定住民・遊動民の交流を背景に、両者の活動域の間を中心につくられた広域国家(古代帝国)が、広域地域ごとに特色を発展させていく。
南北アメリカ大陸の中央アメリカと南アメリカのアンデスに、新たな担い手により各地で政治的な統合が発展する。
(1) ユーラシア
ユーラシア大陸の東部では,東南アジア大陸部で政治的な統合がすすみ,インドシナ半島南東部にオーストロアジア語族クメール人の扶南や,オーストロネシア語派チャム人のチャンパー【東京H30[3]】といった港市国家も出現。
東アジアでは,中国に後漢王朝が栄える。
ユーラシア大陸の中央部には西アジアのパルティアと,中央ユーラシアから南アジアに進出したクシャーナ朝東西交易路(シルク=ロード)のオアシス国家との中継交易で栄える。
ユーラシア大陸西部ではローマ帝国(前27~1453)が「ローマの平和」といわれる安定的な支配を実現する。
これら定住農牧民地帯を支配した「古代帝国」は,国家機構や理念を整備して広域を支配するが,相次ぐ戦争と開発により衰退に向かうことになる。
(2) アフリカ
サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫する。エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活する。
また,この時期には東南アジアの島しょ部からオーストロネシア語族のマレー人がアウトリガー=カヌーによってインド洋を横断し,マダガスカル島に到達したとみられる。
(3) 南北アメリカ
北アメリカ大陸では南西部にバスケット=メーカー文化(トウモロコシ農耕),中央アメリカにはメキシコ高原ではトウモロコシ農耕民の文化,南アメリカ北部にはキャッサバ農耕民の文化が発達。
中央アメリカでは,ティオティワカン文明(メキシコ高原),サポテカ文明(オアハカ渓谷),マヤ地域の都市国家群が栄える。
南アメリカ北西沿岸部にモチェ文化で政治的な統合が発展し,神殿建造物がつくられる。
(4) オセアニア
オセアニア東部のサモアに到達していたラピタ人も,600年までにさらに西方のマルケサス島(現・フランス領ポリネシア)に徐々に移動。サンゴ礁島の気候に適応したポリネシア文化を形成しつつある。
○紀元前後~200年のアメリカ 北アメリカ
北アメリカの北部には,パレオエスキモーが,カリブーを狩猟採集し,アザラシ・セイウチ・クジラなどを取り,イグルーという氷や雪でつくった住居に住み,犬ぞりや石製のランプ皿を製作するドーセット文化を生み出しました。彼らは,こんにち北アメリカ北部に分布するエスキモー民族の祖先です。モンゴロイド人種であり,日本人によく似ています。
現在のエスキモー民族は,イヌイット系とユピック系に分かれ,アラスカにはイヌイット系のイヌピアット人と,イヌイット系ではないユピック人が分布しています。北アメリカ大陸北部とグリーンランドにはイヌイット系の民族が分布していますが,グリーンランドのイヌイットは自分たちのことを「カラーリット」と呼んでいます。
北アメリカ各地では、現在のインディアンにつながるパレオ=インディアン(古インディアン)が、各地の気候に合わせて狩猟・採集を基盤とする生活を営んでいます。
北東部の森林地帯では,狩猟・漁労のほかに農耕も行われました。アルゴンキアン語族(アルゴンキン人,オタワ人,オジブワ人,ミクマク人)と,イロクォア語族(ヒューロン人,モホーク人,セントローレンス=イロクォア人)が分布しています。
○紀元前後~200年のアメリカ 中央アメリカ
メキシコ高原のティオティワカンの影響力が強まる
◆マヤ地域では神殿を中心とする都市が大規模化している
中央アメリカのマヤ地域(現在のメキシコ南東部,ベリーズ,グアテマラ)では前2000年頃から都市が形成され始めていましたが,メキシコ湾岸のオルメカ文化が前4世紀に衰退すると代わってこの地域のマヤ文明が台頭していきます。マヤ低地南部のティカルやカラクムルといった都市が代表的です。
紀元後250年までのマヤ文明は、先古典期に分類されます (注)。前1世紀には「長期暦」という種類の暦法が考案されていました。
(注)実松克義『マヤ文明: 文化の根源としての時間思想と民族の歴史』現代書館、2016、p.23。
この時期のマヤ文明は、先古典期に区分され(前2000年~前250)、さらに以下のように細かく分けられます。
・先古典期 前期:前2000年~前1000 メキシコ~グアテマラの太平洋岸ソコヌスコからグアテマラ北部のペテン地域~ベリーズにかけて、小規模な祭祀センターや都市が形成。
・先古典期 中期:前1000年~前300年:祭祀センターや都市が大規模化
・先古典期 後期:前300年~後250年:先古典期の「ピーク」
◆メキシコ高原南部のオアハカ盆地では、サポテカ人の都市文明が栄える
メキシコ高原南部のオアハカ盆地では、サポテカ人の都市文明がモンテ=アルバンを中心に栄えます。
◆メキシコ高原中央部では、ティオティワカンに都市文明が形成される
ティオティワカン
紀元の直前頃から後250年頃までに階段状ピラミッドをともなう大都市ティオティワカン(前150~後650)が出現。
「死者の道〔死者の大通り〕」は、北に対して東に15度25分だけ正確にズラして建設され、8月12日または13日と、4月29日または30日に太陽がちょうど真上を通るようになっています。おそらくもともと太陽の通り道に祭祀の対象があって、それをもとにして都市が計画されたと考えられています。
「死者の道」の北方に、巨大な「月のピラミッド」が100年以降に建設されていきます。
サンフアン川をはさんで南方にはケツァルコアトルの神殿が、後2世紀以降に建設され、周囲にはエリート層の住居跡もつくられていきます。
ティオティワカンの信仰は多神教で、水の神トラロック、火の神ウエウエテオトル、人の皮を剥ぐ神シペ=トテク、羽毛のあるヘビ型の神ケツァルコアトル(「羽毛のある」という意味)が信仰され、のちのアステカ王国〔メシーカ〕にまで継承されます。
装飾品などに貝殻が多く使用されており、中央アメリカの広範囲に交易ネットワークを形成していたとみられます。ティオティワカンは黒曜石の山地も近く、当方のユカタン半島のマヤ諸民族や、南方のオアハカ盆地のサポテカ人にも、影響が残っています。ただ、この「影響」が軍事的な征服を指すのか、文化的な影響に留まるのかをめぐっては、様々な説があります。
ティオティワカンの50km南のクィクィルコは、シトレ火山が200年頃に噴火し、壊滅しました(注)。ティオティワカンの火の神ウエウエテオトルなどに、クィクィルコの文化の影響がみられるという説もあります。
チョルーラ
ティオティワカン南方のチョルーラは、紀元1世紀以降、ティオティワカンに対して独立を維持します。当時のメキシコ高原のナンバー2の勢力です。
(注)芝崎みゆき『古代マヤ・アステカ不可思議大全』草思社、2010、p.50。
○紀元前後~200年のアメリカ カリブ海
カリブ海…現在の①キューバ,②ジャマイカ,③バハマ,④ハイチ,⑤ドミニカ共和国,⑤アメリカ領プエルトリコ,⑥アメリカ・イギリス領ヴァージン諸島,イギリス領アンギラ島,⑦セントクリストファー=ネイビス,⑧アンティグア=バーブーダ,⑨イギリス領モンサラット島,フランス領グアドループ島,⑩ドミニカ国,⑪フランス領マルティニーク島,⑫セントルシア,⑬セントビンセント及びグレナディーン諸島,⑭バルバドス,⑮グレナダ,⑯トリニダード=トバゴ,⑰オランダ領ボネール島・キュラソー島・アルバ島
○紀元前後~200年のアメリカ 南アメリカ
アンデスのナスカ、モチェに政治的統合すすむ
◆アンデス地方では沿岸部にナスカ、モチェが栄える
ナスカ、モチェ
南アメリカでは,従来の神殿を中心とする地域的なまとまりが、紀元前後頃には何らかの原因により限界を迎えています(注1)。
社会問題を解決し新しい政治的・行政的な社会を築き上げるのに成功した勢力は、あらたな経済基盤や信仰を中心に人々をコントロールしようとしました。
一つ目は、アンデス地方北部海岸のモチェ(紀元前後~700年頃)です。
モチェでは人々の階層化もみられ、労働や租税の徴収があったとみられます。
信仰は多神教的で、神殿には幾何学文様やジャガーの彩色レリーフがみられます。クリーム地に赤色顔料をほどこした土器や、金製の装飾品がみつかっています。
経済基盤は灌漑農業と漁業です。
二つ目は、アンデス地方北部海岸のナスカ(紀元前2世紀~700年頃)です
ナスカといえば「地上絵」ですが、当初から地上絵が描かれていたわけではなく、当初はカワチ遺跡の神殿が祭祀センターであったと考えられています。
◆アマゾン川流域にも定住集落が栄えている
アマゾン川流域(アマゾニア)の土壌はラトソルという農耕に向かない赤土です。しかし前350年頃には,木を焼いた炭にほかの有機物をまぜて農耕に向く黒土が開発されています。
◆モンゴル高原では鮮卑の遊牧帝国が勢力を拡大する
紀元後1世紀後半~2世紀に,黒海の北岸にアラン人という騎馬遊牧民が出現します。サルマタイ人の支配域よりも東方です。彼らはローマの歴史書だけでなく,中国の史書に初めて登場する西ユーラシアの騎馬遊牧民です(『魏志』西戎伝、『後漢書』に阿蘭として登場します)。言語的にはイラン系です。
(注)アラン人はサルマタイ人(前4~後4)から分かれた民族グループ。サルマタイはのちに、アオルソイ、シラケス、王族サルマタイ、ロークソラノイ、イアジュゲス、アランに分かれていました。藤川繁彦『中央ユーラシアの考古学』同成社、1999、p.243。
モンゴル高原では,匈奴の一族〈日逐王比〉が単于に即位できなかったことから,南匈奴を率いて漢に服属し〈呼韓邪単于〉(こかんやぜんう,位48~55)を名乗りました。これにより匈奴は南北に分裂し,衰退することになります。そのうち,北匈奴の勢力10万戸余りを吸収し,東方から移動してきたのが,東胡の末裔といわれる鮮卑です。
2世紀中頃,後漢の〈桓帝〉の代には,〈檀石槐〉(だんせきかい)が鮮卑の族長となり,後漢を攻め,東の夫余(ふよ),西の烏孫(うそん)【セH20キルギスに滅ぼされていない】,北のテュルク系の丁零を討伐して,勢力を拡大しました。
中国で黄巾の乱が起きると,戦乱を逃れた中国人の中には,鮮卑のもとに移動するものも現れ,中国文化の影響を受けるようになっていきました。
中央ユーラシアの中央部では,バクトリアを拠点にクシャーナ朝が東西交易の利を得て栄えています。
中央ユーラシア北方に広がる,針葉樹林帯(タイガ)やツンドラ地帯(夏の間だけコケが生える地帯)の人々が,狩猟採集やトナカイ遊牧を行っていました。また,バルト海沿岸にはフィン人やサーミ人,北極海沿岸内陸部にはコミ人などのウラル語族フィン・ウゴル語派の民族です。
○紀元前後~200年のアジア 東アジア・東北アジア
○紀元前後~200年のアジア 東北アジア
中国東北部の黒竜江(アムール川)流域では,アルタイ諸語に属するツングース語族系の農耕・牧畜民が生活しています。このうち,南部にはツングース語系の〈朱蒙〉が建国したといわれる高句麗(紀元前後~668)が台頭します。
さらに北部には古シベリア諸語系の民族が分布。
ベーリング海峡近くには,グリーンランドにまでつながるドーセット文化(前800~1000(注)/1300年)の担い手が生活しています。
(注)ジョン・ヘイウッド,蔵持不三也監訳『世界の民族・国家興亡歴史地図年表』柊風舎,2010,p.88
◯紀元前後~200年のアジア 東アジア
東アジア…現在の①日本,②台湾(注),③中華人民共和国,④モンゴル,⑤朝鮮民主主義人民共和国,⑥大韓民国
・紀元前後~200年のアジア 東アジア 現①日本
◆弥生時代の日本では政治的な統一が進み,中国の皇帝への使いも送られた
このころの日本列島は,弥生文化の時期にあたります。中国史料では倭(わ)と呼ばれていましたが,統一した国家があったわけではなく,小国(クニ)にわかれて互いに抗争していたとみられます。稲作により食糧生産が増えると,その取り分をめぐる争いが激しくなっていったのです。近畿地方では銅鐸,中国地方では銅剣,九州北部には銅矛・銅戈がみつかっていて,その形状の違いからこれらの地域ごとに何らかの政治的なまとまりがあったのではないかと考えられています。
中国の後漢王朝の〈光武帝〉最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【セH29試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【セH29試行 史料】に「建武中元二年,倭の奴国・・・光武賜ふに印綬を以てす」と記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【セH29試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【セH29試行 図版と史料】。
『漢書』が「安帝の永初元年,倭国王帥升等,・・・生口百六十人を献じ・・・」と記録するように,107年には倭国の王〈帥升〉(生没年不明)が,奴隷(=生口)160人を皇帝に献上したのだといいます。この〈帥升〉は一般には「すいしょう」と読むとされていて,日本史上で初めて実名の記録がのこっている人物ということになります。
その後,2世紀後半に,小さな国家どうしが争う大規模な戦乱があったと,『漢書』は伝えています(倭国大乱(わこくたいらん)。「桓霊の間」に起きたというので,2世紀後半ということがわかるのです。各地には,防御的機能を備えた高地性集落や環濠集落がつくられた跡が残っています。交易ルートをめぐり,日本列島のさまざまな勢力が,朝鮮半島の勢力と関係を持っていたとみられます。
・紀元前後~200年のアジア 東アジア 現③中華人民共和国
前漢末期(前202~後8)において,讖緯説(しんいせつ)【セH16】という思想を用いて実権を握ったのは外戚の〈王莽〉(おうもう,漢字の「モウ」の「大」の部分は本当は「犬」,前45~後23) 【京都H21[2]】【追H9前漢のあとをうけた王朝か問う,セH12,H30王建とのひっかけ】【セH16】です。
これは「天のお告げは,目に見える形でどこかに現れる」という当時強い影響力を持っていたに考えです。人間の世界が天との関わりを持つという考えは前漢の五経博士〈董仲舒〉(とうちゅうじょ)によっても天人相関説として唱えられてはいました。儒教を解釈するには『五経』だけでは足りず,天の思し召しを解読する技術も必要だということです。彼は,井戸の中で見つかった石に「自分が皇帝になれ」と書いてあったと主張し,皇帝に譲位を迫って新王朝を建てました。
〈王莽〉(位8~23,莽の「大」の部分は厳密には「犬」) 【京都H21[2]】【セH3この時期に封建制が創始されたのではない】【セH16,セH28則天武后ではない】の建てた新【セH4則天武后の周とのひっかけ】【セH14秦ではない,セH16】は,周【セH14,セH26明ではない】の時代の政治を理想とし【セH12儒教を排斥したわけではない】,現実離れした政策で民衆の支持を失い,農民による赤眉の乱(せきびのらん) 【セH4紅巾の乱とのひっかけ】【セH19紅巾の乱のひっかけ,H27】が起こりました。
これをを鎮圧した豪族出身の〈劉秀〉(りゅうしゅう,光武帝(こうぶてい),在位25~57年) 【セH29試行 楽浪郡を設置していない】でした。
前漢の皇帝の〈景帝〉(位前157~前141)の末裔といわれます。〈劉秀〉は25年に中国を統一して漢を復興し(後漢),都は雒陽(らくよう,漢は五行思想で“火”の徳を持つとされたので,さんずいの付く洛陽の“洛”の字が避けられました) 【京都H21[2]〈張衡〉「東京賦」の東京が洛陽であることを答える】【セH2地図上の位置を問う(長安との位置ひっかけ),セH4明ではない,セH9長江下流域ではない】【セH22地図(長安ではない),H28 鎬京ではない】に移されました。
豪族とは,地方で大土地を所有している人々で,すでに前漢の半ばから現れていました。豪族によっては本当に“大”土地で,山や川も持っているし,家畜も飼っている。一族を率いて農業だけでなく職人に物を作らせたりして自給自足的な経営をしていました。農民には自由民だけでなく,隷属民である奴婢(ぬひ)も含まれ,豪族によっては奴婢を百人も千人も持っている。さらに,領地内の人々を保護する見返りに彼らを兵隊として組織する。つまり,私兵【東京H29[1]指定語句】です。だから豪族はやがて国家の言うことを聞かない軍事集団に成長するおそれだってあるわけです。
〈劉秀〉自身も豪族ですし,他の豪族の協力なしには新を滅ぼすことができなかった。だから,大土地所有自体を規制することはしませんでした。
しかし,国家の安定のカギは,国民が安心してご飯を食べられることにあるのは今も昔も同じ。前漢の〈文帝〉・〈景帝〉から〈武帝〉の時代にかけては,農民の暮らしは非常に良かったのですが,政治の混乱が続き,農村にもやがて貧富の差が生まれるようになっていました。
そこでまず,奴婢を解放したのです。税率も下げました。31年には常備軍も解散し,農民の徴兵を緩和しました。
数々の改革をしましたが,中国の国家の基本は儒教であるという原則をしっかりと確認しました。〈王莽〉は儒学者を重用しましたが,このことが,結果的に儒学を学ぶ人を増やすことにもつながっていました。29年には首都の雒陽(らくよう)に太学(たいがく,官僚養成学校)が設置されました。儒学が国教化されたのはこのときであるという説もあります。
ただ,〈光武帝〉の子が仏教の儀式をおこなっていたように,すでに中国には紀元前後に西域から仏教が伝わっていたとみられます【セH23殷代には伝わっていない】。
最晩年の57年には,日本の九州地方にあった奴国(なのくに,なこく,ぬこく)が朝貢使節を送っています。中国の皇帝は,自らを中心とし東西南北の周辺民族を儒教の価値観でランク付けして臣下にしようとしたのです。これを冊封(さくほう)といいます【京都H21[2]記述(説明)】【セH29試行 皇帝から総督に任命されたり郡国制の中に取り込むわけではない。皇帝が代わりに朝貢国に金と絹を支払うわけではない。】。このことは『後漢書』【セH29試行 史料】に記録されていますが,その解釈をめぐっては異論もあります【セH29試行 聞き書きや手書きによる編纂の過程で文字が変わったりする可能性について考えさせた】。奴国に与えられた印(いん)と綬(じゅ)のうち金印は,博多湾の志賀島(しかのしま)で見つかっていますが,本物かどうかには疑問ももたれています【セH29試行 図版と史料】。
儒教では,皇帝に仕え『春秋三伝異動説』などを著した〈馬融〉(ばゆう,79~166)と,その弟子の〈鄭玄〉(じょうげん,ていげん,127~200) 【セH7】【追H9董仲舒とのひっかけ】による訓詁学【共通一次 平1:考証学ではない】【セH7】【セH13董仲舒による確立ではない】が大きな成果をあげました。訓も詁も,「意味」という意味です(訓読みの訓はこれが語源です)。焚書坑儒によって失われていた儒教の文章や,その読み方の解読作業がすすめられたのです。なにせ古いものだと周の時代に書かれた文章ですから,800年ほど前の文章になるわけです。日本で800年前というと鎌倉時代の古文ですよね。読み方がわからなければ,違う解釈が生まれてしまうので,官学(官僚になるために必要な学問。国家公認の学問)としてはふさわしくありませんよね。
さて,後漢【セH3前漢ではない】の時代に〈班超〉(32~102) 【セH4,セH12「後漢では,班超が西域都護となり,西域経営を推進した」か問う】【セH14,H24ともに時期】が西域に派遣され【セH14ビザンツ帝国に使者を送っていない】,クシャーナ朝を撃破し,西域の都市国家を制圧して西域都護【セH12】【セH24】としてこれらの支配をまかされました。94年にはパミール高原よりも東の50余りの国が,後漢に服属しています。『虎穴(こけつ)に入らずんば虎児(こじ)を得ず』という故事成語があります。“宝くじを買わなければ,宝くじには当たらない”というような意味です。
〈班超〉が,西域の東部にある都市国家の桜蘭(ろうらん前77年に鄯善(シャンシャン,ぜんぜん)と改称)を手なずけようと交渉をしていたところに,匈奴の使者もやってきて,一触即発の危機になったところ,「いまやらなければ,いつやるんだ。36人でもやれる。」とわずかな部隊で匈奴を夜襲し成功した故事に基づいています。
97年には,〈班超〉の部下の〈甘英〉(生没年不詳) 【セH4前漢の人物ではない,セH12】がローマ(大秦国)【セH3遊牧民ではない,セH12張騫ではない】に派遣されました。このころのローマは五賢帝時代(90~180年)にあたります。〈甘英〉は安息(アルシャク(アルサケス)朝パルティア)を通ってシリア(条支国)まで向かったと言われますが,結局引き返しました。中継貿易で利益をあげていたアルシャク(アルサケス)朝パルティアの妨害ではないかとされています。
ちなみに〈班超〉の兄である〈班固〉(32~92) 【京都H21[2]】【追H9董仲舒のひっかけ】【セH17孔頴達とのひっかけ】は,父〈班彪〉の構想を受け継ぎ正史(せいし)として『漢書』(かんじょ)を紀伝体の形式で【セH30編年体ではない】〈明帝〉(位57~75),〈章帝〉(位75~88)の下で編纂(へんさん)し〈班固〉の死後に妹の〈班昭〉(45?~117?)が完成させました。後漢の王朝を“正義”として,前の時代の前漢・新までの歴史書を書いたというところが,筆者の自由な主観が認められた『史記』とは異なる点です。中国ではこの『漢書』をもとに,後の王朝によって正史(“正しい”歴史)が編纂されていくようになりました。
166年には,ローマ帝国の五賢帝の最後を飾る〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝〉(位161~180)の使者を名乗るものが,ヴェトナム中部の日南郡【セH27】に来航しました。彼らが名乗ったのは「大秦国王安敦」(だいしんこくおうあんとん) 【セH4マルクス=アウレリウス=アントニヌスか問う】【セH18アルシャク(アルサケス)朝パルティアの使節ではない,セH27】という名前。真偽は不明ですが,アントンはアントニウスっぽい!?ということで,この頃インド洋から中国にいたるまでの交易ネットワークが存在したことが推測できます。
また,後漢の時代には,宦官の〈蔡倫〉(さいりん,生没年不詳)【東京H17[3]】【慶商A H30記】が,製紙技術を改良し,当時の皇帝〈和帝〉に献上しています。従来は,板や竹をひもでくくって巻き上げた木簡や竹簡が用いられていましたが,かさばりますし,削りとって改ざんすることが可能なことが問題でした。ちなみに1枚のシートを「冊」(さく),冊を何枚も重ねて巻き上げたものを「巻」(かん)といいます。また,〈許慎〉(きょしん)が『説文解字』という,小篆(しょうてん)という書体の漢字を9353字収録した部首分類付きのものとしては最古の字書を著しています。小篆に代わって,隷書(れいしょ)という書体も用いられるようになりました。現在では新聞の題字に使われています。
後漢末期には“お子ちゃま皇帝”が多く,第9代〈沖帝〉(2歳で即位,毒殺?),10代〈質帝〉(7歳で即位,毒殺),11代〈桓帝〉(14歳で即位),12代〈霊帝〉(12歳で即位)と続きます。皇帝の嫁の家族である外戚,地方の豪族出身の官僚,さらに宦官(かんがん)には政治に付け込み利益をため込むすきがあったわけですが,とくに皇帝の身辺の世話をする宦官と皇帝の結びつきが問題視されたようです。
宦官とは,宮廷に仕えるために去勢(きょせい)した男子のことです。宮廷につかえている人が女性だと,権力を得ようとして皇帝の子を生もうとする者が現れがちです。反対に男性の場合でも,皇帝のかわいがっている女性に近づいて,その子をもうけることで,権力の座に付こうとする者が出てこないともかぎりません。もちろん宦官は宦官で,皇帝のそばにおつかえするわけですから,政治への介入は起こりえます。それでも皇帝にとっては,男性・女性よりは中性的な宦官のほうが都合がよく,宮廷の複雑な儀式や習わしを伝える上で,宦官は必要不可欠な存在となっていきました。なお,宮廷における宦官の存在は中国に限ったものではなく,他地域にも見られます。
〈桓帝〉のときに「わるいのは宦官だ」と,外戚や豪族がみずからを「清流」と称して,宦官200人余りを逮捕しました。これを党錮の禁 (とうこのきん;党人の禁錮,166年と169年)【セH8 3世紀のことではない】【※意外と頻度低い】といいます。
このときに訓詁学(くんこがく)者の〈鄭玄〉(じょうげん) 【追H9董仲舒とのひっかけ】も牢屋に入れられています。儒学者ら批判的な知識人は“清流”(せいりゅう)を称し,宦官勢力(=“濁流”と称されました)の腐敗に抵抗しました。
政治が混乱するなかで,「蒼天已死,黄天当立」(蒼天すでに死す,黄天まさに立つべし)をスローガンとする黄巾の乱(こうきんのらん) 【セH6紅巾の乱ではない】【セH22,セH29試行 時期(グラフ問題)】【慶文H30李自成の乱とは無関係】がおきて,混乱のさなかに滅亡します。漢は五行思想では火徳ですから赤でした。これを倒すには,土徳の黄というわけで,頭に黄色いハンカチを巻いたわけです(#小説 吉川英治『三国志』https://www.aozora.gr.jp/cards/001562/files/52410_51061.html青空文庫)。
36万もの農民を率いたのは〈張角〉(?~184) 【セH12張騫とのひっかけ】【セH22時期,セH26朱全忠ではない】【中央文H27記】のはじめた宗教集団の太平道(たいへいどう) 【セH2道教の源になったか問う】 です。豪族による支配が強まり,生活の基盤を失った農民たち。何もしてくれない皇帝の支配から逃れ,罪を懺悔(ざんげ)して教団に入れば助け合いの精神で食べ物を分け合い,呪術(じゅじゅつ)によって病気を治したり,辛い生活の中にも幸せを感じたりすることもできる。太平道は困窮した農民たちを魅了し,勢力を増していたのです。
なお,四川(しせん)や陝西(せんせい)などの西部では,〈張陵〉(ちょうりょう,生没年不詳)が五斗米道(ごとべいどう)を起こしていました。農民に米5斗(=500合。90リットル相当)を差し出させ,まじないで病気を治療して信者を増やし,〈張陵〉を天師とする宗教国家を形成しました。215年に〈曹操〉に降伏しましたが,のちの道教(天師道→新天師道→正一教と名前が変わる) 【セA H30朝鮮で成立していない】の原型です。
最後の皇帝の〈献帝〉(位189~220)はわずか8歳で即位。身の危険を感じた皇帝は,魏を建国していた〈曹操〉(155~220)を頼ります【セH29曹操は焚書・坑儒は行っていない】(#漫画 王欣太『蒼天航路』)。
〈曹操〉は事実上の支配権を握りますが,皇帝の位は要求せず,魏王の地位にとどまりました。彼は「漢が理想としたように,すべての人々から平等に税をとるのは無理だ」と考え,資産別に徴税をする戸調制(こちょうせい)をはじめました。また兵役も,素人に担当させるのではなく,特定の家柄に世襲させました(兵戸制(へいこせい))。
大土地所有者が各地にはびこっている以上,「資産のあるやつから,ある分をとる」ほうが現実的だったからです。でも,豪族は税をとりに来た官僚の立ち入りを実力で阻止することも多く,自分の土地が特別な土地(荘園(しょうえん) 【セH6「荘園」は「辺境防衛に携わる人々に賦与された土地」ではない】)であると主張するようになっていました。
豪族に対抗するには,戦乱の中で土地を失った農民たちが豪族の大土地に流れこむのを防ぐしかありません。そこで,彼らを収容するために屯田制(とんでんせい)を実施しました。
これら〈曹操〉による改革は,どれも時代の変化に対応したものばかりです。屯田制の内容は,のちに西晋の占田・課田法(せんでんかでんほう)に受け継がれたとみられます(詳しい実施内容は不明)。
しかし,その息子〈曹丕〉(位220~226)が,すでに有名無実だった〈献帝〉から禅譲される形で皇帝に就任し,後漢は滅びました。このへんの〈曹丕〉の立ち回りは入念で,〈献帝〉から皇帝位を譲られる→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉ことわる→〈献帝〉譲る→〈曹丕〉即位というプロセスを踏んでいます。この儀礼は,今後も歴代王朝に受け継がれていきました。自分から積極的に皇帝位を奪ったわけではないんだ,というパフォーマンスでもあります。
当時流行していた五行説(ごぎょうせつ。この世のすべてを5つの元素の相互関係で説明する考え)という思想によると,漢王朝の元素は「火」とされたため,〈曹丕〉は魏の初めの年号を「火」を打ち消すために「土」の元素に当たる色(黄)を付けた黄初(こうしょ)としました。五行説ではこの世の元素は木→火→土→金→水の順序で生成を繰り返すとされていたのです。
・紀元前後~200年のアジア 東アジア 現⑤・⑥の朝鮮半島
北海道の北に広がる海をオホーツク海といい,ユーラシア大陸の北東部に面しています。この大陸地域には,タイガという針葉樹林が広がり,古くからで古シベリア諸語のツングース系の狩猟民族が活動していました。
彼らの中から,前1世紀に鴨緑江の中流部に高句麗(こうくり,コグリョ,前1世紀頃~668)という国家が生まれ,2世紀初めには勢力を拡大させていきます。
朝鮮半島には楽浪郡が置かれていましたが,中国で〈王莽〉(おうもう)が一時政権を握ると支配から脱しようとする動きがありました。しかし30年に〈光武帝〉によって鎮圧されます。
朝鮮半島の南部には,韓人による国家が形成されていました。南西部には馬韓(2世紀末~4世紀中頃)の首長国が50あまり,南東部には辰韓(しんかん,前2世紀~356)の首長国が12か国,南部には弁韓12か国(前2世紀~4世紀)が並び立っていました。これらの様子は『三国志』の「魏書」東夷伝からわかります。
●紀元前後~200年のアジア 東南アジア
インド洋には季節ごとに違う方向から風が吹くことが知られ,それを利用した航海術が,1世紀頃にアラビア海で発達しました。西アジアとインドとの交易ネットワークは,東南アジアの交易ネットワークともつながっていきます。おそらく3世紀頃には,アラビア半島を一気に横断できるようになっていたと考えられます。
ここでいうネットワークというのは,誰かがその完成図を持っていて,それに従い整備していくようなものではありません。
みんながそれぞれ目的をもって,それぞれの意志で物を交換するために航路を開拓していった結果,最終的にそれらが“網の目”のように結びつく,複雑な全体を構成するようになったものを,ネットワークというのです。
しかし,よく見てみると,ネットワークには多くの人が必ず通る地点というものがあります。これを「ノード」といいいます。そこからまた枝葉のように,それぞれの目的地に向かって出発するような地点のことです。「結節点」とか「交通の要衝(ようしょう)」ともいわれます。
こうした地点を握った国家が、この時期にいくつか出現します。
まず、ヴェトナム南部のメコン川下流で,扶南(ふなん,1世紀~7世紀) 【追H9時期】【セH16時期・カンボジアに興ったとはいえない,セH25】【上智(法法律,総人社会,仏西露)H30】が成立しました。マレー半島からベンガル湾にかけての交易ルートを握って栄えます(注)。
外港であるオケオ(オクエオ) 【セH22ピューの都ではない,セH25扶南の港かどうか問う・地図上の位置を問う】からは,ローマの金貨,インドの神像,中国の後漢時代の鏡が出土しています(注)。当時はまだマラッカ海峡を通るルートは主流ではなく,大陸から横顔の象の鼻のように垂れ下がったマレー半島を,いくつかのルートにより陸路で横断するルートが使われていました。中国の資料によると,この地域を通り積荷をインド洋側に運ぶことができるよう,モン人などのいくつもの政治権力が現れました。
北ヴェトナムでは,40年頃,〈徴側〉(チュンチャク,?~43)と〈徴弐〉(チュンニー,?~43)の姉妹が,紅河流域の住民とともに反乱を起こしました(徴(チュン)姉妹の反乱)。この2人は,土着の首長の娘たちです。漢は〈馬援〉(ばえん,14~49)により鎮圧し,ドンソン文化は衰退して漢人の文化が拡大していきます。
ヴェトナム中部の日南郡からは,チャム人【共通一次 平1:,モン,クメール,タミルではない】が独立し,中国側からは林邑(りんゆう,192~19世紀)と呼ばれ,南シナ海の交易ルートを支配します。この頃,南シナ海でも季節風を利用した交易が導入されるようになって,人や物資の移動が活発化したのです。ヴェトナム中部のフエ付近にあった日南郡は,東南アジアの交易の中心地となります。さらに,中国の文献によると,2世紀末にヴェトナム中部沿岸の港市をチャム人が統一したとし,中国側の文献では林邑,チャム人【共通一次 平1:モン,クメール,タミルではない】【セH5】の側からはチャンパー【東京H30[3]】【共通一次
平1「ヴェトナム中・南部に拠点をおいて,古来,海上貿易で栄え,南下するヴェトナム人との間で抗争をくりひろげた民族」を問う】【セH4タイではない,セH5真臘ではない】【セH24地域を問う,H29時期と地図上の位置を問う】と呼ばれています。都はインドラプラと呼ばれます。チャンパーは,季節風交易を通してインドとの関わりも深かったことが特徴です。
166年には,ローマ皇帝の使者「大秦国王安敦(だいしんこくおうあんとん)」を名乗る者が,日南郡に来航しました。五賢帝の一人〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉のことではないかと考えられています。
ジャワ島には,おそらく諸薄(しょはく。ジャワ?)中心とする交易ネットワークもあったと考えられています。クローブ(丁字)という独特な風味のある香辛料は,マルク(モルッカ)諸島でしかとれませんが,すでに中国に輸出されていました。マルク諸島は,フィリピン諸島の南東に位置します。
ここまで見て,ちょっと変だなと思いませんか? 林邑,扶南,諸薄。全部漢字です。文字史料が少ないために,中国人を始めとした外国人による記録に頼らざるをえないのです。
扶南も林邑も,人口密度の増えた農牧民の世界の国家とは違う成立過程を持つ国家です。良い港には,多くの船が集まります。その治安を維持し,安全に取引が行われるように保障する代わりに,内陸から川で運ばれてきた食料や飲み水を提供したり,船を修理するドックを整備します。その財源を,船から税として商品をとりたてるのです。多くの税をとるには,交易が盛んになったほうが良いので,別の港市を支配したり,船の通り道の安全を確保しようとするのです。農牧民の支配が中心ではないので,領土を支配しようという意図はあまり強くありません。このようなタイプの政治権力を,港市国家といいます。
なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。
○紀元前後~200年のアジア 南アジア
南アジア…現在の①ブータン,②バングラデシュ,③スリランカ,④モルディブ,⑤インド,⑥パキスタン,⑦ネパール
・紀元前後~200年のアジア 南アジア 現③スリランカ
スリランカ中央部には、シンハラ人の国家であるアヌラーダプラ王国(前437~後1007)が栄えています。
・紀元前後~200年のアジア 南アジア 現②バングラデシュ、⑤インド、パキスタン
◆祭祀至上主義をとるバラモン階級は民間信仰を取り入れ,大乗仏教運動も始まった
紀元後1世紀に大月氏の〈クジューラ=カドフィセース〉(前1世紀前半~1世紀後半)が王と称して他の4諸侯を統一し,ガンダーラ地方を支配しました。彼は自分の像を刻んだ銅貨を,インド=ギリシア人にならって発行しています。
その孫〈ウィマ=カドフィセース〉(位1世紀後半~2世紀初め)が北インド中部に進入して建国したのが,クシャーナ朝【セH10この王朝で新たに広まった宗教を問う。ゾロアスター教,ジャイナ教,マニ教ではなく,大乗仏教】です。『後漢書』では〈ウィマ〉は〈クジューラ〉の子となっていますが,現地の碑文によると孫とされます。なお,中国の『三国志』では「大月氏」と呼ばれています。
クシャーナ朝は,中央ユーラシアに本拠地を置き,中国方面の漢帝国とローマ帝国を結ぶ中継貿易で栄えました。ローマ帝国は,イランのアルシャク(アルサケス)朝パルティアと抗争を繰り返していたため,商品はいったんクシャーナ朝に入り,西インドから海を通って西方に届けられるようになりました。
クシャーナ朝のライバルは,南インドのデカン高原【セH28】で栄えたサータヴァーハナ朝(前1世紀~後3世紀【セH4時期(1世紀頃か問う)】【セH28時期】【追H20時期(14世紀)】)やパーンディヤ朝で,どちらもドラヴィダ系の王国です。ローマからの商人が季節風貿易でインドの港に入ってくると,インドの商品と引換えに金貨が渡されました。パーンディヤ朝,セイロン島に面するマンナール湾の真珠の産地を握り,その交易で栄えます。このことは『エリュトゥラー海案内記』にも記されています(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.53。
〈ウィマ=カドフィセース〉の子,〈カニシカ(カニシュカ)〉王(位130~155?または78~103?) 【セH9アショーカではない】【セH15仏教を保護したか問う】【追H30アクバルとのひっかけ】は,都をプルシャプラ【追H30アグラではない】として,ガンジス川の中流域(または下流域まで)の北インド一帯を支配しました。地方支配は,その土地の有力者を服属させる形の間接統治です。彼は銀貨ではなく金貨を鋳造し,王家にはゾロアスター教の信仰があったとみられます。また彼は,第四回仏典結集【セH15】がインド北部のカシミールで開かれると,これを援助しました。彼のものと考えられる像は,コートにベルトを着用した姿が表現されています(頭部は見つかっていません)。
クシャーナ朝は,ローマ,ギリシア,イラン,インド,中国などさまざまな文化を融合させたことでも知られ,特にインド文化とギリシア文化【セH23イスラームではない】が融合したガンダーラ美術が栄えました【セH10ヘレニズム文化の美術がガンダーラ美術の影響を受けたわけではない。その逆】【セH14時期(クシャーナ朝時代)】。すなわち,ギリシア彫刻の影響で,仏像が製作されはじめたのです【セH4時期(アショーカ王の次代には仏像は製作されていない)】。
また,マウリヤ朝の副都だったデリーの近くのマトゥラーでも,仏像が製作されていました。
クシャーナ朝は3世紀半ばに,イランのササン(サーサーン)朝と地方の自立によって滅ぶことになります。
デカン高原のサータヴァーハナ朝では,1世紀中頃に季節風を利用した航法が発見されると,アラビア半島との交易の担い手として栄えました。南端部のチョーラ朝(インド南東部のカーヴェリー川流域。前3世紀頃~後4世紀頃)の宮殿では,ギリシア人が雇われ,ローマの金貨が積み込まれていました。ちなみにこの時期のチョーラ朝は,9~13世紀のチョーラ朝と区別し,古代チョーラ朝ともいいます。
1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【セH4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)
別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【セH4引用された箇所】。
上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【セH11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。
また,2~3世紀に大乗仏教という,新しい仏教の考え方が成立します【セH19マウリヤ朝のときではない】。もともと仏教は,出家をして修行によって,個人的に解脱(げだつ,悟りを開くこと)することを目標とするものでした。
しかし,前1世紀頃から「出家をせずに家に残っている人(在家)たちにも,解脱のチャンスを与えるべきだ」という考えが起こります。彼らは,従来の仏教(部派仏教)は,まるで小さい乗り物(ヒーナヤーナ,小乗) 【セH23大乗仏教は部派仏教からの蔑称ではない】のようだと批判し,在家にもチャンスをひらく新たな仏教を大きな乗り物(マハーヤーナ,大乗)と呼びました。こうした説を唱えた大衆部(だいしゅぶ)に属する人々は,「悟りを求めて努力すること(ボーディ=サットヴァ(菩薩))」を大切にしました。努力とは,自分を犠牲にしてでも,この世のあらゆる存在を救おうと頑張ることを指します。でも,普通の人にはそんなことは難しいので,そういう努力をしている存在として,新たなキャラクターを創造しました。それが,弥勒菩薩(みろくぼさつ,マイトレーヤ)や観音菩薩(かんのんぼさつ,アヴァローキテーシュヴァラ)です【セH12「白蓮教は,弥勒仏が現世を救済するために現れると主張した」という文章の正誤判定】【慶文H30李自成の乱とは無関係】。
彼らの想像力はとどまることをしらず,菩薩よりもレベルの高いブッダを考案しました。彼らは,仏国土というブッダの世界に住んでいて,今でもブッダの説法を聞くことができる。そこに行くには,阿弥陀仏(あみだぶつ,アミターバ)にお願いするしかない,といった具合です。こうした新しい考えは『般若経』『法華経』『阿弥陀経』『華厳経』などの新たな経典にまとめられました。こうした経典は,唱えたり書いたりすることも重視されました。
大乗仏教【セH10クシャーナ朝の下で新たに広まった宗教か問う】【セH21上座仏教ではない,セH23上座仏教からの蔑称ではない】を完成させたバラモン出身の〈ナーガールジュナ〉(中国語名は〈竜樹〉(りゅうじゅ),150頃~250頃) 【セH21】は,仏教思想に“空(くう)”の思想を加えて大胆にアレンジし,『中論』を著しました。
インドの文化は,交易ルートに沿って東南アジアにも広がり,1~2世紀に東南アジアでインドの影響を受けた国家が成立しています。また,仏教は西アジアに広がり,マニ教や,神秘主義的な思想で知られるグノーシス派,古代ギリシアの〈プラトン〉の哲学が一神教的に読み替えられた新プラトン派(〈プラトン〉の思想でいう「この世のあらゆるものは,イデア界の“劣化版コピー”にすぎないという考え方は,「この世は完全な“一者”がみずからを流出させることで生まれた」という考え方に読み替えられ,「イデア=神」と変換されます。これは,一神教の思想の説明に都合がよかったため,その後のキリスト教神学と深く結びついていくことになります)にも影響を与えました。
○紀元前後~200年のアジア 西アジア
西アジア…現在の①アフガニスタン,②イラン,③イラク,④クウェート,⑤バーレーン,⑥カタール,⑦アラブ首長国連邦,⑧オマーン,⑨イエメン,⑩サウジアラビア,⑪ヨルダン,⑫イスラエル,⑬パレスチナ,⑭レバノン,⑮シリア,⑯キプロス,⑰トルコ,⑱ジョージア(グルジア),⑲アルメニア,⑳アゼルバイジャン
・紀元前後~200年のアジア 西アジア 現⑫イスラエル,⑬パレスチナ
◆ローマ帝国の支配に対し「世界宗教」のキリスト教が生まれた
この時期にパレスチナでは,男女・年齢・集団に関係なく誰でも平等に扱う新たな宗教(キリスト教)が芽生えました。特定の民族にこだわらないことから,そのような宗教を世界宗教といいます。
共和政ローマはパレスチナにも勢力範囲を広げますが,直接支配する代わりに,ユダヤ人の〈ヘロデ大王〉(前73~前4?) に間接統治をさせ,ヘロデ朝を築かせました。ローマの後ろ盾を得た〈ヘロデ王〉の厳しい支配のなかで,ユダヤ人の中にはいくつもの意見が生まれます。
「あくまでローマと戦うべきだ。神との契約をしっかり守らないからこういうことになるのだ」と戒律主義を守ろうとするパリサイ派。「ローマと友好関係を結んで,自分たちの立場を守りたい」とする上層司祭を中心とするサドカイ派が代表です。
そんな中,現在のイスラエルの北部にある「ナザレ」という地に現れたのが,〈イエス〉【セH12キリスト教の「開祖」かを問う】【セH15モーセではない】です。『新約聖書』によると,母〈マリア〉は父〈ヨセフ〉との婚約時代に聖霊(多くの場合「精」霊とは書かない)によって身ごもり,イェルサレムの南にあるベツレヘムの馬小屋で〈イエス〉を出産したということです。ユダヤ人であった〈イエス〉は,戒律を厳しく民衆に適用しようとしたパリサイ派に対して“貧乏人・病人・罪人には厳し過ぎて守れない!”と批判します。もちろん,「こんなに苦しんでいるのに,神は何も語りかけてくれない。助けてもくれない。本当に神はいるのだろうか?」と疑う人も大勢いました。それに対して〈イエス〉は,“神はすべての人を愛している(神の絶対愛,アガペー)。貧乏人であっても関係はない。みな神につくられた存在なのだから,愛し合うべきだ。ローマ人だろうと,ユダヤ人だろうと関係ない”と主張します。
「愛」というと,今は家族愛とか,恋愛関係の愛とか,仲間に対する愛とかを指すことが多いわけですが,イエスがここで強調したのは,そのどれでもない「真実の愛」です。『されど我ら汝らに告ぐ,汝らの敵を愛し,汝らを迫害する人のために祈れ』。敵であっても祈るというのが,本当の愛だというのです。これを隣人愛といいます。
また,人間が何を祈るかなんて神はお見通しのだから,くどくど祈るのではなく一人で隠れて次のように祈るように言いました。
「天にいますわれらの父よ, 御名(みな)があがめられますように。
御国(みくに;神の国)がきますように。 みこころが天に行われるとおり, 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの食物を, きょうもお与えください。
わたしたちに負債(=罪)のある者をゆるしましたように, わたしたちの負債をもおゆるしください。 わたしたちを試みに会わせないで, 悪しき者からお救いください。」(『マタイによる福音書』※口語訳。()内は筆者注)
やがて,〈イエス〉を救世主(メシア)と信じる人々が増えると,パリサイ派やサドカイ派だけでなく,ローマの総督である〈ピラト〉からも目をつけられるようになり,〈イエス〉は「自らを神の子でありユダヤ人の王であると称し,神(ヤハウェ)を冒涜(ぼうとく)した」という罪状で告発され,〈ピラト〉の下で裁判が始まりました。
〈ピラト〉は〈イエス〉の無罪を悟っていたと言われます。しかし,傍聴していた群衆の批判を恐れ,有罪を宣告してしまいました。このときの群集はユダヤ人であったわけですから,今後キリスト教徒がユダヤ人を敵視する理由の一つになってしまうわけです。
こうして,〈イエス〉は十字架にかけられて処刑されました。しかし,「彼はその3日後に復活したのだ」という信仰が広まりました。
普通の人間だったら,死後にすぐ復活するわけがありません。だから,やはり〈イエス〉は普通の人間ではなく,人類に何か(≒自分たちに罪があること)を気づかせるためにやってきた特別な存在なのではないか,という考えへと発展していきます。
ユダヤ人の中には,「神は,いつまでたっても自分たちの祈りに答えてくれない」「神なんて信じられない」という人も増えていました。そんなユダヤ人に,もう一度「天国」に入るチャンスを与えるために,いや,ユダヤ人だけとは言わず,すべての人類がもともと持っている“罪”をかぶり,皆が「神の国」に入ることできるよう,〈イエス〉は自ら進んで十字架にかかったんじゃないか。そこまでして初めて,人々は自分たちの罪を悟り,本当の愛とは何なのか,気づいてくれるのではないか,と。
〈イエス〉の弟子たちは,〈イエス〉の考えを後世に残す活動(伝道)をはじめます。彼らのことを使徒(しと)といいます。最後の審判は近い,と言っていたわけです。時間がありません。〈ペテロ(ペトロ)〉(?~64頃)や〈パウロ〉(10?~67?) 【セH3】が有名な使徒(イエスの教えを伝える人)ですね。イエスの教えは,「今気づけば,最後の審判まだ間に合う!」という「良い知らせ(福音(ふくいん))」といい,〈パウロ〉を含む4種類の福音書【セH3】が『新約聖書』に所収されました。
〈パウロ〉はもともとパリサイ派の熱烈な信者で,キリスト教を迫害した側の人間でした。しかしのちに回心して,小アジアやマケドニアなど,ローマ帝国内のユダヤ人以外の人々に対しての伝道をすすめました。「イエスが十字架にかかったことで,すべての人間の罪はゆるされた」というキリスト教の中心となる考えは,〈パウロ〉がまとめたものです。
『新約聖書』【セH23ユダヤ教徒の聖典ではない】というのは,使徒の布教の様子を記した記録(『使徒行伝』(しとぎょうでん) 【セH3】)や多くの手紙(書簡),そして『黙示録(もくしろく)』という世界の終わりを描写した謎めいた予言などから構成され,2~4世紀に現在のかたちになりました。〈パウロ〉が,各地のキリスト教の拠点(教会)との間でやりとりした手紙の多くも,『新約聖書』に収められています。
なお,ユダヤ教の聖典『旧約聖書』のほうは,紀元前3世紀中頃から前1世紀の間に「70人訳聖書」として,共通ギリシア語(コイネー)に翻訳されました。ヘブライ語の読めないユダヤ人が増えたためです。『新約聖書』は,『旧約聖書』の引用をするときにこのギリシア語訳を用いたため,ヘブライ語で書かれたもともとの意味とのズレが生じることもありました。そのため,16世紀の宗教改革の時期になると,ヘブライ語版の聖書の研究者も現れました。例えばドイツの人文学者〈ロイヒリン〉(1455~1522)は,ヘブライ語文法書を著しました。
また,〈アンデレ〉(生没年不詳)は,小アジアや南ロシアに布教し,ビザンティウムで最初の司教になったとされ,ロシアでは守護聖人になっています。また,〈バルマトロイ〉はイラン・インド方面に布教したといいます。ほかにも,〈トマス〉がインドに渡り,キリスト教を布教したという伝説が,インドに残っています。
しかし,皇帝や伝統的な神々(ギリシアのオリンポス12神や東方のミトラ教)に対する礼拝をこばむキリスト教の人々は,歴代のローマ皇帝から危険視され,特に後64年の〈ネロ帝〉(位54~68)のときの迫害(〈ペテロ〉,〈パウロ〉は殉教しました)と,〈ディオクレティアヌス帝〉(位284~305)のときのいわゆる“最後の大迫害” 【セH25バーブ教を迫害していない,H26】が重要です。キリスト教徒の中には,ローマ人があまり近寄らなかった地下の墓地(カタコンベ;英語でカタコーム)【セH21国教化とともにつくられたわけではない】【セH24】や洞窟で密かに集団生活や礼拝を営む者もいました。
ユダヤ人たちは〈イエス〉の死後に反乱を起こしたことで,ローマによって征服され,地中海周辺をはじめとする各地に散り散りになります。これをユダヤ人のディアスポラといいます。
・紀元前後~200年のアジア 西アジア ⑱アルメニア
アルメニアはローマの進出を受けますが,ローマとパルティアの対立の間にあって,66年にはパルティアのアルサケス家の〈トゥルダト1世〉が〈ネロ〉による戴冠を受けています。
サーサーン朝により出にアルメニア人が4万世帯が強制連行。9000世帯のユダヤ人が追放されています。
○紀元前後~200年のインド洋海域
インド洋海域…インド領アンダマン諸島・ニコバル諸島、モルディブ、イギリス領インド洋地域、フランス領南方南極地域、マダガスカル、レユニオン、モーリシャス、フランス領マヨット、コモロ
季節風(モンスーン)交易が始まる
1世紀に成立した『エリュトゥラー海案内記』【セH4史料が転用される】という航海のための地理書にも,南インドの港の情報が載っています。エリュトゥラー海とは,紅海からインド洋方面までの海域を指すものと思われます。
冒頭部分はこんな感じです。
《アラビア半島南部のアデンから昔の人々は,今よりも小さい船でアラビア半島を北上して航海していたが,〈ヒッパロス〉というギリシア人が,初めてアラビア海を横断するルートを発見した。それ以来,南西風のことを“ヒッパロス”と呼ぶようになったそうだ》(意訳)
別の箇所では,《インド西南海岸のこれらの商業地へは,胡椒と肉桂(シナモン)とが多量に出るため,大型の船が航海する。西方からここに輸入されるものは,きわめて多量の貨幣,黄玉(トパーズ),織物,薬用鉱石,珊瑚(地中海産),ガラス原石,銅,錫,鉛などである。また東方や内陸からは,品質の良い多量の真珠,象牙,絹織物,香油,肉桂,さまざまの貴石,捕らえられた亀が運び込まれる》とあります【セH4引用された箇所】。
上記にあるように,インド南西部のケーララからは,その地を原産とするコショウ【セH11アメリカ大陸が原産ではない】が産出され,東南アジアのタイマイ(亀の甲羅)や香料とも盛んに交易されました。
なお早くも1世紀前後には,東南アジア島しょ部のマレー=ポリネシア系の人々の中に,アウトリガー=カヌーを用いてインド洋を渡り,アフリカ大陸の南東部のマダガスカル島に到達していたのではないかという説もあります。
○紀元前後~200年のアフリカ 東アフリカ
エチオピア高地でもアフロ=アジア語族セム語派によるイネ科のテフなどの農耕文化が栄え,ナイル川上流部ではナイル=サハラ語族ナイル諸語の牧畜民(ナイロート人),“アフリカの角”(現・ソマリア)方面ではアフロ=アジア語族クシ語派の牧畜民が生活しています。
○紀元前後~200年のアフリカ 南・中央・西アフリカ
アフリカ大陸の南東部では,コイサン語族のサン系の狩猟採集民が活動しています。
サハラ以南のアフリカでは中央アフリカ(現・カメルーン)からバントゥー諸語系が東部への移動をすすめ,先住のピグミー系の狩猟採集民,コイコイ系の牧畜民を圧迫しています。
○紀元前後~200年のアフリカ 北アフリカ
エジプトでは,プトレマイオス朝の女性のファラオ〈クレオパトラ7世〉(位 前69~前30) 【セH10時期を問う】は共和政ローマの政治家〈カエサル〉【追H21】,のちに〈アントニウス〉と提携し,生き残りを図りました。しかし最終的に〈アントニウス〉の政敵〈オクタウィアヌス〉とのアクティウムの海戦(前31)に敗北すると,〈アントニウス〉,〈クレオパトラ7世〉はともに自殺し,前30年にプトレマイオス朝エジプトは滅び,ローマの属州となっていました。
〈イエス〉の死後,キリスト教が〈マルコ〉により伝道されたとされ,その後「コプト正教会(コプト教)」として普及していきました。
2世紀末には、現在のリビア北西部の港湾都市レプティス=マグナ(かつてのフェニキア人の植民市)から皇帝〈セプティミウス=セウェルス〉(位193~211)が出て、最盛期を迎えます(◆世界文化遺産「レプティス=マグナの考古遺跡」、1982(2016危機遺産))。彼は、初のアフリカ属州生まれの皇帝。いわゆる「軍人皇帝時代」の初例です。
●紀元前後~200年のヨーロッパ
○紀元前後~200年のヨーロッパ 中央・東・西・北ヨーロッパ,イベリア半島
東ヨーロッパ…現在の①ロシア連邦(旧ソ連),②エストニア,③ラトビア,④リトアニア,⑤ベラルーシ,⑥ウクライナ,⑦モルドバ
中央ヨーロッパ…現在の①ポーランド,②チェコ,③スロヴァキア,④ハンガリー,⑤オーストリア,⑥スイス,⑦ドイツ
イベリア半島…現在の①スペイン,②ポルトガル
西ヨーロッパ…現在の①イタリア,②サンマリノ,③ヴァチカン市国,④マルタ,⑤モナコ,⑥アンドラ,⑦フランス,⑧アイルランド,⑨イギリス,⑩ベルギー,⑪オランダ,⑫ルクセンブルク
北ヨーロッパ…現在の①フィンランド,②デンマーク,③アイスランド,④デンマーク領グリーンランド,フェロー諸島,⑤ノルウェー,⑥スウェーデン
◆ローマ皇帝は元老院の権威を利用し,自身を頂点とする体制をつくった
〈アントニウス〉を倒した〈オクタウィアヌス〉(位 前27~後14)は,前27年に元老院からアウグストゥスの称号を授与されましたが,プリンケプス((市民の)第一人者【セH3ドミヌス(主人)と呼ばれていない】【東京H29[1]指定語句】「第一人者」)を自称していました。「元老院」の筆頭議員という意味です。ですから,元老院が存在することで,はじめて〈オクタウィアヌス〉も権力をふるうことができるわけです。
しかし,〈オクタウィアヌス〉には帝国各地の軍隊や行政に対する命令権であるインペラートルが認められ,次第に元老院のもつ権力は皇帝の権力に吸収されていきました。
インペラートルを持っている〈オクタウィアヌス〉や,彼の後継者たちの地位を,日本語では訳しようがなかったため,まったく別物である中国の「皇帝」という言葉が使われるようになりました。
皇帝には,インペラートル以外にもたくさんの称号が与えられ,その中でも重要とされたのが,「アウグストゥス」や「インペラートル」の他に,「プリンケプス」それに「カエサル」でした。〈カエサル〉は,ほんらい人の名前なのですが,その死後に神聖視され,そのまま称号になりました。日本語では直接翻訳しようがないので,便宜上,中国の「皇帝」という言葉を使って表しているだけです。
なお近年では,「帝国」という言葉は,「広い範囲にわたって多くの民族や地域を支配する国」という意味で使うことが一般的になっています(注)。
さて,数多く与えられた称号の中でもオクタウィアヌスは「プリンケプス」という称号を選んで名乗り,「皇帝といっても,ローマの一市民に過ぎない」という点を強調しました。そこで,彼の統治を,元首政(プリンキパトゥス) 【セH3専制君主政(ドミナートゥス)ではない,セH9】といいます。
皇帝の神格化も図られ,〈アウグストゥス〉はギリシアの神々(オリンポス12神)の影響を受けたローマの愛と美の神ウェヌス(ヴィーナス)の系譜に位置づけられました。ウェヌスは〈カエサル〉家の始祖とされる神でもあり,〈カエサル〉とともに神格化されたことがわかります。鎧(よろい)を着た彼の全身像の足元には,ウェヌスの系譜を示すキューピッドの姿があります。
(注)山本勇造編『帝国の研究―原理・類型・関係』(名古屋大学出版会,2003
杉山正明(1952~,モンゴル史学者)は,歴史上実在した「帝国」の類型として以下の9点を挙げ,次のように整理しています。
(1)単一の超越的・絶対的な権威・権力をもつとされる君主・指導者・王統のもとに,異種の臣民たちが,下部単位となる氏族・部族・集団・共同体・社会などをこえて包摂される政治的統合体
(2)同一の君主・王権・象徴のもとに,複数の地域権力・政治体が合一もしくは連携する政治形態
(3)単一の国家・王国・政治体をこえて,ゆるやかに地域と地域をむすびつける多言複合型の広域の連合体
(4)なんらかの理念・思想・価値観・宗教などのもとで,人種・民族・地域や,時には文明圏の枠さえもこえて広域にひろがりゆく政治体,もしくは擬似政治体――
(5)大小の複数の下位にある国家・王国・政権・政治体・在地権力や多様な地域・社会・民族などをよりあわせたSuper State。単一の中央機構をそなえ,もしくは時にそれを補う複数の権力体からなる統合力をもつ――
(6)中央権力とその他の国家・政治体・地域権力・民族集団・社会勢力などとの間に,なんらかの支配―被支配,もしくは統制―従属,中心―周辺などの関係が存在している状態――
(7)中小の地域・国家・社会を乗りこえ,大空間における時にゆるやかな,時には緊迫した交流・交易・流通・往来などの関係や連携を推進・演出する政治・経済・文化機構。中核となる政治体そのものは,小規模もしくは拠点支配型でかまわない――
(8)本国とは別に,おもに海外に植民地・属領・自治領などの附属地・遠隔領・飛び地をもち,その全体がゆるやかにむすびつく広域国家システム。行政・軍事・経済・文化などの各面にわたって,本国を中心にかたちづくられた人的な環流構造が重要なささえとなる――
(9)近隣もしくは周辺・遠隔の国家・地域に対して,強制的・独善的・威圧的な支配力をふるう覇権的国家――
◆ローマは大規模な建築技術を発達させる
ローマは今でも中心部にさまざまな遺跡が残されていますが,中でも大規模なのはフォロ=ロマーノです(フォロ(原形はフォルム)は広場という意味のラテン語です)。近辺には巨大なパンテオン(万神殿(ばんしんでん))や,会堂(バシリカ),公共浴場(テルマエ)が多数建設されました(#漫画 ヤマザキマリ「テルマエロマエ」)。
また,各地に水道橋が建設され(南フランスのニームにあるポンデュガールや,スペインのセゴビア(ラテン語読みでセゴウィア)のものが有名です),上水(じょうすい)が都市に安定供給されました。
ローマ帝国では属州支配を担当させる官僚数は多くなく,地方の財政は都市の有力者による「寄付」によって成り立っていました。彼らは,社会的なインフラ建設の援助や保全維持活動をおこなうことで,自らの権威を高めようとしたのです。
コロッセウム【東京H28[3]】【セH27ペルセポリスにはない,セH29試行 オリンピアの祭典とは無関係】(ローマにある円形闘技場。実際には188×156mなので楕円形に近く,5万人収容)や,ギリシア風の劇場,戦車の競走場なども多数作られ,都市の貧民に対する「パンとサーカス」(食料と娯楽)の提供は,人気取りとして皇帝や有力者にとって欠かせないものとなりました。
◆「征服されたギリシア人は猛きローマを征服した(Graecia capta ferum victorem cepit)
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け発展
ローマの学芸は,ギリシア文化の影響を受け,それをさらに個性的で活力あるものとして発展させていきました(ギリシア文化のほうがローマ文化よりも“優れている”という考えは,近代のヨーロッパ諸国において形成されていったストーリーといえます (参考)高田康成『キケロ―ヨーロッパの知的伝統』岩波書店,1999)。
〈リウィウス〉(前59?~後17?) 【セH17キケロではない,セH26】【セH8「リヴィウス」】【追H21カエサルではない】に『歴史(ローマ建国史;ローマ史)』【セH17,セH26世界史序説ではない】【セH8】【追H21】の編纂を命じ,ローマ建国から〈アウグストゥス帝〉までの歴史を書かせました。
多くの名作を生んだ〈アウグストゥス〉【セH8】【セA H30コンスタンティヌスとのひっかけ】の治世は「ラテン文学黄金期」といわれます。「征服されたギリシア人は,猛きローマを征服した」の名言をのこした抒情詩人〈ホラティウス〉(前65~前8) 【セH8『アエネイス』を書いていない】が有名です(ただし,ギリシア文化がローマ文化よりも優れていたという話には,後世のヨーロッパ人が誇張したストーリーという面もいなめません)。
〈ウェルギリウス〉(前70~前19) 【セH17『労働と日々』ではない】【セH8ホラティウスではない】【追H21ポリビオスではない】はトロイア戦争に題材をとった長編叙事詩『アエネイス』【セH8】【追H21】を,〈アウグストゥス〉の命により書き上げました。「ナルシスト」の語源になったナルキッソスのエピソードなどが治められた,ギリシア・ローマ神話がテーマとなっている『変身物語(転身譜)』や『恋の技法(愛の歌)』で有名な〈オウィディウス〉(前43~後17)もこの時代の作家です。
ほかに,ギリシア人の歴史家・地理学者〈ストラボン〉(前64または前63~後23) 【法政法H28記】【※意外と頻度低い】は,『地理誌』や歴史書(現存せず)を記しました。
◆アウグストゥスの死後,1世紀末までのローマ帝国は混乱が続く
〈アウグストゥス〉は,ライン川以東のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々勢力とも戦いましたが,紀元後7年のトイトブルク森の戦いで,戦死者20000人以上を出して敗北しました。インド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々の諸民族の指導者は〈アルミニウス〉(前16~後21)です。その後,次の〈ティベリウス〉帝のときに,なんとかガリア(現在のフランス)への進入は防いでいます。
さて,皇帝〈アウグストゥス〉は自分の子を跡継ぎにしたかったようですが,次々に先立たれてしまいました。そこで,妻の連れ子の〈ティベリウス〉(位14~37)が継ぐことになりましたが,〈アウグストゥス〉の支配体制を維持したものの,治世は不安定化します。
その後を継いだ〈アウグストゥス〉の家系の〈カリギュラ〉(位37~41)は当初期待を持って迎えられましたが,後に「暴君」になったと伝えられる人物です。壮大な見世物を上演するのが好きだった彼は,本物の船を使って浮き桟橋を作らせて,愛馬インキタトゥスにまたがり,〈アレクサンドロス大王〉の胸当てをつけて橋を渡ったそうです。そんな彼は元老院と対立して暗殺され,〈クラウディウス帝〉(位41~54)が後を継ぎますが,また暗殺されてしまいました。
〈クラウディウス帝〉の妻の連れ子が後を継ぎ,〈ネロ帝〉(位54~68) 【セH8家庭教師の人物セネカを問う,セH10時期を問う】として即位しました。ストア派【セH8】の哲学者〈セネカ〉(前4?~後65) 【セH8】をブレーンにつけて政治をはじめましたが,のちに暴君となります。
さて,〈ネロ〉は哲学者〈セネカ〉を陰謀に加担したという疑いから,自殺に追い込みましたが,彼自身も属州総督の反乱が原因で,自殺しました。
79年にはヴェスヴィオ山が大噴火し,ふもとの都市ポンペイは火山灰に埋もれ,16世紀陶に偶然発見されるまで街の様子はタイムカプセルのように保存されることになります(◆世界文化遺産「ポンペイ、エルコラーノ、トッレ=アヌンツィアータの考古地区」、1997)。
このとき『博物誌』【セH2天文学者プトレマイオスではない】を著した〈プリニウス〉(23?24?~79)は,市民の救出と調査に向かうも,火山ガスにより亡くなってしまいました(#マンガ ヤマザキマリ「プリニウス」)。
◆パレスチナで活動した〈イエス〉の改革思想が、1世紀後半にはユダヤ教から分離する
東方思想の影響下に、キリスト教がゆっくり形成へ
パレスチナでユダヤ教徒の〈イエス〉が貧民らの支持を得て宗教的な集団を形成しました。しかし、支配的なユダヤ教徒のグループからローマ帝国に告発され、処刑されます。
〈イエス〉は神の愛がすべての人類に分け隔てなく与えられるものと説き、その教説は弟子(使徒)らによって発展・継承されました。
このうちパレスチナのユダヤ人の共同体を越えて布教するべきとした小アジア生まれの〈パウロ〉(?~65?)を中心に、〈イエス〉の思想が理論的にまとめられていきます。
しかし、初期のキリスト教は「ユダヤ教イエス派」とでもいうべき集団であり、ユダヤ教徒と儀式や見た目の上でも大きな違いはありませんでした。
しかし、その伝統ゆえにローマ帝国内での信仰の自由が認められていたユダヤ教徒に対し、かたくなにローマの儀式への参加をかたくなに拒む「ユダヤ教イエス派」は、3世紀の猛烈な迫害に比べると穏やかではあるものの、次第に当局から目を付けられる存在となっていきます。
例えば、ローマ帝国皇帝の〈ネロ〉は64年に起きたローマ大火の責任を「ユダヤ教徒イエス派」におわせ,〈ペテロ〉【セH30】と〈パウロ〉【セH30】を殉死に追い込んだとされます。このとき逆さ十字架にかけられて死んだといわれる〈ペテロ〉の墓が,サン・ピエトロ大聖堂にあり,彼は初代「ローマ教皇」とされています。〈イエス〉は生前,「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(岩とはペテロを意味している)と言ったといわれ,のちにローマ=カトリック教会が,数ある教会のなかで最も地位が高いと主張する根拠となりました。
しかし「教義」面の整備は遅れ、〈イエス〉の福音や使徒の記した手紙を集めた『新約聖書』の形式が整えられ始めていったのは1世紀後半のことでした。
この1世紀後半から3世紀までのキリスト教のことを「初期キリスト教」と区分します。
当時のキリスト教には東方の宗教思想の影響も強く、2世紀中頃までには〈ヘラクレオン〉(生没年不詳)によるグノーシス主義的なキリスト教解釈が、人気を博していました。
しかし、この世には2つの神によりつくられたのだとするグノーシス主義は、唯一神によりこの世がつくられたのだとする『旧約聖書』以来のストーリーにはなじみません。そこで、キリスト教会の指導者はグノーシス主義の論破に尽力していきます。なかでもフランスのリヨンの〈エイレナイオス〉(130?~202)が、ユダヤ教徒の『旧約聖書』(2世紀後半までは、キリスト教徒にとってもこれが唯一の聖典であり、単に「書物」とよばれていました(注))に登場する神と、〈イエス〉=神が同じであると論じ、支持を集めました。
(注)ロバート・ルイス・ウィルケン、大谷哲他訳『キリスト教一千年史:地域とテーマで読む(上)』2016、白水社、p.69~p.76。
◆「五賢帝」の時代にローマは“パクス=ロマーナ”(ローマの平和) 【セH3】を迎える
最大領域に達したローマの社会は変質に向かう
その後,しばらく混乱が続きましたが,ようやく安定期に入ったが96~180年の「五賢帝」(Five Good Emperors) 【セH3,セH6時期(アウグスティヌスの存命中ではない)】【セH13神聖ローマ帝国とは無関係】時代です。息子や家族を次の皇帝に指名するのではなく,優秀な部下を自分の養子にする形で次の皇帝に任命したために,優秀な皇帝が5人連続で輩出されたのだとされています。
この時期を「人類史上もっとも幸福な時代」と『ローマ帝国衰亡史』【東京H22[3]問題文】で評したのは18世紀イギリスの歴史学者〈ギボン〉(1737~1794)でしたが,実際には領域の拡大,開発の進展により,ローマ社会は確実に変質へと向かっていました。“領土が増える”ということは,それだけ維持コストがかかり,領土拡大戦争が終われば奴隷(=労働力)の調達も滞ることにもなります。また,“市民が国家を守る”という原則も,領域の拡大によって次第に崩れていきます。
では,いわゆる「五賢帝」を確認していきましょう。
1人目〈ネルウァ〉(位96~98)の統治は不安定で,後継者を指名した後に亡くなっています。
次に〈トラヤヌス〉(位98~117)のときに最大領土となり【セH3最大領土となったか問う,セH6 2世紀初めのローマ帝国の領域を別の時代の領域を示した地図から判別する】【セH30】,ダキア(現ルーマニア) やメソポタミアに領土を拡大し,アルシャク(アルサケス)朝パルティアとも戦いました。ただし,アイルランド(ヒベルニア)【セH20アイルランドは獲得していない・地図】やスコットランド(カレドニア)の支配にはいたっていません。この2人の時代は自由な雰囲気のもとで,政治家の〈タキトゥス〉(55?~120?) 【セH15】【追H20トゥキディデスではない】【H27名古屋[2]】が,ライン川の東・ドナウ川の北のインド=ヨーロッパ語族ゲルマン語派の人々について記録した『ゲルマニア』【セH7ガリア戦記ではない】【セH15ガリア戦記ではない】【追H20】【H27名古屋[2]】や歴史書の『年代記』など多くの著作を残しています。〈タキトゥス〉は,婿(むこ)として嫁いだ先の義理の父〈アグリコラ〉(40~93,ブリタニア遠征をおこなった)の伝記『アグリコラ』【早政H30】も執筆しています。
〈トラヤヌス〉帝のときの帝国人口は5000万以上,ローマにはなんと80万~120万人が居住していたと言われます。前3500年の西アジアでの成立以降,世界中に発達していった都市は,ついにこれほど巨大な100万都市の規模に発展していくことになったのです。
3人目の〈ハドリアヌス〉(位117~138)のときに,ブリタニア(現在イギリスがある島)にケルト人に対する防壁として「ハドリアヌスの長城」を建設します(◆世界文化遺産「ローマ帝国の境界線」、1987(2005,2008範囲拡大))。
ユダヤ人に対して支配を強化したため,ユダヤ戦争が起きたのも彼のときです。
4人目の〈アントニヌス=ピウス〉(位138~161) の時は,帝国に大きな混乱もなく,まさに「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」【東京H8[1]指定語句】を実現させた皇帝です。
その妻の甥で,〈アントニヌス〉の養子となった〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉(位161~180) 【セH4大秦国王安敦として中国に知られたか問う,セH8】【※意外と頻度低い】は,ストア派哲学の著作ものこした通称「哲人皇帝」で,『自省録』【セH8ギリシア語で書かれていない】【※意外と頻度低い】を著しました(剣闘士を描いた映画「グラディエーター」は彼の治世が舞台です)。彼の使者を名乗る一行が,166年に現在のヴェトナムのフエに到達したと,中国の歴史書が記しています。ローマ帝国は,インド洋の季節風交易にも参入し,中国(秦の音訳から「ティーナイ」と呼ばれていました)からは絹がはるばる伝わり,ローマ人の特権階層の服装となっていました。ローマからは,ローマン=グラスというガラスが盛んに輸出されました。なお,皇帝〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉につかえた医師〈ガレノス〉(129?~200?) 【追H20時期(〈ガレノス〉を知らなくても〈マルクス=アウレリウス=アントニヌス〉の侍医ということで時期がわかる)】の研究は,その後イスラーム医学やヨーロッパの医学に影響を与え続けました。
この時代にはギリシア生まれの〈プルタルコス〉(46?~120?) 【セH15プトレマイオスとのひっかけ】【追H21】【同志社H30記】が『対比列伝(英雄伝)』【追H21】【中央文H27記】という,ギリシアvsローマの“有名人対決”という企画モノの伝記をのこしました。例えば,〈アレクサンドロス〉と〈カエサル〉が比べられています。『倫理論集(モラリア)』は随筆のジャンルの草分けで,のちのルネサンスの時代に〈モンテーニュ〉の『エセー』に影響を与えました。
ローマの属州ヒスパニアとなったイベリア半島では,北部のバスク人やカンタブリア人を除いたイベリア半島の住民はローマ文化の影響を強く受けていきました。各地に劇場,フォルム(広場),コロッセウム(闘技場)や水道橋(セゴビアの水道橋など)が建造され,コルドバは“小ローマ”とも呼ばれました。皇帝〈トラヤヌス〉や〈ハドリアヌス〉はヒスパニア出身です。1世紀にもたらされたキリスト教も,3世紀までにヒスパニア全域に広がりました。
◆ローマの東部の属州では,インド洋を利用した交易が活発化する
「ヒッパロスの風」が活用され,海上交易がさかんに
ローマ帝国の東部の属州(シリア,パレスチナ,エジプト)では,紅海を経由しインド洋を股にかける海上交易が盛んになっていました。
紅海からインド東方のベンガル湾にいたるまでの広い範囲の港町や産物について記したガイドブック『エリュトゥラー海案内記』は,ローマ領エジプト州のギリシア人船乗り〈ヒッパロス〉(不詳)によって1世紀中頃に著されたとみられます。エリュトゥラー海とはアラビア海のことで,アラビア半島とインドの間に広がる海を指します。
《…インドの犠牲を司る者や予言者たちは特に災厄を予防するのに珊瑚を身につけることが役立つと考えている。そこで珊瑚は装飾にも宗教にも役に立つ。この事が知られるまではガルリア人らは剣や盾や兜をこれで飾っていた。…》(不詳,村上堅太郎訳註『エリュトゥラー海案内記』中公文庫,1993年,p.191)。
なおこの記録はギリシア語で記されていました。ローマ帝国時代でも地中海東部では依然としてアラム語やギリシア語が使用されていたのです。
アラビア海は季節ごとに風向きの変わる季節風(モンスーン)が吹いているので,季節によって風を読むことで東西の移動が可能でした。
当時のインド南部ではサータヴァーハナ朝【セH4 時期(1世紀ごろか問う)】【追H20時期(14世紀ではない)】,チェーラ朝,パーンディヤ朝,チョーラ朝などがローマや東南アジア方面との交易で栄えていました。チェーラ朝はコショウの産地,パーンディヤ朝は真珠の産地です。特に真珠は,仏教の七宝の一つとして高い価値を持っていました(注)。
(注)山田篤美『真珠の世界史』中公新書,2013,p.54。
○紀元前後~200年のヨーロッパ バルカン半島
バルカン半島…現在の①ルーマニア,②ブルガリア,③マケドニア,④ギリシャ,⑤アルバニア,⑥コソヴォ,⑦モンテネグロ,⑧セルビア,⑨ボスニア=ヘルツェゴヴィナ,⑩クロアチア,⑪スロヴェニア
・バルカン半島西部
イリュリア王国はローマ帝国の属州イリュリクムに編入され,6年~9年の反乱も〈アウグストゥス〉により鎮圧されました。10年にはイリュリクム属州は南北に分割され,北部はパンノニア属州,南部にはダルマティア属州となりました。
・バルカン半島北部
◆ローマ帝国の〈トラヤヌス〉帝はドナウ川北部のダキアを征服した
ローマ帝国はバルカン半島においてドナウ川を異民族との国境線(リーメス)としていました。皇帝〈ティベリウス〉(位14~37)の初年にゲタイ人も含め属州モエシアを設立しましたが,ドナウ川北岸(左岸)のダキア人の王や黒海北岸の、イラン系遊牧民サルマタイ人(前4世紀~後4世紀)の攻撃を断続的に受けるようになったため,歴代皇帝は戦闘を続けました。
そして,皇帝〈トラヤヌス〉(位98~117)のときにドナウ川南部のモエシアやパンノニアの兵を率いて,101年・105年にダキア(現在のルーマニア)に遠征し,106年に属州ダキア(106~271)を建設しました。
ローマ市内のトラヤヌス広場にはこの時の戦勝を記念して戦闘風景を螺旋(らせん)状にレリーフに刻んだ高さ30mの記念柱(トラヤヌスの記念柱,113建造)が今でも残されています。
のち皇帝〈ハドリアヌス〉(位117~138)はダキアを上ダキアと下ダキアに分割し,ドナウ川の石橋を撤去。ローマ人が多数入植して「ローマ化」が進み,トランシルヴァニア地方では金・銅・鉄・岩塩の鉱業に従事しました。
しかし,サルマタイ人やゲルマン系の諸民族(マルコマン人,ゴート人,ゲピド人)は依然として続き,防衛の負担は増していきました。