,南部のコルドバは“小ローマ”といわれるほどローマ化がすすみ,「自分たちはローマ人なんだ」という意識が根付いていきました。3世紀にはイベリア半島全域にキリスト教も拡大していき,325年のニケア(ニカイア)公会議ではコルドバ司教〈ホシウス〉が主席を務めました。キリスト教を国教化した〈テオドシウス〉帝もコルドバ出身です。
 一方北部のカンタブリア人やバスク人は,ローマの文化を受け入れず独自の文化を保っていました。